やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


新編鎌倉志卷之一

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」は延宝年間(一六七三~一六八一)に水戸藩主水戸光圀(寛永五(一六二三)年~元禄十三(一七〇一)年)が家臣で彰考館(光圀が『大日本史』編纂のために江戸小石川門の藩邸内に置いた修史局)館員であった河井恒久(友水)や、松村清之(伯胤)・力石忠一(叔貫)らに命じて編纂した。当初、光圀自身が延宝二(一六七四)年に来鎌、名所旧跡を歴遊、家臣に記録させた「鎌倉日記」がプロトタイプである(因みに、ドラマで水戸黄門諸国漫遊は知らぬ者とてないが、実際には彼の大きな旅行は、この鎌倉行一回きりであったと言われている)。後、延宝四(一六七六)年の秋、河井に社寺名刹の来歴に就いて調べさせた。当時、鎌倉英勝寺に療養中であった現地の医師松村清之は頗る鎌倉の地誌に詳しく、河井はこの松村に自身の記載の補正をさせたが、業半ばにして河井が亡くなり、力石が代わって、実に十一余の歳月を費やして貞亨二(一六八五)年に書き上げられた、全八巻十二冊からなる史上初の本格的な鎌倉地誌である。当時の鎌倉(江ノ島及び金沢を含む)の名所旧跡を図を交えて総数百十九部に及ぶ文献史料を用いながら詳述、後の近世鎌倉の衰微や明治の廃仏毀釈によって既に失われた多くの記載が往古の鎌倉を偲ばせる。また、今に伝わる鎌倉史跡の名数「鎌倉七口」「鎌倉十井」「鎌倉十橋」等の選定も、本書に基づくものである。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。「こ」の字を潰したような踊り字は「々」に代えた。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本ではしばしば「已」と「巳」の活字の一部が誤って植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。また、底本では一切行空けはないが、読み易さを考え、各項目の前後に空行を設けてある。各項目の後に私のオリジナルな注を施した。注で引用してある「吾妻鏡」は国史大系本を基礎底本としたが、漢字の一部は正字に直してある。【二〇一〇年一月二日】
本文再校、誤字脱字を補正した。【二〇一一年二月二日】
底本とした昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』は多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせるものがあるが、今回、新たに入手した汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂を開始した。但し、影印は本文も片仮名を用い、更に読点を一切用いない総句点で、これは現代では極めて読み難いので従来の底本に従った。字配りも影印と底本では大きく異なるが、原則、底本に準拠した。但し、この校訂で以下のような大きな変更を底本本文に加えることとした。
●漢字及び読みを含む片仮名表記の底本の誤植(及びそう判断されるもの)は、これを訂した。その際、思いの外その数が多いため、一々訂した旨の注記は原則として施していない(例:底本の誤植である引用書目「花押籔」を影印目視によって「花押藪」と正したこと。)。なお、原則として影印の歴史的仮名遣の誤りは正さず、そのまま表記した(五月蠅くなるのでママ表記等は行っていない。疑義のある部分は私のタイプ・ミスでないとは言い切れないので、早稲田大学の古典籍データベース「新編鎌倉志」等で御確認頂きたい(因みにこのリンク先の影印本は、その朱点の校正酷似から、まさに底本を作成するために用いた原稿原本であった可能性が極めて強い)。その際、私の誤植と判断された場合は、本頁の充実のために出来ればメールで戴けると恩幸これに過ぎたるはない)。また、影印で正字ではなく略字を用いていても、底本で正字表記となっていたものは敢えて変更していない。
●底本の漢文脈の一部の句読点を、読み易さを考慮して私の判断で変更した。
●濁点については底本・影印で有無がある場合、濁点ありの方を採用した。濁音と思われるも何れも清音で表記されている場合や影印のみにしか見られない清音は清音のままとした(読みに非常に多い)が、別な箇所で濁音表記が見られる地名(例:「鶴カ岡」は他の箇所で明確に「鶴ガ岡」とあり、後者で統一したこと。)や、以下に示すように、影印でしか見られない漢文訓読部分では、読み易さを考慮して私の判断で濁音表示とした部分が多々ある。
●漢文脈の多くは底本では白文であるが、影印ではその多くに明白な訓点と熟語を示す付点が附されている。そこで、それが返り点で戻っている部分を含む句や文節、白文のままでは極めて難訓と思われる句や文節は、直後に( )で書き下し文を示した。訓読は助詞・助動詞相当の助字以外は漢字表記を残す一般的な法を採った(従って「如し」は平仮名表記とした)。読み易さを考慮して送り仮名の一部を私が〔 〕で補い、一部に句読点も追加してある。煩瑣ではあるが、置き字がある際にも、原文文字列を示してから、改めて( )で書き下した。それが底本への礼儀であると考えたからである。但し、返り点のない平易な文字列であったり、影印で漢文の送り仮名風に附されているに過ぎない片仮名は平仮名で本文同ポイントで取り込んである箇所もある。
●元が白文と思われる有意に長い漢文文字列や鐘銘等は白文の後に別個に纏めて訓読文を配した。
●フルにルビ表記が成されている地名・人名途中の「ノ」(例:由比里「ユヒノサト」等)はルビとして表示した。逆に官名や名前の前だけの「ノ」は「の」として本文に示した(但し、見出し項目の場合は例外として不完全であってもルビとした。例外として「五指量愛染明王像」のように見出し項目であっても読みがなく、送りの「ノ」しか示されないものは本文ポイントとして平仮名で出した)。結果として「源の賴朝」のような、現在では不自然さを感じさせる箇所や見出し項目表記の不統一が生じたことはここにお断りしておく。その他にもルビの一部を私の判断で本文ポイントで出した箇所がある。例えば、底本ではルビなしの「移住す」は「いぢゆうす」と読むものと思っていたところが、影印を見ると「移」に「ウツリ」とルビがあり、これは「うつりぢゆうす」と訓じていることが判明する。こうした箇所は読み易さを考え、ルビの「ウツリ」の「リ」を本文ポイントで「り」と出した。御了解頂きたい。
●その他、片仮名の「井」や「子」は、それぞれ「ヰ」「ネ」とし、また、本文の一部にも読み易さを考慮して私の判断で句読点や「・」等を補った箇所がある。踊り字「〱」「〲」は正字で表記した。
 以上は一次資料の影印本によって校訂しながらも、底本雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』の雰囲気を損なわないことを目的として、私の下した特殊な形式ではある。異論のある方は何時でも立ち去られ、私の本テクストを用いないがよい。但し、私自身としては、本仕儀による本テクストは「新編鎌倉志」の現時点での、正字の最良のテクストの一つであるという自負を秘かに持っている。【校訂開始:二〇一一年五月五日 校訂終了:二〇一一年五月二十一日】
本巻は最初に電子テクスト化したために、例外的に殆んど注を附していない。そこで現在、本格的な再注作業を行っている。今回、清音表記の一部の内、濁音としてしか考えられない部分については、読み易さを考慮して濁音化したものがある(但し、和歌は濁音表記しないことの方が普通であるから、その限りではない)。以上の作業の中で、再度、全文校訂も行なった。【藪野直史 作業開始:二〇一二年五月三十一日 作業終了:二〇一二年六月十三日]

新編鎌倉志卷之一

河井恒久友水父纂述
松村淸之伯胤父考訂
力石忠一叔貫 參補


   ○鎌倉大意
[やぶちゃん注:以下、本文が長いので、適宜の箇所に注を挟んで、前後を改行し後ろには空行を設けた。]
《鎌倉といふこと》相州鎌倉郡サウシウカマクラコホリは、【詞林采葉抄】に云、鎌倉カマクラとはカマウヅクラと云コトバなり。其濫觴ランシヤウは、昔し大織冠鎌足カマタリいまだ鎌子カマコと申せしコロ、宿願の事ましますにより、鹿島カシマ參詣の時、此由比里ユヒノサトに宿し給ひける靈夢レイムカンじ、年來所持し給ひけるカマを、今の大藏オホクラ松岡マツガヲカウヅみ給ひけるより、鎌倉郡カマクラコホリと云。因之(之に因て)思ふに、歌に鎌倉山カマクラヤマの松とよみつゝくること、カマウヅトコロ松岡マツガヲカなればなり。凡そ鎌の字の釋訓、松の字の釋訓、是れ異國・本朝ともに其理これ多し。先づ鎌の字は、兼金(金を兼る)と書ける字也。金は司甲兵武器也(金は甲兵武器を司るなり)。倉の字は、人一君とけり。然れば鎌倉は、武備兵將の居なる者也。【地理全書】を披見して、此トコロの風水山嶺を按ずるに、今の鶴岡ツルガヲカ大倉ヲホクラと云山なり。西に高き山は武曲星の地に相ひ當る。其名を武山ムサンと云ふ。又西に山あり。武庫ムコと號す。龜谷カメガヤツの山也。是則ち鎌倉中央第一の勝地也。此等のヤマ悉く倉庫の名あり。其の中央の山玄武に當る。貴人金爐等を朱雀に當つ。左大倉右武庫(大倉を左にし、武庫を右にす)。武將居を成さんに於て吉慶あるべし。【全書】に曰、大倉・武庫按龍行(大倉・武庫、龍行を按ず)。前有金爐・玉案迎(前に金爐・玉案有りて迎ふ)。若し遷此地於王侯宅(若し此地に王侯の宅を遷〔さ〕ば)、白屋爲官名目成(白屋官を爲し、名目成〔ら〕ん)。行軍出陣唱喏(軍を行り、陣を出、唱喏す)。所有排衞及貴人(有〔ら〕所〔る〕排衞及〔び〕貴人)、十里方圓皆變改(十里方圓、皆、變改す)。受職金牌玉榜名實(職を受くる金牌玉榜の名實)、此の外大藏も亦倉也、崇山タカヤマも亦武也、然鎌字兼金也(然れば鎌の字金を兼するなり)、金は西也、倉の字は人君也、因て案ずるに、兼西人(西をカヌる人)、君の居たるべき理明白也、玆を以て大織冠のイニシヘを勘ふるに、此地カマウヅみ給ひて後、天智天皇八年にや、中臣ナカトミの姓をアラタめて藤原フヂハラと賜はり、内大臣に任して以降ヨリコノカタ、代代の皇帝の執柄として、末代に至るまで萬國を治め給ふ。
[やぶちゃん注:「武曲星」紫微斗数(宋代の仙人陳希夷によって創始された占星術)で勇猛・剛毅・権力を意味する星。別名将星とも言い、将軍を意味する星。
「【全書】」「二程全書」。明代宋学の先駆的著作集。一六〇六年刊。北宋の思想家程顥ていこう程頤ていい兄弟の著述の集大成で徐必達の校訂になる(以上は「大辞泉」を参照した)。
「龍行」「龍行天下」の言いと思われ、これは、この世にあって自由自在であることを意味する。
・「白屋」は「はくをく(はくおく)」と読み、白い茅で屋根をふいた貧しい家の意。ここは「例え白屋であっても、瞬く間に」の意で繋がると思われる。
「軍を行り、陣を出、唱喏す」は「ぐんをやり、ぢんをいで、しやうじやす」で、スムースに兵を送って、陣を悠々と出、敵に対し、余裕を以って挨拶の口上を述べながら礼をする」の意であろう、
「有ら所る」「あらゆる」と訓読した。
「排衞」不詳。押し並んだ強固な軍営で、武人を指すか。
「職を受くる金牌玉榜の名實」不詳。ただ、影印では「實」は「矣」に見える。そして、ここまでが「二程全書」からの引用と思われる。]

隨而彼玄孫染屋太郎大夫時忠(隨て彼の玄孫染屋ソメヤノ太郎大夫時忠トキタヾ)〔東大寺良辨僧正の父也。〕文武天皇の御宇より、聖武天皇神龜年中に至るまで、鎌倉に居住して、東八箇國の總追捕使にて、鎭東夷守國家(東夷を鎭め國家を守る)。其の後平將軍貞盛サダモリの孫上總の介直方ナホカタ、鎌倉に家居イヘイす。
[やぶちゃん注:「天智天皇八年」西暦六六九年。
「染屋太郎大夫時忠」鎌倉の始祖的な人物として伝承される人物で、由比長者とも呼称され、藤原鎌足四代の子孫に当たるとされる。ここには次に注する良弁ろうべん「の父」とあるが、現在伝えられるものの中には逆転して、染屋時忠「の父」が良弁とするものが多々見受けられる。何れにせよ、全国に散在する長者伝説の域を出ない。原鎌倉地方を支配していた豪族がモデルであろう。
「良辨」(ろうべん 持統天皇三(六八九)年)~宝亀四(七七四)年)は華厳宗の僧。東大寺開山。相模国の柒部(漆部)氏の出身とも、近江国の百済氏の出身とも言われ、後者の伝承では、赤子の時、野良に出ていた母が目を離した隙に鷲に攫われ、奈良二月堂前の杉の木に引っかかっているのを、法相宗の高僧義淵に拾われて弟子として養育されたとも伝えられる。これは時忠と思しい由比長者の伝承の中に、子どもを鷹に攫われて殺され、その屍骸の落ちた鎌倉の複数の箇所に供養の塔を建てたという「塔の辻」伝承があり、類感的な関連が認められるようにも思われる。
「文武天皇の御宇より、聖武天皇神龜年中に至るまで」西暦六九七年から七二九年。このような事蹟を証明するものはないが、もしこの入鎌時に既に「東八箇國の總追捕使」なるものに任ぜられていたとしたら、時系列から見て、彼はやはり良弁の父であって、子ではないということになろう。
「平將軍貞盛」平貞盛(?~永祚元(九八九)年?)高望王の子平国香の子。京において右馬允として出仕していたが、承平五(九三五)年に父が従兄弟の平将門に殺されたことで常陸国に戻る。当初は将門との宥和策をとったが失敗、叔父の良兼と組んで将門と戦うも敗れ、これを朝廷に訴えたが、追討の官符が出なかったため、再度下向して将門と再戦、天慶三(九四〇)年に下野国の豪族藤原秀郷の援軍によって、やっと進発した朝廷の追討軍の到着を待たずに将門を滅ぼした。その功によって従五位下を与えられ、後に鎮守府将軍・陸奥守となっている(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。
「上總の介直方」平直方(生没年不詳)父は上総介維時(平貞盛の次男維将の子)。本拠は鎌倉であったが摂関家家人として在京、東国には土着しなかった。長元元(一〇二八)年、東国で平忠常が起こした反乱の追討使としてこれを攻めたが鎮圧に失敗、三年後には更迭されたが、その後、能登守や上野介などを歴任した。以下に示される如く、直方の娘は源頼義に嫁ぎ、東国武士団の現人神八幡太郎義家を産んでいる。鎌倉は、この縁により直方が頼義に譲り与えたものとされている(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。]

《鎌倉と源氏》鎭守府の將軍兼伊豫の守源 賴義ヨリヨシいまだ相模サガミの守にて下向せし時、直方が婿ムコとなり給ひて、八幡太郎義家ヨシイヘ出生し給ひしかば、鎌倉をマモり給ひしより以來、源家相傳の地として、去る治承五年辛丑に、右幕下征夷大將軍、鶴岡ツルガヲカに八幡宮をアガめたてまつり給ふ。
[やぶちゃん注:「治承五年」西暦一一八一年。
「右幕下征夷大將軍」源頼朝。
「鶴岡に八幡宮を崇めたてまつり給ふ」八月十五日に行われた鶴ヶ岡若宮遷宮を指す。]

如此(此〔く〕の如〔く〕の)義理を案ずるに、サキに述するがごとく、王城は西也。鎌倉は東也。此義を含むに依て兼金(金を兼する)人君と訓釋する者也。鎌倉の君將は都鄙の政をタスけ、武勇をモツパラにして、帝都を守護し奉るべき道也。寰中は天子の勅、塞外は將軍の令と云ふが如し。京・鎌倉是也。故に天子は禀天命以正王制(天命を禀て、以て王制を正〔し〕くし)、將軍奉王命以守將道(將軍は王命を奉〔り〕て以て將道を守る)。然將軍代々以鎌倉爲基(然〔ら〕ば將軍代々鎌倉を以てモトヒと爲す)。此の字の訓若し相當理(理に相當らば)、末代も亦可然(然るべし)。ソモソモ松岡マツガヲカに八幡大菩薩を勸請し給ふ事、此又不思議の理也。其の故は、彼の大菩薩は應神天皇の垂跡として、神功皇后三韓征伐の時、胎内にして將軍の位を得せしめ給ふ。誕生のミギリに、天より流れのハタ降下る。鎭護國家武將擁護の神也。本地は是彌陀如來。是亦兼西(西をぬる)の理を含む者歟。
[やぶちゃん注:「寰中」は「くわんちゆう(かんちゅう)」天皇直轄地・畿内の意で、京都を指している。
「禀て」「うけて」と訓ずる。
「彼の大菩薩は應神天皇の垂跡」八幡神は後世、母の神功皇后とともに八幡神に附会され、皇祖神や武神として各地の八幡宮に祭られた。八幡神の別名誉田別命ほんだわけのみことは応神天皇の異称である。]

次に松が岡にカマを埋み給ふ事、マツは木公と書く。是れ司東(東を司る)義也。彼此カレコレ金を兼る人君符合する者。鎌倉山に詠松(松をめる)事、上古の作者末代をカンガみるに非ずやと有。《大臣山》今按ずるに、大織冠、カマを埋み給ひたる地は、今の上の宮の地なり。此を松が岡と名く。故にウシロの山を大臣タイシン山と云なり。此地にモト稻荷イナリヤシロありしを、賴朝卿ヨリトモキヤウ、建久二年に、地主稻荷イナリを西のカタ丸山マルヤマに移して、八幡宮を此の所に勸請し給ふ。是の故に上宮カミノミヤを松が岡の八幡宮と云ふ。【鶴岡社務次第】にも、松が岡八幡宮別當職とあるは、カミミヤの事也。社務シヤム云傳イヒツタフるにも、上の宮を松が岡と云、シモの宮を鶴が岡と云ふ。又松が岡の明神と云て、鶴が岡にて御供ソナふる神あり。丸山マルヤマの稻荷明神なり。れ舊に依て松が岡の明神と云なり。俗に傳ふる淨妙寺中の稻荷イナリ明神を、カマウヅみたる舊地と云ひ、又東慶總持寺を、松が岡の舊地と云は皆アヤマりなり。
[やぶちゃん注:「本は稻荷の社ありしを、……」この稲荷は現在の鶴岡八幡宮上宮西側にある丸山と呼ぶ小高い丘の上にある鶴岡八幡宮末社丸山稲荷社本殿。社殿によれば建久二(一一九一)年の本宮造営に先だって、現在地に移築された古来からの地主神と伝える。本殿は鶴岡八幡宮境内にある建造物の中では最も古く、国重要文化財に指定されている。
「東慶總持寺」東慶寺のこと。山号は松岡山で正しい寺号は東慶総持禅寺と称する。総持とは陀羅尼の訳語でもあるが、禅の初祖達磨大師の弟子尼総持に因んで禅の尼寺の意を含むものと推測される。植田は地名古称を誤りとするが、「相模風土記稿」には『里俗呼んで松岡と稱す』とあり、東慶寺は現地では古くから「松ヶ岡」と呼ばれ、歴史的な公文書にもそう書かれていることが多い。これがこの「東慶寺」の地名であった可能性は極めて高いと言ってよく、鎌倉には二つの「松ヶ岡」が存在したと考える方が自然である。]

【萬葉集】の歌に、〔作者不知〕「タキヽこる、鎌倉山カマクラヤマのこたるを、松とながいはゝコヒつゝやあらん」。又藤の實方サネカタの歌に、「かきくもりなどかヲトせぬほとゝぎす、鎌倉山にミチやまどへる」。大納言公任キンタウの歌に「わすれ草かりつむばかり成にけり、アトもとゞめぬ鎌倉の山」。慈鎭和尚の歌に、「ながめユク心のいろぞフカからん、鎌倉山の春の花園ハナソノ」。法印堯慧ギヤウヱが歌に、「ミヤコ思ふ春の夢路ユメチもうちとけず、あな鎌倉の山のあらしや」。鎌倉山とは大臣タイシン山を云となり。源の順が【和名抄】に、鎌倉郡の内に、鎌倉のサトあり。何れの地をイハん歟〔、〕不分明(分明ならず)。大臣山を鎌倉山といへば、雪下ユキノシタを鎌倉の里と云んか。藤の實方サネカタの歌に、「タミも又にぎはひにけり秋の田を、かりてをさむる鎌倉のサト」。又【續古今集】に、鎌倉の右大臣の歌に、「宮柱ミヤハシラふとしきタテ萬代ヨロツヨに、今ぞサカへん鎌倉の里」。【夫木集】に、藤原の基綱モトツナの歌、「昔しにもたちこそまされタミの、ケフリにぎはふ鎌倉の里」。又、「東路アツマヂやあまたコホリのその中に、いかて鎌倉さかへそめけん」。中務卿の〔宗尊親王〕歌に、「十年トヽセあまり五年イツトセまでも住馴スミナレて、なをわすられぬ鎌倉の里」とあり。
[やぶちゃん注:「タキヽこる、鎌倉山カマクラヤマのこたるを、松とながいはゝコヒつゝやあらん」は「万葉集」巻第十四の第三四三三番歌。分かり易く書き直すと(以下の和歌も総て再掲する)、
 薪伐る鎌倉山の木埀る木を松と汝が言はば戀ひつつやあらむ
で、「薪伐る」は鎌で伐るので「鎌倉山」の枕詞、「松」は「待つ」の掛詞。
○やぶちゃん通釈
 ……鎌倉山の……あなたへの思いで……重くたるんでいる木は……松だ……そう、あなたが一言……「待つわ」って君が言ってくれたなら……そうして呉れたなら……こんなに私は恋に苦しまずにいられるのに……
「かきくもりなどかヲトせぬほとゝぎす、鎌倉山にミチやまどへる」藤原実方の歌。
 かき曇りなどか音せぬ時鳥鎌倉山に道や惑へる
「わすれ草かりつむばかり成にけり、アトもとゞめぬ鎌倉の山」藤原公任の歌。
 忘れ草刈り摘むばかりなりにけり跡も留めぬ鎌倉の山
この歌は「近江輿地志略」に載り、「かまくらやま」でも、比叡山山系の神蔵山(かまくらやま:神蔵寺山とも)を歌ったものとするので、引用は錯誤である。 「ながめユク心のいろぞフカからん、鎌倉山の春の花園ハナソノ」「慈鎭和尚」は慈円の諡。
 眺め行く心の色ぞ深からん鎌倉山の春の花園
ミヤコ思ふ春の夢路ユメチもうちとけず、あな鎌倉の山のあらしや」これは堯惠法師の「北国紀行」に所収するもので、以下のような前書を持つ。「あなかま」(ああなんと、やかましい)は「鎌倉」との掛詞。
廿日過るころ、鎌倉山をたどり行に、山徑の芝の戸に一宵の春のあらしを枕とせり。
 都思ふ春の夢路も打ちとけずあなかまくらの山の嵐や
タミも又にぎはひにけり秋の田を、かりてをさむる鎌倉のサト」藤原実方の歌。
 民もまた賑ひにけり秋の田をかりてをさむる鎌倉の里
宮柱ミヤハシラふとしきタテ萬代ヨロツヨに、今ぞサカへん鎌倉の里」源実朝の歌。
 宮柱ふとしき立てて萬代に今も榮ふる鎌倉の里
「昔しにもたちこそまされタミの、ケフリにぎはふ鎌倉の里」「藤原基綱」なる人物は恐らく後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)のことと思われる。藤原秀郷の流れを引く京の武士後藤基清の子。評定衆・引付衆。幕府内では将軍頼経の側近として、専ら実務官僚として働き、歌人としても知られた。
 昔にも立ちこそ優れ民の戸の煙賑はふ鎌倉の里
東路アヅマヂやあまたコホリのその中に、いかて鎌倉さかへそめけん」
 東路や數多郡のその中にいかで鎌倉榮へそめけむ
十年トヽセあまり五年イツトセまでも住馴スミナレて、なをわすられぬ鎌倉の里」第六代将軍宗尊親王(仁治三(一二四二)年~文永十一年(一二七四)年)の歌。親王は文永三年(一二六六)年六月、正室の近衛宰子(第七代将軍惟康親王母。事件後に京都送還)と僧良基(事件後に逐電)の密通事件を口実に幕府への謀叛の嫌疑をかけられ、北条時宗らによって将軍職解任・京都送還となった。本歌は帰洛の際、藤沢の本蓮寺(モノレール目白山下駅近く)に泊った折りに詠まれたもの。
 十年あまり五年までも住み馴れてなほ忘られぬ鎌倉の里
満十歳で鎌倉に迎えられ、青春時代を過ごした鎌倉、今、妻に裏切られ、社会的にも(既にして傀儡将軍ではあったが)お払い箱とされる二十四歳の彼の想いは、いかばかりであったろうか……。]

