やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ

鬼火へ

和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  寺島良安

 

書き下し及び注記  copyright 2009-2010  Yabtyan

最終改訂 2010年3月2日 20:38

 

[やぶちゃん注:本ページは私の「和漢三才圖會」水族部電子化プロジェクト完結を経て、第二段階としての「和漢三才圖會」電子化プロジェクトとして2009年9月26日に始動し、2010年3月2日に一応の全体編集を終えた(この全体編集終了は私のブログの210000アクセス記念として行った)。

 「和漢三才圖會」は江戸中期、大坂の医師寺島(てらじま)良安によって、明の王圻(おうき)の撰になる「三才圖會」に倣って編せられた百科事典である。全105巻81冊、約30年の歳月をかけて正徳2(1712年)頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)完成、大坂杏林堂から出版された。

 勿論、私が生きているうちには全てを電子テクスト化し訓読注釈することは不可能であろうと思われる。私は私の興味の対象部分をなるべくコアで電子化したいと考えている。

 底本・凡例・電子化に際しての方針等々については、最初に電子化に着手した「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 寺島良安」の冒頭注の凡例を参照されたい。

 冒頭に示した目録は原典では「卷第三十九」の巻頭に「卷之三十九」に「鼠類」と合わせて掲載されているものであるが、「卷四十」のパートのみを抜き出して示した。

 なお、明治17(1884)年~明治21(1888)年大阪中近堂版では画師が明らかに異なる。水族ではいただけなかったが、この巻の猿はそちらの方が明らかに美的には達者である(但し、多くの図がリアルなニホンザル風のステロタイプ化してしまっている嫌いはあるのだが)。そこで国立国会図書館の近代デジタルライブラリーからPDFファイルで落とした画像を印刷し、それをOCRを用いて取り込み、私の補正を加えて(画像の汚損が激しいため)本文訓読部分の前に配した(なお、以上の私の作業については文化庁の著作権のQ&A等により、保護期間の過ぎた絵画作品の複製と見做され、著作権は認められないと判断するものである)。五書肆連名記版図版と比較して御覧になるのも一興であろう。但し、この大阪中近堂版と五書肆連名記版の図版は構図や対象生物のポーズが全く同じで、恐らく五書肆連名記版を元に別な画師が新たに書き直したものと思われる。

 

■和漢三才圖會 鼠部 目録 ○一

[やぶちゃん注:この頁は2/3が鼠類の目録で柱には「鼠部」としかない。]

 

和漢三才圖會卷第三十九之四十目録

[やぶちゃん注:「卷第三十九」「鼠類」目録は省略。以下は左頁中央から。目録の項目の読みはママ(該当項のルビ以外に下に書かれたものを一字空けで示した。なお本文との表記の異同も認められるが、注記はしていない)。なお、原文では横に3列の罫があり、縦に以下の順番に書かれている。実在する(と思われる)生物の項目名の後には私の同定した和名等を[ ]で表示した。]

 

 卷之四十

  寓類 恠類

[やぶちゃん注:「寓類」(ぐうるい)とは木に住み、また、穴居生活をするものを指し、所謂、サルの類(たぐい)を言う。「類」(かいるい)の「恠」は「怪」の俗字。言わずもがな怪しい化け物の類を言う。]

 

獼猴(さる) ましら           [サル]

 

玃(やまこ)

 

※1(また) むくげざる         [キンシコウ]

[やぶちゃん字注:※1=「犭」+「戎」。]

 

猨(ゑんこう) 獨(おおゑんこう)    [テナガザル]

 

果然(をながさる) 蒙頌(こをながさる) [オナガザル]

 

※2※3(こししろのさる)        [シロテナガザル]

[やぶちゃん字注:※2=「犭」+「斬」。※3=「鼪」-「生」+「胡」。]

 

猩猩(しやう/\)            [オランウータンをモデルとした架空動物]

 

野女(やまうば)

 

狒狒(ひゝ)

 

《改ページ》

■和漢三才圖會 寓類 恠類 目録 ○二

 

山都(みこしにうだう)

 

山※5(さんくはい)

[やぶちゃん字注:※5=「犭」+「軍」。]

 

木客(もつかく)

 

山𤢖(やまわろ)

 

山精(かたあしのやまおに) 山丈(やまをとこ) 山姑(まなうば)

 

魃(ひでりがみ)

 

魍魎(もうりやう)

 

彭侯(こだま)

 

水虎(すいこ)

 

川太郎(かはたらう)

 

[やぶちゃん注:以下、「獸之用」目録は省略。]

 

 

■和漢三才圖會 恠類 卷ノ四十 ○十

 

和漢三才圖會卷第四十

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

 

   寓類 恠類

 

[やぶちゃん注:「攝陽」は摂津(現在の大阪府北西・南西部及び兵庫県東部を含む)の南。良安は大坂高津(こうづ)の出身である。尚順は彼の字(あざな)。「法橋」(ほっきょう)は元々は僧位で、法印・法眼・法橋の順で第三位の称号を指すが、中世以後には僧侶に準じ、医師・絵師・連歌師などに与えられた。良安の事跡は生没年も含め、不明な点が多いが、大坂城の御城入医師として法橋に叙せられたことは分かっている。]

さる

ましら

獼猴

ミイ ヘウ

 

沐猴 爲猴

胡孫 王孫

爲留 狙【音疽】

摩斯咜【梵書】

【和名佐流

 又云末之良】

[やぶちゃん字注:以上六行は前四行の下に入る。]

 

本綱獼猴状似人眼如愁胡而頰陷有嗛【和名保保】嗛者藏食

處也腹無脾以行消食尻無毛而尾短手足如人亦能竪

行聲※1※1如款孕五月而生子生子多浴于澗其性躁動

害物畜之者使坐杙上鞭掊旬月乃馴也性好拭靣〔=面〕如沐

故名沐又厩中畜母猴能辟馬病故名馬留猴候也見人

設食伏機則憑高四望善于候者也【按杙上之杙字當作机乎】

[やぶちゃん字注:※1=「口」+「鬲」。]

《改ページ》

小而尾短者猴也 似猴而多髯者豦也 似猴而大者

玃也 大而尾長赤目者禺也 小而尾長仰鼻者狖也

似狖而大者果然也 似狖而小者蒙頌也 似狖而善

躍越者※2※3也 似猴而長臂者猨也 似猨而金尾者

※4也 似猨而大能食猨猴者獨也

[やぶちゃん字注:※2=「犭」+「斬」。※3=「鼪」-「生」+「胡」。※4=「犭」+「戎」。]

大明一統志云瓜哇國山中多猴不畏人呼以霄霄聲即

出或投以果實則其大猴二先至土人謂之猴王候〔→猴〕夫人

食畢群猴食其餘

      拾玉 山深みかつ/\ぬるゝ袂かな峯の檜原の猿のひとこゑ   慈鎭

         朝またきならの枯葉のそよ/\と外山を出てゝましら鳴也 顯仲

△按和名抄猨獼猴以爲一物其訛傳用猿字爲總名矣

 【猨猿同字】畜之者【紀州岸甚兵衛猿引之始云云】令擕扇及鞭爲舞曲容毎

 食菓豆乃必剥去皮吃之多貯嗛中而時徐食之性與

 犬相嫉又忌觸穢見血則愁惡見念珠此喜生惡死之

 意因爲嘉儀之物弄之相傳猴者山王之神使也

《改ページ》

さる

ましら

獼猴

ミイ ヘウ

 

沐猴 爲猴

胡孫 王孫

爲留 狙【音、疽。】

摩斯咜(ました)【梵書。】

【和名、佐流、又は末之良〔(ましら)〕と云ふ。】

 

「本綱」に、『獼猴は状〔(かた)〕ち、人に似、眼、愁胡のごとくして、頰陷〔(くぼ)みて〕、【和名、保保。】有り。嗛〔(ほほ)〕とは食を藏す處なり。腹、脾無く、行(あり)くを以て食を消す。尻、毛無く、尾、短し。手足、人のごとく、亦能く竪(た)つて行く。聲、※1※1(きやつ/\)款(たゝ)くがごとし。孕みて五月にして子を生む。生れたる子、多く澗〔(たに)〕に浴す。其の性、躁動、物を害す。之を畜〔(か)〕ふ者、杙〔(くひ)〕の上に坐せしめ、鞭にて掊(う)つ。旬月にして乃ち馴(な)るゝなり。性、好んで面〔(かを)〕を拭ふ、沐(あら)ふがごとし。故に沐と名づく。又、厩の中に母猴〔(ははざる)〕を畜(か)へば、能く馬の病を辟〔(さ)〕く。故に馬留と名づく。猴は、候なり。人、食を設〔くる〕ことを見〔ば〕、機を伏し、則ち高きに憑〔(つ)き〕て、四望し、候に善き者なり。按ずるに『杙の上』の『杙』の字は當に「机」に作るべきか。

[やぶちゃん字注:※1=「口」+「鬲」。]

小にして尾短き者はなり。 猴に似て髯多き者は豦〔(きよ)〕なり。 猴に似て大いなる者は玃〔(かく)〕なり。 大にして尾長く赤目なる者は禺〔(ぐ)〕なり。 小にして尾長く仰鼻の者は狖〔(いう)〕なり。 狖に似て大なる者は果然なり。 狖に似て小さき者は蒙頌〔(もうしやう)〕なり。 狖に似て善く躍り越ゆる者は※2※3〔(さんこ)〕なり。 猴に似て長臂なる者は猨〔(ゑん)〕なり。 猨に似て金尾の者は※4〔(じゆう)〕なり。 猨に似て大きく能く猨猴を食ふ者はなり。

[やぶちゃん字注:※2=「犭」+「斬」。※3=「鼪」-「生」+「胡」。※4=「犭」+「戎」。]

「大明一統志」に云く、「瓜哇國(ジヤワこく)山中に猴多く人を畏れず、呼ぶに霄霄の聲を以てすれば、即ち出づ。或は投ずるに果實を以てすれば、則ち其の大猴二つ、先づ至る。土人、之を猴王・猴夫人と謂ふ。食ひ畢はれば、群猴、其の餘りを食ふ。」と。』と。

     「拾玉」 山深みかつ/\ぬるゝ袂かな峯の檜原の猿のひとこゑ     慈鎭

          朝まだきならの枯葉のそよ/\と外山を出でゝましら鳴くなり 顯仲

△按ずるに、「和名抄」に猨と獼猴と以て一物と爲す。其れ訛〔(あやま)〕り傳へて猿の字を用ひて總名と爲す【猨と猿は同字。】。之を畜ふ者【紀州の岸の甚兵衛、猿引の始めと云云。】扇及び鞭を擕(たづさ)へて、舞曲の容(かたち)を爲さしむ。毎〔(つね)〕に菓豆を食ふに乃ち必ず皮を剥き去り、之を吃〔(くらひ)〕て、多く嗛の中に貯へ時(ときどき)徐〔(□□)〕ろと〔→(おもむ)ろに〕之を食ふ。性、犬と相嫉(ねた)む。又、觸穢を忌み、血を見れば則ち愁ふ。念珠を見るを惡〔(にく)〕む。此れ、生を喜びて死を惡むの意、因りて嘉儀の物と爲して之を弄す。相傳ふ、猴は山王の神使なり、と。

 

[やぶちゃん注:獼猴は、音「ビコウ」、「廣漢和辭典」には、「さる。おおざる。沐猴(モツコウ)。母猴。」とある(最後の「母猴」は一見すると、雌雄無関係のサルの別名の如く読めるのであるが、実際には母ザル(成人した雌ザル)の謂いであることが分かった。以下の「馬留」の注を参照されたい)。脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科 Cercopithecidae オナガザル亜科 Cercopithecinaeのマカク属 Macaca。マカク属 Macaca には本邦固有種のニホンザル Macaca fuscata を含む。我々がサルと言ったときのイメージに最も近いものがこのオナガザル科 Cercopithecidae  のサル類で、アジア南部及びアフリカに分布しているため、旧世界ザルとも呼ばれる。後ろの「禺」の注も参照のこと。

 「本綱」「本草綱目」。明の李時珍の薬物書。52巻。1596年頃の刊行。巻頭の巻一及び二は序例(総論)、巻三及び四は百病主治として各病症に合わせた薬を示し、巻五以降が薬物各論で、それぞれの起源に基づいた分類がなされている。収録薬種1892種、図版1109枚、処方11096種にのぼる。以下、多出するので略す。

 「愁胡のごとく」愁いを含んだ胡人のような面立ち。「胡人」とは中国の北方異民族を指す語で、特に中央アジアを源とし、唐代にシルク・ロード周辺域で盛んに活動したペルシャ系民族であるソグド人等をイメージしているか。

 「嗛」この字は音「ケン」で、サルやリス・ネズミ等の獣類が、頬の内側の袋状の部分に食物を一時貯めておくこと、若しくはその袋を指す漢字である。頬袋(ほおぶくろ)のこと。京都大学霊長類研究所の毛利俊雄氏によれば、サル類が頬袋を持つようになったのは、1,2001,300万年前のアフリカでのことという(毛利俊雄「形態学から見たサル」)。

 「腹、脾無く、行くを以て食を消す」ここで言う「脾」とは現代医学でいう脾臓とは異なり、漢方で考えられた飲食物の消化吸収及び新陳代謝を掌ると考えられた、一種の胃腸を含んだエネルギ一代謝をコントロールする想定臓器システムである。それがないから、消化するためにひたすら歩き回って動き回り食物を消化する、と言っているのである。これは以下の、「躁動、物を害す」(極めて五月蠅く動き回り、何かと物を破壊する)といった性質を理由づけているように思われて面白い。

 「※1※1(きやつ/\)」[※1=「口」+「鬲」。]音「カク・キャク」。辞書上は、これは鳥(雉や鶏)の鳴き声を指す(因みに現代中国語では「しゃっくり」の意である)。

 「款(たゝ)く」本字には、案内を求めて門を叩くの意がある。

 「杙」音「ヨク・イキ」で、本来は柘榴の一種を指すが、所謂、牛馬を繋ぐ杭の意も併せ持つ。

 「馬留」ここを読むと真っ先に思い浮かぶのは孫悟空が天界で大暴れをして、宥めるために仕方無しに与えた官職、厩の番人弼馬温(ひっばおん)である(因みにこの悟空はこの官職が大嫌いで、後の「西遊記」でも悟空を馬鹿にする時、相手がこの名を呼ぶ)。荒俣宏氏は「世界大博物図鑑5 哺乳類」の「サル(マカク)」の項で「本草綱目」からの引用として『中国ではサルを馬小屋で飼うと、ウマが病気にかからないといわれた。サルの経血が染みこんだ小屋の敷き草を馬が餌として口にすると体が丈夫になるのだという』と記し、『この習俗は遠くインドに端を発したものらしい。』(読点変更)とする。これは「本草綱目」第51巻の「獼猴」の項の「皮」の小項目で、

(愼微曰治馬疫氣(時珍曰)馬經言馬厩畜母猴辟馬瘟疫逐月有天癸流草上馬食之永无疾病

と述べている部分からの引用である(原文は国会図書館画像から起した)。書き下せば、

【愼微曰く、】馬の疫氣を治す。【時珍曰く、】「馬經」に言ふ、『馬-厩(うまや)に母猴を畜へば馬の瘟疫(をんえき)を辟(さ)く。月を逐ふて天癸(てんき)有りて草上に流れ、馬、之を食へば、永く疾病无(=無)し。』

この「天癸」とは、女性のメンスの血のことである。さすれば、この文脈で「母猴」は、文字通り「母ザル」の謂いで用いられていることが分かる。なお、厩と猿の関係は本邦にも伝来し、厩猿(うまやざる)信仰なるものとして存在した。厩神(うまやがみ)として猿の頭蓋骨や手骨をご神体として祀る習慣である。京都大学霊長類研究所の中村民彦氏の「東北地方の厩猿信仰」をお読みあれ。

 「猴は、候なり。人、食を設くることを見ば、機を伏し、則ち高きに憑きて、四望し、候に善き者なり。」ここは読解がやや難しい。私なりに全訳すると、

「猴」という字は、「候」に由来する。猴は人間が食事の準備を始めるのを見ると、機会を窺って、即座に高い木の上などに登って、食事のセッティングされている場所を中心に注意深く四方を偵察し、人気の無くなる或いは人が油断をする機会を覗(うかが)う=窺う=伺う=候うことに聡き者である。

という意味である。

 「按ずるに『杙の上』の『杙』の字は當に「机」に作るべきか。」これは良安が猿を調教するのに、小さく狭い杭の上というのはおかしい、これは誤字で広い「机の上」であろう、と割注しているのであるが、恐らく良安は猿回しの現場や調教を親しく見たことがなかったのであろう。これは杙=杭で正しい。な但し、「机」には他にツバキ目マタタビ科マタタビ属 Actinidia arguta の意があり、この和名は、ニホンザルがこの果実(コクワ)を好むことからの「猿梨」の謂いであろうが、良安は猿を調教するのに、餌となる「机(さるなし」の木の上に繋いで飼う、という意で用いた可能性もあるか。

 「猴」音「コウ・グ」。猿。ましら。猿猴。獼猴。沐猴。「説文解字」では中の(にんべん)はない。前注通り、「侯」の部分は「候」に通じ、気配を覗って騒ぎ立てるの義(以下は主に「廣漢和辭典」の記載を用いた)。

 「豦」音「キョ・ゴ」。サルの一種。迅頭。「爾雅」の「釈獣」の注に、

今建平山中有豦、大如狗、似獼猴、黄黑色、多髯鬣、好奮迅其頭、能擧石擿人。玃類也。

とある。書き下せば、

今、建平山中に豦有り、大いさ狗(いぬ)のごとく、獼猴に似て、黄黑色、髯鬣(ぜんれふ)多く、好んで其の頭を奮迅し、能く石を擧げて人に擿(なげう)つ。玃の類なり。

で、「髯鬣」とはヒゲとタテガミのことである。これ、はっきりと何かの種に同定出来そうな気もするのだが……。

 「玃」音「キャク・クワク(カク)」。大猿。「貜」や「蠼」も同じ。大きな母ザルの意味もあるようである。字義は「矍」がきょろきょろ見回す、飛び跳ねるの意の他に、人を摑み捕らえるの意があるのは重要である。後掲する「玃」の項を参照。

 「禺」音「グ」。尾長猿。広く尾の長い猿を言う。直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科のオナガザル亜科 Cercopithecinae 及び コロブス亜科 Colobinae に属するオナガザル類。現行のオナガザル亜科 Cercopithecinaeに属する著名種には、中近東周辺に棲息するヒヒ属マントヒヒ Papio hamadryas・本邦固有種であるマカク属ニホンザルMacaca fuscata・中央アフリカに棲息するマンドリルMandrillus sphinx 等がいる。通常は長い尾を特徴とするが、退化している種もある。多くは母系社会で、ヒトと同様に32本の歯を持つ。下顎に首まで広がる大きな頬袋を持っており、捕獲物は一旦頬袋に入れておいて、安全な場所を確保後、徐ろに出して摂餌する習性がある。『手足共に親指が他の指と対向することができる。これはものをつかむほか、毛づくろいなどの社会的行動にも役立っている』。(本注は主にウィキオナガザルを参照した)。

 「狖」音「イウ(ユウ)・ユ」。オナガザル。また、特に、黒い猿。更に「廣漢和辭典」は「くもざる」ともするのであるが、現行の直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目クモザル科 Atelidae が中南米にのみ棲息していることを考えると、適切な表記とは言えない。この「くもざる」というのは単に手足が非常に長い黒色・暗色系の猿を形容したものであろう。因みに、東洋文庫版はこれに「のざる」の訓読注を付すが、「のざる」とは人を馬鹿にしてないかい?

 「果然」おながざる。尾長猿は広く尾の長い猿を言うが、種としてオナガザル類は直鼻猿亜高等猿下狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科のオナガザル亜科 Cercopithecinae 及び コロブス亜科 Colobinae に属するオナガザル類となる。後掲する「果然」の項を参照。

 「蒙頌」南方熊楠の「十二支考」の「猴に関する伝説」の初めの方に「本草綱目」を引いて次のように述べる。面白い記事なので引用する(1984年刊筑摩版選集を用いた)。後掲する「蒙頌」の項を参照。

モンキーは仏語のモンヌ、伊語のモンナなどに小という意を表わすキーを添えたものだそうな。さてモンヌもモンナもアラブ名マイムンに出づという。ソクラテスの顔はサチルス(羊頭鬼)に酷似したと伝うるが、孔子もそれと互角な不男だったらしく、『荀子』に〈仲尼の状(かたち)、面(かお)は倛(き)を蒙(かむ)るがごとし〉、倛は悪魔払いに蒙る仮面というのが古来の解釈だが、旧知の一英人が、『本草綱目』に蒙頌一名蒙貴は尾長猿の小さくて紫黒色のもの、交趾(こうし)で畜うて鼠を捕えしむるに猫に勝(まさ)るとあるを見て蒙倛は蒙貴で英語のモンキーだ。孔子の面が猴のようだったのじゃと吹き澄ましいたが、十六世紀に初めて出たモンキーなる英語を西暦紀元前二五五年蘭陵の令となったという荀子が知るはずなし、得てしてこんな法螺が大流行の世と警告し置く。

この文中の「交趾」は現在のベトナム北部ソンコイ川流域地域を指す。本草綱目該当箇所には「黑身白腰」といった記載も見られ、これも同定可能な一種と思われる。識者の御教授を乞う。

 「※2※3」[※2=「犭」+「斬」。※3=「鼪」-「生」+「胡」。]東洋文庫版は「ざんこ」と振るが、「廣漢和辭典」の表記を採る。腰から上は黒く、腰の周囲に白毛があり、前肢には最も長い白毛がある。「蟖」(音「シ」)と同字。おや? この叙述は前注の本草綱目「蒙頌」後半部と同じではないか? 後掲する「※2※3」の項を参照。

 「長臂」臂(ひじ)が長いこと。

 「猨」音「ヱン(エン)・ヲン(オン)」。「廣漢和辭典」によると、①さる。(ア)てながざる。(イ)おおざる。②=猿、とする。狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属 Hylobates の類。後掲する「猨」の項を参照。

 「※4」[※4=「犭」+「戎」。]音「ジュウ・ニュ」。「廣漢和辭典」によると、むくげざる。猿の一種。毛はやわらかくて長く、皮は敷き物に用い、「猱」と同字、とあるが、現在、ムクゲザルなる種はいない。これは「金尾」から直鼻猿亜目オナガザル科コロブス亜科シシバナザル属キンシコウ hinopithecus roxellana と考えてよいであろう。後掲する「※4」の項を参照。

 「獨」「廣漢和辭典」には、さるくいざる。猿の一種。猿に似て大きく、猿を捕らえて食う。常に独居し、叫び声も一声であることから独と名付ける、とある。サル類の共食いについては、現在、オナガザル亜科マカク属の本邦固有種 Macaca fuscata ニホンザル・同属の Macaca fascicularis カニクイザル・オナガザル科コロブス亜科 ColobinaeSemnopithecus 属 Semnopithecus entellus ハヌマンラングール・真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科チンパンジー亜科チンパンジー Pan troglodytes 及びヒト科ヒト Homo sapiens 等の異常行動として報告されている。後掲する「獨」の項をも参照。

 『「大明一統志」』明代の勅撰地理書。1461年成立。京師・南京・中都・興都の4門に分け、その地誌を記す。

 「瓜哇國」ジャワは現在、大スンダ列島に所属するインドネシアの島であるが、かつては王国であった。

 「霄霄」不詳。東洋文庫版は「宵宵」とし(「霄」は実際に「宵」の意で用いることはある)、「けしかける声」と割注するが、根拠不明。識者の御教授を乞う。

 『「拾玉」』「拾玉集」(しゅうぎょくしゅう)のこと。鎌倉初期の天台座主にして歌人であった名僧慈円(久寿2(1155)年~嘉禄元(1225)年)の家集。六代集の一。

 「山深みかつ/\ぬるゝ袂かな峯の檜原の猿のひとこゑ」

やぶちゃん勝手自在訳:

 山が深いのであっという間にしっぽりと濡れてしまう我が袂――それは独居の寂しさの涙故でもある――はっと気づくと峰々の檜林の断腸の猿の一声が追い討ちをかける……

 「慈鎭」慈円の諡(おく)り名。

 「朝まだきならの枯葉のそよ/\と外山を出でゝましら鳴くなり」

やぶちゃん勝手自在訳:

 早朝、楢の枯葉がそよそよと風に吹かれている中、里山から降りて来て、猿が寂しげに鳴くのが聞えることだ……

本歌は永久(1116 年成立の歌集「永久百首」(「堀河次郎百首」とも)にも所収する。

 「顯仲」源顕仲(みなもとのあきなか 康平元(1058)年又は康平7(1064)年~保延4(1138)年)右大臣顕房の子で、白河院皇后賢子の弟。

 「和名抄」は、正しくは「倭(和とも表記)名類聚鈔(抄とも表記)」で、平安時代中期に源順(したごう)によって編せられた辞書。

 「猨と獼猴と以て一物と爲す。其れ訛〔(あやま)〕り傳へて猿の字を用ひて總名と爲す【猨と猿は同字。】」荒俣宏氏は「世界大博物図鑑5 哺乳類」の「テナガザル」の項で、日本のサル(マカク属)を猿と書くのは誤りであるとし、『マカク属のサルは中国では猴(こう)といい、テナガザルとはちがって、猿回しなどによって広く知られ、ありふれた存在である。つまり中国では、同じサルでも猿は高尚なもの、猴は通俗的なものというようにイメージの面でも対照的に区別される』と書く。ここの注に如何にも相応しい。

 「紀州の岸の甚兵衛、猿引の始めと云云」狙引甚兵衛(さるひきじんべえ)のこと。江戸前期、紀伊海士(あま)郡から出た猿引(猿回し)の棟梁。和歌山藩主の浅野幸長が命じて藩内の猿回しを配下とし、毎年和歌御神事の際には、供奉の列に加わったとされる(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の「狙引甚兵衛」の項を参照した)。「岸」とは単に海岸地方海士郡の地方名を意味するのか、若しくは後に彼らに与えられた苗字(岸甚兵衛)であったか。しかし、藩主じきじきに、失礼ながら猿引集団の組織と特権を与えたのは何故であろう? 「和歌山県立博物館」HP内の、歌山市和歌浦周辺で行われている徳川家康を祭る紀州東照宮の祭礼、和歌祭についての「コラム」記載の、主査学芸員前田正明氏の「3. 東照宮祭礼と猿引」の中に、絵図の分析をする中で『寛文5年(1665)頃には、後方の雑賀踊のすぐ後に、貴志の甚兵衛がいます。この貴志の甚兵衛は、城下近郊に住む専業化した猿引集団ですが、いつごろから和歌祭に参加するようになったかは不明です。』という叙述が現れる。これによって、「岸の甚兵衛」が、この頃には「喜志」という姓として認識されていたことが分かる。ここまでで私はお手上げになる。しかし一方、「岸甚兵衛」でネット検索をかけると、一人の近隣の人物がヒットするのである。それは高知県宿毛市の「宿毛市史」のHP内の、「中世編-戦国古城」の、天正3年、同市にあって落城した「来城」の城主の名である。勿論、この人物自体がよく分からないし、従ってこの和歌山の同姓同名と同一人物である証拠も皆無ではある。だが、同じページを見てみると、同じ年に落城した押ノ川城 (玄蕃城)城主であった押川玄藩なり人物が、後に伊勢の藤堂家へ仕えた、ともある。さすれば来城城主岸甚兵衛なる人物が、和歌山藩に流れていき、その末裔が同じ姓名を名乗って、このような職能集団となったとしても、強ち、おかしなことではないように思われるのである。これはとんでもない私の妄想であろうか? 識者の御教授を乞うものである。

 「菓豆」木の実や豆。

 「吃て」本字には、食べる、飲む、吸うの意がある。本文では一般的な「くらふ」で読んでおいたが、訓読は「のみて」「すひて」でもよいと思う。個人的には頬袋ならば「すひて」と読みたい気もする。

 「猴は山王の神使なり」の「山王」は山王権現のことで、正式には滋賀県大津市坂本にある日吉大社の祭神。猿を神の使者とすることで知られる。信仰の起源は山岳信仰であると推定されるが、後に豊穣神である山の神を祭るようになった。山に住み山の主とも考えられた猿が、この山の神の御使(みつか)いとして習合したものであろう。「日吉」「猿」で秀吉が深く尊崇したことでも知られる。]

 

 

***

やまこ    玃父  ※1玃[やぶちゃん字注:※1=「犭」+「叚」。]

【音却】

      【和名夜麻古】

キヤ

 

本綱玃老猴也似猴而大色蒼黑能人行善攫持人物又

善顧盼純牡無牝善攝人婦女爲偶生子

[やぶちゃん注:「盼」は底本では、「耳」に「兮」を合わせたような文字であるが、意味から「盼」に補正した。]

※2 神異經云西方有獸名※2大如驢状如猴善縁木純

[やぶちゃん字注:※2=「豸」+「周」。]

 牝無牡群居要路執男子合之而孕此亦玃類而牝牡

 相反者

△按飛騨美濃深山中有物如猴而大黑色長毛能立行

 亦善爲人言豫察人意不敢爲害山人呼名黑坊互不

 怖如有人欲殺人則黑坊先知其意疾遁去故不能捕

 之蓋此玃之屬乎不知純牝純牡之是非耳

《改ページ》

やまこ    玃父  ※1玃(かくわく)[やぶちゃん字注:※1=「犭」+「叚」。]

【音、却〔(きやく)〕。】

      【和名、夜麻古。】

キヤ

 

「本綱」に、『玃は老猴なり。猴に似て大きく、色、蒼黑。能く人行〔(じんかう)〕して、善く人・物を攫持〔(かくじ)〕し、又、善く顧盼〔(こへん/こはん)〕す。純牡〔(ぼ)〕にして牝無し。善く人の婦女を攝し、偶を爲して子を生む。』と。

※2〔(しう)〕は、「神異經」に云く、『西方、獸有り。※2と名づく。大いさ、驢のごとく、状ち、猴のごとし。善く木に縁〔(よ)〕る。純牝〔(ひん)〕にして牡無し。要路に群居し、男子を執り、之と合して孕む。此れも亦、玃の類にして牝牡相反する者なり。』と。

[やぶちゃん字注:※2=「豸」+「周」。]

△按ずるに、飛騨美濃の深山の中に物有り、猴のごとくして大きく黑色・長毛。能く立ち行き、亦、善く人言を爲す。豫め人の意を察す。敢へて害を爲さず。山人、呼んで黑(くろん)坊と名づく。互ひに怖ず。如〔(も)〕し、人有りて、人〔=黑坊〕を殺さんと欲すれば、則ち、黑坊、先づ其の意を知りて、疾く遁れ去る故、之れを捕ふること能はず。蓋し此れ、玃の屬か。純牝純牡の是非を知らざるのみ

 

[やぶちゃん注:外形は猿の老成したもののようであるが、性別の偏りなど、実在する類人猿には同定出来ない幻獣である。「キヤ」と中国音を振るが、これは拼音では“jué”(チィュエ)で程遠い音である。なお、日本語の漢字としては「玃」には「キャク・カク」の他に慣用音としての「クヮク(カク)」がある。

 「攫持」つかみ持ち取る。文脈上は人をさらうの意であるが、「攫」の「人をさらう」という意味は国訓であるから採らない。

 「顧盼」振り返り見る。

 「善く人の婦女を攝し、偶を爲して子を生む」は、「しばしば人間の婦女子を誘拐し、交合をなして子を孕ませる、の意。愛読する諸星大二郎の「西遊擁猿伝」では、この玃らしきものに略奪された女が、後に産んだ子を村に預けて去ってゆく。その子が主人公孫悟空という設定であった。

