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鬼火へ

芭蕉雜記・續芭蕉雜記・〔芭蕉雜記〕   芥川龍之介
[やぶちゃん注:「芭蕉雜記」は大正十二(一九二三)年十一月、十三年五月、同年七月の雑誌『新潮』の各号にそれぞれ「一」から「九」を「芭蕉雜記」、「十」から「十一」を「續芭蕉雜記」(従ってこれは現在の「續芭蕉雜記」ではない)、「十二」から「十三」を「續々芭蕉雜記」として掲載、後に『梅・馬・鶯』に「一」から「十三」を纏めて「芭蕉雜記」として所収した。一方、「續芭蕉雜記」は昭和二(一九二七)八月一日発行の雑誌『文藝春秋』に掲載された。底本は岩波版旧全集を用いた。但し、右橫の傍点「丶」は傍線に、右上橫のやや小さな白丸「゜」は斜体傍線とした。また、一部の漢詩部分には私の全文平仮名の書き下しを【 】で補った。最後に底本の第十二巻所収の草稿〔芭蕉雜記〕を付した。]




 芭蕉雜記

       一 著  書

 芭蕉は一卷の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集なるものも悉門人の著はしたものである。これは芭蕉自身の言葉によれば、名聞を好まぬ爲だつたらしい。
 「曲翠問、發句を取りあつめ、集作ると云へる、此道の執心なるべきや。翁曰、これ卑しき心より我上手なるを知られんと我を忘れたる名聞より出る事也。」
 かう云つたのも一應は尤もである。しかしその次を讀んで見れば、おのづから微笑を禁じ得ない。
 「集とは其風體の句句をえらび、我風體と云ふことを知らするまで也。我俳諧撰集の心なし。しかしながら貞德以來其人人の風體ありて、宗因まで俳諧を唱來れり。然ども我云所の俳諧は其俳諧にはことなりと云ふことにて、荷兮野水等に後見して『冬の日』『春の日』『あら野』等あり。」
 芭蕉の說に從へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば如何なる流派にも屬せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この說に從へば、たとへば齋藤茂吉氏の「アララギ」へ歌を發表するのは名聞を求めぬことであり、「赤光」や「あら玉」を著はすのは「これ卑しき心より我上手なるを知られんと……」である!
 しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――「我俳諧撰集の心なし。」芭蕉の說に從へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことと思はなければならぬ。然らばこの「何か」は何だつたであらうか?
 芭蕉は大事の俳諧さへ「生涯の道の草」と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも「空」と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集を著はすのさへ、實は「惡」と考へる前に「空」と考へはしなかつたであらうか? 寒山は木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには餘り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千餘句の俳諧は流轉に任せたのではなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奧にはいつもさう云ふ心もちの潛んでゐたのではなかつたであらうか?
 僕は芭蕉に著書のなかつたのも當然のことと思つてゐる。その上宗匠の生涯には印税の必要もなかつたではないか?

       二 裝  幀

 芭蕉は俳書を上梓する上にも、いろいろ註文を持つてゐたらしい。たとへば本文の書きざまにはかう云ふ言葉を洩らしてゐる。
 「書やうはいろいろあるべし。唯さわがしからぬ心づかひ有りたし。『猿簔』能筆なり。されども今少し大なり。作者の名大にていやしく見え侍る。」
 又勝峯晉風氏の敎へによれば、俳書の裝幀も芭蕉以前は華美を好んだのにも關らず、芭蕉以後は簡素の中に寂びを尊んだと云ふことである。芭蕉も今日に生れたとすれば、やはり本文は九ポイントにするとか、表紙の布は木綿にするとか、考案を凝らしたことであらう。或は又ウイリアム・モリスのやうに、ペエトロン杉風とも相談の上に、Typography に新意を出したかも知れぬ。

       三 自  釋

 芭蕉は北枝との問答の中に、「我句を人に說くは我頰がまちを人に云がごとし」と作品の自釋を却けてゐる。しかしこれは當にならぬ。さう云ふ芭蕉も他の門人にはのべつに自釋を試みてゐる。時には大いに苦心したなどと手前味噌さへあげぬことはない。
 「鹽鯛の齒ぐきも寒し魚の店。此句、翁曰、心づかひせずと句になるものを、自讃に足らずとなり。又かまくらを生て出でけん初松魚と云ふこそ心の骨折人の知らぬ所なり。又曰猿の齒白し峰の月といふは其角なり。鹽鯛の齒ぐきは我老吟なり。下を魚の店と唯いひたるもおのづから句なりと宣へり。」
 まことに「我句を人に說くは我頰がまちを人に云がごとし」である。しかし藝術は頰がまちほど、何びとにもはつきりわかるものではない。いつも自作に自釋を加へるバアナアド・シヨウの心もちは芭蕉も亦多少は同感だつたであらう。

       四 詩  人

 「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは芭蕉の惟然に語つた言葉である。その他俳諧を輕んじた口吻は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧ろ當然の言葉である。
 しかしその「生涯の道の草」に芭蕉ほど眞劍になつた人は滅多にゐないのに違ひない。いや、芭蕉の氣の入れかたを見れば、「生涯の道の草」などと稱したのはポオズではないかと思ふ位である。
 「土芳云、翁曰、學ぶ事は常にあり。席に臨んで文臺と我と間に髮を入れず。思ふこと速に云出て、爰に至てまよふ念なし。文臺引おろせば卽反故なりときびしく示さるる詞もあり。或時は大木倒すごとし。鍔本にきりこむ心得、西瓜きるごとし。梨子くふ口つき、三十六句みなやり句などといろいろにせめられ侍るも、みな巧者の私意を思ひ破らせんの詞なり。」
 この芭蕉の言葉の氣ぐみは殆ど劍術でも敎へるやうである。到底俳諧を遊戲にした世捨人などの言葉ではない。更に又芭蕉その人の句作に臨んだ態度を見れば、愈情熱に燃え立つてゐる。
 「許六云、一とせ江戶にて何がしが歲旦びらきとて翁を招きたることあり。予が宅に四五日逗留の後にて侍る。其日雪降て暮にまゐられたり。其俳諧に、

    人聲の沖にて何を呼やらん         桃 隣
     鼠は舟をきしる曉            翁

 予其後芭蕉庵へ參とぶらひける時、此句をかたり出し給ふに、予が云、さてさて此曉の一字ありがたき事、あだに聞かんは無念の次第也。動かざること、大山のごとしと申せば師起き上りて曰、此曉の一字聞きとどけ侍りて、愚老が滿足かぎりなし。此句はじめは

      須磨の鼠の舟きしるおと

 と案じける時、前句に聲の字有て、音の字ならず、依て作りかへたり、須磨の鼠とまでは氣を𢌞し侍れども、一句連續せざると宣へり。予が云、是須磨の鼠よりはるかにまされり。(中略)曉の一字つよきこと、たとへ侍るものなしと申せば、師もうれしく思はれけん、これほどに聞てくれる人なし、唯予が口よりいひ出せば肝をつぶしたる顏のみにて善惡の差別もなく鮒の泥に醉たるごとし其夜此句したる時一座のものどもに我遲參の罪ありと云へども此句にて腹を醫せよと自慢せしと宣ひ侍る。」
 知己に對する感激、流俗に對する輕蔑、藝術に對する情熱、――詩人たる芭蕉の面目はありありとこの逸話に露はれてゐる。殊に「この句にて腹を醫せよ」と大氣焰を擧げた勢ひには、――世捨人は少時問はぬ。敬虔なる今日の批評家さへ辟易しなければ幸福である。
 「翁凡兆に告て曰、一世のうち秀逸三五あらん人は作者、十句に及ぶ人は名人なり。」
 名人さへ一生を消磨した後、十句しか得られぬと云ふことになると、俳諧も亦閑事業ではない。しかも芭蕉の說によれば、つまりは「生涯の道の草」である!
 「十一日。朝またまた時雨す。思ひがけなく東武の其角來る。(中略)すぐに病床にまゐりて、皮骨連立したまひたる體を見まゐらせて、且愁ひ、且悅ぶ。師も見やりたまひたるまでにて、ただただ淚ぐみたまふ。(中略)

