鬼火へ
ゴジラは何処から来て何処へと去るのか?――
いや――今もゴジラは「いる」――
本篇は東宝1954年制作「ゴジラ」を高等学校の総合学習で講義した際のノートである(本稿による授業は過去、高校生対象に3度、中華人民共和国南京大学の2000年度日本語科3年生に1度行っている【2011年高校教員退職時現在】)。シーン・ナンバーは昭和58(1983)年刊の徳間書店刊行の「ゴジラ」巻末所収の『「ゴジラ」シナリオ完全再録』を用いた。本授業案はポーズ・スロー再生・スロー逆再生等をしながらの解説、分析を想定した記述で、本稿ではそうした操作をする箇所について、それぞれ該当シーン終了後にポーズ(P)・巻き戻して再度スロー再生(SP)・スロー巻き戻し(SR)という略号で指示してある。但し、一部の概説内容については、細部に亙る説明を文章化すると膨大な量になるため、簡略化して提示してある。頭で「×」がつくのはシナリオにありながら、完成作品でカットされたシーンを示す(藪野直史)。
メタファーとしてのゴジラ:Ⅰ シナリオ分析
(copyright 藪野直史)
〇オープニング・クレジット・タイトル(「原作 香山滋」でP)
●まず、本作の原案が東宝の香山への持ち込みであり、本としての「ゴジラ」はノベライゼーションであることを説明し、以下、この香山滋が如何にこの原作者として相応しいかについて、彼の戦前の古生物学的幻想文学の業績から概説する(大蔵省在籍等の風変わりな経歴等も絡める)。
〇オープニング・クレジット・タイトル(「特殊技術 円谷英二」でP)
●「特技監督」という名称でない点に着目させる(当時の特殊技術に対する映画界に於ける認識の低さの表われである)。以下、TV特撮ドラマへの進出を中心に、円谷英二の業績を概説する。特に、戦中の「ハワイ・マレー沖海戦」の真珠湾攻撃場面の特撮を検閲したGHQが、彼が説明したにも関わらず、どうして実写フィルムを持っていると詰問され、円谷はホワイト・パージで干された笑えない皮肉なエピソードを紹介する。
〇オープニング・クレジット・タイトル(「音楽 伊福部昭」でP)
●ゴジラの叫び声の原音と合成法(コントラバスの弦をコマから外した状態で、松脂を塗った手袋でしごく)のサウンド・エフェクトについて概説する。[2014年8月11日追記:先般のNHKの「ゴジラ」と伊福部昭に纏わる番組で、当時の関係者は弦を緩めたが、コマからは外していないと証言していた。また、2014年8月刊の洋泉社「別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本」でも、本作の音響効果担当であった三縄一郎氏(お名前を失念したが、恐らく前の番組の関係者は彼であろう)は、インタビュアーの『革の手袋をして、松脂を塗った弦をひっぱったという説もあるのですが。』という質問に、『そんなことはしてないですよ。』ときっぱり否定されておられる。真相は『怪獣の声になるように』コントラバスの『弦を緩めて、録音の助手や助監督がみんなで弾いて、その中から選んだ』とあり、その録音テープをヘッド部分で手で引っ張ったりして結果的に六、七種を作ったとある。知られた伝説に反して、『それほど苦労はしませんでしたね。』とさらりと述べておられる。]
●彼が日本映画の映画音楽及び音楽界(芥川也寸志、山本直純、黛敏郎等の多くの現代作曲家の師であること)に果たした功績等を概説する。
●特撮映画に於ける彼の劇伴音楽(BGM)のトラウマとも言うべき鮮烈なイメージの特異性を自身の経験から説明する。
〇オープニング・クレジット・タイトル(出演者のタイトルロール最後でP)
●「手塚勝巳」「中島春雄」を指して、誰かを問う。スーツ・アクターであることを示し、通常の映画・TVに於ける出演者の提示の序列を説明、まさに「ゴジラ」が実質的な大俳優扱い(主役の上を行く主役級俳優)であることに気づかせる。
〇オープニング・クレジット・タイトル(「監督 本田猪四郎」でP)
●黒沢明の盟友であり、彼の助監督も努めたこと等、彼の映画歴を概説する。
●中国の大学でこれを上映した際の失笑をかったエピソードを紹介する(「猪」は中国語では「豚」であり、人名に付けることはあり得ない)。
〇栄光丸甲板(スクリンプロセス)[2]
●特撮技術としてのスクリーン・プロセス(ここはリア・プロジェクションであろう)について概説する。
〇海面[3]
●この発光は何かを注意させておく。また、この白熱光のイメージが当時の日本人の一般的な原爆の印象につながることを指摘。
〇東京湾水難救済会(注:シナリオでは「水難救済会」に「サルベージ」のルビ。映画では「南海サルベージK.K.」という社名が部屋のドア・ガラスに明記)・所長室 [8](P)
●ヒロインとヒーローの登場。当時の東宝ニューフェイスとしての宝田明と河内桃子の紹介。及び、主人公緒方秀人及び山根恵美子の人物設定を確認し、初登場からデートをする相愛の仲であることの提示に注意させ、既にこの関係提示の性急さに二人の関係に第三者が絡むこと(重要なメタファーとしての三角関係)の暗示を指摘する。
〇海上保安庁オペレーションルーム[9](P)
●定義:ゴジラは原水爆のメタファーである。
●遭難地点=最初のゴジラ出現の設定とキー・ワード「南海」の暗喩
★「南海汽船所属」
若き主人公尾形が所長を務める会社も、映画では尾形は「南海サルベージ」と呼称しており、さらにSOS信号を「本社の船から」と恵美子に語っている[8]。従って彼のサルベージ会社は南海汽船系列の子会社であるが、この映画の冒頭には連続する印象としての『南海』のイメージが意識的に集合させられているのである。これは複数の心象を惹起させるための重要なキー・ワードとして分析する必要がある。
★八月十三日という設定
これは明らかに、長崎(六日)・広島(九日)・敗戦(十五日)というあのラインの仮定された三度目の被曝をイメージさせる日取りである。三度目の被曝はしかし厳として存在した。それが以下の南海という設定である。
★北緯二四度、統計一四一度二分という位置
ここは、第二次世界大戦の激戦地であった硫黄島の近海である。そこからブラボー・ショットの行われたアメリカ領であったマーシャル群島はその実際の隔てられた距離というよりも、「南海」の感覚に於いて同じ領域である。まさにここで我々は、第五福竜丸の「日本人の三度目の被曝」を追体験させられるのである。
●定義:ゴジラは原水爆のみのメタファーではない。
★「南海」に潜むメタファー
更に歴史を戻るならば、硫黄島・マーシャル群島という名称は、容易に当時の日本人に「南海」に散って逝った「英霊」達の墓場というイメージを喚起させるであろう。そして主人公の会社名は「南海サルベージ」=南海に於いて戦友の遺骨を引き揚げることのメタファーであることに気づくであろう。
そして、まさにその「南海」からゴジラは出現したのである。即ち、ゴジラは複雑な思いを抱いて死んでいった無数の「英霊」達のメタファーではないかという可能性がここで俄に浮上してくるのだ。以下で、それは検証してゆきたい。
●映画「ゴジラ」には無数の伏線が張り巡らされていることに注意させる。
〇デイゼル船[18]
●「いきなり、海が爆発しやがったんだ」という台詞に注意を喚起。これは明白なビキニのイメージなのである。
〇保安庁記者室[19]
●大戸島という島名の確認及び[9]でも語られる事実としての明神礁爆発による調査船二次災害について概説する。
〇新聞[20]
●浮流機雷の説明。
〇高台の見張所(夕方)(合成)(注:シナリオでは「合成」とあるが、子細に見て もここはほとんど合成画像ではなく、通常のロケ撮影である。可能性は筏シーンのはめ込み画像であるが、画面が極めて暗い為に断定はできない)[22](P)
●新吉の初登場の確認(この少年はプロット上、重要な人物である)。
〇大戸島海岸(昼)[26](P)
●定義:ゴジラは神のメタファーである。
★民俗学的存在としてのゴジラⅠ
この「老いたる漁師」の台詞はよく吟味する必要がある。
「おい!……昔の云い伝えを馬鹿にしたら、今にお前らあまっこ(注:シナリオでは「あまっこ」に傍点)を、ゴジラのいけにえ(注:シナリオでは「いけにえ」に傍点)しなきゃなんねえぞ!」
この老漁夫の言説は、ゴジラが古くからの民俗伝承として大戸島に伝わってきていた(少なくともこの老人の子供時代までは)ことを示している。伝統的神概念としてのゴジラの位置付けである。ゴジラは祭ることを怠れば不漁(飢饉)といった大災厄を引き起こす存在として示されており、それを回避する手段として、民俗社会に典型的な生け贄としての処女(老漁夫にこう言われるのは明らかに若い未婚の女性である)の必要性が語られるのである。その具体的事実は次のシーン[29]に於いて明らかに提示される。
★ちなみにゴジラ命名説の有力な一つが、この老漁夫役の高堂国典(黒澤明の「七人の侍」の村の長老役が極め付けであろう)のあだ名であったという説(実際には彼がこの撮影で「本ゴジ」というあだ名を拝領したという説もあり)がある。その他、ゴリラとクジラの合成説等の他の命名説も紹介する。
〇岡の上[28](P)
●邪神の姿を唯一実見した生き残りとして政次(注:完成作品では「政治」という表記設定となっている)が「たしかに生きもん(注:彼によって初めてここでゴジラの生物的実在が示されるのである)だ」と明言する。その彼がこの後、ゴジラに踏み殺される第1号であるのは興味深い。ここで、彼は民俗社会のタブーに触れた、即ち罰を受けねばならなくなったのである。ヴィトゲンシュタイン風に語るならば、神は老漁夫のように名指しても良いが、決してこのように示してはいけない存在なのである。
〇神社の境内(夜)[29](P)
★民俗学的存在としてのゴジラⅡ
ここではゴジラの鎮めのための神楽が舞われる。そこで舞手は、天狗の面に、羽状の被り物をつけている。この舞の衣装は、実際のゴジラの形状と一致しているとは言い難いが、後者はゴジラの背部のヒレ状突起のイメージと偶然にも一致する。
天狗とは基本的にアジア系黄色人種から見た白人の形象にほかならないのだが、ゴジラ設定資料を見ると、極めて興味深い事実が浮き上がってくる。まず、撮影に先立って描かれた膨大なピクトリアル・スケッチである「G作品絵コンテ」には、唐獅子型のゴジラが描かれている点である。初期設定に於けるゴジラはまさに神社の狛犬に近似した形象を持っていたのである。そして、映画の完成後のヒットを祈る修祓(しゅうふつ)式で読まれた祝詞では「呉爾羅」という字が当てられるのであるが、これについてヤマダ・マサミはその著「絶対ゴジラ主義」(一九九五年 角川書店刊)の中で、次のような面白い見解を提示している。