 「※2」[※2=「豸」+「周」。]不詳。「廣漢和辭典」に所収せず。

 『「神異經」』前漢の東方朔(前154~前93)が記し、後に張華(232300)が整理したとされる古代神話伝説集。但し、実際には晉代以降の偽作と考えられている。

 「豫め人の意を察す」ここから、この幻獣は別名「覚(さとり)」とも呼ばれるのである。

 「純牝純牡の是非を知らざるのみ」は、雄のみの哺乳類、雌のみの類人猿なるものが生物学的に存在するかどうかの是非は、分からん(分からんが、私はそういう哺乳類・猿人の類いの存在は疑わしいと思う)という、お馴染み、プラグマティスト良安先生の慎重な一言である。]

 

 

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■和漢三才圖會 恠類 卷ノ四十 ○十一

また     猱【音悩】

むくげざる

【音戎】

        【和名萬太】

ジヨン

[やぶちゃん字注:※=「犭」+「戎」。]

 

本綱※生西戎及山南川峽深山中状大小類猨毛柔長

如絨可以籍可以緝其尾長作金色俗名金線絨輕捷善

縁木甚愛其尾人以藥矢射之中毒即自齧其尾也以其

皮作鞍褥

また     猱【音、悩。】

むくげざる

【音、戎〔(じゆう)〕。】

        【和名、萬太。】

ジヨン

[やぶちゃん字注:※=「犭」+「戎」。]

 

「本綱」に、『※は、西戎及び山南の川峽の深山の中に生す。状ち、大小、に類し、毛柔らかにして長く、絨〔(じゆう)〕のごとく、以て籍(し)〔=敷〕くべし、以て緝(つむ)〔=紡〕ぐべし。其の尾、長く、金色を作す。俗に金線絨と名づく。輕捷〔:身軽。〕にして善く木に縁(よ)り、甚だ其の尾を愛す。人、藥矢を以て之を射る。毒に中〔(あた)〕る時は、即ち自ら其の尾を齧(か)むなり。其の皮を以て鞍褥(くらしき)に作る。』と。

 

[やぶちゃん注:「※」[※=「犭」+「戎」。]は音「ジュウ・ニュ」。「廣漢和辭典」によると、むくげざる。猿の一種で毛はやわらかくて長く、皮は敷き物に用い、「猱」と同字、とあるが、現在、ムクゲザルなる種はいない。これは尾が金色であることや、その他の描写から、直鼻猿亜目オナガザル科コロブス亜科シシバナザル属キンシコウ(金絲猴)hinopithecus roxellana と考えてよいと思われる。以下、ウィキの「キンシコウ」から引用する。『中国西部、チベット』の山間部の森林地帯に生息し、『ゴールデンモンキー、チベットコハナテングザルとも呼ばれる。最も寒冷な地に生息するサルとしても知られ、チベットの標高3000メートルの地に生息し、摂氏-5度という冬の気温に耐えられる』種であるが、現在では『国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストでは「絶滅の危険が増大している種」とされ、「絶滅危惧II類」に分類されている。また中華人民共和国では国家一級重点保護野生動物に指定されて』もいる。『オスの体長70cm程度、尾長70cm程度、メスはオスの半分程度の大きさである。オレンジ色の長い体毛をもつ。青白い顔にはつぶれたような形の特徴的な鼻をもつ』。『1頭のオスと数頭のメスからなる群れを形成する。これをユニットと呼び、数ユニットが集まって、さらに大きな群れをつくることもある』。『妊娠期間は約200日。通常、1子を産む』。食性は果実・種子・木の葉等であるが、『雪深い冬の間は、ヤナギ、クルミなどの木の皮が食糧となる。ウシなどと同様、胃の中に植物繊維を分解する微生物がおり、そうしたエサでも栄養に変えられることが、冬の高山でも生きていける理由だといわれる。また、この微生物が繊維を分解する際、発酵熱といわれる熱を発する。この熱を利用することで氷点下の寒冷地でも体温維持しているという』。『キンシコウの種小名 roxellana はトルコ皇帝の宮廷にいた娼婦ロクセラーヌにちなんで名づけられた。ロクセラーヌは金髪でつぶれた鼻をもち、キンシコウに良く似た顔をしていたとされる』。また、一般に「西遊記」の孫悟空のモデルとも比定されているが、これには批判が多く、ウィキの「孫悟空」によれば、『この説はキンシコウを研究する日本モンキーセンター世界サル類動物園長の小寺重孝が、NHKの動物の生態を紹介するテレビ番組『ウォッチング』で、「美猴王」を名乗った孫悟空のモデルにふさわしい美しいサルであり、もしかしたらこれがモデルなのかもしれないと紹介したところそれが一人歩きしたものである。『アサヒグラフ』1985329日号にて、小寺重孝本人も勘違いと認めているが世間に広まったためひっこみがつかなくなっているという談話が掲載されている。西遊記そのものを研究している中国文学研究者は、作中描写から判断するとマカク属のアカゲザルである可能性が高いとする説を提唱しており、例えばニホンザルと異なり水泳を好むアカゲザルの生態などが巧みに西遊記の中に描写されていることなどを指摘している』。中国文学者中野美代子氏などはキンシコウを「にせ悟空」と呼び、アカゲザル説を支持している。話ついでに孫悟空のモデル論を続けて引用しておくと、『これとはまた別に、インドの有名な叙事詩ラーマーヤナの猿の神として登場するハヌマーンも黄金の肌と真紅の顔面そして長い尾っぽを持つ姿として描かれているところから、ハヌマーンが孫悟空のモデルとする説も唱えられている。ハヌマーンもまた実在のサル、ハヌマンラングールをモデルにしていると言われ、インドのヒンドゥー教寺院ではハヌマンラングールがハヌマーン神の使いとして手厚く扱われ、参詣者から餌などを与えられて闊歩している。ハヌマーンもまた孫悟空と同様に、超常的な神通力を使用し、空を飛んだり、体の大きさを変えたりした。また、場面によって猿軍団を率いる、山を持ち上げるなどの行為を行ったとされる。ラーマーヤナの物語中でヴィシュヌの化身とされるラーマを助けて様々な局面で活躍する猿神の姿は、西遊記において猿妖である孫悟空が三蔵法師を護衛して活躍する姿と相似ている部分も多々見受けられ、西遊記の物語形成過程にラーマーヤナが少なからず影響を与えたことも考えられる。』。ハヌマンラングールはオナガザル科コロブス亜科Semnopithecus Semnopithecus entellusのを指す。また、横浜ズーラシアでの期間限定公開時のプレートによれば、『キンシコウが西洋に初めて紹介されたのは 1870年頃で当時、フランスの宣教師だったダビッド神父が中国から持ち帰った毛皮がきっかけで』、『それまで、紀元前2世紀頃に作られた中国の壷に描かれたキンシコウによく似たサルは想像上の動物だとされてい』たものが、この毛皮の存在によって『実在の動物であることが判明した』ものである。古来、『中国でも限られた高山にしかいなかったキンシコウの』毛皮は、極めて『高貴なものとして珍重され、位の高い物だけが衣装モチーフを施したり、毛皮でできた装飾品を使用することが』許されたという。BOBO氏のブログ“A moment of...”にあるズーラシアで撮影された「さよならキンシコウ」の写真、必見。なおキンシコウは現在、中華人民共和国野生生物保護法によって絶滅危惧動物として国家一級重点保護野生動物に指定されている。

 「猨」音「ヱン(エン)・ヲン(オン)」。「廣漢和辭典」によると、①さる。(ア)てながざる。(イ)おおざる。②=猿、とする。狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属 Hylobates の類。後掲する「猨」の項を参照。。

 「絨」地の厚い毛織物。

 「西戎」古代中国に於いて「東夷西戎南蛮北狄(てき)」の一つ。西方の遊牧異民族を呼ぶ蔑称(必ずしも領土外の異民族に限らず、当該方位の辺境部の少数民族等をも指した)。

 「山南」はチベット名の「ロカ」を漢訳した地域名。現在は中華人民共和国省級民族区域である西蔵自治区を構成する七つの地区(サクル)の一つとして残っている。以下、現在の山南地区について、旅行会社「夢の旅」の以下のページから引用すると、同『自治区の中央部に位置し、チベットの伝統的な地理区分では、この地区の北部に隣接するラサ市を構成する諸ゾン(県)とともにウー地方を構成し、その住人を「ウーパ(dbus pa)」と称する』。『面積8万平方キロ、人口は約29万人。青蔵高原東南部、ヤルンツァンポ河中下流に位置し、西はシガツェ地区、北はラサ市、東北はニャンティ地区と接し、南はインド、ブータンと国境を接する。本地区のツォナ・ゾン(錯那県)、ルンツェ・ゾン(隆子県)の南部は、ニャンティ地区のメトク・ゾン(墨脱県)、ザユル・ゾン(察隅圏)とともにインドとの国境紛争地域となっており、名目上これらの諸ゾンの南部とされる領域で、インドが実効支配するマクマホン・ライン以南の部分に対し、インド政府はアルナーチャル・プラデーシュ州を設けている』。海抜凡そ3,700メートルの高高度山岳地帯である、と記す。]

 

 

***



ゑんこう

【音圓】

ユヱン

 

猿【同字】

【俗用猿猴二

字称之】

[やぶちゃん字注:以上三行は、前に三行の下に入る。]

 

本綱猨産川廣深山中似猴而長大其臂甚長能引氣故

《改ページ》

■和漢三才圖會 恠類 卷ノ四十 ○十二

多壽其臂骨作笛甚清亮其色有青白玄黄緋數種其性

靜而仁慈好食果實其居多在林木能越數丈着地即泄

瀉死惟附子汁飲之可免其行多群其鳴善啼一鳴三聲

凄切入人肝脾

有金絲者黄色玉靣〔=面〕者黑色及身靣倶黑者或云黄是牡

黑是牝牝能嘯牡不能也又云猨初生毛黑而雄老則變

黄潰去勢嚢轉雄爲雌與黑者交而孕數百歳黄又變白

也此説與列子貐變化爲猨莊子獱狙以猨爲雌之言相

合必不妄也

三才圖會云常庭山多白猿状如獼猴而差大臂脚長捷

善攀援樹木其聲哀蓋此猨之老變者矣

△按猨【即猿字】本朝未有之自中華來有畜之耳俗云猨爲

 獵人被疵其疵愈爲贅名平佐羅婆左羅蓋妄也【詳于鮓荅之下】

 

【音瀆】

本綱獨似猨而大猿性群獨性特猿鳴三獨鳴

一而止能食猨猴【或云獨乃黄腰獸也見于虎類】

[やぶちゃん字注:以上二行は、「獨【音瀆】」の下に入る。]

《改ページ》

ゑんこう

【音、圓。】

ユヱン

 

猿【同字。】

【俗に猿猴の二字を用ひて之を称す。】

 

「本綱」に、『猨は、川廣〔(せんくわう)〕の深山の中に産す。猴に似て長大、其の臂、甚だ長くして、能く氣を引く故、多壽なり。其の臂の骨〔にて〕笛を作る〔に〕、甚だ清亮。其の色、青・白・玄・黄・緋の數種有り。其の性、靜にして仁慈なり。好みて果實を食ふ。其の居ること、多く林木に在り。能く數丈を越えて地に着く。即ち泄瀉して死す。惟だ附子〔(ぶし)〕の汁、之を飲めば免かるべし。其の行くこと、多く群がる。其の鳴くこと、善く啼き、一鳴三聲、凄切にして、人の肝脾に入る

金絲の者や、黄色にして玉面の者や、黑色、及び身面倶に黑き者有り。或は云く、黄なるは是れ牡にして、黑は是れ牝なり。牝は能く嘯(うそむ)き、牡は能くせず。又、云く、猨、初めて生るる時は[やぶちゃん字注:「時」は訓点にある。]、毛、黑にして雄なり。老いて則ち黄に變じて勢嚢(へのこ)を潰(つぶ)し去(さ)り、雄を轉じて雌と爲す。黑き者と交(つる)みて孕む。數百歳にして、黄、又、白に變ず。此の説、「列子」に『貐〔(ゆ)〕、變化して猨と爲〔る〕。』〔とあ〕り、「莊子」に『獱狙〔(ひんそ)〕、猨を以て雌と爲(す)る。』と云ふの言、相合ふ。必ずしも妄ならず。』と。

「三才圖會」に云ふ、『常庭山に白猿多し。状ち、獼猴〔(びこう)〕のごとくにして、差〔(やや)〕大きく、臂・脚、長く、捷にして善く樹木を攀〔(よ)ぢ〕援〔(ひ)〕く。其の聲、哀(かな)し。蓋し此れ、猨の老變なる者か。』と。

△按ずるに、猨【即ち猿の字。】は、本朝に未だ之有らず。中華より來り之を畜〔(かふ)〕こと有のみ。俗に云ふ、猨は、獵人の爲めに疵を被ふり〔→むり〕、其の疵、愈ち贅(こぶ)と爲り、平佐羅婆左羅〔(へいさらばさら)〕と名づくと云ふは[やぶちゃん字注:「云」は訓点にある。]、蓋し妄なり鮓荅〔(へいさらばさら)〕の下に詳し。】。

 

【音、瀆。】

「本綱」に、『獨は猨に似て大なり。猿の性は群れる、獨の性は特(ひとり)なり。猿は鳴くこと三たび、獨は鳴くこと一たびにして止む。能く猨猴を食ふ或は云ふ、獨は乃ち黄腰獸なり。虎の類に見とむ。】。』と。

 

[やぶちゃん注:「猨」は現代中国語では“yuán”で、「類人猿」の意である。以下まずは、ウィキの「類人猿」の記載を参照に、類人猿の定義をしておきたい。英語では“ape”で、『ヒトに似た形態を持つ大型と中型の霊長類を指す通称名。ヒトの類縁であり、高度な知能を有し、社会的生活を営んでいる。類人猿は生物学的な分類名称ではないが、便利なので霊長類学などで使われている。一般的には、人類以外のヒト上科に属する種を指すが、分岐分類学を受け入れている生物学者が類人猿(エイプ)と言った場合、ヒトを含める場合がある。ヒトを含める場合、類人猿はヒト上科(ホミノイド)に相当する』。その広義の類人猿含まれる現生動物は“lesser ape”(小型類人猿)と“great ape”(大型類人猿)に大別され、小型類人猿にはサル目真猿亜狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属Hylobatesとフクロテナガザル属Symphalangusを含むテナガザル科Hylobatidae、大型類人猿にはヒト上科オランウータン(ショウジョウ)科ヒト科オランウータン属 Pongo・ヒト科チンパンジー亜科ゴリラ属 Gorilla・チンパンジー亜科チンパンジー属 Pan(コンゴ民主共和国固有種であるチンパンジー属 ボノボPan paniscusを含む)、そしてヒト科ヒト属ヒトHomo sapiens sapiensが含まれることになる。この大型類人猿の内、ゴリラ・チンパンジー・ボノボ・ヒトはアフリカ類人猿、オランウータンはアジア類人猿とと呼称される。アジア類人猿の現生種はオランウータン一属のみだが、絶滅種のヒト上科ヒト科チンパンジー亜科†ギガントピテクス属 Gigantopithecusなども含まれる。『以前の分類では、オランウータン科にはオランウータン属・ゴリラ属・チンパンジー属を含めた。しかし、DNAの進化分析を考慮した新しい分類では、オランウータン科はオランウータンのみとなり、ゴリラ属・チンパンジー属はヒト科に分類される。さらに、オランウータンもヒト科に含める学者もあり、この学説の場合にはオランウータン科は消滅する』とある。以上見てきたように我々は、『ヒトという「自らの所属する種を除いたヒトの類縁種をこのように呼ぶ」という』恣意的で非科学的な区別をここに持ち込んでいるに過ぎず、『類人猿とそれ以外を区別する明確な生物学的根拠は無い』。『生物学的には』この“ape”にはヒトも含めるのが妥当であり、「類人猿」という日本語呼称自体が不適切である、とウィキの記載者は明解な論を展開されており、私には至って共感出来る記載である。私なら少し色気を出してヒトの後ろに、イエティ・野人・サスカッチ・ビッグフット・ヒバゴン等も含む、とやりたい。ウィキ記載者氏はムッとするかも知れないが、寺島氏は肯んじてくれるはずである。

閑話休題。さて本記載の「猨」であるが、形状・生態・分布域からサル目真猿亜狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属Hylobatesに同定してよかろう。現生種は以下の9種である。

Hylobates agilis アジルテナガザル

Hylobates concolor クロテテナガザル

Hylobates hoolock フーロックテナガザル

Hylobates klossii クロステナガザル

Hylobates lar シロテテナガザル

Hylobates moloch ワウワウテナガザル

Hylobates muelleri ミュラーテナガザル

Hylobates pileatus ボウシテナガザル

Hylobates syndactylus フクロテナガザル

インドシナ半島・マレー半島及びスマトラ島とボルネオ島を分布域とし、熱帯雨林の樹上に棲息する。体長は4590㎝。長い腕を用いて“Brachiation 「ブラキエーション」(枝渡り)で移動する。『11妻で、子供を含めた4頭程度の群れを形成している。テナガザルは歌を歌うことで知られている。主にカップルのオスとメスが交互に叫びあいながら、複雑なフレーズを取り混ぜたデュエットを行うのである。種によっても異なるが、歌は2時間程度続けられることもある。この歌は家族間の絆を深めたり、他の群れに対してなわばりを主張したりすることに役立っていると考えられる。この歌い方は、種によってそれぞれ特色があるため、歌を聞き分けることにより、種の判別が可能である』(以上、テナガザルについては、主にウィキの「テナガザル科」を参照した)。テナガザル属は現在、中華人民共和国野生生物保護法によって絶滅危惧動物として国家一級重点保護野生動物に指定されている。

最後に博物誌として、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 5 哺乳類」の「テナガザル」の記載を引用する。『古代中国では、王侯貴族のペットとしてテナガザルに特別な関心が払われた。宋の「埤雅」(ひが)に引用されている「管子」(かんし)形埶(けいせい)篇(前7世紀斉の管仲の作といわれる)によると、テナガザルはたとえ絶壁の下を流れる水でも、崖の上の木の枝から何匹もが鎖のように長い腕を連ねてたやすく飲むことができるという。だが、習性上、テナガザルは一匹で枝からぶらさがり手を水にひたして口に含むことはあるが、集団でこのようなことはしない。しかし「管子」の伝えた話は後世繰り返し用いられ、5世紀宋の詩人謝霊運(しゃれいうん)も「遊名山記」で『猿猱(えんどう)は下りて飲まんとするに百臂(ひゃくひ)を相聯(あいつら)ぬ』と書いている(中野美代子「孫悟空の誕生」)。』『本来猿の字をあてられるべきテナガザルは日本には生息しないため、中国から渡来したときには珍獣として扱われたらしい。「蒹葭堂雑録」は、文化6年(1809)大阪道頓堀で催されたテナガザルの見世物興行を記録し、『実に稀代の観物なり』としている。また『黄なるは是雄にして黒きは是雌なりと、按ずるに当時の猨は面手足とも黒かりし故、正しく雌なりしならん』と観察の細かいところをみせている』とある(引用に際して記号の一部を変更した)。「蒹葭堂雑録」の当該記事を見ると、良安と同様に「本草綱目」を長々と引用して上記のように末尾に述べている。その訓読の癖を見ると、私はこれは「本草綱目」からの引用ではなく、実は「和漢三才図会」のこの項からの孫引きじゃないか? と秘かに思うのである。なお、荒俣氏は、同書末の博物学関係人名で、この「蒹葭堂雑録」を木村蒹葭堂の遺稿集としているが、正確ではない。これは稀代の文人にしてコレクターであった初代木村蒹葭堂孔恭(きむらけんかどうこうきょう)の見聞雑記遺稿に、二代目木村蒹葭堂石居(せききょ)が享和年間以降の自身の見聞雑記を補塡したものである。――何故そんなつまらないことをくだくだしく書くのかって? だって、超有名な初代の木村蒹葭堂は元文元(1736)年の生まれで、享和21802)年に没してるんだもん。文化6(1809)年のテナガザルは、孫悟空がトンボを打ったって、見られないんだよ。

 「猿猴」辞書を引くと、①猿類の総称。古くは特に手長猿を指して呼ぶ語。②河童の異名。③文楽の隠語で、人形の手を言う語(という意味であろう。確かにあのナックルの形態は確かにヒトよりサルに近い。辞書にはただ「人形浄瑠璃で手のこと」としか、どの辞書も書いていない。まさか人形遣いの人間の手ではあるまいな。細かいことだが辞書としてはちゃんと「人形の」と入れてもらいたいもんだ)。④月経の隠語。小学館「大辞泉」にはここに「柳多留」七七から「猿猴へ手を出し亭主ひっかかれ」という川柳を引く。面白いね。さて、②であるが、これはウィキのズバリ「猿猴には、広島県及び中国・四国地方に伝承する未確認生物で、河童の一種とある。以下、同所からの引用。『一般的にいう河童と異なる点は、姿が毛むくじゃらで猿に似ているところ。金属を嫌う性質があり、海又は川に住み、泳いでいる人間を襲い、肛門から手を入れて生き胆を抜き取るとされている。女性に化ける事ができる、という伝承もある』といい、「土佐近世妖怪資料」の記載によれば『3歳ほどの子供のようで、手足は長く爪があり、体はナマズのようにぬめっている』とある。『文久3年(1863年)に土佐国(現・高知県)で生け捕りになったとされる猿猴は、顔は赤く、足は人に似ていたという。手は伸縮自在』で、『ある男が川辺に馬を繋いでいたところ、猿猴が馬の脚を引いて悪戯をするので、懲らしめようと猿猴の腕を捻り上げたが、捻っても捻ってもきりがなく、一晩中捻り続ける羽目になったという』。『また河童に類する四国の妖怪にシバテンがいるが、このシバテンが旧暦6月6日の祇園の日になると川に入って猿猴になるといい、この日には好物のキュウリを川に流す』習慣があり、『山口県萩市大島や阿武郡では河童に類するタキワロという妖怪がおり、これが山に3年、川に3年住んで猿猴になるという』伝承があるとし、広島市南区を流れる猿猴川の名はこの妖怪に由来すると記されている。この記載の内、伸縮自在にして捻っても捻っても捻りきることが出来ないというのは、テナガザルの中国での伝承「通臂猴」と完全に一致する。

 「川廣」四川及び広州地方の総称。

 「能く氣を引く故、多壽なり」しょっちゅう深呼吸に似た呼吸法を行うから、長命である、という意味。長い手からの類感的連想と道家の導引法の類似からであろう。

 「清亮」清らかで明るい。清くほがらか。澄んで美しい。人の性質や音声に対して用いる。

 「仁慈」思いやりがあって情が深いこと。

 「即ち泄瀉して死す」下痢をするとあっけなく死んでしまう。

 「附子」キンポウゲ目ンポウゲ科トリカブト属 Aconitumの塊根を乾したもの。古くから漢方薬及び毒物名として登場する。その場合、一般には生薬名では「ぶし」と呼び、毒物として言う場合は「ぶす」と呼称することが多いので、ここでは「ぶし」と読んでおいた。別名、烏頭(うず)。主な有毒成分はアルカロイドの一種であるAconitineアコニチンで、嘔吐・痙攣・呼吸困難・心臓発作を主症状とする。適量を用いれば強心剤となる。

 

 「一鳴三聲、凄切にして、人の肝脾に入る」「凄切」は身に沁みて淋しいこと。古来、猿声は悲哀断腸の思いを引き起こすアイテムである。著名なところでは、李白の次の詩であろう。

 

 早發白帝城     早(つと)に白帝城を發す

朝辭白帝彩雲間   朝に辭す 白帝彩雲の間

千里江陵一日還   千里の江陵 一日(いちじつ)にして還る

兩岸猿聲啼不住   兩岸の猿聲 啼いて住(や)まざるに

輕舟已過萬重山   輕舟 已に過ぐ萬重(ばんちやう)の山

 

一般に我々はこの詩に老成した作者をイメージする。実際に、承句の江陵(湖北省白帝城から約300㎞下流)へ引き返すという意味から、これは乾元二(759)年59歳の作とするのが現在一般的である。当時、作者が幕僚として仕えていた永王が粛宗に対する謀叛の疑いをかけられて追討・敗死、同時に李白も捕縛されて現在の貴州省北部にあった夜郎へ流罪となった。ところが配流の途上、この白帝城付近で赦免状が下され、急遽、戻ることとなった晴れやかな気持ちを歌ったものとするのが現在の定説である。しかし乍ら、私は高校時代、これを初めて読んだ時の注には李白二十五歳(開元元(726)年)とあったのを記憶している。即ち私はこの詩を、青雲の志を胸に故郷四川省を出て揚子江を下った際の、三峡最上流瞿唐峡を通過した折りのノスタルジアとして読んだのである。配された白帝城は、前漢末の英雄公孫述や覇者劉備玄徳の居城としても知られていた。何より、杜甫をして天馬空を翔ぶが如き奔放さを持っているはずの李白にしては、「白帝」―「彩雲」、「千里」―「一日」、「輕舟」―「萬重」の対語表現の配置は、如何にも技巧に過ぎる気はしないか? いや、これは才気煥発の若さ故とは読めないか? 確かに「千里」以下の三句での三峡の水勢と軽舟のスピード感は、罰を許された軽快なうきうきした感情を美事に表現しているとも言えようが、ならば何故、断腸の「兩岸猿聲」をわざわざ耳に残したのか? それは旧主永王へのせめてものオードともとれるか? 確かに出郷なのに江陵に「還る」というのは変ではあるな――いや――でも、やっぱり私にはノスタルジアだ。そんな思いで訳したい。

 

○やぶちゃん現代語訳

東雲(しののめ)だ 白帝城に照り映える鮮やかな雲に送られて 出てゆこう――

……千里も離れた江陵なのに たった一日で辿りついちまうという……

両岸に屹立する断崖 そこに腸(はらわた)を截ち斬るような猿の声

 それが今も鳴き止むことなく耳に残っているというのに――

一艘の小船は 峨々たる山脈をあっという間に通り過ぎちまった――

 

最後に。サルからヒトに進化させよう。猿声悲哀を人事と合わせてアウフヘーベンした芭蕉を挙げておこう。「野ざらし紀行」である。

 

富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、哀げに泣く有り。此の川の早瀨にかけて浮世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命まつ間と、捨て置きけむ、小萩がもとの秋の風、こよひや散るらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげて通るに、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

 いかにぞや、汝父に惡(にく)まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を惡むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙なきを泣け。

 

○やぶちゃんの発句解釈

 猿声を聴きそれに悲しむ風雅のお人! この眼前――腹から搾り出さんばかりに泣く捨て子――その顔に吹き付けて、その泣き声をも吹き飛ばす無情にして冷たい秋の風――さても、あの猿の鳴き声とこの捨て子の泣き声と――御仁はいずれを哀しと言われるか……

 

 「玉面」は顔が白く美しいことを言うか。丸い顔の意ではあるまいが、しかし、丸くは見えるな。

 「黑色」というのは恐らく「黑色にして玉面の者」の意であろう。そうしないと以下の「身面倶に黑き者」とダブってしまうからである。

 「嘯き」唸る。吠える。鳴く。

 「勢嚢(へのこ)」精嚢でここでは睾丸のこと。陰茎をも指す。「和名類聚抄」に『陰核、篇乃古。』とある。

 『「列子」』戦国時代の列御寇(生没年不詳:B.C.400年前後とされる)及びその弟子が著したとされる道家思想の書。別名「冲虚至徳真経」(ちゅうきょしとくしんきょう)。事実ならば老子の後を継ぎ、荘子に先行する道家の思想家ということになるが、列子の実在は疑われており、本著は晋代の偽作とも言われる。

 「貐、變化して猨と爲る。」これは良安の転記ミスか「本草綱目」の誤記で、原文は「貐」ではなく、更に頭の「老」の字が脱落している(「老」の脱落は「本草綱目」自身のもの)。「列子」の「天瑞第一」四にあるそれは、『老羭之爲猨也』(老羭(ろうゆ)の猨と爲り)である。「老羭」は「年老いた黒い雌羊」のことで、「列子」のこの部分は、斉物論、を説くために、化生する生物を羅列するところである。所謂、物化(下らない区別)にあっては、婆の黒羊がヒトガタの猿になったとしても(老羭というのはサバトの主催者みたようで妙に黒魔術臭いのが面白い)なんら驚きではないのである。

 『「莊子」』戦国時代の荘周及びその弟子が著した道家思想の書。別名「南華真経」。古来、本邦では人名を「そうし」、書名を「そうじ」と読み慣わす。

 「獱狙、猨を以て雌と爲る。」これは訓読が変則的だ。「荘子」の「斉物論」九には『猨猵狙以爲雌』(猨は猵狙を以て雌と爲す)とある。「猵」は「獱」と同字でカワウソの類を指すのであるが、「猵狙」を中文サイトを調べて見ても、神話伝説中の野獣にして猿猴に似る、と記すだけで、引用はこの「荘子」のこの部分である。岩波書店1971年刊の金谷治訳注「荘子」では「猵狙」に「いぬざる」というルビが振られている。これは実在するオナガザル亜科ヒヒ属のマントヒヒPapio hamadryasを現わす和語であるが、分布域から考えてあり得ないと思われる。

 『「三才圖會」』は明代の王圻(おうき)の著になる図解百科事典。万暦351607)年の序をもつ。王圻の子王思義の続集と合本すると106巻に及ぶ。天・地・人の三才(世界・宇宙に存在する万物)を、天文・地理・人物・時令・宮室・器用・身体・衣服・人事・儀制・珍宝・文史・鳥獣・草木の14門に分類して図版を添えて解説する。

 「常庭山」秦漢時代に成立したとされる幻想地誌書「山海経」の「南山経」に記される山。堂庭山とも(これはどちらかが誤字であろう)。白猿が多く棲息するとは「山海経」の記載。架空の山である。

 「獼猴」オナガザル亜科 Cercopithecinaeのマカク属 Macaca。前掲項「獼猴」参照。

 「捷にして」動きが敏捷で。すばしっこく。

 「平佐羅婆左羅〔(へいさらばさら)〕」以下の「鮓荅の下に詳し。」の注を参照。

 「妄なり」誤りである。出鱈目である。

 

 「鮓荅の下に詳し。」以下、「和漢三才圖會」の「卷三十七 畜類」にある「鮓荅」の項のみを画像も含めて電子テクスト化する。

☆☆☆[やぶちゃん注:「卷三十七 畜類 鮓荅」テクスト化開始。]

 

へいさらばさら

へいたらばさら 【二名共蠻語

鮓荅      也】

ツオ タ

 

本綱鮓荅生走獸及牛馬諸畜肝膽之間有肉嚢裹之多

至升許大者如雞子小者如栗如榛其状白色似石非石

似骨非骨打破層疊可以祈雨輟耕録所載鮓荅即此物

也曰蒙古人禱雨惟以淨水一盆浸石子數枚淘漉玩弄

密持咒語良久輙雨石子名鮓荅乃走獸腹中所産獨牛

馬者最妙蓋牛黄狗寶之類也鮓荅【甘鹹平】治驚癇毒瘡

△按自阿蘭陀來有平佐羅婆佐留其形如鳥卵長寸許

 淺褐色潤澤似石非石重可五六錢目研磨之有層層

《改ページ》

 理如卷成者主治痘疹危症解諸毒俗傳云猨爲獵人

 被傷其疵痕成贅肉塊也蓋此惑説也乃爲鮓荅也明

 矣

へいさらばさら

へいたらばさる 【二名共に蠻語なり。】

鮓荅

ツオ タ

 

