支那游記 自序 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈
[やぶちゃん注:大正14(1925)年11月3日、改造社発行の中国紀行文集『支那游記』(「上海游記」を筆頭に「江南游記」・「長江游記」・「北京日記抄」・「雜信一束」の順で構成)の巻頭に掲載された。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。オリジナルな注釈(とも言えぬ牛の涎のような感懐)を附した。]
自序
「支那游記」一卷は畢竟天の僕に惠んだ(或は僕に災ひした)Journalist 的才能の産物である。僕は大阪毎日新聞社の命を受け、大正十年三月下旬から同年七月上旬に至る一百二十餘日(よじつ)の間(かん)に上海(シヤンハイ)、南京(ナンキン)、九江(キウキヤン)、漢口(ハンカオ)、長沙(ちようさ)、洛陽(らくよう)、北京(ペキン)、大同(だいどう)、天津(てんしん)等(とう)を遍歴した。それから日本へ歸つた後(のち)、「上海游記(シヤンハイいうき)」や「江南(かうなん)游記」を一日に一囘づつ執筆した。「長江游記」も「江南游記」の後にやはり一日に一囘づつ執筆しかけた未成品である。「北京日記抄」は必しも一日に一囘づつ書いた訣ではない。が、何でも全體を二日ばかりに書いたと覺えてゐる。「雜信一束」は畫葉書に書いたのを大抵はそのまま收めることにした。しかし僕のジヤアナリスト的才能はこれ等の通信にも電光のやうに、――少くとも芝居の電光のやうに閃いてゐることは確である。
大正十四年十月 芥 川 龍 之 介 記
[やぶちゃん注:関口安義氏は、その著「特派員 芥川龍之介――中国でなにを視たのか――」(1997年毎日新聞社刊)の冒頭で『芥川龍之介は一介の小説家ではなかった。彼は豊かな天分に恵まれたジャーナリストであった。彼は自分自身そのことを信じて疑わなかったのであ』り、この『支那游記』総体を『彼のジャーナリスト的才能が存分に発揮された一巻の紀行文』であると規定する。そうして、『もともと彼はあらゆることに関心を寄せ、それを記録することに特別の才能をもった人間であった。龍之介は激動の中国を旅し、歌をうたうかのように、この国の自然と人事を、自身の感想を織り込みながら綴(つづ)る。そこに揺れ動く大国の現場が的確にレポートされていく。その背後には、彼の幼少時から培(つちか)われた中国文化への関心と教養が脈打っている。まさしく芥川龍之介は、すぐれたジャーナリストであった。』と、従来、芥川の作品の中にあって不当に評価が低い本作品群を高く称揚されている。この自序について関口氏は、更に『自分にはジャーナリストとしての天分が備わっている、それが遺憾なく発揮されたのが『支那游記』であると言う。この自身は相当なものである。これはレトリックとしての妙をきわめた文章であると同時に、彼自身のジャーナリストという仕事への思い入れを示したものであり、説得力をもつ。それは日々に起こる社会的な事件や問題に無関心ではいられなかった芥川龍之介の一面を物語っている。』と分析なさっている。
* * *
かつて21歳の私は、初めて「上海游記」「江南游記」「長江游記」の三作を読み、以下のような感想を日記にしたためている(1978年8月6日)。
「上海游記」「江南游記」「長江游記」を読む。
恐らく芥川龍之介の著作中、最も嫌悪感を抱かせ、失望に至らざるを得ない作品群。彼の汚点はこの随筆集に残されてしまった――しまった? 残されている、には違いない。
随筆とは誰が書いても、多かれ少なかれ、芸術家然気質の展覧の場に過ぎず、言葉のtechniqueと作家のposeの干物のアンモニア臭に満ちているものである。
この三作は図らずも芥川龍之介の以下の内実を暴露した。若しくは私が以前からどこかで嗅ぎ取っていた、或る「臭さ」の元凶を白日の下に曝した。
