やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ



新編鎌倉志卷之四

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いたが、これには多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせる箇所がある。第三巻より底本データを打ち込みながら、同時に汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した後、部分公開する手法を採っている。校訂ポリシーの詳細についても「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注の最後の部分を参照されたいが、「卷之三」以降、更に若い読者の便を考え、読みの濁音落ちと判断されるものには私の独断で濁点を大幅に追加し、現在、送り仮名とされるルビ・パートは概ね本文ポイント平仮名で出し、影印の訓点では、句読点が総て「。」であるため、書き下し文では私の自由な判断で句読点を変えた。また、本巻より、一般的に送られるはずの送り仮名で誤読の虞れのあるものや脱字・誤字と判断されるものは、( )若しくは(→正字)で補綴するという手法を採り入れた。歴史的仮名遣の誤りは特に指示していないので、万一、御不審の箇所はメールを頂きたい。私のミス・タイプの場合は、御礼御報告の上で訂正する。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。原則、踊り字「〻」は「々」に、踊り字「〱」「〲」は正字に代えた。なお、底本では各項頭の「〇」は有意な太字である。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本・影印では「已」と「巳」の字の一部が誤って印字・植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。
【テクスト化開始:二〇一一年十月三日 作業終了:二〇一一年十月十八日】]

新編鎌倉志卷之四

〇鐵井〔附鐵觀音 鎌倉の十井〕 鐵井クロガネノヰは、雪下ユキノシタ西南の路傍にあり。里人の云く、此の井より鐵觀音をり出したる故に名(づ)くと。今クロガネの井の西ムカフに鐵像の觀音、ヲホきなるクビばかり、小堂に安ず。ドウクヅれて堂内にあり。新淸水寺の觀音と云傳ふ。今按ずるに、此觀音堂の西に巖窟堂イワヤダウあり。【東鑑】に、正嘉二年正月十七日、秋田の城の介泰盛ヤスモリが、甘繩アマナワの宅より火出ヒイデて、壽福寺・新淸水寺・窟堂イワヤダウ若宮ワカミヤの寶藏・同(じ)く別當坊等燒亡すとあり。然らば、此災にかゝりて、土中にありしを掘出ホリイダしたる歟。《鎌倉の十井》鎌倉に十井あり。棟立ムネタテの井・カメが井・甘露カンロの井・クロガネの井・イヅミが井・アフギの井・底拔ソコヌケの井・星月夜ホシヅキヨの井・イシ井・六角ロクカクの井、此を鎌倉の十井と云ふ。
[やぶちゃん注:「イシ井」は現在、一般には「銚子の井」と呼ばれるもので、現在でも古称として「石井の井」と呼ばれることがあるようである。但し、現在の銚子の井と、この「石井」を別物と見る考え方もあるのであるが、「新編鎌倉志卷之七」の「長勝寺」の項に『寺内に岩を切拔たる井あり。鎌倉十井の一なり。故に俗に石井の長勝寺と云ふ』とあり、現在の長勝寺門前から東へ百メートルほどの位置に銚子の井はあり、反対に門前から西に同じくらい入ったところに現在の本堂があるのだから、ここが長勝寺の寺領内でなかったと考える方がおかしい気がするのである。「鎌倉攬勝考」でも、その表記は格助詞「の」を挿まずに、単に「いしゐ」と呼ばれていた可能性を窺がわせる。]

〇志一上人石塔 志一上人の石塔は、鶴が岡の西、町屋のウシロ鶯谷ウグヒスガヤツと云所の山の上にあり。里人云、志一は、筑紫ツクシの人也。ウツタへありて鎌倉に來れり。スデウツタへもタツしけるに、文狀を本國に忘置ワスレヲイて、如何イカヾせんと思はれし時、平生志一につかへしキツネありしが、一夜の中に本國に往き、くるアカツキ、彼の文狀をくわへて歸り、志一に奉り、其まゝ息絶イキタへてしけり。志一ウツタへかなひしかば、則ち彼のキツネ稻荷イナリの神とマツを立つ。坂上サカノウヘの小祠是也。志一は、管領クハンレイ源の基氏モトウヂの他に、上杉家ウヘスギケ、崇敬により、鎌倉に下られけるとなん。【太平記】に、志一上人鎌倉より上て、佐々木佐渡の判官入道道譽ダウヨモトへおはしたり。細川相模守淸氏にたのまれ、將軍を咒詛シユソしけるとあり。
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之九」の「志一上人墓碑」及び私の注を参照されたい。]

〇松源寺 松源寺セウゲンジは、日金山ニチキンサンと號す。銕觀音の西、巖窟堂イハヤダウの山の中壇にあり。本尊は地藏、運慶が作。相傳ふ、賴朝卿、伊豆に配流の時、伊豆の日金にイノつてワレ世にでば必ず地藏を勸請せんとヤクせし故に、こゝにウツすと云ふ。
[やぶちゃん注:「松源寺」は鶴岡八幡宮寺社僧の荼毘所であったと伝えられている。廃仏毀釈令までは存在したことが知られている。この地蔵はその後、各地を転々とした末、昭和初期に横須賀にある東漸寺に安置され、現在に伝わる。地蔵胎内墨書銘によって寛正三(一四六二)年、仏師宗円による造立であることが分かっている。「伊豆日金」は現在の静岡県熱海市伊豆山にある走湯権現日光山東光寺のこと。応神天皇四(二七三)年、松葉仙人の開山と伝えられる古刹で、現在の本尊延命地蔵菩薩像も頼朝の建立とされる。]

〇巖窟不動 巖窟イハヤ不動は、松源寺の西、山の根にあり。巖窟イハヤの中に、石像の不動あり。弘法の作と云ふ。【東鑑】に、文治四年正月一日、佐野サノ太郎基綱モトツナ窟堂イハヤダウの下の宅燒亡。鶴が岡の近所たるに因て、二品〔賴朝。〕宮中燈に參り給ふとあり。此の處の事ならん。此前の道を巖窟小路イハヤコウヂと云ふ。【東鑑】に、大學の助義淸ヨシキヨ甘繩アマナハより、龜谷カメガヤツに入。窟堂イハヤダウの前路を經るとあり。此路筋ミチスヂならん。【東鑑】には、窟堂イハヤダウとあり。《岩井堂》ゾク、或は岩井堂イハヰダウと云ふ。巖窟堂イハヤダウ、今は教圓坊とふ僧のモチ分なり。昔しは等覺院の持分なりけるにや。岩井堂日金事、可被立卵塔之由承候、先以目出候、然者、(自)御万歳夕、至于三會之曉、留慧燈於彼地、可覆慧雲於他界給之條、殊以令庶幾候之間、以彼所、限永代奉避渡候了、兼又同以被申方候之由承候、其段可令存知候也、恐々謹言、應永卅三年七月十七日、等覺院法印御房へ、尊運判とある〔尊運は、今河朝廣イマカハトモヒロの子なり。〕狀あり。又岩井日金事、如來院僧正、任證文、成敗不可有相違候、恐々謹言、五月九日、等學院へ、空然判とある狀あり〔空然は、古河コガの源の政氏マサウヂの子。〕
[やぶちゃん注:「巖窟不動」は現在の窟不動を祀る窟堂いわやどう。現在の小町通りを八幡宮方向へ突っ切り、鉄くろがねの井の手前を扇ヶ谷へ向かう左の小道に折れて窟小路を行くと、横須賀線の踏切の手前にある。
「教圓坊」は「鎌倉攬勝考卷之七」の「巖窟不動尊」では「散圓坊」とし、尚且つ、僧名ではなく小庵名とする。
「等覺院」とは鶴ヶ岡八幡宮寺の十二箇院の内にある等覚院のこと。「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」を参照。
「尊運」は当時の鶴岡八幡宮寺別当(応永二十四(一四一七)年~永享三(一四三一)年在職)。八条上杉朝広の子(本文の「古河」姓については調べ得なかったが、この朝広の実母が今川上総介泰範室であることと関係するか)、扇谷上杉家当主上杉氏定の養子となった。尊運書状は「鎌倉市史 資料編第一」所収の文書第七七号で校訂した。以下に、影印の訓点に従って書き下したものを示す。

岩井堂日金の事。卵塔を立てらるべきの由承り候ふ。先づ以て目出メデタく候ふ。然れば、御万歳夕(べ)より、三會の曉に至(り)て、慧燈を彼の地に留して、慧雲を他界に給ふべきの條、殊に以て庶幾せしめ候ふの間、彼の所を以て、永代を限り避り渡し奉り候ひ了んぬ。兼て又、同(じ)く以て申さるゝ方候ふの由承り候ふ。其の段、存知せしむべき候ふなり。恐々謹言。
   應永卅三年七月十七日
    等覺院法印御房へ
             尊運判

以下、空然書状を影印の訓点に従って書き下したものを示す。

岩井日金の事。如來院の僧正、證文に任(じ)て、成敗相違有るべからず候。恐々謹言。
   五月九日
    學院へ
             空然判

「源政氏」は足利成氏の子で、第二代古河公方。その子である「空然」(「こうねん」と読む)は足利義明(?~天文七(一五三八)年)のこと。若くして法体となり、鶴岡八幡宮若宮別当(文亀三(一五〇三)年~永正七(一五一〇)年在職)にあった。永正の乱で父政氏と兄高基(後の第三代古河公方)の抗争が勃発すると還俗、父兄双方と対立して自ら「小弓公方」を称した。北条氏綱との国府台合戦で戦死。]

◯華光院 華光院ケクハウインは、壽福寺の東向ヒガシムカフなり。本尊は不動。 佐介谷サスケガヤツ稻荷イナリ別當の所居也。ムカシは壽福寺の塔頭タツチウにて、壽福新命入院の時は先づ此院に入て、それより壽福へ入院すと云ふ。營西は、顯密禪ケンミツゼンなる故に、ハジメより眞言宗なり。今は別院となりぬ。

◯上杉定政舊宅 上杉定政ウヘスギサダマサの舊宅は、華光院のマヘを云ふ。今はハタケ也。此の地を扇谷アフギガヤツと云也。【鎌倉九代記】に、上杉ウヘスギ修理の大夫定政サダマサは、享德年中より、扇がヤツに居住すと。スナハち此の所ろなり。又此ハタケを、里人、靈巖レイガンと稱す。昔し寺ありと云ふ。按ずるに、定政サダマサの先祖に、式部の大輔顯定アキサダ、永和六年四月二日に死去、靈巖院と號す。ノチ此人のタメに、靈巖院レイガンインてたる アト。或は享德以前、先祖より此所に居宅有つる歟。未詳(未だ詳(らか)ならず)。定政サダマサは、明應二十年十月五日逝去、五十一歳、法名は大通護國院範了と號す。此所を扇が谷の上杉ウヘスギと云ふ。山の内の上杉ウヘスギと共に兩管領と稱す。兩上杉ウヘスギとも云ふなり。山の内の條下と、テラし見るべし。


[壽福寺圖]


◯壽福寺〔附龜谷 源氏代々屋敷〕 壽福寺ジユフクジは、龜谷山金剛壽福禪寺キコクサンコンガウジユフクゼンジと號す。五山の第三なり。開山は、千光國師榮西、本朝禪宗の鼻祖なり。【元亨釋書】に傳あり。此地を龜谷カメガヤツふ。故に山號とす。源氏山ゲンジヤマモト龜谷山とふ。龜が谷の中央にて、當寺西北なり。扇谷アフギガヤツ梅谷ムメガヤツ泉谷イヅミガヤツなどは、龜谷カメガヤツの内なり。龜が谷サカの條下にツマビラかなり。此の地は、イニシへ源の賴義ヨリヨシ・同義家ヨシイヘ、東國征伐の時、源氏山にノボり〔後の源氏山の條下に詳か也。〕、此地に居住せらる。後に義朝ヨシトモ、爰に居住あり。源氏代々の宅地なり。【東鑑】に、治承四年十月七日、賴朝ヨリトモ卿、故左典廐〔義朝。〕、龜谷カメガヤツの御舊跡を監臨し給ふ。則ち當所をテンじて、御亭をてらるべき由沙汰ありとへども、地形ヒロきにあらず。又岡崎ヲカザキ平四郎義實ヨシザネ、彼の沒後をトフラひたてまつらんが爲に、一つの梵宇をつ。因て其の儀をヤメらる。同五年三月朔日、賴朝ヨリトモ、御母儀の御忌日キニチたるに因て、土屋ツチヤ次郎義淸ヨシキヨ〔岡崎義實第二の子也。〕が龜谷カメガヤツの堂に於て、佛事を修せらる。又正治二年閏二月十二日、尼御臺所アマミダイドコロの御願て、伽藍を建立せんが爲に、土屋ツチヤ次郎義淸が、龜が谷のテンじ出さる。是下野シモツケの國司〔義朝。〕の御舊跡なり。其の恩を報せんが爲に。岡崎義實、兼て草堂つ。同十三日、龜が谷の地を、葉上坊の律師榮西に寄附せらる。淸淨結界の地たるべきの由、ヲホせ下さる。結衆等其の地に行道す。施主監臨し給ふ。義淸ヨシキヨ假屋カリヤカマへ珍膳をマフく。建仁二年二月廿九日、故大僕卿義朝コタイボクケイヨシトモの、沼濱ヌマハマの御舊宅をコボワタし、榮西律師の龜谷寺カメガヤツテラに寄附せらる。此事、當寺建立の最初、其の沙汰りといへども、ワヅかに彼の御記念カタミタメ、幕下將軍、殊に修復せられ、其の破壞、暫く顚倒の儀あるべからざるのヨシサダめらるゝの所に、僕卿ボクケイ尼御臺所アマミダイドコロの夢に入て、シメされて云、ワレ常に沼濱ヌマハマの亭に在て、海邊に漁を極む。これをコボつて寺中に建立しめ、六樂を待んとホツすと。御夢覺ユメサめての後、善信ゼンシンをしてシルさしめ、榮西エウサイツカはさるとあり。元久元年五月十六日、アマ御墓所、金剛壽福寺に於て、御佛事修せらる、祖父母の御追善とあり。今寺領八貫五百文あり。
[やぶちゃん注:「岡崎平四郎義實、彼の沒後を弔たてまつらんが爲に」の「岡崎平四郎義實」(天永三(一一一二)年~正治二(一二〇〇)年)は三浦氏傍流の岡崎氏の祖で三浦義明の弟。いち早く源頼朝の挙兵に参じた古くからの源氏家人。
「彼の沒後」の「彼」は頼朝の父義朝のこと。義実は忠義心が厚く、平治の乱で義朝が敗死した後に、ここ義朝館跡であった亀谷の地に菩提を弔う祠を建立していた。
「賴朝、御母儀の御忌日」頼朝の母(?~保元四(一一五九)年)は本名未詳で、一般に由良姫又は由良御前と呼ばれる。熱田大宮司藤原季範娘、源義朝正室。
「土屋次郎義淸〔岡崎義實第二子也。〕」義実は石橋山の戦いで悲劇の美少年として知られる嫡男佐奈田義忠(彼は父の領地相模国大住郡岡崎(現在の平塚市岡崎)の西方、真田(佐奈田)の地(現在の平塚市真田)を領した)を失っている。
「結衆等其地に行道す」「結衆」は法要などの仏事に集まった供僧衆を言い、「行道」は、列を成して読経しながら本尊や仏堂の周囲を時計回りに巡って供養礼拝することを言う。
「施主」は政子。
「大僕卿」は馬寮めりょうの主官、馬頭の唐名。典厩に同じ。
「沼濱の御舊宅」は鎌倉郡沼浜郷、現在の逗子市沼間にある法勝寺の位置にあった義朝の別邸を指す。
「壞ち渡し」というのは、この旧宅を分解して寿福寺境内に移築したことを言う。
「六樂」とは六根清浄の安寧を言う。義朝の霊は沼浜の別邸の前で漁師が殺生の限りを尽くしているために往生出来ない、故に移築せよ、と言っているのであろう。]
外門 昔は天下古刹と、額有しと也。今はホロびたり。
佛殿 本尊は、釋迦・文殊・普賢なり。釋迦は陳和卿が作なり。俗に是をカゴ釋迦と云ふ。カゴにて作り、ウヘりたるものなり。祖師堂に、達磨・臨濟・百丈・開山の像あり。土地堂に、伽藍神、幷に前住の牌・將軍家の牌どもあり。
[やぶちゃん注:「籠釋迦」は実際には粘土の原型の上に布を貼って作られたものである。]
寺寶
舍利 三粒あり、玉塔に納む。之を松風のタマと號す。積翠菴にあり。相傳ふ、實朝サネトモの所持也と。【東鑑】に、建暦二年六月廿日、實朝將軍、壽福寺に來御し給ふ。方丈ハウヂヤウ、手づから、佛舍利三粒を相傳せしめ給ふとあり。方丈は、榮西也。此舍利を、ノチ又此寺に納むる歟。又建保五年五月廿五日に、壽福寺の長老行勇律師に、年來御所持の牛玉ウシノタマを御布施とせらるとあり。今は無之(之無し)。
[やぶちゃん注:「牛玉」は「牛黄」と書いて「ごおう」と読むのが分かり易い。所謂、牛の胆石(及び他臓器の結石も含む)を陰乾にしたもので、生薬として知られる。濃黄色で骰子状の塊であるのが一般的。法隆寺などで行われる年初の法要である修二会しゅにえでは法会の始めに「牛玉降ごおうおろし」が行われており、堂内にこの牛玉(牛黄)を運び入れるが、これは稀少なる聖的な超自然の呪物としてのその活力で法会の成就を祈るとともに、魔障を祓うものとして機能している。「積翠菴」という塔頭が示されるが、創建当時は塔頭は十四を数えた。江戸時代、寛政二(一七九〇)年に幕命により本山である建長寺に提出された「寿福寺境内絵図」が現在残されているが、そこには広大な境内建築の他、この積翠庵の他に次項に示される桂陰庵と正隆庵・悟本庵の四塔頭が図示されている。但し、これらも明治初期にはすべて廃絶している。最後に掲げられる塔頭を参照。]
十六羅漢の畫像 十六幅 桂陰菴にあり。【東鑑】に、正治二年七月六日、尼御臺所アマミダイドコロ、於京都(京都に於いて)、十六羅漢の像をせらる。佐々木ササキ左衞門の尉定綱サダツナ、是を調進す。今日到來。御拜見の後、葉上房ヨフジヤウバウの寺にヲクタテマツらしめ給ふ。十五日開眼供養、導師は、榮西律師とあり。其の像は燒失して、今存するものは新筆なり。
[やぶちゃん注:「葉上房の寺」で栄西住持の寿福寺を指す。]
涅槃像 壹幅 新筆なり。 千光畫像 壹幅 新筆なり。贊は大明黄檗の隠元作。
   已 上
開山塔 逍遙菴と號す。今は菴なし。塔は積翠菴に屬す。法雨塔と額あり。開山の木像を安ず。【東鑑】に、建保三年六月五日、壽福寺の長老葉上ヨフジヤウ僧正榮西エウサイ入滅。痢病に依て也。結縁と稱し、鎌倉中の諸人羣集す。遠江守〔親廣。〕將軍家の御使ヲンツカイとして、終焉ミギりにノゾむと有。又【元亨釋書】には、建保三年、榮西、相州に在。一日、源僕射實朝サネトモを辭す。實朝の云く、師已にひたり。寺未成(テラ未だ成らず)。何事にかくや。コタへて云く、ワレ王城に入てメツを取んと欲するのみ。駕に命して、京師に歸り、微疾を示す。建仁寺に於て、に坐し、安靜にして逝す。實に七月五日なり。年七十五とあり。今按ずるに、【東鑑】とはコトなり。然れども、京・鎌倉の諸寺、ムカシより七月五日を示寂の日とす。しからば、【釋書】を以て正とすべし。又如實妙觀ニヨジツメウクハンと書たる牌あり。二位のアマ平の政子マサコの牌なり。【東鑑脱漏】に、嘉祿元年七月十一日、二位家薨御し給ふ。六十九。是れ前の大將軍の後室、二代將軍の母儀也。同く十二日イヌの刻、御堂の御所の地にて火葬しタテマツるとあり。壽福寺の檀那なるゆへ爰に位牌あり。【日件録】に、鎌倉の右兵衞の佐の夫人は、時政トキマサムスメ也。コトフキ百十歳にて卒すと有。【東鑑】に六十九とあるを正とすべし。
[やぶちゃん注:「莅む」は「臨む」と同義。「僕射」は左大臣及び右大臣の唐名。実朝は右大臣であった。「日件録」とは「 臥雲日件録がうんじっけんろく」で、室町中期の京の相国寺(臨済宗)の僧瑞渓周鳳(元中八・明徳二(一三九二)年~文明五(一四七三)年)の日記である。]
鐘樓 昔し、いぼなしガネふ名鐘あり。開山の時、ソウよりワタせりと云ツタへたり。小田原陣ヲタハラヂンウバつて鐵砲の玉にたりと云ふ。今有るカネは新き鐘なり。銘あり。如左(左のごとし)。
  龜谷山壽福禪寺鐘銘
南瞻部州、蜻蜒國、相州路、鎌倉府、龜谷山、壽福金剛禪寺、全盛初、雖華鐘鵬鷃維夥矣、遭奪亂世凶賊、鯨音啞歳尚矣、今也、有積翠菴檀越信士姓者藍田、字剛仲、諱宗堅、宗堅、生涯發弘誓、鑄一小鐘、欲準擬華鯨峯舊時大備、而未果、洎逝去遺言於孝子、投資財、鎔鑄梵鐘、以預伸三十三回忌供養、且夫佛世梵王設祇桓金鐘亦不讓焉、豫感白業之丹悃、不揆鄙拙、叨爲銘曰、東海日域、南宗津梁、龜谷法苑、鷲峯餘香、呼革凡地、擬選佛場、拈華三佛、積翠千光、成道鹿野、興禪扶桑、快施法雨、永控※異方、假岐伯手、依鳧氏良、槖籥更〻奪、模範相張、華鐘再鑄、蒲牢全彰、聖界通響、人間息狂、疑閣皂氣、鳴豐山霜、破塵勞夢、存梵宮常、檀越植德、善縁無疆、眞靈解脱、子孫殷昌、宓回功勣、上製大章、蒼生歡娯、天下安康、旹慶安四載、歳舍辛卯、季春日、守墖勸縁比丘僧宣、助縁耆舊僧有帠、掌財僧慧禎、檀那、藍田彌九郎、冶工、武州江戸住宇多川甚右衞門藤原親次、見建長仁叟碩寛誌旃。
[やぶちゃん注:「※」=「涅」-「曰」+(「茲」から2画目と3画目の縱画を除去したもの)。以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  龜谷山壽福禪寺の鐘の銘
南瞻部州、蜻蜒國、相州路、鎌倉府、龜谷山、壽福金剛禪寺、全盛の初め、華鐘鵬鷃、れ夥しと雖へども、亂世の凶賊に奪はれて、鯨音啞すること、歳、尚し。今、積翠菴有り、檀越信士、姓は藍田アイタ、字は剛仲、諱は宗堅ムネカタと云ふもの、宗堅、生涯弘誓を發し、一小鐘を鑄て、華鯨峯の舊時、大(い)に備(は)れるに準擬せんと欲して、未だ果さず。逝去するに洎(り)て孝子に遺言し、資財を投じて、梵鐘を鎔鑄して、以(て)預め三十三回忌の供養を伸ぶ。且(つ)夫れ、佛世に梵王、祇桓の金鐘を設けしにも亦、讓らず。白業の丹悃を豫感して、鄙拙を揆らず、叨(り)に銘爲て曰(く)、東海の日域、南宗の津梁、龜谷の法苑、鷲峯の餘香、凡地を呼び革めて、選佛場に擬す。拈華の三佛、積翠の千光。道を鹿野に成し、禪を扶桑に興す。快(よ)く法雨を施し、永く異方を※す。岐伯が手を假り、鳧氏の良に依る。槖籥、更〻奪ひ、模範、相張る。華鐘、再び鑄て、蒲牢、全く彰はる。聖界、響を通し、人間、狂を息む。疑閣皂氣、豐山の霜に鳴り、塵勞の夢を破(り)て、梵宮の常を存す。檀越、德を植(え)て、善縁、疆り無し。眞靈解脱、子孫殷昌、宓回功勣、上製大章、蒼生歡娯、天下安康、旹に慶安四載、歳辛卯に舍る。季春の日、守墖、勸縁の比丘僧宣、助縁耆舊の僧有帠、掌財の僧慧禎、檀那、藍田彌九郎、冶工、武州江戸住宇多川甚右衞門藤原親次、見建長仁叟碩寛誌旃(旃を誌す)。
「洎(り)て」は「いたりて」(至りて)、「揆らず」は「はからず」(計らず)、「叨(り)に」は「みだりに」、「革めて」は「あらためて」、「疆り」は「かぎり」(限り)、「旹に」は「ときに」(時に)と訓じた。
「※す」は読みも「異方を※す」全体の意味も不詳。識者の御教授を乞う。
「蜻蜒國」「蜻蜒」は音「セイエン」和語では「やんま」「とんぼ」と訓ずるが、ここは「蜻蜒國
」で恐らく「あきつしま」訓じているものと思われる。
鵬鷃」は「ほうあん」と読んで、大小の意。
「華鯨、峯の舊時、大いに備はれるに準擬せんと欲して」の「華鯨」は梵鐘、「峯」は亀谷「山」寿福寺を指し、「舊時」はその建立当時の謂いか。即ち、『梵鐘が亀谷山寿福寺の創建当時は、しっかりと据えられていた。それに劣らぬような立派な洪鐘を再建しようと思い』の謂いであろう。
祇桓」は「祇園」と同音同義。祇」は「祇陀」。古代インドの太子の名で、「桓」「園」は林の意。彼は所有したその林を釈迦に献じた。
白業の丹悃」「白業」は「びやくごふ」で善行、「丹悃」は「丹懇」とも書いて「たんこん」、真心のことであるから、全体で善根の意であろう。
「鄙拙」「卑拙」とも書き、洗練されておらず、武骨なこと。
岐伯」は「ぎはく」。伝説上の黄帝の侍医。この場合、彼の煉丹術的技術のことを言うのであろう。
「鳧氏」は「ふし」。中国神話では鐘は鳧氏が作った。

