やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇へ
鬼火へ

 

河童(やぶちゃんによる芥川龍之介真原稿恣意的推定版) 附やぶちゃん注     

   (又は やぶちゃん恣意的副題――どうかPrototypeKappa”と讀んで下さい――)

     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:大正111922)年5月1日発行の雑誌『新小説』に掲載されたが、続編は書かれていない。底本は岩波版旧全集を用いたが、一箇所、恣意的に底本本文をいじってある。それについては、末尾の私の注に仔細を説明してあるので、本テクストを何かに用いる場合には、必ず本頁によるものであることを明記されたい。芥川龍之介畢生の名作「河童」の発表は、この5年後、自死の約4ヶ月前、昭和2(1927)年3月1日発行の雑誌『改造』紙上であった。この後者の「河童」の起稿は同年1月末から2月上旬と推定され(2月2日には齋藤茂吉宛書簡で「蜃氣樓と共に「河童」の執筆を始めている旨を記しており、2月7日迄にはほぼ完成していたという記載が新全集宮坂覺氏年譜にはある(脱稿は2月13日で、この日の瀧井孝作宛書簡では『河童は近年にない速力で書いた』と記している)。

 平成122000)年勉誠出版刊の「芥川龍之介全作品事典」で田村修一氏は本作を『見過ごすことはできない』ものとされ、『この小品は、後に『改造』に発表されたものよりもむしろ、「本所両国」、また「雑筆」で描かれる河童とモチーフの共通性がありそうである。それは江戸、あるいは近世の日本への郷愁としての河童ではないだろうか。』と擱筆されている。田村氏の言う両作の内の「雜筆」の方は、これらは先行する2年前の大正9(1920)年に雑誌『人間』に掲載された後、2年後の大正111922)年5月15日の随筆集『点心』(本作「河童」発表の半月後の発行であることに注目されたい)に所収されものの中の、「水怪」である(執筆年月日を大正9年『九月三十日』とクレジットする)。そして、実にその採録に際しては、正にこの河童について記した「水怪」のみ、『点心』再録時に同篇末河童短歌8首を削除して手を加えているのである(リンク先の私の電子テクストではその河童短歌8首を同位置に復元してある)。もう一つは実に後の「河童」の発表から2ヵ月後の昭和2(1927)年5月の『東京日日新聞』連載になる「本所両國」の『乘り繼ぎ「一錢蒸汽」』の項を指している。私は田村氏の言わんとするところの、近世日本に対するノスタルジアのシンボルとしての河童、という意味もよく分かる――分かるが、正に田村氏が『むしろ』と言ったこの二作が、寧ろ連続したベクトルとして、昭和2年3月の「河童」へと総てが収斂するモーメントとなって働いているという感じを強く受けるのである。そうして本作の「序」という見出しと、後の「河童」の「序」との構成上の相同性、更にこの「序」の中の、『この話主人公は、紛れのない一匹の河童である』、『わたしの話などは』、『して見れば本文へはひる前に、河童とは抑何であるか? 實在の動物か架空の動物か? 多少の解釋を加へるのも、あながち無用ではないかも知れない』という冒頭部、及び末尾注記(これは表記の通り、底本でも本文よりポイント落ちである)の『以上は河童の話の一部分、否、その序の一部分なり』という記載(下線部やぶちゃん)に私は着目するのである。これは――かの後の人口に膾炙する名作「河童」の原「河童」――芥川龍之介風に言わせて貰うなら――PrototypeKappa”――即ち、本作を「序」の一部とするPrototypeKappa”がこの時点で芥川龍之介の頭の中に厳然としてあったことを意味している、と私は思うのである。そのPrototypeKappa”では、主人公が狂人の「私」ではなく、実在する――実在することを仮定してみて始めて面白く読める(だから、そのための本作の「序」がこれである)ところの「一匹の河童」であったのである。僕らはここにそんな、「一匹の河童」を主人公とした、もう一つの仮定されたパラレル・ワールドの小説「河童」の未定稿を夢想することが可能なのではあるまいか?!【2010年11月7日】]

 

河童

 

       序

 

 河童と云ふ動物に關しては古來奇怪な傳説に乏しくない。この話も主人公は、紛れのない一匹の河童である。しかし近代の科學的精神は河童の存在さへ認めようとしない。況やわたしの話などは、一噱にも價せぬと思はれさうである。して見れば本文へはひる前に、河童とは抑何であるか? 實在の動物か架空の動物か? 多少の解釋を加へるのも、あながち無用ではないかも知れない。

