やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ

鬼火へ

耳嚢 卷之一   根岸鎭衞

 

注記及び現代語訳 copyright 2009-2010 Yabtyan

 

[やぶちゃん注:底本は三一書房1970年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。後にカリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館で発見された完本(旧三井文庫本)による1991年刊の岩波文庫版「耳嚢」(みみぶくろ)が最良本であるが、これは新字を採用しているため、原則、読みの参考に止めた(そちらを採用した部分には、それぞれの箇所で注記するものとする)。底本には殆んどルビがないが、難読語及び読みに迷うと思われるものについては、歴史的仮名遣で読みを附した。根岸自身の割注は【 】で示した。各篇の後に「□」で私のオリジナルな注及び「■」で現代語訳を附した。注の頭には「○前項連関」という項を設け、根岸が編するに際して考えたと思われる前の記事との連関性等について注した。ルビ・注・現代語訳に際しては、底本の鈴木棠三氏の補注及び1991年刊の岩波文庫版「耳嚢」の長谷川強氏の注を一部参考にさせて頂き、参照・引用した場合はそれぞれ明記してある。現代語訳では自在な面白さのある訳を心懸けたため、敷衍や意訳、翻案部分も多い。そうした脱線部分も、なるべく注と併読すれば本来の本線が見えるようにはしたつもりである。会話文(直接話法及びそれに準ずる心内語)や一部の語句は読み易さを考えて殆んど改行を施した。また、私の判断で適宜、段落や空行・ダッシュ・点線等も自在に設けてある。各話の間には底本にはない「*   *   *」を挟んだ。なお、作者名及び本書名については統一を図るためと、原著者・原著作に敬意を表し、引用などで新字になっているものも、総て正字表記――「根岸鎭衞」及び「耳嚢」――に改めてある。また、注の細かな変更・追加は特に履歴としては示さない。但し、大きな誤解や誤訳の場合は、必ず本注最後に履歴追加する。

 筆者である根岸鎭衞(ねぎししづ<ず>もり 元文2(1737)年~文化121815)年)は江戸の旗本。下級旗本の安生(あんじょう)家の三男として生まれ、宝暦8(1758)年22歳の時、根岸家の養子となり、その家督を相続した。同年中に勘定所御勘定として出仕後、評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)・勘定組頭・勘定吟味役を歴任した。また、彼は河川の改修・普請に才覚を揮い(「耳嚢」にはそうした実働での見聞を覗かせる話柄もある)、浅間大噴火後の天明31783)年、47歳の時には浅間復興の巡検役となった。その功績によって翌天明41784)年に佐渡奉行として現地に在任、天明7(1787)年には勘定奉行に抜擢されて帰参、同年12月には従五位下肥後守に叙任、寛政101798)年に南町奉行となり、文化121815)年まで終身、在職した。

 底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明51785)年頃に始まり、没する前年、文化111814)年迄の実に30年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から((以下、リンクのあるものは私の完成版若しくは作業中版である)、

「卷之一」の下限は天明2(1782)年春まで

「卷之二」の下限は天明6(1786)年まで

「卷之三」は前2巻の補完(日付を附した記事がない)

(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)

「卷之四」の下限は寛政8(1796)年夏まで(寛政7年の記事の方が多い)

「卷之五」の下限は寛政9(1797)年夏まで(寛政9年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)

「卷之六」の下限は文化元(1804)年7月まで(但し、「卷之三」のように前2巻の補完的性格が強い)

「卷之七」の下限は文化3(1806)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)

「卷之八」の下限は文化5(1808)年夏まで

「卷之九」の下限は文化6(1809)年夏まで

(ここで900話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、4~5年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)

「卷之十」の下限は死の前年文化111814)年6月まで

といった凡その区分を推定され、全体を、

巻之一~巻之三

巻之四~巻之六

巻之七~巻之九

巻之十

の4期に分けることが出来るとしておられる。

 底本は、以下の四種の伝本を接合した全十巻の鈴木棠三版編輯完本である。その底本は以下の通りである。
巻之一~巻之五 東北大学図書館蔵狩野文庫本
巻之六     日本芸林叢書六巻本
巻之七     尊経閣文庫所蔵八巻本
巻之八~巻之十 日本芸林叢書六巻本
 なお、底本の鈴木氏注にしばしば出る『三村翁』『三村』の注というのは、この日本芸林叢書六巻本の原本の旧蔵者である三村竹清氏で、この引用は同叢書の頭註にあるものからの引用である旨、底本の解題にある。
 ネット上には「耳嚢」の纏まった原典テクストは現在、存在しない。また現代語訳サイト(原典はなし)としては老舗の画期的な労作
袋」がある(但し、このHPは
2003年以降更新されておらず、現代語訳も巻之五の96話目で途絶えたきりである。かつて「耳袋」の定期配信メルマガを親しく購読させて頂いた縁もあり、ライバルながら、半ばまで来ておられる訳業の再復活と完成をお祈りしたい。また、第五巻迄を現代語で平易に読みたい向きには最上のサイトである。語釈はリンク切れしている模様。但し、この方の現代語訳には分かり易さを主眼にしたやや意訳に過ぎる飛躍部分や、高校国語教師としての私には看過出来ない誤訳と思われる箇所もあり、ライバル故にこそ、私の訳はこの方の現代語訳を殆んど参考にしていないオリジナル訳である。それは私の公開分を対照して頂ければ、お分かり戴けるものと思う)。

 最後に、本作には明白な身分差別や障害差別を示す語句及び表現が現れるが、それを現代語訳では基本的にそのまま用いている。しばしば行われる現代の差別用語言い換え語で処理するようなことは一切していない。それは非文学的であり、また「言葉狩り」=差別撤廃という短絡的志向に対して私が批判的立場をとるからである。それについてはここで議論する気は全くない。何よりも読者各自が批判的視点から自律的に読むことが大切である(それが差別語であることの注意を喚起すべきと私が判断した場合は、注記でそれを示した)。

 本「耳嚢」オリジナル全訳注プロジェクトは2009年9月22日に始動したが、鈍重老弱病躯創痍の私の作業は遅々として進まぬものと御理解頂きたい。しかし、せめて怪奇談蒐集フリーク根岸鎭衞の御跡を拝せんがためにも、全10巻全1000条を成し遂げたいという不遜な望みは、確かに、あるのである――卷之一終了2010年1月30日

 

 目  次

 

  耳嚢 卷之一

禪氣狂歌の事

下風道二齋が事

小野次郎右衞門出身の事 附伊藤一刀齋が事

小野次郎右衞門遠流の事 附御免にて被召歸事

有德院樣御射留御格言の事 附御仁心の事

積聚の事

兩國橋懸替の事

盲人かたり事いたす事

惡敷戲れ致間敷事 附惡事に頓智の事

觀世新九郎修業自然の事

萬年石の事

やろかつといふ物の事

ちかぼしの事

仁君御慈愛の事

淨圓院樣御賢德の事

和國醫師僧官起立の事

南光坊書記を寫せる由の事

妖氣不勝強勇に事

長尾全庵が家起立の事

貨殖工夫の事

奇術の事

人の精力しるしある事

御力量の事

石谷淡州狂歌の事

大陰の人因果の事

羽蟻を止る呪の事

燒床呪の事

蠟燭の流れを留る事

金春太夫が事

鼻金剛の事

藝は智鈍に寄らざる事

微物氣術ある事

怨念無之共極がたき事

金精神の事

陽物を祭り官を得る事

山事の手段は人の非に爽ずる事

不義に不義の禍ある事

傾城奸計の事

爲廣塚の事

柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事

柳生家門番の事

大岡越前守金言の事

妖怪なしとも極難申事

下わらびの事

狂歌の事

相學奇談の事

池田多治見が妻和歌の事

鳥丸光榮入道卜山の事

大通人事并圖

諺歌の事

惡女歌の事

女をいましめし歌の事

河童の事

犬に位を給はりし事

儉約を守る歌の事

紀州治貞公賢德の事

酒井忠實儉約を守る事

小刀銘の事

水野家士岩崎彦右衞門が事

江戸贔屓發句の事

弓術故實の事

下賤の者にも規矩見識のある事

天道の論諭の事

江戸武氣自然の事

戲書鄙言の事

頓智不可議事

井伊家質素の事

松平康福公狂歌の事

鬼谷子心取物語の事

物は一途に無候ては成就なき事

山中鹿之助武邊評判段の事

澤庵壁書の事

大木口哲大坂屋平六五十嵐狐膏藥江戸鄽最初の事

兩國橋幾世餠起立の事

京都風の神送りの事

金春太夫藝評を申上し事

藥研堀不動起立の事

足利聖像の事

人の運不可計事(二ヵ條)

信念に奇特有し事

雷を嫌ふ事あるまじき事

碁所道智御答の事

實母散起立の事

蜂の巣を取捨る呪の事

人性忌嫌ふものある事

天命自然の事

舊室風狂の事

奇病并鍼術の事

有德院樣御鷹野先の事 附羅漢寺御請殊勝の事

土屋相模守御加増ありし事

時代うつりかはる事

前生なきとも難極事

不思議なしとも難極事

尊崇する所奇瑞の事

一心の決處願ひ成就する事

名君世の助を捨給はざる事

異物又奇偶ある事

武邊手段の事

怪僧墨蹟の事

 

 

耳嚢 卷之一

 

 

 禪氣狂歌の事

 

 芝邊に柳屋何某(なにがし)といへる打物商せる者有しが、禪學を好み家業の間には專ら修業し侍るよし。或日遍參の僧柳屋が見世に來て、並べ有し打物をあれ是見て、一ツの毛拔を手に取りて、此毛ぬきはくふべきやと尋ければ、柳や憤りけるや又は禪僧故兼て嗜む禪氣にや、答て、其毛拔本來空と有ければ、流石禪僧言下に、

  空ならばたゞ紅ゐのはな毛拔柳が見せは見取也けり

と一首の狂歌を詠じ、右毛抜を持立去りけるとなん。

 

□やぶちゃん注

・禪氣狂歌の事:禅僧が修行者等に対して放つ、独特の鋭い一言や悟達を促すための動作を「禅機」と称し、禅の無我の自在な境地から出る働きを言うが、ここはそれに引っ掛けて、禅機染みた、禅の好事家らしい味な狂歌一首に纏わる一エピソード。何ゆえ、これを「耳嚢」の巻頭に配したか定かではないが、町人と行脚僧の、丁丁発止が、次で実際の丁丁発止の槍試合にモンタージュしてゆく様は快い。また「耳嚢」は決して武辺の講談にあらざるを示さんがための配役とも思われる。

・芝:現在の東京都港区。当時は豊島郡柴村。

・打物商:金属を打ち鍛えたり延ばしたりして作った刃物や金物を商売した店。

・くふ:しっかりと間に挟む。

・本來空:禅家の核心概念で、先の禅機や公案の常套句の一つである。万物の実質・実在等といったものはもともとマテリアルな実態把握の可能ものではない、一切空である、の意。勿論、「空」は毛を「くう」(食う・喰う)に掛けてある。

・空ならばたゞ紅ゐのはな毛拔柳が見せは見取也けり:「花は紅柳は緑」といった語句は、あるがままに存在し、そのために在るといった意味でやはり禅家の公案等で好まれる語である。ここはその「紅の花」に、「ただ(で)くれ」る「はな(毛抜き)」の意を、更に「緑」=「みとり」を、「柳」屋の店先で「見取り」=「自由に品物を見て好きなものを選び取る」の意に掛けてある。

やぶちゃんの解釈:総ては空だと、言うのであらば、タダで呉れりょう、鼻毛抜き。柳は緑、店は見取り――ああら、あらあら、めでたやな!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 禅臭芬々たる狂歌の事

 

 芝の辺りに柳屋何某といった金物商いを生業(なりわい)とする者があったが、その柳屋何某という主人、これが商人にも似合わず禅を齧ることを甚だ好み、家業の合間には専ら禅の書を読み耽り、実際に座禅なども致しておったようで御座る。

 さて、ある日のこと、一人の行脚の禅僧が、この柳屋の店先にやって参り、店頭に並べてあった打ち金物をさんざんぱら見た上、仕舞いには、一本の毛抜きを手に取ると、

「この毛抜きは、ちゃんとくうんかね?」

と訊ねた。柳屋は商売物にさんざん手油を付けられた上に、商品にケチを付けられたと思って怒ったのか、はたまた、相手を傲岸な禅僧と見て取り、兼ねてより嗜んでおる禅の機をそこに見出したのか、すかさず答えて、

「その毛抜き、本来、空!」

とやらかしたところ、流石、禅僧、たちどころに、

空ならばただくれないのはな毛抜き柳がみせは見取りなりけり

という一首の狂歌を吟じると、その毛抜きを手にしたまま悠然と立ち去ってしまった、ということで御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 下風道二齋が事

 

 道二齋は寶藏院の末弟子にて、鎗術修練、大猷院(たいいふゐん)樣の達御聽に、被爲召(めさせられ)於御前に、其此浪人にて素鑓(すやり)の達人一同に試合被仰付候節、御前にての儀故、高股立(たかももだち)并に懸聲等制止の儀御側向より沙汰有之、双方畏候旨にて立合故、勝負に望て、素鎗の浪人は右制止に隨ひ、道二齋は高股立にて懸聲も十分にいたしける故、御近邊より時々制止有之候得共不相用、難なく道二齋勝に成ければ、跡にて右制止を不用譯御尋有しに、道二齋愼で、御尋の趣御尤に奉存候。隨分共相愼み候存心(ぞんしん)には候得共、勝負に望みてはやはり稽古の心にて十分に藝を盡し、御前をも不恐樣に相成、制止を不用には無之、右不屆を以如何樣被仰付侯共是非に及び不申趣御答におよびければ、大猷院樣にも尤に被思召、殊の外御賞美にて、下風は名人の由上意有て御褒美被下けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:滑稽な前項の禅気を、槍術師下風道二斎の一期一会の試合に臨む意気込みの中に見ている。庶民の「打物」から武辺の「槍」へ。言葉の丁丁発止が槍の丁丁発止へ。

・「下風道二齋」は「おろしだうにさい」と読む。下石(おろし)平右衛門三正。始め山田瀬兵衛と称して宝蔵院流二世胤舜(いんしゅん)に鎌鎗術を学ぶ。松平家に仕えた後、江戸に出て下石道二と称し、無敗の鎗術師として知られた。槍術であってみれば、槍遣いの際のブウンブンという音から「下風」とも名乗ったのであろうか。

・「寶藏院」江戸前期の僧にして武道家であった胤舜(天正171589)年~正保1648)年)のこと。奈良興福寺の子院宝蔵院の院主であったからこう言う。宝蔵院流槍術の十文字鎌槍の完成者。宮本武蔵との手合せでも知られる。

・「大猷院」第三代将軍徳川家光(慶長9(1604)年~慶安4(1651)年)の諡(おく)り名。

・「達御聽に」は「御聽(おきき)に達し」と読む。

・「於御前に」は「御前に於て」と読む。

・「素鑓」槍の穂先が真っ直ぐな通常の槍。穂の形状により十文字槍・鎌槍等の別種がある。

・「高股立」動きやすくするために袴の股立ちを高く取って素足をむき出しにすること。また、その姿を言う。

・「御側向」は「おそばむき」と読む。将軍の側近、近習。

・「勝負に望て」底本では「望」の右に「(臨)」と注している。

・「存心」心中に正しく正に思うところ。考え。

・「是非に及び不申趣」の後半は「申さざる趣(おもむき)」と読み、「異義は御座らぬという趣旨の」という意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 下風道二斎の事

 

 下風道二斎は、かの槍術の祖、宝蔵院胤舜の最後の弟子であって、その槍術の修練の神技が、大猷院家光様のお耳に達して、御前に召され、当時、素槍の達人の呼び名が高かった浪人達なども一同に会し、試合の儀を仰せ付けられた。

 さて、御前のこと故、高股立ちや掛け声など下品なる振る舞いは禁ずる旨、事前に御近習からお達しがあって、対戦する双方共に畏まって承知の上、立ち合いの段となった。

 ところが、勝負が始まると、相手の浪人は先の禁に従って粛々とにじり寄ったが、道二斎はといえば、ざっと袴の裾を高くからげるや、遠慮会釈ないたっぷりとした大音声(だいおんじょう)を挙げて闘う始末。ために、大猷院様御付の者達が度々制止致いたが、道二斎は何処吹く風、あっという間に、難なく道二斎の勝ちと相い成った。

 さて、試合の後、御近習の者を介して大猷院様より、何故に制止に従わざる、とのお尋ねがあった。すると道二斎は、畏まって平伏すると、

「お尋ねの儀、尤も至極と存じ上げ奉りまする。拙者も勿論、随分、お達し従い、慎み致さんとの誠心は御座ったのではありまするが、事、勝負に臨んでは、やはり、平素の稽古の一期一会の心を大切に致し、技芸の力を十全に尽くさんと致せし故に、御前であることをも恐れざるように相い成り申した。――方々の制止は聞き入れなかったのでは御座なく、その声も最早、耳に入らざればこその仕儀。――この度のこの不届き、如何様(よう)の御仕置仰せ付けられ候とも、是非に及ばず。」

との大猷院様へのお答えに及べば、大猷院様は、

「尤もなること。」

と思し召しになられ、殊の外、お褒め遊ばされた上に、

「下風(おろし)は正に名人なり!」

との上意のお言葉と共に褒賞を下賜された、とのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 小野次郎右衞門出身の事 伊藤一刀斎齋が事

 

 伊藤一刀齋劍術弘めんと諸國修行せし折柄、淀の夜船にて大坂へ下りける。右船頭は力量勝れたる者にて、一刀齋木刀をたづさへたるを見て、御身は劍術にても修行し給ふや、劍術は人に勝道理なるべければ、我等が力にて普く劍術の達人にても叶ふべしとは思はず。手合致さるべくやといふ。一刀齋樣子を見るに、飽まで強剛に見へければ、如何とは思ひしが、迚(とて)も劍術修行に出、縱令(たとひ)命を果すとも辭退せんも本意(ほい)なしと、互に死を約束し陸にあがりけるが、船頭は械(かい)を片手に持て拜み打に一刀齋を打けるを、身をひらきはづしければ、力の餘りけるにや大地へ械を打込、引拔んとせし處を、木刀を以械を打落し諸手を押ければ、船頭閉口して弟子と成、隨身(ずいじん)し諸國を歩行(あるき)けるが、元來力量勝れし故、國々に於て立合の節も一刀齋は手を下さず、多分は右の者立合、いづれも閉口して門弟と成者も多しとかや。然れ共元來下賤の者にて、其上心ざま直(すぐ)ならざりし故、一刀常に閉口しけるを遺恨に思ひ侯と見へ、立合には叶はねど、夜陰旅泊りにて一刀齋が眠(ねむる)を見得ては付ねらひし事數度(すど)なれ共、一刀齋身の用心透間(すきま)なければ、空敷(むなしく)供して江戸表へ出けるとなり。然るに、將軍家より一刀齋を被召けれ共、同人儀は諸國修行の望(のぞみ)有之由(これあるよし)を以、御斷申上、門弟の内を御尋有ければ、小野次郎右衞門を吹擧(すいきよ)ありて、可被召出(めしいださるべき)に極(きはま)りける時、彼船頭大に恨み、我は最初より一刀齋に隨ひ倶に流儀を弘(ひろむ)る功有、此度、將軍家の御召に末弟の次郎右衞門を吹擧の事心外なり、辿も生て益なし、次郎右衞門と眞劍の試合を以生死を定度(たき)旨申ければ、一刀齋答て曰、其方儀最初より隨身の者なれ共、是迄度々我を付ねらふ事覺へあるべし、今生置(いかしおき)しは甚の恩德也、しかし次郎右衞門と生死を爭んは望に任すべし迚、次郎右衞門を呼て委細の譯(わけ)申談(まうしだんじ)、勝負可致旨申渡、頓(やが)て次郎右衞門へ傳授の太刀を免(ゆる)しければ、則(すなはち)立合の上、次郎右衞門が一刀の下に船頭露と消にけり。扨次郎右衞門は被召出て、尚又牢内に罪有劍術者を撰(えらま)れ、立合被仰付、是又次郎右衞門が妙術を顯しければ、千石にて被召出けるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:武辺名人譚。

・「附」は「つけたり」と読み、合わせてとか追加しての意。以下、多出するが注は省略する。

・「小野次郎右衞門」小野忠明(永禄121569)年又は永禄81565)年~寛永51628))のこと。将軍家指南役。安房国生。仕えていた里見家から出奔して剣術修行の諸国行脚途中、伊藤一刀斎に出会い弟子入り、後にここに登場する兄弟子善鬼を打ち破り、一刀斎から一刀流の継承者と認められたとされる。以下、ウィキの「小野忠明」によれば、文禄21593)年に徳川家に仕官、徳川秀忠付となり、柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となったが、この時、それまでの神子上典膳吉明という名を小野次郎右衛門に改名した。慶長51600)年の関ヶ原の戦いでは秀忠の上田城攻めで活躍、「上田の七本槍」と称せられたが、忠明は『生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の陣の後、閉門処分に処せられた』とある。但し、底本の鈴木氏補注では、この記事の小野次郎右衛門・伊東一刀斎・将軍の人物には齟齬があることを指摘されており、この伊東一刀斎を召し出そうとした将軍が『家光を指すのであれば、家光に仕えたのは忠明の子忠常(寛文五年没)で』あるとし、更に、本文にあるように『小野家が千石を領した事実は、子孫にいたるまで』見られないとする。おまけに『忠常は家光の御前でしばしば剣技をお目にかけたが、その剣術は父から学』んだものであって、小野忠常自身は『一刀斎の門人ではない。』と記された上、『この種の武勇譚では』、話者も読者も話柄の武勇談自体の力学が肝心なのであって、『史実と矛盾する点はあっても看過され不問に付されることが多い。』といった主旨の注釈をしておられる。

・「伊藤一刀齋」(生没年不詳 「伊東」とも)一刀流剣術の祖でもある。底本の鈴木棠三氏の補注によれば、彼は寛永9(1632)年の家光の御前試合に召されたが、既に伊藤一刀斎は90歳を越えていたとする。

・「械」底本では横の「(櫂)」と注する。「械」は確かに音では「カイ」であるが(櫂の「かい」は訓)、全くの誤字。「械」は「かせ」で、刑具の手かせ足かせのことである。

・「今生置しは」岩波文庫版では「今迄生置(いけおき)しは」とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 小野次郎右衛門出世の事  伊藤一刀斎の事

 

 伊藤一刀斎が己が剣術の流儀を広めんがために諸国行脚をしていた折、淀の夜船に乗って大阪へ下ったことがあった。この夜船の船頭、相当な腕力の持ち主で、一刀斎が木刀を携えているのを見ると、

「貴殿は剣術でも修行しておられるんか? 剣術とは必ず人に勝つことを道理とするものであろうがほどに、――されど、儂の腕力(うでじから)には、如何なる剣術の達人だろうと、かなわねえと思うねえ。――さても、どうじゃ、一つ、お手合わせなさって見るかね?」

と言う。

 それを聞いた一刀斎が男の様子を伺い見るに、いや、言うに劣らぬ強者(つわもの)に見えはし、その傲岸な物言いにも思うところがあったので、市井の者でもあり、如何したものかとも思ったが、

「そも、剣術修行に出でた身にありながら、たとえ命を落とすとも、誰(たれ)彼とて、挑まれた勝負を辞退するは本意にあらず。」

と言上げして、二人して死をも約定(やくじょう)致し、陸(おか)に上がったのであった。

 船頭は櫂を片手に持つと、そのままさっと振り上げ、拝み打ちに一刀斎へと打ち込む――が、一刀斎は風のようにひらりと身をかわすと難なくその一太刀を外す――と、船頭は力余ってずぶりと深く櫂を地に打ち込む――と、それを引き抜かんとするころを、一刀斎はぱーんと木刀で櫂を打ち落とすと同時に、返すその木刀にて船頭の両腕をぐいと押さえた――そこで船頭は降参――爾来、この船頭は一刀斎の弟子となって同行二人、諸国を行脚することとった。

 さてもこの男、生来、優れた臂力と才能の持ち主であった故に、諸国に於いての立ち合いの際にも、一刀斎は手を下すことなく、概ね、この男が師匠に代わって試合を受け、その勝負、いずれも相手は降参して、そのまま一刀斎門弟となった者も多かったということで御座る。

 されど、この男、生来、身分卑しく、加えて、その性根も腐りきった人物であった。

 不遜にも、かの大阪で一刀斎に降参したことを内心、ずっと遺恨に思うておったものと見え、流石に一対一の立ち合いではかなわない故、夜陰野宿や旅籠(はたご)に泊った折りなどには、一刀斎が眠るのを覗き見て待ち、隙を突いて狙わんとせしこと、度々であったが、一刀斎の用心には聊かの隙もなかったため、空しく供して江戸表へ出るに至った、ということである。

 ところが、この折、将軍家より一刀斎召し抱えの儀、お声がかかったのであったが、一刀斎儀は、諸国修行を続くる望みこれある由を以ってお断り申し上げた。すると、なれば門弟の内には如何とのお訊ねがあったところ、一刀斎は迷わず小野次郎右衛門を推挙し、そのまま小野次郎右衛門の召し抱えが決した。その時、かの船頭は大いに恨んで、

「儂は、いの一番に一刀斎に従って、一緒に一刀流の流儀を広めた功績があるんだ。今回、将軍家召し抱えに、あろうことか末(すえ)の弟子の、あの次郎右衛門なんぞを推挙した事、心外の極みじゃ! とても今日只今、生きておる甲斐もないわ! 次郎右衛門との真剣勝負を以って生死を決せんと望まん!」

と一刀斎に詰め寄ったところ、一刀斎は答えて曰く、

「お主は確かに最初より随行の者なれど、これまで度々我が命をつけ狙ろうてきたこと、覚えがあろうほどに。今生(こんじょう)までお主を生かいておいたは、無上の慈悲じゃて。なれど、次郎右衛門と生死を決せんとするは、その望みに任せよう。」

と、次郎右衛門を呼び、事を談じた上、この兄弟子と勝負致すべき旨申し渡し、その場にて一刀斎秘伝の奥義一太刀の技を伝授した。

 さればこそ、二人の立合い――それは一瞬にして終わった。次郎右衛門の一閃の下(もと)に船頭の命は、露と消えた。――

 さて、次郎右衛門は召抱えられると、将軍はすぐにまた、当時、牢内に囚われていたあまたの剣術者の中からこれぞという兵(つわもの)をお選びになられ、その者たちとの立合いを仰せつけられたのであったが、これもまた、次郎右衛門は妙技を示して、悉く楽々と勝利を得た故に、何と一千石で召抱えが決まった、ということである。

 

 

*   *   *

 

 

 小野次郎右衞門遠流の事  御免にて被召歸事

 

 世に烏滸(をこ)の者ありて兩國の處に看板を出し、劍術無雙の者なり、誰にても眞劍を以て立向ひ可申、縱令(たとひ)切殺さるゝとも不厭(いとはざる)由を記。都鄙(とひ)の見物夥し。右の者を切得ずして彼が木刀にて仕付られし者は門弟と成て、專ら評判有しを次郎右衞門聞及て、斯るゑせ者を天下の御膝下に置ん事言甲斐なし迚(とて)、門弟を引連見物に行、棧敷にて右ゑせ者のなせる業を見て門弟一同微笑しけるを、彼者聞て大に怒り、何條(なんでう)笑ひ給ふや、既に看板を出し誰にてもあれ眞劍を以試合可致上(いたすべきうへ)は、笑ひ給ふ心あらば是非立合申されよとのゝしりければ、傍輩の者申は、あの棧敷なるは、將軍家の御師範次郎右衞門也と押留けれ共、聊不相用。縱令御師範たり共と申止らざれば、次郎右衞門も右の通嘲られては武備の恥辱、無據(よんどころなく)下へおりて、然る上は立合可遣(つかはすべし)とて鐵扇を以(もつて)被立向(たちむかはるる)時、ゑせ者は淸眼にかまへ唯一討と切付し故、あはやと思ふ内ゑせものが眉間(みけん)は鐵扇を以被打碎、二言となく相果けると也。此趣大猷院樣御聞に入、師範たる行状にあらずとて、遠流被仰付けるとかや。其後、嶋にて畑(はた)ものゝ瓜西瓜を盜喰ふ曲者ありて、右を捕んと嶋中の者集りけれ共、大勢に手を負せ、瓜小屋に籠り右小屋廻りには西瓜瓜の皮を並べ、捕手の者込入る時は、右瓜の皮上に上り身體自由ならざるを以、多人數死傷に及びける故、次郎右衞門方へ嶋の者共罷越、何分捕へ給候樣相歎ければ、次郎右衞門麁忽(そこつ)にも輕々敷(しく)脇差追取(おつとり)駈行しを、瓜の皮にて足場不宜(よろしからざる)由傍より申けれど、耳にも不懸駈行、果して瓜の皮に上り仰向に倒ければ、待設けたる曲者拜み打に打懸しを、小野派にて神妙となせる太刀の通ひ、辷りながら拔拂ひ上へ拂ひけるに、曲者の兩腕ははたと落ちける故、直(ぢき)に付入召捕りけるとかや。此趣江戸表へ入御聽(おききにいり)、被召歸、即時に元の禄を被下けると也。扨も次郎右衞門被召出ける時、大猷院樣思召にも、彼は遠流(をんる)にて暫く劍術の修行可怠、上(うへ)には日々夜々御修行の儀故、次郎右衞門と御立合御覧有べき思召にて、毛氈を敷、木刀を組合せ、いざ次郎右衞門可立合との上意也。次郎右衞門は謹て毛氈の端に手を付居たりけるを、上には唯一打と御振上げ御聲を懸られける時、毛氈の端を取、跡へ引ける故、上には後ろへ御ころび被遊ける。仍て、大猷院樣御信仰、一刀流御修行被爲在(あらせられ)けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:同じく小野次郎右衛門の武辺名人譚。

・「小野次郎右衞門」前項「小野次郎右衞門出世の事」本文及び注参照されたいが、この記事は、少なくとも遠島以降の話は事実に反する。底本の鈴木氏補注では、小野忠常には、このような失策はなかった旨記載があり、但し、父親の『忠明の方は性格的には熱血漢で、とかく問題を起しかねない人物であったらし』く、閉門に処せられて、後に許されたという事蹟を記し、『しかし、遠島はありえないことと考えられるし、また島の名も記さず、あいまいで』『世間話としての正確が』見てとれる、と記されておられる。同感至極である。

・「見物に行、棧敷にて」という描写から、これは道場ではなく、露天の見世物風のものででもあったか。道場を構えていたならば、もう少しそのような描写がなされようという気がする。私は一貫してそのようなシークエンスとして訳してみた。

・「武備」底本には右に「(武家カ)」の注を記す。

・「淸眼」底本には「淸」の右に「正」の注を記す。

・「大猷院樣」第三代将軍徳川家光(慶長9(1604)年~慶安4(1651)年)の諡(おく)り名。

・「瓜小屋」瓜畑の農機具を置き、収穫した瓜を保存する小屋であろう。余りに小さいとシーンとして生きてこない。瓜の皮を敷き並べられる程に、内部に瓜や西瓜を保管出来るスペースの小屋と考えるべきであろう。

・「脇差追取」この「追取」は「押つ取り」で「押つ取り刀」=「おっとり刀」の意であろう。危急の際、刀を腰に差さずに手で持って行くことを言う。

・「西瓜瓜」底本には右に「(ママ)」の注を記す。「瓜西瓜」の衍字。

・「小野派」狭義には、小野忠明の子の小野忠常が継承した系統の一刀流剣術の一派を言う。一般的には小野派一刀流と呼称されるが、忠明自身、小野派一刀流なる呼称を用いておらず、後に小野派一刀流又はその傍系と目される流派群の開祖も忠明の師である伊東一刀斎である。

・「大猷院樣思召にも、彼は遠流にて暫く劍術の修行可怠、上には日々夜々御修行の儀故、次郎右衞門と御立合御覧有べき思召にて」は、「大猷院樣思し召しにも、『彼は遠流にて暫く劍術の修行怠るべし、上には日々夜々御修行の儀故、次郎右衞門と御立合御覧有べき。』てふ思し召しにて」の意で、心内語には自敬表現が多用されている。訳では自敬部分は廃した。また、この心内語の前後に「思召にも……思召にて」と重複するのは、口碑伝承に特徴的なものではあるが、逆に「家光の思いの中には……といった思いようがあったようで」という婉曲表現の現われともとれる。私はそのように訳してみた。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 小野次郎右衛門遠流の事 御赦免にて召し帰された事

 

 世間にはとんでもない虚(うつ)け者があるものである。両国辺りで、

――剣術無双の者これに在り。誰なりと真剣にて立ち合ひ申し、たとえ我斬り殺されんとも厭わず――

と記した看板を掲げて他流試合をしていた。江戸はもとより近隣の田舎からも毎日夥しい数の見物人がやってくる。飛び入りで立ち合いをし、この男を斬り得ず、逆に男の持った木刀で打ちのめされた者はその門弟となる、その数もみるみる増えておると、専らの評判となっておった。

 さて、将軍家剣術指南役小野次郎右衛門がその噂を聞くに及び、

「かかる似非(えせ)者を天下の御膝元にのさばらせておくこと、言い様もなく忌々(ゆゆ)しきことじゃ。」

と、門弟を引き連れて見物に行き、見物人の多さに設えられた桟敷から、この似非者のなす駄技を見て、門弟一同せせら笑いを浮かべておったところ、かの虚けがそれを聞き知ってひどく憤り、

「なにを以って笑うか! あの通り看板を出(いだ)し、誰(たれ)にてもあれ真剣を以って試合致さんと言うておる上は、お笑いになる心あらば、是非、我と立ち合いせられい!」

と大声を挙げて騒いだ。ところが、周囲にいた彼の門弟の一人が、桟敷を見て、慌てて申し上げる。

「先生、あの桟敷にいるのは、将軍家の御師範、次郎右衛門でげす。」

と押し留めたが、全く以って言うことをきかない。

「たとえ御師範であろうが!」

と、「勝負! 勝負!」の一点張り、罵詈雑言も飛び出(いだ)いて止む気配もない。次郎右衛門も流石に、

「かくの如く嘲られては武門の恥――」

致し方なしとて、桟敷を下りて、

「かくなる上は立ち合い仕ろう――」

と、懐より出いた鉄扇を手に立ち向かうその時、虚けは正眼に構え、ただ一振りにばっと斬りつけた故、会衆、皆、あわや! と思うたその瞬間、既に虚けの眉間は小野が先に突き出いた鉄扇にて美事打ち砕かれており、虚けは、うっ、と言うたままに二言もなく、生き絶えておったということである。

 この出来事が大猷院家光様のお耳に入り、

「師範たる者の行いにもあらず。」

とのご勘気を被って遠島仰せ付けられたということであった。

 

 さて、その後(のち)、次郎右衛門が流された島での出来事である。

 ある時、畑に植えていた瓜や西瓜を盗む曲者がおって、右の者を捕らえんと島中の百姓どもが集ったが、曲者は大勢の者に手傷を負わせた上、瓜小屋に立て籠もって、更に小屋の周囲には生の西瓜や瓜の皮を多量に並べた。捕り手の者が押し込まんとする時は、この敷き並べた皮で足が滑り、ずるずるぬらぬらとして、体が思うように動かせない中、曲者に襲われて、またしても多数の死傷者が出るというていたらく故に、次郎右衛門方に百姓どもがやって来て、

「何とか曲者をお捕え下さいませ。」

とひどく困窮致し嘆きおるので、次郎右衛門は、己が軽はずみな行いからここに流されたことも忘れ、軽率にも気軽に脇差をひっ摑んでおっとり刀で百姓どもを尻目に真っ先に駆けて行く、百姓の一人が、

「瓜の皮で足場が悪うございますよ!」

の由、お側に駆け寄って言ったものの、次郎右衛門は何を言うやら気にもかけず、逸散に瓜小屋まで駆け行く、と、いや、果たして瓜の皮に滑って仰向けに倒れたところ、小屋内で待ちに待ってしびれをきらしておった曲者は、文字通り、待ってましたとばかり、大上段に振りかぶって余裕の一太刀を振り下ろす――と、ところが、現在も小野派一刀流にあって「神妙」と名付ける伝説的な太刀筋の通り、滑りながら手にした脇差を抜き払うたかと見るや、同時に上へと払う――と、曲者の両腕は、はたりと落ちた――故に、じきに曲者はめし捕えられた、ということであった。

 

 今度は、この出来事が江戸表へ伝わり、再び大猷院様のお耳に入るや、即座に御赦免にてお召し帰しになられ、次郎右衛門帰るや即刻、元のままの禄を下賜された、とかいうことである。

 さても、その次郎右衛門が帰参後、初めて大猷院様の御前に召され、まかり出でた折のこと、大猷院様は、

『彼は遠流となり、久しく剣術の修行を怠っておったに違いない。我に於いては日夜修行に励んでおった故に、一つ次郎右衛門と立ち合い、目に物を見せてやるに若くはなし。』

とお思いにでもなられたのであろう、お庭先に毛氈を敷き、その中央には二本の木太刀を組み合わせて配し、

「いざ、次郎右衛門、我に立ち合うべし!」

との御沙汰を下された。

 次郎右衛門は登城すると、そのお庭先の毛氈の敷物の、その端に手をついて、毛氈の外に座っていた――のだが、すっと現れた上様は、木刀をお取りになると、ものも言わず、ずずいと次郎右衛門方へと近寄り、ただ一打ちにせんと木刀を振り上げ、気合一声!――その瞬間、次郎右衛門は敷物の端を手に取ると、ぐいと後ろへ引いた――上様は美事、ずでんと後ろへお転び遊ばされたのじゃった――。

 これより、大猷院様はいよいよ小野次郎右衛門を尊崇され、一刀流御修行に専心されるようになられた、とのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 有德院樣御射留御格言の事  御仁心の事

 

 或年、有德院(いうとくいん)樣御成の節、遙々隔(へだて)候樹の枝に鳶止り居けるを御覺じ、御弓を召寄(めしよせ)られ御意被遊けるが、鳶立けるに、立ける所を極められければ、唯中に當り鳶は川の内へ落ける故、何れも御射術を感心仕りしとかや。然るに同(おなじ)川通りに烏の止り居候を、御小性(おこしやう)の内見受、是はなを/\被遊よく侯半(さふらはん)、御弓差上べき哉(や)と伺ければ、かけ鳥抔(など)射るに都(すべ)て二度はならざるもの也、能心得よと、上意なりしとかや。同(おなじ)御代、御鷹野先にて御小人(おこびと)御筒(つつ)をかつぎ野間(のあひ)を徘徊せる所へ、御側廻り被召連(めしつれられ)被爲入(いらせられ)ける故、御小姓衆しつ/\と聲を懸ければ、右御小人驚(おどろき)、披(ひら)き候とて御筒の端を御顏へあてける故、御叱り被遊候處、御小姓衆立寄候得ば、誠に消入計(ばかり)に平伏し、身命(しんみやう)今に極りしと魂其身に不付、御小姓衆御咎めの儀相伺ければ、四方を御覧被遊、目付共は不居(ゐざる)やとの御尋に付、御近所には不罷在(まかりあらざる)段申し上ければ、然らば咎に不及との上意にて、御構(おかまひ)なきと、安藤霜臺(さうたい)乘興の物語、難有事と爰(ここ)に記(しるす)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:武辺名人譚から徳川吉宗の武徳へ。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延41751)年)の諡(おく)り名。

・「鳶」タカ目タカ科トビMilvus migrans

・「御小性」御小姓とも。武家の職名。扈従に由来する。江戸幕府にあっては若年寄配下で将軍身辺の雑用・警護を務めた。藩主付の者もこう称した。

・「かけ鳥」は「翔け鳥」で、飛んでいる鳥を射ることを言う。

・「御鷹野先」将軍が鷹狩りに行った先、の意。吉宗は鷹狩りを非常に好んだ。

・「御小人」小者。武家の職名。以下にあるように、将軍家の鉄砲を担いで付き従ったりする、極めて雑駁な仕事に従事した最下級の奉公人。

・「御側廻り被召連被爲入ける故、御小姓衆しつ/\と聲を懸ければ」これは、鷹狩りの際に、火縄銃(勿論、弾丸も込めていなければ着火しているわけでもない)の保守役である御小人が、手持ち無沙汰に辺りの一叢(むら)をぶらぶらしていたところが、まさかこちらに向かって来られるとは思っていなかった吉宗一行が急に鷹狩りで移動してきたのである。目障りであり、獲物も逃げるため、御小性たちが彼を俄かに叱って追い払おうとしたのである。

・「披き」身をかわす。避ける。

・「目付」武家の職名。江戸幕府では若年寄配下で、最高位の御目付はすべての旗本・御家人を監察・糾弾を職務とし、10名置かれた。その下に御徒士目附(おかちめつけ)及び御小人目附が複数配され、旗本よりも下の(お目見(めみえ)以下)者を観察した。ここでは御小人目附のこと。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。なお、底本では「安藤霜臺の物語」とあるだけであるが、話柄に臨場感が出る岩波版の「乗興」を正字で補った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 有徳院様の弓術の格言の事  有徳院様御仁心の事

 

 ある年、有徳院吉宗様がお出かけになられた際、遙か遠くの木の枝に鳶が止まっているのを目にされ、弓を持てと仰せられると、強く引き絞ってお狙い遊ばされたのだが――その瞬間、鳶は翔び去る――しかしまた、その翔び立った瞬間をお極めになられ――ひょうふつ! と、矢が放たれ――そうして、美事、鳶の体の真ん中に矢は当たって、鳶は川の中へと落ちた――それ故、周囲の誰もが、その神妙なる弓術の御技(みわざ)に感嘆し申し上げた、とか言うことであった。

 ところが、更にその折、同じ川の岸辺の木の枝に鴉がとまっておりましたのを、御小姓の内の一人が見つけ、

「これはまた、なおのことよき標的が御座いますれば、殿、再び御弓を差し上げましょうか?」

とお伺いを立てたところ、有徳院様は徐ろに、

「すばやき飛ぶ鳥なんどを射るに、総じて一度はうまくいっても、二度とは当たるものではない。よく心得置くがよいぞ。」

との御言葉であった、とか言うことであった。

 さてもまた、同じ頃のこと、有徳院様が鷹狩りにお出かけになられた先で、手持ち無沙汰な小者の者が、役目である上様の鉄砲を担いだまま、有徳院様のいらっしゃるところとは離れた野原辺りをぶらついておった、そこへ、豈図らんや、上様がお側廻りの者を引き連れになられ奔り入ってこられたため、お付の御小姓衆が、

「しっ! しっ!」

と人払いの声をかけた。――眼と鼻の先に上様が御立ちになっている――自分は急なことにただぼうっと鉄砲を持って立ち尽くしている――ここに、この小者は吃驚り仰天、畏れ多い上様の前から消えんがためにあせって身をお返し申そうとしたところが――何と手にした鉄砲の筒先を上様の御顔に当ててしもうた――勿論、上様御自身、この者をお叱り遊ばされたのであったが、御小姓衆は以ての外の一大事と小者の周りに立ち寄り押し合い、激しく責め立てられたので、小者は消え入らんばかりに地べたに這い蹲り、最早、身命この時に極まったと、魂も抜け落ちたようにがっくりしてしている。早速に、御小姓衆が声々にお咎めの儀に付、上様にお伺いをたてられたところ、上様は四方をお見渡し遊ばされ、

「目付どもはおらんか?」

とのお訊ねに付、御小姓の一人が、

「お近くには居りませぬ。」

由申し上げる。すると、

「然らば仕置きに及ばす。」

との鮮やかな御言葉、その場にて一切お構いなしとなったとのこと、これらは友人安藤霜台殿との談話の際、彼が興に乗って話してくれた物語である。徳院様の深い慈悲に満ち満ちた「仁」のお心の、この上もなく有難きこと故、ここに記しおくものである。

 

 

*   *   *

 

 

 積聚の事

 

 近き頃の事とかや。在邊に手習の師有ける、常に積聚(しやくじゆ)を愁て、死に至りて其子及び隨身(ずいじん)の弟子近隣の者を賴けるは、我死せば火葬いたし何卒腹中の積聚を打碎(くだき)給るべし、後來の人積を愁ふ助養(じよやう)手段にもならんと呉々(くれぐれ申置身まかりぬれば、遺言に任せその死骸を燒けるに、背中に一塊有。則積塊也とて、子弟其外共集りて、鐵鎚或は石を以打に聯も不碎、千術萬計なす共破れず。折節古老來りて其譯を尋、不審に思ひ、手に持たる杖を以突(つき)ければ、貳ツ三ツに破れける。皆々不審に思ひ、破れたるを集め石鐵鎚等にて打に、始のごとく聊も割れず。杖もてすれば微塵となる故、右杖は何の樹なりと尋るに、いたどりを以て造り候よし。虎杖(いたどり)は積を治する妙藥ならんと爰に記す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を認めず。

・「積聚」岩波版では「癪聚」とする。さしこみのこと。漢方で、腹中に出来た腫瘤によって発生するとされた、激しい腹部痛を言う(本来はその腫瘤そのものも呼称であろう)。現在は殆んどの記載が胃痙攣に同定しているが、私は胆管結石や尿道結石及び女性の重度の生理通を含むものではあるまいかと思っている。識者の御教授を乞う。

・「虎杖(いたどり)」痛取とも。双子葉植物綱タデ目タデ科ソバカズラ属イタドリFallopia japonica(シノニム多数有)。タデ科の多年生植物で、別名スカンポ(同じタデ科スイバRumex acetosaもこう呼ぶので注意)。茎は中空で多数の節を持ち、構造的にはやや竹に似て、2~3m迄成長したものを乾燥させると極めて硬くなり、実際に老人の杖とする。漢方では天日乾燥させた根茎を虎杖根(こじょうこん)と呼称し、緩下・利尿薬として使用される。ウィキの「イタドリ」によれば、この「イタドリ(痛取)」とは『若葉を揉んで擦り傷などで出血した個所に当てると多少ながら止血効果があり、痛みも和らぐとされる。これが「イタドリ」という和名の由来』である、と記す。いずれにせよ、「積」=「癪」の効能は見当たらない。なお、このルビは珍しく底本にあるもの。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 癪聚の事

 

 最近の事とかいうことである。とある鄙(ひな)に手習いの師匠があったが、この男は常に激しい癪聚(しゃくじゅ)の症状に悩んでおり、さて、遂にその病篤くなって死ぬるという間際に、己が子・手習いの弟子及び近隣の者を呼び寄せて、依頼した。

「――私が死んだならば、通例の土葬に従わず火葬と致し、何卒、遺骸から腹中の癪聚を掻き出だいて、その腫瘤を打ち砕き給わらんことを望むもの――それは後代に癪聚に苦しむこととなる人々の介抱や治療の手だての一助ともなろうほどに――」

 とくれぐれも申し置くほどによろしく願い奉る、というものであった。そうこうするうちに、男は亡くなったので、遺言に従ってその遺体を焼いたところ、その遺骸の背に相当した辺りに確かな異様な塊が見つかった。

「これぞ、癪塊じゃ!」

 と子や弟子その他大勢集まって、鉄槌或いは石を以ってこれを打つも、全くもって少しも砕けぬ。あらゆる方法で打ち挟み押し潰さんとするもこれっぽちも欠けぬ。――そんなこんなで大騒ぎをしている、折柄、そこに土地の古老がやって来て、騒ぎの訳を尋ねた。老人は不審なこと思いつつも、はたと何かに思い当たった様子で、自身が手にしておった杖を以って、とん、とその塊を一突きした――すると、あっという間に塊が二つ三つに砕け散った――人々は手を変え品を変えてさんざんっぱら力を加えておったからではと不審に思い、その破片を集めて、再び石や鉄槌などで打ちすえたところが、始めと同じで、それでは一向に砕けなかった。ところが――杖を以って再び突くと破片は微塵に砕けてしまったので、ある者が、

「この杖は何の樹で出来ておる?」

と尋ねたところ、老人は、徐ろに、

「痛取(いたどり)で以って造ったもんじゃ――」

とのことでった。

 一般には知られていないが、虎杖は癪聚を治す妙薬なのであろうと思われる話であるが故に、ここに記しいくものである。

 

 

*   *   *

 

 

 兩國橋懸替の事

 

 吉宗公御治世の頃、兩國橋懸替有けるに、或は出來不足の處有之、懸(かかり)役人不念(ぶねん)の義度々に及びければ、懸り役人も數度引替に及びし故、巷(ちまた)の説にも此度も又合口(あひくち)行違候抔色々口説(くぜつ)有けるを、御聽被遊けるや、近日御成の刻(とき)御覧可被遊旨被仰出、其節は懸りの者も場所へ相詰候樣被仰渡(おほせわたさらるる)故、何れも如何可被仰出哉(おほせいださるべきや)と心にあやぶみいける。其日限にも成ければ、御船を右場所へ被留、得と御覺の上、宜(よろしく)出來(しゆつたい)いたし候、何れも骨折の段上意有、何れも一同難有存ける。夫よりして彼浮説も忽(たちまち)止りけるとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項とは連関しないが、前々項の徳川吉宗の人徳で連関。

・「兩國橋懸替」隅田川に架かる両国橋の架橋は、万治2(1659)年説と寛文元(1661)年説の二説がある。以下、ウィキの「両国橋」より引用すると、『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に』火除地としての役割も担った、とある。その後も度々火災や洪水により、流失・破損を繰り返した。底本の鈴木氏の補注に『広文庫に引用する耳嚢の本文では「有徳院様御治世の頃、享保十三年九月洪水にて両国橋落つる。同十二月より掛替有りけるに」とある。実紀によれば、同十四年七月六日隅田川に御狩、船中にで昼食をとり、大銃、水泳、烽火を見たとある』ことから、まさにこの享保141729)年7月6日こそが、この記事の一件があった日ではないかと推定されている。この後、鈴木氏は吉宗在任中の後の再度の両国橋の洪水による崩落による架け替え(延享元(1744)年)をも記しながら、総合的に考えて本件は享保時の際の出来事と同定されている。堅実にして美事な注である。なお、本橋の名については、ウィキに貞享3(1686)年に『国境が変更されるまでは』武蔵国と『下総国との国境にあったこと』に由来するとある。

