やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ



新編鎌倉志卷之六

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いたが、これには多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせる箇所がある。第三巻より底本データを打ち込みながら、同時に汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した後、部分公開する手法を採っている。校訂ポリシーの詳細についても「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注の最後の部分を参照されたいが、「卷之三」以降、更に若い読者の便を考え、読みの濁音落ちと判断されるものには私の独断で濁点を大幅に追加し、現在、送り仮名とされるルビ・パートは概ね本文ポイント平仮名で出し、影印の訓点では、句読点が総て「。」であるため、書き下し文では私の自由な判断で句読点を変えた。また、「卷之四」より、一般的に送られるはずの送り仮名で誤読の虞れのあるものや脱字・誤字と判断されるものは、( )若しくは(→正字)で補綴するという手法を採り入れた。歴史的仮名遣の誤りは特に指示していないので、万一、御不審の箇所はメールを頂きたい。私のミス・タイプの場合は、御礼御報告の上で訂正する。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。原則、踊り字「〻」は「々」に、踊り字「〱」「〲」は正字に代えた。なお、底本では各項頭の「〇」は有意な太字である。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本・影印では「已」と「巳」の字の一部が誤って印字・植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。
【テクスト化開始:二〇一一年十月十三日 作業終了:二〇一一年十二月十日】【二〇一二年一月七日 江ノ島の福石・杉山和一墓・碑石・聖天島・鵜島等に写真を追加。】]

新編鎌倉志卷之六

〇星月夜井〔附虗空藏堂〕 星月夜ホシヅキヨの井は、極樂寺ゴクラクジの切通へ上る坂の下た、右の方にあり。里老の云く、昔は此井の中に、ヒルも星のカゲ見ゆるユヘに名く。此邊の奴碑、此の井をみに來り、アヤマつて菜刀ナガタナを井中へ落したり。爾しより來たホシカゲ不見(へず)と。又此の井の西に、虗空藏堂あり。《星井寺》 星月山星井寺セイゲツサンセイセイジと號す。極樂寺村ゴクラクジムラの、成就院の持分モチブンなり。成就院は、眞言宗。虗空藏は、行基の作、タケ二尺五寸。緣起一卷あり。其の略に云く、聖武帝の天平中に、此井に光あり。里民不思議の思をなし、これを見れば、井の邊に、虗空藏の像ゲンじ給ふ。此由を奏しければ、行基に勅し、此像を作らしめ、爰に安置し給ふとあり。【後堀河百首】に、常陸ヒタチが歌に、「我ひとり鎌倉山カマクラヤマけば、星月夜ホシヅキヨこそうれしかりけれ」又法印堯慧が【北國紀行】に、極樂寺へいたるほどに、いとくらき山アヒ星月夜ホシヅキヨと云所ろあり。《星見堂》昔し此道に星見堂ホシミダウとてハベりきなど、古き僧のマウハベりしかば、歌に、「今もなを星月夜ホシヅキヨこそのこるらめ、寺なきたにの、ヤミトモシビ」とあり。ホシの御堂と云ふは、此虗空藏堂の事なりと云ふ。今按ずるに、此ヤツの名を星月夜ホシヅキヨと云ふ。あながち井の名にはあらず。千壽の謠にも「明もやすらん星月夜」と有、古歌にも、は不詠(詠せず)。
寺寶
明星石 一顆 クロナメラかなる石にて、常にウルホひあり。
馬の玉 一顆
貝の珠 一顆
古錢 貮文 一文は崇寧通寶、一文は元豐通寶。
唐鑑カラノカヾミ 壹面。
   以上
[やぶちゃん注:「虚空藏」は「こくうざう」と読み、「虚空蔵菩薩」の略。サンスクリット語の原義は「虚空の母胎」で、虚空一切無尽蔵の如くに智と慈悲の広大無辺なる菩薩の意。胎蔵界曼荼羅の虚空蔵院主尊。像形としては蓮華座・五智宝冠で、右手に智慧の宝剣(若しくは空手にて掌を見せる与願印)、左手に功徳の如意宝珠を持す。
「晝も星の影見ゆる」これは伝承としてよく語られ(私も昔、亡き母からそう聞いた記憶がある。見たことはついぞなかったが)、タルコフスキイの「僕の村は戦場だった」の回想シーンでも母とイワンが井戸を覗きながら、母が井戸の底に星が見えることを語る。現在、ネット上の記載では井戸でも煙突でも星は見えないという「物理的」記載が殆どで、実験を行わずに安易に見解を述べたアリストテレスの記載に端を発する都市伝説であると一蹴しているものも多い。しかし中には金星なら見える、一般のカメラに紙で筒状の遮蔽を附けて昼間に琴座アルファ星ベガを撮ったケース(雑誌『天文ガイド』に掲載された由)や、廃工場の煙突を用いて煙突直上を通る星位置を計算、煙突の直下から子供たちに星を見せる実演を行った(某テレビ局で放映された由。但し、見えたかどうかは記されていない)事実があるという記載も見出だせる。私は初期のゼロ戦のパイロットが昼間でも星を見ることが出来たという話や、ブッシュマンたちが数キロ先に落ちている針を目視出来るという話を、「都市伝説」ではなく確かな事実として受け止めている人間である。かつての人類には昼間でも星を見る視力が備わっていた。さすれば、それをより効果的にする物理的な装置としての井戸とは、おかしくなく、似非科学でもアーバン・レジェンドでもない。昼間に星なぞ昔から見えなかったのだ、嘘八百だったのだとけんもほろろに言い放つより、今の文明人である我々が見る能力を殆んど減衰させてしまったのだと考える方が、よっぽど科学的ではなかろうか。そして、極めて眼のいい古人にとっては、この星月夜の井戸では実際に星が見えた、ところが女中が誤って金物を落としてしまった結果、その反射光が井戸の底を致命的に侵してしまい星が見えなくなった、というのは「物理的」にあり得ない話ではあるまい。ただ本文にもある通り、一般的な井戸で星が見えるという説がもともとある中で、本地名が星月夜であり、そこにたまたまあった井戸にその名が附され、附されたところで後付けの星が見えなくなった謂れを付会させたという可能性は勿論、あるとは言える。以上、私は、井戸では星は見えない、だから、この虚空蔵堂に関わる伝承は総て牽強付会である、という論理は必ずしも科学的ではないということを述べているのである。但し、それとは別個な民俗学的な意味に於いて、井戸の底に星が見える、という命題は考察されねばならないとは思っている。私は古代人に「物理的」に井戸の底に星が見えたことが、古代人の心性に、『夜の星は昼間、井戸の底――地の底の冥界に在るものであり、夜、空に展開するものだ』という考えが芽生えたのではあるまいか――そしてその星々は、冥界と繋がるあるシンボル、ある予兆や太古の謎を解き明かす意味を以て、夜空に示されていると彼らは考えたのではあるまいか、という可能性を考えるのである。識者の御意見を乞いたい。
「後堀河百首」本書冒頭の引用書目一覧にも「後堀河百首」で載るが、これは平安後期の歌集「永久百首」の誤りである。永久四(一一一六)年に鳥羽天皇の勅命で藤原仲実ほかが編した。「永久四年百首」「堀河院後度百首」「堀河院次郎百首」などとも呼称するが、「後堀河百首」とは言わないようである。
「常陸」(生没年未詳)は「肥後」の別称の方が知られる。肥後守藤原定成の娘で常陸介藤原実宗の妻。京極関白師実家・白河天皇皇女令子内親王に侍した女房。院政期女流歌人を代表する一人。
「法印堯慧が【北國紀行】」前巻の「稻瀨河」でも登場した歌僧「堯慧」は、文明十八(一四八六)年五月末に身を寄せていた美濃郡上の東頼数のもとを出て、越中から北陸道を北上、越後から信濃・上野を経て、同年十二月中旬に三国峠を越えて武蔵に入り、翌年二月に鎌倉・三崎等に遊ぶなどして美濃へと戻る旅をしている。この一年半余の紀行が「北國紀行」である。
「千壽の謠」は能の「千手」のこと。喜多流では現在も「千壽」と表記する。興福寺・東大寺を焼き尽くした南都焼討の調本平重衡は、一の谷の合戦で生け捕りにされ、鎌倉に護送、速やかな死を望む。その潔さに頼朝は打たれるが、彼の出家・処刑を認めようとはしない。手越の長の娘千手が頼朝に遣わされて重衡を見舞って出家は叶わぬ旨を伝える。千手は重衡を慰めんと「十悪と言えども引摂す」(極悪の罪人とても大慈大悲の如来は極楽へと導かんとす)と謡い舞う。重衡はそれに合わせて琵琶を弾じ、千手は琴を合わす。その夜明けとともに、涙の内に千手に見送られ、南都衆僧の強い要求により重衡は再び都へと向かう、というストーリーである。因みに重衡の京都再送は元暦二(一一八五)年六月九日、同二十三日に木津川畔にて斬首の上、奈良坂般若寺門前にて梟首された。享年二十九歳であった。
「馬の玉」は主に馬・牛・鹿・犬など哺乳類の腹中に生ずる結石や毛玉様のものを言う。石糞せきふん鮓答さとう・ヘイサラバサラなどとも言う。私の電子テクスト「和漢三才圖會」の「えんこう」の注(膨大な注なので、ずっと後にある)で引用した、同じ「和漢三才圖會 卷三十七 畜類」にある「鮓荅」テクスト及び私の注を以下に引用する(なお、引用に際してルビ化を行い、煩瑣な文字注記記号などは省略、私の注の一部や引用にあるアラビア数字を漢数字に変更した)。

へいさらばさら
へいたらばさる 【二名共に蠻語なり。】
鮓荅
ツオ タ
「本綱」に、『鮓荅は走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有りて之をつつむ。多きは升許りに至る。大なる者は雞子けいしのごとく、小なる者は栗のごとく、はしばみのごとし。其の狀、白色、石に似て石に非ず。骨に似て骨に非ず。打ち破れば層疊す。以て雨を祈るべし。「輟耕録」に載する所の「鮓荅」は、即ち此の物なり。曰く、蒙古むくりの人、雨をいのるに惟だ淨水一盆を以て石子數枚を浸し、淘漉すすぎこし、玩弄し、密かに咒語じゆごすれば、やや久しくしてすなはち雨ふる。石子を鮓荅と名づく。乃ち走獸の腹中に産する所のものなり。獨り牛馬の者、最も妙なり。蓋し牛黄・狗寶の類なり。鮓荅【甘・鹹にして、平。】は驚癇・毒瘡を治す。』と。
△按ずるに、阿蘭陀より來たる平佐羅婆佐留へいさらばさら有り。其の形、鳥ののごとく、長さ寸許り淺きくろ色、潤澤。石に似て石に非ず。重さ五六錢目ばかり。之れを研磨すれば、層層たるすぢ有りて卷き成す者のごとし。主に痘疹の危症を治し、諸毒を解す、と。俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵痕きづこぶと成りたる肉塊かたまりなりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。
[「鮓荅」やぶちゃん注:これは各種の記載を総合すると、良安の記すように日本語ではなく、ポルトガル語の“pedra”(石)+“bezoar”(結石)の転であるとする。また、古い時代から一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で“pādzahr”、“pad (=expelling) + zahr (=poison) ”(毒を駆逐する)を語源とする、という記載も見られる。本文にある通り、牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたとある。別名、馬の玉。鮓答さとうとも書いた。やはり良安もこの「鮓荅」の直前にある「狗宝」で述べているが、牛のそれを牛黄・牛の玉、鹿のそれを鹿玉(ろくぎょく/しかのたま)、犬では狗宝(こうほう/いぬのたま)、馬では馬墨(ばぼく)・馬の玉、その他、犀の通天(たま)などと各種獣類の胎内結石を称し、漢方では薬用とする。
それにしても、この「ヘイサラバサラ」「ヘイタラバサル」という発音は「ケサランパサラン」と何だか雰囲気が似ている。私はふわふわ系UMAのイメージしかなかったから偶然かと思ったら、どっこい、これを同一物とする説があった。Nihedon & Mogu という共編と思われるケサランパサラン研究サイト「けさらんぱさらん」の「ケサパサ情報館」の『「家畜動物の腸内結石」説』に詳しい。体内異物を説明して、腸結石(糞便内の小石・釘・針金・釦等の異物に無機物が沈着して出来たもので馬の大腸、特に結腸内に見られる)や毛球(牛・羊・山羊等の反芻類が嚥下した被毛あるいは植物繊維より成るもので、第一胃及び第二胃に、稀に豚や犬の胃腸に見られることもある。表面に被毛の見えるものを粗毛球、表面が無機塩類で蔽われ硬く滑かで外部から毛髪の見えないものを平滑毛球という)を挙げ、『この説によると、「動物タイプ」はこのうち粗毛球を指し、「鉱物タイプ」は平滑毛球や腸内結石を指す事になる』とし、『「馬ん玉」や「へいさらぱさら」はまさしく「ケサランパサラン鉱物タイプ」の別名であり、「ケサランパサラン動物タイプ」の別名として「きつねの落とし物」がある』、即ち、きつねが糞と一緒に排泄した粗毛球を言ったものであろう、と考察されている。また、そうした「鉱物タイプ」の「ケサランパサラン」を、まさに本記載同様、雨乞いに用いたケースについて、以下のように記されている。長い引用になるが、本項に対して極めて示唆に富んだ内容であるため、ここに引かさせて戴く(大部分は編者へ寄せられた情報の引用という形で記載されている。漢字や記号・句読点・読み・改行等の一部を補正・省略させてもらった)。
   《引用開始》
『角川「大字源」で「鮓」という字を調べたところ、別の面白い情報が得られました。
鮓荅 さとう/ヘイサラバサラ
牛馬などの腹中から出た結石。古代,蒙古人が祈雨のために用いた。[本草(綱目)・鮓荅][輟耕録・禱雨]
日本の雨乞いの方法の一つに、牛馬の首を水の神様に供える、或いは水神が棲む滝壷などにそれらを放り込む、という方法があります。これは、不浄なものを嫌う水の神を怒らせることによって、水神=龍が暴れて雨が降るという信仰から来ているようです。以下は(この説を教えてくれた方の)私見ですが、「へいさらばさら」は、その不浄な牛馬の尻から出てくるものですから、神様が怒るのも当然という理屈で用いられたのではないでしょうか。ただし、これは日本における解釈であり、馬と共に暮らす遊牧民族であるモンゴル人が、同じ考えでそれを行ったかどうかは不明です。ちなみに輟耕録は十四 世紀の明の書ですから、古代とあるのはその頃の話です。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]※その後、この情報をいただいた方から、「輟耕録」は序文が一三六六年、モンゴル王朝であった元が一二六〇~一三六八年で、文献自体の内容も、元時代の社会・文化に関する随筆集ですから「明の書」の部分は、「元王朝末期の書」とでもして下さい。」という旨のメールをいただきました。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]さらに、「その後の調査で、輟耕録に記載されている雨乞いの方法(盥に水を入れ呪を唱えながら水中で 石を転がす)が『ケサランパサラン日記』[やぶちゃん注:西君枝と言う方が草風社から一九八〇 年に刊行した著作。未見。]のそれと酷似しており、また、このように水の中で転がして原形をとどめていられるのは硬い球形の馬玉タイプであることや、モンゴル語で雨を意味する“jada”という語に漢字を当てたものが「鮓荅」であると考えられることなどから、「へいさらばさら」の雨乞いのルーツは、中国の薬物書である「本草綱目」によって伝えられたモンゴル人の祈雨方法にあり、それに用いられたのは白い球状の鮓荅であると考えた方がよいようです。ついでに言えば「毛球」については、反芻をする動物(ウシやシカなど)に特に多いようですが、毛づくろいの際に飲み込んだ毛でできるため、犬以外のペット小動物、例えばウサギ、猫などでもメジャーな病気のようです。ペットに多いのは、野生の場合、毛が溜らないようにするための草を動物が知っていて、これを時々食べることによって防いでいるためで、ペット用に売られている「猫草」も、毛球症予防に効果があるようです。」と追加説明もいただきました。』[やぶちゃん注:原文ではここで改行、情報提供者への謝辞が入る。]『また、水神=龍から、龍の持つ玉のイメージが想起されることから、雨乞いに用いられたへいさらばさらは、主に白い球状のタイプだったのではないかと推測されます。』[やぶちゃん注:この最後の部分は、情報提供者の追伸と思われる。]
   《引用終了》
・「肉嚢」肉状の軟質に包まれていることを指す。胆嚢結石とすれば、これは胆嚢自体を指すとも考えられるが、実は馬や鹿等の大型草食類には胆嚢が存在しない種も多い。その場合は胆管結石と理解出来るが、ある種の潰瘍や体内生成された異物及び体外からの侵入物の場合、内臓の損傷リスクから、防御のための抗原抗体反応の一種として、それを何等かの組織によって覆ってしまう現象は必ずしも異例ではないものとも思われる。
・「雞子」鶏卵。
・「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミCorylus heterophylla var. thunbergiiの実。ドングリ様の大きな実のようなものを想定すればよいか。へーゼルナッツはこのハシバミの同属異種である。
・「層疊」同心円上の層状結晶を言うか。
・『「輟耕録」』明代初期の学者陶宗儀(一三二九年~一四一〇年)撰になる随筆集。先行する元代の歴史・法制から書画骨董・民間風俗といった極めて広範な内容を持ち、人肉食の事実記載等、正史では見られない興味深い稗史として見逃せない作品である。
・「蒙古むくり蒙古もうこはモンゴルの中国語による音写で、古く鎌倉時代に「もうこ」のほかに「むくり」「むこ」などと呼称した、その名残りである(因みに、鬼や恐ろしいものの喩えとして泣く子を黙らせるのに使われる「むくりこくり」とは「蒙古高句麗」で蒙古来襲の前後に「蒙古高句麗むくりこくりの鬼が来る」と言ったことに由来する)。遊牧民であるから、牛馬の結石は見慣れたものであったと思われる。
・「淘漉し、玩弄し」水で何度も洗い濯いでは、水の中で転がし、という意。
・「咒語」まじないの呪文。
・「持すれば」呪文を用いて唱えれば。
・「牛黄」牛の胆嚢や胆管に生ずる胆石で、日本薬局方でも認められている生薬で、解熱・鎮痙・強心効果を持つ。牛一〇〇〇頭に一頭の割でしか見つからないため、金の同重量の価格の凡そ五倍で取引されている非常に高価な漢方薬である。良安は同じ「卷三十七 畜類」で「牛黄」の項を設けており、そこでは「本草綱目」を引く。時珍はそこで牛黄の効能・採取法・形状・属性・真贋鑑定法を語り、そもそも牛黄は牛の病気であると正しい知見を示している。また牛黄には生黄・角中黄・心黄・肝黄の四種があり、牛黄を持った病態の牛の口に水を張った盆を当てがい、牛を嚇して吐き出せた生黄が最上品であると記す。最後に良安の記載があるが、そこで彼は世間で「牛宝」と呼ぶ外側に毛の生えた玉石様ものであるが、これは「狗寶」(次注参照)と同様、「鮓荅」の類で、牛の病変である牛黄と同類のものであるが、牛黄とは全くの別種である、と述べて贋物として注意を喚起している。この記載から、良安は「牛黄」を「鮓荅」と区別・別格とし、「牛黄」のみを真正の生薬と考えていることがはっきりと分かる。
・「狗寶」良安は「卷三十七 畜類」の「鮓荅」の直前で「狗寶」の項を設け、そこでも「本草綱目」引用しているが、この「本草綱目」の記載が、とんでもなく雑駁散漫な内容で、我々にその「狗寶」なるものの実体や属性・効能を少しも明らかにしてくれない。その引用末尾の『程氏遺書』の引用に至っては、「狗寶」から完全に脱線してしまい、荒唐無稽な石化説話の開陳になってしまっている。良安の附言は、全くない。「本草綱目」の引用のみで附言がない項目は他にもいくらもあるのだが、私にはどうもこの項、しっくりこない。
・「驚癇」漢方で言う癲癇症状のこと。
・「毒瘡」瘡毒と同じか。ならば梅毒のことである。もっと広範な重症の糜爛性皮膚炎を言うのかも知れない。
・「潤澤」ある程度の水気を帯び、光沢があることを言う。
・「五六錢目」「錢」は重量単位。一両の十分の一。時珍の明代では一両が三十七・三グラムであるから、二十グラム前後。
・「痘疹」天然痘。
・「俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕、贅と成りたる肉塊なりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。」ここの部分、東洋文庫版では、
『世間一般では猿の身体にある鮓荅をさして、これは猿が猟人のために傷つけられ、その傷のあと贅肉こぶとなったものであるという。しかしこれは間違いで、鮓荅であることは明らかであろう。』
と訳しているが、これはおかしな訳と言わざるを得ない。ここは、
『俗説に言うには、「猿が猟師に傷つけられ、その傷の痕が瘤となった、その肉の塊が鮓荅である」とする。しかし、これはとんでもない妄説である。以上、見てきたように、鮓荅というものは猿と人とのものなのではなく、牛馬に生ずるところの結石であること、最早、明白である。』
と言っているのである。
※以上、「和漢三才圖會」「卷三十七 畜類」にある「鮓荅」テクスト及び私の注の引用を終了する。

「貝の珠」真珠。実際には多くの種の斧足類(二枚貝類)の体内に異物が混入することで容易に真珠様物質は形成される。「和漢三才圖會 介貝部 卷四十七」の「真珠」テクスト及び私の注なども参照されたい。
「崇寧通寶」北宋徽宗の崇寧年間(一一〇二年~一一〇六年)に鋳造された貨幣の一種。小平銭及び当十銭(折十)と現在呼ばれる二種があった。
「元豐通寶」北宋神宗の元豊年間(一〇七八年~一〇八五年)に鋳造された貨幣の一種。辞書記載に、この時代は北宋期で最も鋳造が多い時で、本邦へも多量に移入し、平安末から江戸初期にかけて通貨としても流通していたともあり、前者の崇寧通宝の方が価値がありそうである。]


[極樂寺圖]

[やぶちゃん注:成就院の位置が現在地と異なるが、これは現在位置にあった旧成就院が鎌倉攻めの戦火によって焼失、後に再興されて旧極楽寺切通し奥の西が谷に移っていたことによる。本「新編鎌倉志」の上梓の後の元禄年間(一六八八年~一七〇三年)、祐尊によって再び旧地に戻って再興された。]

〇極樂寺〔附切通、辨慶腰掛松〕 極樂寺ゴクラクジは、靈山山リヤウゼンサンと號す。眞言律にて、南都西大寺の末寺なり。開山は、忍性菩薩、良觀上人と號す。【元亨釋書】に傳あり。當寺は、陸奧の守平の重時シゲトキが建立なり。重時を極樂寺と號し、法名觀覺と云ふ。【東鑑】に、弘長元年十一月三日、平の重時卒す。トシ六十四、時に極樂寺の別業に住す。發病のハジめより、萬事をナゲウち、一心念佛正念にして終るとあり。按ずるに、【元亨釋書】に、初め正嘉中に沙門あり。一宇をイトナんで、丈六の彌陀の像を安ず。ナヅけて極樂寺と云。未落(未だ落せず)して亡す。平の重時シゲトキ、其のを今の地に遷して齋場サイヂヤウとす。重時シゲトキの子長時ナガトキ・同くオトヽ業時ナリトキ、力をアハせて修營すとあり【帝王編年記】に、永仁六年四月十日、關東の將軍家久明親王、御祈禱のタメに、十三箇寺の寺領の違亂を停止、殺生禁斷の事あり。相州鎌倉郡の極樂寺、其の一つなり。此寺、昔しは四十九院ありしとなり。今曹吉祥院と云のみあり。寺領九貫五百文あり。又千服茶磨センブクチヤウスとて、大なる石磨イシウス、門を入右の方にあり。昔し此の寺繁昌なりしを、らしめんがタメなりといふ。鶴が岡一鳥居より是まで廾三四町あり。
[やぶちゃん注:「忍性菩薩」忍性の入山は後掲される「忍性菩薩行状略頌」に文永四(一二六七)年とされる。次の注で述べるように、忍性は実質上の開山の役割を担ったものと思われる(極楽寺の真言宗への改宗の時期については忍性入山以前とも言われる)。よく知られるように彼は境内に施薬院・療病院・薬湯寮などの施設を設けて、被差別民であった非人や、当時『かったいぼ』と呼ばれて業病とみなされて差別されていたハンセン病患者を受け入れるなど、医療・厚生福祉事業に尽力した。
「陸奧の守平の重時」は北条重時(建久九(一一九八)年~弘長元(一二六一)年)。北条義時三男。極楽寺流北条氏始祖。六波羅探題北方・連署。
「極楽寺緣起」(永禄四(一五六一)年成立)に依ると、重時が、元は深沢にあった浄土教系の寺院を正元元(一二五九)年、当時は地獄谷と呼ばれていた現在の地に移したものとされている(極楽という寺号は恐らく死体風葬や遺棄地域であった「地獄」という旧名に対応するもの)。重時は建長八(一二五六)年に出家してより極楽寺に住した。
「吉祥院」は現在、極楽寺本堂となっている。
「千服茶磨」忍性が貧病者のために茶を挽いたと伝承される千服茶臼。現在、境内に薬草をすり潰した製薬鉢とともに現存する。
「鶴が岡一鳥居」これは「卷之一」の「鶴岡八幡宮」の叙述や図を見て頂けば分かる通り、現在、三の鳥居と呼称されている一番、八幡宮に近い入口の鳥居である。]
本堂 本尊は釋迦、興正菩薩の作なり。嵯峨サガの釋迦をしたりといふ。十大弟子の像もあり。作者不知(知れず)。ヒダリに興正菩薩の木像、自作といふ。ミギに忍性菩薩の木像、是も自作と云。又文殊の坐像あり。イニシへの文殊堂の本尊なりと云ふ。【沙石集】に、慈濟ジサイ律師此寺に住せし時、の夢に、文殊げて曰く、連歌したり、付よと、「いざかへりなんモトミヤコへ。」慈濟ジサイ律師けたり、「ヲモつ、心のホカに道もなし」とあり。慈濟ジサイ律師の夢に見しは、此像なりとひ傳ふ。文殊堂の跡、礎石、今尚を存す。
寺寶
九條の袈裟 壹頂 乾陀穀子の袈裟、東寺第三傳と書附カキツケあり。今按ずるに、乾陀穀子の袈裟は、弘法大師の傳來にて、八祖相承とて、東寺の寶物なり。今此寺に所有(有る所ろ)は、其の袈裟を摸したる、第三傳とへたり。
[やぶちゃん注:「乾陀糓子」は「けんだこくし」で、弘法大師が唐の長安で恵果阿闍梨から拝領したという袈裟の名。]
繡心經の卓圍 壹張 當麻の中將ヒメの製作と云ふ。ヒロさ一尺二寸四方ヨハウ。卓圍は、俗に云ふ打敷ウチシキなり。
[やぶちゃん注::「中將姫」は天平時代、尼となって当麻寺(奈良県北葛城郡)に入り、信心した阿弥陀如来と観音菩薩の助力で一夜にして蓮糸で当麻曼荼羅(観無量寿経曼荼羅)を織り上げたと伝えられる伝説上の女性。「打敷」は寺院や仏壇の須弥壇や前卓に、法会などの際に敷く荘厳具の一種。]
二十五條の袈裟 壹頂 シヤなり。八幡大神の所持也と云ふ。按ずるに八幡へ調進の物なり。
瑜伽論 三卷 菅丞相の筆。其説荏柄エガラの下にツマビラかなり。
[やぶちゃん注:「瑜伽論」は正しくは瑜伽師地ゆがしじ論と言う。四世紀頃成立した大乗仏典の一つ。漢訳では弥勒説、チベット語訳では無著むじゃく著とする。百巻に及ぶ玄奘訳が著名。瞑想による絶対者との合一を目指す瑜伽行(ヨガ)の実践を説き、認識対象は総てが非有非無の認識作用に過ぎず、一切唯識として相対的概念に縛られない自由な立場による修行を実践せよという唯識中道の理への悟達を説いている。]
綸旨 貮通 共に嘉暦二年とあり。
[やぶちゃん注:嘉暦二年は西暦一三二七年で、この綸旨は後醍醐天皇のもの。]
右馬の允政季請文 一通
[やぶちゃん注:「鎌倉市史 資料編 第三第四」の「極樂寺文書」に、「四二四 右馬允政季打渡状」とあるもので、
御寄進于極樂寺新宮社、武藏國足立郡箕田郷内〔岩佐七郞知行。〕地事、任下被仰下之旨、金井八郞相共莅彼知行分、所奉打渡百貫文地、今富西方村於當寺僧道戒上人御房之狀、如件、 建武二年二月十四日 右馬允政季(花押)
とある文書を指す。その頭書に『足利直義、極樂寺新宮社ニ武藏足立郡箕田郷内ノ地ヲ寄進ス、』(改行)『右馬允政季、金井八郎ト共ニ、命ヲ奉ジテ今富西方村ヲ極樂寺ノ僧道戒ニ渡付ス、』とある。以上の「打渡狀」後注には『〇コノ文書 宛所ヲ缺ク、』とある。以上から右馬允政季なる者は足利直義の直近の家臣と考えられる。]
尊氏の請文  一通
義詮の請文  一通
義滿の請文  一通
氏滿の請文  一通
千體地藏 弘法の作。本尊は、タケ一寸餘。千體はタケ五六分ばかり也。今皆紛失して纔に二三百ばかりノコれり。
開山忍性賜菩薩號勅書(開山忍性に菩薩號を賜ふ勅書)の寫し 一通 其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、底本では勅書は全体が二字下げ。]
勅傳燈大法師位忍性者挑法燈於闇室、琢戒珠於日域、化儀之被遐邇、循々誘人、誦響之繼晨宵、翼々克己、五十二位之内證、雖叵暗辨、五十二年之練行、於是自彰、廣致檀施、誠爲悲増、乃任彼弟葉之講益、宜許其菩薩稱號矣、嘉暦二年五月廿五日。
[やぶちゃん注:以下に、影印本の訓点に従って書き下したものを示す。
勅す。傳燈大法師位忍性は法燈を闇室に挑げ、戒珠を日域に琢(き)て、化儀の遐邇を被る。循々として人を誘ふ。誦響の晨宵に繼ぐ。翼々として己に克つ。五十二位の内證、叵と雖も暗に辨じ、五十二年の練行、是に於て自(ら)彰る。廣く檀施を致し、誠に悲増を爲(す)。乃し彼の弟葉の講益に任せ、宜(し)く其の菩薩の稱號を許すべし。嘉暦二年五月廿五日
この菩薩号勅許は後醍醐天皇によるもので、「嘉暦二年」は西暦一三二八年、忍性の没年は乾元二(一三〇三)年であるから、死後二十五年目のことであった。「化儀の遐邇」の「化儀」は仏が衆生を教化する際の方法、「遐邇」は「かじ」と読み、原義は遠近のことであるが、ここはあらゆる方途の意か。「五十二位の内證」は菩薩五十二位を極めたことを言うか。菩薩五十二位は大乗仏教に於ける菩薩の階位で、最高位の妙覚は仏・如来と同一視される。「五十二年の練行」は前の菩薩五十二位に形式上合わせたものとも思われるが、忍性が本格的布教活動を目指して関東へ下向したのが建長四(一二五二)年、ここから数えで五十二年目が遷化の年に当たることをも意味しているのかも知れない。「叵と雖も暗に辨じ」の「叵」は音は「ハ」で、「不可」を意味するから、凡夫には不可能とされる仏論に於いても言外に理解を極め、といった意味か。識者の御教授を乞う。「悲増」は不詳。慈悲と増善という意か。「乃し」は「いまし」と読み、「し」は強意の副助詞。「ちょうど今」「まさにこの時に及んで」の意。「彼の弟葉の講益に任せ」が分からない。忍性の高弟たちによる布教教化の力を評価し、といった意味か。ここも識者の御教授を乞う。]
忍性菩薩行狀の畧頌 一册 其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、底本では勅書は全体が二字下げ。]
良觀上人諱忍性、父伴貞行母榎氏、和州城下屏風生、建保五年七十六、生年十一安貞元、就師學問信貴山、唱五字咒祈道心、寛喜元年十三歳、誓斷食肉學慈氏、生年十四同二年、摺文殊像幷行戒、貞永元年十六歳、母儀逝去訪菩提、居額安寺經八旬、同年剃髮而出家、毎月參詣安倍寺、首尾四年祈發心、生年十七天福元、登壇受戒東大寺、文暦元年十八歳、讀誦法華發信心、採花供佛一夏中、嘉禎元年十九歳、六年毎月詣生馬、生年二十同二年、七日斷食三箇度、念五字明五十萬、二十三歳延應元、誓斷婬酒盡未來、參籠生馬二七日、祈菩提心念文殊、同年二十日、興正菩薩受十重、二十四歳仁治元、窮情上人聽古迹、則觀無常捨身財、悉施貧乏圖佛像、同年四月第三日、興正菩薩稟十戒、同十一日受具戒、遁世後住西大寺、僧衣洗濯掃房舍、借書諸寺與學徒、建常施院扶病客、修悲田院濟乞丐、不堪行歩疥癩人、自負送迎奈良市、所有衣服施非人、我著疊瓶湯暖膚、到北山宿誠現業、癩者改悔謗法罪、圖文殊像摺般若、大聖感夢示詠歌、二十七寛元元、關東下向七月上、造立丈六文殊像、同年先妣十三回、癩宿十八集千人、悉施飮食勸齋戒、二十九歳同三年、泉州家原稟別受、寶治元年三十一、唐船歸朝赴鎭西、請來律宗三大部、三十六歳建長四、關東下向弘律儀、先詣春日祈擁護、折社榊枝誓隨逐、八月十四就鎌倉、九月十五詣鹿島、參籠三日獻法華、極月四日到三村、院主歸德作律院、止住十年移柳營、三十八歳同六年、始授具戒作和上、生年四十同八年、鹿島神託示靈異、四十五歳弘長元、請鎌倉住釋迦堂、四十六歳同二年、光業召請多寶寺、止住五年行僧法、新宮之跡同四年、非人施行三千餘、四十九歳文永二、始授灌頂爲闍梨、後授三十有餘人、西明禪儀受重病、八幡告夢奉戒法、五十一歳文永四、八月移住極樂寺、講三大部則七反、宗要三十古迹七、教誡三十淨心三、讀章服儀誡蠶衣、五十餘人斷絹絮、三時勤行二時食、除病急緣無懈怠、不畜餘長著麁衣、不噉美食先儉約、取菓子種植山野、獄舍施行盲與杖、非人與袋狗子飼、病者施藥捨子養、出持錢貨施乞丐、入用餅果與攣躄、毎日三座供養法、四分梵網隔日誦、文殊講式壽量品、遺教行願各々一卷、地藏文殊觀自在、種子名號各々一反、書寫三禮爲衆生、釋迦三願舍利禮、十方諸佛及師僧、三時禮拜各々三遍、地藏小咒幷寶號、八字文殊各々千反、一稱一禮不爲身、萬行萬善廻法界、同年極月受灌頂、阿性上人勸修寺、五十三歳文永六、江島祈雨甘雨降、鐡塔供養九月八、黄蝶魚蛤集聽聞、新宮草創同六年、五十六歳同九年、立十種願利羣生、同十一年飢饉死、於大佛谷集飢人、五十餘日施粥等、五十九歳建治元、陽春三月二十三、當寺炎上堂舍滅、塔婆建立同二年、文殊告夢成合力、舞樂供養弘安元、靈神感夢結緣人、皆生淨土悟無生、自建治三至弘安、文殊二幅毎月圖、二十五日與緇素、六十二歳弘安元、椎尾山頂建寶塔、掘出礎石數十六、六十五歳同四年、御教書下異國祈、七夜不斷四王咒、稻村百座仁王講、三千餘艘悉退散、六十七歳同六年、疫癘滿國人民卒、和尚悲愍集門前、毎日僧徒加療養、六十八歳弘安七、祈雨齋戒滿六年、度々請雨勸齋戒、一々莫不降大雨、同年補任二階堂、五大堂大佛別當、生年七十同九年、始奉祈雨御教書、請雨止雨二十餘、毎度無不施效驗、金堂供養同十年、八月九日眞言供、桑谷病屋同十年、不擇親疎病者集、和尚恆臨致問訊、七十二歳正應元、八月上洛謁本師、興正菩薩爲闍梨、九月十九受灌頂、正應已後十二年、初受重受比丘戒、二千六百八十人、三十九年則不記、七十五歳同四年、始結戒壇行別受、兩度四日六十人、七十六歳正應五、興正菩薩第三廻、上洛供養四王堂、勸惟千領施諸僧、七十七歳永仁元、異國降伏院宣下、四月上洛到八幡、尊勝神咒七晝夜、同年八月奉綸旨、補東大寺大勸進、七十八歳同二年、四天王寺大勸進、建石鳥居二丈五、八十一歳永仁五、八月九日眞言院、草創供養曼陀供、八十二歳同六年、建立坂下馬病屋、常莅彼厩唱佛名、札書眞言令繫頸、新宮炎上正安二、陽春二月二十三、不送年月致新宮、勸請諸神十二社、八十五歳正安三、田那部池慇祈雨、未及歸寺大雨降、八十七歳嘉元元、累日炎旱草不枯、普授齋戒三萬餘、一日摺寫大般若、一渧不降經五日、淸瀧祈誓捨身命、小蛇出現甘雨降、伽藍草創八十三、百五十四堂供養、寺院結界七十九、塔婆建立二十基、二十五基塔供養、渡一切經十四藏、圖畫地藏與男女、一千三百五十五、請來律宗三大部、一百八十六部也、戒本摺寫與僧尼、三千三百六十巻、馬衣幷惟與非人、都合三萬三千領、水田一百八十町、寄進聖跡三十二、亘橋一百八十九、作道七十一箇所、三十三所掘井水、六十三所殺生禁、浴室病屋非人所、各々立五所休苦辛、三十七年當寺住、下洛以後五十二、自行化他滿足已、嘉元元六二十三、子時一寢病不愈、貴賤問訊終不斷、遺戒慇懃著大衣、口誦祕明手結印、端座不動對釋尊、遂使壽算八十七、通受夏臘六十一、七月十二子入滅、延慶第三冬十月、小比丘澄名謹誌、右偏爲慕德結緣、只志之所之、不顧人嘲、列二百五十句、擬二百五十戒、只恨纔讀口不行身、可慙可慙、可悲可悲。
[やぶちゃん注:以下に、「忍性菩薩行狀の畧頌」を影印本の訓点に従って書き下したものを示す。但し、一部の「年」や「月」「日」、年齢の「歳」が省略されているために数字が並んで読み難いため、独断で挿入、経歴を見易くするために、適宜、句読点を増補して打ち、事蹟ごとに改行を施した。( )の平仮名ルビ及び本文( )は私が施したものである。但し、間違いのない送り仮名は( )を附していない。

