やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


鎌倉攬勝考卷之七


[やぶちゃん注:底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。「鎌倉攬勝考」の解題・私のテクスト化ポリシーについては「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の私の冒頭注を参照されたい。なお、テクスト化の効率を高めるため、八巻以降(最終巻から昇順に逆にテクスト化している)は私の詳細な注は、取り敢えず中止とし、私が読んで難読・意味不明と感じたものにのみ「注」を附した。これは注作業が面倒だからではない。単純に本書のテクスト化効率を高めるためである(そうしないと「新編鎌倉志」もこれも完成しないうちに私が鬼籍に入ってしまうような不安を感じるからでもある。半ば冗談、半ばは本気で。それだけの覚悟で私は注を附けている)。詳細注は後日に期す。【作業開始:二〇一一年九月十六日 最終作業終了:二〇一一年九月二十七日 追記・変更:二〇一一年十二月二十三日

   堂宇

[頼経将軍 木像 五大堂に安置]



[五大堂 明王院]


五大堂 大倉街道より北寄にあり。《明王院》明王院と號す。眞言宗にて、仁和寺の末なり。賴經將軍、祈願所に建立の書跡なり。文暦二年正月廿一日、御願の五大堂建立の地を、武州〔泰時。〕・相州〔時房。〕度々巡檢し、鎌倉中の勝地を撰ばれ、最初は甘繩の地に定められしが、此地は賴經將軍の、小町の御所より鬼門に當るを以て、爰に定給ふ。兼てより木作始專の事ありて、寺門・鐘樓を建らる。五大尊をば、去る十一月鑄像せり。二月十日堂舍建られ、大工矢坂二郎大夫並引頭四人、事終て祿を賜ふ。同六月廿九日辰刻、五大明王の像を堂内へ安置、明王院と號す。今日供餐、將軍家御參、兩國司並供奉の人々數輦[やぶちゃん注:「輦」は「れん」で手車のことであるが、「吾妻鏡」を見るとこれは「輩」の誤植である。]、午刻曼陀羅供、導師大阿闍梨辨僧正定豪、聽衆廿二口、願文の草は大藏卿爲長、清書は内大臣實氏公云云。酉刻事終り還御、僧徒に布施・被物あまた賜ふ。今は堂内に不動尊一體有。外四體は寛永年中燒亡すといふ。不動の作は、筑後法橋が作なりといふ。
[やぶちゃん注:「五大尊」は、五大明王のことで、通常、真言密教(東密)では不動明王を中心に、東方に降三世ごうざんぜ、南方に軍荼利ぐんだり、西方に大威徳、北方に金剛夜叉のそれぞれの明王を配する。「曼陀羅供」は「まんだらぐ」と読み、真言宗最高の法会の一つ。両界曼荼羅を掲げて諸尊を供養する法会。「被物」は「かづけもの」と読み、ここでは法会の布施として与えられた衣服を指す。「吾妻鏡」当該記事には「被物三十重〔色々。〕 裹物つつみもの〔染絹十五端を納む。〕」として詳細目録が載る。]

北斗堂 賴經將軍御願として、五大堂の郭内に建給ふ。今は舊跡定かならず。仁治二年三月廿七日、北斗堂立柱上棟、兵庫頭定員・信濃民部大夫入道行然奉行す。同年八月廿五日供養、將軍家御參〔束帯。〕、曼陀羅供修行、堂内に安置は三尺の七星の像、幷一尺の廿八宿と十二宮の神像各一躰宛、三尺の一字金輪の像等。入夜、堂鎭の法、同御祭等行はる。導師大阿闍梨卿ノ僧正快雅、執蓋〔、〕肥前太郎左衞門尉胤家・兵庫頭家員・江ノ石見前司能行〔、〕執其綱〔。〕讃衆八人なり。前隼人正光重等、會場の事を奉行す云云。此北斗堂も、何の年に歟燒亡す。
[やぶちゃん注:「一字金輪の像」は真言密教の秘仏で、成仏と除災のために修される一字金輪法の本尊とされる。「執蓋」は「しつかい」と読み、儀式や法会などの際に衣笠・菅蓋などを捧持して随行する役を言う。]

藥師堂 荏柄社より東の方、古へ藥師堂有しゆへ、他の名に唱ふ。藥師堂谷といふは此邊なり。【東鑑】を初とし、【梅松論】等、其餘にも見へたり。古への藥師堂は、建保六年十二月二日、右京兆〔義時。〕靈夢に依て草創し、大倉の新御堂に、藥師如來の像安置〔運慶作。〕、今日供養、導師、莊嚴坊律師行勇、咒願は圓如房遍曜、堂達は頓覺坊良喜〔若宮供僧。〕〔、〕施主〔並、〕室家等御參と、【東鑑】に載たれど、此藥師堂を、大倉の新御堂といふは誤りなり。南の大御堂に對し、右府御建立の大慈寺を新御堂と稱せしとあれば、是を大倉の新御堂と解し、藥師堂は只大倉の藥師堂とのみ唱へし事なり。仁治四年二月二日、右京兆崇敬の大倉藥師堂燒亡とあり。本佛をば取出せし由を記せり。然るに建長三年十月七日、藥師堂燒亡、二階堂に及ぶとあれば、兩所共に燒亡し、其後は造營もとより絶へけるといふ。
[やぶちゃん注:「咒願」は「じゆぐわん」で「呪願」と同じ。法会で法語を唱え、施主の幸福などを祈願する役。「堂達」は「だうだつ」と読み、法会に於ける役僧七僧の一人。法会を指揮する会行事えぎょうじの下、導師に願文を、先の呪願に呪願文を伝達する役。]

[法華堂 並 右大将家廟]


[やぶちゃん注:絵の左端の記載。

島津氏の墳墓の傍にある岩窟を土人等大江廣元の墓なりといふハ
訝しき説なり。廣元より一年前元仁元年六月平義時卒しければ二位尼
のはからひにて法華堂山の後山へ葬し新法華堂と号すと東鑑に
見えたたれば義時の墓ならんか鎌倉志に□義時の墓は今は亡□記すは
此墓を□に□て廣元の墓といふにや據をしめす

とある。文字が擦れて、浅学の私では判読が難しい。「此墓を時に誤て」か。識者の御教授を乞う。]

[右大将家 廟塔 髙凡五尺余]


法華堂
 西御門と東御門ミカドとの間にて、北のかたなるヲカをいふ。小堂あり。古への法花堂の舊跡、傍に堂守の小菴あり。往古の基立は觀音堂なれど、右大將家並御臺〔政子。〕法華經御信仰ゆへ、時々法華講或は法華八講等を修せられけるに依て、法華讀誦の堂のように成しゆへ、普通の稱號とはなれり。偖右大將家、此堂地開闢のはじめは、治承五年七月十八日[やぶちゃん注:「治承」は「文治」の誤り。]、伊豆山の僧侶尊光房良セン召寄られ仰けるは、今度奧州征伐の事有ゆへ潜に立願す。汝は持戒の住僧なり。留守中參候し祈精を抽べし。將又、進發の後廿日ばかりを經て、此亭のうしろの山へ登り、殊更に一梵宇を草創すべし、我年來所持なせる正觀音を、本尊に安置し奉らんが爲なり。必しも工匠に不申付、汝みづから功を施し、先柱のみを立置べし。修造の事は、已後沙汰に及べきとの仰に依て、同八月八日、專光房御亭の後山へ登ぼり、梵宇の木作を始て假柱四本を立て、觀音堂の號を授くとあり。本尊とし給ふ正觀音は、右大將家守本尊にて、先年石橋山敗軍の砌、朽木の内に隠れ給はんとせられし時、モトヾリが中より取出し給ふを、土肥次郎實平、其ゆへを問奉りしより、仰に我運命盡て、首を大庭景親等に渡さんとき。髻のうちにこの小像有を見たらんとき、源氏の大將の所爲にあらずと誹謗せられん事、口惜かるべければとて、岩間に安じ奉られしを、其後專光坊の弟子、山中を搜し得て、閼伽桶に安じて鎌倉へ持來りければ、武衞〔賴朝。〕手を合て請取給ふとある尊像なり。其後正治元年正月十三日、右大將家薨逝し給ひければ、此所へ御遺骸を埋葬し奉れるより、右大將家の法華堂とは唱ふ。同二年正月十三日、故幕下周關御忌[やぶちゃん注:「關」は「闋」の誤り。]、法華堂にて佛事を修せらる。北條氏以下諸大名群參、繪像の釈迦三尊一鋪・阿字一鋪、是は御臺所の御除髮をもて縫せらると。金字法華經六部、摺うつし五部の大乘經といふ。導師は葉上房律師榮西、請僧十二口、御布施・加布施等略す。其後別當所を置れ大學坊と號し、右大將家の御寶物等を納置れしとあり。又是より往々御佛事のことは略せり。元仁元年六月十三日、北條義時卒しければ、右大將家の法華堂の山上へ葬り、義時が墳墓は、右京兆の法華堂と唱へ、又は新法華堂とも號せし由。されば其頃、山上に一堂を造立しけるにや。中古已來、絶て、其形勢も見へず。偖寛喜三年十月廿五日、晩に大風吹戌刻、相州時房の公文所燒亡、南風頻に吹て、東は勝長壽院のはしの邊、西は永福寺總門に至る迄、烟炎飛が如く、右大將家〔並、〕右京兆が法華堂、同御本尊御寶物等灰燼となれりとあり。此とき、右大將家の守本尊の正觀音燒失。されば今相承院安ずるものは、其後御再興の尊像なるべし。同廿七日、相州〔時房。〕武州〔泰時。〕評定所出席、其外師員・義村・行西入道家長・行然入道康俊・康連等出仕、大夫入道光西、相模大椽業時執し申ていふ[やぶちゃん注:「大椽」は「大掾」の誤植。]、法華堂ならびに本尊の災は、關東におひて尤怖ヲソレ思食のよし、造營の事は評議せらるゝ處、師員・行西・康連申す、墳墓堂等炎上のときは、再興さるゝの例たるよし、各申に仍て、御助成有て寺家に仰べき旨評議畢云云。貞永二年正月十三日、武州〔泰時。〕、御忌日たるに依て、右大將家の法華堂に參拜、彼砌に敷皮を堂下に設て、御念誦刻を移す。此とき別當大學坊尊範參念し、御堂上有べしと、頻に申といへども、御在世のとき、無左右堂上へ參らず、薨御の今何ぞ禮を忘れんやとて、遂に庭上より歸給ふといふ、みな人それを感歎せり。
[やぶちゃん注:「祈精を抽べし」の「抽べし」は「ひくべし」(引くべし)と読んでいるか。懇ろに祈念を施せ、との謂いであろう。「故幕下周關御忌」(誤)→「故幕下周闋御忌」(正)は、頼朝の一周忌のこと。「吾妻鏡」原文は「迎故幕下將軍周闋御忌景」で、「故幕下將軍周闋しゆうけつの御忌景を迎へ」と読み、「故頼朝将軍の一周忌を迎えて」の意である。「繪像の釈迦三尊一鋪」の「鋪」は「ほ」と読み、畳んである状態から広げて使うような地図や書・画像等を数える際の数詞。「舗」とも。]
寛元五年六月五日、若狹前司泰村が討るゝ時、寄手の軍勢、泰村が南隣の人家へ火を放つ。折ふし北風忽南に變じ、泰村が館に火移りけるが、泰村並伴黨宅を遁出、右大將家の法華堂に參り、弟光村が、永福寺總門内に陣を張けるを、使者を遣していふ、縱鐡壁の城郭に有といふとも、遁るゝことかたし。右大將家の御影前にて共に終を取らん、早々此所へ來會せよと、使一兩度火急の間、光村寺門を出て法華堂に向ふ。然して西阿・泰村・光村・家村・資村並大隅前司重隆・美作前司時綱・甲斐前實章・關左衞門尉政泰以下、御影前に列候し、或は往事を語り、或は最後の述懷に及び、悉く自殺す。法華堂の兼任法師壹人、香華を備へ、佛前に陪する處に、大勢俄に堂内へ亂入するゆへ方角を失ひ、堂の天井へ昇り、彼面々の言談せしを聞し由上聞に達し、今日〔八日〕、承仕を召出され、平左衞門尉盛時・萬年馬入道等、件の子細を召問ひ申所を記さるる。其詞書大概は略す[やぶちゃん注:「概」は底本では(上)「既」+(下)「木」。]。其中に、光村が、先年隠謀の企有しをも述懷し、各自殺の穢體をかくさん爲に、當堂を燒べしと申せしに、泰村堅く制止を加へけるといふ。
[やぶちゃん注:「寛元五年六月五日」とあるが、寛元五年は二月二十八日に改元して、宝治元年となっている。「萬年馬入道」は「まんねんうまにゆだう」で、北条家被官の万年信観なる人物である。]
建暦元年十月十三日、加茂社氏人菊太夫長明入道法名蓮衡、雅經朝臣の吹擧に依て、此間鎌倉下向、將軍御着のゆへ、參拜奉らんが爲に法華堂に參り、念誦讀經のあひだ、懷舊の涙相催しければ、一首の和歌を堂のはしらにシルせり。
 草も木もなひきし秋の露消て、むなしき苔を拂ふ山風。
或説に、玆の法華堂也。御所の御持彿堂の事なりと、書たるものあれど、さにはあらず。【東鑑】のうちに、爰のことは法華堂としるし、御所の御持佛堂は七佛藥師の像を安置せらる。供養の儀有。導師小河法印忠快とあり。承久已來は、御所の持佛堂の號を、久遠壽量院と授け給ひしことあり。往々【東鑑】の卷中に、御持佛堂と有は、御所内のことゝ知べし。此所はもとより將軍の御靈屋なり。明德二年六月朔日、源基氏朝臣、右大將家の法華堂へ、常陸國那珂郡の莊内太田郷を、寺領に寄附せらるといふ。當時の本尊は、彌陀並如意輪觀音・地藏等を安ず。此地藏は報恩寺の本尊なりしが、彼てら廢しけるゆへ、爰に納しものなり。腹内に書付有。繪所宅間掃部法印淨窟作、上杉能憲が爲に造立とあり。

右大將家廟 法華堂の後の山の中腹にあり。正治元年正月十三日逝去、歳五十三なり。去年十二月、稻毛入道重成が、亡妻の冥福の爲に、相模川に橋を造り、その供養を修す。仍而右大將も、其場に臨み給はんとて出給ふ、路次にて落馬し給ひ、夫より病床に附給ふといふ。【東かゞみ】には、建久九年十二月橋供養御出の事も、また正治元年正月逝去の事も、すべて載ざる也。譯有ことにや。それゆへに、逝去の事に付て種々の説あれども、事ながければ玆に略す。治承四年より二十年、文治元年より十五年の治世なり。
【正統記】に云、抑白河・鳥羽の御代より、政道古きすがたは衰へ、後白河の御時より兵革起りて、姦臣世を亂る、天下萬民殆ど塗炭に落にき。賴朝卿一臂を揮て、鎌倉に居ながら其亂を平らげ、九重の塵も治り、萬民の肩もやすまりぬ。上下堵を安くし、東より西よりそのとくに服せりと云云。或記にいえる如く[やぶちゃん注:「いえる」はママ。]、賴朝卿生質殘忍の性にて、猜疑の心有て、其子孫二代をたもたず。又大名の武誇るものを惡み、上總介廣常。一條次郎忠賴等のつみなきものを殺す。仍て足利上總介義兼は、一生害僞て愚なるふりをして極て勇武をあらわさず、一生を全くせられし由。此義兼は、八郎盛朝の子なるゆへ、身のたけ長大にして、力量も人に超過せし人にて有しが、時を知給ふといふべし。東大寺供養として、右大將家上洛せられ、宋國の佛工陳和卿といふもの、東大寺の佛を造りしゆへ、逢玉ふべきよし命ぜられしに、和卿辭し申ていふ、將軍は罪なき人を多く殺し給ふ。其罪業深き御人に渡らせ給へばとて、拜謁せざりしといふ。
[やぶちゃん注:「堵を安くし」は「とをやすくし」と読む。「堵」は垣根で、垣を巡らした家の中でゆったりとすることから、「安堵」である。「足利上總介義兼」(久寿元(一一五四)年~正治元(一一九九)年)は幕府御家人。ウィキの「足利義兼」によれば、『父は足利氏の祖で源義家の孫にあたる足利義康。母は藤原季範の養女(実孫で藤原範忠の娘)で、源頼朝の従姉妹にあたる。義兼は、父方でも母方でも頼朝に近い存在であった』。『頼朝が伊豆国で挙兵すると、八条院と以仁王の関係からか、比較的早い時期に頼朝に従』い、『頼朝の仲介を受けて北条政子の妹と結婚』している。『その後は頼朝の弟・源範頼の手勢に与して平氏討伐で戦功を挙げた。その功績により、頼朝の知行国となった上総国の国司(上総介)に推挙され』ている。義兼は終始、頼朝の正統的血脈として一目置かれる存在であったが、四十一歳で出家、下野国足利に隠棲してしまう。この『義兼の出家は、頼朝をはじめとする周囲から排斥されることを恐れての処世術であったと言われている』とある。なお、彼の六代後が足利尊氏である。以下は、表記通り、全体が一字下げ。]
 按ずるに、右大將家の、兄弟一族を殺し給ふは、範賴・義經
 は弟也。志田義廣・十郎行家は叔父なり。義仲と布家の子光
 家は從兄弟なり。義經の子は姪なり。義仲の子義尊は從子に
 して、又婿なり。およそ八人歟。
[やぶちゃん注:「義尊」とあるが、彼の名は「吾妻鏡」には義高、「尊卑分脈」には義基、「平家物語」では義重。義尊というのは、初見。]