「〔呉〕とは古く栄えた中国の国名から唐の魔物や猛き者を表すことが可能だ。接続助詞でもある〔爾〕は〈汝〉を指すともいうし、〔羅〕は〈連なるもの〉を意味するところから、〈なんじ古き唐の魔物(猛き者)と連なるもの〉と読めてくる。
素朴な大戸島の漁師の目には、大陸からくる異文明の驚きを、唐獅子にも似た呉爾羅に見たのかもしれない。」(注:一部記号を改変)
即ち、ゴジラは、ヨーロッパ由来の古典的な聖獣であるドラゴンが、シルクロードを南下しつつ、中国で麒麟や龍にメタモルフォーゼし、更に唐獅子に姿を変えて東南アジアでの獅子舞の様式になり、沖縄のシーサー(獅子)や狛犬へと継承されていったという流れを受けているというのである。
まさに、ゴジラとは伝統的民俗社会に於ける「御霊信仰」の典型的存在、「荒ぶる神」としてここに立ち現れてくるのだと言えよう。
ちなみに、カットされたシナリオの本シークエンスの最後に「ほうき星」(これはやはり先行する[22]でもカットされている)が登場するのも、民俗的予兆を補強するものである。神話世界に於いてはコズミックな律動はすべて有意義的に関連しているのである。そして、ついに「荒ぶる神」はその怒りを露わに、画面に登場する。
〇政次の家[32](注:完成作品では「政治」という表記設定となっている)(SP)
●ゴジラの初登場シークエンスの処理のうまさを味わう。夜、雨、暴風、雷という「荒ぶる神」出現のアイテムがすべて揃っている。政治のゴジラを認めるシーンは、雷電を用いたハレーション効果が絶妙である。ゴジラの姿はその下半身の一部が僅かに確認出来るだけであるが、政治の驚愕の演技と重低音の足音(実はここでは明らかにしないが、これは効果音としての足音では全くないのである。それに気づく生徒がいると面白い)が戦慄を演出するのである。
★ここで新吉は孤児となることを注意させる。戦争を生き延び、ゴジラのからも辛くも逃げ延びた兄政治は、結局ここで邪神の怒りに触れ、母親と共にゴジラに踏み潰されるのである。そうして、この新吉は、戦災孤児のイメージと痛烈に重なるのである。
〇新聞記者、萩原の証言[39](注:シナリオではここで萩原の証言の後に、(ワイプ)とあるが、実際の映像では通常のロングからバスト・ショットへの通常フィルム・カットの編集である)(P)
●山根博士役志村喬の演技
山根役の志村喬本人の発想であろうと思われるが、国会公聴会委員長の呼名を受けて証言台に立った博士のネクタイは、ボタンの外に出てしまっている。それに気づいて、はにかむように直す演技は、国会という場での緊張を示すというよりも、博士自身の木訥な性格や、世間ずれしていない研究一筋の学者気質を一瞬に示す極めて見事な仕草である。登場と同時に直感的に人物を観客に理解させる優れた演技・演出である。
〇竹芝桟橋[41]
●芹沢大助の登場(P)
大戸島へ向かう調査船「かもめ丸」の出港シーンである。船上に山根博士、娘の山根恵美子(父の助手)、尾形(南海汽船から所有船舶の海難事故調査の依頼を受けたものであろう)がいる。それを見送る人々の中に、ここで初めてもう一人の重要な登場人物、芹沢大助が登場する。恵美子の紙テープは、芹沢のにつながっている。
〇かもめ丸甲板[42](SP)
★恵美子役の河内桃子ははっきり言って演技が下手であるが、芹沢とつながっていたテープが切れた時(これがショットの中では分かりにくいのであるが)の恵美子の一瞬の表情に着目させたい。これが我々には、芹沢と恵美子の過去の何かを感じさせる重要なシーンなのである。
〇竹芝桟橋[43](P)
●左目の黒眼帯にサングラスの芹沢は、見るからに暗い印象を与え、作品のダークな一翼を担う今後の存在を、やや滑稽なほどに素直に示してしまう。映像では余り際立っていないが、左顔面にはケロイドの痕もある。次の[44]の尾形の台詞「めったに実験室から出たこともない人が……」から、彼がやはり科学者(設定では薬物化学者)であることが示される。マッド・サイエンティストの典型的風貌でもある。
〇かもめ丸上甲板[44](P)
●尾形の台詞の不可解さ
尾形は芹沢の見送りを「最後のお別れに来たつもりかも知れない……」と恵美子につぶやくが、この台詞は妙なニュアンスを持っている。怪訝そうな恵美子に、極めて不自然な長い間の後に、「……勿論、危険水域は避けて行くが万一と云うこともあるからねェ」と尾形は答えるのだが。果たして、この芹沢が「お別れに来た」のは誰に対してなのか?
設定では尾形と芹沢は中学以来の旧友とあるが、尾形は明らかに芹沢の後輩であろう。映画では、終始、尾形は芹沢を「さん」づけするのに対して芹沢は「尾形」と呼び捨てである。尾形が芹沢と話す際は完全に敬体表現であるのに対し、芹沢は終始常体でしか話さない(この事実は、実は尾形が芹沢に対して他人行儀であるのに反して、芹沢は尾形にある種の親しみを持っているという感じを逆に与えるのであるが)。
そうした尾形側の距離感を考えた時、「お別れ」に来たのは恵美子に対してである、と言える。しかし、だとすると、この尾形の台詞は極めて不用意ものと感じられる。愛している恵美子に対して、殊更に不吉な印象を感じさせ、さらに威しまでかけるという理解し難い場面なのである。普通ならば、逆に言葉だけでも励ますところであろう。
そこでこの「お別れ」が別な意味を孕んでくるのである。
尾形と恵美子とは相思相愛の仲である。しかし、この時点にあっても、芹沢は父である山根博士の養子になることが、即ち、恵美子と結婚するのだという噂が、半ば公的に知られていたという事実を我々は、この後に知るのである(シナリオでは欠番の[90~92]に相当する後述の新聞社のシーンで、新聞社デスクと萩原記者の会話によってこれが示される)。恵美子を芹沢は愛しており、恵美子はそれを受け入れるべき用意が十分にあったに違いない(シナリオ[41]ではト書によって、芹沢は山根博士の愛弟子であり、恵美子は兄のように芹沢を慕い、芹沢は恵美子を密かに思っているという設定になっており、また、撮影初期の検討用スナップには大学生姿の芹沢と浴衣姿の恵美子の手をつないだ幸福そうな過去のツー・ショットが数枚残されてもいるのである)。その後、戦争中、片目を失い、画面に火傷を負う謎の事故(これは設定でも明らかにされておらず、最も想像を逞しくするところであるが、その問題は後述する)に合い、戦後は何故か研究室に閉じこもり、恵美子との接触もなくなったのであろう。芹沢豹変の理由が分からない恵美子、それを慰める芹沢の友人尾形、彼らの恋愛への発展というそうした構図を考えることは極めて容易である。
即ち、ここでの尾形の「お別れ」とは、図らずも、尾形側の無意識の願望が表現されたものなのである。だからこそ「危険水域云々」が至って弁解染みて奇妙なのである。そして、これが芹沢との疑似恋愛感情との訣別となることを、恐らく女である恵美子は本能的に嗅ぎ取っているのである。その表現がまさにあの紙テープの切断シーンだと言ってよいであろう(河内桃子の演技不足及びテープの演出失敗は返す返すも残念である)。
実は、この恵美子と芹沢・尾形を巡る三角関係にこそ、「ゴジラ」の持つもう一つのメタファーが実は隠されていると考えるが、それはまた、後述する。
〇村落の道[48]及び新吉の家の付近[49](SR)
●特殊技術としての海及びゴジラの足跡を含む背景のマット・ペインティング、そのはめ込み技術について概説する。
〇共同井戸[53]
●当時の日本人にとっての危機意識としての「放射能の雨」という語に注意させる。
〇尾根[60](各所でP、ゴジラ登場シーンはSP)
●ゴジラの出現
ゴジラの皮膚形象がケロイドの山であることを指摘する。
●ゴジラの動きに隠された日本的なるものについて
★演技試演
キング・コングやアメリカ製のゴジラとの決定的な差異として、ゴジラは首だけの見返りの動作をしない点が挙げられる。ここでそれらの動きの違いを実際の演技として演じて示す。
●ゴジラの動きは極めて日本的であること
これは総重量約一〇〇キロという特殊プラスチック(その後ラテックスやFRPを使用で飛躍的に軽量化し柔らかくなる)を用いたための制約と言えるのであるが、私にはそこには別な極めて象徴的な意味が隠されているように思われる。ゴジラは振り返る際に、全身で振り返るのである。これは西洋演劇が常にターンや上半身もしくは首のみによって振り返るのとは対称的であり、まさにこの振り返り方は日本の能楽に於ける演者の動きに等しいのである。
★能楽に於ける翁の見返りの演技を演じて示す。
●定義:ゴジラは能のメタファーである。
以上の能楽との類似は、実は演技そのものに止まらないのである。能の定形の一つである複式夢幻能と「ゴジラ」の展開の共通性について以下、論述する。まず、複式夢幻能について簡単に概説する。
現実の登場人物(宗教者であることが多い)の人物(作劇上、ワキと呼ぶ。以下同様)が、ある地方を旅する途中、やや不可思議な印象を与える土地の人(前ジテ)に出会う。前ジテは、そこにまつわる、既に亡くなったある人物の因縁話を語るが、最後にまさにその亡くなった人物が自身であることをほのめかしながら消えてしまう(ここが中入、ここまでを前場[まえば]という)。ワキが待つうちに前ジテは、霊体(後[のち]ジテ)の姿で再び現れ、己が因果の真実を語ったり、遺恨・悔恨の象徴的な舞を舞ったりしつつ、前ジテの読経等によって、消えてゆく(以上、後場[のちば])。
この構造を良く記憶しておいて欲しい。顕在的なメタファーとして、水爆の落とし子として立ち現れるゴジラはまさに前ジテであり、今後、私が分析する中で、まさに亡霊のように(私は先に事実、「英霊」のメタファーの可能性を提示した)無数に立ち現れてくるメタファーは後ジテ以外の何物でもないと、私は思うのである。そして「科学技術という信仰」の「絶対的魔力を持った呪文的(芹沢はその化学式と共に心中するのだから)」オキシジエン・デストロイヤーによって文字通り、ゴジラは消滅してしまうのである。
●恵美子ー尾形ーゴジラの構造
恵美子と尾形が、恵美子をつかみ取ろうとするゴジラの出現によって恐らく初めて強く抱き合う。この構造を記憶させておく。勘の鋭い生徒は分かってくるであろう。ゴジラの芹沢の影=ユングの言うところのトリックスターの可能性である。
●着ぐるみの重量による撮影の困難についてのエピソードを幾つか紹介する。
★最終場面で、ゴジラは海底に姿を消したはずなのに、足音(?)がかぶっていることに注意させる。
×自動車内部(スクリンプロセス)[64]
●何故本田監督はここをカットしたか?