芥川龍之介は実生活に於いて“好色”である。「上海游記」では「南国の美人」として三章を割いているが、この中で彼は中国人の女の耳のコケティッシュさを説き、この発見を自画自讃して止まない。新聞読者の好奇心をくすぐるためと考えれば、まことに美事と言えなくもないが、小説「好色」に現れるようなスカトロジスム的雰囲気、宇野浩二の愛人に対するきわどい悪戯(ベッティングによる情動充足)等を見ると、芥川龍之介の極めて過剰なフェティシズム的側面を感じさせる。
小説で如何なる好色異常な性愛を描写しても、即座にそれが作者自身の異常性へと連動しなことは言わずもがなながら、随筆のそれが病跡学的な形で、作者自身を解剖する方途とされてしまうのは仕方あるまい。
雑録に類した紀行から生まれた軽佻浮薄。小説のような綿密な構造性に欠けるために、芥川は断片的な事象に安易な見解を下しては、立ち止まって考えることをせず、あっという間に気を他に移している。一度、判断した事柄について立ち返って反芻することがない。その狭間を漢文学的知識のひけらかしと西洋文学との比較文化論的御開帳で粉飾している。勿論、彼の漢学教養には舌も巻くし、彼が何気ない対象に向けた独特の視点の在り方には、どきりとさせる箇所も少なくはない。しかし、やはり、総じて彼のたどりつく感懐の果ては、無責任で短絡的と言わざるを得ない。小説のストーリー・テラーの鮮やかな手捌きはなりを潜めてしまい、全体のリズムを変化させようとして、逆に各篇がその中でおためごかしの形式主義に堕してしまった。
当時の中国や中国人に対する、当時の日本人大衆への安易な迎合。その差別感覚は読んでいて憤りを覚えることも一度や二度ではない。鏡花の「蛇くひ」等の被差別部落民への偏見は、それを仮構された小説世界の中で、主人公や登場人物への人間的評価の負のベクトルとして読むことで、私は或る程度、許容して読み進めることが出来るのだが、どうも愛する芥川が、ナマの言葉で綴ってしまったこれらの「随筆」(私は如何なる作家も随筆を小説の遥か下方に置いている。随筆家なる芸術家はいないとさえ思っている)群を前にすると、作者自身への感情的な不快感を抑えることが出来なくなる。芥川の中国人大衆への侮蔑感は首尾一貫している、時代が時代だからとは言え、近代的インテリゲンチアを自認していたに違いない芥川にして、「羅生門」や「鼻」の作者にして、そのhumanismの部分的欠如――うまく言えないが芥川の内実に於けるhumanismの不均衡――は私には理解し得ない。――何故に、花売りの老婆を、その如何にも狭量な時空間の中で裁断し、唾棄出来るのか?――何故に、たむろする乞食の一人一人の映像をアップすること、彼等の過去現在未来を深く慮ることなしに「不愉快」の一語で通り過ぎてしまうことが出来るのか?
君は良心を持っていない、と言った――良かろう。土台、人間の良心等、虚像に過ぎないことを私に教えてくれたのは、君だから――だが、君は神経を持っている、と言った――
ここに至って私は君に訊く――君の神経は無脳ガエルの背中に塩酸の試験紙を張ったあの高校生の時の実験のように、無条件反射系の神経系統を持っているだけなのか? 君の脳は条件反射を行えない、ただ単に壊れた脳なのか?――
私は君を愛している――こうした言葉さえ、君にしても私にしても、虚偽でないことを証明することは難しいのではあるが――だが、この三篇を通して接した君の姿は、私に、大溝の水を飲んだような、嘔吐の感覚を引き起こさせる――
君は、大いなる汚物を残して逝った――
如何にも稚拙極まりなく青二才の饐えた臭いが漂ってくる感想ではあるが、「この時の私」は、確かに心底、こう感じていた。いや、今回の全注釈作業の中にあっても、時にその生理的な旧い嫌悪感が蘇ってくる場面もあったのである(それは私の感情的な表現として注釈に反映させてある)。と同時に「今の私」が、正しく関口氏の評するようなジャーナリスト芥川龍之介という意味に於いて、本作品群に魅力を感じ、この随想の中に手帳を持って佇む芥川を鮮やかに描き出せる――それは愛しているという謂いでもある――ということを、今更ながら感じている。
* * *
私はまた、この芥川の内実としての「Jounalist」を理解するには、芥川龍之介の辞書とも言うべき、正・続の「西方の人」にこそ、その真の「Jounalist」の語釈が示されている思う。彼は都合、8つのアフォリズムでキリストが「ジヤアナリスト」であったことを語っている。以下、私の「西方の人(正續完全版)」テクストから順に引用する。そしてその後に私のある見解を、ある手法でお示ししたい。まずは芥川龍之介の言葉をお読みあれ。
