やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
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新編鎌倉志卷之八 附跋文

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いたが、これには多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせる箇所がある。第三巻より底本データを打ち込みながら、同時に汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した後、部分公開する手法を採っている。校訂ポリシーの詳細についても「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注の最後の部分を参照されたいが、「卷之三」以降、更に若い読者の便を考え、読みの濁音落ちと判断されるものには私の独断で濁点を大幅に追加し、現在、送り仮名とされるルビ・パートは概ね本文ポイント平仮名で出し、影印の訓点では、句読点が総て「。」であるため、書き下し文では私の自由な判断で句読点を変えた。また、「卷之四」より、一般的に送られるはずの送り仮名で誤読の虞れのあるものや脱字・誤字と判断されるものは、( )若しくは(→正字)で補綴するという手法を採り入れた。歴史的仮名遣の誤りは特に指示していないので、万一、御不審の箇所はメールを頂きたい。私のミス・タイプの場合は、御礼御報告の上で訂正する。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。原則、踊り字「〻」は「々」に、踊り字「〱」「〲」は正字に代えた。なお、底本では各項頭の「〇」は有意な太字である。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本・影印では「已」と「巳」の字の一部が誤って印字・植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。
【テクスト化開始:二〇一二年一月二十二日 作業終了:二〇一二年三月四日】]

新編鎌倉志卷之八
〇朝夷名切通〔附上總介石塔 梶原太刀洗水〕 朝夷名アサイナ〔或作比奈(或は比奈に作る)。〕の切通キリトホシは、鎌倉より六浦ムツラへ出る道なり。ヲホ切通・切通とて二つあり。【東鑑】に、仁治元年十一月三十日。鎌倉と六浦ムツラの中間を、始て當道のミチとせらるべきの由評定有て、今日ナハく。同(じ)く二年四月五日、大浦の道をツクハジめらる。前の武州泰時ヤストキ、其の所に監臨せしめ給ふの間だ、諸人羣集、各々土石を運ぶ。仍て觀者犇營ホンエイせずと云事なしとあり。此道の事なるべし。土俗の云、朝夷名アサイナの三郎義秀ヨシヒデ、一夜の内にきたり。故にナヅくと。未考(未だ考へず)。《峠坂》此のサカ道をトウゲの坂と云ふ、坂の下六浦ムツラの方を峠村トウゲムラと云ふ。近き比も淨譽向入と云道心者、此道をタイラげ、往還のナヤみをやむるとなり。延寶三年十月十五日に死すと、石地藏に切付てあり。鶴が岡鳥居の前より、こゝに至までの路程、關東道六里なり。
[やぶちゃん注:「ヲホ切通・切通とて二つあり」この記述は切通しが二つあるように読めるが、通説では峠の頂上付近(鎌倉市と横浜市市境に相当)を「大切通し」と呼称し、そこから六浦寄りの下る部分を「小切通し」と呼ぶようである(二箇所説をとる研究家もおり、「大切通し」に向かう右手を奥に入ったルートを「小切通し」の候補としているのを見かけた。あったとしても現在は廃道化している。私はかつてこの右手ルートから入って、池子の弾薬庫の監視塔が見える位置まで山中に分け入った上、金沢側の熊野神社へ下ったことがあるが、それらしい「切通し」遺構は発見出来なかった)。
「仁治元年十一月三十日。……」は仁治元(一二四〇)年十一月大の以下の記事を指す。
〇原文
卅日己未。天晴。鎌倉與六浦津之中間。始可被當道路之由有議定。今日曳繩。打丈尺。被配分御家人等。明春三月以後可造之由被仰付云々。前武州監臨其所處給。中野左衞門尉時景奉行之。泰貞朝臣擇申日次云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
卅日己未。天晴。鎌倉と六浦の津との中間に、始めて道路を當てらるべきの由、議定有り。今日繩を曳き、丈尺を打ちて、御家人等に配分せらる。明春三月以後造るべきの由仰せ付けらると云々。前武州其の所處に監臨し給ふ。中野左衞門尉時景、之を奉行す。泰貞朝臣日次ひなみえらび申すと云々。
「中野左衞門尉時景」は高幡(西)宗貞の子孫と思われ、後の武蔵七党の一つとなる西党の中野氏の祖と考えられる。「泰貞朝臣」は安倍泰貞。安倍晴明から八代目に当たる正統の陰陽師である。すぐに着工せず「明春三月以後」となったのはこの泰貞が「日次を擇」んだ、占いをした結果であることが次の注に引いた「吾妻鏡」記事で明らかになる。
「同じく二年四月五日、……」は凡そ四ヶ月後、同じく「吾妻鏡」翌仁治二(一二四一)年四月小の以下の記事を指す。
〇原文
五日癸亥。霽。六浦道被造始。是可有急速沙汰之由。去年冬雖被經評議。被始新路。爲大犯土之間。明春三月以後可被造之旨。重治定云々。仍今日。前武州令監臨其所給之間。諸人群集。各運土石云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日癸亥。霽。六浦道を造り始めらる。是れ、急速の沙汰有るべきの由、去年の冬評議を經らると雖も、新路を始めらるること、大犯土だいぼんどたるの間、 明春三月以後に造らるべきの旨、重ねて治定すと云々。仍りて今日、前武州其の所に監臨せしめ給ふの間、諸人群集し、各々土石を運ぶと云々。
「大犯土」新人物往来社一九七九年刊貴志正造編著「全譯 吾妻鏡 別巻」の用語注解によれば、「犯土ぼんど」とは『土の神の領域を犯すこと。またそれについての陰陽道の禁忌および祭儀をいう。土の神(土公)の居を占める期間中、地ならし・土の移動・穴掘りなど、すべて土地に変化を与える行為を「土を犯す」「犯土」と称して、陰陽道では重い禁忌と』した、とある。「大犯土」はその禁忌抵触が激しいものを言う。「方違へ」と同様、専ら土公の方位と滞留時間が問題なのであって、必ずしも掘削土木作業が大規模であったからではあるまい。
「仍て觀者犇營ホンエイせずと云事なしとあり」は、「吾妻鏡」の翌月仁治二(一二四一)年五月小十四日の記事が張り合わせてある。なお、以下で見る通り、「犇營」は「奔營」の誤植である。以下に示す。
〇原文
十四日辛丑。六浦路造事。此間頗懈緩。今日前武州監臨給。以御乘馬令運土石給。仍觀者莫不奔營云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十四日辛丑。六浦の路造りの事、此の間、頗る懈緩けくわんす。今日、前武州監臨し給ひ、御乘馬を以て土石を運ばしめ給ふ。仍りて觀る者、奔營せざる莫しと云々。
「懈緩」は職務怠慢を言うが、特に意識的なものではなく、作業が想像以上に難航し、進捗状況が頗る悪かったことを言っていよう。「奔營」は、ある行為のために忙しく走り回ることを言う。
「朝夷名の三郎義秀、一夜の内に切り拔きたり」は人口に膾炙した伝承だが、彼は遙か前、建暦三(一二一三)年五月に起こった和田合戦で奮戦した後に行方を晦ましており、考証の余地はない。寧ろ、何時頃から「あさひな」「あさいな」と呼称されるようになったか、プロトタイプの漢字表記はどうであったかが知りたいところだ。原典は未確認であるが、個人のHP「鎌倉街道上道埼玉編」の中の「鎌倉の古道物語」の「鎌倉七口 朝比奈切通 その3」には、「朝比奈切通」という名称が初めて登場するのは「金兼藁」という紀行文であり、これは万治二(一六五九)年に筆者が鎌倉に来て滞留遊覧した記録で「切通之間一町、兩崖高十丈。殆如絶壁、不生艸木。」『とあり切通しが高く絶壁の如きであるように記されています。おそらくこの頃から鎌倉切通が一般的に知られるようになっていったのではないでしょうか』と記されておられる。この「金兼藁」という作品は稀覯本で、私も知らなかったが、個人のHP「北道倶楽部」の「鎌倉歴史地理の文献」に依れば、著者不明ながら、林羅山若しくはその第四子であった林春徳の周辺の人物と推測され、『おそらくは林羅山の門人にして事務方、林家の家司、今流に言えば事務局長のような立場にあった者が、林羅山の突然の死、そしてその法事等の事後処理を終え、今で云えばちょうど定年の時期とも重なり、定年記念旅行のような感じで鎌倉に旅し、かなりの長期間に渡って滞在していたと思われる。本書は林春徳の蔵書であった。著者の主な目的は鎌倉においての漢詩であったろうが、歴史資料としての価値はその眞市詞書きであり、鈴木千歳氏の研究によれば鎌倉の地形、建物に関する記載では金兼藁ほど正確なものは無いとのことである』とある(「眞市」は不詳。「眞名」(漢字)の誤植か)。読んでみたい作品である。
「淨譽向入」については、「新編相模国風土記稿」に『峠坂 村中より大切通に達する坂なり。延宝の比淨譽向入と云ふ道心者、坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云ふ。此僧、延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと「鎌倉誌」にみゆれど、今文字剥落す』とあるが、現在も路傍に石仏が残り、向かって左手に「延宝三年十月十五日」と刻み、右手の欠け残った上部に「淨譽」の刻字を現認出来る(「北道倶楽部」の「六浦道と朝比奈切通し 3」の上から二枚目の写真を参照されたい)。「延宝三年」は西暦一六七五年。
「關東道六里」の「關東道」とは坂東路、田舎道を意味する語で、同時にこの表現は特殊な路程単位を用いていることを意味する。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかったから、「六里」は約三・八七キロメートルとなる。]
上總介カズサノスケが石塔 大切通と小切通との間、田の中にあり。上總の介未考(未だ考へず)。平の廣常ヒロツネが事歟。廣常は、高望王九代孫にて、上總介高望タカモチ王九代の孫に手、上總の常隆ツネタカが子なり。武勇の名譽關東に振へり。坂東の八平氏、武林の八スケの其の一人也。賴朝ヨリトモ卿に屬して、義兵を助け、良策戰功多し。ノチに讒言に因て、賴朝にウタガはれ、壽永二年十二月にコロされたり。【愚管抄】に、スケの八郎廣常ヒロツネを、梶原景時カジハラカゲトキをして討せたり。景時、雙六スゴロク打て、さりげなしにて、局をへて、ヤガクビをかいきりて、もてきたりけるとあり。後に廣常ヒロツネ、謀叛にてあらざる事、支澄明白にて、賴朝これを殺したるを後悔し給ひたる事、【東鑑】にへたり。鎌倉より切通キリドヲシの坂へノボる左の方に、岩間イハマより涌出でる淸水あり。梶原カジハラ太刀洗水タチアラヒミヅナヅく。或は、平三景時、廣常をちし時、太刀タチアラふたる水とふ事歟。是も鎌倉五名水の一つなり。或は此邊に上總介廣常がタクありつるか。【東鑑】に、賴朝卿、治承四年十二月十二日に、上總介廣常が宅より、大倉ヲホクラの新造の御亭に御移徙ワタマシとあり。此邊よりの事歟。
[やぶちゃん注:現在、横浜市金沢区朝比奈のバス停の横に五輪塔があり、それが「上総介塔」と呼ばれているが、これは昭和五十六(一九八一)年に県道原宿六浦線拡幅工事の際、この「上總介が石塔」が行方不明となってしまったために地元有志が再建した新しいもので、伝承の塔でも伝承の場所でもない。私が朝比奈を最初に踏査したのは一九七七年頃であったから、失われた石塔を実見しているのかも知れないが、残念なことに記憶がない。伝承上は上総介広常の墓とされるが、「新編鎌倉志」の筆者同様、信じ難い。
「平の廣常」房総平氏惣領家頭首にして東国最大の勢力を誇った上総介広常(?~寿永二(一一八四)年)の謀殺については、幾つかの伝承が残る。以下、ウィキの「上総広常」より引用すると、「吾妻鏡」治承五(一一八一)年六月十九日の条などでは、石橋山で敗退した頼朝を千葉の浜で騎乗のまま出迎えたその時から、『頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともある』ことなどが遠因とされ、謀殺についても寿永二(一一八三)年十二月に『頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時に命じて、双六に興じていた最中に広常を謀殺させた。嫡男能常は自害し、上総氏は所領を没収された。この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免した。しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。その赦免は当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である』とする。更に慈円の「愚管抄」の巻六によれば、後に頼朝が初めて京に上洛した建久元(一一九〇)年のこと、後白河法皇との対面の中で広常誅殺の話に及んで、頼朝は『広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいた為、殺させたと述べた事を記している』とある。ここで言う「関東の自立」とは所謂、同じ下総国佐倉を領した平将門のような新皇の名乗りによる完全な独立宣言を暗示させているのであろう。「吾妻鏡」では、謀殺直後の壽永三 (一一八四) 年一月小十七日の条に、以上の広常冤罪の証しとなる記事が示されている。
〇原文
十七日丁未。藤判官代邦通。一品房。幷神主兼重等相具廣常之甲。自上総國一宮。皈參鎌倉。即召御前覽彼甲。〔小櫻皮威。〕結付一封狀於高紐。武衞自令披之給。其趣所奉祈武衞御運之願書也。不存謀曲之條。已以露顯之間。被加誅罰事。雖及御後悔。於今無益。須被廻沒後之追福。兼又廣常之弟天羽庄司直胤。相馬九郎常淸等者。依緣坐爲囚人也。優亡者之忠。可被厚免之由。被定仰云々。願書云。
 敬白 上總國一宮寳前
   立申所願事
 一 三箇年中可寄進神田二十町事
 一 三箇年中可致如式造營事
 一 三箇年中可射萬度流鏑馬事
 右志者。爲前兵衞佐殿下心中祈願成就東國泰平也。如此願望令一々圓滿者。彌可奉崇神威光者也。仍立願如右。
    治承六年七月日   上總權介平朝臣廣常
〇やぶちゃんの書き下し文
十七日丁未。藤の判官代邦通一品房いつぽんばう幷びに神主兼重等廣常のよろひを相具し、上総國一宮より鎌倉へ皈參きさんす。即ち御前に召しの甲〔小櫻皮威。〕をる。一封の狀を高紐に結び付く。武衞自ら之を披らかしめ給ふ。其の趣は、武衞の御運を祈り奉る所の願書なり。謀曲を存ぜざるの條、已に以て露顯するの間、誅罸を加へらるる事、御後悔に及ぶと雖も、今に於ては益無し。須らく沒後の追福を廻らさるべし、兼ては又、廣常が弟の天羽の庄司直胤・相馬の九郎常淸等は、緣座に依りて囚人めしうどたるなり、亡者の忠に優じ、厚免せらるべきの由、定め仰せらると云々。
願書に云く、
 敬ひてまうす 上總國一宮の寳前
   立て申す所願の事
 一 三箇年の中 神田二十町を寄進べき事
 一 三箇年の中 式のごとく造營を致すべき事
 一 三箇年の中 萬度の流鏑馬を射るべき事
 右志しは 前の兵衞の佐殿下の心中祈願成就 東國泰平の爲なり 此くのごときの願望 一々圓滿せしめば 彌々神の威光を崇め奉るべき者なり 仍つて立願 右のごとし
    治承六年七月日   上總權の介平の朝臣廣常
「一品房」は一品坊昌寛(生没年未詳)。頼朝の挙兵の当時からの祐筆や使者を務めた僧。「吾妻鏡」によれば治承五(一一八一)年の鶴岡八幡宮造営の、また、建久元(一一九〇)年及び建久六(一一九五)年の二度の頼朝上洛の際には宿舎造営の奉行を仕切っている。娘の一人は二代将軍頼家の側室(栄實と禅暁の母)。「高紐」は鎧の後ろ胴に続く肩上わたがみの先端と前胴の胸板を繋ぐための懸け外しのこはぜをつけた紐。「天羽の庄司直胤」広常の弟。上総国天羽あもう郡天羽の庄(現在の富津市)の荘官として天羽庄司を名乗った。「相馬九郎常淸」も広常の弟。「相馬」は相馬の御厨である。彼はその内の北相馬(現在の茨城県取手市や守谷市付近)を管理していた可能性が指摘されている。
「賴朝卿、治承四年十二月十二日に、上總介廣常が宅より、大倉の新造の御亭に御移徙とあり。此邊よりの事歟」とあるが、私はこの十二所が個人的に大好きで、幾度となく訪れているのだが、幕府が出来る直近に、あの今でさえ山深い辺地に、かの豪将上総介広常の屋敷があったこと自体、かなり疑問に思っているのである。そもそも騙し討ちの太刀の血糊を洗った泉水が「梶原の太刀洗水」と称して後に名水となるというのも、実は穏やかならざる気がして解せない。広常邸跡と称する場所も古地図を見ると十二所の朝比奈切通の近くにあったりするのだが(三十数年前、私は半日山中を彷徨ってそれらしい高台に立ったこともある)、実際の感覚としては私には十二所に広常邸があったというのは信じ難いというのが本音である。]

〇鼻缺地藏 鼻缺ハナカケ地藏は、海道の北の岩尾イワヲに、大ひな地藏をり付てあり。是より西は相州、束は武州なり。《界地藏》相・武の界にあるを以て、サカヒの地藏とく。像の鼻缺ハナカケてあり。故に卑俗、鼻缺ハナカケ地藏とふなり。北の方へく道あり。釜利谷カマリヤへ出て、能見堂ノケンダウへ登る路なり。
[やぶちゃん注:朝比奈から六浦へバス停を一つ戻った、大船方面行大道中学校前バス停の正面にあるが、風化が著しく像型のみで、仏体の確認は出来ない。現在の高さは凡そ四メートルある。天保四(一八三三)年刊の「江戸名所図会」には(ちくま学芸文庫版を底本としたが、恣意的に漢字を正字化、ルビの一部を省略した)、
界地藏 土俗、鼻缺地蔵と稱ふ。光傳寺より九丁あまり西の方、鎌倉道の傍らにあり。巨巖こがん壁立へきりふしたるところに、この尊像をり出だせり〔尊像の鼻、缺け損ず。ゆゑに鼻缺地藏といふ。〕。このところは武藏・相模の國界にして峠村となづく。
とあり、その図会には以下のような地蔵と思しい彫像がはっきりと見え、前の祭壇にも小仏一体、侍従川の橋の袂にはやはり石仏を乗せた道標らしきものが視認出来る。この道標から画面奥、鼻欠地蔵を回り込む山道が、本文で言う「釜利谷カマリヤへ出て、能見堂ノケンダウへ登る路」と考えられる。]

[「江戸名所圖會」所収の「鼻缺地藏」の図]


〇大同村〔附河村〕 大同村ダイドウムラ鼻缺ハナカケ地藏の東の方、海道よりは南に池子村イケゴムラへ出る道あり。其の東の方を河村カハムラと云なり。
[やぶちゃん注:武蔵国久良岐郡六浦荘大道村は現在の横浜市金沢区大道町である。この村名について、「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「六浦總説」冒頭の「村邑」の最初に掲げた植田孟縉は、
大同村 國境の地藏より東寄にて、南の方三浦都と山堺地なり。土人いふ、往古大同年中の石地藏有しゆへ、村名には唱えしが、今は其舊跡も定かならずといふ。
と記している。「大同年中」は西暦八〇六年から八一〇年までで平城天皇と嵯峨天皇の治世を言う。この植田の記述から見ると、江戸末期までにこの「大同」という村地名は廃されたと考えられる。それが明治以降に復活した際、表記が「同」から「道」に変わったものであるらしい。]

○光傳寺 光傳寺クハウデンジは、河村カハムラの北向にあり。常見山と號す。淨土宗、光明寺の末寺なり。開山は得蓮社忍譽靈傳と云ふ。本尊は阿彌陀、作者不知(知れず)。
[やぶちゃん注:横浜市金沢区六浦三丁目に現存。正しくは常見山無量院光傳寺。創建は天正元(一五七三)年頃とされ、本尊は阿弥陀如来。この本尊は『首は春日、胴は運慶』という伝承を持つ。当山十二世慧通上人が記したとされる縁起によれば、六浦の住人長野六右衛門なる傍若無人の剛の者が安房国は白浜に旅した。夜、騎乗していた馬が突然立ち泥んでしまって言うことをきかない。とこうするうちに怪しく光る物が近づいてきたため、六右衛門は、下馬するやその光体を太刀で一突きすると、それを刺したままに宿ねと戻った。翌日、現場に行ってみると、そこには阿弥陀如来像の首が転がっており、彼の太刀はその首を貫いていた。流石の偉丈夫六衛門も悔悟し、その首を六浦へ持ち帰ると草庵を建て忍誉上人を迎えて寺を開いたが、ある時、夢告があって鎌倉二階堂にあった胴体だけの仏像を貰い受けると首を添え附けて一体の本尊とした、という特異な由緒を持つ。
「得蓮社忍譽靈傳」の「蓮社」は「れんしや」「れんじや」と読み、浄土宗で宗脈や戒脈を相伝した人にのみ許された称号。]
地藏堂 寺門を入左にあり。像は運慶作。此を地福山藏光寺と云ふ。地藏の二字を分て號とす。
天神宮 寺の後にあり。
[やぶちゃん注:現在はこの地蔵の頭部内側に永仁二 (一二九四) 年に仏師増慶らによる作との墨書があることが知られている。以下に、「江戸名所図会」巻之二にある絵図を示す。背後の山上にある「天神」から見下ろした六浦は絶景として知られたが、それを偲ばせる門前の賑わいが伝わって来る。

[「江戸名所圖會」所収の「侍從川 光傳寺」の図]



〇侍從川 侍從川ジジウガハは、光傳寺の前を流るゝ川の下なり。俗に傳ふ、照天姫テルテヒメが乳母侍從ジジウと云女、身をげたる川なりと。
[やぶちゃん注:「照天姫」は多様なバリエーションを持つ貴種流離譚小栗判官の説話(後掲される「照天姫松」参照)で知られるヒロイン照手姫。「侍從」は、その照手姫の乳母の名前であって官役名ではない。但し、「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「侍從川」で植田孟縉は、
侍從川 鎌倉郡峠村の谷合より流出し、六浦徃來へ掛りて、流末は海に入。土俗いふ。照天が乳母、侍從といふ女の入水せし川ゆへ名附と。是は俗説なり。實は此川光傳寺といふの境内を流れて、又社務へ流るゝゆへ、もとは寺中川と號せしを、中古以來は侍從の説おこりて、終に今の名に唱ふといふ。
と記している。]