「本綱」に、『鮓荅は走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有りて之を裹〔(つつ)〕む。多きは升許りに至る。大なる者は雞子〔(けいし)〕のごとく、小なる者は栗のごとく、榛(はしばみ)のごとし。其の状、白色、石に似て石に非ず。骨に似て骨に非ず。打ち破れば層疊す。以て雨を祈るべし。「輟耕録」に載する所の「鮓荅」は、即ち此の物なり。曰く、蒙古(むくり)の人、雨を禱〔(いの)〕るに惟だ淨水一盆を以て石子數枚を浸し、淘漉〔(すすぎこ)〕し、玩弄し、密〔(こまや)か〕に咒語〔(じゆご)〕持〔(じ)〕すれば、良〔(やや)〕久しくして輙〔(すなは)〕ち雨ふる。石子を鮓荅と名づく。乃ち走獸の腹中に産する所〔のものなり〕。獨り牛馬の者、最も妙なり』と。蓋し牛黄狗寶の類なり。鮓荅【甘・鹹にして、平。】は驚癇毒瘡を治す。

△按ずるに、阿蘭陀より來たる平佐羅婆佐留〔(へいさらばさら)〕有り。其の形、鳥-卵(たまご)のごとく、長さ寸許り、淺〔き〕褐(きぐろ)色、潤澤。石に似て石に非ず。重さ五六錢目可(ばか)り。之れを研磨すれば、層層たる理(すぢ)有りて卷き成す者のごとし。痘疹の危症を治すを主〔(つかさど)〕る。諸毒を解す、と。俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕(きづ)、贅(こぶ)と成りて〔→たる〕肉-塊(かたまり)なりと。蓋し、此れ、惑説なり。乃ち、鮓荅たること、明らけし。

 

[「鮓荅」やぶちゃん注:これは各種の記載を総合すると、良安の記すように日本語ではなく、ポルトガル語の“pedra”(石)+“bezoar”(結石)の転であるとする。また、古い時代から一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で“pādzahr”、“pad (expelling) + zahr (poison) ”(毒を駆逐する)を語源とする、という記載も見られる。本文にある通り、牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたとある。別名、馬の玉。鮓答(さとう)とも書いた。やはり良安もこの「鮓荅」の直前にある「狗宝」で述べているが、牛のそれを牛黄・牛の玉、鹿のそれを鹿玉(ろくぎょく/しかのたま)、犬では狗宝(こうほう/いぬのたま)、馬では馬墨(ばぼく)・馬の玉、その他、犀の通天(たま)などと各種獣類の胎内結石を称し、漢方では薬用とする。

それにしても、この「ヘイサラバサラ」「ヘイタラバサル」という発音は「ケサランパサラン」と何だか雰囲気が似ている。私はふわふわ系UMAのイメージしかなかったから偶然かと思ったら、どっこい、これを同一物とする説があった。Nihedon& Mogu という共編と思われるケサランパサラン研究サイト「けさらんぱさらん」「ケサパサ情報館」の『「家畜動物の腸内結石」説』に詳しい。体内異物を説明して、腸結石(糞便内の小石・釘・針金・釦等の異物に無機物が沈着して出来たもので馬の大腸、特に結腸内に見られる)や毛球(牛・羊・山羊等の反芻類が嚥下した被毛あるいは植物繊維より成るもので、第一胃及び第二胃に、稀に豚や犬の胃腸に見られることもある。表面に被毛の見えるものを粗毛球、表面が無機塩類で蔽われ硬く滑かで外部から毛髪の見えないものを平滑毛球という)を挙げ、『この説によると、「動物タイプ」はこのうち粗毛球を指し、「鉱物タイプ」は平滑毛球や腸内結石を指す事になる』とし、『「馬ん玉」や「へいさらぱさら」はまさしく「ケサランパサラン鉱物タイプ」の別名であり、「ケサランパサラン動物タイプ」の別名として「きつねの落とし物」がある』、即ち、きつねが糞と一緒に排泄した粗毛球を言ったものであろう、と考察されている。また、そうした「鉱物タイプ」の「ケサランパサラン」を、まさに本記載同様、雨乞いに用いたケースについて、以下のように記されている。長い引用になるが、本項に対して極めて示唆に富んだ内容であるため、ここに引かさせて戴く(大部分は編者へ寄せられた情報の引用という形で記載されている。漢字や記号・句読点・読み・改行等の一部を補正・省略させてもらった)。

『角川「大字源」で「鮓」という字を調べたところ、別の面白い情報が得られました。

鮓荅 さとう/ヘイサラバサラ

牛馬などの腹中から出た結石。古代,蒙古人が祈雨のために用いた。[本草(綱目)・鮓荅][輟耕録・禱雨]

日本の雨乞いの方法の一つに、牛馬の首を水の神様に供える、或いは水神が棲む滝壷などにそれらを放り込む、という方法があります。これは、不浄なものを嫌う水の神を怒らせることによって、水神=龍が暴れて雨が降るという信仰から来ているようです。以下は(この説を教えてくれた方の)私見ですが、「へいさらばさら」は、その不浄な牛馬の尻から出てくるものですから、神様が怒るのも当然という理屈で用いられたのではないでしょうか。ただし、これは日本における解釈であり、馬と共に暮らす遊牧民族であるモンゴル人が、同じ考えでそれを行ったかどうかは不明です。ちなみに輟耕録は14 世紀の明の書ですから、古代とあるのはその頃の話です。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]※その後、この情報をいただいた方から、「輟耕録」は序文が1366年、モンゴル王朝であった元が12601368年で、文献自体の内容も、元時代の社会・文化に関する随筆集ですから「明の書」の部分は、「元王朝末期の書」とでもして下さい。」という旨のメールをいただきました。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]さらに、「その後の調査で、輟耕録に記載されている雨乞いの方法(盥に水を入れ呪を唱えながら水中で 石を転がす)が『ケサランパサラン日記』[やぶちゃん注:西君枝と言う方が草風社から1980 年に刊行した著作。未見。]のそれと酷似しており、また、このように水の中で転がして原形をとどめていられるのは硬い球形の馬玉タイプであることや、モンゴル語で雨を意味する“jada”という語に漢字を当てたものが「鮓荅」であると考えられることなどから、「へいさらばさら」の雨乞いのルーツは、中国の薬物書である「本草綱目」によって伝えられたモンゴル人の祈雨方法にあり、それに用いられたのは白い球状の鮓荅であると考えた方がよいようです。ついでに言えば「毛球」については、反芻をする動物(ウシやシカなど)に特に多いようですが、毛づくろいの際に飲み込んだ毛でできるため、犬以外のペット小動物、例えばウサギ、猫などでもメジャーな病気のようです。ペットに多いのは、野生の場合、毛が溜らないようにするための草を動物が知っていて、これを時々食べることによって防いでいるためで、ペット用に売られている「猫草」も、毛球症予防に効果があるようです。」と追加説明もいただきました。』[やぶちゃん注:原文ではここで改行、情報提供者への謝辞が入る。]『また、水神=龍から、龍の持つ玉のイメージが想起されることから、雨乞いに用いられたへいさらばさらは、主に白い球状のタイプだったのではないかと推測されます。』[やぶちゃん注:この最後の部分は、情報提供者の追伸と思われる。]

・「肉嚢」肉状の軟質に包まれていることを指す。胆嚢結石とすれば、これは胆嚢自体を指すとも考えられるが、実は馬や鹿等の大型草食類には胆嚢が存在しない種も多い。その場合は胆管結石と理解出来るが、ある種の潰瘍や体内生成された異物及び体外からの侵入物の場合、内臓の損傷リスクから、防御のための抗原抗体反応の一種として、それを何等かの組織によって覆ってしまう現象は必ずしも異例ではないものとも思われる。

・「雞子」鶏卵。

・「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミCorylus heterophylla var. thunbergiiの実。ドングリ様の大きな実のようなものを想定すればよいか。へーゼルナッツはこのハシバミの同属異種である。

・「層疊」同心円上の層状結晶を言うか。

・『「輟耕録」』明代初期の学者陶宗儀(13291410)撰になる随筆集。先行する元代の歴史・法制から書画骨董・民間風俗といった極めて広範な内容を持ち、人肉食の事実記載等、正史では見られない興味深い稗史として見逃せない作品である。

・「蒙古(むくり)」蒙古(もうこ)はモンゴルの中国語による音写で、古く鎌倉時代に「もうこ」のほかに「むくり」「むこ」などと呼称した、その名残りである(因みに、鬼や恐ろしいものの喩えとして泣く子を黙らせるのに使われる「むくりこくり」とは「蒙古高句麗」で蒙古来襲の前後に「蒙古(むくり)高句麗(こくり)の鬼が来る」と言ったことに由来する)。遊牧民であるから、牛馬の結石は見慣れたものであったと思われる。

・「淘漉し、玩弄し」水で何度も洗い濯いでは、水の中で転がし、という意。

・「咒語」まじないの呪文。

・「持すれば」呪文を用いて唱えれば。

・「牛黄」牛の胆嚢や胆管に生ずる胆石で、日本薬局方でも認められている生薬で、解熱・鎮痙・強心効果を持つ。牛1000頭に1頭の割でしか見つからないため、金の同重量の価格の凡そ5倍で取引されている非常に高価な漢方薬である。良安は同じ「卷三十七 畜類」で「牛黄」の項を設けており、そこでは「本草綱目」を引く。時珍はそこで牛黄の効能・採取法・形状・属性・真贋鑑定法を語り、そもそも牛黄は牛の病気であると正しい知見を示している。また牛黄には生黄・角中黄・心黄・肝黄の4種があり、牛黄を持った病態の牛の口に水を張った盆を当てがい、牛を嚇して吐き出せた生黄が最上品であると記す。最後に良安の記載があるが、そこで彼は世間で「牛宝」と呼ぶ外側に毛の生えた玉石様ものであるが、これは「狗寶」(次注参照)と同様、「鮓荅」の類で、牛の病変である牛黄と同類のものであるが、牛黄とは全くの別種である、と述べて贋物として注意を喚起している。この記載から、良安は「牛黄」を「鮓荅」と区別・別格とし、「牛黄」のみを真正の生薬と考えていることがはっきりと分かる。

・「狗寶」良安は「卷三十七 畜類」の「鮓荅」の直前で「狗寶」の項を設け、そこでも「本草綱目」引用しているが、この「本草綱目」の記載が、とんでもなく雑駁散漫な内容で、我々にその「狗寶」なるものの実体や属性・効能を少しも明らかにしてくれない。その引用末尾の『程氏遺書』の引用に至っては、「狗寶」から完全に脱線してしまい、荒唐無稽な石化説話の開陳になってしまっている。良安の附言は、全くない。「本草綱目」の引用のみで附言がない項目は他にもいくらもあるのだが、私にはどうもこの項、しっくりこない。

・「驚癇」漢方で言う癲癇症状のこと。

・「毒瘡」瘡毒と同じか。ならば梅毒のことである。もっと広範な重症の糜爛性皮膚炎を言うのかも知れない。

・「潤澤」ある程度の水気を帯び、光沢があることを言う。

・「五六錢目」「錢」は重量単位。一両の10分の1。時珍の明代では一両が37.3gであるから、18.6522.38g。20g前後。

・「痘疹」天然痘。

・「俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕、贅と成りたる肉塊なりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。」ここの部分、東洋文庫版では、

『世間一般では猿の身体にある鮓荅をさして、これは猿が猟人のために傷つけられ、その傷の痕(あと)が贅肉(こぶ)となったものであるという。しかしこれは間違いで、鮓荅であることは明らかである。』

と訳しているが、これはおかしな訳と言わざるを得ない。ここは、

『俗説に言うには、「猿が猟師に傷つけられ、その傷の痕が瘤となった、その肉の塊が鮓荅である」とする。しかし、これはとんでもない妄説である。以上、見てきたように、鮓荅というものはそのようなものではなく、人及び獣類の体内に生ずるところの結石であることは、最早、明白である』

と言っているのである。

☆☆☆[やぶちゃん注:「卷三十七 畜類 鮓荅」テクスト化終了。]

 「獨」「廣漢和辭典」には、さるくいざる。猿の一種。猿に似て大きく、猿を捕らえて食う。常に独居し、叫び声も一声であることから独と名付ける、とある

 「能く猨猴を食ふ」サル類の共食いについては、現在、マカク属 Macaca には本邦固有種のニホンザル Macaca fuscataニホンザル・マカク属Macaca fascicularisカニクイザル・オナガザル科コロブス亜科Semnopithecus Semnopithecus entellus ハヌマンラングール・真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科チンパンジー亜科チンパンジー Pan troglodytes チンパンジー及びヒト科ヒト Homo sapiens 等の異常行動として報告されている。次注参照。

 「或は云ふ、獨は乃ち黄腰獸なり。虎の類に見とむ。」とは、「ある説によれば、独は黄腰獣という名の獣である。その学説の分類ではこの独を虎の仲間と見做している。」の意。トラなら「能く猨猴を食ふ」は納得。]

 

 

***

をながざる

果然

コウ ジヱン

 

猓※1

禺【音遇】

狖【音又或

  作※2※3】

蜼【音壘或

  作※4】

仙猴

[やぶちゃん字注:※1=「犭」+「然」。※2=「豸」+「穴」。※3=「鼬」-「由」+「穴」。※4=「犭」+「畾」。以上六行は、前三行下に入る。]

 

本綱果然大于猨白靣〔=面〕黑頰多髯其體不過二尺而尾長

于身其末有岐鼻孔向天雨則挂木上以尾岐塞鼻孔其

名自呼其毛長柔細滑白質黑文如蒼鴨脇邊班〔→斑〕毛之状

集之爲裘褥甚温暖也喜群行老者前少者后食相讓居

相愛生相聚死相趣若人捕其一則擧群啼而相赴雖殺

之不去謂之果然以來之可必也仁讓孝慈獸也古者畫

蜼爲宗彛亦取其孝讓而有智也○蜼似猿而字從虫※4

似羊而從鹿鯪鯉似獺而從魚古作字當別有取義也

[やぶちゃん字注:※5=「鹿」(上)+「霝(下)」。]

 

蒙頌

 

一名蒙貴本綱此乃蜼之小者也紫

黑色出交趾畜以捕鼠勝于猫狸

[やぶちゃん字注:以上二行は、「蒙頌」の下に入る。]

《改ページ》

をながざる

果然

コウ ジヱン

 

猓※1〔(くわぜん)〕[やぶちゃん字注:※1=「犭」+「然」。]

禺〔(ぐ)〕【音、遇。】

【音、。或は※2・※3に作る。】[やぶちゃん字注※2=「豸」+「穴」。※3=「鼬」-「由」+「穴」。]

音、壘。或は※4に作る。】[やぶちゃん字注:※4=「犭」+「畾」。]

仙猴

 

「本綱」に、『果然は、猨より大なり。白き面、黑き頰、髯多く、其の體、二尺に過ぎずして、尾、身より長くして、其の末、岐有り。鼻の孔、天に向かふ。雨ふる時[やぶちゃん字注:「時」は送り仮名にある。]、則と木の上に挂〔(か)〕け、尾の岐を以て鼻の孔を塞ぐ。其の名〔を〕自ら呼ぶ。其の毛、長く柔かにして細く滑(なめら)かにして、白き質、黑き文蒼鴨のごとし。脇の邊、斑(まだら)毛の状ち、之を集めて裘〔(かはごろも)〕褥〔(しとね)〕と爲〔すに〕甚だ温暖なり。喜びて群行す。老いたる者は前(さき)、少〔(わか)〕き者は后(のち)、食、相讓り、居、相愛し、生、相聚〔(あつ)〕まり、死、相趣く。若〔(も)〕し、人、其の一(いつ)を捕ふれば、則ち擧-群(みなみな)群がり啼きて相赴く。之を殺すと雖も去らず。之を果然と謂ふは、以て之に來たること、必とすべければなり。仁讓孝慈の獸なり。古(いにし)へ、蜼〔(ゐ)〕を畫き、宗彛(そうい)と爲〔(す)〕るも亦、其の孝讓にして智有るを取るなり。』と。 ○蜼は猿に似て、字、虫に從ふ。※5、羊に似て、鹿に從ふ。鯪鯉〔(りやうり)〕に似て、魚に從ふ。古へ、字を作る〔に〕當に別に義を取ること有るべし。

[やぶちゃん字注:※5=「鹿」(上)+「霝(下)」。]

 

蒙頌〔(もうしやう)〕

 

一名、蒙貴。「本綱」に、『此れ乃ち蜼の小者なり。紫黑色。交趾(かうち)に出づ。畜(か)ひて以て鼠を捕らしむ。猫・狸に勝れり。』と。

 

[やぶちゃん注:尾長猿は広く尾の長い猿を言うが、種としてオナガザル類は直鼻猿亜高等猿下狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科のオナガザル亜科 Cercopithecinae 及び コロブス亜科 Colobinae に属するオナガザル類となる。現行のオナガザル亜科 Cercopithecinaeに属する著名種には、中近東周辺に棲息するヒヒ属マントヒヒ Papio hamadryas・本邦固有種であるマカク属ニホンザルMacaca fuscata・中央アフリカに棲息するマンドリルMandrillus sphinx等がいる。通常は長い尾を特徴とするが、退化している種もある。多くは母系社会で、ヒトと同様に32本の歯を持つ。下顎に首まで広がる大きな頬袋を持っており、捕獲物は一旦頬袋に入れておいて、安全な場所を確保後、徐ろに出して摂餌する習性がある。『手足共に親指が他の指と対向することができる。これはものをつかむほか、毛づくろいなどの社会的行動にも役立っている』。現代中国語では「猴科」と言う(本注は主にウィキの「オナガザル科」を参照した)。オナガザル類で中国に分布するものとして最も知られるものはニホンザルと近縁な中国南部に棲息するオナガザル亜科マカク属のベニガオザルMacaca arctoidesであるが、色と尻尾の形状が合わない。以下、ウィキの「ベニガオザル」から引用すると、体長5070㎝、尾長0.36.9cm、体重5.110.2㎏で、『全身は暗褐色の体毛で覆われる。顔には体毛が無く、赤い皮膚が露出し黒い斑点が入る。老齢個体では斑点が増加し顔が黒一色になることもある。尻にも体毛が無く、暗赤色の皮膚が露出』し、『幼獣は全身が白や淡黄色の体毛で覆われ』ている。山地の森林に棲息、2030頭からなる群れを形成する、とあって、幾つかの点で本件叙述と類似する部分もある。同定はオナガザルの一種と言うに留めておく。

 「猓※1」[※1=「犭」+「然」。]猓然。おながざる。

 「禺【音、遇】」の「禺」は音「グ」で、「遇」の音「グウ」は慣用音であり、実は「遇」は本来、音は「グ」である。現代中国音ではどちらも“”(ユイ)である。

 「狖」の音は「ユ・イウ(ユウ)」、現代中国音で“yòu”。猿。黒い色の猿。おながざる。

 「又」の音は「ウ・イウ(ユウ)」、現代中国音で“yòu”で「狖」と音通。

 「※2・※3」[※2=「豸」+「穴」。※3=「鼬」-「由」+「穴」。]「廣漢和辭典」では前者「※2」は①いたちの類。②おながざる。=狖、とする(音は「イウ(ユウ)・ユ」)が、「※3」の方は鼠の一種とあるのみである(音は「ジョウ・ニュ」)。

 「蜼」音は「ヰ(イ)・ユイ」で、現代中国音では“wèi”。おながざる。

 「音、壘」とするが、「壘」の音は「ルイ」で、現代中国音では“lěi”で異なる。反切の上が落ちたもののように感じられる。

 「※4」[※4=「犭」+「畾」。]「廣漢和辭典」に所収せず、音・意味共に不詳。

 「仙猴」「西遊記」の第一回の漢詩に、主人公を呼んで『天産の仙猴』と言う表現が現れる。

 「木の上に挂け」の「挂」は「掛かる・引っ掛かる」の意。後肢の指をナックして木の枝を摑んでいる様を言うのであろう。

 「其の名を自ら呼ぶ」というのは、啼く際には、その「果然」という自分自身の名を自ら呼ぶ、の意であろう。彼等の鳴き声が「果然」現代中国音ならば“guŏ rán”(クゥオ ラン)と、聴こえるのであろう。

 「白き質、黑き文」とは、毛は、下地が白色で、そこに黒い斑点がある、という意味である。肌が、ではない。あくまで、毛が、が主語である。

 「蒼鴨」はカモ目カモ科マガモ Anas platyrhynchos の♂。狩猟家の間ではその緑色の頭部に因み、アオクビ(青首)と呼ぶ。

 「裘」皮衣。獣類の毛皮で作った衣服。

 「褥」座用・就寝用の敷物。

 「食、相讓り、居、相愛し、生、相聚まり、死、相趣く。」は「共に物を食う際には、互いに食物を譲り合い、共に住む時は、互いに愛し合い、生きている折は、互いに集まり群れを成し、死に臨んでは、互いに潔く死へと赴く。」という、驚異的な博愛主義的性情を言う。

 「之を果然と謂ふは、以て之に來たること、必とすべければなり。仁讓孝慈の獸なり。」は「この猿を『果然』という名付ける所以は、以上述べたように、一匹が来たり捕獲したりすれば、必ずや、その他の同族の猿が一匹残らずそこへやってくる故である。仁愛にして恭謙、孝行にして慈愛に満ち満ちた獣なのである。」の意である。

 「宗彛」「宗彛」とは祖霊を祭る宗廟に必ず備え置く、酒を入れるための祭器。外側に虎と猿が図案化されて彫りこまれる。虎は勇を、猿は智をシンボルする。

 「○……」以下は、良安の附言。通例のように「△」で改行しなかったのは、その内容が「果然」の固有な記載から離れた字義論となっているからか。

 「蜼は猿に似て、字、虫に從ふ。」は「蜼(果然)は猿に似ているのに、その字は「むしへん」に拠る。」の意。

 「※5」[※5=「鹿」(上)+「霝(下)」。]東洋文庫では「そ」とルビを振るが、誤り。音は「レイ・リヤウ(リョウ)」で、ウシ目ウシ亜目ウシ科ヤギ亜科 Caprinae カモシカ類若しくはウシ目ウシ亜目ウシ科 Bovidae に属するレイヨウ(羚羊=Antelope:アンテロープ)類を指す。

 「鯪鯉」脊椎動物亜門哺乳綱センザンコウ目センザンコウ科Manidae センザンコウ属Manis。私の電子テクスト「和漢三才圖會 龍蛇部 四十五」の「鯪鯉」の項を参照されたい。そこではミミセンザンコウ Manis pentadactyla を同定候補に挙げた。

 「獺」ネコ(食肉)目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra whiteleyi1978年以降、生体死体の目撃例はなく、最早、絶滅種と考えられる。

 「字を作るに當に別に義を取ること有るべし。」は、「昔、ある対象を示す一つの漢字を創生するに際しては、きっと現在の我々とは異なった別な部分に着目してその字義を構成したのであろう。」という意である。

「蒙頌」「獼猴」の項で記載したが、ここが正式な項目なので、以下を再掲する。南方熊楠の「十二支考」の「猴に関する伝説」の初めの方に「本草綱目」を引いて次のように述べる。面白い記事なので引用する(1984年刊筑摩版選集を用いた)。

モンキーは仏語のモンヌ、伊語のモンナなどに小という意を表わすキーを添えたものだそうな。さてモンヌもモンナもアラブ名マイムンに出づという。ソクラテスの顔はサチルス(羊頭鬼)に酷似したと伝うるが、孔子もそれと互角な不男だったらしく、『荀子』に〈仲尼の状(かたち)、面(かお)は倛(き)を蒙(かむ)るがごとし〉、倛は悪魔払いに蒙る仮面というのが古来の解釈だが、旧知の一英人が、『本草綱目』に蒙頌一名蒙貴は尾長猿の小さくて紫黒色のもの、交趾(こうし)で畜うて鼠を捕えしむるに猫に勝(まさ)るとあるを見て蒙倛は蒙貴で英語のモンキーだ。孔子の面が猴のようだったのじゃと吹き澄ましいたが、十六世紀に初めて出たモンキーなる英語を西暦紀元前二五五年蘭陵の令となったという荀子が知るはずなし、得てしてこんな法螺が大流行の世と警告し置く。

「本草綱目」の該当箇所には「黑身白腰」といった記載も見られ、これも同定可能な一種と思われる。識者の御教授を乞う。

 「交趾」読みは「こうし」「こうち」を両用する。交趾郡。前漢から唐にかけて置かれた古い郡名。現在のベトナム北部ソンコイ川流域地方にあったが、後にここが中国から独立した後も、この地域をこう呼称した。]

 

 

***

■和漢三才圖會 恠類 卷ノ四十 ○十三

ざんこ   ※1※2

※3猢

ツヱン フウ

[やぶちゃん字注:※1=「鼬」-「由」+「斬」。※2=「鼬」-「由」+「胡」。※3=「犭」+「斬」。]

 

※3猢此乃猨蜼之屬黑身白腰如帶手有長白毛似握版

之状甚捷在樹上騰躍如飛鳥也

 

ざんこ   ※1※2

※3猢

ツヱン フウ

[やぶちゃん字注:※1=「鼬」-「由」+「斬」。※2=「鼬」-「由」+「胡」。※3=「犭」+「斬」。]

 

※3猢は、此れ乃ち・蜼の屬。黑き身、白き腰、帶のごとし。手に長白毛有り、握版の状に似る。甚だ捷(はや)く、樹の上に在〔りて〕騰躍(とうやく)して飛鳥のごとし。

 

[やぶちゃん注:「廣漢和辭典」の「※3」[※3=「犭」+「斬」。]の字の項に「※3猢」とあり、猿の一種とあるのみ。同書の各種引用も本記載以上の新知見を示していない。独特の毛色を示しているのであるが、同定記載を見ない。私は、添えられた画像とその記述との一致性からヒト上科テナガザル科テナガザル属シロテテナガザルHylobates larを同定候補とする。以下、ウィキの「シロテナガザル」を参照に検証すると、分布域は中国南西部・インドネシア(スマトラ島北西部)・カンボジア・タイ・ベトナム・マレーシア(マレー半島)・ミャンマー東部でクリアー出来る。特徴的な体毛についても、『本種の体毛は、部位により黒に近い暗褐色から淡褐色まで多岐に渡る。これは亜種や地域には関係なく個体変異の範疇である。黒い顔の周りを白色の毛が輪のように覆っている。四肢の先端部も白色であることが和名の由来』であるとあり、本記載のような腰部の帯状白毛があってもおかしくない。また、「手に長白毛有り」ありは、黒色の身体の四肢の先端の白毛は当然目立って、「長く」見える。叙述として一致する。更に『体色、体サイズに性差はほとんど見られない。他のテナガザルと同様、長い腕を持ち、尾はない』とあり、その生態は、『昼行性、樹上性で、熱帯雨林に生息している。地上に降りることは滅多になく、長い腕を使い樹から樹へ腕わたり(ブラキエーション)をする。鈎型の手で振り子のようにはずみをつけ、勢いよく枝から枝へ移動する。一夫一婦のつがいを形成し、このペア関係は生涯持続する。家族集団は固定した縄張りを持ち、ほえ声で威嚇することで他のテナガザルを自分達の縄張りに寄せ付けない』とする。本項も尾の記載がなく、樹上生活者としての「鈎型の手」=「握版の状」、活発な「ブラキエーション」=「騰躍」、「地上に降りることは滅多にな」い=「樹の上に在り」等、綺麗な一致点を見る(但し、勿論、これはテナガザル類一般的特徴でもあるが、そもそも本件では「此れ乃ち猨・蜼の屬」(下記注参照)とテナガザルの仲間であることを表明しているのである)。以下、シロテテナガザル5亜種を示しておく。

マレーシアシロテテナガザル Hylobates lar lar

カーペンターシロテテナガザル Hylobates lar carpenteri

セントラルシロテテナガザル Hylobates lar entelloides

スマトラシロテテナガザル Hylobates lar vestitus

ユンナンシロテテナガザル Hylobates lar yunnanensis

 「猨」前掲「猨」の項を参照。テナガザルの仲間。

 「蜼」前掲「果然」の注を参照。テナガザルの仲間。

 「握版の状」板を握ったような形。総ての指の第一関節だけを曲げている状態を指して言っているのであろう。但し、これは類人猿には一般的に見られる特徴であり、時珍は「本草綱目」で前掲した「蒙頌」の解説でも全く同じ語を用いている。

「騰躍」躍り上がる。跳ね上がる。]

 

 

***

しやうしやう

猩猩

スイン スイン

 

※1※1

【和名 象掌】

△按謂黄毛不謂赤

髮然今專爲紅髮

又有名猩猩緋毛

織類彼血染罽僞

稱之者乎

[やぶちゃん字注:※1=「犭」+「生」。以上、七行は前三行下に入る。]

 

本綱猩猩出哀牢夷及交趾封溪縣山谷中畧似人状如

猨猴類人靣〔=面〕人足黄毛長髮頭顏端正聲如兒啼亦如犬

吠成群伏行能言而知來性好飲酒雖能言當若鸚※2之

《改ページ》

屬亦不必盡俚人以酒及草履置道側猩猩見即呼人祖

先姓名罵之而去頃復相與嘗酒著履因而被擒檻而養

之將烹則推其肥者泣而遣之西胡取其血染毛罽不黯

刺血必※3而問其數至一斗乃已其肉【甘鹹温】食之辟穀【不飢】

[やぶちゃん字注:※2=「毋」+「鳥」であるが、この「毋」は「母」の字の書き癖と考えられる。※3=(上)「竹」+(下)「垂」。]

 

しやうじやう

猩猩

スイン スイン

 

※1※1

和名は象掌〔(しやうじやう)〕。】

△按ずるに黄なる毛と謂ひて赤髮と謂はざる〔に〕、然〔れども〕今、專ら紅髮と爲す。又、猩猩緋と名のる毛織有り、彼の血染の罽〔(まうせん)〕に類〔すと〕僞りて之を稱する者か。

[やぶちゃん字注:※1=「犭」+「生」。以上、七行は前三行下に入る。]

 

「本綱」に、『猩猩は、哀牢夷〔(あいらうい)〕及び交趾(かうし)封溪〔(ほうけい)〕縣の山谷の中に出づ。畧ぼ人に似、状、猨猴の類のごとし。人面、人の足、黄なる毛、長き髮、頭・顏、-正(きら/\)として、聲、兒の啼くがごとく、亦、犬の吠(ほ)ゆるがごとし。群れを成して伏くして行く。能く言ひて來を知り性、好みて酒を飲む能く言ふと雖も、當に鸚※2の屬のごとく〔は〕、亦、必ず〔しも〕盡さざるべし。 俚人、酒及び草履〔(ざうり)〕を以て道の側に置き、猩猩、見て即ち人の祖先の姓名を呼んで、之を罵(のゝし)りて去る。頃(しばら)くして復た相與に酒を嘗〔(な)〕めて履(くつ)を著(は)く。因りて擒-檻(とらま)へらる。而して之を養ひ將に烹〔(に)〕んとす〔れば〕、則ち其の肥える者を推し、泣きて之を遣〔(や)〕る。西の胡(えびす)、其の血を取りて毛罽(〔まう〕せん)を染む。黯(くろ)まず血を刺すに、必ず※3(むちう)つて其の數を問ふ。一斗に至れば、乃ち已む。其の肉【甘・鹹、温。】之を食へば穀を辟〔(さ)け〕て飢えず

[やぶちゃん字注:※2=「毋」+「鳥」であるが、この「毋」は「母」の字の書き癖と考えられる。※3=(上)「竹」+(下)「垂」。掉尾の「飢えず」は割注であるが、明らかに「辟て」と「て」の送り仮名を振っているため、本文扱いで訓読した。]

 