[杉本観音堂の石仏の図]


[やぶちゃん注:石仏の右肩に、

杉本觀音堂に向て右の方にあり
長三尺五寸佛像の前に凹あり
もといかなる□にて爲しや

□は「物」か。左肩に、

或説に此石佛は
杉本太郎義宗が
身代の地藏といふ
言傳へを知者の有
太平記天正本に斯波三郎家長
軍利なくして杉本觀音堂にて
腹切とあり足利尾張守高国が子なり
此家長の爲に建る石佛なり

杉本義宗は三浦介義明の嫡子で三浦氏四代目惣領であった。当時、三浦氏は安房国にあった領地を巡り、現地の長狭常伴ながさつねともと紛争を起こしており、義宗は長寛元(一一六三)年の秋に常伴の居城金山城(現在の鴨川市金山)を水軍を以って攻撃した。この時、常伴方から射られた矢で義宗は負傷、撤退したが、この伝承はこの時のことを指すのであろう(但し、義宗はこの傷が元で没している。また、この義宗の嫡男が和田義盛である)。斯波家長は足利氏の中でも有力な一族斯波高経の長子であった(「高国」は誤りである)。南北朝動乱の中、後醍醐方が北畠顕家(当時十六歳)を鎮守府将軍として奥州に向わせたのに対し、足利方では奥州斯波郡を本貫地とした斯波氏に白羽の矢を立てた。奥州管領となった家長は僅か十五歳であった。建武二(一三三五)年に足利尊氏が鎌倉から上洛すると同時に顕家は奥州で挙兵、京都を奪還した後、尊氏を九州に追い落とした。家長は鎌倉府執事として尊氏の嫡男義詮を守るために鎌倉に留まったが、利根川の戦いで敗北、義詮を逃がした家長はここ杉本城に籠城、凄絶な最期を遂げた(以上の事蹟は個人ブログ「鳳山雑記帳ココログ版」の「斯波家長のこと」を参照させて頂いた)。一読、天正本には十七歳で散った家長の討死の様がさぞかし生き生きと描かれているかのように思われるが、実際には、
鎌倉には敵の様を聞て、とても勝べきいくさならずと、一筋に皆思切たりければ、城をかたうそこを深くする謀をも事とせず、一万余騎を四手に分て、道々に出合、懸合かけあはせ々々一日支て、各身命を惜まず戦ける程に、一方の大将に向はれける志和三郎杉下すぎもとにて討れにければ、此陣よりいくさ破て寄手谷々やつやつに乱入る。
(この志和三郎が斯波家長である。「太平記」テクストはJ-TEXT版の国民文庫本を使用したが、読みの多くを排除した)とあるに過ぎない。]

椙本觀音堂 大倉の觀音ともいふ。往來の北寄なり。寺領五石六斗を附せらる。堂の額は杉本寺とあり。子純書なり。是は、建立百五十九世の僧、諱得公と號す。山號は大藏山、坂東第一番の札所と唱ふ。開闢は行基なり。此寺古へは天臺宗にて、叡山の末なりしが、中頃衰へて、山伏が持にて有しを、近來改て住持僧淸僧となせり。本尊十一面觀音〔慈覺大師作。〕右に十一面〔行基作。〕、左に十一面〔惠心作。〕、前立十一面〔運慶作。〕・釋迦〔天竺佛。〕・毘沙門〔宅間作。〕。【東鑑】に、文治五年十一月廿三日夜、大倉觀音堂回祿、別當淨臺房、烟火をみて悲歎し、ほのをの中へ走り入て本尊を出すといふ。建久二年九月十八日、右大將家、大倉觀音堂御參、これ大倉行事草創の伽藍なり。累年風霜相催し、イラカ破れて軒かたむき[やぶちゃん注:「甕」は「イラカ」の誤植。]、殊に御憐愍有て、修理の爲に准布二百段を奉加し給ふ。同四年九月十八日、將軍家、岩殿と大倉の兩觀音堂へ御詣、姫君御不例ゆへ御立願といふ。建暦二年九月十八日、將軍〔實朝。〕、岩殿・椙本觀音堂御參詣あり〔已上、【東鑑】。〕。
[やぶちゃん注:「准布」は、布銭のこと。何匁で何と交換できるか、布に換算したもので、当時、所謂、貨幣は鎌倉御府内では一般的な流通をしていなかった。「岩殿」は岩殿寺のこと。]

エビス堂跡 小町と大町の邊に、むかし惠美須三郎の祠ありしが、今は廢せり。されども、此往來座禪川の橋を、夷堂橋と今も其名を唱ふ。
[やぶちゃん注:海神エビスを「惠美須三郎」と言うのは、「日本書紀」で三番目に生まれたことに由来するとされている。「座禪川」は河畔で文覚が座禅を組んだことに由来する滑川の部分異称の一つであるが、実際にはもっと上流での呼称である。]

辻藥師堂 逆川の南、辻町の東側にあり。長善寺といふ。眞言宗の[やぶちゃん注:「の」は句点「。」の誤りか。]本尊藥師、行基の作なり。
[やぶちゃん注:「逆川」は「さかさがは」で、滑川の最も下流で分岐する滑川支流の河川名。「新編鎌倉志卷之七」の「逆川」の項に、
逆川は、名越坂より流れて西北に行く。故に逆川と云ふ。大町と辻町の間へ流れ出でて、閻魔川と合して海に入る。大町と辻町との間に橋あり。逆川橋と云ふ。鎌倉十橋の一なり。
とあり、川の一部が南から北へと鎌倉の他の川とは逆方向に流れることから、こう呼称するとする。この閻魔川も滑川の最下流の部分異称。河口付近あった新居閻魔堂(現在の円応寺の前身。後述)に由来する。]

田代觀音堂 普門寺と班す。妙本寺の東南なり。安養院末、堂の額に白華山と有。本尊千手觀音、坂東第三番の札所。此の西の方を田代屋敷と唱ふ。田代冠者信綱が舊跡。今は畑なり。
[やぶちゃん注:「安養院末」とあるが、実はこの時は既にこの「田代觀音堂」は現在の大町にある坂東三十三観音札所三番安養院に移動していた。植田はその事実を知らずに恐らく実地調査もせず、「新編鎌倉志卷之七」の記載をほぼそのままに書き写してしまった結果、とんでもない誤記載となったものと思われる。「新編鎌倉志卷之七」の記載を以下に示す。移転の経緯はそちらの私の注を参照されたい。
〇田代觀音堂〔附田代屋敷〕 田代タシロの觀音堂は、普門寺と號す。妙本寺の東南なり。安養院の末寺、堂の額に、白花山ハククハサンと有。坂東巡禮フダ所の第三なり。本尊、千手觀音なり。此の西の方を田代屋敷タシロヤシキと云。田代タシロの冠者信綱ノブツナが舊跡也。今は畠なり。
なお安養院は現在、正しくは祇園山安養院長楽寺といい、田代観音とも呼称されており、安養院の本尊は阿弥陀如来及び千手観世音菩薩である。「田代信綱」(生没年不詳)は石橋山の戦で頼朝に従い、後、源義経の下で平家討伐に辣腕を振るった。後三条天皇後胤とも伝えられる人物である。]

[鬼卒及び脱衣婆の図]


[新居閻魔堂額「殿王琰」]


[やぶちゃん注:「琰」は音「エン」で、本来は中国で討伐軍の使者が持つ印の圭(けい:玉を削って先を尖らせたもので、天子が諸侯を封じる際に用いた印。)を言う。]

新居アラヰノ閻魔堂 最初は由比濱大鳥居の東南に有しを、此地に移せしは、古き事にもあらねど、年とき定かに知がたし。【鎌倉志】を記せし此は、貞享のはじめにて、其時迄由比濱に有としるせり。されば遠からぬ事なれどもしれず。今在所は、建長寺前より巨福呂坂へ行南のかたにあり。新居山と號し、堂に圓應寺たる廟を掲ぐ。【鎌倉年中行事】に、新居閻魔堂閻王寺と號すとあり。されば其後此所へ移さる。《圓應寺》此より文字を替て閻王の同音を用ひて圓應寺とは名附しならん。往昔建立は、建長二年の事也。開山知覺禪師といふ。堂領は建長寺領の内三貫文を分附す。堂内の額は、開山知覺禪師の書なり。濱〔に〕有しとき迄は、別當山伏にて、寶藏院といひしよし、寛文十三年に此閻魔を修造せし時、閻魔の腹中より書付出たり。建長二年出來。永正十七年再興の事をしるせりと云云。木像のうち具生グシヤウ神・脱衣婆ダツエバヽ〔世にいふ三途川の姥なり。〕。外に鬼の像は、古への運慶が作なりとは、普く人も唱へ、閻魔並其の像は、應安・明應の兩度、逆浪の爲に堂宇を打崩し、殊に大風にて有し由、ものに見えたれば、其時海へ曳れて、僅に殘たるは右にゆふ木像なりしゆへ、永正十七年再興とあれば、閻王をはじめ其餘は造りつきたるものならん。此とき閲魔のみ作り、古作の倶生神・奪衣婆のみにては、再興とはいひかたければ、その餘の像も再興出來しければ、腹中に寄付をも入置しことなり。應永大亂後、亡魂御弔の爲に、施餓鬼の事を、扇ケ谷の海藏寺へ仰て、修せらるゝとあり。
[やぶちゃん注:新居閻魔堂は往古は由比の郷にある見越ヶ嶽(大仏東側の山)に建てられたと推定されるが(本文で創建を建長二(一二五〇)年とし、開山を建長寺開山蘭渓道隆の弟子智覚大師とするが、これは建長寺落慶以前であり、智覚大師の事蹟とも合わず、信じ難い)、後に滑川の当時の川岸近く(現在の鎌倉市材木座五丁目十一番地付近)に移された。
「永正十七年」は西暦一五一二年。
「應安・明應の兩度、逆浪の爲に堂宇を打崩し、殊に大風にて有し由」とあるが、元号の順序がおかしい。時代のより古い後者は明応七(一四九八)年八月二十五日に発生したマグニチュード8を越えるとも言われる東海道沖大地震を指す。閻魔堂の「永正十七年再興」というのはこの折りの津波被害を受けたものかと思われる。二〇一一年九月の最新の研究によれば、この時、鎌倉を推定十メートルを超える津波が段葛まで襲い、高徳院の大仏殿は倒壊、以後、堂宇は再建されずに露坐となったとも言われている。この時、伊勢志摩での水死者が一万人、駿河湾岸での水死者は二万六千人に上ったと推定されている。前者では慶安元(一六四八)年四月二十二日に関東地方を襲ったマグニチュード7クラスの地震による津波がある(但し、後の植田の「大佛」での記載によれば、これは地震ではなく、應安二年九月三日の大風(台風か)による被害を指しているようである)。新居閻魔堂自体は、元禄十六(一七〇三)年十二月三十一日に発生した元禄大地震の津波によって当時の建物が大破、翌年、建長寺門前の、以前に建長寺塔頭大統庵があった場所(現在の鎌倉市山之内の円応寺)に移転している。
 私は円応寺というと、十王の一人初江王の裳裾の躍動感もさることながら、同じく国宝館に展示されている人頭杖が頗る附きで大好きだ。これは倶生神の持物とされ、杖の柄の部分鍔のような大きな円盤の上に、恐ろしい三眼の忿怒相の鬼神の首と妙齢の美女の首の二つが寄り合って載っている(一説に前者は泰山府君、後者は財利をもたらす弁財天の姉で、妹と反対に喪失神である暗闇天女とも言われるが、少なくとも前者はどう見ても違う感じがする)。私の記憶では、実はこの忿怒相の首が亡者の生前の善行を、可愛い(しかし如何にも冷たい眼をした)女の首が悪行を語るはずである。バーチャル・リアリティみたような浄玻璃何かより、こっちの方が断然、いいね!
最後に。円応寺の閻魔の首と言えば、私は、この元禄十六(一七〇三)年の津波から程ないことかと思われる、鎌倉の昔話として伝わる、あるエピソードが忘れられぬ。
――津波に襲われ、辛うじて閻魔像の首だけが残った閻魔堂跡の掘っ立て小屋。
――供僧がせめてもと、閻魔像の首を横に渡した板の上に置き、香華などを供えて祀って御座った。
――ふと覗いた旅の男、
「こりゃ面白れえ! へッ! まるで閻魔の首級の晒首じゃ!」
と、呵々大笑して去っていく。……
――蔭で聞いていた供僧、おずおずと閻魔の前に進み出でると、
「……かくなる理不尽なる物言い……閻魔大王様……さぞかし、御無念、御腹立ちのことと……存じまするッ……」
と泣きながら呻くように申し上げた――と――
――閻魔の首が答えて言った。
「腹もなければ腹も立たぬ」――
……お後がよろしいようで……]

地藏堂 建長寺外門に接附し、巨福呂坂へ登る北の方也。伽羅陀カラダ山心平寺と號し、建長寺の境内なり。【鎌倉大日記】に、建長元年に、袋坂の地裁堂建立のよしを載たれば、もとより此邊は刑罸の地なるゆへ、昔より地獄谷といひし所なれば、往古より爰に地藏堂有し事ならん。北條時賴建長寺建立は、建長三年なりしといへば、前々年より、堂塔の地曳をはじめける時に、今の往來端へ移して、建立の事有しなるべし。土人の傳ふるは、濟田サイタ地藏と稱するといふ。其俗説を尋るに、北條時賴が執權の頃、濟田某といふもの、重科に竹て斬刑に行はるゝ時、大刀取のもの、二太刀迄打たれども、曾て切ず、その太刀折たりければ、如何成事か有と聞ければ、濟田いふ、我平日地藏を信敬し、常に身を放たず。今既にモトヾリのうちに祕せりといふ。依て長をみれば、果して地藏の小像有。その常に刀のあと有けるゆへ、貴賤奇異のおもひをなし、忽濟田が科をゆるさる。濟田は此地藏を心平寺の本尊地藏のはら籠となせり。又建長寺草創のとき、彼佛殿本尊地藏の頭内に納む。長壹寸五分、臺座とも二寸壹分の立像の木偶なりといふ。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志第之三」の「建長寺」の「佛殿」の項を参照。植田の本記載は、この記載によるものと思われる。]

