[やぶちゃん注:初出は雑誌『改造』昭和二(1927)年九月号で、後に昭和十一(1936)年五月第一書房刊の「廊下と室房」に所収された。底本は昭和51(1976)年刊筑摩版全集第九巻を用いた。傍点についてのみ変更を加え、注記した。]
芥川龍之介の死 萩原朔太郎
1
七月二十五日、自分は湯ヶ島温泉の落合樓に滯在してゐた。朝飯の膳に向かつた時、女中がさりげない風でたづねた。
「小説家の芥川といふ人を知つてゐますか?」
「うん、知つてる。それがどうした?」
「自殺しました。」
「なに?」
自分は吃驚して問ひかへした。自殺? 芥川龍之介が? あり得べからざることだ。だが不思議に、どこかこの報傳の根柢には、否定し得ない確實性があるやふに思はれた。自分はさらに女中に命じて、念のために新聞を取り寄せさせた。けれども新聞を見る迄もなく、ある本能の異常な直覺が、變事の疑ひ得ないことを斷定させた。
何事か、ある説明のできない不安な焦燥と、恐怖に似た眞靑の感情が、火のやうに自分の全神經を驅けまはつた。彼、つい旅行に出る數日前、あれほど親しく逢つて話した彼が、眞實にも自殺をしたのだ。何たる意外、何たる靑天の霹靂だらう。むしろ自分は、荒唐無稽の夢にうなされてるやうな感じもした。しかし心の隅の一方では、どこかにまたそれが豫期されて居り、或る自覺のない意識の影で、内密のものに觸れたやうな思ひもした。
「やつたな!」
新聞の寫眞を見た時、悲痛に充ちた自分の心は、唇を嚙んで低く呻いた。自分は苦しくなり、恐ろしくもなつてきた。頭腦が急に充血して、何事も考へることができなくなつた。何かしら、これは大變な事件だと思つた。じつとしてゐる場合でないと思つた。そして夢遊病者のやうに立ちあがり、半ば馳足で川上にある旅館をたづねた。その旅館(湯本館)には尾崎士郎君の夫婦が居た。尾崎君は吃驚し、呆然とし、それから異常な感激にうたれて立ちあがつた。最近尾崎君は、私を通じて芥川君の人格につき知る所が多かつたのである。
2
何故に芥川龍之介は自殺したか? 自殺の心原因は何であつたか? 思ふにそこには、いろいろな複雜した事情がある。故人の多數の友人たちは、種々の異つた見解から、夫々の意見を語るだらう。自分について言へば、自分は彼の多數の友人――實に彼は多數の友人と交はつてゐた――の一人であり、しかも交情日尚淺く、相知ることも最もすくない仲であつた。しかもただ、自分が彼について語り得る唯一の權利は、あらゆる他のだれよりも、すべての彼の友人中で、自分が最も新しい、最近の友であつたといふことである。
この「最近の友」といふことに、自分は特に深い意味をもつて言ふのである。何となれば彼の最近の作風には、一の著るしい變化と跳躍とが見られるから。そしてこの心的傾向は、しばしば私と共鳴同感するものを暗示するから。何故に彼が、あの文壇の大家芥川龍之介君が、私如き非才無名の一詩人に對して、格別の意と友情とを――時としては過分の敬意さへも――寄せられたかといふことに、今にして始めて了解出來たのである。
[やぶちゃん注:第一段落末の方の「最近の友」には「○」の傍点があるが、ここでは太字下線とした。]
3
室生犀星君は、最近における故人の最も親しい友であつた。室生君と芥川君の友情は、實に孔子の所謂「君子の交り」に類するもので、互に對手の人格を崇敬し、恭謙と儀禮と、徳の賞讚とを以て結びついてた。けだし室生君の目からみれば、禮節身にそなはり、教養と學識に富む文明紳士の芥川君は、正に人徳の至上觀念を現はす英雄であつたらうし、逆に芥川君から見れば、本性粗野にして禮にならはず、直情直行の自然見たる室生君が、驚嘆すべき英雄として映つたのである。即ちこの二人の友情は、所謂「反性格」によつて結ばれた代表的の例である。
自分と芥川君との交誼は、室生君よりも尚新しく、漸くこの三年以來のことに屬する。自分は芥川君の死因について書く前、この短かい年月の間における、我々の思ひ出深い交情を追想して見たいと思ふ。
4
私が田端に住んでる時、或る日突然、長髮痩軀の人が訪ねて來た。
「僕が芥川です。始めまして。」
さういつて丁寧にお辭儀をされた。自分は前から、室生君と共に氏を訪ねる約束になつてゐたので、この突然の訪問に對し、いささか恐縮して丁寧に禮を返した。しかし一層恐縮したことには、自分が顏をあげた時に、尚依然として訪問者の顏が疊についてゐた。自分はあはててお辭儀のツギ足しをした。そして思つた。自分のやうな書生流儀で、どうもこの人と交際ができるかどうか。自分はいささか不安を感じた。
しかし聰明な訪問者は、直ちに私の不安を見ぬいた。私のおどおどしてまごついてる樣子をみると、彼は直ちに態度をかへ、急にざつくばらんな調子になつて、心おきなく書生流儀で話しかけた。この時以來、自分は芥川君に壓倒された。すくなくとも自分より「上手の人物」から、應接で壓倒されてることを感じ、一種の反抗的な氣分に驅られた。そしてこの卑屈な反抗心は、その後の交際に於てさへも、ずつと最後まで續いてきた。いつも私は彼の前で、故意に負けまいとする肩を張つた。(いかに私が、みじめな愚劣の奴であつたか!)