良觀上人、諱は忍性、父は伴貞行トモノサダユキ、母は榎氏エノキウヂ、和州城のモト屏風に生る。建保五年七月の十六日。
生年十一歳、安貞の元年、師に就きて信貴山に學問す。五字の咒を唱へて道心を祈る。
寛喜元年、十三歳、誓ひて、肉を食ふを斷ちて慈氏を學ぶ。
生年十四歳、同じく二年、文殊の像を摺り幷びに行戒。
貞永元年、十六歳、母儀、逝去して菩提を訪ふ。額安寺(カクアンジ)に居りて八旬を經。同年、髮を剃りて而して出家す。毎月、安倍寺に參詣す。首尾四年發心を祈る。
生年十七歳、天福の元年、登壇受戒す、東大寺。
文暦元年、十八歳、法華を讀誦して信心を發す。花を採りて佛に供す、一夏中。
嘉禎元年、十九歳、六年毎月生馬イクマに詣す。
生年二十歳、同じく二年、七日斷食す、三箇度。五字の明を念ずること、五十萬。
二十三歳、延應の元年、誓ひて婬酒を斷ず、盡未來。生馬に參籠すること二七日、菩提心を祈り、文殊を念ず。
同年二十日、興正菩薩に十重を受く。
二十四歳、仁治の元年、窮情上人に古迹を聽く。則ち無常を觀じて身財を捨す。悉く貧乏に施し、佛像を圖す。
同年四月第三日、興正菩薩に十戒を(う)く。
同十一日、具戒を受く。遁世の後、西大寺に住す。僧衣洗濯して房舍を掃ふ。書を諸寺に借りて學徒に與ふ。常施院を建てゝ病客を扶け、悲田院を修して乞丐かたゐを濟ふ。行歩に堪へざる疥癩人、ミ(づか)ら負ひて送迎す、奈良のイチ。有る所(の)衣服、非人に施す。我は疊瓶を著て湯を以て膚を暖む。北山に到りて宿して現業を誡む。癩者改悔す、謗法の罪。文殊の像を圖し、般若を摺す。大聖、夢に感じて詠歌を示す。
二十七歳、寛元元年、關東に下向して七月に上る。造立す、丈六文殊の像。
同年、先(の)妣の十三回、癩宿十八、千人を集む。悉く飮食を施して齋戒を勸む。
二十九歳、同じく三年、泉州家原イエバラに別受を稟く。
寶治元年、三十一歳、唐船歸朝して鎭西に赴く。請し來る、律宗三大部。
三十六歳、建長四年、關東に下向して律儀を弘む。先づ春日に詣して擁護を祈る。社の榊の枝を折りて隨逐を誓ふ。
八月十四日、鎌倉に就く。
九月十五日、鹿島に詣す。參籠すること三日、法華を獻ず。
極月四日、三村に到る。院主、德に歸して律院を作る。止住すること十年、柳營に移る。
三十八歳、同じく六年、始めて具戒を授けて和上と(な)る。
生年四十歳、同じく八年、鹿島の神託に靈異を示す。
四十五歳、弘長の元年、鎌倉に請ひて釋迦堂に住す。
四十六歳、同じく二年、光業、召請す、多寶寺。止住すること五年、僧法を行ふ、新宮の跡。
同じく四年、非人施行す、三千餘。
四十九歳、文永の二年、始めて灌頂を授けて闍梨と爲る。後ち、三十有餘人に授く。西明禪儀、重病を受く。八幡、夢に告げて戒法を奉ず。
五十一歳、文永の四年、八月、移住す、極樂寺。三大部を講ず、則ち七反。宗要三十、古迹七、教誡三十、淨心三。章服儀を讀みて蠶衣を誡む。五十餘人、絹絮を斷ず。三時は勤行、二時は食、病と急緣を除きて懈怠無し。餘長を畜へず、麁衣(そえ)を著く。美食を噉はず、儉約を先んず。菓子の種を取りて山野に植ゆ。獄舍には施行し、盲には杖を與ふ。非人には袋ろを與へ、狗子には飼ふ。病者には藥を施し、捨子は養ふ。出づるには錢貨を持して乞丐に施す。入るには餅果を用ひて攣躄に與ふ。毎日三座の供養の法、四分梵網、日を隔てて誦す。文殊講式壽量品、遺教行願、各々一卷。地藏文殊觀自在、種子名號、各々一反。書寫三禮、衆生の爲にす。釋迦三願舍利禮、十方諸佛及び師僧、三時禮拜、各々三遍、地藏の小咒幷に寶號、八字文殊、各々千反。一稱一禮、身の爲めにせず、萬行萬善、法界に廻す。
同年極月、灌頂を受く、阿性上人、勸修寺。
五十三歳、文永六年、江の島に雨を祈りて甘雨降る。
鐡塔供養、九月八日、黄蝶魚蛤集つて聽聞す。
新宮草創、同じく六年。
五十六歳、同じく九年、十種の願を立てゝ羣生を利す。
同じく十一年、飢饉して死するあり。大佛のヤツに於て飢人を集む。五十餘日、カユ等を施す。
五十九歳。建治の元年、陽春三月二十三日、當寺炎上して堂舍滅す。
塔婆建立、同じく二年、文殊、夢に告げて合力を成す。
舞樂供養、弘安の元年、靈神、夢に感ず。結緣の人、皆な、淨土に生れて無生を悟る。建治三年より弘安に至る、文殊二幅、毎月圖す。二十五日、緇素に與ふ。
六十二歳、弘安の元年、椎尾山シヒノヲヤマの頂に寶塔を建つ。礎石をだすこと數十六。
六十五歳、同じく四年、御教書下りて異國を祈る。七夜不斷、四王の咒、稻村百座の仁王にんのう講。三千餘艘、悉く退散す。
六十七歳、同じく六年、疫癘、國に滿ちて人民卒す。和尚、悲愍ひみんして門前に集む。毎日、僧徒に療養を加ふ。
六十八歳、弘安の七年、雨を祈りて、齋戒、六年に滿つ。度々、雨を請して齋戒を勸む。一々大雨を降らざずと云ふ(こと)莫し。同年補任す、二階堂・五大堂大佛の別當。
生年七十歳、同じく九年、始めて雨を祈る御教書を奉ず。雨を請ひ、雨を止むること、二十餘、毎度、效驗を施さざると云ふこと無し。
金堂供養、同じく十年、八月九日眞言供。
桑谷クハガヤツの病屋、同じく十年、親疎を擇ばず、病者、集むる。和尚、恆に臨みて問訊を致す。
七十二歳、正應の元年、八月、洛に上りて本師に謁す。興正菩薩、闍梨と爲る。
九月十九日、灌頂を受く。
正應已後十二年、初受、重受、比丘戒、二千六百八十人、三十九年は則ち記さず。
七十五歳、同じく四年、始めて戒壇を結びて別受を行ふ。兩度四日六十人。
七十六歳、正應の五年、興正菩薩の第三廻、洛に上りて供養す、四王堂。勸惟、千領、諸僧に施す。
七十七歳、永仁の元年、異國降伏の院宣下る。
四月洛に上りて八幡に到る。尊勝神咒、七晝夜。
同年八月、綸旨を奉ず。東大寺の大勸進に補す。
七十八歳、同じく二年、四天王寺の大勸進。石の鳥居を建つ。二丈五(尺)。
八十一歳、永仁の五年、八月九日、眞言の院、草創供養す、曼陀供。
八十二歳、同じく六年、建立す、坂の下の馬病屋。常に彼の厩にノゾんで佛名を唱ふ。札に眞言を書して頸に繫けしむ。
新宮炎上、正安の二年、陽春二月二十三、年月を送らず、新宮を致す。勸請す、諸神十二社。
八十五歳、正安の三年、田那部の池に慇ろに雨を祈る。未だ寺に歸るに及ばずして大雨降る。
八十七歳、嘉元の元年、累日炎旱、草枯れず。普く齋戒を授く、三萬餘、一日摺寫す、大般若。一一渧(いつたい)降らず、五日を。淸瀧に祈誓す、身命を捨つることを。小蛇出現して甘雨降る。伽藍草創八十三。百五十四堂供養。寺院結界七十九。塔婆建立す、二十基。二十五基塔供養。一切經を渡すこと、十四藏。地藏を圖畫して男女に與ふ、一千三百五十五。請し來る律宗の三大部、一百八十六部なり。戒本、摺寫して僧尼に與ふ、三千三百六十巻。馬衣幷に惟(れ)非人に與ふ、都合三萬三千領。水田一百八十町、聖跡に寄進して三十二。橋をワタすこと一百八十九。道を作ること七十一箇所。三十三所に井水を掘る。六十三所に殺生を禁ず。浴室・病屋・非人所、各々五所に立てゝ苦辛を休す。三十七年當寺に住す。洛より下りて以後五十二年、自行化他、滿足し已(は)る。
嘉元の元年、六月二十三日、子の時、一たび病ひに寢て愈へず。貴賤問訊、終に斷へず。遺戒慇懃、大衣を著く。口に祕明を誦し、手に印を結ぶ。端座して動かず、釋尊に對す。遂いに壽算をして八十七ならしむ。通受夏臘六十一歳、七月の十二日子に入滅す。
延慶第三年冬十月、小比丘澄名謹みて誌す。右、偏へに慕德結緣の爲めに、只だ志の(ゆ)(く)所ろ、人の嘲を顧みず、二百五十旬を列して、二百五十戒に擬す。只だ恨むらくは、纔かに口に讀みて身に行はざることを、慙づべし、慙づべし、悲しむべし、悲しむべし。

以下、年次毎に各事蹟記載を一つ一つ揚げながら、各注を附す。なお、本文中に西暦を挿入した。年譜的記載はウィキの「忍性」・和島芳男「人物叢書 叡尊・忍性」(吉川弘文館昭和三十四(一九五九)年刊)から引用されたサイト「後深草院二条」の「関東下向」ほか、複数のネット上の情報を参考にしつつ、勘案して記載している。

「忍性菩薩行狀の畧頌」
[やぶちゃん各注:「頌」は通常、「しよう(しょう)」と読み、偉人や芸術家の徳や功績を讃える言葉・詩文を言う。]

良觀上人、諱は忍性、父は伴貞行トモノサダユキ、母は榎氏エノキウヂ、和州城のモト屏風に生る。建保五(一二一七)年七月の十六日。
[やぶちゃん各注:「伴貞行」(ばんのともゆき 生没年不詳)は、不確定情報ながら、後に叡尊教団の斎戒衆となって慈生敬法房と名乗ったともされる。「和州城の下屏風」は大和国城下郡屏風里で、現在の奈良県磯城郡三宅町の北東部。聖徳太子腰掛石で知られる白山神社がある。この石は聖徳太子が斑鳩から飛鳥を往来した際に腰掛けたものとされ、当時の村人が屏風を立てて太子を接待したことが地名の由来とされる。「建保五年」二年後の建保七(一二一九)年正月、源実朝が公暁に暗殺されている。]

生年十一歳、安貞の元(一二二七)年、師に就きて信貴山に學問す。五字の咒を唱へて道心を祈る。
[やぶちゃん各注:「信貴山」正式名信貴山朝護孫子寺。大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境にある生駒山地の南方、奈良県側にある信貴山山腹に建つ真言宗の古刹。伝聖徳太子開基とされるが、後世の付会。「五字の咒」は五字文殊呪。文殊から真の智を授かるための修法で、『オン、ア・ラ・ハ・シャ・ノウ』の真言を誦える。「オン」は帰命とか帰依の意味で、通常、真言の最初に用いられ、後の『ア・ラ・ハ・シャ・ノウ』が五字文殊呪で、一切は空という真の智を意味する。当時、奈良時代の名僧行基を文殊菩薩の化身とする信仰があり、行基の実践に基づく広く弱者の救済を目的とした文殊会が既に行われていた。この文殊菩薩信仰は真言律宗の中核をなし、師の叡尊や忍性によって本邦に流布することになる。因みに、この前年の嘉禄二(一二二六)年に鎌倉では藤原頼経が初の摂家将軍となっている。]

寛喜元(一二二九)年、十三歳、誓ひて、肉を食ふを斷ちて慈氏を學ぶ。
[やぶちゃん各注:「慈氏」は弥勒菩薩の異称。弥勒信仰は平安末の末法思想の流行により流布した。]

生年十四歳、同じく二年、文殊の像を摺り幷びに行戒。
[やぶちゃん各注:「文殊の像を摺り」摺仏すりぼとけのこと。主に木版で印刷した仏画で、唐代から盛んとなり、本邦に移入されて鎌倉時代以降に特に流行した。写経などと同じく、仏像造立の功徳を得ることを、複製によって簡便に可能とした。「行戒」は戒行(戒律を順守し修行に励むこと)と同義か。]

貞永元(一二三二)年、十六歳、母儀、逝去して菩提を訪ふ。額安寺(カクアンジ)に居りて八旬を經。同年、髮を剃りて而して出家す。毎月、安倍寺に參詣す。首尾四年發心を祈る。
[やぶちゃん注:この記載では明らかではないが、実際には臨終の床にあった母の懇請によって大和国額安寺に入って出家、官僧となった。「額安寺」は熊凝山額安寺。現在の奈良県大和郡山市額田部寺町にある真言律宗の寺院で、やはり伝聖徳太子開基とする。平安後期に衰退したが、師叡尊や忍性らによって再興された。「安倍寺」は安倍山安倍文殊院。現在の奈良県桜井市にある華厳宗寺院。大化の改新の折りに左大臣となった安倍倉梯麻呂あべのくらはしまろの開基で、本尊は文殊菩薩。京都府宮津市の切戸文殊・山形県高畠町の亀岡文殊とともに日本三文殊の一つ。]

生年十七歳、天福の元(一二三三)年、登壇受戒す、東大寺。
[やぶちゃん各注:東大寺戒壇院にて受戒。]

文暦元(一二三四)年、十八歳、法華を讀誦して信心を發す。花を採りて佛に供す、一夏中。
[やぶちゃん各注:「法華を讀誦して信心を發す」とあるが、五つ年下であった日蓮はこの前年に十歳で鴨川の清澄寺に入門している。]

嘉禎元年、十九歳、六年毎月生馬イクマに詣す。
[やぶちゃん各注:「生馬」生馬山竹林寺。現在の奈良県生駒市有里町にある律宗寺院。本尊は文殊菩薩騎獅像。文殊菩薩の化身とされた行基の墓がある。寺号も文殊菩薩の聖地である中国五台山大聖竹林寺に因む。]

生年二十歳、同じく二(一二三六)年、七日斷食す、三箇度。五字の明を念ずること、五十萬。
[やぶちゃん各注:「明」は「みやう(みょう)」で真言のこと。七日間の断食を三度に分けて延べ二十七日修し、同時に例の五字文殊呪を五十万遍唱えたということであろう。]

二十三歳、延應の元(一二三九)年、誓ひて婬酒を斷ず、盡未來。生馬に參籠すること二七日、菩提心を祈り、文殊を念ず。
同年二十日、興正菩薩に十重を受く。
[やぶちゃん各注:「誓ひて婬酒を斷ず、盡未來」は「誓ひて未來に盡く婬酒を斷ず」。この時以来、生涯にわたって女婬葷酒を自らに禁じたということ。生駒に参籠すること十四日、「同年二十日」(正月二十日を言うか。それ以前に忍性は叡尊が主導していた西大寺再建の勧進聖として参加していたか)、即座に興正菩薩叡尊に師事、改めて叡尊によって受戒を受けて正式な弟子となった。「十重」十重禁戒。仏道修行する菩薩の守るべき十の戒律。顕教では一般には不殺生戒・不偸盗戒・不淫欲戒・不妄語戒・不酤酒戒の五戒に不説過戒(人の罪や過ちを語らない)・不自讃毀他戒(自分をほめたり、他人をけなしたりしない)・不慳法財戒(法財を施すのをおしまない)・不瞋恚戒・不謗三宝戒(仏法僧をそしらない)を挙げる。密教では別に不退菩提心・不謗三宝・不捨三宝三乗経・不疑大乗教・不発菩提心者令退・不未発菩提心者起二乗心・不対小乗人説深大乗・不起邪見・不説於外道妙戒・不損害無利益衆生の十戒を立てるというが、現在の真言寺院の記載でも前者と変わらず、特に後者を示す記載はない。しかし、そこが密教たる所以か。次の次で「十戒を稟く」とあるから、ここではそれを師叡尊から正式に言い渡された、ということを指すものと思われる。]

二十四歳、仁治の元(一二四〇)年、窮情上人に古迹を聽く。則ち無常を觀じて身財を捨す。悉く貧乏に施し、佛像を圖す。
同年四月第三日、興正菩薩に十戒を(う)く。
同十一日、具戒を受く。遁世の後、西大寺に住す。僧衣洗濯して房舍を掃ふ。書を諸寺に借りて學徒に與ふ。常施院を建てゝ病客を扶け、悲田院を修して乞丐かたゐを濟ふ。行歩に堪へざる疥癩人、ミ(づか)ら負ひて送迎す、奈良のイチ。有る所(の)衣服、非人に施す。我は疊瓶を著て湯を以て膚を暖む。北山に到りて宿して現業を誡む。癩者改悔す、謗法の罪。文殊の像を圖し、般若を摺す。大聖、夢に感じて詠歌を示す。
[やぶちゃん各注:「窮情上人」律宗僧覚盛(かくじょう 建久四(一一九三)年~建長元(一二四九)年)のこと。唐招提寺中興開山。嘉禎二(一二三六)年、叡尊と共に東大寺法華堂で自誓受戒(自ら仏前で戒律を受持することを誓うこと)寛元二(一二四四)年、唐招提寺に住持し同寺を復興、叡尊の西大寺とともに南都律宗復興の拠点となり、覚盛は鑑真の再来と讃えられた。「古迹」は一昔前の庶民の惨状や復興前の律宗の窮状などを言うか。「稟く」は、忍性が十戒を主体的に我がものとして天から受けたということを師叡尊が認めた、ということを指すか。「具戒」は具足戒のこと。本来は完全な戒を保持することを言うが、ここでは僧伽そうが(出家の教団)としての叡尊の教団に入ることを許されたことを言う。「奈良の市」影印本の訓読には、目的語や補語の一部を返り点で返さずに、倒置文とする傾向が見られる。ここもそれで『歩くことの出来ないハンセン病患者は、日々、忍性が背負って奈良の市場と彼らの居所との間を送り迎えした』の意である。「我は疊瓶を著て湯を以て膚を暖む」というのは意味が通らない。ここは原文が「我著疊瓶湯暖膚」であるから、「我は疊を著て、瓶の湯を以て膚を暖む」の誤りであろう。これならば、『自分は薄い畳表を羽織って病者を訪ねては、瓶に温かい湯を入れたものを以て彼らの膚を暖めてやった』という意味になる。「北山に到りて宿して」この北山(現在の奈良県奈良市川上)には忍性が開いた最古のハンセン病患者や他の重病患者収容施設であった北山十八間戸きたやまじゅうはちけんとがあった(但し、現在の研究では正式な創建は、寛元元(一二四三)年とする)。「現業を誠む」の部分は後に日蓮が「聖愚問答抄」で批判するところの「今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や。」の『布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とする』ところの「現業」を意識して書かれたものか。「癩者改悔す、謗法の罪。文殊の像を圖し、般若を摺す」の部分、ウィキの「忍性」では『この頃、額安寺周辺の非人宿で文殊図像の供養をおこなう』とある。ここに「非人宿」とあるが、当時はハンセン病患者は発症と同時に非人に落とされたという事実があった。「大聖」は菩薩の尊称。忍性が夢応に詠歌したということか。]

二十七歳、寛元元(一二四三)年、關東に下向して七月に上る。造立す、丈六文殊の像。
同年、先(の)妣の十三回、癩宿十八、千人を集む。悉く飮食を施して齋戒を勸む。
[やぶちゃん各注:先に示した通り、この年、奈良般若寺近くに北山十八間戸を創建している。「丈六文殊像」は般若寺に安置されたとする(現存しない)。現在の奈良市奈良坂にある、この真言律宗の法性山般若寺の鎌倉期の本尊文殊菩薩像は、当寺を再興した忍性の師叡尊が建長七(一二五五)年から造立を始め、十二年かけて文永四(一二六七)年に開眼供養を行った、獅子の上に乗った巨像とされ、ここの「丈六文殊像」を髣髴とさせるが、御覧の通り、年号が合わない(但し、これも戦国時代に焼失して現存しない)。この時、短期で「關東に下向」したのは、恐らく叡尊の命によるもので、東国の仏教事情を探査するためであった。なお、ウィキの「忍性」にはこれらの事蹟を翌寛元二年のことと記す。正しい十三回忌ならば、そうなる。いずれにせよ、丈六の文殊像造立と癩宿十八戸実収容人員千人総てに飮食と齋戒を施す、というのは尋常なことではない。母の十三回忌への強い思いが働いたものと考えてよい。]

二十九歳、同じく三(一二四五)年、泉州家原イエバラに別受を稟く。
[やぶちゃん各注:「泉州家原」は現在の大阪府堺市西区にある高野山真言宗別格本山一乗山家原寺えばらじのこと。当時、叡尊が再興のために住していた。本尊文殊菩薩。「別受」はウィキの「忍性」によれば別受戒のことで、受戒後九年を経た僧侶が受ける再度の戒法を言うとあるが、彼が忍性が叡尊の最初の戒を受けたのは延應元(一二三九)年であるから、七年で計算が合わない。異例の昇進ということか。]

寶治元(一二四七)年、三十一歳、唐船歸朝して鎭西に赴く。請し來る、律宗三大部。
[やぶちゃん各注:この年、同門の定舜が宋から持ち帰った律三大部十八具(「三大部」は宗派教義の核心をなす三つの大部の経典を指す。律宗では道宣著「四分律行事鈔」「四分律羯磨疏」「四分律戒本疏」を言う。「十八具」はそれらの分冊総巻数であろう)の律書を受け取るため、九州に下っている。]

三十六歳、建長四(一二五二)年、關東に下向して律儀を弘む。先づ春日に詣して擁護を祈る。社の榊の枝を折りて隨逐を誓ふ。
八月十四日、鎌倉に就く。
九月十五日、鹿島に詣す。參籠すること三日、法華を獻ず。
極月四日、三村に到る。院主、德に歸して律院を作る。止住すること十年、柳營に移る。
[やぶちゃん各注:叡尊の許可を得て本格的な律宗布教を展開するために関東へ赴く。「春日」は奈良の春日大社。「隨逐」後を追い従うこと。春日神の加護に従って東へ赴くということか。「三村」常陸国三村寺(幕府御家人常陸守護であった八田知家の知行所内。現在の茨城県筑波郡にあった寺。現存せず)。ここの清涼院を拠点として、当時、常総地域で発達していた内海海運の便を活用し、盛んな布教活動を行った。「止住すること十年、柳營に移る」後で見るように、忍性の本格的な鎌倉進出は弘長元(一二六一)年であるから、数えで十年となる。]

三十八歳、同じく六(一二五四)年、始めて具戒を授けて和上と(な)る。
[やぶちゃん各注:「和上」は律宗や浄土真宗の儀式指導者たる高僧のみ用いられる尊称。]

生年四十歳、同じく八(一二五六)年、鹿島の神託に靈異を示す。
[やぶちゃん各注:先に見たように、忍性は三村寺に入山する前に鹿島神宮寺に参籠している。本地垂迹説では鹿島神タケミカヅチの本地は釈迦とされていた。]

四十五歳、弘長の元(一二六一)年、鎌倉に請ひて釋迦堂に住す。
[やぶちゃん各注:極楽寺流北条氏北条重時に請ぜられ、入鎌、三村寺は同門の頼玄に譲った。「釋迦堂」は新清涼寺釈迦堂のこと。現在の海蔵寺の東の谷戸清涼寺ヶ谷にあった寺院。「鎌倉攬勝考卷之七」の「淸涼寺廢跡」参照。これに先立つ正元元(一二五九)年、忍性は北条重時の招請によって鎌倉に赴き、後の極楽寺となる寺地の地相を検分している。なお、この十月に見阿という僧が幕府評定衆北条実時の使として叡尊を訪問、一切経一蔵の西大寺寄進と、実時が武蔵金沢の別業に建立していた称名寺の寄進を願い出、叡尊の関東下向を求めている。叡尊は辞退するが、十二月に一切経が西大寺に到着している。同月には忍性とは別行動で関東探査を行っていた弟子定舜が関東から帰還、実時から受けた意を代弁して、叡尊の下向の効験を強く主張している。]

