やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
鎌倉攬勝考卷之九
[やぶちゃん注:底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。「鎌倉攬勝考」の解題・私のテクスト化ポリシーについては「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の私の冒頭注を参照されたい。なお、テクスト化の効率を高めるため、私の詳細な注は、取り敢えず「伊具四郎入道某舊跡」迄で原則、中止とした(それ以降については私が読んで難読・意味不明と感じたものにのみ「語注」を附した)。これは注作業が面倒だからではない。逆に楽しいのであるが、本ページの場合、登場人物が異様に多く、一項目の注作業に二日も三日もかかるからである。注を楽しみにされている方もあろうと存ずるが、悪しからず。詳細注は後日に期す。【作業開始:二〇一一年七月十七日 作業終了二〇一一年八月十二日】]
鎌倉攬勝考卷之九
第 跡
三浦駿河前司義村第跡 鶴が岡東の方山際なり。曩祖三浦平太郎爲繼、寛治年中、陸奧守義家朝臣武衞家衡を討伐し給ふ時、爲繼は旗下に屬し戰功を顯す。其息男三浦介義明、治承四年右大將家の御味方申、三浦衣笠の城合戰の時、右大將家敗軍の士を率ひ、三浦が崎より房總の地へ移り給ふ砌、義明八十餘の老體なれば、餘命おしむに足らずとて、嫡男義澄は御供致させ、老將城に止て討死せり。無程右大將家鎌倉へ入給ひしかば、老父の戰死に報い、領所多く賜ひ、位階して三浦介義澄と免さる。其長子平六兵衞尉〔後駿河前司。〕義村が長子若狹前司泰村也。向に右大將家營館を定め給ひ、諸家にも宅地を與え給ふ時、營中近き所なれ共、袛候の便にとて此處を與えらる。幕府の殿營と鶴岡境地の間なり。先年若宮別當公曉が、右大臣を殺し奉り、義村が方へ使者を馳て、其宅へ可參旨申送り、迎のもの延引せしかば、鶴岡の山越に義村が宅へゆかんとて、雪の下の坊より立出る途中にて、長尾が爲に討る。社地の山麓に接したる屋鋪ゆへり。【東鑑】に、寛元三年七月六日將軍家〔賴嗣。〕御方違、若狹前司泰村が家に渡御し給ふ。泰村が家は御所より北の方なりとあり。同五年〔二月改元寶治元年と成。〕五月廿七日、左親衞〔時賴。〕輕服之間、日來若狹前司泰村が亭に寄宿せらる。然るに今日、彼一族群集する形勢、其上入夜、鐙・腹卷の粧する響、左親衞の入耳。此間中人々より告申といえども、強信用もせざりしかど、忽符合するの間、俄に彼館を退き、本居所へ還り給ふに、五郎四郎といえる従者一人、太刀を持て供せしといふ。亭主此事を聞て仰天し、内々陳謝に及びしといえり。今年正月中旬より、鎌倉中物騷敷、天變の事も時々有けり。四月四日、秋田城之介景盛入道覺地、時賴が許に來り、長居して閑談を凝し、其後子息義景と孫泰盛を諷し、三浦の輩當時に秀て傍若無人なり。世も季になりなば、我子孫等かれらに對揚叶ふべからず。思慮有べきことなるに、義景・泰盛專怠りて武術なきこと、奇怪の由と云云。廿一日に、鶴岡の鳥居の前に札を立たり。若狹前司泰村、獨歩の餘り依背嚴命、近日可被加誅罸之由有其沙汰、能々可有謹愼云云。偖此間時賴輕服のことにて、泰村が宅に在しが、前にいえる如くなるゆへ、廿七日に家に替られ、廿八日夜に入て三浦の人々の家を、人をして見せしに、兩々兵具を調べ置、安房・上總等の領地より廻し運ぶよしを申す。六月一日時賴、近江四郎左衞門尉氏信を泰村が許へ遣す。其旨を知る人なし。泰村いふ、此間中世上の物騷、偏に一身の愁に似たり。其故は、我等兄弟他門にこえ、既に位も正五位下たり。其外一族多く官位を博帶し、剩守護職數ケ國、莊園數百町を司り、榮運極りぬれば、讒人の愼み無にあらずといふ。其側侍に弓・征矢・鐙の韓櫃の棹數十本あり。郎從友野太郎に見せしに、厩侍の邊に積置所の鐙匣、百二三十合歟の由を歸り申せしかば、時賴用心彌きび敷、二日には近國の御家人等、時賴が家に馳せ集り旗を揚る。泰村が南庭に落書す。檜板に記す。其詞に、此程世間の騒ぐことは何ゆへとか知て候。御邊討れ給ふべきことなり。思ひ參らせて候。御心得の爲に申候云云。四日に御家人並時賴の袛候人等、退散すべき由を觸らる。五日曉より鎌倉中物騷、時賴は萬年馬入道を使として、郎徒等をしづむべしといひ送り、次に平左衞門尉入道盛阿に、誓紙もたせて異心なき由をいひたり。泰村大に悦び、盛阿座を立て歸る。其妻湯漬をすゝめて、案堵を賀す。然るに高野入道覺地此ことを聞て、此後泰村が氏族猶奢侈なるべし。此時かれに對揚叶ふべからず。此時に雌雄を決せよとて、義景・泰盛一族を具して、泰村が家に馳向ひ、かぶらを飛ばす。〔或人の説に、時賴元より高野入道と相議し、泰村を誅せり。時賴が姦計なること畏るべしといふ。〕泰村大に驚き防戰ふ。盛阿馳歸り斯といふ。時頼此うへはとて、實時をして御所を守らせ、六郎時定を大將とす。毛利藏人大夫入道西阿も御所へ參らむとせしを、其妻〔泰村が妹なり。〕に諫れて泰村が陣に馳かり、時賴是を聞て午の刻御所へ參り、北風南に替りしかば、泰村が南隣に火を放つ。泰村・光村等、右大將家の法華堂に行て、賴朝卿の影前にて、兄弟初め一族郎從自殺す。宗徒の者二百七十六人、都合二百七十六といふ。今朝辰の中刻より未の刻にて合戰訖。法華堂にて、承仕法師が天上にて伺ひし事書は玆に略す。數代の功業の家も一時に亡び、毛利入道西阿が家も、同敷滅亡是は大江廣元の三男なり。泰村が舊跡、今は悉く陸田なり。
[やぶちゃん注:三浦義村(?~延応元(一二三九)年)は三浦義澄嫡男(次男)。評定衆。幕府内の最有力御家人として、結果的には敵対勢力であったはずの北条氏と協力関係を保った。以下の最後の三浦家当主泰村は彼の次男である。
「曩祖」は「なうそ」と読み、先祖と同義。「袛候」は「伺候」と同じい。読みも「しこう」。
「輕服」は「きやうぶく」と読み、父母の喪(重服)以外の親族の喪ことを言う。これは宝治元(一二四七)年五月十三日に急死した第五代将軍頼嗣妻であった檜皮姫の喪で、彼女は、前年に黄疸の症状を呈して亡くなった兄執権北条経時、彼が執権職を譲った弟時頼の実の兄妹であった。なお、この享年二十三歳という経時や檜皮姫急死はともに毒殺で、その黒幕は北条氏排斥を狙う三浦一族という噂が囁かれる中の、時頼のわざわざ三浦邸に赴いての服喪、夜半の三浦邸内の兵馬の音、時頼密かに脱出という、開幕以来府、巧妙に立ち回って最後まで残っていた有力豪族三浦一族滅亡の宝治合戦シナリオの、スリリングなシチュエーションが「吾妻鏡」によって示されている。現在の鎌倉史研究では時頼はあくまで穏便な権力交代(具体的には三浦泰村の隠退と安達氏への実権移譲)を望んでいたが、結局、幕府内での三浦氏排撃の急先鋒であった安達氏の陰謀にはめられて挙兵敗北したとされるようであるが、私は大学時分にこの吾妻鏡など、宝治合戦の詳細を読んだ時、この如何にもな時頼の服喪のために三浦邸へ行くという行動の冒頭から、この男こそ狡猾な確信犯と睨んだものであった。それに先行する鶴ヶ岡社頭や後の泰村邸南庭の落書は、場所を考えればその挑発行為を容易になし得るのは、安達方よりも時頼方ではあるまいか、と私は思ったのである。そこで気になるのは、ここでの植田氏の「吾妻鏡」の引用の仕方である。服喪直後に、出家隠棲していたはずの高野山から突如帰還した安達影盛の、子義景と孫泰盛への叱咤を記すのであるが、これは日付を見れば分かる通り、四月四日で、時頼の三浦邸服喪五月二十七日よりも前の記載なのである(植田氏のここでの「吾妻鏡」引用には省略・改変・記事移動が多く見られる)。わざわざ割注で紹介しているように、どうも植田氏も安達主犯説より時頼黒幕説を信じていたように感じられるのである。
「對揚叶ふべからず」という安達影盛の台詞は、仮定法文脈であるから、万一の際には(その三浦氏の強力な武力に対して)対抗し得ることはおぼつかない、の意である。ここで影盛が言うように、安達方が軍力に於いて絶対的優勢を誇る三浦氏を一気に殲滅してかかろうとするなら、一撃で決める必要がある。それを如何にも姑息な神経戦でネチネチとアジテーションして、逆に鎌倉に三浦の兵力が増強される余地などを与えてしまうというのは私には奇異に思えるのである(実際言わんこっちゃない、宝治合戦の安達・三浦の第一次攻防戦は三浦軍優勢とも言える激戦となった)。
「奇怪の由」は底本では「寄悟の由」とある。誤植。「吾妻鏡」で訂した。
「廿一日に、鶴岡の鳥居の前に札を立たり。若狹前司泰村、獨歩の餘り依背嚴命、近日可被加誅罸之由有其沙汰、能々可有謹愼云云」は勿論、「五月」二十一日のことである。以下、札の落書を書き下すと、
若狹前司泰村、獨歩の餘り、嚴命に背くに依て、近日誅罸を加へらるべきの由、其の沙汰有り、能々謹愼有るべし
「獨歩の餘り」は余りの自分勝手、傍若無人の振る舞い故、の意。
「罸」は「罰」に同じい。
「偏に一身の愁に似たり」この泰村の台詞、底本では「偏に一身の然に似たり」とあるが、誤植である。「吾妻鏡」で訂した。意味は、ただもう拙者一身の不徳と致すところと変わらざるものにて御座れば、といった意味合いか。
「讒人の愼み無にあらずといふ」「吾妻鏡」ではこの部分、「於今者。上天加護頗難測之間。非無讒訴之愼云云(今に於ては、上天の加護頗る測り難き之間、讒訴の愼み無きに非ずと云云)。」とあるから、ここは「いわれなき讒言による訴追を人から受けぬように慎みを持たざるを得ぬので御座る。」といった意味であろう。
「泰村が南庭に落書す」は「吾妻鏡」によれば翌六月三日の出来事である。
「平左衞門尉入道盛阿」平盛綱(生没年不詳)のこと。北条氏家司。北条泰時・経時・時頼三代執権に仕えた。後世彼の子孫が幕府内管領長崎氏として権力を握るに至る。仁治三(一二四二)に出家隠退しており、「吾妻鏡」によって建長二(一二五〇)年初頭には既に死亡していることが確認出来るから、泰村も旧知なればこそ、まさに最後の御奉公として借り出された、特別友情出演という感じである。
「其妻湯漬をすゝめて、案堵を賀す」とあるが、実は「吾妻鏡」にはこの後に「泰村一口用之。即反吐云々(泰村一口之を用い、即ち反吐すと云々)」と終わるのである。ここは欲しいところだ。緊張が緩んだ、しかし如何にも不吉な、いや、既に実は既に最期を直感していたかも知れない呆けたように口を開けた泰村の、反吐を吐いた、その雫の滴る顔のアップ(F・O・)。
「承仕法師」は一般名詞。「承仕」は「じやうじ」と読み、寺社にあって雑役を務める者を言った。ここでは法華堂の実務管理僧のこと。逃げ遅れた彼は法華堂の天井裏に逃げ込み、三浦一族自刃の最期を見届け、それが「吾妻鏡」に記されているのである。宝治合戦は六月六日に始まり、同八日に終わった。]
畠山庄司次郎重忠第跡 筋替橋より北の方なる、田圃の地をいふ。右大將家御館の何西に續けり。【東鑑】、正治元年五月七日、姫君御病臟腦を療治奉らんが爲に、醫師時長、昨日京都より參著す。今日掃部頭が龜が谷の家より、畠山次郎重忠が南御門の宅へ移住すとあり。爰の宅地は、將軍家の近隣なれば、武功の寵臣ゆへ、柳營近き餠所に弟地を賜ひしことなるべし。重忠が後は、爰に住せし人を聞ず。
[やぶちゃん注:畠山重忠(長寛二(一一六四)年~元久二(一二〇五)年)は幕府創成期の有力御家人。頼朝挙兵当初は平家方として敵対したが、後に傘下に入ることを許され、平家追討戦を初めとして常に実戦にあっては先陣を心掛け、幕政にあっても積極的に活動した。鵯越の坂落としでは馬を気遣って背負って下るなど、強力無双にして謹厳実直な人柄から「坂東武士の鑑」と称されたが、頼朝没後、北条時政・義時の謀略により謀反の嫌疑をかけられて、攻め滅ぼされた。]
八田右衞門尉知家第跡 右大將家南御門の前なり。【東鑑】、文治五年正月朔日、右大將并若君御行始の時、八田右衞門尉知家が、南御門の宅へ入御の事あり。今は大倉街坊民居の地となれり。
[やぶちゃん注:八田知家(はったともいえ 康治元(一一四二)年~建保六(一二一八)年)は鎌倉幕府御家人。保元の乱で源義朝に就き、頼朝挙兵でも早期に参じて範頼の平氏追討軍に従軍した。頼朝没後、将軍頼家の専横を抑えるために幕府内に作られた十三人合議制(後に評定衆に発展解消)の一人。「大倉街坊」は「御坊」の誤植の可能性があるが、ママとした。]
和田平太胤長第跡 荏柄天神の大門路より、西の畠地をいふ。【東鑑】に、胤長が屋地、荏柄の前に有て、御所の東に隣り、昵近の士各々是を望み申す。然るに今日、義盛は五條局に附て愁申ていふ、故將軍家の御時より、一族が領所收公の時、いまだ他人に賜らず。彼地は宿直祗候の便あり。拜領せんことを申す。忽是を達しければ、殊に喜悦のおもひをなす。然處、翌四月二日、此地を義時に賜ひける。行親・忠家兩人にわかち與へ、義盛が代官久野谷彌次郎を追出す。是義盛が、憤りを含み、逆心の一ケ條となれりといふ。
[やぶちゃん注:これは和田合戦の主因の一つを語るもので、建保元(一二一三)年二月に信濃の泉親衡が二代将軍頼家遺児千寿丸を擁立して北条義時を討たんとするクーデターが未然に発覚、同盟の者の中に和田義盛の子である義直・義重及び甥の胤長がいた。三月八日、寛大なる処置を嘆願する忠臣義盛に対し、同情的な将軍実朝は子息二人を許したが、胤長については、翌日の再度の一族を引き連れての義盛の嘆願にも拘らず、義盛と対立していた義時によって義盛の目の前で面縛の上、陸奥へ配流となり、ここに記された彼の屋敷は没収された。これに対して、義盛は三月二十五日、本文にある「一族が領所收公の時、いまだ他人に賜らず」(これは罪科断絶等によって同族の領地が収容される際には、その親族に与えられるという同族還付の慣例を言っている)を訴え、実朝によって屋敷は義盛に下げ渡された。義盛はそこに代官久野谷弥太郎を住まわせていたが、四月二日になって突如、北条義時への拝領替えとなり、義時は久野谷を追い出すと、こともあろうに胤長を捕縛・尋問・面縛した金窪行親と安東忠家に与えたのであった。この深い遺恨が一ヵ月後五月二日の和田合戦の直接の導火線となった。因みにクーデターの首謀者であった親衡は、体よく遁走して姿をくらましており、この泉親衡の乱自体が、義時の策謀であった疑いもあるとされる。]
宇佐美判官祐泰第跡 荏柄大門路より東の方。【東鑑】に、建長三年十月七日、宇佐美判官が荏柄の家より失火し、藥師堂・二階堂此時燒亡する由見へたり。
[やぶちゃん注:この宇佐美祐泰なる人物は、工藤祐経の弟宇佐美三郎祐茂(助茂)を祖父とする御家人と思われる。個人のHP「古樹紀之房間」の宇佐美氏の出自についての質問・回答ページによれば、『宇佐美祐茂は頼朝挙兵当初から参陣し、文治五年の奥州征伐やその翌年の頼朝上洛に随行しており、建暦二年(一二一二)には、常陸国那珂郡沙汰人の一人として地頭職を有していたことも知られます。その通称は三郎、のち右衛門尉で見えており、治承から建保四年(一二一六)七月の期間、「東鑑」に登場することからいって、工藤祐経と同時代の人だと考えられます。その子の左衛門尉祐政・与一左衛門尉祐村、孫の日向守(藤内左衛門尉)祐泰、さらに三郎兵衛尉祐明なども「東鑑」に登場します。嫡系は「祐政-祐泰-祐明」ではないかとみられます』(記号と数字の一部を変更した)とある。この「左衛門尉」という官位は判官に当たる。]
民部大夫行光第跡 二階堂の傍に住せり。建暦二年十二月、實朝將軍雪見遊覽として、行光が亭へ入御、和歌管弦の御遊興あり。翌日右府御返しの和歌に、はしがきを添て贈り給ふ。
【金槐集】
建暦二年十二月雪ふり侍りける日、山家の景色を見侍らんとて。民部大夫行光が家にまかり侍りけるに、山城判官行村などあまた侍り、和歌管絃の遊ありて、夜更て歸り侍りしに、行光黑馬をたびけるを、またの日見けるに、たつかみに、紙をむすび侍るを見れば、
この雪を分て心の君にあれば、ぬししる駒のためしをそひく
返し
ぬししれと曳けるこまの雪を分は、かしこき跡にかへれとそおもふ
民部大夫行光評定衆にて、後に右大臣家薨逝の砌、入道し行然と號し、其子出羽前司行義が代に、建長三年十月、藥師堂・二階堂焦土となり、再營もならず。夫より二階堂といふを地名に唱へけるゆへ、此行義より、地名二階堂をもて氏に稱せり。【東鑑】嘉禎四年四月朔日の條に、三浦若狹守泰村・二階堂出羽守行義、評定衆に召加へらるゝと云云。是二階堂を氏に稱することの、物に見ゆる始なり。其子二階堂出羽三郎左衞門尉行重が以來も、此地に住し、足利家の世に至り公方家に仕え、應永五年執頭人と稱し、二階堂下野入道淸春、訴訟奉行二階堂山城宮内入道行康等、皆子孫にして、往々二階堂を氏と稱するもの、玆より始れる歟。