*
13 最初の弟子たち
クリストは僅かに十二歳の時に彼の天才を示してゐる。が、洗禮を受けた後(のち)も誰(たれ)も弟子になるものはなかつた。村から村を歩いてゐた彼は定めし寂しさを感じたであらう。けれどもとうとう四人の弟子たちは――しかも四人の漁師たちは彼の左右に從ふことになつた。彼等に對するクリストの愛は彼の一生を貫いてゐる。彼は彼等に圍まれながら、見る見る鋭い舌に富んだ古代のジヤアナリストになつて行つた。
14 聖靈の子供
クリストは古代のジヤアナリストになつた。同時に又古代のボヘミアンになつた。彼の天才は飛躍をつづけ、彼の生活は一時代の社會的約束を踏みにじつた。彼を理解しない弟子たちの中に時々ヒステリイを起しながら。――しかしそれは彼自身には大體歡喜に滿ち渡つてゐた。クリストは彼の詩の中にどの位情熱を感じてゐたであらう。「山上の教へ」は二十何歳かの彼の感激に滿ちた産物である。彼はどう云ふ前人も彼に若かないのを感じてゐた。この海のやうに高まつた彼の天才的ジヤアナリズムは勿論敵を招いたであらう。が、彼等はクリストを恐れない訣には行かなかつた。それは實に彼等には――クリストよりも人生を知り、從つて又人生に對する恐怖を抱いてゐる彼等にはこの天才の量見の呑みこめない爲に外ならなかつた。
5 生 活 者
クリストは最速度の生活者である。佛陀は成道[やぶちゃん注:「じやうだう」と読む。]する爲に何年かを雪山[やぶちゃん注:筑摩書房全集類聚版本文では、これに(せつざん)のルビがある。]の中に暮らした。しかしクリストは洗禮を受けると、四十日の斷食の後、忽ち古代のジヤアナリストになつた。彼はみづから燃え盡きようとする一本の蠟燭にそつくりである。彼の所業やジヤアナリズムは即ちこの蠟燭の蠟涙[やぶちゃん注:「らふるゐ」と読む。]だつた。
7 クリストの財布
かう云ふクリストの收入は恐らくはジヤアナリズムによつてゐたのであらう。が、彼は「明日(めうにち)のことを考へるな」と云ふほどのボヘミアンだつた。ボヘミアン?――我々はここにもクリストの中の共産主義者を見ることは困難ではない。しかし彼は兎も角も彼の天才の飛躍するまま、明日(めうにち)のことを顧みなかつた。「ヨブ記」を書いたジヤアナリストは或は彼よりも雄大だつたかも知れない。しかし彼は「ヨブ記」にない優しさを忍びこます手腕を持つてゐた。この手腕は少からず彼の收入を扶けたことであらう。彼のジヤアナリズムは十字架にかかる前に正に最高の市價を占めてゐた。しかし彼の死後に比べれば、――現にアメリカ聖書會社は神聖にも年々に利益を占めてゐる。………
13 クリストの言葉
クリストは彼の弟子たちに「わたしは誰[やぶちゃん注:「たれ」と読んでいると思われる。]か?」と問ひかけてゐる。この問に答へることは困難ではない。彼はジヤアナリストであると共にジヤアナリズムの中の人物――或は「譬喩(ひゆ)」と呼ばれてゐる短篇小説の作者だつたと共に、「新約全書」と呼ばれてゐる小説的傳記の主人公だつたのである。我々は大勢のクリストたちの中にもかう云ふ事實を發見するであらう。クリストも彼の一生を彼の作品の索引につけずにはゐられない一人(ひとり)だつた。
14 孤 身
「イエス……家に入りて人に知られざらん事を願ひしが隱れ得ざりき。」――かう云ふマコの言葉は又他の傳記作者の言葉である。クリストは度たび隱れようとした。が、彼のジヤアナリズムや奇蹟は彼に人々を集まらせてゐた。彼のイエルサレムへ赴いたのもペテロの彼を「メシア」と呼んだ影響も全然ないことはない。しかしクリストは十二の弟子たちよりも或は橄欖の林だの岩(いは)の山(やま)などを愛したであらう。しかもジヤアナリズムや奇蹟を行つたのは彼の性格の力である。彼はここでも我々のやうに矛盾せずにはゐられなかつた。けれどもジヤアナリストとなつた後、彼の孤身(こしん)を愛したのは疑ひのない事實である。トルストイは彼の死ぬ時に「世界中に苦しんでゐる人々は澤山ある。それをなぜわたしばかり大騷ぎをするのか?」と言つた。この名聲の高まると共に自ら安じない心もちは我々にも決してない訣ではない。クリストは名高いジヤアナリストになつた。しかし時々大工(だいく)の子だつた昔を懷がつてゐたかも知れない。ゲエテはかう云ふ心もちをフアウスト自身に語(かた)らせてゐる。フアウストの第二部の第一幕は實にこの吐息(といき)の作つたものと言つても善い。が、フアウストは幸ひにも艸花(くさばな)の咲いた山の上に佇んでゐた。………
