やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ



新編鎌倉志卷之五

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いたが、これには多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせる箇所がある。第三巻より底本データを打ち込みながら、同時に汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した後、部分公開する手法を採っている。校訂ポリシーの詳細についても「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注の最後の部分を参照されたいが、「卷之三」以降、更に若い読者の便を考え、読みの濁音落ちと判断されるものには私の独断で濁点を大幅に追加し、現在、送り仮名とされるルビ・パートは概ね本文ポイント平仮名で出し、影印の訓点では、句読点が総て「。」であるため、書き下し文では私の自由な判断で句読点を変えた。また、「卷之四」より、一般的に送られるはずの送り仮名で誤読の虞れのあるものや脱字・誤字と判断されるものは、( )若しくは(→正字)で補綴するという手法を採り入れた。歴史的仮名遣の誤りは特に指示していないので、万一、御不審の箇所はメールを頂きたい。私のミス・タイプの場合は、御礼御報告の上で訂正する。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。原則、踊り字「〻」は「々」に、踊り字「〱」「〲」は正字に代えた。なお、底本では各項頭の「〇」は有意な太字である。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本・影印では「已」と「巳」の字の一部が誤って印字・植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。【テクスト化開始:二〇一一年十月十九日 作業終了:二〇一一年十一月十二日】]


新編鎌倉志卷之五

○今小路〔附勝橋カツガハシ〕 今小路イマコウヂは、壽福寺の前に石橋イシバシあり。《勝橋》勝橋カツガハシと云。鎌倉十橋の一つなり。此より南を今小路イマコウヂと云ふ。《長谷小路》 巽荒神タツミノクハウジンヘンよりミナミ長谷ハセまでの間だは、長谷小路ハセコウヂと云なり。
[やぶちゃん注:「勝橋」は英勝寺開基の英勝院禅尼(徳川家康側室勝の局)が寿福寺前の小川に架けた事に由来し、鎌倉十橋の中では江戸初期の架橋という最も新しいものである。英勝院禅尼については「卷之四」の英勝寺の項の私の注を参照されたい。「新編相模国風土記稿」には『長八尺七寸、幅六尺なり』とあり、相応に立派な石橋であったことが窺がわれるが、現在は無粋な暗渠となっており、辛うじて脇に建てられた橋標によってのみ知られる。「長谷小路」鎌倉時代は「巽荒神」は扇ヶ谷(亀ヶ谷)に属していたが(後掲する「尊氏屋敷」参照)、「鎌倉市史」によれば江戸時代にはここを境に北が扇ヶ谷村、南が長谷村に属したことに由来するものと推定しており、また「吾妻鏡」には「今小路」の記載がないともあって、この道名の区別は近世の里俗の地域呼称に過ぎないものと思われる。]

◯鍛冶正宗屋敷跡 鍛冶正宗タンヤマサムネ屋敷ヤシキアトは、勝橋カツガハシの南みの町、西頰ニシガハ也。今は町屋となる。正宗は、行光ユキミツが子なり。行光、貞應の比、鎌倉に來り爰に住すと云ふ。《刃の稻荷》今も此の所にヤキバ稻荷イナリと云小祠あり。正宗マサムネがまつりたる神なりと云傳ふ。
[やぶちゃん注:底本では「鍛冶正宗タンヤマサムネ」の「鍛冶」の左側に「カヂ」のルビが打たれている。「貞応」(「ぢやうおう(じょうおう)」と読む)年間は西暦一二二二年から一二二四年である。「行光が子」とあるが、鎌倉に在住した相模鍛冶国光の実子とも、国光の弟子とも(そうすると行光は兄弟弟子となる)、ここに記されるように、その国光を継いだ行光の子とも、行光の弟で後に養子となったともする。岡崎五郎正宗の生没年は不詳であるが、現在の研究では、その活動時期を鎌倉末期から南北朝期(十三世紀末から十四世紀初頭まで)と推定しているから、その息子ならば、あり得ない話ではない。「刃稻荷」は鎌倉駅から寿福寺へ向かう手前の西の尾根に現存する。本覚寺には伝岡崎五郎正宗墓や正宗顕彰の碑があり、他にも錢洗弁天に向かう路傍の個人宅地内に正宗が鍛冶打ちをする際に沐浴したという正宗の井戸が残る。]

