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Бежин луг
   Иван Сергеевич Тургенев


ビェージンの草原

   ――イワン・ツルゲーネフ原作 中山省三郎譯
                         
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[やぶちゃん注:これは

Иван Сергеевич Тургенев(Ivan Sergeyevich Turgenev)

“Записки охотника”(Zapiski okhotnika)

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(1818~1883)の「猟人日記」(1847~1851年に雑誌『同時代人』に発表後、一篇を加えて二十二篇が1852年に刊行されたが、後の70年代に更に三篇が追加され、1880年に決定版として全二十五篇となった)の中の

“Бежин луг”(Byezhin lug)

の全訳である(1851年『同時代人』初出)。底本は昭和31(1956)年角川書店刊の角川文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」の上巻の、平成2(1991)年再版本を用いた。一部の読み(底本のルビ)については私の判断で拗音化してある。傍点「丶」は下線に代え、巻末にある訳者注を作品末に示し(但し、文中にある注記号「*」はうるさいので省略した)、一部の私に気になった語についてのオリジナルな注も混在させた(記号で明確に区別した)。なお、本文中に私の字注を入れた。訳者である故中山省三郎先生への私のオードは「生神樣」の冒頭注を参照されたい。なお、一部判読不能の部分は、同テクストを用いたと思われる昭和14(1939)年岩波書店刊の岩波文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」を参照した。【2008年7月5日】PDF化に際し、再校訂を行い、ミスタイプなど一部を補正した。【2004年11月8日】]



  ビェージンの草原



 幾日も天氣のつづいた時でなければ見られないやうな、七月のよく晴れた日であつた。朝早くから空は澄みきつてゐる。有明の光も火のやうに燃え立つのではなく、柔かな紅らみをみなぎらせてゐる。太陽も焦きつけるばかりの旱天(ひでり)の頃のやうに、火と燃えて暑苦しくはなく、また嵐の前によく見るやうな陰つた茜の色もなく、明るく、なつかしい輝きを放つて、細長い雲のかげからいそいそと浮きあがつて來て、爽かにかがやき、やがてまた薄むらさきの霧に沒してしまふ。立ちのぼる雲の細かな上緣(うはべり)は小さな蛇のやうに閃き初(そ)める。その閃光(かがやき)は煉られた銀の閃光(かがやき)のやうだ……。するとまた搖らめく光線(ひかり)が迸る。――愉しげに、おごそかに、舞ひあがるかのやうに、大どかな太陽が昇つて來る。正午(ひる)ごろになると、いつもやはらかな白い緣(へり)をつけて、黄金色(きん)を帶びた灰色の圓い高い雲がいくつとはなしにあらはれる。かぎりなく溢れる川のおもてに、靑く深く透きとほる流れにかこまれ、撒き散らされてゐる島々のやうに、雲は殆んど動かない。ただはるかに遠く、地平線に近いあたりに雲は動き、雲は互ひに寄りそうて、その間にはもう雲は見えぬが、しかも雲そのものは空と同じやうに瑠璃色に、光と熱とを一ぱいにふくんでゐる。地平線の色はほのかに、薄むらさきの色もあせて、そのまま日の暮れるまで變りなく、見わたすかぎり一樣だ。陰るところはいづこにもなく、夕立雲の叢るところもなく、ただどこかしらに、靑味を帶びた細い筋が低く垂れる、――かと思へば、それは見えるか見えないほどのこまかな雨が蒔き散らされてゐるのであつた。夕方ちかくなると雲は消える。ただ最後の黝ずんだ煙のやうに覺束ないのが、入日の前に薔薇いろの球(たま)のやうに浮かんでゐる。昇る時のやうに靜かに陽の沈んだところには、緋の色の夕映えが、しばしの間、昏くなつてゆく地の上に漂ひ、空には、心して徐かに運ぶ蠟燭の火のやうに、靜かに瞬きながら夕べの星が點される。かやうな日にはすべての色が柔かく明るいけれども冴えてはゐない。あらゆるものが身に沁みるやうな或る温か味を帶びてゐる。こんな日には、ともすれば暑さ嚴しく、野原の斜面が『いきれる』ことさへもある。けれど風が鬱積した暑さを吹き拂つて、埃りの渦卷が、――天氣つづきの確かな印(しるし)の――道に沿ひ、田圃を越えて、高く白く捲きあがり、いづこともなしに行き過ぎる。乾き切つて澄んだ空氣に、苦蓬(にがよもぎ)や、刈りとられた裸麥の香ひがする。もう一時間で夜になるといふ頃なつても、少しの濕り氣も感じられぬ。麥を刈るのに百姓たちが望むのは、かやうな日和である。

 私は丁度こんな日に、トゥラ縣のチェールン郡へ松鷄(えぞやまどり)を射ちに行つたことがある。私は實に澤山の獲物を見つけて射おとした。一ぱいになつた獵囊(かりぶくろ)は容赦もなく肩をいためつけた。私がいよいよ家へ歸らうと思つた頃はもう夕燒の色もあせて、落日の光はうけぬながら、いまだに明るい空には、冷え冷えとして影が次第に濃くなり擴がり出してゐた。私は足早に、長々とつづく灌木の『廣つぱ』を通り過ぎて、とある丘に登つて行つた。すると右手に檞の木立があつて、遠くに低い白壁造りの教會堂のある、いつも見慣れた平地が見えることと思つてゐたのに、意外にもまるで變つた、見知らぬところが現はれた。足もとには狹い谷がつづいてゐて、眞向ふには峻しい牆壁のやうに、筐柳(やまならし)の密林が聳てゐる。私は腑に落ちないままに立ち止つて、あたりを見まはした……。『ええ! とんでもないところへ來てしまつたぞ。右へ右へと寄り過ぎたのだ』と考へ、我ながらどうしてこんな間違ひをしたのかと呆れながら、大急ぎで丘を下りて行つた。すると忽ちにして、さゆらぎだもしない、不愉快な濕り氣にとりかこまれて、まるで穴倉の中へでも入つたやうだ。谷底に高く茂つた草はすつかり濡れて、平らな卓子掛(テーブルかけ)のやうに白い。その上を歩くのは何とはなしに氣味が惡い。急いで向ふ岸へ這ひ上つて、筐柳(やまならし)に沿つて、道を左手(ゆんで)にとつて歩いて行つた。蝙蝠はもう、あやしげに輪を描いて、薄暗いうちにも澄んでゐる空に顫へながら、眠りかけてゐる梢のうへを飛びめぐつてゐる。歸りおくれた若鷲は、塒をさして急ぎながら、勢ひよく、空の高みを眞直ぐに飛んで待つた。『よし、あの端れまで出たら、きつと道もあるだらう』と私は心の中で考へた、『それにしたつて、一露里(り)ほども廻り道をしてしまつた!』

 たうとう森の端れまで辿りついたが、道らしいものは一向にない。何かの、刈り殘しておいたやうな低い灌木が、限の前に廣々とつづいてゐる。そのさきの遙か遠くの方には茫々たる野原が見える。私はまた立ちどまつた。『何ていふことだらう?……ここは一體どこなんだらう?』晝のうち、どこをどうして歩いてゐたのか、私は記憶を辿り出した!『やつ! ここはパラーヒンの藪だな!』私はつひにかう叫んだ、『てつきりさうだ! あそこに見えてゐるのがシンヂェーフの森に相違ない、……だが然し、どうしてこんなところへ來てしまつたのだらう? こんなに遠く? ……をかしい! さあ、もう一度、右へとつて行かなくちやならん』

 私は灌木の茂みを越えて、右の方へと進んで行つた。そのうちに夜が雷雲のやうに迫つて來て、次第に濃くひろがつて行つた。闇は夕じめりと共に、あちこちから立ちのぼつて、また、高いところから流れ落ちて來るやうにさへも思はれる。さうかうしてゐるうちに、踏み均らされてゐない草茫々の小徑に出た。私は氣をつけて前の方を見透かしながら、小徑をたよりに歩いて行く。忽ちのうちに、あたりのものは何もかもが闇に包まれて靜まりかへる。――ただ時として鶉の聲が聞えるばかり。小さな夜の鳥が、音もなく、低く、やはらかな羽を擴げて、翔んで來て、私に危く衝きあたりさうになつたが、おづおづとわきへ外れで行つた。私は藪の緣(へり)に出て、畑の中を畦道づたひに行く。もう遠くのものを見分けるには骨が折れる。畑はあたりに仄白く、その向ふには、刻々と大きな團塊(かたまり)をなして近づきながら、陰鬱な闇が湧きあがつてゐた。いよいよ冷えてゆく空氣の中に私の跫音はかすかに聞える。色の薄らいだ空は、またもや靑くなつて來た。しかも、それはもう夜の靑味であつた。小さな星が空にちらちらと光りながら、微かに搖れ始める。

