やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ
鬼火へ

 

片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲

藪野唯至

copyright  2009・12・18 藪野唯至)

 

 

   幕間調弦 鑑賞のための手引

 

 

 以下の私の作品『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』をお聴きになる方は、事前に、以下の私の作成した電子テキスト及び私の諸記載をお聴き頂けると、非常に鑑賞し易いと思われる。但し、芥川龍之介と片山廣子の関係について、ある程度の知見をお持ちの方ならば、その限りではない。しかし乍ら、やはり最後にはこれらをお読み頂くことが、私の作曲に対する無理解を生じないためにも、肝要なこととは思われる。なお、本作品では「五月と六月」の著者名松村みね子ではなく、本名の片山廣子で統一して表記している。

○電子テクスト[注:三つ目のリンクは本推論の決定的証拠として2010年12月24日に付加した。]

片山廣子(松村みね子)「五月と六月」

芥川龍之介「東北・北海道・新潟」

未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版

○私の諸記載

芥川龍之介「東北・北海道・新潟」の冒頭注の最後に配した、前年度末から改造社が刊行を始めた『現代日本文学全集』(一冊一円の低価格であったことから円本全集と呼ばれた)の宣伝のための芥川龍之介の講演旅行(最後の新潟高等学校での講演は芥川の個人的な仕事であるが)の行程と、私の推論部分。

Blog鬼火~日々の迷走」『松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実』

Blog鬼火~日々の迷走」『片山廣子 しろき猫 或いは 「――廣子さん、狐になって、彼のところへお行きなさい――」』

 本篇の内、「第一変奏 丘の上」から「第五変奏 碓氷峠」に至る内容は、その内容の殆んど総てが私藪野唯至の実体験に基づくものであるが、主に退屈を避けることを目的として小説仕立てにしてある。「第五変奏 碓氷峠」の終わり辺りから「第六変奏 円覚寺」にかけては内容的に評論口調に変調した。『最終変奏 原初的片山廣子「五月と六月」(昭和四年五月)』は私の本作品の総括として、私の考えるプロトタイプとしての「五月と六月」(作者片山廣子の意識の中に存在した時系列を意識した「五月と六月」の原型)を廣子の一人称という設定で『復元』創作したものである。最低、主題である片山廣子(松村みね子)「五月と六月」だけはお聴き(再聴)の上、本作をお聴き頂けるよう、お願いする。なお、作品中に挿入した地図は市販の旅行ガイドブックの一部を元にしたが、修正に修正を加えており、最早、原型を留めていないので、特に底本表記はしていない。手書き部分は勿論、総て私の自筆である。右腕不調に付、悪筆はお許しあれ。

 

――本篇を、本篇に登場してもらった私の妻の、2009年の誕生日の記念に捧げる――

 

 

   主題 片山廣子「五月と六月」

 

 

   第一変奏 丘の上

 

 

 私はこの十一月初め、軽井沢の万平ホテルに泊った。

 紅葉の残る木々と清涼な風が妻と私を迎えてくれた。昼に外のフランス料理店でフルコースをとり、食前酒のシャンパンに始まり、ボルドーの赤1本にグラッパまでしっかり飲んだ私は、聊か酔いを覚えながらもシャワーを浴び、遅い昼寝に入った足の悪い妻を残して階下へ降りた――二〇〇七年に月曜社から出た正字版片山廣子「新編 燈火節」を手にして――。

 一階の土産物売場に入った私の眼は、それとなく相応に仕事慣れたと思しいコンシェルジュを物色していた。客が途絶えたのを見計らい、狙い定めておいた彼女に近寄ると、唐突に、