「槖籥」は「たくやく」と読み、「槖」は ふいごの外箱、「籥」はその送風管で、鍛冶屋の鞴のこと。
「更〻」は「こもごも」と読んでいると思われる。
「疑閣皂氣」の「皂氣」は「きふき(きゅうき)]又は「ひよくき」と読むと思われるが、「疑閣皂氣」全体の意味は不明。識者の御教授を乞う。
「宓回功勣」は「ひつくわいこうせき」で「功勣」は「功績」と同義と思われるが、「宓回功勣」全体の意味は不明。識者の御教授を乞う。
「蒼生」蒼氓。民ぐさ。
「墖」は「塔」と同音同義。
「耆舊」は「ききう(ききゅう)」と読み、「耆」は六十歳の意で、年寄り・老人のこと。
「有帠」は「いうげい(ゆうげい)」と読むか。
「見建長」の「見」は如何なる用法か不詳。識者の御教授を乞う。
「旃を誌す」の「旃」は本来、幡指物を言うが、ここはこの鐘銘のことを言うのであろう。]
畫窟ヱカキヤグラ 開山塔のウシロの方、山の根にあり。俗にゑかきやぐらと云ふ。岩窟を一丈四方ほどにほり、内に牡丹ボタンからくさを、胡粉ゴフンにてアツげて彩色したり。窟中に石塔あり。實朝サネトモの塔と云傳ふ。【東鑑】には、實朝サネトモを、勝長壽院のカタハラハウムるとあり。後人實朝のタメコレツクりたるか。今按ずるに、當寺の開山幷に二世行勇和尚、共に實朝の歸依僧也。又平の政子マサコ、共に二師を信仰せられ、行男を戒師として、實朝薨去の後、アマになりタマひければ、實朝の塔、此の寺に有事は、此の縁なるべし。
歸雲洞キウントウ 寺の西南の山にあり。
石切山イシキリヤマ 歸雲洞の南なり。山下は石切場なり。【東鑑】に、龜が谷の石切谷イシキリガヤツとあり。
望夫石モウフセキ 石切山の上にあり。畠山ハタケヤマの六郎重保シゲヤス、由比の濱にて戰死す。其婦此山にノボり、ノゾみ見て戀死にす。終にイシと化すと云傳ふ。重保シゲヤス戰死の事、後の重保が石塔の下に記す。按ずるに、望夫石と云もの、異國にも又本朝にも、西國邊の海岸に往々にあり。程伊川の云、望夫石は、只是江山をノゾんで、石人のカタチの如くなるものあり。今天下凡そ江邊に石のてる者あれば、皆むで望夫石とす。爰にあるものも此類なり。
[やぶちゃん注: 寿福寺の西南の奥の山は現在は観音山と呼称している。伝承ではここに観音が祀られていたとも言われるのだが、私はこれはこの望夫石を観音に見立てたものではあるまいかと考えている。かつてはこの山頂に直径五メートル程の岩が由比ガ浜方向に突き出ていたが地震で崩れたと伝えられる。現在は現認不能である。「程伊川」は北宋の儒学者程頤(ていい 一〇三三年~一一〇七年)のこと。伊川先生と称された。朱子学や陽明学を生み出した遡源の一人。この鋭い観察に基づく見解は美事である。]
觀音堂の跡 石切山の東の方半腹にあり。今は堂なし。【元亨釋書】に、宋の佛源禪師、禪興寺に住する時、夢に觀音大士告て曰、逢強則止れと(強に逢ふ時は則(ち)トヾマれ)。後十年にして、建長寺より龜谷山に移る。ガクを見れば金剛の字あり。始て聖讖セイシンアキラむ。則ち西南の一巖をウガつて壽塔をハジめ、補陀フダの像をキザんで指方にムクふとあるは、此觀音堂ならん。
[やぶちゃん注:「大士」は菩薩と同義。「讖」は予言。「補陀」は補陀大士(補陀落山に住む菩薩)で、観世音菩薩の異称。]
桂陰菴 覺知禪師、諱は希一、號月山(月山と號す)。嗣法玉山(玉山に嗣法す)。貞治五年六月十三日寂す。木像あり。
正隆菴 靈光輝禪師、諱は慧堪、號大用(大用と號す)。嗣法佛光(佛光に嗣法す)。
悟本菴 佛智圓應禪師、諱は巧安、號嶮崖(嶮崖と號す)。嗣法佛源(佛源に嗣法す)。元德三年七月廿三日寂す。
積翠菴 遍照禪師、諱は慧雲、號寒潭(寒潭と號す)。嗣法雲叟(雲叟に嗣法す)。千光五世の法孫也。
  右の四院今尚存す。
松鵠菴 宏光禪師、諱は上照、號寂菴(寂菴と號す)。千光四世の法孫也。
桂光菴 覺照禪師、諱は德瓊、號林叟(林叟と號す)。嗣法大覺(大覺に嗣法す)。
大澤菴 象光和尚、諱は文峯、嗣法桃溪(桃溪に嗣法す)。
定光菴 廣覺禪師、諱は文巧、號大拙(大拙と號す)。嗣法象外(象外に嗣法す)。桃溪の法孫ナリ
聯燈菴 足菴和尚、諱は祖麟、嗣法桑田(桑田に嗣法す)。大覺の法孫ナリ
松月菴 起宗和尚、諱は宗冑、寂菴の法孫也。
雲龍菴 謙叟和尚、諱は宗禮、嗣法物外(物外に嗣法す)。
大秀菴 大林和尚、諱は秀茂。
桂昌菴 海岐和尚、諱は充東、嗣法咲雲(咲雲に嗣法す)。
[やぶちゃん注:「咲雲」は「せううん(しょううん)」と読む。]
瑞龍菴 益仲和尚、諱は禪三、嗣法瑞雲(瑞雲に嗣法す)。千光七世の法孫也。
龍興山乾德寺 開山覺知禪師、嗣法玉山(玉山に嗣法す)。
 右の塔頭【關東五山記】に有とへども、今頽破せり。


[英勝寺圖〔以右爲前〕]




[やぶちゃん注:読図に供するために上記画像を倒立させて以下に示す。則ち、下を以て前と為す、である。]



