やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇へ
鬼火へ

彼   芥川龍之介   附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に掲載され、後に『湖南の扇』に所収された。因みにやはり芥川の忘れ得ぬ若き愛蘭土(アイルランド)人の友を描いた「彼 第二」は、同日刊行の別な雑誌、『新潮』に「彼・第二」の題で掲載されてゐる。本作の脱稿は十一月十三日、「彼 第二」の方の脱稿は十二月九日である。底本の「彼 第二」の方の後記によれば、「彼 第二」の方の初出には作品末に小文字で以下の一文があるとする。

追記。僕は「女性」の新年号號に或亡友のことを書き、それに「彼」と云ふ題をつけた。これも亦或亡友のことであるから、「彼・第二」と云ふ題をつけたものである。「彼」は勿論「彼・第二」と何も関係のある譯ではない。

底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、読みの振れるもののみパラルビとした。末尾に結構りきを入れた私の注を附した。お楽しみあれ。なお、本テクストは「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」のテクスト化の過程で強く必要を感じて翻刻したものである。この主人公のモデル平塚逸郎へ捧げた芥川龍之介の歌群を是非お読み戴きたい。【二〇一〇年八月十一日】一部のミス・タイプを訂し、読みをルビ化、一部の数字表記の変更を行った。【二〇一三年三月十日 藪野直史】]

        一

 僕はふと舊友だつた彼のことを思ひ出した。彼の名前などは言はずともい。彼は叔父さんの家を出てから、本郷の或印刷屋の二階の六疊に間借りをしてゐた。階下の輪轉機のまはり出すたびに丁度小蒸汽の船室のやうにがたがた身震ひをする二階である。まだ一高の生徒だつた僕は寄宿舍の晩飯をすませたのち、度たびこの二階へ遊びに行つた。すると彼は硝子窓ガラスまどの下に人一倍細い頸を曲げながら、いつもトランプの運だめしをしてゐた。そのまた彼の頭の上には眞鍮しんちうの油壺の吊りランプが一つ、いつも圓い影を落してゐた。………

       二

 彼は本郷の叔父さんの家から僕と同じ本所の第三中學校へ通つてゐた。彼が叔父さんの家にゐたのは兩親のゐなかつたためである。兩親のゐなかつたためと云つても、母だけは死んではゐなかつたらしい。彼は父よりもこの母に、――このどこへか再緣した母に少年らしい情熱を感じてゐた。彼は確か或年の秋、僕の顏を見るが早いか、吃るやうに僕に話しかけた。

 「僕はこの頃僕の妹(妹があつたことはぼんやり覺てゐるんだがね。)が緣づゐた先を聞いて來たんだよ。今度の日曜にでも行つて見ないか?」

 僕は早速彼と一しよに龜井戸に近い場末の町へ行つた。彼の妹の緣づゐた先は存外見つけるのにひまどらなかつた。それは床屋の裏になつた棟割り長屋の一軒だつた。主人は近所の工場か何かへ勤めに行つた留守だつたと見え、造作ざうさくの惡い家の中には赤兒あかごに乳房を含ませた細君、――彼の妹のほかに人かげはなかつた。彼の妹は妹と云つても、彼よりもずつと大人じみてゐた。のみならず切れの長い目尻の外は殆ど彼に似てゐなかつた。

 「その子供は今年生れたの?」

 「いいえ、去年。」

 「結婚したのも去年だらうヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ?」

 「いいえ、一昨年をととしの三月ですよ。」

 彼は何かにぶつかるやうに一生懸命に話しかけてゐた。が、彼の妹は時々赤兒をあやしながら、愛想あいそい應對をするだけだつた。僕は番茶の澁のついた五郎八ごろはち茶碗を手にしたまま、勝手口の外を塞いだ煉瓦塀れんぐわべいの苔を眺めてゐた。同時にまたちぐはぐな彼等の話にある寂しさを感じてゐた。

 「兄さんはどんな人?」

 「どんな人つて……やつぱり本を讀むのが好きなんですよ。」

 「どんな本を?」

 「講談本や何かですけれども。」

 實際その家の窓の下には古机が一つ据ゑてあつた。古机の上には何册かの本も、――講談本なども載つてゐたであらう。しかし僕の記憶には生憎あいにく本のことは殘つてゐない。ただ僕は筆立ての中に孔雀の羽根が二本ばかり鮮かに插してあつたのを覺えてゐる。

 「ぢやまた遊びに來る。兄さんによろしく。」

 彼の妹は不相變あひかはらず赤兒に乳房を含ませたまま、しとやかに僕等に挨拶した。

 「さやうですか? では皆さんによろしく。どうもお下駄も直しませんで。」

 僕等はもう日の暮に近い本所の町を歩いて行つた。彼も始めて顏を合せた彼の妹の心もちに失望してゐるのに違ひなかつた。が、僕等は言ひ合せたやうに少しもその氣もちを口にしなかつた。彼は、――僕は未だに覺えてゐる。彼はただ道に沿うた建仁寺垣に指を觸れながら、こんなことを僕に言つただけだつた。

 「かうやつてずんずん歩いてゐると、妙に指が震へるもんだね。まるでエレキでもかかつて來るやうだ。」

        三

 彼は中學を卒業してから、一高の試驗を受けることにした。が、生憎落第した。彼があの印刷屋の二階に間借りをはじめたのはそれからである。同時に又マルクスやエンゲルスの本に熱中しはじめたのもそれからである。僕は勿論もちろん社會科學に何の知識も持つてゐなかつた。が、資本だの搾取だのと云ふ言葉に或尊敬――と云ふよりもある恐怖を感じてゐた。彼はその恐怖を利用し、度たび僕を論難した。ヴェルレェン、ラムボオ、ヴォドレェル、――それ等の詩人は當時の僕には偶像以上の偶像だつた。が、彼にはハッシッシュや鴉片あへんの製造者に外ならなかつた。