 今人は疑ふにも關らず、古人は河童の存在に堅い信念を抱いてゐた。しかし古人と今人とは、信不信の差別こそあれ、日常の經驗を根據とする事は、いづれも趣を一にしてゐる。古人は青蘆の茂つた沼に、岩の側立つた谷川に、いや、日傘の往來の絶えない江戸京橋の掘り割にさへ、河童の遊ぶのを目撃した。が、今人は博物館にも、河童の剥製のある事を聞かない。この故に一は有を主張し、一は無を説いてやまないのである。しかしその自家の經驗以外に、有無の理由がないとすれば、今人は盲人を嘲る事は出來ない。のみならずたとひ剥製はなくとも、河童の捕獲に關する記録は、今でも諸書に散見してゐる。常陸の河童、豐後の河童又は越前の河童等、――寫生圖の殘つてゐるものも少くはない。たとへば享保元年六月五日水戸に捉へた河童の如きは、丈三尺五寸余、重さ十二貫、「總體骨なき樣に相見え、」尻の穴は三つあつたさうである。又弘化三年六月八日加藤雀庵の目撃した、双頭の河童の陰干しの如きは、丈三尺ばかり、齒は上下四枚、奧齒は左右に二枚、「そのかほかたち、猿を干し固めたるものに似て」ゐたと云ふ。これらの文獻をも參照せず、妄に河童をなしとするならば、今人は寧ろ古人の爲に、嘲られる事を免れないであらう。古い茶臼の心木(しんぎ)の穴から、龍の昇るのを見た人々が、口々に驚き騷いだ時、西鶴は作中の老法師に、何と彼等を嘲らせたか?「各々廣き世界を見ぬ故なり」!

  しかしこれらの文獻に、疑惑を持つ學者も稀ではない。この懐疑説を奉ずるものは、いづれも諸國の河童記事に、幾多の相違があるのを見ても、河童の存在は疑はしいと云ふ。成程筑後川に産する河童は、褐色の皮膚に毛が生へて居り、三河越前に産する河童は、頭部以外に毛のないばかりか、皮膚の色彩も暗緑色である。が、これらの相違だけでは、河童の存在は否定し難い。もし否定し得るとすれば、諸國の駱駝記事を檢しても、或は二つ瘤があると云ひ、或は一つしか瘤はないと云ふ、文獻の相違から、駱駝の存在も疑はれるではないか? 況や皮膚の色彩などは、周圍の色彩に應ずる事、カメレオンの如き動物もある。ああ、河童とカメレオンと! この二つの動物に、近似性を想像するのは、必しも不當とは思はれまい。いや、わたしは河童の皮膚も、カメレオンの皮膚の通り、隨時隨所に變化する事を確信してやまない一人である。

 が、學者はこの外にも、河童の存在を疑ふべき、多少の理由は持たないでもない。彼等の主張する所によれば、河童に關する文獻は、近世二三百年に限られてゐる。下學集以外倭名抄以後、歴代の語彙に徴しても、河童の名目は掲げてない。これは河童の存在が、疑はしい證左ではないかと云ふ。成程歴代の語彙に名のあるものは、實もあつた事は確かである。しかし名のなかつた事は、實もなかつたと云ふ証據にはならない。遠い歴代の語彙は問はず、現代の辭書を開いて見ても、實際存在する事物の名前が、掲げてない例は無數にある。この事實を否定するものは、辭書を出版する本屋以外に、恐らくは天下に一人もあるまい。既に辭書に名のないものも、存在する事實を認めれば、河童の有無を疑ふものも無意味に了る事は勿論である。

 ではわたしの見解は、全然古人と同一であるか? いや、少くとも一點では、明らかに古人と異つてゐる。古人は何時も河童と云へば、怪物と考へる傾向があつた。「水神」「ひやうすへ」「川の殿」等、九州に行はれる河童の異名は、殆河童を敬ふ事、神とひとしかつた証據である。が、わたしの所見によれば、これは古事記や風土記の著者が、蛇や猪を神としたのと少しも、異つた所はない。河童も正體を見極めれば、蛇や猪と同じやうに、やはり動物の一種である。更に詳しい記述をすれば、大體下の通りになるかも知れない。