四十六歳、同じく二(一二六二)年、光業、召請す、多寶寺。止住すること五年、僧法を行ふ、新宮の跡。
[やぶちゃん各注:「光業」は不詳。多宝寺の住持の名か。識者の御教授を乞う。「多寶寺」浄光明寺の奥の谷戸にあった寺。「新宮の跡」も意味不明。多宝寺自体が現存情報に乏しく、よく分かっていない。ただ気になるのは、「鎌倉廃寺事典」の「多宝寺」の項で、この記事を引用しているのであるが、この最後の「新宮の跡」を外している点である。これは「鎌倉廃寺事典」の記者が、これを次の項の記載と考えたからに他ならない。しかし、「新宮の跡、同じく四年、非人施行す、三千餘。」という文脈はますます意味不明となる。私はこれは多宝寺が「新宮」と称した廃社の跡に建てられた寺院であることを意味しているのではないかと推測する。識者の御教授を乞うものである。なお、「鎌倉攬勝考卷之九」の「忍性上人墓碑」なども参照されたい。因みに、ここには全く記載がないが、実はこの正月に先の見阿が重ねて実時の使者として西大寺を再訪し、その熱意にほだされた叡尊は鎌倉下向を受諾、六十二歳の老体に鞭打って二月四日に出洛し、同二十七日に入鎌、忍性の居た釈迦堂に入って、忍性は久々に師に拝謁している。叡尊は鎌倉で数々の教化を行い、招聘した執権時頼以下、数万に及ぶ民衆からも熱烈な帰依を受けた。忍性は体調の優れない師に代わって授戒や供養に勤め、特に鎌倉在の念仏衆指導者であった念空道教が叡尊に帰依したことで、叡尊と忍性は律宗のみならず、鎌倉の念仏宗の尊崇をも手に入れることとなった。これが忍性の幕閣に於ける信頼度を高める決定打となったと言ってよい。師叡尊の帰洛は同年八月十五日であった。]

同じく四(一二六四)年、非人施行す、三千餘。
[やぶちゃん各注:弘長四年(文永元年)のこの非人救済は雪ノ下で行われた。]

四十九歳、文永の二(一二六五)年、始めて灌頂を授けて闍梨と爲る。後ち、三十有餘人に授く。西明禪儀、重病を受く。八幡、夢に告げて戒法を奉ず。
[やぶちゃん各注:「灌頂」は仏の五智を象徴する水を頭頂に注いで、修行者が悟達に至ったことを証する儀式で、法嗣の際の中心儀式。特にこれは伝法灌頂で、密教を修行を完全に終えた優れた行者にのみ許された阿闍梨の位を許すための灌頂で、密教灌頂の中でも最重要の儀式とされるもの。「西明禪儀、重病を受く。八幡、夢に告げて戒法を奉ず。」「西明禪」は幕閣の誰かか。以下の文脈から忍性がその「西明禪」なる人物の重病につき、八幡神の夢告を受け、その平癒のための効果的な加持祈禱を「西明禪」なる人物に修したということか。識者の御教授を乞う。]

五十一歳、文永の四(一二六七)年、八月、移住す、極樂寺。三大部を講ず、則ち七反。宗要三十、古迹七、教誡三十、淨心三。章服儀を讀みて蠶衣を誡む。五十餘人、絹絮を斷ず。三時は勤行、二時は食、病と急緣を除きて懈怠無し。餘長を畜へず、麁衣(そえ)を著く。美食を噉はず、儉約を先んず。菓子の種を取りて山野に植ゆ。獄舍には施行し、盲には杖を與ふ。非人には袋ろを與へ、狗子には飼ふ。病者には藥を施し、捨子は養ふ。出づるには錢貨を持して乞丐に施す。入るには餅果を用ひて攣躄に與ふ。毎日三座の供養の法、四分梵網、日を隔てて誦す。文殊講式壽量品、遺教行願、各々一卷。地藏文殊觀自在、種子名號、各々一反。書寫三禮、衆生の爲にす。釋迦三願舍利禮、十方諸佛及び師僧、三時禮拜、各々三遍、地藏の小咒幷に寶號、八字文殊、各々千反。一稱一禮、身の爲めにせず、萬行萬善、法界に廻す。
同年極月、灌頂を受く、阿性上人、勸修寺。
[やぶちゃん各注:忍性は遂にここで実質上の極楽寺開山となる。少なくとも、新たな本尊の安置なくしては話にならないから、ここでプロトタイプとなる新たな清凉寺式釈迦如来立像が据えられたと考えるべきであろう。「袋ろ」行乞するために物を貰い受けるための袋。「狗子には飼ふ」「くすにはゑあたふ」とでも読んでいるか。以下で「捨て子は」とあるから「に」は衍字とも思われる。「攣躄」は「てなへあしなへ」と訓じていると思われる。四肢の不自由な障碍者のこと。「四分梵網」は「四分律」「梵網経」で律宗に於ける根本戒律経典。「八字文殊」八字文殊呪。文殊菩薩を本尊とする八字の真言、悪霊退散無病息災を祈願する修法。『オン・ア・ク・ビラ・ウン・キャ・シャ・ラク』。五字文殊呪と異なり、最初の「ウン」を数えている。「法界に廻す」とは全宇宙に広く行き渡らせる、の意。「阿性上人勸修寺」「阿性上人」不詳。「勸修寺」は現在の京都府京都市山科区にある真言宗門跡寺院勧修寺かじゅうじ。]

五十三歳、文永六(一二六九)年、江の島に雨を祈りて甘雨降る。
鐡塔供養、九月八日、黄蝶魚蛤集つて聽聞す。
新宮草創、同じく六年。
[やぶちゃん各注:「鐡塔供養」「新宮草創」ともに不詳。極楽寺内での建立か。新宮は神仏習合の神道祭祀と思われる。なお、記載がないが(これ、忍性が雨乞いの修法で負けているから、なくて当然か)翌年の文永八年(一二七一)年には、日蓮から雨乞いの祈禱比べと法論を挑まれている。伝承では当時の執権北條時宗がこの年の七月の大旱魃を憂えて、忍性に祈雨の祈禱が命ぜられて行ったたものの効験がなく、替わって日蓮が現在の七里ヶ浜の行合川上流にある田辺ヶ池で法華経を唱えたところ、たちどころに車軸を流したような大雨が降り出した、というものである。その後、忍性や念仏宗は連名で日蓮が弓矢刀剣を蓄えて庵室に凶徒を集めているという訴状を幕府に訴え、幕府は諸宗論難の罪を以て日蓮を捕縛、腰越龍ノ口の刑場で処刑されかけるが、奇瑞が起こって斬首が出来ず、一等減ぜられて佐渡に配流となったとされる(龍ノ口の法難)。真相は時宗の妻が後の九代執権貞時を受胎しており、悪僧と雖も、僧を斬罪に処することを忌んだことによる。先の行合川という川名はこの法難の際、鎌倉からの日蓮斬首停止の使者と、光り物の異変を告げるための刑場からの使者が行き合ったことに由来すると言われている。なお、日蓮の法論とは、忍性が布教の積極的展開を実践するために、方便として積極的に幕府に取り入って港湾和賀江ノ島の関米徴収や七切通での木戸銭徴収権限を得、あたかも実務官僚のように振る舞い、積極的経済活動を行使し、酷吏と変わらぬ苛斂誅求で民衆を苦しめているという非難であった。忍性にとっては広範な福祉活動の財源確保には当然の行為であったようであるが、これはこれで理に叶った批判ではある。]

五十六歳、同じく九(一二七二)年、十種の願を立てゝ羣生を利す。
[やぶちゃん各注:「十種の願」十種の誓願。ウィキの「忍性」によれば①力の及ぶ限り仏法僧興隆をはかる。②勤行や談義への参加に励む。③外出時には三衣一鉢を所持する。④病気の時以外は馬・輿に乗らない。⑤特定の檀家からの祈禱依頼は受けない。⑥孤独・貧乏な人、乞食、いざり、捨てられた牛馬に憐れみをかける。⑦道路や橋をかけ、井戸を掘り、薬草や樹木を植える。⑧自分に恨みを抱き、誹謗する人をも救済する。⑨間食をせず、手間隙をかけた食事もとらない。⑩功徳はすべて他人に施す、の十誓願を言う。]

同じく十一(一二七四)年、飢饉して死するあり。大佛のヤツに於て飢人を集む。五十餘日、カユ等を施す。
[やぶちゃん各注:この年、年来の全国的旱魃で鎌倉も大飢饉となった。この年には文永の役も起こっている。]

五十九歳。建治の元(一二七五)年、陽春三月二十三日、當寺炎上して堂舍滅す。
[やぶちゃん各注:極楽寺全焼。摂津多田院(現在の兵庫県川西市にある多田神社。元は天台宗であったが幕命によって造営を請けた忍性のこの再建以後、真言律宗に転じた。明治の神仏分離令で神社となる)別当に就任する一方、極楽寺再興にも心血を注いだ。]

塔婆建立、同じく二(一二七六)年、文殊、夢に告げて合力を成す。
[やぶちゃん各注:大陸ではこの年、元によって南宋首都臨安が陥落、宋が滅亡している。]

舞樂供養、弘安の元(一二七八)年、靈神、夢に感ず。結緣の人、皆な、淨土に生れて無生を悟る。建治三(一二七七)年より弘安に至る、文殊二幅、毎月圖す。二十五日、緇素に與ふ。
六十二歳、弘安の元年、椎尾山シヒノヲヤマの頂に寶塔を建つ。礎石をだすこと數十六。
[やぶちゃん各注:この弘安元年六月には無学祖元が元の支配を嫌って来日、蘭渓道隆遷化後の建長寺住持となっている。「建治三(一二七七)年より弘安に至る、文殊二幅、毎月圖す。二十五日、緇素に與ふ」とはこの前年より、毎月二十五日になると、自筆の文殊像二幅を僧俗に分け与えた、という意味。]

六十五歳、同じく四(一二八一)年、御教書下りて異國を祈る。七夜不斷、四王の咒、稻村百座の仁王にんのう講。三千餘艘、悉く退散す。
[やぶちゃん各注:この年の五月二十一日に勃発した弘安の役に際して、幕府から御教書が下されて異国退散祈禱を行っている(弘安の役は七月七日に終息)。因みに出撃した際の元・高麗・旧南宋の連合軍の軍力は兵総計十四万・軍船四千四百艘を数えた。「四王の咒」戦勝祈願であるから四天王の呪であろう。「稻村百座の仁王講」一日中、百人の僧侶が天下太平・鎮護国家を祈願して仁王経を誦える法会。また、この年、再建に関わった多田院本堂供養にて多田院周辺一帯を殺生禁断の地と定めている。]

六十七歳、同じく六(一二八三)年、疫癘、國に滿ちて人民卒す。和尚、悲愍ひみんして門前に集む。毎日、僧徒に療養を加ふ。
[やぶちゃん各注:「悲愍」哀れむこと。]

六十八歳、弘安の七(一二八四)年、雨を祈りて、齋戒、六年に滿つ。度々、雨を請して齋戒を勸む。一々大雨を降らざずと云ふ(こと)莫し。同年補任す、二階堂・五大堂大佛の別當。
[やぶちゃん各注:「二階堂」は永福寺(廃寺)、「五大堂」は明王院、「大佛」は高徳院で、総て鎌倉御府内の当時はどれも大寺院であった。]

生年七十歳、同じく九(一二八六)年、始めて雨を祈る御教書を奉ず。雨を請ひ、雨を止むること、二十餘、毎度、效驗を施さざると云ふこと無し。
[やぶちゃん各注:当然のことながら、前の年にも、過去六年の間、毎回斎戒沐浴して度々祈雨を修して「一々大雨を降らざずと云ふこと莫し」とし、この年でも幕命が下ったことを殊更に述べて更には「雨を請ひ、雨を止むること」自由自在、「二十餘、毎度、效驗を施さざると云ふこと無し」と畳みかけられると、日蓮との雨乞いの祈禱比べの失敗はドッタの? と、突っ込みたくなる如何にもくだくだしい記載ではある。]

金堂供養、同じく十(一二八七)年、八月九日眞言供。
桑谷クハガヤツの病屋、同じく十年、親疎を擇ばず、病者、集むる。和尚、恆に臨みて問訊を致す。
[やぶちゃん各注:極楽寺金堂落慶供養が修せられる。「眞言供」は光明供のことか。密教で光明真言(一切の罪障が除かれて、福徳が得られるという真言)を念誦する法会。「桑谷」は光則寺から高徳院に向かう途中の左側、西の奥まったところ。現在の長谷寺の尾根を隔てた北の谷戸を言う。この施薬院は幕府の後援を受けて作られた施設で、以後、二十年間で延べ四万六千八百余人を治療したとされる。]

七十二歳、正應の元(一二八八)年、八月、洛に上りて本師に謁す。興正菩薩、闍梨と爲る。
九月十九日、灌頂を受く。
[やぶちゃん各注:西大寺にて、叡尊鎌倉入り以来、実に二十六ぶりに親しく叡尊に謁した。この時、叡尊から改めて灌頂を受けている。「興正菩薩、闍梨と爲る」というのは不審。勿論、叡尊はとうの昔に阿闍梨となっている。錯文か。]

正應已後十二年、初受、重受、比丘戒、二千六百八十人、三十九年は則ち記さず。
[やぶちゃん各注:「正應已後十二年」は正安二(一三〇〇)年に当たり、遷化の三年前。「三十九年は則ち記さず」は正応よりも前の三十九年間(忍性が一人前の僧になってからのここまでの期間にだいたい一致する)については、忍性が授戒した者の数は記録に残っていない、という意味か。]

七十五歳、同じく四(一二九一)年、始めて戒壇を結びて別受を行ふ。兩度四日六十人。
[やぶちゃん各注:「戒壇」授戒(戒律を授ける)ための結界。本来は限られた寺院に設けられた戒壇で授戒を受けることによってのみ出家者は正式な僧尼として認められた。但し、ウィキの「戒壇」によれば、忍性の師叡尊は従来の三戒壇(東大寺戒壇院・筑紫大宰府観世音寺戒壇・下野国薬師寺戒壇)や『延暦寺の戒壇は実態を失って授戒を行うに値しないと批判し、戒律に則って結界を築き正しい手順に従って儀式を行えば授戒は成立すると唱え、自ら仲間とともに東大寺において改めて授戒を行い、更に西大寺に独自の戒壇を創設し』、『以後、南都や延暦寺と対立する形で成立した鎌倉新仏教も独自の得度・授戒の儀式を行うようになっていった』とある。叡尊と忍性はそういう革命的刷新にあっても旧仏教内から発信されたニュー・ウェーヴででもあったということであろう。]

七十六歳、正應の五(一二九二)年、興正菩薩の第三廻、洛に上りて供養す、四王堂。勸惟、千領、諸僧に施す。
[やぶちゃん各注:「興正菩薩の第三廻」師の三回忌。叡尊は正応三(一二九〇)年九月二十九日に遷化している。「四王堂」西大寺四王堂。孝謙上皇発願の四天王像を安置していた。現在の建物は江戸の延宝二(一六七四)年の再建で、四天王の足下の邪鬼像のみ奈良時代のものが残る。四天王像本体は持国天・増長天・広目天像が銅製で、多聞天像のみ木造。前者三体は鎌倉期、多聞天は室町期の作像と推定されている。「勸惟、千領、諸僧に施す」は訓読・意味ともに不詳。「惟れを勸むるに、(衣?)千領、諸僧に施す。」の謂いか。識者の御教授を乞う。]

七十七歳、永仁の元(一二九三)年、異國降伏の院宣下る。
四月、洛に上りて八幡に到る。尊勝神咒、七晝夜。
同年八月、綸旨を奉ず。東大寺の大勸進に補す。
[やぶちゃん各注:文永・弘安の役以後、神経症的になった宮廷は院宣により、忍性に異国調伏の修法を命じた。「尊勝神咒」一切の悪業障を瞬時に消滅させる功徳を持つとされる佛頂尊勝陀羅尼の、サンスクリット語による誦をなすことと思われる。東大寺大勧進職の任命は、過去に重源や栄西が就任している重職の名誉職である。]

七十八歳、同じく二(一二九四)年、四天王寺の大勸進。石の鳥居を建つ。二丈五(尺)。
[やぶちゃん各注:以下、「なにわ人物伝 社会福祉に貢献した高僧 四天王寺の石鳥居建立」三善貞司氏のより引用する。『喜寿に達した忍性は、衰微していた四天王寺の別当を命じられる。ただちに敬田院・悲田院・施薬院・療病院の四箇(しか)院復興に着手、聖徳太子誓願による福祉事業の発展に全力を傾ける。まず徹底した節約令を出し冗費を節減、私財のすべてを投じ、事業のシンボルとして木造の衡門』(「こうもん」鳥居のこと)を廃して、二条五尺もある花崗岩製の衡門に改修、現在、石鳥居と呼ばれている「西門」(但し、現存する当時の遺構は二本の柱のみ)を建立する。『鳥居に掲げた銅製の額に、「釈迦如来 転法輪所 当楽浄土 東門中心」と刻まれている。当時は四天王寺のある上町台地の眼下は海が迫っており、水平線に沈む夕陽(ひ)のかなたに極楽浄土がある、つまり石鳥居は浄土の東門だと信じられたことを意味する。平安末期の今様(流行歌)に、「極楽浄土の東門は 難波の海に対(こた)へたる 転法輪所の西門に 念仏する人参れとて」とある』。]

八十一歳、永仁の五(一二九七)年、八月九日、眞言の院、草創供養す、曼陀供。
[やぶちゃん各注:「眞言の院」極楽寺境内に建てられた塔頭の真言院のこと(但し、ウィキの「忍性」では翌年のこととする)。「曼陀供」曼荼羅供。両界曼荼羅を掲げて、その諸尊を供養する真言宗最高の法会の一つ。]

八十二歳、同じく六(一二九八)年、建立す、坂の下の馬病屋。常に彼の厩にノゾんで佛名を唱ふ。札に眞言を書して頸に繫けしむ。
[やぶちゃん各注:鎌倉坂の下に馬病舎を建てた。博労や庶民が死にかけて棄てた馬を引きとって介護したのである。また、忍性は同年、律宗の祖である鑑真を顕彰するための「東征伝絵縁起」を書き、唐招提寺に施入してもいる。]

新宮炎上、正安の二(一三〇〇)年、陽春二月二十三、年月を送らず、新宮を致す。勸請す、諸神十二社。
[やぶちゃん各注:文永六(一二六九)年に再建した新宮がまたしても焼亡したものと思われる。]

八十五歳、正安の三(一三〇一)年、田那部の池に慇ろに雨を祈る。未だ寺に歸るに及ばずして大雨降る。
[やぶちゃん各注:この「田那部の池」は、先に示した曾ての日蓮との雨乞いの祈禱比べで、日蓮が祈って勝利した例の田辺ヶ池である。さりげなく名誉回復を狙った感がある。]

八十七歳、嘉元の元(一三〇三)年、累日炎旱、草枯れず。普く齋戒を授く、三萬餘、一日摺寫す、大般若。一渧(いつたい)降らず、五日を。淸瀧に祈誓す、身命を捨つることを。小蛇出現して甘雨降る。伽藍草創八十三。百五十四堂供養。寺院結界七十九。塔婆建立す、二十基。二十五基塔供養。一切經を渡すこと、十四藏。地藏を圖畫して男女に與ふ、一千三百五十五。請し來る律宗の三大部、一百八十六部なり。戒本、摺寫して僧尼に與ふ、三千三百六十巻。馬衣幷に惟(れ)非人に與ふ、都合三萬三千領。水田一百八十町、聖跡に寄進して三十二。橋をワタすこと一百八十九。道を作ること七十一箇所。三十三所に井水を掘る。六十三所に殺生を禁ず。浴室・病屋・非人所、各々五所に立てゝ苦辛を休す。三十七年當寺に住す。洛より下りて以後五十二年、自行化他、滿足し已(は)る。
嘉元の元(一三〇三)年、六月二十三日、子の時、一たび病ひに寢て愈へず。貴賤問訊、終に斷へず。遺戒慇懃、大衣を著く。口に祕明を誦し、手に印を結ぶ。端座して動かず、釋尊に對す。遂に壽算をして八十七ならしむ。通受夏臘六十一歳、七月の十二日子に入滅す。
[やぶちゃん各注:「一渧」は一滴。「淸瀧」現在の埼玉県和光市白子にある清龍寺不動院の竜神を言うか。遺骨は大和国竹林寺及び額安寺にも分骨され、先にも記した通り、死後二十五年目の嘉暦三(一三二八)年には後醍醐天皇よって忍性菩薩の尊号を勅許されている。]

延慶第三(一三一〇)年冬十月、小比丘澄名謹みて誌す。右、偏へに慕德結緣の爲めに、只だ志の(ゆ)(く)所ろ、人の嘲を顧みず、二百五十旬を列して、二百五十戒に擬す。只だ恨むらくは、纔かに口に讀みて身に行はざることを、慙づべし、慙づべし、悲しむべし、悲しむべし。
[やぶちゃん各注:「澄名」は忍性の直弟子高弟の法名であろう。「二百五十旬を列して、二百五十戒に擬す」二百五十戒は僧侶が守るべき戒律の総数であり、以上の忍性の事蹟を綴った文章の句章数が二百五十に相当することに掛けた、律宗僧らしい謂いである。]

以上で、私の「忍性菩薩行狀の畧頌」各注を終了する。――忍性菩薩さま、君の瞳に乾杯!――]
 以 上

鐘樓
[やぶちゃん注:以下、底本では鐘銘は全体が二字下げ。]
  大日本國相州鎌倉府靈山山極樂寺鐘銘
降伏魔力怨、除結盡無餘、露地撃楗槌、菩薩聞當集、諸欲聞法人、度流生死海、聞此妙響音、盡當雲集此、一聽鐘聲、當願衆生、斷三界苦、頓證菩提、伏乞聖朝安穩、天長地久、伽藍繁昌、興隆佛法、十方施主、現當二世、心中所願、決定圓滿、于時寛永四丁卯年二月廿五日、當寺住持沙門慧印、行事比丘慧性、勸進願主岩澤玄蕃允、並伶人源左衞門。
[やぶちゃん注:以下に、鐘銘を影印本の訓点に従って書き下したものを示す。
  大日本國相州鎌倉府靈山山極樂寺鐘銘
魔力の怨を降伏し、結を除(き)て盡く餘無し。露地に楗槌を撃つ。菩薩聞(き)て當に集るべし。諸の法を聞(か)んと欲する人、生死の海を度流す。此の妙響音を聞(き)て、盡く當に雲のごとく此に集(ま)るべし。一たび鐘聲を聽(き)て、當に願ふべし、衆生、三界の苦を斷じ、頓に菩提を證せん。伏して乞(ふ)、聖朝安穩、天長地久、伽藍繁昌。佛法を興隆、十方の施主、現當二世、心中の所願、決定圓滿。時、于に寛永四丁卯の年、二月廿五日 當寺の住持沙門慧印 行事比丘慧性 勸進の願主岩澤玄蕃允 幷に伶人源左衞門
「結」とは煩悩の根底にある対象への束縛や執着心を言う。「楗槌」は「けんつい」と読み、鐘磬しょうけいのこと。磬は鐘の一種で磬子けいすともいい、弓なりに反った五角形の小型の銅板で、吊り下げてばいという棒で叩く。室内で諸法事に於ける節目を告げ知らすために打つ梵音具。「雲のごとく」の送り仮名は自信がない。少なくとも「如」の約物には実は見えない。]
辨慶が腰懸松コシカケマツ 門を入北の方にあり。義經ヨシツネ腰越コシゴヘよりへされし時、辨慶、此松に腰をけ、鎌倉の方をにらみたりと云傳ふ。

[やぶちゃん注:以下の「切通」は前の「極樂寺」大項目の小項「辨慶腰懸松」に連なる形であるが、行空けして独立させた。]
切通キリドヲシ 極柴寺の前の道、由井の濱の方へ出る切通なり。忍性菩薩、ヒラかれしと云ふ。【太平記】に、新田義貞の大將大館ヲダチ次郎宗氏ムネウヂ、十萬餘騎にて、極樂寺の切通キリドヲシより向ふとあるは此の所也。南の方は稻村崎イナムラガサキなり。下に詳なり。
[やぶちゃん注:「新編相模国風土記稿」にも「極楽寺坂は坂之下村堺にあり〔登り三十間余・幅四間。〕。往古重山疊峰なりしを僧忍性疎鑿して一條の路を開きしと云ふ、即ち極楽寺坂切通しと唱ふるはこれなり。」とある。メートル法に直すと、登攀距離約五十五メートル、幅員約七・二メートルとなる。「吾妻鏡」には「極樂寺切通」の名称は現れないが、本文にあるように、「太平記」では「極楽寺切通」として登場し、山高く道険しい切通しとして記され、木戸を構えた幕府軍と新田軍の激しい攻防戦の場となっている。忍性は幕府の絶大なバック・アップを得て多様な公共事業にも従事しており、先の「忍性菩薩行狀の畧頌」でも道路改修や橋梁架橋といった土木関連事業にも携わっているから、幕府から自分の寺に至る切通しの改修は頻繁に行ったものと考えるのが自然である。原型としての極楽寺切通しがあったことは勿論だが、それを名実ともに鎌倉七切通しクラスの通路としたのは、やはり忍性の功績と考えてよいように思われる。忍性による整備がなかったら、例の龍ノ口の法難で使者が絶妙にも後の行合川で行き合うこともなかったのではありますまいか? ね、日蓮さま?]

〇月影谷〔附阿佛尼屋敷〕 月影谷ツキカゲガヤツは、極樂寺の地内、西の方なり。昔は暦を作る者居住せしとなり。《阿佛屋敷》此所に阿佛屋敷あり。【十六夜日記イザヨヒノキ】に、アヅマにてすむ處は、月影谷ツキカゲガヤツとぞふなる。ウラ近き山モトにて、風いとあらし。山寺ヤマデラカタハらなれば、のどかにすごくて、ナミ音松風ヲトマツカゼたへずとあり。英勝寺の地内にも阿佛屋敷と云有。カシこはホフムりたる所なる故に、阿佛卵塔屋敷と云。みし處は此のヤツなり。阿佛・爲相タメスケの事、卵塔屋敷・爲相の石塔の條下に詳なり。
[やぶちゃん注:「十六夜日記イザヨヒノキ」のルビはママ。]

〇聖福寺舊跡 聖福寺シヨウフクジの奮跡、極樂寺の西南にあり。大なるヤツなり。此地に熊野權現の社あり。【東鑑】に、建長六年四月十八日、聖福寺の鎭守、諸神の神殿の上棟ムネアゲ、所謂(謂は所る)神驗、武内・稻荷・住吉・鹿島・諏訪・伊豆・筥根・三島・富士・エビスの社等なり。是總じて、關東の長久、別して相州時賴トキヨリの兩男〔聖壽丸シヨウジユマル福壽丸フクジユマル。〕息災延命のタメなり。因て彼の兄弟兩人の名字を以て寺號とす。去る十二日に事始あり。相模の國大庭ヲホバ御厨ミクリの内に、其地をボクすとあり。又【鶴岡記録】に、八幡の御正體を、新熊野聖福寺に移し奉ると有。今按ずるに此地なり。
[やぶちゃん注:「別して相州時賴の兩男〔聖壽丸・福壽丸。〕」時頼側室の子であった長男時輔の幼名「寶壽丸」、正室の生んだ次男時宗のそれは「正壽丸」、時宗の実弟(即ち同じ正室の子)時政のそれは「福壽丸」である。誰も「聖壽丸」という幼名は持たない。時頼は正妻の産んだ時宗を正嫡として認め、側室の子である長男時輔は得宗家後継者としては時宗・時政に継ぐ第三位の格で扱われた(時輔九歳の時の建長八(一二五六)年の元服改名では相模三郎時利と、長男でありながら三郎を名乗らされている)。時宗の生誕が建長三(一二五一)年、宗政が建長五(一二五三)年、本寺の建立が建長六年という時間軸を考えても、この二人の「兩男」とは、時宗と時政以外には考えられない。そもそも参考にしたウィキの「北条時輔」によれば、十三歳の正元二(一二六〇)年に再度「時輔」と名を変えたのは、何と『時頼の方針により、正嫡時宗を「たすける」意味での改名とみられる』とさえあるのである。ウィキの記事には事ある毎に、時頼が時宗を第一とし、時頼を時宗の引立て役として扱った事実も記されている。その時頼にして、長男とはいえ側室の子である時輔と、正室の子時宗を同列扱いにして「息災延命」を祈るはずが、ない、のである。問題は「聖壽丸」である。寺号が聖福寺である以上、「聖壽丸」は時宗の幼名でなくてはなるまい。しかし、「吾妻鏡」康元二(一二五七)年二月二十六日の時宗の元服の条には「正壽」で載る(勿論、彼の名のりは相模太郎時宗である)。「聖壽」という名は「吾妻鏡」に見ない。ところが、確かに建長六年四月十八日の条には「仍以彼兄弟兩人之名字」とある。「正」と「聖」は音に於いても、また意味に於いても通底するものがあり、同字と見なしたものと一応、解釈しておきたい。識者の御教授を乞う。現在の極楽寺六九七番地から八四九番地の字は古くは正福寺といった。現在の江ノ電稲村ヶ崎藤沢寄に線路と交差する道を東北東に入った谷戸で、極楽寺の背後の尾根を越えた西に当たる。「相模の國大庭の御厨」現在の藤沢市大庭を中心にした広大な荘園で、鎌倉末期には十三郷を有した相模国最大の伊勢神宮の御厨。この頃には実質的な北条得宗家支配領であった。但し、これは、鎌倉にあった大庭御厨の飛地と思われる。でなければ、「新編鎌倉志」の編者も、いとも簡単に「今按ずるに此地なり」とは書かないと思うからである。なお、これについては「鎌倉市史」の「総説篇」の「第八章 鎌倉の四境・七口」の「一 四境」(一八〇ページ以下)に詳細な検討があり、そこでも鎌倉にあった飛地と推定している。]

