やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ


文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版) 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:すべての底本は岩波版旧全集を用いた。「文藝的な、餘りに文藝的な」は昭和2(1927)年4月1日及び5月1日及び6月1日、離れて8月1日発行の雑誌『改造』第4,5,6,8号に掲載された。岩波版旧全集で続いて掲載される「續文藝的な、餘りに文藝的な」は同年4月1日及び7月1日発行の雑誌『文藝春秋』に『改造』と同じく「文藝的な、餘りに文藝的な」の題で掲載され、これらは後の龍之介の死後(同年12月)に刊行された単行本『侏儒の言葉』に「續文藝的な、餘りに文藝的な」で所収された。

 更に、この『侏儒の言葉』の「續文藝的な、餘りに文藝的な」では「十」として「二人の紅毛畫家」が加えられているが、これは本来、昭和2(1927)年6月1日発行の雑誌『文藝春秋』に、宇野浩二の著作への『「我が日我が夢」の序』という一文に続いて掲載されたものである。

 底本後記によると「文藝的な、餘りに文藝的な」は、4月1日発行の掲載第一回には「――併せて谷崎潤一郎氏に答ふ――」の副題があり、『改造』の各号の分割掲載の内訳は

第4号(4月) 「一~二〇」

第5号(5月) 「二十一~二十八」

第6号(6月) 「二十九~三十三」

第8号(8月) 「三十四~四十」

となっている。また、実際には第6号を除き、番号はリセットされ、「一」から始められているが、従来の全集に倣って通し番号としたとある(第6号のみ何故か「二十九~三十三」の表記がある。この時、芥川の中に本篇の単行本収録が意識されていたのかも知れない。)。

 加えて、底本第十二巻にある「〔文藝的な、餘りに文藝的な〕」の仮題で所載される「志賀直哉氏に就いて」と「大道無門」が存在する。後記では『元版は「志賀直哉氏に就いて」の項を「(大正十五年頃)」、「大道無門」の項を「(昭和二年)」とする。』とある(なお筑摩全集類聚版全集ではこの二作品を『〔文芸的な、餘りに文芸的な〕補輯』と名打って「十 二人の紅毛畫家」の付随した「續文藝的な、餘りに文藝的な」の後に置いているのであるが、この表題のすぐ後に編者による『(一旦雑誌に発表したが、単行本にまとめる際に著者が削除した。)』という不思議な注が附されている。「一旦雑誌に発表された」は不審である。この叙述の不可解さについて何か御存知の方は御教授願いたい)。但し、この年代推定の根拠は示されていない。この「志賀直哉氏に就いて」は、その表題下の「(覚え書)」という記載からも、形態からも、私個人としては、草稿メモととるべきものであり、「文藝的な、餘りに文藝的な」の本文に組み入れるべきものではないと考えるが、芥川龍之介の意識の流れを追う形となる今回のテクスト化では敢えて本文に組み入れることとした。

 さて、そこで本テクストでは、芥川龍之介の執筆推定に、当時の読者の時系列を加味した配置として、最も時間的に遡ると思われる「志賀直哉氏に就いて」をまず冒頭に置き、次に「續文藝的な、餘りに文藝的な」を、続けて「文藝的な、餘りに文藝的な」を並べながら、この「文藝的な、餘りに文藝的な」の作中で里見弴に言及している二箇所の内、里見への言及がより深化している「六」の後に、里見弴に特化したアフォリズムである「大道無門」を配した。更に、昭和2年5月6日の日付を持つ「二人の紅毛畫家」を「文藝的な、餘りに文藝的な」の「二十八」の後に配することとした。これは底本後記の記述により「續文藝的な、餘りに文藝的な」が号分割されたものではなく、同じものを二回掲載したと判断されることと、それぞれの表現上のソリッドな集合体としての大きな分離を恐れるからである(即ち「續文藝的な、餘りに文藝的な」時系列配列としては「二十」の後、または「三十三」の後に配することも可能性の選択肢としてはあるからである)。但し、その基本理念に反するように「二人の紅毛畫家」を挿入したのは、読者の時系列の読みに加え、芥川執筆の時系列から考えても、「二人の紅毛畫家」は「文藝的な、餘りに文藝的な」の「二十九」の執筆時よりも先行する可能性が高いと考えるからである。以上、更に最後に付け加えるならば、やはりこの作品の掉尾は、「文藝上の極北」以外には考えられない。それは、論理的な展開もさることながら、朗読してみればよく分かることである。これが、彼の「文藝的な、餘りに文藝的な」感懐への最後の言葉なのである。

 なお、混乱を避けるために「文藝的な、餘りに文藝的な」及び「續文藝的な、餘りに文藝的な」の通し番号はそのままとし、各アフォリズム群の切れ目に「*」を入れた。なお底本の内、「文藝的な、餘りに文藝的な」は総ルビであるが、読みの振れるものだけのパラルビとし、踊り字「/\」の濁点のついたものは正字表記し、傍点「丶」は下線に代えた。]

 

〔文藝的な、餘りに文藝的な〕   芥川龍之介

 

       志賀直哉氏に就いて(覺え書)

 

一 描寫上のリアリズム。この點では誰もトルストイさへ志賀氏ほど細かくはない。「子供三題」「鵠沼行」等に徴すべし。

二 東洋的傳統に立つた美しさ。この點は存外等閑視されてゐる。殊に志賀氏のエピゴオネンは全然この點に無理解である。「焚火」「雪の日」等に徴すべし。

三 良心と云ふよりも道德的神經。この點は志賀氏の作品の世界を狹めたと云ふものもあるかも知れない。が、實は廣くしてゐる。「暗夜行路」に徴すべし。

四 文章の口語化。この點は武者小路氏に類似してゐる。

五 人としては性格上のゲエテ的完成。この點も或は武者小路氏に負つてゐる所があるのかも知れない。

六 小説家の小説家(セザンヌを畫家の畫家と云ふ意味で)大作家よりも純作家。僕は勿論大作家よりも純作家に敬意を持つてゐる。

一の附 神經衰弱書いたものはストリントベリイと双璧である。あれは唯の神經衰弱ではない。道德的荒癈の感に對する内部的鬪爭のやうに感じられる。「子を盜む話」「憐れな男」等に徴すべし。

 

 

續文藝的な、餘りに文藝的な   芥川龍之介

 

       一 「死者生者」

 

 「文章倶樂部」が大正時代の作品中、諸家の記憶に殘つたものを尋ねた時、僕も返事をしようと思つてゐるうちにつひその機會を失つてしまつた。僕の記憶に殘つてゐるものはまづ正宗白鳥氏の「死者生者」である。これは僕の「芋粥」と同じ月に發表された爲、特に深い印象を殘した。「芋粥」は「死者生者」ほど完成してゐない。唯幾分か新しかつただけである。が、「死者生者」は不評判だつた。「芋粥」は――「芋粥」の不評判だつたのは吹聽せずとも善い。「讀後感とでも云ふのかな。さう云ふものの深い短篇だね。」――僕は當時久米正雄君の「死者生者」を讀んだ後、かう言つたことを覺えてゐる。が、「文章倶樂部」の問に應じた諸家は誰も「死者生者」を擧げてゐなかつたらしい。しかも「芋粥」は幸か不幸か諸家の答への中にはいつてゐる。

 この事實の證明する通り、世人は新らしいものに注目し易い。從つて新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれるのである。しかしそれは必ずしも一爪痕を殘すことではない、僕は未だに「死者生者」は「芋粥」などの比ではないと思つてゐる、のみならず又正宗氏自身も短篇作家としては、「死者生者」を書いた前後に最も藝術的ではなかつたかと思つてゐる。が、當時の正宗氏は必ずしも人氣はなかつたらしい。

 

       二 時  代

 

 僕は時々かう考へてゐる。――僕の書いた文章はたとひ僕が生まれなかつたにしても、誰かきつと書いたに違ひない。從つて僕自身の作品よりも寧ろ一時代の土の上に生えた何本かの艸の一本である。すると僕自身の自慢にはならない。(現に彼等は彼等を待たなければ、書かれなかつた作品を書いてゐる。勿論そこに一時代は影を落してゐるにしても。)僕はかう考へる度に必ず妙にがつかりしてしまふ。

 

       三 日本の文藝の特色

 

 日本の文藝の特色、――何よりも讀者に親密(intime)であること。この特色の善惡は特に今は問題にしない。

 

       四 アナトオル・フランス

 

 Nicolas Ségur の「アナトオル・フランスとの對話」によれば、この微笑した懷疑主義者は實に徹底した厭世主義者である。かう云ふ一面は Paul Gsell の「アナトオル・フランスとの對話」(?)にも現はれてゐない。彼は「あなたの作中人物は皆微笑してゐるではないか?」といふ問に對し、野蠻にもかう返事をしてゐる。――「彼等は憐憫の爲に微笑してゐる。それは文藝上の技巧に過ぎない。」

 このアナトオル・フランスの説によれば人生は唯意志する力と行爲する力との上に安定してゐる。しかし我々は意志する爲には一點に目を注がなければならぬ。それは何びとにも出來ることではない。殊に理智と感受性との呪ひを受けた我々には。

 「エピキユウルの園」の思想家、ドレフイイユ事件のチヤンピオン、「ペングインの島」の作家だつた彼もここでは面目を新たにしてゐる。尤も唯物主義的に解釋すれば、彼の頽齡や病なども或は彼の人生觀を暗いものにしてゐたかも知れない。しかしこれは彼の作品中、比較的等閑に附せられたものを、――或は事實上出來の惡いものを(たとへば「赤い卵」の如き)彼の一生の文藝的體系に結びつける綱を與へてゐる。病的な「赤い卵」なども彼には必然な作品だつたのであらう。僕はこの對話や書簡集から更に新らしい「アナトオル・フランス論」の書かれることを信じてゐる。

 このアナトオル・フランスは十字架を背負つた牧羊神である。尤も新時代は彼の中に唯前世紀から今世紀に渡る橋を見出すばかりかも知れない。が、世紀末に人となつた僕はやはりかう云ふ彼の中に有史以來の僕等を見出してゐる。

 

       五 自然主義

 

 自然は僕等が一定の年齡に達した時、僕等に「春の目ざめ」を與へてゐる。それから僕等が餓ゑた時、烈しい食慾を與へてゐる。それから僕等が戰場に立つた時、彈丸を避ける本能を與へてゐる。それから何年か(或は何箇月か)同棲生活の後、その女人と交ることに對する嫌惡の情を與へてゐる。それから、……

 しかし社會の命令は自然の命令と一致してゐない。のみならず屢反對してゐる。そればかりならば差支へない(?)。しかし僕等は僕等自身の中に自然の命令を否定する何か不思議なるものも持ち合せてゐる。從つてあらゆる自然主義者は理論上最左翼に立たなければならぬ。或は最左翼の向うにある暗黒の中に立たなければならぬ。

 「地球の外へ!」と云ふボオドレエルの散文詩は決して机の上の産物ではない。

 

       六 ハムズン

 

 性慾の中に詩のあることは前人もとうに發見してゐた。が、食慾の中にも詩のあることはハムズンを待たなければならなかつたのである。何と云ふ僕等の間拔けさ加減!

 

       七 語  彙

 

 「夜明け」と云ふ意味の「平明」はいつか「手のこまない」と云ふ意味に變り、「死んだ父」と云ふ意味の「先人」はいつか「古人」と云ふ意味に變つてゐる。僕自身も「姿」とか「形」とか云ふ意味に「ものごし」と云ふ言葉を使ひ、凄まじい火災の形容に「大紅蓮」と云ふ言葉を使つた。僕等の語彙はこの通り可也混亂を生じてゐる。「隨一人」と云ふ言葉などは誰も「第一人」と云ふ意味に使はないものはない。が、誰も皆間違つてしまへば、勿論間違ひは消滅するのである。從つてこの混亂を救ふ爲には、――一人殘らず間違つてしまへ。

 

       八 コクトオの言葉

 

 「藝術は科學の肉化したものである」と云ふコクトオの言葉は中つてゐる。尤も僕の解釋によれば「科學の肉化したもの」と云ふ意味は「科學に肉をつけた」と云ふ意味ではない。科學に肉をつけることなどは職人でも容易に出來るであらう。藝術はおのづから血肉の中に科學を具へてゐる筈である。いろいろの科學者は藝術の中から彼等の科學を見つけるのに過ぎない。藝術の――或は直觀の尊さはそこに存してゐるのである。

 僕はこのコクトオの言葉の新時代の藝術家たちに方向を錯[やぶちゃん注:「あやま」と読ませている。]らせることを惧れてゐる。あらゆる藝術上の傑作は「二二が四」に終つてゐるかも知れない。しかし決して「二二が四」から始まつてゐるとは限らないのである。僕は必ずしも科學的精神を抛つてしまへと云ふのではない。が、科學的精神は詩的精神を重んずる所に逆説的にも潜んでゐると云ふ事實だけを指摘したいのである。

 

       九 「若し王者たりせば」

 

 「我若し王者たりせば」と云ふ映畫によれば、あらゆる犯罪に通じてゐた抒情詩人フランソア・ヴイヨンは立派な愛國者に變じてゐる。

 それから又シヤロツト姫に對する純一無雜の戀人に變じてゐる。最後に市民の人氣を集めた所謂「民衆の味かた」になつてゐる。が、若しチヤプリンさへ非難してやまない今日のアメリカにヴイヨンを生じたとすれば、――そんなことは今更のやうに言はずとも善い。歴史上の人物はこの映畫の中のヴイヨンのやうに何度も轉身を重ねるのであらう。「我若し王者たりせば」は實にアメリカの生んだ映畫だつた。

 僕はこの映畫を見ながら、ヴイヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜を數へ、「蓋棺の後」などと云ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化か獸化(?)かの外にある筈はない。しかし何世紀かの流れ去つた後には、――その時にも香を焚かれるのは唯「幸福なる少數」だけである。のみならずヴイヨンなどは一面には愛國者兼「民衆の味方」兼模範的戀人として香を焚かれてゐるではないか?

 しかし僕の感情は僕のかう考へるうちにもやはりはつきりと口を利いてゐる。――「ヴイヨンは兎に角大詩人だつた。」

 

 

文藝的な、餘りに文藝的な   芥川龍之介

 

       一 「話」らしい話のない小説

 

 僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。從つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。第一僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。デツサンのない畫は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。(僕の「話」と云ふ意味は單に「物語」と云ふ意味ではない。)若し嚴密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何なる小説も成り立たないであらう。從つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。「ダフニとクロオと」の物語以來、あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰(たれ)か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「マダム・ボヴアリイ」も「話」を持つてゐる。「戰爭と平和と」も「話」を持つてゐる。「赤と黒と」も「話」を持つてゐる。……

 しかし或小説の價値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況や話の奇拔であるか奇拔でないかと云ふことは評價の埒外(らちぐわい)にある筈である。(谷崎潤一郎は人も知る通り、奇拔な「話」の上に立つた多數の小説の作者である。その又奇拔な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代(だい)の後にも殘るであらう。しかしそれは必しも「話」の奇拔であるかどうかに生命を託してゐるのではない。)更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無さへもかう云ふ問題には沒交渉である。僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかしかう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。

 「話」らしい話のない小説は勿論唯(ただ)身邊雜事を描(ゑが)いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粹な」と云ふ點から見れば、――通俗的興味のないと云ふ點から見れば、最も純粹な小説である。もう一度畫(ゑ)を例に引けば、デツサンのない畫は成り立たない。(カンディンスキイの「即興」などと題する數枚の畫は例外である。)しかしデツサンよりも色彩に生命を託した畫は成り立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて來た何枚かのセザンヌの畫は明らかにこの事實を證明するのであらう。僕はかう云ふ畫に近い小説に興味を持つてゐるのである。

 ではかう云ふ小説はあるかどうか? 獨逸(ドイツ)の初期自然主義の作家たちはかう云ふ小説に手をつけてゐる。しかし更に近代ではかう云ふ小説の作家としては何びともジユウル・ルナアルに若かない。(僕の見聞する限りでは)たとへばルナアルの「フィリツプ一家の家風」は(岸田國士氏の日本譯「葡萄畑の葡萄作り」の中(うち)にある)一見未完成かと疑はれる位である。が、實は「善く見る目」と「感じ易い心」とだけに仕上げることの出來る小説である。もう一度セザンヌを例に引けば、セザンヌは我々後代のものへ澤山の未完成の畫を殘した。丁度ミケル・アンヂエロが未完成の彫刻を殘したやうに。――しかし未完成と呼ばれてゐるセザンヌの畫さへ未完成かどうか多少の疑ひなきを得ない。現にロダンはミケル・アンヂエロの未完成の彫刻に完成の名を與へてゐる!……しかしルナアルの小説はミケル・アンヂエロの彫刻は勿論、セザンヌの畫の何枚かのやうに未完成の疑ひのあるものではない。僕は不幸にも寡聞の爲に佛蘭西(フランス)人はルナアルをどう評價してゐるかを知らずにゐる。けれども、わがルナアルの仕事の獨創的なものだつたことを十分には認めてゐないらしい。

 ではかう云ふ小説は紅毛人以外には書かなかつたか? 僕は僕等日本人の爲に志賀直哉氏の諸短篇を、――「焚火」以下の諸短篇を數へ上げたいと思つてゐる。

 僕はかう云ふ小説は「通俗的興味はない」と言つた。僕の通俗的興味と云ふ意味は事件そのものに對する興味である。僕はけふ往來に立ち、車夫と運轉手との喧嘩を眺めてゐた。のみならず或興味を感じた。この興味は何であらう? 僕はどう考へて見ても、芝居の喧嘩を見る時の興味と違ふとは考へられない。若し違つてゐるとすれば、芝居の喧嘩は僕の上へ危險を齎さないにも關らず、往來の喧嘩はいつ何時危險を齎らすかもわからないことである。僕はかう云ふ興味を與へる文藝を否定するものではない。しかしかう云ふ興味よりも高い興味のあることを信じてゐる。若しこの興味とは何かと言へば、――僕は特に谷崎潤一郎氏にはかう答へたいと思つてゐる。――「麒麟」の冐頭の數頁(すうページ)は直ちにこの興味を與へる好個の一例となるであらう。

 「話」らしい話のない小説は通俗的興味の乏しいものである。が、最も善い意味では決して通俗的興味に乏しくない。(それは唯「通俗的」と云ふ言葉をどう解釋するかと云ふ問題である。)ルナアルの書いたフィリツプが――詩人の目と心とを透して來たフィリツプが僕等に興味を與へるのは一半(ぱん)はその僕等に近い一凡人である爲である。それをも亦通俗的興味と呼ぶことは必しも不當ではないであらう。(尤も僕は僕の議論の力點を「一凡人である」と云ふことには加へたくない。「詩人の目と心とを透して來た一凡人である」と云ふことに加へたいのである。)現に僕はかう云ふ興味の爲に常に文藝に親しんでゐる大勢の人を知つてゐる。僕等は勿論動物園の麒麟に驚嘆の聲を吝(を)しむものではない。が、僕等の家にゐる猫にもやはり愛着(あいちやく)を感ずるのである。