 僕等の議論は今になつて見ると、殆ど議論にはならないものだつた。しかし僕等は本氣になつて互に反駁はんばくを加へ合つてゐた。ただ僕等の友だちの一人、――Kと云ふ醫科の生徒だけはいつも僕等を冷評してゐた。

 「そんな議論にむきヽヽになつてゐるよりも僕と一しよに洲崎すさきへでも來いよ。」

 ケーは僕等を見比べながら、にやにや笑つてかう言つたりした。僕は勿論内心では洲崎へでも何でも行きたかつた。けれども彼は超然と(それは實際「超然」と云ふ外には形容の出來ない態度だつた。)ゴルデン・バットをくはへたまま、Kの言葉に取り合はなかつた。のみならず時々は先手を打つてKの鋒先を挫きなどした。

 「革命とはつまり社會的なメンスツラチィオンと云ふことだね。………」

 彼は翌年の七月には岡山の六高へ入學した。それからかれこれ半年ばかりは最も彼には幸福だつたのであらう。彼は絶えず手紙を書いては彼の近狀を報告してよこした。(その手紙はいつも彼の讀んだ社會科學の本の名を列記してゐた。)しかし彼のゐないことは多少僕にはもの足らなかつた。僕はKと會ふ度に必ず彼の噂をした。Kも、――Kは彼に友情よりも殆ど科學的興味に近い或興味を感じてゐた。

 「あいつはどう考へても、永遠に子供でゐるやつだね。しかしああ云ふ美少年の癖に少しもホモ・エロティッシュな氣を起させないだらう。あれは一體どう云ふ譯かしら?」

 Kは寄宿舍の硝子窓を後ろに眞面目にこんなことを尋ねたりした、敷島の煙を一つづつ器用に輪にしては吐き出しながら。

        四

 彼は六高へはいつたのち、一年とたたぬうちに病人となり、叔父さんの家へ歸るやうになつた。病名は確かに腎臟結核だつた。僕は時々ビスケットなどを持ち、彼のゐる書生部屋へ見舞ひに行つた。彼はいつもとこの上に細い膝をいたまま、存外快濶くわいくわつに話したりした。しかし僕は部屋の隅に置いた便器を眺めずにはゐられなかつた。それは大抵硝子ガラスの中にぎらぎらする血尿を透かしたものだつた。

 「はう云ふ體ぢやもう駄目だよ。到底牢獄生活も出來さうもないしね。」

 彼はかう言つて苦笑するのだつた。

 「バクニィンなどは寫眞で見ても、逞しい體をしてゐるからなあ。」

 しかし彼を慰めるものはまだ全然ない譯ではなかつた。それは叔父さんの娘に對する、極めて純粹な戀愛だつた。彼は彼の戀愛を僕にも一度も話したことはなかつた。が、ある日の午後、――ある花曇りに曇つた午後、僕は突然彼の口から彼の戀愛を打ち明けられた。突然?――いや、必しも突然ではなかつた。僕はあらゆる靑年のやうに彼の從妹いとこを見かけた時から何か彼の戀愛に期待を持つてゐたのだつた。

 「美代ちやんは今學校の連中と小田原へ行つてゐるんだがね、僕はこのあひだ何氣なしに美代ちゃんの日記を讀んで見たんだ。………」

 僕はこの「何氣なしに」に多少の冷笑を加へたかつた。が、勿論何も言はずに彼の話の先を待つてゐた。

 「すると電車の中で知り合になつた大學生のことが書いてあるんだよ。」

 「それで?」

 「それで僕は美代ちやんに忠告しようかと思つてゐるんだがね。………」

 僕はとうとう口をすべらし、こんな批評を加へてしまつた。

 「それは矛盾してゐるぢやないか? 君は美代ちやんを愛してもい、美代ちやんは他人を愛してはならん、――そんな理窟はありはしないよ。ただ君の氣もちとしてならば、それは又別問題だけれども。」

 彼は明かに不快らしかつた。が、僕の言葉には何も反駁を加へなかつた。それから、――それから何を話したのであらう? 僕は唯僕自身も不快になつたことを覺えてゐる。それは勿論病人の彼を不快にしたことに對する不快だつた。

 「ぢや僕は失敬するよ。」

 「ああ、ぢや失敬。」

 彼はちよつと頷いたのち、わざとらしく氣輕につけ加へた。

 「何か本を貸してくれないか? 今度君が來る時でいから。」

 「どんな本を?」

 「天才の傳記か何かがい。」

 「ぢやジァン・クリストフを持つて來ようか?」

 「ああ、何でも旺盛な本がい。」

 僕はあきらめに近い心を持ち、彌生町やよひちやうの寄宿舍へ歸つて來た。窓硝子の破れた自習室には生憎たれも居合せなかつた。僕は薄暗い電燈のもと獨逸どいつ文法を復習した。しかしどうも失戀した彼に、――たとひ失戀したにもせよ、兎に角叔父さんの娘のある彼に羨望を感じてならなかつた。

        五

 彼はかれこれ半年ののち、或海岸へ轉地することになつた。それは轉地とは云ふものの、大抵は病院に暮らすものだつた。僕は學校の冬休みを利用し、はるばる彼を尋ねて行つた。彼の病室は日當りの惡い、透き間風の通る二階だつた。彼はベッドに腰かけたまま、不相變元氣に笑ひなどした。が、文藝や社會科學のことは殆ど一言も話さなかつた。

 「僕はあの棕櫚しゆろの木を見る度に妙に同情したくなるんだがね。そら、あの上の葉つぱが動いてゐるだらう。――」

 棕櫚の木はつい硝子窓の外に木末こずゑの葉を吹かせてゐた。その葉は又全體も搖らぎながら、細かに裂けた葉の先々を殆ど神經的に震はせてゐた。それは實際近代的なもの哀れを帶びたものに違ひなかつた。が、僕はこの病室にたつた一人暮してゐる彼のことを考へ、出來るだけ陽氣に返事をした。