★これ以降、シーン[68]までが完成作品ではすべてカットされている。特に[64]の台詞では、尾形が芹沢を呼び捨てにしており、内容的にも妙に馴れ馴れしい話し方である。そしてここに原設定の尾形と芹沢の友情が表れているのであろうが、恐らく他の部分の台詞との齟齬に気づいた監督が現場か編集でカットしたものか。但し、そのために尾形と芹沢の距離感が増幅され、観客に三角関係をカモフラージュしてしまう結果となった。監督はこの恋愛ドラマを何処まで描くかにやや困ったのであろう。そして、重要な改変として、尾形と芹沢の幼なじみという、恋愛葛藤としては最も効果的な設定明示部分を排除してしまったのである。ゴジラに割り当てるフィルムの尺の問題以外に、私にはこの三角関係を描くことに、監督内部の無意識的な制約が働いたようにも思えるのである。そして、その制約がとりも直さず、私が考えている、芹沢=ゴジラの究極のメタファーへの無意識の規制であるよう思われるのである。結果的に秘密めいた芹沢の存在は逆に、かなりしっかりと後まで持ち越される効果を上げた。こちらについては半端にほのめかすよりは描かない方がよい例である。
〇国会 専門委員会[69](P)
●非科学的な言説の意味
ここでの山根博士の学術的説明の中には素人でも首をかしげる大きな誤りがある。それは冒頭「――今から凡そ二百万年前、このプロントサウルスや恐龍などが全盛をきわめていた時代――学問的に侏羅期と云いますが……」という部分である。巨大爬虫類や恐竜の闊歩したジュラ紀は二億年前に始まるのである。その後、彼らは一億四〇〇〇年前に始まった白亜紀において隆盛を極めながら、突如として大絶滅を経て、中生代の約六五〇〇万年前に完全に滅び去ってしまう。では、二〇〇万年前とは何か。それは何を隠そう、当時、我々人類の最古の人類とされていたオウストラロピテクスの生きた時代なのである。ここに実は仕掛けが隠されていはしないか?
まずこの誤りは、山根役の志村喬のミスではない。実はシナリオにしっかりそう記されているのである。それも「G作品準備稿」でもそう書かれており、ノベライズ版の昭和二九(一九五四)年岩谷書店刊「ゴジラ」でもそうなっている。では香山滋の単純なミスかと言えば、その可能性は低いのである。そもそも、この後の山根博士の言説は淀みがない(カンブリア紀の節足動物であるトリロバイトを「前世紀の甲殻類」と表現しているのは問題があるが)。放射能定量分析やストロンチウム90といった最先端の知識で構築し、「悪魔蜥蜴(ジーラ・モンステル)の邸」を初めとする「爬虫邸奇譚」シリーズや「オラン・ペンテグの復讐」等を書いた、爬虫類や原猿人・古代生物に造形の深い香山がこのような凡ミスをし、それを終生訂正しなかったということは考えにくいのである。[2014年8月13日追記:2014年8月刊の洋泉社「別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本」の一五五頁にある「研究コラム」によれば、『香川滋の他の著作を調べたところ、昭和23年の『恐怖島』では500万年前が侏羅の代となっている。昭和33年の妖蝶記では侏羅は二億年より更に昔となっており、作品によって大変幅がある。55年発売の書籍『恐龍王国』ではそのことを指摘され、その後『ゴジラの逆襲』から正しい年数になっていることから、何らかの影響があるのかもしれない』とあり、少なくとも――香川自身の地質年代認識自体には――誤謬があったと現時点では言わざるを得ない。としても、それを当時、現に「ゴジラ」の製作に携わった人々が全く問題にしなかったというのは、やはり気になることではあるのである。]
香山の研究家である竹内博は、あえてゴジラを二〇〇万年前に発生したまさに我々人類になぞらえたのだろうと語っており、ヤマダ・マサミもその説を支持する。
私は、少なくともこれが単なる間違いであったにせよ、その誤りによって、実はあるもう一つのメタファーがこの作品の中に始動してしまったのだと読み解くのである。即ち、
●定義:ゴジラとはホモ・サピエンスのメタファーである。
●再定義:ゴジラはヒトと等価の生物である。
●再々定義:ゴジラは古事記に於ける、まがまがしき人の原存在たる鬼っ子としての蛭子(ヒルコ)のメタファーである。
ということである。
私はそこで「古事記」の蛭子にまでそのルーツを遡りたいのである。その奇形性故に葦の船に入れられて両親に捨てられるこの哀れな子供は、まさにゴジラに繋がるあらゆるモンスター、日本の妖怪・お化けのルーツなのだと私は考えている。それらを我々が闇に隠してきた、恐怖や狂気といった「負」の精神の無意識の具現化であると言ってもよい。古事記神話の構造を当てはめるならば、ゴジラは、まさしく親に愛されない異形(ヒルコ・ヒノカグツチ等)と怪力(スサノオ・オオナムチ〔=オオクニヌシ。注参照〕等)を持った暗黒神=「人形(ひとがた)としてのカミ」に他ならないのだ。
二度にわたる死からの蘇生を経て、根の国を訪問し、難題にうち勝って須勢理毘売命と呪器を持ち帰った後、彼は葦原中国の荒ぶる神々の頭目となり、それらを代表して天照大神の子に国譲りするというのが「古事記」における大穴牟遅神の物語である。こうした彼は高天原への敵対者である。また、彼は少名毘古那神(少彦名命)との協力で国作りをするのであるが、私はこの少名毘古那神という小さな、船に乗ってやってきた異形の漂着神こそヒルコがプロトタイプであると考えている。
イザナキ・イサナミから生まれながら、深海底に放逐されたヒルコ=ゴジラは、人と同様に、日常的に直立二足歩行性を獲得しており(人の入る着ぐるみだからという説は当たらない。次作「ゴジラの逆襲」の登場するアンギラスは四足歩行である)、その形相と行為はまさに裏切られた愛するものへの憎悪と復讐そのものである(この「裏切られた愛するものへの憎悪と復讐そのもの」のイメージはまた異なるメタファーの要素でもある)。
それを牽強付会と言おうとも、人類とゴジラとを同等の存在に置くことだけで、唯一原爆の洗礼を受けた人類としての日本人と、水爆の洗礼を受けさせられたことに対する怨恨の形相で都市を蹂躙するゴジラとが、ぴったりと重なってくる効果は十分にあるのである。被害者と加害者の等価性は作品の感情移入をより高めるのであると、語るに止めてもよい。ちなみに、香山の古生物ものに親しんだ私には、彼が確信犯としてゴジラとヒトの等価性を狙ったとしか思えないのである。
●与党議員と野党議員の議論のシーンの茶番性を味わう。議員に女性が多いことを指摘し、当時の女性議員の進出状況を概説する。「ばかもの!」のエピソードから吉田茂の、一九五三年三月、首相懲罰動議の可決と衆議院解散(バカヤロー解散)という国政上、類例のない事態について言及する。
〇走る国電の内部(スクリンプロセス)[70]
●「原子マグロ」「放射能」「折角、長崎の原爆から、命びろいしてきた大切な、身体なんだもの」という女のの台詞及び「あァあ、疎開か……全く厭だなぁ」という台詞に注意させる。
〇山根家研究室[81](P)
●山根博士はゴジラを愛している(命題A)
先行するシーン[78]で、暗い表情で無言のまま自室へと下がる山根博士のことを、尾形は新吉(天涯孤独になった新吉は尾形の引き取られて彼の助手をしているという設定であるが、先行するシーン[49]等をカットしてあるため、ちょと唐突な感じである。しかし、年少の観客を動員するには少年を登場人物に据えるにしくはないということと、戦災孤児を感じさせる新吉は大人の当時の成人観客にも大いにシンパシーを与えたと思われる)に「先生は動物学者だからゴジラを殺したくないんだァ」と答える。この[81]での異様にメランコリックな山根博士を記憶させる。
〇橘丸甲板[84]
●このシークエンスの最後の方から入る重低音のゴジラの足音と、それに気づいた様子が全くない登場人物達に注意させる。
〇橘丸甲板[87](P)
●足音/実はゴジラの純粋なテーマ音楽
今までのこのゴジラの足音と理解してきた重低音は足音ではない(あり得ない)ことを解説する。この重低音はゴジラの登場の演出上の「主題音楽」であり、足音ではないのである。
〇対策本部のシーン[89](P)
●芹沢は山根博士の愛弟子である(命題B)