 しかし或論者の言ふやうにセザンヌを畫の破壞者とすれば、ルナアルも亦小説の破壞者である。この意味ではルナアルは暫く問はず、振り香爐の香(か)を帶びたジツドにもせよ、町の匂ひのするフィリツプにもせよ、多少はこの人通りの少ない、陷穽(かんせい)に滿ちた道を歩いてゐるのであらう。僕はかう云ふ作家たちの仕事に――アナトオル・フランスやバレス以後の作家たちの仕事に興味を持つてゐる。僕の所謂「話」らしい話のない小説はどう云ふ小説を指してゐるか、なぜ又僕はかう云ふ小説に興味を持つてゐるか、――それ等は大體上に書いた數十行の文章に盡きてゐるであらう。

 

       二 谷崎潤一郎氏に答ふ

 

 次に僕は谷崎潤一郎氏の議論に答へる責任を持つてゐる。尤もこの答の一半は(一)の中にもないことはない。が、「凡そ文學に於て構造的美觀を最も多量に持ち得るものは小説である」と云ふ谷崎氏の言(げん)には不服である。どう云ふ文藝も、――僅々(きん/\)十七字の發句さへ「構造的美觀」を持たないことはない。しかしかう云ふ論法を進めることは谷崎氏の言を曲解するものである。とは言へ「凡そ文學に於て構造的美觀を最も多量に持ち得るもの」は小説よりも寧ろ戲曲であらう。勿論最も戲曲らしい小説は小説らしい戲曲よりも「構成的美觀」を缺いてゐるかも知れない。しかし戲曲は小説よりも大體「構成的美觀」に豐かである。――それも亦實は議論上の枝葉(しゑふ)に過ぎない。兎に角小説と云ふ文藝上の形式は「最も」か否かを暫く措き、「構成的美觀」に富んでゐるであらう。なほ又谷崎氏の言ふやうに「筋の面白さを除外するのは、小説と云ふ形式が持つ特權を捨ててしまふ」と云ふことも考へられるのに違ひない。が、この問題に對する答は(一)の中に書いたつもりである。唯「日本の小説に最も缺けてゐるところは、此の構成する力、いろいろ入り組んだ筋を幾何學的に組み立てる才能にある」かどうか、その點は僕は無造作に谷崎氏の議論に賛することは出來ない。我々日本人は「源氏物語」の昔からかう云ふ才能を持ち合せてゐる。單に現代の作家諸氏を見ても、泉鏡花氏、正宗白鳥氏、里見弴氏、久米正雄氏、佐藤春夫氏、宇野浩二氏、菊池寛氏等(ら)を數へられるであらう。しかもそれ等の作家諸氏の中にも依然として異彩を放つてゐるのは「僕等の兄(あに)」谷崎潤一郎氏自身である。僕は決して谷崎氏のやうに我々東海の孤島の民に「構成する力」のないのを悲しんでゐない。

 この「構成する力」の問題はまだ何十行でも論ぜられるであらう。しかしその爲には谷崎氏の議論のもう少し詳しいのを必要としてゐる。唯次手(ついで)に一言(げん)すれば、僕はこの「構成する力」の上では我々日本人は支那人よりも劣つてゐるとは思つてゐない。が、「水滸傳」「西遊記」「金瓶梅」「紅樓夢」「品花寶鑑」等の長篇を絮々綿々(じよ/\めん/\)と書き上げる肉體的力量には劣つてゐると思つてゐる。

 更に谷崎氏に答へたいのは「芥川君の筋の面白さを攻撃する中(うち)には、組み立ての方面よりも、或は寧ろ材料にあるかも知れない」と云ふ言葉である。僕は谷崎氏の用ふる材料には少しも異存を持つてゐない。「クリツプン事件」も「小さい王國」も「人魚の歎き」も材料の上では決して不足を感じないものである。それから又谷崎氏の創作態度にも、――僕は佐藤春夫氏を除けば、恐らくは谷崎氏の創作態度を最も知つてゐる一人であらう。僕が僕自身を鞭つと共に谷崎潤一郎氏をも鞭ちたいのは(僕の鞭に棘のないことは勿論谷崎氏も知つてゐるであらう。)その材料を生かす爲の詩的精神の如何である。或は又詩的精神の深淺である。谷崎氏の文章はスタンダアルの文章よりも名文であらう。(暫く十九世紀中葉の作家たちはバルザツクでもスタンダアルでもサンドでも名文家ではなかつたと云ふアナトオル・フランスの言葉を信ずるとすれば)殊に繪畫的効果を與へることはその點では無力に近かつたスタンダアルなどの匹儔(ひつちう)ではない。(これも又連帶責任者にはブランデスを連れてくれば善(よ)い。)しかしスタンダアルの諸作の中(うち)に漲り渡つた詩的精神はスタンダアルにして始めて得られるものである。フロオベエル以前の唯一のラルティストだつたメリメエさへスタンダアルに一籌(ちう)を輸(ゆ)したのはこの問題に盡きてゐるであらう。僕が谷崎潤一郎氏に望みたいものは畢竟唯この問題だけである。「刺靑」の谷崎氏は詩人だつた。が、「愛すればこそ」の谷崎氏は不幸にも詩人には遠いものである。

 「大いなる友よ、汝は汝の道にかへれ。」

 

       三 僕

 

 最後に僕の繰り返したいのは僕も亦今後側目(わきめ)もふらずに「話」らしい話のない小説ばかり作るつもりはないと云ふことである。僕等は誰も皆出來ることしかしない。僕の持つてゐる才能はかう云ふ小説を作ることに適してゐるかどうか疑問である。のみならずかう云ふ小説を作ることは決して並み並みの仕事ではない。僕の小説を作るのは小説はあらゆる文藝の形式中、最も包容力に富んでゐる爲に何でもぶちこんでしまはれるからである。若し長詩形の完成した紅毛人の國に生まれてゐたとすれば、僕は或は小説家よりも詩人になつてゐたかも知れない。僕はいろいろの紅毛人たちに何度も色目を使つて來た。しかし今になつて考へて見ると、最も内心に愛してゐたのは詩人兼ジヤアナリストの猶太人(ユダヤじん)――わがハインリツヒ・ハイネだつた。

 

       四 大 作 家

 

 僕は上に書いた通り、頗る雜駁な作家である。が、雜駁な作家であることは必しも僕の患ひではない。いや、何びとの患ひでもない。古來の大作家と稱するものは悉く雜駁な作家である。彼等は彼等の作品の中にあらゆるものを抛りこんだ。ゲエテを古今の大詩人とするのもたとひ全部ではないにもせよ、大半はこの雜駁なことに、――この箱船の乘り合ひよりも雜駁なことに存してゐる。しかし嚴密に考へれば、雜駁なことは純粹なことに若かない。僕はこの點では大作家と云ふものにいつも疑惑の目を注いでゐる。彼等は成程一時代を代表するに足るものであらう。しかし彼等の作品が後代を動かすに足るとすれば、それは唯彼等がどの位純粹な作家だつたかと云ふ一點に歸してしまふ訣(わけ)である。「大詩人と云ふことは何でもない。我々は唯純粹な詩人を目標にしなければならぬ」と云ふ「狹い門」(ジツド)の主人公の言葉も決して等閑に附することは出來ない。僕は「話」らしい話のない小説を論じた時、偶然この「純粹な」と云ふ言葉を使つた。今この言葉を機緣にし、最も純粹な作家たちの一人、――志賀直哉氏のことを論ずるつもりである。從つてこの議論の後半はおのづから志賀直哉論に變化するであらう。尤も時と場合により、どう云ふ横道に反れてしまふか、それは僕自身にも保證出來ない。

 

       五 志賀直哉氏

 

 志賀直哉氏は僕等のうちでも最も純粹な作家――でなければ最も純粹な作家たちの一人である。志賀直哉氏を論ずるのは勿論僕自身に始まつたことではない。僕は生憎多忙の爲に、――と云ふよりは寧ろ無精の爲にそれ等の議論を讀まずにゐる。從つていつか前人の説を繰り返すことになるかも知れない。しかし又或は前人の説を繰り返すことにもならないかも知れない。……

 (一) 志賀直哉氏の作品は何よりも先にこの人生を立派に生きてゐる作家の作品である。立派に?――この人生を立派に生きることは第一には神のやうに生きることであらう。志賀直哉氏も亦地上にゐる神のやうには生きてゐないかも知れない。が、少くとも清潔に、(これは第二の美德である)生きてゐることは確かである。勿論僕の「清潔に」と云ふ意味は石鹸ばかり使つてゐることではない。「道德的に清潔に」と云ふ意味である。これは或は志賀直哉氏の作品を狹いものにしたやうに見えるかも知れない。が、實は狹いどころか、反つて廣くしてゐるのである。なぜ又廣くしてゐるかと云へば、僕等の精神的生活は道德的屬性を加へることにより、その屬性を加へない前よりも廣くならずにはゐないからである。(勿論道德的屬性を加へると云ふ意味も教訓的であると云ふことではない。物質的苦痛を除いた苦痛は大半はこの屬性の生んだものである。谷崎潤一郎氏の惡魔主義がやはりこの屬性から生まれてゐることは言ふまでもあるまい。〔惡魔は神の二重人格者である。〕[やぶちゃん注:この〔 〕は芥川の使用したものである。]更に例を求めるとすれば、僕は正宗白鳥氏の作品にさへ屢々論ぜられる厭世主義よりも寧ろ基督(キリスト)的魂の絶望を感じてゐるものである。)この屬性は志賀氏の中に勿論深い根を張つてゐたのであらう。しかし又この屬性を刺戟する上には近代の日本の生んだ道德的天才、――恐らくはその名に價する唯一の道德的天才たる武者小路實篤氏の影響も決して少くはなかつたであらう。念の爲にもう一度繰り返せば、志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家である。それは同氏の作品の中にある道德的口氣にも窺はれるであらう。(「佐々木の場合」の末段はその著しい一例である。)同時に又同氏の作品の中にある精神的苦痛にも窺はれないことはない。長篇「暗夜行路」を一貫するものは實にこの感じ易い道德的魂の苦痛である。

 (二) 志賀直哉氏は描寫の上には空想を賴まないリアリストである。その又リアリズムの細に入つてゐることは少しも前人の後に落ちない。若しこの一點を論ずるとすれば、僕は何の誇張もなしにトルストイよりも細かいと言ひ得るであらう。これは又同氏の作品を時々平板に了(をは)らせてゐる。が、この一點に注目するものはかう云ふ作品にも滿足するであらう。世人の注目を惹かなかつた、「二十代一面」はかう云ふ作品の一例である。しかしその効果を收めたものは、たとへば小品「鵠沼行(くげぬまゆき)」にしても寫生の妙を極めないものはない。次手に「鵠沼行」のことを書けば、あの作品のデイテエルは悉く事實に立脚してゐる。が、「丸くふくれた小さな腹には所々に砂がこびりついて居た」と云ふ一行だけは事實ではない。それを讀んだ作中人物の一人は「ああ、ほんたうにあの時には××ちやんのおなかに砂がついてゐた」と言つた!

 (三) しかし描寫上のリアリズムは必しも志賀直哉氏に限つたことではない。同氏はこのリアリズムに東洋的傳統の上に立つた詩的精神を流しこんでゐる。同氏のエピゴオネンの及ばないのはこの一點にあると言つても差し支へない。これこそ又僕等に――少くとも僕に最も及び難い特色である。僕は志賀直哉氏自身もこの一點を意識してゐるかどうか、は必しもはつきりとは保證出來ない。(あらゆる藝術的活動を意識の閾(しきゐ)の中に置いたのは十年前(ぜん)の僕である。)しかしこの一點はたとひ作家自身は意識しないにもせよ、確かに同氏の作品に獨特の色彩を與へるものである。「焚火」、「眞鶴」等の作品は殆どかう云ふ特色の上に全生命を託したものであらう。それ等の作品は詩歌にも劣らず(勿論この詩歌と云ふ意味は發句をも例外にするのではない。)頗る詩歌的に出來上つてゐる。これは又現世の用語を使へば、「人生的」と呼ばれる作品の一つ、――「憐れな男」にさへ看取出來るであらう。ゴム球(だま)のやうに張つた女の乳房に「豐年ぢや。豐年ぢや」を唄ふことは到底詩人以外に出來るものではない。僕は現世の人々がかう云ふ志賀直哉氏の「美しさに」比較的注意しないことに多少の遺憾を感じてゐる。(「美しさ」は極彩色(ごくさいしき)の中にあるばかりではない。)同時に又他の作家たちの美しさにもやはり注意しないことに多少の遺憾を感じてゐる。

 (四) 更に又やはり作家たる僕は志賀直哉氏のテクニイクにも注意を怠らない一人である。「暗夜行路」の後篇はこの同氏のテクニイクの上にも一進歩を遂げてゐるものであらう。が、かう云ふ問題は作家以外の人々には餘り興味のないことかも知れない。僕は唯(ただ)初期の志賀直哉氏さへ、立派なテクニイクの持ち主だつたことを手短かに示したいと思ふだけである。

 ――煙管(きせる)は女持でも昔物で今の男持よりも太く、ガツシリした拵へだつた。吸口の方(ほう)に玉藻の前が檜扇(ひあふぎ)を翳(かざ)して居る所が象眼(ざうがん)になつてゐる。……彼は其の鮮(あざやか)な細工に暫く見惚(みと)れて居た。そして、身長の高い、眼の大きい、鼻の高い、美しいと云ふより總(すべ)てがリツチな容貌をした女には如何にもこれが似合ひさうに思つた。――

 これは「彼と六つ上の女」の結末である。

 ――代助は花瓶の右手にある組み重ねの書棚の前へ行つて、上に載せた重い寫眞帳を取り上げて、立ちながら、金(きん)の留金を外して、一枚二枚と繰り始めたが、中頃まで來てぴたりと手を留めた。其處には二十歳位の女の半身(はんしん)がある。代助は眼を俯せて凝と女の顏を見詰めてゐた。――

 これは「それから」の第一囘の結末である。

 出門日已遠 不受徒旅欺 骨肉恩豈斷 手中挑靑絲 捷下萬仞岡 俯身試搴旗

 これは更にずつと古い杜甫の「前出塞」の詩の結末――ではない一首である。が、いづれも目に訴へる、――言はば一枚の人物畫に近い造形美術的効果により、結末を生かしてゐるものは同じことである。

(五) これは畢竟餘論である。志賀直哉氏の「子を盜む話」は西鶴の「子供地藏」(大下馬(おほげば))を思はせ易い。が、更に「范の犯罪」はモオパスサンの「ラルティスト」(?)を思はせるであらう。「ラルティスト」の主人公はやはり女の體のまはりへナイフを打ちつける藝人である。「范の犯罪」の主人公は或精神的薄明りの中に見事に女を殺してしまふ。が、「ラルティスト」の主人公は如何に女を殺さうとしても、多年の熟練を積んだ結果、ナイフは女の體(からだ)に立たずに體のまはりにだけ立つのである。しかもこの事實を知つてゐる女は冷然と男を見つめたまま、微笑さへ洩らしてゐるのである。けれども西鶴の「子供地藏」は勿論、モオパスサンの「ラルティスト」も志賀直哉氏の作品には何の關係も持つてゐない。これは後世の批評家たちに模倣呼はりをさせぬ爲に特にちよつとつけ加へるのである。

 

       六 僕等の散文

 

 佐藤春夫氏の説によれば、僕等の散文は口語文であるから、しやべるやうに書けと云ふことである。これは或は佐藤氏自身は不用意の裡に言つたことかも知れない。しかしこの言葉は或問題を、――「文章の口語化」と云ふ問題を含んでゐる。近代の散文は恐らくは「しやべるやうに」の道を踏んで來たのであらう。僕はその著しい例に(近くは)武者小路實篤、宇野浩二、佐藤春夫等の諸氏の散文を數へたいものである。志賀直哉氏も亦この例に洩れない。しかし僕等の「しやべりかた」が、紅毛人の「しやべりかた」は暫く問はず、隣國たる支那人の「しやべりかた」よりも音樂的でないことも事實である。僕は「しやべるやうに書きたい」願ひも勿論持つてゐないものではない。が、同時に又一面には「書くやうにしやべりたい」とも思ふものである。僕の知つてゐる限りでは夏目先生はどうかすると、實に「書くやうにしやべる」作家だつた。(但し「書くやうにしやべるものは即ちしやべるやうに書いてゐるから」と云ふ循環論法的な意味ではない。)「しやべるやうに書く」作家は前にも言つたやうにゐない訣ではない。が、「書くやうにしやべる」作家はいつこの東海の孤島に現はれるであらう。しかし、――

 しかし僕の言ひたいのは「しやべる」ことよりも「書く」ことである。僕等の散文も羅馬(ローマ)のやうに一日(いちにち)に成つたものではない。僕等の散文は明治の昔からじりじり成長をつづけて來たものである。その礎(いしずゑ)を据ゑたものは明治初期の作家たちであらう。しかしそれは暫く問はず、比較的近い時代を見ても、僕は詩人たちが散文に與へた力をも數へたいと思ふものである。

 夏目先生の散文は必しも他を待つたものではない。しかし先生の散文が寫生文に負ふ所のあるのは爭はれない。ではその寫生文は誰(たれ)の手になつたか? 俳人兼歌人兼批評家だつた正岡子規の天才によつたものである。(子規はひとり寫生文に限らず、僕等の散文、――口語文の上へ少からぬ効績[やぶちゃん注:ママ。]を殘した。)かう云ふ事實を振り返つて見ると、高濱虚子、坂本四方太(もた)等(とう)の諸氏もやはりこの寫生文の建築師のうちに數へなければならぬ。(勿論「俳諧師」の作家高濱氏の小説の上に殘した足跡は別に勘定するのである。)けれども僕等の散文が詩人たちの恩を蒙つたのは更に近い時代にもない訣ではない。ではそれは何かと言へば、北原白秋氏の散文である。僕等の散文に近代的な色彩や匂を與へたものは詩集「思ひ出」の序文だつた。かう云ふ點では北原氏の外に木下杢太郎氏の散文を數へても善い。

 現世(げんせ)の人々は詩人たちを何か日本のパルナスの外(ほか)に立つてゐるやうに思つてゐる。が、何も小説や戲曲はあらゆる文藝上の形式と沒交渉に存在してゐる訣ではない。詩人たちは彼等の仕事の外にもやはり又僕等の仕事にいつも影響を與へてゐる。それは別に上に書いた事實の證明するばかりではない。僕等と同時代の作家たちの中に詩人佐藤春夫、詩人室生犀星、詩人久米正雄等の諸氏を數へることは明らかに僕の説を裏書きするものである。いや、それ等の作家ばかりではない。最も小説家らしい里見弴氏さへ幾篇かの詩を殘してゐる筈である。

 詩人たちは或は彼等の孤立に多少の歎(たん)を持つてゐるかも知れない。しかしそれは僕に言はせれば、寧ろ「名譽の孤立」である。

 

 