 「動いてゐるね。何をくよくよ海べの棕櫚はさ。………」

 「それから?」

 「それでもうおしまひだよ。」

 「何だつまらない。」

 僕はかう云ふ對話の中にだんだん息苦しさを感じ出した。

 「ジァン・クリストフは讀んだかい?」

 「ああ、少し讀んだけれども、………」

 「讀みつづける氣にはならなかつたの?」

 「どうもあれは旺盛すぎてね。」

 僕はもう一度一生懸命に沈み勝ちな話を引き戻した。

 「この間Kが見舞ひに來たつてね。」

 「ああ、日歸りでやつて來たよ。生體解剖の話や何かして行つたつけ。」

 「不愉快なやつだね。」

 「どうして?」

 「どうしてつてこともないけれども。………」

 僕等は夕飯をすませたのち、丁度風の落ちたのを幸ひ、海岸へ散歩に出かけることにした。太陽はとうに沈んでゐた。しかしまだあたりは明るかつた。僕等は低い松の生えた砂丘の斜面に腰をおろし、海雀うみすずめの二三飛んでゐるのを見ながら、いろいろのことを話し合つた。

 「この砂はこんなに冷たいだらう。けれどもずつと手を入れて見給へ。」

 僕は彼の言葉の通り、弘法麥こうぼふむぎの枯れれになつた砂の中へ片手を差しこんで見た。するとそこには太陽の熱がまだかすかに殘つてゐた。

 「うん、ちょつと氣味きみが惡いね。夜になつてもやつぱりあたたかいかしら。」

 「何、すぐに冷たくなつてしまふ。」

 僕はなぜかはつきりとかう云ふ對話を覺えてゐる。それから僕等の半町ほど向うに黑ぐろとなごんでゐた太平洋も。………

        六

 彼の死んだ知らせを聞いたのは丁度翌年の舊正月だつた。何でものちに聞ゐた話によれば病院の醫者や看護婦たちは舊正月を祝ふ爲に夜更けまで歌留多會かるたくわいをつづけてゐた。彼はその騷ぎに眠られないのを怒り、ベッドの上に横たはつたまま、おほ聲に彼等を叱りつけた、と同時に大喀血をし、すぐに死んだとか云ふことだつた。僕は黑い枠のついた一枚の葉書を眺めた時、悲しさよりも寧ろはかなさを感じた。

 「尚又故人の所持したる書籍は遺骸と共に燒き棄て候へども、萬一貴下より御貸與ごたいよの書籍もそのうちにまじり居り候節は不惡あしからず御赦し下され度候。」

 これはその葉書の隅に肉筆で書いてある文句だつた。僕はこう云ふ文句を讀み、何册かの本が焰になつて立ち昇る有樣を想像した。勿論それ等の本の中にはいつか僕が彼に貸したジァン・クリストフの第一卷もまじつてゐるのに違ひなかつた。この事實は當時の感傷的な僕には妙に象徴らしい氣のするものだつた。

 それから五六日たつたのち、僕は偶然落ち合つたKと彼のことを話し合つた。Kは不相變冷然としてゐた。のみならず卷煙草を銜へたまま、こんなことを僕に尋ねたりした。

 「Xは女を知つてゐたかしら?」

 「さあ、どうだか………」

 Kは僕を疑ふやうにぢつと僕の顏を眺めてゐた。

 「まあ、それはどうでもい。……しかしXが死んで見ると、何か君は勝利者らしい心もちも起つて來はしないか?」

 僕はちよつと逡巡した。するとKは打ち切るやうに彼自身の問に返事をした。

 「少くとも僕はそんな氣がするね。」

 僕はそれ以來Kに會ふことに多少の不安を感ずるやうになつた。

(大正十五・一一・一三) 

■やぶちゃん注

 本作の主人公Xのモデルは府立第三中学校時代の同級生で友人であった平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)である。芥川龍之介は大正一四(一八二五)年二月発行の『中央公論』に発表した「學校友だち」(大見出し「我が交友録」)では特に最後に彼を挙げて、次のように綴っている。

平塚逸郎 これは中學時代の友だちなり。屢僕と見違へられしと言へば、長面痩軀なることは明らかなるべし。ロマンティツクなる秀才なりしが、岡山の高等學校へはひりし後、腎臟結核に罹りて死せり。平塚の父は畫家なりしよし、その最後の作とか言ふ大幅の地藏尊を見しことあり。病と共に失戀もし、千葉の大原の病院にたつた一人絶命せし故、最も氣の毒なる友だちなるべし。一時中學の書記となり、自炊生活を營みし時、「夕月に鰺買ふ書記の細さかな」と自ら病軀を嘲りしことあり。失戀せる相手も見しことあれども、今は如何になりしや知らず。

――また、今回、テクスト化作業の過程の中でよく読み返してみたところ、私は本作が

Иван Сергеевич Тургенев “Записки охотника”

ツルゲーネフの「猟人日記」中の一篇、一八四八年に書かれた、

Смерть

「死」の後半に現われる主人公の亡き友人ソロコウーモフの思い出のシークエンスと非常によく似ている――もしかするとあれを下敷にして芥川はこの「彼」を書いたのでは? という思いが過ぎったのであった。私の中山省三郎訳の電子テクストから該当部分の引用しておく。