〇針磨橋 針摺橋ハリスリバシは、極樂寺の南、七里濱シチリバマへ出る路の小橋なり。唐の李白が老嫗のキネを磨するにひ、又江州磨針峠スリハリタウゲの故事などのレイか。鎌倉十橋の一つなり。
[やぶちゃん注:「七里濱シチリバマ」ルビはママ。「唐の李白が老嫗の杵を磨するに逢ひ」は李白の若き日に逸話として伝えられるもの。
李白少讀書、未成棄去。道逢老嫗磨杵、白、問其故曰、「作鍼。」。白、感其言、遂卒業。
〇やぶちゃんの書き下し
李白少くして書を讀むも、未だ成さずして棄て去る。道に老嫗の杵を磨くに逢ふ。白、其の故を問ふ。曰く、「鍼を作る。」と。白、其の言に感じて、遂に卒業す。
〇やぶちゃんの現代語訳
 若き日の李白は、さる山寺での勉学に飽いて、そこを立ち去ろうとした。下ってゆく途中、小さな川を渡ろうとしたところが、その畔りで一人の老婆が一本の太い鉄の棒を懸命に磨いているのに出逢った。李白が、
「何のためにそんなことをしているのか。」
と尋ねると、老婆は、
「針を作っておる。」
と答えた。
 李白は、それに心打たれ、己れが怠学の非を悟って山に戻ると、美事、学業を成し遂げて下山した。
「江州磨針峠の故事」滋賀県にある旧中山道の磨針峠の名称由来譚。以下に示す。
 その昔、諸国行脚の青年の僧が修行に行き詰まって丁度この峠にさしかかった。するとそこに白髪の老婆が、大きな石に斧をあてて懸命に磨っているに出逢った。刃を研いでいるのではない。青年が、
「何のために斧を削っておられるのか。」
と尋ねると、老婆は、
「一本しかない針を折ってしもうたによって、斧を削っての、研いでの、針にしますのじゃ。」
と答えた。
 この時、青年僧は確然として悟って、己れの未熟を恥じて、修行に専心した。彼こそ後の弘法大師であった。その後、この峠を再来された大師が次の一首を詠んだと伝えられる。
 道はなほ學ぶることの難からむ斧を針とせし人もこそあれ
弘法大師の霊験譚は数多あるが、挫折しかけた若き日の弘法大師という設定は珍しいと思う。但し、現在の知られた伝承では、往古、この近辺に針を作る職人が住んでいたからとそっけなく、別名とされる我入道橋がにゅうどうばしの説にあっても極楽寺の我入道と称する僧が修行の傍ら、針作りも生業としていた事からこの名が付いたと伝えるのみである。ただ、直近の稲村ヶ崎からは砂鉄が採れ、製針業者がここに住んでいたというのは不自然ではない。]


[稻村崎圖]

〇稻村〔附稻村が崎 横手原〕 稻村イナムラは、極樂寺の南なり。海道の東の方に、イネみたるゴトくの山あり。故に稻村イナムラと名づく。昔し源の滿兼ミツカネの舍弟滿直ミツナヲ、此の村に居す。故に稻村イナムラ殿と云。又里見義豐サト ミ ヨシトヨをも稻村殿と稱す。是は房州の稻村なり。南の海濱を稻村崎イナムラガサキと云ふ。【東鑑】に、建久二年九月廿一日、賴朝卿、海濱を歷覽しタマはん爲に、稻村が崎の邊に出御、小笠懸コガサガケの勝負ありと有。《横手原》此海濱を横手原ヨコテバラと云ふ。【太平記】に、新田義貞、廿一日の夜半に、此處へノゾみ、く月に、敵の陣を見給へば、北は切通キリトヲシ〔極樂寺也。〕まで、山高くミチ ケハしきに、木戸をカマへ、垣楯カヒダテいて、數萬の兵陣をナラべて並居ナミイたりけり。南は稻村崎イナムラガサキまで、沙頭路狹ミチセバきに、浪打涯ナミウチキハまで逆木サカモギをしげく引懸て、ヲキ四五町が程に、大船共を並べて矢倉ヤグラをかき、横矢射ヨコ ヤ イさせんとカマへたり。にも此陣の寄手ヨセテ、叶はで引ぬらんも理り也と見給へば、義貞ヨシサダ馬よりり給ひ、海上を遙々ハルバルヲガミみ、龍神に向て祈誓し給ひければ、其夜の月の入方に、前々更マヘマヘサラる事もなかりける稻村が崎、俄に二十餘町干上ヒアガつて、平沙渺々たり。横矢射ヨコ ヤ イんとカマへたる數千の兵船も、シホにさそはれて、ハルかのヲキタヾヨへりと有は此所なり。故に横手原ヨコテバラとはナヅくるなり。
[やぶちゃん注:「源の滿兼の舍弟滿直」「源の滿兼」は足利満兼(永和四・天授四(一三七八)年~応永十六(一四〇九)年)。第二代鎌倉公方足利氏満の子。第三代鎌倉公方。「滿直」は満兼の弟足利満直(?~永享十二(一四四〇)年)。陸奥国安積郡篠川(現在の福島県郡山市)に派遣され、篠川御所(篠川公方)と呼ばれた。同じ頃、彼の弟満貞も陸奥国岩瀬郡稲村に下向しており、稲村御所(稲村公方)と呼ばれている。ウィキの「足利満直」によれば、「続群書類従」所収の「喜連川判鑑」や「古河公方系図」によると満直を「稲村殿」、満貞を「篠川殿」としつつ、異説として「古河公方系図」には満直を「篠川殿」、満貞を「稲村殿」とする説も併記されているとあるから、この記載も弟満貞との混同が考えられる。彼は『鎌倉公方が甥である足利持氏に代替わりすると、篠川御所である満直と持氏の関係が悪化したため、次第に満直は幕府と結びついて南奥諸氏を反持氏でまとめる工作を行っている(この頃、「黒衣の宰相」と呼ばれた満済准后の日記には、満直の活動を示す記事が残されている)。それに対して稲村御所の満貞はあくまでも持氏を支持し、鎌倉に退去した』。永享十(一四三八)年の永享の乱では『満直は幕府方として石橋氏、蘆名氏、田村氏らを率いて参陣』したが、持氏は敗走、将軍足利義教への命乞いも叶わず『持氏と満貞は鎌倉で自害した』。その後、義教が『自分の息子を鎌倉公方として下向させることを画策する』と、満直はこれに反意を示し、『結城氏朝・持朝が持氏の遺児を擁立』、永享十二(一四四〇)年の結城合戦が勃発、同年六月、『結城氏に呼応する形で南奥諸氏が一斉に蜂起して篠川御所を襲撃、満直は自害に追い込まれた』とされる。但し、一説に『満直は持氏とともに自害した』とも言われる。「里見義豐をも稻村殿と稱す。是は房州の稻村なり」里見義豊(?~天文三(一五三四)年)は戦国大名。安房里見氏当主。天文二(一五三三)年、義豊は稲村城(現在の千葉県館山市稲にあった)に正木通綱と叔父の里見実堯を誅殺、通綱の子時茂と実堯の子義堯が後北条氏を後楯にして反攻、里見家を二分する内乱となった(天文の乱)。翌年、義豊は討死にした。
「小笠懸」は「おがさがけ」とも読む。騎馬で疾走しながら、ラチ(騎馬走路)から一杖前後(約二・三メートル)の下方に置かれた四寸(約十二センチ)四方の小さな的を射る射芸。笠懸は当初、的に笠を用いたが、後に円板に革を張って藁などを入れて膨らませたものとなった。矢は蟇目(鈍体の鏑に四つの穴を開けたもので音を発して飛ぶ)。「日本書紀」にも載る古武術であるが難易度が高く、後に廃れた。
「四・五町」は一町が約一〇九メートルであるから、稲村ヶ崎の沖合四三〇~五四五メートル前後の位置に、幕府軍軍船が船に組んだ櫓の上から横矢を射掛けるために待ち構えていたところが、大潮で「廿餘町」引いたとあるから、これは実に波打ち際が激しく後退し、軍船は都合二キロ近くも沖へ退いてしまったことになる。弓矢の実戦での有効射程距離は六十メートルから百メートルが限界とされる。]

〇靈山崎 靈山崎リヤウゼンガサキは、稻村イナムラ東南の出崎デサキ也。ムカシは極樂寺の境内なり。極樂寺を靈山と號す。故に此サキをも名く。亦此處に佛法寺とて、忍性住せし寺ありしとなり。忍性、御教書を承て雨をイノりしも此の所也。日蓮も此所にて雨をイノる。法華の經文を板に書て流す。今其板往々ワウワウカクす者ありと云ふ。
[やぶちゃん注:「佛法寺」「極楽寺絵図」にも描かれている極楽寺の支院の一つ。霊山ヶ崎の頂上東側、由比ヶ浜を見下ろす景勝地にあった。現在、仏法寺跡とされる平地は凡そ東西に三十メートル、南北に七十メートルほどあり、本文に現れる忍性と日蓮の雨乞いの場と伝えられる池塘の痕跡もある。霊山ヶ崎には霊山寺と呼ばれる寺院があったとも伝えられるが、これはこの仏法寺と同一のものと思われる。]

〇袖浦 袖浦ソデガウラは、稻村が崎の海濵、形袖カタチソデの如し。故にソデウラと云ふ。順德帝の御製に、「ソデウラの花の浪にも知さりき、いかなる秋の色にコヒつゝ」。定家の歌に、「ソデウラにたまらぬ玉のクダけつゝ、よりても遠くかへる波哉」。西行が歌に、「しきなみに獨やねなん袖の浦、さはぐミナトによる舟もなし」鴨の長明が歌に、「浮身ウキミをばウラミて袖をぬらすとも。さしもや浪に心クダケん」。
[やぶちゃん注:この袖が浦は稲村ヶ崎の西側(七里ヶ浜側)砂浜を指している。現在、辞書などで袖ヶ浦を七里ヶ浜の別称とする記載があるが、明治十六年刊の「江ノ島鎌倉名勝巡覧」でも「七里ヶ浜」を掲げた後に「行合川」を挟んで「袖ヶ浦」を揚げており、本書も次の次に「七里濵」を掲げている以上、厳然と区別すべきである。【二〇一二年十二月十七日追記】ここで西行作とする和歌は西行の歌ではなく、公卿で歌人の藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)の作であることが分かった。阿部和雄氏のHP「山家集の研究」「西行の京師」(MM二十一号)に、
   《引用開始》
東海道名所図会も記述ミスが多くて、完全には信用できない書物です。同じに[やぶちゃん字注:ママ。]相模の国の項で、
  しきなみにひとりやねなん袖の浦さわぐ湊による船もなし
という、藤原家隆の歌を西行歌として記述するというミスもあります。
   《引用終了》
とある。実は本書の原資料となった「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」で、この和歌は西行作として掲げられている。……もしかするとこれって……この黄門様のミスがルーツか? 但し、この「袖の浦」は「能因歌枕」に出羽国とする歌枕を用いたもので、ここの袖の浦とは無縁である。尤も歌枕であるから、出羽のそれの実景とも無縁で、ただ涙に濡れた「袖」を歌枕の「袖の浦」の名に託し、更に「浦」に「裡(うら)」の意を掛けているのは、以下の和歌群も同じである。なお、「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の当該項(ブログ公開版)を参照されたい。]

〇十一人塚 十一人塚ジフイチニンヅカは、稻村イナムラより七里へゆく道の左にあり。里民傳へて、昔し新田義貞の勇士ユウシ十一人、此所にて討死ウチジニしたりしを、ツカにつきこめ、上に十一面觀音を立たる跡なりと云ふ。義貞の勇士十一人、未考也(未だ考へざるなり)。昔より此濵邊は戰場なれば、いづれの人をかひ傳へたる。不審。
[やぶちゃん注:新田義貞の右腕であった大館宗氏は極楽寺切通からの一番乗りの鎌倉侵攻軍の大将であったが、切通への進軍の前に鎌倉方の武将本間山城左衛門が先手を打って大館の本陣に切込み、宗氏以下部下十一人が戦死、その遺髪をここに埋め、十一面観音を祀ったとされる。但し、討死した場所については鎌倉に侵入成功後の稲瀬川ともされる。私は後者が正しいように感じている。何故なら、新田義貞以下の主力軍が稲村ヶ崎を回って鎌倉市街に侵攻した際、どうも既に新田軍の先遣部隊の一部がそこに陣を敷いていたと思われる節があり、この一群は極楽寺坂からの侵攻グループとしか考えられないからである。]

〇七里濵 七里濵シチリバマは、稻村崎イナムラガサキより、腰越コシゴヘまでの間を七里濱と云ふ。關東道七里有り〔以六町爲一里(六町を以て一里と(ス))。〕。故に名く。古戰場なり。今も太刀タチカタナヲレ、白骨など、砂にマジはつて有と云ふ。此濱に鐡砂クロカネズナあり。クロき事ウルシの如し。極細にして、いさゝかも餘の砂を不交(交へず)。日にヱイずればカヽヤいて銀の如し。庖丁ハウテウ小刀コガタナ等をみがくに也。又花貝ハナガイとて、うつくしきカイあり。兒女ヒロふてツクり花にする也。櫻貝サクラガイとも云ふ。櫻色なる故なり。
[やぶちゃん注::「關東道七里有り〔六町を以て一里と(ス)。〕」の「關東道」とは坂東路、田舎道を意味する語で、同時にこの表現は特殊な路程単位を用いていることを意味する。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかった。
「今も太刀・刀の折、白骨など、砂に雜はつて有と云ふ」明治十六年刊の「江ノ島鎌倉名勝巡覧」でさえ、その「七里ヶ浜」に、
七里ヶ濱 江の島より東の方鎌倉の行路を云ふ。この浜は腰越村と稻村ケ崎の間だ関東道(六町を以つて一里とする七里なり)故に七里濱を名づく。古戰場にして今なほ太刀の折れ或ひは白骨など土砂に交はり時として掘り出すことありとぞ。
と記す(本文は「江ノ島マニアック」所載のものを恣意的に正字化、歴史的仮名遣に直したものである)。
「花貝」花貝は一般には桜貝の古称としても用いられるが、別種として二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科ハナガイ Placamen tiara の和名でもある。こちらは肋がフリルのように高く肥厚し、肋間に放射肋を持たないのが特徴。微小貝類であるが大変可愛らしい。房総半島・能登半島以南の浅海域に棲息する。「鎌倉攬勝考卷之十附録」の「七里ヶ濱」では『花貝・櫻貝』と並列されていることから一応、掲げておく。
「櫻貝」二枚貝綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科サクラガイNitidotellina hokkaidoensis 。但し、実際には同じような形状と色をしたニッコウガイ科モモノハナガイ(エドザクラガイ)Moerella jedoensis やニッコウガイ科カバザクラ Nitidotellina iridella との混称である。一般的な個体は淡桃色から桃赤色を呈し、薄く壊れやすいが、コレクターに人気の高い貝である。]

〇音無瀧 音無瀧ヲトナシノタキは、針磨橋ハリスリバシを渡り、七里バマへ出れば右の方、沙山スナヤマ松陰マツカゲメグツタつて落るタキなり。沙山なるゆへに、常に水ヲトもせず。故に名つく。
[やぶちゃん注:音無川は極楽寺の正福寺ヶ谷を源とし、七里ヶ浜に流れ出る川であるが、現在はその多くの部分が暗渠となっており、地形図でも川名を載せない。「鎌倉事典」(東京堂出版昭和五十一(一九七六)年刊)の「音無川」の三浦勝男氏の解説では、明治十二(一八七九)年刊の「神奈川県皇国地誌残稿」に『川の深さは、二寸より五尺にいたり、水勢緩にして清く、田地四町余歩の灌漑に供した』とあるとし、また、この音無の滝についても同書に『二段に奔下し上段は高さ七尺幅二尺、下段は幅は同じで高さ一丈二尺あった』と記してあるという。これは総落差六メートルになんなんとする小さいとは言えない滝であり、「緩やか」とは言え、その水量は明治期にあっても四ヘクタールを越える田の用水を賄えるものであった。不思議なのは、本文が「沙山の松陰を廻傳て落る瀧なり。沙山なるゆへに、常に水音もせず。故に名つく」とするところで、これは叙述から見てもこの滝は海岸線近くになくてはならない。しかし、六メートルの滝で、その滝壺は七里ヶ浜直近の松が茂る崖下にあり、砂地の山であるために音がしない、というのは何となくイメージし難い。実は「鎌倉事典」の「音無川」で三浦氏は、冒頭、滝の位置を音無川の源流としておられる(但し、その根拠をこの「新編鎌倉志」とするのは解せない)。現在、上流域は宅地化によって旧景を臨むことは出来ないのであるが、この滝の位置はかなり上流であった可能性があり、また、「音無」という名ももっと違った由来に基づくものである可能性が考えられる。そんなことを考えながらネット・サーフィンをしていたところが、鎌倉在住のSakha Republic氏のブログの「音無川と那智の滝」「音無川あれこれ」に、かつてこの源流域に熊野権現と那智の滝が存在したことを古地図によって突き止め、そこから熊野本宮大社の近くを流れる音無川との連環性を探るという素晴らしい説得力ある考察に出逢った。是非、ご覧あれ。]

〇日蓮袈裟掛松 日蓮の袈裟掛松ケサカケマツは、音無瀧ヲトナシノタキの少し南なり。海道より北にある一株の松なり。枝葉たれたり。日蓮、龍口タツノクチにて難に遭し時、袈裟を此松にけられたりと云傳ふ。
[やぶちゃん注:掛けたのは袈裟を血で穢すのは畏れ多いとしたからとされる。現存せず、碑が立つのみであるが、現在、その碑は十一人塚を極楽寺方向へ百五十メートル程行った箇所に立っている。先に掲げた絵図を見ると、不思議なことが判明する。絵図ではまさに現在の日蓮袈裟掛松跡に「音無瀧」と記されているのである。そして、絵図の「十一人塚」と「音無瀧」の位置関係から見ると、絵図の「日蓮袈裟掛松」が存在したのは現在の江ノ電稲村ヶ崎駅のすぐ西、何と現在「音無橋」と名が残る音無川の辺りに比定されるように見えるのだ。だから何だと言われそうだが、何だか私には不思議な感じがするのである。]

〇行合川 行合川ユキアヒガハは、山より海の方へ流れ出る川なり。日蓮、龍口タツノクチにて難にひ給し時、奇瑞多きに因て、其由を鎌倉へ告る使者と、又時賴トキヨリ赦免の使者と、此川にて行合ユキアヒたる故に名く。鶴が岡一の鳥居より、此川まで、三十九町あり。
[やぶちゃん注:行き合ったから何だ、言われそうであるが、この川の源流は先に示した忍性と日蓮の雨乞い対決で、日蓮が修して勝った田辺ヶ池である。日蓮袈裟掛松と言い、この街道沿いの日蓮スポットは日蓮生涯最大の龍ノ口の法難の、その神秘性を演出するための一種のレイ・ラインなのである。]

〇金洗澤 金洗澤カネアラヒザハは、七里濵の内、行合川ユキアヒガハの西の方なり。此所ろにて昔し金をりたる故に名く。【東鑑】に、養和二年四月、賴朝ヨリトモ腰越コシゴヘで、江島エノシマヲモムき還り給ふ時、金洗澤カネアラヒザハの邊にて牛追物ウシヲフモノありと有。又元年六月六日、炎旱渉旬(炎旱エンカン旬をハタる)。仍て今日アメを祈ん爲に、靈所七瀨の御ハラヘを行ふ。由比濱ユヒノハマ金洗澤カネアラヒザハ固瀨河カタセガハ六連ムツラ柚河ユノカハ杜戸モリト江島龍穴エノシマノリウケツとあり。
[やぶちゃん注:「金」とあるが、恐らくは稲村ヶ崎から七里ヶ浜一帯で採取される砂鉄の精錬を行った場所と考えられる。
「牛追物」鎌倉期に流行した騎射による弓術の一つ。馬上から柵内に放した小牛を追いながら、蟇目・神頭(じんどう:鏑に良く似た鈍体であるが、鏑と異なり中空ではなく、鏑よりも小さい紡錘形又は円錐形の先端を持つ、射当てる対象を傷を付けない矢のこと。材質も一様ではなく、古くは乾燥させた海藻の根などが使われたというから、時代的にも場所的にも、ここではこの矢が如何にもふさわしい)などの矢で射る武芸。
「又元年六月六日」の箇所は引用が杜撰。まず「元年」は貞応三・元仁元(一二二四)年で、「元仁」が脱落(「元」の字に引かれた誤りであろう)。以下、「吾妻鏡」の本文も省略や誤字が認められる。以下、当該記事を引用する。
六日壬申。霽。炎旱渉旬。仍今日爲祈雨。被行靈所七瀬御秡。由比濱國道朝臣、金洗澤池知輔朝臣、固瀨河親軄、六連忠業、※河泰貞、杜戸有道、江嶋龍穴信賢。此御秡。關東今度始也。此外。地震祭〔國道。〕。日曜祭〔親軄。〕。七座泰山府君、知輔、忠業、晴賢、晴幸、泰貞、信賢、重宗等云々。又十壇水天供。弁僧正〔定豪。〕、令門弟等修之。[やぶちゃん字注:「※」=「狎」-「甲」+「由」。]
〇やぶちゃんの書き下し文
六日壬申。霽。炎旱、旬にわたる。仍りて今日祈雨の爲に、靈所に七瀨の御秡おんはらへを行はる。由比の濱には國道朝臣、金洗澤池には知輔朝臣、固瀬河には親軄ちかもと六連むつらには忠業ただなり※河いたちがはには泰貞。杜戸もりとには有道。江嶋龍穴には信賢のぶかた。此の御秡、關東には今度が始めなり。此の外、地震祭〔國道。〕・日曜祭〔親職。〕、七座の泰山府君、知輔、忠業、晴賢はるかた、晴幸、泰貞、信賢、重宗等と云々。又、十壇の水天供、弁僧正〔定豪。〕、門弟等をして之を修せしむ。
以下、以上の記載に少し語釈を施す。
「炎旱、旬にわたる」「新編鎌倉志」本文の「ハタる」は、旱魃が十日に「わたる」のルビの誤り。
「靈所に七瀨の御秡おんはらへを行はる」の「靈所」「七瀨」とは、往古に朝廷で行われていた祓の一種「七瀬祓ななせのはらい」のこと。七箇所の河川海岸島嶼を選んでそこに臨んで修された災厄を払い吉祥を招く儀式。七瀬の比定地には三種あり、難波や辛崎を含む大七瀬、松崎や大井川を含む霊所七瀬、京都内のコンパクトな土御門や中御門を含む加茂川七瀬があった。ここに記載されたように、この貞応三年(元仁への改元は十一月)の鎌倉幕府による霊的な御府内(実際の御府内とは若干異なるように思われる)の霊所七瀬を卜しての、初めての七瀬祓が行われた。その比定地であるが、由比浜・金洗沢池(田辺ヶ池)・固瀬川(現・片瀬川)・六連(現・六浦むつうら)・※河(現・鼬川いたちがわ)・杜戸(現・森戸)・江島龍穴であって、「新編鎌倉志」の「柚河ユノカハ」は明らかに誤字の上に、知ったかぶりしてルビを振っている、致命的な誤りとしか思えない。少しでも鎌倉を知る人間ならば「柚河」という地名は容易に不審に思い、「柚」と「鼬」の字の類似からすぐに気づくはずなのに、編者は一体、どうしたのだろう。不思議ではある。――まさか鼬川を昔はなんと御洒落に柚河と言った――なんてことは、黄門様、ちょっとあり得そうもない、ね。
因みにこの「金洗澤」も日蓮のレイ・ラインなのだ。「吾妻鏡」に「金洗澤池」とあるように、実はこの池は先に示した田辺ヶ池で、この池塘一帯を「金洗澤」と古称したのである。]
〇津村 津村ツムラ〔或作積良(或は積良に作る)。〕は、金洗澤の山の後ろなり。【東鑑】に、賴家ヨリイヘ將軍の時、積良ツムラにあるフルヤナギ、名木の由にて、御壺ヲンツボに移しゆるの事あり。《津村の湊》按ずるに、昔の津村ツムラミナトと云は此所か。或云、腰越コシゴヘ津村ツムラは一ガウなり。水濱を腰越と云、漁父の苫屋トマヤ也。山間を津村ツムラと云、農夫の柴扉なり。【江の島の緣起】には、つぶらと書。ツブラの大臣と云あり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の記事は、建仁二(一二〇二)年二月のもの。
廿日乙未。相摸國積良邊有古柳。名木之由。就令聞給。爲移植于鞠御壷。渡御彼所。北條五郎已下六十餘輩候御共。又被召具行景。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日乙未。相摸國積良邊に古き柳有り。名木の由、聞こしめし給ふに就きて、鞠の御壷に移し植ゑんが爲に、彼の所に渡御す。北條五郎已下六十餘輩、御共に候ず。又、行景を召具せらる。
「圓の大臣」とは、葛城円(かつらぎのつぶら ?~安康天皇三(四五六)年)のことか。「日本書紀」によれば有力豪族として履中天皇二(四〇一)年に国政に参加、安康天皇三(四五六)年に眉輪王(まよわのおおきみ)が安康天皇を殺害した(眉輪王の変)際、眉輪王と共犯の嫌疑をかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を匿うも、次期帝位を狙う大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこと:後の雄略天皇)に屋敷を包囲され、降伏を願い出るも拒絶されて敗死したとされる。この地と葛城円との関連は極めて薄いものと思われ、江ノ島縁起の記載は信じ難い。むしろ、腰越の船着き場を意味する「津」が元で、本文でも同一の里であったとする腰越から小動の鼻の東方の津村一帯へと有意に丸く盛り上がった丘陵地帯を「円」と捉えて「つぶら」「積良」「津村」と転訛しものではなかろうか。]

〇津村 津村ツムラ〔或作積良(或は積良に作る)。〕は、金洗澤の山の後ろなり。【東鑑】に、賴家ヨリイヘ將軍の時、積良ツムラにあるフルヤナギ、名木の由にて、御壺ヲンツボに移しゆるの事あり。《津村の湊》按ずるに、昔の津村ツムラミナトと云は此所か。或云、腰越コシゴヘ津村ツムラは一ガウなり。水濱を腰越と云、漁父の苫屋トマヤ也。山間を津村ツムラと云、農夫の柴扉なり。【江の島の緣起】には、つぶらと書。ツブラの大臣と云あり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の記事は、建仁二(一二〇二)年二月二十日のもの。
廿日乙未。相摸國積良邊有古柳。名木之由。就令聞給。爲移植于鞠御壷。渡御彼所。北條五郎已下六十餘輩候御共。又被召具行景。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日乙未。相摸國積良邊に古き柳有り。名木の由、聞こしめし給ふに就きて、鞠の御壷に移し植ゑんが爲に、彼の所に渡御す。北條五郎已下六十餘輩、御共に候ず。又、行景を召具せらる。
「圓の大臣」とは、葛城円(かつらぎのつぶら ?~安康天皇三(四五六)年)のことか。「日本書紀」によれば有力豪族として履中天皇二(四〇一)年に国政に参加、安康天皇三(四五六)年に眉輪王(まよわのおおきみ)が安康天皇を殺害した(眉輪王の変)際、眉輪王と共犯の嫌疑をかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を匿うも、次期帝位を狙う大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこと:後の雄略天皇)に屋敷を包囲され、降伏を願い出るも拒絶されて敗死したとされる。この地と葛城円との関連は極めて薄いものと思われ、江ノ島縁起の記載は信じ難い。むしろ、腰越の船着き場を意味する「津」が元で、本文でも同一の里であったとする腰越から小動の鼻の東方の津村一帯へと有意に丸く盛り上がった丘陵地帯を「円」と捉えて「つぶら」「積良」「津村」と転訛しものではなかろうか。]


[腰越圖]


〇小動〔附八王子の宮〕 小動コユルギは七里濵を西へき、腰越コシゴヘる左の方、離れたる巖山イハヤマあり。此所をこゆるぎと云ふ。山上に八王子の宮あり。又山のハシに、海邊へ指出たる松あり。風波に常に動くゆへに、こゆるぎの松と云と也。土御門ツチミカド内大臣の歌に、「こゆるぎのイソの松風ヲトすれば、夕波千鳥ユウナミチドリたちさはぐなり」。又北條氏康ウヂヤスの歌に、「きのふたちけうこゆるぎのイソの松、いそひでゆかん夕暮ユフグレミチ」此等の歌、此所の事とも云ひ、或は大磯ヲホイソの濵をむとも云ふ。相模の名所こゆるぎの歌多し。
[やぶちゃん注:「八王子の宮」八王子権現のこと。近江国牛尾山(八王子山)の山岳信仰に天台宗と山王神道が習合したもの。日吉山王権現或いは牛頭天王の眷属八神を祀る。文治年間(一一八五年~一一八九年)の源平合戦の際に佐々木盛綱が父祖の領国近江国八王子の宮を勧請したものと伝えられ、元弘三(一三三三)年五月の新田義貞鎌倉攻めでは、直前にここで戦勝祈願がなされたと伝えられている。明治の廃仏毀釈令まで八王子社と称した。現在は小動神社。「土御門内大臣」は源通親(みちちか 久安五(一一四九)~建仁二(一二〇二)年)のこと。親幕派の巨魁。和歌寄人となるなど、後鳥羽院歌壇の中心的存在となり、新古今集編纂を主導した(但し、完成前に死去)。「北條氏康」(永正十二(一五一五)年~元亀二(一五七一)年)は相模の戦国大名。後北条氏第三代目当主。室町期の有力被官山内・扇谷両上杉氏を関東から追放、武田・今川との間に甲相駿三国同盟を結ぶなど、世に『相模の獅子』と恐れられた武将。「大磯の濵」大磯海岸の小田原寄りにある現在、照ケ崎海岸と呼ばれている一帯は、古代は「よろぎ・ゆるぎ・こゆるぎ・こよろぎ」の浜(磯)と呼ばれ、万葉集・古今和歌集・新古今和歌集に詠唱作品が数多く見られる歌枕であった。さざれ石の散る、白砂青松のロケーションのワイド・レンジからいうと、大磯の方に分があるように私には感じられる。]

〇腰越村 腰越村コシゴヘムラは、江の島の前の村なり。《子死戀》【江の島の緣起】には、昔し江の島に惡龍んで、人のみたる故に、子死戀コシゴヒけりとあり。此村の西北は、固瀨村カタセムラ也。【太平記】に、新田義貞、逞兵二萬餘騎を卒して、片瀨・腰越を打廻り、極樂寺坂へノゾみ給ふとあるは此道スヂなり。假粧坂ケハイザカの方へムカはれけるゆへに、打マハりとはあるなり。鶴が岡一の鳥居より、此所まで六十町あり。
[やぶちゃん注:「逞兵」は「ていへい」と読む。逞しい屈強の兵。「ていひょう」とも読む。]

〇滿福寺〔硯池〕 滿福寺マンブクジは、腰越村の中にあり。龍護山と合す。眞言宗なり。開山行基、本尊は藥師〔行基の作。〕・不動〔弘法の作。〕此の寺地テラチは、昔し源の義經ヨシツネ宿シユクせられし所なりと云ふ。【東鑑】に、元暦二年五月二十四日、源の廷尉義經ヨシツネ、如思(ヲモひのマヽ)に朝敵をタイラヲハりぬ。アマサへ前の内府〔平の宗盛。〕を相ひ具して參上す。其の賞カネて不疑(疑はざる)處に、日來ヒゴロ不儀のキコへ有るに依て、忽御氣色を蒙り、鎌倉中に入られず。腰越のエキに於て、徒に日をワタるの間だ、愁鬱のアマりに、因幡前司廣元イナバノゼンシヒロモトに付して、一意の欵狀クハ(ン)ジヤウを賴朝へ奉つるとあり。其の狀の下書シタガキ也とて、今テラにあり。辨慶が筆跡と云ふ。狀中の文字、【東鑑】にせたるとは所々コトなり。或人云、新筆なり。辨慶が筆には非ずと。
硯池スヾリイケ 寺の前にあり。相ひ傳ふ義經ヨシツネの命にて、辨慶欵狀クハンジヤウきし時、硯水スヾリノミヅみたるイケなりと。イケ ハタに辨慶が腰懸石コシカケイシとてあり。
[やぶちゃん注:「欵狀」は正しくは「くわんじやう(かんじょう)」と読み、「款狀」と同じい。官位の懇望・訴訟の趣旨を記した嘆願書。
さて私は今年、この腰越状を高校生に教授し、既に「鎌倉攬勝考卷之十附録」の「滿福寺」の注で公にしている。そこでここではまず再度、
■「吾妻鏡」の「腰越状」パートの公開済みのテクスト
を示し、次に現在、満福寺に伝わる ◆「腰越状下書」 と伝えられるものをテクスト化して自分の複数テクストのそれぞれのオリジナル化を加えることにした。なお、これは私が三十四年前に満福寺を訪れた際に購入した縮刷された影印版を読み解いたものである。
■「吾妻鏡」所収「腰越状」
 では、まずは「吾妻鏡」原文白文(国文学研究資料館の「吾妻鏡」画像データベースを視認底本として活字に起こした。字配も再現した)及び私の訓読文(生徒に示したものは飽くまで私の好みの読みに従って読んだが、今回、底本に施された訓点を一部参考にして補正した)と現代語訳を掲げておく。「吾妻鏡」元暦二(一一八五)年五月二十四日の記載である。

