やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
鎌倉攬勝考卷之十一附錄
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考」は幕末の文政十二(一八二九)年に植田孟縉によって編せられた鎌倉地誌である。全十一巻(本篇九巻と附録二巻)。植田孟縉(宝暦七(一七五八)年~天保十四(一八四四)年)は本名植田十兵衛元紳、八王子千人同心組頭、本書序文には八王子戍兵学校校長ともある。「新編武蔵風土記稿」「新編相模国風土記稿」地誌編纂作業に深く関わった知見を生かして文政六(一八二三)年には多摩郡を中心とする「武蔵名勝図会」を著して昌平黌の林述斎に献上している。全体に「新編鎌倉志」(リンク先は私の電子テクストの「卷之一」)を意識しながら、その補完を常に意図しており、その文章の読み易さからも優れた鎌倉案内記と言える。特に個々のやぐらの絵なども描かれており、今は失われた往古の形状を偲ばせるよすがとなっている。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。底本では各項目の解説部分が一字下げになっているが、ブラウザでの不具合を考え、多くを無視した。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入、キャプションは私が施した。底本では殆んど行空けはないが、読み易さを考え、各項目の前後に空行を設けた。画中の本文に現われない解説も極力判読して、注でテクスト化する。句読点(特に句点)の脱落や誤りと思われる部分がしばしば見られるが、前後から私が補ったり、変更したりしてある。歴史的仮名遣の誤りも散見されるが、これはママとし、注記は附していない。疑義のある方はメールを戴ければ、確認の上、私のタイプ・ミスの場合は御連絡申し上げて訂正させて頂く。判読不明の字は「■」で示した。お分かりになる方は、是非とも御教授を乞うものである。各項目の後に私のオリジナルな注を施した。「卷九」以降(降順)の注で引用してある「吾妻鏡」は国史大系本を底本とした。本テクスト化に際しては、私のある個人的な江ノ島への思い入れから、変則的に「江島總説」を含む最終附録巻から作業に入った。【作業開始:2011年6月12日 作業終了:2011年7月2日 追加・訂正:2012年2月20日】
鎌倉攬勝考卷之十一附錄
[江之島の図]
江島總説
此島の名は、【東鑑】に壞島とあり。中古の物なれど、【小田原北條所領役帳】にも壞島と見え、或は荏又榎の字など書たるもあり。或はまた、畫と繪の二字をかきしは誤りなり。繪島といふは、淡路の名所なり。【續古今】、俊成卿の歌有。
あかしかた繪島をかけて見渡せば、霞の上に沖津しら波
是は淡路の國のゑしまなり。此江の島の總號を稱して金龜山と唱え、本宮と上・下の三所の辨天の社を、與願寺と號す。相模國鎌倉都に屬し、郡の方位は坤の方にて、海中にある孤島なり。世に傳ふるには、嚴島・竹生島と、此所の江の島を、日本三所の辨財天と稱する靈境なりともいへり。又此島、開闢の事を傳へいふに、文武天皇の四年夏四月、役商角、豆州大島え謫流の時に、北海に當りて紫尊靉靆するを見て、此島に渡て天女の化現し給ふを拜するといふ。養老七年三月、越の泰澄此島に來り、弘仁年中弘法大師來て、金窟の内に趺座すること一七日、經文讀誦し、結願の夜、窟中に天女忽然として影向し給ふを拜し、天女の像を作り、窟中に安せしといふ。承和中、慈覺大師來て聖跡を拜せんとて、陀羅尼を讀祈念せしに、八臂具足の眞相を拜し、尊容を雕て安置すといふ。又云、當社の神は、大穴持命と久延彦命とのはからひにて、天大日孁尊をたうたみ、其和魂を祀りて、富主媛命と名附給ふ。此神影向し給ひて、大辨財天女と稱す。此ゆへに、江島大明神と崇め奉るといふ。此説は、當山祕訣の神傳なりといへり。又【東鑑】に、治承六年四月五日、右大將家、腰越の海濱を經て江島に赴せ給ふ。是は高雄の文覺上人、右大將家の御願御祈の爲に、始て此島に大辨財天を勧請し、供養法を行ふの間、此ゆへを以て監臨し給ひ、密に此事を議せらる。是は鎭守府將軍藤原秀衡を調伏の爲なりといふ。今日即鳥居を立られ、其後還御し給ふ。同廿六日、文覺上人、御招に依て營中え參る。去る五日より江島に參籠し、三七日を歴て昨日退出、此間中斷食し、懇祈肝膽をくだきたる由を申すとあり。仍て考ふるに、文覺上人始て勧請し、供養法を修するとあれば、是慥なるものに見ゆるの始なるべし。其古き唱えは傳説のみにて、外にあかれる世より、正敷ものに見え侍らず。又此島に、公卿牧守の遊觀し給ひし事は、右大將家を始とする歟。【大平記】に、北條四郎時政が江島に參籠し、子孫の繁榮を祈り、三七日に當れる夜に、赤き袴に柳うらの表著たる女房の、端嚴美麗なるが、忽然として時政が前に來て告ていふ、汝が前生は箱根の法師なり。六十六部の法華經を書寫し、六十六所の國の、靈地へ奉納したりし善業に仍て、再び此土に生るゝ事を得たり。されば子孫永く日本の主と成て、榮華にほこるぺし。但し擧動の違ふ所あらば、七代を過ぐべからずと云云。歸給ふ其姿を見れば、さしも美麗なる、忽ふしたる長二十丈許の大蛇と成て、海中へ入にけり。其跡を見るに、大なる鱗三落せり。時政所願成就せしと悦び、則彼鱗を取て、旗の紋にぞ押たりける。今の三枚鱗の紋は是なりと云云。【太平記】の作者、何に因て書たるにや。【東鑑】、建暦三年五月和田亂の時、義盛に一味のものゝ所領沒收の内、壞島、平權頭某が沒收の地を合戰の恩賞に賜ふ内に、相模壞ノ島を山城四郎兵衞尉に賜ふとあり。されば壞島とあるは江の島の事にて、古へより所領とせし人あり。小田原北條の頃も、彼家の【所領帳】に載て、百四拾九貫二百文壞島近藤孫太郎と出せり。【東鑑】、建保四年正月十五日、江島明神詑宣あり。大海忽に道路と變ず。仍て參詣のもの、舟船の煩ひなからんと、鎌倉中の緇素老若羣をなす。誠に末代の希有の神變なり。御使として三浦羞衞門尉義村、彼靈地へ參るとあり。上世より潮の干潟となる事は、此時始てなるゆへ、希有の神變と號せり。また今の世は、盛に末の世となるゆへにや、常に干潟となる時には、徒歩して此島に往反せり。安貞二年四月廿二日、賴經將軍江の島明神へ御參詣の事あり、【鎌倉大草紙】に、宝德二年四月廿日の夜、御所成氏朝臣、江島へ御移の事あり。これは扇ヶ谷の太田備中守と、山の内の長尾左衞門尉と相談し一味同意の大名等を催し、御所え押寄ける。御所にては、此由を火急に告來ければ、用意の軍兵も少く、防戰ふこと叶ひがたく、仍て廿日の夜中頃、江の島へ遁れ陣を居給ふ。是は合戰もし難儀に及はゞ、船にて安房・上總へ渡り給ひて、人數を催され、重て合戰せんとの謀なり。然るに太田・長尾寄來りければ、御所方には、小山・千葉・小田・宇都宮事等、七里が濱にて合戰し、太田一長尾敗軍し、糟谷の庄え引退く。此事前條に出たれば玆に略す。斯て上杉安房守入道が舍弟道悦と申禪僧、駿河より江の島の御陣へ參り、上杉父が造意にあらず、偏に家人どもの企にて候得ば、御宥免願ひけるゆへ、成氏朝臣も御納得有て、御宥免の由仰出されければ、諸人悦び、鎌倉無事に屬しけり。江の島の御陣より、京都へも此旨を注進せられ、同年八月鎌倉御所え歸らせ給ふと云云。江の島の御宿陣五ケ月に及べり。何れの坊に宿營せられしや、其傳えを失ひけり。偖【江の島緣起】といふは、延暦寺の皇慶といふ僧が書たる由。又【江の島大草紙】などと名附たるものもあり。是等の説は、【鎌倉志】其餘印本に粗見えたれば、爰に略しぬ。此境地は靈區にして、海岸の眺望も、緯妙の佳境とは稱すれども、古くは遊觀せしものも少きにや。家々の歌集或は人々の紀行などにも此所のよみ歌は多く見えず。
【藻鹽】
江の島やさして潮路に跡たるゝ、神は誓のふるき成べし
長明
堯惠法師が【北國紀行】に、是より三浦にかゑりて、又姑洗の過るほどなるに、常和〔本野州が三男なり。〕と同じく、孤舟に掉さして江の島へ詣で侍り、西の方の渚ちかく下りて、はるかなる岩屋あり。内に兩界の垂跡功德天まします。則こゝを蓬莱洞といえる深祕ありときこゆ。いはほの苔をしきて、手向し侍りし、
散さしと江の島もりやかさすらん、龜のうへなる山櫻哉、
[やぶちゃん注:「姑洗」は「こせん」と読み、陰暦三月の異称。「常和」は東常和(とうのつねかず)東氏第十一代で、「野州」とは彼の父であった東氏第八代当主東下野守常縁(つねより)。この頃、常和は父常縁の門人とも伝えられる三浦道寸支配下の相模国芦名(現在の横須賀市芦名)に居していた。常和は文明十九(一四九七)年の春から夏にかけて、父と共に同門であった堯恵から古今伝授を受けているが、本記載はまさにその折りのことである。]
林羅山之記云 大相國、毎歳赴東州、有放鷹之遊、元和元年冬、隨例赴江戸、路宿于相州藤澤、日已禺中、宿主曰、距此四五十町、於是、余與同行者、以退公之暇、往江島僮僕十數輩島距陸數町、余借一葉之舟而航之、島中小屋數十間、大率漁人也、已而進歩有寺、是辨財天也、行數町餘、到于上、又下行數百歩、擧目大洋也、循岩而歩海岸、以下、西南行數十歩有窟、窟前海水激入、其形如池、湛而漣漪、其側石壁、高數丈、傍壁斜身而入數十歩、有小祠、曰島神矣、窟高仰而見之、殆岌々乎、有鳩數飛來飛去、翔于窟宇岩縫之間、取松明、自祠後直入、脚下水濕、或踏沙石、或履尖石、或踐柔滑之磐石、石坳有水、水煖而淸、徃々在焉、其前有兩岐、聞音役行者、在伊豆島時、來此出入窟中云、余行殆一町許、而窟甚狹、島人告余曰、窟極于此、自是而出、誠是龍神之所棲也、島中有巨大長厚之白骨、餘問何物、漁人答曰、是鯨魚之骨也、如朽木之倒乎、餘還藤澤日已沒矣。
【丙辰紀行】 元和二年詩并歌前同人
藤澤より馬にまたがり、海濱ちかき所にて、漁父の舟をかり、江の島に渡り見れば、あなたの海の岸下に、大いなる岩窟あり。たい松をともして深く入ほどに、百歩餘にて止ぬ。昔龍神の栖ける斷となんいひ傳ふ。この島の辨財天女は、かくれなき事なり。
江島從來神女居。 風鬟霧鬢駕雲輿。
遊人若有登仙意。 水宿應傳柳毅書。
神世いかに今むつましみわたつ海の、八重の鹽路に言傳やらむ
【北條氏康か紀行】に、天文十五年の秋、まづ鎌倉にいたり、鶴か岡の社頭にまうで、夫より谷々山々、古寺古蹟等を遊覽して、歌などよみし事あれど、此島に詣しこと見えず。小田原北條氏は、北條時政の同裔の平族なれば、むかし時政が、子孫の蕃榮を祈り、參籠せし時、神の告を得、また大蛇の鱗三枚を拾ひ家紋とする由。小田原北條もまた、三枚鱗を家紋とすれば、此島に社領を寄附せざるや。されども、古え時政が神驗を得たりといえど、是も數代執權中も、其後孫に至るまで、爰の神に報賽を奉りしこと、【東鑑】に見へざれば、もとより妄誕のことにて有べし。永祿二年の【小田原所領帳】に、此島の社領見えず。今の社領を賜ひしは、慶安以來の事なりといえり。東海道藤驛の南寄の岐路に、江の島道としるしたる傍示あり。夫より江の島迄行程一里八九町。又固瀨と腰越との砂濱より、島の入口まで十一町半許といひ、又同所入口より龍穴の岩窟まで、是も又十四町程といふ。潮の盈たる時は、舟にて渡り、干潟となりし節は、徒歩して往反をなせり。
[やぶちゃん注:この部分に有意な行空けがある。以下、江の島の小項目解説に入るからである。]
凡 例
○鳥居は、社頭の初地に有ものゆへ、先これを始に次第してしるす。但し三所の鳥居を集て、此條に出しぬ。
○下の宮の二王門は、其社に係る門なれば、其條に記す。
○上の宮の樓門は、其社に屬する樓門ゆへ、其條に錄せり。
○岩窟は本宮と稱する事ゆへ、是よりを始とし、夫より旅所に及び、上の宮と下の宮を、次第にあらはす。
○堂塔・末社・寶物、又は燈籠・碑石の類は、三ケ所の社頭毎に屬したるものは、其條に聚てしるす。
○別當の坊は、其社頭毎のすえに附錄す。
江の島三所の社頭
銅鳥居 島の入口にあり。大辨財天の額を掲ぐ。是を總鳥居とも、又は一の鳥居とも唱ふ。
石鳥居 二の鳥居と號す。金龜山といふ額を掲ぐ。
木鳥居 三の鳥居と號す。辨財天の額あり。此二基は坂下にあり。此邊に燈籠數基たてり。
石鳥居 四の鳥居なり。金龜山の額あり。坂の上。
銅鳥居 五の鳥居なり。辨財天の額あり。本宮敢或登る坂下にあり。
木鳥居 六の鳥居なり。上の宮より、本宮へ至る坂下にあり。
石鳥居 七の鳥居なり。御旅所より、龍穴え下る坂口にあり。是は治承大六年四月五日、右大將家、始て建立し給ふ鳥居の舊蹤なり。古えは木柱に造り給ひしが、其後は石柱となせり。本宮辨財天の額を掲ぐ。
龍窟の鳥居 大寶玉の額あり。弘法大師眞蹟といひ傳ふ。
[壬辰春月對景寫之 半山■史堂]
[やぶちゃん注:この干支から、この絵は本書初版刊行後の天保三(一八三二)年壬辰に描かれたものであることが判明する。この判読出来ない号を何方からか御教授頂けると嬉しいのだが、この絵、もしかすると、かの幕末の大阪の人気浮世絵師で風景画を得意とした松川半山の若き日(十五歳)の作なのではあるまいか!? 識者の御判断を是非とも乞うものである。]