〇油堤 油堤アブラツヽミは、六浦橋ムツラバシの南、専光寺の前にあるツヽミなり。侍從、照天姫テルテヒメが粧具をち、此ツヽミま尋ね來り、其のき方不知(知れざる)事をかなしみ、此の所にて置て、身をげたるとあり。
[やぶちゃん注:これに対しても植田孟縉は「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「油堤」で実証的な疑義を唱えており、
油堤 六浦橋の南にある境なり。是も土人の説に、侍從が、照天の假粧の道具を持て、此堤まで尋來り、其行衛知ざるゆへ、悲み、其具を此所に捨置て、身を投しといふ。慥かならず。或説には、むかし此海嶺に鰯多く寄て、海上に山をなせり。依て土人悉く出て是を漁し、爰に竃を築き、魚油を饗製しけること夥し。爰の郷民等利潤を得たり。ゆへに此所え波よけの堤を設しを、油堤と名附といふ。
と記す。また「江戸名図会」では次に掲げる「專光寺」『の後ろの田圃でんぽを隔てて、半町ばかり西のかたに續きたる山を油堤といふ由、土人いへり〔『鎌倉志』には、「專光寺の前にあり」と記せり。〕』(割注表記は本頁に準じて変更した)と異説を示す。しかし、山を堤というのはどう考えてもおかしい。この「專光寺」は光伝寺の東にかつてあった(次項参照)。六浦橋の架かる六浦川の橋から上流部分は現在は暗渠になっているが、明治初期の古い地図を見ると、この六浦川は東に流れて現在の長生寺という寺のある丘陵の東麓を大きく回り込んで北上しており、侍従川とは別な河川であったことが分かる。本記載が「侍從川」のすぐ後に配されていることから考えると、この堤は侍従川の下流にあったものと考えられるが、光伝寺やかつての「專光寺」のあった南位置にあったとすると、「六浦橋の南」ではなく、少なくとも現在の六浦橋から見ると東南東に位置したことになる。地元の高齢者の話の中に、現在の侍従橋(環状四号の橋の五十メートルほど下流にあり、これが六浦古道の正式ルート)から見下ろした辺りを油堤と呼び、そこはかつてつるつるした岩場になっていて攀じ登ることが出来なかったといった叙述も発見した(それが油堤の由来なのかも知れない)。私はこの方位の問題や「堤」から「境」への表現の相違などから、江戸末期には既に、侍従川の自然の流路変更や河川改修・護岸工事によって原型の侍従川下流(若しくは河口)にあったはずの「油堤」が最早完全に消失してしまっており、その呼称だけが北背後の山名に移ったものかとも推測するものである。六浦・金沢の郷土史研究家の方などの御教授を乞うものである。]

○專光寺 專光寺センクハウジは、光傳寺の東の方にあり。日光山と號す。淨土宗、金澤町屋村天照寺の末寺なり。本尊觀音、春日が作。照天姫テルテヒメマモり本尊なり。ふすべられし時、身代ミガハリに立しと也。三十三年に開帳す。
日光權現の社 鎭守なり。
[やぶちゃん注:この寺は現在の金沢区東朝比奈にある日光山千光寺と考えられるが、現在位置は光伝寺の南西一キロ弱の位置にある。調べてみると昭和五十八(一九八三)年に六浦の川地区と呼ばれる光伝寺の東域から、この位置に移転していることが分かった。照手姫の話は後掲。]

〇六浦 六浦ムツラ〔浦或作連又作面(浦、或はツラ、又はツラに作る)。〕は、專光寺の東の民村なり。村の西より流れ出る川を、六浦川ムツラガハと云。小橋あり。《六浦橋》六浦橋ムツラバシと云ふ。南方は海濵なり。【東鑑】に、上總の五郎兵衞の尉忠光タヾミツを、武藏の國六連ムツラの海港に於て梟首すとあるは此の邊ならん。又【鎌倉大草子】に、應永四年正月廿四日、小山若犬丸ヲヤマワカイヌマルども二人、弱年ジヤクネンにてありしを、會津アイヅ三浦ミウラ左京の大夫是をめしとり、鎌倉へ進上しけるを、實檢の後、六浦の海にシヅめらるとあり。此海邊歟。又【鎌倉九代記】には、田村の庄司則義ノリヨシ小山若犬丸ヲヤマワカイヌマルクミして、管領氏滿ウヂミツソムきけるゆへに、鎌倉よりめければ、則義ノリヨシは自害す。其子五歳七歳になりしを生捕イケドりて、六面ムツラの沖に、シヅめにぞかけられけると有。
[やぶちゃん注:現在の横浜市金沢区六浦むつうらは往古は武蔵国久良岐郡に属し、中世には鎌倉への物資の輸入港として、江戸時代は江戸湾の港町として栄えた。中世には表記の通り「むつら」と呼称されて「六面」「六連」などの表記も用いられた。
「上總の五郎兵衞の尉忠光」藤原忠光(?~建久三(一一九二)年)のこと。平家の侍大将で藤原忠清の子。壇ノ浦の合戦後、行方を晦ましていたが、建久三年の鎌倉永福寺建立の工事にまぎれて源頼朝を狙うも見破られて同年二月二十四日に梟首となった。同じく頼朝暗殺を企んだヒットマン平悪七兵衛景清の兄でもある。「鎌倉攬勝考卷之七」の「二階堂廢跡」の「上總五郎兵衞尉忠光」に詳しく、捕縛の図もある。是非、参照されたい。
「小山若犬丸」(生没年未詳)は室町期の小山氏の武将。小山義政嫡男で本名は小山隆政とも言われる。父とともに鎌倉公方足利氏満に反旗を翻した。父の死後、徹底した氏満の捜索によって応永四年(一三九七)年正月に奥州会津にて自害したとも、また落ち延びて蝦夷地へと逃れたとも伝承される。この辺りのことは「鎌倉攬勝考卷之八」の「公方家營館舊跡」の「氏滿朝臣右兵衞督」の項に詳しく記載されている。是非、参照されたい。
「三浦左京の大夫」足利氏満直属の家老の一人。
「田村の庄司則義」応永三(一三九六)年に氏満から逃れた若犬丸が頼った陸奥国安積郡(後に磐城国田村郡)の田村則義。若犬丸は彼とその子清包の協力を得て再度反撃を試みた(田村庄司の乱)が、上記の通り、敗走した。本記載では「鎌倉九代記」(これは「鎌倉管領九代記」のことである)の方では、殺された若年の二人の子が若犬丸ではなく、則義の子のように読める。国立国会図書館の「鎌倉公方九代記」(「鎌倉管領九代記」の別書名)の該当箇所「氏滿軍記 小山若犬丸反逆附武勇幷沒落自害」を画像で視認したが、確かに『田村が子息』とある。「江戸名所図会」の「六浦」の本文でもそこを指摘するが、「江戸名所図会」ではこの書名を「北条九代記」と誤っている(浅井了意作とされる「北条九代記」の記載下限は鎌倉幕府滅亡までである)。なお、筑摩版編者のここの割注には、作者を浅井了意としている。実は最近の研究によって「鎌倉管領九代記」の作者も浅井了意とする説が有力視されているようだ。しかし、それでもこの注の付け方はおかしい。「江戸名所図会」の書名の誤りを指摘しておかないと、我々素人はとんだ誤解をすることになる。]

〇三艘浦〔附瀨ヶ崎〕 三艘浦サンゾウガウラは、六浦の南向ひの村なり。昔し唐船三艘此所に着く。故にナヅくとなり。其時にせ來りしとて一切經・靑磁の花瓶・香爐等、稱名寺にあり。此東の村を瀨崎セガサキと云ふ。
[やぶちゃん注:以下に、「江戸名所図会」に所載する地名の由来を描いた図を示す。

[「江戸名所圖會」所収の「三艘が浦の古事」の図]



〇嶺松寺 嶺松寺レイセウジは、金剛山と號す。六浦村の北、上行寺の西、民家のウシロにあり。建長龍峯菴の末寺なり。寺僧の云、千葉胤義チバノタネヨシが寺也。開山は月窻、諱は元曉、倹約翁の法嗣、紀州の人也。貞治元年十月二日に寂す。按ずるに、瀨戸セトの鐘の銘に、神主カンヌシ平の胤義タネヨシとあり。神主は平姓、千葉氏なり。此の人の建立歟。【千葉系圖】にも、胤義と云有。寺建立の事未詳(未だ詳(らか)ならず)。
[やぶちゃん注:現在は廃寺。殿が谷と呼ばれている次の上行寺(金沢区六浦二丁目)の西隣に江戸末期まで存続していた。寺跡の奥には代々の住持の墓及び北川氏・千葉氏歴代の墓石が残存する。北川氏は六浦平分村(現・六浦町)名主であり、千葉氏は本文にもある通り、代々瀬戸神社神職を務めた家系である。瀬戸神社に残る記録では文和三(一三五四)年に千葉胤義が神主に就いたとする(以上の記載は、主に個人のHP「小市民の散歩行こうぜ」の『ようこそ「金沢・時代の小波 六浦地区」へ』の「嶺松寺跡」を参照させて頂いた)。ただ「千葉胤義」と名乗る人物は鎌倉期から戦国期に複数存在し、私にはこの「胤義」がその中のどの流れを汲むものかは不詳である。気になるのは瀬戸神社の記載が南北朝までしか遡れないことである。鎌倉期に既に「千葉胤義」なる人物は存在する。「吾妻鏡」の正嘉二(一二五八)年三月一日の条の将軍宗尊親王二所詣先陣随兵の中に「葛西四郎太郎」という人物が登場するが、 HP「千葉一族」の「千葉市の歴代」の記載の中に、この人物は『立沢四郎太郎胤義のことと』推測される、という記載がある。同ページの「千葉頼胤周辺系譜」の系図によれば、彼は祖父が頼朝挙兵以来の近臣であった千葉胤正(永治元(一一四一)年?~建仁三(一二〇三)年?)の孫に当たる(嫡流ではない)ことが分かる。この人物と、この文和三年に神主に就いた「千葉胤義」が確かな連関を持っていることを明らかにする資料が欲しい。幾つかの系図を辿ってみたが、よく分からない。識者の御教授を乞うものである。
「貞治元年」西暦一三六二年。]

〇上行寺 上行寺ジヤウギヤウジは、六浦村の北頰キタガハにあり。法華宗、中山の末寺なり。堂に、釈迦・多寶・法華の題目を安ず。堂の前六浦の妙法と云、宗門にカクれなき法師の石塔あり。石塔に、文和二年六月十三日とあり。當寺の大旦那なり。寺僧の云。此の法師は、杉田スギタの如法とて、平の時賴トキヨリの臣也と云ふ。然れども時賴とは時代異なり。始めは眞言宗なりしが、日祐に歸依して寺を建立す。故に日祐を開山とす。身延・中山にも、此法師の像あり。日祐は千葉胤義チバノタネヨシの孫、胤貞タネサダの子、下總中山の第三祖と云。
[やぶちゃん注: 六浦山ろっぽざん上行寺は、当初は真言宗で金勝寺と称した。開基とされる日荷上人は俗名六浦荒井平次郎光吉、回船問屋を営む六浦湊の有力な豪商であったが、日祐に帰依、出家してここにあるように「六浦の妙法」と呼ばれた。なお、この寺には日蓮船中問答伝説が伝わる。建長六(一二五四)年に日蓮は安房から海路で鎌倉を目指したが、その船中で下総若宮領主富木胤継(どうも気になる。またしても「胤」の字が出現する名である)と乗り合わせ、胤継は日蓮に帰依し、六浦に上陸後、胤継の祈願寺であったこの金勝寺を改宗改名したとも伝えられている(但し、この伝承は同じ金沢区町屋町にある安立寺にも伝わる)。なお、この胤継なる人物は後に出家、自邸を寄進して中山本妙寺兼若宮法花寺(現在の法華経寺)を建立し、実にその初代住持となっている人物である。
「文和二年」文和二・正平八(一三五三)年。時頼は凡そ百年前の一二五六年に没しており、話にならない。
「胤貞」千葉胤貞(正応元(一二八八)年~建武三(一三三六)年)は千葉氏の第九代当主千葉宗胤長男。ウィキの「千葉胤貞」によれば、鎌倉幕府末期の正応元年に父宗胤が『異国警固番役として赴任していた肥前国小城郡で生まれたとされ、その後下総国千田荘を本拠とし、肥前国小城郡の他八幡荘や臼井荘も併せて領した』が、『父が下総不在の間に、叔父の胤宗に千葉氏の家督を横領され、父の没後折りしも勃発した南北朝の戦いに際して北朝方につ』いて、建武二(一三三五)年には『同族の相馬親胤らとともに叔父胤宗の子貞胤の本拠千葉荘を攻めた』が同年十一月、『胤貞と親胤は足利尊氏の檄文に拠って上洛、その間に貞胤方は胤貞の本拠千田荘を蹂躙』、『この騒乱は下総国中に波及したと』される。しかし、『南朝方の新田義貞の軍に属した貞胤は』建武三(一三三六)年十月に『越前国木芽峠で足利尊氏軍の斯波高経に降伏した』ため、胤貞は旧領を奪還して下総へ向かったものの、その途次、三河国で病没、『降伏した貞胤は北朝方に寝返って、貞胤の子孫が千葉氏宗家を称し存続した。そのため肥前国小城郡に在った弟の胤泰は九州千葉氏として活路を見出したが、宗家の地位を失った千田氏はその後衰退していった』とある。また、胤貞は日蓮宗に深く帰依していて、領地には『日蓮宗の古刹が多』く、特に千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山中山本妙寺兼若宮法花寺(現・法華経寺)の第二代住持日高を支援、第三代日祐は胤貞猶子と言われる、とある。但し、彼の父宗胤の父は千葉胤義ではなく、千葉頼胤であり、その周辺にやはり「胤義」という名の人物は謎であり、ネックである。
「日祐」(永仁六(一二九八)年~応安七・文中三年(一三七四)年)は、ウィキの「日祐」によれば、下総国出身で号は浄行院。『千葉氏一族の子と伝えられ、千葉胤貞の猶子となる』と、こちらでは明記する。胤貞の注でもあったように、その庇護下にあった中山本妙寺兼若宮法花寺の日高に師事、正和三(一三一四)年に彼を継いで同寺第三代住持となった。『千葉胤貞流の千田氏・九州千葉氏の外護を受けて、房総を中心として勧進・結縁活動にあたり、日本寺をはじめ、千田荘・八幡荘・臼井荘の各地に寺院を建立』、また、法華経寺初代日常及び二代日高によって遺された『日蓮真蹟である遺文の保存・整理に努め、更なる蒐集に努めた。また、毎年のように久遠寺の日蓮墓所に参詣を行い、天皇及び将軍(室町幕府)への奏聞のためにたびたび上洛を行』い、後に『千葉胤貞が肥前国小城郡に所領を持つと、現地に赴いて光勝寺の開山となった。更に法華経の転読・写経の繰り返しや日蓮の教義に対する研究を深め』、著書に「問答肝要抄」「宗体決疑抄」などがある。
最後に、「江戸名所図会」の「六浦上行寺」の図を以下に示しておく。

[「江戸名所圖會」より「六浦 上行寺」の図]

図中、本堂と祖師堂のとの間、かやの木の下に「妙法塔」とあるのが、本寺の開基とも大檀那とも言われる「六浦妙法日荷上人石塔」。]
寺寶
日蓮の消息 壹幅
大曼荼羅 壹幅 日祐の筆。
位牌 壹枚 日祐の筆の曼荼羅をけ、其の下に日祐一代引導の靈、法名俗名をる。應安三年とあり。
[やぶちゃん注:「應安三年」は応安三・建徳元(一三七〇)年。]
   已上

〇能仁寺舊跡 能仁寺ノウニンジ跡は、上行寺の東、民家と成てあり。上杉憲方ウヘスギノリカタ明月院道合の建立なり。古記に云、上杉房州太守、築武州金澤能仁寺、創七宇伽藍、請方崖和尚爲開山第一世、號山曰福壽。號寺曰能仁、太守有旨、陛能仁寺位列諸山者也。永德三年、小春日、東暉曇昕謹記、又本尊建立、永德二年三月七日始之、同年四月廿一日終、住持東暉曇昕、奉行〔德慧德澤。〕檀那巨喜、上總州法眼朝榮作之、大檀那房州道合、徳珠書之とあり。方崖、諱は元圭、儉約翁の法嗣なり。永德三年九月十六日に寂す。今建長寺龍峯菴に梁牌の銘あり其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下の牌銘は底本では全体が一字下げ。]
  能仁寺佛殿梁牌銘
恭願皇圖鞏固、而四海昇平、黎庶安寧、而五穀豐稔、檀那、前房州太守、菩薩戒弟子道合敬白〔左。〕、伏冀佛運帝運歴永劫而綿延、寺門檀門經萬年以昌盛、昔永德二年壬戌、四月日、開山方崖元圭謹題〔右。〕。
[やぶちゃん注:まず最初に、本文にある「古記」を影印の訓読点に従って書き下したものを示し、次に「*」を介して、同様の牌銘を同じく影印の訓読点に従って、左右に分けて書き下したものを示す。

●「古記」
上杉房州の太守、武州金澤能仁寺を築(き)て、七宇の伽藍を創め、方崖和尚を請(ひ)て開山第一世と爲(し)、山を號して福壽と曰(ふ)。寺を號して能仁と曰(ひ)、太守、旨有(り)て、能仁寺の位列を諸山にノボす者なり。永德三年、小春の日、東暉の曇昕謹(み)て記す。又、本尊建立は、永德二年三月七日にこれを始め、同年四月廿一日に終る。住持東暉曇昕、奉行〔德慧德澤。〕檀那巨喜、上總の州法眼朝榮、之を作る。大檀那房州道合、徳珠、之を書す。

●「能仁寺佛殿梁牌銘」
  能仁寺佛殿梁牌の銘
◎左側銘
恭しく願ふ、皇圖鞏固にして、四海昇平、黎庶安寧にして、五穀豐稔。檀那、前の房州の太守、菩薩戒の弟子道合、敬(ひ)て白す。
◎右側銘
伏して冀はくは、佛運帝運、永劫を歴(き)て綿延、寺門・檀門、萬年を經て以て昌盛、昔永德二年壬戌、四月日、開山方崖元圭、謹(み)て題す。

以下、全体の注に入る。現在、横浜市金沢区六浦の国道十六号線沿に臨済宗円覚寺派の泥牛庵という寺があるが、この寺は元は開山南山士雲、鎌倉末期の創建とされ、後に関東管領上杉憲方(建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年:「明月院道合」は彼の法号。「上杉房州の太守」も安房国守護であった彼を指す。)の建立になるとされる能仁寺の塔頭となった。この時は、この「泥牛庵」は現在地の近くの米倉陣屋跡(金沢八景駅周辺)にあった(享保七 (一七二二) 年に米倉丹後守が六浦藩(武州金沢藩)の藩庁として建てた六浦陣屋のことで、これを建設するに際して泥牛庵は現在の位置に移築された)とのことであるから、この現在の米倉陣屋跡周辺が、この「能仁寺」の所在地となる。
「方崖和尚」この「能仁寺」の開山方崖元圭は建長寺四十七代住持。記載通り、本尊建立の翌年、永徳三(一三八三)年九月十六日に入寂している。
「東暉の曇昕」不詳。「とうきのどんきん」と読むものと思われる。
「德慧德澤」優れた人格者で徳行を成した人物の謂いであろう。
「建長寺龍峯菴」現存する塔頭。現在は龍峰院と称する。
「皇圖」天子の機略。又は天子の領土。後者であろう。
「鞏固」しっかりとして揺るぎない。
「黎庶」は「黎元」に同じ。「黎」は黒色、「元」は首で、冠を被らない黒髪の頭の者の意(一説に「黎」は諸々、「元」は善で、善良なる者たちの意とも)から、人民・庶民のこと。]

〇金龍院〔附引越村 金澤の四石〕 金龍院キンリウイン昇天山シヤウテンザンと號す。又は飛石ヒセキ山とも云ふ。建長寺の末寺なり。本尊虚空藏、開山は方崖元圭。此地の東北、瀨戸までを引越村ヒキコヘムラと云ふ。
[やぶちゃん注:現存。永徳年間(一三八一年~一三八四年)の創建と伝える。後のこととなるが、江戸末期から明治にかけて、本寺の背後、平潟湾に突出した崖上(現在は干拓により陸化)に「九覧亭」なる眺望所が作られ(現存せず。代わりに太子堂が建つ)、平潟の名所となった(「九」とは「江戸名所図会」の寺僧の言によれば、『この地の八景に能見堂を加へて見るこころにて、名づけたりとなり』とある)。
「引越村」「関東合戦記」などによれば、永享の乱の際に敗れた足利持氏方の武将海老名尾張入道は六浦引越の道場で切腹したとあるが、この尾張入道と弟上野介の五輪塔が現在の泥牛庵に残る。かつて泥牛庵があった能仁寺の跡、即ち現在の米倉陣屋跡がこの「引越の道場」ということになる。このことから元の六浦引越村はこの記載時よりももっと南(金沢八景周辺)をも含む広い村域であったと考えられる。]
飛石トビイシ 寺のウシロの山にあり。高さ一丈餘、廣さ九尺餘あり。三島の明神、此石上にキタりと云傳ふ。金澤の四石と云ふは、飛石トビイイシ福石フクイシ美女石ビジヨセキ姥石ウバイシなり。
[やぶちゃん注:「飛石」は現在、金竜院本堂裏庭にある。本記載通り、元は背後の山腹にあったが、文化九(一八一二)年十一月の関東地方に発生した大地震によって現在位置に落下したものと伝えられている。また、「金澤の四石」の他の三つの所在地は、「美女石」と「姥石」が称名寺(美女石のみ現存。後掲)、「福石」は琵琶島の瀬戸神社(旧名「瀨戸辨才天」。後掲)である。

最後に、「江戸名所図会」の「金龍院飛石」の図を以下に示しておく。

[「江戸名所圖會」より「金龍院 飛石」の図]

「江戸名所図会」の刊行は落下後の天保五(一八三四)年乍ら、同書の刊行企画と長谷川雪旦への作画依頼の時期は微妙であり、この絵は手前に階段も見え、落下前の山の半腹にあった当時の飛石の様相を示すもののようにも見える。識者の御教授を乞う。]

○圓通寺 圓通寺エンツウジは、引越村ヒキコヘムラの西にあり。日輪山と號す。法相宗。南都法隆寺の末寺なり。開山は法印法慧、寺領三十二石、久世クゼ大和の守源の廣之ヒロユキ付するなり。
東照權現の社 山の上にあり。御代官柳木ヤナギ次郎右衞門勸請し奉るとなり。
[やぶちゃん注:金沢八景駅を利用したことのある人なら、まずホームから見えた茅葺屋根の家が記憶にない人物はいないであろう(二〇一〇年に火事で一部焼失)。楠山永雄氏の「ぶらり金沢散歩道」の「NO.48 円通寺客殿と権現山」(トップ・リンク及び設置の確認メールを要求されておられるので、リンクは張らずにアドレスを以下に示す。
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/48/48.htm)によれば、ここがこの「圓通寺」の遺構である。ここの『奥の一段高いところには、かつて東照宮が鎮座して』おり、これは万治年間(一六五八年~一五六一年)に、土地の郡代官『八木次郎右衛門が東照大権現(徳川家康)を祀ったもので、円通寺はその別当寺であった』とする(本文では「柳木次郎」とあり、「江戸名所図会」でも「柳木氏」とある)。あの『茅葺の建物は、円通寺の客殿で奥座敷の長押の釘隠しは「三つ葉葵」で飾られ、将軍・家光が使ったという手あぶり火鉢などが伝えられている。だが、明治維新の神仏分離令によって円通寺は廃寺となり、東照宮』も明治十一(一八七八)年に『瀬戸神社へ合祀され』てしまった。その際に久世広之(慶長十四(一六〇九)年~延宝七(一六七九)年:秀忠・家光小姓から大名となり、家綱の御側衆、若年寄、後に老中となった)及び六浦藩主米倉保教がこの東照権現に『寄進した石灯篭も同神社に移され、現在も鳥居をくぐった両側に建っている』と記しておられる。リンク先の記事では旧客殿の長押釘隠しの葵の紋も画像で見られる。別なデータでは、この旧客殿原型は江戸時代後期の享和二(一八〇二)年頃の建築と推定されている。]


[瀨戸圖]