[やぶちゃん注:以下、ウィキの「二階堂行光」を参考にしながら、彼の事蹟を記す。二階堂行光(長寛二(一一六四)年~承久元(一二一九)年)は政所執事。建保六(一二一八)年の源実朝の右大臣叙任の「吾妻鏡」十二月二十日の条には、その関連記事としての政所始めとして、「將軍家令任右大臣給。仍今日有政所始。右京兆并當所執事信濃守行光。及家司文章博士仲章朝臣。右馬權頭頼茂朝臣。武藏守親廣。相州。伊豆左衛門尉賴定。圖書允淸定等着布衣列座。」(將軍家右大臣に任じしめ給ふ。仍りて今日、政所始め有り。右京兆并びに當所執事信濃守行光、及び家司文章博士仲章朝臣、右馬權頭頼茂朝臣、武藏守親廣、相州、伊豆左衛門尉賴定、圖書允淸定等布衣を着て座に列す。)と、右京兆北条義時次席として政所実務官僚筆頭として記されている。実朝暗殺後の承久元(一二一九)年二月十三日の条には、「信濃前司行光上洛。是六條宮。冷泉宮兩所之間。爲關東將軍可令下向御之由。禪定二位家令申給之使節也。宿老御家人又捧連署奏状。望此事云云。」(信濃前司行光上洛す。是れ六條宮・冷泉宮兩所の間、關東の將軍と爲し下向しめ御うべきの由、禪定二位家申せしめ給ふの使節なり。宿老の御家人又連署の奏状を捧げ、此の事を望むと云云。)とあり、政子の使者として朝廷に赴き、将軍家招来という大事の交渉を行っている(この時に招聘を希望したのは後鳥羽上皇の子であったが、既に北条氏へのクーデターを企図していた後鳥羽上皇は拒否した)。以下、ウィキによれば、『この時期の鎌倉政権の行政事務、及び朝廷との外交関係実務はこの二階堂行光を中心に動いていた』と見てよく、「吾妻鏡」自体、この頃の『記録の多くはこの二階堂行光の筆録、あるいは所持した資料によっていると見られている』とあり、「吾妻鏡」成立史の観点からも興味深い人物である。「山城判官行村」は行光の弟である二階堂
行村(久寿二(一一五五)年~嘉禎四(一二三八)年)。侍所検断奉行(検察官兼裁判官)・評定衆。検非違使に叙せられたことから山城判官と呼称した。本文にあるように、この兄弟二人の流れを汲む二階堂家が室町期に至っても執事や評定衆の地位にあり続けた。
「たつかみ」は鬣(たてがみ)。
「この雪を分て心の君にあれば」の「分て」は、「雪を分けて」と「分けて(特に・殊更に)心服するところの」の意の掛詞。また下の句の末尾「ひく」も、馬を「ひく」と、以下に示す故事を「引く」(引用する・倣う)の掛詞である。
本歌は韓非子に載る故事「老馬識途」(老馬途(みち)を識る)を踏まえる。――斉の桓公が北方に侵攻したが、戦闘を終えて帰国する頃には冬となって一面の雪原となり、桓公の軍は道に迷ってしまった。その時、宰相管仲が何頭かの老馬を選び出すと先導をさせ、無事、斉に辿り着くことが出来た。――ここから、一般には「老馬識途」又は「老馬の智」で、経験を積んだ者の知恵を尊重せよという意となった。
二つのの和歌を私なりに解釈すると、
この大雪を分けていらっしゃって下さった、私が殊の外に心服致しますところの我が君で御座いますれば、かの故事に倣って、雪中の御帰還なれば、この我れの老いたる黒駒一頭を案内として奉りまする。
それに対する実朝の返し、
己が基いを辿れとて、我が意を知れるあなたから遣わされた黒駒が、正しく雪を分けて、無事に我が宿へと赴かせてくれた。だから、かの故事の真意を知れる賢き基い、元の主人のところへと帰るがよいぞ。
といった感じか。実朝は故事の成句としての意味を効かしてホストに返している。なお、「金槐和歌集」ではこの後の歌の後に、
みづからかきて好士を撰侍しに内藤馬允知親
を使いとしてつかはし侍し
うたなし
という後書きがある(引用底本は岩波古典文学大系を用いた)。引用底本によれば、この内藤馬允知親は実朝の側近の侍で、和歌に造詣深く、藤原定家の弟子となり、実朝と定家との斡旋役となった人物である。]
陸奧掃部助平實時舊跡 【東鑑】、寛元五年正月十三日、右大將家、法華堂前人家數十宇失火、陸奥掃部助實時が亭其中に在と云云。されば右大將家の舊跡の邊に、實時住せしにや。法華堂前人家數十宇とあるは、其比迄は、法華堂前に人家有し事とおもはる。今は西御門跡・東御門跡に民家有て、法華堂前は陸田の地なり。實時は北條五郎實泰〔義時の五男。〕の息男なり。後に武州金津へ移住す。稱名寺は實時が舊跡にして、金澤氏の始祖なり。金澤稱名寺の條を合せ見るべし。
[やぶちゃん注:金沢実時(元仁(一二二四)年~建治(一二七六)年)小侍所別当・引付衆・評定衆などの幕府要職を歴任。学者肌で、武蔵国金沢に称名寺を建立、境内に文庫を設けて典籍を収集、書写・校訂を行い、後の金沢文庫の基礎を作った。]
中務權大輔教時舊跡 藥師堂谷に住せり。安治の初、三浦泰村が陰謀有しにや、鎌倉時々騷動せし時、藥師堂谷より兵具を著し、塔の辻の時賴が館へ來るとあり。
[やぶちゃん注:北条教時(嘉禎元(一二三五)年~文永九(一二七二)年)のこと。名越教時とも称した。弘長三(一二六三)年に中務権大輔に叙任。幕政にあっては引付衆次いで評定衆を務めたが、実際には北条一門ながら北条得宗家に対する憤懣激しく、文永九年の二月騒動で反得宗謀反の嫌疑を受け、執権時宗によって誅伐された。]
施藥院使良基舊跡 藥師堂谷にあり。暦仁二年十一月廿日、二棟御方〔號大宮殿。〕、賴經將軍の御臺御産氣に依て、大倉の御所より、施藥院使良基朝臣の藥師堂谷の宅に移り給ひ、御産所と定め給ふとあり。
[やぶちゃん注:丹波良基(生没年未詳)。丹波家は代々、医家を輩出した。その宗家の流れを汲む。「施藥院使」はこれで「やくゐんし」と読む。「せやくいん」と読むのは近代以降。左京唐橋南室町西にあった病者の治療・収容、貧民飢餓者の養生・救済を目的とした施療院(天平二(七三〇)年の平城京での光明皇后による建立)の次官級職員で、平安後期より丹波氏の世襲となった。「暦仁二年」(「りやくにん」と読む)とあるが、この年は嘉禎四(一二三八)年十一月二十三日に改元するも、暦仁二(一二三九年)三月十三日に延応に改元されている。「吾妻鏡」の記載も「延應元年」とある。「二棟御方」とは頼経が寵愛した中納言藤原親能(旧中原姓)の娘である大宮局(=大宮殿・二棟御方)のことで、この時に彼の家で生まれたこの子が後の第五代将軍頼嗣である。]
後藤大夫判官基綱第跡 藥師堂谷の南寄に住せり。寛元元年九月五日、將軍頼經卿入御、和歌管絃等の御會あり。能登前司・壹岐前司等琵琶を彈ず。此所もとより山陰に屬し、閑寂の幽棲なり。しかのみならず、山々の紅葉に靑松枝を交るの體、黄菊靑苔露を帶たるの粧ひ、感荷一に非ず。薄暮に舞女兩三輩參入し、廻雪の袖を翻し、人々猿樂の興を催し、鷄鳴以後還御し給ふとあり。文暦二年二月十日、將軍賴經卿五大堂を建營し給ふ砌、基綱が家より五大堂へは便宜ありとて、此家に止宿し給ひ、爰より五大堂の地へ渡御し給ふこと度々ありき。
[やぶちゃん注:後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)は藤原秀郷の流れを引く京の武士後藤基清の子。評定衆・引付衆。幕府内では将軍頼経の側近として、専ら実務官僚として働き、歌人としても知られた。彼の記録は二階堂行光の場合と同じく当時の「吾妻鏡」に多用されていると見られており、説話集「十訓抄」作者説も浮上している。承久三(一二二一)年の承久の乱の際には、後鳥羽方についた父基清を幕命によって斬首にしている。「能登前司」は三浦光村(後掲)。「壹岐前司」は葛西清重か。「感荷」は感謝して恵みを受けること。「廻雪の袖」巧みな腕さばきで白衣の袖を舞う雪のごとく回して舞うことを言う。]
梶原景時第跡 五大堂の北の山際にあり。景時が第跡といふ。正治年中景時滅亡し、其地を永福寺の僧坊に寄附せらるること、【東鑑】に見ゆ。今此所に、大いなる偶像の頭ばかり、草菴に安ぜり。或説に、安貞元年四月二日、明王院の東大慈寺の部内に、丈六堂を新建せらる。是は今年、故禪定二位家〔政子。〕第三回忌の追善なりとあり。佐渡守基綱・民部大夫行光奉行と云云。此丈六佛の頭なるべしといふ。
[やぶちゃん注:梶原景時(保延六(一一四〇)年~正治二(一二〇〇)年)は幕府初期のの有力御家人。侍所所司・厩別当。石橋山合戦では平家方に属したが、「しとどの窟」で頼朝一行を見逃したことから頼朝に重用された。関東の雄上総介広常の謀殺や義経讒訴等の奸計でも知られる。頼朝死後も頼家に仕えたが、畠山氏・三浦氏を始めとする有力御家人六十六名による景時排斥の連判状によって失脚、翌年、一族郎党を率いて京に向かう途中(公家方への奉公を考えていたものと思われる)、謀反の意を疑われ、駿河国の御家人勢との戦闘の末(北条氏の謀略と考えてよい)、一族は滅亡した。「大いなる偶像の頭」この伝大慈寺仏頭(阿弥陀仏)と呼ばれるものは、現在、仔光触寺に現存する。]
河越太郎第跡 十二社の内とはいえど、其舊趾今は定かならず。河越太郎重賴が舊跡なるべし。畠山次郎重忠・江戸太郎重長等、皆一族なり。治承四年より右大勝家に屬し、平氏追討の時も西海に渡り、武功の譽れあるゆへ、若君御誕生の砌、重賴が妻を營中へ召れ御乳附を命ぜらる。其後重賴が女を、九郎主義經の室とせられ上京せり。然るに義經、罪を得て逃亡の頃、此重賴が父子、九郎主の縁者ゆへ罪に坐せら れ、重代の所領沒收せらる。されども年經て、元久元年六月廿二日條に、河越次郎重時・同三郎重員の名見へたり。是は、重賴が次男三男にて有べし。是より以後、【東鑑】に、代々見へて、元亨の頃、河越出羽入道道衍・其子彈正少弼某足利家に仕え、基氏朝臣の時迄河越を領し、畠山国淸に隨ひて、京軍の御加勢に上京せし事、【太平記】にもしるせり。
[やぶちゃん注:河越重頼(?~文治元(一一八五)年)武蔵国入間郡河越を支配した秩父氏(平氏)の一族で、実質上の武蔵国の軍事的統率権を持った武蔵国留守所総検校職を継承した有力豪族であった。以下、ウィキの「河越重頼」を参考に彼の事蹟を記す。畠山重忠と同じく、当初は頼朝を攻めた側ながら、重用されるに至った。寿永三(一一八四)年には頼朝の命によって娘の郷御前が上洛して義経に嫁いだために舅となったが、その後の頼朝と義経の離反、義経追討の宣旨によって重頼は嫡男とともに誅殺され、かの武蔵国留守所惣検校職はかつての盟友畠山重忠に与えられた。重頼の妻は頼朝乳母比企の尼の次女河越の尼で、彼女は源頼家の乳母でもある。その後、文治三(一一八七)年になって頼朝は重頼の死を憐れとして、元の河越氏本領河越荘を後家河越尼に安堵している。「吾妻鏡」では重頼の次男重時及び三男重員については頼朝・頼家の代には一切記載がないが、実朝の代、元久二(一二〇五)年の『条畠山重忠の乱における重忠討伐軍の中に初めて確認される。重忠が滅びた後、武蔵国は北条氏が国司となって代々配下に置かれる事にな』ったものの、重頼誅殺から実に四十年後の嘉禄二(一二二六)年、『重員が鎌倉幕府より武蔵国留守所総検校職に補され』て河越氏は復権した。
「基氏朝臣の時迄河越を領し」以下は、武蔵河越氏最後の当主となった弾正少弼河越直重(没年未詳)についての事蹟と思われるが、叙述にはやや齟齬が感じられる。例えば河越直重の父高重の法名は「円重」で、「道衍」ではないし、「元亨の頃」とあるが、元亨年間(一三二一~一三二三)という早い時期に、この父子が足利家家士となったというのは信じ難いからである。以下、ウィキの「河越直重」を参考に彼の事蹟を記す。河越直重は正平七・文和元(一三五二)年の小手指原の戦いで足利直義が加勢した新田軍を破って一躍、東国の足利尊氏派として活躍、文和二(一三五三)年、相模守護職となった。延文四(一三五九)年)には関東管領畠山国清に従って関東勢二十万余を率いて上洛した。本文に現れる「太平記」の記載で、『直重は粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを好む「ばさら大名」』で、『濃紫・薄紅など様々な色に染めた』三十頭の馬を引き連れて入京し、人々を驚かせたとある(後年、康安元(一三六一)年にはこの畠山国清が足利基氏と対立・挙兵したが、翌年、基氏に従って今度は国清討伐軍に参加、国清は結局斬殺されている)。しかし、足利基氏の下で旧直義派の上杉憲顕が関東管領として復権、貞治二(一三六三)年には相模守護職を解任され、応安元(一三六八)年に憲顕の留守を狙って反乱を起こすも失敗し、伊勢に敗走、武蔵国河越氏はここに滅んだ。因みに冒頭の地名の「十二社」は、現在は「十二所」と書いて「じゅうにそ」と呼称している。]
能登前司光村舊跡 三浦泰村が弟にて、二階堂の邊に住む。寶治元年六月五日、泰村が第へ軍勢押寄ると聞て、光村手勢引率し永福寺へ籠り、爰の大門路に敵を引請、要害よき戰場なりとて、泰村が方へ赴かず。依て泰村より度々使を馳て、死をともにし一戰すべし。此所へ來るべき旨申に依て、永福寺より泰村がもとに來り、泰村と同く、右大將家の法華堂にて、一族とともに自害せり。
[やぶちゃん注:三浦光村(元久元(一二〇五)年~宝治元(一二四七)年)。三浦義村四男。泰村同母弟。幼少期には僧侶にすべく鶴岡八幡宮寺に預けられたため、公暁の門弟となった。後に呼び返されて貞応二(一二二三)年より三代将軍頼経の近習となった。仁治二(一二四一)年に能登守、寛元二(一二四四)年に評定衆となった。先の「後藤大夫判官基綱第跡」にも記されていたように、光村は武芸とともに管弦の才にも長け、藤原孝時から伝授された琵琶の名手でもあった。三浦氏の中でも反北条の中心的存在で、宝治合戦でも急先鋒として果敢に戦ったが、一族とともに頼朝法華堂にて自刃した。]
毛利藏人大夫季光第跡 足利家の第地と成て、其後に至り、鎌倉公方居館の地是なり。此事は、公方家營館の條に記せるゆへ合せ見るべし。爰の第地は、右大將家の時より廣元住居の地にして、季光は三男なれど、廣元が居住の跡を相續し、毛利氏の始祖なり。季光の舍兄等は別に第地を賜ひ、長井を氏とす。
[やぶちゃん注:毛利季光(建仁二(一二〇二)年~宝治元(一二四七)年)は既に「三浦駿河前司義村第跡」本文に出た「毛利藏人大夫入道西阿」のこと。本文では大江広元の三男とあるが四男。父とともに幕府創生期に尽力した。季光は父の所領の一つであった相模国毛利庄(現・厚木市)を相続して毛利氏の祖となった。将軍実朝の側近となり、その暗殺後は出家し、入道西阿を称したが、承久の乱では実戦に参加して功名を立てており、天福元(一二三三)年には評定衆となっている。しかし、妻が三浦氏であったために、宝治合戦では苦悩の末に三浦方につき、三浦一族とともに頼朝法華堂で息子ら諸共自刃した。毛利である。参考にしたウィキの「毛利季光」によれば、『毛利一族はこれによって大半が果ててしまったが、越後国にいた四男の経光の家系だけが唯一残ったとされ、この経光の子孫から戦国時代に吉田荘の国人領主から一躍中国地方の覇者となる毛利元就が出る』のであった。]
佐々木壹岐前司泰綱第跡 二階堂東にて、能登前司光村が北の方に住せり。定綱が孫にして、信綱が子なり。
[やぶちゃん注:佐々木泰綱(建保元(一二一三)年~建治二(一二七六)年)近江源氏佐々木氏棟梁佐々木信綱(養和元(一一八一)年?~仁治三(一二四二)年:佐々木定綱三男)の三男。元仁元(一二二四)年に幕府に出仕して検非違使・壱岐守を叙任、文暦元(一二三四)年に父が隠居、家督及び近江佐々木荘と京都六角東洞院にあった屋敷を相続、近江守護となった。そこで六角泰綱を名乗り、後の六角氏の祖ともいう。祖父佐々木定綱(康治元(一一四二)年~元久二年(一二〇五)年)は、平治の乱で父秀義は源義朝に従ったが敗北、父とともに関東へと落ち延びた。後、頼朝挙兵に従い、壇ノ浦まで転戦、戦功を挙げて、幕政にあっても終始重鎮として力を持った。宇治川の先陣争いで知られる佐々木高綱はこの定綱の実弟である。]
長井左衞門大夫泰重第跡 五大堂の北寄にあり。毛利季光の舍兄時廣の家なり。甲斐前司泰秀子、時廣の孫、廣元の曾孫なり。寶治元年六月五日、三浦泰村が兵起りし時、手勢引具し、家を出て大倉の御所へ參陣せんとする時、毛利入道が軍と逸中に出逢たれど、入道は泰村が陣に馳加わるを見て言葉をかけず、泰重は御所へ參れりとあり。其後足利家の世となり、鎌倉公方家に屬し、滿兼朝臣應永五年に、執頭人長井掃部助入道法禪とあるも、此子孫なるべし。
[やぶちゃん注:この叙述には誤りがある。項目名である第跡の主人長井泰重は長井時広(後掲)の子であり、大江広元の孫である。また「甲斐前司泰秀子」ともあるが、「甲斐前司泰秀」とは長井(大江)泰秀(建暦二(一二一二)年~建長五(一二五四)年)のことで、彼は泰重の「子」ではなく、「兄」である(時広の子は兄弟全員が「泰」の字を共有している。因みに泰秀の子は長井時秀という)。
長井泰重(生没年未詳)は六波羅探題評定衆。建長四(一二五二)年周防守護となり、将軍就任のために鎌倉に下向する宗尊親王に供奉した。
