やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ

野人生計事 芥川龍之介 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:大正131924)年1月6日及び同月13日発行の『サンデー毎日』に「野人生計の事」という表題で掲載され、後に『百艸』に表記の題で収載された。「三 キュウピッド」は単独で『梅・馬・鶯』にも所収されている。底本は岩波版旧全集を用いた。各章末尾に私の注を附した。]

 

野人生計事

 

     一 清閑

 

  「亂山堆裡結茅蘆 已共紅塵跡漸疎

   莫問野人生計事 窓前流水枕前書」

とは少時漢詩なるものを作らせられた時度たびお手本の役をつとめた李九齡の七絶である。今は子供心に感心したほど、名詩とも何とも思つてゐない。亂山堆裡に茅蘆を結んでゐても、恩給證書に貯金の通帳位は持つてゐたのだらうと思つてゐる。

 しかし兎に角李九齡は窓前の流水と枕前の書とに悠悠たる清閑を領してゐる。その點は甚だ羨ましい。僕などは賣文に餬口する爲に年中匇忙たる思ひをしてゐる。ゆうべも二時頃まで原稿を書き、やつと床へはひつたと思つたら、今度は電報に叩き起された。社命、僕にサンデイ毎日の隨筆を書けと云ふ電報である。

 隨筆は清閑の所産である。少くとも僅に清閑の所産を誇つてゐた文藝の形式である。古來の文人多しと雖も、未だ清閑さへ得ないうちに隨筆を書いたと云ふ怪物はない。しかし今人(この今人と云ふ言葉は非常に狹い意味の今人である。ざつと大正十二年の三四月以後の今人である)は清閑を得ずにもさつさと隨筆を書き上げるのである。いや、清閑を得ずにもではない。寧ろ清閑を得ない爲に手つとり早い隨筆を書き飛ばすのである。

 在來の隨筆は四種類である。或はもつとあるかも知れない。が、ゆうべ五時間しか寢ない現在の僕の頭によると、第一は感慨を述べたものである。第二は異聞を録したものである。第三は考證を試みたものである。第四は藝術的小品である。かう云ふ四種類の隨筆にレエゾン・デエトルを持たないと云ふものは滅多にない。感慨は兎に角思想を含んでゐる。異聞も異聞と云ふ以上は興味のあることに違ひない。考證も學問を借りない限り、手のつけられないのは確である。藝術的小品も――藝術的小品は問ふを待たない。

 しかしかう云ふ隨筆は多少の清閑も得なかつた日には、たとひ全然とは云はないにしろ、さうさう無暗に書けるものではない。是に於て乎、新らしい隨筆は忽ち文壇に出現した。新らしい隨筆とは何であるか? 掛け値なしに筆に隨つたものである。純乎として純なる出たらめである。

 もし僕の言葉を疑ふならば、古人の隨筆は姑く問はず、まづ觀潮樓偶記を讀み或は斷腸亭雜稾を讀み、次に月月の雜誌に出る隨筆の大半と比べて見るがよい。後者の孟浪杜撰なることは忽ち瞭然となるであらう。しかもこの新らしい隨筆の作者は必しも庸愚の材ばかりではない。ちやんとした戲曲や小説の書ける相當の才人もまじつてゐるのである。

 隨筆を清閑の所産とすれば、清閑は金の所産である。だから清閑を得る前には先づ金を持たなければならない。或は金を超越しなければならない。これはどちらも絶望である。すると新しい隨筆以外に、ほんものの隨筆の生れるのもやはり絶望といふ外はない。

 李九齡は「莫問野人生計事」といつた。しかし僕は隨筆を論ずるにも、清閑の所産たる隨筆を論ずるにも、野人生計の事に及ばざるを得ない。況や今後もせち辛いことは度たび辯ぜずにはゐられないであらう。かたがた今度の隨筆の題も野人生計の事とつけることにした。勿論これも清閑を待たずにさつさと書き上げる隨筆である。もし幾分でも面白かつたとすれば、それは作者たる僕自身の偉い爲と思つて頂きたい。もし又面白くなくなつたとしたら――それは僕に責任のない時代の罪だと思つて頂きたい。

 