 大體、露西亞人は驚くべき死方しにかたをする。今は亡き多くの人々が、私の胸にうかんで來る。私は君を思ひ出す、むかしの友達、大學の業なかばにして退いたアヴェニール・ソロコウーモフ君、あのきれいな、實に氣高い人! 今も見る、肺を病む綠がかつた顏、あの淡い亞麻色の髮、あのやさしい微笑み、あの夢見るやうな眸、あの長い手足、今も聽く、あの弱々しいやさしい聲。君は大露西亞の地主グール・クルビャニコフの邸に住んで、そこの子供のフォーファとジョージャに露西亞語の讀み事きや地理や歷史を教へ、主人グールのわけのわからぬ駄洒落にも、家令の有難迷惑な親切にも、意地のわるい腕白どもの俗惡な惡戲いたづらにもよく耐へ忍んで、微苦笑を浮かべながら、しかも不平もいはず、退屈してゐる奧方の移り氣な乞ひをも快よく受け容れてゐた。そのかはり、日が暮れて、夕餐のすんだ後、どんなに君はほつとしたことであらう。幸福に浸つたことであらう。そのときは、あらゆる務めや仕事から解き放されて、窓ぎはに坐る。物思はしげに煙草をくゆらす。或ひはまた貪るやうに、手擦れのした脂じみた厚い雜誌の頁をめくる。それは君と同じやうな哀れな宿なしの測量師が町から持つて來てくれたものだ。そのとき、詩といふ詩、小説といふ小説が、どんなに君を悦ばしたことか、どんなにたやすく涙が君の眼に浮かんだことか、どんなに滿足さうに笑つたことか! 人に對する如何ばかりの純情、あらゆる善なるものに對する如何ばかり氣高い同情の念が、若々しい、けがれなき魂に滲み渡つてゐたことか! 正直にいへば、君は決して人並すぐれて才氣の鋭い人ではなかつた。生まれつき人にすぐれた記憶力もなく、勤勉といふのでもなかつた。大學にゐた頃はかなりの劣等生と見倣されてゐた。講義の時には眠つてゐた、試驗の時には尤もらしく默つてゐた。しかも友達の進歩や成功に對して、喜びの眼を輝かしたのは、息をはずませたのは誰であつたか? 他ならぬアヴェニールであつたのだ……また自分の友達の榮達を盲目的に信じてゐたのは、誇りかに友を讚へ、奮然として友を擁護したのは誰であつたか? 羨やむことをも、己れをよしとすることをも知らず、一身を顧みず己れを犠牲にし、何の役にもたたぬ者にまで、いさぎよく從つてゐたのは誰であつたか? それはみな、それはみな君だつたのだ、わがよき友よ、アヴェニール! 忘れもしない、君が家庭教師として、田舍へ行くとき、斷ちきられるやうな思ひをして、私たちと別れたことを。惡い豫感が君を苦しめてゐたのであらう……。さうして實際に田舍へ行くと、いけないことになつたのだ。村には恭しく耳を傾けるほどの人もなく、驚くべき人も、愛すべき人もなかつた……。村びとも教養のある地主たちも、ひとしく君をありふれた教師として、或る者は無躾に、或る者は粗略に遇してゐた。おまけに君は風采で人を引きつけるといふやうな人でもなかつた。怖ぢ氣づいて、顏を赧らめたり、汗をかいたり、吃つたり……。そのうへに、田舍の空氣は身體のためにはならなかつた。君は蠟燭のやうに瘠せ衰へた、ああ、可哀さうに! なるほど、君の部屋は庭に面してゐた。花は蝦夷櫻えぞうはみつ、林檎、菩提樹など、君の卓子や、インク壺や本の上に、かろい花びらを撒き散らして。壁には別れる時に、美しい捲毛の碧い眼の家庭教師、あの人のよい、情に脆い獨逸人の女の人から贈られた靑絹の時計入れがかかつてゐた。時には昔の友達がモスクワから訪ねて來て、他人ひとの詩や、或ひは自作の詩まで持ち出して、いたく君を歡ばした。けれど、孤獨は、教師の身の堪へがたい奴隷のやうな境涯は、自由になるあてもない果敢なさは、かぎりも知れぬ秋また冬、あの執拗な永わづらひは! ああ、哀れなるアヴェニール!

 私はソロコウーモフが死ぬ少し前に訪ねて行つた。彼はもう殆んど歩けなかつた。地主のグール・クルビャニコフは強ひて追ひ出しもしなかつたが、給料は呉れなくなつてゐた、ジョージャには別の教師が雇はれた。……フォーファは陸軍幼年學校に入れられた。アヴェニールは窓際の古いヴォルテール型の安樂椅子に腰をおろしてゐた。天氣の珍しく好い日であつた。葉の落ちた菩提樹が濃い鳶色の列をなしてゐるうへに、明るい秋の空はかがやかしい青みをたたへ、そこここに取り殘された黄金いろにかがやく葉が搖れたり、囁いたりしてゐた。霜に蔽はれた大地は陽ざしをうけて、濕りをもち、ゆるんで來る。斜めにさしてくる太陽のあけ光線ひかりは蒼白い草に微かにあたる。空には輕く、物の爆ぜるやうなひびきがただよひ、庭の中には仕事をしてゐる人たちの聲が、はつきりと澄んで聞こえる。アヴェニールはすり切れた麻屑織ブハーラ寛服どてらを着てゐた。緑いろの頸卷は、ひどく瘠せ衰へた顏に死人のやうな感じをあたへてゐた。彼は私に會つたことをひどく喜んで、手をさしのべて話し出したが、また咳こむのでのであつた。私は彼を落ちつかせ、その側に坐つた……。アヴェニールの膝の下には、念入りに寫したコリツォフの詩のノートがあつた。彼は微笑みながら、輕くそれを叩いた。「これは、たしかに詩人だ」と、むせび出る咳をやうやく抑へて、ぼんやりいつた。そしてやうやく聽きとれるくらゐの聲で朗讀しはじめた。

   鷹は翼を

   いましめられしか?

   鷹は行く手を悉く

   さへぎられしか?