     鬮とりて菜飯たたかす夜伽かな       木 節
     皆子なり蓑蟲寒く鳴きつくす        乙 州
     うづくまる藥のもとの寒さかな       丈 艸
     吹井より鶴をまねかん初時雨        其 角

 一々惟然吟聲しければ、師丈艸が句を今一度と望みたまひて、丈艸でかされたり、いつ聞いてもさびしをり整ひたり、面白し面白しと、しは嗄れし聲もて讃めたまひにけり。」
 これは芭蕉の示寂前一日に起つた出來事である。芭蕉の俳諧に執する心は死よりもなほ强かつたらしい。もしあらゆる執着に罪障を見出した謠曲の作者にこの一段を語つたとすれば、芭蕉は必ず行脚の僧に地獄の苦艱を訴へる後ジテの役を與へられたであらう。
 かう云ふ情熱を世捨人に見るのは矛盾と云へば矛盾である。しかしこれは矛盾にもせよ、たまたま芭蕉の天才を物語るものではないであらうか? ゲエテは詩作をしてゐる時には Daemon に憑かれてゐると云つた。芭蕉も亦世捨人になるには餘りに詩魔の飜弄を蒙つてゐたのではないであらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力强かつたのではないであらうか?
 僕は世捨人になり了せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる。さもなければ深草の元政などにも同じやうに敬意を表したかも知れぬ。

       五 未  來

 「翁遷化の年深川を出給ふ時、野坡問て云、俳諧やはり今のごとく作し侍らんや。翁曰、しばらく今の風なるべし、五七年も過なば一變あらんとなり。」
 「翁曰、俳諧世に三合は出たり。七合は殘たりと申されけり。」
 かう云ふ芭蕉の逸話を見ると、如何にも芭蕉は未來の俳諧を歷歷と見透してゐたやうである。又大勢の門人の中には義理にも一變したいと工夫したり、殘りの七合を拵へるものは自分の外にないと己惚れたり、いろいろの喜劇も起つたかも知れぬ。しかしこれは「芭蕉自身の明日」を指した言葉であらう。と云ふのはつまり五六年も經れば、芭蕉自身の俳諧は一變化すると云ふ意味であらう。或は又既に公にしたのは僅僅三合の俳諧に過ぎぬ、殘りの七合の俳諧は芭蕉自身の胸中に橫はつてゐると云ふ意味であらう。すると芭蕉以外の人には五六年は勿論、三百年たつても、一變化することは出來ぬかも知れぬ。七合の俳諧も同じことである。芭蕉は妄に街頭の賣卜先生を眞似る人ではない。けれども絕えず芭蕉自身の進步を感じてゐたことは確かである。――僕はかう信じて疑つたことはない。

       六 俗  語

 芭蕉はその俳諧の中に屢俗語を用ひてゐる。たとへば下の句に徴するが好い。

       洗馬にて
     梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ

 「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、悉俗語ならぬはない。しかも一句の客情は無限の寂しみに溢れてゐる。(成程かう書いて見ると、不世出の天才を褒め揚げるほど手數のかからぬ仕事はない。殊に何びとも異論を唱へぬ古典的天才を褒め揚げるのは!)かう云ふ例は芭蕉の句中、枚擧に堪へぬと云つても好い。芭蕉のみづから「俳諧の益は俗語を正すなり」と傲語したのも當然のことと云はなければならぬ。「正す」とは文法の敎師のやうに語格や假名遣ひを正すのではない。靈活に語感を捉へた上、俗語に魂を與へることである。
 「じだらくに居れば凉しき夕かな。宗次。猿みの撰の時、宗次今一句の入集を願ひて數句吟じ侍れど取べき句なし。一夕、翁の側に侍りけるに、いざくつろぎ給へ、我も臥なんと宣ふ。御ゆるし候へ、じだらくに居れば凉しく侍ると申しければ、翁曰、これこそ發句なれとて、今の句に作て入集せさせ給ひけり。」(小宮豐隆氏はこの逸話に興味のある解釋を加へてゐる。同氏の芭蕉硏究を參照するが好い。)
 この時使はれた「じだらくに」はもう單純なる俗語ではない。紅毛人の言葉を借りれば、芭蕉の情調のトレモルを如實に表現した詩語である。これを更に云ひ直せば、芭蕉の俗語を用ひたのは俗語たるが故に用ひたのではない。詩語たり得るが故に用ひたのである。すると芭蕉は詩語たり得る限り、漢語たると雅語たるとを問はず、如何なる言葉をも用ひたことは辯ずるを待たぬのに違ひない。實際又芭蕉は俗語のみならず、漢語をも雅語をも正したのである。

       佐夜の中山にて
     命なりわづかの笠の下凉み
       杜牧が早行の殘夢、小夜の中山にいたりて忽ち驚く
     馬に寢て殘夢月遠し茶のけぶり

 芭蕉の語彙はこの通り古今東西に出入してゐる。が、俗語を正したことは最も人目に止まり易い特色だつたのに違ひない。又俗語を正したことに詩人たる芭蕉の大力量も窺はれることは事實である。成程談林の諸俳人は、――いや、伊丹の鬼貫さへ芭蕉よりも一足先に俗語を使つてゐたかも知れぬ。けれども所謂平談俗話に鍊金術を施したのは正に芭蕉の大手柄である。
 しかしこの著しい特色は同時に又俳諧に對する誤解を生むことにもなつたらしい。その一つは俳諧を解し易いとした誤解であり、その二つは俳諧を作り易いとした誤解である。俳諧の月並みに墮したのは、――そんなことは今更辯ぜずとも好い。月並みの喜劇は「芭蕉雜談」の中に子規居士も既に指摘してゐる。唯芭蕉の使つた俗語の精彩を帶びてゐたことだけは今日もなほ力說せねばならぬ。さもなければ所謂民衆詩人は不幸なるウオルト・ホイツトマンと共に、芭蕉をも彼等の先達の一人に數へ上げることを憚らぬであらう。

       七 耳

 芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは殘念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。
 俳諧は元來歌よりも「調べ」に乏しいものでもある。僅々十七字の活殺の中に「言葉の音樂」をも傳へることは大力量の人を待たなければならぬ。のみならず「調べ」にのみ執するのは俳諧の本道を失したものである。芭蕉の「調べ」を後にせよと云つたのはこの間の消息を語るものであらう。しかし芭蕉自身の俳諧は滅多に「調べ」を忘れたことはない。いや、時には一句の妙を「調べ」にのみ託したものさへある。

     夏の月御油より出でて赤坂や

 これは夏の月を寫すために、「御油」「赤坂」等の地名の與へる色彩の感じを用ひたものである。この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。寧ろ多少陳套の譏りを招きかねぬ技巧であらう。しかし耳に與へる效果は如何にも旅人の心らしい、悠々とした美しさに溢れてゐる。

     年の市線香買ひに出でばやな

 假に「夏の月」の句をリブレツトオよりもスコアアのすぐれてゐる句とするならば、この句の如きは兩者ともに傑出したものの一例である。年の市に線香を買ひに出るのは物寂びたとは云ふものの、懷しい氣もちにも違ひない。その上「出でばやな」とはずみかけた調子は、宛然芭蕉その人の心の小躍りを見るやうである。更に又下の句などを見れば、芭蕉の「調べ」を驅使するのに大自在を極めてゐたことには呆氣にとられてしまふ外はない。

     秋ふかき隣は何をする人ぞ

 かう云ふ莊重の「調べ」を捉へ得たものは茫々たる三百年間にたつた芭蕉一人である。芭蕉は子弟を訓へるのに「俳諧は萬葉集の心なり」と云つた。この言葉は少しも大風呂敷ではない。芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけねばならぬ所以である。

