やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
新編鎌倉志卷之六
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いたが、これには多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせる箇所がある。第三巻より底本データを打ち込みながら、同時に汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した後、部分公開する手法を採っている。校訂ポリシーの詳細についても「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注の最後の部分を参照されたいが、「卷之三」以降、更に若い読者の便を考え、読みの濁音落ちと判断されるものには私の独断で濁点を大幅に追加し、現在、送り仮名とされるルビ・パートは概ね本文ポイント平仮名で出し、影印の訓点では、句読点が総て「。」であるため、書き下し文では私の自由な判断で句読点を変えた。また、「卷之四」より、一般的に送られるはずの送り仮名で誤読の虞れのあるものや脱字・誤字と判断されるものは、( )若しくは(→正字)で補綴するという手法を採り入れた。歴史的仮名遣の誤りは特に指示していないので、万一、御不審の箇所はメールを頂きたい。私のミス・タイプの場合は、御礼御報告の上で訂正する。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。原則、踊り字「〻」は「々」に、踊り字「〱」「〲」は正字に代えた。なお、底本では各項頭の「〇」は有意な太字である。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本・影印では「已」と「巳」の字の一部が誤って印字・植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。【テクスト化開始:二〇一一年十月十三日 作業終了:二〇一一年十二月十日】【二〇一二年一月七日 江ノ島の福石・杉山和一墓・碑石・聖天島・鵜島等に写真を追加。】]
新編鎌倉志卷之六
〇星月夜井〔附虗空藏堂〕
寺寶
明星石 一顆
馬の玉 一顆
貝の珠 一顆
古錢 貮文 一文は崇寧通寶、一文は元豐通寶。
以上
[やぶちゃん注:「虚空藏」は「こくうざう」と読み、「虚空蔵菩薩」の略。サンスクリット語の原義は「虚空の母胎」で、虚空一切無尽蔵の如くに智と慈悲の広大無辺なる菩薩の意。胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院主尊。像形としては蓮華座・五智宝冠で、右手に智慧の宝剣(若しくは空手にて掌を見せる与願印)、左手に功徳の如意宝珠を持す。
「晝も星の影見ゆる」これは伝承としてよく語られ(私も昔、亡き母からそう聞いた記憶がある。見たことはついぞなかったが)、タルコフスキイの「僕の村は戦場だった」の回想シーンでも母とイワンが井戸を覗きながら、母が井戸の底に星が見えることを語る。現在、ネット上の記載では井戸でも煙突でも星は見えないという「物理的」記載が殆どで、実験を行わずに安易に見解を述べたアリストテレスの記載に端を発する都市伝説であると一蹴しているものも多い。しかし中には金星なら見える、一般のカメラに紙で筒状の遮蔽を附けて昼間に琴座アルファ星ベガを撮ったケース(雑誌『天文ガイド』に掲載された由)や、廃工場の煙突を用いて煙突直上を通る星位置を計算、煙突の直下から子供たちに星を見せる実演を行った(某テレビ局で放映された由。但し、見えたかどうかは記されていない)事実があるという記載も見出だせる。私は初期のゼロ戦のパイロットが昼間でも星を見ることが出来たという話や、ブッシュマンたちが数キロ先に落ちている針を目視出来るという話を、「都市伝説」ではなく確かな事実として受け止めている人間である。かつての人類には昼間でも星を見る視力が備わっていた。さすれば、それをより効果的にする物理的な装置としての井戸とは、おかしくなく、似非科学でもアーバン・レジェンドでもない。昼間に星なぞ昔から見えなかったのだ、嘘八百だったのだとけんもほろろに言い放つより、今の文明人である我々が見る能力を殆んど減衰させてしまったのだと考える方が、よっぽど科学的ではなかろうか。そして、極めて眼のいい古人にとっては、この星月夜の井戸では実際に星が見えた、ところが女中が誤って金物を落としてしまった結果、その反射光が井戸の底を致命的に侵してしまい星が見えなくなった、というのは「物理的」にあり得ない話ではあるまい。ただ本文にもある通り、一般的な井戸で星が見えるという説がもともとある中で、本地名が星月夜であり、そこにたまたまあった井戸にその名が附され、附されたところで後付けの星が見えなくなった謂れを付会させたという可能性は勿論、あるとは言える。以上、私は、井戸では星は見えない、だから、この虚空蔵堂に関わる伝承は総て牽強付会である、という論理は必ずしも科学的ではないということを述べているのである。但し、それとは別個な民俗学的な意味に於いて、井戸の底に星が見える、という命題は考察されねばならないとは思っている。私は古代人に「物理的」に井戸の底に星が見えたことが、古代人の心性に、『夜の星は昼間、井戸の底――地の底の冥界に在るものであり、夜、空に展開するものだ』という考えが芽生えたのではあるまいか――そしてその星々は、冥界と繋がるあるシンボル、ある予兆や太古の謎を解き明かす意味を以て、夜空に示されていると彼らは考えたのではあるまいか、という可能性を考えるのである。識者の御意見を乞いたい。
「後堀河百首」本書冒頭の引用書目一覧にも「後堀河百首」で載るが、これは平安後期の歌集「永久百首」の誤りである。永久四(一一一六)年に鳥羽天皇の勅命で藤原仲実ほかが編した。「永久四年百首」「堀河院後度百首」「堀河院次郎百首」などとも呼称するが、「後堀河百首」とは言わないようである。
「常陸」(生没年未詳)は「肥後」の別称の方が知られる。肥後守藤原定成の娘で常陸介藤原実宗の妻。京極関白師実家・白河天皇皇女令子内親王に侍した女房。院政期女流歌人を代表する一人。
「法印堯慧が【北國紀行】」前巻の「稻瀨河」でも登場した歌僧「堯慧」は、文明十八(一四八六)年五月末に身を寄せていた美濃郡上の東頼数のもとを出て、越中から北陸道を北上、越後から信濃・上野を経て、同年十二月中旬に三国峠を越えて武蔵に入り、翌年二月に鎌倉・三崎等に遊ぶなどして美濃へと戻る旅をしている。この一年半余の紀行が「北國紀行」である。
「千壽の謠」は能の「千手」のこと。喜多流では現在も「千壽」と表記する。興福寺・東大寺を焼き尽くした南都焼討の調本平重衡は、一の谷の合戦で生け捕りにされ、鎌倉に護送、速やかな死を望む。その潔さに頼朝は打たれるが、彼の出家・処刑を認めようとはしない。手越の長の娘千手が頼朝に遣わされて重衡を見舞って出家は叶わぬ旨を伝える。千手は重衡を慰めんと「十悪と言えども引摂す」(極悪の罪人とても大慈大悲の如来は極楽へと導かんとす)と謡い舞う。重衡はそれに合わせて琵琶を弾じ、千手は琴を合わす。その夜明けとともに、涙の内に千手に見送られ、南都衆僧の強い要求により重衡は再び都へと向かう、というストーリーである。因みに重衡の京都再送は元暦二(一一八五)年六月九日、同二十三日に木津川畔にて斬首の上、奈良坂般若寺門前にて梟首された。享年二十九歳であった。
「馬の玉」は主に馬・牛・鹿・犬など哺乳類の腹中に生ずる結石や毛玉様のものを言う。
へいさらばさら
へいたらばさる 【二名共に蠻語なり。】
鮓荅
ツオ タ
「本綱」に、『鮓荅は走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有りて之を
△按ずるに、阿蘭陀より來たる
[「鮓荅」やぶちゃん注:これは各種の記載を総合すると、良安の記すように日本語ではなく、ポルトガル語の“pedra”(石)+“bezoar”(結石)の転であるとする。また、古い時代から一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で“pādzahr”、“pad (=expelling) + zahr (=poison) ”(毒を駆逐する)を語源とする、という記載も見られる。本文にある通り、牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたとある。別名、馬の玉。
それにしても、この「ヘイサラバサラ」「ヘイタラバサル」という発音は「ケサランパサラン」と何だか雰囲気が似ている。私はふわふわ系UMAのイメージしかなかったから偶然かと思ったら、どっこい、これを同一物とする説があった。Nihedon
& Mogu という共編と思われるケサランパサラン研究サイト「けさらんぱさらん」の「ケサパサ情報館」の『「家畜動物の腸内結石」説』に詳しい。体内異物を説明して、腸結石(糞便内の小石・釘・針金・釦等の異物に無機物が沈着して出来たもので馬の大腸、特に結腸内に見られる)や毛球(牛・羊・山羊等の反芻類が嚥下した被毛あるいは植物繊維より成るもので、第一胃及び第二胃に、稀に豚や犬の胃腸に見られることもある。表面に被毛の見えるものを粗毛球、表面が無機塩類で蔽われ硬く滑かで外部から毛髪の見えないものを平滑毛球という)を挙げ、『この説によると、「動物タイプ」はこのうち粗毛球を指し、「鉱物タイプ」は平滑毛球や腸内結石を指す事になる』とし、『「馬ん玉」や「へいさらぱさら」はまさしく「ケサランパサラン鉱物タイプ」の別名であり、「ケサランパサラン動物タイプ」の別名として「きつねの落とし物」がある』、即ち、きつねが糞と一緒に排泄した粗毛球を言ったものであろう、と考察されている。また、そうした「鉱物タイプ」の「ケサランパサラン」を、まさに本記載同様、雨乞いに用いたケースについて、以下のように記されている。長い引用になるが、本項に対して極めて示唆に富んだ内容であるため、ここに引かさせて戴く(大部分は編者へ寄せられた情報の引用という形で記載されている。漢字や記号・句読点・読み・改行等の一部を補正・省略させてもらった)。
《引用開始》
『角川「大字源」で「鮓」という字を調べたところ、別の面白い情報が得られました。
鮓荅 さとう/ヘイサラバサラ
牛馬などの腹中から出た結石。古代,蒙古人が祈雨のために用いた。[本草(綱目)・鮓荅][輟耕録・禱雨]
日本の雨乞いの方法の一つに、牛馬の首を水の神様に供える、或いは水神が棲む滝壷などにそれらを放り込む、という方法があります。これは、不浄なものを嫌う水の神を怒らせることによって、水神=龍が暴れて雨が降るという信仰から来ているようです。以下は(この説を教えてくれた方の)私見ですが、「へいさらばさら」は、その不浄な牛馬の尻から出てくるものですから、神様が怒るのも当然という理屈で用いられたのではないでしょうか。ただし、これは日本における解釈であり、馬と共に暮らす遊牧民族であるモンゴル人が、同じ考えでそれを行ったかどうかは不明です。ちなみに輟耕録は十四 世紀の明の書ですから、古代とあるのはその頃の話です。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]※その後、この情報をいただいた方から、「輟耕録」は序文が一三六六年、モンゴル王朝であった元が一二六〇~一三六八年で、文献自体の内容も、元時代の社会・文化に関する随筆集ですから「明の書」の部分は、「元王朝末期の書」とでもして下さい。」という旨のメールをいただきました。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]さらに、「その後の調査で、輟耕録に記載されている雨乞いの方法(盥に水を入れ呪を唱えながら水中で 石を転がす)が『ケサランパサラン日記』[やぶちゃん注:西君枝と言う方が草風社から一九八〇 年に刊行した著作。未見。]のそれと酷似しており、また、このように水の中で転がして原形をとどめていられるのは硬い球形の馬玉タイプであることや、モンゴル語で雨を意味する“jada”という語に漢字を当てたものが「鮓荅」であると考えられることなどから、「へいさらばさら」の雨乞いのルーツは、中国の薬物書である「本草綱目」によって伝えられたモンゴル人の祈雨方法にあり、それに用いられたのは白い球状の鮓荅であると考えた方がよいようです。ついでに言えば「毛球」については、反芻をする動物(ウシやシカなど)に特に多いようですが、毛づくろいの際に飲み込んだ毛でできるため、犬以外のペット小動物、例えばウサギ、猫などでもメジャーな病気のようです。ペットに多いのは、野生の場合、毛が溜らないようにするための草を動物が知っていて、これを時々食べることによって防いでいるためで、ペット用に売られている「猫草」も、毛球症予防に効果があるようです。」と追加説明もいただきました。』[やぶちゃん注:原文ではここで改行、情報提供者への謝辞が入る。]『また、水神=龍から、龍の持つ玉のイメージが想起されることから、雨乞いに用いられたへいさらばさらは、主に白い球状のタイプだったのではないかと推測されます。』[やぶちゃん注:この最後の部分は、情報提供者の追伸と思われる。]
《引用終了》
・「肉嚢」肉状の軟質に包まれていることを指す。胆嚢結石とすれば、これは胆嚢自体を指すとも考えられるが、実は馬や鹿等の大型草食類には胆嚢が存在しない種も多い。その場合は胆管結石と理解出来るが、ある種の潰瘍や体内生成された異物及び体外からの侵入物の場合、内臓の損傷リスクから、防御のための抗原抗体反応の一種として、それを何等かの組織によって覆ってしまう現象は必ずしも異例ではないものとも思われる。
・「雞子」鶏卵。
・「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミCorylus heterophylla var. thunbergiiの実。ドングリ様の大きな実のようなものを想定すればよいか。へーゼルナッツはこのハシバミの同属異種である。
・「層疊」同心円上の層状結晶を言うか。
・『「輟耕録」』明代初期の学者陶宗儀(一三二九年~一四一〇年)撰になる随筆集。先行する元代の歴史・法制から書画骨董・民間風俗といった極めて広範な内容を持ち、人肉食の事実記載等、正史では見られない興味深い稗史として見逃せない作品である。
・「
・「淘漉し、玩弄し」水で何度も洗い濯いでは、水の中で転がし、という意。
・「咒語」まじないの呪文。
・「持すれば」呪文を用いて唱えれば。
・「牛黄」牛の胆嚢や胆管に生ずる胆石で、日本薬局方でも認められている生薬で、解熱・鎮痙・強心効果を持つ。牛一〇〇〇頭に一頭の割でしか見つからないため、金の同重量の価格の凡そ五倍で取引されている非常に高価な漢方薬である。良安は同じ「卷三十七 畜類」で「牛黄」の項を設けており、そこでは「本草綱目」を引く。時珍はそこで牛黄の効能・採取法・形状・属性・真贋鑑定法を語り、そもそも牛黄は牛の病気であると正しい知見を示している。また牛黄には生黄・角中黄・心黄・肝黄の四種があり、牛黄を持った病態の牛の口に水を張った盆を当てがい、牛を嚇して吐き出せた生黄が最上品であると記す。最後に良安の記載があるが、そこで彼は世間で「牛宝」と呼ぶ外側に毛の生えた玉石様ものであるが、これは「狗寶」(次注参照)と同様、「鮓荅」の類で、牛の病変である牛黄と同類のものであるが、牛黄とは全くの別種である、と述べて贋物として注意を喚起している。この記載から、良安は「牛黄」を「鮓荅」と区別・別格とし、「牛黄」のみを真正の生薬と考えていることがはっきりと分かる。
・「狗寶」良安は「卷三十七 畜類」の「鮓荅」の直前で「狗寶」の項を設け、そこでも「本草綱目」引用しているが、この「本草綱目」の記載が、とんでもなく雑駁散漫な内容で、我々にその「狗寶」なるものの実体や属性・効能を少しも明らかにしてくれない。その引用末尾の『程氏遺書』の引用に至っては、「狗寶」から完全に脱線してしまい、荒唐無稽な石化説話の開陳になってしまっている。良安の附言は、全くない。「本草綱目」の引用のみで附言がない項目は他にもいくらもあるのだが、私にはどうもこの項、しっくりこない。
・「驚癇」漢方で言う癲癇症状のこと。
・「毒瘡」瘡毒と同じか。ならば梅毒のことである。もっと広範な重症の糜爛性皮膚炎を言うのかも知れない。
・「潤澤」ある程度の水気を帯び、光沢があることを言う。
・「五六錢目」「錢」は重量単位。一両の十分の一。時珍の明代では一両が三十七・三グラムであるから、二十グラム前後。
・「痘疹」天然痘。
・「俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕、贅と成りたる肉塊なりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。」ここの部分、東洋文庫版では、
『世間一般では猿の身体にある鮓荅をさして、これは猿が猟人のために傷つけられ、その傷の
と訳しているが、これはおかしな訳と言わざるを得ない。ここは、
『俗説に言うには、「猿が猟師に傷つけられ、その傷の痕が瘤となった、その肉の塊が鮓荅である」とする。しかし、これはとんでもない妄説である。以上、見てきたように、鮓荅というものは猿と人とのものなのではなく、牛馬に生ずるところの結石であること、最早、明白である。』
と言っているのである。
※以上、「和漢三才圖會」「卷三十七 畜類」にある「鮓荅」テクスト及び私の注の引用を終了する。
「貝の珠」真珠。実際には多くの種の斧足類(二枚貝類)の体内に異物が混入することで容易に真珠様物質は形成される。「和漢三才圖會 介貝部 卷四十七」の「真珠」テクスト及び私の注なども参照されたい。
「崇寧通寶」北宋徽宗の崇寧年間(一一〇二年~一一〇六年)に鋳造された貨幣の一種。小平銭及び当十銭(折十)と現在呼ばれる二種があった。
「元豐通寶」北宋神宗の元豊年間(一〇七八年~一〇八五年)に鋳造された貨幣の一種。辞書記載に、この時代は北宋期で最も鋳造が多い時で、本邦へも多量に移入し、平安末から江戸初期にかけて通貨としても流通していたともあり、前者の崇寧通宝の方が価値がありそうである。]
[極樂寺圖]
[やぶちゃん注:成就院の位置が現在地と異なるが、これは現在位置にあった旧成就院が鎌倉攻めの戦火によって焼失、後に再興されて旧極楽寺切通し奥の西が谷に移っていたことによる。本「新編鎌倉志」の上梓の後の元禄年間(一六八八年~一七〇三年)、祐尊によって再び旧地に戻って再興された。]