○英勝寺〔附太田道灌舊跡〕 英勝寺エイシヤウジは、壽福寺の北隣也。東光山と號す。太田ヲホタ氏英勝院禪尼、ミヅカら菩提の爲に、念佛道場を此の地に創め、水戸ミト中納言源の賴房卿の息女を薙染せしめ、開山住持とす。此の地はモト 太田道灌ヲホタダウクハンの舊宅なり。寺領三浦池子村イケゴムラにて四百二十石を附す。
[やぶちゃん注:「太田氏英勝院禪尼」について以下に述べる。天正十八(一五九〇)年に江戸城に入った徳川家康は名家出身の者を集め、側室として太田道灌の子孫で太田家当代当主太田重正妹のお八という十三歳の娘をお梶と改めて迎えた。慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いに於いて彼女を同行させて勝利を収めたことから家康から梶を勝と改めるよう命ぜられ、以後、お勝の方(局)と呼ばれるようになった。後、水戸徳川家始祖となる徳川頼房の養母となり、家康の死後、英勝院と号し、水戸徳川家・二代将軍秀忠・三代将軍家光から深い敬愛を受けた。寛永十一(一六三四)年、英勝院は鎌倉扇ヶ谷の旧上杉管領屋敷前に先祖太田道灌の屋敷跡があると聞き、家光に菩提寺建立を請願、寛永十三(一六三六)年に英勝寺を創建、初代住持として徳川頼房娘小良姫、改め玉峰清因を迎えた(仏殿はその時作られたもの、後掲の棟札の項及び私の注を参照)。英勝院は寛永十九(一六四二)年死去し、英勝寺裏山に葬られた。法号英勝院長誉清春。現存する墓は頼房の子、本「新編鎌倉志」作者徳川光圀の建立になるものである(以上の英勝院の事蹟は英勝寺準公式サイトと思われる「山門復興事業」のページの「開基 英勝院(お勝の方)について」を参照した)。
「中納言源の賴房卿」徳川頼房(慶長八(一六〇三)年~寛文元(一六六一)年)のこと。徳川家康十一男で常陸水戸藩初代藩主・水戸徳川家始祖。松平頼重及び徳川光圀の父である。]
總門 額は、東光山。曼殊院良恕法親王の筆也。裏書に、寛永二十年四月二日、無障金剛二品親王良恕書之(之を書す)とあり。
山門 額は、英勝寺。後水尾帝の宸筆なり。裏書に、寛永二十一年甲申キノヘサルの年八月日、臨寫之(之を臨寫す)とあり。
[やぶちゃん注:底本では以下、棟札の全体が二字下げ。]
  棟 札
奉敬立、相州英勝寺山門、從四位下侍從源賴重朝臣、寛永二十癸未歳八月十六日。
[やぶちゃん注:以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  棟 札
敬立し奉る 相州英勝寺の山門 從四位下侍從源の賴重朝臣 寛永二十癸未ミヅノトヒツジの歳八月十六日
「源の賴重」は松平頼重(元和八(一六二二)年~元禄八(一六九五)年)。常陸下館藩主・讃岐高松藩初代藩主。彼は水戸徳川家の祖徳川頼房の長子で、母は徳川光圀と同じ家臣の谷重則娘であった。ところが彼は兄の尾張・紀伊徳川家に嫡男が生まれる前の子であったがため、秘密裏に堕胎されようとしたところを、頼房の養母であった英勝院のはからいによって生を受けたと伝えられている。頼重は京都天龍寺塔頭慈済院で育てられて出家するはずであったが、英勝院が将軍家光に拝謁させ、寛永十六(一六三九)年に常陸国下館五万石の大名となり、寛永十九年には讃岐高松十二万石城主となった。その八月二十一日に英勝院が逝去、翌年の一周忌に頼房及び子の光圀や頼重らが英勝寺を訪ねている(その直前に棟札にある通り、頼重の手で山門造営が行われていることが分かる)。同母から生まれながら水戸徳川家を継いだ弟光圀は、自分の後継者として頼重の子を迎え、以後、水戸徳川家藩主は光圀の子孫ではなく頼重の子孫が継ぐこととなった。従って、この「英勝寺」の項には光圀の深い思い入れがあることは推測に難くなく、上に掲げた英勝寺境内図のタッチも他に比して細密である(以上の松平頼重の事蹟も、先に示した「山門復興事業」のページの「開基 英勝院(お勝の方)について」(ブラウザのページ・タイトルは「英勝院と松平頼重」)を参照した)]
佛殿 額は、寶珠殿。良恕法親王の筆。本尊、阿彌陀、運慶が作。左右に、善導・法然の像あり。
[やぶちゃん注:底本では以下、棟札から梁牌銘までの全体が二字下げ。]
  棟 札
上棟、相模の國鎌倉扇谷英勝寺、寛永十二、柔兆困敦、十一月二十三日、太田禪尼英勝院長譽淸春建、住持玉峯淸因、二品親王良純書之。
[やぶちゃん注:以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  棟 札
上棟 相模國鎌倉扇谷英勝寺 寛永十二 柔兆困敦 十一月二十三日 太田禪尼英勝院長譽淸春つ 住持玉峯淸因 二品親王良純之を書す
「柔兆困敦」は年干支の別称で「柔兆困敦」の「柔兆」は十干の「丙」、「困敦」は「こんとん」又は「こんどん」と読み、十二支の「子」のこと。丙子で「ひのえね」。しかし寛永十二(一六三五)年の干支は乙亥で合わない。丙子なのは翌寛永十三年であるから、原筆者か書写者の誤りと思われる。]
  梁牌銘
寺名英勝、山號東光、煩惱利劔、苦海慈航、寛永二十年八月日、正三位權中納言源朝臣賴房立〔左方。〕。惟玆檀越、新開道場、晨誦夜讀、云祈久長、住持玉峯淸因〔右方。〕。
[やぶちゃん注:以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  梁牌の銘
《左方》
寺を英勝と名づけ、山を東光と號す。煩惱の利劔、苦海の慈航。寛永二十年八月日 正三位權中納言源の朝臣賴房立。
《右方》
惟れ玆の檀越、新(た)に道場を開く。晨に誦し夜はに讀(み)て、云(ふ)に久長を祈る。住持玉峯淸因。]
鐘樓 門を入れば右にあり。鐘の銘あり。
[やぶちゃん注:底本では以下、棟札から梁牌銘までの全体が二字下げ。]
  相陽鎌倉英勝寺鐘銘
扇谷靈區、英勝精廬、巧鑄法器、新脱鞴模、華樓直架、蒲牢高呼、聲來耳往、外圓中虚、漁嵐成曉、湘烟向晡、邊滿忍界、透徹迷盧、梵唄無倦、德音不孤、令聞千歳、日居月諸、寛永二十年五月吉日、法印道春撰、冶工大河四郎左衞門吉忠。
[やぶちゃん注:以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  相陽鎌倉英勝寺鐘の銘
扇谷の靈區、英勝の精廬、巧(み)に法器を鑄る。新に鞴模を脱す。華樓、直(ち)に架し、蒲牢、高く呼ぶ。聲、來り、耳、徃く。外、圓かに、中、虚し。漁嵐、曉を成し、湘烟、晡に向ふ。忍界に遍滿し、迷廬に透徹す。梵唄、倦むこと無く、德音、孤ならず。令聞千歳。日居月諸 寛永二十年 五月吉日 法印道春撰す 冶工大河四郎左衞門吉忠
「相陽」は鎌倉の別称。「鞴模」は不詳。鞴で熱した鋳型から割れることなく首尾よく鐘が脱け出たことをいうか。「晡」は「ほ」で、「曉」の対語、夕方。「令聞千歳」は「千歳に聞かしめん」と読ませるか。「日居月諸」の「居」「諸」は句末に置いて語調を整える助字で、一般には「日や月や」と訓じ、以下のクレジットの発語の謂いである。]
方丈 佛殿より西にあり。地形一段高し。
寺寶
阿彌陀經 壹部 伏見帝の宸筆。
天神の名號 壹幅 後陽成帝の宸筆。
天神の畫像 壹幅 小野の於通ヲツウが畫贊。贊は假名カナ文字なり。
[やぶちゃん注:「小野於通」は生没年不詳の戦国末から江戸初期に生きた女性で、詩歌や琴・書画に秀でた。初期浄瑠璃「十二段草子」の作者とされたりもしたが、その出自や経歴については諸説紛々の謎の女である。]
兩界曼荼羅 壹幅 弘法の筆。
阿彌陀の畫像 壹幅 慧心の筆。
三尊阿彌陀の畫像 壹幅 慧心の筆。
金泥の曼荼羅 壹幅 慧心の筆。
二十五の菩薩の畫像 壹幅 慧心の筆。
稱讚淨土經 壹部 當麻の中將姫の筆。
[やぶちゃん注:「當麻中將姫」は天平時代、尼となって当麻寺(奈良県北葛城郡)に入り、信心した阿弥陀如来と観音菩薩の助力で一夜にして蓮糸で当麻曼荼羅(観無量寿経曼荼羅)を織り上げたと伝えられる伝説上の女性。]
繡の梵字の三尊 壹幅 當麻の中將姫造る。
源空自畫の像 壹幅
同證文の裏書 壹幅 本願寺第七世眞譽の筆。
西明寺圓測の仁王經の疏 壹部
大字の繪名號 壹幅 或人の云、弘法の筆。
法華經 壹部一軸 菅丞相の筆。經の長さ八寸二分半。後陽成帝の宸筆の添狀あり。
阿彌陀の名號 壹幅 増上寺觀智國師の筆。
短尺 壹牧 觀智圖國師の筆。
阿彌陀の小佛像 壹軀 廚子に入。毗須羯摩が作と云傳ふ。
[やぶちゃん注:「毗須羯摩」は「びしゆかつま」と読み、帝釈天の弟子とされ、仏師の祖とも言われる伝説上の人物。]
舍利塔 壹基
英勝寺記 壹軸 羅山林道春撰す。其の文如左(左の如し)。
[やぶちゃん注:以下、「英勝寺記」は底本では全体が二字下げ。]
相州鎌倉扇谷、東光山英勝寺者、太田禪尼所剏建也、三面倚山、岩高林茂、佛殿東向、谷深水淸、由比之濱、富士之峯、泉之谷、巨福之山、其餘登臨之秀麗、氣象多景、接于滿目、心境相通、則己身安養、自性淨土也、吾聞浮屠説、昔者、妙喜國月上轉輪王妃、殊勝妙顏、生憍尸迦、即王位、後詣世自在王佛處、發意出家號法藏此丘、歴劫正覺、立淨域于西方、即是阿彌陀佛也、釋尊出世、爲韋提希夫人、説此佛功德、示其觀相、夫人聞而觀喜、與五百侍女、即見極樂世界、一念至信、皆往生彼土、今禪尼、開念佛三昧之道場、非獨乘其他力本願而已、欲使諸善男女有信念者、悉皆往生、其功德不易測也、禪尼、自少事東照大權現、恭勤不怠、寵遇甚渥、嘗應命奉養黄門賴房卿、黄門以之爲慈母、其恩義親愛之深、人皆稱之、禪尼、復奉黄門之令愛以養之、使追阿潘之迹、而住持此寺、嗚呼、殊勝妙顏者、如來之慈母也、韋提希者、淨土之願主也、然則禪尼、與殊勝妙顏、韋提希、異世同志、誠可喜也、其芳聲傳于後代、與道場永無絶矣、至若安養不遠、如來現迎、而心境相通、身土不二、則亦可以見殊勝妙顏韋提希于今日歟、住持、戒諱淸因、道號玉峯、禪尼、源姓、太田氏、法諱淸春、雅號長譽、其院曰英勝、故號寺、寛永十三年仲冬二十三日、寺既成矣、事達台聽、翌年臘月下浣、吉辰、賜相州三浦郡池子村若干戸施入于寺、且免寺地税並篁畝、禪尼拜命之忝、感戴有餘、黄門亦共動喜色、欲令此盛擧垂于無窮、於是請余載其事、因書以應焉、寛永十五年春二月十八日、民部卿法印道春謹記、
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。
相州・鎌倉・扇が谷・東光山英勝寺は、太田ヲホタ禪尼の剏建せし所なり。三面山に倚(り)て、岩高く林茂し。佛殿東に向ひ、谷深く水淸し。由比のハマ、富士の峯、イヅミヤツ巨福コフクの山、其の餘登臨の秀麗、氣象多景、滿目に接す。心境相通なる時は、則(ち)己身の安養、自性の淨土なり。吾浮屠の説を聞けり、『昔者ムカシ、妙喜國の月上轉輪王の妃、殊勝妙顏、憍尸迦を生めり。王位に即(し)て、後、世自在王佛の處に詣で、發意出家して法藏此丘と號す。劫を歴て正覺して、淨域を西方に立つ。即ち是れ阿彌陀佛なり。釋尊出世して、韋提希夫人の爲に、此の佛の功德を説(き)て、其の觀相を示す。夫人聞(き)て觀喜して、五百の侍女と、即ち極樂世界を見、一念至信、皆、彼の土に往生す。』(と。)今、禪尼、念佛三昧の道場を開く。獨り其の他力の本願に乘するのみに非ず、諸(々)の善男女の信念有る者をして、悉(く)皆、往生せしめんと欲す。其の功德、測り易かざるなり。禪尼、少かりしより東照大權現に事ふ。恭勤にして怠らず、寵遇甚だ渥し。嘗て命に應(じ)て黄門賴房卿を奉養す。黄門之を以て慈母と爲す。其の恩義親愛の深き、人皆之を稱す。禪尼、復た黄門の令愛を奉じて以て之を養ひ、阿潘の迹を追(ひ)て、此の寺に住持せしむ。嗚呼、殊勝妙顏は、如來の慈母なり。韋提希は、淨土の願主なり。然る時は則(ち)禪尼、殊勝妙顏と韋提希(と)、異世同志。誠に喜ぶべきなり。其の芳聲、後代に傳(へ)て、道場と永く絶(ゆ)ること無けん。至若シカノミナラず安養遠(か)らず、如來現迎して、心境相通じ、身土不二なる時は、則(ち)亦、以(て)殊勝妙顏韋提希を今日に見つべきか。住持、戒諱は淸因、道號は玉峯、禪尼、ミナモトの姓、太田ヲホタの氏、法諱は淸春、雅號は長譽、其の院を英勝と曰ふ。故に寺に號す。寛永十三年、仲冬二十三日、寺既に成んぬ。事、台聽に達す。翌年、臘月下浣、吉辰、相州三浦郡池子村イケコムラ若干戸を賜(ひ)て寺に施入し、且(つ)寺地税幷篁畝を免ず。禪尼、命の忝きを拜して、感戴餘り有(り)、黄門(も)亦、共に喜色を動じ、此の盛擧をして無窮に垂れしめんと欲(し)、是に於て余に請(ひ)て其の事を載せしむ。因(り)て書して以て應ず。寛永十五年春二月十八日 民部卿法印道春謹(み)て記す
「憍尸迦」「けうしか(きょうしか)」と読み、「涅槃経」や「大智度論」に帝釈天が人間であった頃の名とする。「黄門賴房卿」本邦では中納言の唐名を「黄門侍郎」略して「黄門」と呼称した。頼房は寛永三(一六二六)年に従三位権中納言に叙せられている。少なくとも光圀の父も水戸黄門と呼称されていたことが、この鐘銘で明らかになる。
「阿潘の迹」は何らかの中国の故事に基づくものと思われるが、不詳。識者の御教授を乞う。
「仲冬」は十一月の、「臘月」は十二月の異称。
「吉辰」は吉日の意。
「篁畝」は「くわうほ(こうほ)」で寺領地としての竹林と耕地の謂いか。]
 已 上


[石盤の八卦はつか四象の図]

[やぶちゃん注:右から左へ「震」「離」「兌」「坎」の卦である。]
石盤 方丈の前にあり。澤菴彭銘を作る。其文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:底本では上記の白抜きの大きな卦の下段に銘が書かれている。]

星拱北兮水朝東、前風動兮物相從、後山靜兮人止衷、一根淸兮諸根融、以漱石兮足潔躬、

一陰生兮暗蒼穹、梅雨連兮客維※、江雲迷兮暮擁蓬、掛其象兮在午宮、石爲陽兮水湛中、
[やぶちゃん注:「※」=「舟」+「同」。]

惟時秋兮山染楓、二陽沈兮一陰汎、上貯水兮奪化工、金風拂兮雲盡空、寒月涵兮影如弓、

悳不孤兮物盡蒙、一得五兮其數充、此源深兮此流豐、水游至兮繞崆峒、朔方化兮于茲隆、
[やぶちゃん注:私は残念ながら実見したことはないが、この石盤は現存するようである。個人の英勝寺での御茶会のブログ記載の中に、書院の白雲軒に繋がる茶庭の腰掛けの傍らに蹲踞つくばいがあり、それは沢庵禅師所縁の石水盤あった、とある。以下、影印の訓点に従って書き下したものを示しつつ、それぞれに■で私の注を付した。それぞれの卦象は複数の八卦解説サイトを参考にして私が書いたものであるが、勿論、私は易の勉強などしていない野狐禪ならぬ野狐易であるから、とんでもない誤注であるかも知れない。心して読まれよ。


星は北に拱し、水は東に朝す。前風、動(き)て、物、相ひ從ふ。後山、靜にして、人、衷に止(ま)る。一根、淸して、諸根、融す。以て石に漱(ぎ)て躬を潔するに足れり。
■「☳」は八卦の「震」。方位は東。原義は最も下(初め)に一陽が生じ、限りなく前進する様を示し、まず雷に象徴され、肉体では足・肝臓・聴覚・神経・代謝、動物では龍・馬、人では長男・青年、現象としては迎春・始動・蠢動・驚愕・憤怒などをシンボライズするとされる。「拱」は「こめぬく」とは読まずに音で「キヨウ」と読み、巡る、取り巻くの意であろう。「衷」は中・内の意。


一陰生じて、蒼穹暗し。梅雨連(り)て、客、※に維ぐ。江雲迷(ひ)て暮に蓬を擁す。其の象を掛(け)て、午宮に在(り)。石、陽と爲りて、水、中に湛(ふ)。
■「☲」は八卦の「離」。方位は南(句中の「午」に当たる)。原義は、見た目は明るくとも中は暗く、二つの対象(陽)が一つ(陰)を挟んで向かい合う様を示し、まず火に象徴され、肉体では目・心臓・顏・乳房、動物では孔雀・雉・亀・蟹、人では美人・成人女性・文士・芸術家、現象としては華麗・対立・別離・離散・紛争などをシンボライズするとされる。「※」=「舟」+「同」であるが、「廣漢和辭典」には載らない。これは私の推理であるが、実際には「舸」の誤字か誤植ではなかろうか。「舸」ならば舟・大船の意であるからである。英勝寺の茶会などでご覧になられた方など、よろしければ御教授を乞うものである。「維く」は「つなぐ」(繋ぐ)と訓じているものと思われる。


惟れ時、秋にして、山、楓を染む。二陽、沈(み)て、一陰、汎ぶ。上、水を貯へて、化工を奪ふ。金風、拂(ひ)て、雲、盡く空し。寒月、涵して、影、弓のごとし。
■「☱」は八卦の。方位は西。まず沢に象徴され、肉体では口・歯・肺・女性生殖器、動物では羊・猫・豹・小鳥・川魚、人では少女・遊女、現象ではせせらぎ・さえずり・悦び・不注意・挫折・誘惑などをシンボライズするとされる。「二陽、沈(み)て、一陰、汎ぶ」の「汎ぶ」は「うかぶ」(浮かぶ)と読んで、この「兌」の原義、旺盛な二つの陽気が陰気を軟化させて穏やかにさせること、を言う。「涵して」は、沈む・ひたるの意であるが、次に「影、弓のごとし」とあるから、これは新月が水面に映る様を言っていよう。


悳、孤ならず、物、盡く蒙る。一、五を得て、其の數、充てり。此の源、深(に)して、此の流、豐なり。水、游に至(り)て、崆峒を繞る。朔方の化、茲に于て隆なり。
■「☵」は八卦のかん。方位は北。原義は内剛外柔、万物を水が潤す様を示し、まず水に象徴される。肉体では耳・腎臓、動物では豕(豚)・魚、人では中年男性・重病人・色情狂・思想家・学者、現象としては秘密・姦計・冷静・法律・薄命などをシンボライズするとされる。因みに八卦の中では最も困難な状況を覚悟せねばならない難卦とされるが、ここでは本来の水の浄化力と強い気が寧ろ讃えられているものと思われる。「悳」は「トク」と読み、「德」の本字。「崆峒」は「こうどう」で崆峒山のこと。現在は道教の発祥地として甘粛省にある崆峒山が比定されているが、本来は伝説上の神山である。ここもそう読もう。「于て」は「おいて」(於て)と読む。]

英勝院太夫人の墓幷に祠堂 佛殿の西にあり、基の後のイハに三尊を彫刻す。石碑のヲモテには、英勝院長譽淸春とあり。ウラには墓誌あり。弘文院林恕撰す。其文如左(左のごとし)。
太夫人、源姓、太田氏、諱勝、父曰康資、母藤氏、遠山丹波守直景女也、太夫人、笄歳始事東照大神君、侍枕席被恩寵、誕一女早夭、神君、愍其無賴、命水戸侯賴房爲其准母、神君、薨後薙髮爲尼、號英勝院、時々拜謁台德公、逮大猷公治世、眷遇特加、常侍營中談舊事、寛永十一年六月、賜鎌倉扇谷數百弓地、建淨刹號英勝寺、奉命養賴房女爲比丘尼、號玉峰淸因、住持此寺、乃是太夫人高祖左衞門大夫道灌之舊蹤、所謂源氏山也、十五年十一月、賜三浦池子村地爲寺田、十八年秋、太夫人寢疾、十一月四日、大猷公、親臨問之、時嗣君尚幼、然御駕來視、恩光之隆爲世美談、明年八月二十三日、遂屬纊、時年六十五、大猷公、哀惜賻儀鄭重、其後依賴房請、而大猷公、執奏賜宸筆額扁寺、且賜常紫衣宣旨、可謂身後之榮、施之不朽者也、孝孫源光圀立。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。
太夫人、源の姓、太田氏、諱は勝、父を康資ヤススケと曰ひ、母は藤氏、遠山丹波の守直景ナヲカゲムスメなり。太夫人、笄歳にして始(め)て東照大神君に事ふ。枕席に侍り、恩寵をら被る。一女を誕ず。早く夭く。神君、其の賴もしげ無きを愍(み)て、水戸侯賴房に命じて其の准母と。神君、薨じて後、髮を薙(り)て尼と爲り、英勝院と號す。時々台德公に拜謁す。大猷公、世を治(む)るに逮(び)て、眷遇、特に加ふ。常に營中に侍して舊事を談ず。寛永十一年六月、鎌倉扇が谷數百弓の地を賜(ひ)て、淨刹を建て英勝寺と號す。命を奉じて賴房の女を養(ひ)て比丘尼と。玉峰淸因と號す。此の寺に住持せしむ。乃(ち)是れ、太夫人の高祖左衞門の大夫道灌ダウクハンの舊蹤、謂は所る、源氏山ゲンジヤマなり。十五年十一月、三浦池子村の地を賜(り)て寺田と。十八年秋、太夫人、疾に寢す。十一月四日、大猷公、親ら臨(み)て之を問(ふ)。時に嗣君尚を幼し、然(れ)ども駕に御して來り視る、恩光の隆なること世の美談なり。明年八月二十三日、遂に纊を屬く。時に年六十五、大猷公、哀惜して、賻儀鄭重、其の後、賴房の請に依(り)て、大猷公、執奏して宸筆の額を賜(り)て寺に扁す。且つ常紫衣の宣旨を賜ふ。謂(ひ)つべし、身後の榮、之を不朽に施す者なりと。孝孫源の光圀立つ。
「笄歳」は「けいさい」と読み、女子の元服に相当する数え十五歳。髪にこうがいを刺す儀式を行ったことから。一般には「笄年けいねん」と書く。
「逮(び)て」は「およびて」と読む。
「數百弓」の「弓」は、弓道で射場から弓の的までの距離を言うのに用いたが、後に土地を測る長さの単位となった。一弓は六尺で約百三十五センチメートルの相当する。
「纊を屬く」は「しよくをつく」と読んでいる。臨終の際、息を測るために纊(新しい綿)を鼻口に属して(つけて)その絶命を知ったことから、臨終を言う。一般には「属纊しょっこう」という熟語の方が知られる。
最後にやっぱり印籠が出たな――しかし、この印籠、如何にも僕らの知る、あの心優しき水戸の御老公らしいではないか――清々しい「英勝寺」一巻の終わりである――。]