■原文
廿四日戊午 源廷尉〔義經〕。如思平朝敵訖。剩相具前内府參上。其賞兼不疑之處。日來依有不儀之聞。忽蒙御氣色。不被入鎌倉中。於腰越驛徒渉日之間。愁欝之餘。付因幡前司廣元。奉一通款狀。廣元雖披覽之。敢無分明仰。追可有左右之由云云。
彼書云。
左衞門少尉源義經。乍恐申上候。意趣者。被撰御代官其一。為 勅宣之御使。傾 朝敵。顯累代弓箭之藝。雪會稽恥辱。可被抽賞之處。思外依虎口讒言。被默止莫太之勲功。義經無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘氣之間。空沈紅涙。倩案事意。良藥苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者實否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送數日。當于此時。永不奉拜恩顏。骨肉同胞之儀。既似空。宿運之極處歟。將又感先世之業因歟。悲哉。此條。故亡父尊靈不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申狀雖似述懷。義經受身體髮膚於父母。不經幾時節。故頭殿御他界之間。成孤。被抱母之懷中。赴大和國宇多郡龍門之牧以來。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命。京都之經廻難治之間。令流行諸國。隱身於在々所々。爲栖邊土遠國。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而爲平家一族追討令上洛之手合。誅戮木曾義仲之後。爲責傾平氏。或時峨々巖石策駿馬。不顧爲敵亡命。或時漫々大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之爲甲冑於枕。爲弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年來宿望之外。無他事。剩義經。補任五位尉之条。當家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非佛神御助之外者。爭達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王寶印之裏。不插野心之旨。奉請驚日本國中大少神祇冥道。雖書進數通起請文。猶以無御宥免。其我國神國也。神不可禀非禮。所憑非于他。偏仰貴殿廣大之御慈悲。伺便宜。令達高聞。被廻祕計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之餘慶於家門。永傳榮花於子孫。仍開年來之愁眉。得一期之安寧。不書盡詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義經恐惶謹言
 元暦二年五月日
    左衞門少尉源義經
進上 因幡前司殿

■やぶちゃんの書き下し文
廿四日戊午つちのえうま 源の廷尉ていい〔義經。〕、思ひの如ままに朝敵を平らげ訖はんぬ。剩つさへ相ひ具して前の内府を參上す。其の賞兼て疑ふべからざるの處、日來不儀の聞へ有るに依りて、忽ち御氣色を蒙り、鎌倉中に入れられず。腰越の驛に於て徒らに日を渉るの間、愁欝の餘りに、因幡前司廣元に付して、一通の款狀を奉ず。廣元、之を披覽すと雖も、敢て分明の仰せ無し。追つて左右有るべきの由しと云云。 彼の書に云く、 左衞門少尉源義經、恐れ乍ら申上候意趣は、御代官の其一に撰ばれ、 勅宣の御使として、 朝敵を傾け、累代弓箭きうせんの藝を顯はし、會稽の恥辱を雪ぐ。抽賞を被るベきの處、思の外、虎口の讒言に依りて、莫太の勲功を默止せらる。義經犯すこと無くして咎を蒙る。功有りて誤無しと雖も、御勘氣を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。倩々つらつら事のこころを案ずるに、良藥口に苦く、忠言耳に逆らふは先言なり。茲に因りて、讒者の實否を糺されずして、鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶる能はず、徒らに數日を送る。此の時に當りて、永く恩顏を拜し奉らずば、骨肉同胞はらからの儀既に空しきに似たり。宿運の極まる處か、將た又た先世の業因を感ずるか。悲しきかな、此の條、故亡父の尊靈再誕し給はずんば、誰れ人か愚意の悲歎を申し披かんや、何れの輩か哀憐を垂れんや。事新しき申し狀、述懷に似たりと雖も、義經、身體髮膚を父母に受け、幾時節を經ず、故頭殿たふどの御他界の間、みなしごと成り、母のふところの中に抱かれ、大和の國宇多の郡龍門の牧に赴きてより以來このかた、一日片時も安堵の思ひに住せず、甲斐無きの命をながらふと雖も、京都の經廻難治の間、諸國に流行せしめ、身を在々所々に隱し、邊土遠國を栖と爲して、土民百姓等に服仕せらる。然れども幸慶忽ち純熟して、平家の一族追討の爲に、上洛せしむるの手合ひに、木曾義仲を誅戮するの後、平氏を責め傾けんが爲に、或時は峨々たる巖石に駿馬をむちうち、敵の爲に命を亡ぼすを顧みず、或時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めんことを痛まず、むくろ鯨鯢いさなあぎとに懸く。加之しかのみならず、甲冑を枕と爲し、弓箭を業と爲す。本意は併しながら亡魂の憤りを休め奉り、年來の宿望を遂げんと欲するの外他事無し。剩へ義經五位の尉に補任の条、當家の面目希代の重職、何事か之に加へんんや。然りと雖も、今、愁ひ深く、歎き切なり。みづから佛神の御助非ざるよりの外は、いかでか愁訴を達せん。茲に因りて、諸神諸社牛王寶印の裏を以て、野心を挿まざるの旨、日本國中大少の神祇冥道を請じ驚かし奉り、數通の起請文を書きまゐらすと雖も、猶ほ以て御宥免無し。我が國は神國なり。神は非禮をくべからず。たのむ所は他に非ず、偏へに貴殿の廣大の御慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひて高聞に達せしめ、祕計を廻らされ、誤り無きの旨を優ぜられ、芳免に預からば、積善しやくぜんの餘慶を家門に及ぼし、永く榮花を子孫に傳へよ。仍りて年來の愁眉を開き、一期の安寧を得んこと、愚詞を書き盡さず、併しながら省略せしめ候ひ畢んぬ。賢察を垂れられんことを欲す、義經、恐惶謹言。
 元暦二年五月日
    左衞門少尉源義經
進上 因幡前司殿

■やぶちゃんの勝手自在現代語訳(腰越状は読み易くするために、内容から何箇所かで改行し、ダッシュや点線を施した)
二十四日戊午 源の廷尉殿〔源義経。〕、思う存分、朝敵たる平氏を徹底的に誅伐し終え、その凱旋に加えて前の内府平家総大将平宗盛を連行して鎌倉に参上した。その論功行賞は疑いなくこの上ないものであったのだが、日頃、梶原景時からの不穏不義の聞こえが重なったがために、突如、頼朝殿の御勘気を蒙り、廷尉義経殿は鎌倉御府内への入府を拒絶された。腰越の宿駅に於いて徒らに日を経るうち、憂愁の感極まり、政所別当因幡前司広元殿宛の一通の請願書を奉った。広元殿は義経殿の思いを汲んでこれを上覧に供したのだが、頼朝殿からは一向に明確な仰せ言もなく、ただ追って沙汰があるとだけのことであった。
その彼の書状に言う。

左右衛門少尉源義経、恐れながら申し上げるその趣旨は、鎌倉殿源頼朝の御代官の第一に選ばれ、天皇の御命令の使者として朝敵を打ち、先祖代々の武芸を存分に発揮し、我らが源氏の積年の恨みを晴らすことが出来ました。これによって他の誰よりも抜きん出て褒美を受けて当然で御座いますのに、思いの外、恐ろしいまでの悪意を持ったいわれなき讒言によって多大な功績を無視されてしまいました。義経は犯してもいない罪を受け、功績があって誤ったことはしていないにも拘らず、兄上の怒りを受けてしまい、空しく血の涙を流して、心はどん底に沈んでおりまする……。
そんな中で、つらつらこのたびのことを考えてみまするに、良薬は口に苦く、正しい忠告に限って耳に痛いということは古人も述べている通りです。……まさにそこです!……兄上に讒言を伝えた者が、はたして誠実な人間であるか、不実な人間であるかをろくにお調べにもなられず、また、私めは鎌倉の御府内にさえも入れてもらえぬが故に、心からの弁明をする機会も与えられておりませぬ。そうして……そうして、ただ空しくこの数日を過ごしてしまいました……。
今この時、兄上の御尊顔を拝することが出来ぬとならば、血を分けた兄弟であるという事実さえ、空しいものになったも同様!……
私めの運命が私には分からぬ理由から何故か行き詰まってしまったのか、あるいは私めの知らぬ私の前世に、何か悪い業でもあったのかと感じさせるほどのこととでも申しましょうか!?……
ああっ! 何と悲しいことか!……
亡くなられた父源義朝様の御魂が再臨でもされない限り、一体、誰がこの私の悲しみと嘆きを思いやって、兄上に申し開きしてくれるでしょうか、いいえ! 誰も正直な私を救ってくれる方など、おりません! この無実の罪を受けた私をどこの誰が哀れんでくれるでしょうか、いいえ! 誰独り哀れに思ってくれる者など、おりません! 救ってくれる、哀れに思ってくれる方は、兄上! あなたしかおられぬのです!……
さても、この度の新たなこの弁明の手紙、私めが愚痴を述べているかのように見えると致しましても――この義経、父母に生を受けて以来、いくらも経たぬうちに、我らが父左馬頭義朝殿が亡くなられ、孤児となり、母の懐に抱かれ、大和の国宇陀の郡龍門の牧に赴いてからというもの、毎日片時も安心したことはこれ御座なく、生き甲斐のない命ばかりを長らえて参りましたけれども、京都周辺は非常に混乱をきたしておりましたので、諸国を流浪し、身をいろいろな所に隠しては、僻地や片田舎を栖かとし、卑しい百姓どもにさえ使役されたり致しました。しかし、幸にして素晴らしい運が結実致して、平家一族追討のために上洛したその先ずの手合せに、かの山猿木曾の義仲を見事誅殺、その後、平氏を亡さんがために、ある時は険しい岩山に駿馬をむち打って、命を失うことをも顧みず、ある時は果てしない海の暴風大波をしのぎ、身を海の藻屑とせんことをも厭わず、鯨の顎にかみ砕かれんかとするも顧みず、そればかりか、そもそもが日々、兜や鎧を枕に野宿し、殺生をこととする武芸を、生きるための本業と致して参ったのです。――しかし! しかし、これは愚痴では御座いません! 私めの本意は、亡き先祖の魂を鎮め奉り、長年の宿願で御座った源氏の家名の再興を遂げんと望む以外には、これ、全く御座らぬのです!……
しかも、義経が五位の左衛門尉に補任されましたことは、当家の面目も立ち、何と言っても類いまれなる重職で御座ればこそ、これ以上によきことなど、あるでしょうか?……
しかしながら……
今は愁いも深く、嘆こと、頻り……。
神や仏のお助けでもないことには、どうしてこの訴えを兄上のみ心にお伝えすることが出来ましょうや!……
いいえ! もうこうなっては神仏にすがるしか御座いませぬ!……
さればこそ、私めは諸神社の牛王法印の御札を裏返し、そこに私めが全く以って兄上に野心などは持って御座らぬこと、日本国中のあらゆる神や鬼神に誓いを立て、何通もの起請文を書いて兄上に奏上致しました……が、いまだにお許しが御座いませぬ……。
我が国は神の国にて御座る! その神に誓って起請文を書いたのに、これに背くようなことを、失礼ながら、神々が受けていいはずがないでは御座いませんか?!
――もう頼みにできるのはほかでもない、ただひたすら、あなた、因幡前司殿大江広元様の御慈悲を仰ぐばかり! 便宜を図って兄上のお耳にこの私めの思いを伝えさせ、秘計をもって私に過ちがないことを弁明して下さり、兄上からお許しに預かれたとならば、正しき私を救うという善行を積んだ貴兄広元殿の功徳は大江一族総てに及びまする! その大江氏の功徳による栄華を永く子孫に伝えられるがよい!
以上をもって、長年の私めの愁いを取り除き、一生の安穏を得ようと思うて御座る!
この悲しみは最早、言葉では書き尽くせませぬ!……
しかし……しかし。これでも省略し、省略し、何とか書き記したものなので御座います! どうか、お察しあれかし! 義経、心から謹んで大江広元様に申し上げるもので御座います。
 元暦二年五月吉日
   左衛門少尉源義経
進上 因幡前司殿

◆「腰越状下書」  まず、以下にその影印画像を示す。巻紙であるので、読み易さを考慮して、ダブらせながら、三つのパートに分けて示した。

[腰越状下書 文政三年秋再刻になる「玻璃峯万福寺藏版」(三分割表示)]






 文政三(一八二〇)年秋に万福寺で再刻された(文末参照)影印を底本とし、まず原本の字配に従い改行したものを掲げ(◆原文1)、次に全部を繋げて読み易く句読点を配し、補正字を本文化したものを提示(◆原文2)してその後に「吾妻鏡」との相違箇所を列挙、最後に私が訓読したものを示した(難読箇所にはルビを振った)。かなりの箇所に「吾妻鏡」とやや異なった表現や語順が見られるが、大きな意味内容の齟齬は認められないので現代語訳は附さなかった。本文の意味には文中の〔 〕内の字は末尾に示されるように、翻刻する際に末梢・カスレ等で判読不能の文字を補ったものを示す。(→ )は誤字と思われるものを私が補正したものである。私は影印読解は余り得意ではない。とんでもない誤りがあるかも知れない。誤読の箇所を発見された方はご一報頂けると幸いである。

◆「腰越状下書」原文1
源義經乍恐申上候意趣者被撰御
代官其一為 勅宣之御使傾朝〔敵〕
顯累代弓箭之藝雪會稽〔恥〕
辱可被御恩賞之處思外依虎〔口〕
之讒言被默〔止〕莫太之勲功義經〔無〕
犯而蒙咎雖有功無誤蒙御勘〔氣〕
之間空沈悲涙倩案事意良
藥苦口忠言逆耳先云也因茲
不被糺讒者實否不被入鎌倉中
之間不能述素意徒送數日當
此時永不奉拜恩顏者骨肉同
抱(→胞)之儀既似空之宿運〔之所〕以極〔歟〕
將又感前世之業因歟悲哉此
條亡父尊〔上〕靈不再誕給者誰人
申披愚意之悲歎何輩埀哀
憐乎哉釋新申狀雖似述懷義
經受身體髮膚於父母不經幾
時節故頭殿御他界之間成孤
子被抱母之懷中赴大和國宇多
郡龍門牧以降一日片時不住〔安〕
堵之思雖存無甲斐之命許京
都之經廻難治之間令流行諸〔國〕
隱身於在々處々栖邊土遠國被
服仕土民百姓等幸慶忽純熟〔爲〕
平家之一族追討令上洛之手合
誅戮木曾義仲後爲攻傾平〔家〕

[やぶちゃん字注:ここに間隙があり、以下の翻刻時の注が小文字で入る。思うに次の本文行の「或時峨々巖石鞭駿馬」と「或時漫々大海凌風波之難」の間に、右側から「不顧爲敵亡命」の脱落が書き入れされてあるが、それがカスレて読めず、寺の「相陽鎌倉郡腰越万福寺畧緣起」の記載に依って推定復元したことを指す。しかもそこには義経自身による加筆であるとの記載があり、この脱落故に、これが下書となり、満福寺に残されたと記す。よく見ると、二行目の下の本文の「馬」のやや離れた右下方部分に小文字で、「不」の四画目らしき右払い、「顧」の「戸」と次の一画、「爲」、「敵」の十二画目と思しい左払い、一字分空白の後に「命」の字の痕跡を見ることが出来る。「義経」の「経」の字はママである。]
 不顧爲敵亡命六字落字故
 義経公御加筆也余略緣起委

或時峨々巖石鞭駿馬或時漫々大
海凌風波之難不痛沈身於海〔底〕
不顧懸骸於鯨鯢之鰓加之枕於
甲冑業於弓箭本意併奉休亡
魂憤欲令遂年來宿望之外
無他事剩義經被補任五位
尉之條當家之面目希代〔之〕
重職何事如之哉雖然今
愁深歎切也自非佛神之御助
者爭達愁訴依之諸寺諸社
牛玉寶印飜裏不挿野心
之旨奉請驚日本國中大小
神祇冥道雖書進數通之〔起〕
請文猶以無御宥免其吾朝 神國也神不可禀非礼所憑非 他偏仰貴殿廣大之御慈悲 伺便宜令達高聞被廻祕計 被優無誤之旨預芳免者積善 餘慶及於家門永傳榮華於 子孫仍開年來之愁眉得一期 之安寧不書盡詞併令省〔略〕 候畢諸事埀賢察〔給〕誠〔恐〕 誠惶謹言
 元暦二年五月日  源義經
進上 因幡前司殿

[やぶちゃん注:末尾に、翻刻の際の以下の小文字の注がある。ここでは「〔庚辰〕」は割注を示す。]
  所々加細字者文字消而不明故如此

 文政三〔庚辰〕穐再刻
    相刕鎌倉郡腰越
          瑠璃峯万福寺藏版

◆「腰越状下書」原文2
源義經、乍恐申上候意趣者、被撰御代官其一。為 勅宣之御使、傾朝敵、顯累代弓箭之藝、雪會稽恥辱。可被御恩賞之處、思外、依虎口之讒言、被默止莫太之勲功。義經無犯而蒙咎。雖有功無誤、蒙御勘氣之間、空沈悲涙。倩案事意、良藥苦口、忠云逆耳先言也。因茲、不被糺讒者實否、不被入鎌倉中之間、不能述素意、徒送數日。當此時、永不奉拜恩顏者、骨肉同胞之儀既似空。之宿運之所以極歟。將又感前世之業因歟。悲哉、此條、亡父尊上靈不再誕給者、誰人申披愚意之悲歎、何輩埀哀憐乎。釋新申狀、雖似述懷、義經、受身體髮膚於父母、不經幾時節、故頭殿御他界之間、成孤子、被抱母之懷中、赴大和國宇多郡龍門牧以降、一日片時不住安堵之思、雖存無甲斐之命許、京都之經廻難治之間、令流行諸國、隱身於在々處々、栖邊土遠國、被服仕土民百姓等。幸慶忽純熟、爲平家之一族追討、令上洛之手合、誅戮木曾義仲後、爲攻傾平家、
 「不顧爲敵亡命」六字落字故、義経公御加筆也。余略緣起委。
或時峨々巖石鞭駿馬、或時漫々大海凌風波之難、不痛沈身於海底、不顧懸骸於鯨鯢之鰓。加之、枕於甲冑、業於弓箭。本意併奉休亡魂憤、欲令遂年來宿望之外無他事。剩義經被補任五位尉之條、當家之面目希代之重職、何事如之哉。雖然、今、愁深、歎切也。自非佛神之御助者、爭達愁訴。依之諸寺諸社牛玉寶印之飜裏、不挿野心之旨、奉請驚日本國中大小神祇冥道、雖書進數通之起請文、猶以無御宥免。其吾朝神國也。神不可禀非礼。所憑非他、偏仰貴殿廣大之御慈悲。伺便宜令達高聞、被廻祕計、被優無誤之旨、預芳免者、積善餘慶及於家門、永傳榮華於子孫。仍開年來之愁眉、得一期之安寧、不書盡詞併令省略候畢。諸事、埀賢察給。誠恐誠惶謹言。
 元暦二年五月日  源義經
進上 因幡前司殿

  所々加細字者、文字消而不明故、如此。

 文政三〔庚辰〕穐再刻
    相刕鎌倉郡腰越
          瑠璃峯万福寺藏版

★「吾妻鏡」所収「腰越状」との異同
 最初に示したものが「吾妻鏡」版で、矢印の後が「腰越状下書」。現代語訳を省略する代わりに、ここに( )で簡単な注釈を附した。但し、(「在々所々」→「在々處々」)等の同字異体字の異同は原則、省略した。
・左衞門少尉源義經→源義經(職名なし。職名なしは異例。)
・傾 朝敵→傾朝敵(尊崇を示す闕字なし。闕字なしは異例。)
・可被抽賞之處→可被御恩賞之處(やや自信がないが、少なくとも「抽」ではない。後者の方が現代人には分かりがいい。)
・有功雖無誤→雖有功無誤
・空沈紅涙→空沈悲涙
・當于此時→當此時
・永不奉拜恩顏→永不奉拜恩顏者
・宿運之極處歟→之宿運之極處歟
・將又感先世之業因歟→將又感前世之業因歟
・故亡父→亡父
・尊靈→尊上靈
・何輩垂哀憐哉→何輩垂哀憐乎
・事新申狀→釋新申狀(「釋新」は、この度の事態に附き、新たな解釈を施した弁明書の意としては通る。)
・成孤→成孤子
・龍門之牧以來→龍門牧以降(「之」なし/「以來」が「以降」の二箇所。)
・雖存無甲斐之命→雖存無甲斐之命許
・爲栖邊土遠國→栖邊土遠國
・然而幸慶忽純熟而爲平家一族追討令上洛之手合→幸慶忽純熟平家一族追討令上洛之手合(接続詞の脱落で、特に問題を感じない。却ってすっきりしてよいように思われる。)
・爲責傾平氏→爲攻傾平家(「責」が「攻」/「氏」が「家」の二箇所。)
・不顧爲敵亡命→本文になし(右に書き入れ。)
●「腰越状下書」の注
「不顧爲敵亡命」六字落字故、義経公御加筆也。余略緣起委。
書き下すと、
「敵の爲に命を亡ぼすを顧みず」は六字落字の故、義経公の御加筆なり。余略ほぼ緣起にくはし。
か。
・懸骸於鯨鯢之鰓→不顧懸骸於鯨鯢之鰓(ここの下書に「不顧」があって「吾妻鏡」にないことと、直前の同じ「不顧」で始まる「不顧爲敵亡命」が「下書」で脱落していることは偶然ではなく、何らかの連関が考えられ、その点では本下書が後世の偽物ではない証左の一つにも思える。但し、そうした真実性を付与するための、逆に高度な意識的操作であるという解釈も可能ではある。)
・爲甲冑於枕→枕於甲冑
・爲弓箭於業→業於弓箭
・欲遂年來宿望之外無他事→欲令遂年來宿望之外無他事
・剩義經補任五位尉之条→剩義經被補任五位尉之條(「被」の挿入/「条」が「條」の二箇所。)
・何事加之哉→何事如之哉(前者の方が意味は自然だが、画像を見る限り、「加」には見えない。)
・歎切→歎切也
・自非佛神御助之外者→自非佛神之御助者
・因茲→依之
・以諸神諸社牛王寶印之裏→諸寺諸社牛玉寶印之飜裏(「以」なし/「諸神」が「諸寺」/「王」が「玉」/「翻」の挿入の全四箇所。「牛王」は「牛玉」とも記した。「飜裏」は牛王宝印の裏に書かれた誓詞を翻してみせたことから「ほんり」と言ったもので、極めて自然な謂いである。)
・雖書進數通起請文→雖書進數通之起請文
・其我國神國也→其吾國神國也
・所憑非于他→所憑非他
・及積善之餘慶於家門→積善之餘慶及於家門
・欲被垂賢察→諸事埀賢察給
・義經恐惶謹言→誠恐誠惶謹言(後者は奏上文の結語として穏当。)
・左衞門少尉源義經→源義經(位置は「吾妻鏡」では年月日の次行下部であるのに対し、「下書」は年月日の下二字下げ位置にある。)
●「腰越状下書」の注
「所々加細字者、文字消而不明故、如此。
文政三〔庚辰〕穐再刻
    相刕鎌倉郡腰越
          瑠璃峯万福寺藏版」
書き下すと
「所々に加へる細字は、文字消えて明らかならざる故、此くのごとし。
 文政三〔庚辰〕穐再刻
    相刕鎌倉郡腰越
          瑠璃峯万福寺藏版

で、「相刕」は「相州」の異体字。「瑠璃峯万福寺」とあるが、現在の山号は龍護山であり、「万」ではなく、「滿」である。「関東古義真言宗本末帳」によれば、かつては「海北山万福寺」と号していた。同年の文政三(一八二〇)年再版「相陽鎌倉郡腰越万福寺畧緣起」にも外題に「瑠璃峯万福寺略緣起」とあり、行基造立の本尊薬師如来の瑠璃界に基づく旨の記載がある。当時の山号としては、これが用いられていたことが分かる。

◆「腰越状下書」やぶちゃんの書き下し文
源義經、恐れ乍ら申上候意趣は、御代官の其一に撰ばれ、 勅宣の御使として、朝敵を傾け、累代弓箭弓箭きうぜんの藝を顯はし、會稽の恥辱を雪ぐ。御恩賞を被るベきの處、思の外、虎口の讒言に依りて、莫太の勲功を默止せらる。義經犯すこと無くして咎を蒙る。功有りて誤無しと雖も、御勘氣を蒙るの間、空し悲涙に沈む。倩々つらつら事の意を案ずるに、良藥口に苦く、忠言耳に逆らふは先言なり。茲に因りて、讒者の實否を糺されずして、鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶる能はず、徒らに數日を送る。此の時に當りて、永く恩顏を拜し奉らずば、骨肉同胞の儀既に空しきに似たり。之れ、宿運の極まる所以か、將た又た前世の業因を感ずるか。悲しきかな、此の條、故亡父尊上の靈再誕し給はずんば、誰れ人か愚意の悲歎を申し披かんや、何れの輩か哀憐を埀れんや。釋新の申し狀、述懷に似たりと雖も、義經、身體髮膚を父母に受け、幾時節を經ずして、故頭殿たふどの御他界の間、孤子と成り、母の懷の中に抱かれ、大和の國宇多の郡龍門の牧に赴きてより以降、一日片時も安堵の思ひに住せず、甲斐無きの命をながらふと雖も、京都の經廻難治の間、諸國に流行せしめ、身を在々處々に隱し、邊土遠國を栖となし、土民百姓等に服仕せらる。幸慶忽ち純熟、平家の一族追討の爲に、上洛せしむるの手合ひに、木曾義仲を誅戮するの後、平家を攻め傾けんが爲、或時は峨々たる巖石に駿馬を鞭うち、敵の爲に命を亡ぼすを顧みず、或時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めんことを痛まず、骸を鯨鯢の鰓に懸くるを顧みず。加之しかのみならず、甲冑を枕とし、弓箭を業とす。本意は併しながら亡魂の憤りを休め奉り、年來の宿望を遂げしめんと欲するの外は他事無し。剩へ義經五位の尉に補任せらるの条、當家の面目、希代の重職、何事か之くのごとくならんや。然りと雖も、今、愁ひ深く、歎き切なり。みづから佛神の御助非ずば、いかでか愁訴を達せん。之れに依りて、諸寺諸社牛王寶印の飜裏、野心を挿まざるの旨、日本國中大小の神祇冥道を請じ驚かし奉り、數通の起請文を書きまゐらすと雖も、猶ほ以て御宥免無し。其れ、吾が國は神國なり。神は非礼をくべからず。たのむ所は他に非ず、偏へに貴殿の廣大の御慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひて高聞に達せしめ、祕計を廻らされ、誤り無きの旨を優ぜられ、芳免に預からば、積善の餘慶、家門に及ぼし、永く榮花を子孫に傳へよ。仍りて年來の愁眉を開き、一期の安寧を得んこと、愚詞を書き盡さず、併しながら省略せしめ候ひ畢んぬ。諸事、賢察を垂れられんことを給ふ。誠恐誠惶謹言。
 元暦二年五月日  源義經
進上 因幡前司殿

 さても、そこで今度は気になるのは、私が注で示した「相陽鎌倉郡腰越万福寺畧緣起」である。幸い、早稲田大学電子図書館で本書を画像で閲覧することが出来ることが分かったので、ここにそれを私が視認して電子テクスト化することにした。一部の略字漢字が使用されているが、原則、正字に直した。これで満福寺の私の注は完璧なものとなろうかと思う。本文片仮名は本頁に準じて平仮名に直し、適宜、句読点を打った。

◎「相陽鎌倉郡腰越万福寺畧緣起」
《表紙》
   瑠璃峯
      略緣起
   万福寺
《本文》
  相陽鎌倉郡腰越畧緣起
夫、當寺ハ人皇四十五代聖武シヤウム天平十六〔甲申。〕歳、行基ギヨウキ菩薩御建立の靈地也。其耒由をタヅヌるに、此年、關東大ヱキす。此に天皇、行基にミコトノリして、東國の疫病平癒を祈らせんと也。此に於て、行基、勅を蒙り、關東へ下向して所々に靈佛を安置アンチし給ふ。中にも當地は、前は海にして東に山有り、是れ疫病平除をイノらん靈場にして、東方瑠璃ルリ界にも比せんと、即、藥師日光月光の灵躰を作、當寺を造立し給ひ、尊躰を安置し奉り、病災悉除の祈念成さしむる。日成らずして東國の疫病平癒しけり。夫れ、此尊は本行菩薩道の初には發に十二の大願を以し、東方瑠璃界のアイダには、ミチビくに千万の下愚カグを以す。是故に藥壷を開て祕方を施せば衆病を速疾ソクシツに除く。加之、日光月光は左右に居して定惠の二德を内心に施す。十二神ジヤウは前後に從て持誦ヂジユの四ハイを外相にマモる。八万四千の夜叉は守護ヲコタらず、イハンや信心參詣サンケイの衆人は諸病を速疾に除き、無病安泰にして子孫繁榮久を守らん。故に此尊の經に「我此名号一經其耳衆病悉除身心安樂。」〔文。〕。
其後人皇八十二代後鳥羽院の御宇、元暦二年〔改元、文治元也。〕五月源義経公平家を討ホロぼし、宗盛父子を生捕腰越に御着の處、梶原が讒言に依て和田義盛に仰付られ、當村先に新關を構へ〔地名十間坂と云。〕、鎌倉に入ることを許さず。是に於て當寺を旅舘リヨクワンと定られ、野心をサシハサまざる旨、數通の起請文、進と雖ども、更に上聞に達せず。此に依て、毛利因幡前司大江廣元に附て申開きせんと、辨慶に仰付られ、世に流布の腰越狀をシタヽめらるゝ中に、「不顧爲敵亡命」(敵の爲に亡命を顧りみず)の六字落字故に、義経公御加筆成され、此故に下書と成て當寺に殘せり〔下畧。〕
    誰文政三〔庚辰〕仲穐再版
「天平十六」は西暦七四四年。「東方瑠璃界」釋迦が唱えた東方の彼方にある浄瑠璃という清浄なる仏土。女性がおらず、悪所なく苦の音声なく一切の差別がない。土壌は瑠璃で、金縄によって道が示され、あらゆる建物は七宝で出来ているという。西方浄土と同等の功徳を持ち、菩薩衆の最上位にある日光遍照と月光遍照の二菩薩が世尊である薬師瑠璃光如来の正法の宝蔵を守っているとされる。「灵躰」は「れいたい」で「霊体」。「藥壷」の「藥」は底本では「荼」のような字であるが、私の判断で薬師如来の持つ薬壺と判じた。「加之」は「しかのみならず」と読む。「四軰」は出家・在家の男女を指す語。この「軰」は底本では「車」が「東」であるが、誤字と判断して改めた。『此尊の經に「我此名号一經其耳衆病悉除身心安樂。」』とは大唐三藏法師玄奘奉詔譯「藥師琉璃光如來本願功徳經」の、先に示されている十二の発願の「第七大願」に現れる句。
〇原文
第七大願。願我來世得菩提時。若諸有情。衆病逼切無救無歸無醫無藥無親無家貧窮多苦。我之名號一經其耳。衆病悉得除身心安樂。家屬資具悉皆豐足。乃至證得無上菩提。
〇やぶちゃんの書き下し文
第七の大願。願はくは我れ、来世に菩提を得る時、若し諸有情、衆病逼切にして救ひ無く、歸するなく、醫無く、藥無く、親無く、家無く、貧窮にして苦多くせば、我の名號を一たびその耳に經ば、衆病悉く除き、心身安楽を得。家屬・資具悉く皆、豊にして足る。乃ち無上の菩提を證得するに至る。
「進と雖ども」は「まゐらすといへども」と読んでいよう。「雖」は底本では「雖」から(ふるとり)を除去した(へん)のみの字体であるが、正字で示した。
「十間坂」現在、小動の鼻の東側(七里ヶ浜側)の、海から国道に通ずる狭い路地があり、ここが十間坂と呼ばれている。小動神社の前の国道を横切って、浄泉寺の横を通り、龍口寺方面に続く古道がそれであろう。

