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Gaity座の「サロメ」

      ――「僕等」の一人久米正雄に――   芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正14
(1925)年8月発行の雑誌『女性』に『「サロメ」その他』の標題で、『一「サロメ」』「二 變遷」「三 或抗議」「四 艶福」として掲載されたが、後に最初の『一「サロメ」』の項だけが独立して『
Gaity座の「サロメ」』という標題で翌大正15・昭和元(1926)年12月に発行された生前最後の作品集(実際にそのような意識で編されたものと言われる)随筆集「梅・馬・鶯」に所収された。底本は岩波版旧全集を用いたが、定本では森鷗外の「即興詩人」の引用部が総ルビとなっている。大変読みにくくなるので、読みが振れると私が判断したものだけに読みを附した。私のオリジナルな後注を附したが、本文の流れを滞らせたくないので、特に記号等による指示はしていない。私には分からない部分に洩れなく注をつけたつもりではある(戯曲の内容としての「サロメ」「即興詩人」関連の注等は私の食指の動くところ以外は殆んどつけていない。それぞれ当該書をしかと読むべし)。

そうして最後に。是非、この作品は片山廣子の「花屋の窓」とペアで読んで頂きたいのである。【2008年1月20日】]

 

Gaity座の「サロメ」

      ――「僕等」の一人久米正雄に――

 

 ……切符は横濱の原さんに買つて貰つたやうに記憶してゐる。少くとも特に切符を買ひに横濱へ行つたと言ふ記憶はない。しかし僕等は當夜よりも確か一日か二日前に二等の切符を手に入れてゐた。切符は何でも二圓だか二圓五十錢だかだつたと覺えてゐる。

 僕等四人の一高の生徒は日暮れがたの汽車に乘り、七時何分かに横濱へ着いた。それから何町をどう歩いたかはやはり判然と覺えてゐない。唯何處かの坂へかかると、屋並みも見えない闇の中に明るい硝子窓がたつた一つあり、その又窓の中に菊の花が澤山吹いてゐたのを覺えてゐる。それは或は西洋人相手の花屋か何かの店だつたであらう。が、ちよつと覗きこんだ所では誰も窓の中にゐる樣子は見えない。しかも菊の花の群がつた上には煙草の煙の輪になつたのが一つ、ちやんと室中に漂つてゐる。僕はこの窓の前を通る時に妙に嬉しい心もちがした。勿論僕等はかう言ふことにもThe Land of Heart’s Desireの税關の旗を感ずるほど、健氣な羅曼(ロマン)主義者の一群だつたのである。

 開場前のゲイティイ座の前には西洋人が七八人、靜かに話したり歩いたりしてゐる。僕等もその間にまじりながら、暗い劇場のまはりをまはつて見た。劇場は如何にもひつそりしてゐる。どうも僕の記憶によれば、漆食塗りか何かの劇場の壁には火かげのさした窓も見えなかつたらしい。從つて僕は目の前の壁にばたんと言ふ音の聞えるが早いか、印牛纏を着た男が一人、電燈のともつた扉口から往來へ姿を露はした時には少からず吃驚した。が、それよりも僕の目を――恐らくは僕等の目を惹いたのはその扉口に立ち上つた、年の若い西洋の女である。彼女は電燈を後ろにしてゐたから、顏かたちの美醜は明かではない。しかし兎に角青い着ものを着た、世にも姿の好い女である。僕は忽ちこの女に或悲劇の女主人公を感じた。彼女は勿論二三週間のうちに誰かを愛して、罪惡を犯して、その為に毒を嚥んで死んでしまふのである。けれども彼女の口から出たのは、僕は未だにありありと如何に僕の幻滅の甚しかつたかを覚えてゐる、羅曼的な彼女の口から出たのは唯喉もとに癇癪を抑へた、鸚鵡よりも拙劣な日本語だつた。

 「それから、お前、ギタアを借りる、忘れる、いけませんよ! ギタアですよ! ヴァイオリンと間違へる、借りる、いけませんよ!」

 この何處かへ借りにやつたギタアは、――僕はそれから二十分の後にもう一度烈しい幻滅を感じた。アラン・ウィルキィ一座の舞臺監督は「サロメ」と共に上演した「フロレンスの悲劇」の色男にこのギタアを持たせてゐたのである。…………