〇源氏山 源氏山ゲンジヤマは、英勝寺の境内西の方の高山也。此の山龜谷カメガヤツの中央なり。【詞林採葉抄】に龜が谷の山は、鎌倉の中央第一の勝地也と有は、此山なり。此東南の麓は龜谷山キコクサン壽福寺なり。《旗立山》此山を或は旗立山ハタタテヤマ、又御旗山ヲハタヤマとも云ふ。【鎌倉九代記】に、源氏山と申すは、イニシへ八幡太郎義家ヨシイヘ、東國征伐のタメに下り給ひ、鎌倉に打入て、此の山に旗を立、終に強賊阿倍貞任アベノサダタフ宗任ムネタフをほろぼし給へば、或は旗立ハタタテ山とも名くとあり。今に旗竿ハタサオの跡とてあり。《武庫山》又【採葉抄】には、此山を武庫山ムコヤマとあり。古老の云、武庫ムコ山と云は、此山の古き名なりと云ふ。義堂ギダウ武庫山の詩あり。詩中瘞甲兵(甲兵をウヅむ)の語、大臣山ダイジンヤマの故事に似たれどもコトなり。
[やぶちゃん注:最後の「大臣山の故事」とは「卷之一」の冒頭「鎌倉大意」の《大臣山》の部分で『大織冠、カマを埋み給ひたる地は、今の上の宮の地なり。此を松が岡と名く。故にウシロの山を大臣タイシン山と云なり』という内容を指す。以下の詩は底本では全体が二字下げ。]
  武庫山          義     堂
憶昔神人瘞甲兵。   至今武庫有山名。
峰如剱也嶺如戟。   好與君王鎭不平。
[やぶちゃん注:以下、建長寺住持義堂周信の漢詩を影印の訓点に従って書き下したものを示す。
憶ふ 昔し神人 甲兵をウズみしことを
今に至(り)て 武庫 山の名有り
峰は剱のごとく 嶺は戟のごとし
好し 君王と不平を鎭む
光圀爺さんの温厚なる思いの後だけに、これ、如何にもな上狙いの厭な詩としてしか、私には映らない。]

〇阿佛卵塔跡 阿佛卵塔アブツランタフアトは、英勝寺の境内北の方にあり。昔し此の處に阿佛アブツ卵塔ランタフ有しと也。故に俗に阿佛卵塔屋敷とも云ふ。《月影谷》又極樂寺の境内に、月影谷ツキカゲガヤツと云ふ所ろあり。阿佛がみける地なり。阿佛アブツは、藤原の爲相タメスケハヽなり。
[やぶちゃん注:「藤原爲相」は歌道の冷泉家始祖である冷泉為相(弘長三(一二六三)年~嘉暦三(一三二八)年)。ウィキの「冷泉為相」によれば、建治元(一二七五)年の父為家死去後、父親の所領『播磨国細川庄』(現在の兵庫県三木市)『や文書の相続の問題で』正妻の子である『異母兄為氏と争い、為相の実母である平度繁の娘(養女)阿仏尼が鎌倉へ下って幕府に訴え』、『為相も度々鎌倉へ下って幕府に訴え』て結果的に勝訴する。その中で、『鎌倉における歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉連歌の発展に貢献』し、『娘の一人は鎌倉幕府八代将軍である久明親王に嫁ぎ久良親王を儲け』るなど、公家でありながら幕府との親密な関係を終始持った。『晩年は鎌倉に移住して将軍を補佐し、同地で薨去している』。『冷泉家の分家に藤谷家があるが、藤谷家の家名は為相が鎌倉の藤ヶ谷』に『別宅を構えたことに由来』し、『為相は山城国の他の公家からは、藤谷黄門と呼ば』れた、とある。彼の母で歌人でもあった阿仏尼(貞応元(一二二二)年~弘安六(一二八三)年)は、「十六夜日記」によって弘安二(一二七九)年に訴訟のため入鎌していることが分かるが、勝訴を得る以前に鎌倉で没したとも、帰洛後に没したとも言われる。現存する阿仏尼墓と称するものは台座に「阿佛」の刻印があるが怪しい。後代の供養塔の可能性はあるにしても、そもそもここに記されるように尼である彼女の墓なら卵塔でなくてはならないのに、現存するものは多層塔で如何にも新しい。藤ヶ谷の峰上の息子為相の墓と有意に離れていることも気になる。]

〇智岸寺谷 智岸寺谷チガンジガヤツは、阿佛卵塔屋敷アブツランタウヤシキの西北のヤツ、英勝寺の境内なり。イニシへはテラ有けれども頽敗せり。近比まで地藏堂のみ有しが、是も今はなし。地藏は鶴が岡の供僧正覺院にあり。《どこも地藏》是をどこも地藏と名く。相傳ふ、初め堂守ダウモリの僧あり。貧窮にして、佛餉に供すべき物なき故に、此地を遁れて、佗所に移て居住せんと思ひ定む。其の夜のユメに、地藏枕本マクラモトに現じて、どこもどこもとばかり云てウセにけり。彼の僧此の意をサトつて、どこもどこもとは、何くも同じの世界なりと云事なるべしとて、居を不移(移さず)、一生をヲハりけると也。
[やぶちゃん注:智岸寺は本文にもあるように、英勝寺が創建される以前に、ほぼ同位置にあった。英勝寺(現在は鎌倉で唯一)と同じく智岸寺も尼寺であった。江戸初期までは英勝寺内に智岸寺の地蔵堂があったと言われている。この地蔵は寛永十三(一六三六)年の英勝寺創建以前に鶴岡八幡宮二十五坊の一つ正覚院に移された後、明治初めの廃仏毀釈で雪ノ下在の個人の蔵品となり、その後、更にその人物が瑞泉寺に寄進したとされ、瑞泉寺に現存し、どこも苦地蔵と呼ばれている。]

〇泉谷〔附泉井〕 泉谷イヅミガヤツは、英勝寺の東北のヤツ也。【東鑑】に、建長四年五月廿六日、右兵衞の督教定ノリサダ朝臣が泉が谷のテイコボつて、御方違ヲンカタタガヘの本所とすとあり。是れ宗尊將軍の時也。御亭の跡、今所ろ不知(知れず)。路端ミチバタに井あり。《泉井》泉が井と云。淸水き出(づ)るなり。鎌倉十井の一つなり。
[やぶちゃん注:「右兵衞の督教定」は二条教定(?~文永三(一二六六)年)。姓は藤原とも飛鳥井とも称する。公家であるが、飛鳥井雅経の子で、母が大江広元の娘であったことから関東に伺候、藤原頼経・頼嗣・宗尊三代の将軍に仕えた。特に飛鳥井家は蹴鞠・和歌を家学としていた。北条実時の娘を妻とし、妹は安達義景に嫁いでいる。彼の日記は「吾妻鏡」編纂史料に使用されていることが分かっている。「泉が井」は現在、泉の井と呼ばれ、横須賀線から浄光明寺への道を入り、同寺の山門を過ぎて谷戸を少し行った路傍左手に現存する。]


[淨光明寺圖]



〇淨光明寺〔附網引地藏 東林寺跡〕 淨光明寺ジヤウクハウミヤウジ泉谷イヅミガヤツにあり。泉谷山センコクサンと號す。建長三辛亥カノトノイの年、平の長時ナガトキの建立なり。長時の法名專阿と云ふ。開山は、眞聖國師、諱は眞阿。【東鑑】に、文永二年五月三日、故武州禪門〔長時。〕忌景の佛事、泉が谷の新造の堂にて修すとあり。此の寺今眞言・天台・禪・律の四宗兼學にて、泉涌寺の末寺也。【空華集】に、淨光明寺の三世智菴律師、華嚴・天台・三論・法相、四宗の院を創建す。兼て顯密を學す。最も華嚴・淨土の二宗にアキラか也とあり。寺領今四貫八百文あり。
[やぶちゃん注:「平の長時」は第六代執権北条長時(寛喜二(一二三〇)年~文永元(一二六四)年)。屋敷が赤橋(現在の鶴岡八幡宮の太鼓橋)付近にあったことから赤橋長時とも称される。「忌景」は忌日に同じ。]
阿彌陀堂 堂塔頽破して、今此の堂ばかりあり。本尊は阿彌陀の三尊、是を上品上生の阿彌陀と云ふ。《寶冠の彌陀》里俗は寶冠の彌陀と云ふ。開山幷に平の長時ナガトキの木像あり。
[やぶちゃん注:印の「上品上生」は誤り。上品中生印である。鎌倉期の鎌倉地方特有の技法である「土紋」がはっきりと現認出来る仏像の一つ。土紋とは粘土や漆などを混ぜたものを花などの文様を彫った木型に入れ、それを型抜きして仏像の衣部分に押し付けて接着し、極めて立体的な衣紋を表したものである。私は大学生の時分、夏の夕暮れに、初めてこの寺を訪れた。庭を掃除なさっておられた先々代住職大三輪龍卿師から声を掛けて頂き、話をさせていただく内に、何故か師に痛く気に入られてしまい、特別にこの阿彌陀三尊像を拝観させて頂いたのを忘れない。収蔵庫のライトを総て点けて下さり、土紋も数センチの距離から実見させて頂いた。「重要文化財に指定されると、雨漏りのする本堂には置いておけない。管理も五月蠅くってね、金もかかる。信仰の対象だったものを秘仏のように蔵に入れておくのは、信仰とは違うね。」とおっしゃったのを今も忘れない。そうして――私はその時――直下から見上げたこの上品中生印のしなやかな指と――その先に透ける阿彌陀如来の静謐な尊顔に――曰く言い難い不思議なエクスタシーを感じたのであった――それは私の若き日の――忘れ難い鎌倉の稀有の美の一瞬――だったのだ。]
寺寶
後醍醐帝の綸旨 貮通 一通は、元弘三年十月五日。一通は、元弘三年十二月廿日とあり。
[やぶちゃん注:鎌倉幕府滅亡(元弘三(一三三三)年五月二十二日)の直後である。「綸旨」については次項を参照。]
後小松帝の官符宣 貮通 共に嘉慶三年二月とあり。其の一通の畧に云、當寺は、平の長時ナガトキの本願、建長重光淵猷チヤウクハウエンケン之經始、眞阿和尚の權輿とあり。
[やぶちゃん注:勅旨(天皇の命令や意向)が太政官によって太政官符・太政官牒などとして文書化される際にその文書作成を行う弁官局の史が口頭で勅旨の内容を聞き取るが、この際、弁官史は備忘録としてその内容を書き記した。それが後に勅旨対象者へそのまま発給されるようになり、文書として様式化して宣旨となった。従って、ここで言う「官符宣」というのは極めて正式な太政官符に記された宣旨ということになる。前にある「後醍醐帝綸旨」の「綸旨」とは院政期から鎌倉期以降に宣旨や院宣が多発されるようになるに伴い、宣旨の発給手続きを簡略化したものを言う。嘉慶三年(五月に康応に改元)は北朝方で使用された元号で、南朝では元中六年、西暦一三八九年。]
同(じ)く口宣案 壹通 應永卅年九月廿四日に、浮光明寺の開山眞阿に勅して、眞聖國師と賜ふとあり。
[やぶちゃん注:「口宣案」は「くぜんあん」と読み、勅旨伝達の際に作られる文書の一つで、内侍から勅旨を聞いた事務官である殿上人の蔵人が、その内容を備忘録として紙に書いて(これを口宣書き)、その勅旨伝達の実務担当である上卿しょうけいには口頭で伝えたことに基づく呼称で、非公式な公式書式に則った文書の一種である。]
源の尊氏の請文 貮通 共に觀應三年とあり。
源の直義の請文 三通 觀應二年とあり。
源の基氏の請文 貮通 貞治三年とあり。
源の氏滿の請文 壹通 享德二年とあり。
源の滿兼の請文 壹通 其文に云く、瑞泉寺・永安寺、兩殿御遺骨一分事、所奉納當寺也、早令修追薦於萬代之勤行、宜奉祈得脱於三明之妙果之狀、如件、應永六年十月三日と有〔瑞泉寺は基氏、永安寺は氏滿。〕。
[やぶちゃん注:以下、滿兼の請文を影印の訓点に従って書き下したものを示す。
瑞泉寺・永安寺、兩殿の御遺骨一分の事、當寺に納め奉る所ろ、早く追薦を萬代の勤行に修せしめ、宜(し)く得脱を三明の妙果の狀に祈り奉る。件のごとし。應永六年十月三日
「瑞泉寺は基氏、永安寺は氏滿」足利満兼の祖父基氏の戒名は瑞泉寺玉巌道昕どうきん、父氏満の戒名は永安寺髟玉山道全(「髟玉」は「けいぎょく」と読むか)である。]
源の持氏の請文 貮通 應永廿七年とあり。
源の義滿の請文 壹通 應安七年とあり。
上杉顯定アキサダの請文 壹通 顯定の判あり。【花押藪】にもせたり。
淨光明寺の地圖 壹枚 地の界に如左(左のごとく)の花押あり。誰人と云ことを不知(知らず)。


[淨光明寺地圖の花押]

愛染の像 壹軀 願行の作。
千手觀音の像 壹軀 作者不知。立像なり。
二十五條の袈裟 壹頂 願行上人の受持なり。
三千佛の畫像 壹幅 弘法の筆。
不動の像 壹軀 座像なり。《八坂不動》是を八坂ヤサカ不動と云ふ。相ひ傳ふ、淨藏貴所、八坂ヤサカの塔のカタムきたるをイノナヲせし時の本尊也。文覺上人、鎌倉にひ來るを、後に此寺に安置すと。今按ずるに、淨藏貴所、塔を祈るは天暦年中の事なり。【元亨釋書】にへたり。
[やぶちゃん注:「淨藏貴所」(寛平三(八九一)年~康保元(九六四)年)は平安中期の天台僧。文章博士三善清行八男。平将門の調伏や多くの霊験・呪術で知られたゴーストバスターである。「八坂の塔」は現在の東山区八坂通にある霊応山法観寺の五重塔のこと。本寺は八坂寺とも呼称し、塔も八坂の塔とも呼ばれる。天暦二(九四八)年に、この塔が西に傾いた際、東隣の雲居うご寺の僧であった浄蔵がこの不動像に加持祈禱して元に戻したという伝承があることから、「八坂不動」と呼ぶとされる。後、この不動は京の高雄山に祀られてあったようだが、文覚が以仁王の令旨を本像胎内に隠し、伊豆に配流されていた頼朝に渡したともされる。]
八幡并弘法の畫像 各々壹幅 《瓦の御影》此兩像をタガひの御影ミエイと號す。八幡の影は、弘法の筆。弘法の影は、八幡の筆にて、タガひにカタチを寫すと云ひ傳ふ。【壒嚢抄】に云、神護寺に、八幡の御影あり。是は大師、昔し東大寺の大門にて對面有て、相互に御影を寫し給へり。神筆の影像は納冷房にあり。御筆の神影は初より高雄寺に安置せられしを、近衞帝の御宇に、東大寺の鎭守に祝ひマヒラせんとて、南都よりシキリに申しうく。又八幡ヤハタより、去る保延六年正月廿三日の炎上に、醍醐天皇の勅定に依て、敦實親王造作し給ひし、僧俗二體の外殿の御神體燒失せし故に、社家よりシキりに望み申しければ、鳥羽トバ上皇きこしめして、不思議の重寶なりとて、鳥羽トバの勝光明院の寶藏に ヲサめられしを、後鳥羽帝の御時、建久八年、文覺上人、修造の時、又申し請て返し納めらるゝと也。其の大菩薩の御影は、僧形にて赤蓮華に坐し、日輪を戴て、衲の袈裟を掛て、錫杖を持し給ふと〔云云。〕。又【八幡愚童訓】にもへたり。れを文覺、鎌倉へち來て、此寺に納めたりとひ傳ふ。八幡・弘法、年代懸隔せり。然れども、或はユメに示現し、或はマボロシカゲを見て、皆神祕佛力など云へるは、浮屠氏の例なり。
[やぶちゃん注:「壒嚢抄」は「あいなうせう(あいのうしょう)」と読み、室町中期の僧であった行誉によって文安二(一四四五)年か翌三年頃に成立した一種の百科辞典。全七巻。参照したウィキの「あい嚢抄」によれば、『事物の起源や国字および漢字などの語源などを問答形式で解説したもの』とある。「八幡愚童訓」は鎌倉後期に成立した八幡神の霊験を説いた寺社縁起で、真言律宗の名僧叡尊の修法を讃えるなど、作者は石清水八幡宮の社僧と推定されている。「浮屠氏の例」は『仏家の伝承にありがちなこと』の意。この二幅対とされるものは現在、八幡神の方は南北朝期に、弘法大師の方は遅れてその後の室町期に描かれたと推定されている。八幡神は僧形で当時の本地垂述説に基づく仏画として高く評価されている。]
   已 上
慈恩院 本堂の西の方にあり。地藏の立像を安ず。《矢拾地藏》是を矢拾ヤヒロヒ地藏と云ふ。相ひ傳ふ、源の直義タヾヨシマモり本尊なり。直義タヾヨシ一戰の時分、矢種ヤダネ きけるに、小僧コゾウ一人ハシキタつて、ハナてたるどもをヒロひ、直義タヾヨシサヽげける。アヤしく思ひ、守りの地藏を見ければ、スヂ錫杖にへけるとなり。今も錫杖はヤガラなり。又直義タヾヨシの位牌あり。ヲモテに、當院の本願、贈正二位大休寺殿古山源公コサンゲンコウ大禪定門の、神儀。裏に、觀應元年二月廿六日とあり。又大塔宮ヲホタフノミヤの牌も有しが、此牌は理智光寺にあるべき物也とて、院主是を送りツカハし、今彼寺にあり。
[やぶちゃん注:「直義一戰の時分」は、伝承では故北条高時の遺児時行の起こした建武二(一三三五)年七月の中先代の乱の時の話とする。]
華藏院 本堂の東にあり。願行の作の不動を安ず。右の二院、共に智菴和尚の開基なり。智菴は貞聖國師の法嗣なり。
玉泉院 本堂の西にあり。直義タヾヨシの請文あり。康永三年八月八日とあり。
綱引アミヒキ地藏 阿彌陀堂のウシロの山上、巖窟の内に、地藏の石像有。相ひ傳ふ、昔し由比のハマの漁夫、アミにかけてげたり。故に名くと也。像のセナカクボき所ろあり。潮汐カウシタガつて増減すと云。或云、藤原爲相の建立なりと。背に文字あり。供養の導師、性仙長老、正和元子の年十一月日、施主眞覺とあり。性仙は淨光明寺の前住乎。又圓覺寺カネの銘に、寺の頭首の中に、性仙と へたり。此の人歟。時代も相應せり。
[やぶちゃん注:「正和元年」は西暦一三一二年。但し、現在知られるところでは実際の刻印は「正和二年十一月」であるらしい(現在、地蔵の背面には回り込めない)。この本文で誤読し易いのは「窪き所」で、これでは地蔵の背中(背部)に凹みがあるように読めてしまうが、そうではなく、地蔵の後ろの奥の壁面下部にある長方形の龕を指す。この龕の存在でお分かりのように、この地蔵を安置するやぐらは非常に凝った豪華なもので、右側には副室と思われるやぐらが附帯する。現在の市街地内にあっては、かなり大きなやぐらと言ってよい。地蔵の頭上には実物の天蓋を吊り下げて外装したと思われるようなはっきりした円盤状の窪みと、それを左右から支えるための木製のぬきを通したと推定される天井の左右壁面方向への彫込と臍があり、地蔵本体にも、光背を挿したと思われる切り込みがあったり、右手は実物の錫杖を持っていたとも思われる。やぐら内壁面には漆喰を塗るために掘られた、整序された文様のような鑿の跡が現認出来る。]
[やぶちゃん注:次の「東林寺跡」は、底本ではこの浄光明寺の記載に続いているが、門前向いの寺で律宗としての学僧交流もあったとはいえ、別個な独立した寺院であるから、行空けした。]