〇極樂寺〔附切通、辨慶腰掛松〕
[やぶちゃん注:「忍性菩薩」忍性の入山は後掲される「忍性菩薩行状略頌」に文永四(一二六七)年とされる。次の注で述べるように、忍性は実質上の開山の役割を担ったものと思われる(極楽寺の真言宗への改宗の時期については忍性入山以前とも言われる)。よく知られるように彼は境内に施薬院・療病院・薬湯寮などの施設を設けて、被差別民であった非人や、当時『かったいぼ』と呼ばれて業病とみなされて差別されていたハンセン病患者を受け入れるなど、医療・厚生福祉事業に尽力した。
「陸奧の守平の重時」は北条重時(建久九(一一九八)年~弘長元(一二六一)年)。北条義時三男。極楽寺流北条氏始祖。六波羅探題北方・連署。
「極楽寺緣起」(永禄四(一五六一)年成立)に依ると、重時が、元は深沢にあった浄土教系の寺院を正元元(一二五九)年、当時は地獄谷と呼ばれていた現在の地に移したものとされている(極楽という寺号は恐らく死体風葬や遺棄地域であった「地獄」という旧名に対応するもの)。重時は建長八(一二五六)年に出家してより極楽寺に住した。
「吉祥院」は現在、極楽寺本堂となっている。
「千服茶磨」忍性が貧病者のために茶を挽いたと伝承される千服茶臼。現在、境内に薬草をすり潰した製薬鉢とともに現存する。
「鶴が岡一鳥居」これは「卷之一」の「鶴岡八幡宮」の叙述や図を見て頂けば分かる通り、現在、三の鳥居と呼称されている一番、八幡宮に近い入口の鳥居である。]
本堂 本尊は釋迦、興正菩薩の作なり。
寺寶
九條の袈裟 壹頂 乾陀穀子の袈裟、東寺第三傳と
[やぶちゃん注:「乾陀糓子」は「けんだこくし」で、弘法大師が唐の長安で恵果阿闍梨から拝領したという袈裟の名。]
繡心經の卓圍 壹張 當麻の中將
[やぶちゃん注::「中將姫」は天平時代、尼となって当麻寺(奈良県北葛城郡)に入り、信心した阿弥陀如来と観音菩薩の助力で一夜にして蓮糸で当麻曼荼羅(観無量寿経曼荼羅)を織り上げたと伝えられる伝説上の女性。「打敷」は寺院や仏壇の須弥壇や前卓に、法会などの際に敷く荘厳具の一種。]
二十五條の袈裟 壹頂
瑜伽論 三卷 菅丞相の筆。其説
[やぶちゃん注:「瑜伽論」は正しくは
綸旨 貮通 共に嘉暦二年とあり。
[やぶちゃん注:嘉暦二年は西暦一三二七年で、この綸旨は後醍醐天皇のもの。]
右馬の允政季請文 一通
[やぶちゃん注:「鎌倉市史 資料編 第三第四」の「極樂寺文書」に、「四二四 右馬允政季打渡状」とあるもので、
御寄進于極樂寺新宮社、武藏國足立郡箕田郷内〔岩佐七郞知行。〕地事、任下被仰下之旨、金井八郞相共莅彼知行分、所奉打渡百貫文地、今富西方村於當寺僧道戒上人御房之狀、如件、 建武二年二月十四日 右馬允政季(花押)
とある文書を指す。その頭書に『足利直義、極樂寺新宮社ニ武藏足立郡箕田郷内ノ地ヲ寄進ス、』(改行)『右馬允政季、金井八郎ト共ニ、命ヲ奉ジテ今富西方村ヲ極樂寺ノ僧道戒ニ渡付ス、』とある。以上の「打渡狀」後注には『〇コノ文書 宛所ヲ缺ク、』とある。以上から右馬允政季なる者は足利直義の直近の家臣と考えられる。]
尊氏の請文 一通
義詮の請文 一通
義滿の請文 一通
氏滿の請文 一通
千體地藏 弘法の作。本尊は、
開山忍性賜菩薩號勅書(開山忍性に菩薩號を賜ふ勅書)の寫し 一通 其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、底本では勅書は全体が二字下げ。]
勅傳燈大法師位忍性者挑法燈於闇室、琢戒珠於日域、化儀之被遐邇、循々誘人、誦響之繼晨宵、翼々克己、五十二位之内證、雖叵暗辨、五十二年之練行、於是自彰、廣致檀施、誠爲悲増、乃任彼弟葉之講益、宜許其菩薩稱號矣、嘉暦二年五月廿五日。
[やぶちゃん注:以下に、影印本の訓点に従って書き下したものを示す。
勅す。傳燈大法師位忍性は法燈を闇室に挑げ、戒珠を日域に琢(き)て、化儀の遐邇を被る。循々として人を誘ふ。誦響の晨宵に繼ぐ。翼々として己に克つ。五十二位の内證、叵と雖も暗に辨じ、五十二年の練行、是に於て自(ら)彰る。廣く檀施を致し、誠に悲増を爲(す)。乃し彼の弟葉の講益に任せ、宜(し)く其の菩薩の稱號を許すべし。嘉暦二年五月廿五日
この菩薩号勅許は後醍醐天皇によるもので、「嘉暦二年」は西暦一三二八年、忍性の没年は乾元二(一三〇三)年であるから、死後二十五年目のことであった。「化儀の遐邇」の「化儀」は仏が衆生を教化する際の方法、「遐邇」は「かじ」と読み、原義は遠近のことであるが、ここはあらゆる方途の意か。「五十二位の内證」は菩薩五十二位を極めたことを言うか。菩薩五十二位は大乗仏教に於ける菩薩の階位で、最高位の妙覚は仏・如来と同一視される。「五十二年の練行」は前の菩薩五十二位に形式上合わせたものとも思われるが、忍性が本格的布教活動を目指して関東へ下向したのが建長四(一二五二)年、ここから数えで五十二年目が遷化の年に当たることをも意味しているのかも知れない。「叵と雖も暗に辨じ」の「叵」は音は「ハ」で、「不可」を意味するから、凡夫には不可能とされる仏論に於いても言外に理解を極め、といった意味か。識者の御教授を乞う。「悲増」は不詳。慈悲と増善という意か。「乃し」は「いまし」と読み、「し」は強意の副助詞。「ちょうど今」「まさにこの時に及んで」の意。「彼の弟葉の講益に任せ」が分からない。忍性の高弟たちによる布教教化の力を評価し、といった意味か。ここも識者の御教授を乞う。]
忍性菩薩行狀の畧頌 一册 其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、底本では勅書は全体が二字下げ。]
良觀上人諱忍性、父伴貞行母榎氏、和州城下屏風生、建保五年七十六、生年十一安貞元、就師學問信貴山、唱五字咒祈道心、寛喜元年十三歳、誓斷食肉學慈氏、生年十四同二年、摺文殊像幷行戒、貞永元年十六歳、母儀逝去訪菩提、居額安寺經八旬、同年剃髮而出家、毎月參詣安倍寺、首尾四年祈發心、生年十七天福元、登壇受戒東大寺、文暦元年十八歳、讀誦法華發信心、採花供佛一夏中、嘉禎元年十九歳、六年毎月詣生馬、生年二十同二年、七日斷食三箇度、念五字明五十萬、二十三歳延應元、誓斷婬酒盡未來、參籠生馬二七日、祈菩提心念文殊、同年二十日、興正菩薩受十重、二十四歳仁治元、窮情上人聽古迹、則觀無常捨身財、悉施貧乏圖佛像、同年四月第三日、興正菩薩稟十戒、同十一日受具戒、遁世後住西大寺、僧衣洗濯掃房舍、借書諸寺與學徒、建常施院扶病客、修悲田院濟乞丐、不堪行歩疥癩人、自負送迎奈良市、所有衣服施非人、我著疊瓶湯暖膚、到北山宿誠現業、癩者改悔謗法罪、圖文殊像摺般若、大聖感夢示詠歌、二十七寛元元、關東下向七月上、造立丈六文殊像、同年先妣十三回、癩宿十八集千人、悉施飮食勸齋戒、二十九歳同三年、泉州家原稟別受、寶治元年三十一、唐船歸朝赴鎭西、請來律宗三大部、三十六歳建長四、關東下向弘律儀、先詣春日祈擁護、折社榊枝誓隨逐、八月十四就鎌倉、九月十五詣鹿島、參籠三日獻法華、極月四日到三村、院主歸德作律院、止住十年移柳營、三十八歳同六年、始授具戒作和上、生年四十同八年、鹿島神託示靈異、四十五歳弘長元、請鎌倉住釋迦堂、四十六歳同二年、光業召請多寶寺、止住五年行僧法、新宮之跡同四年、非人施行三千餘、四十九歳文永二、始授灌頂爲闍梨、後授三十有餘人、西明禪儀受重病、八幡告夢奉戒法、五十一歳文永四、八月移住極樂寺、講三大部則七反、宗要三十古迹七、教誡三十淨心三、讀章服儀誡蠶衣、五十餘人斷絹絮、三時勤行二時食、除病急緣無懈怠、不畜餘長著麁衣、不噉美食先儉約、取菓子種植山野、獄舍施行盲與杖、非人與袋狗子飼、病者施藥捨子養、出持錢貨施乞丐、入用餅果與攣躄、毎日三座供養法、四分梵網隔日誦、文殊講式壽量品、遺教行願各々一卷、地藏文殊觀自在、種子名號各々一反、書寫三禮爲衆生、釋迦三願舍利禮、十方諸佛及師僧、三時禮拜各々三遍、地藏小咒幷寶號、八字文殊各々千反、一稱一禮不爲身、萬行萬善廻法界、同年極月受灌頂、阿性上人勸修寺、五十三歳文永六、江島祈雨甘雨降、鐡塔供養九月八、黄蝶魚蛤集聽聞、新宮草創同六年、五十六歳同九年、立十種願利羣生、同十一年飢饉死、於大佛谷集飢人、五十餘日施粥等、五十九歳建治元、陽春三月二十三、當寺炎上堂舍滅、塔婆建立同二年、文殊告夢成合力、舞樂供養弘安元、靈神感夢結緣人、皆生淨土悟無生、自建治三至弘安、文殊二幅毎月圖、二十五日與緇素、六十二歳弘安元、椎尾山頂建寶塔、掘出礎石數十六、六十五歳同四年、御教書下異國祈、七夜不斷四王咒、稻村百座仁王講、三千餘艘悉退散、六十七歳同六年、疫癘滿國人民卒、和尚悲愍集門前、毎日僧徒加療養、六十八歳弘安七、祈雨齋戒滿六年、度々請雨勸齋戒、一々莫不降大雨、同年補任二階堂、五大堂大佛別當、生年七十同九年、始奉祈雨御教書、請雨止雨二十餘、毎度無不施效驗、金堂供養同十年、八月九日眞言供、桑谷病屋同十年、不擇親疎病者集、和尚恆臨致問訊、七十二歳正應元、八月上洛謁本師、興正菩薩爲闍梨、九月十九受灌頂、正應已後十二年、初受重受比丘戒、二千六百八十人、三十九年則不記、七十五歳同四年、始結戒壇行別受、兩度四日六十人、七十六歳正應五、興正菩薩第三廻、上洛供養四王堂、勸惟千領施諸僧、七十七歳永仁元、異國降伏院宣下、四月上洛到八幡、尊勝神咒七晝夜、同年八月奉綸旨、補東大寺大勸進、七十八歳同二年、四天王寺大勸進、建石鳥居二丈五、八十一歳永仁五、八月九日眞言院、草創供養曼陀供、八十二歳同六年、建立坂下馬病屋、常莅彼厩唱佛名、札書眞言令繫頸、新宮炎上正安二、陽春二月二十三、不送年月致新宮、勸請諸神十二社、八十五歳正安三、田那部池慇祈雨、未及歸寺大雨降、八十七歳嘉元元、累日炎旱草不枯、普授齋戒三萬餘、一日摺寫大般若、一渧不降經五日、淸瀧祈誓捨身命、小蛇出現甘雨降、伽藍草創八十三、百五十四堂供養、寺院結界七十九、塔婆建立二十基、二十五基塔供養、渡一切經十四藏、圖畫地藏與男女、一千三百五十五、請來律宗三大部、一百八十六部也、戒本摺寫與僧尼、三千三百六十巻、馬衣幷惟與非人、都合三萬三千領、水田一百八十町、寄進聖跡三十二、亘橋一百八十九、作道七十一箇所、三十三所掘井水、六十三所殺生禁、浴室病屋非人所、各々立五所休苦辛、三十七年當寺住、下洛以後五十二、自行化他滿足已、嘉元元六二十三、子時一寢病不愈、貴賤問訊終不斷、遺戒慇懃著大衣、口誦祕明手結印、端座不動對釋尊、遂使壽算八十七、通受夏臘六十一、七月十二子入滅、延慶第三冬十月、小比丘澄名謹誌、右偏爲慕德結緣、只志之所之、不顧人嘲、列二百五十句、擬二百五十戒、只恨纔讀口不行身、可慙可慙、可悲可悲。
[やぶちゃん注:以下に、「忍性菩薩行狀の畧頌」を影印本の訓点に従って書き下したものを示す。但し、一部の「年」や「月」「日」、年齢の「歳」が省略されているために数字が並んで読み難いため、独断で挿入、経歴を見易くするために、適宜、句読点を増補して打ち、事蹟ごとに改行を施した。( )の平仮名ルビ及び本文( )は私が施したものである。但し、間違いのない送り仮名は( )を附していない。
良觀上人、諱は忍性、父は
生年十一歳、安貞の元年、師に就きて信貴山に學問す。五字の咒を唱へて道心を祈る。
寛喜元年、十三歳、誓ひて、肉を食ふを斷ちて慈氏を學ぶ。
生年十四歳、同じく二年、文殊の像を摺り幷びに行戒。
貞永元年、十六歳、母儀、逝去して菩提を訪ふ。
生年十七歳、天福の元年、登壇受戒す、東大寺。
文暦元年、十八歳、法華を讀誦して信心を發す。花を採りて佛に供す、一夏中。
嘉禎元年、十九歳、六年毎月
生年二十歳、同じく二年、七日斷食す、三箇度。五字の明を念ずること、五十萬。
二十三歳、延應の元年、誓ひて婬酒を斷ず、盡未來。生馬に參籠すること二七日、菩提心を祈り、文殊を念ず。
同年二十日、興正菩薩に十重を受く。
二十四歳、仁治の元年、窮情上人に古迹を聽く。則ち無常を觀じて身財を捨す。悉く貧乏に施し、佛像を圖す。
同年四月第三日、興正菩薩に十戒を
同十一日、具戒を受く。遁世の後、西大寺に住す。僧衣洗濯して房舍を掃ふ。書を諸寺に借りて學徒に與ふ。常施院を建てゝ病客を扶け、悲田院を修して
二十七歳、寛元元年、關東に下向して七月に上る。造立す、丈六文殊の像。
同年、先(の)妣の十三回、癩宿十八、千人を集む。悉く飮食を施して齋戒を勸む。
二十九歳、同じく三年、泉州
寶治元年、三十一歳、唐船歸朝して鎭西に赴く。請し來る、律宗三大部。
三十六歳、建長四年、關東に下向して律儀を弘む。先づ春日に詣して擁護を祈る。社の榊の枝を折りて隨逐を誓ふ。
八月十四日、鎌倉に就く。
九月十五日、鹿島に詣す。參籠すること三日、法華を獻ず。
極月四日、三村に到る。院主、德に歸して律院を作る。止住すること十年、柳營に移る。
三十八歳、同じく六年、始めて具戒を授けて和上と
生年四十歳、同じく八年、鹿島の神託に靈異を示す。
四十五歳、弘長の元年、鎌倉に請ひて釋迦堂に住す。
四十六歳、同じく二年、光業、召請す、多寶寺。止住すること五年、僧法を行ふ、新宮の跡。
同じく四年、非人施行す、三千餘。
四十九歳、文永の二年、始めて灌頂を授けて闍梨と爲る。後ち、三十有餘人に授く。西明禪儀、重病を受く。八幡、夢に告げて戒法を奉ず。
五十一歳、文永の四年、八月、移住す、極樂寺。三大部を講ず、則ち七反。宗要三十、古迹七、教誡三十、淨心三。章服儀を讀みて蠶衣を誡む。五十餘人、絹絮を斷ず。三時は勤行、二時は食、病と急緣を除きて懈怠無し。餘長を畜へず、
同年極月、灌頂を受く、阿性上人、勸修寺。
五十三歳、文永六年、江の島に雨を祈りて甘雨降る。
鐡塔供養、九月八日、黄蝶魚蛤集つて聽聞す。
新宮草創、同じく六年。
五十六歳、同じく九年、十種の願を立てゝ羣生を利す。
同じく十一年、飢饉して死するあり。大佛の
五十九歳。建治の元年、陽春三月二十三日、當寺炎上して堂舍滅す。
塔婆建立、同じく二年、文殊、夢に告げて合力を成す。
舞樂供養、弘安の元年、靈神、夢に感ず。結緣の人、皆な、淨土に生れて無生を悟る。建治三年より弘安に至る、文殊二幅、毎月圖す。二十五日、緇素に與ふ。
六十二歳、弘安の元年、
六十五歳、同じく四年、御教書下りて異國を祈る。七夜不斷、四王の咒、稻村百座の
六十七歳、同じく六年、疫癘、國に滿ちて人民卒す。和尚、
六十八歳、弘安の七年、雨を祈りて、齋戒、六年に滿つ。度々、雨を請して齋戒を勸む。一々大雨を降らざずと云ふ(こと)莫し。同年補任す、二階堂・五大堂大佛の別當。
生年七十歳、同じく九年、始めて雨を祈る御教書を奉ず。雨を請ひ、雨を止むること、二十餘、毎度、效驗を施さざると云ふこと無し。
金堂供養、同じく十年、八月九日眞言供。
七十二歳、正應の元年、八月、洛に上りて本師に謁す。興正菩薩、闍梨と爲る。
九月十九日、灌頂を受く。
正應已後十二年、初受、重受、比丘戒、二千六百八十人、三十九年は則ち記さず。
七十五歳、同じく四年、始めて戒壇を結びて別受を行ふ。兩度四日六十人。
七十六歳、正應の五年、興正菩薩の第三廻、洛に上りて供養す、四王堂。勸惟、千領、諸僧に施す。
七十七歳、永仁の元年、異國降伏の院宣下る。
四月洛に上りて八幡に到る。尊勝神咒、七晝夜。
同年八月、綸旨を奉ず。東大寺の大勸進に補す。
七十八歳、同じく二年、四天王寺の大勸進。石の鳥居を建つ。二丈五(尺)。
八十一歳、永仁の五年、八月九日、眞言の院、草創供養す、曼陀供。
八十二歳、同じく六年、建立す、坂の下の馬病屋。常に彼の厩に
新宮炎上、正安の二年、陽春二月二十三、年月を送らず、新宮を致す。勸請す、諸神十二社。
八十五歳、正安の三年、田那部の池に慇ろに雨を祈る。未だ寺に歸るに及ばずして大雨降る。
八十七歳、嘉元の元年、累日炎旱、草枯れず。普く齋戒を授く、三萬餘、一日摺寫す、大般若。一
嘉元の元年、六月二十三日、子の時、一たび病ひに寢て愈へず。貴賤問訊、終に斷へず。遺戒慇懃、大衣を著く。口に祕明を誦し、手に印を結ぶ。端座して動かず、釋尊に對す。遂いに壽算をして八十七ならしむ。通受夏臘六十一歳、七月の十二日子に入滅す。
延慶第三年冬十月、小比丘澄名謹みて誌す。右、偏へに慕德結緣の爲めに、只だ志の
以下、年次毎に各事蹟記載を一つ一つ揚げながら、各注を附す。なお、本文中に西暦を挿入した。年譜的記載はウィキの「忍性」・和島芳男「人物叢書 叡尊・忍性」(吉川弘文館昭和三十四(一九五九)年刊)から引用されたサイト「後深草院二条」の「関東下向」ほか、複数のネット上の情報を参考にしつつ、勘案して記載している。
「忍性菩薩行狀の畧頌」
[やぶちゃん各注:「頌」は通常、「しよう(しょう)」と読み、偉人や芸術家の徳や功績を讃える言葉・詩文を言う。]
良觀上人、諱は忍性、父は
[やぶちゃん各注:「伴貞行」(ばんのともゆき 生没年不詳)は、不確定情報ながら、後に叡尊教団の斎戒衆となって慈生敬法房と名乗ったともされる。「和州城の下屏風」は大和国城下郡屏風里で、現在の奈良県磯城郡三宅町の北東部。聖徳太子腰掛石で知られる白山神社がある。この石は聖徳太子が斑鳩から飛鳥を往来した際に腰掛けたものとされ、当時の村人が屏風を立てて太子を接待したことが地名の由来とされる。「建保五年」二年後の建保七(一二一九)年正月、源実朝が公暁に暗殺されている。]
生年十一歳、安貞の元(一二二七)年、師に就きて信貴山に學問す。五字の咒を唱へて道心を祈る。
[やぶちゃん各注:「信貴山」正式名信貴山朝護孫子寺。大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境にある生駒山地の南方、奈良県側にある信貴山山腹に建つ真言宗の古刹。伝聖徳太子開基とされるが、後世の付会。「五字の咒」は五字文殊呪。文殊から真の智を授かるための修法で、『オン、ア・ラ・ハ・シャ・ノウ』の真言を誦える。「オン」は帰命とか帰依の意味で、通常、真言の最初に用いられ、後の『ア・ラ・ハ・シャ・ノウ』が五字文殊呪で、一切は空という真の智を意味する。当時、奈良時代の名僧行基を文殊菩薩の化身とする信仰があり、行基の実践に基づく広く弱者の救済を目的とした文殊会が既に行われていた。この文殊菩薩信仰は真言律宗の中核をなし、師の叡尊や忍性によって本邦に流布することになる。因みに、この前年の嘉禄二(一二二六)年に鎌倉では藤原頼経が初の摂家将軍となっている。]
寛喜元(一二二九)年、十三歳、誓ひて、肉を食ふを斷ちて慈氏を學ぶ。
[やぶちゃん各注:「慈氏」は弥勒菩薩の異称。弥勒信仰は平安末の末法思想の流行により流布した。]
生年十四歳、同じく二年、文殊の像を摺り幷びに行戒。
[やぶちゃん各注:「文殊の像を摺り」
貞永元(一二三二)年、十六歳、母儀、逝去して菩提を訪ふ。