本宮岩窟 御旅所の南より岩路に循て、西南の方へ數十歩下り、眺望すれば大洋なり。又岩をつたひ、海岸を十歩許行ば、窟口なり。海水激入す。其邊の石壁、高きこと數十丈許、窟口誠に高く、仰で是を見る。左右も又廣く、窟前は南向にして、潮水湛て江湖のごとく、窟中へ入こと數十歩。土人松明を賣ものあり。燭を持て、窟内へ岩石を踐て入。[やぶちゃん注:「踐て」は「ふみて」(踏みて)と読む。]窟中の内院は、大辨財天を安ず。相傳ふ、弘仁年中、弘法大師此窟中に参籠して、功德天の神像并天照大神・春日・八幡等の諸神の像を刻み、勧請し給ふといふ。漸々入て兩岐にわかる。金剛界・胎藏界の穴なりといふ。兩部の大日、是も弘法大師作といふ。窟中一町許ゆきて、石像あまた有。側り石面より、淸泉流れ落る。是を弘法大師加持水と唱ふ。其邊に蛇形の池といふあり。或は弘法の趺座石といふもあり。又弘法の臥石といふも有て、手にて是を撫るに、滑にして人肌の如し。又護摩の爐・石觀音・石獅子等のもの、弘法將來せし物といふ。是より奥は、窟狭くして入がたし。又日蓮上人も、此窟中にて法華經を讀誦し冥惑を祈念せしともいえり。さて右大將家、此他に鳥居を始て立給ふといふとは、今なを傳ふれども、其いわれは、文覺上人爰の龍穴に、三七日斷食して参籠し、賴朝卿の御願に依て懇祈し、此時始て辨財天を、文覺上人が勧請せし事、慥なるものに見へたれど、此事は普通に傳えざるこそあやしけれ。文覺は、御祈りの爲に苦行をせしゆへ、賴朝卿も御出ありし事なるにぞ。此説は前條も出せり。
【梅花無盡藏】云萬里居士。余則徒歩臨水濱、借舟詣繪島、大辨功德天、風浪渺茫之外、遙望士峰、意氣揚揚、自疑羽化登仙者、手持燭入金・胎之兩洞、見乾・滿之二珠及白蛇形二寸許、則岩腹實園蜿々、如飛動也、洞中凡百歩餘、暗然不能究其奥云云。
【北國紀行】堯惠 蓬莱洞とて、深秘の境なりと稱するも此所の事なりといふ。又【東鑑】に、龍穴とあるは、此岩屋の事にて、鎌倉將軍家のころは、年旱すれば、七所の靈所にて雨を祈らるゝこと、往々見えて、江の島龍穴とあるは、此所のことなり。或説にいふ、古へ金窟と稱し、上古の世には、此所より金銅を掘出したる由、爰にて掘し金銅を、腰越にて洗ひ 沙汰せしを昔より金洗澤と唱ふ。金銅の出し山ゆへ、金龜山と名附る歟。されば龍窟は上世の古坑にて有ける。仍て金窟とも號する事は其謂れありしゆへならん。
魚枚磐 龍穴の前にあり。岩面平坦にして、魚板の如きゆへに名附く。〔或は砧石の字を用ゐるといふ。【和爾雅】又は【和名抄】皆同。〕遊觀するもの、此磐上に座し、魚を釣もあり。又は榮螺の壺燒・鮑の酢具などつくらせて、酒を勸るもあり。海上の眺望、絶景言語に盡しがたし。
[やぶちゃん注:「砧石」は「きぬたいし」と訓じているものと思われる。以下に、私が上記二枚を合成縮小したものを再度、掲げて古えの江ノ島全景を眺望するよすがとしたい。]
[江ノ島全景 壬辰春月對景寫之 半山■史堂]
本宮御旅所 毎年四月上旬初巳より、十月初亥日迄は、此山上の宮に遷座、仍て神體其餘寶器も、皆山上の假宮に移し奉る。
宸翰の額 大辨財天とあり。土御門帝の宸翰なり。縮字して出せり。
外に江島大明神とかける額を、後宇多帝の宸翰にして、建治元年九月廿二日、蒙古入寇の御祈願の爲めに納めらるゝといふ。此額宸翰といふ事、詳かならず。
例祭 毎年四月初巳日、龍窟より辨財天を神輿に遷し奉り、別當岩本院を始とし、社僧神人行装を整へ、音樂を奏し、御旅所え遷座。此節は参詣の緇素群をなせり。十月初亥日、又龍窟へ還幸、行装前後同じ。
[やぶちゃん注:「緇素」の「緇」は黒を、「素」は白で、僧と俗人の衣服から、僧俗の意。]
求聞持堂 本宮の傍にあり。本尊虛空藏を安ず。額を揚ぐ。求聞持堂とあり。日光座主宮一品准后公辨法親王の眞蹟なり。
[やぶちゃん注:「日光座主宮一品准后公辨法親王」は公弁法親王(寛文九(一六六九)年~正徳六(一七一六)年)。後西天皇第六皇子、貴宮秀憲親王。天台僧として毘沙門堂門跡・日光山・東叡山寛永寺貫首・東叡山輪王寺門跡・比叡山延暦寺天台座主を兼任した。狩野常信に師事した能筆家としても知られた。一品准三宮であった。この准三宮は「じゅさんぐう」と読み、准后(じゅごう)とも言う称号で、太皇太后・皇太后・皇后の三宮=三后に准ずるという意で、その原義から皇族の夫人の称号に見えてしまうが、事実は性別とは無関係に皇族・公卿・将軍家・高僧に恩賜された称号。これを受ければ臣下であっても皇族待遇となるという公家の頂点を極めた位でもあった。]
護摩堂 觀音堂 神庫 末社三扉合社〔稻荷・天滿宮・妙音天。〕
鐘樓 〔鐘は寛永の鑄工。銘又略す。〕石燈籠數基有。龜石
別當岩本院 當山を總號して、金色山與願寺と稱し、岩本院は總別當、本宮龍宮を守る。眞言新義、京都仁和寺の末也。客殿に岩本院の額を掲たり。持明院權大納言基時卿の眞蹟なり。
此寺の住僧、淸僧なる時は、山繁昌せざるとて、淸僧なることあれども、妻帯なるもの多し。社領十五石、固瀨村にて賜ふ。
○寶物
刀八毘沙門天銅像 一軀 弘法大師作。金厨子入。
阿彌陀畫像 一幅 右同筆
太田道灌軍配圖 一枚 練物黑塗
北條氏康文書 一通
古河御所政氏朝臣文書一通
【江島緣起】 五卷 詞書作者不知。畫は土佐流なり。
馬玉一顆 九穴具一箇 二俣竹一本 蛇の角二本〔長二寸許。〕
上ノ宮 當山の中程に社頭あり。前立辨財天、慈覺大師作。
[やぶちゃん注:「ノ」はママ。以下、「下ノ宮」等でも同じ。この注は略す。]
拝殿額縮字 釋寂圓書なり。
本社東向
開帳の尊像は、龍池大辨財天、是は慈覺大師、龍池の窟へ參籠られ、感得に仍て、出現し給ひし八臂の像を彫せしものなり。緣起にいふ、上ノ宮は、文徳天皇の仁壽三年、慈覺大師創建なりといふ。
鐘樓 寛永鑄鐘なり。銘は略す。
[やぶちゃん注:この「鐘樓」の項は前文に続いているが、私の判断で改行した。]
樓門 本社正面にあり。樓上に妙音天・愛染明王を安ぜり。此樓門にも辨財天の額を掲ぐ。
未社四所合祠 〔神明・熊野・稻荷・役行者。〕
金剛水井 供名なり。
[やぶちゃん注:この「金剛水井」の項は前文に続いているが、私の判断で改行した。]
別當上ノ坊 新義眞言宗岩本院と同本寺。此坊は、古より淸僧なり。社領十石、固瀨村の内にて賜ふ。
○寶物
役商角自作木像 一軀 〔玉楠という朽木の内より出現せり。今は社内に安ず。〕
三面六臂大黑天 一軀 傳教大師作
妙音辨財天 一軀 慈覺大師作
琵琶 銘音條寺 一面 〔靑蓮院宮より、銘號御授の物なり。〕
下ノ宮 山内社頭の初にあり。緣起に、建永元年、慈悲上人諱は良眞の開基にして、源實朝將軍の建立といふ。本尊辨財天は、慈悲上人の作なり。外に如意輪觀音・慈悲上人の像・宋の慶仁禪師の像等を安ず。
○寶物
三弦 銘難波 憲廟より、杉山檢校拜領の物なるを、當社え奉納せり。
[やぶちゃん注:底本では「三弦銘難波」とあるが、私の判断で一字空けた。]
琵琶 前に同斷
[やぶちゃん注:以下、項目が上下二段になるが、私の判断で一段改行で示す。]
二王門〔下の宮の社地登り口にあり。〕
三層塔〔坂の半にあり。五智如來を安ず。杉山檢校の建立。〕
隨身門
本地堂
觀音堂
護摩堂〔正觀音・不動明王・愛染明王等を安ず。〕
開山堂〔良眞上人の像を安ず〕
[やぶちゃん注:以上の割注は底本では本文同ポイントで割注ではないが、私の判断で訂した。]
經堂〔鎌倉より移といふ。開山の像・杉山檢校の像を按ず。〕
[やぶちゃん注:「檢校」は底本では「撿」であるが、先行する「檢」で訂した。]
鐘樓 寛永十四年の造立
牛頭天王社〔弘法大師作。島一統の鎭神。〕
稻荷社
末社三所合祠 〔熊野・神明・山王。〕
碑石 鐘樓の側にあり。たかさ五尺許、幅二尺七寸、厚サ四寸程、上の緣と兩緣は、別石を以て造る。座右今は見へず。土中より建たり。碑銘の所は、なかばより折たるを、繼合て建けり。土人は屏風石と稱す。傳えいふ、此碑碣は、土御門帝の御字、慈悲上人宋國へ到り、慶仁師に接見して、此碑石を傳えて歸朝すといふ。篆額は、小篆にて大篆を兼て、三行に彫付たり。記文は、慶仁禪師が書するものといへども、
大日本國江島靈迹建寺之記
慶仁禪師が記文の石面、文字剥缺して分明ならず。篆額の左右に、雲龍を彫附たり。記文は楷字なれども、書體更に見えず。僅に五六字は見えけるやうなり。此記文絶て世にしれるものなし。
別當下ノ坊 下の宮を司る。新義眞言宗、本寺同上、妻帶なり。寺は此山の登り口、左の方にあり。社領は、此島一圓十石八斗六升を賜ふ。又島の内の地子、獵師町濱運上并船役等も、皆下の坊の收納する處なり。此由來は、福石の條を見るべし。
小祠
[やぶちゃん注:以下、項目が上下二段になるが、私の判断で一段で示す。]
住吉社 山口にあり。
陀枳尼天山〔元は祠ありしが、今は廢せり。島の北岸の小山を名附。〕
荒神祠 小坂の上にあり。
秋葉祠 東北の山の半腹にあり。
佛寺
圓可寺 眞言宗、同郡手廣村青蓮寺末なり。東の方山の中腹にあり。幽閑の地にて、山中の香華院なりしが、先年大風雨の節、山くづれ、大石に壓れ、堂宇も潰れ、今は.廢寺となれり。
[やぶちゃん注:以下、項目が上下二段になるが、私の判断で一段で示す。]
延命寺 〔上の坊の持、島内墓守念佛堂なり。〕
西方庵 〔下の坊の持、上に同斷。〕
巖石
三天磐 兒が淵より、岩屋へ行小坂の上にあり。岩石三つに裂てあり。梵天・帝釋・四天王の影向石と名附く。
荒神石 一名は蝦蟆石、無熱池の邊にあり。慈悲上人此島に籠りし時、蝦蟆出て障礙をなせしゆへ、加持しければ、此石と化したりといふ。
福石 無熱池の邊にあり。參詣の繫、此石の邊にて錢或は何にても拾ふ時はかならず富家と成といひ傳ふ。砂山檢校、いまだ無官にて在し時、心願をこめ、一七日斷食し、下の宮え参籠し、結願に至り社地を退かんとせし時、石に躓き、目をあり/\と開き、針の有けるを拾ひ得て、又兩眼元の如く無盲となれり。夫より程經て、針療に名を顯し、杉山流と稱する針治一流の名譽を得たり。依て其身檢校にすゝみ、高貴の人の針療を奉りけり。或時將軍家の御聞に達し、御不例なるに仍て、檢校に針治を命ぜられける時、此所にて拾ひし針を以て、御針療奉りければ、御病腦急に御平癒まし/\ける。御氣色殊に御快然、其砌、何にても願ひ有やと台命有し時、 乍恐、身分に於て願ひ奉るべき事の供候はず。先年江の島下の宮え、一七日斷食參籠仕、滿尾の日、社地にて不思議の神助を蒙けるゆへ、下の官え社領御寄附を願ひ奉りしに依て、其砌より當島内十石八斗六升御寄附殺被成下、獵師町等の地子に至るまで、下の坊の領する所となる由。是よりして、此石を名附て福石と唱ふといふ。
淵池
兒か淵 龍宮へ下る盤岩の岸にあり。むかし鶴岡承院の、白菊といえる兒が沈溺せし所にて、又建長寺中の廣德菴に住ける、自休といふ僧が尋來り、是も同敷此淵へ投死せり。此事普く世に傳ふる説ゆへ、玆に略す。
龍池 第四の窟中にあり。
無熱池 下の宮え登り行坂の上、左の方にあり。天竺の無熱池をかたどれりと。島の山上にあれども、水涸れずといふ。
蓮華池 山中にあり、昔一遍上人遊行の時、池の邊へ來て稱名念佛せし事年々ありし由。一遍上人自筆にて、蓮華水とかゝれし額、今に岩本院に有て、寺の什寶となせりといふ。
洞窟
白龍窟 龍窟より東の方、第二・第三・第四とあり。
飛泉窟 第五の窟といふ。中に瀧あり。瀧のもとに池有。白龍此所に栖といふ。
十二の窟 島の廻りにあり。土人いふ、爰は天女の守護神、十二神將の居所なりといふ。
新田の拔穴 〔仁田と書は誤なり。新田四郎忠常なり。忠常は豆州の人にて、今も豆州に新田と稱する有。四郎忠常が出所の地といふ。〕白龍窟の東に二穴あり。土人いふ、新田四郎忠常が、富士の穴より、此穴え拔たりといふは妄談なり。【東鑑】に、建仁三年六月三日、賴家將軍の仰に依て、新田四郎忠常、人穴へ入、二日一夜を経て歸るとあり。玆へ出しといふ事は見えず。
[やぶちゃん注:この割注以下は、底本では改行されているが、私の判断で割注に続けた。]
島崎
聖天島 島の東岸にあり。島の形、聖天の像に似たるゆへ名附といふ。今窟中に、良眞上人の像を安ず。雨降らんとする時は、此島かならず鳴動す。此ゆへに水天供島とも號するといふ。
鵜島 此島開闢の時、鵜十二、來て此島に集るゆへ今に至る迄辨天の使者なりといふ。鵜來島とも唱ふ。
泣面の崎 拔穴より東の出崎をいふ。
人家
茶屋 一の鳥居より、坂路の左右に軒を連て、食料酒饌を商ふ。茶屋凡二十軒許。參詣の旅客、食味に飽んことを欲するもの、必ず玆に憇ふ。
御師 島にては御師とはいはず、裏茶屋と唱ふ。西北の海岸、或は茶屋の邊にも住居す。家數凡三十軒ばかり。他國より講をむすび參詣し、御師の家に宿せり。魚味の饗應をなす。
[やぶちゃん注:「御師」は「おし」と読む。寺社に所属し、参詣者の案内や食事、宿坊への宿泊等の世話を行う者を言った。御札や土産物の調達、出開帳の際の宣伝・興業実務等も含まれており、所謂、後の興行師の性格をも持ったもので、想像以上に裕福であったようである。]
漁家 島の東岸に住す。家數凡七十軒許。すべて人家を集め、茶屋ともに百二十軒餘ありといふ。
産物
[やぶちゃん注:以下、「幅海苔」から「鮑の糟漬」までが一行、「花貝」のみ一行、残りは一行書きであるが、私の海産物趣味から総てを改行して示した。]
幅海苔
海雲
鹿尾菜
鮑の糟漬
花貝〔貝にて種々の模樣を造り、山中にて商ふ。他に貝類數品。〕
辛螺の壺燒
鮑の酢貝
其餘鮮魚多し。
[やぶちゃん注:「幅海苔」は褐藻綱カヤモノリ目カヤモノリ科セイヨウハバノリ属ハバノリPetalonia binghamiae。
「海雲」は褐藻綱ナガマツモ目ナガマツモ科イシモズク Sphaerotrichia divaricataであろう。
「鹿尾菜」は褐藻綱目ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme。