按ずるに、【東鑑】に、陰陽の權の助國道クニミチが云、所謂(謂は所る)四境とは、東は六浦ムツラ、南は小坪コツボ、西は稻村イナムラ、北は山内ヤマノウチとあり。然れば此の内を鎌倉と云ふべし。
[やぶちゃん注:これは「吾妻鏡」の元仁元(一二二四)年十二月二十六日の条に基づく。
廿六日戊午。此間。疫癘流布。武州殊令驚給之處。被行四角四境鬼氣祭。可治對之由。陰陽權助國道申行之。謂四境者。東六浦。南小壷。西稻村。北山内云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿六日戊午。此の間、疫癘流布す。武州、殊に驚かしめ給ふの處、四角四境鬼氣祭を行はれ、治對ぢたいすべきの由、陰陽權助國道、之を申し行ふ。四境と謂ふは、東は六浦むつら、南は小壷、西は稻村。北は山内と云々。
「治對」は「退治」=「対治」と同義。]

《鎌倉七郷・七口》【鶴岡記録】に云、鎌倉の谷七郷ヤツシチガウとは小坂郷コサカノガウ小林コバヤシの郷・葉山ハヤマの郷・津村ツムラの郷・村岡ムラヲカの郷・長尾ナガヲの郷・矢部ヤベ郷を云なり。鎌倉の七口ナヽクチとは名越切通ナコヤノキリトヲシ朝夷名切通アサイナノキリトヲシ巨福路坂コフクロサカ龜谷坂カメガヤツサカ假粧坂ケワイサカ極樂寺ゴクラクジの切通・大佛ダイブツの切通、此外に小坪コツボ切通、稻荷坂イナリサカあり。稻荷坂は十二所村ジフニシヨムラより、池子村イケコムラへ出る坂也。
[やぶちゃん注:「小林郷」は現在の鶴岡八幡宮の所在地から十二所に及ぶ旧地名。]


鎌倉地理之圖
[やぶちゃん注:この図は底本では上記の文中に二頁に跨って掲載されている(影印では冒頭に配している)。周縁部の文字の切れは原本のママである。]



  ○鶴岡八幡宮〔附、雪の下・由比の濱・新宮イマミヤ
[やぶちゃん注:以下、本文が長いので、適宜の箇所に注を挟んで、前後を改行し、後ろには空行を設けた。た。]
鶴岡ツルガヲカ八幡宮は、【東鑑】に、本社は、伊豫の守源賴義ミナモトノヨリヨシ、勅をウケタマハツて、安倍貞任アベノサダタフ征伐の時、丹祈タンキムネ有て、康平六年秋八月、ヒソカ石淸水イハシミヅを勸請し、瑞籬ミヅカキを當國由比郷ユヒノガウつ。〔今此を下の宮の舊跡と云也。〕永保元年二月、陸奧守ムツノカミ源の義家ヨシイヘ、修復をクハふ。其の後治承四年十月十二日、源の賴朝ヨリトモ、祖宗をアガめんために、小林郷コハヤシノガウキタの山をテンじて宮廟をカマへ、鶴岡ツルガヲカ〔由比〕のミヤを此所にウツタテマツラる。しかれども、イマ華構クワカウカザりに不及(及ばず)。茅茨バウシイトナみをなす。建久二年四月廿六日、鶴岡ツルガヲカ小林コハヤシ若宮ワカミヤの上の地に、始めて八幡宮を勸請しタテマツラタメに、寶殿を營作せらる。今日上棟也。同〔じ〕く十一月廿一日、鶴が岡八幡宮、幷に若宮ワカミヤ、及び末社等の遷宮とあり。〔按ずるに【東鑑】に、去る三月四日、小町コマチの邊より出火して、幕府幷に御家人のヲク若宮ワカミヤの神殿・回廊・塔婆等、悉く灰爐となると有。此建立は、それゆへなり。〕
[やぶちゃん注:「丹祈」真心を込めた祈り。丹は赤心の意である。
「康平六年」西暦一〇六三年。前九年の役の終結の翌年(頼義による騒乱鎮定上奏は康平五年十二月十七日になされている)で、鎮定後の帰洛の途中ということになる。
「潜に」は前の「丹祈の旨」を受けると考えてよいから、頼義はこの時、東国での地盤確保を企図して、「潜に」(朝廷の許可を得ずに)勧請したことが分かる。
「瑞籬」神霊の宿る山・森・木などや神社の周囲に巡らした垣根。
「永保元年」西暦一〇八二年。当時、義家は白河帝の近侍であったが、厳密には義家の陸奥守就任は永保三(一〇八三)年である。そしてこの年、清原氏の内紛に介入して後三年の役が始まっている。但しこの合戦には朝廷の追討官符が出されておらず、少なくとも当時の朝廷にあっては私戦と認識されていた。従って寛治元(一〇八七)年十一月の戦勝報告後も恩賞はなく、翌寛治二年正月には陸奥守を罷免されてさえいる。その結果として義家は戦闘に参加した東国武士団の恩賞に私財を分け与え、それが東国に於ける絶大なる八幡太郎神話を形成するに至る。
「治承四年」西暦一一八〇年。
「華構」華やかで立派な建物の造り。
「茅茨の營み」屋根をチガヤとイバラで葺いた質素な家屋の建造を言う。元は、聖帝堯は宮殿の屋根を葺いた茅や茨の端を切り揃えず、丸太のままの垂木を削らなかったとする「韓非子」の「五蠹ごと」の「茅茨不翦、采椽不」)茅茨らず、采椽さいてん削らず)という質素な住居や倹約の譬の故事に基づく。
「【東鑑】に、去る三月四日、小町の邊より出火して、……」は建久二(一一九一)年三月四日以下の記事を指す。
四日壬子。陰。南風烈。丑剋小町大路邊失火。江間殿。相摸守。村上判官代。比企右衞門尉。同藤内。佐々木三郎。昌寛法橋。新田四郎。工藤小次郎。佐貫四郎已下人屋數十宇燒亡。餘炎如飛而移于鶴岡馬塲本之塔婆。此間幕府同災。則亦若宮神殿廻廊經所等悉以化灰燼。供僧宿房等少々同不遁此災云々。凡邦房之言如指掌歟。寅剋。入御藤九郎盛長甘繩宅。依炎上事也。
〇やぶちゃんの書き下し文
四日壬子。陰り。南風烈し。丑の尅、小町大路邊、失火す。江間殿・相摸守・村上判官代・比企右衞門尉・同藤内・佐々木三郎・昌寛法橋・仁田四郎・工藤小次郎・佐貫四郎巳下の人屋、數十宇燒亡ぜうまうす。餘炎飛ぶがごとくして、鶴岡馬塲本ばばもとの塔婆に移る。此の間、幕府同じくわざはひす。則ち亦、若宮神殿・廻廊・經所きやうじよ等悉く以て灰燼と化す。供僧の宿坊等少々、同じく此の災を遁れずと云々。凡そ邦房が言、たなごころを指すがごときか。寅の尅、藤九郎盛長の甘繩の宅に入御す。炎上の事に依りてなり。
・「丑の尅」午前二時前後。
・以下の類焼屋敷は概ね幕閣の重臣のもの。それぞれ、「江間殿」は北条義時、「相模守」大内惟義、「村上判官代」は八田知家、「比企右衞門尉」は比企能員、「同藤内」は比企朝宗、「佐々木三郎」は佐々木盛綱、「昌寛法橋」は一品房昌寛法橋、「仁田四郎」は新田忠常、「工藤小次郎」は工藤行光、「佐貫四郎」は佐貫廣綱を指す。
・「鶴岡馬塲本の塔婆」とは当時、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場付近に五重塔(文治五(一一八九)年三月十三日創建。「吾妻鏡」に『今日九輪を上ぐ』とあることから五重の塔と推測されている)があったものを指す。後の「塔」の項を参照のこと。
「供僧の宿坊」後の二十五坊。
「邦房が言」実はこの未曾有の大火については「吾妻鏡」の前日の記事に不思議な記述がある。この日は三月三日で重三の節句として鶴岡八幡宮で法会があったのだが、その晩、散会後のこと、

……晩景事訖。還御之後供奉人等未退出。各候侍所。其中有廣田次郎邦房者。語傍輩云。明日鎌倉大火災出來。若宮幕府殆不可免其難云々。是大和守維業男也。然者。継家業者。雖有儒道之号。難得天眼歟之由。人咲之云々。
○やぶちゃんの書き下し文
……晩景に事おはんぬ。 還御の後、供奉人等、未だ退出せず、各々侍所に候ず。其の中に廣田次郎邦房といふ者有り、傍輩に語りて云はく、「明日、鎌倉に大火災出來せん。若宮、幕府殆んど其の難を免るべからず」と云々。是れ、大和守維業これなりが男なり。然らば、「家業を継がば、儒道の有りと雖も、天眼を得難きか。」の由、人、之をわらふと云々。
とあるのである。則ち、前日の三月三日夜のこと、侍所に伺候していた儒学者広田大和守維業の子息である広田次郎邦房という者が「――明日、鎌倉に大火災が起きるであろう。――若宮や幕府は、殆んどその難を免れることは出来ぬ――」と予言、人々は「……如何に儒教を学んだとしても、未来の予言は出来まいものを……」と笑ったという記事である。ここで「吾妻鏡」の記者は、この予言が美事に的中したと一言あるだけなのであるが、これは神秘思想家スウェーデンボルグ(Swedenborg  一六八八年~一七七二年)のストックホルム大火共時幻視なんか目じゃない大予言ということになるんだろうか?――若い時にここを読んだ私は『何でこいつを放火犯として取り調べなかったのかな?』と思ったものである。「吾妻鏡」を見る限り、彼はこの後も、普通に出仕しているのだが……。

「掌を指す」てのひらにあるものを指す如く、極めて明白且つ正確で疑問の余地のないこことの喩え。「論語」の「八佾はちいつ第三」に基づく。
「寅の剋」午前四時前後。
「藤九郎盛長の甘繩の宅に入御す」頼朝や政子らが、安達盛長の甘繩の屋敷に避難した(焼け出されたという方が正しいか)ことを指す。]

今按ずるに、由比濱ユイノハマシモミヤの舊地を、昔しは鶴が岡と云なり。【東鑑】に、治承四年十月七日、賴朝ヨリトモハルカに鶴が岡の八幡宮ををがみタテマツるとあるは、由比濱ユヒノハマミヤなり。小林郷コバヤシノガウに遷して後も、又鶴が岡の八幡宮と云傳へたり。昔しは御供料所ゴクレウシヨに、當國桑原郷クワハラノガウを寄付せらると。【東鑑】に見へたり。賴朝ヨリトモ直判ジキハンの書にも社領の事あり。今は永樂エイラク錢八百四十貫文あり。毎年八月十五日放生會。同〔じ〕く十六日矢鏑馬ヤブサメ。二月十一月のハジメの日倍從バイジウ。今に不絶なり(絶へざるなり)。【新拾遺集】に左兵衞のカミ基氏モトウジの歌、「鶴が岡こだかき松を吹風の、雲井にひゞく萬代ヨロツヨコヘ」。【夫木集】に爲實タメサネ朝臣の歌、「鶴が岡あをぐつばさのたすけにて、タカきにうつれ宿ヤトウクヒス」。又藤の爲相タメスケの歌に、「山路ヤマヂよりイテてやきつるサトちかき、鶴が岡べにナク郭公ホトヽキス」。法印堯慧ギヤウヱが歌に、「吹殘フキノコす春のカスミもをきつすに、たてるや鶴が岡の松かぜ」。一の鳥居トリイマヘ東西へトヲルマチを、【東鑑】には、横大路ヨコヲホチと有。
[やぶちゃん注:「桑原郷」現在の小田原市桑原。
「倍從」「べいじゅう」とも読み、本来は、神前で行われる東遊あずまあそびの舞(雅楽の国風歌舞)に於いて舞人に従って管弦や歌を演奏する地下じげの楽人を指すが、ここではその東遊の舞の儀を言っているようである。
「鶴が岡こだかき松を吹風の、雲井にひゞく萬代の聲」足利尊氏の四男で初代鎌倉公方足利基氏(興国元・暦応三(一三四〇)年~正平二十二・貞治六(一三六七)年)の歌。
 鶴が岡小高き松を吹く風の雲井にひびく萬代の聲
「鶴が岡あをぐつばさのたすけにて、高きにうつれ宿の鶯」公卿五条為実(文永三(一二六六)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)の歌。
 鶴が岡仰ぐ翼の助けにて高きに移れ宿の鶯
「山路より出てやきつる里ちかき、鶴が岡べに鳴郭公」冷泉為相の歌。
 山路より出でや來つる里近き鶴が岡べに鳴く郭公
「吹殘す春の霞もをきつすに、たてるや鶴が岡の松かぜ」堯慧の「北国紀行」所収。以下の前書を持つ。
明くれば鶴が岡へ參りぬ。靈木長松連なりて、森に似たるに、玉を磨ける社頭のたゝずまひ、由比の濱の鳥居遙に霞渡りて、まことに妙なり。
 吹殘こす春の霞も奥つ洲に立てるや鶴が岡の松風
○やぶちゃんの通釈
……風の吹き残した春霞も……そして……由比の沖の州浜に降舞い降りている鶴も……そうして……この鶴が岡の松を吹き抜ける風も……皆、立っていることだ……
「一の鳥居」後注でも示す通り、現在の三の鳥居である。]
《若宮大路》一の鳥居トリイより、大鳥居までを、若宮大路とあり。今は堅横タテヨコともに、若宮小路コウジイフなり。社の西の町を、馬場ババ小路と云なり。《雪の下》總名を雪下ユキノシタと云なり。此のトコロに旅店あり。法印堯慧が歌に、「ハルふかき跡あはれなりコケウヘの、花にノコれるユキ下道シタミチ」と詠ず。社前よりハマまでのミチ、其の中の一段高き所を段葛ダンカヅラと名く。又は置路ヲキミチとも云なり。【東鑑】に、壽永元年三月十五日、鶴岡の社頭より、由比濱ユイノハマにいたるまで、曲横キヤクワウナヲして、詣往ケイワウの道を造らる。御臺所ミダイドコロ政子マサコ御懷孕ゴカイヨウの御イノりに依て、此のを始めらる。賴朝手自テヅカラ沙汰し給ふ。仍て北條殿ホフデフドノ已下、各々土石を運ばるとあり。三所にイシの鳥居あり。赤橋アカハシの前の鳥居より、間だ、四町十五間半にして又鳥居あり。二の鳥居と云。二鳥居より間だ、六町四十五間にして鳥居あり。三の鳥居也。是を大鳥居と云ふ。
[やぶちゃん注:「春ふかき跡あはれなり苔の上の、花に殘れる雪の下道」堯慧の「北国紀行」所収。以下の前書を持つ。
彌生半ばに成ぬ。常和にいざなはれて、扁舟に浦傳ひし、又鎌倉に至り、建長・圓覺兩寺巡見して、雪の下といふ所をわけ侍るに、門碑遺跡數知らず。あはれなる老木の花、苔の庭に落て道を失ふかと見ゆ。  春深き跡哀れなる苔の上の花に殘れる雪の下道
「常和」東常和(とうのつねかず 康正二(一四五六)年~天文十三(一五四四)年)は武将・歌人。尭恵は当時、相模国三浦郡芦名(現・横須賀市芦名)にいた彼に古今伝授を行っている。
「壽永元年三月十五日、……」同年は五月の寿永への改元であるから、正しくは養和二(一一八二)年三月である。以下、「吾妻鏡」の当該記事を引く。
十五日乙酉。自鶴岳社頭。至由比浦。直曲横而造詣往道。是日來雖爲御素願。自然渉日。而依御臺所御懷孕御祈故。被始此儀也。武衞手自令沙汰之給。仍北條殿〔時政〕已下各被運土石云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十五日乙酉。鶴岳社頭より由比の浦に至るまで曲横を直して詣往の道を造る。是れ、日來御素願たりと雖も、自然じねんに日を渉る。而るに御臺所御懷孕くわいようの御祈に依て、ことさらに此の儀を始めらるなり。武衞、手づから之を沙汰しめ給ふ。仍りて北條殿〔時政〕已下各々土石を運ばると云々。
自然じねんに日を渉る」はそう願いながらも、なかなか仕儀に及ぶことなく、等閑に日を経てしまっていたが、の意。この段葛の部分は当時、現在よりも深く入り込んでいたと思われる海岸部と周囲の谷戸から流出する水脈が合わさって、かなりの湿地帯となっていたと思われ、工事は想像以上に困難を極めたようである。
「三所に石の鳥居あり」再掲で、後の図の注記でも示してあるが、鳥居の名称が現在のものとは全く異なる。以下に違いを示す。
《現呼称》一の鳥居(一番由比ヶ浜に近い鳥居)→《本書》「大鳥居」「三の鳥居」
《現呼称》三の鳥居(鶴ヶ岡八幡宮社頭の鳥居)→《本書》「一の鳥居」
本書では、この「一の鳥居」=「現在の三の鳥居」を鎌倉の中心点として各所への距離計算を行っているため、本書全般を読む上では極めて重大な違いである。なお、本記載の鳥居間の距離は現在の実測とほぼ一致する。]
《琵琶小路》二・三の鳥居のアヒダミチイニシヘソトの方へマガりて、琵琶ビハカタチの如し。故に琵琶小路ビハコウジと云。此間にハシあり。琵琵橋ビハハシと云。る記に云、昔し和田合戰の時、宍戸シヽド左衞門家政イヘマサ、琵琶橋に於て、朝夷名義秀アサイナノヨシヒデと戰ふてウタると、大鳥居より波打際ナミウチギハまで五町あり。
[やぶちゃん注:「宍戸左衞門家政」(?~建暦三(一二一三)年)八田知家四男。和田合戦で朝比奈義秀と戦い、討死にしたとされるが、これはソースが分からない(「吾妻鏡」ではない)。識者の御教授を乞うものである。
「大鳥居より波打際まで五町あり」「五町」は約五四五メートル。現在の地図上の海岸線まで計測すると、直線距離で六五〇メートルであるから、本書が書かれた一六五〇年代(現在より三五〇年前)の海岸線でさえ内陸へ一〇〇メートル以上下がっていたことが分かる。恐らく鎌倉時代はそこよりももっと内陸に海岸線があったと考えるのが河川の堆積効果から考えても自然である。なお、本書の「五町」に相当する位置は、現在の湘南道路海側に一致する。]
《由比濱》此の濱邊ハマベ、東は飯島イヒシマ、西は靈山崎リヤウゼンガサキ、其の間た、二四町あり。由比ユヒの〔比或は作居井(「比」は或は「居」「井」に作る)〕ハマと云ふ。賴朝卿、此の浦邊ウラベにて、弓馬のゲイを興じ給ひてより、代々の將軍此のハマへ出遊の事。【東鑑】に見へたり。


鶴岡八幡宮圖
[やぶちゃん注:底本では横に二頁に渡って配されているものを、縦にして見易くした。上方や中間部で画が切れているが、これは原本のママである。]

[やぶちゃん字注:以下、例えば「大鳥居」の見出しの次の行以下は、鶴岡八幡宮寺の各論として底本では次の「辨才天社」の前まで全体が一字下げとなっている。本頁ではブラウザ上の不具合を鑑みて字下げを行っていない。各項毎に総て同様であるので本注は以下省略する。図をご覧になると分かる通り、本文でも述べているが、鳥居の名称が現在のものとは全く異なるので本書全般を読む上で、注意を要する。現在、我々が一の鳥居と称している一番由比ヶ浜に近い鳥居は「大鳥居」「三の鳥居」であり、鶴ヶ岡八幡宮社頭の、現在、三の鳥居と呼んでいるものが、当時の「一の鳥居」である。本書ではこの「一の鳥居」=「現在の三の鳥居」を鎌倉の中心点として距離計算を行っているので、御間違いなきように。]


