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鬼火へ
 

新藝術家の眼に映じた支那の印象   芥川龍之介 附やぶちゃん注釈

 

[やぶちゃん注:大正101921)年8月1日発行の「日華公論」第八巻第八号の「雜録」に掲載された。底本は岩波版旧全集第十二巻第二刷の「拾遺」を用いたが、私は二刷の「拾遺」部分のみをコピーで持っているだけであるため、岩波版新全集の記載も参照した。題名からしてこれは芥川自身の手になるものではなく、その新全集後記の記載に則り、本文を初出の形に復元してある(具体的には署名の「芥川龍之介談」及び末尾のクレジットの追加を指す)。傍点「ヽ」は下線に代えた。後に。本篇には多くの差別的言辞や視点が見受けられる。明白に芥川は当時の中国を何処かで見下している。でなければ中国人の心性の「殘忍性」を云々したり、女性の断髪を「一種のカブレであるから頗る危險」とは言うまい(後者は女性一般への偏見とも言える)。最も眼に触るのは「支那」という呼称であるが、当時は正に見下した呼称として一般なものであり、時に芥川はそこにある種の敬愛する文化的な香気をも込めている部分もあるように思われはする。としても不快な響きであることに変わりはない。芥川及び当時の一般的日本人の限界に対して、批判的視点を失わずにお読み頂きたい。]

 

新藝術家の眼に映じた支那の印象

                  芥川龍之介談

 

 私が上海に渡りましたのは最う三ケ月も前でしたが丁度病氣に罷りましたので永らく上海に滯在して居りました。私の支那に放ける第一印象としては難が油で燒いてあるのやそれから豚を丸の儘で皮を削いで吊り下げてあるのを至る處で見た事であります。支那では古くから各人が自由に動物を屠殺する習慣になつて居るのは宜數ないと思ひます。これは一般支那人が知らず識らずの間に殘忍性を帶びて來ることであります。

 上海は何かしら騷やしく、人間でもソワソワして實に忙しい。それに北方へ來ると一般に靜かで人間にしても落ち着きがあつて實に大陸的な氣分が自然の裡に味はれました。南方では蘇州も杭州も南京も漢口も見ましたが、矢張一番氣に入つたのは蘇州の景でした。然し凡て南の風景は唯だ美しいと云ふに過ぎません。丁度日本の景の夫れに似て比較的支那氣分が薄かつたのであります。支那では谷崎潤一郎君とは趣を異にして居ります。

 支那では近來婦人の斷髮が流行するやうに聞いて居りましたが、上海過りでは餘り見受けず、寧ろ杭州で多く見ました。其節杭州の小學校へ參觀して見ますと教科書の中には私有財産論の如きものを教へて居るのには驚きました。そして黑板に獨逸語が書いてありますから獨逸語を教へて居るかと聞いて見ると別に教へては居ないと云ひますから、それでも獨逸語が書いてあるではないかと詰りますと、之れは唯だ獨逸の本を其儘書き寫したのだと云ふに到つてはお話になりません。支那の學生でも斷髮してゐる婦人でも非常に新らしがつてゐるけれども實際は一種のカブレであるから頗る危險であると思ひます。

 支那の田舍へ旅行するに一番閉口するのは言葉と食物とであります。都會でしたら、左程不自由は感じませんが、田舍へ這入ると大餠(ダーピン)の外食ふものがなく、言葉は通じないし、加之に馬車に乘つてガタガタ搖られるので隨分疲れました。それでも段々狎れて來るとその馬車の中で眠られるやうになりました。支那では昔此の馬車に乘つて戰爭したそうだが却々厄介なものであつたろうと思ひます。

 私が南から北へ來て見ますと眼界が一變して、見るものが總て大支那、何千年の昔から文明であつた支那と云ふ感じを無言の裡に説明して呉れる程それは實に雄大な感に打たれるのであります。私の考へでは將來此の大支那を統一して行く上に於ての都は矢張り北支那だろうと思ひます。