       八 同  上

 芭蕉の俳諧の特色の一つは目に訴へる美しさと耳に訴へる美しさとの微妙に融け合つた美しさである。西洋人の言葉を借りれば、言葉の Formal element Musical element との融合の上に獨特の妙のあることである。これだけは蕪村の大手腕も畢に追隨出來なかつたらしい。下に擧げるのは几董の編した蕪村句集に載つてゐる春雨の句の全部である。

     春雨やものかたりゆく蓑と笠
     春雨や暮れなんとしてけふもあり
     柴漬や沈みもやらで春の雨
     春雨やいざよふ月の海半ば
     春雨や綱が袂に小提灯
       西の京にばけもの栖みて久しくあれ果たる家有りけり。
       今は其沙汰なくて、
     春雨や人住みて煙壁を洩る
     物種の袋濡らしつ春の雨
     春雨や身にふる頭巾着たりけり
     春雨や小磯の小貝濡るるほど
     瀧口に灯を呼ぶ聲や春の雨
     ぬなは生ふ池の水かさや春の雨
       夢中吟
     春雨やもの書かぬ身のあはれなる

 この蕪村の十二句は目に訴へる美しさを、――殊に大和繪らしい美しさを如何にものびのびと表はしてゐる。しかし耳に訴へて見ると、どうもさほどのびのびとしない。おまけに十二句を續けさまに讀めば、同じ「調べ」を繰り返した單調さを感ずる憾みさへある。が、芭蕉はかう云ふ難所に少しも澁滯を感じてゐない。

     春雨や蓬をのばす草の道
       赤坂にて
     無性さやかき起されし春の雨

 僕はこの芭蕉の二句の中に百年の春雨を感じてゐる。「蓬をのばす草の道」の氣品の高いのは云ふを待たぬ。「無性さや」に起り、「かき起されし」とたゆたつた「調べ」にも柔媚に近い懶さを表はしてゐる。所詮蕪村の十二句もこの芭蕉の二句の前には如何とも出來ぬと評する外はない。兎に角芭蕉の藝術的感覺は近代人などと稱するものよりも、數等の洗練を受けてゐたのである。

       九 畫

 東洋の詩歌は和漢を問はず、屢畫趣を命にしてゐる。エポスに詩を發した西洋人はこの「有聲の畫」の上にも邪道の貼り札をするかも知れぬ。しかし「遙知郡齋夜 凍雪封松竹 時有山僧來 懸燈獨自宿」【はるかにしるぐんさいのよ とうせつしようちくをふうず ときにさんそうのきたるあり とうをかかげてひとりおのづからしゆくす】は宛然たる一幀の南畫である。又「藏並ぶ裏は燕のかよひ道」もおのづから浮世繪の一枚らしい。この畫趣を表はすのに自在の手腕を持つてゐたのもやはり芭蕉の俳諧に見のがされぬ特色の一つである。

     凉しさやすぐに野松の枝のなり
     夕顏や醉て顏出す窓の穴
     山賤のおとがひ閉づる葎かな

 第一は純然たる風景畫である。第二は點景人物を加へた風景畫である。第三は純然たる人物畫である。この芭蕉の三樣の畫趣はいづれも氣品の低いものではない。殊に「山賤の」は「おとがひ閉づる」に氣味の惡い大きさを表はしてゐる。かう云ふ畫趣を表現することは蕪村さへ數步を遜らなければならぬ。(度たび引合ひに出されるのは蕪村の爲に氣の毒である。が、これも芭蕉以後の巨匠だつた因果と思はなければならぬ。)のみならず最も蕪村らしい大和畫の趣を表はす時にも、芭蕉はやはり樂樂と蕪村に負けぬ效果を收めてゐる。

     粽ゆふ片手にはさむひたひ髮

 芭蕉自身はこの句のことを「物語の體」と稱したさうである。

       十 衆  道

 芭蕉もシェクスピイアやミケル・アンジェロのやうに衆道を好んだと云はれてゐる。この談は必しも架空ではない。元祿は井原西鶴の大鑑を生んだ時代である。芭蕉も亦或は時代と共に分桃の契りを愛したかも知れない。現に又「我も昔は衆道好きのひが耳にや」とは若い芭蕉の筆を執つた「貝おほひ」の中の言葉である。その他芭蕉の作品の中には「前髮もまだ若草の匂かな」以下、美少年を歌つたものもない譯ではない。
 しかし芭蕉の性慾を倒錯してゐたと考へるのは依然として僕には不可能である。成程芭蕉は明らかに「我も昔は衆道好き」と云つた。が、第一にこの言葉は巧みに諧謔の筆を弄した「貝おほひ」の判詞の一節である。するとこれをものものしい告白のやうに取り扱ふのは多少の早計ではないであらうか? 第二によし又告白だつたにせよ、案外昔の衆道好きは今の衆道好きではなかつたかも知れない。いや、今も衆道好きだつたとすれば、何も特に「昔は」と斷る必要もない筈である。しかも芭蕉は「貝おほひ」を出した寬文十一年の正月にもやつと二十九歲だつたのを思ふと、昔と云ふのも「春の目ざめ」以後數年の間を指してゐるであらう。かう云ふ年頃の Homo-Sexuality は格別珍らしいことではない。二十世紀に生れた我々さへ、少時の性慾生活をふり返つて見れば、大抵一度は美少年に恍惚とした記憶を蓄へてゐる。況や門人の杜國との間に同性愛のあつたなどと云ふ說は畢竟小說と云ふ外はない。

       十一 海彼岸の文學

 「或禪僧、詩の事を尋ねられしに、翁曰、詩の事は隱士素堂と云ふもの此道に深きすきものにて、人の名を知れるなり。かれ常に云ふ、詩は隱者の詩、風雅にてよろし。」
 「正秀問、古今集に空に知られぬ雪ぞ降りける、人に知られぬ花や咲くらん、春に知られぬ花ぞ咲くなる、一集にこの三首を撰す。一集一作者にかやうの事例あるにや。翁曰、貫之の好める言葉と見えたり。かやうの事は今の人の嫌ふべきを、昔は嫌はずと見えたり。もろこしの詩にも左樣の例あるにや。いつぞや丈艸の物語に杜子美に專ら其事あり。近き詩人に于鱗とやらんの詩に多く有る事とて、其詩も、聞きつれど忘れたり。」
 于鱗は嘉靖七子の一人李攀龍のことであらう。古文辭を唱へた李攀龍の芭蕉の話中に擧げられてゐるのは杜甫に對する芭蕉の尊敬に一道の光明を與へるものである。しかしそれはまづ問はないでも好い。差當り此處に考へたいのは海彼岸の文學に對する芭蕉その人の態度である。是等の逸話に窺はれる芭蕉には少しも學者らしい面影は見えない。今假に是等の逸話を當代の新聞記事に改めるとすれば、質問を受けた芭蕉の態度はこの位淡泊を極めてゐるのである。――
 「某新聞記者の西洋の詩のことを尋ねた時、芭蕉はその記者にかう答へた。――西洋の詩に詳しいのは京都の上田敏である。彼の常に云ふ所によれば、象徴派の詩人の作品は甚だ幽幻を極めてゐる。」
 「……芭蕉はかう答へた。……さう云ふことは西洋の詩にもあるのかも知れない。この間森鷗外と話したら、ゲエテにはそれも多いさうである。又近頃の詩人の何とかイツヒの作品にも多い。實はその詩も聞かせて貰つたのだが、生憎すつかり忘れてしまつた。」
 これだけでも返答の出來るのは當時の俳人には稀だつたかも知れない。が、兎に角海彼岸の文學に疎かつた事だけは確である。のみならず芭蕉は言詮を絕した藝術上の醍醐味をも嘗めずに、徒らに萬卷の書を讀んでゐる文人墨客の徒を嫌つてゐたらしい。少くとも學者らしい顏をする者には忽ち癇癪を起したと見え、常に諷刺的天才を示した獨特の皮肉を浴びせかけてゐる。
 「山里は萬歲遲し梅の花。翁去來へ此句を贈られし返辭に、この句二義に解すべく候。山里は風寒く梅の盛に萬歲來らん。どちらも遲しとや承らん。又山里の梅さへ過ぐるに萬歲殿の來ぬ事よと京なつかしき詠や侍らん。翁此返辭に其事とはなくて、去年の水無月五條あたりを通り候に、あやしの軒に看板を懸けて、はくらんの妙藥ありと記す。伴ふどち可笑しがりて、くわくらん(霍亂)の藥なるべしと嘲笑ひ候まま、それがし答へ候ははくらん(博覽)病が買ひ候はんと申しき。」
 これは一門皆學者だつた博覽多識の去來には德山の棒よりも手痛かつたであらう。(去來は儒醫二道に通じた上、「乾坤辯說」の飜譯さへ出した向井靈蘭を父に持ち、名醫元端や大儒元成を兄弟に持つてゐた人である。)なほ又次手に一言すれば、芭蕉は一面理智の鋭い、惡辣を極めた諷刺家である。「はくらん病が買ひ候はん」も手嚴しいには違ひない。が、「東武の會に盆を釋敎とせず、嵐雪是を難ず。翁曰、盆を釋敎とせば正月は神祇なるかとなり。」――かう云ふ逸話も殘つてゐる。兎に角芭蕉の口の惡いのには屢門人たちも惱まされたらしい。唯幸ひにこの諷刺家は今を距ること二百年ばかり前に腸加答兒か何かの爲に往生した。さもなければ僕の「芭蕉雜記」なども定めし得意の毒舌の先にさんざん飜弄されたことであらう。
 芭蕉の海彼岸の文學に餘り通じてゐなかつたことは上に述べた通りである。では海彼岸の文學に全然冷淡だつたかと云ふと、これは中々冷淡所ではない。寧ろ頗る熱心に海彼岸の文學の表現法などを自家の藥籠中に收めてゐる。たとへば支考の傳へてゐる下の逸話に徴するが好い。
 「ある時翁の物がたりに、此ほど白氏文集を見て、老鶯と云、病蠶といへる言葉のおもしろければ、
     黃鳥や竹の子藪に老を啼
     さみだれや飼蠶煩ふ桑の畑