・「不念」不注意による過失。

・「合口行違」両岸から伸ばして建造した橋梁が中央で食い違って合わなくなる。

・「口説」お喋り。噂。岩波版は「こうぜつ」とルビするが、不審。

・「あやぶみいける」の「い」はママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 両国橋架け替えの事

 

 吉宗公御治世の折、両国橋の架け替えがあったのであるが、しばしば工事が遅延する場面があり、また、橋普請担当の役人の度重なる過失もあって、何度も担当官の交代があったりした故、世間でも、

――今度も岸から延びた二つの橋が合わねえらしい――

なんどという噂がたっていたのを、上様もお聴き遊ばされるや、急に、近々両国へ御成りになり、その際、親しく橋普請の現場を御覧遊ばされる旨仰せになられ、その時には総ての担当官もその場に控えおるよう、と申し渡されたので、担当官はもとより御家来衆も、一体、どのようなきついお達しがあるのであろうか、と内心、戦々恐々としておった。

 御成りのその当日になると、上様は御船を普請場の岸に泊め置かれ、仕上げにかかっていた橋普請の様子を凝っとご覧になった上、一言、

「よく出来ておる。皆の者、何れも御苦労。」

 との御意であった。

 担当官御家来衆一同、何れも皆、上様の慈悲に満ちたお優しさに、心から打たれたということじゃった。また、それからというもの、かの流言蜚語も忽ちのうちに消え失せたとか聞いておる。

 

 

*   *   *

 

 

 盲人かたり事いたす事

 

 安永九年の事成りしが、淺草邊とや、年若の武家僕從兩三人召連れ通りしに、壹人の盲人向ふより來り、懷中より封じたる状壹通差出し、丁寧に右武家の側へより、國元より書状到來の處、盲人の儀少々心掛りの儀有之候間、恐入候事ながら讀聞せ給るやう願ひければ、家來抔彼是制しけれども、其主人、盲人尤の儀と、憐の心より何心なく封おし切讀遣しける。其文段に、金子無心の事申越候得共、在所も損毛にて調達いたし兼候間、漸(やうやく)貳百疋差遣候趣の文面也。盲人承り、扱々忝候。在所にても才覺調兼(ととのひかね)候段無據(よんどころなき)事といひて、右金子渡呉侯樣申ける故、彼若き人驚、文面には金子差越候段は有ながら、右金子状中には無之、別段に屆來(とどけき)侯には無之哉(これなくや)と答ければ、盲人聊承知不致、何とやら盲目故掠(かすめ)ける趣に申募る故、品々申なだめけるといへども疑憤候間、無據屋敷へ召連金子差遣侯由。憎き盲人ながら、若きものは右樣の折から心得有べき事なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:あまり強い素材的連関は認めないが、あえて言えば、徳川吉宗が絶妙な一言でその場を収め、流言飛語を封じたポジティヴな巧妙な挙止動作に対して、奸計を極めた絶妙の話術と演技でポジティヴに完全犯罪を成し遂げる点で、一種の演劇的要素で共通するように思われる。

・「安永九年」西暦1780年。

・「損毛」損亡とも。広く損失を受けること、利益を失うこと、を意味する。岩波版で長谷川氏は『農作物が被害を受けること。』とする。必ずしも、絶対的に承服出来る語釈とは言い難いが、訳では大変都合がいいので、これを採用した。

・「貳百疋」「疋」は錢を数える数詞。匹とも。古くは10文(後に25文)を1疋とした。ここでは10文とすると2000文=2歩で、丁度1両の半分に相当する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 盲人が詐欺を仕組んだ事

 

  安永九年のことであるが、浅草辺りでのことだったという。年若い武家が従僕二人を連れ通りを抜けてゆくと、一人の盲人が向うからやって来る。と、徐に懐中から封をした手紙一通取り出し、慇懃にその武士の傍らに寄ってきて、

「実は……国許より書状が到来致しましたが……御覧の通りの盲人で御座いますれば……実は……少々気に懸かることも御座いますれば……恐れ入りまするが……誠に勝手ながら文面をお読み戴いて拙者にお聞かせ戴きたく……」

 としきりに乞う。二人の従僕はあれこれ言って追い払おうとしたのだけれども、この若主人、盲人の儀なれば、尤もなること、と同情心から素直に手紙を受け取ると、ふつっと封を切って、中の手紙をとり出だし声を出して読んでやった。

 その消息文は、

『――金を無心したき旨の申し文であったけれども、在所も不作続きでとても望みし全額は調達致し兼ねる故に、何とか工面した金二百疋分を差し遣る――』

といった旨の文面なのであった。

 盲人は謹んで聴き終えると、

「さてさて忝(かたじめな)きことで御座いました……在所も不作なれば手元不如意、思うように金を揃えることが出来ぬというも、尤もなこと……」

と独りごちたかと思うと、静かに、

「それでは、その金子(きんす)二百疋、お手数ですが、この手にお渡し下さいませ。」

と言った。かの若主人は驚いて、

「……いや、その確かに……文面には金子を差し遣るという段は、ある……あるが、その金子は状袋の中には入っておらなんだ……いずれ、別送か何かで送って来るのではないかのう……。」

と答えたのだが、盲人はその答えに、いっかな承知致さず、却って、

「盲目(めくら)だからと馬鹿にして! 金子を掠め取るッ!」

と言った、激しい剣幕で喚(おめ)き立てるので、従僕二人も一緒になっていろいろと宥(なだ)めてはみたものの、もうひたすら一方的に憤激するばかり。往来のことで世間体もあり、止むを得ず主人の屋敷へと連れ行き、結局、この盲人に金子二百疋分を渡した、ということで御座った。

 誠(まっこと)性悪(しょうわる)の盲人ではあるけれども、若い者たちは、今時、このような新手の詐欺もあるものなのだということは、この話から重々心懸けておく必要があるのである。

 

 

*   *   *

 

 

 惡敷戲れ致間敷事 惡事に頓智の事

 

 是も同じ比(ころ)の事とや。神田邊の頓作(とんさく)滑稽をなして人の笑ひを催し家業とする者あり。獨り者にて常々酒を好、飽事なし。同所に相應に暮ける鳶の者友どち申合、伊勢へ參宮するとて路次(ろし)の慰に右獨者を召連んとて誘引(さそひ)ければ、路銀無之由を答ふ。路銀は兩人にて如何にも賄わんと誘ひければ、さらばとて三人打連、品川より神奈川まで、急がぬ旅なれば、爰にては一盃傾けかしこにては一樽を空しくして、神奈川宿に泊ける。翌夜明前に、何れも神奈川を立んと起出けるに、彼獨者は酒の過けるにや草臥(くたぶれ)伏して色々起せ共目不覺。兩人の連、風與(ふと)思ひ付、彼者醉中に出家にせば能(よこ)慰ならんと、密に髮剃(かみそり)を取出し、髮を剃り青同心として、日の出る頃猶又起しければ、漸起出、天窓(あたま)をなでゝ大に驚き、兩人の戲れになしぬらんと恨けれ共、曾て不知よしを答ふ。猶疑ひて品々申けれ共、聊覺なしと陳じける故、今は詮方なし、出家にては箱根御關所も通り難し、伊勢にても出家は禁じ給ふ事なれば、遙々詣ふで益なし。是より江戸へ歸り候半(さふらはん)と暇乞ければ、兩人も詮方なき事と悔けれど、明白(あからさま)に言んやうもなく、路銀抔與へて江戸へ歸しける。彼獨者つらく思ひけるは、斯(かく)我を慰(なぐさみ)、情なくも剃髮させぬる事恨し、此遺恨面白返さんと色々工夫して、芝の邊にて古袈裟衣を調へ誠の出家姿と成り、四五日も過て彼連二人の方へ至りければ、妻子驚き如何なれば斯る姿と成りて早くも歸りけるやと尋ねければ、彼者涙を流し、かくなるうへは推量なし給へ、道中船渡しにて岩へ乘かけけるや破船いたし、三人共浮ぬ沈ぬ流れけるに、我等は運強く岩に流懸りしを、皆々打寄り助(たすけ)船にて引あげられ、貳人の者を尋(たづねけ)れ共死生もしらず、其外の乘合行衞(ゆくへ)なき故、無常を觀じ出家して廻國に出候心得なれ共、友達の家内へ知せざるも便なしと立歸りしと、涙交りに語りければ、妻子どもの歎き、見るも中々痛しき有樣也。兩人妻餘り絶がたさに髮おし切、廻國せんと言けれ共、廻國の事は親類衆と相談し給へ、出家の事は兩人菩提のため可然(しかるべし)と申述、我等は廻國に出(いづる)よし申置、行方なく成りしとや。兩人妻菩提寺を賴、出家染衣(ぜんえ)の身と成、念比(ねんごろ)に菩提を吊(とむらひ)ければ、心有親類は餘りの思ひとり過するならん、まづ彼破船の様子をも聞飛脚をいたし候へかしと、彼是相談の内、二人の男伊勢参宮無滞(とどこほりなく)仕廻(しまひ)歸ければ、両人の女房は新尼と成て夫々(おつとおつと)を見て大に驚、いかなる事とおつと/\も尋ければ、始よりの事共申ける故、よしなきいたづら事なして彼者に謀られける事の浅間しさよと、後悔すれ共甲斐なく、右新尼還俗して、此頃は三四寸も髪の延びたりといひし比、其邊の者來りて語り笑ひぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:巧妙な詐術による詐欺事件として連関。

・「頓作滑稽をなして人の笑ひを催し家業とする者」ウィキの「落語」によれば、現在のような落語の明白な出現は17世紀後半で、『江戸の町では大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方咄」を始めた。同時期に京都では露の五郎兵衛が四条河原で活躍し、後水尾天皇の皇女の御前で演じることもあった。大坂には米沢彦八が現れて人気を博し、名古屋でも公演をした。また、『寿限無』の元になる話を作ったのが初代の彦八であると言われて』おり、『18世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始めた。これが白鯉館卯雲という狂歌師によって江戸に伝えられて江戸小咄が生まれた。上方では1770年代に、江戸では1786年に烏亭焉馬らによって咄の会が始められた。やがて1798年に岡本万作と初代三笑亭可楽がそれぞれ江戸で2軒の寄席を開くと、その後寄席の数は急激に増えた』とある。本件は前記事と同じ頃、安永9(1780)年前後であるから、すでに江戸小咄の形が完成、既に噺家(はなしか)という職業が成立していた、この主人公の「獨り者」も噺家である、と考えてよい。そして、読み進めればお分かりの通り、この話自体、この男が熊五郎となり、二人の鳶も長屋の講中吉兵衛や次郎吉その他大勢となって、御存知、落語の「大山詣(まいり)」へとインスパイアされてゆくのである。但し、このルーツを訪ねれば能狂言の「六人僧」に辿り着く。その梗概を記すと、ある男が後世(ごぜ)の安楽のため、二人の同行を誘って諸国参詣を思い立つが、道々話をしているうちに、仏の本願に従い、決して腹を立てるまいという誓いを立て合う。さる辻堂で一休みした際、同行の二人は寝付けぬままに、悪戯(いたずら)を思いつき、寝入っている同行の頭を剃ってしまう。目覚めた男は、大層腹を立てるも、先の誓いの手前、二人を責めるわけにも行かない。仏参を続けるという二人と別れて帰った男は、他の二人の妻に、二人の夫は高野参りの途中、紀ノ川にて溺れ死んだと言葉巧みに信じ込ませ、妻たちは剃髪して尼になってしまう。さらに今度は戻って来る二人の夫を迎えると、お主らが馴染みの女と上方へ逐電したという噂をお主らの妻が聞き、蛇身となって復讐せんものと、妻同士刺し違えて死んだ、という法螺話を拵え、遺髪を見せてまんまと信じ込ませると、二人の夫をも出家させてしまう。最後は、それが総てばれたところで、なんと尼となった男の妻も現れ、これらも仏の方便と方々悟って、西日を仰ぎつつ、六人打ち揃って行脚に旅立つというストーリーである。しかし、鎭衞の本話を読むと何よりも、この話が当時、『噂話』=『都市伝説(アーバン・レジェンド)』として信じられていたという事実が浮かび上がってきて誠に興味深い。因みに、私は落語の「大山詣」が殊の外お気に入りである。それは熊の一世一代の大芝居の妙味もさることながら、普段は亭主を口汚く罵っている長屋の妻たちがこぞって、あっという間に剃髪するという、その江戸の市井の女たちの誠心と貞節に心から打たれるからである。

・「賄わん」はママ。

・「風與(ふと)」は底本ルビ。

・「明白(あからさま)」は底本ルビ。

・「吊」これは誤植ではなく、「弔」の俗字である。「とむらふ」と読むのである。

・「出家にては箱根御關所も通り難し、伊勢にても出家は禁じ給ふ」既にこの頃、行脚僧の格好をして不逞を働く輩が横行しており、恐らく僧形であることが関所通行に五月蠅かったに違いなく、おまけに僧侶の参詣を許さなかった伊勢神宮への参拝というのでは、関所もお伊勢さんも難しいことになるというのは道理ではある――ではあるものの、これは彼の頓作滑稽復讐システムを発動させるための、方便ととった方がよかろう。

・「いひし比、」の「比」は、「ころ」か「ころおひ」と読むのであろうが、文脈上おかしい。岩波版にはなく、衍字か。岩波版のように「いひし。」とここで文は終始していると判断して訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  悪い戯れは致すさぬがよい事 悪事にも頓智のある事

 

 これも「盲人が詐欺を仕組んだ事」と同じ頃の話でったか。

 

 神田辺りで滑稽な話を創作したり、それを演じたりして、人の笑いを取って何がしかの日銭を得ることを生業(なりわい)としている者がおった。独り者で常々酒を好み、これがまた、酒あらばとことん飲んで飲み飽きるということを知らない男でもあった。

 さて、ある時、同じ町内に相応に暮らしておった鳶職の者二人、相談し合って、伊勢へ参宮しようということになり、ついては道中徒然の慰みに、この独り者の男を連れて行こうじゃねえかということで誘ったのだが、男は、

「儂にゃ金がねえ――」

と言う。鳶の二人は、即座に、

「路銀なら俺たちが何とでもしてやらあな!」

となおも誘ったので、それならば、ということで仲良く三人うち連れ、途中、早速、未だ品川から神奈川までの間で――急がぬ旅ではあれば――否、急がぬ旅とは言いながら――酒好きが昂じて、ここで一杯傾けては、あそこで一樽空にして、その日はやっと神奈川の宿に泊まった。――

 翌朝のこと、流石に鳶の二人は、昨日の分の足を稼ごうと夜明け前に出立しようと起き出したところが、例の独り者は、飲み過ぎたのか、すっかり疲れ果てて死んだように横たわったまま、幾ら起こしても目覚めない。その体たらくに、二人の鳶は、ちょいとした悪戯らを思い付き、この男が前後不覚で酔って寝ている内に、知らぬ間に自分が出家僧になっておったら、さぞかし吃驚り仰天、これまた、面白い見ものと、ひそかに取り出だした剃刀で、男が目覚めぬようにこっそり髪を剃り、美事なつるんつるんの青道心に仕上げたのであった。――

 日が昇る頃になっていま一度起こしてみると、男は漸く起き出して来て、ふと頭を撫でてみて大いに驚き、

「お主ら! 悪戯(いたずら)にことかいて、何をした!」

と恨み骨髄、なれど両人は、

「何(なん)も。俺たちゃ知らんぜ。」

と白を切る。勿論、男は納得出来ずに、あれやこれやと詰め寄ったものの、二人とも、

「全く以って知らん、な。」

と美事、口裏合わせ、知らぬ存ぜぬの一点張り。故に、すっかり切れてしまった男は、

「何も、知らんか……そうか……お主らの仕儀ではない……では……最早、是非もない。非僧の僧形にては箱根関所も通るに難く、そもそも伊勢神宮にては古えより出家の参詣を禁じておられることなれば、遙々訪ねみんも無益じゃ……されば、今から儂は、もう江戸へ帰ると致さん……」

とむっとしつつもきっぱりと訣別を告げるので、二人の鳶は、ここに到って、こりゃ馬鹿なことをしたわいと後悔したものの、これだけ白を切ってしまったからには、今更、本当のことを語り、謝って済こととも最早、思えず、とりあえず帰りの路銀を与えて江戸へ帰したのであった。――

 しかし、この男、帰りの独りの道中にも、よくよく考えるとまたぞろさっきの憤激がいとど昂じて来るのであった。

「これほどまでに俺を虚仮(こけ)にしやがって! あさましくもかく坊主にさせおったこと、恨んでも恨み切れぬわ! この遺恨、屹度、面白く返報せずにおくべきか!」

と、帰り道すがら、あれやこれやと日頃の頓作滑稽を発動してとんでもない創意工夫を巡らした。――

 男は江戸に着くと、まずは芝の辺りで古い袈裟衣など僧侶の姿に必要なものを買い揃えて、本物の出家の姿になると、日を測って、江戸帰着後四、五日ほど過ぎて後(のち)、徐ろに鳶の両人の留守宅へと向かった。屋前に佇む男を見ると、どちらの妻子も吃驚り仰天、

「どうして――まあ、このような姿になって――早くも帰って来なすった?」

と尋ねたので、かの男はしおらしく涙を流しながら、

「……かくなる上は、ご推察なされたい……伊勢への道中、さる川の舟渡しにて、我らの乗り合わせたる舟、俄かに流されて岩に乗りかかりて大破致し、三人共、激流に投げ出され、浮き沈み、浮き沈みしつつ、流れ流され……我は運良く下流の岩に流れ懸かり、咄嗟にしがみ付いたところを、助け船にて引き上げられ申したが……二人は……いや、その後も我は二人をあちらこちら、さんざんに尋ね求め致いたので御座ったのじゃが……それきり……生死も知れず仕舞……いや、それだけではない、その他の乗り合わせた数多の客も尽く行方知れずと相成ったが故……それを目の当たりにした我は……正に、正にこの浮世の無常を痛いほどに観じたれば……かくの如、出家致いて、さても万霊回向の諸国行脚の旅に出で立たんとの決心、なれど……何も知らず、空しく帰りを待つこととなる友どちの家内(いえうち)へ、この事、知らせずにおるも、よからずと思い……かく立ち帰ったので御座る――」

と、堰き合えぬ涙ながらに語ったので、両家の妻子ら歎き、一方ならず、見るも中々に痛ましい限りの有様であった。特に両人の妻は、男の謂いと、その姿も相俟って、夫を失った余りの悲痛の耐え難さに、我らも髪をすっぱりと切り、共に廻国行脚に同道せんと言い出す始末であったが、

「廻国行脚につきては、まずは落ち着いて、親類縁者の方々と相談なされよ。されど勿論、出家の儀は、亡き御二人の御亭主の菩提を弔うに然るべきことで御座れば――」

と申し述べて、

「されば――目的はすっかり果たし申したれば――我はこれより廻国行脚旅に出づればこそ、永の、おさらば――」

と言い残して、何処ともなく立ち去って行った、ということである。――

 ほどなく妻二人はそれぞれの菩提寺を頼って出家、墨染めの衣の尼の身となって、懇ろに亡き夫の菩提を弔うことと相成る。分別ある親族の中には、

「余りに思い込み過ぎようというものではあるまいか? まずは、その船渡し難破の儀につき、仔細を尋ねんがための飛脚を飛ばしてみるというのは如何なもので御座ろうか?」

なんどと、あれこれ相談していた、その矢先、二人の夫が滞りなく伊勢参詣を済ませて帰って来た。

 二人の鳶の女房は初々しい尼となっていて――それぞれの夫はぴんぴんして血色もいい――夫婦それぞれがそれぞれを互いに見て大いに驚き、

「……一体、これはどういうこと!?」

と夫婦それぞれがそれぞれに問い質す――さればいずれもが始めよりの事の次第を語り出すうち、

「馬鹿げた悪戯をしたばっかりに、あの野郎に謀られたたぁ、情けねえ!」

と後悔すれども、最早致し方なし。

 

――「勿論、この二人の尼は即座に還俗してね、近頃じゃ、三、四寸も髪が伸びた、と言っておった。」

と、当時、その元尼夫婦の近所に住んでおった者が、私の許に来て、笑いながら話していったのであった。

 

 

*   *   *

 

 

 觀世新九部修行自然の事

 

 近き頃名人と稱し、公(おほやけ)より紫調(むらさきのらべ)賜はりし新九郎事、權九郎といひし頃、日々鼓を出精(しゆつせい)しけれ共未心に落ざる折から、年久敷召仕ひし老姥(ろうぼ)朝々茶持來りて權九郎へ給仕しけるが、或時申けるは、主人の鼓も甚上達の由申ければ、樺九郎もおかしき事に思ひて、女の事常に鼓は聞けど手馴し事にも非ず、我職分の上達をしる譯を尋笑ければ、老女答て、我亂舞の樣知るべきやうなし。しかし親(したしく)新九郎鼓を數年聞けるに、朝々煎(せんじ)ける茶釜ヘ音(ね)毎(つね)に響き聞へ侍る。是迄權九郎鼓は其事なく、此四五日は鼓の音毎に茶釜へひゞきける故、扨こそ上達を知り侍ると答へけると也。年久敷耳なれば自然と微妙に善惡も分る物と、權九郎も感けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:庶民の頓智も馬鹿には出来ない才能であればこそ、今度は鼓を聴き分けた市井の老女の才能で連関。

・「觀世新九部」底本で鈴木氏は、観世流小鼓方六世新九郎『豊重。新九郎豊勝(鉄叟宗治)の第四子。十四歳から観世の頭取をした名人。』とする。岩波版で長谷川氏はそれを引用しながらも『ただし豊重と決める根拠を知らぬ』と記す。私はこの豊重であったと考えてよいと思う。勿論、100年前を「近き頃」とは言うかと言われれば、それまでであるが、ウィキの「観世流」の「大鼓方」(注意! 「小鼓方」の項ではない)に天和3(1683)年に『宝生流を好んだ徳川綱吉に小鼓方観世流六世・新九郎豊重が宝生大夫相手の道成寺を断り、追放される事件が起こった。翌年、宝生座付として復帰したが、その際、姓も宝生と改めさせられた』という記載があり、この気骨ある人物こそ、本話に相応しいと考えるからである。また、次の注も参照されたい。

・「自然」仏教、特に禅宗で言うところの、他の力に依拠せず、自身と宇宙が直結した生成・流転・消滅の根本原理に自ずから従うこと。

・「紫調賜はりし」「調」は鼓の両面の革と胴とを固定するための麻紐のこと。鼓を打つときに、締めたり緩めたりして調子を整える。名人の明かしとして、禁色である紫色の調を特に将軍家から賜ったということである。ズバリ、新九郎豊重のそれが法政大学能楽研究所観世新九郎家文庫所に現存する。そしてそこには『これは観世新九郎豊重が1678年[延宝年]の江戸城の催しに際して許されたもの』というキャプションがついているのである。

・「姥」は、付き添って世話をする女。

・「亂舞」は、能の一節を謡い舞うことを言う。転じて、謡曲能楽の意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 観世新九郎修行上達を自ずから知る老女の事

 

 近き頃まで名人と称えられ、将軍家より紫の調べを賜った小鼓方観世六世新九郎が、未だ権九郎と名乗っておった若き頃のこと、日々鼓の修練に精進怠らずあったけれども、いっかな、未だに己れの満足出来る音色を打ち出すことが出来ずにいた、そんな折りのことであった。

 観世の家には長年召し使っている老女がおり、毎朝欠かさず煎茶を入れては権九郎に給仕しておったのだが、その老女が、ある朝のこと、権九郎に茶を捧げながら、

「ご主人様の鼓も大層上達なさいました。」

と、しみじみ申し上げる。――権九郎は内心、下賤の老婆の笑止な、と思いつつも、すこし妙に感じた。老女は長年当家に奉公し、確かに日頃鼓の音(ね)は聞き慣れてはおるが、自ら小鼓を手に取ること等、ない。如何なれば、私の小鼓の上達を知ったというのか?――そこで権九郎は軽く笑いながら、その訳を訊ねてみた。

「さても、何故に?」

老女答えて、

「勿論、私めには能楽の良し悪しなど、分かろうはずは御座いません――されど、私めはお父上新九郎様のお鼓の音(ね)を数年の間親しゅう聞いておりましたが――毎朝毎朝、煎じておる茶釜へ、そのお鼓の音が、一打ちごとに美しゅう響いて聞こえまして御座いました――されど、これまで権九郎様のお鼓の音は――悲しいかな、そのようなことが御座いませなんだ――ところが、この四、五日内は、お父様のお鼓の如く、美しゅう茶釜に響きまする――さればこそ、上達なされましたこと、お釜の響きに聴き知ったので御座いまする――」

と答えたのであった。

 下賤の者なれども、年久しく鼓を聞いてきた耳なれば、自然、その音(ね)の微妙な違いに良し悪しを聞き分けることが出来るようになるもの、と権九郎も感じ入ったということである。

 

 

*   *   *

 

 

 萬年石の事

 

 品川東海寺は、公より修理を被加故、予勤仕(ごんし)に付、小普請奉行御目付抔と供に彼寺へ到る事あり。右禪刹は澤庵和尚の草創にて、大猷院樣深く御歸依ありし故、萬年石千年杉等の御舊蹟あり。或時右萬年石の由來を尋侍りしに、役者なる僧、澤庵の記を取出し見せける儘、寫置て後(のちの)慰(なぐさめ)になしぬ。

   東海寺萬年石記

 今玆寛永癸未三月十四日、左相府、見移臺座於此池沼之上。池有嶋、島有幽石。熟見之、無奇形怪状、不端險挺兮。若由醉号、栗里翁之石乎。或由醒兮、李德裕之石乎、皆不然。彼防風之朽骨乎、或於菟之白額乎。共不然。唯突兀而在草裡、痴兀而含德容。是世之求奇者、未知此石之所貴。偏得恬淡虚無之趣、面者谷神不死之體、如至虚極也、似守靜篤也。相君命侍臣曰、此石不可無名、各以所思聞焉。於此諸子雖有所思、非無所懼、斟酌相半也。時小堀遠江守政一、侍茶爐下。君有旨、政一即起向石、三呼萬年石。石三點頭矣。君下佳言曰、不疑是萬年石也。大度之一言以定天下、況於石乎。鳴呼石乎哉、石乎哉。入于臺覧一旦發光、而陟變改其觀。蓋爲萬之言也。未必以十千可限。凡數者始一而窮十、始十而窮百、始百而則窮千、始千則窮萬、以萬算則不知幾十百千萬億兆年。以此無窮、爲石之壽量。以石之壽量、比君之壽山、則累華頂萬八千丈、猶在麓者耶。以世計、則復不知其幾萬々世矣。村語以銘。曰、重於九鼎萬年石、鈞命始驚、豈可輕、和氣一團無盡藏、以秋送復以春迎。

現住 澤庵宗彭記之  

 

□やぶちゃん「東海寺萬年石記」白文校訂

[やぶちゃん注:以下は、底本「東海寺萬年石記」部分を、同鈴木氏の注、更に岩波版「耳嚢」及び私の所持する1996年筑摩書房刊の「江戸名所圖會」巻之二所収の「万松山東海寺」の「万年石」の項の二本と校訂し、句読点を含め、私の判断で補正したものである。但し、筑摩版(ちくま学芸文庫版)は書き下し文・新字採用であるので、正字白文に読み替えて判断した。また、〔→ 〕は、校合した諸本又は一本が正しいとする表記を示す。何れを取ったかは、続く私の書き下し文で示す。最後の偈は読み易くするため、分かち書きとした。]

 

   東海寺萬年石記

 

 今玆寛永癸未三月十四日、左相府、見移臺座於此池沼之上。池有嶋、島有幽石。熟見之、無奇形怪状、不端險〔→端然〕挺立。若由醉号兮、粟里翁之石乎。或由醒兮、李德裕〔→李悳祐〕之石乎。皆不然。彼防風之朽骨乎、或於菟之白額乎、共不然。唯突兀而在草裡、痴兀而含德容。是世之求奇者、未知此石之所貴。偏得恬淡虚無之趣、面者〔→而有〕谷神不死之體、如至虚極也、似守靜篤也。相君命侍臣曰、此石不可無名、各以所思聞焉。於此諸子雖有所思、非無所懼、斟酌相半也。時小堀遠江守政一、侍茶爐下。君有旨、政一即起向石、三呼萬年石。石三點頭矣。君下佳言曰、不疑是萬年石也。大度之一言以定天下、況於石乎。鳴呼石乎哉、石乎哉。入于臺覧一旦發光、而陟變改其觀。蓋爲萬之言也。未必以十千可限、凡數者始一而窮十、始十而窮百、始百而則窮千、始千則窮萬、以萬算則不知幾十百千萬億兆年。以此無窮、爲石之壽量。以石之壽量、比君之壽山、則累華頂萬八千丈、猶在麓者耶。以世計、則復不知其幾萬々世矣。村語以銘。曰、

 重於九鼎萬年石

 鈞命始驚豈可輕

 和氣一團無盡藏

 以秋送復以春迎

現住 澤庵宗彭記之  

 

□やぶちゃん「東海寺萬年石記」書き下し文

[やぶちゃん注:以下は、前掲校訂の白文を岩波版「耳嚢」及び私の所持する1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」の「万年石」の項の二本(但し、これは同一親本によるものである。即ち、岩波版は「江戸名所圖會」と校合しているのである。但し、長谷川氏は『「江戸名所図会」三のものにより』とされているが、「二」の誤りであろう)を参考にしながら、私の判断で訓読したものである。基本的には漢文で記されたものであることを重視し、原則、音読を優先した。一部に読み易さを考えて読点を増やした。]

 

   東海寺萬年石の記

 

 今玆(ことし)寛永癸未(きび)三月十四日、左相府(さしやうふ)臺座を此の池沼の上(ほとり)に移さる。池に島有り、島に幽石有り。之を熟見(じゆくけん)するに、奇形怪状無く、端然梃立せず。若し醉ふがごとくんば、栗里翁(りつりをう)の石か。或は醒むるがごとくんば、李德裕の石か。皆然らず。あるいは防風の朽骨か、或は於菟(をと)の白額(びやくがく)か、共に然らず。唯、突兀(とつこつ)として草裡に在り、痴兀(ちこつ)として德容を含む。是、世の奇を求むる者、未だこの石の貴なる所を知らず。偏へに恬淡虚無の趣を得て、谷神不死の體(てい)有り、虚、極に至るごとく、靜、篤を守るに似たり。相君(しやうくん)、侍臣に命じて曰く、「この石は名無かるべからず、各々思ふ所を聞かん。」と。此に於いて諸子思ふ所有りと雖も、懼るる所無きに非ず。斟酌相半ばす。時に小堀遠江守政一(まさかず)、茶爐(ちやろ)の下(もと)に座す。君、旨(むね)有り、政一、即ち起ちて石に向かひ、三たび「萬年石。」と呼び、石、三たび點頭す。君、佳言を下して曰く、「疑はず、是れ、萬年石なり。」と。大度(たいど)の一言、以て天下を定む、況んや石に於いてをや。鳴呼、石なるかな、石なるかな。臺覧(たいらん)に入りて、一旦、光を發し、陟(のぼ)りて其の觀を變改す。蓋し萬の言爲すや、未だ必ずしも十千を以て限るべからず、凡そ數は一に始まりて十に窮まり、十に始まりて百に窮まり、百に始まりて千に窮まり、千に始まりて萬に窮まり、萬を以て算(かぞ)ふれば即ち幾十百千萬億兆年なるを知らず。此の無窮を以て石の壽量と爲す。石の壽量を以て、君の壽山に比すれば、則ち華頂萬八千丈を累(かさ)ぬるとも、猶ほ麓に在るがごとき者か。世を以て計るに、即ち復た其の幾萬々世なるを知らず。村語を以て銘す。曰く、

 九鼎(きうてい)より重し 萬年石

 鈞命(きんめい) 始めて驚く 豈に輕んずべけんや

 和氣一團 無盡藏

 秋を以て送り 復た春を以て迎ふ

と。

現住 澤庵宗彭(そうはう)之を記す  

 

□やぶちゃん注

○前項連関:やや離れるが、「鼓の良し悪しを聴き分けた市井の老女の存在は、逆に芸術の持つ奥深さを示す。作庭芸術家小堀遠州が三声にて石を三度低頭させたは芸術家の玄妙と言う他はない。

・「東海寺」萬松山(ばんしょうざん)東海寺。現在の東京都品川区にある臨済宗大徳寺派寺院。寛永161639年)年に徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建した。当時、徳川家菩提寺兼別荘相当の格式であった。

・「予勤仕に付」鎭衞の履歴から考えると、出仕始めの勘定所御勘定や、その後の勘定組頭及び勘定吟味役の何れかである。比較的、近過去の体験という感じであるから、勘定組頭か勘定吟味役であった折りの体験であろう。

・「小普請奉行」ウィキの「小普請奉行」によれば、『旗本から任じられ、若年寄に属し』、『江戸城をはじめとして、徳川家の菩提寺である寛永寺、増上寺などの建築・修繕などを掌った。物品を購入する「元方」と、その物品を配分する「払方」が設置され、定員はそれぞれ1名であった』とある。

・「御目付」若年寄に属し、江戸城内外の査察・危機管理業務・殿中礼法指南・評定所業務立合など、何事につけても目を光らせる嫌がられた監察役である。この時期には定員10人となり、十人目付とも呼ばれた。

・「澤庵和尚」江戸前期の臨済宗の名僧澤庵宗彭(天正元(1573)年~正保2(1646)年)のこと。かつて住持をした大徳寺での紫衣(しえ)事件(後水尾天皇が幕府に無断で紫衣着用の勅許を下したこと)に関わって抗議を行い、出羽に流罪となる。その後、二代将軍秀忠の死去に伴う大赦で赦され、噂を聞いていた家光の深い帰依を受けて、萬松山東海寺を草創した。書画・詩文・茶道にも通じ、祐筆家でもあった。沢庵漬けの起源には諸説があるが、彼はその発明者とも言われ、ウィキの「沢庵漬け」によれば、本『東海寺では、「初めは名も無い漬物だったが、ある時徳川家光がここを訪れた際に供したところ、たいそう気に入り、『名前がないのであれば、沢庵漬けと呼ぶべし』と言った」と伝えられている。東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼ぶ。』と記す。【以下、二〇一二年七月十一日追記】この沢庵漬のエピソードは「卷之四 澤庵漬の事」に所収する。

・「大猷院」第三代将軍徳川家光。

・「千年杉」1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」には「千歳杉(せんざいすぎ)」の名で載る。それによれば『寛永の頃、大樹命ぜられて千歳杉といふとぞ』とあり、大樹とは徳川家光のことであるから、本話柄と共通する要素を持っている模様である。

 

○以下「東海寺萬年石記」部分注(以下、この訳注にはかなりの困難を要した。誤注誤訳もあろうと思われる。お気づきの方は御教授願えると幸いである)

・「寛永癸未」訓ずれば「みづのとひつじ」である。岩波版が音でわざわざルビを振っており、漢文脈であることを配慮して「きび」とした。寛永201634)年。

・「左相府」左大臣。家光のこと。家光は、先立つ寛永3(1626)年7月に上洛、二条城で後水尾天皇に拝謁し、左大臣となった(左近衛大将を兼任)。

・「熟見之」岩波版は「熟」に「つらつら」のルビを振るが、採らない。

・「端險〔→端然〕梃立」1996年筑摩書房刊の「江戸名所図会」巻之二所収の「万松山東海寺」には、「正しくは、端然」の編者割注があるので、「東海寺萬年石之記」原本自体の誤字かとも思われる。

・「栗里翁」の「栗里」は江西省北部の潯陽(現・九江市)附近の地名で、同所にある出身地柴桑と共に六朝・魏晋南北朝時代の詩人陶淵明(365427)の故郷(昔馴染みの場所の謂い)の一。

・「李德裕〔→李悳祐〕」李徳裕(787849)は唐代の政治家。当代屈指の名門李氏の出身で、憲宗の宰相であった李吉甫の子。後世の仏教徒には武宗の宰相として、「会昌の廃仏」で悪名高い人物であるが、太湖石の蒐集等、無類の愛石家としても知られていたらしい。「悳祐」の「悳」は「德」の本字であるが、彼が「悳祐」と名乗ったかどうかは中文サイトでも確認出来なかった。一般的に知られる「德裕」を採用した。

・「防風」防風氏のこと。夏王朝の伝説の聖王禹が治水事業のために諸侯を集めたが、献上品を捧げる者が万を数える中、防風氏は遅れて来たため、禹は不服従なりとして、彼を処刑した。防風の身の丈は三丈もあり、死骸の骨を運ぶに車を用い、載せる為には削らねばならなかったという。池の中の島の石であること、寺のすぐ傍を暴れ川として有名な目黒川が流れていることと関係するか。

・「於菟」虎の別名。春秋時代の楚の方言。この石、白色で虎の頭部の形に似ていたか。また、陰陽道の西の守護神である白虎をも意識した叙述か。但し、「江戸名所図会」等を見ても、如何なるものの位置の西かは不明。江戸城からは殆んど南である。

・「面者〔→而有〕」諸本は「而有」を採り、「而して谷神不死の體有り」と訓じている。恐らく衍字なのであろうが、私は心情的には底本通り「面(おもて)は谷神不死の體(てい)」と読んでも、何ら問題なく感じるものではある。

・「谷神」「こくしん」と読む。谷間の空虚な場所の謂いであるが、通常、老子が人知を超えた宇宙の本体である「道」を喩える言葉として用いられる。

・「小堀遠江守政一」(天正7(1579)年~正保4(1647)年)は江戸前期の近江小室藩藩主。茶人・建築家・作庭家としても知られ、一般にはその任地を別号として小堀遠州の名で知られる。この時、55歳、伏見奉行であった。

・「茶爐」茶を立てるための釜を置く炉のこと。

・「年なるを知らず」この「年」は、一つの区切るべき単位、という意味で解釈した。

・「華頂」浙江省中部の天台県北方にある中国三大霊山の一つである天台山の最高峰である華頂峰のこと。標高1,138m。古来、中国天台宗の開祖天台大師智顗(ちがい)所縁の地として信仰を集めた。南麓に智顗の創建になる国清寺がある。

・「九鼎」先に防風で示した夏の禹が九州(中国全土)から貢上させた青銅を以って鋳造させた巨大な鼎(かなえ)で、中国に於ける王権(天子)の象徴として夏・殷・周三代に伝えられたという神器。

・「鈞」は尊敬を表わす接頭語で、日本語の「御」に相当する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 万年石の事

 

 品川東海寺は御公儀より直々に修理を加えられることと相成り、私の職掌柄、小普請奉行及び御目付らと共に、かの寺に何度か御用向きで赴いたことがあった。この禅刹は沢庵和尚が開山され、大猷院家光様が深く御帰依なされた由緒ある寺院である故、万年石・千歳杉といったの御旧跡が多くある。ある時、私、この万年石の由来に付、興味の段これあって、聊か訊ね致いたところ、役僧が、沢庵の記した書を取り出し、見せて呉れた、それをその儘、ここに写し置き、後日(ごにち)の徒然の慰めとなし置く。

 

   東海寺万年石の記

 

 今年、寛永癸未(みずのとひつじ)の年の三月十四日、左大臣家光様がこの池の畔(ほと)りに御来駕あらせられた。池の中に島があり、その島に静謐な深山の趣きを湛えた石がある。

 ――この石を凝っと観察して見ると、これと言った奇(く)しき形や怪異な状(かた)ちがある訳ではなく、かといって一糸乱れずきちんとしていて、殊更に抜きん出て美事に屹立しておる、という訳でもない。

 酔狂に喩うれば、閑適を生きた栗里翁靖節先生陶淵明遺愛の石とでも戯れるか、或いは、殊更に醒めて喩うれば、愛石家たる詩人李徳裕秘蔵の石とでも謂うか。否、何れもこの石を謂い得てはおらぬ。

 或いは、禹が諸侯を集めた折り、遅れたために殺されたという伝説の人、防風の朽ちはてた骨の化石か。或いは、神獣白虎の額が石化したものか。否、何れもこの石を謂い得てはおらぬ。

 ただ、にょっきりと叢に在る。呆(ほう)けたように突っ立っているその様は、何がなしに有り難い、曰く言い難い面影を含んでおる。

 さても、奇岩怪石を求めるように、世の中に奇異なるものを求むる者には、凡そこの石の貴い核心を知ることは出来ぬ。

 この石はひたすら無欲にして執着なき虚空無限の趣きを湛えて、同時に「谷神死せず」、かの不可知の宇宙の絶対原理の存在を、その体(てい)に現わしておる。虚空一切空の極みに至っているかのように、また絶対の静謐を深く守っているかのように。――

 この時、相君家光様は、控えておった家臣にお命じになって言われた。

「この厳かなる石に名がないはずがない。各々、この石の名、その思うところを聞こう。」

そこで並み居る方々におかせられては、それぞれに浮かぶところの名があったのであったが、お上の手前、畏れ多い気持ちが働いた上に、互いに遠慮し譲り合うばかりでその場を沈黙が支配した。その折り、かの名作庭家小堀遠江守政一が、たまたま茶を立てるためにお側の茶炉の近くに控えていた。

「遠江守。如何(いかが)?」

との君命に、政一は、すくっと立つと、即座に中の島の石に向かい、ゆっくりと三度、

「万年石!――万年石!――万年石!――」

と呼ばわった。すると、その石が――何と! その三度の呼びかけに答えて、人の如く、頷いたのであった。

 お上は、それをご覧になって、

「間違いない! これ、万年石なり!」

と貴く目出たい御言葉を賜わったのであった。

 お上は、その広大無辺なる大御心の一言を以って天下を平定なさっておられる。況や石に於いてをや!

 ああ! その石! その石!

 お上の御覧(ぎょらん)を得て、その瞬間、石は光を放って、平伏するように畳み重なり合って、その姿を見る間に変えた!

 思うに、この「萬」という名を持つ所以は何か? そもそも凡そ、「十」や「千」という数を以って、真意としての「ある限界」を示すことには、ならぬのである。凡そ数は、「一」に始まって「十」に窮まり、しかしそこで留まらずに「十」に始まって「百」に窮まり、しかしそこで留まらずに「百」に始まって「千」に窮まり、しかしそこで留まらずに「千」に始まって「万」に窮まり、そして更に、そこで留まらずに「万」を以って新たな数詞として新たに数え上げられるために、即ち、幾十百千「万」、その数詞が永遠に循環して繰り返されて、遂に「億」「兆」と続いて、区切るべき限界がないのである。この無窮無限の名を以って、石の寿命とするのである。その石の寿命を以って、今、御命名あらせられたお上の大御心の深奥なるに比するならば、即ち、それは一万八千丈を重ねた唐土(もろこし)の天台山頂華頂峰の、未だその麓(ふもと)に在るのと同じことなのである。その大御心の行き渡る時間をこの現世の時間で測てみても、即ち、それはまた、その大御心が幾「萬々」世に渡って続くかということさえも測ることが出来ぬ程の永劫なのである。お畏れながら、田夫野人の拙僧の言葉を以って一偈を成さんとす。

 九鼎よりも重い――万年石――されど

 貴命あり――永遠の時空の中で始めて驚いた――石とてもこの貴き御言葉を軽んずることは出来ぬ

 宇宙を包む穏やかな一体となった気――それはそのまま無一物無尽蔵の絶対の真理の中に在る――

 さあ例えば秋を送ろう――そしてまた春を迎えよう――永遠の時を迎え取ろう――

現住職 沢庵宗彭之を記す  

 

 

*   *   *

 

 

 やろかつといふ物の事

 

 蠻國産の由。やろかつといふ物、ちいさき蓮華を押堅たる樣成もののよし。いづれの御時にか有し、御簾中(れんちゆう)樣御産の時安産の呪(まじなひ)たる由。器に水を盛、彼品を入置しに、御産しきりに隨ひ右器の内を廻り、御安産の時に至り開き候よし。又御血治り候に隨ひ元の通りに成ける。奇成ものの由、奧勤(おくづとめ)いたせる老人の物語りゆへ爰に記す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:低頭する奇石から奇しき呪物へ。

・「やろかつ」不詳。安産の呪物としてはタカラガイ(コヤスガイ)が有名で、その他、臼や箒、ある種の霊石、猿の手骨等を知るが、このような物体は聞いたことがない。一読、所謂、「ちいさき蓮華を押堅」めたという形状から、腹足類のサザエ等に見られる炭酸カルシウムの蓋を想起したが、これは酢ならまだしも水では運動しないし、開いたり元の形状に戻るというのは当たらない。次に考えたのは中国茶で見かける球状に干し固めた毬花茶(まりはなちゃ)の類で、これは恐らく水分を吸収する際に動くように見えるし、美しく開く。しかし、やはり元には戻らない。識者の御教授を乞うものである。叙述内容からして、鎭衞は実見していない。

・「蓮華」スイレン目ハス科ハス Nelumbo nucifera のこと。マメ目マメ科ゲンゲ Astragalus sinicus をも指すが、わざわざ「ちいさき」と言っている以上、ハスの開花前の花若しくはハスの実を言っていると思われる。形状の特異性から言えば、ハスの実、あの蜂の巣状の花托の謂いであろう。

・「押堅たる」岩波版では「ほしかためたる」とある。

・蠻國産:南蛮渡来。言葉の響きや漢字を全く当てていない点からは、少なくとも名称はポルトガルかオランダ語由来であろう。

・「簾中」一般には貴人の正妻を言う語であるが、岩波版で長谷川氏は特に『将軍後継者の妻をいう』と記しておられる。

・「奧勤」大奥勤め。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「ヤロカツ」という呪物の事

 

 南蛮渡来の品です、という。「ヤロカツ」というそれは、小さな蓮花の実を押し固めたようなものです、という。幕府御創成以来、何れの御時からであろうか、判然と致しませぬが、次の御世の将軍家たらんとする御方の、御台所様御出産の折りの、安産のおまじないとして必ず用いられて参りました、という。その呪法はと言えば、まず器に水をたっぷりと入れ、これをその中にそっと入れおくと、お産が進むに従い、この物、自然とその器の中をくるくると気持ちよさそうに泳ぎ廻りまする。さうして無事お子様がお生まれになったその瞬間、ぽんと、花のように開きまする、という。その後、産後に出血が治まりになられるにつれて、再び投入する前の押し固めたような元通りの形となりまする。誠に、奇体なるもので御座いました、という由、奥勤めの経験があった老女が私に物語ったことがある故、ここに記し置く。

 

 

*   *   *

 

 

 ちかぼしの事

 

 近星出れば大臣の愁ひありと。俗説何による事を知らざりしに、曲淵(まがりぶち)氏の物語りに、何れの書にてやありけん其事を書しを見侍りき。老中抔病氣危急の時は、生干の鱚を御使して被下事定例也。生干は近く干す故、けふは近干の御使出しといふを、いつの此よりか唱へ誤りけんとの物語、面白き故爰に記す。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:奇しき呪物から凶兆の星へ。

・「近星」月に有意に近く突然出現するように見える星。死・災厄(特に火災や兵乱)といった凶事の前兆とされ、古来、多くの歴史書や日記等にも記載が見られる。

・「曲淵氏」恐らく16条先の「微物奇術ある事」に話者として出る曲淵甲州、曲淵甲斐守景漸(かげつぐ)のことと思われる。以下、「朝日日本歴史人物事典」の曲淵景漸(享保101725)年~寛政121800)年)の項によれば、江戸後期の江戸町奉行で、『明和1(1764)年2月目付のとき、大坂での朝鮮通信使従者殺害事件の処理に当たる。同4年12月大坂町奉行のときは、大坂家質奥印差配所設置にかかわる。天明7(1787)年5月江戸町奉行のとき、江戸は米価高騰で市中が不穏な状況に陥ったが、曲淵は適切な対応を取らず、数日にわたり打ちこわしが各所で起きる。以前の飢饉では猫1匹が3匁したが、今回はそれほどでもないといったという風聞も立った。よって翌6月町奉行を罷免されたが、翌8年11月に公事方勘定奉行となる。天明の打ちこわしを惹起した対応を除けば、真に能吏であった』という詳細な記載が載る。鎭衞との、この話での接点は明和1(1764)年前後の目付の折であろう。鎭衞より一回り上の上司である。

・「鱚」スズキ亜目キス科キス属シロギス Sillago japonica 又はアオギス Sillago parvisquamis。漁獲量が減った現在では、淡白な高級干物であるが、当時でも贅沢品であったか。脂の少ない点、病気見舞いにはよいと思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 凶星ちかぼしの事

 

 月の近くに星が突如出現すると、当代の大臣にとって不吉なことが起こる、なんどとよく言われる。全くの俗説にして、如何なる謂われがあるのかも知らなかったのだが、曲淵甲斐守殿のお話に、

「どの書物であったか、さて、書名は忘れたが、その謂われを記したのを確かに見た覚えが御座る。それによれば、ほれ、老中など病気危急の際には、お上より、生干しの鱚を御使者に持たせて御見舞下されるのが定例で御座ろう? あの「生干し」というのは、獲ってすぐに干してすぐに降ろす、近日(きんじつ)干し、近日(ちかび)干し、「近(ちか)干し」故、『今日は近干しの御使者が出た』と言うたのを、いつの頃よりか聴き誤ったのであろう、というので御座った――」

と、まあ、何とも意外で面白きこと故、ここに記す。

 

 

*   *   *

 

 

 仁君御慈愛の事

 

 有德院樣の御人德は、承るごとに恐れながら感涙催しける事のみ也。享保御治世の頃、小出相模守といへる御小姓(おこしやう)ありて、思召にも叶ひ樣子能く勤たりしが、京都辰巳や公事の取持いたし、不義の奢抔なし、不愼の事多く、御仕置被仰付ける事也。右御吟味の初に、相模守不埒の趣も御存有しが、聊御氣色に顯れず、御酒の御相手をも被仰付、相模守は少しも心付ず醉狂常の通り也しに、御次より御側衆罷出、相模守事御表御用有之よし申候故、則相模守は御次へ下りけると也。公は御盃を被差置、最早酒をとり候樣にとの上意にて、不殘御膳を下げ候故、御近所廻りも何か譯も有之事と、一同恐入ていと無興(ぶきよう)なりしに、公は御着座の上、御近侍廻りを御覧被遊、相模守事不便の由にて御落涙被遊けると也。積惡の者をもかく御憐の事、御仁惠の程難有事也と、去る人語ひ給ひけり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項との連関は認めないが、前に複数出る一連の吉宗の仁徳連関記事。