〔文藝的な、餘りに文藝的な〕   芥川龍之介

 

       「大道無門」

 

 あらゆる小説は一面には處世術の教科書である。從つて又極めて廣い意味では教育的と言つても差し支へない。その最も著しい例は一見如何にも塵外のものらしい碧巖錄などと云ふ短篇集である。(僕は禪宗のことは何も知らない。が、一度碧巖錄だけは短篇集として愛讀した。)かう云ふ小説中の處世術は當然その作家の人生觀と密接に結びついてゐなければならぬ。里見弴氏の長篇小説「大道無門」も亦この例に洩れない。

 里見弴氏は哲學者である。かう云ふ里見氏の一面はなぜか常に見のがされ易い。が、里見氏を論じる上には到底この事實は見のがせない筈である。里見氏は前には「多情佛心」を著(あらは)し、今度は「大道無門」を著はした。それ等の小説は題そのものさへ哲學的であるのに違ひない。更に里見氏の感想を讀めば、大抵哲學的、――或は更に丁寧に言へば、理想主義的色彩に富んでゐる。しかもこの理想主義者は少しも現實の前に落膽してゐない。のみならず「莫怖幻滅」(?)と書いた旗を飜して進んでゐる。

 僕が哲學者里見氏を云々するのは必しも奇を衒(てら)ふ爲ではない。かう云ふ一面は里見氏を截然と他の作家たちから切り離してゐる。いや、「他の作家たちから」ではないかも知れない。寧ろ「外見上里見氏に近い作家たちから」と言ふべきであらう。僕は或批評家の里見氏をデカダンスと呼んでゐるのを見、かうも考へは違ふものかと思つた。里見氏は成程無數の情事を描いてゐるのに違ひない。しかしデカダンスの匀などはどの作品にも見えないのである。のみならず所謂殉情的情緒さへどの作品にも見えないのである。しかも里見氏の作品は決して現實主義に終始してゐない。僕は「大道無門」を讀み、人生に對する里見氏の態度にあらゆる理想主義者の嚴(いかめ)しさを感じた。

 里見氏は前に永井荷風氏を評し、「永井氏ほど立派に完成した人はない。唯この人に一生懸命になつた作品のないのは遺憾であると言つた。理想主義者里見氏の面目はこの言葉の中に躍動してゐる。里見氏の「一生懸命になる」と云ふのは或作品の形式的完成に一生懸命になると云ふ意味でない。或作品に盛られる人生を一生懸命に生きると云ふ意味である。かう云ふ里見氏の作品にデカダンスの匀のないのは偶然ではない。所謂殉情的情緒のないのも、――これは既に里見氏自身も「まごころ」の哲學に解釋してゐる。……

 里見弴氏は理想主義者である。が、天成の理想主義者ではない。現實主義者的氣質から精進をつづけて行つた理想主義者である。武者小路實篤氏は天成の理想主義者を代表するであらう。同時に又菊池寛氏は天成の現實主義を代表するであらう。里見氏は丁度兩氏の中にまつ直に伸び上つた小説家である。僕等に親愛なるカリバンほ里見氏の中にもゐないことはない。しかしその又カリバンはエリエルの歌も歌つてゐるのである。僕は「大道無門」の中にもやはりエリエルの歌を感じた。のみならずその又エリエルの歌は二三の理想主義的作家たちの歌よりもはかに天上に近いものだつた。

 里見氏のテクニイクの冴えは既に定評を持つてゐる。僕ほもうこの點では屋上に屋を架す必要はない。所謂「白樺派」の作家たちはいづれ理想主義の色彩を帯びた兜(かぶと)や槍(やり)を輝(かがや)かせながら、文藝的トウナメントの廣場(ひろば)へそれぞれ馬を進めて行つた。里見氏はそれ等の作家たちの中では或は馬上のジアン・ダアクのやうに異色を持つてゐたであらう。が、里見氏の兜のにはやはり理想主義の鳥の羽根が一すぢ白じらと日の光に閃いてゐる。………

 

 

文藝的な、餘りに文藝的な   芥川龍之介

 

       七 詩人たちの散文

 

 尤も詩人たちの散文は人力にも限りのある以上、大抵彼等の詩と同程度に完成してゐないのを常としてゐる。芭蕉の「奧の細道」もやはり又この例に洩れない。殊に冐頭の一節はあの全篇に漲つた寫生的興味を破つてゐる。第一「月日は百代(だい)の過客(くわきやく)にして、ゆきかふ年も又旅人なり」と云ふ第一行を見ても、輕みを帶びた後半は前半の重みを受けとめてゐない。(散文にも野心のあつた芭蕉は同時代の西鶴の文章を「淺ましくもなり下れる姿」と評した。これは枯淡を愛した芭蕉には少しも無理のない言葉である。)しかし彼の散文もやはり作家たちの散文に影響を與へたことは確かである。たとひそれは「俳文」と呼ばれる彼以後の散文を通過して來たにもしろ。

 

       八 詩  歌

 

 日本の詩人たちは現世の人々にパルナスの外(ほか)にゐると思はれてゐる。その理由の一半(はん)は現世の人々の鑑賞眼が詩歌に及ばないことも數へられるであらう。しかし又一つには詩歌は畢に散文のやうに僕等の全生活感情を盛り難いことにもよる訣である。詩は――古い語彙を用ひるとすれば、新體詩は短歌や發句よりもかう云ふ點では自由である。(プロレツトカルトの詩はあつても、プロレツトカルトの發句はない。)しかし詩人たちは、――たとへば現世の歌人たちもかう云ふ試みをしてゐないことはない。その最も著しい例は「悲しき玩具」の歌人石川啄木が僕等に殘した仕事である。これは恐らくは今日では言ひ古されてゐることであらう。しかし「新詩社」は啄木の外にもこの「オデイツソイスの弓」を引いたもう一人の歌人を生み出してゐる。「酒(さか)ほがひ」の歌人吉井勇氏は正にかう云ふ仕事をした。「酒ほがひ」の歌にうたはれたものはいづれも小説の匂を帶びてゐる。(或は心理描寫の影を帶びてゐる。)大川端の秋の夕暮に浪費を思つた吉井勇氏はかう云ふ點では石川啄木と、――貧苦と鬪つた石川啄木と好個の對照を作るものであらう。(なほ又次手に一言すれば、「アララギ」の父正岡子規が「明星」の子(こ)北原白秋と僕等の散文を作り上げる上に力を合せたのも好對照である。)が、これは必しも「新詩社」にばかりあつたことではない。齋藤茂吉氏は「赤光」の中に「死に給ふ母」、「おひろ」等の連作を發表した。のみならず又十何年か前に石川啄木の殘して行つた仕事を――或は所謂「生活派」の歌を今もなほ着々と完成してゐる。元來齋藤茂吉氏の仕事ほど、多岐多端に渡つてゐるものはない。同氏の歌集は一首ごとに倭琴(わごん)やセロや三味線や工場の汽笛を鳴り渡らせてゐる。(僕の言ふのは「一首ごと」である。「一首の中に」と言ふのではない。)若しこのまま書きつづけるとすれば、僕は或はいつの間にか齋藤茂吉論に移つてしまふであらう。しかしそれは便宜上、齒止めをかけて置かなければならぬ。僕はまだこの次手に書きたいことを持ち合せてゐる。が、兎に角齋藤茂吉氏ほど、仕事の上に慾の多い歌人は前人の中にも少かつたであらう。

 

   九  兩大家の作品

 

 勿論あらゆる作品はその作家の主觀を離れることは出來ない。しかし假に客觀と云ふ便宜上の貼り札を用ひるとすれば、自然主義の作家たちの中でも最も客觀的な作家は德田秋聲氏である。正宗白鳥氏はこの點では對蹠點(たいせきてん)に立つてゐると言つても善(よ)い。正宗白鳥氏の厭世主義は武者小路實篤氏の樂天主義と好箇の對照を作つてゐる。のみならず殆ど道德的である。德田氏の世界も暗いものかも知れない。しかしそれは小宇宙である。久米正雄氏の「德田水(とくだすゐ)」と呼んだ東洋詩的情緒のある小宇宙である。そこにはたとひ娑婆苦はあつても、地獄の業火は燃えてゐない。けれども正宗氏はこの地面の下に必ず地獄を覗かせてゐる。僕は確か一昨年の夏、正宗氏の作品を集めた本を手當り次第に讀破して行つた。人生の表裏を知つてゐることは正宗氏も德田氏に劣らないかも知れない。しかし僕の受けた感銘は――少くとも僕の受けた感銘中、最も僕に迫つたものは中世紀から僕等を動かしてゐた宗教的情緒に近いものである。

   我を過ぎて汝は歎きの市(まち)に入り

   我を過ぎて汝は永遠(えいゑん)の苦しみに入る。――

 (追記。この後(ご)二三日を經て正宗氏の「ダンテに就いて」を讀んだ。感慨少からず。)

 

       十 厭世主義

 

 正宗白鳥氏の教へる所によれば、人生はいつも暗澹としてゐる。正宗氏はこの事實を教へる爲に種々雜多の「話」を作つた。(尤も同氏の作品中には「話」らしい話のない小説も少くない。)しかもその「話」を運ぶ爲にも種々雜多のテクニイクを用ひてゐる。才人の名はかう云ふ點でも當然正宗氏の上に與へらるべきであらう。しかし僕の言ひたいのは同氏の厭世主義的人生觀である。

 僕も亦正宗氏のやうに如何なる社會組織のもとにあつても、我々人間の苦しみは救ひ難いものと信じてゐる。あの古代のパンの神に似たアナトオル・フランスのユウトピア(「白い石の上で」)さへ佛陀の夢みた寂光土ではない。生老病死(しやうらうびやうし)は哀別離苦と共に必ず僕等を苦しめるであらう。僕は確か去年の秋、ダスタエフスキイの子供か孫かの餓死した電報を讀んだ時、特にかう思はずにはゐられなかつた。これは勿論コムミユニスト治下のロシアにあつた話である。しかしアナアキストの世界となつても、畢竟我々人間は我々人間であることにより、到底幸福に終始することは出來ない。

 けれども「金(かね)が仇(かたき)」とは封建時代以來の名言である。金の爲に起る悲劇や喜劇は社會組織の變化と共に必ず多少は減ずるであらう。いや、僕等の精神的生活も幾分か變化を受ける筈である。若しかう云ふ點を力説すれば、我々人間の將來は或は明るいと言はれるであらう。しかし又金の爲に起らずにゐる悲劇や喜劇もない訣ではない。のみならず金は必しも我々人間を飜弄する唯一の力ではないのである。

 正宗白鳥氏がプロレタリアの作家たちと立ち場を異にするのは當然である。僕も亦、――僕は或は便宜上のコムミユニストか何かに變るかも知れない。が、本質的にはどこまで行つても、畢竟ジヤアナリスト兼詩人である。文藝上の作品もいつかは滅びるのに違ひない。現に僕の耳學問によれば、フランス語のリエゾンさへ失はれつつある以上、ボオドレエルの詩の響もおのづから明日(みやうにち)異るであらう。(尤もそんなことはどうなつても我々日本人には差支へない。)しかし一行の詩の生命は僕等の生命よりも長いのである。僕は今日も亦明日のやうに「怠惰なる日の怠惰なる詩人」、――一人の夢想家であることを恥としない。

 

       十一 半ば忘れられた作家たち

 

 僕等は少くとも錢のやうに必ず兩面を具へてゐる。兩面以上を具へてゐることも勿論決して稀ではない。紅毛人の作り出した「藝術家として又人として」はこの兩面を示すものである。「人として」失敗したと共に「藝術家として」成功したものは盜人(ぬすびと)兼詩人だつたフランソア・ヴイヨンにまさるものはない。「ハムレツト」の悲劇もゲエテによれば、思想家たるべきハムレツトが父の仇(かたき)を打たなければならぬ王子だつた悲劇である。これも亦或は兩面の剋し合つた悲劇と言はれるであらう。僕等の日本は歴史上にもかう云ふ人物を持ち合せてゐる。征夷大將軍源實朝は政治家としては失敗した。しかし「金槐集」の歌人源實朝は藝術家としては立派に成功してゐる。が、「人として」――或は何としてでも失敗したにしろ、藝術家としても成功しないことは更に悲劇的であると言はなければならぬ。

 しかし藝術家として成功したかどうかは容易に決定出來るものではない。現にラムボオを嗤つたフランスは今日ではラムボオに敬禮し出した。が、たとひ誤植だらけにもしろ、三册(?)の著書のあつたことはラムボオの爲には仕合せである。若し著書もなかつたとしたならば、……

 僕は僕の先輩や知人に二三の好短篇を書きながら、しかもいつか忘れられた何人かの人々を數へてゐる。彼等は今日の作家たちよりも或は力を缺いてゐたかも知れない。けれども偶然と云ふものはやはりそこにもあつた訣である。(若し全然かう云ふ分子を認めない作家があるとすれば、それは例外とする外はない。)それ等の作品を集めることは或は不可能に近いかも知れない。しかし若し出來るとすれば、彼等の爲(ため)は暫く問はず、後人(こうじん)の爲にも役立つことであらう。

 「生まるる時の早かりしか、或は又遲かりしか」は南蠻の詩人の歎きばかりではない。僕は福永挽歌、靑木健作、江南文(えなみぶん)三[やぶちゃん注:「えなみぶんざう」と読む。ルビは「三」にはない。]等(ら)の諸氏にもかう云ふ歎きを感じてゐる。僕はいつか横文字の雜誌に「半ば忘れられた作家たち」と云ふシリイズの廣告を發見した。僕も亦或はかう云ふシリイズに名を連ねる作家たちの一人であらう。かう云ふのは格別謙遜したのではない。イギリスのロマン主義時代の流行兒だつた「僧」の作家ルイズさへやはりこのシリイズの中の一人である。しかし半ば忘れられた作家たちは必しも過去ばかりにある訣ではない。のみならず彼等の作品は一つの作品として見る時には現世の諸雜誌に載る作品よりも劣つてゐるとは言はれないのである。

 

       十二 詩的精神

 

 僕は谷崎潤一郎氏に會ひ、僕の駁論(ばくろん)を述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も廣い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。すると谷崎氏は「さう云ふものならば何にでもあるぢやないか?」と言つた。僕はその時も述べた通り、何にでもあることは否定しない。「マダム・ボヴアリイ」も「ハムレツト」も「神曲」も「ガリヴアアの旅行記」も悉く詩的精神の産物である。どう云ふ思想も文藝上の作品の中に盛られる以上、必ずこの詩的精神の淨火を通つて來なければならぬ。僕の言ふのはその淨火を如何に燃え立たせるかと云ふことである。それは或は半ば以上、天賦の才能によるものかも知れない。いや、精進の力などは存外効のないものであらう。しかしその淨火の熱の高低は直ちに或作品の價値の高低を定めるのである。

 世界は不朽の傑作にうんざりするほど充滿してゐる。が、或作家の死んだ後(のち)、三十年の月日を經ても、なほ僕等の讀むに足る十篇の短篇を殘したものは大家と呼んでも差支ない。たとひ五篇を殘したとしても、名家の列には入るであらう。最後に三篇を殘したとすれば、それでも兎に角一作家である。この一作家になることさへ容易に出來るものではない。僕はこれも亦横文字の雜誌に「短篇などは二三日のうちに書いてしまふものである」と云ふウエルズの言葉を發見した。二三日は暫く問はず、締め切り日を前に控へた以上、誰でも一日のうちに書かないものはない。しかしいつも二三日のうちに書いてしまふと斷言するのはウエルズのウエルズたる所以である。從つて彼は碌な短篇を書かない。

 

       十三 森 先 生

 

 僕はこの頃「鷗外全集」第六卷を一讀し、不思議に思はずにはゐられなかつた。先生の學は古今を貫き、識は東西を壓してゐるのは今更のやうに言はずとも善(よ)い。のみならず先生の小説や戲曲は大抵は渾然と出來上つてゐる。(所謂ネオ・ロマン主義は日本にも幾多の作品を生んだ。が、先生の戲曲「生田川」ほど完成したものは少かつたであらう。)しかし先生の短歌や俳句は如何に贔屓目に見るとしても、畢に作家の域にはひつてゐない。先生は現世にも珍らしい耳を持つてゐた詩人である。たとへば「玉篋兩浦嶼(たまくしげふたりうらしま)」を讀んでも、如何に先生が日本語の響を知つてゐたかが窺はれるであらう。これは又先生の短歌や俳句にも髣髴出來ない訣ではない。同時に又體裁を成してゐることはいづれも整然と出來上つてゐる。この點では殆ど先生としては人工を盡したと言つても善(よ)いかも知れない。

 けれども先生の短歌や發句は何か微妙なものを失つてゐる。詩歌はその又微妙なものさへ摑めば、或程度の巧拙などは餘り氣がかりになるものではない。が、先生の短歌や發句は巧は即ち巧であるものの、不思議にも僕等に迫つて來ない。これは先生には短歌や發句は餘戲に外ならなかつた爲であらうか? しかしこの微妙なものは先生の戲曲や小説にもやはり鋒芒を露はしてゐない。(かう云ふのは先生の戲曲や小説を必しも無價値であると云ふのではない。)のみならず夏目先生の餘戲だつた漢詩は、――殊に晩年の絶句などはおのづからこの微妙なものを捉へることに成功してゐる。(若し「わが佛(ほとけ)尊(たふと)し」の譏りを受けることを顧みないとすれば。)

 僕はかう云ふことを考へた揚句、畢竟森先生は僕等のやうに神經質に生まれついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽齋」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。いや、或は書かなかつたとしても、先生の精力は聰明の資と共に僕を動かさずには措かなかつたであらう。僕はいつか森先生の書齋に和服を着た先生と話してゐた。方丈の室に近い書齋の隅には新らしい薄緣りが一枚あり、その上には蟲干しでも始まつたやうに古手紙が何本も並んでゐた。先生は僕にかう言つた。――「この間柴野栗山(しばのりつざん)(?)の手紙を集めて本に出した人が來たから、僕はあの本はよく出來てゐる、唯手紙が年代順に並べてないのは惜しいと言つた。するとその人は日本の手紙は生憎月日しか書いてないから、年代順に並べることは到底出來ないと返事をした。それから僕はこの古手紙を指さし、ここに北條霞亭の手紙が何十本かある、しかも皆年代順に並んでゐると言つた。」! 僕はその時の先生の昂然としてゐたのを覺えてゐる。かう言ふ先生に瞠目するものは必しも僕一人には限らないであらう。しかし正直に白狀すれば、僕はアナトオル・フランスの「ジアン・ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行を殘したいと思つてゐる一人である。

 

       十四 白柳秀湖氏

 

 僕は又この頃白柳秀湖(しらやなぎしうこ)氏の「聲なきに聽く」と云ふ文集を讀み、「僕の美學」、「羞恥心に關する考察」、「動物の發性期と食物との關係」等の小論文に少からず興味を感じた。「僕の美學」は題の示すやうに正に白柳氏の美學に當り、「羞恥心に關する考察」は白柳氏の倫理學に當るものである。今(いま)後者は暫く問はず、前者をちよつと紹介すれば、美は僕等の生活から何の關係もなしに生まれたものではない。僕等の祖先は焚火(たきび)を愛し、林間に流れる水を愛し、肉を盛る土器を愛し、敵を打ち倒す棒を愛した。美はこれ等の生活的必要品(?)からおのづから生まれて來たのである。……