[やぶちゃん注:この「猩猩」は現在、真猿亜目狭鼻下目ヒト上科オランウータン(ショウジョウ)科Pongidae(→ヒト科とも)オランウータン属 Pongoを指す中国語として用いられており、中国語科名としても用いられている(中文のウィキの「猩猩」等ではヒト科猩猩亜科猩猩属とする)。但し、本記載を見て頂けば分かる通り、その属性には甚だ疑義を覚える点が少なくない。オランウータンの棲息域はスマトラ島(インドネシア)と南部を除くボルネオ島(インドネシア・ブルネイ・マレーシア三国による領有島)の熱帯雨林の中に限定されており、本記載の「猩猩」は、幾分かはオランウータンをモデルとしていると思われる節はありながらも、架空の類人猿ととるべきものである。但し、良安が想定しているのはずばり、オランウータンPongoであると考えてよい(後注参照)。因みに、オラン・ウータンはマレー語で“orang”(人)+“hutan”(森の)、「森の人」を意味する。ウィキの「オランウータン」からオランウータン現生種2種亜種3種を掲げておく。

Pongo abelii スマトラオランウータン

Pongo pygmaeus ボルネオオランウータン

Pongo pygmaeus pygmaeus*

*(サラワクからボルネオ島西部に分布)

Pongo pygmaeus wurmbii **

**(ボルネオ島西部からボルネオ島中部に分布)

Pongo pygmaeus morio ***

***(ボルネオ島東部からサバに分布)

本注記載終了後、ネット上に「猩々――それはオランウータンではなかった――」というページを見出した。民俗学的に極めて興味深い記載が満載でお薦めである。

 「※1※1」「大漢和辭典」に『獣の名。しょうじょう。=猩。』とある。

 「和名は象掌」このような和名は聞いたことがない(ネットでも検索懸からず、荒俣宏「世界代博物図鑑 5 哺乳類」の「ショウジョウ」の項にも掲載されていない)が、如何にも面白い。音もそのままで、オランウータンのあの長い象の鼻のように器用な腕(橈骨と尺骨が異様に長く、後肢の約2倍ある)と、広い象の足のような掌をも髣髴とさせる絶妙のネーミングである。死語となっているのが惜しい気さえする。

 「△按ずるに黄なる毛と謂ひて赤髮と謂はざるに、然れども今、專ら紅髮と爲す。又、猩猩緋と名のる毛織有り、彼の血染の罽(まうせん)に類すと僞りて之を稱する者か。」やや分かりにくいので、全文を現代語訳する。

△考えるに、以下の「本草綱目」本文で時珍は、猩猩の体毛を『黄色の毛』と解説していて、赤い毛髪とは言っていないが、しかし現在、我々は猩猩という動物の体毛は、専ら赤毛であると認識している。不審である。更にまた、「猩猩緋」と名打った毛織物もあるのであるが、これは、この猩猩の黄色い毛を猩猩自身の血で染めるという加工を施した毛氈の種類である、と偽称し、これ――赤い猩猩の毛若しくは何か別種の赤い動物の毛――を売っているのであろうか。

といった意味であろうか(やや捩れた文章なので私の訳には誤りがあるかも知れない)。但し、荒俣宏「世界代博物図鑑 5 哺乳類」の「ショウジョウ」の項には実際に猩猩の血液が赤色染料に用いられていた事実が記されている(但し、荒俣氏のこの記載は猩猩がオランウータンとは全く別の「怪物」=架空の動物であることを解説するパートに現れる点に注意しなくてはならない)。『中国では猩猩の血は動物のうちもっとも鮮やかな赤をもつといわれ、目のさめるようなその赤色を指して、猩紅、猩色、猩猩緋などとよびなす。熱病の一種猩紅熱も、発熱時に顔が赤くなることにちなんで命名されたもの。古来日本や中国では猩猩の血を毛織物の染色料に用いた。その緋色はながく鮮度を保ち続けるため逸品とされたという。』とある(句読点を通常のものに変更した)。なお、大項目の下の記載に、「△」を伴って良安がこのように細かい私見を述べるというのは、水族の部をテクスト化して来た私の経験に照らすと、「和漢三才図会」の記載の中では、かなり異例のことである。本文最後「不飢」の割注のような異例の記入方法も解せない。これはもしかすると、かなり本巻を書き進めてしまってから(若しくはずっと以前に完成させていた本巻を)、たまたま再度点検して見て、掉尾の脱落に気づき、同時にその後の「猩猩」絡みの知見の中で、ここに言うような疑義を良安が新たに感じてしまっており、それをどうしても本文に書きたくなったのだが、そうすると最早、本巻の、この後の部分全体を書き直さざるを得ない、そこで、不本意ながら変則的な方法で本項ページに更に加筆した、といったものなのではないだろうか? この文章が杏林堂版にはないことが東洋文庫版注に示されている。

 「哀牢夷」これは秦・漢の時代から雲南省北部の哀牢山脈の西側と無量山脈の谷間一帯に居住していた、非漢民族であるイ族・タイ族・ぺー族・リス族・回族・ワ族・ミャオ族・アチャン族など主要8族を中心に総数千に及ばんとする少数民族総体の呼称であった。地域的には雲南省北西部、ミャンマーと中国の辺境山岳地帯を含む一帯を指すものと思われる。

 「交趾封溪縣」「交趾」は現在のベトナムで、その北、現在の中華人民共和国との国境地帯を中国が領有していた時、沿海部に望海県、その内陸部に封渓県を置いた。現在のラオス北部も含むとすれば、前述の雲南省の南部に接し、猩猩の棲息域は中国西部のミャンマー・ラオス・ベトナム北西部国境域と同定される。

 「猨猴」「猨」に同じ。テナガザル。前掲「猨」の項参照。

 「端-正(きら/\)として」猩猩のモデルの可能性があるオランウータンの顔は、確かに一見忘れ難く、老成した哲学者の風貌を思わせる。また強いオスの顔の左右両脇に生ずる肉の襞Flange(フランジ)」は細かな凹凸を持っており、それは「きらきらとして」見える、と言える。勿論、これは良安の訓であって、時珍は、くっきりと整っている、という意味で用いているのだが、それも言いようとしては、決してオランウータンに相応しくない形容とは言えない。

 「能く言ひて來を知り」よく人語を操り、そこに意味深長な未来の予言を示す、という謂い。但し、この記載は時珍が伝聞したものと思われ、直後にそれに対して疑義を呈している。

 「性、好みて酒を飲む」猩猩が一般に朱紅色、赤ら顔に描かれる(その血の効能からであろう)ことからの連想であろう。

 「能く言ふと雖も、當に鸚※2の屬のごとくは、亦、必ずしも盡さざるべし。」ここが先の「能く言ひて來を知り」への疑義部分で、「『よく人語を語る』などと言い伝えられているが、それは鸚鵡の類が美事に人語を語るように、明瞭な言語を発する、という訳では、まさかあるまい。」という意味である。これは恐らく次の箇所に現れる「人の祖先の姓名」を「罵」るかのように聞こえる啼き声を発するに過ぎず、「よく人語を語る」のでは毛頭ない、という伝承に対する時珍のクレームなのだと思われる。

 「俚人、酒及び草履を以て道の側に置き、猩猩、見て即ち人の祖先の姓名を呼んで、之を罵りて去る。頃くして復た相與に酒を嘗めて履を著く。因りて擒-檻へらる。而して之を養ひ將に烹んとすれば、則ち其の肥える者を推し、泣きて之を遣る。」以下に現代語訳する。

現地人が罠として酒と草履を道端に仕掛けると、猩猩はそれを見つけると、不思議な能力によって、それを仕掛けた人の祖先の姓名を言い当て、それを大声で叫ぶと、何もせずに去ってしまう。しかし、暫くするとそこに再び沢山の同類を伴って戻って来、酒を飲んだり、草履を履いてみたりして気を緩める。その隙を突けば、猩猩は容易に捕獲出来る。そしてこの複数の猩猩を飼育し、煮て食うのであるが――煮て食おうと飼育小屋に入ると、彼等はそれを察知し、何と、仲間内で一番肥えたものを飼い主の方に、泣きながら差し出す。

このエンディングはなかなか強烈である。なお、ここでは猩猩を食っているのであるが、荒俣宏「世界代博物図鑑 5 哺乳類」の「ショウジョウ」の項によれば、『中国では古代から猩猩の肉』と称するもの『を珍味として食卓に供』したという記載があり、『これを食べれば滋養強壮』によく、『走るのも速くなると』言い伝えられている。また、「呂氏春秋」に「肉の美なるもの」として『猩猩の唇をあげている』とある。

 「西の胡」「胡」は通常は中国北方の異民族を指すが、ここでは広く異民族の意で用いた。西戎(せいじゅう)。

 「黯まず」染色後に黒ずむことがなく、鮮紅色を保ち続ける、という意。

 「血を刺すに、必ず※3(むちう)つて其の數を問ふ。一斗に至れば、乃ち已む」。これは飼育している猩猩を殺すことなく、染色用染料としての「血液を採取するには、必ず鞭打ってどれだけの分量の血液を採取してよいかを、当の猩猩に訊ねることが肝要である。そして――猩猩自身がそれ以上の分量を言ったとしても――血抜きを始めて、それが一斗(:明代の度量衡で約10ℓ。)に及んだ時には、直ちに採取を中止しないと、その猩猩は失血死する。」という意味であろう。

 「穀を辟けて飢えず」穀物を食べなくても、飢えることがない、の意。ここの記載方法への疑義は冒頭注参照。内容は間違っていないが、原典とは表現が大きく異なっている(「本草綱目」国会図書館蔵本当該ページ画像参照)。良安は原典を大幅に切り詰め、裏技の割注を最後に押し込み、掟破りの本文から割注に続けて訓読するという異例の読み方をしている。]

 

 

***

やまうば

野女

ヱヽ ニユイ

 

【俗云山媼乎

 蓋猩猩之類】

[やぶちゃん注:以上二行は、前三行下に入る。]

 

本綱野女日南國有之状白色徧體無衣襦黄髮推髻裸

形跣足儼然若一媼也皆牝無牡上下山谷如飛猱自腰

已下有皮蓋膝群行覔〔=覓〕夫毎遇男子則必負去求合嘗爲

健夫所殺死以手護腰間剖之得印方寸瑩若蒼玉有文

類符篆也【雄鼠印有文如符篆治鳥腋下有鏡印則野婆之印篆亦非異】

 

《改ページ》

やまうば

野女

ヱヽ ニユイ

 

【俗に云ふ山媼か。蓋し猩猩の類なり。】

 

「本綱」に、『野女は、日南國に之有り。状、白色。徧體〔(へんたい)〕衣襦〔(いじゆ)〕無し。黄なる髮、推髻〔(すいけい)〕、裸形、跣足。儼然として一媼のごとし。皆、牝にして牡無し。山谷を上下して-猱(むくげざる)のごとし。腰より已下(いか)に皮有り、膝を蓋ひて群行し、夫を覓(もと)む。毎〔(つね)〕に男子に遇へば、則ち必ず負ひ去りて〔する〕ことを求む。嘗て健夫の爲〔(ため)〕、殺されて死す。手を以て腰間を護る。之を剖〔(さ)〕きてを得。方寸の瑩〔(えい)〕蒼玉のごとし。文〔(もん)〕有り。符篆の類なり【雄鼠の印、文有り、符篆のごとし。治鳥(ぢてう)の腋の下に鏡印有れば、則ち野婆の印篆も亦、異に非ず。】。』と。

 

[やぶちゃん注:良安が本邦の「山媼」=山姥(やまうば/やまんば)を比定候補とするのは妥当な線であろう。後半の野女の生殖器から宝玉が得られるというのも、古く「古事記」のスサノオとオオゲツヒメの説話、昔話「牛方山姥」に見るように、その生殖器や死体から、穀物や薬・金が得られるという話と一致し、古形の創造神・地母神・豊穣神としての女神が没落し、女族化、更に妖怪へと変容されてゆく姿をここに認めることが出来る。また、この「野女(やまうば)」以降の山怪には、古代、大和朝廷によって追われた民の末裔であるとか、近世の逃散した村人、更には山窩(サンカ)やマタギ・渡り巫女等の誤認や変形譚も多く含まれるものと思われる。

 「猩猩」前掲項「猩猩」を参照。

 「日南國」「日南」漢代の郡名で、現在のインドシナ半島のベトナム中部地域にあった。その後、ベトナムは中国の郡県支配を受けながらも、北部が陳朝大越国、南部がチャンパ王国としてかなり自立的に発展、明代には黎朝大越国が実質支配をしていた。

 「徧體」体全体をフル・ショットで見た時の意であろう。

 「衣襦」衣や肌着。後で腰から膝までを覆う獣皮を下肢に装着しているという叙述が現れるので、ここは人型でありながら、人の衣服や下着らしきものは身につけていない、の意。

 「推髻」髪を結い上げずに垂らしていること。因みに「左衽推髻」(さじんすいけい:左前襟と垂髪)は中国では異民族の蔑称である。

 「儼然と」は、厳かでいかめしいさまであるが、ここは単に、いかにも、さながらといった副詞的用法であろう。

 「一媼」人のお婆さん。

 「飛猱」キンシコウ(金絲猴)hinopithecus roxellana。前掲項「※」[※=「犭」+「戎」。]を参照。

 「合」交合。性行為。

 「腰間」股間。

 「印」この場合は、ある種の紋章を持った、特徴的な鉱物様物質である。

 「瑩」玉に似た美しい鉱石。

 「蒼玉」サファイア(青玉)のことか。

 「符篆」篆書で書いた呪文を言う。篆書には実用を目的とした通用書体の他に、装飾的呪的意味合いを持った書体も多く、特殊な組織や商売上の割符に用いられたりし、また、道教では道士が呪術用に盛んに用いた。

 「雄鼠の印」不詳。♂ネズミの体内に発生する結石の一種か。

 「治鳥」妖鳥の名。以下、「和漢三才圖會」の「卷第四十四 山禽類」にある「治鳥」の項のみを画像も含めて電子テクスト化する(ここの画像は通常通りの一枚のみの掲示とする)。

 

☆☆☆[やぶちゃん注:「卷第四十四 山禽類 治鳥」テクスト化開始。]

ぢちやう

治鳥

ツウ ニヤ゜ウ

 

 天狗

 天魔雄

[やぶちゃん注:以上三行は前三行下に入る。]

 

本綱越地深山有之大如鳩青色穿樹作窼〔=巣〕大如五六升

噐〔=器〕口徑數寸餝以土堊赤白相間状如射候伐木者見此

樹即避之犯之則能役虎害人燒人廬舎白日見之鳥形

也夜聞其鳴鳥聲也或作人形長三尺入澗中取蟹就人

間火炙食山人謂之越祀之祖

△按先軰〔=輩〕僉云治鳥乃本朝所謂天狗之類矣羅山文集

 云日光山有天狗好棲息于長杉猶是愛宕山大杉榮

《改ページ》

■和漢三才圖會 山禽類 卷ノ四十四 ○十四

 術太郎之所居之類也歟蓋指鬼魔而言也夫天狗者

 星名也我朝浮屠修驗者欲恐怕世俗扇惑庸愚而使

 己術售之故唱天狗名以訇之歟但深山幽谷其氣之

 所及則山都木客亦有之乎猶如大海有鯨鯢又奚疑

△或書云服狹雄尊猛氣滿胸腹而餘成吐物化或天狗

 神姫神而軀者人身頭獸首也鼻高耳長牙長左右不

 隨意則太怒甚荒雖大力神乃懸于鼻挑千里雖強堅

 刀戈輙咋掛於牙壊以作段段毎事不能穏止以在左

 者早逆謂爲右又在前者即謂爲後自推名兮名天逆

 毎姫呑天之逆氣獨身而生兒名天魔雄神不順 天

[やぶちゃん字注:「不順 天」の空欄はママ。]

 尊命諸事造爲不成順善八百萬神等悉絶方便矣天

 祖赦使天魔雄神王九虚而荒神逆神皆屬之託心腑

 變意令敏者高之使愚者迷之【此乃俗云天狗及天乃佐古之類乎非爲正説

 記之備考】

 北國能登海濵有天狗爪往往拾取之大二寸許末尖

《改ページ》

 微反色潤白如小猪牙而非牙全爪之類也疑此北海

 大蟹之爪也歟若夫天狗之爪者可有處處深山中何

 有海邊耶

 

 

ぢちやう

治鳥

ツウ ニヤ゜ウ

 

附〔(つけた)〕り

 天狗

 天魔雄(あまのざこ)

 

「本綱」に、『越地の深山に之有り。大いさ、鳩のごとく、青色。樹を穿ち、巣を作る。大いさ、五~六の器、口徑數寸、餝〔(かざ)〕るに土堊〔(しつくひ)〕を以てす。赤白相間(まじ)る。状ち、-候(まと)のごとし。木を伐る者も此の樹を見れば、即ち之を避く。之を犯す時は[やぶちゃん注:「時」は送り仮名にある。]、則ち能く-虎(たゝ)り、人を害す。人の廬舎を燒き、〔→く。〕白日之を見れば、鳥の形なり。夜、其の鳴くを聞くも、鳥の聲なり。或は人の形と作〔(な)〕る。長さ三尺、澗(たに)の中に入りて蟹を取りて、人間の火に就きて炙りて食ふ。山人、之れを越-祀〔(ゑつのかみ)〕の祖と謂ふ。』と。

△按ずるに、先輩、僉(みな)云ふ。『治鳥は乃ち本朝に所謂、天狗の類か。』と。「羅山文集」に云ふ、『日光山に天狗有り、好みて長き杉に棲-息(す)む。』〔と。〕猶ほ是れ、愛宕(あたご)山の大杉は榮術太郎の居する所の類なるか。蓋し鬼魔を指して言ふなり。夫れ、天狗〔(てんこう)〕は星の名なり。我朝、浮屠〔(ふと)〕修驗者、世俗恐-怕(をど)し、庸愚を扇-惑(まよは)し、己が術使ひてを之を售(う)らんと欲し、故に天狗の名を唱へて以て之を訇(のゝし)るか。但し、深山幽谷には其の氣の及ぶ所〔なれば〕、則ち山都〔(さんと)〕・木客〔(もつかく)〕も亦、之有るか。猶ほ大海に鯨-鯢(くじら)有るがごときも又、奚(なん)ぞ疑はん。

或る書に云ふ、『---尊(そさのをのみこと)、猛氣、胸腹に滿ちて餘り、吐物と成り、化して天狗神と成る。姫神にして軀は人の身、頭は獸の首なり。鼻高くして、耳長く、牙長し。左-右(ともかく)も意に隨はざ〔れば〕、則ち太(■■■〔→おほい〕)に怒り、甚だ荒(すさ)む。大力の神と雖も、乃ち鼻に懸け、千里に挑(はね)る。強堅の刀・戈と雖も、輙〔(すなは)〕ち咋(か)みて牙に掛け、壊〔(こは)〕して以て段段(づたづた)と作〔(な)〕す。事毎に穏-止(おんとう)にすること能はず、左に在る者を以て早-逆〔(さから)ひ〕て右たりと謂ひ、又、前に在る者は、即ち、後(〔し〕りへ)たりと謂ふ。自ら推して名(なづ)けて、---姫(〔あま〕のさこの〔ひめ〕)と名づく。天の逆氣を呑みて、獨り身(はら)みて兒を生む。---神(〔あま〕のさかをの〔かみ〕)と名づく。天尊の命に順はず、諸事の造-爲(しわざ)も順-善(よきこと)成さず、八百萬神等、悉く--便(もちあつかふ)。天祖、赦して天魔雄の神〔をして〕九虚に王たらしめ、荒-神(あらぶる〔かみ〕)・逆-神(さかふる〔かみ〕)皆、之に屬す。心腑に託し意を變じ、敏(さと)き者を〔して〕之を高ぶらしめて愚なる者を〔して〕之を迷はしむ【此れ乃ち俗に云ふ、天狗及び天の佐古の類か。正説と爲るに非ざれども、之を記して考に備ふ。】。』と。

 北國能登の海濵、天狗爪有り。往往、之を拾ひ取る。大いさ、二寸許り。末、尖り、微かに反り、色、潤白、小さき猪(ゐ)の牙(き)のごとくにして、牙に非らず。全く爪の類なり。疑ふらくは此れ、北海大蟹の爪か。若し夫れ、天狗の爪ならば、處處の深山の中の有るべし。何ぞ海邊に有らんや。

 

[「治鳥」やぶちゃん注:「冶鳥」(やちょう)と記載するものある。明白な妖鳥の類で、人形(ひとがた)にも変化する辺りは怪鳥(けちょう)を通り越して妖怪変化に属すると考えてよい。「天狗」については後注に記した。「天魔雄(あまのざこ)」は後掲する伝承から。

・「越地」春秋戦国時代に遡る古国の一。浙江省杭県以南の東海に至る地方を指す。現在の浙江省に相当。

・「升」明代は1升≒1.1リットルであるから、5.56.6リットル。現在の日本の水洗トイレの容量は13リットルであるが、世界の標準は6リットルだそうである。何でトイレなんだよ! って、か? 図の治鳥の巣をご覧あれ、これはどう見ても、金かくしに似ている!

・「土堊」漆喰。東洋文庫でもこのようにルビを振る。但し、建築材料としてのそれは、石灰に麻の繊維、草本類や海藻等から得られた糊様物質、水などを加え練り上げて作られた白色の人工素材である。ここでの「土堊」はそうした人為的な建築材ではなく、ほぼ石灰から成る天然の漆喰を指していよう(顔料としてのそれは高松塚古墳壁画等にも既に用いられていた)

・「射候」弓矢の的。

・「役虎(たた)り」訓読の義は不詳。虎は猛悪のシンボルであり、それを「役」、使う、自在に機能させる=致命的に悪い結果を齎させる=祟る、ということか。

・「或は人の形と作る。長さ三尺、澗の中に入りて蟹を取りて、人間の火に就きて炙りて食ふ。山人、之れを越祀の祖と謂ふ。」は「この怪鳥(けちょう)は時には人の姿に変身する。背丈は凡そ90㎝、その人の姿で谷川の中へと立ち入り、人が蟹を取るのと同じように蟹を取り、人が河原で焚火をしている、その火で蟹を炙って食ったりすることがある。越の山村の者たちは、これを越の神の祖と呼び尊んでいる。」という意味である。明代は1尺≒31.1㎝。

・『「羅山文集」』正式書名「林羅山先生文集」。江戸前期の儒学者、林羅山(天正111583)年~明暦3(1657)年)の詩文集「羅山先生集」(通称)の内、文集の部分、全75巻を言う。約2000篇に及ぶ随想。

・「日光山」現在は栃木県日光市にある輪王寺の山号。江戸時代には日光寺社群を総称して日光山と呼んだ。『日光山は勝道上人(奈良時代後期から平安時代初期の人物)が開いた現日光の山岳群(日光連山、日光三山を参照)特にその主峰である男体山を信仰対象とする山岳信仰の御神体ないし修験道の霊場であった』。『日光が記録に見えてくる時期は、禅宗が伝来し国内の寺院にも山号が付されるようになり、また関東にも薬師如来像や日光菩薩像が広く建立され真言密教が広がりを見せる平安時代後期ないし鎌倉時代以降であるため、勝道上人が日光の山岳地に分け入ったとされる当時からこの地を「日光山」と呼んでいたかは定かでない。下野薬師寺の修行僧であった勝道一派が日光菩薩に因んで現日光の山々を「日光山」と命名した可能性も含め、遅くても鎌倉時代頃には現日光の御神体が「日光権現」と呼ばれ、また「日光山」や「日光」の呼称が一般的に定着していたものと考えられる』(以上はウィキの「日光山」による)。因みにこの天狗は日光山東光坊といい、平田篤胤の「仙境異聞」にはこの山には数万の天狗がいたと記す。

・「愛宕山」(あたごやま/あたごさん)は京都府京都市右京区の北西部、旧山城国及び丹波国国境にある山。『山頂は京都市に所在するが、約1.5km西に市境があり、山体は亀岡市にまたがる。標高924m。三角点(890.1m)は山頂の北方約400mの地点に所在する。京都盆地の西北にそびえ、京都盆地東北の比叡山と並び古くより信仰対象の山とされた。神護寺などの寺社が愛宕山系の高雄山にある。山頂には愛宕神社があり、古来より火伏せの神様として京都の住民の信仰を集めている。亀岡市側の登山口にも「元愛宕」と呼ばれる愛宕神社がある』(以上はウィキの「愛宕山京都市による)。全国の愛宕社の総本社である。

・「榮術太郎」正式名は愛宕山太郎坊(あたごやまたろうぼう)で、上記の現在の京都府にある愛宕山を棲み家とする天狗。別名を栄術太郎という。江戸中期に書かれた「天狗経」によれば、本邦には48種、125500の天狗が数え挙げられているが、その中でも有力な八大天狗の一人で、東の富士山頂に棲む富士太郎に対する西国を代表する天狗である。伝承では、この太郎坊は仏の命によって「大魔王」となったのであり、衆生利益を目的として愛宕山を護持しているとする。

・「鬼魔」鬼神魔神。荒ぶる神。

・「天狗〔(てんこう)〕は星の名なり」天狗星。天狗流星。本来、中国では流星・彗星の内、大気圏内に突入し、火と音を発するものをこう言った。現在我々が知る鼻の長い「天狗」なるものは純国産の妖怪である。「史記」の「天官書 第五」に以下のように記載される(原文はネット上の中文サイトのものを参考にし、書き下し・語注及び訳には明治書院の新釈漢文体系41「史記 四 八書」を参考にした)。

 

天狗、状如大奔星、有聲、其下止地、類狗。所墮及望之如火光炎炎沖天。其下、圜如數頃田處、上兌者則有黄色。千里、千里破軍殺將。

 

○やぶちゃん書き下し文:

 天狗は、状、大奔星のごとく、聲有り。其れ、下りて地に止まらば、狗に類(に)たり。堕つる所、之を望むに火光のごとく、炎炎として天に沖(のぼ)る。其の下は圜(まろ)きこと、数項(すうけい)の田處のごとくにして、上兌(じやうえい)は則ち黄色有り。軍を破り、將を殺す。

 

○やぶちゃん語注:

☆奔星:流星。

☆狗:犬。小さい犬。熊や虎の子の意もある。

☆沖:多くは「衝」で「つく」と訓じているが、この字の方が私にはしっくりくる。

☆項:面積単位。1項=100畝≒182アール(前漢期)=18200㎡であるから、9001600アール=9~16ヘクタール=90000160000㎡内外。大気内を通過しながら落下した隕石のクレーターとしては小さ過ぎる。

☆上兌:「兌」は尖っている様であるから、尖った上部。

 

○やぶちゃん現代語訳:

 天狗星は、その形状、巨大な流星の如くして、飛ぶ際にはっきり聞き取れる音がするものである。落下して地上に落ちた際には、小犬のように見える。落下する際に観察すると、火と光の柱のように見え、その立ち上る火炎は天を衝くように高く伸びている。その落下地点は完全な円形で、凡その広さは数項の田畑に等しく、落下物の上部は鋭く尖っていて、黄色を呈している。これが天空に出現したり、落下したりした国は、大きな戦闘の敗北と無数の将兵の死が訪れる。

 

・「浮屠修驗者、世俗恐怕し、庸愚を扇惑し、己が術使ひてを之を售らんと欲し、故に天狗の名を唱へて以て之を訇るか。但し、深山幽谷には其の氣の及ぶ所なれば、則ち山都・木客も亦、之有るか。猶ほ大海に鯨鯢有るがごときも又、奚ぞ疑はん。」の「浮屠」は、本来は梵語(サンスクリット語)の“Buddha”仏陀のことであるが、そこから広義に僧侶や仏教徒をも指す。「售」は「売」に同じ。「訇」は「のゝしる」と訓じているが、これは古語の「ののしる」であるから、大声で叫ぶ、の意であり、批難の意はない。東洋文庫はそのまま「ののしる」と訳しており誤訳である。「山都」は見越入道。後掲項「山都」を参照。「木客」は南方の岩山に住む異民族。後掲項「山都」を参照されたいが、元来、「山都木客」は中国の奥地の異民族・少数民族を指していたものが、モンスターの意味で用いられるようになってしまったものと思われ、ここでも文脈上「化け物」の意で用いられているように見受けられる。東洋文庫版でもわざわざこの四字熟語に「ばけもの」のルビを振る。以上から、ここは、

 

(天狗とは、本来、妖怪ではなく、星の名前である。にも関わらず、)本邦の僧侶や修験者ら(が「天狗」なる妖怪変化をでっち上げたの)は、布教教化のためと称し、世俗の者たちを必要以上に怖がらせ、愚鈍なる衆生という軽蔑の視線を以って、わざわざ彼らを惑わせるという、巧妙にして卑劣な方便・手段によって、その宗旨や術なるものを売らんと欲し、故にこそ「天狗」なる架空の名を唱えて、これを声高に叫ぶのででもあろうか。但し、深山幽谷といった場所は、そのような人知を越えた妖気の及ぶ所でもあろうから、山都・木客といった妖怪変化や異人のようなものもまた、ないとは言えぬのかも知れぬ。また、そうした観点から見れば、大洋に信じられないほど巨大なる鯨が棲息しているといったような事柄も、何ら不思議なことには当るまい。

 

といった感じか。お馴染みの良安先生流のプラグマティックな現実主義(「化生」説批判でもあったように末尾に例の如く留保もあるが)に加えて、宗教家への不快感と批判的ニュアンスが伝わってくるように私には思われ、聊か痛快ではある。

・「或る書」未詳。以下は「古事記」等の正史にはない記述であるが、伝承としては広く知られているようである。【二〇一九年五月一日:削除記号付加・追記】これは「先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)」からの引用。同書は聖徳太子によって編纂されたと伝えられる教典であるが、複数の研究者によって偽書とされている。詳しくは、私のブログの「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 治鳥(ぢちやう)(実は妖鳥「冶鳥(やちょう)」だ!)」を読まれたい。

・「服狹雄尊」スサノオノミコトのこと。「古事記」では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、「日本書紀」では素戔男尊、素戔嗚尊などと表記する。「天狗神」との接点は、正しく祀らなければ災厄を齎す荒ぶる神としての共通性を持っているように思われる。

・「姫神」天狗が女体獣面の女神をルーツとするという伝承は不学にして知らなかった。なお且つ既にこの女神、鼻が高く、耳が長く、牙が長く出ている。映像が浮かばないが、以後の叙述を読むと、我儘にしてヒステリー、臂力ならず鼻力も強烈、男根どころか堅い鉄の刀剣矛であろうと噛み千切ってこなごなにする、ともかく何でもかんでも激して穏当ということを知らず、左にあるものは「右よ!」と言い、前にあるものでも「後に決まってるじゃん!」と言う……これは、全く逢いたくない女神(めがみ)さまではある。

・「天逆毎姫」ここに至って、この「あまのさこのひめ」というのは「あまのじゃく」と完全に通底する。天邪鬼は本来は中国仏教由来で四天王など踏みつけられる悪鬼(煩悩の象徴)であるが、本邦ではそれに記紀に出現するうっかり男天稚彦(あめのわかひこ)及び性悪の天探女(あまのさぐめ)に由来する天邪鬼が習合、そこに更に、ここに示されたような後付けの解釈が加わったもののように思われる。

・「天魔雄神」天魔雄命(あまのざこのみこと)とも。

・「絶方便」持て余す、の意。

・「九虚」九天。本義は大地を中心に回転する九つの天体で、日天・月天・水星天・金星天・火星天・木星天・土星天・恒星天・宗動天をいうが、広義に神域である全天上界の意。