「鮑」は腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属クロアワビ Haliotis discus discus に同定してよいであろう。
「山中にて商ふ」とあるのは、私の好きな現在の江ノ島の貝広物産店を思い出す(サムエル・コッキング苑から下った切戸状の辺りにある土産物店で、店の奥の一画が「世界の貝の博物館」となっている(と言っても、店の一画でしかないのだが)。かつては貝類蒐集の私の御用達の店であった。
「辛螺」は「にし」と読むが、壺焼きという調理法から、前鰓亜綱腹足綱吸腔目アッキガイ科アカニシ Rapana venosa と考えられる。因みに現在は江ノ島では専らサザエの壺焼きが知られるのであるが、「サザエの壺焼き」と称する材料には、実は腹足綱古腹足目サザエ科リュウテン属サザエ亜属サザエ Turbo cornutus ではなく、より安価なこのアカニシが代用されてサザエの殻に供して出ることが知られている。 なお、「えのぽ 江の島・藤沢ポータルサイト―江の島詣の江戸川柳(5)」(当該サイトはサイト・ポリシーでリンクの設置の確認要求を求めているので、リンクは張らずにアドレスを以下に示す。http://www.enopo.jp/saijiki/2342-2009-11-20-13-55-22.html)のコラムに出張千秋氏が、この江ノ島土産に纏わる以下の六句の川柳を掲載なさっている。
弁天の貝とはしゃれたみやげもの
子やす貝女だてらなみやげなり
包から屏風を出して子へ土産
品川で見事な貝はみなにされ
品川でよねまんじゅうをすへらかし
江の島を見て来た娘自慢をし
各々の細かな解釈の妙味については上記ページを参照されたいが、「屏風」は正に花貝製の硯屏のようなミニチュアの屏風で、江ノ島の貝細工の中でも知られたものであるらしい。因みに、当該ページの広重の浮世絵の女の持つ土産を出張氏は鮑の糟漬に同定なさっている。]
六浦總説
六浦、或は六連、又は六面ともかけり。上世は、此地の村落六所ありて、皆海濱にて在しゆへ、總號して六浦、又は六連と唱えし由、今は其唱えを變改し六浦といふは、一村の名にのこり、其他は六浦庄と號するのみ。此地は武藏國久良岐郡に属し、郡の方位は、甫の方なる界隈なり。此所の四至は、東より北は當郡の地にて、西より南迄相州鎌倉郡に接附して、朝夷奈切通のこなた、峠村の堺に、岩面に地藏を彫附たり。是を以て武・相の國界として往來の傍にあり。又夫より南の方は、相州三浦郡と山峰を境とす。南より東迄は滄海なり。地形の廣狹を推考するに、南北は長く、東西は少しく狹し。北より西南へ押過し連山續き、其中央に入海あれば、村落は、山麓または海岸に隨て民戸あり。巽の方なる滄海より、潮水濤を捲て進退すれば、鮮魚多く、仍て土人等漁網を以て、産業とするものすくなからず。東海道程ヶ谷驛より、凡二里半許、鎌倉よりも二里には過ず。邑里は十一村あり。石島もまた三四か所。此他の八木四石と解するもの、其名高く、松に名有もの四五株あれども、其内に名稱する筆捨松は、人の口碑に唱ふ。當所八景の勝地は、延寶のころ、中華の沙門東皐心越といえる禪衲が、本邦へ歸化せしを、水府公の召に應じ、關東へ下向の砌、此他の風景を遊觀し、彼土の西湖八景に似たる勝地なりとて、詩を咏ぜしより、八景の名おこれりともいふ。六浦は古き總號なれども六浦八景といわず、金澤八景と唱ふ。又謠曲に、稱名寺の靑葉の楓の事を作れる趨溌を、金澤とも題すべきを、是はまた六浦と號する謠曲あり。鎌倉に將軍家のおわせし時、靈所七瀨の御拔とて、旱する節は雨を祈らるゝに、水天供の修法を行はせ給ふ六浦も、七所の内なり。文治の初に、右大將家御願にて、大倉の南の山際へ、大御堂并勝長壽院御建立の時大名等え人夫を課せられし其傜夫の中に、上總五郎兵衛尉忠光紛れ在しを縛せられ、和田義盛に預給ひ、其後此所にて新斬戮せられ、六浦の海へ沈むとあるは此所なり。又郷中に、社務道三筋あり。一は程ケ谷新町の方より、能見堂を歴て、夫より稱名寺前を南へ、金澤原を逕り、町谷村を洲崎へ出て、瀨戸明神の前濵を通り、六浦村へ掛り、侍從川を渉り、國境の地を踰て鎌倉郡へ入、朝夷奈切通へ到る。これは此地遊觀するものゝ経過する道なり。又金澤原より東え行て、柴崎村を經て、本目の方へ通ふ道もあり。一は程ケ谷新町より能見堂の西へ出て、釜利谷村え掛り、引越村の海岸を、南の方へ行ば、前にいふ六浦村の前濵なる路に合す。一は侍從川を渉り、大同村・河村の邊より南の方へ山路を踰れば、三浦郡浦賀への街道なり。行程凡五里許。
[やぶちゃん注:「踰て」は「こえて」(越えて)と読む。「東皐心越」(とうこうしんえつ 崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)は、江戸初期、明(一六四四年に清となる)から渡来した禅僧。日本篆刻の祖とされるほか、中国の古琴を日本に伝え、日本琴楽の中興の祖ともされる。また独立とともにとされる。一六七六年、清の圧政から逃れるために杭州西湖の永福寺を出て日本に亡命、一時、清の密偵と疑われて長崎に幽閉されたが、天和三(一六八三)年に徳川光圀の尽力によって釈放、水戸天徳寺に住して、専ら篆刻や古琴を教授した。後に病を得、元禄八(一六九五)年に相州塔ノ沢温泉などで湯治をしたが、その帰途、ここ金沢を訪れ、自身が暮らした西湖の美景「瀟湘八景」に倣って八景を選び、後掲する八首の漢詩を残した。これが金沢八景の由来である(但し、それ以前から「瀟湘八景」に擬えた名数があった。詳しくは「新編鎌倉志卷之八」の「能見堂」の項を参照されたい)。なお、彼は薬石効なく、天徳寺に戻って同年九月に示寂した。]
村邑
大同村 國境の地藏より東寄にて、南の方三浦都と山堺地なり。土人いふ、往古大同年中の石地藏有しゆへ、村名には唱えしが、今は其舊跡も定かならずといふ。
[やぶちゃん注:「大同年中」は西暦八〇六年から八一〇年まで。平城天皇と嵯峨天皇の治世。]
河村 大同村の東にあり。
室の木村 瀨ケ崎より東にて、南寄の者なり。
瀨ケ峰村 大同村より東の海濱に接す。
刀切村 室の木村より東南の海岸の地なり。以上四村は南寄。
六浦村 南の方は海濱なり。往古より六浦と唱ふる本邑なるにや。村内に六浦川あり。
引越村 六浦村より西北に續く。ここゝ南の方は海に接す。
釜利谷村 引越村より西北にあり。南は海岸、西は鎌倉郡と境をなすこと、引越・六浦ともに同じ。
柴崎村 東の境にあり。南の方は海濱なり。
町谷村 柴崎村より南の方、村内往來に民戸多く、店屋あり。
野島村 町谷村より巽にあり。南東滄海ゆへ地の界隈にて、漁者多くすめり。爰より浦賀へ渡る便船を出す。
地名
金澤 西は能見堂、南は町谷村、東は柴崎村迄、金澤と稱す。
金澤村 町谷村の民戸をはなれ、東は柴崎の海岸、北は稱名寺門前迄を名附く。
洲崎 町谷村より瀨戸橋の邊をいふ。
平方 町谷村と野島村の間にて、海岸の地をいふ。
乙舳浦 野島村の東の海濱をいふ。
三艘ケ浦 瀨崎村の海濱をいふ。昔此浦に、唐船三艘着たるゆへ名附く。其時経巻等を載來り、稱名寺へ、安せし由を、古老の傳えけるといふ。今は稱名寺も文庫の書なく、靑磁の陶器二品、是も其時載來りし物とて、彼寺にあり。
雀の浦 室の木村の南の出崎をいふ。天神の小祠あるゆへ、天神が崎とも唱ふ。又浦の江は、此村の東の入江をいふ。
瀨戸 或は瀨戸の浦とも唱ふ。瀨戸神社の邊より、洲崎迄をいふ。
榎戸の湊 刀切村の南の入海をいふ。
油堤 六浦橋の南にある境なり。是も土人の説に、侍從が、照天の假粧の道具を持て、此堤まで尋來り、其行衛知ざるゆへ、悲み、其具を此所に捨置て、身を投しといふ。慥かならず。或説には、むかし此海嶺に鰯多く寄て、海上に山をなせり。依て土人悉く出て是を漁し、爰に竃を築き、魚油を饗製しけること夥し。爰の郷民等利潤を得たり。ゆへに此所え波よけの堤を設しを、油堤と名附といふ。
[やぶちゃん注:「照天」は「てるて」で多様なバリエーションを持つ貴種流離譚小栗判官の説話(植田孟縉のイメージしている話柄は後掲する「古松」の「照天松」に詳しい)で知られるヒロイン照手姫のことである。「侍從」は、その照手姫の乳母の名前であって官役名ではない。但し、次の「山川」の「侍從川」の記載から、孟縉はこの説を信じていないことが分かる。]
山川
一覽亭山 瀨ケ崎村の南にある山峰なり。六浦の庄を眼下に望み、南の方三浦郡浦賀并三崎・房・總の山海を、悉く眺望し盡せり。
六浦川 六浦村の山谷より流出て、徃來の邊にて海へ注ぐ。
侍從川 鎌倉郡峠村の谷合より流出し、六浦徃來へ掛りて、流末は海に入。土俗いふ。照天が乳母、侍從といふ女の入水せし川ゆへ名附と。是は俗説なり。實は此川光傳寺といふの境内を流れて、又社務へ流るゝゆへ、もとは寺中川と號せしを、中古以來は侍從の説おこりて、終に今の名に唱ふといふ。
橋梁
瀨戸橋〔二橋〕 瀨戸より洲崎へ渡る板橋なり、海中へ土石をもて中洲を築き、二橋を其洲より、南岸ともに桁を投出して、柱なく造れり。二橋同じ。
侍従川橋 徃來に架せり。
六浦橋 徃還に架けり。
八木〔靑葉楓・西湖の梅・櫻梅・文殊梅・普賢象梅、是は稱名寺境内にあり。黑梅今は絶たり。蛇混柏、瀨戸の神社に有。外に雀ケ崎の孤松、是を八木といふ。〕
靑葉の楓 稱名寺の堂前にあり。六浦といえる謠曲に、山々の紅葉、今を盛と見えて仮に、是なる楓の木、ひと葉も紅葉せず候ほどに、不審をなし候よ。これは古え、鎌倉の中納言爲相卿と申せし人、紅葉を見んとて此所に來り給ひしが、山々のもみぢいまだ成しに、此木に限り、紅勢色深く、たぐゐなかりしかば、爲相卿取あえず。
いかにして此一もとに時雨けん、山に先たつ庭のもみぢ葉
と、詠じ給ひしより、今に紅葉をばめで候、あゝ面白の御詠歌やな。我數ならぬ身なれども、手向の爲にかくばかり、
ふりはつる此一もとの跡を見て、袖の時雨そ山に先たつ
あゝ有がたの御手向やな。いよ/\此木の両日にてこそ候へ云云。堯惠法師が【北國紀行】に、同じ此、六浦・金澤をみるに、亂山かさなりて島となり、靑嶂そばだちて海をかくす。神靈絶妙の勝地なり。金澤にいたりて稱名寺といえる律の寺あり。むかし爲相卿、「いかにして此ひともとに時雨けん、山に先たつ庭の紅葉」と侍りしより後は、此木玄冬まで侍るよし。聞ゆる楓樹くち殘りて、佛殿の軒に侍り。
先たゝはこの一本も殘らしと、かたみの時雨靑葉にそ降
武州金澤稱名寺、靑葉もみぢといふ有。當座に所望、昌休
そめやらて名にもたちえのすゑ葉か南
おくふかきこゝろやつゆのうすもみち
[やぶちゃん注:謡曲「六浦(むつら)」は為相の褒美の歌に感じた可憐な楓の精が華麗なる舞を舞うという複式夢幻能である。「靑嶂」は「せいしやう」で、緑樹差し交わした嶺のこと。「昌休」は室町時代、天文年間に活躍した連歌師里村昌休。連歌を通して公家社会と密接な関係を持っていた。以上の本文に示された歌群を読み易く示す。
如何にしてこの一もとに時雨けむ山に先立つ庭のもみぢ葉
ふり果つるこの一もとの跡を見て袖の時雨ぞ山に先立つ
先立たばこの一もとも殘らじとかたみの時雨靑葉にぞ降る
染めやらで名にも立ち枝の末葉かな
奥深き心や露の薄もみぢ
「ふり果つる」には「古る」「降る」が掛けられており、「かたみ」には「形見」「潟見」が掛けられているのであろう。]
西湖梅 堂の前、東の方の池邊にあり。八重の白梅なり。【梅花無盡藏】に、西湖梅之詩有、自註云、西湖梅、先代之主、屬商舶、移栽杭州西湖之梅、名之以未開爲遺恨異、
前朝金澤古招提。 遊十年遅雖噬臍。
梅有西湖指枝拜。 未開遺恨翠禽啼。
[やぶちゃん注:この万里集九の「梅花無尽蔵」からの本文と集九の漢詩の引用を試みに私なりに訓読してみよう。
西湖梅の詩有り、自註して云く、西湖梅、先代の主、商舶に屬し、杭州西湖の梅を移栽し、之を以て「未開爲遺恨異(未だ開かざるを遺恨と爲す、異なるかな)」と名づく。
前朝金澤が古招提
遊ぶこと十年遅くして臍を噬むと雖も
梅に西湖有り枝を指さして拜す
未だ開かざるの遺恨翠禽啼く
「招提」は梵語の漢訳語で、本来は「四方」「広大な」の意であったが、後に寺院を意味する語となった。結句は美しい鳥は、いまだ蕾のままで開かないことを遺恨なりとてしきりに啼いている、の意。最後の「異」は如何にも不審。どうもこの文、植田は「新編鎌倉志」から孫引きしたのではないか思わせ、尚且つ、その際に(底本の誤植でないとすれば)誤って書き写した可能性を否定出来ない。何故なら、「新編鎌倉志」卷之八の「稱名寺」の「西湖梅」ではこの詞書が詩の後に小さな字で割注となっており、そこでは、
自註云。西湖梅。先代之主。屬商舶。移栽杭州西湖之梅名之。以未開爲遺恨矣。
(自註に云〔ふ〕、西湖梅は、先代の主、商舶に屬し、杭州西湖の梅を移し栽〔え〕て之を名〔づ〕く。未だ開かざるを以て遺恨と爲す。)
とあって、微妙に文字と句点位置が異なり、訓点に従うと如何にも自然に難なく読み下しが出来るのである(〔 〕は私が補った部分)。なお、私は「梅花無尽蔵」を所持しないが、偶然、グーグル・ブックスで管見出来た市来武雄著「梅花無尽蔵注釈」の当該ページ(一九八~一九九)や「江戸名所図会」(市古夏生他校訂ちくま学芸文庫版)称名寺の状や、ネット上の複数の記述のこの部分の引用を見るに、どうも前書きの部分に異同が認められる(詩は同文)。それらによれば同書第六巻雑文に「貼西湖梅詩序」と題して左の文があるとする(市来武雄著「梅花無尽蔵注釈」の文字列を底本としたが、一部の文字を変更した)。