 僕等は「フロレンスの悲劇」の幕が下りてから、薄暗い二階の後ろのベンチに熱心に「サロメ」を待ち焦れてゐた。尤も前後左右の西洋人は神妙に坐つて待つてなどはゐない。大抵は廊下へ煙草をのみに出たり、バアヘ一杯やりに行つたりしてゐる。僕は「フロレンスの悲劇」を見ながら、絶えず僕の左に坐つた老異人の腋臭(わきが)に辟易してゐた。薔薇色に頭の禿げた彼は幸ひもう席には坐つてゐない。しかし香水の匂に交つた、何とも彼と言はれぬ腋臭の匂は未だに僕の鼻に殘つてゐる。僕はこの匂を駆逐する爲に何度も馬のやうに鼻を鳴らした。すると其處へ漂つて來たのはゴムの燃えるのに似た匂である。それも始は僕の嗅覺を刺戟するかしないかだつた。が、少時するうちにだんだん噎せかへるほどの匂になつた。のみならず二階から下を見ると、西洋人に埋まつたオオケストラ・ストオルもいつの間にかぼんやりと煙つてゐる。僕はやつとこの匂も何かこれから始まる「サロメ」に縁のあると言ふことを發見した。

 しかし如何なる縁があるか、はつきりと僕にもわかつたのは突然落ちて來た闇の中に正面の幕の破れた時である。四角に薄明るい舞臺の奥には一段高い臺を設け、後ろに黑幕を垂らした外に全然背景と言ふものを使つてゐない。唯舞臺の左の前に金紙を貼つた井戸が一つ、フツト・ライトにぴかぴか光つてゐる。それから一段高い左右にそれぞれ怪しげな香爐が一つ、まつ直に煙を立ち昇らせてゐる。あのゴムの燃えるのに似た、野蠻極まる惡臭はこの何よりも烽火に近い香爐の煙の産物だつた。それは勿論嗅覺的に東洋の幻想を與へようとした舞臺監督の仕業に違ひない。けれども僕はこの煙に咳を生じたばかりだつた。或は必然の聯想として、セルロイド工場の大火事を思ひ浮べたばかりだつた。のみならず、――

 のみならず僕は役者たちにも、――「若きシリア人」や小姓にも殘酷な何度目かの幻滅を感じた。「若きシリア人」は肉附きの好い裸の手足を露はしたまま、一段高い舞臺の奥に反り身になつて佇んでゐる。が、背は目分量にすると、やつと四尺七八寸しかない。この小男を猶太の王ヘロド・アンティバスの寵遇を受けた護衛兵の大尉と思へと言ふのは金鶴香水をナルドの油と思へと言ふのも同じことである。いや、思へと言ふのかも知れない。現に小姓に扮した女優は明かに近代の文明が産んだ、一脚時價六圓か七圓ぐらゐの椅子に腰をかけてゐる。が、衣裳道具の整はないことや役者に適材を缺いてゐることは必ずしも不平を言はないでも好い。若しサロメさへ美しければ、――サロメに扮する女優さへ「銀の鏡に影を映した白薔薇の花のやうに」美しければ、僕等は五分もたたないうちに「若きシリア人」の身の丈や小姓の椅子などは忘れてしまふであらう。若しサロメさへ美しければ、――僕はHow beautifulとか或は又How strangeとか兎角Howを離れない臺辭の斷片を捉へながら、妃ヘロディアスの娘、猶太の王女、美しいサロメの出て來るのにあらゆる希望を託してゐた。