鐵觀音堂 岩窟イハヤ小路へ行道の傍に、鐡の井といふ有り。夫より西のかたに觀音堂あり。堂内に鐡像觀音の頸ばかりを安ず。鐵胴の崩れたるも堂内に置り。傳へ云、新淸水寺の本尊なりしが。〔→、〕【東鑑】に、正嘉二年正月十七日、秋田城之介泰盛が甘繩の家より失火して、壽福寺・新淸水寺・窟堂・若宮寶藏並別當坊等燒亡とあり。其時火殃にかゝり、其後土中に埋りしを、井を鑿けるとき井底より掘出し、小堂に安ずるといふ。夫より此井をくろがねの井と名附、十井のうちなり。
[やぶちゃん注:「火殃」は「くわあう」と読み、「殃」は災難の意で、火難のこと。「新淸水寺」は「しんせいすゐじ」と読み、京の清水観音に帰依していた北条政子が創建した寺とされる廃寺。所在地は浄光明寺付近に同定されている。本尊、鉄造の聖観音像であったが、正嘉二(一二五八)年の長谷にある安達景盛屋敷からの出火によって焼失したとされる。江戸時代、この聖観音の頭部がこの鉄の井から発掘され、井戸の西方に造られた小堂(この「鐵觀音堂」のこと)に安置されていた。明治六(一八七三)年の廃仏毀釈令によって東京人形町にある大観音寺に移され、現在に至る。]

日金地藏堂 岩屋堂の東にて、山の半腹にあり。本尊地藏、運慶作。右大將家、豆州謫居の頃より、御誓願有て、爰に移し給ふといふ。別當日金山彌勒院松源寺といふ。眞言新義。御室御所の末なり。弘長三年四月七日、群盜十餘人、地藏堂にかくれ居るの間、夜行の輩行向ひ、其庭にて生虜とあり。玆の地藏堂の事なり。
[やぶちゃん注:「日金」は「ひがね」と読む。以前、現在の雪ノ下にあった松源寺の本尊であったが、廃仏毀釈令で長谷寺に移管され、後に現在の横須賀市たけの東漸寺に移されている。日金地蔵は鎌倉時代の仏師宗円の作と伝えられる木造半跏像で、頼朝が蜂起する際に伊豆日金山の地蔵菩薩に戦勝と源氏再興を祈願し、成就の後にその像を模して造ったと伝えられる。但し、オリジナルの地蔵は松源寺の火災で焼失、現在の東漸寺蔵の日金地蔵は寛政三(一七九一)年に作り直されたものである。]

巖窟不動尊 【東鑑】に、窟堂又は岩屋堂、或は岩井堂と有るも、此所の事なり。日金地藏のにしの山嶺にて、窟中に石像の不動あり。弘法大師のさくといふ。此前の道路盲岩屋小路と唱ふ。【東鑑】に、建長四年五月五日、將軍家〔宗尊。〕御方違の評定有て、龜が谷の方角を是可申由仰にて、行義・行方。景賴等、彼六人を具して、窟堂のうしろの山上へ登とあるも此地なり。昔は等覺院といふが別當なりしが、今は散圓坊といふ菴の持とす。むかし等覺院別當のときは、日金堂と兼持せしといふ。梅に、等覺院といふは、十二院のうちなる等覺院なるべし。
[やぶちゃん注:「散圓坊」は不詳。幕末の鶴ヶ岡八幡宮寺持の小庵か。「梅に」は不審。「此に」などの指示語の誤植か。「十二院のうちなる等覺院」とは鶴ヶ岡八幡宮寺の十二箇院の内にある等覚院のこと。「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」を参照。]

網引アミヒキ地藏 淨光明寺の後の北のかた。山上巖窟のうちに、地藏の石像有。傳へいふ、むかし由比濱の漁夫が網にかゝり上り給ふ。像の背に窪き所有て、潮汐時候に從ひ増減すといふ。或云、爲相卿の建立なりしともいふ。又云、背に文字見ゆ。供養導師性仙長老、正和元年十一月日、施主眞覺とあり。性仙とは淨光明寺の住持にや。されば網にかゝりしといふは妄説なるべし。
[やぶちゃん注:「窪き」は「ふかき」(深き)と訓じているか。「正和元年」は西暦一三一二年。但し、現在知られるところでは実際の刻印は「正和二年十一月」であるらしい(現在、地蔵の背面には回り込めない)。この本文で誤読し易いのは「窪き所」で、これでは地蔵の背中(背部)に凹みがあるように読めてしまうが、そうではなく、地蔵の後ろの奥の壁面下部にある長方形の龕を指す。この龕の存在でお分かりのように、この地蔵を安置するやぐらは非常に凝った豪華なもので、右側には副室と思われるやぐらが附帯する現在の市街地内にあっては、かなり大きなやぐらと言ってよい。地蔵の頭上には実物の天蓋を吊り下げて外装したと思われるようなはっきりした円盤状の窪みと、それを左右から支えるための木製のぬきを通したと推定される天井の左右壁面方向への彫込と臍があり、地蔵本体にも、光背を挿したと思われる切り込みがあったり、右手は実物の錫杖を持っていたとも思われる。やぐら内壁面には漆喰を塗るために掘られた、整序された文様のような鑿の跡が現認出来る。]

佐介藥師堂跡 土人云、佐介谷の入口東南に、むかし藥師堂有しといふ、今其説定かならず。正嘉二年正月十七日、秋田城之介泰盛の甘繩の家より失火し、南風頻に吹て、藥師堂の後の山を越て、所々燒亡の事有。城之介宅は、神明の東にあれば、藥師堂は北に當れる歟。又云、應永の頃迄、藥師堂有しゆへ、上杉禪秀が亂に、管領憲基が下知にて、所々口口へ手分せしに、藥師堂へは、結城彈正少弼百餘騎にてむかひけると云云。
[やぶちゃん注:この遺跡は今に全く伝わらない。後半部は「鎌倉大草紙」の、
同四日未明より佐介の口々へ御勢を被差向、先濱面法界門には長尾出雲守を初として房州手勢、甘繩口小路佐竹左馬助、藥師堂面をば結城彈正、無量寺をば上杉藏人大夫憲長、氣生坂をば三浦相模人々、扇谷をば上杉彈正少弼氏定父子、其外所所方々馳向陣取。
に依拠する。佐介は佐助ヶ谷に屋敷を持っていた上杉憲基のことである。あるサイトでは、この「藥師堂面」の薬師堂を恐らく薬王寺のことととって、亀ヶ谷坂の守りを言っていると解説しているが、如何か。前半の「吾妻鏡」の叙述からは薬師堂=薬王寺説は、私には到底、承服出来ない。]

[深澤大佛]


大佛 大異山淨泉寺と號す。此所の地名は深澤といへり、大佛廬舍那佛なり。坐像長三丈五尺、膝の通にて横五間半、袖口より指のすえまで二尺七寸餘、建長寺持なり。【東鑑】に暦仁元年三月廿三日、相模國深澤の里大佛殿の事始なり。僧の淨光、尊卑緇素を勸進して、此營作を企、同五年十八日大佛の御頭を擧たてまつる。周八尺なり。仁治二年三月廿七日、深澤の大佛殿上棟あり。寛元元年六月十六日、深澤村に一宇の精舍を建立し、八丈餘の阿彌陀の像を安じ、今日供養、導師は郷の僧正良信、讃衆十口、勸進の上人淨光坊、この六年の間、都鄙を勸進す。尊卑を奉加せずといふことなしとあり。是は宗尊將軍のときなり、また建長四年八月十七日、深澤の里に、金銅にて釋迦如來の像を鑄奉るとあり。是は宗尊親王のときなり。【東關紀行】云〔源親行。〕、由比の浦といふ所に、あみだ佛の大佛を造り奉るよしかたる人有、やがていざなひて參りたり。たふとく有がたし。事のおこりをたづぬるに、本は遠江の國の人定光上人といふものあり。過にし延應の比より、關東のたかきいやしきをすゝめて、佛像をつくり、堂舍を建たり。その功すでに三が二にをよぶ。烏瑟たかくあらはれて半天の雲に入、白毫あらたにみがきて滿月の光をかゞやかす。佛はすなはち兩三年の功すみかになり、堂は十二樓のかまへ、望むに高し。彼東大寺の本尊は、聖武天皇の御製作、金銅十丈餘の廬舍那佛なり。天竺・知っ震旦にもたぐひなき佛像とこそきこゆれ。此あみだは、八丈の御長なれば、彼大佛のなかばよりもすゝめり。金銅・木像のかはりめこそあれども、末代にとりて、これもふし議といひつべし。佛法東漸の砌にあたり、權化力をくはふるかと、有がたくおぼゆと云云。
[やぶちゃん注:「緇素」は「しそ」と読み、「緇」は黒、「素」は白で、僧衣の黒衣と俗人の白衣で、僧俗の意。「烏瑟」は「うしつ」又は「うひち」と読み、梵語「烏瑟膩沙うしつにしや」の略。肉髻にくけい・仏頂のこと。仏の頭頂にある、もとどりのように多数突出した肉塊を言う。]
此紀行に併て考ふれば、親行が鎌倉へ下向せしは、仁治三年秋八月十日あまりとあり。【東鑑】に、仁治三年はしるして見へず。彼記には、彼記の比よりといひたり。【東かゞみ】には、嘉禎四年と有。其間壹年有。親行が下向迄は四年なり。又【東鑑】に、建長四年八月十七日、深澤の里に、金銅八丈の釋迦如來の像を鑄奉るとあり。將軍〔宗尊。〕執權〔時賴。〕なり。仍て思ふに、初嘉禎四年に造りし木佛の彌陀を、建長四年迄十四年を經て、銅像の樺迦如來に鑄なをしたるなり。また其銅像も、何の此にか滅亡し、今の大佛は廬舎那佛なり。此佛を改め造りし由來、更にしれず。【太平記】に、建武二年八月三日、相模次郎時行、その身は鎌倉に在ながら、名越式部大輔を大將とし、其勢二萬餘騎、鎌倉を立んとせしが、三日の夜俄に、大風吹て家々を吹破るゆへに。大風を邁遁んと、軍兵大佛の殿内へ逃入しが、大佛殿の棟梁折てたをれけるゆへ、其内に入し軍兵五百餘人、殘らず壓うたれ死しけるといふ。其後又應安二年九月三日の大風に、大佛殿ふき倒すよし、又明應四年八月十五日洪水、由比の濱の海水激奔し、大佛殿を打破るといふ。此已來木像を改め造りしにや、夫より堂もつくらざる歟。
 題銅大佛  萬里居士
   自註云、銅大佛長七八丈、腹中空洞、應容數百
   人、無堂宇而露坐突兀、洛諺云、南都半佛雲狐、
   雲狐半佛東福、
 兄在南都弟東福、可憐佛亦去年貧、寶趺塵蝕無堂宇、
 腸瘦纔容數百人、
[やぶちゃん注:漢詩を私の勝手な訓読で書き下しておく。

 銅大佛に題す  萬里居士
   自註して云く、銅大佛は長け七八丈、腹中に空
   洞ありて、應に數百人を容るべし、堂宇無くし
   て突兀と露坐す。洛諺に云く、「南都が半佛は
   雲狐、雲狐が半佛は東福。」と。
 兄 南都に在りて おととは東福
 憐れむべし佛 亦 去んぬる年 貧となり
 寶趺はうふ 塵をかして 堂宇無し
 はらわた瘦せて 纔かに容るること 數百人

「南都半佛雲狐、雲狐半佛東福」という京の俚諺は、「京都故事」というこちらのページの記載から推測すると、南都(=東大寺大仏)の半仏が雲狐(=鎌倉大仏)、その鎌倉大仏の半仏が東福寺大仏(高さ五丈の本尊釈迦如来像であったが元応元(一三一九)年に焼失)という、鎌倉後期まで東大寺大仏を日本一と讃える謂いらしい。「半仏」とは元来「半分人で半分仏」の言いであるが、しかし、何故に鎌倉大仏を「雲狐」と呼称しているかが私には分からない。識者の御教授を乞うものである。]

長谷觀音堂 山號を梅光山といひ。堂の額に長谷寺とあり。子純が書たり。坂東第四番の札所、光明寺末、寺領二百貫文。堂山へ登る麓の左右に別當寺有。慈照院・慈眼院といふ。此地は小坂郷長谷村と號す。傳記に、此觀音は、大和の長谷より、海水に漂流して馬入邊へうち寄たるを取揚て、飯山に有しを、忍性上人此所へ移すといふ。又云、和州長谷觀音と一木の楠、和州のは木のもと、此像は木の末なり。十一面觀音にて、長二丈六尺二分〔春日作。〕、阿彌陀〔作不知。〕、十一面像〔宅間作。〕、如意輪像〔安阿彌作。〕、勢至〔作不知。〕此像は、畠山重忠が持佛堂の本尊といふ。聖德太子〔作不知。〕、和州長谷往道上人像〔自作。〕。毎年六月十七日、當寺の會にて、貴賤老若、參詣のもの群をなす。
 鐘樓并銘文左の如し。
  長谷寺觀音堂鐘銘
新長谷寺、推鐘威力十方施主、消除不祥、消除災難、心中所願、決定成就、檀波羅密、具足圓滿、文永元年七月十五日、當寺住持眞光、勸進沙門淨佛、大工物部季重、

虚空藏堂 極樂寺村のうち、星月夜の井の西にあり。此堂を星月山星井寺と號す。村内成就院の持なり。これは眞言宗。虚空藏は行基作、長二尺五寸。縁起の略に、聖武天皇の天平年中、此寺井に光有。村民不思議のおもひをなし、是を見れば井の邊に虚空藏の像現じ給ふと。此よしを奏しければ、行基に勅し此像を造らしめ、爰に安置し給ふと云云。【堯惠法師紀行】に、星の御堂と書しは、この堂のことなり。

不動堂 今泉村にあり。圓覺寺の山より、西北にあるむらなり。不動堂は山上にあり。別當寺は麓にあり。今泉山圓宗寺と號す。開山しれず。古へは八宗兼學のてら也しが、中古巳來は光明寺の末となる。石像の不動にて、弘法大師の作なるよし、靈驗なる尊像なり。此堂の向ふなる谷の高一丈許の瀧有て、南北に相向ひ二瀧あり。南なるを男瀧と稱し、北なるを女だきと唱ふ。この瀧の源流は、建長寺山中の、大覺池といえる靈地の下流なり。又不動堂のうしろに、峰つたひのみち有。村内より金澤への往來する近道なり。
[やぶちゃん注:現在の大船今泉にある称名寺。江戸時代、増上寺貞誉大僧正から山号寺号を請けて、浄土宗に改宗した。]

毘沙門堂 右同村に有。村内の鎭守とす。本尊行基の作、前立は運慶作なりとて、長四尺餘。行基の作は、常に拜することをゆるさず。別當寺は今泉寺と號く。麓にあり。供僧寮なり。土人いふ、此多門天は右大將家御信心によつて、鞍馬山より本尊を此地に移させ給ふ。右大將家御參詣の砌は、御所の面御門より出御有て、山路を經てこの所に參らせ給ひ往古のみち跡、山中に粗殘る所ありといふ。此今泉寺は、建長寺塔頭廣德庵のものなり。
[やぶちゃん注:これは恐らく現在の大船にある多聞院である。]

鹽嘗地藏 朝比奈切通より往來の道脇にあり。辻堂なり。石地藏を安ず。光觸寺の持。古へ六浦の鹽うり、鎌倉へ出るごとに、商の初穗とて、鹽を此地藏に供せしより名とす。

釋迦堂跡 大御堂の東の方なり。元仁元年十一月十八日、武州泰時、亡父周關忌景の爲に伽藍を建立、同日立柱、翌年六月十三日、新建供養せちるとあり。其堂も廢亡し、今は他の名に唱ふる而已。
[やぶちゃん注:「周關忌景」の「關」は「闋」(くぎりの意)の誤植であろう。周闋は「しゅうけつ」と読み、現在の一周忌に当たる。「忌景」は忌日の意。義時は同元仁元年六月十三日に没している。この釈迦堂は新釈迦堂と呼ばれ、現在の鎌倉市浄明寺釈迦堂にあった。「翌年」は改元して嘉禄(一二二五)元年。この本尊釈迦如来像は現在の東京都目黒区行人坂大円寺に現存する。]