 私は彼を押しとめた。醫者は人と話をすることを禁じてゐたのである。私はどうしたら彼を喜ばすことが出來るか、よく識つてゐた。ソロコウーモフは、學術といふものに所謂『追從ついしよう』は一度たりともして行かなかつた。しかし世の偉大なる學者たちが、どういふところまで到り着いたかかを知りたがつてゐた。どこかの隅で友達をつかまへると、質問をはじめる。耳を傾け、驚歎し、相手の言葉を信じ、後で鸚鵡がへしにそれ繰り返したりした。彼は獨逸の哲學には非常な興味をもつてゐた。私がヘーゲルの話をはじめると(勿論、これは遠い昔のことである)アヴェニールは頭を縱に振つて、眉を上げて、微笑み、「なるほど、なるほど! ……ああ! すてきだ、すてきだ!……」とささやくのであつた。死にかかつてゐて、宿るべき家もなく、獨りぼつちの哀れな男のいぢらしい好奇心に、私は涙を忍びえぬほど動かされた。言ひ添へて置かなければならないが、アヴェニールは世の肺を病む人々とちがつて、自分の病氣に迷ひはなかつた。しかし、それが何であらう? 彼は歎息も洩らさず、ただの一度りとも自分の境涯について、愚痴がましいことはおくびにも出さなかつた……。

 だんだん元氣を快復して來るにつれて、彼はモスクワのこと、友達のこと、プーシキンのことや劇場のこと、露西亞文學のことを話しだした。彼は昔のささやかな宴會のこと、私たちの仲間の熱烈な論爭のことを思ひ出して、痛惜の色をうかべて、二三の今は亡き友の名な口にした……

 「ダーシャを覺えてるかね?」と遂には附け足した、「あの、可愛い、可愛いひと! あの淸らかな心! どんなにあのひとは僕を愛してくれたらう! 今はどうしてゐるかしら? きつと、瘠せただらう、やつれただらう、可愛さうにね?」

 病人に私は幻滅を感じさせるに忍びなかつた。實際のところ、當のダーシャが横肥りに肥つて、商人のコンダチコフ兄弟と交はり、白粉をつけ、臙脂べにをつけて、金切り聲を出したり惡態をついたりしてゐると、どうして知らせる必要があつたらうか。

 『それにしても』と私は疲憊した彼の顏を見ながら考へた、『ここから彼を連れ出すことは出來ないものかしら? おそらく、彼を癒してやる可能性はまだまだある筈だ……』けれどアヴェニールは私の申し出をいひ終らせはしなかつた。

 「いや、君ありがたう」と彼はいつた、「どこで死ぬのも同じことさ。僕は冬までは生きないんぢやないか……、それだのに、人にわざわざ無駄な心配をかけてどうするのさ? 僕はこの家に住み馴れたんだ。なるほど、ここのお方は……」

 「意地惡なのかい、え?」と私は口を挾んだ。

 「いや、意地惡ぢやないよ、まあ、木偶でくの坊さ。けど、まあ、あの人たちの苦情はいへないよ。近所にもいろんな人がゐて、カサトキンといふ地主には娘があつて、それがなかなか教養がもあるし、親切で、氣立てのいいで……、高ぶつてもゐないし……」

 「僕はもう何も願ふことはない」と彼は一息ついてから言葉を繼いだ、「煙草さへ一服喫まして貰つたら……、なあに、死にはしないよ、僕は一服やる!」と彼は惡鬼に憑かれたかのやうに眼くばせして、附け足した、「やれやれ! もう僕は散々いい目をしたんだ、立派な人とも附合つたし……」

 「ところで、親身の者にくらゐは手紙を出しといたら」と私は口を插んだ。

 「何だつて親類なんぞへ? 何のたよりに――何のたよりになるぢやなし。死んだら、死んだくらゐは分かるだらうよ。けど、そんなこといつたつて始まらない、……まあ、それより外國で見て來たことでも話してくれないかな?」

 私は話し出した。彼はひどく乘り氣になつた。日の暮れぎはに私はそこを立つた。それから十日ほどして、クルビャニコフ氏から私は次のやうな手紙を受け取つた。

 『謹啓、陳者、兼ねて拙者宅に罷り在り候貴殿の御親友たる

 大學生アヴェニール・ソロコウーモフ氏は、一昨々日午後二

 時逝去仕り侯。埋葬の儀は本日、小生の出費にて當教區内の

 教會に於て相營み申し候。別封の書物及び手帖は故人より送

 附依賴ありたるものに御座候。故人の所持金は二十五留五十

 哥有之候へ共、他の遺品と共に當然親類の方に御屆け申すべ

 く候。御友人は臨終の際まで全く意識明瞭にて、敢へて申せ

 ば殆んど平然として、拙者共家族一同にて最後のお別れを申

 せし時にすら、何等心殘りの氣色もなく御逝去なされしに御

 座候。猶ほ愚妻クレオパトラ・アレクサンドロヴナよりも貴

 下へ宜敷と申し候。御友人の御逝去には、勿論、愚妻も痛惜

 いたし居り候。末筆乍ら、拙者は御蔭樣にて恙なく罷り在り

 候間憚りながら御休神なし下され度候。敬具

             辱知 G・クルビャニコフ』

――勿論、総ては殆んど芥川龍之介が事実経験したものであろう。この類似性は、正に「死」という人類共通の普遍の属性が、その秘蹟を見せたものなのかも知れない――

   一

・「小蒸汽」小蒸汽船のこと。芥川にとっては大川に通っていたそれは到って馴染みのものであった。

・「まだ一高の生徒だつた僕」「一高」は旧制の第一高等学校。後の東京大学教養学部の前身に当る。本郷区向ヶ丘弥生町(現在の文京区弥生一丁目)、現在の東京大学構内の東北の外れにある農学部の位置にあった。芥川龍之介は明治四三(一九一〇)年三月に東京府立第三中学校を卒業、八月に成績優秀者として無試験で一高に合格し、九月から第一高等学校文科に入学した。同級生には無二の親友となる恒藤恭や久米正雄、菊池寛などがいた。一年の間は自宅から通っていたが、明治四四(一九一一)年満十九歳の九月、当時一・二年生全寮制であった一高の原則に従い、翌年九月迄の一年間、中寮三番に入った。大正二(一九一三)年四年生の頃には「彼 第二」で描かれるアイルランド人記者トーマス・ジョーンズとも知り合っており、同年七月に一高を卒業(成績は二番で首席は畏友恒藤恭であった)、東京帝国大学英文科に入学した。