5
私が彼を訪問した時、私が訴へんとするすべてのことを、彼は前からちやんと知つてた。その頃自分は、思想上や藝術上のことで、ひどく絶望的な惱みを持つてゐた。自分はそれを語らうとした。だが芥川君は聰明にもそれを豫期して居り、私が口を利かない前に、先廻りをして話しかけた。そして彼一流の豐富の話題で、自分の考へてること、惱んでゐることに議論を關連させ、最後に結論として、暗に私を鼓吹し、慰藉し、勇氣と力をあたへるやうに仕向けてくれた。
所がこれがまた私にとつて不滿であつた。なぜなら私は、さうした芥川君の態度について、先輩が後輩に示す所の、教訓や憐憫を感ずるからだ。もし芥川君が、實に自分の同感者であり、同病者であるならば、我々の會話は魂の深い所で、親友としての握手を交換すべきだ。然るに芥川君の態度は、どこか自分を高い所におき、單なる智的聰明さを持以て人を見てゐる。故にその同情は憐憫であり、侮辱にすぎないだらう。
これがまた、いつも自分の反抗心を驅り立てた。彼、年少者の分際として、より年長者の自分に對し無禮であらうといふ意識が、故意にまた彼の前で肩を怒らさした。何よりも私は、彼の「聰明さ」が氣に入らなかつた。彼は單に聰明であり、そして聰明であるにすぎないといふことが、私の芥川君に對する不滿であつた。
ああ! しかしながら今日、いかに私が明盲の鈍物にすぎなかつたことだらう。ずつと後になつてから、私は漸く始めて、少し宛芥川君の眞人物を理解し出したのである。
[やぶちゃん注:「ちやんと」の「ちやん」には「丶」の傍点があるが、ここでは下線とした。]
6
芥川君は、詩に對しても聰明な理解をもつてた。彼は佐藤春夫、室生犀星、北原白秋、千家元麿、高村光太郎、陽夏耿之介、佐藤惣之助等の詩を、たいてい忠實に讀破してゐた。のみならず、堀辰雄、中野重治、萩原恭次郎等、所謂新進詩人の作物にも、一通り廣く目を通してゐた。
彼はよく詩壇を論じ、詩について批評した。そして彼の見識は、殆んど大抵の場合に正鵠だつた。この公平な理解と見識では、詩壇の最も高い純粹鑑賞に劣らなかつた。しばしば芥川君は、私の古い詩について意見を述べ、表現技巧の缺點を指摘された。彼はいつも大膽に私に言つた。「君の詩は未完成の藝術だ」と。そして自分は之れを承認した。なぜならば私の詩は、彼の指摘によつて實際缺點だらけの物に見えたから。
7
或る日の朝、珍らしく早起きして床を片づけてゐる所へ、思ひがけなく芥川君が跳び込んできた。此處で「跳び込む」といふ語を使つたのは、眞にそれが文字通りであつたからだ。實際その朝、彼は疾風のやうに訪ねてきて、いきなり二階の梯子を驅け登つた。いつも、あれほど禮儀正しく、應接の家人と丁寧な挨拶をする芥川君が、この日に限つて取次ぎの案内を待たず、いきなりづかづかと私の書齋に踏み込んできた。
自分はいささか不審に思つた。平常の紳士的な芥川君とは、全で態度がちがつてゐる。それに第一、こんなに早朝から人を訪ねてくるのは、芥川君として異例である。何事が起こつたかと思つた。
「床の中で、今、床の中で君に詩を讀んで來たのだ。」
私の顏を見るとすぐ、挨拶もしない中に芥川君が話しかけた。それから氣がついて言ひわけした。
「いや失敬、僕は寢卷をきてゐるんだ。」
成程、見ると寢卷をきてゐる。それから面喰らつてゐる私に對して、ずんずん次のやうなことを話し出した。この朝、彼はいつもの通り寢床に居て、枕元に積んである郵便物に目を通した。その中に詩話會から送つてくる「日本詩人」といふ詩の雜誌があつた、始めから一通り讀んで行く中に、私の「郷土望景詩」といふ小曲に來た。それは私の故郷の景物を歌つたもので、鬱憤と怨恨にみちた感激調の數篇を寄せたものであつたが、彼がその詩を讀んで行く中に、やみがたい悲痛の感動が湧きあがつてきて、心緒の興奮を押へることができなくなつた。そこで勃然として床を蹴り、一直線に私の所へ飛んで來たのだといふ。さう語つたあとで、顏も洗はず服も換へず、朝寢姿で訪ねたことの非禮を謝罪した。
この感激にみちた話は、私を非常に悦ばした。自分のつまらない作品が、芥川君の如きやかましやの嚴正批評家に對して、それほどの實感的興奮をあたへたといふことは、たしかに非常の重大事でなければならない。私は感激して悦んだ。けれども同時に何かしら腑に落ちない妙な疑問が、別に新しく心の底にきざしてきた。
