やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


鎌倉攬勝考卷之一

[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考」は幕末の文政十二(一八二九)年に植田孟縉うえだもうしんによって編せられた鎌倉地誌である。全十一巻(本篇九巻と附録二巻)。植田孟縉(宝暦七(一七五八)年~天保十四(一八四四)年)は本名植田十兵衛元紳、八王子千人同心組頭、本書序文には八王子戍兵学校校長ともある。「新編武蔵風土記稿」「新編相模国風土記稿」地誌編纂作業に深く関わった知見を生かして文政六(一八二三)年には多摩郡を中心とする「武蔵名勝図会」を著して昌平黌の林述斎に献上している。全体に「新編鎌倉志」(リンク先は私の電子テクストの「卷之一」)を意識しながら、その補完を常に意図しており、その文章の読み易さからも優れた鎌倉案内記と言える。特に個々のやぐらの絵なども描かれており、今は失われた往古の形状を偲ばせるよすがとなっている。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。底本では各項目の解説部分が一字下げになっているが、ブラウザでの不具合を考え、多くを無視した。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入、キャプションは私が施した。底本では殆んど行空けはないが、読み易さを考え、各項目の前後に空行を設けた。画中の本文に現われない解説も極力判読して、注でテクスト化する。句読点(特に句点)の脱落や誤りと思われる部分がしばしば見られるが、前後から私が補ったり、変更したりしてある。歴史的仮名遣の誤りも散見されるが、これはママとし、注記は附していない。踊り字「〱」等は正字に直した。疑義のある方はメールを戴ければ、確認の上、私のタイプ・ミスの場合は御連絡申し上げて訂正させて頂く。判読不明の字は「■」で示した。お分かりになる方は、是非とも御教授を乞うものである。各項目の後に私のオリジナルな注を施した。「吾妻鏡」は国史大系本を底本としたが、一部の略字は正字に直した。既に逆順編集で第六巻から第十一巻附錄までの電子テクスト化を終了しているが、今回の私、藪野直史の野人化を迎えて、テクスト化の順を正規順列に直して第一巻からに変更、補注も普通に行うこととした。今回より若い読者の便を考え、濁点を大幅に補ってある。【作業開始:二〇一二年五月十二日 作業終了二〇一二年五月三十日】

鎌倉攬勝考卷之一
                 植田孟縉君憂編輯
[やぶちゃん注:この「憂」は「力を尽くして苦労して」の意で、出版元の献辞であろう。なお、以下の「鎌倉總説」は非常に長く、最後に語注を附しても該当箇所から大きく隔たるため、適宜、途中に挿入し、読み易くするために注の前後を改行してある。]

    
鎌倉總説

夫鎌倉は相模國鎌倉郡の南寄にて、海岸の限に接せり。東海道戸塚驛より相距こと二里半許、又藤澤驛より巽に當り行程凡二里許、《地名傳説》【和名抄】に載る郡中七ケ所の郷名の内に、鎌倉を訓して加萬久良と証せり。又【字類抄】には鎌藏と出たり。郡名もまた郷名より起れる歟。偖里老の古くいひ傳ふる鎌倉といえる地名の濫觴は、昔大織冠鎌足公のいまだ鎌子と稱せし時、宿願有て鹿島もふでし給ふ。折ふし靈夢の感得に仍て、年ごろもたらせし鎌を爰の小林郷松ケ岡え塡め給しとなん。是より鎌倉の名顯れりといふ。此説は【詞林採葉抄】に載る處にて、鎌倉の二字の訓譯は【鎌倉志】に委敷出たれば玆に略す。又鎌足公の玄孫なる染屋太郎大夫時忠といふは、文武の御朝より聖武の御朝の神龜年中になる迄鎌倉に住し、東八ケ國の總追捕使にて東夷を鎭めたりといひ、又此人は良辨僧正父なりといふ。されども【元亨釋書】等には載ず、同書に良辨は百済姓と見へたり。又時忠といふは【續紀】其餘の國史に見へ侍らず、唯土人等が口碑に傳ふるのみ。按ずるに【採葉抄】は藤澤山の沙門由阿といえるが貞治の頃にかきたるものなれば、今よりは昔なれど、大化白雉の上古に此すれば貞治のせは遙に後世とやいふべけれ。何れのものに出たる、其引書も見えず。文武の御朝の頃、鎌足公の玄孫染屋太郎大夫時忠といふは系圖にも載せず、其頃名乘し姓名にもあらず、總追捕使などいふ官名も上古はなくて、右大將家を初とする歟。
[やぶちゃん注:「小林郷」は現在の鶴岡八幡宮の所在地から十二所に及ぶ旧地名。
「詞林採葉抄」は「詞林采葉抄」が正しく、南北朝時代の僧、釈由阿ゆうあが貞治年間(一三六二年~一三六七年)に著したとされる「万葉集」注釈書。彼の居た「藤澤山」とは藤沢山清浄光寺、遊行寺のことである。]
偖其後上總介平直方も鎌倉に家居したる由を傳ふれど、直方、時方が舊跡の傳へも聞ず。源賴義朝臣はじめ相模守に任じ給ひ、當國大住郡國府の廳に下向せられし時に、直方の女を迎ひ給ひて義家朝臣などを儲給ふ。其のち右大將家いまだ伊豆の北條に謫居の頃より、直方が五代の孫時政婿に成給ひ、鎌倉に覇業を興し給ふ。最初に先組賴義朝臣勧請し給ひし若宮の舊社を再營有て、松ケ岳に宮廟を構へ給ふ。是祖宗を崇んが爲なりと云云。是もまた宿緣の報應、不思議の事にぞありける。【海道記】にいふ、[源光行が記ともいひ、又は加茂の長明が記なりともいふ。]鎌倉相模國は下界の鹿混苑、天朝の築垣州なり。武将の林をなす。萬榮の花萬にひらけ、勇士道にさかへたり、百歩の矢百たひあたり。弓は曉月に似たり、一張そはたちて胸をたをし、劒は秋の霜の如し、三尺たれて腰すさまし、勝鬪の一陣には爪を楯にして讎を雌伏し、猛豪手にしたかえて直に雄構す。干戈威をいつく敷して梟鳥あえてかけらす。誅戮にきひしくて虎をそれをなし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすまさり、貴賤臣妾の往還するおほく、むまやのみち隣をしめ、朝儀國務の理亂は萬緒の機かたかたに織なせる。[下略]
[やぶちゃん注:以上の引用は「海道記」(作者不詳。鴨長明説は全否定されている)の「序」からであるが、表記に多くの問題があるため、ここに限っては濁点などを打たず、底本のままに表記してある。
「鹿混苑」は多重ミスが重なっている。則ち「鹿混苑」は恐らく底本の誤植による「鹿澁苑」の誤りで、更に「海道記」原本の「鹿澁苑」は「麁澁苑」の誤りなのである。「麁澁苑」は「そじふをん(そじゅうおん)」と読み、仏説で帝釈天界にある四つの苑の一つで、仏法守護のための武備で充満している苑のことを言う。
「天朝の築垣州」も多重ミスが重なっている。これも恐らく底本の「築塩州」の誤植であり、更に「海道記」原本の「築鹽州」はただの「鹽州」とすべき誤りなのである。「鹽州」は白居易の詩「城鹽州」(鹽州に城す)の中に『自築鹽州十餘載』(鹽州に築くより十餘載)とあるのを誤って引用したものである。「天朝」は本邦で、白居易の詩の鹽州を鎌倉に擬え、更に詩と同じく鎌倉に強固なる武家の砦を築いて本邦の国防を図ったことを讃えているのである。
「萬榮の花萬にひらけ」の「後半は「花よろづにひらけ」と訓ずる。
「百歩の矢百たひあたり」私が参照している朝日新聞社昭和二十六(一九五一)年刊の日本古典全書版玉井耕助校注「海道記」では(本引用との異同が激しいので版本は異なるようであるが)、「百歩の柳ももたびあたる」とあり、頭注で「史記」に楚の養由基が百歩を隔てた柳の葉を射たことから、『鎌倉には弓の名人が多いこと』を謂うとある。
「一張そはたちて胸をたをし」日本古典全書版「海道記」では、「一張そばだちて胸を照し」とあり、「和漢朗詠集」等に基づく、『弓を胸の前に執りすゑた姿』とあるが、「たをし」「てらし」何れも私にはしっくりこない。
「三尺たれて腰すさまし」日本古典全書版「海道記」では、「三尺たれて腰すずし」。
「勝鬪の一陣には爪を楯にして讎を雌伏し」日本古典全書版「海道記」では、「勝鬪しようとうの一陣には爪を楯にしてあだをここに伏す」とし、頭注に『決死の接戦をするの意であろう』と解釈しておられる。
「猛豪手にしたかえて直に雄構す」日本古典全書版「海道記」では、「猛豪の三兵にしたがえて互に雄稱す」とし、頭注に「三兵」を『三種の兵器、弓・剱・槍。またそれを手にする兵卒』と注す。「雄稱」は名乗りであろう。これも底本の誤植が疑われる。
「干戈威をいつく敷して梟鳥あえてかけらす」日本古典全書版「海道記」では、「干戈、威、いつくしくして梟鳥けうてう敢えてかけらず」とある。その幕府の武の威力は、厳めしくして、猛禽も一向に羽ばたかぬ――反抗しようとする手強い賊衆どもも敢えて逆らおうとはしない、という意である。
「誅戮にきひしくて虎をそれをなし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすまさり、貴賤臣妾の往還するおほく、むまやのみち隣をしめ、朝儀國務の理亂は萬緒の機かたかたに織なせる」ここは日本古典全書版「海道記」では大きく異なるので、以下に改行して同箇所を示しておく。
誅戮、罪、きびしくして虎狼ながく絶えたり。この故に、一町の春の梢は東風にあふがれて惠をまし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすませり。貴賤臣妾の往還する多くのうまやの道、隣をしめ、朝儀國務の理亂は、萬緒の機、かたかたに織なす。
「一町の春の梢は東風にあふがれて惠をまし、四海の潮の音は東日に照されて浪をすませり。」の部分は頭注で『一國の民は鎌倉の恩惠を受けて榮え、天下の萬民は鎌倉の恩惠に照らされて平和ににくらす。』と比喩を戻して通釈されている。「臣妾」は男女、「隣をしめ」は、往還の街道に宿場が絶え間なく続いていることをいい街道筋の、ひいては民の繁栄を象徴する。「朝儀」は、玉井氏の頭注によれば、本来は朝廷を指すが、ここでは実権を握っている幕府に転用して用いられており、以下の「朝儀國務の理亂は、萬緒の機、かたかたに織なす」は『幕府が亂をヲサめる國務は、萬端の諸政を、よくあやつつてゐる。』と訳されている。なお、次の「【東關紀行】云、……」以下の引用は「東関紀行」ではなく、同じく「海道記」の鎌倉遊覧からの引用の間違いであるので注意されたい。以下も表記に多くの問題があるため、濁点などを打たず、底本のままに表記してある。]
【東關紀行】云、[源親行が記]此ところの景趣はうみあり、山あり、水木たよりあり、廣きにもあらす。狹きにもあらす、街衢のちまたかたかたに通せり。實に此聚おなじ邑をなす、郷里都を論じて望みまつめつらしく、豪をえらひ賢をえらふ、門郭しきみをならへて地また賑えり。をりをり将軍の安居を垣間見れは、花堂高く押ひらひて翠簾の色喜氣をふくみ、朱欄妙にかまえて玉砌の石すへ光をみかく。春にあえる鶯の聲は好客堂上の花にあさけり、あしたを迎る龍蹄は參會門前の市に嘶ゆ。論ぜす本より春日山より出たれは貴光たかく照して、萬人みな膽仰して風塵をはらふ、威驗遠く誡て四方悉く聞におそると云云。
[やぶちゃん注:前注末尾に示した通り、これは「東關紀行」ではなく、「海道記」からの引用の錯誤。なお、「東関紀行」の作者源親行説は現在では否定され、作者未詳である。
「水木たよりあり」前の「うみあり、山あり」を受けて「水の趣き、木の風情」と受けたもの。
「街衢のちまたかたかたに通せり」「街衢」は「がいく」と読み、街。市街地の通路は縦横に通じている、の意。
「實に此聚おなじ邑をなす」日本古典全書版「海道記」では、「げにこれ聚をなし邑をなす」。「聚」も「邑」も人の集まり住む場所の謂い。
「郷里都を論じて望みまつめつらしく」この鎌倉の里の縦横無尽な街路とそこここに蝟集する街の様子は、京の都の整然とした条里制に比して、まずは珍しく観察された、の謂い。
「門郭」の「郭」は底本では(つちへん)が附くが、ユニ・コードで表記出来ないので、「海道記」の表記を用いた。
「しきみ」は「閾」で内外の境として門や戸口などの下に敷く横木を指す。敷居。戸閾とじきみ
「玉砌」は「ぎよくせい(ぎょくせい)」と読み、原義は建物の入口にある玉で造ったような立派な石の階段であるが、転じて立派な建物や御殿の意。
「好客堂上の花にあさけり」日本古典全書版「海道記」では、「好客、堂上の花にさへづり」。一見すると、古典全書版が正しく、これが誤りのように見えが、「嘲る」という古語には「風月に心ひかれて声を上げて詩歌を吟ずる」という意があり、これだと鶯を擬人化して意を通ずる。
「あしたを迎る龍蹄は參會門前の市に嘶ゆ」「嘶ゆ」は「いばゆ」と読み、朝を迎え、幕府に出仕する幕臣の騎乗する駿馬は、その門前に集まってきて、力強く嘶いている、の意。
「論ぜす本より春日山より出たれは貴光たかく照して、萬人みな膽仰して」日本古典全書版「海道記」では、「論ぜす、もとより春日山より出たれば貴光高く照して、萬人みな膽仰きんかうす。」である。頭注で『今の將軍は藤原賴經(今年貞應二年には六歳)春日山は藤氏の祖先を祭る春日神社。春日の神德によつて萬人が將軍をあがめてゐることは言ふまでもない。』と訳す。「貞應二年」は西暦一二二三年で、この時、後の鎌倉幕府四代将軍頼経は未だ三寅みとらと称し、数え六歳であった。彼は二年後の嘉禄元(一二二五)年に元服、頼経と名乗り、正式な将軍宣下は、更に翌嘉禄二(一二二六)年のことであった。]
《四至地形》上世此地の界限は知べからず。
[やぶちゃん注:「界限」境界。]
【東鑑】に、四至とは東は六浦、南は小坪、西は描村、北は山ノ内と云云。
[やぶちゃん注:「四至」は四方の境界。以上の引用は「吾妻鏡」の元仁元(一二二四)年十二月小の以下の記事に基づく。
廿六日戊午。此間。疫癘流布。武州殊令驚給之處。被行四角四境鬼氣祭。可治對之由。陰陽權助國道申行之。謂四境者。東六浦。南小壷。西稻村。北山内云々。
廿六日戊午。此の間、疫癘流布す。武州、殊に驚かしめ給ふの處、四角四境鬼氣祭を行はれ、治對ぢたいすべきの由、陰陽權助國道、之を申し行ふ。四境と謂ふは、東は六浦むつら、南は小壷、西は稻村。北は山内と云々。
「治對」は「退治」=「対治」と同義。]
是ものに見へたるの始とするか。されども六浦は武藏國久良岐郡なれば朝夷奈切通を踰て若干行ば岩に地藏を彫附、是を國界の標とすれば鎌倉も又界限となれり。
[やぶちゃん注:「踰て」は「こえて」と訓ずる。]
小坪もまた三浦郡なり、其餘は疆域の唱へは今も相同しけり。地境の廣窄を總計するに東西は長く、南北は狹し。東は鼻缺地藏より稻村堺迄凡一里半許、北よりして南迄は山谿をこめて海岸に至り、最も凡一里程には過ず。土人いふ、此地は要害堅固の勝地にして、南は由比の海濱、西の方は靈山ケ崎より連山北の方へ押運らし、又は圓覺、建長兩寺の後山より鶴ケ岡のうしろ迄山峰續き、夫より東へ瑞泉寺の一覽亭へ押亘り、又朝夷奈切通の峰より名越、比企谷の方なる峰々へ連續して、小坪切通より海岸もて山峰をもて包たるが如し。其間々に切通を設て通路とす。中央に鶴ケ岡の宮殿を崇め祀りて将帥擁護の神と仰ぎ、萬代不易の勝地なるべしとて、將軍爰に基を起せしといひ傳ふ。地形前件の如く峰巒重々として連続するゆへに、おのづから所々狭隘の地有て、村落は山に挾れたる所なれば、谷々の名多く、山も高く聳へたるにもあらず。磐山の時しもなく大概は土山なり。石を切出す山あれど其石伊豆みかげと稱するより柔石なり。作事等に用ゆれば年経て廉々剝落す。土性は都て眞土にて、海溝に至れば砂利交りもあり。
[やぶちゃん注:「時しもなく」は古語としては聞かない。「時しもあれ」や「時しもこそあれ」で「折も折」、「折もあろうに」、「他の折りもあろうに、よりによってこの折りに」の意で、これはそれを誤用したものか。いわば、丘陵程度の山々が連なっているが、「よりによって」それらの山は殆どが良石が「なく」(=産せず)、土山ばかりである、の謂いである。
「伊豆みかげ」伊豆石でも硬質の安山岩系ではなく、凝灰岩系の軟質のものを言う。耐火性に優れ、軟らかいために加工がし易く、比較的軽いが、風化しやすい欠点がある。
「廉々」は「かどかど」と読み、部分部分の意。]
地打開けたる所は若宮小路邊をいふ。東は大倉邊に至り小町へ大町、亂橋迄大抵平坦なり。材木座のあたりは平夷なれども砂地なり。
[やぶちゃん注:「平夷」は「へいい」と読み、平らなこと。]
若宮小路より西の方龜ケ谷、佐介谷への入口を遮り、御輿の嶽の麓に隨ひ、甘繩より長谷邊まで、是も又平坦の陸田にして、東西凡十町許、南北は濱手を限り凡六七町許、古え鎌倉繁栄の頃は此あたり皆大名の第地にて有しならん。又山ノ内より西は離山或は粟船村、戸塚道、藤澤道邊は悉く水田の地なり。谷々に至ては田畠すくなく、當所は昔より洞窟多く、寺院又は民居の地も皆山際に亭宅を構へ、佛寺の境内は堂後の山麓或は山の中段に窟を鑿て、塋域として塔を建てるもあり。洞皆横穴ゆへ土室として菜薪又は雑具を入置もあり。民家もまた左の如し。所々田圃の後なる山際に洞窟數ケ所あるは古へ人の住せし舊跡なり。其洞窟をノゾき見る、田舎の方言にいふ赤ナメ、靑ナメといふ埴土なり。
[やぶちゃん注:「埴土」は「はにつち」若しくは単に「はに」、音読みして「しょくど」で、きめの細かい黄赤色の粘土。瓦や陶器の原料とする。赤土。前に出る「赤ナメ」は単に赤土のことであろうと思わる。「靑ナメ」は青粘土で、粒の細かい粘り気のある粘土で青色を呈し、湖の底等に溜まって形成されたケイ酸質粘土層で、別名モンモリロナイトと呼ぶものを指しているか。]
稀には岩窟もあり。《矢倉》又土人の方言に洞窟の事を矢倉と唱へ、或は某人の土ノ牢と稱するものも皆古ヘの穴倉なるべし。又名越を呼てなこやと唱へ、谷をヤツと號せり。鎌倉入口に切拔道七口とはいえども實は九ケ所あり、其道路の事は末に出しぬ。或は十橋、十井、五水なといふも次に出せり。是等は皆後世に至り土人が類を集て名附しものなり。古詠に鎌くら山とよみたるはすべての山をさしての事なるべし。又は鎌倉の里とよみしも定まれる地にもあらで、村民のすめるあたり、其地名の係る所爰かしこ、皆鎌倉の里なるべし。
[やぶちゃん注:以下の和歌引用部は底本では二字下げ。]
《古歌に見えし鎌倉》
萬葉十四讀人しらぬ歌
多伎木許流タキギコル可麻久良夜麻能カマクラヤマノ許太流木乎コタルキヲ麻都等奈我伊波婆マツトナガイハバ古非都追夜安良牟コヒツツヤアラム
[やぶちゃん注:「万葉集」巻第十四の第三四三三番歌。漢字仮名交りに書き直すと、
 薪伐る鎌倉山の木埀る木を松と汝が言はば戀ひつつやあらむ
で、「薪伐る」は鎌で伐るので「鎌倉山」の枕詞、「松」は「待つ」の掛詞で、
○やぶちゃん通釈
 ……鎌倉山の……あなたへの思いで……重くたるんでいる木は……松だ……そう、あなたが一言……「待つわ」って君が言ってくれたなら……そうして呉れたなら……こんなに私は恋に苦しまずにいられるのに……]
同二十防人國歌 鎌倉郡上丁丸子連多麻呂[此人が郡中に住せし人なり]
奈爾波都爾ナニハツニ 〔余〕曾比余曾比弖〔ヨ〕ソヒヨソヒテ 氣布能比夜ケフノヒヤ 伊田弖麻可良武イデテマカラム 美流波々奈之爾ミルハハナシニ
[やぶちゃん注:二句目の万葉仮名の頭に脱落があるので〔 〕で補った。「万葉集」巻二十四の第四三三〇番歌。漢字仮名交りに書き直すと、
 難波津に裝ひ裝ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに
この歌には、
右一首、鎌倉郡上丁丸子連多麻呂
二月七日、相模國防人部領使、守從五位下藤原朝臣宿奈麻呂進歌数八首。但拙劣歌五首者不取載載之。
という後書きがある。書き下すと、
右の一首は、鎌倉の郡上丁丸子連多麻呂こほりかみつよぼろまろこのむらじおほまろ
二月七日に、相模國さがむのくに防人部領使ことりづかひかみ從五位下藤原朝臣宿奈麻呂すくなまろたてまつれる歌の數は八首。但、拙劣つたなき歌五首は取り載せず。
で、「上丁」は防人でも上級職であったことを示す。
○やぶちゃん通釈
難波津で軍装を万全に整え整えし……さあ、遂に今日は、その日旅立つ日となるか……見送ってくれる母もなしに……
因みに本歌は天平勝宝七(七五五)年に同定されている。
以下の、和歌の頭の書誌名は底本ではポイント落ち(以下、同様箇所では本注を略す)。濁音は意識的に補わなかった。またすべての和歌を一行に収めるために一部が割注のようになっている和歌があるが、無視して同ポイントで示した。]
家集
忘れ草かりつむはかりなりにけり、跡も留めぬ鎌倉の山[藤原公任]
[やぶちゃん注:この歌は「近江輿地志略」に載り、「かまくらやま」でも、比叡山山系の神蔵山(かまくらやま:神蔵寺山とも)を歌ったものとするので、引用は錯誤である。「新編鎌倉志卷之一」の「鎌倉大意」からの転載による誤りである。]
家集
なかめ行心の色も深からん、鎌くら山の春のはなその[慈鎭和尚]
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之一」の「鎌倉大意」では「ながめ行く心のいろぞ」とある。どちらが正しいのか、識者の御教授を乞う。]
家集
かきくもりなどか音せぬ郭公、鎌倉山に道やまとゑ努[藤原實方朝臣]
[やぶちゃん注:この歌、
かき曇りなどか音せぬほととぎす鎌倉山に道やまどへる
で、「努」は誤植か。]
【續古今】
宮ばしらふとしく立て萬代に、今もさかふる鎌倉のさと[鎌倉右大臣]
[やぶちゃん注:「ふとしく」は「ふとしく」の誤り。]
【夫木】
昔にも立こそまされ民の戸の、烟にきはふ鎌倉の里[藤原基綱]
[やぶちゃん注:「藤原基綱」なる人物は恐らく後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)。藤原秀郷の流れを引く京の武士後藤基清の子。評定衆・引付衆。幕府内では将軍頼経の側近として、専ら実務官僚として働き、歌人としても知られた。]
御集
十とせあまり五とせまても住なれて、なを忘られぬ鎌倉の里[宗尊親王]
[やぶちゃん注:下句は底本では「をな忘られぬ」とある。訂した。]
家集
民もまた賑ひにけり秋の田を、かりておさむるかま倉の里[藤原實方朝臣]
[やぶちゃん注:底本「賑ひにけり」が「賑ひけり」とあるが、訂した。]
【北國紀行】
廿日過る頃鎌倉山をたどり行に、山徑の芝の戸に一宵の春のあらしを枕とせり、
 都思ふ春の夢路もうちとけず、あなかまくらの山の嵐や[堯惠法師]
【東國陣道記】
天正十八年五月十二日鎌倉を見侍りに、兼て思ひやりしにもこえてあれたるところなれば、
 古いえの跡とひ行は山人の、たき木こるてふかまくらの里[玄旨法印]
[やぶちゃん注:「東国陣道記」は、豊臣秀吉の小田原城攻略に従軍した武将で、歌人にして歌学者細川幽斎の紀行文。「玄旨法印」は幽斎の法号。]
《古跡寺社の頽廢》偖此地に附たる古き文書其餘古器等も、古えのものは經歴久しき内に回祿に罹り、或は散逸せしにや更に見えざれば、往昔の事實知るべからず。右大将家の殿營の跡は禾黍の田園となり、大名の第蹟なども悉く變替し、其舊蹤もしかとわきがたく、南の御堂、二階堂、大慈寺等の大伽藍を結構し給ひしも、尋んとすれど荊棘路を遮り、其俤さえ見へずなりぬ。寺院の古刹も廢亡せしは多く、建長、圓覺の二寺は五刹の上首にて今も大刹なれど、古えに比せば猶衰廢とやいふべけれ。其他の寺堂も隨て廢し、僅に堂塔を存するのみ。唯光明寺の如きは御當家の御代となり、關東十八刹の旃檀林の班次を定められしにも、元より關東總本山とも稱すれば、紫衣檀林の上首にて是れは古へよりまされるならん。
[やぶちゃん注:「旃檀林」は「せんだんりん」と読み、全国の重点寺院(ここでは浄土宗の)を言い、「班次」は順列のこと。]
八幡宮の神廟は星霜久敷荒蕪となりしが、御打入以來御修營有て翰奐美をつくし、木鳥居を玉石に改め造られ、五ケ所ともに御造立ゆへ末代の美觀にして上世に超過せり。
[やぶちゃん注:「御打入」家康の関東入城、「翰奐」は「かんくわん(かんかん)」と読み、壮大美麗な建物。]
天喜年中、始て源賴義朝臣勧請、又義家朝臣修造せられ、又治承、建久中賴朝卿大ひなる結構有しも、年経て應永の頃より頽廢に及しを、御當家の御代に至り宮殿其餘莊嚴を加えられければ、或記にしるせし如く、舊水源すみまさりて淸流れいよいよ遺跡をうるほしけるとあるは、此事にぞありけん。
[やぶちゃん注:「天喜年中」は西暦一〇五三年から一〇五八年、「應永」は、西暦一三九四年から一四二七年、「御當家」は徳川家。]