〇瀨戸明神 瀨戸セト〔或作迫門(或は迫門に作る)。〕明神は、海道の北にあり。鳥居に額あり。正一位大山積神宮と二行に書す。裏書ウラガキに、延慶四年辛亥四月廿六日、戊辰沙彌寂尹とあり。今社領百石の御朱印あり。神主カンヌシ代々千葉氏也。門の左右に看督長カドノヲサの像あり。安阿彌が作と云ふ。社司の云、當社は、賴朝卿、治承四年四月八日に、豆州三島の明神を勸請し給ふと。按ずるに、賴朝、鎌倉に入給ふ事は治承四年、十月六日と【東鑑】にあり。其の前四月は、豆州北條の館にをはします配所の時なり。當社勸請の事不審フシン。【鎌倉年中行事】には、四月八日、瀨戸三島大明神臨時の祭禮とあり。或人云、往古此の神、此地へ飛び來り給ふ。金龍院の飛石の上に止るとなり。
[やぶちゃん注:「鳥居に額あり。正一位大山積神宮と二行に書す」については、「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「三島大明神」(=「瀨戸神社」)に『世尊寺守從二位經尹卿の眞蹟なり』とある。「世尊寺守從二位經尹卿」は三蹟藤原行成の子孫書家藤原経尹(つねまさ 又は つねただ)のことで、この額について、神奈川県神社庁の「瀬戸神社」のページに『延慶四年(一三一一)神号額』とあって、『延慶初年、北條貞顕の盡力によって、朝廷から正一位の神階を授けられた。額裏に「延慶四年辛亥四月廿六日戊辰書之、沙弥寂尹」と銘文がある。沙弥寂尹は書道の名家世尊寺流の藤原経尹の法名である。額縁は後世の補修である』とある。「鎌倉攬勝考卷之十一附録」には額の図がある。参照されたい。
「延慶四年四月廿六日」西暦一三一一年。この年は、この二日後の四月二十八日に改元されて応長元年となる。
「戊辰沙彌寂尹」は前注通り、「延慶四年辛亥四月廿六日戊辰書之、沙彌寂尹」が正しく、応長 元年 延慶四年四月二十六日(西暦一三一一年五月十五日)の干支は正しく「戊辰」である。
看督長カドノヲサ」本来は実際の平安期の警察組織として、検非違使の配下にあった職種で、罪人を収監する監獄を管理する役(後に罪人を捕縛する役となる)。赤狩衣・白衣・布袴に白杖を持つという奇体な制服であったとする。但し、ここでは地獄の獄卒頭の謂いで用いているものと見られ、現在の瀬戸神社に現存するものを見ると阿形吽形の木造守門神坐像一対を指すと考えて間違いない。
「安阿彌」快慶。安阿弥陀仏は彼の号。
「治承四年」西暦一一八〇年。現在、無批判に本社の頼朝創建の記事が各所に記されているが、以下の考証による疑義は鋭いものがある。]
寶物
陵王リヤウワウメン 壹枚 拔頭バトウメン 壹枚 共に妙作なり。
  已上
[やぶちゃん注:「陵王の面」はよく知られた雅楽「蘭陵王」に用いる竜頭を模した面で、「拔頭の面」も雅楽の「抜頭」(宗妃楽とも呼ぶ)に用いられる鼻が高く長い髪が前にたれた異形の面である。二つの本瀬戸神社蔵の実物の写真が個人ブログ「雅楽あれこれ」の「実朝ゆかりの面」で見られる。またここには、本面について製作は鎌倉期と推定されており、『いずれも北条政子によって奉納されたものと』いう伝承を持ち、『源実朝がこれらの面を愛用していたために、実朝暗殺後、母政子が瀬戸神社へ奉納し彼の菩提を弔ったという』逸話が記されている。私は思わず、頼家所縁の修禅寺に伝わる奇体な面を思い出した。私にはこの抜頭に近似したものに見えるのである。さらにこのブログには、本書の企画者水戸光圀との関わりでも興味深い記事が記されており、江戸末期の文政八(一八二五)年、光圀の六代後の『水戸の徳川斉昭公がこの仮面のことを聞き及び、これらを借り受けて観賞し』、『古色清老、気格幽韻』なる『面に感じ入った斉昭公はこれを返却するにあたり、桐箱を新調し』、『この面が末長く保存されることを願った』とある。]
鐘樓 社の東の方にあり。鐘銘如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下の鐘銘は、底本では全体が一字下げ。]
 瀨戸三島社鐘銘
洪鐘新製、寄器海壖、靈神振德、衆人結緣、韻徹遠近、鎔體黄玄、緇素益大、村里聽鮮、開靜動閣、奏敬悲田、驟化世俗、頻敲夜禪、覺煩惑夢、驚生死眠、昏曉淸響、劫々永傳、大戒菩提薩埵僧普川筆、應安七年四月十五日、奉鑄之、神主平胤義、檀那沙彌釋阿、幷十方四衆等、勸進聖義澄、大工大和権守國盛、〔普川は寶戒寺の二代目なり。〕
[やぶちゃん注:以下、鐘銘を影印の訓読点に従って書き下したものを示す。
 瀨戸三島の社鐘の銘
洪鐘新(た)に製して、器を海壖に寄す。靈神、德を振ひ、衆人、緣を結ぶ。韻、遠近に徹し、鎔、黄玄を體す。緇素益々大(い)に、村里聽鮮なり。靜動の閣を開き、敬悲の田を奏す。驟(か)に世俗を化し、頻(り)に夜禪を敲く。煩惑の夢を覺(ま)し、生死の眠(り)を驚(か)す。昏曉の淸響、劫々永く傳ふ。大戒の菩提薩埵の僧普川 筆す 應安七年四月十五日 之を鑄奉る 神主平の胤義 檀那沙彌釋阿 幷に十方の四衆等 勸進の聖義道 大工大和の権の守國盛
「海壖」は「カイゼン」と読み、海浜に近い空き地を言う。
「黄玄」は「易経」にある「天玄而地黄」に由来する言葉で、天地総ての色彩。ここは鐘鋳造自体をこの天地の象徴として鋳られたことを謂うのであろう。
「聽鮮」は梵音を遍く郷村の民が有り難く鮮やかに聴くことを謂うか。
「驟(か)に」は「にはかに」と訓じた。
「應安七年」西暦一三七四年。
「神主平の胤義」彼については既に「嶺松寺」の注で示した通り、代々瀬戸神社神職を務めた千葉氏一族の一人で、ここ瀬戸神社に残る記録では文和三(一三五四)年に「千葉胤義」が神主に就いたとする(個人のHP「小市民の散歩行こうぜ」の『ようこそ「金沢・時代の小波 六浦地区」へ』の「嶺松寺跡」による)。二十年の開きがあるが、同一人物と見てよいであろう。]
蛇混柏ジヤビヤクシン 社の側にあり。枝葉長大して龍蛇の起伏するが如し。金澤に八木あり。其の一つなり。延寶八年八月六日の大風にタヲされたり。【梅花無盡藏】に、萬里居士が詩あり。
[やぶちゃん注:以下、底本では詩全体が二字下げ。]
  瀨戸社〔自註云六浦廟前有古柏屈蟠。〕 萬里
遺廟柏園六浦橋。 朗吟繋馬石支腰。
歸鴉飛破翠屏面。 剰被風聲添晩潮。
[やぶちゃん注:以下、万里諸九の漢詩を影印の訓点に従って書き下したものを示す。

  瀨戸社〔自註(に)云(く)、六浦の廟前に、古柏、屈蟠せる有(り)。〕 萬里
遺廟 柏園に 六浦の橋
朗吟 馬を繋ぎて 石 腰を支ふ
歸鴉 飛び破る 翠屏の面
剰へ 風聲に晩潮を添へらる

八木書店一九九四年刊の市木武雄「梅花無盡蔵注釈」の「瀨戸社」では「六浦廟前」の右に『金澤修理大夫崇顯の廟』(「金澤修理大夫崇顯」は幕府滅亡とともに自刃した元執権(第十五代)北条(金沢)貞顕の法名)とあり、結句の訓読も、
 剰へ風聲を被り晩潮を添ふ
と異なっている。
「混柏」は現在、一般には「柏槇」と書く。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属で、近在の建長寺にあるものと同種であるとすれば和名カイヅカイブキ(異名カイヅカビャクシン)Juniperus chinensis cv. Pyramidalis であろう。成長が遅いが高木となり、赤褐色の樹皮が縦に薄く裂けるように長く剥がれる特徴を持つ。これが自己認識を解き放つことを目指す禅宗の教義にマッチし、しばしば禅寺に植えられる。
「金澤に八木あり」「稱名寺」で後掲される名数で、
金澤の八木と云て、靑葉アヲバカヘデ西湖梅セイコムメ黑梅クロムメ櫻梅サクラムメ文殊櫻モンジユサクラ普賢象櫻フゲンゾウザクラ蛇混柏ジヤビヤクシン雀浦一松スヾメガウラノヒトツマツとてあり。五木は此の處にあり。蛇混柏は、瀨戸の明神にあり。雀浦の一つ松は其の所にあり。黑梅は絶てなし。其跡は爰にあり。
とある「八木」の項を設けている(この時点で既に梅は枯死していたことが分かる)。図を附して詳述されている後の「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の記載を示すと、
靑葉楓・西湖の梅・櫻梅・文殊梅・普賢象梅、是は稱名寺境内にあり。黑梅今は絶たり。蛇混柏、瀨戸の神社に有。外に雀ケ崎の孤松、是を八木といふ。
である。
「延宝八年」は西暦一六八〇年。本書執筆中、本書刊行の貞亨二(一六八五)年の五年前 のことであった。]
三本杉サンボンスギ 蛇混柏ジヤビヤクシンの南にあり。大木にて、根株相ひ連て三本ならび生ず。アヤしき形なり。放下僧ハウカソウアダフクしたる所なり。ウタヒにも瀨戸の三島とうたふは此所なり。此三本のスギも延寶庚申の風に吹倒す。
[やぶちゃん注:この能は「放下僧」。下野国の住人牧野左衛門が相模国の利根信俊と些細なことから口論に及び、後日闇討ちされて果てる。その子牧野小次郎は仇討ちを志し、出家していた兄に助力を求めるべく禅院の学寮へ兄を訪ねるが、出家の身である兄はこれを躊躇する。小次郎は、親の敵を打たぬは不孝と言い、母を殺した虎を狙って百日の間というもの野に出で、果ては虎と見誤って大石を射るも一念が通じて矢は石に突き立って血を流した、という中国の故事を物語る。兄はこの弟小次郎の熱意に打たれて仇討に同意、仇敵利根に近づくため、当時流行していた僧形の芸能者放下僧(室町時代に、それまでの田楽から発生したもので、曲芸や手品を演じつつ小切子こきりこを打ち鳴らして小歌などを歌った大道芸人を言う)に身を窶して故郷を旅立つ(ここで中入)。どうにも夢見の悪い利根はここ瀬戸の三島神社に参詣を志し、その境内で二人の放下僧と道ずれになる。一人(小次郎兄)が己れの持つ団扇の由緒を、また今一人(小次郎)も携える弓矢のことなど面白く説き、更に禅問答を交わした上、曲舞くせまい・鞨鼓・小歌といった様々な芸を演じては利根を油断させ、遂に兄弟揃って躍り掛かり、美事本懐を果たすという仇討物である。
「延寶庚申」は延宝八(一六八〇)年で、前の「蛇混柏」と一緒に同じ台風によって倒れたことが分かる。]
藥師堂 社の東にあり。
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」に『土俗、放下僧藥師と稱す』とある。
以下に、「江戸名所図会」の「瀬戸明神社」の図を示す。

[「江戸名所圖會」の「瀨戸明神社」の図]

標題右の詩は名僧沢庵宗彭の漢詩で、
 法身妙應本無方
 三島不阻一封疆
 山色涵波顕無跡
 朝陽出海是和光
  法身 妙應 本 方無し
  三島 阻まず 一封疆ほうきやう
  山色 涵波 顕はれて跡無く
  朝陽 海より出づ 是れ和光
と読む。「法身 妙應 本 方無し」とは、禅で言う「妙応無方」で、真の法体にあっては如何なる状況下にあっても自在神妙にして即座に正しく対応する、の意であろう。「封疆」は境。]

〇瀨戸辨才天 瀨戸辨才天セトベンザイテンは、瀨戸の明神の前の海中へき出したる島なり。賴朝の御臺所ミダイドコロ平の政子マサコ、江州竹生島チクブシマを勸請せられしとなり。甚だ多景の島なり。【東鑑】には不見(見へず)。
[やぶちゃん注:瀬戸神社の鳥居を出た正面の平潟湾に延びる突堤の先端に、赤橋で繋がる円形をした琵琶島(かつては琵琶の形をしていたとされるが、むしろ後掲するように元の神社が琵琶湖竹生島にあったことに由来するのではあるまいか)にあり、現在は琵琶嶋神社と呼称し、瀬戸神社摂社で現在は瀬戸神社の境内とされている。滋賀県長浜市の竹生島にある都久夫須麻つくぶすま神社にある神社。祭神宗像三女神の一柱市杵島比売命いちきしまひめであるが、後に仏教の弁才天と習合、本地垂迹説において同神とされた。主に参照した瀬戸神社公式ページには瀬戸弁天は『通称』としている。立位の神像及び祭祀者政子の夫頼朝が流人から身を起こして征夷大将軍となったことに因んで立身弁財天、また港湾地区の海上安全の信仰から千客万来を意味する舟寄弁財天という別称も持つ。]
寶物
寶珠石 三顆 金襴の袋に入、社内に納む。
 已上
[やぶちゃん注:最後に「江戸名所図会」の瀬戸弁才天の図を示しておく。

[「江戸名所圖會」の「瀬戸辨才天」の図]



福石 辨才天へ行(く)橋の東の下にをり。金澤四石の一つなり。

〇瀨戸橋 瀨戸橋セトバシは、明神の前を、東の方へけば、洲崎スサキと瀨戸とのアイダにかけたる橋なり。中間に土臺ドダイを築き、兩方に橋をかけり。フネシタトヲる樣にして、橋杭ハシグヒをせず。能見堂よりみゆるなり。
[やぶちゃん注:昔の瀬戸内海の入口である瀬戸と洲崎の間に北条貞顕(これを北条実時とする資料もあるが採らない。採らない理由は以下の引用を参照されたい)が称名寺へ通ずる道路一環として徳治年間(一三〇六~一三〇八)に架橋したと推定される橋。西岡芳文「六浦瀬戸橋-中世鎌倉のベイブリッジ」(神奈川県立金沢文庫平成七(一九九五)年刊。但し、個人のHP「後深草院二条」のこのページからの孫引き)によれば、従来の北条実時造営説に対して、北条実時及びその子顕時は当時の六浦庄領主であったと考えられるが、彼らによる在地支配を直接的に示す史料はなく、金沢地区に於ける顕時の行った事業としては、念仏宗から律へと改宗した称名寺の伽藍造営や寺内式制の整備が知られている。しかし、弘安八(一二八五)年の霜月騒動で安達泰盛が滅亡すると顕時は姻族による連座で流罪とされ、凡そ十年の間、金沢の地に戻ることはなく、宥免された後も第八代執権北条貞時による得宗専制下にあって正安元(一三〇一)年に生涯を終えている(従って実時や顕時による瀬戸橋建立は考え難いというのが西岡氏の論旨であろう)。『金沢北条氏にとって逆風の強まったこの時期には、仮に実時の瀬戸橋造営の遺志があったとしても、とうてい事業を続行できる環境ではなかった。また確証はないが、六浦庄の支配権自体』も幕府の管理下にあった可能性も考えられる、とある。この六浦支配が本来の領主であった金沢北条氏によって活性化するのは顕時の子である貞顕の代で、彼と新たに『称名寺二世長老となった剱阿のコンビによる積極的な活動が見られるようになる。六渡羅探題として京都に滞在した貞顕は、和書・漢籍を問わず膨大な写本・版本を入手して金沢文庫を築きあげ、さらに称名寺梵鐘の銘文に名を残す「入宋沙弥」円種が活動するのも同じ時期であり、彼らの手によって宋版大蔵経や青磁などの「唐物」が盛んに六浦津を経て称名寺にもたらされたと考えられる』。『運上や交易のために鎌倉に運ばれる関東各地のさまざまな産物、あるいは北条氏のバックアップを受けた律宗のネットワークに乗って交流する人や文化、さらに九州から六浦までの海運の要所をおさえた金沢北条氏一族の交易活動など、六浦津が最も殷賑をきわめたのはまさにこの時期であったと思われる』。『こうした中で、嘉元年間(一三〇三~六)、瀬戸橋の造営事業を明確に伝える史料が現れる。すなわち、瀬戸橋の造営を京都から督促する貞顕の手紙と、全国各地の金沢称名寺領に橋の造営料を賦課した注文である』。『金沢文庫文書から知られるところでは、瀬戸橋の架橋事業は金沢貞顕の発願にかかり、称名寺が主体となって行われたようである。しかしこの架橋には謎が多い。そこでまず瀬戸橋をかけた目的について想像をめぐらしてみたい』(として論考は考証の核心に入る)。『金沢北条氏が本拠とした金沢村は、六浦庄のなかでも辺境に属し、交通の便の良いところではなかった。鎌倉からは、いわゆる白山道を経由して、釜利谷方面から山道をたどるか、六浦本郷より瀬戸明神の前から渡船によって対岸の洲崎を通るかのいずれかの方法しかなかったのである』。従って『称名寺への参道として、瀬戸海峡を橋で結ぶ必要性は確かに在する。以後二十年にわたって伽藍の造営事業が継続することを考えれば、これが第一の目的と考えることができよう』。『瀬戸橋が完成するまでの洲崎から金沢までの一帯は、さほど人口の集まる地城ではなかったと思われるが、架橋によって六浦の延長として市街地が形成されたようである。南北朝期に「町屋」という地名があらわれることがその一つの証拠である。瀬戸橋を渡ってから、洲崎から称名寺にいたるほぼ直線状の道路も、金沢北条氏による架橋事業の一環として整備された可能性が高い。称名寺の造営にたずさわる職人をはじめ、六浦津において交易をおこなっていた商人たちをここに集住させ、当時すでに過密の度をくわえていた鎌倉の都市機能を拡張することもねらっていたのではあるまいか。(なお不思議なことに、鎌倉の西縁にも洲崎・(上)町屋の組み合わせの地名がある。これを考えるに、鎌倉市中の過密化によって外縁部の水辺の荒蕪地が市街化し、本来名もないような所であったので「町屋」がそのまま地名となったのではないであろうか。)』(「西緣」は引用元「西緑」。訂した)。『三番目に考えられることは、軍事的な意味である。世戸提の造成が蒙古襲来の最中に完成していたという事実は、戦略物資輸送基地としての六浦津の機能拡充の意図をうかがわせる。さらにここに橋をかけることは、鎌倉から東京湾岸への到達を容易にする意味がある。東京湾の制海権を維持し、千葉氏をはじめとする東京湾岸の外様御家人の鎌倉侵入を抑制すること、あるいは万一侵略者たちが鎌倉へ侵攻してきた時に、海上の退路を確保する意図がなかったとは言えないであろう。これは後年の関東公方足利氏が、鎌倉内でも六浦寄りに御所を構え、やがて鎌倉を支えきれずに遁走して古河公方となった例を考えあわせれば、充分に可能性がある』。『いずれにせよ瀬戸橋は、一般の街道にかけられた橋とは異なり、未来の都市機能拡張への先行投資ないしは政治的・軍事的意図によってかけられたと想像される点で、日本の橋の歴史の中では特異な意味をもつのではなかろうか』と述べられておられる。たかが瀬戸橋、されど瀬戸橋、今は何の変哲もない一本の橋が、歴史の真実を語り出す美事な評論である。以下続く「五、瀬戸橋完成」では、西岡氏はこの橋に纏わる人柱伝承についての興味深い考察を行っているが、引用が長くなり過ぎるので涙を呑んで省略する。是非、リンク先でお読みあれ。なお、以下に「江戸名所図会」の「瀬戸橋」の図を示しておく。

[「江戸名所圖會」の「瀨戸橋」の圖 「其一」]

[「江戸名所圖會」の「瀨戸橋」の圖 「其二」]

瀬戸橋の構造と江戸後期の瀬戸橋周辺の活況が手に取るように伝わって来る。]