我々の詩について――新しい詩壇の詩について――芥川君が聰明な理解と見解をもてることは、前述べた如く自分の常に敬服する所である。(文壇で我々の自由詩が解る人は、室生犀星、佐藤春夫の詩人兼小説家を除いて、常に芥川龍之介一人あるのみだつた)概ねの場合に於て、彼の詩の批評は正しかつた。自分はその「批判」に敬服してゐた。けれども彼の批判態度は、常に著るしく客觀的だつた。何より彼は、詩の表現效果について意見を述べた。丁度小説の價値批判が、描寫(表現)の巧拙にかかるやうに、詩についても同じ描寫の效果性(即ち表現技巧)について求めた。即ち彼の批評態度は、純粹に鑑賞的であり、理智的であり、主觀を混じない美學的觀照主義のものであつた。
だから自分は、常に芥川君について考へてゐた。要するに彼は、聰明なる「詩の鑑賞家」である。どれが善き詩であり、それが惡しき詩であるかについて、彼は正しく特別批判する。しかしながらそれだけである。彼自身は詩をもたない。彼自身は詩人でない。故に、すべての詩は、彼にとつて單に「批判されるべきもの」であり、何等「感動さるべきもの」ではない。丁度あの所謂劇通が、劇に對してもつ興味のやうに、單にその藝術を「批判する」のであつて、一般觀客の如く、眞にそれを樂んだり、感激したりするのではない。彼自身は劇の外に居て、劇を客觀的に見てゐるもの、即ち所謂「批評家」にすぎないのだと。そしてこの點から、自分は彼を室生君や佐藤春夫君――その人たちは疑ひもなく詩人である。彼等は詩の鑑賞家であると共に、自分自身が詩を持つてゐる作家である。――と區別した。
かうした私の見解は、その朝の出來事から動搖してきた。實にその心緒に詩を持たない人物が、どうしてそんなにも主觀的に、人の詩によつて感動流涕することがあり得ようか。この日の感激に燃えた芥川君は、平常の鑑賞的な美學者ではなく、そんな批判的の態度を忘れてしまつた所の、眞に「詩に溺れてゐる詩人」であつた。自分は彼の眼の中に、かつて知らない詩人的の情熱を見た。そして或る解決できない疑問が、この不思議な人物について起つて來た。それはずつと後々までも、彼の自殺の直前までも、遂によく解くことのできなかつた、或る恐ろしい意味をもつた「神祕の謎」であつた。
[やぶちゃん注:「やかましや」には「丶」の傍点があるが、ここでは下線とした。]
8
そのこと以來、自分の芥川君に對する見解には、或る新しい動搖と變化が生じて來た。そもそもこの「理智の人」であり、洗練された「禮節の人」である――そして一般に知られてゐる――人物の内臟には、どんな不思議な情熱が火を噴いてるのか。その情熱の炎は、どこか地殼の深い内部で、地獄の硫黄の如く燃えてるやうに思はれた。自分の新しき友に對する興味は、それの祕密な本質を探索すべく、友情の ADVENTURE によつて驅り立てられた。
しかしながら運命が、不幸にもだんだん我々を別離させた。そのこともあつて後、まもなく自分等の家族は田端を去り、鎌倉の方へ移轉してしまつた。そして距離のへだてから、自然に交情が疏くなつてきた。けれども尚、自分は作品を通じて「眞の芥川君」「詩人としての芥川君」を見ようと努めた。自分は月々の雜誌をよんだ。そして、だがその結果は不滿であつた。作品に現はれた芥川龍之介は、依然として冷靜なる「理智の人」であり、常識的判斷に富んだインテリゲンチュアにすぎなかつた。彼は透明な叡智を以て、あらゆる自然の實相を見通してゐた。だが彼の眼鏡は、いつもただ素通しであつた。何物の影も、その觀照を曇らせない。しかしながらただ、彼はそれを「見る」だけである。そして「感ずる」ことをしない。故に彼の觀照が澄めば澄むほど、素通しの硝子における陰影の缺陷が著るしかつた。
當然、私はかくの如き文學に不滿をもつた。文學上における主觀主義者――それ故にまた浪漫主義者――としての私の立場は、芥川君の「あまりに文藝的な」「あまりに觀照的な」態度を好まなかつた。私の言語の意味に於て、「詩」といふことは主觀性を觀念してゐる。だから主觀性のない文學は、私の意味での「詩」ではない上に、自分の藝術上の立場として、對蹠的な地位に敵視するものでなければならぬ。そして芥川君の文學は、正にこの點で自分の敵――しかも最も強力な敵、それへの戰で最大の名譽を感ずるほど、それほど偉大で強力な敵。――として感じられた。特に月々の「文藝春秋」に出すアフォリズム風の文字(侏儒の言葉)は、機智のために機智を弄する弄筆者流の惡皮肉で、憎惡的にさへ不滿を感ぜず居られなかつた。