   
廢 寺

大御堂跡
 或は南の御堂とも稱す。今は大御堂谷と、地の名に唱ふるのみ。徃昔右大將家の御亭より、南のかたなる山腹に大堂を營み、別當所を勝長壽院と名附給ひ、元暦元年より御發願にて、父德を報謝の御素願なり。同年十一月廿六日、地曳事始、因幡守・筑後守奉行、去月廿五日より鎌倉中の勝地をゑらび給ひ、遂にこの所を治定す。是は先考の御廟を此地に安ぜらるべきよし存念し給ふゆへ、潜に後白河法皇へ伺奏し紛ふ。法皇も又勳功を叡感の餘り、去る十二日、江判官に仰て、東の獄門の邊にて、故左典厩〔義朝。〕の首を尋出させ、鎌田二郎兵衞尉正淸が首を相添て、江判官公朝を勅使として、是を下し給ふ。八月晦日下着す。仍て二品〔賴朝。〕迎へ奉らん爲に、稻瀨川の邊に參り給ふ。御遺骨に文覺上人の弟子僧クビに懸奉りしを二品みづから是を請取給ひ、還御の後、已前の御裝束を改められ、素服を着し給ふ。同年九月三日、左典厩の御遺骨幷正淸が首を添て、南御堂の地に葬り奉らる〔子刻なり。〕惠眼房・專光房此事を沙汰す。武藏守義信・陸奧冠者賴隆等の外、御家人は皆寺門※外に止めらる[やぶちゃん注:「※」=「土」+「郭」。]。召具せらるゝ者は右の人々ばかり、義信は平治の亂に先考の御供たり。賴隆は其父毛利冠者義隆、亡者の御身に替り討死し訖。彼是舊好を思召のゆへなりと云云。同年十月廿一日、南御堂へ本佛を渡奉る〔本尊なり。〕丈六命金色の阿みだ佛也。東大寺の佛師成朝、去五月御招請に依て下向し、佛像を造立す。同廿四日、南御堂を勝長壽院と號せらる。今日供養なり。導師は本覺院の僧正公顯、是も御招請に依て、去る廿日下向せらる。僧侶廿口を率て參堂、供養の儀嚴重なり〔下略す。〕。
文治二年五月廿七日、大姫君日來御願に因て、當寺へ參籠し給ひ、明日二七日の御頃滿尾ゆへ、退出し給ふ間、仰に依て、入夜南の御堂へ靜女を招き給ふ。これは去る比、鶴ケ岡の廻廊にて、靜の舞を奏せし時、「吉野山峰のしらゆきふみ分て、入にし人の跡そ戀しき」とうたひけるを、右大勝家御不興有しを、御臺政子の仰に、靜が九郎主を慕ひ申條、みづからも其覺有。先年關の石橋山御敗軍、御行衞しれざると聞しとき、君を慕ひ奉り、片時も安き心はなかりき。今靜が心中も、夫とおなじかるべければ、左も有なんと諌め申されしゆへ、御憤もさんじけり。其砌大姫ぎみは、御いたはりのこと有て、御覽なかりしゆへ、此せつ仰に依て、靜參入し、廻雪の袖を飜し、藝を施しければ、御入興のあまり、物多く賜ひしといふ。同七月十五日、孟蘭盆を迎へ、萬燈會をおこなはる。元久二年實朝將軍、勝長壽院領を、上總國管生の庄十二ヶ郷、今日寄附せらる。六郷を別當の分とし、六郷を供僧中へ賜ふとあり。
【金葉集】
三月末つかた、勝長壽院にまうでたりしに、或僧、かげにかくれおるを見て、花はと問しに、ちりぬとなん答へ侍りしを、きゝて、
 行きて見むと思ひしほとに散にけり、あやなの花や風たゝぬまに
                   實 朝 卿
 櫻花さくとみしまに散にけり、夢かうつゝか春の山かぜ
                   同
【同】
雨そほふれる朝に、勝長壽院の梅、ところどころさきけるをみて、はなにむすひつけ侍し。
古寺のくち木の梅も春雨に、そほちて花もほころひにけり
                   同
七月十四日の夜、勝長壽院のらうに侍りて、月さし入たるをよめる、
 なかめやる軒のしのふは露のまに、いたくなふきそ秋の夜の月
                   同
承久元年正月廿七日の夜、將軍實朝公、右大臣拜賀の爲に鶴岡祀參し給ひ。參拜相濟て退出し給ふ砌。別當公曉がため托うせ給ひ、御首を公曉たづさへて去けり。同夜公曉を殺したれども、御首はあり所しれず。翌日御遺骸を勝長壽院に葬し奉ると、【東鑑】にものせたれど、安貞二年十一月十一月、勝長壽院内に、新建の塔婆上棟、同廿八日九輪を上る。同十二月廿五日塔婆供養、將軍家〔賴經。〕御參、是は故右大臣家十三年御追福、正日は明年なりといへども、引上られて御供養、導師は當院別當卿法印良信と云云。下略。

御堂御所跡 貞應元年二月二十七日、二位禪尼、勝長壽院の奧地を點じ、伽藍幷御亭を建立せらるべきに依て、日時定あり。二月廿九日〔木造地曳。〕、四月六日〔居礎。〕、七月二十六日〔御渡徙。〕、八月廿日〔御堂供養。〕、是擇ヱラビ申所なり。伊賀式部丞光宗奉行と云云。八月廿日、南の新御堂供養、本尊彌勒佛なり。此梵宇は、右大將家、姫君御早世のとき、御追善として、既に御建立有べきの處、幕下薨御ゆへ、今に至り彼素願を果し給ふ。當日の奉行民部大夫行盛・進士判官代邦通なり。導師辨僧正定豪と云云。仍て此御亭を、廊の御堂とも、又は南の新御堂とも號す。二位禪尼、このところにて、嘉祿元年七月十二日薨御年六十九。同十六日、御堂御所にて茶毘し奉ると云云。最もいま其舊跡もしれず。
[やぶちゃん注:「貞應元年二月二十七日」とあるが、これは「貞應二年」西暦一二二三年の誤りである。
是擇ヱラビ申所なり」は「吾妻鏡」の原文は「御堂供養八月廿日庚寅之由。親職別擇申之云々」で、これは「御堂供養は八月廿日庚寅の由、親職、別して之を擇び申すと云々」で、「親職」は人名。安倍親職(あべのちかもと ?~仁治元(一二四〇)年)で、陰陽師。供養の最上の日を親職が特に占卜して決めた、という謂い。原文を切り詰めたために、意味が採り難くなっている。
「伊賀式部丞光宗奉行と云云」の個所はもっと採っておくべきところで、「吾妻鏡」の原文は「伊賀二郎左衛門尉光宗令奉行此事云々。件地者。自當御居所當南方也」で、「伊賀二郎左衛門尉光宗、此の事を奉行せしむと云々。件の地は、當御居所より南方に當るなり」と、この御堂御所が当時の大蔵御所のほぼ真南に位置していたことが分かる。]
【東關紀行】云〔源親行。〕、大御堂ときこゆるは、石巖のきびしきをきりて、道場のあらたなるをひらきしより、禪僧菴をならぶ。月おのづから祗宗の觀をとぶらひ、行法座をかさね、風とこしなへに金磬のひびきをさそふ。しかのみなちず。代々の將軍已下、つくりそへられたる松の社・蓬のてら、まち/\にこれおゝしと云云。
[やぶちゃん注:「月おのづから祗宗の觀をとぶらひ」は「東関紀行」原文を見ると「月おのづから紙窗しさうくわんをとぶらひ」で、誤植と思われる。
「紙窗」は「しさう」で障子窓、『精進の修行者の庵の小窓の障子には、自然、清浄なる月影が訪い』という意であろう。
「金磬」は「きんけい」と読み、磬子(けいす・きんす)・銅鉢とも言う。禅宗特有の鉢形の梵音具であるが、大きなりんと考えてよい。]
元弘三年五月廿二日、新田左中將義貞、大軍を引率し、稻村が崎より攻入らんとせしかど、極樂寺坂は難所なるゆへ、假粧坂へ打廻りて、鎌倉へ攻入、所々に火を放ち、高時入道が館へ押寄けるに、入道をはじめ一族悉く自殺しければ、首ども實檢し、猶殘黨を追討し、義貞は此大御堂に陣營せらるといふ。
【梅松論】云、建武二年七月の初、相模入道尊時の次男、勝壽丸といふを、信濃國上の宮の祝安藝守時繼が父、三河入道照雲幷滋野の一族等取立て、相模次郎時行と名乘らせ、大將として、國中をなびかせ、かまくらへ攻上る間、澁河刑部・岩松兵部馳向ひ、むさしの國女影原〔高麗郡女影村あり。旗塚いま存す。〕にて、合戰におよぶといへども、逆徒手しげく懸りしかば、澁川・岩松兩人自殺す。重て小山下野守秀朝をさし向しが、是も戰ひ難儀に及び、同國府中にて、秀朝を初、一族家人數百人自殺す。無程凶徒鎌倉へ亂入と聞へしかど、足利左馬頭直義は、無勢にて防ぎがたく、成良親王幷永壽王丸を具して、海道を引退給ひけれど、合戰に不及、時行鎌倉に入て、勝長壽院を宿陣とす。偖京都にても、尊氏將軍、關東凶徒蜂起の告を聞給ひ、朝廷え御暇申捨て、八月二日出京之處、三河の矢矧にて、京・鎌倉の兩大將御對面有て、夫より下向し給ふ。道々七ケ度の戰ひに討勝て、八月十九日うち入給ふ。ときに葦名判官も腰越にで討れ、諏訪の祝父子幷安保道潭が子も自害し、今僅に三百餘騎に成しかど、宗徒の者共四十三人、大御堂のうちに入て自殺す。其死骸をみるに、皆面の皮を剥て、何れ誰とも見分ざれば、時行も定て此内に有けんとおもひしに、時行は落失けり。七月の末より八月十九日に至る迄、纔廿日ばかり、彼相模次郎、再び父祖舊里に立歸るといへども、程もなく沒落せしことにそあはれなりと云云。是を廿日先代と唱ふ。
【太平記】云、觀應三年閏二月十二日、武戒野合戰に、新田左兵衞像義興・脇屋左衞門佐義治は、尊氏將軍と戰ひ、終に二百餘騎に打なされ、武藏守義宗には放れ、みかた何地へか行ぬらんと、兩人下馬し休みけるが、地勢にては上野へも歸がたし、迚も打死すべき命なれば、鎌倉へ打入て、基氏に逢て討死せんと一決し、夜半頃、關戸を過けるに、五六千の軍勢に行逢たれば、敵なるかと問ければ、石堂入道三浦介、新田殿へ參るよし聞しゆへ、歡事限なく、此勢と打つれ神奈河につきて、鎌倉の樣子を尋ければ、左馬頭基氏を警衞し南遠江守、安房上總の勢三千許、小袋坂・けはい坂をきり塞ぎ、巖重に見へ候と語りけれ。さらば爰にて用意せよと、兵粮を仕ひ、三千餘騎を二手に分て、鶴が岡へ旗差渡し、大御堂の上より眞下りに押寄たり〔神奈川より金澤道へ入て、六浦を經て、朝比奈切通より入たるならん。〕。基氏は、尊氏將軍の營館〔巽荒神の東の御第。〕におはしけるが、南遠江守ばかりにて、小勢なれば、手勢終に七十餘騎、横大路・若宮大路邊にて支へさせ、遠江守は、基氏朝臣を具し申て小坪へ廻り、三浦を經て武藏海道へ出て、將軍の御陣石濱へ落行給ふ。義輿義治は、閏二月十二日に鎌倉え入、合戰に打勝、兩大將と仰がれ、暫く大御堂に居られけり。無程尊氏將軍石濱より出陣し、碓氷峠の戰に打勝給ひ、鎌倉へ寄給ふと聞へ、義興義治、爰にて討死せんと有けるを、松田・河村が意見にて、三月四日大御堂を出て、相模國府津山の奧に籠りけるといふ。二月十三日より三月四日迄、是も漸く廿日ばかり、大御堂に宿陣し、鎌倉に居られけり。
享德のはじめに、大御堂の別當勝長壽院の門主は、御所持氏朝臣の御舍弟にて有しゆへ、門主と稱せり、其頃御所と兩上杉と矛盾ムジユンおこりし頃、如何息ひ給ひしや、門主鎌倉を出られ、下野駒日光山へ御移あり。彼山門の衆徒等を催さるゝとあるは、敵かたより謀りけるにやと、【大草紙】にも見へたり。是より暫く彼山の門主にて住山し給ひしや。其頃より、日光山勝長壽院萬願寺とも號したるよし、今も彼山の衆徒等此事をかたれり。又云、【鎌倉年中行事】云、勝長壽院殿營中へ御出の時の式法、御丁寧の作法をしるせり。其記に云、日光勝長壽院門跡には、坊官とて御荷用等、兒同前に申人あり。自餘の問跡には無之、只侍法師許なり。日光山の御留守をする人體を座禪院と號すと云云。其後、いつの頃より勝長壽院も廢し、往昔右幕下、結構せられし堂塔伽藍の大厦も、只礎石爰かしこ荊蕀の間に存するのみ。依て左典厩〔義朝。〕の廟幷右府〔實朝。〕・二位禪尼〔政子。〕の墳、其在所しれず。按ずるに、享德二年の頃より、御所成氏朝臣も、鎌倉を去給ひて古河に移り給ひ、兩上杉も、江戸・河越・上野白井へ移り、鎌倉は荒蕪の地となりしゆへ、隨て衰廢せしことなるべし。
明德二年氏滿朝直、小山下野守義政退治の時、武藏國村岡の御陣より、鎌倉へ歸給ふ砌、同五月朔日、大御堂へ御入、同十二月廿日まで御逗留にて、其日御所へ御歸座といふ。
[やぶちゃん注:大御堂(勝長寿院)跡及び御堂御所(政子隠居所)跡は、荏柄天神の参道の手前にある大御堂橋を右に曲がって滑川を渡り、文覚邸跡の碑の前の小道を左に入ったその南の奥の山裾の地、現在の鎌倉市雪ノ下四に比定されている。]

二階堂廢跡 今は二階堂村と號し、古への結構も名のみ殘れり。土人は山の堂又は光堂とも唱へ、礎石今田の中に存す。土人呼で四ツ石・姥石の名あり、右大將家の剏建なり。其發起のことは、奧州平泉の秀衡建立せし二階堂に擬して、造營しける梵閣なり。《永福寺》寺號は永福寺と名附給ふ。文治五年十二月九日、今日永福寺二階堂別當事始なり。嚮に奧州にて、泰衡管領の精舍を一覽し給ひ、華構の企をせらる。是は數萬の怨靈を宥め、且は三有の苦果を救はん爲なりといふ。抑彼梵閣宇を並べたる中に、二階堂有〔號大長壽院。〕。もつぱら是を摸し給ふ。別號を二階堂と稱せり。梢雲天を挿み揚金荊玉紺殿を餝れり。
[やぶちゃん注:「泰衡管領」というのはやや奇異な感じの呼称だが、実際に、本記載が参照にした「吾妻鏡」文治五(一一八九)年十二月九日の永福寺起工の条に、
今日永福寺事始也。於奥州。令覽泰衡管領之精舎。被企當寺花搆之懇府。
今日、永福寺事始なり。奥州に於いて泰衡管領の精舎を覽ぜしめ、當寺花搆の懇府こんぷを企てらる。
と現れる。「當寺花搆の懇府」は『当寺の建立の切なる願い』といった謂いか。
「泰衡管領」一般に知られる歴史上の正式な「管領」の語の登場は南北朝以降であるが、ここでは、旧来から使われていた一般名詞としての、『ある地域の実質的な行政権を握っていた人物』という意味で用いているものと思われる。
「三有」は「さんぬ」又は「さんう」で、欲界・色界・無色界の三界、また、その三界に生きる衆生を言う。この世界の、の謂い。
「梢雲天を挿み揚金荊玉紺殿を餝れり」は「梢雲、天を挿み、金荊を揚げ、玉紺殿を餝れり」とでも読むか。これは同じく原文では、
梢雲挿天之極碧落。起從中丹之謝。揚金荊玉之餝紺殿。
梢雲挿天の碧落を極め、中丹の謝より起り、掲金荊玉の紺殿を餝り、剩へ後素の圖を加ふ。
と読んでおく。私の勝手な訳を示すと、「梢」は「(本堂の屋根の)端」と採り、
寺の高い甍の端は、碧天の雲を刺し貫かんばかりに聳え、衷心より仏恩への謝意を表して起工し、その外装内装にはふんだんに金銀宝玉を用い、あまつさえ、豪華な壁画をも装飾に加えている。
「荊玉」の「荊」は賛辞としては奇異だが、茨が絡み付くように宝玉を凝らして飾った、という謂いであろう。「後素」は絵画のこと。「論語」の「八佾」にある「絵事は素を後にす」(「」は白色の絵の具)に由来する。]