 私が支那を南から北を旅行して廻つた中で北京程氣に入つた處はありません。それが爲めに約一ケ月も滯在しましたが實に居心地の好い土地でした。城壁へ上つて見ると幾個もの城門が青々とした白楊やアカシヤの街樹の中へ段々と織り出されたやうに見へます。處々にネムの花が咲いて居るのも好いものですが殊に城外の廣野を駱駝が走つて居る有樣などは何んとも言へない感が湧いて來ます。

 北京に滯在して居る中に大同府から南口、八達嶺の方面を殘らず見物しました。北京では胡適や高一涵氏にも合ひました。周作人氏は病氣の爲め西山へ靜養に行つて居るので遂に合ひませんでした。高一涵氏は北京大學の教授で最早六十近い老爺でありますが却々獨逸語に秀れ清朝の遺臣とか云つて尚ほ辮子を垂らして居りました。私が支那服を着て行くと何故辮子をつけないかと言つて笑はしました。

 今度初めて支那へ渡りましたが、來て見るとモツト早やく來れば好かつたと思ひました。支那は早く來ないと時と共に段々古いものが破壞されて行きます。殊に南方は革命が相續いて起るので古い建物の如きは殆んど破壞されて了つて居ります。

 旅行して居る間は時々日本へ歸へりたいと思つたが愈々天津へ來ますと支那の戸口へ來たやうで寧ろ明日經つかと思ひますと徒に惜別の情が込み上げて來るやうです。(七月十一日常盤ホテルにて)

 

●やぶちゃん注

・「私が上海に渡りましたのは最う三ケ月も前でしたが丁度病氣に罷りましたので永らく上海に滯在して居りました」芥川は3月30日の午後、上海に到着している。以降、上海を拠点に、杭州(5月5日~5月8日)や、蘇州から鎮江・揚州を経て南京への旅(5月8日~5月14日)をし、5月16日に上海に別れを告げ、長江を遡り、漢口へと向かっている。上海は延べ一箇月強の滞在であるが、実は上海到着の翌日の3月31日に、治りきっていなかった感冒がまたぞろ悪化し、ホテルで床に就いたままとなる。翌4月1日上海の里見病院に入院、乾性肋膜炎の診断を受ける。入院はおよそ3週間(4月1日~4月23日)に及び、4月23日に退院している。但し、入院の後半にはカフェや本屋への外出は許されていたようである。芥川龍之介「上海游記」の「五 病院」を参照されたい。

・「支那では谷崎潤一郎君とは趣を異にして居ります」ライバル作家であった谷崎潤一郎は大正7(1918)年に朝鮮・満洲・中国に旅し、大正15・昭和元(1926)年にも中国へ旅行している。前者の旅後には「蘇州紀行」「秦淮(しんわい)の夜」「西湖の月」「天鵞絨(びろうど)の夢」等の作品をものしており、芥川の謂いは、これら中国印象を元にした紀行・小説総体を指している。実際に「支那游記」群にあっても、しばしば芥川は谷崎のこれらの作品や印象を引き合いに出して、自己のそれと対比している。なお、後者の旅では作家郭沫若ら文人達とも親交を結び、「上海交遊記」「上海見聞録」といった作品を発表している。谷崎の描く中国は妖艶な幻想的エキゾティシズムに満ちている反面、そこを時代に取り残された老残の国と捉えるオリエンタリズム的批判も如実に感じられる。こうした情緒的仮構と谷崎流のサディズム的蔑視に対すれば、自ずと芥川は見方を異にしていることは明らかで、相対的には、芥川は当時の一般的日本人にありがちな偏見と差別感覚を保持しながらも、厳しい現実と共に、新しい中国、その将来への視線を忘れていないように、私には思われる。