[やぶちゃん注:この記載では明らかではないが、実際には臨終の床にあった母の懇請によって大和国額安寺に入って出家、官僧となった。「額安寺」は熊凝山額安寺。現在の奈良県大和郡山市額田部寺町にある真言律宗の寺院で、やはり伝聖徳太子開基とする。平安後期に衰退したが、師叡尊や忍性らによって再興された。「安倍寺」は安倍山安倍文殊院。現在の奈良県桜井市にある華厳宗寺院。大化の改新の折りに左大臣となった
生年十七歳、天福の元(一二三三)年、登壇受戒す、東大寺。
[やぶちゃん各注:東大寺戒壇院にて受戒。]
文暦元(一二三四)年、十八歳、法華を讀誦して信心を發す。花を採りて佛に供す、一夏中。
[やぶちゃん各注:「法華を讀誦して信心を發す」とあるが、五つ年下であった日蓮はこの前年に十歳で鴨川の清澄寺に入門している。]
嘉禎元年、十九歳、六年毎月
[やぶちゃん各注:「生馬」生馬山竹林寺。現在の奈良県生駒市有里町にある律宗寺院。本尊は文殊菩薩騎獅像。文殊菩薩の化身とされた行基の墓がある。寺号も文殊菩薩の聖地である中国五台山大聖竹林寺に因む。]
生年二十歳、同じく二(一二三六)年、七日斷食す、三箇度。五字の明を念ずること、五十萬。
[やぶちゃん各注:「明」は「みやう(みょう)」で真言のこと。七日間の断食を三度に分けて延べ二十七日修し、同時に例の五字文殊呪を五十万遍唱えたということであろう。]
二十三歳、延應の元(一二三九)年、誓ひて婬酒を斷ず、盡未來。生馬に參籠すること二七日、菩提心を祈り、文殊を念ず。
同年二十日、興正菩薩に十重を受く。
[やぶちゃん各注:「誓ひて婬酒を斷ず、盡未來」は「誓ひて未來に盡く婬酒を斷ず」。この時以来、生涯にわたって女婬葷酒を自らに禁じたということ。生駒に参籠すること十四日、「同年二十日」(正月二十日を言うか。それ以前に忍性は叡尊が主導していた西大寺再建の勧進聖として参加していたか)、即座に興正菩薩叡尊に師事、改めて叡尊によって受戒を受けて正式な弟子となった。「十重」十重禁戒。仏道修行する菩薩の守るべき十の戒律。顕教では一般には不殺生戒・不偸盗戒・不淫欲戒・不妄語戒・不酤酒戒の五戒に不説過戒(人の罪や過ちを語らない)・不自讃毀他戒(自分をほめたり、他人をけなしたりしない)・不慳法財戒(法財を施すのをおしまない)・不瞋恚戒・不謗三宝戒(仏法僧をそしらない)を挙げる。密教では別に不退菩提心・不謗三宝・不捨三宝三乗経・不疑大乗教・不発菩提心者令退・不未発菩提心者起二乗心・不対小乗人説深大乗・不起邪見・不説於外道妙戒・不損害無利益衆生の十戒を立てるというが、現在の真言寺院の記載でも前者と変わらず、特に後者を示す記載はない。しかし、そこが密教たる所以か。次の次で「十戒を稟く」とあるから、ここではそれを師叡尊から正式に言い渡された、ということを指すものと思われる。]
二十四歳、仁治の元(一二四〇)年、窮情上人に古迹を聽く。則ち無常を觀じて身財を捨す。悉く貧乏に施し、佛像を圖す。
同年四月第三日、興正菩薩に十戒を
同十一日、具戒を受く。遁世の後、西大寺に住す。僧衣洗濯して房舍を掃ふ。書を諸寺に借りて學徒に與ふ。常施院を建てゝ病客を扶け、悲田院を修して
[やぶちゃん各注:「窮情上人」律宗僧覚盛(かくじょう 建久四(一一九三)年~建長元(一二四九)年)のこと。唐招提寺中興開山。嘉禎二(一二三六)年、叡尊と共に東大寺法華堂で自誓受戒(自ら仏前で戒律を受持することを誓うこと)寛元二(一二四四)年、唐招提寺に住持し同寺を復興、叡尊の西大寺とともに南都律宗復興の拠点となり、覚盛は鑑真の再来と讃えられた。「古迹」は一昔前の庶民の惨状や復興前の律宗の窮状などを言うか。「稟く」は、忍性が十戒を主体的に我がものとして天から受けたということを師叡尊が認めた、ということを指すか。「具戒」は具足戒のこと。本来は完全な戒を保持することを言うが、ここでは
二十七歳、寛元元(一二四三)年、關東に下向して七月に上る。造立す、丈六文殊の像。
同年、先(の)妣の十三回、癩宿十八、千人を集む。悉く飮食を施して齋戒を勸む。
[やぶちゃん各注:先に示した通り、この年、奈良般若寺近くに北山十八間戸を創建している。「丈六文殊像」は般若寺に安置されたとする(現存しない)。現在の奈良市奈良坂にある、この真言律宗の法性山般若寺の鎌倉期の本尊文殊菩薩像は、当寺を再興した忍性の師叡尊が建長七(一二五五)年から造立を始め、十二年かけて文永四(一二六七)年に開眼供養を行った、獅子の上に乗った巨像とされ、ここの「丈六文殊像」を髣髴とさせるが、御覧の通り、年号が合わない(但し、これも戦国時代に焼失して現存しない)。この時、短期で「關東に下向」したのは、恐らく叡尊の命によるもので、東国の仏教事情を探査するためであった。なお、ウィキの「忍性」にはこれらの事蹟を翌寛元二年のことと記す。正しい十三回忌ならば、そうなる。いずれにせよ、丈六の文殊像造立と癩宿十八戸実収容人員千人総てに飮食と齋戒を施す、というのは尋常なことではない。母の十三回忌への強い思いが働いたものと考えてよい。]
二十九歳、同じく三(一二四五)年、泉州
[やぶちゃん各注:「泉州家原」は現在の大阪府堺市西区にある高野山真言宗別格本山一乗山
寶治元(一二四七)年、三十一歳、唐船歸朝して鎭西に赴く。請し來る、律宗三大部。
[やぶちゃん各注:この年、同門の定舜が宋から持ち帰った律三大部十八具(「三大部」は宗派教義の核心をなす三つの大部の経典を指す。律宗では道宣著「四分律行事鈔」「四分律羯磨疏」「四分律戒本疏」を言う。「十八具」はそれらの分冊総巻数であろう)の律書を受け取るため、九州に下っている。]
三十六歳、建長四(一二五二)年、關東に下向して律儀を弘む。先づ春日に詣して擁護を祈る。社の榊の枝を折りて隨逐を誓ふ。
八月十四日、鎌倉に就く。
九月十五日、鹿島に詣す。參籠すること三日、法華を獻ず。
極月四日、三村に到る。院主、德に歸して律院を作る。止住すること十年、柳營に移る。
[やぶちゃん各注:叡尊の許可を得て本格的な律宗布教を展開するために関東へ赴く。「春日」は奈良の春日大社。「隨逐」後を追い従うこと。春日神の加護に従って東へ赴くということか。「三村」常陸国三村寺(幕府御家人常陸守護であった八田知家の知行所内。現在の茨城県筑波郡にあった寺。現存せず)。ここの清涼院を拠点として、当時、常総地域で発達していた内海海運の便を活用し、盛んな布教活動を行った。「止住すること十年、柳營に移る」後で見るように、忍性の本格的な鎌倉進出は弘長元(一二六一)年であるから、数えで十年となる。]
三十八歳、同じく六(一二五四)年、始めて具戒を授けて和上と
[やぶちゃん各注:「和上」は律宗や浄土真宗の儀式指導者たる高僧のみ用いられる尊称。]
生年四十歳、同じく八(一二五六)年、鹿島の神託に靈異を示す。
[やぶちゃん各注:先に見たように、忍性は三村寺に入山する前に鹿島神宮寺に参籠している。本地垂迹説では鹿島神タケミカヅチの本地は釈迦とされていた。]
四十五歳、弘長の元(一二六一)年、鎌倉に請ひて釋迦堂に住す。
[やぶちゃん各注:極楽寺流北条氏北条重時に請ぜられ、入鎌、三村寺は同門の頼玄に譲った。「釋迦堂」は新清涼寺釈迦堂のこと。現在の海蔵寺の東の谷戸清涼寺ヶ谷にあった寺院。「鎌倉攬勝考卷之七」の「淸涼寺廢跡」参照。これに先立つ正元元(一二五九)年、忍性は北条重時の招請によって鎌倉に赴き、後の極楽寺となる寺地の地相を検分している。なお、この十月に見阿という僧が幕府評定衆北条実時の使として叡尊を訪問、一切経一蔵の西大寺寄進と、実時が武蔵金沢の別業に建立していた称名寺の寄進を願い出、叡尊の関東下向を求めている。叡尊は辞退するが、十二月に一切経が西大寺に到着している。同月には忍性とは別行動で関東探査を行っていた弟子定舜が関東から帰還、実時から受けた意を代弁して、叡尊の下向の効験を強く主張している。]
四十六歳、同じく二(一二六二)年、光業、召請す、多寶寺。止住すること五年、僧法を行ふ、新宮の跡。
[やぶちゃん各注:「光業」は不詳。多宝寺の住持の名か。識者の御教授を乞う。「多寶寺」浄光明寺の奥の谷戸にあった寺。「新宮の跡」も意味不明。多宝寺自体が現存情報に乏しく、よく分かっていない。ただ気になるのは、「鎌倉廃寺事典」の「多宝寺」の項で、この記事を引用しているのであるが、この最後の「新宮の跡」を外している点である。これは「鎌倉廃寺事典」の記者が、これを次の項の記載と考えたからに他ならない。しかし、「新宮の跡、同じく四年、非人施行す、三千餘。」という文脈はますます意味不明となる。私はこれは多宝寺が「新宮」と称した廃社の跡に建てられた寺院であることを意味しているのではないかと推測する。識者の御教授を乞うものである。なお、「鎌倉攬勝考卷之九」の「忍性上人墓碑」なども参照されたい。因みに、ここには全く記載がないが、実はこの正月に先の見阿が重ねて実時の使者として西大寺を再訪し、その熱意にほだされた叡尊は鎌倉下向を受諾、六十二歳の老体に鞭打って二月四日に出洛し、同二十七日に入鎌、忍性の居た釈迦堂に入って、忍性は久々に師に拝謁している。叡尊は鎌倉で数々の教化を行い、招聘した執権時頼以下、数万に及ぶ民衆からも熱烈な帰依を受けた。忍性は体調の優れない師に代わって授戒や供養に勤め、特に鎌倉在の念仏衆指導者であった念空道教が叡尊に帰依したことで、叡尊と忍性は律宗のみならず、鎌倉の念仏宗の尊崇をも手に入れることとなった。これが忍性の幕閣に於ける信頼度を高める決定打となったと言ってよい。師叡尊の帰洛は同年八月十五日であった。]
同じく四(一二六四)年、非人施行す、三千餘。
[やぶちゃん各注:弘長四年(文永元年)のこの非人救済は雪ノ下で行われた。]
四十九歳、文永の二(一二六五)年、始めて灌頂を授けて闍梨と爲る。後ち、三十有餘人に授く。西明禪儀、重病を受く。八幡、夢に告げて戒法を奉ず。
[やぶちゃん各注:「灌頂」は仏の五智を象徴する水を頭頂に注いで、修行者が悟達に至ったことを証する儀式で、法嗣の際の中心儀式。特にこれは伝法灌頂で、密教を修行を完全に終えた優れた行者にのみ許された阿闍梨の位を許すための灌頂で、密教灌頂の中でも最重要の儀式とされるもの。「西明禪儀、重病を受く。八幡、夢に告げて戒法を奉ず。」「西明禪」は幕閣の誰かか。以下の文脈から忍性がその「西明禪」なる人物の重病につき、八幡神の夢告を受け、その平癒のための効果的な加持祈禱を「西明禪」なる人物に修したということか。識者の御教授を乞う。]
五十一歳、文永の四(一二六七)年、八月、移住す、極樂寺。三大部を講ず、則ち七反。宗要三十、古迹七、教誡三十、淨心三。章服儀を讀みて蠶衣を誡む。五十餘人、絹絮を斷ず。三時は勤行、二時は食、病と急緣を除きて懈怠無し。餘長を畜へず、
同年極月、灌頂を受く、阿性上人、勸修寺。
[やぶちゃん各注:忍性は遂にここで実質上の極楽寺開山となる。少なくとも、新たな本尊の安置なくしては話にならないから、ここでプロトタイプとなる新たな清凉寺式釈迦如来立像が据えられたと考えるべきであろう。「袋ろ」行乞するために物を貰い受けるための袋。「狗子には飼ふ」「くすにはゑあたふ」とでも読んでいるか。以下で「捨て子は」とあるから「に」は衍字とも思われる。「攣躄」は「てなへあしなへ」と訓じていると思われる。四肢の不自由な障碍者のこと。「四分梵網」は「四分律」「梵網経」で律宗に於ける根本戒律経典。「八字文殊」八字文殊呪。文殊菩薩を本尊とする八字の真言、悪霊退散無病息災を祈願する修法。『オン・ア・ク・ビラ・ウン・キャ・シャ・ラク』。五字文殊呪と異なり、最初の「ウン」を数えている。「法界に廻す」とは全宇宙に広く行き渡らせる、の意。「阿性上人勸修寺」「阿性上人」不詳。「勸修寺」は現在の京都府京都市山科区にある真言宗門跡寺院
五十三歳、文永六(一二六九)年、江の島に雨を祈りて甘雨降る。
鐡塔供養、九月八日、黄蝶魚蛤集つて聽聞す。
新宮草創、同じく六年。
[やぶちゃん各注:「鐡塔供養」「新宮草創」ともに不詳。極楽寺内での建立か。新宮は神仏習合の神道祭祀と思われる。なお、記載がないが(これ、忍性が雨乞いの修法で負けているから、なくて当然か)翌年の文永八年(一二七一)年には、日蓮から雨乞いの祈禱比べと法論を挑まれている。伝承では当時の執権北條時宗がこの年の七月の大旱魃を憂えて、忍性に祈雨の祈禱が命ぜられて行ったたものの効験がなく、替わって日蓮が現在の七里ヶ浜の行合川上流にある田辺ヶ池で法華経を唱えたところ、たちどころに車軸を流したような大雨が降り出した、というものである。その後、忍性や念仏宗は連名で日蓮が弓矢刀剣を蓄えて庵室に凶徒を集めているという訴状を幕府に訴え、幕府は諸宗論難の罪を以て日蓮を捕縛、腰越龍ノ口の刑場で処刑されかけるが、奇瑞が起こって斬首が出来ず、一等減ぜられて佐渡に配流となったとされる(龍ノ口の法難)。真相は時宗の妻が後の九代執権貞時を受胎しており、悪僧と雖も、僧を斬罪に処することを忌んだことによる。先の行合川という川名はこの法難の際、鎌倉からの日蓮斬首停止の使者と、光り物の異変を告げるための刑場からの使者が行き合ったことに由来すると言われている。なお、日蓮の法論とは、忍性が布教の積極的展開を実践するために、方便として積極的に幕府に取り入って港湾和賀江ノ島の関米徴収や七切通での木戸銭徴収権限を得、あたかも実務官僚のように振る舞い、積極的経済活動を行使し、酷吏と変わらぬ苛斂誅求で民衆を苦しめているという非難であった。忍性にとっては広範な福祉活動の財源確保には当然の行為であったようであるが、これはこれで理に叶った批判ではある。]
五十六歳、同じく九(一二七二)年、十種の願を立てゝ羣生を利す。
[やぶちゃん各注:「十種の願」十種の誓願。ウィキの「忍性」によれば①力の及ぶ限り仏法僧興隆をはかる。②勤行や談義への参加に励む。③外出時には三衣一鉢を所持する。④病気の時以外は馬・輿に乗らない。⑤特定の檀家からの祈禱依頼は受けない。⑥孤独・貧乏な人、乞食、いざり、捨てられた牛馬に憐れみをかける。⑦道路や橋をかけ、井戸を掘り、薬草や樹木を植える。⑧自分に恨みを抱き、誹謗する人をも救済する。⑨間食をせず、手間隙をかけた食事もとらない。⑩功徳はすべて他人に施す、の十誓願を言う。]
同じく十一(一二七四)年、飢饉して死するあり。大佛の
[やぶちゃん各注:この年、年来の全国的旱魃で鎌倉も大飢饉となった。この年には文永の役も起こっている。]
五十九歳。建治の元(一二七五)年、陽春三月二十三日、當寺炎上して堂舍滅す。
[やぶちゃん各注:極楽寺全焼。摂津多田院(現在の兵庫県川西市にある多田神社。元は天台宗であったが幕命によって造営を請けた忍性のこの再建以後、真言律宗に転じた。明治の神仏分離令で神社となる)別当に就任する一方、極楽寺再興にも心血を注いだ。]
塔婆建立、同じく二(一二七六)年、文殊、夢に告げて合力を成す。
[やぶちゃん各注:大陸ではこの年、元によって南宋首都臨安が陥落、宋が滅亡している。]
舞樂供養、弘安の元(一二七八)年、靈神、夢に感ず。結緣の人、皆な、淨土に生れて無生を悟る。建治三(一二七七)年より弘安に至る、文殊二幅、毎月圖す。二十五日、緇素に與ふ。
六十二歳、弘安の元年、
[やぶちゃん各注:この弘安元年六月には無学祖元が元の支配を嫌って来日、蘭渓道隆遷化後の建長寺住持となっている。「建治三(一二七七)年より弘安に至る、文殊二幅、毎月圖す。二十五日、緇素に與ふ」とはこの前年より、毎月二十五日になると、自筆の文殊像二幅を僧俗に分け与えた、という意味。]
六十五歳、同じく四(一二八一)年、御教書下りて異國を祈る。七夜不斷、四王の咒、稻村百座の
[やぶちゃん各注:この年の五月二十一日に勃発した弘安の役に際して、幕府から御教書が下されて異国退散祈禱を行っている(弘安の役は七月七日に終息)。因みに出撃した際の元・高麗・旧南宋の連合軍の軍力は兵総計十四万・軍船四千四百艘を数えた。「四王の咒」戦勝祈願であるから四天王の呪であろう。「稻村百座の仁王講」一日中、百人の僧侶が天下太平・鎮護国家を祈願して仁王経を誦える法会。また、この年、再建に関わった多田院本堂供養にて多田院周辺一帯を殺生禁断の地と定めている。]
六十七歳、同じく六(一二八三)年、疫癘、國に滿ちて人民卒す。和尚、
[やぶちゃん各注:「悲愍」哀れむこと。]
六十八歳、弘安の七(一二八四)年、雨を祈りて、齋戒、六年に滿つ。度々、雨を請して齋戒を勸む。一々大雨を降らざずと云ふ(こと)莫し。同年補任す、二階堂・五大堂大佛の別當。
[やぶちゃん各注:「二階堂」は永福寺(廃寺)、「五大堂」は明王院、「大佛」は高徳院で、総て鎌倉御府内の当時はどれも大寺院であった。]
生年七十歳、同じく九(一二八六)年、始めて雨を祈る御教書を奉ず。雨を請ひ、雨を止むること、二十餘、毎度、效驗を施さざると云ふこと無し。
[やぶちゃん各注:当然のことながら、前の年にも、過去六年の間、毎回斎戒沐浴して度々祈雨を修して「一々大雨を降らざずと云ふこと莫し」とし、この年でも幕命が下ったことを殊更に述べて更には「雨を請ひ、雨を止むること」自由自在、「二十餘、毎度、效驗を施さざると云ふこと無し」と畳みかけられると、日蓮との雨乞いの祈禱比べの失敗はドッタの? と、突っ込みたくなる如何にもくだくだしい記載ではある。]
金堂供養、同じく十(一二八七)年、八月九日眞言供。
[やぶちゃん各注:極楽寺金堂落慶供養が修せられる。「眞言供」は光明供のことか。密教で光明真言(一切の罪障が除かれて、福徳が得られるという真言)を念誦する法会。「桑谷」は光則寺から高徳院に向かう途中の左側、西の奥まったところ。現在の長谷寺の尾根を隔てた北の谷戸を言う。この施薬院は幕府の後援を受けて作られた施設で、以後、二十年間で延べ四万六千八百余人を治療したとされる。]
七十二歳、正應の元(一二八八)年、八月、洛に上りて本師に謁す。興正菩薩、闍梨と爲る。
九月十九日、灌頂を受く。
[やぶちゃん各注:西大寺にて、叡尊鎌倉入り以来、実に二十六ぶりに親しく叡尊に謁した。この時、叡尊から改めて灌頂を受けている。「興正菩薩、闍梨と爲る」というのは不審。勿論、叡尊はとうの昔に阿闍梨となっている。錯文か。]
正應已後十二年、初受、重受、比丘戒、二千六百八十人、三十九年は則ち記さず。
[やぶちゃん各注:「正應已後十二年」は正安二(一三〇〇)年に当たり、遷化の三年前。「三十九年は則ち記さず」は正応よりも前の三十九年間(忍性が一人前の僧になってからのここまでの期間にだいたい一致する)については、忍性が授戒した者の数は記録に残っていない、という意味か。]
七十五歳、同じく四(一二九一)年、始めて戒壇を結びて別受を行ふ。兩度四日六十人。