  
○鎌倉中被定置町屋の名
[やぶちゃん注:標題は「鎌倉中、定め置かるる町屋の名」と訓読する。町屋は商店街のこと。]
【東鑑】云建長三年十二月三日、鎌倉在々所々町屋及賣買設之事、制禁を加ふべき由有御沙汰、今日彼所々を被定置、此外一向停止せらるべき旨、嚴密に被仰之處也、佐藤太夫判官基政、小野澤左近大夫入道光蓮等奉行す。
 大倉辻・小町・大町・米町・和賀江・気和飛板山上
 牛を小路に繫ぐべからず、小路を掃除致べき事云云。
其後又文永二年正月五日、小野澤左近大夫入道奉行して、鎌倉中町屋散在せしを止られ、七ケ所に町免所可定旨被仰出。
小町・大町・穀町・魚町・武藏大路下・須地賀江橋・大倉辻
 以上七ケ所は治承四年十二月十二日、開巷の路を直くし、村里に號を授け給ひし頃よりの町名にして、左右に軒を双べ市肆繁榮せしも、今は村居となれり。
[やぶちゃん注:鎌倉幕府は、商業活動への社会的認識の未成熟と要塞都市としての軍事的保安理由から、建長三(一二五一)年、第五代執権北条時頼は御府内に於いては指定認可した小町屋だけが営業が出来るという商業地域限定制を採り、大町・小町・米町・亀ヶ谷の辻・和賀江(現在の材木座辺りか)・大倉の辻、気和飛坂(現・仮粧坂)山上以外での商業活動が禁止した。その後、文永二(一二六五)年にも再指定が行われて、認可地は大町・小町・魚町いおまち・穀町(米町)・武蔵大路下(仮粧坂若しくは亀ヶ谷坂の下周辺か)・須地賀江橋(現在の筋違橋)・大倉の辻とされている(なお、冒頭部分の「東鑑」には、底本では書名引用を示す括弧がないので補った)。以下、植田が引用している「吾妻鏡」の該当箇所を掲げて、訓読しておく。
まず、建長三(一二五一)年十二月大の、
三日戊午。鎌倉中在々處々。小町屋及賣買設之事。可加制禁之由。日來有其沙汰。今日被置彼所々。此外一向可被停止之旨。嚴密觸之被仰之處也。佐渡大夫判官基政。小野澤左近大夫入道光蓮等奉行之云云。
 鎌倉中小町屋之事被定置處々
  大町     小町     米町     龜谷辻    和賀江
  大倉辻    氣和飛坂山上
 不可繫牛於小路事
 小路可致掃除事
   建長三年十二月三日
○やぶちゃんの書き下し文
三日戊午。鎌倉中の在々處々の小町屋こまちや及び賣買のまうけの事、制禁を加うふべきの由、日來其の沙汰有り。今日、彼の所々に置かる。此の外は一向に停止ちやうじせるべきの旨、嚴密に之を觸れ仰せらるるの處なり。
 佐渡大夫判官基政・小野澤左近大夫入道光蓮等之を奉行すと云云。
 鎌倉中小町屋之事定め置かるる處々。
  大町   小町   米町   龜谷かめがやつの辻   和賀江
  大倉の辻   氣和飛坂けわひさか山上
 牛を小路に繋ぐべからざる事。
 小路を掃除致すべき事。
   建長三年十二月三日
次に文永二(一二六五)年三月大の再指定の記事。
五日甲戌。鎌倉中被止散在町屋等被免九ケ所。又堀上家前大路造屋同被停止之。且可相觸保々之旨。今日。所被仰付于地奉行人等小野澤左近大夫入道也。
  町御免所之事
一所 大町    一所 小町    一所 魚町    一所 穀町    一所 武藏大路下
一所 須地賀江橋 一所 大倉辻
○やぶちゃんの書き下し文
五日甲戌。鎌倉中に散在を止めらる町屋等、九ケ所をゆるさる。又、家前の大路を堀り上げて屋を造ること、同じく之を停止せらる。且つは保々に相ひ觸るべきの旨、今日、所被仰付于地奉行人小野澤左近大夫入道也。
  町の御免所の事。
一所 大町    一所 小町    一所 魚町    一所 穀町    一所 武藏大路下
一所 須地賀江橋 一所 大倉辻
「九ケ所」とあるが七ヶ所しかないが、単に「七」の誤字かも知れず、建長三年の「龜谷辻」及び「氣和飛坂山上」をはずした理由も不分明であるから、たまたまこの二箇所を書き損じたものかも知れない。
「治承四年十二月十二日、開巷の路を直くし、村里に號を授け」の部分は、治承四(一一八〇)年十二月小十二日の記事であるが、これは頼朝の新造住居への移徙わたましの儀とそれに付随する鎌倉への御家人の移入居宅の造営を記す最後の、僻村であった鎌倉の大きな変容を語った部分であるから、該当箇所のみを示しておく。
閭巷直路。村里授號。加之家屋並甍。門扉輾軒云々。
○やぶちゃんの書き下し文
閭巷りよかう、路をすぐし、村里にを授く。之加しかのみならず、家屋、甍を並べ、門扉、軒をきしると云々。]

小町 若宮小路より東大倉辻の南に續き、夷堂橋迄を小町といふ。《將軍家御所並北條氏邸址》往昔將軍家御所並北條氏の第の在し邊なり。

大町 小町より南に續き、夷堂橋より逆川橋迄をいふ。
[やぶちゃん注:「逆川橋」は「さかさがはばし」と読む。]

穀町[米町同所] 大町の四辻より、西は琵琶橋へ達する横町をいふ。此邊は建曆三年五月六日和田亂の時、足利義氏町の大路にて陣を張とあり。又米町辻、大町の大路にて所々合戦とあるは此邊なり。
[やぶちゃん注:これは「吾妻鏡」の建暦三(一二一三)年五月小二日の和田合戦の記事中に「又於米町辻大町大路等之切處合戰。足利三郎義氏。筑後六郎知尚。波多野中務次郎經朝。潮田三郎實季等乘勝攻凶徒矣。」(又、米町の辻、大町大路等の切處せつしよに於て合戰す。足利三郎義氏、筑後六郎知尚、波多野中務次郎經朝、潮田うしほだ三郎實季等、勝つに乘じて凶徒を攻む。)の箇所を言うか。「切處」は戦闘時の要所の謂いであるらしい。]

魚町 今材木座の邊、漁者の住居なれば此邊の事なるべし。
[やぶちゃん注:幕末には既にこの魚町の位置同定は実は困難であったことが、この植田の書き方から分かる。]

武藏大路の下 山の内を行過て圓覺寺總門前より西の方、山の内堺にして、市場臺と巨福谷村の邊をいふ。《町免許の地》古へ町免除の地ゆへ、《市場》爰に賣買の市を立つる所なれば、今に土人市場と唱えしより、或は市場村とも稱すれど、本名は臺村と號す。依て又は市場臺村とも唱へ來れり。
[やぶちゃん注:現在の大船に台の地名として残る。「町免除」とは江戸時代の制度から推測すると、新たな商業地域を指定し、そこへ入植した者には土地を与えて商業住持の義務を与える代わりに、通常の町に課せられた租税・諸役を免除したことを言うか。]

須地賀江橋 大倉の筋違橋の事なり。
[やぶちゃん注:「筋違橋」と書いても「すじかへばし(すじかいばし)」と訓ずる。]

大倉辻 或は塔の辻とも唱へ、大倉と小町の堺の地なり。此邊には將軍家の御所並執權北條氏の館もあり。又武家の第もあり。町屋も入交れり。應永廿二年十月、上杉右衛門佐氏憲入道禪秀が謀坂の時、塔の辻は敵篝を燒て警固しけるとあるも此所なり。
[やぶちゃん注:「應永廿二年」は西暦一四一六年。これは「鎌倉大草紙」に基づき、禪秀挙兵の翌日、十月三日の記事中にある。]

[鎌倉大概圖]


  
○今唱鎌倉中の村名[古へ町名に呼しも今は村名となり、地名の古き唱へは地の小名に殘れり]
雪ノ下村[小林郷山ノ内庄] 古へ鶴ケ岳の大別當所の邊より今の十二院の境内、夫より馬場小路、横小路邊までの地名にして、雪の下と稱せしか、中古以來は村名となれり。
堯惠法師【北國紀行】に、[文明十七年]彌生半ばになりぬ。東ノ常和に誘れて、扁舟に浦傳ひし又鎌倉に至り、建長、圓覺兩寺巡見して雪の下といふ所を見侍るに、門碑遺跡かづしらず。あはれなる老木の花、苔の庭に落で道を失ふかと見ゆ。
 春深き跡あはれなり苔のうへの、花にのこれる雪の下道
[やぶちゃん注:「東ノ常和」東常和(とうのつねかず 康正二(一四五六)年~天文十三(一五四四)年)は武将・歌人。尭恵は当時、相模国三浦郡芦名(現・横須賀市芦名)にいた彼に古今伝授を行っている。この歌、私の所持する「北国紀行」では「あはれなる」である。]

浄妙寺村[小林郷] 元は大倉の内なれど、今は此邊を一村に稱して浄妙寺を村名に唱ふ。

二階堂村[小林郷] 爰も大倉の内にて、右大將家二階堂建立のころも、【東鑑】に大倉の二階堂と唱え、《二階堂寺》其後二階堂ヤツと地の名に稱しけるか、其伽藍も廢したれと、古名を一村の名となせり。
[やぶちゃん注:編者の頭注の「二階堂寺」は「二階堂谷」の誤記であろう。永福寺をこうは呼称しない。]

十二社村[小林郷] 古えは大倉の地名なるを今は村名とすること、光觸寺の邊よりの地なり。土俗の誤りを傳へて、むかし此邊に家數十二所ありしゆへ、十二所村と唱へしといふ妄誕の説は取にたらず。此社は地の鎭神にて、既に鶴岡大別當の兼帶所なりし事は【社務職次第】に見へて、大倉の熊野堂と出たり。其比は大堂にて有し事しらる。今は衰廢し光觸寺の境内鎭守となりし小社なれど、謂れある社ゆへに後世に至りても村名に稱せり。《熊野社と十二社》他所にても熊野社のある地には必ず十二と唱ふる地名あり。時宗流の寺ある所には道場と稱する小名あるのたぐひなるべし。
[やぶちゃん注:「熊野社のある地には必ず十二と唱ふる地名あり」これは熊野社が紀州熊野三山の十二柱の神々を勧請したことに由来する。]

西御門ニシミカド村[小林郷] 右大將家御所の西御門ありし舊跡ゆへ名附、東御門の在し所は是も東御門ヒガシミカドと唱ふ。

山ノ内村[小坂郷山ノ内庄] 巨福呂坂邊より巨福呂谷村迄の間をいふ。むかしは離山粟船村邊は勿論、吉田本郷邊迄も山ノ内なりし事ものに見へたり。今は圓覺寺總門外より西續き、巨福呂谷村を堺とする由。往古は此地に寺はなく、皆武家屋敷と村民なりしかど、今は悉く寺院内に入、上杉管領屋敷跡といふも寺地に屬す。村地とする所は僅なり。治承四年十月六日、右大將家は武藏路よ鎌倉へ着御し給ひ、同九日、大庭平太郎景能を奉行として山の内の知家事チケジ兼通が宅を移して、假の御亭に營作せらるゝとあり。又山ノ内を氏に稱するものは此地の産なり《後白河法皇追福の浴室》。建久三年三月廿日、後白河法皇の御追福の爲に、俊兼奉行し、山ノ内の地にして百ケ日の間浴室を施行せられ、往還の諸人並村民等浴すべき由、路頭に札を建られしとあり。其地今は知べからず。建仁二年十二月十九日、賴家卿山ノ内の荘へ鷹場御覽に出給ふとあり。仁治元年十月十九日、前武州[泰時]の沙汰として、山ノ内の路を造らる。この路頭嶮難にして往還の煩ひあるに依てなり。いまも道路狹く、南の方は山に接し、北の方の路傍、建長寺境内より流出る水路有て嶮隘なる道路なり。建暦三年和田亂の時、一味の山ノ内の人々廿人とあり。《北條氏の領所》其人々没收せられし地を同年に北條義時に賜ふとあれば、是より北條氏が領所と成けるゆへ、泰時に至て粟船村に常樂寺を基立し、又時賴は此地に別業を設け、建長寺、禪興寺を建立し、其子時宗圓覺寺を開基し、時賴の孫師時は浄智寺を創建し、又時宗が妻室の禪尼は松ケ岡の東慶寺を剏建せり。是所領の地なるゆへ數ケ寺院を造りし事なり。
[やぶちゃん注:「知家事」は鎌倉幕府の政所の職名。案主(あんじゅ・あんず:文書・記録等の作成保管に当たった職員。)とともに事務を分掌した。
「浴室」はかつて主に寺院が貧民や病者を対象として行った施浴の施設。寺内の浴室を開放したり、仮設の施設を設けて行った。この時のものは一種の薬草を燻じた蒸し風呂様のものであったようである。
「剏建」は「そうけん」で、初めて建立する、創建に同じい。]
宗久が【都のつと】云、さてさがみの國かまくら山の内といふ所につきて、古えゆかりありし人をたづねしに、昔かたりになりぬと聞しかば、やうすみける所のさまなど見侍りて、いとゞ世のはかなさもおもひしられ侍りき。
 みし人の苔の下なる跡とえば、空行月も猶かすむなり
[やぶちゃん注:「宗久」(そうきゅう 生没年未詳)は南北朝期の僧・歌人。俗名、大友頼資。豊後大友氏の一族か。応安四・建徳二(一三七一)年に九州探題となった今川貞世の使僧となった。「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」などに四首入集。その著「都のつと」は観応年間(一三五〇年~一三五二年)に彼が諸国を放浪した折りの紀行文。]

極樂寺村[小坂郷] 《常盤の里》此邊古名常盤の里とも唱へ、北條陸奥入道重時常盤に住し、康元二年の頃、極樂寺創建せしより極樂寺の名も起り、坂の名も極樂寺切通と唱ふ。建長より後の事なるゆへ【東鑑】に坂の名は見へず。

長谷村[小坂郷深澤庄] 《深澤》古へは此地深澤と唱え、大佛切通も深澤切通とも唱ふ。

坂下村[小坂郷] 極樂寺切通の坂下をいふ。

扇ケ谷村[小坂郷] 亀ケ谷の内なり。

小町村[小坂郷] 塔の辻の續き。

大町村[同上] 小町より續き両所ともに古くは町名なりし。

亂橋ミダレハシ村[小坂郷] 逆川邊より材木座へ續く石橋の名を村名に唱ふ。

材木座村[小坂郷] 亂橋より南の濱迄の地をいふ。昔の魚町も此地の内なり。《地名由來》御打入の後、鶴岳の宮殿並堂塔佛寺等迄御修營の砌、爰の海濱に諸國よりの筏木、其餘竹木を積置しより、材木座の唱へは始れるといふ。

 
○切通坂[鎌倉入口に切通路七所ありと【東鑑】にも見へたるゆへ、土人等七口と唱ふれども、實は切拔路九ケ所あり。]
極樂寺切通 玆を踰れば稲村へ至り、夫より七里ケ濱を過て腰越に至る。《京都への本道》此道筋は京都へ往返する本道なり。源廷尉[義經]屋島の大臣を具して下向せしに、腰越にとゞめらるとあり。古くより人々の紀行に見へたる名所どもを過行く藤澤驛に達す。元弘三年五月、新田左中將義貞此道より鎌倉へ乱入すといふ。されども此道は鎌倉開府の頃には、極樂寺切通の唱えなき事は前條にも記せり。是は遙のちに開かれたり。昔は深澤を踰て鎌倉へ通行せし事なるべし。
[やぶちゃん注:「屋島の大臣」平家総大将平宗盛。]

大佛切通 是を踰ゆけば梶原村、山崎村等を經て藤澤道へ合せり。又津村、腰越の方へも達す。《深澤切通》古へは深澤切通とも唱えけるといえり。

假粧坂 是を踰れな梶原村へ係り、夫より田圃を過行ば前にいふ藤澤道へ合す。《徃古娼家の地》古へ此邊に倡家有し地ゆへ、地の名も斯くこそ名附ともいえり。建長三年十二月、鎌倉中に町屋を定置る、内に、氣和飛坂上と有は爰の事なるべし。《時致の愛娼》【曾我物語】に、けはい坂のふもとに五郎時致の通ひし女あり。又梶原源太濱出の歸るさに、彼女のもとに立寄、よもすがら遊びて歸るとて、刀を忘れ出ければ、女のもとより刀をつかはしけるとて、
 いそくとてきすか刀をわするゝは、おこしものとや人のみるらん、景季駒をひかへて、
 かたみとておきてこし物其まゝに、歸すのみこそさすが成けり
と返歌せしより源太ふかく思ひそめ、よそのむつごとまでたはぶれければ、女引こもりてかりそめの人にもあはざりけり。時致思ひもよらず尋行ければ、友の遊君、此ほどは源太殿のめし置れ、大かたの人にまみゆることかたしといえば、五郎聞て、ながれを立るあそびものたのむべきにはあらねども、世にある身ならば源太にはおもひかえられし、貧は諸道の妨げとはおもしろかりし言葉哉。人をも世をも恨むべからずとて、
 あふと見る夢路にとまる宿もがな、つらき言葉に又も歸らん、とかき置て歸りけり。女此歌を見て大ひにはづかしめるけしきにて、むかしの貞女は両夫にまみへずとかや。いか成身にてか引手あまたに生れつらん。時致が心のうちさこそ思ひやられてはづかしや。何れをさだむる妻にもあらねども、斯るうきめは人も見るべき。人の心をやぶるも後世のためをそろしやとて、
 かずならぬ心の山の高ければ、おくの深きを尋こそいれ
 すつる身になほ思ひいでと成ものは、とふにとはれぬ情なりけりり
生年拾六歳と申に出家し、諸國修行し、後は大磯のとらがすみ家を尋きて、ともにおこなひすまして、八十餘にて往生をとげにけり。
[やぶちゃん注:「五郎時致」は曾我十郎祐成の弟曾我時致そがときむね。以上は「曽我物語」巻第五「けはい坂遊君の事 付賢人二君につかへず貞女両夫にまみえざる事」に基づく。但し、私の所持する王堂本とは異同が多く、校訂は出来なかった。通読して私の判断で濁点を打ったので、もしおかしな部分があれば御教授願いたい。]

巨福呂坂 是を踰行ば山の内へ至り、夫より巨福呂谷を踰行ば田圃へ係り、右の方へ達する道を戸塚道といふ。此道は古へより武藏大路と唱え、【東鑑】を初、古くものに見へたり。武藏の上の道、中の道、下の道といえることは【梅松論】其餘【太平記】等にも見ゆ。又此道を左の方へ分る水田の中路を行ば、玉繩古城跡の麓へ至る。此古城は北條上總介綱成の住せしともいふ。扨此坂路を越へて玉繩村へ掛り、西の方へ過れば戸塚と藤澤の間なる街路へ出る。《玉繩道》是を玉繩道といふ。又右の城跡の麓を左へ折て行時は、藤澤山道場の傍へ出る。仍て藤澤道とも唱ふ。
[やぶちゃん注:この最後の道筋の現在の鎌倉市植木に、現在の私の自宅はある。]

龜ケ谷坂 是は龜ケ谷、扇ケ谷邊より此坂を踰て山の内へ出ければ、巨福呂坂の路に合せり。

朝夷奈切通 此邁を踰れば六浦に至る往來也。險隘の路にて、爰より若干ゆけば武藏、相模の界なる鼻缺地藏といふを國境とす。鶴が岡より一里ばかり、又地藏より金澤へ二里といふ。《仁治元年開通》此往來は上世よりの路にあらず。【東鑑】に、始て此道を開かれしは仁治元年十一月晦日、始て當道とせらるべき由評定有て、今日繩を曳丈尺を打て御家人等に裂渡し、明春三月より造るへき由仰付らる、同二年四月五日、六浦の道を造始らる。前武州[泰時]其所に監臨し給ふ間、諸人群集し各土石を運ぶ。建長二年六月三日、大石道路を埋に依て又元の如く造るべき由仰出さる。陸路ゆへ大切通、小切通と二筋あり。左右嶮崕の高きこと五丈許なり。近來延寶の頃道心者向入といふもの、此道の嶮を平らげ、旅人往來の安きやうに造り、道心者が死後、石地藏を建てそれに銘せり。
[やぶちゃん注:「大切通、小切通と二筋あり」この記述は切通しが二つあるように読めるが、通説では峠の頂上付近(鎌倉市と横浜市市境に相当)を「大切通し」と呼称し、そこから六浦寄りの下る部分を「小切通し」と呼ぶようである(二箇所説をとる研究家もおり、「大切通し」に向かう右手を奥に入ったルートを「小切通し」の候補としているのを見かけた。あったとしても現在は廃道化している。私はかつてこの右手ルートから入って、池子の弾薬庫の監視塔が見える位置まで山中に分け入った上、金沢側の熊野神社へ下ったことがあるが、それらしい「切通し」遺構は発見出来なかった)。
「仁治元年十一月晦日、……」は仁治元(一二四〇)年十一月大の以下の記事を指す。
〇原文
卅日己未。天晴。鎌倉與六浦津之中間。始可被當道路之由有議定。今日曳繩。打丈尺。被配分御家人等。明春三月以後可造之由被仰付云々。前武州監臨其所處給。中野左衞門尉時景奉行之。泰貞朝臣擇申日次云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
卅日己未。天晴。鎌倉と六浦の津との中間に、始めて道路を當てらるべきの由、議定有り。今日繩を曳き、丈尺を打ちて、御家人等に配分せらる。明春三月以後造るべきの由仰せ付けらると云々。前武州其の所處に監臨し給ふ。中野左衞門尉時景、之を奉行す。泰貞朝臣日次ひなみを擇えらび申すと云々。
「中野左衞門尉時景」は高幡(西)宗貞の子孫と思われ、後の武蔵七党の一つとなる西党の中野氏の祖と考えられる。「泰貞朝臣」は安倍泰貞。安倍晴明から八代目に当たる正統の陰陽師である。すぐに着工せず「明春三月以後」となったのはこの泰貞が「日次を擇」んだ、占いをした結果であることが次の注に引いた「吾妻鏡」記事で明らかになる。
「同二年四月五日、……」は凡そ四ヶ月後、同じく「吾妻鏡」翌仁治二(一二四一)年四月小の以下の記事を指す。
〇原文
五日癸亥。霽。六浦道被造始。是可有急速沙汰之由。去年冬雖被經評議。被始新路。爲大犯土之間。明春三月以後可被造之旨。重治定云々。仍今日。前武州令監臨其所給之間。諸人群集。各運土石云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日癸亥。霽。六浦道を造り始めらる。是れ、急速の沙汰有るべきの由、去年の冬評議を經らると雖も、新路を始めらるること、大犯土だいぼんどたるの間、 明春三月以後に造らるべきの旨、重ねて治定すと云々。仍りて今日、前武州其の所に監臨せしめ給ふの間、諸人群集し、各々土石を運ぶと云々。
「大犯土」新人物往来社一九七九年刊貴志正造編著「全譯 吾妻鏡 別巻」の用語注解によれば、「犯土ぼんど」とは『土の神の領域を犯すこと。またそれについての陰陽道の禁忌および祭儀をいう。土の神(土公)の居を占める期間中、地ならし・土の移動・穴掘りなど、すべて土地に変化を与える行為を「土を犯す」「犯土」と称して、陰陽道では重い禁忌と』した、とある。「大犯土」はその禁忌抵触が激しいものを言う。「方違へ」と同様、専ら土公の方位と滞留時間が問題なのであって、必ずしも掘削土木作業が大規模であったからではあるまい。
「建長二年六月三日、……」は、「吾妻鏡」の建長二(一二五〇)年六月大の以下の記事を指す。
〇原文
三日丁酉。山内幷六浦等道路事。先年輙爲令融通鎌倉。雖被直險阻。當時又土石埋其閭巷云々。仍如故可致沙汰之由。今日被仰下云々。
○やぶちゃんの書き下し文
三日丁酉。山内幷びに六浦むつら等の道路の事、先年たやすく鎌倉へ融通ゆづうせしめんが爲、險阻をなほさると雖も、當時、又、土石其の閭巷りよかうに埋むると云々。仍りてもとのごとく沙汰致すべきの由、今日仰せ下さると云々。
「六浦」が朝比奈切通のこと。
「近來延寶の頃道心者向入といふもの、……」「道心者向入」は浄誉向入。彼については、「新編相模国風土記稿」に『峠坂 村中より大切通に達する坂なり。延宝の比淨譽向入と云ふ道心者、坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云ふ。此僧、延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと「鎌倉誌」にみゆれど、今文字剥落す』とあるが、現在も路傍に石仏が残り、向かって左手に「延宝三年十月十五日」と刻み、右手の欠け残った上部に「淨譽」の刻字を現認出来る(「北道倶楽部」の「六浦道と朝比奈切通し 3」の上から二枚目の写真を参照されたい)。「延宝三年」は西暦一六七五年。]

稻荷坂 是も切通なり。朝夷奈切通より南に寄て、十二社村より此道を踰行ば、三浦郡池子村え達する間道なり。
[やぶちゃん注:現在は池子弾薬庫によって遮断され、消失したものと思われる。]

名越ナゴヤ切通 これも難路にして、大町辻町より東の方、峠うへを鎌倉主二浦との堺にして嶮路なり。《大小空峒》大空峒ヲヲホウトウ小空峒コヲホウトウといふ所あり。東の方は三浦郡久野谷クノヤ村といふ。
[やぶちゃん注:「大空峒・小空峒」については、「新編鎌倉志 卷之八」で、既に詳細な注を附したが、ここで再掲しておく。この部分には幾つかの謎がある。まずルビであるが、本書が記載の元としたと考えてよい「新編鎌倉志」の影印を見ると、「大」には「ヲ」のみ、「小」には「コ」のみが振られ、「空」の右には「ヲホウ」が振られる。これは「大」が「ヲヲ(おお)」なのではなく、「空」が「ヲホウ(オホウ)」という読みであることを示す。ところが「空」には「ヲホウ(オオウ)」や「ホウ」という読みは存在しない。訛りとも考えられるが奇異である。「峒」は山中の蛮人で、その種族の住む山の中の洞穴の意である。名越の切通しは岩塊や切岸の著しく迫った狹隘路であるが隧道箇所はないが、暗く狹いことからかく称したものであろう。
「久野谷村」現在の逗子市久木の一部。
現在はネット上で見ると美事に史跡整備がなされて、一般的なハイキング・コースにさえ指定されているようであるが、今から三十数年前は詳細な鎌倉市街地図でも「名越の切通」のルートは途中で点線になって最後には消えており、ガイドブックでも踏査は難易度が高いと記されていた。二十一の時、私はとある梅雨の晴れ間に、ここの踏査を試みたことがある。意を決して古い資料にある古道痕跡の横須賀線小坪トンネル左外側を登るには登ったものの、その先には一切の踏み分け道もなく、鬱蒼とした八重葎――むんむんする草いきれの中、汗と蜘蛛の巣だらけになって小一時間山中を彷徨った。それでも時々見え隠れする地面に露出した明らかな人工の石組みに励まされた。「空峒」と思しいスリットのような鎌倉石の狭隘や掘割に出て、最後はまんだら堂に導かれ、今は取り壊された妙行寺の、拡声器で呼び込まれた(人が通ると何らかの仕掛けで分かるようになっており、住職自らがマイクで呼び込むのである)。そこで今は亡き老師小山白哲の奇体なるブッ飛んだ説法(地球儀を用いつつ、実に何億劫も前の宇宙の誕生から始まる非常に迂遠なもの)を延々と一人で聞かされた。たっぷり四十分はかかったが、頻りに質問などもしたせいか、老師には痛く気に入られ――「思うところがあったら、是非この寺へ来なさい、来る者は拒みませんぞ」――と言われたのを思い出す。そうして――「菖蒲が綺麗に咲いておる。見て行きなさい」――と言われた。……凄かった……グローブ大の、袱紗のような厚みを持った紫の大輪の菖蒲の花が、海原のように広がった紫陽花の海浮いていた……弟子らしき作業服の老人が菖蒲畑の手入れをしていたが、僕を見て――「和尚の話は退屈でしょう。よく耐えたねえ」――と声をかけられた。……そうして私は、初めて見る美事な多層のやぐら群や、住職が勝手に纏めてしまったり動かしたりした結果、史料価値が優位に下がったと噂される五輪塔群を一つ一つ眺めては、また一時間余りを過ごした。最後に寺の山門への坂の上で、和尚とさっきの御弟子が話しているのにぶつかった。聴こえてきたのは、先程の説法とは打って変わった……「テレビの撮影の予定は……」……「雑誌の取材の件じゃが……」……というひそひそ話であった。老師は、僕がまだいたのにちょっとびっくりして「まだおられたか。どうじゃった?」と聞かれ、僕が「やぐらとたいそう立派な菖蒲に感服致しました」と答えると、「そうかそうか」と微笑まれて私に合掌され会釈された――僕は生まれて初めて人に合掌と会釈を返し――山を降りた……それからすぐのことである……『鎌倉の隠れた花の寺』と称してまんだら堂の菖蒲や紫陽花が一躍ブレイク、老若男女の大集団があそこを日参するようになったのは……あそこで僕が見たのは……仙境と俗世の境の幻だったのかも知れない……今はもう……遠い遠い、懐かしい思い出である……。
 最後に。ただ注を再掲するのも芸がない。先日、教員を辞めて書斎の整理をするうちに、実はこの時、小山白哲老師が直筆で書いて下さった驚天動地の宇宙創造説を発見したので、それを画像と電子テクストで御紹介し、今は亡き老師を偲びたい(大きい巻紙なので、画像はずらしながら四枚で全文を示した。不遜乍ら誤字と思われるものは後に[ ]で正字を示させて頂いた。判読不能の字は□とした)。
[小山白哲老師 宇宙創造之説(肉筆)]









[やぶちゃん注:画像四枚目の下に有意な横線と左下に曲線が見られるが、これは説法の後にここの部分について私が質問をし、それを老師が補足説明された際に、説明されながらなぞった跡で、特別な記号や文字ではない。]

(表)
  壞劫に爆発し空劫と
  なる百七十二億八千万年の
  生命がある 地球は成劫四月
  八日に火球体化し成劫二十劫
  年間は太陽が放出した
  水輪が火球体の上空を雲
  になって施[旋]回し成劫二十劫八十
  六億四億千万年の最終に雲
  爆裂的に地球に落下し
  たその一せつ那に塩が発生
  し水も空気も海も河も
  ある地球が完生[成]
  八十六億四千万年の生命がある
  生物が住劫四月八日である海に
  生物が住むこと八億六千四百
  万年
(裏)
  妙  法  蓮  華  経
  ┃  ┃  ┃  ┃  ┃
 □空輪 風輪 火輪 水輪 地輪 五輪

[やぶちゃん注:ここに五輪塔の絵。] 五大種

  全宇宙と地球人体生物
  悉を構成する
  生物が住む国が
  七十二桁ある
  照す太陽も七十二桁
  一つ一つの太陽系は
  二百八十万億の諸星
  がある  小山白哲
        二[七?]十八年七月八日