・「有德院樣」八代将軍徳川吉宗の諡り名。

・「小出相模守」小出広命(ひろのぶ)。底本と岩波版の注を総合すると、「寛政譜」によれば、享保2(1717)年2月9日に吉宗の御小姓となり、石高三百石、その後、『十一年六月三日遺迹を継、十六年十二月二十三日従五位下相模守に叙任』したが、元文5(1740)年3月22日に『つとめに応ぜざるの所行あるのむね聞こえしにより、青山大膳亮幸秀に召預け』となった。延享元(1744)年没。彼の父半太夫は紀州家家臣で、享保元(1716)年に幕臣となった吉宗旧知の間柄であったことから、格別の愛顧を受けたものであろう。

・「京都辰巳や公事の取持いたし」訴訟の過程を、めだか氏のHP内、読書日録の中、松井今朝子「辰巳屋疑獄」の小説梗概の事件の要所部分を引用させて頂く。大阪の炭問屋『辰巳屋は去年三代目久左衛門が還暦を迎えて隠居し、四代目の当主久左衛門が跡を継いだが若干20歳の青年であった。このため隠居した三代目久左衛門改め休貞が、実質的に店を差配し現当主はお飾りに過ぎなかった。休貞には男3人と娘一人の4人の子が有ったが今家にいるのは長男の現当主と三男茂兵衛の二人である。長男は遊び好きで商売に身が入らないのに対し、三男の茂兵衛は10歳の頃から師匠について学問を始め、12歳で師匠に何も教えることが無くなったいわれるほどの神童であった。』『休貞はこの茂兵衛が跡を継いだら辰巳屋はますます発展するだろうと良く口にしたが、長男を差し置いて三男が跡を継ぐのは難しい。18歳で茂兵衛は同業の炭問屋木津屋に養子入りし木津屋吉兵衛を名乗る。』『木津屋はもともと炭問屋であったが吉兵衛の代になってから、質屋に手を広げ担保を取って金を貸すようになる。本業の炭問屋は次第に手薄になる。しかも貸す金の資金源を辰巳屋に求めるようになる。辰巳屋は隠居の休貞が死に四代目の当主が身体をこわしている。跡継ぎは娘が一人しかいない。ここからお家騒動が発生する。辰巳屋、木津屋が大阪の東西両奉行所を巻き込んで訴訟合戦を展開、役人への賄賂も絡んで大疑獄事件に発展する』(一部衍字と思われるものを除去した)。但し、本作は小説であるから、事実との齟齬があるかも知れない。その後のことは、岩波版長谷川氏の注に依ろう。本件訴訟に絡む贈収賄事件の結末は、元文5(1740)年に下され、茂兵衛改め『吉兵衛は遠島、大阪町奉行用人の馬場源四郎は収賄で死罪、町奉行稲垣淡路守も免職、関係者が処罰され、江戸でも獄門・死罪・追放等に処せられた者が出た』とする。内山美樹子氏の論文「辰巳屋一件の虚像と実像――大岡越前守忠相日記・銀の笄・女舞剣紅楓をめぐって――」(ネット上でPDFファイルにより閲覧可能)には「大阪市史」第一巻(大正2(1913)年大阪参箏会・幸田成友等編)から「幕吏の汚行」の例として掲げたものを、以下のように引用している(以下、割注は【 】で示した)。

南組吉野屋町に富商辰巳屋久左衛門なる者あり、家産二百万両手代四百六十人を有す。先代久左衛門の弟木津屋吉兵衛辰巳屋の財産を横領せんと欲し強ひて養子当代久左衛門の後見となれり。久左衛門及手代新六等之に服せず起って抗訴を試みしに吉兵衛豫め東町奉行稲垣種信の用人馬場源四郎を通じて、厚く種信に賄ふ所ありしかぱ、彼等の訴状は一議に及ばず却下せられ、剰へ新六は牢獄に投ぜられたり。是に於て同志の手代江戸に之きて評定所門前の訴状箱に願書を投じ、関係老一同の江戸召喚となり、数回の吟味を経て種信・源四郎・吉兵衛の罪状悉く露顕し、元文五年三月十九目、幕府種信の職を奪ひ、持高を半減し、且つ閉門を命じ、源四郎を死罪に、吉兵衛を遠島【○九月減刑して江戸十里四方及五畿内構となる、】に処し、其他江戸大阪の士人連座して罪を被る者多く、松浦信正【○河内守】新に東町奉行に任じ、又西町奉行佐々成意【○美濃守、元文三年二月松平勘敬に代る、】は吉兵衛与党の言を容れて、手代新六等の訴状を却下したるにより、一時逼塞を命ぜられたり。(六〇五頁)

また、小出相模守についての叙述が論文本文にも現れる。以下、該当箇所前後を引用する。多数の人名が登場するが、詳しくは該当論文をお読み頂きたい。

五年一月中旬以後、入牢となった吉兵衛を宿預けに持ち込み、罪を軽くするために、手代達により、江戸町奉行所関係及び幕臣等への贈賄工作がなされたことが、三月十五日の、知岩、正順逮捕をきっかけに明らかにたり、申渡覚にみる如き、多くの処罰者を出すに至った。小出相模守などは『【自宝永四年至寛延三年】大阪市中風聞録』によれば「紀州より御馴染之御小姓衆……別て御出頭」であったが「御役柄不相応之儀有之……青山大膳亮殿へ御預け」を申渡された。父(子?――翁草)が改易になっているので、当人も最終的に御預けで済んだどうか。『銀の笄』では小池相模守という「はきゝの御旗本」が知眼和尚を通じ吉兵術から賄いを受け、切腹を仰付けられている。
 南町奉行所の与力福島佐太夫の場合、申渡によれば、吉兵衛の手代から遊所での饗応を受け、金も一両一分受け取ったようである。いずれにせよ主犯の馬場源四郎のように、多額の金品を受けた訳でないが、収賄の額は些少でも、今回の一件の「御詮議に拘り候故、諸事可相慎処、背神文振舞」とあって死罪の判決を受けている。御番医師丹羽正伯老は小普請入り、さらに当の北町奉行所石河土佐守組の与力が二人、吉宗の側近加納遠江守の家来が一人、御暇となった。北町奉行所の二人の与力などは、忠相の配下にいたこともあろうし、吉兵衛を江戸へ召喚してから僅か二ヶ月の間に、身内の江戸町奉行所、幕臣等に、これほどの汚染が広まったことには幕府関係老も暗然とならざるを得なかったであろう。

と解説されている。引用文中の『銀の笄(かんざし)』は本事件を扱った実録小説で元文4~5(173940)年に版行されたもので、辰巳屋騒動は他にも歌舞伎「女剣舞紅楓」等に潤色されている。「はきゝの御旗本」の「はきき」は「幅利き」で、羽振りがよいことを言う。以上、何せ、辰巳屋久左衛門は伝説の豪商でその資産2000石相当、そこから金を吸い上げ、ひいては乗っ取りを画策する木津屋吉兵衛も半端じゃあない。このたかが町屋の商人の争いが、されど幕府要職をも巻き込んだ大泥沼と化し、累々たる死体の山が出来上がる――この事件、想像を絶する展開と相成ったのであった。

・「御側衆」将軍の側近中の側近。将軍の就寝中の宿直役を始めとして、SPとしての警護全般、将軍就寝・御不例時には指揮・決裁を行う権限さえ持っていた。老中とほぼ同等の将軍諮問機関で、特に御小姓の管理監督権は彼等にあった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 仁君吉宗公御慈愛の事

 

 有徳院吉宗様の御仁徳は、そのお話を承る度に、お畏れながら、感涙を催すことばかりである。例えば――

 

 享保の御治世の頃、小出相模守広命という御小姓があった。有徳院の思し召しにも叶い、まめにお勤致いておったのだが、公(おおやけ)を巻き込んだ京都辰巳屋の事件で収賄致し、それに関わって、不義と見做されても仕方がない奢り高ぶった行跡など成し、他にも不謹慎なる行い数多く、結局、御公儀決裁の上、御仕置き仰せつけらるることと相成ってしまったという出来事があった。

 これに付き、御公儀方の御吟味がまさに始まっておった、その時、有徳院様は一連の相模守不行跡につきても、実は既にご存知であらせられたのであるが、それを聊かもお顔に表わされることもなく、何時もの通り、小出に御酒のお相手を命ぜられたのであった。

 その時の相模守は、愚かなことに、自身に裁きのお沙汰が近づいておることに全く気付くことなく、常の通り、如何にも酔うた興に任せての、如何にも楽しいご相伴に与(あず)っておったのだが――突然、控えの間から御側衆が参上致し、相模守に急遽、よんどころなき御公務これあり候に付き、ご退出あられよとの達しこれあり、相模守は御側衆と共に、控えの間へと下がって行ったという。――

 ――すると有徳院様は御盃をお置きになると、

「……最早……酒を下げよ……」

との仰せにて、うち広げてあった宴席の御膳を一切残らず、お下げさせ遊ばされた。

 件の事件に付きては、極々内密に内偵・御吟味がなされており、その時、事情を知らなかった殆んどの御近習・供廻りの者どもは、酒宴のお取り止めの急なことに、何か我らに御不快の本(もと)やあらんかと、一同、畏れ入って、お部屋内、水を打ったように静まり返っておった。

 ――すると、有徳院様は上座にお戻りになってお座りになられ、ゆっくりと御近習供廻りの者どもを見渡されると、一言、

「……相模守が事……不憫……」

とのみ仰せあって、後は落涙遊ばされた、のであった、と。

 

「……積悪の業者(ごうじゃ)であっても、かくまでお憐れみになられたこと、その深い御仁徳御慈恵の、なんと有難き事か……。」

と、ある人が、私にお話に下さったことであった。

 

 

*   *   *

 

 

 淨圓院樣御賢德の事

 

 吉宗公の御母堂樣は、淨圓院殿と稱し奉る。其御出生を承るに、至て卑賤にて、御兄弟等も紀州にて輕き町家の者なりしが、吉宗公御出世に付、淨圓院樣の御甥巨勢(こせ)兩家共五千石の高を賜り、御側御奉公に被遣しとかや。然るに、淨圓院樣至て御篤信にて、所謂婦中の聖賢ともいふべき御行状のよし。吉宗公御孝心にて、日々爲伺(うかがひのため)御容躰に爲入(いらせられ)侯處、御歸の節は、三萬石の節を御忘被遊間敷(まじき)と常々被仰候由。巨勢兩家五千石高に被仰付侯節、將來御當家勤仕(ごんし)の者又紀州より御供の者は如何樣にも御取立可然侯へ共、巨勢兩人は元來町人の儀、御身分の故を以御取立の儀、御國政の道理に當り不申、難有とは不被思召由、御異見有し故、流石、吉宗公にも殊の外(巨勢御取立の節)御困り被遊侯由。尤一旦被仰渡も有之上は、今更御改(あらため)も難成(なりがたき)事に付、此上右兄弟の者御役筋決(けつし)て不被仰付、只今の姿に被差置被下候樣いたし度、倅共の代に至り其器に當り候はゞ如何樣にも被召仕度(めしつかはされたき)段願ひ故、伊豆守兄弟共只奧へ相詰候迄にて、一生御役は不勤(つとめざる)よし。且一位樣よりも度々御對面の儀被仰遣(おほせつかはされ)候得共、輕き身分より結構に成候儀、歴々の御前へ出候身分に無之由、御斷被仰上(ことはりおほせあげられ)、漸々(やうやう)西丸樣より御取持にて一度對顏有しが、始終遙(はるか)の御次にのみ入らせられ、御挨拶等も御近習の女中衆へ御挨拶のみにて、甚敬憚(けいたん)の御事なりしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:吉宗の仁徳からその生母浄円院於由利の方の仁徳へ。

・「淨圓院」於由利の方(明暦元(1655)年~享保111726)年)の落飾後の法名。紀州徳川光貞の側室で吉宗の生母。公式な記録では紀州藩士巨勢利清の長女とされるが、本文でも匂わせるように実際には百姓の出であるらしく、紀伊和歌山城に下女奉公に上がっていたところに光貞のお手が付き、貞享元(1684)年に吉宗を出産している。宝永2(1705)年の光貞没後、落飾、吉宗将軍就任の2年後である享保3(1718)年になって和歌山より江戸城二の丸へ移っている。

・「巨勢兩家」浄円院の生家とされる巨勢家の浄円院の兄弟二人。底本の鈴木氏の補注には、浄円院の甥である巨勢至信(ゆきのぶ)、浄円院の弟である由利(よしとし)が享保3(1718)年『幕臣に取り立てられた。各五千石を領』した、とある。

・「三萬石の節を御忘被遊間敷」吉宗は元禄10(1697)年に綱吉より越前葛野藩三万石の藩主に初めて封ぜられた。それから8年後の宝永2(1705)年10月に紀州徳川家5代藩主となり、その2ヵ月後の同年121日に江戸幕府将軍職に就いている。

・「將來御當家勤仕の者」岩波版は「將來」を「從來」とする。訳ではそちらを採る。

・「(巨勢御取立の節)」底本ではこの右に補填した版本を示す「(尊經閣本)」という注記がある。文脈から一目瞭然で不要であるから、訳では省略した。

・「伊豆守」前注の巨勢至信のこと。

・「一位樣」吉宗の死後の別称。吉宗は寛延4(1751)年6月20日に逝去するが、その一年後の寛延5年6月10日に朝廷より正一位太政大臣を追贈されていることから。

・「西丸様」吉宗が寵愛した側室於久免(元禄101697)年~安永61777)年)。紀伊藩士稲葉彦五郎定清の女。芳姫の生母。院号は教樹院。同郷好みで、浄円院とは関係が円満であったか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 浄円院様御賢徳の事

 

 吉宗公の御母堂様は浄円院殿と申し上げた。その御出生を承れば、実は至って卑しい身分の出で、その御兄弟等も、かつては紀州の町屋の、如何にも低い町人であったのであるが、吉宗公御出世に伴い、浄円院様の甥ごの巨勢至信(こせのゆきのぶ)・浄円院様弟君由利御両家とも、それぞれ石高五千石を賜り、同時に御側御奉公を仰せつけられたとかいうことである。

 しかし、この浄円院様というお方、至って信義に篤い、所謂、「婦中の聖賢」――婦人の中の稀なる聖人にして賢者――とも称せらるべきお行いを貫かれたお方であらせられたという。

 例えば、――吉宗公は御孝行に厚く、日々浄円院様の御座所である二の丸へお成りになられ、御母堂の御身体(おからだ)の御調子お伺いのため、お訪ねになられたのだが、その御帰りの際、浄円院様は吉宗公に向かわれて、

「三万石のあの頃の御事、決してお忘れ遊ばされませぬように。」

と、常々仰せられた、ということである。

 また、――浄円院様御兄弟の巨勢両家に五千石を仰せ付けられた折りのこと、浄円院様は、

「従来より御当家に勤仕(ごんし)しております者、又、この度、はるばる紀州よりお供して参上致しました旧知の御近衆の者は、如何様にも御取り立てになられて然るべきことと存じまするが、この巨勢両人は、元来、町人にて、あなたさまが上さまとなられた、その御身分故に、この下賤の者両名を格別に御取り立てなさるというは、これ、国政の道理に当たらざること、と申せましょうぞ。そのようななさり方は、決して、上さまご自身、有難き正しいこととは、当然、お思いになられて御座しゃらぬことと存じます。」

と、鮮やかにきっぱりと御意見なさったため、流石に、これには吉宗公も殊の外、御困(ごこう)じ遊ばされたということである。そこですかさず、浄円院様は、

「尤も、ひとたび上さまが仰せられお言い渡しあられた上は、今更、お改めになることも成しがたきこと――なればこの上は、向後右兄弟の者、御役筋への任官は決してなさらず、このまんまの、ただ傍らの武士巨勢至信、巨勢由利として差し置かれ下さいますように――その両名の倅どもの代にでもなり、その倅どもの人品才覚に政(まつりごと)に用いるべき何ものかを、万一、見出され遊ばされるようなことでもあれば――その時には、どうか如何様にも召し使ってやって下さいますように。」

との堅き願い出故、後、巨勢伊豆守至信と巨勢由利の兄弟は、ただただ、奥向きに身を置いているというばかりで、生涯、御役を勤めずに終わった、ということである。

 且つまた、――一位吉宗様から、たびたび本丸にての親しき御対面に付き、仰せ遣わされられたので御座ったが、浄円院様は、

「私めは、低き身分の出でありながら、偶々かくありがたい立場に相成りまして御座いますればこそ、貴きお歴々の御前へ参上致すような身分の者にては御座いませねば。」

と、ずっとお断り申し上げておられた。それでもやっと、ご側室の西丸様のお仲立ちにて、一度だけ格式に則った将軍家父母御対面の儀式が執り行われたのであるが、その折も、浄円院様は始終遙か離れた次の間にお入りになられただけで、そこから全くお出になられることなく、御挨拶の折にも、端下の、御近習の女中衆へご挨拶するばかりで、終始、殿中の諸人に敬意を払われ、万事憚って謙虚にお控えになっておられた、ということである。

 

 

*   *   *

 

 

 和國醫師僧官起立の事

 

 後小松院の御宇、半井(なからゐ)驢庵事和朝の醫師僧官の始のよし。右は最勝王經天女品(ぼん)に、聊沐浴するの藥劑有し、其比は右の經文比叡山の佛庫に封じあるを、閲見の望ありて奏聞ありし故、叡山へ敕命ありしに、俗躰の者拜見を禁じければ、半井驢庵法躰して僧官を給はり、右最勝王經を一覧致しけるとかや。往古はかゝる事もありしやと見ゆ。最勝王經の藥法、強て利益あるものにもあらずと思ふ由、さる老醫の物語なりき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:強い素材的連関は認めないが、吉宗生母浄円院於由利の方の堅実にして謙虚な威徳に対して、勅命への比叡山の物言いの不遜さは際立って対照的である。

・「起立」は「きりふ(きりゅう)」と読む。事始・創始の意。

・「後小松院」室町時代北朝最後の第6代天皇にして歴代第100代の後小松天皇(永和3・天授3(1377)年~永享5(1433)年)。在位は永徳2・弘和2(1382)年~応永191412)年。

・「半井驢庵」諸注・諸記録を参照すると、代々医師の家系であった半井家には「驢庵」を号する習慣があり、澄玄明親(あきちか 生年不詳~天文161547)年 初代驢庵)・瑞策光成(あきちか 大永2?(1522)年~慶長元(1596)年 二代驢庵・明親の子)・瑞桂成信(なりのぶ 瑞策の子か。天文101582)年に瑞策と並んで名が記録にある)・瑞寿成近(生年未詳~寛永161639)年 三代将軍家光侍医にして典薬頭)等、複数存在する。元祖澄玄明親は永世年間(15041521)、中国の明の皇帝武宗が病を得て、後柏原天皇の命を受け、渡中、治療を施して、美事治癒させた。帰国の際に、驢馬を贈られたことからかく号したという。しかし、後小松天皇の御代では後柏原天皇の4代も前で、全く合わない。スーパー・ドクターとしての驢庵伝承は各地に偏在するが、その中でも、誤伝に類するものである。

・「僧官」朝廷から僧に与えられる官職。僧正・僧都・律師の僧綱(そうごう)。これに対応する僧位として、それぞれ、僧正に法印大和尚位(法印)・僧都に法眼和上位(法眼)・律師に法橋上人位(法橋)が与えられた。

・「最勝王經天女品」「最勝王經」は大乗経典の一。全10巻。「金光明経」を唐の義浄が漢訳したもの。奈良時代には護国三部経の一として尊ばれた密教系経典。岩波版長谷川氏注に、その「大弁天女品第十五之一」洗浴の香薬三十二味の名がある、とする。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 本邦最初の僧医事始の事

 

 後小松院の御代、半井驢庵なる人物が、本邦に於ける僧官位を持った医師の最初であるとのことである。「最勝王経」天女品には、少しばかりではあるが、沐浴して効あるとする薬剤の記載があったが、当時、本経は比叡山の仏庫の奥深くに封蔵されておった。後小松院は、この記載あるをお聴き遊ばされて、これを是非とも閲見したいとお望みになられ、叡山へ勅命が発せられたのであるが、叡山側は、俗体の方には拝見を禁じておりますれば、との返答であった。そこで後小松院様は即座に医師僧官職を新たに設ける旨の勅命を発せられた。これによって、医師半井驢庵は法体となって僧官位を賜り、その「最勝王経」を親しく閲覧致した、ということである。古えには、このような意外な事実もあったのであろうかとも思われる。が……

「……無理矢理くりくり坊主になんぞにさせられて、半井殿が有難く拝読なされたという「最勝王経」の薬方、私めもその写しを拝見致いたが、……まあ、大して効き目があるもののようにも、見えませなんだがのう……」

とは、私の知り合いのある老医の話であった。

 

 

*   *   *

 

 

 南光坊書記を寫せる由の事

 

 予が元へ來りし八十餘の老翁、南光坊書記を爲せる由にて持來りける間、寫記(うつししるし)し。

[やぶちゃん注:以下は、ビジュアルに底本に近いものを示すために、右から左へ縦書きになるように表示してある。]

 

人 前 後 今

身  \│/

精 善―生―一

気  /│\

不 見 安 知

亂 急 越 法

也。 \│/
  慎―度―前

   /│\

  立 無 治
 
 

  悪 仏 善

   \│/

  悟―心―一

   /│\

  起 同 止

 

□南光坊書記配置補正

[やぶちゃん注:以下は、ビジュアルに底本に近いものを示すために、右から左へ縦書きになるように表示してある。底本の最終行は明らかに配置が悪い。縦一行の字数と意識的に合わせてある以上、綺麗に並べるべきであろう。また最終行末の句点も私には不自然に思われるので排除した。]

 

謂 前 後 今

   \│/

人 善―生―一

   /│\

身 見 安 知

 

精 急 越 法

   \│/

氣 愼―度―前

   /│\

不 立 無 治

 

散 惡 佛 善

   \│/

亂 悟―心―一

   /│\

也 起 同 止

 

□南光坊書記やぶちゃん解読書き下し文

[やぶちゃん注:これは一種の判じ物で、最初の三行は、それぞれ縦三字横三行の九字を、線に従って右上→左下・左上→右下・中央上→中央下・右中央→左中央へと読み、それを同じように下の二箇所でも行って訓読するようになっている。それに従って書き下す。]

 

今生見て 前世知る 後生安し 一生善

法度立て 急度治る 越度無し 前度愼

善心起て 惡心止る 佛心同じ 一心悟

人身精氣 散亂せざるを 謂ふものなり

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項に現れる比叡山延暦寺で一度は天台僧南光坊天海は修行したと考えてよい。

・「南光坊」南光坊天海大僧正(天文5(1536)年?~寛永201643)年)のこと。安土桃山から江戸初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。諡り名は慈眼(じげん)大師。徳川家康・秀忠・家光三代に渡って強力なブレーンとして政策参画した。武蔵川越喜多院・日光輪王寺の再興、寛永寺開基、日本初の大蔵経版本を計画した(刊行は死後)。その享年は135歳とも言われ、明智光秀=天海説等、出自共に極めて謎めいた人物である。

・「南光坊書記」本偈(染みたもの)の以下の訳は私の全くの思いつき我儘勝手自在訳である。御信用なさらぬように。また、是非とも誤訳の御指摘をも乞うものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 南光坊天海の書き記したものを寫したものとの事

 

 たまたま私の許へ訪ねてきた八十余りの老翁が、これは南光坊天海の書き記したものを寫したものと称して持ち来ったので、とりあえず面白いものなので、ここに写し記した。

 

現世 生き様(ざま)親しく見れば

 己の前世も確かに知れる

  自然 後生も安きは必定

   されば 三世一生 須らく善じゃ――

法度 それをば厳しく立ったれば

 きっと不正は正さるる

  自然 落ち度は悉皆無(しっかいむ)

   されば 元より慎みも 元の元から安心(あんじん)じゃ――

心底 善を起(た)ったれば

 悪心全て止(と)むるもの

  自然 仏の心と同じ

   されば 一心 悟達の境(さかい)

これはこれ

 人の心の在りようの

  自然 散りも乱れぬ様なるを

   自(おの)ずから あんたに 謂うた ものなんじゃ――

 

 

*   *   *

 

 

 妖氣不勝強勇に事

 

 土屋侯の在所、土浦の家士に小室甚五郎といへる者有しが、飽まで強氣(がうき)にて常に鐵砲を好み、山獵(やまれふ)抔を樂けり。土浦の土俗呼んで官妙院と呼狐あり。女狐をお竹と呼。稻荷の祀(やしろ)など造り右兩狐を崇敬するもの有けり。或時甚五郎右雌狐お竹を二ツ玉を以て打留、調味して勸盃の助となしける。土浦城下より程近き他領百姓の妻に右官妙院狐付て、樣々に口ばしり甚五郎を恨罵りける。其夫は勿論村中打寄て、こは道理ならざる狐かな、甚五郎に恨あらば甚五郎に社(こそ)可取付に、ゆかりなき他領の者に付て苦むる事と責問ければ、答ていへるは、我雌を殺し喰へる程の甚五郎にいかで可取付や、土浦領へ入さへ恐ろしきまゝ、汝が妻に取付たり、何卒甚五郎を殺し呉よと申ける故、土浦領に知音ある者申遣ければ、甚五郎此事を聞て、憎き畜生の仕業かなとて頭(かしら)役人へ屆て右村方に立越、不屆成畜生、他領の人を苦む不屆さよ、爾々落ざるに於ては、主人へ申立、百姓等が建置し社(やしろ)をも破却し、縦令(たとひ)日数は延候共、晝夜精心を表し官妙院をも可打殺と大きに罵り、彼社へも行て同じく罵りければ、早速狐落て其後は何のたゝりなしとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:天海の護符は強力な呪術的パワーをプンプンさせているが、そんなパワーを人にしたようなのが、この小室甚五郎。

・「強勇」「がうゆう」と読む。剛勇。兵(つわもの)。

・「土屋侯」常陸国土浦土浦城(亀城)城主。城は現在の茨城県土浦市中央1丁目にあったものが復元されている。城主が度々変わったが貞享4(1687)年に土屋氏が再度城主(先々代も同族)となって以降、安定した。

・「二ツ玉」筒に弾丸を二発込めること。一種の散弾と考えてよい。

・「調味して」漢方系サイトを調べると、民間療法の一つとして寒・熱瘧・狐魅を主治するものとして狐の肉を用いるとあり、また広く蠱毒を解くものとして、狐の五臓と腸を通常の肉類と同じように処理して五味を加え「キツネ汁」として食すとか、キツネの肉を焼いて食す、という記載がある。強烈な臭みがあると思われるが、甚五郎ならば焼いて食ったかも知れない。とりあえず訳は穏やかに鍋としておいた。

・「勸盃の助」酒の肴。

・「社(こそ)」底本ルビ。

・「頭役人」上司。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妖怪も剛勇には勝てぬという事

 

  土屋侯の御在所、土浦城家臣に小室甚五郎という者がおったが、いたって気が荒く、常日頃から鉄砲撃ちを好み、山野に狩猟などをなすを楽しみとしておった。

 時に、その国境辺りには、土浦の土民が官妙院と名付けた狐がおった。その妻の狐もお竹と呼ばれておった。土民の中には稲荷の祠なんどを建てて、この二匹の狐を祀る者もおった。

 甚五郎は、ある時その、お竹狐を二つ玉で仕留め、捌いて、鍋で煮込んで、酒の肴にし、何事もなく一匹ぺろりと平らげてしまった。

 すると、土浦城下にほど近い、他領の百姓の妻に、殺されたお竹の夫である官妙院狐がとり憑き、様々なことを口走り、甚五郎を恨み罵ったという。その夫は勿論のこと、村中の者どもが集まって、

「貴様は、訳の分からぬ奴じゃな! 甚五郎に恨みがあるなら、甚五郎に憑くべきじゃに、縁も所縁もない他領の者に取り憑いて苦しめるとは!」

この理不尽なる憑きようを責め立てたところ、狐が言うことに、

「……我が妻を殺して食ってしまった程の甚五郎に……どうしてとり憑くことなんぞ、出来ようか!……それどころか、奴のおる土浦領へ脚を踏み入るるさえ恐ろしゅうて……そいでお前の妻にとり憑いたじゃ……どうか……憎っき甚五郎を……殺してくれい!……」

 これを聴いていた者が、土浦の知り合いにこれを話したところ、それを甚五郎本人が聴き及んで、

「憎っき畜生の物言いじゃ!」

と怒り心頭に発し、狐成敗の事、頭役人に届へ出、右領外の村方に至り、官妙院狐がとり憑いた女に向かうと、

「不届きなる畜生! 縁も所縁もなき他領の者を苦しめるとは不届き千万! さてもさてもその女から離れずとならば、主君土屋侯に申し上げ奉ってお許しを承り、土民らが建てたる祠を破却致し、たとい日数(ひかず)の如何にかかろうとも、昼夜兼行精神堅固誠心を尽くして、官妙院! 屹度、貴様を撃ち殺す!」

と、散々に罵り、取って返して当の祠の前に馳せ寄り、祠も震えんばかりの勢いで同じように罵ったところ、たちどころに百姓女から狐が落ち、その後も何の祟りもなかった、というである。

 

 

*   *   *

 

 

 長尾全庵が家起立の事

 

 全庵本來は讚州の産にて、松平讚岐守醫師也。醫術功驗有により、江府(かうふ)、將軍家御臺樣御不豫の節被爲召(めさせられ)候處、大夫人の御事故、帷幕(ゐばく)を隔(へだて)御手計(ばか)り被差出、伺(うかがひ)の事被仰付ければ、都(すべ)て醫は御容貌其外御血色等も不伺候ては難成事に有之、御手脈斗(ばかり)の伺にては醫藥共難施趣御答に及びければ、尋常ならざる不敬に罪し、讚州へ蟄居被仰付しと也。其後、將軍家御不豫の節被爲召候て、御藥差上御平癒被爲在(あらせられ)候故、食禄可給御沙汰ありしが、老衰に及び候由御斷申上、依之(これによりて)御座敷内歩行不自由に付、桑杖を給り、倅文哲へ食禄給りし。今文哲家に右桑杖并林大學頭より其砌相贈りし桑杖記有之、祕寶とす。いづれの御代に當りしや、當文哲祖父なるべし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項との連関は認められないが、三項前の「和國醫師僧官起立の事」に続き、医家の事始譚として連関。

・「長尾全庵」岩波版の長谷川氏の注によれば、庄内藩主酒井忠義(寛永211644)年~天和元(1681)年)や八代将軍吉宗の父である紀州藩主徳川光貞らの『病を療治、正徳五年(一七一五)将軍家継の病気の時に、薬を献じ、目通りを許された』とあるから、本件の将軍家とは家七代将軍家継(宝永6(1709)年~正徳6(1716 )年)ということになる。しかし、彼は8歳で亡くなっており(但し、聡明な子であったと言われるので本件の「食禄可給御沙汰」や「御座敷内歩行不自由に付、桑杖を給り、倅文哲へ食禄給りし」を自立的に成したというのは決して不自然ではない)、その「御臺樣」正室となると、八十宮吉子内親王ということになるのだが、その婚約は7歳で、この一連の話としては、やや無理がある気がする。そこを自然にするには、この「御臺樣」を先代六代将軍の正室近衛熙子(ひろこ寛文6(1666)年~寛保元(1741)年 夫死後は落飾して天英院と名乗った)ととる方法か。熙子は延宝元(1679)年に嫁ぎ、宝永6(1709)年、家宣の将軍就任と同時に大奥に入った。長尾家は以後、幕府解体迄、代々奥医師の家系となり、当主は底本の鈴木氏の注によれば『一代毎に全庵と分哲を交互に』名乗った、とある。因みに幕末の嘉永元(1848)年 のこと、13歳の幕府の薬室生(医師見習)の少年が、当時の幕医長であったこの長尾(当代は全庵)の家に食客として入っている。この少年こそ後の郵政の父、前島密の若き日であった。

・「御不豫」天子や貴人の病気。御不例。

・「都(すべ)て」底本のルビ。

・「斗(ばかり)」底本のルビ。

・「桑杖」桑の箸を中風除けのまじないとしたり、桑酒は同病への効能があるとも言われた。……しかし、意地悪く言うなら、桑の木は中心に空隙があり、杖は折れ易いと思うのだが……。

・「文哲」岩波版の長谷川氏の注によれば、長尾全庵の子である長尾分哲伯濬(のりふか)のこと(誤り)とする。彼は享保111726)年『西丸奥医。元文五年(一七四〇)没、六十九歳』。

・「林大學頭」は林鳳岡(はやしほうこう 寛永211645)年~享保171732)年)。延宝8(1680)年に林家を継ぎ、四代将軍徳川家綱以後、綱吉・家宣・家継、八代吉宗までの5代に亙って幕府の文部行政や朝鮮通信使接待などに参与、特に五代綱吉・八代吉宗の信任が厚かったと言われ、官学としての林派の形成に力があった。元禄4(1691)年、それまで上野不忍池の池畔にあった林家の私塾が湯島に移されて昌平坂学問所(湯島聖堂)として竣工、それと同時に大学頭(昌平坂学問所長官:現在の東京大学総長に相当)に任じられ、以後、大学頭は林家が世襲した(以上は主にウィキの「林鳳岡」を参照した)。

・「いづれの御代に當りしや」この将軍を前注通り家継ととれば、この後半の一件は家継が将軍であった正徳3(1713)年4月2日から、逝去の正徳6(1716)年4月30日より遙か前、凡そ3年の間の出来事であるということになる。「耳嚢」のこの記載時から60数年前の出来事となる。

・「當文哲」岩波版の長谷川氏の注によれば、『分哲伯濬の孫分哲保定(やすさだ)』(の誤り)とする。この注が正しいとすれば、祖父ではなく曽祖父ということになる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幕府医官長尾全庵家事始の事

 

 元祖長尾全庵は本来は讃岐国出身で、松平讃岐守附きの医師であった。

 ある時、将軍家御台様御不例の折り、この長尾全庵が特に仰せつかって江戸城内に召されたのであったが、将軍家夫人ということで、張り巡らした引き幕を隔てて御手だけをお差し出しになられるばかり、お側の者は、ただ脈取って診察せよ、と仰せつかったので、全庵は、

「総て医術は御顔全体の御様子の外、その御血色などの細部も合わせて診申し上げずには、正確な診断を下すことは難しいことに御座いますれば、御手のお脈だけにてはとても施薬など、成し難きことに存ずる。」

といった旨、お答え申し上げたところが、御台様に対面所望など以ての外、慮外尋常ならざるその物言い、甚だ不敬の罪なり、とされてしまい、故郷讃州にて蟄居仰せつけられた、という。

 しかし、後日(ごにち)のこと、今度は将軍家御不例の砌、再び召喚されて江戸城内に召されたのであったが、今度(このたび)は、診察申し上げると直ぐ、御薬を処方し差し上げたところが、即座に平癒なされ、直ちにかつてあった禄を再び与えよ、とのお沙汰があったのだったが、全庵は、老衰なればとて、これをお断り申し上げる旨、申し出た。そこで、将軍家は、全庵が座敷内にての歩行も不如意なる様を実見せられておられたため、特に桑の木で出来た杖を下賜なされ、本人の代わりに息子の文哲に禄を賜わられた。

 今、長尾家では、この桑の杖並びに、当時の林大学頭より、杖下賜の砌、添えられた文(ふみ)「桑杖記」が伝えられ、家宝としている。以上の出来事は何れの御代のことであったか、当代の長尾文哲の祖父の逸話と伝えられる。

 

 

*   *   *

 

 

 貨殖工夫の事

 

 享保の時代に藪(やぶ)主計(かずへの)頭といへる人有り。御側衆を相勤、後隠居して大休と號し候後も登城抔いたせる人也。主計頭至て倹約を専らにして、既に存命の内、子孫へ吹詰(ふきづめ)の金塊を両三丸づゝ、應親疎(しんそにおうじ)分與へしとかや。右貨殖の手法を聞しに、縦令平日にも風雨或は地震抔有ければ、家來を呼、昨夜の風雨に居(ゐ)屋敷下屋敷等破損何程也(なり)と尋けるに、家來も其氣に應じて、聊破壊に不及所をも、是程かれ程の損じ入用凡何十兩可懸と答、則右金子を除置て貯けるとかや。愚成様なれ共、音信贈答祝儀無祝儀朝夕晝夜都(すべ)て右に随ひ規矩を定、段々積財をなし給ふと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:幕府医官一族事始譚から貨殖工夫一族事始譚で連関。

・「藪主計」藪忠通(ただみち)鈴木・長谷川両注によれば、紀州徳川家の家臣藪勝利の次男で、享保元(1716)年に後の第九代将軍徳川家重(正徳元(1712)年~宝暦111761)年)に従って出仕、小納戸役300石に始まり、新番頭から西丸御側となり、浄円院(吉宗生母)の病気の際、精勤したことにより賞せられ、後、5000石を領した。寛延2(1749)年に職を退き、宝暦4(1754)年に76歳で亡くなった。鈴木氏は最後に職を退いた際、更に『慶米六百俵を賜わり、その後もしばしば登城して御気色をうかがい、吉宗の没後遺物として佩刀を賜わりなどした』と記す。因みに、吉宗の没年は寛延4(1751)年。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 利殖の工夫の事

 

  享保の年間、藪主計頭という人があった。御側衆を相勤め、後に大休と号して隠居致いて後も、しばしば登城など致いた人である。主計頭は至って質素倹約、節約節用を日々の行いとして、既に存命の内に子孫らへ、精錬して丸めた極上の金塊を三個宛、真に親しき者を勘案して財産分与したとかいうことである。その主計頭に、ある人がその利殖の秘訣を尋ねたところ、

「例えば――そうですな、日常、雨風のちょっと強い日やら軽い地震などがありました日には、家来の者どもを呼びまして、何時も『昨夜の雨風にて屋敷内・下屋敷などの損傷は如何ほどあったか?』と尋ねまする。すると家来も拙者の何時も心配が始まったと、内心、調子に乗りまして、聊かも破損に及ぶところがこれなき時にも、『これかれの損壊これ有り、御修繕のための御費用、凡そ何十両掛かることと存じまする。』と答え、拙者はまた、言われるが儘に、余っております金子からその分を修繕費として確かに除け置いて、貯えておくので御座る。――」

とか、言われたそうな。

 一見、ちょっとした、また、何処やら間の抜けた話のようにも聞こえるが、日常の音信伝送・各種贈答・冠婚葬祭のみならず、朝夕昼夜の挙止動作に至るまで、一事が万事この要領と基準を厳しく守り定めて、次第に次第に一財産成された、ということである。

 

 

*   *   *

 

 

 奇術の事

 

 土浦侯の家士に内野丈左衞門と申者あり。其甥を同家中の名跡(みやうせき)に遣しける、若氣の心得違にて土浦を一旦家出しけるよし、丈左衞門方へ申越ければ、大に恕、所々心懸尋けるに行衞しれず。品川の邊に老婆の右樣の事を占ひなどせる奇術の者ありと聞て尋問ひければ、老婆答て申けるは、我等壇上にて修法(ずはう)の上品々申候内、甥子の身の上に似寄、言語も似て候はば右の所を押て段々聞糺し可被申(まうさるべし)。併(しかしながら)住所知れ侯ても咎(とがむ)る事は遠慮有べしと申しける故、承知の挨拶しける其時、老婆修法なして頻に獨言(ひとりごと)を申ける内、果して似寄の事出し故、いか成譯にて立退けると尋ければ、若氣にて風與(ふと)心得違ひ立出し由を演(のべ)ける故、人の家督を繼(つい)で不埒至極の心底かなと憤り罵りければ、幾重にも免し給へといへる故、少しも早く可立歸、當時は何方に居候(いさふらふや)と尋ければ、いまだ何方にも住所を不極、江戸よりは南の方に居候よしを申故、老婆に一禮を演て立歸り、頻りに南の方を尋けるに、深川の末にてはたと行逢、段々と申宥(まうしなだめ)引戻し、事なく相續をなしけるとかや。其後程過て咄しけるは、家出いたし兩三人連にて道を行、並木の茶やに立寄り、草臥(くたぶれ)しまゝ暫くまどろみし内、丈左衝門に逢て殊の外叱りを受、甚難儀せし夢をみてうなされけるを、連の者に驚(おどろか)され、遅くなりぬれば日も暮侯とて、引立られし事のありし由語りしが、右時日を考合(かんがへあは)すれば、老婆へ行衞を尋貰ひし日時に引合(ひきあひ)ける。不思議の事もあるもの也と丈左衞門物語の由、同家中の者語りけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項とは連関を認めないが、三項前の「妖氣不勝強勇に事」の主人公が同じ土屋侯を在所とする点で連関。

・「土屋侯」常陸国土浦土浦城(亀城)城主。城は現在の茨城県土浦市中央1丁目にあったものが復元されている。城主が度々変わったが貞享4(1687)年に土屋氏が再度城主(先々代も同族)となって以降、安定した。

・「名跡」家督相続人。

・「修法」本来は密教で行う加持祈禱の法を言い、壇を設けて本尊を安置、その仏前にて護摩を焚き、印を結び、真言を唱え、各種の祈願調伏を成す。ここではそれを真似た民間呪法の謂いである。古くは「すはう(すほう)」と読んだが、ここでは「しゆはう(しゅほう)」と読んでも構わない。

・「風與(ふと)」底本のルビ。

・「演(のべ)」底本のルビ。

・「並木の茶や」固有名詞。岩波版長谷川氏注その他によれば、浅草寺の雷門から南の駒形へ伸びる道の両側を並木町と言い、料理茶屋や食い物店が並んでいたという。しかし、果たして浅草寺から駒形辺を「江戸よりは南の方」と言ったであろうか? また丈左右衛門が甥を発見した当時の「深川」を「江戸よりは南の方」と言ったであろうか? 当時の深川が現在の江東区より遙かに広い地域を指していた事実をもってしても、私にはそれが「江戸よりは南の方」であるとは思えないのである。「江戸より」の謂いと「南」という謂いのダブルでこの後の事実と反している気がするし、そもそも「江戸よりは南の方」と言われて丈左右衛門が「深川」を探索したこと自体が私には奇異な感じがするのである。識者の御教授を乞うものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇術の事

 

  土浦侯の家臣に内野丈左右衛門と申す者が御座った。土浦家では、その内野の甥を養子と致し同家家督相続と致いたのだが、若気の至り、何の心得違いか、あろうことかある時、土浦家を出奔してしまった由、丈左右衛門方にお達しがあった。丈左右衛門、怒り心頭に発し、あちらこちら心当たりを訪ね回っては見たものの、一向に行方が知れぬ。ふと、品川辺に住む老婆で、かような行方知れずやら尋ね人に関わることを美事に占う者があると聞き、藁にも縋る思いで訪ねてみたところ、老婆は丈左右衛門の話を一通り聴いた上で、次のように答えた。

「……われら、これより護摩壇にて修法(ずほう)を執り行(おこの)う……されば、われら、あれこれとそこにて口走る……その話の内に……その甥ごの身の上によく似、また、その語り口も相似た者が現れたとならば……その者の話に応え、その居所(いどころ)その他につきて、徐ろに、問い質さるるがよろしい……じゃが……その居所が知れたからと言うて、直ちに咎め立てなさるは、ご遠慮あられよ……」

と。その申し出に、丈左右衛門が、

「委細承知。」

と応えるや、老婆は即座に加持祈禱を始めた――

 ――暫くすると、護摩壇の上で老婆は頻りに独り言を言い始め、その様々な声の調子の中に、果たして甥に似た喋り方が現れた。丈左右衛門は信不信半ばながらも、その声に向かって、

「何ゆえに出奔致いた?!」

と訊ねた。

「……若気の至り……ふと、魔がさして……心得違いにより立ち出でました……」

と答えた。

「人の! 主家の家督を継いでおきながら! 不埒千万! 何の心底か!!」

と、丈左右衛門は激しく憤り、罵った。すると声は、

「……幾重にもお詫び申し上げまする……どうかお許し下さいませ……」

と、頻りに恐縮するのであった。丈左右衛門は老婆との約束を思い出し、怒気をぐっとこらえると、

「さればこそ一刻も早く立ち帰るべし。そも、只今は何処(いずく)にか在る?」

と訊ねた。

「……未だ何処(いずこ)とも居所(きょしょ)を定めておりませぬ……江戸よりは……南の方におりまする……」

とのみ答えて、声は消えて行った――

 ――丈左右衛門はやはり半信半疑ながらも、求めたところの居所(いどころ)はとり敢えず聞き出せたわけで、この老婆に礼を述べて一度立ち帰り、改めてとり敢えず南の方へ、南の方へと尋ね求めてみたところが、何と深川の外れで甥本人とばったり行き逢わせたのであった。かねて声に対して憤怒していた分、ここでは見つかった安堵が勝ち、よくよく言い宥めた上、主家へと連れ戻し、何とか事なく、正式に土浦家相続を果たさせることと相成ったということであった。――

 ――その後、目出度く相続も終わり、程経たある日、土浦姓となったその甥が丈左右衛門に次のように告白した――

「――あの折り、家出致しまして、連れ立った友人と三人であてどなく道を行くうち、並木町の、とある茶屋に立ち寄りましたところで、何だかすっかりくたびれ果ててしまいまして、そこで暫くうたた寝致いたので御座いますが――その時見た夢の中で、おじ上に行き逢い、そこで殊の外のお叱りを受け、引くも成らぬ退くも成らぬほどの難儀を受けました――いや、そんな夢を見まして、うなされておりましたところを、連れの二人に揺り起こされた上、刻限も最早遅し、日も暮れて御座ると、急き立てられて茶屋を出たことが御座いました――」

 丈左右衛門が、更に詳しく聞き質してみると、何と、その日限は、彼があの老婆に甥の行方を占って貰ったあの日限と、完全に一致したのであった。――

 「不思議なことも、この世にはあるものである。」

と丈左右衛門が物語った由、土浦家御家中の者が語った、とのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 人の精力しるしある事

 

 當時本所に中條道喜といへる者あり。町醫ながら相應に暮しけるが、其身の上を尋ぬれば、元來官醫のもとに若黨(わかたう)いたし、夫より所々中小姓(ちゆうごしやう)奉公抔なしけるに、身持不埒にて或は窮し又は困(こう)じけるが、中年にて剃髮し醫師に成、予が親友與住(よずみ)抔を便りて藥劑を聞合けるに、頻に青雲を得て今は相應に暮しける。右の者に可笑しき咄しあり。近き頃本所多田の藥師境内へ鐘を奉納せし故、與住事右の者に逢て、鑄鐘の事醫師の職業にも非ず、又小金にて出來ぬべき品にもあらず、佛法歸依の御身とも思われず、其意を尋ければ、さればとよ、道喜醫師に成候はじめ、甚の困窮にて一錢の貯もなく、度々多田の藥師の前を通りしに、堂塔修理侯へども鐘のなきぞ莊嚴(しやうごん)の欠たる也、其砌道喜事吉原其外按摩を渡世致しけるが、二錢三錢づゝも日々除置(のけおき)て鐘を建立すべし、若(もし)不幸にして志を不得ば其沙汰に及間敷、志を少しだに得るならば何卒生涯に建立可成と風與(ふと)誓ひし故、造立せしと申けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項との連関は認められないが、三項前の「長尾全庵が家起立の事」という幕府医官一族事始譚から医家事始譚で連関。

・「中條道喜」訓読みなら「みちよし」「みちのぶ」が考えられるが、医師なので「だうき(どうき)」と音読みしておけばよいと思われる。

・「若黨」江戸時代、武家にあって足軽よりは上位の小身の従者を言った。

・「中小姓」江戸時代、武家にあって侍と足軽の中間に位置する下級武士を言った。侍階級の最下層。

・「與住」底本の鈴木氏注に『与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師。』とある。「耳嚢」には他にも「巻之五」の「奇藥ある事」や、「巻之九」の「浮腫妙藥の事」等にも登場する。

・「本所多田の藥師」玉嶋山明星院東江寺が正式な寺名(天台宗比叡山延暦寺派)。当時は、本所(現在の墨田区の南部分)の隅田川の岸(現在の駒形橋附近)にあった。天正111583)年開山、本尊の薬師瑠璃光如来像は「往生要集」の作者恵心僧都源信作と伝えられるが、この薬師如来が多田満仲(912997:源満仲。清和天皇六孫王源経基長男、多田源氏の祖とされる武将。子に大江山酒呑童子退治で知られる源頼光がいる。)の念持仏(身長約18㎝)であったため、通称多田薬師と呼ばれる。上野の東叡山寛永寺末寺として江戸時代を通じて庶民の信仰を集めた。関東大震災により本堂が消失、後の帝都復興計画で駒形橋新設決定に伴い、葛飾区東金町に移転して現在に至る。現在でも、この移転した東金町近辺を「多田の薬師」と呼称している模様。

・「佛法歸依」底本では「佛法寄依」とあり、「寄」の右に鈴木氏によって「(歸)」とある。補正した。

・「吉原」当時、浅草寺裏手の日本堤にあった吉原遊廓のこと。新吉原。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人の誠心の祈請には必ずその験(しるし)が現れるという事

 

 今、本所に中條道喜(どうき)という者がおる。町医者ながら相応に良い暮らし振りの者であるが、彼自身にその身の上を聴いたところでは、元々は幕府お抱えの奥医の下で若党など致し、その後は幾つものお武家の家中に入り込んでは、中小姓奉公など致いておったのだが、ふとしたことから身を持ち崩し、時によっては、貧困のどん底に落ちたりもした。しかし、中年になってから剃髪、若党時代の手習いで医師となり、私の親友の医師与住玄卓などを頼って薬剤調合法についての知見を学ぶうちに、町医者の商売繁盛、今のこの相応な暮らしに至ったという。

 さても、その道喜に面白い話がある。

 この道喜、最近、本所は多田の薬師の境内へ鐘を奉納した。そこで与住が彼に逢った折り、

「鐘を鋳造し奉納するなんど、医者たる職分にも相応しくなく、そもそも実物を見たところが、僅かな金で成せるような代物でもない……また、仏法帰依の御身とは、憚りながら、お見受け致さぬが……。」