 斯く二句を作り侍りしが、鴬は筍藪といひて老若の餘情もいみじく籠り侍らん。蠶は熟語をしらぬ人は心のはこびをえこそ聞くまじけれ。是は筵の一字を入れて家に飼ひたるさまあらんとなり。」
 白樂天の長慶集は「嵯峨日記」にも掲げられた芭蕉の愛讀書の一つである。かう云ふ詩集などの表現法を換骨奪胎することは必しも稀ではなかつたらしい。たとへば芭蕉の俳諧はその動詞の用法に獨特の技巧を弄してゐる。

     一聲の江に橫たふや時鳥
       立石寺(前書略)
     閑さや岩にしみ入る蟬の聲
       鳳來寺に參籠して
     木枯に岩吹とがる杉間かな

 是等の動詞の用法は海彼岸の文學の字眼から學んだのではないであらうか? 字眼とは一字の工の爲に一句を穎異ならしめるものである。例へば下に引用する岑參の一聯に徴するがよい。

     孤燈客夢 寒杵郷愁
        【ことうかくむをもやし かんしよきやうしうをつく】

 けれども學んだと斷言するのは勿論頗る危險である。芭蕉はおのづから海彼岸の詩人と同じ表現法を捉へたかも知れない。しかし下に擧げる一句もやはり暗合に外ならないであらうか?

     鐘消えて花の香は撞く夕べかな

 僕の信ずる所によれば、これは明らかに朱飮山の所謂倒裝法を俳諧に用ひたものである。

     紅稻啄殘鸚鵡粒 碧梧棲老鳳凰
        【こうたうついばみあますあうむのりふ へきごすみおゆほうわうのえだ】

 上に擧げたのは倒裝法を用ひた、名高い杜甫の一聯である。この一聯を尋常に云ひ下せば、「鸚鵡啄殘紅稻粒 鳳凰棲老碧梧枝」【あうむついばみあますこうたうのりふ ほうわうすみおゆへきごのえだ】と名詞の位置を顚倒しなければならぬ。芭蕉の句も尋常に云ひ下せば、「鐘搗いて花の香消ゆる夕べかな」と動詞の位置の顚倒する筈である。すると一は名詞であり、一は又動詞であるにもせよ、これを俳諧に試みた倒裝法と考へるのは必しも獨斷とは稱し難いであらう。
 蕪村の海彼岸の文學に學ぶ所の多かつたことは前人も屢云ひ及んでゐる。が、芭蕉のはどう云ふものか、餘り考へる人もゐなかつたらしい。(もし一人でもゐたとすれば、この「鐘消えて」の句のことなどはとうの昔に氣づいてゐた筈である。)しかし延寶天和の間の芭蕉は誰でも知つてゐるやうに、「憶老杜、髭風ヲ吹テ暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ」「夜着は重し呉天に雪を見るあらん」以下、多數に海彼岸の文學を飜案した作品を殘してゐる。いや、そればかりではない。芭蕉は「虛栗」(天和三年上梓)の跋の後に「芭蕉桃靑」と署名してゐる。「芭蕉桃靑」は必しも海彼岸の文學を聯想せしめる雅號ではない。しかし「芭蕉桃靑」は「凝烟肌帶綠 映日瞼粧紅」【ぎようえんきみどりをおび ひにえいじてけんくれなゐをよそほふ】の詩中の趣を具へてゐる。(これは勝峯晉風氏も「芭蕉俳句定本」の年譜の中に「の一字を見落してならぬ」と云つてゐる。)すると芭蕉は――少くとも延寶天和の間の芭蕉は、海彼岸の文學に少なからず心醉してゐたと云はなければならぬ。或は多少の危險さへ冒せば、談林風の鬼窟裡に墮在してゐた芭蕉の天才を開眼したものは、海彼岸の文學であるとも云はれるかも知れない。かう云ふ芭蕉の俳諧の中に、海彼岸の文學の痕跡のあるのは、勿論不思議がるには當らない筈である。偶、「芭蕉俳句定本」を讀んでゐるうちに、海彼岸の文學の影響を考へたから、「芭蕉雜記」の後に加へることにした。
   附記。芭蕉は夙に伊藤坦庵、田中桐江などの學者に漢學を學んだと
  傳へられてゐる。しかし芭蕉の蒙つた海彼岸の文學の影響は寧ろ好ん
  で詩を作つた山口素堂に發するのかも知れない。

       十二 詩  人

 蕉風の付け合に關する議論は樋口功氏の「芭蕉硏究」に頗る明快に述べられてゐる。尤も僕は樋口氏のやうに、發句は蕉門の龍象を始め蕪村も甚だ芭蕉には劣つてゐなかつたとは信ぜられない。が、芭蕉の付け合の上に古今獨步の妙のあることはまことに樋口氏の議論の通りである。のみならず元祿の文藝復興の蕉風の付け合に反映してゐたと云ふのは如何にも同感と云はなければならぬ。
 芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。いや、寧ろ時代の中に全精神を投じた詩人である。たまたまその間口の廣さの芭蕉の發句に現れないのはこれも樋口氏の指摘したやうに發句は唯「わたくし詩歌」を本道とした爲と云はなければならぬ。蕪村はこの金鎖(きんさ)を破り、發句を自他無差別の大千世界へ解放した。「お手打の夫婦なりしを衣更」「負けまじき相撲を寢物語かな」等はこの解放の生んだ作品である。芭蕉は許六の「名將の橋の反見る扇かな」にさへ、「此句は名將の作にして、句主の手柄は少しも無し」と云ふ評語を下した。もし「お手打の夫婦」以下蕪村の作品を見たとすれば、後代の豎子の惡作劇に定めし苦い顏をしたことであらう。勿論蕪村の試みた發句解放の善惡はおのづから問題を異にしなければならぬ。しかし芭蕉の付け合を見ずに、蕪村の小說的構想などを前人未發のやうに賞揚するのは甚だしい片手落ちの批判である。
 念の爲にもう一度繰り返せば、芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。最も切實に時代を捉へ、最も大膽に時代を描いた萬葉集以後の詩人である。この事實を知る爲には芭蕉の付け合を一瞥すれば好い。芭蕉は茶漬を愛したなどと云ふのも嘘ではないかと思はれるほど、近松を生み、西鶴を生み、更に又師宣を生んだ元祿の人情を曲盡してゐる。殊に戀愛を歌つたものを見れば、其角さへ木强漢に見えぬことはない。況や後代の才人などは空也の瘦せか、乾鮭か、或は腎氣を失つた若隱居かと疑はれる位である。