[やぶちゃん各注:「戒壇」授戒(戒律を授ける)ための結界。本来は限られた寺院に設けられた戒壇で授戒を受けることによってのみ出家者は正式な僧尼として認められた。但し、ウィキの「戒壇」によれば、忍性の師叡尊は従来の三戒壇(東大寺戒壇院・筑紫大宰府観世音寺戒壇・下野国薬師寺戒壇)や『延暦寺の戒壇は実態を失って授戒を行うに値しないと批判し、戒律に則って結界を築き正しい手順に従って儀式を行えば授戒は成立すると唱え、自ら仲間とともに東大寺において改めて授戒を行い、更に西大寺に独自の戒壇を創設し』、『以後、南都や延暦寺と対立する形で成立した鎌倉新仏教も独自の得度・授戒の儀式を行うようになっていった』とある。叡尊と忍性はそういう革命的刷新にあっても旧仏教内から発信されたニュー・ウェーヴででもあったということであろう。]
七十六歳、正應の五(一二九二)年、興正菩薩の第三廻、洛に上りて供養す、四王堂。勸惟、千領、諸僧に施す。
[やぶちゃん各注:「興正菩薩の第三廻」師の三回忌。叡尊は正応三(一二九〇)年九月二十九日に遷化している。「四王堂」西大寺四王堂。孝謙上皇発願の四天王像を安置していた。現在の建物は江戸の延宝二(一六七四)年の再建で、四天王の足下の邪鬼像のみ奈良時代のものが残る。四天王像本体は持国天・増長天・広目天像が銅製で、多聞天像のみ木造。前者三体は鎌倉期、多聞天は室町期の作像と推定されている。「勸惟、千領、諸僧に施す」は訓読・意味ともに不詳。「惟れを勸むるに、(衣?)千領、諸僧に施す。」の謂いか。識者の御教授を乞う。]
七十七歳、永仁の元(一二九三)年、異國降伏の院宣下る。
四月、洛に上りて八幡に到る。尊勝神咒、七晝夜。
同年八月、綸旨を奉ず。東大寺の大勸進に補す。
[やぶちゃん各注:文永・弘安の役以後、神経症的になった宮廷は院宣により、忍性に異国調伏の修法を命じた。「尊勝神咒」一切の悪業障を瞬時に消滅させる功徳を持つとされる佛頂尊勝陀羅尼の、サンスクリット語による誦をなすことと思われる。東大寺大勧進職の任命は、過去に重源や栄西が就任している重職の名誉職である。]
七十八歳、同じく二(一二九四)年、四天王寺の大勸進。石の鳥居を建つ。二丈五(尺)。
[やぶちゃん各注:以下、「なにわ人物伝 社会福祉に貢献した高僧 四天王寺の石鳥居建立」三善貞司氏のより引用する。『喜寿に達した忍性は、衰微していた四天王寺の別当を命じられる。ただちに敬田院・悲田院・施薬院・療病院の四箇(しか)院復興に着手、聖徳太子誓願による福祉事業の発展に全力を傾ける。まず徹底した節約令を出し冗費を節減、私財のすべてを投じ、事業のシンボルとして木造の衡門』(「こうもん」鳥居のこと)を廃して、二条五尺もある花崗岩製の衡門に改修、現在、石鳥居と呼ばれている「西門」(但し、現存する当時の遺構は二本の柱のみ)を建立する。『鳥居に掲げた銅製の額に、「釈迦如来 転法輪所 当楽浄土 東門中心」と刻まれている。当時は四天王寺のある上町台地の眼下は海が迫っており、水平線に沈む夕陽(ひ)のかなたに極楽浄土がある、つまり石鳥居は浄土の東門だと信じられたことを意味する。平安末期の今様(流行歌)に、「極楽浄土の東門は 難波の海に対(こた)へたる 転法輪所の西門に 念仏する人参れとて」とある』。]
八十一歳、永仁の五(一二九七)年、八月九日、眞言の院、草創供養す、曼陀供。
[やぶちゃん各注:「眞言の院」極楽寺境内に建てられた塔頭の真言院のこと(但し、ウィキの「忍性」では翌年のこととする)。「曼陀供」曼荼羅供。両界曼荼羅を掲げて、その諸尊を供養する真言宗最高の法会の一つ。]
八十二歳、同じく六(一二九八)年、建立す、坂の下の馬病屋。常に彼の厩に
[やぶちゃん各注:鎌倉坂の下に馬病舎を建てた。博労や庶民が死にかけて棄てた馬を引きとって介護したのである。また、忍性は同年、律宗の祖である鑑真を顕彰するための「東征伝絵縁起」を書き、唐招提寺に施入してもいる。]
新宮炎上、正安の二(一三〇〇)年、陽春二月二十三、年月を送らず、新宮を致す。勸請す、諸神十二社。
[やぶちゃん各注:文永六(一二六九)年に再建した新宮がまたしても焼亡したものと思われる。]
八十五歳、正安の三(一三〇一)年、田那部の池に慇ろに雨を祈る。未だ寺に歸るに及ばずして大雨降る。
[やぶちゃん各注:この「田那部の池」は、先に示した曾ての日蓮との雨乞いの祈禱比べで、日蓮が祈って勝利した例の田辺ヶ池である。さりげなく名誉回復を狙った感がある。]
八十七歳、嘉元の元(一三〇三)年、累日炎旱、草枯れず。普く齋戒を授く、三萬餘、一日摺寫す、大般若。
嘉元の元(一三〇三)年、六月二十三日、子の時、一たび病ひに寢て愈へず。貴賤問訊、終に斷へず。遺戒慇懃、大衣を著く。口に祕明を誦し、手に印を結ぶ。端座して動かず、釋尊に對す。遂に壽算をして八十七ならしむ。通受夏臘六十一歳、七月の十二日子に入滅す。
[やぶちゃん各注:「一渧」は一滴。「淸瀧」現在の埼玉県和光市白子にある清龍寺不動院の竜神を言うか。遺骨は大和国竹林寺及び額安寺にも分骨され、先にも記した通り、死後二十五年目の嘉暦三(一三二八)年には後醍醐天皇よって忍性菩薩の尊号を勅許されている。]
延慶第三(一三一〇)年冬十月、小比丘澄名謹みて誌す。右、偏へに慕德結緣の爲めに、只だ志の
[やぶちゃん各注:「澄名」は忍性の直弟子高弟の法名であろう。「二百五十旬を列して、二百五十戒に擬す」二百五十戒は僧侶が守るべき戒律の総数であり、以上の忍性の事蹟を綴った文章の句章数が二百五十に相当することに掛けた、律宗僧らしい謂いである。]
以上で、私の「忍性菩薩行狀の畧頌」各注を終了する。――忍性菩薩さま、君の瞳に乾杯!――]
以 上
鐘樓
[やぶちゃん注:以下、底本では鐘銘は全体が二字下げ。]
大日本國相州鎌倉府靈山山極樂寺鐘銘
降伏魔力怨、除結盡無餘、露地撃楗槌、菩薩聞當集、諸欲聞法人、度流生死海、聞此妙響音、盡當雲集此、一聽鐘聲、當願衆生、斷三界苦、頓證菩提、伏乞聖朝安穩、天長地久、伽藍繁昌、興隆佛法、十方施主、現當二世、心中所願、決定圓滿、于時寛永四丁卯年二月廿五日、當寺住持沙門慧印、行事比丘慧性、勸進願主岩澤玄蕃允、並伶人源左衞門。
[やぶちゃん注:以下に、鐘銘を影印本の訓点に従って書き下したものを示す。
大日本國相州鎌倉府靈山山極樂寺鐘銘
魔力の怨を降伏し、結を除(き)て盡く餘無し。露地に楗槌を撃つ。菩薩聞(き)て當に集るべし。諸の法を聞(か)んと欲する人、生死の海を度流す。此の妙響音を聞(き)て、盡く當に雲のごとく此に集(ま)るべし。一たび鐘聲を聽(き)て、當に願ふべし、衆生、三界の苦を斷じ、頓に菩提を證せん。伏して乞(ふ)、聖朝安穩、天長地久、伽藍繁昌。佛法を興隆、十方の施主、現當二世、心中の所願、決定圓滿。時、于に寛永四丁卯の年、二月廿五日 當寺の住持沙門慧印 行事比丘慧性 勸進の願主岩澤玄蕃允 幷に伶人源左衞門
「結」とは煩悩の根底にある対象への束縛や執着心を言う。「楗槌」は「けんつい」と読み、
辨慶が
[やぶちゃん注:以下の「切通」は前の「極樂寺」大項目の小項「辨慶腰懸松」に連なる形であるが、行空けして独立させた。]
[やぶちゃん注:「新編相模国風土記稿」にも「極楽寺坂は坂之下村堺にあり〔登り三十間余・幅四間。〕。往古重山疊峰なりしを僧忍性疎鑿して一條の路を開きしと云ふ、即ち極楽寺坂切通しと唱ふるはこれなり。」とある。メートル法に直すと、登攀距離約五十五メートル、幅員約七・二メートルとなる。「吾妻鏡」には「極樂寺切通」の名称は現れないが、本文にあるように、「太平記」では「極楽寺切通」として登場し、山高く道険しい切通しとして記され、木戸を構えた幕府軍と新田軍の激しい攻防戦の場となっている。忍性は幕府の絶大なバック・アップを得て多様な公共事業にも従事しており、先の「忍性菩薩行狀の畧頌」でも道路改修や橋梁架橋といった土木関連事業にも携わっているから、幕府から自分の寺に至る切通しの改修は頻繁に行ったものと考えるのが自然である。原型としての極楽寺切通しがあったことは勿論だが、それを名実ともに鎌倉七切通しクラスの通路としたのは、やはり忍性の功績と考えてよいように思われる。忍性による整備がなかったら、例の龍ノ口の法難で使者が絶妙にも後の行合川で行き合うこともなかったのではありますまいか? ね、日蓮さま?]
〇月影谷〔附阿佛尼屋敷〕
[やぶちゃん注:「
〇聖福寺舊跡
[やぶちゃん注:「別して相州時賴の兩男〔聖壽丸・福壽丸。〕」時頼側室の子であった長男時輔の幼名「寶壽丸」、正室の生んだ次男時宗のそれは「正壽丸」、時宗の実弟(即ち同じ正室の子)時政のそれは「福壽丸」である。誰も「聖壽丸」という幼名は持たない。時頼は正妻の産んだ時宗を正嫡として認め、側室の子である長男時輔は得宗家後継者としては時宗・時政に継ぐ第三位の格で扱われた(時輔九歳の時の建長八(一二五六)年の元服改名では相模三郎時利と、長男でありながら三郎を名乗らされている)。時宗の生誕が建長三(一二五一)年、宗政が建長五(一二五三)年、本寺の建立が建長六年という時間軸を考えても、この二人の「兩男」とは、時宗と時政以外には考えられない。そもそも参考にしたウィキの「北条時輔」によれば、十三歳の正元二(一二六〇)年に再度「時輔」と名を変えたのは、何と『時頼の方針により、正嫡時宗を「
〇針磨橋
[やぶちゃん注:「
李白少讀書、未成棄去。道逢老嫗磨杵、白、問其故曰、「作鍼。」。白、感其言、遂卒業。
〇やぶちゃんの書き下し
李白少くして書を讀むも、未だ成さずして棄て去る。道に老嫗の杵を磨くに逢ふ。白、其の故を問ふ。曰く、「鍼を作る。」と。白、其の言に感じて、遂に卒業す。
〇やぶちゃんの現代語訳
若き日の李白は、さる山寺での勉学に飽いて、そこを立ち去ろうとした。下ってゆく途中、小さな川を渡ろうとしたところが、その畔りで一人の老婆が一本の太い鉄の棒を懸命に磨いているのに出逢った。李白が、
「何のためにそんなことをしているのか。」
と尋ねると、老婆は、
「針を作っておる。」
と答えた。
李白は、それに心打たれ、己れが怠学の非を悟って山に戻ると、美事、学業を成し遂げて下山した。
「江州磨針峠の故事」滋賀県にある旧中山道の磨針峠の名称由来譚。以下に示す。
その昔、諸国行脚の青年の僧が修行に行き詰まって丁度この峠にさしかかった。するとそこに白髪の老婆が、大きな石に斧をあてて懸命に磨っているに出逢った。刃を研いでいるのではない。青年が、
「何のために斧を削っておられるのか。」
と尋ねると、老婆は、
「一本しかない針を折ってしもうたによって、斧を削っての、研いでの、針にしますのじゃ。」
と答えた。
この時、青年僧は確然として悟って、己れの未熟を恥じて、修行に専心した。彼こそ後の弘法大師であった。その後、この峠を再来された大師が次の一首を詠んだと伝えられる。
道はなほ學ぶることの難からむ斧を針とせし人もこそあれ
弘法大師の霊験譚は数多あるが、挫折しかけた若き日の弘法大師という設定は珍しいと思う。但し、現在の知られた伝承では、往古、この近辺に針を作る職人が住んでいたからとそっけなく、別名とされる
[稻村崎圖]
〇稻村〔附稻村が崎 横手原〕
[やぶちゃん注:「源の滿兼の舍弟滿直」「源の滿兼」は足利満兼(永和四・天授四(一三七八)年~応永十六(一四〇九)年)。第二代鎌倉公方足利氏満の子。第三代鎌倉公方。「滿直」は満兼の弟足利満直(?~永享十二(一四四〇)年)。陸奥国安積郡篠川(現在の福島県郡山市)に派遣され、篠川御所(篠川公方)と呼ばれた。同じ頃、彼の弟満貞も陸奥国岩瀬郡稲村に下向しており、稲村御所(稲村公方)と呼ばれている。ウィキの「足利満直」によれば、「続群書類従」所収の「喜連川判鑑」や「古河公方系図」によると満直を「稲村殿」、満貞を「篠川殿」としつつ、異説として「古河公方系図」には満直を「篠川殿」、満貞を「稲村殿」とする説も併記されているとあるから、この記載も弟満貞との混同が考えられる。彼は『鎌倉公方が甥である足利持氏に代替わりすると、篠川御所である満直と持氏の関係が悪化したため、次第に満直は幕府と結びついて南奥諸氏を反持氏でまとめる工作を行っている(この頃、「黒衣の宰相」と呼ばれた満済准后の日記には、満直の活動を示す記事が残されている)。それに対して稲村御所の満貞はあくまでも持氏を支持し、鎌倉に退去した』。永享十(一四三八)年の永享の乱では『満直は幕府方として石橋氏、蘆名氏、田村氏らを率いて参陣』したが、持氏は敗走、将軍足利義教への命乞いも叶わず『持氏と満貞は鎌倉で自害した』。その後、義教が『自分の息子を鎌倉公方として下向させることを画策する』と、満直はこれに反意を示し、『結城氏朝・持朝が持氏の遺児を擁立』、永享十二(一四四〇)年の結城合戦が勃発、同年六月、『結城氏に呼応する形で南奥諸氏が一斉に蜂起して篠川御所を襲撃、満直は自害に追い込まれた』とされる。但し、一説に『満直は持氏とともに自害した』とも言われる。「里見義豐をも稻村殿と稱す。是は房州の稻村なり」里見義豊(?~天文三(一五三四)年)は戦国大名。安房里見氏当主。天文二(一五三三)年、義豊は稲村城(現在の千葉県館山市稲にあった)に正木通綱と叔父の里見実堯を誅殺、通綱の子時茂と実堯の子義堯が後北条氏を後楯にして反攻、里見家を二分する内乱となった(天文の乱)。翌年、義豊は討死にした。
「小笠懸」は「おがさがけ」とも読む。騎馬で疾走しながら、
「四・五町」は一町が約一〇九メートルであるから、稲村ヶ崎の沖合四三〇~五四五メートル前後の位置に、幕府軍軍船が船に組んだ櫓の上から横矢を射掛けるために待ち構えていたところが、大潮で「廿餘町」引いたとあるから、これは実に波打ち際が激しく後退し、軍船は都合二キロ近くも沖へ退いてしまったことになる。弓矢の実戦での有効射程距離は六十メートルから百メートルが限界とされる。]
〇靈山崎
[やぶちゃん注:「佛法寺」「極楽寺絵図」にも描かれている極楽寺の支院の一つ。霊山ヶ崎の頂上東側、由比ヶ浜を見下ろす景勝地にあった。現在、仏法寺跡とされる平地は凡そ東西に三十メートル、南北に七十メートルほどあり、本文に現れる忍性と日蓮の雨乞いの場と伝えられる池塘の痕跡もある。霊山ヶ崎には霊山寺と呼ばれる寺院があったとも伝えられるが、これはこの仏法寺と同一のものと思われる。]
〇袖浦
[やぶちゃん注:この袖が浦は稲村ヶ崎の西側(七里ヶ浜側)砂浜を指している。現在、辞書などで袖ヶ浦を七里ヶ浜の別称とする記載があるが、明治十六年刊の「江ノ島鎌倉名勝巡覧」でも「七里ヶ浜」を掲げた後に「行合川」を挟んで「袖ヶ浦」を揚げており、本書も次の次に「七里濵」を掲げている以上、厳然と区別すべきである。【二〇一二年十二月十七日追記】ここで西行作とする和歌は西行の歌ではなく、公卿で歌人の藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)の作であることが分かった。阿部和雄氏のHP「山家集の研究」の「西行の京師」(MM二十一号)に、
《引用開始》
東海道名所図会も記述ミスが多くて、完全には信用できない書物です。同じに[やぶちゃん字注:ママ。]相模の国の項で、
しきなみにひとりやねなん袖の浦さわぐ湊による船もなし
という、藤原家隆の歌を西行歌として記述するというミスもあります。
《引用終了》
とある。実は本書の原資料となった「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」で、この和歌は西行作として掲げられている。……もしかするとこれって……この黄門様のミスがルーツか? 但し、この「袖の浦」は「能因歌枕」に出羽国とする歌枕を用いたもので、ここの袖の浦とは無縁である。尤も歌枕であるから、出羽のそれの実景とも無縁で、ただ涙に濡れた「袖」を歌枕の「袖の浦」の名に託し、更に「浦」に「裡(うら)」の意を掛けているのは、以下の和歌群も同じである。なお、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の当該項(ブログ公開版)を参照されたい。]
〇十一人塚
[やぶちゃん注:新田義貞の右腕であった大館宗氏は極楽寺切通からの一番乗りの鎌倉侵攻軍の大将であったが、切通への進軍の前に鎌倉方の武将本間山城左衛門が先手を打って大館の本陣に切込み、宗氏以下部下十一人が戦死、その遺髪をここに埋め、十一面観音を祀ったとされる。但し、討死した場所については鎌倉に侵入成功後の稲瀬川ともされる。私は後者が正しいように感じている。何故なら、新田義貞以下の主力軍が稲村ヶ崎を回って鎌倉市街に侵攻した際、どうも既に新田軍の先遣部隊の一部がそこに陣を敷いていたと思われる節があり、この一群は極楽寺坂からの侵攻グループとしか考えられないからである。]
〇七里濵
[やぶちゃん注::「關東道七里有り〔六町を以て一里と
「今も太刀・刀の折、白骨など、砂に雜はつて有と云ふ」明治十六年刊の「江ノ島鎌倉名勝巡覧」でさえ、その「七里ヶ浜」に、
七里ヶ濱 江の島より東の方鎌倉の行路を云ふ。この浜は腰越村と稻村ケ崎の間だ関東道(六町を以つて一里とする七里なり)故に七里濱を名づく。古戰場にして今なほ太刀の折れ或ひは白骨など土砂に交はり時として掘り出すことありとぞ。
と記す(本文は「江ノ島マニアック」所載のものを恣意的に正字化、歴史的仮名遣に直したものである)。
「花貝」花貝は一般には桜貝の古称としても用いられるが、別種として二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科ハナガイ Placamen tiara の和名でもある。こちらは肋がフリルのように高く肥厚し、肋間に放射肋を持たないのが特徴。微小貝類であるが大変可愛らしい。房総半島・能登半島以南の浅海域に棲息する。「鎌倉攬勝考卷之十附録」の「七里ヶ濱」では『花貝・櫻貝』と並列されていることから一応、掲げておく。
「櫻貝」二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科サクラガイNitidotellina hokkaidoensis 。但し、実際には同じような形状と色をしたニッコウガイ科モモノハナガイ(エドザクラガイ)Moerella jedoensis やニッコウガイ科カバザクラ Nitidotellina iridella との混称である。一般的な個体は淡桃色から桃赤色を呈し、薄く壊れやすいが、コレクターに人気の高い貝である。]
〇音無瀧