……老師よ、私が師の説法を受けたのは、七月八日のことだったのですね……あの時、二十一歳だった私は五十五になりましたが、……全宇宙に七十二桁という天文学的な数の知的生命体が生きているという老師の言葉に……私は素直に感動し、そんな私をまた、気にって下さった老師よ……また、どこかで……数十劫経ちましたなら、お逢いしとう、存じます。……]

小坪切通 是は三浦郡杜戸モリト三崎ミサキへの往來道なり。三崎へ五里ばかり、又【盛衰記】に、小坪邊にて三浦と畠山と相戰ふと有も此所なり。小坪は三浦郡の界にて、兩郡に係る所ゆへ、鎌倉に隷すること多ければ、此地の事をもしるせり。又此外の條へ出せしも是に倣ふべし。
[やぶちゃん注:「【盛衰記】に、小坪邊にて三浦と畠山と相戰ふと有も此所なり」は所謂、「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるもので、三浦義盛は和田義盛のこと。治承四(一一八〇)年八月十七日の頼朝の挙兵を受け、同月二十二日、三浦一族は頼朝方につくことを決し、頼朝と合流するために三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠三浦を出立、そこにこの和田義盛及び弟の小次郎義茂も参加した。ところが丸子川(現・酒匂川)で大雨の増水で渡渉に手間取っているうち、二十三日夜の石橋山合戦で大庭景親が頼朝軍を撃破してしまう。頼朝敗走の知らせを受けた三浦軍は引き返したが(以下はウィキの「石橋山の戦い」の「由比ヶ浜の戦い」の項から引用する)、その途中この小坪の辺りでこの時は未だ平家方についていた『畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来た事情を知らない義盛の弟の和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た』ものの、この場はとりあえず『停戦がなり、双方が兵を退いた』とある。但し、この後の二十六日には平家に組した畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの大軍勢が三浦氏を攻め、衣笠城に籠って応戦するも万事休し、一族は八十九歳の族長三浦義明の命で海上へと逃れ、義明は独り城に残って討死にした。]

  
○十橋
[やぶちゃん注:何故か、九つしか記載されておらず、本文に名称既出の「逆川橋」が抜けている。]
筋違橋[或は須地賀江]鶴ケ岳一の鳥居前横大路を、大倉の方へ出る道の橋にて、【東鑑】に往々出たり。此道古えより町屋有しゆへ文永二年、町免所七ケ所の内にて、町の名をも筋違橋と稱したるにや。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」にもしばしば出現する古い橋で、ここで小町大路と横大路、そして金沢への街道である六浦路の三つが接続、直角に曲がる。更にその間を西御門の谷より流れ来る小川が道路を斜めに横切って滑川に合流しているため、橋は直角の道路に対して、極めてはっきりと斜めに架けられた斜橋であったことに基づくとされる。現在は完全な暗渠となり消失してしまい、石標で痕跡を残すのみ。]

歌の橋 大倉の荏柄天神前の往來橋なり。澁川六郎兼守といふ者、實朝將軍の罪を得て刑に處せらるべき由を傳へ聞て、和歌十首を詠じて荏柄の社へ奉納せしを、將軍家聞し召れて、其和歌の奇特に仍て罪をゆるされければ、餘りの難有さに此橋を造立し、神德を謝しけるといふ。夫より橋の名を歌の橋と唱ふる由。
[やぶちゃん注:二階堂川に架かる。現在、歌の橋の脇にある昭和十二(一九三七)年三月鎌倉町青年団建立になる名所由来を記した碑から引用する。
鎌倉十橋ノ一ニシテ 建保元年(皇紀一八七三)二月 澁川刑部六郎兼守謀叛ノ罪ニヨリ誅セラレントセシ時 愁ノ餘リ和歌十首ヲ詠ジテ荏柄社頭ニ奉獻セシニ翌朝 將軍實朝傳聞セラレ 御感アリテ兼守ノ罪ヲ赦サレシニヨリ 其ノ報賽トシテ此ノ所ニ橋ヲ造立シ 以テ神德ヲ謝シタリト傳ヘラレ此ノ名アリ
謀叛とは、宝暦三(一二一三)年に信濃国の泉親衡が故源頼家の三男栄実(幼名千寿丸)を担ぎ出して将軍とし、執権北条義時を倒そうとしたクーデターを指す。]

琵琶橋 濱の大鳥居の邊を琵琶小路と唱ふ、其の中にある橋ゆへ琵琶橋と名附。是は西の方佐介谷より小川流れ來り、巽の方へ至り海に注ぐ。其小流の橋なり。
[やぶちゃん注:この小路が「琵琶小路」と名づけられていのは、当初、この現在の海に近い一の鳥居と段葛の始まる二の鳥居の間の直線の道が、現在よりも片側に大きく彎曲しており、それが丁度、琵琶の胴の曲線に似ていたことから付けられたという(彎曲していたのはそこに弁財天の祠があったための迂回で、後、段葛開鑿の際に際し、全体が直線の現在の若宮大路となり、佐助川にこの琵琶橋が架けられたものと考えられる(弁財天は鶴岡八幡宮内の旗上弁天社に移されたとする)。]

夷堂橋 小町と大町の界にあり。座禪川の流末の橋なり。此橋より少し折て大町に至り、町並の南北に達す。此邊にもと惠美須堂有しゆへ橋の名とせしかと、今は其社も見えず。
[やぶちゃん注:「惠美須堂」現在近くに蛭子ひるこ神社がある。これは明治新政府の神仏分離と習合祭祀によって生まれものであるが、「蛭子」は「えびす」とも訓じ、元あったとされる夷社の面影を伝える形見となっている。]

勝ケ橋 壽福寺前の石橋をいふ。
[やぶちゃん注:英勝寺所縁の徳川家康側室お勝の局(法名英勝院)が架橋したとされる。現在は石標でのみ痕跡を残す。]

十王堂橋 巨福呂谷の西にあり。もと十王堂有しが、今はなし。
[やぶちゃん注:山ノ内川(小袋谷川とも)に架橋。ここにあったとされる十王堂の十王像群が現在、円覚寺塔頭柱昌庵の十王堂と通称される堂内にある。]

ミダレ橋 今は村名に唱ふ。辻町より材木座へ渡る石橋をいふ。
[やぶちゃん注:一説に新田義貞鎌倉攻めの際、北条方の軍勢がこの辺りから乱れ始めたことに由来するというが、実は「吾妻鏡」の宝治二(一二四八)年六月小の条に、「十八日甲午。寅尅。濫橋邊一許町以下南雪降。其邊如霜云々。」(十八日甲午。寅の尅、濫橋みだればし邊の一許町 以下南に雪降る。其の邊霜のごとしと云々。)と載る(「一許町」は町名とも思えず、「一町許(ばかり)」の錯字ではなかろうか)ので、妄説である。なお、十橋の中で「吾妻鏡」登場するのは、この橋と筋違橋の二橋のみである。現在、暗渠で石標のみ。]

針磨橋 稻村にあり。むかし此邊に針を製するもの住せしより、橋の名に唱ふともいふ。但し此稻村は鎌倉の域外ならん歟。
[やぶちゃん注:別名、我入道橋がにゅうどうばし。こちらも極楽寺の我入道と称する僧が修行の傍ら、針作りも生業としていた事からこの名が付いたと伝える。直近の稲村ヶ崎からは砂鉄が採れ、製針業者がここに住んでいたというのは、必ずしも不自然ではない。]

裁許橋 佐介ケ谷より出る小流の橋なり。正治元年四月朔日、御所の問注所を※外に建らる。大夫屬入道善信を以て執事とす。故將軍家の時、營中一所に就て訴論人を召決せらるゝの間、群參して鼓騒をなし、無禮を顯すの條頗狼籍の基たるゆへ、他所に於て此儀を行ふべしと云云。仍て善信が家を以て其所とし、今又別※を此所に新建せらる云云。同二年五月十二日念佛名の僧等を禁斷せしめ給ふ。比企四郎仰を奉じて僧等を相具し、政所の橋の邊に行向ひ、袈裟を剝取て是を負燒ける。見るもの堵の如し。僧の中に伊勢の稱念といふもの、御使の前に進み申ていふ。俗の束帶、僧の黑衣、各同色として用ひ來る處なり。何ぞ是を禁ぜしめ給ふや。をよそ當時の御釐務の體を按ずるに、佛法と世法ともに滅亡の期といふべし。稱念が衣は更に燒ましきといふ。然るに彼衣に至て其火おのづから消て燒けず。是を取て元の如く着し逐電すと云々。按ずるに、善信が家を以て問注所と定め給ふとあれども、善信が家は名越に有て度々火災に罹り、承元二年正月十六日午刻、問注所入道名越の家燒亡して、將軍家の御文籍雜務文書幷散位倫兼が日記以下累代の文書等悉く灰燼となり、善信聞之、心神惘然ばうぜんとあり。されば尊信が家に移されし問注所は名越なれば、此所は問注所にあらず。《橋名由來》但し、爰の橋を裁許橋と名附しは詳かならねど、或は罪法をこゝにて行ひしゆへに、斯橋の名を土人等が唱へしにや、定かならず。又土俗が語るに、或は西行橋ともいひしと。是はさいきよといふを田舍言葉にさいきやう橋といひ、又濁りてさいぎやうといひしを文字に西行の字を誤り用ひしにそ怪しけれ。
[やぶちゃん注:「※」=「土」+「郭」。「郭」に同じい。
「正治元年四月朔日、……」本文が引用している「吾妻鏡」建久十・正治元(一一九九)年四月大の記事を掲げておく。
一日壬戌。被建問注所於郭外。以大夫屬入道善信。爲執事今日始有其沙汰。是故將軍御時。營中點一所。被召决訴論人之間。諸人群集。成皷騒。現無禮之條。頗爲狼藉之基。於他所可行此儀歟之由。内々有評議之處。熊谷与久下境相論事對决之日。直實於西侍除鬢髮之後。永被停止御所中之儀。以善信家爲其所。今又被新造別郭云々。
◯やぶちゃんの書き下し文
一日壬戌。問注所を郭外に建てらる。大夫屬さかん入道善信を以て、執事たること、今日始めて其の沙汰有り。是れ、故將軍の御時、營中の一所を點じ、訴論人を召し决せらるるの間、諸人群集し、皷騒こさうを成し、無禮を現はすの條、頗る狼藉のもとゐたり。他所に於て此の儀を行ふべきかの由、内々評議有るの處、熊谷と久下と境相論の事、對决の日、直實、西の侍に於て鬢髮を除ふの後、永く御所中の儀を停止せられ、善信の家を以て其の所と爲す。今又、別郭を新造せらると云々。
「同二年五月十二日……」は、「吾妻鏡」正治二(一二〇〇)年五月大十二日の以下の記事に基づく。但し、後で注するように、この引用はおかしい。
十二日丙寅。羽林令禁斷念佛名僧等給。是令惡黑衣給之故云々。仍今日召聚件僧等十四人。應恩喚云々。然間。比企彌四郎奉仰相具之。行向政所橋邊。剥取袈裟被燒之。見者如堵。皆莫不彈指。僧之中有伊勢稱念者。進于御使之前。申云。俗之束帶。僧之黑衣。各爲同色。所用來也。何可令禁之給哉。凡當時案御釐務之体。佛法世法。共以可謂滅亡之期。於稱念衣者。更不可燒云々。而至彼分衣。其火自消不燒。則取之如元着。逐電云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十二日丙寅。羽林うりん、念佛名僧等禁斷せしめ給ふ。是れ、黑衣をにくめしめ給ふの故と云々。仍りて今日、件の僧等十四人を召し聚めるに、恩喚おんくわんに應ずと云々。然る間、比企彌四郎、仰せを奉はりて之を相ひ具し、政所の橋邊へ行き向ひて、袈裟を剥ぎ取りて之を燒かる。見る者、かきねのごとし。皆、彈指せざる莫し。僧の中に伊勢の稱念という者有り。御使の前に進み申して云はく、俗の束帶、僧の黑衣、各々同色と爲し、用ひ來る所なり。何ぞ之を禁ぜしめ給ふべきや。凡そ當時、御釐務りむていを案ずるに、佛法・世法共に以て滅亡のと謂ひつべし。稱念が衣に於ては、更に燒くべからずと云々。而して彼の分の衣に至りて、其の火自づから消えて燒けず。則ち之を取りて元のごとく着して、逐電すと云々。
「羽林」は第二代将軍将軍源頼家。「黑衣を惡めしめ給ふ」頼家は、この正治二年一月に従四位上左近衛中将如元となって禁色を許された。四位を越えてやっと黒色(この当時は禁色の逆転が起こっていて四位以上でないと黒色官衣の着用が許されなかった)が許されたのに、念仏衆が平然と墨染めの衣を着用していることを不快に思ったから。「比企彌四郎」比企時員(ひきときかず ?~建仁三(一二〇三)年)は頼家の外戚比企能員の子。頼家の近習として特権を恣にした。比企能員の変で討死。「政所の橋邊へ行き向ひて」植田は「政所」を問注所と勘違いしたものか? 当時の政所は、現在の鶴ヶ岡八幡宮の東南の一画に比定されているから、この橋は筋違橋としか考えられない。従って、この引用そのものが実は無化されることになる。「彈指」は親指に人差し指の爪を引っ掛けて指を弾くことで、邪気・悪霊退散の呪的な行為である。僧衣を焼くことは縁起が悪いので、かくしている。但し、勿論、ここには無法無体な行為への批判という現在的な意味も当然、含まれると考えてよい。「たんじ」「だんじ」とも読む。「釐務」「釐」は「治める」で、事務を治める、国司などの政務を言う。ここは頼家の治世を言った。
「承元二年」は西暦一二〇八年。植田の問注所位置比定への疑義はかなり説得力があるが、問注所は現在でも御成小学校向いに同定されており、それを示す石碑のすぐ脇に裁許橋が残る。]

  
○十井
六角の井 飯島にあり。𢌞りを石もて六角に疊し井なり。土人が説に、むかし鎭西八郎爲朝主、伊豆の大島より弓勢をためさんとて、天照山を差て遠矢を射給ふに、其矢十八里の海上を經て此井中に落たり。村民其箭を取揚たれば、鏃は井の中に殘る。今も井底を浚ひければ其鏃を見る。或時取出して明神に納ければ井水涸たり。依て又井底へ入ければ水元の如く涌出すといふ。鏃長四五寸許といふ。
[やぶちゃん注:この井戸の形は六角形ではなく八角形であるが、六角が鎌倉持分で二角が小坪分であることから、かく言うと伝えられている。以前は井戸替えの際には為朝所縁の鏃の入った竹筒を使用したが、本文とはやや異なるが、ある時これを怠ったがために悪疫が流行ったことから、それ以来今も鏃は竹筒に封じ込めて井戸の中に奉納してあると現在に伝承されている。その他にもありがちな弘法が掘った井であるとか、井戸側面にある龍頭まで水が減ると必ず雨が降るとか、妙本寺の蛇形の井とは地中で繋がっているとか、十井の中でも多様な伝承の多い井戸ではある。今は何だかものものしい櫓にお覆われているようだが、私が二十の折りに見た時には、未だ世間の市井の井戸として機能していたのに、ちょっと淋しい。いやいや、それよりなにより、六〇キロ近く隔てた大島から光明寺の裏山「天照山」(光明寺の山号でもある)目がけて射たという「鎭西八郎爲朝主」(最後は「ぬし」で敬称)の視力の良さを言祝いで“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!]

棟立井 藥師堂谷覺園寺の山上にあり。傳へいふ、弘法大師此井を穿ち、閼伽水を汲玉ひし井なりといふ。

甕の井 山の内明月院境内にあり。或は瓶の井ともかけり。

甘露の井 山の内浄智寺境門開山塔の後に有清泉をいふ。或は門外左の道端に淸水湧出すを是なりともいふ。

クロカネの井 雪の下より西北の方、巖屋堂の方へ行路傍にあり。此井底より鐵像の觀音を掘出したるより名附。今此井の西の方に觀音を安ぜし堂あり。

泉乃井 泉が谷にあり。

石井 名越切通の南の谷にあり。

扇の井 亀ケ谷坂下より東の方山際にあり。岩を扇の地紙形に掘て其内より淸水湧出すをいふ。

底脱の井 扇ケ谷海藏寺門前にあり。傳へいふ、上杉家の尼參禪し、此井の水を汲て投機せし歌あり。
 賤の女がいたゞく桶の底ぬけて、ひた身にかゝる有明の月
此因緣に仍て底脱の井といひ傳ふといふとぞ。
《尼無著が投機の歌》又【鎌倉志】の説に、城陸奥守泰盛の女金澤越後守顯時が室と成、後に尼となり無著と號す。法名は如大といひ、佛光國師に參して悟道し、投機の歌あり。
 ちよのうが戴く桶の底ぬけて、水たまらねば月もやとどらず
ちよのうとは無著の初名なり。此底脱井の事は無著が故事を誤り伴えたるにやと云云。さもあるべし。
[やぶちゃん注:「ちよのう」は安達千代野(ちよの 生没年未詳)と伝えられ、安達泰盛の娘、北条顕時正室。千代能とも書く。ウィキの「安達千代野」に『父泰盛と安達一族は霜月騒動で滅ぼされ、夫である顕時は騒動に連座して失脚し、下野国に蟄居の身となる。千代野は出家して無学祖元の弟子となり、法名無着と号』したとあり、更に「仏光国師語録」に『「越州太守夫人」(千代野)が無学祖元に対して釈迦像と楞厳経を求めた記録がある』とする。更に、『同じ無学祖元の弟子で、京都景愛寺開山となった無外如大』という人物がおり、この僧が同じく無着という別号を用いたこと、加えて上杉氏の関係者でもあったことを記し、足利氏との関連から千代野と無外如大が『混同されたものと見られる』という錯誤を解明した記載がある。「新編鎌倉志 卷之四」の海蔵寺の項も参照のこと。]

星月夜の井 極樂寺切通へ登る坂下右の方にあり。土人いふ、むかし此井の中に晝も星の影見ゆるゆへに名附るといふ、或時此邊の賤の女が井水を汲に來り、誤て菜切刀を井中へ落し、夫より星の影見へずといふ。
【後堀河百首】
 我ひとり鎌倉山をこえ行ば、星月夜こそ嬉しかりけれ【常陸】
堯惠法師が【北國紀行】に、極樂寺へ到るほどに、いとくらき山あひに星月夜といふ所あり。《星の御堂》昔此道に星の御堂とて侍りきなと、古記僧のまうし侍りしかば、
 今もなほ星月夜こそ殘るらめ、寺なき谷の闇のともし火 仍て思ふに、星の御堂といふは爰の虚空藏堂の事なる草しらる。されば此谷の名を星月夜と唱えしとなん。古へは左右に古木生ひ茂り、道路のくらきといふことより起りし地名なるべし。又堯惠の紀行にも井のことなどは見へず。後世に至り土人の杜撰に設たる事なり。
[やぶちゃん注:「晝も星の影見ゆる」これは伝承としてよく語られ(私も昔、亡き母からそう聞いた記憶がある。見たことはついぞなかったが)、タルコフスキイの「僕の村は戦場だった」の回想シーンでも母とイワンが井戸を覗きながら、母が井戸の底に星が見えることを語る。現在、ネット上の記載では井戸でも煙突でも星は見えないという「物理的」記載が殆どで、実験を行わずに安易に見解を述べたアリストテレスの記載に端を発する都市伝説であると一蹴しているものも多い。しかし中には金星なら見える、一般のカメラに紙で筒状の遮蔽を附けて昼間に琴座アルファ星ベガを撮ったケース(雑誌『天文ガイド』に掲載された由)や、廃工場の煙突を用いて煙突直上を通る星位置を計算、煙突の直下から子供たちに星を見せる実演を行った(某テレビ局で放映された由。但し、見えたかどうかは記されていない)事実があるという記載も見出だせる。私は初期のゼロ戦のパイロットが昼間でも星を見ることが出来たという話や、ブッシュマンたちが数キロ先に落ちている針を目視出来るという話を、「都市伝説」ではなく、確かな事実として受け止めている人間である。かつての人類には昼間でも星を見る視力が備わっていた。さすれば、それをより効果的にする物理的な装置としての井戸とは、おかしくなく、似非科学でもアーバン・レジェンドでもない。昼間に星なぞ昔から見えなかったのだ、嘘八百だったのだ、とけんもほろろに言い放つより、今の文明人である我々が見る能力を殆んど減衰させてしまったのだと考える方が、よっぽど科学的ではなかろうか。そして、極めて眼のいい古人にとっては、この星月夜の井戸では実際に星が見えた、ところが女中が誤って金物を落としてしまった結果、その反射光が井戸の底を致命的に侵してしまい星が見えなくなった、というのは「物理的」にあり得ない話ではあるまい。ただ本文にもある通り、一般的な井戸で星が見えるという説がもともとある中で、本地名が星月夜であり、そこにたまたまあった井戸にその名が附され、附されたところで後付けの星が見えなくなった謂れを付会させたという可能性は勿論、あるとは言える。以上、私は、井戸では星は見えない、だから、この虚空蔵堂に関わる伝承は総て牽強付会である、という論理は必ずしも科学的ではないということを述べているのである。但し、それとは別個な民俗学的な意味に於いて、井戸の底に星が見える、という命題は考察されねばならないとは思っている。私は古代人に「物理的」に井戸の底に星が見えたことが、古代人の心性に、『夜の星は昼間、井戸の底――地の底の冥界に在るものであり、夜、空に展開するものだ』という考えが芽生えたのではあるまいか――そしてその星々は、冥界と繋がるあるシンボル、ある予兆や太古の謎を解き明かす意味を以て、夜空に示されていると彼らは考えたのではあるまいか、という可能性を考えるのである。識者の御意見を乞いたい。
「後堀河百首」本書冒頭の引用書目一覧にも「後堀河百首」で載るが、これは平安後期の歌集「永久百首」の誤りである。永久四(一一一六)年に鳥羽天皇の勅命で藤原仲実ほかが編した。「永久四年百首」「堀河院後度百首」「堀河院次郎百首」などとも呼称するが、「後堀河百首」とは言わないようである。これは「新編鎌倉志 卷之六」の誤った記載を無批判に踏襲した結果と考えられる
「常陸」(生没年未詳)は「肥後」の別称の方が知られる。肥後守藤原定成の娘で常陸介藤原実宗の妻。京極関白師実家・白河天皇皇女令子内親王に侍した女房。院政期女流歌人を代表する一人。]

  
〇五水
金龍水 建長寺西總門前にあり。不老水、是も建長寺の後山にあり。昔異人此水を呑て容貌の替らざりしといふより、仙人水又は仙池とも唱へしといふ。其傍に仙人澤とて異人の栖し所もあり。
[やぶちゃん注:本項は「金龍水」のみを項目名とするが、「五水」の大項内には小項目が四つしかなく、この「金龍水」の中の「不老水」(仙人水)を数えて「五水」としている。
「金龍水」は建長寺門前、西外門を出た鑓水のこちら側(現在の信号機の付近)にあったが、道路の拡張工事で埋められ、現在しない。「新編鎌倉志第之三」の「建長寺圖」参照。
「不老水」現在も建長寺内鎌倉学園旧グラウンドのネット裏にあるが、八重葎となり立入は禁止である。湧水は止まっているか著しく減衰している模様である。仙人がこの湧き水を飲んで、その容貌を保ったとされる。「新編鎌倉志第之三」の「建長寺圖」の西北の小高い山の裾にあり、そのやや南には「仙人澤」の地名も見出せる。]

錢洗水 佐介谷の西の方にあり。土人いふ、むかし福人此淸水にて錢を洗ひしといふ。妄誕の説なり。按ずるに、此邊に大ひなる岩窟有を、土人隠れ里といふ。されば上世此所にて銅気のある岩を掘て、此水にて洗ひ試し事もや有し、其ふることを誤り傳えしならん。
[やぶちゃん注:銭洗弁財天宇賀福神社に現存。現役で信仰を集める唯一の五名水である。植田のプラグマティックな考証は、現在の五名水の銭洗水考証では見かけない説であるが、実に興味深く、且つ、説得力があるように私には思われる。
「福人」は「ふくじん」で、金持ちのこと。
「妄誕」は「ばうたん(ぼうたん)」と読み、言説に根拠のないことの意。]

日蓮乞水 名越切通より一町餘隔て南にある小井をいふ。日蓮上人安房國より鎌倉へ來給ふ時、此坂路にて水を求けるに、須臾に水岩間より涌出すと。水の溜こと僅なれど、旱年にも涸ず。至て冷水なり。
[やぶちゃん注:現在の横須賀線名越坂踏切を海側に渡った、道の向かいの左正面に現存する。
「須臾」は「しゆゆ(しゅゆ)」で、短い時間。]

梶原太刀洗水 朝夷奈切通へ登る左の方の岩間より湧出す淸水なり。景時が上總介忠常を討て、太刀を洗ひたりといふ。是も至て淸水なるゆへ、五水の内に入たり。
[やぶちゃん注:朝夷奈切通へ向かう山道左手の小川の対面に祠を伴って現存する。讒訴した梶原景時が頼朝の命で朝比奈切通手前の山腹にあった上総介広常邸で、双六の対戦中に広常を騙し討ちにして逃げる際、血染めの太刀をここで洗い清めたと伝えられる。
 以下、五名水についての疑義を述べる。
 この五名水については、現在、例えば「かまくら子ども風土記」等では、「不老水」の代わりに「甘露水」を挙げている。この「甘露水」とは、浄智寺総門手前の池の石橋左手奥の池辺にあったという泉を指すという(現在、湧水は停止)。しかし、ここは訪れると「鎌倉十井の一 甘露の井」のやや古い石柱標を伴っており、実際に、やはり「新編鎌倉志」で初めて示される名数「鎌倉十井」の一つに数えられていることが分かる。そこで「新編鎌倉志第之三」の「浄智寺」の項を見ると、
甘露井 開山塔の後に有る淸泉を云なり。門外左の道端に、淸水沸き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。
という記述を見出す。ここではっきりするのは、どうも現在知られる「甘露の井」は、浄智寺内に二箇所あったこと(現在の浄智寺の方丈後ろなどには複数の井戸があるから二箇所以上あった可能性もある。なお、これらの中には現在も飲用可能な井戸がある)、江戸時代の段階でそのいずれが原「甘露水」「甘露の井」であったか同定できなくなっていたことが分かる。私は五名水のプロトタイプは、やはり「不老水」の方であると思う。では何故これが外れたか。それは正に現在ここに立ち入れないことと関係すると思うのである。「五名水」の中で、ここのみが往時も現在も一般の街道に面していない。「不老水」は建長寺寺内の最深部にある。そもそも鎌倉に五名水だの十井だのが選ばれるのは、逆に鎌倉の水質が全般に悪かったことを示している。さすれば上質の水は、何より庶民の人口に膾炙し、且つ同時にそこが気軽に利用出来てこその「五名水」であり「十井」でなくてはならなかったはずである。しかも「金龍水」の源泉は「不老水」を含むものであり、庶民の水需要は街道沿いの「金龍水」で賄え、「不老水」まで行く必要もないからでもある。では何故「甘露の井」が新しい「五名水」の一つに選ばれたのか? これはまさに「甘露の井」が、上記の通り、実は複数存在したから、使い勝手がよかったからではなかったか? 更に言えば、「十井」の名前にも理由があると私は思うのだ。以下、現在の名称を列挙してみると、
甘露の井・瓶の井・底脱そこぬけの井・扇の井・泉の井・鉄の井・棟立の井・星月夜の井・銚子の井・六角の井
である。さてこの内、仮に「~水」(「みず」でもよいがやはり「~すい」が一番である)としてしっくりして、尚且つ響きのグレードがいや高いのは、もう「甘露水」しかない(「泉水」では漢字で見ると一般名詞のようでぴんと来ず、「星月夜の水」は響きはいいものの、井戸の底の星でこそ分かる名称で、これでは意味が分からぬ)。しかないどころか、これは観音菩薩が持つ浄瓶に入った水であり、それは甘露の法雨を齎すものであってみれば、この「甘露」は、実は「井戸」より「名水」にこそ相応しい名称なのだと私は思うのである。以上の推論は私の勝手気儘な解釈であることは断っておく。]