 かう云ふ小論文は少くとも僕には現世に多いコントよりも遙に尊敬に價するものである。(白柳氏はこの小論文の末(すゑ)にこれは「文壇の一隅(ぐう)に唯物美學の呼聲(よびごゑ)、若しくはそれに關する飜譯の現れる絶對以前」に書いたと註してゐる。)僕は美學などは全然知らない。況や唯物美學などと云ふものには更に緣のない衆生である。しかし白柳氏の美の發生論は僕にも僕の美學を作る機會を與へた。白柳氏は造形美術以外の美の發生に言及してゐない。僕はもう十數年前、或山中の宿に鹿の聲を聞き、何かしみじみと人戀しさを感じた。あらゆる抒情詩はこの鹿の聲に、――雌を呼ぶ雄の聲に發したのであらう。しかしこの唯物美學は俳人は勿論、遠い昔の歌人さへ知つてゐたかも知れない。唯敍事詩に至つては確かに太古の民のゴシツプに起源を發してゐたのであらう。「イリアツド」は神々のゴシツプである。その又ゴシツプは僕等には野蠻な莊嚴(さうごん)に充ち滿ちた美を感じさせるのに違ひない。しかしそれは「僕等には」である。太古の民は「イリアツド」に彼等の歡びや悲しみを感ぜずにはゐなかつたであらう。のみならずそこに彼等の心の燃え上るのを感ぜずにはゐなかつたであらう。……

 白柳秀湖氏は美の中に僕等の祖先の生活を見てゐる。が、僕等は僕等ばかりではない。アフリカの沙漠に都會の出來る頃には僕等の子孫の祖先になるのである。從つて僕等の心もちは丁度地下の泉のやうに僕等の子孫にも傳はるであらう。僕は白柳秀湖氏のやうに焚き火に親しみを感じるものである。同時に又その親しみに太古の民を思ふものである。(僕は「槍ヶ嶽紀行」の中にちよつとこのことを書いたつもりである。)しかし「猿に近い吾々の祖先」は彼等の焚き火を燃やす爲にどの位(くらゐ)苦心をしたことであらう。焚き火を燃やすことを發明したのは勿論天才だつたのに違ひない。けれどもその焚き火を燃やしつづけたものはやはり何人(なんにん)かの天才たちである。僕はこの苦心を思ふ時、不幸にも「今の藝術といふものなど、無くなつてしまつてもよい」とは考へない。

 

       十五 「文藝評論」

 

 批評も亦文藝上の一形式である。僕等の譽めたり貶したりするのも畢竟は自己を表現する爲であらう。幕の上に映つたアメリカの役者に、――しかも死んでしまつたヴアレンテイノに拍手を送つて吝(をし)まないのは相手を歡ばせる爲でも何でもない。唯好意を、――惹いては自己を表現する爲にするのである。若し自己を表現する爲とすれば、……

 小説や戲曲も紅毛人の作品に或は遙かに及ばないかも知れない。が、批評も亦紅毛人の作品に遜色のあるのは確かである。僕はかう云ふ荒蕪の中に唯正宗白鳥氏の「文藝評論」を愛讀した。批評家正宗白鳥氏の態度は紅毛人の言葉を借りれば、徹頭徹尾ラコニツクである。のみならず「文藝評論」は必ずしも文藝評論ではない。時には文藝の中の人生評論である。しかも僕は卷煙草を片手に「文藝評論」を愛讀した。時々石のごろごろした一本道を思ひ出しながら、その又一本道の日の光に殘酷な歡びを感じながら。

 

       十六 文學的未開地

 

 イギリスは久しく閑却してゐた十八世紀の文藝に注目してゐる。それは一つには大戰の後(のち)には誰も陽氣なものを求めてゐるからであらう。(僕は私(ひそ)かに世界中同じではないかと思つてゐる。同時に又大戰の爲に打撃を受けない日本さへいつかこの流行に感染してゐるのも不思議なものだと思つてゐる。)しかし又一つには閑却してゐた爲に文學者たちの研究に材料を與へ易い爲もある訣である。雀は米のない流しもとへは來ない。文學者たちも同じことであらう。從つて等閑に附せられることはそれ自身發見されることになる訣である。

 これは日本でも同じことである。俳諧寺一茶は暫く問はず、天明以後の俳人たちの仕事は殆ど誰にも顧みられてゐない。僕はかう云ふ俳人たちの仕事も次第に顯れて來ることと思つてゐる。しかも「月並み」の一言では到底片づけられない一面も次第に顯れて來ることと思つてゐる。

 等閑に附せられると云ふことも必しも惡いことばかりではない。

 

       十七 夏目先生

 

 僕はいつか夏目先生が風流漱石山人になつてゐるのに驚嘆した。僕の知つてゐた先生は才氣煥發する老人である。のみならず機嫌の惡い時には先輩の諸氏は暫く問はず、後進の僕などは往生だつた。成程天才と云ふものはかう云ふものかと思つたこともないではない。何でも冬に近い木曜日の夜、先生はお客と話しながら、少しも顏をこちらへ向けずに僕に「葉卷をとつてくれ給へ」と言つた。しかし葉卷がどこにあるかは生憎僕には見當もつかない。僕はやむを得ず「どこにありますか?」と尋ねた。すると先生は何も言はずに猛然と(かう云ふのは少しも誇張ではない。)顋を右へ振つた。僕は怯づ怯づ右を眺め、やつと客間の隅の机の上に葉卷の箱を發見した。

 「それから」「門」「行人」「道草」等はいづれもかう云ふ先生の情熱の生んだ作品である。先生は枯淡に住したかつたかも知れない。實際又多少は住してゐたであらう。が、僕が知つてゐる晩年さへ、決して文人などと云ふものではなかつた。まして「明暗」以前にはもつと猛烈だつたのに違ひない。僕は先生のことを考へる度に老辣無双(らうらつむさう)の感を新たにしてゐる。が、一度身の上の相談を持ちこんだ時、先生は胃の具合も善かつたと見え、かう僕に話しかけた。――「何も君に忠告するんぢやないよ。唯僕が君の位置に立つてゐるとすればだね。」……僕は實はこの時には先生に顋を振られた時よりも遙かに參らずにはゐられなかつた。

 

       十八 メリメエの書簡集

 

 メリメエはフロオベエルの「マダム・ボヴアリイ」を讀んだ時、「超凡の才能を浪費してゐる」と言つた。「マダム・ボヴアリイ」はロマン主義者のメリメエには實際かう感ぜられたかも知れない。しかしメリメエの書簡集(誰(たれ)かわからない女に宛てた戀愛書簡集)はいろいろの話を含んでゐる。たとへばパリから書いた二番目の書簡に、――

 ルウ・サン・オノレエに貧しい女が一人住んでゐた。彼女は見すぼらしい屋根裏の部屋を殆ど一度も離れなかつた。それから又十二になる娘を一人持つてゐた。その少女は午後からオペラへ勤め、大抵眞夜中に歸つて來るのだつた。或夜(よ)のこと、娘は門番の部屋へ下りて來て「蠟燭に火をつけて貸して下さい」と言つた。門番の女房は娘のあとから屋根裏の部屋へ昇つて行つた。するとあの貧しい女は死骸になつて横たはつてゐた。のみならず娘は古トランクから出した一束の手紙を燃やしてゐた。「お母さんは今夜死にました。これはお母さんが死ぬ前に讀まずに燒けと言つてゐた手紙です」――娘は門番の女房にかう言つた。娘は父の名も知らなければ母の名も知らなかつた。しかも生活の途(みち)と言つては唯せつせとオペラへ勤め、猿になつたり、惡魔になつたり、ほんの端役(フイギユラント)[やぶちゃん注:「フイギユラント」はルビ。以下同じ。]を勤めるだけだつた。母親は最後の教訓に「いつまでも端役(はやく)でゐるやうに、又善良でゐるやうに」と言つた。娘は今でもこの教訓通り、善良な端役(フイギユラント)に終始してゐる。

 もう一つ次手に田舍の話を引けば、今度はカンヌから書いた書簡に、――

 グラツスに近い或農夫が一人、谷底に倒れて死んでゐた。前夜にそこへ轉げ落ちたか、抛りこまれたかしたものである。すると同じ仲間の農夫が一人、彼の友だちに殺人犯人は彼自身であると公言した。「どうして? なぜ?」「あの男は俺の羊を呪つたやつだ。俺は俺の羊飼ひに教はり、三本の釘を鍋の中で煮てから、呪文を唱へてやることにした。あの男はその呪ひに死んでしまつたのだ。」……

 この書簡集は一八四〇から一八七〇――メリメエの歿年に亙つてゐる。(彼の「カルメン」は一八四四の作品である。)かう云ふ話はそれ自身小説になつてゐないかも知れない。しかしモオテイフを捉へれば、小説になる可能性を持つてゐる。モオパスサンは暫く問はず、フイリツプはかう言ふ話から幾つも美しい短篇を作つた。僕等は勿論樗牛の言つたやうに「現代を超越」など出來るものではない。しかも僕等を支配する時代は存外短いものである。僕はメリメエの書簡集の中(うち)に彼の落ち穗を見出した時、しみじみかう感ぜずにはゐられなかつた。

 メリメエはこの誰かわからない女へ手紙を書きはじめた時分から幾つも傑作を殘してゐる。それから又死んでしまふ前には新教徒の一人になつてゐる。これも亦僕にはニイチエ以前の超人崇拜家だつたメリメエを思ふと、多少の興味のないこともない。

 

       十九 古  典

 

 僕等は皆知つてゐることの外は書けない。古典の作家たちも同じだつたであらう。プロフエツサアたちは文藝評論をする時、いつもこの事實を閑却してゐる。尤もこれは一概にプロフエツサアたちばかりとは言はれないかも知れない。しかしそれは兎も角も、僕は晩年に「あらし」を書いたシエクスピイアの心中に同情に近いものを感じてゐる。

 

   二十 ジヤアナリズム

 

 もう一度佐藤春夫氏の言葉を引けば、「文章はしやべるやうに書け」と云ふことである。僕は實際この文章をしやべるやうに書いて行つた。が、いくら書いて行つても、しやべりたいことは盡きさうもない。僕は實にかう云ふ點ではジヤアナリストであると思つてゐる。從つて職業的ジヤアナリストを兄弟であると思つてゐる。(尤も向うから御免だと言はれれば、默つて引き下る外はない。)ジヤアナリズムと云ふものは畢竟歴史に外ならない。(新聞記事に誤傳があるのも歴史に誤傳があるのと同じことである。)歴史も又畢竟傳記である。その又傳記は、小説とどの位異つてゐるであらう。現に自敍傳は「私(わたくし)」小説と云ふものとはつきりした差別を持つてゐない。暫くクロオチエの議論に耳を貸さずに抒情詩等(とう)の詩歌を例外とすれば、あらゆる文藝はジヤアナリズムである。のみならず新聞文藝は明治大正の兩時代に所謂文壇的作品に遜色のない作品を殘した。德富蘇峰、陸羯南、黒岩涙香、遲塚麗水(ちづかれいすゐ)等の諸氏の作品は暫く問はず、山中未成(やまなかみせい)氏の書いた通信さへ文藝的には現世に多い諸雜誌の雜文などに劣るものではない。のみならず、――

 のみならず新聞文藝の作家たちはその作品に署名しなかつた爲に名前さへ傳はらなかつたのも多いであらう。現に僕はかう云ふ人々の中に二三の詩人たちを數へてゐる。僕は一生のどの瞬間を除いても、今日の僕自身になることは出來ない。かう云ふ人々の作品も(僕はその作家の名前を知らなかつたにしろ)僕に詩的感激を與へた限り、やはりジヤアナリスト兼詩人たる今日の僕には恩人である。僕を作家にした偶然はやはり彼等をジヤアナリストにした。若し袋に入れた月給以外に原稿料のとれることを幸福であるとするならば、僕は彼等よりも幸福である。(虚名などは幸福にはならない。)かう云ふ點を除外すれば、僕等は彼等と職業的に何の相違も持つてゐない。少くとも僕はジヤアナリストだつた。今日もなほジヤアナリストである。將來も勿論ジヤアナリストであらう。

 しかし諸大家たちは暫く問はず、僕はこのジヤアナリストたる天職にも時々うんざりすることは事實である。(昭和二・二・二十六)

 

        二十一 正宗白鳥氏の「ダンテ」

 

 正宗白鳥氏のダンテ論は前人のダンテ論を壓倒してゐる。少くとも獨特な點ではクロオチエのダンテ論にも劣らないかも知れない。僕はあの議論を愛讀した。正宗氏はダンテの「美しさ」には殆ど目をつぶつてゐる。それは或は故意にしたのであらう。或は又自然にしたのかも知れない。故上田敏博士もダンテの研究家の一人だつた。しかも神曲を飜譯しようとしてゐた。が、博士の遺稿を見れば、イタリア語の原文によつたものではない。あの書き入れの示すやうにケエリイの英吉利(イギリス)譯によつたのである。ケエリイの英吉利譯によりながら、ダンテの「美しさ」を云々するのは或は滑稽[やぶちゃん注:底本の「稽」の字は、「ヒ」が「上」。以下同じ。]に墮ちるのであらう。(僕も亦ケエリイの外は讀んだことはない。)しかしダンテの「美しさ」はたとひケエリイの英吉利譯だけ讀んでも、幾分か感ぜられるのは確かである。…………

 それから又「神曲」は一面には晩年のダンテの自己辯護である。公金費消か何かの嫌疑を受けたダンテはやはり僕等自身のやうに自己辯護を必要としたのに違ひない。しかしダンテの達した天國は僕には多少退屈である。それは僕等は事實上地獄を歩いてゐる爲であらうか? 或は又ダンテも淨罪界の外(ほか)に登ることの出來なかつた爲であらうか?…………

 僕等は皆超人ではない。あの逞しいロダンさへ名高いバルザツクの像を作り、世間の惡評を受けた時には神經的に苦しんだのである。故郷を追はれたダンテも亦神經的に苦しんだのに違ひない。殊に死後には幽靈になり、彼の息子に現れたと云ふことは幾分かダンテの體質を――彼の息子に遺傳したダンテの體質を示してゐるであらう。ダンテは實際ストリントベリイのやうに地獄の底から脱け出して來た。現に神曲の淨罪界は病後の歡びに近いものを持つてゐる。…………

 しかしそれ等(ら)はダンテの皮下(ひか)一寸に及ばないことばかりであらう。正宗氏はあの論文の中にダンテの骨肉を味はつてゐる。あの論文の中にあるのは十三世紀でもなければ伊太利(イタリイ)でもない。唯僕等のゐる娑婆界である。平和を、唯平和を、――これはダンテの願ひだつたばかりではない。同時に又ストリントベリイの願ひだつた。僕は正宗氏のダンテを仰がずにダンテを見たことを愛してゐる。ベアトリチエは正宗氏の言ふやうに女人よりもはるかに天人(てんにん)に近い。若しダンテを讀んだ後、目のあたりにベアトリチエに會つたとしたならば、僕等は必ず失望するであらう。

 僕はこの文章を書いてゐるうちにふとゲエテのことを思ひ出した。ゲエテの描いたフリイデリケは殆ど可憐そのものである。が、ボンの大學教授ネエケはフリイデリケの必しもさう云ふ女人でないことを發表した。Düntzer 等の理想主義者たちは勿論この事實を信じてゐない。しかしゲエテ自身もネエケの言葉の僞りでないことを認めてゐる。のみならずフリイデリケの住んでゐた Sesenheim の村も亦ゲエテの描いたのとは違つてゐたらしい。Tieck はわざわざこの村を尋ね、「後悔した」とさへ語つてゐる。ベアトリチエも亦同じことであらう。けれどもかう云ふベアトリチエはベアトリチエ自身を示さないにもせよ、ダンテ自身を示してゐる。ダンテは晩年に至つても、所謂「永遠の女性」を夢みてゐた。しかし所謂「永遠の女性」は天國の外には住んでゐない。のみならずその天國は「しないことの後悔」に充ち滿ちてゐる。丁度地獄は炎の中に「したことの後悔」を廣げてゐるやうに。

 僕はダンテ論を讀んでゐるうちに鐵假面の下にある正宗氏の双眼の色を感じた。古人は「君看双眼色(きみみよさうがんのいろ) 不語似無愁(かたらざればうれひなきににたり)」と言つた。やはり正宗氏の双眼の色も、――しかし僕は恐れてゐる。正宗氏は或はこの双眼も義眼であると言ふかも知れない。

 

       二十二 近松門左衞門

 

 僕は谷崎潤一郎、佐藤春夫の兩氏と一しよに久しぶりに人形芝居を見物した。人形は役者よりも美しい。殊に動かずにゐる時は綺麗である。が、人形を使つてゐる黒ん坊と云ふものは薄氣味惡い。現にゴヤは人物の後に度たびああ云ふものをつけ加へた。僕等も或はああ云ふものに、――無氣味な運命に驅られてゐるのであらう。…………

 けれども僕の言ひたいのは人形よりも近松門左衞門である。僕は小春治兵衞を見てゐるうちに今更のやうに近松を考へ出した。近松は寫實主義者西鶴に對し、理想主義者の名を博してゐる。僕は近松の人生觀を知らない。近松は或は天を仰いで僕等の小を歎いてゐたであらう。或は又天氣模樣を考へては明日の入りを氣遣つてゐたであらう。しかしそれは今日では誰(たれ)も知らないことは確かである。唯近松の淨瑠璃を見れば、近松は決して理想主義者ではない。理想主義者では――理想主義者とは一體何であらう? 西鶴は文藝上の寫實主義者である。同時に又人生觀上の現實主義者である。(少くとも作品によれば)しかし文藝上の寫實主義者は必ずしも人生觀上の現實主義者ではない。いや、「マダム・ボヴアリイ」を書いた作家は文藝上にも又ロマン主義者だつた。若し夢を求めることをロマン主義と呼ぶとすれば、近松も亦ロマン主義者であらう。しかし又一面にはやはり逞しい寫實主義者である。「小春治兵衞(こはるぢへゑ)」の河内屋(かはちや)から鴈治郎の姿を抹殺せよ。(この爲には文樂を見ることである。)そのあとに殘るものは何でもない、人生の隅々へ目の屆いた寫實主義的戲曲である。成程そこには元祿時代の抒情詩もまじつてゐるのに違ひない。が、この抒情詩を持つてゐるものをロマン主義者と呼ぶとすれば、――ド・リイル・ラダンの言葉に僞りはない。僕等は阿呆でないとすれば、いづれもロマン主義者になる訣である。