大鳥居ヲホトリヰ 由比濱ユヒノハマの方に有を大鳥居と云、兩柱の間だ、下にて六間半、高さ三丈壹尺五寸。石柱のめぐり、壹丈二尺五寸、笠石カサイシの長さ八間なり。一・二の鳥居は、兩柱の間だ、下にて四間、ハシラのめぐり七尺なり。東西の透門トヲリモンに、又鳥居あり。兩柱の間だ壹丈三尺五寸、柱のめぐり四尺五寸。東西同じ。スベ五所イツトコロに鳥居あり。【東鑑】に、治承四年十二月十六日、鶴が岡の若宮に鳥居を立らるとあり。又【鶴岡社務次第】に、養和元年辛丑十二月十六日、若宮に鳥居を立らる。景時カゲトキ景義カゲヨシ等奉行す。武衞〔賴朝〕監臨し給ふとあり。又【東鑑】に、建保三年十月卅日。鶴が岡のハマの鳥居、アラタに造らる。去る八月の大風に、顚倒するが故なり。仁治二年四月三日、大地震、南風に、由比の浦の大鳥居、内の拜殿、潮に引かる。寛元三年十月十九日、由比濱に大鳥居をタテらる。北條左親衞時賴トキヨリ、監臨せらるとあり。【鎌倉九代記】に、上杉ウヘスギ安房の守入道道合ダウガフ、嘉慶二年六月、大華表を立られ、落慶供養をトゲらるとあり。【關東兵亂記】に、北條氏康ウヂヤス、先君の遺願をも果し、カツは武運の榮久をも祈らん爲に、天文二十一年卯月に、由比の濱に大鳥居修造せらるとあり。賴朝ヨリトモの時建立有て、代々修復あり。今の鳥居は、寛文乙巳キノトミの年より、戊申ツチノヘサル秋にイタルまでカミシモミヤ、諸の末社等にイタルまで、御再興有し時の鳥居なり。其書付カキツケに、鶴岡八幡宮の石隻華表、寛文八年戊申八月十五日、御再興とあり。三所ミトコロの鳥居共に如斯あり(斯くのごとくあり)。鳥居のイシは備前の國犬島イヌシマより取寄トリヨセらる。其の時の奇瑞等の事、【寛文年中修復記】にツマビラカなり。
[やぶちゃん注:「大鳥居」(現在の一の鳥居)は典型的な明神鳥居で、最上層の笠木の下に島木があって反りが加えられている。柱は地面に対して少し傾斜(転び)をつけて八の字型を示す。以下、「柱の間だ、下にて六間半、高さ三丈壹尺五寸。石柱のめぐり、壹丈二尺五寸、笠石の長さ八間なり」というデータをメートル法で示す。
●「大鳥居」(=現在の一の鳥居の旧称)
左右柱間距離(下部計測):約一一・八メートル
高さ:約一〇・四メートル
左右石柱円周:約三・八メートル
最上方に配した笠石の幅:約一・五メートル
となる。これは現在の同じ場所に立つ、
■現在の一の鳥居(=「新編鎌倉志」の「大鳥居」の新称)
高さ:約八・五メートル
左右円柱直径:約〇・九二メートル
左右円柱円周:約二・八メートル
最上方に配した笠石の左右の長さ:約十三メートル
で、この「新編鎌倉志」の記載の数値の方が遙かに高く、大きい。ところが、現在のものは、光圀が生まれる五年前、寛文八(一六六八)年に江戸幕府第四代将軍徳川家綱によって寄進再建(この時に木造から石造に作り直されている)された石造明神鳥居が関東大震災によって倒壊後、昭和十二(一九三七)年に復元されたものなのである。ということはこの高さの数値は一致して当たり前のはずなのであるが……不思議である。識者の御教授を乞う。なお、残りの鶴岡八幡宮寄りの二つの鳥居は関東大震災で倒壊、復元ではなくコンクリートで造り直されたものであるので比較する意味があまりない。これらも家綱によって石造再建されたものである。
「東西の透門」流鏑馬馬場の東西の入り口をいう。叙述の感じからはここも石造である。
「上杉安房の守入道道合」は上杉憲方(建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)のこと。道合は法号・戒名で正式には明月院天樹道合。墓所は明月院に現存。関東管領。
「嘉慶二年」は西暦一三八八年。
「大華表」大鳥居。
「北条氏康(永正十二(一五一五)年~元亀二(一五七一)年)相模の戦国大名。後北条氏第三代当主。関東から山内・扇谷両上杉氏を追放、武田氏・今川氏との間に甲相駿の三国間同盟を結ぶなど、世に相模の獅子と謳われた。古河公方を支配下に置き、上杉憲政との抗争で関東での実権を握った、この天文二十一(一五五二年)頃より、彼は関東管領を自称した。
「今の鳥居は、寛文乙巳の年より、戊申秋に至まで」寛文五(一六六五)年から同八(一六六八)年まで。
「其書付に、鶴岡八幡宮の石隻華表、寛文八年戊申八月十五日、御再興とあり」現在の復元された一の鳥居の東側の柱の旧材使用箇所に「寛文八年戊申八月十五日 御再興 鶴岡八幡宮石雙華表」と刻まれているのが現認出来る。
「備前の國犬島」現在の岡山県岡山市南西の瀬戸内海に浮かぶ島で花崗岩を産出する。大阪城の石垣にも使用されている。
「其の時の奇瑞等の事」鶴岡八幡宮公式HPの「宝物」の「大鳥居」のページに、『この鳥居建立に関して興味ある挿話が残っている。徳川二代将軍秀忠の御台(夫人)崇源院が将軍世継(家光)を懐妊したとき、八幡宮に安産の祈願をし、その御加護によって無事出産した。その霊験により崇源院は益々崇敬を篤くし、ある日「備前国犬島に奇石あり、その石を以って鶴岡社前の大鳥居を建立し給ふべし」という八幡大神のお告げを夢中に受けたため、次の社頭修営の時には必ずそのお告げを実行するように家光に頼み、他界された。それが実現されたのは家光の子家綱の時代であった』と載せるものを指す。]

辨才天社ベンザイテンノヤシロ 社前の池中東の方にあり。二間に一間の社なり。辨才天の像は、運慶が作なり。ヒザ琵琶ビハヨコたへたり。俗にツタふ、小松コマツ大臣のモチたる琵琶なりと。【東鑑】に、壽永元年四月廿四日、鶴が岡若宮の邊の水田〔號絃卷田(絃卷田ツルマキタと號す)〕三町アマり、耕作の儀をトメられてイケホラるとあり。池中にナヽつのシマあり。相ひ傳ふ、賴朝卿、平家追討の時、御臺所ミタイトコロ政子マサコの願にて、大庭ヲホバの平太景義カゲヨシを奉行として社前の東西に池をホラしむ。池中の東に四島、西に四島、アハセて八島を、東方よりこれをホロホすとシクす。東に三島を殘す。三はサンなり。西に四島をヲク。四はなりとイフコヽロなりけるとぞ。
[やぶちゃん注:「小松の大臣」平重盛。
「絃卷田」については、私が「吾妻鏡」の検索で参考にさせて頂くことの多い、HP「鎌倉歴史散策加藤塾」の中の「源平池について調べてみよう」に、「三町」(約三万平方メートル弱に相当)という数値を現在の源平池と比較した際、約『三分の一しかない。かつては、流鏑馬馬場から南全体が池だった。なお、弦巻田というのは、苗を弦が巻きつくように渦巻きに植えていく神へ捧げる為の米を栽培する斎田のことであろう』と記されており、加藤氏は飛騨高山の民家園でこれを実見されており、その際の田植えの方法について、田圃を丸く作って、中央に棒を立てて縄を結び、伸ばしたきったその縄の一方の端に三〇センチ間隔で苗を植えながら柱の周りをぐるぐると回っていく、すると『自然と渦巻き状に苗は植えられていき、最後に縄の巻きついた柱を抜く』と述べられておられる。他にも、この辺りが古くから広大な湿地であり、そこに吉祥のシンボルである鶴がやってきては、稲籾を播いたからとか、神域として武将がここで弓弦を外したことによるといった由来説があるようだが、加藤氏のこの見解が最も腑に落ちるものである。リンク先は豊富な画像と、加藤氏の膨大な資料の渉猟によって成された、素晴らしいページである。一読をお奨めする。
「池中に七つの島あり」先に掲げた「鶴岡八幡宮圖」では正しく東側に三つ、西に四つあるが、現在、西の平家池は北半分に県立近代文学館本館が建って、島は二つに源氏、基、減じてしまっている。s_minaga 氏の「がらくた置き場」「相模鶴岡八幡宮大塔」の頁から、この琵琶を持った弁才天の写真(データ不詳)と、享保十七(一七三二)年版の鶴岡八幡宮寺境内図を以下に転載させて頂く。





彩色が美しく、境内の建物配置や源平池が明確に見て取れる。]

赤橋アカハシ 本社へ反橋ソリハシなり。五間に三間あり。ムカシより是を赤橋アカハシと云ふ。【東鑑】に往々ワウワウ見へたり。

二王門ニワウモン 三間に二間あり。ガクに、鶴岡山クワクカウサンとあり、曼殊院良恕法親王の筆なり。兩傍に二王の像あり。昔は八足ヤツアシモン有ける歟、【東鑑】に正治三年八月十一日、大風に、鶴が岡宮寺ミヤテラ八足ヤツアシの門顚倒の事あり。
[やぶちゃん注:絵図を見ると、流鏑馬馬場の先にあって、当時の境内がここに結界を造っているのがよく判る。なお、ここにあった仁王像は廃仏毀釈後、寿福寺に移されたとされ、寿福寺本堂内には旧鶴岡八幡宮寺仁王門仁王像と伝える二体が現存する。旧 s_minaga 氏の「がらくた置き場」「相模鶴岡八幡宮大塔」の頁から、以下に画像を転載する。


仁王門本体は同頁解説によれば、『浦賀の某寺に移され、浦賀の赤門と称されたと云う』ものの、現存しないと思われる、とある。
「曼殊院良恕法親王」(まんしゅいんりょうじょほうしんのう 天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)陽光院誠仁親王第三皇子で後陽成天皇の弟に当たる。曼殊院門跡(現在の京都市左京区一乗寺にある竹内門跡とも呼ばれる天台宗門跡寺院・青蓮院・三千院(梶井門跡)・妙法院・毘沙門堂門跡と並ぶ天台五門跡の一)。第百七十代天台座主。書画・和歌・連歌を能くした。]

舞殿マヒドノ カミの地へ登る石階イシノキザハシの下にあり。三間に二間あり。

石階イシノキザハシ 此石の階をノボり、北に向て本社へく也。是よりウヘカミの地云也。本社あり。是よりシモシモの地と云。若宮ワカミヤあり。此の石の階のシタ、東の方にナギあり。西の方に銀杏イチヤウあり。【東鑑】に、承久元年正月二十七日、今日將軍家〔實朝サネトモ〕右大臣右拜賀のタメ、鶴岡八幡宮に御參ヲンマイリ、酉の刻也。夜陰に及て、神拜の事終て、漸く退出せしめ給ふ處に、當宮別當阿闍梨公曉クゲウ、石の階のキハウカヾヒ來り、ツルギを取り、丞相ジヤウシヤウを奉侵(ヲカし奉る)とあり。相ひ伴ふ、公曉クゲウ、此銀杏イチヤウシタに女服を著てカクて、實朝サネトモコロすとなり。
[やぶちゃん注:「梛」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科ナギ Nageia nagi。雌雄異株。葉の形が特徴的な楕円状被針形を成し、針葉樹でありながら広葉樹のような葉形を示す。特に熊野系の神社で神木とされる。船乗りには、その名が凪に通じるとして信仰され、葉を厄災除けにお守り袋や鏡の裏などに入れる習慣がある(以上はウィキの「ナギ」を参照した)。
「承久元年正月二十七日」正しくは建保七(一二一九)年。承久への改元は同年四月十二日。
「公曉、此銀杏の樹の下に女服を著て隠れ居て」公暁(当時満十七歳)は建保五(一二一七)年六月二十日に鎌倉に戻って、政子の意向により鶴岡八幡宮寺別当に就任しており、わざわざ隠れ潜むまでもなく、先般倒木したこのイチョウは当時あったとしてもひょろひょろの苗木であったと思われ、隠れ潜むこと自体が出来なかったと思われる。]

樓門ロウモン ガクに、八幡宮寺ハチマングウジとあり。良恕法親王の筆なり。樓門、三間に二間あり。回廊クワヒラウは、樓門にツヾメグらす。北の方は十四間、東西十六間づゝ、南面にて樓門の東西四間づゝあり。前に銅燈臺ドウトウダイ二樹兩傍にあり。左の方にある燈臺の銘に、延慶三年庚戌七月、願主滋野景義シケノカゲヨシ、勸進藤原の行安ユキヤスとあり。右にある燈臺には、奉寄進鎌倉八幡宮殿燈籠(寄進し奉る鎌倉八幡宮殿の燈籠)、 向井將監忠勝(向井ムカヰ將監忠勝タヾカツ)、息子兵部鶴千代(息子兵部鶴千代ツルチヨ)、爲傳武運於長久、保壽算於遠大、而三身安樂、同苗繁茂故也(武運を長久に傳へ、壽算を遠大に保〔ち〕て、三身安樂、同苗繁茂の爲めの故なり)。仍ち銘に曰、燈籠玉成(燈籠、玉の如〔く〕に成る)、明德見新(明德、新を見る)、天命不昧(天命、昧らまず)、日月星辰、(爰に希くは武運)、咨保福來瑧(アヽ保福來り臻らんことを)、寛文龍集戊辰(寛文龍ほし戊辰に集る)、十一月如意珠日、相州三浦紫陽山白室叟書(書す)、勸進沙門莊嚴院法印賢融(勸進の沙門莊嚴院の法印賢融)、大工江州太田佐兵衞藤原友定(藤原の友定トモサダ)とあり。
[やぶちゃん注:「延慶三年」西暦一三一〇年。
「滋野景義」相模国の武将と思われるが不詳。「鎌倉市史 社寺編」には「滋野景善」とあり、こちらが正しいものと思われる。
「藤原行安」不詳。戦国武将に同姓同名がいるが、先の滋野と連名であって時代が合わないから、全くの別人。
「向井將監忠勝」(天正一十(一五八二)年~寛永十八(一六四一)年)。忠勝は江戸前期の武将・旗本で左近衛将監。徳川水軍として御船手奉行を勤めた。相模国三浦郡三崎宝蔵山を本拠とした(後に改易。罪状は不詳)。寛永九(一六三二)年には徳川家光の命により幕府の史上最大の「安宅丸」の造船を指揮、伊達政宗が支倉常長をローマに派遣した際の南蛮船「サン・フアン・バウティスタ号」の造船の際には、ウィリアム・アダムスとともに石巻まで出向いている造船の名手であった(以上はウィキの「向井忠勝」に拠る)。
「臻らん」は「いたらん」(至らん)と訓ずる。
「寛文龍集戊辰(寛文龍ほし戊辰に集る)」この「龍ほし」は、私は「とほし」(=通ほし)と訓じたが意味が分かってのことではない。識者の御教授を乞う。因みに寛文年間の年干支には「戊辰」はないから、この「龍」は辰で寛文四(一六六四)年甲辰を指し、「戊辰」は十一月の日附か? なお、寛文八(一六六八)年には鶴岡八幡宮に幕府より百三十六両の纏まった建造物小破の修理費が支給されて、小規模ながら修繕が行われた旨、「鎌倉市史 社寺編」に記載がある。
「相州三浦紫陽山白室叟」三崎にあった照臨山能救寺の住持。「俳諧三崎志」なる書物に、
照臨山能救寺 禪宗
本尊正觀音 俗に河豚觀音と云ふ。三浦第二札所。
傳へて云く、寛永の頃、この地に鈴木九左衞門、大井清左衞門、川端茂右衞門と云ふ者あり。或時三人海に出て釣するに、一奇石を釣り得たり。捨てること三度にして歸る。その夜各々靈夢に感ず。夙に起って前の所に至り釣りをするに、また右の石を得たり。洗淨して見れば、救世菩薩の像なり。即ち負ひ歸り紫陽山の白室禪師に奉ず。師即ち佛工をして、新たに佛像を作らせ、石像をば本尊として崇敬す。利益いちじるし。これに於いて、三人落髮し、三歸戒を受けて堂司となり、終に正念往生を得しとかや。その子孫今に存せり。元祿中、この地に精舍を移し猶正宗に安ず。
とあるとする(以上は個人のHP「三浦三崎ひとめぐり」の中の「俳諧三崎志」から孫引きしたが、私のポリシーから正字歴史的仮名遣に直した)。また、この寺は廃された模様だが、「三浦三十三観音霊場」の「見桃寺」に、この奇体な名の聖観世音像は現在の三浦市白石町の見桃寺にあるらしく、この見桃寺の創建は元和二(一六一六)年に江戸期水軍の将向井兵庫頭政綱が興津清見寺(せいけんじ:静岡市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺。正しくは巨鼇(こごう)山清見興国禅寺。)の白室玄虎和尚を迎えて開山したとある。この向井政綱とは恐らく向井正綱とも書き、先に出た向井忠勝の父である。遂に環が繋がった感がある。
「莊嚴院法印賢融」不詳ながら、この「莊嚴院」は後掲される鶴ヶ岡二十五坊の内の生き残った一つ、荘厳院と見て間違いない。]

上宮カミノミヤ 此即ちカミの地、本社應神天皇なり。此の地を元松岡モトマツガヲカと云。《大臣山》上のヤマ大臣タイシン山と云。【鶴岡八幡宮記】に、上宮カミノミヤ三所は、中は應神天皇、東は氣長足妃ヲキナガタラシ〔ヒ〕メ、應神の御ハヽ神功皇后也。西はヒメ大神、應神の御アネ也。シカレば應神の御チヽ仲哀天皇は、何れの處に坐し給へる。曰く、神宮寺に、本社垂跡合體にて坐し給ふ也。上のミヤ三所は、阿彌陀の三尊の義にる也。仲哀天皇は、本地は藥師なる故に奉除之也(之を除〔き〕て奉るなり)とあり。本殿は、タテ九間、ヨコ三間、幣殿ヘイテンは四間に三間、拜殿デンは、四間に二間なり。
[やぶちゃん注:「妃大神、應神の御姊也」これは比売神ひめがみで、現在ではアマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神(多岐津姫命たぎつひめのみこと市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと多紀理姫命たぎりひめのみことの三柱とされ、一説には八幡神顕現以前の古い地主神とも考えられている。いずれにせよ、この神名は具体的な実在する「應神の御姊」という意味ではなく、当該神社の主祭『神』の妻や娘・姉妹の女神を意味するものである。
「神宮寺」後述されているが、下宮の東方(絵図参照)にある「藥師堂」をいう。]

棟札ムナフダ
[やぶちゃん字注:ここは改行されている。影印では本文から二字下げ(実質三字下げ)となっているが、これらは「上宮」の分枝項目であることを示している。以下、影印では「鶴が岡」」「源の朝臣」「備前の守源の姓松平氏隆綱タカツナ」「修理藤原の長常ナガツネ」「木原内匠藤原の義永ヨシナガ」という送り仮名やルビが附されているが、棟札は白文と思われるので、ここに示しておくに留める。読点は底本で省略されているものがあり、その影印の「。」位置に追加して示した。]
上棟、相州、鎌倉鶴岡八宮、寛文八年、戊申、八月十五日、征夷大將軍右大臣正二位源朝臣修造、奉行、從五位下備前守源姓松平氏隆綱、大工鈴木修理藤原長常、木原内匠藤原義永。
[やぶちゃん注:「寛文八年」西暦一六六八年。
「從五位下備前守源姓松平氏隆綱」松平正信(元和七(一六二一)年~元禄五(一六九三)年)。初名、隆綱。大名・奏者番。相模国玉繩藩第二代藩主。従五位下備前守。幼少より徳川秀忠に仕え、後に家光上洛にも供奉した。鶴岡八幡宮修造奉行や日光東照宮石垣等修理奉行を勤めている(以上は思文閣「美術人名事典」に拠った)。「鎌倉市史 社寺編」に、『寛文五年(一六六五)十一月二十六日、幕府は甘繩の邑主松平隆綱(正信)の家士に八幡宮朽損の状態を調べさせたが、やがて隆綱が奉行となった修造が始め』、前述した三つの大鳥居の石造による再建が行われ、『八年になって上下両宮以下の修造が成り、八月十五日に正遷宮が行われた。将軍家綱は正遷宮の施物として鳥目二百貫文を進納』したとある。また、『現在社務所の前にある石の漱盤は奉行を勤めた隆綱が奉納したものである』とある(この『幕府は甘繩の邑主松平隆綱(正信)の家士に』というのは「玉繩」の誤りであろう。またこの「幕府が……家士に」という言い方はおかしい)。]

武内タケチノ社 本社の西のカタハラ玉垣タマガキの内にあり。武内宿彌タケチノスクネなり。社は二間に一間あり。玉垣タマカキ、北の方にて十二間、東西は八間あり。

座不冷壇所ザサマサズノダンシヨ 回廊クワヒラウの東方にあり。天下安全の御祈願所なり。御正體ミシヤウタイと號して、ダンカマへて、カヾミに彌陀の像を打付たる物を厨子ヅシに入、ジヤウをおろして有。又立像の十一面觀音、坐像の金銅の藥師も厨子にる。十二坊、輪番に一晝夜つゝ相勤む。最勝王・大般若・仁王等の經をカハる更る讀誦す。レイヲト常に社外にヒヽく。是を座不冷ザサマサズの行法と名く。平生勤め行て坐をさまさずと云義なり。鎌倉の俗語には、ざすと云也。龜山帝の時、御夢想に依て、御祈禱の綸旨院宣を成し下さる。弘安八年三月十七日に、始て勤め行ひしより、今に懈怠なしと云なり。按ずるに。【東鑑】に、治承四年十月十六日、賴朝ヨリトモの御願として、鶴が岡のミヤにて長日勤行を始めらる。所謂(謂は所る)法華・仁王・最勝王等の鎭護國家の三部の妙典、其の外大般若・觀音經・藥師經・壽命經等也とあり。ムカシより有事と見へたり。毎日の勤行を著到に記するなり。昔し賴朝卿、供僧の一臈を以て、始て執行職に補せられしより以來、祭祠・勤行・法例・著到等、皆執行ノ事也。
[やぶちゃん注:ここで五国鎮護のための驚異的な不断の行法が続けられていたのであるが、今は何の面影もない。唯一、ここに祀られていたものを廃仏毀釈時に寿福寺に移した銅造薬師如来坐像とが残るのみである(鎌倉国宝館保管)。



上の写真はは、s_minaga 氏の「がらくた置き場」「相模鶴岡八幡宮大塔」の頁から当該像の画像を転載させて頂いた。]

小御供所コゴクシヨ 樓門の西の方の囘廊にあり。毎月、朔日・十五日、又五節供に、御供コクソナフる所なり。御殿司一人出て、八幡宮幷に諸末社等に供す。

賴朝社ヨリトモヤシロ 本社西の方にあり。三間に二間あり。玉垣タマガキ、東西四間、南北六間あり。《白旗明神》白旗シラハタ明神と号す。社内に賴朝の木像、左に住吉スミヨシ。右に聖天シヤウテンを安ず。賴家ヨリイヘ創造也と云傳ふ。寛文戊申ツチノヘサルの御再興以後、毎年正月十三日、御供ゴクケンじ、ガクソウし神事あり。
[やぶちゃん注:「寛文戊申」西暦一六六八年。]