最後に。「硯池」の脇には今も「辨慶が腰懸石」はある。……Tさん……三十四年前のあの夏の日、貴女を座らせて写真を撮ったね……「私が弁慶ってこと?」と頰を少し脹らませて座りながら……でも貴女は笑顔でファインダーの中にいた……貴女の笑顔を……私は永遠に忘れません……あの時の心は確かに永遠だったのです……]

〇袂浦 袂浦タモトノウラは、腰越村コシゴヘムラより、江の島へ行ミチあり。其の左の濵邊ハマベタモトカタチゴトくなり。故に名く。【夫木集】の歌〔作者不知(作者知れず)。〕「なびきこしタモトウラのかひしあらば、千鳥チドリアトをたへずとはなん」。

〇龍口寺 龍口寺リウコウジは、腰越村コシゴヘムラの内なり。寂光山と改す。日蓮遷化の後、弟子六老僧、チカラアハせて建立す。つて日蓮を開山とす。此の寺は、八箇寺輪番に住持す。妙典寺〔比企が谷の末寺也。〕・本成寺〔身延の末寺也。〕・本立寺〔比企が谷の末寺也。〕・法源寺〔中山の末寺也。〕・本蓮寺〔本國寺の末寺也。〕・觀行寺〔玉澤の末寺也。〕・東漸寺〔中山の末寺也。〕・淨立寺〔碑文谷の末寺也。〕、是を固瀨カタセの八箇寺と云ふ。皆龍口寺の近邊にあり。
[やぶちゃん注:「八箇寺」輪番片瀬腰越八ヶ寺。「固瀨の八箇寺」(片瀬八ヶ寺)は通称。この輪番による住持制は明治十八(一八八五)年頃までは行われていたらしい。なお、以下に示された末寺の本寺は元の本寺で、現在は総て独立している。
「妙典寺〔比企が谷の末寺也。〕」現在の鎌倉市腰越にある。「比企が谷」は妙本寺のこと。
「本成寺〔身延の末寺也。〕」現在の鎌倉市腰越にある。「身延」は身延山久遠寺のことであるが、これは誤りで、本成寺は鎌倉の本覚寺末寺であった。
「本立寺〔比企が谷の末寺也。〕」これは現在の鎌倉市腰越にある本龍寺の誤り。この寺は八ヶ寺の中では最も早い創建で、元比企高家邸跡に建てられている。比企高家は大学三郎高家とも称し、建仁三(一二〇三)年の比企の乱で滅びた比企氏の当主比企能員の子で出家して日学と名乗ったとされる比企能本(大学三郎能本)と同一人物と考えられる。日学上人はこの本龍寺の元本寺である妙本寺(比企屋敷跡)の創建している。
「法源寺〔中山の末寺也。〕」現在の鎌倉市腰越にある。「中山」とは正中山法華経寺。千葉県市川市中山にある文応元(一二六〇)年創立の日蓮宗大本山寺院で、中山法華経寺とも呼ばれる。
「本蓮寺〔本國寺の末寺也。〕」現在の藤沢市片瀬にある。「本國寺」京都府京都市山科区にある、日蓮宗の大本山大光山本圀寺のこと。
「觀行寺〔玉澤の末寺也。〕」現在の鎌倉市腰越にある。「玉澤」は妙法華寺のこと。現在の静岡県三島市玉沢にある日蓮宗本山寺院。
「東漸寺〔中山の末寺也。〕」現在の鎌倉市腰越にある。
「淨立寺〔碑文谷の末寺也。〕」これは現在の藤沢市片瀬にある常立寺の誤り。文永の役の翌年の建治元(一二七四)年に元から降伏勧告の目的で来日した杜世忠ら五人の国使が北条時宗の命によって龍ノ口刑場で処刑され、ここに葬られたと伝えられる。現在ある元使塚は大正十四(一九二五)年の新しい建立であるが、その碑には「誰姿森」とある。これは「だがすがもり」若しくは「だがすがたもり」と読み、この常立寺周辺の古地名で、「新編相模風土記」によると、ここ誰姿森にはかつて蕃神堂(外国人の信ずる神を祀る堂)があったという。陰鬱な地名と言い、この地は元使のみならず、龍ノ口刑場で処刑された罪人が葬られた地と推定されているが、あえて「蕃神堂」とするからには、古い時代にも彼ら元使の魂を弔った者があったのかも知れない。]
本堂 日蓮の像を安ず。堂内に、日蓮クビの座の石とてあり。注畫讚に、文永八年九月十二日、日蓮難にふとあり。
日蓮の土籠ツチノロウ 堂の西の山の根に、巖窟あるを云ふ。前に日蓮の敷皮石シキガハイシとてあれ共、非なり。堂内に有を以て正とすと云ふ。
番神堂 本堂の東にあり。松平飛驒の守利次トシツグシツ、再興すと云ふ。
[やぶちゃん注:これは三十番神を祀った堂のこと。三十番神は神仏習合の本地垂迹説による信仰で、毎日交替で一ヶ月(陰暦では一ヶ月は二十九か三十日)の間、国家や民を守護し続けるとされた三十柱の神仏を指す。鎌倉期に流行し、特に日蓮宗で重要視された。「松平飛驒の守利次が室」「松平飛驒の守利次」は前田利次(元和三(一六一七)年~延宝二(一六七四)年)。加賀藩主前田利常次男、越中富山藩初代藩主。彼の「室」を、正室ととるなら徳川家家臣で壬生藩鳥居家初代当主鳥居忠政の娘宗姫である。]
龍口明神 寺の東、山の上にあり。注畫讚に云、欽明天皇十三年四月十二日、此土に天女降り居す。是辨才天女の應作なり。此湖水の惡龍、遙に天女の美質をヒソカに感じて天女の所に至る。天女不快にして曰、我に本誓あり、普く群生をスクふ、ナンヂ慈憐なくして生命をつ。何ぞ好逑コウキウならん。龍曰く、ワレ教命にマカせん、自今以後、物のために毒をせずして哀憐をれん。天女則ちダクす。龍又チカひをて、南に向て山をなす。龍口山是也。此事【江の島の緣起】にも見へたり。江の島は此寺の南の海中にあり。
[やぶちゃん注:「欽明天皇十三年」西暦五五二年。「好逑」は良きつれあい、理想的な配偶者のこと。]


[固瀨圖]


〇固瀨村〔附固瀨川〕 カタ〔或作片(或は片に作る)。〕 ムラは、腰越村コシゴヘムラの西なり。河あり、固瀨川カタセガハと云ふ。駿河スルガ次郎淸重キヨシゲ、戰死の所なり。大庭ヲホバの三郎景親カゲチカを梟首せし所も、此の河の邊なり。【太平記】に、義貞ヨシサダ鎌倉合戰の時、片瀨・腰越・十間坂、五十餘箇所に火をくるとあり。又昔し靑砥アヲト左衞門藤綱フジツナ、平の時賴トキヨリ三島マフでの時、シノびて供奉して、片瀨川の中にてウシ尿イバりをしけるを見て、哀れヲノれは、守殿カフドノの御佛事の風情しけるウシかなと、ワラひければ、サフラヒども、ゆへをひしかば、さればこそ、此數日雨ふらず。田畑をからし、諸民へをカナしむ所に、此のウシ 尿イバりをせば、田畠の近き所にてもあらで、川中にてナガしつることよと云。ノチ比の事時賴トキヨリキヽに達して、仕進せしと、【北條九代記】にへたり。【鎌倉ヲホ日記】に、正嘉元年十月に、靑砥アヲト左衞門藤綱フジツナ し出さる。政道補佐のタメなりとあり。中務卿宗尊親王の歌に、「カヘて又見ん事もかたせ川、ニゴれる水のすまぬ世なれば」。相傳、此は將軍の職をやめられ、歸洛の時の歌なりと、按ずるに、【東鑑】に、宗尊親王、路次に出御あり。北門より赤橋アカハシの西にゆき、武藏大路を經て、彼のハシの前に於て、御輿ヲンコシ若宮ワカミヤの方に向へ奉り。暫く御所念有て、御詠歌にヲヨぶと有て、歌は不載(載せず)。蓋し此の歌ならん。又藤原の爲相タメスケの歌に、「ワタす今やしほひのかたせ川、ヲモひしよりは淺き水哉ミヅカナ」と。鶴が岡一の鳥居より此の地まで、關東道十三里バカりあり。
[やぶちゃん注:「【北條九代記】に見たり」というこの逸話は、同書巻八「相模の守時賴入道政務付靑砥左衞門廉直」に所収するが、この引用では意味が分からない。該当箇所を総て以下に示し(底本は「うわづら文庫」の有朋堂文庫「保元物語・平治物語・北条九代記」を用いたが、一部のルビを省略したり、本文に出したりてある)、私の訳を附した。
□原文
      〇相模の守時賴入道政務せいむ付靑砥左衞門廉直れんちよく
相州時賴入道は、國政よこしまなく、人望誠にめでたく内外に付けて私なしと雖も、奉行、頭人、評定衆の中に、ややもすれば私欲に陷りて、廉直を謬る事あり。如何にもして正道に歸らしめ、世を太平の靜治せいぢに置いて萬民を撫育ぶいくせばやとぞ思はれける。此所に靑砥左衞門尉藤綱とて、廉恥正直れんちしやうぢきの人あり。その先租を尋ぬれば、本は伊豆の住人大場十郎近郷ちかさとは、承久の兵亂に宇治の手に向ひて、目を驚す高名しければ、その勸賞けんじやうに上總國靑砥莊を賜りけり。是より相傳して、靑砥左衞門尉藤滿に至り、この藤綱はおもひものの腹に生れて、殊更末子なりければ、父藤滿もさのみに思はず、然るべき所領もなし。出家に成れとて、十一歳にて眞言師に付けて弟子となす。いとけなき時より、利根才智ありて、學文を勤めけるが、如何なる所存にや、二十一歳の時還俗して、靑砥孫三郎藤綱とぞ名乘ける。近き傍に行印法師とて儒學に名を得たる沙門あり。數年隨逐して、形の如くに勤めたり。相州時賴の三島詣ありけるに、藤綱生年二十八歳忍びて供奉致し、下向道に赴き給ふ所に、人々の雜具共ざふぐどもを牛に取付て、鎌倉に歸るとて、片瀨川の川中にてこの牛尿いばりしけるを、藤綱申しけるは、「哀れおのれ守殿かうのとのの御佛事の風情しける牛かな。」と打笑ひて通りける。侍共聞き付けて、咎め問ひしかば、藤綱申すやう、「さればこそ比比このごろ數日雨降ず、田畠葉を枯し、諸氏飢を悲む所に、この牛尿をせば、田畠の近き所にてもあらで、川中にて捨て流しつる事よ。夫れ鎌倉中に名德智行の高僧達、貧にして飢えに臨む輩いくらもあり、無智破戒の愚僧の金銀に飽き滿ちたるも多くあり。然るに去ぬる春の御佛事には、破戒無智の富僧ばかりを召して御供養ありて、實に佛法を修學し、持戒高德の名僧をば供養なし。この御佛事は慈悲の作善にはあらで、只名聞の有樣なり。」とぞ語りける。二階堂信濃入道是を聞傳へ、實にもと思ひければ、事の次でにこの由を時賴にぞ語られける。時賴入道聞き給ひて、「實にも彼の者が申す所、道理至極せり、凡そ作善佛事と云ふも慈悲を專らとして、萬民を悦ばしめ、貧しきを救ひ、ともしきを助けてこそ衆生を利する道とはなるべけれ。去ぬる春の佛事供養は、當家、頭人とうにん、評定衆の末子はつしなどの僧に成りたる者共なれば、財寶に不足あるべからず、侈を極め學に怠り、道德もなき者共ぞかし、學德道行ある貧僧は、賤むとはなしに召さざりき。この事をかねて分別せざりけるは、我が大なる誤りなり。かく申したるは誰人にてやあるらん、その者の心中奥床し。」とて尋ねらるゝに、靑砥の前の左衞門尉が末にて三郎藤綱と云ふ者なりと申さるゝに、やがて召出して、「今より後は當家に奉公せよ。」とて、召し抱へられしより、政道の器量ありと見知り給ひ、後には評定衆の頭になされ、天下の事大小となく口入こうじふして、富んで侈らず、威ありて猛からず。遊樂を好まず。身の爲には財寶妄りに散らさず。數十ヶ所の所領を知行せしかば、財寶は豐かなりけれども、衣裳には細布さみ直垂ひたたれぬの大口おほくち、朝夕の饌部ぜんぶには乾したる魚、燒鹽より外はなし。出仕の時は、木鞘卷きざやまきの刀を差し、叙爵の後は、木太刀に弦袋つるぶくろをぞ付けたりける。我が身には少しの過差かさもせずして、公儀の事には千萬の金銀をも惜まず。飢えたる乞食こつじき、凍えたる貧者には、分に隨ひて物を與へ、慈悲深き事佛菩薩の悲願にも等しき程の志なり。親しきに依て非を隱さず、私を忘れて正直を本とす。邪欲奸曲の輩おのづから恥ぢ恐れて、行跡をなほし、志を改め、上に婆沙羅ばさらの費えを省き、下に恨むる庶民なし。かゝる人を見しりて召し出し、天下の奉行とせられたりける時賴入道の才智こそ、猶末代には有難き人ならずや。夜光垂棘やくわうすうゐきよくの珠ありとも、見知る者なき時は、珠は石に同じかるべし。藤綱が廉直仁慈の德を治めしも、時賴知り給はずは、匹夫の中に世を終はるべし。文王は呂望を知りて、高祖は張良を師とせらる。時賴入道は靑砥左衞門尉藤綱を得て、太平の政道を助けられ給ふこそ有難けれ。同十月十二日、將軍家の仰として、「嘉祿元年より仁治三年に至る迄、御成敗の式法は、三代將軍竝に二位禪尼にゐのぜんにの定め置かれし所を改め行ふべからず。慥かに旨を守るべし。無禮不忠は人外の所行なり。邪欲奸詐かんさは非法の行跡かうせきなれば、奉行、頭人殊に愼み申さるべし。摠じて大酒遊宴に長じ、分に過ぎたる婆沙羅を好み、傾城、白拍子に親しみ、強緣がうえん、内奏、專ら誡むべし、雙六、四一半の勝負は、博奕の根元として、奉公を怠るの初、盜賊を企つるの起りなれば、諸侍堅く停止ちやうじすべし。萬一背く輩は法に依て行ふべし。」とぞ觸れられける。是より上を恐れ、威に服して、暫く非道の訴へなく、淳朴じゆんぼくの風に歸しけるは、政德の正しき所なり。

□やぶちゃん語注
「相州時賴の三島詣ありけるに」北條時頼は建長三(一二五一)年に三島社を勧請、三島本社に参詣しているが、三島市の公式HPの「三島アメニティ大百科」の「三嶋大社周辺」にある「三嶋大社を崇敬した武将」の項に、翌年の建長四(一二五二)年の旱魃の夏にも自ら大社に参詣して雨乞いをしたとする記事があり、このシークエンスにぴったりくるのはこの建長四年である。
「藤綱生年二十八歳」この年齢の時頼による登用エピソードについては、もっとあり得そうもないものとして、北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝したその夜に夢告があって、即座に藤綱を召し左衛門尉を受授、引付衆(評定衆とも)に任じたが、その折り、藤綱自身がこの異例の抜擢を怪しんで理由を問うたところ、夢告なることを知って「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである。」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じたともある(以上はウィキの「青砥藤綱」を参照した)。
守殿かうのとの」は「長官君」などとも書き、「かみのきみ」の音変化したもの。国守・左右衛門督などを敬っていう語。時頼は寛元四(一二四六)年の幕府執権就任後に相模守となっている。
「二階堂信濃入道」政所執事二階堂行実(嘉禎二(一二三六)年~文永六(一二六九)年)のこと。引付衆となったが短期間で卒去した。
「評定衆の頭になされ」現在知られる評定衆一覧記録には見当たらない。
「夜光垂棘の珠」春秋時代の晋の国で産したという宝玉。夜光を発する垂れ下がった棘のようなものというから、六角柱状の水晶か、鍾乳石の類いか。「韓非子十過」に基づく成句「小利を以て大利を残(損)そこなう」の話に現れる。晋の献公はかくを伐とうとしたが、そのためには虢の同盟国であるを通らねばならなかった。そこで賢臣荀息の一計により、晋代々の宝である垂棘の璧と、名馬の産地であった屈の馬を虞公に贈って安全を確保しようとした。虞の家臣宮之奇は虞と虢は車の両輪であり、虢が滅べば、遠からず我が国も滅亡の憂き目に逢うとして諌めるが、宝玉と駿馬に目が眩んだ虞公は領内の通過を許可してしまう。荀息はほどなく虢を滅ぼし、その三年後には同じ荀息によって虞は滅ぼされ、璧と馬はかつてのままの状態で献公の手に戻ったという故事。「眼前の利益に目を奪われ、真の利益を失う」の意で用いる。
「同十月十二日、將軍家の仰として」は正嘉二(一二五八)年十月十二日の宗尊将軍の発布した御成敗式目追加法の禁令を指す(「同」は「北条九代記」のこの前項である「伊具の入道射殺さる」以下の正嘉二年の記事を受ける)。「吾妻鏡」正嘉二年十月十二日にも、
十二日丁亥。晴。今日評議。被仰出曰。自嘉祿元年至仁治三年御成敗事。准三代將軍幷二位家御成敗。不可及改沙汰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日丁亥。晴。今日の評議に仰せ出されて曰く、「嘉祿元年より仁治三年に至る御成敗の事、三代將軍幷びに二位家の御成敗に准じ、改め沙汰に及ぶべからずと云々。
とある。
「四一半」とは双六から鎌倉時代に発生した賭博の一種で、時代劇などで知られる二つの骰子を振って偶数・奇数を当てる丁半賭博。駒を用いた双六に比して遙かに勝負が早い。

□やぶちゃんの現代語訳
     〇相模の守時頼入道の政務の様態 付 青砥左衛門藤綱の私欲なく正直なこと
 相州時頼入道様は、天下の執権としての政務には一切の瑕疵なく、その人望たるや、国に遍く行き渡り、如何なる場面に於いても私心を持たれなかったが、奉行や引付衆長官たる頭人及び評定衆の中には、ややもすれば私利私欲に陥り、正道を外れて誤った行いに走る者があった。故に、時頼入道様は、 『何とかして道義の正しき道に帰せしめ、天下を太平の静かな治の中に安んじて万民を真心を以て慈しみ育みたいものだ。』 と常々、お感じになられていた。
 さて、ここに青砥左衛門尉藤綱と言って、清廉潔白で恥の何たるかを弁えた極めて正直な人物があった。その先租を尋ねれば、その始祖は伊豆の住人大場十郎近郷という者で、承久の兵乱の際、幕府軍の宇治の攻め手に加わって、目を驚かす高名を成したがため、その恩賞として上総の国青砥荘を賜ったという。それより代々相伝して、青砥左衞門尉藤滿に至ってこの藤綱が生まれたが、彼は側室の子で、尚且つ末子であったが故、父藤満もさして大事にせんとせず、然るべき所領も与えられなかった。出家になれと命じて、十一歳で真言宗の師に付けて、その弟子と成さしめた。幼い時から才気煥発、真言の法理もしっかりと修めたのであったが、如何なる所存か、二十一歳の時に還俗して、青砥孫三郎藤綱と名乗った。それでも、彼の住まいの近くに行印法師という儒学僧として名を成した者があり、数年の間はこの僧に附き従って、とりあえずは儒家の教えを学んでいた。
 ある時、相州時頼入道様の三島詣でが御座ったが、藤綱は当年二十八歳、その非公式の供奉人となった。参拝を終えられての途次、供奉の人々が旅中の用具などを牛に背負わせ、まさに鎌倉へと帰らんとする片瀬川渡渉の砌、その川中にて、この牛が勢いよく尿いばりをした。それを見て、藤綱が言ったことには、
「ああっ! おのれは! 守殿こうのとのが催された御仏事とまるで変わらぬ仕儀を致す牛じゃの!」
と笑いながら牛の横を渉って通る。これを傍にいた他の供奉の侍ども聞き咎めて如何なる謂いかと詰問したところが、藤綱が言ったことには、
「さればよ。この数日は雨も降らず、田畑はすっかり葉を枯らしてしまい、諸民悉く飢え悲しむ折り、この牛が尿をするに、肥やしとなせる田畑の近き所にてひるにあらで、あろうことか、川中にて無駄に捨て流したということを言うておるのよ。さても鎌倉中には正しき名徳にして智行高邁の秀でた僧たちで、まさに今、貧しく飢えて御座る輩がいくらも、おる。また逆に、無智蒙昧にして平然と破戒しおる愚俗なる似非僧で、金銀に飽き満ちておる者どもも多く、おる。然るに、去ぬる春の御佛事にては、そうした破戒無智の金満の僧ばかりを召されての御供養で御座った。まことの仏法を修学し、持戒堅固の高僧の名僧を、その供養に列せらるることがなかった。――さればこそ、この御仏事は真の仏法の慈悲の作善にはあらず――ただ外見ばかりを取り繕った空疎な仕儀である!」
と語ったのであった。二階堂信濃入道がその折りの侍の一人からこのことを伝え聞いて、尤もなる謂い、と思った故、ことの序でにこの一部始終を時頼入道様に上奏致いた。時頼入道様はその話をお聞きになられると、
「まことに彼の者が申すところ、至極尤もなる道理である。凡そ作善仏事というものはひたすら慈悲を主眼と致いて、万民に喜悦を与え、貧しき者を救い、とかくの物の乏しき者に物品を与え助けてこそ、衆生を利する道とは言うのである。しかるに、去ぬる春の仏事供養にては、当家、頭人、評定衆の末子などで僧に成ったる者どもをのみ招聘致いたれば、彼らは財宝に不足ある者にてはこれ全くなく、それどころか奢侈を極め、学問を怠っておる、道徳の「ど」の字もなき者どもであったぞ。……学徳優れ、道行堅固なる貧しい僧侶は……賤しんだわけでは御座らぬが……確かに一人として招かなんだ。……このことを前もって自覚することが出来なかったことは、我が大いなる誤りである。――かく申したるは誰人たれぴとにてあるか? その者の心中、まことにおくゆかしいことじゃ!」
と御下問あらせられたので、二階堂信濃人道が、
「青砥の前の左衛門尉が末子にて三郎藤綱と申す者にて御座る。」
と申し上げたところが、即座にお召し出しになられて、
「今より後は北条が当家に奉公せよ。」
と、藤綱は家士として召し抱えられたので御座った。
 さて、それ以来、時頼入道様はこの藤綱に政道を司る器量ありとお見抜きになられて、後には評定衆の頭となされ、藤綱は天下の事、その大小に拘わらず見解と意見を述べる立場となった。
 藤綱はあっという間に豊かになったが、それでも一切驕り昂ぶることなく、評定衆頭人という権威を持ちながら、決してそれを振り回さない。遊興はこれを好まず、自分のためには財産を妄りに浪費することもなかった。後には数十ヶ所の所領を支配していたから、実質的な財産は相当に豊かになったけれども、衣裳は常に細い糸で織った麻布の直垂に、麻布製の裾の開いた大口の袴で、朝夕の食膳には乾した魚と焼き塩以外には載せない。出仕の時は、素朴な木鞘巻きざやまきの刀を差し、左衛門尉の官位を受けてから後でも、豪華な太刀を嫌い、木太刀に申訳程度の飾りとして弦袋つるぶくろのような籐で出来た袋を被せたものを佩いていた。己がためには些かの贅沢をすることもない代わりに、公儀の御事に対しては己が千万の金銀を使うことをもかつて惜むことがなかった。飢えた乞食や凍えた貧者を見れば、その飢えと貧に応じて物を与え、その慈悲深いことと言ったら、仏菩薩の衆生済度の悲願にも等しい程の志しであった。しばしば地位を得た者に見られるような、親しい者だからといってその者の非を隱すといった庇い立てをすることなどは金輪際なく、ひたすら『私』を忘れて『正直』なることを人生の根本とした。さればこそ、彼の周囲に御座った、よこしまなる我欲から悪巧みをせんとする輩は、一人残らず、おのづから恥じ恐れて、己が行跡をなおし、志しを改め、上の者たちには奢侈の浪費を抑えさせたが故に、下にも恨む庶民がいなくなった。
 さても何より、このように藤綱の人物を見抜いて召し出し、天下の奉行となされた時頼入道様の、才智ある人こそ、なお後代には稀有の人物ではあるまいか? 夜光垂棘やこうすいきょくの珠がこの世に存在しても、それが名玉夜光垂棘であるということを認識出来る者がいない時は、貴い宝珠もごろた石と同じであろう。藤綱が清廉潔白で仁徳と慈悲心を美事修めていても、時頼入道様がその存在を発見なさらなかったならば、つまらぬ侍どもの中で凡庸なる人生を終えていたであろう。周の文王は太公望呂望を見出され、漢の高祖沛公は功臣張良を軍師となさった。時頼入道様は青砥左衛門尉藤綱を得、太平の政道を彼によって輔弼させなさったことは誠に稀有の幸甚であったのである。
 同正嘉二年十月十二日、宗尊将軍の仰せとして、
「嘉禄元年より仁治三年に至るまで、幕府御裁決の方式は、源頼朝様・頼家様・実朝様三代将軍并に二位の禪尼政子様の定め置かれたところのものを、一切、変更してはならない。確実にこの旨を守らねばならない。無礼・不忠は人間に非ざるものの所行である。よこしまなる我欲とそれに発する種々の悪巧みは、一切が不法行為であるからして、奉行・頭人らは殊に謹んで伺候するようにせねばならない。総じて大酒を呑んで遊宴にうつつを抜かし、分に過ぎた奢侈を好み、傾城や白拍子に親しみ、要人との縁故を恃んで利を求めたり、己を利するためにする卑劣なる内密の奏上などは厳に慎まねばならない。双六、四一半しいちはんの勝負は、賭博の元凶であり、奉公伺候怠慢の始まりとなり、ひいては盗賊へと身を持ち崩して悪事を企てる元ともなる故、総ての侍は、堅くこれを禁止とする。万一、これに背く輩は、法に従って厳然と処罰される。」
と御成敗式目追加法たる御禁令をお出しになられた。これ以来、諸人は悉くお上を恐れ、正しき権威に誠心から服従し、暫くの間は話にならない馬鹿げた訴えも一つとしてなく、純朴にして正しき気風が鎌倉中に満ち満ちたのは、時頼入道様がなされ、藤綱が支えた幕政が正しかったことを意味している。
最後に述べておくが、この鎌倉の青砥橋で著名な青砥藤綱という人物、ここではまことしやかな系譜も示されているのだが、実は一種の理想的幕府御家人の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても実在はしなかったと考えられる。]

〇西行見返松 西行サイギヤウ見返松ミカヘリマツ片瀨村カタセムラく路邊の右にあり。枚葉西方へす。西行此の所に來て西の方を見返ミカヘり、此の松の枝をミヤコの方へねぢたりと也。《戻松》故に戻松ネヂマツとも云ふ。
[やぶちゃん注:現在、湘南モノレール湘南江ノ島駅前の道を常立寺前を通って、三百メートルほど北上した民家の間に小さな松があり、「西行戻り松」「西行見返り松」とされている。「吾妻鏡」に載るように、西行は実際に鎌倉を訪れているが、藤沢市教育委員会編「藤沢市文化財ハイキングコース」などによれば、西行が入鎌するに際し、この松の枝振りに見惚れると同時に、去った都恋しさから西は都の方を見返りして、その松の枝を西の方へと捩じ曲げたからと伝えられる。また一説には、西行がこの松の下で、鎌を持った背負籠を担った子に逢い、何をしにゆくのかと尋ねたところ、「冬蒔きて夏枯れ草を刈りに行く」と答えた。西行にはその意味が分からず、しばらく子の後姿を見返りしたことから名づけられたともいう(因みにこの謎かけ歌は麦のこと)。前者は出家者西行の説話としては「撰集抄」の高野での人造人間製造と同じく私には俗っぽく感じられる(西を都ではなく西方浄土とするならよし)。また後者の説話は、日光街道鉢石宿の稲荷神社にある西行戻り石や、松島長老坂の西行戻しの松に全く同一の西行伝説として存在し、歌人西行が狂言回しになる点で遙か後代の俗人の産物であることは明白である。]

〇笈燒松 笈燒松ヲヒヤキマツは、片瀨村カタセムラの西の方、民家のウシ竹藪タケヤブアイダにあり。駿河次郎淸重キヨシゲ、笈を燒し所なりと云ふ。
[やぶちゃん注:現在の片瀬四丁目の旧家の敷地内に、この「笈焼き松」と「駿河次郎清重の墓」と称した五輪塔と多層塔様(これはしかし画像からは複数の石塔の寄せ集めに見える)のものがあったことが佐藤弘弥氏のHP「義経伝説」内の平野雅道氏の「義経と藤沢」の「駿河次郎清重の伝承」に掲載された写真(推定昭和初年)や片瀬地区自治町内会連絡協議会の西方町内会のネット記載によって判明したが、それによれば惜しくも二〇〇三年に宅地化されて現在には伝わっていない。]