山根博士がゴジラを殺す意志が全くない(方法がないという事実以前にである)ことがここで明らかになる。その言葉は一見、科学的にも見える。広島・長崎を体験してきた(そして進駐軍によって被曝の研究対象とされた被曝者達)日本人にとって、同様に「水爆の洗礼を受け乍らも、尚且つ生命を保っているゴジラを、何をもって抹殺しようというのですか!? そんなことよりも先ずあの不思議な生命力を研究する事こそ第一の急務」とも言えるではないか(事実、次の新聞社のシーンでも、ある記者は山根博士の表明に賛意を示している)。しかし、あのような巨大生物を容易に保護することができないことも、既に多くの社会的経済的被害が及んでいることも山根博士は理解しているのである。
「G作品準備稿」やノベライズ版を読むと、そこでの山根博士はかなり常軌を逸した部分を持った人物(黒マントに身を包んだ、「怪しい」科学者と言っても過言ではない)である。しかし、完成作品では志村喬のいぶし銀の演技も手伝って、そうしたニュアンスは微塵も感じさせない(それどころか、これは「ゴジラ」に先行した同年四月封切りの同じ東宝映画、黒澤明監督の「七人の侍」の勘兵衛役の印象をそのまま引きずっていると言ってもよいのである)。即ち、映画上の山根博士には独善的なマッド・サイエンティストの印象はないのだ。
では、そのような山根博士が、なぜゴジラを殺したがらないのか。ゴジラは芹沢博士のオキシジェン・デストロイアーによって最後に殺されるが、実は山根博士はこの作品の中で、もう一つ極めて大切な失いたくないある人物を失うのである。そして山根博士は既にこのとき、その人物を失うことを直感として認知していたのではなかったか。その人物はゴジラと同じくケロイドを持つ。それは聖痕(スティグマ)である。スケープ・ゴートとして選ばれざるを得ない者、殉教者の印なのである。
ここで最早、命題A且つ命題Bによって引き出される定義を宿題として、提示だけはして置こう。
●定義:ゴジラとは芹沢博士の「ある」内実のメタファーである。
◎新聞社(注:ここはシナリオの欠番[90]~[92]に相当する部分であるが、何故 欠番扱いでありながら、映像があるのかは不明であるが、[64]~[68]のカットによる、設定の不足感を補っており、本田監督自身がカットによって生じたそうしたボケた部分を配慮したのであろう)(SR)
★実はこのシーンにゴジラの中に入っているスーツ・アクターが二人共、普通の俳優として出演していることを指摘する。画面向かって左の奥に座っている「しかし君、現実の災害はどうするんだ。」と言う記者役がゴジラ役者として最も有名な中島春雄、後で出てくるデスク役が手塚辰巳である。中島春雄は黒澤の「七人の侍」にも山賊役の一人として出演している(しかし二人ともお世辞にも台詞はうまくない)。二人の体格は画面で分かる通り、手塚の方が背が高く、がっちりしている。このため、実は初代ゴジラのスーツは二着あった。
●観客への意外な情報の提供
デスクと萩原記者の話の中で、デスクが芹沢博士のことを「山根博士の養子になるべき人物だそうだがね」と言い、それを萩原が「へぇ、あのお嬢さんの……」という風に受けることで、我々は、先に推論したように、芹沢博士と恵美子についてはそのような情報が、半ば公的に以前から知られていたという事実を知ることになる。しかし、我々は既に、恵美子の心が離れていることを、唯一の第三者として既に知っているのである。ここに於いて、我々観客は尾形と恵美子の危うい秘密を共有するのである。観客の快感をくすぐらせ、先への期待を育て、観客に作品世界に参加したような感じを与える、うまい手と言えよう。
〇サルベージ所長室
●尾形ー恵美子ー芹沢の三角関係の顕在化と芹沢の謎めいた過去の提示
冒頭の「お父様はきっと許して下さるわ」という恵美子の台詞とそれ受ける尾形の台詞は、一気に我々の憶測部分を確信への変える。直前のシーンがそのために必要であったことがここで分かるのである。父である山根博士が芹沢との婿養子の縁組を二人の新しい関係について理解を示してくれて破棄し、祝福してくれるはずだという確信に満ちた恵美子の内実が明らかになる。ここで、実はこの恋愛に於いて、次の台詞の尾形が何か尻込みをしている感じを与える反面、ここでは逆に恵美子がその主導権を握っているということが垣間見えるのである。続く恵美子の台詞で、恵美子は芹沢に対する気持ちは兄のような近親的愛であって、それを越えることは全くなかったのだとさえ断言しているし(あくまで彼女の言である。それが事実かどうかは別である)、自分の口から、婿養子の破棄と尾形との結婚の許諾を言い出した方が「芹沢さんも気安く聞いて下さると思うの」とまで言ってのける。
さて、次に「戦争さえなかったら、あんなひどい傷を受けずに済んだ筈なんだ」という尾形の台詞は極めて意味深長である。この「傷」の意味を表層的に捉えてしまうと、恵美子は、まるで芹沢の右目失明と右顔面のケロイドのために、嫌いになった、婿養子を破棄したいと思っているということになる。勿論、そんなはずはない。ということは、この尾形の「傷」とは別のことを指していることになることに気づくはずである。これは明らかに、他者との交際を遠ざける程の芹沢の受けた心的外傷(トラウマ)を指しているのである。右目失明と右顔面のケロイドに象徴される『ある戦争にまつわる「あんなひどい傷」』なのである。これは我々に更なるさまざまな憶測を呼び起こすであろう。まず、芹沢は若年にして博士号を持つ化学者であり、一般的な学徒動員の対象者であった可能性は極めて低い。従って、彼の傷は戦闘によるものではなく、化学実験によるものであると考えるのが自然である。そんな彼が、心身共に「あんなひどい傷」を受けるような危険な『ある』研究に於いて、積極的に「戦争」に関わったとすればそれは何か。この答えはまさに次のシークエンスで明らかとなろう。
★新吉は尾形と生活しており、「南海サルベージ」で尾形の助手をしていることが判明する(後のシーン[100]に相当する映画シーンで山根家に帰宅した恵美子を迎えた際、「お邪魔してます」と答えているので、山根家に居住していない(引き取られていない)ことは明らかである。但し、本シーンの最後で尾形は恵美子に「新吉君の学校の事があるから、その頃に伺います」と言っているので、金銭的援助等を山根家はしているのであろう。そもそも、芹沢養子問題がくすぶっている中で、新吉を養子同様に引き取ることが事態を複雑にさせてしまうことは山根博士自身も薄々理解していたのかも知れない。
★シークエンスのラスト、萩原が部屋を出た直後で(P)、画面右端に着目させる。普通ならNGの、珍しいセットのバレである。
〇芹沢の家のテラス(中間部、萩原記者が帰った直後でP)
●芹沢の暗い過去の暗示
萩原が語る芹沢の情報は、私達に強烈な疑惑を芹沢に対してもたらす。「スイスに居る特派員がその独逸人に会って聞いたと云うのです。芹沢さんが当時考えていたプランを完成していたら日本のゴジラ対策も何らかの打開策が発見されるのではないか……」
まず、「スイスに居る特派員がその独逸人に会って聞いた」という妙にまどろっこしい設定は何か。戦後多くのナチス・ドイツの戦犯や協力者は、永世中立国であったスイスを経由して逃亡したり、隠棲した。「当時」とは戦中(年齢から見て戦前ではありえない)であろう。萩原があえて「プラン」と言ったのもひっかかる。それは恐らく公的な秘密裡の国家的=軍事的「計画」なのではないか。芹沢は薬物化学者である。ここには最早、選択肢は一つしかない。
●芹沢博士は戦争中、軍部の防疫給水部隊若しくは登戸研究所・陸軍中野学校等の研究者として、大量殺戮兵器(恐らく毒ガス)の開発に従事していたのではないか?
彼が研究していた物質はシーン[183]で「酸素」だと判明する(純粋酸素は生体にとって極めて激烈な反応を引き起こす劇物である)が、眼を実験機器の爆発の破片等による物理的なものではなく、生化学的に失明しているとすれば、頬のケロイドと合わせて、現実に照らし合わせると、彼が戦中、軍で研究に主に従事させられていたのは「イペリット(マスタード)ガス」であった可能性が最も有力である。塩素と硫黄を含む化合物ビス(2‐クロロエチル)スルフィド。有機溶媒に溶け、皮革やゴムにも浸透する遅効性の細胞毒である。まず眼の粘膜や毛細血管が冒され、処置が遅れれば失明、皮膚に付着した場合、数時間後に皮膚に激しい糜爛が生じる。
〇芹沢の家のテラス(注:続き)(P)
★恵美子の「お父様もおっしゃってたわ。芹沢はこのごろ何をやってるんだろうって」という台詞は明らかに芹沢が戦後、師である山根博士とも接することがほとんどなかったことを示している。
●芹沢は何故恵美子にだけ秘密を見せるのか?