丙午小春余入相州金澤稱名律寺。西湖梅以未開爲遺恨。富士則本邦之山、而斯梅則支那之名産也。唯見蓓蕾、而雖未見其花、豈非東遊第一之奇觀乎哉。金澤蓋先代好事之庄、属南舶、移杭州西湖之梅花於稱名之庭背、以西湖呼之、余作詩云、
「先代好事之庄」は「江戸名所図会」やその他の引用の多くは「先代好事之主」とするが、私は市木氏の「庄」を採る。以下に「江戸名所図会」の訓読と市木氏の訓読を参照にしながら、書き下す。
丙午小春余相州金澤の稱名律寺に入る。西湖の梅、未だ開かざるを以て遺恨と爲す。富士則ち本邦の山、而して斯の梅は則ち支那の名産なり。唯だ蓓蕾を見て、未だ其の花見ずと雖も、豈に東遊第一の奇觀に非ずや。金澤は蓋し先代好事の庄、南舶に属し、杭州西湖の梅花を稱名の庭背に移し、西湖を以て之を呼ぶ。余詩を作りて云く、
「丙午」は文明十八(一四八六)年、「小春」は十月。「相州」とあるのは武州の誤りである。「蓓蕾」は「はいらい」「ばいらい」と読み、「つぼみ」のこと。「庄」は「荘」領地・別荘のことで、市木氏はここを「先代北条氏の金沢実時が風流詩文を好んだ別荘地で」と現代語訳しておられる。私にはこの「庄」の扱いが「主」よりも正しく納得出来るのである。なお、この西湖梅なるものは非常に特殊な品種であるらしいが、学名までは突き止められなかった。識者の御教授を乞う。また、本種は「八房の梅」とも呼ばれるという記載があるが、恐らく八房の梅は西湖梅の類似品種か亜種と思われ、同一種ではないように見受けられる。因みに、「八房の梅」という名は一輪の中に十数粒の実が宝珠型に結実することに由来し、ここでは未だに咲かないとある花(これは大陸産の梅の一種に見られる所謂、萼が目立って花序が内側に守られた形で、花に見えない花なのではあるまいかと私は推測するのであるが)については、楠山永雄氏の「ぶらり金沢散歩道」の「金沢の八名木」に、何と生き残っていた(現在は枯死)西湖梅の結実した写真(!)とともに「八重咲きでやや黄味を帯びた白色だったらしい」とある(リンクの設置の確認メールを要求されているので、リンクは張らずにアドレスを以下に示す。
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/40/40.htm)]
櫻梅 堂前の東の方、西湖梅の並にあり。
[西湘桜・桜梅・普賢象桜・青葉楓の図]
文殊櫻 堂の前にあり。昔の櫻は枯けるゆへ、今の櫻は後世植繼たるものなり。常の八重櫻なり。
普賢象櫻 堂の前、西の方にあり。八重なり。花の心中より、新緑二葉を出したり。【園太暦】に、延文二年三月十九日に。南庭へ櫻樹を渡し栽。殊絶の美花也。號鎌倉櫻とあり。按に、稱名寺に在櫻樹なるにや。昔鎌倉勝長壽院永福寺の庭前へ、櫻を多く植られ、右大臣家渡御有て櫻花を賞せられ、和歌を詠じ給ふと、往々見えたり。仍て鎌倉櫻と有は是ならん歟。又按るに、延文の頃迄有しにや。鎌倉櫻と稱せしものは、一樣ならぬ珍花なりし由。勝長壽院なとは、將軍家御所より遠からぬゆへ、正慶の兵燹にて、皆燒亡して絶たりといふ。延文の頃の櫻は、古えの※樹にや。
[やぶちゃん注:「※」=〔上〕(くさかんむり)+〔中〕「執」+〔下〕「木」。これは恐らく「しふじゆ」「でふじゆ」と読み、「※」は木が生い茂る形容であろう(「蓻」の字義から類推した)。すなわち、延文の頃まで勝長寿院(跡)に残っていたというのは、正にその実朝が花見をした昔「植えられてその頃までに生い茂っていた」桜で、それこそ正しく本当の鎌倉桜であったのであろうか、の意であろうと思われる。「延文」年間は南北朝の北朝方の元号。西暦一三五六年から一三六〇年。「兵燹」は「へいせん」と読み、「燹」は野火の意。戦火・兵火。「正慶の兵燹」というのは正慶二年が元弘三(一三三三)年で鎌倉幕府の滅亡を指している。細かいことを言うようだが、どうも叙述が前後しておかしい。幕府滅亡で焼燼し尽して完全に「絶た」のなら、「延文の頃迄有」たという伝承は嘘ということになるのではなかろうか?]
黑梅 今は絶たりといふ。以上六株は稱名寺に有しなり。
蛇混柏 瀨戸神社の東脇にあり。枝葉生茂して、恰も龍蛇の屈蟠せしに似たるゆへ名とす。延寶八年八月六日の大風に倒れたり。 雀か浦の孤松 室の木村の東南の出崎にあり。是を八木の内と名附たり。或は君が崎の一ツ松を、八木の内ともいふ。 [やぶちゃん注::「混柏」は現在、一般には「柏槇」と書く。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属で、近在の建長寺にあるものと同種であるとすれば和名カイヅカイブキ(異名カイヅカビャクシン)Juniperus chinensis cv. Pyramidalis
であろう。成長が遅いが高木となり、赤褐色の樹皮が縦に薄く裂けるように長く剥がれる特徴を持つ。これが自己認識を解き放つことを目指す禅宗の教義にマッチし、しばしば禅寺に植えられる。「延宝八年」は西暦一六八〇年、五代将軍綱吉の治世。本執筆時より百五十年程前となる。]
四石〔美女石・姥石・福石・飛石〕
美女石・姥石 此二石は、稱名寺境内にあり。姥石は蓮池の中にあり。美女石は蓮池の北岸にあり。
福石 瀨戸辨天島へ渡る橋より東の方、海岸にあり。
飛石 引越村の金龍院のうしろの山にあり。高一丈餘、廣サ九尺許。傳へいふ、古え三島明神、些石に飛來り給ふゆへ、名附るといふ。
島嶼
瀨戸辨天島 瀨戸神社の前なる海上へ、築き出したる島なり。祠は傳いふ、平政子の方、江州竹生島を、爰に移し築かしめ給ひしといふ。風景よき地なり。
夏島 野島村より巽の方、海中にあり。廣サ三町に一町餘なり。玄冬に至りても此島に雪つもらず。ゆへに夏島と名附く。
烏帽子島 夏島より南の方にて、形の烏帽子に似たるゆへ名附といふ。刀切村の出崎にあり。
猿島 夏島の東南にあり。廣五町四方許。是も形の似たるゆえ名とす。
[やぶちゃん注:これは現在知られている日蓮所縁の由来とは異なる。一般には、建長五(一二五三)年、法華経に開眼した日蓮が房州から鎌倉に渡る途中、暴風に遭って遭難しかけた際、一匹の白猿が船上に現れて、この島へ導いたという伝説から説明されており、島内にはその遺跡もある。KAMEARUKI氏の「猿島」の記載によれば、猿島は古くは十の島がこの周辺にあったことから「十島」「豊島」「としま」と呼称されていたとあり、また、黒船で来航したペリーが海図に勝手に“Perry-Is”と記していたという面白い事実が紹介されている。何れにせよ、法性寺紅葉が谷の焼き討ちの白猿といい、三浦のトゲなし栄螺伝承といい、龍ノ口刑場の奇跡といい、日蓮の法難伝承は如何にもな後付けの感が強い。あっさり形が猿は、いい感じだ。因みに、私は猿島というと、私の大好きな「怪奇大作戦」の、岸田・天本の絶妙怪優の激突にして脚本家上原正三の傑作「二十四年目の復讐」を思い出さずにはいられないのである。]
裸島 是は小島にて、猿島の前にあり。草木もなきゆへ裸しまとは號する由。此四島は、すべて石島なり。
古松
筆捨松 能見堂の前にある松をいふ。是は名にふりし松なり。傳えいふ、むかし巨勢の金岡といえる畫工、此地に來りて、佳景を寫さんとせしかど、其絶景なるを感じ、ねのもとにて筆を投捨たりといふより名附ると、古く土人が傳なり。
【梅花無盡藏】云、萬里が詩の自註に。出金澤七八里許、攀最高頂、則山々水々面々之佳致、昔畫師金岡、絶倒擲筆之處、有名無基、但其名不甚佳、相傳曰濃見堂也、又畫師擲筆之峰、
登々匍匐路攀高。 景集大成忘却勞。
秀水奇山雲不裹。 畫師絶倒擲秋毫。
[やぶちゃん注:「巨勢の金岡」は「こせのかなおか」と読む。生没年未詳の九世紀後半の伝説的な画家。宇多天皇や藤原基経、菅原道真、紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば造園にも才能を発揮し、貞観十(八六八)年から十四(八七二)年にかけては神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの真筆は現存しない。仁和寺御室で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な田の稲が食い荒らされるとか、朝になると壁画の馬の足が汚れていて、そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わるが、その伝承の一つに、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしようという。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと飛んで来て絵の中に再び納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であったというエピソードが今に伝わる。本話は明らかにこの話の変形であって、実話とは信じ難い。「梅花無尽蔵」からの本文と集九の漢詩の引用を「新編鎌倉志」卷之八の「能見堂」の同じ「筆捨松」の訓読を参考にして訓読してみる。
金澤を出でて七八里ばかり、最高頂を攀れば、則ち山々水々面々の佳致なり。昔、畫師の金岡、絶倒して筆を擲つの處、名有りて基ひ無く、但だ其の名、甚だ佳ならず。相ひ傳へて濃見堂と曰ふなり。又、畫師擲筆の峰とも。
登々匍匐して路高を攀づ
景集めて大成勞を忘却す
秀水奇山雲裹まず
畫師絶倒して秋毫を擲つ
「秋毫」は、ここでは毛筆の意の名詞。ここで集九も述べているように、佳景の旧跡に筆捨松というのは如何にも無風流で(先の話柄は自ずと違ってあれは「筆捨松」でよい)、命名のセンスを疑うものである。]
夫婦松 筆捨松の東の方に、二樹相並て茂生する松をいふ。古え此邊の里長を村君大夫と稱したるもの、夫婦して栽し松といふ。
[やぶちゃん注:この「村君大夫」というのは、小栗判官の伝承と関係があると思われる。説教節などのストーリーでは、小栗は豪族横山に毒殺され(後に閻魔大王によって蘇生)、小栗を救おうとした照手姫(横山の娘。但し、実の娘ではなく強奪したものとする説話も多い)も殺されそうになり、海に投げ入れられるが、辛くも溺死することなく、相模の国は「ゆきとせが浦」へ漂着、村君の太夫に助けられて養子となる。――が、またまた今度は太夫の妻が、夫と照手の関係を邪推し、苛め抜いた上に人買いに売られてしまう(焼き殺そうとするヴァージョンが次の「照天松」の由来)。……さすれば、この夫婦善哉の松の「村君大夫」は、どう考えても、この忌わしい妻のモデルということになるのだが。……]
君か崎一ツ松 町谷村の西裏の出崎に、一樹ある古松をいふ。
夜の雨松 釜利谷村手子明神の北なる鹽濱に有松をいふ。此邊を八景の内に入、瀟湘の夜雨に擬するゆへ、爰にある松を取合て、夜の雨松と名附たる由。
照天松 或は照手に作る。此松は瀨戸橋上り北に當りて、西岸の出崎に一樹ある松をいふ。土俗の諺に、むかし照天の姫を、爰にてふすべし所なり。此ゆへに、姥が燒きしの松ともいえる由。是も延寶年中の大風に吹折て、根株のみ存せしゆへ、其後また松を栽たり。扨此照天姫と有は、【鎌倉大草紙】に、照姫といふ遊女とあり。又作り物語に、小栗判官兼氏とかけり。是も實は小乘小次郎助重といふ人なり。【大草紙】に云、應永卅年癸卯春の頃より、常陸國の住人小栗孫五郎平滿重といふもの、謀反を起し、鎌倉の御下知に背きけるゆへ、源持氏朝臣御退治として、結城の城え、八月二日御著、小栗が城を攻らる。小栗も兼てより軍兵を數多城外へ出して防き戰ひけれど鎌倉勢一色左近將監・木戸内匠助先手の大將にて、吉見伊豫守・上杉四郎荒手に替りて、南方より攻入ければ、終に城をば攻落され、小栗は行方不知落行て、後に忍びて三河へ落行。其子小次郎〔助重〕潜に忍びて關東に在けるに、相州權現堂といふ所へ行けるが、其邊の強盗ども集りける處に宿をかりければ、主人のいふ、此浪人は、常州有德の仁にて福者の由、定て随身の寶有べし、打殺して可取由談合す。去ながら、伴ひたる家人ども有。いかゞせんといふ。一人の盗賊のいふは、酒に毒を入て呑せ殺せといふ。尤と同じて、宿々の遊女どもを集め、今樣など謠わせ、躍り戯れ、彼小栗を馳走の體にもてなし、酒をすゝめける。其夜酌に立たる照姫といふ遊女は、此間小栗に逢馴、この有さまを少し知けるにや、自も此酒を不呑して有けるが、小栗を憐み此由をさゝやきけるゆへ、小栗も呑やうにもてなし、更に呑ざりけり。家人どもは是を知らず、何れも醉伏けり。小栗は假初に出たる體にて、林の中に出て見れば、鹿毛なる馬をつなき置たり。此馬は道中にて、大名往來の馬を盗み來りけれども、第一の荒馬にて、人をも喰ふみければ、彼盗ども、仕方なく林の中につなぎ置けり。小栗是を見て潜に立歸り、財寶少々取持て、彼馬に乘、鞭をすゝめて落行けり。小栗は無双の達乘にて、片時の間に藤澤道場へ馳行、上人を賴ければ、時衆二人附て三州へ送らる。彼毒酒をのみし家人并遊女、少々醉伏けるを、河水へ流し沈め、財寶をも尋取、小栗をも尋けれどなかりけり。盗人どもは其夜に分散す。酌に立し遊女は、醉たる體にて伏ければ、是をも水に流しけるが、河下よりはひ上り助りける。其後、永享の頃、小栗三州より來り、彼遊女の照姫を尋出し、種々の寶を與え、盗人どもを尋出して、皆誅伐しけるといふ。此子孫代々三州に居住しけると、【大草紙】にしるせり。仍て按ずるに、【小栗系圖】に、桓武平姓にて、平貞盛が後胤なり。されば常陸大椽國香以來、常陸國に任せし大名にて、小栗の城にすみしより、小栗を氏には稱しける。或説に、小次郎助重の親、孫五郎滿重、畫の名人にて、其後年經て京都へ上りけるが、畫の聞えありて、京都將軍の畫所となり、名を改て小栗宗旦と號し名譽の畫工は、滿重が事なりともいえり。又小次郎助重は子孫代々三河に住し、此裔孫三河にて、御當家に仕え有りける驍士小栗氏なる人々は、小次郎助重が末孫にて有けるともいえり。