[上総五郎兵衛尉忠光二階堂にて生捕らるの図]



[やぶちゃん注:絵の右端の題簽には、

上總五郎兵衞忠光ハ將軍家を
伺ひしがすがたあらはれて忽
南の御堂にて生捕にせし圖

とある。]

上總五郎兵衞尉忠光 是は上總介忠淸が男にて、惡七兵衞景淸が兄なり。平氏敗亡の後、忍びて鎌倉に來り、二階堂造立し給ふ頃ゆへ、匹夫に貌をやつし、右大將家を伺ひ謀らんとし、建久三年正月廿二日、將軍家新建の御堂の地に渡御し給ふ。この時土石を運ぶ匹夫の中に交れり。然るに賴朝卿覽恠ミアヤシミ給ひ、左のマナコメシイの男あり。彼者いづくより、誰人の遣するやのよし尋給ふ。仍て景とき、此事を相尋といへども分明ならず。御前に召寄、佐貫四郎大夫御旨を得て是を面縛する處に、懷中に一尺餘の打刀を帶し、殆ど寒氷のごとし。又其盲をみるに、魚鱗をもて眼の上を覆ふ。いよ/\害心あるものと知し食の間、推問せらる。名揚申ていふ、上總五郎兵衞尉たり、幕下をはかり奉らんと、數日鎌倉中を經廻せしといふ。則此ものを和田義盛に下し給ひ、同意の輩の有無、・召尋べき旨仰食らる。推問せしに、申て云、更に同類なし、但し越中次郎兵衞尉盛繼、去年の頃丹波國に隠れ居れり。彼もおな數會稽の志しをぞんずるか、當時は在所知がたし。曾て一所に住居を定めつるよし、聞及びしと云云。同二月廿四日、武藏國六浦の海邊にて、忠光を梟首す。義盛奉之、日來醬水を斷しといふ。
[やぶちゃん注:「醬水」は「吾妻鏡」該当箇所は「漿水」(しやうず・にんず)で誤り。「漿」は重湯であるが、ここは水断ちの謂いか。忠光は既に覚悟していたものと見える。弟の景清について、植田は「鎌倉攬勝考卷之九」の「景淸牢跡」で、この兄忠光に絡めて語っている。]
同六月十三月、幕下永福寺に渡御、畠山次郎・佐貫四郎大夫・城四郎・工藤小次郎・下河邊四郎等、棟梁の材木を引運ぶ。其力は、數十人の力士の働のごとし。各々一時に功を成と。觀る者目を驚す。幕下御感じ給ふ。同年十一月廿日、永福寺造営畢、雲軒月殿、絶妙無比類。誠に是ぞ西土九品の莊嚴を、東關の二階堂に移せり。今日御臺所御參と云云。同廿五日供養有。曼陀羅供、導師は本覺院大僧正公顯なり。將軍家出御、供奉五十二人と云云。元久二年二月、武藏國土袋郷を永福寺供料に附し給ふ。承元五年十月十九日、永福寺に宋本一切經五餘卷有曼陀羅供、大阿舎利葉上房律師營西、讃衆三十口、題名僧百口なり。將軍家〔實朝。〕御出と云云。建保二年十二月九日、將軍家〔實朝。〕俄に永福寺の櫻花御覽の爲に御出の事あり。修理亮泰時・山城判官行村・東平太重胤・宮内兵衞尉公氏等御供に候す。上下歩儀なり。戌の刻還御のときに及び、御車を寺門に儲くと云云。同五年十二月廿五日、將軍家〔實朝。〕御方違として永福寺の僧坊に渡御ありて、九枝を挑て終夜歌の御會あり[やぶちゃん注:「九枝」は「桃九枝」の脱字。]。御止宿。翌廿六日に、未明還御し給ふとき、御衣二領を僧坊にのこし置れ、一首の御詠を副らる。このとき事々に御芳情をつくさるといふ。
 春待て霞の袖にかさねよと、霜の衣をおきてこそゆけ
[やぶちゃん注:「雲軒月殿」は「うんけんげつでん」と読むが、これは『雲に聳える楼閣の軒や月に居並ぶ華麗な殿宇』という一般名詞。]
同四年九月晦日、永福寺にて初て舎利會執行せらる。尼御所・將軍家〔賴經。〕、幷御臺所御出、舞樂をも執せらる。貞永元年十一月廿九日、將軍家〔賴經。〕、永福寺の林頭の雪を覽給はんとて、武州〔泰時。〕を初、ほかに携れる輩を御ゑらみ御供、寺門の邊にて卿僧正快雅參會、釣殿に入御、和歌の御會あり。但し雪氣雨脚に變ずるの間、餘興いまだ盡ずして、還御の路次にて、大夫判官基綱申て云く、雪は雨の爲に全き事なし。武州是を聞給ひて、「雨の下にふれはそゆきの色も見る」とありければ.又基綱付申ていふ、「三笠の山をたのむかけとて」と云云。
【束關紀行】云、二階堂は殊にすぐれたる寺なり。鳳凰の甍にかゞやき、鳧の鐘霜にひゞき、樓臺の莊嚴よりはじめて、林地の麓にいたるまで、殊に心とまりてみゆ云云。
[やぶちゃん注:「鳧の鐘」は「ふのかね」で、釣り鐘のこと。中国神話で鐘は鳧氏がつくったとされることに由る。]
建長三年十月七日、宇佐美判官祐泰が荏柄の家より失火して。藥師堂は殘らず燒亡し、火延て、二階堂迄悉く燒失せしとあれば、此とき二階堂回祿に及びしは、惜むべきことなり。翌文治五年より、寳治三年まで六十年にして修理有て、建長三年迄纔に三年を過たり。前後合せて、六十三年に至て灰爐となれり。是より別當永福寺は再建有しかど。二階堂は此後廢跡となれり。
[やぶちゃん注:「灰爐」は「灰燼」の誤植であろう。また、ここでは「別當永福寺」と「二階堂」を区別して書いている点が面白い。即ち、寺院としての「別當永福寺」――寺僧が住持し、本尊を安置する寺としての実質的な機能を持った寺領内の中心の二階堂を除く諸堂宇ととる――は、この後に再建され、暫く維持されたが(現在は応永十二(一四〇五)年の火災により廃絶とする)、「二階堂」――「永福寺」の一番の眼目であったはずの主堂宇たる二階建ての荘厳な中心建物――は遂に再建されなかったというのである。]
【梅松論】云、義經の御所[やぶちゃん注:「義經」は「義詮」の誤り。]、四歳の御時、大將として南遠江守具し奉り、御輿に召れて義貞と同道にて、關東御退治、已後は二階堂別當坊に御座有しに、諸將悉く、四歳の若君に屬しむにぞめでたけれ云云。
おなじ記にいふ、同年の冬〔元弘三年の冬なり。〕。成良王征夷將軍として鎌倉御下向、下御所左馬頭殿〔直義なり。兼相模守。〕供奉し申されしかども、東八ケ國の輩大略屬し奉り、鎌倉は、去る夏の亂に地拂せしかども、此夏大守御座有ければ、庶民安堵の思ひをなしけりとあり。鞍ずるに、此とき成良親王を供奉し直義下向、去る五月大亂後にて多く焦土となり、假の御所もなければ、二階堂別當を以て宿營とせられ、建武二年七月、相模次郎時行が亂のとき、鎌倉を發せられ、又失矧より兩御所一同、八月十九日鎌倉へ入給ひし比も、二階堂別當に御座有て、先祖の舊跡をゑらび、御所を經營せんと議せらるゝと云云。
[やぶちゃん注:成良親王(嘉暦元(一三二六)年~?)は後醍醐天皇皇子。異母兄護良親王同様、「もりなが・なりなが」の二様の読みがある。元弘三・正慶二(一三三三)年に足利直義に奉ぜられて鎌倉に鎌倉府将軍として下向するが、翌年中先代の乱により帰洛(この時に直義によって護良親王は殺害された)、そこで征夷大将軍に任じられた(但し、短期間で停止されている。本文の叙述は「鎌倉府将軍」と「征夷大将軍」を混同している。成良親王はそれ以降は京都にあり、鎌倉へは戻っていない)。延元元・建武三(一三三六)年に皇太子となるが、同年十二月の後醍醐天皇が吉野へ遁れたため、廃太子された。後の事蹟は「太平記」の毒殺説など諸説あるが、不詳。
「失矧より兩御所一同、八月十九日鎌倉へ入給ひし」以下は成良親王の事蹟ではなく、矢矧で直義と合流した尊氏が、北条時行を追撃し、鎌倉を奪還、尊氏・直義両兄弟が入鎌した際の事蹟を記している。
二階堂(永福寺)跡は、現在の鎌倉宮の背後、東北百メートル程のところに比定され、鎌倉市二階堂という地名として残る。]

東光寺舊跡 藥師堂谷にあり。大塔宮土の籠といふの側の畠地をいふ。醫王山と號せしといへども、開山・宗派もしれず。【鎌倉大日記】といふものに、建武二年七月廿三日、兵部卿宮は、直義が爲に、東光寺におゐて生害せらるとあり。或説には、民部大夫行光、永福寺の傍に於て、右大將家の御追善に、一伽藍建立し、承元三年十月十日供養、明王院僧正公胤を導師とす。尼御所渡御し給ふといふ。其後東光寺といふ一寺に成しならん。されど廢せしことも傳へざれば、開山宗派のことも失ひしにや。又云、【竺仙録】といふものに、貞和三年七月廿三日、東光禪師住持比丘友桂、國朝のために寶塔を建立することを載せり。按ずるに、七月廿三日といへば、大塔宮の忌日なれば、みやの御爲に建立せし塔婆なるべし。此寺も廢せしゆへ、外へ移せしにや。
[やぶちゃん注:「竺仙録」は建長寺などに住した来日僧竺仙梵僊(至元二十九(一二九二)年~貞和四・正平三(一三四八)年)の「竺仙和尚語録」。「鎌倉攬勝考」の冒頭の引用書目には掲げていない。]
【梅松論】に云、建武元年六月七日、兵部卿親王大將として、將軍の御所に押寄らるべき風聞しける程に、武將の御勢、御所の四面を警衞し奉り、その餘の軍勢二條大路に充滿しける 程に、事の體大儀におよぶに依て、當日無爲になりけれども、將軍より憤り申されければ、全く叡慮にあらず。宮の張行の趣也し程に、十月廿二日の夜、御參内の次を以て、武者所に召籠奉りて、翌朝常盤井殿へ還し奉り、武家のともがら警衞し奉る。同十一月、親王をば細川陸奧守顯氏受取奉りて、關東へ御下向なり。思ひのほかなる御旅のそら、申も中々おろかなり。みやの御謀反、眞實は叡慮にて候しかど、御科を宮にゆずり給ひしかど、鎌くらへ御下向とぞ聞ゑし。宮は二階堂村の藥師龜堂谷に御座有けるが、武家よりも却てきみをうらめしく渡らせ給ふと、御獨ごとをのたまひけるとぞ。
【空華集】に、義堂、東光寺にて、兵部卿のみやを弔の詩あり。
   東光弔大塔宮兵部卿親王
 塔影琴々半入雲、王孫曾此洒啼痕、獄中劔氣衝天起、
 門外兵塵蔽日昏、山鳥乍驚龍鳳質、野童那識帝王尊、
 興亡不上禪僧眼、只見靈光巋獨存、
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之二」の「東光寺舊跡」に同詩が所収している。その影印を参考に書き下したものを示しておく。

   東光に大塔兵部卿親王を弔ふ
  塔影 稜々として 半ば雲に入る
  王孫 曾て 此に啼痕をそそ
  獄中の劒氣 天を衝きて起り
  門外の兵塵 日を蔽ひて昏し
  山鳥 乍ち驚く 龍鳳の質
  野童 那ぞ識らん 帝王の尊
  興亡は禪僧の眼に上らず
  只だ見る 靈光のとして獨り存することを

「巋」は山の高く険しいさまから、孤高に独立するさまを言う。
東光寺跡は現在の鎌倉宮の位置に比定されている。]

大塔宮ノ土牢 東光寺跡の山麓にあり。窟にはあらず。土穴なり。其中をノゾき見るに、二階に掘て二間四方あまり、又一段低き所は凡九尺四方も有べき所。深さ六尺許、上の二間四方許の所も深さ七八尺、みな赤き地なり。【太平記】の作者、みだりに、尊氏將軍の爲に潤飾を設て、武威は嚴盛なることを書たるものなり、將軍の在世の内に、【太平記】全部出來し、將軍の一覽にも備へしといふこと、今川了俊が記にものせたり。夫ゆへ兵部卿親王を、地中の牢へ入奉ると記せしより、土俗口碑に傳へて、土穴の中、入置奉りしことにおもへり。是【太平記】の説に因て、此妄談は起りたるものならん。是に限らず、これに擬て造れるもの、所々の舊跡に多く見へたり、【保暦間記】【梅松論】等も、尊氏將軍の爲に書たるものゆへ、潤飾多けれども、是等の書には土の牢とはしるされず、藥師堂谷の御所にとめおけども、又は牢の御所ともかけり。四面を禁錮し入置奉れば、牢の御所なることは勿論なり。【保暦間記】にいふ、尊氏兵權をとらば、むかしの賴朝にも替るべからず。此次に誅罸せらるべしと、大塔宮申されけるを、帝、さしもの軍忠の人をとらへ、其儀なし。彼宮種々の謀を廻し、尊氏を討んとせしかど、東國の武士多く尊氏方なりし上に、譜代の武勇なれば、輙もうたれずと云云。此親王は、尊氏の武將の機あることを、能見給ひしゆへなり。武き親王にて渡らせ給へば、その思食立れしも謂れなきにしもあらず。尊氏やがて其叔母にして、准后につかへ申せしを、帝遂にまとひ給ふより、護良王の災厄となれり。尊氏將軍ならびに直義には、主君なれば、たとへおのれが讐敵なる親王にもせよ、帝より預り奉りければ、土中へ入置奉り、飮食滓穢シワイをひとつにすべきや[やぶちゃん注:後掲の注を参照。]。また弑し奉れることは、其翌年七月、凶徒鎌倉へ攻入しかば、上野親王成良〔十二歳。〕・義詮〔六歳。〕此人々を伴ひ出れば、兵部卿宮は容易に請ひかたく、且は足利家の仇にてましませば、直義が時に取ての幸ひとして、淵邊伊賀守義博に下知して弑し奉りしなり。直義が主君を失ひし罪惡、終には天の譴(セメ)を得て、おのれも毒殺せられ、跡たえけり。
[やぶちゃん注:「滓穢」の「滓」は底本では、「※」=「氵」+(「突」-「大」+{「全」-「欧」+「ヌ」})であるが、こんな字は存在しないと思われる。また、ルビも底本では「シクイ」とあるが、「穢」を「クイ」若しくは「イ」と読むことはない。これは「飮食滓穢おんじきしわい」の誤りで、「飮食滓穢をひとつにすべきや」で『いくらなんでも、親王を、飲食と排泄を一緒くたにするような劣悪なる土牢の中に籠め置くなんどということがあり得ようか、いや、ない』、と述べているものと思われる。「滓穢」の「滓」もけがれの意で、「滓穢」で『けがれ』の意の熟語である。排泄の忌み言葉として用いている。
「輙も」は「たやすくも」と訓じている。
大塔宮の土牢は、現在、鎌倉宮の中の「あったとされる場所」に、私の出た國學院大學の故樋口清之氏の「復元」によって、「リアルに再現」されている。植田の土牢への疑義にもある通り、この「復元」された土牢は、郷土史研究家の間ではすこぶる付きで評判が悪い、ということは付け加えておきたい。]