   
○山川
御輿ケ嶽 大佛より東の山をいふ。此邊の高山なり。或はいふ、見越ケ嵩ともいふと。大佛を見越といふこと歟。《御輿ガ崎》又は御輿ケ崎と詠る古歌あり。【萬葉】十四よみ人しらぬ歌。
 可麻久良乃美胡之佐吉能伊波久叡乃、伎美我久由倍伎己許呂波母多自
御集
 都にははや吹ぬらん鎌倉や、みこしが崎の秋の初風【宗尊尊親王】
[やぶちゃん注:「万葉集」の歌は巻第十四の三三六五番歌である。読み易くするために各句間を空けると、
 可麻久良乃 美胡之佐吉能 伊波久叡乃 伎美我久由倍伎 己許呂波母多自
で訓読すると、
 鎌倉の見越の崎の石崩いはくえの君が悔ゆべき心は持たじ
で、女性の、愛する男への誓詞歌とされる。「石崩」は岩山の岩盤の崩れた部分で、「クエ」の音が下句の「悔ゆ」の音「クユ」を引き出すとともに、私の心はあの石崩のようにはもろくはない、心変わりはしない(男のそれは変わりやすいことをも揶揄しながら)という意も掛ける。
……鎌倉の御越が崎の波で崩れた岩……その、岩くえ――くえ――くい――悔い……貴方が悔いるようなひどい仕打ちをするようなふたごこころは、私めは決して持ちますまいよ……
私は小学校の一、二年の記憶の中にこの御輿ヶ嶽に義理の叔父の自転車の荷台に乗せてもらって登った記憶がある。今見るとそんなことは出来そうもない山なのだが、スキー一級の指導員の叔父はサドルの前に赤ん坊の従妹を載せ、僕を後ろに載せてうんうん言いながら確かに登って行った不思議な記憶があるのである。
「宗尊尊親王」の「尊親王」の「尊」は衍字であろう。]
[御輿ヶ嵩]

[やぶちゃん注:本文に現れない画中の歌などを活字化しておく。

名家
 かまくらや
   御輿がたけに
      雪消えて
  みな能瀨川に
     水まさるなり
       左京大夫顯仲
御輿ミコシタケ
左端下部には、
長谷村
とある。「左京大夫顯仲」は源顕仲(康平七(一〇六四)年~保延四(一一三八)年)で平安後期の公卿。堀河院歌壇で活躍した歌人。本歌も「堀川院御時百首」に所収するもの。]

源氏山 古名は龜か谷山と唱ふる由、此地の中央に有ゆへといえり。壽福寺、英勝寺等の西寄にある高山なり。或は旗立山とも御旗山ともいひ、源爲義、義家の兩朝臣、鎌倉に入て此山え旗を立給ひしより名附といひ、【鎌倉九代記】に、源氏山の起りたるは、其後源義朝此山麓の谷に住給ひしより源氏山とも稱せしといえり。《武庫山》又【詞林採葉抄】には此山を武庫山と稱する由をかけるは、されども上古の世より皇孫の武庫此所に兵具を藏給ひしといふ説も聞えず。僧の義堂といふが武庫山に題する詩あり、憶昔神人瘞甲兵とあるは、おもふに、秩父が嵩へ日本武尊の武具を藏給ひしより、國の名を武藏と稱しけるとなん、慥ならぬ故事に倣ひけるにや。
[やぶちゃん注:「僧の義堂」建長寺住持義堂周信。
「武庫山に題する詩あり、憶昔神人瘞甲兵とあるは」の「瘞甲兵」の部分には、底本では一二点とカタカナの読みと送り仮名が附されており、「甲兵ヲウツシヘテ」と読めるが、これは「ウヅシメテ」の誤りではなかろうか。「新編鎌倉志 卷之四」の「源氏山」の項に所収する詩の全文と私の訓読を示す。
     武庫山          義堂
 憶昔神人瘞甲兵。   至今武庫有山名。
 峰如剱也嶺如戟。   好與君王鎭不平。
  憶ふ 昔し神人 甲兵をうづみしことを
  今に至(り)て 武庫 山の名有り
  峰は剱のごとく 嶺は戟のごとし
  好し 君王と不平を鎭む
「秩父が嵩へ日本武尊の武具を藏給ひしより、國の名を武藏と稱しける」は日本武尊が埼玉県の西側、秩父盆地の南端にある武甲山ぶこうさんの岩室に自らのかぶとを埋めて奉納したという伝説に基づく(武甲山の自体の伝承は著しく遅く、元禄時代の頃から定着したとされる)。武蔵の地名由来は、その他にもアイヌ語から朝鮮語まで諸説紛々であるが、乱雑でむさ苦しいの意の形容詞「むさし」から、八重葎の生い茂る沼沢地・湿地の意からという説は、私は肯んずるに足るという気がする。]

天台山 瑞泉寺の北にある高山をいふ。里老のいふ、小町の將軍家御所の邊より東北にて鬼門に當れるゆへ、京師の天台山に比して名附るといふ。山頂へ攀躋れば金澤幷江戸の海上まで望む。
[やぶちゃん注:「攀躋れば」は「よぢのぼれば」と訓ずる。]

衣張キヌハリ山 右大將家の御亭より南に當れる山なり。《衣掛山》本名は衣掛山といふ由、古え此所に庵ありて尼すみけるが、其尼松の木へ衣を掛け晒しけるゆへ山の名とす。或は犬懸も實は衣掛なりともいヘり。又いふは、御臺【政子】の望にて此山に白衣を引張て、雪の降れる景色を見紛ふともいへり。されども皆土人の浮説にて定かならず。

屏風山 大倉辻寶戒寺のうしろ、屏風を立たるが如きゆへ名とす。

小富士 屏風山の側に高き山をいふ。小社の内に富士石あり、淺間權現と銘す。毎歳六月朔日、男女群參す。
[やぶちゃん注:「富士石」は「新編鎌倉志 卷之七」の「寶戒寺」の中の「小富士」に『社中に富士の如くなる石あり。淺間大菩薩と銘あり』とあるから、これは富士山の形を模した石のことであることが分かる。]

太神山 鶴ケ岡の本社の後山をいふ。大臣山と書しは誤ならん。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志 卷之一」の「鎌倉大意」では「大臣山」とし、現在もそう呼称している(現在は神域で登攀出来ない)。]

六國見山 圓覺寺と禪興寺との後山の方にあり。伊豆・相模・武藏・安房・上總・下總の六國を望ゆへ名附たり。
[やぶちゃん注:「禅興寺」は現在の明月院のある谷にあったが、塔頭であった明月院一つを残して総て廃亡した。]

ハナレ山 山の内を西へ行て、巨福呂谷村、市場村の出口、戸塚道の邊、水田の中に北寄に當て獨立する童山、凡高さ三丈許、東西へ長き三十間餘、實にはなれ出たる山ゆへ名附、往來より二町を隔つ。《成氏追討古戰場》享德四年六月、公方成氏朝臣を追討として、京都將軍の御下知を承て、駿州今川上總介範忠、海道五ケ國の軍勢を引卒し鎌倉へ發向と聞へければ、鎌倉にても木戸、大森、印東、里見等離山に陣取て駿州勢を待かけ防ぎ戰けれど、敵は目にあまる大軍叶ひがたく、仍て成氏朝臣新手二百餘差向たれど敵雲霞の如く押來れば終に打負、成氏朝臣を初とし、皆武州府中をさして落行と、【大草紙】に見へたるは此時なり。夫より駿州勢鎌倉へ亂入し、神社佛閣を亂妨し、民屋に放火しければ、元弘以來の大亂ゆへ、古書古器等皆散逸せしとあり。偖此離山は四邊平坦の地に孤立せし山にて、西を上として三丈許りの高さより、東へ續き一階低き所あり。爰も高さ一丈餘、樹木一株もなき芝山なり。謂れあるゆへにや土人等むかしより耕耘のさまたげあれとも鍬鋤などもいれざれば、故あることには思はれける。道興准后法親王の歌もあり。或説には當國にふるき大塚有事を聞。されば、此山こそは上古の世の塋域に封築せし塚なるべし。他國にも大塚と地名する所はいつくにも有て、大ひなる塚の有ものなり。《上古の車塚の説》爰の離山はちいさき山の形に見へけるゆへ、はなれ山とは解しける、其製は畿内及び諸國にも見へたり。下野國那須郡國造の古碑ある湯津上村に、今も古塚の大ひなる數多あり。二級に築しもの多し。此所の山も夫に形相同じ、是は上古の製にて車塚と唱ふ。後世に至りては皆丸く築けり。古えは車塚の頂上えは、人の登らぬ爲に埒をゆひ、一階低き所にて祭奠を行ふやうに造れるものなりといふ。偖また此塚山は何人の塚なるもしれず。當國の府は高座郡にて、早川今泉の邊に國府と稱する地有て、國分寺の舊礎も田圃の間に双び存せり。國造も其邊に住せしなるべし。鎌倉よりは六七里を隔てたり。國造が墳はかしこに有べし。《丸子連多麻呂先祖の塚》是なる塚はあがれる世には、此郡中に住せし丸子連多麻呂か先祖の塚山にてや有けん。其慥成證跡はしらねど、後の考へにしるせり。
[やぶちゃん注:「新編相模国風土記稿」にはこの離山を「長山」「腰山」「地蔵山」の三つの小山の総称とする。
「童山」は小山のことであろう。
「道興准后法親王の歌」は「廻国雑記」に所収。以下の図中に記載。道興准后(どうこうじゅごう 永享二(一四三〇)年~大永七(一五二七)年)は関白近衛房嗣の子で、幼少の頃から出家して聖護院門跡となった。後に大僧正に任ぜられて准后(太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じた皇族・貴族の称号。臣下であっても皇族同等の待遇を受ける公家に於ける位階の頂点の一つ。女性の尊位のように思われがちであるが性別は問わない)となった。彼は文明十八(一四八六)年六月から翌年までの凡そ十箇月間、聖護院末寺掌握を目的として東国へ向かい、若狭国から越前・加賀・能登・越中・越後の各国を経て、本州を横断、下総・上総・安房・相模を廻って、文明十九年五月には武蔵から甲斐から奥州松島まで精力的に廻国した。後にその紀行を「廻国雑記」として残した。
「塋域に封築せし塚」墳墓に土を高く盛り上げて祭った祭壇(古墳)の意。
「下野國那須郡國造の古碑ある湯津上村」この碑は那須国造碑なすのくにみやつこのひのことで、日本三古碑(田胡郡碑・多賀城碑・那須国造碑)の一つ。現在は栃木県大田原市湯津上の笠石神社の御神体として祀られている。碑身と笠石は花崗岩で、一五二字の碑文が刻まれ、持統天皇三(六八九)年に那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提なすのあたいいでの事蹟を息子の意志麻呂らが顕彰するために文武天皇四(七〇〇)年に建立された旨、記されている。延宝四(一六七六)年に僧侶円順によって発見され、その報を受けた領主徳川光圀が笠石神社を創建、碑の保護を命じた。さらに碑文に記された那須直葦提及び意志麻呂父子の墓と推定した前方後円墳上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を家臣佐々宗淳さっさむねきよ(ご存じ水戸黄門の助さんのモデルとされる人物)に命じている(以上は主にウィキの「那須国造碑」に拠った)。
「二級に築しもの多し。此所の山も夫に形相同じ、是は上古の製にて車塚と唱ふ。」こうした古形の古墳は二段に築いたものが多く、この離山が一段低い部分を持つ二段構造になっている点で同じだ、という意。これは前方後円墳のことで、「車塚」はその俗称。貴人が乗った牛車に見立てた謂いであろう。
「早川今泉」の「早川」は、現在、相模国府若しくは高座郡衙が比定候補とされる綾瀬市早川字新堀淵を、「今泉」は高座郡海老名町上今泉、現在の海老名市上今泉のことか。
「丸子連多麻呂」先の「鎌倉總説」の『《古歌に見えし鎌倉》』の冒頭に出る、『万葉集』に防人として歌を残した相模国鎌倉郡の丸子連多麻呂まろこのむらじおほまろのこと。丸子氏は古代日本の氏族の一つで紀伊国・信濃国・相模国などに点在する。大伴氏の支族とされる。
最後に。以上の離山前方後円墳説は植田のオリジナルな入れ込んだ記載で、極めて興味深い。添えられた離山の図も前方後円墳にしか見えない。ところがこの離山古墳説は現在、「鎌倉市史 考古編」やその他の鎌倉関連資料を披見しても、全くと言っていいほど登場しない。実は先に挙げられたる六国見山山頂部についてもかつて古墳説が囁かれ、古墳型をした山が、小袋谷の亀甲山、笛田の亀の子山と複数存在した。ところが、例えばこの離山は大正初期にセメント用泥岩の採取のために北側の腰山部分が崩され、昭和初期には大船地区の田圃を埋め立てて都市化する計画によって離山全体の開鑿が進行した。第二次世界大戦中には完全に突き崩されて、その土で田圃が埋められて海軍の工場地となり、戦後は県営住宅や大船中学校が建てられた。以上の離山事蹟は平成二十一(二〇〇九)年刊の鎌倉市教育委員会編「かまくら子ども風土記」(第十三版)に拠った。因みに申し上げておくと、この連綿と改稿されている「かまくら子ども風土記」は、その『連綿と改稿されている』点に於いて、非常に資料的価値の高い鎌倉地誌で、旧態然として辛気臭い「鎌倉市史」などとは比べ物にならない程、面白く信頼度も高いものである。それは古くから、地の私の小学校時代の恩師等がそこに関わり、民俗学的な聴き取りも漏らさず記すという、地道な積み重ねによるものであって、凡そアカデミズムの真似できない仕儀なのである。鎌倉研究の座右の一冊は、まずは「かまくら子ども風土記」というのが私の正直な感懐である。――それにしても、この鎌倉の古墳時代の遺跡の『見た目』貧弱さは、明らかに過去の近代の都市開発による文化遺産破壊を『なかったことにする』、さもしい仕儀のように、私には思えてならないのである。]
[離山]

[やぶちゃん注:本文に現れない画中の詞書と歌を活字化しておく。
 道興准后の記にはなれ山と
 いへる山あり誠に續きなる
 尾上もみえ侍らねば
朝まだき
   旅立さとの
      をち方に
 その名もしるき
     離山かな
右端中央及び下部には囲み付きで、
圓覺寺山   臺村
とあり、右から左へ順に囲み付きで以下の村名と寺名が示されている。
コブクロヤ村   今泉村   岩セ村   粟舩村   常樂寺
山の上には、
離山ハナレヤマ
とある。]

石切山 壽福寺の後山なり。此山中に石切場あり。又山上に望夫石と土人の名附たる丸山あり。此類は海邊の山にはいつくにも有ものなり。九州松浦潟には其名高き望夫石有。所々の海邊にて丸石の立るあれば其名を唱ふ。
【梅花無盡藏】云、見望夫丸石於山巓。指六郎之五輪於路傍。遂眺長谷觀音之古道場。相去數百歩云云。
[やぶちゃん注:「九州松浦潟には其名高き望夫石有」これはヒレフリ伝説や能「松浦佐用姫まつらさよひめ」で知られる。佐用姫は肥前国松浦(現在の佐賀県唐津市)の伝説の女性。彼女は、百済救援のための兵を率いて松浦潟に停泊した大伴狭手彦おおとものさでひこと契りを結び、出船する夫を鏡山の上から夫の船に向かって領巾ひれ(肩から腕にかける長い細布で出来た女性の装身具)を振って別れを惜しみ、悲しみのあまり、狭手彦の形見の鏡を抱いて川に沈んだとも、夫の船を追って、やっとの思いで辿り着いた加部かべ島で、泣き伏したままに石となったとも伝えられる。佐用姫の化した「望夫石」は、後に加部島の田島神社境内に遷され、現在も末社佐用姫神社として祀られている(以上は国立能楽堂のHP内の「松浦佐用姫」解説を参照した)。
「【梅花無盡藏】云、……」以下には、底本では一二点のみが附されている。試みにそれ従って私の訓読を示しておく。
望夫丸石を山巓に見て、六郎の五輪を路傍に指し、遂に長谷觀音の古道場を眺む。相ひ去ること、數百歩……
この「六郎の五輪」とは大鳥居(現在の一の鳥居)の傍らに建つ伝畠山重忠嫡男畠山六郎重保の墓であるが、但し、これは宝篋印塔であって五輪塔ではない(現在、右側に小さな五輪塔は立つ)。]

偏界一覽亭 瑞泉寺後山の巓をいふ。

猨踞峰 莊嚴院後山を名附たり。
[やぶちゃん注:「莊嚴院」は、雪ノ下に鎌倉時代から江戸時代まで存在した鶴岡二十五坊の一つであるが、この「猨踞峰」(音ならば「えんきょほう」。「猨」は「猿」であるから、猿がしゃがんだ形の岩があったのであろう)は「新編鎌倉志」にも見えず、現在の諸書にも見えない。貫達人・川副武胤編著「鎌倉廃寺事典」(昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊)の「鶴岡二十五坊」の校項にある、江戸時代の十二院の配置では、『総門は小袋坂旧道に入るまがり角の北側にあり、北に向かって入ると左側に手前から最勝院・等覚院・安楽院・相承院・荘厳院と並』んでいるとあるから、現在の二十五坊谷の北最深部にあったことが分かる。するとその「後山」は鶴ヶ岡の背後の大臣山から建長寺に続く峰の、大臣山寄りの峰であることになる(なお同書にはこれより前の部分に、鎌倉期に遡る鶴ヶ岡の「供僧次第」の配置が示されているが、そこでは配置が全く異なり、例えばこの荘厳院(坊名林東坊)は全く逆の右側で、それも江戸期とは対象位置である一番手前、鶴ヶ岡八幡宮の西の石橋近くにあるので注意されたい)。]

勝上巘 建長寺後の絶頂をいふ。
[やぶちゃん注:「勝上巘」は「しやうじやうけん(しょうじょうけん)」と読む。「巘」は「峰」に同じい。] 獅子巖 二階堂永福寺舊跡より北なる山上に有巨巖なり。其かたち獅子の蹲踞せしに似たるゆへ名附といふ。
[やぶちゃん注:「獅子巖」は「新編鎌倉志卷之二」に「ししがん」と読みを振る。]

稻瀨川[一名水無能瀨川] 《水無能瀨川》水無瀨川は山城・大和・攝津にもあり。また水無の川は常陸にあり。稻瀨川の水源は深澤大佛の谷より流出し、御輿ケ嶽の麓を流て長谷村を南の方へ貫き、由比の濱え出て海に注く。水幅一問許、水路九町程、【東鑑】に、治承四年十月六日、武衞[賴朝]鎌倉へ入御し給ふ。依て御臺[政子]是迄伊豆國阿岐戸郷に蟄し給ひしが、同月十一日彼地より鎌倉へ入御し給ひ、日次宜しからずとて稻瀨川の邊の茅屋に止宿せられ、翌十二日新營え入らせ給ふとあり。元曆元年八月八日、範賴平家追討使として進發の時、東士の行裝の見物し給はんと、稻瀨川の邊に棧敷を設て覽給ふ、とあるも此所なり。萬葉十四よみ人しらぬ歌。
 麻可奈思美佐穪爾和波由久可麻久良能、美奈能瀨河泊爾思保美都奈武賀
【夫木】
 東路やみなの瀨川に滿しほの、ひるまも見えす五月雨の頃【野々宮左大臣】
【家集】
 潮よりも霞や先にみちぬらん、水無の瀨川のあくる湊は【藤原爲相卿】
【家集】
 さし上るみなの瀨川の夕しほに、湊の月の影も近つく【藤原爲相卿】
【夫木】
 立まよふ波の潮路にへたゝりぬ、水無の瀨川の秋の夕霧【藤原爲實卿】
堯惠法師が【北國紀行】に、日暮て美なの瀨川の近所にやどり侍りしに、巖頭波しきりにして、夜の雨をきゝあかす。
 水淺き濱のまさこを越浪の、水無の瀨川に春雨そふる
文治元年十二月晦日、法皇は江ノ判官に仰て、故典厩[義朝]の首幷正淸が首を相添て、敕使として今日公朝下着、仍て二品[賴朝]迎え來らんば爲に稻瀨川の邊に參らせ給ふと云云。【梅松論】に源義貞鎌倉へ打入時、當日の濱手の大勝大館宗氏、稻瀨川にて討取らるゝも此所なり。
[やぶちゃん注:「水無瀨川は山城・大和・攝津にもあり」現在の京都府と大阪府の境釈迦岳南方に発し、大沢・川久保・尺代を経て、東大寺から広瀬を抜け、淀川に合流する。歌枕。
「水無の川は常陸にあり」これは「男女川」「水無川」と書いて、「みなのがわ」と読み、茨城県筑波山に源を発し、南流して桜川に合流する。歌枕。
「伊豆國阿岐戸郷」秋戸郷とも。現在の熱海駅寄海岸付近とも、もっと伊豆山港(小波戸港)寄とするものなど、比定地は複数あって定まらない。
「【東鑑】に、治承四年十月六日、武衞[賴朝]鎌倉へ入御し給ふ。依て御臺[政子]是迄伊豆國阿岐戸郷に蟄し給ひしが、同月十一日彼地より鎌倉へ入御し給ひ、日次宜しからずとて稻瀨川の邊の茅屋に止宿せられ、翌十二日新營え入らせ給ふとあり」とあるが、これは植田による記事の切り張りがなされており、正確ではない。「依て御臺是迄……」以下、政子の鎌倉入りはこの頼朝入城の五日後、治承四(一一八〇)十月十一日のことである。
「日次宜しからず」の「日次」は「ひなみ」と読み、日柄のこと。占いによって本居への入りの日取りが、方位か暦で凶と出たことを意味する。
「元曆元年八月八日、範賴平家追討使として進發の時、東士の行裝の見物し給はんと、稻瀨川の邊に棧敷を設て覽給ふ」「吾妻鏡」の当該元暦元(一一八四)年八月大八日の条には、「參河守範頼爲平家追討使赴西海。午尅進發。」(參河守みかはのかみ範賴、平家追討使と爲し、西海へ赴く。午の尅、進發す。)に始まり、行列の関東武士団の名簿記載が続き、最後に「武衛搆御棧敷於稻瀨河邊。令見物之給云々。」(武衛、御棧敷を稻瀨河邊に搆へ、之を見物しめ給ふと云々。)で終わっており、この叙述も正確な「吾妻鏡」からの引用ではなく、植田が纏めたものであることが分かる。
「【萬葉】十四よみ人しらぬ歌」は「万葉集」巻十四の三三六六番歌で、読み易く句を区切ると、
 麻可奈思美 佐穪爾和波由久 可麻久良能 美奈能瀨河泊爾 思保美都奈武賀
で、訓読すると、
 ま愛しみさ寢には行く鎌倉の美奈の瀨川に潮滿つなむか
で、
――お前のことを、私は心からいとおしく思って共寝するために向かっている――鎌倉の美奈の瀬川は、今頃、潮が満ちてしまっているだろうか――たとえそれでも私はお前のもとに行かずにはおられぬのだ――
と言った意味である。
「野々宮左大臣」は徳大寺公継(とくだいじきんつぐ 安元元(一一七五)年~嘉禄三(一二二七)年)の号。後鳥羽・土御門・順徳・仲恭・後堀河帝五朝に亙って仕えた公卿。官位は従一位左大臣まで昇った。
「文治元年十二月晦日、法皇は江ノ判官に仰て、故典厩[義朝]の首幷正淸が首を相添て、敕使として今日公朝下着、仍て二品[賴朝]迎え來らんば爲に稻瀨川の邊に參らせ給ふと云云」は「吾妻鏡」の拠るが、文治元年八月大晦日(三十日)で、月を誤っている。「法皇」は後白河、「江ノ判官」「公朝」は後白河院の北面の武士大江公朝きんとも、「正淸」は鎌田政清(正清は諱とされる)。源義朝の乳兄弟で、平時の乱後、尾張国野間内海荘の領主長田忠致(政清の舅)の館へと落ち延びたが(この途中で頼朝ははぐれた)、忠致の裏切りによって主従ともども殺害されている。二人の遺骨は勝長寿院に葬られた。以上の記述も植田がコンパクトに纏めたものである。
「大館宗氏」(おおだちむねうじ 正応元(一二八八)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)は「上野新田荘大館郷領主。新田義貞の鎌倉攻めに従い、鎌倉極楽寺切通口突破の大将として幕府軍の大仏おさらぎ貞直軍と戦闘の末、五月十九日、討死。]

滑川 水源は朝夷奈切通邊の谷より流出し、くるみケ谷の邊にて一流の川となれり。《一流にして六名》くるみケ谷の邊にては胡桃川といひ、又淨妙寺前に至て滑川と呼、また其下流にては座禪川といひ、又小町邊にては夷堂川と唱へ、延命寺邊より大鳥居邊に至りすみうり川と稱し、又其末閻魔堂の前にては閻魔堂川といふ。水源より下流迄都合六名あり。材木座の邊にて海に落入ぬ。《藤綱が事》扨滑川にて青砥左衞門藤綱が行狀の事は、【太平記】を初め小册子等にも見へ、普く兒女子も口碑に傳ふることゆへ故に略す。藤綱が行狀賢なりといえども、【東鑑】等其餘慥なるものに見え侍らず。
[やぶちゃん注:「青砥左衞門藤綱」の実在性は古くから疑問視されてきたが、ウィキの「青砥藤綱」の脚注には、『「国史大辞典」に藤綱の記事を執筆した池永二郎は「吾妻鏡」・「関東評定衆伝」をはじめとする鎌倉幕府の記録類に青砥左衛門尉藤綱の名が見られないことから後世の仮託とする。一方、「日本史大事典」に藤綱の記事を執筆した佐藤進一は「弘長記」や「大日本史」の記述(時頼の時代の人物とする記述)は信じられないが、「太平記」の記す貞時の時代の人物であることを否定できるだけの記録がないこと(「吾妻鏡」は文永、「関東評定衆伝」は弘安年間までで記述が途絶えている)、鎌倉幕府の法曹官僚を継承した室町幕府の引付方において一三四四年(南朝:興国五年、北朝:康永三年)に「青砥左衛門尉」なる奉行が登場することを指摘し、逸話の真否は別として「青砥左衛門」という鎌倉幕府引付奉行人が実在した可能性があるとしている。』と記す(記号と数字の一部を変更した)。]

逆川 名越切通邊より流出て、西の方へ流るゝゆへ逆川と唱ふ。大町の境へ出て、閻魔堂川に合して南流す。

   
○地名
大倉[或作大藏] 大倉といふ所は古く其唱えあれども、郷庄の名にもあらず。《實は谷の名》此邊は小林郷山の内の庄なり、治承四年以來も鶴が岡社地邊を境とし、東の方は朝夷奈切通迄、南は滑川を限とする歟。北の方は山際通瑞泉寺邊迄、皆大倉とは唱え、すべて總號に稱すれど、實は大倉谷と古へは唱へけり。されども谷々多き其數にも入ず。右大將家の御所は大倉と唱へ、執權北條氏が宅地は小町なれど、是も大倉といひ、五大堂、二階堂、藥師堂、新御堂など[大慈寺]古へ大倉と稱せし事は、【東鑑】其餘のものにも見へ、又諸家の屋敷も多く大倉に有けり。【太平記】に、元弘三年五月二日の夜、尊氏將軍の御曹子千壽王殿、大藏谷を落給ふとあるも此地の事なり。
[やぶちゃん注:「大慈寺」明王院の東一帯にあった。早くに廃寺となった寺で、「新編鎌倉志卷之二」に、『○大慈寺舊跡 大慈寺奮跡は、五大堂と、光觸寺との間、南の谷にあり。【東鑑】に、建保二年七月廿七日、大倉の大慈寺供養なり。新御堂と號す。實朝將軍の時なり。後正嘉元年十月一日修理の事あり。本堂・丈六堂・新阿彌陀堂・釋迦堂・三重の塔・鐘樓等、莊嚴の美、殆ど古跡に過ぎたりとあり。宗尊親王の時なり。』と記す。]

御門ミカド 法華堂より東にあり。右大將家の御所の東御門のありし地なり。依て地名とし、東みかどゝ稱し民家あり。

鳥合原[或取合或は鳥居合] 鶴が岡社地の東の鳥居外なる草澤の地をいふ。《地名由來諸説》土人等の傳ふるには、相模入道高時が雞を合せ、又は犬をも爰にて挑合せたる所ゆへ名附るといふ。此説も取がたし。建永二年三月三日、將軍[實朝]北の御壺に於て雞鬪會ありと【東鑑】に出たれば、是を誤り傳えしならん。北の御壺とあれば此所は御所より西外なり。同月朔日に、梅櫻を大名に課して植させ給ふとあり。其後も雞合をおこなわれし時、若狹前司泰村が喧嘩せし事、是も北の御壺にての事なるを誤り伴え、爰にて口論せしゆへ夫より取合原とも號すと。此説も信じがたし。或は社地の東西に鳥居を建て透門とす。是東西の鳥居相向ひ合て有ゆへ鳥居合といふ事なりともいえり。諸説其慥成事をしらず。 [やぶちゃん注:「若狹前司泰村が喧嘩せし事」三浦泰村は、しばしば他の御家人と派手な喧嘩をしているが、ここにあるような「雞合」の場での喧嘩というのは、今のところ、「吾妻鏡」内に発見出来ていない。識者の御教授を乞う。]

横小路[【東鑑】には皆大路とあり、後世に至り皆小路と唱ふ。] 是は二の鳥居前の東西へ達する道をいふ事【東鑑】に往々見えたり。西は馬場小路より、東は筋違橋へ至る所を名附。建暦二年五月六日和田合戰の時、土屋大學助義淸は御所に火掛り、將軍家[實朝]法華堂へ御動座の由を傳え聞て、潛に推參せんと岩窟堂へかゝり、横大路え出て赤橋へ向ふとあり。今は此邊をも若宮小路と唱ふ。
[やぶちゃん注:「土屋大學助義淸」土屋義清(?~建暦三(一二一三)年五月三日)岡崎義実の子。叔父土屋宗遠の養子となった。当初は平家に仕えたが、後に源頼朝に従って大学権助となった。和田氏の乱では和田義盛に味方し、正に引用の赤橋に差し掛かったところで流れ矢にあたって戦死している。因みに「吾妻鏡」は、この矢を「件箭自北方飛來。是神鏑之由謳歌。」(件の北方より飛び來る。是れ、神の鏑之の由、謳歌す。)と記している。一説に享年五十三歳。]