 と、その鋳鐘奉納の真意を訊ねた。すると道喜は、

「ご尤もなことに御座る……私めは医者になりましたその始めは、甚だ困窮の極みに在り、一銭の蓄えだに御座いませなんだ……その頃のこと、たびたび多田の薬師の前を通りました……折りからの堂塔の大改修、それはほぼ完成にこぎつけておりました……けれども、この由緒正しき名刹に、鐘がない、というのが、どうしても荘厳さに欠けておるな、と、この貧者ながら、心の内に思っておったので御座います……その頃……私めは吉原やその辺りの土地を歩いては按摩をして食っておったので御座います……そんな私で御座いましたが、ある時、多田の薬師を過ぎた折り、心に薬師を念じて『多田のお薬師さま! 二銭でも三銭でも毎日毎日僅かながら取り除けて貯え貯え、きっとこちらへ梵鐘を奉納致しまする。もし、不幸にして志しを立てることが出来ませねば、その誓願を実行することも出来ませぬが、万一、志しを少しだけでも立てることが出来ますれば、生涯のうちに、必ずや、奉納致しまする!』と、ふと、と誓いを立てたので御座った……さればこそ、かくて、かくの如く……鋳鐘奉納、致いた次第で御座る……。」

と申した、ということである。

 

 

*   *   *

 

 

 御力量の事

 

 恐多き御事ながら、當時將軍家の御力量拔群にあらせられ侯由。然共聊常にその御沙汰もなく、其程を伺(うかがひ)候者もなきが、或時品川筋、御成の折柄、御馬にて御殿山邊、通御(つうぎよ)の處、右山の樹枝に烏一羽泊り居しを御覧の上、錢砲を被召(めされ)、御馬上にて御覗ひありて、仰ぎ打に被遊ける所、矢頃遙に隔りけるが、礑(はた)と中りて鳥は止りぬ梢より遙に飛上りくる/\と廻りて落ける時、將軍家御片手に御筒を被爲持(もたせられ)、通途の者杖を廻す如く御廻し被遊、譽候樣御高聲に御自讚有しを、御近邊を勤(つとめ)御供に候(さぶらひ)し候(さふらふ)者咄されけるが、右御筒の儀は普通より遙に重き處、御片手に輕々と取廻し給ふ有樣、御力量の程何(いづれ)も驚入、又御火術をも稱歎せしと咄しける折ふし、有德院樣、惇信院(じゆんしんゐん)樣御兩代の御側廻り相勤候仁(じん)其席にありて、御當家は御代々御力量は勝れさせ給ひけるや、有德院樣は餘程に勝れさせ給ふをまのあたり見奉る。惇信院樣は御病身に被爲在(あらせられ)侯得共、御力量は餘程に勝れ給ふと存候事、度々有りしと語り給ひける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項との連関は認められないが(以前の将軍家の御事についての記載であり、民間人を扱った前項との連関は意図的に排除そうとしたとも思われる)、前出の吉宗の武徳仁徳讃嘆に続く歴代将軍武辺譚で連関。

・「當時將軍家」十一代将軍家斉(安永2(1773)年~天保121841)年)。在位は、天明71787)年~天保81837)年。しかし、そうすると底本の鈴木氏の解題にある執筆時期分類にある、「耳嚢」「巻之一」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明51785)年頃で、下限は天明2(1782)年春までという期間から完全に逸脱してしまう。執筆開始時にもその下限時に於いても、家斉はまだ将軍になっていない。この期間に入れるとすると、これを将軍職着任以前の出来事とるしかないが、彼の将軍職着任時の年齢は15歳である。このエピソードはやや考えにくい。また着任していない人物を「將軍家」とは言うまい。少なくともこの記事は、その謂いからしても、鈴木氏の言う次期よりも遙か後に書かれたものと私は考える。

・「御殿山」現在の東京都品川区北品川、高輪台地の最南端に位置する高台。現在の品川駅南方に当たる。徳川家康が建立したとされる品川御殿があったためこう呼ばれる。歴代将軍家御鷹狩休息所及び幕臣を招いての茶会場等に用いられたが、元禄151702)年火災により焼失、廃された。先立つ寛文年間(166173)の頃からこの一体には桜が植えられ、桜の名所として知られるようになった。

・「矢頃」は「やごろ」と読み、通常は矢を射るに格好の射程距離に対象があることを言う。ここではそれを鉄砲に援用した言いで、且つ、有効射程の遥か圏外に烏がいたことを示す。

・「礑」音は「タウ(トウ)」で、国訓で、物に何かがぶつかる音。はったと。

・「輕々と取廻し給ふ」は、底本では「輕々と取なやみ給ふ」とあり、右に「(取廻しカ)」と注する。注を採用し、補正した。岩波版では「御廻し」とある。

・「候(さぶらひ)し候(さふらふ)者」岩波版では「候(こう)し候者」とルビを振るが、私は音読した際のリズムから表記を採りたい。

・「何(いづれ)」は底本のルビ。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延41751)年)の諡り名。

・「惇信院」九代将軍徳川家重(正徳元(1712)年~宝暦111761)年)の諡り名。

・「仁」このご仁、最低でも65歳を下らない長老である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 将軍家代々御臂力抜群の事

 

 恐れ多いこと乍ら、当代の将軍家の御臂力は抜群であらせられます由。然れども御日常にあらせられては聊かもそのような御振舞いもお見せにはなられることなく、その御臂力の如何に群を抜くものであるかを存じ上げておる者もなかった。さればこそ、ここに記しおくものである。

 ある時、品川辺にお成りの折り、御馬にて御殿山辺りをお通りになられたところ、木の枝に鴉が一羽とまっているのをご覧になり、

「鉄砲を。」

と仰せられると、馬上にあらせられたままに狙いを定め、その高めの標的を仰ぐようにお撃ちになったところ――その鴉の位置は鉄砲の有効射程距離を遙かに越えていたのだが――トウ! と鴉のど真ん中に当たって、鴉はとまっていた梢から遙か上に吹き飛んで、くるくる回って、美事、落下した。

 その時、上様は片手にお持ちになった鉄砲を、まるで普通の者が杖を回すかのように、くるくるとお回しになり、

「さても褒めんか!」

 と、御声高らかに御自讃なさったとのこと、その折り、御側衆をしておった者がお話しになったのだが――何でも、その鉄砲の仕様は、将軍家特注のもので、通常のものよりも、遙かに重いものであったにも関わらず、上様は御片手で軽々と取り回されたそのありさまに、その場に伺候しておった者どもは皆、上様の御臂力は、一体どれほどおありになられるのか、と驚き入って、加えて、その砲術の御神技にも賞嘆致いた――と、上様御臂力に附き、話を続けておった折り、その場に偶々、有徳院吉宗様と惇信院家重様御二代に亙って御側廻りとしてお仕えした御方が居合わせており、

「御当家は代々御臂力に勝れてあらせられると拝察致すが、如何か。有徳院吉宗様が人間技とは思えぬ並外れた御臂力の持ち主であられたのは、しっかと目の当たりに見申し上げて御座る。惇信院家重様はご病気がちであらせられたものの、やはりその御臂力は余程に優れてあらせられると、感じさせらるること、いや、度々御座った。」

と、語って下さった、とのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 石谷淡州狂歌の事

 

 石谷初(はじめ)備後守后(のち)淡路守は和歌をも好みてありしが、御留守居に成て依田豊前守と同役たり。豊前守は剛毅朴訥の人にて、老て後は筆頭故我儘もありし、関所手形等の事にて兎角利窟つよくこまりし事多きゆへ、密に口ずさみけると微笑して予に咄されけるが、至極其時宜に當り面白き故、爰(ここ)に戲書(たはぶれかく)のみ。

 治れる代にも關路のむつかしはあけてぞ通す横車かな

 

□やぶちゃん注

○前項連関:歴代将軍家の臂力という内輪の話から公務へ連関。

・「石谷淡州」石谷清昌(いしがやきよまさ 正徳3(1713)年~天明2(1782)年)。「淡州」は「たんしふ(たんしゅう)」と読み、淡路守のこと。以下、個人ブログ『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」』に相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』に収載する児玉信雄氏の当該人物の記載から孫引きする。『宝暦六(一七五六)年から同九年までの佐渡奉行。宝暦六年四月、宝暦大飢饉の最中に就任し、年貢減免・御救米・夫食米の給付など、飢民の救済に尽力した。翌年老中に、佐渡の仕法改革について意見書を提出、鉱山・民政・奉行所機構など、多方面にわたる大改革を断行した。寛延一揆後、奉行の隔年交代の弊害と、農民支配の強化をめざして採用した代官制が、かえって圧政の一因であるとして、二代官のうち一代官を廃止し、全廃に向かう糸口を作った。また、奉行隔年交代の弊を補うため、江戸より常駐の組頭二人を来任させたり、広間役を一○人から六人に減らし、内二人を江戸から派遣するなど、奉行所の機構改革を断行した。このほか役人の待遇改善、鉱山施設の集中的経営、軍事力の強化、殖産興業と国産の他国移出策など、多方面の改革を行った。田畑からの年貢増徴に限界があれば、年貢増徴によらない民生安定の方策は何かというのが、石谷奉行の発想の原点であった。その方策を提供したのが、広間役高田久左衛門備寛であった。石谷は高田備寛に命じて、佐渡の治政と社会の問題点を、歴史的観点から報告させ、また、殖産興業と国産他国移出の立場から、郷村の実情を調査報告させた。これが『佐渡四民風俗』である。これを基礎に据えて、石谷の佐渡支配が行われた。宝暦九年勘定奉行になり、田沼意次の商業重視の幕政をすすめた背景には、石谷の佐渡での施策が、少なからず影響していると考えられる。』。『佐渡四民風俗』の作者高田備寛は「たかだびかん」と読む。石谷清昌というこの人物、大変有能な行政改革者である。

・「后(のち)」は底本のルビ。

・「御留守居」江戸幕府の職名。老中支配に属し、大奥警備・通行手形管理・将軍不在時の江戸城の保守に当たった。旗本の最高の職であったが、将軍の江戸城外への外遊の減少と幕府機構内整備による権限委譲によって有名無実となり、元禄年間以後には長勤を尽くした旗本に対する名誉職となっていた(以上はフレッシュ・アイペディアの「留守居」を参照した)。

・「依田豊前守」依田政次(よだまさつぐ 元禄141701)年~天明3(1783)年)。以下、「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の「依田政次」から引用する。『旗本。将軍徳川吉宗の食事を試食する膳奉行となる。医師が問題なしとした献上品の鶴を、新鮮ではないといって食膳にださなかったところ、この話に感心した吉宗に重用された。宝暦3年(1753)江戸町奉行、明和6年大目付、留守居とすすんだ。通称は平次郎。』。

・「利窟」理屈。

・「爰(ここ)に戲書(たはぶれかく)のみ」底本は「咄に載事のみ」とあるが、如何にもそっけなく、ダブった言い方である。岩波版に「爰(ここ)に戯書のみ」とあるのを採り、「戯書」の訓は私が振った。

・「治まれる代にも関路のむつかしはあけてぞ通す横車かな」「横車」は、前後にしか動かない車を横に押すように、道理に合わないことを無理に押し通そうとすることを言う。最早、名誉職でしかない留守居役で、殊更に注文をつけるまでもない関所手形関連業務等について、依田政次が杓子定規なことをぐだぐだ言うのを「横車」に譬えた。更に、棒・長刀などの扱い方の一つで、横に振り回すことをも「横車」と言う。ここでは関所役人が、持った棒を横に振って旅客を押し止めている「横車」の様子にも引っ掛けたのではないか、と私は解釈している。

やぶちゃん通釈:

太平楽のこの代でも

   関所を通るは難しや

  横車した棒 開けては通す 開けては通す

    押し通す 押し通す横車を 通さずば成らぬとは

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 石谷淡州の狂歌の事

 

 石谷備後守――後の淡路守――清昌殿は和歌を好む方であったが、御留守居役となって依田豊前守政次殿と同役になった。ある時、石谷殿が、

「豊前守殿は剛毅木訥なお方であったが、老いて後の筆頭の御留守居役就任故に、我儘もよく言われ、関所手形などにつきても、とかく理屈を弁じ立てては、大いに困らせられたことも多く御座った。――そんな折り、秘かに口ずさんだもので御座る……。」

 と、微笑まれて私に教えて呉れた歌。至って当世にぴったりとしており、如何にも面白いので、書き記すまで。

  治まれる代にも関路のむつかしはあけてぞ通す横車かな

 

 

*   *   *

 

 

 大陰の人因果の事

 

 信州の百姓成由、夫婦に一兩僕召過ひ相應に暮しけるが、近郷より用事ありて、二里計も脇へ至り、急雨にて甚難儀せし故、其邊にありし一ツ屋へ立寄、晴間を待けるに、奇麗成住居にて馬も繋ぎ置、年比二十斗成男たば粉呑(のみ)ながら、雨の難儀など念此に訪(と)ひいたりしが、着座しながら衣類しどけなかりしに、兩膝の間より男根の見へけるが、膝とひとしき迄に見へて驚きければ、亭主も其氣色(けしき)を悟り甚困りける樣子故、扱々珍ら敷一物かな、人事は如何いたしけるやと尋ければ、何か隱し可申(まうすべき)とて、右陽具を見せしに、最初ほの見しに増(まさ)りてあやしき迄に思ひければ、彼人答て、我等此一物故に、哀成身の上也、元來某(それがし)は此一二町脇に、見もし給ん酒商ひする者の倅也、身上も相應に暮しける故、妻妾をも貯(たくはへ)ん事なれど、いか成事にや、此陰莖人並ならざるの品故、生れて人事をしらず、金銀を費し所々配偶を求さがせども可有樣(あるべきやう)なければ、空敷(むなしく)月日を過し、責(せめ)ては煩惱を晴さんと、あれに繋ぎ置(おく)馬を我妻妾と心得、淫事の起るごとに右馬を犯し思ひを晴し、生ながら畜生道に落(おち)しと、何ぼう悲しき身の上と語りければ、百姓もあきれ果、雨も止ぬれば暇乞して歸りけるが、妻に向ひて今日かくなる所に至り、不思儀の陽物を見し事かな、汝が常に我を拙(つたな)しといひしが、かく大物も又捨(すた)り物と戲れ語りしに妻の云けるは、かゝる不思儀の片輪ある物哉、物にたとへたらんにはいかやうなりと尋しに、床に掛有し花生(はないけ)をさして、凡あの通也と語りければ、いかでさる物あらんと笑ひぬ。其日もくれ翌日も立(たち)て翌朝に成て、其妻いづちへ行けん行衞不知故、心當りの所尋けれど一向相知れざるゆへ、召仕ひの丁稚に常に代り狂氣ばししたる樣子もありやと尋ければ、外に心當りも無し、若(もし)亂心もしたまひしや、きのふ晝頃床に餝(かざ)りし花生をとりて持(もち)なやみ、膝の上へ當て拜し給ふをほのみしと語りければ、彼(かの)夫始て心付、一昨日大陰の人の物語したる折から、花生にたとへしを、婬婦の心より好ましく立出るならん、語るも恥しと、強て尋るに及ず、某心當りありと晝頃より出て、彼の大陰の人の許に至り音信(おとづれ)ければ、最初と違物靜成るが、彼の男立出て、これは此程雨舍りの人なるか、いか成用事にて參られしと尋ければ、此間雨舍(やどり)の禮に寄たり迚(とて)、四方山の咄しの上、主(あるじ)は色もあしく何か物思ひの姿成るが、何ぞかわりし事もあるやと尋ければ、さればとよ、無慘にも哀れ成る事ありて自然と面(おもて)に顯(あらはれ)しならん、先に足下(そこもと)歸り給ひし後、一兩日の後にも有けん、夜四ツ時此と思ふ頃、表を音信るゝ者あり、扉を開き見侍れば、年此四十斗成女の、旅の者なるが頻りに腹痛いたしなやみけるが一夜の宿を借し給へと申ゆへ、獨身の譯など斷りけれど頻に腹痛の由を申、達(たつ)て願ひける故、此一間に置て湯など與へ介抱いたしければ、右女聲をひそめ、其が陽物拔群のよし聞侍る、一目見せよと乞ける間、埒もなき事を申さるゝ物哉、如何して我が身の上の事知りたるやといなみければ、御身の陽物尋常ならざる事は往還の馬士(まご)又は荷持(にもち)迄もしりたる事、何か隠し給はんといへるゆへ、何となくこわけ立て、若(もし)や魔障のなす所ならんかと、暫くいなみしが、曾てあやしき者にはなし、旅の者ながら此近隣に暫し彳(たたず)みし身也と語り、其樣化生(けしやう)の者とも見へざるゆへ、いなみ難く出し見せければ、しきりに手を以て撫廻し、或は驚き或は悦び狂亂の如くなる故、頻に我も婬心を生じ、夫なき身ならば我と雲雨の交りをなさんやと尋しに、斯る陽物を受んとも思はれねど其業(わざ)なしみ給へと終に高唐夢裡(かうたうむり)の歡をなしけるに、いかなる大海にや、事なく芙蓉の影を移し何卒妻として旦夕(たんせき)契りをなさんと右女のいゝ願ひけるゆへ、我も生れて人道をしらず、始て此德人を得しと悦びけるが、朝も速(はやく)に起出てまめ/\しく働き、飼置る馬にも秣(まぐさ)などかはんといいけるを、我等かはんと申せしをも不用、厩に至り秣をかひけるが、馬に妬氣(とき)や有けん、只一はねに右女を押へ喰殺しける。我も生涯の不具因果を感じ出家せんと思ひけるなり、此事人に語(かたら)んも面(おもて)ぶせ故、裏なる空地へ右女の死骸を埋(うめ)けると、涙と共に語りしを彼百姓聞て、さながら我妻也といわんも面目なければ、哀れなる咄承る物かなと云て立別れけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:関門を「開けて通す」話から巨大な陽物を「開けて通す」話へ連関。「耳嚢」初の赤裸々な性民俗譚である。

・「訪ひいたりしが」ママ。

・「不思儀」ママ。

・「舍(やどり)」は底本のルビ。

・「足下(そこもと)」岩波版では「そつか」とルビするが、採らない。

・「夜四ツ時」午後10時頃。

・「彳みし」底本では右に「(專經關本「かかり居し」)」とある。どちらも、以前長く住んでいた、の意である。

・「化生」底本は「化粧」で、右に「(化生)」と注。補正した。

・「雲雨の交り」男女の情交(楚の懐王が、朝は雲となり夕べには雨となると称する女に夢の中で出逢い契りを結んだという宋玉の「高唐賦」に基づく)。

・「高唐夢裡」前注参照。

・「いかなる大海にや」底本は「大海」が「大開」となっているが、如何にも直接的でお洒落じゃない。何より続く「芙蓉の影」との繋がりが悪い。その観点から岩波版の「大海」を採用した。また、本件の題名の「大陰」とは私は暗にこの女の謂いも含むものでもあろうと推理している。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 巨根の人の因果の事

 

 信州のある百姓の話の由。

 ある百姓夫婦、下僕二人を召し使って、相応に豊かな暮しをしておった。

 ある時、夫は近くの村に用足しがあって出掛けたのだが、帰りがて、家からは未だ二里ばかりも離れた辺りまでやって来たところ、急な大雨に見舞われ、ひどく行き悩んだため、その附近にあった一軒家へ立ち寄り、晴れ間を待つことにしたのだが、そこは小奇麗な住居で、屋敷内には馬も繋がれており、年の頃三十ばかりの男が煙草をのみながら、百姓が受けた、この雨の難儀を頻りに慰藉など致しておったのだが、その胡坐をかいて座っている、その衣類の裾が乱れて、その両膝の間から、その男の一物が見えた。それが何と――太さも長さも膝と同じほどに見えて驚いたのだった。また、亭主の表情には、百姓が己が一物を覗き見て、驚いているらしいことに気づき、甚だ困惑している様子も見てとれた。そこで百姓は思い切って、

「……さてもさても、珍しい一物をお持ちじゃ……されど……夜の交わりの方は如何(いかが)なさっておられる?」

と訊ねたところ、

「……お気づきになられては、何の隠しようも御座らねば……」

と言いつつ、亭主は服をめくると一物を見せた――

 ――その巨大にして長大なること、先程、ちらと見た時にも増して、不気味なものとまで感じられる「もの」であった。呆然とした百姓に向かって、男は徐に語り始める――

「……私は、この一物故に、哀れなる身の上に御座る……元来、私めはこの先一、二町のところで――ここにいらしゃる途中、御覧になられませなんだか――酒商いをしておる者の息子で御座る。商いも捗り、相応の暮らし向きで、何不自由ない身の上で御座った……さて、そこで妻や妾の一つや二つと思い立ちましたが……如何なる因果か……この陰茎が人並み外れたものであります故に、未だ生まれてこの方、女との交わりというものを知りませぬ……金品を費やし、あちこちに連れ合いとなれる女を探し求めましたが、この一物に見合う女など見つかるはずもこれなく、空しく月日を過ごしておりました……が、かくなる上は、この日々募る色欲の煩悩を何としても晴らしてやる!……と、あれに繋いでおります馬を……私めの妻だ妾だと心得……淫らなる気持ちが沸き起こるごとに、あの馬を犯しては思いを晴らし……正に生きながらにして畜生道に落ちておりまする……どれだけ悲しき身の上か、お察しあれかし……」

と。

 さすがの百姓もこの話には呆れ果てた。気がつけば、雨もとっくに止んでいた。百姓は亭主へ早々に暇乞いをして家へと帰った。

 その夜、百姓は、妻に向かうと、

「今日、これこれの場所に雨宿りしたが、そこで不思議な巨根を見たんじゃ。お前は常に儂の一物を小さいと馬鹿にしよるが、あのような大物も、これまた、役立たずの不用品じゃて。」

と冗談半分に語った。すると妻は、

「そんな不思議な片輪もんなんぞ、あるもんですか。……でも、因みに物に譬えてご覧になるなら……それって……どれ位の、「もの」……でしたの?」

と訊ねたので、夫は、丁度、床の間に掛けてあった花瓶を指さし、

「そうさな。あれと太さも長さも同(おんな)じだ。」

と言ったので、妻は、

「どうして! そんなもの、あるわけ、ないわ!」

と笑った――

 ――その日も暮れ、翌日も経ち、翌々日のの朝となった。

 と、その妻、一体何処へ行ったものやら、行方知れずになったため、夫は心当りを訪ね回ったものの、一向に所在が知れぬ。困り果てた夫は、召使っていた丁稚に、

「この数日、普段と変わって、何か気が違ったかのような素振りなどなかったか?」

と訊ねたところ、丁稚は、

「……これといったことは特にありませぬ、と申し上げたいところですが……そう言えば、もしや、少しご乱心なさったのでは、と思うたことが一つ、御座いまして……昨日の昼頃のことで御座います……床の間に掛けてある花瓶を取り外し、頻りに苦しそうな御様子で……その……その花瓶を、ぎゅっと膝の上に押し当てなさっているさまを……垣間見まして御座います……。」

と語った。

 夫はそこで初めて、妻の失踪の意味を了解した。

『一昨日、巨根の男の物語した折りから、それをかの花瓶に譬えたが……あの女、淫らなる心からそれを求めて出奔致いたのであろう……いや、これは丁稚に語るも恥かしいことじゃ!』

と思い、落ち着いた風を装って、丁稚には、

「強いて探すには及ばぬ。今、思いついたが、別に、儂に心当たりがあるでの。」

と言い置き、昼頃になって家を出でて、例の巨根の男の家に至り、満を持して、戸を叩いた。

 先日、雨宿りをした時に比べると、家の内が何だかやけに森(しん)としていたが、暫くしてあの亭男が家から出て来た。

「……これは……先だっての雨宿りなさった御人(おひと)で御座ったか……さても……如何なる御用で参られた?……」

と丁重に、しかし如何にも沈んだ声で応えたので、

「いや、先日の雨宿りの御礼に立ち寄って迄で御座る。」

と、何気なく、とりとめもない話などした後、思い切って、

「……ご亭主には如何にもお顔も色が悪く……何かご心痛の体(てい)なるが……何ぞ変わったことでも御座ったか?」

と切り出した。

「……さればこそ……無惨にも哀れなる出来事が御座いました……それが、自然、面(おもて)に表われたので御座ろう……」

と、亭主は語り出す――

 

……先だって、あなた様がお帰りになってから、さても二日程たってからのことでしたか――余りの悲しさに時の移ろいも忘れ果ててしまいました――いえ、そう、昨日の夜の四つ時頃のことでしたか、家の表戸を頻りに叩く音が致しました。扉を開けて見てみますると、年の頃四十ばかりの女が、

「……旅の者なれど、頻りに腹痛致し、苦しゅう御座いますれば、どうか、一夜の宿をお貸し下さいませ……」

と申します故、私が独身(ひとりみ)であることなど申して断わったので御座るが、頻りに腹痛の向き申し訴え、たっての願いと縋る故に、この一間に寝かせ、白湯(さゆ)など与えて介抱してやりました――

 ――ところが――暫くして、腹痛などなかったようにけろりとした女は、やおら声を潜めると、あろうことか、

「……あなたさまの一物、抜群の由、聞き及びまして御座います……一目……お見せ下さいませ……」

と乞うてきたのです。勿論、私は、

「埒もないことを申される! そもそも私の身の上の、一事に附き、何故にそのようなものと思ったか!?」

と断わり質しましたところ、女は、

「……御身の一物の尋常ならざること……街道を往き来する博労や荷持ちといった下餞の者に至るまで知らぬ者とて、ない……何を今更、お隠しなさるのか!……」

と、逆に激しい口調で迫って参りました――

 ――私には、何とも言えぬ、恐ろしさが湧き上がって参りました――これは、もしや魔性のもののなす仕儀にてはあるまいかと感じ、ただひたすらに断わり続けておったのです――が――

「……私は決して怪しい者では御座いませぬ……旅の者では御座いますが……この近辺に暫く住んだことのある者に御座いまする……」

と、少し落ち着いて、優し気に語り出すその様子は、化生のものとも思われず――

 ――つい――断り切れずに一物を出して見せました――すると女は頻りに手で撫で回しては、或いは驚き、或いは喜悦の声を洩らして、狂ったようになり――その中、私めも頻りに欲の渇きが昂じて参りまして――己が一物のことも忘れ、つい――

「……あなたも夫なき身であるならば……私と……雲雨の交わりをなしては……下さらぬか……」

と申しました。女は、

「……このような一物を私が受け入れらるるものとも思はれませぬが……どうか、その雲雨の交わりを、お試みあられよ……」――

 ――そうして――終に高唐夢裡の歓びを――成しました――美事、成したのです――どのような広大無辺なありがたい海であったことか――私の、この大輪の芙蓉の花は、その姿を少しも欠くこともなく、その水面に映し出すことが出来たのです――

「……どうかあなたさまの妻としてお迎え戴き……日々の契りを致しましょう……」

とこの女が願い出ました故、私めも生れてこの方、人の女を、高唐夢裡の歓びを知らず、初めてこの美人を得た、と心より喜びました――

 ――夜が明けた――今朝のことで御座いました――

 女は、朝も早くから起き出だし、何やかやとまめまめしく働いてくれ、飼っている馬に秣(まぐさ)をやりましょう、と言うので、

「秣は私がやるよ。」

と申したのも聞き入れず、女は厩に行き、あの馬に秣をやろうとしました――

 ――馬にも――妬心というものがあるのでしょうか――

 ――ただ一跳ねに、女を床に押さえつけ――私が駆けつけた時には、既に――女を、喰い殺しておりました……

 

……私めも、持って生まれたこの不具……私めを巡る、この忌まわしい因果の法に感じ……出家を遂げる覚悟にて……このような話、人に語らんも恥なれば……哀れとは思えど、今し方……女の骸(むくろ)を……裏の空き地に埋めまして、御座る……」

と、亭主が涙ながらに語るのを聞いて、しかしながら、その女は私の妻だ、とも言えず、余りの恥かしさに、

「……哀れなる、話を、承った……」

と言ったまま、立ち別れた、ということである。

 

 

*   *   *

 

 

 羽蟻を止る呪の事

 

 羽蟻出て止ざる時、

  双六の後(おく)れの筒に打負て羽蟻はおのが負たなりけり

 右の歌を書て、フルベフルヘト、フルヘフルヘト唱、張置けば極(きはめ)て止と、與住(よずみ)氏の物語なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を認めない。岩波版カリフォルニア大学バークレー校本では巻之一の巻末に次の「燒床呪の事」と一緒に配されている。その場合は直前に「怪僧墨蹟の事」という呪的話柄が配されているので連関が生まれる。

・「呪」は「まじなひ(まじない)」と読む。

・「双六の後れの筒に打負て羽蟻はおのが負たなりけり」この双六は盤双六のことと思われ、そこで用いられる賭博用語や特殊なルールに掛けられた意味と類推するが、幾つか調べてみたものの、賭博やゲームと縁が薄い私には和歌の意味は全くの不詳、お手上げである。識者の御教授を乞う。

・「フルベフルヘト、フルヘフルヘト」底本では後者の三文字目には濁点がない。岩波版では「フルベフルヘト、フルベフルヘト」となっているが、訳では底本を尊重した(但し、御承知の通り、古語に於いては濁音の欠落は本質的な相違ではない)。底本・岩波版共に本記事には注を附していない。当初は、骸子を「振る」と関係があるかとか、カタカナ表記に引かれて梵語かポルトガル語かスペイン語か等とも考えたのであるが、その後、現役の高校三年生の教え子から「ふるべゆらゆら」という呪文を聞いたことがありますとの報告を受け、調べたところ解決した。これは日本語であり、それも、とびきり古い呪言であった。これは「先代旧事本紀」の「天孫本紀」で、神道に深く関わった物部氏のルーツ邇藝速日命(にぎはやひのみこと=饒速日命)が伝えたとされる「十種神宝」(とくさのかんだから/じっしゅしんぽう=天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ))に関連した呪文として示され、現在でも「十種大祓」(とくさおおはらい=布留部祓(ふるべのはらい))という名の祝詞として現存している。まず、「十種の神宝」は、

沖津鏡(おきつかがみ)

辺津鏡(へつかがみ)

八握剣(やつかのつるぎ)

生玉(いくたま)

死返玉(まかるかへしのたま)

足玉(たるたま)

道返玉(ちかへしのたま)

蛇比礼(おろちのひれ)

蜂比礼(はちのひれ)

品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

10 のアイテムを指す。以下、ウィキの「十種神宝」によれば、それに関わって「布瑠の言」(ふるのこと=ひふみ祓詞=ひふみ神言=十種大祓)という呪言が伝承されており、それを用いると死者を蘇生させることが出来るというのである。「先代旧事本紀」の記載には『「一二三四五六七八九十、布留部由良由良止 布留部(ひと ふた いつ なな ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮する』とあるという。更に語義を示して『この「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと』であり、また『「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す』とし、本呪言の起源として「先代旧事本紀」に饒速日命の子の宇摩志麻治命(うましまちのみこと)が十種神宝を用いて神武天皇・皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源である、と記載する。「十種大祓」の全文を以下のページ(http://www.geocities.jp/sizen_junnosuke/tokusaooharai.html:特定宗教団体に関わるHP内であり、私は勿論、無関係であるので、団体名を示さず、また、当該ページもアドレス表示にしてリンクは張らないこととした。参照させて頂くことについては深く感謝する。)に見つけた。これを参照に正字に直して、一部を推定で補正そたその祝詞全文を以下に示す(引用元を参照して直ぐ下に読みを平仮名で示したが、読みの一部や配置に私の恣意的な変更補正を加えてあるので、呪言としてお使いになる場合は、相応な識者に「正しい読み」をお聞きになることをお薦めする。私の読みでは健康のまじない――今は、そうであるらしい――の効果は、ないことは請け合う)。

 

高天原に神留り坐す 皇神等鑄顯給ふ

たかあまのはらにかみづまります すめかみたちいあらはしたまふ

十種瑞津の寶を以て 

とくさみつのたからをもちて

天照國照彦 天火明櫛玉饒速日尊に

あまてるひこ あめほあかりくしたまにぎはやひのみことに

授給事誨て曰

さづけたまふことおしへてのたまはく

汝此瑞津寶を以て 中津國に天降り

いましこのみづのたからをもちて なかつくににあまくだり

蒼生を鎭納よ

あをひとぐさをしづめおさめよ

蒼生及萬物の病疾辭阿羅婆 神寶を以て

あをひとぐさおよびよろづのもののやまひのことあらば かみたからをもちて

御倉板に鎭置て 魂魄鎭祭を爲て

みくらいたにしづめおきて みたましづめまつりをなして

瑞津寶を布留部其の神祝の詞に曰

みづのたからをふるへそのかみほぎのことばにいはく

 

甲乙 丙丁 戊己 庚辛 壬癸

きのえきのと ひのえひのと つちのえつちのと かのえかのと みづのえみづのと

一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 瓊音

ひ ふ み よ い む な や こ と にのおと

布瑠部由良由良

ふるへゆらゆら

 

如此祈所爲婆

かくいのりせば

死共更に蘇生なんと誨へ給ふ 

まかるともさらにいきなんとおしへたまふ

天神御祖御詔を稟給て

あまのかみのみおやみことのりをかけたまひて

天磐船に乘りて

あまのいはふねにのりて

河内國河上の哮峯に天降座して

かはちのくにかはかみのいかるがみねにあまくだりましまして

大和國排尾の山の麓

やまとのくにひきのやまのふもと

白庭の高庭に遷座て 鎭齋奉り給ふ

しろにはのたかにはにうつしましまして いつきまつりたまふ

號て石神大神と申奉り 代代神寶を以て

なづけていそのかみおおかみとまうしたてまつり よよかんたからをもちて

萬物の爲に布留部の神辭を以て

よろづのもののためにふるへのかんことをもちて

司と爲し給ふ故に布留御魂神と尊敬奉

つかさとなしたまふゆえにふるみたまのかみとたつとみうやまひたてまつり

皇子大連大臣其神武を以て

すめみことおおむらじおとどそのかみたけきをもつて

齋に仕奉給ふ物部の神社

いつきにつかへたてまつりたまふもののべのかみやしろ

天下萬物聚類化出大元の神寶は

あめがしたよろづのもののたぐひなりいでむおほもとのかんたからは

所謂 瀛都鏡 邊都鏡 八握生劍

いはゆる おきつかがみ へつかがみ やつかのつるぎ

生玉 死反玉 足玉 道反玉

いくたま まかるがへしのたま たるたま みちかへしのたま

蛇比禮 蜂禮 品品物比禮

おろちのひれ はちのひれ くさぐさもののひれ

更に十種神

さらにとくさのかみ

甲乙 丙丁 戊己 庚辛 壬癸

きのえきのと ひのえひのと つちのえつちのと かのえかのと みづのえみづのと

一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 瓊音

ひ ふ み よ い む な や こ と にのおと

布瑠部由良由良 と由良加之奉る事の由縁を以て

ふるへゆらゆら とゆらかしたてまつることのよしをもちて

平けく聞食せと

たひらけくきこしめせと

命長遠子孫繁榮と

いのちながくしそんしげくさかへよと

常磐堅磐に護り給ひ幸し給ひ

ときはかきはにまもりたまひさきはひしたまひ

加持奉る

かぢたてまつる

神通神妙神力加持

じんづうじんみやうしんりきかぢ

 

ここに現れた「布瑠部由良由良」(ふるへゆらゆら)が「フルヘフルヘト」のルーツと考えてよいであろう。……それにしても、古代の死者蘇生の秘文が、羽蟻を止めるまじないに成り下がったのは、ちょっと哀しい、ね……

・「與住」先の「人の精力しるしある事」にも登場した与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師。「耳嚢」には他にも「巻之五」の「奇藥ある事」や、「巻之九」の「浮腫妙藥の事」等にも登場する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 羽蟻を止めるまじないの事

 

 羽蟻が出て止まない時、

  双六の後れの筒に打負て羽蟻はおのが負たなりけり

 という歌を紙に書いて、「フルベフルヘト、フルヘフルヘト」と唱えつつ、壁に張っておけば、一発で止む、とは与住氏の談である。

 

 

*   *   *

 

 

 燒床呪の事

 

  大澤に大蛇(をろち)がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず

 右の通唱へて水をかけあらへば、極めて痛をさまると、人の物語なり。

 

□やぶちゃん注

・「燒床呪」「やけどこまじなひ」と読む。「燒床」は火傷のこと。「やけど」とは「焼け処(やけどころ)」の略であるから、それが訛って「やけどこ」となったものか。

・「大澤に大蛇がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず」の上の句は大蛇が丸焼けになって死んでいるのではあるまい。「大きな沼沢の中でオロチが負った火傷を癒していらしゃいます」であろう。その邪神の致命傷にさえ効くとする神聖なる水の霊力を、言上げによって眼前の現実の水に呼び込むものであろう。この大沢中の大蛇というヤマタノオロチ的シチュエーションには興味がある(ヤマタノオロチは洪水の象徴ともされる反面、噴火した溶岩流とする説もあり)が、不学な私にはこれ以上の分析は不能である。識者の御教授を乞う。なお、狛江市公式HPの歴史のページの「火傷の薬」に、火傷に効くまじないとして真言密教系由来もの二つを掲載している。

猿沢の池の大蛇が火傷して水なきときはアビラウンケンソワカ

いじゃらが池の大蛇が火にすべりそのともらいはタコの入道アビラウンケンソワカ

「アビラウンケンソワカ」は大日如来の真言である。

また、ネット上のQ&Aで回答者が愛知県額田郡本宿村(現在の岡崎市本宿町)に伝わるものとして、

「猿沢の池の大蛇が火傷をして、伊勢・熊野へ参詣する」と三唱して火傷の跡を吹けば痛みが去る。

というジンクスを揚げている。なお、本件は軽度の火傷には効果的である、まじないを唱えるだけの一定時間、火傷部位を清浄冷水で洗浄する有効性に加えて(二次感染の予防にもなる)、まじないの下句のプラシーボ効果も期待出来よう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 火傷のまじないの事

 

  大澤に大蛇(をろち)がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず

 右の通りのまじないを唱えて、火傷の箇所に水をかけて洗浄すると、ぴたりと痛が治まるとは、ある人の話である。

 

 

*   *   *

 

 

 蠟燭の流れを留る事

 

 風に當る所、蠟燭片口出來て流候節、小刀の先にて叶(かなふ)といへる文字を左字に三遍書き候得ば、流れ止るとある人の語り侍る。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:呪文で連関。前項注冒頭参照のこと。

・「叶といへる文字」叶姉妹のグロテスクな巨乳と共に本字が「かのう」と読むことは人口に膾炙しても、この「叶」という字が「協」と同字、その古字であることは、余り知られているとは思われない。即ち、本字は「合う。一致する。和合する。調和する。馴れ親しむ。」の意として存在した。国訓の中でこれに「希望通りになる。実行可能である。匹敵する。及ぶ。」という意味が付与された。本件は「偏頗しない」「望みがかなう」という本字の意味を用いた類感呪術の一種である。

・「左字」左右を反転させた文字のことを言うのであろう。「叶」は他の字に比して容易に書け、同時に反転させた字は存在しない文字であるため、呪言としての結界を手っ取り早く誰にでも形成出来るという訳であろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蠟燭の流れを留めるまじないの事

 

 外気の当たる所に置かれている蠟燭は、しばしば片方に口が出来て蠟が早々流れてしまい、原型を保てずに直ぐ溶け崩れてしまうことがあるが、このような際には、蠟燭の本体の小刀の先で「叶」という文字を反転させて三遍彫り込みますれば、きっと一度起こった流れもぴたりと止まりまする、とある人が語って御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 金春太夫が事

 

 今の金春より曾祖父にも當りけるや、名人の聞へありしと也。安藤霜臺など右金春が藝を見たるとの事故、古き事にも無之。此金春壯年の頃は至て任俠を好み、職分をば等閑にして常に朱鞘(しゆざや)の大小を帶し、上京の折からは嶋原の傾城町(まち)へ日々入込み、人も目を付(つけ)しくらひなるが、或時嶋原にて口論を仕出し、相手を切殺し逃歸りけるが、右の折節朱鞘を取落し歸りし故、正(まさ)しく金春が仕業と專ら評判いたしけるを聞及びて、肝太き生質(たち)なれば、朱鞘の同じ差替を差て又嶋原の曲輪(くるわ)へ立入し故、扨は切害人は金春にては無しと風説して危難を遁れしとかや。右樣の者故、職分とする所の能は三四番の外覺へざりしに、或時奧に御能有之、來る幾日は御好の能其節に至り被仰付との御沙汰故、金春大きに驚歎、鎭守の稻荷へ祈願をこめ、明日我等覺へざる御能の御沙汰有とも、曲て我覺し御能へ被仰付候樣、斷食をなして一心に祈りければ、不思議の感應にありけるや、我覺へし御能被仰出、無滯(とどこほりなく)勤けると也。夫より武藝を止て職分に精を入しかば、古今の名人と人も稱しけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を認めない。ずっと19項前にある「觀世新九部修行自然の事」の芸能者伝説で連関する。

・「金春太夫」底本の注で鈴木氏はこの本文冒頭の「今の金春」を十次郎信尹(のぶただ 天明4(1784)没)であろう、とされ、本文の主人公は、その信尹の曽祖父であった八郎元信(元禄161703)年没)であるとする。元信は『徳川初期の禅曲安照につぐ同流の上手といわれた』とある。しかし、これは直後の「安藤霜臺など右金春が藝を見たるとの事故、古き事にも無之」という叙述と矛盾する。元信は安藤の生まれる11年も前に没しているからである。岩波版の長谷川氏も注でその矛盾を指摘され、安藤が実際の演技を『見得るのは信尹前代の八郎休良(元文四年没、三十四歳)までである』と記されている。因みに休良(やすよし?)の没年元文4年は西暦1739年、安藤が20歳の1734年前後ならば、休良は29歳であり、話柄としては自然な印象ではある。もしそうだとすれば、後半に登場する将軍家は第八代将軍吉宗ということになる。しかし、金春流のサイトにもこうした過去の太夫の細かな事蹟は示されておらず、「今の金春」を「十次郎信尹」と同定し、本話主人公をその先代太夫「八郎休良」としてよいかどうかは不分明である。私は「古今の名人」と呼ばれたとある以上、この逸話自身は十次郎信尹のものであったように感じられる(八郎休良であるとするには34歳の夭折が「此金春壯年の頃は」とあるのと聊か齟齬を私は覚えるからである)。言わばそうした「金春太夫伝説」なるものが、代々同名の金春太夫を名乗る者に付随して(時系列を無視して)都市伝説化していったもののではあるまいか。なお、能楽の金春流自体は、江戸開幕後は家康が愛好した観世流に次いで第二位の地位を受けたものの、旧豊臣家との親縁関係が災いして不遇をかこった。因みに「太夫」という称号は、本来は、神道にあって主に芸能によって神事に奉仕する者に与えられたものである。後に猿楽座の座長の言いとなり、江戸時代以降は、観世・金春・宝生・金剛四座の家元を指すようになった(それが敷衍されたのが芸妓の太夫である)。古くは能のシテ役の名人に与えられる称号であった。序でに言うと、多少なりとも演劇に関わってきた私の人生の中で、かつて金春流襲名披露で見た「道成寺」――その乱拍子から斜入(しゃにゅう:体を捻って飛び込む鐘入り。)の間、私は窒息する程にずっと息をこらえずにはいられなかった――程の素晴らしい感動は、洋の東西を問わず、今後も、二度とない、と思っている。

・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。先行する「有德院樣御射留御格言の事  御仁心の事」に既出。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。

・「嶋原の傾城町」とは現在の京都市下京区に位置する花街。「島原」とも書く。正式名は西新屋敷。室町時代に足利義満によって官許された日本最初の公娼地をルーツとする。ウィキの「嶋原」によれば、『能太夫、舞太夫をルーツに持つとされる嶋原の太夫にとって「舞踊」(ここでは「歌舞伎舞踊」または「上方舞」をさす)は』最重要必須芸であったとあるから、能役者との繋がりは非常に深いと言える。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 金春太夫の事

 

 今の金春の、曾祖父にでも当たる金春であったか、世間で、ともかく名人の呼び名高い者があったという。安藤霜台殿などは、その金春の芸を実見したことがあるとのことであるから、それ程、古い話ではない。

 

 この金春、若い頃は専ら任侠気質(かたぎ)の荒っぽさを好み、継ぐべき金春の芸道なんぞ何処吹く風と、能楽修行も等閑(なおざり)のまま、常に真っ赤な鞘の大小を差して町を闊歩し、京へ上った折などは必ず、嶋原の遊郭街に日々入り浸り、京雀の噂にならぬ日がない位の、如何にも派手な暮らしぶりであった――

 ――が、ある時のこと、この金春、その嶋原でちょっとした口論が元で相手と大喧嘩となり、果てはその者を斬り殺し、周りに人無きを幸い、こっそりと宿へと逐電してしまった。

 ところが、現場から遁走する際、例のド派手な朱色の鞘を落としておったがため、もう、その日のうちに、

……「この下手人、もうほんまに金春はんの仕業やて」……

と専らの評判になってしもうた。

 ところが、それを聞き及んだ金春は――元来、肝っ玉が恐ろしくぶっとい性質(たち)なれば――何と全く同じ朱鞘を秘かに素早く仕立てさせ、それを腰に差して、これ又、一両日中(うち)に、平然と再び島原の廓(くるわ)へと繰り出した。すると、

……「さてもあの下手人、金春はんとは、ちゃいますやろ」……

との噂が立ち、辛くも危難を脱した、とかいうことである。

 

 まあ、若き日はこういったとんでもない者であったから、継ぐところの金春の能など、実は二、三番ほどしか知らぬのであった。――

 ところがある時、上様がお城にて金春の能をご上覧遊ばされることとなり、

「上様は、当日、その場にて、お好みになられる能をそちに申しつけらるれば、そう心得、用意怠りなく致すべし。」

とのお沙汰であった。

 日頃は肚の座った金春も、これには天地がひっくり返って肚も吐き出す程に吃驚仰天、普段は屁にも掛けない金春代々の鎮守の稲荷へと駆けつけ、願掛けをするに、

「……明日、私めの知りませぬお能の沙汰が下されることと、既に決しておりましたと致しましても……そこのところを、稲荷大明神様……どうか、曲げに曲げて……私の知っておりまする能を仰せつけ下さいまするよう……相願い奉りまする……」

と、何と断食までして一心に祈ったのであった。

 ――さても、これを摩訶不思議の感応なんどというのであろうか――当日、上様は、金春が僅かに覚えておった二三の内の、その一つのお能をお申し付けになられ、首尾よく舞いを勤め上げ申し上げた、とのことである。

 

 これより後、かぶいた武芸への執心をやめ、只管、芸道に精進したため、今に古今の名人と称せらるるようになった、ということである。

 

 

*   *   *

 

 

 鼻金剛の事

 

 金剛太夫の家に鼻金剛といへる面(おもて)あり。いつの事にやありけん、金剛太夫身持不埒にて、先租より傳はりし面をも失ひ、御能有之時急に面にこまりけるが、或る寺の門にありし仁王の顏をうちかき、右を面に拵へ御能相勤、其業を出(でか)しけるが、佛罰にや、金剛太夫鼻を損じけると也。右面は永く金剛家に寶としたりしが、俗家に難差置、京都何れの寺社とやらへ納置、代替りに一度づゝ右面を拜し候事の由。二度拜し候へば罪を蒙ると、彼家に申傳ふると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:能楽伝説で直連関。

・「鼻金剛」ウィキの「金剛流には、『法隆寺に仕えた猿楽座である坂戸座を源流とする流派で、坂戸孫太郎氏勝を流祖とする。六世の三郎正明から金剛を名乗る。華麗・優美な芸風から「舞金剛」、装束や面の名品を多く所蔵することから「面金剛」とも呼ばれ』、『豪快な芸風で知られた七世金剛氏正は「鼻金剛」の異名を取り、中興の祖とされる。しかし、室町から江戸期においては他流に押されて振るわず、五流の中で唯一独自の謡本を刊行することがなかった』と記す(シテ方「五流」は観世・宝生・金春・金剛・喜多)。金剛氏正(永正4(1507)年~天正4(1576)年)について、岩波版の長谷川氏の注では、『瘴気で鼻がふくれ鼻声であったのでこのように呼んだ。また『隣忠見聞禄』には、奈良の寺の不動尊の木造を打割って盗み、面に打って「調伏曾我」を演じたが鼻に腫物が出来て先が腐れ落ちたという。』とある。「瘴気」とは、熱病を起こす山川の毒気、「隣忠見聞禄」は「りんちゅうけんもんしゅう」と読み、紀州藩の能役者であった徳田隣忠(延宝7(1679)年~?)が記した随筆集、「調伏曾我」は曾我兄弟の仇討ちを材としたもので、河津三郎の子箱王丸(曾我十郎祐成の弟曾我五郎時致)の不動明王に纏わる霊験譚である。前シテは兄弟の敵工藤祐経であるが、後シテが、ここで問題となっている面を用いた箱根権現の不動明王となる(箱王丸は子方)。なお、長谷川氏は「瘴気」、発熱性疾患による鼻部の腫瘍及び鼻炎とするが、私は、彼が「身持不埒」であった(故にこそ「豪快な芸風」でもあったのであろう)ことから考えると、極めて高い確率で、潜伏期を経て晩年に発症した梅毒の第3期のゴム腫による鼻梁脱落であろうと考えられる。

・「仁王の顏」の「顏」は、底本では(「白」(上部)+「ハ」(下部))の字体であるが、通用字に改めた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 能面鼻金剛の事

 

 金剛太夫の家には鼻金剛という面が伝えられている。何れの代の出来事であったか、ある金剛太夫、身持ちが大層悪く、先祖伝来の面をも失ない、よりによってそんな折り、貴人より急なお能の申し付けこれあり、舞おうにも面がなく、困り果てていたところが、あろうことか、通りかかったとある寺の門に立っておった仁王の、その頭をたたき折って、これを急ぎ面に拵え上げると、それを以って命ぜられたお能を相勤め、美事妙技を披露致いた。じゃが――仏罰にてもあろうか――その直後に、その金剛太夫は、鼻が欠け落ちた、とか言うことである。