 「河童は水中に棲息する動物なり。但し動物學上の分類は、未だこれを詳らかにせず。その特色三あり。周圍の變化により、皮膚の色彩も變化する事、カメレオンと異る所なし。(二)人語を發する鸚鵡に似たれども、人語を解するは鸚鵡よりも巧みなり。(三)四肢を切斷せらるるも、切斷せられたる四肢を得れば、直ちに癒着せしむる力あり。産地は日本に限られたれども、大約六十年以前より、漸次滅亡し去りしものの如し。」 (未完)

 

 以上は河童の話の一部分、否、その序の一部分なり、但し目下インフルエンザの爲、如何にするも稿を次ぐ能はず。讀者並びに編輯者の諒恕を乞はんとする所以なり。作者識。

 

□やぶちゃん注

■第1段落

・「河童と云ふ動物に關しては古來奇怪な傳説に乏しくない。この話も主人公は、紛れのない一匹の河童である。しかし近代の科學的精神は河童の存在さへ認めようとしない。況やわたしの話などは、一噱にも價せぬと思はれさうである。して見れば本文へはひる前に、河童とは抑何であるか? 實在の動物か架空の動物か? 多少の解釋を加へるのも、あながち無用ではないかも知れない。」冒頭注の私の解釈を是非参照されたい。

・「一噱」「いつきやく(いっきゃく)」と読む。「噱」は音「キャク・ガク」で、大笑いする、又はその声のオノマトペイアである。一笑に附すこと。

・「抑」「そもそも」と読む。

 

■第2段落

・「常陸」旧国名。現在の茨城県東北部に相当。

・「豐後」旧国名。現在の大分県の大部分に相当。

・「越前」旧国名。現在の福井県北部に相当。

・「享保元年六月五日水戸に捉へた河童の如きは、丈三尺五寸余、重さ十二貫、「總體骨なき樣に相見え、」尻の穴は三つあつたさうである。」享保元年は西暦1716年。身長は1m強、体重45㎏(身長に比してかなり重い)。但し、これは恐らく高木春山の「本草圖説」の「一種 水虎」に『享和元年酉年六月朔日水府東濵ニテ網ニカヽリ捕リタル寫眞也』『高サ 三尺五寸余』と記すものであろう。この図には『尻ノ穴ヲミセタル圖』は付帯し、そこにはしっかり三つの肛門が描かれている。享和元年は西暦1801年であるが、年号の一部の他、場所(「水府」は水戸)・身長・体重・肛門三孔が完全に一致する。

・「弘化三年六月八日」西暦1803年。

・「加藤雀庵」本名、田中昶(きょし 寛政8(1796)年~明治8(1875)年)。江戸の俳人・狂歌師。烏亭焉馬(うていえんば)門下。他に篠廼屋・白鷗・堤隣翁・千聲・長房などと号した。博覧強記の才人で、その随筆集「さへづり草」は天保年間(18301844)から文久3(1863)年の間に雀庵が見聞した事実に自身の考察を交えて綴った百科全書的労作。明治431910)年一致堂書店から刊行されており、恐らくは芥川龍之介の本記載はこの「さへづり草」ソースと思われる(未確認)。

・「茶臼の心木の穴」「茶臼の心木」は茶を挽くための臼の下半分の中央に出っ張った心棒のこと。「心木の穴」はそれを受ける臼の上石の中央に穿たれた穴のことを言う。

・「西鶴は作中の老法師に、何と彼等を嘲らせたか?」これは井原西鶴の「西鶴諸国ばなし」の中の「卷三の六」の「八疊敷の蓮の葉」に基づく。その梗概の一部を記すと(原文は平成4(1992)年明治書院刊の「決定版 対訳西鶴全集 五」を用いた。一部に新字が用いられているがママである。訳は私のオリジナルで底本の訳は参照していない)、