しかしながら自分は、不思議にまたその反對の好意を常に同じ作者に捧げた。何となれば彼の中には、丁度我々の詩が求めてゐるやうな「新鮮さ」や、特殊な鋭い「敏感さ」やがあり、或る説明できない神經の尖鋭が、溌剌たる言語の中で泳いでゐるのを見るからだ。實に今日の老廢した、あまりにも老朽衰廢した日本の既成文壇で、芥川君の如く「若さに充ちてゐる」作家はない。彼の文學作品ほど、それほど詩人的な若さに充ちてるものが他にあるか。もし「詩」といふ言葉を、かりに「魂の若さ」と考へれば、すくなくとも芥川君は詩人である、(實際に言つて、詩人は精神の永遠的な少年である。この同じことを芥川君自身も言つてる。)
芥川君の文學は、そのあまりに文學的であると共に、またあまりに少年的な、少年的であることに於て著るしい。今日の新しき日本詩壇が、芥川君と同趣相通ずるのも、實にただこの一點にある。そして芥川君以外の既成大家等が、我々の新しい詩と交渉をもたないわけも此處にあるのだ。實に芥川君の文學は、少年客氣の文學だつた。丁度、彼のあの容貌がさうである如く、どこかに子供らしい、元氣の好い、何でも新しいものや舶來のものに憧憬をもつ、鮮新無比の感覺がをどつてゐる。
それ故に芥川君は、私にとつて一面の「敵」でありながら、同時にまた一面の「愛人」だつた。もし私が、私の言語における「詩」といふ定義を換へるならば、彼は疑ひもなく詩人――しかも最も若き時代の詩人――であつた。しかし私は強情だつた。私の中の最も微妙な本能は、頑として彼の詩人でないことを、したがつて彼の作品の不滿であることを主張した。
[やぶちゃん注:「詩人的な若さ」には「○」の傍点があるが、ここでは太字下線とした。次の「9」も同じ。]
9
海に面した鵠沼の東家に、病臥中の芥川君を見舞つたのは、私が鎌倉に居る間のことだつた。ひどい神經衰弱と痔疾のために、骨と皮ばかりになつてる芥川君は、それでも快活に話をした。不思議に私は、その時の話を覺えてゐる。病人は床に起きあがつて、殆んど例外なしに悲慘である所の、多くの天才の末路について物語つた。「もし實に天才であるならば、かれの生涯は必ず悲慘だ。」といふ意味を、悲痛な話材によつて斷定した。それから彼は、一層悲痛な自分自身を打ちあけた。何事も、一切の係累を捨ててしまつて、遠く南米の天地に移住したいと語つた。
さうした芥川君の談話は、異常に悽愴の氣を帶びてゐた。自分は彼の作品について、時にしばしば一種の鬼氣を――支那の言語で、丁度「鬼」といふ字が表象する所の悽愴感を――感じてゐた。實に私は、至る所にこの「鬼」の形相を見た。彼の容貌や風格に、そのユニイクな文字や書體に、そしてとりわけ作品や會話の中に。
丁度、ひどい憂鬱の厭世觀に憑かれてゐた私は、談話のあらゆる本質點に於て彼と一致し、同氣あひ引く誼みを感じた。だが私は、彼の厭世觀の眞原因が、どこにあるかを判然と知り得なかつた。多分その絶望的な病氣と、それに原因する創作力の衰弱がとが、事情の主たるものであると思つた。且つ一つには、例の「人の心を見通す」聰明さから、彼一流の思ひやりで、たまたま私と合槌を打つてるのだとも考へた。實にこの一つの邪推は、彼に對する交際の第一日から、私の胸裏に根強く印象されたものであつた。彼はあらゆる聰明さで、あらゆる人と調子を合せて談話する。だがその客が歸つたあとでは、けろりとして皮肉の舌を出すだろう。そしていかに相手が馬鹿であり、愚劣な興奮に驅られたかを、小説家特有の冷酷さで客觀してゐる。
この考へは、確かに不愉快なものであつた。だが私は、かつて伊香保で知己になつた谷崎潤一郎氏に對しても、やや同樣の邪推なしに居られなかつた。けだし私は、室生犀星以外のいかなる文壇人とも交際がなかつた上、特に小説家については全く未知の世界に屬してゐた。小説家は――あらゆる小説家は――私にとつて「星からの人類」だつた。彼等と交はることは、私にとつてちがつた宇宙への觀察だつた。自分たち詩人の仲間は、すべてが單純な情熱家であり、客觀的な觀照眼を殆んどもたない。詩人は常に醉つて居り、醉ひの主觀境地でのみ話をする。然るに小説家は、常に何事にも對しても客觀的で、冷靜な觀察眼をはなつてゐる。だから小説家と話をする時、自分等の倶樂部と全くちがふ、冷酷にまで氷結された空氣を感ずるのだ。そのちがつた空氣は、意地の惡い觀察の眼をもつて、じろじろと自分の醉態を眺めてゐる。そこに丁度、酒に醉つた者が、醉はない人々の中にゐて、意地惡く狂態を觀察されるやうな、一種不愉快な自覺が生ずる。