 さてもこの面は永く金剛家家宝として伝わっておったのじゃが、その曰因縁から、俗家(ぞっけ)にさし置くは相応しからずということと相成り、京都のとあるの寺に納め置き、その後は、代々、金剛流太夫代替わりの折りにのみ唯一度だけ、その面を拝顔致す慣わしとなっておる、との由。万一、二度拝顔致いたならば、かの金剛太夫同様、必ずや仏罰を被る、と言い伝えておる、とのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 藝は智鈍に寄らざる事

 

 今の鷺仁右衞門祖父の仁右衞門は、甚病身にて愚に相見へ、常は人と應對は物言(ものいひ)はしたなき程に有しを、其比上手と人のもてはやしける七太夫又は金春太夫抔は、唯今亂舞の職たりし内、名人と申は仁右衞門也と語りし故、心を付て見たりしが、不斷は物もろく/\不申男也。狂言に懸り御舞臺へ出れば、格別の氣取に見へしと、安藤霜臺の物がたりき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:能狂言で直連関。この三本は完全な一貫した意識で記載しているのが分かる。

・「鷺仁右衞門」「鷺」家は、鷲仁右衞門を宗家とする狂言三大流派(大蔵流・和泉流・鷲流)の一派。江戸時代、狂言は能と共に「式楽」(幕府の公式行事で演じられる芸能)であった。大蔵流と鷲流は幕府お抱えとして、また和泉流は京都・尾張・加賀を中心に勢力を保持した。但し、現在、大蔵流と和泉流は家元制度の中で維持されているが、鷲流狂言の正統は明治中期には廃絶、僅かに山口県と新潟県佐渡ヶ島、佐賀県神埼市千代田町高志(たかし)地区で素人の狂言師集団によって伝承されているのみである。岩波版の長谷川氏の注によれば、この『今の鷲仁右衞門は仁右衞門定賢(文政七年(一八二四)年没、六十四歳)、祖父は仁右衞門政之(宝暦六年(一七五六)没、五十四歳)か。』と記す。「定賢」は「さだまさ」と読むか。

・「七太夫」能役者喜多七太夫。能の喜多流は江戸初期に興った、金剛流の流れを汲む新興流派。ウィキの「喜多流」によれば、『流派の祖は徳川秀忠に愛好された喜多七太夫。七太夫は金剛太夫(金剛流の家元)弥一の養子となり金剛太夫を継承したが、弥一の実子・右京勝吉の成人後に太夫の地位を譲った。その後、徳川秀忠、徳川家光の後援を受けて元和年間に喜多流の創設を認められ、喜多流は四座の次に位置する立場となった』とある。岩波版で長谷川氏は喜多七太夫、『あるいは十太夫親能か』と注す。「栗谷能の会」HPの「『喜界島』を演じて」他幾つかの頁を読むと、ここで長谷川氏が挙げる最初の七太夫は七太夫長義(おさよし)で、七世喜多十太夫定能と八世十太夫親能との間で八世を継承する人物であったが、部屋住みのまま早生した人物で、九世喜多七太夫古能(健忘斎)の父親であると記す。同じく長谷川氏が『あるいは』とする十太夫親能は、今見た通り、喜多流八世である。因みに、ここで登場している九代目古能健忘斎は喜多流中興の祖と称せられる人物で、文政121829)年頃に没している。

・「金春太夫」「耳嚢」前々項「金春太夫が事」注参照。

・「亂舞」中世の猿楽法師の演じた舞。近世には能の演技の間に行われる仕舞に変化し、それが狂言となった。「らっぷ」とも読む。

・「氣取」そのものの気持ちになってみること、他の者の様子を真似ることを言う語。

・「安藤霜臺」「耳嚢」前々項「金春太夫が事」注参照。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芸事の達者は必ずしも知的能力に関わる訳ではない事

 

「当世の鷺仁右衛門の祖父であった仁右衛門という男は、甚だ病弱にして、失礼乍ら、如何にもぼうっとした感じに見えての――常日頃、人と応対する折りも、ちょっとした会話もままならぬ体(てい)で御座った。ところが、その頃、世間で能の名人と誉れ高かった喜多七太夫や今春太夫などは、

『只今、お能乱舞の生業(なりわい)をなす者の内、名人と申せば、やはり仁右衛門じゃ。』

と口を揃えて語る。さればこそ、その後は、儂も彼にそれとなく目を配って御座ったが、やはり普段は、ものもろくろく喋れない――いや、正直、愚鈍ではなかろうかとさえ感じる――男で御座った。ところが、いざ、狂言芝居が始まり、舞台に出た途端、これがまた、格別に役になりきり、いや、美事、役にはまりきって見えたもんじゃ……。」

とは、安藤霜台殿が私に物語った話である。

 

 

*   *   *

 

 

 微物奇術ある事

 

 日下部丹波守其昔咄しけるに、同人の庭の池に、秋の此蜻蛉多く集りて飛廻りしに、池中の鮒數十、右蜻蛉を見入たるや、くる/\と水中を右蜻蛉に付て廻りしに、後は蜻蛉も同じく廻りけるが、おのれと水中へ落入しに、數多の鮒集りて喰しといへる事を、曲淵(まがりぶち)甲州の咄也き。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:後輩の情報源安藤霜台の名を出した人の奇談を紹介したところで、先輩の情報源曲淵景漸をも紹介がてら、やはり生き物の奇談で連関。

・「日下部丹波守」日下部博貞(ひろさだ 明暦4・万治元(1658)年~享保131728)年又は享保191734)年)。大坂城勤番・長崎奉行(享保2(1717)年~享保121727)年)を歴任。赤穂事件では受城目付に命ぜられたが、浅野長矩と遠縁とのことで辞退している。

・「曲淵甲州」曲淵甲斐守景漸(かげつぐ 享保101725)年~寛政121800)年)のこと。以下、ウィキの「曲淵景漸」によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』で、『1743年、兄・景福の死去に伴い家督を継承、1748年に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進、1765年、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。1769年に江戸北町奉行に就任し、役十八年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力』、『1786年に天明の大飢饉が原因で江戸に大規模な打ちこわしが起こり、景漸はこの折町人達への対処に失態があったとされ、これを咎められ翌年奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。松平定信が老中に就任すると勘定奉行として抜擢され、定信失脚後まで務めたが、1796年、72歳の時致仕を願い出て翌年辞任した』。天明の大飢饉の際に『町人との問答中に「米がなければ犬を食え」と発言し、この舌禍が打ちこわしを誘発するなど失態もあったが、根岸鎭衞と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった』とある。この注のために誰かが書いてくれたかのような、美事な末尾である。根岸の先輩である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 たかが鮒にも奇術のある事

 

「日下部丹波守博貞殿が、その昔、語ったという話――同人の屋敷の庭の池に、秋の頃おい、蜻蛉が沢山集まって飛び回っておったのだが、眺めておると、池の鮒が数十尾の鮒が、水面近く浮き出でて蜻蛉を凝っと見つめておる……見つめておると思うたら、急に鮒どもが……くるくる……くるくると、水中で、宙を飛ぶ蜻蛉に合わせて回り始めた……いや、よく見れば、今度はその鮒の動きに合わせて……蜻蛉も同じように、くるくる……くるくると回っておったところが……見る間に、次から次へと自然、水中に落入ってゆく……そうして、落ちたかと思うたら……数多の鮒が群がって……それを貪り食ってしもうた、そうな。」

とのこと。これは私が曲淵甲斐守景漸殿から聞いた話である。 

 

 

*   *   *

 

 

 怨念無之共極がたき事

 

 聖堂の儒生にて今は高松家へ勤任(ごんし)しけるが、苗字は忘れたり、佐助といへる者、壯年の頃深川邊へ講釋に行て歸る時、日も黄昏(たそがれ)に及びし故、其家に歸らんも路遠しと、中町の茶屋へ泊り妓女を揚て遊ける。【此中町土橋は妓女多き青樓のよし。】夜深(よふけ)に及び、二階下にて頻りに念佛など申けるに、階子(はしご)を上る音聞へしが、佐助が臥しゝ座敷の障子外を通る者あり。頻に恐ろしく成て、障子の透間より覗き見れば、髮ふり亂したる女の兩手を血に染て通りけるが、絶入程恐ろしく、やがて※(よぎ)引かむり臥し、物音靜りし故ひとつに臥たりし妓女に、かゝる事のありしと語りければ、さればとよ、此家のあるじは其昔夜發(やほつ)の親方をなし、大勢かゝへ置し内、壹人の夜發病身にて一日勤ては十日も臥りけるを、親方憤り度々折艦を加へけるが、妻は少し慈悲心もありしや、右折鑑の度々彼は病身の譯を言て宥しに、或時夫殊外憤り右夜發を打擲しけるを、例の通女房とりさへ宥めけるを、彌々憤りて脇差を拔て其妻に切かけしを、右夜發兩手にて白刃をとらへさゝへける故、手の指不殘切れ落て、其後右疵にてはかなく成しが、今に右亡靈、夜々に出てあの通り也。かゝる故に客も日々に疎く候と咄しけるが、夜明て暇乞歸りし由。其後幾程もなく右茶屋の前を通りしに、跡絶て今は家居も見へずと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:奇談で連関。記念すべき「耳嚢」最初の怪異譚の登場である。

・「聖堂」湯島聖堂。本来は、元禄3(1690)年に上野の忍が岡(現・上野恩賜公園)にあった林羅山邸の孔子廟を移築、第五代将軍徳川綱吉から「大成殿」の称を授けられた建物を指す。ここは林派の儒学を私的に教える場であったが、根岸の晩年に当る寛政9(1797)年には幕府の官立学校として昌平坂学問所=昌平黌(しょうへいこう)となった。学問所となってから、そうした付属建物全体「聖堂」と呼ぶようになった。現在の文京区湯島一丁目(御茶ノ水駅の聖橋を渡った右手の森の中)(以上はウィキの「湯島聖堂」によった。前掲「長尾全庵が家起立の事」で引用した「林大學頭」(林鳳岡)の中での湯島聖堂の記載内容(ウィキの「林鳳岡」による)と有意に異なる記述部分があるが、敢えてそのままとしておく。正確な知識をお求めの方は自律的にお調べあれ)。

・「儒生」儒学を学ぶ学生。

・「高松家」讃岐高松松平家。初代水戸頼房の長男頼重を祖とする。

・「講釋」深川辺りの武家の青少年に出張講義をしに行っていたのであろう。

・「中町」深川門前仲町のこと。現在の江東区門前仲町、富岡八幡宮の南の門前町で岡場所(吉原以外の非公式遊廓)であった。深川には岡場所が多く、深川七場所(仲町・新地・櫓下・裾継・石場・佃・土橋)と呼んだが、その中でも最も高級とされたのが仲町で、特に深川芸者(辰巳芸者)の名で知られた。

・「茶屋へ泊り妓女を揚て遊ける」岩波版の長谷川氏の「仲町」の注に、『子供屋より女を茶屋に呼んで遊ぶ』とある。「子供屋」については、以下にウィキの「子供屋」の記載を一部引用しておく。『深川の娼婦には、娼家にいて客の来るのを待つ伏玉(ふせだま)と、出先の茶屋からの迎えを受けて派出する呼出しの2種類あった。後者は、その所属する子供屋に寄宿していた。子供屋と出先の茶屋との関係は、一時期の吉原における置屋と揚屋の関係と同じであり、子供屋は娼婦を寄宿させるのみであり、ここに客を迎えることはない。呼出しは茶屋と子供屋との往復に軽子(かるこ)という下女の送迎を受けた。軽子は呼出しが茶屋に行くときに、夜具包を背負ってこれに従った』。なお、そもそも妓女そのものを「こども」と呼んだ。

・「【此中町土橋は妓女多き青樓のよし。】」「この仲町及び土橋は評判の芸妓の多い遊廓であるという。」という割注。訳文では省略した。

・「土橋」岡場所。仲町の東に隣接した東仲町にあった。前注参照。

・「※(よぎ)」=「(ころもへん)+「廣」。岩波版で長谷川氏は「綿」を意味する「纊」という字と、小夜着(こよぎ:袖や襟のついた小形の掛け布団)を意味する「*」[やぶちゃん注:「*」=「衤」+「黄」(旧字体)]の字を混同した誤字であろう、とされるが、これらは余りにもレアな漢字であると思う。私はもっと単純に、夜着・布団の意味を持つ「被」の誤字ではないかと思う。

○妓女の話について:本話は殆んどが間接過去の「けり」を用いた伝聞過去として語れており、この妓は死んだ夜発の件の出来事を実見しているわけでは、勿論、ない。しかし、上質の怪談である本話を、そのホラー性を十全に出した現代語訳にしようとする場合、ここを伝聞にしてしまうのは如何にも雰囲気を殺ぐことになる、と私は思う。従って、私の現代語訳では、この妓女が直接見知っている事実として、確信犯で訳した。古典教材としてお読みになる場合は、その点にご注意戴きたい。

・「夜發」夜に路傍で客を引いた最下級に属する売春婦。夜鷹・辻君・総嫁(そうか)と同じ。

・「跡絶て今は家居も見へずと也」つまらないことであるが、ここの部分、やや分からない。「今は」は「其後幾程もなく右茶屋の前を通りしに」の時間と同じ時間を指し、「数日を経て通ってみたところ、茶屋は跡形もなくなっていていた、とのことである」というシンプルな意味にもとれるが、そうすると「今は……見へず」の現在時制表現が死んでしまう気がする。私はこの「今」を、この話を根岸が聴いた(若しくは書き記した)時点での「今」ととって訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 死者の怨念というものが存在しないとは言い切れぬ事

 

 もと聖堂の儒学生、今は高松家に伺候している者で、名字は忘れたが、佐助という者がおる。

 若い頃、深川辺に出張講義に行き、さて帰ろうとしたところが、はや陽も黄昏となっておった故に、自分の家に帰ろうにも最早遅しと、仲町の茶屋へ泊まり、芸妓を揚げて遊んだ。その夜更けのこと――

――佐助の寝ていたのは二階であったが、その階下でこんな時刻に頻りに念仏を唱える声が聞こえてくるのに、彼は眼を醒ました――と

――ぎしっ――ぎしっ――

と、誰(たれ)かが階段を登って来る音が聞こえた。

 佐助の座敷は階段の上がった直ぐの部屋であったが、その廊下向きの障子の外を、確かに誰か、通る者がある。

 深夜の念仏といい、曰言いがたい不気味な足音といい、佐助は何やらひどく恐ろしくなって、そっと障子の隙間から、廊下を覗いて見た……

――ぎしっ――ぎしっ――

と……暗い廊下、そこを……髪を振り乱した女が……両の手を真紅の血に染めたままに……通ってゆく……

 佐助は気絶せんばかりに恐ろしく、矢庭に夜着を引っかぶってうつ伏しになると、小刻みに震えながら、ぎゅっと眼を瞑ったまま、ただただ凝っとしていた。

――ぎしっ……きしっ……

……やがて、廊下の足音がしなくなり、いつか念仏の声も途絶えて静かな夜となっていた。

 そこで佐助は、がばと起き直るや、添い寝している妓女を揺り起こし、今、こんなことがあったんだ! と咳き込むように話したところが、妓女は眠そうな表情にせせら笑いさえ浮かべ、事もなげに、

「あ、はん……あ、れ、ね……この茶屋の主ってえのはね、その昔、夜発の親方をしてたんさ……そりゃもう、たんと女を抱え込んでたもんさ……そん中の一人の夜発がさ、いたく病弱な子でね、一日勤めちゃ、十日臥せるって按配な訳さ……気の短い親方は、怒って何度も何度もその子に折檻加えてた……そんな親方だったけど、その奥さんてぇお人は、親方と違ってちっとばかりお慈悲の心があったもんか……親方が折檻するたんびに、『この子は病身ですから』って言っちゃあ、親方をなだめてたっけ……そんなある時んこと、親方の機嫌がそりゃもう最悪でさ、その夜発の子を拳固で、ぼっこぼっこ殴り始めたんだ……いつもん通り、奥さんがその手をとりおさえて、なだめたんだけど……その日に限って、親方、ますます怒り狂ちまって……腰の脇差を抜くと、あろうことか、その奥さんに斬りかかった……思わず、殴られてた夜発の子は、両手でその白刃を摑んで止めたんさ……もちろん……両の手の指は、残らず、ぽろぽろって切れ落ちたさ……。……そのあと、その子は、その傷が元で、死んじまった……。……死んじまったけど……けど、今もその亡霊が、夜ごと、ああして出てくるって、わけ……。こんなんだからさ、客足も日に日に遠のいちまうばっかなんよ……」

と、語ったとのことである。

 佐助が夜が明けるのを待ちかねてお愛想するや、早々に茶屋を去ったのは言うまでもない。その後(のち)、幾日も経ぬうちに、佐助はその茶屋のあった辺りを通りかかったのだが、既に空き家となっていた――もう今は、家屋もすっかり取り壊されて、その跡を訪ねることも出来なくなっている、とのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 金精神の事

 

 津輕の豪士の語りけるは、津輕の道中にカナマラ大明神とて、黑銅にて拵へたる陽物を崇敬し、神體と尊みける所あり。いかなる譯やと尋問ければ、古老答て、いにしへ此所に壹人の長ありしが、夫婦の中にひとりの娘を持、成長に隨ひ容顏美麗にして風姿艷なる事類ひなし。父母の寵愛斜ならず、近隣の少年爭ひて幣(へい)を入、妻にせん事を乞ひ求めけるが、外に男子もなければ聟を撰て入けるが、いか成故にや、婚姻整ひ侍る夜即死しけり。夫よりあれこれと聟を入けるに、或ひは即死し又は逃歸りて、閨園空しくのみなりし故、父母共に驚き大方ならず。娘に譯を尋れば、交りの節或は即死し又は怖恐れて逃歸りぬれど、我も其譯知らずと人して答へければ、父母も因果を感じて歎き暮しけるが、逃歸りし男に聞し者の語りけるは、右女の陰中に鬼牙ありて、或は疵を蒙り又は男根を喰切りしといふ。此事追々沙汰有ければ、娘もいぷせき事に思ひける。或男此事を聞て、我聟にならんとて、黑銅にて陽物を拵へ、婚姻の夜閏に入て交りの折から、右黑銅を陰中に入れしに、例の如く霧雨に乘じ右黒銅物に喰つきしに、牙悉く碎散て不殘拔けるゆへ、其後は尋常の女と成りし由。右黑銅の男根を神といわひて、今に崇敬せしと語りけり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:奇談で連関。直接は9項前のスキャンダラスな性民俗譚「大陰の人因果の事」を受けるものと言える。

・「金精神」「こんせいしん」と読む。木製・金属製の男性の陽物(リンガ)の形をした御神体を祀古いる性器信仰の一つ。以下、ウィキの「金精神」によれば、全国的に見られるが、特に東日本の東北から関東地方にかけて多くみられ、その起源は『豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされている。子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。祈願者は石や木や金属製の御神体(男根)と同じものを奉納して祈願する』とある、また、『金精神を祀る神社としては、金属製の男根を御神体としていた岩手県盛岡市巻堀の巻堀神社や、巨根として知られる道鏡の男根を御神体として祀ったのが始まりとされる栃木県日光市と群馬県利根郡片品村との境の金精峠に鎮座する金精神社などが有名で』、更に『古来より温泉は女陰であるとされていることから、温泉が枯れずに湧き続けるように男根である金精神を祀っているという温泉も多い。金精神を祀っている温泉としては、岩手県花巻市の大沢温泉や秋田県鹿角市の蒸ノ湯温泉などが知られ』る、と記す。この岩手県盛岡市玉山区巻堀字本宮にある巻堀神社なるものが、この話のモデルとしては相応しい気がする。高倉伽月氏のブログ「クモノカケラ」の「巻堀神社」によれば、この神社は長禄3(1459)年に創立されたと伝えられ、古くは南部金精大明神と呼ばれていた。御神体は高さ約60㎝の金色の金属製金勢大明神で、古来より縁結び・子宝・安産の神様として信仰されており、境内には至るところに金勢様が祀られている(但し、御神体は宮司の自宅にあり、本社にはないとある。リンク先に境内の写真有)。また、本祠を東北地方の金精信仰のルーツとする説もある。……ただ、これが本話のモデルとすると……やや、デカ過ぎる……(但し、旧社は慶応2(1866)年に焼失したとあるので、現在の御神体が本話柄当時のものとは思われない)。但し、底本で鈴木氏は『津軽のそれでは、東津軽郡平内町狩場沢の金精様が有名で、懐妊を祈願する』とある。

・「黑銅」黒銅鉱という銅酸化鉱物があるが、ここは単に黒光りした銅製の意であろう。

・「幣を入」贈物をすること。結納を結ばんとするための進物を送ること。

・「閨園」底本には「(閨縁カ)」という右注が附くが採らない。岩波版では「閨闥」(けいたつ)とあり、「夫人のねや。」と注する。しかし、私には(このような熟語は未見であるが)素直に意味が分かる。「園」という字は、ある特定の場所・地域を指す接尾語でもあるから、特に違和感はないのである。いや、まさに文字通り、夫婦の「愛の園」である所の「閨」(ねや)の意でよいではないか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 金摩羅大明神の事

 

 津軽弘前藩のさる武家が語ったこと――津軽帰藩の道中に、金摩羅大明神と称し、黒光りした、銅で拵えた陽物を崇め奉り、御神体と尊(たっと)んでおる場所がある。どういう謂われがあるのかと訊ねてみたところ、土地の古老が答えて、

「――昔、この地に一人の長者がおったが、その夫婦には一人娘が御座って、成長するに従い、見目麗しく、その風姿の上品な艶っぽさと言うたら、比ぶるものとてない。夫婦の寵愛も一方ならず、また、近在の若者も、数多(あまた)競って進物を送り、是非とも我が妻にと請い求めたのじゃった。夫妻には息子もおらんかったから、沢山の求婚者の中から選り取り見取りで婿を選んで、目出度く婿入りとはなった――じゃが、一体、何が起こったものやら――婚礼の儀式を致いた、まさに、その晩のこと――婿は――ぽっくり――いってもうたんじゃ――それからというもの、さても何人も何人も婿入り致いたのじゃが――悉く――その、まさに初夜の晩――ある者(もん)は、同じようにいてまい、また、ある者は実家へ逃げ帰る――愛の園となるべきその閨は、空しく娘独りきり――父母の驚き嘆きも一方ならず――思い余って娘に訳を尋ねてみるも、

『……あの、交わりの折り……あるお方は俄かにお亡くなりになり、または何やら……ひどく懼れ戦いて、逃げ帰ってしまわれます……が、私も……何故かは存じませぬ……』

という答え。父母はこれも因果の法によるものかと、嘆き暮らしておった――じゃが、逃げ帰った男に聴いたという者の話によると、実は、

『……あの女の火登(ほと)の内には……鋭く尖った犬歯のような牙が……両側にずらりと生えておっての……あの、折りには……一物にひどい疵を受けるか……でなければ、男根を丸ごと喰い千切っちまうんじゃ……』

とのことであった。あっという間にこれが噂となって、娘自身の耳にも入り、もはや誰(たれ)とも添い遂げられぬと悲嘆に暮れるばかりじゃった。

 ところが、ある男がこの噂を聞きつけて、

『私が婿になろう。』

と名乗りを挙げよった。親は勿論、ありがたくは思うて受けはしたものの、あの折りにはまたしても……と思うと喜びも半ばじゃった――しかし、その男は事前に黒く硬い銅を以って陽物を拵えると、さても婚礼の夜、閨に入り、交わらんとする、まさにその折り――手にしたその黒い銅造りの張形を娘の火登にぐいと挿し入れたところが――いつものまぐわいと同様に――ガッ!――とかの一物に喰いついた――ところが――それらの牙はすっかり砕け散って残らず抜け落ちてしもうた――故に、その後(のち)は普通の女となった、ということじゃ。……爾来、この黒い銅造りの男根を神と言祝ぎ、今に崇め奉って、おる……」

と語った、ということである。

 

*   *   *

 

 陽物を祭り冨を得る事

 

 或商人西國へ行とて、中國路の旅泊にて、妓女を相手として酒抔呑みけるが、夜中と思ふ頃、彼のはたごやの亭主片陰なる神棚やうなる所に至り、燈明を燈し神酒(みき)を捧げて一心に祈るやうなれば、倶に臥したる妓女に其譯を咄して、何を祈ると尋れば、さればとよ、あれはおかしき神也、此家の主じ元は甚貧しく朝夕の煙もたヘだへ成しが、或時途中にて石にて拵えへたる男根を拾ひ歸りしが、男根は陽氣第一の物にて目出度(めでたき)ためし也(や)といゝし由、夫より朝夕右男根を祈り渇仰してけるが、日増に富貴と成て、今は旗籠屋をいたし、我ごときの妓女も百人に餘る程也と語りければ、可笑しき事に思ひて臥たりしが、夜明前に眼覺て風與(ふと)思ひけるは、右の神體を盜取らば、我又富貴ならんと伺ひけるに、下も寢鎭り相ともなふ妓女も臥しける故、潛に右の神棚を搜、かの男根を奪ひ隱し、知らぬふりして翌朝暇を告て歸りしに、實(げに)右神のしるしにや、日ましに身上(しんしよう)殊の外宜(よろしく)、富貴に成しとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:性民俗の陽物奇談で連関。

・「陽物を祭り冨を得る事」前掲「金精神の事」の「金精神」の注を参照されたいが、金精神は古くから遊郭や旅宿に、通常、神棚と別に縁起棚と称した神棚に似たもので祀られた。遊廓の場合は、まさにそのものズバリの「商売繁盛」を願ったわけである。

・「西国」近畿から以西を言うが、この場合は九州を指している。

・「夜中と思ふ頃、……」このシーン、男が階下に下り、主人の行動を実見しているのであるが、本文はその辺りがうまく説明出来ていない。そこで現代語訳では便所に起きたという設定を恣意的に設けた。

・「神棚やうなる所」前注で言った縁起棚である。

・「たヘだへ」は底本では踊り字「/\」の濁点附きであるが、正字に直した。

・「ためし也といゝし由」の「いゝし」はママ。底本ではこの部分の右側に『(尊經閣本「ためし也迚』とある。「迚」は「とて」。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 陽物を祀り富を得る事

 

 ある商人が西国へ向かう途次、泊った山陽道の旅籠(はたご)で、妓女を相手にして酒を飲んだりし、さても雲雨の交わりと相成った……後に、とろとろと眠って、丁度真夜中かと思う頃おい、手水(ちょうず)の帰り、階下の部屋をふと覗くと、その旅籠屋の亭主が家の片隅に設けた神棚のようなものの下に参り、お灯明を点し、お神酒を捧げて、何やらん、一心に祈っている様子――一男が部屋に戻ったその音に、添い寝していた妓が眼を醒ましたのに、今し方見たことを告げて、

「ありゃ、何の神様を祈っとるんや?」

と訊いた。すると妓女はにっと笑って、

「……ああ、あれね。あれはね、おかしな神さまでね……この家(や)の主人は、もとはそりゃひどく貧乏でさ、朝夕の飯の炊く煙りも途絶えがちって言うざまだったんよ……ところがね、ある時、道端に誰かが石で拵えたらしい男の一物が落ちててさ、そいつを拾って帰っきたんさ……おっさん、『こいつぁ、陽の気、第一や! 目出たいお印やがな!」とか言っちゃって……それから毎日、朝晩、その一物にさ、お祈りしてさ、仏さまを崇めるように奉ちゃってるわけ……でも、そしたらさ、ほんとに日増しにふところぐあいが良くなってさ……あっという間に大金持ち!……今じゃ、この旅籠を生業(なりわい)にして、あたいみたいな遊び女(め)も百人に余るほど抱えてるって、わけ!……」

と話した。男は、けったない話やな、と思ったぎり、また寝込んだ。

 ――それから数刻の後(のち)である。夜明け前に目を覚した男は、ふと考えた。

『……あのご神体、盗みよれば、俺も大金持ちになれるやも知れんて……』

 男は――暫くの間、凝っとして伺ってみる――階下はしんとして寝静まり、隣の妓も静かな寝息を立てている――男はそうっと起き出すと、階下に下り、密かにあの神棚の奥を手探りして、例の一物を奪い取ると、おのれの荷物の中に押し隠した上、そ知らぬ振りで、翌朝、亭主に別れを告げると、旅籠を出たのであった。

 誠(まっこと)――その御神体の効験ででもあろうか――日増しに男の商売はうまく行き、財物いや栄えに栄えて、美事大金持ちと相成った、とか言うことである。

 

*   *   *

 

 

 山事の手段は人の非に乘ずる事

 

 近き比の事とや、上總邊一寺の住職、公事(くじ)にて江戸表へ出けるが、破戒無慙(むざん)の惡僧にて、新吉原へ入込、金銀を遣ひ捨いかんともすべきやうなく、一旦在所へ歸りて旦中へ公事入用の由僞り、金銀才覺し或は什物(じふもつ)を質入して、金子貳三百兩持て猶江戸表へ出しが、又々傾城に打込、金子も遣ひ果し、詮方なく馬道(うまみち)の邊にて借屋をかり、右傾城の殘る年季を亡八(くつわ)へ渡して、金子少し差出し曲輪(くるわ)を出し妻となして一ケ月程暮しけるが、町内若者の伊勢講中間(なかま)へ入て、今年伊勢への代參に參り侯樣申けるを、品々辭退しけるが兎角可參旨故いなみ難く、初尾路銀などを請取て妻にかくと語りければ、留守の事はいかやうにもいたし可置儘、迷惑ながら行給へと答ふ。跡の事抔念頃に申置伊勢へ旅立ける。無程參宮共濟て立歸り見れば、我住し店(たな)にはあき店の札を張て女房の行衞も不知(しれず)。こはいかにと家主へ尋ければ、是はいかなる事ぞや、御身は出奔の由、町内へも女房より申斷(まうしことはり)、我等も其(それ)斷故、公儀へも訴、店受(たなうけ)何某(なにがし)へ妻并家財は引渡(ひきわたせし)旨に付、扨は女房勤の内より外に男ありてかくなしけると、頻に憤りて店受を尋しに、是又行衞しれざればいかにせん方もなく、空腹に成し故、田町の正直蕎麥へ立寄て蕎麥抔給(たべ)て、迚(とて)も疵持(もつ)足なれば、此上いづちへ行ん、入水して身を果しなん心躰(しんてい)爰に極りし折から、同じく蕎麥を喰居(くひゐ)たりし醫者樣の男、蕎麥やの下女を呼て、向ふに居たる男は身命今日に極りし相(さう)有と語りけるを、右女聞て、いか成事や仕出さん早くも歸れかしと心にて、何となく御身は甚不快に相見へ、色もあしく、あれに居給ふ人の申さるゝにも、御命甚危き由申され候間、早く歸りて養生なし給へと申ければ、彼男大に驚き、右醫師樣のおのこに申けるは、偖々御身は不思議の相人(さうにん)かな、成程我等かゝる譯にて身命を捨んと覺悟をいたせし事也と申ければ、只今捨ん命を何卒助りて世を渡る心ありやと申ければ、只今は何しに我も捨身(しやしん)を好むべきと答ふ。然らば我等方へ來り給へと、夫より並木邊彼醫師の宅へ召つれ、下男同樣にいたし置、或時申けるは、汝が妻の行衞尋たきや、左あらば某が思案ありとて、淺黄頭巾に伊達羽織を拵へ飴賣に仕立、元來出家なれば哥念佛を教へて、是を以江戸中賣歩行(あるけ)ば、定めて右女房を見出さざる事あるまじと申故、右の如くいたし歩行(あるき)けるが、

  此飴賣は安永酉年の夏頃より翌成年迄専ら御府内を賣歩行き流行せ
  し也。其樣浅黄頭巾に袖なし羽織を着し、日傘に赤き切れを下げ、
  鉦を打ならし唄をうたひ歩行し也。其歌當時の役者或ひは世の中の
  事など聲おかしく唄ひける。文句色々ありといへども、其ひとつ二
  ツは覺しまゝにしるす。

  扱當世の立物は、仲藏幸四郎半四郎、かわいの/\結綿や、御家の
  目玉はこわいだ、なまいだこわいだぶつ

 或時麻布六本木にて我女房むかひの酒屋より出て外の家へ入り、又酒屋へ立歸りけるを見て早々宿に歸り、彼醫者に語りければ、さらば女房を取歸し候仕方もあるべしとて、日数十日程も過て、右醫者、今日こそ取計かたありとて右の者を供に連、糀町邊の裏屋にて格子作りの所の親分ともいふべき方に至り、何か對談しければ、大方此間の事も取極りたり、今日彼方へ罷越候べしと申ければ、心得し由右醫者念頃に挨拶して、麻布六本木彼酒屋の最寄に至り、商屋の鄽(みせ)を借りて、汝は少しの内爰に居るべし、押付(おつつけ)呼候はゞ早々來るべしといひて、彼醫師は酒屋に至り、居酒し給ふやは知らね共少々酒を給(たべ)度(たき)由申ければ、居酒はいたし不申由を申けるが、念頃に述て南鐐銀(なんれうぎん)一枚與へければ酒を出し、女房やうのもの酒を持出て酌などいたしける。彼醫師申けるは、御内儀に逢せ侯者ありとて呼ける時、女房驚き立入らんとせし袖をとらへ、右家來に向ひ、此女中にてあるべしと言しかば、成程無相違由を申ける故、女房も大に赤面したる躰にて勝手へ入ければ、彼是相應の禮を其夫へ對し取繕申越て歸りけるが、その二三日過て椛町の男両三人連にて罷越、扨々働き六本木の身上(しんしやう)を振(ふる)ひ、漸(やうやう)金子百兩調達せしと申ければ、右醫師金子を受取り、此間の骨折賃也とて貳拾兩椛町の者へ差遣、扨旦那寺を招き、急度(きつ)したる料理にて終日振舞などいたしける儘、此上いかゞいたし候やと彼男も思ひ居ければ、膳もとれ酒も濟て、扨彼男を呼出し旦那寺へ引合(ひきあはせ)、此者はかく/\の譯にて死んとせしを、助けたる者也。此度御弟子にいたし元の出家と致度間、今日剃髮なさしめ給へとて、湯よ髮剃よといひける故、彼男大きに驚き、我等一旦出家を落ちたる身の、いかなれば又出家すべき、女房も不取戻(とりもどさず)、今出家せよとはいかにと申ければ、さればとよ、汝出家を落(おち)、在家を欺きし科(とが)まぬかれん樣なし。一旦死を遁れしは莫大の恩に非(あらず)や。今又出家になれば少しは罪を助る道理也とて、難なく出家させ、扨此度汝が女房を奪取たる者より誤(あやまり)の申譯に金子差出し候へ共、此間右に付段々骨折し者へ差遣し、此度御寺へも金子廿兩差遣間、彼が罪障消滅をなし給はるべし、汝にも金子拾兩遣間得度(とくど)の入用ともすべし、残りは汝が食料(くひれう)其外入用に此方に留置也と申ける。右醫師はおそろしきしれもの也。かの再び出家せし男は、今は花川戸邊に徘徊して托鉢いたし居候となり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ソフトな性民俗の奇談で連関するが、その詐術の類似から、遠く27項前の「惡敷戲れ致間敷事 惡事に頓智の事。」を受けると言ってよい。

・「山事」本来は森林や鉱山などの売り買いに関わることを言い、そこでは危険な賭けや怪しげな取引があるところから、投機的な事業や仕事のことを言うようになった。ここでは、そこから犯罪の意となった詐欺の謂いである。そうしたもろもろの「山事」を行うの者を「山師」と呼ぶのである。

・「公事」現在で言う民事訴訟。その審理や裁判をも含めて言う語。

・「旦中」岩波版では『旦那中』とある。旦那達。寺の檀家連中。

・「馬道」浅草寺の北東部を南北に走る通り。浅草から昔の吉原土手に向う馬道町のこと。現在は浅草2丁目及び花川戸1~2丁目に跨る馬道商店街となっている(一説には新吉原の客が馬で通った道に由来するとも言う)。

・「亡八(くつわ)」読みは底本にある。仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者若しくは八徳を忘れさせてしまうほど誘惑に満ちたものの意から、遊廓で遊ぶこと、その人、更には、女郎屋や差配する置屋、そうした屋の主人をも指した。「くつわ」という当て読みは、女郎屋やその主人を指す語。「くつわ」は「轡」で馬に手綱をつけるため口に嚙ませる金具で、主人を特定する意なら、遊女の束ねからの謂いであろうか。曲輪(くるわ:遊廓を堀や塀で囲ったことに由来)の転訛のようにも見える。

・「伊勢講」伊勢参宮を目的とした講(寺社への参詣・寄進を主目的に構成された地域の信者の互助団体。旅費を積み立て、籤で選んだ代表が交代で参詣出来るシステムをとった)。中世末から近世にかけて大山講(現神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社)や富士講と共に盛んに行われた。

・「初尾」初穂料。本来はその年最初に収穫し、神仏や権力者に差し出した穀物等の農作物を言う。後、その代わりとなる賽銭や金銭を言うようになる。

・「店受」近世、借家を借り受ける際の身元保証書の保証人に立つこと。または、その保証人を指す。店請。

・「田町の正直蕎麥」底本及び岩波版長谷川氏注釈によれば、「田町」は『新吉原の東方、日本堤の南浅草田町一・二丁目があった』(長谷川)が、「正直蕎麥」はここではなく、『浅草の北馬道町にあった蕎麦屋』(長谷川)で、『勘右衛門の蕎麦の名でも知られ』(鈴木)、先祖が『浅草境内に葦簀張りの店を出し、黒椀に生蕎麦を盛って戸板の上で売ったのが、安価で盛りがよいところから正直蕎麦の名をとって繁盛し、後に北馬道町の町屋に店を持った。寛保三年から、あく抜蕎麦を始め、文政八年当時は七代目であった』(鈴木)。岩波版注では、この田町は主人公の男の住んでいた馬道町の『すぐ北に当るので田町と誤った』(長谷川)、とする(寛保3年は西暦1746年で、筆者根岸鎭衞の生年は元文2(1737)年であるから、この男がたぐっているのは「あく抜蕎麦」なる新商品である)。但し、鈴木氏の注の文政8(1824)年『当時』という表現は誤解を生む。文政8(1824)年『当時』では筆者根岸鎭衞はとっくに死んでいる(筆者の没年は文化121815)年)し、本件記事について、正に鈴木氏の「耳嚢」著述年代推定によれば、この記事の下限は天明2(1782)年の春迄で、更に後に出てくる作中の飴売りの風俗が、その本文注(根岸自身によるもの)安永6(1777)年から翌年にかけての流行と書かれるのであってみれば、文政8(1824)年『当時』よりも有に4647年から42年も前のことであるから、これは六代目であった可能性も示唆せねばなるまい。なお、徹底的に登場人物が騙し騙される本件にあって確信犯的に登場する「正直」という屋号であり、面白い仕掛けであると私は思う。訳では正しく「北馬道にある正直蕎麦」と補正して訳した。

・「給(たべ)て」のルビは底本にある。

・「心躰」底本には右に「(心底)」と注する。

・「いか成事や仕出さん早くも歸れかしと心にて」底本では末尾「と心」に右に「(の脱カ)」と注する。「いか成事や仕出さん早くも歸れかしとの心にて」。この医師は住居が並木町でもあり、正直蕎麦の常連であったのであろう。幾ら下女でも、医師風とは言え、初対面の客の忠告を真に受けて、即座にかく応対するとは思えない。

・「偖々」扨々。

・「並木」並木町。浅草雷門前を真っ直ぐに駒形へ南下する通りの両側の町名。

・「淺黄頭巾」緑がかった薄い藍色の投頭巾(なげずきん)。投頭巾は当時の飴売り等に特徴的なもので、袋状に四角に縫ったものを横に被り、余った部分を後ろへ折り返したものを言う。

・「伊達羽織」人込でも目立つ派手な文様や色の羽織を言う一般名詞。

・「此飴賣は……」に部分は、ブラウザの関係上、底本と一行字数を同じにしてある。

・「安永酉年」安永6(1777)年。

・「唄念佛」歌念仏。江戸初期に伏鉦(ふせがね)を打ち鳴らして、念仏に節をつけて種々の歌や文句を歌い込んだ門付芸の一種。

・「文句」について底本注で鈴木氏は、ここで根岸が掲げた唄の歌詞は『最もまじめな文句といってよい』とし、実際には、かなり下世話な内容のものが主流であったことを窺わせる。なお、唄の訳の最後の念仏風の部分は私が勝手にそれらしい漢字を当てたものに過ぎず、何か意味があるわけではない。ご注意あれ。

・「立役者」一般には芝居の一座で中心となる売れっ子役者を言うが、江戸時代には特に歌舞伎の「名題役者」のことを言った。興行の際、劇場正面に掲げる看板の中で、特段に大きな一日の狂言総ての題名を記した大名題看板というものがあり、その上方に一座の主要な俳優たちの舞台姿を絵や人形で飾ったが、ここに載る俳優のことを名題役者若しくは略して名題と呼んだのである。立者。立役。

・「仲蔵」初代中村仲蔵(元文元(1736)年~寛政21790)年)。「名人仲蔵」と呼ばれた名優で、浪人(一説に渡し守)の子として生まれ、『門閥外から大看板となった立志伝中の』人物。『立役・敵役・女形』や『舞踊を得意とし』、『今日上演される「三番叟」は途絶えていたものを初代仲蔵が復元したもので』、他には「忠臣蔵」の定九郎、『「義経千本桜」の権太・「関の扉」の関兵衛・「戻籠」の次郎作などが当たり役』である(以上、主にウィキの「初代中村仲蔵」を参照した)。

・「幸四郎」四世松本幸四郎(元文21737)年~享和21802)年)四代目市川団十郎の若手俳優養成塾「修業講」での修練が評価され、宝暦121762)年に初代市川染五郎を襲名、安永元(1772)年、四代目松本幸四郎を襲名している。時代物・世話物を中心に多様な役をこなした実力派であった。『特に天川屋義兵衛、幡随院長兵衛などの男伊達や絹川谷蔵などの力士役を得意とした』が、『門閥外から幹部に出世するだけあってかなりの研究熱心で』あると同時に、『性格も強く、五代目市川團十郎ら出演者としばしば衝突した』。『とくに初代尾上菊五郎との確執は有名で、菊五郎が憤慨のあまり舞台で幸四郎に小道具を投げつけ観客に怒りの口上を述べ、怒った幸四郎が菊五郎につかみかかるほどの大騒ぎとなった。この事件を根に持って菊五郎は京に帰ってしまい、後年幸四郎が上方に客演した際は、上方劇壇から嫌味をいわれたという』とある。いい話だね。役者はこれくらいじゃなきゃ、だめよ(以上、ウィキの「松本幸四郎(代目)」を参照した)。

・「半四郎」四代目岩井半四郎(延享41747)年~寛政121800)年)。女形の岩井家の基礎を築いた名優。江戸の人形遣辰松重三郎の子であったが、二代目松本幸四郎(後の四代目市川団十郎)門下となり、7歳で初舞台を踏んでいる。明和2(1765)年、岩井家養子となって四代目岩井半四郎を襲名した。丸顔の愛嬌のある女形で、「お多福半四郎」と呼ばれた。『生世話を得意とし、悪婆という役柄に先鞭をつけた人物としても有名』で、『江戸を代表する女形として高い人気を誇り』、この唄でも直ぐ後に並び出る、三代目瀬川菊之丞と人気を二分した。この二人は当時、『「女方の両横綱」と併称された』。(以上、ウィキの「岩井半四郎(代目)を参照した)。

・「かわいの/\結綿」三代目瀬川菊之丞(宝暦元(1751)年~文化71810)年)。女形。「結綿」(ゆいわた)はその紋所の名称。上方の出身で、日本舞踊市山流の初世市山七十郎の次男として生まれた。安永21773)年に江戸に下り、二代目瀬川菊之丞の門に入って瀬川富三郎と改名した。『二代目菊之丞の死後、その遺言により養子として三代目瀬川菊之丞を襲名』し、文化5(1808)年には女形ながら座頭となったほど、『人気・実力ともに江戸歌舞伎の最高峰として活躍』した。美貌にして口跡(こうせき:歌舞伎の台詞回しや声色を言う)も優れ、『世話物の娘役と傾城を得意とし、舞踊にも優れ』た(以上、ウィキの「瀬川菊之丞(3代目)」を参照した)。

・「御家の目玉」岩波版の長谷川氏の注では五代目市川団十郎(寛保元(1741)年~文化31806)年)を同定候補としている。生没年と先行する役者群と並べて見ても、この同定で正しいものと思われる。荒事での眼力等からの渾名であろうか。有名な東洲斎写楽の寛政6(1794)年作の市川鰕蔵(えびぞう=五代目市川団十郎)の『恋女房染分手綱』「竹村定之進」の絵でも、眼が特徴的で、一見忘れられない。『18世紀後半における江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げた名優』である。二代目松本幸四郎の子で、宝暦4(1754)年に『父が四代目團十郎を襲名すると同時に三代目松本幸四郎を襲名。市川家の御曹司として名を売る一方で着実に実力を上げ』、宝暦7(1757)年、『江戸中村座で父が三代目市川海老蔵襲名を機に、五代目市川團十郎を襲名。『暫』を初代團十郎から累代伝来の衣装で勤める。父の死後は江戸歌舞伎の第一人者として君臨し、1791年(寛政3年)11月、江戸市村座において、市川蝦蔵を襲名したが、これは「父は海老蔵と称したが、おのれは謙遜して雑魚えびの蝦」と遠慮したものだった。同時に俳名を白猿とし、「白猿も祖父栢筵の音だけを取り、名人には毛が三本足らぬ」という口上を述ている。養子四代目海老蔵に、六代目市川團十郎の名跡を譲っ』て、引退したが、寛政111799)年に六代目市川団十郎が早世した翌寛政12年に『市村座で市川家元祖百年忌追善興行及び孫の五代目市川海老蔵の七代目市川團十郎襲名の口上とだんまりの大伴山主役』にて本格的な再復帰を果たし、享和元(1801)年の『河原崎座で三代目桜田治助作の『名歌徳三升玉垣』に般若五郎をつとめたのを最後に翌年引退』した。その所作は『細工をしないおおらかな芸風で、荒事の他、実悪、女形など様々な役柄をつとめ分け「東夷南蛮・北狗西戎・四夷八荒・天地乾坤」の間にある名人と評された。どんな役でもくさらず懸命につとめ、生活面も真面目で、多くの人たちから尊敬され「戯場の君子」とまで呼ばれた』(以上、ウィキの「市川団十郎(5代目)」を参照した)。

・「糀町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の長谷川氏の注を加味して作成した)。

・「鄽」店。店先。

・「給(たべ)度(たき)」のルビは底本にある。但し、それぞれの単語に分解して示した。

・「南鐐銀」南鐐二朱銀のこと。以下に記す通り、1両の1/8。『江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は98パーセントと当時としては極めて高いものであった』。明和91772年)年、『田沼意次の命を受けた勘定奉行の川井久敬の建策により創鋳される。寛政の改革時に一旦鋳造禁止されたが、程なく発行』再開されている(以上、ウィキの「南鐐二朱銀」を参照した)。

・「彼是相應の禮を其夫へ對し取繕申越て歸りける」この場面、夫も既に事実を知っているとした方が臨場感が出る(時間的な短さからは夫は何も知らない可能性も勿論あるが)。何をされるか、言い出されるかと、ビビりまくっている酒屋の主人を映像としてイメージした方が面白い。そのように訳した。

・「扨々」底本では「扨々(色々)」とあって、右側に「(尊經閣本)」と注する。この「色々」も訳で贅沢に使わせてもらった。

・「身上を振ひ」恐喝して財産を巻き上げ、金を振り出させる、ことを言うのであろう。

・「花川戸」現在の台東区東部、浅草寺東南の隅田川岸に沿った一帯の地名。かつては履物問屋街であった。南部は雷門通りに接し、西部は馬道通りに接する。故郷には帰れぬ男にとって、ここ浅草しか生きる場所はなかったのであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 詐欺の手練は相手の弱みにつけこむことにある事

 

 最近のことであろう、上総辺りにある寺の住職が、寺の訴訟絡みの公事で江戸御府内へと上ったのだが、この男、途轍もない破戒無惨の悪僧で、江戸に着くや、公事はそっちのけで新吉原へくり込むと、そこの傾城に一目惚れ、訴訟に預かってきた金子をすっかり使い込んでしまい、すっからかんになって如何ともするなく、一旦、在所へ帰ると、檀家の者どもに、

「訴訟が長引き、預かった金子も使い果たいたが、今少し、勝訴には入り用じゃ。」

と偽り、巧妙に金子を集め、寺の宝物をも質入れして、金子二、三百両を持って江戸へ向かうと、またしてもかの傾城に入れ込み、あっという間に殆んど使い果たしてしまった。――

 どうしようもなくなった結果、男は馬道(うまみち)辺りに家を借りて――辛くも手元に残った金は、その傾城の残った年季にはまるで足りなかったのだが――そこは同じ穴の狢の悪僧、亡八(くつわ)者同士、女郎屋の主人と丁丁発止の交渉の上、金子を少しばかり出いて、廓(くるわ)から請け出すと妻としたのであった。――

 

 ――さて、そうして暮らすこと、一と月ばかり後のことである。

 その頃、男は、町内の若い衆で作った伊勢講に入っておったのだが、その連中から急に、

「今年の講中の伊勢への代参をよろしゅうお願い申す。」

と頼まれた。手元不如意にして新入り、未だ女房ももらったばかりなんどと、いろいろ理由を並べ立てて辞退しようとしたのだが、

「最早、籤(くじ)で決まったこと、兎も角も参宮してもらわねばなるまいよ。」

の一点張り、どうにも断り切れず、参宮の際の初穂料から道中の路銀も受け取ってしまった。

 家に帰った男が妻にかくかくしかじかと愚痴をこぼすと、

「おまえさんが留守の間は、あちき一人のこと、どんなにしても暮らして行けますから、どうか難儀ながら、安心してお行きになって下しゃんせ。」

との応え。男は後の事など、いろいろ気を付けるよう、懇ろに女に言い置いて、まずは伊勢へと旅立ったのであった。――

 

 ――さて、やがて男は何事もなく無事、伊勢参宮を終えて江戸へ立ち返った――と、住んでおった店(たな)は『明きや』の札が貼られ、女房も行方知れず。これは一体如何なることか、と家主の家に駆け込んで訊いてみると……