本國寺舊跡 松葉が谷といふ。名越切通坂下、今の長勝寺の地なりといふ。安國寺も松葉の谷なり。最初日蓮居住の舊跡、貞和の初に本國寺を京都へ移さる。長勝寺、今は地名を石井と唱ふ。日蓮上人舊跡の由緒を失ふにひとし。日蓮、松葉が谷本國寺を日朗へ與へ、日朗より日印・日常と註し、日靜は貞和元年の頃本國寺を京都へ移し、此所を日叡に授與せしむ。其後日叡本國寺を改め、妙法寺と號し、其後斷絶せしを、再興の長勝寺と稱する由。扨京都へ移されし日靜といふは、尊氏將軍の御叔父なり。夫ゆへに、本國寺大伽藍建立せられ、大寺となれり。松葉が谷に有し時の、古文書なりしを次に出す。今も京都本國寺の寺寶とするものなり。
左衞門尉平賴綱状
 別當職之事可得御意候歟同心候者可爲眞實侯殊以松葉谷本
 國寺廢地も止他妨可有早々興隆候由仰之旨申渡候訖猶兵部
 七郎可申候恐々謹言
  五月七日             賴 綱(花押)
  日 蓮 御 房
伊豆伊東配流赦免状 弘長元年
 日蓮法師可有赦免由被仰出候更に可被召返候也仍執達如件
  霜月十一日
                   教 家(花押)
                   久 家(花押)
佐渡塚原配流赦免状
 日蓮法師御勘氣事即御免許之由所被仰下也早々可被赦免之
 由候也仍執達如件
 文永十一年二月十四日
   藤兵衞入道殿
修理亮朝泰状
 就鎌倉法花堂本國寺屋地事義佐へ致披露候就者其方爲御志
 年賀之事被指置候 恐々謹言
  四月廿二日          修理亮朝泰(花押)
    謹上 中野備前 御宿所
後醍醐帝綸旨
 松葉谷本國寺勅願之旨被仰下訖奉禱爾四海泰平可抽精誠者
 天氣如此悉之以状
  嘉暦三年十一月廿一日
                
葉室   
                左少辨長光
   法花宗
    日靜上人御房
此日靜とあるは、尊氏將軍の本國寺へ與えられし御教書に、叔父日靜とあり。仍て本國寺を鎌倉より帝都へ遷され、大刹となれり。
光嚴帝院宣
 勅願所本國寺今度被遷帝都畢永爲不易之寺地任望之旨六條
 楊梅東西二町南北六町令全管領畢可被致建造之由
 院宣所候也仍執達如件
  貞和元年三月七日       權中納言定隆蔭奉
     三位僧都御房
[やぶちゃん注:現在は、大光山本圀寺ほんこくじとして京都府京都市山科区にある。本記載時の寺地は、日静(にちじょう 永仁六(一二九八)年~正平二十四・応安二(一三六九)年)が貞和元(一三四五)年に光明天皇より寺地を賜って移った六条堀川である(第二次大戦後に経営難等の諸般の事情から堀川の寺地を売却、現在の山科に移転している)。本文にある通り、日蓮が松葉ヶ谷草庵に創建した法華堂が第二祖日朗に譲られ、元応二(一三二〇)年に堂塔を建立したのが本寺の濫觴であり、現在の鎌倉松葉ヶ谷にある石井山長勝寺がその旧跡に比定されている。]

延福寺廣跡 淨妙寺の境内西北にあり。雲谷山と號せり。開基は足利左馬助高義なり。高義の法號を延福寺と稱す。尊氏將軍の舍兄なり。開山は足菴和尚、佛國禪師の法嗣なりといふ。
[やぶちゃん注:足利高義(生没年未詳)は尊氏・直義の異母兄。母は鎌倉幕府評定衆を務めた幕閣の重鎮金沢顕時の娘(一説に貞氏の嫡子を養子としたとも)。 ウィキの「足利高義」によれば、正和四(一三一五)年十一月に足利左馬助の名で、鶴岡八幡宮の僧侶に対する供僧職安堵の書状が出されていることから、足利家の家督を継承していたものと推定されるが、三年後の文保二(一三一八)年九月には先代の父足利貞氏が再び同じ安堵状を発していることから、この間に亡くなったと考えられる、とあるから、この推定が正しければ、本寺の創建は鎌倉時代末期一三一〇年前後と考えてよいと思われる。但し、一説には高義の供養のために高義の母(彼女の逝去は暦応元(一三三八)年)が建てたともいう。それでも時代的には、やはり鎌倉末以降には及ばないと考えてよい。菩提を弔うための建立が十五年以上経ってからというのは考え難いことと、対立した尊氏が弟直義を降伏させた後に鎌倉へ連行し、この延福寺に幽閉、文和元・正平七(一三五二)年二月二十六日、直義はここで死んでいる(一説に毒殺)からである。これが、この時点で延福寺がそれなりの足利家所縁の寺院としてあったことを示しているからである。延福寺跡は現在の浄妙寺寺域の西北の隣りに比定されている。]

大休寺舊跡 淨妙寺境内西の方にあり。熊野山と號す。其社西の方に有。寺地跡に石垣など殘れり。古井もあり。直義此所に住せしともいふ。法名を大休寺と號す。開山月希一和尚、貞治五年六月十三日寂す。京都村雲の大休寺を稱し、爰にもまた建立せし歟。
[やぶちゃん注:現在、浄妙寺の西側の山腹に、浄明寺地域の鎮守である熊野神社があるが、この石段の上り口付近に足利直義屋敷があったとされ、そこに直義の死後、菩提を弔うために大休寺が建立されたと伝えられる。]

報恩寺舊跡 西御門村にありしといふ。南陽山と號す。開基は上杉能憲、法名報恩寺道諲と號し、開山は義堂なり、【日工集】に、應安四年十月十五日、上すぎ諲公の請に應じ、一刹を鎌倉城の北に創す。永和二年十一月十三日、報思寺立柱、檀那上杉兵部大輔能憲入山證明す。同四年四月十七日、上杉能憲敬堂道諲居士逝去、年四十六とあり。此能憲は上杉安房守氏憲の兄也〔實は伊豆守重能の次男なるを、民部大輔憲顯養て子とせしなり。依て本氏は宅間なりといふ。〕。本尊は法華堂にあり。又鐘の銘も、【空華集】に義堂が撰せし銘文もあれど、其鐘も亡びたれば、銘も略す。境内に、しらはた明神を、義堂が祀れる由なれど、其社も亡せり。
[やぶちゃん注:現在は本割注叙述とは逆に、上杉能憲は上杉憲顕の実子であったが、父の従兄弟であった宅間上杉家の上杉重能の養子となったとある(後に養父重能は足利家執事高師直との政争で暗殺された)。「道諲」は「だういん」と読む。この寺の本尊であった永徳四年(一三八四)年伝宅間浄宏作地蔵菩薩像は、現在、西御門にある来迎寺に残る。]

保壽院廢址 西御門村報恩寺跡の西南にあり。源基氏朝臣の母堂なる、保壽院淸江寛公禪尼の菩提所也。此禪尼は北條相模守平守時の息女なり。守時は、元弘三年五月義貞亂入のとき、巨福呂坂に敵を支へ踏留て、主從百餘人自殺すといふ。開山義堂、【日工集】に、應安七年九月廿九日、淸江夫人逝去す。夫人の遺命によつて、西御門の別殿を名附て、保壽院と號すといふ。或は新御堂とも稱せしにや。滿隆玆に住給ひしことあり。依て滿隆の事を新御堂殿ともいふ。應永廿三年十月、上杉禪秀が勸に依て、持氏朝臣御伯父新御堂〔滿隆。〕幷持氏朝臣の御弟持仲等を語らひて、十月二日の夜戌刻、御所を忍び給ひ、西御門保壽院へ御出有之、旗を揚らるゝと、【大草紙】等に見へたり。
[やぶちゃん注:前項の報恩寺とこの保寿院は西御門一丁目七-一にある鎌倉第二中学校(来迎寺の道を隔てた西側の谷戸)の敷地内に比定されている。]

一心院舊跡 光觸寺の南に、柏原山といふの下に、小名を明石といふ所有り。寺の跡と見へ、又岩窟のうちに、石佛の折たるものあり。
[やぶちゃん注:この比定地は現在の十二所八八八の、十二所バス停南側の明石谷最奥部に位置する「一心院跡所在やぐら群」と呼称される場所である。 ]

月輪寺廢跡 光觸寺の北、霧が澤といふところの小名好見といふ所に、房の屋敷と字する所なり。此二寺は、成氏朝臣の護持僧寺にて有し由、【年中行事】に見へたり。此ほかに、心性院・遍照院なども、護持僧寺なりといへども、其舊跡しれず。
[やぶちゃん注:「月輪寺」は個人ブログ「あまでうす日記」の「月輪寺を求めて」によれば、「がちりんじ」と書いて「がつりんじ」と読むとある。そこに「十二所地誌」なる書物から引用して、月輪寺は『かつて光触寺所有の明石山の中腹にあ』った寺で、その面積は凡そ四百坪で、『その中間の岩土堤に畳八畳敷き位の穴が』残っている。『本尊阿弥陀如来は闇浮陀黄金仏』」であったらしいが、考古学的調査も芳しくなく、遺物も全く発見されなかったとする。さらに『御坊ヶ谷を入った少し左側露ケ沢が好見であるがゆえに好見の月輪寺という。そこに房の屋敷というところがありこれが月輪寺の旧跡である』と記されているそうである。あまでうす氏はそれらしき場所を実際に踏査され、『「鎌倉年中行事」に「勝長寿院、心性院、遍照院、一心院、月輪院の五カ寺の住職は公方様の護持僧」とあるから、相当の大寺であったと思われる』と結んでおられる。]

大慈寺舊跡 大倉の新御堂とも號す。五大堂より南の谷にあり。往昔より、此邊すべて大倉と稱すること、【東鑑】に出たり。建暦二年四月十八日、將軍家御願として、大倉郷にて一勝地を下せられ、一寺經營、今日立柱上棟なり。是は君恩父德を報ぜられんが爲なりといふ。同二年十一月十一日[やぶちゃん注:これは「十月」の誤り。]、將軍家、新建の堂舍を覽給はんとて、大倉に渡御、相州已下の人々扈從す。今日始て奇石山水等の沙汰に及べり。此所は河有、山有。水木ともに其便を得て、地形の勝地たり。善信此間中、京都より召下したる繪圖を獻ず。誠に御感に預る處なり。善信申けるは、去る建久九年十二月の比、夢想のことあり。善信等先君の御供し、大倉山の邊に至各に、爰に一老翁のいふ、此地は清和の御宇、文屋康秀相模掾として住せし地なり。精舍を建べし、われ鎭守とならんと云云。夢覺ての後に、幕下にこのよしを啓しけるが、將軍御病中なり、若御平癒に及びなば、堂舍造立あるべきよし仰らるゝの處、翌年正月薨御ゆへ、是を果されざる條、愚意潜に恨たり。然るに當御代御願に依て、この草創有事は、併靈夢の感應する所なりと、仰云、我もまた先年靈夢の告有に依て、今此企におよぶ。是何ぞ合體にあらずや。古書に、文屋康秀三河掾として下向、縣見に出立のよし、小野小町を誘引といふ。彼兩人は、仁明の朝たり。淸和の御宇に當るべきや否。善信申、夢中のことは、誠以實證には備へがたきか。但し古き陰書を見るに、康秀は、元慶三年縫殿助に任ずる歟。然らば、清和の朝に仕へし條異儀なき歟。相模掾の事は未考云云。將軍家頻以御感有て、範高に仰せ、此問答の趣をしるし置、當寺の縁起を作らるべきに、此夢記を以て事初とすべき旨、内々仰有けると云云。建保二年七月廿七日、大倉大慈寺新御堂供養、尼御所・將軍〔實朝御束帶。〕午刻御出、御堂上の後、導師葉上坊僧正榮西、伴僧廿口を率て參入供養の儀あり。及晩御布施・被物三十重、御馬二十匹と云云。同十月十五日、葉上僧正始て舍利會を行はる。安貞二年八月四日、大慈寺にて武州〔泰時。〕御願として、如法經十種供養をせらる。正嘉元年十月朔日修理の事畢。是は堂閣破壞に及びしゆへに、營建有て、頗る古へに超過し莊嚴なりしとぞ。今日供養。當寺の本堂・丈六堂・新阿彌陀堂・釋迦堂・三重塔・鐘樓等悉造畢。曼陀羅供、大阿闍梨三位僧正賴兼、聽衆卅口、願文草は廣範、淸書は左大臣法印嚴惠、諷誦文の草は廣範、淸書は和泉前司行方、當日會場行事は三河前司教隆眞人〔布衣下括。〕、刑部權少輔政茂〔束帶。〕この餘は略す。
[やぶちゃん注:「文屋康秀三河掾として下向、縣見に出立のよし、小野小町を誘引といふ」は「古今和歌集」に依る以下の小町の歌の基づく。
     文屋康秀三河のぞうになりて県見にはえいでたたじやと
     いひやれりける返事によめる
  わびぬれば身を浮草の根を絶えて
   誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ
現在の知見によれば、文屋康秀の生没年は(?~仁和元(八八五)年?)で、謎の美女小野小町も諸資料から生没年は(天長二(八二五)年?~昌泰三(九〇〇)年?)頃の生存とされている。第五十六代清和天皇(嘉祥三(八五〇)年~元慶四(八八一)年)の在位期間は天安二(八五八)年~貞観十八(八七六)年であるから、「淸和の御宇に當るべきや否」やという善信の心配は無用である。「縫殿助」は女官の勤務素行調査・名簿管理、宮中の装束の裁縫を監督した縫殿寮ぬいどのつかさの次官。本寺跡は現在の明石橋を渡ったすぐの左の路地を入った十二所六十六付近に比定されている。しかし、文屋康秀の鎌倉在住という話は、この大慈寺伝承以外では寡聞にして不審であると申し添えておく。]