〇照天姫松 照天姫松テルテノヒメマツは、瀨戸橋セトバシの北に當て、西のキシより出崎に、一株の松あり。里人の云く、照天姫テルテノヒメを、ふすべし時の松の木の跡、故にウバきさしの松とも云。照天姫テルテノヒメ幷に小栗ヲグリが事、世俗云傳ふる説たしかならず。今按ずるに、【鎌倉大草子】に、應永卅年癸卯春の比より、常陸國の住人小栗孫五郎平滿重ミツシゲと云ふ者有て、謀反を起し、鎌倉の御下知を背きける間だ、源の持氏モチウヂ、御退治として御動座なさる。結城ユウキシロまで御で、同八月二日より、小栗ヲグリの城をせめらるゝ。小栗ヲグリ兼てより、軍兵數多アマタ城より外へ出し、フセタタカひけれ共、鎌倉勢は、一色イツシキ左近の將監木戸キド 内匠タクミの助、先手サキテの大將として、吉見ヨシミ伊與の守・上杉ウヘスギ四郎、荒手アラテにかはりて、兩方よりめ入ければ、終に城をめ落され、小栗ヲグリは行方不知(知れず)ち行けり。後にシノんで三州へ落行けり。其子小次郎は、ひそかに忍て關東に有けるが、相州權現堂と云所へきけるを、其邊の強盗ドモアツまりける所に宿ヤドをかりければ、アルジマウすは、此浪人は、常州有德仁の福者のよしく。サダめて随身のタカラ有べし。打殺して可取(取るべし)ヨシ談合す。りながら、トモなる家人共有、いかゞせんと云ふ。一人の盗賊のマウすは、酒にドクませコロせと云ふ。モツトもと同じ、宿シユク々の遊女共を集め、今樣などうたはせ、ヲドタハふれ、彼の小栗ヲグリを馳走の體にもてなし酒をすゝめける。其の夜の夜シヤクに立ける照姫テルヒメと云ふ遊女、此の間だ小栗にひなれ、此の有樣アリサマをすこし知りけるにや。ミヅカらも此の酒を不呑(まず)して有けるが、小栗ヲグリアハれみ、此のヨシをさゝやきける間だ、小栗もやうにもてなし、酒を更にのまさりけり。家人ケニン共は是を不知(知らず)、何れもしてげり。小栗ヲグリは、かりそめに出るテイにて、ハヤシの有る間だへ出て見ければ、林の内に鹿毛カゲなる馬をつなぎて置けり。此の馬は、ヌスビト共海道中へ出、大名往來の馬を盗み來りけれ共、第一のあら馬にて、人をもくひふみければ、ヌスビト共不叶(カナはず)して、林の内につなぎけり。小栗ヲグリ是を見てひそかにち歸り、財寶少々り持て、彼の馬にり、ムチを進め落行けり。小栗ヲグリは無雙の馬乘ムマノリ片時の間に藤澤道場へせ行、上人を賴みければ、上人アハレみ、時衆ジシユ二人けて三州へヲクらる。彼の毒の酒をみける家人ケニン并に遊女、少々しけるを、河水へ流し沈め、財寶をもタヅり、小栗をもタヅねけれ共かりけり。ヌス人どもは其の夜に分散す。シヤクに立ける遊女は、ひたるテイにもてなし伏けれども、モトより酒をのまざりければ、ミヅにながれき、河下カハシモよりアガタスかりけり。其の後、永享の比、小栗小栗ヲグリ、三州より來て、彼遊女を尋出し、種々の寶を與へ、盗人ヌスビトタヅね、皆誅伐しけり。其子孫は、三州に代々居住すといへりとあり。今爰に云ツタへたる照天姫テルテノヒメは【大草子】に所謂(謂は所る)照姫テルヒメが事か。小栗ヲグリを、世俗には兼氏カネウヂと云。【大草子】には名を不記(記せず)。小次郎とばかりあり。【小栗系圖】をカンガふるに、孫五郎平の滿重ミツシゲ、其の助重スケシゲと云者あり。助重スケシゲは則ち小次郎歟。
[やぶちゃん注:現在の姫小島跡(瀬戸神社に近い現在の金沢地区センター附近の姫ノ島公園内)がこの「照天姫松」旧跡とされている。「江戸名所図会」に延宝八(一六八〇)年の暴風によって吹き折られたという記載を見出すことが出来るが、そうするとこの「新編鎌倉志」記載の中の松は微妙である。本作は水戸光圀の延宝二(一六七四)年「鎌倉日記」がプロトタイプで、その記載を見ると、瀬戸の『明神ニ至ル。橋ノ北ニ松一本アリ。俗ニ云ふ、照天姫ヲフスベシ所ナリトゾ』とあって、この時、光圀は間違いなく伝承のこの古木の元の松を見ていることが分かり、更に編纂過程でも編者らによって古松は実見されている可能性も高いのである。ところが悲しいかな、本書が版行された貞亨二(一六八五)年の時点では、この記載に依って金沢を訪れた旅客の見たそれは、植え替えられたばかりの、小さなひょろ松でしかなかったか、若しくは未だ折れたまま放置されてあったとも思われるである。
「照天姫」は後掲される「小栗が事」で分かる通り、中世後期に「小栗判官おぐりほうがん」伝説として発生、後に説経節・浄瑠璃・歌舞伎でブレイクする貴種流離譚の一つであるが、ヴァリエーションが多い。とりあえずウィキの「小栗判官」を参照にして粗筋を示すと、モデルは常陸国小栗御厨(現在の茨城県筑西市)の小栗城城主の小栗助重(応永二十(一四一三)年~文明十三(一四八一)年)で、実際の彼は画僧宗湛(宗丹とも)として知られる。相国寺画僧周文に水墨画を学び、寛正四(一四六三)年には周文の後任として第八代将軍足利義政の御用絵師となり、京画壇の重鎮として高倉御所や石山寺などの襖絵を残す。但し、伝承上の設定は、実際の彼とはあまりクロスせず、『小栗判官は、藤原正清、名は助重、常陸の小栗城主。京の貴族藤原兼家と常陸国の源氏の母の間に生まれ』、八十三歳で亡くなった(実際の助重は六十九歳)とされるものの、異説によっては下って十六世紀頃の人物ともする。『乗馬と和歌を得意とした。子宝に恵まれない兼家夫妻が鞍馬の毘沙門天に祈願し生まれたことから、毘沙門天の申し子とされ』るのは、貴種流離譚にありがちな設定である。現在の藤沢市遊行寺(清浄光寺)の長生院(別名小栗堂)に伝わる小栗判官照手姫(表記が「照天姫」とは異なる)の伝承によれば、応永二十二(一四一五)年、『上杉禅秀が関東において乱を起こした際、満重(他の資料では小栗判官の父の名であるが、この伝承においては判官自身を指す)は管領足利持氏に攻め落とされ、落ち延びる。その途上』、相模国に於いて家来十人と潜伏中、『相模横山家(横山大膳・横浜市戸塚区俣野に伝説が残る)の娘・照手姫を見初め』、横山には内緒で『結婚の約束を交わす』。ところがこの『横山は、旅人を殺し金品を奪う盗賊で』、照手姫も実は彼の子ではなく、元は『上皇や法皇の御所をまもる武士である北面武士の子であったが、早くに父母に死に別れ、理由あって横山大膳に仕えていた』のであった。婚約の事実が知れ、横山庄司父子は怒り、『小栗を人食い馬と言われる荒馬「鬼鹿毛おにかげ」に乗せ噛み殺さようと企てるなど、さまざまな計略を練るものの失敗』、しかし遂に酒に毒を盛られ、家来もろとも殺されてしまう。『横山は小栗の財宝を奪い、手下に命じて小栗と家来』十一人の遺体も上野原に捨てさせた。『この事実を知った照手姫は密かに横山の屋敷を抜け出すが、不義の罪により相模川に沈められかける』(一説に侍従川。相模川から六浦では話が合わない。この説では前振りの設定がやや異なるが、照天姫に附いていた乳母の「侍従」という名の女が前出の油堤まで姫の行方を求めて訪ねて来るも見つからず、悲嘆の末にこの川に身を投げたとし、「侍従川」の名もそれに因むとも伝える)。『危ういところを金沢六浦の漁師によって助けられるも、漁師の女房に』その美しさを妬まれ、松の木に縛り付けられて火で炙り殺されそうになるなど(本記載の松はその松)のさまざまな虐待を受けて、果ては『六浦浜で人買いの手に売り飛ばされてしまう。姫は売られては移り、移っては売られて各地を転々とするが』、あくまで小栗への貞節を守り通すのであった。一方、死んだ『小栗は地獄に堕ち、閻魔大王の前に引きずり出されるが、裁定により地上界に戻されることができた。しかし』ミイラのような『異形の餓鬼阿弥の姿となって』、『歩くこともままならない。幸いに藤沢の遊行寺(清浄光寺)の大空上人の助け』を受け、地車(いざり車)に乗せられて東海道を西に向かうのであった。この大空上人の助力には、次のような謂れがある。『小栗が殺された夜、遊行寺では大空上人の夢枕に閻魔大王が立ち』、「上野原に十一人の屍が捨てられており、小栗のみ蘇生させられるので、熊野の湯に入れて元の体に戻すために力を貸せ」という夢告があったというのである。『上人はそのお告げに従って上野原に行き、死んだ家来達を葬るとともにまだ息のあった小栗を寺に連れ帰ったのであった』。『小栗を乗せた車は大垣青墓の宿で偶然照手姫に行き会うが』、小栗の余りの変容に気付かぬ照手姫、小栗の方は活ける屍故に二人は互いの素性に気づかず同行することとなる。『小栗は照手姫の手によって大津まで引かれて行く。病はさらに重くなるが、遊行上人の導きと照手姫や多くの善意の人々の情を受けて熊野に詣で、熊野詣の湯垢離場である湯の峰温泉の「つぼ湯」の薬効によりついに全快する』(本文にはないが、ここで小栗を小栗とは遂に知らずに照手姫とは一度別れるようである)。『小栗は新たに常陸の領地を与えられ、判官の地位を授けられる。常陸に帰った小栗は兵をひきいて横山大膳を討ち、家来の菩提を弔う。さらに小栗は美濃の青墓で下女として働いていた照手姫を見つけ出』し、かくして二人はようやく夫婦になることが出来た。後、『小栗の亡くなった後、弟の助重が領地を継ぎ、遊行寺に小栗と家来の墓を建てた。照手姫は仏門に』入って、正長二・永享元(一四二九)年に遊行寺境内に草庵を結んだ、とある。以下、引用元には説経節の小栗判官伝説を載せる。『鞍馬の毘沙門天の申し子として生を受けた二条大納言兼家の嫡子小栗判官が、ある日鞍馬から家に戻る帰路、菩薩池の美女に化けた大蛇の美しさに抗し切れず交わり、妻としてしまう。大蛇は懐妊するが、子の生まれることを恐れて隠れようとした神泉苑に棲む龍女と格闘になるが、龍神なればこそ七日間も暴風雨が続いた上に、『小栗は罪を着せられ常陸の国に流された。この場所にて小栗は武蔵・相模の郡代横山のもとにいる美貌の娘である照手姫のことを行商人から聞かされ、彼に頼んで文を渡す。照手姫から返事を受け取るや、小栗は』十人の家来とともに『照手姫のもとに強引に婿入りする。これを怒った横山によって、小栗と家来達は毒殺され、小栗は上野原で土葬に、家来は火葬にされる。照手姫は相模川に流され、村君太夫に救われるが、姥の虐待を受け、千手観音の加護により難を逃れたものの人買いに売り飛ばされ、もらわれた美濃国青墓の万屋でこき使われる』こととなる(この千手観音が先に示された「專光寺」(現在の千光寺)本尊千手観音(厳密にはその胎内仏)が姫の身代わりになったとの伝承があるのである)。『一方、死んだ小栗と家来は閻魔大王の裁きにより「熊野の湯に入れば元の姿に戻ることができる」との藤沢の遊行上人宛の手紙とともに現世に送り返される。餓鬼阿弥が小栗の墓から現われたのを見た上人は手紙を読み、小栗を車に乗せると胸の木札に「この車を引くものは供養になるべし」と書きしたためた。多くの人に引かれた車は美濃の青墓に到着する。常陸小萩の名で働いていた照手姫は小栗と知らずに』五日に渡って大津までいざり車を引き、熊野は湯の峰温泉に辿り着き、四十九日の湯治の末に、小栗の業病は完治、『元の体に戻ることができる。その後、小栗は京に戻り天皇により死からの帰還は珍事であると称えられ、常陸・駿河・美濃の国を賜ることになる。また、車を引いてくれた小萩を訪ね彼女が照手姫であることを知り、姫とともに都に上った。やがて小栗は横山を滅ぼし、死後は一度死んで蘇生する英雄として美濃墨俣の正八幡(八幡神社)に祀られ、照手姫も結びの神として祀られた』とある。引用元によれば、この正本は延宝三(一六七五)年作とされる作者未詳「おぐり判官」に基づくもので、この版行は正に本「新編鎌倉志」版行の翌年というのが、偶然ながら何やらん興味深いではないか。なお、以下に、「江戸名所図会」の「金沢勝槩一覧の図」の「其二」を示しておく(「勝槩」は「勝概」で景勝の意)。右図の端に「照天姫松」が見える。ということは、実は先に示した「江戸名所図会」の「瀬戸橋」の図の「其一」の右の図の上方、岩礁上の小島に枝を張っている松こそが、「江戸名所図会」当時の照天姫松であったことが判明する。ところが先に示した本書の「瀨戸圖」を見ると、「照天姫松」は瀬戸橋の遙か北東の出崎に描かれている。遠近感を無視した画法とはいえ、これはかなり不審である。即ち、「新編鎌倉志」の時代の「照天松」の位置と、江戸末期のそれは異なる場所であった可能性があることを示唆しておきたい。なお、この図では以降に登場する「洲崎」「龍華寺」の位置も確認出来る。

[金澤勝槩一覽の圖 其二]



〇金澤〔附吉田兼好舊跡〕 金澤カナザハは、武藏の國六浦庄ムツウラノシヤウの内なり。兼好が家の集に、武藏の國金澤とイフ所に、昔しみしイヘにて、月を見てよめると云歌あり。然らば兼好、遁世の後暫く此所に居たるとみへたり。今其舊跡さだかにしれる人なし。又【徒然草】に、甲香、此ウラより出づ。所のモノはへなだりと云と書(け)り。【野槌ノヅチ】に、今金澤にて尋ねれば、ばいと云、又つぶとも云ふとあり。又昔し唐船のつきたる時、唐猫カラネコを載來(せ來る)。故に今に金澤の唐猫カラネコとて名物なり。此事【梅花無盡藏】にも見へたり。
[やぶちゃん注:卜部兼好は若き日に少なくとも二度、鎌倉・六浦を訪れており、代十五代執権(但し十日で辞任)となる前の北条貞顕と親交を結んでいることが知られている。本項では「今其舊跡さだかにしれる人なし」とするが、一説に六浦の上行寺境内(現在の上行寺東やぐら群の遺跡附近とも)に庵を結んだとも伝えられている。「兼好家集」第七十六番歌にある、

    武藏の國金澤といふところに、むかし住みにし家の
    いたう荒れたるにとまりて、月あかき夜
 ふるさとの淺茅が庭の露のうへに床は草葉とやどる月かな

〇やぶちゃんの現代語訳
 古き変わらぬ里山……かつて誰ぞの住みなした家……今は人も絶えて……その荒れ果てた庭の葎の葉に置く露の上――
『……わたしの寝床は……この草葉……』
とでも言うが如く……いつに変わらぬ月が……そこに輝き宿っていることよ……

は、正にこの時の滞在の(恐らくは最初の下向の)折りの吟詠と考えられる。
「【徒然草】に、甲香、……」の「甲香」は「カヒカフ」とは読み、煉香ねりこうの調合及び香りを安定させるためにに用いる香料の一種。以下のような腹足類(巻貝)のへたを原材料とすることから「貝甲」と当て字でも呼ぶ。
吸腔目カニモリガイ上科キバウミニナ科 CerithideaCerithideopsilla 亜属ヘナタリ Cerithidea cingulate
吸腔目カニモリガイ上科キバウミニナ科 CerithideaCerithideopsilla 亜属カワアイ Cerithidea djadjariensis
新腹足目テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba
新腹足目イトマキボラ科ナガニシ Fusinus perplexus
腹足綱吸腔目アッキガイ科アカニシ Rapana venosa
酒に漬込んだり灰で煎じたりして処理を施した後に乾燥させたこれらの蓋へたを粉末状にしたものを用いる。「徒然草」の記載(第三十四段)は以下の通り。

甲香かひかふは、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長ほそながにさし出でたる貝のふたなり。武藏國金澤かねさはといふ浦にありしを、所の者は、「へなだりと申し侍る」とぞ言ひし。

「へなだり」という呼称の由来は不詳。「ばい」は現在、狭義には腹足綱吸腔目バイ科に属する巻貝のバイ Babylonia japonica を指すが、実際には近縁種や同形の異種腹足綱吸腔目エゾバイ科 Buccinidae のものもこう呼称する。そもそも「ばい」は「貝」であって広義の貝類、特に腹足類(巻貝)の広範な呼び名として用いられ、また、このエゾバイ科に属する食用巻貝の広範な総称であるところの「つぶ」も相互使用されている現実がある。それがこの記載によって遙か昔から行われていたことが分かるのである。「鎌倉攬勝考卷之十一附録」では「金澤」の「産物」の冒頭に「甲香」を掲げ、形状から新腹足目テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba と思われる貝の図が示されている。テングニシは房総半島以南の西太平洋の水深約十メートル以下の浅海域の細砂泥に棲む腐肉食性巻貝で、殻高は成貝で約十五センチ、殻径約七センチ、殻口は広く長い水管溝に繋がる。大きな個体では殻高二十センチにも達する。螺塔は円錐形八層、各螺層に強く張り出した肩を持ち、七~九個の大小の尖った結節がある。殻は淡黄白色であるが、黄褐色ビロード状の厚い殻皮に覆われており、生息域に泥水質によってはくすんだネズミ色に見える。肉は食用にし、貝殻は貝細工の材料となる。因みにテングニシという和名は「天狗螺」であるが、子供の玩具として知られたこの種の卵嚢は、その形からグンバイホウズキ(軍配鬼灯)と呼ぶが、その形状は長円形軍配型で、丁度、天狗の持っている団扇にも似ていることからの命名ではなかろうかと思われる。
「野槌」江戸初期の大儒者林羅山(天正十一(一五八三)年~明暦三十一(一六五七)年)が元和七(一六二一)年に著わした「徒然草」の浩瀚な注釈書。
「唐猫」これについては、「鎌倉攬勝考卷之十一附録」で「金澤」の「産物」の掉尾に、以下のように掲げる。

唐猫 往古唐船、三艘が浦へ着岸せし時、船中に乘來り、其時の猫を此地に残し置たるより、種類蕃息し、家々にありといえども、形の異なるものも見へず。されど古くいひ傳え、【梅花無盡藏】にも、此事をかけり。里人に尋るに、本邦の猫は、背を撫る時は、自然と頭より始て、背を高くするものなるに、唐猫の種類は、撫るに隨ひて背を低くするなり。是のみ外に違ふ處なく、皆前足より跡足長く、其飛こと早く、毛色は虎文、または黑白の斑文なるもの多く、尾は唐猫は短きもの多しといふ。

現在の哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目食肉(ネコ)目ネコ亜目ネコ科ネコ属ヤマネコ種イエネコ亜種イエネコ Felis silvestris catus はリビアヤマネコ Felis silvestris lybica を原種として五世紀頃に仏教の伝来とともにインドからシルクロードを経て中国に持ち込まれたとされる。本邦への伝来は仏教の伝来に伴い、多量に船舶で運ばれる経典の鼠による咬害の防止のために、一緒に船に乗せられて来たものが最初と一般には言われるが、恐らくそれ以前に、穀物を鼠害から守る目的で渡来しているものと思われる。ネコマニスト氏の個人ブログ「猫目堂」の「称名寺」によれば、この金沢の猫については、称名寺の建立された文永四(一二六七)年、寺に収蔵する経典を載せた三艘の唐船がやってきたのだが(先に掲げた「三艘ケ浦」の項参照)、その船に鼠害防止のための唐猫が乗っていたという伝説があるとし、その子孫が「金沢の唐猫」となったとある。更に、「物類称呼」巻二に猫の異名の一つとして、「かな」というのが挙がっているとある。以下、「物類称呼」の当該の「猫」を以下に全文引用しておく(底本には岡島昭浩先生の「うわずら文庫」にあるPDF版吉沢義則校訂越谷吾山『諸国方言/物類称呼』を用いたが、句読点を適宜変更・追加した)。

猫  ねこ ○上總の國にて、山ねこと云(これは家に飼ざるねこなり)關西東武ともに、のらねことよぶ。東國にて、ぬすびとねこ、いたりねこともいふ。
夫木集
    まくす原下はひありくのら猫のなつけかたきは妹かこゝろか 仲正
この歌人家にやしなはざる猫を詠ぜるなり。又飼猫を東國にて、とらと云。こまといひ又、かなと名づく。
[やぶちゃん字注:以下は底本では全文一字下げ。]
今按に、猫を「とら」とよぶは其形虎ににたる故に「とら」となづくる成べし。【和名】ねこま、下略して「ねこ」といふ。又「こま」とは「ねこま」の上略なり。「かな」といふ事 はむかしむさしの國金澤の文庫に、唐より書籍しよじやくをとりよせて納めしに、船中の鼠ふせぎにねこをのせて來る、其猫を金澤のからねこと稱す。金澤を略して「かな」とぞ云ならはしける。【鎌倉志】に云、金澤文庫の舊跡きうせき稱名寺せうめうじ境内けいだい阿彌陀院あみだいんのうしろの切通、その前の畠文庫のあと也。北條越後守平顯時このところに文庫を建て和漢わかん群書ぐんしよを納め、儒書じゆしよには黑印こくゐん、佛書には朱印ををすと有。又【鎌倉大草紙】に武州金澤の學校がくかうは北條九代繁昌はんぜふのむかし學問がくもんありし舊跡きうせきなり、と見へたり。今も藤澤の驛わたりにて猫兒ねこのこもらふに、其人何所どこ猫にてござると問へば、猫のぬし是は金澤猫なり、と答るを常語とす。 花山院御製歌に、
夫木集
    敷しまややまとにはあらぬ唐猫を君か爲にと求め出たり
又尾のみじかきを土佐國にては、かぶねこと稱す。關西にては、ごん房と呼ふ。東國にては牛房尻ごぼうじりといふ。【東鑑】五分尻ごぶじりとあり。

撫でるとその所作が普通の猫と逆という判別法の下りが、如何にも面白い。因みに、現在の千光寺(先行する「專光寺」)にはこれら渡来の唐猫の供養のための猫塚が今も伝わっている。]

〇洲崎 洲崎スサキは瀨戸橋の東の漁村なり。【太平記】又は【鎌倉年中行事】等の書に、洲崎スサキと有は山内の西にあり。コヽには非ず。
[やぶちゃん注:「洲崎」という地名は、川の中洲や砂洲、河口近くの砂嘴や岬に繋がる砂浜海岸などで、船着場を中心に形成された集落名に多い。現在の金沢区洲崎町も平潟湾に多数の埠頭が出る港湾地区である。因みに鎌倉市街地の洲崎の方は、後の幕府滅亡の際の赤橋守時討死の古戦場で、モノレールの湘南深沢の西にある深沢多目的スポーツ広場(旧国鉄大船工場)一帯(現在の寺分及び上町屋付近)の古名である。ここは北から流れてきた柏尾川が大きく西に蛇行し、また東方向からの寺分川や梶原川などの多くの支流が合流する地点となっており、古くは砂洲や中洲が多く存在したと推測される。]