 元祿時代の戲曲的手法は今日よりも多少自然ではない。しかし元祿時代以後の戲曲的手法よりもはるかに小細工を用ひないものである。かう云ふ手法に煩はされないとすれば、「小春治兵衞」は心理描寫の上には決して寫實主義を離れてゐない。近松は彼等の官能主義やイゴイズムにも目を注いでゐる。いや、彼等の中にある何か不思議なものにも目につけてゐる。彼等を死に導いたものは必ずしも太兵衞(たへゑ)の惡意ではない。おさん親子の善意も亦やはり彼等を苦しませてゐる。

 近松は度々日本のシエクスピイアに比せられてゐる。それは在來の諸家の説よりも或は一層シエクスピイア的かも知れない。第一に近松はシエクスピイアのやうに殆ど理智を超越してゐる。(ラテン人種の戲曲家モリエエルの理智を想起せよ。)それから又戲曲の中に美しい一行を撒き散らしてゐる。最後に悲劇の唯中にも喜劇的場景を點出してゐる。僕は炬燵の場の乞食坊主を見ながら、何度も名高い「マクベス」の中の醉つ拂ひの姿を思ひ出した。

 近松の世話ものは高山樗牛以來、時代ものの上に置かれてゐる。が、近松は時代ものの中にもロマン主義者に終始したのではない。これも亦多少シエクスピイア的である。シエクスピイアは羅馬(ロオマ)の都に時計を置いて顧みなかつた。近松も時代を無視してゐることはシエクスピイア以上である。のみならず神代(かみよ)の世界さへ悉く元祿時代の世界にした。それ等の人物も心理描寫の上には存外屢寫實主義的である。たとへば「日本振袖始(にほんふりそではじめ)」さへ、巨旦(こたん)蘇旦(そたん)兄弟の爭ひは全然世話もの中の一場景と變りはない。しかも巨旦の妻の氣もちや父を殺した後の巨旦の氣もちは恐らくは現世にも通用するであらう。まして素戔嗚(すさのを)の尊(みこと)の戀愛などは恐れながら有史以來少しも變らない丶丶である。

 近松の時代ものは世話ものよりも勿論荒唐無稽である。しかしその爲に世話ものにない「美しさ」のあつたことは爭はれない。たとへば日本の南部の海岸に偶然漂つて來た船の中に支那美人のゐる場景を想像せよ。(國姓爺合戰)それは僕等自身の異國趣味にも未だに或滿足を與へるであらう。

 高山樗牛は不幸にもこれ等の特色を無視してゐる。近松の時代ものは世話ものよりも必しも下にあるものではない。唯僕等は封建時代の市井を比較的身近に感じてゐる。元祿時代の河庄(かはしやう)は明治時代の小待合に近い。小春は、――殊に役者の扮する小春は明治時代の藝者に似たものである。かう云ふ事實は近松の世話ものに如實と云ふ感じを與へ易い。しかし何百年か過ぎ去つた後、――即ち封建時代の市井さへ夢の中の夢に變つた後、近松の淨瑠璃をふり返つて見れば、僕等は時代ものの必ずしも下にゐないことを見出すであらう。のみならず時代ものは一面にはやはり世話ものと同時代の大名の生活を描いてゐる。しかもその世話ものほど如實と云ふ感じを與へないのは封建時代の社會制度の僕等を大名の生活とは緣の遠いものにしてゐる爲である。九重(のへ)の雲の中にいらせられる御一人さへ不思議にも近松の淨瑠璃を愛讀し給うた。それは近松の出身によるか、或は又市井の出來事に好奇心を持たれた爲かも知れない。しかし近松の時代ものに元祿時代の上流階級を感じられなかつたとも限らないのである。

 僕は人形芝居を見物しながら、こんなことを考へてゐた。人形芝居は衰へてゐるらしい。のみならず淨瑠璃も原作通りに語つてゐないと云ふことである。しかし僕には芝居よりもはるかに興味の深いものだつた。

 

       二十三 模倣

 

 紅毛人は日本人の模倣に長じてゐることを輕蔑してゐる。のみならず日本人の風俗や習慣(或は道德)の滑稽であることを輕蔑してゐる。僕は堀口九萬一[やぶちゃん注:「くまいち」と読む。底本では「く」のみにルビ。]氏の紹介した「雪さん」と云ふフランス小説の梗概を讀み、(「女性」三月號所載)今更のやうにこの事實を考へ出した。

 日本人は模倣に長じてゐる。僕等の作品も紅毛人の作品の模倣であることは爭はれない。しかし彼等も僕等のやうにやはり模倣に長じてゐる。ホイツスラアは油畫の上に浮世畫を模倣をしなかつたか? いや、彼等は彼等同志もやはり模倣し合つてゐる。更に又過去に溯れば、大いなる支那は彼等の爲にどの位先例を示したであらう? 彼等は或は彼等の模倣は「消化」であると云ふかも知れない。若し「消化」であると云ふならば、僕等の模倣も亦「消化」である。同じ水墨を以てしても、日本の南畫は支那の南畫ではない。のみならず僕等は往來の露店に言葉通り豚カツを消化してゐる。

 しかも模倣を便宜とすれば、模倣するのに勝ることはない。僕等は先祖傳來の名刀を揮ひながら、彼等のタンクや毒瓦斯(どくがす)と戰ふ必要を認めないものである。しかも物質的文明はたとひ必要のない時にさへ、おのづから模倣を強ひずには措かない。現に古代には輕羅(けいら)をまとつた希臘(ギリシヤ)、羅馬(ロオマ)等(とう)の暖國の民さへ、今では北狄の考案した、寒氣に堪へるのに都合の善い洋服と云ふものを用ひてゐる。

 僕等の風俗や習慣の彼等に滑稽に見えるのもやはり少しも不思議ではない。彼等は僕等の美術には――殊に工藝美術にはとうに多少の賞讚をしてゐる。それは唯目のあたりに見ることの出來る爲と言はなければならぬ。僕等の感情や思想などは、必ずしも容易に見えるものではない。江戸末期の英吉利(イギリス)公使だつたSir Rutherford Alcock は灸を据ゑてゐる子供を見、如何に僕等は迷信の爲にみづから苦めてゐるかと嘲笑した。僕等の風俗や習慣の中に潜んだ感情や思想は今日でも、――小泉八雲を出した今日でもやはり彼等には不可解である。彼等は僕等の風俗や習慣を勿論笑はずにはゐられないであらう。同時に又彼等の風俗や習慣もやはり僕等には可笑しいのである。たとへばエドガア・ポオは酒飮みだつた爲に(或は酒飮みだつたかどうかと云ふ爲に)永年死後の名聲を落してゐた。「李白一斗詩百篇」を誇る日本ではかう云ふことは可笑しいと云ふ外はない。この互に輕蔑し合ふことは避け難い事實とは云ふものの、やはり悲しむべき事實である。のみならず僕等は僕等自身の中にもかう云ふ悲劇を感じないことはない。いや、僕等の精神的生活は大抵は古い僕等に對する新しい僕等の戰ひである。

 しかし僕等は彼等よりも幾分か彼等を了解してゐる。(これは或は僕等には寧ろ不名譽なことかも知れない。)彼等は僕等に一顧も與へてゐない。僕等は彼等には未開人である。しかも日本に住んでゐる彼等は必ずしも彼等を代表するものではない。恐らくは世界を支配する彼等のサムプルとするにも足りないものであらう。が、僕等は丸善のある爲に多少彼等の魂を知つてゐることは確かである。

 なほ又次手につけ加へれば、彼等も亦本質的にはやはり僕等と異つてゐない。僕等は(彼等も一しよにした)皆世界と云ふ箱船に乘つた人間獸の一群である。しかもこの箱船の中は決して明るいものではない。殊に僕等日本人の船室は度たび大地震に見舞はれるのである。

 堀口九萬一氏の紹介は生憎まだ完結してゐない。のみならず氏の加へる筈の批評も載つてゐないのである。が、僕はそれだけにも、ふとこんなことを考へた爲にとりあへずペンを走らせることにした。

 

       二十四 代作の辯護

 

 「古代の畫家は少からず傑出した弟子を持つてゐる。が、近代の畫家は持つてゐない。それは彼等の金の爲に、或は高遠な理想の爲に弟子を教へる爲である。古代の畫家の弟子を教へたのは代作をさせるつもりだつた。從つて彼等の技巧上の祕密も悉く弟子に傳へたのである。弟子の傑出したのも不思議ではない。」――かう云ふサミユエル・バツトラアの言葉は一面には眞實を語つてゐる。天賦の才はその爲にばかり勿論生まれて來るものではない。しかし又その爲に促されることも多いであらう。僕はこの頃フロオベエルのモオパスサンを教へるのにどの位深切を盡したかを知つた。(彼はモオパスサンの原稿を讀んでやる時、連續した二つの文章の同じ構造であるのさへやかましく言つた。)しかしそれは何びとにも望むことの出來るものではない。(弟子に才能のある場合にしても)

 今日の日本は藝術さへ大量生産を要求してゐる。のみならず作家自身にしても、大量生産をしない限り、衣食することも容易ではない。しかし量的向上は大抵質的低下である。すると古人の行つたやうに弟子に代作させることも或は幾多の才人を生ずることになるかも知れない。封建時代の戲作者は勿論、明治時代の新聞小説家も全然この便法を用ひなかつたのではなかつた。美術家は、――たとへばロダンはやはり部分的には彼の作品を弟子に作らせてゐたのである。

 かう云ふ傳統を持つた代作は或は今後は行はれるかも知れない。のみならずそれは必ずしも一時代の藝術を俗惡にするとも限らないのである。弟子はテクニイクを修めた後、勿論獨立しても差支ない。が、或は二代目、三代目と襲名することも出來るであらう。

 僕はまだ不幸にも代作して貰ふ機會を持つてゐない。が、他人の作品を代作出來る自信は持つてゐる。唯一つむづかしいことには他人の作品を代作するのは自作するよりも手間どるに違ひない。

 

       二十五 川  柳

 

 「川柳」は日本の諷刺詩である。しかし「川柳」の輕視せられるのは何も諷刺詩である爲ではない。寧ろ「川柳」と云ふ名前の餘りに江戸趣味を帶びてゐる爲に何か文藝と云ふよりも他のものに見られる爲である。古い川柳の發句(ほつく)に近いことは或は誰も知つてゐるかも知れない。のみならず發句も一面には川柳に近いものを含んでゐる。その最も著しい例は鶉衣(?)の初板(しよはん)にある横井也有の連句であらう。あの連句はポルノグラフイツクな川柳集――「末摘花」と選ぶ所はない。

     安(やす)どもらひの蓮(はす)のあけぼの

 かう云ふ川柳の發句に近いことは誰でも認めずにゐられないであらう。(蓮は勿論造花の蓮である。)のみならず後代の川柳も全部俗惡と云ふことは出來ない。それ等も亦封建時代の町人の心を――彼等の歡びや悲しみを諧謔の中に現してゐる。若しそれ等を俗惡と云ふならば、現世の小説や戲曲も亦同樣に俗惡と云はなければならぬ。

 小島政二郎氏は前に川柳の中の官能的描寫を指摘した。後代は或は川柳の中の社會的苦悶を指摘するかも知れない。僕は川柳には門外漢である。が、川柳も抒情詩や敍事詩のやうにいつかフアウストの前を通るであらう、尤も江戸傳來の夏羽織か何かひつかけながら。

   心より詩人わが

   喜ばむことを君知るや。

   一人だに聞くことを

   願はぬ詞(ことば)を歌はしめよ。

 

       二十六 詩  形

 

 お伽噺の王女は城の中に何年も靜かに眠つてゐる。短歌や俳句を除いた日本の詩形もやはりお伽噺の王女と變りはない。萬葉集の長歌は暫らく問はず、催馬樂も、平家物語も、謠曲も、淨瑠璃も韻文である。そこには必ず幾多の詩形が眠つてゐるのに違ひない。唯(ただ)別行(べつぎやう)に書いただけでも、謠曲はおのづから今日の詩に近い形を現はすのである。そこには必ず僕等の言葉に必然な韻律のあることであらう。(今日の民謠と稱するものは少くとも大部分は詩形上都々逸と變りはない。)この眠つてゐる王女を見出すだけでも既に興味の多い仕事である。まして王女を目醒ませることをや。

 尤も今日の詩は――更に古風な言葉を使へば、新體詩はおのづからかう云ふ道に歩みを運んでゐるかも知れない。又今日の感情を盛るのに昨日の詩形は役立たないであらう。しかし僕は過去の詩形を必ずしも踏襲しろと言ふのではない。唯それ等の詩形の中に何か命のあるものを感ずるのである。同時に又その何かを今よりも意識的に摑めと言ひたいのである。

 僕等は皆どう云ふ點でも烈しい過渡時代に生を享けてゐる。從つて矛盾に矛盾を重ねてゐる。光は――少くとも日本では東よりも西から來るかも知れない。が、過去からも來る訣である。アポリネエルたちの連作體の詩は元祿時代の連句に近いものである。のみならず數等完成しないものである。この王女を目醒まさせることは勿論誰(たれ)にも出來ることではない。が、一人のスウインバアンさへ出れば――と云ふよりも更に大力量の一人の「片歌の道守(みちも)り」さへ出れば……

 日本の過去の詩の中には緑いろのものが何か動いてゐる。何か互に響き合ふものが――僕はその何かを捉へることは勿論、その何かを生かすことも出來ないものの一人であらう。しかしその何かを感じてゐることは必ずしも人後に落ちないつもりである。こんなことは文藝上或は末(すゑ)の末のことかも知れない。唯僕はその何かに――ぼんやりした緑いろの何かに不思議にも心を惹かれるのである。

 

       二十七 プロレタリア文藝

 

 僕等は時代を超越することは出來ない。のみならず階級を超越することも出來ない。トルストイは女の話をする時には少しも猥褻を嫌はなかつた。それは又ゴルキイを辟易させるのに足るものだつた。ゴルキイはフランク・ハリスとの問答の中に「わたしはトルストイよりも禮儀を重んじてゐる。若しトルストイを學んだとしたらば、彼等はそれをわたしの素性の爲と――百姓育ちの爲と解釋するであらう」と正直に衷情を話してゐる。ハリスは又その言葉に「ゴルキイの未だに百姓であることはこの點に――即ち百姓育ちを羞ぢる點に露はれてゐる」と註してゐる。

 中産階級の革命家を何人も生んでゐるのは確かである。彼等は理論や實行の上に彼等の思想を表現した。が、彼等の魂は果して中産階級を超越してゐたであらうか? ルツテルは羅馬加特力教(ロオマカトリツクけう)に反逆した。しかも彼の仕事を妨げる惡魔の姿を目撃した。彼の理智は新しかつたであらう。しかし彼の魂はやはり羅馬加特力教の地獄を見ずにはゐられなかつたのである。これは宗教の上ばかりではない。社會制度の上でも同じことである。

 僕等は僕等の魂に階級の刻印を打たれてゐる。のみならず僕等を拘束するものは必ずしも階級ばかりではない。地理的にも大は日本から小は一市一村に至る僕等の出生地も拘束してゐる。その他遺傳や境遇等も考へれば、僕等は僕等自身の複雜であることに驚嘆せずにはゐられないであらう。(しかも僕等を造つてゐるものはいづれも僕の意識の中に登つて來るとは限らないのである。)

 カアル・マルクスは暫らく問はず、古來の女子參政權論者はいづれも良妻を伴つてゐた。科學上の産物さへかう云ふ條件を示してゐるとすれば、藝術上の作品は――殊に文藝上の作品はあらゆる條件を示してゐる訣である。僕等はそれぞれ異つた天氣の下やそれぞれ異つた土の上に芽を出した草と變りはない。同時に又僕等の作品も無數の條件を具へた草の實である。若し神の目に見るとすれば、僕等の作品の一篇に僕等の全生涯を示してゐるのであらう。

 プロレタリア文藝は――プロレタリア文藝とは何であらう? 勿論第一に考へられるのはプロレタリア文明の中に花を開いた文藝である。これは今日の日本にはない。それから次に考へられるものはプロレタリアの爲に鬪ふ文藝である。これは日本にもないことはない。(若しスウイツルでも隣國だつたとすれば、或はもつと生まれたであらう。)第三に考へられるはコムミユニズムやアナアキズムの主義を持つてゐないにもせよ、プロレタリア的魂を根柢にした文藝である。第二のプロレタリア文藝は勿論第三のプロレタリア文藝と必ずしも兩立しないものではない。しかし若し多少でも新しい文藝を生ずるとすれば、それはこのプロレタリア的魂の生んだ文藝でなければならぬ。

 僕は隅田川の川口に立ち、帆前船や達磨船の集まつたのを見ながら今更のやうに今日の日本に何の表現も受けてゐない「生活の詩」を感じずにはゐられなかつた。かう云ふ「生活の詩」をうたひ上げることはかう云ふ生活者を待たなければならぬ。少くともかう云ふ生活者にずつと同伴してゐなければならぬ筈である。コムミユニズムやアナアキズムの思想を作品の中に加へることは必ずしもむづかしいことではない。が、その作品の中に石炭のやうに黒光りのする詩的莊嚴を與へるものは畢竟プロレタリア的魂だけである。年少で死んだフィリツプは正にかう云ふ魂の持ち主だつた。

 フロオベエルは「マダム・ボヴアリイ」にブウルジヨアの悲劇を描き盡した。しかしブウルジヨアに對するフロオベエルの輕蔑は「マダム・ボヴアリイ」を不滅にしない。「マダム・ボヴアリイ」を不滅にするものは唯フロオベエルの手腕だけである。フイリツプはプロレタリア的魂の外にも鍛へこんだ手腕を具へてゐる。するとどう云ふ藝術家も完成を目ざして進まなければならぬ。あらゆる完成した作品は方解石のやうに結晶したまま、僕等の子孫の遺産になるのである。たとひ風化作用を受けるにしても。

 

       二十八 國木田獨歩

 

 國木田獨歩は才人だつた。彼の上に與へられる「無器用」と云ふ言葉は當つてゐない。獨歩の作品はどれをとつて見ても、決して無器用に出來上つてゐない。「正直者」、「巡査」、「竹の木戸」、「非凡なる凡人」……いづれも器用に出來上つてゐる。若し彼を無器用と云ふならば、フィリツプも亦無器用であらう。

 しかし獨歩の「無器用」と云はれたのは全然理由のなかつた訣ではない。彼は所謂戲曲的に發展する話を書かなかつた。のみならず長ながとも書かなかつた。(勿論どちらも出來なかつたのである。)彼の受けた「無器用」の言葉はおのづからそこに生じたのであらう。が、彼の天才は或は彼の天才の一部は實にそこに存してゐた。

 獨歩は鋭い頭腦を持つてゐた。同時に又柔かい心臟を持つてゐた。しかもそれ等は獨歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。從つて彼は悲劇的だつた。二葉亭四迷や石川啄木も、かう云ふ悲劇中の人物である。尤も二葉亭四迷は彼等よりも柔かい心臟を持つてゐなかつた。(或は彼等よりも逞しい實行力を具へてゐた。)彼の悲劇はその爲に彼等よりもはるかに靜かだつた。二葉亭四迷の全生涯は或はこの悲劇的でない悲劇の中にあるかも知れない。…………