その父長井時広(?~仁治二(一二四一)年)は評定衆。大江広元の次男で、当初は朝廷に仕えて建保六(一二一八)年に蔵人に任じられたが、同年の源実朝の右大臣叙任後、鎌倉に下向、その家臣となった。翌年の実朝暗殺後は出家したが、承久三(一二二一)年に起こった承久の乱で兄大江親広が後鳥羽方に参じたために失脚、兄に代わって時広が大江氏惣領として備後国守護となっている。
「執頭人」とあるが、これは次に示すように幕府「引付頭人」のこと。「頭人」とは室町幕府引付衆の長官又は政所・評定所・侍所などの長官をも言う語であるが、ここでは複数定員であった引付頭人のことを指すと思われる。
「道禪」とあるが、個人のHP「兎の小屋」の以下の「鎌倉大草紙」のテクストによれば、「道供」である。漢字を恣意的に正字に変えて該当箇所を引用しておく。
一 應永五年十一月四日、氏滿四十二歳にて御逝去なり。去年の夏より精進けつさいにて御讀經有。逆修の御吊御勤ありける。永安寺殿と號す。御吊の次第、剃髮正續院周應(和尚)掛眞圓覺寺周滿(和)鎖龕西米院僧海(和)奠湯素文(和)點茶壽福寺文昱(和)起龕正續院周應(和尚)點湯瑞泉寺中快(和尚)。扨又小祥忌には奧州の滿奧(貞歟)公よりとりをこなはる。拈香は建長寺等益也。若君滿兼公從四位下左兵衞督御補任にて鎌倉に備りたまふ。御年廿一。管領は上杉中務禪助承之。引付頭人二階堂野州入道清春、一方頭人長井掃部助入道道供、禪律奉行町野信濃守入道淨吉、越訴之奉行二階堂山城宮内入道行康等也。
この長井掃部助入道道供という人物は不詳であるが、同時期に足利幕府に仕えた重臣に長井道広という人物がおり、彼は大江広元の末裔とされているから、その近縁者と考えてよいであろう。]
比企四郎朝宗舊跡 東御門にあり。是は元暦元年九月三日、後白河法皇、檢非違使江判官公朝を勅使とし、左典厩〔義朝。〕頸の枯骨と、鎌田正淸が頸の枯骨を添て、右大將家の許へ贈り給ふ時、敕使公朝を朝宗が東御門の宅へ止宿を命じ、厚く饗應せらるとあり。委敷は大御堂の條にしるせり。
[やぶちゃん注:比企朝宗(ひきともむね 生没年不詳)は母を源頼朝乳母比企尼とする御家人。朝廷との使者としてしばしば上洛、内舎人(うちとねり・うどねり:主に天皇の警護を行う。)に任じられて宮中では比企藤内と称された(これは彼の出自が藤原氏であることを示す)。平家追討・義経追討・奥州藤原氏征伐に従い、蝦夷地の幕府による掌握にも力があった。ウィキの「比企朝宗」によれば、「吾妻鏡」では建久五(一一九四)年十二月に越前国からの領地横領の訴えを彼が起こされている記述を最後として、朝宗の記録は消えており、建仁三(一二〇三)年九月の比企能員の変によって『比企一族は朝宗の聟である北条義時率いる大軍に攻められて滅亡するが、殺害された一族の中に朝宗の名は見られない』とし、それが後の「吾妻鏡」編集者による作為的行為であるのか、『義時の舅であった故に逃れたのか、それ以前に死去したのかは不明』であると記す。
「大江判官公朝」大江公朝(おおえきんとも 生没年不詳)。検非違使。後白河の北面の武士にして寵臣。院使として朝廷と幕府との交渉のためしばしば鎌倉に下向、本記載の文治元(一一八五)年、かつて平治の乱で殺された義朝の頭骨を、子頼朝に納める勅使として鎌倉に下向したことから、頼朝及び側近大江広元(同姓ではあるが、公朝の系譜は不詳で、少なくとも正統な大江氏の流れを汲む広元との近縁者ではないと思われる)らとの信頼関係を関係を深めた。頼朝の死後、京における反幕勢力の拡大によって勘当の処分を受け、その後については不明。
「鎌田正淸」(保安四(一一二三)年~永暦元(一一六〇)年)は藤原秀郷流首藤氏の一族、相模国鎌田権守通清の子。源義朝家人にして義朝とは乳兄弟。保元の乱では崇徳院方に分かれた義朝弟源為朝との一戦で彼の頬を射抜き、敗れた義朝父為義の斬首を躊躇する義朝に代わって執行した。尾張国野間内海(現在の知多半島の野間大坊)の舅長田忠致を頼るも逆に裏切られ、義朝は風呂場で、正清は毒酒を飲まされて騙し討ちにされた。]
周防前司親實舊跡 和泉前司行方舊跡
此人々の第跡はしかと知らず。【東鑑】等にも大倉とのみ出たれば、外に考ふる處なし。又云、上總介廣常も、大倉の邊にあるべきことは、治承四年九月鎌倉へ著御し給ひ、新亭は同年の十二月十二日出來なり。【東鑑】に、新館へ上總介廣常が宅より移徙し給ふと有て、其地名を載せず。されば九月より十二月迄、廣常が宅に淹留と見へたり。里老の話に、十二社村の光觸寺の境内が、廣常が舊蹟ゆへ、寺地となれりともいふ。是も確なることをしらず。
[やぶちゃん注:「周防前司親實」は藤原親実(ちかざね 生没年不詳)のこと。将軍頼経に仕えた諸大夫で、御所の祭祀及び礼法を司る御所奉行。文暦二(一二三五)年に厳島社造営を命ぜられて周防守護から安芸守護に転任し、厳島神社神主に任ぜられている。寛元二(一二四四)年に上洛、六波羅評定衆となっている。後、周防守護に復職して寛元三年から建長三(一二五一)年迄の在職が確認出来る(以上は「朝日日本歴史人物事典」の永井晋氏の解説を参照した)。
「和泉前司行方」は二階堂行方(ゆきかた 建永元(一二〇六)年~文永四(一二六七)年)のこと。は鎌倉時代中期の幕府実務官僚。二階堂行政の孫で、評定衆・二階堂行村の子。第六代将軍宗尊の代の御所奉行。引付衆から正元元(一二五九)年に評定衆となり、弘長三(一二六三)年に御所中雑事奉行を辞し、出家しているが、この時期の「吾妻鏡」の記載中には「行方」という実名表記数多く見られ、同様の実名表記者の中には行方よりも目上の者が居ない点などから、この時期の「吾妻鏡」が彼の記録を元にしていると考えられている(以上はウィキの「二階堂行方」を参照した)。
「上總介廣常」は千葉広常(?~寿永二(一一八三)年)。関東武士団の有力豪族として頼朝を助けて功あったが、頼朝軍への参加への遅延や、頼朝に対して下馬の礼をとらなかったことなどを猜疑の初めとして謀反の疑をかけられ(義経同様、梶原景時の讒訴が疑われる)、頼朝の命により囲碁を打っている最中、対戦相手であった景時に謀殺されている。十二所朝比奈切通にはこの時、景時が逃げ帰る途中、刀の血糊を洗ったという梶原の太刀洗い水が現在も残っており、先行する「新編鎌倉志」にもその記載があるにも拘らず、ここで植田がそれらの事跡に触れずに「確なることをしらず」とするのはやや不審である。但し、十二所は鎌倉ではかなり辺鄙な場所にあり、開幕時には広常は建造中の大倉御所近くに邸宅を構えていた可能性は高いとは思う。]
上杉憲忠第跡 西御門村の内。公方成氏朝臣の初代より管領に任ず。是は故管領上杉安房守憲實が三男、右京亮と號す。先主持氏朝臣、永享十一年二月生害し給ひければ、憲實もやがて入道し長棟菴と號し、伊豆の國淸寺に蟄居す。後又海に浮て中國へ赴く時、憲忠幼少ゆへ、伊豆の山家に隱し置しを、上杉の人々尋出し取立て、鎌倉へ入けるに、永享十一年より寶德元年迄凡十年許、鎌倉に管領たり、憲實も發心して山の内を出たるゆへ、舊第も大破に及びしゆへ、此時に新たに居宅を御所近き西御門村に構へ、三四年を經て、寶徳の頃より君臣不快始り、鎌倉中穩かならず。憲忠が舅は、扇ヶ谷上杉持朝入道々朝、家老長尾左衞門入道昌賢潛に上州より來り、一味の族を催し計略を廻らしける。其比御所方・管領方とて有しゆへ、御所方の人々馳參、上杉・長尾が陰謀既に發覺す。暫くも油斷成べからず。急速に憲忠を退治し關東を鎭むべしと、成氏朝臣を勸ければ、公方も元より庶幾する處なれば、尤と宣ひ、結城中務大輔成朝・武田右馬助信長・里見民部少輔義實・印東式部少輔等三百餘騎にて、享德三年十二月廿七日夜、西御門の宅へ押寄時を揚る。憲忠も俄の事にて、用意の兵もなかりければ、主從廿三騎、切先を揃て防戰ひけれど、叶ひがたく討死す。憲忠が首をば、結城成朝の家人、金子祥永・弟祥賀討取て、御所へ參り實檢に備へしといふ。
[やぶちゃん注:上杉憲忠(永享五(一四三三)年~享徳三(一四五五)年)は、鎌倉公方足利持氏による永享の乱後、敗れた持氏が永享十一(一四三九)年の第六代将軍足利義教の命による自決処分を制し切れなかった責を負って出家隠棲した父上杉憲実から命ぜられて、僅か六歳で出家させられていたが、永享の乱後の鎌倉公方の一時廃絶や関東管領の空位化によって坂東の政治勢力の弱体化を挽回せんとする憲実の旧家臣長尾景仲らに擁立されて還俗、文安五(一四四八)年には十六歳で関東管領となった。ところが翌宝徳元(一四四九)年に持氏の子で、憲忠を親の仇と深く怨む足利成氏十六歳が入鎌、関東諸将の懇請を受けた第七代将軍足利義政の許諾によって新たな鎌倉公方に就任すると、二人の少年を取り巻く両勢力の対立は深刻なものとなってゆく。江の島合戦(「鎌倉攬勝考巻之十」の「腰越村」注参照)などの局地的騒擾を燻らせた果てに、享徳三(一四五四)年十二月二十七日、先手を打った成氏は側近景仲の留守に鎌倉西御門の御所に憲忠を招いて謀殺してしまう。なお、本件の記載はこの事実と異なる。植田が本件記載の参照にしたものは「鎌倉大草紙」の以下の部分である(先に引いた個人のHP「兎の小屋」の以下の「鎌倉大草紙」のテクストより。但し、漢字を恣意的に正字に変えた)。
如何樣東國の大事此時にありとやおもひけん憲忠の舅扇谷入道道朝長尾左衞門入道昌賢ひそかに上州に下り一味の族を催し種々の計略を廻しける。此日此御所方管領方とて二にわかれ不快にて有し。御所方の人々馳集り上杉長男等の隱謀已に發覺せり。しばらくも油斷に及ばゝ味方の一大事成べし。休息憲忠を退治して關東をしづむべしと成氏へすゝめ申ければ公方もとより庶幾する所なれば尤と喜びたまひ結城中務大輔成朝武田右馬助信長里見民部少輔義實印東式部少輔等三百騎相催し享德三年十二月廿七日の夜鎌倉西御門館へ押寄て時をつくる。憲忠も俄の事にて用意の兵もなかりければ無左右亂入ける程に憲忠主從廿二人切先をそろへて切て出、防戰しけれども、かなはずして一人も不殘討死す。憲忠の首をば結城成朝家人金子祥永同弟祥賀討取て御所へ參、實撿に備へける。憲忠官領なれば庭上にをくべからずとて疊を布、其上に祥永兄弟をすへられ御實撿の後金子に多賀谷といふ名字を下され常陸國にて所領數多給り。此子孫結城代々の家老となる。公方へ出仕の時は陪臣なれども庭上にたゝみをしき公方へ拜顏申けるは、此時の例也。
ご覧の通り、この叙述は明らかに謀殺を正当化しようとした古河公方サイドの捏造的記述に基づくものと言うべきであろう。憲忠享年二十二、彼が関東管領となった時、還俗や政治参入を強く戒めていた父憲実は彼を不忠の子として義絶していたが、この憲忠の悲報を受けると激しく嘆き悲しんだという。
「公方成氏」足利成氏(永享六(一四三四)年~明応六(一四九七)年)。鎌倉公方・古河公方。持氏五男。永享の乱後は信濃の大井氏に匿われた後、関東諸将の要請と義政の許しで入鎌、父に次いで復活した第五代鎌倉公方となった。前注に示した江ノ島合戦・憲忠謀殺を経て、その翌年享徳四・康正元(一四五五)年以降は上杉方と全面戦争状態に入った。山内上杉家では憲忠の弟房顕を関東管領後継者に立て、早々に将軍義政も上杉方への全面支援を決め、遂には後花園天皇から成氏追討の綸旨が下されて父と同じく成氏も朝敵となった。その後、幕府・上杉軍に鎮圧された鎌倉を放棄して下総古河に退去、古河公方を名乗った。在地勢力や反上杉の大名を味方に引き入れ、その後も実に延々四十年に亙ってパワフルに抗争をし続けた人物である。
「憲實」上杉憲実(応永十七(一四一〇)年~文正元(一四六六)年)。関東管領。彼は幕府軍に呼応して彼を攻めて来た持氏に勝利したのだが、関東管領は鎌倉公方の補佐職であり、主従であったから、第六代将軍足利義教に持氏の助命嘆願を強く求めたが、入れられなかった。その直後に責を感じて出家、伊豆に隠棲、後に各地を行脚した。憲実は清廉な人格と好学の士で、円覚寺から快元禅師を招聘して足利学校を、また鎌倉幕府滅亡後に荒廃していた金沢の称名寺内にあった金沢文庫を再興したことなどでも知られる。晩年、文人気質で知られた長門の守護大名大内正弘の元に依り、そこで亡くなっている。
「持氏」足利持氏(応永五(一三九八)年~永享十一(一四三九)年)第四代鎌倉公方。関東管領上杉禅秀及び叔父足利満隆と対立、応永(一四一六)年に両者によるクーデター(上杉禅秀の乱)により一時、駿河に追放されたが、後に禅秀方は鎮圧され復帰している。その後、京の将軍方との対立が表面化し、彼が将軍候補として無視される形で第六代将軍足利義教が立つと、公然と彼の命令を無視、権限を侵害して、両者の衝突は最早避けられない状態にまで陥っていた。関東での平和裏の権益継続を望んでいた関東管領上杉憲実は、両者の懸命の融和を図ったが、持氏は応じず、返って憲実に対する持氏の感情が悪化、憲実による持氏への謀反の流言が起こるなど、永享九(一四三七)年には憲実は遂に関東管領を辞職、翌年には領国であった上野国に退去する。これを反逆とみなした持氏は討伐の兵を起こすが、将軍義教は後花園天皇に綸旨を出させ、持氏を朝敵と公認、多数の援軍を憲実に送った。敗走する持氏は憲実の家宰を通じて憲実に義教との交渉を頼んで鎌倉の称名寺にて出家、瑞泉寺の傍にあった永安寺(持氏の祖父足利氏満の開基になる二階堂にあった寺。この時に焼亡して再建されず、現存しない)に幽閉された。憲実は主君である持氏の助命とその嫡男義久の鎌倉公方就任を義教に嘆願したが許されず、持氏追討を命ぜられ、憲実の部下上杉持朝が永安寺を急襲して持氏は自害した。
「長棟菴」とあるが正しい法号は「雲洞庵長棟高岩」。
「国淸寺」は現在の静岡県伊豆の国市にある臨済宗円覚寺派の禅寺。関東十刹の一つ。
「海に浮て中國へ赴く時」は九州や中国地方への憲実の行脚を指すと思われるが、彼が一種の厭世的な気分から諸国放浪の旅に出たのは、一般にはこの憲忠の死後のこととされている。
「上杉持朝」(もちとも 応永二十三(一四一六)年~応仁元(一四六七)年)扇谷上杉氏嫡流。永享十(一四三八)年に持氏との対立によって上野に退去した憲実に随行、永享の乱では憲実の命を受けて持氏追討を直接指揮するなど、終始、関東管領方の中心的存在であった。
「長尾左衞門入道昌賢」長尾景仲(元中五・嘉慶二(一三八八)年~寛正四(一四六三)年)の法号。山内上杉家家宰として上杉憲定・憲基・憲実・憲忠・房顕の、実に上杉家五代に亙って仕えた「東國不双の案者」(「鎌倉大草紙」)と呼ばれた巧者にして忠臣。
「結城中務大輔成朝」結城成朝(しげとも 永享十一(一四三九)年~寛正三(一四六三)年)は結城氏当主。結城氏朝末子四男。父と兄ら(次兄を除く)は持氏遺児を奉った残党による反乱(結城合戦)で討死したが、鎌倉公方に返り咲いた成氏の力で家督を継いだ。憲忠謀殺では中心的役割を担ったが、後に幕府方に内通、暗殺された。
「武田右馬助信長」武田信長(応永八(一四〇一)年?~文明九(一四七七)年?)当初は第六代将軍足利義教に仕えて、結城合戦では幕府軍の武将として活躍したが、嘉吉の乱で義教が暗殺されて後は、逆に足利成氏に仕えた。
「里見民部少輔義實」里見義実(応永十九(一四一二)年~長享二(一四八八)年)。一般には成氏に従い、戦国大名の安房里見氏初代とも伝えられるが、実在否定説・傍流里見氏出身説・モデル変形創作説が飛び交う謎めいた人物であり、ここで憲忠謀殺に関わるにはうってつけの人物ではある。因みに安房で彼が権勢を振るう伝承を下敷きにしているのが曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」である。
「印東式部少輔」永享の乱で持氏とともに自害している鎌倉御所奉行の一人に印東常貞がおり、その子かとも考えられる印東下野守なる人物が、後に鎌倉公方となった足利成氏から所領を得ている。その縁者か本人(官位は下野守と合致する)と考えられる。
「時を揚る」の「時」は「鬨」である。
「金子祥永・弟祥賀」2ちゃんねる歴史板の書き込みに、『若年の成朝を支え、享徳の乱では管領上杉憲忠を討ち取る功を立てた氏家(祥永)高経(祥賀)兄弟が、実は多賀谷家の人間ではなかったと考察する人もいる』とし、私見と断りつつ、この時の『功を成氏から賞せられた時分に金子姓であったことから見て結城合戦後に何かしらの理由で先祖の村山党金子十郎家忠の姓を名乗ることになった生き残りの者か、単純に最初から金子姓を名乗る分家筋の者か、どちらにしても多賀谷氏の血縁者であったと考え』られると記す。更にウィキの「多賀谷氏」には多賀谷『氏家の代に常陸国下妻へ移住。結城氏に臣従し、一四四〇年(永享十二年)に勃発した結城合戦では、氏家は落城寸前の結城城から結城氏朝の末子・七郎(後の結城成朝)を抱いて脱出して佐竹氏を頼り、後年、結城家の再興に尽くした。一四五四年(享徳三年)の享徳の乱では、古河公方足利成氏の命により関東管領上杉憲忠を襲撃。憲忠の首級をあげ、その功により下妻三十三郷を与えられた。だが、氏家の弟の多賀谷高経が結城成朝を暗殺したと伝えられる』(アラビア数字を漢数字に変えた)とあり、明白にこの二人が多賀谷氏家・高経兄弟であり、更に最後には主家結城成朝を暗殺するという驚天動地の記載になっている。]