竈殿カマドノ 賴朝社ヨリトモヤシロの西の方にあり。五間に三間あり。【八幡宮記】に、八幡のヲバ寶滿菩薩を安ずとあり。俗に、おみるめとも申すと也。此の所ろ大御供所なり。毎年正月三箇日、四月三日の御祭禮五々三の御供、御寶殿にタテマツる。ガクを奏するなり。
[やぶちゃん注:福岡県太宰府市の宝満山麓にある竈門かまど神社に代表される竈神を祀る。竈門神社は玉依姫命を主祭神として相殿に神功皇后・応神天皇を祀る八幡神所縁の神社で、宝満山は平安期、渡唐僧最澄や円仁が渡航の安全祈願を行い、空海にも縁のある修験道の道場であり、竈神を別に宝満大菩薩と称した。
「おみるめ」竈神の異称であるが、不詳。激しく識者の御教授を乞いたい。]

愛染堂アイゼンダウ 賴朝ヤシロムカふにあり。堂三間四方あり。愛染像は、運慶作。又堂内に地藏あり。二位尼ニイノアマ〔政子〕の本尊と云傳ふ。たしかならず。供僧の云く、赤橋アカハシの東方に昔し地藏堂あり。礎石今尚を存す。此堂の本尊を二位のアマの本尊と云ふ。今は在所不知(知れず)と。
[やぶちゃん注:s_minaga 氏の「がらくた置き場」「相模鶴岡八幡宮大塔」の頁によれば、この愛染明王像は廃仏毀釈により、後掲する薬師堂の仏像群と一緒に『八幡宮境外の松源寺に移され、その後寿福寺に運び出される。さらに普門寺(東京秋多町、寿福寺末寺)住職の懇願』を受けて、明治十九(一八八六)年頃より以前に譲渡されるが、その後、この愛染像だけは政治家小泉策太郎氏の所有になり、現在は五島美術館が所蔵する、とある。以下に、同頁から小泉氏所蔵当時の写真を転載させて頂く。



本像は重文で、写真を見ても実に優れた作物であることが分かる。]

稻荷社イナリノヤシロ 本社の西の方、愛染堂の西の山にあり。二間に一間あり。井垣イガキ三間四方也。此山を丸山マルヤマと云なり。本社の地に、ハジメ稻荷イナリヤシロありしを、建久年中、賴朝卿、稻荷イナリの社を此山に移して、今の本社を剏建サウケンせらる。爾後頽破す。《酒の宮》今の稻荷イナリの社ろ、モトは仁王門の前に有て、十一面觀音と、醉臥スイグハの人の木像モクザウとを安じ、サケの宮と號す。近き頃大工遠江トヲトヲミと云者有。甚だサケコノンコレを寄進す。《松岡稻荷》寛文年中の御再興の時、其テイ神道・佛道にカツコト也とて、サケの宮醉臥の像を取捨トリステて、觀音ばかりを以て、稻荷の本體として、此丸山マルヤマに社をて、フルきに依て松岡マツガヲカの稻荷と號す。前の鎌倉の條下に詳なり。十一面觀音を稻荷明神本地と云傳る故に、此社内にも十一面を安ずる也。
[やぶちゃん注:「酒の宮」については、恐らく本書以外に別ソースのデータはないように思われるが、まことに面白く興味深い話だけに惜しい。もし、御存知の方があれば、是非、御教授願いたい。]

影向石ヤウガウイシ 相ひ傳ふ、正應二年二月四日、大風雨して、此石涌出す。供僧圓頓坊の夢に、座不冷ザヽマサズの行法を聽聞のために、龍神の來る座石也と。イニシヘは一つり。今は二つ有。いづれを眞僞シンギとしがたし。
[やぶちゃん注:「影向」は難読語でよく出題されるが「ようごう」と読み、神仏が仮の姿で垂迹すること若しくは神仏の来臨を言い、神が降臨する際に御座みくらとするとされる石をこう言う。安政二(一八五五)年四月に鎌倉を訪れた江戸の李院なる女性の書いた「江ノ島紀行」に鶴岡八幡宮を詣でた部分に『石段をあがれば、右に鶴龜石・影向石とて三つあり』とある。]

鶴龜石ツルカメイシ 水にてアラへば光浮いでゝ、鶴龜のゴトきものカヽヤき見ゆなり。影向石と共に、本社の前左の方にあり。
[やぶちゃん注:現在、この石は石段下の舞殿東側の、赤橋を渡った白幡社に向かう道筋にある。]

六角堂 回廊クハイラウの外東の方、座不冷ザサマサズの壇の前の庭にあり。六十六部のヒジリ經を納る堂なり。
[やぶちゃん注:ここで述べておくと、こうした仏教関連施設は廃仏毀釈令によって完膚なきまでに破壊された。「鎌倉市史 社寺編」の「鶴岡八幡宮」の「八 神仏分離とその後」には、明治三(一八七〇)年五月までに諸堂宇は破壊され、古材木として売り払われ、仏像・経典・仏具も売却・焼棄、古物店に曝され、それらがまた各所を流転する様が述べられている。『鐘楼にあった正和五年鋳造銘の梵鐘は、横浜の古道具商が買取って鎌倉で鋳潰して持って行』き、『附近の町家には破壊された堂舎の古材を使用したものがあるといわれている』とその惨状を伝える。後で鐘銘が掲げられるが、正和五年とは西暦一三一七年、当時から遡っても五五〇年以上(今からなら凡そ七〇〇年)も昔の鎌倉時代の銘鐘であった。全く以て愚かな話である。自虐史観修正なんぞを声高に叫び、海外に流出した美術工芸品を返せと主張する前に、我々が過去にどんなに愚かしいこをして来たか、してしまったかをしっかりと検証する必要がある。過去の自分たちの愚かさを知らずにいることは少なくとも人として恥である。]


下宮シモノミヤ 上の地のイシキザハシを下り、東の方なり。ガクに若宮大權現とあり。靑蓮院尊純法親王の筆也。是を若宮ワカミヤと申す。仁德天皇なり。【東鑑】に、治承五年五月十三日、鶴が岡若宮の營作の事あり。大工は、武州淺草アサクサ字は郷司ガウシと云者也。當宮は、去年カリに建立の號有といへども、楚忽ソコツの間だ、先づ松のハシラカヤノキモチヒらる。仍て花構の儀をなし、專ら神威をカザらる。同〔じ〕く八月十五日、鶴が岡若宮遷宮とあり【鶴岡八幡宮記】に云、シモミヤ四所とは東二所、久禮クレ宇禮ウレ也。仁德の御イモトなり。中は若宮、則ち仁德なり。西は若殿ワカトノ、是も仁德の御イモトと云ふ。本殿は五間に三間、幣殿ヘイデンは四間に三間、拜殿は三間に二間、玉垣タマガキキタの方十間東西八間づゝあり。玉垣タマガキの内に梛樹ナギノキあり。【寛文年中修復記】に云、此の梛樹ナギノキ切取キリトルべき歟の事、凡慮を以てはかりがたきゆへ、寶前にてミクジを取る。切取べからずと治定して、今尚あり。棟札ムナフダカミミヤと同じ。但しシモの宮には、鶴が岡八幡の若宮とあり。
[やぶちゃん注:「靑蓮院尊純法親王」(天正十九(一五九一)年~承応二(一六五三)年)江戸前期の親王。京都粟田口の青蓮院四十八世門跡。後、天台座主となる。能書家としても知られた。
「【東鑑】に、治承五年五月十三日、鶴が岡若宮の營作の事あり。……」以下の内、「大工は、武州淺草アサクサ、字は郷司ガウシと云者也。」の部分は治承五(一一八一)年五月十三日の記事ではなく、凡そ二ヶ月後の七月三日の記事を五月十三日の記事に張り込んだものである。
三日丁丑。若宮營作事。有其沙汰。而於鎌倉中。無可然之工匠。仍可召進武藏國淺草大工字郷司之旨。被下御書於彼所沙汰人等中。昌寛奉行之。
〇やぶちゃんの書き下し文
三日丁丑。若宮營作の事、其の沙汰有り。而るに鎌倉中に於て然べきの工匠無し。仍りて武藏國浅草の大工、あざなは郷司を召し進ずべしの旨、御書を彼の所の沙汰人等の中に下さる。昌寛、之を奉行す。
この「若宮營作の事」とは、下宮社殿本体工事の起工式を指すか。
「當宮は、去年假に建立の號有といへども、楚忽の間だ、先づ松の柱、萱の軒を用らる。」の十三日の条は、本文で引用されていた前年の治承四年十月十二日の最初の小林郷への遷宮の際の仕儀を述べている。「號有といへども」遷宮して鶴岡宮の建立があったとは申せ、の意、「楚忽」は「そこつ」で、急場凌ぎであったために、の意。]

高良カウラ大臣社 カミの地の石の階を下り、左の方、ナギの東にあり。【八幡宮記】に云、又玉垂タマタレの大神と號す。應神の臣也。
[やぶちゃん注:福岡県久留米市の高良山にある高良神社に代表される八幡系の神。この祭神の本体については、武内宿禰説・藤大臣(神功皇后三韓征伐の際に高良神自ら皇后に従軍して名を藤大臣と称したという伝承のに基づく)説、月神説など様々な説が唱えられている。]

三島ミシマ熱田アツタ三輪ミワ住吉スミヨシの社 高良カウラの東にあり。四神同社なり。【東鑑】に、文治六年四月二日、鶴が岡の末社三島ミシマヤシロマツリとあり。又云、元曆元年七月廿日、鶴が岡若宮のカタハラに於て、社壇を新造し、熱田アツタ大明神を勸請せらると。又文治五年七月十日。鶴が岡の末社熱田アツタの社のマツリと有。

天照大神の社 カミの宮の石階を下り。右の方、銀杏イチヤウの樹の西の方に有。

松童マツダウ・天神・源太夫ゲンタイフエビス三郎の社 天照大神の西にあり。四神同社也。松童マツドウは、【八幡宮記】に、八幡の牛飼ウシカヒ也とあり。源太夫ゲンタイフは八幡の車牛クルマウシ也とあり。或は元大武ゲンタイフくなり。【東鑑】に建長五年八月十四日、ハジメて鶴が岡西の門のワキに、三郎大明神を勸請しタテマツらるとあり。宗尊將軍の時なり。
[やぶちゃん注:「夷三郎」は現在でも夷神の別名として通用しているが、本来は「夷」と「三郎」は異なった神であったものと考えてよい。「三郎」はイサナキとイサナミの最初に産んだ奇形児蛭子とも、大国主命(大黒)の三番目に生まれた子の事代主命とも言われ、後者が出雲の美保崎で命が魚を釣ったという伝承から「三郎」は魚と釣竿を持った姿で描かれる祀られるようになったともされる。それに海神・漂着神・来訪神として複雑に習合を繰り返してきたらしい夷神に更に習合して夷三郎という一体神化が行われたらしい。]
輪藏リンザウ 銀杏樹イチヤウノキの西の方にあり。五間四方なり。一切經あり。實朝サネトモ朝鮮チヤウセンへ書をツカはしモトめたる經と云傳ふ。按ずるに、【東鑑】に、建曆元年十月十九日、實朝將軍、永福寺に於て、宋本サウホンの一切經五千餘卷を供養せらるとあり。此宋本サウホンの經を轉傳して此の藏にをさめたるか。内に四天王を安ず。毘沙門は、渡海守護のタメに、朝鮮よりせ來るとなり。【鶴岡社務次第】に、建久五年甲寅十一月十三日、一切經供奉〔不載【東鑑】(【東鑑】に載せず)〕の事あり。しかれば賴朝の時より、一切經供養の事は有しとみへたり。
[やぶちゃん注:輪蔵は転輪蔵とも言い、経蔵の一種乍ら、その中央軸を中心に回転する円柱形や八角形等の多角形に貼り合わせた書架を配し、そこに大蔵経を収納した回転式書架を有するものを言う。なお、チベット仏教のマニ車と同様に、これを回転させると、それだけで経典を読誦したのと同じ利益が得られるとされる。s_minaga 氏の「がらくた置き場」「相模鶴岡八幡宮大塔」の頁によれば、この一切経は廃仏毀釈によって焼却の運命にあったが、明治四(一八七一)年、貞運尼(文政十(一八二七)年に下谷御徒町に生まれ、長唄の師匠から二十九才で出家、本郷の喜福寺で修行、浅草観音に深く帰依した尼。)が托鉢によって集めた資金で購入、浅草寺に奉納されたとある。その際、一切経は一八〇箱に収められて鎌倉から品川までは海路で、品川からは大八車を使って浅草寺に搬入された。東叡山寛永寺法親王に仕えた侠客新門辰五郎がこの搬入に力を貸したと伝える、とある。以下に、同頁より浅草寺に現存する、その画像示す。



廃仏毀釈からその仏法の魂救い得たのは――実にこうした庶民の力によるものであったのだ。――なお、ここにあった四天王像一切経とともに、浅草寺に移転したが、昭和二十(一九四五)年の空襲で焼失してしまった(一切経は疎開されていたので難を免れた)と s_minaga 氏の解説にある。]

護摩堂ゴマダウ 輪藏の前に有。五間に四間あり。五大尊は運慶作。大威德のノリたるウシアシヒザをかゞめたり。相ひ傳ふ、義經ヨシツネを調伏の時、ヒザりたりと也。【鶴岡社務次第】に、尊勝護摩ハジメ行はる。建武元年三月二十三日。擬八大佛頂(八大佛頂に擬して)人數八人、モトは十六人とあり。
[やぶちゃん注:「八大佛頂」とは、曼荼羅で示される仏陀の頭頂の徳を仏格化した仏頂のことで、「尊勝曼荼羅」では中央の大日如来の向かって右より時計回りに、白傘蓋仏頂・最勝仏頂・尊勝仏頂・放光仏頂・勝仏頂・広生仏頂・無辺声仏頂・発生仏頂の仏像や梵字が配される。]
藥師堂ヤクシダウ 下宮シモノミヤの東の方にあり。五間に四間なり。藥師・十二神の木像あり。是を神宮寺と云ふ。【東鑑】に、承元二年四月廿五日、實朝將軍鶴が岡の宮のカタハらに、始て神宮寺をタテらる。同年十二月十二日造畢す。今日ムマの刻に、本尊藥師の像を安置しタテマツらる。同月十七日、藥師の像開眼とあり。又建曆元年十一月十六日、尼御臺所アマミダイドコロの御願として、金銅の藥師三尊の〔三尺〕像を供養せらる。此本尊は、鶴が岡神宮寺に安置せらるとあり。その像、今座不冷ザザマザズの壇に金銅の藥師あり。是なるべしと云ふ。或人の云、是を神宮寺と云はアヤマリなり。神宮寺とは、別當職の所居を云なりと。然れども【東鑑】に、スデに是を神宮寺と有。又本社をも、【東鑑】には神宮寺と有なり。淸重キヨシゲの舞に、神宮寺の松風マツカゼと有は、この藥師堂の前の松樹の事也。今古松樹あり。
[やぶちゃん注:s_minaga 氏の「がらくた置き場」「相模鶴岡八幡宮大塔」の頁によれば、これらの仏像は廃仏毀釈により『八幡宮境外の松源寺に移され、その後寿福寺に運び出される。さらに普門寺(東京秋多町、寿福寺末寺)住職の懇願』を受けて、明治十九(一八八六)年頃より以前に譲渡されて、現在は塔頭新開院境外の薬師堂に安置されている旨の記載がある。以下に、同頁から薬師堂薬師三尊像及び十二神将の一体(どれであるかは判別不能)の写真を転載させて頂く。





「承元元年」西暦一二〇七年。
「建曆元年」西暦一二一一年。
「尼御臺所の御願として、金銅の藥師三尊の像を供養せらる。此本尊は、鶴が岡神宮寺に安置せらるとあり。その像、今座不冷の壇に金銅の藥師あり。是なるべしと云ふ」とあるのが、先の「座不冷壇所」の私の注で示した、廃仏毀釈時に寿福寺に移されて現存する銅造薬師如来坐像のことである。
「淸重の舞」義経四天王の一人、駿河次郎清重を主人公とした謡曲「清重」。清重(シテ)が伊勢三郎義盛(ツレ)とともに源義経に従おうと山伏に身をやつして武蔵国に至るも、梶原景時(ワキ)に見破られて自刃するまでを描く。現在は廃曲。]

タフ 若宮の前にあり。五間四面なり。五智の如來を安ず。【東鑑】に、文治五年三月十三日、鶴が岡の八幡宮のカタハラに、此の間だ塔婆をタテらる。今日空輪クリンをあぐ。二品ニホン〔賴朝〕監臨し給ふ。同〔じ〕く六月九日、御塔供養、導師は法橋觀性、願文は新藤の中納言兼光卿カネミツケウ草す。堀河ホリカハの大納言忠親タダチカ卿淸書すとあり。
[やぶちゃん注:先の注で示した「鶴岡馬塲本の塔婆」の五重塔とされるものは、これである。但し、本書の「鶴岡八幡宮圖」を見る限りでは、当時は九輪は持つものの、二層形式で、下層が方形、上層が円形平面を持った多宝塔(大塔)である。創建以降に、かく改築されたものか。多宝塔は、本邦のオリジナルな形式と考えられており、平安初期、空海が高野山に大日如来の三昧耶形さまやぎょうをモデルとして建立した毘盧遮那法界体性塔びるしゃなほっかいたいしょうとうがルーツとされる。この塔は三昧耶形そのままの宝塔形式(円形平面の一重塔)に裳階もこし(庇)を付けた二重の形式で、下層は本文にあるのと同じく方五間、内部には円形に並ぶ十二本の柱列が二通りあったらしい。これを大塔形式とも呼び、当初は真言宗寺院に多く建立されたが、密教の盛行とともに小型化簡略化され、下重を方三間、内部円形柱列を省略した現在見られるような形式の多宝塔が、天台宗や他宗の寺院でも広く建てられるようになったと考えられている(以上の多宝塔の歴史は平凡社「世界大百科事典」の「多宝塔」の記載を参照した)。本大塔については、 s_minaga 氏の「がらくた置き場」「相模鶴岡八幡宮大塔」というこの塔のためのページに、驚くべき膨大な資料と論考が、豊富な写真資料とともに示されている。是非是非、御覧あられたい。中でも元治元(一八六四)年十一月に、著名な画家チャールズ・ワーグマンの友人で、イギリス人従軍カメラマンであったベアト(Felice Beato 一八三二年~一九〇九年)が撮影した、それはまさに圧巻であるので、以下に転載させて頂く。s_minaga 氏によれば、本写真は厚木市立郷土資料館所蔵になるもので、『左は薬師堂(重層入母屋造)であろう。であるならば、右は二天門であろうか。以上であれば、大塔を西から撮影したものとなる』と推測されておられる。――この塔一つをとってみても――廃仏毀釈の愚かしさを実感されない方は、あるまい――


「五智如来」は五大如来ともいい、密教で言う五つの知恵を五体の如来に当てた、金剛界五仏を言う。それぞれ中央に大日如来(法界体性智:諸法の体性となる智。)、東に阿閦あしゅく如来(大円鏡智:法界の万象を顕現する智。)、南に宝生如来(平等性智:彼此の差別を滅して平等一如と観ずる智)、西に観自在王如来又は阿弥陀如来(妙観察智:諸法を分別し、衆生の機を観察して、説法断疑の働きを成す智。)、北に不空成就如来(成所作智:自利利他の妙業を成就する智。)を配す。
「願文は新藤の中納言兼光卿草す。堀河の大納言忠親卿淸書すとあり」とあるが、これは同文治五(一一八九)年五月二十九日の条からの張り込みで、時制が前後している。則ち、六月五日の供養のための願文が五月二十九日に既に届いていたのである。
「堀河の大納言忠親」は中山忠親(天承元(一一三一)年~建久六(一一九五)年)。平家都落後は昇進が停滞していたが、文治元(一一八五)年に源頼朝に有職の公卿として評価され、議奏公卿(源頼朝が親幕派公卿一〇名を推挙して朝廷に置いた職)に推挙された。建久二(一一九一)年には内大臣に就任している。]

鐘樓シユロウ タウの東の方にあり。二間四方あり。カネの大きさワタリ三尺五寸、アツサ三寸五分あり。メイあり。如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:先に「鎌倉市史」から引用したように、廃仏毀釈によって『横浜の古道具商が買取って鎌倉で鋳潰して持って行』ってしまった。以下の銘は底本では全体が二字下げ。字間も有意に空いている。]

  鶴岡八幡宮鐘銘幷序

夫當宮者、馬臺東戌之州、鶴岡甲區之地、摸男山之宗祧、弘尊廟之權扉以降、禮神之囿、頌祇之堂焉、禮頌丕儼、春禴之奠、秋嘗之儀矣、春秋幾囘、鎭護年尚、答貺日新、然間、去玆迎姑洗、不圖欠靈祠、肆深仰玄鑒、忽跂經始。課般※1兮、是尋是尺、用規矩兮、不愆不忘、土木之勤、既雖及兩祀、斧斤之功、殆可謂不日、傍斯苔壖、而復鴻基、先撃蒲牢、而發鯨音、乃作銘曰、冶鑪甫就、寶器鑄陶、龍文製妙、鳧巧奇標、形非哆※2、聲不※3窕、應陰陽律、入宮商調、小大共振、淸濁孔昭、帶霜早和、隨風自搖、式驚千界、高徹九霽、梵響無斷、覃三會朝。
[やぶちゃん字注:「※1」=「仁」-「二」+「垂」。「※2」=「口」+「弇」。「※3」=「木」+「夸」+「瓜」。最後から四句目は底本「式驚于界」で「于」であるが、影印で「千」と訂した。]