・「心腑に託し」人の心や心の臓にとり憑く。

・「意を變じ」心を乱させ。

・「正説と爲るに非ざれども、之を記して考に備ふ」正式な説ではないが、ここに記録しておき、後の人の考察のための備えとしておく。

・「天狗爪」現在、一般に知られている「天の狗爪」なるものは、サメの歯の化石の俗称である。通常は三角錐様、青灰色の光沢を持つものが多く、第三紀に棲息したサメ類の歯である。軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属CarcharodonCarcharoclesのそれが最も巨大で、歯高15cmに及ぶ。しかし、私は、これを良安が言う「天狗爪」に同定するのに、躊躇を感ずるものである。以下、良安の記述を検討してみよう――それは能登地方の海浜で容易にビーチ・コーミング出来るもので、長径約6cm、末端が有意に細くなって尖っていて、微かに反っている。色は純白でやや光沢がある(「潤」は鮮やかな光沢というよりざらついた乳白色ではなく、濡れたやや透明度のある白の謂いであろう)。そして、それは譬えるなら小さな猪の牙のようなものであるが、決して動物の――ここの記載からは陸上性の動物及び現代の生物学上の魚類も含むものと考えられる――牙ではない。しかし、全くある種の生物の爪の類いとしか思えないものである。そして彼は「思うにこれは北海の大蟹の爪であろうか」と推測し、「第一、もし、これが正真正銘の『天狗の爪』であるならば、天狗が棲息すると言われている各地の深山幽谷から齎されなければならぬはずである。どうして天狗の爪なんどというものが海辺にあろうものか!」と激して否定しているのである。ここで気付くことは、もしこの「天の狗爪」が「サメの歯の化石」であるとしたら、それこそ「處處の深山の中の有る」のである。そこから実際に出土するのである。私も小さな時に裏山から幾つも掘り出した。さすれば、これは「サメの歯の化石」では、ない。私は一読、これはもうツノガイしかないと感じた。軟体動物門掘足綱のツノガイ目Dentaliida 及びクチキレツノガイ目Gadilida のツノガイである。以下、ウィキの「掘足綱」から引用する。『掘足綱全体に共通する形状として、殻は角を思わせる緩やかにカーブした筒状で、上端と下端は必ず開いている。この上端側の孔を後口、下端側の孔を殻口と呼ぶことが多い。また、カーブの外側を腹側、内側を背側と呼ぶ。殻表に輪脈と呼ばれる筋がある場合、ない場合まちまちである。また殻色も白色、薄黄色や赤紫色、など様々であるが白っぽい色をした種が多い。殻長は数㎜の種から数十㎝程度で現生種の中では、マダガスカル近海に生息する Dentalium metivieri が最大とされ、20㎝を超える。以上の様な細かい特徴は科や属、種などにより様々であるが、掘足綱全体の形状としては腹足綱や二枚貝綱と比べると統一感があるといえる』。その軟体部は『殻の後口側に肛門が、殻口側に頭、足がある。頭部は眼や触角など多くの感覚器官を欠くが平衡胞(statocysts)と呼ばれる感覚器官を持つほか、食物を捕食するための頭糸と呼ばれる触手状の器官がある。これらの器官を使用し、餌を捕らえ、歯舌で擦り取って食べるとされる。鰓は持たないため、外套膜が代わりとなり海水中の酸素を取り込む。また、以上の様な器官や殻などがすべて左右対称になっていることも掘足綱の最大の特徴のひとつである。なお、蓋は持たない』。生態は雌雄異体で、『浮遊性のトロコフォア幼生、ベリジャー幼生を経て着底する。通常、二枚貝綱と同様に足を用いて泥底や砂底などを掘り、埋没して生活する。この際、後口を砂や泥から出し、排泄や海水の交換を行う。上記の様に鰓を持たないため、外套膜で酸素の交換を行うが、この際、足を収縮させ海水を循環させる。また、平衡胞や頭糸を用いて餌を捕食し、歯舌で擦り取って食べる』。すべて海産で、分布域は世界各地の海に広く分布し、『生息深度も幅広く、潮間帯~深海まで広く分布するが、生息環境は比較的軟らかい海底に限られる』とある。種は多数あるものの(該当リンク先にもある)、研究が進められているとは言い難く、極めて流動的であるので記載はしない。私自身、実は30年程前、春の初めに旅した能登の海浜で、多量のツノガイ類の殻を採取した印象的な経験があるからである。それは確かに凄絶なほどに多量であったのを覚えている。ネット上の記載を検索すると石川県能登九十九湾での採取品として、

シラサヤツノガイ科ロウソクツノガイ亜科ロウソクツノガイEpisiphon subrectum

ゾウゲツノガイ科ゾウゲツノガイ属ヤカドツノガイDentalium Paradentalium octangulatum

等が見つかる。

 

☆☆☆[やぶちゃん注:「卷第四十四 山禽類 冶鳥」テクスト化終了。]

 

えらい苦労をしてここまでテクスト化したのだが、肝心の「治鳥の腋の下に鏡印有」るという記載は全く出てこない。何日もかかって、最早、「野女」をテクスト化していることさえ忘れていたのだが……少し気落ちしてしまった。しかし、「腋の下」と言う表現は「羽の下」ではないから、人間の形に変化した際、その脇の下には治鳥であることを示す、鏡のような形状の印が存在するという意味なのであろうか。それをここで得たせめてもの智として掲げ、終わりとする。]

 

 

***

■和漢三才圖會 恠類 卷ノ四十 ○十四

ひゝ

狒狒【音費】

フイ/\

 

※1※1 ※2※2【並同】

梟羊 野人

人熊

[やぶちゃん字注:以上三行は、前三行下に入る。「※1」については、分解表示が不可能なので、後注で画像にして示してある。「※2」=「巛」(上)+「禺」(下)。]

 

本綱狒狒出西南夷状如人被髮迅走食人黑身有毛人

靣〔=面〕長唇反踵見人則笑其笑則上唇掩目其大者長丈餘

宋【建武年中】獠人進雌雄二頭其靣〔=面〕似人紅赤色毛似獮猴有

尾能人言如鳥聲善知生死力負千鈞反踵無膝睡則倚

物獲人則先笑而後食之獵人因以竹筒貫臂誘之侯其

笑時抽手以錐釘其唇著額候死而取之髮極長可爲頭

髮血堪染靴及緋飲之使人見鬼也帝乃命工圖之

 

ひゝ

狒狒【音、費。】

フイ/\

 

※1※1〔(ひひ)〕 ※2※2〔(ひひ)〕【並びに同じ。】

梟羊〔(けうやう)〕 野人

人熊〔(じんゆう)〕

[やぶちゃん字注:「※1」については、分解表示が不可能なので、後注で画像にして示してある。「※2」=「巛」(上)+「禺」(下)。]

 

「本綱」に、『狒狒は西南夷に出づ。状、人のごとく、髮を被(かぶ)り、迅〔(とく)〕走〔り〕て人を食ふ。黑身、毛有り。人面にして、長き唇びる、反踵〔(はんしよう)〕。人を見れば、則ち笑ふ。其の笑ふに、則ち上唇目を掩ふ。其の大なる者は、長け、丈餘。宋【建武年中。】獠人(らうひと)、雌雄二頭を進む。其の面、人に似たり〔て〕紅赤色。毛は獮猴に似て、尾有り。人言を能くす。鳥の聲のごとく、〔→ごとし。〕善く生死を知り、力、千鈞〔(きん)〕を負ふ。踵を反〔(そ)らし〕、膝無く、睡むる時は[やぶちゃん字注:「時」は送り仮名にある。]則ち物に倚(よ)りかゝる。人を獲り、則ち、笑ひて先づ〔→先づ笑ひて〕、後、之を食ふ。獵人、因りて竹筒を以て臂を貫き、之を誘ひて、其の笑ふ時を侯〔(うか)が〕ひ手を抽〔(ひ)きいだし〕、錐を以て其の唇を釘(う)つ。額に著け、死を候がひて、之を取る。髮、極めて長し。頭髮(かもじ)に爲〔(つく)〕るべし。血は、靴及び緋を染むるに堪へたり。之を飲めば、人をして鬼を見せしむ。帝、乃ち工に命じて之を圖す

 

[やぶちゃん注:現代、「ヒヒ」と言えば、直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio を指すが、彼等はアフリカ大陸とアラビア半島にのみ棲息しており、勿論、中国にはいない。但し、シルク・ロードを経て、その実物や噂は中国に齎されていたであろうから、その要素がこの幻獣たる「狒狒」の想定に影響を与えていないとは言えないと思われるが、人に似て、結っていない人の頭髪と同じである、全身が黒い毛に覆われている、人を見ると笑う、上唇が異様に反り返る点等々は、寧ろやはりアフリカ大陸に棲息する真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科チンパンジー亜科チンパンジー Pan troglodytes に近く、一方、身長が1丈とあるから明代換算で3.1m強で、きわめて強大な臂力と、好戦性からは、やはりアフリカ大陸の赤道直下の熱帯雨林に棲息する真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科 Hominidaeチンパンジー亜科ゴリラ属 Gorillaをも想起させる(但し、ゴリラの攻撃性が昂まるのは主に発情している状態に限られ――発情期ではない。ゴリラの♂は人に近く一年中、発情可能である――、ゴリラは基本的には温厚で神経質な動物である)。特に、「巧みに人語(めいたもの)を操る(が、それは人語と言うよりも)鳥の声のようである。」と言う叙述は、群れの中での会話や摂餌の際にゴリラが歌う鼻歌のようなものを想起させる。また、中国の「西南夷」(西南部の蛮族の居住する地域)に棲息し、顔面部が人に似ており、紅赤色を呈し、恐らく全身の毛も通常の猿類と同じであるという記載の方を按ずるならば、これは悉く紅赤色の印象が強く、更に末尾に血を以って染料とするという記載と合わせると、既に示した幻獣「猩猩」のモデルと考えられる、真猿亜目狭鼻下目ヒト上科オランウータン(ショウジョウ)科(→ヒト科とも)オランウータン属 Pongoも混合されたモデルの一つとして有力である。いや、オランウータンの棲息域がスマトラ島(インドネシア)と南部を除くボルネオ島(インドネシア・ブルネイ・マレーシア三国による領有島)の熱帯雨林)であること、本記載が仕切りに人間との関係を細かに描写する点と、マレー語の“orang”(人)+“hutan”(森の)=「森の人」を意味する点が有意な連関性を示していることから、このオランウータン属 Pongoは、寧ろ、この「狒狒」の一番のモデル候補と言ってもよいように私には思われるのであるが……しかし、「反踵」というのはオランウータンから致命的に外れる特徴でもあるのである(後述)。ともかくも私は、食人という奇異性からもこれは全くの幻獣扱いとすることとする。……それにしても大阪中近堂版の挿絵、「ハレンチ学園」の一コマと見紛うばかり……

 「※1」は以下の字体である(なお、これは私がペイントを用いて自筆したもので、印刷物のコピーではない)。

この字について、「廣漢和辭典」の解字は、「ヒヒザル」の形に象った象形文字とし、上部の中央(「白」の内部を「メ」にしたようなもの)はその頭を示し、その左右の部分全部(「ヨ」及びその左右反転の字形の合わせて4つ)がヒヒザルが人を手で捕まえる様を示すとし、下部「禸」はヒヒザルの足跡に象るとする。――大伴昌司のウルトラ怪獣図鑑を読んでいるように、ワクワクしちゃった!

「※2」[「※2」=「巛」(上)+「禺」(下)。]は、「廣漢和辭典」に「※1」及び「狒」に同じとのみ、ある。

「梟羊」「山海経」には以下の二例の記載がある。まず「海内南経」に、

 

梟陽國眗在北之西。其爲人人面長脣、黑身有毛。反踵。見人笑亦笑、左手操管。

 

○やぶちゃんの書き下し文

梟陽國は眗(とほ)く北西に在り。其の人と爲り、人面にして長き唇、黑身にして毛有り。反踵。人の笑ふを見れば亦笑へば、左手、管をもつて操(と)る。

 

○やぶちゃん現代語訳

梟陽(きょうよう)国は遠く北西にある。其の国に棲息する人間に似た生き物は、人面で長い唇を持ち、身体全体に黒い毛が生えている。踵部分は我々とは反対方向に反り返っている。人間が笑うのを見ると、また同じように笑う習性があるので、左手に竹管を装着し、この生物のその習性を利用して獲る。

 

また「海内経」には類似した以下の記載がある(「山海経」珂案注に従い、一部を補正)。

 

南方有贛巨人、人面長脣、黑身有毛。反踵。見人笑亦笑、脣蔽其面、因即逃也。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 南方に贛巨(かんきよ)人有り、人面にして長き脣、黑身にして毛有り。反踵。人の笑ふを見れば亦笑ひ、脣、其の面を蔽へば、因りて即ち逃ぐ。

 

○やぶちゃん現代語訳

 南方に贛巨人という民族がいる。人面で長い唇を持ち、身体全体に黒い毛が生えている。踵が反りかえっている。踵部分は我々とは反対方向に反り返っている。人間が笑うのを見ると、また同じように笑う習性があり、笑うとその唇が顔面を覆ってしまって視野を遮るため、この贛巨人に遭遇しても、その間に速やかに逃げおおせることが出来る。

 

諸注はこれが「梟羊」と、また、「狒狒」と同一生物であるとする。

 

 「野人」この呼称がここに登場するのは極めて興味深い。以上、見てきた通り、本「狒狒」はこの巻の類人猿の記載の中でも人間との近似性を最も示しているものと見てよい。即ち仮定としてのヒトHomo sapiens の現生人類Homo sapiens sapiensではない別亜種、若しくは近縁種、又は知られていない類人猿の一種として見ることが可能である。現在、中国語で「野人」というと、所謂、雪男、イエティ・サスカッチ・ビッグフットと同類のUMA(未確認動物)の一種を指す語なのである。現代中国での目撃報告は特に湖北省神農架地区に多い。神農架は野生動物の宝庫として知られ、孫悟空のモデルの一つとされる直鼻猿亜目オナガザル科コロブス亜科シシバナザル属キンシコウ(金絲猴)hinopithecus roxellanaの棲息地としても知られる。中国科学院によって同地区での学術調査が行われているが、実在は疑わしい。

 「西南夷」中国の西南部の異民族の居住する地方。

 「反踵」踵(かかと)が反り返っているという意味であるが、これは典型的なナックル・ウォーキングの形状を言ったものと推測する。だとすると、オラウータンは含まれない。何故なら、オランウータンは、あの拳で地面を突くようなナックル・ウォークはしないからである。彼等は地面を歩く際、普通に指を曲げて掌で歩くのである(以上は、ウィキの「オランウータン」を参照した)。

 「宋【建武年中。】」宋代には「建武」という年号は存在しない。東晋最初の年号に建武(けんぶ)の元号がある。西暦にして317年~318年。

 「獠人」異民族の名。「獠」(りょう)は、現在の中華人民共和国南西部に当たる広西・貴州両省に跨る地方に住む。

 「善く生死を知り」人の生死を占うことが出来るという意味か? 東洋文庫版では「よく生死を知り」と訳すのであるが、文字通り、その超能力が普遍的なものであれば――即ち、もし自身の生死をも予兆することが出来るとならば――以下に記すような他愛のないブービー・トラップに引っ掛かって捕縛殺戮されることはないと思うのだが?

 「千鈞」「鈞」は目方の単位。1鈞=30 斤で、明代の1斤≒596.8gであるから、約17.9t(トン)!

 「膝無く」膝関節がないために、しゃがむことが出来ないらしい。なんらかの猿類の習性からの誤認であろうが、今は思いつくところがない。ただ、オランウータンの場合、橈骨及び尺骨が著しく長いために腕が脚の長さの2倍ある。従って、オランウータンではその長尺な前肢が強烈に記憶される傾向にあるとは言える(少なくとも私はそうである)。但し、オランウータンの下肢はと言えば、ウィキの「オランウータン」によれば、『大腿骨を骨盤に保持する股関節の靭帯がないため、ヒトや他の霊長類と異なり、オランウータンは足の動きに制約が少な』く、相当な自由運動が可能であるから、余りこの叙述とは合わない。

 「竹筒を以て臂を貫き、之を誘ひて、其の笑ふ時を侯がひ手を抽きいだし、錐を以て其の唇を釘つ。額に著け、死を候がひて、之を取る。」狒狒を捕獲する奇策が示されている。丁度、腕がすっぽりと軽く入る位の竹筒に片手(利き腕の右手と考えるべきであろう)を入れて、狒狒を誘い、竹筒の方を狒狒に摑ませておいて、更に狒狒が笑う時を窺って(彼等は前述通り、「笑ってから」でないと人間を食わないのである)、即座に竹筒から右腕を抜いて、錐で以って、笑ってめくれ上がっている上唇をその額の打ちつける――そうして、完全に死んでいることがはっきりしてから、捕獲するのである。以上の説明は、妙に論理的でリアルで、「山海経」の謎めいた記載を補完しているかのようである。

 「頭髮(かもじ)」「髢」「髪文字」等と書き、婦人が髪を結うとき添える毛。添え髪。入れ髪。

 「血は、靴及び緋を染むるに堪へたり」「緋」は赤く染めた絹糸を言う。ここは結果物を先に言ったために妙な違和感が生じてしまった。「その血は、繊維で編んだ靴や絹糸を赤く染めるのに極めて効果的な染料となる」の意である。

 「人をして鬼を見せしむ」中国では異界や死者の霊を見ることが出来る能力を持つ者を見鬼と呼ぶ。

 「帝、乃ち工に命じて之を圖す」この叙述が「宋【建武年中。】」からの一連の叙述であるとすれば、この画工に命じて狒狒を描かせた帝王は晋王朝を再興させた東晋の元帝司馬睿(しばえい)である。特にここで「帝」としているのは、建武元(317)年3月に安東将軍司馬睿が晋王に即位して建武と改元、翌建武2(318)年3月にその司馬睿が皇帝に即位し、大興と改元した事実と合致するように思われる。]

 

 

***

《改ページ》

みこし入道

山都

サン トウ

 

【長高無髮者

 俗云見越入

 道自後見人

 之顏云云蓋

 此山都

 之類乎】

[やぶちゃん字注:以上六行は、前三行下にいる。最後の二行は一行三字に減じているが、これは恐らく、最後の行に「乎」の助字一字が上がるのを嫌ったものである。]

 

述異記云南康有神曰山都形如人長二丈餘黑色赤目

黄髪深山樹中作窠状如鳥卵高三尺餘内甚光釆〔→采〕體質

輕虚以鳥毛爲褥二枚相連上雄下雌能變化隠形罕覩

 

みこし入道

山都

サン トウ

 

【長〔(た)〕け高く、髮無き者。俗に云ふ、見越入道。後ろより人の顏を見ると云云。蓋し此れ、山都の類か。】

 

「述異記」に云ふ、『南康に神有り、山都と曰ふ。形、人のごとく、長け二丈餘り。黑色・赤目・黄髪。深山の樹の中に窠を作〔(な)〕す。状ち、鳥の卵のごとく、高〔(た)〕け三尺餘り。内、甚だ光采〔(くわうさい)〕。體質、輕虚。鳥毛を以て褥〔(しとね)〕と爲し、二枚相連なる。上は雄、下は雌。能く變化して形を隠(〔(か)〕く)し、覩〔(み)〕ること罕(まれ)なり。』と。

 

[やぶちゃん注:見越入道は本邦の妖怪としてメジャーなものであり、その名称が妖怪として紳士録に記載されるのは、他と同じく江戸期であるが、管見によれば、第二次世界大戦中の赤紙配達人を襲う都市伝説にさえ見られ、息の長いモンスターの印象が強い。以下、ウィキの「見越入道」から引用する(一部に私の補足を加えて繋げてある)。その一般的な説話は、『夜道や坂道の突き当たりを歩いていると、僧の姿で突然現れ、見上げれば見上げるほど大きくな』り、『見上げるほど大きいことから、見上げ入道の名がついた』とされ、『そのまま見ていると、死ぬこともあるが、「見こした」と言えば消えるらしい。主に夜道を1人で歩いていると現れることが多いといわれるが、四つ辻、石橋、木の上などにも現れるという』。別な伝承では、『見越し入道に飛び越されると死ぬ、喉を締め上げられるともいい、入道を見上げたために後ろに倒れると、喉笛(声を出すために必要な器官)をかみ殺されるともいう』。地方別の差異を見ると、『九州の壱岐島では見越し入道が現れる前には「わらわら」と笹を揺らすのような音がするので、すかさず「見越し入道見抜いた」と唱えると入道は消えるが、何も言わずに通り過ぎようとすると竹が倒れてきて死んでしまう』、『岡山県小田郡では、見越し入道に出遭った際には頭から足元にかけて見下ろさなければならず、逆に足から頭へと見上げると食い殺されてしまうとい』、『その他の対処法としては「見越した」「見抜いた」と唱えるほか、度胸を据えて煙草を吸っていたら消えたとか(神奈川県)、差金で見越し入道の高さを計ろうとしたら消えた(静岡県)などの例もある』と記す。安永2(1774)年刊の西村白鳥による三河遠江周辺の巷説俗談集である「煙霞綺談」には『見越し入道は人を熱病に侵す疫病神とされており、以下のような話がある。』正徳年間(17111714)のこと、『三河国吉田町(現・愛知県豊橋市)の商人・善右衛門が』夜行して『名古屋の伝馬町へ行く途中でつむじ風に遭い、乗っていた馬が脚を痛め、善右衛門も気分を害してうずくまっていたところ、身長1丈3、4尺(約4メートル)もの大入道が現れた。その入道はまるで仁王のようで、目を鏡のように光らせつつ善右衛門に近づいてきた。善右衛門が恐れおののいて地に伏していると、入道は彼を踏み越えて去って行った。夜明けの頃に善右衛門が民家に立ち寄り「この辺りに天狗などの怪異はあるか」と尋ねると』、そのようなものはないと答え、「それは狐狸の類が化けて人を驚かす『ミコシニュウドウと呼ばれるものではないか」との答だった。後に善右衛門は目的地の名古屋に辿り着いたものの、食欲が失せ、やがて熱病に侵され、医者の手当ても薬も効果がなく、13日目に亡くなってしまったと』記す(Oh! これは、1952年にウェスト・ヴァージニア州ブラクストン郡フラットウッズに出現した、チョー有名な宇宙人The Flatwoods Monsterフラットウッズ・モンスターじゃないか!?)。

また、『岡山県のある地域では、厠で女性がしゃがんでいると、キツネが化けた見越し入道が現れて「尻拭こうか、尻拭こうか」と言って脅かすと』も言い、『また、大晦日の夜に厠で「見越し入道、ほととぎす」と唱えると必ず見越し入道が現れるともいう』。『これらの厠に関する伝承は、厠に現れるといわれる妖怪・加牟波理入道と混同したものとの説もある』。この加牟波理入道(がんばりにゅうどう)は、厠に出現する妖怪で、鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」には、口から鳥(その鳴き声から凶鳥とされたホトトギスと思われる)を吹き出しながら便所を覗く入道姿で描かれている。さて見越し入道の由来については、例えば『福島県南会津郡檜枝岐村の伝承では鼬が化けたものとされ、入道の巨大化につられて上を見上げると、その隙に鼬に喉を噛み切られると』言い、延宝5(1677)年刊の荻田安静(おぎたあんせい)の怪談集「宿直草」『では狸が化けたものと』記し、また『狐が化けているという地方もある。信濃国(現・長野県)ではムジナが化けたものと』する。また前記福島県『檜枝岐では見越し入道は提灯、桶、舵などを手に持っており、その持ち物こそが本体で、持ち物を叩けば入道を退治できるともいう』とある。以下『人間に噛みつく』『尼入道(あまにゅうどう)という毛深くて長い首を持つ女の妖怪』という女版などを示し、名称としては『次第高(しだいだか)、高入道(たかにゅうどう)、高坊主(たかぼうず)、伸上り(のびあがり)、乗越入道(のりこしにゅうどう)、見上入道(みあげにゅうどう)、入道坊主(にゅうどうぼうず)、ヤンボシ』、『長野県南佐久郡南牧村海ノ口、新潟県赤谷村(現・新発田市)、静岡県榛原郡上川根村(現・本川根町)、周智郡三倉村(現・森町)などでは単に見越しの名で伝承されている。上川根村ではその昔、2人の若者が夜空に幟のようなものが空を登って行くのを見つけ、見越しだといって驚いたという話』、『また静岡県庵原郡両河内村(現・静岡市)ではお見越しともいって、道端にいる人に小坊主の姿で話しかけ、話している途中に次第に背が高くなり、その様子を見続けていると気絶してしまうが、「見越したぞ」と言うと消えるという。道端に優しい人の姿で現れ、通りかかった人が話しかけると、話の内容によっては大きくなってみせるともいう』。『熊本県天草郡一町田村(現・天草市)では、見越し入道と発音は同じだが漢字表記の異なる御興入道として伝承されている。下田の釜という地の一本道に現れるという身長5丈(約15メートル)の妖怪で、出遭った人を今にも嘗めるかのように舌なめずりをするという。ある者がこれに出遭い、一心に神を念じたところ、入道は神に恐れをなし、御輿のようなものに乗り、布を長く引いて山のほうへと飛び去ったという』。

次に、良安が同定候補(本文引用をしている以上、ほぼ同定としてよい)とするところの「山都」であるが、「述異記」を読むに、どうも長身というだけで、しっくりこない。尚且つ、どうもこの山都、その窠=巣なるものを見ても、前に「野女」でテクスト化した「治鳥」とよく似ている気がする(あの鳥も人型に変化する)。多田克己氏の「渡来妖怪について」の「山都」を見よう。そこでやはり多田氏も山都を、治鳥の仲間、また、後に良安が掲げるところの木客(もっかく)の仲間とされてきたことを記し、山都を魑魅の一種と規定、漢の楊孚(ようふ)の「異物志」には『江西省の東部に鵲(かささぎ)ほどの大きさの木客鳥という鳥がいて、千、百と群れをなし編隊を組んで飛ぶという。この鳥は治鳥の仲間といわれる。巣をつくるという山都も、あるいは鳥の性質をもつことを暗示しているかもしれない』とされる。『この山都の伝承が日本に伝えられたのは、宋(十一~十二世紀)時代以降であると思われる。中国の浙江省、江蘇省、福建省、江西省などは、ちょうど日中間の交通の要衝にあたっていた。そうした理由から山都の伝承が伝わったらしい。日本では愛知県で山都の妖怪が出ている。日本ではこの類をミコシとよび、見越もしくは御輿と書く。これは背の高いこの妖怪が、物陰(ヤブや竹林もしくは屏風など)から現れて、後ろからのぞきこむからだという』。『入道とは仏道に入った人、頭をそって坊主頭にした人をさした呼称である。おそらく山都の伝承と、華南(中国南部)から訪れた仏教徒(室町時代以降日本に伝来した宗派であろう)とに関係があるのであろう。入道といえば坊主頭の大男を連想することになる。大坊主もまた同じような意味で、見越し入道を大坊主とよぶ地方もある。この妖怪がムクムクと巨大化するという伝承があり、そうしたありさまから入道雲などの名称が生まれている。その巨大化するというイメージから見上げ入道伸上がり高坊主などとよばれるようにな』ったのだと推定されている。また、『長崎県五島列島ではゴンドウクジラを入道海豚とよぶそうであるが、これは身体が巨大で坊主頭、そして体が黒いことによるようである。こうしたことから体が黒くて坊主頭の巨人を海坊主とか海入道などとよぶようになったと思われる。海坊主の類もまた山都の系譜の中にあると思われ』、『海坊主との関係を暗示させるものに愛媛県の伸上がりやカワソがあり、その正体は川獺(かわうそ)であるという。川獺は水辺(海岸や河川)に棲む肉食動物で、河童に仮託された獣であり、河童の性質である相撲(すもう)好きが、この伸び上がりやカワソなどにも語られている。因幡(鳥取県)の相撲の祖神野見宿禰を祀る社がある徳尾の森に、大坊主が出現するのはとくに興味深い』とされ、最後に『岡山県では便所をのぞきこむ見越し入道の話があり、加牟波理入道と同じ雪隠(便所)で唱える「見越し入道ホトトギス」という呪文がある。江戸ではこれを眼張入道(がんばりにゅうどう)もしくは雁婆利入道とよび、見越し入道と加牟波理入道は同じものであったことがわかる』。江戸前期、貞享31686)年刊になる山岡元隣の怪談集「百物語評判」(=「古今百物語評判」)には『見越し入道を高坊主とよぶとある。高坊主は人家を訪れ、見た者は熱病となり死に至る場合もあった。こうしたことから疫病神の一種であろうといわれている。便所神もまた祇園信仰と関係し、疫病除けの民間信仰と関連があった。やはり疫神の一種とされた一つ目小僧と見越し入道は合体し、一つ目入道や三つ目入道などの妖怪が誕生したらしい。もともと山都と一つ目小僧』『は同種の精で、中国では五通七郎諸神とよんで、人家を訪れて疫病をもたらす疫鬼でもあった』という目から鱗の考証をなさっておられる。これで「見越し入道」が綺麗に「山都」にリンクした。多くの引用をさせて頂いたウィキの記載者及び多田克己先生に御礼申し上げる。

・「みこし入道」ここは通常、項目の国訓をルビで示している部分であり、「入道」と漢字が用いられているのは極めて異例。

・「光釆〔→采〕」の補正は私の判断。中近堂版でも「釆」の活字を用い、「光釆(あ)りて」と訓じているのであるが、採らない。この「釆」は音「ハン・ベン」、訓は「わける」「わかれる」(=「分」)であり、「有り・在り」の意を持たない。「采」ならば、「いろどり」の意(=「彩」)、「光彩」となり、(その巣の内側は)光輝いていて美しい、と意味が通るからである。

・『「述異記」』南朝梁(502557)の任昉(じんぼう 460508)の撰とされる志怪小説集であるが、偽作説も根強い。

・「南康」現在の中華人民共和国江西省贛州(かんしゅう)市にある県級都市南康市。「述異記」には星子県とある。

・「長け二丈」身長は凡そ5m50㎝から5m80㎝前後(この5世紀から6世紀にかけての度量衡は国家の興亡が激しく不安定であったが、現在よりの一丈=3.03mよりも、やや低めである)。

・「三尺」明代は1尺≒31.1㎝。凡そ90㎝。これは勿論、彼等の窠=巣の高さである。

・「二枚相連なる。上は雄、下は雌」巣の中の羽毛布団(二段ベッド)を描写している。二段の層状になっており、上の段に山都の♂、下段に♀が臥す、というのである。]

 

 

***

さんくわい

山※

【音灰】

サン ポイ

[やぶちゃん字注:※=「犭」+「軍」。]

 

本綱載北山經云山※状如犬而人靣〔=面〕善投見人則笑其

行如風見則天下大風

 

さんくわい

山※

【音、灰。】

サン ポイ

[やぶちゃん字注:※=「犭」+「軍」。]

 

「本綱」に、『「北山經」に載せて云ふ、『山※、状、犬のごとくにして人面。善く投〔(とびゆ)く〕。人を見る時は[やぶちゃん字注:「時」は送り仮名にある。]、則ち笑ふ。其の行〔(くこと〕風のごとく、見れば則ち天下大風〔す〕。』と。』と。

 

[やぶちゃん注:不詳。本文にある、戦国時代から秦・漢代にかけて加筆されたと思しい中国最古の幻想地理書である「山海経」の「北山経」に、獄法山(ごくほうさん)に棲息する生物として記載するが、他に余り例を見ない。ヤマイヌかオオカミの誤認のように見えるが、一番似ているのは勿論、江戸期の巷説に登場する人面狗や、ズバリ、19891990年頃に流行った都市伝説の幻獣たる人面犬である。なお「※」の字は[※=「犭」+「軍」。]、本幻獣を第一義とし、別に北アジアに一大勢力を築き、歴代の王朝を脅かした「匈奴」の別名でもあるが、幻獣やそのモデルらしきものとの直接の関連はなさそうである。

・「投(とびゆ)く」訓読に苦労する部分である。東洋文庫版現代語訳では「投(と)ぶ」と気軽に訓じているのであるが、「投」に「飛ぶ」の意味はないから、やや苦しい(これは恐らく挿絵からの連想であろう)。私は「なげうつ・なげやる・ほうりだす」という第一義に、「すすむ・ゆく・おもむく」という別義を合わせて「身を投げ出すように行く」の意から「とびゆく」と訓じておいた。