勿論、言わずもがな、芹沢は恵美子を愛しているからではある。
戦中も公的な晴舞台を退き、ダークな世界を強制されてきた彼、戦後の急速な社会の変革を、恐らくは、誰にも理解されないのだという戦争被害者意識を持ちながら、皮肉に眺めてきた彼(彼の研究室にはテレビがあり、通俗的現実と隔絶して生きていた訳ではない)にとって他者や社会的現実は、膜のかかった実体の感じられないものであったに違いない。だからこそゴジラの出現に対してもある種の無感動を装っているのであろう(それ以外にも理由はあるが、それは最後に明らかにするメタファーに譲る)。
そんな極度の孤独感の中での唯一の光明は、芹沢が愛している、そして愛されているはずの恵美子唯一人である。戦中/戦後のコペルニクス的転回の中で、誰も信じられず、誰にも認められず、それでも命懸けでやってきた研究の成果を、真に素直に認めてくれる=芹沢のアイデンティティの承認=レゾン・デトール(存在理由)の証明をしてくれるのは恵美子以外には芹沢には考えられないのである。
しかし、これは一面、シーン[98]の恵美子の衝撃度を見ても、極度に露悪的とも言える。しかし、それも、唯一の信仰の対象たるマリア的存在としての恵美子に許しを乞うためでもあったのではなかったか。少なくとも、芹沢には恵美子を意識的に遠ざけようとするような、ある種の配慮は感じられない。
そして最後に、次の理由を挙げよう。実は芹沢は直感として、恵美子が尾形との問題を話に来たことを認知していたのではないか、だから機先を制して、自分にとって命懸けの問題、秘密の暴露という形で尾形の愛に対抗したのではなかったか。何れにせよ、どの理由を考えてみても、これは芹沢の一つの、恵美子への愛の「命がけの」表明であることは確実なのである。
〇実験室内部(P)
●昼間部から入る、実際のモーター音に被さる、不安の主題音楽(恐らくヴァイオリンの弦を使用したものと思われる)の効果を指摘する。
●カメラワークの心理表現
ラスト近くの水槽シーンから恵美子の絶叫シーンで(SP)。画面が傾斜していることに気づかせる。この場合、恵美子の眼前の実験への不安や恐怖以上に、芹沢の発見したこの研究成果そのものの悪魔性、それを苦悩する芹沢の内実の表現と読むべきであることを指摘する。
★ここで実際には見えない実験の結果、如何なる薬物かを生徒に自由に発言させてみる。その際のここまでの映像・台詞から与えられる条件を満たさせる。
・恵美子だけに語られる秘密=漏れれば大変なことになる研究成果であること。
・体長五〇メートルのゴジラを撃退・殲滅できるものであること。
・水及び水棲生物に関わる劇物であること。かつ、その水棲生物の変容・死が極めて劇的な致死性毒物であること。
〇山根家玄関内[100](注:実際には玄関から居間室内までのシークエンスである)
●恵美子のうつけた表情に着目させる。芹沢の秘密の衝撃は実は直後のゴジラの襲来の衝撃へときれいにシフトするように描かれている。芹沢とゴジラのシンクロニティである。
〇山根家玄関[102]
★ここで告白問題が再び浮上する。尾形のさわやかな男らしい笑顔がよい。
●覚えておきたい。芹沢の衝撃的告白の直後、尾形と恵美子の関係の山根博士への告白がゴジラによって邪魔されるのである。
*以下、[117]迄がゴジラの初上陸である。([102A]はカットされており、[102]の後は、[105]に近い沿岸に構えて射撃する機関銃部隊と[103]の「品川第二台場(夜)」のシーンの切り返しから入る)。
〇品川駅構内[108]
●ゴジラの全身像このカットで初めて示される。
〇品川駅構内[116]
●アオリの構図になっていることを確認する(実はアオリではないがそれはシーン[145]で明らかにする)。
〇海沿いの町[121]~青梅街道[125A]
●本田監督ならではのリアルなモブ・シーンを指摘する。
〇保安隊正門[126](注:ここは映画では「防衛隊正門」といなる)(P)
●何故シナリオの「保安隊」が「防衛隊」になったか?
警察予備隊を改組し防衛力を強化した「保安隊」は実在する組織名である。それに対して「防衛隊」というのは実在しない(厳密に言えば戦争中の沖縄戦のひめゆり部隊と同等の民兵組織にこの名称がある)。そして、これは戦後史のまさに一つの重要な線を、シナリオと完成作品が皮肉にもゴジラのようにまたいでいることの証左なのである。ここでその陸続たる特車を見せつける実在する自衛隊は、まさにこの映画の封切りの三カ月前、一九五四年七月に自衛隊法によって設けられた軍事組織なのである。その経緯は次の「自衛隊の撮影協力とその意味」の考察と関わってくる。また、本作で日本映画で初めて(と思われる)「防衛隊」という架空の防衛組織名が使われたことも銘記しておきたい。
付記:最近になって、ゴジラやガメラの新作で、自衛隊という名称をそのまま使用し、自衛隊が全面協力したことが話題となったが、そうした映画に於ける自衛隊のイメージ等も紹介する。例えば「ガメラ2 レギオン襲来」でのガメラの不要性、自衛隊の圧倒的強さの誇示等を批判した「赤旗」の映画批評記事等である。
●自衛隊の撮影協力とその意味 Ⅰ
この部分、シナリオでも「続々と出動して行く特車」とト書があるが、その後に列挙されいるのは野戦銃砲隊・車輌隊・高射砲隊の四グループである。全体のフィルムの尺から考えても穏当なところであろう。ところが完成作品では工兵隊・戦車隊・車輌(トラック)隊・土木工作隊・衛生隊と続き、最後に再び戦車隊列の砲塔部のアップで終わる。さらに細かく指摘しないが、この後の場面でも高射砲部隊が描かれ、戦車隊の市街地通過の追加映像まである。延べで数えれば、実に七グループ九シーン以上の特車が丹念に撮影されているのである。しか、ここが肝心なところであるが、これらの映像に限っては、すべて実写なのである(すべて実物の自衛隊特車であり、乗務しているのもすべて実際の自衛隊員)。ちなみに、重機関銃の射撃シーンも驚くなかれ、自衛隊駐屯地に出向き、空砲ではあるが実射しているのである。
そして、「ゴジラ」が自衛隊協力第一号の映画となった。
尚且つ、この実写映像は、防衛庁の許可が遅れ、「ゴジラ」の撮影終了間際で撮影されたものなのである。従って、一般的な映画作りから言えば、尺の余りどころか、インサートする余裕さえないはずだったと私は想像するのである。
実際に、あってもなんら問題のないシークエンスが編集でカットされているのである。例えば、大戸島調査隊本部テント・シーン[57]である。これは残されているスナップの中に、台車まで組んで砂浜でロケをした撮影風景や尾形・恵美子の撮影風景が多くあることで実際に撮影されていたことが分かる。実際に、あってもなんら問題のないシークエンスが編集でカットされているのである。例えば、大戸島調査隊本部テント・シーン[57]である。これは残されているスナップの中に、台車まで組んで砂浜でロケをした撮影風景や尾形・恵美子の撮影風景が多くあることで実際に撮影されていたことが分かる。勿論、何らかの重大な作劇上(例えばこのスナップの尾形は水着姿で、シナリオ通りでは次のゴジラ出現シーンにはつなげない)・技術上の問題からカットしたのかも知れない。
このシーンに限らず、編集で尺を縮めるのは監督にとっていやな作業である。それを考えた時、私にはこの防衛隊シーンが過剰に思えるのである。
確かに、最後になって実写映像が撮れるという喜びはあったであろう。主人公はゴジラであり、それに拮抗しうるのは、物量としての兵器である。いや、本田監督もそれしか考えていなかったかも知れない(その点、プロデューサーである田中友幸の考えは結果は同じでも、その意図はエコノミックな意味に於いて違うと思われるが)。ともかく画面を引き締めるのに、実物の戦車は不可欠ではある(ちなみに、この戦車は発足したばかりの自衛隊のものであるから国産ではない。米軍からの特別給与されたM24軽戦車チャーフィである)。
結論から言えば、この「ゴジラ」への自衛隊の〔防衛隊〕役出演よって、当時違憲存在を強く指弾されていた自衛隊は大きなイメージアップを期待したはずだということである。
そして図らずもこの後に続く特撮怪獣映画がそうした役割を担うものとなってしまった事実を忘れてはならないのである。実は、本作品の公開時のヒットとは裏腹に、多くの文化人や評論家から「ゴジラ」は不評であった。その内容は、今読んでみると的外れであったり、不誠実なものばかりなのだが、そこには恐らく「ゴジラ」の中に自衛隊擁護論=改憲論的地平を感じたからではなかったのか私は密かに思っているのである。ちなみに、あの三島由紀夫は映画「ゴジラ」を非常に高く評価した数少ない文学者の一人であった。
〇沿岸一帯[127](SP)
●有刺鉄条網の美事な合成を指摘する。
●次の[129](「対策本部」[128]はなく、その警戒司令部発表は[126]の前のモブ・シーンに音声でかぶせる形に変更されている)とのモンタージュの妙を指摘する。観客が電気になって走るのである。
〇山根邸座敷[135](P)
●再度の告白のゴジラによる挫折
ここでは直接ゴジラの襲来によって尾形恵美子の恋愛告白は遮断される訳ではない(しかし次のシーンでゴジラが再襲来するのでそう言っても問題はない)が、告白をしようとした尾形が、山根博士の「ゴジラを殺すことばかり考えて、なぜ物理衛生学の立場から研究しようとしないんだ! このまたとない機会を!」という言葉に、反論する形で対立してしまい、「帰ってくれ給え!!」と激しく叱責されて、告白の「こ」の字もできないのであるから、これはシーン[102]に次いで、やはりゴジラによって邪魔されると言えるのである。
邪魔するゴジラとは――芹沢である。
●当時の世論を代表する尾形の台詞「あの狂暴な怪物をあのまま放っておく訳にはゆきません。ゴジラこそ、我々日本人の上に今尚覆いかぶさっている水爆そのものではありませんか!?」を把握させる。
●ゴジラ=芹沢の構図
山根博士の異様なゴジラ擁護説に注意させる。第一次襲来を目撃していながら、未だに「水爆の放射能を受け乍ら、尚且つ生きている生命の秘密を何故解こうとはしないんだ!?」と言う山根は、明らかに異常に映る。最早やはりゴジラはゴジラではないのである。シーン[89]で指摘したように、誰にも愛されず、山根博士にだけ愛されている存在、ゴジラとは芹沢博士のメタファーでなくてなんであろう!