[やぶちゃん注:音無川は極楽寺の正福寺ヶ谷を源とし、七里ヶ浜に流れ出る川であるが、現在はその多くの部分が暗渠となっており、地形図でも川名を載せない。「鎌倉事典」(東京堂出版昭和五十一(一九七六)年刊)の「音無川」の三浦勝男氏の解説では、明治十二(一八七九)年刊の「神奈川県皇国地誌残稿」に『川の深さは、二寸より五尺にいたり、水勢緩にして清く、田地四町余歩の灌漑に供した』とあるとし、また、この音無の滝についても同書に『二段に奔下し上段は高さ七尺幅二尺、下段は幅は同じで高さ一丈二尺あった』と記してあるという。これは総落差六メートルになんなんとする小さいとは言えない滝であり、「緩やか」とは言え、その水量は明治期にあっても四ヘクタールを越える田の用水を賄えるものであった。不思議なのは、本文が「沙山の松陰を廻傳て落る瀧なり。沙山なるゆへに、常に水音もせず。故に名つく」とするところで、これは叙述から見てもこの滝は海岸線近くになくてはならない。しかし、六メートルの滝で、その滝壺は七里ヶ浜直近の松が茂る崖下にあり、砂地の山であるために音がしない、というのは何となくイメージし難い。実は「鎌倉事典」の「音無川」で三浦氏は、冒頭、滝の位置を音無川の源流としておられる(但し、その根拠をこの「新編鎌倉志」とするのは解せない)。現在、上流域は宅地化によって旧景を臨むことは出来ないのであるが、この滝の位置はかなり上流であった可能性があり、また、「音無」という名ももっと違った由来に基づくものである可能性が考えられる。そんなことを考えながらネット・サーフィンをしていたところが、鎌倉在住のSakha Republic氏のブログの「音無川と那智の滝」と「音無川あれこれ」に、かつてこの源流域に熊野権現と那智の滝が存在したことを古地図によって突き止め、そこから熊野本宮大社の近くを流れる音無川との連環性を探るという素晴らしい説得力ある考察に出逢った。是非、ご覧あれ。]
〇日蓮袈裟掛松 日蓮の
[やぶちゃん注:掛けたのは袈裟を血で穢すのは畏れ多いとしたからとされる。現存せず、碑が立つのみであるが、現在、その碑は十一人塚を極楽寺方向へ百五十メートル程行った箇所に立っている。先に掲げた絵図を見ると、不思議なことが判明する。絵図ではまさに現在の日蓮袈裟掛松跡に「音無瀧」と記されているのである。そして、絵図の「十一人塚」と「音無瀧」の位置関係から見ると、絵図の「日蓮袈裟掛松」が存在したのは現在の江ノ電稲村ヶ崎駅のすぐ西、何と現在「音無橋」と名が残る音無川の辺りに比定されるように見えるのだ。だから何だと言われそうだが、何だか私には不思議な感じがするのである。]
〇行合川
[やぶちゃん注:行き合ったから何だ、言われそうであるが、この川の源流は先に示した忍性と日蓮の雨乞い対決で、日蓮が修して勝った田辺ヶ池である。日蓮袈裟掛松と言い、この街道沿いの日蓮スポットは日蓮生涯最大の龍ノ口の法難の、その神秘性を演出するための一種のレイ・ラインなのである。]
〇金洗澤
[やぶちゃん注:「金」とあるが、恐らくは稲村ヶ崎から七里ヶ浜一帯で採取される砂鉄の精錬を行った場所と考えられる。
「牛追物」鎌倉期に流行した騎射による弓術の一つ。馬上から柵内に放した小牛を追いながら、蟇目・神頭(じんどう:鏑に良く似た鈍体であるが、鏑と異なり中空ではなく、鏑よりも小さい紡錘形又は円錐形の先端を持つ、射当てる対象を傷を付けない矢のこと。材質も一様ではなく、古くは乾燥させた海藻の根などが使われたというから、時代的にも場所的にも、ここではこの矢が如何にもふさわしい)などの矢で射る武芸。
「又元年六月六日」の箇所は引用が杜撰。まず「元年」は貞応三・元仁元(一二二四)年で、「元仁」が脱落(「元」の字に引かれた誤りであろう)。以下、「吾妻鏡」の本文も省略や誤字が認められる。以下、当該記事を引用する。
六日壬申。霽。炎旱渉旬。仍今日爲祈雨。被行靈所七瀬御秡。由比濱國道朝臣、金洗澤池知輔朝臣、固瀨河親軄、六連忠業、※河泰貞、杜戸有道、江嶋龍穴信賢。此御秡。關東今度始也。此外。地震祭〔國道。〕。日曜祭〔親軄。〕。七座泰山府君、知輔、忠業、晴賢、晴幸、泰貞、信賢、重宗等云々。又十壇水天供。弁僧正〔定豪。〕、令門弟等修之。[やぶちゃん字注:「※」=「狎」-「甲」+「由」。]
〇やぶちゃんの書き下し文
六日壬申。霽。炎旱、旬に
以下、以上の記載に少し語釈を施す。
「炎旱、旬に
「靈所に七瀨の
因みにこの「金洗澤」も日蓮のレイ・ラインなのだ。「吾妻鏡」に「金洗澤池」とあるように、実はこの池は先に示した田辺ヶ池で、この池塘一帯を「金洗澤」と古称したのである。]
〇津村
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の記事は、建仁二(一二〇二)年二月のもの。
廿日乙未。相摸國積良邊有古柳。名木之由。就令聞給。爲移植于鞠御壷。渡御彼所。北條五郎已下六十餘輩候御共。又被召具行景。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日乙未。相摸國積良邊に古き柳有り。名木の由、聞こしめし給ふに就きて、鞠の御壷に移し植ゑんが爲に、彼の所に渡御す。北條五郎已下六十餘輩、御共に候ず。又、行景を召具せらる。
「圓の大臣」とは、葛城円(かつらぎのつぶら ?~安康天皇三(四五六)年)のことか。「日本書紀」によれば有力豪族として履中天皇二(四〇一)年に国政に参加、安康天皇三(四五六)年に眉輪王(まよわのおおきみ)が安康天皇を殺害した(眉輪王の変)際、眉輪王と共犯の嫌疑をかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を匿うも、次期帝位を狙う大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこと:後の雄略天皇)に屋敷を包囲され、降伏を願い出るも拒絶されて敗死したとされる。この地と葛城円との関連は極めて薄いものと思われ、江ノ島縁起の記載は信じ難い。むしろ、腰越の船着き場を意味する「津」が元で、本文でも同一の里であったとする腰越から小動の鼻の東方の津村一帯へと有意に丸く盛り上がった丘陵地帯を「円」と捉えて「つぶら」「積良」「津村」と転訛しものではなかろうか。]
〇津村
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の記事は、建仁二(一二〇二)年二月二十日のもの。
廿日乙未。相摸國積良邊有古柳。名木之由。就令聞給。爲移植于鞠御壷。渡御彼所。北條五郎已下六十餘輩候御共。又被召具行景。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日乙未。相摸國積良邊に古き柳有り。名木の由、聞こしめし給ふに就きて、鞠の御壷に移し植ゑんが爲に、彼の所に渡御す。北條五郎已下六十餘輩、御共に候ず。又、行景を召具せらる。
「圓の大臣」とは、葛城円(かつらぎのつぶら ?~安康天皇三(四五六)年)のことか。「日本書紀」によれば有力豪族として履中天皇二(四〇一)年に国政に参加、安康天皇三(四五六)年に眉輪王(まよわのおおきみ)が安康天皇を殺害した(眉輪王の変)際、眉輪王と共犯の嫌疑をかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を匿うも、次期帝位を狙う大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこと:後の雄略天皇)に屋敷を包囲され、降伏を願い出るも拒絶されて敗死したとされる。この地と葛城円との関連は極めて薄いものと思われ、江ノ島縁起の記載は信じ難い。むしろ、腰越の船着き場を意味する「津」が元で、本文でも同一の里であったとする腰越から小動の鼻の東方の津村一帯へと有意に丸く盛り上がった丘陵地帯を「円」と捉えて「つぶら」「積良」「津村」と転訛しものではなかろうか。]
[腰越圖]
〇小動〔附八王子の宮〕
[やぶちゃん注:「八王子の宮」八王子権現のこと。近江国牛尾山(八王子山)の山岳信仰に天台宗と山王神道が習合したもの。日吉山王権現或いは牛頭天王の眷属八神を祀る。文治年間(一一八五年~一一八九年)の源平合戦の際に佐々木盛綱が父祖の領国近江国八王子の宮を勧請したものと伝えられ、元弘三(一三三三)年五月の新田義貞鎌倉攻めでは、直前にここで戦勝祈願がなされたと伝えられている。明治の廃仏毀釈令まで八王子社と称した。現在は小動神社。「土御門内大臣」は源通親(みちちか 久安五(一一四九)~建仁二(一二〇二)年)のこと。親幕派の巨魁。和歌寄人となるなど、後鳥羽院歌壇の中心的存在となり、新古今集編纂を主導した(但し、完成前に死去)。「北條氏康」(永正十二(一五一五)年~元亀二(一五七一)年)は相模の戦国大名。後北条氏第三代目当主。室町期の有力被官山内・扇谷両上杉氏を関東から追放、武田・今川との間に甲相駿三国同盟を結ぶなど、世に『相模の獅子』と恐れられた武将。「大磯の濵」大磯海岸の小田原寄りにある現在、照ケ崎海岸と呼ばれている一帯は、古代は「よろぎ・ゆるぎ・こゆるぎ・こよろぎ」の浜(磯)と呼ばれ、万葉集・古今和歌集・新古今和歌集に詠唱作品が数多く見られる歌枕であった。さざれ石の散る、白砂青松のロケーションのワイド・レンジからいうと、大磯の方に分があるように私には感じられる。]
〇腰越村
[やぶちゃん注:「逞兵」は「ていへい」と読む。逞しい屈強の兵。「ていひょう」とも読む。]
〇滿福寺〔硯池〕
[やぶちゃん注:「欵狀」は正しくは「くわんじやう(かんじょう)」と読み、「款狀」と同じい。官位の懇望・訴訟の趣旨を記した嘆願書。
さて私は今年、この腰越状を高校生に教授し、既に「鎌倉攬勝考卷之十附録」の「滿福寺」の注で公にしている。そこでここではまず再度、
■「吾妻鏡」の「腰越状」パートの公開済みのテクスト
を示し、次に現在、満福寺に伝わる ◆「腰越状下書」 と伝えられるものをテクスト化して自分の複数テクストのそれぞれのオリジナル化を加えることにした。なお、これは私が三十四年前に満福寺を訪れた際に購入した縮刷された影印版を読み解いたものである。
■「吾妻鏡」所収「腰越状」
では、まずは「吾妻鏡」原文白文(国文学研究資料館の「吾妻鏡」画像データベースを視認底本として活字に起こした。字配も再現した)及び私の訓読文(生徒に示したものは飽くまで私の好みの読みに従って読んだが、今回、底本に施された訓点を一部参考にして補正した)と現代語訳を掲げておく。「吾妻鏡」元暦二(一一八五)年五月二十四日の記載である。
■原文
廿四日戊午 源廷尉〔義經〕。如思平朝敵訖。剩相具前内府參上。其賞兼不疑之處。日來依有不儀之聞。忽蒙御氣色。不被入鎌倉中。於腰越驛徒渉日之間。愁欝之餘。付因幡前司廣元。奉一通款狀。廣元雖披覽之。敢無分明仰。追可有左右之由云云。
彼書云。
左衞門少尉源義經。乍恐申上候。意趣者。被撰御代官其一。為 勅宣之御使。傾 朝敵。顯累代弓箭之藝。雪會稽恥辱。可被抽賞之處。思外依虎口讒言。被默止莫太之勲功。義經無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘氣之間。空沈紅涙。倩案事意。良藥苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者實否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送數日。當于此時。永不奉拜恩顏。骨肉同胞之儀。既似空。宿運之極處歟。將又感先世之業因歟。悲哉。此條。故亡父尊靈不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申狀雖似述懷。義經受身體髮膚於父母。不經幾時節。故頭殿御他界之間。成孤。被抱母之懷中。赴大和國宇多郡龍門之牧以來。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命。京都之經廻難治之間。令流行諸國。隱身於在々所々。爲栖邊土遠國。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而爲平家一族追討令上洛之手合。誅戮木曾義仲之後。爲責傾平氏。或時峨々巖石策駿馬。不顧爲敵亡命。或時漫々大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之爲甲冑於枕。爲弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年來宿望之外。無他事。剩義經。補任五位尉之条。當家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非佛神御助之外者。爭達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王寶印之裏。不插野心之旨。奉請驚日本國中大少神祇冥道。雖書進數通起請文。猶以無御宥免。其我國神國也。神不可禀非禮。所憑非于他。偏仰貴殿廣大之御慈悲。伺便宜。令達高聞。被廻祕計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之餘慶於家門。永傳榮花於子孫。仍開年來之愁眉。得一期之安寧。不書盡詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義經恐惶謹言
元暦二年五月日
左衞門少尉源義經
進上 因幡前司殿
■やぶちゃんの書き下し文
廿四日
元暦二年五月日
左衞門少尉源義經
進上 因幡前司殿
■やぶちゃんの勝手自在現代語訳(腰越状は読み易くするために、内容から何箇所かで改行し、ダッシュや点線を施した)
二十四日戊午 源の廷尉殿〔源義経。〕、思う存分、朝敵たる平氏を徹底的に誅伐し終え、その凱旋に加えて前の内府平家総大将平宗盛を連行して鎌倉に参上した。その論功行賞は疑いなくこの上ないものであったのだが、日頃、梶原景時からの不穏不義の聞こえが重なったがために、突如、頼朝殿の御勘気を蒙り、廷尉義経殿は鎌倉御府内への入府を拒絶された。腰越の宿駅に於いて徒らに日を経るうち、憂愁の感極まり、政所別当因幡前司広元殿宛の一通の請願書を奉った。広元殿は義経殿の思いを汲んでこれを上覧に供したのだが、頼朝殿からは一向に明確な仰せ言もなく、ただ追って沙汰があるとだけのことであった。
その彼の書状に言う。
左右衛門少尉源義経、恐れながら申し上げるその趣旨は、鎌倉殿源頼朝の御代官の第一に選ばれ、天皇の御命令の使者として朝敵を打ち、先祖代々の武芸を存分に発揮し、我らが源氏の積年の恨みを晴らすことが出来ました。これによって他の誰よりも抜きん出て褒美を受けて当然で御座いますのに、思いの外、恐ろしいまでの悪意を持ったいわれなき讒言によって多大な功績を無視されてしまいました。義経は犯してもいない罪を受け、功績があって誤ったことはしていないにも拘らず、兄上の怒りを受けてしまい、空しく血の涙を流して、心はどん底に沈んでおりまする……。
そんな中で、つらつらこのたびのことを考えてみまするに、良薬は口に苦く、正しい忠告に限って耳に痛いということは古人も述べている通りです。……まさにそこです!……兄上に讒言を伝えた者が、はたして誠実な人間であるか、不実な人間であるかをろくにお調べにもなられず、また、私めは鎌倉の御府内にさえも入れてもらえぬが故に、心からの弁明をする機会も与えられておりませぬ。そうして……そうして、ただ空しくこの数日を過ごしてしまいました……。
今この時、兄上の御尊顔を拝することが出来ぬとならば、血を分けた兄弟であるという事実さえ、空しいものになったも同様!……
私めの運命が私には分からぬ理由から何故か行き詰まってしまったのか、あるいは私めの知らぬ私の前世に、何か悪い業でもあったのかと感じさせるほどのこととでも申しましょうか!?……
ああっ! 何と悲しいことか!……
亡くなられた父源義朝様の御魂が再臨でもされない限り、一体、誰がこの私の悲しみと嘆きを思いやって、兄上に申し開きしてくれるでしょうか、いいえ! 誰も正直な私を救ってくれる方など、おりません! この無実の罪を受けた私をどこの誰が哀れんでくれるでしょうか、いいえ! 誰独り哀れに思ってくれる者など、おりません! 救ってくれる、哀れに思ってくれる方は、兄上! あなたしかおられぬのです!……
さても、この度の新たなこの弁明の手紙、私めが愚痴を述べているかのように見えると致しましても――この義経、父母に生を受けて以来、いくらも経たぬうちに、我らが父左馬頭義朝殿が亡くなられ、孤児となり、母の懐に抱かれ、大和の国宇陀の郡龍門の牧に赴いてからというもの、毎日片時も安心したことはこれ御座なく、生き甲斐のない命ばかりを長らえて参りましたけれども、京都周辺は非常に混乱をきたしておりましたので、諸国を流浪し、身をいろいろな所に隠しては、僻地や片田舎を栖かとし、卑しい百姓どもにさえ使役されたり致しました。しかし、幸にして素晴らしい運が結実致して、平家一族追討のために上洛したその先ずの手合せに、かの山猿木曾の義仲を見事誅殺、その後、平氏を亡さんがために、ある時は険しい岩山に駿馬をむち打って、命を失うことをも顧みず、ある時は果てしない海の暴風大波をしのぎ、身を海の藻屑とせんことをも厭わず、鯨の顎にかみ砕かれんかとするも顧みず、そればかりか、そもそもが日々、兜や鎧を枕に野宿し、殺生をこととする武芸を、生きるための本業と致して参ったのです。――しかし! しかし、これは愚痴では御座いません! 私めの本意は、亡き先祖の魂を鎮め奉り、長年の宿願で御座った源氏の家名の再興を遂げんと望む以外には、これ、全く御座らぬのです!……
しかも、義経が五位の左衛門尉に補任されましたことは、当家の面目も立ち、何と言っても類いまれなる重職で御座ればこそ、これ以上によきことなど、あるでしょうか?……
しかしながら……
今は愁いも深く、嘆こと、頻り……。
神や仏のお助けでもないことには、どうしてこの訴えを兄上のみ心にお伝えすることが出来ましょうや!……
いいえ! もうこうなっては神仏にすがるしか御座いませぬ!……
さればこそ、私めは諸神社の牛王法印の御札を裏返し、そこに私めが全く以って兄上に野心などは持って御座らぬこと、日本国中のあらゆる神や鬼神に誓いを立て、何通もの起請文を書いて兄上に奏上致しました……が、いまだにお許しが御座いませぬ……。
我が国は神の国にて御座る! その神に誓って起請文を書いたのに、これに背くようなことを、失礼ながら、神々が受けていいはずがないでは御座いませんか?!
――もう頼みにできるのはほかでもない、ただひたすら、あなた、因幡前司殿大江広元様の御慈悲を仰ぐばかり! 便宜を図って兄上のお耳にこの私めの思いを伝えさせ、秘計をもって私に過ちがないことを弁明して下さり、兄上からお許しに預かれたとならば、正しき私を救うという善行を積んだ貴兄広元殿の功徳は大江一族総てに及びまする! その大江氏の功徳による栄華を永く子孫に伝えられるがよい!
以上をもって、長年の私めの愁いを取り除き、一生の安穏を得ようと思うて御座る!