・「婦人の斷髮」ここでは芥川は女性のボブ・ショート・カットを奇異な目で見ている。日本では東京府が明治5(1872)年に「女性断髪禁止令」を出している(これは前年の男子への「散髪脱刀令」を誤解し、女性も短髪にする例があったためであった)。短髪の始まりは、第一次大戦後の大正末期に一部の女性がモダンな自立する新しい女のイメージとして断髪を始めたのが最初であるが、今一つ洋装が定着しないこともあって、ショート・カットが流行するようになるのは関東大震災後、本格的普及には昭和を待たねばならなかった。

・「斷髮してゐる婦人」底本では「いる」と表記しているが、「日華公論」初出を底本にした同岩波版新全集では正しく「ゐる」とあり、校異注記もないので、こちらを採用した。

・「加之に」の「加之」は通常ならば漢文読みで「しかのみならず」と読むが、ここでは芥川は「に」を送っているため、「くはふるに」若しくは「くはへるに」と訓じているものと思われる。

・「大餠(ダーピン)」“dàbĭn”は小麦粉を練ったもの(葱や細切れの肉を混ぜたりもする)を焼き上げた、中国では極めて一般的な饅頭(マントウ)。大小様々で、名前通り2m近い吃驚する程に巨大なものもある。

・「却々」は「なかなか」と訓ずる。

・「私が支那を南から北を旅行して廻つた中で」を、新全集は誤りと断じて「私が支那を南から北へ旅行して廻つた中で」と改めている。その可能性は高いとは言え、格助詞としの「を」が経過や方向を示す以上、文法的に決定的な誤りと言い切ることは出来ないと思われる。そこまで拘るなら、私などは常体と敬体が交じって気になるところの、文末の「日本へ歸へりたいと思つたが愈々天津へ來ますと」も、「日本へ歸へりたいと思ひましたが愈々天津へ來ますと」と直すのか、という話になりはしまいか。また、芥川龍之介の大誤解である「高一涵」の人物違い(後述)などは真剣に追求して該当人物を探し出し、その正しい人名に直すべきということになりはしまいか(新全集注解では、別人との思い違い、と指摘しつつも、では芥川が逢ったのは一体誰であったのかという同定までは行っていない)。従って、私は新全集のこの箇所の改変を肯ずることは出来ないのである。

・「白楊」分布域から見て、ヤナギ科ヤマナラシ(ハコヤナギ) 属ヤマナラシ亜属Populusの中国名「響葉楊」Populus adenopoda又は「銀白楊」Populus alba又は「青楊」Populus cathayana又は「山楊」チョウセンヤマナラシPopulus davidiana又は「胡楊(胡桐)」Populus diversifolia又は「河北楊(椴楊・串楊)」Populus hopeiensis又はドロヤナギ「遼楊(臭梧桐)」Populus maximowiczii又は「毛白楊(響楊)」Populus tomentosa8種のいずれかであろう。北京での優勢種が何れであるかは不学にして知らないが、既出の注が示すところの本邦産ヤマナラシ(ハコヤナギ)Populus sieboldiiとは異なるものである。但し、学名でお分かりの通り、ポプラ(セイヨウハコヤナギ)Populus Xcanadensの仲間ではあるから、有り体に言ってしまうと多くの読者のイメージがそのようなものであると考えれば、大差はないとも言えよう

・「大同府」現在の山西省大同市。山西省北部に位置し、北京からは東へ270㎞。雲崗石窟で有名。

・「南口」現在の北京市昌平区南口。明代以前の北京にとっての最終防衛線である居庸関がある。周囲約4kmの難関は「天下第一雄関」と称された。北京から北西に約50km、次注の八達嶺へ向かう途中にある。

・「八達嶺」八達嶺長城のこと。北京市の北西部延慶県に位置する長城で、万里の長城を代表する観光地である。ここの部分の長城は高さ約9m・上部幅約4.5m・底部幅9mもある。北京から北西北へ約75㎞の軍都山にある。因みに最高地点「北八楼」の海抜は1,015m