 吉野は奥千本にあった西行所縁の庵に住まう一道心(芥川の言う「老法師」)があった。五月雨の降るある日、いつもの如く土地の者どもがこの庵にうち寄り、茶乃実話を致いておったところ、庵の縁側の片端に「ふるき茶碓(ちやうす)のありしが、其しん木の穴より」、長さ21㎝程の、「細蛇(ほそくちなは)の一筋出て」、間もなく近くの柚子の木の枝に飛び移り、上へ上へとするする登って行き、その枝の天辺から、鎌首をもたげてあたかも空を窺うかと見えておったが、折からの雲霧に紛れたのか、ふと姿が見えなくなった。と、庵へ麓の里から人が大勢駆けつけて来て、「只今此庭から、十丈あまりの竜が天上(てんじやう)した」と申す(「十丈」は凡そ30m)。「此声におどろき、外へ出て見るに、門前に大木の、榎の木ありしが」、一番太い枝がぱっくりと裂け、その下の地面は抉れて、池のように水が溜まっていた。「さても/\大きなる事や」と、人々が騒いだが、この道心、平然として一笑すると、「おの/\廣き世界を見ぬゆへ也。我(われ)筑前にありし時、さし荷ひの大蕪(おふかむな)あり。又雲州松江川に、横はゞ一尺弐寸づゝ鮒あり。近江の長柄山より、九間ある山の芋、ほり出せし事も有。竹が嶋の竹は、其まゝ手桶に切ぬ。熊野に油壺を引く蟻あり。松前に一里半つゞきたるこんぶあり。つしまの嶋山に、髭一丈のばしたる、老人あり。遠國を見ねば合点のゆかぬ物ぞかし。」と諭した。

「筑前」は現在の福島県北西部相当。「さし荷ひ」は天秤を刺して縛り、前後二人で抱えなければならないことを言う。「雲州」は出雲国。現在の島根県東部相当。「松江川」は現在の松江の中心部を流れる大橋川のことか。「横はゞ一尺弐寸づゝ鮒」体幅が36㎝となると、ちょっとしたマグロ並みの鮒ということになる。「近江の長柄山」現在の滋賀県大津市西部にある山で、歌枕として知られる。「九間ある山の芋」19メートル弱のナガイモというのは掘り出すと山がなくなりそうである。「竹が嶋」鹿児島県佐多岬南西50㎞の海上に浮かぶ竹島のこと。イネ科メダケ属タイミンチク(台明竹)Pleioblastus gramineus の産地として知られる。但し、タイミンチクは大きくなっても高さ7~8m止まりで、ネット上の写真で確認してみても太さも通常の竹と変わらず、切ってそのまま手桶に出来る程、太くはないように見える。「熊野」和歌山県南部山間部。「油壺」油を貯蔵保存する大甕(おおがめ)。「松前」狭義には渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた松前藩を指すが、ここは広義の蝦夷地(北海道)の謂いか。「一里半つゞきたるこんぶ」全長5㎞700mの昆布となると、ヤンキーのジャイアント・ケルプも真っ青である。「つしまの嶋山」現在の長崎県対馬市美津島町島山島。これは山というより、対馬の丁度中央部、浅茅(あそう)湾に浮かぶ島の名である。現在は美津島町と橋で繋がっている。なお、実はこの後も道心の話が続き、そこで戦国時代の高僧策彦(さくげん)和尚と信長のエピソードが披露され、その中で策彦が本篇題名にある、インドの霊鷲山(りょうじゅせん)にある一枚が八畳程もあるという巨大ハスの話をするのであるが、この部分、やや捩れてしまっていて、私はあまり成功した話柄になっていないと思う故、梗概を割愛した。なお、この道心の説教染みた謂いは、実はこの「西鶴諸國ばなし」の「序」でも重複する素材を挙げて、同じようなことを述べているので、御興味のある方は、「序」もお読みになることをお薦めする。冒頭「世間の廣き事、國/\見をめぐりて、はなしの種をもとめぬ。熊野の奥には、湯の中にひれふる魚有。筑前の國にはひとつをさし荷ひの大蕪(おふかぶら)有」と始まって、掉尾を「都の嵯峨に四十一迄大振袖の女あり。是をおもふに、人はばけもの、世にないものはなし。」と締める。実は芥川も、この序の方を――特にその皮肉な掉尾を――読者には連想して貰いたかったのではないかと思うのである。

 

■第3段落

・「しかしこれらの文獻に、疑惑を持つ學者も稀ではない。この懐疑説を奉ずるものは、いづれも諸國の河童記事に、幾多の相違があるのを見ても、河童の存在は疑はしいと云ふ。

」という冒頭部分は、実は底本では、

 

 しかしこれらの文獻に、疑惑を持つ學者も稀ではない。彼等は諸國の河童記事に、幾多の相違があるのを見ても、河童の存在は疑はしいと云ふ。

 

となっている。底本後記によるとここは初出では以下のようになっている、とある。

 

 しかしこれらの文獻に、疑惑を持つ學者も稀ではない。この懐疑説を奉ずるものは、いづれも

 しかしこれらの文獻に、疑惑を持つ學者も稀ではない。彼等は諸國の河童記事に、幾多の相違があるのを見ても、河童の存在は疑はしいと云ふ。

 