21 文化的なクリスト
クリストの弟子たちに理解されなかつたのは彼の餘りに文化人だつた爲である。(彼の天才を別にしても。)彼等は大體(だいたい)は少くとも彼に奇蹟を求めてゐた。哲學の盛んだつた摩伽陀國の王子はクリストよりも奇蹟を行はなかつた。それはクリストの罪よりも寧ろユダヤの罪である。彼はロオマの詩人たちにも遜(ゆづ)らない第一流のジヤアナリストだつた。同時に又彼の愛國的精神さへ抛[やぶちゃん注:「なげう」と読む。]つて顧みない文化人だつた。(マコはクリスト傳第七章二五以下にこの事實を記してゐる。)バプテズマのヨハネは彼の前には駱駝の毛衣や蝗や野蜜に野人の面目を露してゐる。クリストはヨハネの言つたやうに洗禮に唯聖靈を用ひてゐた。のみならず彼の洗禮(?)を受けたのは十二人の弟子たちの外にも賣笑婦や税吏(みつぎとり)や罪人だつた。我々はかう云ふ事實にもおのづから彼に柔い心臟のあつたのを見出すであらう。彼は又彼の行つた奇蹟の中に度たび細かい神經を示してゐる。文化的なクリストは十字架の上に最も野蠻な死を遂(と)げるやうになつた。しかし野蠻なバプテズマのヨハネは文化的なサロメの爲に盆の上に頭をのせられてゐる。運命はここにも彼等の爲に逆説的な惡戲を忘れなかつた。………
[やぶちゃん注:「摩伽陀國の王子」は芥川の誤り。芥川はここで釈迦のことを指して言っているが、摩伽陀(マカダ)国は釈迦の修行の地ではあったが、同国の王子ではなく、迦毘羅(カビラ)国の王子である。]
22 貧しい人たちに
クリストのジヤアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰めることになつた。それは勿論天國などに行かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた爲もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狹い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも無花果(いちじく)のやうに甘みを持つてゐる。彼は實にイスラエルの民(たみ)の生(う)んだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。「豫言者」は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は十字架にかかる爲に、――ジヤアナリズム至上主義を推し立てる爲にあらゆるものを犧牲にした。ゲエテは婉曲にクリストに對する彼の輕蔑を示してゐる。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。
*
私がここで何を云はんとしてゐるか、最早、お分かり戴けるものと思ふ。私は、芥川が自身を『ジヤアナリストとしてのキリスト』に擬へんとしてゐるのだと思つてゐる。そうして、キリスト者でない私はそれを不遜とは思つてゐない。其は正にキリストは『「新約全書」と呼ばれてゐる小説的傳記の主人公』に過ぎぬからである。
中國の『村から村を歩いてゐた彼は定めし寂しさを感じた』――ここで『四人の弟子』をわざわざ龍門の四天王に擬へる愚は敢へてすまい――芥川龍之介はその時、確かに『鋭い舌に富んだ』『ジヤアナリスト』であると『同時に又』『ボヘミアンになつた』。……