〇唐原 モロコシ〔或作諸越(或は諸越に作る)。〕がハラ片瀨川カタセガハの東のハラをいふ。【更級記サラシナノキ】に、モロコシハラ、すなごいみじう白く、大和ヤマトなでしこ、こくうすく、ニシキをひけるやうになんさきたりとあり。【夫木集】に、藤原の忠房タヾフサが歌に、「名にしをはゞ虎やフスらん東野アヅマノに、ありとふなるモロコシハラ」鴨の長明が歌に、「まどろまん、よながにしばしむばタマの、夢路ユメヂぞちかきもろこしの原」。【懷中抄】の歌に〔作者不知(作者知れず)。〕「遙かなる、中こそうけれ夢ならで、トヲく見にけりモロコシの原」とあり。
[やぶちゃん注:「更級日記」の当該箇所の前後を含めて引用しておく(インテリア・グリーンの店ポトス提供の藤原定家自筆本の頁より)。
にしとみといふ所の山、繪よく書きたらむ屏風をたてならべたらむやうなり。片つ方は海、濱のさまも、寄せかへる浪の景色も、いみじうおもしろし。もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日行く。「夏はやまとなでしこの濃く薄く錦をひけるやうになむ咲きたる。これは秋の末なれば見えぬ」といふに、なほ所々はうちこぼれつゝ、あはれげに咲きわたれり。もろこしが原に、やまとなでしこも咲きけむこそなど、人々をかしがる。
この「更級日記」の「もろこしが原」はしかし、次章が直ぐに足柄となっており、片瀬海岸よりももっとずっと西方である可能性が強いように思われる。また、平塚版のタウン・ニュースの『町名探訪 第六十五回「唐ヶ原」』の記載に大磯町大磯から平塚市花水側西岸一帯の海浜を古く「もろこし河原」 と呼称しており、それは五世紀前後、この地で朝鮮からの集団移住者による開拓が行われたことに由来するとあり(高麗山もある)、更に昭和三十三(一九五八)年に行われた町名町界変更の際に、「もろこしがはら」は語呂が悪いとされて、現在の「唐ヶ原」(とうがはら)となったという経緯も記されている。先に引いた『村人の言い伝えによる地名・「ひらつか」は古くから存在したか?』を見ても、平塚から大磯辺りが由緒・経過といい、同定の分があるという気がする。従って以下の和歌でも同様である。
「遙かなる、中こそうけれ夢ならで、トヲく見にけりモロコシの原」この歌、『村人の言い伝えによる地名・「ひらつか」は古くから存在したか?』に東国古歌「懐中抄」読人知らずとして乗せるが、そこでは、
遙かなるうちこそうけれ夢ならぬ遠く見にけりもろこしの原
とある。]

〇砥上原〔附八松原〕 砥上トガミが〔或作砥見又作科見(或は砥見に作り、又、科見に作る。〕がハラ片瀨カタセより西に當る。【西行物語】に、とかみが原を過るに、野原の露のひまより、風にさそはれ、鹿シカのなくコヘきこへければ、歌に「柴松シバマツの、くずのしげみにツマこめて、砥上が原に小鹿コジカ くなり」。鴨の長明が歌に、「浦千かき、とがみが原にコマとめて、片瀨カタセの川のしほひをぞまつ」。又、「立歸タチカヘ名殘ナゴリは春にムスびけん、とがみが原のくずの冬がれ」。《八松原》此北に八松ヤツマツハラと云所あり。【盛衰記】に三浦ミウラの人々、 石橋イシバシの軍さ散じて、洒勾サカハ宿シユクより三浦へ通らんとて、馬をハヤめて行程に、八松ヤツマツハラ・腰越・稻村・由比の濵を打越て、小坪坂コツボザカノボるとあり。鴨の長明が歌に、「八松ヤツマツ八千代ヤチヨのかげにをもなれて、とがみがはらに色もかはらじ」。
[やぶちゃん注:「浦千かき」及び最後の「八松の」の歌は鴨長明が飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向、将軍源実朝と会見する入鎌前の、ここでの嘱目吟である(建暦元(一二一一)年編「鴨長明集」所収)。
立歸タチカヘ名殘ナゴリは春に結びけん、とがみが原のくずの冬がれ」は鴨長明の歌ではなく、冷泉為相の歌である(嘉元元(一三〇三)年頃編「為相百首」所収)。以上二つの注はウィキの「砥上ヶ原」を参照した。そこから「位置と範囲」も以下に引用して参考に供しておく。『砥上ヶ原の範囲については諸説がある。相模国高座郡南部の「湘南砂丘地帯」と呼ばれる海岸平野を指し、東境は鎌倉郡との郡境をなしていた境川(往古は固瀬川、現在も下流部を片瀬川と呼ぶ)であることは共通する。西境については、相模川までとするものと引地川までとする』二説が代表的で、相模川説の方は連歌師谷宗牧が天文十三(一五四四)年に著した『「東国紀行」で「相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上が原とぞ」とあるのが根拠とされる。一方、後者は引地川以西の原を指す古地名に八松ヶ原(やつまつがはら)あるいは八的ヶ原があり、しばしば砥上ヶ原と八松ヶ原が併記されていることによる。後者の説を採るならば、砥上ヶ原の範囲は往古の鵠沼村、現在の藤沢市鵠沼地区の範囲とほぼ一致する』とある。なお、この「八的ヶ原」という名称は、謎とされる頼朝死去の記録の中の「保暦間記」の記載に、『大將軍相模河の橋供養に出で歸せ給ひけるに、八的が原と云所にて亡ぼされし源氏義廣・義經・行家以下の人々現じて賴朝に目を見合せけり。是をば打過給けるに、稻村崎にて海上に十歳ばかりなる童子の現じ給て、汝を此程隨分思ひつるに、今こそ見付たれ。我をば誰とか見る。西海に沈し安德天皇也とて失給ぬ。その後鎌倉へ入給て則病付給けり』(この橋は稲毛重成が北條時政娘であった亡妻追善のために建立したもの)とあり、頼朝の見る幻視の最初の場所として記憶されている場所である。]


[江島圖]

〇江島〔附兒淵 仁田四郎拔穴〕 《金龜山》〔或作荏・榎・繪・畫(或は荏・榎・繪・畫に作る)。〕のシマは、金龜山與願寺キンキサヨグハンジと號す。クガより島の入口イリクチまで、十一町四十間バカりあり。シマの入口より龍穴リウケツまで、十四町程あり。シホたる時は徒歩カチにてもワタる。潮盈シホミちたる時は、六七町の間、船にて渡す。【東鑑】に、建保四年正月十五日、江島エノシマの明神託宣あり。大海忽ち道路に變ず。仍て參詣の人、船のハヅラひなからんと、鎌倉中の緇素羣をなす。誠に以て末代稀有の神變なり。三浦ミウラ左衞門の尉義村御使ヨシムラヲンツカひとして、彼の靈地にマイるとあり。昔しは潮のコトマレ也と見へたり。此島の開基は、エンの行者、ツギに泰澄、道智、ツギに弘法、後に文覺再興ありしとなり。緣起あり。其略に云、此所、景行天皇の御宇に、龍の 暴惡ボウアクサカんなり。安康天皇の御宇に、龍鬼あり。ツブラの大臣に託して暴惡をなす。れ人に託してハヅラはしむる始めなり。武烈天皇の御宇に、龍鬼又金村カナムラ大臣に託してナヤます。此時五頭の龍、始めて津村ツムラミナトに出入して人のチゴクラふ。時に長者あり。子十六人ありけるに、皆毒龍の爲にまれぬ。西の里にうづむ。長者がツカと云ふ。欽明天皇十三、壬申の年四月十二日より、廿三日に至て、大地震動して、天女雲上にあらはる。其後海上にタチマち一島をなせり。是を江の島と云ふ。十二の鸕鶿、島の上に降る。故に鸕鶿來島キシマとも云ふ。此島の上に天女降り居し給へり。遂に毒龍と夫婦となれり。【太平記】に、北條の時政トキマサ、江の島に參籠して、子孫の繁昌をイノりけり。三七日にアタりける夜、アカハカマ柳裏ヤナギウラキヌたる女房の、瑞嚴美麗なるが、忽然として時政トキマサが前に來てげて云く、汝が前生は箱根ハコネの法師なり。六十六部の法華經を書寫して、六十六箇國の靈地に奉納した善根に依て、フタヽび此土にまる事を得たり。れば子孫永く日本のアルジと成て、榮花に誇るべし。但し 擧動フルマイタガトコロあらば、七代を不可過(過ぐべからず)。吾が所言(言う所ろ)不審あらば、國々クニクニに納めし所ろの靈地を見よと嘉云てて歸り給ふ。其姿スガタを見れば、さしもイツクしかりし女房、タチマしたるタケ二十丈バカりの大蛇と成て海中に入にけり。其の跡を見るに大なるウロコを三つ落せり。時政トキマサ所願成就しぬとヨロコんで、則ち彼のウロコを取てハタモンにぞしたりける。今の三鱗形ミツウロコガタの紋是なり。其後辨才天の御示現にマカせて、國々クニクニの靈地に人をツカハして、法華經奉納の所ろを見せけるに、俗名の時政トキマサを法師の名にへて、奉納筒ホウノウツヽの上に、大法師時政ジシヤウと書たるとたるこそ不思議なれとあり。鴨の長明が歌に、「江の島やさしてしほにあとたるゝ、神はちかひのふかきなるべし」。法印堯慧が歌に、「ちらさじと江の島もりやかざすらん、龜の上なる山櫻かな」。
[やぶちゃん注:「陸より島の入口まで、十一町四十間許あり」は一・二キロ強となる。現在の地図で計測すると国道一三四号線の江ノ島入口から江ノ島大橋を渡り切ったところで凡そ六三五メートル、やや内陸に入って江ノ電江ノ島駅改札口付近から島内の岩本楼本館前までの直線距離は一・三キロメートルある。元江ノ島の岸を現在の江ノ島神社参道付近とするなら、江ノ電江ノ島駅のやや北、龍口寺西の国道四六七号線の交差点江ノ島駅入口までが丁度一・二キロメートルに相当する。先に掲げた「固瀨圖」の「西大磯道」が位置的にもこの国道四六七号に近い。この「固瀨圖」を見ると(勿論、実測的な図ではないから確かなことは言えないけれども)、この図の「固瀨古川」は後に再び本川の流域に復帰し、川が東へ大きく蛇行して現在の境川(片瀬川の現在の呼称)となったのではなかろうかという気がしてくる。
「島の入口より龍穴まで、十四町程あり」は一・五キロ強。現在の江ノ島神社参道付近から辺津宮・中津宮・奥津宮を順に参拝して、御岩屋へ向かう参道を下り、現在の第一岩屋から第二岩屋まで行くと、その実測値は、ほぼぴったりの一・五キロに相当する。
「建保四年」西暦一二一六年。私は専門家ではないが、この時の陸繋島化は恐らく大潮だけではなく、片瀬川上流からの多量の堆積物による砂嘴の延長や沿岸流の変化による砂の移動、更にはこの前後に大きな有感地震を記録していないところを見ると、何らかのゆっくりとした地殻変動による相模湾沿岸域の隆起などが重なったものかも知れない。ただの大潮による一時的な陸繋島化ならば、このような記載を「吾妻鏡」がわざわざするとは思えないからである。
「六七町の間、船にて渡す」七六三から八七二メートル。現在の江ノ島神社参道付近から丁度九〇〇メートルほどの位置に江ノ電江ノ島駅から延びる洲鼻通りの西に正に「洲鼻広場」がある。洲鼻とは川の河口に形成された洲の先端の謂いであるから、ドン、ピシャリ! この辺りが江戸期の江の島への満潮時の渡船場であったものと推定される。
「緇素」の「緇」は黒を、「素」は白で、僧と俗人の衣服から、僧俗の意。
「泰澄」(天武天皇十一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は奈良期の修験道の越前出身の僧。加賀(当時はやはり越前国)白山の開山とされ、越の大徳だいとこと称された。
「道智」は養老年間の千日修行(七一七年から七二〇年とされる)で城崎温泉を開いたことで知られる、地蔵菩薩の化身と呼ばれた道智上人のこと。
「景行天皇の御宇」西暦 七一年~一三〇年。
「安康天皇の御宇」西暦四五四年~四五六年。
ツブラの大臣に託して暴惡をなす」「圓の大臣」とは、葛城円(かつらぎのつぶら ?~安康天皇三(四五六)年)のことか。「日本書紀」によれば有力豪族として履中天皇二(四〇一)年に国政に参加、安康天皇三(四五六)年に眉輪王(まよわのおおきみ)が安康天皇を殺害した(眉輪王の変)際、眉輪王と共犯の嫌疑をかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を匿うも、次期帝位を狙う大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこと:後の雄略天皇)に屋敷を包囲され、降伏を願い出るも拒絶されて敗死したとされる。この、彼に「託して暴惡をなす」の謂いが分からない。私が分からないというのは、これが「緣起」である以上、あくまで本地がこの江ノ島に巣くう「龍鬼」なのであり、その暴悪の人間化したものが「圓の大臣」であるということである(その逆、すなわち「龍鬼」が比喩で「圓の大臣」がその実対象――本当は言いたかった元凶――という謂いでは絶対にないということである)。私は古代史には暗いので分からないが、素直に考えるなら葛城円が有力豪族として国政に参加した際その前後にその強権を発動した何らかの事件を指していると考えるべきであろう。
「武烈天皇」西暦四九八年~五〇七年。
「金村大臣」は大伴金村(生没年不詳)のこと。仁賢天皇十一(四九八)年、仁賢崩御後、対抗勢力であった平群真鳥・しび父子を攻め滅ぼし、武烈を即位させ、自らは大連の地位を得、後、安閑・宣化・欽明天皇に仕えた。継体天皇二十一(五二七)年には筑紫の磐井の乱を鎮圧するが、後、天皇家との婚姻関係を持った蘇我稲目が台頭し始め、権勢に翳りが見え始める。欽明天皇元(五四〇)年の新羅による任那併合で外交の失策を指弾され失脚、大伴氏は彼を以て衰退してしまう。ここでも「龍鬼」が本地で「金村大臣」が垂迹なのであるが、ここで着目すべきは「此時五頭の龍、始めて津村の湊に出入して人の兒を喰ふ」の部分で、ここでは人格化された存在として提示されたものが、縁起上の本来の龍の原型に戻るのであるが、その際、「五頭の龍」という具体的な多頭性とその数が提示されている点である。続く長者の「子十六人」及び「西の里にうづむ」というのも含めて、ここに何らかの「垂迹」時の「金村大臣」の何かの事蹟に繋がるヒントがあると考えられないだろうか。但し、昔話として伝わる本話には、この龍の住処を「深沢」にあった「一周四十里の湖」とし、この龍は山崩れや洪水、時に火の雨を降らして里人を困らせ、子が食らわれた場所を「津村の水門」に同定、津村の長者は亡き子を悲しみつつ、津村から「西の里」へと屋敷を移り住んだとする(本記載の埋葬した「塚」とは異なる)。その時から前出「腰越」の項に出た通り、津から西を「子死恋」=「腰越」と呼称するようになったとあり、これらは現実とは遮断された無縁な神話世界のデーティルでしかないのかも知れない(それ自体には古い記憶の中の火山噴火・溶岩流流出・洪水氾濫といった別な象徴された意味があるとしても)。ワトソンでしかない私には推理はここまでである。
「欽明天皇十三」西暦五五二年。現在の江の島神社社伝には「欽明天皇の御宇、神宣により詔して宮を島南の龍穴に建てられ、一歳二度の祭祀この時に始まる」とあり、この年に原祭祀を同定している。
「鸕鶿」は音「ロジ」で鵜のこと。「説文」に載る。
「柳裏」薄い緑色を指す色名。裏葉色。
「法印堯慧が歌」は「北国紀行」所収の歌。]
    蘭溪和尚同遊江島歸賦以呈
               宋 大 休〔仏源禪師〕
 江島追遊列俊髦。  馬蹄獵々擁春袍。
 穿雲分座烹香茗。  策杖徐行蹈巨鼇。
 洞口千尋石壁聳。  龍門三級浪花高。
 須知海角天涯外。  萍水迎懽能幾遭。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って訓読したものを示す。
    蘭溪和尚と同じく江の島に遊びて歸り賦して以て呈す
               宋の大休〔仏源禪師〕
 江の島追遊して 俊髦 列なる
 馬蹄 獵々として 春袍を擁す
 雲を穿ち 座を分ちて 香茗を
 杖を策き 徐ろに行きて 巨鼇を蹈む
 洞口千尋 石壁 聳へ
 龍門 三級 浪花高し
 須らく知るべし 海角天涯の外
 萍水 迎懽 能く幾遭ぞ
「蘭溪和尚」は蘭溪道隆(建保元(一二一三)年~弘安元(一二七八)年)。
「同じく」は共に、一緒にの謂いであろう。
「仏源禪師」は大休正念(嘉定八(一二一五)年~正応二(一二九〇)年)。初め東谷明光に師事し、その後径山の石渓心月に参禅してその法を継いだ。文永六(一二六九)年、幕府執権北条時宗の招聘により来日、後、先師蘭渓を継いで建長寺住職となった。本詩は題から見て、蘭渓の生前の一二六九年から一二七八年の間の早春の作詩と思われる。
「獵々」は風の吹く音。
「袍」は綿入れ。
「俊髦」は「しゆんばう(しゅんぼう)」と読み、「髦」は髪の中の太く長い毛の意。衆に抜きん出て優れた人物。俊英。
「香茗」は「かうみやう(こうみょう)」と読み、香りの高い茶か。「巨鼇」は「きよがう(きょごう)」で大海亀。
「三級」は急崖が三段になっていることを言う。
「海角」とは陸が海に細く突き出した先端の岬を言う。
「萍水」は「へいすい」と読み、ここでは海藻と水を指すが、渡宋僧としての蘭渓道隆と大休正念との出逢いの歓喜をも含意するか。とすれば、これは仏源禪師の訪日からさほど遠くない頃、例えば文永七(一二七〇)年春のことではあるまいか。
「迎懽」は「げいくわん(げいかん)」と読み、喜び迎えるの意。
「幾遭」の「遭」は度数を数える助数詞。]

巖本院イハモトイン 島の入口イリクチ、右の方にあり。客殿に、額、巖本院、朝鮮國螺山書すとあり。此シマの別當にて、眞言宗、仁和寺の末寺なり。此島に、下の宮・上の宮・本社とてあり。下宮は下の坊ツカサとり、上の宮は上のツカサとり、本社は巖本院ツカサとるなり。下の坊と巖本院とは妻帶サイタイなり。上の坊は淸僧なり。是を江の島の三坊と云ふ。
[やぶちゃん注:岩本院古くは岩本坊と称し、小田原北条氏が厚い信仰を持った室町期から存在し、江戸期には慶安二(一六四九)年に京都仁和寺の末寺となって院号の使用が許され、島内の全社寺を支配する惣別当となった。後、岩本院と上之坊及び下之坊の間では参詣人の争奪に絡む利権抗争が燻り続けるが、寛永十七(一六四〇)年に岩本院が幕府からの朱印状を入手、まず上の坊を、次に下の坊を支配下に置いた。かくして宿坊営業や土産物を始めとする物産管理、開帳や出開帳等の興業事業の総権益を握り、岩本院には将軍や大名家が宿泊するなど、大いに栄えていた。江の島には三重の塔や弁財天像が祀られていた竜宮門等の建物や仏像があったが、明治の廃仏毀釈令によって破壊されてしまう。]
寶物
刀八トウハツ毘沙門の金像 壹軀 弘法の作。金の厨子ヅシに入。
[やぶちゃん注:「刀八毘沙門天」毘沙門天信仰の中でも後に生まれた異形の毘沙門天像。兜跋とばつ毘沙門天(金鎖甲の鎧を着て左手に宝塔・右手に宝棒又は戟を持す)像を元とするが、造型はかなり異なり、多くは刀を八本持って獅子に乗り、頭上に如来を頂き、三面十臂や四面十二臂など多様な形態をとる。「刀八」という名は原型の兜跋とばつの転訛と考えられる。戦国時代に多くの武将達の信仰を集め、例えば上杉謙信の旗印「毘」はこの刀八毘沙門天の毘である。なお、現在、旅館となった岩本楼本館蔵八臂弁財天像は四対八本の上肢で、それぞれに弓・箭・剣・蓬莱・輪宝・鉾・鉢棒・長杵を持った武勇の神様と伝えられている。中世においては大黒天・毘沙門天・弁才天の三尊が習合して合一した神像として三面大黒天像が祀られたりしているから、実は本記載の「刀八毘沙門天」は、実はこの岩本楼本館蔵八臂弁財天像と同一なのではあるまいか? 後掲される弁財天像には八臂の記載がない。八臂は特徴的であり、記載しない方が不自然であり、「刀八」という呼称は八臂を連想させ、多様な形態をとることから八臂の刀八毘沙門天像はあってよい。現存するそれは寄木造玉眼入りで、細部に立体的な盛り上げや彩色が施されている。但し、作像時期は室町末期とされ、木造の十五童子像を伴っている。「弘法の作」とはしばしば見られる偽伝承である。]
北條氏康請文 壹通
【江の島の緣起】 五卷 詞書作者不知(知れず)。は土佐なり。
[やぶちゃん注:比叡山延暦寺僧の皇慶(九七七~一〇四九)が永承二(一〇四七)年に記したもので、先の天女と五頭龍の伝説が記されている。]
太田道灌の軍配ウチハ 壹枚 練物黑塗ネリモノクロヌりなり。
[やぶちゃん注:生絹の膠質こうしつ(繊維(フィブロイン)に付着したセリシン)部分を取り除き、柔らかくしたものを練り固めてつくったもの。若しくは、それを用いて作った珊瑚・宝石などに似せた細工物を言う。]
馬の玉 壹顆
[やぶちゃん注:本頁の冒頭「星月夜井」の「馬の玉」の注を参照のこと。]
九穴のカイ 壹顆
[やぶちゃん注:これは恐らく、軟体動物門腹足綱原始腹足目ミミガイ科のアワビ属 Haliotis か、トコブシ属 Sulculus フクトコブシ S. diversicolor 亜種 トコブシSulculus diversicolor supertexta と思われる。これらの日本産の小・中型個体については、殻に開いた孔(塞がれたものは数えない)の数で区別が出来、四~五穴がアワビ、六~九穴がトコブシなのであるが、「宝物」とする以上は相応な大型個体でなければならない。アワビは最大殻長二十センチに及ぶものもあり、殻幅も十七センチの個体があるのに対し、一般的にトコブシは大きくても殻長七~八センチ止まり、殻幅も五センチ程度で大型化はしないから、私は宝物にはならないと判断する。従ってこれは二十センチ大の大型の内部の真珠光沢が美しいアワビで、中でもクロアワビ Haliotis discus discus であろうと思われる。クロアワビは別名オガイとも呼ばれ、これは「御貝」で朝廷への貢納や伊勢神宮への奉納品として用いられたことに由来する。私は「九穴」を背面にある塞がってしまった隆起孔跡も含めて九と数えたものと判断する(若しくは古い塞がった穴を人為的に開けて九個実際にあったものなのかも知れない)。因みに、この穴はミミガイ科に特徴的なもので、鰓呼吸で体側下部周囲から外套腔に採り入れた海水及び排泄物、卵・精子などを放出するための孔であり、殻の成長に従って形成されるもので、古いものから順に孔が石灰化して塞がり、隆起のみが残る。]
二岐フタマタタケ 壹本
[やぶちゃん注:これは竹で地面から二股になって生えている実生の竹を言っているものと思われる。因みに琵琶湖の竹生島は古えにこの二岐の竹が生えていたことに由来する命名という。]
ヘビツノ 貮本 ナガさ一寸餘あり。慶長九年閏八月十九日、羽州秋田の常樂院尊龍と云ふ僧、伊勢參宮して、内宮の邊にて、ヘビツノオトしたるを見てヒロふたりとふのへ狀あり。其形如左(左のごとし)。

[蛇角圖]

[やぶちゃん注:「ヒロふたり」はママ。
「慶長九年」西暦一六〇四年。
「羽州秋田の常樂院尊龍」これは恐らく現在の男鹿市北浦の男鹿温泉郷の湯本にある星辻ほしつじ神社の前身、亀尾山常楽院に所属した修験僧と思われる。現在でもこの神社は通称で妙見常楽院と呼ばれている。創建は延暦年間(七八二年~八〇六年)で征夷大将軍坂上田村磨呂の東征の際、湯本温泉で休養し、この地を霊地として勧請建立したとされ、由緒に依れば山伏の常楽院尊壽を開基とするとある。この「尊壽」と「尊龍」は法嗣と見て間違いなかろう。
 さて、角のある蛇は最も古いもので「常陸国風土記」の「行方なめかたの郡」に出現する(原文は「久遠の絆」氏の「風土記」の頁を参考にさせて頂きつつ、一部を他の複数資料によって私が納得出来る語句に変更した)。
〇原文
古老曰、『石村玉穗宮大八洲所馭天皇之世、有人、箭括氏麻多智、點自郡西谷之葦原墾闢新治田。此時、夜刀神、相群引率、悉盡到來、左右防障、令勿耕佃〔俗云、謂蛇爲夜刀神。其形、蛇身頭角。杞免難時、有見人者、破滅家門、子孫不繼。凡此郡側郊原、甚多所住之。〕。於是、麻多智、大起怒情、著披甲鎧之、自身執仗、打殺駈逐。乃至山口、標梲置堺堀、告夜刀神云、「自此以上、聽爲神地。自此以下、須作人田。自今以後、吾爲神祝、永代敬祭。冀勿祟勿恨。」。設社初祭者』。即還、發耕田一十町余、麻多智子孫、相承致祭、至今不絕。其後、至難波長柄豐前大宮臨軒天皇之世、壬生連麿、初占其谷、令築池堤時、夜刀神、昇集池邊之椎株、經時不去。於是、麿舉聲大言、「令修此池、要盟活民。何神誰祇、不從風化。」。即、令役民云、「目見雜物、魚虫之類、無所憚懼、隨盡打殺。」。言了應時、神蛇避隱。所謂其池、今號椎井也。池面椎株。淸泉所出、取井名池。即、向香島陸之驛道也。
〇やぶちゃんの書き下し文
 古老ふるおきな曰く、『石村いはれ玉穗たまほの宮に大八洲おほやしま しろしめしし天皇すめらみことみよ、人有り、箭括氏麻多智やはずのうぢのまたちこほりより西の谷の葦原をて、墾闢ひらきて新たに田をりき。此の時、夜刀やとの神、相ひ群れ引き率て、悉盡ことごと到來きたり、左右かにかく防障へて、耕佃たつくらしむること勿し〔くにひと云く、へみを謂ひて夜刀の神と爲す。其の形、蛇の身にしてかしらに角あり。率引きてわざはひを免るる時、見る人有らば、家門いへかど破滅ほろぼし、子孫うみのこ繼がず。凡て此の郡のかたはら郊原のはらいと さはに住めり。〕。是に、麻多智、大きに怒のこころを起こし、甲鎧よろひ著被けて、自身みづかほこを執り、打ち殺し駈逐おひやらひき。乃ち、山の口に至り、しめつゑを堺の堀にて、夜刀の神に告げて云く、「此より上は、神のところと爲すことをゆるさむ。此より下は、人の田とすべし。今より以後のちは神のはふりと爲りて、永代とこしへいやび祭らむ。冀はくは、な祟りそ、な恨みそ。」と、社を設け、初めて祭りき。』と。即ちた、耕田つくりだ 一十町とをところ餘りをおこして、麻多智の子孫、相ひ承けて祭を致し、今に至るまで絶えず。
 其の後、難波なには長柄ながら豊前とのさきの大宮に臨軒あめのしたしろしめしし天皇の世に至り、壬生連麿みぶのむらじまろ、初めて其の谷を占めて、池の堤をかしめし時に、夜刀の神、池の辺の椎のに昇り集まり、時を經れども去らず。是に於いて、麿、聲を擧げて大言たけびらく、「此の池を修めしむるは、かならず民を活かさむにあり。いづれのあまつかみいづれのくにつかみぞ、風化みおもむけに從はざる。」と。即ち、えだちの民にりて云く、「目に見るくさぐさの物、魚虫の類ひは、憚り懼るる所無く、隨盡ことごとく打ち殺せ。」と言ひ了はる應時そのときあやしき蛇避け隠りき。所謂、其の池、今、椎の井となづく。池のかたはらに椎の株あり。淸泉しみづ出づれば、井を取りて池に名づく。即ち、香島に向ふくが驛道うまやぢなり。
現在の茨城県行方市玉造町泉にある愛宕神社に、本話に現れる神を祀った夜刀神社が合祀されている。この神の名は一般に湿地帯を支配する谷神、ヤトに由来すると言われている。これは鎌倉で谷を「やと」「やつ」と呼ぶこととリンクしていて興味深い。
「石村の玉穗の宮に大八洲馭しめしし天皇の世」は継体天皇の御世。在位は西暦五〇七年から五三一年まで。
「郡」は郡衙ぐんが。郡司の役所。
て」は「占て」で、占有・領有するという意味で採るものもあるが、私は地を点ずる、地勢を占うの意で採る。
率引きて難を免るる時」の部分は諸説あり、「引」が多くは「紀」とあり、「率祀」として「おほむね祀りて」と訓ずるものもある(角川書店刊・鑑賞古典文学「日本書紀・風土記」)。また、ネット上の情報に、この夜刀の神から逃れるには「」(ヤナギ科ヤナギ属カワヤナギ Salix gilgiana)を用いればよいというのがあるが、これはこの部分の異文に基づく伝承のように思われる。文脈通りで解釈するならば、逃げる際に後ろを振り向いてこの神の姿を見ると、という謂いであろう。
つゑ」諸本「杭」に作る。
「神のはふり」は祭主。
「難波の長柄ながら豊前とのさきの大宮に臨軒あめのしたしろしめしし天皇の世」は孝徳天皇の御世。在位は西暦六四五年から六五四年まで。
風化みおもむけ」は天皇の大御心による徳化の意。
役民えだち」は治水工事にかり出した民のこと。
 さてもまた、同じく「風土記」の続く「香島の郡」(現在の鹿島)にも、
〇原文
以南所有平原、謂角折濱。謂、古有大蛇、欲通東海、掘濱作穴、蛇角折落、因名。或曰、倭武天皇、停宿此濱、奉羞御膳、時都無水。即執鹿角、掘地之、爲其角折。所以名之。〔以下略之。〕
〇やぶちゃんの書き下し文
 南に平原有れば、角折つのをれの濱と謂ふ。謂ふは、古へ大蛇有り、東の海に通はむとおもひて、濱を掘り穴を作りしに、蛇の角折れ落ち、因りて名づく。或は曰く、倭武やまとたける天皇すめらみこと、此の濱に停宿やどられ、御膳みつけものすすめ奉るに、時にすべて水無し。即ち鹿の角を執り、地を掘しに、爲に其の角折れし。所以ゆゑに之を名づく。〔以下、之を略す。〕
とある。「風土記」は角のある蛇がお好き。現在、鹿嶋市の旧大野村に角折という地名が残っており、東に太平洋を臨む「潮騒はまなす公園」付近が「角折の濱」に同定されている。さても、以上から推定されるのは、これらは地名由来説話であると同時に、大和朝廷にまつろわぬ土着の異民族の象徴であり、その民族の信仰した土着神が蛇にシンボライズされた谷神であったが、結局、角を失って霊力を消失、神から妖怪変化へと零落させられていく権力側の習合支配のシステムを見て取ることが出来るように思われる。そうした抑圧された過去の記憶が時折、このような「蛇の角」という形で先祖返りを示すのではないか。もたらした人物が秋田の修験者であったということも、何やらん、私には因縁を感じるのである。
 この蛇の角は珊瑚若しくはそのイミテーションの珊瑚玉(先に出た練物)で造られた細工品のように感じられる(江の島神社や岩本楼には現存しない模様)。なお、角のある蛇は本邦にはいないが、サハラ砂漠に実在する。有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ下目クサリヘビ科サハラツノクサリヘビ Cerastes cerastes は全長三十センチから最大八十五センチに及び、左右の眼の上部に尖った角状突起を持つ。この角は軟らかく、現在の研究では機能は不明とされているようである。因みに異様な外見ばかりではない。立派な猛毒の毒蛇である。]
慶安二年の御朱印 壹通 境内山林竹本等の免狀、獵師町の地子、同く船役は公役なりとあり。
[やぶちゃん注:「慶安二年」は西暦一六四九年。「地子」は「じし」又は「ちし」と読み、領主が田畠山林などへ賦課した地代。「公役」は「くやく」と読み、地子免除の代償として課された賦役であったが、後には金銭で納めるようになった。]
   以上