     狩衣を砧の主にうちくれて         路 通
      わが稚名を君はおぼゆや         芭 蕉

      宮に召されしうき名はづかし       曾 良
     手枕に細きかひなをさし入て        芭 蕉

     殿守がねぶたがりつる朝ぼらけ       千 里
      兀げたる眉を隱すきぬぎぬ        芭 蕉

      足駄はかせぬ雨のあけぼの        越 人
     きぬぎぬやあまりか細くあでやかに     芭 蕉

     上置の干菜きざむもうはの空        野 坡
      馬に出ぬ日は内で戀する         芭 蕉

      やさしき色に咲るなでしこ        嵐 蘭
     よつ折の蒲團に君が丸くねて        芭 蕉

 是等の作品を作つた芭蕉は近代の芭蕉崇拜者の芭蕉とは聊か異つた芭蕉である。たとへば「きぬぎぬやあまりか細くあでやかに」は枯淡なる世捨人の作品ではない。菱川の浮世繪に髣髴たる女や若衆の美しさにも鋭い感受性を震はせてゐた、多情なる元祿びとの作品である。「元祿びとの」、――僕は敢て「元祿びとの」と言つた。是等の作品の抒情詩的甘露味はかの化政度の通人などの夢寐にも到り得る境地ではない。彼等は年代を數へれば、「わが稚名を君はおぼゆや」と歌つた芭蕉と、僅か百年を隔つるのに過ぎぬ。が、實は千年の昔に「常陸少女を忘れたまふな」と歌つた萬葉集中の女人よりも遙かに緣の遠い俗人だつたではないか?

       十三 鬼  趣

 芭蕉もあらゆる天才のやうに時代の好尙を反映してゐることは上に擧げた通りである。その著しい例の一つは芭蕉の俳諧にある鬼趣であらう。「剪燈新話」を飜案した淺井了意の「伽婢子(とぎばうこ)」は寬文六年の上梓である。爾來かう云ふ怪談小說は寬政頃まで流行してゐた。たとへば西鶴の「大下馬」などもこの流行の生んだ作品である。正保元年に生れた芭蕉は寬文、延寶、天和、貞享を經、元祿七年に長逝した。すると芭蕉の一生は怪談小說の流行の中に終始したものと云はなければならぬ。この爲に芭蕉の俳諧も――殊にまだ怪談小說に對する一代の興味の新鮮だつた「虛栗」以前の俳諧は時々鬼趣を弄んだ、巧妙な作品を殘してゐる。たとへば下の例に徴するが好い。
     小夜嵐とぼそ落ちては堂の月        信 德
      古入道は失せにけり露          桃 靑

      から尻沈む淵はありけり         信 德
     小蒲團に大蛇の恨み鱗形          桃 靑

     氣違を月のさそへば忽に          桃 靑
      尾を引ずりて森の下草          似 春

      夫は山伏あまの呼び聲          信 德
     一念の鱣(うなぎ)となつて七まとひ    桃 靑

     骨刀(こつがたな)土器鍔のもろきなり   其 角
      瘦せたる馬の影に鞭うつ         桃 靑

      山彥嫁をだいてうせけり         其 角
     忍びふす人は地藏にて明過し        桃 靑

     釜かぶる人は忍びて別るなり        其 角
      槌を子に抱くまぼろしの君        桃 靑

      今其とかげ金色の王           峽 水
     袖に入る螭龍(あまりよう)夢を契りけむ  桃 靑

 是等の作品の或ものは滑稽であるのにも違ひない。が、「瘦せたる馬の影」だの「槌を子に抱く」だのの感じは當時の怪談小說よりも寧ろもの凄い位である。芭蕉は蕉風を樹立した後、殆ど鬼趣には緣を斷つてしまつた。しかし無常の意を寓した作品はたとひ鬼趣ではないにもせよ、常に云ふ可らざる鬼氣を帶びてゐる。

      骸骨の畫に
    夕風や盆挑灯も糊ばなれ
      本間主馬が宅に、骸骨どもの笛、鼓をかまへて能する所を畫きて、
      壁に掛けたり(下略)
    稻妻やかほのところが薄(すすき)の穗





 續芭蕉雜記

       一 人

 僕は芭蕉の漢語にも新しい命を吹き込んだと書いてゐる。「蟻は六本の足を持つ」と云ふ文章は或は正硬であるかも知れない。しかし芭蕉の俳諧は度たびこの飜譯に近い冐險に功を奏してゐるのである。日本の文藝では少くとも「光は常に西方から來てゐた。」芭蕉も亦やはりこの例に洩れない。芭蕉の俳諧は當代の人々には如何に所謂モダアンだつたであらう。
     ひやひやと壁をふまへて晝寢かな
「壁をふまへて」と云ふ成語は漢語から奪つて來たものである。「踏壁眠」と云ふ成語を用ひた漢語は勿論少くないことであらう。僕は室生犀星君と一しよにこの芭蕉の近代的趣味(當代の)を一世を風靡した所以に數へてゐる。が、詩人芭蕉は又一面には「世渡り」にも長じてゐた。芭蕉の壘を摩した諸俳人、凡兆、丈艸、惟然等はいづれもこの點では芭蕉に若かない。芭蕉は彼等のやうに天才的だつたと共に彼等よりも一層苦勞人だつた。其角、許六、支考等を彼に心服させたものは彼の俳諧の群を拔いてゐたことも決して少くはなかつたであらう。(世人の所謂「德望」などは少くとも、彼等を御する上に何の役に立つものではない。)しかし又彼の世渡り上手も、――或は彼の英雄的手腕も巧みに彼等を籠絡した筈である。芭蕉の世故人情に通じてゐたことは彼の談林時代の俳諧を一瞥すれば善い。或は彼の書簡の裏にも東西の門弟を操縱した彼の機鋒は窺はれるのであらう。最後に彼は元祿二年にも――「奧の細道」の旅に登つた時にもかう云ふ句を作る「したたか者」だつた。

     夏山に足駄を拜む首途かな

「夏山」と言ひ、「足駄」と言ひ、更に「カドデ」と言つた勢にはこれも亦「したたか者」だつた一茶も顏色はないかも知れない。彼は實に「人」としても文藝的英雄の一人だつた。芭蕉の住した無常觀は芭蕉崇拜者の信ずるやうに弱々しい感傷主義を含んだものではない。寧ろやぶれかぶれの勇に富んだ不具退轉の一本道である。芭蕉の度たび、俳諧さへ「一生の道の草」と呼んだのは必しも偶然ではなかつたであらう。兎に角彼は後代には勿論、當代にも滅多に理解されなかつた、(崇拜を受けたことはないとは言はない。)恐しい糞やけになつた詩人である。