・「見れば則ち天下大風す」この幻獣が見えた時は、必ず全天荒れ狂う大風、台風となる、の意で、ここから私は、この幻獣は台風接近時の気象上の変異を示しているのではあるまいかと考える。片雲の一種である黒猪雲(くろちょぐも)は、これが高層雲の下を飛ぶようになると、高い確率で強い雨が到来する。]

 

 

***

《改ページ》

■和漢三才圖會 恠類 卷ノ四十 ○十五

もつかく

木客

  【別有木客鳥

   見于禽部】

モツ ケツ

 

本綱載幽明録云生南方山中頭靣〔=面〕語言不全異人但手

脚爪如鈎利居絶岩閒死亦殯※能與人交易而不見其

形也今南方有鬼市亦類此

[やぶちゃん字注:※=「歹」+「隻」。]

 

もつかく

木客

  【別に木客鳥有り。禽(とり)の部に見ゆ。】

モツ ケツ

 

「本綱」に、『「幽明録」に載せて云ふ、『南方の山中に生〔(せい)〕す。頭・面・語言、全く人に異ならず。但し手脚の爪、鈎〔(かぎ)〕のごとく利〔(と)〕し。絶岩の閒に居み、死するも亦、殯※〔(ひんせき?)〕す。能く人と交易して〔→するも〕、其の形ちを見せず。今、南方に鬼市有ると云ふは亦、此れに類す。』と。』と。

[やぶちゃん字注:※=「歹」+「隻」。「鬼市有ると云うは」の「云」は送り仮名にある。]

 

[やぶちゃん注:山都で引用した多田克己氏の「渡来妖怪について」の「山都」にある通り、この木客は、先に示した山都・治鳥の仲間、魑魅の一種とされ、漢の楊孚(ようふ)の「異物志」には『江西省の東部に鵲(かささぎ)ほどの大きさの木客鳥という鳥がいて、千、百と群れをなし編隊を組んで飛ぶという。この鳥は治鳥の仲間といわれる。巣をつくるという山都も、あるいは鳥の性質をもつことを暗示しているかもしれない』とされているが、ここの叙述を読むと、普通の人が登れないような断崖絶壁に住むという特性はやはり鳥の性質を暗示させるとは言えないだろうか。但し、私にはこの「木客」なるものが、一種の少数民族若しくは特殊な風俗を有する人々の誤認ではないかという確信に近いものがある。それは死者を断崖絶壁に埋葬するという習俗が、四川省の崖墓(がいぼ)を容易に連想させるからである。これは懸棺葬・懸崖葬などと呼ばれる葬送民俗で、NHKが「地球に乾杯 中国 天空の棺〜断崖に消えた民族の謎〜」で2004年に紹介したものを私も見た。これについては、H.G.Nicol氏のブログ「民族学伝承ひろいあげ辞典」の「懸棺葬・懸崖葬・崖墓」を是非、参照されたい。懸棺葬や地図の写真・リンクも充実した素晴らしい記載である。思うに彼等は、埋葬の際、また、日常生活にあって、断崖や山上の菌類・山野草を採取する道具として、四肢に鈎状の器具を装着していたのではあるまいか。識者の御教授を乞うものである。

・「木客鳥」巻第四十四山禽部の該当項を読んでみても、治鳥のような妖異性が認められず(故に面白くない。但し、「治鳥」はこの二つ前の項ではある。下記リンク先を見て頂ければ分かる通り、間に入っているのも「山蕭鳥(かたあしどり)」=「獨足鳥」という一本足の妖鳥、記載中にある同類種二種も人面一足ときたもんだ!)、私には実在する鳥類に比定出来るのでは、とさえ思わせる鳥である。良安も全くの別種として取り扱っており、ここに翻刻する意味を感じない。今回は翻刻を見送ることとし(「治鳥」翻刻での失意の経験未ださめやらず)、九州大学デジタル・アーカイブの「和漢三才図会」の「木客鳥」をリンクするに留める(ここで読者諸氏は私が翻刻している原本と同じ版の画像を見ることが出来る)。

・『「幽明録」』南北朝時代の南朝の一つである宋王朝(劉宋 420479)の武帝の甥で、鮑照などの優れた文学者をそのサロンに招いたことで知られ、名著「世説新語」の作者とされる文人劉義慶(403444)が撰した志怪小説集。

・「殯※」[※=「歹」+「隻」。]「※」の音は不詳。仮に(つくり)の「隻」の音で「ひんせき」と読んでおいた。恐らく、死者を棺に入れて、祭ることを言うものと思われる。東洋文庫版でもそのように訳されている。識者の御教授を乞う。

・「能く人と交易するも、其の形ちを見せず」巷間の人間と物の売買を行うが、容易にはその姿を見せない、という意味で、めったに実体を見せない、極稀にしか、交易しない、という意味であろう。東洋文庫版のように『よく人と交易もするが、その姿は見せない』という訳では如何にも不満である。第一、姿を見せずに商売をすることなど不可能である。特殊な仲買人を通してしか接触しないとか、近くの木や崖上にでも隠れて物々交換をするとか、無人販売を装うとでもいうのであれば、そのような推測した補注を施すべきである、というのが私の注に対するポリシーなのである。

・「鬼市」私が最初にこの語を見たのは、諸星大二郎の漫画「諸怪志異」の「鬼市」であったが、そこでは異界の化物や霊が立てる市であった。ここで言うのは、公的な行政許可を得た市ではなく、山岳部の少数民族や僻村の者達が、町へ下りてきて非公式に開く市のことを言うか。また、狭義には、諸星の作品でも暗に示されていたかと思われるが、中国で飢饉があった際、食人するにしても自分の子供を食うに忍びず、夜陰に紛れて人身売買の市を開き、子を交換して食ったという食人習俗での人肉市の呼称であったという伝承も耳にしたことがある。ここに記しおく。]

 

 

***

やまわろ 【俗云也末和呂】

山𤢖

サン ツアウ

 

神異經云西方深山有人長丈餘祖身捕蝦蟹就人火炙

食之名曰山𤢖其名自呼人犯之則發寒熱蓋鬼魅耳惟

《改ページ》

畏爆竹※2※3聲

[やぶちゃん字注:「※2」=「火」+(「幅」-「巾」)。「※3」=「火」+(「轉」-「車」)。]

△按九州深山中有山童者貌如十歳許童子遍身細毛

[やぶちゃん字注:「九州」の「州」の字は明らかに「列」であるが、補正した。]

柿褐色長髮蔽靣〔=面〕肚短脚長立行爲人言而※4也杣人

[やぶちゃん注:「※4」=「言」+「足」。]

 互不怖與飯雜物喜食助斫木之用力甚強若敵之則

 大爲災所謂山𤢖之類小者乎【川太郎曰川童是曰山童山川異同類別物也】

 

やまわろ 【俗に也末和呂と云ふ。】

山𤢖

サン ツアウ

 

「神異經」に云ふ、『西方深山に人有り、長け丈餘、祖-身(はだか)にして、蝦・蟹を捕へて、人に就きて火に炙り、之を食ふ。名を山𤢖と曰ふ。其の名を自ら呼ぶ。人、之を犯せば、則ち寒熱を發す。蓋し鬼魅のみ。惟だ爆竹の※2-※3(ばちつ)く聲を畏る。』と。

[やぶちゃん字注:「※2」=「火」+(「幅」-「巾」)。「※3」=「火」+(「轉」-「車」)。]

△按ずるに、九州の深山の中に山童(やまわろ)と云ふ者有り[やぶちゃん字注:「云」は送り仮名にある。]。貌、十歳許りの童-子(わらべ)のごとく、遍身、細毛、柿褐色、長髮、面〔(かほ)〕を蔽ふ。肚、短かく、脚、長く、立行して人言を爲して、※4(はやくち)なり。杣(そま)人、互に怖れず、飯・雜物を與へれば、喜びて食ふ。斫木〔(しやくぼく)〕の用を助け、力甚だ強し。若し之に敵すれば、則ち大いに災ひを爲す。所謂、山※1の類の小者か【川太郎を川童〔(かはわろ)〕と曰ひ、是れを山童と曰ふ。山・川の異にして同類の別物なり。】。[やぶちゃん注:「※4」=「言」+「足」。]

 

[やぶちゃん注:多田克己氏の「渡来妖怪について」の「山童」には、本来の大陸起源の「山𤢖」(やまわろ/さんそう)について、まず一般に中国の伝説によく見られるものに片目片足の妖怪、「虁」(き)を起源とする、とされる(以下、本文では「やまわろ」を用いる)。因みに「廣漢和辭典」の「虁」の解字には『象形。一本足の神怪の獣。その形状について、説文では竜のごとく人面といい、山海経(大荒東経)では牛に似るといい、国語、魯語の韋昭の注には人面で猿の形をなすという。』とある。多田克己氏は、更に、この虁が零落した幻妖を総称したものが「魑魅」(ちみ)であったとし(本記載の「蓋し鬼魅のみ」という叙述と類似)、この「やまわろ」も虁の『直接の子孫であり、魑魅の代表的な精(妖怪)で』、現在、中国にあってはこの「やまわろ」『などの疫病や火災をもたらす悪鬼を五通七郎諸神とよんでいる』とする。そしてこの「やまわろ」の日本渡来の時期について、中国浙江省にかつて存在した越(えつ)の滅亡(紀元前334年頃)以降に、『稲作伝来とともに九州西岸に断続的に伝来してきたのであろう』と推測されている。以下は、ここで良安が仮同定しているように、本幻妖を本邦の山童(やまわろ/やまわらわ)と認定し、多田氏の見解とウィキの「山童」等を参考に総論する。山童は良安の言う通り、九州を始めとする主に西日本に広く伝承される童子姿の妖怪を言う。一般的には上述の虁が既に定着していた妖怪である河童と習合したものと考えられているようである。そのため、日本各地に伝承される山童の形態・習性は、一つ目のような中国の虁本来の特徴が濃厚なものから、河童と殆んど変わらないのものに至るまで、極めて変化に富んでいる。多田氏は具体例を挙げて、『沖縄のキジムナー群や奄美大島のケンモンやヤマンボ、あるいは岐阜県のヤマガロやヤマンボなどは河童の特徴がほとんど見られない。一方、鹿児島県のガラッパ、ガーロ、ガワロなどの類は、完全に河童と同化してしまっている例である。また韓国済州島のトチェビも、八割がたキジムナーやケンモンなどの特徴と共通し、起源を同じくしていることがわかる』と記されている。ウィキの方を見ると『三重県を除く西日本では、河童が山に移り住んで姿を変えたものが山童だといわれており、特に秋の彼岸に河童が山に入って山童となり、春の彼岸には川に戻って河童になるとする伝承が多い』とある(三重県以外が総て河童起源であるというように読めるのは、やや乱暴に感じられるが)。『宮崎県の西米良地方では、セコが夕方に山に入り、朝になると川に戻るとい』い、『熊本県南部ではガラッパが彼岸に山に入って山童になり、春の彼岸に川に戻ってガラッパになるという』とあり、『このような河童と山童の去来を、田の神と山の神の季節ごとの去来、さらには夏季と冬季に二分される日本の季節に対応しているとする見方もある』と記す。民俗学を少しでも齧った方ならば、この考察は極めて自然に浮かぶものとは思われる。「神異経」も良安も、この「やまわろ」について、彼等を傷つけたり、必要以上にはむかったりすると災いを受けると叙述するが、ウィキには『山へ行き来する際には集団で家の屋根伝いに行動するというが、この通り道はオサキと呼ばれ、人がここに家を建てると怒り、壁に穴をあけてしまうという。またこの川に戻る山童たちを見に行こうとすると、必ず病気になってしまう』(これは多田氏の著作の叙述によるもの)とあったり、ここの良安の叙述と同様、『山中で樵の仕事を手伝ってくれることがあるが、そんな時にお礼として酒や握り飯をあげると繰り返し手伝ってくれる。熊本の葦北郡では山仕事が多いとき「山の若い衆に頼むか」と言って山童に頼むという』という事例、『また礼をあげるときは飯でも魚でも、たとえ量が少なくても最初に約束した物でなければならないといい、そうしないと山童は怒るという。仕事の前に礼の食べ物をあげると食い逃げされてしまうという』ともあり、以下、『河童と同じく相撲好きだともいわれる。牛や馬に悪戯を働くことを好むとも、人の家に勝手にあがりこんで風呂を使うとも』言い、『その入浴した湯船には脂が浮いて汚れているとされる』。「山童」の報告例が稀な東日本にあっては、天狗倒し(山中で木を切る音や木が倒れる音だけがして、その跡がまるでないという現象)や山中での怪現象が、山の神や天狗の仕業とされるのに対して、『西日本では多くがこの山童の仕業とされる』。『人間が山童を殺そうと考えると、その心を読んですぐ逃げてしまうとの説もあるが』、『これは人の心を読むといわれる妖怪・狒々の伝承の混同とされる』とする(前掲項「狒狒」に「善く生死を知り」とあった)。『前述の天狗倒しの様な音は山童自身が発しているとされ、熊本県では倒木や落石の音のほかに、人間の歌を真似たり、工事のモッコが土を落とす音やダイナマイトの音までもさせたという話がある』とある。『山童と同種とされる妖怪はセコ、カシャンボ、木の子など多数の伝承が』認められ、『飛騨(現・岐阜県)ではヤマガロともいい、山に入って来る樵から弁当を奪うなどの悪戯を働くという』。なお、当該ウィキに示されている山童の形態は良安の叙述を用いたものと思われ全く同じであるが、ウィキの画像にも示されており、しばしば目にする二枚、佐脇嵩之(さわきすうし)の「百怪図巻」の「山わらう」と鳥山石燕「画図百鬼夜行」の「山童」は、一見忘れ難い一つ目で、この一つ目の形状が私には、所謂、単眼症 Cyclopiacyclocephaly or synophthalmia)を連想させる。「童」とくると、もういけない。実際には鼻の位置が目の上部にあったり、形成されなかったりするから、実際の病態の子供とはあまり似ていないと言えるし、通常は成長出来ないから、これが単眼症の人間であるというわけではない。しかし、柳田国男が解き明かしたところの民俗学的な「一つ目小僧」の学術的ルーツとは全く別の、闇から闇へ葬られた実際の奇形児の記憶が、そこには確かにあったものと思うのである。それを我々は、ベトナムの枯葉剤や、チェルノブイリ原発の事故が齎した新たな悲惨として、直視しなくてはならないのである。

「神異經」前漢代の東方朔(BC15492)の著とされる神怪について叙述された書。実際には南北朝晉以後の偽作と思われる。

「鬼魅」妖怪・化け物。

 「※2-※3(ばちつ)く聲」[「※2」=「火」+(「幅」-「巾」)。「※3」=「火」+(「轉」-「車」)。]「※2」は音「ヒョク・ビキ・ホク・ボク」で、かわかす、火で肉をかわかすの意(「※3」は「廣漢和辭典」に所収しない)で、意味不明。しかし、爆竹とあるから、これは単なる「バチバチ」「パンパン」に相当する擬音語であろう。

 「△按ずるに、……」以下最後まで、東洋文庫版注によると、私が依っている五書肆版「和漢三才図会」と杏林堂版とでは異なる旨、記載がある。私は杏林堂版を所持していないため、本来は著作権上やりたくないのだが、注に該当部分(現代語訳部分)を以下に引用する。

≪引用開始≫

 思うに世間では次のように語っている。筑前と五島の山中に動物がいる。形状は人のようで面は円く、髪は赤くて長く目までを掩(おお)っている。耳は犬のように尖っていて、手脚は人のようである。鼻孔は一つで、鼻の上に目が一つある。声は童児のようである。雨中に穴から出ているものをみたものがいる。山和呂と称する。いつも蟹や萆薢(ところ)・楮(こうぞ)の根を食べる、と。思うにこれは山𤢖の類であろうか。

≪引用終了≫

「萆薢(ところ)」は単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の「~ドコロ」(「トコロ」は「野老」と漢字表記する)と和名がつく蔓性多年草の一群。多くの種があるが、ただ「野老」と言った場合、しばしばオニドコロDioscorea tokoroを指す。ウィキの「トコロ」によれば、『ヤマノイモなどと同属だが、根は食用に適さない。ただし、灰汁抜きをすれば食べられる。トゲドコロは広く熱帯地域で栽培され、主食となっている地域もある。日本でも江戸時代にはオニドコロ(またはヒメドコロ)の栽培品種のエドドコロが栽培されていた』とある。「楮」は御存知の通り、その樹皮を和紙の原料とする双子葉植物綱イラクサ目クワ科コウゾ属コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera(ヒメコウゾBroussonetia kazinokiとカジノキBroussonetia papyriferaの雑種)のこと。

 「柿褐色」これは「かきかちいろ」とでも読むか。柿色や柿衣色(かきそいろ)ならば、所謂、柿の実の色のような(実際の柿渋などを用いた)黄赤色である。文字通りなら、その赤み(褐色)が強いものとればよいのだが、どうも「褐色」は「かっしょく」ではなさそうだ(「かきかっしょく」「しかっしょく」というのは如何にも変な読みであり得ない)。これは褐色(かちいろ)であろう。紺色より濃い、黒に近い程の藍染の色を言い、暗紫色がかった暗い青を言う。しかし褐色がこんなに強く暗系色だとすると、柿色の方が消えしまう。何方か、色にお詳しい方の御教授を願うものである。

 「※4(はやくち)」[「※4」=「言」+「足」。]「廣漢和辭典」に所収しない。しかし、「早口」という謂いは、すんなり来る。

 「斫木」木を伐ること。因みに「斫」の部首は「石」ではなく、「斤」(おのづくり)である。

 「川太郎」河童の別名。後掲項参照。ここの部分は従って、

川太郎のことを別名、この山童と同じように川童と言い、この「やまわろ」なるものをも「山童」と言う。ということは(次注参照)……

の意である。

 「山・川の異にして同類の別物なり」やや捩れた表現である。生物学の用語を用いて分かり易く訳すと、

(前注参照)……ということは「やまわろ」は山の異獣であり、「かわわろ」即ち河童は川の異獣であって、これらは大きなタクソン(分類単位)の中では同一のグループに属する(例えばの目や族)が、しかし、「やまわろ」=「河童」ではない。即ち、科或いは属や種のレベルでは、全くの別の生き物である。

ということを言っているのである。]

 

 

***

さんせい 【かたあしの

        山おに】

山精

サン ツイン

 

永嘉記云【安國縣】有山鬼形如人而一脚僅長一尺許好盗

伐木人塩炙石蟹食人不敢犯之能令人病及焚居也

玄中記云山精如人一足長三四尺食山蟹夜出晝伏千

歳蟾蜍能食之

枹〔→抱〕朴子云山精状如小兒獨足向後夜喜犯人其名曰魃

《改ページ》

■和漢三才圖會 恠類 卷ノ四十 ○十六

呼其名則不能犯人

 

山丈山姑

本綱載海録※〔→砕〕事云嶺南有物一足反

踵手足皆三指雄曰山丈雌曰山姑能

[やぶちゃん字注:「※」=「礻」+「集」。これは示した通り、「砕」の誤字である。以上二行は「山丈山姑」の下に入る。]

叩人門求物也

 

さんせい 【かたあしの山おに。】

山精

サン ツイン

 

「永嘉記」に云ふ、『【安國縣に】山鬼有り、形、人のごとくにして一脚。僅かに長さ一尺許り。好みて伐--人(そまびと)の塩を盗みて、石蟹を炙く〔→りて〕食ふ。人、敢へて之を犯さず。能く人をして病〔ましめ〕、及び居を焚(や)かしむる〔→むれば〕なり。』と。

「玄中記」に云ふ、『山精は人のごとくにして一足、長さ三~四尺。山蟹を食ふ。夜、出でて、晝は伏(かく)る。千歳の蟾-蜍(ひきがえる)、能く之を食ふ。』と。

「抱朴子」に云ふ、『山精は、状、小兒のごとく、獨(ひと)つの足、後〔(しり)〕へに向く。夜、喜んで人を犯す。其の名、魃(ばつ)と曰ふ。其の名を呼べば則ち人を犯すこと能はず。』と。

 

山丈山姑(やまをとこやまうば)

「本綱」に「海録砕事」を載せて云く、『嶺南、物有り、一足、反踵、手足皆三つ指なり。雄を山丈と曰ひ、雌を山姑(やまうば)と曰ふ。能く人の門を叩き、物を求む。』と。

 

[やぶちゃん注:「山精」は本来、広範なアニミズムの山川草木に対する精霊崇拝から生じた山の霊、神怪及びそれが零落した化け物を指す語であったと思われる。多田克己氏の「河童と山童について」の中に、前項で示した『山童はおもに九州中南部の山林に棲む童子形の妖怪で、その名称と性質(性格)は、中国浙江省の山ソウや、広東省、広西壮族(こうせいチュワンぞく)自治区の山ショウ、河北省の山精などを起源としていると思われる』と考察されている(「ソウ」は前項の〔「犭」+(「操」-「扌」)〕、「山ショウ」の「ショウ」は恐らく「魈」と思われる)。

 更に多田氏は「キ・片足神(一本ダタラ、山精)」のページで以下のように述べておられる(今回は、そのままコピー・ペーストした。頻繁に現れる「キ」は前項で片目示した片足の妖怪「虁」、「キ竜」の「キ」は恐らく「兀」の3画目上部に「虫」の入ったもの、「竜キョ」の「キョ」は不明、「山ソウ」の「ソウ」は前項の〔「犭」+(「操」-「扌」)〕で、「山ショウ」の「ショウ」は恐らく「魈」と思われる)。

   ≪引用開始≫

 キは、紀元前千七百年から前千百年頃の古代中国に栄えた殷の最高神の一つで、キ竜もしくは竜キョなどとよばれて、後の周、秦、漢と続く王朝の象徴となる竜の原型であったと思われる。キを崇拝していた殷(商)が周に滅ぼされると、たちまちキは土俗神に零落し、かろうじて周辺の少数民族である苗(ミャオ)族や越(ベトナム系)、呉(タイ系)などに、風雨(雷)神もしくは鍛冶(青銅)神として信仰され、生き残ったものと思われる。
 殷(商)時代に竜蛇形として信仰されていたキは、東南アジアの水神の一般イメージである牛神と習合し、紀元前五~三世紀に成立した『山海経』では、角のない片足の牛の姿を描写している。その身体の蒼い色とは青銅の錆びた色と同じで、その皮で太鼓をつくり、雷獣の骨でたたくと、その声は五百里のかなたまで聞こえたとは、いわば青銅製の鼓を表現したものであろうか。
 これは現在、山梨県東山梨郡春日居町鎮目の山梨岡神社に、飛騨匠作と伝えられる雷神キの神として信仰されている。その姿は『山海経』に描写されている姿にきわめて似ている。
 『山海経』の大荒西経には、この牛形のキとは違った嘘(きょ)を紹介している。人面で臂(うで)がなく、両足は反り返って頭の上についていとある。これはキを信仰する少数民族そのものをキに見立てて妖怪視したもので、後世山ソウや山ショウの妖怪が生まれることになる。
 漢代以前、貴州(貴州省)は鬼州とよばれてキが居住する地とされていた。前76世紀の春秋時代の四川省東部に、この《キ》とよばれる氏族がいたことが知られている。婦人を背に負う習俗をもつ種族を《キ一足》と『論衡』で語っているが、これは苗族と同族のヤオ族の習俗であった。
 『書経』の「尭典」には舜(古代説話に見える五帝のひとり)の楽官としてキが登場する。これは銅鼓をもって遠距離通信、音楽をおこなっていた苗、ヤオ族の習俗に近い。『国語』の「魯語」によればキを一本足の人面猴身と記して、猿人のような一本足の精として描写している。これを『抱朴子』内篇の登渉17に「さらに山精がいる。鼓のように赤い色をしていて一本足で、その名を暉(キ)という……」とあり、さらに「竜のようで(竜の姿に似て)五色で赤い角があり名を飛飛(飛竜)という」とあって、キの古形である竜蛇形の姿を描写している。
 『永嘉郡記』には暉の別名として山魅、山駱、熱肉、飛竜、山蕭は『酉陽雑爼』の山ソウ、『広異記』や『太平広記』の山ショウ、『捜神後記』の山ソウと同じものである。
 また治鳥は、浙江省に棲む山ソウの一種で、昼は鳥、夜は人に変身し深山に棲み、虎を使役するという。『三才図会』には越人の祖神(キ)であるとして、『和漢三才図会』では天狗(烏天狗)の原型(ルーツ)だとしている。山ソウは日本で山童とよばれ、猿人のような姿を描写しており、一部では一つ目一本足の暉や山ショウは雄を山公とよび、雌を山姑とよび、日本では雄を山父や山爺などとよび、雌を山姥とか山女などとよんでいる。こうしたキを祖とし、日本では山神一般を一つ目一本足の姿として描写するようになったと思われる。
 もともと山の木石の精霊を示す魑魅(ちみ)という総称が、元来キであったことから、日本における山神や山の妖怪全体にその影響がおよんでいるのだろう。狒々をヤマワロウとよんで同一視したり、山精と旱魃を同じものと考えたりしている。
 今日一本ダタラや山爺など一本足で一つ目であるという姿形の伝承は、タタラ(鍛冶)師の職業病が由来であると説明されるが、これら一つ目一本足の妖怪の変遷をふまえると、単純な説明ではいいあらわせないものがあることが想像できる。

   ≪引用終了≫

 次に良安が同一項内第二項として掲げる「山丈山姑」についても、やはり多田氏の「山丈・山姑」に以下の記載がある(こちらもそのままコピー・ペーストした。『ケイ楚歳時記』の「ケイ」は「荊」の字の(くさかんむり)を(へん)の上にのみ施した字形、その他のカタカナ部分は前の引用注記を参照されたい。一箇所だけ不要な空欄を削除した)。

   ≪引用開始≫

 中国広東省および広西壮族自治区に伝承される山ショウは、浙江省の山ソウや河北省の山精と同じ類である。身体的特徴は、片足で踵が反りかえり、手足の指は三本だけだという。またその吠え声は、きわめてすさまじいものであった。虎を使役するものもあり、人語を話すという。またこれの雄を山丈とよび、雌を山姑とよんでいたという。
 現在、山ショウの分布は中国南部に限られるが、かつては湖南省や江西省、湖北省または福建省にも伝承されていたと思われる。山ソウとの同一性は『ケイ楚歳時記』や『酉陽雑爼』および『永嘉郡記』などが参考となるだろう。
 この山ショウの日本への伝来がいつ頃かは不明であるが、『続百物語怪談集成』に収められた『近代百物語』には、和泉国見城(大阪府貝塚市)の海辺にこの山ショウが現れたと記されて、江戸時代の知識人には知られていたことがわかる。
 また山丈の名は高知県や静岡県でよばれ、山姑は長崎県対馬でよばれている。山爺や山父または山男は、山丈の日本名であり、山姥もしくはヤマンバは、山姑の日本名である。中国では山姑は化粧品の白粉を好むが、日本の白粉婆(おしろいばばあ)は、この性質から命名されたと思われる。また片足といわれる片脚上臈も、山姑の類のようである。
 山中で赤ん坊の泣き声をさせる児啼爺(こなきじじい)やゴギャナキなども片足だといわれる。大きく吠え叫ぶ性格から叫びなどとよばれている妖怪も、中国の山ショウと同じ性質である。

 また山女、山女郎、山婆などとよばれる山の女の妖怪も、中国の山姑が起源であろうと思われる。

   ≪引用終了≫

以上、本来なら全文引用は著作権の関係上、なるべく避けたいのであるが(当初は今までのように必要部分の引用を接合したものを作成したが、それでは却って多田氏の見解を曲げることとなりかねないという印象を持ったので急遽上記の形式に変更した)、「山精」「山丈山姑」についての纏まった満足の出来る叙述は、この多田氏のもの以外、今のところ見当たらないので、御容赦頂きたい(ウィキ等は良安の叙述の現代語訳でしかない)。また、これらの引用は、正にこの良安の叙述の最良の注釈でもあるからである(万一、過剰引用であるとの御本人からの疑義が出れば、総て削除する)。

 『「永嘉記」』多田氏の叙述に登場した「永嘉郡記」のこと。宋代の鄭緝之(ていしゅうし 420479)撰になる浙江省永嘉郡の地方誌。

 「安國縣」現在の河北省保定市にある県級市である安国市。古来、製薬で知られ、現在でも「薬都」「天下第一薬市」の異名を持つ(ウィキの「安国市」を参照した)。

 「長さ」これは身長の謂い。

 「石蟹」「山蟹」軟甲(エビ綱十脚(エビ)目目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科 Potamoideaに属する淡水産カニ類と思われる。

 『「玄中記」』晋の郭璞の撰になる道教の書であるが、後に散佚、現在知られるのは「太平御覧」「太平広記」等に引用されたもの。

 「千歳の蟾蜍」千年を経た両生綱無尾目カエル亜目ヒキガエル科 Bufonidaeのヒキガエルの類の謂いであるが、次注に示す葛洪(かっこう)の「抱朴子」には、

猴八百歳變爲猿、猿五百歳變爲玃、玃千歳變爲蟾蜍。

(猴は八百歳にして變じて猿と爲り、猿は五百歳にして變じて玃(かく)となり、玃は千歳にして變じて蟾蜍(せんじよ)と爲る。)

とある。この脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科 Cercopithecidae オナガザル亜科 Cercopithecinaeのマカク属 Macacaを総称する「猴」や幻獣「玃(やまこ)」は本ページの前掲項にあればこそ、ここではこの幻獣「玃」の変じた80050010002300歳のヒキガエルならぬ山怪蟾蜍こそが、ここでの謂いなのかも知れぬ。そうでなければ、いくら何でも「ただの」甲を経たヒキガエルが、身長1m内外の幻獣たる山精を好物とする、というのは考えにくいからである。

 『「抱朴子」』、西晋・東晋の神仙家であった葛洪(かっこう 283?~343?)の撰になる神仙思想と煉丹術の理論書。

 「獨つの足」一本足であることを言う。

 「魃」詳しくは次項「魃」を参照してもらいたいが、明の王圻(おうき)が記した「三才図会」に示された「神魃」は、魑魅に類して人面獣身、手足が一本ずつ、剛山に多く棲息して、これが居る所は雨が降らない(旱魃のルーツ)とあるのが、形態的には近い。

 『「海録砕事」』南宋の葉廷珪(ようていけい)の撰の16584項目からなる一種の百科事典。

 「嶺南」現在の広東省及び広西チワン族自治区の全域と湖南省・江西省の一部に当たる地域。

 「反踵」踵(かかと)が反り返っていること。但し、図を見る限りでは、「抱朴子」の叙述のように「後へに向」いている、即ち、足首が反り返るどころではなく、大腿骨骨頭以下が逆についている(膝関節の位置を見よ)というのが正しいように思われる。]

 

 

***

ひてりかみ  旱母

【音拔】

       【和名比天

        利乃加美】

バツ

 

三才圖會云剛山多神魃亦魑魅之類其状人靣〔=面〕獸身手

一足一所居處無雨

本綱載神異記云南方有魃【一名旱母】長二三尺裸形目在項

上行走如風見則大旱

文字指歸云旱魃山鬼也所居之處天不雨女魃入人家

能竊物以出男魃入人家能竊物以歸

[やぶちゃん字注:「竊」の字は底本では(あなかんむり)下の左手が「耒」、右手が「禺」であるが、明らかな誤字であるので改めた。以下、同じ。]

《改ページ》

時珍云按山※以下恠類諸説雖少有參差大抵倶是恠

[やぶちゃん字注:「※」=「犭」+(「操」-「扌」)。]

 類也山※即獨脚鬼者是也邇來處處有之能隠形入

 人家媱亂致人成疾放火竊物大爲家害法術不能驅

 醫藥不能治呼爲五通七即〔→郎〕諸神而祀之蓋未知其原

 又有治鳥亦此類【見禽部】精恠之属甚夥皆爲人害然正

 人君子則德可勝妖自不敢近也

 

ひでりがみ  旱母

【音、拔。】

       【和名、比天利乃加美。】

バツ

 