[やぶちゃん注:「小栗孫五郎平滿重といふもの、謀反を起し」とあるが、勿論、これは鎌倉公方持氏に対する「謀反」の謂いであって、小栗が決起したのは実は室町幕府の命によって、京の足利将軍に「謀反」を企むとされた持氏を討伐するためであった。なお、特にここでは示さないが先にも述べた通り、小栗判官伝説にはここに語られた比較的リアルな話柄以外に、閻魔大王のはからいによって地獄から立ち返るも、餓鬼阿弥という生きたミイラで箱車に載せられ、遠く熊野の湯の峰で蘇生したり、照手があり得ないぐらい、これでもかこれでもと不幸の酸痛を舐めるといった多種多様な驚天動地のヴァリエーションがある。「與え」はママ。「平貞盛」は以下に記す国香の嫡男で、藤原秀郷とともに平将門を討ち取った人物。「常陸大椽國香」は平国香(たいらのくにか ?~承平五(九三五)年)で平安中期の武将。常陸国筑波山西麓真壁郡東石田を本拠地として坂東に於ける平氏の勢力を拡大、官位は従五位下、常陸大掾で鎮守府将軍であった。「驍士」は「けうし」「げうし」と読み、「驍」は「猛々しい」、荒武者一族の意。この最後を見ると、六浦地誌をすっかり脱線して――そこが私と似て、また面白いのであるが――植田の考証好きの一面の面目躍如たる感が窺える箇所でもある。]
八景
平潟落雁 町谷村の南、平方の西なる鹽燒濱をいふ。
洲崎晴嵐 洲崎の民家連る所をいふ。
内川暮雪 瀨が峰村の前の濱をいふ。
野島夕照 野島村の南へ出たる所、或は瀨戸の浦をもいふ。
乙舳歸帆 刀切村の東に船見ゆるをいふ。
瀨戸秋月 瀨戸の海上をもいふ。
小泉夜雨 釜利谷村の北の鹽濱をいふ。
稱名晩鐘 稱名寺の鐘をいふ。
〇八景詩歌
[やぶちゃん注:以下、漢詩は先に述べた東皐心越の金沢八景の由来となったもの、和歌は京極無生居士(心越と同時代の武士にして歌人、禅僧であった京極高門(たかかど 万治元(一六五八)年~享保六(一七二一)年)のこと。丹後田辺藩主京極高直の三男。この京極の家系はばさら大名で知られた佐々木道誉の子孫で、和歌の名家でもあった。黄檗宗の高僧鉄眼道光らに師事して晩年、出家した。)の作である。それにしてもこの部分、不思議なことに、原本に欠字が存在する。博覧強記の植田にして如何にも不審である。何故、彼はこのままにしておいたのか。七年後の出版であるが「江戸名所図会」には完全なものが載っているし、現在ではこの原詩は多くの郷土史研究家のページに掲載されている。そもそもここにここまで書き記しておいて、不明な字を調べきれずに出版したというのも俄かには信じ難い。ともかくもまず、底本通り、欠字を「○」で示し、それぞれの注で完全なものを示した。私の書き下しは一部不明な箇所について、ちくま学芸文庫版「江戸名所図会」を参考にした。私は――この欠字に何らかの謎が――八王子戍兵学校校長としての植田が「鎌倉攬勝考」に潜ませた軍事上の何らかの暗号が――隠されてでもいるかのような、アブナい眉唾歴史考証家の気分になったことを告白しておく。漢詩と和歌の前後に行空けを施した。各注にウィキ「金沢八景」にあるパブリック・ドメイン画像を用いて、歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の各図を配し、彩りを添えるとともに往古を偲ぶ縁とした。なお、広重の絵の中に書かれている和歌は、正にこの京極高門の歌である。]
平潟落雁
列陣冲冥堪入塞。 萩蘆蕭瑟幾成隊。
飛鳴宿食恁棲遲。 千里傳書誰不愛。
跡とむる眞妙に文字の數そゑて、鹽の干潟に落る雁哉
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「萩」は「荻」である。
平潟落雁
列陣冲冥堪入塞
荻蘆蕭瑟幾成隊
飛鳴宿食恁棲遲
千里傳書誰不愛
平潟落雁
列陣冲冥にして塞に入るに堪ゆ
荻蘆蕭瑟として幾か隊を成す
飛鳴宿食棲遲を恁ふ
千里書を傳へて誰か愛せざる
「棲遲」は世俗を離れて閑適の生活を送ること。結句は蘇武の雁書に基づく感懐であろう。]
洲崎晴嵐
滔々驟浪歛餘暉
滾々狂波遠竹扉
市後日斜人靜悄
行雲流水自依々
賑える洲崎の里の朝けふり、はるゝ嵐にたてる市ひと
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「遠」は「遶」である。
洲崎晴嵐
滔々驟浪歛餘暉
滾々狂波遶竹扉
市後日斜人靜悄
行雲流水自依々
洲崎晴嵐
滔々たる驟浪餘暉を歛ひ
滾々たる狂波竹扉を遶る
市後日斜めにして人靜悄たり
行雲流水自をのづから依依
「餘暉」は夕陽余暉で残照のこと。]
内川暮雪
廣陌長堤竟沒潜。 奇花六出似○○。
渾然玉砌山河乏。 遍覆危峰露些尖。
木蔭なく松にむもれてくるゝともいさしら雪のみなと江の空
[やぶちゃん注:「内川」は「うちかは」と読む。「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「○○」は「鋪絹」、「以」は「似」、「乏」は「色」である。
内川暮雪
廣陌長堤竟沒潜
奇花六出以鋪絹
渾然玉砌山河色
遍覆危峰露些尖
内川暮雪
廣陌たる長堤竟に潜かに没す
奇花六出以て絹を鋪く
渾然たる玉砌山河の色
遍へに危峰を覆ひ些尖を露はす
但し、承句を「似」として「絹を鋪くに似たり」と読んでも意味は通じる。「玉砌」は原義は玉で出来た階段、そこから豪華な宮殿などを言うが、ここは冠雪した山々を階(きざはし)に見立てたものであろう。]
野島夕照
獨羨漁翁是作家。 持竿盪漿日西斜。
網得魚來沽酒飮。 ○蓑高臥任堪誇。
夕日さす野島の浦に干網のめならふ里のあまつ家々
[やぶちゃん注:和歌の「干網」は「干す網」、「めならふ」は「め並ぶ」と読む。「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「○」は「披」である。
野島夕照
獨羨漁翁是作家
持竿盪漿日西斜
網得魚來沽酒飮
披蓑高臥任堪誇
野島夕照
獨羨の漁翁是れ家を作る
竿を持ち漿を盪ひて日西に斜めなり
魚を網し得て來りて酒を沽ひて飮む
蓑を披りて高臥し任に誇るを堪ゆ
「漿」は濃い液状のものを指すから、漁を終えて溜まった魚籠や船底の溜まり水を言うか。これはもう柳宗元の「江雪」の隠者「孤舟蓑笠翁」のインスパイアである。]
乙舳歸帆
朝宗萬○遠連天。 無恙輕帆掛日邊。
欵乃高歌落雲外。 依稀數艇到洲前。
沖津舟ほのかに見しもとる梶のをともの浦にかへる夕なみ
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「○」は「派」である。「欵」は「款」であるが、これは底本の方が正しいので「欵」のままとした。
乙舳歸帆
朝宗萬派遠連天
無恙輕帆掛日邊
欵乃高歌落雲外
依稀數艇到洲前
乙舳歸帆
朝宗萬派遠く天に連なる
恙無く輕帆日邊に掛かる
欵乃高歌雲外に落ち
依稀たる數艇洲前に到る
「欸乃」は「あいない」とも読み、漁師が棹をさして漕ぎながら歌う舟歌のこと。「依稀」は微かに見えるさまを言う。]
瀨戸秋月
淸瀨涓々舟不繫。 風傳虛籟正中秋。
廣寒桂子香飄處。 共看氷輪島際浮。
よるなみの瀨戸の秋月小夜ふけて千里の沖にすめる月影
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」と文字に異同はないが、起句は文字列がおかしい。「淸瀨涓々舟不繫」は「淸瀨涓々不繫舟」が正しい。
瀨戸秋月
淸瀨涓々不繫舟
風傳虛籟正中秋
廣寒桂子香飄處
共看氷輪島際浮
瀨戸秋月
淸瀨涓々として舟を繫がず
風は虛籟を傳ふ正中の秋
廣寒の桂子香の飄ふ處
共に看る氷輪の島際に浮ぶを
「涓々」は水がちょろちょろと流れるさま。「虛籟」は梢を抜けて淋しい音を立てる風の音か。「桂子香」は双子葉植物綱マンサク目カツラ科カツラCercidiphyllum japonicum の香り。秋に黄色に紅葉し、その落葉は甘い香りを放つ。]
小泉夜雨
暮雨淒凉夢亦驚。 甘泉汨々聽分明。
蓬窓○○無相識。 腸斷君山鐡笛聲。
かちまくらとまもる雨も袖かけて、涙ふるえのむかしをぞ思ふ
[やぶちゃん注:和歌の「かちまくら」は「かぢまくら」で「舵枕」か。「ふるえ」は「降る江」と「古江」を掛けるか。「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「汨々」は「洞々」、「○○」は「淹蹇」である。
小泉夜雨
暮雨淒凉夢亦驚
甘泉汨々聽分明
蓬窓淹蹇無相識
腸斷君山鐡笛聲
小泉夜雨
暮雨淒凉として夢に亦驚く
甘泉洞々として聽きて分明たり
蓬窓に淹蹇として相ひ識る無く
腸を斷つ君山鐡笛の聲
「蓬窓」は蓬の生い茂る貧しい家。「淹蹇」は、私は、すっかり激しくびしょ濡れになって、の謂いと解する。結句の「君山鐡笛の聲」は、宋代の詩人衰忠徹の「張秋塘の畫龍に題す」の
何當置我君山湖上之高峰
聽此老翁吹織笛
何か當に我を君山湖上の高峰に置き
此の老翁の鐵笛を吹くを聽くべき
を踏まえるか。これは画龍点睛の故事を本にしたもので、老翁とは画中の龍で、龍が鉄笛を吹くというのは、雨音の雲を穿って石を裂くが如き音を以って龍の鳴き声に比したものと思われる。]
稱名晩鐘
夙昔名藍成覺地。 華鐘晩扣茗鯨音。
幽明聞者咸生悟。 一宇○○祇樹林。
はるけしな山の名におふかね澤の、霧よりもるゝ入あひのこゑ
[やぶちゃん注:「江戸名所図会」所収の書き下しでは、以下の通り、「一宇」は「一片」、「○○」は「迷離」である。
稱名晩鐘
夙昔名藍成覺地
華鐘晩扣若鯨音
幽明聞者成生悟
一片迷離祇樹林
稱名晩鐘
夙昔の名藍成覺の地
華鐘晩に扣くに鯨音のごとし
幽明にして聞く者咸して悟りを生ず
一片の迷離祇樹の林
「咸」は「みな」(皆)と読む。「祇樹」は祇園精舎の樹林。]
産物 鮮魚 海藻
甲香 【徒然草】に、甲香、此浦より出る所のものは、ヘナダリといふとかけり。或は夜鳴唄とも稱す土人はまたバイともいひ、ツブとも唱ふ。其圖大小あること、右に出せしが如し。すべて鼠色にて、内に赤色をふくめり。
[やぶちゃん注:「甲香」とは煉香の調合及び香りを安定させるためにに用いる香料の一種。以下のような腹足類(巻貝)の蓋を原材料とすることから「貝甲」と当て字でも呼ぶ。
吸腔目カニモリガイ上科キバウミニナ科 Pirenella 属ヘナタリ Pirenella nipponica
Pirenella 属カワアイ Pirenella pupiformi
新腹足目テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba
新腹足目イトマキボラ科ナガニシ Fusinus perplexus
腹足綱吸腔目アッキガイ科アカニシ Rapana venosa
酒に漬込んだり、灰で煎じたりして処理を施した後、乾燥させたこれらの蓋を粉末状にしたものを用いる。
「徒然草」の記載(第三十四段)は以下の通り。「ヘナダリ」という呼称の由来は不詳。
甲香は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし出でたる貝の蓋なり。
武藏國金澤といふ浦にありしを、所の者は、「へなだりと申し侍る」とぞ言ひし。
「夜鳴唄」は夜泣きバイと同義で、一般に上記のナガニシ Fusinus perplexus の地方名として現在も広範な地域でネションベンガイ・ヨナキ・ヨナキオン・ヨナギ・コナキガイ・コナキニシ・ヨナキバイといった異名がある。薬餌として、また、貝殻を呪具として、古くから子供の夜泣きや疳の虫・ひきつけに効果があるとされたことに由来する。
「バイ」は現在、狭義には腹足綱吸腔目バイ科に属する巻貝のバイ Babylonia japonica を指すが、実際には近縁種や同形の異種腹足綱吸腔目エゾバイ科 Buccinidae のものもこう呼称する。そもそも「ばい」は「貝」であって広義の貝類、特に腹足類(巻貝)の広範な呼び名として用いられ、また、このエゾバイ科に属する食用巻貝の広範な総称であるところの「ツブ」も相互使用されている現実がある。それがこの記載によって遙か昔から行われていたことが分かるのである。
なお、以下に示す「甲香」の図の貝は、形状から新腹足目テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba と思われる。房総半島以南の西太平洋の水深約十メートル以下の浅海域の細砂泥に棲む腐肉食性巻貝で、殻高は成貝で約十五センチ、殻径約七センチ、殻口は広く長い水管溝に繋がる。大きな個体では殻高二十センチにも達する。螺塔は円錐形八層、各螺層に強く張り出した肩を持ち、七~九個の大小の尖った結節がある。殻は淡黄白色であるが、黄褐色ビロード状の厚い殻皮に覆われており、生息域に泥水質によってはくすんだネズミ色に見える。肉は食用にし、貝殻は貝細工の材料となる。ただ、この本文の「内に赤色をふくめり」という叙述は、棲息域をテングニシとほぼ同じくする腹足綱吸腔目アッキガイ科アカニシ