「……妙なことをお訊きしますが……このホテルは軽井沢駅方向から見て『丘の上』と表現しますか?……」

と訊ねた。彼女は未だ慣れない若い隣のコンシェルジュと顏を見合わせながら、やや困った表情をし乍ら、

「……丘と言いますかどうか……ただこうした微妙な丘の斜面に建って御座いますから……」

と言い澱む。すかさず、私は手にした廣子の「燈火節」を差し出しながら、またしても唐突に、

「実はですね……この本は、かつて此方に泊ったこともある片山廣子という歌人の書いたエッセイなのですが……実は、そのある部分が……私はこの万平ホテルを描写したものなのではないか、と踏んでいるのです……ただ、確信が持てませんので……短いので、恐れ入りますが、よろしければ、ちょっと読んで頂き、貴女の御意見を伺いたいのですが……」

とやらかしてしまったのである――初対面の女性にはシャイな私が、こうも大胆に語りかけられたのは昼のワインの余力であることは言うまでもない――少し戸惑いの表情を浮かべながらも、流石は私がこれぞと見込んだ手馴れたコンシェルジュ、じきに爽やかな笑みを浮かべ、

「……お役に立てるかどうかは存じませんが、私でよろしければ……」

と言うと、私の指し示した「五月と六月」の冒頭の一段だけを凝っと読み始めた……

   ――

   五月と六月

 いつの五月か、樹のしげつた丘の上で友人と會食したことがある。その人は長い旅から歸つて來て私ともう一人をよんでくれたのだが、もう一人は、急に家内に病人が出來て、どうしても來られなかつた。で、一人と一人であつたが、彼は非常に好い話手であつた。さういふ時まけずに私もしやべつたやうである。九時すぎその家を出た。山いつぱいの若葉がわたくしたちの上にかぶさり、曲りくねつた路が眞暗だつた。その路で、私は彼と怪談のつゞきの話をした。寒くなつたと彼が云つた。路のうへの葉がひどくがさ/\した、立止つて見あげると、葉のあひだに赤い星が大きく一つあつた。マアルス!と思つた。

「結局、世間の藝術家なんてものゝ生活はみんなでたらめなんですから……」

 何の聯絡もなく前ぶれもなく彼がいひ出した。意味があるのかないのか、突然だつた。

「そお? 女の生活も、みんな、でたらめなんですよ」

 卑下した心か挑戰の氣持からか、ふいと私はさう云ひ返した。たぶん戰鬪の赤い星が葉の中から私たちをけしかけたのだ。それつきり二人とも無言で非常にのろい足で丘を下りた。下り切つた道をまがると河があつた。

 河を渡り、すぐそこにタキシイの大きな家が見いだされた。さやうなら、と云つた。

   ――

……数分の後、

「……そうですね……そうだともそうでないとも言いがたい気が致します……ですが、この川というのは……」

「……あの、矢ヶ崎川……ですね!」

「えぇ!……如何にもそのような感じは致しますね。」

と客好みのする誠実な笑みの中で、彼女は確かに頷いたのだった。

 私には、それで十分であった――懇切に礼を言うと、私は――結局、冷やかしよりももっと質の悪い、客でさえなかった私は――売店を後に、夕暮れになりかかった外へ出た――。

 

 

   第二変奏 ルート1

 

 

 ――私は、ホテルの前の街路樹が左右に植えられた、正に「樹のしげつた」メイン・ストリート『万平通り』を南に下がって、右に折れた。少し行くと、道は矢ヶ崎川にかかる橋を渡る。しかし、今現在、その「河を渡」った「すぐそこに」は「タキシイの大きな家」はない。右手には古い玉石で出来た、ひどく低い、築山のような塀があって、それを少し行ったところには右に入る入口があったが、そこは広い敷地の中に小さな別荘が点在する場所に導かれるもので、「タキシイの大きな家」では、なかった。左手は空地や小さな別荘がまばらにあるばかりで、そのやや荒蕪地といった景色に約八十年前を幻想してみても、凡そ「タキシイの大きな家」を想像することは不可能な地形であった。