■「一 清閑」やぶちゃん注

・「亂山堆裡結茅蘆 已共紅塵跡漸疎 莫問野人生計事 窓前流水枕前書」:これは「全唐詩」巻七百三十の十九に載る晩唐の詩人李九齡作「山中寄友人」(山中、友人に寄す)という七言絶句である。中文サイトからの孫引きであるが、原典では

亂雲堆裏結茅廬 已共紅塵跡漸疏 莫問野人生計事 窗前流水枕前書

で、やや異同が見られる。芥川龍之介の本文のものを書き下すと、

  亂山堆裡(たいり) 茅蘆(ばうろ)を結ぶ

  已に紅塵共に 跡 漸疎(ぜんそ)たり

  問ふ莫かれ 野人生計の事

  窓前の流水 枕前の書

となろう。原典「全唐詩」でも特に訓読に有意な差は出ないが、粗末な庵を結ぶ地は「亂山」ではなく、やはり遙かな「亂雲堆裏」の地であろう。試みに自在に訳してみるならば、

やぶちゃん訳:

遙か彼方の雲に雲が重畳する中、その下の峨々たる岩土の堆積した辺境の地に、粗末な茅の庵を結んでいる。

ここではもう赤茶けた市街の土も埃も、ついぞ目にすることもなく、世俗の喧騒とはすっかりご無沙汰である。

さればこそ、問うなかれ、この田舎者がどうやって暮らしを立てているかなんて――。

……窓べの清水、枕べの書、……

といった雰囲気であろうか。悠々自適晴耕雨読である。

・匇忙:「そうばう(そうぼう)」と読む。慌しくて忙しい様。

・大正十二年の三四月以後の今人:「今人」は一般的には「こんじん」と読む。ここで芥川が大正121923)年3月~4月という厳密な線引きをしているのは、かなり奇異な印象を与える。ここを境に、作家の中にかなり普遍的な属性として、「清閑を得ずしてさつさと随筆を書き飛ばす」ようになったと自戒を含めて言うのであるが、ここの部分、その指示している「大正十二年の三四月以後」の「今人」の母集団が如何なる範疇(年齢層・グループ・思潮等)なのか、「大正十二年の三四月以後」という基準が出てくるのが、私には今一つ判然としないのであるが、皆さんはお分かりであろうか。お分かりの方、是非、御教授を乞うものである。

・觀潮樓偶記:森鷗外の随筆集。明治30(1897)年刊行の作品集『かげ草』に所収するが、これは明治27(1894)年までの「しがらみ草紙」等に発表した主に西洋文学についての随筆が中心と思われ、内容的には出版年よりももっと前に遡ると思われる(私は未読であるので推測に留めておく)。

・斷腸亭雜稾:「雜稾」は「ざつかう(ざっこう)」と読む。「稾」は「稿」の別字。永井荷風の大正7(1918)年1月刊の随筆集。

孟浪:とりとめがなく、いい加減なことを言う。

・庸愚の材:才能がなく凡庸で愚かな人品を言う。。

■「一 清閑」やぶちゃん注終

 

 

       二 室生犀星

 

 室生犀星の金澤に歸つたのは二月ばかり前のことである。

「どうも國へ歸りたくてね、丁度脚氣になつたやつが國の土を踏まないと、癒らんと云ふやうなものだらうかね。」

 さう言つて歸つてしまつたのである。室生の陶器を愛する病は僕よりも膏肓にはひつてゐる。尤も御同樣に貧乏だから、名のある茶器などは持つてゐない。しかし室生のコレクションを見ると、ちやんと或趣味にまとまつてゐる。云はば白高麗も畫唐津も室生犀星を語つてゐる。これは當然とは云ふものの、必しも誰にでも出來るものではない。