 私が森と思つてゐたのは、暗い、まん圓い丘であつた。『して見ると、ここはどこだらう?』と私はまた聲に出して同じことを繰り返し、立ちどまつた。これで三度目だ。そして相談でも持ちかけるやうに、四つ足の中では確かに最も利口な、英國種の赤ぶちのわが獵犬ディアンカを見やるのであつた。けれど四つ足の中で最も利口なこの犬も、ただ徒らに尻尾を振り、疲れはてた眼をやるせなげにぽちりとさせたばかりで、これといふうまい分別も授けてくれぬ。犬の前で私はきまりが惡くなつて、まるで急に自分の行くべき道が分かつたかのやうに、自暴(やけ)にずんずん歩いて行つた。丘の据を廻ると、深くもない窪地に出る。そのまはりは耕地になつてゐる。俄かに妙な氣持に捉へられる。この窪地はぐるりが傾斜をなしてゐて、殆んど、柄のついた鑵子(かま)そつくりの形なしてゐて、底には幾つかの大きな白い石が突つ立つてゐる。――まるで祕密な相談があつて、ここまで這ひ降りてでも來たやうだ、――窪地の中が、あまりにもひつそりしてゐて寂しく、空はその上にあまりにも坦々と、もの凄く垂れかかつてゐるので、私の心は縮み上つてしまつた。何か小さな野の獸が、石と石との間に哀れげな細い影で啼いてゐる。私は急いで再び丘の上に出た。それまでは歸り途を見つけようといふ望みは失はなかつたが、今は全く道にふみ迷つたものと觀念してしまつた。今はもう殆んど靄の中に沒れ去つたあたりの地形を見きはめようとする氣も更になく、私は眞直ぐに星をたよりに、あてもなくずんずん歩き出した。……足をやうやく引きずつて半時間ほどもかうして歩いてゐるのだ。生まれてこの方、こんな荒涼たるところへは一度として來たことがないやうに思はれた。どこを見ても火の光一つ見えず、物音一つ聞こえなかつた。だらだらになつた丘は丘に連なり、野は涯しなく野に連なり、藪は私の鼻先へ地べたから不意に湧き出したかのやうに見える。私はなほも歩きつづける。そしてもうどこかで朝まで野宿しようといふつもりになつてゐると、急に怖ろしい淵の上に出てゐるのであつた。

 私は踏み出した足をひよいと後に引いた。微かに明るい宵闇を透かせば、はるか下の方に廣い平原が見える。廣い川が平原を半圓形にめぐつて、向ふの方へ流れてゐる。鋼鐵(はがね)いろの、時をり微かに閃く水の照りかへしに、川筋がそれと知られる。私の佇(た)つてゐる丘は急に殆んど垂直な斷崖に盡き、巨きな斷崖は靑味を帶びた虛空を背景に、くつきりと黑く浮き出し、眼の前の丘の斷崖の眞下、動かない暗い鏡のやうな川のほとり、斷崖と平原とが結びつく片隅には、二つの火が並んで、赤い焰をあげて燃えたり煙つたりしてゐる。火をとり卷いて人がうごめき、影が搖れる。また折々は小さな捲毛の頭の前面が、くつきりと照らし出される……。

 ここで私は自分の迷ひ込んで來たところが分かつた。この草原は私たちの地方でビェージンの草原といって評判の高いところであつた……。しかし、もう家に歸れる見込みはない。殊に夜分のことで、足は疲れ切つて、竦んでしまってゐる。仕方がないから火のある所に近づいて、家畜商人らしく見受けられる人たちの仲間に入つて、夜明けを待つことに覺悟を決めた。私は無事に崖を降りて行つた。ところが、最後に摑まへてゐた小枝をいざ放さうといふところへ、矢庭に二匹の大きな白い尨犬が怨めしさうに吠えかかつて來た。子供らしい甲高い聲が火のまはりから聞こえて來て、二三の少年がひよいと地べたから立ち上つた。誰だと叫ぶ子供らの聲に應へる。子供らは私に近づいて來て、わがディアンカがひよつこり現はれたに殊更びつくりしたらしい犬を呼び戻す。私はみんなのゐる方へ近づいた。

 火のまはりに坐つてゐる人たちを家畜商人と見たのは間違ひであつた。これは何のことはない、馬の群れの番をしてゐる隣村の百姓の子供らなのであつた。私たちの方では、夏の暑い頃になると、夜分に馬を逐ひ出して、草を食べさせる。晝間は蠅や虻がうるさいからであらう。馬の群れを日の暮れぬ前に追ひ出して、翌くる胡、夜の白む頃に追ひかへす、――これが百姓の子供たちにとつては非常な樂しみなのである。帽子をかぶらずに、古ぼけた膝つきりの外套を着て、ひどく威勢のいい百姓馬に跨がり、樂しさうな喊聲をあげたり、喚いたり、手足を振りながら駛つては、高く跳びあがつたり、聲高く笑つたりする。輕い埃りが黄色な柱のやうに立ち上つて、街道について疾る。よく揃つた蹄の聲が遠くの方まで響き渡り、馬は耳をぴんと立てて駈けて行く。先頭第一には尾をふり上げて、絶えず歩調を變へながら、ふり亂した鬣に牛蒡の種をつけて、栗毛の尨毛といつたやうなのが駛つて行く。

 私は道に迷つたことを少年たちに話して、そのわきに腰をおろす。子供たちは私にどこから來たのかと訊ね、それから暫く口を噤んで、わきの方へ寄つてくれた。私達は少しばかり話をした。ぐるりを馬に、齧られた小さな灌木の蔭に身な横たへて、私はあたりを見廻しはじめた。それは實にすばらしい光景であつた。焚き火のまはりには、圓い紅らみがかつた光の環がふるへて、闇に吸ひかこまれて消えてしまつたのかと思はれる。焰は時をりぱつと燃えあがり、光の環(わ)の外までも急速な反射を投げ散らす。かぼそい光の舌は、花も葉もない楊の枝を一舐めして、そのまま消え失せてしまふ。すると今度は尖つた、長い影が自分の方から忽ちのうちに侵(しの)び込んで來て、火の眞際までおし寄せて來る。闇と光と組打ちをするのだ。時として、焰の勢ひが弱くなつて、光の環が狹められると、襲ひかかつて來る闇の中から、だしぬけに鼻づらの白い栗毛や、眞白い馬の首があらはれて、すばやく長い草を嚙みながら、まじまじと、ぼんやりした眼をして私達を見つめ、またうなだれる、かと思ふと忽ちにかくれてしまふ。後にはただ相變らず草を嚙む音、鼻を鳴らす音が聞こえるばかり。光のあたるところからは、聞の中でしてゐることが、なかなかに見分けがつかぬ。だから、手近にあるものまで、何もかもが黑い幕にでも隔てられてゐるやうに見える。が、遙かに遠く、地平線に近いあたりには、丘や森が長く點在してゐるのが見える。暗いながらも澄み渡つた神祕的な壯麗さをたたへながら、私達の上に嚴かに、涯もなく高くかかつてゐる。あの一種特別な、疲れを誘ふまでの、爽かな香ひ――露西亞の夏の夜の香りを吸ひ込むと、胸は心地よく締めつけられるやうだ。あたりには殆んど物音つ聞えない……、ただ稀れに、近くの川にだしぬけに大きな魚が飛び跳ねて水音を立てるのと、寄せ來る故に僅かに搖れて、汀の葦が軟かにそよいでゐるばかり……。焚火ばかりが靜かに、ぱちぱちと爆(は)ぜてゐる。