東林寺の跡 淨光明寺のムカフにあり。開山は眞聖國師、昔し律宗の寺にて、淨光明寺と共にサカんなり。尊氏の請文壹通、觀應三年とあり。淨光明寺の寶物とる。此の地今は武士屋敷ブシヤシキとなるなり。
[やぶちゃん注:後の「鎌倉攬勝考卷之七」の「東林寺廢跡」には、
淨光明寺の向なり。開山眞聖國師。古へは律宗なる由。尊氏將軍の文書一通有。觀應三年と有り。今は淨光明寺の什物のうちに入。此地は村民の居地となれり。
となっている。幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年から二年の間に作成されたと伝えられる浄光明寺蔵「浄光明寺敷地絵図」を見ると、浄光明寺の正面、道を隔てた真向いの小さな谷へ向かって(東南方向)、泉ヶ谷の奥へ少し行った場所から細い小路が描かれており、その谷戸の奥に「東林寺」の表記がある。「鎌倉攬勝考卷之七」の「此地は村民の居地となれり」が、先行する本書では「此の地今は武士屋敷となるなり」と微妙に謂いが異なる。「浄光明寺敷地絵図」を見る限り、鎌倉時代末期に於いては、この浄光明寺と東林寺の間を抜ける通りの東林寺側には、沢山の『民家』が軒を連ねて描かれているのが分かる。この絵図の建物は藁葺きで、『武家屋敷』ではない。光圀の時代には、もしかするとある新たに鎌倉に赴任した下級武士がここに屋敷を構えていたものが、幕末には廃して、再び村民の居住地となっていたのかも知れない。]

○相馬天王祠 相馬の天王の祠は、網引アミヒキ地藏の山の西のフモト、岩窟の内にあり。相馬サウマの次郎師常モロツネなり。モト 師常モロツネ屋敷ヤシキは、タツミ荒神クハウジンの邊にありて、天王にまつゝて、叢祠をきしを、後に此の處に移すとなり。【東鑑】に、元久二年十一月十五日、相馬の次郎師常モロツネ卒す。年六十七。端坐合掌決定往生す。是れ念佛の行者也。結縁として、緇素集り拜すとあり。
[やぶちゃん注:「相馬の次郎師常」相馬師常(保延五(一一三九)年~元久二(一二〇五)年)は千葉常胤の子で相馬氏初代当主。父と頼朝挙兵に参じた古参の御家人。建仁元(一二〇一)年、父の逝去とともに出家し、法然の弟子となったと伝えられる。「緇素」は「しそ」と読み、「緇」は黒、「素」は白で、僧と俗人の衣服から、僧俗の意。]

◯藤原爲相石塔〔附忍性石塔〕 藤原の爲相タメスケの石塔は、網引アミヒキ地藏のウシロの山巓にあり。藤谷フヂガヤツミネ也。爲相タメスケは、爲家タメイヘ遺跡の爭論にて、ハヽ阿佛と鎌倉へウツタへに下り、二人共に鎌倉にて終る。事は【十六夜日イザヨヒの記】にミヘたり、此東峯をへて、多寶寺がヤツと云所ろあり。寺はなし。大なる五輪あり。文字なし。《忍性の塔》忍性の塔と云傳ふ。コヽ泉谷イヅミガヤツの内なり。
[やぶちゃん注:「十六夜日イザヨヒの記」のルビはママ。お洒落れ! 現在、忍性の墓は極楽寺境内西方にあるものがそれとされている(銘はないが、均整のとれた五輪塔の名品であるが非公開である)。ここに記されているものはその位置から、現在、覚賢塔と呼称される冷泉為相墓の東北にある五輪塔であることが分かる。この塔のある場所は正に忍性の開山になる多宝寺跡であり、この塔は今は多宝寺長老覚賢の墓塔として建てられたものであることが分かっている。これも大型で、残念なことにやはり非公開である。]

○藤谷 藤谷フヂガヤツは、網引アミヒキ地藏のウシロ藤原爲相フヂハラノタメスケ石塔の下、西北のタニ也。爲相タメスケ鎌倉へ下りし時、暫くみたりし跡也。故に藤谷フジガヤツと云ふと也。藤谷フジガヤツ百首とて、爲相タメスケの歌あり。今公家にフジたにの稱號あるは、爲相タメスケよりハジむとへり。初めは藤がやつと稱す。ノチ勅定にて藤がヤツとは言葉コトバ長し、フジたにと稱すべしと也。

◯扇谷〔附扇の井 飯盛山 大友屋敷〕 扇谷アフギガヤツ龜谷坂カメガヤツザカへて、南の方、西北は海藏寺、東南は華光院、上杉定政ウヘスギサダマサの舊宅、英勝寺の地を扇谷アフギガヤツと云ふ。龜が谷の内なり。今里人扇が谷とばかりふ時は、藤谷フヂガヤツの前、英勝寺の裏門前ウラモンマヘを、扇が谷と云。故に爰に出す。【太平記】に、天狗堂テングダウと、扇が谷にイクサありと有。《飯盛山》又此の所に、飯盛山イヒモリヤマと云あり。山の根に、岩を扇の地紙ヂガミカタチり、内より淸水湧き出づ。《扇井》扇の井と名く。鎌倉十井の一つ也。【鎌倉年中行事】に、源の成氏シゲウヂ、六月一日、飯盛山の富士參詣の事あり。此の所には富士權現なし。公方屋敷の南の飯盛山也。異山同名なり。《大友屋敷》今此飯盛山の前の畠を、大友屋敷ヲホドモヤシキと云。中岩月和尚自歴の譜に、大友吏部乃祖のツカ、藤が谷に請て住せしむとあれば、此の山藤が谷の内なれば、藤が谷に、昔し大友ヲホドモ ソレガシの菩提所有て、中岩、住持したる也。此の所は大友の舊宅とへたり。藤が谷の西なり。【東鑑】には、扇が谷は不見(見へず)。
[やぶちゃん注:「太平記」の記載は巻十の「天狗堂と扇が谷に軍有と覺へて」「相模守殿の妾二位殿の御局の扇の谷に御坐しける處へ參りたりければ」を指し、前者は新田義貞軍の鎌倉北辺攻略部隊の一部と幕府軍の一戦がここであったことを意味し、後者は北条高時側室二位殿の居所がここにあって、得宗被官諏訪盛高の手で高時の次男亀寿(後に中先代の乱を起こす北条時行の幼名)が鎌倉を脱出したことが記されている。この「天狗堂」は、私は現在の窟不動の東隣にあった愛宕社(最近、堂が大破してしまい地面に石組みのみが残るようである)のことではないかと判断する(祭神の愛宕権現が天狗に仮託されたことから、こう呼ばれた)。実は、もう一つ、佐介ヶ谷の東側丘陵の南端に天狗堂山という名が残る。ここには愛宕神社があったと伝えられるのであるが、この文脈の中ではそこを比定するには無理があるように思われるからである(但し、これを稲村ヶ崎からの義貞主力軍の進攻を別に言ったのであれば天狗堂山でもおかしくはない。実際に義貞による七里ヶ浜方向からの進攻は波状的で、実際には知られた伝説上の稲村ヶ崎からの突入以前に既に鎌倉市街に進軍していたという説もある)。識者の御教授を乞うものである。
「扇の井」については、静御前が舞扇を納めたことに由来するという伝承もあり、また、この井戸の名が扇ヶ谷という地名の由来であるともされる(後掲する扇ヶ谷という呼称の履歴からは信じ難い)。現在は個人の宅地内にある。
「飯盛山」一つは、金沢街道の明王院(山号は飯盛山はんじょうざん)の手前の大慈寺跡の背後にあった山で、今一つがここの飯盛山。因みに、手広の鎖大師青蓮寺の山号も飯盛山である。
「大友屋敷」の「大友」は大友能直(承安二(一一七二)年~貞応二(一二二三)年)か。大友氏初代当主で頼朝近習。但し、彼は式部(唐名吏部)にはなっていないから不審ではある。
「中岩月和尚自歴の譜」は「仏種慧済禅師中岩月和尚自歴譜」で、臨済宗大恵派の禅僧中巌円月(正安二(一三〇〇)年~文中四・応安八(一三七五)年)の自撰年譜。円月は鎌倉出身で、若くして鎌倉寿福寺に入山、後、醍醐寺で密教を学び、曹洞宗の東明慧日に師事、正中二(一三二五)年に渡元して元弘二(一三三二)年に帰国した。その後は建仁寺や建長寺住持などを歴任して臨済禪の一派を成した。
「【東鑑】には、扇が谷は見へず」とあるように、「吾妻鏡」には「亀谷」のみで「扇谷」という記載はない。扇ヶ谷の地名は室町期時代にここに居を定めた管領上杉定正が「扇谷殿」と称されて以降のことで、逆に亀ヶ谷という呼称がその頃には廃れ始めたものと思われる。]

○梅立寺〔附熱田社〕 梅立寺は、海藏寺へけば右なり。江戸大乘寺の末寺也。寛永年中に、不受不施の僧建立す。其の後の住僧、國法をヲソれて、新義の悲田と號し、寺を藥王寺とアラタむ。《夜光寺》此地に、昔し此の地に、夜光寺と云寺有しと也。又山に熱田の社あり。寛文年中に、金像の神體をり出したりとて今にあり。
[やぶちゃん注:ここでの記載は変則的で、「新編鎌倉志」執筆当時の寺号である「藥王寺」を見出し項目として出していない。また、「鎌倉攬勝考卷之六」では、本寺はかつて真言宗であり、旧寺名を夜光山梅嶺寺と言ったと記す。実はこれらの「寛永年中に、不受不施」となる以前については、この二書のみによって知られるもので確認の仕様がないのである。現在、公称では、真言宗に属した梅嶺山夜光寺が前身、永仁元(一二九三)年に日蓮の直弟子であった日像が時の住持と宗論して改宗させ、大乗山薬王寺と改称した、とされる。日蓮宗の一種のファンダメンタリズムである不受不施派は、寛文九(一六六九)年の江戸幕府による「土水供養令」(寺領・行脚は国主・将軍への供養と規定)や「不受不施派寺請禁止令」などによって、禁制宗派となった。元禄四(一六九一)年、日蓮出生地の誕生寺などにいた一部の不受不施派は、寺領は貧者に対する慈悲と解釈して、一見、幕府と妥協し、禁制策を掻い潜る「悲田派」を自称したが、幕府はこれも新義異流として禁止した(以上、はウィキの「不受不施派」を参照した)。にも拘わらず、本寺が江戸末期まで存続し得、現在も存続している(但し、明治期はずっと無住状態が続いた)のは、江戸初期に織田信長の孫信良の娘で、二代将軍徳川秀忠三男であった徳川忠長の正室松孝院が、夫の追善供養のため本寺に帰依、これによって徳川家所縁の寺として寺紋を三葉葵とし、幕府には格別に格式高い寺として認知されていたからかと思われる。
「熱田の社あり。寛文年中に、金像の神體を掘り出したりとて今にあり」これは薬王寺に木造熱田大明神立像として現存。寺伝には、夜間にこの頭部が光り、そこから夜光寺と別称されたとも言う。寛文年間(一六六一~一六七三)に掘り出されたとするのは頭部のみで、目鼻立ちから中国製と推定される。現在の体部は、その後に当山第五世日教(一七一八年寂)が補塡造立したものと推定されている(以上は「薬王寺公式ホームページ」の記載を参考にさせて頂いた)。
 因みに、若き日の私はこの寺が好きだった。お目当ては裏のやぐらにある、風化して仏身を骨のように削ぎ落とされた石造四菩薩像だった。これは当時の私にとって「奇形中の棄景」であったからである。]

◯法泉寺谷 法泉寺谷ハフセンジガヤツは、御前谷ゴゼンガヤツの東ムカフヤツなり。此他に皆田畠なり。昔し此地に、竹園山法泉寺と云寺あり。關東十刹の内なり。開山本覺禪師、諱は素安、號了堂(了堂と號す)。建長寺寶珠菴の鼻祖なり。今寺はなけれども、【五山西堂の公帖】に、法泉寺住持職之事(法泉寺住持職の事)とのするあり。此寺のカネ、今光明寺にあり。淸拙の銘なり。其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が二字下げ。]
  竹園山法泉寺鐘銘
鐘器之宏、音韻高遠、發上々機者也、建長首座爲當寺住持、了堂素安禪師、捐己貲以鑄之、與寺相爲永久、金山淸拙正澄遂爲之銘、曰、山竹園、寺法泉、系西來、葉は再傳、禮樂興、鐘惟先、命工※、掌範埏、液金銅、聲注川、大器成、簨簴懸、杵洪撞、音遐宣、司夜旦、令人天、息輪苦、開定禪、心聞洞、十虚圓、咬七條唱機縁、鏗月霜、到客船、梵刹隆、檀壽延、國永安、君萬年、大歳庚午、元德二年三月二日、大工山域權守物部法名道光、
[やぶちゃん注:「※」=「亻」+「垂」。これは「すい」と読み、中国は尭代の伝説上の名工の名。以下、影印本の訓点に従って書き下したものを示す(一部に附した読みは私のもので、平仮名歴史的仮名遣とした)。
  竹園山法泉寺鐘の銘
鐘器の宏なる、音韻高遠、上々機を發する者なり。建長の首座、當寺の住持と爲り、了堂素安禪師、己が貲をえん(し)て以て之を鑄、寺と永久に相爲す。金山の淸拙正澄、遂に之が銘をつくる。曰(く)、『山は竹園、寺は法泉、系は西來、葉は再傳、禮樂興(り)て、鐘、惟れ先んず。工※に命じて、範埏を掌らしむ。金銅を液して、聲、川に注ぐ。大器成(り)て、簨簴しゆんきよ(に)懸く。杵、洪に撞(き)て、音、とほ〔く〕に宣ぶ。夜旦を司り、人天を令す。輪苦を息め、定禪を開く。心聞、洞かに、十虚、圓なり。七條を咬み、機縁を唱ふ。月霜にかうなり、客船に到る。梵刹、隆に、檀壽、延ぶ。國、永安、君、萬年。』と。大歳庚午 元德二年三月二日 大工の山域の權の守物部法名道光
「貲」は「資」に同じ。「捐」は義捐金の捐で、金品を出して人を救うこと。「範埏はんえん」は金属を適切な割合で捏ねることを言うか。「簨簴しゆんきよ」は鐘を懸けるための縦横の木をいう。「洞かに」は「すみやかに」(速やかに)と読んでいるか。「かう」は金属の鳴る音の形容。なお、「鎌倉攬勝考卷之七」の「法泉寺廢跡」及び私の注も参照のこと。]

◯御前谷〔附尼屋敷〕 御前谷ゴゼンガヤツは、智岸がヤツの西なり。此前のナラビ尼屋敷アマヤシキと云ふ。或人の云、御前がヤツ尼屋敷アマヤシキ、二所共に尼御前アマゴゼンの屋敷にて一所なるを、土俗アヤマつて二つに分つ。尼御前と云は、二位の尼平の政子マサコ也と。政子は大御所ヲホゴシヨとて、始は賴朝屋敷ヨリトモヤシキに居住、後に勝長壽院のヲクに、伽藍幷に御宇をて、南の新御堂シンミダウの御所と號す。此の地に居住の事未考(未だ考へず)。今按ずるに、【東鑑】に、建長三年十一月十二日、禪定二位家ゼンヂヤウニイケ龜谷カメガヤツの新造の御亭に御移徙ヲンワタマシと有。此の禪定二位家は、賴嗣ヨリツグ將軍のハヽ二棟御方フタミネノヲカタなり。龜が谷に居往せらる。此の二位を政子マサコアヤマる歟。或人の云、鶴が岡の古き文書に、龜が谷の禪尼とけるあり。是は上野の國淵名フチナの與一實秀サネヒデ〔或云、天野の和泉の前司政景。〕がムスメにて、北條實泰ホフデウサネヤスシツ、越後の守實時サネトキハヽなり。實泰サネヤス此の所に居住す。故に龜が谷殿トノと號す。實泰サネヤスシツ、後にアマとなり。慈香と號す。龜が谷の禪尼と云と。又は天野屋敷アマノヤシキとも云ふ。天野藤内遠景トヲカゲ此ところに居住す。故にづくと。いづれをとしがたし。
[やぶちゃん注:「禪定二位家、龜谷の新造の御亭に御移徙と有。此禪定二位家は、賴嗣將軍の母、二棟御方なり」は頼経の寵妃で幕府政所の公事奉行であった中納言藤原(中原)親能の娘。「吾妻鏡」の建長三(一二五一)年十一月十三日の該当箇所を引く(扈従の名簿は省略した)。
十三日戊戌。戌尅。禪定二位家有御移徙之義。龜谷新造御第入御。被用御輿。散位廣資朝臣候反閇。賜祿〔二衣。〕。右近大夫仲親役之。扈從〔直埀、立烏帽子。〕。
十三日戊戌。戌の尅、禪定二位家、御移徙の義有り。龜谷の新造の御第へ入御。御輿を用ゐらる。散位廣資朝臣、反閇へんばいに候ず。祿を賜はる〔二衣。〕。右近大夫仲親、之を役す。
「散位」は位階だけで官職を持たないことで、「反閇へんばい」は「禹歩うほ」とも言い、貴人の外出の際、道中の無事を祈って陰陽師などが呪文を唱えながら特殊な歩き方をすることを言う。言わずもがなであるが、中国の陰陽道に由来する。この引越しの記載から見ると、彼女はこの建長三年(一二五一)頃に落飾したものと思われる。但し、この時点で夫頼経は存命である。頼経は正妻竹御所の死後、執権北条経時との関係が悪化、寛元二(一二四四)年に経時によって将軍職を嫡男藤原頼嗣に移譲させられてしまい、翌寛元三(一二四五)年に出家するも、その後も鎌倉に留まって「大殿」と称されていた。しかし、寛元四年(一二四六)年に彼を旗頭としようとした反得宗勢力を警戒した当時の執権北条時頼によって京都に送還されてしまう(翌宝治元(一二四七)年には三浦泰村光村兄弟を中心とした頼経鎌倉帰還工作が失敗、宝治合戦となって三浦一族が滅んでいる)。頼経の死は康元元(一二五六)年、享年三十九歳であった。
「此の二位を政子と訛る歟」の土俗の錯誤伝承の考察部分は肯んずることが出来る。
「淵名與一實秀」を淵名実秀ととると「天野政景」や「北條實泰」とは時代が合わず、おかしい。淵名実秀は鎌倉時代末期から南北朝期の武将で、その娘は小田原北条氏に嫁いで、後に落飾、妙真尼と名乗って、鎌倉幕府滅亡の年に現在の伊勢崎市境下渕名にある妙真寺を開いている。実は、北条実泰の夫人には、後述する天野政景娘以外に、もう一人淵名余一なる人物の娘で、本文に現れる「慈香」という落飾名を持つ人物が確認出来るが、これには永井晋氏の「金沢北条氏の研究」で『何らかの誤入』という疑義が示されており、本文の記載の「實泰が室、後に尼となり。慈香と號す」というのも、その辺に由来するものと考えられる。
「天野和泉前司政景」天野政景(?~宝治元(一二四〇)年から延応二(一二四七)年頃?)は鎌倉前期の石橋山の合戦以来の古参の御家人。
「北條實泰」北条実泰(承元二(一二〇八)年~弘長三(一二六三)年)も鎌倉前期の北条氏一門で金沢流北条氏始祖として金沢実泰とも呼称する。父は北条義時、政子は伯母、子の「越後守實時」は執権経時・時頼・時宗三代のブレーンとして活躍した。
「天野藤内遠景」天野遠景(生没年不詳)は政景の父で、息子とともに頼朝蜂起に参加、承元元(一二〇七)年までの生存が確認出来、建久五(一一九四)年頃から没するまでは、確かに鎌倉に居住していたとは思われる(ウィキの「天野遠景」による)。]