上杉中務少輔朝宗舊跡 犬懸谷に住す。是を犬懸の上杉と唱ふ。其先は上杉修理亮憲藤といひ、兵庫頭憲房の甥にて、歴應の初信濃國にて討死す。其子、兄を幸松丸〔十四。〕、弟を幸若丸〔十二。〕、家臣石川入道覺道相具して鎌倉へ參り、尊氏將軍の見參に入ければ、殊に悦び給ひ、兄に信濃・越後・武藏の内を賜ひ左馬助朝房と號す〔是扇が谷の祖なり。〕。弟を中務少輔朝宗と號し、上總・武藏を賜ひ、犬懸谷に住し、滿兼朝臣の時、應永五年管領に任じ、入道して禪助といふ。其子右衞門佐氏憲管領と成、入道して禪秀と號し、持氏朝臣を恨ること有て職を辭し、應永廿三年謀叛を企て、新御堂殿滿隆并持仲をかたらひ、鎌倉を騒動せしめ、終には禪秀戰ひ負て、翌正月十日、鶴岡別當實性院快尊法印は禪秀が子息なれば、雪の下の坊へ籠り、滿隆〔持氏の伯父。〕、持仲〔持氏の弟〕、禪秀を初として、次男伊豫守憲方・其弟五郎憲春・武藏守護代兵庫助氏春并別當快尊法印等悉く自害し、坊に火を放ちけるゆへ、此時御影堂迄燒亡し、犬懸の上杉、纔に二代にして斷絶せり。
[やぶちゃん注:上杉朝宗(ともむね 建武元(一三三四)年?~応永二一(一四一四)年?)は犬懸上杉家始祖上杉憲藤(のりふじ)の子で朝房(ともふさ)の弟。氏憲(禅秀)の父。関東管領。足利尊氏に従った父が北畠顕家との戦闘で暦応元・延元三年(一三三八)年に摂津(「信濃」ではない)で亡くなった後は、兄とともに家臣石川覚道に養育された。天授三・永和三年(一三七七)年に関東管領であった兄朝房から家督を譲られ、犬懸上杉家第二代当主となる。応永二(一三九五)年(現在知られる就任は「應永五年」ではない)から応永十二年(一四〇五)年まで関東管領を務めた。応永十六(一四〇九)年に鎌倉公方足利満兼の逝去とともに剃髪、禅助と号して上総に隠退、家督も氏憲に譲っている。
「兵庫頭憲房の甥」の「甥」は誤りで、「子」である。
「是扇が谷の祖なり。」という割注も誤りで、扇谷上杉氏は憲房ではなく、彼の兄上杉重顕の子上杉朝定の子孫が鎌倉扇ヶ谷に住して祖となったものである。
「其子右衞門佐氏憲管領と成、入道して禪秀と號し、持氏朝臣を恨ること有て職を辭し」以下は、所謂上杉禅秀の乱の顛末を記す。第三代鎌倉公方足利満兼の逝去により、満兼の子持氏が僅か十二歳で第四代公方となった。当初、公方補佐職である関東管領には山内上杉氏上杉憲定が就いたが、応永十八(一四一一)年に持氏叔父の足利満隆(本文の「新御堂殿淸隆」)による公方への謀反疑惑(満隆の謝罪で事件は収束)で憲定が失脚、代わって山内上杉家と対立していた犬懸上杉家の氏憲(禅秀)が関東管領に就任した。氏憲は先の満隆や満隆の養子で持氏の異母弟であった足利持仲らに接近、鎌倉府の実権を握ろうとした。ところが持氏は成長とともに次第に彼らに反発を強め、応永二二(一四一五)年、氏憲は関東管領を更迭されてしまい、後任には先に失脚した憲定の子上杉憲基が就任してしまう。遂に氏憲は足利満隆・持仲らと謀り、翌応永二三年(一四一六)年にクーデターを起こした。将軍義持は持氏支持を決定、反乱軍と幕府軍の攻防が続いたが、翌応永二四(一四一七)年一月十日、禅秀・満隆・持仲らは鶴岡八幡宮の坊中において自害した。これによって犬懸上杉家は二代で滅亡んだ。「恨る」は「うらむる」と訓じているのであろう。]
山内首藤瀧口三郎經俊舊跡 古く山の内に住するゆへ、山の内を氏とも稱す。本氏は首藤、家紋は白一文字・黑一文字を用ゆる。山内氏は皆此家より出て其起りは爰の地名なり。經俊が親は資通と稱し、源義家朝臣に仕へ、其子俊通は、義朝君に隨て平治の戰ひに討死す。義朝主、當所龜ケ谷に住給ひし頃より隨從せしものゝ子にて、經俊此地に居れり。當時は平氏に屬すといへども、源家譜代の舊臣なれば、賴朝卿、治承の初石橋山義兵の擧有て、内々盛長御方に與力すべき旨誘引せしかど、其密意に應ぜず。剰へ過言など申ける。果して義兵の刻大庭景親に一嫁し、石橋山にて武衞〔賴朝。〕を奉射しが、同十月廿三日、大庭景親を初降人となり、首藤經俊も同敷降を乞。依て經俊をば土肥實平に召預、數代相傳の山内庄を召放さる。其後死刑に可被處の由を傳へ聞て、經俊が老母泣々營中へ參、愁訴申ける。彼老母〔武衞乳母なり。〕申て云、資通入道は八幡殿に仕へ、廷尉禪室の御乳母たるより、以來代々微忠を源家に竭こと、あげて計ふべからず。就中俊通は、平治の戰場にて、骸を六條河原に曝し訖。依て經俊が景親に與せしむる條、其科責て餘り有といへども、是一旦は平家の後聞を憚る所なり。およそ石橋山に軍陣せしもの、多く恩赦に預れり。經俊も又なんぞ先祖の功に優せられざる哉といへども、武衞殊なる御旨もなし。兼て預置ける鎧をまいらすべき由を、實平に仰ければ、寛平持參し唐櫃の蓋を取て是を取出し、山ノ内の老尼が前に置けり。是は石橋山合戰の時、經俊が箭、御鎧の袖に立しを、件の箭の口卷の上に、瀧口三郎藤原經俊と注せり。其字の際より篦を切捨、御鎧の袖に立し儘にて、于今置る。其證揚焉なり。直に老母に讀聞せ給ふ。依て尼も重て申言もあたはず、双涙を拭ひながら退出せり。兼て後事を鑒み給ひ、此箭を殘し給ふといふ。經俊が罪科、刑法を遁れがたしといへども、老母が愁歎に對し、且は先祖の功勞を慕ひ、忽梟罪を宥し給ふといふ。其後恩免を蒙り、御家人に召仕はれ、功を竭し、刑部大夫に任ず。經俊が親と鎌田正淸は、從弟なる由系圖に見ゆ。經俊が子持壽丸とて、京都にて、元久元年七月廿六日、右衞門佐朝雅が逃亡するを、追かけて射留せり。後に六郎通基と名乘りけり。
[やぶちゃん注:山内首藤経俊(やまうちすどうつねとし 保延三(一一三七)年~嘉禄元(一二二五)年)は藤原秀郷の流れを汲み、母は源頼朝乳母であった摩々局(山内尼)。頼朝とは乳兄弟である。石橋山の戦いでは本文にある通り、平氏方大庭景親に属して頼朝に矢を放ったため、後に捕縛されて斬罪に処されんとしたが、母の山内尼の嘆願により赦免され、御家人となった。彼が支配していた山内庄は現在の鎌倉市北鎌倉から横浜市栄区・戸塚区・泉区・瀬谷区一帯、更には港南区上下永谷、西は藤沢市大鋸に及ぶ相模国最大の荘園であった。彼の子孫が後の土佐藩当主山内一豊とも言われる。
「當時は平氏に屬すといへども、源家譜代の舊臣なれば」以下は「吾妻鏡」治承四(一一八〇)年七月十日の条による。以下に原文と書き下しを示す。文中の「盛長」は頼朝の伊豆流以来の昵懇の側近安達盛長である。
十日庚申。藤九郎盛長申云。從嚴命之趣。先相摸國内進奉之輩多之。而波多野右馬允義常。山内首藤瀧口三郎經俊等者。曾以不應恩喚。剩吐條々過言云々。
十日庚申。藤九郎盛長申して云はく、嚴命の趣に從ひ、先づ相摸國内に奉を進めるの輩の多し。而るに波多野右馬允義常、山内首藤瀧口三郎經俊等は、會て以て恩喚に應ぜず。剩へ條々の過言を吐くと云々。
因みに、この「波多野右馬允義常」の方は頼朝の討手の来訪を知って自害している(但し、嫡男有常は捕われた後、文治四年(一一八八)年に許されて鎌倉幕府御家人となっている)。
「竭」は「つくす」と訓じていよう。
「資通入道」山内氏は始祖首藤資清(すけきよ)に始まり、嫡流では順に資通――親清――山内首藤義通――俊通――経俊と続く。初代資清が頼朝の父義朝を玄孫とする源頼義に仕えてから代々源家の一党と目されるようになり、その子資通は頼義嫡男八幡太郎義家に従って後三年の役で活躍、その孫である俊通は保元・平治の乱で三男俊綱とともに源義朝に従い、京の四条河原で討死にした。彼の時、山内に広大な荘園を所有して山内姓を名乗っている。彼の妻が山内尼。
「廷尉禪室」は頼朝祖父源為義のこと。
以下、山内尼の助命嘆願シーンの「吾妻鏡」治承四年十一月二十六日の原文と書き下しを示す。
廿六日甲戌。山内瀧口三郎經俊可被處斬罪之由。内々有其沙汰。彼老母〔武衛御乳母也。〕聞之。爲救愛息之命。泣々參上申云。資通入道仕八幡殿。爲廷尉禪室御乳母以降。代々之間。竭微忠於源家。不可勝計。就中俊通臨平治戰塲。曝骸於六條河原訖。而經俊令与景親之條。其科責而雖有餘。是一旦所憚平家之後聞也。凡張軍陣於石橋邊之者。多預恩赦歟。經俊亦盍被優曩時之功哉者。武衛無殊御旨。可進所預置鎧之由。被仰實平。實平持參之。開唐櫃盖取出之。置于山内尼前。是石橋合戰之日。經俊箭所立于此御鎧袖也。件箭口卷之上。注瀧口三郎藤原經俊。自此字之際切其箆。乍立御鎧袖。于今被置之。太以掲焉也。仍直令讀聞給。尼不能重申子細。拭雙涙退出。兼依鑒後事給。被殘此箭云々。於經俊罪科者。雖難遁刑法。優老母之悲歎。募先祖之勞効。忽被宥梟罪云々。
◯やぶちゃんの書き下し
廿六日甲戌。山内瀧口三郎經俊を斬罪に處せらるべきの由、内々に其の沙汰有り。彼の老母〔武衛の御乳母なり。〕之を聞き、愛息の命を救はんが爲、泣きて參上し申して云く、資通入道は八幡殿に仕へ、廷尉禪室の御乳母たる以降、代々の間、微忠を源家に竭すこと勝げて計ふべからず。就中、俊通は平治の戰塲に臨みて骸を六條河原に曝し訖ぬ。而して經俊、景親に与みせしむの條、其の科責めて餘り有ると雖も、是れ一旦は平家の後聞を憚る所なり。凡そ軍陣を石橋邊に張るの者、多く恩赦に預かるか。經俊も亦、盍ぞ曩時の功に優ぜられん。武衛殊に御旨無く、預け置く所の鎧を進むべしの由、實平に仰せらる。實平之を持參し、櫃の盖を開き之を取り出だし、山内尼の前に置く。是れ、石橋合戰の日、經俊の箭此の御鎧袖に立つ所なり。件の箭の口卷の上に瀧口三郎藤原經俊と注す。此の字の際より其の箆を切り御鎧袖に立て乍ら、今之を置かる。太だ以て掲焉なり。仍て直きに讀み聞かしめ給ふ。尼重ねて子細を申す能はず。雙涙を拭ひ退出す。兼て後事を鑒み給ふに依りて、此の箭を殘らると云々。經俊の罪科に於ては、刑法を遁れ難しと雖も、老母の悲歎に優じ、先祖の勞効に募り、忽ち梟罪を宥さると云々。
「曩時」は昔。「口卷」は「沓巻」とも書き、矢の篦(の)の先端で、鏃をさし込み、その口元を糸で巻き締めた箇所の名称。「くちまき」「のまき」とも読む。「掲焉」ははっきりと目立つことをいう語。「けちえん」とも読む。
「鎌田正淸」は「比企四郎朝宗舊跡」の私の注を参照。一見、唐突であるが、先に掲げていることに加えて、源家嫡流義朝の乳兄弟の家士繋がりでここに掲げているのであろう。
「經俊が子持壽丸とて、京都にて、元久元年七月廿六日、右衞門佐朝雅が逃亡するを、追かけて射留せり。後に六郎通基と名乘りけり」この平賀朝雅(ひらがともまさ ?~元久(一二〇五)年)は北条時政の後妻であった牧の方の娘婿。武蔵守・京都守護。元久二(一二〇五)年、畠山一族を讒言で滅ぼすなど幕府内での権力を伸ばそうとしたが、義母牧の方が将軍源実朝を殺害して朝雅を将軍に擁立せんとして発覚、時政は出家隠居、朝雅は、名実ともに実権を掌握した子北条義時の命によって、京でこの経俊の子六郎通基に殺害された。それに関わってウィキの「山内首藤経俊」には以下のような晩年の記載がある。元久元(一二〇四)年の『三日平氏の乱で経俊は平氏残党の反乱鎮圧に失敗した事により、伊勢・伊賀の守護職を解任され、両守護は経俊が逃亡した後に乱を鎮圧した平賀朝雅に移された。その後、朝雅が失脚し殺害された後、職の回復を願ったが許されなかった』とあり、彼についての「吾妻鏡」の記載は建保四(一二一六)年の『源実朝に供奉して相模川に赴いた記録が最後である』とある。]
伊具四郎入道某舊跡 山の内に住す、諏訪刑部左衞門尉も、同敷山ノ内に住せるが、諏訪が舊領を伊具に賜ひし故、確執未止。正嘉二年八月十六日、例の通鶴岡放生會流鏑馬あり。この日諏訪が宅に、平内左衞門尉俊職・牧左衞門尉入道兩人終日會合し、數杯を傾け閑談をこらす。然る處に鶴ケ岡流鏑馬も、例の如く事終、將軍家も還御、相州禪室も御棧敷より歸り給ひければ、伊具入道も、其場より黄昏の頃、山の内へ歸宅する時分を伺ひ知て、諏訪は首座を立て路次に馳出、巨福呂坂の方へ行向ふ、其頃小雨降けるが、建長寺門前にて、伊具四郎討殺され畢。伊具落馬せしゆへ、從者是を見るに、箭に中る事をしれり。唯今蓑笠にて騎馬したる人、下部一人を具して、伊具が左の方を馳返ける。田舍より鎌倉へ來るもの歟とおもひ、其人過ぬるも、伊具此體なれば、其人を尋んとする内、何方へか行て跡も見へず。是は其鏃に毒を塗ける歟と云云。此事評議せらるゝに、其箭束といひ、又射樣といひ、頗る普曲の所爲にあらず。依て嫌疑の沙汰出來し、遺恨確執の事風聞に依て、諏訪を召虜、對馬前司氏信に預らる。其日相客平内左衞門尉・牧左衞門尉入道も同意露顯。其日の體を召決せらるゝに、訊訪は伊具を射て立歸り、如元酒宴せしといふ。
[やぶちゃん注:伊具四郎は「いぐしろう」と読む(生年未詳)。伊具流北条氏は鎌倉幕府第二代執権北条義時四男北条有時を祖とする北条氏の一門である(姓は有時が陸奥国伊具郡を領したことに由来する)。これは推理小説風の殺人事件の名探偵「相州禪室」(北条時頼)によるトリック暴きとアリバイ崩しの一件として面白い。「デジタル版 日本人名大辞典」の記載によれば『諏訪の旧領が恩賞として四郎にあたえられたための犯行とされ、諏訪はさらし首となった』とある。「吾妻鏡」の本事件関連原文と書き下しを示す。
正嘉二年八月大十六日壬辰。雨降。將軍家御參鶴岳宮寺。馬塲流鏑馬以下儀如例。事終還御。相州禪室自御棧敷令還給之後。及秉燭之期。伊具四郎入道歸山内宅之處。於建長寺前被射殺訖。着蓑笠令騎馬之人。相具下部一人。馳過伊具左方。自田舍參鎌倉之人歟之由。伊具所從等存之。落馬之後知中于矢之旨云々。塗毒於其鏃云々。
正嘉二年八月大十七日癸巳。天晴。依伊具殺害之嫌疑。虜諏方刑部左衛門入道。所被召預對馬前司氏信也。亦平内左衛門尉俊職。〔平判官康賴入道孫。〕牧左衛門入道等。同意令露顯云々。是昨日。件兩人々數會合于諏方。終日傾數坏凝閑談。而諏方伺知伊具歸宅之期。白地起當座。馳出路次射殺之後。又如元及酒宴云々。今日。被相尋之處。差昨日會衆。爲證人依論申子細。又被問兩人。各一旦承伏云々。此殺害事。人推察不可覃之處。以諏方舊領被付伊具之間。確執未止歟。其上云箭束云射樣。已揚焉。頗越普通所爲。依之嫌疑御沙汰出來云々。
正嘉二年八月大十八日甲午。天晴。諏方刑部左衛門入道被召置之。雖被加推問。敢不承伏。所本執。仍召取所從男。〔号高太郎。〕被推問之。任法之處。屈氣不能言。結句相誘之。主人已令獻白状畢。爭可論申哉之由。奉行人雖盡問答。件男云。主人者兼而顧糺問之耻辱。仍申歟。於下臈之身者。更不痛其恥。任實正所論申也。但主人白状之上。不及重御問歟云々。
*
正嘉二年九月小二日戊申。終日終夜雨降。暴風殊甚。今日。諏方刑部左衛門入道所被梟罪也。此主從共以遂不進分明白状。爰相州禪室被廻賢慮。以無人之時。濳召入諏方一人於御所。直被仰含曰。被殺害事被思食之上。所從高太郎承伏勿論之間。難遁斬刑之旨。評議畢。然而忽以不可終其身命之條。殊以不便也。任實正可申之。就其詞加斟酌。欲相扶之云々。于時諏方且喜抑涙。果宿意之由申之。禪室御仁惠雖相同于夏禹泣罪之志。所犯既究之間。不被行之者。依難禁天下之非違。令糺斷給云々。又平内左衛門尉。牧左衛門入道等流刑。就中俊職爲公人與此巨惡之條。殊背物義之間。被配流硫黄嶋云々。治承比者。祖父康賴流此嶋。正嘉今。又孫子俊職配同所。寔是可謂一業所感歟。
◯やぶちゃんの書き下し
正嘉二年八月大十六日壬辰。雨降る。將軍家鶴が岳の宮寺に御參り。馬塲の流鏑馬以下の儀例のごとし。事終りて還御したまふ。相州禪室御棧敷より還らしめ給ふの後、秉燭の期に及びて、伊具の四郎入道山の内の宅に歸るの處、建長寺の前に於て射殺され訖ぬ。蓑笠を着し、騎馬せしむるの人、下部一人を相ひ具し、伊具が左の方を馳せ過ぐ。田舍より鎌倉に參れるの人かの由、伊具所從等之を存ず。落馬の後、矢に中ること知るの旨云々。毒を其鏃に塗ると云々。
正嘉二年八月大十七日癸巳。天晴る。伊具が殺害の嫌疑により、諏方刑部左衛門入道を虜り、對馬前司氏信に召し預けらるる所なり。亦、平内左衛門尉俊職〔平判官康賴入道の孫。〕。牧の左衛門入道等が同意・露顯せしむると云々。是れ昨日、件の兩人人數、諏方に會合して、終日、數坏を傾け、閑談を凝らす。而るに諏方、伊具が歸宅の期を伺ひ知りて、白地に當座を起ち、路次に馳せ出で、之を射殺すの後、又元のごとく酒宴に及ぶと云々。今日、相ひ尋ねらるるの處、昨日の會の衆を差し、證人と爲して子細を論じ申すに依りて、又、兩人に問はる。各々一旦に承伏すと云々。此の殺害の事、人の推察覃ぶべからざるの處、以て諏方が舊領、伊具に付けらるるの間、確執未だ止まざるか。其の上、箭束と云ひ、射樣と云ひ、已に揚焉し。頗る普通の所爲に越ゆ。之に依りて嫌疑の御沙汰出來すと云々。
