やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ

[やぶちゃん注:大正十六(1927)年一月一日発行の『サンデー毎日』新年特別号に掲載。底本は岩波版旧全集を用いたが、読みの振れるもの以外は、ルビを排除した。最後に補注を施した。]

 

悠々莊   芥川龍之介

 

 十月のある午後、僕等三人は話し合ひながら、松の中の小みちを歩いてゐた。小みちにはどこにも人かげはなかつた。たゞ時々松の梢に鵯(ひよどり)の聲のするだけだつた。

 「ゴオグの死骸を載せた玉突台だね、あの上では今でも玉を突いてゐるがね。」……

 西洋から歸つて來たSさんはそんなことを話して聞かせたりした。

 そのうちに僕等は薄苔のついた御影石の門の前へ通りかかつた。石に嵌めこんだ標札には「悠々莊」と書いてあつた。が、門の奧にある家は、――茅葺き屋根の西洋館はひつそりと硝子窓を鎖してゐた。僕は日頃この家に愛着(あいぢやく)を持たずにはゐられなかつた。それは一つには家自身のいかにも瀟洒としてゐるためだつた。しかし又その外にも荒廢を極めたあたりの景色に――伸び放題伸びた庭芝や水の干上つた古池に風情の多いためもない譯ではなかつた。

 「一つ中へはひつて見るかな。」

 僕は先に立つて門の中へはひつた。敷石を挾んだ松の下には姫路茸などもかすかに赤らんでゐた。

 「この別莊を持つてゐる人も震災以來來なくなつたんだね。……」

 するとT君は考へ深さうに玄關前の萩に目をやつた後、かう僕の言葉に反對した。

 「いや、去年までは來てゐたんだね。去年ちやんと刈りこまなけりや、この萩はかうは咲くもんぢやない。」

 「しかしこの芝の上を見給へ。こんなに壁土も落ちてゐるだらう。これは君、震災の時に落ちたまゝになつてゐるのに違ひないよ。」

 僕は實際震災のために取り返しのつかない打撃を受けた年少の實業家を想像してゐた。それはまた木蔦(きつた)のからみついたコツテエヂ風の西洋館と――殊に硝子窓の前に植ゑた棕櫚や芭蕉の幾株かと調和してゐるのに違ひなかつた。

 しかしT君は腰をかゞめ、芝の上の土を拾ひながら、もう一度僕の言葉に反對した。

 「これは壁土の落ちたのぢやない。園藝用の腐蝕土だよ。しかも上等な腐蝕土だよ。」

 僕等はいつか窓かけを下した硝子窓の前に佇んでゐた。窓かけは、もちろん蠟引だつた。

 「家の中は見えないかね。」

 僕等はそんなことを話しながら、幾つかの硝子窓を覗いて歩いた。窓かけはどれも嚴重に「悠々莊」の内部を隱してゐた。が、丁度南に向いた硝子窓の框(かまち)の上には藥壜が二本並んでゐた。

 「ははあ、沃度劑(よおどざい)を使つてゐたな。――」

 Sさんは僕等をふり返つて言つた。

 「この別莊の主人は肺病患者だよ。」

 僕等は芒の穗を出した中を「悠々莊」の後ろへ廻つて見た。そこにはもう赤錆のふいた亞鉛葺の納屋が一棟あつた。納屋の中にはストオヴが一つ、西洋風の机が一つ、それから頭や腕のない石膏の女人像が一つあつた。殊にその女人像は一面に埃におほはれたまま、ストオヴの前に横になつてゐた。

 「するとその肺病患者は慰みに彫刻でもやつてゐたのかね。」

 「これもやつぱり園藝用のものだよ。頭へ蘭などを植ゑるものでね。……あの机やストオヴもさうだよ。この納屋は窓も硝子になつてゐるから、温室の代りに使つてゐたんだらう。」