・「一倍細い頸を」本底本は『湖南の扇』所収の本作を底本としているが、初出ではここは「水鳥のやうに頸を」となっていると後記にある。

   二

・「本所の第三中學校」当時の本所柳原町、現在の墨田区江東橋一丁目の府立両国高等学校の前身。

・「棟割り長屋」時代劇に良く出て来る貧しい江戸庶民の長屋。一つの建物を屋根の棟の直下で仕切り、更に両側も仕切って背中合わせ・両隣を住居としたものを言う。一般に九尺二間(間口が九尺奥行き二間の意。一間は約一・八メートル、九尺は一間半で凡そ二・七メートルであるから総面積は六畳程、その手のドラマを思い出して頂くと分かるが、あの手の古いタイプだとすれば所謂、土間と竃(へっつい)を除くと、座敷は四畳半程しか残らない狭さである。

・「五郎八茶碗」普通の飯茶碗よりやや大きい(直径一三・五センチメートル程度)粗悪な茶漬け用飯茶碗のこと。命名の由来は江戸初期の肥前国の陶工高原五郎八によって造られたからとも、高原五郎七が作り、五郎八が販売したからとも言う(ウィキの「五郎八茶碗」を参照した)。

・「建仁寺垣」竹製の垣根の一種。三つ又は四つ割りにした竹を垂直に外皮を外に向けて隙間なく立て並べ、端と中間部に丸のままの竹を水平に取り付けて、棕櫚縄で結んだものを言う。命名の由来は建仁寺で初めて用いられたからと言う。

   三

・「ハッシッシュ」麻薬の一種。所謂、大麻・マリファナ(marijuana)のこと。双子葉植物綱イラクサ目アサ科アサ(大麻・大麻草)属 Cannabis の花冠・葉を乾燥させたり樹液を樹脂化させたもの(線維を採取する麻類とは全くの別種)。特に「ハッシッシュ」(=ハッシッシ=ハシシ=ハシシュ)“hashish”と言った場合は、固形化させた大麻樹脂を指す。

・「鴉片」阿片とも書く。麻薬の一種。双子葉植物綱モクレン亜綱ケシ目ケシ科ケシ属ケシ Papaver somniferum(これが真正の「ケシ」であって、我々が園芸種として呼ぶ「ケシ」はケシ属ヒナゲシ Papaver rhoeas である)の未成熟の果実の殻に傷をつけた際に分泌される乳状の液体を乾燥して得られるゴム状の物質。

・「Kと云ふ醫科の生徒」上滝嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)がモデルと思われる。先に示した「學校友だち」の冒頭に挙げられている人物である。岩波版新全集人名解説索引には『一高には芥川と同じ年の1910年、第三部独に試験入学2番で入学』したとある秀才である。

 上滝嵬 これは、小學以來の友だちなり。嵬はタカシと訓ず。細君の名は秋菜。秦豐吉、この夫婦を南畫的夫婦と言ふ。東京の醫科大學を出、今は厦門の何とか病院に在り。人生觀上のリアリストなれども、實生活に處する時には必しもさほどリアリストにあらず。西洋の小説にある醫者に似たり。子供の名を汸と言ふ。上滝のお父さんの命名なりと言へば、一風變りたる名を好むは遺傳的趣味の一つなるべし。書は中々巧みなり。歌も句も素人並みに作る。「新内に下見おろせば燈籠かな」の作あり。

文中の「秦豐吉」(はたとよきち 明治二五(一八九二)年~昭和三一(一九五六)年)は、やはり芥川の友人で同作に『これも高等學校以來の友だちなり。松本幸四郎の甥。東京の法科大學を出、今はベルリンの三菱に在り、善良なる都會的才人。あらゆる僕の友人中、最も女に惚れられるが如し。尤も女に惚れられても、大した損はする男にあらず。永井荷風、ゴンクウル、歌麿等の信者なりしが、この頃はトルストイなどを擔ぎ出すことあり。僕にアストラカンの帽子を呉れる約束あれども、未だに何も送つて呉れず。文を行るに自由なることは文壇の士にも稀なるべし。「ストリントベリイの最後の戀」は二三日に譯了せりと言ふ。』とある人物(「擔ぎ」は「かつぎ」と読み、「行る」は「やる」と読む)で、岩波版新全集人名解説索引には、後に帝国劇場社長となったとあり、翻訳に「西部戦線異常なし」(「異常」はママ)などがある由記載がある。「厦門」は「アモイ」、子の名前「汸」は「みのと」、句の下の句の「燈籠」は「とうろ」と読ませているものと思われる。

・「洲崎」洲崎遊廓のこと。深川洲崎弁天町一丁目及び二丁目(現在の東陽一丁目)にあった。本来は根津遊廓で、これは慶応四(一八六九)年に本郷根津に置かれた遊廓街であったが、東京大学が本郷に出来、また明治一七(一八八四)年、直近に大学南校医科(東京大学医学部の前身)が設置された結果、大学の近所に遊廓はけしからんということで、明治二一(一八八八)年年六月に平井新田の海岸を埋め立てて移転した(吉原遊廓には移転する余地がなかったためという)。私の御用達である「東京紅團」の「洲崎遊廓跡を歩く」によると、『明治42年には、業者160軒、従業婦1700人』(これはまさに本話の直前のデータである)『大正10年には業者277軒、従業婦2112人』という盛況振りが示されている。