この悲しみは最早、言葉では書き尽くせませぬ!……
しかし……しかし。これでも省略し、省略し、何とか書き記したものなので御座います! どうか、お察しあれかし! 義経、心から謹んで大江広元様に申し上げるもので御座います。
元暦二年五月吉日
左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿
◆「腰越状下書」 まず、以下にその影印画像を示す。巻紙であるので、読み易さを考慮して、ダブらせながら、三つのパートに分けて示した。
[腰越状下書 文政三年秋再刻になる「玻璃峯万福寺藏版」(三分割表示)]
文政三(一八二〇)年秋に万福寺で再刻された(文末参照)影印を底本とし、まず原本の字配に従い改行したものを掲げ(◆原文1)、次に全部を繋げて読み易く句読点を配し、補正字を本文化したものを提示(◆原文2)してその後に「吾妻鏡」との相違箇所を列挙、最後に私が訓読したものを示した(難読箇所にはルビを振った)。かなりの箇所に「吾妻鏡」とやや異なった表現や語順が見られるが、大きな意味内容の齟齬は認められないので現代語訳は附さなかった。本文の意味には文中の〔 〕内の字は末尾に示されるように、翻刻する際に末梢・カスレ等で判読不能の文字を補ったものを示す。(→ )は誤字と思われるものを私が補正したものである。私は影印読解は余り得意ではない。とんでもない誤りがあるかも知れない。誤読の箇所を発見された方はご一報頂けると幸いである。
◆「腰越状下書」原文1
源義經乍恐申上候意趣者被撰御
代官其一為 勅宣之御使傾朝〔敵〕
顯累代弓箭之藝雪會稽〔恥〕
辱可被御恩賞之處思外依虎〔口〕
之讒言被默〔止〕莫太之勲功義經〔無〕
犯而蒙咎雖有功無誤蒙御勘〔氣〕
之間空沈悲涙倩案事意良
藥苦口忠言逆耳先云也因茲
不被糺讒者實否不被入鎌倉中
之間不能述素意徒送數日當
此時永不奉拜恩顏者骨肉同
抱(→胞)之儀既似空之宿運〔之所〕以極〔歟〕
將又感前世之業因歟悲哉此
條亡父尊〔上〕靈不再誕給者誰人
申披愚意之悲歎何輩埀哀
憐乎哉釋新申狀雖似述懷義
經受身體髮膚於父母不經幾
時節故頭殿御他界之間成孤
子被抱母之懷中赴大和國宇多
郡龍門牧以降一日片時不住〔安〕
堵之思雖存無甲斐之命許京
都之經廻難治之間令流行諸〔國〕
隱身於在々處々栖邊土遠國被
服仕土民百姓等幸慶忽純熟〔爲〕
平家之一族追討令上洛之手合
誅戮木曾義仲後爲攻傾平〔家〕
[やぶちゃん字注:ここに間隙があり、以下の翻刻時の注が小文字で入る。思うに次の本文行の「或時峨々巖石鞭駿馬」と「或時漫々大海凌風波之難」の間に、右側から「不顧爲敵亡命」の脱落が書き入れされてあるが、それがカスレて読めず、寺の「相陽鎌倉郡腰越万福寺畧緣起」の記載に依って推定復元したことを指す。しかもそこには義経自身による加筆であるとの記載があり、この脱落故に、これが下書となり、満福寺に残されたと記す。よく見ると、二行目の下の本文の「馬」のやや離れた右下方部分に小文字で、「不」の四画目らしき右払い、「顧」の「戸」と次の一画、「爲」、「敵」の十二画目と思しい左払い、一字分空白の後に「命」の字の痕跡を見ることが出来る。「義経」の「経」の字はママである。]
不顧爲敵亡命六字落字故
義経公御加筆也余略緣起委
或時峨々巖石鞭駿馬或時漫々大
海凌風波之難不痛沈身於海〔底〕
不顧懸骸於鯨鯢之鰓加之枕於
甲冑業於弓箭本意併奉休亡
魂憤欲令遂年來宿望之外
無他事剩義經被補任五位
尉之條當家之面目希代〔之〕
重職何事如之哉雖然今
愁深歎切也自非佛神之御助
者爭達愁訴依之諸寺諸社
牛玉寶印飜裏不挿野心
之旨奉請驚日本國中大小
神祇冥道雖書進數通之〔起〕
請文猶以無御宥免其吾朝
神國也神不可禀非礼所憑非
他偏仰貴殿廣大之御慈悲
伺便宜令達高聞被廻祕計
被優無誤之旨預芳免者積善
餘慶及於家門永傳榮華於
子孫仍開年來之愁眉得一期
之安寧不書盡詞併令省〔略〕
候畢諸事埀賢察〔給〕誠〔恐〕
誠惶謹言
元暦二年五月日 源義經
進上 因幡前司殿
[やぶちゃん注:末尾に、翻刻の際の以下の小文字の注がある。ここでは「〔庚辰〕」は割注を示す。]
所々加細字者文字消而不明故如此
文政三〔庚辰〕穐再刻
相刕鎌倉郡腰越
瑠璃峯万福寺藏版
◆「腰越状下書」原文2
源義經、乍恐申上候意趣者、被撰御代官其一。為 勅宣之御使、傾朝敵、顯累代弓箭之藝、雪會稽恥辱。可被御恩賞之處、思外、依虎口之讒言、被默止莫太之勲功。義經無犯而蒙咎。雖有功無誤、蒙御勘氣之間、空沈悲涙。倩案事意、良藥苦口、忠云逆耳先言也。因茲、不被糺讒者實否、不被入鎌倉中之間、不能述素意、徒送數日。當此時、永不奉拜恩顏者、骨肉同胞之儀既似空。之宿運之所以極歟。將又感前世之業因歟。悲哉、此條、亡父尊上靈不再誕給者、誰人申披愚意之悲歎、何輩埀哀憐乎。釋新申狀、雖似述懷、義經、受身體髮膚於父母、不經幾時節、故頭殿御他界之間、成孤子、被抱母之懷中、赴大和國宇多郡龍門牧以降、一日片時不住安堵之思、雖存無甲斐之命許、京都之經廻難治之間、令流行諸國、隱身於在々處々、栖邊土遠國、被服仕土民百姓等。幸慶忽純熟、爲平家之一族追討、令上洛之手合、誅戮木曾義仲後、爲攻傾平家、
「不顧爲敵亡命」六字落字故、義経公御加筆也。余略緣起委。
或時峨々巖石鞭駿馬、或時漫々大海凌風波之難、不痛沈身於海底、不顧懸骸於鯨鯢之鰓。加之、枕於甲冑、業於弓箭。本意併奉休亡魂憤、欲令遂年來宿望之外無他事。剩義經被補任五位尉之條、當家之面目希代之重職、何事如之哉。雖然、今、愁深、歎切也。自非佛神之御助者、爭達愁訴。依之諸寺諸社牛玉寶印之飜裏、不挿野心之旨、奉請驚日本國中大小神祇冥道、雖書進數通之起請文、猶以無御宥免。其吾朝神國也。神不可禀非礼。所憑非他、偏仰貴殿廣大之御慈悲。伺便宜令達高聞、被廻祕計、被優無誤之旨、預芳免者、積善餘慶及於家門、永傳榮華於子孫。仍開年來之愁眉、得一期之安寧、不書盡詞併令省略候畢。諸事、埀賢察給。誠恐誠惶謹言。
元暦二年五月日 源義經
進上 因幡前司殿
所々加細字者、文字消而不明故、如此。
文政三〔庚辰〕穐再刻
相刕鎌倉郡腰越
瑠璃峯万福寺藏版
★「吾妻鏡」所収「腰越状」との異同
最初に示したものが「吾妻鏡」版で、矢印の後が「腰越状下書」。現代語訳を省略する代わりに、ここに( )で簡単な注釈を附した。但し、(「在々所々」→「在々處々」)等の同字異体字の異同は原則、省略した。
・左衞門少尉源義經→源義經(職名なし。職名なしは異例。)
・傾 朝敵→傾朝敵(尊崇を示す闕字なし。闕字なしは異例。)
・可被抽賞之處→可被御恩賞之處(やや自信がないが、少なくとも「抽」ではない。後者の方が現代人には分かりがいい。)
・有功雖無誤→雖有功無誤
・空沈紅涙→空沈悲涙
・當于此時→當此時
・永不奉拜恩顏→永不奉拜恩顏者
・宿運之極處歟→之宿運之極處歟
・將又感先世之業因歟→將又感前世之業因歟
・故亡父→亡父
・尊靈→尊上靈
・何輩垂哀憐哉→何輩垂哀憐乎
・事新申狀→釋新申狀(「釋新」は、この度の事態に附き、新たな解釈を施した弁明書の意としては通る。)
・成孤→成孤子
・龍門之牧以來→龍門牧以降(「之」なし/「以來」が「以降」の二箇所。)
・雖存無甲斐之命→雖存無甲斐之命許
・爲栖邊土遠國→栖邊土遠國
・然而幸慶忽純熟而爲平家一族追討令上洛之手合→幸慶忽純熟平家一族追討令上洛之手合(接続詞の脱落で、特に問題を感じない。却ってすっきりしてよいように思われる。)
・爲責傾平氏→爲攻傾平家(「責」が「攻」/「氏」が「家」の二箇所。)
・不顧爲敵亡命→本文になし(右に書き入れ。)
●「腰越状下書」の注
「不顧爲敵亡命」六字落字故、義経公御加筆也。余略緣起委。
書き下すと、
「敵の爲に命を亡ぼすを顧みず」は六字落字の故、義経公の御加筆なり。
か。
・懸骸於鯨鯢之鰓→不顧懸骸於鯨鯢之鰓(ここの下書に「不顧」があって「吾妻鏡」にないことと、直前の同じ「不顧」で始まる「不顧爲敵亡命」が「下書」で脱落していることは偶然ではなく、何らかの連関が考えられ、その点では本下書が後世の偽物ではない証左の一つにも思える。但し、そうした真実性を付与するための、逆に高度な意識的操作であるという解釈も可能ではある。)
・爲甲冑於枕→枕於甲冑
・爲弓箭於業→業於弓箭
・欲遂年來宿望之外無他事→欲令遂年來宿望之外無他事
・剩義經補任五位尉之条→剩義經被補任五位尉之條(「被」の挿入/「条」が「條」の二箇所。)
・何事加之哉→何事如之哉(前者の方が意味は自然だが、画像を見る限り、「加」には見えない。)
・歎切→歎切也
・自非佛神御助之外者→自非佛神之御助者
・因茲→依之
・以諸神諸社牛王寶印之裏→諸寺諸社牛玉寶印之飜裏(「以」なし/「諸神」が「諸寺」/「王」が「玉」/「翻」の挿入の全四箇所。「牛王」は「牛玉」とも記した。「飜裏」は牛王宝印の裏に書かれた誓詞を翻してみせたことから「ほんり」と言ったもので、極めて自然な謂いである。)
・雖書進數通起請文→雖書進數通之起請文
・其我國神國也→其吾國神國也
・所憑非于他→所憑非他
・及積善之餘慶於家門→積善之餘慶及於家門
・欲被垂賢察→諸事埀賢察給
・義經恐惶謹言→誠恐誠惶謹言(後者は奏上文の結語として穏当。)
・左衞門少尉源義經→源義經(位置は「吾妻鏡」では年月日の次行下部であるのに対し、「下書」は年月日の下二字下げ位置にある。)
●「腰越状下書」の注
「所々加細字者、文字消而不明故、如此。
文政三〔庚辰〕穐再刻
相刕鎌倉郡腰越
瑠璃峯万福寺藏版」
書き下すと
「所々に加へる細字は、文字消えて明らかならざる故、此くのごとし。
文政三〔庚辰〕穐再刻
相刕鎌倉郡腰越
瑠璃峯万福寺藏版
で、「相刕」は「相州」の異体字。「瑠璃峯万福寺」とあるが、現在の山号は龍護山であり、「万」ではなく、「滿」である。「関東古義真言宗本末帳」によれば、かつては「海北山万福寺」と号していた。同年の文政三(一八二〇)年再版「相陽鎌倉郡腰越万福寺畧緣起」にも外題に「瑠璃峯万福寺略緣起」とあり、行基造立の本尊薬師如来の瑠璃界に基づく旨の記載がある。当時の山号としては、これが用いられていたことが分かる。
◆「腰越状下書」やぶちゃんの書き下し文
源義經、恐れ乍ら申上候意趣は、御代官の其一に撰ばれ、 勅宣の御使として、朝敵を傾け、累代弓箭
元暦二年五月日 源義經
進上 因幡前司殿
さても、そこで今度は気になるのは、私が注で示した「相陽鎌倉郡腰越万福寺畧緣起」である。幸い、早稲田大学電子図書館で本書を画像で閲覧することが出来ることが分かったので、ここにそれを私が視認して電子テクスト化することにした。一部の略字漢字が使用されているが、原則、正字に直した。これで満福寺の私の注は完璧なものとなろうかと思う。本文片仮名は本頁に準じて平仮名に直し、適宜、句読点を打った。
◎「相陽鎌倉郡腰越万福寺畧緣起」
《表紙》
瑠璃峯
略緣起
万福寺
《本文》
相陽鎌倉郡腰越畧緣起
夫、當寺ハ人皇四十五代
其後人皇八十二代後鳥羽院の御宇、元暦二年〔改元、文治元也。〕五月源義経公平家を討
誰文政三〔庚辰〕仲穐再版
「天平十六」は西暦七四四年。「東方瑠璃界」釋迦が唱えた東方の彼方にある浄瑠璃という清浄なる仏土。女性がおらず、悪所なく苦の音声なく一切の差別がない。土壌は瑠璃で、金縄によって道が示され、あらゆる建物は七宝で出来ているという。西方浄土と同等の功徳を持ち、菩薩衆の最上位にある日光遍照と月光遍照の二菩薩が世尊である薬師瑠璃光如来の正法の宝蔵を守っているとされる。「灵躰」は「れいたい」で「霊体」。「藥壷」の「藥」は底本では「荼」のような字であるが、私の判断で薬師如来の持つ薬壺と判じた。「加之」は「しかのみならず」と読む。「四軰」は出家・在家の男女を指す語。この「軰」は底本では「車」が「東」であるが、誤字と判断して改めた。『此尊の經に「我此名号一經其耳衆病悉除身心安樂。」』とは大唐三藏法師玄奘奉詔譯「藥師琉璃光如來本願功徳經」の、先に示されている十二の発願の「第七大願」に現れる句。
〇原文
第七大願。願我來世得菩提時。若諸有情。衆病逼切無救無歸無醫無藥無親無家貧窮多苦。我之名號一經其耳。衆病悉得除身心安樂。家屬資具悉皆豐足。乃至證得無上菩提。
〇やぶちゃんの書き下し文
第七の大願。願はくは我れ、来世に菩提を得る時、若し諸有情、衆病逼切にして救ひ無く、歸するなく、醫無く、藥無く、親無く、家無く、貧窮にして苦多くせば、我の名號を一たびその耳に經ば、衆病悉く除き、心身安楽を得。家屬・資具悉く皆、豊にして足る。乃ち無上の菩提を證得するに至る。
「進と雖ども」は「まゐらすといへども」と読んでいよう。「雖」は底本では「雖」から(ふるとり)を除去した(へん)のみの字体であるが、正字で示した。
「十間坂」現在、小動の鼻の東側(七里ヶ浜側)の、海から国道に通ずる狭い路地があり、ここが十間坂と呼ばれている。小動神社の前の国道を横切って、浄泉寺の横を通り、龍口寺方面に続く古道がそれであろう。
最後に。「硯池」の脇には今も「辨慶が腰懸石」はある。……Tさん……三十四年前のあの夏の日、貴女を座らせて写真を撮ったね……「私が弁慶ってこと?」と頰を少し脹らませて座りながら……でも貴女は笑顔でファインダーの中にいた……貴女の笑顔を……私は永遠に忘れません……あの時の心は確かに永遠だったのです……]
〇袂浦
〇龍口寺
[やぶちゃん注:「八箇寺」輪番片瀬腰越八ヶ寺。「固瀨の八箇寺」(片瀬八ヶ寺)は通称。この輪番による住持制は明治十八(一八八五)年頃までは行われていたらしい。なお、以下に示された末寺の本寺は元の本寺で、現在は総て独立している。
「妙典寺〔比企が谷の末寺也。〕」現在の鎌倉市腰越にある。「比企が谷」は妙本寺のこと。
「本成寺〔身延の末寺也。〕」現在の鎌倉市腰越にある。「身延」は身延山久遠寺のことであるが、これは誤りで、本成寺は鎌倉の本覚寺末寺であった。
「本立寺〔比企が谷の末寺也。〕」これは現在の鎌倉市腰越にある本龍寺の誤り。この寺は八ヶ寺の中では最も早い創建で、元比企高家邸跡に建てられている。比企高家は大学三郎高家とも称し、建仁三(一二〇三)年の比企の乱で滅びた比企氏の当主比企能員の子で出家して日学と名乗ったとされる比企能本(大学三郎能本)と同一人物と考えられる。日学上人はこの本龍寺の元本寺である妙本寺(比企屋敷跡)の創建している。
「法源寺〔中山の末寺也。〕」現在の鎌倉市腰越にある。「中山」とは正中山法華経寺。千葉県市川市中山にある文応元(一二六〇)年創立の日蓮宗大本山寺院で、中山法華経寺とも呼ばれる。
「本蓮寺〔本國寺の末寺也。〕」現在の藤沢市片瀬にある。「本國寺」京都府京都市山科区にある、日蓮宗の大本山大光山本圀寺のこと。
「觀行寺〔玉澤の末寺也。〕」現在の鎌倉市腰越にある。「玉澤」は妙法華寺のこと。現在の静岡県三島市玉沢にある日蓮宗本山寺院。
「東漸寺〔中山の末寺也。〕」現在の鎌倉市腰越にある。
「淨立寺〔碑文谷の末寺也。〕」これは現在の藤沢市片瀬にある常立寺の誤り。文永の役の翌年の建治元(一二七四)年に元から降伏勧告の目的で来日した杜世忠ら五人の国使が北条時宗の命によって龍ノ口刑場で処刑され、ここに葬られたと伝えられる。現在ある元使塚は大正十四(一九二五)年の新しい建立であるが、その碑には「誰姿森」とある。これは「だがすがもり」若しくは「だがすがたもり」と読み、この常立寺周辺の古地名で、「新編相模風土記」によると、ここ誰姿森にはかつて蕃神堂(外国人の信ずる神を祀る堂)があったという。陰鬱な地名と言い、この地は元使のみならず、龍ノ口刑場で処刑された罪人が葬られた地と推定されているが、あえて「蕃神堂」とするからには、古い時代にも彼ら元使の魂を弔った者があったのかも知れない。]
本堂 日蓮の像を安ず。堂内に、日蓮
日蓮の
番神堂 本堂の東にあり。松平飛驒の守
[やぶちゃん注:これは三十番神を祀った堂のこと。三十番神は神仏習合の本地垂迹説による信仰で、毎日交替で一ヶ月(陰暦では一ヶ月は二十九か三十日)の間、国家や民を守護し続けるとされた三十柱の神仏を指す。鎌倉期に流行し、特に日蓮宗で重要視された。「松平飛驒の守利次が室」「松平飛驒の守利次」は前田利次(元和三(一六一七)年~延宝二(一六七四)年)。加賀藩主前田利常次男、越中富山藩初代藩主。彼の「室」を、正室ととるなら徳川家家臣で壬生藩鳥居家初代当主鳥居忠政の娘宗姫である。]
龍口明神 寺の東、山の上にあり。注畫讚に云、欽明天皇十三年四月十二日、此土に天女降り居す。是辨才天女の應作なり。此湖水の惡龍、遙に天女の美質を
[やぶちゃん注:「欽明天皇十三年」西暦五五二年。「好逑」は良きつれあい、理想的な配偶者のこと。]
[固瀨圖]
〇固瀨村〔附固瀨川〕
[やぶちゃん注:「【北條九代記】に見たり」というこの逸話は、同書巻八「相模の守時賴入道政務付靑砥左衞門廉直」に所収するが、この引用では意味が分からない。該当箇所を総て以下に示し(底本は「うわづら文庫」の有朋堂文庫「保元物語・平治物語・北条九代記」を用いたが、一部のルビを省略したり、本文に出したりてある)、私の訳を附した。
□原文
〇相模の守時賴入道
相州時賴入道は、國政
□やぶちゃん語注
「相州時賴の三島詣ありけるに」北條時頼は建長三(一二五一)年に三島社を勧請、三島本社に参詣しているが、三島市の公式HPの「三島アメニティ大百科」の「三嶋大社周辺」にある「三嶋大社を崇敬した武将」の項に、翌年の建長四(一二五二)年の旱魃の夏にも自ら大社に参詣して雨乞いをしたとする記事があり、このシークエンスにぴったりくるのはこの建長四年である。
「藤綱生年二十八歳」この年齢の時頼による登用エピソードについては、もっとあり得そうもないものとして、北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝したその夜に夢告があって、即座に藤綱を召し左衛門尉を受授、引付衆(評定衆とも)に任じたが、その折り、藤綱自身がこの異例の抜擢を怪しんで理由を問うたところ、夢告なることを知って「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである。」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じたともある(以上はウィキの「青砥藤綱」を参照した)。
「
「二階堂信濃入道」政所執事二階堂行実(嘉禎二(一二三六)年~文永六(一二六九)年)のこと。引付衆となったが短期間で卒去した。
「評定衆の頭になされ」現在知られる評定衆一覧記録には見当たらない。
「夜光垂棘の珠」春秋時代の晋の国で産したという宝玉。夜光を発する垂れ下がった棘のようなものというから、六角柱状の水晶か、鍾乳石の類いか。「韓非子十過」に基づく成句「小利を以て大利を
「同十月十二日、將軍家の仰として」は正嘉二(一二五八)年十月十二日の宗尊将軍の発布した御成敗式目追加法の禁令を指す(「同」は「北条九代記」のこの前項である「伊具の入道射殺さる」以下の正嘉二年の記事を受ける)。「吾妻鏡」正嘉二年十月十二日にも、
十二日丁亥。晴。今日評議。被仰出曰。自嘉祿元年至仁治三年御成敗事。准三代將軍幷二位家御成敗。不可及改沙汰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日丁亥。晴。今日の評議に仰せ出されて曰く、「嘉祿元年より仁治三年に至る御成敗の事、三代將軍幷びに二位家の御成敗に准じ、改め沙汰に及ぶべからずと云々。
とある。
「四一半」とは双六から鎌倉時代に発生した賭博の一種で、時代劇などで知られる二つの骰子を振って偶数・奇数を当てる丁半賭博。駒を用いた双六に比して遙かに勝負が早い。
□やぶちゃんの現代語訳
〇相模の守時頼入道の政務の様態 付 青砥左衛門藤綱の私欲なく正直なこと
相州時頼入道様は、天下の執権としての政務には一切の瑕疵なく、その人望たるや、国に遍く行き渡り、如何なる場面に於いても私心を持たれなかったが、奉行や引付衆長官たる頭人及び評定衆の中には、ややもすれば私利私欲に陥り、正道を外れて誤った行いに走る者があった。故に、時頼入道様は、
『何とかして道義の正しき道に帰せしめ、天下を太平の静かな治の中に安んじて万民を真心を以て慈しみ育みたいものだ。』 と常々、お感じになられていた。
さて、ここに青砥左衛門尉藤綱と言って、清廉潔白で恥の何たるかを弁えた極めて正直な人物があった。その先租を尋ねれば、その始祖は伊豆の住人大場十郎近郷という者で、承久の兵乱の際、幕府軍の宇治の攻め手に加わって、目を驚かす高名を成したがため、その恩賞として上総の国青砥荘を賜ったという。それより代々相伝して、青砥左衞門尉藤滿に至ってこの藤綱が生まれたが、彼は側室の子で、尚且つ末子であったが故、父藤満もさして大事にせんとせず、然るべき所領も与えられなかった。出家になれと命じて、十一歳で真言宗の師に付けて、その弟子と成さしめた。幼い時から才気煥発、真言の法理もしっかりと修めたのであったが、如何なる所存か、二十一歳の時に還俗して、青砥孫三郎藤綱と名乗った。それでも、彼の住まいの近くに行印法師という儒学僧として名を成した者があり、数年の間はこの僧に附き従って、とりあえずは儒家の教えを学んでいた。
ある時、相州時頼入道様の三島詣でが御座ったが、藤綱は当年二十八歳、その非公式の供奉人となった。参拝を終えられての途次、供奉の人々が旅中の用具などを牛に背負わせ、まさに鎌倉へと帰らんとする片瀬川渡渉の砌、その川中にて、この牛が勢いよく
「ああっ!