〇龍華寺 龍華寺リウゲジは、知足山と號す。洲崎村スサキムラ町屋村マチヤムラとの間にあり。眞言宗、仁和寺の末寺にて檀林なり。門には知足山、堂には龍華寺と額あり。開山は、法印融辨也。本尊、大日也。彌勒の像もあり。ワキ寮四个院、其の外近邊に末寺二十个寺あり。寺領五石の御朱印あり。當寺の畧記に、明應年中に、金澤に、成願寺(・)光德寺と云て、二箇の眞言寺あつて敗亡したるを、融辨(、)二寺をアハせて一寺とすとあり。或人の云、太田道灌ヲヽタダウカン修復せらる。故に道灌の位牌あり。表に春苑道灌菴主の靈、ウラに文明十八丙午七月二十六日とあり。
[やぶちゃん注:本寺は源頼朝と文覚によって六浦の山中に建立された浄願寺(本文は「成願寺」と表記、「鎌倉攬勝考」も「成」であるが、「江戸名所図会」は「淨」、現在のネット上記載も多くが「浄願寺」とするのでこちらを採る)が元と伝えられている。この寺が明応八(一四九九)年に再興されて現在の龍華寺となったとする。龍華寺蔵になる「金澤龍源寺略縁起」によれば、浄願寺住持であった融弁が、兼帯していた洲崎在の光徳寺(当時は既に廃寺となっていた)と、兵火で焼亡した浄願寺を合わせて龍華寺を創建したとある。現在では元の浄願寺は頼朝の勧請した瀬戸神社の神宮寺として建立されたと考えられており、上行寺東やぐら遺跡にある建物遺構は、この浄願寺の跡と推定されている。
「檀林」仏教各宗派の僧の養成・学問機関を兼ねる寺。
「融辨」は室町から戦国期にかけて弘法大師の再来と評された真言僧日融の、直弟子であった融弁と同一人物と思われる。
「个」は「箇」に同じ。「カ」と読む数詞。
「太田道灌」(永享四(一四三二)年~文明十八(一四八六)年)の生没年から、この位牌は元の浄願寺のものである。因みに彼は主君扇谷定正に暗殺されているが、旧浄願寺本尊とされる「彌勒」像には、大檀那として扇谷上杉家家臣の名が記されており、太田道灌寄進と伝える不動明王画像も所蔵されていることから、浄願寺及び龍華寺と扇谷上杉家との間には何らかの関係があったと考えられている。現在、道灌の位牌が存在するのかどうかは不明であるが、後ろめたさからであろうか、暗殺しておきながら主家はここに位牌を納めることを許したということになる。「春苑道灌菴主」とあるが、道灌の戒名は正しくは香月院殿春苑静勝道灌大居士(大慈寺殿心円道灌大居士とも)で、墓所は伊勢原市大慈寺及び同市洞昌院にある。]
寺寶
両界の曼荼羅 貮幅 唐畫。
涅槃像 壹幅 唐畫。
十三佛の繡像 壹幅 中將姫の製といふ。
[やぶちゃん注:「中將姫」は藤原不比等の孫右大臣藤原豊成の娘(天平十九(七四七)年~宝亀六(七七五)年)とされる、謡曲「当麻」「雲雀山」、浄瑠璃・歌舞伎で知られる継子いじめの中将姫伝説の主人公。史書には登場せず、実存は疑われる。幼くして母を失い、継母に嫌われて雲雀山に捨てられ、後に父と再会、十三歳で中将の内侍、十六で妃の勅を受けたが、自身の願いで当麻寺に入り、十七で中将法如として仏門に入った。後、蓮茎から製した五色の蓮糸を繰って一夜にして一丈五尺(約四メートル)四方の曼荼羅を織り上げ、二十九の春に生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が来迎、生きながらにして西方浄土へと旅立ったとされる。]
八祖の畫像 壹幅 弘法の筆、或は願の筆と云ふ。
[やぶちゃん注:真言八祖は、一般には竜樹・竜智・金剛智・善無畏・不空・恵果・一行の七祖に、本邦独自の宗派を齎した空海を加えたもの。]
不動の畫像 壹幅 弘法の筆なり。表褙のウラ書に、太田道灌寄進と有。寺僧の云、東照宮御覽ありて、修複し給ふ。其の時十三佛の繡像も修複し給ふと也。
[やぶちゃん注:「修複」はママ。]
愛染明王の木像 壹軀 弘法五指量の作と云。一握のタケなり。
[やぶちゃん注:「五指量」は二寸五分で約七・五七センチメートル。]
鳳凰の頭 貮个 運慶が作。
龍の頭 十个 運慶が作。此二種、ともににて作。金箔をしたる物なり。灌頂の時、ハタを掛る具也。
レイ 一个 弘法の所持と云傳ふ。
   已上
鐘樓 鐘の銘如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、銘は底本では全体が一字下げ。]
大日本國武州六浦莊金澤郷知足山龍華寺、菩提勝慧者、乃至盡生死、恆作衆生利、而不趣涅槃、般若及方便、智度悉加持、護法及諸有、一切皆淸淨、欲等調世間令得淨除故、有頂及惡趣、調伏盡諸有、如蓮體本染不有垢所染、諸欲性亦然、不染利羣生、大慾得淸淨、大安樂富饒、三界得自在、能作堅固利、天文十二年辛丑、五月五日、當寺住持法印權大僧都善融、檀那、古尾谷中務少輔平重長法名道傳、
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。
大日本國武州六浦の莊金澤の郷知足山龍華寺。菩提勝慧の者、乃至盡生死、恆に衆生の利を作して、涅槃に趣かず、般若及び方便、智度悉く加持す。護法及び諸有、一切皆淸淨、等(し)く世間を調へ、淨除を得せしめんと欲するが故に、有頂及び惡趣、調伏諸有を盡す。蓮の體、本と染じて、垢に染めらること有らざるがごとし。諸欲性も亦然り。染(め)られずして羣生を利す。大慾、淸淨を得て、大安樂、富饒。三界、自在を得(て)、能く堅固の利を作す。天文十二年 辛丑 五月五日 當寺の住持法印權大僧都善融 檀那 古尾谷中務の少輔平の重長法名道傳
「天文十二年辛丑」西暦一五四三年。但し、この干支はおかしい。天文十二年は癸卯みずのとうで、辛丑かのとうしは天文十(一五四一)年である(因みに天文十二年五月五日は己酉つちのととり、天文十年五月五日は辛卯かのとうで、位置から見ても日付の干支ではあり得ない)。一般には干支の方を正しいとするから、これは天文十年の鋳造になるか。
最後に「江戸名所図会」の龍華寺の図を以下に示す。

[「江戸名所圖會」の「町屋村 龍華寺」の図]



〇天然寺 天然寺テンネンジは、法爾山ホウニザンと號す。町屋村マチヤムラの海道の西にあり。浄土宗、光明寺の末寺なり。開山は、然譽禪芳、永祿二年二月二十六日寂、七十九歳。本尊阿彌陀、作者不知(知れず)。
寺寶
出山の釋迦畫像 壹幅 筆者不知(知れず)。
不動の畫像 壹幅 弘法の筆。
觀音の畫像 壹幅 慧心の筆。
文殊の畫像 壹幅 筆者不知(知れず)。
阿彌陀の像 壹幅 慧心の作。堅田カタタ千體の一つ也。
嵯峨のヒカリ阿彌陀の像 壹幅
辨才天の像 壹幅
   已上
[やぶちゃん注:現存。天文九(一五四〇)年頃、光明寺第十九世然誉禅芳ねんぽぜんほうによる創建とされる(彼の隠居所として建てられたとする。彼の没年「永祿二年」は西暦一五五九年)。寺宝の「不動の畫像」は法然の弟子源智の秘蔵仏で弘法大師空海真筆と称される。ネット上の記載に依れば、一九九四年刊行の金沢区仏教青年会編「かなざわの霊場めぐり」に、これは元は鎌倉の農家に伝わっていたものが後に横浜南大田の増田家の秘蔵仏となり、更に明治五(一八七二)年に天然寺寺宝となったもので、明治十(一八七七)年九月にコレラが流行した際にはこの不動への檀信徒及び近隣の野島町民の信仰が厚かったが故に鎮まったとされ、現在でも各檀家では不動明王のお札を祀っている、と記されている――とあるのであるが――では、この「寺寶」の「不動の畫像 壹幅 弘法の筆」という記載は一体?――]

〇藥王寺 藥王寺ヤクワウジは、町屋村の東にあり。三愈山と號す。龍華寺の末寺なり。堂に藥師十二神の像〔行基作。〕・カバの御曹司範賴ノリヨリの牌有。表に太寧寺道悟、裏に天文九年庚子六月十三日とあり。後の太寧寺の條下に詳なり。
[やぶちゃん注:現在は三療山医王院薬王寺と号している。金沢区の公式記載に依れば、本寺は頼朝異母弟源範頼(久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年? 遠江国蒲御厨(現在の静岡県浜松市)の出身であることから「蒲殿」と呼ばれた。頼朝への謀反の疑いによって伊豆修繕寺に幽閉誅殺された)の別邸があったこの地(瀬が崎と称した)にその霊を弔うため、鎌倉前期に建立された真言寺で、古くは三愈山愈遍照坊と称したが一時衰亡、再建後の江戸期に三療山薬王寺と改名したとある。本尊薬師如来は範頼の念持仏と伝えられる。鎌倉にも同名の日蓮宗寺院があるので注意が必要。
「天文九年」西暦一五四〇年。]

[稱名寺圖]

[やぶちゃん注:標題下に「以右爲前(右を以て前と爲す)」とあるように、底本では本図が横に配されているが、見易さを考慮して縦に配した。]
〇稱名寺〔附金澤文庫の舊跡 御所が谷 金澤の八木〕 稱名寺シヤウミヤウジ金澤山キンタクサンと號す。眞言律にて南都西大寺末寺なり。亀山帝の勅願所にて、北條越後の守平實時サネトキ本願主、其子顯時アキトキの建立也。實時サネトキを稱名寺と號し、法名正慧と云ふ。金澤に居住す。顯時より金澤を家號とす。顯時の法名慧日と云ふ。正安三年三月廿八日に卒す。牌あり。開山は審海和尚。寺領百石の御朱印あり。門に運慶が作の二王あり。鶴が岡鳥居の前より、此寺まで關東道十三里あり。
[やぶちゃん注:正確な創建は不確定であるが、ウィキの「称名寺」によれば、正嘉二(一二五八)年に実時が六浦荘金沢の館に持仏堂として阿弥陀堂を建立し、それが本寺の起源とされている。文永四(一二六七)年に鎌倉極楽寺の忍性の推挙によって下野薬師寺の僧審海を招聘して開山、真言律宗の寺院となった。金沢北条氏菩提寺として発展、実時によって境内に金沢文庫が創建されて関東に於ける南都仏教の拠点として栄え、二代顕時及び三代貞顕によって伽藍や庭園の整備が行われたが、幕府滅亡と同時に衰退した。江戸期に至って復興され、現在に至る。現在、鎌倉市今泉に同名の浄土宗寺院(「新編鎌倉志卷之三」の末に載せる「今泉不動」)があるので注意が必要。
「正安三年」は弘安三(一二八〇)年の誤り。
「關東道十三里」は既に示した通り、坂東里は一里が六町で六五四メートルであるから、凡そ八・五キロメートルとなる。]
本堂 本尊は彌勒、運慶が作。
寺寶
十六羅漢の畫像 十六幅 禪月大師の筆。
阿羅波左曩の五字文殊の畫像 壹幅 弘法の筆。
[やぶちゃん注:「阿羅波左曩」は文殊を表す真言で、「あらはしゃのう」と読むようである。]
信解品 壹卷 弘法の筆。
瑜伽論 壹卷 菅丞相の筆。荏柄の條下に詳なり。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之二」の「荏柄天神」の「神寶」の項に、
【瑜伽論】 貳卷 菅丞相の筆、ナガさ二寸五分、一行に二十五字。此論は一部百卷の物なり。シカるを十卷にきつゞめらる。其内の二卷なり。餘は極樂寺ゴクラクジに三卷、金澤カナザハ稱名寺シヤウミヤウジに一卷、高野金剛三昧院に一卷、竹生島に一卷アハせて八卷は今尚を存す。其外の卷は、在所不知也(知れざるなり)。
とある。]
請雨經 壹卷 菅丞相の筆。
愛染金銅の像 壹軀 天照大神の作。亀山帝のマモり本尊と云傳ふ。寺僧の云く、天照神の作と云は吉備丸キビマルの作なりとぞ。
[やぶちゃん注:「吉備丸」不詳。]
三尊彌陀の木像 壹龕 慧心作、タケ三寸五分。
不動の木像 壹軀 弘法一刀三禮の作、タケ二寸五分。
彌勒の泥塑の像 壹軀 弘法の作、タケ三寸、坐像。
釋迦の像 壹軀 興正菩薩の作。
仏舍利 八祖相承の舍利とて、祖師より代々相傳、弘法に至て、大和の室生山ムロウザンヲサめ置しを、亀山帝の勅に因て、此寺に納(め)ると也。昔は勅封りしとなり。
牛の玉 壹顆
鹿の玉 壹顆
靑磁の花瓶 四个 唐物。
靑磁の香爐 壹个 唐物。
楊貴妃が珠簾タマノスダレ 壹連 初は尾州熱田の寶物なりしを、亀山帝の勅に因て此に納むと云ふ。びいどろの細き竿サヲを、色絲イロイトを以てあみたる物なり。
   已上

彌勒堂 本堂の西に有。一切經を納む。
鐘樓
[やぶちゃん注:以下の鐘銘二種は底本では全体が一字下げ。]
 大日本國武州六浦莊稱名寺鐘銘
降伏魔力怨、除結盡無餘、露地擊楗槌、菩薩聞當集、諸欲聞法人、度流生死海、聞此妙響音、盡當雲集此、諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅爲樂、一切衆生、悉有佛性、如來常住、無有變易、一聽鐘聲、當願衆生、斷三界苦、頓證菩提、文永己巳、仲冬七日、奉爲先考先妣結緣人等同成正覺鑄之、大檀那、越後守平朝臣實時、
 改鑄鐘銘幷序〔入宋沙彌圓種述宋小比丘慈洪書。〕
此鐘成乎文永、虧乎正應、寺而不可無鐘矣、因勵微力、幷募士女、更捨赤金、重營靑鑄者也、伏乞先考、超越三有、同德於寶應聲、逍遙十地、並位於光世音、曁乎四生九類、與于一種餘響、銘曰、洪鐘之起、其始渺焉、載于周典、稱于竺篇、質備九乳、形象圓天、聲聲觸處、聞聞入玄、三界五趣、八定四禪、醒長夜夢、驚無明眠、之朝之夕、無愚無賢、凡厥聽者、同見金仙、正安辛丑、仲秋九日、大檀那、入道正五位下行前越後守平朝臣顯時法名慧日、當寺住持沙門審海、行事比丘源阿、大工大和權守物部國光、山城權守同依光。
[やぶちゃん注:以下、二種の鐘銘を影印の訓点に従って書き下したものを示す。
 大日本國武州六浦莊稱名寺鐘の銘
魔力の怨を降伏し、結を除て盡く餘り無し。露地、楗槌を擊つ。菩薩、聞(き)て當に集まるべし。諸々聞法せんと欲する人、生死海を度流す。此の妙響音を聞(き)て、盡く當に此に雲集すべし。諸行は常無し、是れ生滅の法。生滅、已つて滅し、寂滅を樂と爲(す)。一切の衆生、悉く佛性有り。如來は常住して、變易有ること無し。一たび鐘聲を聽(き)て、當さに願ふべし、衆生、三界の苦を斷ち、頓に菩提を證せんことを。文永己巳、仲冬七日、先考先妣の奉爲ヲヽンタメに結緣人等同成正覺之を鑄る。大檀那 越後の守平の朝臣實時サネトキ
 改め鑄る鐘の銘幷に序〔入宋沙彌、圓種述す。宋の小比丘、慈洪書す。〕
此の鐘、文永に成り、正應に虧く。寺にして鐘無(き)にはあるべからず。因(り)て微力を勵し、幷に士女を募り、更に赤金を捨て、重(ね)て靑鑄を營む者なり。伏して乞ふ、先考、三有を超越して、德を寶應聲に同(じく)し、十地に逍遙して、位を光世音に並べ、四生九類の曁びて、一種の餘響に與(す)らん。銘に曰(く)、洪鐘の起る、其の始(め)渺焉たり。周典に載せられ、竺篇に稱せらる。質、九乳を備へ、形、圓天に象る。聲聲、處に觸(れ)、聞聞、玄に入る。三界五趣、八定四禪、長夜の夢を醒し、無明の眠を驚(か)す。の朝の夕(べ)、愚と無く、賢と無く、凡そ厥の聽く者、同(じ)く金仙を見ん。正安辛丑 仲秋九日 大檀那 入道正五位下行前の越後(の)守平の朝臣顯時アキトキ法名慧日 當寺の住持沙門審海 行事の比丘源阿 大工大和の權の守物部の國光 山城の權の守同依光
●前の銘の語注
・「結を除て盡く餘り無し」は不詳。識者の御教授を乞う。
・「楗槌」は「けんつい」と読み、撞木のことであろう。
・「生滅、已つて滅し」の「已つて」は、「もつて」と訓じていると思われる。
・「先考先妣」「先考」は亡き父、「先妣」は「せんぴ」と読み、亡き母。
・「文永己巳」は文永六(一二六九)年。
●後の銘の語注
・「正應」は西暦一二八八年から一二九三年で、次の「虧く」は「かく」と読み、欠損したことを謂うから、前の鐘はたった二十年で鐘として要を成さなくなったことになる。龍頭が損壊して垂下出来なくなったか、鐘身そのものに亀裂が入ったかしたのであろう。
・「鐘無(き)にはあるべからず」影印は「無」の送仮名の最初が「シ」のようにも見えるが、一応、以上のように訓読した。
・「赤金」赤銅。厳密には銅に数%の金を含めた合金のことであるが、ここは単に鉄や銅のことを言っているものと思われる。壊れた旧鐘の錆びた様態を言っているのであろう。
・「三有」は「さんぬ」と読み、三界(欲界・色界・ 無色界)の生存の様態を言う欲有・色有・無色有を指す。
・「寶應聲」ある種の経典では観音菩薩を宝応声ほうおうしょう菩薩と呼び、衆生の苦しみや歎きの声を観じて余すところなくそれに応じて宝(功徳)を恵むことを言う。
・「十地」菩薩が修行によって得られる菩薩五十二位の下位から数えて第四十一から五十番目の位。十廻向の上位、等覚の下位。上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜。
・「光世音」やはり観音菩薩の古名。
・「四生九類」生物をその発生の様態から分類した胎生・卵生・湿生・化生(業により忽然と出生するもの)を四生ししょうというが、九類は不詳。何れにせよ、総ての生きとし生くる衆生総ての謂いであろう。
・「曁びて」は「およびて」と訓じた。「ビ」(若しくは「ヒ」)の送仮名の訓読はあまり自信がない。
・「與(す)らん」は取り敢えず「くみすらん」と訓じたが、自信がない。
・「渺焉」遙かに果てしなく響き渡る謂いであろう。
・「周典」礼記の周礼のことか。若しくは周易、易経のことかも知れない。
・「竺篇」サンスクリット語原典の一切経か。
・「五趣」応報によって輪廻する天上・人間・餓鬼・畜生・地獄の初期仏教の五悪趣。修羅を含めて六道とするのは後のことである。
・「八定四禪」一般的な禅の瞑想の十二段階を言う。因みにこれを越えて想滅受定なる域に至った後に解脱が来るとされる。
・「厥の」は「その」。
・「正安辛丑」は正安三(一三〇一)年。]

靑葉楓アヲバノカヘデ 堂の前東の方にあり。《靑葉の楓》金澤の八木と云て、靑葉アヲバカヘデ西湖梅セイコムメ黑梅クロムメ櫻梅サクラムメ文殊櫻モンジユサクラ普賢象櫻フゲンゾウザクラ蛇混柏ジヤビヤクシン雀浦一松スヾメガウラノヒトツマツとてあり。五木は此の處にあり。蛇混柏は、瀨戸の明神にあり。雀浦スズメガウラの一つ松は其の所にあり。黑梅クロムメは絶てなし。其跡は爰にあり。アル人の云、室木ムロノキ山に、箱根ハコネ權現の小社あり。神木とて犬樟イヌクスの大木あり。八木の一也と云傳ふと。【堯慧法師が紀行】に、昔藤原の爲相タメスケ卿、「如何イカにして、此一本ヒトモトのしぐれけん、山にさきだつニハのもみぢ」とハベりしより後は、此木靑葉アヲバにて、玄冬までハベるよしキコゆる楓樹くちのこりて、佛殿のノキハベり。歌に、「先立サキダヽ一本ヒトモトものこらじと、かたみの時雨シグレ靑葉にぞ降」とあり。ウタヒにも作れり。
[やぶちゃん注:「室木ムロノキ山」は現存しない。平潟湾は昭和初期から徐々に干拓されたが、特に追浜の海軍飛行場の造営と同時に瀬ヶ崎や室木山といった丘陵部分が切り崩され、平潟湾の埋め立てに使用されて消失、野島公園内の室の木地区という呼称に残るのみとなった。
「犬樟」双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科タブノキ Machilus thunbergii のこと。イヌグスの他、タマグス、ヤマグスという異名も持つ。
「堯慧法師が紀行」天台僧にして歌人であった尭恵(永享二(一四三〇)年~?)の称名寺訪問は文明十九(一四八七)年五月末で、それが彼の紀行文「北国紀行」に記されている。以下に「江戸名所図会」所収のものを引用する(底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの斎藤幸雄編の大正十一(一九二二)年有朋堂書店版を視認したが、ルビは一部を除いて省略した)。

北國紀行
   金澤かなさはにいたりて、稱名寺といへる律の寺あり。むかし爲相卿の、
 いかにして此一本の時雨けむ山にさきだつ庭のもみぢ葉
   と侍りしより後は、此木靑葉にて玄冬までも侍るよし、聞ゆる楓樹かへで朽ちのこりて、佛殿の軒にはべり、
 さきだたばこの一本も殘らじとかたみの時雨靑葉にぞ降る  堯 惠

「北国紀行」本文では「金澤にいたりて」の前に、
同じ比、六浦金澤を見るに、亂山重なりて嶋となり、靑嶂せいしやうそばだちて海を隠す。神異絶妙の勝地なり。
とある。「嶂」は連峰の意。なお、ここで引用されている冷泉為相の和歌は「権中納言為相卿集」(本歌集は別名「藤谷和歌集」と呼ぶが、これは為相が住んだ鎌倉藤ヶ谷に由来する)所収のものである。一説にこの尭恵の訪問が、次に示した能「六浦」のモデルとなったとも言う。本文にも引かれている二首の和歌の意味を以下に示す。

 いかにして此一本の時雨けむ山にさきだつ庭のもみぢ葉  冷泉爲相
●やぶちゃんの現代語訳
 ……どうしたらこの一木いちぼくにだけ、それを紅葉させる時雨が降るなどということがあり得よう……そんなことはあり得べきもないはず……しかし事実、周囲の山々の木々に先だって確かにこの庭の一木だけが紅いに染まっていることよ……

 さきだたばこの一本も殘らじとかたみの時雨靑葉にぞ降る  堯惠
●やぶちゃんの現代語訳
 ……この朽ち残った青葉の楓と伝える一木……いや……もしもこの楓が、その後も山々の木々に先だって紅いに染まっていた――他の木々に先だって早晩、朽ち果ててこの世からあっさりと消え去っていたならば……かく「青葉の楓」という名の一木として今に残ることもなかったであろう……と古えの為相卿の風雅な物語りを偲ばせる形見して……かの時雨がこの青葉に降りしきっていることよ……

なお、引用した同「江戸名所図会」には更に続いて、戦国時代の連歌師谷宗牧たにそうぼくの「東国紀行」及び沢庵和尚の「鎌倉紀行」の称名寺の項が連続して載る。これも参考までに掲載しておく(一部に記号と改行を施し、丸括弧で句読点を補った)。

「東國紀行」
   稱名寺に至りてみれば、靑葉の紅葉事問ふべきだになし(。)
   しばらくありて、一室とやらん老僧出て、爲相詠歌(、)物
   語して、紅葉も老木おひきなりて、植かへられし庭の跡など教
   へられ、我坊の花けふを待ちいでたるやうなればとて、こゝろ
   ありげにさかづき出されて、此花をばいかゞなどあれば、
 けふぞ思ふみぬ世の秋の色迄も此一本の花の匂ひに  宗牧
   など申したれば、また傍より發句ひとつせよかし、此老僧興行
   のこゝろざしあるべけれど、こゝほどの見苦さ、はゞかりなき
   にしもあらねばなど、わりなきやうにて、
 秋もいざ靑葉に匂ふ花の露

「鎌倉紀行」
   池のほとりに一本のかへであり。いにしへ爲相卿いかにして此
   一本の時雨けん山に先だつ庭のもみぢば、とよみ給ひしより此
   木(、)時雨にもそめぬとて、靑葉の紅葉と申しならはすよし(、)
   かたりぬ、むかしのぬしに手向たむくとて、
 世々にふるそのことの葉の時雨より染めぬ色は深きもみぢ葉  澤庵

「謠にも作れり」は謡曲「六浦」を指す。粗筋を示した上で、原作を示す(底本は「JALLC TANOMOSHI No.1謡曲三百五十番集入力」の電子データを用いたが、台詞ごとに改行、「【中入】」を挿入、ページ記号番号を除去した。また多くを恣意的に正字に直し、濁音踊り字「%\」は正字に直した)。
長月のある日、東国行脚の僧が称名寺を訪れると、今を盛りと紅葉している中にあって、一葉も紅いに染まっておらぬ青葉の楓を見出だす。するとそこに一人の里女が現れ、楓の不審を訊ねた僧に、古え、鎌倉の中納言爲相卿がこの寺をお尋ねになられた際、山々の楓に先立って、実はこの木だけが美事に紅葉に染まっていたので、卿はそれをお讃えになって歌にお詠みになられた。その誉れを受けて、この木は『功なり名遂げて身退くは天の道なり』という故事を信じ、紅葉することをやめて常盤木の楓となった、と語る。僧がかくも木心を知る御身は、と女人の素姓を問うたところ、われはこの楓の精にて、尊き貴僧に逢わんがために出で参ったと告げて秋草の中に消え失せる。(中入)――その夜、称名寺にて僧が誦す読経の声に楓の精が現れ、「草木国土悉皆成仏」という経文の功徳を讃えて神楽を舞い、夜明けと共に消えて行く。