馬場小路 社地の西脇に小別當幷神主の住居の邊、巨福呂坂下より十二院の門前迄をいふ。昔は此邊調馬場の有し所ならん。古へは此小路の唱へ【東鑑】に見えず。社地の馬場も咫尺なるゆへに名附たる事なるべし。
[やぶちゃん注:「咫尺」は「しせき」と読み、元来は周代の度量衡で、「咫」は八寸、「尺」は十寸を言ったことから転じ、距離が非常に近いことをいう。]

若宮小路 《昔は大路》昔は大路といひしを、今は變じて小路と唱ふ。大鳥居より二の鳥居横大路迄、由比の濱より直道の平坦なり。横大路の鳥居より濱の大鳥居迄凡廿一町四十五間ありといふ。横大路の境の邊に今は旅亭連住す。《倡家醼遊の地》古えは町家多く軒を双べ、倡家又は酒肆など有て人々遊宴を催し、若輩等興に乘じ爭論起り、既に大事に及んとせし主こと往々【東鑑】に見えたり。又二鳥居の前後に至り、武家の亭宅南側に有し由、今は悉く田圃と成、兩舊跡等定かに知がたし。建暦二年五月五日和田亂の時、武田伊豆入道信光は名越の宅を出て御所へ向んとて、若宮大路米町口にて朝夷奈義秀に行逢、たがひに目を懸て既に相戰はんと欲する處に、信光が嫡子惡三郎信忠其中へ馳入ければ、義秀は信忠が父にかわらんと欲する形勢を感じ、馳過畢、とはも此連の事なり。
[やぶちゃん注:この記載により、江戸末期にあっては「若宮小路」と呼称しており、近代になって再び「若宮大路」となったことが分かる。「新編鎌倉志」では大路である。
「横大路の鳥居より濱の大鳥居迄凡廿一町四十五間ありといふ」とあるが、この数値はおかしい。因みに「新編鎌倉志卷之一」には『赤橋の前の鳥居より、間だ、四町十五間半にして又鳥居あり。二の鳥居と云。二鳥居より間だ、六町四十五間にして鳥居あり。三の鳥居也。是を大鳥居と云ふ』とあって、この総計は、
十町六十間半 ≒一・二七キロメートル
となり、これは現在の地図上の計測による、
約一・三キロメートル
に極めて近似する、ところが、ここでは、同一区間が、
廿一町四十五間≒二・三七キロメートル
となってしまう。これは推測であるが植田は、由比ヶ浜の区間距離を土民が言ったのを、誤って若宮大路の区間距離として記載してしまったのではなかろうか? 「新編鎌倉志」にある、先の引用のすぐ後の「由比濱」の説明部分には『此の濱邊、東は飯島、西は靈山崎、其の間だ、二四町あり』とあり、
二四町≒二・六一キロメートル
現在の由比ヶ浜の浜際を通る国道一三四号上で計測すると、現在の浜部分は、
約二・二キロメートル
に相当する(誤差四〇メートルは許容範囲)、当時の海岸線は、「新編鎌倉志」に『大鳥居より波打際まで五町あり』とあり、
五町≒五四五メートル
であるが、現在の地図上の計測による一の鳥居(「新編鎌倉志」の大鳥居)から、地図上の海岸線までは、
六四六メートル
五町≒五四五メートル地点は丁度、国道百三十四号から少し浜に降りた地点に相当する。
当時の海岸線はこの中央部分で百メートル近く内陸に湾曲していた。また、後掲される「由比濵」では、その全長を『二十四五町』(約二・六~二・七キロメートル)とするが、これは、この「廿一町四十五間」(約二・三キロメートル)という値と極めて近いと言える。――この誤り、八王子戍兵学校校長であった近代の軍人たる植田孟縉としては――かなり恥ずかしい誤りと言える。
「醼遊」は「えんゆう」と読み、「醼」は酒盛り、宴会の意。
「馳過畢」は「馳せ過ぎ畢(をはん)ぬ」と読む。
「とはも」「はも」は係助詞を重ねた、一種の詠嘆や強調を示すものとも思われるが、こうした用法は近世には見られず、私は何らかの誤植を疑うものである。]

琵琶小路 二の鳥居より大鳥居迄の間を名附。《辨天社地》古え此所に辨天の小祠在て道まかれるゆへ、此辨天祠を右大將家八幡宮の池邊へ移し給ひ、路を直くし給ふ。辨天の像は琵琶を持給ふゆへ、地名として古へ此所を琵琶小路と唱ふ。今は辨天祠もなけれども、其唱え地名に殘れり。
[やぶちゃん注:先行する「琵琶橋」の注を参照のこと。]

岩窟イハヤ小路[或は岩屋、又窟ともかけり。] 雪の下馬場小路邊より岩屋堂の路をいふ。古えは此唱へ見へず。
[やぶちゃん注:「岩屋堂」は現存。窟不動を祀る。現在の小町通りを八幡宮方向へ突っ切り、くろがねの井の手前を扇ヶ谷へ向かう左の小道に折れてこの記載の窟小路を行くと、横須賀線の踏切の手前にある。]

今小路 龜ケ谷壽福寺前の勝が橋より南をいふ。最も中古の唱也。

長谷小路 巽荒神の邊より、南は長谷村道の所をいふ。是も古名にあらず。
[やぶちゃん注:「巽荒神」「新編鎌倉志巻之五」に『巽荒神タツミノクワウジンは、今小路の南、壽福寺の巽にあり。故に名く、モト壽福寺の鎭守なり。今は淨光明寺の玉泉院の持分也。社領一貫文あり。』とある神社で、創建は、伝承では延暦二十(八〇一)年に蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したものを、頼朝の祖父源頼義が永承四(一〇四九)年に修理したものと伝えられる。鎌倉初期には現在地に移築されている。]

常盤ノ里 大佛切通を踰て西の方、土人常盤の里と唱ふ。此所に北條重時、同政村の別業あり。屋敷は別業の條を合せ見るべし。
[やぶちゃん注:「常盤」は本来は原義の樹木が生い茂るに基づく地名であろうと私は思う。
「別業の條」「鎌倉攬勝考卷之九」の「第跡」にある「陸奧守平重時並政村山莊舊跡」参照。]

綴喜ツヾキノ里 假粧下の北の谷をいふと。【夫木集】に、相模の名所とせしゆへに此里なりと土人等は傳えければ、【類字】に綴喜の里山城綴喜郡とあり。又【歌林】には綴喜里、山城・武藏に同名ありと載たり。【名寄松葉】には載せず。按ずるに、武藏の都筑は同名なりといへども、文字も違ひ、鎌倉よりは東に當り三里半許、山城に綴喜郡の稱名に綴喜と【和名抄】にも見たれば、【類字】の載る所當れるならん。茲にいふべきならねど後の考へに出す。
【夫木】
誰さとにつつきの原の夕霞、烟も見へすやとはわかまし[家隆卿]
【新拾遺】
 やかて又つつきの里にかきくれて、遠も過ぬ夕立の空[爲世卿]
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志 卷之四」では、『◯梅谷〔附綴喜の里〕 梅谷ムメガヤツは、假粧坂ケワヒザカの下の北の谷なり。此邊を綴喜里ツヾキノサトと云ふ。【夫木集】に、綴喜原ツヾキノハラを相模の名所として、家隆の歌あり。「が里につゞきの原の夕霞、烟も見へず宿はわかまし」と。此の地を詠るならん。』とするだけで、ここは植田の本記載の方が考証を含んで詳細。
「假粧下の北の谷」大きな扇ヶ谷の西、化粧坂に登る小さな谷に当たるが、現在では、この「綴喜の里」という呼称は廃れているように思われる。美しくいい字の地名なのに、惜しい。
「【類字】」「色葉字類抄」(平安時代末期に成立した橘忠兼編の古辞書)のことか。本書冒頭の引用書目には「假名字類抄」とあるが、こういう書名はない。
「綴喜郡」は「つづきのこおり」と読む。山城国に属した郡で、現在も京都府の郡名として存続している。
「【歌林】」「類聚歌林」(伝山上憶良編著の奈良時代前期の歌集で正倉院文書)のことか。本書冒頭の引用書目には所載しない。
「武藏の都筑」現在の横浜市緑区・青葉区・都筑区の全域と瀬谷区・旭区・保土ケ谷区・港北区・川崎市麻生区の各一部を含む旧武蔵国の郡名。
「【名寄松葉】」「松葉和歌集」(江戸前期の内海宗恵編になる歌枕名寄なよせの和歌集)のことか。本書冒頭の引用書目には所載しない。この引用書目ははっきり言って杜撰である。
「家隆卿」藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)。鎌倉初期の公卿・歌人。歌の下の句「やとはわかまし」は、よく意味が分からない。宿は見つかるだろうか、の意の「宿は分かまし」か。識者の御教授を乞う。
「爲世卿」二条(藤原)為世(ためよ 建長二(一二五〇)年~暦応元・延元三(一三三八)年)。鎌倉から南北朝期の公卿・歌人。上句の「かきくれて」は暗くなる、曇るの意。心情としての、心が哀しみに沈むの意をも、余韻とするか。]

御所入 佐介谷の内なり。御所と號する定かならず。《北條時盛が佐介の第》此所には北政義時の五男五郎實泰玆に住し、其子越後守時盛が住せしことは【東鑑】に越後守時盛が佐介の第とあるは此所にて、寛元四年六月廿七日、前將軍入道大納言[賴經]越後守時盛の佐介第に渡御とあり。又文永三年七月四日、[戌刻]將軍家[宗尊親王]越後入道勝圓が佐介の亭へ入御とあれば、兩將軍家僅に御座ありし其據にて、御所入とも號しけるにや。或説には北條經時が住居せしといえども、執權の經時を御所といふべき謂れなし。經時は在職五年にして寛元四年四月十九日、病に依て急に職を弟時賴に讓り落髮し、同年閏四月朔日に卒す。職を辭し纔に十日ばかりにて卒す。此人は佐々目ケ谷にて終りし。彼條を合せ見るべし。
[やぶちゃん注:「御所入」は「ごしょのいり」と読む。「新編鎌倉志卷之五」の付図を見る限りでは、現在の銭洗弁天への登り道の下方南の平地であるが、「御所入」とは如何にも奇妙な地名である。通常「御所」は大臣・将軍、親王以上の皇族の居所や本人を指すが、そのような人物が当地に居を構えた記録はない。植田の「吾妻鏡」の記事を引き合いに出しての「御所入」の説明は、如何にも説得力に欠く。これでは市内には無数の「御所入」が出現することになろう。東京堂出版の「鎌倉事典」の「御所入」では、『常盤にある「殿ノ入」「御所之内」などという地名は、執権北条政村邸、浄明寺の「御所ノ内」は足利氏に由来するものであろう』とし、『鎌倉には、ほかにも御所谷などの地名が残されていて、いずれもが有力武将の屋敷跡とされている』と記すのだが、やはり私には目から鱗とはいかない。もっと説得力のある見解を求む。
「佐々目ケ谷」は、甘縄神明社の東の尾根を隔てた谷。この御所入からは一キロもなく、遠くはない。
「彼條」「鎌倉攬勝考卷之九」の「北條武藏守平經時墳墓」を参照。]

塔ノ辻 鎌倉中所々の路端に有。古く大ひなる石の塔、其形は全からねは知ざれども、二重の塔の如きもの歟。當所の山より切出せる柔石なれば皆剝落せり。其在所は小町の北堺に一ケ所あり。古えは大倉辻と唱え、町免除の事は前篇に記せり。其以來は塔の辻と唱ふ。又建長寺、圓覺寺の門前と淨智寺の前にもあり。其餘雪の下又鐵觀音の前と、佐々目谷の東南の路端に二ツあり。今見る處七八所なり。土人等が他所の者の舊跡を遊覽するを郷導して、此石の塔の事を語るを聞に、むかし由比の長者といふもの、三歳なる兒を鷲にさらわれ、所所を尋求しに、道路に骨肉の落てありし毎に、菩提の爲とて建たる石塔なりといふも妄説の記取にたらず。《下馬塔の説》又一説には、當所の寺社等に門制札といふものなきゆへ、此塔は下馬塔なりといふ。是も用ひがたし。又いふ、土人等が小町口の塔は御所幷執權館舍の下馬塔なりといふと、少敷其據あるは、【太平記】に元弘三年五月廿二日、安東左街門入道聖秀いざや迚も死すべき命なれば、御屋形の燒跡にて心閑に自害して、鎌倉殿の御恥をすゝがんとて、討殘されたる郎徒百餘騎を從へて小町口へ打望み、是迄出仕の如く塔の辻にて下馬すとあり。されば常に此塔の邊にて下馬せし事なる由、夫ゆへ下馬塔ともいひけるにや。
[やぶちゃん注:「由比の長者」太郎太夫時忠と伝える。現在の塔之辻の鎌倉青年団の建てた碑文にも『昔由比ノ長者太郎太夫時忠ノ愛児三歳ノ時 鷲ニ攫ハレ追求スレドモ得ス 父母ノ悲痛措ク処ヲ知ラス 散見セル片骨塊肉ヲ居ルカマヽニ 是レヤ吾児ノ骨彼レヤ吾児ノ肉カト思ヒツヽ所在ニ塔ヲ建テヽ之ヲ供養シ以テ其ノ菩提ヲ祈レリ 是ノ故ニ鎌倉諸処ニ塔ノ辻ト言フ所アリ 此処モ其ノ一ナリト』と記す。ギリシア神話でゼウスが鷲に美少年ガニュメデスを攫わせて天上の神々の酒を注ぐ役としたことを皮切りにする、汎世界的民俗伝承の一変形で、確かに信ずるに足らない。が、しみじみとした話柄ではある。
「二重の塔」「新編相模国風土記稿」にもそうあるが、このような塔、見たことがない。識者の御教授を乞う。現在は塔之辻のみが知られ、そこには五輪塔が建っている。
「安東左衞門入道聖秀」安東聖秀(あんどうしょうしゅう ?~正慶二・元弘三(一三三三)年)は北条高時の臣従した武将。鎌倉攻めの先鋒新田義貞の妻の伯父であった。「太平記」の「安東入道自害の事」には、稲村ケ崎で義貞軍と戦って敗れ、北条屋敷へ帰参した時には既に屋敷は焼け落ち、一門は東勝寺に落ちていた。聖秀は屋敷では誰一人として腹かっ切って自害した者はないと聞いて口惜しがり、本文引用の覚悟を述べた。その直後、義貞の妻から投降を勧める使いが来たが、聖秀は恥を恥とも思わぬ降伏を拒絶、『一度は恨み一度は怒って彼の使の見る前にて、其の文を刀に拳り加へて、腹掻切りてぞ失せ給ひける』とある。凄絶であるが、それだけに私の好きな「太平記」の1シークエンスでもある。]

辻町 逆川橋より亂橋までの間をいふ。爰の東の方に有藥師堂を辻藥師と唱ふ。此辻町は亂橋村に屬せり。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之七」に『〇辻藥師 辻藥師ツヂヤクシは、逆川の南み、辻町の東頰ヒガシガハにあり。長善寺と號す。眞言宗也。本尊藥師、行基の作。十二神もあり。』とある。この「長善寺」については「鎌倉廃寺事典」に、『もと名越松葉ヶ谷安国論寺の後山をこえたところ、現在国鉄名越隧道の西の谷、字御嶽に長善寺蹟というところがあるが、これがこの寺の旧地か』とあり、『それがいまの辻の薬師のところに移ったが、本堂は今の電車線路の通る位置にあったため取り払われた』とするから、鎌倉の廃寺の中でも極めて新しい明治期に物理的に廃されたものであることが分かる。因みに、現在の辻の薬師の線路を渡ったところで芥川龍之介は新婚時代を過ごした。なお、その直近に私の藪野家の実家がある。]

名越ナゴヤ 大町の四辻より山際通り、南は材木座迄の東の方をすべて名越と唱え、谷々も名越の内に多し。《時政の別業地》北條遠江守時政、此他に別業を構へ住せしゆへ名越殿と稱し、其餘諸名家の第もありし事往々出せり。

飯島 材木座の東南なる海濵の地なり。《賴朝の寵姫龜の前》此所にむかし伏見冠者廣綱が住せしゆへ、賴朝卿の御寵女龜の前といふを彼許に預置給ひ、折々御濵出に立寄せ給ふ。然處治承八年十二月十日、御臺[政子]御憤り有て、今日牧三郎宗親に下知有て、飯島の廣綱が家を悉く破却せらる。依て廣綱大ひに恥辱を蒙り、希有にして龜の前の御方を伴ひ遁れ出て、三浦の鐙橋の大多和五郎義久が宅に至るとあるも此所なり。今は浪打際にて其舊跡もしれず、漁者のみすめり。
[やぶちゃん注:この幕府を震撼させた頼朝亀の前不倫スキャンダル事件については、「吾妻鏡」からの引用による場面再現を「新編鎌倉志卷之七」の「飯島」の注でオリジナルに行なっている。私としては、かなりの自信の注でもある。御笑覧あられたい。]

和賀江の島 今は飯島が崎とも唱ふ。飯島の南の出崎なり。《往阿彌陀佛築島》【東鑑】に寛喜四年七月十二日、觀進上人往阿彌陀佛、舟船の煩ひなく着岸すへき爲に、和賀江の島を築可申旨請ふに依て、武州[泰時]殊御歡有て、合力せしむべしと有ければ、諸人もまた助成し、同八月九日其功終れり。仍て尾藤左近入道、平三郎左衛門尉、諏訪兵衞尉を御使として巡檢せらるゝとあり。建長三年十二月三日、鎌倉中に町屋是置かるる條に、和賀江とあるは爰なるべし。【東關紀行】に親行つれづれもなくさむやとて、和賀江・築島・三浦の三崎なといふ浦々に行てみれば、海上の眺望哀を催して、こしかたに名高く面白かりし所々にもおとらずおぼゆ。
 さひしきは過こしかたの浦々も、ひとつなかめの中の釣舟
[やぶちゃん注:ここは現存する日本最古の築港跡で、海上への丸石積み(これらの石材は相模川・酒匂川・伊豆海岸などから運搬されたと考えられている)によって作られた人工港湾施設である。以下、ウィキの「和賀江島」の「歴史」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『鎌倉幕府の開府以降、相模湾の交通量は増加していたが、付近の前浜では水深の浅い事から艀が必要であり、事故も少なくなかった。このため、一二三二年(貞永元年)に勧進聖の往阿弥陀仏が、相模湾東岸の飯島岬の先に港湾施設を築く許可を鎌倉幕府に願い出た。執権の北条泰時はこれを強く後援して泰時の家臣である尾藤景綱、平盛綱、諏訪兵衛尉らが協力している。海路運ばれてきた相模国西部や伊豆国の石を用いて工事は順調に進み、一二三二年八月一四日(旧七月十五日)に着工して一二三二年九月二日(旧八月九日)には竣工した。なお、発起人の往阿弥陀仏は筑前国葦屋津の新宮浜でも築島を行なっていた土木技術の専門家である。一二五四年五月二十四日(建長六年四月二十九日)には問注所と政所それぞれの執事宛に唐船は四艘以下にするよう通達があり、南宋などから船が来港していた可能性がある』。『鎌倉時代の半ば以降に忍性が極楽寺の長老となってからは、和賀江島の敷地の所有および維持・管理の権利と、その関所を出入りする商船から升米とよばれる関米を徴収する権利が極楽寺に与えられていた。一三〇七年七月二十六日(徳治二年六月十八日)には関米を巡る問題で訴訟を起こした記録があり、管理の一端がうかがえる』。『江戸時代には和賀江島は「石蔵」や「舟入石蔵」と呼ばれ、付近の材木座村や小坪村(現・逗子市)の漁船などの係留場として使われていた。一七五〇年(寛延三年)頃、小坪村が島の西南方に新たな出入口を切開き、被害を受けた坂之下村や材木座村との間で一七六四年(明和元年)に相論が起きた。翌年、出入口の幅を九尺とし、三月から九月まで七ヵ月間は口を塞ぎ、残りの十月から二月までの五ヵ月に使用するという条件で和解したという』。『また鶴岡八幡宮の修復工事の際には材木や石を運ぶ船が停泊しており、少なくとも一六九六年(元禄九年)から翌年と一七八一年(天明元年)には八幡宮とともに島の修復工事も実施された。一八二六年(文政九年)の八幡宮修理に際しては、満潮時には』一メートル以上『海中に隠れるようになってしまっているとして材木座村が島の修復を願い出ている』。私の父は戦前、よくここで小さなイイダコを採ったという。私は三十数年前、干潮時のここを訪れ、浜から二百メートル程の先端まで歩いたことがあったが、そこで見つけたのは丸石にへばりついたイイダコならぬコンドームだった。
なお、以上のウィキの引用を見ると、起工の日付を植田が誤っているように見えるが、これは泰時による往阿弥陀仏の築島請願の許可が七月十二日に出、実際の起工が七月十五日で、どちらも正しい。
「和賀江・築島」この「・」は誤りで、「和賀江の築島」である。]


[和田新左衞門尉常盛ト舎弟義秀ト角觝]

[和田義盛ハ弟義秀に賜ひし龍蹄に打跨り飛が如クに馳歸る]

小坪[坪或は壺に作る、又は小窪。]《小窪》【東鑑】に小窪と見へしは爰の事なり。村落は飯島の東なる海岸の漁村をいふ。《鷺の浦》又は鷺の浦とも唱ふる由、絶景の地なり。建久四年七月十日、海濵涼風に屬するゆへ、將軍[賴朝]小坪の島へ御出の事あり。正治二年九月二日、將軍[賴家]小坪の海濱を歷覽し、海上に船を浮べて酒宴を興し、朝夷奈義秀が水練の聞え有しゆへ、其業を命じ給ひけるに、義秀御船より海上へ飛入、浮み出て往反數十度、其上波の底え入て見へず。皆人怪み思ふ處に、生たる鮫三喉をわき挾み、御船の前え浮み上る。滿座の人々感ぜざるものなし。賴家卿御感の餘り、黑の龍蹄を賜ひけり。此時義秀兄和田新左衞門尉常盛、御馬を賜ひしを羨み、進み出て申けるは、我水練は義秀に及ざれど、角觝は彼に劣るまじ、願わくは御前にて其業を決し、勝たるものえ御馬を賜らんと申せしかば、さあらば其業を決せよと命じ給ふゆへ、海濱の砂場にて其業をはじめ。たがひ金剛力士の祕術しを盡し、勝負更に決せざれば、一息仕るべしとの命に依て、兩方へ引分、息を■つきたりけるが、常盛いかゞおもひけん賜ひし御馬を牽寄て、赤裸にて御馬に打乘、鞭を當て飛が如くに馳行けるとあり。
[やぶちゃん注:「■」は植字不全で判読不能。「吾妻鏡」にも該当箇所なし。「ば」か読点か。
「角觝」は「すまふ(すもう)」若しくは音で「かくてい」と読む。相撲のこと。本来は相撲の原型である中国の力較べの武術を言う古い語である。
「正治二年九月二日、將軍賴家、小坪の海邊を歴覽し給ふ」この正治二(一二〇〇)年九月二日の小坪遊覧の記事は、鎌倉武士の豪快さが、肉感として伝わって来る、まことに面白いシーンである。「新編鎌倉志卷之七」の「小坪村」の注でも示したが、再度、以下に示す。
〇原文
二日乙夘。快晴。羽林令歴覽小壺海邊給。小坂太郎。長江四郎等儲御駄餉。有例笠懸。結城七郎朝光。小笠原阿波弥太郎。海野小太郎幸氏。市河四郎義胤。和田兵衛尉常盛等爲其射手。次海上粧船献盃酒。而朝夷名三郎義秀有水練之聞。以此次可顯其藝之由。有御命。義秀不能辞申。則自船下。浮海上。往還數丁。結句入波底。暫不見。諸人成恠之處。提生鮫三喉。浮上于御船之前。滿座莫不感。羽林以今日御騎用之龍蹄。〔名馬。諸人爲竸望。〕給義秀之處。義秀兄常盛申云。水練者雖不覃義秀。於相撲者可有長兄之驗。置御馬於兄弟之中。覽相撲之後。就勝負可被下之云々。羽林御入興。着御船於岸。於小坂太郎前庭。被召决之。二人共解衣裝立向。其勢色不異力士。無勝劣于對揚。各取合及數反。此間所立之地頗如震動。人以爲壯觀。義秀頻好勝負。常盛聊有雌伏之氣。爰江馬殿感興餘。起座被隔立于兩人之中。于時常盛不及着衣。裸兮乘件馬。揚鞭逐電。義秀後悔千万。觀者皆解※。彼馬奥州一名馬也。廣元朝臣献之。常盛日來雖成平所望。不被下云々。秉燭之間。還御鎌倉。
[やぶちゃん字注:「※」=「阜」+「頁」。]
〇やぶちゃの書き下し文
二日乙夘。快晴。羽林小壺の海邊を歴覽せしめ給ふ。小坂太郎、長江四郎等御駄餉だかうまうく。例の笠懸有り。結城七郎朝光、小笠原阿波弥太郎、海野小太郎幸氏、市河四郎義胤、和田兵衛尉常盛等其の射手たり。次で海上に船を粧ひ、盃酒を献ず。而して朝夷名三郎義秀、水練の聞へ有り。此の次いでを以て其の藝を顯すべしの由、御命有り。義秀辞し申すに能はず、則ち船より下り、海上に浮び、往還數丁、結句、波底に入り、暫く見へず。諸人恠しみ成すの處、生き鮫三こうひつさげ、御船の前に浮上す。滿座感ぜずといふこと莫し。羽林、今日の御騎用の龍蹄〔名馬。諸人竸ひて望みを爲す。〕を以て義秀に給はるの處、義秀が兄常盛申して云く、「水練は義秀におよばずと雖も、相撲に於いては長兄の驗有るべし。御馬を兄弟之の中に置き、相撲を覽ずるの後、勝負に就き之を下さるべし。」と云々。羽林、御入興ごじゆきよう、御船を岸に着け、小坂太郎の前庭に於いて、之を召决せらる。二人共に衣裝を解き立向ふ。其の勢色力士に異ならず。對揚たいやうに勝劣無し。各々の取合い數反すへんに及ぶ。此の間立つ所の地、頗る震動するがごとし。人以て壯觀と爲す。義秀、頻に勝負を好む。常盛聊か雌伏の氣有り。爰に江馬殿、感興の餘り、座を起ちて兩人の中に隔て立たる。時に常盛、衣を着るに及ばず、裸にて件の馬に乘り、鞭を揚げて逐電す。義秀、後悔千萬、觀る者皆おとがひを解く。彼の馬は奥州一の名馬なり。廣元朝臣、之を献ず。常盛、日來平に所望を成すと雖も、下されずと云々。秉燭へいしよくの間に鎌倉に還御す。
〇やぶちゃん注
・「羽林」頼家。羽林は「羽のごとく速く、林のごとく多い」の意で、本来、中国で北辰(北斗星)を守護する星の名であったが、そこから転じて皇帝(天皇)を護る宮中の宿衛の官名となった。本邦では近衛府の唐名となった。当時頼家は左近衛中将(直後の十月に左衛門督に遷任)。
・「和田兵衛尉常盛」和田常盛(承安二(一一七二)年~建保元(一二一三)年)は後で出て来る義秀の兄。弓の名人として知られたが、後、和田合戦で一族と討死した。
・「駄餉だかう」「だこ」とも。野外での昼食。弁当。
・「生き鮫三こう」の「喉」は勿論、喉笛の意であるが、ここは義秀がサメ三尾の鰓に片手の指を突き刺して引っさげている様を言っていよう。一種の数詞のように用いて面白い。
・「對揚たいやう」後に「勝劣無し」と続くが、この語自体が互角に渡り合うことの意。但し、ここは相撲であるから、互いに対し、がっぷり四つに組んで、釣り揚げんとするも互角、離れてはまた組んでまた固まる、といったニュアンスを伝えて面白く読める。
・「江馬殿」は「江間」が正しい。北条義時。この頃には伊豆北条の近隣である現在の静岡県伊豆の国市南江間を領していたことから、かく呼ぶ。
・「おとがひを解く」は「頤」に同じ。顎をはずさんばかりに大笑いする。
・「秉燭へいしよくの間」燭をる頃の意で、夕刻。]