 サロメは畢に舞臺の右からしつしづと黑幕の前へ進んで來た。「若きシリア人」の臺辭を借りれば正に「水仙の花のやうに、銀の花のやうに」進んで來たのである。僕は早速双眼鏡擧げ――これはオペラ・グラスの誤りではない。明治十二年か十三年かに伊豆七島を測量した僕の叔父讓りの双眼鏡である。僕はこの大きい双眼鏡を擧げ、はるかに舞臺の上のサロメを眺めた。サロメはジヨカナアンの首を斬らせた時に何歳になつてゐたか不明である。が、兎に角養老院より女學校にはひるのに近かつたであらう。よし又年をとつてゐたにもしろ、少くとも女子大學の生徒ぐらゐの若さだけはあつたと思はなければならぬ。けれどこのサロメは明かに粉黛を装つたお婆さんである。顏や頸の皺は勿論、頰のこけてゐることも一通りではない。殊に猶太の月明りに、大理石と白さを競ふべき腕は干し大根のやうに痩せ細つてゐる。ああ、サロメさへ美しければ!――僕は圓いレンズの中にはつきりと彼女を眺めた時にとうとう僕の羅曼主義も偉大なる羅馬帝國のやうに没落しなければならぬことを感じた。しかし――

 しかし火を吹いて滅せしめる風は同時に又火を吹いて熾ならしめる風である。俗惡を極めた現實は僕の羅曼主義に一撃を與へた。けれど僕の羅曼主義は反つてその一撃の爲に燃え上つた。と言ふのは外でもない、僕はこの「老いたる猶太の王女」に忽ちかう言ふ森先生の名文の一節を思ひ起したのである。――

 「……女王は身の丈甚だ高からず、面(おもて)の輪郭鋭くして、黑き目は稍々(やや)陷りたり。衣裳つきはいと惡(あし)し。無遠慮に評せば、擬人せる貧窶(ひんる)の妃嬪(ひひん)の装束(しやうぞく)したるとやいふべき。さるを怪しむべきは此女優の擧止(たちゐ)のさま都雅(みやびやか)にして、いたく他(た)の二人(にん)と殊なる事なり。われは心の中に、若し少(わか)き美しき娘に此行儀あらば奈何ならんとおもひぬ。既にして女王は進みて舞臺の縁(ふち)に點(とも)し連ねたる燈火(つくわ)の處に到りぬ。此時我心は我目を疑ひ、我胸は劇(はげ)しき動悸を感じたり。われは暫くの間、傍なる紳士に其名を問ふことを敢てせざりき。われ。此女優の名をば何とかいふ。紳士。アヌンチヤタといへり。……」

 僕は何度も双眼鏡を挙げて舞臺の上のサロメを眺めた。サロメを?――いや、サロメではない。あれは「即興詩人」のアヌンチヤタである。少くともアヌンチヤタの姉妹である。殘骸に脂粉を装つた酉班牙生まれのアヌンチヤタは氣の毒にも「燈燭の數少き、薄暗き」ヴェニスの小劇場に往年の戀人と邂逅した。が、ヴェニスの小劇場は東洋の日本の横濱の小劇場のあはれなるに若かない。あのサロメに扮した女優も肉の落ちた彼女の乳の下には何本かの古手紙を持つてゐるであらう。或はホテルの彼女の部屋にも何年か前にディドオに扮した彼女自身の油畫――でなければ繪端書ぐらゐは持つてゐるかも知れない。……

 「……アヌンチヤタは再び口を開きぬ。我は君と再會せり。再會していよ/\君が情ある人なることを知る。されど薔薇(さうび)は既に凋(すが)れ、白鵠(くぐひ)は復た歌はずなりぬ。おもふに君は聖母の恩澤に浴して、我に殊なる好き運命に逢ひ給ふなるべし。今はわれに唯々(ただ/\)一つの願(ねがひ)あり。アントニオよ、能くそを愜(かな)へ給はんかといふ。われ手に接吻して、いかなるおん望にもあれ、身にかなふ事ならばといふに、アヌンチヤタ、さらばこよひの事をば夢とおぼし棄て給ひて、いまより後(のち)いついづくにて相見んとも、おん身と我とは識らぬ人となりなんこと、是れわが唯々一つの願ぞ、さらば、アントニオ、これより善き世界に生れ出なば、また相見ることもあらんとて、我手を握りぬ。……」

 サロメは香爐の煙の中にI will kiss thy mouthとか何とか叫びながら、やつと金紙の井戸から出て來た豫言者ジヨカナアンに手を伸べてゐる。が、僕は小姓の椅子を忘れ、「若きシリア人」の身の丈を忘れ、唯僕の前に展開した羅曼主義の世界に見入つてゐた。其處には「サロメ」の戲曲家ワイルドもなければワイルドの戲曲「サロメ」もない。唯寂しいアヌンチヤタが一人、燈火もともさぬ屋根裏の小窓に今しがた悄然と歸つて行つたアントニオのことを考へてゐる。ヴェネティアの宮殿や寺院を照らした、薄ら寒い月光を眺めながら。……