Rapana venosa の特徴である。但し、こちらはずんぐりした拳形で成貝で殻高十五センチ程度、逆に殻径が大きく約十二センチに達する。成長するに従い、殻口内側が赤くなる。食用。サザエの代用品・偽造品となる。
因みにテングニシという和名は「天狗螺」であるが、子供の玩具として知られたこの種の卵嚢は、その形からグンバイホウズキ(軍配鬼灯)と呼ぶが、その形状は長円形軍配型で、丁度、天狗の持っている団扇にも似ていることからの命名ではなかろうかと思われる。]
[甲香の図]
[やぶちゃん注: 以下の三項は底本では一行三段で示されているものであるが、改行表示した。]
鮮魚籞
鹿尾菜
[やぶちゃん注:これはお馴染みの「ひじき」と読む。褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme 。]
稚海藻 [やぶちゃん注:これはお馴染みの「わかめ」と読む。褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ Undaria pinnatifida 。]
鹽燒 海濵所々に鹽屋あり。釜利谷村・町谷村・野島村・六浦村・刀切村等にて製す。
[やぶちゃん注:先に掲げた広重の「金沢八景」の「洲崎晴嵐」や「内川暮雪」の海岸沿いに見える点々とある小屋がそれである。]
唐猫 往古唐船、三艘が浦へ着岸せし時、船中に乘來り、其時の猫を此地に残し置たるより、種類蕃息し、家々にありといえども、形の異なるものも見へず。されど古くいひ傳え、【梅花無盡藏】にも、此事をかけり。里人に尋るに、本邦の猫は、背を撫る時は、自然と頭より始て、背を高くするものなるに、唐猫の種類は、撫るに隨ひて背を低くするなり。是のみ外に違ふ處なく、皆前足より跡足長く、其飛こと早く、毛色は虎文、または黑白の斑文なるもの多く、尾は唐猫は短きもの多しといふ。
[やぶちゃん注:非常に面白い記載である。現在の哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目食肉(ネコ)目ネコ亜目ネコ科ネコ属ヤマネコ種イエネコ亜種イエネコ
Felis silvestris catus はリビアヤマネコ Felis silvestris lybica を原種として五世紀頃に仏教の伝来とともにインドからシルクロードを経て中国に持ち込まれたとされる。本邦への伝来は仏教の伝来に伴い、多量に船舶で運ばれる経典の鼠による咬害の防止のために、一緒に船に乗せられて来たものが最初と一般には言われるが、恐らくそれ以前に、穀物を鼠害から守る目的で渡来しているものと思われる。ネコマニスト氏の個人ブログ「猫目堂」の「称名寺」によれば、この金沢の猫については、称名寺の建立された文永四(一二六七)年、寺に収蔵する経典を載せた三艘の唐船がやってきたのだが(先に掲げた「三艘ケ浦」の項参照)、その船に鼠害防止のための唐猫が乗っていたという伝説があるとし、その子孫が「金沢の唐猫」となったとある。更に、「物類称呼」巻二に猫の異名の一つとして、「かな」というのが挙がっているとある。以下、「物類称呼」の当該の「猫」を以下に全文引用しておく(底本には岡島昭浩先生の「うわずら文庫」にあるPDF版吉沢義則校訂越谷吾山『諸国方言/物類称呼』を用いたが、句読点を適宜変更・追加した)。
猫 ねこ ○上總の國にて、山ねこと云(これは家に飼ざるねこなり)關西東武ともに、のらねことよぶ。東國にて、ぬすびとねこ、いたりねこともいふ。
夫木集
まくす原下はひありくのら猫のなつけかたきは妹かこゝろか 仲正
この歌人家にやしなはざる猫を詠ぜるなり。又飼猫を東國にて、とらと云。こまといひ又、かなと名づく。
[やぶちゃん字注:以下は底本では全文一字下げ。]
今按に、猫を「とら」とよぶは其形虎ににたる故に「とら」となづくる成べし。【和名】ねこま、下略して「ねこ」といふ。又「こま」とは「ねこま」の上略なり。「かな」といふ事 はむかしむさしの國金澤の文庫に、唐より書籍をとりよせて納めしに、船中の鼠ふせぎにねこを乘て來る、其猫を金澤の唐ねこと稱す。金澤を略して「かな」とぞ云ならはしける。【鎌倉志】に云、金澤文庫の舊跡は稱名寺の境内阿彌陀院のうしろの切通、その前の畠文庫の跡也。北條越後守平顯時このところに文庫を建て和漢の群書を納め、儒書には黑印、佛書には朱印を押と有。又【鎌倉大草紙】に武州金澤の學校は北條九代繁昌のむかし學問ありし舊跡なり、と見へたり。今も藤澤の驛わたりにて猫兒を囉ふに、其人何所猫にてござると問へば、猫のぬし是は金澤猫なり、と答るを常語とす。 花山院御製歌に、
夫木集
敷しまややまとにはあらぬ唐猫を君か爲にと求め出たり
又尾のみじかきを土佐國にては、かぶねこと稱す。關西にては、牛房と呼ふ。東國にては牛房尻といふ。【東鑑】五分尻とあり。
撫でるとその所作が普通の猫と逆という判別法の下りが、如何にも面白いではないか。]
神社
三島大明神 瀨戸神社と稱す。瀨戸橋の西北、街道際に有。社地南向、鳥居入口にあり。額は縮字して出す。
世尊寺守從二位經尹卿の眞蹟なり。
[やぶちゃん注:「世尊寺守從二位經尹卿」は三蹟藤原行成の子孫書家藤原経尹(つねまさ 又は つねただ)。この額について、神奈川県神社庁の「瀬戸神社」のページには『延慶四年(一三一一)神号額』とあって、『延慶初年、北條貞顕の盡力によって、朝廷から正一位の神階を授けられた。額裏に「延慶四年辛亥四月廿六日戊辰書之、沙弥寂尹」と銘文がある。沙弥寂尹は書道の名家世尊寺流の藤原経尹の法名である。額縁は後世の補修である』とある。]
拝殿の額、神道長、正二位卜部季兼卿の眞蹟なり。
[やぶちゃん注:この額について、神奈川県神社庁の「瀬戸神社」のページには『享保三年(一七一八)神号額』とあって、『当社の古記によると、享保三年三月二十二日、神道管領長上、吉田兼敬参詣のことが見える、額はこの時の揮亳と思われる。右下に「神道長正二位ト部
(花押) 」と陰刻があるが、額縁は失われている』とある。]
社領御朱印百石を附せらる。【北條所領帳】に、八拾五貫九百五十八文、社領六浦に伏すとあり。神主千葉氏なり。社傳に、右大將家、豆州三島神社を勧請し給ふといひ、また實朝將軍の御詠歌なりとて、社傳にいひ傳ふる和歌あり。定かならず。
和田つ海の瀨戸の社の神垣に、願ひそ滿る潮のまに/\
【鎌倉年中行事】に、瀨戸三島の臨時祭、四月八日とあり。
寶物 陵王ノ面 拔頭ノ面 各上作といふ。
鐘樓 社の東の方にあり。
[やぶちゃん注:以下の鐘銘は、底本では全体が一字下げ。更にその後の注は全体が一字半下げとなっている。]
瀨戸三島社鐘銘
洪鐘新製、寄器海壖、靈神振德、衆人結緣、韻徹遠近、鎔體黄玄、緇素益大、村里聽鮮、開靜動閣、奏敬悲田、驟化世俗、頻敲夜禪、覺煩惑夢、驚生死眠、昏曉淸響、劫々永傳、大戒菩提薩埵僧普川筆、應安七年、四月十五日、奉鑄之、神主平胤義、檀那沙彌釋阿、並十方四衆等、勸進聖義道、大工大和権守國盛、
普川とあるは、寶戒寺の二世なり。慈源和尚といひ、後に普川國師と號す。實は尊氏將軍の第二子なりといふ。
藥師堂 社の東にあり。蛇混柏、此事は前條に出せり。
道興准后法親王【廻國雜記】に、これより、瀨戸・金澤といえる勝地の侍るを尋行に、瀨戸の沖に、漁舟あまた見へけるを
よるへなき身のたくひかな波あらき、瀨戸のしほあひ渡る舟人
磯やまつたひ、殘の紅葉、見所おほかりければ、
冬されは淑戸の浦はのみなと山、幾しほみちて殘る紅葉は
【梅花無盡藏】に、萬里が詩、瀨戸社〔自註云、六浦廟前有古柏屈蟠。〕
遺廟柏園六浦橋。 朗吟繫馬石支腰。
歸鴉飛破翠屏面。 剰被風聲添晩潮。
[やぶちゃん注:「道興准后法親王」は関白近衛房嗣次男、園城寺聖護院二十四代門跡。大僧正。寛正六(一四六五)年、准三后に補任、それ以降、道興准后と呼ばれ、将軍足利義政の護持僧ともなった。准后は先に述べた通り、「じゅごう」と読み、公家(「后」とあるが女性に限らない)の最高称号の一つ。「梅花無盡藏」の「瀨戸社」の注と詩を先に示した市木氏の注釈を参考に書き下しておく(やはり文字列に異同がある)。そこでは「六浦廟前」の右(本頁では上)に以下のような傍注が見える。
金澤修理大夫崇顯の廟
六浦の廟前に古柏の屈蟠する有り。
遺廟の百園六浦の橋
朗吟して馬を繫ぐ石に腰を支ふ
歸鴉飛び破る翠屏の面
剰へ風聲を被り晩潮を添ふ
「金澤修理大夫崇顯」は幕府滅亡とともに自刃した元執権(第十五代)北条(金沢)貞顕の法名。]
三本杉 蛇混柏の南にあり。古木なり。根株相連て、三本並び生ず。是も延寶の大風に倒れたり。又云、年時は定かならず。放家僧が讎を討たること、謠曲に見えたり。相模國の住人利根信俊といふもの、下野の佳人牧野左衛門尉某を、口論のうへに、信俊が牧野を討しゆへ、其子小次郎某と、又其兄は禪僧にて有けるゆへ、放家僧と身を窶て、竟に弟小次郎に、仇なる信俊を、此三島社の邊にて討し事を作れり。謠曲の説慥ならねど、按に、此放家僧の子孫は、今野州烏山に住し、大林寺と號する修驗者は、其跡なりといひ傳ふ。
[やぶちゃん注:この能は「放下僧」。「大林寺と號する修驗者」については不詳。識者の御教授を乞う。この口吻からは、幕末までは、このような修験者集団が栃木県那須烏山に居たことが知られていたと思われるのだが。]
宇賀山王權現 釜利谷村にあり。此社は大久保主水の先祖なるもの、謂れ有て、日光の御神廟を崇め奉らんが爲に經營せしかど、憚る所多ければ、社號を山王權現と稱號し奉るといふ。
[やぶちゃん注:「大久保主水」は「おおくぼもんと」と読み、大久保藤五郎(?~元和三(一六一七)年)のこと。戦国から江戸にかけての武士で、製菓師としても知られた。三河出身で徳川家康の家臣。戦闘で足を負傷して後、歩行が不自由であったが、家康の命により江戸小石川上水(後の神田上水)を奉行して開通、その功を以て主水の名を授かったという。]
手子明神 釜利谷村の内、瀨戸の北にあり。
天滿天神 室の木村の東の出崎にあり。小祠なり。地名を雀が崎とも、又は天神が崎ともいふ。
筥根權現 室の木村の南の山腹にあり。小社にて、此社木に丈樟の大樹あり。土人いふには、此樹、當所に稱する八木の内なりといふ。いづれか定かならず。
佛寺
[称名寺の図]
稱名寺 金澤山と號す。眞言律、南都西大寺末なり。亀山帝の勅願所といふ。本願は北條越後守平實時にて、其子顯時の建立なす。實時を稱名寺と號し、法名正惠といふ。顯時より金 澤に居住し金澤を家號とす。顯時の法名を惠日と號す。正安三年三月廿八日に卒す。碑石あり。開山祖は審海和尚。寺領御朱印百石を附し給ふ。【小田原北條所領帳】に、稱名寺領、七拾七貫文、金澤に伏すとあり。文明の頃迄は、伽藍にして、三層の寶塔なども有し由。寺門境内南向にて、總門金澤原に向ひ、總門より本堂迄二町餘あり。二王門密迹金剛は、運慶が作といふ。
本堂 南向、本尊彌勒佛、運慶が作。
寺寶
十六羅漢畫像 十六幅 禪月大師筆。
阿囉波左曩五字文殊畫像 一幅 弘法大師筆。
信解品 一卷 弘法大師筆。
瑜伽論 一卷 菅家の筆。荏柄天神にも、此餘卷あり。
請雨經 一卷 右同筆。
愛染金銅像 一軀 龜山帝の御守本尊といひ傳ふ。寺僧いふ、天照大神の作とはいえど、吉備丸の作なりといふ。
三尊彌陀木像 一龕 惠心作、長三寸五分。
不動木像 一軀 弘法大師一刀三禮の作、長二寸五分。
彌勒泥塑像 一軀 右同作。座像長三寸許。
釋迦像 一軀 興正菩薩作。
佛舍利 八祖相承の舍利とて、祖師より代々相傳えて、弘法大師に至て、大和の室生山に納置しを、龜山帝の勅に依て、當寺へ納るとなり。昔は勅封なりしといふ。
牛玉 一顆 鹿玉 一顆
靑磁花瓶 四個 唐物 靑磁香爐 一個 唐物
此の二品は、三艘が浦へ、唐船のせ來りし物を、爰に納。交趾の製なり。
楊貴妃珠簾 一連 此品、初は尾州熱田の寶物にて有しを、龜山帝の勅にて、爰に納るといふ。海水晶の細きを、色絲みて美麗にあみたるものなり。道興法親王の【廻國雜記】に、此在所に稱名寺といえる律院侍り。ことの外なる古跡にて、伽藍なども、さりぬべきさまなる、所々巡禮し侍りけり。三重の塔婆にまふでけるに、老僧に行逢ぬ。此塔の墓など尋ければ、是にこそ、楊貴妃の玉のすだれ、二かけ安置し侍れ。我がはからひにて侍りましかば一見させて侍るべきものをとて、懇切なる芳志に見え侍りき。すぐに下向せんとしけるに、此僧いろ/\と思案して申す樣、しばらく相待侍れ、住持に申こゝろみんとて、僧たち入ぬ。やゝありて、たちかえりていふ樣、此玉簾は、當寺の靈寶として、毎年三月十五日に取出すより外には、堅く制し侍れども、拙老經廻の義、前後其例ありがたく侍れば、衆僧請合し侍りて、一見をゆるし侍るべき由申す。誠に不思議の機緣なり。簾の長さ三尺四寸、廣さ四尺ばかりにて、水精細き、よの常のみすよりもなをほそく、かたちは見へ侍らず。玉妃の其いにしへに、九花帳にかけ侍りけん事など思ひやり侍れば、千古の感緒、今更きもに銘じて、皆人袖をぬらし侍りき。
遠き世のかたみを殘す玉すだれ、思ひもかけぬ袖の露哉
彌陀堂 本堂より西の方にあり。此堂内に、一切經の殘篇の破れたるものあり。ある説に、是は三艘が浦へ、唐船の載來りたるもの歟、又文庫に納しもの歟といえり。詳ならず。
塔頭二宇 大寶院 二王門外東の方にあり。
光明院 右同所、西の方にあり。
阿彌陀院 蓮池より西の方にあり。
藥師堂 總門外の東の方にあり。