と笑いながら牛の横を渉って通る。これを傍にいた他の供奉の侍ども聞き咎めて如何なる謂いかと詰問したところが、藤綱が言ったことには、
「さればよ。この数日は雨も降らず、田畑はすっかり葉を枯らしてしまい、諸民悉く飢え悲しむ折り、この牛が尿をするに、肥やしとなせる田畑の近き所にてひるにあらで、あろうことか、川中にて無駄に捨て流したということを言うておるのよ。さても鎌倉中には正しき名徳にして智行高邁の秀でた僧たちで、まさに今、貧しく飢えて御座る輩がいくらも、おる。また逆に、無智蒙昧にして平然と破戒しおる愚俗なる似非僧で、金銀に飽き満ちておる者どもも多く、おる。然るに、去ぬる春の御佛事にては、そうした破戒無智の金満の僧ばかりを召されての御供養で御座った。
と語ったのであった。二階堂信濃入道がその折りの侍の一人からこのことを伝え聞いて、尤もなる謂い、と思った故、ことの序でにこの一部始終を時頼入道様に上奏致いた。時頼入道様はその話をお聞きになられると、
「まことに彼の者が申すところ、至極尤もなる道理である。凡そ作善仏事というものはひたすら慈悲を主眼と致いて、万民に喜悦を与え、貧しき者を救い、とかくの物の乏しき者に物品を与え助けてこそ、衆生を利する道とは言うのである。しかるに、去ぬる春の仏事供養にては、当家、頭人、評定衆の末子などで僧に成ったる者どもをのみ招聘致いたれば、彼らは財宝に不足ある者にてはこれ全くなく、それどころか奢侈を極め、学問を怠っておる、道徳の「ど」の字もなき者どもであったぞ。……学徳優れ、道行堅固なる貧しい僧侶は……賤しんだわけでは御座らぬが……確かに一人として招かなんだ。……このことを前もって自覚することが出来なかったことは、我が大いなる誤りである。――かく申したるは
と御下問あらせられたので、二階堂信濃人道が、
「青砥の前の左衛門尉が末子にて三郎藤綱と申す者にて御座る。」
と申し上げたところが、即座にお召し出しになられて、
「今より後は北条が当家に奉公せよ。」
と、藤綱は家士として召し抱えられたので御座った。
さて、それ以来、時頼入道様はこの藤綱に政道を司る器量ありとお見抜きになられて、後には評定衆の頭となされ、藤綱は天下の事、その大小に拘わらず見解と意見を述べる立場となった。
藤綱はあっという間に豊かになったが、それでも一切驕り昂ぶることなく、評定衆頭人という権威を持ちながら、決してそれを振り回さない。遊興はこれを好まず、自分のためには財産を妄りに浪費することもなかった。後には数十ヶ所の所領を支配していたから、実質的な財産は相当に豊かになったけれども、衣裳は常に細い糸で織った麻布の直垂に、麻布製の裾の開いた大口の袴で、朝夕の食膳には乾した魚と焼き塩以外には載せない。出仕の時は、素朴な
さても何より、このように藤綱の人物を見抜いて召し出し、天下の奉行となされた時頼入道様の、才智ある人こそ、なお後代には稀有の人物ではあるまいか?
同正嘉二年十月十二日、宗尊将軍の仰せとして、
「嘉禄元年より仁治三年に至るまで、幕府御裁決の方式は、源頼朝様・頼家様・実朝様三代将軍并に二位の禪尼政子様の定め置かれたところのものを、一切、変更してはならない。確実にこの旨を守らねばならない。無礼・不忠は人間に非ざるものの所行である。
と御成敗式目追加法たる御禁令をお出しになられた。これ以来、諸人は悉くお上を恐れ、正しき権威に誠心から服従し、暫くの間は話にならない馬鹿げた訴えも一つとしてなく、純朴にして正しき気風が鎌倉中に満ち満ちたのは、時頼入道様がなされ、藤綱が支えた幕政が正しかったことを意味している。
最後に述べておくが、この鎌倉の青砥橋で著名な青砥藤綱という人物、ここではまことしやかな系譜も示されているのだが、実は一種の理想的幕府御家人の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても実在はしなかったと考えられる。]
〇西行見返松
[やぶちゃん注:現在、湘南モノレール湘南江ノ島駅前の道を常立寺前を通って、三百メートルほど北上した民家の間に小さな松があり、「西行戻り松」「西行見返り松」とされている。「吾妻鏡」に載るように、西行は実際に鎌倉を訪れているが、藤沢市教育委員会編「藤沢市文化財ハイキングコース」などによれば、西行が入鎌するに際し、この松の枝振りに見惚れると同時に、去った都恋しさから西は都の方を見返りして、その松の枝を西の方へと捩じ曲げたからと伝えられる。また一説には、西行がこの松の下で、鎌を持った背負籠を担った子に逢い、何をしにゆくのかと尋ねたところ、「冬蒔きて夏枯れ草を刈りに行く」と答えた。西行にはその意味が分からず、しばらく子の後姿を見返りしたことから名づけられたともいう(因みにこの謎かけ歌は麦のこと)。前者は出家者西行の説話としては「撰集抄」の高野での人造人間製造と同じく私には俗っぽく感じられる(西を都ではなく西方浄土とするならよし)。また後者の説話は、日光街道鉢石宿の稲荷神社にある西行戻り石や、松島長老坂の西行戻しの松に全く同一の西行伝説として存在し、歌人西行が狂言回しになる点で遙か後代の俗人の産物であることは明白である。]
〇笈燒松
[やぶちゃん注:現在の片瀬四丁目の旧家の敷地内に、この「笈焼き松」と「駿河次郎清重の墓」と称した五輪塔と多層塔様(これはしかし画像からは複数の石塔の寄せ集めに見える)のものがあったことが佐藤弘弥氏のHP「義経伝説」内の平野雅道氏の「義経と藤沢」の「駿河次郎清重の伝承」に掲載された写真(推定昭和初年)や片瀬地区自治町内会連絡協議会の西方町内会のネット記載によって判明したが、それによれば惜しくも二〇〇三年に宅地化されて現在には伝わっていない。]
〇唐原
[やぶちゃん注:「更級日記」の当該箇所の前後を含めて引用しておく(インテリア・グリーンの店ポトス提供の藤原定家自筆本の頁より)。
にしとみといふ所の山、繪よく書きたらむ屏風をたてならべたらむやうなり。片つ方は海、濱のさまも、寄せかへる浪の景色も、いみじうおもしろし。もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く。「夏はやまとなでしこの濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬ」といふに、なほ所々はうちこぼれつゝ、あはれげに咲きわたれり。もろこしが原に、やまとなでしこも咲きけむこそなど、人々をかしがる。
この「更級日記」の「もろこしが原」はしかし、次章が直ぐに足柄となっており、片瀬海岸よりももっとずっと西方である可能性が強いように思われる。また、平塚版のタウン・ニュースの『町名探訪 第六十五回「唐ヶ原」』の記載に大磯町大磯から平塚市花水側西岸一帯の海浜を古く「もろこし河原」 と呼称しており、それは五世紀前後、この地で朝鮮からの集団移住者による開拓が行われたことに由来するとあり(高麗山もある)、更に昭和三十三(一九五八)年に行われた町名町界変更の際に、「もろこしがはら」は語呂が悪いとされて、現在の「唐ヶ原」(とうがはら)となったという経緯も記されている。先に引いた『村人の言い伝えによる地名・「ひらつか」は古くから存在したか?』を見ても、平塚から大磯辺りが由緒・経過といい、同定の分があるという気がする。従って以下の和歌でも同様である。
「遙かなる、中こそうけれ夢ならで、
遙かなるうちこそうけれ夢ならぬ遠く見にけりもろこしの原
とある。]
〇砥上原〔附八松原〕
[やぶちゃん注:「浦千かき」及び最後の「八松の」の歌は鴨長明が飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向、将軍源実朝と会見する入鎌前の、ここでの嘱目吟である(建暦元(一二一一)年編「鴨長明集」所収)。
「
[江島圖]
〇江島〔附兒淵 仁田四郎拔穴〕 《金龜山》
[やぶちゃん注:「陸より島の入口まで、十一町四十間許あり」は一・二キロ強となる。現在の地図で計測すると国道一三四号線の江ノ島入口から江ノ島大橋を渡り切ったところで凡そ六三五メートル、やや内陸に入って江ノ電江ノ島駅改札口付近から島内の岩本楼本館前までの直線距離は一・三キロメートルある。元江ノ島の岸を現在の江ノ島神社参道付近とするなら、江ノ電江ノ島駅のやや北、龍口寺西の国道四六七号線の交差点江ノ島駅入口までが丁度一・二キロメートルに相当する。先に掲げた「固瀨圖」の「西大磯道」が位置的にもこの国道四六七号に近い。この「固瀨圖」を見ると(勿論、実測的な図ではないから確かなことは言えないけれども)、この図の「固瀨古川」は後に再び本川の流域に復帰し、川が東へ大きく蛇行して現在の境川(片瀬川の現在の呼称)となったのではなかろうかという気がしてくる。
「島の入口より龍穴まで、十四町程あり」は一・五キロ強。現在の江ノ島神社参道付近から辺津宮・中津宮・奥津宮を順に参拝して、御岩屋へ向かう参道を下り、現在の第一岩屋から第二岩屋まで行くと、その実測値は、ほぼぴったりの一・五キロに相当する。
「建保四年」西暦一二一六年。私は専門家ではないが、この時の陸繋島化は恐らく大潮だけではなく、片瀬川上流からの多量の堆積物による砂嘴の延長や沿岸流の変化による砂の移動、更にはこの前後に大きな有感地震を記録していないところを見ると、何らかのゆっくりとした地殻変動による相模湾沿岸域の隆起などが重なったものかも知れない。ただの大潮による一時的な陸繋島化ならば、このような記載を「吾妻鏡」がわざわざするとは思えないからである。
「六七町の間、船にて渡す」七六三から八七二メートル。現在の江ノ島神社参道付近から丁度九〇〇メートルほどの位置に江ノ電江ノ島駅から延びる洲鼻通りの西に正に「洲鼻広場」がある。洲鼻とは川の河口に形成された洲の先端の謂いであるから、ドン、ピシャリ! この辺りが江戸期の江の島への満潮時の渡船場であったものと推定される。
「緇素」の「緇」は黒を、「素」は白で、僧と俗人の衣服から、僧俗の意。
「泰澄」(天武天皇十一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は奈良期の修験道の越前出身の僧。加賀(当時はやはり越前国)白山の開山とされ、越の
「道智」は養老年間の千日修行(七一七年から七二〇年とされる)で城崎温泉を開いたことで知られる、地蔵菩薩の化身と呼ばれた道智上人のこと。
「景行天皇の御宇」西暦 七一年~一三〇年。
「安康天皇の御宇」西暦四五四年~四五六年。
「
「武烈天皇」西暦四九八年~五〇七年。
「金村大臣」は大伴金村(生没年不詳)のこと。仁賢天皇十一(四九八)年、仁賢崩御後、対抗勢力であった平群真鳥・
「欽明天皇十三」西暦五五二年。現在の江の島神社社伝には「欽明天皇の御宇、神宣により詔して宮を島南の龍穴に建てられ、一歳二度の祭祀この時に始まる」とあり、この年に原祭祀を同定している。
「鸕鶿」は音「ロジ」で鵜のこと。「説文」に載る。
「柳裏」薄い緑色を指す色名。裏葉色。
「法印堯慧が歌」は「北国紀行」所収の歌。]
蘭溪和尚同遊江島歸賦以呈
宋 大 休〔仏源禪師〕
江島追遊列俊髦。 馬蹄獵々擁春袍。
穿雲分座烹香茗。 策杖徐行蹈巨鼇。
洞口千尋石壁聳。 龍門三級浪花高。
須知海角天涯外。 萍水迎懽能幾遭。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って訓読したものを示す。
蘭溪和尚と同じく江の島に遊びて歸り賦して以て呈す
宋の大休〔仏源禪師〕
江の島追遊して 俊髦 列なる
馬蹄 獵々として 春袍を擁す
雲を穿ち 座を分ちて 香茗を
杖を策き 徐ろに行きて 巨鼇を蹈む
洞口千尋 石壁 聳へ
龍門 三級 浪花高し
須らく知るべし 海角天涯の外
萍水 迎懽 能く幾遭ぞ
「蘭溪和尚」は蘭溪道隆(建保元(一二一三)年~弘安元(一二七八)年)。
「同じく」は共に、一緒にの謂いであろう。
「仏源禪師」は大休正念(嘉定八(一二一五)年~正応二(一二九〇)年)。初め東谷明光に師事し、その後径山の石渓心月に参禅してその法を継いだ。文永六(一二六九)年、幕府執権北条時宗の招聘により来日、後、先師蘭渓を継いで建長寺住職となった。本詩は題から見て、蘭渓の生前の一二六九年から一二七八年の間の早春の作詩と思われる。
「獵々」は風の吹く音。
「袍」は綿入れ。
「俊髦」は「しゆんばう(しゅんぼう)」と読み、「髦」は髪の中の太く長い毛の意。衆に抜きん出て優れた人物。俊英。
「香茗」は「かうみやう(こうみょう)」と読み、香りの高い茶か。「巨鼇」は「きよがう(きょごう)」で大海亀。
「三級」は急崖が三段になっていることを言う。
「海角」とは陸が海に細く突き出した先端の岬を言う。
「萍水」は「へいすい」と読み、ここでは海藻と水を指すが、渡宋僧としての蘭渓道隆と大休正念との出逢いの歓喜をも含意するか。とすれば、これは仏源禪師の訪日からさほど遠くない頃、例えば文永七(一二七〇)年春のことではあるまいか。
「迎懽」は「げいくわん(げいかん)」と読み、喜び迎えるの意。
「幾遭」の「遭」は度数を数える助数詞。]
[やぶちゃん注:岩本院古くは岩本坊と称し、小田原北条氏が厚い信仰を持った室町期から存在し、江戸期には慶安二(一六四九)年に京都仁和寺の末寺となって院号の使用が許され、島内の全社寺を支配する惣別当となった。後、岩本院と上之坊及び下之坊の間では参詣人の争奪に絡む利権抗争が燻り続けるが、寛永十七(一六四〇)年に岩本院が幕府からの朱印状を入手、まず上の坊を、次に下の坊を支配下に置いた。かくして宿坊営業や土産物を始めとする物産管理、開帳や出開帳等の興業事業の総権益を握り、岩本院には将軍や大名家が宿泊するなど、大いに栄えていた。江の島には三重の塔や弁財天像が祀られていた竜宮門等の建物や仏像があったが、明治の廃仏毀釈令によって破壊されてしまう。]
寶物
[やぶちゃん注:「刀八毘沙門天」毘沙門天信仰の中でも後に生まれた異形の毘沙門天像。
北條氏康請文 壹通
【江の島の緣起】 五卷 詞書作者不知(知れず)。
[やぶちゃん注:比叡山延暦寺僧の皇慶(九七七~一〇四九)が永承二(一〇四七)年に記したもので、先の天女と五頭龍の伝説が記されている。]
太田道灌の軍配
[やぶちゃん注:生絹の
馬の玉 壹顆
[やぶちゃん注:本頁の冒頭「星月夜井」の「馬の玉」の注を参照のこと。]
九穴の
[やぶちゃん注:これは恐らく、軟体動物門腹足綱原始腹足目ミミガイ科のアワビ属 Haliotis か、トコブシ属 Sulculus フクトコブシ S. diversicolor 亜種 トコブシSulculus diversicolor supertexta と思われる。これらの日本産の小・中型個体については、殻に開いた孔(塞がれたものは数えない)の数で区別が出来、四~五穴がアワビ、六~九穴がトコブシなのであるが、「宝物」とする以上は相応な大型個体でなければならない。アワビは最大殻長二十センチに及ぶものもあり、殻幅も十七センチの個体があるのに対し、一般的にトコブシは大きくても殻長七~八センチ止まり、殻幅も五センチ程度で大型化はしないから、私は宝物にはならないと判断する。従ってこれは二十センチ大の大型の内部の真珠光沢が美しいアワビで、中でもクロアワビ Haliotis discus discus であろうと思われる。クロアワビは別名オガイとも呼ばれ、これは「御貝」で朝廷への貢納や伊勢神宮への奉納品として用いられたことに由来する。私は「九穴」を背面にある塞がってしまった隆起孔跡も含めて九と数えたものと判断する(若しくは古い塞がった穴を人為的に開けて九個実際にあったものなのかも知れない)。因みに、この穴はミミガイ科に特徴的なもので、鰓呼吸で体側下部周囲から外套腔に採り入れた海水及び排泄物、卵・精子などを放出するための孔であり、殻の成長に従って形成されるもので、古いものから順に孔が石灰化して塞がり、隆起のみが残る。]
[やぶちゃん注:これは竹で地面から二股になって生えている実生の竹を言っているものと思われる。因みに琵琶湖の竹生島は古えにこの二岐の竹が生えていたことに由来する命名という。]
[蛇角圖]
[やぶちゃん注:「
「慶長九年」西暦一六〇四年。
「羽州秋田の常樂院尊龍」これは恐らく現在の男鹿市北浦の男鹿温泉郷の湯本にある
さて、角のある蛇は最も古いもので「常陸国風土記」の「
〇原文
古老曰、『石村玉穗宮大八洲所馭天皇之世、有人、箭括氏麻多智、點自郡西谷之葦原墾闢新治田。此時、夜刀神、相群引率、悉盡到來、左右防障、令勿耕佃〔俗云、謂蛇爲夜刀神。其形、蛇身頭角。杞免難時、有見人者、破滅家門、子孫不繼。凡此郡側郊原、甚多所住之。〕。於是、麻多智、大起怒情、著披甲鎧之、自身執仗、打殺駈逐。乃至山口、標梲置堺堀、告夜刀神云、「自此以上、聽爲神地。自此以下、須作人田。自今以後、吾爲神祝、永代敬祭。冀勿祟勿恨。」。設社初祭者』。即還、發耕田一十町余、麻多智子孫、相承致祭、至今不絕。其後、至難波長柄豐前大宮臨軒天皇之世、壬生連麿、初占其谷、令築池堤時、夜刀神、昇集池邊之椎株、經時不去。於是、麿舉聲大言、「令修此池、要盟活民。何神誰祇、不從風化。」。即、令役民云、「目見雜物、魚虫之類、無所憚懼、隨盡打殺。」。言了應時、神蛇避隱。所謂其池、今號椎井也。池面椎株。淸泉所出、取井名池。即、向香島陸之驛道也。
〇やぶちゃんの書き下し文
其の後、
現在の茨城県行方市玉造町泉にある愛宕神社に、本話に現れる神を祀った夜刀神社が合祀されている。この神の名は一般に湿地帯を支配する谷神、
「石村の玉穗の宮に大八洲馭しめしし天皇の世」は継体天皇の御世。在位は西暦五〇七年から五三一年まで。
「郡」は
「
「
「
「神の
「難波の
「
「
さてもまた、同じく「風土記」の続く「香島の郡」(現在の鹿島)にも、
〇原文
以南所有平原、謂角折濱。謂、古有大蛇、欲通東海、掘濱作穴、蛇角折落、因名。或曰、倭武天皇、停宿此濱、奉羞御膳、時都無水。即執鹿角、掘地之、爲其角折。所以名之。〔以下略之。〕
〇やぶちゃんの書き下し文
南に平原有れば、
とある。「風土記」は角のある蛇がお好き。現在、鹿嶋市の旧大野村に角折という地名が残っており、東に太平洋を臨む「潮騒はまなす公園」付近が「角折の濱」に同定されている。さても、以上から推定されるのは、これらは地名由来説話であると同時に、大和朝廷にまつろわぬ土着の異民族の象徴であり、その民族の信仰した土着神が蛇にシンボライズされた谷神であったが、結局、角を失って霊力を消失、神から妖怪変化へと零落させられていく権力側の習合支配のシステムを見て取ることが出来るように思われる。そうした抑圧された過去の記憶が時折、このような「蛇の角」という形で先祖返りを示すのではないか。もたらした人物が秋田の修験者であったということも、何やらん、私には因縁を感じるのである。
この蛇の角は珊瑚若しくはそのイミテーションの珊瑚玉(先に出た練物)で造られた細工品のように感じられる(江の島神社や岩本楼には現存しない模様)。なお、角のある蛇は本邦にはいないが、サハラ砂漠に実在する。有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ下目クサリヘビ科サハラツノクサリヘビ
Cerastes cerastes は全長三十センチから最大八十五センチに及び、左右の眼の上部に尖った角状突起を持つ。この角は軟らかく、現在の研究では機能は不明とされているようである。因みに異様な外見ばかりではない。立派な猛毒の毒蛇である。]
慶安二年の御朱印 壹通 境内山林竹本等の免狀、獵師町の地子、同く船役は公役なりとあり。
[やぶちゃん注:「慶安二年」は西暦一六四九年。「地子」は「じし」又は「ちし」と読み、領主が田畠山林などへ賦課した地代。「公役」は「くやく」と読み、地子免除の代償として課された賦役であったが、後には金銭で納めるようになった。]
以上
[やぶちゃん注:江の島の伝承では曾てここに龍女が住んだという。「天竺の無熱池」とは
[やぶちゃん注:「慈悲上人」良真。鶴岡八幡宮の供僧であったが、、元久元(一二〇四)年に渡宋、建永元(一二〇六)年に宋から戻った彼は江の島に参籠して修行を積んだ。]