正嘉二年八月大十八日甲午。天晴る。諏方の刑部左衛門入道之を召し置かれ、推問を加へらると雖も、敢て承伏せず。本より執する所なり。仍りて所從の男を召し取り〔高太郎と号す。〕、之を推問せらる。法に任するの處、屈氣言ふ能はず。結句して之を相ひ誘き、「主人已に白状を獻ぜしめ畢ぬ。爭でか論じ申すべけんや。」の由、奉行人問答を盡すと雖も、件の男云ふ、「主人は兼ねてより糺問の耻辱を顧みる。仍りて申すか。下臈の身に於ては、更に其の恥を痛まず。實正に任せて論じ申す所なり。但し、主人白状の上は、重ねて御問に及ばざらんか。」と云々。
*
正嘉二年九月小二日戊申。終日終夜雨降り、暴風殊に甚し。今日、諏方刑部左衛門入道梟罪せらるる所となり。此の主從共に以て遂に分明の白状を進ぜず。爰に相州禪室、賢慮を廻らされ、人無き時を以て、濳かに諏方一人を御所に召し入れ、直きに仰せ含められて曰く、「殺害せらるる事思し食さるるの上は、所從高太郎が承伏勿論の間、斬刑を遁れ難きの旨、評議し畢ぬ。然れども忽ち以て其の身命を終ふべきの條、殊に以て不便なり。實正に任せ之を申すべし。其の詞に就きて斟酌を加へ、之を相ひ扶けんと欲す。」と云々。時に諏方、且つ喜び涙を抑へ、宿意を果すの由、之を申す。禪室の御仁惠、夏禹罪に泣くの志に相ひ同じいと雖も、所犯既に究まるの間、之を行はれずんば、天下の非違を禁め難きに依りて、糺斷せしめ給ふと云々。又、平内左衛門尉・牧左衛門入道等流刑す。就中、俊職は公人として此の巨惡に與するの條、殊に物義に背くの間、硫黄嶋に配流せらると云々。治承の比は、祖父康賴此の嶋へ流され、正嘉の今、又、孫子俊職同所に配せらる。寔に是れ一業所感と謂ひつべきか。
「平の判官康賴入道」引用末尾に現れるごとく、平康頼は鹿ヶ谷の謀議に与したことで喜界ヶ島へ配流されている(俊寛の逸話で知られるように後に赦免されたが故に孫がここにいる。康頼及びその嫡男の清基のその後についてはウィキの「平康頼」に詳しい。そこでは本件にも触れて俊職は没落、『賊徒の輩と徒党を組んで』このような事件に連座した旨の記載がある)。
「田舍より鎌倉に參れるの人かの由」について、「歴史加藤塾」の「吾妻鏡入門 第四十八巻」の本件箇所に、伊具と従者がここで『田舎から来た人と思ったのは左側通行(伊具の左側を通るとは、右側通行をしている)をしていない』ことを意味し、ということは『鎌倉では左側通行が一般的で』あったことを示唆しており、何と現在の左側通行という慣例は『鎌倉武士の世界で始まったのではないだろうか』と注されている。大変、興味深い考察である。
「夏禹罪に泣く」とは伝説の夏の聖王禹は犯罪者を罰するにも憐れんで涙を流したという故事に基づく。]
山内先次郎左衞門尉實政〔或宣政。〕舊跡 是も山内に住せし故に、地名を氏に稱せり。本氏は土肥にて、實平が子也。和田義盛と舊好の因に依て、義盛が兵を起す時、同敷合戰に及び、五月六日亂軍を切ぬけて遁れしが、入道となり、山の内へ來り、首藤經俊が方へたよりしを、經俊是を心なくも虜にして出せり。此時和田一味の人力、山ノ内廿人とあり。大方五郎政直・同太郎遠直等、皆山ノ内に住せしもの、沒收せられし山ノ内の地を、悉く北條義時に賜ふ。是より山ノ内は北條の所領となれり。
山内管領上杉舊跡 山ノ内に今も管領屋と稱する所有。家系を閲するに、内大臣藤原高藤公の裔孫、勸修寺修理大夫重房は、始て丹波國上杉庄を領してより、上杉を以て氏とせり。終るに建長四年四月、後嵯峨帝第一の皇子一品親王宗尊征夷將軍に任じ給ひ、關東御下向の時、陪從して鎌倉に來り、山の内に住しけるより子孫武臣となり、其子修理亮賴重、其子越前守賴成、其子兵庫守憲房なり。薙髮し道欽〔或作勤。〕と號す。尊氏將軍の舅氏なるゆへ、世皆信重せり。尊氏將軍の歸順を謀り、初より憲房が計策より起れり、建武二年正月廿七日、敵山門より寄來る時、憲房は將軍に替り、中御門京極に敵を支へ、踏留て討死せしゆへ、將軍兄弟、寺戸の邊迄遁給ふ。〔京四条合戰なり。【太平記】に漏せり。此事【難太平記】に見へたり。〕子息民部大輔憲顯、家を繼。又【大草紙】に、憲房の甥なる上杉伊豆守重能〔本氏は宅間なり。〕を猶子とせきが、師直が爲に討れ、其弟修理亮憲藤も信濃にて討死し、其子二人あるを、後に尊氏將軍取立て、上杉を名乘せける。是犬懸と扇が谷の上杉なり。扨民部大輔憲顯は、基氏朝臣執事とせられしより、子孫聯綿と管領となれり。管領職は、山ノ内上杉にて任ずる事なり。憲顯より憲實迄、山ノ内に住せしかど、此後管領山ノ内上杉と稱するのみ。皆々他國へ移り、武藏と上野白井に居れり。
最明寺山莊舊跡 山ノ内禪興寺と、明月院の地是なり。相模守平時賴、山ノ内に一梵字を剏建し、幽栖の地となし、職を辭せんと欲す。是素懷に依てなりとあり。一梵字を、其時は最明寺と號せしにや。今は禪興寺と號すれども、【東鑑】に禪興寺の名見へず。此北の方へ住居の亭を經營し、時賴の室家も皆此所に住しけり。建長八年七月十七日、將軍宗尊親王最明寺へ御參、精舍建立の後始て御禮佛有て、夫より相州山莊の亭へ入御し給ふとあり。是北亭幽栖の居所、今の明月院の地なり。此砌將軍御逗留、和歌の會あり。翌十八日還御。康元元年十一月廿三日辭職〔在職十一年。〕陸奧守重時〔義時三男。〕執權たり。此日時賴落飾〔三十歳。〕是より此所に退隱し、最明寺入道と號し、法名覺了房道崇といふ。戒師は宋朝の道隆禪師なり。同時に入道する諸家の人十人餘と云云。正嘉元年六月廿三日、將軍宗尊親王御納涼として、相模太郎殿の山の内の泉亭へ御遊宴、未刻小雨灑ぎ、いよ/\凉風を催とあり。按ずるに、相模太郎と有るは、時賴の嫡子時輔なるべし、是も山の内に別業を構へし事歟。同二年六月十一日、將軍宗尊親王山ノ内最明寺へ入御し給ふ。御逗留。翌十二日遠笠懸あり。十騎射之。同十三日競馬等あり。今も明月院大門路を馬場と唱ふることは、古へ弓馬の藝をおこなはれし遺稱なり。翌十四日還御し給ふ。正元元年二月二日、禪定殿下兼經の御息女〔御年二十。〕迎へ奉り、最明寺禪室御猶子として、御息所に備へ申さんとす。今日御下向有て、山の内の亭へ入御、同廿一日御入輿と云云。文應二年七月十二日、將軍家最明寺亭へ入御、弓術・蹴鞠・競馬、或は角觝等の勝負を御覽有。亦和歌・管絃の御遊宴、十三日還御し給ふ。弘長三年十一月十九日、相州禪室時賴、日比病痾の處危急に及の間、最明寺北亭へ移居し、心閑に可遂臨終之由、尾藤太〔法名淨心。〕宿屋左衞門尉〔法名最信。〕に申含、人々の群參を制禁すべしと云云。翠廿日早旦に北亭へ移居し、偏に終焉の一念のみ。昨日如命諭、堅く人々の群參を止め、病床の邊に祗候するものは、武田五郎三郎・南部次郎・長崎次郎左衞門尉・工藤三郎右衞門尉・尾藤太・宿屋左衞門尉・安東左衞門尉のみ。依て寂莫たり。翌廿二日。相州禪室最明寺北亭にて卒去〔三十七。〕。衣袈裟を着し、繩床に上り座禪し、聊も無動搖の氣色。頌云、葉鏡高縣、三十七年、一槌打碎、大道坦然、弘長三年十一月廿二日、道崇珍重云云。同廿三日葬禮の事を修するといふ。文永二年六月廿三日、將軍家、最明寺の亭に入御。彼亭の寢殿に入らせ三献を供し、左京兆政村・相州時宗・越後守實時・秋田城介泰盛等參供せらると云云。又翌年七月廿三日、將軍家山ノ内の亭へ入御、淹留し給ふ。翌廿四日角觝并競馬等御遊宴有て、晩頃に還御し給ふ。按ずるに、弘長三年入道時賴歿し、式部丞時輔は在京、相州時宗は大倉の亭に住し、此所には時賴の室家すみけるゆへ、將軍家入御有しなり。同三年六月二十三日、將軍御所に變事起り、御息所〔宗尊親王の御息所なり。〕姫君、俄に山ノ内殿に入御し給ふと有も、爰の亭の事なり。
[やぶちゃん語注:「剏建」は「さうけん」と読み、初めて建立するの意で、創建と同じい。「角觝」は「かくてい」と読み、相撲のこと。]
足利大夫判官家氏第跡 長壽寺の南の方を、土人足利の第跡といふ。此地は龜ケ谷の門なり【東鑑】に、仁治四年正月九日、足利大夫判官家氏の龜ケ谷の亭燒亡とあるは、此所なるべし。尊氏將軍の先祖の屋敷跡ゆへ、土人誤て尊氏屋敷とも唱ふ。
平左衞門尉第跡
尾藤太第跡
太田次郎第跡
諏訪兵衞入道第跡
萬年右馬允第跡
安東左街衞門尉第跡
南條左街門尉第跡
此人々の第跡は、大倉の辻邊なり。嘉禎二年、大倉の泰時が亭新建せし時、此人々も又北條が亭の側に、築地を構へし由見ゆ。執權の亭の南門東脇は尾藤尾、同西は平左衞門尉又同太田次郎、南角は諏訪兵衞入道、北の土門東脇は、萬年右馬允、同西は安東左衞門尉、同並に南條左衞門尉等が宅也とあり。按ずるに、萬年と安東・南條は、大倉の街道の並なるべし。
結城大藏權少輔朝廣第跡 結城朝光の嫡男なり。塔ノ辻に住居。建長三年正月四日、塔の辻燒亡。大藏少輔朝廣が家其中にあり。累代相傅の地券文書以下、重寶の書悉く灰燼となるとあり。
長井宮内權大輔時秀第跡 是も塔の辻にあり。毛利季光の舍弟、掃部助宗光が孫なり。
村上判官第跡
佐々木三郎昌寛法橋第跡
仁田四郎第跡
佐貫四郎第跡
此企右街門尉同藤内第跡
工藤小次郎第跡
建久二年三月四日、右大將家の世と成、初ての大火。塔の辻の北条氏の亭、八田右衞門尉が家を初とし、小町大路より失火、南風烈敷、右の人々の宅燒亡し、其餘烟鶴が岡二社地へ移り、不殘燒亡し、夫より幕府の殿營も、同敷灰燼となれりといふ。右大將家は、盛長が甘粕の宅へ入御と云云。
大夫屬入道三善康信第跡 名越にあり。正治元年問注所を移され、書信を以て問注所の奉行と定めらる。承元二年正月十六日午刻、問注所入道が、名越家燒亡す。彼家の後なる山際に文庫を構へ、將軍家の御文籍雜務の文書、並散位倫兼の日記以下、累代の文事等悉く灰燼となる。善信是を聞て心神惘然たりといふ。又永久三年正月廿五日丑刻、町の大路東より、屬入道宅再び災し、重書問注所以下焦土となれりといふ。
【問注所家譜】曰、町野中宮大夫屬散位從五位下三善朝臣康信入道善信、初任平相國淸盛、後任鎌倉右大將賴朝・賴家・實朝三朝、悠爲問注所執事職、承久三年卒、英子加賀守從五位下康俊居其職、嘉禎四年卒、其子加賀民部大輔康將、仕賴經・賴嗣兩朝、又續父祖之職、世以居此職、故自是嫡子稱問注所、庶子稀町野正嘉元年卒云云、
【御評定着座次第】曰、貞和五年、問注所美作守顯行、重德二年、問注所刑部少輔長康と云云。略す。
足利滿兼朝臣の負應永五年、奉行町野信濃守入道淨善とあるも、此子孫引續き問任所の奉行なりしにや。
[やぶちゃん語注:「散位」は「さんに」と読み、律令制で官位のみで役職を持たないことを示す。「倫兼」は不詳であるが、「ともかね」と読み、善信の直系父祖の公家の一人かと思われる。]
比企判官能員舊跡 今は妙本寺境内となれり。能員の姨母を比企の尼といふ。其夫は掃部允といひき。むかし右大將の乳母なりしゆへ、武藏國比企郡を賜ひ住せしが.治承四年以來此所を賜ひ、甥なる能員を猶子とし、藤四郎と號し、彼尼が住せしより、此地をも比企の地名を移して、比企が谷と稱せり。其後右大將家并御墓、爰の尼が家に渡御有て、樹蔭納涼の御遊宴度々なり。又尼が家庭に瓜園をまふけ、興有由にて御遊行ありしこと、【東鐙】に見へたり。又御臺〔政子。〕の舊跡二棟、御方の竹御所跡も、今は妙本寺境内の地となれり。賴家卿此亭へ御出の事あり。能員が娘若狹の局と號し、賴家の妾にて一幡君をもふく。依て能員恩寵を得て、北條氏を亡さんと謀りけるが、露顯して建仁三年九月二日、時政が爲に討れ、一族縁者も此所にて討手を得て、若君の御前にて自殺し、一幡君も同敷其殃に逢給ふといふ。
[やぶちゃん語注:「殃」は「わざはひ」(災ひ)と訓じているか。]
文覺旅亭舊跡 大御堂より西の方を、土人等舊跡なりといへり。文覺は京師の高雄に住せしが、養和二年四月廿六日、右大將家の請に依て下向し、此間江島に籠り斷食し、肝膽をくだき修法申せしゆへ、今日御所へ參りし事あり、又無程歸洛せり。扨此文覺は、心たけき人にて、鳥羽院の御行状をうとみ、後高倉院を御位につけ奉らんと思ひけれども、賴朝卿のおはしけるゆへ、思ひも立られず、斯く正治元年正月うせ給ひしかば、頓て謀反を起さんとせしが、露顯して捕へられ、八十餘にして隠岐國へ流され、彼國にて失けりといふ。賴朝卿の薨逝は正月の事にて、文覺が流されしは同じき四月の事なりといふ。此所に住せしにあらず。
[やぶちゃん語注:「頓て」は「とみにて」か「にはかにして」と訓じているものと思われる。]
土佐房舊跡 寶戒寺境内の畠地をいふ。土人等何ゆへに昌俊が舊跡を知けるにや。高名の人の宅地さへ知らざるもの多し。昌俊が屋敷なりといふ、其據をしらず。
佐竹四郎秀義第跡 名越徃來の北の方、妙本寺の東の山に五本骨の扇のごとくなる山の疇あり。其下を佐竹冠者秀義が舊跡といふ。此秀義扇の紋を賜ひしは、文治五年、右大將家奧州征伐の時なり。山の谷を穿ち、五本骨に造りしは後世の事なり。足利家の代となりても、此所に佐竹氏住居の事にや、公方持氏朝臣、應永廿九年十月三日、家督の事に依て、佐竹上總介入道を上杉憲直に討しむ。上總介入道は、妙本寺の法華堂へ入て、主從十三人自殺すといふ。妙本寺境内に石塔あり。
田代冠者信綱舊跡 田代觀音の西の方なる畠地をいふ。
[やぶちゃん語注:「田代觀音」というのは現在の大町にある坂東三十三観音札所三番安養院のこと。本寺は現在正しくは祇園山安養院長楽寺といい、田代観音とも呼称されている。本尊は阿弥陀如来及び千手観世音菩薩である。]
備前三郎長賴啓跡 名越にて燒亡の事見へたり。
武田伊豆守信光入道光蓮第跡 名越にあり。【東鑑】、暦仁二年十二月十三日、若君〔賴嗣。〕御行始なり。大倉の御所より坤の方、武田入道信光が名越の家方角に叶ふといへども、武田は遁世者なれば然るべからずとありて、泰時が家に行給ふといふ。
[やぶちゃん語注:この記載には誤りがある。「暦仁二年」は二月七日に延応に改元している。「吾妻鏡」の記載も勿論、「延応元年十二月大」である。「御行始」は「みゆきはじめ」と読み、本来は朝廷での皇子の誕生を祝っての内裏への参内儀式を言ったが、それに準じた貴人の子の宮参り、所謂、現在の初宮参りのルーツである。第四代将軍藤原頼経の子で後の第五代将軍となる藤原頼嗣は延応元年十一月二十一日に生まれているから、生後二十二日目(同年の十一月は大の月)に行われていることが分かる。現在は一般に凡そ一か月後である。]
北條時政山莊舊跡 名越にあるゆへ名越殿と唱ふ。建久三年七月廿四日、幕下將軍〔賴朝。〕、名越殿に渡御とあり。其後時政、伊豆の北條に蟄居せしかば、義時の別業とす。元久三年二月四日、實朝將軍雪を覽給はんが爲に、名越山の邊に御出、相州〔義時。〕の山莊におゐて和歌の御會あり。
式部大輔平朝時第跡 名越にあり。義時の二男泰時の弟なり。承久の亂に北陸道の大將たりし。暦仁元年十二月廿三日、賴經將軍御方違として、朝時が名越の亭に入御とあり。此朝時が山莊の亭を、後に住居とせしなるべし。
左近大夫將監義政第跡 名越にあり。此義政は極樂寺重時の四男なり。文永十年、時宗と兩執權加判たり。弘長三年八月九日、今日右近大夫將監義政朝臣、名越の亭へ移住せし由、【東鑑】に見へたれば、此時新亭を構て、名越に移住の事としらる。
[やぶちゃん語注:「執權」は底本では「孰權」であるが、「吾妻鏡」を参考にして訂した。]
左近大夫將監公時第跡 名越にあり。此公時は相模守時房が孫なるにや。文永元年十二月廿四日、宗尊親王御息所御産所并御方違の事を、陰陽師等に議せらる。業昌申て曰、御産所、宮内權大輔が家燒失の間、公時・義政兩大夫將監の御亭の内を點ぜらるべき哉とあり。同廿八日御息所御方違として、公時朝臣の名越の亭に入御。是御産所と定めらるゝに依てなり。
伏見冠者廣綱舊跡 飯島にあり。【東鑑】に、壽永元年十一月十日、賴朝卿寵愛の妾龜の前を、廣綱が家に置るゝ事露顯し、御臺〔政子。〕殊に憤らせ給ふ。是は隱密にし給ふ所に、時政の後妻牧の方が御臺に申されしゆへなり。今日御臺、牧三郎宗親に仰て廣綱が家を破却す。廣綱頗る耻辱に及び、彼人を相伴ひて希有にして遁れ出て、大多和五郎義久が鐙摺の宅に到る。此龜の前と申は、良橋太郎入道が息女なり。賴朝卿豆州に御座の時より、御寵愛有けるといふ。
[やぶちゃん語注:「鐙摺」は現在の葉山町鐙摺。]
武者所宗親第跡 濱の邊に住し、濱の家燒亡の事、【東鑑】に見ゆ。
阿野四郎舊跡 材木座邊の濵手に住せしにや。永久元年九月廿二日申刻、阿野四郎が濱の宅の北邊より田火せし事、前條にも出せり。
畠山六郎重保舊跡 由井濱の石塔の場所より、西の方なる畠地を、重保が第跡といふ。
和田左衞門尉義盛第跡
土屋大學助義淸第跡 正治三年燒亡の條に、若宮大路西頰とあり。和田・土屋より以下、皆若宮大路に住せり。
[やぶちゃん語注:「西頰」は「にしつら」と読み、西側の意。]