編者は『重複の部分および「この懐疑説を」云々の部分は原稿の消しもれか。』としており、岩波版新全集でもこれを踏襲して上記と同じ本文校訂を行っている。しかし、これは逆に、編者が消しもれと判断した方が芥川の決定稿であり、「しかしこれらの文獻に、疑惑を持つ學者も稀ではない。彼等は」の方が抹消された原稿であった可能性を捨てきれないのではないか? 芥川の原稿は実は「しかしこれらの文獻に、疑惑を持つ學者も稀ではない。彼等は」と取り消した右脇に「しかしこれらの文獻に、疑惑を持つ學者も稀ではない。この懐疑説を奉ずるものは、いづれも」という吹き出しで訂正をしてあったのではないか? それを植字工が誤って両方組んでしまった。それを全集編者は逆に消去した方を決定稿として取ったのではないかという疑いを私は捨てきれない。そこで敢えて今回の本文では、その私の可能性の方を示して、本テクストを読むあなたの判断を俟つものとした。疑義のある方は、別段、構わぬ。岩波や筑摩の正しきアカデミズム底本をお使いになれば済むことである。若しくは――芥川龍之介の当該原稿を探し出して、それを私に突きつければそれでよい。さすれば私は平身低頭、本ページをアカデミズム底本に戻すだけのことである。――ただ私は、私の推定した本文の方が芥川龍之介らしいと思うだけである。――

・「筑後川に産する河童は、褐色の皮膚に毛が生へて居り」ウィキの「河童」には、『福岡県の筑後川付近には「河童と地元民とのもめごと」や「河童族同士の戦争」の伝説や「河童にちなんだ地名」など比較的年代が明確ではっきりした記録が数多く残っており、少なくともその当時「河童」と呼ばれたものが川辺付近に多く住んでいたと思われる』とあり、芥川の言うように『特徴は全身が毛に覆われている「類人猿形態」。筑後地方の河童は100匹以上の集団生活を営んでいたらしく、川の上流から海の傍まで幾つかの集団に分かれて生活していたらしい。さらには人語を理解し、人間との複雑な契約も行っていたことから、河童は少数民族ではなかったかとも思われる。昭和初期まで河童を見た人が比較的多くいるのでこの時期に絶滅したのかも知れない』とあり、『「水に入る前にはタケノコを食べる」「水に入る前には仏前飯を食べる」といった河童除けの風習は久留米市の水天宮付近が起源とされる。毎年8月には、水の祭典という祭りが行われる。これは、元々河童をあがめるために始まった祭りである』とする。

・「三河越前に産する河童は、頭部以外に毛のないばかりか、皮膚の色彩も暗緑色である」これは、大正3(1914)年刊の柳田國男「山島民譚集(一)」の「河童駒引」の「諸国河童誌の矛盾」に『九州筑後川流域ノ河童ハ肌膚(きふ、皮膚)褐色ニシテ総身ニ毛アルニ反シテ、三河、越前等ノモノハ青黒クシテ毛無ク、所謂「オカッパ」ノ部分ニノミ、人間ノ小児ト同ジキ毛ヲ頂ケリ』というのを引いたものと断定出来る。

・「況や皮膚の色彩などは、周圍の色彩に應ずる事、カメレオンの如き動物もある」これは芥川が小説「河童」で忌憚なく生かすことになる博物学的河童属性であることは言うまでもない。

 

■第4段落

・「下學集」辞書。文安元(1444)年成立。著者は序末に「東麓破衲」とするのみで不詳。2巻から成り、天地・時節・神祇・言辞等の18門に分類、語義・語源・用法等の簡単な注を附す。

・「倭名抄」『「和名抄」』は正しくは「倭(和とも表記)名類聚鈔(抄とも表記)」で、平安時代中期に源順(したごう 延喜11911)年~永観元(983)年)によって編せられた辞書。

 

■第5段落

・『古人は何時も河童と云へば、怪物と考へる傾向があつた。「水神」「ひやうすへ」「川の殿」等、九州に行はれる河童の異名は、殆河童を敬ふ事、神とひとしかつた証據である。』という部分は、実は底本では、

 

古人は何時も河童と云へば、怪物と考へる傾向があつた。「水神」「ひや會」を見ても、河童が怪類に屬する事は、「うすへ」「川の殿」等、九州に行はれる河童の異名は、殆河童を敬ふ事、神とひとしかつた証據である。

 