 これは僕等の十四五年前に見た最初の「サロメ」の印象である。同時に又日本の舞臺に上つた最初の「サロメ」の印象である。僕は後に松井須磨子のやはり「サロメ」を演ずるのを見た。須磨子のサロメは美しい――よりも兎に角若かつたのに違ひない。が、僕のいつになつても忘れることの出來ないのはあの年をとつたサロメである。あの横濱へ流れて来た無名の英吉利の女優である。……

 

□やぶちゃん後注

Gaity座:前身は明治3(1870)年に創立した「横浜本町通りゲーテ座」で、その後、横浜に居住していた外国人等の発案によって明治181885)年に再建、商業劇場として「ゲーテ座」を名乗った(設計はフランス人建築家サルダによる)。「ゲーテ」は作家のゲーテではなく、芥川龍之介が記すスペルの通り、“Gaiety”(ゲィティ)で、英語の「愉快・陽気・快活」の意である。関東大震災で完全に崩落し、正確な所在地も不明となったが、後に考証され、1980年にゲーテ座記念岩崎博物館(現岩崎ミュージアム)として当時の「ゲーテ座」が復元され、内部はファッション・アートの博物館となっている。

 

Gaity座の「サロメ」:これについては英文学者佐々木隆氏の「イーコン・インターネット講座」の「書誌から見た日本ワイルド受容研究(大正編)」第3回「ワイルド劇上演」PDF)が詳細を極め、芥川龍之介の本作についても記載している。一部を以下に引用する。氏は『Salome 上演に焦点を絞りながら、日本におけるSalome 受容の特異性について明らかにしてゆきたい』と前置きして、その最初に、本公演を(1)として記している(一部の文字・記号を補正し、底本にある注番号・改行の一部も省略した)。

《引用開始》

(1)アラン・ウィルキー一座

ワイルド劇上演では大正元年(1912)のアラン・ウィルキー一座による『サロメ』・『フロレンタインの悲劇』をはじめ、近代劇運動の流れや女優の進出といった演劇界の動きの中、特に『サロメ』は頻繁に上演された。アラン・ウィルキー一座の上演は大正元年(191211 月9日に横浜ゲイティ座で『サロメ』と『フロレンタインの悲劇』、1111日~15 日までは帝国劇場で『サロメ』が上演された。小山内薫、佐佐木信綱(1872-1963)、大仏次郎(1897-1973)、芥川龍之介、島村抱月等がハンタ-・ワッツの演じる『サロメ』を観劇したのである。主な配役は次の通りである。

ヘロデ・アンティパス  アラン・ウィルキイ

ヨカナーン       スタンフォード・ドウソン

若いシリア人      アーサー・グッドセール

ヘロディアス      G. リトルウッド

サロメ         F. ハンター・ワッツ

座長アラン・ウィルキイ/舞台監督アーサー・グッドセール/舞台装置ジェー・ノルバーン

横浜公演 大正元年十一月九日(土)午後九時開演 山手ゲイテイ座

特に、この上演は島村抱月が芸術座で『サロメ』を取り上げる一年前であったことは注目に値する。当時の劇評などから帝国劇場よりも横浜ゲイティ座の公演の方が、舞台装置などの演出は評判がよかったようだ。小山内薫は大正4年(1915)6月の「本郷座の『サロメ』」(『演芸画報』第2年第6号)でワッツが演じたサロメの印象をアラン・ウィルキー一 座、芸術座、R.シュトラウス(Richard Strauss, 1864-1949)のオペラ『サロメ』(ベルリン王立オペラ)、近代劇協会の4つの舞台を比較して、横浜ゲイティ座上演について述べている。

 

道具の不足から、唯黑いカアテン(それは多分木綿ではあったが)を舞台一面に下げただけであつたが、その貧しい暗い舞台の設備が、劫つてサロメの姿をはつきりさせた。東京の時は、光線の使ひ方も拙劣であつた。

 