〇淸涼寺谷 淸涼寺谷シヤウリヤウジガヤツは、法泉寺がヤツの北、海藏寺の外門マヘの東なり。淸涼寺は忍性の開基なり。今はへたり。【元亨釋書】忍性の傳に、弘長の初、相陽にり、淸涼寺に止る。平副帥時賴トキヨリ、道譽を郷ふ。光泉寺をハジめてらしむとあり。淸涼寺は是なり。光泉寺今舊跡不分明(分明ならず)。淸涼寺は、泉涌寺の末寺帳にもへたり。
[やぶちゃん注:「法泉寺が谷の北」とあるが、尾根を隔てた西側というのが正しい。この谷戸は現在、清涼寺ヶ谷と呼ばれている。本寺は現在の廃寺研究に於いては、「新清涼寺」「新清涼寺釈迦堂」と呼ばれ、読み方も「しんせいりょうじ」である。京都嵯峨の清涼寺にある釈迦如来像を模した本尊を安置したことに由来するとされる。「弘長の初」というのは、「忍性菩薩行略記」に、この所在地不詳の光泉寺の創建を弘長三(一二六三)年としているのを踏まえたものであろうが、これには現在の研究では疑問が投げかけられており、光泉寺自体が建立されなかった可能性もあるとされている。「副帥」は副将に同じい。執権のこと。「郷ふ」は「むかふ」(迎ふ)と訓じているか。但し、「郷」の「むかふ」という読みは元来「向かふ」で、迎えるの意はない。]


[海藏寺圖]


〇海藏寺〔附底脱の井〕 海藏寺カイザウジは、扇谷山センコクサンと號す。此地まで扇谷アフギガヤツの内なり。開山は源翁禪師なり。源翁、初めは曹洞宗なり。後に大覺禪師に嗣法して、臨濟宗となる。昔は別山なり。天正の比より建長寺の塔頭タツチウに屬す。建長寺領の内一貫二百文附す。土人此邊を會下谷ヱゲガヤツとも云なり。
[やぶちゃん注:海蔵寺は古くは真言宗であったが、建長五(一二五三)年に第六代将軍宗尊の命で藤原仲能が禅宗に改宗させて伽藍を再建したとも言われる。但し、鎌倉幕府滅亡に際に悉く焼失、その後の応永元(一三九四)年に、鎌倉公方足利氏満の命で上杉氏定が大覚禪師五世の孫とされる心昭空外を招いて再び開山したと伝えられる。以後は扇ヶ谷上杉氏の保護で栄え、天正五(一五七七)年に臨済宗建長寺に属した。現在も建長寺派であるが、ここでは「塔頭」と記しているのが特異で、白井永二編の「鎌倉事典」(東京堂出版昭和五十一(一九七六)年刊)にも『寺は五山・十刹・諸山のどれにも列せず、はやくから建長寺の塔頭のようになっていた』として、この「鎌倉志」の記事を引いている。「會下が谷」の「會下」は「ゑげ」若しくは「ゑか」と読み、会座えざに集まる門下僧のことで、禅宗・浄土宗などに於いて師の下で修行するための場所をいう。]
底脱井ソコヌケノヰ 總門の外、右手の方にあり。相傳ふ、昔し上杉家ウヘスギケアマ、參禪して、此井の水をむで投機す。歌あり。「シヅイタヾく桶の底ぬけて、ひた身にかゝる有明の月」。此因縁に依て、底脱井ソコヌケノヰと云傳ふとなり〔按ずるに、城の陸奧の守平の泰盛がムスメ、金澤越後の守平顯時が室となる。ノチに比丘尼となり、無着と號す。法名如大と云。佛光禪師に參して悟徹す。投機の和歌あり。「ちよのうがいたゞくをけのそこぬけて、水たまらねば、月もやどらず」と云云。ちよのうは無着がをさな名也。此底脱井の事、無着が事をあやまりて傳へたるか。上杉の尼、何人と云事しらず。〕。
[やぶちゃん注:「ちよのう」は安達千代野(ちよの 生没年未詳)と伝えられ、安達泰盛の娘、北条顕時正室。千代能とも書く。ウィキの「安達千代野」に『父泰盛と安達一族は霜月騒動で滅ぼされ、夫である顕時は騒動に連座して失脚し、下野国に蟄居の身となる。千代野は出家して無学祖元の弟子となり、法名無着と号』したとあり、更に「仏光国師語録」に『「越州太守夫人」(千代野)が無学祖元に対して釈迦像と楞厳経を求めた記録がある』とする。更に、『同じ無学祖元の弟子で、京都景愛寺開山となった無外如大』という人物がおり、この僧が同じく無着という別号を用いたこと、加えて上杉氏の関係者でもあったことを記し、足利氏との関連から千代野と無外如大が『混同されたものと見られる』という錯誤を解明した記載がある。]
總門 昔は、此所に山門ありしとなり。
[やぶちゃん注:総門は所謂、広義の寺領の入り口にある門を指し、通常は、その中に寺の結界(浄界)としての山門(三門:本来は仏国土へと通ずる空門・無相門・無願門の三つの謂い。)がある。]
佛殿 本尊藥師、是ナキ藥師と云ふ。相傳ふ、昔し此山の土中に、毎夜小兒のコヘしけるを、源翁怪しく思ひ、其處を見るに小墓コツカあり。金色の光を放ち、異馨四方に薫ず。つて袈裟をぎ、ツカにおほへば、コヘやみけり。夜けて、此墓をりてみけるに、藥師の木像、頭面のみあり。少も不朽(ちず)してアザやかなり。則ち藥師の像を刻み、其の腹中に收め置たり。故に里俗啼藥師ナキヤクシと云ふなり。
鐘樓跡 當寺の鐘は、今西來菴にあり。其銘に、大檀那常繼ジヤウケイとあり。常繼は上杉ウヘスギ彈正少弼氏定ウヂサダが法名なり。氏定は、禪秀亂の時、藤澤フヂサハ道場にて、應永廿三年十月八日に自害す。普恩院常繼仙嚴と號す。當寺の檀那なりと云ふ。鐘の銘左如(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が二字下げ。]
  海藏寺鐘銘
相州扇谷山海藏寺常住鑄鐘、勸進聖正南上座、大檀那沙彌常繼、應永念二年十一月念二日、 [やぶちゃん注:以下、影印本にある訓点に従って書き下したものを示す。
相州、扇谷山海藏寺の常住、鐘を鑄る。勸進の聖、正南上座、大檀那、沙彌常繼、應永念二年十一月念二日
「念」は「廿」のこと。「念」と「廿」の中国音は共に<niàn>で音通することから。応永二十二年は西暦一四一五年。上杉氏定(文中三・応安七(一三七四)年~応永二十三(一四一六)年)は扇谷上杉家当主。関東管領上杉顕定の養子で、実父は小山田上杉家の上杉頼顕。鎌倉公方足利氏満・満兼・足利持氏三代に仕えた。]
寺寶
五部の大乘經 貮拾函 筆者不知(知れず)。
二十五條の袈裟 壹頂 開山の袈裟なり。ウラ書付カキツケあり。佛超禪菴空外と七字を朱にてく。下に花押あり。スミにてく。空外は開山の號なり。武州多東郡天士淨底居士檀那也、至德乙丑二月念五日と廿三字をシユにてく。下に書之(之を書す)とあり。此の二字はスミなり。按ずるに、此の袈裟、開山の袈裟にて、書付は以後にしたりとみへたり。開山の傳に、弘安三年に寂すとあり。至德は後也。
[やぶちゃん注:「二十五條の袈裟」は超弩級の最高位を示す袈裟である。「多東郡」とは現在の東京都多摩地域の東部を呼称する旧地名で、中近世に於いて多摩郡は東西に多東郡と多西郡に分かれていたらしい。「至德乙丑」は至徳二(元中二)年で西暦一三八五年。「弘安三年」は西暦一二八〇年。実に九十五年後の書付である。]
開山自贊の畫像 壹幅 贊の文字滅して、眞の字・識の字など、かすかに見ゆるなり。像は鮮かなり。
開山源翁禪師傳 壹卷 其文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、「開山源翁禪師傳」は底本では全体が二字下げ。]
師諱心昭號空外、源翁其諡號也、世姓源、越之前州荻村人也、初生曰、空中聲有日、此兒爲最尊、幼投陸上寺爲沙彌、翁、性敏秀、七歳誦倶舍論、十有六、薙染受具、此時渉獵釋墳畧一千卷、十有八、謁峩山〔道元弟子。〕於諸嶽、參禪門宗、究洞上旨、會中推而爲傑也、初康治帝在位日、官妖頻發、久壽間、一夕、宮中之宴、月卿雲客、皆列侍、管絃數々奏、時及更深、殿閣大震、銀燭遽滅、帝座下、有寵妃玉藻前、放光於身大照殿階、帝於是不豫、安部易詵、ト之曰、是玉藻所爲也、忽化狐逃東國、帝詔三浦介義明、千葉介常胤、上總權介廣常、敺其狐於下野州那須野、義明射而殺之、爾後百年餘、狐靈爲石、世俗曰殺生石、觸其石、則鳥獸人民皆死、民之苦甚、時有僧大徹〔峩山弟子。〕者、欲止其石怪、而不能焉、寶治帝〔後深草。〕詔翁曰、師往野州熄此怪、翁到、石之左右、白骨髑髏山積、翁、拈破竈墮機縁曰、汝既是石靈、何處來、性向何收、題偈曰、法々塵々端的底、本來面目未曾藏、現成公案大難事、異類中行任度量、擧柱杖卓一下、石忽破碎、其夜一女子現、粧麗甚嚴、謝禮曰、嫗得淨戒生天、言訖烟沒、自此翁聲名籍甚於洛鄙、鎌倉副元帥平時賴、聞翁之道驗〔本傳曰、鎌倉殿、蓋其時賴也、非將軍宗尊。〕、以奧州會津利根川庄、爲翁饘粥之資、〔本傳、布施百貫文地。〕時建長年間也、翁復西遊藝州、詣嚴島神祠、海波大怒船不前、須臾風靜潮落、龍現波間、翁因授三歸五戒、少焉波上浮盂、盛以黄金、翁笑而曰、龍謝我耶、我莫納此物、我山會陽示現寺乏鹽、願以汝力、湧鹽井於我山、今示現鹽井是也、初會陽示現寺、密宗之道場也、翁、偶々遊此愛山中曠間喬松颯々不忍去、因有投老於此之志、有一老叟拜謝叟前、翁問曰、汝何人、叟曰、吾此山護法神也、願禪師、住此度衆、翁曰、密徒滿山、何許吾住乎、老叟曰、滿山僧徒破戒邪行、吾嫌此穢久之、然而乏明眼師、幸辱師足跡印此、吾約師、師勿忘、叟忽沒地、翁怪之、未幾示現寺回祿發、有物如車輪、光明爍々飛空中、山木破折石岩震動、寺僧恐駭而皆離散、餘密徒無孑遺、時建長七年乙卯四月十四日、郡剳請翁、翁感神約、入而住焉、海衆一千指、雲堂禪規嚴如也、寺有洞窟、喬木托根、一夕雷雨火起、其木爲燼、其下大穿温泉涌出、神託人曰、此山無温泉、是以奉師之沐浴、其靈異頗如斯、示現寺、舊曰慈眼寺、有千手觀音像也、護法山、舊五峯山、以五峯森列也、翁、改爲今之字也、示現、蓋以山神示現靈驗也、護法取山神守護正法、潼邑有一女、家極貧、然慕翁之道化、翁憐與法名、女感謝餘、脱一衣爲嚫、自裸形而歸、路得錢一孔、從此女家日々富財豐也、後女薙髮誅茅於山中、爲衆洗衣針縫、今之洗衣菴是也、河州刺史平盛次、世稱太郎丸者也、欽歆翁道、寄岩崎莊若干畝爲寺産、住示現殆二十六年、弘安三年庚辰春正月七日、泊然而寂、門人相聚、埋骨石於山之西南隅、扁塔曰大寂、建治帝、敕諡源翁禪師、嗣法弟子齡山延等十有餘人、翁、爲人膽量廓如、面貌豐偉、長眉秀目、門下多得人、晩掛錫於建長、入大覺之室、覺示以臨濟毒手、翁知見一時消、因建海藏寺於扇谷居之、時々參大覺之室云。
[やぶちゃん注:以下、「開山源翁禪師傳」を影印本にある訓点に従って書き下したものを示す。一部に鍵括弧や記号を補った。

師、諱は心昭、空外と號す。源翁は其の諡號なり。世姓は源、越の前州荻村(の)人なり。初め生れし日、空中に聲有りて曰(く)、「此の兒、最尊たり。」と。幼(なく)して陸上寺に投じて沙彌と爲る。翁、性、敏なり。七歳にして倶舍論を誦す。十有六にして、薙染受具、此の時、釋墳を渉獵すること畧ぼ一千卷。十有八にして、峩山〔道元の弟子。〕に諸嶽に謁して、禪門の宗に參じ、洞上の旨を究む。會中、推して傑と爲るなり。初め康治帝、位に在(ら)せし日、官妖、頻(り)に發す。久壽の間、一夕、宮中の宴に、月卿雲客、皆、列侍し、管絃數々奏す。時に更深に及(び)て、殿閣大(い)に震ひ、銀燭遽に滅す。帝座のモトに、寵妃の玉藻前タマモノマヘと云(ふもの)有り、光を身より放(ち)て大(い)に殿階を照(ら)す。帝、是に於て不豫なり。安部の易詵ヤスナリ、之をト(し)て曰(く)、「是(れ)玉藻が爲る所なり。」と。忽ちキツネと化して東國に逃る。帝、三浦の介義明ヨシアキラ・千葉の介常胤ツネタネ・上總の權の介廣常ヒロツネに詔して、其の狐を下野の州、那須野に敺(ら)しむ。義明、射て之を殺す。爾しより後、百年餘、狐靈、石と爲る。世俗に殺生石と曰(ひ)、其の石に觸るれば、則(ち)鳥獸人民、皆、死す。民の苦(し)むこと甚し。時に僧大徹と云ふ者有り〔峩山の弟子。〕。其の石怪を止めんと欲するも、能はず。寶治帝〔後深草。〕翁に詔して曰(く)、「師、野州に往(き)て此の怪を熄めよ。」と。翁、到る。石の左右、白骨・髑髏、山のごとくに積む。翁、破竈墮の機縁を拈じて曰(く)、「汝、既に是(れ)石靈、何れの處よりか來る。性、何くに向(い)てか收(ま)る。」と。偈を題して曰く、「法々塵々端的底、本來の面目未だ曾て藏れず。現成公案大難事、異類中行度量に任す。」と。柱杖を擧(げ)て卓一下す。石、忽ち破碎す。其の夜、一りの女子現ず。粧麗甚だ嚴なり。謝禮して曰(く)、「嫗、淨戒を得て天に生る。」と。言(ひ)訖(り)て烟のごとくに沒す。此れより翁の聲名洛鄙に籍甚なり。鎌倉の副元帥平の時賴トキヨリ、翁の道驗を聞(き)て〔本傳に曰(く)、鎌倉殿と。蓋し其(れ)時賴なり、將軍宗尊に非ず。〕、奧州會津利根川の庄を以て、翁の饘粥の資と爲(す)〔本傳に、百貫文の地を布施す、と。〕。時に建長年間なり、翁復た西の方、藝州に遊(び)て、嚴島イツクシマの神祠に詣る。海波大(い)に怒(り)て、船、前まず、須臾あつて、風靜かに潮落ち、龍、波間に現ず。翁、因(り)て三歸五戒を授く。少(し)くあつて波上に盂を浮(か)め、盛るに黄金を以(て)す。翁、笑(ひ)て曰(く)、「龍、我に謝するか、我、此の物を納(む)ること莫し。我が山會陽の示現寺、鹽乏し。願(は)くは汝が力を以て、鹽井を我が山に湧かせ。」と。今の示現の鹽井、是(れ)なり。初(め)會陽の示現寺は、密宗の道場なり。翁、偶々此に遊(び)て山中曠間喬松颯々たるをアイして去るに忍びず、因(り)て老を此に投ずるの志有り。一りの老叟有(り)て叟の前に拜謝す。翁、問(ひ)て曰(く)、「汝、何ん人ぞ。」と。叟の曰(く)、「吾は此の山の護法神なり。願(は)くは禪師、此に住して衆を度せよ。」と。翁の曰(く)、「密徒山に滿つ。何ぞ吾を許して住せしめんや。」と。老叟の曰(く)、「滿山の僧徒、破戒邪行。吾、此の穢を嫌ふこと久し。然れども明眼の師に乏し。幸に師の足跡、此に印するを辱(く)す。吾、師に約す。師、忘ること勿かれ。」と云(ひ)て、叟、忽ち地に沒す。翁、之を怪(し)む。未だ幾くならずして示現寺、回祿發す。物有(り)車輪のごとし、光明爍々して空中に飛ぶ。山木破折して石岩震動す。寺僧、恐れ駭(ぎ)て皆、離散す。餘りの密徒、孑遺無し。時に建長七年乙卯四月十四日、郡剳して翁を請す。翁、神約に感じ、入(り)て住す。海衆一千指、雲堂禪規嚴如たり。寺に洞窟有り、喬木、根を托す。一夕雷雨して、火、起り、其の木、燼と爲んぬ。其の下、大(い)に穿つて温泉涌き出づ。神人に託して曰(く)、「此の山、温泉無し。是(れ)を以て師の沐浴に奉ず。」と。其の靈異、頗る斯(く)のごとし。示現寺、舊と慈眼寺と曰(ふ)。千手觀音の像有ればなり。護法山、舊と五峯山、五峯森列せるを以てなり。翁、改(め)て今の字と爲るなり。示現は、蓋し山神、靈驗を示現せしを以(て)なり。護法は山神、正法を守護するに取る。潼邑に一女有り、家極(め)て貧し。然れども翁の道化を慕ふ。翁、憐(み)て法名を與ふ。女、感謝の餘(り)に、一衣を脱(ぎ)て嚫と爲す。ミ(ヅカ)(ら)裸形にして歸る。路に錢一孔を得たり。此れより女の家日に日に富(み)て、財、豐かなり。後ち、女、髮を薙(り)て茅を山中に誅(り)て、衆の爲めに衣を洗ひ、針縫す。今の洗衣菴是れなり。河州の刺史平の盛次モリツグ、世に太郎マルと稱する者なり。翁の道を欽歆して、岩崎の莊若干畝を寄(せ)、寺産と爲す。示現に住すること殆ど二十六年、弘安三年庚辰春正月七日、泊然として寂す。門人相聚(り)て、骨石を山の西南の隅に埋み、塔に扁して大寂と曰ふ。建治帝、敕して源翁禪師と諡す。嗣法の弟子齡山の延等十有餘人なり。翁、人(と)爲り、膽量廓如たり。面貌豐偉、長眉秀目、門下多く人を得たり、晩に錫を建長に掛け、大覺の室に入る。覺、示すに臨濟の毒手を以(て)す。翁の知見、一時に消す。因(り)て海藏寺を扇が谷に建て之に居り、時々に大覺の室に參ずと云ふ。