   六浦
ワキ三人次第「思ひやるさへ遙かなる。/\。東の旅に出でうよ。
ワキ詞「これは洛陽の邊より出でたる僧にて候。われいまだ東國を見ず候ふ程に。此秋思ひ立ち陸奧の果までも修行せばやと思ひ候。
道行三人「逢坂の。關の杉むら過ぎがてに。/\。行くへも遠き湖の。舟路を渡り山を越え。幾夜な幾夜なの草枕。明け行く空も星月夜鎌倉山を越え過ぎて。六浦の里に着きにけり/\。
ワキ詞「千里の行も一步より起るとかや。遙々と思ひ候へども。日を重ねて急ぎ候ふ程に。これははや相模の國六浦の里に着きて候。此渡をして安房の淸澄へ參らうずるにて候。又あれによしありげなる寺の候ふを人に問へば。六浦の稱名寺とかや申し候ふ程に。立ちより一見せばやと思ひ候。なう/\御覽候へ。山々の紅葉今を盛と見えて。さながら錦を晒せる如くにて候。都にも斯樣の紅葉の候ふべきか。又これなる本堂の庭に楓の候ふが。木立餘の木に勝れ。唯夏木立の如くにて一葉も紅葉せず候。いかさまいはれのなき事は候ふまじ。人來りて候はゞ尋ねばやと思ひ候。
シテ呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ふぞ。
ワキ「さん候これは都より始めて此處一見の者にて候ふが。山々の紅葉今を盛と見えて候ふに。これなる楓の一葉も紅葉せず候ふ程に。不審をなし候。
シテ「げによく御覽じとがめて候。いにしへ鎌倉の中納言爲相の卿と申しゝ人。紅葉を見んとて此處に來り給ひし時。山々の紅葉いまだなりしに。この木一本に限り紅葉色深くたぐひなかりしかば。爲相の卿とりあへず。いかにして此一本にしぐれけん。
詞「山にさきたつ庭のもみぢ葉と詠じ給ひしより。今に紅葉を停めて候。
ワキ「面白の御詠歌やな。われ數ならぬ身なれども。手向のためにかくばかり。古りはつる此一本の跡を見て。袖の時雨ぞ山にさきだつ。
シテ詞「あらありがたの御手向やな。いよいよ此木の面目にてこそ候へ。
ワキ「さてさてさきに爲相の卿の御詠歌より。今に紅葉を停めたる。いはれはいかなる事やらん。
シテ「げに御不審は御理。さきの詠歌に預かりし時。此木心に思ふやう。かゝる東の山里の。人も通はぬ古寺の庭に。われ先だちて紅葉せずは。いかで妙なる御詠歌にも預かるべき。功成り名遂げて身退くは。
詞「これ天の道なりといふ古き言葉を深く信じ。今に紅葉を停めつつ。唯常磐木の如くなり。
ワキ「これは不思議の御事かな。此木の心をかほどまで。しろしめしたる御身はさて。いかなる人にてましますぞ。
シテ「今は何をか包むべき。われは此木の精なるが。御僧たつとくまします故に。唯今現れ來りたり。今宵はこゝに旅居して。夜もすがら御法を説き給はゞ。重ねて姿を見え申さんと。
地「夕の空も冷ましく。この古寺の庭の面。霧の籬の露深き。千ぐさの花をかき分けて。行くへも知らずなりにけり/\。
【中入】
ワキ三人上歌待謠「處から心に適ふ稱名の。/\。御法の聲も松風もはや更け過ぐる秋の夜の。月澄み渡る庭のおも寢られんものか面白や。/\。
後シテサシ一聲「あらありがたの御弔やな。妙なる値遇の緣に引かれて。二度こゝに來りたり。夢ばしさまし給ふなよ。
ワキ「不思議やな月澄み渡る庭の面に。ありつる女人とおぼしくて。影の如くに見え給ふぞや。草木國土悉皆成佛の。この妙文を疑ひ給はで。猶々昔を語り給へ。
シテクリ「それ四季をり/\の草木。己々の時を得て。
地「花葉さまざまのその姿を。心なしとは誰かいふ。
シテ「それ靑陽の春の初。
地「色香妙なる梅が枝の。かつ咲きそめて諸人の心や春になりぬらん。
シテ「又は櫻の花盛。
地「唯雲とのみ三吉野の。千本の花に如くはなし。
クセ「月日經て。移ればかはる眺かな。櫻は散りし庭の面に。咲きつゞく卯の花の。垣根や雪にまがふらん。時移り夏暮れ秋も半になりぬれば。空定なきむら時雨。昨日は薄きもみぢ葉も。露時雨もる山は。下葉殘らぬ色とかや。
シテ「さるにても。東の奧の山里に。
地「あからさまなる都人の。哀も深き言の葉の露の情に引かれつつ。姿をまみえ數々に。言葉をかはす値遇の緣。深き御法を授けつゝ。佛果を得しめ給へや。
シテ「更け行く月の、夜遊をなし。
地「色なき袖をや。返さまし。
序ノ舞。
シテワカ「秋の夜の。千夜を一夜に。重ねても。
地「詞殘りて。鳥や鳴かまし。
シテ「八聲の鳥も。かず/\に。
地「八聲の鳥も。かず/\に。鐘も聞ゆる。
シテ「明方の空の。
地「處は六浦の浦風山風。吹きしをり吹きしをり散るもみぢ葉の。月に照り添ひてからくれなゐの庭の面。明けなば恥かし。暇申して。歸る山路に行くかと思へば木の閒の月の。/\。かげろふ姿と。なりにけり。

なお、この青葉の楓の子孫は今から凡そ三十三年前に枯死してしまい、現在植わっているものは普通の紅葉する楓であるという。なお、「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の[西湘桜・桜梅・普賢象桜・青葉楓の図]は必見。]

西湖梅セイコムメ 堂の前東の方の池邊。櫻梅サクラムメの南にあり。八重の花なり。イロ白し。萬里居士が詩あり。
[やぶちゃん注:以下、底本では詩全体が一字下げ。]
  西湖梅          萬里
前朝金澤古招提。 遊十年遲雖噬臍。
梅有西湖指枝拜。 未開遺恨翠禽啼。
〔自註云、西湖梅、先代之主屬商舶、移栽杭州西湖之梅名之。以未開爲遺恨矣。〕
[やぶちゃん注:以下、詩を影印の訓点に従って書き下したものを示す。但し、一部の送り仮名を私の判断で加えてある。
  西湖梅          萬里
 前朝 金澤の古招提
 遊ぶこと 十年遲くして臍を噬むと雖も
 梅に西湖有り 枝を指して拜す
 未開の遺恨 翠禽 
〔自註に云く、西湖梅は、先代の主、商舶に屬(し)て、杭州西湖の梅を移し栽(ゑ)て之を名(づ)く。以て未だ開かざるを遺恨と爲(す)と。〕
本「新編鎌倉志」にしばしば登場する「梅花無尽蔵」は戦国期の五山の学僧(後に還俗)万里諸九(生没年未詳。没年は永正初年(元年は一五〇四年)頃とする)の詩文集。グーグル・ブックの市木武雄「梅花無尺蔵注釈」の部分画像を見ると「商舶」は「南舶」で、南船、当時の中国南宋通いの船のことであるが、「商」でも意味は通る。以下、この七言絶句「西湖梅」を訳しておく(市木氏の同書の通釈を一部参考にさせて頂いた)。
●「西湖梅」やぶちゃん訳
   西湖梅
先の鎌倉に幕府が置かれた御世――そこで栄えた北条氏が建立したる名刹――
今こそそこを私は初めて訪ね得た――何たる景勝! 何たる絶佳! ああっ、来るのが十年遅かったのう!――
それでも――かの憧憬せる湘南杭州西湖よりもたらされた梅があるという――それを私は「これで御座るか」と指差しては――これを今に伝え給うた先人の恩に感じ入って拝み仰いで御座った――
――ただ――拝み仰いだには仰いだので御座れど――未だ以てその梅花の咲かざるは――如何にも残念無念――麗しきカワセミが――そうした私の「花の恨み」を知って――頻りに囀っておることよ――
〔自註に言う、「西湖梅は、先代の金沢北条氏が、宋渡りの船に依頼して、杭州は西湖に植生する梅を移し植えて、これを名づけた。私が訪れた際、未だ以って花が咲いていなかったことが残念でならない。」と。〕
梅の開花を見ざるを遺恨としているが、万里諸九が称名寺を訪れたのは文明十八(一四八四)年十月二十七日(新暦に直すと十一月十五日)のことであったから、致し方ないか。「翠鳥」はカワセミの異名ではあるが、「緑色をした鳥」の意ではあるから、必ずしもカワセミではなかろうが、映像の印象を際立たせるためにかく訳した。「自註」の「屬して」は頼む、託すの意。この「自註」というのは、本詩を含む漢文の長いものである。国立国会図書館近代デジタルライブラリーの斎藤幸雄編の大正十一(一九二二)年有朋堂書店版「江戸名所図会」を視認してテクスト化し、私が訓読したものを以下に示す。
 貼西湖梅詩序
 丙午小春。余入相州金澤稱名律寺。西湖梅、以未開爲遺恨。富士則本邦之山。而斯梅則支那之名産也。唯見蓓蕾而雖未見其花。豈非東遊第一之奇觀乎哉。金澤盖先代好是事之主。屬南船。移杭州西湖之梅花於稱名之庭背。以呼西湖呼之。余作詩云。前朝金澤古招提。遊十年遲雖噬臍。梅有西湖指枝拜。未開之遺恨啼翠禽。及今餘恨未盡。巨福山有識面。丁未之春。摘其花數十片爲一包見惠焉。己酉夏五。余昄濃之舊廬。奉獻彼一包於春澤梅心翁。翁借余手。措枝條。貼其花。近而見之。則造化所設。遠而見之。則趙昌所畫。幷以出於春翁之新意矣。掛高堂。一日招余令觀焉之次、要作贅語。題軸上。漫從揚水末章云。
  西湖梅貼軸詩            萬里居士
 前朝金澤古招提  遊十年遲雖噬臍
 梅有西湖指枝拜  未開遺恨翠禽啼
  同
 一橫枝上粘西湖  名字斯花別不呼
 意外春風眞假合  傍人定道盡成圖
●やぶちゃんの書き下し文(適宜、記号を加え、難読字にはルビを振った。【二〇一四年九月十九日追記:本テクストについては新たな本文校訂を行って書き下したものをブログの「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅳ)」の本文及び注に掲載した。リンク先が現時点での私にとっての本データの最良のテクストであるので、必ずそちらを参照されたい。】)
  西湖の梅を貼る詩の序
 丙午ひのえうまの小春、余、相州金澤の稱名律寺に入る。西湖梅、未だ開かざるをもつて遺恨となす。富士は則ち本邦の山にして、斯の梅は則ち支那の名産なり。唯だ蓓蕾ばいらいを見て、未だ其の花を見ずと雖も、豈に東遊第一の奇觀にあらずや。金澤、けだし先代、是の事を好むの主にして南舶に屬して、杭州西湖の梅花を稱名の庭背に移し、西湖を以て之を呼ぶ。余、詩を作りて云ふ、「前朝、金澤の古招提。遊ぶこと、十年遲くして臍を噬むと雖も、梅に西湖有り、枝を指して拜す。未だ開かざるの遺恨 、翠禽、啼く。」と。巨福山に識面有り。丁未ひのとひつじの春、其の花數十片を摘み、一包となして惠まる。己酉つちのととり夏五、余、濃の舊廬にかへり、彼の一包を春澤梅心翁に奉獻す。余の手を借り、枝條をへ、其の花を貼る。近にして之を見れば、則ち造化の設くる所、遠にして之を見れば、則ち趙昌の畫く所。合はせて以て春翁の新意に出づ。高堂に掛く。一日、余を招きて觀せしむるのついで、もとむ、贅語を作りて軸上に題せんことを。漫りに揚水の末章に從ふと云ふ。
   西湖梅軸に貼する詩        萬里居士
 前朝 金澤の古招提
 遊ぶこと 十年遲し 臍を嗟むと雖も
 梅に西湖あり 枝を指して拜す
 未だ開かざるの遺恨 翠禽 啼く
    同
 一橫 枝上 西湖を粘す
 名字 斯の花 別に呼ばず
 意外の春風 眞假合す
 傍人 定めてふ 畫圖を成すと
以下に「西湖の梅を貼る詩の序」の語注を配す(一部でグーグル・ブックの市木武雄「梅花無尺蔵注釈」の部分画像を参考にさせて頂いた)。
・「西湖の梅を貼る詩の序」これは、以下の本文で分かるように、実際に実物の西湖梅の花びらを押し花様にして画紙に貼って絵としたことを謂う。
・「丙午ひのえうまの小春」は文明十八(一四八六)年十月。
・「蓓蕾ばいらい」畳語。「蓓」も「蕾」に同じく「つぼみ」の意。
・「是の事を好むの主」市木武雄「梅花無尺蔵注釈」には『是の事を好むの庄』とあり、「庄」は『庄は莊の別字。別荘。』とあり、この方が「金澤」に始まる文脈では自然で、これが正しいものと思われる。
・「巨福山」建長寺山号。
・「識面」顔見知り(の僧)。
・「丁未ひのとひつじ」翌年の長享元(一四八七)年。市木氏によれば、この時、著者諸九は江戸城にいたとある。因みに、彼は(その頃は既に故人となっていたが)太田道灌と昵懇であった。
・「濃」美濃。鵜沼に諸九の旧居があった。
・「春澤梅心翁」(?~明応五(一四九六)年?)現在の岐阜県各務原市にあった臨済宗五山派の名刹承国寺(美濃国守護土岐持益もちますの創建、現在は廃寺)春沢軒に居した五山文学の英僧梅心瑞庸。美濃国守護土岐政房弟。諸九の最大の理解者であった。
・「造化の設くる所」全くの自然のまま(の梅の如き様)。
・「趙昌」北宋の画家で花鳥画の名人。
・「漫りに揚水の末章に從ふと云ふ」市木氏によれば、これは「詩経」の「揚之水」唐風の末尾の「我聞有命、不敢以告人」(我、命有るを聞くも、敢へて以て人に告げず)に基づく謂いで、人には見せられぬ、という意であるとする。謙辞である。
二番目の漢詩は今一つ、私には意味が読み取れない。識者の御教授を頂けると嬉しい。

なお、「西湖梅」には「セイコムメ」のルビがあるが、「ウメ」は古くは「ムメ」と表記した。ウィキの「ウメ」によれば語源は諸説あり、『ひとつは中国語の「梅」』の中国音「マイ」あるいは「メイ」から『の転という説で、伝来当時の日本人は、鼻音の前に軽い鼻音を重ねていた(現在も東北方言などにその名残りがある)ため、meを/mme/(ンメ)のように発音していた、これが「ムメ」のように表記され、さらに読まれることで/mume/となり/ume/へと転訛した、というものである。今日でも「ンメ」のように発音する方言もまた残っている』とある。楠山永雄氏の「ぶらり金沢散歩道」の「金沢の八名木」に、生き残っていた(西湖梅を植え継いだもので旧金沢文庫付近にあったとされる)西湖梅の結実した写真とともに「八重咲きでやや黄味を帯びた白色だったらしい」とある(トップ・リンク及び設置の確認メールを要求されておられるので、リンクは張らずにアドレスを以下に示す。
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/40/40.htm)。楠山氏によれば、後に太田道灌がここ称名寺から江戸城自邸内に株分けしたともある。この梅は一つの花から八粒(十粒という記載もあり)の実がなる特殊な品種であったが、惜しくも写真のもの(西湖梅を移植し植え継いだもの)も昭和末期に枯れてしまった。しかし金沢区は、「西湖梅」と同属種若しくは同種と思われる学術研究保存されていた「八房」と呼ばれる梅を探し出し、二〇〇八年、区政六十周年記念事業として現在の金沢区民活動センター隣りにある泥亀公園内に植樹した。「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の[西湘桜・桜梅・普賢象桜・青葉楓の図]は必見。
私もいつか、この――亡き母聖子の名と同音の梅を――見に行きたいと思っている。]

櫻梅サクラムメ 八重なり。堂の前東の方、西湖梅の北にあり。
[やぶちゃん注:老婆心ながら、ウメはバラ目バラ科サクラ属ウメ Prunus mume である。「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の[西湘桜・桜梅・普賢象桜・青葉楓の図]は必見。]

文殊櫻 堂の南東の方にあり。或云、ムカシの櫻はれて、今あるは新木なりと云ふ。
[やぶちゃん注:次の「普賢象櫻」との対命名であろう。「江戸名所図会」でもそう推定している。「称名寺圖」を見ると本堂から見て、左に文殊桜、右に普賢象桜が配されているのが分かるが、これは釈迦の脇侍としての文殊・普賢両菩薩の位置と一致する(称名寺の本尊は弥勒菩薩であるが、この庭が浄土式庭園であるとすれば、本堂の位置が釈迦如来に読み替えられるのではなかろうか)。]

普賢象櫻フゲンザウサクラ 千葉なり。花の心より一葉出づ。堂の前西の方にあり。【園太暦】に、延文二年三月十九日に、南庭に櫻樹を渡しゆ。殊絶の美花ナリ。號鎌倉櫻(鎌倉櫻カマクラサクラと號す)とあり。蓋し稱名寺に所在(る所ろ)の櫻樹か。昔し永福寺にも名花有とみへたり。【東鑑】に、往々永福寺の櫻の花見の事あり。
[やぶちゃん注:現在、桜の一品種として和名フゲンゾウがあり、その学名及び園芸品種名はCerasus serrulata ‘Albo-rosea’である。以下のサイトにはフゲンゾウは京都市上京区千本閻魔堂にあったと伝えられ、知られるのは室町期からとあるが、この称名寺の普賢象桜も本種と考えてよいであろう。FUJIWARA TAKAYUKI氏の「このはなさくや図鑑~美しい日本の桜~」の「ハ行」の「フゲンゾウ」をクリックすると、画像が見られる。藤原氏は命名由来として『二本ある葉化した雌しべが、まるで普賢菩薩が象(象の牙)に乗っているように見えることから名がついた』と言われていると記されておられる。また京都鞍馬山の千本ゑんま堂のそれも有名で、教野弘孝氏のHP「青りんご」の「千本ゑんま堂の普賢象桜」でその壮観が観賞出来る。是非、ご覧あれ。なお、その説明板によれば、本種には古来二種(亜種?)が存在し、『一種は嵯峨小倉山の「二尊院ふげん」(山桜系)、今一種は当「ゑんま堂ふげん」(里桜系)』とある。前者ニソンインフゲンゾウ Cerasus serrulata ‘Nison-in’ の画像を先の藤原氏のサイトで確認すると、花がかなり濃い紅紫を呈しているのが分かる。「新編鎌倉志」も「鎌倉攬勝考」何れも色について記載がない。もし、このような色であれば記載があるはずである。従ってこの称名寺の普賢象桜は白色であった可能性が高く、二種の内の里桜系のものかとも思われる。
「園太暦」は「えんたいりやく」と読み、「中園の太政大臣」と称された南北朝期基礎資料とされる公卿洞院公賢(とういんきんかた 正応四(一二九一)年~延文五・正平十五(一三六〇)年)の日記。]

美女石ビジヨセキ幷に姥石ウバイシ 堂の前蓮池の中、西のキシの方にあり。共に金澤四石の内なり。
[やぶちゃん注:楠山永雄氏の「ぶらり金沢散歩道」の「NO.47 美女石と姥石」(トップ・リンク及び設置の確認メールを要求されておられるので、リンクは張らずにアドレスを以下に示す。
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/47/47.htm)によれば、さる姫君と乳母が散策中にこの池に落ちて溺死し石化したと、又はその供養の石塔という伝承があるものの、それは明治期に創作されたものであろうと推測されている由の記載がある。楠山氏も推定されておられる通り、これらの石は称名寺浄土庭園(一九八七年に復元された)の遺構と考えて間違いないであろう。現在は一石(一応、美女石とされる)のみが現認出来る。]

金澤文庫ブンコの舊跡 阿彌陀院のウシロ切通キリトヲシ、其の前のハタケ、文庫の跡なり。昔北條越後の守平顯時アキトキ、此所に文庫をてて、和漢の羣書を納め、儒書には墨印、佛書には朱印を押す。印文は楷字カイジにて、金澤文庫の四字をタテに書す。ノチ上杉ウヘスギ安房の守憲實ノリザネ執事の時、再興す。【鎌倉大草子】に、武州金澤の學校は、北條九代の繁昌のムカシ、學問ありし舊跡也。上州足利ジヤウシウアシカヾの學校は、承和六年に、小野篁ヲノヽタカムラ上野カウヅケの国司たりし時の建立なり。今度安房の守憲實ノリザネ足利アシカヾは、公方御名字ヲンミヤウジの地なれば、學領を附し、諸書を納め、學徒を憐愍す。されば此の比諸国大に亂れて、學道も絶たりしかば、此の金澤の文庫を再興し、日本一所の學校となる。西國北國よりも、學徒多く集るとあり。管領源の成氏シゲウヂの時なり。其後は頽破して書籍皆散失す。一切經のれ殘りたる彌勒堂にあり。
  觀金澤藏書而作    義堂
玉帳修文講武餘。 遣人來覓舊藏書。
牙籤映日窺蝌斗。 縹帙乘晴走蠧魚。
圯上一編看不足。 鄴侯三萬欲何如。
照心古教君家有。 收在胸中壓五車。
[やぶちゃん注:金沢文庫の元は鎌倉時代中後期に北条氏一族で、当時の文化人として知られた金沢北条氏北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢の邸宅内に造った、武家の私設図書館であった。創設時期は不確か乍ら、実時晩年の建治元(一二七五)年頃と推定されている。蔵書は政治・文学・歴史等多岐に渡り、収集方針は後の子孫顕時・貞顕(金沢文庫古文書には六百通になんなんとする彼の書状が残され、その中に文庫の荒廃を嘆いていたとされる文書も残り、中には貞顕を文庫創建者とした文書も見られることから貞顕が文庫の再建を行っている可能性が指摘されている)・貞将の三代に受け継がれたが、金沢氏は元弘三(一三三三)年に鎌倉幕府滅亡とともに絶え、文庫は隣接した金沢氏菩提寺称名寺によって管理された。本文にもあるように室町期には関東管領上杉憲実が再興したが、当時の文庫建物はその後、失われてしまった。現在の同名の金沢文庫は、それらの残存資料を元に昭和五(一九三〇)年に県施設として復興された全く新しい中世歴史博物館である。
 以下に、本書にしばしば登場する、瑞泉寺住持でもあった鎌倉禅林の指導者義堂周信(正中二(一三二五)年~元中五・嘉慶二(一三八八)年)の漢詩を影印に従って書き下したものを示す(一部、送り仮名を補った)。

  金澤の藏書を觀て作る 義堂
玉帳 文を修す 講武の餘
人をして來たり覓めしむ 舊藏書
牙籤 日に映じて 蝌斗を窺ひ
縹帙 晴に乘じて 蠧魚を走らしむ
圯上の一編 看るに足らず
鄴侯の三萬 何如とか欲す
心を照らす 古教 君が家に有り
收めて 胸中に在りて 五車を壓す