・「ゴルデン・バット」明治三九(一九〇六)年九月に販売が開始され現在も製造されている、当時、最低価格の紙巻煙草。両切りで細身の大衆煙草であった。発売当時は十本入で四銭。芥川龍之介自身も愛飲した銘柄である。

・「メンスツラチィオン」“Menstruation”ドイツ語で「生理」「月経」「メンス」の意。

・「岡山の六高」旧制の第六高等学校の略称。明治三三(一九〇〇)年三月に岡山市に設立された。現在の岡山大学法文学部・理学部・教養部の前身。

・「ホモ・エロティッシュ」“homoerotisch”ドイツ語で「同性愛的な」「同性愛傾向を持った」の意。

・「敷島」明治三七(一九〇四)年専売法が実施(煙草・酒の専売制は日露戦争開戦による戦費調達が目的であった)された直後に発売された口付くちつき高級煙草。発売当時は二十本入で十銭。昭和一八(一九四三)年十二月下旬で販売を終了した最も短命な銘柄。発売当初は国産の高級タバコ。「口付」とは紙巻きタバコに「口紙」と呼ばれる、煙草部分の巻紙よりもやや厚い円筒形の空洞の吸い口部分が付けられたもので、吸う際には潰して吸った。私は同時発売で長命だった「朝日」(私が大学時分にも吸った経験がある)の、吸い口の十文字潰しを思い出す。

   四

・「腎臟結核」腎結核。原発病巣(肺結核が多い)から結核菌が血管を経由して腎臓に感染したもので、初期の無症状の皮質炎症から腎臓全体に感染が及んで致命的な腎不全に至る。病変がネフロンの集合管から尿を受ける腎杯じんぱいや腎臓の中央の空洞部である腎盂じんうにまで広がると、膿尿や血尿が現われ、進行するに随い、尿管狭窄による水腎症を原因とする背部痛や、腎結石に起因する激痛が襲う。

・「バクニィン」ロシアの思想家にして哲学者・無政府主義者・革命家であったМихайл Алексáндрович Бакýнинミハイル・バクーニン(Mikhail Alexandrovich Bakunin 一八一四年~一八七六年)。以下、ウィキの「ミハイル・バクーニン」より引用する(記号の一部を変更した)。『ロシア帝国の貴族の家に生まれ、少年~青年期にはロシア軍に仕官したが1835年に退官。その後モスクワで哲学を学び、急進派のサークルと交流を持つ。特にゲルツェンからは多大な影響を受けた。一八四二年にはロシアを発ってドレスデンへ赴き、のちにパリでジョルジュ・サンドやピエール・ジョセフ・プルードン、そしてマルクスと出会っている』。『ロシアのポーランド弾圧に反対し、ついにはフランスを国外追放された。1848年革命ではチェック人の蜂起に加わったため、ドレスデンで逮捕された。ロシアへ移送され、サンクトペテルブルクのペトロパブロフスク要塞に収容された。1857年まで獄中生活を送った後にシベリア流刑となった』が、『1861年に脱走。日本とアメリカを経由してロンドンへ逃れ、ゲルツェンとともに急進派の言論誌『カラコル』(ロシア語で「鐘」の意味)の刊行に一時携わった。1863年にはポーランドの一月蜂起に参加するため出発するが、現地へは到達できずスイスとイタリアにしばらく留まった。犯罪者の立場ではあったが、ロシアやヨーロッパ全土で急進派の若者に大きな影響を与えていった。1870年には、パリ・コミューン誕生の先駆けとなるリヨンの暴動に加わ』ったとある。因みに彼が日本に来た西暦一八六一年は万延二年、明治維新の七年前である。更に『1868年には、急進派と労働者組織の連合であり、ヨーロッパ各地に支部を持つ国際組織第一インターナショナルに加入。のち、自身の支持者とともにジュラ連合を形成した。1872年の大会は、議会選挙への参加を主張するマルクス一派と、それに反対するバクーニンらの衝突に終始した。バクーニン派は議決で敗れ、同大会の終わりには、インター内部で秘密裏に組織活動を行ったとして、バクーニンと支持者の一部が除名された。彼をはじめとするアナキストたちは、大会が公正に運営されていないとして同年スイスのサン・ティミエで独自にインターの会議を開催している。バクーニンはこの他のヨーロッパの社会主義運動においても精力的に活動した。「国家制度とアナーキー」「神と国家」など、後世に多大な影響を与えた著書の多くは1870年から1876年の間に書かれたものである。体の不調を押してボローニャ蜂起に参加しようとしたが、ついには馬車の積荷に紛れてスイスに戻る羽目になり、その後ルガーノに暮らした。ヨーロッパの急進派として活動を続けたが、健康状態が悪化してベルンの病院へ運ばれ、同地で1876年に死去し』ている。西暦一八七六年は明治九年である。『バクーニンはアナキズムの歴史を語る上で重要な人物である。またマルクス主義、とりわけマルクスの主張したプロレタリア独裁に反対したことでも知られている。ノーム・チョムスキーなど、現代のアナキストにも影響を与えている』とある。彼は、ご覧の通りの、真正の巨魁(リンク先はウィキの画像)で、そのモンテ・クリスト伯の如き凄絶にして過酷な人生(引用先に更に詳細な生涯が書かれている。ご覧あれ)を知るに、X同様、その卓抜した知力よりもまず、その驚くべき超人的体力に脱帽するものである。