源翁心昭(通称「玄翁」)は現在、嘉暦四(一三二九)年生まれで、応永七年(一四〇〇)年没とされる。しかし、本伝では極端な時代錯誤が散見されるので、実録としては機能しない。スピリッチャル・パワード・玄能というアイテムを握ったゴースト・バスター玄翁和尚の凡そ荒唐無稽な伝承として書かれている。これは、一説にこの源翁が知られた源翁心昭とは別人と目される所以でもあろう。
「越の前州荻村」は現在の新潟県西蒲原郡弥彦村大字矢作字荻野と推定されている。
「陸上寺」は「くがでら」と読む。新潟県燕市国上に現存する元明天皇和銅二(七〇九)年建立の越後最古の古刹。当初は「雲上くがみ」、現在は「くがみ山国上寺こくじょうじ」と呼称する。
「釋墳」の「墳」は「墳典」「墳籍」の謂いで聖賢の述べた古書を言うのであろう。「釋」が仏教で、経巻や古い仏典の意。
「峩山〔道元の弟子。〕」は峨山韶碩(がざんじょうせき 建治元(一二七五)年~正平二十一年・貞治五(一三六六)年)。能登の総持寺第二世。彼は道元の同時代人ではないから割注は不正確で、太祖と呼ばれる曹洞宗第四祖瑩山紹瑾けいざんじょうきんの弟子である。源翁が入門した当時貞和二~三(一三四六~四七)年は、同じ能登の永光寺ようこうじと総持寺の兼務住職の頃である。
「康治帝」は近衛天皇。鳥羽天皇第九子。在位は永治元(一一四二)年~久寿二(一一五五)年。実権は父鳥羽上皇(後に法皇)に握られていた。
「久壽」は近衛天皇から後白河天皇の年号。これによって、この禁裏の宴会のシーンの設定は改元された久寿元(一一五四)年十月二十八日から近衛天皇が退位(逝去)する久寿二(一一五五)年七月二十三日以前の閉区間に限定出来る。
「帝座の下に、寵妃の玉藻前と云ふもの有り」とあるが、周知の如く、この玉藻前は「帝」近衛天皇の妃ではなく、鳥羽上皇の「寵妃」である。これは私の推測であるが、実在のモデルとされる鳥羽上皇皇后(譲位後の入内)美福門院藤原得子という小悪魔に対して、本伝の作者は禁裏への遠慮や、結果として平治の乱以降の武家政権樹立に関わった微妙な役割を鑑みて、事実からずらして設定しようとする意図があるのかも知れない。
「不豫」不例に同じい。天皇の病気。近衛天皇は先に示した通り、久寿二年七月二十三日であるから、設定としては玉藻前の妖術によって近衛天皇は変死したという含みを感じさせる。近衛の死には悪左府藤原頼長による呪詛説もあり、如何にも史実と説話のオーバー・ラップが感じられるところである。
「安部の易詵ヤスナリ」伝承ではこの陰陽師を安倍泰成とも安倍泰親とも、とんでもない時代錯誤では安倍晴明ともするのであるが、史的事実からは鳥羽上皇直属のプライベートな陰陽師であった安倍泰成が正しい。彼は安倍晴明の子孫とされる。
「敺らしむ」は「からしむ」(駆らしむ)と訓じた。「敺」は「驅」の古字。
「下野の州那須野」那須ヶ原。現在の栃木県北部の、那珂川と箒川に挟まれた扇状地。
「殺生石」は現在の栃木県那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩地帯で、硫化水素や亜硫酸ガスなどの火山性有毒ガスを噴出している。
「僧大徹と云ふ者有り〔峩山の弟子。〕」割注によってこの僧は大徹宗令(そうれい 正慶二・元弘三(一三三三)年~応永十五(一四〇八)年)に特定される。総持寺で峨山韶碩の印可を受けた五哲の一人、総持寺を管理する五つの塔頭の一つである伝法庵庵主となった高弟なのだが、ここでは調伏に失敗し、如何にもな幇間役の印象であるである。筆者はこの源翁の同時時代の同門大徹に何ぞ遺恨でもあったのか? その辺に硫黄キナ臭いが漂ってこないか? これは後の「法々塵々端的底、本來の面目未だ曾て藏れず。現成公案大難事、異類中行度量に任す。」の注で、明らかにする。
「寶治帝〔後深草。〕」後深草天皇。在位は寛元四(一二四六)年~正元元(一二五九)年であるから、源翁の生まれる二十五年前の嘉元二(一三〇四)年に死去している。実際の源翁に勅するとすれば、南北朝期の後村上・光明天皇以降の天皇でなければならない。本話がパラレル・ワールドへ陥入する瞬間が、ここにある。
「破竈堕の機縁を拈じて曰く」の「破竈堕」は「はさうだ(はそうだ)」と読み、唐代中期の禅僧で嵩岳すうがく慧安えあん国師の法嗣であったある僧の逸話に基づく。この僧は本名が伝わらず、その逸話に基づいて破竈堕和尚と称される。福井県小浜市臨済宗南禅寺派瑞雲院HPの「破竈堕和尚の話」にそのエピソードが詳しい。ここで邪霊の、生贄を求める竈に向かって、破竈堕和尚が「とつ。この竈はただ泥と瓦が合してなれる物なり。聖は何れより来たり、霊は何れより起こって、物の命を烹殺するや!」という一喝で、竈がぼろぼろと崩れたという故事の機縁の連環を、同じく泥と石に過ぎぬ「殺生石」に向かって同等(竈に接するに人と接するのと同等に)に教化を及ぼしたことを言うのであろう。
「法々塵々端的底、本來の面目未だ曾て藏れず。現成公案大難事、異類中行度量に任す。」本偈を理解するほどの力を私は持ち合わせていないが、「法々塵々端的底」とは『現象や細部に眩まされることなく対象の本源をしっかりと見極めよ!』との謂いか。また、「本來の面目未だ曾て藏れず」とは『お前の父母未生以前の本来の面目は一度だって、そして今だって決して消失したり、隠れて見えなくなったりはしておらんぞ!』の謂いか。そうして「現成公案大難事、異類中行度量に任す。」とは『人が公案によって現象の実体に到達することは難しいが、お前は人ではなく、それなりの霊力を持った異類なればこそ、それを悟達せんとする度量もあろうか。それは一つ、偏にお前自身にかかっておる!』といった感じか。とんでもない誤訳かも知れない。ただ私はやはりこれも破竈堕和尚の逸話で、竈の霊が「師の無生の説法を蒙り、竈を脱して天に生ずることを得たり。特に来たりて感謝を致す。」と述べたのに対して、破竈堕が「これは汝が本有ほんうの性なり。我が言の力に非ず。」と述べたことを踏まえた偈であると思うのである。識者の御教授を乞う。――さて、実はここに素晴らしい資料を発見した。それは個人のHP「会津四家合考の時代」の中にあった。そこでは會津松平家家臣にして會津旧事雑考編者でもあった向井新兵衛吉重が寛文二(一六六二)年に主君に献じた 「會津四家合考」のテクスト化がなされているのであるが、その「卷之一」の「示現寺住持樹芳の事并關(開)山源翁和尚の事」というページに、源翁のより史実に基づいた詳細な記載があるのである。それを見よう(一部にHP作者の注が( )で附されている。読みはルビ化し、一部の漢字を正字化、アラビア数字は漢数字に直した。文中の「□」はママ)。
   《引用開始》
 そも射禮じやらいの犬追物は、近衞院久壽二年(一一五五)、三浦上總兩介に□宣ありて、下野國那須野の狐を狩らしめ給ふより始まれるぞ、皆人々の耳に聞れたる事なれば、今更せいする(書き記す)に及ばず。其時、彼の野干(狐)の精氣、怪石に化してより、後小松院明德・應永の頃迄、凡そ二百三十餘年が間、此石の邊に近付く程の人畜鳥類に至る迄、たちまち歿ぼつせざるはなし。故に世、こぞつて殺生石と名付く。
 去程に、明德元年(一三九〇)の春、鹿苑院殿(足利義満)より、能州總持寺へ使者を立て給ひ、野州那須野の殺生石の執惡、哀れ(是非とも)一山の法力を以て引導せしめ、かの一國の士民を安んぜしめ給はゞ、叡慮にも叶ひ、武恩も深かるべきの由仰せければ、貴命に應じ、今の五塔頭たっちゅうの一祖大徹禪師、那須野へ下りて、殺生石を見給ふに、年積りて、死たる鳥獸の白骨、堆(うず高)うして山の如くなるを、柱杖にて掻掃ひ、手にて石を撫でられけるに、忽に石振動して、靈驗ありと雖も、石氣未だ滅せず、是より六年の風霜を經て、應永二年五月十一日、源翁和尚、那須の温泉へ湯治の爲めに行き給ひけるが、彼殺生石に向つて垂示して曰く、
汝元來石頭、喚謂殺生石、靈自何來而受業報如是麼。去々自今以後證汝成佛性眞如之全體、云了三度摩頂曰、會那會那。
  頌曰
法々塵々端的底 本來面目未曾蔵 現成公案大難事 異類中行任度量
誦し了つて、柱杖を以て一卓す。時に石震動して、三つに破裂す。
   《引用終了》
時代的な齟齬もなく、これこそが正に事実であったのだと考えてよいであろう。……それにしても、やはりここでも大徹禅師はしょぼい役回りである。効験なきとは言わずとも邪力は依然として消えていないのだ。何だか気になる。……するとある一つの事実が浮かび上がってくるのだ。……実は源翁は曹洞宗の旧大本山総持寺首座を務めたが、ある時、明白な擯斥(ひんせき;排斥。)によってその立場を追われているのである。その心昭とその一派の排斥は、江戸幕府による寺院の本末制度の確立により一六五〇年前後に機構上、放免されるまでの、実に二百五十年に及んだのである。……その理由の一つに、何と、この殺生石のエピソードが関わっているという説があるのだ。本来はこうした咒法は総持寺にある五院すべての認可を受けねばならなかったが、無断でそれ行ったため、というのである。……しかし、これは如何にもな理由である。正式に派遣された大徹は失敗したのであり、美事、破砕封印したのは源翁なのだ。その法力へのやっかみという説もあるが、それはいくらなんでも大人げなく、肯んずることは出来ない(そもそもが殺生石はバルンガと同じく、怪物ではない。自然現象だ)。……さればこそ、もっと現実的な理由がありそうなのである。……そうして、ここにそれを解明するものを見つけた。上野徳親氏の「峨山門下における源翁心昭の立場」というネット上で閲覧可能な論文である。これを管見させて頂いたところでは、実は源翁(とその一派)が師峨山の葬儀や後の回忌供養等に於いて参加しなかった事実や可能性が認められ、それらに参加するに源翁派側から見て承服出来ないような、総持寺内の管理運営に関わる、ある勢力拡大や強権発動があったことが窺われ、そこから急激に関係が悪化、擯斥へと発展したと考えられるのである。……九尾狐より本物の五哲僧の方が妖怪奇怪奇々怪々、文字通り、「靈驗ありと雖も、石氣未だ滅せず」であったのかも、知れない……
「粧麗甚だ嚴なり」その身なりや立ち居振る舞いが華麗にして、尚且つ慎み深くあったことを言うのであろう。
「嫗」は「おうな」、ばば。玉藻前は後世「三国伝来白面金毛九尾の狐」の変化とされるから、何百歳にもなろう。
「洛鄙に籍甚なり」「洛鄙」は「らくひ」と読み、「籍甚」は評判の高いさまで、本邦全土に名声が高まったことを言う。
「鎌倉の副元帥平の時賴、翁の道驗を聞きて」北條時頼が執権であったのは寛文四(一二四六)年から康元元(一二五六)年で、そもそも彼も源翁の生まれる五十年も前、弘長三(一二六三)年に亡くなっている。後深草どころの騒ぎではない。時間がますますタイム・マシンで遡上しているというわけである。割注の馬鹿真面目な記載が逆に笑いを誘う。
「本傳」この割注の「本傳」なるものが、二十数種存在する源翁伝のどれを指しているのかは不明である。識者の御教授を乞う。
「會津利根川の庄」これは現在の福島県喜多方市塩川町三吉利根川の辺りを言うか。地図上では会津若松の北方九キロ程のところに位置する。彼の開山になる示現寺(喜多方市熱塩加納町熱塩)にも極めて近い。
「饘粥」は「せんしゆく」と読む。「饘」は濃いかゆ。「粥」は薄いかゆ。禅家の主食たるかゆのことで、僧の扶持を言う。
「三歸五戒」「三歸」は仏・法・僧の三宝を信仰の拠りどころする絶対の誓いを謂い、「五戒」は不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒を謂う。これを受けるということは仏弟子となるための第一階梯を踏むことを意味する。
「孟」は「はち」(鉢)と読む。
「爍々」は「しやくしやく」と読み、眩しく輝くこと。
「孑遺」は「げつい」と読み、生き残りの意。
「建長七年乙卯四月十四日」西暦一二五五年。源翁の生まれる七十四年前。当該時期なら「吾妻鏡」が何かを記すはずだが、残念ながら当該年の「吾妻鏡」第四十五巻は欠落巻である。これぞ確信犯。……というより、この細かなクレジットには、きっと何かの仕掛けがあると考えるべきではないか? 何かにお気づきの方は、是非とも御教授願いたい。但し、先に引用した「示現寺住持樹芳の事并關(開)山源翁和尚の事」には『和尚、此山岳の幽遠なるを樂しみ、殊に異人(精靈)のつぐるありて、終に山を護法と改め、寺を示現に替へて、同じき永和元年七月十四日に、此山に入られける』とある。これ、日が一致するだけではない。実は永和元年は乙卯で干支も一致している(永和元年は文中四年の天授元年・応安八年の永和元年で西暦一三七五年。実に一二五年も違う)。
「郡剳」は「ぐんたふ」と読むか。郡庁(郡役所)からの通達書の意ととっておく。
「示現寺、舊と慈眼寺と曰ふ。千手觀音の像有ればなり。護法山、舊と五峯山、五峯森列せるを以てなり。翁、改めて今の字と爲るなり。示現は、蓋し山神、靈驗を示現せしを以てなり。護法は山神、正法を守護するに取る」やはり「示現寺住持樹芳の事并關(開)山源翁和尚の事」の前注で引用した部分の直前には、源翁が行脚の末に、この会津の太守葦名弾正少弼詮盛あきもりなる人物の帰依を受けて、同地の耶麻郡に紫雲山慶徳寺という寺を建立、應安元(一三六八)年から永和元(一三七五)年まで住持していたが、その永和元年の『夏の頃、一日禪床の餘閑を消して、邑(村)北の五峯山慈眼寺に遊び給ふ』。『其頃、此寺は、眞言密觀の道場なり。其寺を慈眼と稱するは、素より大悲の像(観音)をあがむ。故に義を慈眼視衆生(観音經の一説[やぶちゃん字注:「經」はママ。])の文に取る。山を五と號する者は、寺を環(廻)りて、林岳の鬱然として秀でたる者五峯、故に取つて名づく』とある。これと前注の引用部の後半を合成すると、本文の叙述とほぼ同一になる。海蔵寺版偽書源翁伝のこの辺のソースは、會津松平家家臣向井吉重が資料としたものと同じ系統のものである可能性が高い。しかし「會津四家合考」の作者向井が精緻な実証主義者であるのに対して、海蔵寺版トンデモ伝の作者は小手先の辻褄合わせをする気もサラサラないという、ぶっとんだ幻想三文作家であった。
「潼邑」は「どういふ(どうゆう)」と読んで、高地の村の謂いか。以下に記されるエピソードは「示現寺住持樹芳の事并關(開)山源翁和尚の事」ではかなり展開が異なる。以下に引用しておく。
   《引用開始》
 其慶昌・格庵の二塔頭たっちゅうかつて(その当時)開基する者は、匹夫匹婦の、俄に薙染(出家)する者なり。其由來をつまびらかたずぬる(尋ねる)に、其頃、同郡關根の里に、老いた賤の夫婦あり。時におうな、布一端(反)を繊成おりなせるを、おきなをして岩崎(岩月)の市にひさがしむ(売らせる)。賣(売)りて錢百文を得たり。
 たまたま和尚、此市頭にして、傳法の血脈けちみゃくを、衆に受持せしむ。彼の翁、錢百文を和尚に布施しまいらせて、血脈を受持して我家に歸り、媼に有増あらましを語る。此由を聞きて、媼事々しく腹を立て、何事ぞ、後世こうせ(後生)と云も、現世の富の餘りよ、其血脈がかつえ(空腹)のたすけにもならばこそ、筋なき翁の振舞やとおこりければ(大声を出せば)、翁は媼の、物に越えて慳貪けんどん(貪欲)なる事を恥ぢしめ、やがてさらばいで(悲しみながら)、わごぜが(お前の)腹を居(癒)させ侍らんぞとて、血脈を和尚に返し進らせて、布施したる錢を、乞ひ戻さんと思ひ、呟きながら吾屋を出づ。
 歩む毎に一錢を拾ひ得て、百歩に百錢を得たりければ、翁、稀有の思をなし、ただちに我屋に立戻りて、果報の程を媼に恥ぢしめ、忽ち髪結い切つて出家し、穢土の苦界を離れける。是れ慶昌庵の祖なり。
 かかりければ、媼も翁が言を恥ぢ、終に懺悔の惠心となりて、同じく髪を剃落し、比丘尼となりて一庵を結ぶ。是れ格庵の祖なり。
   《引用終了》
私には、このエピソードに関しては、海蔵寺版幻想作家に軍配を挙げる。裸身の娘の後ろ姿の美しさは、説教であることを忘れさせる点で逆に禪機とは言えまいか。但し、「示現寺住持樹芳の事并關(開)山源翁和尚の事」に記された塔頭の中には本文にある「洗衣菴」なる塔頭名は、残念なことに見当たらない。私は――それが欲しかったのだが――。
「嚫」は音「シン」、意味は施し、布施。
「誅りて」は「きりて」(伐りて)と訓じた。ちがやであるから「きりはらひて」と訓じた方が字義からもいいのかも知れないが、直前で「薙りて」を「きりて」と訓じたのに合わせた。
「河州の刺史平の盛次、世に太郎丸と稱する者」とは室町時代の武将、猪苗代氏一族の三浦河内守盛次。現在、応永十一(一四〇四)年頃に建てられたと考えられる彼の館遺構が示現寺に近い喜多方市豊川町太郎丸に残る。太郎丸は彼の幼名。……おいおい、ここで急に源翁心昭の同時代人を登場させるとは……ナンダ! 最後までしっかりカブけ! こら!
「欽歆」は「きんきん」と読み、謹んで敬い、歓喜して受けること。
「岩崎の莊」現在の福島県喜多方市岩月町宮津岩崎か。やはり示現寺に極めて近い。
「弘安三年庚辰春正月七日、泊然として寂す」最後はまたしても時計の巻き戻し。弘安三(一二八〇)年では、源翁「生誕」の四十九年も前である。現在知られる源翁心昭の示寂は、応永七(一四〇〇)年庚辰正月七日で、ここではまたしても干支が一致、月日までも同一である(但し、示現寺伝によると前年の応永六年五月七日とする)。「泊然」は心静かに、欲のないさまを言う。
「建治帝」後宇多天皇のこと。在位は文永十一(一二七四)年から弘安十(一二八七)年で、弘安三年の逝去なら、当然、彼の勅とせざるを得ない。
「齡山の延」この異次元物語を解明する何らかの糸口になりそうな人物なのだが、残念ながら不詳である。
「膽量廓如」度量の広く、明らかなさま。
「大覺」蘭溪道隆(建保元(一二一三)年~弘安元(一二七八)年)。うん! やらかしてくれましたな、最後にギャラが想像も出来ない特別友情出演の大物が登場! コレデ、イイノダ!
「毒手」心昭は曹洞宗であるから、臨済宗をかく謂うのである。しかし、そこでは所謂、あくどい手段、という「毒手」の意よりも、宗派を超えた禪機の提示と読むべきところではあろう。]