日光山別當宿院舊跡 犬懸が谷といふところにあり。犬懸家日光山へ法華三昧料として、下野國寒河郡にて田十五町御寄附などありて、御歸依なるにより、別當坊宿院の地を賜ひ、常に鎌倉に住し、護持法を修しけり。又は日光山別當にして、鶴が岡の供僧をも兼たるよし。【東鑑】に、正治三年二月九日[やぶちゃん注:正治三年の誤り。後掲注参照。]、將軍賴家卿鶴岡へ御參、宮守にて御經供養、導師は日光山別當眞智房法橋隆宣〔當宮供養僧一和尚。〕と云云。其後日光山別富辨覺は、建保元年五月五日和田亂のとき[やぶちゃん注:建暦三年五月二日の誤り。後掲注参照。]、御所の御味かたとして軍功を顯し、御感のあまり、その賞として筑紫土黑の庄を、山領に賜ひし事同書に見え、また寛元三年三月十六日、將軍〔賴經。〕日光山別當の犬懸谷の坊へ入御。是は二所奉幣の御精遣の爲なり[やぶちゃん注:「御精遣」は「御精進」の誤り。]。同十九日、日光別首の坊より、鶴が岡八幡幷龜谷山玉寳前等へ御參と有。其後正元々年五月十日、秋田城之助入道覺智三年迫福、松下禪尼施主として、曼荼羅供を修せらる。大阿闍梨日光別當尊家云云云。弘長元年十一月八月[やぶちゃん注:弘長三年の誤り。後掲注参照。]、最明寺禪室病阿、日光別嘗尊家法印抵命護摩を修し、おなじく十日[やぶちゃん注:十三日の誤り。後掲注参照。]、禪室病危急ゆへ、有同人法華護摩修行す。
文應三年十一月八日[やぶちゃん注:弘長三年十一月十七日の誤り。後掲注参照。]、宗尊親王將軍御息所御着帶に依て、日光山別當尊家法印、放光佛供養、御産に至るの間、連月供養し奉るべきと云云。文永二年六月十三日、今は御息所御産気御祈として、御所にて放光佛供やう、導師日光別當尊家法印、左近大夫將監とき村・差近大夫將監顯むらき等[やぶちゃん注:「むらき」は「とき」の誤り。後掲注参照。]、御布施物を取とあり。已上【東鑑】。
[やぶちゃん注:「日光山」以下、ウィキの「日光山」より引用しておく。『日光山は勝道上人(奈良時代後期から平安時代初期の人物)が開いた現日光の山岳群(日光連山、日光三山を参照)特にその主峰である男体山を信仰対象とする山岳信仰の御神体ないし修験道の霊場であった』。『日光が記録に見えてくる時期は、禅宗が伝来し国内の寺院にも山号が付されるようになり、また関東にも薬師如来像や日光菩薩像が広く建立され真言密教が広がりを見せる平安時代後期ないし鎌倉時代以降であるため、勝道上人が日光の山岳地に分け入ったとされる当時からこの地を「日光山」と呼んでいたかは定かでない。下野薬師寺の修行僧であった勝道一派が日光菩薩に因んで現日光の山々を「日光山」と命名した可能性も含め、遅くても鎌倉時代頃には現日光の御神体が「日光権現」と呼ばれ』、『また「日光山」や「日光」の呼称が一般的に定着していたものと考えられる』とある。しかし、この「日光山別當宿院舊跡」なるものは、現在、史跡としては全く現認されていないのではないかと思われる。管見の限りでは、昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊の貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」の一八四頁に「日光山 宗旨未詳、浄明寺、犬懸」としてほぼ植田の引用と合致する「吾妻鏡」からの現代語による引用が示されているのを見るばかりである。この「浄明寺、犬懸」という記載以外に、位置を比定する記載がないのを見ても、今は全くその跡は確認されていない証左であろう。ただそこに、「成年中行事」という書物に、『日光の御留守勤する人躰は坐禅院と号す』という記載があり、そこを受けて、この日光山宿院のあった場所を共有して(私は同一建物であったと読むべきではないかと思うのだが)『坐禅院があったので、この辺の川を坐禅川とよぶのではないかと思う』とあるのが目を引く。何故なら、私の知る限りでは、滑川が坐禅川と呼称されるのは浄明寺西端辺りから小町小路の本覚寺夷堂の有意な上流までで、そう呼称されるのはこの辺りにかつて文覚上人の屋敷があり、しばしば文覚が川岸近くで坐禅を組んだことに由来すると聞いているからである。しかし、以前から私はこれに素朴な疑問を持っていた。文覚は頼朝の蜂起に功あり、幕政にも関わって、神護寺中興の祖ともされ、出家に関わる「袈裟と盛遠」でも知られる超有名人ではあるが、史実上の後半生は急速に転落し、頼朝の死後、一条能保・高能父子の遺臣が権大納言土御門通親襲撃を企てた三左衛門事件に連座して佐渡へ配流、後に許されるも、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられて対馬へ再配流の途中、鎮西で客死している。勿論、だからと言って彼に由来する名を河川名にしてはいけないというわけではないが、私にはある種の違和感があった。ところが、このような「坐禅院」という建物がその由来であるとするのならば、如何にも分かり易く、腑にも落ちるのである。如何であろうか?
「下野國寒河郡」は、現在の栃木県にあった旧寒川郡(さむかわぐん:現在は下都賀郡に編入)。現在の小山市の南部にある思川おもいがわ西岸に相当する。
「法華三昧料」ここは三昧田のことで、仏道修行に係る経費に当てるための専用の田をいう。
「正治三年二月九日、將軍賴家卿鶴岡へ御參、宮守にて御經供養、導師は日光山別當眞智房法橋隆宣〔當宮供養僧一和尚。〕と云云」とあるのは誤り。この最後の「導師は日光山別當眞智房法橋隆宣〔當宮供養僧一和尚。〕」のパートから、これは「吾妻鏡」の正治三(一二〇一)年二月九日の記事ではなく(この年月日の記載自体がない)、建仁二(一二〇二)年一月九日の記載であることが分かる。以下に示す。
九日乙夘。天顏快霽。左金吾御參鶴岳八幡宮。天野右馬允役御釼。於宮寺。有御經供養。導師日光別當眞智房法橋隆宣。〔當宮供僧一和尚〕
九日乙夘。天顏快霽。左金吾鶴岳八幡宮に御參。天野右馬允、御釼を役す。宮寺に於いて、御經供養有り。導師、日光別當眞智房法橋隆宣〔當宮供僧、一の和尚。〕
これにより、「宮守」も「宮寺」の誤植であることが判明する。
「建保元年五月五日和田亂のとき、御所の御味かたとして軍功を顯し、御感のあまり、その賞として筑紫土黑の庄を、山領に賜ひし事同書に見え」は、まず「建保元年五月五日」が「建暦三年五月二日」(和田合戦は翌日三日まで続く)の誤りである。本文の記載は建暦三(一二一三)年五月十日の記載を指す。
十日庚戌。天霽。日光山別當但馬法眼弁覺預勳功賞。即召御所。爲僧徒身赴戰塲。忠節之至。尤被感思食之由。以相州被仰之。弁覺報申云。奉祈將軍家御壽算之間。呪咀靈氣之崇。猶以可降伏。况所令現形之御敵。盍罸之哉云々。所拜領鎭西土黑庄也。又出雲守長定蒙同賞云々。
十日庚戌。天霽。日光山別當但馬法眼弁覺、勳功の賞に預る。即ち御所に召し、僧徒の身として戰塲へ赴く。忠節の至り、尤も感じ思し食さるるの由、相州を以て之を仰せらる。弁覺報じ申して云く、將軍家の御壽算を祈り奉るの間、呪咀靈氣りやうけの崇り、猶ほ以て降伏がうぶくすべし。况や 形を現はしむる所の御敵、盍ぞ之を罸せざらんやと云々。鎭西土黑の庄を拜領する所なり。又、出雲守長定同じく賞を蒙ると云々。
「鎭西土黑の庄」長崎県雲仙市国見町土黒ひじくろのことか。しかし、植田がここを「筑紫」とするのは不審である。
「正元々年五月十日」も誤り。そもそも「吾妻鏡」には正元元年の部分は欠落していて存在しない。これは文應元年(一二六〇)年五月十日の以下の記事による。
十日丁丑。晴。秋田城介入道覺智第三年追福。松下禪尼爲施主被修之。願文草右京權大夫茂範朝臣。淸書〔本〕曼陀羅供。大阿闍梨日光別當法印尊家。
十日丁丑。晴。秋田城介入道覺智第三年の追福。松下禪尼、施主として之を修せらる。願文の草、右京權大夫茂範朝臣。淸書〔本。〕。曼陀羅供、大阿闍梨日光別當法印尊家。
「秋田城介」は実朝側近で幕閣に隠然たる権力を持った安達景盛のこと。「松下禪尼」は景盛の娘で、北条泰時嫡男時氏の妻で、經時・時頼の母に当たる。
「弘長元年十一月八月」も誤り。これは弘長三(一二六三)年十一月八日の以下の記事による。
十一月小八日乙酉。依相州禪室御勞事。被加御祈禱等。先今日中造立等身千手菩薩之像。有供養之儀。導師松殿僧正良基也。即以伴僧十二人。相共被誦晝夜不断千手陀羅尼。僧正斷五穀。伴僧有一日三箇度行水云云。次尊家法印於園殿。被修延命護摩。次陸奥左近將監義政。一日之内造立等身藥師像。請尊家法印爲導師。被遂供養云云。又尊海法印帶等身藥師畫像。七箇日爲令參籠于三嶋社。今曉進發。修三時護摩。可信讀大般若經云云。
十一月小八日乙酉。相州禪室、御勞の事に依りて、御祈禱等を加へらる。先づ今日中に等身の千手菩薩の像を造立し、供養の儀有り。導師、松殿僧正良基なり。即ち伴僧十二人を以て、相共に晝夜不断、千手陀羅尼を誦せらる。僧正五穀を斷ち、伴僧一日三箇度の行水有りと云云。次に尊家法印、園殿に於いて、延命護摩を修せらる。次に陸奥左近將監義政、一日の内等身の藥師像を造立し、尊家法印を請じて導師と爲し、供養を遂げらると云云。又、尊海法印、等身の藥師畫像を帶して、七箇日、三嶋社に參籠せしめんが爲に、今曉、進發す。三時の護摩を修し、大般若經を信讀すべしと云云。
「おなじく十日、禪室病危急ゆへ、有同人法華護摩修行す」も「十三日」の誤り。これは弘長三年十一月十三日の以下の記事による。
十一月小十三日庚寅。最明寺禪室御不例已及危急之間。尊家法印修法華護摩。松殿僧正於山内亭。断五穀修行法云云。
十一月小十三日庚寅。最明寺禪室、御不例、已に危急の間に及び、尊家法印、法華護摩を修す。松殿僧正山内亭に於いて、五穀を断ち、行法を修すと云云。
最明寺入道北条時頼時頼はこの九日後、十一月二十二日に逝去している。
「文應三年十一月八日、宗尊親王將軍御息所御着帶に依て、日光山別當尊家法印、放光佛供養、御産に至るの間、連月供養し奉るべきと云云」も誤り。これは弘長三(一二六三)年十一月小十七日の以下の記事による。
十一月小十七日甲午。霽。圖繪供養放光佛。是依尊家法印申行。至御産之時。連日可被奉供養云云。
十一月小十七日甲午。霽。放光佛を圖繪し供養せらる。是れ、尊家法印申し行ふに依りて、御産の時に至るまで、連日供養し奉らるべしと云云。
この前日の記事に、
十一月小十六日癸巳。晴。午剋、御息所御着帶。御驗者大納言僧正〔良基。〕〔香染の法服。伴僧二人、大童子等之を具す。〕。醫師玄番頭丹波長世朝臣。〔布衣。〕御秡陰陽權助晴茂朝臣。〔束帶。〕宿曜師大夫法眼 尊等也。又尊家參上云云。太宰少貳景賴奉行之。
戌尅地震。
十一月小十六日癸巳。晴。午の剋。御息所御着帶。御驗者、大納言僧正〔良基。〕。〔香染法服。伴僧二人大童子等具之。〕醫師玄番頭丹波長世朝臣。〔布衣。〕御秡陰陽權助晴茂朝臣。〔束帶。〕宿曜師、大夫法眼晴尊等なり。又、尊家、參上すと云云。太宰少貳景賴之を奉行す。
戌尅地震。
と「御息所御着帶」の記事が載る。この「御息所」とは第六代将軍宗尊親王の正室であった宰子のことである。この妊娠している子は、後の第七代将軍惟康親王となる。因みに、この六日後に北条時頼は死んでいる。
「文永二年」は西暦一二六五年。
「左近大夫將監とき村」は北条時村。
「左近大夫將監顯むらき」は「左近大夫將監顯とき」の誤り。北条(金沢)顕時のこと。
 以上、見てきたように、ここでの植田の「吾妻鏡」引用は杜撰さが目立つ。先生、どうしちゃったの? 体調でも悪かったの? と心配になってくるほどの大錯乱状態である。いやいや、これはもしかすると底本編者が居眠りでもこいていたのかも――
 最後に。大錯誤ついでに、そのとどめの大波乱大騒動を刺して終わろう。――実は、この最後の方の私の注引用部分には、御所内某重大事件の当事者二人が顔を出しているのである。――一人は、何と、この宗尊親王正室近衛宰子(仁治二(一二四一)年~?)。――もう一人は――十一月十六日の記事に「御驗者大納言僧正〔良基。〕」――と現れる僧である。以下、ウィキの「近衛宰子」から引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。近衛宰子は『文応元年(一二六〇年)二月五日、二十歳で幕府執権・北条時頼の猶子として鎌倉に入り、三月二十一日、十九歳の将軍宗尊の正室となり、御息所と呼ばれる。時頼の猶子にする事で、北条氏の女性が将軍に嫁すという形を取っている。文永元年(一二六四年)四月二十九日、惟康王を出産』したが、『文永三年(一二六六年)、宰子と出産の際に験者を務めた護持僧良基との密通事件が露見する。六月二十日、良基は逐電し、連署である北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われ、宗尊親王の京都送還が決定されたと見られる。宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移された』。『鎌倉は大きな騒ぎとなり、近国の武士達が蜂のごとく馳せ集った。七月四日、宗尊親王は将軍職を追われ、女房の輿に乗せられて鎌倉を出ると、二十日に帰洛する事になる。京には「将軍御謀反」と伝えられ、幕府は三歳の惟康王を新たな将軍として擁立した』。『その後宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻った。都では良基は高野山で断食して果てた、または御息所と夫婦になって仲良く暮らしているなどと噂された』という。いやはや――げに恐ろしきは女人と僧じゃわいのう――]

長樂寺廢跡 佐々目谷にあり。淨土宗。法然上人の弟子隆觀といふ僧住せし由。正元二年四月廿九日燒亡の事【東鑑】に見へ、此寺の門前より龜谷の人家に至るまで、悉く燒失とあ り。其後何の年にか廢跡となれり。此寺もとは北條經時が爲に建立せし寺なり。
[やぶちゃん注:現在の長谷にある鎌倉文学館付近に比定されている。「其後何の年にか廢跡となれり」とあるが、現在は元弘三・正慶二(一三三三)年五月の鎌倉幕府滅亡と同時に戦火で焼失したとされている。乱橋材木座・長谷・坂ノ下のそれぞれの一部が長楽寺という旧地名を保持しており、相当な伽藍であったことが窺える。]

智岸寺廢跡 英勝寺西北の谷なり。今は英勝寺の境内となる。古へ寺ありしも頽廢し、百年も已前まで地藏堂のみ殘り在しも、今は是もなく、地藏は雪下供僧正覺院にあり。此地藏をどこも地藏と名附く。むかし堂守の僧が貧窮に困じ、佛供すべき物もなきゆへ、此生を捨て他所へゆかんと思ひ定め、其夜の夢に、地藏枕元に現じて、どこも/\とばかりいひて失けり。此僧其心を其心を悟り、どこも/\とは、何かたもおなじ苦の世界といふことなるべしとて、一生を此ところに終りしといふ。
[やぶちゃん注:智岸寺は本文にもあるように、英勝寺が創建される以前に、ほぼ同位置にあった。英勝寺(現在は鎌倉で唯一)と同じく智岸寺も尼寺であった。江戸初期までは英勝寺内に智岸寺の地蔵堂があったと言われている。このどこも苦地蔵は寛永十三(一六三六)年の英勝寺創建以前に鶴岡八幡宮二十五坊の一つ正覚院に移された後、明治初めの廃仏毀釈で雪ノ下在の個人の蔵品となり、その後、更にその人物が瑞泉寺に寄進したとされる。本文三箇所の「どこも」の内、実際に濁点が附いているのは「どこも/\」だけであるが、脱落と読んで濁音化した。]

法泉寺廢跡 御前が谷の東向の谷をいふ。皆畠地也。爰にもと竹園山法泉寺といふ寺有り。開山本覺禪師、諱素安號了堂。建長寺中寶珠菴の始祖なり。何か廢寺となれり。此寺の鐘は今光明寺にあり。
[やぶちゃん注:北鎌倉からJR横須賀線をトンネルで抜けた辺りに、海蔵寺へ向かう道がガードになっているが、そのガードから現在の線路敷設地をトンネル口まで辿る谷戸を法泉寺谷と言う。亀ヶ谷切通しの西側の尾根を越えた位置にあったものと思われる。「今光明寺にあり」の部分について、「鎌倉攬勝考之六」の光明寺の項に鐘銘が記されてあり、そこには確かに「竹園山法泉寺鐘銘」と題されている。その末尾のクレジットは「元德二年」とあるから、西暦一三三〇年である。この梵鐘は清拙正澄の作で、光明寺に移された後、東京港区麻布の阿弥陀寺に現存する。「本覺禪師、諱素安號了堂」の後の部分は当時の法泉寺住持は「本覺禪師」で、「諱」を「素安」と言い、「了堂」と「號」したという意味である。]

淸涼寺廢跡 法泉寺谷の北、海藏寺外門前の東なり。泉涌寺末なりし由、忍性の開基なり。
[やぶちゃん注:「法泉寺谷の北」とあるが、尾根を隔てた西側というのが正しい。この谷戸は現在、清涼寺ヶ谷と呼ばれている。本寺は現在の廃寺研究に於いては、「新清涼寺」「新清涼寺釈迦堂」と呼ばれる。京都嵯峨の清涼寺にある釈迦如来像を模した本尊を安置したことに由来するとされる。]

勝縁寺廢跡 龜が谷坂を南へ下る左に、勝縁寺谷といふ所あり。今廢跡。此邊は建長寺領の山谷にて、巨福山内の荼毘所なり。
[やぶちゃん注:勝縁寺は亀ヶ谷坂切通しを下る途中、かつて旅館「香風園」があった辺り(現在は廃業してマンションが建っている)に比定されている。呼称は「坂中山正円寺」とも、「坂中観音堂」とも。]