サロメ役のアラン・ウィルキー夫人についても次のように述べている。

 

サロメに扮したアラン・ヰルキイ夫人の肉體は如何にも繊弱で、この女王の神秘的な一面は可なりに深く現はされたが、その肉的な一面には缺ける所が多かつた。併し、このサロメは決して惡いサロメではなかつた。豫言者の恐ろしい聲に、退けられては近くづき、退けらては近づきする間の、肉體のしなやかさな起伏などは、いまだに私の目を去らないでゐる。

その外の役はみんな言語道断であつた。

 

横浜ゲイティ座のこの黒幕だけの舞台装置は、経費の問題という点もあったであろうが、結果的には能舞台など、「何もない空間」の演劇に慣れていた日本人の観客には印象深かったようだ。[やぶちゃん注:中略。]

また、後年なってウィルキー一座のワイルド劇上演について文章をよせた芥川龍之介の指摘についても簡単に紹介してきたい。大正14 年(1925)8月の『女性』(第8 巻第2号)に掲載された「『サロメ』その他」の中で日本最初のワイルド劇が上演された横浜・ゲーテ座の『サロメ』『フィレンツエ之悲劇』の観劇の様子が記されている。「僕等四人の一高の生徒は日暮れがたの汽車に乗り、七時何分かに横濱へ着いた」とあるが、この四人とは、芥川龍之介本人、久米正雄、原善一郎、井川(恒藤)恭のことである。ハンター・ワッツの演じるサロメの芥川の印象は、「サロメを?――いや、サロメではない」、「サロメは明かに粉黛を装つたお婆さんである。顏や顎の皺は勿論、頰のこけてゐることも一通りではない」、「サロメさへ美しければ」と評している。また、僕は後に松井須磨子のやはり「サロメ」を演ずるのを見た。須磨子のサロメは美しい――よりも兎に角若かつたのに違ひない。が、僕のいつになつても忘れることの出来ないのはあの年をとつたサロメである。」とも評している。多くの観客に好評だったワッツに対して、芥川は全体的に見て「サロメを演じる年老いた女優に、大きな幻滅を覚えた」ということになろう。

アラン・ウィルキー一座のワイルド劇上演は、井村君江が『「サロメ」の変容 翻訳・舞台』で指摘している様に、2つの大きな意義があろう。

1 ワイルドとシェイクスピアの本場の人が演じる舞台が日本で上演されたこと。

2 最初の『サロメ』上演であったこと。

その後の芸術座の『サロメ』上演もあるが、このアラン・ウィルキー一座の『サロメ』上演が日本で最初の『サロメ』上演であったことは大きな意義のあることだ。

《引用終了》

本作のこの注にこれ以上の相応しい注はないと思われるが、あえて言えば、文中、『芥川は全体的に見て「サロメを演じる年老いた女優に、大きな幻滅を覚えた」ということになろう。』という判断には、私の読みとは大きな隔たりを覚えることだけは述べておきたい。また、更に附言すると、以上の記載から、従来、芥川龍之介年譜に記されている11日のゲーテ座での観劇というのは誤まりで、9日であることが分かる。更に、芥川龍之介はこのサロメを、実はもう一度、1112日に、帝国劇場で見ているという事実も提示しておきたい(宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引 付年譜」による)。

・横濱の原さん:原善一郎。横浜の大富豪であった生糸商原富太郎(原三渓)の長男。後に横浜興信銀行・帝国蚕糸の重役となった実業家。芥川龍之介とは東京府立第三中学校(現・都立両国高等学校)の同級生にして友人であった(全集類聚版では一級下と記す。生年は芥川と同年ではある)。

 

The Land of Heart’s Desire:アイルランドの詩人・劇作家ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats)の、1894年初演の戯曲。「心願の国」等と訳される。私はこの芝居を読んだことも見たこともないので、如何とも言いがたいが(新妻が妖精に誘拐されるアイルランド民話を素材とするらしい)、ここで芥川龍之介は、当時の「僕等」は「心願国」(それはイェイツにとって悲願としての独立国としてのイングランドを意味するのではなかろうか)国旗が税関に翻るのを夢想し「感ずる」程度には素直なロマン主義者であったと言っているのではなかろうか。本作が発表されたのは1925年であるが、その時でさえ未だアイルランドは真の独立を果たしていない。即ち、アイルランド自由国(但し、イギリス自治領。後、1937年にエールと改称)の成立は1922年、イギリスの独立承認は1942年(但し、イギリス連邦の共和国)、晴れてイギリス連邦を脱退してアイルランド共和国となるのは、1949年のことである。