芥川君に對する時、いつも自分はさうした不快さ――觀察されるものの不快さ――を、本能の微妙な隅に直感した。それからして自分は、時にしばしば彼を「意地惡き皮肉の人」とも考へた。けれどもこれは、小説家について全く知らない私が、一般の習性ともなつてる小説家的本能(觀察本能)を、たまたま初見の谷崎君や芥川君について邪解したものにすぎなかつたのだ。彼等は決して、そんな意地惡き觀察をしてゐるのでない。ただ態度が、職業的に習性となつてるその小説家的態度が、ある冷酷な――酒に醉はない――觀察本能を、我々ちがつた世界の人間に印象させるにすぎないのだ。
話が餘事それたが、最後に、別れる時、前言の一切を取り消すやうな反語の調子で、彼は印象強く次の言葉を繰返した。
「だが自殺しない厭世論者の言ふことなんか、皆ウソにきまつてゐるよ。」
それから笑つて言つた。
「君も僕も、どうせニセモノの厭世論者さ。」
10
芥川龍之介は、いよいよ私にとつて不可解の謎、むしろ神祕的な人物にさへなつてきた。彼は「思ひやり」と友情に充ちた、愛すべく慕はしき人のやうでもあり、反對に冷酷で意地惡き人のやうにも感じられた。何よりも不可解だつたのは、一面極めて冷靜なる理智の人でありながら、一面狂氣じみた情熱に内燃してゐる人のやうであつた。彼は常識的な人物でありながら、どこかに驚くべき超常的な、アナキスチックの本能感をかくしてゐる。常に彼の作品は、二二が四で割り切れる所の、あまりに常識的な理智的合理物でありながら、しかも言語の或るかくれたる影に於て、ふしぎに神祕的な「鬼」を感じさせる。
何よりも彼の矛盾は、一面に於て「典型的な小説家」でありながら、一面に於て「典型的な詩人」であることだつた。そして小説家といふ語の典型と、詩人といふ語の典型とは、私の辭書に於ては全く矛盾した、兩立できない反極に屬してゐる。彼は果たして詩人だらうか? それとも所謂小説家の範疇だらうか?
自分が芥川君と別れてゐる間、再三この疑問について考へた。そして結局、次のやうなはつきりした斷定に到達した。
芥川龍之介――彼は詩を熱情してゐる小説家である。
その頃、雜誌「改造」の誌上に於て、彼の連載してゐる感想「文藝的な、餘りに文藝的な」を讀むに及んで、この感はいよいよ深くなつて來た。その論文に於て、彼はしきりに「詩」を説いてる。もちろん彼の意味する詩は、形式上の詩――抒情詩や敍事詩の韻文學――でなく、一般文學の本質感たるべき詩、即ち「詩的情操」を指してゐるのだ。私がこの文中でしばしば言つてゐる「詩」の意味も、もちろんこれに同じ。芥川君のあの論文、及び最近における彼の多くの感想をよんだ人は、いかに彼が純粹な詩の憧憬者であり、ただ詩的なものの中にのみ、眞の意味の文學があり得ることを、必死に力説してゐるかを知るだらう。
自分は不讀にして、芥川君の以前の文藝觀を知つてゐない。しかし最近の如く、彼が詩に深い接觸をもち、詩的の實精神に憧憬し、殆んどそれによつて文藝觀の本質に突き入らんとするが如きは、恐らくかつて見なかつた所だらう。自分の憶斷する所によれば、最近の芥川君はたしかに一轉期に臨んでゐた。彼の過去における一切の思想と感情とに、ある根本的の動搖があり、新しき生活の革命に入らうとする、けなげにも悲壯な心境が感じられた。そして實際、この轉囘は多少その作品にも現はれてゐる。たとへばあの憂鬱でニヒリズムが濃い「河童」や、特に最近の悲痛な名作「齒車」やに於て。
けれども自分は、依然として尚芥川君の「詩」に懷疑を抱いてゐた。けだし芥川君は――自分の見る所によれば――實に詩を熱情する所の、典型的な小説家にすぎなかつたから。換言すれば、彼自身は詩人ではなく、しかも詩人にならうとして努力する所の、別の文學者的範疇に屬してゐるのだ。實に詩人といふためには、彼の作品は(その二三のものを除いて)あまりにも客觀的、合理觀的、非情熱的、常識主義的でありすぎる。特にその「文藝春秋」に掲載された「侏儒の言葉」や、私の所謂印象的散文風な短文やを見ると、いかに彼の文學本質が、詩人といふに遙かに別種の氣質に屬するかを感じさせる。しかも芥川君は、自ら稱して「詩人」と呼び、且つ「僕は僕の中の詩人を完成させるために創作する」と主張してゐる。