 さて、そのまま道なりに行こう。

 寒々としたかのロマンス・コートを右に見つつ、夕暮れの日本人形店のウィンドウを覗き、やや捩れた道を抜けると、急に原宿のような賑わいの旧軽井沢銀座に出る。軽井沢写真館の宮様や美智子さま、ジョン・レノンなんぞの写真を冷やかした後、旧軽銀座通りの北端へと辿り着いた。

 この左側にあるのが、

――芥川龍之介の定宿であった「つるや旅館」――

である。

 私の昼の酔いは既に醒めていた。従って、芥川所縁(ゆかり)のこの宿に、のこのこ入って行って、昭和二年五月の宿帳に芥川龍之介の記帳があるかと訊くなんどという蛮勇は、更々なくなっていた。

 それどころか、その「つるや旅館」の裏手に後に廣子が造った別荘があった、ということさえ失念してしまい、私は更に、のこのこと、旧軽銀座通りの北の、暗く淋しい林道へと道を辿って行った――。

 

 

 

 

   第三変奏 ルート2

 

 

 ――薄暗い林道を、左手へ折れると橋があり、それを渡ると矢ヶ崎川に沿って『お気もちの道』というくすぐったくなるような名の道が、下流に向かって右岸に配されているのが地図で分かった。微かなせせらぎの音が、夕闇に響く。人気のない別荘がぽつぽつと見え、じきに道は四辻に至った。その辻の真ん中(橋のこちら側)で私はふと立ち止った。

 辻とは気の澱む場所である――。

 不思議に奇妙な静けさが支配している。私の悪い左耳と同じように何か脳の聴覚中枢に膜が掛かったような、陳腐な言い方であるが、正に時が止まっているような『お気もち』にさせられたのである。

 私は、とりあえず万平の方向と思しい西に林を潜る道を辿った。

 すっかり日が翳っている上に、下枝を落とした木々の列は、ロシアの森の入り口のように、奥へ行くに従って暗く深い闇を此方へと反映して私の「上にかぶさり、曲りくねつた路が眞暗だつた」。枯葉が深く積もっている。道は、次第に道ともつかず、空地ともつかぬ野となって、次第次第に「丘」のごと、高くなって行く。

 ――ふと「立止つて見あげると、葉のあひだに」、万平ホテルのヒュッテのような独特の屋根が、杉木立の間、夕景の残光の中に浮かび出た――。ちょっとした斜面を登り切ると、そこは万平ホテルの西の端の脇で、左手にカフェを見て、正面ロビーへと向かうエントランスの端であった。

 正面入り口の脇部屋では、近代絵画の原画がかなりの廉価で売られていた。特に熊谷守一の動物シリーズの何点かは、来館した折り、ちらと見て少し食指が動いたから、見てみたくもあった。

 ――しかし私は――踵(くびす)を返して、徐ろに――今、帰って来た道を戻って行った――。

 

 

 

 

   第四変奏 ルート3

 

 

 ――「山いつぱいの若葉」ではなかったが、私の頭上には夜気を帯び始めた木々が「かぶさり、曲りくねつた路が眞暗だつた。その路で、私は」一人、『寒くなつた』と独り言を「云つ」て見た。「路のうへの葉がひどくがさ/\した、立止つて見あげ」ては見たが、生憎と「葉のあひだに」は「赤い星」は見えなかった。が、私はそこに「大きく一つあつた」「マアルス」を「思つた」。その時、「何の聯絡もなく前ぶれもなく」私の心に――芥川龍之介の声が――響いた。それは、あたかも今の私には見えない天空の「戰鬪の赤い星が葉の中から」「けしかけた」かのように。……

……結局、世間の藝術家なんてものゝ生活はみんなでたらめなんですから……

「意味があるのかないのか、突然だつた」。そうして、中年と思しいが、しかしどこか悪戯っぽい少女のような微笑みを含んだ声が、「卑下した心か挑戰の氣持からか」、辺りの闇の中から「ふいと」「云ひ返」すのが聴こえた。