[やぶちゃん注:以下に、影印の訓読を示す。なお、訓読文から私が判断して、上記底本の読点の一部を句点に変更してある。
  鶴が岡八幡宮鐘の銘幷に序
夫れ當宮は、馬臺東戌の州、鶴岡甲區の地、男山の宗祧を摸し、尊廟の權扉をヒロメ以降ヨリコナカタ、禮神の囿、頌祇の堂、禮頌丕に儼、春禴の奠、秋嘗の儀、春秋幾く囘、鎭護年尚〔し〕く、答貺日に新〔た〕なり。然る間、去玆コゾ姑洗を迎へ、圖らず靈祠を欠く。肆に深く玄鑒を仰ぎ、忽ち經始を跂つ。般※1に課して、是れ尋是れ尺、規矩を用〔ひ〕て、愆まらず忘れず、土木の勤め、既兩祀に及ぶと雖ども、斧斤の功、殆ど謂ふべき日あらずと。斯の苔壖に傍て、鴻基を復す〔に〕、先づ蒲牢を撃〔ち〕て、鯨音を發す。乃し銘を作〔り〕て曰、冶鑪甫めて就る。寶器鑄陶、龍文製妙、鳧巧奇標、形哆※2に非ず、聲※3窕ならず、陰陽の律に應じ、宮商の調に入る。小大共に振ひ、淸濁孔だアキラかなり。霜を帶びて早く和し、風に隨〔ひ〕て自ら搖ぐ。式て千界を驚〔か〕し、高く九霽に徹す。梵響斷〔つ〕ること無く、三會の朝に覃ぶ。正和五年二月 日
[やぶちゃん字注:「※1」=「仁」-「二」+「垂」。「※2」=「口」+「弇」。「※3」=「木」+「夸」+「瓜」。]
なお、影印ではこの部分は次の「正和五年二月日とあり」に改行せずに繋がっており、鐘銘は「正和五年二月日」までと考えるのが自然であるから、以上の書き下しでは最後にそれを置いておいた。
・「馬臺東戌」の「戌」は「鎌倉市史 考古編」の早稲田大学金石文研究所所蔵の拓本から起したものよれば、「成」とある。
・「男山」男山八幡宮。石清水八幡宮の旧称。
・「宗祧」は「そうてう(そうちょう)」と読み、祖先を祭る廟又は国家の意。
・「囿」は「ゐう(いう)」で、区切られた園や領域を示し、ここでは結界の意。
・「丕に」は「おおいに」と訓じているか。
・「春禴」春の祭事。
・「春秋幾囘」の「囘」は「鎌倉市史 考古編」では「廻」。
・「答貺」「貺」は「きやう(きょう)」「かう(こう)」と読み、答えを賜う、の意であるから、これは神託霊言のことを言っているように思われる。
・「姑洗」三月の異称。
・「忽跂經始」の「跂」は「鎌倉市史 考古編」では「跋」であるが、これでは意味が通らないように思われる。影印で「跂つ」と訓じており、これは恐らく「つまだつ」、切望するの意で、私には意味が落ちる。
・「般※1」(「※1」=「仁」-「二」+「垂」)は「はんすい」と読み、名人の鋳物師を指す。中国古代の名工、魯般と工※1のこと。
・「愆まらず」は「あやまらず」と訓ずる。
・「既雖及兩祀」の「兩」は「鎌倉市史 考古編」では「雨」。
・「苔壖」は「たいぜん」「たいねん」と読み、苔の生えた空き地の意かと思われる。
・「傍て」は「そふて」(沿ふて)と読ませているか。
・「鴻基」大きな事業の基礎の意。梵鐘の吊り下げと初音を打つことを言うか。
・「乃し」は「それがし」と訓じているか。
・「冶鑪甫めて就る」は「やろはじめてなる」と訓じていよう。鋳造が遂に成ったの意。
・「鳧巧奇標」「鳧」は「ふ」で「鳧鐘」、梵鐘のこと(中国の古伝承で音楽を司る鳧氏が初めて鐘を作ったとされることに由来)。「奇標」は優れた品格。
・「形非哆※2](「※2」=「口」+「弇」)の「哆※2」は「鎌倉市史 考古編」では「侈揜」。いずれの「しえん」「しあん」と読むものと思われるが。意味は不詳。「侈」から考えるとその荘厳しょうごんは過剰に華美ではないということを言っているか。
・「聲不※3窕」(「※3」=「木」+「夸」+「瓜」)の「※3」は「鎌倉市史 考古編」では『「扌」+「夸」+「瓜」』。「窕」は「てう(ちょう)」であるが、「※3」がお手上げである。識者の御教授を乞う。
・「宮商」中国音楽の五つの音高、五声(五音)のこと。宮・商・角・・羽。西洋音階に比すと宮はド、商はレ、角はミ、徴はソ、羽はラに相当する。
・「孔だ」は「はなはだ」と訓じた。
・「式て」は「もつて」(以って)と訓じていよう。
・「三會」は「さんゑ」と読み(連声で「さんね」とも)仏が成道後に衆生済度のために行う三度の説法を言う。
・「覃ぶ」は「およぶ」と訓じた。
・「正和五年二月」この五ヶ月後の正和五(一三一六)年七月に北条高時が執権となり、元享元(一三二一)年の後醍醐天皇親政の開始、正中元(一三二四)年の正中の変と――幕府の日没を告げる梵音は既に、近づいていた。]
正和五年二月日とあり。【鶴岡社務次第】に、應永十三年七月十八日、小町コマチの邊に火事出來、大風餘煙鐘樓シユロウに吹付るキザミ、一心院の大工、ハカリゴトを致し、鐘樓に上り、彼の火を消す。然して新に造り訖る。銘は、正和年中の古本を寫す。建長寺廣嚴菴大建書之(之を書す)とあり。
[やぶちゃん注:「應永十三年」西暦一四〇六年。
「一心院」十二所の明石ヶ谷(光触寺の南方柏原山下)にあった寺。宗旨不詳。私はこの「一心院の大工」という表現が気になって仕方がない。更に言わせてもらうなら、遙かに離れた「一心院の大工」が何故、この鐘楼の消火に当たっているのかも不審なのである。識者の御教授を乞う。
「然して新に造り訖る。銘は、正和年中の古本を寫す」という叙述が、また気になる。「新に造」ったのは鐘であろう。ということは、明治当初まで残っていた鐘は実は、鋳造後九十年後に再鋳復元したものではなかったか? でなければ、わざわざ建長寺の僧大建が『銘は、正和年中の古本を寫す』とは書かないのではないか? 銘を記録するのなら実物の鐘に基づくのに若くはないのに、わざわざ古本を写したのは、それが正しい原型であることを大建は示したかったからではないか? さすれば――先の注で示した「鎌倉市史」の拓本と本記載の鐘銘が微妙に異なる意味も見えてくるように思われるのであるが……識者の御判断を乞うものである。]

實朝サネトモノ社 本社の西、サカの下にあり。二間に一間の社なり。柳營リウエイ明神と號す。賴經ヨリツネの剏造と云傳ふ。
[やぶちゃん注:「剏造」は「さうざう(そうぞう)」で新しいものを始めて造ること。]

北斗堂跡ホクトノタウノアト 今はホロビたり。古跡不分明(分明ならず)。【東鑑】に、建保四年八月十九日、鶴が岡のミヤの傍に、別當定曉僧都、北斗堂ホクトダウを建立す。尼御臺所アマミダイドコロ、御入堂とあり。又相承院藏書の【鎌倉記】に、應永年中に再興の事みへたり。今はなし。
[やぶちゃん注:妙見信仰に基づく祭祀堂。仏教の北辰妙見菩薩に対する信仰であるが、元は道教の星辰信仰、特に北極星及び北斗七星に対する信仰に起源をもつ。]

神寶[やぶちゃん字注:ここは改行されている。]

ユミ  壹張。

ウツボ  壹口。
[やぶちゃん注:「靫」「空穂」とも書く。射手の腰や背に装着する矢を納めるための細長い筒。通常は竹製で漆塗で、表面に毛皮や鳥毛・毛氈などを張ったものなどもある。えびら。]

眞羽矢マハノヤ 十五本。クロし。ヤジリは皆眞鍮なり。其中に如此(此〔の〕ごとく)の鏃あり。長さ三寸二分。


如此(此のごとき)鏃あり。長さ一寸一分。ツネにはコトなり。

[やぶちゃん注:「篦」は矢の竹で出来た 柄の部分 。矢柄。]

衞府太刀エフノタチ 壹振。長二尺餘。無銘(銘無し)。サヤ梨地ナシヂなり。
[やぶちゃん注:ウィキの「太刀」によれば、『六衛府に使える武官が佩用した太刀。兵仗用の簡素なものと儀杖用の豪壮なものの二通りがあった。時代が下るにつれ細太刀と同一化される形で儀杖用のものだけが残り、兵杖用のものは後述の厳物造太刀や黒漆太刀へと発展、変化した。儀杖用のものは鍔が「唐鍔(からつば)」もしくは「分銅鍔」と呼ばれる独特の形状をしていることが特徴で』、太刀の前身とされる実戦用の刀剣であった『毛抜形太刀は用いられた時期的に殆どがこの「衛府太刀」の拵えで作られており、「衛府太刀」と言えば毛抜形太刀を指すことも多い』。毛抜形太刀というのは『日本の刀剣の中では特異な形式の刀で、木製の柄に茎をはめ込み目釘で固定する形式ではなく、「共金(ともがね)」と呼ばれる刀身と柄が一体の構造となって』おり、『刀身は鍔元のみが湾曲する極端な腰反りで、側面に』鎬(しのぎ:刃と峰(背の部分)の間で稜線を高くした箇所)や樋(ひ:側面に掘られた溝。これは血流しでも装飾でもなく、専ら刀剣の重量を減ずることにあった)のない、平造りのもので、構造上の特徴から『奈良時代の征夷の際に蝦夷から伝わった蕨手刀との関連性が指摘されており、日本刀が蕨手刀の影響を受けて変化していった実例の一つではないかとされている』。『実戦で使われる他に儀仗用としても用いられ、後には一般的な茎形式と同じ構造の太刀に、柄に柄巻を施さず』に、圧出鮫柄(へしだしざめづか:刀剣を保持する際の滑り止めの目的からなされた柄の鮫皮着せの代用としては古くは飾剣や衛府太刀の柄に鮫皮状の小さな突起を起こした金属板を覆せたものがあり、これを鮫皮圧出あるいは圧出鮫と称する)として毛抜型をした大目貫をつけたものを「毛抜形目貫太刀」と呼称するようになって、『江戸時代には公家はこの形式の拵えの太刀を平常用として佩いた』とある。]

兵庫鍍ヒヤウゴクサリノ太刀 貳振。共に二尺餘。無銘。兵庫クサリとは云へども、古法とは異なり。
[やぶちゃん注:太刀の帯取の紐に銀の鎖を用いたもので鎌倉時代に流行した。兵具鎖の転訛。]

太刀 貳振。銘行光ユキミツとあり。目釘穴メクギアナなし。二尺餘あり。
[やぶちゃん注:「行光」は相州の名匠新藤五国光の弟子で、相州伝の完成者五郎入道正宗の父とされる刀工。
「目釘穴」柄に茎を固定するために穿たれた穴。これがないというのは、地刀に隠れて見え難くなっていることを言うか。刀剣には詳しくないので、識者の御教授を乞うものである。]

太刀 壹振。銘綱家ツナイヘとあり。三尺餘あり。
[やぶちゃん注:「綱家」は相州の刀工。伝綱家の刀には天文の裏銘のものがあり、初代相州綱廣の門下とも兄とも伝えられる。]

太刀 壹振。銘泰國ヤスクニとあり。三尺餘あり。
[やぶちゃん注:「泰國」不詳。]

太刀 壹振。銘綱廣ツナヒロとあり。三尺餘あり。
[やぶちゃん注:「綱廣」初代は相州出身で山村姓、相模国の戦国大名北条氏綱(長享元(一四八七)年~天文十(一五四一)年)より諱の綱の一字を与えられ綱廣と改名した。現在も子孫が鎌倉に残る。]

硯箱スヾリハコ 壹合。梨地ナシヂ蒔繪マキヱマガキキク金具カナグにす。内に水入ミヅイレ筆管あり。共に銀にて作る。

十二の手匣テバコ 壹合。小道具は不備(備はらず)。箱の内にの如なるクシ三十あり。クシワタリ三寸八分餘、高さ一寸二分、厚さ三分。櫛のセナカアサホツたるアナ十三あり。モト靑貝アヲガイを入たる物にて今ぬけたるアトなり。マヽ靑貝アヲガイの見ゆるもあり。アナのくばり、皆三二三二三とあり。木はいすと云ふ。

櫛の圖

[やぶちゃん注:「靑貝」螺鈿の材料に用いる貝。螺鈿細工は青貝細工とも言い、ヤコウガイ・アワビ・アコヤガイ・オウムガイ・ドブガイ(淡水産)などの貝殻の表層を除去して真珠層を取り出し、これを短冊形にして磨きをかけて粁貝(すりがい)とし、それを用途によって方形や小型のメダル状に打ち抜いたものを、木彫などの彫り込んだ空所に張り合わせて文様や図柄を描いた。
「いす」双子葉植物綱マンサク目マンサク科イスノキ Distylium racemosum。伐採後、乾燥させると非常に堅く丈夫になり、家具・木刀・杖などの材料に用いられる。]

十二ヒトヘ 壹襲。香色の裝束なり。なし。ハカマ・麯塵のハウあり。ハウは、地紋麒麟・鳳凰、三布幅ミノハバ也。カバ色の直衣ナウシもあり。以上の三物は、後人神功皇后へ調進の物也。男山ヲトコヤマ勸請以來の物と云ふ。按るに、十二ヒトヘと云は俗語也。五重イツヽカサネキヌの事なり。
[やぶちゃん注:「香色」は「こういろ」と読む。色名の一つ。以下、ウィキの「香色」より引用する(読みはルビ化した)。『丁子などの香料の煮汁で染めた色、またはそれに似せた色のこと。香染こうぞめ丁子色ちょうじいろ』。『平安時代は色の濃淡で、淡香うすきこう中香なかのこう濃香こきこう(「こがれこう」とも)と呼び分けた。黄褐色』。『源高明が考案したと伝えられる。非常に高価なものとされ、源氏物語にも夕霧が香色をあらたまった訪問に装う場面がある』(源高明(みなもとのたかあきら 延喜十四(九一四)年~天元五(九八三)年)は平安期の公卿で醍醐天皇第十皇子。左大臣。博覧強記、有職故実に通じた貴公子であったが、安和あんな二(九六九)年に起きた藤原氏による他氏排斥事件安和の変で謀略と思われる謀反密告によって失脚した)。『上のような大貴族は本物の丁子を使ったが、一般的にはベニバナとクチナシを掛け合わせて染めた色を香色と呼んだ』。『清少納言は枕草子二百八十二段で狩衣の色にふさわしいとして薄い香色を挙げているが、狩衣は当時の普段着であり、別の個所に「あるかなきかの色したる香染の狩衣」とある通り香色の狩衣はごく薄い色だったようで』、『袈裟の色としても使われた』とある。
「麯塵の袍」は「きくぢんのはう(きくじんのほう)」と読み、「麹塵の袍」。賭弓のりゆみ(一般には正月十八日に左右近衛府・兵衛府の舎人とねりによる射技競技。天皇が弓場殿ゆばどのに出御して観覧した)、臨時祭、五月の競べ馬などの儀式の略儀として着用した袍(公家の装束の盤領まるえりの上衣)。禁色である麹塵色(灰色がかった黄緑色)で、文様は桐・竹・鳳凰を表す。「青色の袍」とも。
「三布幅」「」は布地の幅を表す単位で、はぎ合わせた衣の寸法を示す。並幅の布三枚分の幅のこと。一幅ひとのは鯨尺一尺、現在の約三七・九センチであるから、一メートル十四センチ弱となる。]

院宣 壹通。應永二十一年四月十三日とあり。
[やぶちゃん注:「應永二十一年」西暦一四一四年。後小松上皇によるもので、これは鶴岡二十五坊にあった若宮御影堂なるものが再建され、そこを後小松上皇が勅願寺と成し、「八正寺」と号すよう下された院宣である。]

賴朝ヨリトモノ書 貳通。一通には、奉寄相模國鎌倉郡内。鶴岡八幡・新宮・若宮御領一所事、右爲神威増益爲所願成就奉寄也、方來更不可有牢籠之状如件、壽永二年二月廿七日、前右兵衞佐源賴朝(寄せ奉る相模の國鎌倉郡の内。鶴が岡八幡・新宮・若宮御領一所の事、右は神威増益の爲め、所願成就の爲して寄せ奉るなり、方來更に牢籠有るべからずの状件のごとし、壽永二年二月廿七日、前右兵衞の佐源の賴朝)と有。下に花押あり。一通は、在當國貳箇所、高田郷・田島郷(當國に貳箇所在りて。高田の郷・田島の郷)とあり。餘は同じ文也。是を賴朝直判ヨリトモジキハンの書と云ふ。判は【花押藪】にアルと同じ。
[やぶちゃん注:「壽永二年」西暦一一八三年。現在、「鎌倉市史 資料編第一」の第一号資料として、
奉寄
  相摸國鎌倉郡内鸖岡八幡新宮若宮御領事
 在當國貮箇處、
     高田郡
     田嶋郷
右、爲神威増益、爲所願成就、所奉寄也、方來更不可有牢籠之状如件、
   壽永二年二月廿七日
前右兵衞佐源賴朝(花押)
とあり、相模国足柄郡高田及び田嶋両郷を鶴岡八幡宮若宮へ寄進する旨が記されている(微妙な字の違いに注意されたい)が、ここにはその「直判」が二通ある、と記されている。不思議である。ただ、実は現在、鶴岡八幡宮には同日附のもう一通の頼朝寄進状直判があるのである(「鎌倉市史 資料編第一」の第二号資料)。その文面を見ると、
奉寄
 相摸國鎌倉郡内鸖岡八幡新宮若宮御領壹所事
 在武藏國波羅郡内瓺尻郷、
右、爲神威増益、爲所願成就、所奉寄也、方來更不可有牢籠之状如件、
   壽永二年二月廿七日
前右兵衞佐源賴朝(花押)
[やぶちゃん字注:「瓺」は原本では左右の(へん)と(つくり)が逆転し、「瓦」の最終画が長く伸びて上に「镸」をのせた字体である。]
とある。「波羅郡内瓺尻郷」は「はらのこほりみかじりがう」と読む。幡羅はら三尻みしり村。現在の熊谷市にあった旧村名である。さて、この「壹所」と本文の一通目と称する「一所」との一致に気づかれるであろう。実は編者は現物は先の第一号資料だけを見、恐らく第二資料は鶴岡八幡宮の神官か供僧の誤った説明のみによって伝聞したものを記し、その際、それぞれの資料の前書部分を錯誤して記したものではなかったろうか?]

華嚴經 壹卷。第五十一卷、如來出現品なり。大織冠鎌足カマタリ筆也。

菩提心論 壹卷。細字なり。智證大師の筆。奥書ヲクガキに、此論有人疑、如今依【貞元録】決他疑、更不可迷、猶如菩提心義章耳、巨唐大中九年十一月十七日。於上都記、日本國上都比叡山延曆寺持念供奉沙門圓珍(此論人の疑有り、如今【貞元録】に依〔り〕て他の疑を決す、更に迷ふべからず、猶を菩提心義章のごときのみ、巨唐大中九年十一月十七日。上都に於て記す、日本國の上都比叡山延曆寺持念供奉の沙門圓珍エンチン)とあり。
[やぶちゃん注:「菩提心論」は龍樹作・不空漢訳と伝えられるが、中国で書かれた可能性が疑われる。諸経典を引き、菩提心の本義を論述する。全百巻。
「智證大師」入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人、円珍(弘仁五(八一四)年~寛平三十(八九一)年)は仁寿三年(八五三)年に入唐、天安二(八五八)年に帰国している。貞観十(八六八)年、延暦寺第五代座主。
「巨唐大中九年」「大中」唐代、宣宗の治世で用いられた元号で、西暦八五五年。
「上都」は天子の都。京師長安。]

大般若經 壹卷、弘法の筆也。一部を二卷に細書す。一卷は鳩峯ハトノミネに有と云ふ。此は初分なり。
[やぶちゃん注:「鳩峯」は石清水八幡宮。石清水八幡宮は男山(鳩ヶ峰)山上に鎮座し、「男山」「鳩峰」とも呼称される。]

功德品 壹卷。カン丞相の筆なり。
[やぶちゃん注:「功德品」と称するものは複数あるが、法華経法師功徳品のことか。]

心經 貳卷。共に紺紙金泥。一卷には、貞治乙巳、夷則二十五日と有。源の基氏モトウジの筆。一卷は、至德二年二月十六日と有。源の氏滿ウジミツの筆也。
[やぶちゃん注:本作前者と思われるものが現在、根津美術館に所蔵されている。
「貞治乙巳」は正平二十・貞治四(一三六五)年。
「夷則」十二月の異名。
「至德二年」元中二・至徳二(一三八五)年。]

袈裟坐具 各々一具。香色也。是も鳩峯ハトノミネより勸請の時キタルと云ふ。別に應神の御袈裟と號してハコに入。社僧もこれを見る事なし。其の記一卷あり。

五鈷杵ゴコシヨ 壹箇。是をクモ加持の五鈷と云ふ。昔し醍醐山に、範俊ハンシユン義範ギハンとて二人の名僧あり。共に東寺の成尊が門弟なり。昔し永保二年に、大旱魃カンバツす。範俊にミコトノリして、神泉苑にて、雨をイノラしむ。義範は、俊よりも長ぜり。詔りを不承(承らざる)事をイキドヲリて、醍醐山に登り修法(法を修し)、シユンが請雨の法をさまたぐ。時に黑雲ヲコアメふらんとすれば、醍醐の山頂より、範が五鈷カラスと化して、黑雲を呑却す。故に名く。其五鈷、ツタヘて極樂寺に有しを、賴印僧正の時ココヲサむと云傳ふ、【元亨釋書】範俊が傳に詳かなり。シカレども、五鈷カラスと化すとはなし。暴風ヲコツて雲氣を吹散すとあり。
[やぶちゃん注:「醍醐山」京都府京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐山醍醐寺。
「範俊」(長暦二(一〇三八)年~天永三(一一一二)年)小野曼荼羅寺(後の随心院)の成尊に師事。永保二(一〇八二)年に祈雨法を修して霊験を著したが、義範の妨害によって失敗、那智山に隠遁した。その後、白河天皇は範俊を召し出して小野曼荼羅寺に住まわせ、堀河天皇に譲位した後はその護持僧とした(以上は、ウィキの「範俊」の記載に基づく)。
「義範」( 治安三 (一〇二三)年~寛治二(一〇八八)年)小野曼荼羅寺の仁海、次いで成尊に師事。白河・堀河天皇の護持僧として活躍した。霊力に優れ、承暦三(一〇七九)年には白河天皇の寵妃藤原賢子の懐胎を愛染明王法により祈って皇子(のちの堀河天皇)出産を成就。寛治元(一〇八七)年の大旱魃の折りは、勅を奉じて神泉苑で請雨経法を修し霊験あったとする(以上は「朝日日本歴史人物事典」の記載に基づく)。 「成尊」(せいそん 長和元(一〇一二)年~承保元(一〇七四)年)は雨僧正と呼称された山城の小野曼荼羅寺の仁海に師事、長暦三(一〇三九)年、伝法灌頂。康平八(一〇六五)年、勅命により神泉苑で請雨経法を修して霊験を現わす。また後三条天皇の即位を祈って愛染明王法を修して寵愛を得た。弟子に先の義範と範俊がいたが、成尊没後は両者が付法の嫡庶を争って醍醐と小野の二派に分かれた(以上は「朝日日本歴史人物事典」の記載に基づく)。これら三者の如何にもな上狙い事蹟を読むと、要は兄弟弟子の伝法の正統性を争う生臭い抗争を、請雨呪法の霊力合戦という如何にも怪しげなオブラートで包んだだけの、薄っぺらい作話という気がする。少なくとも、この手の話が嫌いでない私でも、あんまり触手が動かないというのが正直な感想である。
「賴印僧正」(元亨三(一三二三)年~明徳三(一三九二)年)関東護持僧(鎌倉府護持僧)。十八歳で出家する。観応三(一三五二)年には上野国榛名山の執行であった。後に鶴岡八幡宮の鶴岡二十五坊の僧職に補任され、歴代鎌倉公方の側近としても活躍した。参照したウィキの「頼印」によれば、特に足利氏満の信任厚く、「頼印大僧正行状絵詞」によれば、『小山義政の乱の際には乱鎮圧のための祈祷を行った他、氏満の依頼を受けて上杉朝宗に対して小山義政討伐軍の大将就任の説得を行ったという。また、氏満が将軍足利義満の意向を無視して義政を攻め滅ぼす命令を出した際には、命令に躊躇する上杉朝宗・木戸法季の両大将を説得する策を氏満に授けたのも頼印であったという』。こうした後ろ盾によって、貞治二(一三六三)年に法印、応安元(一三六八)年に鶴岡八幡宮社家執事を歴任、嘉慶二年七月には僧正、後に大僧正となった。
「極樂寺」長谷の極楽寺であろう。]