*以下、[179]迄がゴジラの大東京蹂躙である。ここではゴジラの進行を実際の地図で生徒に追わせる。ちなみにシーン[128]によりこれが1954年8月20日であることが、上陸は[135]の最後の山根邸のラジオの臨時ニュースによって午後七時半過ぎであることが分かる。こうした時制がしっかりしているのも、この映画のリアリティを高めている特色である。ちなみに、奇しくも(?)敗戦の1945年の、8月20日は、3年8箇月振りにに燈火管制が解除された日であった。そうして、前年1953年の8月20日は、ソヴィエトが水爆実験の成功を発表した日でもあったのである。
〇芝浦附近[139](P)
●ゴジラの放射能火炎の光学合成について概説する。
●ゴジラの白熱光による有刺鉄条網の溶解シーンの撮影法について概説する(飴製の高圧線ミニチュアにスタジオライトを直に当てる)。[2014年8月21日訂正追記:2014年8月刊の洋泉社「別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本」の一五六頁にあるコラム記事によれば、特撮ファンの間でまことしやかに流されている『飴製』というのは都市伝説の類いであることが判明した。そこには『一部だけアルミを使い、自重で曲がるように作った。また熱で変形しやすいヒューズを使ったなど諸説ある』としつつも、特撮に限らず多くの『映画で多数の精巧な模型を作っていた石井清四郎(石井模型)の長男、石井良氏』(同氏のサイト「石井清四郎・特撮映画を支えた男 模型飛行機からウルトラQまでの軌跡」も是非参照されたい)『によれば、生前清四郎氏ご本人が、「鉄塔が溶けるシーンは自分がアルミで作り、石油ガスバーナーをあてて溶かした」と語っていたという』とあり、製作者を自分と断定されておられる点と、実際の映像の印象からもこれが真実だと考える。]
〇芝浦附近[143](SP)
●ゴジラの放射能火炎によって街路樹が燃え、人が燃えるシーンの手作りの光学合成の妙を指摘する。
〇芝浦附近[145](P)
●トロリーバスの架線であることを確認させた上で、これがアオリの画像でありながら、実際にはグラス・ワークによる特撮であることを明かす。
●「二〇〇一年宇宙の旅」等のグラス・ワーク(無重力状態の処理法)について紹介する。
〇商店街(俯瞰)[147]
●ゴジラの足と逃げ惑う人々の合成のうまさを指摘する。
〇銀座(カメラ京橋から新橋向け)[152]
●ゴジラはスーツだけではなく、マペットも使用されていることを指摘する。
〇静まり返るデパートの裏[159]
●三人の子を抱え、唐草模様の風呂敷を前に置いた母の映像を注意させる。
〇デパート屋上[160](P)
●世界的にも高く評価された、対位法的モンタージュとも呼ぶべき美事なシーンを味わう。
●特殊技術班のロケハンでこの松坂屋屋上を訪れた円谷英二等がテロリストに間違われて警官に職務質問されたエピソードを紹介する。
〇デパート入口[163](P)
●忘れ難いシーンである。火を吹く頭上の窓。落下する瓦礫の中、そこの階段に座っている(これは私には銀行に影を残した広島の被曝者の姿と重なる)三人の親子。両脇にしっかりと子供を抱えた彼女は降り注ぐ火の粉の中、祈るように言うのだ。「お父ちゃまの処へ行くのよ、ね、もうすぐもうすぐお父ちゃまの処へ行くのよ」。戦争未亡人の解説を今更ここで必要とはしないはずである。
〇尾張町交叉点(カメラ京橋方面から)[164](P)
●現在もある和光ビル(服部時計店時計塔)である。午後十一時を打つ鐘に動物的本能から攻撃を加えるという設定である。
●このゴジラは第三のゴジラである。ギニョールによるコマ撮り撮影であることを示す。
●この破壊に関して説明がなかったということでこれ以降、東宝映画はここでのロケが断られたという有名なエピソードを紹介する。昨今のゴジラ映画では、逆に壊してくれることを望む企業や公共団体があることも指摘し、企業戦略の様変わりを知らせる。
●他方、新作の「ゴジラ」(一九八四 東宝)では、同じ銀座をゴジラは移動しながら、多くの協賛企業の広告を破壊せず(できず)にいるという滑稽さを紹介する。
〇放送局の屋上[165]
●「芝浦方面は全くの火の海です。」の後にインサートされる燃える街の映像で(P)。これは当時の観客にとって間違いなく、東京大空襲のフラッシュ・バックを起こさせる効果を持っている。
●ここでもゴジラにマペットが使用されていることを指摘。
〇スキヤ橋[166](P)
●小さな画像では全く分からないが、破壊される日劇の壁には、映画の垂れ幕がかかっており、そこには「美女とゴジラ」というロゴが入っているという楽屋落ちのエピソードを紹介する。
〇永田町赤坂上の交叉点[169](P)
●国会議事堂の破壊シーンのスケール
ここではまずスケール調整の問題を概説する。ここ以外のミニチュアはゴジラの体長五十メートルに合わせた、二十五分の一の比率である。ミニチュアはすべて百分の一の図面で書かれ、作る際に四倍の大きさで作るという過程を経ている。しかし、この国会議事堂だけは二十五分の一のスケールだと大きくなって、ゴジラが小さくなってしまい、破壊のインパクトが失われるため、三十三分の一にしてあるのである。さらに壊し易くするために中は空洞にしてある。何やら皮肉な話である。ちなみに、新作の「ゴジラ」(一九八四 東宝)では高層建築が異様に増えてしまったために、ゴジラの体長設定を八十メートルまでアップせざるおえなくなったが、それでも自衛隊の対ゴジラ兵器スーパーXとの死闘が繰り広げられる新宿住友ビル(ビル高二百メートル)前では、最早ゴジラの迫力は失われていた。
●銀座そして国会議事堂の破壊、そして破壊しなかった「場所」とは?
ここまでのゴジラの足跡を地図上でトレースしてみよう。すると、芝浦海岸上陸後、札の辻(シーン[149]の柱に明記)とやや内陸に移動した後は、田町駅前(シーン[150]の対策本部への情報中にあり)、新橋(シーン[151]の柱に明記)、銀座尾張町とほぼ順調に北上してきたゴジラが、全く突然ここで北西へと進路を変え、銀座四丁目、数寄屋橋を経て、一直線に国会議事堂へと移動しているのである。ゴジラは明らかに、戦後経済発展の象徴、ブルジョアの退廃たる銀座を確信的に破壊し、下町への進行を止めて、方向を山の手へと向ける。そして真っすぐに現在の民主主義を標榜する国家権威たる国会議事堂を意識して目指し、完膚無きまでに粉砕するのである。これが南海からやってきたゴジラ=英霊の怒りでなくてなんであろう! 戦後のぬるま湯にどっぷりと浸かった日本人にベヨネーズ列岩の彼方から英霊は遺恨を表明するためにやって来たのである。その証拠に、ゴジラはこの後、不思議な弧を描いて再び北々東へと進行し始める。平河町(シーン[172]の柱に明記)、上野、浅草を回り、隅田川を南下して東京湾へ(以上のルートはシナリオにないシーン[172]の後の芹沢邸研究室シーンでテレビの報道から流れる)と戻るのである。そう、ここにゴジラが進行を回避したものがもう一つあるのである。
それは皇居である。
癒しがたい怨念を持った英霊のメタファーとしてのゴジラには英霊である故に侵せない場所が、そこに、あったのである。
〇テレビ塔の上[171]
〇平河町附近[172](P)
●「いよいよ最后、さよならッ、皆さん」という名文句で印象を残すシークエンスである。しかしこれは言わば無謀な報道の特攻隊である。そして、ゴジラは特攻隊の魂をも体現する英霊のメタファーである。そんな英雄気取りでも、所詮、死は惨めなものであることをゴジラは知っている。だから[172]でゴジラは無造作にテレビ塔をへし折り、カメラは偏執的に落下する彼等を撮り、塔は厳然として倒れ、確実に惨めに死ぬアナウンサー達を描くのである。
◎芹沢邸研究室(注:シナリオには欠番表示もなく、相当する別シーンもない、珍しい現場での挿入シーンである)
●後半の芹沢の葛藤と繋げるために必要なワンカットである。
〇海岸[174]
●新吉から人々へ広がる、敗戦国占領下日本の惨めな感性を呼び起こすに十分であろう「畜生!!」の叫びに注意したい。南京大学での講義ではこの「畜生!」を生徒が面白く繰返し、真似していた。中国人にとって忌まわしき日本人を象徴する忘れがたい言葉の一つであることを私は感じた。
〇空[175](P)
●自衛隊の撮影協力とその意味 Ⅱ
以下、ジェット戦闘機が飛来、ゴジラを攻撃するシーンである。ゴジラは蚊に刺された程にしか感じていない仕草がややユーモラスでさえある。
最後の自衛隊関連の話題を提示する。ここで飛来するのは、セイバー戦闘機である。実は、これは当時の自衛隊には配備されていなかったものである。そして、次期主力戦闘機の有力候補であり、実際に採用されるのである。実は、東宝の特撮映画では、架空の兵器(俗にポンポン砲と呼ばれる速射砲や、「サンダ対ガイラ」でデビューする人気兵器殺獣メーサー砲等)とは別に、その当時の自衛隊では使用しておらず、自衛隊内において強く採用が叫ばれていたり、次期主力機種として有望な兵器が、映画の中で先行してさりげなく使用されるという奇妙な事実があるのである(例えば「バラン」で用いられた対潜哨戒機ネプチューンが全く同じケースである)。これは単なる兵器オタクの小道具係の発想、なのだろうか? 私はややきな臭い匂いを感じるのである。
〇大東京(翌朝)[180]
●これは言わずもがな、東京大空襲、広島・長崎の原爆のフラッシュ・バックに他ならない。
〇対策本部[181](P)
●ゴジラの放射能に冒された少女にガイガー・カウンターを向け、首を横に振らねばならない医師。極めて非現実的で残酷でありながらリアルである。これははっきりとした広島長崎のフラッシュ・バックである。
●担架で運び出される母親。横臥しているため顔付きが変わって分かりにくいが、ここで運び出される母親は、デパート入口のシーン[163]で描かれた母親なのである。恵美子は直後に泣きじゃくる娘を抱き上げ、「お母様、すぐに帰って来ますよ」となだめるが、彼女は白布を顔にかけられて運び出されるのである。[2014年8月11日追記:2014年8月刊の洋泉社「別冊映画秘宝 初代ゴジラ研究読本」の「オール初代ゴジラ 俳優大図鑑」によって私の見解が誤っていることが分かったので、以上のように取消線で補正した。[163]の母親役はかなり知られた女優三田照子であるが、この場面の亡くなった母親役の俳優については同書には『詳細不詳』とのみあり、映像でも再確認してみたが、やはり全くの別人であった。その他、再度、画像を見て、この条の最後の一文は正確なものに訂正した。]
●伊福部の美しい音楽と悲惨極まりない光景のコントラプンクト(対位法的表現)が素晴らしい。それがゴジラに於ける最もドキュメントな美事なシーンだと思う。私は、このシーンに涙を禁じ得ない。
〇芹沢の実験室[183](注:ここは回想シーンである)(P)
●オキシジエン・デストロイヤー
この酸素破壊剤は連関性を感じさせない不可解な二段階効果がある。
第一段階は「水中の酸素を一瞬にして破壊しつくし、凡ゆる生物を窒息死させ」る、劇的な酸素破壊による酸素依存性の生物(「凡ゆる生物」と言っているが、明らかに好気性若しくは酸素呼吸する生物の死滅を意味している)殲滅効果である。これは急速に現実に存在する酸素欠乏海水である青潮を人工合成することと捉えてよいだろう。これは酸素破壊剤という名にふさわしい。
しかし、第二段階はその窒息死した生物体を「液化してしまう」効果を持つ。これは、そもそも、異なった反応系に思われ、第一段階で作用する薬物とは異なるものが作用するもののように感じられる。これが核分裂による強烈な放射線効果を持つものならば、生物体の細胞組織が溶解する。しかし、彼はあくまで「窒息死」と表現している。水爆に匹敵する兵器となると芹沢は確かに言っているが、それが核反応系とは全く異なった反応系由来のものであることは、結局このオキシジエン・デストロイヤーを東京湾で使用するという事実を見ても明らかである。そもそも、この第二段階は極めて使用後の処理の簡便化を考えた作用であり、その即時的に与える効果の意味よりも、事後効率の向上を目指した軍事に於ける兵器の経済的配慮が極めて感じられる部分なのである。
はっきり言うならば、これはもはや芹沢が酸素を「徹底的に研究しようと考えていた……ところが、その研究途上で思いがけないエネルギーを発見した」と言うような未知の単離薬剤とは思えないのである。残念ながらこれは既に、「兵器」としての資格を十全に保持してしまった人工的化合物であるのだ。
我々は思い出す。萩原記者のあの「スイスに居る特派員がその独逸人に会って聞いたと云うのです。芹沢さんが当時考えていたプランを完成していたら日本のゴジラ対策も何らかの打開策が発見されるのではないか……」。「当時考えていたプラン」という語は、「エネルギーを発見した」という芹沢の発言を自ずと凌駕してゆくではないか。これは明らかに核兵器とは全く別個の、それを凌駕する純粋な最終「兵器」として開発されたものにほかならなったのではないか? でなければ、何故、芹沢はここで「然し僕は、必ずこのオキシジエンデストロイヤーを社会のために役立つものにして見せます」と殊更に語らねばならなかったか?