「こりゃ、こっちが、『一体如何なることか』、ですよ! お前さんが講中の初穂と路銀を抱えたまんま、家を出奔致しましたとの由……町内の者どもへお前さんのお上さんから、相済まぬことと相成り申したとの由、申し出、あたしの所へも、そんな風に殊勝に頭を下げに来ましたからね……ご公儀へも訴え出て、店(たな)を貸した折りの保証人の、××という男に、お前のお上さんと、家財道具一切合財、引き渡しちまいましたよ……。」

とのこと。

「さては女房の野郎! もうせん、廓にいるうちから、ほかに好いた男がいたかッ――!」

と、怒り心頭に発し、保証人の××の住まうというところを尋ねてみたところが、これまた、行方知れずとなっておった……。

 男はどうにも仕様がなくなり、腹も減ったから、北馬道にある正直蕎麦へ立ち寄り、蕎麦なんどを、たぐりながら、考えた――

『……もう、だめだ……こんな脛(すね)に傷持つ身じゃ……この上、どこへ行き場があるもんけ……身投げして果てるしかあんめえ……』

なんどと、心底ここに極まった、という面持ちで、たぐり上げた蕎麦を口元近くに揚げたまんま、ぶるぶると震わせていた――

 と、近くの席で同じく蕎麦をたぐっていた医師風の男、その様子を凝っと見ておったのが、蕎麦屋の下女を呼んで、徐ろに、

「――向こうに座っておる男は身命(しんみょう)今日に極まれる相じゃ、な――」

下女はそれを聞くと血相を変え、

『――ここで死なれちゃあ、大変だし――確かに、あの男――えらく顔色、悪いわ!――死相の浮いた男なんぞ――おーっ! 桑原、桑原!――何を仕出かすか分かりゃしない!――面倒起される前に、さっさと早く出ってもらうが一番だわ!――』

とでも思ったものか、急いで当の死相男の卓に赴き、

「――お客さん――お前さん、何だかひどく気分悪そうだよ――顔色も滅法悪いしさ――言っちゃ、何だけどさ――あたいじゃないんだよ、あそこに座ってらっしゃる御仁が、おっしゃるには、だよ――お前さんの顔には、ね――『命の危険がアブナイ』って――感じが浮かんでるって、お言いなさんのさ――だからさ、早く帰って養生なさいまし、な――」

と声をかけた。

 それを聞いた当の男は、これまた大層驚いて、その医師風の男の所におずおずと近寄る。そうして、

「……さてもさても、あなた様は、摩訶不思議の人相見であられる……仰る通り、拙者、只今、かくなる訳にて……身命を捨てんと致いておりました……」

と、かくなった仔細を含めて告白した。

 一通り、男の話を聞き終えると、その医師体(てい)の男は、きっぱりと、

「――只今、一度は捨てんとした命――その命を自ずから助けて――今一度、世を渡らんとする心は、あるや!?――」

と男に訊ねた。男は、

「只今、かく有難き御仁にお逢い致し、お言葉を拝領した上は――今や、どうして拙者も軽々しく命を捨てんことを好みましょうや。」

と応える。されば、医師体の男、

「されば、私の方へ来られるがよい。」

と、並木通にあるこの医師の家へと召し連れられて行き、爾来、そこで下男同様に使われておった。――

 

 ――ある時、医師が男に言った。

「――お主は――先のお主の妻の行方――尋ねたくは、ないか?……ふむ、そうか?……されば、某(それがし)に少し考えがあるでの――」

そう言うと、医師は男のために、浅黄頭巾と伊達羽織を誂えて、彼を所謂、飴売りの体(てい)に仕立てると、元来お主は出家なればお手の物であろうと、かの飴売りに独特の歌念仏を教えた上、

「――この風体にて江戸市中を売り歩いたれば――その女房を見出すこと、必定ならん――」

と言う。そこで男は、言うがままに、飴売りとなって売り歩いた。すると……

 

この飴売りは、安永酉年の夏頃から翌戌年迄、専ら江戸御府内を
  売り歩いて、大いに流行ったものであった。その売り姿は、浅黄頭
  巾に袖無しの羽織を着、挿した日傘に赤い布切れをぶら下げ、鉦を
  打ち鳴らしながら歌を歌うという体(てい)のものであった。その
  歌は、当時の歌舞伎役者や世間の出来事を面白おかしく歌い込んだ
  ものであった。その唄の文句はいろいろあったけれども、その内、
  一つ二つは覚えておるので、ここに記しておく。

   さても当世の立役者

   仲蔵 幸四郎 半四郎

   可愛い可愛いは菊之丞

   恐いは目玉の団十郎

   恐畏陀 南無阿弥陀(なまいだ) 虚波畏仏(こはいだぶつ)

 

 ……するとある時、麻布六本木で飴売りをしていたところが、昔のあの女房が、男が飴を売っている道の向かいの酒屋から出て来て、他の家へと入り、また酒屋へと戻って行ったのを見た。男は即座に主家にとって帰すと、かの医師に目撃した事実を語った。すると、

「――そうか――遂に見出いたか――では――お主の女房を取り返す仕儀も、あろう程に――」

と言った。

 

 それから十日程が過ぎたある日のこと、医師は、

「――今日、お主の女房を取り返すべき取り計らい方――出で来たり――」

と、男を連れて、麹町の裏通りにある格子戸を巡らした、如何にもいわく有り気な――所謂、その辺り一帯を取り仕切っている親分らしき――家へ至り、何やらん相談を始めた。

「――大方、話しゃ、つきやしたぜ――今日辺り、彼奴(きゃつ)のお店(たな)へお行きなさるがええ――」

という親分らしき男の最後の言葉に、医師は、

「――心得た――」

と、えらく丁重に礼を述べた。

 そうして、その足で、二人して麻布六本木へ向かい、例の酒屋の近くにある商家の軒先をちょいと借りると、

「――お主は暫くの間、ここで待っておるがよい――まあ、追っ付け呼ぶ。呼んだら、直ぐに来るがよい――」

と男に言い含めて、医師自身は酒屋へと入って行った。――

 

 医師は、酒屋に入ると、

「立ち飲みはしていなさらんかのう。いや、少しばかりでよいから呑ませて欲しいのじゃ。」

と言う。丁稚が、

「立ち飲みは致しておりませんです。」

と断った。すると、医師は懐から大枚銀1枚を取り出して丁稚に与えた。さすれば、丁稚から番頭、番頭から主人へ話が伝わり、早速に酒が出だされ、女房らしき女まで現れて、酌などさえし始めた。

――流石は元傾城よ――酌も手馴れて、愛想の笑みも堂に入ったものじゃ――

「時に。ご内儀。貴女に是非引き逢わせたい御仁がおりましてのう。」

と医師は徐ろに言うと、店先に出て、彼方の商家の軒先に佇んでいる男を呼び入れた。――

 

 ――入って来た男を見ると、女房は驚いて、小さく、あっ、と叫ぶや、家内(いえうち)に走り込もうとするのを、医師は素早く袖を捕え、かの家来の男に向かい、

「――この女に間違いないな?――」

と厳かに言う。

「誠(まっこと)相違御座らぬ!」

と瞋恚に燃えた眼で男が答える。

 女房は言葉も出ず、医師が袖を離すや、ただただ顔を真っ赤にしたまま、奥へと走り去った。――

 

 ――それから――それから医師は酒屋の主を呼び出だすと、今、起こったことも知らぬ気に、

「普段なさらぬ立ち飲みをさせて戴き、また、嬉しきこと甚だしゅう御座った。」

と丁重な禮と、如何にも馬鹿丁寧な挨拶をして――体を震わせている「妻を取られた男」の手を引くと――泰然と――その足をがたつかせて立っているのがやっとの、青い顔をした「妻を取った男の」前を――辞したのであった。――

 

 ――それから二、三日が過ぎた。

 例の麹町の親分が、子分を三人程連れて医師の家にやって来た。

「――さてもさても――いろいろと――やらかさせてもらいやした――例の六本木の身上(しんしょう)から――すっかり振り出さしてね――漸く金子百両ほどは調達しやしたぜ――」

と、親分は金子百両をぽんと差し出す。医師はそれを受け取ると、そこから、

「――この間(かん)のお骨折り賃に――」

と言って、二十両をさし返した。――

 

 ――さて、その日のことである。

 医師は自身が檀家である寺の僧どもを招き、特に男も末席に召し出して、如何にも立派な料理を並べて終日豪勢な宴席の場と相成った。男は遠慮しいしい、ちびりちびりと酒を飲んでいたが、内心、

『……ご主人はこれからどうして下さるお積りなんじゃろう……何時になったら女房を取り返して下さるんじゃろう……飴売りにまで身を窶(やつ)して見つけたあいつじゃ……ともかくも取り戻さずば、諦めきれん……』

と思っている内、漸く膳も下げられ、酒も済んだ。――

 

 ――すると、医師は彼を自分の前に呼び寄せ、檀家寺の住職に引き合わせると、

「――この者は、先般、かくかくしかじかの訳を以て死なんとせしところを、私めが助命致いた者で御座る――この度は、貴僧の御弟子として、再び元の通りの出家と致したく存知候間、今日只今、剃髪の儀、成さしめ給え――」

と告げるや、僧どもは、話し半分、酔った勢いで、

「……そりゃ奇特な話じゃ!……ほりゃ! 湯、沸かしょう! 剃刀、持てこい!……」

と言い出したから、男は晴天の霹靂、

「(酔った僧どもに向かって大声で)あっしは……あっしは、その、一旦……その、僧から俗に、落ちた身で御座んして……そんな、都合よく……その、また出家出来ようなんて法は御座ろうはずもありませぬ!……(振り返って主家の医師に、小声で)それに、あっしの女房も取り返してくれず……(再び大声で)何で、今また出家せよ、とは! 殺生じゃ!……」

すると、医師は男の襟首をむんずと摑み――どこにこんな力が潜んでいるのやら、恐ろしくなるほどの強烈な臂力で自分の眼前に男を引きつけると――実に穏やかな、しかし、否とは言わせぬ響きを以って、

「――さればこそじゃ、な――お主は、破戒し、俗に落ちた――その在家(ざいけ)を欺いた仏法の大罪は、免れる法は、ない――一旦、死を遁れることが出来たは、そりゃもう、莫大な恩ではないか?――いや、それは、儂の恩では、ない――仏の、お慈悲じゃ――じゃて、のう、今また、出家となれば――いや、仏のお慈悲は無辺大じゃて、仏は必ず許さりょう――さすれば、少しは、その大罪より救われようという、もんじゃ、ないか――のう――あん?」

と凄んだ。

 男はぶるっと来ると、思わず黙って相槌を打っていた。――

 男の出家剃髪の儀は滞りなく済んだ。

 医師は剃り跡も青々としたつるつる頭に、半べそをかいた顔をぶら下げた男の脇に、晴れ晴れしい笑顔を浮かべて連座すると、如何にも満足気に、ちらちらと男の金柑頭に眼を向けながら、声も高らかに、次のように述べて宴を締め括った。

「この度、そなたから妻を奪った不埒者からは、心より申し訳なきことと、慰謝料として金子を差し出だいて参ったので御座るが、この度の一件つきては、中に入って最も互いが傷つかぬよう配慮を致し、様々な骨折りをして呉れた者がおる。まずはその者に謝金を遣わしまして御座る。また、この度は、かく罪業深き者の、再度の出家剃髪の儀をお受け下さったお寺様には、金子二十両を差し上げ候故、屹度、この男の大いなる罪障の消滅をもなさしめ下さいまするものと存ずる。――さても、お前様にも金子十両を遣わす故、出家得度の費用ともするがよいぞ――それで――まあ少しばかりの残りが御座るが――これは、今までのお前様の面倒を見るに掛かったところの、その、食費その他必要経費として、私の方に留め置いておくことと致す――よい、な――」

 

 この医師、恐ろしいまでに悪知恵のきく曲者ではないか。

 その、再び出家した男というのは、乞食坊主となって、今も花川戸辺りを徘徊しては托鉢致いて住まっておる、ということである。

 

 

*   *   *

 

 

 不義に不義の禍ある事

 

 餘程古き事にや。谷中邊一寺の住職、遊里へ入込、妓女に馴み右女を請出し、姪のよしを僞り、寺内に置ては旦家の思はくも如何と、門前の豆腐屋しける老夫婦方へ召連預置て、姪の事、外に世話いたし候者もなければと、晝は似気(にげ)なき故、夫婦へ賴よし申ければ、夫婦も御尤と他事(たじ)なく世話なしけるが、或日年頃三十斗の男來り、我等は當寺の和尚の甥なり、此度主人の在所より來り、妹は先頃より和尚へ賴、爰元にて世話いたし呉候由、段々辱(かたじけなき)旨にて肴代など少々差遣し、妹儀相應の事あり片付候間、今日同道いたし度(たし)と申ければ、豆腐屋もそれは宜(よろしき)事ながら、今日は和尚にも御留守の事故、申上候てと申ければ、女も兄に無相違(さうゐなし)と申、何しに和尚の我身を咎(とがめ)給ふべきと言て、急支度などいたし、右侍も段々の禮念頃に申、和尚留守なれど歸り給はゞ嘸(さぞ)悦申さん、遠からず禮に又々可參と言て女子を連て立歸りぬ。彼和尚歸りて後、豆腐屋夫婦寺へ行き、ケ様/\の事にてと始終を語りければ、和尚大きに驚き、或ひは怒り或は愁(うれひ)けれ共すべきやうなく、世話にありし悦び候事也といひし由。おかしきことなれば爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:性風俗と思わずしてやられたといった感じの詐術で連関

・「姪」本文中、和尚が偽ったのが伯父か叔父かは分からないので、とりあえず伯父で訳しておいた。

・「谷中」現在の台東区に残る地名。北は道灌山通り、西は不忍通り、南は上野の森に囲まれ、東は本郷に通じ、現在は山手線が走る。名は上野のお山と本郷台の谷間に位置することに由来する。江戸時代、上野に寛永寺が建てられると谷中に子院が次々と建てられ、幕府の政策(恐らく火除け地の形成のためか)により慶安年間(16481651)には神田方面の寺院が多く移転、更に明暦の大火(1657)の後は焼失した寺院がここへ移転して来た。それによって参詣客が増加し、門前の町屋も発達、本件当時は江戸の庶民の一大行楽地として機能する町ともなっていた(以上はウィキの「谷中」を参照した)。住職の破戒振りからは、こうした転居組の寺院の一つであろうか。

・「肴代」謝礼のお金という意味で用いているが、元来、武家では鰹節を戦時非常の食とし、結納の儀に包んだ(勝男武士の掛詞でもある)。ここではそうした伏線としても機能しているのかも知れない。

・「晝は似氣なき故」底本には右に注して『尊經閣本「寺似氣なき事故」』とある。「似氣なし」は、似合わない、相応しくない、の意であるから、この二つを合わせれば、「女が居っては、昼間に知らぬ参詣人が見れば、如何にも寺に相応しくない」といった意味である。真宗寺以外では、表向き僧の女犯は厳しく禁じられていた。折衷して訳した。

・「世話にありし悦び候事也といひし由」底本には右に注して『尊經閣本「世話に成しなとゝいゝしは」』(「世話になりし等言ひしは」で「いゝ」はママ)とある。この台詞は話柄のポイントである。現代語訳では発声への導入部と言い方にオリジナルな手を加えてある。

・「おかしき」ママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 不義には不義の禍いがある事

 

 余程、昔の話でもあろうか、谷中辺にある寺の住職、遊廓に入れ込み、馴染みの妓女が出来て、これを請け出し、自分の姪と偽り、流石に寺内に住まわせておくには檀家の手前もまずかろうと、門前で豆腐屋を営んでおった老夫婦の方に女を連れ行き、預けておくことにした。

「……これは、拙僧の姪で御座るが……今や、他に世話する者とてなく……かく申すとても……女犯(にょぼん)の仏法なれば、寺内に住まわせては、昼の間、訳知らぬ人なんど見給はば何かと誤解の種ともなろう程に……御夫婦方、どうか一つ、よろしゅうに……」

との申し出に、老夫婦も、尤もなことにて御座いますると、快く引き受けた。――

 

 ある日のこと、年の頃、三十ばかりの侍風の男が、この豆腐屋にやって来た。

「拙者はこの寺の和尚の甥に御座る。この度は、主家の領地より参上致いた。先頃、妹儀、無理を申して伯父の和尚に頼み置きましたが、伯父より聞きましたところ、こちらで大層お世話頂いておる由、重々かたじけなきことと存知まする。」

旨申して、少しばかりの謝礼の金子など差し出だいて、

「いや実は、この度、この妹儀、拙者ども差配致いて、目出度く婚儀を迎うることと相成りまして御座る。急なことで御座れども、婚礼の余祝(よしゅく)の儀などもありますれば、今日、同道の上、御領地へと帰参致いたく存ずる。」

と言う。流石に豆腐屋の主人も、

「そりゃ、目出度きことじゃ!――なれど、今日は和尚さまもお留守のこと故、また改めてお出直しになられ、直接申し上げなさった上で……」

と言いかけたところが、主人の傍らに控えておった妹も、

「これは私の兄さまに相違御座りませぬ! 妾(わらわ)が婚儀のために伯父上の留守中に郷里に戻ったからとて、どうして和尚さまが、お爺さまをお咎めなさるなんどということが御座いましょうや。」

と、きっぱりとした口調で言うと、いそいそと旅支度など致し、その侍も重ね重ね丁重な礼を述べて、

「生憎、伯父和尚は留守で御座ったか――しかし、なればこそ、お帰りになった折りは、さぞかし妹婚儀決定(けつじょ)の事、お悦びになられるに相違御座らぬ――今日は急ぎまするが、近々、ゆるりと御礼方々参上致しますれば。」

とて、二人して深々と挨拶をすると、侍は妹を連れて足早に帰って行った。――

 

 程なく、和尚が所用を済ませて帰って来たようなので、豆腐屋の夫婦は寺へ参り、留守中、かくかくしかじかのことあり、いや、目出度きことに御座る、と語る。

 和尚は――内心、青天霹靂、驚天動地――その身の内にては、或いは腸(はらわた)が煮え繰り返り、或いは腸が一時に九廻するほどであった――じゃが、それをまた、表情に出すわけにも参らず――むぅおーっと赤くなったり、すうーっと青くなったりしながらも――唇を震わせながら、一言、

「……いや……姪……が……大層、世話に……うぁ、相、ぬあった……いや、ヒャアィッ! めで、たい、の! いや、めでたい、めでとぅあい、ぬゥおォツ!…………」

と言う外はなかった、とか。――

 如何にも面白い話なので、ここに記した。

 

 

*   *   *

 

 

 傾城奸計の事

 

 享保の此にや、田所町の名主、傾城を請出して宿の妻となし偕老の語ひ成しけるが、彼妻常に手馴し箪笥に朝夕錠をおろし人に手かけさせざる引出しあり。夫にも深く隱しける樣子故、夫も元來勤(つとめ)の事故、深く疑ひ色々尋けれども、事に寄て染々(しみじみ)答へざりければ、彌々疑ひてせちに尋ければ、彼妻無據(よんどころなき)さまにて申けるは、大金を以我身を請出し給ふ御身の心を慰んとの事なれ、今引出しを見せ申さんには、御心の慰も薄くあらん事を恐れ深く包みけるが、疑ひ給はゞ見せ奉らんと引出し取出して見せけるに、案に相違して袈裟衣鉢等の佛具也。夫大きに驚きて、こわいか成事と尋ければ、さればとよ、我身事、勤の初より馴染し男ありしが、浮川竹(うきかはたけ)の中ながら倶に死を誓ひし程に契りたりしに、右男はかなくも壯年にて身まかりけるゆへ、其日より我身も出家と心得けれど、親方抱の身なればまゝにも成難く、表は傾城の常なれば笑ひを賣、閨房の戲れを事にし侍れど、心は出家淨身の專らとせしが、御身請出し妻とし給へば、是又大金に我身を賣し事なれば、聊此内心を色目にあらはさずと泪ながらに語りければ、夫も涙を催して、扨々奇特(きどく)成(ばる)女哉(かな)、我も名の知れたる男也と粹(いき)自慢の心より、暇を遣すまゝ出家得道いたすべしとありければ、こわ難有(ありがたし)と涙にむせび悦びしが、我も大金にて受出せし汝なれ共、汝が心底をも感じ、且は右の咄を聞ては妻となして面白からず、早々菩提所をまねき剃髮いたすべしとありければ、こは勿躰なき事哉、出家するならば三界に家なし、今日より托鉢して露命をつなぎ申(まうす)こそ戒行(かいぎやう)全きとも申べけれと、一兩日過て暇乞、いづくともなく立出ける故、夫も外々の人も扨/\珍らしき女哉とこれのみ咄しけるが、暫く程過て餘り遠からぬ所に、右女、髮結やうの者の妻と成て暮しけるとかや。曲輪より馴染約束の者にてありし故申合、かくはからひて夫に暇を貰ひ、右の密夫と夫婦と成しと也。實に傾城に誠なしといふ諺に引くらべ、恐しき女の手段と人の語りはべりき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項に引き続き、性風俗と思わずしてやられたといった感じの詐術で連関

・「享保」西暦1716年から1735年。

・「田所町」現在の中央区日本橋堀留町のことか。大正131924)年に区画整理で隣接する長谷川町と合併して、この町名は現存しない。

・「名主」町名主。江戸の各町の民政責任者。

・「宿」本人の家を言う語。

・「勤」廓勤め。

・「染々(しみじみ)」は底本のルビ。

・「こわ成事」「こわ」はママ。

・「浮川竹」「浮き」は「憂き」に掛け、川の畔りに生えている竹の笹が川面を空しく流れ去る様から、無常薄幸の遊女の身の上や遊女を指して言う語である。

・「こわ難有」「こわ」はママ。

・「戒行」仏法の戒律を守って修行に励むこと。

・「傾城に誠なし」諺。遊女は客の金だけが目当て、思わせぶりや契りだ命だなんどと言っても口先だけのこと、その心に真実(まこと)はかけらもないものだ、という意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 傾城の悪だくみの事

 

 享保年間のことであったか、田所町の名主が傾城を請け出して妻とし、偕老同穴の誓いを立てて暮らし始めた。

 さても、この妻には傾城の頃から大切にし、嫁入り道具として持ち込んだ箪笥があった。その箪笥には、妻が朝夕必ず鍵をおろし、決して他人に手を触れさせぬ抽出があった。夫にさえ触れさせず、見るからに不審なる様子であったので、夫も、妻の元の勤めが勤めなだけに、何やらん傾城の頃に深く契った男にでも関わる一物か何かを隠しおるのではなかろうかと深く疑い、しつこくその中身を訊ねたのだが、妻は何かとはぐらかしては、ただ凝っと淋しそうに黙って夫を見つめているばかりであった。

 ある日、遂に堪忍袋の尾が切れた名主は、妻に厳しく問い質した。

 すると――妻は、溜め息を一つつくと、最早これまでといった風に、

「……ご不審ながら、今日までの所業……大金を以って妾(わらわ)を請け出し下しゃんした旦那さまのお気持ち……それを、ありがたきことと慮ってのことにてありんす……今、この抽出を開いて、お見せ致しゃんせば……旦那さまの妾へのお気持ち……それが、離れ離れていかしゃんすかと……それが恐(こ)おて……ずっとずっと、今の今まで、深く深く、包み隠いて致しゃんした……なれど……お疑いになられるとならば……お見せ申し上げ……致しゃんす……」

と、言うや、かちんと錠を外して、すうっとその抽出を抜き出いて――見せた――案に相違して、そこに入っていたものは――袈裟・衣鉢といった仏具一式――

 夫は訳も分からず呆然とそれを眺めていたが、徐ろに、

「……これは……どういうことじゃ?……」

と妻に訊ねた。妻は、

「……されば……妾は遊女勤めの初めより、言い交わした人がおりやんした……憂き河竹と客の仲とは言え……供に死を誓うたほどに契りおうたに……(長き沈黙)……そのお方は……そのお方は、儚くも若こうして身罷りやんした……(再び長き沈黙)……その日から……その日から、私も出家致さんと心得やんした……やんしたが……親方に抱えられた、この身、己が自由にも成りがたく……上べは傾城の常なれば、媚びも売り、閨房の戯れも仕事と割り切り致いておりやんした……なれど……なれど、心は不断に出家浄身のことのみ思うて参ったので御座います……そうして……そうして、旦那さまに身請けして頂き……こうして妻として頂きますればこそ……これもまた、妾の身を……大金を払いて『売り買い』なさった……ことなればこそ……と思い……聊かもこのような妾の我儘なる心……表に出いては申し訳なきことと……」

と涙ながらに語った。話を聞いているうちに夫も思わず涙を誘われ、

「……さてもさても、何という貞節な女じゃ!……儂もこの辺りじゃ名の知れた男、今日只今、離縁遣わす故、思うがままに出家致すがよいぞ!」

ときっぱり、しかし優しく言い渡いた。妻は、

「――!――これは、何と有難きこと!……」

と涙に咽んで答える。それを見た夫は、付け加えて、

「儂も――大枚叩(はた)いて請け出いたそなたじゃが――そなたの心底には深く心打たれた。まいて、このような話を聞いておきながら、平然と己(おの)が妻としておくというのもすっきりせぬ。早々に菩提寺の僧を招く故、剃髪致すがよいぞ――」

と言い添えた。

「これはもう勿体なきこと……なれど、出家致しまするからには、最早……三界に家なし……今日只今より托鉢して露命を繋ぐ覚悟にてこそ……全き戒行の成就とは申しますれば――」

と夫の申し出を断り、そうして一日、二日しないうちに、夫に暇乞いをすると、何処(いずこ)ともなく立ち去って行った。――

 

 夫は勿論、この話をその名主からを聞いた人々も、

――さてさて、今時、誠(まっこと)稀な、貞女じゃて。――

とばかり褒めそやしたという。

――が――

……暫くしてから、田所からそう遠くない所で、この女が、髪結いらしい男の妻となって暮らしていた、とかいうことであった……

 

 廓時代から馴染みの、言い交わした男があって――いや、その男は死ぬどころか、髪結として(また下半身も)文字通り「ぴんぴん」していたわけだ――その男と密かに巧妙な作り話を拵え上げ、このように夫をうまく騙してまんまと離縁を引き出し、この男と目出度く夫婦になったというのが事実であったのだ。

「いやいや、誠(まっこと)、諺にも「傾城に誠なし」というが……はて、恐ろしき、女の手管じゃてのう!」

と私の知人が語って御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 爲廣塚の事

 

 加賀能登の境に、冷泉爲廣の歌塚といへるもの有し由。左に記す。

  季世爾殘牟 爲廣塚加能 跡動無建碑

 如斯して歌に詠み侍れば、

  末の世に殘さんがため廣塚の跡動ぎなく建るいし文

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。やや話が下世話になってきたので、そろそろやや文雅にして歴史を感じさせる文学的香気を示そうとしたものか。

・「爲廣塚」現存する。「石川県津幡町オフィシャルサイト」の「文化財・観光」のページに以下のように記されている(引用に際し、西暦表示の位置を移動し、一部表記を省略・変更、句読点・読みを増やしたことをお断りしておく。文意には全く変更を加えていない)。これによれば、旧来あった場所は冷泉為広の墳墓であったことが分かる。

■為広塚(清水)
昭和381963)年5月10日 津幡町文化財指定
  為広塚は入道前大納言贈一品冷泉為広卿の塚である。
 為広は冷泉家(藤原道長の六男長家に始まり、平安末から鎌倉期の代表的歌人俊成、定家を先祖に持つ和歌の家)五代為冨卿の長男として生まれ、義竹軒と号し、定家流の書で知られた。
 当時、京都では細川氏が勢力をはり、その難を避けるために、親しくしていた七尾城主畠山左衛門尉の館に身を寄せ、大永61526)年、77歳で生涯を閉じた。
 寛延の頃(1750年前後)、清水八幡神社のそばにあった広塚と呼ばれるところを俳人河合見風らが調査考証した結果、冷泉為広の墓であることを明らかにした。そのことを子孫の為村が聞き、明和21765)年霜月二十八日、加賀藩の重臣前田土佐守直躬(なおみ)や見風とはかり、石碑を建立した。
 塚のそばには五層石塔や塔守屋敷があったといわれ、里人らは、塔屋敷、広塚などと呼び親しんでいたそうである。
 昭和431963)年、周囲の環境変化により津幡小学校前庭へ移転した。

・「冷泉爲廣」(れいぜいためひろ 宝徳2(1450)年~大永6(1526)年)室町時代の公卿にして歌人。冷泉家(上冷泉家)当主。永正3(1506)年に権大納言、民部卿に就任したが、永正5(1508)年に大内義興(よしおき)の前将軍義植(よしたね)復権工作で第十一代将軍足利義澄が将軍職を追われると同時に出家、宗清と号した。能登の守護職であった畠山義元と極めて親しく、能登に永く在国、能登で逝去したとも言われる。歌集に「為広卿集」「為広詠草」等(以上は主にウィキの「冷泉為広」を参照した)。

・「季世爾殘牟 爲廣塚加能 跡動無建碑」すべてひらがなで読み下せば、

すゑのよにのこさむが ためひろつかの あとゆるぎなくたつるいしふみ

である。通釈すれば、

――後々の世までも、我が為広の名を残さんが為に、この広い塚を、この加賀と能登の国境(くにざかい)の――越中との境の彼方には石動(いするぎ)があるが――その永遠に動(ゆる)がぬ石の印として、建立する、この碑(いしぶみ)を――

といった感じか。「殘牟爲廣塚」(残さむが為広塚)で「残すための広い塚」と本名「為広」とが、「塚加能」(塚の)の特殊仮名遣に「塚の」と「加賀・能登」の国境を、「跡動無建碑」(跡動ぎなき建つる碑)に「永遠に動(ゆる)がぬ石の印として建立する碑」と「ゆるがぬ石」の「動」と「石ぶみ」から越中との国境倶梨伽羅峠の越中側の地名である「石動」をも掛けているものと思われる。もう少し何かが仕掛けられているようにも思われるが、和歌に暗い私には修辞技巧の解剖はそこまでである。通釈も「我が為広の名を残さんが為に」という部分が私にはやや不審ではある。識者の御教授を願う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 為広塚の事

 

 加賀と能登の国境(くにざかい)に、冷泉為広の歌塚と言い伝えるものがあるとのことである。伝え聞いた碑文を左に記しておく。

  季世爾殘牟 爲廣塚加能 跡動無建碑

 このように漢字で書かれているもので、試みに、これを和歌として詠んで御座ったれば、

  末の世に 残さむが為 広塚の 跡動ぎなく 建つる碑(いしぶみ)

となろう。

 

 

*   *   *

 

 

 柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事

 

 柳生但馬守門前へ托鉢の僧來りて劍術稽古の音を聞、大概には聞けれど、御師範などゝは事おかしと嘲りけるに、門番咎侍れば聊不取合。但馬守へ斯と告けるに、早々其僧呼入よとて座敷へ通し對面いたし、御身出家なるが劍術の業心懸しと見へたり、何流を學び給ふやと尋ねければ、彼僧答て、御身は天下の御師範たる由ながら劍術は下手也、流儀といふは劍術の極意にあらず、劍を遣ふも何か流儀かあらんと笑ひし。柳生もさるものと思ひて、然らば立合見られよと有ければ、心へし由にて稽古場にいたり、但馬守木刀を持て、御僧は何をか持給ふと尋ければ、某(それがし)出家なれば何をか持べき、すみやかに何を以成(もつてなり)と打すへ給へと稽古場の眞中に立居たり。但馬守も不埒成事を申もの哉と思ひながら、いざといふて打懸らんと思ひしが、右僧のありさま、中々打ちかゝらばいかやうにか手ごめにも可成(なるべき)程に思われければ、流石に但馬守、木刀を下に置拜謁し、誠に御身は智識道德の人也、心法(しんぽふ)の修行をこそ教へ給へかしとひたすら望みければ、彼僧も、劍術におゐては普(あまね)く御身に續く者なしと稱し、互に極意を契りけると也。右僧後に但馬守より申上、大樹家光公へ昵近(ぢつこん)せし東海寺開山澤庵和尚なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。前項同様、やや文雅にして歴史を感じさせる文学的香気を示そうとしたものか。専攻する武辺物に加えて、「萬年石の事」の澤庵の再登場でもあり、読者は品位の急上昇に、それほど奇異を感じないような配慮がなされているというべきであろう。

・「柳生但馬守」柳生宗矩(むねのり 元亀2(1571)年~正保3(1646)年)大名にして柳生新陰流(江戸柳生)を不動のものとした名剣術家。徳川将軍家剣術師範役。大和国柳生藩初代藩主。永禄8(1565)年に新陰流開祖上泉信綱(かみいずみのぶつな)から新陰流の印可状を伝えられた大和国柳生領主柳生石舟斎宗厳(むねよし)の五男であった。家康に仕え、29歳の時の関ヶ原の戦いでも武功があった。慶長6(1601)年に後の二代将軍秀忠の剣術師範役となり、三代将軍家光にも剣術師範役として仕えた。慶長201615)年の大坂の役にあっては将軍秀忠に従軍、秀忠の元に迫った豊臣方7人を斬り捨てたという(宗矩が人を斬ったという事実記録はこの一件のみとも言う)。寛永6(1629)年、従五位下に叙位され、但馬守となろ、寛永9(1632)年には諸大名監察権を持つ初代幕府惣目付(大目付)に就任、寛永131636)年に一万石の大名となり、大和国柳生藩を立藩した。本記事に現れたように剣術の極意として禅宗の教えを取り入れた『活人剣』『剣禅一致』の思想を唱え、人の道としての武道を創始したと言い得る。柳生家伝書「兵法家伝書」に示されたそれは、後の「葉隠」の思想にも影響を与えている。記事の最後に示された通り、友人の禅僧沢庵宗彭(後注参照)と共に、特に家光の厚い信頼を受けた(以上は主にウィキの「柳生宗矩」を参照した。

・「心法」仏教用語で、一切のものを心(しん:非実体としての真(まこと)。精神。)と色(しき:五感によって認識し得る物質・肉体・存在物。物。)とに分ける際の心。心の働きや心の在り方を総称する語。心王。また、そこから広く心や精神面の修練法・修養法という意にも用いる。ここでは仏教的な奥義としての意で用いている。従って西洋哲学の概念である「精神」とか「精神面」と言った訳を用いず、そのままの「心法」を用いた。「しんぼふ(しんぼう)」とも読む。

・「澤庵」江戸前期の臨済宗の名僧澤庵宗彭(たくあんそうほう 天正元(1573)年~正保2(1646)年)のこと。かつて住持をした大徳寺での紫衣(しえ)事件(後水尾天皇が幕府に無断で紫衣着用の勅許を下したこと)に関わって抗議を行い、出羽に流罪となる。その後、二代将軍秀忠の死去に伴う大赦で赦され、家康のブレーンにして後の秀忠・家光にまで仕えた謎の天台僧南光坊天海や、この柳生宗矩から噂を聞いていた家光の深い帰依を受け、萬松山東海寺を草創した(前掲の「萬年石の事」を参照)。書画・詩文・茶道にも通じ、祐筆家でもあった。柳生宗矩の『活人剣』『剣禅一致』の思想は沢庵に負うところが大きい。

・「思われければ」ママ。

・「互に極意を契りける」この「互に」は「相互に」という意味ではやや奇異な感じがする。勿論、沢庵和尚が禅の心法を宗矩に、宗矩が剣術の精神論の核心を沢庵和尚に伝授する、というのも禅の世界にあっては、決しておかしな謂いではないのだが、そのような禅の境地まで認識して根岸がこの語を用いているようには(彼に失礼乍ら)、思われない。寧ろこれはここに瞬時にして生じた相対する二人の新しい関係、『沢庵という師と宗矩という弟子の関係の中で』という意味であろう。そうして「極意を契りける」というのは、正しい仏法を正しく、師から弟子へと伝えるように、正に『剣禅一致』といった仏道と剣道の融合した境地の極意を、伝えることを契った、という意味であろう。そこで現代語訳では、正しい仏法を師から弟子へと代々伝えることを意味する「血脈」(けちみゃく)という語を用いた。

・「大樹」将軍又は征夷大将軍の異称。「後漢書」の馮異(ひょうい)伝に、馮異という将軍は戦場にあって諸将が武功を誇っている折にも、独り大樹の木の下に下がって、功を誇らなかった真の武将であった、という故事に基づく。ここでは家光を指す。

・「昵近」昵懇。親しいこと。心安いこと。「入魂」とも。国訓である。岩波版は「じつきん」のルビを振るが、採らない。

・「東海寺」萬松山(ばんしょうざん)東海寺。現在の東京都品川区にある臨済宗大徳寺派寺院。寛永161639年)年に徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建した。当時、徳川家菩提寺兼別荘相当の格式であった(前掲の「萬年石の事」を参照)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 柳生但馬守はその心法に於いて沢庵和尚の弟子であるという事

 

 柳生但馬守宗矩の屋敷の門前を一人の僧が通りかかり、そこでふっと立ち止まって、撃剣の稽古の音を聞くや、

「――そこそこの使い手ではある――しかし、この程度で御師範なんどとは、しゃらくさいわい――」

それを聞いた門番、聞き捨てならぬその物言いに、これを咎めたのじゃが、この僧、一向にとり合わない。憤慨した門番が、直ちに但馬守へこれこれと注進に及んだところ、但馬守は、

「直ちにその僧を屋敷に呼び入れよ。」

と命じ、僧を座敷へ通し、対面致いた。但馬守は丁重に挨拶を交わすと、

「さて、御身は御出家の御様子乍ら、剣の術を修行なされたものとお見受け致す。さても、何流を学ばれたか?」

と訊ねた。すると僧は、乱暴な口調で、

「――御身は天下の御師範役と聞いておるがの――、しかし、なんとまあ、剣術は下手、よ。――何流か、じゃと? 流儀なんどというものは剣術の極意では、ない。――剣を遣うに、何の流儀が、いるものか!――」

と言い放った。但馬守、聊かカチンと来た。

「しからば、一手御立ち合い願いたい。」

と申し入れた。僧はきっぱりと、

「――心得た。――」

と受けると、但馬守と共に稽古場に赴いた。

 但馬守、木刀を取り、

「御坊は、何をお持ちになられるか。」

と訊ねたところ、

「――某(それがし)は出家の身じゃ――。何を持つか?――何も持つべきものなど、ない!――速やかに、何を以ってなりと――この我を打ち据えなさるがよい!――」

と言い捨てて、稽古場の真ん中に――両手をゆったりと広げて、大股に――すくっと立った。――

 流石の但馬守も、内心、

……ふざけたことを申す坊主じゃ!……

と憤って、一気に撃ち懸かってやろうと、木刀を上段に構えた……。

……が……

……打ち込めぬ!……

……どうしても!……打ち込めぬ!……

その僧の立ち姿を前にした但馬守には、

……どう打ち込んだとしても……その瞬間……如何(どう)にかして――その如何(どう)にかが何であるかが分からぬのだが――ともかく如何(どう)にかして……打ち返され……間違いなく……間違いなく、負ける!――

という確信の直覚が走った。

 ここに至って、流石の但馬守も、即座に木刀を床に置くと、平伏して、

「誠(まっこと)御身は知識道徳の御仁なり! どうか、拙者に、その心法(しんぽう)の修行をこそお教え下さいまし!」

と、只管(ひたすら)、額を床に擦り付けて懇請した。

 するとかの僧は、しゃがみこんで優しく、

「――剣術に於いては――この世広しと雖も――後にも前(さき)にも――そなたに続く者は、おらん――」

彼を褒め讃え、但馬守に、その禅の極意を伝授する血脈(けちみゃく)を即座に与えたという。

 この僧こそが、後に但馬守宗矩より御注進御推挙の上、大樹家光公に近しくなられた、かの東海寺開山の沢庵和尚その人なのであった。

 

 

*   *   *

 

 

 柳生家門番の事

 

 或時但馬守の方へ澤庵來りけるに、門番所に一首の偈(げ)あり。

  蒼海魚龍住、山林禽獸家、六十六國、無所入小身

 右の通張てあり。面白き文句ながら末の句に病ありと澤庵口ずさみければ、門番申けるは、聊病なし、某が句也と答ぬ。澤庵驚きいかなる者と段々尋けるに、朝鮮の人にて本國を奔命して日本に渡り、但馬守方門番をなし居たる也。但馬守聞て、何ぞ身を入るに所なき事や有ると貳百石給り、侍に取立ける由。今に柳生家に右の子孫ありとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:柳生宗矩と澤庵の逸話で、ダブル連関。

・「但馬守」柳生宗矩。前項「柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事」注参照。

・「澤庵」澤庵宗彭。前項「柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事」注参照。

・「偈」(サンスクリット語“gaathaa”ガータの漢訳語)は仏教にあって本来は、仏の教えやその徳を韻文形式で述べたものを指す。中国や日本では特に禅僧が悟達の境地を同様の韻文形式で述べたものをこう呼ぶ。『中国の偈は押韻しているのが普通であるが、日本人の詩偈と呼ぶ儀式に使用される法語には破格のものも多い』(以上はウィキの「偈」を参照した)。

・「病」文芸作品に於ける修辞学上の欠点。この場合は、沢庵にとって大袈裟に感じられた意味内容とも取れるし、もっと感覚的に、日本語で読んだ沢庵が、日本語の漢詩表現として奇異なものを感じたか、若しくは中国音での平仄押韻上の疑義を感じたかのようにも受け取れる。訳ではそこを誤魔化して「難」と訳した。

・「蒼海魚龍住、山林禽獸家、六十六國、無所入小身」訓読すれば「蒼海に魚龍住み、山林は禽獸の家、六十六國、小身を入るる所無し。」である。これは通釈すれば「大海に魚や竜は住み、山林は獣らの棲家――しかし、この広い日本にこの小さな私の、この身の置きどころとて、ない――」といった感じである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 柳生家の門番の事

 

 ある時、柳生但馬守の屋敷を沢庵が訪れた際、門番の詰所に一首の偈が掲げられておった。

  蒼海魚竜住   蒼海に魚龍住み

  山林禽獣家   山林は禽獣の家

  六十六国    六十六国

  無所入小身   小身を入るる所無し

と書いて張ってある。それを眺めながら、沢庵は、

「――なかなか面白い偈じゃ――但し、末の句に、聊か難があるな――」

と沢庵が独り言をつぶやいていると、門番がそれを聞き咎めて、

「いや。難など、ない。私の創った句だから。」

沢庵は――かく巧みな偈を門番如きが創ろうとは――と驚いて、

「お前は何者か。」

と、いろいろ話を聞き質いてみたところが、実はこの門番、朝鮮の者で、本国から亡命して日本に渡り、縁あって但馬守方の門番を致いておるという次第。

 さてもその日、沢庵和尚に対面し、この話を聞いた但馬守は、

「どうしてどうして――身の置きどころとてない――なんどということは、ない――」

と、この門番の男に二百石を与え、侍に取り立てたという。

 今もなお、柳生家にはその子孫が伺候しておる、とのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 大岡越前守金言の事

 

 越前守忠相は享保の頃出身して御旗本より大名となり、政庁の其一人也。大岡出雲守は、惇信院樣の御小姓を相勤思召に叶ひ、段々昇進して御側に至り、後は二萬石に迄御加増有りて、御側御用人を勤、岩槻の城主也。未(いまだ)御側の頃、同姓のよしみある故、越前守も折節雲州の館へも來り給ひしが、雲州或時越州に對し、御身は當時世上にて天下の大才と稱し御用も一方ならず、我も小身より御取立に預り御政事にも携り候儀、願はくば心得にも可成事は不惜教誡し給へと念頃に尋ければ、越州答て、某(それがし)不才にして何か存寄候事も無之、御身は年若にて當時、將軍家の思召に叶ひ、智惠といひ無殘所(のこるところなき)御事、何か教諭の筋あらん、しかし老分(らうぶん)の某なれば、聊御身の心得にならん事不申もいかゞなれ、一事申談じ畢(おはんぬ)。都(すべ)て人に對し候ても世に對し候ても、萬端を合せ候ての御取計可然候、しかし實を以(もちて)合せ給ふ事肝要の心得也と宣(のたま)ひしを、雲州も深く信伏ありしを、雲州側向(そばむき)を勤し大貫東馬といへるもの、後次右衞門とて柳營(りうえい)に勤仕し豫が支配也しが、まのあたり次にて承りしとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:武辺連関。根岸の自身の現実レベルへの事実譚への牽引の意図が見受けられる。

・「大岡越前守」大岡忠相(おおおかただすけ 延宝5(1677)年~宝暦元(1752)年)西大平藩初代藩主。八代将軍徳川吉宗の享保の改革期に、町奉行として江戸の市中行政に辣腕を揮い、評定所一座(幕政の重要事項・大名旗本の訴訟・複数の奉行管轄に関わる事件の裁判を行なった当時の最高裁判機関)にも加わった。最後は寺社奉行兼奏者番(そうじゃばん:城中での武家礼式を管理する職)に至る。「大岡政談」等で知られる名奉行であるが、ウィキの「大岡忠相の事蹟によれば、『市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、享保3年(1718年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。享保10年(1725年)9月には2000石を加増され3920石となる。風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化』した。厚生事業や農事関連として、『享保7年(1722年)に直接訴願のため設置された目安箱に町医師小川笙船から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられると、吉宗から検討を命じられ、小石川薬園内に小石川養生所が設置された。また、与力の加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモ(薩摩芋)の栽培を助成する。将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言して』もいる。また、現在、書籍の最終ページには奥付が必ず記載されているが、『これは出版された書籍の素性を明らかにさせる目的で1721(享保6年)に大岡越前が強制的に奥付を付けさせることを義務化させたことにより一般化した』ものであるという。面白い。因みに、本「耳嚢」の作者根岸鎭衞は、この大岡忠相と並ぶ名町奉行として有名であった。

・「金言」処世の手本とすべきすぐれた言葉。金句。「ごんく」とも読む。

・「享保の頃出身して御旗本より大名となり」ウィキの「大岡忠相」の事蹟によれば、『将軍綱吉時代に、寄合旗本無役から元禄15年(1702年)27歳で書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の一人を務める。宝永元年(1704年)には徒頭、宝永4年(1707年)には使番となり、宝永5年(1708年)には目付に就任し、幕府官僚として成長』、『徳川家宣時代、正徳2年(1712年)正月に37歳で遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任』し、『同年4月には任地へ赴いている。同年には従五位下能登守』、その後の『将軍家継時代の享保元年(1716年)には普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮』した。『同年8月には吉宗が将軍に就任』、『翌享保2年(1717年)江戸町奉行(南町奉行)となる。松野助義の跡役で、相役の北町奉行は中山時春、中町奉行は坪内定鑑。坪内定鑑の名乗りが忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改め』た。『元文元年(1736年)8月、寺社奉行となり、評定所一座も引き続き務める。寺社奉行時代には、元文3年(1738年)に仮完成した公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書の収集整理、青木昆陽に命じて旧徳川家領の古文書を収集させ、これも分類整理する。寺社奉行時代には2000石を加増され5920石となり、足高分を加え1万石の大名格となる。寺社奉行は大名の役職であり、奏者番を兼帯することが通例であるが、旗本である忠相の場合は奏者番を兼帯しなかったため、兼帯している同役達から虐げられたという。そこで将軍吉宗は寺社奉行の詰め所を与えるなどの』格段の配慮もしたという。しかし目出度く『寛延元年(1748年)10月、奏者番を兼任し、同年には三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し、正式に大名となる。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみである。寛延4年(1751年)6月、大御所吉宗が死去。忠相は葬儀担当に加わっている。この頃には忠相自身も体調が優れず、『忠相日記』の記述も途絶えている。吉宗の葬儀が最後の公務となり、同年11月には寺社奉行を辞職し自宅療養し、12月(現在の暦では翌年2月)に死去、享年75』歳であった。

・「大岡出雲守」大岡忠光(宝永6(1709)年~宝暦101760)年)九代将軍徳川家重の若年寄や側用人として活躍した。上総勝浦藩主及び武蔵岩槻藩初代藩主。三百石の旗本大岡忠利の長男。大岡忠相とは縁戚であり(後注「同姓のよしみ」参照)、ここに記すように忠相の晩年には親交もあった(以上はウィキの「大岡忠光」を参照した)。

・「惇信院樣」 九代将軍徳川家重(正徳元(1712 年~宝暦111761)年)の諡号(おくりな)。将軍就任は延享2(1745)年。

・「御小姓」「扈従」を語源とし、中世以降、武将の身辺に仕えて、諸々の雑用をこなす役職。江戸幕府にあっては若年寄支配下で、将軍の身辺雑用を務めた。

・「思召に叶ひ」大岡忠光は、享保7(1722)年八代将軍吉宗に謁見、享保9(1724)年15歳の時、御世継であった当時12歳の吉宗の長男家重の小姓となった。幼い頃から家重に近侍してきた彼は、極端に発音不明瞭(脳性麻痺が疑われる)であった家重の言葉を唯一人理解出来る人物として、異例の出世を果たした(以上は主にウィキの「大岡忠光」を参照した)。

・「御側」後の「御側御用人」と同じ(ここの部分、ややくどい感じがする。 衍字かもしれない)。側用人のこと。将軍の側近くに仕え、将軍の命令を老中に伝達、また老中からの上申などを将軍に取り次ぎ、更には将軍に意見を具申することも可能な重職。定員一名。待遇は老中に準じたが、権勢は老中を遙かに凌ぐ。

・「後は二萬石に迄御加増有りて、御側御用人を勤、岩槻の城主也」大岡忠光は家重の将軍就任(延享2(1745)年)の6年後の宝暦元(1751)年、上総国勝浦藩一万石の大名に取り立てられ、宝暦4(1758)年には五千石加増で若年寄、宝暦6(1760)年にも五千石加増、合わせて二万石を得て武蔵国岩槻藩主及び側用人に任ぜられた(以上はウィキの「大岡忠光」を参照した)。