由比濱[或は浦、又は由作湯誤なり、比作井、居誤なり。] 若宮舊跡の邊より西の方、坂下迄丘陵の地なり。廣野平坦にて、又其所より一階低し。南の方は波打際の砂濵なり。東は飯島、西は靈山が崎、又は坂下迄東西凡二十四五町、砂濵の南北廣き所まで二三十間、干潟の時は波打際の砂場を東西より往來なり。腰越邊より坂下へ懸り、三浦へ達する近路なり。されども潮みちぬる時は通路成がたし。射藝など試る所は一段上の小笹原の地なり。 道興准后の【𢌞國雜記】に、由井ケ濱にさがりて鳥居など見侍りて、しばらく皆々遊び侍りける。
 朽のこる鳥居のはしら戲れて、由井の濵邊に立るしら波
 源親行が【東關紀行】に、湯井の濵をかえりゆけば、波のおもかげ立そひて、野にも山にもはなれがたきこゝ地して、
 なれにけりかえる濵邊にみつしほの、さすか名殘にぬるゝ袖哉
[やぶちゃん注:「二十四五町」約二・六キロメートルから二・七キロメートル。
「二三十間」約三十六メートルから五十四メートル。浜幅が現在に比して遙かに広いのが分かる。]

靈山崎 極樂寺切通より海岸へ出崎の峙たる險山、樹木生ひ茂り、古へは是迄極樂寺の境内なりしゆへ、靈山は極樂寺の山號なり。往昔此所に寺あり、彿法寺とて極樂寺開山忍性のすみしといふ。《忍性・日蓮祈雨の地》忍性御教書を承て此所にて雨を祈りしことあり。又日蓮も爰にて雨を祈り、法華の經文を板に書て海上へ流せり。其板を今も稀には藏するものもありける。
[やぶちゃん注:「峙たる」は「そばだちたる」と読んでいるか。
「佛法寺」極楽寺の支院の一つ。霊山ヶ崎の頂上東側、由比ヶ浜を見下ろす景勝地にあった。現在、仏法寺跡とされる平地は凡そ東西に三十メートル、南北に七十メートルほどあり、本文に現れる忍性と日蓮の雨乞いの場と伝えられる池塘の痕跡もある。霊山ヶ崎には霊山寺と呼ばれる寺院があったとも伝えられるが、これはこの仏法寺と同一のものと思われる。
「忍性御教書を承て……」伝承では、文永八年(一二七一)年七月、当時の執権北條時宗がこのところの大旱魃を憂え、忍性に祈雨の祈禱が命ぜられて行法したたものの、効験がなく、替わって日蓮が現在の七里ヶ浜の行合川上流にある田辺ヶ池で法華経を唱えたところ、たちどころに車軸を流したような大雨が降り出した、というものである。]


 
ヤツ名寄[凡三十六谷]
[やぶちゃん注:現在では俗に六十六ヶ所あると言われているが、実際には最早、名を失ったものも含めると、百数十箇所はあるとされる。]
藥師堂谷 《義時建立藥師堂》二階堂より北にて、荏柄社より東の方、古へこの藥師堂を北條義時建立せしより其名起れり、【東鑑】等には大倉の藥師堂と出たれば、古名は大倉なれど、藥師堂谷と呼て其名高し。今は又二階堂村に屬す。

胡桃ケ谷 大倉の淨妙寺の東の谷なり。
道興准后の【𢌞國雜記】に、くるみケ谷にてよめる、
  すみなれしかまくら山のやまがらや、くるみか谷に秋をへぬらん
[やぶちゃん注:「やまがら」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius。御御籤引きの芸で知られるが、ヤマガラは本邦では古く平安時代から飼育され、本種専用の「ヤマガラかご」なるものあった程、人と親しい印象を持つ小鳥であった。]

牛蒡ケ谷 朝夷奈切通の南寄に、光觸寺といふの北の谷をいふ。
[やぶちゃん注:「といふ寺の」の脱字が疑われる。]

宅間ケ谷 十二所村の南續き、報國寺の邊は宅間の谷の内なり。《繪所宅間氏住宅》古え宅間左近將監爲行と稱し、將軍家の繪所なるものゝ住せし地なるゆへ地名に傳ふ。足利家の世となりて、宅間法眼淨宋と稱する佛師ありしも、爲行か子孫なるべし。
[やぶちゃん注:「宅磨左近將監爲行」(生没年未詳)は、文治元(一一八五)年、頼朝が勝長寿院本堂の壁画浄土瑞相及び二十五菩薩を描かせた、『無雙畫圖繪達者』と「吾妻鏡」が絶賛した宅間為久の子と考えられる人物で、将軍頼経に仕え、「吾妻鏡」寛喜三(一二三一)年十月六日の条に、頼経が五大堂建立予定地に於いて『宅磨左近將監爲行を召し、之を圖繪』させたという記載がある。
「宅間法眼淨宋」不詳。現在、杉本寺にある毘沙門天像は伝宅間法眼浄宏作とするが、この誤植か。]
犬懸谷[或作駈] 釋迦堂谷の東に隣る。此所の山合に嶮路の間道有て、名越へ出る。【平家物語】に畠山が三浦を攻し時、三浦小次郎義茂鎌倉へ立寄りしに、合戰の事を聞て、馬に乘て犬懸坂を馳越し、と有は爰の事なり。或説に、此所に衣掛キヌカケ山といふあり。前篇に出せり。犬懸も實は衣掛なりといふ。相似たる事なれど、いまだ慥成説を聞ず。足利家の世となり、尊氏將軍の命に依て、上杉の庶流なる中務犬輔朝宗、初て此地に住し、地名をもて犬懸の上杉と稱せり。是は扇谷の始祖、上杉左馬助朝房の舍弟の家なり。
[やぶちゃん注:「【平家物語】に」とあるが、これは正確には「源平盛衰記」とすべきである。
「畠山が三浦を攻し時」これは所謂、「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるもので、治承四(一一八〇)年八月十七日の頼朝の挙兵を受け、同月二十二日、三浦一族は頼朝方につくことを決し、頼朝と合流するために三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠三浦を出立、そこに和田義盛及びその弟の小次郎義茂も参加した。ところが丸子川(現・酒匂川)で大雨の増水で渡渉に手間取っているうち、二十三日夜の石橋山合戦で大庭景親が頼朝軍を撃破してしまう。頼朝敗走の知らせを受けた三浦軍は引き返したが(以下はウィキの「石橋山の戦い」の「由比ヶ浜の戦い」の項から引用する)、その途中この小坪の辺りでこの時は未だ平家方についていた『畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来た事情を知らない義盛の弟の和田義茂が』――ちょうどこのシーンが本文の引用箇所で、「犬懸坂を馳せ越て名越にて浦を見れば、四五百騎が程打圍て見え」(「源平盛衰記 小坪合戦」)てしまった結果、すわ一大事と攻め込み、義盛軍が和平なったれば攻撃するなと手を振ったが、不幸にして分からず――『畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た』ものの、この場はとりあえず『停戦がなり、双方が兵を退いた』とある。但し、この後の二十六日には平家に組した畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの大軍勢が三浦氏を攻め、衣笠城に籠って応戦するも万事休し、一族は八十九歳の族長三浦義明の命で海上へと逃れ、義明は独り城に残って討死にしたというものである。]

釋迦堂谷 大御堂谷の東に隣る。北條泰時が釋迦堂を建立せしより其名起れり。委敷は廢跡の條にしるせり。
[やぶちゃん注:「委敷は廢跡の條にしるせり」「鎌倉攬勝考卷之七」の「廢寺」には、
釋迦堂跡 大御堂の東の方なり。元仁元年十一月十八日、武州泰時、亡父周關忌景の爲に伽藍を建立、同日立柱、翌年六月十三日、新建供養せちるとあり。其堂も廢亡し、今は他の名に唱ふる而已。 とある。「周關忌景」の「關」は「闋」(くぎりの意)の誤植であろう。周闋は「しゅうけつ」と読み、現在の一周忌に当たる。「忌景」は忌日の意。義時は同元仁元(一二二四)年六月十三日に没している。この釈迦堂は新釈迦堂と呼ばれ、現在の鎌倉市浄明寺釈迦堂にあった。「翌年」は改元して嘉禄(一二二五)元年。この本尊釈迦如来像は現在の東京都目黒区行人坂大円寺に現存する。]

葛西ケ谷 大倉辻寶戒寺のうしろにて、此寺の境内となれり。《葛西淸重邸址》傳へいふ、治承以來、葛西三郎淸重に給ひし地ゆへ葛西ケ谷とは號せりとぞ。右大將家鎌倉へ移給ひし後は、淸重が事は【東鑑】に見へたる處稀なり。其後は北條貞時此地に東勝寺を建立し、高時が滅亡の時、平氏の一族悉く自殺せしことは、東勝寺廢跡の條を合せ見るべし。
[やぶちゃん注:「葛西三郎淸重」(応保元(一一六一)年?~暦仁元(一二三八)年?)頼朝挙兵直後から付き従った武将で、幕府初期の重臣の一人。文治五(一一八九)年の奥州藤原氏討伐では父清元とともに抜け駆けの先陣を果たして奮戦、讃えられた。頼朝没後は北条氏に近い立場をとって信頼を勝ち取り、建暦三(一二一三)年の和田合戦でも武功を挙げている。従って本記載の『右大將家鎌倉へ移給ひし後は、淸重が事は【東鑑】に見へたる處稀なり』というのは事実に反する。]

比企ケ谷 大町より東の方の山際なり。比企の判官能員の舊跡幷御所の跡もあり。委敷は妙本寺幷比企の舊跡の條を合せ見るべし。阿佛尼の【十六夜日記】に、さるほどに卯月のすえになりけれども、ほとゝぎすの初音ほのかにも思ひたえたり。人づてに聞ば、ひきがやつといふ所は、あまた聲なきけるを人きゝたりなどいふをきゝて、
 忍ひねはひきが谷なる郭公、雲ゐに高くいつかなのらん
などひとり思えもそのかひもなし。もとより東路はみちのおくまで、昔より時鳥まれなるならひにやありけん、ひとすぢに又なかすはよし、稀にも聞人ありけるとぞ人はきしけるよと、こゝろづくしにうらめしけれ云云。
 比企の禪尼は能員の姨母にて、此前栽に瓜薗を設け興ありとて、右大將家幷御臺[政子]御遊興度々なること【東鑑】に見えたり。《瓜ケ谷》此禪尼の瓜薗を作りけるゆへにや、此邊を瓜ケ谷と地名せしか、中古以來其唱へはなけれども、文明の頃迄は稱したるゆへ、道興准后【𢌞國雜記】にまづ谷とを人に尋ね侍りてよめる、うりが谷にて、
 ひと夏はとまりかくなり暮過て、冬にかゝれる瓜かやつ哉
[やぶちゃん注:「委敷は妙本寺幷比企の舊跡の條を合せ見るべし」「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」を参照。
「ほのかにも思ひたえたり」少しでも聴いてみたいと思っていたのも断念せねばならなかったの意。何故か、阿仏尼の居所月影ヶ谷(極楽寺境内)では時鳥が鳴かなかったのである。
「忍ひねはひきが谷なる郭公、雲ゐに高くいつかなのらん」「忍ひね」(忍び音)は時鳥の初音のこと。「ひき」「引き=低き」と「比企」を掛ける。私の勝手な解釈。
……忍び音(ね)を、その谷だけで低く啼いているという比企の時鳥よ――お前は、いつになったら月影の私に聞こえるよう、空高く鳴きわたってくれるのかしら……
「ひとすぢに又なかすはよし」おしなべて一様にどこでも鳴かぬというのであればまだよい、の意。
「人はきしけるよと、こゝろづくしにうらめしけれ」「人はき」は「人わき」の誤り。「わき」は「分く」で、人を分ける、則ち、そこに居る人を選んで鳴いたり鳴かなかったするのね! と、いろいろこっちの気を揉ませて、ほんに恨めしいこと! と時鳥にやっかんでいるのである。
「瓜薗」は「くわゑん(かえん)」と読み、瓜の花園の意か。「鎌倉攬勝考卷之八」の「御臺所〔政子〕御産所舊跡」を参照のこと。
「瓜ケ谷」現在、比企ヶ谷にこう呼称する谷戸はない(葛原ヶ岡東側の谷を現在、東瓜ヶ谷と呼称している)。
「まづ谷とを人に尋ね侍りて」の部分は、「まづ谷(や)とを」と読む。
「ひと夏はとまりかくなり暮過て、冬にかゝれる瓜かやつ哉」の「とまり」は「となりかくなり」の誤植と思われる。「とにもかくにも」、「ともかくも」の意であろう。]

花ケ谷 名越の佐竹第跡の東の方の谷をいふ。《慈恩寺の花壇》昔此所に慈恩寺といふ寺ありて、其寺の歌壇に數百種の草花を集て、春秋は色をまじえて咲けるゆへ、人々遊觀して賞しければ、花ケ谷と地名せしといふ。其寺もいつの昔にか廢跡となれりといふ。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志巻之七」の「〇花谷〔附慈恩寺の舊跡〕」を参照のこと。そこには足利直冬の菩提寺であり、開山は桂堂聞公、京五山の名僧たちが、この風光明媚な寺を詩題として詠んだ詩群を掲載しており、それを読むと、この慈恩寺なる寺が由比ヶ浜(飯島)に近く、境内には多様な種類の草花樹木が植えられ、池塘や岩窟、何より七層の荘厳な塔を持った相応な規模の禅寺であったことが知られるのである。因みに、この寺、「鎌倉廃寺事典」では成立を鎌倉時代とし、万里集九の「梅花無尽蔵」に『「脚倦不登慈恩塔婆之旧礎」とあって、文明末(一四八五)にはすでに廃絶していたこと』が知れる、とある。
「名越の佐竹第跡」御家人佐竹秀義(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年)の第跡。「鎌倉攬勝考卷之九」の「佐竹四郎秀義第跡」を参照のこと。]

蛇ケ谷 《蛇ケ谷三ケ所》鎌倉に蛇ケやつといふ所三ケ所あり。一は鶴ケ岡の東北にある谷をいふとあり。此事は【沙石集】にいえる如く、或者アルモノの女がチゴを戀病して死し、兒もまたやみて是も死けるゆへ、棺に納て山麓へ葬らんとせしに、棺の内に大蛇が兒の軀をまとひ居たる由、昔話にいひ傳ふとなん。又一ケ所は假粧坂の北の谷をいふとぞ。是は小蛇が爲に見入られ、何地へ行ても小蛇慕ひ、終にさらず。臥たる折ふし、陰門へ蛇入て女も死し、蛇もまたうせたりといふ。又一ケ所は釋迦堂谷より名越のかたへ踰る切通の邊なりといふ。其事を語れるを聞に、長明が【發心集】に書たると同じければ、此所の昔話を聞て長明がしるせしにや。其記に地名を忘れたりしとかけり、則爰の事なるべし。其事【發心集】にくわしければ共に略す。鎌倉は海岸の濕地にして、又山々谷々多きゆへ、今も猶蛇多しといふ。
[やぶちゃん注:「【沙石集】にいえる如く、……」以下、「沙石集」の巻第七から該当箇所を引く。底本は読み易くカタカナを平仮名に直した一九四三年岩波書店刊の岩波文庫版「沙石集 下巻」(筑土鈴寛校訂)を用いた。
     七 妄執に依つて女蛇と成る事
鎌倉に或人の女、若宮の僧正坊のちごを戀ひて病になりぬ。母にかくとつげたりければ、かの兒が父母も、知人なりけるまゝに、この由申合せて、時々兒をもかよはしけれども、志もなかりけるにや。うとく成ゆく程に、つひに思死おもひじにに死にぬ。父母悲しみて、彼こつを善光寺へ送らんとて、箱に入れておきてけり。その後此兒又病付きて、大事になりて物狂はしくなりにければ、一間なる所にをしこめておく。人と物語る聲しけるをあやしみて、父母物のひまより見るに、大なる蛇とむかひて物をいひけるなるべし。さて終に失にければ、入棺して、若宮の西の山にて葬するに、棺の中に大なる蛇ありて、兒とまとはりたり。やがて蛇と共に葬してけり。かの父母、女が骨を善光寺へ送るついで、取分けて、鎌倉の或寺へ送らんとして見けるに、骨さながら小蛇に成りたるも有り、なからばかりなりかかりたるも有り。此事はかの父母、或僧に孝養してたべとて、ありのまゝに語りけるとて、たしかに聞きて語り侍りき。近き事也。名も承りしかども、はばかりありてしるさず。此物語は、多く當世の事を記する故に、その所その名をはばかりて申さず。不定の故には非ず。凡そ一切の萬物は、一心の變ずるいはれ、始めて驚く可からずといへども、此事ちかき不思議なれば、まめやかに愛欲のとがと思ひとけば、いと罪深くとこそ覺え侍れ。されば執着愛念ほどに恐るべき事なし。生死に流轉すること著欲による。佛神にも祈念し、聖教の對治をたづねて、此愛欲をたち、此の情欲をやめて、眞實に解脱の門に入り、自性淸淨の躰を見るべし。愛執つきざれば、欲網を出でず。無始の輪𢌞、多生の流轉、ただ此事を本とす。何の國とかや、或尼公、女を我夫にあはせて、我身は家に居て、女にかかりて侍るが、指の虵になりりたるをつつみかくして、當時有りと云へり。昔もかかる事、發心集に見えたり。かれは懺悔して念を申しけるまゝに、本の如くなれりと云へり。
□やぶちゃん語注
・「若宮の僧正坊」若宮の別当僧正坊。岩波古典大系「沙石集」頭注には、「若宮」を『鶴岡八幡石階下にあり、仁徳帝を祀る』とするが、如何? この時代に「若宮」と呼ぶのは、本来の勧請地である、もっと離れた由比の若宮であろう。但し、ここは移築した現在の鶴ヶ岡八幡宮自体を呼称しているようには読める。「僧正坊」は二十五坊を指す。
・「骨さながら小蛇に成りたるも有り」骨の中には完全に小さな蛇に変態していたものもあり、また……の意。
・「著欲」は著欲謗法じゃくよくぼうほうのこと。五欲(二説あって、しきしょうこうそくの五境に対して起こす欲望とも、また、財欲・色欲・飲食おんじき欲・名欲(名誉欲)・睡眠欲の五つともいう。五塵とも)に執着して正法しょうぼうを求めぬことをいう。
・「聖教」は「しやうげう(しょうぎょう)」と読み、仏法の正しい教えを説いた経典。
・「對治」は「退治」で、煩悩を断ち切るための方途。
・「自性淸淨」は「じしやうしやうじやう(じしょうしょうじょう)」と読み、本来の、一切の煩悩による穢れから遠く離れた、清浄な心の状態をいう。
・「何の國とかや、或尼公、女を我夫にあはせて、……」これこそ植田が挙げる、「発心集」に載る三つ目の蛇妄執譚である。
なお、「沙石集」の作者無住道暁(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は鎌倉生まれで、三十七歳まで鎌倉に住んでおり、自称梶原氏末裔を名乗る。されば、その説話集である本作には鎌倉を舞台とする説話が有意に多い。鎌倉の古典を学ばんとするなら、私はまず、この「沙石集」をお勧めする。

「又一ケ所は假粧坂の北の谷をいふとぞ。是は小蛇が爲に見入られ、何地へ行ても小蛇慕ひ、終にさらず。臥たる折ふし、陰門へ蛇入て女も死し、蛇もまたうせたりといふ。」この話柄、確かに読んだ記憶があるのだが、出典を思い出せない。識者の御教授を乞う。
「長明が【發心集】に書たる」「新編鎌倉志巻之七」の「〇蛇谷」の私の注に全文を引用してあるので参照されたい。
「今も猶蛇多しといふ」私が小さな頃、鎌倉は蛇と百足の名所と言われたが、最近はめっきり蛇は見ない――しかし、百足は今も多い。先日も七~八センチのきゃつが、家中に二日連続で出現して恐懼した。]

松葉ケ谷 名越の内なり。安國寺、長勝寺の境内を松葉ケ谷と唱ふ。《日蓮草庵の地》日蓮安房小湊より當所へ渡りし時、三浦へ着岸し、夫より切通を踰て此邊に庵室を給ひ給ひし地なり。後に京都へ移されし本國寺の舊蹟の條を合せ見るべし。
[やぶちゃん注:「本國寺」は、現在、大光山本圀寺ほんこくじとして京都府京都市山科区にある(かつては六条堀川であったが、第二次大戦後に経営難等の諸般の事情から堀川の寺地を売却し、現在の山科に移転した)。日蓮が松葉ヶ谷草庵に創建した法華堂が第二祖であった日朗に譲られ、元応二(一三二〇)年に更に堂塔を建立したが、それがこの「本國寺」の濫觴となり、その建立地が現在の石井山長勝寺のある場所であった。残念ながら、これに後の妙法寺と啓運寺などの建立の伝承錯綜が加わると、正直、何が何だか分からなくなる。寺名問題は宗門の方にお任せして、これくらいにしておく。]

辨ケ谷 材木座の東なる谷をいふ。《別ケ谷》或記に別ケ谷ともいえりと。是は介の唐名を別駕といふ、千葉介の宅地の邊ゆへ、別駕を略し別ケ谷と稱すといえり。按ずるに千葉介は此邊には住せず、長谷小路より東の方に舊跡あり。爰よりは佐竹の舊跡へ近ければ、彼家にても常陸介又は上總介などを名乘りしかば、彼家は係りてのことにや覺束なし。千葉介にはあらず。《紅ケ谷》又一説に言へば、紅ケ谷と唱えしゆへ、文明中道興准后の記に、べにが谷にてよめる。
 かおにぬるべにかやつより歸りきて早くも越るけはひ坂哉

[やぶちゃん注:「千葉介」「鎌倉攬勝考卷之九」の「千葉介第跡」に『愛宕堂の東の畠地を千葉介常胤が舊跡なる由をいふ。【東鑑】に、司馬の甘繩の家に向ふとは此所なり。司馬とは成胤が事なり。胤正が子にて、常胤が嫡孫にて有けり。』とある。この植田が言う「愛宕堂」は、「鎌倉攬勝考卷之三」の『長谷小路より、佐介谷へ入右の方の山の出先にあ』とる愛宕堂で、現在の佐介の峰の南端、天狗堂山にあったものを指す(現存せず。なお、鎌倉には愛宕堂・愛宕社と称するものが現存する雪の下のもの以外にも、複数あったと考えてよいように思われる。京都の愛宕神社を元とする愛宕信仰は、中世後期以降には火伏せの神として全国的に広く信仰されたからである)。但し、白井永二編「鎌倉事典」によれば、「田代系図」(不学にして何故、田代氏の系図に千葉氏の屋敷のことが出るのかを疑問に思った。識者の御教授を乞うものである)には、この弁ヶ谷にも屋敷があったと記すとある。
「彼家にても常陸介又は上總介などを名乘りしかば」佐竹秀義の官位は常陸介、彼の五代後の嫡孫で最後に討幕軍に寝返った佐竹貞義(弘安十(一二八七)年~正平七・観応三/文和元(一三五二)年)が上総介の他、常陸介にも任ぜられているから、この謂いは正しい。
「かおにぬるべにかやつより歸りきて早くも越るけはひ坂哉」は群書類従版では、
 顔にぬる紅が谷よりうつりきて早くも越ゆるけはひ坂かな
で、まさに匂いが移ってゆくようで遙かに上手い。というより、これ、誤読や転記ミスの可能性もあるか。]

經師ケ谷 辨ケ谷の北にあり。土人はなまりてちうじケ谷といふ。【東鑑】に經師ケ谷と出たるは此所なり。
[やぶちゃん注:材木座の東北、弁ヶ谷の北・桐ヶ谷の西北の現在の長勝寺の東、名越にある谷。写経を行う経師たちがここに住していたか。「吾妻鏡」元久二(一二〇五)年六月二十三日の条に榛谷はんがや四郎重朝が子の重季・秀重ともども三浦義村に討たれた(重朝が畠山重忠の乱で従兄弟であった重忠謀殺に荷担したことを主罪とし、また、三浦氏にとっては三浦義明討死の最後の恨みを晴らす格好となった)記事で、「於經師谷口」で謀殺とあり、鎌倉時代から存在した古い谷戸名であることが分かる。]

桐ケ谷 經師ケ谷の東の谷をいふ。道興准后の記に。
 此里の古井のもとの桐ケやつ、落葉の後は汲人もなし
[やぶちゃん注:「桐ケ谷」というと、「桐が谷」(きりがやつ・きりがや)と呼称する淡紅色で主に八重咲きの、最高級品種とされる桜があるが、この花は実はここ桐ヶ谷に植生していたことに由来するという。但し、「廻国雑記」のこの歌の詞書には『霧がやつ』と表記があることを指摘しておく(以下、「廻国雑記」は個人のHP「神話の森ホームページ・歴史と民俗館」の群書類従版「廻国雑記」テクストを参照させて頂いた)。]

尾藤ケ谷 山の内淨智寺の東の谷をいふ。土人いふ、尾藤左近將監が住せし地なりといふ。左近將監景綱の親は尾藤五知宜と號し、信濃國の住人にて木曾義仲に從ひ、義仲討れし後元曆三年、鎌倉に來り、右大將家に仕えけり。此景綱は北條泰時の家令となり、貞應元年七月廿九日、泰時は景綱を後見とせり。此時より郎令を後見とするの初にて、竟に後見の事を内管領とも稱せり。天福二年八月廿一日、景綱職を辭し、平左衞門尉入道盛綱其闕に補す。景綱が子は尾藤太景氏と號し、最明寺入道の昵近なりし。或説に、景氏が時に最明寺入道に從ひ此地に住居せしといふ。夫より尾藤ケ谷の名起れりといふ。
[やぶちゃん注:「尾藤左近將監」「左近將監景綱」は尾藤景綱(?~文暦元(一二三四)年)。藤原秀郷の末裔で、北条泰時に近侍した。彼は鎌倉幕府史上、初代の家令(後の内管領のルーツ)となったが、「東鑑」によれば、その時既に泰時の邸内に彼が住居を構えていた旨、記載がある。但し、泰時邸は当時の幕府正面、現在の宝戒寺のある位置であることが判明しているので、本文のこれがもし尾藤の居宅とするならば、彼が身内の事件に端を発して出家した嘉禄三(一二二七)年以降のことかとも思われる。しかし彼は病没する前日まで家令として幕政実務を取り仕切っていたことが分かっており、彼をこの同定候補とするのには疑問がある。
「元曆三年」はおかしい。元暦は同二(一一八五)年八月に文治に改元しており、「元曆三年」はない。
「貞應元年七月廿九日」は貞応三年閏七月の誤り。なお、この文章では、まず家令となり、次に後見となったかのように読め、家令と後見が違うもののように感じてしまうが、「吾妻鏡」の貞応三年閏七月二十九日の条には、『藤民部大夫行盛補政所執事。又尾藤左近將監景綱爲武州後見。以前二代無家令。今度被始置之。是武藏守秀郷朝臣後胤。玄番頭知忠四代孫也云々』(藤民部大夫行盛、政所執事に補す。又、尾藤左近將監景綱、武州の後見と爲る。以前二代を以て家令無し。今度之を始めて置かる。是れ、武藏守秀郷朝臣の後胤、玄番頭知忠が四代の孫也と云々)とあって、同じである。「藤民部大夫行盛」とは二階堂行盛のこと。
「郎令」郎中令。本来は秦代に設けられた宮廷の門戸を警護する武官で、後には皇帝親衛隊の統率を司った役職。ここでは郎党、家臣の意で用いている。
「天福二年」は西暦一二三四年。
「平左衞門尉入道盛綱」平盛綱(生没年不詳)。彼こそ内管領長崎氏の始祖である。 「尾藤太景氏」尾藤景氏(生没年不詳)。但し、参照したウィキの「尾藤景氏」には彼の父を尾藤景信(この人物不詳)とするので、近縁から養子に入ったものか。嘉禎二(一二三六)年に『泰時の邸宅が新築された際、同じ尾藤氏である尾藤景綱と同様、その敷地内に住居を構えており、執権と一部の有力者のみが参加を許された秘密協議である「神秘の沙汰」にも参列を許され』、『景綱や諏訪盛重などと共に、幕府の中枢にあって政治の舵取りを行う重要な地位を占めていた』とあり、景綱との親密な関係が窺われる。弘長三(一二六三)年の北条時頼臨終の際には、『他の有力な被官と共に側に伺候して看病した』とある。]

巨福呂谷 山の内を透り過て田圃へ出る手前の地、民家左右に連住し今は巨福呂谷村と唱ふ。山の内の經界の地となれり。
[やぶちゃん注:「經界」はママ。]
鶯谷 雪の下馬場小路の町屋の西のうしろを名附。《志一上人の石塔》爰の山上に志一上人の石塔あり。又古へ尼の草庵ありしといふ。此尼は大江秀光の宮家なり。秀光幷其子息等自殺の後尼となり、元より老尼の事ゆへ御ゆるしを得て爰に庵を結び、入道幷子息等の冥福を修せしといふ。今は礎石も見へず。
[やぶちゃん注:「志一上人の石塔」は「鎌倉攬勝考卷之九」の「志一上人墓碑」を参照されたい。
「大江秀光の宮家なり。秀光」は大江季光の誤りである。毛利(大江)季光(建仁二(一二〇二)年~宝治元(一二四七)年)は大江広元の四男。実朝に仕え、その死後出家して入道西阿と称した。承久の乱では北条泰時に従って奮戦、天福元(一二三三)年には評定衆となったが、宝治合戦では断腸の思いで妻(ここに登場する尼と考えられる)の実家三浦方につき、法華堂で息子の広光・光正・泰光・師雄らとともに自刃した。因みに当時、越後国にいた四男経光が生き残り、彼の子孫から、かの戦国最高の知将毛利元就が生まれる。]