東林寺廢跡 淨光明寺の向なり。開山眞聖國師。古へは律宗なる由。尊氏將軍の文書一通有。觀應三年と有り。今は淨光明寺の什物のうちに入。此地は村民の居地となれり。
[やぶちゃん注:幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年から二年の間に作成されたと伝えられる浄光明寺蔵「浄光明寺敷地絵図」で見ると、確かに浄光明寺の正面、道を隔てた真向いの小さな谷へ向かって(東南方向)、泉ヶ谷の奥へ少し行った場所から細い小路が描かれており、その谷戸の奥に「東林寺」の表記がある。敢えて植田は「此地は村民の居地となれり」と記しているが、「浄光明寺敷地絵図」を見ると鎌倉時代末期に於いても、この浄光明寺と東林寺の間を抜ける通りの東林寺側には、沢山の民家が軒を連ねて描かれている。]

無量寺廢跡 興禪寺の西の谷をいふ。古へ此所に無量寺といふ寺ありし、泉涌寺の末なりしといふ。いま廢せり。【東かがみ】に、無量壽院とあるは是なるべし。文永二年六月三日、故秋田城介景盛、十三年の佛事を、無量壽院にて、朔日より十種供養、一切經供やう。然るに正日を迎へ、多寶塔一基供養、導師若宮別當僧正隆辨なり。伊勢入道行願、武藤少卿入道心達・信濃判官入道行一等數輩、結縁の爲其場に參る。法會中降雨車軸を流し、山上にかまうる聽聞所、山崩して顛倒す諸人希有にして迯去る、男女二人半死半生、同日龜が谷の所山崩して、人馬多く土石にうたれ壓死のありしといふ。此邊までも甘繩のうちなり。應永の禪秀亂に、御所にて無量寺口をば、上杉藏人大夫憲長が固しとあるは、此ところなり。
[やぶちゃん注:現在の鎌倉駅から北西に向かったところに佐助隧道があるが、その手前の崖下に旧岩崎邸跡地があり、扇ヶ谷一丁目この辺り一帯を「無量寺跡」と通称する。二〇〇三年に、この旧岩崎邸跡地から比較的規模の大きい寺院庭園の遺構が発見されたことから、この辺りに比定してよいであろう。この庭園発掘調査により、庭園内の池が一気に埋められていること、埋めた土の中より一三二五年から一三五〇年頃の土器片が大量に出土していること、園内建物遺構の安山岩の礎石に焼けた跡があること等から、庭園の造成年代は永仁元(一二九三)年の大震災以後、幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年前後に火災があり、庭園は人為的に埋められたと推定されている。私には一気に庭園を埋めている点から、同時に廃寺となったと考えても不自然ではないように思われる(庭園発掘調査のデータはゆみ氏の「発掘された鎌倉末期の寺院庭園遺構を見る」を参照させて頂いた)。「興禪寺」は現在は廃寺であるが、江戸末期にはまだあった。興禪寺は現在の寿福寺の南側、三菱銀行重役の荘清次郎の別荘として建てられた瀟洒な洋館のある場所に相当する。「同日龜が谷の所山崩して、人馬多く土石にうたれ壓死のありしといふ」とあるが誤りである。これは同日の記事ではなく、三日の次に記されている、一週間後の「吾妻鏡」の文永二年(一二六五)六月十日の出来事である。]

法住寺廢跡 無量寺谷の南なり、むかし律宗の寺ありしといふ。
[やぶちゃん注:前掲の貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」附録の「鎌倉廃寺地図」で見ると、無量寺の西側の狭隘な尾根を越えたところの佐助ヶ谷の東側の谷戸に「法性寺」(誤植であろう)と指示されている。無量寺谷からは位置的には西南である。]

國淸寺跡 佐介谷のうちに、寺の内といふ所は、國淸寺の舊跡なり。上杉憲顯が、此寺を爰に建立せしと、【大草紙】幷【禪秀記】等にしるせしは誤れり。上すぎ安房守憲定が、伊豆の國淸寺を此ところに移して建立せしなり。伊豆の國淸寺は、古へ律院にて、文覺上人の舊跡を、上杉憲顯律を改て禪とし、應安元年に彼國に建立、開山は佛國師の弟子無凝禪師なり[やぶちゃん注:「無礙禪師」の誤り。読みは「むがい」。]。應安二年七月十三日、開山入寂。憲顯は應安元年九月十九日、足利の拜所にして卒す。六十三歳。法名國淸寺殿桂山道昌と號す。其後勅特賜天長山國淸萬年寺と云云。偖應永の亂に、持氏朝臣は此所の管領憲基が亭に居給ひしゆへ、禪秀方の岩松・澁川等、爰の國淸寺に火を掛たり。御所方の江戸遠江守・今川三河守・畠山伊豆守、宗徒の兵士三十余る 餘人討死しけり。此後國淸寺は廢し、其とき兵火の中より寺僧が取出せし本尊は、後に伊豆の國淸寺へ送り、いまも彼寺に有といふ。
[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」附録の「鎌倉廃寺地図」では、佐助ヶ谷の前の法住寺の北の尾根を越えた位置に指示されてある。伊豆の国清寺は弘安二(一三六二)年、鎌倉公方足利基氏の執事を務めた畠山国清が創建したと言われ、後に慶安元(一三六八)年、関東管領上杉憲顯が亡父憲房の菩提のために中興したと伝えられている。「鎌倉廃寺事典」によれば、この佐介ヶ谷の国清寺も上杉憲顯が亡父憲房の菩提のために建立したものと考えられ、両寺院には何らかの関係があることは推測される、とある。また、現在の伊豆の国清寺は公式には本尊を観音菩薩としながら、釈迦堂と称する仏殿があってそこに釈迦如来像があり、これを本尊とするネット上の記載もある。もしかすると、これが「寺僧が取出せし本尊は、後に伊豆の國淸寺へ送り、いまも彼寺に有といふ」という記載と関連するか。]

蓮華寺跡 佐介谷のうち、いま土人光明寺畠といふ。光明寺もと此所に在し時は、蓮華寺と稱せしと云。開山良忠、建長三年、平經ときが佐介に建立すと。委敷は今も光明寺傳記に見えたり。
[やぶちゃん注:現在の鎌倉市佐助二丁目(トンネルを越えた法務局前の四つ角の西南地域)に比定されている。「光明寺傳記」は「鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝」のことであろうか。そこには「鎌倉廃寺事典」によれば、『然阿良忠が仁治元年(一二四〇)二月、鎌倉に入り、住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた。時の執権経時は良忠を尊崇し、佐介谷に蓮華寺を建立して開山とし、ついで光明寺とその名を改め、前の名蓮華の二字を残して方丈を蓮華院となづけた。寛元元年(一二四三)五月三日、吉日を卜して良忠を導師として供養した』と記されてあり、更に「風土記稿」によれば、この時に現在の材木座の位置に移転したように記しているが、この記載には多くの疑問がある、と記す。推測としては佐介の現在地で悟真寺→蓮花寺→光明寺(その時、方丈を蓮華院とし、現在位置に移転)という過程が浮かび上がるのだが、「鎌倉廃寺事典」の蓮花寺の項では、この「蓮花寺」とは違う同名異寺が存在した可能性をも示唆している。]

聖福寺廢跡 極樂寺より西南のかたに、大いなる谷あり。その蓮邊に北條時賴建立せし由。又熊野社も有けり。【東鑑】に、建長六年四月十八日、聖福寺の鎭守諸神の神殿上棟。神殿上棟。所謂神驗・武内・稻荷・住吉・鹿島・諏訪・伊豆・筥根・三島・富士・夷社。是は絶て關東の長久、別して相州〔時賴。〕の兩賢息〔聖壽丸、福壽丸。〕息災延命の爲也。〔聖壽は時輔、福壽は時宗。〕彼兄弟兩人の名字を取て、聖福寺といふ寺號にせらるといふ。去る十二日事始あり。相模國大庭の御クリの内に、其地を卜する處なり。同五月八日、聖福寺神驗のみやにて舞樂ありといふ。神驗若宮といふは、右の九社を合して名附しなり。
[やぶちゃん注:「聖壽は時輔、福壽は時宗」は誤りではないか。ネット上で見ても、側室の子であった長男時輔の幼名は「聖壽丸」ではなく「寶壽丸」で、正室の生んだ次男時宗のそれは「正壽丸」、「福壽丸」は時宗の実弟(即ち同じ正室の子)時政の幼名である。時頼は正妻の産んだ時宗を正嫡として認め、側室の子である長男時輔は得宗家後継者としては時宗・時政に継ぐ第三位の格で扱われた(時輔九歳の時の建長八(一二五六)年の元服改名では相模三郎時利と、長男でありながら三郎を名乗らされている)。時宗の生誕が建長三(一二五一)年、宗政が建長五(一二五三)年、本寺の建立が建長六年という時間軸を考えても、この二人の「賢息」とは、時宗と時政以外には考えられない。そもそも参考にしたウィキの「北条時輔」によれば、十三歳の正元二(一二六〇)年に再度「時輔」と名を変えたのは、何と『時頼の方針により、正嫡時宗を「たすける」意味での改名とみられる』とさえあるのである。ウィキの記事には事ある毎に、時頼が時宗を第一とし、時頼を時宗の引立て役として扱った事実も記されている。その時頼にして、時輔と時宗を同列扱いにして「息災延命」を祈るはずが、ない、のである。問題は「聖壽丸」である。寺号が聖福寺である以上、「聖壽丸」は時宗の幼名でなくてはなるまい。しかし、「吾妻鏡」康元二(一二五七)年二月二十六日の時宗の元服の条には「正壽」で載る(勿論、彼の名のりは相模太郎時宗である)。「聖壽」という名は「吾妻鏡」に見ない。ところが、確かに建長六年四月十八日の条には「仍以彼兄弟兩人之名字」とある。「正」と「聖」は音に於いても、また意味に於いても通底するものがあり、同字と見なしたものと一応、解釈しておきたい。識者の御教授を乞う。現在の極楽寺六九七番地から八四九番地の字は古くは正福寺といった。現在の江ノ電稲村ヶ崎藤沢寄に線路と交差する道を東北東に入った谷戸で、極楽寺の背後の尾根を越えた西に当たる。]

崇壽寺廢跡 辨が谷のうち、古へは此谷皆崇壽寺境内なる由、土人語れり。此寺は北條高時入道崇鑑が建立にて、金剛山と號す。開山南山和尚、諱士雲、聖人國師の法嗣なり[やぶちゃん注:「聖人」は「聖一」の誤り。]。創建は元亨元年といふ。開山の寂は、建武三年十月七日なり。
[やぶちゃん注:光明寺の東北、補陀洛寺の東の入り組んだ弁ヶ谷の南部分に比定されている。高時によって最初に諸山しょざんの寺格を得た寺とされる(諸山は五山に次ぐ称号)。]

東勝寺廢跡 葛西谷の内、今は寶戒寺の境内となれり。山號は金龍山と號す[やぶちゃん注:山号は「靑龍山」の誤り。]。古へ北條氏の菩提所なり。開山は西勇和尚、莊嚴坊行勇法嗣といふ[やぶちゃん注:誤り。後掲注参照。]。此東勝寺は時宗・貞時が香火院。嚮に時賴が建長寺を剏し、宋朝の道隆を請して開祖として、後又禪興寺を建て廟塔所とし、法號最明寺道崇と稱せり。是に倣て時宗も、弘長三年十一月廿二日圓覺寺を創建し[やぶちゃん注:年月日は誤り。後掲注参照。]、宋朝の祖元を請じて開山とす。其後此東勝寺を建立し廟塔所とし[やぶちゃん注:年月日は誤り。後掲注参照。]、弘安七年四月四日卒す。法光寺道杲と法號す。貞時は應長元年十月廿六日卒す。法號最勝園寺宗演といふ。其ころ冷泉爲相卿鎌倉におはせしかば、手向の和歌一首を贈らる。其はし書に、平貞時朝臣身まかりて後、四十九日すぎて、その跡へいひつかはしける。
 跡したふかたみの日數それたにも、きのふの夢に又うつりぬる
[やぶちゃん注:東勝寺はその発掘調査から幕府防衛のための砦としての軍事的側面が創建当初からあったことが証明されている。
×「開山は西勇和尚、莊嚴坊行勇法嗣といふ」は誤り。開山は退行行勇本人である。恐らく「新編鎌倉志」の誤った記載を引き写した結果と思われる。
×「弘長三年十一月廿二日圓覺寺を創建」は誤り。それもとんでもない誤りで、この「弘長三年十一月廿二日」は北条時頼の卒去の年月日である。明らかな脱文で、植田は、
◯嚮に時賴が建長寺を剏し、宋朝の道隆を請して開祖として、後又禪興寺を建て廟塔所とし、弘長三年十一月廿二日卒す。法號最明寺道崇と稱せり。是に倣て時宗も、弘安元年圓覺寺を創建し、宋朝の祖元を請じて開山とす。
と記したつもりであった。但し、その後が、またも、いけない。
「其後此東勝寺を建立し廟塔所とし」は、誤りである。この寺の開基は時宗ではなく、曽祖父の泰時である。また、時宗が執権となる以前に、この寺は東勝寺と号していたことは諸資料から見て間違いないのである。
「道杲」は「だうかう(どうこう)」と読む。]
【梅松論】にいふ、元弘三年五月十八日より廿二日に至る迄、口々の合戰止ときなく、爰に不思議なりしは、稻村崎の浪打際、石高く道狹く、軍勢む通路難儀の處に、俄に鹽干て、合戰の間干潟にて有し事、稀代なりとぞ申ける。寄手の勢陣を敷て、所々在家に火を放ちしに、何かたの風も皆鎌倉へ吹入て、殘る所なく燒拂ふ。天命に背く道理明らかなり。さしも人の尊敬し、富貴榮華なりし事、おそらく上代にも有間敷みえし相模守高時禪門、葛西谷東勝寺に自害しけるを、悲むべくも餘り有。一族も同敷數百人自殺せしと云云。思ふに治承以來、右幕下覇業を闢かれしより、時政・義時に至て、陪臣國政を執事九代。【正統記】にしるされし如く、陪臣として久敷天下の權を執事、和漢兩朝に先例なし。其主君たりし賴朝すら、纔に二世も過ず。義とき殊なる才德聞へず。いかなる果報にかはらざる家業を始めて幸に天の譴を免る事、百五十餘年にして、全盛の榮耀一時に消滅しけること哀れなり。〔【太平記】に、門葉二百八十三人、主從合て八百七十四人、みな此東勝寺にて自殺すと。〕

永安寺舊跡 瑞泉寺門外右の谷なり。公方氏滿朝臣の開基なり。法號永安寺山全公と稱す。應永五年十一月四日逝す。開山曇芳和尚、諱周應、夢窓國師の法嗣なり。建長寺瑞林菴の始祖、又永享十一年二月十日、持氏朝臣此寺へ籠居し給ひ、嫡男義久に家讓らん事を請ふ。京都義教將軍聞ず。持氏朝臣〔四十二。〕・滿貞〔滿兼の御弟篠川殿。〕自殺す。夫より後、此寺も何れの頃にか廢地となれり。
[やぶちゃん注:「永安寺」は「やうあんじ(ようあんじ)」と読む。紅葉ヶ谷入口の山門手前右手(南側)の谷戸に比定されている。]

德泉寺舊跡 【鎌倉志】には、管領第跡の東なる由をしるしたれども、慥にしれる所なし。是は犬懸の上杉中務少輔朝宗剏建し、朝宗が法號德泉寺道元禪助菴主といふ。應永廿一年八月廿五日卒す。開山東岳和尚、諱文昱、大拙の法嗣なりと云云。此開基の檀主朝宗が子、右衞門佐氏憲入道禪秀謀叛の張本にて、一族皆命を損し、犬懸上杉二代にして斷絶せしゆへ、爰の德泉寺も破却せられしにや。今は舊跡なるべき所みえず。其家の事は犬懸上杉の條を見るべし。
[やぶちゃん注:「文昱」は「ぶんいく」または「ぶんよく」と読む。末尾は「鎌倉攬勝考卷之九」の「上杉中務少輔朝宗舊跡」のことを指している。そちらの私の注も合わせてお読み頂きたい。「鎌倉廃寺事典」附録の「鎌倉廃寺地図」によれば、亀ヶ谷坂を登り切った、巨福呂坂切通しの手前の道の向い(北側)に、東から安国寺・徳泉寺・正法寺と並んでいる。現在の明月院の尾根を隔てた真南で、徳泉寺の頭の所には東管領屋敷とも記されている。]



鎌倉攬勝考卷之七