その後、痛烈な「將軍」や、複雜な寓話劇としての「河童」、ストオリイのない神經症的實驗小説たる「齒車」、惡魔の囁きの如き「侏儒の言葉」と――『彼の天才は飛躍をつづけ、彼の生活は一時代の社會的約束を踏みにじつた』りした。『彼を理解しない』者『たちの中に時々ヒステリイを起しながら。』――『同時に又』、芥川『は彼の詩の中にどの位情熱を感じてゐた』かは想像に難くない。其處で彼は「どう云ふ前人も彼に若かないのを感じてゐた。この海のやうに高まつた彼の天才的ジヤアナリズムは勿論敵を招いた」。いや、敵ばかりではない。晩年の盟友であつた詩人萩原朔太郎でさへ「芥川龍之介の死」を披見すれば分かる通り、『彼の』内なる『詩』を理解しようとはしなかつた。『が、彼等』は――彼を敵とし、又、朔太郎のやうに味方とした者達でさへ――彼『を恐れない訣には行かなかつた。それは實に彼等には――』芥川『よりも人生を知り、從つて又人生に對する恐怖を抱いてゐる彼等にはこの天才の量見の呑みこめない爲に外ならなかつた』からである。……
また芥川龍之介がドリュウ・ラ・ロシエルの「鬼火」のアランの如く、いやアランそのものとして『最速度の生活者であ』つたことに異論を差し鋏む者はをるまい。『彼はみづから燃え盡きようとする一本の蠟燭にそつくりである。彼の所業やジヤアナリズムは即ちこの蠟燭の蠟涙だつた』と云つてよい。『かう云ふ』彼『の收入は』『ジヤアナリズムによつてゐた』『が、彼は「明日(めうにち)のことを考へるな」と云ふほどのボヘミアンだつた。ボヘミアン?――我々はここにも』芥川『の中の共産主義者を見ることは困難ではない。しかし彼は兎も角も彼の天才の飛躍するまま、明日のことを顧みなかつた。』……
インテリゲンチアがその自己同一性を引き裂かれんとする樣を「こゝろ」に『書いたジヤアナリスト』夏目漱石『は或は彼よりも雄大だつたかも知れない。しかし彼は』「こゝろ」を初めとする師の作品『にない優しさを』あらゆる自身の小説や随筆に巧妙に『忍びこます手腕を持つてゐた。この手腕は少からず彼の收入を扶けた』ことも事実であると同時に、逆にそれは心理的に創作者としての彼自身を追ひ詰め、その『最速度の生活』の加速にも『災ひした』と云へる。何より『彼のジヤアナリズムは』自らを『十字架に』かける『前に正に最高の市價を占めてゐた。しかし彼の死後に比べれば、――現に』漱石に次いで彼の全集の出版権をその遺書で土壇場に手に入れた岩波書店『は神聖にも年々に利益を占めてゐる。………』
芥川龍之介は我我『に「わたしは誰か?」と問ひかけてゐる。この問に答へることは困難ではない。彼はジヤアナリストであると共にジヤアナリズムの中の人物――或は「譬喩(ひゆ)」と呼ばれてゐる短篇小説の作者だつたと共に、』「富國強兵」から「大東亞共榮圈」「大東亞戰爭」へと一散に驅けつて行く「大日本帝國」『と呼ばれてゐる小説的傳記の主人公だつたのである。我々は大勢の』芥川『たちの中にもかう云ふ事實を發見するであらう。』芥川『も彼の一生を彼の作品の索引につけずにはゐられない一人(ひとり)だつた』のである。それはある意味で小説家と云ふ『豫言者』の宿命であり、其故にこそ彼等は生き殘ることが出來るとも云へるのである……
又、彼『は度たび隱れようとした。が、彼のジヤアナリズムや奇蹟は彼に人々を集まらせてゐた。彼の』中國『へ赴いたのも』一つには、『二十九歳の時に』そうした中の一人であつた秀しげ子と『罪を犯したことである。』彼はその遺書で「罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。唯相手を選ばなかつた爲に(秀夫人の利己主義や動物的本能は實に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少なからず後悔してゐる。なほ又僕と戀愛關係に落ちた女性は秀夫人ばかりではない。しかし僕は三十歳以後に新たに情人をつくつたことはなかった。これも道德的につくらなかつたのではない。唯情人をつくることの利害を打算した爲である。(しかし戀愛を感じなかつた訣ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」 等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。)僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。」と述べてゐる。――本『支那游記』の後半、「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」を讀むに當つては、秀しげ子と同時に、この「越し人」片山廣子のイメエジを抜きにしては考へられないのである。――『しかもジヤアナリズムや』人生をピンセツトで弄ぶやうな『奇蹟を行つたのは彼の性格の力である。彼はここでも我々のやうに矛盾せずにはゐられなかつた。けれどもジヤアナリストとなつた後、彼の孤身(こしん)を愛したのは疑ひのない事實である。トルストイは彼の死ぬ時に「世界中に苦しんでゐる人々は澤山ある。それをなぜわたしばかり大騷ぎをするのか?」と言つた。この名聲の高まると共に自ら安じない心もちは我々にも決してない訣ではない。』芥川龍之介『は名高いジヤアナリストになつた。しかし時々』は大溝(おほどぶ)の辺(あたり)に佇んでゐた頑是無い『子だつた昔を懷がつてゐたかも知れない。』彼『はかう云ふ心もちを』「少年」「大導寺信輔の半生」「追憶」「點鬼簿」「淺草公園――或シナリオ――」「本所兩國」等の無數の作品の中で描いてゐる。特に「少年」の「二 道の上の祕密」で芥川龍之介の分身である堀川保吉『自身に語らせてゐる』それ『は實にこの吐息(といき)の作つたものと言つても善い。が、』その堀川保吉は『幸ひにも』『クリストと誕生日を共にした少女』の隣りに腰をかけてゐた。………
芥川龍之介が『理解されなかつたのは彼の餘りに文化人だつた爲である。(彼の天才を別にしても。)彼等は大體(だいたい)は少くとも彼に』文學上の精密巧緻な『奇蹟を求めてゐた。』生來のサデイズム的肉感の中に生きてゐた「天鵞絨(びらうど)の夢」の耽美派の『王子は』、寧ろ芥川『よりも』技巧上の『奇蹟を行はなかつた』と云つてもよい。『それは』芥川の罪と云ふ『よりも寧ろ』文學という近代の産物を、何よりもそれが担つた眞のジヤアナリズムと云ふものの本質を全く理解しなかつた日本國民『の罪である。彼はロオマの詩人たちにも遜(ゆづ)らない第一流のジヤアナリストだつた。同時に又彼の愛國的精神さへ抛つて顧みない文化人だつた』のである。陸軍大將從二位勲一等功一級伯爵たる聖將乃木希典『は彼の前に』『モノメニアの光』や『殺戮を喜ぶ氣色』や『水戸黄門と加藤淸正とに、最も敬意を拂つてゐる』樣(さま)『に野人の面目を露してゐる。』――芥川龍之介はその作品の中に多くの市井人『を用ひてゐた。のみならず彼』が主人公に据えた者は、討ち入りを終へてしまつた大石藏之助やら老いたる素戔嗚尊やらスランプに陷つた滝澤馬琴やら生きてゐる西郷隆盛やら『の外にも』南京奇望街の『賣笑婦』宋金花(そうきんくわ)や地獄に墜ちた『罪人』犍陀多(かんだた)『だつた。我々はかう云ふ事實にもおのづから彼に柔い心臟のあつたのを見出すであらう。彼は又彼の』書いた小説中の『奇蹟の中に度たび細かい神經を示してゐる。文化的な』芥川龍之介は自らが建てた『十字架の上に最も野蠻な死を遂(と)げるやうになつた。しかし野蠻な』乃木希典『は文化的な』夏目漱石『の爲に』「先生」の遺書に『にのせられてゐる。』そこで「先生」は乃木の『生きてゐた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだらうと考へ』させられ、『私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する譯が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から來る人間の相違だから仕方がありません。或は箇人の有つて生れた性格の相違と云つた方が確かも知れません。』と綴らせながらも、「先生」に自死を決意させてゐるのである。『運命はここにも彼等の爲に逆説的な惡戲を忘れなかつた。………』