龜ケ谷 山の内より踰る坂路を龜ケ谷坂と唱え、此坂より下を總號は龜ケ谷なる由。爰の内に谷々の名多く、道興准后の【𢌞國雜記】に、龜ケ井の谷にてよめる、
 幾千と世鶴が岡べにともなひて、齡あらそふ龜が井のやつ
按ずるに、扇ケ谷に扇ケ井あり、泉ケ谷に泉ケ井あり、文明の頃龜ケ谷の一名を龜ケ井の谷とも唱へし事にや。又は泉ケ井などを龜ケ井と稱せし事も有し歟。
[やぶちゃん注:この道興准后の歌は、
鎌倉中、かなたこなた順見し侍りて、先やつやつを人に尋ね侍り。亀がゐのやつにてよめる、
の詞書を持ち、これを皮切りにやつを詠んだ八首が連続する。 「文明の頃龜ケ谷の一名を龜ケ井の谷とも唱へし事にや」「廻国雑記」は文明十八 (一四八六) 年の記事で、ここで植田の考証は堅実で細かい。そして、この推論は白井永二編「鎌倉事典」にある「加納家蔵の江戸中期のの『扇谷村絵図』も「亀ヶ井坂」と注すので「亀ヶ井坂」と俗称された時期もあったらしい』で美事立証されている。但し、亀ヶ井なる井戸があった可能性は如何であろう。もしそのような坂の名称及び現在知られていない井戸が存在したとすれば、それは先行する「新編鎌倉志」に必ずや記載されるはずである。そもそも坂名に纏わる井戸ならばなおのことである。ところが、そうした記載は一切ない。だとすれば、私は植田が最後に挙げている、直近の「泉ケ井などを龜ケ井と稱」した可能性の方を支持したい気がする(但し、「十一井」選定のために「新編鎌倉志」があえて無視した可能性もないではない)。]

勝緣寺谷 山の内より龜が谷を下れば、左に勝緣寺谷といふ所あり。昔は爰に寺有しといふ。今は此谷に天神の小祠あり。
[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」によれば、ここには正円寺或いは勝縁寺もしくは正因寺・勝因寺・照因寺と称した(これだけ寺名が錯綜するのは珍しいと当該本文にある)寺があった。「天神の小祠」は現存する。]
石切ケ谷 龜ケ谷の内、壽福寺境内の山を石切山といふ所あり。其南の方を石切場と唱ふ。文應二年六月廿二日、諏訪兵衞入道蓮佛、平左衞門尉盛時等、龜が谷石切谷邊にて、駿河前司義村が子息大夫律師良賢を生虜。是謀叛の企有に仍てなり。駿河八郎入道、式部太夫家村の子幷野本尼、泰村が娘なり。皆張本の數輩と云云。
[やぶちゃん注:「文應二年」とあるが、文応は文応二(一二六一)年二月二十日に弘長に改元している。「吾妻鏡」の以下の記事は、宝治合戦(宝治元(一二四七)年六月)後の生き残った三浦残党の捕縛記事。
「駿河前司義村が子息大夫律師良賢」宝治合戦で自刃した三浦家棟梁泰村の弟。「弘長記」によれば、この後、由比の浦にて梟首されたとある。
「駿河八郎入道、式部太夫家村の子」の「式部太夫家村の子」は「吾妻鏡」の割注で三浦義村の四男家村(行方が洋として知れず北条氏に『三浦の亡霊』として恐れられた人物である)の子である駿河八郎入道胤村(嘉禄元(一二二五)年~永仁五(一二九七)年?)のことである。「佐野本系図」によれば同じく梟首となったとするが、このウィキの「三浦胤村」に示された没年から分かるように、異説として、彼はこの捕縛によって処刑されておらず、後に京に上って親鸞の弟子となって明空房と号し、常陸国真壁郡下妻に光明寺という寺を創建したという話を載せる。これは「大谷本願寺通紀」巻七「諸弟略伝」によるものである(以上は新人物往来社二〇〇七年刊の鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで」も参照した)。少なくとも「吾妻鏡」には、良賢も胤村もこの記事以降には名を載せない。
「野本尼、泰村が娘なり」の「泰村が娘なり」も注で、「吾妻鏡」では『若狹前司泰村が娘』とある。彼女の後の処遇も良賢・胤村同様、不明。]

扇ケ谷 龜ケ谷坂を越て西北は海藏寺、東南は華光院又上杉屋敷、英勝寺境内を扇ケ谷といふ。總號は龜ケ谷の内なり。
[やぶちゃん注:「鎌倉事典」では、鎌倉時代にはこの呼称は見られず、管領上杉定正(文安三(一四四六)年~明応三(一四九四)年)がこの地に住み、家名を上げて扇ヶ谷殿と呼称されるようになってからの谷戸名となったと言われているとある。因みに、「廻国雑記」には、
扇が谷にて、
 秋だにもいとひし風を、折しもあれ、扇が谷は名さへすさまじ
 寫し繪の扇がやつや、これならむ。月はうな原、雪は富士の嶺
とある(個人のHP「神話の森ホームページ・歴史と民俗館」の群書類従版「廻国雑記」のテクストを正字化して示した)。]

泉ケ谷 英勝寺より東北の谷をいふ。文永二年六月十日、終日雨降。龜ケ谷、泉ケ谷の所々山崩れ、人間多く土石にうたれて壓死するものあり。同日無量壽院邊も山崩れして人死せし事、無量寺谷の條にしるせり。
[やぶちゃん注:鎌倉時代からの古い呼称で、谷に鎌倉十井の「泉の井」があるから、それが由来か。
「文永二年」西暦一二六五年。
「無量壽院」現在の鎌倉駅から北西に向かったところに佐助隧道があるが、その手前の崖下に旧岩崎邸跡地があり、扇ヶ谷一丁目この辺り一帯を「無量寺跡」と通称する。二〇〇三年に、この旧岩崎邸跡地から比較的規模の大きい寺院庭園の遺構が発見されたことから、この辺りに比定してよいであろう。この庭園発掘調査により、庭園内の池が一気に埋められていること、埋めた土の中より一三二五年から一三五〇年頃の土器片が大量に出土していること、園内建物遺構の安山岩の礎石に焼けた跡があること等から、庭園の造成年代は永仁元(一二九三)年の大震災以後、幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年前後に火災があり、庭園は人為的に埋められたと推定されている。私には一気に庭園を埋めている点から、同時に廃寺となったと考えても不自然ではないように思われる(庭園発掘調査のデータはゆみ氏の「発掘された鎌倉末期の寺院庭園遺構を見る」を参照させて頂いた)。]

智岸寺谷 阿彿尼古墳の地の西北の谷なり。今は英勝寺の境内となれり。智岸寺廢跡の條を合せ見るべし。
[やぶちゃん注:「阿彿尼古墳」は英勝寺の北の道沿いに現存するが、阿仏尼(貞応元(一二二二)年~弘安六(一二八三)年)は、「十六夜日記」によって、弘安二(一二七九)年に、亡夫為家の正妻の子二条為氏との、播磨国細川荘(現在の兵庫県三木市)の相続訴訟のために入鎌していることは確かなものの、鎌倉で没したとも、帰洛後に没したとも言われはっきりしない。現存する阿仏尼墓と称するものは、確かに台座に「阿佛」の刻印があるが怪しい。後代の供養塔の可能性はあるにしても、そもそも尼である彼女の墓なら卵塔でなくてはならないのに、現存するものは多層塔で如何にも新しい。向いの次に出る藤ヶ谷の峰上の息子冷泉(藤原)為相の墓とも有意に離れていることも気になる。
「智岸寺廢跡の條を合せ見るべし」「鎌倉攬勝考卷之七」の「智岸寺廢跡」を参照のこと。]

藤ケ谷 冷泉爲相卿の石塔の西北の谷をいふ。《冷泉爲相宿舍の地》爲相卿此所に暫く住給ひしゆへ藤ケ谷と稱せり。彼卿羈旅の内詠じ給ひし和歌を【藤谷百首】と唱ふ。下向の砌の歌を【海道百首】といふもあり。今藤谷又は高倉を氏に稱せらるゝ家は爲相卿より出たる由。
[やぶちゃん注:「冷泉爲相卿」は歌道の冷泉家始祖である冷泉為相(弘長三(一二六三)年~嘉暦三(一三二八)年)。ウィキの「冷泉為相」によれば、建治元(一二七五)年の父為家死去後、父親の所領『播磨国細川庄』(現在の兵庫県三木市)『や文書の相続の問題で』正妻の子である『異母兄為氏と争い、為相の実母である平度繁の娘(養女)阿仏尼が鎌倉へ下って幕府に訴え』、『為相も度々鎌倉へ下って幕府に訴え』て結果的に勝訴する。その中で、『鎌倉における歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉連歌の発展に貢献』し、『娘の一人は鎌倉幕府八代将軍である久明親王に嫁ぎ久良親王を儲け』るなど、公家でありながら幕府との親密な関係を終始持った。『晩年は鎌倉に移住して将軍を補佐し、同地で薨去している』。『冷泉家の分家に藤谷家があるが、藤谷家の家名は為相が鎌倉の藤ヶ谷』に『別宅を構えたことに由来』し、『為相は山城国の他の公家からは、藤谷黄門と呼ば』れた、とある。]
法泉寺谷 御前ケ谷の東向ふの谷なり。此寺廢跡の條に出す。
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之七」の「法泉寺廢跡」を参照のこと。]

淸涼寺谷 海藏寺外門前の東にあり。此寺舊跡の條に出す。
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之七」の「法泉寺廢跡」は短いので、以下に私の注と一緒に引用する。
淸涼寺廢跡 法泉寺谷の北、海藏寺外門前の東なり。泉涌寺末なりし由、忍性の開基なり。
「法泉寺谷の北」とあるが、尾根を隔てた西側というのが正しい。この谷戸は現在、清涼寺ヶ谷と呼ばれている。本寺は現在の廃寺研究に於いては、「新清涼寺」「新清涼寺釈迦堂」と呼ばれる。京都嵯峨の清涼寺にある釈迦如来像を模した本尊を安置したことに由来するとされる。]

御前ケ谷 智岸寺谷の西なり、土人又は尼屋敷とも唱ふ。古へ賴經將軍の御臺二位禪尼の御亭有しと【東鑑】にも出たり。尼君すみ給ふゆへ御前ケ谷とも稱する由。其後金澤實時の母も尼となりて爰に住せり。夫ゆへ尼屋敷とも土人が唱ふる由。一説に足利家の世となり、尊氏將軍の御室の姉君尼となりて此地にすみ給ふ。是を尼御前と稱す。夫より御前ケ谷の名起れりともいふ。此尼御前は相模守平守時が息女にて、尊氏將軍の御臺は此妹君なり。貞和五年二月十九日、此地にて逝し給ふといふ。
[やぶちゃん注:この谷に先に出た伝阿仏尼墓があるから、その「尼」とも言えよう。
「賴經將軍の御臺二位禪尼」は頼経の寵妃で、幕府政所の公事奉行であった中納言藤原(中原)親能の娘。彼女は建長三年(一二五一)頃に落飾したものと思われる。但し、この時点で夫頼経は存命である。頼経は正妻竹御所の死後、執権北条経時との関係が悪化、寛元二(一二四四)年に経時によって将軍職を嫡男藤原頼嗣に移譲させられてしまい、翌寛元三(一二四五)年に出家するも、その後も鎌倉に留まって「大殿」と称されていた。しかし、寛元四年(一二四六)年に彼を旗頭としようとした反得宗勢力を警戒した当時の執権北条時頼によって京都に送還されてしまう(翌宝治元(一二四七)年には三浦泰村光村兄弟を中心とした頼経鎌倉帰還工作が失敗、宝治合戦となって三浦一族が滅んでいる)。頼経の死は康元元(一二五六)年、享年三十九歳であった。
「貞和五年」西暦一三九四年。]

山王堂谷 此谷は源氏山の西北にあり。龜ケ谷の山王とあるは爰の山王なりしか、今は社も廢し畠地となる。
[やぶちゃん注:「山王堂」大山咋神おおやまくいのみことを祀る堂。「今は社も廢し畠地となる」とあるが、「鎌倉事典」では、『道路に面した崖の中腹に祠が残っている』とある(私は現認していない)。]

  梅ケ谷 假粧坂の下の谷なり。道興准后の記に、梅ケ谷にてよめる。
 冬枯の木立さひしき梅か谷もみしも花もかけにもそなき
[やぶちゃん注:個人のHP「神話の森ホームページ・歴史と民俗館」の群書類従版「廻国雑記」のテクストでは、
 冬枯の木立さびしき梅が谷、もみぢも花も、おもかげぞなき
とする。]

無量寺谷 壽福寺より西南の谷をいふ。泉ケ谷の條にいふが如く、安永二年六月三日、同時に山崩して人馬多く土石にうたる。《無量壽院》此所に無量壽院と號する寺ありしが、廢せし事は廢跡の一條に出せり。合せ見るべし。又應永の上杉禪秀が亂の時、御所方にて無量寺口をば上杉藏人太夫憲長が固めしとあるは此所の事なり。今は此谷に刀工綱廣すめり。此邊は甘繩の内なりともいふ。
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之七」の「無量寺廢跡」を参照のこと。]

法住寺谷 無量寺谷の南なり。昔法住寺といふ律宗の舊跡なりといふ。
[やぶちゃん注:これ以上の情報は現在ない。「鎌倉廃寺事典」附録の「鎌倉廃寺地図」で見ると、無量寺の西側の狭隘な尾根を越えたところの佐助ヶ谷の東側の谷戸に「法性寺」(誤植であろう)と指示されている。無量寺谷からは位置的には西南に当たる。]

佐介谷 此谷の入口は東南に向ふ。此谷の内に谷々有て舊跡あり。此谷の名の起りしれず。土人が説に、三介のこと用ひがたし。遙後の世に佐介を氏に名乘りしもの有しが、是は爰に住して地名を稱したるなり。越後守時盛が舊跡、上杉憲基が舊跡、其餘國淸寺、蓮華寺の跡皆此谷内にあり。別に舊跡の條に分出して記せり。合せ見るべし。
[やぶちゃん注:「三介のこと」は、「新編鎌倉志卷之五」の「佐介谷」に『又土俗の云、上總介・千葉介・三浦介の三介さんすけ此所に住居す。故に三介さすけやつと名づくと。是はよりどころなし。古き記録等には、佐介とばかりあり。谷の字はなし。今は佐介が谷と云ふ』を指す。「別に舊跡の條に分出して記せり。合せ見るべし」「越後守時盛が舊跡、上杉憲基が舊跡」は「鎌倉攬勝考卷之九」を、「國淸寺、蓮華寺」は「鎌倉攬勝考卷之七」の各項を参照のこと。]

七觀音谷 愛宕堂より西の谷なり。むかし觀音堂あり。元久元年十二月十八日、尼御臺[政子]の御願として、七觀音の像を國畫せらる一事あり。其畫像を此堂に安置せしにや。建長二年十二月十八日、相州[時賴]室家の御願として、七觀音堂の前にて誦經を修せらるゝとあり。今は堂廢亡せり。
[やぶちゃん注:「元久元年」西暦一二〇四年。なお「鎌倉廃寺事典」では、七観音を祀った寺がここにあったのではなく、杉本寺や岩殿寺などを名数とした観音の一つを祀った寺があったという意味でとり、佐々目ヶ谷の東側の尾根が下がった地に、これを比定している(但し、名は「七観音」)。「吾妻鏡」の建長二年(一二五〇)年十二月の該当箇所を見ると、
十八日己酉。爲相州室家御願。於七觀音之堂前。被修誦經。各仰其別當等。塩飽左衛門大夫信貞奉行之。
〇やぶちゃんの書き下し文
十八日己酉。相州室家の御願と爲し、七觀音の堂前に於て、誦經を修せらる。各々其の別當等に仰す。塩飽しあく左衛門大夫信貞、之を奉行す。 とあって、「各々其の別當等に仰す」の「各々」「等」が明らかに一つの寺院ではないことを意味していると考えるべきで、至当な解釈であると言える。]

佐々目々谷 飢渇畠の西の方なる谷なり。《長樂寺》むかし此所に長樂寺といふ梵字の有し事は、此寺廢跡の條にしるし。經時の墓幷賴嗣將軍の御臺の墳墓の事は、經時が墓跡の條を合せ見るべし。
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之七」の「長樂寺廢跡」は短いので注とともに引用しておく。
長樂寺廢跡 佐々目谷にあり。淨土宗。法然上人の弟子隆觀といふ僧住せし由。正元二年四月廿九日燒亡の事【東鑑】に見へ、此寺の門前より龜谷の人家に至るまで、悉く燒失とあり。其後何の年にか廢跡となれり。此寺もとは北條經時が爲に建立せし寺なり。 現在の長谷にある鎌倉文学館付近に比定されている。「其後何の年にか廢跡となれり」とあるが、現在は元弘三・正慶二(一三三三)年五月の鎌倉幕府滅亡と同時に戦火で焼失したとされている。乱橋材木座・長谷・坂ノ下のそれぞれの一部が長楽寺という旧地名を保持しており、相当な伽藍であったことが窺える。
「經時が墓跡の條を合せ見るべし」「鎌倉攬勝考卷之九」の「賴嗣將軍御臺の墳墓」と続く「北條武藏守平經時墳墓」をそれぞれ参照のこと。
因みに、「廻国雑記」には、
ささめがやつ、
  霜さやぐ、さざめが谷のふしのまに一夜の夢も嵐ふくなり
とある。]

月影の谷 《阿佛尼の故居地》此谷は極樂寺より西寄、阿佛尼の故居なり。【十六夜日記】に、あづまにてすむ所は月影のやつとぞいふなる。浦近き山もとにて風いとあらし。山寺のかたはらなればのどかにすごくて、浪の靑松の風たへずと云云。此日記は下向の時の紀行なり。此阿佛尼と申は定家卿の息爲家卿の室にて、公達五人ましましける。播磨の國細川の庄を爲家卿よりゆずりおかれけるを、爲氏卿は他腹たるによりて押領し給ひしを、そしゆうのために鎌倉え下られける。爲相卿もちんぢやうのため、兩人ともにかまくらにて死去せられし。そしやうは爲氏卿のかたへはつけられずとかや。阿佛尼は安嘉門院四條と申人なり。爲相卿の母堂なり。
[やぶちゃん注:幾つかは「智岸寺谷」等の先行注を参照されたい。
「のどかにすごくて」は「閑静とはいうものの、度が過ぎてもの恐ろしいほどのところで、という意。
「公達五人」現在は冷泉為相と、その弟冷泉為守だけが知られる。
「爲氏卿は他腹たる」歌道二条派の祖二条(藤原)為氏(貞応元(一二二二)年~弘安九(一二八六)年)は藤原定家の子藤原為家(建久九(一一九八)年~建治元(一二七五)年)と、その正妻宇都宮頼綱の娘との間に出来た嫡男で、為相より四十一歳も年長であっが、晩年の為家が為相を溺愛したために、遺産相続が問題となって現れたようである。彼も本訴訟のために下向し、そのまま鎌倉で逝去したとされる。
因みに、阿仏尼の実父母は不明で、桓武平氏大掾氏流の平維茂長男平繁貞の子孫奥山度繁のりしげの養女となった(奥山度繁の実の娘とする説もあり)。後高倉院守貞親王の娘安嘉門院邦子内親王に仕えたが、十代で失恋の失意から出家を決意して尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続け、三十歳頃に藤原為家の側室となったとウィキの「阿仏尼」にはある。正直、十代で出家していたというのは不学にして知らなかった。吃驚り。但し、「十六夜日記」を書いた頃は、既に満五十七歳であった(当時、息子為相は十六歳)。]


  
○物産
水仙花 十月には咲けり。
[やぶちゃん注:単子葉植物綱ユリ目ヒガンバナ科スイセン属 Narcissus。つい先日も、ニラと誤って葉を食べ、食中毒を起こした事例をニュースで読んだが、スイセンは立派な全草が有毒である。食中毒及び接触性皮膚炎を起こす。毒成分は鱗茎に多く、その主成分はリコリン(lycorine)と蓚酸しゅうさんカルシウム(calcium oxalate)で、致死量は十グラム、死亡例もあるから、ゆめゆめうっとりと見入って水辺の仙人、ナルシスのように、なるなかれ。
松露 鎌倉の地所々に生ぜり。
[やぶちゃん注:菌界ディカリア亜界担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロRhizopogon roseolus。マツ属の樹木の細根の外生菌根と共生して生育し、未成熟体を食用とするが、現在では希少である。鹿児島で育った私の亡き母は、小さな頃、山中で採るこれが好物だったと話していた。] 薫蘭 房州より出るものと同品。
[やぶちゃん注:日本産のランは日本春蘭と呼ばれるシュンランCymbidium goeringii、シュンラン属カンラン(寒蘭)Cymbidium kanran、フウラン(富貴蘭)属フウラン Neofinetia falcata、長生蘭などと呼ばれるセッコク(石斛)属セッコク Dendrobium moniliforme があるが、このうちで薫りの強いものは本州南部以南に植生し、初夏に花を咲かせるフウラン Neofinetia falcate である。取り敢えず、フウランに同定しておく。]
柴胡 藥品、鎌倉柴胡の名あれど、多くは龜井野、長五等の野原より堀出す。
[やぶちゃん注:双子葉植物綱セリ目セリ科ミシマサイコ Bupleurum scorzonerifolium(亜種として Bupleurum falcatum var. komarowi と記載するものもあり)の根。漢方で柴胡と呼ばれる生薬であり、解熱・鎮痛作用がある。大柴胡湯だいさいことう・小柴胡湯・柴胡桂枝湯といったお馴染みの、多くの漢方製剤に配合されている。和名は静岡県の三島地方の柴胡がこの生薬の産地として優れていたことに由来する。「龜井野、長五」は現在の藤沢市亀井野(六会附近)と長後を言う。私が先日まで最後に勤務していた高校は長後にあった。いやさ――奇しき縁を感じたよ。]
防風 藥品なり。葉莖酒品に用ひ、味ひ上品、園蔬とせり。
[やぶちゃん注:双子葉植物綱セリ目セリ科ボウフウ Saposhnikovia seseloides。根及び根茎を防風と呼び、漢方薬とし、発汗・解熱・鎮痛・鎮痙作用があり、十味敗毒湯・防風通聖散などの漢方製剤に用いられ、和食のツマとしても売られている。]
細辛 藥品なり。山谷所々に生ず、前庭石に添えて栽るもの。
[やぶちゃん注:双子葉植物綱ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属ウスバサイシンAsarum sieboldii(シノニム: Asiasarum sieboldii /カワリバウスバサイシン Asarum sieboldii var. cineoliferum)。根及び根茎を細辛と呼んで生薬とする。解熱・鎮痛作用があり、小青竜湯・麻黄附子細辛湯・立効散などの漢方製剤に用いられるが、近年、地上部分に含まれているアリストロキア酸による腎障害や発癌性リスクが報告されている。]
槇椎靑冬樹モチノキ 是は自然に山谷にあり。
[やぶちゃん注:「槇」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科 Podocarpaceaeに属する樹種の総称。種名としての「マキ」はない。代表種はイヌマキ Podocarpus macrophyllus。雌花の種子の基部の丸く膨らんだ部分は花床と言われ、熟すと次第に赤くなり、多少の松脂臭があるものの、甘く食べられる。但し、種子自体には毒成分が含まれるので、食してはいけない。庭木や防風林として古くから植栽されている。
「椎」被子植物門双子葉植物綱ブナ目ブナ科シイ属 Castanopsis に属する、関東以西に分布するツブラジイ(コジイ)Castanopsis cuspidate 及び北方進出種であるスダジイ(ナガジイ、イタジイCastanopsis sieboldii を指す。実は縄文の昔から食用にされてきた。
「靑冬樹」、鳥や小動物・昆虫などを捕獲するのに用いた鳥黐とりもちの原材料となる双子葉植物綱バラ亜綱ニシキギ目モチノキIlex integra。樹皮を数ヶ月間流水に漬け置いた後、引き上げて臼で砕き、軟らかな塊状になったものを流水で洗浄して鳥黐を造った。]
トベラ木檞モツコク 是も山中所々にあり。トベラの文字未考。
[やぶちゃん注:「トベラ」バラ亜綱バラ目トベラ科トベラ Pittosporum tobira。潮風や乾燥に強く、密生した光沢のある葉を有することから観賞用や街路樹として用いられた。また民俗社会では、枝葉を切ると悪臭が発生するところから、節分にイワシの頭とともに魔除けとして戸口に掲げられた。そこから「扉の木」「扉」と呼ばれ、これが訛ってトベラとなり、学名もこれに由来している。
「木檞」双子葉植物綱ツバキ目ツバキ科モッコク Ternstroemia gymnanthera。江戸時代、造園木として珍重された江戸五木(他にアカマツ・ イトヒバ・カヤ・イヌマキ)の一つで、美しい樹様から庭木として植栽するほか、堅く美しい赤褐色を帯びた材を床柱などの建材や櫛などの木工工芸材として用いる。樹皮は褐色染料としても利用され、葉を乾燥させ煎じたものは腎臓や肝臓に利く民間薬として用いられた。]
八手 最も山中所々にあり、八手の本名未考。
[やぶちゃん注:双子葉植物綱セリ目ウコギ科ヤツデ Fatsia japonica。葉形は掌状であるが、実は七つまたは九片の奇数で裂けており、八つに裂けることはない。参照したウィキの「ヤツデ」によれば、『学名のFatsia は日本語の「八」(古い発音で「ふぁち」、「ふぁつ」)または「八手(はっしゅ)」に由来するという』とあり、『葉を乾燥させたものは八角金盤と呼ばれる生薬になり、去痰などの薬として用いられる。しかし葉などにはヤツデサポニンという物質が含まれ、過剰摂取すると下痢や嘔吐、溶血を起こす。このため昔は蛆用の殺虫剤として用いていたこともある。古い鉄道駅の一角に栽培されていることが多いが、これはかつて汲み取り便所の蛆殺しにその葉を使っていたためである』とあり、最後の部分など、昔からの疑問に目から鱗であった。サポニン(saponin)はステロイド・ステロイドアルカロイド(窒素原子を含むステロイド)或いはトリテルペンの配糖体。水溶性で石鹸様の発泡作用を示す物質の総称で、サイカチ・ムクロジ・トチノキ・オリーブ・キキョウなどに含まれる。変わったところでは棘皮動物のナマコもこれを体内に含み、自己防御に用いている。]
琉球芋 味ひ至て甜し、是は園蔬なり。
[やぶちゃん注:双子葉植物綱ナス目ヒルガオ科サツマイモ Ipomoea batatasウィキの「サツマイモ」によれば、本邦での栽培の歴史は、原産地である南アメリカ大陸のペルー熱帯地方からスペイン人やポルトガル人によって東南アジアにもたらされ、そこから中国を経て、『一六〇四年、琉球王国(現在の沖縄県)に伝わる。野國総管(明への進貢船の事務職長)が明(今日の中国福建省付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、儀間村の地頭・儀間真常が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まった』。その後、『一六九八年(元禄十一年)三月、種子島に伝わる。領主種子島久基(種子島氏第十九代当主、栖林公)は救荒作物として甘藷に関心を寄せ、琉球の尚貞王より甘藷一籠の寄贈を受けて家臣西村時乗に栽培法の研修を命じた。これを大瀬休左衛門が下石寺において試作し、栽培に成功したという。西之表市下石寺神社下に「日本甘藷栽培初地之碑」が建つ』。下って宝永二(一七〇五)年(一七〇九年とも)、薩摩山川の前田利右衛門が『船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩で栽培されるようになった』。享保十七(一七三二)年の『大飢饉により西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、サツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。八代将軍・徳川吉宗はサツマイモの栽培を関東に広めようと決意する。そして起用されたのが、青木昆陽であった。当時、彼は儒学者としての才能は評価されていたが、その才能を買っていた八丁堀の与力加藤枝直が、町奉行・大岡忠相に推挙、昆陽は、同じ伊藤東涯門下の先輩である松岡成章の著書『番藷録』や中国の文献を参考にして、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」を著し、吉宗に献上』、享保十九(一七三四)年には青木昆陽が『薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、「薩摩芋」を江戸小石川植物園、下総の幕張村(現千葉市花見川区)、上総の九十九里浜の不動堂村(現:九十九里町)において試験栽培』を始め、翌享保二十(一七三五)年に『栽培を確認。これ以後、東日本にも広く普及するようにな』ったとある。
「甜し」は「あまし」と読む。]
水漉石 是は山より切出す石にて、柔かなる石ゆへ水鉢の如くに凹に掘て、水を入ければ下へ漉水出る、砂こしにすると同。酒なとを漉に妙なり。
[やぶちゃん注:「水漉石」は「みづこしいし(みずこしいし)」と読む。まずは、木内石亭の「雲根志』補遺三編(享和元(一八〇一)年刊)の「卷之三」に載る記事を引用しておく。底本は昭和五(一九三〇)年刊の日本古典全集版を用いた。誤字と思われるものは後に〔 〕で正字を示した。
     水漉石みづこしいし
水漉石みづこしいし
蠻人ばんじん船にたくはふるものにして價もつとも貴し船中水盡みづつきたる時潮を漉て水をとる甚要用の物なり和産あることを聞ず蠻來ばんらいの物いまだ見ず所は産物會に其名あれど甚凝〔疑〕はししかるに濃州垂井たるゐの近郷圓光寺ゑんくわうじ山にて堀〔掘〕出せりとて同郡市橋裏谷氏これを贈らる石質柔軟やはらかにて色薄白く形狀浮石かるいしの如くにして重し石面をくぼかにして茶酒ちやさけこし試るに忽滴るところ淸水せいすいなりしかれども用をなす物にあらず弄石家の慰ものなり
希代の石フリーク木内石亭は、ここで本邦に産しない本物の「水漉石」と、類似効果を持つ国内産の似非「水漉石」を厳密に分けているが、私にはこのいずれの「水漉石」も、現在の鉱物学で何に当たるのか、よく判らない。俗に言う「鎌倉石」の中に、スコリア質砂岩というのが含まれるが、これか? 鉱物学の専門家の御教授を乞いたい。]
稚海藻ワカメ滑海藻アラメ鹿尾菜ヒジキ
[やぶちゃん注:「稚海藻」褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ Undaria pinnatifida を代表種とするグループ。ワカメの代用種として用いられるものとしては他にヒロメ Undaria undarioides・アオワカメ Undaria peterseniasa のほか、アイヌワカメ属アイヌワカメ Alaria praelonga・チガイソ Alaria crassifolia・ホソバワカメ Alaria angusta が挙げられるが、ワカメ・ヒロメ・アオワカメ以外は生息域が北方に限られている上、且つ極めて限定された地域に棲息するため、その地方での消費に止まることが多い。ワカメ Undaria pinnatifida は、北海道東岸と南西諸島を除く各地沿岸と朝鮮半島の特産であり、分類学的には胞子葉と葉状体とが隔たっているか近接してるかによって前者をナンブワカメ Undaria pinnatifida form. Distans とし、後者をワカメ Undaria pinnatifida form. Tipicano の二品種を挙げる場合もある。なお、ワカメ属の属名 Undaria は「皺を持つ」、アイヌワカメ属は「翼を持つ」の意である。更に伊豆半島以南の暖流域では本来、天然のワカメ Undaria pinnatifida が余り採れなかったことから、コンブ科アントクメ属のアントクメ Ecklominiopsis radicosa が代用品として用いられる。
「滑海藻」褐藻綱コンブ目コンブ科アラメ Eisenia bicyclis。種小名の bicyclis は「二輪の」で、本種の特徴である茎部の二叉とその先のハタキ状に広がる葉状体の形状からの命名である。かつては刀の小刀の柄として用いたほど、付着根とそこから伸びる茎部が極めて堅牢である。太平洋沿岸北中部(茨城県~紀伊半島)に分布し、低潮線から水深五メートル程度までを垂直分布とする。茎が二叉に分かれ、葉状体表面に強い皺が寄る。似たものに、カジメ Ecklonia cava とクロメ Ecklonia kurome があるが、カジメは太平洋沿岸中南部に分布し、水深二~十メートルまでを垂直分布とし、茎は一本で上部に十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るものの、葉の表面には皺が殆んどない点で区別出来、クロメは、カジメよりもやや南方に偏移する形で太平洋沿岸中南部及び日本海南部に分布し、垂直分布はカジメよりも浅く、二種が共存する海域では、カジメよりも浅い部分に住み分けする。茎は一本で上部にやはり十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るが、葉の表面には強い皺が寄っている。また、乾燥時にはカジメよりもより黒くなる。但し、クロメの内湾性のものは葉部が著しく広くなる等の形態変異が極めて激しく、種の検討が必要な種とされてはいる(以上の分類法等は二〇〇四年平凡社刊の田中二郎解説・中村庸夫写真の「基本284 日本の海藻」に依った)。
「鹿尾菜」褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme。「比須木毛」(ヒズキモ)というのが古称とされ、その転訛でヒジキとなったとするが、この「ひず」という如何にも厭な発音を含む語源は不詳である。
以上の博物学的叙述は、私の電子テクスト、寺島良安の「和漢三才圖會 卷九十七 藻類 苔類」で私が注したものを省略加工して示した。よろしければそちらも参照されたい。]
鎌倉海老
[やぶちゃん注:以下、私の電子テクスト、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「紅蝦」を、挿絵・原文・訓読及び私の注も含めて、総て引用して注に代える。但し、一部の煩瑣な記号は省略した。本文中の〔 〕は私の補注。
   《引用開始》