       二 傳  記

 芭蕉の傳記は細部に亘れば、未だに判然とはわからないらしい。が、僕は大體だけは下に盡きてゐると信じてゐる。――彼は不義をして伊賀を出奔し、江戶へ來て遊里などへ出入しながら、いつか近代的(當代の)大詩人になつた。なほ又念の爲につけ加へれば、文覺さへ恐れさせた西行ほどの肉體的エネルギイのなかつたことは確かであり、やはりわが子を緣から蹴落した西行ほどの神經的エネルギイもなかつたことは確かであらう。芭蕉の傳記もあらゆる傳記のやうに彼の作品を除外すれば格別神祕的でも何でもない。いや、西鶴の「置土産」にある蕩兒の一生と大差ないのである。唯彼は彼の俳諧を、――彼の「一生の道の草」を殘した。……
 最後に彼を生んだ伊賀の國は「伊賀燒」の陶器を生んだ國だつた。かう云ふ一國の藝術的空氣も封建時代には彼を生ずるのに或は力のあつたことであらう。僕はいつか伊賀の香合に圖々しくも枯淡な芭蕉を感じた。禪坊主は度たび褒める代りに貶す言葉を使ふものである。ああ云ふ心もちは芭蕉に對すると、僕等にもあることを感ぜざるを得ない。彼は實に日本の生んだ三百年前の大山師だつた。

       三 芭蕉の衣鉢

 芭蕉の衣鉢は詩的には丈艸などにも傳はつてゐる。それから、――この世紀の詩人たちにも或は傳はつてゐるかも知れない。が、生活的には伊賀のやうに山の多い信濃の大詩人、一茶に傳はつたばかりだつた。一時代の文明は勿論或詩人の作品を支配してゐる。一茶の作品は芭蕉の作品とその爲にも同じ峰に達してゐない。が、彼等は肚の底ではどちらも「糞やけ道(だう)」を通つてゐた。芭蕉の門弟だつた惟然も亦或はかう云ふ一人だつたかも知れない。しかし彼は一茶のやうに圖太い根性を持つてゐなかつた。その代りに一茶よりも可憐だつた。彼の風狂は芝居に見るやうに洒脫とか趣味とか云ふものではない。彼には彼の家族は勿論、彼の命をも賭した風狂である。

     秋晴れたあら鬼貫の夕べやな

 僕はこの句を惟然の作品中でも決して名句とは思つてゐない。しかし彼の風狂はこの句の中にも見えると思つてゐる。惟然の風狂を喜ぶものは、――就中輕妙を喜ぶものは何とでも勝手に感服して善い。けれども僕の信ずる所によれば、そこに僕等を動かすものは畢に芭蕉に及ばなかつた、芭蕉に近い或詩人の慟哭である。若し彼の風狂を「とり亂してゐる」と言ふ批評家でもあれば、僕はこの批評家に敬意を表することを吝まないであらう。
 追記。これは「芭蕉雜記」の一部になるものである。





 〔芭蕉雜記〕

 

       宗  師

 

 芭蕉は不世出の天才であり、同時に又一代の宗師だつた。が、古來の天才は一人ならず陋巷に窮死してゐる。すると天才だつたことは必しも宗師だつた所以ではない。子規居士はその「芭蕉雜談」の中に、芭蕉の大名を得た所以を俳譜そのものの「平民的」傾向と芭蕉その人の「智識德行」とに歸し、更に「そは俳諧宗の開祖としての芭蕉にして文學者としての芭蕉に非ず」と云つた。宗師たる芭蕉の天才たる芭蕉とおのづから趣を異にするのはまことに子規居士の言の通りである。

 念の爲にもう一度繰り返せば、芭蕉は不世出の天才であり、同時に又一代の宗師だつた。一代の宗師となつた所以は勿論いろいろ數へられるであらう。たとへば芭蕉の西行のやうに行脚三昧を愛したり、枯淡の生涯に安んじたりしたのも、古往今來センティメンタルなる俗衆の感淚を流させたであらう。しかし宗師となる上に最も力のあつたものは――天成の宗師だつたと云ふことである。もし宗師と云ふ言葉を使はずにすませたいと思ふならば、天成の敎師と云ひ換へても好い。芭蕉は子規居士も「芭蕉雜談」の中に「芭蕉の弟子を敎ふる孔子の弟子を敎ふるが如し。各人に向つて絕對的の論理を述ぶるに非ず、所謂人を見て法を說く者なり」と云つた通り、門下の龍象を敎へるのに獨特の手腕を具へてゐた。向井去來の「去來抄」森川許六の「俳諧問答」等は明らかにこの事實を證するものである。今試みに「俳諧問答」中の「自讃之論」の一節を引けば、――

 「その時翁の曰、明日衣更なり。句あるべし、聞かんといへり。かしこまりて、三四句吐出すと雖も、師本意に叶ほず。師の云、當時諸門弟幷他門ともに、俳譜慥にして疊の上に坐し、釘鍵をもつてかたくしめたるが如し。是名人の遊所にあらず。許子が案ずる所も是なり。風雅の外に子が得たる藝能を察せよ。名人は危所に遊ぶ、俳諧かくの如し。仕損ずまじき心あくまで有、是下手の心にして上手の膓にあらず、師が當歲旦

 「   年としや猿に着せたる猿の面

 「といふ句、全く仕損じの句なり。(中略)予が曰、名人の師の上にも仕損じ有や。答曰、毎句有。予この一言を聞て、言下に大悟す。」

 更に又「去來抄」の一節を引けば、――

 「   下臥につかみわけばや糸ざくら

 「翁路上にて去來に語つて曰、此頃其角が集に此句あり、いかが思ひて入集しけんとなり。去來云、糸櫻の十分に咲たる形容よく云課(おは)せたるに侍らずや。翁曰、いひ課せて何かある。去來ここにおいて肝に銘ずることあり。」

 許六に對する芭蕉の態度は老婆心切を極めてゐる。が、去來に對する芭蕉の態度は禅家の棒喝と選ぶ所はない。且又芭蕉は機宜に應じた、かう云ふ獨特の敎授法の外にも、如何にも俳諧の父らしい無限の溫情を蓄へてゐた。「秋風に折れて悲しき桑の枝」と云ひ、「袖のいろよごれて寒し濃ねずみ」と云ひ、或は又「塚も動けわが泣く聲は秋の風」と云ひ、門人及び門人の父兄の長逝を悼んだ作品の側々と人を動かすのは必しも巧拙の如何のみではない。殊に僕をセンティメンタルにするのはかう云ふ芭蕉の逸話である。

 「   をとつひはあの山こえつ花ざかり      去  來

 「これは猿蓑三年以前の吟なり。翁曰、此句今聞入有まじ、一兩年まつべしとなり。其後杜國が徒と芳野行脚し給ひし道より去來への文に、或はよし野を花の山と云、或はこれは/\とばかり聞えしに魂をうばほれ、又は其角がさくらさだめぬと云しに氣色とられて、芳野に句もなかりき。唯をとつひはあの山こえつと日々吟じ行侍るとなり。」

 實際一兩年早かつたかどうかは少時問はずとも差支へない。が、「唯をとつひはあの山こえつと日々吟じ行侍る」の一行は骨に透る優しさを含んでゐる。

 敎師たる芭蕉の特色はその外にも幾つか數へられるであらう。しかし上に擧げただけでも、如何に芭蕉の良敎師だつたかは容易に首肯出來る筈である。かう云ふ敎師を頂いた門人たちの心服は問ふを待たない。

 

       才  人

 

 芭蕉は當代の龍象を易々と門下に從へてゐた。前人は屢この事實を擧げ、如何に芭蕉の德望の大いだつたかを力說してゐる。芭蕉は勿論德望に饒かだつた君子であらう。少くとも對人關係だけは出來るだけ平和に保たうとした精神上のエコノミストである。