芥川龍之介『のジヤアナリズムは貧しい人たちや』一般の庶民『を慰めることになつた。それは勿論デモクラシイやら社會主義革命やらの世界に赴『かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた爲もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狹い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも無花果(いちじく)のやうに甘みを持つてゐる。彼は實に』敷島『の民(たみ)の生(う)んだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。』彼の死後、彼の名を冠した芥川賞なるものが生れて此の方皮肉な事に「純文學」と云ふ語『は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は』自らを『十字架に』かける『爲に、――ジヤアナリズム至上主義を推し立てる爲にあらゆるものを犧牲にした。』多重な自己像を裁斷し自己同一を果たそうと腹を割捌いて果てた三島由紀夫は若き日に芥川にかぶれたと云ひつつも「手巾」の評の中で『婉曲に』芥川龍之介『に對する彼の蔑を示してゐる。丁度後代の』「純文學」を志した「芥川賞」作家達『の多少は』三島由紀夫『を嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるキリスト』のように芥川龍之介『を求めずにはゐられないのであらう。』……
芥川は彼の公開用遺書たる「或舊友へ送る手記」の末尾に追伸して『二十年前』と斷りながら、彼は彼『みづから神にしたい一人』であつたと云ふ事を告白してゐる。彼はキリストの孤獨を理解し得た。それは彼自身がキリストと全く同じ意味に於て孤獨であつたからに外ならない。同じ孤獨な魂を持つ者だけが、互を眞に理解出來るの謂ひである。……
(附記:以上の『 』内は、主に前掲引用した「西方の人」の8篇及び芥川龍之介の他作品及び夏目漱石の「こゝろ」から引用したものである。それに合わせて私の地の文も正字正仮名とした。また、一見文章のパッチワークのように御覧になられる方もあるやに思うが、なかなかどうして、私はこれを大真面目に記していることを明言しておく。)
・「Journalist」ジャーナリストは、英単語としては、新聞雑誌記者・新聞雑誌寄稿家・新聞人を原義とし、そこから新聞雑誌経営者や編集者及びその業務・業界全体、日記を毎日記す習慣のある奇特でマメな人、更に悪い意味で、大衆の受けを狙った作品を書く作家、という意味もある。新聞研究者や新聞学の学者をも指すとするものもあるが、在野の新聞研究家なら良いが、学者では真逆のアカデミズムの領域の属することになりはしないか? 私はここで言う芥川の「ジヤアナリスト」の拠って立つところは森鷗外の「舞姫」に現れる「民間学」に他ならぬと思う。それは全く伝統的なアカデミズムの認識論の中には無かった生きた『一種の見識』であり、『頗る高尚なるも』の『多き』『幾百種の新聞雜誌に散見する』自由豁達な『議論』によって育まれた、旧来の『一筋の道をのみ走りし知識』が『自ら綜括的にな』ったところの近代以降の各個たる体系を持った全く新しい認識・分析の在り方であると考えている。
・「大阪毎日新聞社」横須賀海軍機関学校英語教授嘱託に嫌気がさしていた芥川龍之介は、現職のまま、結婚による経済的安定を図るために小説家として大阪毎日新聞社社友となっていた(大正7(1918)年2月)が、その後、正式な社員として採用を依頼、大正8(1919)年2月内定、3月3日に同時採用を依頼していた菊池寛と共に正社員として採用された(同月31日に機関学校を退職)。その後、既に文壇の寵児となっていた芥川は、各種団体からの依頼が相次ぎ、国内を講演旅行することが多くなった。また芥川自身、大正7年頃の段階で、友人に手紙で中国上海での生活費等を問い合わせるなど、自律的にも中国行への希望があったため、大阪毎日はそうした芥川に、大正10(1921)年2月21日、大阪本社に招聘、正式な海外視察員として、3月下旬から3~4箇月の中国特派の提案をする。