無熱池ムネツチ 下の宮へノボけば、坂の上左の方にあり。天竺の無熱池をカタドる。島の上にあれども、旱天にも不涸(涸れず)と云ふ。
[やぶちゃん注:江の島の伝承では曾てここに龍女が住んだという。「天竺の無熱池」とは阿耨達池あのくだっちのこと。無熱悩池とも。須弥山の麓にあるという阿耨達龍王(彼の三女が弁財天)のすむ想像上の池(モデルとなった池はヒマラヤの北に実在するとされる)。岸は金銀四宝で出来ていて、ここから流れ出した川が我々の住む贍部洲せんぶしゅうを潤しているとする。]

蝦蟆石ガマイシ 無熱池の岸邊にあり。相傳ふ慈悲上人此島にコモりし時、蝦蟆でて障礙をなしける故に、加持せられければ、終に此石と化したりと云ふ。
[やぶちゃん注:「慈悲上人」良真。鶴岡八幡宮の供僧であったが、、元久元(一二〇四)年に渡宋、建永元(一二〇六)年に宋から戻った彼は江の島に参籠して修行を積んだ。]

福石フクイシ 無熱池の傍ら、坂を上れば左にあり。參詣のトモガラ、此の前にて、ゼニ或は貝類カイルイなどをヒロふ時は、必ず富家とる故に名くとなり。

[福石と江ノ島道標(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]

[やぶちゃん注:この石は、鍼医杉山和一(すぎやまわいち 慶長十五(一六一〇)年~元禄七(一六九四)年)の逸話で特に知られる。幼くして失明した和一は江戸の検校山瀬琢一の下に入門するものの、生来の不器用と物忘れが災いして、破門を言い渡されてしまう。そこで江の島弁財天に籠って起死回生の断食祈願をし、その帰るさ、この福石の傍で躓いて倒れた。その際、何かが体に刺さった感じがするので拾ってみたところ、それは中空の竹の中に入り込んだ松葉なのであった。和一はこれに発想を得て、現在知られるところの、中空の管の中に鍼を挿入し、管の上部から出た鍼の頭を叩いて打つ管鍼(くだばり・かんしん)を考案したとされている。彼はその管鍼で徳川綱吉を治療、元禄二(一六八九)年には関八州の当道盲人を統括する惣禄検校にまで登りつめた。彼はまた鍼術及び按摩術の技術取得を目的とした、世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設していることも注目しておきたい。この奇瑞に感謝の意を表して、後に和一は藤沢宿から江ノ島に至る道標四十八基を寄進、その最終の道標と思われるものが現在のこの福石の前に建っている。この福石の左下方、江ノ島の裏へ回る近道である東参道を入った右の下った直ぐの所に和一の墓はある。]

[杉山和一の墓(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]


下の宮 緣起に、下の宮は、建永元年に、慈悲上人、諱は良眞の開基にて、源實朝の建立也とあり。延寶三年に再興の棟札あり。本尊辨才天〔弘法の作。〕・如意輪觀音・慈悲上人の像・慶仁禪師の像・實朝の像を安置す。下の坊、ツカサドるなり。
[やぶちゃん注:現在、辺津宮と呼称される本社「下の宮」は、建永元(一二〇六)年に宋から戻った慈悲上人良真が将軍実朝に上奏して建てた神社とされている。祭神は海神三姉妹である宗像三女神の一柱である多岐都比売命タギツヒメノミコト
「延寶三年」は西暦一六七五年。
「慶仁禪師」は良真の中国での師で、良真は彼の法嗣であり、良真が初めて慶仁禅師に参じた時、師は日本に江の島という観音垂迹の霊地があり、そこに社壇を開くべしと語ったとされる。
なお、江ノ島島内の神社(寺)は現在の呼称と当初の支配権が異なるので、今一度、対比しておくと、
《現在の呼称》   《当時の呼称》   《当時の別当》
本社辺津宮     下之宮       下之坊
  中津宮     上之宮       上之坊
  奥津宮・岩屋  本 宮・龍穴    中之坊・岩本坊
である。先にも記したが、この別当としての権益は江戸初期のもので、寛永十七(一六四〇)年には岩本院と上之坊との間で実質支配権益に纏わる本末争論が起こって、唯一の仁和寺末寺の院号を有することと、同年に岩本院へ幕府の朱印状が下されたことを武器に、上の坊、次いで下の坊をも岩本院が支配するに至った。
「本尊辨才天」はこれは現在の辺津宮に祀られている、女性生殖器がしっかりと彫り込まれているところの通称裸弁天、妙音弁財天(推定鎌倉中期以降の作像)と考えてよい。昭和二十八(一九五三)年芸苑巡礼社刊の堀口蘇山「江島鶴岡弁才天女像」によれば、この弁財天像はかつて下宮に良真が建立した宋様の竜宮門の楼上に少女の竜女(乙姫)として造形され祀られていたものらしいが、明治の廃仏毀釈の対象となった折り、誰かが役人の目を盗んで中津宮の床下に隠し置いて消失を免れたとある。なお、本書は修復前の本像の写真や生殖器の彫琢の細部解説、修復の際の誤謬等、極めて興味深い著作である。一読をお薦めする。]

碑石ヒセキ 宮の南の方に立たり。高さ五尺ばかり、ヒロさ二尺七寸、アツさ四寸。但し上幷ウヘナラびに兩緣は別の石なり。座石可有(有るべき)物なり。歳古て紛失したる歟。今は土中へウヅめて建たり。碑文の所、中よりれて、ぎ合せててたり。《江島屏風石》俗に、江の島の屏風イシと云ふ。相傳ふ、此の石は、土御門ツチミガト帝の御宇に、慈悲上人の宋國にイタり、慶仁禪師にマミへて、此碑石を傳へて歸朝すと。篆額テンガクは、小篆文にて、ホヾ大篆をカネたり。大日本國、江島靈迹、建寺之記と三行にあり。記の字の所、石損イシソンじて見へがたし。ハツカに言偏を得て記の字なる事を知る。四傍に雲龍をけ、極めて奇物なり。の文は、剥缺して不分明(分明ならず)。普く好事カウズに搜索すれども、カツて知る人なし。タヾ十界の二字、性の字、人の字、成の字など、所々トコロドコロに見へたり。字は楷書なり。碑石ヒセキの圖如左(左のごとし)。

[碑石圖]

[篆額の字體左のごとし]


[上自左至右「大」「日」「本」「島」下左「迹」右「建」(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]


[文様残痕 左・碑左上端 中碑上端中央 右・碑右上端(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]
  

[碑面断裂部(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]


[やぶちゃん注:「土御門ツチミガト帝」のルビはママ。藤沢市文書館文書館だより「文庫」(二〇〇八年七月刊)の加藤氏の「旅人が見た江戸時代の藤沢(4)-江ノ島屏風石に関することども-」によれば、光圀及び編者による本記載の後、寛政九(一七九七)年に江ノ島を訪れた下野国烏山藩藩医田良道子明甫の記録に『碑文の所中より折て繼合て建たり』とあるので、光圀来訪の延宝二(一六七四)年以降の百年の間に補修再建されたものらしい。三年後に訪れた江戸の僧十方庵大浄も「遊歴雑記」(寛政十二(一八〇〇)年)で「是古雅風流の一奇品たり」と言い、碑文が剥落して判読出来ない状況を「惜しむべきの甚だしき也」と記している。文政九(一八二五)年刊の本草学者佐藤成裕の「中陵漫録」の「江ノ島碑」では、かなり突っ込んだ考証が行われており、
『余、始て至る時、其文字はなはだ明なり。後、至て見れば見えざる處あり。其後又、至て見るに更に見る處なし。わづかに二十年の間に滅するは石の柔なる故なり。』
と述べており、この謂いから考えると、本「鎌倉志」執筆の頃は無論、佐藤中陵が最初に見たのは田良道子明甫や十方庵大浄が訪れたのと同時期であり、正に一八〇〇年頃までは、実はここに示された五文字以外にも何らかの文字らしきものが見えていた可能性がある。それを誰も書き残さなかったことが悔やまれる。更に中陵は碑の石材の材質に着目し、
『余、此石を諸州に尋るに、未だかつて見る事なし。後、伯州の米子の城後の寺院の江辺の岩石、全く是と同質なり。余始て宋の石と同樣なるを悦ぶ事なのめならず』。『又、筑前阿彌陀經の石も亦た相類す。是に因て疑ふ。阿彌陀經の石及び江島の碑は、蓋し肥前及薩海の辺の石にて作りたる也と。尤も其彫刻は他の人なれども、實に彼地の石ならずや。』
と記す。「伯州」は伯耆国で現在の鳥取県西部、「筑前阿彌陀經の石」は江ノ島の祭神の元である福岡県の宗像神社にある、正面に阿弥陀如来像、背面に阿弥陀経を彫った高さ約一六〇センチ×幅約八〇センチの塔状の経石のことを指す。当初、中陵は伝承通り、この屏風石を中国渡来のものと思っていたようであるが、後に同質の石を米子で発見、彼は中国の石と同じ石が本邦にもあったと喜んだのだが、更にその後、長崎や筑前でも同質の石が見つかったことから(以下の引用符は加藤氏のものから)『屏風石も肥前か薩摩の辺りでとれた石で作られたのではないかと書いて』おり、『この項目は、「世に此類多し。こゝに於て疑を容る」とまとめられており、中国から運ばれたとされる屏風石が、実は国内で作られたものだったのではないかという、中陵独自の見解を示して』いる、とある。中陵の実証主義的観点からの伝承への疑義に私は大いに同感するものである。更に加藤氏は現在の屏風石について触れ、現在のものは『座石があり、雨覆がつけられて』おり、更に『その覆いには「当碑文之雨覆并基盤石造立寄進」と彫られ』、元禄十四(一七〇一)年十二月吉日『の日付と、「施主嶋岡検校代」「別当法師恭順」の名前が確認されて』いるが、以上の『江戸時代の記録には、座石や雨覆の話は一切触れられて』いない点が妙であるとされ、『ひょっとするとこの辺りにも、いろいろと疑ってみる余地があるのかも知れ』ないと結んでおられる。
……私自身、実は二十四年前、この碑の謎めいた文字を初めて見、手でその上を辿った時、何か妙に不思議な気持ちになったのを覚えている……そこでは……その時の私たちと同じような尾崎放哉と恋人芳衛が佇んでこの碑を見ていたのかも知れない……かつて……若き日の、結婚する前の私の父と母もその前に二人して立ちどまってこの奇妙な碑を一緒に見たかも知れない……私はずっと後年、やはりそこに、とある少女と立ち止まってかれこれと解説をしたこともあった……放哉の薔薇の絵葉書の文字が見える……「我、誤てり」……碑面の謎は僕自身の謎であった……「十」代がそして三「十」代が終わっても、少年のまま、なりたくもなかった「成」「人」の「性」の世「界」……その碑文は、僕自身の人生という、不可解で愚劣極まりない、落剝ならぬ落魄した存在の、謎のロンゴロンゴ文字ででも、あったのだ……]

鐘樓 宮の左にあり。鐘の銘如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下の鐘銘は底本では全体が一字下げ。]
  奉冶鑄、金龜山與願寺、宇賀辨才天女下宮鐘銘。
大日本國、東海道、相模州江島者、從金輪際湧出之靈島歟、福神託居之巖窟焉、加之人王三十代、欽明天皇十三壬申歳、自四月十二日戌刻、當于江野南海湖水之水門、雲霞暗蔽海上、日夜大地六種震動、天女顯現雲上、童子侍立左右、諸天龍神、水火雷電、山神鬼魅、夜叉羅刹、從天降盤石、從海擧砂礫、電光輝空、火焔交白浪、同及于二十三日辰刻、雲去霞散、見海上有島山耳、今之三神山是也、抑此神將王者、天地之起々、陰陽之初々也、聞法年舊、誰知空王往事、利生日新、何如尊神現德乎、本地則等覺妙覺之尊、大慈大悲之濟渡幾舊迹、亦天童天女之體、與官與福之利益是新矣、因玆役優婆塞詣此山越知泰澄、居當島、傳教窓前發願影向、弘法床上對請恒臨、慈覺念時常隨給仕、安然行場應滿知、所以顯密權實宗、宗々被冥助、文武商農家、家々仰靈驗矣、肆信心之檀越等攸奉冶鑄、蒲牢一聲、上徹梵天頂、下響地輪底、此土耳根利、故遍用聲塵三寶證明之、諸天衞護之、總而天長地久、御願圓滿、別而施主、懸志於辨天本願、任誠於大悲誓約、所祈善願令悉地成就而已、維時寛永十四丁丑暦、閏彌生吉祥日、天台傳燈三部都法大阿闍梨法印生順謹書、下宮別當職權大僧都法印長伸、稽首敬白。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って鐘銘を書き下したものを示す。]
  冶鑄し奉る 金龜山與願寺 宇賀辨才天女下の宮の鐘銘
大日本國、東海道、相模州江島は、金輪際より湧出するの靈島か、福神託居の巖窟なり。加之シカノミナラズ人王三十代、欽明天皇十三壬申の歳、四月十二日戌の刻より、江野の南海、湖水の水門に當りて、雲霞暗に海上を蔽ひ、日夜大地六種震動す。天女雲上に顯現し、童子左右に侍立す。諸天龍神・水火雷電・山神鬼魅・夜叉羅刹、天より盤石を降し、海より砂礫を擧ぐ。電光空に輝き、火焔白浪に交る。同二十三日辰の刻に及びて、雲去り、霞散じて、海上に島山有るを見るのみ。今の三神山是れなり。ソモソモ此神將王は、天地の起々、陰陽の初々也なり。聞法年舊され、誰か空王の往事を知らん。利生、日々に新たなり。尊神の現德を何如せんや。本地は則(ち)等覺妙覺の尊、大慈大悲の濟渡、(ヤウヤ)く舊迹たり。亦天童天女の體、官を與へ、福を與ふるの利益、是れ新たなり。玆に因りて役の優婆塞、此山に詣り、越知の泰澄、當島に居り。傳教、窻前に影向を發願し、弘法、床上に恒臨を對請し、慈覺、念時に常に隨ひて給仕す。安然の行場應に滿知すべし。所以コノユヘに顯密權實の宗、宗々冥助を被り、文武商農の家、家々靈驗を仰ぐ。カ(ヽ)ルガユヘに信心の檀越等、冶鑄し奉る(トコロ)なり。蒲牢一聲、上は梵天の頂に徹し、下は地輪の底に響く。此の土、耳根、利なり。故に遍く聲塵を用ゆ。三寶、之を證明し、諸天、之を衞護す。總じては天長地久、御願圓滿。別しては施主、志を辨天の本願に懸け、誠を大悲の誓約に任せ、祈る所の善願悉地成就せしめんのみ。維れ時 寛永十四丁丑の暦 閏彌生吉祥日 天台傳燈三部都法大阿闍梨法印生順謹みて書す 下の宮の別當職權大僧都法印長伸 稽首敬ひて白
「欽明天皇十三壬申歳」は西暦五五二年。「寛永十四丁丑の暦」西暦一六三七年。]

上の宮 額、辨才天、釋の乘圓とあり。緣起に上の宮は、文德天皇、仁壽三年に、慈覺大師創造すとなり。上の坊是をツカサドる。本尊辨才天、慈覺の作。ミヤの南に堂あり。千體地藏を安ず。作者不知(知れず)。モト古佛なりしが、今紛失して大半新佛なり。エンの行者の古き木像有。
[やぶちゃん注:現在の中津宮。祭神は海神三姉妹である宗像三女神の一柱である市寸島比賣命イチキシマヒメノミコト
「尊辨才天、慈覺の作」とりあえず、私はこれを、現在の辺津宮にもう一体祀られているところの、八臂弁財天像に同定しておきたい。そもそもこの像は、近代になって本宮(奥津宮)の奥から発見されたと記されているからである(旧版「かまくら子ども風土記」)。これは現在でも鎌倉初期の作とされ、「吾妻鏡」に記されるところの、頼朝が奥州藤原氏調伏祈願のために文覚に命じて造像させたものといういわくつきのものであるが、私にはこの現存像が頼朝由来のそれであるというのは、やや疑わしく感ぜられる。先に掲げた堀口蘇山「江島鶴岡弁才天女像」でも堀口氏は「弁才天建立の遠因」の末尾に、頼朝や実朝の弁才天信仰の主体たる当時の江の島の本尊像が『八臂であるか、二臂であるか、当像(やぶちゃん注:現在の辺津宮にある妙音弁財天を指している。)であるか、黄金体の弁才天であるか、それとも文覚上人の願意で頼朝寄進の弁才天であつたか、今之を知る由もない』と記されている。但し、前段で氏は『江島弁才天の創立は不明で』、『空海、慈覚』といった『名僧は数多く賽参したであらう』から、『此の壮観の景勝地に仏教徒の布教熱が持ち上り本地垂迹説を齎して妙音弁才天でも押し入り嫁にして一寺建立を企んだのは豈に独り弘法慈覚のみならんやである。要するに各宗の名僧が絵に画いた様な此の霊島に両部神道を建設すべく企図したことは常識的に推断できるのである』と述べておられるから、本文の「慈覺大師創造す」といった伝承などを全否定はせず、微妙に留保はなさっている。
「仁壽三年」は西暦八五三年。
「慈覺大師」は第三代天台座主円仁(延暦十三(七九四)年~貞観六(八六四)年)のこと。]

本社 鳥居をぎ、龍穴リウケツへ下り行道の右にあり。近年、下の宮・上の宮の外に、本社と號し山上に建立す。龍穴リウケツの内に所有(有る所ろ)の佛像どもを、此社にウツし置なり。巖本院イハモトイン是をツカサどるなり。
[やぶちゃん注:現在の奥津宮。祭神は海神三姉妹である宗像三女神の一柱である多紀理比賣命タキリヒメノミコト。拝殿天井に描かれた酒井抱一の「八方睨みの亀」の図は私の大のお気に入りである。頼朝の奉納になる石鳥居もある。]
鐘樓 社の北にあり。鐘に寛永六〔己巳。〕年、孟夏十四日に、西上州の住人齋藤佐次衞門重成シゲナリと云者寄附すと彫付て有。あれども録するに不足(足らず)。

兒淵チゴガフチ 龍穴リウケツへ行坂の巖下、右の方の海水、碧潭如藍(藍のごとく)なるトコロを云ふなり。ムカシ建長寺の廣德菴に、自休ジキウ藏主と云僧あり。奧州志信シノブの人なり。江島エノシマへ百日參詣しけるに、雪下ユキノシタ相承院の白菊シラギクチゴ、是も江島エノシマへ參詣しけるに、自休藏主邂逅カイカウしてげり。いかにもして、シノびよるべき便タヨりを云けれども、へて其の返事だになし。ナヲさまざま云かすれば、白菊シラギク、せんかたなくて、或夜アルヨまぎれでて、又江島エノシマき、扇子アフギに歌を書て、ワタシ守をタノみ、我をタヅぬる人あらば、せよとてかくなん、「白菊シラギクとしのぶのさとの人とはゞ、思ひイリ江の島とこたへよ」。又、「うきことを思ひ入江の島かげに、捨る命は波の下草シタクサ」と詠て、此淵に身をげたり。自休ジキウ尋ね來て此事をき、かく思ひつゞけける。
懸崖嶮處捨生涯、十有餘霜在刹那、花質紅顏碎岩石、娥眉翠黛接塵沙、衣襟只濕千行涙、扇子空留二首歌、相對無言愁思切、暮鐘爲孰促歸家。
又歌に、「白菊シラギクの花のなきけの深き海に、ともに入江の島ぞウレしき」と詠で、其まゝ海にシヅむとなん。故に兒淵チゴガフチと名くとなり。イハの間に白菊が石塔あり。右の詩歌は【滑稽詩文】に載たり。自休が像、法華堂にあり。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って自休の漢詩を書き下したものを示す。
 懸崖嶮き處 生涯を捨つ
 花質紅顏 岩石に碎け
 十有餘霜 刹那在り
 娥眉翠黛 塵沙に接す
 衣襟 只だ濕ふ 千行の涙
 扇子 空しく留む 二首の歌
 相ひ對して言ふ無し 愁思切なり
 暮鐘 孰が爲にか 歸家を促す
西御門にある来迎寺には抜陀婆羅尊者ばったばらそんじゃ木像があるが、これは別伝でこの自休和尚の像とされる。実は来迎寺本尊如意輪観音像とこの像は、その過去を辿ってみると、報恩寺→太平寺→法華堂→来迎寺と目まぐるしく鎌倉内を移動している。特にここで法華堂が直前の所蔵であったことに着目したい。来迎寺に迎えられたのは実は明治の廃仏毀釈令以降であることが分かっている。そしてそれまで近世の法華堂は鶴岡八幡宮の管理下にあったことも分かっている。しかも、この話柄の主人公美少年白菊は鶴岡八幡宮寺二十五坊の一つ「雪下相承院」の稚児なのである。本文最後の「自休が像、法華堂にあり」とは、島内にあったかも知れない法華堂ではなく、正に鎌倉西御門の法華堂であることを意味していると考えてよい。私が言いたいのは、この来迎寺の像が自休像であるかないかの実証とは無関係に、本記載の最後に言う「自休が像」と来迎寺に現存する抜陀婆羅尊者木像(伝自休和尚像)は同一物であるということである。]

龍穴リウケツ  れ江の島の神窟辨才天の所居なり。【東鑑】に、江の島の龍穴リウケツにて祈雨の事往々ハウハウ見へたり。法印堯慧が【北國紀行】に、コヽ蓬莱洞ホウライタウといへる深祕なりと書たり。相ひ傳ふ、弘法大師、弘仁五年に、此の窟中に參籠して、天照大神・春日・八幡等の諸神の像を刻て勸請すと。イハヤの入口南の方へ向ふ。海水巖窟にタヽへてハナハアヤウし。左にひ、岩尾イワヲツタふて内へる也。漸く入て窟中甚だクラし。内に人居て松明タイマツを作て、參詣の人をミチビる。窟中にサカヒありて左右に分れく。胎藏界のアナ・金剛界のアナと云。一町餘も入て、内に石佛數多アマタあり。カタハらに弘法イノり出したりとて、巖間イハマより淸泉流れ落るなり。蛇形のイケ・弘法の臥石あり。を以てナヅるに人肌ヒトハダの如くナメラかなり。又護摩の・石觀音・石獅子などあり。弘法歸朝の時持來しとなり。是より奧へは穴窄アナセバくして、立て入がたし。きたる人もなしと云。一年に一度づゝ海波打入て、ヲクまでを洗ひ流すとなり。それゆへか甚だ奇麗なり。鶴が岡一の鳥居より、此龍穴まで、關東道十五里あり。
[やぶちゃん注:叙述から見て、現在の第一岩屋を、それのみを描写している。「關東道十五里」「七里濵」の注で示した通り、「關東道」の里程単位である坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)で示している。坂東一里は六町、六五四メートルであるから、約九八一〇メートルとなる。地図上で「一の鳥居」=現在の三の鳥居から、極楽寺坂を越えて海岸線を辿り、龍口寺前を通って、洲鼻通りから渡島するルートで平面実測してみると、約九・五キロから十キロとなるから、極めて正確な数値であると言える。]

魚板石マナイタイシ  龍穴リウケツの前にあり。面平ヲモテタヒラかにして魚板マナイタの如し。遊人或は魚をき、アハビらしめてる。此の石上にて四方を眺望すれば、萬里の廻船數百艘、海上にうかめり。豆・駿・上・下總・房州等の諸峯眼前に有。無限(限り無き)風景なり。
[やぶちゃん注:芥川龍之介と江の島との関連で余り取り上げられることがないが、芥川龍之介の未完作品「大導寺信輔の半生」の最終章「六 友だち」には、その掉尾に、この魚板石付近を舞台にした印象的なエピソードが語られている。私のテクストから当該部を引用しておく。

 信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出來なかつた。標準は只それだけだつた。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訣ではなかつた。それは彼の友だちと彼との間を截斷する社會的階級の差別だつた。信輔は彼と育ちの似寄つた中流階級の靑年には何のこだわりも感じなかつた。が、纔かに彼の知つた上流階級の靑年には、――時には中流上層階級の靑年にも妙に他人らしい憎惡を感じた。彼等の或ものは怠惰だつた。彼等の或ものは臆病だつた。又彼等の或ものは官能主義の奴隸だつた。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の爲ばかりではなかつた。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの爲だつた。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでゐた。その爲に又下流階級に、――彼等の社會的對蹠點に病的な惝怳を感じてゐた。彼は彼等に同情した。しかし彼の同情も畢竟役には立たなかつた。この「何か」は握手する前にいつも針のやうに彼の手を刺した。或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人、――或男爵の長男と江の島の崖の上に佇んでゐた。目の下はすぐに荒磯だつた。彼等は「潛り」の少年たちの爲に何枚かの銅貨を投げてやつた。少年たちは銅貨の落ちる度にぽんぽん海の中へ跳りこんだ。しかし一人海女あまだけは崖の下に焚いた芥火の前に笑つて眺めてゐるばかりだつた。
 「今度はあいつも飛びこませてやる。」
 彼の友だちは一枚の銅貨を卷煙草の箱の銀紙に包んだ。それから體を反らせたと思うと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらきら光りながら、風の高い浪の向うへ落ちた。するともう海女はその時にはまつ先に海へ飛びこんでゐた。信輔は未だにありありと口もとに殘酷な微笑を浮べた彼の友だちを覺えてゐる。彼の友だちは人並み以上に語學の才能を具へてゐた。しかし又確かに人並み以上に鋭い犬齒をも具へてゐた。…………

本文中に「或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人」とあるが、龍之介の一高卒業は大正二(一九一三)年七月であるから、これは明治四十四(一九一一)年か翌年の四月、若しくは卒業年の大正二(一九一三)年四月の間の出来事となる。私は龍之介の謂いから、このシチュエーションは正に明治の最後の江の島を活写していると読む。「遊人或は魚を割き、鰒を取らしめて見る」という二百年以上も前の記述が、ここに現前しているだけではない。それを龍之介は、美事な時代精神の批判のメスで剔抉しているのである。]

龍池 龍穴リウケツの東にある入海を名く。昔し惡籠出入の所ろと云ふ。
[やぶちゃん注:現在、第二岩屋の東の、北北西にやや深く島に陥入した入江を「龍池窟」と呼称している。私はここを、この「龍池」に同定する。なお、次の「仁田の四郎が拔穴」の私の注を必ず参照されたい。]

仁田ニツタの四郎が拔穴ヌケアナ 龍が池の東にあり。穴二つあり。《二つやぐら》俗に二つやぐらとも云ふ。仁田の四郎忠常タヾツネ、富士の人穴ヒトアナよりコヽでたりと云傳ふ。【東鑑】に、建仁三年六月三日、賴家ヨリイヘ將軍、仁田の四郎忠常タヾツネを、富士山の人穴ヒトアナツカハし、其の所をキハせしめ給ふ。一日一夜をカヘるとあり。此の所へけ出たりとはなし。
[やぶちゃん注:「かまくら風土記」旧版などを見ると、現在、この穴を第二岩屋に同定している。ところがここに疑問が生ずる。確かに現在知られる第二岩屋がここまでに記されない以上、この同定は正しいように見える。ところが「新編鎌倉志」の叙述は間に「龍池」を挟んで、ここではその「龍が池の東にあり」と明記している点である。これは全くの叙述の間違いか、でなければ「龍池」が現在の「龍池窟」ではなく、もっと西の浅い入江を呼称していたと考えるしかない。しかし、現在の「龍池窟」を見ても分かる通り、島の中央部に有意に陥入したそこは、幾ら二百年前とは言え、無名であろうはずがない地形である。ということは、実は古「仁田の四郎が拔穴」は叙述通り、この現在の龍池窟の東の対岸、次の「泣面崎」の西の端の崖にあったのではなかろうか? 但し、確かに現在の第二岩屋は二つの開口部を有しており、「二つやぐら」と古称したとしてもおかしくはない。しかし乍ら、私の疑義は「鎌倉攬勝考卷十一附録」掉尾にある江の島の記載でも更に増幅するのである。そこでは、「洞窟」という項を設けて、次のように記しているのである。

白龍窟 龍窟より東の方、第二・第三・第四とあり。
飛泉窟 第五の窟といふ。中に瀧あり。瀧のもとに池有。白龍此所に栖といふ。
十二の窟 島の廻りにあり。土人いふ、爰は天女の守護神、十二神將の居所なりといふ。
新田の拔穴 〔仁田と書は誤なり。新田四郎忠常なり。忠常は豆州の人にて、今も豆州に新田と稱する有。四郎忠常が出所の地といふ。〕白龍窟の東に二穴あり。土人いふ、新田四郎忠常が、富士の穴より、此穴え拔たりといふは妄談なり。【東鑑】に、建仁三年六月三日、賴家將軍の仰に依て、新田四郎忠常、人穴へ入、二日一夜を経て歸るとあり。玆へ出しといふ事は見えず。

この「龍窟」というのは現在の第一岩屋である。そこよりも「東の方、第二・第三・第四とあり」とし、この記載の前で「龍池」を、この「第四の窟中にあり」と記す(これは現在の第一岩屋の内部の二洞及び第二岩屋の開口した二洞の謂いと考えるのが自然ではあろう)。しかし、すると現在の龍池窟は「鎌倉攬勝考」で言う「飛泉窟」に一致し、更にその「龍此所に栖といふ」という叙述が「新編鎌倉志」の「龍池」にある「昔し惡籠出入の所ろと云ふ」と一致するのである。さすれば「白龍窟の東に二穴あ」るという「新田の拔穴」は「鎌倉攬勝考」にあっても、現在の龍池窟の東に同定されていることになるのである。二百年以上の経年によって多くの地形変動があったことは確かであろうが、私は現在の第二岩屋=仁田抜穴=二つやぐら説は承服出来ないのである。識者の御教授を乞うものである。]

泣面崎ナキツラガサキ 拔穴ヌケアナの東の出さきにあり。
[やぶちゃん注:現在、この呼称は確認出来ない。恐らく島の南端部の三つの鼻の内の、中央の最も突出している部分(もしくはこの三つの鼻全体)をこう称したものと私は考える。]

聖天島シヤウデンジマ 泣面が崎の東にあり。
[やぶちゃん注:先に挙がった慈悲上人良真が江の島に参籠して修行を積んだ際、この聖天島に天女が顕現するのを見たと伝えられている。現在は県立女性センター手前にある小さな崖状の小山となっている。本来は江の島の東岸沖に浮かぶ島であったが、関東大震災で隆起して陸繋島となり、更に昭和三十九(一九六四)年、東京オリンピックのヨットハーバーとして湘南港となり、周辺部の海が完全に埋め立てられ、島としては消失してしまった。]

[聖天島全景(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]

[聖天島前の慈悲上人良真像(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]

[聖天島(全景の左手の鳥居の所)の天神(?)石碑二体(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]


鵜島ウシマ 始め山のヒラくる時、十二來て此に集る。故に今も辨才天の使者なりと云ふ。
[やぶちゃん注:現在のヨットハーバーの南端の沿岸にある平板な岩礁帯を言う。

[私が鵜島と同定する岩礁(二〇一二年一月六日携帯にて撮影・藪野)]


[やぶちゃん最後の言葉。……まだまだ本当は……この島を私は出たくないんだ……しかし……一先ずは言うべきことは言った気がする……またここへ……いつか帰って来よう……それまで、随分、御機嫌よう……江の島――]



[二〇一二年一月六日 弁天橋にて]


[一九七六年七月 弁天橋にて]


新編鎌倉志卷之六