かうした芥川君の觀念は、たしかに詩の本質で誤謬をもつてる。すくなくとも私の信ずる所は、芥川君と「詩」の見解を別にする。それで私は、いつか適當の機會をみて、このことで芥川君と一論戰をしようと思つた。丁度その頃、雜誌「驢馬」の同人を主とし、室生、芥川の二君を賓とするパイプの會が上野にあつた。私はその機會をねらつた。だが不運にして芥川君は出席されず、歸途に驢馬同人の諸君に向つて、大いに私の論旨を演説した。「詩が、芥川君の藝術にあるとは思はれない。それは時に、最も氣の利いた詩的の表現、詩的構想をもつてゐる。だが無機物である。生命としての靈魂がない。」私はさういふ意味のことを、可成り大膽に公言した。
[やぶちゃん注:「はつきり」には「丶」の傍点が、「詩を熱情してゐる小説家」には「○」の傍点があるが、ここでは前者は下線、後者は太字下線とした。]
11
それから暫らくして、或る夜、突然芥川君が訪ねてきた。その夜、折あしく私の所に多數の人の集會があつた爲、殆んど話をすることもできずにしまつた。その上に芥川君は、小穴隆一君や堀辰雄君等の、大勢の若い人たちと一緒であつた。彼は土産に上等のシャンパン酒を置いて歸つた。(今から考へると、このシャンパン酒は彼の生前の形見だつた。)
しかし芥川君が訪ねてきた時、私の顏を見るとすぐに叫んだ。
「君は僕を詩人でないと言つたさうだね。どういふわけか。その理由をきかうぢやないか?」
語調も劍幕も荒々しかつた。電燈の暗い入口であつたけれども、かう言つて私に詰め寄つた時の芥川君の劍幕は、可成りすさまじいものであつた。たしかにその時、彼の血相は變わつてゐた。かくしきれない怒氣が、その挑戰的な語調に現はれてゐた。
一瞬間! ほんの一瞬間であつたけれども、自分は理由なしに慄然とした。或る刄のやうなものが、ひやりとして胸に突き出された恐怖を感じた。彼の背後には、大勢の若い壯士が立つてた。イザといへば總がかりで、私に摑みかかつてくるのだと思つた。
「復讐だ! 復讐に來やがつた。」實に或る一瞬間、自分はさう思つて觀念した。
[やぶちゃん注:「ひやり」には「丶」の傍点があるが、ここでは下線とした。]
12
數日後、今度は自分の方から芥川君を訪ねて行つた。丁度先客と對談中であつた彼は、ひどく憔悴して見えた。何となく眼に活氣がなく、悲しくやつれてゐるやうに見えた。だが私は例の調子で、相手の氣分におかまいなく、無遠慮にずばずばと放談した。漸く、その中に彼の顏には、平常の明るい活氣が現はれてきた。自分はこの日の印象ほど芥川君の眼における少年らしさ、風貌における書生らしさを見たことがない。實に彼はその病弱の體躯の中に、無限の精力に溢れた「少年客氣の勇」をもつてゐたのだ。
先客が歸つたあとで、彼は再度、前の日の鋭い質問を繰返した。
「君は僕を詩人でないと言つたね。どういふわけだ。も一度説明し給へ。」
だが今日は非常に落ち着いてゐた。聲はむしろ沈痛にさへしづんでゐた。そこで自分は、諄々として前からの考へを披露した。
「要するに君は典型的の小説家だ。」
自分がこの結論を下した時、彼は悲しげに首をふつた。
「君は僕を理解しない。徹底的に理解しない。僕は詩人でありすぎるのだ。小説家の典型なんか少しもないよ。」
それから詩と小説との本質觀の相違について、我々はまた暫らく議論した。そして遂に自分は言つた。自分が、自分の立場としての文學論を進めて行くと、窮極して芥川君は敵の北極圈に立つことになる。文學上の主張に於て、遺憾ながら我々は敵であると。
「敵かね。僕は君の。」
さう言つて彼は淋しげに笑つた。
「反對に」
と彼はさらに言ひつづけた。
「君と僕ぐらゐ、世の中によく似た人間は無いと思つて居るのだ。」
「人物の上で……或は……。でも作品は全くちがふね。」
「ちがふものか。同じだよ。」
「いや。ちがふ。」
我々は言ひ爭つた。しかし終ひに、彼は強情に愛想をつかした。そして怨みがましい聲で言つた。
「僕は君を理解してゐる。それに君は、君は少しも僕を理解しない。否。理解しようとしないのだ。」