……そお? 女の生活も、みんな、でたらめなんですよ……

 ――「それつきり二人」の声は聴こえなくなった。

 私は「無言で非常にのろい足で丘を下りた。下り切つた道」はさっきの四辻に出た。そこを右に「まがると」さっきの矢ヶ崎「河があつた」。

 私は「河を渡」った。

 ――すると――「すぐそこに」『井川』という表札を付けた「タキシイの大きな家が見いだされた」。

 ――何か奇妙な因縁を感じた。

 ――井川という姓は、芥川龍之介の大学時代からの無二の畏友井川恭の姓(結婚後、恒藤に改姓)であったからである。

 そこを更に進むと、やはり右手に細い路地がある。ここは実は今日の昼つ方、妻と旧軽銀座を抜け、ショー通りに入り、その途中から抜けた露地であった。その露地の丁度、真ん中辺りには、芥川の死後、彼の盟友であった室生犀星が住んだ別荘があるのであった。即ち、ここを抜ければ、今日私たちが歩いた道を逆に行くことになる。ショー通りにぶつかり、そしてそこを右に折れ、そのまま道なりに行けば――出るところは――「つるや旅館」の真ん前――なのである。そうして、このルートこそが――

――万平ホテルからつるや旅館への最短コース――

であることは、既にこの界隈を歩き回った後の私には、自明のことなのであった――。

 私はこの犀星の別荘への露地のところで、一人、

……さやうなら……

「と云つ」てみた――。

 ――そうして、再び、同じ道を万平に向かってとって返したのであった――。

 

 ホテルの客室へ向かう通路で、先程のコンシェルジュと擦れ違った。彼女は、気持ちのいい笑顔で、

「お役に立てましたでしょうか?」

と訊いてきた。僕はプロポーズをした直後の「こゝろ」の「先生」のような気分で、

「はい! もう! すっかり!」

と笑顔を返したのであった――。

 

 

 

 

   第五変奏 碓氷峠

 

 

 翌日、妻と私は旧「碓氷峠の上を歩いてゐた。山みちの薄日に私たちは影をひいて歩いて行つた」。「山と谷の木」は紅葉の末にあって「黄ろく、がけの笹」が「濕つぽい風にがさ/\して」いた。午後から時雨れると聞いてはいたが、峠から見る空はまだ晴れ渡っていて、「遠くの山」もかすみながらも見通せた。「向うの山も黄ろかつた」。

 しかし、残念ながらそこが「落葉松の山で」あったかどうか、はっきりしない。「一ぽんのほそい道がその低い山をくる/\廻つて山の上を通り越してどこかへ行く道と見えた。道だけしろく光つた。きつと、木こりが木を背負つて通る道だらうと思つたが、その時、木こりも誰も通らなかつた。荷馬も、犬も、何も通らなかつた」と廣子が描写するような獣道みたようなものも、見えなかったように思う。

 何故、はっきりせず、ように思う、のかと言えば、その時、妻がひどく足の痛みを訴えていたからである……

 

――私の妻は幼児期、先天性股関節脱臼の誤まった治療法を受けた結果、三十五を過ぎてから、変形股関節症を発症した(昭和三十年代の当時の錘を両足につけて大股開きをさせる治療法は、過度に大腿骨を骨盤から引き出すベクトルを与えてしまい、この治療を受けた七割の人間が中年期以後に変形股関節症を発症するのである。私の妻はその発症が早かった。結婚二年目の夏、五時間近くに及ぶ左大腿骨の回転骨切術(かいてんほねきりじゅつ)というおどろおどろしい名の手術を受けた。骨盤の左腸骨を切除し、骨盤の左の張り出し部分に移植して上部を拡張、更に左大腿骨骨頭を数度回転して骨盤内側方向に移動させるという術式である。しかし乍ら、数年前から未手術の右足に加えて、左足も痛み出し、今年に入ってからは職場(私と同じく高校の国語教師)でも家内(いえうち)でも杖を手放せなくなった。近々、診断を受けることにしぶしぶ同意したが、恐らく手術の宣告をされることは既に覚悟しているようである。今度は高い確率で人工関節となろうが、人工関節は人によっては全く合わず、一年余で廃用化するケースもあり、そうなれば車椅子の生活を余儀なくされる。おまけに妻は二十四金のネックレスも肌には付けられない極度の金属アレルギーでもあるのである――