とある。しかし、この文章は如何にもおかしくはないか? 特に、「古人は何時も河童と云へば、怪物と考へる傾向があつた」の異名傍証は綺麗にただ並べてよいのに、「水神」と「ひや會」なるものを掲げ、そこにまた屋上屋のダブった「を見ても、河童が怪類に屬する事は」という第一主部を挿入し、またしても例示の異名「うすへ」「川の殿」を示して、その後に如何にも芥川らしくない、「九州に行はれる河童の異名は」という第二主部が配されている。更にこれは「殆河童を敬ふ事」と同じで河童がその国の民にとって「神とひとしかつた証據である」という、如何にも第三主部までが混入した捩れた悪文である。こんな悪文をインフルエンザに罹患して熱に冒されていたからと言って(後掲注で示すように私は、これは嘘である可能性が高いと考えている)、芥川龍之介が書くだろうか? 先の全集編者の校訂の疑義と同じく、私はここにも何らかの芥川の原稿校正指示に対して、活字の組を誤ったのではなかろうかという疑義を持つのである。

 前段のような明確な原稿を想起出来る訳ではないのであるが、一つの解決の糸口は、聞いたことのない河童の異名に隠されていた。――

――私は相応な妖怪フリークを自認しているが、この「ひや會」と「うすへ」という河童の異名は寡聞にして聞いたことがない。字面も如何にもおかしい。これは河童の異称どころか、ある種の『対象』を表現する方言としても、あり得ないもののように思えた――

 

――ところが――この二つの語を合体させると――

――何と! そこに美事! 河童の異名が浮かび上がって来るではないか!

……「ひや會」+「うすへ」……「ひや會うすへ」……「ひやうすへ」

――「ひやうすへ」!

 

先の私の「水神」に引いた柳田國男「山島民譚集(一)」の「河童駒引」の一節をもう一度、御覧頂きたい。引用は筑摩版の現代仮名遣変換のものであるから、この部分は実は原文では歴史的仮名遣で恐らくは『日向・大隅邊ニテハコレヲ「ヒヤウスエ」「スヰジン」(水神)ト云フ』となっているはずなのである。更に英一蝶の門人脇嵩之の描いた妖怪図譜「百怪圖卷」にはこの、子供のような禿げ爺の格好をした河童から変形した妖怪を描いたその脇に、名を「へうすへ」と記しているのである。

 

――この「ヒヤウスエ」という表記と「へうすへ」という表記を見ていると――

……「ひやうすえ」+「へうすへ」……

――「ひやうすへ」!

 

が見えてきはしないか?!

以上、私の結論を言おう。ここの部分、芥川龍之介の原稿は、

 

古人は何時も河童と云へば、怪物と考へる傾向があつた。「水神」「ひやうすへ」を見ても、河童が怪類に屬する事は、「川の殿」等、九州に行はれる河童の異名は、殆河童を敬ふ事、神とひとしかつた証據である。

 

であったのではないか? 芥川は「を見ても、河童が怪類に屬する事は、」まで記して訂正を施したくなった。そこでそれを消したが、更に異名の例を追加しようと思った。そこで「川の殿」を挿入して書き始めたのではないか? いや、若しかすると「ひやうすへ」が挿入であって、その吹き出しを校正係か植字工が誤って『「ひや會」「うすへ」』と読んでしまったのではないか? そもそも河童の地方名なんぞに精通している校正係や植字工というのは、いないだろう。

 こんなケースはどうか? 校正係か植字工かは知らない。恐らく最初に正しい原稿があったか、若しくは正しく活字は組まれた――ところが何故か分からないが――原稿の欠損か紛失、若しくは活版組のバラシ等があって――削除してあるはずの「を見ても、河童が怪類に屬する事は、」を新たに組んでここへ入れ込んでしまった、若しくはそうしないといけないと勘違いしてしまった――その際に(これは活字をバラシた可能性が高いと思うが)、更に全く無関係な「會」という活字が致命的にその冒頭に入り込んでしまった――

……出版現場では現実にはあり得ない苦しい想定ではある。しかし、一つの出来事を想定した「藪の中」ではある……

以上のやや牽強付会とも思われる私の恣意的な判断で、ここは以上のような本文を採用した。疑義のある方は、別段、構わぬ。岩波や筑摩の正しきアカデミズム底本をお使いになれば済むことである。若しくは――あなたが「ひや會」若しくは「うすへ」という書物なり、河童の異名を探し出して、私に突きつければそれでよい。一番いいのは――やはり先の恣意的変更と同じく――芥川龍之介の当該原稿を探し出して、それを私に突きつければそれでよい。さすれば私はやはり平身低頭、本ページをアカデミズム底本に戻すだけのことである。――ただ私は、私の推定した本文の方が芥川龍之介らしいと思うだけである。――