その日の彼は、あらゆる點に於て深い悲痛の感をあたへた。聲の調子そのものから、非常に沈痛の響をもつてた。彼はいろいろなことを訴へた。どんなに自分が、アナアキスチックの自由に憧憬してゐるか。本質的な氣質に於ては、むしろ遙かに私(筆者)以上のアナアキストであること。(芥川君は死ぬ少し前、白秋氏の「近代風景」といふ雜誌に私の評論を出してる。その評論で、彼は私を代表的な詩人的アナアキストだと評してゐる。)それから妻子や家庭の一切を捨て、自由な放浪者の羣に入りたいこと。室生犀星君の如く、感情の趣くまま自由な本能的行動をしたいこと。すべてそれらの自由にまで、いかに必死的な感情をもつて過去を一貫したかといふこと。しかも遂に何物も、何物の自由も自分には絶望であつたといふことを、悲しい沈鬱の語氣を以てかき口説いた。
すべてこれらの話をきいてる中に、私は涙ぐましく感傷的になつてきた。そして從來の交際で、未だかつて知らなかつた或る新しい發見が、この天才的な文學者の本質にひあそんでゐることを、朧げながらも自覺して愕然とした。實に芥川君が、それほど眞に詩人的な情熱家であることを、かつて私は氣がつかなかつた。愚劣にも私は、彼の「聰明さ」についてくだらない猜疑をした。彼は私と語るために、故意に話の主題を合せて、その心にもない人生的感傷論をするのだと邪推した。もつと甚だしくは、談話の後で舌を出す皮肉な惡漢――意地の惡い風刺家――とさへ想像した。
いかに腹立たしく、私が飛んでもない間ちがひをしたことだらう。芥川君の如く單純で、純粹で、子供らしく生一本の人間がどこにあるのか。ずつと前から、私がこの人に對して抱いてゐた、或る理由のない漠然たる愛慕の感は、實に彼の人物が有するこの本質點に存してゐたのだ。今思へば、そもそも交情の始めから、彼は何の衒ひも氣取りもなく、純眞生一本の心でもつて、滿腔の熱情を私に向つて打ち明けてたのだ。然るに私の方では、何といふ卑劣な愚かしさだらう。必要もない肩を張つたり、無意味な猜疑の眼を向けたり、馬鹿げた警戒をしたりしてゐた。芥川君の死去の報に接した時、自分はむしろ彼の前に、舌を嚙んで慚死する恥を感じた。
13
その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。
「室生君と僕の關係より、萩原君と僕のとの友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」
この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向かつて次のやうな皮肉を言つた。
「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」
その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。
[やぶちゃん注:「最後の別れ」には「○」の傍点があるが、ここでは太字下線とした。]
14
この會見の後、私は直ちに伊豆の温泉に旅行した。そして或る朝、思ひがけない自殺の報傳に接したのである。萬感胸に充ちて、今尚私は哀悼の言葉を知らない。思ふに故人のあらゆる友人は、だれしもこの感情に於て同じだらう。けれども私の哀悼は、それらの人々の中にあつてまた別である。實に久しい間、私は自分の胸中を打ちあけて語るべき、眞のよき友人を持たなかつた。稀れに芥川君を友に得たことは、自分の物寂しい孤獨の生活の中で、眞に非常な悦びであり力であつた。
何よりも芥川君は、私を本質的によく理解してくれた。そして尚、一切の我がままと偏屈を許してくれた。(自分に友人がいないことは、この偏屈と我まがままのためであつた。折角親しくなりかけても、それですぐに不和になつてしまふ。)この點で芥川君は、常に自分を寛容し、いたはり慰めてくれた。私がどんな生意氣を言ひ、屁理屈をこね、憎々しく突つかかつて行く場合にも、彼は寛大に情意を理解し、決して腹を立てることがなかつた。實に私は、その寛容に對して小癪に感じ、時に彼によつて憐憫される怒りを感じた。しかも結局して、私は彼にいたはられ、甘やかされ、故意に駄々をこねることの悦びにさへ、充分自ら飽滿してゐた。即ちつまり言へば、彼は私の最も「親愛なる友」であつたのだ。いかに、彼なしに私の生活が寂しいかな!