 

・「フロレンスの悲劇」:筑摩書房全集類聚版脚注では「不詳」としているが、これは同じオスカー・ワイルドの戯曲“A Florentine Tragedy”である。

 

・オオケストラ・ストオル:orchestra stall。イギリスで言うオーケストラ席のことで、単にストールと言うのが普通。最も値が張るS席である。

 

・金鶴香水:昭和2(1927)年、金鶴香水株式会社が発売した国産初の香水。ちなみに同年、同社は「丹頂ポマード」も発売。即ち後の「丹頂」、現在の「マンダム」である。

 

・ナルドの油:聖書に登場する有名な香油。ナルドとはヒマラヤ原産のオミナエシ科のスパイクナード(ナルド)Lavandula stoechasで、他に英語で“nard”及び“muskroot”と言う。その名はサンスクリット語のナラダ(かぐわしい)という意味に由来する。「マリアは、非常に高価で純粋なナルドの香油1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家の中は香油の香りで一杯になった。」(ヨハネ12:3)とある。「1リトラ」は約300グラム。筑摩書房全集類聚版脚注ではやはり「不詳」としているが、先の「フロレンスの悲劇」といい、この作品に関していえば、杜撰の極みと言わざるを得ない注作業である。

 

・「銀の鏡に影を映した白薔薇の花のやうに」:これは「サロメ」の冒頭、サロメのいる宴会場を見下ろす露台での(サロメの登場前に)「若きシリア人」がサロメを描写する以下の台詞の末尾の一節である(以下、注に引用する原文は海外サイト“The Oscar Wilde Collection”を用い、訳は1959年刊岩波文庫版「サロメ」福田恆存訳を用いた)。

THE YOUNG SYRIAN

How pale the Princess is! Never have I seen her so pale. She is like the shadow of a white rose in a mirror of silver.

若きシリア人

王女のあの蒼ざめた顏! あれほど蒼い顏をしてゐるのを、おれはつひぞ見たことがない。まるで銀の鏡に映る白薔薇の影そつくりだ!

 

・「若きシリア人」の臺辭を借りれば正に「水仙の花のやうに、銀の花のやうに」進んで來たのである。:正にサロメが舞台に登場する直前の、「若きシリア人」の台詞の一節である

THE YOUNG SYRIAN

She is like a dove that has strayed... She is like a narcissus trembling in the wind... She is like a silver flower.

Enter SALOMÉ.

  若きシリア人

迷える鳩さながら……風にそよぐ水仙の花にもまがふ……まるで銀の花のやう。

     サロメ登場。

 

・森先生の名文の一節:以下に二回引用されるアンデルセン作森鷗外訳の「即興詩人」。引用の該当の二箇所は「即興詩人」の後半、「末路」の章から。筑摩書房全集類聚版脚注の『「感動」の章の一節』は誤りである。

 

・貧窶:非常に貧しいこと。またその貧しさのために、襤褸ののようにやつれること。

 

・妃嬪:妃と嬪。即ち天子の第二・第三夫人。后に次ぐ。また、広く天子に仕える女官も言う。

 

・デイドオ:パーセル(Henry Purcell)の歌劇「ダイドとエネアス」“Dido and Aeneas”のカルタゴの女王ダイドを指すか。ギリシャ神話での彼女は、カルタゴの建国者とされる女王で、トロイ戦争の帰途のエアネス(Aeneas)をもてなすも、彼が故国に去ったのを悲しみ自殺したとされる。

 

・白鵠:本字は白鳥とも天鵞(ガチョウ)とも鶴ともいうが、ここでは素直にハクチョウととって良いであろう。

 

I will kiss thy mouth:「サロメ」のカタストロフの台詞の最後の一節。この後、養父ヘロドの“Kill that woman!”の台詞と共に、兵の盾によってサロメは圧殺されて幕が閉じる。

THE VOICE OF SALOMÉ

Ah! I have kissed thy mouth, Iokanaan, I have kissed thy mouth. There was a bitter taste on thy lips. Was it the taste of blood... Nay; but perchance it was the taste of love...They say that love hath a bitter taste... But what matter? what matter? I have kissed thy mouth, lokanaan, I have kissed thy mouth.