……峠まではタクシーを用い、峠の茶屋の前に待ってもらっていたのだが、妻はお金が掛かるのを気にし、峠まで歩いて、着いたとたんに……私は戻るのに時間が掛かるから……と戻り始めたのであった。

 私は少し不愉快になって、妻に従ってそのまま峠を下ってしまったからである……

 

 私はそれでも、その瞬時の峠滞在中、下界を見降ろしながら、

……何が通るんでせう、あの道は?……

……なにか通る時もあるんです。人間にしろ、狐にしろ。……道ですから、何かが通りますよ……

と、しっかり独り、台詞を言ってみることは忘れなかった……

……しかし、足を引きずる妻には、「さう云はれると忽ち私の心が狐になつてその道を東に向つて飛んでいく、と思つ」てくれる余裕はなかったのが、少し残念であった。

 峠から戻る途中、少し下った左手に、旧碓氷峠遊覧歩道の道標があった。

 「見てゐても何も通らなかつた。」「どこからか」枯葉が「吹き流されて來た。たつた五六」枚、「私たちの顏の前をすつと流れて」「行つた。」私は暫くそこに立ち止ったまま、遊覧歩道――その獣道に毛が生えたような山道を見つめていたが、哀しいかな、「すこし歩き出した時、ふいと谿の中から一羽の鳥が立つた。ぱさ/\/\と音がして、崖に突きだしてる樹にとまつたが、そこからまた私たちの前をすうつと横ぎり路ばたのぶなの木にばさつとをさまつた。あ、そこ、と思つて見あげると、枝のかげにすこうし羽のさきが見えたやうだつた。そして見えなくなつた。飛んだ音もしなかつた。無數の樹にはほそぼそ芽と芽が重なり、奧ぶかくその鳥をかくした。何處からか彼は小さなまるい眼を光らして私たちを見てゐるのだらうと思つたが、限りない青さに交つて一つの生物が身ぢかにゐることは嬉しかつた。」「何の鳥だつたか、ついよく見なかつた」といったシーンは遂に見ることも、聴くことも出来ず、私と妻は言葉少なに峠を下った――。

 因みに、その後、軽井沢駅駅前の蕎麦屋で、蜂の子を肴にしたたか升酒を飲んだ私は、すっかり上機嫌になったことだけは、付け加えておこう。

 

 この「五月と六月」の「碓氷峠」が旧碓氷峠であるという確証はない。

 描写の中には私が垣間見た碓氷峠ではしっくりこないような気がする部分もないことはない。現在、東京方面から軽井沢に出るトンネルの上に「碓氷峠」なるものもある。

 しかし――しかし私は――これはやはり龍之介と廣子の懐かしい月見の場であった――二人にとって限られた忘れ得ぬ記憶の場であった――ここ、旧碓氷峠であると信じたいのである。

 ちなみに、私は、この時、龍之介と廣子は私たち夫婦と同じように、車でここに来たのだと思う。

 私が、妻と一緒には無理と思い、断念した先程見たあの旧碓氷峠遊覧歩道、――ここを二人が上がったとは私には思われない――廣子の描写にもマッチし、そして私が「五月と六月」の映画監督ならば、絶対にこの道をロケ地に指定して、二人にここを歩ませるのであるが――改造社円本全集宣伝のための北海道・東北の長旅、直前の新潟高校での講演と、心神共に疲弊していた彼には、ここを登るエネルギは最早、なかったであろうから――いや、その自身の自殺の決行が二月後に迫っていた、彼には――。