 T君の言葉は尤もだつた。現にその小さい机の上には蘭科植物を植えるのに使ふコルク板の破片も載せてあつた。

 「おや、あの机の脚の下にヴイクトリア月經帶の罐もころがつてゐる。」

 「あれは細君の……さあ、女中のかも知れないよ。」

 Sさんは、ちよつと苦笑して言つた。

 「ぢやこれだけは確實だね。――この別莊の主人は肺病になつて、それから園藝を樂しんでゐて、……」

 「それから去年あたり死んだんだらう。」

 僕等は又松の中を「悠々莊」の玄關へ引き返した。花芒はいつか風立つてゐた。

 「僕等の住むには廣過ぎるが、――しかし兎に角好い家だね。……」

 T君は階段を上りながら、獨言のやうにかう言つた。

 「このベルは今でも鳴るかしら。」

 ベルは木蔦の葉の中に僅(わづか)に釦をあらわしてゐた。僕はそのベルの釦へ――象牙の釦へ指をやつた。ベルは生憎鳴らなかつた。が、万一鳴つたとしたら、――僕は何か無氣味になり、二度と押す氣にはならなかつた。

 「何と言つたつけ、この家の名は?」

 Sさんは玄關に佇んだまま、突然誰にともなしに尋ねかけた。

 「悠々莊?」

 「うん、悠々莊。」

 僕等三人は暫くの間、何の言葉も交さずに茫然と玄關に佇んでゐた、伸び放題伸びた庭芝だの干上つた古池だのを眺めながら。 (十五・十・二六、鵠沼)

 

[やぶちゃん補注:最後にクレジットされている同年十月二六日前後の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の年表・コラム等の記載を見ると、同年十月一日に『改造』に、あの「點鬼簿」を発表しているのである(脱稿は九月十六日)。
 
さて、これに先立つ九月二十五日頃、鵠沼の芥川のもとを土屋文明と齋藤茂吉が訪問している。作中の「Sさん」の雰囲気、「T君」という敬語の差別化から考えて、「十月のある午後」とあるけれども、私は「Sさん」が齋藤茂吉、「T君」が土屋文明であろう踏んでいる(但し、茂吉がこの前に洋行していたかどうかは確認出来ていない)。
 またその直後の九月二十八か、二十九日に、今度は親友の恒藤恭が鵠沼を訪れている。彼は、九月二十六日にサンフランシスコから帰国したばかりであった。そうして、以下の彼のその時の印象記は、不思議にこの作品とダブるのである。


「三年振りに会つた彼の容貌は、三年まへの其れとは大へんな変りやうであつた。まるで十年もの年月がそのあひだに経過したやうな気がした。(略)元来が痩せてゐる芥川ではあつたが、そのときの彼の肉体の衰へは正視するのもいたはしいやうな程度のものであつた。だが、気力は一向おとろへてゐないもののやうに、意気軒昂といつたやうな調子で文壇のありさまなどを話して呉れた。しかしまた、どうも健康がすぐれず、不眠にくるしんでゐるといふことも訴へた。
 
ぜんたいとしての彼の風貌が、なにかしら鬼気人に迫るといつたやうな趣をただよはしてゐて、昼食を共にしたりしてお互ひに話し合ひながら、余命のいくばくもない人と対談してゐるやうな予感めいたものを心の底に感じ、たとへやうもなくさびしい気もちにおそはれることを禁(とど)め得なかつた。」(恒藤恭「旧友芥川龍之介」より。但し、上記の鷺只雄氏の著作からの孫引きである。「(略)」等もすべてママである。)

 特に後の段落の記載はまさに、この「悠々荘」のもの、ではなかろうか。ちなみに恒藤の芥川との邂逅はこの時が最後となった。
 また、この稿がなったその十月二十六日当日には、小澤碧童(西徳六代目忠兵衛)が訪ねて来ており、三十日頃まで滞在し、「やぶちゃん版芥川龍之介句集」でも取り上げた、十一月一日付小澤忠兵衛宛一五二七書簡の下駄の履き違えのエピソードとなる。]