マツグ著「阿呆の言葉」(抄)
――芥川龍之介「河童」に現われたる芥川龍之介のアフォリズム
[やぶちゃん注:これは昭和2(1927)年3月発行の『改造』掲載された芥川龍之介作「河童」の第十一章に現れるアフォリズムである。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、判読に迷うもののみのパラルビとした。冒頭には、
これは哲學者のマツグの書いた「阿呆の言葉」の中(うち)の何章かです。――
と記され、次行に本文同様の9字下げアスタリスクが入ってアフォリズムが始まる。芥川龍之介のアフォリズムの集成のために、変則的に作品の抜粋であるが掲げるものである。幾つかのアフォリズムの末尾に丸括弧の台詞が入るが、これはこれを読んでいる「河童」の主人公「僕」の附記・感想であるから削除した。「河童」のテクストは未だ私のHPにはない。近いうちにアップしたいと考えているので、お待ちあれかし。【2009年5月10日】「河童」正字正仮名テクスト及び満を持して書いた私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』が既に完成している。どうぞ御笑覧あれ。なお、それを受けて本ページはマッグのシンプルなプレーン・テクストに模様替えした関係上、最初の冒頭注記の一部を削除した。【2010年12月30日】]
阿呆の言葉(抄) マツグ
阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じてゐる。
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我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉妬したりしない爲もないことはない。
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最も賢い生活は一時代の習慣を輕蔑しながら、しかもその又習慣を少しも破らないやうに暮らすことである。
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我々の最も誇りたいものは我々の持つてゐないものだけである。
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何びとも偶像を破壞することに異存を持つてゐるものはない。同時に又何びとも偶像になることに異存を持つてゐるものはない。しかし偶像の臺座の上に安んじて坐つてゐられるものは最も~々に惠まれたもの、――阿呆か、惡人か、英雄かである。
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我々の生活に必要な思想は三千年前に盡きたかも知れない。我々は唯古い薪(たきぎ)に新しい炎を加へるだけであらう。
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我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としてゐる。
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幸bヘ苦痛を伴ひ、平和は倦怠を伴ふとすれば、――?
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自己を辯護することは他人を辯護することよりも困難である。疑ふものは辯護士を見よ。
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矜誇(きんこ)、愛慾、疑惑――あらゆる罪は三千年來、この三者から發してゐる。同時に又恐らくはあらゆるコも。
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物質的欲望を減ずることは必しも平和を齎(もたら)さない。我々は平和を得(え)る爲には精~的欲望も減じなければならぬ。
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我々は人間よりも不幸である。人間は河童ほど進化してゐない。
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成すことは成し得(う)ることであり、成し得ることは成すことである。畢竟我々の生活はかう云ふ循環論法を脱することは出來ない。――即ち不合理に終始してゐる。
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ボオドレエルは白痴になつた後(のち)、彼の人生觀をたつた一語に、――女陰(ぢよいん)の一語に表白した。しかし彼自身を語るものは必しもかう言つたことではない。寧ろ彼の天才に、――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信ョした爲に胃袋の一語を忘れたことである。
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若し理性に終始するとすれば、我々は當然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を~にしたヴオルテエルの幸bノ一生を了(をは)つたのは即ち人間の河童よりも進化してゐないことを示すものである。
[やぶちゃん注:十番目のアフォリズム冒頭の「矜誇」は「矜持(矜恃)」(きょうじ)と同義で、自己の才能を優れたものとして誇る気持ち。自負。プライド。また、そのアフォリズムで、マツグは「愛慾」と「慾」の字を用い乍ら、直後のアフォリズムでは「欲望」と、「慾」と「欲」とを厳密に使い分けをしている模様である。]