小五鈷杵 壹箇。禪林寺宗叡僧正の持金剛杵と云傳ふ。按ずるに、【釋書】宗叡が傳に、貞觀三年に、入唐して、靑龍寺の法全所持の金剛杵を附屬すとあり、其の金剛杵ならん。
[やぶちゃん注:宗叡(しゅうえい/しゅえい 大同四(八〇九)年~元慶八(八八四)年)入唐八家の一人。貞観四(八六二)年真如法親王とともに渡唐、五台山・天台山を巡礼、長安などで密教を学んで、貞観七(八六五)年に帰国。清和天皇の帰依を受け、天皇の出家に際しては、その戒師を務めた(以上はウィキの「宗叡」に拠った)。
「靑龍寺の法全」「靑龍寺」は古都長安、現在の西安市南郊の鉄炉廟村にある弘法大師空海他渡唐僧所縁の寺。創建は隋の開皇二(五八二)年、唐代中期には恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧らとの交流の地となった。空海は恵果に学び、円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて、ここで密教を学んだ(以上はウィキの「青龍寺」に拠った)。]

如意寶株 壹顆。内陣にヲサメる人なしとイフ。供僧の云く、如意珠に二種あり。一種は、龍の頸上にあり。一種は、能作生の珠と號して、眞言の法をヲコナフナルタマなり。今爰にあるは能作生の珠なり。タマの製法・呪法は、眞言の祕法と云ふ。
[やぶちゃん注:「如意宝珠」は「によいほうじゆ(にょいほうじゅ)」と読み、意の如く祈願を成就するという霊験あらたかな宝の珠のこと。サンスクリット語でチンターマニ(チンターは「思考」、マニは「珠」の意)単に宝珠とも呼ばれる。以下、ウィキの「如意宝珠」より引用する。『日本では一般的に、下部が球形で上部が円錐形に尖った形で表される』。『仏や仏の教えの象徴とされ、地蔵菩薩や虚空蔵菩薩、如意輪観音をはじめとする仏の持物』として形象され、『無限の価値を持つものと信じられ、増益の現世利益を祈る対象となる』。『通常、仏塔の相輪の最上部に取り付けられ、そのほかの仏堂の頂上に置かれることもある。また、橋の欄干など寺院以外の建造物の装飾として取り付けられる擬宝珠はこれを模したものとする説がある』とする。
「能作生珠」は「のうさくやうしゆ(のうさくしょうしゅ)」と読むようである。流石に「眞言の祕法」とされるだけあって、ネット上でも記載が少ないが、岡山県岡山市の裸祭りで知られる「高野山真言宗別格本山西大寺(観音院)」のWEBサイトの会陽えよう裸祭」の解説中、「牛玉ごおうと牛玉所大権現」の部分に、『牛玉とは仏教世界の中で宝珠を意味し、世の中の万物を生みだす物である。牛玉の語源、字体は諸説あるが、語源で一般的なのは牛の胆のう中に生じた結石を牛黄ごおうと呼び、これを溶いて墨書するところから牛王と書き示した』とした上で、この「牛王」と呼称するものは、一説に牛の体から出てきた毛の固まりの事を言ったり(これらは次項の「牛玉ウシノタマ」と連関する)、また――密教の僧侶によって仏舎利三十二粒、香木など九種の材料によって作られた丸の固まりを能作生珠とも言う――と出現する。これがその製法であろうか。それにしてもこれは所謂、イメージされる水晶球のようなものではなく、恐らく漢方系の丸薬という感じであろう。わざわざ筆者が「珠の製法・呪法は、眞言の祕法と云ふ」と書いたのは、それが如何にも経口し得るような『丸薬』の形状を成していたからではあるまいか?]

牛玉ウシノタマ 壹顆。
鹿シカノ玉 壹顆。按ずるに【本艸綱目】獸部に、鮓答、生走獸及牛馬諸畜肝膽之間。有肉嚢裹之、多至升許、大者如雞子、小者如栗、如榛、其状白色、似石非石、似骨非骨、打破層疊、又云、時珍嘗靜思之牛之黄、狗之寶、馬之黑、鹿之玉、犀之通天、獸之鮓答、皆物之病而人以爲寶(鮓答は、走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有て之をツツむ。多きものは升許〔り〕に至る。大〔な〕る者は雞子の如く、小なる者は栗のごとく、榛のごとし。其の状白色、石に似て石非ず、骨に似て骨非ず、打破すれば層疊。又云、時珍嘗て靜に之を思ふに牛の黄、狗の寶、馬の黑、鹿の玉、犀の通天、獸の鮓答、皆、物の病にして、人以て寶と)とあり。今此牛玉・鹿玉も此類なり。
[やぶちゃん注:「牛玉」は「牛黄」と書いて「ごおう」と読むのが分かり易い。所謂、牛の胆石(及び他臓器の結石も含む)を陰乾にしたもので、生薬として知られる。濃黄色で骰子状の塊であるのが一般的。法隆寺などで行われる年初の法要である修二会しゅにえでは法会の始めに「牛玉降ごおうおろし」が行われており、堂内にこの牛玉(牛黄)を運び入れるが、これは稀少なる聖的な超自然の呪物としてのその活力で法会の成就を祈るとともに、魔障を祓うものとして機能している。次の「鹿玉」も同様のものと考えられ、これらは主に馬・牛・鹿・犬など哺乳類の腹中に生ずる結石や毛玉様のものを言う。石糞せきふん鮓答さとう・ヘイサラバサラなどとも言う。私の電子テクスト「和漢三才圖會 卷四〇」の「えんこう」の注(膨大な注なので、ずっと後にある)で引用した、同じ「和漢三才圖會 卷三十七 畜類」にある「鮓荅」テクスト及び私の注を以下に引用する(本記載が引用する「本草綱目」等を渉猟している点で、参考になる。本文中の「鮓答」等の注もこれで代えるがこの引用は、かなりの分量であるのでご覚悟あれ。なお、引用に際してルビ化を行い、私が校訂した煩瑣な注記記号などは省略、私の注の一部や引用にあるアラビア数字を漢数字に変更した)。

へいさらばさら
へいたらばさる 【二名共に蠻語なり。】
鮓荅
ツオ タ
「本綱」に、『鮓荅は走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有りて之をつつむ。多きは升許りに至る。大なる者は雞子けいしのごとく、小なる者は栗のごとく、はしばみのごとし。其の状、白色、石に似て石に非ず。骨に似て骨に非ず。打ち破れば層疊す。以て雨を祈るべし。「輟耕録」に載する所の「鮓荅」は、即ち此の物なり。曰く、蒙古むくりの人、雨をいのるに惟だ淨水一盆を以て石子數枚を浸し、淘漉すすぎこし、玩弄し、密かに咒語じゆごすれば、やや久しくしてすなはち雨ふる。石子を鮓荅と名づく。乃ち走獸の腹中に産する所のものなり。獨り牛馬の者、最も妙なり。蓋し牛黄・狗寶の類なり。鮓荅【甘・鹹にして、平。】は驚癇・毒瘡を治す。』と。
△按ずるに、阿蘭陀より來たる平佐羅婆佐留へいさらばさら有り。其の形、鳥ののごとく、長さ寸許り淺きくろ色、潤澤。石に似て石に非ず。重さ五六錢目ばかり。之れを研磨すれば、層層たるすぢ有りて卷き成す者のごとし。主に痘疹の危症を治し、諸毒を解す、と。俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵痕きづこぶと成りたる肉塊かたまりなりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。
[「鮓荅」やぶちゃん注:これは各種の記載を総合すると、良安の記すように日本語ではなく、ポルトガル語の“pedra”(石)+“bezoar”(結石)の転であるとする。また、古い時代から一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で“pādzahr”、“pad (=expelling) + zahr (=poison) ”(毒を駆逐する)を語源とする、という記載も見られる。本文にある通り、牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたとある。別名、馬の玉。鮓答さとうとも書いた。やはり良安もこの「鮓荅」の直前にある「狗宝」で述べているが、牛のそれを牛黄・牛の玉、鹿のそれを鹿玉(ろくぎょく/しかのたま)、犬では狗宝(こうほう/いぬのたま)、馬では馬墨(ばぼく)・馬の玉、その他、犀の通天(たま)などと各種獣類の胎内結石を称し、漢方では薬用とする。
それにしても、この「ヘイサラバサラ」「ヘイタラバサル」という発音は「ケサランパサラン」と何だか雰囲気が似ている。私はふわふわ系UMAのイメージしかなかったから偶然かと思ったら、どっこい、これを同一物とする説があった。Nihedon & Mogu という共編と思われるケサランパサラン研究サイト「けさらんぱさらん」の「ケサパサ情報館」の『「家畜動物の腸内結石」説』に詳しい。体内異物を説明して、腸結石(糞便内の小石・釘・針金・釦等の異物に無機物が沈着して出来たもので馬の大腸、特に結腸内に見られる)や毛球(牛・羊・山羊等の反芻類が嚥下した被毛あるいは植物繊維より成るもので、第一胃及び第二胃に、稀に豚や犬の胃腸に見られることもある。表面に被毛の見えるものを粗毛球、表面が無機塩類で蔽われ硬く滑かで外部から毛髪の見えないものを平滑毛球という)を挙げ、『この説によると、「動物タイプ」はこのうち粗毛球を指し、「鉱物タイプ」は平滑毛球や腸内結石を指す事になる』とし、『「馬ん玉」や「へいさらぱさら」はまさしく「ケサランパサラン鉱物タイプ」の別名であり、「ケサランパサラン動物タイプ」の別名として「きつねの落とし物」がある』、即ち、きつねが糞と一緒に排泄した粗毛球を言ったものであろう、と考察されている。また、そうした「鉱物タイプ」の「ケサランパサラン」を、まさに本記載同様、雨乞いに用いたケースについて、以下のように記されている。長い引用になるが、本項に対して極めて示唆に富んだ内容であるため、ここに引かさせて戴く(大部分は編者へ寄せられた情報の引用という形で記載されている。漢字や記号・句読点・読み・改行等の一部を補正・省略させてもらった)。
   《引用開始》
『角川「大字源」で「鮓」という字を調べたところ、別の面白い情報が得られました。
鮓荅 さとう/ヘイサラバサラ
牛馬などの腹中から出た結石。古代,蒙古人が祈雨のために用いた。[本草(綱目)・鮓荅][輟耕録・禱雨]
日本の雨乞いの方法の一つに、牛馬の首を水の神様に供える、或いは水神が棲む滝壷などにそれらを放り込む、という方法があります。これは、不浄なものを嫌う水の神を怒らせることによって、水神=龍が暴れて雨が降るという信仰から来ているようです。以下は(この説を教えてくれた方の)私見ですが、「へいさらばさら」は、その不浄な牛馬の尻から出てくるものですから、神様が怒るのも当然という理屈で用いられたのではないでしょうか。ただし、これは日本における解釈であり、馬と共に暮らす遊牧民族であるモンゴル人が、同じ考えでそれを行ったかどうかは不明です。ちなみに輟耕録は十四 世紀の明の書ですから、古代とあるのはその頃の話です。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]※その後、この情報をいただいた方から、「輟耕録」は序文が一三六六年、モンゴル王朝であった元が一二六〇~一三六八年で、文献自体の内容も、元時代の社会・文化に関する随筆集ですから「明の書」の部分は、「元王朝末期の書」とでもして下さい。」という旨のメールをいただきました。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]さらに、「その後の調査で、輟耕録に記載されている雨乞いの方法(盥に水を入れ呪を唱えながら水中で 石を転がす)が『ケサランパサラン日記』[やぶちゃん注:西君枝と言う方が草風社から一九八〇 年に刊行した著作。未見。]のそれと酷似しており、また、このように水の中で転がして原形をとどめていられるのは硬い球形の馬玉タイプであることや、モンゴル語で雨を意味する“jada”という語に漢字を当てたものが「鮓荅」であると考えられることなどから、「へいさらばさら」の雨乞いのルーツは、中国の薬物書である「本草綱目」によって伝えられたモンゴル人の祈雨方法にあり、それに用いられたのは白い球状の鮓荅であると考えた方がよいようです。ついでに言えば「毛球」については、反芻をする動物(ウシやシカなど)に特に多いようですが、毛づくろいの際に飲み込んだ毛でできるため、犬以外のペット小動物、例えばウサギ、猫などでもメジャーな病気のようです。ペットに多いのは、野生の場合、毛が溜らないようにするための草を動物が知っていて、これを時々食べることによって防いでいるためで、ペット用に売られている「猫草」も、毛球症予防に効果があるようです。」と追加説明もいただきました。』[やぶちゃん注:原文ではここで改行、情報提供者への謝辞が入る。]『また、水神=龍から、龍の持つ玉のイメージが想起されることから、雨乞いに用いられたへいさらばさらは、主に白い球状のタイプだったのではないかと推測されます。』[やぶちゃん注:この最後の部分は、情報提供者の追伸と思われる。]
   《引用終了》
・「肉嚢」肉状の軟質に包まれていることを指す。胆嚢結石とすれば、これは胆嚢自体を指すとも考えられるが、実は馬や鹿等の大型草食類には胆嚢が存在しない種も多い。その場合は胆管結石と理解出来るが、ある種の潰瘍や体内生成された異物及び体外からの侵入物の場合、内臓の損傷リスクから、防御のための抗原抗体反応の一種として、それを何等かの組織によって覆ってしまう現象は必ずしも異例ではないものとも思われる。
・「雞子」鶏卵。
・「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミCorylus heterophylla var. thunbergiiの実。ドングリ様の大きな実のようなものを想定すればよいか。へーゼルナッツはこのハシバミの同属異種である。
・「層疊」同心円上の層状結晶を言うか。
・『「輟耕録」』明代初期の学者陶宗儀(一三二九年~一四一〇年)撰になる随筆集。先行する元代の歴史・法制から書画骨董・民間風俗といった極めて広範な内容を持ち、人肉食の事実記載等、正史では見られない興味深い稗史として見逃せない作品である。
・「蒙古むくり蒙古もうこはモンゴルの中国語による音写で、古く鎌倉時代に「もうこ」のほかに「むくり」「むこ」などと呼称した、その名残りである(因みに、鬼や恐ろしいものの喩えとして泣く子を黙らせるのに使われる「むくりこくり」とは「蒙古高句麗」で蒙古来襲の前後に「蒙古高句麗むくりこくりの鬼が来る」と言ったことに由来する)。遊牧民であるから、牛馬の結石は見慣れたものであったと思われる。
・「淘漉し、玩弄し」水で何度も洗い濯いでは、水の中で転がし、という意。
・「咒語」まじないの呪文。
・「持すれば」呪文を用いて唱えれば。
・「牛黄」牛の胆嚢や胆管に生ずる胆石で、日本薬局方でも認められている生薬で、解熱・鎮痙・強心効果を持つ。牛一〇〇〇頭に一頭の割でしか見つからないため、金の同重量の価格の凡そ五倍で取引されている非常に高価な漢方薬である。良安は同じ「卷三十七 畜類」で「牛黄」の項を設けており、そこでは「本草綱目」を引く。時珍はそこで牛黄の効能・採取法・形状・属性・真贋鑑定法を語り、そもそも牛黄は牛の病気であると正しい知見を示している。また牛黄には生黄・角中黄・心黄・肝黄の四種があり、牛黄を持った病態の牛の口に水を張った盆を当てがい、牛を嚇して吐き出せた生黄が最上品であると記す。最後に良安の記載があるが、そこで彼は世間で「牛宝」と呼ぶ外側に毛の生えた玉石様ものであるが、これは「狗寶」(次注参照)と同様、「鮓荅」の類で、牛の病変である牛黄と同類のものであるが、牛黄とは全くの別種である、と述べて贋物として注意を喚起している。この記載から、良安は「牛黄」を「鮓荅」と区別・別格とし、「牛黄」のみを真正の生薬と考えていることがはっきりと分かる。
・「狗寶」良安は「卷三十七 畜類」の「鮓荅」の直前で「狗寶」の項を設け、そこでも「本草綱目」引用しているが、この「本草綱目」の記載が、とんでもなく雑駁散漫な内容で、我々にその「狗寶」なるものの実体や属性・効能を少しも明らかにしてくれない。その引用末尾の『程氏遺書』の引用に至っては、「狗寶」から完全に脱線してしまい、荒唐無稽な石化説話の開陳になってしまっている。良安の附言は、全くない。「本草綱目」の引用のみで附言がない項目は他にもいくらもあるのだが、私にはどうもこの項、しっくりこない。
・「驚癇」漢方で言う癲癇症状のこと。
・「毒瘡」瘡毒と同じか。ならば梅毒のことである。もっと広範な重症の糜爛性皮膚炎を言うのかも知れない。
・「潤澤」ある程度の水気を帯び、光沢があることを言う。
・「五六錢目」「錢」は重量単位。一両の十分の一。時珍の明代では一両が三十七・三グラムであるから、二十グラム前後。
・「痘疹」天然痘。
・「俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕、贅と成りたる肉塊なりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。」ここの部分、東洋文庫版では、
『世間一般では猿の身体にある鮓荅をさして、これは猿が猟人のために傷つけられ、その傷のあと贅肉こぶとなったものであるという。しかしこれは間違いで、鮓荅であることは明らかであろう。』
と訳しているが、これはおかしな訳と言わざるを得ない。ここは、
『俗説に言うには、「猿が猟師に傷つけられ、その傷の痕が瘤となった、その肉の塊が鮓荅である」とする。しかし、これはとんでもない妄説である。以上、見てきたように、鮓荅というものは猿と人とのものなのではなく、牛馬に生ずるところの結石であること、最早、明白である。』
と言っているのである。
※以上、「和漢三才圖會」「卷三十七 畜類」にある「鮓荅」テクスト及び私の注の引用を終了、同時に本「牛玉」及び「鹿玉」の注も終わりとする。]

五指量の愛染明王の像 壹軀。弘法の作、四五寸許の丸木マルキを、フタに引分け、身の方に愛染を作り付たり。臺座ともに一木にて作る。極めて妙作也。
[やぶちゃん注:RayLand 氏のHP内にある「敬愛法(愛染明王)」に、「五指量の愛染王」という項があり、それによれば、 「瑜祇経」の愛染王の印に「五股(鈷)の印」があって、それは東寺に伝えられた究極の秘印であったとある。また比叡山でも同一と思われる「愛染王の五股印」という印形いんぎょうがあって、以下のように組む手順が示されている。
①「ウン」……右手指を上にして、両手を組む。
②「」……両中指をまっすぐに立てて合わせる。
③「」……両人差し指を鉤(かぎ)のようにする。
④「ウン」……③から両親指と小指を立てる。
⑤「シャ」……さらに両人差し指を開く。最後に両薬指を手のひらの中にいれる。
これが秘伝の口伝と言われ、五本の指を総て動かしてそこに愛染明王を顕現させるからであろうか、『ここから、「五指量」(二寸五分)の愛染王が白檀の木で作られ、お守りとして帯などの中に納められたようで』ある、と記しておられる。リンク先には印形の結び方や実際の正に言葉通りコンパクトな持仏、五指量=二寸五分=七センチ六ミリ弱の懐中型愛染明王仏像が示されてある。御覧あれ。]


辨才天 壹軀。蛇形の自然石也。錦の袋に入。内陣にあり。

藥師の像 壹軀。弘法の作。厨子ヅシに入。前に十二神をもチイさく刻み、トビラに四天王を彫る。極細の妙作也。

回御影マハリミエイ 祕物にて、ムカシよりツイに見たる人なし。錦の袋に入てタケ三尺ばかり、ハヾ八寸四方ほどのハコに入、鳥居トリイを立、注連シメを引て、十二箇院の供僧、一箇月づゝ守護し、毎日三座の行を勤め、法華經をヨム也。俗にマハり御影と云なり。縁起あり。奧に元亨元年八月廿五日、最勝院敬任之以慈度自筆本冩之了(慈度自筆の本を以って之を冩しヲハる)とあり。其略に云、賴朝尊仰之(賴朝ヨリトモ之を尊仰〔さ〕るゝを)、賴朝薨じて後、二位尼ニイノアマ、御信仰又甚し。其後時賴置鶴岡御宸殿(其の後、時賴トキヨリ、鶴が岡の御宸殿に置く)。正嘉年中に奉遷八幡宮(八幡宮に遷し奉る)云云。相ひ傳ふ源の賴義ヨリヨシ、安倍の貞任サダタフを征伐せんとて、奧州下向の時、此の御影をマモりにカケ、既に事ヲハリて歸洛する時、鎌倉にキタリて、此御影を八幡宮に納らる。其の後義家ヨシイヘ下向の時も、コヽキタリ御影ミエイを申し請てマモりにカケ、奧州退治して歸る時に、又コヽキタリミヤを修復し、御影を納めらる。賴朝ヨリトモ、豆州にイマす時、一夜ユメみらく、廿五の菩薩を勸請せよと、時に異人イジン來て、此の御影を授く。賴朝ヨリトモ此を受て、後に四海をタナゴヽロの中に治め、ミヤを由比のハマより小林コバヤシへ移し。廿五箇院をタテ、御影を納めらるゝと也。縁起は賴朝の後の事也。
[やぶちゃん注: s_minaga 氏の「がらくた置き場」「相模鶴岡八幡宮大塔」によれば、廃仏毀釈後、この八幡宮寺で最も重宝とされていた「絹本着色八幡廻御影図」は各所を転々として末、日本画家中村岳陵(明治二十三(一八九〇)年~昭和四十五(一九六九)年)が奈良で見出だしたと、記されている。原本には「八幡廻御影 正和二年奉修覆畢 覚珍、文和二年奉修覆畢 頼珍」(正和二年は西暦一三一三年、文和二年は西暦一三五三年)の書付があるらしい。以下、当該頁にある画像を転載させて頂く。