[福石と江ノ島道標(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]
[やぶちゃん注:この石は、鍼医杉山和一(すぎやまわいち 慶長十五(一六一〇)年~元禄七(一六九四)年)の逸話で特に知られる。幼くして失明した和一は江戸の検校山瀬琢一の下に入門するものの、生来の不器用と物忘れが災いして、破門を言い渡されてしまう。そこで江の島弁財天に籠って起死回生の断食祈願をし、その帰るさ、この福石の傍で躓いて倒れた。その際、何かが体に刺さった感じがするので拾ってみたところ、それは中空の竹の中に入り込んだ松葉なのであった。和一はこれに発想を得て、現在知られるところの、中空の管の中に鍼を挿入し、管の上部から出た鍼の頭を叩いて打つ管鍼(くだばり・かんしん)を考案したとされている。彼はその管鍼で徳川綱吉を治療、元禄二(一六八九)年には関八州の当道盲人を統括する惣禄検校にまで登りつめた。彼はまた鍼術及び按摩術の技術取得を目的とした、世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設していることも注目しておきたい。この奇瑞に感謝の意を表して、後に和一は藤沢宿から江ノ島に至る道標四十八基を寄進、その最終の道標と思われるものが現在のこの福石の前に建っている。この福石の左下方、江ノ島の裏へ回る近道である東参道を入った右の下った直ぐの所に和一の墓はある。]
[杉山和一の墓(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]
下の宮 緣起に、下の宮は、建永元年に、慈悲上人、諱は良眞の開基にて、源實朝の建立也とあり。延寶三年に再興の棟札あり。本尊辨才天〔弘法の作。〕・如意輪觀音・慈悲上人の像・慶仁禪師の像・實朝の像を安置す。下の坊、
[やぶちゃん注:現在、辺津宮と呼称される本社「下の宮」は、建永元(一二〇六)年に宋から戻った慈悲上人良真が将軍実朝に上奏して建てた神社とされている。祭神は海神三姉妹である宗像三女神の一柱である
「延寶三年」は西暦一六七五年。
「慶仁禪師」は良真の中国での師で、良真は彼の法嗣であり、良真が初めて慶仁禅師に参じた時、師は日本に江の島という観音垂迹の霊地があり、そこに社壇を開くべしと語ったとされる。
なお、江ノ島島内の神社(寺)は現在の呼称と当初の支配権が異なるので、今一度、対比しておくと、
《現在の呼称》 《当時の呼称》 《当時の別当》
本社辺津宮 下之宮 下之坊
中津宮 上之宮 上之坊
奥津宮・岩屋 本 宮・龍穴 中之坊・岩本坊
である。先にも記したが、この別当としての権益は江戸初期のもので、寛永十七(一六四〇)年には岩本院と上之坊との間で実質支配権益に纏わる本末争論が起こって、唯一の仁和寺末寺の院号を有することと、同年に岩本院へ幕府の朱印状が下されたことを武器に、上の坊、次いで下の坊をも岩本院が支配するに至った。
「本尊辨才天」はこれは現在の辺津宮に祀られている、女性生殖器がしっかりと彫り込まれているところの通称裸弁天、妙音弁財天(推定鎌倉中期以降の作像)と考えてよい。昭和二十八(一九五三)年芸苑巡礼社刊の堀口蘇山「江島鶴岡弁才天女像」によれば、この弁財天像はかつて下宮に良真が建立した宋様の竜宮門の楼上に少女の竜女(乙姫)として造形され祀られていたものらしいが、明治の廃仏毀釈の対象となった折り、誰かが役人の目を盗んで中津宮の床下に隠し置いて消失を免れたとある。なお、本書は修復前の本像の写真や生殖器の彫琢の細部解説、修復の際の誤謬等、極めて興味深い著作である。一読をお薦めする。]
[碑石圖]
[篆額の字體左のごとし]
[上自左至右「大」「日」「本」「島」下左「迹」右「建」(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]
[文様残痕 左・碑左上端 中碑上端中央 右・碑右上端(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]
[碑面断裂部(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]
[やぶちゃん注:「
『余、始て至る時、其文字
と述べており、この謂いから考えると、本「鎌倉志」執筆の頃は無論、佐藤中陵が最初に見たのは田良道子明甫や十方庵大浄が訪れたのと同時期であり、正に一八〇〇年頃までは、実はここに示された五文字以外にも何らかの文字らしきものが見えていた可能性がある。それを誰も書き残さなかったことが悔やまれる。更に中陵は碑の石材の材質に着目し、
『余、此石を諸州に尋るに、未だ
と記す。「伯州」は伯耆国で現在の鳥取県西部、「筑前阿彌陀經の石」は江ノ島の祭神の元である福岡県の宗像神社にある、正面に阿弥陀如来像、背面に阿弥陀経を彫った高さ約一六〇センチ×幅約八〇センチの塔状の経石のことを指す。当初、中陵は伝承通り、この屏風石を中国渡来のものと思っていたようであるが、後に同質の石を米子で発見、彼は中国の石と同じ石が本邦にもあったと喜んだのだが、更にその後、長崎や筑前でも同質の石が見つかったことから(以下の引用符は加藤氏のものから)『屏風石も肥前か薩摩の辺りでとれた石で作られたのではないかと書いて』おり、『この項目は、「世に此類多し。こゝに於て疑を容る」とまとめられており、中国から運ばれたとされる屏風石が、実は国内で作られたものだったのではないかという、中陵独自の見解を示して』いる、とある。中陵の実証主義的観点からの伝承への疑義に私は大いに同感するものである。更に加藤氏は現在の屏風石について触れ、現在のものは『座石があり、雨覆がつけられて』おり、更に『その覆いには「当碑文之雨覆并基盤石造立寄進」と彫られ』、元禄十四(一七〇一)年十二月吉日『の日付と、「施主嶋岡検校代」「別当法師恭順」の名前が確認されて』いるが、以上の『江戸時代の記録には、座石や雨覆の話は一切触れられて』いない点が妙であるとされ、『ひょっとするとこの辺りにも、いろいろと疑ってみる余地があるのかも知れ』ないと結んでおられる。
……私自身、実は二十四年前、この碑の謎めいた文字を初めて見、手でその上を辿った時、何か妙に不思議な気持ちになったのを覚えている……そこでは……その時の私たちと同じような尾崎放哉と恋人芳衛が佇んでこの碑を見ていたのかも知れない……かつて……若き日の、結婚する前の私の父と母もその前に二人して立ちどまってこの奇妙な碑を一緒に見たかも知れない……私はずっと後年、やはりそこに、とある少女と立ち止まってかれこれと解説をしたこともあった……放哉の薔薇の絵葉書の文字が見える……「我、誤てり」……碑面の謎は僕自身の謎であった……「十」代がそして三「十」代が終わっても、少年のまま、なりたくもなかった「成」「人」の「性」の世「界」……その碑文は、僕自身の人生という、不可解で愚劣極まりない、落剝ならぬ落魄した存在の、謎のロンゴロンゴ文字ででも、あったのだ……]
鐘樓 宮の左にあり。鐘の銘如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下の鐘銘は底本では全体が一字下げ。]
奉冶鑄、金龜山與願寺、宇賀辨才天女下宮鐘銘。
大日本國、東海道、相模州江島者、從金輪際湧出之靈島歟、福神託居之巖窟焉、加之人王三十代、欽明天皇十三壬申歳、自四月十二日戌刻、當于江野南海湖水之水門、雲霞暗蔽海上、日夜大地六種震動、天女顯現雲上、童子侍立左右、諸天龍神、水火雷電、山神鬼魅、夜叉羅刹、從天降盤石、從海擧砂礫、電光輝空、火焔交白浪、同及于二十三日辰刻、雲去霞散、見海上有島山耳、今之三神山是也、抑此神將王者、天地之起々、陰陽之初々也、聞法年舊、誰知空王往事、利生日新、何如尊神現德乎、本地則等覺妙覺之尊、大慈大悲之濟渡幾舊迹、亦天童天女之體、與官與福之利益是新矣、因玆役優婆塞詣此山越知泰澄、居當島、傳教窓前發願影向、弘法床上對請恒臨、慈覺念時常隨給仕、安然行場應滿知、所以顯密權實宗、宗々被冥助、文武商農家、家々仰靈驗矣、肆信心之檀越等攸奉冶鑄、蒲牢一聲、上徹梵天頂、下響地輪底、此土耳根利、故遍用聲塵三寶證明之、諸天衞護之、總而天長地久、御願圓滿、別而施主、懸志於辨天本願、任誠於大悲誓約、所祈善願令悉地成就而已、維時寛永十四丁丑暦、閏彌生吉祥日、天台傳燈三部都法大阿闍梨法印生順謹書、下宮別當職權大僧都法印長伸、稽首敬白。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って鐘銘を書き下したものを示す。]
冶鑄し奉る 金龜山與願寺 宇賀辨才天女下の宮の鐘銘
大日本國、東海道、相模州江島は、金輪際より湧出するの靈島か、福神託居の巖窟なり。
「欽明天皇十三壬申歳」は西暦五五二年。「寛永十四丁丑の暦」西暦一六三七年。]
上の宮 額、辨才天、釋の乘圓とあり。緣起に上の宮は、文德天皇、仁壽三年に、慈覺大師創造すとなり。上の坊是を
[やぶちゃん注:現在の中津宮。祭神は海神三姉妹である宗像三女神の一柱である
「尊辨才天、慈覺の作」とりあえず、私はこれを、現在の辺津宮にもう一体祀られているところの、八臂弁財天像に同定しておきたい。そもそもこの像は、近代になって本宮(奥津宮)の奥から発見されたと記されているからである(旧版「かまくら子ども風土記」)。これは現在でも鎌倉初期の作とされ、「吾妻鏡」に記されるところの、頼朝が奥州藤原氏調伏祈願のために文覚に命じて造像させたものといういわくつきのものであるが、私にはこの現存像が頼朝由来のそれであるというのは、やや疑わしく感ぜられる。先に掲げた堀口蘇山「江島鶴岡弁才天女像」でも堀口氏は「弁才天建立の遠因」の末尾に、頼朝や実朝の弁才天信仰の主体たる当時の江の島の本尊像が『八臂であるか、二臂であるか、当像(やぶちゃん注:現在の辺津宮にある妙音弁財天を指している。)であるか、黄金体の弁才天であるか、それとも文覚上人の願意で頼朝寄進の弁才天であつたか、今之を知る由もない』と記されている。但し、前段で氏は『江島弁才天の創立は不明で』、『空海、慈覚』といった『名僧は数多く賽参したであらう』から、『此の壮観の景勝地に仏教徒の布教熱が持ち上り本地垂迹説を齎して妙音弁才天でも押し入り嫁にして一寺建立を企んだのは豈に独り弘法慈覚のみならんやである。要するに各宗の名僧が絵に画いた様な此の霊島に両部神道を建設すべく企図したことは常識的に推断できるのである』と述べておられるから、本文の「慈覺大師創造す」といった伝承などを全否定はせず、微妙に留保はなさっている。
「仁壽三年」は西暦八五三年。
「慈覺大師」は第三代天台座主円仁(延暦十三(七九四)年~貞観六(八六四)年)のこと。]
本社 鳥居を
[やぶちゃん注:現在の奥津宮。祭神は海神三姉妹である宗像三女神の一柱である
鐘樓 社の北にあり。鐘に寛永六〔己巳。〕年、孟夏十四日に、西上州の住人齋藤佐次衞門
懸崖嶮處捨生涯、十有餘霜在刹那、花質紅顏碎岩石、娥眉翠黛接塵沙、衣襟只濕千行涙、扇子空留二首歌、相對無言愁思切、暮鐘爲孰促歸家。
又歌に、「
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って自休の漢詩を書き下したものを示す。
懸崖嶮き處 生涯を捨つ
花質紅顏 岩石に碎け
十有餘霜 刹那在り
娥眉翠黛 塵沙に接す
衣襟 只だ濕ふ 千行の涙
扇子 空しく留む 二首の歌
相ひ對して言ふ無し 愁思切なり
暮鐘 孰が爲にか 歸家を促す
西御門にある来迎寺には
[やぶちゃん注:叙述から見て、現在の第一岩屋を、それのみを描写している。「關東道十五里」「七里濵」の注で示した通り、「關東道」の里程単位である坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)で示している。坂東一里は六町、六五四メートルであるから、約九八一〇メートルとなる。地図上で「一の鳥居」=現在の三の鳥居から、極楽寺坂を越えて海岸線を辿り、龍口寺前を通って、洲鼻通りから渡島するルートで平面実測してみると、約九・五キロから十キロとなるから、極めて正確な数値であると言える。]
[やぶちゃん注:芥川龍之介と江の島との関連で余り取り上げられることがないが、芥川龍之介の未完作品「大導寺信輔の半生」の最終章「六 友だち」には、その掉尾に、この魚板石付近を舞台にした印象的なエピソードが語られている。私のテクストから当該部を引用しておく。
信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出來なかつた。標準は只それだけだつた。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訣ではなかつた。それは彼の友だちと彼との間を截斷する社會的階級の差別だつた。信輔は彼と育ちの似寄つた中流階級の靑年には何のこだわりも感じなかつた。が、纔かに彼の知つた上流階級の靑年には、――時には中流上層階級の靑年にも妙に他人らしい憎惡を感じた。彼等の或ものは怠惰だつた。彼等の或ものは臆病だつた。又彼等の或ものは官能主義の奴隸だつた。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の爲ばかりではなかつた。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの爲だつた。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでゐた。その爲に又下流階級に、――彼等の社會的對蹠點に病的な惝怳を感じてゐた。彼は彼等に同情した。しかし彼の同情も畢竟役には立たなかつた。この「何か」は握手する前にいつも針のやうに彼の手を刺した。或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人、――或男爵の長男と江の島の崖の上に佇んでゐた。目の下はすぐに荒磯だつた。彼等は「潛り」の少年たちの爲に何枚かの銅貨を投げてやつた。少年たちは銅貨の落ちる度にぽんぽん海の中へ跳りこんだ。しかし一人
「今度はあいつも飛びこませてやる。」
彼の友だちは一枚の銅貨を卷煙草の箱の銀紙に包んだ。それから體を反らせたと思うと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらきら光りながら、風の高い浪の向うへ落ちた。するともう海女はその時にはまつ先に海へ飛びこんでゐた。信輔は未だにありありと口もとに殘酷な微笑を浮べた彼の友だちを覺えてゐる。彼の友だちは人並み以上に語學の才能を具へてゐた。しかし又確かに人並み以上に鋭い犬齒をも具へてゐた。…………
本文中に「或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人」とあるが、龍之介の一高卒業は大正二(一九一三)年七月であるから、これは明治四十四(一九一一)年か翌年の四月、若しくは卒業年の大正二(一九一三)年四月の間の出来事となる。私は龍之介の謂いから、このシチュエーションは正に明治の最後の江の島を活写していると読む。「遊人或は魚を割き、鰒を取らしめて見る」という二百年以上も前の記述が、ここに現前しているだけではない。それを龍之介は、美事な時代精神の批判のメスで剔抉しているのである。]
龍池
[やぶちゃん注:現在、第二岩屋の東の、北北西にやや深く島に陥入した入江を「龍池窟」と呼称している。私はここを、この「龍池」に同定する。なお、次の「仁田の四郎が拔穴」の私の注を必ず参照されたい。]
[やぶちゃん注:「かまくら風土記」旧版などを見ると、現在、この穴を第二岩屋に同定している。ところがここに疑問が生ずる。確かに現在知られる第二岩屋がここまでに記されない以上、この同定は正しいように見える。ところが「新編鎌倉志」の叙述は間に「龍池」を挟んで、ここではその「龍が池の東にあり」と明記している点である。これは全くの叙述の間違いか、でなければ「龍池」が現在の「龍池窟」ではなく、もっと西の浅い入江を呼称していたと考えるしかない。しかし、現在の「龍池窟」を見ても分かる通り、島の中央部に有意に陥入したそこは、幾ら二百年前とは言え、無名であろうはずがない地形である。ということは、実は古「仁田の四郎が拔穴」は叙述通り、この現在の龍池窟の東の対岸、次の「泣面崎」の西の端の崖にあったのではなかろうか? 但し、確かに現在の第二岩屋は二つの開口部を有しており、「二つやぐら」と古称したとしてもおかしくはない。しかし乍ら、私の疑義は「鎌倉攬勝考卷十一附録」掉尾にある江の島の記載でも更に増幅するのである。そこでは、「洞窟」という項を設けて、次のように記しているのである。
白龍窟 龍窟より東の方、第二・第三・第四とあり。
飛泉窟 第五の窟といふ。中に瀧あり。瀧のもとに池有。白龍此所に栖といふ。
十二の窟 島の廻りにあり。土人いふ、爰は天女の守護神、十二神將の居所なりといふ。
新田の拔穴 〔仁田と書は誤なり。新田四郎忠常なり。忠常は豆州の人にて、今も豆州に新田と稱する有。四郎忠常が出所の地といふ。〕白龍窟の東に二穴あり。土人いふ、新田四郎忠常が、富士の穴より、此穴え拔たりといふは妄談なり。【東鑑】に、建仁三年六月三日、賴家將軍の仰に依て、新田四郎忠常、人穴へ入、二日一夜を経て歸るとあり。玆へ出しといふ事は見えず。
この「龍窟」というのは現在の第一岩屋である。そこよりも「東の方、第二・第三・第四とあり」とし、この記載の前で「龍池」を、この「第四の窟中にあり」と記す(これは現在の第一岩屋の内部の二洞及び第二岩屋の開口した二洞の謂いと考えるのが自然ではあろう)。しかし、すると現在の龍池窟は「鎌倉攬勝考」で言う「飛泉窟」に一致し、更にその「龍此所に栖といふ」という叙述が「新編鎌倉志」の「龍池」にある「昔し惡籠出入の所ろと云ふ」と一致するのである。さすれば「白龍窟の東に二穴あ」るという「新田の拔穴」は「鎌倉攬勝考」にあっても、現在の龍池窟の東に同定されていることになるのである。二百年以上の経年によって多くの地形変動があったことは確かであろうが、私は現在の第二岩屋=仁田抜穴=二つやぐら説は承服出来ないのである。識者の御教授を乞うものである。]
[やぶちゃん注:現在、この呼称は確認出来ない。恐らく島の南端部の三つの鼻の内の、中央の最も突出している部分(もしくはこの三つの鼻全体)をこう称したものと私は考える。]
[やぶちゃん注:先に挙がった慈悲上人良真が江の島に参籠して修行を積んだ際、この聖天島に天女が顕現するのを見たと伝えられている。現在は県立女性センター手前にある小さな崖状の小山となっている。本来は江の島の東岸沖に浮かぶ島であったが、関東大震災で隆起して陸繋島となり、更に昭和三十九(一九六四)年、東京オリンピックのヨットハーバーとして湘南港となり、周辺部の海が完全に埋め立てられ、島としては消失してしまった。]
[聖天島全景(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]
[聖天島前の慈悲上人良真像(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]
[聖天島(全景の左手の鳥居の所)の天神(?)石碑二体(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]
[やぶちゃん注:現在のヨットハーバーの南端の沿岸にある平板な岩礁帯を言う。
[私が鵜島と同定する岩礁(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]
[やぶちゃん最後の言葉。……まだまだ本当は……この島を私は出たくないんだ……しかし……一先ずは言うべきことは言った気がする……またここへ……いつか帰って来よう……それまで、随分、御機嫌よう……江の島――]
[二〇一二年一月六日 弁天橋にて]
[一九七六年七月 弁天橋にて]
新編鎌倉志卷之六終