・「胡適」(Hú Shì ホゥシ こせき 又は こてき 18911962)は中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。「六 域内(上)」の「白話詩の流行」の注でも記したが、1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介はこの中国旅行の途次、北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介「新芸術家の眼に映じた支那の印象」にその旨の記載がある)。

・「高一涵」(gāo yīhá カオ イハン 18841968)中華民国初年に日本に留学し、明治大学政治科を卒業、1916年に帰国、1918年には北京大学教授となった。翌年には『新青年』の編者として陳独秀らと民主化運動の先鋒となった。中華人民共和国成立後は南京大学法学院院長、中国民主同盟中央委員会を歴任した。「欧洲政治思想史」等、多数。

 しかし、芥川龍之介が北京で会ったとすれば、この時、彼は未だ37歳、どう見ても「最早六十近い老爺」には見えないはずである。芥川龍之介が逢ったのは高一涵ではなかったのである。

 さすれば、誰か? 新全集の神田由美子氏の注では、別人との思い違い、と指摘しつつも、それが誰であったのかという同定はなされていない。しかし、1921年に60歳前後、北京大学教授職にあり、ドイツ語に堪能、清朝の旧高級官僚で、この時点でも辮髪を垂らして清朝復興を心から望んでいる、芥川龍之介が会見をしたいと望んだ人物である――これだけの情報が示されているのに、誰だか分からない方がおかしいのではあるまいか? 

 勿論、芥川龍之介研究の碩学関口安義氏は「特派員芥川龍之介」(1997年毎日新聞社刊)でこれをちゃんと辜鴻銘(ここうめい)に同定なさっている。以下、ウィキの「辜鴻銘」を参照して記述しておく。

辜鴻銘(Gū Hóngmíng グー ホンミン 18571928)清末から中華民国初期の学者。中国の伝統文化と合わせて西洋の言語及び文化に精通し、同時に東洋文化とその精神を西洋人知識人に称揚した。イギリス海峡植民地(現マレーシア)のペナンに生まれた(父は福建省出身のゴム農園管理人、母はポルトガル人)。1867年にゴム農園のオーナーと共に渡英、1870年にはドイツに留学、1877年に英国に戻ってエジンバラ大学で西洋文学を専攻する。1877年の卒業後、再びドイツのライプチヒ大学で土木工学、次いでフランスのパリ大学で法学を学ぶ。1880年にペナンに帰郷するが、ここで学識の外交官馬建忠に感化を受け、中国文化に目覚めた。1885年には清に赴き、秘書や上海黄浦江浚渫局局長を経て、1908年の宣統帝が即位後、外交部侍郎に任命された。1910年には上海南洋公学(現・上海交通大学)の監督となったが、1911年の辛亥革命により公職を去った。その後、1915年に北京大学教授に任命されてイギリス文学を講義した(1923年の蔡元培学長の免職に抗議して辞任。1924年から1927年迄は日本に赴き講演活動を行い、帰国した翌年に北京で死去した。

1921年当時は68歳であるが、年齢の若干の(37に比べればこう言ってよいであろう)齟齬を除けば、芥川の言うところの叙述の総てが美事に合致する。以上、芥川龍之介が会見したのは、高一涵ではなく、辜鴻銘であったと考えてよい。

 