筑後左衞門尉朝重第跡 是も若宮大路西頰にて、和田左衞門尉義盛が隣家なる由。建暦三年五月五日兵を起す時に、筑後左衞門尉朝重、廣元が方へ申しけるは、隣家なる義盛が宅にて、昨夜より物騒敷、今朝に至り軍兵馳參り、馬物の具の音聞へ候。今日軍勢を押出す事、うたがひたき條を注進申事、【東鑑】に出たり。
中條右衞門某第跡 若官大路の上寄に住せしにや。承久四年一月朔日、町口の民家燒亡し、餘烟若宮大路へ出て、中條右衞門尉が家災すとあり。
伊豆太郎左衞門尉第跡
壹岐前司基政第跡
太宰少貮景賴第跡
藤次左衞門入道第跡
結城上野前司入道日阿第跡 是は朝光入道が事なり。嫡子大倉少輔朝廣は、塔の辻に住せり。朝光は別に第地賜りて住居し、後に次男出羽前司朝村此所に住せしならん。
宇都宮下野前司泰綱第跡
鹽谷周防前司第跡
小山下野入道生西第跡 朝政が事なり。
工藤八郎右衞門尉第跡
大野右近入鑑第跡
陸奧七郎業時第地 極樂寺重時が子なり。建治中執權加判たり。
式部大輔入道第地 名越朝時が別業なる歟。
右人々第地、【東鑑】等に、唯若宮大路とのみ在て、其場所定かに知がたし。
佐野小太郎基綱第跡 窟堂の下に住せり。文治四年正月朔日、基綱が窟堂の下の宅燒亡の事、【東鑑】に見ゆ。
[やぶちゃん語注:「窟堂」は現在の窟不動を祀る窟堂(いわやどう)。現在の小町通りを八幡宮方向へ突っ切り、鉄の井の手前を扇ヶ谷へ向かう左の小道に折れて窟小路を行くと、横須賀線の踏切の手前にある。]
掃部頭親能第跡 龜ケ谷にあり。右大將家姫君の乳母夫ゆへ、正治元年六月卅日、姫君逝去、此時掃部頭も入道す。姫君を親能が龜が谷宅の傍に葬奉るとあり。又賴家卿も、掃部頭親能入道が龜が谷の宅に於て御鞠の會あり。
隱岐次郎左衞門尉泰淸第跡
加治八郎左衞門尉信朝第跡
仁治二年十月廿二日、龜が谷邊俄に騷動す。是群盗武藏大路の民家を襲ひけるゆへ、右兩人并近隣の者馳向ひ、是を虜とせしゆへなりとあり。されば此兩人龜が谷に住せしなるべし。
[やぶちゃん語注:「武藏大路」は現在の鎌倉駅西側(市役所側)に若宮大路と並走する南北方向の道を言う。北は扇ヶ谷寿福寺前に始まり、現在の由比ヶ浜大通りの六地蔵前まで伸びる。今小路とも呼称する古道である。]
右兵衞督教定朝臣第跡 泉が谷にあり。建長四年四月廿九日、新建の御所經營のゆへ、泉が谷の右兵衞督教定朝臣の亭を壞れ、御方違の御本所として、新建の儀有べしとて、同七月八日、泉が谷の亭に、將軍宗尊親王入御、同十一月十一日新御所へ御移徙といふ。今は舊跡しれず。
[やぶちゃん語注:「泉が谷」は現在の扇ヶ谷の一画、浄光明寺一帯を言う。]
扇ケ谷上杉家第跡 華光院前の畠地をいふ。扇ケ谷上杉といふは、武庫禪門憲房の甥なる修理亮憲藤が子なり。犬懸上杉の條に、具に出せるゆへ玆に略す。憲藤の子二人あり。兄を幸松丸〔十四。〕、初て尊氏將軍に謁し、左馬助朝房と名乘らせ、信濃・越後・武藏を賜ふ。是扇が谷の元祖なり。夫より扇が谷に住し、其男彈正少弼氏定なり。此人は應永廿三年十月、上杉禪秀謀反の時、管領憲基と同敷持氏朝臣の御味方申、同四日扇が谷を固め、同六日敵六本松に押寄る。氏定父子、扇が谷より馳向ひ戰ひけれど、敵は入替り攻しかば、氏定も深手負ひ御所にも駿河をさして落給ふ。氏定御供も不叶、藤澤道場に入て自殺す。氏定〔四十四。〕。其子修理大夫持朝扇が谷に住し、成氏朝臣の世となり、管領憲忠若輩ゆへ、長臣長尾左衞門尉景仲諸事名代に政事を執て威を振ひければ、御所と君臣不和出來し、世の中いぶかしく思ひしゆへ、入道し道朝と號し、子息彈正少弼顯房に家をゆづり、武州河越に城を取立て住す。顯房若輩ゆへに、家老武州尾越の太田備中守資淸政務を下知し、持朝入道河越にて、文正元年九月六日逝す〔五十二。〕。顯房は享德四年正月廿一・二兩日、武州府中分倍河原合戰の時、顯房深手負、相州瀨谷にて腹切て失けり。此頃より山の内扇が谷の名有て、兩家鎌倉に居らず。山の内管領は上州白井に住し、扇が谷は河越又は江戸城に住す。顯房の息修理大夫政眞家を繼、文明五年十一月、武州五十子の陣中にて卒す〔二十四。〕。早世ゆへ嗣なかりしかば、持朝入道の三男定政を以て世繼とし、修理大夫と號す。此頃管領山の内顯定と扇が谷定政と軍始り、扇が谷の家老太田道灌名譽の良臣にて、殊に東國の案内者なれば、東士多く扇が谷に屬するもの有て、山の内漸くおとろへしかば、顯定が謀にて定政に家老道灌を討せければ、是より扇が谷衰へ、定政は明應三年十月五日卒せり。其子五郎朝良若輩ゆへ次第に衰へ、是も又世をあふし、其子修理大夫朝興家を繼、江戸城に住し、大永四年正月十三日、北條氏綱が爲に城を落され、是より河越に住し、天文八年四月朝興逝し、其子五郎朝定十三歳にて家を繼、同年七月十一日氏綱に河越城を落され、夫より松山に籠る。此朝定迄九代にして、扇が谷上杉は絶たり。
[やぶちゃん語注:「華光院」は寿福寺の東向かいにあった寺院。現存せず。「六本松」化粧坂坂上の地名。後掲される「古蹟」の「六本松」の項を参照。「持朝入道の三男定政」は「定正」の誤り。「世をあふし」の「あふし」は「あぶす」の連用形で、世の中を持て余す、世を捨てるの意である。これは永正二(一五〇五)年の朝良の隠居と養子朝興への当主移譲を指すものと思われるが、これは朝良が山内上杉家との抗争に敗れた結果による形式上の隠居であって、実権はやはり朝良が握っていた(後、朝興とは不仲になり病死している)。]
大友左近將監能直舊跡 扇の井の邊に舊跡ありといへども、知がたし。是は右大將家の寵臣にて、文治五年奧州御征伐の時も御供に候せり。子孫足利家の世に至り、九州の探題となり、代々豐後に住し威を振ひしが、義統入道宗麟に至り、職祿を失ふ。
高播磨守師冬舊跡 化粧坂の北の方なる陸田なり。土人播磨屋敷といひ傳ふ。師冬なるべし。基氏朝臣の執事なりしが、其後陰謀有て討れ、家絶たり。是は師直の猶子にて、纔にして亡びたれば其舊跡知がたし。
武田三郎信忠第跡 梅が谷の南なり。今は畠地をいふ。伊豆入道信光の息男。信光は名越に住す。親子不和なること【東鑑】にも見へたり。或は惡三郎ともいへり。〔足利家の世となり、武田右馬助信長、此所に住せし由。〕
岡崎平四郎義實舊跡 龜が谷壽福寺の地、左典厩〔義朝。〕の舊跡にて草茫の地となりしが、義實兼てより、左典厩の御沒後を弔ひ奉らん爲に、小菴を營み義實も住せり。此義實は佐那田餘市義忠が親なり。次男は土屋二郎義淸と號し、是も同敷住せしが、正治二年、尼御臺壽福寺建立の時、此所は義淸が住所の地を點じて葉上律師に賜ひ、是より義淸は若宮大路に移れり。土屋大學助是なり。
天野藤内遠景第跡 土人是を混同して尼屋敷と唱ふれども、尼屋敷といふは御前が谷の事なり、智岸寺の地は、古へ遠景の第跡なり。遠景が子は、和泉前司政景と稱す。政景が女は、北條五郎實泰が室とせり。子孫年經て三河國に移り、三郎兵衞遠景が後孫なりといふ。
越後守時盛入道勝圓第跡 佐介谷にあり。時盛は相模守時房が息なり。〔時房は義時の弟なり。〕寛元四年六月廿七日、入道大納言〔賴經。〕時盛が亭へ渡御、是御歸洛の御門出なりとあり。文永三年七月四日、親王丼軍〔宗尊。〕時盛入道が亭へ俄渡御、是も又御歸洛の御門出なり。
管領上杉安房守憲基第跡 佐介谷にあり。管領故安房守憲定が息なり。此憲基は、初て爰に住し、山の内の舊亭に嫡男憲實住せり。應永廿三年十月二日、犬懸の上杉禪秀が、持氏朝臣の伯父滿兼、持氏の舍弟持仲を勸め陰謀を企、今夜戌刻に旗を揚る。憲基は夢にも此企を知らず、酒宴して有けるが、扇ケ谷の上杉修理大夫定政、三十騎ばかりにて馳來り、禪秀謀反を起し、御所をも取籠奉り、只今是へ發向する由なり。ケ樣にゆう/\と渡らせ給ふぞやと呼りければ、憲基少も騒ず、何程の事か有べきといひける處へ、上杉藏人大夫憲長は十四騎にて馳來り、敵味方は知らず、前濱には軍勢充滿せり、打立給へと呼はりけるゆへ、其時憲基物の具し給ふ。相從ふ人々には、長尾出雲守・大石源左衞門尉・羽繼修理大夫・弟彦四郎・岩田將監・安保豐後守・長井藤内左衞門尉、其外木部野九郎・寺尾源三・白倉又二郎・加治次郎太郎・金子平太郎・金田平三を初とし、宗徒の兵七百餘騎打立ける。憲基は先御所へ馳參り、上樣恙なく渡らせ給はゞ御供申、是へ入奉るべし。若又御所を敵取卷申さば、西御門に火を掛て、寶壽院へ押寄、一戰たるべき由申す處、既に御所是へ入らせ給へば、皆人大いに悦び、翌日は惡日とて、犬懸よりも掛らず、佐介よりもよせず。同四日未明より、佐介の口々、手分して差向らるゝとあり。
千葉介第跡 愛宕堂の東の畠地を千葉介常胤が舊跡なる由をいふ。【東鑑】に、司馬の甘繩の家に向ふとは此所なり。司馬とは成胤が事なり。胤正が子にて、常胤が嫡孫にて有けり。
諏訪大夫盛隆第跡 弓馬の達人、名譽八人の内なりし。千葉第跡の東南の畑をいふ。
[やぶちゃん語注:「名譽八人」については私には断定出来ないものの、例えば「吾妻鏡」の嘉禎三(一二三七)年七月十九日の条の時頼に対しての弓名人海野幸氏の流鏑馬談義を参考にすると、この嘉禎三年時点では以下の八人が浮かび上がってくる。
海野幸氏〔話者本人〕
下河邊(しもこうべ)行平
和田義盛
榛谷(はんがやつ)重朝
諏方盛隆
愛甲季隆
工藤景光
藤澤清親
但し、ここで記録者は海野幸氏を『舊勞の上、幕下將軍の御代、八人の射手の内たるか』と注していることから、これらの八人は謂わばポスト「名譽八人」であって、頼朝時代のプロト「名譽八人」には異同があるものと思われる。]
相模左近大夫將監時定並相模八郎時隆第跡 佐々目谷邊に住せしにや。建長三年二月十日、甘粕邊失火、東は若宮大路、南は由比濱、北は中下馬橋、西は佐々目谷なり。時定・時隆等の第災すとあり。
駿河守卒平有時第跡 佐々目谷に住するといふ。有時は武藏守經時が子なりといふ。有時が子を兼時といふは、六波羅に在しが、永仁元年執權貞時、勸て兼時を筑紫へ遣し、鎭西探題職とし、長門に置て西國・中國の事を司らしむ。或は兼時は、時輔の子なりともいふ。經時は寛元四年四月十九日、病に依て職を弟時賴に讓り、落髮し、佐々目谷の別莊に退隠し、同閏四月朔日に卒し、佐々目の山麓に葬り、後に梵宇を建るとあるは、長樂寺の事なり。經時此所に、別莊を兼てより構へしとあれば、後に子孫爰に住せし事あるべし。又云、【鶴ケ岡社務職次第】に云、佐々目大僧正賴助、武藏守平經時の息、最明寺殿の甥なりとあり。又同記に、法務有助、佐々目大僧正と號す。駿河守有時の孫、兼時の息なりと云云。皆系族此所の地名を稱して、僧正の號となせり。
[やぶちゃん語注:「長樂寺」は現存しない。長谷の現在の鎌倉文学館辺りにあった寺。「田代冠者信綱舊跡」の注で示した安養院に統合されたが、現在の安養院の寺号長楽寺は本寺に由来する。]
足利上總介義兼第跡 巽荒神の東南の畠地を、土人尊氏の第跡と唱ふ。此所は足利の先祖、上總介義兼〔或作包。〕右大將家の時より爰にすみ給ひし舊跡なり。其後左馬頭義氏も住給ひしが、寳治の頃より、大倉の第地へ移り、爰には泰氏・家時の居館とせられ、讚岐入道貞氏は、また大倉の舊亭に住給ひ、尊氏將軍も元弘の亂前迄は、大倉に住れけるゆへ、此所は舊跡となりしを、【梅松論】に見へたるは建武二年七月、相模次郎時行鎌倉へ亂入の時に、足利直義海道を引退き、八月二日將軍京都御立、三河國矢矧にて、京・鎌倉兩將御對面、夫より兩將また鎌倉へ下向し給ふ。道々七ケ皮の戰ひに討負て、八月十九日鎌倉へ攻入給ふ時、相模次郎沒落せしとぞ哀なり。將軍御兄弟鎌倉に打入、二階堂別當永福寺に御座あり。勅使中院藏人頭中條具光朝臣鎌倉下着、今度逆徒速に靜謐すること、叡慮再三なり。軍功の賞に於ては、京都にて宛行べきなり。早々歸洛有べしとなり。勅答には急ぎ上洛すべき由なりと云云。是迄は彼記に出たり。偖上京をば、直義強て留けるゆへ、暫く延引し給ひ、先若宮大路の、代々將軍家の舊跡に御所を造られしかば、師直以下の諸大名等、軒をならべて構へける。鎌倉の體は、誠に目出たく覺へしと、【梅松論】にあるは、此所の御所の事なり。或は若宮大路の御所とも書ける。扨尊氏將軍、此所に同十二月八日までにて又上洛し給ひ、爰には義詮朝臣を留給ひ、是も觀應二年上洛せらる。同三年正月、將軍此御所に御入、同閏二月武藏野合戰後、基氏朝臣を關東の主に定め給ひ、大倉の亭へ置申されし由、其年月等慥にしるせるものなし。【今川了俊が記】に有所を以て考ふるに、感應三年のことなるべし。
藤九郎盛長第跡 甘繩神明の東の方をいふ。【東鑑】に、治承四年十二月廿日、武衞〔賴朝。〕御行始として、藤九郎盛長が、甘繩の家に入御とあり。建久二年三月四日、小町大路より失火し、鶴ケ岡社頭並に幕府の殿營悉く燒亡ゆへ、盛長が甘繩の家に渡御とあり。賴嗣將軍御行始の儀もあり。盛長の子景盛、始て秋田城介に任ぜらるゝ事は、實朝將軍の尊慮に依てなり。景盛殊に希望とせしといふ。此官は、上世昌泰年中よりの間に、平繁茂一人此職に任じ、夫より中絶すること數百年を經て、景盛此職に任ぜしより、五代連綿と此職に任じ、又代々執權北條の姻族にて奢侈に募りし故、竟に議を得て貞時が爲に、泰盛其子宗景父子兄弟討れ、家絶たり。
[やぶちゃん語注:「御行始」は「おなりはじめ」と読み、「御成始」と書く。御成という語は宮方・摂家・将軍の出行を指すが、特に将軍の臣下邸宅への、年初訪問儀礼や新居落成への御臨行をこう称した。鎌倉幕府にとってこの正月の儀礼は将軍と御家人を始めとする武家衆の主従紐帯を確認する重要な儀式であった。]
相馬次郎平師常第跡 此師常は千葉介常胤が二男なり。巽荒神の邊にあり。元久二年十一月五日卒せし靈を祀り、相馬天王と稱する祠は、泉が谷邊にあり。
陸奧守平重時並政村山莊舊跡 大佛切通を踰て、西の方を常盤と號す。土人呼で常盤の里とも唱ふ。重時は左京大夫義時の三男、泰時の弟なり。修理亮駿河守又陸奧守、寛喜年中京都警衞に赴きしが、寶治の始、時賴が招に依て下向し、是より兩執權の始なり。康元二年三月辭職、其政村を執權となせり。重時削髮し觀覺と號し、極樂寺を剏建し、其邊常盤という幽閑の地を卜し山莊を營み、退隠し、弘長元年十一月沒す〔六十四〕。法號極樂寺と號す。男子六人あり。次男左近太夫將監、長時が曾孫、相模守盛時は、嘉暦中高時に代り執權と成り、尊氏將軍の室は盛時の女にて、義詮・基氏をうめり。然るに元弘の亂に義戰して命をおとせること、巨福呂坂合戰の條に出せり。建長八年五月廿三日、宗尊親王、始て常盤の別業に入御有べき由にて、今日治定入御、陸奧入道重時・新奥州政村・相州時賴・尾張前司・出羽前司等豫候す、巳刻入御といふ。文應二年四月廿四日、宗尊親王、重時が極樂寺の新建の山莊に入御、御息所も同敷渡御し給ふ。御淹留。翌廿五日極樂寺御亭にて、遠笠懸・小笠懸等有て、酉刻還御し給ふ。弘長三年二月八日、政村が常盤の御亭にて、一日に千首の和歌の會あり。政村が法號を常盤院と號せり。
【新後撰】
こゝろはて萬代にほへ山櫻、花もときはの宿のしるしに
藤原基綱
詞かきに「 平時重が常盤の山井にて、寄花祝といふことをよめる」とあり。此歌を【類字名所】に山城に入たり。【吐懷篇】にも是を考へ殘せし由、昌琢此うたを都の常盤に附せり。皆地理の不案内故なり。時範は時茂の子にて、重時が尊孫なり。時範に至る迄常盤に住せしならん。【鎌倉志】に、藤原景綱が歌とし、平泰時が家士なりとあり。されば尾藤左折將監景綱なれども、是は【東鑑】に、天福二年八月廿一日、武州家令尾藤左近入道道然、依所勞辭職、泰時より先に歿し、泰時の弟の重時が孫なる時茂が頃迄は、四十年餘も前に死たり。たとへ【新後撰集】に、藤原景綱とあるとも、詞書を考へ合すれば違ひなるべし。地理をも誤りあれば、其人を誤りしならん。依て玆に基綱としるせり。後藤大夫判官藤原基綱にて、實朝・賴經・賴嗣將軍家に仕へ、和歌にたづさはれる人なれば、宗尊親王の時迄存命し、山莊にてよみしなるべし。
[やぶちゃん語注:「踰て」は「こえて」と読む。「 平時重が常盤の山井にて、寄花祝といふことをよめる」の頭一字空けはママ。詞書として一字下げを行ったと解釈した。底本では後の鍵括弧閉じるがないが、補った。この和歌は確かに本文で「新編鎌倉志」の引用で記すように「新後撰和歌集 卷第二十 賀歌」に藤原景綱の歌として所収している。但し、異同が認められるので以下に掲げる。
平時範が常磐の山莊にて、寄花祝と云ふ事をよみける
うつろはで萬代匂へ山櫻花もときはの宿のしるしに
ここでの×藤原景綱→◯藤原基綱という考証はなかなか鋭い。]
藤澤左衞門尉淸朝第跡 稻瀨川の邊なり。此人は右大將家の頃より、海野愛甲などゝ同敷、名譽を得たる射手八人の内なり。永久の亂に、東海道の大將は、時房・泰時と定め、評議決し、國々の軍勢集るを待合すべきやと有しに、廣元いふ、軍勢を待合に及ず、泰時一身なりとも鞭を揚給はゞ、東國の軍兵雲の龍に隨ふ如くならんとて、今夜泰時門出して、稻瀨川の藤澤左衞門尉淸親が家に宿し、翌廿二日、泰時十八騎にて打立とあり。貞應二年六月十三日義時死去し、泰時は上京ゆへ此告を待て下向し、廿六日稻瀨川道より、藤澤淸親が家に宿し、翌廿七日稻瀨川より塔の辻の亭へ移るとあり。