 或日室生は遊びに行つた僕に、上品に赤い唐艸の寂びた九谷の鉢を一つくれた。それから熱心にこんなことを云つた。

 「これへは羊羹を入れなさい。(室生は何何し給へと云ふ代りに何何しなさいと云ふのである。)まん中へちよつと五切ればかり、まつ黑い羊羹を入れなさい。」

 室生はかう云ふ忠告さへせずには氣のすまない神經を持つてゐるのである。

 或日又遊びに來た室生は僕の顏を見るが早いか、團子坂の或骨董屋に青磁の硯屏の出てゐることを話した。

 「賣らずに置けと云つて置いたからね、二三日中にとつて來なさい。もし出かける暇がなけりや、使でも何でもやりなさい。」

 宛然僕にその硯屏を買ふ義務でもありさうな口吻である。しかし御意通りに買つたことを未だに後悔してゐないのは室生の爲にも僕の爲にも兎に角欣懷と云ふ外はない。

 室生はまだ陶器の外にも庭を作ることを愛してゐる。石を据ゑたり、竹を植ゑたり、叡山苔を匍はせたり、池を掘つたり、葡萄棚を掛けたり、いろいろ手を入れるのを愛してゐる。それも室生自身の家の室生自身の庭ではない。家賃を拂つてゐる借家の庭に入らざる數寄を凝らしてゐるのである。

 或夜お茶に呼ばれた僕は室生と何か話してゐた。すると暗い竹むらの蔭に絶えず水のしたたる音がする。室生の庭には池の外に流れなどは一つもある筈はない。僕は不思議に思つたから、「あの音は何だね?」と尋ねて見た。

「ああ、あれか、あれはあすこのつくばひへバケツの水をたらしてあるのだ。そら、あの竹の中へバケツを置いて、バケツの胴へ穴をあけて、その穴へ細い管をさして……」

 室生は澄まして説明した。室生の金澤へ歸る時、僕へかたみに贈つたものはかういふ因縁のあるつくばひである。

 僕は室生に別れた後、全然さういふ風流と縁のない暮しをつづけてゐる。あの庭は少しも變つてゐない。庭の隅の枇杷の木は丁度今寂しい花をつけてゐる。室生はいつ金澤からもう一度東京へ出て來るのかしら。

 

■「二 室生犀星」やぶちゃん注

・白高麗:「はくかうらい(はくこうらい)」と読む。筑摩書房版全集類聚脚注では高麗焼とするが、ウィキペディア「高麗茶碗」の記載を読むとこれは誤りである。これは実際には明の福建省泉州の徳化窯で焼かれた茶碗を指すという。粗製の白磁が朝鮮の白掛け茶碗と混同されたための呼称と言われる。

・畫唐津:絵唐津。佐賀県唐津で焼かれた陶器の内、器に鬼板と呼ばれる鉄の溶液を使って花鳥・草木等の意匠を描き、そこに灰色のやや透明な釉薬を流し込んで焼成した茶碗。ィキペディアの「唐津焼」によると『土色の器肌と単純でありながら伸びやかな意匠が相俟って、独特のわびしさを生み出す』とある。

・宛然:「ゑんぜん(えんぜん)」と読む。あたかも、さながら、まるで、の意。

・欣懷:「きんくわい(きんかい)」と読む。喜ばしく思うこと。

・叡山苔:これはコケと名づくが、実際にはシダ植物の一種であるヒカゲノカズラ植物門イワヒバ科イワヒバ属のクラマゴケSelaginella remotifolia 若しくはその近縁種を指す。普通のコケ類が匍匐する形状に似るが、それらに比して枝葉の部分がくっきりとしており、広範に広がると模様のように見える。栽培種もある。

・室生の金澤へ歸る時:これは前年大正121923)年、大震災後の10月のことであった。このつくばいは芥川龍之介遺愛の品で、他でも言及している。芥川の待ち望んだ犀星の再度の上京は大正141925)年1月31日、翌2月には芥川家の近く田端608番地に居を据えた。

■「二 室生犀星」やぶちゃん注終

 

 

       三 キュウピッド

 

 淺草といふ言葉は複雜である。たとへば芝とか麻布とかいふ言葉は一つの觀念を與へるのに過ぎない。しかし淺草といふ言葉は少くとも僕には三通りの觀念を與へる言葉である。

 第一に淺草といひさへすれば僕の目の前に現れるのは大きい丹塗りの伽藍である。或はあの伽藍を中心にした五重塔や仁王門である。これは今度の震災にも幸と無事に燒殘つた。今ごろは丹塗りの堂の前にも明るい銀杏の黄葉の中に、不相變鳩が何十羽も大まはりに輪を描いてゐることであらう。