・「周作人」(Zhōu Zuòrén ヂョウ ズオレン 18851967)文学者・作家。魯迅の弟。仙台医専を退学後、再来日した魯迅と共に留学、1908年に立教大学に入学して英文学と古典ギリシャ語を学び、1909年には日本人羽太信子と結婚し、兄魯迅と中国最初の本格的翻訳小説集『域外小説集』を発表している。1911年に帰国後は、浙江省で教育公務員として勤務、1917年には北京大学に招かれて国史編纂処員、文科教授となる。北京大学赴任直後に胡適の白話提唱(言文一致運動)に共鳴、当時北京の教育部(日本の文科省に相当)にあった兄魯迅と共に雑誌『新青年』に拠って活発な民主主義革命の論陣を張った。第二次世界大戦後は対日協力者として194512月に逮捕、懲役14年の刑を受けた。1949年の中国共産党による南京解放により出獄するも、今度は文化大革命によって魯迅の未亡人許広平らからの指弾を受け、不遇の内に没した。以上は、ウィキの「周作人」を参照したが、その記事の最後には以下のように記されている。『魯迅と異なり、国事や政治を語ることを好まなかった周作人のような純粋な文人が、日本の軍政下で身を処さねばならず、結果、対日協力者として同国人から断罪されたことは悲劇としかいいようがない。親日派の文学者として、毛沢東の『文芸講話』などで批判され迫害された』。私も同感である。「夜読抄」(1966)を始めとした多数の随筆作品や文学研究著作がある。

・「西山」岩波版新全集注解の神田由美子氏の注ではこの地名を、旧跡のある観光地である湖南省鄂州市の市街にある山、としている。しかし、湖南省は如何にも遠くはあるまいか? これは単なる感触に過ぎないが、これは北京周辺の美観の名数である燕京八景の一つ、「西山晴雪」と呼ばれた北京西郊の西山山脈の「西山」ではあるまいか? 金代に西山八院と呼ばれた寺院群が立ち並び、皇帝の尊崇も厚く、186年に行宮として造園された地で、清代には寺を改修、静宜園という離宮にした。現在の北京市海淀区西山にある山林公園の香山公園で、北京市郊外西北約20kmに位置する。私の認識はおかしいか? 識者の御教授を乞うものである。

・「辮子」“biàz”弁髪(辮髪)のこと。モンゴル・満州族等の北方アジア諸民族に特徴的な男子の髪形。清を建国した満州族の場合は、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたものを言う。清朝は1644年の北京入城翌日に薙髪令(ちはつれい)を施行して束髪の礼の異なる漢民族に弁髪を強制、違反者は死刑に処した。清末に至って漢民族の意識の高揚の中、辮髪を切ることは民族的抵抗運動の象徴となってゆき、中華民国の建国と同時に廃止された。

・「モツト」底本では「モット」と表記しているが、「日華公論」初出を底本にした同岩波版新全集では「モツト」とあり、校異注記もないので、どちらかといえば拗音表記をしないほうが一般的であった当時を考え、こちらを採用した。

・「南方は革命が相續いて起る」1911年の辛亥革命に端を発した、共和制に基づく中華民国を建国、さらに反革命的北洋軍閥のよる支配と、軍閥内の抗争による混乱をも含めた謂いであろう。辛亥革命は1895年春の第一次広州起義、1900年と1907年の恵州起義(現在の深圳三洲田)、1907年の黄岡起義(現在の潮州饒平県)、欽州起義(当時は広東省、現在は広西省)、中越国境域を中心とした鎮南関起義等、1910年の黄花崗起義(第二次広州起義)と、辛亥革命の中心的な蜂起と戦乱の多くは、南方に於いて行われた。

・「明日經つか」の「經つ」はママ。底本でもこの字の横に「(ママ)」表記があるが、旧全集編者の書き入れと判断し、省略した。新全集は後記校異で誤りとし、本文自体を「発つ」に改めてある。芥川龍之介は7月10日に北京を出立、その日の夜に天津着し、12日の夜、列車で天津を出発、帰国の途に就いており、末尾クレジットと事実は一致している。

・「常盤ホテル」当時、天津の日本租界の繁華街壽街通りにあったホテル。古い写真を見る限り、西洋式の重厚なホテルである。昭和101935)年の資料では、満鉄の経営援助リストにその名を載せている。名前といい、日本人経営であったことを強く伺わせる。]