 子供たちは火のまはりに坐つてゐる。そこにはさつき私に嚙みつかうとした二匹の犬も坐つてゐる。犬は私が傍にゐるので永いこと心を落ちつけることが出來ず、睡たげな眼を細め、横目で火の方を見ながら、時をりは自分たちの威嚴を極度に感じて唸つたりした。最初は唸るだけであつたが、後には思ひ通りにならないことを悲しむかのやうに、いくらか泣き聲になつて來た。少年たちは、フェーヂャにパウルーシャに、イリユーシャにコスチャにワーニャ、全部で五人であつた。(この名前は、話を聞いてゐて承知したのであるが、いま私はこの少年たちを讀者諸君に御紹介しようと思ふ)

 先づ一番年かさなのがフェーヂャで、年頃は十四くらゐに見える。すらりとした子で、きれいな、ほつそりとした、いくらか小づくりな顏をしてゐて、捲毛の、光澤(つや)のある髮に、ぱつちりした眼をし、いつも半ば愉しさうな、半ば呑氣さうな微笑みを浮かべてゐる。樣子を見るのに裕福な家庭に育つたらしく、この野原へ來たのも暮らし向きの必要からでなく、ただ何となく慰み半分に來たものらしい。黄色い緣(ふち)をとつた華やかな更紗の襯衣を着て、小さな新しい百姓外套(アルミャク)を引つかけてゐるが、それが撫肩(なでかた)から今にも滑り落ちさうになつてゐる。淺黄の帶には梳櫛がさがつてゐる。胴の淺い長靴は、たしかに自分のもので、親父ゆづりではなかつた。次の少年パウルーシャは縺れた黑い髮の毛に、灰色の眼をし、頰骨が廣く、蒼白い、痘痕顏(あばたがほ)をして、口は大きいながらも締まりがあつて、頭は俗にいふ『麥酒鑵』ほど大きく、體はずんぐりしてゐて不恰好である。この少年は決して器量よしではなかつた、――それは否むわけには行かない。しかも私はこの子が氣に入つた。まことに利口さうで、率直で、またその聲には力がこもつてゐた。着物は人に自慢の出來るやうなものではなかつた。身につけてゐるものといへば粗末な手織の襯衣と、補綴(つぎ)のあたつた股引だけである。三番目のイリューシャの顏は甚だ振つはなかつた。鉤鼻に、しよぼしよぼした眼、間のびのした輪郭、すべてが一種の愚鈍らしい病的な焦心をあらはしてゐた。固く結んだ唇はいささかも動かず、引き寄せられた眉は弛むことなく、――絶えず焚火が眩しいので顏を顰めてゐるやうな恰好である。黄いろい、といっても殆んど白に近い髮の毛は、しよつちゆう兩手で耳の上まで引つ張り下ろしてゐる低いフェルト帽のかげから、尖つた鰭のやうにはみ出してゐる。新しい木の皮沓と脚袢を穿いて、胴のまはりを三重に卷いてゐる太い繩は、さつぱりした黑の長襯衣(スヴィトカ)をぴつたり締めつけてゐる。この子もパウルーシャも見たところでは十二を越してゐまい。四番目のコスチャはまだ十歳(とを)そこそこの少年で、その物思はしげな悲しさうな眼つきは私の好奇心をそそる。顏は大きくなく、瘦せてゐて、雀斑(そばかす)があつて、栗鼠のやうに顎が尖つてゐる。唇はやつと見分けがつくくらゐに薄いが、大きい黑味がちの光る眼は、みづみづしく輝いて、異樣な印象を與へる。口では――少くとも彼の口では、――言ひあらはすことの出來ない或るものを、この眼が語らうとしてゐるやうに見える、彼は背が小さく、弱々しさうな身體つきをしてゐて、身なりもかなりに見すぼらしい。殘る一人のワーニャ、これは最初、私の眼にとまらなかつた。この子は蓆をかぶつて、おとなしく丸まつて、地べたに寢ころんでゐた。ただ時をりは亞麻色の捲毛の頭をのぞかせてゐた。この子はせいぜい七つ位であつた。

 かうして私はわきの灌木の蔭に横になつて、子供たちの樣子を眺めてゐた。小さな鍋が一方の焚火にかかつてゐて、鍋の中には『馬鈴薯』が煮えてゐる。パウルーシャは鍋の番をし、跪づいて、沸(たぎ)り出した湯の中へ木串を突つこんでゐる。フェーヂャは外套の裾を伸べて、頰杖をつきながら横になつてゐる。イリューシャはコスチャのわきに坐り、相變らず一生懸命に眼を細めてゐる。コスチャは少しくうなだれて、どこか遠くの方を見てゐる。ワーニャは蓆をかぶつて身動きだもしない。私は眠つたふりをした。子供たちは又ぽつりぽつり話を始めた。

 最初はみんなが、あれやこれや、明日の仕事のことや馬のことなどを、とりとめなく話してゐたが、不意にフェーヂャがイリューシャの方を向いて、中斷されてゐた話を引き戻すやうな風をして、彼に訊ねた。

 「そんなら、何かい、お前はほんとに家魔(ドモヲイ)を見たのけ?」

 「うんう、見ねえよ、ドモヲイは見らんねんだもの」とイリューシャが嗄れた、低い聲で答へたが、その聲音(こわね)は顔の表情とこの上なく釣り合つてゐた、「おれは聲を聞いただけなんだよ……、それも俺ばかしぢやねえんだ」

 「お前(め)ら方のどこにゐるんだ?」とパウルーシャが訊く。

 「あの古い紙漉場(かみすきば)によ」

 「おめえら、工場さ行つてんのか?」

 「行つてつとも。おらアヴヂューシカ兄(あん)ちやんと、伸方(のしかた)やつてんだぞ」

 「あれ、お前(めえ)は職人なんだな……」

 「さあ、それぢや、どうして聞けたんだい、その聲は?」

 「あの、な。俺とアヴヂューシカ兄(あん)ちやんと、フョードル・ミヘーフスキイとイワーシカ・カスイと、赤丘(グラースヌイ・ホルムイ)から來たもう一人のイワーシカと、イワーカ・スホルーコフと、それからもつとゐたんだ。みんなで十人位(くらゐ)ゐたんだけど、みんな當番の組で、紙漉場さ宿直(とまり)になつたんだ。本當の宿直(とまり)つていふわけぢやないんだけど、監督のナザロフが歸(けえ)さねんだもん。『お前(めえ)ら、家へ歸(けえ)りてえつたつて、明日(あした)は仕事がうんとあるんだから、歸(けえ)つちやなんね』つて。そいで俺(おん)ら殘つて、みんな一緒にごろ寢してたんだ。そしたらアヴヂューシカが、さあ、家魔(ドモヲイ)が出たらどうする? なんて言(ゆ)つたんだ……。アヴちやんが、まあだ言ひ切らねえ内に、ふいっと[やぶちゃん注:「っ」の促音はママ。]誰だか俺(おん)らの頭の上を歩き出したんだ。俺(おん)らは下に寢てんのに、そいつは上の車輪(くるま)の邊を歩き出したんだ。じつと聽いてたら、歩いてて、歩くたんびに踏み板がしなつて、みしみしするんだ。それから俺(おん)らの頭の上を通り過ぎてしまふと、急に水がさらさらさらっと[やぶちゃん注:「っ」の促音はママ。]水車に流れ込んで、水車がぎいこつとんと鳴つて廻り出した。樋の口は外づしてあんのにな。誰が口を上げて、水を落したんだか、俺(おん)ら不思議でしやうがね。でも、水車は暫く廻つて、それきり止まつちやつたんだ。やがて、足音は上の戸んとこへ行つて、梯子段を、こんな風に、何だか急(せ)いてもゐねえやうに、ゆつくりゆつくり降りて來るんだ。梯子段も歩くと唸るやうな音を出して……、そのうちに、いよいよ俺(おん)らの部屋の戸口まで來て、暫くのあひだ、待つてゐる、待つてゐる、――そしたらひよいと戸が一ぱいに開いちやつたんだ。俺(おん)ら、たまげちやつて、見ると、何(なん)にもゐねえ……ふいっと[やぶちゃん注:「っ」の促音はママ。]、今度は大桶(おけ)のわきの漉桁が動き出して、持ち上つて、水に浸つたかと思ふと、水の外を歩いて、こんな風に歩いて、まるで誰かが、濯(ゆす)いでるやうだつけが、また元んところへ歸(けえ)つちやつた。さうすると今度は他の大桶(おけ)のそばにあつた鈎が釘からはづれて、また元の釘に引つかかる。それから今度は誰か戸口の方さ行つたやうだと思(も)つてたら、いきなり咳をしはじめた。何でも羊みたいによ。それからごほんとやつたんだ。……俺(おん)らみんな一かたまりになつて、お互ひに、からだの下に頭を突つこんぢやつたよ……。あの時はほんとにおつたまげたなあ!」