 第二に僕の思ひ出すのは池のまはりの見世物小屋である。これは悉く燒野原になつた。

 第三に見える淺草はつゝましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、藏前――その外何處でも差支へない。唯雨上りの瓦屋根だの、火のともらない御神燈だの、花の凋んだ朝顏の鉢だのに「淺草」の作者久保田万太郎君を感じられさへすれば好いのである。これも亦今度の大地震は一望の焦土に變らせてしまつた。

 この三通りの淺草のうち、僕のもう少し低徊したいのは、第二の淺草、――活動寫眞やメリイ・ゴウ・ランドの小屋の軒を竝べてゐた淺草である。もし久保田万太郎君を第三の淺草の詩人とすれば、第二の淺草の詩人もない譯ではない。谷崎潤一郎君もその一人である。室生犀星君も亦その一人である。が、僕はその外にもう一人の詩人を數へたい。といふのは佐藤惣之助君である。僕はもう四五年前、確か雜誌「サンエス」に佐藤君の書いた散文を讀んだ。それは僅か數頁にオペラの樂屋を描いたスケッチだつた。が、キュウピッドに扮した無數の少女の廻り梯子を下る光景は如何にも潑剌としたものだつた。

 第二の淺草の記憶は澤山ある。その最も古いものは砂文字の婆さんの記憶かも知れない。婆さんはいつも五色の砂に白井權八や小紫を描いた。砂の色は妙に曇つてゐたから、白井權八や小紫もやはりもの寂びた姿をしてゐた。それから長井兵助と稱した、蝦蟇の脂を賣る居合拔きである。あの長い刀をかけた、――いや、かういふ昔の景色は先師夏目先生の「彼岸過迄」に書いてある以上、今更僕の惡文などは待たずとも好いのに違ひない。その後ろは水族館である、安本龜八の活人形である、或は又珍世界のX光線である。

 更にずつと近い頃の記憶はカリガリ博士のフイルムである。(僕はあのフィルムの動いてゐるうちに、僕の持つてゐたステツキの柄へかすかに絲を張り渡す一匹の蜘蛛を發見した。この蜘蛛は表現派のフィルムよりも、數等僕には氣味の惡い印象を與へた覺えがある)さもなければロシアの女曲馬師である。さう云ふ記憶は今になつて見るとどれ一つ懷しさを與へないものはない。が、最も僕の心にはつきりと跡を殘してゐるのは佐藤君の描いた光景である。キュウピッドに扮した無數の少女の廻り梯子を下る光景である。

 僕も亦或晩春の午後、或オペラの樂屋の廊下に彼等の一群を見たことがある。彼等は佐藤君の書いたやうに、ぞろぞろ廻り梯子を下つて行つた。薔薇色の翼、金色の弓、それから薄い水色の衣裳、――かう云ふ色彩を煙らせた、もの憂いパステルの心もちも佐藤君の散文の通りである。僕はマネジャアのN君と彼等のおりるのを見下しながら、ふとその中のキュウピッドの一人の萎れてゐるのを發見した。キュウピッドは十五か十六であらう。ちらりと見た顏は頰の落ちた、腺病質らしい細おもてである。僕はN君に話しかけた。

 「あのキュウピッドは悄氣てゐますね。舞臺監督にでも叱られたやうですね。」

 「どれ? ああ、あれですか? あれは失戀してゐるのですよ。」

 N君は無造作に返事をした。

 このキュウピッドの出るオペラは喜歌劇だつたのに違ひない。しかし人生は喜歌劇にさへ、――今更そんなモオラルなどを持ち出す必要はないかも知れない。しかし兎に角月桂や薔薇にフット・ライトの光を受けた思ひ出の中の舞臺には、その後もずつと影のやうにキュウピッドが一人失戀してゐる。……

 