上段に八幡大菩薩、下段に三女神像と童像が描かれたものである。
「元亨元年」西暦一三二一年。二月二十三日に元応三年から改元。]

二枚面ニノマイノメン 貳枚。
陵王面レウワウノメン 壹枚。
拔頭バトウノ面 壹枚。
磯良イソラノ面 壹枚。皆妙作也。
[やぶちゃん注:以上の面は、鶴岡八幡宮で行なわれていた放生会(流鏑馬を行う現在の例大祭のルーツ)では石清水八幡宮に倣って雑色を取り入れて舞楽面の行列が大切な行事としてあったが、恐らくはそれに用いられたものであろう。この行列も神仏分離令によって行われなくなった。]

歌仙カセン カミシモの社内に掛之(之をく)。上の宮にカケたるは、尊純法親王の墨蹟なり。シモの宮にカケたるは、良恕法親王の墨蹟なり。繪は共に狩野孝信タカノブなり。
[やぶちゃん注:「狩野孝信」(元亀二(一五七一)年~元和四(一六一八)年)は安土桃山時代の狩野派の絵師。織田信長の家臣佐々成政の娘を妻に迎えたと伝えられ、武士階級のみならず朝廷の後援をも得て禁裏絵師となり、従六位右近将監に叙され、絵所預に任じられている(以上はウィキの「狩野孝信」に拠った)。]
  已 上
[やぶちゃん注:これは「神寶」の項の終了を告げるものである。]

新宮イマミヤ 我覺院の門前より左へヲレテユク、山のフモトにあり。三間に二間の社地。當社の縁起、淨國院にあり。【東鑑】に寛治元年四月廿五日、後鳥羽帝の御靈を鶴が岡のイヌヒの山のフモトに勸請しタテマツらる。コレ彼の怨靈をナダタテマツらんが爲に、日來ヒゴロ一宇の社壇を建立せらるとあり。社のウシろは深谷也。一根にして六本に分れたる大杉ヲホスギあり。魔境にて、天狗コヽスムと云ふ。普川國師の【新宮講式】に云、有靈託、構小社於神宮縁邊、有敬信、儼三所於靈岳甲勝、所謂左胸者、順德帝、右胸者、長嚴僧正、共爲内祕外現(靈託有〔り〕て、小社を神宮縁邊に構へ、敬信有〔り〕て、三所を靈岳の甲勝に儼にす。謂は所る左胸は順德帝、右胸は長嚴チヤウゲン僧正、共に内祕外現〔を〕爲〔す〕)云云。【神明鏡】に、後鳥羽帝崩御の後、鎌倉中喧嘩鬪諍しけり。就中(中〔ん〕就〔く〕)五月廿二日、大騷動も有ければ、彼の御怨念にやとて、雪下ユキノシタ新宮イマミヤと號し、法皇を祝し奉る。順德帝と護持の僧長玄法印と御眞體となり、上野の行山の庄を神領とすとあり。長嚴・長玄は、【東鑑】に所謂(謂は所る)東大寺造營の尊師重源上人なり。三書コトなりと云ども、實は一人なり。社僧の云傳るも如此(此のごとし)。俗に右は、土御門帝と云は未考(未だ考へず)。
[やぶちゃん注:絵図では字が潰れて読みにくいが、上宮から十時の方向、「賴朝社」の背後の峰を越えたところに「新宮」とあるのを視認出来る。
「寳治元年」西暦一二四七年。
「普川國師」宝戒寺第二世住持。足利尊氏二男と伝えられる惟賢(「ゆいけん」と読むか)。]

神主カムヌシ 馬場小路ハバコウジに居宅す。【鶴岡社務職次第】に、建久二年十二月、神主を定めらる者也とあり。大伴氏ヲヽトモウジ、今に不絶(絶へず)任ずるなり。賴朝よりの書、幷に代々將軍家の文書等多し。今も諸大夫をサズケらる也。神主家傳文書に、賴朝より大伴淸元ヲヽトモキヨモトに賜はる自筆の書あり。其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:底本では【鶴岡務社職次第】と錯字。影印で正した。以下、「不乙」迄は、影印では草書体平仮名漢字交じりの表記となって自筆書の雰囲気を伝えている。底本ではその後がクレジットと署名「文治二年」以下に改行せずに続いているが、ここは影印の通り、改行とした。また、自筆本文中の「又おてまいらする」は、底本では「又おてまいウする」とあるが、誤植(誤読)と判断して「ら」とした。続く文書読解解説文中の引用も草書体を用いている。分かり易くするために草書体引用部を『 』で示し、本文にない「 」を補助記号で用いた。]

せん日さんろうの時、八まんくかうぬしの事おほせふくめぬ。又おてまいらする、しきはうといゝ、はまうみ、同淸元のさたるへし。他人のさまたけあるへからざるところ也。不乙。
文治二年四月日、源の朝臣。下に有判(判有り)。判は如【花押藪】載(【花押藪】に載するがごとし)。假名カナづかひ・書樣カキヤウ、全く如此也(此のごとくなり)。按ずるに、『さんろう』は參籠サンロウなり。『八まんくかうぬし』は、八幡宮神主也。『おて』とは追而ヲウテなり。『しきはう』とは式法シキハウなり。『いゝ』はウン也。今の假名カナづかひにては、いひとカクべし。ムカシはかなつかひ不定(定まらず)して、如此書(此のごとく書き)たり。『はま』はハマなり。『うみ』はウミなり。アル説に云く、『おて』は御幣なり。「みてくら」を、「おてくら」とイフなり。『いゝ』とは飯のなり。『は』は「はん」なり。バクなり。ムギにて菓子を作る事也。『まうみ』は小衣なり。 「ま」は、「も」にカヨふ。「も」は、「を」にカヨふ。『う』はコヘなり。布衣ホイを「ほうゐ」と云ふ心と、同じ。もうみは社人のフクなり。則ち社人の事を云となり。何れの説なる事を不知(知らず)。或の云、マヘの説をとすべしと。
[やぶちゃん注:現在は散佚。「鎌倉市史 資料編第一」の三〇六号資料を参考にしながら、本文の解を流用しながら、読み易く漢字仮名交りで一つの読みを示す(〔 〕は補綴した部分)。

先日參籠の時、八幡宮神主の事仰せ含め〔候〕ぬ。又追て參らする、式法と云ひ、濱海、同淸元の沙汰〔た〕るべし。他人の妨げあるべからざるところ也。謹言。
   文治二年四月 日
「濱海」とは、由比の若宮の支配権限を指すのではないか、というのが私の解ではある。]

小別當セウベツタウ 馬場バヾ小路に居宅す。【社務職次第】に云、當社別當の宮圓曉法眼、三井寺より御下向、御トモ申す肥前の法橋永契と申す坊官也。然る間だ、建久二年十一月日、別當の宮圓曉御坊より、小別當の官を給り。社内の掃除奉行に定め置るゝ者也。其の以後御供方ゴクカタノ奉行也、別當の被官坊官の類也。

淨國院 以下の十二箇院は、當社の供僧也。鶴が岡の西の方に居す。淨國院より次第の如く、東顏ヒガシガハより西顏ニシガハまで、寺町テラマチをなす。建久二年に、賴朝卿ヨリトモケウ二十五の菩薩にカタどり、院宣を奏し請て、供僧二十五坊を建立せらる。其の後應永二十二年二月廿五日、院宣に依て、坊號をアラタめ院號とす。源の成氏シゲウジの代まで、廿五院有しと見へたり。【成氏の年中行事】にノセタリ。永正の比より、漸漸ゼンゼンヲトロへて、七院のみありしを、東照大神君、文祿二年に、十二院を再興しタマフと也。淨國院の開基は、【社務職次第】に云、初佛乘坊・忠尊、號大夫律師、山城人也、法性寺禪定殿下忠通猶子也。(初めは佛乘坊・忠尊、大夫律師と號す。山城の人なり。法性寺禪定殿下忠通タヾミチの猶子なり。)
[やぶちゃん注:「供僧二十五坊」これらは「吾妻鏡」によって、治承四(一一八〇)年十二月四日、十月に入鎌倉りしたばかりの頼朝が、善知識の僧定兼ていけん阿闍梨を上総国から召し出して最初の鶴岡供僧職に任じたのをルーツとする。但し、「吾妻鏡」には建久二(一一九一)年の条に本文にあるような具体な二十五坊建立や院宣の請願は書かれていない。但し、建久二年三月四日の鎌倉の大火(大倉幕府や鶴岡八幡宮は全焼、既に幾つかあった御坊の一部が焼けている)後の再建大改築改造が狭義の二十五坊の原型と考えられ、坊数が二十五と定まったのは建久年中(一一九〇年から一一九八年)というのが現在の定説である。
「應永二十二年二月廿五日、院宣に依て、坊號を改め院號とす」とあるのは、現存する鶴岡別当尊賢の置文によるもので、応永二十二(一四一五)年に当時の後小松上皇の院宣によって二十の坊が坊号から院号へと変わった(「鎌倉市史 社寺編」によれば、残りの院号勅許は遅れて発せられた)。
「忠尊」「法性寺禪定殿下忠通の猶子」やや不審である。「法性寺禪定殿下忠通」とは藤原忠実長男で摂政関白太政大臣であった藤原頼通(承徳元(一〇九七)年~長寛二年(一一六四)年)のことを指すが、ネット上の系図資料を見る限りでは、彼には末子に「尊忠」という子がいるが、彼は慈徳寺と号し、権僧正、延暦寺妙香院、とあるばかりである。後にここに移ったのであろうか? 鎌倉二十五坊の各坊(院)の事蹟を記したものは消失したものか、各論が書かれたものを見ない。「鎌倉廃寺事典」でも『各坊、各院につき各論的に述べることは次の機会に譲りたい』とあるが、どこかで既に書かれているのであろうか? 識者の御教授を乞うものである。
以下、『鶴岡八幡宮寺供僧次第』の順に従った「鎌倉廃寺事典」のリストを掲げておく(初期は坊号で後に院号を称すようになった。頭に〇を打ったものが神仏分離令前まで残っていた本書記載の十二院)。
〇善松坊(香象院)
〇林東坊(荘厳院)
〇仏乗坊(浄国院)
〇安楽坊(安楽院)
 座心坊(朝宝院)
〇千南坊(正覚院)
〇文恵坊(恵光院)
〇頓覚坊(相承院)
〇密乗坊(我覚院)
〇静慮坊(最勝院)
〇南禅坊(等覚院)
 永乗坊(普賢院)
 悉覚坊(如是院)
 智覚坊(花薗院)
 円乗坊(宝瓶院)
 永厳坊(紹隆院)
 実円坊(金勝院)
〇宝蔵坊(海光院)
 南蔵坊(吉祥院)
 慈月坊(慈薗院)
 蓮華坊(蓮華院)
〇寂静坊(増福院)
 華光坊(大通院)
 真智坊(宝光院)
 乗蓮坊(如意院)
以下、鶴岡二十五坊の内、生き残った十二院が示されるが、 s_minaga 氏の「がらくた置き場」「相模鶴岡八幡宮大塔」にある「十二院位置略図」(明治四(一八七一)年「鶴岡八幡宮境内絵図画」にている還俗した僧侶の居住配置)を見ると、編者は鶴岡八幡宮西の十二院入口から向かって右側(東側)の手前から最奥の荘厳院までを順に辿り、そこから反時計回りになって向かって左側(西側)の奥の相承院から手前の最勝院へと順に下って項目を立てていることが分かる。 s_minaga 氏の「がらくた置き場」「相模鶴岡八幡宮大塔」にある「鎌倉八幡宮社僧十二院図」を示し、次に同氏の航空写真による幾つかの院の同定画像を転載させて頂く。




なお、 s_minaga 氏は御自身の画像に著作権を要求されていないことを、ここでお断わりしておく。氏のHPトップ・ページには『当サイトにあるオリジナル画像の加工・使用・配布などはフリーです。(著作権などの腐った主張は致しません。)』とある。氏の寛大さにここを借りて深謝させて戴く。]

我覺院 初は密乘坊・朝豪、號大納言僧都(大納言僧都と號す)。法性寺禪定殿下忠通タヾミチの末子なり。
[やぶちゃん注:「法性寺禪定殿下忠通の末子」またしても不審。前注参照。]

正覺院 初は千南坊・定曉、號三位法橋(三位法橋と號す)。平大納言時忠トキタヾの一門なり。建保五年五月十一日寂す。此の院にどこも地藏とイフあり。智岸寺がヤツの條下にツマビラカ也。
[やぶちゃん注:「平大納言時忠」(大治二(一一二七)年~文治五(一一八九)年)は公卿。桓武平氏高見王流。平清盛の継室時子の実弟。寿永二(一一八三)年には権大納言まで登ったが、壇の浦の合戦で捕虜となる。源義経を婿に迎えて生き残りを謀ったものの義経は失脚、頼朝によって能登配流となって同地で死去した。「平家物語」で「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」という名台詞で知られた人物でもある。さて、以下の項を御覧になってもお分かりの通り、実は二十五坊の初代供僧はその多くが(「鎌倉廃寺事典」で数えると実に十五坊に及び、これは源平合戦後の事後処理としての側面を持ち、『一種の救済事業であり、また一種の監督でもあったのであろう』とあり、その坊への供僧推挙者には北条時政や畠山重忠・梶原景時・佐々木高綱・北条義時ら、幕府の有力御家人が名を連ねているが(但し、これらの記載の信用度には疑義も示されている)、これは平家一門を預けられた面々とも見られ、『預けられたのでなく、頼ってきたものもあった』と記す。今はなき鶴岡二十五坊とは、盛者必衰のことわりを黙考する深き谷でもあったということか……。
「どこも地藏」以下、これを記した「新編鎌倉志 卷之四」の「智岸谷」の項は短いので、注とともに以下に引用しておく。
〇智岸寺谷 智岸寺谷は、阿佛卵塔屋敷の西北の谷、英勝寺の境内なり。古へは寺有けれども頽敗せり。近比まで地藏堂のみ有しが、是も今はなし。地藏は鶴が岡の供僧正覺院にあり。是をどこも地藏と名く。相傳ふ、初め堂守の僧あり。貧窮にして、佛餉に供すべき物なき故に、此地を遁れて、佗所に移て居住せんと思ひ定む。其の夜の夢に、地藏枕本に現じて、どこもどこもとばかり云て失にけり。彼の僧此の意を悟つて、どこもどこもとは、何くも同じ苦の世界なりと云事なるべしとて、居を不移(移さず)、一生を終りけると也。
智岸寺は本文にもあるように、英勝寺が創建される以前に、ほぼ同位置にあった。英勝寺(現在は鎌倉で唯一)と同じく智岸寺も尼寺であった。江戸初期までは英勝寺内に智岸寺の地蔵堂があったと言われている。この地蔵は寛永十三(一六三六)年の英勝寺創建以前に鶴岡八幡宮二十五坊の一つ正覚院に移された後、明治初めの廃仏毀釈で雪ノ下在の個人の蔵品となり、その後、更にその人物が瑞泉寺に寄進したとされ、瑞泉寺に現存し、現在は「どこも苦地蔵」と呼ばれている。]

海光院 初は實藏坊・義慶、號武藏阿闍梨(武藏の阿闍梨と號す)、平家の一門なり。寛喜元年八月廿日寂す。

増福院 初は寂靜坊・成慶、號辨律師(辨の律師と號す)、平家の一門なり。寶治元年正月九日寂す。

慧光院 初は文慧坊、永秀阿闍梨と云ふ。

香象院 初は善松坊・重衍、號丹後竪者(丹後の竪者と號す)、中納言通秀卿ミチヒデキヤウの孫なり。
[やぶちゃん注:「中納言通秀」とは藤原公重(ふじわらのきんしげ 元永元(一一一八)年~治承二(一一七八)年)のことか。平安後期の官吏・歌人で権「中納言」西園寺「通季」の息子である。父に早く死に別れて叔父実能の養子となっている。紀伊守・侍従・右近衛少将右少将などを経て、正四位下に至る(中納言は従三位相当格だから中納言にはなれない)。藤原清輔家歌合などに参加、治承三十六人歌合に撰ばれている。]

莊嚴院 初は林東坊・行耀、號山口法印(山口の法印と號す)、平家の一門なり。寛元元年七月十四日寂、八十五。

相承院 初は頓學坊・良嘉律師たり。平家の一門なり。寛喜三年十月七日に寂す。八十二。本尊は、正觀音也。【東鑑】に、治承四年八月廿四日。椙山スギヤマ敗亡の時、賴朝モトヾリの中の正觀音の像を取て、或巖窟アルイワヤアンタテマツらる。土肥實平トヒノサネヒラ、其の御意ヲンコヽロトヒ奉るに、ヲホセに云、クビ景親等カゲチカラツタフるの、此本尊を見ば、源氏の大將軍の所爲に非るのヨシ、人サダメソシリノコスべし。クダンの尊像は、賴朝三歳の時、乳母メノト淸水寺に參籠せしめ、嬰兒の將來をイノる事懇篤にして、二七箇日をて靈夢の告を蒙り、忽然として、二寸のギンの正觀音の像を得て歸敬し奉る所也。同年十二月廿五日、巖窟イハヤに納らるゝ所の小像の正觀音、慧光坊の弟子閼伽桶アカヲケの中に安じ奉り、鎌倉に參著す。數日山中をサガし、彼巖窟イハヤに遇て希有ケウにして尋ね出し奉るのヨシ申す。武衞合手(手を合せ)請取ウケトリ給ふとあり。今此の木像の頂にヲサメてあり。又押手ヲシテ聖天シヤウテンと云ふ。コヽにあり。是は本叡山モトヱイザンにあり。後一條帝の時、左京の大夫道雅ミチマサ、伊勢の齋宮イツキノミヤコフて、「今はタヽ思ひタヘなんとばかりを、人つてならていふよしもかな」と詠じて、且つ此の聖天にイノる。其の利生により、齋宮イツキノミヤ、男の家に通ひ給ふ。此事宮中にアラはれて、其の由をタヾトフに、齋宮イツキノミヤ、我が心共なくユメゴトクにさそわれユクとなん。羣臣ハカツて、齋宮のスミツケユキ、彼のモンヲサしむ。カヘリノチ人をして見せしむるに、路中の門々モンモンに皆手形テガタありて、何れをそれとシリがたし。是れ聖天の所爲也。佛力とはイヽながら、齋宮をかくせしツミなりとて、鎌倉にステられしを、コヽに安ずとなり。故に押手ヲシテの聖天と云。縁起にツマビラカなり。此の聖天は、慈覺大師異國より將來の像也と云ふ。
「治承四年八月廿四日。椙山敗亡の時」は石橋山の合戦の最終局面で大庭軍の追撃を受けて頼朝が逃げ込んだ土肥の椙山に逃げ込んだ「しとどの窟」で知られる一戦を言う。死を決した頼朝主従、土肥実平・北条時政及び嫡男宗時、二男義時らはここで別れたが、父や弟と別働した宗時のみが討死にした。以下に「吾妻鏡」の治承四(一一八〇)年八月二十四日の該当箇所を引用する。
〇原文
景親追武衞之跡。搜求嶺溪。于時有梶原平三景時者。慥雖知御在所。存有情之慮。此山稱無人跡。曳景親之手登傍峯。此間。武衞取御髻中正觀音像。被奉安于或巖窟。實平奉問其御素意。仰云。傳首於景親等之日。見此本尊。非源氏大將軍所爲之由。人定可貽誹云々。件尊像者。武衞三歳之昔。乳母令參籠淸水寺。祈嬰兒之將來。懇篤歷二七箇日。蒙靈夢之告。忽然而得二寸銀正觀音像。所奉歸敬也云々。
〇やぶちゃんの書き下し文(会話文とシークエンスごとに改行した)
 景親、武衞の跡を追ひて、嶺溪みねたにを搜し求む。
 時に梶原かぢはら平三景時といふ者有り。慥かに御在所を存じ知ると雖も、有情うじやうの慮りを存じ、
「此の山、人跡無し。」
と稱し、景親の手を曳き、傍らの峯に登る。
此の間、武衞、御もとどりの中の正觀音像を取りて、或る巖窟に安んじ奉らる。實平、其の御素意を問ひ奉るに、仰せて云はく、
「首を景親等に傳ふるの日、此の本尊を見ば、源氏の大將軍の所爲に非ざるの由、人、定めてそしりをのこすべし」
と云々。
「件の尊像は、武衞三歳の昔、乳母めのと淸水寺に參籠せしめて、嬰兒の將來を祈り、懇篤にして二七箇日をて、靈夢のつげを蒙り、忽然として二寸の銀の正觀音像を得て歸敬ききやうし奉る所なり。」
と云々。
次に同年十二月二十五日の条。
〇原文
廿五日癸卯。石橋合戰之刻。所被納于巖窟之小像正觀音。專光房弟子僧奉安閼伽桶之中捧持之。今日參着鎌倉。去月所被仰付也。數日搜山中。遇彼巖窟。希有而奉尋出之由申之。武衞合手。直奉請取給。御信心彌強盛云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿五日癸卯。石橋合戰の刻、嚴窟に納めらるる所の小像の正觀音、專光房が弟子僧、閼伽桶あかをけの中に安んじ奉りて之を捧持、今日、鎌倉に參着す。去んぬる月、仰せ付けらるる所なり。數日、山中を搜し、彼の嚴窟に遇ひて、希有にして尋ね出だし奉るの由、之を申す。武衞手を合はせ直きに請け取り奉り給ふ。御信心彌々強盛がうじやうと云々。
なお、この正観音像は、この後の文治五(一一八九)年七月十八日の条にも現われる。
〇原文
十八日丙子。召伊豆山住侶専光房。仰曰。爲奥州征伐。潛有立願。汝持戒淨侶也。候留守。可凝祈請。將又進發之後。計廿ケ日。於此亭後山。故可草創梵宇。爲奉安置年來本尊正觀音像也。不可仰別工匠。汝自可立置柱許。於營作者。以後可有沙汰者。專光申領状。又於伊豆國北條。可立伽藍之由。御立願。同爲彼征伐御祈祷也云々。
〇やぶちゃんの書き下し文(会話文を改行した)
十八日丙子。伊豆山住侶、專光房を召し、仰せて曰はく、
「奥州征伐の爲に潛に立願有り。汝は持戒の住侶なり。留守に候じて祈請を凝らすべし。將又はたまた進發の後、廿箇日を計り、此の亭の後山に於て、ことさらに梵宇を草創すべし。年來の本尊、正觀音像を安置し奉らんが爲なり。別して工匠に仰すべからず。 汝、自づから柱許りを立て置くべし。營作に於ては、以後に沙汰有るき者なり。」
専光、領状を申す。
この法華堂は現存せず、現在の頼朝墓とされる場所の下方にあった。そこからこの頼朝持仏の正観音は相承院に齎されたものらしいが、現在の所在は不明のようである。
「通雅」藤原通雅(正暦三(九九二)年~天喜二(一〇五四)年)は公卿・歌人。儀同三司伊周長男。一条天皇皇后定子の甥。幼児期は祖父中関白道隆に溺愛されて育ったが、道長の政権奪取、父伊周の花山院への不敬事件(長徳の変)などによる実家の中関白家の凋落する中で成長、世に「荒三位」「悪三位」と呼ばれ、殺人教唆を含む数々のスキャンダルに飾られた人生を送っているが、本件はその一つで、長和五(一〇一六)年九月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王(長保三(一〇〇一)年~治安二(一〇二二)年):三条天皇第一皇女。)と密通、これを知った内親王の父三条院の怒りに触れて勅勘を被った事件を指す。ウィキの「当子内親王」によれば、『二人の手引きをしていた乳母の中将内侍をも追放し、内親王は母娍子のもとに引き取られて道雅との仲を裂かれてしまう。世間では「伊勢物語の斎宮であればともかく、この内親王は既に斎宮を退下しているのだから」と同情する声もあったが、内親王は悲しみのうちに』翌寛仁元(一〇一七)年、病により出家している。その六年後に短い生涯を閉じた、とある。一方、通雅は和歌に巧みで、中古三十六歌仙の一人としても知られ、「小倉百人一首」には道雅がこの当子内親王に贈った歌が採られている。「後拾遺和歌集」の詞書を附して併詠された二首も加えて以下に掲げておく(底本は岩波新日本古典大系版を用いたが、恣意的に正字に直した)。
   伊勢の齋宮わたりよりのぼりて侍りける人に
   忍びて通ひけることをおほやけも聞しめして
   守り女など付けさせ給ひて、忍びにも通はず
   なりにければ、詠み侍りける         左京大夫通雅
 逢坂は東路とこそ聞くきしかど心づくしの關にぞありける
 さかき葉のゆふしでかけしその神にをしかへしても似たるころかな
 いまはたゞ思ひ絶えなんとばかりを人づてならでいふよしもがな
案外、この二首目当たりがこの「押手ヲシテの聖天」のルーツかも知れない。この聖天は現在、鶴岡八幡宮西側の出口を出て道を渡った先にある小袋坂旧道跡の途中に青梅聖天社として残るものがそれか(聖天像(歓喜天)と勝軍地蔵を祀る。この辺りが相承院旧地でもある)。「巻之三」の「靑梅聖天」参照。[やぶちゃん二〇一五年七月十六日追記:削除については「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  靑梅聖天」の私の注を参照されたい。]