・「岩槻」武蔵国岩槻。現在の埼玉県さいたま市岩槻区。

・「未御側の頃」とあるので、本話柄は1745年以降1750年以前ということになる(前注参照)。大岡忠相は6873歳、大岡忠光は3641歳である。

・「同姓のよしみ」二人の家系は、江戸初期の旗本で相模国高座郡下大曲村の地頭であった大岡忠世(おおおか ただよ)をルーツとする遠縁である。

・「教誡」 善を教え、悪を誡めること。教え諭すこと。

・「大貫東馬」岩波版長谷川氏注によれば、大貫光政(享保151730)年~天明2(1781)年)『次右衞門。安永二年(1773)御先手与力。勘定吟味方改役。百俵。天明元年(1781)関東川々普請御用で賞され』たとある。仕えた大岡忠光より21歳年下である。根岸より8歳年上になるが、底本の鈴木氏の注によれば、大貫は安永8(1779)年勘定吟味方改役に就任しているが、根岸は既に安永5(1776)年に『勘定吟味役になっていたから、大貫は下役である』と記す。

・「柳營」将軍の軍営。幕府。又は将軍、将軍家。「漢書」周勃伝に載る、匈奴征伐のために細柳という地に幕営した漢の将軍周亜夫(しゅうあふ)が、軍規を徹底させて厳重な戦闘態勢をとって文帝から称賛された故事による。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大岡越前守忠相の金言の事

 

 大岡越前守忠相は、享保の頃、順調に出世昇進して御旗本から大名になった、文字通り、政務を司る官庁の一翼を担った人である。

 また、大岡出雲守忠光は、惇信院家重様の御小姓を相勤め、その折り、家重様のお心に叶い、次第次第に昇進して御側にまで上り詰めた。最晩年には二万石まで御加増を受け、御側御用人を勤めた、武蔵国岩槻藩の城主である。

 この話は、出雲守忠光が、まだ御側の御用人に就いていた頃のことである。

 同姓同族の好(よし)みもあって、越前守忠相も、時折り、出雲守忠光の屋敷に来駕なされることがあった。そんなある日のこと、出雲守が越前守に対し、

「御身は当時の世上で『天下の大才』と称せられ、上様の御重用も一方ならずで御座った。拙者も御小姓から御取立て戴き、今は幾分、御政事(まつりごと)にも関わらせて頂いて御座るが、どうか、拙者の心得と致すべきことなど御座いますれば、惜しまれることなく、御教授下さいませ。」

と懇請した。すると越前守は、

「某(それがし)は不才にして、人に教うべきことなんど、これといって何も御座らぬ身にて……またかえりて御身はと言えば、若年ながら将軍家のお心に叶い、その智慧と言い、至らぬところなき程の身……何ぞ教え諭すべきことなんど、御座いましょうや……されど、年だけは経た老いの我が身なれば、多少なりと御身の心得になろうかということ、申し上げぬというも如何とは存ずればこそ、一言、申し上げようと存ずる。

……総て人に対せんとされる折りにも、広く世間と対せんとされる折りにも、万事繰り合わせて、平常心(びょうじうしん)にてのお取り計らいを然るべくなされるがよかろうかと存ずる……なれど、それ以上に、誠心を以って、何事にも当ることこそが最も肝要の心得と存ずる。」

と仰せになられた。出雲守も、この短くも奥深い一言に、深く感服されたということである。

 この話は、かつて出雲守の御側向きを勤めた大貫東馬という者――彼は後には次右衛門と名乗り、幕府に勤仕(ごんし)した私の部下である――が、その時、直に、次の間に控えて御座った折りに承ったこと――と私に語ったものである。

 

 

*   *   *

 

 

 妖怪なしとも極難申事

 

 安永九子年の冬より翌春迄、關東六ケ國川普請御用にて、予出役して右六ケ國を相廻りしが、大貫次右衞門、花田仁兵衞等予に附添て一同に旅行廻村し侍る。花田は行年五十歳餘にて數年土功になれ、誠に精身すこやかにしてあくまで不敵の生質(きしつ)也けるが、安永十丑の春玉川通へ廻村にて押立村(おしたてむら)に至り、豫はその村の長たる平藏といへる者の方に旅宿し、外々はその最寄の民家に宿をとりける。いつも翌朝は朝速(あさはやく)次右衞門、仁兵衞抔も旅宿へ來りて一同伴ひ次村へ移りける事也。仁兵衞其日例より遲く來りし故、不快の事も有し哉と尋しに、いや別事なしと答ふ。其次の日も又候豫(よが)旅宿に集りて御用向取調ける折から、仁兵衞かたりけるは、押立村旅宿にて埒なき事ありて夜中臥(ふせ)り兼(かね)、翌朝も遲く成しと語りけるが、いか成事やと尋けるに、其日は羽村(はむら)の旅宿を立て雨もそぼふりし故、股引わらじにて堤を上り下り甚草臥(くたびれ)しゆへ、予旅宿を辭し歸りて直に休み可申と存候處、右旅宿のやうは本家より廊下續にて少し放(はな)れ、家僕など臥り侯所よりも隔(へだたり)あるが、平生人の不住所(すまざるところ)に哉(や)、戸垣もまばらにて表に高藪生茂り用心も不宜所(よろしからざるところ)と相みへ侯故、戸ざしの〆(しま)り等も自身に相改(あらため)臥りけるが、とろ/\と睡り候と覺る頃、天井の上にて何か大石など落し侯やう成(なる)音のせしに目覺、枕をあげみ侍れば、枕元にさもきたなき樣の座頭の、よこれ穢はしき嶋の単物(ひとへ)を着し、手を付居たりし故驚、座頭に候哉(や)と聲を可掛(かくべし)と思ひしが、若(もし)座頭には無之(これなく)申す間敷ものにも無之、全(まつたく)心の迷ひにもあるやと色々考へけれど、兎角(とかく)座頭の姿なれば、起上り枕元の脇差を取上ければ形を失ひしまゝ、心の迷ひにあらんと、懷中の御證文などをも尚又丁寧に懷中して、戸ざしの〆り等をも相改、二度臥しけるが、何とやらん心にかゝり睡らざると思ひしが、晝の疲にて思わずも睡りけるや、暫く過て枕元を見けるに、又々かの座頭出て、此度は手を廣げおゝひかゝり居(をり)ける間、最早たまりかねて夜※(よぎ)を取退け、枕元の脇差を取揚ければ又消失ぬ。依之(これによりて)燈をかき立、座敷内改見けれど、何方よりも這入と思ふ所なき儘、僕を起さんと思ひけれど、遙に所も隔りければ、人の聞んも如何と又枕をとり侍れど、何とやら心にかゝりてねられず。又出もせざりしが、全狐狸のなす業ならんと語り侍る。

[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:根岸の実体験レベルへの降下した噂話(都市伝説)で連関。「耳嚢」二つ目の怪異譚であるが、私好みの美事な構成・表現である。

・「妖怪なしとも極難申事」は「極く申し難き事」と読む。

・「安永九子年」西暦1780年。庚子(かのえね)。

・「關東六ケ國」相模・武蔵・上野・上総・下総・伊豆。

・「川普請」幕府の基本政策の一つである用水普請(河川・治水・用水等の水利の利用事業)の一つで、堰普請や土手普請を含む河川改修事業。岩波版の長谷川氏注には根岸が『御勘定吟味役の時、天明元年(一七八一)四月、関東川々普請を監督の功により黄金十枚を受けている』と記す(底本の鈴木氏注にも同様の記載があり、そこには「寛政譜」からと出典が記されている)。根岸は安永5(1776)年、42歳で勘定吟味役に就任しており、安永101781)年時も同役である。

・「大貫次右衞門」前項「大岡越前守金言の事」の岩波版長谷川氏注によれば、大貫光政(享保151730)年~天明2(1781)年)『次右衞門。安永二年(1773)御先手与力。勘定吟味方改役。百俵。天明元年(1781)関東川々普請御用で賞され』たとある。仕えた大岡忠光より21歳年下である。

・「花田仁兵衞」岩波版長谷川氏注によれば、花田秀清(ひできよ 享保7(1722)年~寛政101798)年)『御普請役・支配勘定・御勘定などを勤め』た、とある。この時、59歳。

・「土功」土木事業。

・「安永十丑」西暦1781年。辛丑(かのとうし)。安永10年は光格天皇の即位のため4月2日に天明元年に改元しているが、ここでは「春」とあるので勿論、安永十年で正しい。

・「玉川通」多摩川流域。山梨県と埼玉県の県境にある笠取山を水源とし、山梨県・東京都・神奈川県を流れる。

・「押立村」現在の東京都府中市押立町。多摩川の北岸にあった村。

・「朝速(あさはやく)」は底本のルビ。

・「羽村」現在の東京都羽村市。押立村の上流約40㎞、多摩川の東岸にあった村。ここには、江戸の水源であった玉川上水(この羽村から四谷まで全長約43㎞に及ぶ)の取水口、羽村取水堰がある。玉川上水は承応元(1652)年に幕府が企画し、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が実務工事を請負ったが、掘削は困難を極め、最後には公金も底をつき、多摩川兄弟が自家を売って完成させたともいう。

・「予旅宿」これは根岸が花田仁兵衞から聞いたことを書いているために、部分的に間接話法としての変化を受けてしまった。訳では「貴下の旅宿」とした。

・「座頭」江戸時代、僧形をした盲人が琵琶や三味線を弾いて語り物を語ったり、又は、按摩や針灸などを生業とした者の総称。

・「御証文」ここでは花田仁兵衞の個人的な証文とも取れるが、「御」が附いており、さらにこの日は根岸との事後打ち合わせ「御用向取調」に出席していないことから、当日、踏査した記録類という意味で私はとって「川普請踏査の大事な証書」と訳しておいた。

・「夜※(よぎ)」[※=「衤」+「廣」。]不詳。岩波版ルビに従い、夜着(掻巻のような布団)と解釈した。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妖やしの物の怪は存在しないとは如何にも言い難い一件の事

 

 安永九年子の年の冬から翌年の春にかけて、関東六ヶ国川普請御用を承り、私はこの六ヶ国をたびたび巡回致いたが、その際は部下として、「大岡越前守金言の事」を語ってくれた大貫次右衛門と花田仁兵衛らその他の者どもが私に付き添って一緒に旅し、廻村して御座った。この花田という男は、当時五十歳余りで、長年、普請の現場作業や実務にも慣れており、強靭な精神力を持った不敵にして大胆な好漢である。

 その、安永十年丑の年の春先、多摩川流域の村々を巡り、押立村まで来た。私は村長(むらおさ)の平蔵という者の家に旅宿し、その他の部下は村長の最寄りの民家に宿を取った。普段ならば翌朝早くに次右衛門や仁兵衛らが私の宿っている家(や)に集合した上で、一同共に次の村へと出立するのが常であった。

 ところが、その日に限って仁兵衛が遅刻したので、私は、

「どこぞ体の具合でも悪く致いたか?」

と尋ねたところ、仁兵衛は、

「……いや……別にどうと言うことは御座らぬ……」

と答えると、遅延の詫びを述べて、一同、村長の家を立った。

 ――その日の晩のことである。いつもと同様のことで御座ったが、私の旅宿している家に集まって、本日昼間(ちゅうかん)に踏査した川普請関連記録に就いての整理をしていると、その際、仁兵衛が、

「今朝は、実は……押立村の拙者の旅宿先にて、ちょっとした事が御座って……夜中に寝ねられずして……遅れて御座った……」

とのこと。興味を惹かれて私が、

「どのような事が御座った?」

と尋ねたところ――

 

「……あの日は早朝に羽村の旅宿を立って、雨もそぼ降っておる上に、股引に草鞋ばかりの出で立ちのまま、多摩川堤を上ったり下ったり……ひどうくたびれて仕舞うて、貴下の旅宿へ寄るのはお暇(いとま)致し、真直ぐ拙者に割り当てられた旅宿に帰って休むに若(し)くはない、と思ったので御座る……

……さて、拙者の旅宿の寝所は、その家(や)の母屋から廊下続きになっておる、少し離れた部屋で、拙者の従僕どもが当てがわれた部屋からも離れた場所で御座った……見たところ、普段はもう人の住んでおらぬ部屋であるらしく、戸や垣根も荒れており、裏庭には背の伸びきった竹が鬱蒼と生い茂って、正直、如何にも無用心なる部屋じゃと思いましたればこそ、そこここの戸締まりなどもしっかりと確かめ上、横になり申した……

 

……うとうと致いたと思うた頃……

……ずん!……

……と天井の上で、何か大きな石でも落としたかような音が致し……目が覚め申した……

……目覚めて、頭を起こし、枕上を見ると……そこに……

……見るも穢(けが)らわしい座頭風の者が……如何にも汚(きたな)らしい縞の単衣を着て……両手をついて座っておったのです……

 

……吃驚した拙者は

『座頭であるか?』

と声をかけようと思うたので御座るが……

……もし、その相手が

『――座頭では――ない――』

……なんどと、返事をされないとも限らず……

……座頭体(てい)の者から、そんな返事をされたのでは……これ、又ぞっと致すものなれば……

 

……いや、これは全く以って気の迷い、幻じゃ!……なんどとぐるぐると考えあぐねて御座ったが……

……兎も角も確かに眼前に……

……座頭の姿は、ある……

……そこで、がばと起き直って、枕元に置いた脇差を取り上げたところ……座頭の姿は、影も形のなくなってしもうたのです……

 

……そこで、やはり気の迷いであったかと……懐中の川普請踏査の大事な証書等も一度取り出いて確めた上、再び丁寧に畳んで懐中致し……再度、戸締まり確認の上、再び横になり申した……

……かくなる故、何やらん気に掛かって眠れないのではあるまいかなんどと思って御座ったが……それでも、昼の疲れも手伝ってか、思わず寝入っておりました……

 

……暫く経って……また、ふと覚めました……枕元を見ると……

……また先程の座頭が、居ります……

……いや、今度は両手を大きく拡げると……

……今にも……拙者に襲いかからんばかりの様にて、居るので御座る……

――!――

……拙者は最早たまりかねて、布団を撥ね退けると、枕元の脇差を手に取り上げたところが……また……消え失せてしもうたので御座る……

 

……そこで拙者は起き上がると、部屋の燈心の火を掻き立てて、座敷内(うち)を隈々に至るまで改めて見ましたれど……何処からも、人が入ることが出来よう思われる所は、これ、全く御座らぬ……

……もう、その折りには、従僕をも起こそうかとも思うたものの……連中の寝所も遙か遠くに隔たっておりましたれば……そうこうする内に、よそ人に騒ぎを聞かれるのも如何にも外聞が悪かろうと思い……また、枕を取って横になりました……なりましたものの……かくなっては、流石に何にやらん心に掛かってしまい、眼も冴え返って、遂に寝付けませなんだ……

……この座頭……それっきり、現れませなんだが……

……全く以って狐狸のなす業にて御座ろうか……」

 

――と物語ったので御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 下わらびの事

 

 天明元の年夏の初、予が許へ來る自寛といへる翁、下わらびと記せし二三葉の書を見せけるに、面白き事故、直に其著をありの儘に左に記しぬ。伊奈氏半左衞門手代小川藤兵衞の妻は、何か言つのりて離縁し侍る。女房常に歌よみければかくなん、

  假初(かりそめ)のことの葉草に風立て露の此身のおき所なき

とよみてふすまに書付て歸りぬ。その頃旦那寺の僧は、麻布一向宗にて京都の人也。夫婦とも冷泉爲村卿へ心安く参りける。或夜御伽に出まいらせしに、此物語申上ければ、左程やさしき心ばへならば、いかではしたなき事のありしものをとの給ひしを、下りて藤兵衞に語りぬ。みじかき心を悔みて亦も呼返しぬ、女房はいか計忝く、又常に好める道の事なれば何とぞして御門入(ごもんいり)を願ひける。僧吹擧し侍れども、打咲み給ふ斗にて御免しなかりけるを、切に願ひ奉りければ、さればその女房を一目見し事はなけれども、まへに我言しは、歌を詠む程の者ならば、左のみはしたなき事はあらじものをと言より、呼返しけるとなん、わがけそうしたらんよりと、人の思はんも道におゐて勿躰なし。此女房にかぎりては三神(さんじん)をかけまいらせ弟子にしがたし、歌はいく度も見てとらすべしと仰られけるとぞ。恰も驚き、歸りて女房にいひ聞せければ、かゝる正しき御心まします御弟子に叶はざる事を深くなげき、明暮涙にむせびていつとなくやまふにつき、今はのときにいたりて筆をこひて、

  知る人もなき深山木の下わらびもゆとも誰(たれ)か折はやすべき

と書て身まかりぬ。かの僧上京して爲村卿へしかじかの事申上ければ憐を給ひて、

  今は世になき深山木の下わらびもへし煙の行衞しらずも

と御短冊御染筆ありて、猶も御香典精香二斤送らん、よきに手向よと下され、其女房に子なきやと御尋有ければ、ことし十ばかりにもなりなん女子壹人を侍るよし申上ぬ。歌はよみならはずやとねんごろに尋させ給ふにぞ、稚き故歌はよみ侍らず、去ながら母の子にて百人一首などは常に詠侍ると申上ければ、その女はわが弟子なるぞと、此段言聞せよと仰られしとぞ。僧もあまり忝きに衣の袖をしぼり、江戸に歸りて藤兵衞親子に言聞せ、又爲村卿の御弟子磯野丹波守政武のぬしへも語りしかば、たゞにさしおくべきにあらずとて、則其金子をもて位牌を作り、佛の事共委敷(くはしく)政武みづから書て彫しめ、彼寺に納め置ぬ。此事の始終りを育て下蕨と號するとぞ、政武のぬし物語ありしをあらまし書とめ侍る。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:実体験連関。最初の文学的香気の頂点を形成している。

・「下わらび」下蕨(したわらび)。シダ植物門シダ綱シダ目コバノイシカグマ科ワラビ Pteridium aquilinum の、春から初夏にかけて萌え出でた葉の開いてない若芽を言う。ここでは「知る人もなき」目立たない小さな存在の比喩として示されるが、 実際のワラビは、所謂、鬱蒼とした森林に植生することは少なく、どちらかと言えば、開けて日当たりの良い場所に生育し、大きな群落を作る点では「知る人もなき深山木の下わらびもゆ」という表現は、必ずしも的確とは言えない。

・「天明元」西暦1781年。辛丑(かのとうし)。この年は安永10年として始まるが、光格天皇の即位のため4月2日に天明元年に改元している。ここでは「夏」とあるので勿論、天明元年で正しい。根岸は当時、勘定吟味役であった。

・「自寛」不詳。僧号にも見えるが、であればそのように記すはずであるし、武士ならば当然、明記するはずであるから、これは当時、江戸に無数にいた町人身分の好事家の一人ではなかろうかと思われる。根岸の「耳嚢」の情報源の一人であったのだろう。

・「伊奈氏半左衞門」伊奈忠尊(いなただたか 明和元(1764)年~寛政6(1794)年)伊奈氏最期の関東郡代(郡代在位は1778年から1792年)。ウィキの「伊奈忠尊」によれば、まさに本件の記載時である『天明元年(1781年)織物糸綿改所の騒動を解決した。天明4年(1784年)勘定吟味役上座に就任しこれを兼任する。天明7年(1787年)月に赤坂の20軒の米問屋の襲撃から始った江戸の打ち壊しは、本来なら江戸町奉行の管轄だが手に負えず、関東郡代である忠尊が各地から買い集めた米を江戸市中に大放出し、事態を収拾させた。天明の大飢饉で全国的な凶作であり買い付けはたいへんであったが、それを集められたのは伊奈氏の人気のほどを伺わせる』とあって、その才覚人望の程が知られる。しかし、その後は藩主後継に纏わる一部の家臣団との離反や幕閣との確執によって『寛政4年(1792年)3月9日、勤務中の不行跡、家中不取締りの罪で改易され、所領没収永蟄居』となり、2年後に『お預け先の南部内蔵頭の屋敷で31歳で没した』。

・「手代」は郡代や代官等の下役として農政を担当した下級官吏。出身は百姓・町人身分であった。

・「かりそめのことの葉草に風立ちて露のこの身のおき所なき」離縁申し渡しは、妻の何気ない一言を夫藤兵衛が曲解して激昂した結果というシチュエーションとして捉えて訳してみた。「妻は、何か言つのりて」というのは、「何気ない一言」でないようにも読めるが、ここは「夫が何か言つのりて(妻を)離縁し」たという捩れが示されていると読む。「大風」は勿論、夫の激昂、振り落とされた露は言わずもがな、離縁された妻である。

やぶちゃんの通釈:

 草――私のちょっとした言葉、その言の葉の草――に大風が吹きすさび、その草に置いたはかない露――の如き私――は、あっという間に振り落とされて……孤独なこの身は、最早……この世に置きどころとて御座いませぬ……

・「麻布一向宗」これは恐らく、現在の東京都港区元麻布にある麻布山善福寺派であることを称していると思われる。善福寺は天長元(824)年に弘法大師によって開かれた真言宗の寺院であったが、鎌倉時代、越後配流を許された親鸞聖人が立ち寄り、それを迎えた当時の住持了海上人(当時17歳)が親鸞に傾倒、一山を挙げて浄土真宗に改宗した。後のこの了海上人は真宗の関東六老僧に数えられる名僧となった。一向一揆の際の石山本願寺での織田信長と交戦の際にも、善福寺は籠城する僧に援軍を送っている(以上は麻布山善福寺のHPの「歴史のご紹介」を参照した)。但し、この書き方は、善福寺そのものではなく、その末寺であることを意味しているように思われる。

・「夫婦」その麻布一向宗善福寺派の「旦那寺の僧」夫婦である。真宗の僧はその宗旨から、江戸時代にあっても妻帯が許されていた。

・「冷泉爲村」(れいぜいためむら 正徳2(1712)年~ 安永3(1774(年)公家・歌人。歌道の宗匠家の一つである冷泉派歌道を家業として継承してきた冷泉家の中興の祖。享保6(1721)年に霊元上皇から古今伝授を受けている。宝暦9(1759)年、正三位権大納言。但し、この話柄の頃には既に落飾していた。歌集「冷泉為村卿家集」。

・「伽」退屈を慰めるために話し相手をすることを言う。

・「三神」和歌の道を守護する三柱の神。住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂、衣通姫(そとおりひめ)・柿本人麻呂・山部赤人など、名数には諸説がある。

・「知る人もなき深山木の下わらびもゆとも誰か折はやすべき」の「はやす」は「生やす」で、「切る」の忌み言葉であろう。折り千切るということである。勿論、それに「栄やす」(褒めそやす)の意を掛ける。

やぶちゃんの通釈:

 蕨……誰(たれ)一人として知る人とてない……深山(みやま)の奥の木の下に……小さな蕨が萌え出でたとて……それを……誰一人摘んで折り取っては――蕨の如き妾(わらわ)を褒めては――……下さらない――

・「今は世になき深山木の下わらびもへし煙の行衞しらずも」「萌えし」は「燃えし」を掛け、火葬の煙を引き出す。

やぶちゃんの通釈:

 今はもう消えてしまった蕨……深山(みやま)の奥の木の下に……萌え出でた可憐な蕨――そんな貴女(あなた)は、もう亡くなってしまわれた――その蕨を燃やした、その煙――鳥部山の煙――は、一体、何処へと消え去ってしまったのであろうか……

・「精香」薫香で線香のことを指すか、若しくは「精華」で弔花を指すか。とりあえず高価な御香ととっておいた。識者の御教授を乞う。

・「二斤」1斤=16両=160匁=約600gであるから、約1200g。但し、軽量対象によって換算が異なるようである。

・「磯野丹波守政武」(宝永3(1706)年~安永5(1776)年)八代将軍徳川吉宗の御小姓として知られ、御書院番・小納戸役・寄合(旗本寄合席の正式名称)などを歴任した人物であるが、同時に石野広通・萩原宗固らと共に江戸冷泉派を代表する歌人でもあった。この没年から判断すると、やや本話の真実性には疑義が生ずる。このヒロインは関東郡代であった「伊奈氏半左衞門手代小川藤兵衞の妻」となっているが、伊奈忠尊の関東郡代就任は1778年のことで、この磯野政武が逝去した1776年には、未だ郡代となっていないのである。磯野政武が伊奈半左衛門郡代手代である小川藤兵衛の妻の噂を聞く、というのは有り得ないのである。何より、安永5(1776)年当時、伊奈半左衛門は未だ12歳なのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 物語「下蕨」の事

 

 天明元年、夏の初め、私の家をちょくちょく訪ねて来る自寛という老人が、「下(した)わらび」と題した二、三葉の書き物を私に見せた。なかなか趣きのあるよい物語だったので、その場で直ぐに、以下の通り、そのまま書き写した。その話。

   ――――――

伊奈半左衛門の手代であった小川藤兵衛は、ある時、何やらん自分の妻に激昂し、離縁を申し渡した。その妻という女は日頃、和歌に親しんでいたので、

 

  仮初めの言の葉草に風立ちて露のこの身の置き所なき

 

と詠むと、家の襖にそれを書き付けて、実家へと帰って行った。

 さて、夫藤兵衛の檀家寺の住職という人は、麻布一向宗善福寺派に属する京都の人であった。この僧夫婦はまた、共に冷泉為村卿と親しく、卿の屋敷にもよく参上していた。

 ある夜のこと、この僧が卿のお伽に参上致いた際、この物語を申し上げたところ、

「――それ程、優しき心映えなれば、如何にもその奥方には、はしたなきことなんどありゃしまへんやろに――」

とおっしゃられた。

 この僧が江戸に戻った際、この有り難い為村卿の御言葉を藤兵衛に語った。

 それを聞いた藤兵衛は自身の短慮を悔やんで、再び女を呼び戻して妻とした。

 その妻は為村卿の御言葉を誠にかたじけなきものと感じ入り、また、常日頃より好む歌の道のことなればとて、卑賤の身分ながら何卒、御門の末席にお入れ下さりたく、と願い出た。

 僧は身分違いとは存知ながらも、女の歌の上手なればこそと、その女のことを為村卿に推挙申し上げた。

 しかし、為村卿はただ微笑まれるばかりでお許しにはなられない。女を不憫に思うた僧が重ねて願い挙げ申し上げたところ、為村卿は、

「――されば、その奥方のこと、一目と逢(お)うたことはあらしまへん――なれど、先に麻呂(まろ)が言うた――『あのように美事な歌を詠む程の者なれば、そのように、はしたなきことなんどありゃしまへんやろに』――そう言うたがために――その御人が呼び戻いて復縁致いたとのことであらっしゃればこそ――もし、その奥方をお弟子に致いたれば――麻呂がそのお人の妻に、懸想致いておるなんどと、誰(たれ)彼に思われたり致いては――麻呂の――この歌の道を汚すこととなる――それは不都合なこと――されば、この奥方に限っては、三神にかけ参らせて、お弟子には、でけしまへん――なれど――歌は、何度でも見て上げようほどに――」

と仰られたとのであった。

 僧も、卿の、深い御深慮の上のその御言葉に深く打たれ、江戸に帰って後、藤兵衛妻にも、この御言葉を伝え、御弟子成らざる所以を、言い聞かせた。

 女は、しかし、却って、かかる正しき御心をお持ちにあらせられる方の、御弟子として頂くことが叶わぬとは、と深く嘆き、日々泣き暮らしているうち、程なく病みついて、みるみる重くなってゆき、遂に今際(いまわ)の際という折りに、筆を乞い、

 

  知る人もなき深山木(みやまぎ)の下蕨萌ゆとも誰(たれ)か折りはやすべき

 

と書き残して、身罷かったのであった――。

 

 後、かの僧が上洛致いた折り、為村卿へこうした次第を申し上げたところ、卿は深くお哀れみになられて、

 

  今は世になき深山木の下わらび萌えし煙(けぶり)の行くへ知らずも

 

とお詠みになり、薄墨にて御短冊に染められたのであった。

 為村卿は加えて、御香奠として高価な御香二斤をその僧に贈り下され、その際、

「――よろしくこれにて手向けと致さっしゃれ――それと――その奥方には、子は、ないか?」

とお尋ねになられた。僧が、

「今年十(とお)ばかりにもなる女子(おなご)が一人御座います。」

との由、申し上げたところ、為村卿は、

「――その子、歌は詠み習(なろ)うてはおらんのか?」

と仔細にお尋ねあらせられたので、僧が、

「流石に、幼(おさの)う御座いますれば未だ歌は詠みおりませんぬ。然りながら、この母の子にてありますれば、百人一首などは、よう詠んで御座いまする。」

と申し上げたところ、卿は即座に、

「――その女子(おなご)は麻呂の弟子なるぞ、と――これ、よく言い聞かすがよい――」

と仰せられたとのことである。

 僧もあまりのかたじけなさに衣の袖を絞る程に心打たれ、江戸に帰ると、藤兵衛親子にこのことを伝え、言い聞かせたのであった。

 さてもまた、当時、江戸にあって為村卿の御弟子であった磯野丹波守政武殿へも、たまたまこの僧がこの話を致いたところが、政武殿は、

「それは聞き捨てておく話では、これ、御座らぬ。」

と、直ちにに小川藤兵衛方を訪ね、身銭を切って、その亡妻の位牌を造らせ、更に件(くだん)のことを政武殿自ら詳しく書き執って位牌の裏に彫らせて、かの僧の寺に納め置いた。

 

――この一部始終を筆録致し、「下蕨」という題を附けた、と政武殿が徒然の夜話の中で語って御座ったことを、あらまし、書き止めたものに御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 狂歌の事

 

 近き頃何とかいへる狂歌人濕瘡を煩ひける。心安き友どち尋訪(たづねとひ)けるに、右友人の在所/\も遙なる人なれば、狂じて我身のうへを詠けるに、

  加賀武藏 紀伊  駿河 美濃肥前   出羽安房壱岐甲斐

  香がむさし氣のくにするが身のひぜんこれでは哀れいきがひもなし 

この狂歌程あそびなきはなしと、曲淵甲斐ものがたりゆへ記ぬ。

[やぶちゃん注:和歌の前の国名は底本ではポイント落ちである。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌文学及び実体験で連関。

・「濕瘡」疥癬。節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱ダニ目無気門(コナダニ)亜目ヒゼンダニ科ヒゼンダニSarcoptes scabiei var. hominis が寄生することによって起こる皮膚感染症。本種はヒトにのみ限定的に寄生し、ヒトの皮膚角層内にトンネル状の巣穴を掘って棲息する。主症状は激烈な痒みで、初期には指間部・手首及び肘の屈曲面・腋窩の襞・ベルトに沿ったウエストライン・殿部下方等に紅色の丘疹が現れる。この丘疹は体の如何なる部位にも拡大可能であるが、通常、成人では顔面に出現することはない。ヒゼンダニの形成するトンネルは微細な波状を成し、やや鱗状の屑を伴う細い線として認められ、その長さは数㎜から1㎝程度、一方の端にはしばしば小さな黒い点(ヒゼンダニ本体)を認め得る(病態については万有製薬の「メルクマニュアル」の「疥癬」の記載を参照した)。

・「香がむさし氣のくにするが身のひぜんこれでは哀れいきがひもなし」は、

やぶちゃんの通釈:

 疥癬による皮膚炎が著しく悪化したため、体中から何やらん臭い匂いが立ち上って、耐え切れぬ痒みだけではなく、その鼻が曲りそうな臭気のことも気に病んで仕方がない――これも総ては我が身の非善の業なればこそ――これでは最早、生き甲斐とてない……

の意で、それに、友人たちが遙か遠国からも見舞いに来てくれたことへの感謝の意を示して、国尽くしで、

加賀(現在の石川県南部)・武藏(現在の東京都・埼玉県と神奈川県東部)・紀伊(現在の和歌山県のほぼ全県と三重県の一部)・駿河(現在の静岡県中部)・美濃(現在の岐阜県南部)・肥前(壱岐対馬を除く長崎及び佐賀両県)・出羽(現在の秋田及び山形両県)・安房(現在の千葉県南部)・壱岐(現在の長崎県壱岐島)・甲斐(現在の山梨県)

の十ヶ国の国名を読み込んだもの。この歌については底本注で鈴木氏が、「巷街贅説」(寛政3(1791)年より安政元(1856)年に至る江戸市中の巷談俚謡を塵哉翁なる人物が蒐集したもの)巻一に『十箇国之歌、難波人甚久法師の詠として載っている』とある。

・「あそび」諧謔形式の和歌としての最低限の文学的香気を言うのであろう。確かに、むずむずするほ程に痒く、そうしてぷーんと臭(にお)ってくる狂歌ではある。しかし、その「あそび」のなさは、実は、この、とって附けたような前振り故に『効果的に』その匂いと痒みが倍加されているような気がする。してみれば、これは前注にあるように本来はただ十国尽しの狂歌としてあったものに、如何にもな前段を付与したと考えるのが妥当であるように感じられる。

・「曲淵甲斐」曲淵甲斐守景漸(かげつぐ 享保101725)年~寛政121800)年)のこと。前項「ちかぼしの事」に既出。以下、ウィキの「曲淵景漸」によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』で、『1743年、兄・景福の死去に伴い家督を継承、1748年に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進、1765年、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。1769年に江戸北町奉行に就任し、役十八年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力』、『1786年に天明の大飢饉が原因で江戸に大規模な打ちこわしが起こり、景漸はこの折町人達への対処に失態があったとされ、これを咎められ翌年奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。松平定信が老中に就任すると勘定奉行として抜擢され、定信失脚後まで務めたが、1796年、72歳の時致仕を願い出て翌年辞任した』。天明の大飢饉の際に『町人との問答中に「米がなければ犬を食え」と発言し、この舌禍が打ちこわしを誘発するなど失態もあったが、根岸鎭衞と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった』とある。根岸の一回り上の上司にして、本「耳嚢」の情報源の一人である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 十箇国狂歌の事

 

 最近のことであろう、狂歌師として知られた或る人が、ひどい疥癬を患ったという。心安くしていた友達らが見舞いに訪れたところ、この友らのそれぞれの在所は遠く――正に何れも遙か遠いところに住まう人であったので――洒落ながら、自身の身の上を詠んで見せた、その歌――

 

  香がむさし   

 (加賀)(武蔵)

   気の苦にするが

   (紀伊の国)(駿河)

    身の非善

   (美濃)(肥前)

     これでは哀れ

     (出羽)(安房)

      生甲斐(かい)もなし

     (壱岐)(甲斐)

 

「……この狂歌ほど、えげつのうて文雅のないものは、ないのう……。」

と、曲淵甲斐守殿が私に語って聞かせ、かく感想も添えて呉れたので、ここに記す。

 

 

*   *   *

 

 

 相學奇談の事

 

 或人かたりけるは、浅草邊の町家に居る相人(さうにん)甚其術に妙を得たり。予が友人もその相を見せけるに、不思議に未前を言當けると咄しき。爰に糀町(かうじまち)邊に有徳(うとく)成(なる)町家にて、幼年より召仕、手代に取立、店の事も呑込實躰(じつてい)に勤ける故、相應に元手金をも渡し、不遠別株にもいたし遣さんと心願しに、或日彼手代右相人の許へ来りて相を見せけるが、相人の曰、御身は生涯の善惡抔見る沙汰にあらず、気の毒成事にはくる年の六月には果して死し給はんと言ければ、彼者大に驚きけるが、猶又右相人子細に見屆、兎角死相ありと申ければ、強て實事とも思はねど禮謝して歸りけるが、兎角心に懸りて鬱々として樂まず。律儀なる心より一途に、來る年は死なんとのみ觀じて、親方へ暇を願ひける。親方大きに驚、いか成語ありてとせちに尋けれど、さしたる譯もなけれど唯出家の志しあればひらに暇を給るべしと望しゆへ、然らば心掛置し金子をも可遣と言ければ、本より世を捨る心なれば、若(もし)入用有(あら)ば可願とて一錢をも不受、貯へ置し衣類など賣拂ひ小家を求め、或ひは托鉢し又神社佛閣にもふで、誠にその限の身と明暮命終(みやうじゆう)を待暮しけるが、或日兩國橋を朝とく渡りけるに、年頃二十斗の女身を沈めんと欄干に上り手を合居しを、彼手代見付引おろし、いか成語(こと)にて死を極めしやと尋ければ、我身事は越後の國高田在の百姓の娘にて親も相應に暮し侍るが、近(ちかき)あたりの者と密通し、在所を立退江戸へ出、五六年夫婦くらしけるが、右男もよからぬ生れにて身上(しんしやう)も持崩し、かつがつの暮しの上、夫なる者煩ひて身まかりぬ、しかるに店賃(たなちん)其外借用多くつぐのふべきたつきなけれど、我身の親元相應なる者と聞て、家主其外借金方より負(お)ひのみすまし候樣に日々にせめはたりぬ、若氣にて一旦國元を立退たれば、今更親元へ※(かほ)むけがたく、死を極めし也、見ゆるして殺し給へと泣々語りければ、右新道心も、かゝる哀れを聞捨んも不便(ふびん)也、右店賃借用の譯等細かに聞けるに、纔(わづか)の金子故、立歸り親方へかく/\の事也、兼て可給金子の内、我身入用無之故かし給はるべしと歎ければ、親方も哀れと思ひ、右金子の内五兩程遣しければ、右の金子にて仕拂ひいたし店(たなを仕廻(しまは)せ、近所の者頼て親元へ委細の譯を認め書状を添、在所へ送り遣しければ、右親元越後なる百姓は身上(しんしやう)厚く、近郷にて長(をさ)ともいへるもの故、娘の二度歸り來りし事を悦び昔の勘氣をゆるし、兩親はらからの歡び大かたならず。贈りし人をも厚く禮謝し、右青道心の許へもかきくどきて禮をなしつると也。これはさて置き、くる年の春も過、夏もやゝ六月に至り水無月はらひも濟(すみ)けれど、青同心の身にいさゝか煩しき事もなかりし上、なか/\死期の可來(くべし)共思われざれば、扨は相人の(口に)欺(あざむか)れける、口惜き事よ、親方へも一部始終有の儘に噺しければ、親方も大に驚き、汝が律義にて欺れしは是非もなし、彼相者の人の害をなせる憎さよ、我(彼の相人の所江(え)行(ゆき)、せめては恥辱を與へ、以來外々(ほかほか)の見ごらしにせんと)青同心を連て相者の許へ至り、右道心を門口(かどぐち)格子の先に殘し置、さあらぬ躰(てい)にて案内を乞、相人に對面し、相を見て貰(もらは)ん爲(ため)來りしと申ければ、相人得(とく)と其相を見て、御身の相何も替る事なけれど、御身は相をみせに來り給ふにあらず、外に子細ありて來り給ふなるべしと、席を立て表の方を見合(あはせ)、同心の格子のもとに居しを見て、扨々不思議成事哉(かな)、こなたへ入給へと右道心の樣子を微細(みさい)に見て、御身は去年の冬我(われ)相しけるが、當夏迄には必ず死し給はんと言し人也。命めでたく今來り給ふ事、我相學の違ひならん、内へ入給へと、座敷へ伴ひ天眼鏡に寫し得と相考、去年見しにさして違へる事なきが、御身は人命か又は物の命を助給へる事のあるべし、語り給へと言ひける故主從大に驚き、兩國にて女を助し事、夫よりの始終委しく語りければ、全く右の慈心より相を改候也。此上は命恙(つつが)なしと横手を打て感心なしける。主人も大に歡び、右手代に還俗させて、越後へ送りし女子を呼下(よびくだ)し夫婦と成(なり)、今まのあたり榮え暮しけるとなり。

[やぶちゃん字注:「※」=「白」(上)+「ハ」(下)。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。文雅に流れた結果、庶民層の話柄から離れ、上流階級に偏重しないように気を使ったか。いや、それよりも、根岸好みの奇談性の流れを復活させたかったからというべきであろう。話柄としては面白いが、その人物の動きはかなり「山事の手段は人の非に乘ずる事」を踏襲しており(特に「右道心を門口格子の先に殘し置、さあらぬ躰にて案内を乞」という辺り)、作話者の共通性を感じさせるものがある。

・「糀町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の長谷川氏の「山事の手段は人の非に乘ずる事」の「糀町」注を加味して作成した)。

・「手代」商家の店員の地位の一。旦那の下、番頭→手代→丁稚の順。現在なら係長・主任クラスに相当し、接客業務を主とする。

・「別株にもいたし遣さん」暖簾分けをしてやる。分家させるてやる。

・「神社佛閣にもふで」ママ。

・「つぐのふべき」ママ。

・「負(お)ひのみ」「負ひ」は負債で借金全体を指す語であるが、ここでは後に限定の副助詞「のみ」があるので、借金の利子を除いた元金を言っているのであろう。

・「水無月祓」大祓(おおはらえ)のこと。神道で旧暦の6月と12月の晦日に行われる、罪や穢れを祓うための行事(新暦下では6月30日と1231日)。犯したを除き去るための祓えの行事で、6月のものを夏越の祓(なごしのはらえ 又は夏越神事・六月祓)、12月のものを年越の祓(としこしのはらえ)と言って区別する。なお、能に「水無月祓」(みなづきばらい)という演目があり(伝世阿弥作)、これは互いに恋慕しながらも別離した男女が下鴨神社の夏越の祓で再会するというハッピーエンドの作品である(ここはウィキの「水無月祓(能)」を参照した)。もしかすると、ここに「水無月祓」を示したのは、この主人公の男が最後に、身投げを助けた女と結ばれるというストーリーを暗示させるために示した伏線でもあるのかも知れない。

・「思われざれば」ママ。

・「(口に)」底本には右に「(尊經閣本)」と、引用補正した旨、記載がある。ここの部分、岩浪版(カリフォルニア大学バークレー校版)では『はとのかいに』とある。「はとのかい」は「鳩のかい」(「かい」には戒・飼・卵などの字を当てる) 詐欺師、騙(かた)りのことで、山伏や占者の姿をして家々をまわり、熊野の新宮・本宮のことを語り、当該神社の神鳩への飼料代と称して金銭を詐取した者を由来とすると言われる。しかし下に「欺されて」とあるので、屋上屋であるから採らない。

・「(彼の相人の所江(え)行(ゆき)、せめては恥辱を與へ、以來外々(ほかほか)の見ごらしにせんと)」底本には右に「(尊經閣本)」と、引用補正した旨、記載がある。

・「江行」「江」はママ。但し底本では「江」の字のみ、ポイント落ち。

・「慈心より相を改」の部分について、岩波版注で長谷川氏は死を宣告されるも、人命を救って死相を脱するという類話は多く見られることを記し、最後に「春雨楼叢書」十一「相学奇談」『は本章と全く同文』とある。「春雨楼叢書」というのは清代の朱士端が撰した漢籍である。しかし、数少ないネット記載を見る限りでは、灸の事などでも日本のことが記されている。こんな日本の話が掲載されている漢籍とは、どのような性質の書物なのか、興味深い。識者の御教授を乞うものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 観相学奇談の事

 

 或る人が言うことには、

「……浅草の町屋に住んでいる人相見があるが、これがまた、その観相学の術の妙、ってえのを心得てる。私(あっし)の友人も、その人相見に占わせたところが、不思議に、これから起こることを、ぴたりと言い当てるってえこった。……」

という話――

 

 ここに、麹町辺りで繁昌している商家があり、そこに少年の頃から丁稚として召し仕って、手代に取り立てたばかりの男がいた。店の商いのこともすっかり呑み込んでおり、実直に勤めていたから、主人も、

『相応にも元手を出してやって、近いうちに暖簾分けでも致いてやろう。』

と心掛けていた。

 

 ある日のことである。その手代、何気なく、かの浅草の人相見の元を訪れ、相を見てもらった。

 すると、人相見は手代を一目見るなり、

「――御身は――向後の生涯の良し悪しなんどを――観るどころではない――気の毒なことに――来たる年の六月には確かに――死ぬ――という相が出ておる――」

と言う。さればこそ、手代も驚愕……人相見はなおも……ぐっと身を引いて全体を、また、ぐっと近寄って仔細に手代の顔を見る……而して……また見終えて後、

「――兎も角も――死相が現れて――おる――」

とのことであった。

 手代はその時は、所詮は占いのこと故、真実(まこと)とも思われぬ、なんどと内心感じながらも、礼金を払い、丁寧に挨拶を致いて、相人の家を後にした……。

 

 ……だが……やはり、気に懸かり出す……

 ……鬱々として心も晴れぬ毎日が続く……

 ……元が何事にも一途な心の持ち主であったが故に……結局……

『……来年には……死ぬ……のじゃろか……』

とばかり思い詰めるようになった……

 

 ……そうして遂に、彼は主人に暇(いとま)を願い出た。

 主人は大層驚き呆れ、

「……如何なる訳あって!……」

と強く問い質いた。

 しかし、手代は、

「……これと言った訳は御座いませぬ……ただ出家致したき志しに侍ればこそ……どうか……ひとえにお暇(いとま)を給わりまするよう、御願い申し上げまする……」

と望むばかり。主人も致し方なく、

「……それほどの発心にてとなれば……これはもう、仕方がないことじゃが……時に、お前さんの暖簾分けにと心掛けて溜め置いた金子が、ここに少しばかりある。これをあげるから、持って行くがよい。」

と告げたのだが、その折角のお情けにも、

「……元より世を捨つる心なれば……万が一……入用(いりよう)になるようなこと……御座いますれば……お願いに上がりますれば……」

とて、一銭も受け取らず……相応の時日をこの店に勤めておったれば、それなりに貯え置いた衣類などもあったのだが、それもすっかり売り払ってしまい、男は主家を後にした……。

 

 ……その後、男は小さな家を買い求め、そこに身を置きながら、或いは托鉢を、或いは神社仏閣に詣で……誠(まっこと)、その日その日にがその日限りの身の上といった有様で、日数を数えては、命終の、その最期の日を待ち暮らしておるばかりであった……。

 

 ……そんな或る日のことである。

 朝早くに両国橋を渡っておると、年頃二十歳(はたち)ばかりの女が身を投げようと欄干に這い上って、手を合わせて、座っている……それを見るや、かの元手代は、すぐさま女の袖を捉えて引きずり降ろすと、

「一体、如何なる訳で、死のうなんどと、極めたか!」

と厳しく問い質いた。すると女は、

「……私めは越後の国は高田の在の百姓の娘で御座います……親も相応の暮らし向きにて御座いましたが……私……近在の男と密通致いて……家出した上、二人して江戸へ駆け落ち……五、六年、夫婦のように暮らしておりましたが……この男、生来卑しき生まれの者で御座いましたので、身上(しんしょう)もすっかり持ち崩してしまい、その日の暮らしにも困る有様……それに加えてその夫が、ふと患い臥して、遂には身罷りましたので御座います……なれど……亡き夫には、家賃その他何やかやと私も存ぜぬ借金ばかりが多く残っておりました……勿論、返そうと思うても、日々の生計(たつき)さえなき身……ところが貸主の方の中に、私めの親元が相応の暮らし向きの者なることを伝え聞き……家主その他借金を致しました方々が押しかけて参られ……貸した元金だけでもさっさと払いを済ませよと……日々、矢の催促、責められて責められて……責められ尽くされ……されど……若気の至りにて、一旦、故郷(ふるさと)を捨てた身なればこそ……今更、親元へ顔向け出来ようはずもなく……かくなる上は……死を極めんと致いて御座ったればこそ……どうか……後生で御座いまする……お見逃し下さいませ…………」

とさめざめと泣いて語ったのであった。

 新発意(しんぼち)となった元手代の男も、この話、如何にも聞き捨て難く不憫なことと思い、試みに、その店賃その他借用の内訳等仔細に聞き質してみると、これが、思うたよりも大した額ではない――。

 

 ――男は、女を促すと、その足で、かつての主人の元を訪ね、連れの女のかくなる仔細を、ありのままに主人に話した上、

「――身勝手なる申し出で御座いまするが――あの折り、下さるべく御用意なされた金子――出家致いた我が身には入用なきものに御座いますればこそ――どうか、この女にこそ、貸し与えて下されたく……」

と、己が身の苦しみの如く、搾り出すように声を出だいて請い願う様を見るにつけ、元の主人も如何にも哀れと感じ、その貯え置いた金子の内から五両ばかり、この元手代に渡してやった。

 男はこの金で、女のまずはこまごました借金を返済致し、溜まりに溜まっていた大口の店賃の未払いなどをも万事遣り繰り致いた上で――新発意となってから心安くするようになった、近所のしっかりした男に無理を言って頼み込むと――縷々事情を書き記した文(ふみ)を添え持たせて、女を越後の在所へと、送り帰してやったのであった――。

 

 ――この越後の女の親の家というのが、また、地元でも知られた――近郷にても知らぬ人とてない長者格の――家柄であったため、娘が再び帰り来たったことを殊の外悦び、昔日の勘当も許され、親兄弟の喜びようも一方ならず、遠く江戸から娘に付き添って送り届けに来た者にも手厚い謝礼がなされ、かの新発意の男の元へも、直ちにくどいまでの懇切丁寧な礼状に添えて――元の主人に借りた五両を遙かに超える――謝礼をも成したのであった――。

 

 ――さても、このことはさておき、新発意自身のことに話を戻すことと致そう――

 

 ――「あの」人相見の言うた翌くる年――その春も過ぎた――

 ――六月に至り、とうとう六月三十日の水無月祓(みなづきはらい)も終わる――

 ――ところが――

 ――男の身には――些かも何ぞ患うような気配もない上に――死期なんぞ――何処(いずこ)を探そうとも――来たらんようには――さらさら――思えぬのである――

 ここに至って、男は、

『さては――あの人相見に騙されたか! 口惜しや!』

と――決まりが悪くはあったものの、どうにも悔しくて悔しくて――男は、慕うところの元の主人を再び訪ね、一部始終、ありのまま、総ての真実(まこと)を告白した――。

 主人は又しても驚き呆れると同時に、この男への憐憫に相俟って、かの人相見への憤怒の念が、むらむらと湧き起こって来た。

「……お前さんの律儀な性質(たち)がつけ込まれ、騙されてしもうた……それは最早、是非もない……されど!――かの人相見、その『人の生』を害せんとする、憎っき所業! ともかくも! 私はこれからかの相人のところへ行き、せめても完膚無きまでに屈辱を与え、向後、こんなとんでもない輩への厳しい見せしめにしてやらねば気が済まぬ!」

と言うが早いか、新発意を引っ張って、浅草の人相見の元へとひたすら走る――。

 

 ――主人は人相見の店先へと至ると、とりあえず、この新発意を門口の格子戸の陰に残し置いて、何でもないただの人相見に参った客を装い、案内を乞い、表向き至って落ち着き払って、人相見に対峙した。