 しかし更に獨歩を見れば、彼は鋭い頭腦の爲に地上を見ずにはゐられないながら、やはり柔かい心臟の爲に天上を見ずにもゐられなかつた。前者は彼の作品の中に「正直者」、「竹の木戸」等の短篇を生じ、後者は「非凡なる凡人」、「少年の悲哀」、「畫の悲しみ」等の短篇を生じた。自然主義者も人道主義者も獨歩を愛したのは偶然ではない。

 柔い心臟を持つてゐた獨歩は勿論おのづから詩人だつた。(と云ふ意味は必しも詩を書いてゐたと云ふことではない。)しかも島崎藤村氏や田山花袋氏と異る詩人だつた。大河に近い田山氏の詩は彼の中に求められない。同時に又お花畠に似た島崎氏の詩も彼の中に求められない。彼の詩はもつと切迫してゐる。獨歩は彼の詩の一篇の通り、いつも「高峰(かうほう)の雲よ」と呼びかけてゐた。年少時代の獨歩の愛讀書の一つはカアライルの「英雄論」だつたと云ふことである。カアライルの歴史觀も或は彼を動かしたかも知れない。が、更に自然なのはカアライルの詩的精神に觸れたことである。

 けれども彼は前にも言つたやうな鋭い頭腦の持ち主だつた。「山林に自由存す」の詩は「武藏野」の小品に變らざるを得ない。「武藏野」はその名前通り、確かに平原に違ひなかつた。しかしまたその雜木林は山々を透かしてゐるのに違ひなかつた。德富蘆花氏の「自然と人生」は「武藏野」と好對照を示すものであらう。自然を寫生してゐることはどちらも等しいのに違ひない。が、後者は前者よりも沈痛な色彩を帶びてゐる。のみならず廣いロシアを含んだ東洋的傳統の古色を帶びてゐる。逆説的な運命はこの古色のある爲に「武藏野」を一層新らしくした。(幾多の人びとは獨歩の拓いた「武藏野」の道を歩いて行つたであらう。が、僕の覺えてゐるのは吉江孤雁氏一人だけである。當時の吉江氏の小品集は現世の「本の洪水」の中に姿を失つてしまつたらしい。が、何か梨の花に近い、ナイイヴな美しさに富んだものである。)

 獨歩は地上に足をおろした。それから――あらゆる人々のやうに野蠻な人生と向ひ合つた。しかし彼の中の詩人はいつまでたつても詩人だつた。鋭い頭腦は死に瀕した彼に「病牀錄」を作らせてゐる。が、かう云ふ彼は一面には「沙漠の雨」(?)と云ふ散文詩を作つてゐた。

 若し獨歩の作品中、最も完成したものを擧げるとすれば、「正直者」や「竹の木戸」にとどまるであらう。が、それ等の作品は必しも詩人兼小説家だつた獨歩の全部を示してゐない。僕は最も調和のとれた獨歩を――或は最も幸福だつた獨歩を「鹿狩り」等の小品に見出してゐる。(中村星湖氏の初期の作品はかう云ふ獨歩の作品に近いものだつた。)

 自然主義の作家たちは皆精進して歩いて行つた。が、唯一人獨歩だけは時々空中へ舞ひ上つてゐる。…………

 

 

二人の紅毛畫家   芥川龍之介

 

 ピカソはいつも城を攻めてゐる。ジアン・ダアクでなければ破れない城を。彼は或はこの城の破れないことを知つてゐるかも知れない。が、ひとり石火矢[やぶちゃん注:「いしびや」と読む。]の下に剛情にもひとり城を攻めてゐる。かう云ふピカソを去つてマテイスを見る時、何か氣易さを感じるのは必しも僕一人ではあるまい。マテイスは海にヨツトを走らせてゐる。武器の音や煙硝の匂はそこからは少しも起つて來ない。唯桃色の白の縞のある三角の帆だけ風を孕んである。僕は偶然この二人の畫を見、ピカソに同情を感ずると同時にマテイスには親しみや羨ましさを感じた。マテイスは僕等素人の目にもリアリズムに叩きこんだ腕を持つてゐる。その又リアリズムに叩きこんだ腕はマテイスの畫に精彩を與へてゐるものの、時々畫面の裝飾的効果に多少の破綻を生じてゐるかも知れない。若しどちらをとるかと言へば、僕のとりたいのはピカソである。兜の毛は炎に燒け、槍の柄は折れたピカソである。…… (昭和二年五月六日)

 

 

文藝的な、餘りに文藝的な   芥川龍之介

 

        二十九 再び谷崎潤一郎氏に答ふ

 

 僕は谷崎潤一郎氏の「饒舌錄」を讀み、もう一度この文章を作る氣になつた。勿論僕の志(こゝろざし)も谷崎君にばかり答へるつもりではない。しかし私心を挾(さしはさ)まずに議論を鬪はすことの出來る相手は滅多に世間にゐないものである。僕はその隨(ずゐ)一人(にん)を谷崎潤一郎氏に發見した。これは或は谷崎氏は難有迷惑(ありがためいわく)であると云ふかも知れない。けれども若し點心並みに僕の議論を聞いて貰へれば、それだけでも僕は滿足するのである。

 不滅なるものは藝術ばかりではない。僕等の藝術論も亦不滅である。僕等はいつまでも藝術とは? 云々のことを論じてゐるであらう。かう云ふ考へは僕のペンを鈍らせることは確かである。けれども僕の立ち場を明らかにする爲に暫く想念(イデエ)のピンポンを弄ぶとすれば、――

(1) 僕は或は谷崎氏の言ふやうに左顧右眄してゐるかも知れない。いや、恐らくはしてゐるであらう。僕は如何なる惡緣か、驀地(まつしぐら)に突進する勇氣を缺いてゐる。しかも稀にこの勇氣を得れば、大抵何ごとにも失敗してゐる。「話」らしい話のない小説などと言ひ出したのも或はこの一例かも知れない。しかし僕は谷崎氏も引用したやうに「純粹であるか否かの一點に依つて藝術家の價値は極(き)まる」と言つたのである。これは勿論「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない云々の言葉とは矛盾しない。僕は小説や戲曲の中にどの位純粹な藝術家の面目のあるかを見ようとするのである。(「話」らしい話を持つてゐない小説――たとへば日本の寫生文脈の小説はいづれも純粹な藝術家の面目を示してゐるとは限つてゐない。)「詩的精神云々の意味がよく分らない」と言つた谷崎氏に對する答はこの數行に足りてゐる筈である。

(2) 谷崎氏の所謂「構成する力」は僕にも理解出來たやうに感じてゐる。僕も亦日本の文藝に――殊に現世の文藝にかう云ふ力の缺けてゐることを必しも否むものではない。しかし若し谷崎君の言ふやうにかう云ふ力の現れるのは必しも長篇に限らないとすれば、前に僕の擧げた諸作家もやはりかう云ふ力を持ち合せてゐる。尤もこれは比較的な問題であるから、或標準の上に立つて有無を論じても仕かたはないであらう。なほ又僕の志賀直哉氏に及ばないのを「肉體的力量の感じの有無にある」と云ふのは全然僕には賛成出來ない。谷崎氏は僕自身よりも更に僕を買ひ冠つてゐる。「僕等は僕等自身の短所を語るものではない。僕等自身語らずとも他人は必ず語つてくれるものである。」――メリメエは彼の書簡集の中にかう云ふ老外交家の言葉を引用した。僕も亦この言葉を少くとも部分的に守るつもりである。

 (3) 「ゲエテの偉いのはスケールが大きくて猶且純粹性を失はないところにある」と言ふ谷崎氏の言葉は中(あた)つてゐる。これは僕にも異存はない。しかし雜駁である大詩人はあつても、純粹でない大詩人はない。從つて大詩人を大詩人たらしめるものは、――少くとも後代に大詩人の名を與へしめるものは雜駁であることに歸着してゐる。谷崎氏は「雜駁な」と云ふ言葉を下品に感じてゐるのであらう。それは僕等の趣味の相違である。僕はゲエテに「雜駁な」と云ふ言葉を與へた。しかしそこには必しも「騷々しい感じ」を含んでゐない。若し谷崎氏の語彙に從ふとすれば、「包容力の大きい」と云ふ言葉と同意味にしても善いのである。唯この「包容力の大きい」と云ふことは古來の詩人を評價する上に餘り重大視されてゐはしないであらうか? ボオドレエルやラムボオを大詩人とする一群はユウゴオの上に圓光をかけない。僕は彼等の心もちに少からず同情してゐる。(元來ゲエテは僕等の嫉妬を煽動する力を具へてゐる。同時代の天才に嫉妬を示さない詩人たちさへゲエテに鬱憤を洩らしてゐるのは少くない。しかし僕は不幸にも嫉妬を示す勇氣もないものである。ゲエテは傳記の教へる所によれば、原稿料や印税の外にも年金や仕送りを貰つてゐた。彼の天才は暫く問はず、その又天才を助長した境遇や教育も暫く問はず、最後に彼のエネルギイを生んだ肉體的健康も暫く問はず、これだけでも羨しいと思ふものは恐らくは僕一人に限らないであらう。)

 (4) これは谷崎氏に答へるのではない。僕等二人の議論の相違は「おのおの體質の相違になりはしないか」と云ふ谷崎氏の言葉に對し、ちよつと感慨を洩らしたいのである。谷崎氏の愛する紫式部は彼女の日記の一節に「清少納言こそ、したり顏にいみじう侍りける人。さばかり賢しだち、まなかきちらして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬことおほかり。かく人にことならんと思ひ好める人は、かならず見おとりし、行く末うたてのみ侍れば、……もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじく、あだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らん」と云ふ言葉を殘した。僕は男魂隆々たる清家の少女を以て任ずるものではない。けれどもこの文章を讀み、(紫式部の科學的教養は體質の相違に言及するほど進歩してゐなかつたにしろ)はるかに僕を戒めてゐる谷崎氏を感じずにはゐられなかつた。今再び谷崎氏に答へるのに當り、かう云ふ感慨を洩らすのは議論の是非を暫く問はず、「饒舌錄」の文章のリズムの堂々としてゐる爲ばかりではない。往年深夜の自動車の中に僕の爲に藝術を説いた谷崎潤一郎氏を思ひ出したからである。

 

       三十 「野性の呼び聲」

 

 僕は前に光風會に出たゴオガンの「タイチの女」(?)を見た時、何か僕を反撥するものを感じた。裝飾的な背景の前にどつしりと立つてゐる橙(だいだい)色の女は視覺的に野蠻人の皮膚の匂を放つてゐた。それだけでも多少辟易した上、裝飾的な背景と調和しないことにも不快を感じずにはゐられなかつた。美術院の展覽會に出た二枚のルノアルはいづれもこのゴオガンに勝つてゐる。殊に小さい裸女の畫などはどの位シヤルマンに出來上つてゐたであらう。――僕はその時はかう思つてゐた。が、年月の流れるのにつれ、あのゴオガンの橙色の女はだんだん僕を威壓し出した。それは實際タイチの女に見こまれたのに近い威力である。しかもやはりフランスの女も僕には魅力を失つたのではない。若し畫面の美しさを云々するとすれば、僕は未にタイチの女よりもフランスの女を採りたいと思つてゐる。……

 僕はかう云ふ矛盾に似たものを文藝の中にも感じてゐる。更に又諸家の文藝評論の中にもタイチ派とフランス派とのあるのを感じてゐる。ゴオガンは、――少くとも僕の見たゴオガンは橙色の女の中に人間獸の一匹を表現してゐた。しかも寫實派の畫家たちよりも更に痛切に表現してゐた。或文藝批評家は――たとへば正宗白鳥氏は大抵この人間獸の一匹を表現したかどうかを尺度にしてゐる。が、或文藝批評家は、――たとへば谷崎潤一郎氏は大抵人間獸の一匹よりも人間獸の一匹を含んだ畫面の美しさを尺度にしてゐる。(尤も諸家の文藝評論の尺度は必しもこの二者に限つてゐない。實踐道德的尺度もあれば、社會道德的尺度もあることは確かである。しかし僕はそれ等の尺度に餘り興味を持つてゐない。のみならず持つてゐないことも不思議ではないと信じてゐる。)勿論タイチ派は必しもフランス派と兩立しないものではない。兩者の差別はこの地上に生じた、あらゆる差別のやうに朦朧としてゐる。が、暫く兩端を擧げれば、兩者の差別のあることだけは兎に角一應は認めなければならぬ。

 所謂ゲエテ・クロオチエ・スピンガアン商會の美學によれば、この差別も「表現」の一語に霧のやうに消えてしまふであらう。しかし或作品を仕上げる上には度たび僕等を、――或は僕を岐路に立たせることは事實である。古典的作家は巧妙にもこの岐路を一度に歩いて行つた。彼等に僕等群小の徒の及ぶことの出來ないのは恐らくはそこにあるのであらう。ルノアルは、――少くとも僕の見たルノアルはかう云ふ點ではゴオガンよりも古典的作家に近いのかも知れない。けれども橙色の人間獸の牝は何か僕を引き寄せようとしてゐる。かう云ふ「野性の呼び聲」を僕等の中に感ずるものは僕一人に限つてゐるのであらうか?

 僕は僕と同時代に生まれた、あらゆる造形美術の愛好者のやうにまづあの沈痛な力に滿ちたゴオグに傾倒した一人だつた。が、いつか優美を極めたルノアルに興味を感じ出した。それは或は僕の中にある都會人の仕業だつたかも知れない。同時に又ルノアルを輕蔑する當時の愛好者の傾向につむじを曲げたこともない訣ではなかつた。けれども十年あまりたつて見ると、――立派に完成したルノアルは未だに僕を打たない訣ではない。しかしゴオグの糸杉や太陽はもう一度僕を誘惑するのである。それは橙色の女の誘惑とは或は異つてゐるかも知れない。が、何か切迫したものに言はば藝術的食慾を刺戟されるのは同じことである。何か僕等の魂の底から必死に表現を求めてゐるものに。――

 しかも僕はルノアルに戀々の情を持つてゐるやうに文藝上の作品にも優美なものを愛してゐる。「エピキユウルの園」を歩いたものは容易にその魅力を忘れることは出來ない。殊に僕等都會人はその點では誰よりも弱いのである。プロレタリア文藝の呼び聲も勿論僕を動かさないのではない。が、それよりもこの問題は根本的に僕を動かすのである。純一無雜になることは誰(たれ)にも恐らくは困難であらう。しかし兎に角外見上でも僕の知つてゐる作家たちの中にはこの境涯にゐる人もない訣ではない。僕はいつもかう云ふ人々に多少の羨望を感じてゐる。……

 僕は誰かの貼つた貼り札によれば、所謂「藝術派」の一人になつてゐる。(かう云ふ名稱の存在するのは、同時に又かう云ふ名稱を生んだ或雰圍氣の存在するのは世界中に日本だけであらう。)僕の作品を作つてゐるのは僕自身の人格を完成する爲に作つてゐるのではない。況や現世の社會組織を一新する爲に作つてゐるのではない。唯僕の中(うち)の詩人を完成する爲に作つてゐるのである。或は詩人兼ジヤアナリストを完成する爲に作つてゐるのである。從つて「野性の呼び聲」も僕には等閑に附することは出來ない。

 或友人は森先生の詩歌に不滿を洩らした僕の文章を讀み、僕は感情的に森先生に刻薄であると云ふ非難を下した。僕は少くとも意識的には森先生に敵意などは持つてゐない。いや、寧ろ森先生に心服してゐる一人であらう。しかし僕の森先生にも羨望を感じてゐることは確かである。森先生は馬車馬のやうに正面だけ見てゐた作家ではない。しかも意力そのもののやうに一度も左顧右眄したことはなかつた。「タイイス」の中のパフヌシユは神に祈らずに人の子だつたナザレの基督(キリスト)に祈つてゐる。僕のいつも森先生に近づき難い心もちを持つてゐるのは或はかう云ふパフヌシユに近い歎息を感じてゐる爲であらう。

 

       三十一 「西洋の呼び聲」

 

 僕はゴオガンの橙色の女に「野性の呼び聲」を感じてゐる。しかし又ルドンの「若き佛陀」(土田麥僊(つちだばくせん)氏所藏?)に「西洋の呼び聲」を感じてゐる。この「西洋の呼び聲」もやはり僕を動かさずには措かない。谷崎潤一郎氏も谷崎氏自身の中に東西兩洋の相剋を感じてゐる。しかし僕の「西洋の呼び聲」と云ふのは或は谷崎氏の「西洋の呼び聲」とは多少異つてゐるかも知れない。僕はその爲に僕の感じる「西洋」のことを書いて見ることにした。

 「西洋」の僕に呼びかけるのはいつも造形美術の中からである。文藝上の作品は――殊に散文は存外この點では痛切ではない。それは一つには僕等人間は人間獸であることに東西の差別の少ない爲であらう。(最も手近な例を引けば、某醫學博士の或少女を凌辱したのは全然神父セルジウスの百姓の娘に對したのと異らない男性の心理である。)それから又僕等の語學的素養は文藝上の作品の美を捉へる爲には餘りに不完全である爲であらう。僕等は、――少くとも僕は紅毛人の書いた詩文の意味だけは理解出來ないことはない。が、僕等の祖先の書いた詩文――たとへば凡兆の「木の股のあでやかなりし柳かな」に對するほど、一字一音の末に到るまで舌舐めずりをすることは出來ないのである。西洋の僕に呼びかけるのに造形美術を通してゐるのは必しも偶然ではないかも知れない。

 この「西洋」の底に根を張つてゐるものはいつも不可思議なギリシアである。水の冷暖は古人も言つたやうに飮んで自知する外に仕かたはない。不可思議なギリシアも亦同じことである。僕は最も手短かにギリシアを説明するとすれば、日本にもあるギリシア陶器の幾つかを見ることを勸めるであらう。或は又ギリシア彫刻の寫眞を見ることを勸めるであらう。それ等の作品の美しさはギリシアの神々の美しさである。或は飽くまでも官能的な、――言はば肉感的な美しさの中に何か超自然と言ふ外はない魅力を含んだ美しさである。この石に滲みこんだ麝香か何かの匂のやうに得體の知れない美しさは詩の中にもやはりないことはない。僕はポオル・ヴアレリを讀んだ時、(紅毛の批評家は何と言ふか知れない。)ボオドレエルの昔からいつも僕を動かしてゐたかう云ふ美しさに邂逅した。しかし最も直接に僕にこのギリシアを感じさせたのは前に擧げた一枚のルドンである。……

 ギリシア主義とヘブライ主義との思想上の對立はいろいろの議論を生じてゐる。が、僕はそれ等の議論には餘り興味を持つてゐない。唯街頭の演説に耳を傾けるやうに聞いてゐるだけである。しかしこのギリシア的な美しさはかう云ふ問題に門外漢の僕にも「恐しい」と言つても差支へない。僕はここにだけ――このギリシアにだけ僕等の東洋に對立する「西洋の呼び聲」を感じるのである。貴族はブウルヂヨアに席を讓つたであらう。ブウルヂヨアも亦プロレタリアに早晩席を讓るであらう。けれども西洋の存する限り、不可思議なギリシアは必ず僕等を、――或は僕等の子孫たちを引き寄せようとするのに違ひない。