◯佛師運慶屋敷跡 佛師運慶ブツシウンケイ屋敷ヤシキの跡は、正宗屋敷の西なり。佛師運慶が宅地と云傳ふ。【東寶記】に、運慶、東寺の大佛師となるとあり。湛慶・康運・康辨・康勝・運賀・運助は運慶が子なり。【東鑑】にも、運慶往々ワウワウ出たり。
[やぶちゃん注:鎌倉には本「新編鎌倉志」の記載を見ても散見するように運慶作とする仏像が多くあるが、残念ながら真作として現認されているものは一体もない。但し、寄せ木造りが飛躍的に発達したこの時期には、既に製作は集団組織化され、体躯を別々な複数の仏師が分業製作し、一種の運慶工房のような中で造立が行われていたものと思われる。]

◯巽荒神 巽荒神タツミノクワウジンは、今小路イマコウヂミナミ、壽福寺のタツミにあり。故に名く、モト壽福寺の鎭守なり。今は淨光明寺の玉泉院の持分モチブン也。社領一貫文あり。
[やぶちゃん注:創建は伝承では延暦二十(八〇一)年に蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したものを頼朝の祖父源頼義が永承四(一〇四九)年に修理したと伝えられる。鎌倉初期には現在地に移築されている。]

○人丸塚 人丸塚ヒトマルヅカは、タツミの荒神の東の方、畠の中にあり。惡七兵衞景淸カゲキヨムスめ、人丸ヒトマルいし者の墓也と云傳ふ。景淸カゲキヨムスメ龜谷カメガヤツの長に預アヅけしとなり。此のヘン龜がヤツの内なり。景淸カゲキヨロウの下と、らしるべし。
[やぶちゃん注:前巻の「景淸籠」にも掲げたが、再注する。「鎌倉攬勝考卷之九」には異なった考証が語られている。該当箇所を引用する。
人丸塚 巽荒神の東の方、畠中にあり。土人いふ、惡七兵衞景淸が娘、人丸姫といふものゝ塚なりといふは、【平家物語】に、景淸が女を、龜ケ谷の長に預しなどあるより、此塚の名を人丸姫が塚なりと、土人等いひ傳へけり。實はさにはあらず、古へ宗尊親王、敷しまの道を御執心ありしより、此邊に歌塚を築かせ給ひ、人丸堂をも御建立の地曳せられしが、世上の變異に仍て、急に御歸洛ゆへに、其事ならずして廢せり。夫ゆへ後に、景淸が女の塚と唱へ誤れる由。
但し、現在、安養院に「人丸塚」と呼ばれる塚があり、これについて、景清の娘であった人丸姫が捕えられた父に会うために京都から鎌倉に下向したものの、遂に面会は許されず、景清の死後、尼となって景清の守本尊であった十一面観音を祀って先の土牢に供養したとも伝えられている。数年後に人丸姫は亡くなって扇ヶ谷(巽荒神は扇谷地内)に葬られ、そこを土地に人々が「人丸塚」と呼んだが、後に荒廃、その石塔が安養院に預けられたとも伝承されている。]


[尊氏屋敷及び人丸塚・巽荒神の図]

[やぶちゃん注:南北が反転していることに注意されたい。]