「三才圖會」云ふ、『剛山神魃多し。亦た、魑魅の類なり。其の状ち、人面にして獸の身、手一つ、足一つ。所居の處、雨無し。』と。

「本綱」に「神異記」を載せて云ふ、『南方に魃有り【一名、旱母。】。長さ二~三尺、裸-形(はだか)。目、項上に在り。行き走ること、風のごとく、見る時は則ち大いに旱す[やぶちゃん字注:「時」は送り仮名にある。]。』と。

「文字指歸」に云ふ、『旱魃は山鬼なり。所居の處、天、雨ふらず。女魃は人家に入り、能く物を竊(ぬす)み以て出づ。男魃は人家に入り、能く物を竊み以て歸る。』と。

時珍云ふ、『山※以下の恠類諸説を按ずるに、少し-差(たがい)有ると雖も、大抵、倶に是れ恠類なり。山※は即ち獨脚鬼と云ふ者、是れなり[やぶちゃん字注:「云」は送り仮名にある。]。邇-來(ちかごろ)、處處、之有り。能く形を隠して人家に入り、媱亂、人、疾〔(やまひ)〕成すに致る。火を放ち、物を竊み、大いに家害を爲す。法術、驅〔(く)すること〕能はず、醫藥治すること能はず。呼びて五通七郎諸神と爲して、之を祀る。蓋し未だ其の原〔(もと)〕を知らず。又、治鳥有り。亦、此の類【禽部を見よ。】精恠の属、甚だ夥し。皆、人の害を爲す。然れども正人君子は、則ち、德、妖に勝つべし。自(をのづか)ら敢へて近づかざるなり。』と。

[やぶちゃん字注:「※」=「犭」+(「操」-「扌」)。]

 

[やぶちゃん注:「魃」は呉音「バチ・バツ」・漢音「ハツ」で、本「旱魃」=「旱母」=「旱鬼」=「ひでりがみ」にのみ与えられた単漢字である。そのルーツは女神で「山海経」の「大荒北経」に(本文は信頼出来る複数の中国サイトのものを管見、本邦で出版されているもの等とも比べて、分かり易い本文に加工したオリジナルなものである)、

 

有係昆之山者、有共工之臺、射者不敢北向。有人衣青衣、名曰黄帝女魃。蚩尤作兵伐黄帝、黄帝乃令應龍攻之冀州之野。應龍畜水、蚩尤請風伯雨師、縦大風雨。黄帝乃下天女曰魃、雨止、遂殺蚩尤。魃不得復上、所居不雨。叔均言之帝、後置之赤水之北。叔均乃爲田祖。魃時亡之。所欲逐之者、令曰神北行先除水道、決通溝瀆。

 

○やぶちゃん書き下し文

 係昆の山なる者有り、共工の臺有り、射る者は敢へて北向せず。人青衣を衣(き)もの有り、名づけて、黄帝の女(むすめ)、魃と曰ふ。蚩尤、兵を作(な)して黄帝を伐(う)ち、黄帝、乃ち應龍をして之を冀州(きしう)の野に攻めしむ。應龍は水を畜へ、蚩尤は風伯・雨師に請ひて、大風雨を縦(ほしいまま)にす。黄帝、乃ち天女の魃と曰ふものを下せば、雨止みて、遂に蚩尤を殺す。魃、復た上るを得ず、居る所、雨ふらず。叔均、之を帝に言ひ、後、之を赤水の北に置く。叔均は乃ち田祖と爲る。魃は時に之より亡(に)ぐ。之を逐はんと欲する所の者は、令して「神、北行せよ」と曰ひ、先づ水道を除きて、溝瀆(こうとく)を決通せしむ。

 

○やぶちゃん語注

・「共工」水を司る邪神の名(「洪水」の「洪」の字は共工の名に由来するとも)。人面蛇身にして朱髪。炎帝=神農氏(本草と農業の神)の家臣とも。その共工の部下に相柳(九つの首で人面蛇身)なる者がおり、帝禹(う)がこれを滅ぼした地に作った諸帝王を祀る高台を「共工の台」と呼ぶ旨、「山海経」の「海内北経」にある。

・「射者不敢北向」理由は不明ながら、弓術家はこの「共工の台」を神聖視し、こうしたジンクスが実際にあったのであろうか(ということは、南北に布陣した場合は、南の兵はが矢を射れぬことになるが、そうした話は寡聞にして知らぬ)。

・「黄帝」五帝の一人。名は軒轅(けんえん)。この蚩尤戦の勝利によって、炎帝に代わって帝となった。医薬の神とされる。

・「蚩尤」濃霧を引き起こすなど、気象を操ることが出来た邪神の名。炎帝の家臣とも子孫ともされ、炎帝が黄帝に滅ぼされたため、蚩尤は起ったとも言われる。有象無象の魑魅魍魎を部下とし、かくのごとく黄帝と覇権を争ったが、指南車を作って正確な方位を測定し得た黄帝に涿鹿(たくろく:現在の河北省西北部の張家口市付近。)で誅殺された。

・「冀州」現在の山西省を中心とした地域で、河北省西北部・河南省北部・遼寧省西部を含む。前注の涿鹿である。

・「應龍」は龍頭鳥体の特異な形態を持った龍で、「礼記」礼運篇に、四霊(四瑞とも。超自然力を持った象徴的な霊獣)の一匹とする。 麒麟(信義)・鳳凰(平安)・霊亀(吉凶)と並んで、応龍は変幻の象徴として機能する。飛行体としてのその特異な形象は、あらゆる龍の多様な変異体の究極型という印象を持つ。まさに四霊の一として、龍の中の王と言える。「卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「應龍(おうりょう)」の項を参照されたい(図あり)。

・「田祖」日本で言う田の神。

・「溝瀆」耕作地に人工的に作った水路。

 

○やぶちゃん現代語訳

 係昆という山があり、そこには帝王を祀る共工の台と称するものがあったが、弓を射る者決して共工の台がある北を向いては矢を放つことはなかったと伝える程、神聖な台であった。

 その山に、青衣を着て住まう者がおり、黄帝の娘で、名を魃と言う。

 ある時、蚩尤が武器を製造し、黄帝を打ち滅ぼそうとした。そこで黄帝は応龍に命じて冀州の野で戦わせた。応竜は水攻めで蚩尤を苦しめたため、蚩尤は風神と雨の神を招聘、大暴風を引き起こして応戦した。そこで黄帝は天女の魃を地上に下したところ、雨が止み、遂に黄帝は蚩尤の誅殺に成功した。

 ところが戦いに能力を使い過ぎた魃は、永久に天に立ち帰ることが出来なくなってしまった。しかし、そのために魃のいる所は、何処(いずこ)も雨が降らなくなってしまった。

 この農民を困らせるゆゆしき事態を、部下であった叔均が黄帝に奏上したため、黄帝は止むを得ず、娘を赤水の北方にあった、この人里離れた係昆山に住まわせることにした。叔均はこの功により、田畑の神となった。

 しかし、不自由をかこつ魃は、時折、この係昆山を脱け出ては、各所に旱(ひで)りを齎した。

 今も、この魃を追い払おうとする者は、虚空に命じて、「神よ、赤水の北へ行け!」と唱えて、先ず田畑の水路の塵芥を綺麗に取り払い、それに続く側溝や用水路の流れを良くする。すると、魃が去って雨が降るのである。

 

係昆=赤水の北方とは書いていないが、意味を通じさせるためにそのように判断、現代語訳では附加した。因みに、一説には、その名は、本来は美しい娘を意味する「妭」であったが、以上のような日照りを齎す厄神となってから部首を美「女」→悪「鬼」に変えられ、更には「旱魃」という熟語が成立したのだとも言う。

 さて、勿論、「魃」は想像上の怪物であるが、しかし、この後の時珍の「邇來、處處、之有り。能く形を隠して人家に入り、媱亂、人、疾成すに致る。火を放ち、物を竊み、大いに家害を爲す。法術、驅すること能はず、醫藥治すること能はず。呼びて五通七郎諸神と爲して、之を祀る。蓋し未だ其の原を知らず。」(近年、各地にこの魃は出現しており、その姿を全く隠した状態で人家に易々と侵入し、人心に異常な性欲を起させたり、その心を狂わせたりして、人は重病を発症するに到る。人気がないところに火が放たれたり、物が盗まれたりして、大いに民の害毒となっている。如何なる呪術を以ってしても駆逐することが出来ず、如何なる医薬によっても治癒し得ない。そこで民は「五通七郎諸神」とこれを呼んで畏れ、これを祀ってさえいる。しかし、その本来の姿が「魃」であることを全く理解していない。)という部分を読むに、私は「魃」とは、重度の統合失調症等の難治性精神疾患や人格障害を指しているのではなかろうかという気がしてくるのだが、如何?

 

 「剛山」「山海経」に「西山経」に現われる山名。

 「神魃」魃の畏称か。この記載自体が「山海経」の「西山経」に「剛山」の部分の引き写しである。

 「魑魅」山谷木石の精気から生じる精霊。「すだま」と訓じたりする。

 『「神異記」』は前漢の東方朔(前154~前93)が記し、後に張華(232300)が整理したとされる古代神話伝説集である「神異経」の中の一部。但し、実際には「神異経」自体が晉代以降の偽作と考えられている。

 「項上」大阪中近堂版でも東洋文庫でも「頂上」とし、「項」(うなじ)では、如何にも「恠」(なればこそ「恠」類真骨「頂」とも言えるが)。絵も顔面正面頭頂近くに一眼を配すれば、誤字であろう。

 『「文字指歸」』隋の曹憲の撰になる形象・音韻及び訓詁(「訓」は解釈、「詁」は古語の意で、古語の字句の意義を解釈すること)にかかわる研究書。

 「女魃は人家に入り、能く物を竊み以て出づ。男魃は人家に入り、能く物を竊み以て歸る。」東洋文庫はそれぞれ『ぬすんで出てゆく』『ぬすんで帰ってくる』と訳しているのであるが。私は馬鹿なのか、この「出てゆく」と「帰ってくる」の違いが分からない。識者の御教授を乞う。

 「山𤢖以下の恠類」前掲「山𤢖(やまわろ)」参照。

 「參差」長短高低が不揃いなさま。多少の違いという意味で用いている。

 「獨脚鬼」人の物を盗む一本足の小人の妖怪という。ネット上に散見するものに朝鮮の妖怪「独脚鬼」(トケビ・トッケビ・ドケビ)がある(以下、引用はウィキの「独脚鬼」から)。『文字通り一本脚の鬼で悪戯好きだが頭はあまり良くなく、人間に上手く使われてしまうことも多い。鬼と言っても日本の天邪鬼のようなどこか憎めない存在である。独脚鬼は当て字で独甲鬼とも書かれた』。『トッ+アビの合成語という説がある。トッは明かりや炎を意味する言葉、アビは成人男子の意味。すなわち「火を持つ男」の意味であるという。しかし現在では、日本語の「お化け」に近い言葉として使われている。錯覚を感じさせる道路をトケビ道路と表現する例もある』。『いたずら好きで、相撲が好き。人間ととんち比べをするなど、日本の河童や天狗と共通点が多い。好物は酒、肉、そば餅など。人に相撲を仕掛けるきっかけは、豚肉である場合が多い。村人が市場で豚肉を買って帰ると、肉をくれとトケビが声をかける。村人がこれをことわると、相撲で勝負して勝ったほうが豚肉をもらう権利があると提案する。トケビに有利な提案だが、通常、村人が勝ち、トケビは肉を得られずに終わる話が多い』とあり、更に属性として好色を挙げ『トケビと一緒になった女性は福をもたらされるが日に日にやつれてしまう』と記す点、一種の零落した神のようにも思える。実際、『福や長寿をもたらす神としての側面も持つ(日本の鬼が打ち出の小槌や宝物の所有者であったり、こぶ取り爺のこぶを取るなど、ふしぎな力を持っているのと共通点が見受けられる)。なお、トケビが持っている宝物としては砧があり、現在でも韓国では急に気前のよくなった人に対して「トケビにでも会ったのか(砧でももらったのか)」という表現があるほどである』とする。但し、実は『韓国ではトケビが一本脚だと説明するものは少なく、韓国で描かれるキャラクターは2本足として描かれる。昔話に登場するトケビは見かけは人間と変わらず、昔話の登場人物も、出逢ったときはトケビと気付かない場合もある』とあるので、これは本来はトッケビが片脚でなかった可能性を示唆し、その点では、魃とはルーツを同じくしない可能性がある。『海辺、とくに干潟の多い地方では豊漁を司る存在として信仰の対象とされている場合がある。引き潮がたてる波の音はトケビの足音だとする。また、魚の多く捕れる場所を教えてくれるなどとも言われ』、『漁場を教えたり、火をおこすなどの特徴は沖縄のキジムナーとも共通する』ものである。逆に『韓国内陸地ではトケビは火災を起こす神として伝わる。トケビは共同墓地などで火を起こすという言い伝えがあり、とくに複数の家が火事になった場合にとくにトケビのしわざとされた』り、『珍島では病をうつす疫病神的存在として』伝承されているともあり、この性質は逆に、魃に共通するものとも言える。

 「媱亂」=婬乱=淫乱。国会図書館版「本草綱目」では「婬」。

 「五通七即諸神」大阪中近堂版でも東洋文庫でも国会図書館版「本草綱目」でも「五通七郎諸神」とするので原文の「即」は「郎」の誤字と断じた。ネットを見ると、これは疫病や火災をもたらす悪鬼の総称として現代中国でも用いられている語であるらしい。

 「其の原」そのルーツ、の意。

 「治鳥」人にも変身する妖鳥。前掲「野女(やまうば)」の注でテクスト化してあるので、そちらを参照されたい。

 「禽部を見よ」これは時珍の割注。「本草綱目」の「禽部」(鳥の部)を参照せよの意であるが、図らずも、良安の本「和漢三才圖會」の「禽部」(鳥の部)を参照せよ、という意味としても有効に機能するようになっている。

 「精恠の属」精霊の仲間と妖怪の仲間を合わせた大グループ。「属」はママ。国会図書館版「本草綱目」では、「恠」は「怪」であるが、「属」は「屬」ではなく現在の新字と同字を用いている。

 「正人君子は、則ち、德、妖に勝つべし。自ら敢へて近づかざるなり。」「正人君子」は「聖人君子」の意。意味は、『しかしながら、聖人君子は、確かにその人德が妖怪に打ち勝つ力を持っているのであろう、精霊・妖怪の類いは自然、聖人君子の周辺には出現しないのを常としている。』の意。これは有名な「論語」の「述而篇」にある「子不語怪力亂神」(子は怪力(りょく)亂神を語らず:聖人君子というものは、尋常でない話、徹頭徹尾力が支配する粗暴な話、道理に背いた話、神妙奇天烈摩訶不思議議な話といった人知・理性によって説明出来ない下らぬものについては語らぬものである。)を受けるのであろう。しかし、これはもしかすると、「本草綱目」に、こうした精恠の類を数多語っている時珍にしてみれば、そうしたものに対して冷淡な一部の儒学者やアカデミズムに対する皮肉なのかもしれない。]

 

 

***

みつは   【罔兩 蝄蜽

もうりやう  方良】

魍魎

      【和名美豆波】

ワン リヤン

淮南子云罔兩狀如三歳小兒赤黒色赤目長耳美髮

本綱云罔兩好食亡者肝故周禮【方相氏】執戈入壙以驅方

良是矣其性畏虎與栢曰此名弗述在地下食死人腦但

以柏[やぶちゃん注:ママ。]挿其首則死此卽罔兩也

《改ページ》

■和漢三才圖會 恠類 卷ノ四十 ○十七

 按魍魎左傳注疏爲川澤之神日本紀亦以爲水神魑

 魅以爲山神

 

みづは   【罔兩 蝄蜽

もうりやう  方良〔(まうりやう)〕】

魍魎

      【和名、美豆波。】

ワン リヤン

「淮南子」に云ふ、『罔兩は、狀〔(かたち)〕、三歳ばかりの小兒のごとく、赤黒色。赤き目、長き耳、美しき髮あり。「本綱」に云ふ、『罔兩は、好みて亡者の肝〔(きも)〕を食ふ。故に「周禮〔(しゆうらい)〕」に『【方相氏は】戈〔(ほこ)〕を執り壙(くわう)に入り、以つて、方艮を驅〔(か)〕る。』と云ふ、是れなり[やぶちゃん字注:「云」は送り仮名にある。]。其の性、虎ととを畏る。曰〔ひて〕、此れ、「弗述〔(ふつじゆつ)〕」と名づく。地下に在り。死人の腦を食ふ。但し、柏[やぶちゃん注:ママ。]を以つて、其の首を挿せば、則ち、死す。此れ、卽ち、罔兩なり。』と。

 按ずるに、魍魎は、「左傳」の注疏に、『川澤の神』と爲し、「日本紀」にも亦、以つて、「水神」と爲し、魑魅を以つて「山神」と爲す。

[やぶちゃん注:「廣漢和辭典」によれば、「魍魎」の「魍」も「魎」も、「すだま・もののけ」とする。そもそも、「魑魅魍魎」は「山川の精霊(すだま)」、物の怪のオール・スターを総称する語であるが、特に「魑」が「山の獣に似たモンスター」という具体的形象を、「魅」が「劫を経た結果として怪異を成すようになったもの」という具体的属性を附与するに止まり、「魍」「魎」は、専ら、単漢字ではなく、「魍魎」で語られることが多い。「廣漢和辭典」によれば、「魍魎」は『山水木石の精気から出る怪物。三歳ぐらいの幼児に似て、赤黒色で、耳が長く目が赤くて、よく人の声をまねてだますといわれる』と本文と同様に記してある。また、参考欄には、『国語のこだま・やまびこは、もと木の精、山の精の意で魍魎と同義であったが、その声の意から、今では山谷などにおける反響の意に転じて用いる』と次の項「彭侯(こだま)」の補注のような解説が付いている。ウィキの「魍魎」には、「本草綱目」に記されている亡者の肝を食べるという属性から、本邦にあっては、死体を奪い去る妖怪・怪事として「火車」(かしゃ)と同一視されて、「火車」に類した話が「魍魎」の名で語られた事例がある由、記載がある。本文が記載する「春秋左氏伝」や「日本書紀」の引用を見ても、「魑魅」を「山」の、「魍魎」を「水」の神や鬼とする二分法が、日中何れに於いても、非常に古くから行われていたことが見てとれる。「魍魎」は「罔兩」と同義で、「影の外側に見える薄い影」の意、及び、本義の比喩転義であろう「悪者」の意もある。別名「方良」であるが、これは「もうりょう」と発音してよい。「方」には、正にこの「魍魎」を指すための「魍」=「マウ(モウ)」との同音の、“wăng”「マウ(モウ)」という音及び中国音が存在し、「良」の方も中国音でも、「良」“liáng”と「魎」“liăng”で、近似した音である。特に「方」「良」の漢字の意味は意識されていないと思われる(というか邪悪なものを邪悪でない目出度い字に書き換える意図があったものと私は推測する)。なお、私が全巻の翻刻訳注を終えた根岸鎭衞の「耳嚢」の「卷之四」に「鬼僕の事」という一章があるので読まれたい。

・「淮南子」は前漢の武帝の頃に淮南(わいなん)王であった劉安(高祖の孫)が学者達を集めて編纂させた一種の百科全書的性格を備えた道家をメインに据えた哲学書(日本では昔からの読み慣わしとして呉音で「えなんじ」と読む)。

・「周禮」中国最古の礼書の一。「周官」とも言う。五経の一「礼記」(らいき)に「儀礼」(ぎらい)と「周礼」を合わせて「三礼」(さんらい)と称し、その中でも「周礼」は最も重要な礼書とされる。周公旦の撰と伝えられるが、成立には諸説がある。周代の行政制度を二百七十の官名を掲げ、その職掌について記述、国政の要諦をも述べる。この引用は「夏官司馬」の「方相氏」の職務に関する項にある「大喪。先柩及墓、入壙、以戈擊四隅驅方良。」(大喪。柩に先んじて墓に及び、壙に入りて、戈を以て四隅を擊ちて方良を驅す。)という記載を言う(原文は「中國哲學書電子化計劃」の「周禮」を参考にした)。これは「帝王の死に際しては、棺よりも先んじて墳墓に参り、玄室に入って、戈(ほこ)を以ってその四隅を撃ち、方良(=魍魎)を追い払う。」という意である。

・「方相氏」上記の「周礼」の「方相氏」には「方相氏。掌蒙熊皮、黃金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隷而時難、以索室驅疫」とある。これは一種の呪術を専門とする官職で、熊の皮を頭から冠って、金色に輝く四つ目の面を装着、黒衣に朱の裳を引いて、矛と盾を振り上げて、屋敷内に巣食う諸々の悪疫邪鬼を駆逐することを仕事とした。正しく追儺・節分・ナマハゲのルーツである。なお、この部分、割注になっているが、国会図書館版「本草綱目」では平文である。これは良安が参考にした「本草綱目」がしっかりした版本であったことを示している。何故なら、「周礼」では上記の通り、「方相氏」の項の最後に、この一文が現れ、「方相氏執戈……」とはなっていないからである。即ち、これは時珍が補った割注部分であるということである。

・「壙」壙穴。つか。つかあな。死体を埋める穴のことであるが、ここでは墳墓・玄室の意。

・「栢」裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワPlatycladus orientalis(シノニムBiota orientalis 及び Thuja orientalis )現生種では一属一種。朝鮮半島から中国北部に広く分布する常緑針葉高木。枝が直立するため、それを子供が万歳をしている様に比した名称。松と共に中国では墳墓に植える。

・「弗述」ネット上には「酉陽雑俎」にこの記載があるというので、「酉陽雑俎」をめくってはみたが、時間がもったいないのでやめた。その内、見つけたら、この注にアップしよう。

・『「左傳」の注疏に』「左傳」は孔子の編と伝えられる五経の一つである歴史書「春秋」の注釈書である「春秋左氏伝」(魯の左丘明によるものとも言われるが不明)のこと。「注疏」とは古書を注釈した書物である注(ここでは「春秋左氏伝」)と、その注の文章をさらに解釈した書物である疏を総称した言い方。要するに人の注に更に別な人が注を施した(本文+注釈+注釈の注釈)から成る注釈書のことと考えればよい。この引用部は、西晉の武将にして学者であった杜預(とよ 二二二年~二八四年)のもので、恐らく「春秋経伝集解」の一節である(杜預の注であることは東洋文庫版割注による孫引きであり、原典は確認していない)。

・『「日本紀」にも亦、以て水神と爲し、魑魅を以て山神と爲す。』の「日本書紀」のこと。「以て水神と爲し」というのは女神ミヅハノメのことを指している(「古事記」では弥都波能売神(みづはのめのかみ)・「日本書紀」では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記される)。以下、ウィキの「ミヅハノメ」を参考にすると、「古事記」の神産みの段では、カクツチを生んだ際に陰部が焼け爛れて苦しんでいる(これがイサナミ死因となる)イサナミの尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)と共に生まれたと記し、「日本書紀」神代、第二の一書にあってはイサナミが死ぬ間際、埴山媛神(ハニヤマヒメ)と「水神罔象女」を生んだと記す。『神名の「ミヅハ」は「水走」と解して灌漑のための引き水のことを指したものとも、「水つ早」と解して水の出始め(泉、井戸など)のことともされる。「古事記」には他に闇御津羽神(クラミツハ)があり、これも同じ語源と考えられる。「ミツハ」に「罔象」の字が宛てられているが、罔象は「准南子」などの中国の文献で、龍や小児などの姿をした水の精であると説明され』、『灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる。丹生川上神社(奈良県吉野郡)などで淤加美神とともに祀られているほか、各地の神社で配祀神として祀られている。大滝神社(福井県越前市)摂社・岡田神社では、ミヅハノメが村人に紙漉を教えたという伝説が伝わっている』とある(引用では一部の記号を変更した)。確かにこの「罔象」は「罔両」「魍魎」に近しい表記ではある……あるが、女神で、零落するでもなく、本来の猛悪な死体食をするでもない。後々まで幸せな神のままではないか! どうも私にはしっくりこない(但し、図を見ると人肉を食いそうには見えず、女性的な要素を感じさせはする。お耳がキュート!)。だいたい、続く「魑魅を以て山神と爲す」に到っては、私が馬鹿なのか、「日本書紀」の何処に書いてあるのかさえ、分からないのだ……。どうか、このお馬鹿な私に「魑魅を以て山神と爲す」の箇所を、識者の方、お教え下さい。]


***

こたま

彭侯

ポン へ゜ウ

 

木魅

【文選蕪城賦

 云山鬼也】

賈※

 【和名古太萬】

[やぶちゃん字注:「※」=「月」+「由」。以上四行は、前三行下に入る。]

 

本綱彭侯【白澤圖云】木之精也千歳之木有精状如黑狗無尾

人靣〔=面〕可烹食味【甘酸温】如狗【搜神記云】呉時敬叔伐大樟樹血出

中有物即彭侯也

△按彭侯乃木魅【古太萬】木之靈精也俗此與山彦爲一物

 誤也山彦者山行人大聲喚物則如應者乃山谷之聲

 也乃山響之畧也【比比木上畧比木比古相通爲山彦】

[やぶちゃん字注:以下、二行空き。]

《改ページ》

 

こだま

彭侯

ポン へ゜ウ

 

木魅

「文選」「蕪城賦」に『山鬼なり。』と云ふ。】

賈※

 【和名、古太萬。】

[やぶちゃん字注:「※」=「月」+「由」。]

 

「本綱」に、『彭侯は【「白澤圖」に云ふ。】木の精なり。千歳の木、精有りて、状、黑狗のごとく、無尾、人面。烹て食ふべし。味【甘酸、温。】狗のごとし。【「搜神記」に云ふ、】『呉の時、敬叔、大なる樟(くす)の樹を伐るに、血、出〔づる〕中に物有り、即ち、彭侯なり。』と。

△按ずるに、彭侯、乃ち木魅【古太萬。】木の靈精なり。俗に此れを山彦と一物と爲(す)るは誤りなり。山彦は、山行の人、大聲に物を喚(よ)べば、則ち應(こた)ふるごとし〔→き〕者、乃ち山谷の聲なり。乃ち山響の畧なり【比比木〔(ひびき)〕を上畧〔して〕云ふ[やぶちゃん字注:「云」は送り仮名にある。]。比木と比古と、相通じ、山彦と爲す。】。

 

[やぶちゃん注:木の精霊。但し、実際に煮て食うという描写が出てくる以上、何らかの動物をモデルとしては比定し得るものと考える。黒犬に似ているだけでなく、後掲する如く、「捜神記」ではイヌと同じ味がするとあり、私はネコ目(食肉目)イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミの亜種で主にユーラシア北端部に分布するシベリアオオカミ(ツンドラオオカミ)Canis lupus albus かその老衰・病変個体、又は広くユーラシア大陸に分布するイヌ科のドール(アカオオカミ)Cuon alpinus等の老衰・病変個体の誤認のように思われる。因みにドールCuon alpinus については以下にウィキの「ドール」より引用しておく。『体長88-113cm。尾長40-50cm。肩高42-55cm。体重10-20kg。背面は主に赤褐色、腹面は白い体毛で被われる。尾の先端は黒い体毛で被われる』。『耳介は大型。鼻面は太くて短い。門歯が上下6本ずつ、犬歯が上下2本ずつ、小臼歯が上下8本ずつ、大臼歯が上下4本ずつの計40本の歯を持つ。上顎第4小臼歯および下顎第1大臼歯(裂肉歯)には歯尖が1つしかない。指趾は4本』。『標高3,000m以下の森林に主に生息する。5-12頭からなるメスが多い家族群を基にした群れを形成し生活するが、複数の群れが合わさった約40頭の群れを形成する事もある。狩りを始める前や狩りが失敗した時には互いに鳴き声をあげ、群れを集結させる。群れは排泄場所を共有し、これにより他の群れに対して縄張りを主張する効果があり嗅覚が重要なコミニケーション手段だと考えられている。昼行性だが、夜間に活動(特に月夜)する事もある』。『食性は動物食傾向の強い雑食で、哺乳類、爬虫類、昆虫、果実、動物の死骸などを食べる。獲物は臭いで追跡し、丈の長い草などで目視できない場合は直立したり跳躍して獲物を探す事もある。横一列に隊列を組み、逃げ出した獲物を襲う。大型の獲物は他の個体が開けた場所で待ち伏せ、背後から腹や尻のような柔らかい場所に噛みつき内臓を引き裂いて倒す。また群れで大型食肉類から獲物を奪う事もある。巣穴にいる幼獣には獲物を吐き戻して与える。』『土手や岩の隙間などの巣穴で、11-翌4月に1回に4-8頭の幼獣を産む。繁殖は群れ内で1頭のメスのみが行う。授乳期間は2か月。群れの中には母親と一緒に巣穴の見張りを行ったり、母親や幼獣に獲物を運搬する個体がいる』とある。

 『「文選」「蕪城賦」』南北朝時代の南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集「文選」に載る南北朝宋の詩人鮑照(414?~466)の代表作にして珠玉の名品。広陵(江蘇省揚州市)の荒廃を歎く。確かに、その第三連に「木魅山鬼」と出るのであるが、これは荒れ果てた城内を畳み掛けるシーンに現れ、対句になっている次句は「野鼠城狐」である。これは「木の魅」と「山の鬼」と「野の鼠」と「城の狐」の4並列であって、「木の魅」は「山の鬼」であって「野の鼠」は「城の狐」であるという表現ではないと思われる。勿論、山の木の精霊は山の精鬼ではあるから、「木魅」=「山鬼」の等式に誤りはないが、良安のこの語義割注はおかしいと思うのである。識者の御意見を乞う。

 『「白澤圖」』「白澤」は聖獣の名。人語を操り、森羅万象に精通する。麒麟・鳳凰同様、有徳の君子ある時のみ姿を現すという。一般には、牛(若しくは獅子)のような獣体で人面、顎髭を蓄え、顔に3個・胴体に6個の眼、頭部に2本・胴体に4本の角を持つとする。三皇五帝の一人、医薬の祖とされる黄帝が東方巡行した折、白澤に遭遇、白澤は黄帝に精気が凝って物体化し、遊離した魂が変成したものはこの世に11,520種あると教え、その妖異鬼神について詳述、黄帝がこれと白澤の姿を部下に書き取らせたものを「白澤圖」という。因みに本邦では江戸時代、この白澤の図像なるものは、旅行者の護符やコロリ(コレラ)等の疫病退散の呪いとして甚だ流行した。

 『「搜神記」』東晋の文人政治家干宝(生没年未詳)の撰になる、4世紀に成った六朝期を代表する志怪小説集。神仙・方士・魑魅・妖怪・動植物の怪異等、470余の説話を、説話のタイプ別に分類して収録。後世の小説群に多くの影響を与えた。該当箇所は「卷十八」の以下の部分。

呉先主時、陸敬叔爲建安太守、使人伐大樟樹。下數斧、忽有血出、樹斷、有物、人面狗身、從樹中出。敬叔曰、此名彭侯。乃烹食之。其味如狗。白澤圖曰、木之精名彭侯状如黑狗、無尾、可烹食之。

書き下すまでもない平易な漢文なので、語注に留める。「呉先主」とは呉を建国し初代皇帝となった孫権(182252)のこと。「建安」は現在の福建省。「樟樹」は双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキCinnamomum camphora

・「比木と比古と、相通じ、山彦と爲す。」とは「比木」(ひこ)の「木」は「こ」とも読むから、「比木」(ひこ)となり、それは「比古」(ひこ)と同音で相互に通じるから、本来の「山響」(やまひびき)を略した「比比木」で、それをまた略した「比古」に元通りの「山」を冠せば「山彦」(やまびこ)となる、という意味。」

 

 

***

すいこ

水虎

シユイ フウ

 