 

 

   第六変奏 円覚寺

 

 

 私の家の菩提寺は鎌倉の瑞鹿山円覚寺白雲庵である。

……しかし私はこの墓には入らぬ。私は慶応大学医学部に私の遺体を献体する契約をしており、剖検後の骨も解剖学教室の合葬塔に納めてくれるようになっているからである。これは私の母の仕儀を真似たもので(但し、母はまだ健在である)、親友の葬儀で悼辞を読んだ五年前、その有象無象の弔問客の群れに「皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失つた自分たち自身を悼んでゐる。枯野に窮死した先達を歎かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を歎いてゐる」「本來薄情に出來上つた自分たち人間」という「厭世的な感慨に沈みながら、しかもそれに沈み得る事を、得意にしてゐた」(芥川龍之介「枯野抄」の支考の台詞より)私は――翌日、既に母が献体していた慶応大学に同様に依願したのであった――私は残る者たちに――哀悼なんど、してもらいたくは、ない、ということなのである……

 ……しかし乍ら、小さな頃から、馴染んだ寺ではあり、こうして廣子の「五月と六月」のエンディングに配されると、人よりはリアルに、しみじみとした思いを抱くことが出来るとも言えるのである。

 

「圓覺寺の寺内に一つの廢寺がある。ある年、私はそこを借りて夏やすみをしたことがあつた。山をかこむ杉の木に霧がかゝり、蝙蝠が寺のらん間に巣くつて雨の晝まごそ/\と音をさせることがあつた。」

「梅がしげり白はちすが咲き、うしろの崖が寺ぜんたいに被さるやうに立つてゐた。その崖からうつぎの花がしだれ咲いて、すぐ崖の下に古い井戸があつた。」

 

 如何にも円覚寺らしい雰囲気を醸し出して美事である。この松嶺院は三門を入って左側にある塔頭で、俳優の田中絹代や佐田啓二、作家の開高健といった有名人の墓があることで知られ、また、有島武郎御用達の塔頭でもあり、「或る女」などはここで書かれている。

 

「震災で寺がまつたく倒れたと聞いて、翌年の六月、鎌倉のかへりに寄つて見た。」

 

とあるから、これが大正十三(一九二四)年六月、廣子四十六歳のことであることが分かる。

 この頃、片山廣子は未だ芥川龍之介とは親密ではなかった。但し、全く知らなかった訳ではない。大正五(一九一六)年に芥川二十五歳の折り、「翡翠 片山廣子氏著」という廣子の歌集評を『新思潮』に掲載、彼女とは何度かの手紙のやりとりがあり、廣子が芥川家を訪問してもいる。その時、廣子、三十八歳。しかし、二人が男女を意識し、急速に接近したのは――正にこの廣子円覚寺訪問の一ヵ月後、大正十三(一九二四)年七月のことなのである――。

 ――その井戸がアップになる――。

 

「深くてむかし汲みなやんだことを思ひ出して、そばに行つて覗いて見た。水があるかないか眞暗だつた。そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。」

 

――タルコフスキイ!――

 

「その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。」

 

――「僕の村は戦場だった」!――

――それと「同時に」廣子は思う――

 

……死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない……

 

そしてその後、廣子は「その時の私に」という条件を付けた上で、

 

「死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄に感じられた。そこいらの落葉や花びらと一緒に自分の體を蜥蜴のあそび場にするには、私はまだ少し體裁屋であつたのだらう。そのまゝ山を下りて來た。」

 

という「五月と六月」のコーダへと一気に向かっているのである。

 この死生観は大正十三(一九二四)年六月の「その時の私」即ち「まだ少し體裁屋であつた」私のもの、であることに注意しなくてはならぬ。

 私は、さしあたり、この廣子の死生観を語らない――しかし、語らない代りに――この「五月と六月」に仕掛けられた巧妙なトリックを、次の最終変奏で解き明かしたいと思う。

 