 「土芳曰、人是非に立る筋多し。今其の地にあるべからずと、恨あるべき人の方にも行かよひ、老後には心の障もなく見え侍るなり。」

 芭蕉のこの爲にも門人は勿論、他門の俳人の中にさへ滅多に敵を造らなかつたのは疑ひもない事實である。しかし唯この爲にのみ、大宗匠になつたと信ずるのは村夫子の見を免れないであらう。芭蕉の藝術は俳諧であり、俳諧は付け合を試みるものである。然るに付け合の巧拙は和歌の題詠の巧拙のやうに、(付け合も實は題詠である。)俗目にも入り易いのに相違ない。いや、兩吟の場合などにはその優劣の蔽ひ難いことは劍道の立ち合も同じことである。芭蕉はかう云ふ付け合の上に古今獨步の名を博してゐた。諸人のおのづから芭蕉の前に畏敬の念を生じたのはこの爲もあつたのに違ひない。少くとも門下の龍象の芭蕉に頭の擧らなかつたのは德望よりも寧ろこの爲である。たとへば獅子庵支考と共に、容易に人に遜らなかつた許六の「自讃之論」に徹するが好い。

 「初學の時は、季吟老人の流に手引せられて、中頃談林の風起て、急に風をうつし、京師田中氏常矩法師の門人と成て、俳諧する事七八年、晝夜寢食を忘れて、一日に三百韻五百韻を吐き出す。その頃出る詩集に渡つて、一天下の俳諧恐くは掌中に握りたる樣におぼゆ。常矩門弟の第一と稱す如泉などと云へる者ほ、予より遙におとつたる門人なり。(中略)その頃常矩が何がし集の付句に、

 「   物の時宜も所によりてかはりけり(前句)

 「    難波のあしを伊勢風呂でえた

 「といふ句有り。秀逸とて入集す。我黨これを取らず。(中略)又その頃桃靑の付け句に

 「   聞き耳やよそに怪しき荻の聲(前句)

 「    難波の蘆は伊勢のよも市

 「と云句あり。これ上手の作なりとて、感じて桃靑の上手を稱す。(中略)その頃の一天下桃靑を翁と稱して、いよ/\名人の號を四海にしくと沙汰しけり。予この人の器を見るに、我肩を並べたる時、中々及ばざる上手なり。日々名人と成侍らん。願くは一度對面して、俳譜の新風を聞きたしと、(下略)」

 「難波の蘆」の句を吐いたのは嘗時まだ談林風に心醉してゐた三十四五歲の芭蕉である。(前句の作者は信德である。)この付け合の註釋は樋口功氏の「芭蕉硏究」に盡きてゐると云つても好い。(同書後篇、第三節百韻時代)もし屋上屋を架すれば、按摩らしいよも市の名を「難波の産は伊勢の濱荻」の濱荻に換へた猾手段は右すれば滑稽に入り、左すれば幻怪に入る一髮の機微を捉らへたものである。これをしも才人でないと云ふならば、何ものを才人と稱するのであらう? 更に又蕉風を打開した四十一歲の芭蕉の作品もやはりその點は同じことである。

    籬まで津浪の水に崩れ行           荷  兮

     佛食たる魚ほどきけり           芭  蕉

 「佛食たる」は幸田露伴氏の說のやうに水死人を食つたことであらう。これは勿論談林風のやうに洒落や地口を弄してゐない。しかし付けかたの鮮かさは依然たる才人の面目である。

     ゆがみて蓋のあはぬ半櫃          凡  兆

    草庵に暫く居ては打やぶり          芭  蕉

 「雀百迄躍りを忘れず」とはまことに五十歲に垂(なんな)んとする芭蕉の付け合の才氣である。[やぶちゃん注:以下、中黒点「・」62個連打があるが、省略した。]

 

                偶  像

 

 芭蕉は大阪に示寂した後、忽ち偶像に化しはじめた。いや、偶像に化したばかりではない。八百萬の神神と少しも變らぬ俳諧の神にさへ化しはじめたのである。この芭蕉の神格化はそれ自身興味のある問題であらう。如何に芭蕉はクリストのやうに奇蹟を行ふやうになつたか、如何に諸國の百姓町人は芭蕉の祠を崇めるやうになつたか、又如何に芭蕉の門人たちもクリストの十二の使徒のやうに多少の莊嚴を帶びるやうになつたか、――さう云ふ硏究は俳諧のみならず、日本の土俗を明らかにする上にも幾分かの役に立つことであらう。(註一)[やぶちゃん注:これのに対応する註は見当たらない。]

 芭蕉は流俗の思惑などに頓着せぬ偶像破壞者である。幾多の俳諧の偶像を破壞し去つたのは云ふを待たない。「俳諧は萬葉集の心なり。唐明すべて中華の豪傑にも愧づる事なし」と傲語したのも芭蕉である。「見てあしき書とてはなし。儒佛より國書其外謠淨瑠璃本も見るべし」と空嘯いしたのも芭蕉である。他門と交るも「苦しからず。交はりてあしきものは博突とぬす人なるべし」と喝破したのも芭蕉である。(いや、博奕とぬす人さへ、芭蕉は必しも蛇蝎のやうに排斥することはなさなかつたであらう。)かう云ふ偶像破壞者自身の忽ち偶像に化したのはあらゆる天才の運命とは云へ、如何に悲慘なる喜劇である。

 この偶像崇拜に手痛い一擊を加へたのは正岡子規の「芭蕉雜談」である。「芭蕉雜談」は芭蕉の面目を說盡したものではないかも知れない。しかし芭蕉の圓光を粉碎し去つたことは事實である。これは十百の芭蕉堂を作り、千萬の芭蕉忌を修するよりも、二百年前の偶像破壞者には好個の供養だつたと云はなければならぬ。

 けれども芭蕉の偶像崇拜は未だに跡を絕つた訣ではない。成程子規は一擊の下に俳諧の神を撲殺した。しかし神の落命した後にも、聖者は依然として殘つてゐる。たとへば吉田絃二郎の「芭蕉」は傳稱するに足る小說であらう。が、作中に現れる芭蕉はいつも妙にうち沈んだ、洒落一つ滅多に云ひさうもない、頗るセンティメンタルな聖者である。あの倣岸な支考や許六もかう云ふ芭蕉の說敎に唯唯諾諾としてゐたであらうか? いや、僕さへかう云ふ芭蕉は一蹴し去ることを辭せないものである。

 古人は靑雲のむかぶすきはみに俳諧の神を建立した。今入は女學校の運動場の隅に俳諧の聖者を建立してゐる。もしその一を選べと云ふならば、僕は寧ろ聖者よりは神を選びたいと思つてゐる。吉田絃二郎氏の芭蕉よりは「行脚怪談袋」だの「俳諧水滸傳」だのの芭蕉を選びたいと思つてゐる。

 

      氣  質

 

 芭蕉は大抵尤もらしい隠君子のやうに考へられてゐる。が、必し吉田絃二郎氏の小說「芭蕉」の主人公のやうに、沈み勝ちの人ではなかつたらしい。成程芭蕉には「食の後、蠟燭をはや取るべしと宣ふ。夜の更くること目に見えてせはしきとなり」と云ふ、名高い逸話も傳へられてゐる。しかしこれは芭蕉ばかりでほない。我々も亦柱時計を前に、付け合の工夫を凝らすとすれば、必ず「時計をとり去るべし。夜の更くること目に見えて心せはしき」などと云ひ出すであらう。

 その外にも亦小川破笠は市川栢筵の「老の樂」の中にかう云ふ逸話を傳へてゐる。

 「嵐雪なども俳情の外に翁をはづし逃げなどいたし候よし。殊の外氣がつまり面白からぬ故なり。」

 しかし如何なる門人もその私淑する師匠の前には多少氣づまりに感ずるものである。現に夏目先生は甚だ諧謔に饒かだつた。けれども門人たる僕などの氣づまりに感じたのは確かである。況や破笠の嵐雪だのは謹嚴に身を持した君子ではない。いづれ晉子其角などの居候になつてゐた風流無双の才子である。すると彼等の「俳情の外に翁をはづし逃げなど」したは愈當然と云はなければならぬ。