【本草蟲部附

 録出水虎蓋

 此非蟲類今

 改出于恠類】

[やぶちゃん字注:以上四行は、前三行下に入る。]

 

本綱水虎襄沔記注云中廬縣有涑水注沔中有物如三

四歳小兒甲如鯪鯉射不能入秋曝沙上膝頭似虎掌爪

常没水出膝示人小兒弄之便咬人人生得者摘其鼻可

小使之

△按水虎形状本朝川太郎之類而有異同而未聞如此

 物有乎否

 

すいこ

水虎

シユイ フウ

 

【「本草」蟲の部の附録に水虎を出だす。蓋し此れ、蟲類に非ず。今、改めて恠類に出だす。】

 

「本綱」に、『水虎は「襄沔記」〔(じやうべんき)〕注に云はく、中廬(ちうろ)縣涑水(そくすい)有りて、沔中に注(そゝ)ぐ。物有り三~四歳の小兒のごとく、甲(かう)は鯪鯉〔(りやうり)〕のごとく、射(ゆみい)ても入ること能はず。秋、沙上に曝す。膝の頭、虎〔の〕掌・爪に似たり。常に水を〔→に〕没し、膝を出だして、人を〔→に〕示す。小兒、之を弄べば、便ち人を咬(か)む。人、生(いき)ながら得ば、其の鼻を摘(つま)んで之を小使にすべし。

△按ずるに、水虎の形状、本朝川太郎の類にして異同有り。而〔れども〕未だ聞かず、此くのごとき物有るや否や。

 

[やぶちゃん注:最早、本頁の御用達となってしまった多田克己氏の「渡来妖怪について」の「水虎」の記載によれば、『水虎は、魍魎もしくは渓鬼虫の一種』で、『陵水という川に棲む馬のような姿で虎の掌爪をもつ水盧(すいろ)もまた、この類』と推定され、「山海経」も「中山経次二経」『に記される馬腹も、人面虎身で水虎の類であると思われる』とされる。

「刀剣録」『には紀元八十三年の後漢の時代、馬腹のいたという伊水に、虎面虎爪一本脚の人膝の怪が現れたとある』。また、『四川省成都市郊外の南宋時代(九六〇~一二七九年)の墓所から、《独脚俑》という一本足のお化けの土製人形が出土した。これは四川省で呑口(どんこう)とよばれている妖怪とそっくりで、これも水虎の類であろうと考えられている。一本足という特徴は、その起源が』先にもしばしば登場した中国の祖形的神獣である虁(き)といった『一本足の神であったのかもしれない。いずれにしても猛獣である《虎》は水辺を好むとされ、水虎もまたそのような性質であったのだろう』。『また雲南省の鬼弾や、浙江省の河水鬼などの妖怪と同一視されることもあったかもしれない。鬼弾は渓鬼虫の一種とされ、河水鬼は水中に棲んで、人を溺れさせる水の霊であるといわれる』。以下、本邦の河童との関連を論ぜられ、『この水虎の日本渡来は、江戸時代以前だと想像され、江戸時代初期には日本各地でその存在が信じられていたらしく、川太郎もしくは河童ともよばれていた』とし、『川虎はこの水虎の一種であろうと思われ、河童の呼称カワコ、カワタラ、川太郎の類の語源になったのであろう。また呼称カオーラは川虎の朝鮮語読みであり、甲羅(コーラ)、ガオロ、カワエロ、カワラなどの河童の呼称の語源になっていると思われる。水虎、川虎、河童の共通点は、水辺(水中)に棲み、子供のようで、虎のように肉食で、場合によって人を襲うということ』にあるとされる。なお、『また青森県でよぶスイコ様、オシッコ様などの呼称は、明治時代に日蓮宗系の寺院が水神としてその信仰を拡めたものであった』と付言されている(「河童」については次項参照のこと)。

 『「襄沔記」』呉の従政の撰になる襄州及び沔州(何れも現在の湖北省の地方名)についての地誌。

 「中廬縣」東洋文庫割注に『湖北省襄陽県西南』とあるが、現在はこの「中盧」という地名では検索不能である。

 「涑水」不詳。同名の河川があるが、これは黄河の支流で山西省南部とあるから違う。

 「沔中」沔水。現在の湖北省仙桃市(古くは沔陽と呼んだらしい)を流れる。「三国志」「司馬懿伝」に登場する地名である。

 「鯪鯉」脊椎動物亜門哺乳綱センザンコウ目センザンコウ科Manidae センザンコウ属Manis私の電子テクスト「和漢三才圖會 龍蛇部 四十五」の「鯪鯉」の項を参照されたい。そこではミミセンザンコウ Manis pentadactyla を同定候補に挙げた。

 「川太郎」河童のこと。次項参照。]

 

***

 

■和漢三才圖會 恠類 卷ノ四十 ○十九

かはたらう

川太郎

 

一名川童

【深山有山童同

 類異物也

 性好食人舌忌

 見鐵物也】

 

△按川太郎西國九州溪澗池川多有之状如十歳許小

 兒裸形能立行爲人言髮毛短少頭巓凹可盛一匊水

 毎棲水中夕陽多出於河邊竊瓜茄圃穀性好相撲見

 人則招請比之有健夫對之先俯仰揺頭乃川太郎亦

 覆仰數回不知頭水流盡力竭仆矣如其頭有水則力

 倍於勇士且其手肱能通脱左右滑利故不能如之何

 也動則牛馬引入水灣自尻吮盡血也渉河人最可愼

       いにしへの約束せしを忘るなよ川たち男氏は菅原

相傳菅公在筑紫時有所以詠之於今渡河人吟之則無

川太郎之災云云偶雖有捕之者恐後崇〔→祟〕放之

《改ページ》

 

かはたらう

川太郎

 

一名川童(かはらう)

【深山に山童有り。同類、異なり。性、好みて人の舌を食ふ。鐵物を見るを忌むなり。】

[やぶちゃん字注:「川童」のルビは潰れており、判読が難しい。「カハワラ」とも読める。]

 

△按ずるに、川太郎は、西國九州、溪澗池川に、多く、之れ有り。状ち、十歳許りの小兒のごとく、裸-形(はだか)にて、能く立行して人言を爲す。髮毛短く、少頭の巓、凹〔(へこ)み〕、一匊水〔(きくすい)〕を盛る。毎〔(つね)〕に水中に棲(す)みて、夕陽に多く河邊に出でて瓜・茄〔(なすび)〕・圃-穀(はたけもの)を竊〔(ぬす)〕む。性、相撲(すまひ)を好み、人を見れば、則ち、招きて、之を比べんことを請ふ。健夫有りて之に對するに、先づ、俯仰〔(ふぎやう)〕して頭を揺せば、乃ち、川太郎も亦、覆仰(うつふきあをむ)くこと數回にして、頭の水、流れ盡ることを知らず、力竭(つ)きて仆(たを)る。如〔(も)〕し其の頭、水、有れば、則ち、力、勇士に倍す。且つ、其の手の肱(かひな)、能く左右に通(とほ)り脱(ぬけ)て、滑-利(なめら)かなり。故に之を如何(いかん)ともすること能はざるなり。動(ややも)すれば、則ち、牛馬を水灣に引入れて、尻より血を吮(す)ひ盡くすなり。渉-河(さはわたり)する人、最も愼むべし。

       いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏(うぢ)は菅原

相傳ふ、『菅公、筑紫に在りし時に、所以有りて之を詠せらる。今に於て、河を渡る人、之を吟ずれば、則ち、川太郎の災、無しと云云。』と。偶々、之を捕ふる有ると雖も、後の祟(たゝり)を恐れて、之を放つ。

 

[やぶちゃん注:河童。以下、平凡社「世界大百科事典」の小松和彦氏の「河童」解説を引用して総論とする(記号の一部を変更した)。『日本で最もよく知られている妖怪の一つで、川や池などの水界に住むという。カッパという呼称はもともと関東地方で用いられていたもので、エンコウ・ガワタロ・ヒョウスベ・メドチ・スイジン・スイコなどと呼んでいるところもある。その形状や属性も地方によりかなり異なっているが、広く各地に流布している一般的特徴は、童児の姿をし、頭の頂に皿があり、髪の形をいわゆる「おかっぱ頭」にしている、というものである。頭上の皿の水が生命の根源であって、そこに水がなくなると死んでしまうという。体の色彩は、赤とするところもあるが、青ないし青黒色、灰色が一般的である。手足には水仰きがあり、指は3本しかないと説くところが多い。腕に関しては、伸縮自在だとか、抜けやすいとか、左右通り抜けだとかいった奇妙な伝承が目立ち、また人の尻を抜くといわれる。キュウリが河童の好物と考えられており、水神祭や川祭の時にはキュウリを供えて水難などの被害がないことを祈る』(良安は指については言及していない)。『河童は、川で遊ぶ子どもを昏死させたり、馬を川へ引きずり込んだり、田畑を荒らしたり、人に憑()いて苦しめたりするといった恐ろしい属性をもつ反面、間抜けないたずら者という側面もあり、相撲を好み、人間に負けて腕を取られたり、人間に捕らえられて詫証文を書かされたり、命を助けてもらったお礼として人間に薬の製法を教えたりもする。河童の椀貸伝承などは、こうした好ましい属性を強調したもので、特定の家の守護神となって、田植や草刈りを手伝ったり、毎日魚を届けたりして、その家を富裕にしたという伝承は各地に伝えられている』。『各地に伝わる河童起源譚のうちで、最も広く流布しているのが、人造人間説である。たとえば天草地方に伝わる話では、左甚五郎が城を造る際、期限内の完成が危ぶまれたので、多くの藁人形を作って生命を吹き込み、その加勢を得てめでたく完成したが、その藁人形の始末に困り、川に捨てようとしたところ、人形たちが、これからさき何を食べたらよいか、と問うたので、甚五郎は「人の尻を食え」と言った。それが河童となったという。これとは別に、祗園牛頭(ごず)天王の御子、眷属(けんぞく)と説く地方や、外国から渡来したと説く地方もある』。『河童を意味する語が文献に現れるのは近世以降である。それ以前の文献として、しばしば、「日本書紀」仁徳67年条の、吉備の川嶋の川が枝分れしているところにすむ大虬(みずち)が人を苦しめたので、三つのひさごを水に投げ入れて征伐した、という記事が引かれるが、この大虬は江戸時代以降の文献に見える河童ではなく、水神としての蛇もしくは竜のことであろう。現在信じられている河童のイメージは、水辺に出没する猿や亀・天狗・水神を童形とみる考え、宗教者に使役される護法神、虫送りの人形などが混淆して江戸時代に作られたと考えるべきである。江戸時代には、河童の像や図絵まで作られた』(引用文著作権表示(c 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。更に起源及び考証部分をウィキの「河童」の記載の一部も引用して補っておく。小松氏が『外国から渡来したと説く地方もある』としたのは主に九州地方で、『大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する。九州北部では河童の神を兵主部羅神ということから、熊本県のヒョウスベもその一派であると考えられる』。民俗学的には、田の神『が秋に山神となるように、河童も一部地域では冬になると山童(やまわろ)になると言われる。大分県では、秋に河童が山に入ってセコとなり、和歌山県では、ケシャンボになる。いずれも山童、即ち山の神の使いである。また、河童は龍などと同じ水神ともいわれる。山の精霊とも言われる座敷童子などと同様に、河童も一部の子供にしか見えなかったという談があり、関連性が興味深い』。しばしば行われる起源の一つとして、『河童は、間引きされた子供の遺体が河原にさらされている姿との説もある。江戸時代には間引きは頻繁に行われており、他の子供に間引きを悟られないよう大人が作った嘘とも言われている』。『頭の皿については、民俗学者の折口信夫が「河童の話」で興味深い指摘をして』おり、『皿などは食物を載せるための物で、つまりは生命力の象徴である。これに関しては椀貸し淵の伝承が興味深い。膳椀何人前と書いた紙を塚・洞・淵などに投げ込んでおくと翌日には木具が揃えてあった。だがある時借りた数を返さなかった日から貸してくれなくなった、というようなものである。貸し主ははっきりしないのが多く、竜宮・河童というのもあるが狐という所もある。ただ類似の説話に川上から箸や椀が流れてきたという隠れ里にまつわる話やそれに関する迷い家(マヨヒガ)のケセネギツ(米櫃)』の話や、『淵に薪などを投げ込むと恩返しで富貴になる話などがあり、これらのことからは椀類が生命力から富の象徴になったこと、椀が水と縁の浅からぬ物であることが分かる』とする。『また折口は壱岐の殿川屋敷で女が井戸に飛び込み、底に椀が沈んでいるという話も紹介した。これについては古くから水の神に捧げる嫁或いは生け贄や、水に関わる土木工事での女の人柱が多く伝承されていることを挙げ、平戸に伝わる女河童の例で、ある侍屋敷に下女がいて皿を一枚落として破ったので主人が刀で斬りつけると海に逃げ、その姿を見れば河童であったという話を引いている』(この折口の話、読んでなかった。凄いな、お菊まで通底するか!)。以下、カッパの異称。『「河童」の訛りとしてガワッパ、ガワワッパ、ガラッパ(熊本県八代地方、鹿児島県川薩地方)、河太郎の訛りとしてゲータロ、ガタロウ、ガータロー(長崎県五島列島など)』、『水蛇の訛りと思われるメンドチ、メドチ、ドチガメなどがある』とし、『また、これらとは全く別系統のものとして、高知のシバテン(芝天狗の略)、愛媛県宇和地方でのエンコ』、のガオロ(岐阜県大野郡及び和歌山県)・ゴンゴ(岡山県の主として津山市)・カワコ(長崎県対馬市)・カワノモノ(大分県玖珠郡)・タビノヒト(熊本県飽託郡=現・熊本市)・ガウル(鹿児島県トカラ列島)を掲げる。以下、地方の個別民俗例(筆者はこの辺りかなり楽しそうに書いておられる。いいね)。『福岡県の筑後川付近には「河童と地元民とのもめごと」や「河童族同士の戦争」の伝説や「河童にちなんだ地名」など比較的年代が明確ではっきりした記録が数多く残っており、少なくともその当時「河童」と呼ばれたものが川辺付近に多く住んでいたと思われる』。その『特徴は全身が毛に覆われている「類人猿形態」。筑後地方の河童は100匹以上の集団生活を営んでいたらしく、川の上流から海の傍まで幾つかの集団に分かれて生活していたらしい。さらには人語を理解し、人間との複雑な契約も行っていたことから、河童は少数民族ではなかったかとも思われる。昭和初期まで河童を見た人が比較的多くいるのでこの時期に絶滅したのかも知れない』。『「水に入る前にはタケノコを食べる」「水に入る前には仏前飯を食べる」といった河童除けの風習は久留米市の水天宮付近が起源とされる。毎年8月には、水の祭典という祭りが行われる。これは、元々河童をあがめるために始まった祭りである』とある。やはり最後は実在性・UMA(未確認動物)として語ってもらおう。『現在河童のミイラや河童の骨などと呼ばれるものは、多くは江戸時代のミイラ造形師が他の動物の部品を組み合わせて作った物である。好んで用いられたのはエイと猿、また、フクロウの頭部を使ったものもある。また河童の手首のミイラと呼ばれるもののほとんどはニホンカワウソのものである』。『福岡県の北野天満宮には「河伯(かはく)の手」と呼ばれる河童の手のミイラがあり、901年に菅原道真が筑後川で暗殺されそうになった際、河童の大将が彼を救おうとして手を切り落とされた、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童の手を道真が切り落としたものとされる』。『た、佐賀県伊万里市山代町の松浦一酒造には河童全身のミイラが祀られており、地元では「河童の酒蔵」として有名である』。『河童は未確認動物であるという考え方もある。この視点で見る河童には人間や猿と酷似する種類(哺乳類)と巨大な蛙のような種類(両生類或いは爬虫類)などが存在するらしく、どの種類も背丈は30センチメートルから150センチメートル程度であり、成人した人間を超えることはない。河童の伝承の数だけ全く異なる未知の水棲生物が存在していた可能性も捨てきれない(またそれらが既に絶滅寸前のニホンカワウソと同じ環境に生息している事実は河童もまた絶滅種もしくは絶滅寸前なのかもしれない)』。『また爬虫類形態は昭和頃の目撃例では皿や甲羅がない個体が多く、宇宙人の典型的外形となったグレイと酷似するため、目撃者がグレイと誤認したのではないかと見られる事例が「新耳袋」に掲載されている。河童はアメリカのドーバーデーモンや蛙男、チュパカブラ、またアクア説の渚原人とも特徴が類似している』。『茨城県牛久市では河童の目撃情報があり、警察が駆けつけると水銀を含んだ河童の足跡と見られるものが残っていた。江戸時代の書記などにも目撃談が記されている』。――という訳で、最後に私が何を尻小玉、じゃあない、隠し玉を出すかと言えば、私の根岸鎭衞の「耳嚢」の愛読者ならば、ハハン、と来ますね、そうです、あれです。「卷之一」から、図も合わせて引用、総論を締め括ることと致しましょう(これは私の「耳嚢」の確信犯的宣伝であることを告白しておく。なお、注の一部を変更・省略したが、それでも本記載とダブルところがあるのはお許し頂きたい)。

 

 河童の事

 

 天明元年の八月、仙臺河岸伊達侯の藏屋敷にて、河童を打殺し鹽漬にいたし置由、まのあたり見たる者の語りけると其圖を松本豆州持來り、其子細を尋るに、右屋敷にて小兒抔無故入水せしが、怪む事ありて右堀の内淵ともいへる所を堰て水をかへ干しけるに、泥を潛りて早き事風の如きものあり。漸(やうやく)鐵砲にて打留しと聞及しを語りぬ。傍に曲淵甲斐守ありて、むかし同人河童の圖とて見侍りしに、豆州持參の圖にも違ひなしといひぬ。右の圖左にしるしぬ。

□やぶちゃん注

・「河童」カッパは地方名が甚だ多く、「河童」系ではガワワッパ・ガワッパ・ガラッパ(「河(かは)の童(わつぱ)」という関東方言が元と言われる)、「河太郎」からカワタロウ・ガタロウ・カワタロ・ゲータロ、他にカワコゾウ・カワコボシ・カワコ(「河虎」)・シバテン(「芝天狗」:叢に棲む下級天狗が妖怪化したものの意)・エンコウ(「猿猴」:中国では本来、サルの一種を指すが、後に伝承の中で分化、一部が妖怪化した。本テクストの「猨」の項の注「猿猴」を参照されたい。河童との関連についても記してある)、漢語系では先の河虎の他、水虎・河伯が知られる(但し、形態の一部がやや類似しているものの、中国のそれは爬虫類を思わせる異なる架空の水棲動物である)。伝承では相撲好きでよく子供を相手に相撲をとる。負けた子供は尻小玉を抜かれる、と言われた。水に漬かっているヒトのそれを抜くともよく言われる尻小玉とは、人間の肛門の内側にあるとされた架空の臓器の名で、これは水死体の肛門の括約筋が弛緩して大きく広がっていたり、そのために起こった脱腸及び洩出した腐敗臓器を目撃した人間の誤認から形成されたものと考えられる。さて、本件の図と一般的な形態とを比較してみよう。甲羅と頭頂部の皿、嘴状に尖った口吻という河童の三大アイテムは完備している(もう一つ、肛門が三つあるという特徴がある)。特に鋭角的な突き出た口吻を表現するために、眉間に筋を配し、鼻梁も左右に太く書き入れてその高さ(ひいてはその下に伸ばした口の前面への吻部を強調)を効果的に表現してある。通常の河童の身長は30150㎝、大きくても成人男性の身長を越えることはなく、名の通り子供の大きさであることが多い。本件記載は大きさを示さないが、直前に小児の溺死の記載を並べてあり、泥の中を潜るという表現、図の全体の雰囲気から受けるのは、やはり子供の大きさ1m程度か。殆んどは四肢の指間に水掻きを有し、且つ親指がない絵が多い(ウィキの「河童」等)というが、本図左手はヒトと同様、五本指、内側のそれはしっかりとした親指として描かれている(但し、右手人差し指以外の足の指なども含め、全体に鋭角的で、且つ、掌側に強く湾曲しているのは、水掻きに進化する前の四肢の形状変化を示しているようにも思われる)。大きな特異点は男性生殖器の描写である。勿論、古画で生殖器を描いた河童というのもあるし(栗本丹州のものや、一部の絵に前掛けのような褌をしたものがあり、その内股には一物が当然あったと考えてよい)、芥川龍之介の「河童」はヒトと同様の女性生殖器をしっかり描いているから、生殖器があることを以って本図を異例とはしないが、この陰茎と睾丸の描写が極めて興味深いのである。これは少年児童の男性生殖器と極似している。最後にウィキの「河童」から引用しておく。『河童は、間引きされた子供の遺体が河原にさらされている姿との説もある。江戸時代には間引きは頻繁に行われており、他の子供に間引きを悟られないよう大人が作った嘘とも言われている』。

・「天明元年の八月」西暦1781年。翌2年から天明の大飢饉が始まる。ウィキの「天明の大飢饉」によれば、『東北地方は1770年代より悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせる。火山噴火は直接的な被害ばかりではなく日射量低下による冷害傾向が顕著となり農作物に壊滅的な被害が生じ、翌年度から深刻な飢饉状態となった。当時は田沼意次時代で重商主義政策が取られており、米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉は全国規模に拡大した』と、ある。なお、これは昨年、アイスランドに旅した際にも現地で知った事実でもあるが、現在の科学的知見によれば、『1783年、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山(Lakagígar)が噴火(ラカギガル割れ目噴火)、同じくアイスランドのグリームスヴォトン(Grímsvötn)火山もまた1783年から1785年にかけて噴火した。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起しフランス革命の遠因となったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性』が示唆されている。……人肉喰いも行われた、この世の生き地獄たる天明の大飢饉……この河童の出現は、その不吉な予兆であった、とでも、言うのであろうか……

・「仙臺河岸伊達侯の藏屋敷」隅田川の東岸にあった仙台堀川(せんだいぼりがわ)の両岸を言う。南に門前仲町、北に霊巌寺を配す。寛永6(1629)年に掘削されたものだが、近く(現在の江東区清澄1丁目)に仙台藩松平陸奥守伊達家の蔵屋敷があったことから「仙台堀」と名付けられた。この蔵は当時最大の米蔵で、遙々仙台からこの運河を抜けてここに良米が運ばれ貯蔵されたのであった。この当時の藩主は第七代伊達重村であるが、逼迫していた藩財政に追い討ちをかけた大飢饉は天明3(1783)年時には565000余石の大減収をもたらし、藩内でも打ちこわしが続出、数々の施策を打ち出しては見たものの、この大飢饉によって藩内では30万人以上の死者を出した。重村は和歌に通じ、学問奨励に尽力する等、名君の器であったと言われるだけに、まさに不運という外はない(以上伊達重村の記載はF.M氏のHP「宮城史跡巡り」の「第七代仙台藩主 伊達重村」を参照させて頂いた。掉尾の語柄もそのまま用いさせて頂いている)……いや、これもまた、殺した河童の呪い、とでも、言うのであろうか……

・「松本豆州」松本秀持 (ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。つるべ落としの没落……これもまた、河童の絵の呪い、とでも、言うのであろうか……

・「曲淵甲斐守」曲淵甲斐守景漸(かげつぐ 享保101725)年~寛政121800)年)のこと。前項複数に既出。以下、ウィキの「曲淵景漸」によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』で、『1743年、兄・景福の死去に伴い家督を継承、1748年に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進、1765年、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。1769年に江戸北町奉行に就任し、役十八年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力』、『1786年に天明の大飢饉が原因で江戸に大規模な打ちこわしが起こり、景漸はこの折町人達への対処に失態があったとされ、これを咎められ翌年奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。松平定信が老中に就任すると勘定奉行として抜擢され、定信失脚後まで務めたが、1796年、72歳の時致仕を願い出て翌年辞任した』。天明の大飢饉の際に『町人との問答中に「米がなければ犬を食え」と発言し、この舌禍が打ちこわしを誘発するなど失態もあったが、根岸鎭衞と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった』とある。……この舌禍もまた……河童の言上げの災いであった、とでも、言うのであろうか……それにしても……これを記した根岸本人にこそ祟るべきであったと、思うのだが……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 河童の事

 

 天明元年の八月のこと、仙台河岸伊達候の蔵屋敷にて、河童を打ち殺して塩漬けに致し保存していた、という話を、直接その出来事を見聞きした者のが語った話であると言って、松本伊豆守秀持殿がその河童の絵を持参の上、訪ねて来た。その仔細を詳しく尋ねてみると――かの伊達候蔵屋敷では、以前から度々、幼い子供などが、これといった不注意も見受けられぬにも拘わらず、ふっと溺れて死ぬようなことがあった。どうも、仙台堀から更に引き込んだ屋敷内の水路の深み辺りが怪しいということになり、引き込みの口を堰き止めて水を干したところ、泥の中をしゅるしゅると風のようにすばしっこく動き回る生き物がいた。ようやっと鉄砲で打ち殺した、と聞いて御座る――とのことであった。

 偶々、傍らにやはり拙宅を訪ねておった曲淵甲斐守景漸殿がこの絵を見、

「……昔、拙者、河童の絵なるものを見たことが御座るが、この伊豆守殿御持参の絵と、寸分たがわぬ類(るい)のもので御座った。……」

と語った。その絵を以下に写しておく。

 

 「【深山に山童有り。同類異なり。/性、好みて人の舌を食ふ。鐵物を見るを忌むなり。】」の割注部分について、東洋文庫版注では、『五書肆版と杏林堂版では文が異な』るとし、杏林堂版を訳して『川虎(かわとら)の訓(よ)みが誤って川太郎となったのであろうか。』とある。

 「水灣」「灣」は水の隈(くま)=曲で、川の岸が弓のように曲がっていること、即ち、川底が抉られれて淵となっているところ、ということになる。

 「いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏は菅原」「私設電子図書館 新・佐奈川文庫」「三河設楽氏と河童」に、本和歌(狂歌風呪文)について考察した以下の素晴らしい記載がある(一部の読点を省略させて頂いた)。

   《引用開始》

「和漢三才図会」は日本最初の大百科事典で、東洋文庫本で上記の内容を確認しておくと、次のとおりです。異本なのか語句には多少の相違があります。

 「いにしへの約束せしを忘るなよ川だち男氏は菅原」/伝え(伝承)によれば、菅公(菅原道真)が筑紫(の配所)におられたときに、わけ(訳)あってこれを詠(よ)まれた。それで今でも河を渡る人がこれを吟じると、川太郎(河童)の災いを受けないと云々。(巻第40、寓類、川太郎の項)

 「ひやうすべに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原」/この辺(り)に水獣(川太郎)が多くて人を捕える。渉河(かちわたり)の人は件(くだん、前記)の歌を竹の葉に書いて川に投じると、水虎(すいこ、河童の漢名)が害をなさないという。(巻第80、肥前兵揃[ひょうすべ]村、菅原大明神の項)

 また、江戸時代の方言辞典「物類称呼」には、「川童(がはたらう、河童)」の項に、「和漢三才図会」からの引用でしょうか、次のようにあります。

 又九州にて川渉(かわわたり)の人(の)詠吟する歌に/「いにしへのやくそくせしをわするなよ川たち男氏は菅原」/右の歌を詠吟すれば害をのがるゝよしいひつたふ(以上、引用)

 「氏は菅原」の歌は、東北地方にも伝わっていて、河童の目撃談を集めた、高橋貞子「河童を見た人びと」(1996年)も、「菅原道真とカッパを追い払う呪(まじな)い歌」と題して、次のように書いています。

 川を渡るとき、カッパを追い払う呪(まじな)い歌があるということです。昔、橋の架かっていない沢川は、歩いて渡るか、古式泳法などで泳いで越すほかありません。カッパのいる気配は、川の途中で、カッパの息使いのような、いつもより水が重たく感じられてくるものだそうです。川を怖いな、と感じたときは、「おい、カッパ。そこにいるな。わかっているぞ。」などと大声で怒鳴ってから、「ヒョウツエよ契りしことを忘るなよ川立つ男子(おのこ)氏は菅原」と詠み上げれば、カッパがたちまち離れていくから安心して川を渡るによいということです。/ところで、ヒョウツエとは、カッパの異名のようです。/「カッパよ。約束したことを忘れるなよ。川にいる俺を誰だと思うか。我こそは菅原道真なるぞ。」という意味になるのでしょうか。(以上、要旨)

 ここで、「氏は菅原」の歌と直接的な関係はありませんが、三河設楽氏発祥の地と目される中設楽(設楽城跡所在地)に残る「のし(河童)」の話を見ておきます。それは、西林喜久男(御殿村加賀野、北設楽郡東栄町)「のしの話」(「設楽」第5巻、昭和7年6月)です。この「のし」とは河童の方言ですが、「(川の)ぬし(主)、水神」の意味でしょうか。まず前半は、ご自身の思い出です。

 私の幼い頃から「一人で河へ遊びに行くと、のし(原注、河童)が出て、しんのこ(尻の子、肛門)をぬ(抜)く(抜き取る)とか、河で死んだ人はのし(河童)がしんのこ(肛門)を抜くのでみんな肛門が開いてゐるとか、のし(河童)は魚や亀に化けて浅い所まで出て来て子供の来るのを待って居る」等々種々な事を言ひ、川で独り遊びする事を止められた(禁止された)ものです。/「のし(河童)は、すり鉢をふ(伏)せた様な形の頭で、子僧(小僧、子供)の通りな(よく似た)体つき(体形)である」「丘(おか、地上)に上(が)って頭の凹(くぼ)み(お皿)の水がこぼれると死ぬ。水が三合ありゃあ(あれば)のし(河童)は生きられる。そして引く力は強いが、押す力は少しもない。」等と老人たちはよく話(を)してくれました。(以上、引用)

 続いて、中設楽に残る河童伝説です。

 御殿村中設楽(北設楽郡東栄町)で田植(え)を終ったので「まあたれ淵」へ馬洗ひに行き、馬を川に引き入れて洗ひ終ったので河原へ引き出さうとすると、急に馬が暴れ出した。よく見ると「のし(河童)」が馬のしっ尾(尻尾)に吊下(が)ったまま出て来ました。其処(そこ)でその儘(まま)、馬の暴れるのをなだめ乍(なが)ら家迄帰り、田植(え)を手伝ひに来てくれた大勢の村人に頼んで、尾から吊下(が)ってゐる「のし(河童)」を下ろし、「此の設楽の村内の川に棲まず、他所(よそ)へ行けばよし、さもないと殺して終(しま)ふぞ」とどな(怒鳴)りつける(原注、[怒鳴るは]叱ルノ強イ意)と、のし(河童)は「決して今後は設楽村内には棲まぬから」と(謝って)て命を救はれて河原へ帰り、以后は設楽の村内では「のし(河童)」の姿を見ぬようになったといふ。何時(いつ)頃の事かは判然(はっきり、と)せぬ。(以上、引用)

 「氏は菅原」の歌のほか、河童除けの呪文として、「雲州(うんしゅう 出雲国)西川津(にしかわつ)」(日本伝説集)、「(我は)勝瀬氏ノ子孫ナリ」(阿州[阿波国]奇事雑話)、「唐人屋の子だじやあ」(唐人屋河童縁起)などがありますが、詳細は省略しておきます。何れも、河童が詫び証文を入れた相手の子孫や、村人には、害をなさないということを期待しての呪文です。

 前稿「河童と設楽貞丈」で書きましたが、本草家設楽貞丈(さだとも)には河童に関する編著「水虎説」(「水虎図説」とも)があります。彼は三河設楽氏で、河童除けの呪い歌「氏は菅原」で知られる菅原氏とは同族(末流)です。彼がそれを意識していたかどうかは分かりませんが、本稿は前稿の続篇として、三河設楽氏と河童との関わりについて書きました。

   《引用終了》

この方のHPには膨大な郷土史論文がある。是非、一読をお薦めする。]

 

 

和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類  完