 僕はこの文章を書いてゐるうちに古代の日本に渡つて來たアツシリアの豎琴(たてごと)を思ひ出した。大いなる印度は僕等の東洋を西洋と握手させるかも知れない。しかしそれは未來のことである。西洋は――最も西洋的なギリシアは現在では東洋と握手してゐない。ハイネは「流謫の神々」の中に十字架に逐はれたギリシアの神々の西洋の片田舍に住んでゐることを書いた。けれどもそれは片田舍にもしろ、兎に角西洋だつたからである。彼等は僕等の東洋には一刻も住んではゐられなかつたであらう。西洋はたとひヘブライ主義の洗禮を受けた後(のち)にもしろ、何か僕等の東洋と異つた血脈を持つてゐる。その最も著しい例は或はポルノグラフイイにあるかも知れない。彼等は肉感そのものさへ僕等と趣を異にしてゐる。

 或人々は千九百十四五年に死んだドイツの表現主義の中に彼等の西洋を見出してゐる。それから又或人々は――レムブラントやバルザツクの中(うち)に彼等の西洋を見出してゐる人々も勿論多いことであらう。現に秦豐吉(はたとよきち)氏などはロココ時代の藝術に秦氏の西洋を見出してゐる。僕はかう云ふ種々の西洋を西洋ではないと言ふのではない。しかしそれらの西洋のかげにいつも目を醒ましてゐる一羽の不死鳥――不可思議なギリシアを恐れてゐるのである。恐れてゐる?――或は恐れてゐるのではないかも知れない。けれども妙に抵抗しながら、やはりじりじりと引き寄せられる動物的磁氣に近いものを感じない訣には行かないのである。

 僕は若し目をつぶれるとすれば、かう云ふ「西洋の呼び聲」には目をつぶりたいと思つてゐる。しかし目をつぶることは必しも僕の自由にはならない。僕はつい四五日前の夜に室生犀星氏や何かと一しよに久しぶりにパイプを啣へながら、若い人たちと話してゐる中に十年餘りも忘れてゐたボオドレエルの一行を思ひ出した。(それは僕には實驗心理的にも興味のある事實だつたのに違ひない。)それから不可思議な莊嚴(さうごん)に滿ちた一枚のルドンを思ひ出した。

 この「西洋の呼び聲」もやはり「野性の呼び聲」のやうに僕をどこかへつれて行かうとしてゐる。アポロに對するデイオニソスに彼の偶像を發見した「ツアラトストラ」の詩人は幸福だつた。現世の日本に生まれ合せた僕は文藝的にも僕自身の中に無數の分裂を感ぜざるを得ない。それも或は僕一人に、――何ごとにも影響を受け易い僕一人に限つてゐることであらうか? 僕はこの不可思議なギリシアこそ最も西洋的な文藝上の作品を僕等の日本語に飜譯することを遮げてゐるのではないかと思つてゐる。或は僕等日本人の正確に理解することさへ(語學上の障害は暫らく問はず)遮げてゐるのではないかと思つてゐる。一枚のルドンは、――いや、いつかフランス美術展覽會に出てゐたモロオの「サロメ」(?)さへかう云ふ點では僕に東西を切り離した大海を想はせずには措かなかつた。この問題を逆にすれば、紅毛人の漢詩を理解しないのも當然であると言はなければならぬ。僕は大英博物館に一人の東洋學者のゐることを聞き嚙つてゐる。しかし彼の漢詩の英譯は少くとも僕等日本人には原作の醍醐味を傳へてゐない。のみならず彼の漢詩論も盛唐を貶して漢魏を揚げたのは前人の説を破つてゐるにもせよ、やはり僕等日本人には容易に首肯することは出來ないのである。ピカソは黒んぼの藝術に新らしい美しさを發見した。けれども彼等の東洋的藝術に――たとへば大愚良寛の書に新らしい美しさを發見するのはいつであらう。

 

       三十二 批評時代

 

 批評や隨筆の流行は即ち創作の振はない半面を示したものである。――これは僕の議論ではない。佐藤春夫氏の議論である。(「中央公論」五月號所載)同時に又三宅幾(いく)三郎氏の議論である。(「文藝時代」五月號所載)僕は偶然軌を一にした兩氏の議論に興味を感じた。兩氏の議論は中(あた)つてゐるであらう。今日の作家たちは佐藤氏の言ふやうに疲れてゐるのに違ひない。(尤も「僕は疲れてゐない」と主張する作家は例外である。)或は休みない制作の爲に、(世界に日本の文壇ほど濫作を強ひる所はない。)或は又身邊の雜事の爲に、或は又爭ひ難い年齡の爲に、或は又、――事情はいろいろ變つてゐるにしても、兎に角多少は疲れてゐるであらう。現に紅毛の作家たちの中にも晩年には批評のペンを執つて閑(ひま)を潰したものも少くはなかつた。……

 佐藤氏はこの批評時代に一層根本的なものに觸れることを必要であると力説してゐる。三宅氏の「第一義的の批評」を要求するのも恐らくは佐藤氏と大差ないであらう。僕も亦各人の批評のペンにも血の滴ることを望んでゐる。何を批評上では第一義的とするか?――それは各人各説かも知れない。その又各人各説であることに所謂「眞の批評」の出現する事實上の困難はあるのかも知れない。しかし僕等は各人各説でも兎に角僕等の信條や疑問を叩きつける外はないのである。現に正宗白鳥氏は「文藝評論」や「ダンテに就いて」の中に立派にかう云ふ仕事をした。正宗氏の議論は批評的に多少の缺點を數へ得るかも知れない。しかし後代の人々はいつかラツサアレも言つたやうに、「我々の過失を咎めるよりも我々の情熱を諒とするであらう。」

 三宅氏は又「批評をも全々(原(げん))小説家の手に委ねておく事は、寧ろ文學の進歩發展を澁滯させる恐れがある」と言つてゐる。僕はこの言葉を讀んだ時、「詩人は彼自身の中に批評家を持つてゐる。が、批評家は彼自身の中に詩人を持つてゐるとは限らない」と云ふボオドレエルの言葉だつた。實際詩人は彼自身の中に批評家を持つてゐるのに違ひない。が、その批評家は彼の批評を「批評」と云ふ文藝上の或形式に完成する力をもつてゐるかどうか?――それは又おのづから別問題である。三宅氏の所謂「眞の批評家」の出現することを望むものは必しも僕ばかりに限らないであらう。

 唯日本のパルナスは或因襲に捉はれてゐる。たとへば詩人室生犀星氏の小説や戲曲を作る時にはそれ等は決して餘技ではない。しかし小説家佐藤春夫氏の時々詩を作る時にはそれは不思議にも餘技である。(僕はいつか佐藤氏自身の「僕の詩は決して餘技ではない」と憤慨してゐたのを覺えてゐる。)若し「小説家萬能」の言葉に相當する事實を數へるとすれば、これこそ正にその一つであらう。小説家兼批評家の場合もやはりこの事實と同じことである。僕は「鷗外全集」第三卷を讀み、批評家鷗外先生の當時の「專門的批評家」を如何に凌駕してゐるかを知つた。同時に又かう云ふ批評家のない時代の如何に寂しいものであるかを知つた。若し明治時代の批評家を數へるとすれば、僕は森先生や夏目先生と一しよに子規居士を數へたいと思つてゐる。東京の惡戲つ兒齋藤緑雨は右に森先生の西洋の學を借り、左に幸田先生の和漢の學を借りたものの、畢に批評家の域にはいつてゐない。(しかし僕は隨筆以外に何も完成しなかつた齋藤緑雨にいつも同情を感じてゐる。緑雨は少くとも文章家だつた。)けれどもそれは餘論である。……

 批評家だつた森先生は自然主義の文藝の興つた明治時代の準備をした。(しかも逆説的な運命は自然主義の文藝の興つた時代には森先生を反自然主義者の一人にした。それは或は森先生の目はもつと遠い空を見てゐたからかも知れない。しかし兎に角明治二十年代にゾラやモオパスサンを云々した森先生さへ反自然主義者の一人になつたのは逆説的であると言はなければならぬ。)僕は若し當代も批評時代と呼ばれるとすれば、――三宅氏は「我々は來る可き日本文學の隆盛期に對して、殆ど絶望を感じないか」と言つてゐる。若し仕合せにもこの言葉は三宅氏一人の感慨だつたとすれば、――僕等はどの位安んじて新來の作家たちを待てるであらう。或は又どの位不安になつて新來の作家たちを待てるであらう。

 所謂「眞の批評家」は籾を米から分つ爲に批評のペンを執るであらう。僕も亦時々僕自身の中にかう云ふメシア的慾望を感じてゐる。しかし大抵は僕自身の爲に――僕自身を理智的に歌ひ上げる爲に書いてゐるのに過ぎない。批評も亦僕にはその點では殆ど小説を作つたり發句を作つたりするのと變らないのである。僕は佐藤、三宅兩氏の議論を讀み、僕の批評に序文をつける爲にとりあへずこの文章を艸することにした。

 追記。僕はこの文章を書き終つた後、堀木克(よし)三氏の啓發を受け、宇野浩二氏の批評の名に「文藝的な、餘りに文藝的な」を使つてゐることを知つた。僕は故意に宇野氏の眞似をしたのでもなければ、なほ更プロレタリア文藝に對する共同戰線などにするつもりではない。唯文藝上の問題ばかりを論ずる爲に漫然とつけたばかりである。宇野氏も恐らくは僕の心もちを諒としてくれることであらう。

 

       三十三 「新感覺派」

 

 「新感覺派」の是非を論ずることは今は既に時代遲れかも知れない。が、僕は「新感覺派」の作家たちの作品を讀み、その又作家たちの作品に對する批評家たちの批評を讀み、何か書いて見たい慾望を感じた。

 少くとも詩歌は如何なる時代にも「新感覺派」の爲に進歩してゐる。「芭蕉は元祿時代の最大の新人だつた」と云ふ室生犀星氏の斷案は中つてゐるのに違ひない。芭蕉はいつも文藝的にはいやが上にも新人にならうと努力をしてゐた。小説や戲曲もそれ等の中に詩歌的要素を持つてゐる以上、――廣い意味の詩歌である以上、いつも「新感覺派」を待たなければならぬ。僕は北原白秋氏の如何に「新感覺派」だつたかを覺えてゐる。(「官能の解放」と云ふ言葉は當時の詩人たちの標語だつた。)同時に又谷崎潤一郎氏の如何に「新感覺派」だつたかを覺えてゐる。……

 僕は今日の「新感覺派」の作家たちにも勿論興味を感じてゐる。「新感覺派」の作家たちは、――少くともその中の論客たちは僕の「新感覺派」に對する考へなどよりも新らしい理論を發表した。が、それは不幸にも十分に僕にはわからなかつた。唯「新感覺派」の作家たちの作品だけは、――それも僕にはわからないのかも知れない。僕等は作品を發表し出した頃、「新理智派」とか云ふ名を貰つた。(尤も僕等の僕等自身この名を使はなかつたのは確かである。)しかし「新感覺派」の作家たちの作品を見れば、僕等の作品よりも或意味では「新理智派」に近いと言はなければならぬ。では或意味とは何かと言へば、彼等の所謂感覺の理智の光を帶びてゐることである。僕は室生犀星氏と一しよに碓氷山上の月を見た時、突然室生氏の妙義山を「生姜のやうだね」と云つたのを聞き、如何にも妙義山は一塊の根生姜にそつくりであることを發見した。この所謂感覺は理智の光を帶びてはゐない。が、彼等の所謂感覺は、――たとへば横光利一氏は僕の爲に藤澤桓夫(たけを)氏の「馬は褐色の思想のやうに走つて行つた」(?)と云ふ言葉を引き、そこに彼等の所謂感覺の飛躍のあることを説明した。かう云ふ飛躍は僕にも亦全然わからない訣ではない。が、この一行は明らかに理智的な聯想の上に成り立つてゐる。彼等は彼等の所謂感覺の上にも理智の光を加へずには措かなかつた。彼等の近代的特色は或はそこにあるのであらう。けれども若し所謂感覺のそれ自身新しいことを目標とすれば、僕はやはり妙義山に一塊の根生姜を感じるのをより新しいとしなければならぬ。恐らくは江戸の昔からあつた一塊の根生姜を感じるのを。

 「新感覺派」は勿論起らなければならぬ。それも亦あらゆる新事業のやうに(文藝上の)決して容易に出來るものではない。僕は「新感覺派」の作家たちの作品に、――と云ふよりも彼等の所謂「新感覺」に必しも敬服し難いことは前に書いた通りである。が、彼等の作品に對する批評家たちの批評も亦恐らくは苛酷に失してゐるであらう。「新感覺派」の作家たちは少くとも新らしい方向へ彼等の歩みを運んでゐる。それだけは何(なに)びとも認めなければならぬ。この努力を一笑してしまふのは單に今日「新感覺派」と呼ばれる作家たちに打撃を與へるばかりではない。彼等の今後の成長の上にも、引いては彼等の後に來る「新感覺派」の作家たちのしつかりと目標を定める上にもやはり打撃を與へるであらう。それは勿論日本の文藝を伸び々々と進歩させる所以ではあるまい。

 しかし何と呼ばれるにもせよ、所謂「新感覺」を持つた作家たちは必ず今後も現れるであらう。僕はもう十年あまり前、確か久米正雄氏と一しよに「草土社(さうどしや)」の展覽會を見物した後(のち)、久米氏の「この庭の檜の木を見ても、『草土社』的に見えるのは不思議だよ」と感心してゐたことを覺えてゐる。「草土社」的に見えるのは正に十年あまり以前の所謂「新感覺」の爲に外ならなかつた。かう云ふ所謂「新感覺」を明日の作家たちに期待するのは必しも僕の早計ばかりではあるまい。

 若し眞に文藝的に「新しいもの」を求めるとすれば、それは或はこの所謂「新感覺」の外にないかも知れない。(新しいことなどは何でもないと云ふ議論は勿論この問題の埒外(らちぐわい)にある訣である。)所謂「目的意識」を持つた文藝さへ「目的意識」そのものの新舊を暫く問はないとすれば、(たとひ新舊を問つたとしても、バアナアド・シヨウの現れたのは千八百九十年代である。)實は大勢の前人の歩いて行つた道である。況や僕等の人生觀は、――恐らくは「いろは骨牌(がるた)」の中に悉く數へ上げられてゐることであらう。のみならずそれ等の新舊は文藝的な――或は藝術的な新舊ではない。

 僕は所謂「新感覺」の如何に同時代の人々に理解されないかを承知してゐる。たとへば佐藤春夫氏の「西班牙犬(スペインいぬ)の家」は未だに新しさを失つてゐない。況や同人雜誌「星座」(?)に掲げられた頃はどの位新しかつたことであらう。しかしこの作品の新しさは少しも文壇を動かさずにしまつた。僕は或はその爲に佐藤氏自身さへこの作品の新しさを――引いてはこの作品の價値を疑つてゐはしなかつたかと思つてゐる。かう云ふ事實は日本以外にも勿論未だに多いことであらう。しかし殊に甚しいのは僕等の日本ではないであらうか?

 

       三十四 解  嘲

 

 僕は何度も繰り返して言ふやうに「筋のない小説」ばかり書けと言つてゐる訣ではない。從つて何も谷崎潤一郎氏と對蹠點(たいせきてん)に立つてゐる訣ではない。唯かう云ふ小説の價値も認めて貰ひたいと言つてゐるのである。若し全然認めない論者があるとすれば、その論者こそ眞に論敵である。僕は谷崎氏と議論を上下する上に誰にも僕の肩を持つて貰ひたくない。(同時に又谷崎氏の肩を持つて貰ひたくないことも勿論である。)僕等の議論の是非を辯ずるのでないことは僕等自身誰よりも知つてゐるつもりである。僕はこの頃雜誌の廣告などに僕の「筋のある小説」さへ「筋のない小説」と云ふ名をつけられてゐるのを見、俄かにこの文章を作ることにした。「筋のない小説」とはどう云ふものかも容易に理解しては貰はれないらしい。僕は僕の辯じられるだけは辯じた。又二三の僕の知人は正當に僕の説を理解してゐる。あとはもう勝手にしろと言ふ外はない。

 

       三十五 ヒステリイ

 

 僕はヒステリイの療法にその患者の思つてゐることを何でも彼(か)でも書かせる――或は言はせると云ふことを聞き、少しも常談を交へずに文藝の誕生はヒステリイにも負つてゐるかも知れないと思ひ出した。虎頭燕頷(ことうえんがん)の羅漢は暫く問はず、何びとも多少はヒステリツクである。殊に詩人たちは餘人よりもはるかにヒステリツクな傾向を持つてゐるであらう。このヒステリイは三千年來いつも彼等を苦しめつづけた。彼等の或ものはその爲に死し、又彼等の或ものはその爲にとうとう發狂してしまつたであらう。が、彼等はその爲に彼等の喜びや悲しみを一生懸命にうたひ上げた。――かうも決して考へられないことはない。

 若し殉教者や革命家の中に或種のマゾヒストを數へ得られるとすれば、詩人たちの中にもヒステリイの患者は必しも少くはないであらう。「書かずにはゐられぬ心もち」は、即ち樹下の穴の中へ「王樣の耳は馬の耳」と叫んだ神話中の人物の心もちである。若しこの心もちがなかつたとしたならば、少くとも「痴人の告白」(ストリントベリイ)などは生まれなかつたのに違ひない。のみならずかう云ふヒステリイは往々一時代を風靡してゐる。「ウエルテル」や「ルネ」を生んだのもやはりこの時代的ヒステリイであらう。更に又全ヨオロツパを擧げて十字軍に加はらせたのも、――しかしそれは「文藝的な、餘りに文藝的な」問題ではないかも知れない。癲癇は古來「神聖な病」と云ふ名を與へられてゐる。するとヒステリイもことによれば、「詩的な病」と呼ばれるであらう。

 ヒステリイを起してゐるシエクスピイアやゲエテを想像するのは滑稽である。從つてかう云ふ想像をするのは彼等の大を傷けると思はれるかも知れない。が、彼等の大を成すものはこのヒステリイの外にある彼等の表現力そのものである。彼等の何度ヒステリイを起したかは心理學者には或は問題であらう。しかし僕等の問題は表現力そのものに存してゐる。僕はこの文章を作りながら、ふと太古の森の中に烈しいヒステリイを起してゐる無名の詩人を想像した。彼は彼の部落の人々の嘲笑の的になつたであらう。けれどもこのヒステリイの促進した彼の表現力の産物だけは丁度地下の泉のやうに何代も後(のち)に流れて行つたであらう。