一の室 本堂より東の方にあり。
八幡宮 境内鎭神。蓮池の西の方にあり。額を掲ぐ。
龜山帝の宸筆なり。
鐘樓 本堂より東の方にあり。鐘の銘寫。
[やぶちゃん注:以下の二篇の鐘銘は、底本では全体が一字下げ。]
大日本國武州六浦莊稱名寺鐘銘
降伏魔力怨、除結盡無餘、露地擊楗槌、菩薩聞當集、諸欲聞法人、度流生死海、聞此妙響音、盡當雲集此、諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅爲樂、一切衆生、悉有佛性、如來常住、無有變易、一聽鐘聲、當願衆生、斷三界苦、頓證菩提、文永己巳、仲冬七日、奉爲先考先妣、結緣人等、同成正覺鑄之、大檀那、越後守平朝臣實時、
改鑄鐘銘幷序〔入宋沙彌圓種述、宋小比丘、慈洪書。〕
此鐘成乎文永、虧乎正應、寺而不可無鐘矣、因勵微力、幷募士女、更捨赤金、重營靑鑄者也、伏乞先考、超越三有、同德於寶應聲、逍遙十地、並位於光世音、曁乎四生九類、與于一種餘響、銘曰、洪鐘之起、其始渺焉、載于周典、稱于竺篇、質備九乳、形象圓天、聲聲觸處、聞聞入玄、三界五趣、八定四禪、醒長夜夢、驚無明眠、之朝之夕、無愚無賢、凡厥聽者、同見金仙、正安辛丑、仲秋九日、大檀那、入道正五位下行前越後守平朝臣顯時法名慧日、當寺住持沙門審海、行事比丘源阿、大工大和權守物部國光、山城權守同依光。
海岸寺 總門の外、東の方にあり。往昔は尼寺にして、扇ヶ谷の持朝入道の女、此寺を建立し住居とせしが、後に時宗の菴室となり、又其後廢せしゆへ、今は稱名寺の塔頭となれり。道興准后、此地遊覽の時、此菴に立寄給しこと、【廻國雜記】にあり。金澤に、時宗の菴の侍りけるに立よりて、茶を所望しければ、庭に殘菊の黄なるを見てよめる、
誰とこゝにほり移しけん金澤や、黄なる花咲菊の一もと
龍華寺 知足山と號す。洲崎村と町谷村の間にあり。眞言宗、京都仁和寺の末なり。檀林といふ。門に知足山の額を掲ぐ。本堂に龍華寺の扁額を掲ぐ。開山は融辨法印。本尊大日如來、外に彌勒佛を安ず。脇寮は四ケ寺、末寺二十ケ寺あり。寺領御朱印五石を附せらる。當寺傳記の略に、明應年中、金澤に成願寺・光德寺とて、二ケの眞言寺ありけるが、廢亡せしゆへ、融辨法印、二寺を合して此一寺に造立せしといふ。又云、太田左金吾入道道灌、修造せしゆへ、道灌の位牌有。表に春苑道灌菴主靈位、裏に文明十八年丙午七月廿六日とあり。
寺寶
両界曼荼羅 一幅唐畫 涅槃像 一幅唐畫
十三佛繡像 一幅 中將姫の製といふ。
[やぶちゃん注:「中將姫」は藤原不比等の孫右大臣藤原豊成の娘(天平十九(七四七)年~宝亀六(七七五)年)とされる、謡曲「当麻」「雲雀山」、浄瑠璃・歌舞伎で知られる継子いじめの中将姫伝説の主人公。史書には登場せず、実存は疑われる。幼くして母を失い、継母に嫌われて雲雀山に捨てられ、後に父と再会、十三歳で中将の内侍、十六で妃の勅を受けたが、自身の願いで当麻寺に入り、十七で中将法如として仏門に入った。後、蓮茎から製した五色の蓮糸を繰って一夜にして一丈五尺(約四メートル)四方の曼荼羅を織り上げ、二十九の春に生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が来迎、生きながらにして西方浄土へと旅立ったとされる。]
八祖畫像 一幅 弘法大師の筆、又は願行上人の筆ともいふ。
不動畫像 一幅 弘法大師筆なり。裏書に、太田道灌寄進とあり。寺傳に、東照宮御覽ありて修理を命じ給ふ。其十三佛の繡像も、修復を命じ給ふなり。
愛染明王木像 一軀 弘法大師、五指量の作といふ。
[やぶちゃん注:「五指量」は二寸五分で約七・五七センチメートル。]
鳳凰頭 二箇 龍頭 十箇 二品ともに運慶作。
此二種は、木造金箔を貼たり。灌頂の用品なりといふ。
鈴 一个 弘法大師所持の物といふ。
[やぶちゃん注:「个」は「か」と読み、助数詞。「箇」「個」に同じ。]
鐘樓 本堂の前右の方にあり。
[やぶちゃん注:以下、銘は底本では全体が一字下げ。]
大日本國、武州六浦莊金澤郷、知足山龍華寺、菩提勝慧者、乃至盡生死、恒作衆生利、而不趣涅槃、般若及方便智度悉加持、護法及諸有、一切皆淸淨、欲等調世間令得淨除故、有頂及惡趣、調伏盡諸有、如蓮體本染不有垢所染、諸欲性亦然、不染利群生、大慾得淸淨、大安樂富饒、三界得自在、能作堅固利、天文十二年辛丑、五月五日、當寺住持法印權大僧都善融、檀那、古尾谷中務少輔平重長法名道傳
慶長五年、奥の上杉景勝退治として、神祖君、京都より御下向の砌、藤津驛より鎌倉御遊覽、雪の下の坊に御止宿有て、當所御遊觀、爰の龍華寺を御旅館とせらる。翌日神奈川より、江戸え入御といふ。是は此度開山不知、本尊不動は、聖德太子作といふ。愛染明王一軀安ず。弘法大師作。腹門に愛染の小像體作り籠たるといふ。
太寧寺 瀨ケ峰村にあり。海藏山と號す。蒲冠者範賴の菩提所といふ。禪宗の開山は千光國師。今は建長寺の末なり。本尊藥師并十二神、是をへそ藥師と唱ふ。勸進帳の略に云、往古永仁年、此村に貧女あり。父母の忌日に當れども、貧くして俄に供養すべきやうもなく、絲を繰りへそとなし、是を賣て、父母の忌日の佛餉に供えんと思ひけれど、たやすく買ふ人も なし。或時童子一人來り、是を買ふ。其あたひをもて、父母忌日の供養を勸む。不思議の思ひをなしけるに、此藥師如來の前に、其へそ多くあり、仍て始てしりぬ。如來が、貧女篤孝の志しを感じ給ひて、然る事をなし給ふやとて、是より此かた、へそ藥師と唱えけると云云。
寺寶
蒲御曹子範賴畫像 一幅
同自筆の和歌 一幅
又範賴の石塔も、堂の後にあり。堂内に位牌有。前條にいふ藥王寺にあると同數、表に太寧寺道悟とあり。裏に天文九年庚子六月十三日とあり。裏にある年月の事を、寺僧のいふに、此寺先年衰廢せし時、町谷村の藥王寺より兼持にせし頃、藥王寺の住僧が、其時の年月日を、裏に書付たりといふ。
圓通寺 引越村にあり。日輪山と號す。法相宗、南都の法隆寺末なり。開山法印法惠。寂不知。本尊大日如來。寺領三十二石、久世大和守源廣之寄附せしといふ。
東照宮の御宮、噴門山上に祀り奉る。是は當所の御代官、柳木次郎右衛門といふ人、勸請し奉れる由。
金龍院 引越村の内、往來の海濱にあり。昇天山と號す。或は飛石山ともいえり。建長寺末なり。本尊虛空藏を安ず。開山は方崕元圭といふ。寺後の山上にある飛石の事は、前條にしるせり。此石は四石の内にて、殊に名高し。
上行寺 六浦村の北側にあり。六浦山と名附く。日蓮宗、下總國中山法華寺末なり。堂に釋迦・多寶・法華の題目を安ず。開山日祐、開基は妙法といふ法師なり。其石塔地内にあり。開山日祐は、中山法華經寺の第三祖なり。
寺寶
日蓮上人消息 一幅 大曼荼羅 一幅 開山日祐筆
位牌 一枚 日祐筆の題目を彫附、其下に日祐一代引導の靈、法名俗名を彫たり。應安三年とあり。
嶺松寺 六浦村にあり。上行寺の西南、民家の後にあり。金剛山と號す。建長寺の龍峰菴の末なり。本尊救世音、開山月窻、諱元曉、倹約翁の法嗣、貞治元年十月二日寂。此寺、もとは千葉胤義が寺なりといふ。按ずるに、瀨戸明神の神司は、古えより代々千葉氏にて、應安七年の鐘の銘に、神主平胤義とあれば、往古は此寺の檀越にてありしならん。
光傳寺 河村の北向にあり。常見山と號す。浄土宗、鎌倉光明寺末なり。開山得蓮社忍譽靈傳といふ。本尊阿彌陀如來、作しれず。
専光寺 光傳寺の東の方に有。日光山と號す、浄土余、町谷村の天然寺の末なり。本尊戟觀音は春日の作。照天が守本尊なり。ふすべられし時、身代に立しといへり。三十三年に開帳せり。
日光權現 境内の鎭守とす。
[能見堂の図]
能見堂 稱名寺より西北にて、山上にあり。此所は釜利谷村の内なり。里諺にいふ、むかし巨勢の金岡といふ畫の妙手なる人、玆の風景を寫さんとして來りしが、其多景なるを見て、のつけにそりたるゆへに、のつけん堂ともいえるとぞ。又は風景の能見ゆるとの名なりともいふ。昔より堂ありしが、文明の頃、萬里が遊觀せし砌は、堂宇も廢しけるにや。【梅花無盡藏】に云、
[やぶちゃん注:以下、漢詩まで底本では全体が一字下げ。]
昔畫師金岡、絶倒轍輩之虛、有名無基、但其名不甚佳、相傳曰、濃見堂也云云、題畫師擲筆之峰。
登々匍訇路攀高。 景集大成忘却勞。
秀水奇山雲不裹。 畫師絶倒擲秋毫。
又里老の話るに、昔此堂は閻魔堂守り。是を能見堂と稱せり。其時に、此地へ遊覽せし書生が、能見堂に憇ひ、堂守の老僧にいひけるは、此所より景色を望み盡せるとて、能見堂と名附しは、文盲なるものゝ授たる堂の名なりと笑ひしかば、老僧が答えしは、此堂號は、眺望のよきゆへ名附たるにあらず。本尊閻王の化度する因緣を有をもて能見と稱すると、佛經に見えたり。貴客文字に通じ給ふとも、佛道の奥義を知たまはぬゆへなりと笑ひしかば、書生また答ふる言葉なかりしとぞ、土人が傳説にはいひけれども、其慥なる事はしらず。久世大和守康之の、此邊を領し給ふ時、堂宇の廢せしを再建せられ、本尊に地藏尊を安じ、擲筆山地藏院と號す。閻魔は、もと地藏の化現なるゆへ、再建には本尊を地藏に改けるにやあらん。堂に横額を掲ぐ。明朝の心越禪師が小篆に、能見堂と書せり。
[やぶちゃん注:この漢文部分は同文が「古松」「筆捨松」に既出、そこで書き下しも示してある。但し、ここでは「匍匐」が「匍訇」となっている。一応、「匍訇」のままで示しておいたが、この「訇」(音・コウ)は大きな音の形容で意味が通じないから、これは明らかに「匐」の誤字か誤植である。
私はこの書生と僧の対話が好きである。ここで僧は「能見」の意を説いて、書生の民を小馬鹿にした笑いを、その不覚なる無知に於いて鏡返しで笑っているわけである。]
古蹟
御所ケ谷 稱名寺中、西の方にある阿彌陀佛のうしろの文庫跡より、切通え出る畠を、土人等、龜山帝の皇居の蹟ゆへ、御所ケ谷と唱ふる由を傳ふれども、龜山帝關東へ御幸のこと は、絶てなき事なり。仍て倩舊記を考ふるに、伏見院踐祚の後は、太上皇二人おはせり。後深草を本院とも一院とも稱し、龜山を中ノ院と唱え、後宇多を新院と申す。後深草と龜山兩皇御兄弟にて、御繼を御争ひかましく、關東にても、世を疑敷思ひけるにや、兩皇〔後深草 亀山〕の御流を替る/\すえ奉らんと定めしは、執權時宗が相はからひけるとなん斯兩統相爭ひ給ひ、終には御子孫に至り、南・北兩朝と分れし基なり。扨伏見帝の正應三年三月十日、天いまだ明ざるに、甲斐源氏の末孫〔【保暦間記】には、小笠原が一族とあり。〕淺原八郎爲賴といふもの、禁闕を浸すことあり。【増鏡】には、三月九日、右衛門陣より、武士三四人、馬上にて九重の中へ馳入とあり。斯る程に、警衞の武士四五千騎馳参りければ、叶はじとや思ひけん、賊は夜の御殿の御茵の上にて自害す。其刀は、三條家に傳はる鯰尾といふ刀にて、淺原が自殺せしなどいふことも出來て、中院〔龜山〕もしろし召たるなどいふ聞えありて、心うくいみじさやうにいひあつかふ。中宮の御兄、權大夫公衡、一院の御前に、て、此度の事は、禪林寺殿〔龜山〕御心合せられしなるべし。なだらかにもおはしまきさば、まさり事や出來ん。彼承久の例も引出して申給へば、一院は、かくはあらむ。實ならぬことを、人はいひなすものなり。故院のなき御影にも、おぼさむ事こそいみじけれと、涙ぐみて宣ふを、心よはくおはします哉とて、なほ内よりの仰など、嚴敷事ども聞ゆれば、中院〔龜山〕・新院〔後宇多〕も、いと驚き給ひ、いかゞはせんとて、しろしめさぬ由の御消息など東へ遣されて後こそ、事靜りにける。扨長月の初つかた、中院は御くしおろさせ給ふ。最より中院を亀山法皇とこそ稱し奉る。〔始は禪林寺殿と稱し、其後南禪寺は、此の中院の皇居なり。〕按ずるに、此ころ中院〔龜山〕を、鎌倉へ移し申べしなどいふ風説もありしにや、此御儲のために、御所造られんといひし事もありし欺。夫ゆへ後世に至りては、關東へ御幸ありしと思ふは、實にそら事なり。
[やぶちゃん注:本文にある通り、亀山天皇の事蹟に関東下向の事実は全くない。現在知られる情報の中にも、ここに記されるような亀山天皇の鎌倉強制下向案のようなものがあったという事実はないが、しかし、大覚寺統の安定強化への肩入れや、幕府申次役西園寺実兼との不仲、霜月騒動で失脚した安達泰盛と昵懇であったことなどによって、悉く幕府との関係を悪化させていた彼を、植田が推測するように、監視するためにこうした企略がなかったとは言えないであろう。「倩」は「倩々」で「つらつら」と読む。「儲」は「まうけ」で、とりあえず行宮とする控えの場所、仮御所の意であろう。]
金澤文庫舊跡 稱名寺境内西の方、阿彌陀院のうしろの畠地をいふ。往昔金澤に學校ありしや。【大草紙】に、北條九代繁栄のむかし、學校有し舊跡といふ。されば其後、北條越後守實時より、其子顯時、其子貞時が代に至り、正和五年の蛸、文庫を造立し、和漢の書籍を納め、書物の首卷毎に、金澤文庫の四字を竪に書たる印を押たり。或はいふ、儒書には黑印、佛書には朱印を押たるといえども、今希に世に有ものは、皆黑印にてぞ有ける。又黑印も、大小のたがひも有けるといふ。足利の世となり、上杉安房守憲實執事の時、足利の學校を再興して、宋板の書籍を納めたるもの、彼所に今なを顯然として存せり。【大草紙】に、武州金澤の學校は、北條九代繁昌の昔、學問ありし舊跡なり。足利學校は、承和六年、小野篁國司たりし時建立なり。今度安房守憲實、足利は公方御苗字の地なれば、學領を寄附し、書籍を納め、學徒を憐愍す。されば此頃、諸國大いに亂れ、學道も絶たりしが、金澤の學校をも再興して、日本一所の學校となれりと云云。公方成氏朝臣の時なり。其後寶徳のころより、關東は軍國となり、成氏朝臣も終に鎌倉を去て、下總國古河の地へ移り給ひ、また兩上杉も、河越・上州白井等へ走りければ、此時より鎌倉は蒼茫の地となりしゆへ、爰の學校も隨て頽廢し、書籍も悉く散逸しける事なるべし。今稱名寺にも、むかし文庫の書籍の内、一冊も見えず。一切經の殘册の破たるもの、彌勒堂に僅にあれども、定かならず。 金澤文庫の印如圖