人が百人の友の中から、その一人を失ふことは苦痛が少ない。けれども僅か二人、もしくは三人の友の中から、その一人を失ふことは耐へがたい。自分は彼によつて教へられ、彼によつて慰められ、彼によつてよき藝術の理解者を得た。彼死してどこにまた第二の芥川が有り得るか。どこにまた私の藝術を、私の詩を批評してくれる人があるのか。かくて先天的に孤獨不運な私は、今日よりまたいよいよ孤獨寂寥になつてゆく。宿命よ! 呪ひあれと叫ばざるを得ないのだ。
[やぶちゃん注:「いたはり」及び「いたはられ」には「丶」の傍点があるが、ここでは下線とした。]
15
今こそ、自分は芥川君の自殺について、一つの判然たる推論を下すことができるのだ。もちろん理由は、さまざまの事情にからみついてる。けれども私の信ずる所によれば、彼の自殺における「漠然たる不安」の一つは、近く來らんとする彼自身の心境的革命にまで、名状しがたき不安の困憊を感じたのである。實に芥川君の文學的生涯は、死を賭したる「彼自身の戰ひ」だつた。彼は自由を慾求してゐた。むしろディオニソス的なる、奔放不羈の自由を慾求してゐた。しかもその自由は、悲しいかな彼自身の教養に屬しなかつた。彼自身の教養は、あらゆる點に於て理智的であり、常識的であり、禮節的であり、そして二二が四的透明さだつた。
芥川君の生涯。それは鷲にならうとして沒落したツァラトストラの人間悲劇にたとへられる。彼はその遺書の中で、自ら神にならうと企畫した哲人を諷刺してゐる。しかしながら神にならずして、だれが眞に完全に、自分自身の主人になり得るか。私の藝術は私の中の詩人を完成するためだといふ彼の文藝觀の眞意も、これによつて始めて了解されるのである。實に一方の眼から見れば、彼は超人的な藝術至上主義者だつた。自殺によつて、彼は藝術の完成境――美のツァラトストラ――に達しようとした。けれども一方の眼は、同時に彼が沒落した人間悲劇であることを語つてゐる。いかに人間として、彼は「熱情される自由」のために苦しんだか。藝術は。然り藝術は、彼にとつての催眠劑たるにすぎなかつた。(しかも皮肉なことには、その催眠劑がまた彼を死に導いた。)
16
あらゆる自分の藝術が。あらゆる自分の表現が、芥川君自身にとつて不滿であつた。彼が實に書かうとしたものは、催眠劑としても文藝でなく、もつと生活實感に迫つてくる、眞の意味での「詩」であつたのだ。しかも彼の教養が、理智の透明さが、詩人としての彼の表現を妨げた。彼は自分に叛逆した。彼は憤怒し、
そして一つの超人的勇躍を試みた。「河童」が「西方の人」が「齒車」が、それから最近の多くの作物がさうであり、轉期への黎明的な豫想を見せてゐる。
けれども此處に、彼の著るしい破綻が感じられた。彼の書かうとした熱情は、いつも埋れ火の如く、微光する影の如く、さうでもない他の斷層――氣質的及び教養的斷層――の下に昧積された。彼はしばしば力を感じた。そして實に長い間、見るも無慙な、悲壯な痛ましい戰が續けられた。
何故に芥川は自殺したか? 自分はもはや、これ以上のことを語り得ない。しかしながらただ、一つの明白なる事實を斷定し得る。即ち彼の自殺は、勝利によつての自殺でないといふことである。實に彼は、死によつてその「藝術」を完成し。合せて彼の中の「詩人」を實證した。眞にすべての意味に於て、彼の生涯はストイック――それのみをただニイチェが望んでゐた――であつた。最後の遺書に於てすらも、尚且つ藝術家としての態度を持し、どこにも取り亂した所がなく、安靜なる魂の平和(精神の美學的均齊)を失つてゐない。彼こそは一つの英雄、崇美なる藝術至上主義の英雄である。
17
故人は平常、常に菊池寛氏を以て「私の英雄」と稱してゐた。だが實には、それと全くちがつた意味に於て、芥川君自身が英雄であつた。しかしながらそれは、悲痛な、痛ましい不斷の戰による英雄だつた。生前だれが――どんな彼の親友が――この傷ましい英雄を彼に見たか? 彼は人に理解されず、孤獨な、寂しい墓の中に死んで行つた。しかも自ら毒を服して、嚴然と、精神のストイックな安靜を失はないで。
彼に於て、自分は正にギリシャ人の、ストイック教徒の、ソクラテスの、藝術至上主義の山頂的な哲學を見る。そしてこの哲學から、逆に始めて彼の藝術論(文藝的な、餘りに文藝的な)の戰慄すべき、かくされたる精神を知る。彼はニイチェの英雄であり、藝術至上主義の傷ましい殉教者だ。
そし私が此處まで考へた時、始めてあの鵠沼における悲壯な會話が、言語の隅々まで明らか解つてきた。いかにその時、あらゆる天才の不運について、藝術家の宿命的な孤獨と悲慘について、彼が沈痛な聲で訴へたか。愚かにも自分は、その時の彼の悲哀について、眞の事情を知ることができなかつた。あまつさへ彼が反復した最後の言葉――自殺しない厭世主義者の言ふことなんか、たれが本氣にするものか。――の深い意味さへ、少しも了解することができなかつた。實にその時、既に既に、彼は死を計畫してゐたのである。
[やぶちゃん注:「既に既に」には「丶」の傍点があるが、ここでは下線とした。]
18
見よ! この崇高な山頂に、一つの新しい石碑が建つてる。いくつかの坂を越えて、遠い「時代の旅人」はそこを登るであらう。そして秋の落ちかかる日の光で、人々は石碑の文字を讀むであらう。そこには何が書いてあるか?
見る者は默し、うなづき、そして皆行き去るだらう。時は移り、風雪は空を飛んでる。ああ! だれが文字の腐食を防ぎ得るか、山頂の空氣は希薄であり、鳥は樹木にかなしく鳴いてる。だが新しき季節は來り、氷は解けそめ、再び人々はその麓を通るだらう。その時、ああだれが山頂の墓碑を見るか。多數の認識の眼を超えて、白く、雲の如く、日に輝いてゐる一つ義(ただ)しき存在を。