 「ほう、さうかい!」とパーウェルが口を出した、「だが、一體、あいつは何だつてまた咳なんぞしたんだか?」

 「知んね。きつと濕つぽいからかも知んね」

 暫く誰もが默つてゐる。

 「どうした」とフェーヂャが訊く、「馬鈴薯(じやがいも)は煮(に)えたかな?」

 パウルーシャが突ついてみる。

 「駄目だ。未だ生(なま)だ……。あれ、何だか跳ねたぞ」川の方へ顏を向けて、彼はかう附け足した、「きつと、梭魚(かます)だ……。あれ、星が飛んだ」

 「いや、みんな、おら話すことがあるんだ」とコスチャが細い聲でいひ出した、「あのな、この間、父ちやんが話してくれたことなんだがな」

 「よし、聞かして貰はう」とフェーヂャが、尻押し顏にいふ。

 「お前(めえ)ら、ガヴリーラを知つてつか、あの大村の大工がこと?」

 「うん、知つてつとも」

 「んぢや、どうしてあいつがあんなにいつも陰氣な顏して、物を言はねんだか、知つてつけ? あんなに陰氣なのはな、かういふ譯なんだよ。父ちやんが話して聞かしたんだけど、あの人がな、胡桃とりに森(やま)さ行つたんだと。うん、胡桃とりに森(やま)さ行つたんだけど、道まぐれつちやつてよ。どんどん入つてつちやつて、とんでもねえ所さ入り込んぢやつたのよ。一生懸命にあちこち歩き廻つたけんど、それでもなあ、駄目よ! 道なんざ見つかんね。表はもう眞つ暗くなつた。それで仕方がねえんで、樹の下さ坐つて、『朝まで待つべ』と思(も)つたんだと。坐つてたら、居眠りし出したんだ。うとうとやり出したと思(も)つたら、急に誰かが呼ぶ聲がする。見たつて、誰もゐねえ。またうとうとやり出すと、また呼ぶ聲がする。今度はようく眼をあけて見ると、前の木の枝に水妖(ルサルカ)がゐて、からだなゆすぶりながら、大工を呼んでゐる。息がとまりさうなくらゐ笑つて、笑つて、さんざん笑つてゐる……。それにお月さまは眞つ晝間のやうに、とてもとても明るいので、何から何まで見えるんだ。水妖(ルサルカ)はやつぱり大工を呼んでゐる。水妖(ルサルカ)は體ぢゆうが透き通るやうに白くつて、枝さ腰かけてる。ちやうど鱸(すずき)か、白楊魚(かはぎす)みたいに、――でなけりや、ほら、あんなに白つぽくて銀色なのは鮒だな……。大工のガヴリーラはぼうつと氣が遠くなつちやつたのに、水妖(ルサルカ)の方ぢやあ、やつぱし笑つてて、來い來いつて、手で招んでゐるんだと。ガヴリーラはすんでのことで起き上つて、水妖(ルサルカ)のいふことを聽くところだつたが、きつと神樣が教へて下すつたんだな、いきなり氣がついて十字を切つたんだつて……、その十字を切んのは、とても大へんだつたと。手がほんとに石みたいになつて廻らなかつたつてな。ああ、なんておつかねえことなんだろ! ……それで、やつと十字を切つたんでな、水妖(ルサルカ)は笑ふのをやめて、急に泣き出したんだ…‥、泣いてな、眼を頭髮(あたま)の毛で拭くんだけど、水妖(ルサルカ)の毛つていふのは、まるで大麻みてえに碧いんだぞ。それでガヴリーラがじつと水妖(ルサルカ)を見て、ようく見て、訊き出したんだ、『おい、森の精、何だつて泣くのだ?』つて。すると、水妖(ルサルカ)はかういつたつてよ、『これ、人間よ、お前さんが十字なんかを切らなかつたら、死ぬまで私と一しよに面白く暮らせたものを。お前さんが十字なんか切るものだから、私は悲しくつて泣いてるんだよ。けれど、私ひとりばかりが惱みはしないよ。お前さんだつて、生涯、惱みつづけるやうにして上げるわ』さういふんだ。と思つたら、消えちやつたんだ。すると直ぐにガヴリーラに分かつて來たんだ、どうしたら森の中から出られつか、分かつて來たんだ……。その時からだよ、あんなにいつも陰氣な顏をしてんのは」

 『へえっ!』と暫くのあひだ默つてゐたフェーヂャがいふ、「だって、どうしてあんな山鬼なんぞが、そんなに基督信者(しんじや)の魂(こころ)を荒らせるのかな、だつて、ガヴリーラだつて、そいつのいふことを聽かなかったんぢやねえけ?」

 「ああ、そしてな、見ろ、お前(めえ)!」コスチャがいふ、「ガヴリーラの話ぢや、水妖(ルサルカ)の聲は蝦蟇(がま)みてえに、悲しさうな聲だってよ」

 「お前の父つあんが、それを話して聞かしたのかい?……」フェーヂャがつづけていふ、「うん。おら、天井床(パラーチ)に寢てて、すつかり聞いたんだ」

 「きたいな話だなあ! どうして大工は悄氣てんのかな? ……さうすつと、きつと水妖(ルサルカ)はガヴリーラが氣に入つたんで、それで呼んだんだな」

 「うん、氣に入つたんだよ」イリューシャが相槌をうつ、「さうとも! 水妖(ルサルカ)はガヴリーラを擽(くすぐ)んべと思(も)つたんだな、きつと、さう思(も)つたんだ。擽(くすぐ)んのが商賣なんだよ、あの水妖(ルサルカ)なんどの」

 「けんど、ここいらにも、きつと水妖(ルサルカ)がゐるんだんべ」とフェーヂャがいふ。

 「ゐねえよ」とコスチャが答へる、「ここらはきれいで、明けつ放しな所だもの。ただ、川が近くにあるけんど」

 誰もが默り込んでしまつた。不意にどこか遠くの方に、呻くやうな、物音が、長く尾をひいて、響き渡る。時おり、深い靜寂の中に起こつて、上へ上へと昇つて行つて、暫く空中に漂ひ、やがて、靜かに吹き散らされてゆく、あの名状しがたい夜の物音の一つである。耳をすましてみても、何も聞こえないやうで、それでゐて、やはり鳴り響いてゐる。誰かが、地平線のあたりで、長々と叫び聲あげると、も一人、誰かほかの者が、森の中から細い、鋭い笑ひ聲でそれに應へ、微かな、しゅうという[やぶちゃん注:「ゅ」の拗音はママ。]やうな音が川のおもてを走つてゆくかのやうに思はれる。子供たちは顏を見合はせて、身慄ひした。

 「俺たちには神樣がついてて下さる!」とイリューシャが呟く。

 「やい、臆病烏!」パーウェルが叫んだ、「なに魂消(たまげ)てんだ? 見ろ、馬鈴薯(じやがいも)が煮(ね)えたぞ」(一同は鍋のそばへ寄つて來て、湯氣の立つ馬鈴薯を食べ始めた。ただワーニャだけは身動きもしなかつた)「おい、どうしたんだ、おめえ?」とパーウェルがいふ。

 けれども彼は蓆の下から匍ひ出して來なかつた。鍋は忽ち空(から)になつた。

 「あのな、お前(めえ)ら、聞いたか」とイリューシャがいひ出した、「この間、おら方のワルナヸーツィであつたことを?」

 「あの、土堤の上でけ?」

 「うん、さうだ、あの土堤の上だ、切れた土堤の。あすこはとつても氣味わるいとこだ、さむしいとこだぞ。今にも化物が出さうなとこだぞ。まはりに窪つたまりだの、谷だのばつかしあつて、谷の中にはいつも蛇(くちなは)がゐるんだ」