勿論、芥川は二つ返事でこれを承諾した(そこには大正8(1919)年9月に出会い、肉体関係にも及びながら、既に生理的に嫌悪の対象とさえなっていた不倫相手秀しげ子からの逃避という理由も隠れていたものと思われる)。国際化の新時代の中国像を芥川の巧妙な冴えたペンでアップ・トゥ・デイトに描き出させようというのが大阪毎日の目論見であったが、芥川は旅行中、病気等もあって新聞への逐次連載を全く果たせず、帰国後のこれらの文学者としての芥川らしい鋭い視線を持った紀行文も、列強を凌駕せんとするアジアの領袖たる日本人の冷徹な視線を期待した新聞社の意に沿うものとはならなかった。芥川自身にとっても、この旅に纏わる肉体的・精神的疲弊が自死の遠因の一つであったとも言えるかも知れない。
・「大正十年三月下旬から同年七年上旬に至る一百二十餘日」芥川龍之介は
大正10(1921)年
3月19日
東京発午後5時半の列車で門司に向かった
が、車中で出発前に罹患していた風邪が悪化し発熱、急遽、翌日、大阪で下車、大阪毎日新聞社学芸部長であった薄田泣菫の世話で
3月27日
までの1週間、大阪の北川旅館で療養している。
3月28日
に日本郵船会社所属の筑後丸で門司を出発、
3月30日午後
上海に到着している。上海は延べ一箇月強の滞在であるが、「上海游記」の「五 病院」で語られるように、実はその殆んどである
4月1日~4月23日
迄の約3週間は乾性肋膜炎による入院生活であった。以降、上海を拠点に、
5月5日~5月8日
の杭州や、
5月8日~5月14日
の蘇州から鎮江・揚州を経由した南京への旅をし、
5月17日夜
に上海に別れを告げて、長江を遡り、漢口へと向かう。蕪湖・九江・廬山等を経て、
5月26日頃
に漢口に到着している。
5月29日
には洞庭湖へ赴き、
5月29日~6月1日
の4日間の長沙滞在後の、
6月6日夜
漢口を列車で出発、鄭州を経て、
6月10日
洛陽到着。その後、
6月11日又は14日
説があり確定しないが北京到着、
7月10日
迄、凡そ1ヶ月滞在した。
7月10日の夜
天津着。
7月12日
に南満州鉄道に乗り、瀋陽・朝鮮の釜山を経由して帰国(この辺り、現在も日程不明)、
7月20日
に田端の自宅に帰着した(途中で大阪毎日新聞社に帰国の報告に立ち寄っている)。
以上、自宅を出発後、3月19日から7月20日に至る凡そ4ヶ月
124日
であった。しかし、上陸後、3月30日から釜山を出航したと推定される7月16日迄前後に限るならば
110日前後
で、内、上海入院の約21日(後半はちょっとした外出程度は許されてはいたが)を差し引くならば、体調の不良を終始意識し、実際に訴えていた芥川の、中国での実質的な有効実動日数は、凡そ3ヶ月
90日程度
であったと考えられる。
・「上海(シヤンハイ)」“Shànghăi”。
・「南京(ナンキン)」“Nánjīng”。
・「九江(キウキヤン)」“Jiŭjiāng”(チィォウチォイアン)。
・「漢口(ハンカオ)」“Hànkǒu ”。
・「北京(ペキン)」“bĕijīng”。
・『「雜信一束」は畫葉書に書いたのを大抵はそのまま收めることにした』現存する中国からの芥川の書信、岩波版旧全集書簡番号で877(上海ヘ向かう筑後丸から芥川家宛の絵葉書)から926(天津から中国在住の友人齋藤(西村)貞吉宛絵葉書)までの49通(新全集はもっと増えているようだが未見)の中には「雜信一束」と一致するものはおろか、その消息の中に「雜信一束」各篇の詩想を直接に連想させる感懐や機知を見出すこと自体が難しい。従って私は、この言葉は虚構であり、本作は帰国後(帰国から本単行本発行まで4年4ヶ月が経過している)、旅行中に得た素材を時間をかけて充分に熟成させた上での創作と確かに推定するのである(新全集の宮坂覺氏の年譜の著作欄には、根拠は不明であるが、「雜信一束」を『(推定)』と注して大正14(1925)年6月の項に記しておられる)。
・「芝居の電光」の「芝居」とは、「上海游記」の「九 戲臺(上)」「十 戲臺(下)」及び「北京日記抄」の「四 胡蝶夢」をお読み戴けば分かる通り、京劇や昆劇の中国芝居の舞台の眩いばかりの照明のことを言っている。]