■「三 キュウピッド」やぶちゃん注

・「淺草」:明治451912)年2月に刊行された久保田万太郎の作品集の名。

・「サンエス」:サンエスは当時の日本の万年筆メーカーの草分け的存在で、万年筆の広告を兼ねた雑誌として『サンエス』を発刊、横光利一や小川未明も小説を発表している。

・砂文字:砂絵とも言う。大道芸の一つ。五色に彩色した砂を手で握って指の間から落としながら絵や文字を描く。

・佐藤君の書いた散文:詩人・作詞家であった佐藤惣之助は浅草オペラ誕生に関わるなど、浅草文士の一人である。岩波版新全集の石井和夫氏注解の「サンエス」の注(断っておくが、私の「サンエス」の前記注は別ソースで全く参考にしていない)の最後に、「サンエス」の『二〇年五月号に、佐藤の「白鷺」を掲載。』とある。その「白鷺」なるものが浅草オペラを素材としているという記載はないが、石井氏はこれが芥川がここで言う「散文」であると同定していると読める。

・白井權八や小紫:「白井權八」は「お若えの、お待ちなせえ」の名台詞で有名な歌舞伎「御存鈴ヶ森」の登場人物(もとは四世鶴屋南北「浮世柄比翼稲妻」(うきよづかひよくのいなづま)の一部)。浅草の繁華街の一角、花川戸が舞台となっている。本作は幡随長兵衛も登場する義侠ものであるが、この話には実話のモデルがある。寛文年間に鳥取藩を殺傷事件で脱藩した平井権八なる人物で、江戸に来て強盗を働いては吉原に通い、そこの遊女小紫と恋仲になるが、その遊興の為に百数十人の辻斬りに及んだが、最後は自首して磔刑となった。現在、目黒不動仁王門前の東昌寺跡に権八と後を追って自害した小紫が眠る比翼塚があるという(以上は「民俗学的歌舞伎鑑賞」なる頁の同外題の解説を参照させて頂いた)。

・長井兵助:「ながゐひやうすけ(ながいひょうすけ)」と読む。江戸後期の香具師(やし)。安永(17721781)頃、江戸浅草蔵前に住み、近くの奥山・上野山下などで歯磨きや陣中膏がまの油なる民間薬を売ったり、簡単な口腔の治療等を施したりした。特に人集めのために演じた大太刀の居合抜きと四六の蝦蟇の口上で有名となった。生没年未詳であるがこの名は十一代、明治の中頃まで続いた。

・安本龜八:(やすもとかめはち 文政8(1825)年~明治331900)年)熊本出身の人形師。仏師の家に生まれるも明治維新後の排仏毀釈運動の影響で、人形細工師として身をたてる。兄と共に上方・江戸と人形見世物を興行、「忠臣蔵」等を題材とした本物と見まごう活(いき)人形で好評を博す。明治8(1875)年には海外へ進出して上海興行も果たし、明治101877)年の内国勧業博覧会では等身大の艶麗な女性の活人形を出展して、活人形師としてはもう一人の名匠松本喜三郎と双璧であった(以上はウィキペディアの「安本亀八」を参照させて頂いた)。

・珍世界のX光線:「珍世界」は興行館の名称。明治四十(1907)年元旦の「都新聞」に浅草の娯楽施設についての記事があって、そこには十二階・江川の玉乗り・珍世界・電気館・木馬館の名が挙がっているともう木馬館」という記事にある。「X光線」は見世物興行の一つであると思われるが、不詳。多様な物をレントゲン撮影したフィルムを展示していたか、それとも怪しげな透視術か。今後も探索する。

・「彼岸過迄」に書いてある:夏目漱石「彼岸過迄」の第二パートに当たる「停留所」の中間部「十六」章以下に、長井兵助を初めとした浅草の景観が描かれている。

・カリガリ博士:1920年制作のドイツ映画。71分・モノクローム(部分的にフィルム自体のパート着色有)・サイレント。原題は“Das Kabinett des Doktor Caligari”「カリガリ博士のキャビネット」。ローベルト・ヴィーネ監督。今見ても極めて斬新、幻術的にして芸術的な20世紀初頭の表現主義の名作である。個人的には大変好きな作品である。是非、一見をお薦めする。なお、本作は日本では大正101921)年5月にキネマ倶楽部封切とあるが、この時、芥川は中国行の最中であるので、帰国(7月20日頃田端帰着)後の比較的早い時期に、浅草六区の活動写真館キネマ倶楽部での鑑賞と推定される。

■「三 キュウピッド」やぶちゃん注終