以下、語注を示す。
・「牙籤」は「げせん」又は「がせん」と読み、和書の部品名。象牙で出来た小さな札で、書名を記して書物の帙の外に下げて目印とする。
・「蝌斗」は「蝌蚪」でオタマジャクシ。称名寺堂前の浄土庭園蓮池の景であろう。
・「縹帙」は「へうちつ(ひょうちつ)」と読み、和書のこと。
・「蠧魚」は「とぎよ(とぎょ)」と読み、昆虫綱シミ目 Thysanura のシミのこと。
・「圯上」は「いじやう(いじょう)」と読み、本来は土橋の上のことであるが、ここは漢の高祖の名臣張良が若き日に圯上老人黄石公から授かった兵法書を指すと思われる。禅宗の彼が何故、兵書をここに口にしたか。義堂が求めた仏典がなかったことを暗に指すか。いや、――私には義堂が心を痛めた円覚寺と建長寺の門徒抗争などが皮肉に浮かんでくるのである――。
・「鄴侯」は「げふこう(ぎょうこう)」と読み、「鄴」は春秋時代斉の地名で、漢代の県名、三国時代は魏の都の一つとなり、三曹(曹操・曹丕・曹植)父子によって文学が栄えた。現在の河北省臨漳りんしょう県。ここでは唐代の鄴県侯であった李泌りひつの蔵書が多かった故事(蔵書の多いことを「鄴架」と言う)に基づく謂いであろう。ここは既に文庫の蔵書が多く散失してしまっていたことを指すか。
・「心を照らす 古教」「照心古教」とは禅で言う「妙法の曼荼羅」(生そのものの様態の全体性)で、只管打坐、即ち禅の要諦を言う。
なお、義堂の金沢文庫の訪問は上杉憲実の再興以前であるから、この詩によって鎌倉幕府滅亡後の文庫の衰微の様が知られる。
 文中に示された「金澤文庫」の蔵書印の画像を「鎌倉攬勝考卷之十一附録」から以下に示す。


 最後に、「江戸名所図会」の「金澤文庫址 御所ヶ谷」(次項参照)の図を示す。

[「江戸名所圖會」の「金澤文庫址 御所ヶ谷」の図]

この絵はシーンの切り取りが絶妙である。]

御所がヤツ 阿彌陀院のウシロ切通キリトヲシを出るハタケを云なり。里俗の云、龜山帝の御所の跡なりと。切通は、龜山帝御參詣の也と云ふ。今按ずるに、龜山帝、金澤に御幸の事、舊記等に於て未考(未だ考へず)。勝地佳境へ遊歴の事はあり。
[やぶちゃん注:楠山永雄氏の「ぶらり金沢散歩道」の「NO.31 金沢の七井戸」(トップ・リンク及び設置の確認メールを要求されておられるので、リンクは張らずにアドレスを以下に示す。
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/31/31.htm)によれば、称名寺赤門近くの秋本家の裏庭に「亀井」と称する井戸があり、『この地区は昔から御所ヶ谷と呼ばれており、亀山天皇の御所があったとか、巡幸された旧跡という伝説がある。これに因んで亀井の名がついたらしく、近くには亀井橋の跡もある』と記されている。また、「金沢区生涯学習“わ”の会」の「会報」第一〇号(二〇〇四年八月刊。PDFファイルによるネット閲覧可能)に載る熊谷哲氏の「亀山天皇と金沢」の「御所が谷」には『現在の県立金沢文庫から西南にかけての一帯の谷戸。いわれに二説がある。亀山帝が称名寺御幸の時、仮御所を作った跡という説』(称名寺は亀山天皇の勅願所ではあったが、本文にもある通り、行幸の事実はない)と、もう一説に永享十(一四三八)年に起こった永享の乱の際、『足利持氏が称名寺に逃れ、この辺りにあった自分の館(自ら御所と僭称していた)に入った事からその名が生まれたという』説を示されておられる。後者がしっくりくる。]
顯時アキトキの石塔 阿彌陀院のウシロにあり。顯時は平の實時サネトキの子なり。前に詳なり。
貞顯サダアキの石塔 同所にあり。貞顯サダアキは顯時の子なり。
[やぶちゃん注:参考までに、「江戸名所図会」の両石塔の図を示す。

[「江戸名所圖會」の「金澤顕時墓 金澤貞顕墓」の図]

この絵、僧の墨染めの衣が利いている。]
藥師堂 門外の東にあり。
海岸寺 門外の東の方にあり。【鎌倉年中行事】に、海岸寺あり。昔は尼寺アマデラにて上杉持朝モチトモムスメ理等、此寺に居す。今は稱名寺の内に屬す。
[やぶちゃん注:律宗寺院であるが現存しない。金沢北条氏所縁の女性(一説に金沢顕時夫人)によって創建されたと伝えられる。現在、称名寺にある十一面観音立像及び両脇侍不動・毘沙門天立像は元はこの海岸寺の本尊であった。
「上杉持朝」(応永二十三(一四一六)年~応仁元(一四六七)年)は守護大名、相模守護。扇谷上杉家第六代当主。上杉禅秀の乱で戦死した上杉氏定の次男。永享の乱では上杉憲実側に属し、鎌倉公方足利持氏攻めで功を成したが、文安六(一四四九)年に持氏の子成氏が鎌倉公方に復帰、かつて父持氏を滅ぼしたことを憚って嫡男顕房に家督を譲って出家、道朝と号した。しかし享徳三(一四五四)年の享徳の乱で持朝の婿であった関東管領上杉憲忠が成氏に暗殺されると、翌年には憲忠の弟房顕を関東管領に立てて実権を握り、その後は成氏や堀越公方足利政知らとの長い抗争に明け暮れた。
「理等」(生没年不詳)は「りとう」と読む。持朝の娘で、妹も尼で理繁と言った。]
光明院 總門を入左にあり。
大寶院 光明院の向ふなり。
一の室 本堂の東の方にあり。
阿彌陀院 本堂より西の方なり。
[やぶちゃん注:「一の室」というのも塔頭の院号。称名寺は江戸時代以前、この四院と宝光院という塔頭の五ヶ院で運営され、江戸期になると宝光院に代わって海岸寺が入って幕末まで続いたという。]
八幡の社 蓮池の西にあり。
[やぶちゃん注:最後に、「江戸名所図会」の「称名寺」全図(二枚)を以下に示す。

[「江戸名所圖會」の「稱名寺」の図 「其一」及び「其二」]


「其一」の左が「其二」の右に接合する。「新編鎌倉志」の図と比すと、例えば美女石と姥石の形状や配置の違いが分かって面白い。しかも「新編鎌倉志」では美女石は池端の陸上にあるのである。]

〇柴崎村〔附權現山 本目〕 柴崎村シバサキムラは、稱名寺の東の出崎の方にあり。《權現山》【北條盛衰記】に、上杉ウヘスギ治部の少輔入道建芳が被官ヒクハンに、上田ウヘダ藏人入道と云ふモノ、武藏の國神奈川カナガハ出張デハつて、權現山を城にカマへ、上杉ウヘスギソムくとあるは此所ならん歟。前に所謂(謂は所る)小栗孫ヲグリマゴ次郎が、盗賊に逢し所も此所ならん。權現堂ともふ也。《本目》此村の東の出崎を本目ホンモクと云ふ。
[やぶちゃん注:現在の称名寺の東一帯。現在は柴町という。この辺りは埋め立てが進んでおり、「本目」という旧地名も見出し得なかった(現在、根岸の北に本牧があるが、地理上、遥かに離れる)。識者の御教授を乞う。
「北條盛衰記」は江西逸志子こうせいのいつしし著の小田原北条氏五代記「小田原北条記」の異本。
「上杉治部の少輔入道建芳」は上杉朝良(文明五(一四七三)年?~永正十五(一五一八)年)のこと。戦国初期の武将。扇谷上杉家当主。北条早雲は当時、伊勢宗瑞と称して彼の家臣であったが、相模国の実質支配を進め、永正十五(一五一八)年には宗瑞により相模に於ける扇谷上杉家最後の拠点であった三浦郡を守っていた三浦道寸も攻め滅ぼされ、朝良は失意のうちに病死した。
「上田藏人入道」扇谷上杉家家臣であったが伊勢宗瑞に取り込まれて永正七(一五一〇)年、権現山山上に砦を築いて謀叛を起した人物。上杉勢二万が権現山を包囲、十日間にわたる合戦の末、上田勢が敗れた。但し、現在、この籠城の地は横浜市神奈川区高島台(JR横浜駅と東神奈川駅の中間点)にある本覚寺のある権現山とされ、位置が合わない。私には「新編鎌倉志」の考証は間違いのように思われるが、如何? 識者の御教授を乞う。]

〇柴崎村〔附權現山 本目〕 柴崎村シバサキムラは、稱名寺の東の出崎の方にあり。【北條盛衰記】に、上杉ウヘスギ治部の少輔入道建芳が被官ヒクハンに、上田ウヘダ藏人入道と云ふモノ、武藏の國神奈川カナガハ出張デハつて、權現山を城にカマへ、上杉ウヘスギソムくとあるは此所ならん歟。前に所謂(謂は所る)小栗孫ヲグリマゴ次郎が、盗賊に逢し所も此所ならん。權現堂ともふ也。此村の東の出崎を本目ホンモクと云ふ。
[やぶちゃん注:現在の称名寺の東一帯。現在は柴町という。この辺りは埋め立てが進んでおり、「本目」という旧地名も見出し得なかった。識者の御教授を乞う。
「北條盛衰記」は江西逸志子こうせいのいつしし著の小田原北条氏五代記「小田原北条記」の異本。
「上杉治部の少輔入道建芳」は上杉朝良(文明五(一四七三)年?~永正十五(一五一八)年)のこと。戦国初期の武将。扇谷上杉家当主。北条早雲は当時、伊勢宗瑞と称して彼の家臣であったが、相模国の実質支配を進め、永正十五(一五一八)年には宗瑞により相模に於ける扇谷上杉家最後の拠点であった三浦郡を守っていた三浦道寸も攻め滅ぼされ、朝良は失意のうちに病死した。
「上田藏人入道」扇谷上杉家家臣であったが伊勢宗瑞に取り込まれて永正七(一五一〇)年、権現山山上に砦を築いて謀叛を起した人物。上杉勢二万が権現山を包囲、十日間にわたる合戦の末、上田勢が敗れた。但し、現在、この籠城の地は横浜市神奈川区高島台(JR横浜駅と東神奈川駅の中間点)にある本覚寺のある権現山とされ、位置が合わない。この考証は間違いのように思われる。]


[能見堂所見圖]

〇能見堂〔附釜利谷 筆捨松 夫婦松〕 能見堂ノケンダウは、稱名寺の西北の山上にあり。里俗リゾクはのつけんダウと云。ムカし、畫工巨勢金岡コセノカナオカ、此の所の美景をウツさんとして、あきれて、のつけにそりたる故に、のつけんダウと云ふなり。或は云、風光の、此の所より不殘(殘らず)ゆる故に、能見堂とふ。又云、昔はダウなし。此の地よりノゾめば、瀨戸セトの海道ゆる故に、能見道ノケンダウふ。又【梅花無盡藏】には、濃見堂ノケンダウとかけり。今の堂は、頃年、久世クゼ大和の守源の廣之ヒロユキ建立なり。此の西の塩燒濵シホヤキバマを、釜利谷カマリヤふ。能見堂の西の方より、新町シンマチの宿へづるミチあり。此の地、東南は海水にて、眺望キハマりなし。富士山フジサン上總カズサ下總カヅサ房州バウシウの諸峯不殘(殘らず)見ゆ。天下の絶景なり。里民、相傳へて、西湖サイコの八景有とふ。洲崎スサキの民家ツラナりたるトコロを。山市晴嵐サンシノセイランふ。町屋村の東、平方ヒラカタの西、塩燒濵シホヤキバマを、平砂落雁ヘイサノラクガンふ。野島ノジマの南へでたる所ろを、漁村夕照ギヨソンノセキセウと云(ふ)。瀨戸セト浦邊ウラベをもふ。室木モロノキの西、瀨崎村セガサキムラの前の海上を、江天墓雪コウテンノボセツふ。野島の南、刀切村ナタギリムラの北に、フネ見ゆるを、遠浦歸帆エンボノキハンふ。釜利谷村カマリヤムラの内、手子テコの明神の北、塩屋シホヤのある邊を、瀟湘夜雨シヤウシヤウノヤウと云なり。其の所に、瀟湘の夜雨マツマツあり。稱名寺の東の出崎、柴崎村の南の邊を、洞庭の秋月と云なり。稱名寺の鐘を、煙寺の晩鐘と云ふ。八景スベて能見堂より云なり。鶴が岡鳥居の前より、能見堂まで、關東路十四里あり。

[やぶちゃん注:能見堂は現存しないが、跡が残る。また、本項文中に記されるのは所謂、金沢八景のプロトタイプで、後掲する中国の瀟湘八景の呼称をそのまま用いているから、現在、知られる後掲する東皐心越とうこうしんえつの命名のものとは呼称が異なる。ウィキの「金沢八景」によれば、『金沢の風景の美しさは鎌倉時代から認識されていたが、特に鎌倉後期以降に鎌倉五山の禅僧によって杭州西湖と金沢の風景の類似が指摘された。江戸時代に入り、後北条氏のもと家臣であった三浦浄心が』残した「名所和歌物語」(慶長十九(一六一四)年刊)の中で、中国で画題として知られる湖南省の瀟湘八景(瀟水が湘江に合流、他の水系も加わって洞庭湖を形成する一帯)の瀟湘夜雨(瀟水と湘水の合流する川面に降る夜の雨)・平沙落雁(砂洲に舞い降りる雁)・煙寺晩鐘(清涼寺の夕霧に煙る鐘声)・山市晴嵐(霞に烟る山里)・江天暮雪(日暮れの川に舞う雪)・漁村夕照(夕陽に染まる漁村)・洞庭秋月(洞庭湖上の秋の月)・遠浦帰帆おんぽきはん(夕暮に帰って来る帆かけ舟)『にならって金沢の地名を名指したことが金沢八景の最も古い例である。その後も現地比定は流動的であったが、水戸藩主徳川光圀が招いた明の禅僧・東皐心越が』、正にこの貞亨二(一六八五)年に版行された「新編鎌倉志」の本項の記載に基づいて、九年後の元禄七(一六九四)年、『山の上(現在の金沢区能見台森)にある能見堂から見た景色を、故郷の瀟湘八景になぞらえた七言絶句の漢詩に詠んだことで現地比定が方向づけられ』た。『心越禅師の権威と能見堂や金龍院の八景絵図が版を重ねることで普及』、『心越禅師の漢詩によって金沢八景の名は高まり、江戸市民の観光が盛んになっ』て、更に後には『歌川広重を始めとする多くの浮世絵師が名所絵(浮世絵風景画)として描いた』ことで江戸近郊有数の名数として定着することとなった。光圀の命により本書の序文も書いている実質的な命名者である東皐心越(崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)は、江戸初期に明(一六四四年に清となる)から渡来した禅僧で、日本篆刻の祖と呼ばれ、又、中国の古琴を日本に伝えたことから日本琴楽の中興の祖ともされる。彼は、一六七六年、清の圧政から逃れるために杭州西湖の永福寺を出て日本に亡命、一時、清の密偵と疑われて長崎に幽閉されたが、天和三(一六八三)年にまさに本書の著者でもある徳川光圀の尽力によって釈放、水戸天徳寺に住して、専ら篆刻や古琴を教授した。後に病を得、元禄八(一六九五)年に相州塔ノ沢温泉などで湯治をしたが、その帰途、ここ金沢を訪れ、自身が暮らした西湖の美景瀟湘八景に倣って八景を選び、八首の漢詩を残した。これが金沢八景の由来となった(なお、彼は薬石効なく、天徳寺に戻って同年九月に示寂した)。心越の漢詩及び歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の全カラー画像は、私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「八景詩歌」の注で掲載している。是非、御覧あれ。
「巨勢金岡」(生没年未詳)は九世紀後半の伝説的な画家。宇多天皇や藤原基経、菅原道真、紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば造園にも才能を発揮し、貞観十(八六八)年から十四(八七二)年にかけては神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な田の稲が食い荒らされるとか、朝になると壁画の馬の足が汚れていて、そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わるが、その伝承の一つに、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしようという。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと飛んで来て絵の中に再び納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であったというエピソードが今に伝わる。描こうとして、余りの美景、その潮の干満によるにる自在な変化に仰け反っってしまった(ということは描かなかったということである)という本話や、後掲される「筆捨松」の話柄は明らかにこの話の変形であって、実話とは信じ難い。なお、ウィキの「能見台」によれば、それから七十年余り後に、『藤原道長が設けた草庵が能見堂とな』ったとする。
「頃年」は「けいねん」で、近年。
「久世大和の守源の廣之」久世広之(慶長十四(一六〇九)年~延宝七(一六七九)年)は若年寄・老中。下総関宿藩主。第二代将軍秀忠及び三代将軍家光の小姓から寛永十二(一六三五)年)に徒頭となり、翌年には従五位下大和守に叙任されている。承応二(一六五三)年には四代将軍家綱お側衆、寛文二(一六六二)年に若年寄、翌年に老中。「今の堂は、頃年、久世大和の守源の廣之建立なり」とあるが、道長のものはとうに廃れていたものと思われ、これは「今の堂」、則ち当時の新築の堂舎屋のことを指し、広之が寛文年間に増上寺にあった地蔵院を、ここへ移して擲筆山地蔵院と称したものを指している(以上の事蹟は主にウィキの「久世広之」を参照した)。 「能見堂の西の方より、新町の宿へ出づる道あり」の「新町」が分からない。識者の御教授を乞う。但し、この叙述からは現在の笹下釜利谷道路の大塚沢下から尾根を越え、能見台を経て北上してゆく古い道筋を指しているのではないかと思われる。因みに、私はかつてここにある釜利谷高等学校に七年間勤務していた。
「關東路十四里」凡そ九キロメートル強であるが、朝比奈を越えて山伝いの道でかなりの時間がかかりそうだ。]
筆捨松フデステマツ 堂の前にあり。金岡カナオカ、金澤の多景を感して、此松のシタにて筆を捨しと也。故に名く。萬里居士が詩あり。【梅花無盡藏】に云、出金澤七八里許、攀最高頂、則山々水々、面々之佳致、昔畫師金岡、絶倒擲筆之處、有名無基、但其名不甚佳、相傳曰濃見堂也、又云、畫師擲筆之峯。
[やぶちゃん注:以下は、底本では四句が読点で連続するが、明らかな七言絶句であるので、以下のように表示した。]
登々匍匐路攀高。 景集大成忘却勞。
秀水奇山雲不裹。 畫師絶倒擲秋毫。
[やぶちゃん注:「梅花無尽蔵」の漢文を影印によって書き下したものを以下に示す(詩には括弧を附さずに送り仮名を補った)。
金澤を出でゝ、七八里許(り)、最高頂を攀れば、則ち山々水々、面々の佳致なり。昔し、畫師金岡、絶倒して筆を擲つの處、名有(り)て基ひ無し。但(し)、其の名甚だ佳ならず。相(ひ)傳へて濃見堂と曰ふなり。又云(く)、畫師筆を擲つの峯と。
登々 匍匐 路 高きを攀づ
景 集めて 大成 勞を忘却す
秀水 奇山 雲 ツヽまず
畫師 絶倒して 秋毫を擲つ
これは「江戸名所図会」にも引用されており、それを見ると「相傳曰濃見堂也」と「又云、畫師擲筆之峯」の間に中略があることが分かる。因みに「江戸名所図会」では漢詩の後に、
  涼しさや折ふしこれはと筆捨松   西山宗因
  ゆづりてよ筆捨松に蟬の吟     同
を載せる。
「畫師擲筆」は固有名詞であるから返読せず「がしてきひつ」と読む方がよいと思う。
慶応大学図書館蔵の嘉永四(一八五一)年版行の歌川広重の絵が「慶応大学EIRI」の「東海道風景図会」の「能見堂筆捨松より金沢八景眺望」で見られる。また、以下にネット上で採取した、同じく広重作の嘉永六(一八五三)年「武相名所手鑑」の「従能見堂金沢八景一覧 其一」(リッカー美術館所蔵)の画像を示しておく。

こちらは、筆捨松の全容に加えて、能見堂からのロケーションが近代的なパースペクティヴで描かれ、また美事である。]
夫婦松フウフマツ 筆捨松フデステマツより東方に、二本ある松なり。
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「夫婦松」には、
夫婦松 筆捨松の東の方に、二樹相並て茂生する松をいふ。古え此邊の里長を村君大夫と稱したるもの、夫婦して栽し松といふ。
と記す。この「村君大夫」というのは、小栗判官の伝承と関係があると思われる。説教節などのストーリーでは、小栗は豪族横山に毒殺され(先に示したように後に閻魔大王によって蘇生)、小栗を救おうとした照手姫(横山の娘。但し、やはり先に示したように実の娘ではなく強奪したものとする話柄も多い)も殺されそうになり、海に投げ入れられるが、辛くも溺死することなく、相模の国は「ゆきとせが浦」へ漂着、村君の太夫に助けられて養子となる。――が、またまた今度は太夫の妻が、夫と照手の関係を邪推し、苛め抜いた上に人買いに売られてしまう(焼き殺そうとするヴァージョンが先の「照天松」の由来となる)。……さすれば、この夫婦善哉の松の「村君大夫」は、どう考えても、この忌わしい妻のモデルということになるのだが……。
 最後に「江戸名所図会」の「能見堂 筆捨松」の絵を示す。

[能見堂 筆捨松]

右上の解説は、「此所より金澤の勝槩しやうがいを平臨する圖次に擧げたり」、左上の宗因の句は「涼しさや 折ふし 是はと 筆擲松 西山 宗固」である(「宗固」は「宗因」の誤り)。「勝槩」は景勝のこと。左手の遠眼鏡がお洒落だ。ことの序でに、では、続く「金澤勝槩一覽之圖」も示そう。

[金澤勝槩一覽之圖 其一 其二 其三]


[やぶちゃん注:「其一」中央に「能見堂より平臨する所の圖なり」とある。]

各名所の幕末期の位置が(注意されたいが「新編鎌倉志」の記載とは位置がずれているものがある)これでほぼ分かる。]

〇手子明神 手子テゴの明神は、釜利谷カマリヤ村の内、瀨戸の北にあり。此の所三方は山、東は瀨戸橋より入海イリウミなり。明神の北に、瀟湘シヤウシヤウの夜雨マツと云あり。此所より鼻缺ハナカケ地藏へ出る道あり。
[やぶちゃん注:現存。「此所より鼻缺地藏へ出る道あり」は、先の「鼻缺地藏」の「江戸名所図会」の絵の画面奥の鼻欠地蔵を回り込む山道、「鼻缺地藏」本文で言う「釜利谷へ田て、能見堂へ登る路」と考えられ、朝比奈のずっと東にこの古い間道があったことが分かる。]