安樂院 初は安樂坊重慶法眼、平家の一門なり。
[やぶちゃん注:「鎌倉市史 社寺編」には、この坊での供僧の改替(僧の過ちによる解任と別当による代行支配〔進止という〕)につき、『安楽坊は契幸が自由の遁世をしたためという。僧侶が遁世するとは面白い』とある。これ、まっこと、面白い。]

等覺院 初は南禪坊良智、號肥前律師(肥前の律師と號す)。本三位の平の重衡の息也。《鏁大師》弘法自作の木像あり。クサリ大師と云也。クサリを以てヒザを屈伸するやうに作る故に名く。安置する堂を、蓮華定院と云ふ。勅書を板に書寫してカケたり。御祈禱すべきの勅意、執達左少辨俊國トシクニ、應永二十七年十二月十三日とあり。不動の畫像一幅あり。弘法の筆也。弘法自畫の像一幅、兩界曼荼羅二幅、西山ニシヤマの宮道覺法親王の筆なり〔靑蓮院殿、後鳥羽の皇子なり。〕辨才天の像一軀、十五童子あり。三浦荒ミウラノアラ二郎、若江島ワカエノシマに安置する本尊と云ふ。等覺院のウシロに、ヲヽキなるヤツあり。八正寺と云て、昔八幡の大別當僧正の舊跡なり。【東鑑】に、壽永元年九月廿六日、鶴が岡の西のフモトテンじて、宮寺の別當坊をタテらるとあり。此所ならん。
[やぶちゃん注:「本三位の平の重衡」(保元二(一一五七)年~文治元(一一八五)年)平清盛五男。宗盛・知盛・徳子の実弟。治承四(一一八〇)年五月の以仁王と源頼政の挙兵ではこれを鎮圧、同年十二月には園城寺から南都の焼き討ちの総大将として興福寺・般若寺・大仏を含む東大寺の堂塔伽藍一切を焼尽、多数の僧が焼死した。源平合戦では墨俣川・水島・室山合戦など勝利を収めたものの寿永三(一一八四)年二月の一の谷の合戦で捕虜となって鎌倉に護送された。その潔さから頼朝に厚遇されたが、南都焼討の遺恨を持った興福寺と東大寺両寺衆徒の強い要求に頼朝も抗し切れず、奈良に再送られて木津川畔で斬首された。 「鏁大師」は現在、鎌倉市手広にある飯盛山青蓮寺(弘法大師空海による弘仁十(八一九)年の開山)に移されて現存し、「鎖大師」と表記する。青蓮寺の公式サイトの「歴史」の記載によれば、この生き人形のような大師像は、弘仁七(八一六)嵯峨天皇の命により弘法大師が諸国行脚の旅に出る際、天皇との別れを惜しんで、等身大の像を鏡に向かって自らの裸形像を作像したもので、弘法大師が実際に着ていた衣服・法衣・念珠・五鈷などをつけ、天皇に献上したとされる(伝承に過ぎない)。天皇崩御後、大和の岡寺に移され、更に後に鎌倉鶴岡八幡宮に移されてこの等覚院の蓮華定院に安置されたが、廃仏毀釈によって八幡宮の所属していた雪の下の松源寺(現在は廃寺)、その後に寿福寺を経て、青蓮寺に移されたとされている。鎖大師は、関節が鎖で繋げられて可動する。目は玉眼入りで、手の爪も水晶で造られた鎌倉後期の非常に珍しい作像で重要文化財に指定されている。
「執達左少辨俊國」不詳。
「應永二十七年」西暦一四二〇年。将軍は足利義持。鎌倉では、この三年前に上杉禅秀が自害し、乱が終息している。
「西山の宮道覺法親王」(元久元(一二〇四)年- 建長二(一二五〇)年)天台僧。父は後鳥羽天皇。親王宣下後の入道となったため、道覚入道親王とも称した。建保四(一二一六)年、出家して慈円らに天台教学を学ぶ。宝治元(一二四七)年、天台座主となり、翌宝治二(一二四八)年には京都東山にある青蓮院門跡を継いだ。
「三浦荒二郎」戦国初期の武将で相模三浦氏最後の当主三浦義意(みうらよしおき 明応五(一四九六)年~永正十三(一五一六)年)。三浦義同よしあつ嫡男。荒次郎は通称。父から相模国三崎城(新井城とも。現在の三浦市在)を与えられ、永正七(一五一〇)年頃に家督を譲られている。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏や上杉朝良に従って北条早雲と戦うが、永正十(一五一三)年頃には岡崎城(現在の平塚市在)・住吉城(現在の逗子市在)を小田原北条氏によって奪われ、三浦半島に押し込められた。父とともに三崎城に籠って三年近くに亙って籠城戦を継続したが、父義同の切腹を見届けた後に敵中に突撃して討ち取られたと伝えられる。これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定が完了した(以上はウィキの「三浦義意」に拠った)。
「若江島に安置する本尊と云ふ」三浦義意は江ノ島の奥津宮に於いて弁財天来臨法を修したという伝承があるので、これは「若江島」ではなく、「江島」の誤記である可能性があるが、ただ、住吉城の直下に日本最古の築港跡である和賀江ノ島はあり、当時、ここに海神である弁才天を勧請して祠を設けていたと考えられなくはない。識者の御教授を乞うものである。
「八正寺」鶴岡八幡宮の境内にあって、元は若宮御影堂と称して八幡像を安置していた。建長三(一二五一)年十一月の建立といい、応永二十一(一四一四)年四月に後小松上皇の勅願寺となり八正寺と号した。当時の別当は亀山上皇の曾孫である宝幢ほうどう院宮大僧正尊賢法親王(貞和元・興国六(一三四五)年~応永二十三(一四一六)年)。八正寺はその後、別当の称号となったらしく、古河御所足利政氏の子である空然、更に後の家国も八正寺を称している。廃年未詳(以上は主に東京堂出版刊の白井永二編「鎌倉事典」を参照した)。二十五坊跡のすぐ西のにあったと推定されている。二十五坊ヶ谷は八正寺谷と同じなのか、八正寺谷は二十五坊ヶ谷の八正寺部分の限定谷戸名なのかは、私には判然としない。]

最勝院 初は靜慮坊、良祐竪者なり。
[やぶちゃん注:「竪者」は「りつしや(りっしゃ)」と読む。「立者」とも。法会の竪義りゅうぎ(学僧が竪者となって、勅使臨席の下、その研修の成果による自己の義(見解)を立て、それに対して学匠が問者になって質疑を発し、その義を試し、繰り返された質疑応答の結果によって最高学匠である探題が竪者の立てた義の及落を判定する試験)のとき、義を立てて質問に答える僧を指すが、ここではその資格を有した僧の、一種の肩書きなのであろう。]

○柳原 柳原ヤナギハラは、八幡宮舞殿マヒドノヘンより東、藥師堂の前までをイフ。昔しヤナギの多かりけるに因て也。枯株今尚を存せり。里俗ツタヘて古歌あり作者不知(知れず)。「トシへたる鶴岡邊ツルガヲカベヤナギ原、アヲみにけりな春のしるしにと」。此の歌を、【歌枕の名寄】には、平の泰時ヤストキと有て、柳原ヤナギハラマツのとあり。イヅなることを不知(知らず)。久しく此の所の歌也と云ならはしたることなれば、里俗のツタへ語れるを本とすべき歟。
[やぶちゃん注:「年へたる鶴岡邊の柳原、靑みにけりな春のしるしに」の和歌は、「夫木和歌抄」に「春歌中、柳」、作者「平泰時朝臣」として、
 年へたる鶴のをかべの柳原靑みにけりな春のしるしに
植田が言う「歌枕名寄」鶴岡には、
 としへたるつるがをかべの松の葉のあをみにけりな春のしるしに
更に、「六花集註」春部には、
 年へたる鶴が岡邊の柳原靑みにけりな春のしるしに
と本文と同じものが所載する。]

○若狹前司泰村舊跡 若狹ワカサノ前司泰村ヤスムラが舊跡は、八幡宮の東の山際ヤマギハにあり。【東鑑】に、寛元三年七月六日、將軍家、御方違ヲンカタタガヘとして、若狹の前司泰村ヤスムラか家に渡御し給ふ。泰村ヤスムラが家は、御所より北の方也とあり。按ずるに、將軍は賴嗣ヨリツグ也。賴嗣ヨリツグの屋敷は若宮大路なれば、此の所ろ正北なり。【鎌倉物語】に、賴朝屋敷のキタと書せり。將軍の御所より北に當るとアルを見て、賴嗣ヨリツグも、賴朝屋敷に居せられたりと心ろ得たり。【東鑑脱漏】を未見ゆへに、賴經ヨリツネ將軍の時、嘉禎二年に、若宮大路へウツられしと云事を不知(知らざる)歟。賴經ヨリツネ屋敷の事は、賴朝屋敷の條下に詳也。泰村ヤスムラは、三浦平六兵衞尉の義村ヨシムラが長子也。甚だ權威あり。寶治元年六月五日、一門悉く亡ぶ。
[やぶちゃん注:「若狹前司泰村」三浦泰村(元暦元(一一八四)年~宝治元(一二四七)年)は義村の次男。承久三(一二二一)年の承久の乱の際、父とともに北条泰時に従って宇治川合戦で戦功を立てる。嘉禎三(一二三七)年に若狭守、暦仁元(一二三八)年には評定衆に補せられ、延応元(一二三九)年、父の死によって家督を継ぎ、三浦介相模守護となって幕府内に絶大なる権威を有するようになったが、宝治元(一二四七)年、時頼と安達景盛の策略に嵌まった泰村は鎌倉で挙兵するも大敗、法華堂の頼朝の御影の前で一族郎党とともに自害した。]

○筋替橋〔附畠山重忠屋敷 鎌倉の十橋〕 筋替スジカヘ〔或作須地賀江(或は須地賀江に作る)〕ハシは、雪下ユキノシタより、大倉村ヲホクラムラへ出る道の橋なり。《鎌倉十橋》鎌倉の十橋とイフは、琶琵橋ビハハシ筋替橋スジカヘハシ歌橋ウタノハシ勝橋カツガハシ裁許橋サイキヨハシ針磨橋ハリスリハシ夷堂橋エビスダウハシ逆川橋サカカハハシ亂橋ミダレハシ十王堂橋ジフワウダウハシなり。《重忠屋舗》筋替橋スジカヘハシの西北を、畠山重忠ハタケヤマシケタヾが屋敷の跡とイフ。【東鑑】に、正治元年五月七日、醫師時長トキナガ、昨日京都より參著す。今日掃部のカミ龜谷カメガヤツの家より、畠山次郎重忠シゲタヽが、南御門ミナミミカドの宅にウツり住す。是近々チカヂカに候ぜしめ、姫君の御病惱を療治しタテマツらんがタメなりとあり。
[やぶちゃん注:「筋違橋」と書いても「すじかへばし(すじかえばし・すじかいばし)」と訓ずる。以下の所謂、鎌倉の名数十橋は本作を初出とする。
「正治元年」西暦一一九九年。
「醫師時長」丹波時長(生没年不詳)は平安末から鎌倉前期にかけて、医師として名声を極めた官位は針博士しんはかせ典薬頭。正治元(一一九九)年に源頼朝の次女乙姫が病に倒れると、以下に見るように、彼はこの二ヶ月前に鎌倉幕府より治療のため鎌倉に下向するよう求められたが、固辞、それでも院宣が出たため、鎌倉に下向して治療に当たった。その前段を「吾妻鏡」で見ておく。建久十(一一九九)年三月十二日の条である(この年は四月に改元している)。
〇原文
十二日甲辰。姫君追日憔悴御。依之爲奉加療養。被召針博士丹波時長之處。頻固辞。敢不應仰。件時長。當世有名醫譽之間。重有沙汰。今日被差上專使。猶以令申障者。可奏達子細於仙洞之旨。被仰在京御家人等云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日甲辰。姫君、日を追ふて憔悴したまふ。之に依りて、療治を加へ奉らんが爲に、針博士丹波時長を召さるるの處、頻りに固辭し、敢へて仰せに應ぜず。件の時長は當世名醫の譽れ有るの間、重ねて沙汰有り。今日専使を差し上さる。猶ほ以つて障りを申さしめば、子細を仙洞に奏達すべきの旨、在京の御家人等に仰せらると云々。
「仙洞」は後鳥羽院のこと。一時的に乙姫は回復したが、後に再び体調を崩し、時長は六月十四日に「凡匪人力之所覃也」(凡そ人力のおよぶ所の匪ざるなり。)匙を投げて都に帰った。彼は後、第四代将軍九条頼経が鎌と倉に下向する際、子の長世とともに鎌倉に下り、将軍家権侍医として仕えている(以上はウィキの「丹波時長」に拠った)。
「姫君」三幡(さんまん 文治二(一一八六)年~正治元(一一九九)年六月三十日)は源頼朝と北条政子の次女。「吾妻鏡」には通称の乙姫で載る。大姫・頼家の妹で、実朝の姉。頼朝は長女大姫(治承二(一一七八)年~建久八(一一九七)年)を後鳥羽天皇妃とするべく入内工作を進めていたが、許婚木曽義高の惨殺によって重い精神病を病んだ大姫には所詮無理な相談で、満十九歳で大姫は死去する。そこで今度はこの三幡を次の候補に擁立、三幡には女御の称が与えられて後は正式な入内を待つばかりとなり、頼朝は三幡を伴って上洛し、朝廷の政治についての意見を具申する予定であったが、頼朝は建久十(一一九九)年の正月十三日に死去してしまう。それから五ヶ月半後、乙姫も満十三歳の若さで亡くなった(以上は主にウィキの「三幡」に拠った)。]

○蛇谷 蛇谷ヘビガヤツは、若宮ワカミヤにあるヤツを云也。【沙石集】に、鎌倉に或人アルヒトムスメ、若宮の僧坊のチゴコヒヤマヒになりぬ。ハヽにかくと告知ツゲシラせければ、彼兒が父母も知人シルヒトなりけるまゝに、此の由申にアハセて、時々トキドキ兒をカヨはしけれども、コヽロザしもなかりけるにや、ウト成行ナリユクほどに、終に思ひ死にしぬ。父母カナシンで、彼のホネを善光寺へヲクラんとて、ハコに入てヲキけり。其の後此の兒病チゴヤミ付て、物クルはしくなりければ一間ヒトマなる處にヲクに、物語のコヘしけり。父母物のヒマより見るに、大なるヘビムカたり。終にチゴもうせにけり。入棺して若宮の西の山に葬るに、棺の中に大なるヘビ有て、チゴマトふとイヘり。今按ずるに、此地の事なる歟。或云、會下谷ヱゲカヤツの西の後假粧坂ウシロケワヒサカの北にヤツを云也と。又名越ナゴヤの内にも蛇谷ヘビカヤツと云處あり。此とは異なり。
[やぶちゃん注:「【沙石集】に……」以下、「沙石集」の巻第七から該当箇所を引く。底本は読み易くカタカナを平仮名に直した一九四三年岩波書店刊の岩波文庫版「沙石集 下巻」(筑土鈴寛校訂)を用いた。
     七 妄執に依つて女蛇と成る事
鎌倉に或人の女、若宮の僧正坊のちごを戀ひて病になりぬ。母にかくとつげたりければ、かの兒が父母も、知人なりけるまゝに、この由申合せて、時々兒をもかよはしけれども、志もなかりけるにや。うとく成ゆく程に、つひに思死おもひじにに死にぬ。父母悲しみて、彼こつを善光寺へ送らんとて、箱に入れておきてけり。その後此兒又病付きて、大事になりて物狂はしくなりにければ、一間なる所にをしこめておく。人と物語る聲しけるをあやしみて、父母物のひまより見るに、大なる蛇とむかひて物をいひけるなるべし。さてつ終に失にければ、入棺して、若宮の西の山にて葬するに、棺の中に大なる蛇ありて、兒とまとはりたり。やがて蛇と共に葬してけり。かの父母、女が骨を善光寺へ送るついで、取分けて、鎌倉の或寺へ送らんとして見けるに、骨さながら小蛇に成りたるも有り、なからばかりなりかかりたるも有り。此事はかの父母、或僧に孝養してたべとて、ありのまゝに語りけるとて、たしかに聞きて語り侍りき。近き事也。名も承りしかども、はばかりありてしるさず。此物語は、多く當世の事を記する故に、その所その名をはばかりて申さず。不定の故には非ず。凡そ一切の萬物は、一心の變ずるいはれ、始めて驚く可からずといへども、此事ちかき不思議なれば、まめやかに愛欲のとがと思ひとけば、いと罪深くとこそ覺え侍れ。されば執着愛念ほどに恐るべき事なし。生死に流轉すること著欲による。佛神にも祈念し、聖教の對治をたづねて、此愛欲をたち、此の情欲をやめて、眞實に解脱の門に入り、自性淸淨の躰を見るべし。愛執つきざれば、欲網を出でず。無始の輪廻、多生の流轉、ただ此事を本とす。何の國とかや、或尼公、女を我夫にあはせて、我身は家に居て、女にかかりて侍るが、指の虵になりりたるをつつみかくして、當時有りと云へり。昔もかかる事、發心集に見えたり。かれは懺悔して念を申しけるまゝに、本の如くなれりと云へり。
□やぶちゃん語注
・「若宮の僧正坊」若宮の別当僧正坊。岩波古典大系「沙石集」頭注には、「若宮」を『鶴岡八幡石階下にあり、仁徳帝を祀る』とするが、如何? この時代に「若宮」と呼ぶのは、本来の勧請地である、もっと離れた由比の若宮であろう。但し、ここは移築した現在の鶴ヶ岡八幡宮自体を呼称しているようには読める。「僧正坊」は二十五坊を指す。
・「骨さながら小蛇に成りたるも有り」骨の中には完全に小さな蛇に変態していたものもあり、また……の意。
・「著欲」は著欲謗法じゃくよくぼうほうのこと。五欲(二説あって、しきしょうこうそくの五境に対して起こす欲望とも、また、財欲・色欲・飲食おんじき欲・名欲(名誉欲)・睡眠欲の五つともいう。五塵とも)に執着して正法しょうぼうを求めぬことをいう。
・「聖教」は「しやうげう(しょうぎょう)」と読み、仏法の正しい教えを説いた経典。
・「對治」は「退治」で、煩悩を断ち切るための方途。
・「自性淸淨」は「じしやうしやうじやう(じしょうしょうじょう)」と読み、本来の、一切の煩悩による穢れから遠く離れた、清浄な心の状態をいう。
・「何の國とかや、或尼公、女を我夫にあはせて、……」これは鴨長明の「発心集」に載る蛇妄執譚で「新編鎌倉志巻之七」の「〇蛇谷」(この「蛇ヶ谷」はまた大蔵の釈迦堂ヶ谷へ出る切通しの近くで、場所が異なる)の私の注に全文を引用してあるので参照されたい。
なお、「沙石集」の作者無住道暁(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は鎌倉生まれで、三十七歳まで鎌倉に住んでおり、自称梶原氏末裔を名乗る。されば、その説話集である本作には鎌倉を舞台とする説話が有意に多い。鎌倉の古典を学ばんとするなら、私はまず、この「沙石集」をお勧めする。――因みに私が小さな頃、鎌倉は蛇と百足の名所と言われたが、最近はめっきり蛇は見なくなった。――しかし、百足は今も多い。先日も七~八センチのきゃつが、家中に二日連続で出現して恐懼したし、今朝は沸かした風呂の中でムカデの赤ん坊が茹で上がっていた……。]



新編鎌倉志卷之一