 

   最終変奏 原初的片山廣子「五月と六月」(昭和四年五月)

 

 

――私は思ひ出す……大正十三年の六月のこと……

 

 圓覺寺の寺内に一つの廢寺がある。ある年、私はそこを借りて夏やすみをしたことがあつた。山をかこむ杉の木に霧がかゝり、蝙蝠が寺のらん間に巣くつて雨の晝まごそ/\と音をさせることがあつた。

 震災で寺がまつたく倒れたと聞いて、翌年の六月、鎌倉のかへりに寄つて見た。門だけ殘つてゐた。松嶺院といふ古い札がそのまゝだつた。くづれた材木は片よせられ、樹々は以前のとほりで、梅がしげり白はちすが咲き、うしろの崖が寺ぜんたいに被さるやうに立つてゐた。その崖からうつぎの花がしだれ咲いて、すぐ崖の下に古い井戸があつた。

 深くてむかし汲みなやんだことを思ひ出して、そばに行つて覗いて見た。水があるかないか眞暗だつた。そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。同時に死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない、と氣がついた。その時の私に、死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄に感じられた。そこいらの落葉や花びらと一緒に自分の體を蜥蜴のあそび場にするには、私はまだ少し體裁屋であつたのだらう。そのまゝ山を下りて來た

 

……ことを思ひ出す……

――そして……私は思ひ出す……あの五月……私は輕井澤で彼を待つてゐた……昭和二年の五月二十四日の夜、新潟高等學校での「ポオの一面」の講演を終へた彼は……その日の夜行列車に乘つて、私に逢ひに來てくれた……その翌日……私たちは逢つた……そして二人して

 

 碓氷峠の上を歩いてゐた。山みちの薄日に私たちは影をひいて歩いて行つた。

 山と谷の木の芽は生れたばかりで黄ろく、がけの笹は枯葉のまゝ濕つぽい風にがさ/\して、濃いかすみが空から垂れて、遠くの山はすこしも見えなかつた。向うの山も黄ろかつた。そこは落葉松の山で、一ぽんのほそい道がその低い山をくる/\廻つて山の上を通り越してどこかへ行く道と見えた。道だけしろく光つた。きつと、木こりが木を背負つて通る道だらうと思つたが、その時、木こりも誰も通らなかつた。荷馬も、犬も、何も通らなかつた。

「何が通るんでせう、あの道は?」

「なにか通る時もあるんです。人間にしろ、狐にしろ。……道ですから、何かが通りますよ」

 さう云はれると忽ち私の心が狐になつてその道を東に向つて飛んでいく、と思つた。道は曇つてゐるところもあつた。曇つてるところは山の木の芽よりずつと暗い。見てゐても何も通らなかつた。

どこからか花びらが吹き流されて來た。たつた五六片、私たちの顏の前をすつと流れて谿の上に行つた。顏をふり向けて上の山を見たが、一ぽんの花の木も見えず、いちめんの木の芽であつた。

 すこし歩き出した時、ふいと谿の中から一羽の鳥が立つた。ぱさ/\/\と音がして、崖に突きだしてる樹にとまつたが、そこからまた私たちの前をすうつと横ぎり路ばたのぶなの木にばさつとをさまつた。あ、そこ、と思つて見あげると、枝のかげにすこうし羽のさきが見えたやうだつた。そして見えなくなつた。飛んだ音もしなかつた。無數の樹にはほそぼそ芽と芽が重なり、奧ぶかくその鳥をかくした。何處からか彼は小さなまるい眼を光らして私たちを見てゐるのだらうと思つたが、限りない青さに交つて一つの生物が身ぢかにゐることは嬉しかつた。

 何の鳥だつたか、ついよく見なかつた。

 