●最後に芹沢は「もしもこのままなんらかの形で、使用することを強制されたとしたら、僕は、僕の死と共に、この研究を消滅させてしまう決心なのです」という台詞が最後のはっきりとした伏線となっていることを指摘しておく。
〇芹沢家――テラス[186]
●冒頭、本田監督の演出はシナリオを改変してうまい。特にオフによる処理が決まっている。私の採録でまとめてみる。
研究室から上がってくる芹沢、切り返してテラスの恵美子、芹沢、テラスに入りかけながら、
芹沢「やあ、いらっしゃい」
その直後にテラス奥(画面では右手外)にいる尾形が、
尾形「芹沢さん」
とオフで入る。ここでシナリオ通り、芹沢の顔面がややこわばり、そちら(尾形の居る方)を向いて、
芹沢「何だ、君も来てたのか」
尾形、勢い込んで、(以下シナリオへ)
そもそも実は、この作品では芹沢と尾形が話すのはここが初めてなのである(山根博士に至ってはラスト近くの[198]である)。人間葛藤、恋愛桎梏を描くにはちょっと無理があった。
●芹沢の恵美子への強烈な視線
恵美子は芹沢との秘密(それは芹沢からの一方的な愛情告白の変形であったことは先に見た)をこともあろうに尾形に語っていた。そして、同時にこの時点で芹沢は尾形に対する敗北を、カタストロフへと運命的に流れが動き始めてしまったことを自覚したはずである。
〇実験室の前[187](P)
●ここは噴飯物である。どうみても「扉に向かって体当たり」「メリメリと打破る」どろこか、普通に鍵が開いてしまっている。だから入ってくる尾形も手持ち無沙汰で、まるで吉本新喜劇のような小走りだ。どうして本田監督はドアを打ち破らせなかったのかしら? 何度見ても不可解なシーンである。
〇実験室内[188](P)
●兵器の告白
推測したとおり、彼はオキシジエン・デストロイヤーを「恐るべき破壊兵器」と思わず言ってしまっている。これは言葉の綾ではない。次の台詞でも「原爆対原爆、水爆対水爆、その上更に、この新しい恐怖の武器を人類の上に加える事は、化学者としていや一個の人間として許すわけにはいかない」と告白している。更に極め付けは最後の台詞である。「……あゝ……こんなものさえ作らなければ……」なのである。
★ここでよく、ラスト部分でテレビがスイッチも入れないのに写るのはおかしいという不評を聞くが、どうであろう。このような都心部壊滅の際にはラジオは当然(本映画中でもラジオ局からスイッチを切らずにという指示がある)、テレビも受信できるならば受信させておくのではないか。番組もカットされて、報道以外は恐らくテスト・パターン表示であろう。科学者である芹沢にとってもゴジラの報道は見逃せないはずであるから、ここで突然祈りの放映が入るのは、私には強ち不自然とは思えない。
×寺院の本堂[193]
●個人的にはこの「収容された小学生達の祈り、脱ぎすてられた運動靴に雨がしとゞ降りそゝぐ」というシーンは見たかった。
〇芹沢の実験室[195](P)
●芹沢のイドの怪物たるゴジラ
芹沢「君達の勝利だ。しかし僕の手でオキシジエン・デストロイヤーを使用するのは、今回一回限りだ」
という芹沢の言葉は、すべて予期されたものとしてある(彼は既にシーン[183]で提示した「もしもこのままなんらかの形で、使用することを強制されたとしたら、僕は、僕の死と共に、この研究を消滅させてしまう決心なのです」の台詞で選択の余地のない自己の運命を示している)のであったが、あくまでオキシジエン・デストロイアーの使用を「君達の勝利」=自己の敗北と捉えている点に於いて、次のように分析できる。
映像では一見、芹沢の決心は、テレビによって見せつけられた惨状に居たたまれない正義感を起こしたといった風に受け取られるが、そんなものは副次的なことに過ぎず、見せつけられた尾形と恵美子のゆるぎない愛の前に敗北したということこそが主因なのである。
ここで最後のゴジラのメタファーを明かしておこう。
父山根博士への、尾形と恵美子の恋愛告白を常に直接間接に邪魔してきたのは、今まで見てきたようにゴジラそのものであった。そして、その間、芹沢は舞台の奥に、傍観者のように謎めいて佇んでいるだけで姿を見せなかった。しかし、その芹沢ははっきりとそのただ中に居たのである。ゴジラというメタファーとして現前と存在したのである。だからこそ彼らの告白はゴジラによって遮断されてきたのであった。
厳密に言えば、これは芹沢の中のイド(注参照)のメタファーと言うべきであろう。
芹沢は恵美子を愛していた。父山根博士も彼の才能を認め、婿養子として迎え入れることを期待していた。しかし恵美子は芹沢を兄のような存在として捉えており、それを芹沢も認識していた。故に彼の性衝動(リピドー)は、そうでなくてもストイックな彼の超自我(スーパー・エゴ)の内部で近親相姦的なタブーに抵触する印象を与えることとなった。勿論、それは本来ならゆっくりとした時間の中で、互いの理解によって解消し得るものであったはずであったが、そこに戦中の彼の謎めいた研究、その失敗による外傷、その心的外傷が精神のねじれ=超自我の弱体化を生じさせた。悪魔的な兵器製造に加担してしまったという自責の念は、最早正常な対人関係を形成する能力を芹沢から完全に奪い去ってしまったのである。それゆえに、芹沢のリピドーはそれを支配するはずの超自我の呪縛から完全に解放されてしまい、まさにイドの怪物(=ゴジラのメタファー)に化さざるを得なかったのである。
これは突飛、特異なテーマではない。実は、この作品の直後、一九五六年にアメリカで製作された、一度は誰もが見たことのあるロボット・ロビーで有名な、古典的SFの名作「禁断の惑星」(監督 フレッド・M・ウイルコックス)で描かれた内容がこれとぴったり一致するのである。
惑星アルティアには、移住していた科学者とその娘がいる。やって来た調査隊一行が、見えない怪物に遭遇するが(ちなみにディズニーが顕在化した怪物のアニメーションを担当している)、実はこれはその科学者が自分の娘に持つ近親相姦的なリビドーの外化した、イドの怪物であったというストーリーである。
しかし――何物にもつながることのない芹沢の絶対の孤独は、そうして自己の投影、写像としてのゴジラに共鳴する以外には、ない。そして、唯一の外界との接点であった恵美子への愛を最後に失った時、芹沢はまさにドッペルゲンガーとして外化されてしまったゴジラと共に心中する以外には道は残されていなかったのである。
●定義:ゴジラは芹沢博士のイドの怪物=イドのメタファーである。
*以下、最後までがゴジラの最期のシークエンスとなる。
〇かもめ丸甲板[198]
●芹沢が師山根博士へ語りかけるのは、実は、この映画中、この「先生、こんな形で発表しようとは、思いもよりませんでした」の一言なのである。そして、師である山根博士は瞬時に、芹沢博士の死の覚悟を読み取るのである。志村喬のいたましげな表情はそれを示して余りある。――これは禅家に於ける山根という「師」の発した公案への捨身の答えであった。
〇海底[203]
●以下、当時としては極めて美事な海中実写撮影であることを指摘する。そもそも本田監督はドキュメンタリー「伊勢志摩」(四九年公開)で、カメラに防止バルブを被せて本格的な日本で初めての海中撮影に成功した監督であり、劇場映画デビュー作である一九五一年の「青い真珠」も海女を主人公にした海中撮影の美事な作品なのである。
〇海底[205](注:この辺りの映像は必ずしもシナリオ通りの運びにはなっていない)(P)
●以下、尾形や芹沢の潜水服姿の部分の特撮について概説する。カメラと俳優の間に幅の狭い水槽を置き、底から泡を放出して、海中の印象を出している。
〇海底[215](P)
●芹沢のこの台詞は、死地を得た=レゾン・デトールを掴み得た鮮やかな言葉である。その行為は、シーン[171]のアナウンサーとは似て非なるものなのだ。一見特攻行為に見えながら、それはゴジラの死を、化学者として現前で観察する確信に満ちたものであるからだ。そして、芹沢にとってゴジラは敵ではない。――彼と一体になるべき彼自身の分身――であるからでもあるのだ。
〇海上かもめ丸[217](P)
●被害者たるゴジラを超兵器によって葬り去る人類
中間部で、苦悶し全身をひきつらせてゴジラが浮上し、そして沈んで行くシーンは、何故か我々に哀れさを感じさせはしないか。その形象は、私には広島・長崎で一瞬にして焼かれ炭化した人々の無残な遺骸を連想させずにはおかないのである。
〇海底[219](P)
●ゴジラは骨格を晒し、そしてそれさえも完膚なきまでに液化され、すべての存在を消滅させられる。
●この「ゴジラ」の完成上映会が終了した時、客席から一人、立ち上がることなく、「ゴジラが可哀想だ」といつまでも泣いている人物がいたという。原作者である香山滋であった。
〇海上かもめ丸[220]
●最終シークエンスの人物群像
歓喜する報道陣を尻目に山根博士は陰鬱な表情のままがっくりと腰をおろす。古生物学者としてゴジラを失ったことと、愛弟子芹沢を失ったことが博士の心性の内部にあっても等価であることは既に述べた。