・「水神」筑摩全集類聚版脚注はこれを「未詳」とするが、もしかすると、筑摩版編者はこれを書名と勘違いしたのではないか? これは河童の異名である。大正3(1914)年刊の柳田國男「山島民譚集(一)」の「河童駒引」の「河童ニ異名多シ」の条に『日向(ヒユウガ)・大隅(オオスミ)辺ニテハコレヲ「ヒョウスエ」「スヰジン」(水神)ト云ウ』とある(引用は筑摩文庫版「柳田國男全集5」より)のを直に指している。

・「ひやうすへ」現在は妖怪の一種として河童とは独立している感がある。佐賀県及び宮崎県を中心に、九州地方に伝承される。以下、ウィキの「ひょうすべ」 から引用しておく。『河童の仲間と言われ、河童、ガワッパ、ガアタロの別名ともされるが』、『河童よりも古くから伝わっているとも言われる』。『元の起源は古代中国の水神、武神である兵主神であり、日本へは秦氏ら帰化人と共に伝わったとされる。元々武神ではあるが日本では食料の神として信仰され、現在でも滋賀県野洲市、兵庫県丹波市黒井などの土地で兵主神社に祀られている』。『佐賀県武雄市では、嘉禎3年(1237年)に武将・橘公業に伊予国(現・愛媛県)からこの地に移り、潮見神社の背後の山頂に城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれ、そのために現在でも潮見神社に祀られる祭神・渋谷氏の眷属は兵主部とされている』。『また、かつて春日神社の建築時には、当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなし、工匠の奉行・兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸がそれを鎮めたので、それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいう』[やぶちゃん注:ダイダロス的イメージである]。『潮見神社の宮司・毛利家には、水難・河童除けのために「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがわら」という言葉がある。九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来しており、「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」という意味の言葉なのだという』。『名称の由来は前述の「兵部大輔」のほかにも諸説あり、彼岸の時期に渓流沿いを行き来しながら「ヒョウヒョウ」と鳴いたことから名がついたとも言われる』。『河童の好物がキュウリといわれることに対し、ひょうすべの好物はナスといわれ、初なりのナスを槍に刺して畑に立て、ひょうすべに供える風習もある』。『人間に病気を流行させるものとの説もあり、ひょうすべの姿を見た者は原因不明の熱病に侵され、その熱病は周囲の者にまで伝染するという』。『ナス畑を荒らすひょうすべを目撃した女性が、全身が紫色になる病気となって死んでしまったという話もある』『また、ひょうすべはたいへん毛深いことが外観上の特徴とされるが、ひょうすべが民家に忍び込んで風呂に入ったところ、浸かった後の湯船には大量の体毛が浮かんでおり、その湯に触れた馬が死んでしまったという話もある』。『似た話では、ある薬湯屋で毎晩のようにひょうすべが湯を浴びに来ており、ひょうすべの浸かった後の湯には一面に毛が浮いて臭くなってしまうため、わざと湯を抜いておいたところ、薬湯屋で飼っていた馬を殺されてしまったという話もある』。(中略)『鳥山石燕らによる江戸時代の妖怪画では、伝承の通り毛深い姿で、頭は禿頭で、一見すると人を食ったようなユーモラスな表情やポーズで描かれている』が、『これは東南アジアに生息するテナガザルがモデルになっているともいわれる』(中略)。『別名にはひょうすえ、ひょうすぼ、ヒョウスンボ、ひょうすんべなどがある』。

・「川の殿」先に引いた柳田國男「山島民譚集(一)」の「河童駒引」の「河童ニ異名多シ」の条には『九州ノ或ル地方ニテハ、河童ヲ「カワノトノ」ト呼ブト聞ク。日向・大隅辺ニテハコレヲ「ヒョウスエ」「スヰジン」(水神)ト云ウ』と、正にすぐ直前(後ではない)にあるのである。これが、私の後から原稿に芥川が異名を追加した可能性を感じさせる理由でもある(但し、私などもやるが、他人の著作を元としている場合、それを断らない時にはオリジナルの振りをして、わざと順番を変えたりはするものではある)。