 僕はヒステリイを尊敬してゐるのではない。ヒステリツクになつたムツソリニは勿論國際的に危險である。けれども若し何びともヒステリイを起さなかつたとしたらば、僕等を喜ばせる文藝上の作品はどの位(くらゐ)(すう)を減じたであらう。僕は唯この爲にヒステリイを辯護したいと思つてゐる。いつか女人の特權になつた、――しかし事實上何びとにも多少の可能性のあるヒステリイを。

 前世紀の末も文藝的には確かにヒステリイに陷つてゐた。ストリントベリイは「靑い本」の中にこの時代的ヒステリイに「惡魔の所爲(しよゐ)」の名を與へてゐる。惡魔の所爲か善神の所爲かは勿論僕の知る所ではない。しかし兎に角詩人たちはいづれもヒステリイを起してゐた。現にビルコフの傳記によれば、あの逞しいトルストイさへ半狂亂になつて家出したのは、つい近頃の新聞に出てゐた或女人のヒステリイ患者と殆ど寸分も變つてゐない。

 

       三十六 人生の從軍記者

 

 僕は島崎藤村氏のみづから「人生の從軍記者」と呼んでゐたことを覺えてゐる。が、近頃又廣津和郎氏の同じ言葉を正宗白鳥氏にも加へてゐると云ふことを仄聞した。僕は兩氏の用ひられる「人生の從軍記者」と云ふ言葉をはつきり知つてゐない訣ではない。それは恐らくは近來の造語「生活者」に對する意味を持つてゐるのであらう。けれども若し嚴密に言へば、苟くも娑婆界に生まれたからは何びとも「人生の從軍記者」になることは出來ない。人生は僕等に嫌應なしに「生活者」たることを強ひるのである。嫌應なしに生存競爭を試みさせなければ措かないのである。或人びとは自ら進んで勝利を得ようとするであらう。それから又或人びとは冷笑や機智や詠嘆の中(うち)に防禦的態度をとるであらう。最後に或人びとはどちらも格別はつきりした意識を持たずに「世を渡る」であらう。しかしいづれも事實上はやむにやまれない「生活者」である。遺傳や境遇の支配を受けた人間喜劇の登場人物である。

 彼等の或ものは勝ち誇るであらう。彼等の或ものは又敗北するであらう。但しどちらも壽命のある限りは、――僕等は皆ペエタアの言つたやうに確かに「いづれも皆執行猶豫中の死刑囚である」。この執行猶豫の間を何の爲に使ふかは僕等自身の自由である。自由である?――しかしそこにもどの位の自由のあるかは疑はしいであらう。僕等は實に種々雜多の因緣を背負つて生まれてゐる。その又種々雜多の因緣は必しも僕等自身さへ悉く意識するとは定まつてゐない。古人はとうにこの事實を Karuma の一語に説明した。あらゆる近代の理想主義者たちは大抵このカルマに挑戰してゐる。しかし彼等の旗や槍は畢に彼等のエネルギイを示したのにとどまるばかりだつた。彼等のエネルギイを示すことはそれ自身勿論意味を持つてゐる。單に近代の理想主義者たちばかりではない。僕等はカアネギイのエネルギイにも力丈夫に感ずることは確かである。若し力丈夫に感じないとすれば、誰も實業家や政治家の立志譚(だん)は讀みたがりはしないであらう。しかしカルマはその爲に少しも脅威を失つたのではない。カアネギイのエネルギイを生んだものはカアネギイの背負つて來たカルマである。僕等は皆僕等のカルマの爲に頭を下げる外はないであらう。若し僕等に、――少くとも僕に「あきらめ」の天惠の下るとすれば、それは唯ここにだけある訣である。

 僕等は皆多少の「生活者」である。從つて逞ましい「生活者」にはおのづから敬意を生ずるものである。即ち僕等の永遠の偶像は戰鬪の神マルスに歸らざるを得ない。カアネギイは暫く問はず、ニイチエの「超人」も一皮剥いで見れば、實にこのマルスの轉身だつた。ニイチエのセザアル・ボルヂアにも讃嘆の聲を洩らしたのは偶然ではない。正宗白鳥氏は「光秀と紹巴」の中に「生活者」中の「生活者」だつた光秀に紹巴を嘲らせてゐる。(かう云ふ正宗白鳥氏の「人生の從軍記者」と呼ばれるのは正に逆説的であると云はなければならぬ。)これは一光秀の嘲笑ではない。僕等は何も考へずにいつもかう云ふ嘲笑を放つてゐるのである。

 僕等の悲劇は、――或は喜劇はこの「人生の從軍記者」にとどまり難いことに潜んでゐる。しかも僕等「生活者」のカルマを背負つてゐることに潜んでゐる。けれども藝術は人生ではない。ヴイヨンは彼の抒情詩を殘す爲に「長い敗北」の一生を必要とした。敗るる者をして敗れしめよ。彼は社會的習慣即ち道德に背くかも知れない。或は又法律にも背くことであらう。況や社會的禮節には人一倍餘計に背く筈である。それ等の約束に背いた罰は勿論彼自身に背負はなければならぬ。社會主義者バアナアド・シヨウは彼の「醫者のデイレンマ」の中に不德義な天才を救ふよりも平凡な醫者を救ひ上げることにした。シヨウの態度は少くとも合理的であると言はなければならぬ。僕等は博物館の硝子戸(がらすど)の中に剥製の鰐を見ることを愛してゐる。しかし一匹の鰐を救ふよりも一匹の驢馬を救ふことに全力を盡すのに不思議はない。動物愛護會も未だ嘗(かつて)猛獸毒蛇を愛護するほど寛大ではないのはこの爲であらう。が、それは人生に於ける、言はば Home Rule の問題である。もう一度ヴイヨンを例に引けば、彼は第一流の犯罪人だつたものの、やはり第一流の抒情詩人だつた。

 或女人は「わたしの一家に天才のないことは仕合せです」と言つた。しかもその「天才」と云ふ言葉は少しも皮肉な意味を持つてゐなかつた。僕も亦僕の一家に天才のないことに安んじてゐる。(勿論僕のかう云ふのは天才の屬性に背德性を數へてゐる訣でも何でもない。)田園や市井の人々には古今の天才たちよりも「生活者」の美德を具へてゐるものも多いであらう。紅毛人は「人として」の名のもとに度たび古今の天才たちの中にも「生活者」の美德を數へてゐる。が、僕はこの新らしい偶像崇拜も信用してゐない。「藝術家として」のヴイヨンは暫く問はず、「藝術家として」のストリントベリイは僕等の愛讀に價してゐる。しかし「人として」のストリントベリイは、――恐らくは僕の尊敬する批評家XYZ君よりもはるかにつき合ひ惡(にく)いことであらう。從つて僕等の文藝上の問題はいつも畢に「この人を見よ」ではない。寧ろ「これ等の作品を見よ」である。尤も「これ等の作品を見よ」と言つても、何世紀かは大河のやうにこれ等の作品を見る前に流れ去つてしまふであらう。しかもその又何世紀かは或は一本の藁のやうにこれ等の作品を忘却の中へずんずん押し流してしまふであらう。若し藝術至上主義を信じないとすれば、(かう云ふ信仰を持つてゐることは必ずしも食ふ爲に書いてゐることと矛盾しない。少くとも食ふ爲にばかり書いてゐない限りは。)詩を作るのは古人も言つたやうに田()を作るのに越したことはない。

 僕は島崎藤村氏は勿論、正宗白鳥氏も「人生の從軍記者」でないことを信じてゐる。如何に兩大家の才力を以てしても、古來一人もゐなかつたものに忽ちなつてしまふ道理はない。僕等は皆僕等の中に「光秀と紹巴」とを持ち合せてゐる。少くとも僕は僕自身に關することには多少の紹巴になる代りに僕以外の人々に關することには多少の光秀になる傾向を持ち合せてゐる。從つて僕の中(うち)の光秀は必ずしも僕の中の紹巴を嘲笑しない。けれども幾分か嘲笑したい心もちのあることは確かである。

 

       三十七 古  典

 

 「選ばれたる少數」とは必しも最高の美を見ることの出來る少數かどうかは疑はしい。寧ろ或作品に現れた或作者の心もちに觸れることの出來る少數であらう。從つてどう云ふ作品も、――或は又どう云ふ作品の作者も「選ばれたる少數」以外に讀者を得ることの出來るものではない。が、それは「選ばれざる多數の讀者」を得ることと少しも矛盾してゐないのである。僕は「源氏物語」を褒める大勢の人々に遭遇した。が、實際讀んでゐるのは(理解し、享樂してゐるのを問はないにもせよ)僕と交つてゐる小説家の中(うち)ではたつた二人、――谷崎潤一郎氏と明石敏夫氏とばかりだつた。すると古典と呼ばれるのは或は五千萬人中滅多に讀まれない作品かも知れない。

 しかし萬葉集は源氏物語よりもはるかに大勢に讀まれてゐる。それは必しも萬葉集の源氏物語を拔いてゐる所以ではない。のみならず又兩者の間に散文と韻文と云ふ堀割の横はつてゐる所以でもない。單に萬葉集中の作品は一つ一つとり離して見れば、源氏物語よりもずつと短いからである。元來東西の古典のうち、大勢の讀者を持つてゐるものは決して長いものではない。少くとも如何に長いにもせよ、事實上短いものの寄せ集めばかりである。ポオは詩の上にこの事實に依つた彼の原則を主張した。それからビイアス(Ambrose  Bierce)は散文の上にもやはりこの事實に依つた彼の原則を主張した。僕等東洋人はかう云ふ點では理智よりも知慧に導かれ、おのづから彼等の先驅をなしてゐる。が、生憎彼等のやうに誰もかう云ふ事實に依つた理智的建築を築いたものはなかつた。若しこの建築を試みるとすれば、長篇源氏物語さへ少くとも聲價を失はない點では丁度善い材料を與へたであらうに。(しかし東西兩洋の差はポオの詩論にも見えないことはない。彼は彼是(かれこれ)百行の詩を丁度善い長さに數へてゐる。十七音の發句などは勿論彼には「エピグラム的」の名のもとに排斥されることであらう。)

 あらゆる詩人の虚榮心は言明すると否とを問はず、後代に殘ることに執(しふ)してゐる。いや、「あらゆる詩人の虚榮心は」ではない。「彼等の詩を發表した、あらゆる詩人の虚榮心は」である。一行の詩も作らずに彼自身の詩人であることを知つてゐる人々もないことはない。(彼等は大小は暫く問はず、彼等の詩的生涯の上に最も平和だつた詩人たちである。)しかし性格や境遇の爲に兎に角韻文か散文かの詩を作つてしまつた人々だけに詩人の名を與へるとすれば、あらゆる詩人たちの問題は恐らくは「何を書き加へたか」よりも「何を書き加へなかつたか」にある訣であらう。それは勿論原稿料による詩人たちの生活に不便である。若し不便であるとすれば、――封建時代の詩人、石川六樹園(じゆゑん)は同時に又宿屋の主人だつた。僕等も賣文と云ふことさへなければ、何か商賣を見つけるかも知れない。僕等の經驗や見聞もその爲に或は廣まるであらう。僕は時々賣文だけでは活計(くわつけい)を立てることの出來なかつた昔に多少の羨しさを感じてゐる。しかしかう云ふ現世も亦後代には古典を殘してゐるであらう。勿論食ふ爲に書いたものも古典にならないと限つた訣ではない。(若し或作家の姿勢として見れば、唯「食ふ爲に書いてゐる」のは最も趣味の善い姿勢である。)唯アナトオル・フランスの言つたやうに後代へ飛んで行く爲には身輕であることを條件としてゐる。すると古典と呼ばれるものは或はどう云ふ人々にも容易に讀み通し易いものかも知れない。

 

       三十八 通俗小説

 

 所謂通俗小説とは詩的性格を持つた人々の生活を比較的に通俗に書いたものであり、所謂藝術小説とは必しも詩的性格を持つてゐない人々の生活を比較的詩的に書いたものである。兩者の差別は誰でも言ふやうにはつきりしてゐないのに違ひない。けれども所謂通俗小説中の人々は確かに詩的性格の持ち主である。これは決して逆説ではない。若し逆説的であるとすれば、かう云ふ事實そのものの逆説的に出來てゐる爲である。唯何びとも靑年時代には多少彼の性格の上に詩的陰影を落し易い。しかしそれは年をとるのにつれ、次第に失はれてしまふのである。(抒情詩人はこの點では實に永遠の少年である。)從つて所謂通俗小説中の人々は老人ほど滑稽に陷り易い。(但しこの所謂通俗小説は探偵小説や大衆文藝を含んでゐない。)

 追記。この文章を草し終つた後、僕は新潮座談會に出席した爲に鶴見祐輔氏の啓發を受け、所謂通俗小説と紅毛人の所謂 Popular novel との差別を考へ出した。僕は所謂通俗小説論はポピユラア・ノヴエルには通用しない。ベンネツト(Arnold Bennett)は彼のポピユラア・ノヴエルに Fatasies の名を與へてゐる。それは事實上あり得ない世界を讀者の爲に廣げて見せるからであらう。かう云ふ意味は必しも幻怪の氣のあると云ふ意味ではない。唯人物なり事件なりの上に文藝的に眞の刻印を打つてゐない世界と云ふ意味であらう。

 

       三十九 獨  創

 

 現世は明治大正の藝術上の總決算をしてゐる。なぜかは僕の知る所ではない。何の爲かも僕には不可解である。しかし現代日本文學全集と云ひ、明治大正文學全集と云ふ文藝上の總決算は勿論、明治大正名作展覽會も亦やはり繪畫上の總決算である。僕はこれ等の總決算を見、如何に獨創と云ふことの困難であるかと云ふことを感じた。古人の糟粕(さうはく)を嘗めないなどとは誰でも易々(やすやす)と放言し易い。が、彼等の仕事を見ると、(或は仕事を見てもかも知れない。)今更のやうに獨創と云ふことの手輕に出來ないのを感じるのである。

 僕等はたとひ意識しないにもせよ、いつか前人の蹤(あと)を追つてゐる。僕等の獨創と呼ぶものは僅かに前人の蹤を脱したのに過ぎない。しかもほんの一歩位、――いや、一歩でも出てゐるとすれば、度たび一時代を震はせるのである。のみならず故意に叛逆すれば、愈(いよ/\)前人の蹤を脱することは出來ない。僕は義理にも藝術上の叛逆に賛成したいと思ふ一人である。が、事實上叛逆者は決して珍らしいものではない。或は前人の蹤を追つたものよりも遙かに多いことであらう。彼等は成程叛逆した。しかし何に叛逆するかをはつきりと感じてゐなかつた。大抵彼等の叛逆は前人よりも前人の追從者に對する叛逆である。若し前人を感じてゐたとすれば、――彼等はそれでも反叛(はんぱん)したかも知れない。けれどもそこには必然に前人の蹤を殘してゐるであらう。傳説學者は海彼岸(かいひがん)の傳説の中に多數の日本の傳説のプロトタイプを發見してゐる。藝術も亦穿鑿して見れば、やはり粉本に乏しくない。(僕は前にも言つたやうに必しも作家は彼等の粉本を用ひてゐないことを意識してゐなかつたことを信じてゐる。)藝術の進歩も――或は變化も如何に大人物を待つたにもせよ、一足飛びには面目を改めないのである。

 しかしこの遲い歩みの中にも多少の變化を試みたものは僕等の尊敬に價してゐる。(菱田春草はこの一人だつた。)新時代の靑年たちは獨創の力を信じてゐるであらう。僕はそのいやが上にも信じることを望んでゐる。多少の變化はそこ以外にどこにも生じて來るものではない。昔から世界には前人の造つた大きな花束が一つあつた。その花束へ一本の花を插し加へるだけでも大事業である。その爲には新らしい花束を造る位の意氣込みも必要であらう。この意氣込みは或は錯覺かも知れない。が、錯覺と笑つてしまへば、古來の藝術的天才たちもやはり錯覺を追つてゐたのであらう。

 唯この意氣込みにもはつきりと錯覺を認めるものは不幸である。はつきりと錯覺を認めるものは?――しかし彼等も亦おのづから多少の錯覺を持つてゐるかも知れない。僕はかう云ふ問題には何とも言はれない一人である。けれども明治大正の藝術上の總決算を見、如何に獨創と云ふことの容易に出來ないかを感じずにはゐられなかつた。明治大正名作展覽會を觀た人々はいろいろの畫の可否を論じてゐる。しかし少くとも僕一人は可否を論じてゐる餘裕さへない。

 

       四十 文藝上の極北

 

 文藝上の極北は――或は最も文藝的な文藝は僕等を靜かにするだけである。僕等はそれ等の作品に接した時には恍惚となるより外に仕かたはない。文藝は――或は藝術はそこに恐しい魅力を持つてゐる。若しあらゆる人生の實行的側面を主とするとすれば、どう云ふ藝術も根柢には多少僕等を去勢する力を持つてゐるとも言はれるであらう。

 ハイネはゲエテの詩の前に正直に頭を垂れてゐる。が、圓滿具足したゲエテの僕等を行動に驅りやらないことに滿腔の不平を洩らしてゐる。これは單にハイネの氣もちと手輕に見て通ることの出來るものではない。ハイネはこの「ドイツ・ロマン主義運動」の一節の中(うち)に藝術の母胎へ肉迫してゐる。あらゆる藝術は藝術的になるほど、僕等の情熱(實行的な)を靜まらせてしまふ。この力の支配を受けたが最後、容易にマルスの子になることは出來ない。そこに安住出來るものは――純一無雜の藝術家たちは勿論、阿呆たちもやはり幸福である。しかしハイネは不幸にもかう云ふ寂光土を得られなかつた。

 僕はプロレタリアの戰士諸君の藝術を武器に選んでゐるのに可也(かなり)興味を持つて眺めてゐる。諸君はいつもこの武器を自由自在に揮ふであらう。(勿論ハイネの下男ほども揮ふことの出來ないものは例外である。)しかし又この武器はいつの間にか諸君を靜かに立たせるかも知れない。ハイネはこの武器に抑へられながら、しかもこの武器を揮つた一人である。ハイネの無言の呻吟は或はそこに潜んでゐたであらう。僕はこの武器の力を僕の全身に感じてゐる。從つて諸君のこの武器を揮ふのも人ごとのやうには眺めてゐない。就中僕の尊敬してゐる一人はかう云ふ藝術の去勢力を忘れずにこの武器を揮つて貰ひたいと思つてゐた。が、それは仕合せにも僕の期待通りになつたやうである。

 他人は或はかう云ふことも一笑に附してしまふであらう。それは僕も覺悟の前である。僕の見る所は淺いかも知れない。よし又淺くなかつたにしろ、十年間の經驗は一人の言葉の他人には容易にのみこまれないのを教へてゐる。しかし僕は兎も角も人並みに努力をつづけながら、やつとこの藝術の去勢力の大きいことに氣づき出した。從つて唯これだけのことでも僕にはやはり一大事である。文藝の極北はハイネの言つたやうに古代の石人(せきじん)と變りはない。たとひ微笑(びせう)は含んでゐても、いつも唯冷然として靜かである。