又【千手經瀆蒙記】、殺生石の記をせたり。其畧に云、明德元年、鎌倉より、能州總持寺大徹沙門に命じて殺生石のモトに行て、彼亡魂をスクはしむ。時に源翁は治病のために奈須ナスの温泉に到るツイで、殺生石を打破すとあり。按ずるに、源翁禪師、大覺禪師に嗣法すと云事、源翁の傳にせ、寺僧も云傳る事なれば、明德元年の説は誤りならん。源翁禪師は弘安三年に寂すとあり。 [やぶちゃん注:「千手經瀆蒙記」不詳。識者の御教授を乞う。
「明德元年の説は誤りならん」とあるが、以上の私の注からお分かりのように、これこそが正しい。くどいようだが再度示す。現在知られる源翁心昭の生没年は、
嘉暦四(一三二九)年生~応永七年(一四〇〇)年没
で、この「明德元年」は康応二・明徳元/元中七(一三九〇)年はこの閉区間に入るが、ここで最後に没年とする、
弘安三(一二八〇)年
は、実に源翁心昭の、
生年比/四十九年前・没年比/百二十年前
となるのである。ダメ押しでやはり再掲すれば、そもそも本文にも殺生石封殺に失敗したと提示され、ここでもやはり挙げられている「能州總持寺大徹沙門」大徹宗令の生没年は、
正慶二・元弘三(一三三三)年生~応永十五(一四〇八)年没
なのである。以上から、この伝承上の源翁と実在の源翁が、その事蹟が恐ろしいほど偶然に一致する全くの同名異人である可能性は、最早全くなく、この南北朝・室町期に生きた源翁心昭に付会されたトンデモ伝承であったことは、幕末にあってもちょっと考えれば明白であったはずなのである。植田は何故、そうしたそれほど難しいとは思われない検証を敢えて怠ったのであろうか。……兵学校の校長であった彼の中にも、どこかに幻想的ロマンティシズムへの嗜好が潜んでいたからなのだろうか。……]
   以 上

開山塔の跡 佛超菴と號す。今はホロびたり。方丈の後の山上に跡あり。
辨才天の祠 方丈の西の方、岩窟にあり。雨寶殿と號す。
道智塚ダウチツカ  蛇居谷ジヤクガヤの西南にあり。或は阿古耶尼アコヤノアマツカとも云ふ。共に未考(未だ考へず)。
[やぶちゃん注:一般に「道智塚」というと、養老年間の千日修行(七一七年から七二〇年とされる)で城崎温泉を開いたことで知られる、地蔵菩薩の化身と呼ばれた道智上人の遺徳を顕彰する塚を意味し、各地に見られる。「阿古耶尼」は阿古耶の松に纏わる伝説上の女性。右大臣藤原豊成の娘とも陸奥信夫領主藤原豊充の娘ともされ、詩歌管弦に優れ、松の精との悲恋で知られる。但し、現在の葛原岡神社の鳥居の傍に建つ鎌倉青年団の「藤原仲能之墓」の碑によれば、本海蔵寺の伝によって道智禅師藤原仲能の墓所と推察されている(則ち「道智」は同法名異人である)。仲能は鎌倉幕府評定衆、後に海蔵寺中興の檀家長となっている。位牌が海蔵寺に現存する。]
寂外菴の跡 寺の西南にあり。寂外ジヤクグハイは當寺の弟二世にて源翁の法嗣なり。木像、寺に有。此邊を寂外が谷と云ふ。又は蛇居谷ジヤクガヤと云ふ。賴朝ヨリトモ、此の處をトヲさんとて、ナカりけるに、蛇のすむ石有て、流る。故にヤメられけると也。之に因て蛇居谷ジヤクガヤと云と也。其の跡今あり。其の外、棲雲菴・照用菴・崇德菴・翠藤菴・龍雲菴・龍溪菴・福田菴・龍隠菴等の塔頭の跡あり。

◯山王堂が谷 山王堂谷サンワウダウガヤツは、源氏山ゲンジヤマの西北にあり。【東鑑】に、寛元三年三月十九日、大納言家〔賴經。〕日光の別當犬懸谷イヌカケガヤツの坊より、龜谷カメガヤツの山王の寶前に御マイリとあり。昔は山王堂有けるとなり。其の跡今ハタケ也。又名越ナゴヤにも山王堂あり。

◯景淸籠 景淸籠カゲキヨガロウは、扇谷アフギガヤツより假粧坂ケワヒザカへ登る道のハタ、左に大巖窟あり。アク七兵衞景淸カゲキヨロウ也。或人の云、景淸カゲキヨは鎌倉へ不下(下らず)、可下(下るべき)との支度シタクの爲に作りたるならんと。今按ずるに、【長門本平家物語】に、建久六年三月十三日、大佛供養あり〔于賴朝在京(時に賴朝ヨリトモ、京に在り)。〕。上總の惡七兵景淸カゲキヨ鎌倉殿カマクラドノへ降人にマヒリければ、和田左衞門の尉義盛ヨシモリアヅケらる。昔し平家にカウぜしヤウに、スコしもクチへらず。義盛ヨシモリに所をも不置(置けず)、一座をせめて、サカヅキ サキり、或はエンのきはに馬引寄ヒキヨセのりなどしければ、もてあつかひて、他人にアヅけさせタマへとマフしければ、八田ハツタ右衞門の尉知家トモイヘに預けらる。後には大佛供奉の日をカゾへて、同(じ)く七年三月七日にて有けるに、湯水ユミヅめて終ににけるとあり。【東鑑】に、賴朝卿、建久六年二月十四日、御上洛有て、同年七月八日、鎌倉に著御とあり。時に義盛ヨシモリ知家トモイヘも供奉す。しかれば景淸カゲキヨが死去、建久七年とあれば、鎌倉にてシヽたる事アキラかなり。ソノウヘ景淸カゲキヨムスメを、龜谷カメガヤツの長にアヅけしと云傳ふ。其のツカ巽荒神タツミノクハウジンウシロにあり。彼是カレコカンガふるに、此籠にて死たる歟。
[やぶちゃん注:この土牢の辺りには真光院という寺があり、ここはその塔頭であった向陽庵があったともされている。次の「卷之五」冒頭に「人丸塚」が語られるが、「鎌倉攬勝考卷之九」には異なった考証が語られている。該当箇所を引用する。
人丸塚 巽荒神の東の方、畠中にあり。土人いふ、惡七兵衞景淸が娘、人丸姫といふものゝ塚なりといふは、【平家物語】に、景淸が女を、龜ケ谷の長に預しなどあるより、此塚の名を人丸姫が塚なりと、土人等いひ傳へけり。實はさにはあらず、古へ宗尊親王、敷しまの道を御執心ありしより、此邊に歌塚を築かせ給ひ、人丸堂をも御建立の地曳せられしが、世上の變異に仍て、急に御歸洛ゆへに、其事ならずして廢せり。夫ゆへ後に、景淸が女の塚と唱へ誤れる由。
但し、現在、安養院に「人丸塚」と呼ばれる塚があり、これについて、景清の娘であった人丸姫が捕えられた父に会うために京都から鎌倉に下向したものの、遂に面会は許されず、景清の死後、尼となって景清の守本尊であった十一面観音を祀って先の土牢に供養したとも伝えられている。数年後に人丸姫は亡くなって扇ヶ谷(巽荒神は扇谷地内)に葬られ、そこを「人丸塚」と呼んだが、後に荒廃して石塔が安養院に預けられたとも伝承されている。]

◯播磨屋敷 播磨屋敷ハリマヤシキは、景淸籠カゲキヨガロウの北の方を云ふ。今はハタケとす。里老の云、播磨守某ハリマノカミソレガシが屋敷なりと。未詳(未だ詳らかならず)。按ずるに、カウの播磨の守師冬モロフユ、源の基氏モチウヂの執事にて甚だ權威あり。此の人の舊宅か。
[やぶちゃん注:「高の播磨の守師冬」高師冬(?~正平六・観応二(一三五一)年)は関東執事。高師直の従兄弟で、後に師直の猶子となった。師直と共に足利尊氏に仕え、初代鎌倉公方となった尊氏次男基氏の入鎌に従い、初代関東管領上杉憲顕とともに幼少の基氏の補佐に当たった。ところが京都で足利直義と高師直が対立、直義派の憲顕と師冬の関係も悪化し、正平五・観応元(一三五〇)年、失脚敗走した師冬は甲斐須沢城(現在の山梨県南アルプス市白根町)に遁れたが、翌年に諏訪氏の攻勢を受けて自刃した。]

◯梅谷〔附綴喜の里〕 梅谷ムメガヤツは、假粧坂ケワヒザカの下の北の谷なり。此邊を綴喜里ツヾキノサトと云ふ。【夫木集】に、綴喜原ツヾキノハラ相模サガミの名所として、家隆の歌あり。「が里につゞきのハラ夕霞ユフガスミケムリも見へず宿ヤドはわかまし」と。此の地を詠るならん。

◯武田屋敷 武田タケタ屋敷は、梅が谷の少し南方也。今は畠とす。武田信光ノブミツが舊宅歟。
[やぶちゃん注:「武田信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)は、甲斐武田氏第五代当主で甲斐国八代郡石和荘に拠点を置き、石和五郎と称した人物。頼朝の蜂起に従った古参で、幕下にあっては弓馬四天王の一人に挙げられた名人である。暦仁二・延応元年(一二三九)年に出家、鎌倉の名越に館を構えて家督を長子信政に譲っているから、これが彼の旧宅とすれば、その出家前の屋敷跡と考えられる。]


[假粧坂・六本松・葛原岡・常盤里道・藤澤道の図]


○假粧坂 假粧ケワヒ〔或は作氣生又形勢(氣生又形勢に作(る)。〕ザカは、扇谷アフギガヤツより西の方へサカなり。往還の道なり。相傳ふ、昔し平家の大將のクビをけしやうして、實檢したる地なり。故に名く。或は云、イニシへ遊女の住居せし故に名くともふと。【曾我物語】に、假粧坂ケワヒザカフモトに、曾我ソガの五郎時宗トキムネカヨひし遊女あり。梶原カヂハラ源太景季カゲスヘも、亦此女に通て歌など詠じけるとなん。時宗が歌もあり。【東鑑】には僻粧坂不見(へず)。【太平記】に新田義貞ヨシサダ、五十萬七千餘騎、假粧坂より寄するとあり。又【鎌倉大草子】に、禪秀亂の時、持氏方モチウヂガタより、氣生坂ケハイザカへは、三浦相模ミウラサガミの人々をしむけらるとあり。此の時持氏モチウヂ、佐介が谷に居られたり。
[やぶちゃん注:「【東鑑】には僻粧坂見へず」とあるが、「吾妻鏡」建長三(一二五一)年十二月三日の以下の記載に『氣和飛坂』で現れている。
三日戊午。鎌倉中在々處々。小町屋及賣買設之事。可加制禁之由。日來有其沙汰。今日被置彼所々。此外一向可被停止之旨。嚴密觸之被仰之處也。佐渡大夫判官基政。小野澤左近大夫入道光蓮等奉行之云云。
 鎌倉中小町屋之事被定置處々
  大町 小町 米町 龜谷辻 和賀江 大倉辻 氣和飛坂山上
 不可繋牛於小路事
 小路可致掃除事
   建長三年十二月三日
◯やぶちゃんの書き下し文
三日戊午。鎌倉中の在々處々の小町屋及び賣買の設けの事、制禁を加ふべしの由、日來其の沙汰有り。今日、彼の所々に置かる。此の外、一向に停止せらるるべきの旨、嚴密に之を觸れ仰せらるるの處なり。佐渡大夫判官基政・小野澤左近大夫入道光蓮等、之を奉行すと云云。
鎌倉中 小町屋の事 定め置かるる處々は
  大町 小町 米町 龜谷辻 和賀江 大倉辻 氣和飛坂山上
 牛を小路に繋ぐべからざる事
 小路を掃除致すべき事
   建長三年十二月三日
なお、北条本「吾妻鏡」では『乗和飛坂』と表記する。なお、現在の史跡指定の正式名称では本文と同じ「仮粧坂」(假粧坂)である。古語としての「けはひ」は平安の昔から物腰・態度・素振りの意を持ち、恐らくは鎌倉七口の一つで、武蔵国から鎌倉へ抜ける上の道(鎌倉時代初期には中の道・下の道もここを通った可能性がある)の最後の首都への入口であることから、身だしなみを整える、衿を正すの意の「けはいざか」を本来の語源とすると考えてよい。]

〇六本松 六本松ロクボンマツは、假粧坂ケワヒザカの上に二本ある松なり。イニシへは六本ありつる歟。里人の云、駿河スルガ次郎淸重キヨシゲ、此處に立て鎌倉中を見おろしたりと。【上杉禪秀記】に、源の滿隆ミツタカツハモノ共、拾萬騎にて、六本松にし寄する。上杉ウヘスギ彈正少弼氏定ウヂサダ、扇が谷より出向て、爰を先途と防ぎタヽカひけりとあり。
[やぶちゃん注:「駿河次郎淸重」(?~文治五(一一八九)年)は竹下次郎とも。元来は猟師であったとも言われ、当初は頼朝の家臣であったが、後に義経に従い、平泉衣川で戦死したと伝えられる。「義経記」では平宗盛の子清宗を六条河原で斬ったのは彼とするから、この鎌倉を見下ろしたのは、例の腰越状の、義経が入鎌を禁じられた折りに、秘かにここに来て、見渡したということか。次項に示される日野俊基はこの六本松の下で処刑されたとも伝えられる。孰れにせよ、ここに示された人々は孰れも敗死の影がある。植田はここにそうした不吉なパワーを感じていたのかも知れない。]

○葛原岡 葛原岡クヅハラガオカ假粧坂ケハヒザカを越て、北の野を云なり。昔し相模サガミ入道、右少辨藤原の俊基トシモトガイせし地なり。【太平記】に俊基トシモトは、殊更謀叛コトサラムホンの張本なれば、近日に鎌倉中にて、斬奉キリタテマつるべしとぞ定ける。さて俊基トシモトスデ張輿ハリコシせられて、假粧坂ケハヒザカへ出づ。こゝにて工藤クドウ二郎左衞門け取て、葛原岡クヅハラガオカに、大幕ヲヽマク引て、敷皮シキガハの上に坐し給へり。俊基トシモト疊紙タヽフカミを取出し、辭世の頌をき給ふ。古來一句、無死無生、萬里雲盡、長江水淸(古來の一句、死も無く生も無し、萬里雲盡(き)て、長江水淸し)。筆をサシヲけばクビつとあり。【神明鏡】に、元德元年、俊基トシモト、又關東へ召下メシクダされ葛原クヅハラにて、五月廿日にチウせられけるに、かくなん、「アキをまたで葛原クヅハラはらにゆる身の、露のウラみや世にノコるらん」とあり。【鎌倉九代記】に、管領持氏モチウヂ、執事上杉憲實ウヘスギノリザネが家老長尾ナガヲ尾張の守入道芳傳ハウデンに、葛原岡クヅハラガオカにてひ、終に芳傳ハウデンタメらると有は、此の所なり。
[やぶちゃん注:「長尾尾張の守入道芳傳」は山内上杉家第三代家宰であった長尾忠政(生没年未詳)。但し、「永享記」等を読むと、この時の長尾の持氏への対応は臣下の礼節に則った美事なもので、逆に読む者の心を打つ。植田がこの史実をここに記すなら、そこまで書くべきであると私は思う。]

◯梶原村 梶原村カジハラムラは、葛原が岡より西の方、十四五町 バカリくなり。里老の云、梶原カジハラ平三景時カゲトキが舊地也と。此の所に鎌倉カマクラ權五郎景政カゲマサミヤあり。長谷ハセにある御靈宮ゴリヤウノミヤモト也と云ふ。【鎌倉系圖】をカンガふるに、景政カゲマサ景時カゲトキ、同姓一族なり。景政カゲマサムカシ此の邊に居住したるゆへ、其のミヤコヽてたるならん。景時カゲトキも、此の所に住したるゆへ、梶原カヂハラウヂとするか。景政カゲマサは、鎌倉をウヂとす。景時カゲトキが舊宅は、五大堂のキタ離山ハナレヤマをも(ふ)也。共に景時カゲトキが舊跡なるべし。
[やぶちゃん注:植田の叙述は偶然か意図があったか分からないが、実はこの梶原にある御霊神社は、元は直前の項に挙げられた葛原が岡に創建されたとも伝えられている。……私は大船の鎌倉市立玉縄小学校の出身である。遠足というと江ノ島か、この葛原ヶ岡が定番だった。……確か小学校二年生の秋の遠足だった。西の谷に面した芝草の斜面で、皆でお弁当を食べた。餓鬼大将の一人中島君(――私は彼によくいじめられたのだが、彼は中学生の時、池で溺れた弟を救おうとして溺死したと後年聞いた。彼は永遠にあの鼻を垂らした悪餓鬼のままに、私の記憶の中にいる――)が「おむすびころりん」よろしく、大きな御結びをわざと弾みをつけて転げ落としたのを覚えている。……私には今も、その転げ落ちてゆく、御結びのスローモーションの映像と、その時の、みんなの顔が、はっきりと確かに、昨日のことのように、見えるのだ。……何故だか分からない。……そして……私はそれを思い出す度に、何だか鼻の奥がツンとして……何だか悲しい気になるのを、常としているのである……]


新編鎌倉志卷之四