 「うん、それで、どんなことがあつたんだい? 話して聞かせろよ……」

 「あのな、こんなことがあつたんだ。フェーヂャ、きつとお前(めえ)、知んめえけんど、おら方のあすこにはな、土左衞門が埋まつてんだ。昔々、池がまだ深かつたころに土左衞門になつちやつたんだ。墓場はまだ見(め)えら。少し見(め)えら。こんなにな、土饅頭がな……。それでな、先日(せんころ)、お邸(やしき)の番頭が、獵犬番(いぬばん)のエルミールを呼んで、『エルミール、駅遞へ行って來う』って言つたんだ。おら方のエルミールはしよつちゆう駅遞さ行くのが役目だつたんだ。自分の預かつてゐた獵犬(いぬ)をみんな死なつしやつたんで。何でだか知んねけんど、エルミールの手にかかると犬が生きてかねんだ。本當にいつも生きてたこたあねえんだ。いい獵犬番(いぬばん)でな、非のうちどころのねえ人間だけんど。それでな、エルミールは郵便とりに馬に乘つてつて、町でぐづぐづして、歸りにはもう醉つぱらつてた。その晩は明るい晩で、お月樣も照つてゐた。……かうしてエルミールは土堤のところにさしかかつた。通り道だから仕方がね。そこを獵犬番(いぬばん)のエルミールが馬に乘つて通ると、土左衞門の墓のうへに、小羊が、眞つ白い、縮れつ毛の可愛らしい小羊が行つたり來たりしてゐる。それで、エルミールは『よし、一つあいつを捕まへてやらう、――なんで逃すもんか』と思つて、馬から下りて、兩手で抱き上げたんだ。……それでも羊は平氣の平左なんだ。エルミールが馬のそばまで來ると、馬は鼻を鳴らしながら飛びのいて、しきりに首を振るんだ。それでも、その人は『どうどう』と馬にいつて、羊を抱いたまんま馬に乘つて、また進んで行つた。羊を胸のところへ抱へて。エルミールが羊を見ると、羊もじいつとエルミールの顏を見るんだ。こんなにな。それで、獵犬番(いぬばん)のエルミールも氣味が惡くなつて來た。『羊がこんなに人の顏を見つめるなんて、まだ聞いたことのないことだ』と思つたが、別に變つたこともない。こんな風に羊の毛を撫でて、『羊(めえ)、羊(めえ)!』つていつたんだ。さうすると、直ぐに羊も齒をむき出して、『羊(めえ)、羊(めえ)!』つていふんだつて……」

 この話をしてゐた子供が、まだこの最後の言葉を口にするかしないうちに、いきなり二匹の犬が一せいに跳ね起きて、聲すさまじく吠え立てながら、火のそばから駈け出して、闇のなかに消えて行つた。子供たちはみなぎよつとした。ワーニャは蓆の下から跳ね起きる。パウルーシャは大聲をあげながら犬のあとを追ひかける。犬の吠える聲は忽ちに遠くなつた。……驚いた馬の群れが右往左往するただならぬ蹄の音が聞こえる。パウルーシャは大きな聲で叫んでゐる、「白(セールイ)!」「黑(ジューチカ)!」……やがて吠える聲がやむ。パウルーシャの聲はもうかなり遠くの方から聞こえて來る……。また暫く經つ。子供らは何ごとかが起こるのを豫期してでもゐるかのやうに、そはそはしながらあたりを見まはす……不意に飛ばして來る馬の蹄の音が聞こえる。馬は薪の積んであるすぐ側に、はたと止まる。鬣にしつかりつかまつて、ひらりとパウルーシャが飛び降りる。二匹の犬はまたもや光の環(わ)の中へ駈け込んで來て、赤い舌を出しながら、直きに坐る。

 「何がゐた? 何だ?」子供たちが訊く。

 「何でもないよ」パウルーシャは手で馬を逐ひのけて答へる、「きつと犬が何か嗅ぎつけたんだよ。俺は狼だと思つた」胸一ぱいに、せはしく呼吸(いき)をしながら平氣な聲で附け加へる。

 私は思はずもパウルーシャの姿に見とれた。このときの樣子はまことに立派だつた。早駈けのために活氣づいた不器量な顏は、剛膽と堅い決心とに燃えてゐた。宵闇に棒きれ一つ持たず、彼はいささかもためらふことなく、ただひとり狼を目ざして突き進んで行つたのだ……。『何ていふ豪い子だらう!』と私は彼を眺めながら考へた。

 「それぢや、あの、みんならは狼を見たことあんのけ?」と臆病者のコスチャが訊ねる。

 「ここらにや何時(いつ)でもうんとゐる」パウルーシャが答へる、「でも、冬だけだよ、怖(おつかね)えのは」

 彼はまた焚火のまへにうづくまつた。地べたに腰をおろしぎはに、一匹の犬のむくむくした頸に手をかけた。御氣嫌をとられた犬は有難さと得意さを感じてゐるらしく、時をり横目にパウルーシャの方を見ながら、いつまでも首を動かさなかつた。

 ワーニャはまた蓆の下にもぐり込んだ。

 「イリューシャ、さつきの話は、ずゐぶん怖(おつかね)えな」とフェーヂャが話し出した。裕福な百姓の息であるから、いつも音頭取りにならなければならぬ(尤も自分では口數をきかない。自分の品位をおとすのを怖れてでもゐるかのやうに)。「それで、さつき犬が吠えたのは、何かの化け物が吠えさしたんだよ……、うん、さうだ、おれも聞いたよ、お前(めえ)ら方のあすこは氣味惑い所だつてな」

 「ワルナヸーツィか? ……きまつてら! ……あすこはとつても氣味(きび)わりいとこだよ! あすこでは、何べんも大旦那樣を、――死んだ旦那樣見た人があるちけよ。裾の長い上衣(カフタン)を著て、行つたり來たりして、いつもかうして溜息ついて、地べたを見まはして、何だか搜してんだちけ。一度はトロフィームィチぢいさんが出遭って、『旦那樣、イワン・イワーヌィチ、そんなに地べたを御覧になつて、何をお搜しなすつてらつしやるんですか?』つて訊いたんだよ……」

 「おぢいさんがさう訊いたのかい?」とびつくりしてフェーヂャが念を押した。

 「うん、訊いたんだ」

 「ほう、トロフィームィチは、とても偉かつたんだなあ……、さあ、それで旦那は何だつて?」

 「『錠切草をさがしてゐるのぢや』といふ返事だつたが、その聲がとてもとても低くつて、『錠切草』つて、こんな風なんだよ。『旦那樣、イワン・イワーヌィチ、錠切草なんて、何になさるのです?』といふと、『わしを壓しつけるんだ。墓が壓しつけるんだ、トロフィームィチ、だから向ふへ脱(ぬ)け出して樂(らく)になりたいのだ』つて……」

 「ほう、とんでもない!」フェーヂャがいふ、「して見ると、餘り長生きしなかつたんだな」

 「ああ、たまげた話だ」コスチャが口を出す、「おれはまた、萬聖節の時しか、死んだ人には會へないと思つてた」

 「死んだ人にはいつだつて會へるよ」と、私の見たところでは、誰よりもよく村の迷信に通曉してゐるらしいイリューシャが確信ありげな口吻で引き取つた、「だけど、萬聖節の日には、その年に死ぬ番にあたつてゐる人なら、生きてる人でも見分けられるつてよ。見たければ、夜、教會堂の玄閲に立つて、じつと街道の方ばかり見てりやいいんだ。さうすると、生きてる人がな、それ、その年のうちに死ぬ人が、道を通り過ぎるんだ。去年は、村のウリヤーナ婆さんが教會堂の玄闊へ見に行つたんだ」

 「それで、誰を見たんだい?」とコスチャが好奇心をもつて訊ねる。

 「見たとも。初めはずいぶん長いこと、じいつと坐つて待つてたけんど、誰も見(め)えねえし、なんにも聞こえねえ……、ただ犬つころが何處かで、かうして一しきりに吠えてゐる、いつまでも吠えてゐる、そんな氣がするんだ……、そのうちにひよいと見ると、小徑を男の子が襯衣一枚で歩いて來る。ようく見ると、イワーシカ・フェードセーフがやつて來るんだ……」

 「あの、この春死んだ子供?」とフェーヂャがさへぎる。

 「うん、さうだ。あれがとぼとぼ歩いてて、顏を上げねえんだ……、それでも、ウリヤーナ婆さんには誰だか分かつたんだ‥…、でも、それからまた見ると、今度は婆さんが歩いてる。ウリヤーナ婆さんは一生懸命に見ると――、え、たまげるだらう! ……その道を歩いてる婆さんは自分なんだ。あのウリヤーナ婆さんがな、自分でよ」