・「ジァン・クリストフ」“Jean Christophe”「ジャン・クリストフ」は言わずもがな乍ら、Romain Rolland ロマン・ロラン(一八六六年~一九四四年)の書いた長編教養小説。一九〇三年から一九一二年にかけて発表された(本邦の明治三六年から大正二年に相当)もので、彼は本作によって一九一六年にノーベル文学賞を受賞している。以下、ウィキの「ジャン・クリストフ」から引用する。『ベートーヴェンやミケランジェロなどの伝記を書いていた著者が、「あらゆる国の悩み、闘い、それに打ち勝つ自由な魂たち」に捧げて執筆した大河小説の先駆けをなすもので、ドイツ・ライン川中流の小都会に生まれた音楽家クリストフを主人公に、3代にわたる100人を超える人物が登場し、当時の西欧社会を描き出そうとした作品。主人公ジャン・クリストフはベートーヴェンをモデルにしていると言われている』。『ジャン・クリストフはドイツはライン河のほとりに宮廷音楽家の長男として生を受ける。幼少から音楽の才に恵まれ、怠惰な父の手ほどきを受ける。様々な出会いを経験し、時には極貧にあえぎながら、クリストフは作曲家として大成してゆく。クリストフはフランスへ出て作曲家として名をなしていくが、音楽界における党派の横行、音楽家と批評家の裏取引といったものにクリストフは厳しい批判を浴びせる。ロラン自身の、党派性や情実に満ちた社会への批判が籠められている』とある。私は小学校六年生から中一の頃、ひどく長い時間をかけて熱心に読んだはずなのだが……今は何にも、粗筋さえも思い出せぬ……本当になんにも残っていない……「どうもあれは旺盛すぎてね」……私にはこれは……正に今の私の台詞に思えてくるから不思議である……。因みに日本で初めてロマン・ロランに面会したのは、芥川龍之介友人で第4次『新思潮』の同人であった成瀬正一で、大正七(一九一八)年のことであった。

   五

・「彼はかれこれ半年の後、或海岸へ轉地することになつた」新全集の宮坂覺氏編になる年譜によると、平塚の千葉県大原町への転地入院を知るのは大正五(一九一六)年一月二十七日夜のことである(後掲する芥川龍之介の「手帳1」引用を参照)。実際にはその翌日二十八日には早くも千葉の病院に彼を見舞っている。「手帳1」(底本は旧全集に拠る)に次のようにある。

○一月二十八日。平塚を見舞。殆何事もなかつた。Spitzen だが。犬が二匹とも犬ころしにころされたらしい。かはいさうだ。おやじがふさぎきっている。Fを思ふ。

Spitzen」はドイツ語で「シュピッツェン」と発音し、尖ったとか、辛辣な、皮肉なという意味であるが、これはどうも前日の記載(後掲)の「victor の感じが薄いながらあつた」のを受けての「辛辣な、皮肉な」の謂いと思われる。「犬が二匹とも犬ころしにころされたらしい。かはいさうだ。おやぢがふさぎきっている。」は別記事。「おやぢ」は養父芥川道章で、どうも飼っていた犬が野犬扱いされて殺されたものらしい。犬嫌いの芥川にしては、この「かはいさうだ」は異例に見えるが、後日の記事を読むに、どうもこれは犬が「かはいさう」というのではなく、「おやぢがふさぎきっている」のが「かはいさうだ」という意味と思われる。「F」は勿論、後の妻となる塚本文である。

この頃、この平塚逸郎に捧げた短歌「平塚に與ふる歌」九首(「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」参照)をものしている。千葉県大原町(おおはらまち)は千葉県夷隅郡(外房で、後に芥川が避暑に赴く一ノ宮から南へ十キロメートル程南下した位置にある)にあった町(二〇〇五年に夷隅町・岬町と合併、いすみ市となって消滅した)。

・「棕櫚」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus の常緑高木。ここではワジュロ(和棕櫚)Trachycarpus fortunei とトウジュロ(唐棕櫚)Trachycarpus wagnerianus の両方を挙げておく。両者の区別は前者が葉が折れて垂れるのに対して、後者は優位に葉柄が短く、葉が折れず垂れない点である(但し、トウジュロの学名をワジュロのシノニムとする記載もある)。

・「海雀」チドリ目ウミスズメ科ウミスズメ Synthliboramphus antiquus。体長は二十五センチメートルほどで、首が短く体は丸っこい。雌雄同色で頭は黒、首と腹は白、背中と翼は灰黒色をしている。夏羽では後頭部に白い模様が現れる。北日本各地の海上で冬鳥として見られる(以上はウィキの「ウミズズメ」に拠った)。

・「弘法麥」は単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科スゲ属コウボウムギ Carex kobomugi。かなりよく発達した砂浜海岸に植生する代表的海浜植物である。筑摩全集類聚版脚注が「からすむぎ(燕麦)の異名」とするのは誤り。カラスムギはカヤツリグサ目イネ科カラスムギ Avena fatua であり、更に言うとエンバクは野生種であるカラスムギの栽培品種でカラスムギ属エンバク Avena sativa と学名も異なる(但し、通用的に「カラスムギ」=「エンバク」として用いられはする)。]

   六

・「しかしXが死んで見ると、何か君は勝利者らしい心もちも起つて來はしないか?」新全集の注解で三嶋譲氏も指摘しているが、芥川龍之介の旧全集第十二巻所収の「手帳1」に、

○一月二十七日。夜山本から平塚の入院をしらせて來た。その時己の心には victor の感じが薄いながらあつた。人間は同胞の死をよろこぶものらしい。恐しいが事實だ。上滝へ手紙を出した

とあるのを踏まえている。「victor」は英語で戦勝者、勝利者の意。

・「(大正十五・一一・一三)」この文末の日付は初出では「十五・一一・一三・鵠沼」とある、と後記に記す。芥川龍之介は大正一五(一九一六)年七月より齋藤茂吉の勧めなどもあって鵠沼の東屋の貸別荘を借りて移住していた。既に自死を半ば公然と口にし始めていた時期であり、また前月に発表した、実母が狂人であることを告白した自信作「點鬼簿」が徳田秋声の痛烈な批判に合い、精神的にも鬱屈し、痔も再発、不眠症を訴えていた時期の執筆であった。脱稿後の二十一日には手紙で茂吉に阿片エキスの送付を依頼している。