・「古事記」巫女と推定される稗田阿礼(ひえだのあれ)の記誦を太安万侶(おおのやすまろ)が記述した日本最古の歴史書。和銅5(712)年成立。

・「風土記」奈良時代の地誌を国ごとに記録編纂した複数の日本最古の地理書の総称通称。写本や断片が残存する。それらは「続日本紀」の記載から和銅6年(713)年5月に元明天皇から編纂の詔が下されたと推定されている。

・「殆河童を敬ふ事、神とひとしかつた証據」河童が零落した神である可能性は民俗学的には定説に近いと私は考えている。ウィキの「河童」の「起源」の項を引用しておく。『河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ、西日本では大陸からの渡来とされるが』、『東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する。九州北部では河童の神を兵主部羅神ということから、熊本県のヒョウスベもその一派であると考えられる』、河の神が『秋に山神となるように、河童も一部地域では冬になると山童(やまわろ)になると言われる。大分県では、秋に河童が山に入ってセコとなり、和歌山県では、ケシャンボになる。いずれも山童、即ち山の神の使いである。また、河童は龍などと同じ水神ともいわれる。山の精霊とも言われる座敷童子などと同様に、河童も一部の子供にしか見えなかったという談があり、関連性が興味深い』。『河童は、間引きされた子供の遺体が河原にさらされている姿との説もある。江戸時代には間引きは頻繁に行われており、他の子供に間引きを悟られないよう大人が作った嘘とも言われている』。頭部の皿に関わって折口信夫は「河童の話」の中で、『皿などは食物を載せるための物で、つまりは生命力の象徴である』と述べており、これは各地方に伝わる『椀貸し淵の伝承が興味深い。膳椀何人前と書いた紙を塚・洞・淵などに投げ込んでおくと翌日には木具が揃えてあった。だがある時借りた数を返さなかった日から貸してくれなくなった、というようなものである。貸し主ははっきりしないのが多く、竜宮・河童というのもあるが狐という所もある。ただ類似の説話に川上から箸や椀が流れてきたという隠れ里にまつわる話やそれに関する迷い家(マヨヒガ)のケセネギツ(米櫃)』、『淵に薪などを投げ込むと恩返しで富貴になる話などがあり、これらのことからは椀類が生命力から富の象徴になったこと、椀が水と縁の浅からぬ物であることが分かる』と述べている。『また折口は壱岐の殿川屋敷で女が井戸に飛び込み、底に椀が沈んでいるという話も紹介した。これについては古くから水の神に捧げる嫁或いは生け贄や、水に関わる土木工事での女の人柱が多く伝承されていることを挙げ、平戸に伝わる女河童の例で、ある侍屋敷に下女がいて皿を一枚落として割ったので主人が刀で斬りつけると海に逃げ、その姿を見れば河童であったという話を引いている』とある。

 

■第6段落

・「四肢を切斷せらるるも、切斷せられたる四肢を得れば、直ちに癒着せしむる力あり」これもよく聞く河童膏薬の話である。河童が悪戯をして手などを切られ、それを取り戻しに来て、その接合に関わる妙薬を伝授されるという万能切り傷膏薬の伝承である。

・「大約六十年以前」本執筆時大正111922)年から60年前は文久2(1862)年、勿論、これは文明開化という――悪しき邪教の進入を許して土着神も郷愁も何もかも灰燼と帰してしまった明治元(1868)年を意味している。

 

■追記

・「以上は河童の話の一部分、否、その序の一部分なり」冒頭注の私の解釈を是非参照されたい。

・「目下インフルエンザの爲」大正111922)年4月の脱稿前、芥川龍之介が伏せるようなインフルエンザに罹患しているという記載は如何なる年譜にも、ない。それどころか、芥川は元気ピンピンである。4月1日頃から8日頃までの伯母フキとの京都奈良旅行、13日の英国皇太子来日記念英文学講演会での「ロビン・ホツド」講義を経て(この間にインフルエンザい罹患したとしても、だ)、25日には二度目の長崎に旅立って月末には京都で豪遊、帰京したのは実にこの後の6月1日である。――これは原稿が書けない、書きたくない、遊びたい嘘だった――と、私は思う。

・「諒恕」その相手の事情を思いやってゆるしてやるの意。――龍之介の嘘つき! やぶちゃんは――許さないよ!……でも、いいか……ちゃんと後年、小説「河童」を残してくれたし、ここに幻の別な小説「河童」のカケラも残して呉れたもんなァ……