 「自分でなんて、そんなことがあるもんか?」とフェーヂャが訊ねた。

 「ほんとだとも。嘘ぢやねえよ」

 「でも、變だなあ、あの婆さんはまだ死なないぢやないか?」

 「だつて、まだ一年とたたないもの。見ろよ、あの婆さんはやつと呼吸(いき)をついてるだけなんだから」

 一同はまた靜かになつた。パーウェルは枯枝を一つかみ火に放りこんだ。急に燃えあがる焰に枯枝はくつきりと黑く浮き出し、ばちばちと音を立て、煙をあげ、燒けた端の方をいくらか上にしながら反りはじめる。光の反射は、はげしくふるへながら、四方八方に、わけても上の方に伸びる。不意にどこからともなしに一羽の白い鳩が、まつしぐらに明るい光の中へ飛び下りて來て、燃えさかる火影な一ぱいに浴びながら、一ところをぐるぐると廻る。やがて翼を鳴らしながら消え失せる。

 「きつと家からはぐれちやつたんだ」とパーウェルがいふ、「だからどつかへ出るまで飛んで行つて、出たところで夜明かしをするんだらう」

 「でも、パウルーシャ、あれは正直な人間の魂が天へ昇つて行つたんぢやないかな、え?」

 パーウェルは火の中へ、もう一つかみの枯枝を差しくべる。

 「さうかも知んね」つひに彼もいふ。

 「ぢや、話して聞かせろよ、パウルーシャ、たのむから」とフェーヂャがいひ出す、「お前(め)ら方のシャラーモヲでも天の前兆(めえじらせ)は見(め)えたのか?」

 「お天道さまが見えなくなつた時のことだらう? そりや、見(め)えたとも」

 「きつと、お前(め)らもたまげたらう?」

 「でも俺(おん)らばかりぢやねえぞ。俺(おん)らの旦那樣なんぞ、前から、今度、前兆(めえじらせ)あるぞつて、俺(おん)らに話してたくせして、暗くなつて來たら、自分でとてもたまげつちやつたさうだ。それから女中(をんな)部屋ぢや、暗くなつて來たら、料理番の婆さんが、おめえ、直ぐに壺をみんな持ち出して、火搔きで毀しちやつて、竈ん中へ打つ込んぢやつたんだ。『もう世の最後(をはり)の日が來たんだから、今さら物を食ふ人なんかないぞ』つてな。それで、おつゆがそこらぢゆう一杯こぼれたんだ。それから村ぢや、こんな噂があつたつけ。白い狼が世界中を駈け廻つて人間を食つてしまふだの、生餌(いきゑ)をとつてたべる鳥が飛んで來るだの、やれ、恐しいトリーシカの姿が見えるだらうのつて」

 「そのトリーシカつてのは、どんなの?」とコスチャが訊ねた。

 「お前、知らねえのか?」とイリューシャは熱をもつて引き取つた、「お前(めえ)、トリーシカを知んねなんて、お前(めえ)はどこの者(もん)だ? お前の村にや世間知らずが揃つてんだな、井戸ん中の蛙(かへる)がな! トリーシカつちふのは、いつかは世の中へ出て來るおつそろしい人間でな、とてもおつそろしい人間で、出て來ても、捉めえることもどうすることも出來ねえんだぞ。みんなが、たとへば百姓が、そいつをつかめべと思(も)つて、棒もつて追つかけて取り卷いたつて、そいつは百姓の眼をくらまし、――すつかり眼をくらましちまふもんだから、みんなが同志うちをやるやうなことになるんだ。牢屋へでもぶち込んでみろ、さうすると柄杓へ水を入れて來て、飮ましてくれろつていふ、柄杓を持つて行くと、柄杓ん中へもぐり込んで、ふいつと消(け)えちやうんだ。それから鎖でつないでおくと、ぽんとそいつが手を叩く。するともう鎖はばらばらに解けちまふ。まあ、こんな風にして、そのトリーシカは村だの町だのを歩きまはるんだ。このトリーシカは惡智慧がある奴だから、たくさんの基督信者(しんじや)を迷はすんだ……、それでもどうすることも出來ねえんだよ……、本當にあれは惡智慧のある、おつそろしい奴だからな」

 「まあ、さうだ」パーウェルは持ち前のゆつたりした聲で話しつづける、「そんな奴だよ。つまり、こいつを俺(おん)らが方ぢや待つてたのよ。年寄り達は天の前兆(めえじらせ)が始まると、すぐにトリーシカがやつて來るぞつて言ひ出したんだ。そのうちに、前兆(めえじらせ)が始まつたのよ。村中の者はみんな、往還だの畑だのへ散らばつて、どんなことになるかと待つてたんだ。おら方は、みんなも知つてる通り、見晴らしのいい、廣々としたところだ。みんなが見てると急に大村の方から、妙な男が坂道を下りて來るんだ。とてもおつそろしい頭をしてるんだ、……だから、みんなが『おや、トリーシカが來るぞ。おうい、トリーシカが來るぞ!』つて呶鳴つて、四方八方へ逃げ出したもんだ。名主(なぬし)は濠ん中へ這ひこむ、奧樣は門の下の嵌め板にはまつて、命がけで呶鳴る。あんまり怒鳴つて飼ひ犬をびつくりさしたもんだから、犬は鎖をちぎつて、籬(うね)を越えて森ん中へ逃げこんだ。それからクジカの親父のドロフェーヰッチは燕麥(からすむぎ)の畑ん中へ駈け込んで、ちよこんと尻餠をついたまま、鶉みたいな聲を出して、『いくら人殺しの惡黨でも、小鳥ぐらゐは見逃しなさろ』と喚くのだ。こんな風に、みんなが大騷ぎをしたんだ……、ところが、その男は村の桶屋のワヴィラだつたのさ。新しい木彫の壺を買つて、その空(から)の壺を頭にかぶつて來たんだよ」

 子供たちはみんなどつと笑ひ出した。やがて、野天で話をしてゐる人たちにはよくあることであるが、また暫くのあひだ、しんとしてしまつた。私はあたりを見まはした。夜は嚴かに重々しく更けてゆく。淺宵の露をふくんだ涼氣は夜半の乾いた濕さに變る。この温みは淺い眠りにおちた野原に、やはらかな寢帳(たれぎぬ)のやうに、なほ暫くとどまつてゐることだらう。黎明の最初のささやきを耳にし、最初の露しづくを見るまでには、まだだいぶ間(ま)がある。空には月もない。その頃は月の出が晩かつたのであつた。數限りもない金色の星が、相競うてきらきらと輝きながら、みな靜かに天の河の方に流れてゆくやうに見える。確かに星をながめてゐると、箭(や)のやうに速く、絶えてとどまることのない地球の運行が仄かに感じられる……。ふと河のうへに、奇妙な、鋭い、痛々しい叫び聲が二度ほど聞こえたが、暫くすると今度はずつと遠くの方で繰り返された……

 コスチャは身懷ひした……。「何、あれは?」

 「あれは蒼鷺が啼いてるんだよ」パーウェルが落ちついて答へる。

 「蒼鷺」コスチャが鸚鵡返しにいふ、「そんなら、パウルーシャ、昨日(きのふ)の晩におれが聞いたのは何だらう?」暫く言葉を切つて、また言ひ添へた、「きつと、お前(めえ)なら知つてるかも知れん……」

 「何を聞いたんだ?」

 「おれが聞いたのはかうなんだよ。昨夜(ゆんべ)、俺は石山(カメンナヤグリヤダ)からシャシキノへ行つたんだ。初めはずつと胡桃林(くるみばやし)を通つて、それから草つ原にさしかかつた、――ほら、あの谷へ下りて行く險しい曲り角のあるとこだ、「ほら、春つからずつと水溜りがあるだらう。お前も知つてるだらうが、そこには葦が一杯に生えてるで、俺がその水溜りの傍を通つたら、どうだ、ふいっと[やぶちゃん注:「っ」の促音はママ。]水つ溜りん中から、誰だか悲しさうに、情けねえ聲で、うーう……うーう……うーう! つて唸る聲がするんだ。俺あ、おつかなかつたの何(なん)のつて、もう晩(おそ)いし、そいつがとても苦しさうな聲なんだもの。だから俺あ、本當に泣きつ面になつてたかも知れん……、一體、あれは何だつたかな? え?」