いせゑび
かまくらゑび
紅鰕
※【音浩】 海鰕[やぶちゃん字注:※=「魚」+「高」。]
【俗云伊勢鰕
又云鎌倉鰕】[やぶちゃん字注:以上三行は、前三行下に入る。]

本綱紅鰕乃海鰕也皮殻嫩紅色前足有鉗者色如朱長
一尺許其肉可爲鱠鬚可作簪杖大者七八尺至一丈
五色鰕 閩中有之長尺餘彼人兩兩乾之謂之對鰕
                                仲正
     夫木 今は我世をうみにすむ老ゑひのもくつか下にかゝまりそをる
△按紅鰕勢州相州多有之紫黑煮之正赤色口有四鬚
 鬚長過一二尺根有硬刺殻有如鋸沙者而尖手足有
 節掌指如毛尾端如花葩是稱海老以爲賀祝之肴或
 謂有榮螺變成紅鰕而半螺半鰕者人徃徃見之蓋悉
 不然也紅鰕腹中有子則是亦山芋變鰻之類矣

□やぶちゃんの訓読

いせゑび
かまくらゑび
紅鰕
※【音、浩。】 海鰕[やぶちゃん字注:※=「魚」+「高」。]
【俗に伊勢鰕と云ふ。又、鎌倉鰕と云ふ。】
「本綱」に、『紅鰕は乃ち海鰕なり。皮殻、のんに紅色たり。前足にはさみ有る者は、色、朱のごとく、長さ一尺ばかり。其の肉、鱠と爲すべし。鬚、簪杖しんぢやうに作るべし。大なる者、七~八尺より、一丈に至る。
五色鰕 閩中〔=福建省中部〕に之有り。長さ尺餘。彼の人、(ふたつ之を乾かし之を對鰕ついかと謂ふ。』と。
「夫木」 今は我世をうみにすむ老ゑびのもくづが下にかゞまりぞをる 仲正
△按ずるに、紅鰕は勢州〔=伊勢〕・相州〔=相模〕、多く之有り。紫黑く、之を煮れば、正赤色。口に四の鬚有り。鬚長くして一~二尺に過ぐ。根に硬き刺有り、殻に鋸沙をがくづのごとくなる者有りて尖り、手足に節有り、掌指は毛のごとく、尾の端、花葩はなびらのごとし。是、海老と稱して以て賀祝の肴と爲す。或る人謂ふ、榮螺の變じて紅鰕と成り、半螺半鰕なる者有りて、人、徃徃、之を見ると。蓋し悉く然らざるなり。紅鰕の腹中に子有ることは、則ち是も亦、山芋鰻變ずるの類か。
[やぶちゃん注:エビ亜目(抱卵亜目)イセエビ下目イセエビ上科イセエビ科イセエビ Panulirus japonicus の外、本邦産種をのみ挙げるならば、カノコイセエビ Panulirus longipes、シマイセエビ Panulirus penicillatus、ケブカイセエビ Panulirus homarus、ゴシキエビ Panulirus versicolor、ニシキエビ Panulirus ornatus である。「本草綱目」の記載も、同科の仲間を指すものとして全く違和感がない。
・「鎌倉鰕」例外を注記するならば、カマクラエビは関東に於いてイセエビを指すが、和歌山南部ではイセエビ下目セミエビ科ゾウリエビ属ゾウリエビ Pariibacus japonicus を指すという(「串本高田食品株式会社」の以下のページ)。正直、これは初耳。
・「嫩に紅色たり」は、「嫩緑」が新緑の意味であり、「嫩」(中国音“nèn”。そこから音に〔ん〕を補ってみた)には別に見た目のよいさまという意味もあるから、生き生きとした鮮やかな美しい赤という意味か。薄い、という意味もあるが、イセエビとはピンとこない。
・「簪杖」かんざしの柄の部分を指すか。
・「五色鰕」はズバリ、ゴシキエビ Panulirus versicolor ととってよいであろう。古くから以下のように観賞用に剥製にされてきたものらしい。
・「對鰕」これは「喜」の字を二つシンメトリックに並べることに繋がるような慣わしであろうか。ちなみに現代中国ではクルマエビ科 Penaeidae に「対※科」[※=「虫」+「下」=蝦]の名が付けられており、単に対蝦と言った場合はクルマエビ属タイショウエビ Penaeus chinensis を指す。
・『「夫木」』は「夫木和歌抄」。鎌倉末期、延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集。
・「仲正」は源仲正(生没年未詳。仲政とも書く)。平安末期の武士、酒呑童子や土蜘蛛退治で有名なゴーストバスター源頼光の曾孫である。即ち、ひいじいさんの霊的パワーは彼の息子、ぬえ退治の源頼政に隔世遺伝してしまい、仲正の存在はその狭間ですっかり忘れ去られている。しかし歌人としてはこの和歌に表れているような、まことにユーモラスな歌風を持つ。当該歌は「夫木和歌抄」巻廿七雑九にある。
やぶちゃん訳:今、私は、世の中倦み疲れ果ててしまい、海に住んでいる老いたエビが、哀れ、藻屑の下で腰もすっかり老い屈まって居るのと同じように、最早、惨めに隠棲しております。
・「半螺半鰕なる者有り」について私は、これはサザエ類の殻に入ったヤドカリの仲間を誤認したものと思う。ヤドカリ科 Diogenidae のオニヤドカリ属 Aniculus やヤドカリ属 Dardanus には相当に巨大で、鋏脚も立派な種や個体がおり、充分考えられることだと思うからである。
・「蓋し悉く然らざるなり……」について。彼は「巻九十六 蔓草類」の「※1※2」(ひかい・ところ)[※1=(くさかんむり)+「卑」。※2=(くさかんむり)+「解」。]=ヤマイモの項では「山芋鰻變ず」について全く語っていないし、「卷五十 河湖無鱗魚」の「鰻※3うなぎ」[※3=「魚」+「麗」。]=ウナギの項では「又有薯蕷又濕浸而變化鰻※3者自非情成有情者是亦不必盡然也」(又、薯蕷(やまのいも)又た濕浸されて變じて鰻※3に化する者有りと。非情より有情と成ること、是れ亦、必しも盡ごとく然るにはあらざるなり。)と述べる。この口調は、本件の最後の口調と極めて類似している。いわば、イセエビの腹の中に子があることは(観察によって明白で、彼らは通常は卵生である)、従ってこのイセエビがサザエに変化するということもまた、『山芋が鰻に変化する』というのと同じ(如何にも稀な、いや、信じがたい化生の)類なのではなかろうか、と言っているのである。ここで我々は、良安が、このような当時信じられた自然発生説的俗信に対して、冷静な自然観察者として、かなり懐疑的な視点を保持していたことを読み取るべきであると私は思うのである。
   《引用終了》
私の「和漢三才図会」に少しでも興味を持たれた方は、是非、こちらにも御来駕あられたい。私の渾身のテクストの一つである。]
堅魚 或は鰹又は松魚の字をも用ゆ。古書には頑魚とかけり。幷堅魚の説は次に出す。
《堅魚の説》堅魚は江戸にて殊に賞翫するうをなり。初夏の節に至れば魚賣の聲を待得て、必ず其價の高下を論ぜず、人より先に食ひしを自賛するは、繁華の地にすめるの餘潤なれど、是は卑賤の蕩子等がする處なり。俳諧師の素堂が句に「目に靑葉山ほとゝきす初堅魚」云云。【徒然草】に、鎌倉の海にかつほといふ魚は彼さかひにもさうなきものにて、此ごろもてなすものなり。それも鎌倉の年寄の申侍りしは、此うをおのれがわかかりし世迄は、はかばか敷人の前へ出ること侍らざりき。頭は下部もくはず、切て捨侍りしものなりと申き。かやうの物も世の末になれば、上さままでも入たつはさにこそ侍れと云云。按ずるに兼好の如き物しれる人も、上古のことに疎けるにぞ。【日本月令】云、景行天皇五十三年八月、伊勢の國より轉じて東國に到り給ひ、上總、安房の浮島の宮に到らせ給ひ、御船を還し給ふ時、舳を顧に魚多く御船を追ひ來る。陪從せし磐鹿六獦命、角弭の弓を以て遊魚の中へ投入給ふに、其弭につひて出、忽數多の魚を獲給ふ。《頑魚の由來》竹て此魚を名附て頑魚と稱し給ふとあり。是今いふ堅魚と註せり。今も角を以て堅魚を釣は此時より始れる事なりとあり。按ずるに、頑魚と名附給ひしはをろかなる魚といふ事にや。扨御船より陸にあがらせ給ひければ、先に獲たる白蛤の大ひなるものと、釣得たる頑魚と件の二種のものを捧しかば、殊に譽させ給ひ悦せ給ひてもふさく、其味ひ甚淸鮮ならん、造りて供御の料とせよと宣ひしかば、无邪國造上祖大多毛比知ムサノクニノミヤツコノカミノヲヤヲホタモヒチに、夫國造上組天上腹フノクニノミヤツコノカミヲヤアマノウハハル天下腹アメノシタハルの人等に六獦命ムツカリノミコト下知して、膾につくらせ奉るとあり。是上古より堅魚を天子の供御に奉れる始なり。されば兼好がはかばか數人の前へ出すことなきものと書しは誤りならん歟。又云、【續日本紀】天平九年、諸國に痲疹流行せし時、同年六月、諸國へ下し給ふ官符に云、サバ及び阿遲アジ等の魚幷年魚くろふべからず。乾鰒ホシアハビ、堅魚等は煎じ、然る時は皆ヨシとあり。堅魚と出たるは堅魚節の事なり。【日本紀】【延喜式】にも堅魚とあるは、みな堅魚節の事なることとしるべし。上世は節といふを略して堅魚といひ、今の世の兒女子は堅魚を略して節とのみいふ。或は又おからとも唱ふるは、みやこなまりの方言にや、上世より高貴の人の食料に備ふるものなり。
[やぶちゃん注:種としてのカツオ Katsuwonus pelamis は、スズキ目サバ亜目サバ科カツオ属の 一属一種である。但し、同定に際しては、以下の五種辺りをカツオの仲間として認識しておく必要があろうかとは思われる。
サバ科ハガツオ属ハガツオ Sarda orientalis
サバ科スマ属スマ Euthynnus affinis
サバ科イソマグロ属イソマグロ Gymnosarda unicolor(本種にはマグロの名がつくが、分類学上ハガツオに近縁。但し、魚体もカツオからそう離れていないので挙げておきたい)
サバ科ソウダガツオ属ヒラソウダガツオ Auxis thazard
サバ科ソウダガツオ属マルソウダガツオ Auxis rochei
カツオについては、私の電子テキスト「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰹」の項を参照されたい。
「餘潤」「大漢和辭典」に、ありあまるうるおい、余財、とある。金に任せた贅沢、といった意味であろうか。
「目に靑葉山ほとゝきす初堅魚」は、現在でもしばしば見られる誤りで、
 目には靑葉山ほととぎす初がつを
で、初句は字余りである。
「徒然草」の以下の叙述は、第百十九段。植田の引用にしては、珍しく間違いなく(失礼!)引用しているが、最後の「上さままでも入たつはさにこそ侍れ」の「はさ」は「わざ」。ともかくも植田のこの、力を入れた兼好の鰹叙述への指弾には、私も百二十%助太刀致す! 私は丸一尾買って三枚に捌いて食うほどの大の鰹好きだからである!!
「日本月令」「本朝月令」。明法博士惟宗公方の手になる平安中期の年中行事起源や沿革、その内容を纏めた現存最古の公事書。
「景行天皇五十三年」西暦一二三年。
「安房の浮島」国学者伴信友は安房国平群郡勝山(現在の千葉県安房郡鋸南町勝山)の浦賀水道にある浮島に比定している。
「磐鹿六獦命」「獦」は恐らく「獵」の誤植である。磐鹿六雁命いわかむつかりのみことのこと。景行天皇の侍臣で料理の祖神とされる。以下、ウィキの「磐鹿六雁命」によれば、『大彦命の孫と伝えられ、日本書紀によれば、景行天皇は皇子・日本武尊の歿後、その東征の縁の地を歴訪したが、安房国の浮島宮に行幸したとき、侍臣の磐鹿六雁命が堅魚と白蛤を漁り、膾に調理して天皇に献上した。天皇はその料理の技を賞賛し、磐鹿六雁命に膳大伴部の姓を与え』、『その子孫の高橋氏は代々宮中の大膳職を継いだ』。『磐鹿六雁命は宮中・大膳職の醤院で醸造・調味料の神「高倍神(たかべのかみ)」として祀られていた。また、高家神社(千葉県南房総市)、高椅神社(栃木県小山市)、およびどちらかの神社から勧請を受けた各地の神社で祀られており、料理の祖神、醤油・味噌などの醸造の神として調理師や調味業者などの信仰を集めている』とある。
「白蛤」これは二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属 Meretrix lusoria でよい。近年の「白蛤」という和名はマルスダレガイ科メルケナリア属ホンビノスガイ Mercenaria mercenaria に用いられるが、近年、魚屋にも、まま見受けられるホンビノスガイは北米大陸東海岸を原産地とし、一九九八年以降に東京湾で現認されて定着が確認された新参外来侵入種であるから、ここでは、あり得ない。
「无邪國造上祖大多毛比知……」以下、三人はすべて人名。現地の豪族で、景行天皇の食事の相伴役である。
「天平九年」西暦七三七年。
「痲疹」天然痘。特に九州地方では旱魃と重なって猖獗を窮め、消滅する郷村が出るほど、多くの民草が死んだ。都でも藤原宇合うまかいを始めとする藤原四家(南・北・式・京の各家)の全当主及び政界の実力者の罹患・死亡が相い次いだ。
「鯖」スズキ目サバ亜目サバ科に属するサバ属 Scomber・グルクマ属 Rastrelliger・ニジョウサバ属 Grammatorcynus に属する魚類の総称。通常、単に「鯖」と言えばサバ属のマサバ Scomber japonicas であるが、ここでは同族のゴマサバ Scomber australasicus も含めてよいであろう。御承知の通り、ヒスチジンを多く含むためにアレルゲンとなるヒスタミンを生じ易く、魚類アレルギーのではよく挙げられるが、ここでサバ食を禁じているのも、アレルギー反応の蕁麻疹が天然痘の症状と同一視されたからであろう。サバの博物誌は私の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鯖」を参照のこと。
阿遲アジ」スズキ目スズキ亜目アジ科アジ亜科 Caranginae に属する魚の総称。一般にはマアジ Trachurus japonicus を指すが、アジ科レベルでは三〇属一五〇種を数え、多数の種が含まれる。青魚であるから、やはり魚アレルギーの一種に挙げられる。アジの博物誌は私の「和漢三才圖會 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰺」を参照されたい(良安はアジを無鱗と誤認している。但し、これはアジに限った誤認ではない。リンク先を参照のこと)。
「年魚」生まれて一年で死ぬ魚の意で、アユの別名として知られるが、実は産卵後にすぐ死ぬのが実見されることの多かったことから、やはり一年で死ぬと思われていたサケの古名として「和名抄」等に載る。私はここはサケ目サケ科サケ属サケ(シロザケ)Oncorhynchus keta 及びサケ属を指していると考える。何故かと言うと、サケ類には仮性アレルゲンであるノイリンが含まれ、発疹・皮膚の掻痒感及び口腔アレルギー症候群を引き起こすことが知られているからである。サケの博物誌は「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」を参照されたい。
乾鰒ホシアハビ」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis のアワビ類の加工品。羅鮑・身取り鮑などと呼び、内陸で食すために殻を取り去ったアワビを干して乾燥させたもの。アワビの博物誌は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の冒頭にある「鰒」を参照されたい。
「堅魚節」ウィキの「鰹節」の「歴史」によると、『カツオ自体は古くから日本人の食用となっており、縄文時代にはすでに食べられていた形跡がある(青森県の八戸遺跡など)。五世紀頃には干しカツオが作られていたとみられるが、これらは現在の鰹節とはかなり異なったものであったようだ(記録によるといくつかの製法があったようだが、干物に近いものであったと思われる)』。『宮下章が、『鰹節考』の中で「カツオほど古代人が貴重視したものはない。(中略)米食中心の食事が形成されて以来、カツオの煎汁だけが特に選ばれ、大豆製の発酵調味料と肩を並べていた」と述べているように、カツオが古代人にとっては最高の調味料だったといえる』。『飛鳥時代(六世紀末-七一〇年)の七〇一年には大宝律令・賦役令により、この干しカツオなど(製法が異なる「堅魚」「煮堅魚」「堅魚煎汁」に分類されている)が献納品として指定される。うち「堅魚」は、伊豆・駿河・志摩・相模・安房・紀伊・阿波・土佐・豊後・日向から献納されることとなった』。『現在の鰹節に比較的近いものが出現するのは室町時代(一三三八年-一五七三年)である。一四八九年のものとされる『四条流包丁書』の中に「花鰹」の文字があり、これはカツオ産品を削ったものと考えられることから、単なる干物ではない、かなりの硬さのものとなっていたことが想像できる』。『江戸時代に、紀州印南浦(現和歌山県日高郡印南町)の甚太郎という人物が燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(別名焙乾法)を考案し、現在の荒節に近いものが作られるようになった。焙乾法で作られた鰹節は熊野節(くまのぶし)として人気を呼び、土佐藩は藩を挙げて熊野節の製法を導入したという』。『大坂・江戸などの鰹節の消費地から遠い土佐ではカビの発生に悩まされたが、逆にカビを利用して乾燥させる方法が考案された。この改良土佐節は大坂や江戸までの長期輸送はもちろん、消費地での長期保存にも耐えることができたばかりか味もよいと評判を呼び、土佐節の全盛期を迎える。改良土佐節は燻乾法を土佐に伝えた甚太郎の故郷に教えた以外は土佐藩の秘伝とされたが、印南浦の土佐与一(とさのよいち)という人物が安永十年(一七八一年)に安房へ、享和元年(一八〇一年)に伊豆へ製法を広めてしまったほか、別の人物が薩摩にも伝えてしまい、のちに土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と呼ばれるようになる』とあって、『江戸期には国内での海運が盛んになり、九州や四国などの鰹節も江戸に運ばれるようになり、遠州(静岡)の「清水節」、薩摩の「屋久島節」などを大関とする鰹節の番付表が作成され』るまでになった。更にモルディブ起源説が示されるが、筆者同様、私も残念ながら採らない(引用中のアラビア数字は漢数字に変えた)。
「或は又おからとも唱ふるは、みやこなまりの方言にや」これは……「おかか」の誤植では……あるまいか? 因みに、子供向け(だが、侮れませんぞ)「学研教育情報資料センター 資料番号1914」に語源説の一つが示されており、宮中の女官の女房言葉として鰹節が「かか」と呼ばれており(これは鰹節を掻き削ったものの意か)、この「かか」に接頭語の「お」が付いて「おかか」となって、後に広く一般にも使用されるようになったとあるから、植田の「みやこなまり」というのは、本女房言葉起源説から言えば正しいと言える。]
松 海岸の地には松樹のよく生茂するものにて、濵風に吹れておのつから風情をなせるあり。爰も海濱ゆへむかしより松多く有しかば、和歌にもよみ合せ、松の岡といふ地名も舊く唱ふれば、松は此地の名産となせり。
[やぶちゃん注:裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Pinus。針葉樹では最も種が多く、分布域も広いが、ここではクロマツ Pinus thunbergii 及びアカマツ Pinus densiflora と考えられる。]
鎌倉櫻 《實朝愛翫の櫻》是は古え、大御堂の勝長寺院の境内へ實朝將軍植させられし櫻をいふ。建永二年、右府諸大名へ課せられ、其内にて珍花なるものを勝長壽院へ根こして移され、年々花盛の節に至れば渡御有て和歌の御會を催されしと、往々【東鑑】に見へたり。又京都にても此花を賞せられて鎌倉櫻と名づけ給ひしといふこと、ものに見えたり。されば當所の名産なるゆへ、今は跡かたもなけれど茲にしるせり。
[やぶちゃん注:「建永二年」建永二 (一二〇七)年三月一日の「吾妻鏡」の記事に、
一日丙子。櫻梅等樹多被植北御壺。自永福寺所被引移也。
一日丙子。櫻・梅等の樹多く北御壺へ植ゑらる。永福寺より引移さるる所なり。
とはあるが、私が管見した限りでは、以下に続く「右府諸大名へ課せられ、其内にて珍花なるものを勝長壽院へ根こして移され、年々花盛の節に至れば渡御有て和歌の御會を催されし」に相当する記事は見当たらない。「鎌倉廃寺事典」はこの勝長寿院について二九頁に及ぶ記載がなされており、そこには「吾妻鏡」などの諸資料に出現する勝長寿院の記事の、時系列の恐るべき詳細探索が示されるのだが、これに該当する記事はやはりない。但し、同書七〇頁に『建暦元年(一二一一)十二月二十二日にも「実朝の参詣あり、是歳末の恒規也」といっているから、『吾妻鏡』に記事がでなくても以前から行われていたのであろう。勝長寿院が義朝の廟所として年末の墓参が行われていたことを察するに足りる』とあり、ここを頻繁に実朝が参拝していたことが分かり、更に「金槐和歌集」には、この勝長寿院で詠んだと思われる梅や桜の歌が幾つかあって、特に、前書にそれが明白に示されている連続する二首、
   三月すゑつかた勝長壽院にまうでたりしにある僧山
   かげに隠れをるを見て花はとひしかば散りぬとな
   む答へ侍りしを聞て
 行て見むと思しほどにりにけりあやなの花や風たゝぬまに
 さくら花咲くとしまに散にけり夢かうつゝか春のやま風
によって、ここで実朝が頻繁に花見や歌会をしていたことも分かるとは言える(引用の底本は齋藤茂吉校訂一九二九年岩波文庫版)。本記載の典拠を知っておられる方は、是非、御一報願いたい。「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の金沢文庫の称名寺の中にある桜の名木普賢象桜の記載(正確には「八木」の項に記載)に、
普賢象櫻 堂の前、西の方にあり。八重なり。花の心中より、新緑二葉を出したり。【園太暦】に、延文二年三月十九日に。南庭へ櫻樹を渡し栽。殊絶の美花也。號鎌倉櫻とあり。按に、稱名寺に在櫻樹なるにや。昔鎌倉勝長壽院永福寺の庭前へ、櫻を多く植られ、右大臣家渡御有て櫻花を賞せられ、和歌を詠じ給ふと、往々見えたり。仍て鎌倉櫻と有は是ならん歟。又按るに、延文の頃迄有しにや。鎌倉櫻と稱せしものは、一樣ならぬ珍花なりし由。勝長壽院なとは、將軍家御所より遠からぬゆへ、正慶の兵燹にて、皆燒亡して絶たりといふ。延文の頃の櫻は、古えの※樹にや。
《字注:「※」=〔上〕(くさかんむり)+〔中〕「執」+〔下〕「木」。これは恐らく「しふじゆ」「でふじゆ」と読み、「※」は木が生い茂る形容であろう(「蓻」の字義から類推した)。》
「延文」年間は南北朝の北朝方の元号で、西暦一三五六年から一三六〇年。「兵燹」は「へいせん」と読み、「燹」は野火の意で戦火・兵火を言うから、「正慶の兵燹」というのは正慶二年が元弘三(一三三三)年で鎌倉幕府の滅亡を指している。これを読むと、延文の頃まで勝長寿院(跡)に残っていたというのは、正に書かれている通り、源実朝が花見をした昔、植えられてその頃まで生い茂っていた、生き残っていた桜であり、それこそが正しく本当の鎌倉桜であったのではなかろうか、の意であろうと思われる。但し、細かいことにツッコミを言うようであるが、どうも叙述が前後しておかしくはないか? 幕府滅亡で焼燼し尽して完全に「絶た」というのなら、「延文の頃迄有」ったという伝承は嘘、ということになるのではなかろうか?――ともかくも、この勝長寿院にあった鎌倉桜について、何か別文献等に記載があるのをご存じの方、是非是非、御一報あられたい。実は、「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の当該記事をアップした直後、鎌倉に在住される鎌倉桜の保存と研究をされている方から、情報提供を乞われているのであるが、残念ながら私の知見は、これ以上の進展を見そうもない。よろしく御教授の程、お願い申し上げる。]



鎌倉攬勝考巻之一