――その日の夜……私たちは私の泊つてゐた万平ホテルのレストランでデイナーをいただいた……

 

彼は非常に好い話手であつた。さういふ時まけずに私もしやべつたやうである。九時すぎその家を出た。山いつぱいの若葉がわたくしたちの上にかぶさり、曲りくねつた路が眞暗だつた。その路で、私は彼と怪談のつゞきの話をした。寒くなつたと彼が云つた。路のうへの葉がひどくがさ/\した、立止つて見あげると、葉のあひだに赤い星が大きく一つあつた。マアルス!と思つた。

「結局、世間の藝術家なんてものゝ生活はみんなでたらめなんですから……」

 何の聯絡もなく前ぶれもなく彼がいひ出した。意味があるのかないのか、突然だつた。

「そお? 女の生活も、みんな、でたらめなんですよ」

 卑下した心か挑戰の氣持からか、ふいと私はさう云ひ返した。たぶん戰鬪の赤い星が葉の中から私たちをけしかけたのだ。それつきり二人とも無言で非常にのろい足で丘を下りた。下り切つた道をまがると河があつた。

 河を渡り、すぐそこにタキシイの大きな家が見いだされた。さやうなら、と云つた。

 

――彼は彼の定宿であつたつるや旅館へと歸つて行かれた……あそこは私の定宿でもあつたのだけれど……彼と同じ旅館に泊るのは……何故か、氣が引けたのであつた……

――それから……一月ばかりして、彼はお弟子の堀さんと私の家(うち)をお訪ねになられたけれど……それが永のお別れとなつた……

――彼はその一月の後、昭和二年七月二十四日の未明、自死なさつた……

――今は……昭和四年五月……私は当年とって五十一のお婆さん……その『今の私』が……もう一度、思ひ出すのは……あの、大正十三年六月の、あの圓覺寺の廢寺の、崖の下の古い井戸の記憶……いいえ……それに結びついた、昭和二年の「あの」六月の思ひ出と……七月二十四日を遠く經てしまつた……『今の私』の思ひ……あの時……

 

 深くてむかし汲みなやんだことを思ひ出して、そばに行つて覗いて見た。水があるかないか眞暗だつた。そこへ來て死ねば、人に見えずに死ねるなと思つた。空想がいろんな事を教へた。

 

――その空想が……今の今……また、更に廣がつてゆく……あそこなら……昭和二年七月二十四日の彼のやうに、獨り、死ねる……いいえ……彼のやうに騒がれることもなく、死ねる……いいえ……あの七月二十四日を境に、心のどこかで思つたこともあつた、あの人を追つて、死ねるな、と思つた事など……でも……

 

落葉のかさなりを踏んで立つてゐると、井戸べりの岩を蜥蜴がすつと走つて行つた。その時はじめて私は薄ぐもりの日光がすこし明るく自分と井戸の上にあるのに氣がついた。同時に死んだつて、生きてるのと同じやうにつまらない、と氣がついた

 

……と……『あの時の私』は思ったのを思ひ出す……

 

死は生と同じやうに平らで、きたなく、無駄

 

……なものだ、と思つたのだ……『あの時』には……そう、『あの時の私』は、私の「女」としての私の體を……

 

「そこいらの落葉や花びらと一緒に」「蜥蜴のあそび場にする」

 

……なんて、嫌!……と……思へる程には……『あの時の私』は……まだ少し體裁屋だつた……

……だからその時は……そのまゝ山を下りて來た――

 

――でも……でも、今は違ふ――

――あの日……あの人と万平ホテルから下つた道も……あの人と碓氷峠から下つた道も……あの廢寺の古い井戸から下つた道も……その井戸からの道すがらに思つたことと……恐ろしいまでに……何も……變りはしなかつたのだ――

――それは今の……

――この生き殘つて在る私への……

――生き殘つてしまつた私への……

――道ででも……あつたのだ……

 

 

 

藪野唯至 片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲  完