 「一昨年(おととし)、あの水つ溜りの中へ追剝ぎが山番のアキームを沈めちまつたんだ」とパウルーシャがいふ、「だからきつと、アキームの魂が泣いてるんだよ」

 「あ、ほんとにさうかも知んね」とコスチャが、それでなくても大きい眼を一そう大きくして相槌をうつた、「俺あ、アキームがあの水つ溜りに沈められたのを知んなかつた。知つてたら、あんなにたまげなかつたな」

 「けんど、あそこにや、こんなちび蛙(けえる)がゐるちけよ」とパーウェルが言葉をつづけて、「それがあんなに悲しさうに鳴くんだと」

 「蛙(けえる)? なあに、あれは蛙(けえる)ぢやねえよ、……あれが何で……(蒼鷺がまた川の上で鳴いた)――あれ、あいつ奴!」コスチャは思はずも口走つた、「まるで山靈(すだま)が鳴いてるやうだ」

 「山靈(すだま)は鳴かないよ。啞だもの」イリューシャが口を出す、「ただ手をたたいて、木の枝をばちばち鳴らすばかりだよ……」

 「ぢや、お前、見たことあんのか、山靈(すだま)を、え?」フェーヂヤが嘲るやうに茶々を入れる。

 「うんう、見たことはねえよ。見てたまるもんか。でも、ほかの人は見たつてよ。ついこの間も、おら方の百姓が引つぱり廻されたんだよ。森(やま)の中をどんどん引つぱり廻されたんだけど、いつも同じ、森(やま)の草つ原のまはりはかり歩かされたんだ……それで、夜の白む頃にやつと家へ歸れたんだ」

 「ぢや、その百姓は山靈(すだま)を見たんだな?」

 「うん、その人の話ぢや、でつかい、でつかい奴で、立つてゐるんだけど、身體ぢゆうが黑つぽくて、まるで木の蔭にでもゐるみたいで、ようく、見分けがつかねえんだつて。何だかお月樣に見られねえやうにかくれてるらしいつて。それで、でつかい眼で、じろじろ見つめて、眼をぱちくりぱちくり、しきりにやつてんだつて……」

 「止(や)めろよ、お前(めえ)!」フェーヂャは輕く身慄ひして、肩をすくめながら叫んだ、「ちえっ!」[やぶちゃん注:「っ」の促音はママ。]

 「一體、何だつてそんな汚(けが)らはしいものが世の中に擴がつてゐるんだらう?」とパーウェルがいふ、「ほんとに!」

 「そんなに惡口いふなよ。聞こえるから」とイリューシャが注意した。

 またもや一座が靜まりかへる。

 「見ろ、見ろ、みんなら」とだしぬけに子供らしいワーニャの聲が聞こえる、「見ろ、天上の小さい星を。蜜蜂みたいに、ごちやごちや集まつてるよ!」

 彼は蓆の下から初々(うひうひ)しい小さい顏をつき出して、小さな拳で頰杖をつき、大きな、おとなしさうな眼を靜かに上へ向ける。子供らの眼は一せいに空に注がれて、直ぐには伏せられなかつた。

 「どうだい、ワーニャ」とフェーヂャがやさしく言ひ出した、「お前の姉のアニュートカは丈夫か?」

 「丈夫だよ」とワーニャが舌たるく答へた。

 「どうして、おら方さ遊びに來ないのかつて、さう言つとくれ……」

 「おら、どうしてだか知んね」

 「遊びに來るやうに言つてくろ」

 「ああ」

 「いい物をやるからつて、さう言つて」

 「ぢや、おれにもくれる?」

 「やるとも」

 ワーニャはほつと溜息をついた。

 「でも、おら、要らねえよ。それよか姉(あんね)にやつてくろ。姉(あんね)はみんなを、とてもよくしてくれるんだもの」

 かういつてワーニャはまた頰を地べたに押しつけた。パーウェルは立ち上つて、空になつた鍋を手にとつた。

 「どこへ行くんだ?」とフェーヂャが訊く。

 「川さ水汲みによ。水飮みたくなつたから」

二匹の犬も立ち上つて、そのあとをついて行く。

 「氣をつけて、川ん中さ落つこちんなよ」イリューシャが後から聲をかける。

 「なんで落つこちるもんか?」フェーヂャがいふ、「あれは氣をつけてるもの」

 「うん、そりやさうだがな。でも、いろんなことがあるからな。それ、屈んで水汲むだらう。さうすると、河童(ワヂャノイ)が手をつかまへて、水ん中へ引つ張むかも知れないよ。さうすつと、後でみんなが、あの子は水へ落つこちたつて、さういふだらう、……けども、落つこちたんぢやないよ!……ほうら、葦ん中へ這ひ上つた」彼は耳を傾けながら言ひ足した。[やぶちゃん注:この「水ん中へ引つ張む」は「水ん中へ引つ張(り)込む」の脱字ではなかろうか。]

 なるほど葦が押し分けられて、私たちの方で俗にいふ『さやさや』といふ音を立てる。

 「ほんとかな、あれは」とコスチャが訊ねる、「あの馬鹿のアクリーナが水ん中に落つこちてから、氣が違つたつていふのは?」

 「さうよ、あの時からだよ……今ぢやあんなざまになつて! それでも元は好い女だつけつて。河童(かつぱ)に祟(たた)られたんだよ。きつと、河童は、みんながあんなに早くアクリーナを引き出すなんて思はなかつたんだよ。それであの、水の底で祟つたんだな」

(私もこのアクリーナには一再ならず會つてゐる。襤褸をまとひ、恐ろしく瘦せ細つて、炭やうに眞黑な顏をし、濁つた眼つきをして、いつも齒をむき出し、ともすると道の眞ん中に、骨と皮ばかりの兩手をしっかりと胸にあてて、檻の中の野獸のやうに、そろそろとよろめきながら、何時間も一つところで足踏みしてゐる。何をいつても通じないで、ただ時をり引き吊つたやうに高笑ひをするばかりである)

 「みんなの話だと」とコスチャが續ける、「川へ身投げしたのは、色男に欺されたからだつて」

 「ほんとだ」

 「それから、ワーシャを覺えてつか?」悲しさうな聲でコスチャが附け足す。

 「どのワーシャよ?」とフェーヂャが訊ねる。

 「ほら、あの、この川へ落つこちて死んだのよ」コスチャが答へる、「やつぱりこの川でだ。何て可愛い子だつたかなあ! ああ、とてもいい子だつたがなあ! おつ母さんのフェクリスタはあのワーシャをどんなに可愛がつたか知れないんだ! フェクリスタには、あの子に水の祟りがあるつてことは、蟲が知らしたと見(め)える。夏なんか、ワーシャと俺(おん)ら、子供ら仲間で、小川さ水浴びに行つたりすると、おつ母さんは慄へ上つて氣を揉んだんだ。ほかのおつ母さんたちは何でもねえ、手桶もつてそのそばを往つたり來たりして、えつちらおつちらしてるのに、フェクリスタは手桶をおろして、「お歸り、坊や、お歸り! ああ、お歸りよ、いい子だから!」つて呼ばつてたんだ。一體、どうして水へ落つこちたんだか、誰も知らねえんだよ。川つぷちで遊んでて、おつ母さんもその邊にゐて、乾草を搔き寄せてたんだ。そして、ひよいと氣がつくと、誰か水ん中で泡ふいてるやうな音がした。ようく見ると、もう水の上にやワーシャのしやつぽばかりが浮かんでるんだ。それからだよ、フェクリスタが氣が變になつちやつたのは。川つぷちへ行つては、ワーシャの落つこちたところへ寢そべつて、歌うたつてるんだ。ほれ、ワーシャがいつもあんな歌をうたつてたらう。あの歌をフェクリスタもうたひながら、泣いて、泣いて、神樣にさんざん泣き言をいつてるんだ……」