如斯、毎卷の系行の傍の下に、黑印を押たり。其印の大いさ並に文字圖する如し。
[やぶちゃん注:「毎卷の始の系行の傍の下」とは、現在の称名寺蔵金沢文庫保管蔵書の画像を見ると、巻頭の本文ページの次ページに移る中央罫の右側下(見開き巻頭ページ内)にこれが押されているということのようである。ページの本文罫の1/3強から1/2弱程度の高さでかなり大きい。これらは幕府崩壊後、室町時代に称名寺が蔵書点検を行った際に押された蔵書印とも言われるが、日本最古の蔵書印であることに変わりはない。以上のキャプションは、底本では有意にポイント落ち。]
北條顯時、其子貞時、書を納る毎卷に奥書を加え、年月日を記し、姓名花押すゑたり。其後正慶二年五月、北條氏滅亡の砌、貞顯も高時が館にて自殺せり。夫より足利家の世となり。公方持氏朝臣の時、執事管領と稱する上杉安房守憲實が家臣、長尾左衞門尉景仲をして、足利學校再興せし砌、爰の文庫をも再修し、學領など附したりといふこと、前條にも出せり。宋板の書籍を寄附せし事、若干といえり。最も卷末の奥書に、年月日をしるし、姓名の下に寄進と書て、又其下に花押をすえけり。又成氏朝臣の時、故管領憲實が季子を管領とし、右京亮憲忠といえり。父が遺例に隨ひ、文庫へ宋板の書籍を寄進せしかど、無程寶德三年に、御所の爲に討る。此後は鎌倉に君臣の爭鬪起り、終に君臣ともに、鎌倉を去て他邦に移れり。上杉の家臣等、憲忠が弟なる房顯を立て管領とせしかど、是も無程、武州五十子の陣中にて早世しぬ。仍て上杉顯定がはからひにて、故憲實の孫を養ひ、修理亮憲房と名乘らせ、山内上杉の家を繼せけり。然るに顯定が家臣長尾越後守爲景、逆心を起し、越後にて猛意を奮ひけるゆへ、是を誅伐せんとて、越後に赴き戰ひけるが、逆徒勢ひ温く、終に家臣爲景が爲に、顯定討れければ、上杉の人々力を落せり。此顯定は、若年の時より、越後を出て関東に來り、上杉を助て威を振ひ、東國に住すること四十年餘に及べり。されば是よりいよ/\、上砂家の衰となれり。山内の憲房は、武州鉢形、或は上州白井に蟠り、扇ケ谷の上砂は、江戸と川起に蟄せり。斯る折節山内の憲房は、祖父憲實が舊蹤を慕ひて、金澤の文庫へ、永正十二年の春、書籍を憲房が寄進せしとあるは、戰國の世にて、實に奇特なる事にぞ有ける。是を寄進の終にてありなん。學領の事は偖置。寺領を寄附する人もなければ、是より天文の初に至て、堂塔も破れ、文庫も破潰して、書籍もいつか散亂せし事なるべし。
[やぶちゃん注:「武州五十子の陣」の「五十子の陣」は「いかつこのじん」と読み、室町時代中期に武蔵国児玉郡五十子(現・埼玉県本庄市大字東五十子及び大字西五十子の一部)にあった平城のこと。上杉房顕が、古河公方足利成氏との対決の際、当地に陣を構えた。分明九(一四七七)年に逆臣長尾景春によって陥落、これによって山内(やまのうち)上杉家は衰退、戦国時代の泥沼が展開していくこととなった。ここでは多くの人物が語られているが、最後の金沢文庫への奇特な寄進者として語られる上杉憲房(応仁元(一四六七)年~大永五(一五二五)年)についてだけ述べておくと、彼はここに示されるように上杉憲実の子で僧籍にあった人物の子で、憲実の孫に当たる。更に彼は、やはりここで名が出るところの又従兄弟であった関東管領上杉顕定の養嗣子として山内上杉家当主となった。後に、養父顕定と一緒に、反逆した家臣越後守護代長尾為景を討つために出陣するが、顕定は戦死して撤退、関東管領職は顕定の遺言によって足利成氏次男上杉顕実に継がれた。憲房はこれとの権力闘争に勝ち、永正九(一五一二)年に山内上杉家家督を継承、永正十二(一五一五)年には顕実の死を以て関東管領職をも継いでいる。本文の記載によれば、まさにその管領就任時に行ったのがここに記された称名寺(金澤文庫自身は既に失われていたものと思われる)への書籍の寄進であった。その後、先の家臣長尾景春による反乱、扇谷(おおぎがやつ)上杉家上杉朝興や、北条氏綱(相模)・武田信虎(甲斐)などとの複雑で長期に亙る抗争の果て、病に倒れて亡くなっている(以上、上杉房顕以下の記載は複数のウィキの記述等を参照にした)。]
[やぶちゃん注:以下の「玉帳」以下は、底本ではベタで文章のように続いているが、これは明らかな漢詩であるから、改行して読点を排除して示した。]
觀金澤藏書而作 義堂 鎌倉五山之僧也
玉帳修文講武餘
遣人來覓舊藏書
牙籤映日窺蝌蚪
縹帙乘晴走蠧魚
圯上一編者不足
鄴候三萬欲何如
照心古教君家有
收在胸中壓五車
能仁寺舊跡 六浦村上行寺の東なり。今は村民住居の地となれり。往昔執事山の内の上杉安房守憲方入道道合の剏建なり。古記云、
[やぶちゃん注:以下、古記部分は底本では全体が一字下げ。]
上杉房州太守、築武州金澤能仁寺、創七字伽藍、諸方崕和尚、爲開山第一世、號山曰福壽、號寺曰能仁、太守有旨、陞能仁位列諸山者也、永德三年、小春日、東暉曇昕謹記、又本尊建立、永德二年三月七日始之、同年四月廿一日終、住持東暉曇昕、奉行〔德慧德澤〕檀那巨喜、上總州法眼朝榮作之、大檀那房州道合、德珠書之
とあり。方崕諱元圭、儉約翁の法嗣なり。永德三年九月十六日寂す。
古え此寺の梁牌の銘、今建長寺龍峰菴にあり。其銘左に出す。
[やぶちゃん注:以下、銘部分は底本では全体が一字下げ。]
能仁寺佛殿梁牌銘
檀那前房州太守、菩薩戒弟子道合、敬白、〔左〕伏冀佛運帝運、歴永劫而綿延、寺門檀門、經萬年以昌盛、昔永德二年、壬戌、四月日、開山方崖元圭、謹題、〔右〕
[やぶちゃん注:「剏建」は「さうけん」と読み、「剏」は「始める」で創建の意。「方崕和尚」方崕(崖)元圭は鎌倉から南北朝期に生きた臨済僧。約翁徳倹(やくおうとっけん)から法を嗣いだ。鎌倉建長寺住持。この牌銘中の「左」「右」という割注は中央に「能仁寺佛殿梁牌銘」の文字列があり、その右側に「伏冀佛運帝運 歴永劫而綿延 寺門檀門 經萬年以昌盛 昔永德二年 壬戌 四月日 開山方崖元圭 謹題」、その左側には「檀那前房州太守 菩薩戒弟子道合 敬白」とあることを示したものであろう。なお、底本では「壬戌」は「壬戊」とあるが、永徳二(一三八二)年は「みずのえいぬ」であるから訂した。]
吉田兼好舊跡 六浦庄金澤に、しばらく住たる由見へたれども、今其舊地更にしれるものなし。されども、此所にてよみたる和歌、彼家の集に見えたり。
武藏國かなさはといふ所に、むかしすみし家の、いとゞあれたるにとまりて、月あかき夜、
ふる里のあさちの庭の霧のうへに、とこは草葉とやとる月哉
あつまにて、やどのあたりより、ふじの山のいとちかく見ゆれは、
みやこにておもひやられし富士のねを、軒端のをかに出てみる哉
海のおもていとのどかなる夕暮に、かもめのあそぶを、
夕なきに浪こそ見えねはる/\と、沖のかもめの立ゐのみして
[やぶちゃん注:詞書と和歌の前後を空けた。吉田兼好(弘安六(一二八三)年頃~文和元・正平七(一三五二)年前後?)は鎌倉に少なくとも二度は訪問滞在しており、後に執権となる幕府御家人金沢貞顕と昵懇であった。その際には先に記した上行寺(現存)境内付近に庵があったと伝えられており、その折りには貞顕所縁の金沢文庫をも親しく訪問したものと思われ、昭和五(一九三〇)年には称名寺光明院須弥壇下の長持より兼好自筆懸紙及び書状が発見されている。]
鹽風呂の舊跡 是は紀州大納言賴宣卿此所え渡らせ給ひて、御療養の爲に召させられし跡地とて野島村の東南の方えの、出崎の丘陵の地なり。今は其跡に稲荷祠を祀る。
[やぶちゃん注:「紀州大納言賴宣卿」は紀州徳川家の祖、徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文十一(一六七一)年)。徳川家康十男。常陸国水戸藩・駿河国駿府藩から紀伊国和歌山藩の藩主となる。八代将軍徳川吉宗の祖父である。但し、正確には彼は従二位権大納言。「鹽風呂」は海水を沸かした薬湯のことか。小市民氏のHP「小市民の散歩に行こうぜ」の「金沢・時代の小波(野島コース)」のこの稲荷神社の項に『土地の古老によれば、万治年間』(一六五八~六〇)に『野島浦の南端に紀州大納言徳川頼宜公の別邸があり、これを塩風呂御殿と称していた』とあり、また、この『稲荷神社は丁度、塩風呂御殿の東北の方角にありましたので、鬼門の守りとして頼宜公の篤い尊信を受け、社殿の造営が行われたということです。この塩風呂御殿について詳細はわかっていませんが、江戸時代、野島の漁師、鈴木吉兵衛が代々、将軍家に鯛を献上する役目を果たしてきたことから、野島浦は将軍家の手厚い保護を受けていたと推察できます』とある。]
墳墓
源範賴石塔 瀨ケ峰村太寧寺の後にあり。【異本盛衰記】といえるものに云、範賴は、伊豆の修善寺におはせしを、梶原景時が、右大將家え申て、修善寺へ押寄て討取、鎌倉へ持歸り、賴朝卿へ見せ奉り、其の首を此地に葬りし由を寺傳にもいえり。
顯時石塔 金澤小名寺境内、西の方阿彌陀院の後に有。北條越後守平顯時なり。此人金澤に住してより、金澤を以て氏に稱し、正安三年三月廿八日卒す。
貞時石塔 前と同所にあり。顯時の子にして、實時の孫なり。此實時が父祖は、執楳平義時が五男、五郎實泰が男、越後守平時盛入道勝圓が子なり、初は陸奥掃部介といひ、後に越後守實時と稱し、稱名寺基立本願の人なり。其子顯時にて、貞顯は孫にてぞ有ける。扨貞時が卒後、高時いまだ若年たるに依るて、基時と同敷執權加判たりし。正慶二年五月、北條亡滅の時に、一門の人々と同敷、高時が館に籠て自殺せり。
松田如法石塔 六浦上行寺本堂の前に有。寺傳にいふ、此法師といふは、北條時賴の家臣なりし由、日蓮宗を歸依して、上行寺を建立せり。もとは眞言宗にて有しが、日祐を歸依僧なるに依て、上行寺の開山とす。此日祐は、千葉胤貞の子なるゆへ、下總中山法華經寺弟三祖なり。仍て上行寺を、中山の末寺となせり。此法師は宗門に名あるものにて、身延山・中山に、杉田法師が像ありといふ。
[やぶちゃん注:この記述は「松田」と「杉田」の錯誤が気になる。先に引いた小市民氏のHP「小市民の散歩に行こうぜ」の「金沢・時代の小波(野島コース)」の上行寺の項に『六浦山上行寺は、もと真言宗で金勝寺と』称したが、建長六(一二五四)年十一月のこと、『下総から鎌倉へ渡る途中の船中で富木胤継と日蓮上人との法論があり、六浦に着船した後もなおこの寺に入って討論を続けた際に、住持の普識法印も大いに日蓮の説に感服し、ついには日蓮宗に改宗した』という話を載せる。以下、金勝寺を上行寺と改称したのは、千葉の中山法華寺第三代の日佑上人で、彼は『下総と甲州身延山を往復するとき、いつも渡し場からほど近いこの寺に立ち寄っていました。中山法華寺の「一期所修善根記録」「本尊聖教録」などの記録によると、当時の六浦港には六浦孫四郎、六浦平次郎景光、六浦松積殿などの有力信徒がいて、深く日佑上人に帰依し、法華寺にも身延山にも巨額の奉納をして』おり、『特に、六浦平次郎は入道して妙法と号し』、康永三(一三四四)年には六浦で造立させた二尊の仏像と多宝塔を身延山に納め、応安四(一三七一)年には更に釈迦と四菩薩像を造立、法華寺に奉納したとあり、『上行寺では、この六浦妙法を荒井妙法、すなわち日荷上人と伝えて』いる、とある。『現在、上行寺本堂前の大きなカヤの木の下に、六浦妙法の墓がありますが、このカヤの木も六浦妙法が身延山から持ち帰って植えたものだと伝えられています』と記す。この記載から、本文の「松田」も「杉田」も何れもが誤りで、「松田如法」とは「六浦妙法」の誤記か誤植である可能性が極めて高い(特に「松田」は「松」の(つくり)が「六」に、「浦」の(つくり)が「田」に似ている)ものと思われる。]
陣屋
米倉侯の陣營。
[やぶちゃん注:やはり先に引いた小市民氏のHP「小市民の散歩に行こうぜ」の「金沢・時代の小波(野島コース)」の米倉陣屋跡の項に(以下、一部の表記を私の頁の表記に合わせて変更、読点を追加した)『米倉家は、もと甲斐国の武田家の一族ですが、武田勝頼の滅亡後、徳川家康に属して戦功を立て、元禄九(一六九六)年、昌尹の代になって一万五千石の大名となり、丹後守と名乗りました。その子昌明のとき三千石を弟昌仲に譲りましたが、一万二千石の領地は、武蔵、相模、上野、下野の諸国に散在していたようです。その子昌照には跡継ぎがなく柳沢吉保の六男、忠仰を養嗣に迎えましたが、下野国皆川から、この金沢に陣屋を移したのは、この忠仰のときからです』。『一万二千石では城を築くことが許されず、陣屋と称し、このときの陣屋は、現在の京浜急行の線路に沿って南向きに、六浦の方角に表門を開き、小さなガードとなっている瀬戸の方角が裏門で、泥牛庵の山頂は領主の見晴台として御茶山と呼ばれていたということです。金沢での領地は、寺前村の一部、釜利谷町のうち宿村、赤井村、六浦町のうち瀬戸神社領百石以外の土地三千石でした』とあって、目から鱗である。どうも、植田は最後に来て息切れして記載にパワーが感じられなくなっている。小市民氏の知見がそれを補完して余りあるのは、ネット上の快哉である。]
鎌倉攬勝考卷之十一附錄大尾