〇野島村〔附平方 金澤原 乙鞆浦〕 野島村ノジマムラは、瀨戸橋セトバシの東の出崎なり。里民の云、此處民屋百ケンあり。外に一ケンも家を造れば、必災ひ有て、又モトの如く百軒のカズとなる。依之(之に依て)百軒島とも云也。此の所の出崎に、紀州大納言賴宣ヨリノブ卿、塩風呂シホフロの舊地有。山の出崎に稻荷イナリの宮あり。山の中段に天神の宮あり。野島ノジマスコし北を平方ヒラカタと云ふ。平方の西、町屋村マチヤムラの東を、金澤原カナザハバラと云、野島の東濵を乙鞆浦ヲツトモウラと云ふ。
[やぶちゃん注:野島は古くは文字通り島であったが、乙舳海岸の砂嘴が伸びて洲崎と陸繋島となったものである。
「此處民屋百軒あり。……」以下の伝承は、ここでの海洋狩猟が恐らく非常に古い時代から営々と続いてきた(山頂近くの野島貝塚からは縄文時代早期後半の凡そ八〇〇〇年前とされる野島式土器が出土)ことを考えると、外部からの流入による漁業従事者の増加による水産資源の減少を抑止するための目的がまず挙げられ、また近世には活鯛を将軍家に供給する御用達として幕府から手厚い保護を受けていた野島漁師の特権性を維持することをも目的としていたように思われる。
「紀州大納言賴宣卿」徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文十一(一六七一)年)のこと。徳川家康十男。紀州徳川家祖。和歌山藩藩主。第八代将軍吉宗の祖父。また、伝承によれば万治年間(一六五八~一六六〇)には野島浦南端に頼宣の別邸があってこれを通称「塩風呂御殿」と称したとする。何故こう呼ばれたのかを記載する資料がないが、龍神温泉を痛く気に入っていた頼宣のこと、潮を沸かして塩水浴でもしていたものか。
「稻荷の宮」野島稲荷神社。野島総鎮守で、安貞元(一二二七)年に阿波守長島維忠の発願によって子の修理佐頼勝なる者が創建したと伝える。]

〇善雄寺 善雄寺ゼンユウジは、野島村の内にあり。野島山ヤトウザンと號す。眞言宗、龍華寺の末寺なり。本尊は不動。觀音、聖德太子の作。愛染、弘法の作、タケ五寸。腹内に愛染の小像千體作りこむと云ふ。寺の側に井あり。淸冷なり。
[やぶちゃん注:寺名や本尊が錯綜しており、「江戸名所図会」では「善應寺」と記しており、現存する寺も野島山染王寺のじまさんぜんのうじとする。小市民氏の「散歩行こうぜ」の『ようこそ「金沢・時代の小波 野島コース」へ』によれば文政十三(一八三〇)年に成った「新編武蔵国風土記稿」によれば『「この寺は、もとは野島の山頂にあったが、南方からの強風を受けて堂舎を破損したため、山麓の現在地に移った、山頂には今でも善応寺屋敷の地名が残っている」と寺伝を記して』おり、同書では続いて本堂の規模を記した上、本尊観音は約八寸程の立像であるとし、『昔は愛染明王が本尊だったのであろう、火災に遭って改めたものだ』と記されているとある(小市民氏は寺号もこのときに変更されたものと推測されている)。更に寺伝によれば、開山とされる源朝なる僧の示寂は永禄九(一五六六)年とあることから、その頃の創建とされているけれども、境内の墓地入口に『古びた宝篋院塔があり、安山岩の基礎石正面には「比丘尼角意、永徳二年六月十八日」と刻まれて』いるとする。永徳二・弘和二(一三八二)年であるから、この尼が本寺関係があるとすれば、この寺の創建は開山とされる源朝の存命期よりもずっと前(百五十年以上前)に遡る可能性がある、と記されておられる。『野島には染王寺のほかにも夕照山正覚院や円明院という寺院があって、いずれも洲崎町龍華寺の末寺で』あったが、『円明寺は早くから廃寺となり、正覚院の過去帳の一部などが染王寺に伝えられて』おり、現在、『染王寺は、金沢札所第八番であるとともに、新四国東国八十八所霊場第七十七番にもなってい』るとある。]


[太寧寺圖]

〇太寧寺 太寧寺タイネイジは、瀨崎村セガサキムラの南にあり。海藏山と號す。蒲御曹司カバノヲンザウシ源の範賴ノリヨリの菩提テラ也。開山は千光國師、今建長寺の末寺なり。本尊藥師・十二神、是をへそ薬師と云ふ。【勧進帳カンジンテウ】の畧に云、昔し伏見帝、永仁年中に、此村に貧女あり。父母の忌日にあたれどもマヅしふして佛に供養すべき樣なし。イトをくり、へそとして、これを賣て、父母忌日の佛餉ブツシヤウソナへんと思ふ。然れどもたやすくふ人なし。る時童子一人來てこれを買ふ。其のアタヒを以て父母忌日の供養をツトむ。不思議の思ひをなしゝ所に、此藥師佛の前に、其へそ多くあり。始て知ぬ如來童女純孝ヂユンカウコヽロザシカンじてしかることを。自爾以來、へそ薬師と云ふとあり。鶴が岡の鳥居トリヰの前より、此寺まで關東路十里あり。
[やぶちゃん注:現存するが位置が異なる。本来あったのは平潟湾と野島に面した現在の関東学院大学人間環境学部校舎のある付近(丘陵部が完全に突き崩されて原型を留めていない)。源範頼が瀬ヶ崎に創建した真言宗寺院の薬師寺が元と伝えられ、この寺が後に移転して前掲の現在の薬王寺となり、この薬師寺のあった場所に範頼菩提のため、鎌倉時代に範頼の戒名に因んだ太寧寺が開かれたとされている。戦中の昭和十八(一九四三)年に横須賀海軍航空隊追浜飛行場拡張に関わる格納庫の建造目的で、現在ある金沢区片吹に強制移転させられている(以上は主に金沢区観光協会による)。
「へそ」は「綜麻・巻子」と書き(注:「臍」とは無関係)、「へ」は糸を揃えて合わせる意の動詞「る」の連用形に「」が附いたもの。紡いだ糸を中空の球状に幾重にも巻いたもの。苧環おだまき
「永仁年中」西暦一二九三年から一二九九年。
「佛餉」仏飯。
「純孝」真心からの孝心。
「關東路十里」六・五キロメートル強。]
  題太寧寺
六首   絶海
寺樓一抹晩江煙。  潮送鐘聲落釣船。
老矣身心機事外。  閒鷗容我社中眼。

殘曉香消柏子煙。  老來無夢趁漁船。
聞君去借江村宿。  一夜鷗邊看月眠。

六浦遙連三浦煙。  趁風隨岸幾移船。
興來撑棹窮住處。  月落前灣猶未眠。

山衘夕日水籠煙。  雪後蘆花月滿船。
蓋世功名身外事。  幾人能得一菴眠。

衲衣懶惹御爐煙。  還愛華亭載月船。
晩興遅留江上寺。  三山翠映白頭眠。

功名蓋世畫凌煙。  失墜危於灔澦船。
一錫歸來楓外寺。  白沙翠竹閉門眠。
[やぶちゃん注:「絶海」絶海中津(ちゅうしん 建武元(一三三四)年~応永十二(一四〇五)年)。臨済僧。夢窓疎石の法嗣。貞治三・正平十九(一三六四)年には建長寺に入り、応安元・正平二十三(一三六八)年、明に留学。帰国後は足利義満の帰依を受けて等持寺・相国寺住持となった。本書にしばしば登場する義堂周信と並び称せられる五山文学の名僧である。
以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す(一部に送り仮名を補った)。各首の後に語注を附した。
  太寧寺に題す 
六首   絶海
寺樓 一抹 晩江の煙
潮 鐘聲を送りて 釣船に落つ
老いたり 身心機事の外
閒鷗 我を容して社中に眼らしむ
・「閒鷗」手持無沙汰な鷗。

殘曉 香消す 柏子の煙
老い來りて 夢の漁船を趁ふ無く
聞く 君 去りて 江村を借りて宿し
一夜 鷗邊 月を看て眠むると
・「趁ふ」は「したがふ」と読む。次の詩でも同じ。

六浦ムツラ 遙かに連なる 三浦の煙
風に趁ひ 岸に隨ひて 幾か船を移す
興 來りて 棹を撑して 住處を窮む
月 前灣に落ちて 猶ほ未だ眠らず
・「撑して」は「さして」と読む。

山は夕日を衘み 水は煙を籠む
雪後 蘆花 月 船に滿つ
世を蓋ふ 功名身外の事
幾人か能く得ん 一菴の眠
・「衘み」は「ふくみ」と訓ずる。「銜」の俗字。

衲衣 御爐の煙を惹くに 懶し
還りて愛す 華亭 月を載するの船
晩興 遅留す 江上の寺
三山 翠映す 白頭の眠
・「衲衣」は「なふえ(のうえ)」と読み、本来は人が捨てた襤褸を縫って作った袈裟で、後に華美な綾錦・金襴などで製した七条袈裟を言うようになったが、ここは単なる袈裟の意であろう。

功名 世を蓋ひて 凌煙に畫く
失墜すれば 灔澦の船よりも危ふし
一錫 歸り來る 楓外の寺
白沙 翠竹 門を閉ざして眠る
・「灔澦」は「灔澦堆えんよたい」は長江三峡にある難所の一つ。人生の難所にも例えられる。]

寺寶
蒲御曹司源の範賴ノリヨリの畫像 壹幅
同(じ)く自筆の和歌 壹幅
   已上

源の範賴ノリヨリの石塔 堂の後にあり。又堂に位牌あり。ヲモテに大寧寺道悟とあり。ウラに天文九年庚子六月十三日とあり。寺僧の云、相ひ傳ふれは蒲御曹司カバノヲンザウシ源の範賴ノリヨリの位牌也と。此寺中絶して、藥王寺よりかけもちにせし時、藥王寺の住持、ウラに年號月日を如此(此のごとく)き付たりと云。藥王寺にも此の位牌のウツしあり。【異本盛衰記】に範賴ノリヨリは、伊豆の修善寺に御座ヲハしけるを、景時カゲトキ又賴朝にマフして、伊豆にし、景時カゲトキ父子三人、五百餘騎にて、修善寺に押寄ヲシヨす。範賴ノリヨリは、あるバウ小袖コソデ大口計ヲヽクチバカリにて御座ヲハしけるが、 差詰サシツメ引詰ヒキツメ散々サンザン給ひける。寄手ヨセテ多く射殺イコロさる。其の後矢種ヤダネきければ、バウをかけ、自害してこそウセせられける。其の後景時カゲトキシヅめ、範賴の燒首ヤケクビを取て鎌倉に持ちてき、賴朝に見せタテマツるとり。其のクビを此の地にハフムりたる歟。未詳(未だ詳かならず)。
[やぶちゃん注:源範頼(久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年)の最後については、ウィキの「源範頼」によれば、建久四(一一九三)年五月に、『曽我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。(ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記』にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある)』とあり、その後、八月二日になって『範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽』、十日の夜半には範頼家人の当麻太郎が頼朝の寝所の縁の下に潜入、『気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝』によって十七日、範頼は伊豆国修禅寺に幽閉される。「吾妻鏡」ではその後の範頼の消息は記されないが、「保暦間記」などによれば誅殺されたとし、その可能性は高い。しかし異説として、『修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられてい』たり、『武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある』ともあり、実はこの墳墓についても、修善寺奇襲から逃れた範頼が何とか兄の疑いを解こうとして戻った範頼は浦郷(現在の横須賀市浦郷町)辺に潜伏したが、討手に発見されて太寧寺の前身で彼の創建になる薬師寺に入って自害したという伝承がある。なお、この墳墓に関わっては範頼の法名を「太寧寺殿道悟大禪定門」とするが、これは後につけられたものか。ウィキでは範頼の正式な戒名を「名巖大居士」としている。
「天文九年庚子」西暦一五四〇年。
「此寺中絶して、藥王寺よりかけもちにせし時」先の「太寧寺」の私の注を参照。
「景時父子三人」梶原景時・長男景季・次男景高であろう。
「大口」大口袴。裾の口が大きい紅色の下袴。
「ある坊」修善寺では日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝える。]

〇室木村 室木村ムロキムラは、瀨朝崎セガサキの東也。此の民家の間に、犬樟イヌクスの大木あり。或は云、八木の一つなりと。山の上に筥根ハコネ權現の社あり。
[やぶちゃん注:現在の関東学院近くの平潟湾沿いの信号機に「室木信号」という呼称を見出せる。]

〇雀浦〔附浦の江〕 雀浦スヾメガウラは、室木村ムロノキムラの南の出崎を云ふ。天神の小祠あり。故に天神がサキとも云ふ。此地の入江を浦江ウラノエと云ふ。古老の云、昔し此の他に松一株あろ。八木の一つなりと。今はカレてなし。此の外文人のヤナギ猿這サルハヒの松など云有しが、皆れたりと。
[やぶちゃん注:現在の金沢区夏島町、平潟湾の南東旧湾口部南岸(野島対岸部)付近、県立追浜高等学校辺りを言ったものと思われるが、現在は平潟湾口部の埋め立てと護岸工事で往昔を偲ぶよすがはない。せめて「江戸名所図会」の雀ヶ浦の図で往時を偲ぼう。

[「江戸名所圖會」の「雀が浦」の図]

それにしてもこの画面左の鎌倉のやぐらのような六つの構造物は何だろう。「江戸名所図会」本文にも特に記載がない。識者の御教授を乞う。]

〇刀切村 刀切村ナタギリムラは、天神がサキの南ムカひ、浦江ウラノエの東にあり。南の入海を榎戸湊エノキドノミナトと云ふ。
[やぶちゃん注:「榎戸湊」は金沢から横須賀市深浦町の浦郷公園を抜けた現在の深浦湾の辺りの古称。金沢・浦賀(古称は浦川)と並ぶ鎌倉時代からの海上交通の要所で、江戸時代には江戸湾や相模湾で漁獲された魚介を江戸の魚河岸へ出荷する漁港として栄えた。]

〇烏帽子島 烏帽子島エボシジマ刀切村ナタギリムラの東の出崎の小島コジマを云ふ。
[やぶちゃん注:現存しない。佐久間則夫氏の「秋水プロジェクト」の「夏島・貝山海軍地下壕周辺遺跡」(地図によって烏帽子島の位置も明確に分かる)によれば、烏帽子島は追浜の海浜にあったが大正七(一九一八)年に『海軍航空隊の建設にともなう飛行場敷設のために切り崩され消滅した』。失われた烏帽子島は標高十五メートル、周囲二百メートルの烏帽子形の小島で、『対岸の夏島と対をなし風光明媚な場所であった』と記しておられる。横須賀市追浜地区広報HP「おっぱまタウン」の「烏帽子島と夏島」(
http://www.oppama-town.com/history/A012.htm)で明治四十年代の写真が見られる。]

〇夏島 夏島ナツシマは、烏帽子島エボシジマの東にあり。長さ三町餘、ヨコ一町餘ある小島コジマなり。
[やぶちゃん注:やはり埋立てによって島としては消滅した。名の由来は「鎌倉攬勝考卷之十一附録」によれば、『玄冬に至りても此島に雪つもらず。ゆへに夏鳥と名附く』とある。因みに後に、伊藤博文は最重要機密として保守するため、この孤島に作った夏島別荘に籠って日本帝国憲法を起草している。]

〇猿島〔附裸島〕 猿島サルシマは、夏島ナツシマの東南にあり。五町四方ばかりあり。其の前二三町餘ハナれて、裸島ハダカジマと云ふ小島あり。
[やぶちゃん注:横須賀市に現存する周囲約一・六キロの東京湾最大の自然島である。山頂部に縄文遺跡、猿島洞窟から弥生人の土器と人骨が発掘されており(因みにこの洞窟は江ノ島御岩屋まで続いていると伝承されるもの)、建長五(一二五三)年五月には開眼した日蓮が房州から鎌倉へ渡る際に時化に逢うも、題目を唱えて無事ここに漂着、さらに白猿の導きにより横須賀米ヶ浜に辿り着き(これが島名の由来とされるが、後附けの感が強い。「鎌倉攬勝考卷之十一附録」には『形の似たるゆえ名とす』とあり、私はこちらを採る)、弘化三(一八四六)年には江戸幕府によって砲三門を持った台場が設置、嘉永六(一八五三)年の黒船来港の際にはペリーの命令で東京湾の海図が作成されており、猿島はペリー・アイランドと命名され、昭和十六(一九四一)年には高射砲五座を配備した高射砲陣地となるなど、歴史的には多様な話題を持つ島である。古くは一帯にあった十の小島と総称して豊島としま(十島)と呼ばれていたらしく、「裸島」もその一つであった(現在、裸島は同定不能。岩礁であったが浸食で消滅した可能性が高いと思われる)。なお、現在の横須賀市三春町にある春日神社は明治十七(一八八五)年までは猿島にあり、この神社の守護神は大蛇で例の洞窟に住んでいたとも言われる(以上は主に、横須賀の海を中心に猿島や観音崎航路の観光船運航を行っている株式会社トライアングルのWebサイト「猿島探検隊」に依った)。――しかし――しかし猿島と言えば、私には何はなくとも「怪奇大作戦」の「二十四年目の復讐」(脚本・上原正三 監督・鈴木俊継)である(「仮面ライダー」ファンにはショッカーの秘密基地であろうが、私は残念ながらライダー・ファンではない)。その中で水棲人間と化した木村二等兵(名優天本英世演)が潜伏していた海軍東京湾要塞猿島砲台跡である(因みに、猿島は戦後、昭和二十(一九四五)年にGHQに接収されて米海軍減磁ステーションとして用いられた――「減磁ステーション」とは恐怖のフィラデルフィア実験めいたおどろおどろしい名だが、要は磁化した船体を消磁するデガウジング・システムという装置を持った施設らしい。戦艦は航行するだけで掃海電気の発生によって船体が磁化されるが、それを利用した磁気機雷の標的となってしまうため、磁気を消去する必要があるのである。いや正に、トンデモ本で噂されたフィラデルフィア実験の駆逐艦エルドリッジは、実は「消滅」実験をしたのではなく、高周波によるこの「消磁」実験をしていたらしいとされているから、ズバリ、縁はあるのだ――)。展望台で私の愛してやまない岸田森扮する牧史郎が機銃掃射で殺された姉の思い出を回想するシーンは涙なくして見られない。史郎の「おねーちゃん!……」の声が限りなく切なく響く。岸田森の演技の中では必見の名作である。最後は「江戸名所図会」の「浦の郷」の絵で締めよう。左上に、沢庵宗彭の「鎌倉紀行」の以下の和歌が引用されている。
 朝夕に波よせ來ぬる烏帽子島沖よりあらき風折やこれ

[「江戸名所圖會」の「浦の郷」]

「風折」は、「かざをり」と読み、風折烏帽子かざおりえぼしのこと。立烏帽子の頂が風に吹き折られた形の烏帽子。狩衣着用の際に被った。島の名に引っ掛けた洒落である。]



新編鎌倉志卷之八大尾



[やぶちゃん注:以下の跋文は汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の解説によれば、本書の刊行を懇望し実現した京都の出版者茨城多左衛門(柳枝軒は雅号か屋号)によるものである。影印を見ると跋題及び本文は全体が一字下げで、敬意表現で「本邦」のみ改行され冒頭から記載されている(最後のクレジット「貞享」も同じ)。当該箇所の改行のみを再現しておいた。使用漢字及び㊞の位置なども影印を優先した。]

題新編鎌倉志後
夫鎌倉之爲地也、固
本邦之一都曾、自夫豫州創鶴岡奥州宅龜谷、而遂爲源氏喬木、降迨右將開府于斯、瑞泉建鎭于斯、奕世相承、逖矣邈矣、以故治亂興亡之迹、紛紛其不可搏、東鑑・太平記等書、記者不少、可以槩見、而讀焉者、毎患其地理不明而事狀難推、今是編也、乃指示方所、區別疆域、切若手畫而足履、且其隠者顯之、微者著之、闕者補之、謬者正之、固已盡矣、而不特止此、以至寺觀之什物與夫題詠之篇章、凡羣書莫所見者、亦盡探討罔遺蒐輯弗洩、一閲之、則一時形勢、往古繁華、瞭然覩之行間、寔稽古之一助也、
聞之已熟、渇思霓望、願欲通行諸方以資好事、懇請數四、始得此本、遂鋟之梓以廣其傳云。
貞享二年歳次乙丑八月吉旦
 洛下書林
    柳枝軒茨木方淑轟識㊞
[やぶちゃん注:「僕」は表記のようにポイント落ちで底本では右側にある。㊞は以下の如し。


以下、影印に従って訓読したものを示す。送り仮名や読みの一部を私が( )で補った。句読点等は詠み易くするために適宜、変更、更に増やしてある。

「新編鎌倉志」の後に題す
夫れ鎌倉の地たるや、(マコト)に本邦の一都曾、夫の豫州の鶴岡ツルガヲカを創し、奥州の龜谷カメガヤツタクしより、而して遂に源氏の喬木と爲れり。降(り)て右將に(イタ)(り)て斯に府を開き、瑞泉、鎭、斯に建つ。奕世(エキセイ)相ひ承く、(テキ)なるかな(バク)なるかな、故を以て治亂興亡の迹、紛紛として其れるべからず。「東鑑」・「太平記」等の書、記(す)者少からず、以て槩見(ガイケン)しつべし。而して(コレ)を讀む者、ツネに其の地理明らかならずして、事狀推し難(き)ことを患ふ。今、是の編は、(イマ)し、方所を指示し、疆域(キヤウヰキ)を區別し、切に手に(ヱ)して足に履(く)がごとし。且つ其の隠れたる者をば之を顯(は)し、微(か)なる者は之を著(は)にし、闕(け)たる者は之を補ひ、謬(りた)る者は之を正して、固に已に盡せり。而して(ヒト)り此に止るのみならず、以て寺觀の什物と夫の題詠の篇章に至るまで、凡そ羣書に見る所ろ莫き者も、亦(た)盡く探討して遺すこと(ナ)蒐輯(シウシフ)して洩さず、一たび之を閲する時は、則(ち)一時の形勢、往古の繁華、瞭然として之を行間に覩る。マコトに稽古の一助なり。僕、之を聞(く)こと已に熟す。渇思霓望(カツシゲイバウ)、願くは諸方に通行して以て好事に資せんと欲す。懇ろに請ふこと數四、始めて此(の)本を得たり。遂に之を梓に(キザ)(み)て以て其の傳を廣(く)すと云ふ。
貞享二年歳次乙丑八月吉旦
 洛下書林
    柳枝軒茨木方淑識㊞
「豫州」伊予守源頼義。
「奥州」頼義嫡男、陸奥守源義家。
「喬木」鳥が巣造りするような高い木のこと。拠点、拠りどころの意。
「瑞泉、鎭」吉瑞の生命の泉涌くごときこの地に町を草創したという鎌倉を美称した意であろう。文脈から見ても幕末に創建された瑞泉寺とは無関係である。
「奕世」世が移り変わること。
「逖なるかな邈なるかな」何れも遠く遥かな謂い。長い時間の経過をいう。
「槩見」は概観に同じい。大まかに見ること。
(イマ)し」明らかに送り仮名は「シ」。正に、という強意としてこのように訓じた。
「疆域」土地や地方の境界。
「手に(ヱ)して」対句の「履く」に合わせてかく訓じた。
「探討」探究に同じい。対象を深く調べ求めようとすること。
「稽古」ここは原義を用いている。則ち「古へをかんがふ」で、正に「温故知新」、昔の物事を考え調べることで、今なすべきことを知る、という意味である。
「渇思霓望」旱りの際に「霓」(雨後の虹。そこから降雨をもたらす雲のこと)を待ち望むように渇望すること。
「貞享二年」西暦一六八五年。
「歳次」は年と同義。古くは「さいし」と読んだ。「歳」は歳星で「木星」を指し、「次」は「宿やどり」の意で往古、中国の暦法では木星が十二年で天を一巡すると考えられていたことに基づく。
「吉旦」吉日。]


やぶちゃん版「新編鎌倉志」全完完結