[やぶちゃん語注:「名譽を得たる射手八人」は先行する「諏訪大夫盛隆第跡」の私の注を参照されたい。これによって少なくとも、私の言うプロト「名譽八人」には海野幸氏は勿論、頼朝の寵臣で「吾妻鏡」の弓始め一番に名の挙がっている和田義盛、先行の記載により諏方盛隆、本記載によって愛甲季隆・藤澤清親が含まれると言ってよい。更に頼朝から日本無双の弓取りと讃えられた下河邊行平、同じく頼朝に近習した榛谷重朝もそれ以前に当確ということになり、工藤景光に至っては建久四年(一一九三)五月その八十歳での発病とその死が弓名人としても名誉に関わるものである以上、やはり「名譽八人」と言ってよいのではあるまいか。識者の御教授を乞うものである。]
山城前司俊平舊跡 此人深澤に住する由、【東鑑】に出て、また深澤を氏にも名乘れり。
宿屋左衞門尉光則舊跡 時賴の家臣なり。長谷に住し、今は光則寺の境内是なり。謂れは、光則寺の條に委し。
大佛陸奧守貞直舊跡 是も深澤に住するゆへ、大佛を氏に稱す。
古河御所義氏朝臣舊跡 葛西が谷に住給しといへども、纔の間の事なるゆへ、近き世のことなれども、其舊跡定かに知がたし。古河晴氏朝臣の嫡男なり。晴氏朝臣の室家は、北條氏綱が女なれば、氏康の妹の腹に生れ給ふ。然るに【北條五代記】に、天文年中河越合戰の砌、兩上杉が勸に從ひ、城攻の加勢として出馬せられ、夜軍に寄手敗軍し、晴氏朝臣も切拔て古河へ歸らる。度々不義の働有しゆへ此上はとて、天文廿三年十月四日、氏康古河へ押寄戰ひ、竟に城を落し、晴氏朝臣を捕らへ歸りて、相州波多野の内曾谷といふ所に籠置たるが、世を子息義氏に讓り申さんと有けるゆへ、氏族が甥なれば計らひて、京都へ申て左馬頭に任ぜらる。偖居館も、先祖より鎌倉に住し給ひし事なれば、是より鎌倉にすへ申べし。先假に葛西が谷に御亭をもふけ移し置けるが、其後永祿二年七月十八日、葛西が谷にて逝し給ふといふ。【編年集成】には天正十年極月廿一日卒去とあり。其嗣なく、社禝爰に至て斷絶せんとす。依て豐臣秀吉是を聞給ひ、左兵衞督義明の嫡男、右兵衞督賴純の息國朝を以て、今度彼遺跡を繼しめ、義氏の孤女を嫁し、野州喜連川五千石を賜ひ、左兵衞督に任じ、神君の賓客に准ぜらるべしと云云。
[やぶちゃん語注:「葛西が谷」は宝戒寺の背後の青砥川(滑川)を越えた東南の谷。「社禝」は「しやしよく」と読む。一般に一家の意で用いるが、本来は中国の土着的な自然神崇拝を指し、後には死者を祀って家系・血族総てを守ることを言うようになった。]
古城址
[三浦陸奧守義同人道道寸城跡分圖]
三浦陸奧守義同人道道寸城跡 小坪正覺寺の東南、住吉の社あるゆへ、住吉の城とも唱へし由。城山は、光明寺の山より地つゞけり。此所を三浦道寸が城跡といふ。住吉の社地より山中を切拔たる洞口を、大手口なりといふ。入口の洞穴を、例の土人が方言に、くらがりやぐらと稱す。平坦の地四ケ所有。亭宅を構へしは、【北條五代記】に、永正六年、上杉治部少輔建芳が被官、上田藏人入道、北條早雲が下知に從ひ、武州神奈川へ出張し、熊野權現山に城を構へ、謀叛の色を立けるゆへ、早雲、小田原に新九郎氏綱を留置て、松田・大道寺以下の軍勢を率ひ、高麗寺山並住吉の城を攻立てるとあるは、此地の事なり。扨早雲は、住吉の城より神奈川へ押寄合戰せし由。其後此所に三浦道寸を置て守らせけるが、是も又敵の色をなしけるゆへ、同十三年七月、早雲が爲に此城攻落され、道寸父子討る。此入道が太刀並系圖文書等、今圓覺寺中壽德菴に藏す。其由來はしれず。
城山の圖爰に出す。扨此地は三浦都なれども、鎌倉に接附しけるゆへ玆に出せり。
[やぶちゃん語注:最後の一行は表記通り、改行されている。なお、鎌倉御府内の古城址となれば本来ならば、三浦義明長男杉本義宗によって築かれたと伝えられる杉本城址(建武四(一三三七)年、足利義詮配下斯波家長がここを保守していたが、六浦道を経て朝夷奈切通から鎌倉に攻め入った後醍醐方の北畠顕家によって落城している)が入っていなければならないが、恐らく江戸期に於いては、この城址の存在は全く知られていなかったからであろう。それにしても城郭遺構が相当に保存されていたはずの、やはり同じ北条早雲の持城で秀吉によって攻め落とされる玉縄城がここに欠落しているのは不審。玉縄城は山ノ内荘に含まれる立派な鎌倉御府内の城郭跡である。実は「新編鎌倉志」の巻之三でも玉縄城は『今松平備前守源隆綱居宅とす』とあるのみである。玉縄城は私のこの書斎のすぐ向うにあるが、実は鎌倉市の西北の末端に位置し、鎌倉市街からは最も離れている。いずれの本の編者も、単にここまで来るのが億劫だったのではあるまいか? 最後に東西に分かれている三浦陸奧守義同人道道寸城跡原図を私が合成したものを示しておく。]
[三浦陸奧守義同人道道寸城跡全圖]
墳墓並墓碑
右大臣實朝公廟塔 永久元年正月廿七日の夜、鶴ケ岡拜賀の砌、宮殿より還御し給ふを、惡別當公曉が爲に、石階の邊にて遭害、翌廿八日戌刻、勝長壽院へ葬し奉らんとす。然るに御くしの在所しれず、五體不具なるゆへ、宮内兵衞尉御髮を取揚げる時、御髮の毛一筋をかたみなりとて賜ひしを、御頭に用ひ、御入棺、此時御臺御除髮し給ふ。臣下には秋田城介景盛を始として、各悲涙にたへず。入道する音數十輩。其夜勝長壽院の山麓に埋葬し奉ると、【東鑑】に載たり。今は其廟塔の在所知れず。【帝王編年記】に、文暦元年二品禪尼、故右大臣の爲に、高野山の内に金剛三昧院を建立せられ、奉行は城の景盛入道大蓮なり。本尊正觀音の御身に、實朝公の遺骨を籠るとあり。されば勝長壽院にて茶毘せし事ならん。又【法然上人行状記】に、津戸三郎爲守入道尊觀房念佛の行者にて有ければ、右府薨逝を悲歎し、尼御蔓所へ顧奉り、御分骨を申おろし、在所へ歸り葬奉り、家を築て阿彌陀塚と稱し、其所に堂を營み、不斷念佛修行せしとあり。又日光山別當辨覺は、右大臣家の護持僧にて、常に鎌倉に居れり。右府の御恩顧をも蒙りければ、御分骨を願ひ得て、日光山へ葬り奉るといふ。又壽福寺に、右府の御廟と稱する岩窟有て、内に石塔並石函も見ゆ。是も開山榮西上り御歸依ゆへに、御分骨有て、壽福寺にも御廟を移せしならん。されども壽福寺の事は、【東鑑】に見へず。勝長壽院へ御葬式有しは、正敷彼書に載たれど、今其舊蹤もしれず。
[やぶちゃん語注:「宮内兵衞尉」は宮内公氏(くないきんうじ)。私の拙作「雪炎」をよろしければご覧あれ。]
二位禪尼〔政子。〕廟塔 是も御存命の時より、勝長壽院に、新御堂御所を經營有て住給ひ、此所にて嘉祿元年七月十三日逝し給ひ、山麓へ埋葬し奉るといふ。此逝去の事、【東鑑】に、三年の内脱漏せしといへども、此所へ塋域を構へられしはしれる處なり。是も壽福寺に、右府の廟と相双びて岩窟あり。禪尼の廟と稱す。勝長壽院にて荼毘せられ、御分骨を葬りし事なるべし。壽福寺は、開山榮西・二世行勇ともに御歸依開基なれば、御分骨も有べき事なり。勝長壽院廢跡には、其舊跡もしれず。又云、名越の安養院に、二位禪尼の廟塔とて、禪尼の法諡並歿年月彫立たるもの在て、石面鮮に文字見ゆ。其圖は安養院の條に出す。合せ見るべし。
右大將家姫君墳墓 正治元年六月廿日、右大勝家姫君〔十四。〕逝去、尼御所御歎息、乳母夫掃部頭親能出家す。今夜戌刻、姫君を親能が龜ケ谷堂の傍に葬し奉るとあり。此頃龜ケ谷堂とあるは、下野國司〔義朝。〕の御爲に、岡崎平四郎義實草堂を營み、冥福を修せしとある其堂の事にや。翌年此地を營西へ御寄附、壽福寺建立の地なり。按ずるに、壽福寺山麓に岩窟有て、尼御所の廟なりといふは、此姫君の塋域にはあらずや、慥なる事はしれず。
[やぶちゃん語注:現存する寿福寺の伝政子の墓を大姫の墳墓と推理する、この考察は滅多に聞かないが極めて興味深い説である。]
右京兆平義時墓 元仁元年六月十三日卒す〔六十七。〕。【東鑑】には、義時が死を潤飾して、順次往生すとあり。【保暦間記】には、近習の小侍に刺殺されしとあり。此人の罪惡、天譴を逸れざることなれば、將軍家執權の條にしるせしゆへ爰に略す。【東鑑】に、右大將家の法華堂の山上へ葬、墳墓を號して新法華堂と云由見へたれども、墓今は廢して見へず。
[やぶちゃん語注:「順次往生」とは現世での一生を終えて直ちに浄土に生れることを言う。植田の「潤飾」(潤色と同じ)という謂いが、すぐ後に現れる義時への強烈な批判的スタンスを既に物語っていて面白い。現在は、大江広元の墓へと向かう階段の手前、三浦泰村の墓とされるやぐらの手前の空き地を法華堂跡として比定している。]
修理亮時氏墳墓 北條泰時の嫡男なり。父泰時に先達て、寛喜二年六月十八日、歿する時歳二十八、大慈寺の側なる山嶺に葬すとあり。大慈寺も廢跡となりし故、時氏が墳墓しれず。時氏男子二人女子一人、武州經時・相州時賴女子一人、賴嗣將軍の御臺なり。世に北條九代と称する時は、此時氏を加へて九代なり。
[やぶちゃん語注:底本では「【北條九代】」とあるが、ここは書名ではないから排除した。「大慈寺」は現在、明王院と光触寺の中間点、六浦道の明石橋を渡ったところを左に折れた住宅街(住所は十二所)に比定されている。]
賴嗣將軍御臺の墳墓 經時が墓の側に葬るとあり。此御臺所は經時妹なり。寶治二年佐々目谷の堂にて、經時第三年の佛事を修し、導師般若坊律師、又千僧供あり。正嘉二年三月廿三日、武州經時十三年の佛事、佐々目谷に塔婆供養せらる。導師壽福寺長老悲願房朗譽と云云。今二ケ所ともに知れず。
[やぶちゃん語注:次項の注を参照。]
北條武藏守平經時墳墓 經時は、兼て別業を佐々目谷へ構へ、寛元四年四月十九日、病に依て職を辭し、執權を弟時賴に讓り、落髮し、同年閏四月朔日に卒す。佐々目山の麓に葬り、後此所に梵字を營み、長樂寺と號すとあり。今は其墳墓しれず。
[やぶちゃん注:第四代執権北条経時の墓は現在、彼が開基である海岸に近い光明寺のやや高台にある。ところが「新編鎌倉志」でも経時墓の記載がない。これは按ずるに、開山塔と一緒にあったために経時墓と認識されていなかったのではあるまいか。さすれば、ここに妹の墓も一緒にあったはずである。しかし、「知れず」とあるけれど、現存する経時の墓は、これ、かなり立派な宝篋印塔で目立ち過ぎるぐらいなんだけどなぁ。]
冷泉爲相卿墓碑 綱引地藏の後の山上にあり。爲相卿は權中納言爲家卿の息男にて、從二位中納言なり。遺跡爭論の事にて、母君は阿仏尼と稱す、兩君ともに鎌倉へ訟に下向、親子鎌倉にて歿し給ふといふ。【常樂記】には、爲相卿は京都にて逝し給ふとあり。下向せられしは永仁三年十月の事にて、歿年は嘉暦三年七月十六日といふ。
[やぶちゃん語注:「網引地藏」は浄光明寺裏を少し登ったやぐら内にある。冷泉為相は藤原定家の孫に当たる。「母君は阿仏尼と稱す、」の読点は底本では句点であるのを訂した。]
阿佛尼墓碑 扇ケ谷に有といへども、今は英勝寺の境内ゆへに、其墓碑を見ることかたし。京都大通寺にも碑ありといふ。
畠山六郎重保石塔 由井濱大鳥居より東の方にあり。五輪の石塔なり。明德四年に建たる銘有て、願主道友と銘せり。重保が此所にて討死せしは、元久二年六月廿二日の事なり。討手には佐久間太郎といふ者向ひしといふ。
忍性上人墓碑 爲相卿の墓ある所より、東の方の山を踰て、谷間に五輪の塔あり。是をいふ。此人は極樂寺の開山にて、道德の人ゆへ菩薩號を賜ひ、嘉元二年六月廿三日寂〔八十七。〕。
[やぶちゃん語注:現在、忍性の墓は極楽寺境内西方にあるものがそれとされている(銘はないが、均整のとれた五輪塔の名品であるが非公開である)。ここに記されているものはその位置から、現在、覚賢塔と呼称される冷泉為相墓の東北にある五輪塔であることが分かる。この塔のある場所は正に忍性の開山になる多宝寺跡であり、この塔は今は多宝寺長老覚賢の墓塔として建てられたものであることが分かっている。これも大型で、残念なことにやはり非公開である。]
高時入道門葉頸塚 牛蒡が谷光觸寺より、北の方なる谷間に、頸塚とは唱ふれども、岩窟の内へ埋たるなり。土人等例の方言に、くびやぐらと唱ふ。何ゆへに、岩窟の事をやぐらといふにや。元弘三年五月廿三日、一門の人々高時の第へ籠りしが、各々最後に及び、東勝寺に入て自殺せしを、滅亡の後取集て爰に埋しといふ。
[やぶちゃん語注:「牛蒡が谷」は十二所神社奥の番場ヶ谷から瑞泉寺背後の天台山中腹貝吹地蔵の峰へと向かう沢筋に伸びる谷を言う。現在はお塔ヶ窪、北条の首やぐら等と呼称されている。因みに、ここは私が鎌倉で最も愛する場所である。]
上總介石塔 朝夷奈大切通と小切通の間なり。田圃にあり。傳へいふ、上總介廣常が石塔なりと。壽永二年十二月、梶原景時をして討しめ給ふ。是は古き事なるに、或説には、應永廿九年、佐竹上總介を、上杉憲直に命じて討せらる。比企ケ谷法華堂に入て、自殺せし首を取歸りて、持氏朝臣の檢に備ふ。上總介、もとより御敵申せしにもあらず、御下知にたがひしのみの罪なればとて、其首を此邊に埋させ給ふ。後に何人が塔を建けりといふ。多くは是なるべし。
[やぶちゃん注:私の知る限りでは、この石塔群は現存しない。]
志一上人墓碑 馬場小路の町屋の後なる西の方にあり。爰を鶯が谷といふ。此志一は仁和寺の僧にて、外法成就の志一上人と、【太平記】にも載たり。もと筑紫の人なるが、詔ありて鎌倉へ來れりといふ。貞治の頃にやありけん、其秋京都へ上りし時、佐々木道譽が家へ參り、さまざま物語りのうへ、細川相模守殿より、所願候間、速に願成就ある樣に祈りてたべとて、願書一通を封じ、供具の料とて一萬匹副て贈られしと、何心なく語りければ、淸氏何事の所願に候哉、其願書披見せんことを、懇切に再三上人をすかしければ、無是非願書を取寄せ、道譽に見せければ、道譽大に悦び、伊勢の入道が宅へ行、細川淸氏、陰謀の証據發覺せしことを讒訴せしより、淸氏は將軍の爲に終に討れ、家を失ひけり。其發りは、志一が愚直なるより、天下の大亂をおこし、死傷するもの多し。依て上人も京に住し得ず、又鎌倉へ歸り、寂せし年月しれず。又一説に鎌倉へ下向の時、文書を故郷に忘れ、如何せんとせしに、志一が使ひし狐一夜の内に在所へ歸り、其文書を持來り、志一に渡し、即時に斃れしゆへ、彼狐を埋て祠を建、稻荷と祝ひしは、巨福呂坂上の小祠是なりといふ。陀枳尼天の法者なれば、狐を使ひしことは勿論なり。鎌倉へ下りし、初畠山國淸野心有て、志一に外法を修せしめ、又細川淸氏と國清同意なるに依て、上人をして淸氏にも、咒詛を祈せん爲に計りし事なりといふ。
[やぶちゃん注:「馬場小路」は正しくは「ばんばこうじ」と読み、鶴岡八幡宮西側を走る道で、鉄の井から旧鶴岡八幡宮寺二十五坊跡辺り(小袋坂の下、道路が左へ大きくカーブル辺り)までを指した。「畠山國淸」(?~貞治元・正平十七(一三六二)年?)は南北朝期の武将。尊氏・直義に従って九州・畿内を転戦、京都を制圧して和泉守護となり、次いで紀伊守護となった。一度は直義についたが、結局、尊氏に寝返り、鎌倉公方足利基氏の補佐を命ぜられて関東執事となって鎌倉入りし、権勢を振るった(但し、彼は着任早々、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移して入間川御陣としている)。後に失脚、基氏と争うが敗北、その後の消息はよく知られていない。因みに、これは現在、鶴岡八幡宮から道を隔てた西北の斜面を登ったところにある志一稲荷のことを指している。]
大江季光入道西阿墓石 鶯谷尼菴の庭に在しといふ。是は雪の下淨國院住僧元運といふもの、永享中に造立せし由。此僧侶は、大江氏の出にて、大江時廣の末孫なるが、同族の因たるをもて、其追福の爲に造立せし由。今は其塔も、剝落頽破して其形も全からず。大半土中へ埋しといふ。
[やぶちゃん語注:「雪の下淨國院」は「新編鎌倉志 卷之一」の鶴岡八幡宮の塔頭十二院の筆頭に掲げられている、以下に引用しておく。
淨國院 以下の十二箇院は、當社の供僧也。鶴が岡の西の方に居す。淨國院より次第の如く、東顏より西顏まで、寺町をなす。建久二年に、賴朝卿二十五の菩薩に形どり、院宣を奏し請て、供僧二十五坊を建立せらる。其の後應永二十二年二月廿五日、院宣に依て、坊號を改め院號とす。源の成氏の代まで、廿五院有しと見へたり。【成氏の年中行事】に載。永正の此より、漸漸に衰へて、七院のみありしを、東照大神君、文祿二年に、十二院を再興し給と也。淨國院の開基は、【社務職次第】に云、初佛乘坊・忠尊、號大夫律師、山城人也、法性寺禪定殿下忠通猶子也。(初めは佛乘坊・忠尊、大夫律師と號す。山城の人なり。法性寺禪定殿下忠通の猶子なり。)
「大江時廣」は広元の子。三代将軍実朝近習。京都守護であった兄親広が後鳥羽方に就いて失脚したため、嫡男として大江家を嗣いだ。因みに彼以降は長井(若しくは永井)氏を名乗っており、この僧も俗名は長井(永井)姓であったと考えられる。]