 尤も芭蕉の人生の無常を感じてゐたことは確かである。少くとも屢人生の無常を說いてゐたことは確かである。人生は無常に違ひない。それを無常々々と吹聽するのは如何に芭蕉庵桃靑にもせよ、頗る談義僧の口吻に類した不見識の沙汰と云はなければならぬ。が、少時芭蕉の爲に辯護の勞を執るとすれば、芭蕉の火宅に住したのは所謂元綠の黃金時代である。この豪奢なる一代の風潮はおのづから芭蕉の厭離の念に拍車を加へずには措かなかつたであらう。のみならず芭蕉自身にしても、談林風の俳諧を愛した前半生を具へてゐるだけに、なほ更如夢幻泡影の觀を强めない訣には行かなかつたであらう。是等の事情を考へれば、芭蕉の無常を力說したのも一・・・・・・・・なるかも知れない。しかし芭蕉の氣質の上へ憂鬱の刻印を打つてしまふには必しも證據にはならぬ筈である。

 最後に芭蕉は作品の中に屢無常を語つてゐる。[やぶちゃん注:以下、中黒点「・」80個連打があるが、省略した。]

 

       諧  謔

 芭蕉は世人の考へてゐるほど、もの寂しい人ではなかつたらしい。寧ろあらゆる天才のやうに、頗る諧謔を好んだやうである。かう云ふ事實を證明する例は「去來抄」等に傳へられた逸話の中にも乏しくない。

 「我翁の常に歎美し給ひし狂歌あり。のぼるべきたよりなければ鳴神の井戶の底にて相果にける。讀み人知らず。」

 「三河の新城にて支考桃隣同座せられけるに、白雪問ふ、故事は何と使ひ候て新しめ候やらん。翁曰、ある歌仙に、

      薦かぶり居る北の橋詰

     祐經は武運のつよき男にて

 敵打のあらまし事、かかる形容もありぬべし。多くの年月ねらひけるに果報いみじき工藤なり。建久四年五月二十八日まで生のびぬと可笑がり給ひしが、是さへ形見となる。」

 「翁、ある御方にて、會半ばに席を立つて長雪隱せられけるを、幾度も召し出けるに、やや經て、手を洗ひ口漱ぎて、咲うて曰、人間五十年と云へり。我二十五年をば後架にながらへたるなり云云。」

 「支考云、嵯峨の落柿舍に遊びて談笑の序に、都には蕉門の稀なることを歎きしに、翁は例の咲ひ咲ひ、我家の俳諧は京の土地に合はず。蕎蓼切の汁の甘きにも知るべし。大根の辛みの速かなるに山葵の辛みの諂ひたる匀さへ、例の似て非ならん。此後に丈夫の人ありて、心のねばりを洗ひ盡し、剛ならず柔ならず、俳諧は今日の平話なることを知らば、始めて落柿舍の講中となりて、箸筥の名錄に入るべしとぞ。」

 のみならず芭蕉の俳諧にも諧謔を弄した句は勿論、地口や洒落の多いことは既に周知の事實である。それも世人の考へてゐるやうに、談林の影響のもとに作つた初期の句ばかりにとどまるのではない。元祿以後の句の中にもかう云ふ例は秋の野山の鶉のやうに散在してゐる。

     景淸も花見の座には七兵衞

       箕輪笠島も五月雨の折にふれたりとて、

     笠島やいづこ五月のぬかり道

     わが宿は蚊の小さきを馳走かな

       まだ埋火の消えやらず臘月すゑ京都を立出でて

       乙州が新宅に春を待ちて、

     人に家を買はせて我は年忘れ

       田家にありて

     麥飯にやつるる戀か猫の妻

       鳳來寺に參籠して、

     夜着一つ祈り出したる旅寐かな

       二月吉日とて是橘が剃髮入醫門を賀す、

     初午に狐の剃りし頭かな

       美濃路より李由のもとへ文の音信に、

     童顏に晝寐せうもの床の山

 殊に最後の「童顏」の句は芭蕉の大阪に示寂した元祿七年の作である。すると芭蕉は死に至る迄、諧謔を好んだと云はねばならぬ。

 晩年の芭蕉は幽玄を愛し、寂び栞を說いた[やぶちゃん注:以下、中黒点「・」82個連打があるが、省略した。]

 

       支  那

 

 延寶年間の桃靑は談林風の俳人である。が、貞享年間の芭蕉はもう談林風の俳人ではない。卽ち延寶から貞享に至る天和年間の芭蕉庵桃靑は拳を放れた鷹のやうに、談林風の圈外へ逸し去つたのである。

 談林風の圈外に逸し去つたのは勿論芭蕉の天才に依つたものと云はなければならぬ。しかし芭蕉は人も許し、みづからも才を負つてゐた、錚々たる談林風の俳人である。かう云ふ芭蕉には餘人よりも、談林風の圈外に逸し去ることは困難だつたのに違ひない。この金鎖(きんさ)を裁斷したのは、――それも天才と云つてしまへば、造作のないことは確かである。が、もう少し立ち入つて見れば、芭蕉の天才も何かの機緣に開眼を受けたものと思はなければならぬ。ではその機緣は何だつたであらうか?

 この答も同樣に簡單である。必ず古人の藝術はおのづから津頭を示したであらう。しかし芭蕉は歌を愛し、謠曲を愛し、書を愛し、更に又畫をも愛してゐる。四十歲に近い天和年間の芭蕉に蕉風の寂光土を示したものはそれらの中の何だつたであらうか? これも亦全部と答へさへすれば、手數は省けるのに違ひない。では最も直接に芭蕉の天才の開眼に力のあつたのは何であらうか?

 天和年間の芭蕉の作品は頗る支那文學の臭味を帶びてゐる。尤も「漢字を集め、詩を聞くやうになり、又は字餘り、一息にいはれぬやうなる事」(歷代滑稽傳)になつたのは必しも芭蕉に創まつたのではない。寧ろ當時の俳諧を風靡した流行と云はなければならぬ。しかし芭蕉は明らかにかう云ふ支那文學の影響の骨髓に入つた一人である。「虛粟(みなしぐり)」の「髭風を吹いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ」「夜着は黑し呉天に雪を見るあらん」等の支那文學の臭味は云ふを待たない。夙に蕉風を樹立した四十七歲の芭蕉さへ下の作品を殘してゐる。

     鐘消(きえ)て花の香は撞(つく)夕べかな

 これは朱飮山の所謂倒裝法を俳譜に試みたものである。たとへば下の例に徹するが好い。

     紅稻啄殘鸚鵡粒 碧梧棲老鳳凰枝

 この名高い杜少陵の聯旬は勿論意味を理解する爲には、「鸚鵡啄殘紅稻粒 鳳凰棲老碧梧枝」と兩句とも名詞を入れ換へなければならぬ。芭蕉の句も意味を理解する爲には、「鐘搗いて花の香消ゆる夕べかな」と動詞を入れ換へなければならぬことは全然上の例と同じことである。これを暗合と云つてしまへば兎も角、もし僕の云ふやうに倒裝法を用ひたものとすれば、芭蕉の蒙つた支那文學の影響は可成大きかつたと云はなければならぬ。

なほ又もう一つ例を擧げれば、芭蕉は「虛栗」の跋の後に「芭蕉桃靑」と署名してゐる。「芭蕉桃靑」は必しも支那文學の臭味を帶びてゐない。が、「芭蕉桃靑」は「凝烟肌帶綠 映日瞼粧紅」の詩中の趣を具へてゐる。特に「洞」の字を用ひた芭蕉の如何に支那文學に心醉してゐたかは何びとも看取に苦しまないであらう。

 芭蕉の支那文學に傾倒したことは上に述べた通りである。しかもその支那文學の臭味の最も橫溢したのは前人も既に云つた通り、「次韻」「武藏曲」「虛粟」等を出した天和年間と云はなければならぬ。すると最も芭蕉の天才を開眼するのに效のあつたものも支那文學と云ふことは出來るかも知れない。