「相を見て貰わんとて参った。」

と穏やかに言う――。

 人相見は、凝っと主人の顔を見詰める――。

「――御身の人相には格別変わった相はこれなし――されど、御身は――人相を見せに来られたのでは、御座らぬの――外に何か仔細があって来られたのであろう――そのように、相に現れておりますて――」

と言うが早いか、人相見はつっと席を立って、何かに促されるように店の表の方へ向かって鋭く目を向け、格子戸のところに男がいるのを見るなり、

「――!――さてもさても――これは不思議なること!――こちらへ! さあ、お入りになられよ!――」

と、あっけにとられたかの新発意を前に、店先に出た人相見は、その場で立ちながら男の顔を仔細に眺め、

「――御身は昨年の冬に拙者が人相を拝した御仁じゃが――本年夏迄には必ずお亡くなりになられる――と断言致いた――じゃが――命めでたく、今日(きょう)、ここに来られたこと――これは拙者の観相に誤りがあってのことか?――ともかく、内へ、お入りあれ!」

と、自ら座敷内へ伴い、座らせると、天眼鏡を取り出して、細部までじっくりと相を観る――主人と当の男は固唾を呑んで黙って見守っているばかり――。

「――去年見た折りと、さして違(たご)うところはない――ないが――もしや!――御身は人の命か、又は何か謂われのある大切な何ものかの命かを、助けたことがあったであろう!?――お語りあれかし!――」

と言い放った。されば主従合わせて大いに驚き、両国で女を助けたこと、その後(のち)の一部始終を詳しく語ったところが、

「――全く以って、その慈しみの心じゃ!――その心故、相が改まったのじゃ!――この上はもう命恙なきこと、請け合いじゃ!――」

と言うと、人相見は、両手を、ぱん! と叩いて、しきりに首を縦に振っては、一人感心していたという――。

 

 ――主人は大喜びで、男を還俗させ、再び手代に致いて、越後へ送ってやった、あの女子(おんなご)を呼び寄せると夫婦(めおと)と成さしめたことは――言うまでもない。

 この夫婦、今も、そのままに、二人幸せに暮らしておる、ということである。

 

 

*   *   *

 

 

 池田多治見が妻和歌の事

 

 備前の家士池田多治見が妻は坊城大納言の妹也しが、常に菊を好作りけるに、或時夫の心に不叶事やありけん、離縁を申出ければ其妻かくなん、

 

 身の程はしらでわかるゝ宿ながらあと榮え行千代の白菊

 

と詠けるを、其友たる者聞て、夫に背き憤る心にてはかくは詠むまじきとて、多治見が短き心を諌め、元のごとく夫婦と成榮えけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項とは連関を感じさせないが、前々項「狂歌の事」に示された、歌と人事に明白に連関。

・「備前」備前国岡山藩(現・岡山県岡山市)。「耳嚢 巻之一」の下限は天明2(1782)年春までであるので、本話時の藩主は池田治政(寛延3(1750)年~文政元(1819)年 藩主在位:明和元(1764)年~寛政6(1794)年)であったと考えてよい。下限から遡ること、18年前までが治世でカバーできるからである(因みに治政が藩主に就いた寛延3(1750)年では根岸は未だ27歳である)。

・「家士」岡山藩藩士。

・「坊城大納言」坊城家は鎌倉末期に創設された藤原氏北家高藤流勧修寺庶流で、岩波版長谷川氏注では、従一位権大納言であった坊城家14代俊清(としきよ 寛文7(1667)年~寛保3(1743)年)、若しくは正二位前権大納言であった15代俊将(としまさ 元禄121699)年~寛延2(1749)年)か、とする。俊清は12代俊広の子で、姉か妹がいた。俊将は勧修寺尹隆(かじゅうじただたか:藤原氏北家高藤流甘露寺支流)の子で、やはり姉か妹がいたことまでは確認出来た。

・「身の程はしらでわかるゝ宿ながらあと榮え行千代の白菊」「しらで」と「白菊(しらぎく)」の掛詞以外は、鈍感なために歌の好さがよく分からない。識者の御教授を乞う。

やぶちゃんの通釈:

身のほども弁えぬことを成して……御勘気を受け、お別れせねばならぬ我が家……けれど、けれど、ただ一つ願うことは……後に残してゆく純白の菊の花、その全き白とともに……永遠に池田の家が栄える続けますように――。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 池田多治見の妻の和歌の事

 

 備前の家士、池田多治見殿の妻は坊城大納言卿の妹であり、日頃、菊作りを好んでいたのだが、ある時、夫に何やらんひどく気に入らぬことがあったのか、妻に離縁を言い渡した。妻は、家を出る折り、

 

  身の程は 知らで別るる 宿ながら あと栄え行く 千代の白菊

 

という歌を詠んで去ったという。

 後日、この歌を治見殿の友人が聞き、

「夫に背き反感を抱いているような下種の女心にては、このように素直な歌は詠めまいぞ――」

と多治見殿の短慮を諌めた。多治見殿も己が誤りを認めて、元通りに復縁致し、後々まで幸せに暮らした、ということである。

 

 

*   *   *

 

 烏丸光榮入道卜山の事

 

 光榮は和歌の聖ともいゝ侍りけるが、寶暦の此にや、親鸞上人大師號願ひの事にて、敕勘を蒙り蟄居ありしが、天明の帝御即位の御いわゐに勅免ありければ、

 思はずよ惠みの露の玉くしげふたゝび身にもかゝるべしとは

 

□やぶちゃん注

○前項連関:歌と人事で連関。

・「烏丸光榮入道卜山」人名の誤り。まず、烏丸光栄(からすまるみつひで 元禄2(1689)年~延享5(1748)年)は公卿にして歌人で、『烏丸宣定の子。正室は松平綱昌の娘。累進して、正二位内大臣に至る。なお、烏丸家で内大臣にまで至ったのは、この光榮だけである。号は、不昧真院。法名は、海院浄春。和歌を霊元天皇をはじめ中院通躬や武者小路実陰に師事した。また和歌の門下には有栖川宮職仁親王や桜町天皇がいる。また、三上藩主である遠藤胤忠にも古今伝授を授けた。』『優れた歌人であり、「栄葉和歌集」や「詠歌覚悟」などの著書がある』(ウィキ「烏丸光栄」より引用)のであるが、ここで語られているような事件には関わっていないし、「入道」でもないし、従って「卜山」(ぼくざん)という法号も持たない。従って、これは烏丸光栄ではない。「入道」であり、法号「卜山」であり、本文に類似したエピソードの持ち主であり、更に烏丸光栄と誤りそうな者としては、その光栄の子である烏丸光胤(からすまるみつたね 享保6(1721)年又は享保8(1723)年~安永9(1780)年)がいる。彼は清胤とも言い、宝暦101760)年に出家し「入道」となっており、その法名も「卜山」と言った。従二位権大納言であったが、宝暦事件に連座して厳しい処分を受けている。この宝暦事件とは(以下、ウィキ「宝暦事件」より引用)、

『江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけうちしきぶいっけん)とも』呼ばれる事件で、『桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった。』『その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。やがて1756年(宝暦6年)には式部による桃園天皇への直接進講が実現する。』『これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白一条道香は近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで一条は公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8年)式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。一方、式部は京都所司代の審理を受け翌1759年(明暦9年)重追放に処せられた』

という事件である。岩波版長谷川氏注では、この事件よって烏丸光胤は官を止められた上、『安永七年(1778)に蟄居、同九年九月に没』していると記す。延々と引いたのは、これは本話柄と烏丸光胤は必ずしも一致しないからである。まず、この事件は本文にある「親鸞上人大師號願ひの事にて、敕勘を蒙り蟄居ありしが、天明の帝御即位の御いわゐに敕免あり」云々の事件とは、全く異なるという点(この事件については後注参照)、更に長谷川氏の記載を素直に読むならば、烏丸光胤は蟄居の果てに不遇の内に没したという記載と読んで問題ないと思われ、即ち、彼への勅許による復帰はなかったと読めるのである。但し、後注で示す通り、「天明の帝御即位」は安永8(1779)年11月、彼が死んだのがその5ヵ月後の安永9(1780)年4月なので、光胤が(例えば病態重く)「天明の帝御即位の御いわゐに」特に「勅免」を受けたと考えることは可能である。何れにせよ、事件内容が異なる以上、やはり本話の主人公を烏丸光胤と同定することは出来ない。さて、岩波版では(失礼なもの謂いをさせて戴くが)校注者である長谷川強氏が、勝手に、本文を「光胤」に『訂正』されている。しかし、以上述べてきたように本記載はその全体から見て、「光胤」とすることを『訂正』とは言い難い。私はそのままの状態で示すこととした。なお、底本で鈴木氏は『中山栄観の誤』とされている。この人物とその同定の是非については、次の「親鸞上人大師號願ひの事にて、敕勘を蒙り蟄居ありし」の注で考察する。

・「親鸞上人大師號願ひの事にて、勅勘を蒙り蟄居ありし」この事件はまずその首謀者松下烏石から説明する必要がある(以下、彼の事蹟については好古齋氏のHP中の「松下烏石」を参照した)。松下烏石(元禄121699)年~安永8年(1779)年)は書家として知られる人物で、本姓は葛山氏、烏石は号である。荻生徂徠の流れを受ける服部南郭門下の儒学者であったが、無頼放蕩を繰り返し、放埓にして問題のある性格の持ち主であった。晩年に京都に移ってから西本願寺門跡賓客となったが、丁度、宝暦111761)年が親鸞五百回忌に当たっており、それを受けて親鸞に対し朝廷から大師号を授けて戴けるよう、東西両本願寺が朝廷に願い出ていたが(陳情自体は宝暦41754)年より始まっていた。結局、この申請は却下される)、烏石は中山栄親・土御門泰邦・園基衡・高辻家長らの公家と謀り、西本願寺及びその関係者に、金を出せば大師号宣下が可能になるという話を持ち込み、多額の出資をさせた。ところがそれが虚偽であり、烏石が当該出資金を着服していたことが暴露告発されるに及び、上記公家連中が蟄居させられた。これが本文に言う「敕勘」事件である(烏石の処分は不明とされる)。そうすると本話のモデル候補としては、この連座した公家の中の一人と目されるので(名前に「烏」とか「山」とかの字があるから「烏丸光榮入道卜山」と間違える要素があるので松下烏石自身をそれに加えても良いように思われはするが、彼は有名な書家ではあったが、その華々しい不良履歴から「和歌の聖」と呼ばれたとは、到底、思われないし、彼の処分は「蟄居」であったかどうかは「不明」なのであるから――というより彼のような不行跡の輩に蟄居が効果的な処罰であったとは思われない――一応、この同定候補からは除去する)、各人の生没年を記しておくと、

中山栄親 (なるちか 宝永6(1709)年~明和8(1771)年)

土御門泰邦(やすくに 正徳元(1711)年~天明4(1784)年)陰陽家。杜撰な宝暦暦の編纂者。

園基衡  (もとひら 享保5(1720)年~寛政6(1794)年)華道家。

高辻家長 (いえなが 正徳5(1715)年~ 安永5(1776)年)

これに後述する安永8(1779)年11月の「天明の帝御即位」の縛りが掛かるため、それ以前に死んでいる底本で鈴木氏が同定している中山栄親は消去され、同様に高辻家長も消える。残る土御門泰邦・園基衡二人は、上記のように陰陽家と華道家としては知られているが、「和歌の聖」と呼ばれた事実はない。

因みに中山栄親の息子である中山愛親(なかやま なるちか 寛保元(1741)年~文化111814)年)は歌人として知られ、「耳嚢」巻之一の下限である天明2(1782)年に議奏となり、光格天皇に近侍、天皇の父閑院宮典仁(すけひと)親王に対し太上天皇号を宣下することに腐心したが、幕府はこれを認めず事態が紛糾(これを「尊号一件」という)、寛政5(1792)年、幕府の命により武家伝奏正親町公明(おおぎまちきんあき)と共に江戸に喚問されて、老中松平定信と対談釈明したが、閉門を命じられた。帰京したのち蟄居、議奏を罷免されている(以上は主にウィキの「中山愛親」を参照した)。如何にも本話のモデルの一人として挙げたい程魅力的人物であるのだが、やや時代が後ろにずれてしまい、無理がある。

結局のところ、

烏丸光榮入道卜山=烏丸光栄+烏丸光胤+中山栄親+α

という等式で示すしかない「烏丸光榮入道卜山」なる人物は、当時の都市伝説中の架空人物であった、というのが私の見解である。

・「天明の帝御即位」光格天皇(明和8(1771)年~天保111840)年)の即位のこと。即位は安永8(1779)年11月9日。

・「思はずよ惠みの露の玉くしげふたゝび身にもかゝるべしとは」「玉くしげ」は「ふた」の枕詞。「露」「玉」「かゝる」は縁語。もしかすると『此の「身」』は、『木の「実」』の掛詞か。

やぶちゃんの通釈:

思ってもみなかったことだ! 帝の御慈悲の恵みの露が、再び、この身に慈雨のごと降りかかってくるであろうなんどとは!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 烏丸光栄入道ト山の事

 

 光榮殿は和歌の聖とも称された人物で御座ったが、宝暦の頃のことであったか、親鸞上人五百回忌に関わる大師号の一件で勅勘を蒙り、蟄居の身であったのが、天明の帝光格天皇の御即位のお祝いとして大赦が御座った、その赦免状を受け取った折りに詠まれたという歌。

  思はずよ恵の露の玉櫛笥再び身にも懸かるべしとは

 

 

*   *   *

 

 

 大通人の事。

 

 安永天明の此、若き者專(もつぱら)通人と言事を貴びける。右大通(といへるは、物事行渡り、兩惡所其外世の中)の流行意氣地(いきぢ)にくわしき者を呼ぶ。甚しきに至りては、放蕩無類の人をさして通人又は大通と言る類ひ多し。

  案に、通の字は漢家に通といひ達といひ、佛家にも圓通の文字もあ

  れば、かゝる放とうの者をいふべきにあらず。されど、物事行渡り

  しといふ心より唱へ稱なるべし。

 或人、右通人の畫讚を携へ見せける故、誠の戲れ事ながら、後世より見たらんはおかしき、又むかしもかゝる事の有しと、心得の一ツにも成ぬべしとしるし置ぬ。

 安永の比、奇怪の人あり、其名を自稱して通人といふ。凡そ圖の如し。譬ば鵺(ぬえ)といふ變化に似て、口を猿利根(りこん)にして尾は蛇を遣ひ姿は虎の如し、啼聲唄に似たり。多分酒を食として世を下呑にする、あたかも眞崎田樂を奴(やつこ)にあたふるよりも安し。忠といへば鼠と行過ぎ、孝といへば本堂の屋根をふり向、燕雀なんぞ大鵬の心をしらんや。小紋通しの三ツ紋は紺屋(こうや)へ三おもての働をあたへ、裏半襟は仕立屋の手間損、三枚裏のやはたぐろの世にまつくらな足元、どんぶり多(た)ば粉(こ)入とおち木綿手拭長きこともふきたらず、穴しらずの穴ばなし、親和染(しんなぞめ)の文字知らず、俳諧しらずの俳名、通人の不通成べし。圖の如きは親類不通のたねならんかし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項とは連関を感じさせないが、先行する「狂歌の事」辺りは本件の通人と明白に連関する属である。

・「安永天明」西暦17721798年。

・「(といへるは、物事行渡り、惡所其外世の中)」底本には右に「(尊經閣本)」と、引用補正した旨、記載がある。「兩惡所」とは

・「意氣地に」は「流行」と「意氣地」が並列なのではない。「意氣地に」は形容動詞(若しくは副詞)として機能しており、「己がことを意氣地に『物事行渡り、兩惡所其外世の中の流行にくわしき者なり』と思ひ込みたる輩」といった意味合いを示しているものと思われる。そうしないと「他に張り合って頑なに自分の意思を押し通そうとする気迫」や「意地っ張り」の意味しかない「意氣地」の意味が通らない。

・「案に、……」以下は根岸の注である。ブラウザの不具合を考えて、底本と同じ字数で一行を構成した。

・「通の字は漢家に通といひ達といひ」「通」という漢字は「とおる」という基本義の中に、「届く・至る」「遍く流れ行き渡る」「遍く伸び広がる」「永遠に極まることがない」「行き渡る「貫き通す」「透き通る」「経過する」「過ぎる」「障害なく辿り着く」「順調に行われる」と言った意味を持ち、そこから「伝え知らせる」「詳しく知る」「余すところなく知り尽くす・悟る・理解する」という派生義が生じ、更には「物知り・物事によく通じた人物・通人」という義に発展した。国訓としても「つう」は一番に「人情や遊芸に明るいこと、又はその人」という意味を持つ。「通といひ達といひ」というのは、やや分かりにくいが、「通」という漢字の基本属性に発し、「通達」という熟語に見るように同義である「達」が、既に基本義おレベルに於いて「知り尽くす・悟達する・深く物事の理に通ずる」を付与されていることを言わんとしているものと思われる。現代語訳では、くどくなるのを恐れて、『「通」という字は漢語にあっては「窮極までとどく」の意の「通」であり、「悟りの境地に達する」の意の「達」と同義であって』とした(以上の字義は主に「大漢和辭典」の記載を参考にした)。

・「佛家にも圓通の文字もあれば」仏教では「周円融通」略して「円通」という。これは正しき智慧によって悟ったところの絶対の真理は、周(あまね)く行き渡って、その作用は自由自在であることを言う。またそうした周円融通の絶対的真理を悟るための智慧の実践行動を指す。「えんづう」とも読む。

・「おかしき」ママ。

・「鵺」「平家物語」の源頼政による鵺退治で知られる古来の物の怪。猿の顔・狸の胴・虎の手足・蛇の尾のキマイラで、「ヒョーヒョー」と、トラツグミ(スズメ目ツグミ科トラツグミ Zoothera dauma)の声に似た不気味な声で鳴くとされる。

・「猿利根」「利根」は生まれつき賢い・利発という意から、口のきき方が達者なことを言う語。猿知恵の口達者、言葉ばかりを飾った内容のない、若しくは猿のケツのように(これは私の口が滑った洒落)真っ赤な嘘といったようなことを言うのであろう。

・「蛇を遣ひ」岩波版の長谷川氏注に『のらくらすること』とある。このような使い方を私は知らない。「蛇」のイメージからはもう少しネガティヴな意味が付与されているようにも思われるが、調べても良く分からないので、長谷川氏の解釈を用いた。

・「下呑」これは「酒」に関わって、酒樽の下の穴を言うのではなかろうか。現在でも酒造業界では醸造タンクの下にある上下二つの穴を「呑穴」(のみあな)と言い、上の方を「上呑」、下の方を「下呑」と呼称している。岩波版は「一呑」とある。分かり易くはあるが採らない。訳ではすぐ後ろで使わせてもらった。

・「眞崎田樂」「眞崎」は現在の東京都荒川区南千住石浜神社(真崎神社)にある真崎稲荷のこと。天文年間(15321554)に石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝えられる。以前、この稲荷は、現在地の南方に接する隅田川の西岸、現在の台東区の北東に当たる橋場の総泉寺の北(現在の荒川区の東南の隅)にあった。この稲荷の門前には、丁度、根岸の生きた宝暦7(1757)年頃から、吉原の山屋の豆腐を用いた田楽を売る甲子屋(きのえねや)や川口屋といった茶屋が立ち並んで繁盛したという。吉原の遊客もその行き帰りに訪れ、当時の川柳にも「田楽で帰るがほんの信者なり」「田楽は一本が二百程につき」といった稲荷と田楽と吉原を詠み込んだものが残されている。実際この田楽、大変高価で贅沢な食べ物であったらしい(以上は荒川区教育委員会等の記事を参考にした)。

・「奴」ここでは下僕、しもべの意。

・「忠といへば鼠と行過ぎ」通人に「忠」を語れば、『そりゃ、鼠のチュウかい?』と不忠なことを言って心にも懸けぬことを言う。

・「孝といへば本堂の屋根をふり向」通人に「孝」を諌めれば、黙って烏は何処じゃという風に、寺の本堂の屋根の方を眺める振りをして、糠に釘である、と言うこと。「孝」の「かう(こう)」という音を烏の「カア」に掛けた。

・「燕雀なんぞ大鵬の心をしらんや」後存知「史記」の「陳渉世家」に基づく故事成句「燕雀安知鴻鵠之志哉」(燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや)は、ツバメやスズメのような小鳥には、コウノトリやハクチョウのような大きな鳥の志すところは分からない、本来は小人物には大人物の思想や大望は理解出来ないという譬えであるが、その実在する「鴻鵠」を「荘子」冒頭の逍遥遊篇で知られる「大鵬」に置き換えた。大鵬は古代中国の想像上の巨大な鳥で。鯤という巨大魚が変じたもので、翼だけでも3000里、一飛びで90000里を上昇する。訳すなら『――世の凡俗の方々には、私ら通人大通の、粋な思いも分かるまい――』という不遜なる物言いである。しかし、ここで一捻りして、通常の人知を否定した道家の匂いを嗅がせている辺りは、通人の小洒落た「猿知恵」を感じさせるところである。

・「小紋通しの三ツ紋」「小紋」は一面に細かい文様を散らしたり、それを型染めにしたもので、江戸時代には裃(かみしも)に使われたが、後には町家でも羽織・着物などに染められた。「通し」はその小紋を同型で繰り返し染めたデザイン。それに「三ツ紋」=背と両袖の三箇所に家紋を染め込んであるということ。大変、贅沢な和服である。

・「紺屋へ三おもての働をあたへ」岩波版で長谷川氏は、これに『染物屋で表布を見ばえよくした手柄を立てさせる』と注されている(但し、岩波版本文は『紺屋へ表の働をあたへ』である)。これは私は、もっと単純に、非常に手間のかかる贅沢な「小紋通しの三ツ紋」をオーダー・メイドで作らせて、実に立派な上着を三着作るのと同じ手間隙を掛けさせ、という意味でとった。

・「裏半襟は仕立屋の手間損」襦袢などの襟の上に主に飾りや汚損防止のために重ねてかける襟を半襟というのだが、それを内側(裏)にも施してあるものを言うのであろう。当然、外からは見えない訳で、作った仕立屋の手間が掛かっただけのもの、という意味。

・「三枚裏のやはたぐろの世にまつくらな足元」岩波版の長谷川氏注によると、「三枚裏のやはたぐろ」とは草履の造作を言ったもので、草履の底が二枚、二重になっており、その『間に皮をはさんだものに、八幡黒(山城国八幡産の黒のやわらかな皮)の鼻緒を付けたもの』とする。とんでもなく贅沢な草履であるが、見た目が真っ黒である。それを世の闇、足元も真っ暗なこの浮世に引っ掛けたシュー・ファッションということか。

・「どんぶり多ば粉入とおち」底本では右に『(一本)「どんぶりの紙入多菜粉入と倶におち」』とある。よく職人などが腹掛けの前部につけた大きな物入れのことをこう言うが、あれをルーツとして通人が好んで用いた懐中用物入れとしての大きな袋。更紗(木綿の地に人物・花・鳥獣の模様を多色で染め出したもの)や緞子(どんす:絹の紋織物。繻子(しゅす=サテン)の地に同じ繻子の裏組織で文様を織り出したもの)等を素材とした。「多ば粉入とおち」が分からない。本来なら、懐中の貴重品を入れるその「どんぶり」を全部、あろうことか、煙草の葉を入れるためだけに用いているという意味であろうか。岩波版の長谷川氏も注でよのように採っておられるので、それで訳した。但し、『(一本)「どんぶりの紙入多菜粉入と倶におち」』ならば、大枚の入った財布と煙草入れの重みで、通人のどんぶりはぐっと腰の下の方に下がって、という意味合いになるか。

・「穴しらずの穴ばなし」「穴」は所謂、「穴場」の意で、普通の人が気づかないような良い場所、オイシい処、得になる事柄や事象を言う。通人が気取って、大して知りもしないことを、如何にもご大層に知ったかぶり、出し惜しみする振りをすることを、反通人的立場から批判的に言ったもの。

・「親和染の文字知らず」「親和」は人名。三井親和(みついしんな 元禄131700)年~天明2(1782)年)書家・篆刻家。信州出身。長く深川に住んだので深川親和とも称される。ウィキの「三井親和」によれば、『壮年になって細井広沢に就いて書と篆刻を学』んだが、彼は『寺社の扁額や祭礼の幟、商家の暖簾など請われるままに書』き、『安永・天明の頃に親和の篆書・草書を反物に染出した「親和染」が好事家の間に流行した』。その親和の筆跡を染め抜いた着物を着ながら、その書かれた文字さえ読めはしない、という反通人的立場から批判的に言ったもの。但し、『実際は正しい篆法を学んでいないので書体の用法に過ちが多いと』も言われる。――いや、そこが通人好みだたのかも……。

・「俳諧しらずの俳名」当時、花柳界や歌舞伎界では通常、客や俳優同士の呼称として俳号が用いられた。俳号はあっても俳句は作れない、という反通人的立場から批判的に言ったもの。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大通人の事 并びに圖

 

  安永、天明の頃、若い連中の間で、専ら「通人」なる存在がもて囃されておった。その中でも「大通」というのは、万事、そつなくこなし、自分は遊里・芝居小屋の両悪所その他、世の中のあらゆる流行や事情に精通していると、己れ自身を思い込んでいるような人間を呼ぶ。甚だ不愉快な用法としては、無類の放蕩者(もの)を指して「通人」又は「大通」と呼称することすら多い。

  私、根岸が思うに、「通」という字は漢語にあっては「窮極までと

  どく」の意の「通」であり、「悟りの境地に達する」の意の「達」

  と同義であって、仏教でも絶対の真理の働きを指すところの「周

  円融通」、略して「円通」の語が存す以上、元来、このような下

  劣放蕩の者を言うのに用いるべきものではない。しかし、『万事、

  そつなくこなし』という意味から、かく呼称しているものと思わ

  れる。

 或る人が、その通人の画と、その讃を持参、見せて呉れたので、実に下らぬ戯れ事ながら、後世の人から見たならば、また、昔もこのように如何にも馬鹿げた事が流行ったのだなあ、と誠心の心得の一つにもなるであろうと思い、以下に記しおく。

   ――――――

 安永の頃、奇怪な人の新種が存在した。その名は自称して「通人」と言う。凡そこの図のような姿をしている。譬えて言うならば鵺(ぬえ)という妖怪に似て、口は猿、奸計に長け、尾は蛇、のらりくらりとつかみどころなく、姿は虎の如く傾(かぶ)いた衣装、その鳴き声はトラツグミならぬ、人の小唄の声に似ている。主食は酒で、そのえげつなさと言ったら、世間という樽の下の呑み穴に、口をつけて呑むような塩梅。そのえげつなさと味わわぬさまと言ったら、あの高価な真崎田楽を、値段も味も分からぬ卑しい下男に与えてしまい、ぺろりと一口にするよりも容易く、この世間を一呑みにしてしまうんである。「忠」と言えば、「そいつはネズミのチュウか?」と返し、「孝」と言えば、『「カウ」たぁ、何処ぞにカラスでもおるんかい!?』と言った風に黙って、寺の本堂の屋根を振り仰いでは、「燕雀なんぞ大鵬の心を知らんや。」なんどと嘯(うそぶ)いておる。小紋通しの三つ紋は紺屋(こうや)に三着分の手間隙掛けさせ、裏半襟はただ仕立屋の手間損で、履いた草履は三枚裏の八幡黒、いやさこの世は闇で足元も真っ黒との謂い、どんぶりは丸ごと煙草入れと成り下がり、肩には矢鱈に長い木綿手拭いをひっ掛けて、風に靡かせるまでもなく、肩で風切り闊歩する――「穴」知らずの「穴」話(ばなし)――親和染(しんなぞ)めの文字知らず――俳諧知らずの俳雅号――通人の不通――とも言うべきものである。図の如き人種は親類縁者から不通悩みの種――縁を切りたくなるような種――であろうほどに――。

 

 

*   *   *

 

 

 諺歌の事

 

 或人予にかたりけるは、此頃世にあふ歌世にあわぬ歌とて人のみせ候由、懷にして來りぬ。此歌の心げにかくあるべけれども、一概に信じけんは不實薄情のはし也。心ありて見給ふべし。

    世にあふ歌

  世にあふは左樣でござる御尤これは格別大事ないこと

    世にあわぬ歌

  世にあはじそふでござらぬ去ながら是は御無用先規(せんき)ない事

 

□やぶちゃん注

○前項連関:通人の謂いは、この諺歌と通底し、先行する和歌と人事の流れに連関する。

・「諺歌」「げんか」と読み、諺言戯歌のこと。諺を借りた当世流行の戯(ざ)れ歌。

・「世にあふ歌世にあわぬ歌」上手く世渡りするための歌と世渡り下手(べた)の歌。

・「世にあふは左樣でござる御尤これは格別大事ないこと」「ない」はママ。当時のこの口語表現が既にイ音便化していた証左としてこのまま示す。

やぶちゃんの通釈:

 世の中を 上手に渡る その秘訣――「左様に御座いまする」「それはもう、ごもっともなことで」「これは誠(まっこと)結構なことで」「いや、全然、差し支え御座いませんです、はい」――

なお、底本で鈴木氏はこの歌に注して、老中田沼意次が幕政を主導して重商主義を敷いた時代(明和4(1767)年~天明6(1786)年までの約20年間)に『士風の頽廃ぶりを端的に示す好資料として、しばしば引用される』本諺歌に相似したものとして、以下を掲げている。

  世の中は左樣で御座る御尤何と御座るかしかと存ぜぬ

これは通釈すれば、

 世の中と 言うもの――「左様に御座いまする」「それはもう、ごもっともなことで」……「何と仰る! 理不尽な!」「そんなことは、まるで、存ぜぬ!」

といった、ここでの二つの諺歌のハイブリッドなものともとれるように思われるのは、私の錯覚か。

・「世にあはじそふでこざらぬ去ながら是は御無用先規ない事」「そふ」はママ。「左右」であるから、当時の口語化の変遷過程示すものではあるが、現代仮名遣としてもおかしく、分かり易くするためにも、現代語訳の和歌提示では正仮名遣に正した。「先規ない」もママであるが、これは当時のこの口語表現が既にイ音便化していた証左としてこのまま示す。「先規」は以前からのしきたり・決まり。先例の意。「せんぎ」とも読む。

やぶちゃんの通釈:

 世渡りの 如何にも 下手なその例(ためし)――「そうでは御座らぬ!」「そうではあるが……しかし、ねぇ!」「いや、御気遣いは御無用!」「そんな先例は、ない!」――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 戯れ歌の事

 

 或る人が私に語ったこと――彼は、最近、「上手く世渡りするための歌」というのと「世渡り下手の歌」というのを、或る人から見せられたと言って、それを書いたものを実際に持参して来たのであるが――まあ、この歌の言わんとするところ、確かに……それはそれ……如何にもそうであろうとは思うけれども……これをまた……無批判に鵜呑みにして信じ込んでしまうというのも……これまた……不誠実にして義理人情を解さぬ冷血の極み、である。心してご覧あれかし。

    上手く世渡りするための歌

  世に合ふは左様で御座る御尤もこれは格別大事ない事

    世渡り下手の歌

  世に合はじさうで御座らぬ去りながら是は御無用先規(せんき)ない事

 

 

*   *   *

 

 

 惡女歌の事

 

 或人妻をむかへけるに一眼にて有しかば、其夫物うき事にいひのゝしりければ、彼妻かくなん。

  みめよきは夫の爲のふた眼なり女房は家のかため也けり

 其夫も理に伏しかたらひ榮へけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項とは連関しないが、4項前の「池田多治見の妻の和歌の事」と離縁に纏わる和歌譚として完全連関。

・「惡女」醜女。ぶす。

・「みめよきは夫の爲のふた眼なり女房は家のかため也けり」「みめよき」は「見目佳き」に「三目」を掛け、「二眼」は「二目」と「不為」(ためにならない)を掛け、更に「かため」に「片目」=「一目」と「固め」を掛けて、三目・二目・一目という数をも読み込んである。

やぶちゃんの通釈:

 見目麗しい奥方を 夫は喜ぶものなれど 双眼揃うた美人の妻は とかく間違い起すもの 夫のためにはなりません 内の女房と言うものは 片目なれこそしっかりと 家の固めとなれるもの

・「かたらひ」男女が親しく情を交わす。契る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 隻眼の妻の詠じた歌の事

 

 或る男、妻を迎えたのだが、片方の目が障害で見えない女であったため、その夫なる男が、ある時、気に食わないことがあった折、以前から、内心、不愉快に思っていた片目のことを口汚く罵ったところ、その妻は次のような歌で応えた。

  見目佳きは夫の為のふためなり女房は家の片めなりけり

 この洒落た歌に、その夫も、成程、と腑に落ち、その後は親しく契り、家も栄えたということである。

 

 

*   *   *

 

 

 女をいましめし歌の事

 

 ある歴々の娘、其職ならぬ方へ嫁しけるが、公家武家と違ひ或ひは農家商家と違ひしが熟縁せざるの道理にて、夫婦心ひとつならざる故其母憂へて、兼て出入せし堂上(たうしやう)のもとへまかりし頃、右の咄しけるを、右の堂上誰なりけん、一首の歌詠て給はりける。

  つじ妻もはせなばなどか合ざらんうちは表にまかせおくにぞ

 右歌を其娘にあたへければ、其後は夫婦の中もむつまじく榮けるとなむ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:夫婦仲に纏わる和歌譚として完全連関。

・「歴々」身分家柄の優れていること。または、その人。以下、特定されないように意識的に書かれているように思われるが、雰囲気としては公家の高家が武家の、相応に当時の社会では権威を持っている家柄ながら、官位の上では如何にも低かった家に嫁入りしたという感じがする。次の注で示すように、堂上の公家が地下の公家へ嫁したとも取れないことはないが、根岸が聴き記したものとして公家界内部のゴシップというのは、余り相応しくないという気がするのである。そもそも「公家武家と違」うという事実をあからさまに出せば、それは当然、将軍家や幕閣も対象になる微妙な発言となるからではあるまいか。

・「堂上」堂上家(とうしょうけ/どうじょうけ)のこと。清涼殿の殿上の間に昇殿出来る殿上人をルーツとする公家の家系。一般的な「公家」と言うのと同義。これに対して、昇殿が許されない廷臣格の公家及びその家系を地下家(じげけ)と呼称した。

・「つじ妻もはせなばなどか合ざらんうちは表にまかせおくにぞ」「はせなば」の部分、底本では右に『一本「あはせば」』とある。しかし、ここで「合はせば」と使って直ぐに「合ざらん」では、和歌の体を成さない。岩波版の長谷川氏の注にはこれを「はせる」という一語で取り、挟むと同義で『着物の褄をはさんで合わす』という意味であるとする。私は不学にしてこのような古語を知らない。知らないが、それこそお洒落にここの部分の辻褄は合うように思われる。長谷川氏に全幅の信頼を置き、この意味を採用させて頂いた。「つじ妻」の「褄」に「(辻褄を合わせるのは)妻」を掛け、「合ざらん」に夫婦和合の意味を掛けている。それ以外に、私には「うち」を上流階級が上着の下に着た「内袿」(うちき)と「夫・亭主」の意に掛け、「表」は「表に着る上着」に「見せかけ・表向き」の意味を嗅がせてあるように思われ、結果として「つま(褄)」の縁語で「はせ」「合は」「うち」「表」が用いられているという、俄か歌学……如何? 識者の御教授を乞う。

やぶちゃんの通釈:

 辻褄と いうは 着物の 褄はさみ 合わすが如く 妻自(おのず)から 合わさば 合わぬ はずもなし 内袿(うちき)は上着に 花持たすが如く 表向きには夫なる 人に花をば持たすが秘訣

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 嫁いだ娘への戒めとした歌の事

 

 ある身分の高い家の娘が、実家の高い官位にすれば、相応しからぬ先へと嫁いだ。古来、公家と武家との違い、或いは農家と商家との違いの中、そうした異なる階級間の婚姻がうまく行かぬというのは世間の常識に違わず、この夫婦にも何処やら心の齟齬が傍目(はため)にも明らかであったから、それを娘の母が気に病み、以前から親しく交わらせて頂いていた、さる堂上家(どうじょうけ)の元をお訪ねした折り、この悩みを洩らしたところ――その堂上家というお方が、どなたであられたかは、憚られるので名を記さねど――一首の和歌をお詠みになられ、母なる女に賜れた。

  つじ妻も合はせばなどか合はざらんうちは表にまかせおくにぞ

 母なる人、この歌を娘に渡いたところ、その後(のち)、夫婦仲も睦まじくなり、長く家も栄えた、とのことであった。

 

 

*   *   *

 

 

 河童の事

 

 天明元年の八月、仙臺河岸伊達侯の藏屋敷にて、河童を打殺し鹽漬にいたし置由、まのあたり見たる者の語りけると其圖を松本豆州持來り、其子細を尋るに、右屋敷にて小兒抔無故入水せしが、怪む事ありて右堀の内淵ともいへる所を堰て水をかへ干しけるに、泥を潛りて早き事風の如きものあり。漸(やうやく)鐵砲にて打留しと聞及しを語りぬ。傍に曲淵甲斐守ありて、むかし同人河童の圖とて見侍りしに、豆州持參の圖にも違ひなしといひぬ。右の圖左にしるしぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:本図は4つ前の「大通人の事。圖」の大通人の図と確信犯的に連するように描かれているのではなかろうかと私は思う。即ち、大通人は根岸にとって禍々しい河童と等価の、当世の化け物であったのである。

・「河童」カッパは地方名が甚だ多く、「河童」系ではガワワッパ・ガワッパ・ガラッパ(「河(かは)の童(わつぱ)」という関東方言が元と言われる)、「河太郎」からカワタロウ・ガタロウ・カワタロ・ゲータロ、他にカワコゾウ・カワコボシ・カワコ(「河虎」)・シバテン(「芝天狗」:叢に棲む下級天狗が妖怪化したものの意)・エンコウ(「猿猴」:中国では本来、サルの一種を指すが、後に伝承の中で分化、一部が妖怪化した。電子テクスト和漢三才圖會 巻第四十 寓類 恠類所収の「猨」の項の注「猿猴」を参照されたい。河童との関連についても記してある)漢語系では先の河虎の他、水虎・河伯が知られる(但し、形態の一部がやや類似しているものの、中国のそれは爬虫類を思わせる異なる架空の水棲動物である)。伝承では相撲好きでよく子供を相手に相撲をとる。負けた子供は尻小玉を抜かれる、と言われた。水に漬かっているヒトのそれを抜くともよく言われる尻小玉とは、人間の肛門の内側にあるとされた架空の臓器の名で、これは水死体の肛門の括約筋が弛緩して大きく広がっていたり、そのために起こった脱腸及び洩出した腐敗臓器を目撃した人間の誤認から形成されたものと考えられる。さて、本件の図と一般的な形態とを比較してみよう。甲羅と頭頂部の皿、嘴状に尖った口吻という河童の三大アイテムは完備している(もう一つ、肛門が三つあるという特徴がある)。特に鋭角的な突き出た口吻を表現するために、眉間に筋を配し、鼻梁も左右に太く書き入れてその高さ(ひいてはその下に伸ばした口の前面への吻部を強調)を効果的に表現してある。通常の河童の身長は30150㎝、大きくても成人男性の身長を越えることはなく、名の通り子供の大きさであることが多い。本件記載は大きさを示さないが、直前に小児の溺死の記載を並べてあり、泥の中を潜るという表現、図の全体の雰囲気から受けるのは、やはり子供の大きさ1m程度か。殆んどは四肢の指間に水掻きを有し、且つ親指がない絵が多い(ウィキ河童等)というが、本図左手はヒトと同様、五本指、内側のそれはしっかりとした親指として描かれている(但し、右手人差し指以外の足の指なども含め、全体に鋭角的で、且つ、掌側に強く湾曲しているのは、水掻きに進化する前の四肢の形状変化を示しているようにも思われる)。大きな特異点は男性生殖器の描写である。勿論、古画で生殖器を描いた河童というのもあるし(栗本丹州のものや、一部の絵に前掛けのような褌をしたものがあり、その内股には一物が当然あったと考えてよい)、芥川龍之介の「河童」はヒトと同様の女性生殖器をしっかり描いているから、生殖器があることを以って本図を異例とはしないが、この陰茎と睾丸の描写が極めて興味深いのである。これは少年児童の男性生殖器と極似している。最後にウィキ河童から引用しておく。『河童は、間引きされた子供の遺体が河原にさらされている姿との説もある。江戸時代には間引きは頻繁に行われており、他の子供に間引きを悟られないよう大人が作った嘘とも言われている』。

・「天明元年の八月」西暦1781年。翌2年から天明の大飢饉が始まる。ィキの「天明の大飢饉」によれば、『東北地方は1770年代より悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせる。火山噴火は直接的な被害ばかりではなく日射量低下による冷害傾向が顕著となり農作物に壊滅的な被害が生じ、翌年度から深刻な飢饉状態となった。当時は田沼意次時代で重商主義政策が取られており、米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉は全国規模に拡大した』と、ある。なお、これは昨年、アイスランドに旅した際にも現地で知った事実でもあるが、現在の科学的知見によれば、『1783年、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山(Lakagígar)が噴火(ラカギガル割れ目噴火)、同じくアイスランドのグリームスヴォトン(Grímsvötn)火山もまた1783年から1785年にかけて噴火した。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起しフランス革命の遠因となったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性』が示唆されている。……人肉喰いも行われた、この世の生き地獄たる天明の大飢饉……この河童の出現は、その不吉な予兆であった、とでも、言うのであろうか……

・「仙臺河岸伊達侯の藏屋敷」隅田川の東岸にあった仙台堀川(せんだいぼりがわ)の両岸を言う。南に門前仲町、北に霊巌寺を配す。寛永6(1629)年に掘削されたものだが、近く(現在の江東区清澄1丁目)に仙台藩松平陸奥守伊達家の蔵屋敷があったことから「仙台堀」と名付けられた。この蔵は当時最大の米蔵で、遙々仙台からこの運河を抜けてここに良米が運ばれ貯蔵されたのであった。この当時の藩主は第七代伊達重村であるが、逼迫していた藩財政に追い討ちをかけた大飢饉は天明3(1783)年時には565000余石の大減収をもたらし、藩内でも打ちこわしが続出、数々の施策を打ち出しては見たものの、この大飢饉によって藩内では30万人以上の死者を出した。重村は和歌に通じ、学問奨励に尽力する等、名君の器であったと言われるだけに、まさに不運という外はない(以上伊達重村の記載はF.M氏のHP「宮城史跡巡り」の「第七代仙台藩主 伊達重村」を参照させて頂いた。掉尾の語柄もそのまま用いさせて頂いている)……いや、これもまた、殺した河童の呪い、とでも、言うのであろうか……

・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任中の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。つるべ落としの没落……これもまた、河童の絵の呪い、とでも、言うのであろうか……

・「曲淵甲斐守」曲淵甲斐守景漸(かげつぐ 享保101725)年~寛政121800)年)のこと。前項複数に既出。以下、ウィキの「曲淵景漸」によれば、『武田信玄に仕え武功を挙げた曲淵吉景の後裔』で、『1743年、兄・景福の死去に伴い家督を継承、1748年に小姓組番士となり、小十人頭、目付と昇進、1765年、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。1769年に江戸北町奉行に就任し、役十八年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力』、『1786年に天明の大飢饉が原因で江戸に大規模な打ちこわしが起こり、景漸はこの折町人達への対処に失態があったとされ、これを咎められ翌年奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。松平定信が老中に就任すると勘定奉行として抜擢され、定信失脚後まで務めたが、1796年、72歳の時致仕を願い出て翌年辞任した』。天明の大飢饉の際に『町人との問答中に「米がなければ犬を食え」と発言し、この舌禍が打ちこわしを誘発するなど失態もあったが、根岸鎭衞と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった』とある。……この舌禍もまた……河童の言上げの災いであった、とでも、言うのであろうか……それにしても……これを記した根岸本人にこそ祟るべきであったと、思うのだが……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 河童の事

 

 天明元年の八月のこと、仙台河岸伊達候の蔵屋敷にて、河童を打ち殺して塩漬けに致し保存していた、という話を、直接その出来事を見聞きした者のが語った話であると言って、松本伊豆守秀持殿がその河童の絵を持参の上、訪ねて来た。その仔細を詳しく尋ねてみると――かの伊達候蔵屋敷では、以前から度々、幼い子供などが、これといった不注意も見受けられぬにも拘わらず、ふっと溺れて死ぬようなことがあった。どうも、仙台堀から更に引き込んだ屋敷内の水路の深み辺りが怪しいということになり、引き込みの口を堰き止めて水を干したところ、泥の中をしゅるしゅると風のようにすばしっこく動き回る生き物がいた。ようやっと鉄砲で打ち殺した、と聞いて御座る――とのことであった。

 偶々、傍らにやはり拙宅を訪ねておった曲淵甲斐守景漸殿がこの絵を見、

「……昔、拙者、河童の絵なるものを見たことが御座るが、この伊豆守殿御持参の絵と、寸分たがわぬ類(るい)のもので御座った。……」

と語った。その絵を以下に写しておく。

  

 

*   *   *

 

 

 犬に位を給はりし事

 

 天明元年に酒井雅樂頭(うたのかみ)、蒙臺命(たいめいをかうむり)上京ありしが、雅樂頭はいまだ壯年にて常に狆(ちん)を愛しけるが、右の内最愛の狆は在所往來にも召連給ひしが、此度はおふやけの重き御用故連間數由の所、出立の日に至り駕を離れず、近習(きんじふ)の者駕籠へ入れじと防(ふせぎ)しに、或は吠え或は喰ひ付て中々手に餘りぬれば、品川の驛より返しなんとて品川まで召連れ、右驛に至りける故是より歸しなんと色々なしぬれど、兎角に屋敷にての通り故、是非なく上方迄召連れけるが、よき犬にや有けん、京にも此沙汰ありて、天聽にいれ、畜類ながら其主人の跡を追ふ心の哀れ也迚、六位を給りしとかや。是を聞て事を好む殿上人の口ずさみしや、又は京童(きやうわらべ)の申しけるや、

  くらひ付く犬とぞ兼てしるならばみな世の人のうやまわん/\

 右は根なし事にもあるぺけれど、其此所々にて取はやしける故、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:河童と言うUMA(未確認動物)奇譚から、犬に位階を授けるという動物奇談へ連関。

・「天明元年」西暦1781年。

・「酒井雅樂頭」酒井忠以(ただざね 宝暦5(1756)年~寛政2(1790)年)播磨姫路藩第2代藩主。雅楽頭系酒井家宗家十代。茶道家としても知られ、また、江戸琳派絵師酒井抱一(本名:忠因)は実弟である。位階は明和5(1768)年に12歳で従四位下河内守を受けている(以上はウィキの「酒井忠以」を参照した)。

・「蒙臺命」将軍の命令を戴き。この当時の将軍は第十代徳川家治。岩波版長谷川氏の酒井忠以についての注では、安永9(1780)年の第119代『光格天皇即位に使として上洛、翌天明元年に帰る』とあるのだが、光格天皇の即位は安永8(1779)年11月9日のことである。幾ら何でも、即位後に『即位に使として上洛』というのはあり得まい。この話は安永8(1779)年10月のことではあるまいか?

・「いまだ壯年にて」安永8年当時、酒井忠以は実に23歳の若さであった。

・「狆」以下、ウィキの「狆」 から引く。『日本原産の愛玩犬の1品種。他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきた為、抜け毛・体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬である。狆の名称の由来は「ちいさいいぬ」が「ちいさいぬ」、「ちいぬ」とだんだんつまっていき「ちん」となったと云われている。』「狆」という漢字は『和製漢字で中国にはなく、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである』が、『開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なく所謂小型犬の事を狆と呼んでいた。庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた』。『狆の祖先犬は、当初から日本で唯一の愛玩犬種として改良・繁殖された。つまり、狆は日本最古の改良犬でもある。とは言うものの、現在の容姿に改良・固定された個体を以て狆とされたのは明治期になってからである』。江戸期、犬公方五代将軍徳川綱吉の治世下(1680年~1709年)にあっては、『江戸城で座敷犬、抱き犬として飼育された。結果、狆には高貴ながイメージが付きまとい、これをまねて豪商等も狆を飼育するようになり、価格の高騰を招いた。また、吉原の遊女も好んで狆を愛玩したと』される。香川大学神原文庫蔵の「狆育様療治」によれば、『高価な狆を多く得る為に江戸時代には今で言うブリーダーが存在し、今日の動物愛護の見地から見れば非道とも言える程、盛んに繁殖が行われていた。本書は繁殖時期についても言及しており、頻繁に交尾させた結果雄の狆が疲労したさまや、そうした狆に対して与える』ためのスタミナ食や回春剤についての記載さえあるという。『近親交配の結果、奇形の子犬が産まれることがあったが、当時こうした事象の原因は「雄の狆が疲れていた為」と考えられていた』ことがここから知られる。『江戸時代以降も、主に花柳界などの間で飼われていたが、大正時代に数が激減、第二次世界大戦によって壊滅状態になった。しかし戦後、海外から逆輸入し、高度成長期の頃までは見かけたが、洋犬の人気に押され、日本犬でありながら、今日では非常に稀な存在となり、年配者以外の世代の者は、この犬種の存在さえ知らない事が殆どである』。と記すのだが……俺は年配者かい!

・「天聽」天皇に知られること。当然、これは光格天皇(明和8(1771)年~天保111840)年)であるから、当時、安永8(1779)年11月9日即位直後ならば、実に8~9歳の子供店長、犬に官位を賜わったとしても不思議ではない。

・「六位」正六位は『律令制下において六位は下国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位であった。地下人の位階とされ、五位以上の貴族(通貴)とは一線を画する位階であり昇殿は許されなかった。但し、蔵人の場合、その職務上、六位であっても昇殿が許され、五位以上の者と六位蔵人の者を合わせて殿上人と称した』。『明治時代以降は、少佐の階級にある者などがこの位に叙せられた。また、今日では警察官では警視正、消防吏員では消防監などがこの位に叙せられる他、市町村議会議長にあった者、特別施設や学校創立者その他、業種等で功労ある者などが没後に叙せられる』という(ウィキの「正六位」から引用)。また従(じゅ)六位ならば『律令制において従六位は、さらに従六位上と従六位