古 蹟
葛原岡 假粧坂を踰て、北の方なる小笹原をいふ。相模入道高時が爲に、右少辨藤原俊基害せられし所なり。【神明鏡】に元德元年、俊基また關東へ召下され、葛原にて、五月廿日誅せられけるに、斯なん。
秋をまたて葛原岡に消る身の、露のうらみや世に殘るらん
【大平記】に、俊基は殊更謀叛の張本なれば、近日鎌倉にて、斬申べしとぞ定めける。俊基すでに張輿に乘せられ、假粧坂へいで、爰にて工藤次郎左衞門請取て、葛原岡に大幕を引て、敷皮のうへに坐し給へり。俊基疊紙を取出し、辭世の項を書給ふ。古來一句、無死無生、萬里雲盡、長江水淸云云、筆を置給へば、首を打といふ。永享九年十月、持氏朝臣、軍ついえて鎌倉を邁遁出んとして、葛原岡に行掛りけるに、上杉憲實が家老長尾尾張守入道芳傳、此所に待得て捕へ奉るとあり。里老の語るを聞に、むかし梶原景時が先祖、鎌倉權守景成は、鎌倉幷梶原村邊を領しけるころ、此葛原が岡も梶原村の地にして、其頃までは、名もなき萱はらにて有しが、權守景成は、桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王を氏神に崇め奉り、宮社をいわひ、葛原の宮とも御靈の社とも稱し、此岡に鎭座なし奉りけり。文字は同じけれど、唱へを替てくづはらの御靈社と申せしより、此岡をくずはら岡とぞ土人稱しければ、竟に地名とは成にける。其後玆の宮を、梶原村へうつしてよりは、御靈の社とのみ唱ふ。されば社號は御靈權現にて、祭神は葛原親王を崇め祀れる事にぞ。又其後、鎌倉權八郎景經が代に至り、權五郎景政が靈を、御靈社に合せ祀れりといふ。是平氏の祖神なり。然るを、御靈の社といへば、權五郎景政を祀りし事とおもふは、尊卑を知らぬ誤りなり。御靈社へ景政を配しまつれる事をしるべし。既に朝廷にても、八所の御靈と稱し祀らしめ給ふは、崇德院・後鳥羽院、或は親王・攝家・大臣のたゝりをなし給ふを、八所の御靈と稱し、祀り給ふを以て知るべし。
六本松 假粧坂の上に、古へは松の古木六本ありしが、近世は朽枯し、今は二本も殘れる歟。應永二十三年十月六日、上杉禪秀方の軍兵十萬騎にて、六本松に押寄る。上杉氏定、扇が谷より出向ひ、爰を先途と防ぎ戰ひ、岩松・澁川等入替々々攻しかば、氏定の方には、上田上野介〔松山城主。〕・疋田右京進討死し、氏定も自身深手を負て引退とあり。
人丸塚 巽荒神の東の方、畠中にあり。土人いふ、惡七兵衞景淸が娘、人丸姫といふものゝ塚なりといふは、【平家物語】に、景淸が女を、龜ケ谷の長に預しなどあるより、此塚の名を人丸姫が塚なりと、土人等いひ傳へけり。實はさにはあらず、古へ宗尊親王、敷しまの道を御執心ありしより、此邊に歌塚を築かせ給ひ、人丸堂をも御建立の地曳せられしが、世上の變異に仍て、急に御歸洛ゆへに、其事ならずして廢せり。夫ゆへ後に、景淸が女の塚と唱へ誤れる由。
飢渇畠 裁許橋の南の路傍にあり。此所はむかしより刑罰の所にして、耕作をせざるゆへ、いつと不毛の事をよそへて、名附し鄙言葉なり。
盛久頸の座 長谷小路の南の方に、芝生の地をいふ。【東鑑】に見へず。【平家物語】に云、主馬入道は、盛國が末子、主馬八郎左衞門盛久、京都に隠れ居けるが、年來宿願にて、等身の千手觀音を造立し、淸水寺本尊の右の脇に安置し、千日參詣す。右兵衞佐殿、北條四郎時政に仰て、盛久を搦取べき由なれば、北條京中を尋求けれども、更にしれず。或時靑女來て、實にや盛久は、淸水寺へ夜毎に詣給ふなると申ける。北條殿悦て、淸水寺邊に人を置て伺ひ見せ、盛久を召捕て鎌倉へ奉る。盛久下着す。梶原景時仰を承て、心中の所願を尋申に、子細は述ず。盛久は平家重代の家人なれば、早く斬刑に隨ふべしとて、土屋三郎宗遠に仰て、首を刎らるべしとて、文治二年六月二十八日に、盛久を由比濱に引すへたり。盛久、西に向て念佛十遍許申けるが、如何思ひけん、南に向て又念佛二三十遍申けるを、宗遠太刀を拔て頸を打。其太刀中より打折ぬ。又打太刀も、目貫穴より折にけり。不思議の思ひをなすに、富士のすそより、光二筋盛久の身に當りたるとぞ見へける。宗遠使者を以て此由を申すに、又右兵衞佐殿の北の方の夢に、老僧一人來て、盛久の斬首の罪を、枉て宥免候べき由を申す。北の方、誰人におはするぞ。僧申けるは、我は淸水邊に候ふ僧なりと申すと覺へて夢さめ、佐殿に此由を申さる。是に因て、盛久を召返されたり。佐殿、所帶はなきかと問給へば、紀伊國に候ひしかども、君の御領に罷成て候と申す。依て安堵の御下文を賜るとあり。其事奇異にして慥ならねど、土人等も善く傳ふるゆへ、玆にしるせり。
[やぶちゃん語注:これは「平家物語」に記され、後に謡曲「盛久」として人口に膾炙するようになった観音霊験譚である。「宗遠使者を以て此由を申すに、」の読点は底本では句点であるのを改めた。]
正宗屋敷跡 鍛冶正宗が屋敷跡は、勝橋の南の人家西頰、昔の鎭守稻荷といふ小祠あり。神體に、正宗が鍛し寶劔を納しゆへ、土人刄稻荷とも唱ふ。其劔はいつの頃にや、盜人奪ひ去りしといふ。正宗は行光が子なり。行光は、貞應の頃鎌倉に來るといふ。
[やぶちゃん語注:「勝橋」(かつのはし)は寿福寺門前にあった鎌倉十橋の一つ。現在は完全な暗渠となって存在しない。]
佛師運慶屋敷 正宗屋敷の西をいふ。運慶は東寺の大佛師なり。是も鎌倉より召に依て、京都より來住せしゆへ、將軍家より屋敷を賜ひ住せしなり。湛慶・康運・康辨・康勝・運賀・運助等に至れり。
景淸牢跡 扇ケ谷より假粧坂へ登る道端の左に、洞窟あり。上總七兵衞尉景淸が牢なりといふ。或は云、景淸は鎌倉へ來らず。【東鑑】にも景淸が事見へず。【長門本平家物語】に、建久六年三月十三日、右大將家東大寺供奉の時、上總ノ惡七兵衞景淸、鎌倉殿へ降人と成て參りければ、和田義盛に預けらる。然るに無體我儘なること多ければ、義盛もてあまし、餘人に預け給ふべしと申けるゆへ、其後八田知家に預給ふといふ。或はいふ、景淸も、預り人は替れども、宥免の沙汰もなければ、助けられまじきことを知て、其後は醤水を斷て、同七年三月七日に死けるといふ。右大將家、建久六年二月十四日御上洛、同年七月八日鎌倉へ還御とあり。義盛・知家も供奉せり。景淸が死去は翌年なれば、鎌倉へ知家が具して來り、鎌倉にて死せし事は、【日本史】等にも載たり。土の牢に入たるといふはなき事にて、洞窟は、土人が設て人をあざむけるものなり。偖景淸が事は、古くよりつくり物語、又は戯作の僻名本などに事たるは、皆僞ごとにて、淸水觀音を信じ、冥助を得たる事は、主馬の盛久が事によそへ、鄙人の姿にやつし、右大將家を伺ひねらひしことは、兄忠光が義烈に似せ、或は賴朝卿の御服を乞得て、短刀をもて悉く裂切て、存念散ぜりとて、眼をつき潰し、盲人となりしなどいふ事は、豫讓が行ひにやつせり。是等の事、景淸が仕業には一つもなき事にして、忠光が義烈の事を、景淸なりと世人思へる者多し。又云、平氏家人、降人と成て出たるもの多けれど、大抵御ゆるしを得て、御家人に召仕はれけるゆへ、景淸も降人と成て出たるならん。御者免の御沙汰なき内は、囚人なれば、夫々に預け置れしが、年月を經ても御沙汰なきは、右大將家も思慮を廻らされ、景淸が親は、平家武者所別當上總介忠淸が子なり。景淸が兄忠光も、義烈を顯し誅殺せられ、景淸も容貌身體長大にして、力量人に超へ、武勇勝れるものなれば、容易に御者免なきも故ある事にて、且降人と成て出たれば、其疑ひありといへども、させる凶惡をなせしにもあらねば、刑にも處しがたく、日數經し内には、彼ももと常人ならねば、終には何事をか計りけんと、兼て思慮をめぐらされし事なるべし。
[やぶちゃん語注:「醤水を斷て」は「醤」は最低限の口にするものとしての舐め味噌を指して、食物や水といった口にするものを一切断つことを言っているのであろう。この植田の推理は、細かい部分に拘った(それは私に似ているのだが)かなりねちっこい(故に好きなのだが)ものである。]
御猿畠 名越切通より北なる山をいふ。三浦の堺なり。土人相伴ふ、むかし日蓮、鎌倉へ始て來り住ける時、此山中に、洞窟あるをすみ家となせり。里人いまだ日蓮の德ある事を知らず。夫ゆへに一飯をも與へず。此時山中の猿ども、群り來りて畠に集り、食物をいとなみ、日蓮へくらじける。日蓮思ふに、山中に山王祠あれば、猿ども我を養ひしは、全く山王の御利生なりとて、其後此山の南に法性寺を建立の時、山號を猿畠山と名附しは、此いはれなりといふ。
[やぶちゃん語注:「くらじける」は、文脈から「くらじ」が「くらず」で食べさせるという意味のザ行四段の他動詞ということになるのであろうが、私は過去に於いてこのような古語動詞を知らない。識者の御教授を乞う。「猿畠山」は「えんはくざん」と読む。]
[隱里]
佐介谷稻荷より北寄なる山際に、大いなる洞窟有て、其中の廣さ四間餘にて、人も栖べき程の窟内ゆへに、隠里とは名附けしものなり。此中より湧出す淸水を、錢洗ひ水といふ。此水は當所五水の其中なり。
辨慶腰掛松 極樂寺門入て、北の方にあり。源廷尉腰越に止められ、鎌倉へ入られざるを忿怒して、此松に腰打掛て、鎌倉をにらみしといふ。
長者窪 大倉瑞泉寺の北に、天臺山と號する峰あり。此山の北の方に、長者窟と名附る所あり。其傳へもしれず。按ずるに、往昔何人か住せし地なるべし。
唐絲土の牢 犬懸谷と釋迦堂谷の間を、南へ越て窪あり。土人唐いとゝいふは、手塚太郎光盛が娘にて、右大將家の營中に仕えけるが、木曾義仲へ内應し、將軍を害せんと謀り、懷中に短刀を持しを、速にあらはれ此土の牢に入置れしといふ。慥なる事はしれず。をのれ其窟中を見るに、古き石塔あまたあり。依ておもふに、是は昔もふけたる營域なり。然るを土人等後世に至り名附しことあきらけし。
岩 窟
[わめき十王の窟并びに朱タルキ窟]
[やぶちゃん注:二枚が連続で描画されているが、両やぐらは全く別の場所にある(勿論、絵師はそれを理解して描いている)。わめき十王窟の図の左上に、
わめき十王の
窟崩れ落て
終に窟中の像
の見ゆるのみ
その左側に有意な間を置いて
朱たるき窟と附す。]
※十王窟 西御門村の山のうへ岩窟の内に、佛像三軀を掘たり。古き物に見へ、中尊は血盆地藏、左の方は如意輪觀音、右の方は閻魔なり。何ゆへに十王の窟といふにや。其像定かに分ちがたし。王冠をいたゞきたるを見て閻魔といふ歟。又※十王と名附し由來しれず。此窟、今は崩れ落て、窟中の佛像かすかに見ゆるのみ。土人の方言に、是等の窟をさして、何々のやぐらと唱ふること、下皆同じ。
[やぶちゃん注:「※」=「口」+「盡」。この「※」の字は、憤る・怒るの意で、「わめく」とは訓じない。現在、本やぐら(というよりも破損したやぐら奥のレリーフ)は「わめき十王岩」と呼称されており、私は植田の「嘯」(わめく)の字の誤りではないかと疑っている。勿論、十王(事実彫られたものがそうであるかどうかは疑義があるが)であるならば、忿怒相で声を立てるなら、「※」とはなろうが、あくまで字訓に拘るなら、「※十王岩」なら「いかり十王岩」である。「血盆地藏」とは聞きなれない地蔵である。「血盆」は目連尊者が見たという血の池地獄に関わって、特に出血に関わる女性について書かれた偽経である「血盆経」のことを指すから、その経に基づいて形象された地蔵像であることを指すか。但し、インターネットの検索では「血盆地蔵」は本「鎌倉攬勝考」のここの引用以外に全く見当たらない。識者の御教授を乞う。因みに現在では、夜になると苦しみ喚く人の声がこの岩辺りから発せられたから、こう呼称すると伝承される。私はその昔、この尾根上の十王岩の前に、晩秋の夜六時、真っ暗闇の中に、ある女性といたことがある。しかし、わめき声は残念ながら聞こえなかった。一般には崖を何層にも亙って穿った間隙の多い百八やぐら群を抜ける風の音がそう聞こえたものではなかったろうか。]
朱たるき窟 東御門村の山中にあり。朱だるきといふ謂れしれず。
[やぶちゃん語注:植田は前項の「嘯き十王岩」(現在はこう呼称表記する)の尾根南面に現存するこの朱垂木やぐらを訪れていないものと思われる。何故なら、現在でも本やぐらの羨道に当たる部分の上面に朱を用いた垂木の彩色して描画が見られ、本やぐら名が実見者ならば誰でも分かるからである。これはこのやぐらは(正確には現在は五穴を総称して「朱垂木やぐら群」と呼ぶ)、やぐらの成立が木造墳墓としての法華堂の代替物・模擬構造(やぐらの発生は執権北条泰時の時代に「御成敗式目」追加令によって狭隘な鎌倉の平地に新たな墳墓建造物の建立を禁じられたて以降と一般には考えられている)であることを証明する代表的なやぐらとして知られ、羨道左右の上端部には御堂と同様に木製の扉を取り付けるための軸部分を嵌め込む矩形の有意な凹みを現認出来る。ところがここではそうした垂木の装飾が一切語られず、更に掲げられている「朱タルキ窟」の図には肝心の羨道の描画がない。加えて言うなら図には、正面に壁面から離れる形で位牌型の物体が二基描かれているが、この二基の位牌様のものはは現在でも現認出来る通り、玄室内部の正面ではなく、向かって左側の壁面に浮彫りにされたものである。即ち、残念ながらこの絵師自身も、少なくとも朱垂木やぐらを現認していないと考えざるを得ない(誰かが描いたスケッチのような見取り図をもとに絵師が描画したと考えられる。幾つかのやぐらに羨道部が欠いているのはそのためと、実測に則して羨道を描いてしまうと内部の細描が出来なくなるためであろう)。因みに、この鎌倉独特の墳墓形態であるやぐらは御府内で現認可能なものが凡そ千数百、埋蔵しているものも加えると有に三千基を越えるものと思われる。]
[法王の窟]
法王の窟 西御門村の北の方なる山にあり。「法王」の字を、窟の入口の上なる岩面に彫附たり。
[やぶちゃん語注:市史記番一三八号穴。現在はこの「法王」の文字は現認出来ないが(昭和三十年前後に出版された鎌倉市教育委員会編のやぐらの冊子でも既に文字は確認出来ない旨の記載があったように記憶している)、比定は容易である。後世に造立された薬師如来坐像が本やぐらの丁度上の頂き部分に据えられているからである。本図でも有意に下が平滑な羨道部が省略されていしまっている。]
[團子窟]
[やぶちゃん注:図の右上に
團子窟
又ハ地藏窟
とも唱ふ
とある。]
團子窟 又は地藏やぐらとも唱ふ。窟中に、岩にて造れる地藏を安ず。
[やぶちゃん語注:覚園寺背後の崖に多層階構造で密集構築されている百八やぐら群の内、メインの崖の二段目中ほどにある、教育委員会記番二号穴と思われる。正面壁面中央に等身大地蔵菩薩坐像が置かれている(但し、これを西北隅にある二十号穴に比定する文献もある)。ここ以外にもやぐらの内部に地蔵が置かれている例はよく見かけるが、その多くが首を欠損している。これは江戸時代、鼠小僧の墓のように、地蔵の首を懐に入れて博打に臨むと負けないという迷信があったためとされる。]
[梵字窟]
[やぶちゃん注:やぐら内の梵字の内(描画が正しいと仮定してだが、ぴったりくるものはどれもなかった)、心もとない推定種字を以下に示す。
正面上段向かって左側 「バーンク」で金剛界大日如来か
正面上段向かって右側 「バン」で 金剛界大日如来か
正面下段向かって左側 「アク」で 釈迦如来か
正面下段向かって右側 「バク」で 釈迦如来か
正面向かって左側上段(?)
正面向かって左側下段 「ヨク」で 普賢菩薩か
正面向かって右側上段(?)
正面向かって右側下段 大悲金剛菩薩か
実際にはこのやぐらの場合(第十七穴とすれば)、左壁の梵字のその左(手前)右(奥)及び右壁のその左(奥)には仏像のレリーフが彫られている。]
[筥窟]
[五輪窟]
梵字窟 筥の窟 五輪窟
右のやぐらは、東御門村の後の山中より西北、鶴が岡の後山迄の山上、又は山腹等にあり。思ふに、皆古への塋域にして、鶴が岡大別當等の墳なるべし。其中にも、「法王」の文字を岩面に彫附たる窟は、別當數十世の内に法親の別當に任ぜらたるもあれば、其人々の古墳にて有べし。此餘山谷にも見へたれど、悉く載るに遑あらず。
[やぶちゃん語注:「梵字窟」梵字を壁面に施したやぐらは数多いが、特に現在俗に「大梵字やぐら」と呼ばれる覚園寺背後の百八やぐら群東下方にあるもの(教育委員会記番第十七号窟)をこれに比定してよいであろう。現在は亀裂と剥落によって損壊が著しい。「筥の窟」は不詳ながら、描画が原風景に忠実であるとすれば、前後が百八やぐら群内のものである以上、百八やぐら群の最上階群の一つではないかと思われる。「五輪窟」五輪塔を壁面に浮彫りしたやぐらは多くみられるので同定は出来ないが、内部の五輪塔のレリーフと図に示された下部の納骨龕等から教育委員会記番八号穴。なお、同四十六号穴には高さ二六七センチ、幅一二〇センチという並はずれて大きな五輪塔が削り出しされており、これは現在、鎌倉期の造立になるものと推定されている。]
鎌倉攬勝考卷之九終