ゴジラによって天涯孤独となった少年新吉は、純粋に感情が込み上げてくる。この新吉の涙には如何なる理由の副次性も夾雑物もない。だからこそ隣りの萩原記者のシンパシーを痛く刺激し、彼も思わず新吉の肩を掴んで嗚咽するのである。
尾形と恵美子の苦悩は最早描く必要はない。彼等にもここでトラウマが与えられた。それは彼等の恋愛の成就が芹沢の自死の賜物であるという心傷である。彼等は心底に於いては決して「幸福に暮らせ」ない(事実、本作品のプロットを忠実に受け継いだ平成ゴジラの完結編とされる大河原孝夫監督・大森一樹脚本「ゴジラVSデストロイア」(一九九五年 東宝)には山根恵美子(同じく河内桃子が演じている)が旧姓のまま山根家を継いだ形で一人登場する)。それは多くの日本文学が語って来た古典的主題でもあるのである。
●超兵器によって被害者ゴジラを生み出した加害者たる人類
山根博士の「……あのゴジラが、最后の一匹だとは思えない……もし……水爆実験が続けて行われるとしたら……あの、ゴジラの同類が、また世界の何処かに現われ来るかも知れない」という顕在的主題の提示と共にこの作品は終わる。同じ科学者として、山根の気持ちを受け取り、暗澹と去って行く、背後の田辺博士役の村上冬樹のバイプレーヤーとしてのさりげない演技の上手さにも着目しておきたい。
しかし、やはりこの主題はタテマエである。これを伝家の宝刀として「ゴジラ」を分析し得たとすることほどつまらない見方はないのだと私は思う。我々は、今まで見てきたような網の目のように入り組んだ「ゴジラ」のメタファーのラビリンスを是非、自由に遊んで見る必要があるであろう。
メタファーとしてのゴジラ:Ⅱ 総括的論考 (copyright 2005 Yabtyan)
大きな転回点となる部分である後半の芹沢邸宅でのシーンから再考察してゆく。
オキシジエン・デストロイヤーの使用を拒絶した芹沢博士を追って地下研究室へ行った尾形は、研究資料を廃棄しようとする芹沢と乱闘になる。あの穏やかな芹沢がまるでゴジラのように荒れ狂い、尾形を突き飛ばして、尾形は頭部に傷を受ける。しかし、テレビで惨状を見た芹沢は、遂に使用を決意する。だがその際、彼は「尾形、君達の勝利だ。」と言う。これはもう、三角関係の敗北宣言であり、その結果としてのオキシジエン・デストロイヤー使用であることは疑いない。
この辺りから、この作品は恋愛メロドラマの様相をあからさまに呈してくる(ラストの方では、恵美子/芹沢/尾形の顔のカットバックやアップが極めて多い)。
芹沢は明らかに恵美子を愛している。しかし、彼女の心は既に尾形と結ばれている。芹沢には最早この世界に安住すべき場所はない。彼は、戦争中に七三一部隊のような研究に不本意ながら従事していたのかも知れない(独眼と頬のケロイドによる暗示)。悪魔の兵器を生み出した彼はまさにその兵器と同じく呪われた存在なのである。ゴジラが水爆の犠牲者なら、愛する恵美子さえも失い、世間から隔絶して生きていた芹沢も、戦争の犠牲者である。
そこで、思い出すのが、山根博士が執拗にゴジラを殺すことに反対したことである。山根博士にとってゴジラは水爆の犠牲者であり、その生命力の秘密を明かすことが必要だと公的にも力説していた。公的に芹沢が養子となることを明らかにしていたように。
遂に、我々はここに最後のゴジラのメタファーに辿りつくのである。
それは、ゴジラ=芹沢の隠喩である。
愛を失い、悪魔的な兵器を生み出した芹沢は、水爆によって安住の地を失い、闇雲に破壊するゴジラとダブっくるであろう。
ゴジラは芹沢の、フロイトの言う、超自我の呪縛から解き放たれたリビドーのままに生きるイドの怪物であり、ユング流に言うならば芹沢の影=トリック・スターなのである。
ちなみに、山根博士がゴジラを守りたいという感情を考察するならば、かつて娘恵美子の許婚であったのを、結局解消させてしまうことになることを予感する男(如何に世間知らずの山根博士とは言え、尾形の存在やその意識に対して全く鈍感であるとは思われない)として、また、かつて戦争中、愛弟子としての芹沢を守り切れなかった師として、せめて今の芹沢を守りたいという代償行為でもあるのである。
以上、中沢新一の「ゴジラの来迎」に於ける解釈と(「中沢説」)、私が映画全編を通して定義してきた、ゴジラのメタファーを総括して整理して見よう。
§中沢説
a:ゴジラは怪物を目指す「スキゾ的」生物・「スキゾ的」精神運動の象徴物(=メタファー)である。
b:ゴジラは神を孕んだ「よりまし」(のメタファー)である。
c:ゴジラは都市が本来潜在的に保持しているところの生成・変化・破壊の繰り返しとしての「ランドスケープ(景観)」(のメタファー)である。
d:ゴジラは資本主義のメタファーである。
e:ゴジラは核兵器のメタファーである。
f:ゴジラは人類のメタファーである。
§私の説
g:ゴジラは原水爆のメタファーである。
h:ゴジラは南海に散った英霊のメタファーである。
i:ゴジラは荒ぶる神のメタファーである。
j:ゴジラは能楽の(複式夢幻能の構成と演技の)メタファーである。
k:ゴジラはホモ・サピエンスのメタファーである。
l:ゴジラは「古事記」に於けるまがまがしき人の原存在言い換えれば鬼っ子としての蛭子(ヒルコ)のメタファーである。
m:ゴジラは芹沢博士のイドの怪物であり芹沢の内面に於いて暴走する性衝動(リピドー)と攻撃衝動のメタファーであり芹沢の負の意識としてのトリック・スターのメタファーである。
§解釈の総括
(Ⅰ)人類を破滅に導く恐ろしい原水爆に象徴される戦争の政治学的隠喩としてのゴジラ(e,g)
~冒頭の水中の発光シーンや水爆実験による変異体という説明シーン及びラストシーンの山根博士の台詞「だが、あのゴジラが最后の一匹だとは思えない。もし、水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また世界の何処かへ現れて来るかも知れない」等[これが全編の顕在的中心主題。但し、この比喩は作中の台詞の端々で説明されてしまっているので厳密に言えば明喩であり、最早、隠喩とは呼べない]
(Ⅱ)伝説の邪神という荒ぶる神としての神話学的隠喩としてのゴジラ(b,i,l)
~大戸島の古老の若い娘を生け贄えにする話や鎮めのためのお神楽(神社の踊り)のシーン等
(Ⅲ)破壊と恐怖のゴジラは、人間の創造物たる変化を繰り返す都市や資本主義、更に言えばスキゾ的心性を持った人類そのものの象徴なのだという逆説的形而上学的隠喩としてのゴジラ(a,c,d,f,k)
~国会での科学的説明シーンの二百万年前という考えられない幼稚な誤り等
(Ⅳ)南の海に散っていった兵士の怨霊(英霊)としての民俗学的隠喩としてゴジラ(h,j)
~戦争を忘れ、繁栄をむさぼる戦後の日本人の象徴である銀座や国会を破壊しながら、そのすぐ向こうの皇居を何故か破壊せずに帰っていくゴジラのシーン等
(Ⅴ)愛を失い孤独になり、自己のレゾン・デトール(存在理由)をも失い、自己破滅へと至る芹沢の心理学的精神分析学的隠喩としてのゴジラ(m)
~尾形・恵美子・芹沢の三角関係及び芹沢の謎めいた暗い過去等
諸君には、(Ⅰ)・(Ⅱ)は納得し易いと思われるが、果たして(Ⅲ)~(Ⅴ)のようなことを原作者や脚本家・監督が意識的にやったのかという点で、当然疑問を持つであろう。
結論から言えば、彼等にはそんな意識はほとんどなかったと思う。
しかし、そこが集団総合芸術たる映画の不思議な点とも言えるのである。そこに、個々人は意識しないユングの言う集合的無意識のようなものが働かなかったと言い切れないのだ。
また、芸術作品に於いて作者が意図していなくても、今の私達がそれをどう読みとるかは自由なのである。
最近の現代日本文学の研究動向の一つとして、そうしたテキスト論(作家が何を言いたかったかではなく、あくまで今現在そのテキストをどう読むかを重視する考え方)が実際にある(例えば、夏目漱石の「こころ」の学生は、未亡人になった先生の奥さんと結婚するか否かというような作品に書かれていない可能性の議論等がその際たるものである。私は実際にはこれに大いなる疑義を持つものではあるが)。
我々の「ゴジラ」は、我々の中に無数の内なる「ゴジラ」として永遠に変容し続けるのであろう。
我々は与えられた芸術作品を自由に鑑賞する権利を確かに持っている。
そうしたテキスト論的多様解釈を知的遊戯と捉えてもらってかまわない。
問題は、ある解釈を提示した以上、その言説(ディスクール)自体に、確かな責任と誇り、そしてあのKのように「覚悟」を持つべきだ、ということだ。そういう点に於いても、私は私の解釈をここに提示しているのだという覚悟がある(しかし、これらの解釈は私のオリジナルというよりも、多くの先人たちの考察の総体であるというのが正しい。それは総合芸術の時間的真理でもある)。
最後に。
真剣な知的な遊びさえ出来ない者には、真剣な学問の探求もまた、夢のまた夢であると、私は思う。 「智」を、存分に、遊べ――
終
鬼火へ