A ray of moonlight falls on SALOMÉ and illumines her.

  サロメの聲

あゝ! あたしはとうとうお前の口に口づけしたよ!、ヨカナーン、お前に口づけしたよ。お前の脣はにがい味がする。血の味なのかい、これは?……いゝえ、さうではなうて、たぶんそれは戀の味なのだよ。戀はにがい味がするとか……でも、それがどうしたのだい? どうしたといふのだい? あたしはとうとうお前の口に口づけしたよ!、ヨカナーン、お前に口づけしたのだよ。

     一條の光がサロメを照らしだす。

 

・僕は後に松井須磨子のやはり「サロメ」を演ずるのを見た:松井須磨子についてはいわずもがなであろう。先に引用した英文学者佐々木隆氏の「書誌から見た日本ワイルド受容研究(大正編)」第3回「ワイルド劇上演」PDF)から、彼女のサロメについての一部を以下に引用する(一部の文字・記号を補正し、底本にある注番号・改行の一部も省略した)。

《引用開始》

本間久雄は大正3年(1914)1月の「『先代萩』と『サロメ』」(『演芸画報』第8年第1号)で、『サロメ』の成功の鍵は、全体にロマンチックなム-ドを伝えられるか、サロメの性格の演出にあると指摘している。本間久雄の劇評は大正2年(1913)に上演された芸術座の『サロメ』の劇評を中心にしたもので、サロメに扮した松井須磨子については、「須磨子氏はかう云ふ方面の性格を演出する上には恐らく現存の日本の女優中の随一に置かるべき人である」と絶賛している。サロメ踊りについては、ジョバニ・ヴィットリオ・ローシー(Giovanni Vittorio Rossi)の振り付けは悪いと指摘している。[やぶちゃん注:以上は先に引用した「(1)アラン・ウィルキー一座」の説明の、先の引用では中略した中間部に記載されているもの。以下、中略。]

(2)芸術座

芸術座は大正2年(1913)9月に島村抱月と松井須磨子を中心に創立された。さて、日本人の演じた最初の『サロメ』は大正2年(191312 月の芸術座による公演である。主な配役は次の通りである。

サロメ 松井須磨子

ヨカナン 澤田正二郎

ヘロデ王 倉橋仙太郎

若きシリア人 中村哲

ペヂァスの侍従 宮島文雄

ナアマン 鎌野誠一

第一の兵卒 田中介二

ヘロヂァスの王妃 波野雪子

中村吉蔵訳、ローシーの演出で行われたが、ローシーの演出に対しては、芸術座の主宰者の島村抱月と帝国劇場の演出担当のローシーの間に意見の相違が生じ、論争を巻き起こすことになった。ロ-シ-は大正元年(1912)に日本の帝国劇場の歌劇部教師として招かれて来日した。生徒には石井漠(1886-1962)、高田雅夫(1895-1923)、高田せい子(1895-1977)、清水金太郎(1889-1932)、原信子(1893-1979)等が輩出している。島村抱月とローシーの『サロメ』公演での問題は、俳優の肉体上の美と表現、日本語と原文の律調の違いから来る音楽美の消失、上演時間の制約などが挙げられるが、帝国劇場のローシーが演出の全責任を負っていたことから、抱月は芸術座の主宰者でありながら、演出に携われることができなかったことがこの論争を巻き起こす結果となった。ワイルドの移入が始まっ30年後に外国人演出家と日本人が論争を巻き起こすまでに『サロメ』を理解し、日本人のものにするとは誰が思ったであろうか。これは島村抱月の見識の高さを表すものである。

《引用終了》

 

・あの横濱へ流れて来た無名の英吉利の女優:F. ハンター・ワッツ。私には上記の佐々木隆氏の記載以外の彼女についての知見を、今は持たない。持たないが……後はブログのコメントを御覧頂きたい――