 「ああ、パウルーシャがかへつて來た」とフェーヂャが、いふ。

 パーウェルは水をいつぱいに入れた鍋をもつて、焚火のところへやつて來た。

 「おい、みんなら」一寸のあひだ默つてゐたが、やがて彼は言ひ出した、「變な事あつたぞ」

 「何がよ?」コスチャが急き込んで訊ねる。

 「ワーシャの聲が聞えたんだ」みんなは一せいに身慄ひした。

 「何だつて、おい、何だつて?」とコスチャが廻らぬ舌でいふ。

 「ほんとだよ。おれが水汲まうと思(も)つて、こごんだら、いきなりワーシャの聲で、水の底から聞えてくるみたいに、『パウルーシャ、パウルーシャ、こつちへおいで』つて、かういつて呼ぶ聲が聞こえるんだ。おらあ、逃げて來た。でも、水だけは汲んで來たよ」

 「ああ、どうしよう、どうしよう」と子供たちは十字な切りながら口々にいふ。

 「パーウェル、そりや河童(ワヂャノイ)が呼んだんぢやないか」フェーヂャがなほも言葉をつづける……、

 「こつちぢや丁度いま、あのワーシャの話をしてたとこだ」

 「ああ、緣起が惡い」とイリューシャが一句一句に間を置いていふ。

 「なあに、大丈夫だよ、かまふもんか!」とパーウェルはきつぱり言ひ放つて、また腰をおろした、「どうせ運は免(のが)れらんねえんだもの」

 子供たちは、靜かになる。見たところ、パーウェルの言葉が子供たちに深い感銘を與へたらしい。子供たちは、いよいよ眠らうとでもしてゐるらしく、焚火の前に横になり始めた。

 「あれは何だ?」と不意にコスチャが頭をもたげて訊いた。

パーウェルは耳をすました。

 「あれは山鴫(やましぎ)が鳴きながら飛んでるんだよ」

 「どこへ飛んで行くんだらう?」

 「向ふの、冬のねえつち所へよ」

 「そんな國があんのか?」

 「あるとも」

 「遠くにか?」

 「遠く、遠くの、暖(あつた)かい海のむかふだよ」

 コスチャはほつと溜息をついて、眼をとぢた。

 すでに私が子供たちのそばへ腰を下ろしてから三時間あまりになる。月はやうやく昇つて來たが、すぐには眼につかなかつた。あまりに小さな、細い月であつたから。この月の光のたよりない夜は、前と同じやうに、すばらしい感じがした……。しかし、つい今しがたまで空高くかかつてゐた多くの星は、もはや暗い地の果てに傾いてゐた。あたりのものは何もかもが、常に夜の明け際にのみ見られるやうに、聲もなく靜まりかへつてゐる。何もかもが深い靜かな夜明け前の眠りに沈んでゐる。空氣のなかにはさして強い匂ひはなくなつてゐる。空氣にまたしても露じめりがあふれてゐるやうに思はれる……。夏の夜は永くはない!……子供達の話は焚火が消えると共に消えうせる。犬は微睡(まどろ)みさへしてゐる。微かに明るい星あかりに透かして見ると、馬もまた頸を垂れて、やすんでゐた……。快よい懈怠(けたい)がやつて來る。するうちに私も微睡(まどろ)んでしまつた。

 爽かな微風が顏を吹き過ぎる。私は眼をあける――朝になりかかつてゐる。まだ曙の紅の色はどこにも射してゐないが、東の方はもう白みかかつてゐる。淡い灰色の空は明るく、冷たく、靑味を帶びて來る。星は微かな光を放つて、瞬いたり滑えたりしてゐる。地はしつとりとし、葉は濕り、どこかにいきいきした物音や聲が聞こえる。朝の小風はそよそよと地のうへを吹き渡る。私のからだは輕く、樂しくふるへて風に應へる。私はふと立ち上つて子供たちのところへ行つた。燻つてゐる焚火のまはりに、子供たちはみな死んだやうになつて、眠つてゐる。ひとりパーウェルが身を半ば起こして、じつと私をみつめる。

 私は彼に會釋して、うち煙る川に沿つて家路についた。まだ二露里(り)とは歩かないうちに、私のまはりの、廣い露にぬれた草原や、前の方の綠いろがかつた丘や、森から森、またうしろに長くつづく埃の道、赤らむ叢、薄らぐ霧のかげにおづおづと靑味を帶びてゐる川に、――最初は鮮紅、次には赤と金との靑々しい、燃えるやうな光が奔流のやうにふり注いだ……。何もかもが動き始め、眼をさまし、うたひ、そよぎ、話し始める。稱く金剛石のやうに大きな露しづくが、ここかしこに燃えあがる。私を迎へるかのやうに、澄んだ朗かな、恰も朝の涼氣に洗ひ淸められたやうな、鐘のひびきが聞こえて來る。すると不意に、息をやすめてゐた馬の群れが、さつきの顏見知りの子供たちに追ひたてられて、私のわきをまつしぐらに駈けぬけて行つた……。

 殘念ながら、私はパーウェルがその年にあの世の人となつたことを附け加へなければならぬ。あの子は溺れ死んだのではなく、馬から墜ちて死んだのである。惜しいことをした、すばらしい奴であつたのを!

■訳者中山省三郎氏による「註」と私の補助注(注記ページ表記を外し、私のテクスト注記に準じた表示法をとった)及びやぶちゃん注(私の注は新字・現代仮名遣とし、冒頭に「◎」を附して全体を〔 〕で括った)

〔◎『いきれる』:「熱る・熅る」で、蒸れること。ロシア語原文は“парит”とあり、これは確かに、蒸される、蒸れるの意であり、佐々木彰も「いきれる」を踏襲している。しかし、米川正夫はここを「『陽炎』が立つことさへもある」と訳している。米川訳は分かりやすいが、湿度の高いむしむしした強烈な肌感覚は伝わってこない。やはり、この『いきれる』がよい。

・梳櫛:腰帶に梳櫛を下げて持つて歩いてゐるなんぞは相當なハイカラである。

〔◎伸方:和紙の紙漉作業で言うところの、「紙素叩き」(かみそたたき)・叩解(こうかい)の工程作業を言うか。和紙にあっては、水中でほぐした楮の繊維の塊を木の台に上げ、擂粉木や木槌で叩いて伸す作業を言い、本邦でもこれは昔、子供の役目とされ、大変つらいものであった。但し、佐々木彰は、これを「艶出(つやだ)し」と訳している。

〔◎漉桁:「すきげた」と読む。和紙にあっては、持ち手のついた大きな木枠を言い、その中に簀(す)を挟んで、漉舟(すきぶね)から紙の原料液の入った水を汲み入れて漉く。米川・佐々木両氏は共に「濾し網」と訳す。どちらの訳がよいかは、ロシアの紙漉器機の形状を見たことがないので如何とも言い難い。〕

・パーウェル:これが正式の名前で、パウルーシャは愛稱である。

・天井(パラーチ):露西亞の百姓家で、天井に近いところに設けてある寢床。

・「俺たちのは神樣がついてて下さる!」:魔除けの文句。

〔◎駅遞:「えきてい」と読み、「駅逓」に同じ。宿場町(駅)から宿場町へ荷物を送り届ける運送業者の店、若しくは郵便局を言う。

〔◎『羊(めえ)、羊(めえ)!』:米川正夫は「羊よ、羊よ」と訳し(最初のエルミール〔米川はエミールと表記する〕の台詞の方は「これ羊よ、羊よ」と「これ」が入る)、佐々木彰は「羊や(ビヤーシヤ)、羊や(ビヤーシヤ)!」とルビを振るのであるが、ここはロシア語原文では“Бяша, бяша!”となっており、これはロシア語に暗い私の想像であるが、羊の鳴き声の擬音語と思われる。であれば、中山氏の訳がしっくりくると言ってよい。ここは、決して超自然の怪異が起こることによる怖さではない。まがまがしい羊の眼のアップとその鋭い鳴き声のホラーであると私は思う。〕

・錠切草:御伽噺に出てくる毒草。その毒草を近づけると錠も門も斷ち切れて寶ものが得られといふ。(作者の註)

・天の前兆:日蝕のことを私たちの土地の百姓はかういつてゐる。

〔◎トリーシカ:ロシア語原文では“Тришке”。昭和33(1958)年岩波書店刊の佐々木彰訳では、ここに割注があり、作者ツルゲーネフの注として『「トリーシカ」俗信には反キリスト伝説の影響があるものと思われる<原註>』が挿入されている。〕

・水溜り:春の雪解の水がたまつてゐる深い穴、夏もなほ水が殘つてゐるところ。

・河童(ワヂャノイ):民譚に出てくる川や淵にゐる極めて性惡な惡魔。