◯尊氏屋敷 尊氏屋敷タカウヂヤシキは、タツミの荒神の東南のハタケふなり。《龜谷亭》今按ずるに、【東鑑】に、仁治四年正月九日、足利アシカヾ大夫判官、龜谷カメガヤツテイとあれば、此は尊氏タカウヂ先祖の屋敷とみへたり。此邊龜谷カメガヤツの内なり。大藏ヲホクラ公方屋敷クバウヤシキも、尊氏代々ダイダイ宅地タクチなり。又長壽寺の南鄰にも尊氏屋敷ヤシキあり。三所ともに尊氏の舊宅ならん。
[やぶちゃん注:「足利大夫判官」は足利家氏(生没年不詳)は尾張足利氏(斯波氏)初代当主で、藤原頼経・頼嗣・宗尊の三代に亙って仕えた御家人。彼の弟である頼氏が足利五代当主となり、彼の曾孫が尊氏に当たる。頼氏の子貞時も、尊氏の父頼氏も、鎌倉在住の幕府の有力御家人であったから、傍流となる斯波氏足利家氏の屋敷が、後の尊氏の屋敷と必ずしも同一地にあったとは言い難い気がするのだが、如何? なお、上記の図を現在の地図に当てはめると、「尊氏屋敷」の文字の配してある辺りが、現在の鎌倉駅ホーム北鎌倉側(北部)駅外軌道部分に相当することが分かる。]

◯興禪寺 興禪寺コウゼンジは、壽福寺の南にあり。汾陽山フンヤウサンと號す。朝倉アサクラ筑後の守が子甚十郎、先考の爲に建立す。開山は奥州松島マツシマの雲居、諱は希膺なり。
[やぶちゃん注:昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊の貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」によれば本寺の創建は、朝倉甚十郎正世が亡父宣正の追善のために創建したことと、鐘銘のクレジットから、宣正逝去の寛永十四(一六三七)年二月以降正保二(一六四五)年以前であることが示されている。「新編鎌倉志」の中では飛び切り若い創建の寺であるが、江戸時代末期に廃寺となったものと思われる。旧跡は現在の寿福寺の南側、三菱銀行重役の荘清次郎の別荘として建てられた瀟洒な洋館のある場所に相当する。山号の「汾陽山」は宋代の臨済僧汾陽善昭(臨済義玄第六世)に由来するか。「雲居」雲居希膺(うんごきよう 天正十(一五八二)年~万治二(一六五九)年)は江戸前期の臨済僧。「朝日日本歴史人物事典」によれば、土佐出身で、妙心寺蟠桃院一宙東黙の法嗣。伊達政宗の子忠宗の代に松島瑞巌寺に入り、念仏禅を唱えたとある。晩年は松島に帰ってそこで亡くなっている。]
山門 額、汾陽山とあり。ミンの僧黄檗山木菴筆なり。
佛殿 本尊は釋迦・阿難・迦葉。
鐘樓 鐘の銘あり。
[やぶちゃん注:以下、底本では鐘銘は全体が二字下げ。]
 鎌倉縣畔、汾陽山之檀越、日下部姓、朝倉氏正世公、與慈母保福院共計爲先考玄英居士、建立菩提道場、號爲興禪禪院、今也賢娣慈明院殿、鑄華鯨以被寄附乏、所願者、以此修善功力、存者福樂壽命長遠、亡者離苦受安養樂、九族親戚、三界精靈、倶蒙悔過、普潤利益、盡出迷衢、同登覺場、銘曰、聲々中規、韻々應儀、報寢興刻、告禪誦時、覺煩惱夢、解見聞哀、忽破邪險、直生眞慈、止幽冥苦、脱流轉羇、惟功惟德、億千萬斯、以故古德云、劫石有消日、洪音無盡期、正保二年八月六日、雲居叟希膺。
[やぶちゃん注:「解見聞哀」は底本では「解見聞悲」である。意味は変わらないと思うが影印で訂した。以下、鐘銘を影印に従って書き下したものを示す。
鎌倉縣の畔り、汾陽山の檀越、日下部クサカベの姓、朝倉アサクラの氏正世マサヨ公、慈母保福院と共に計(り)て先考玄英居士の爲めに、菩提道場を建立し、號して興禪禪院と爲す。今や賢娣慈明院殿、華鯨を鑄て以(て)乏を寄附せらる。願ふ所は、此の修善の功力を以て、存じては福樂壽命長遠、亡じては苦を離し、安養の樂を受(け)て、九族の親戚、三界の精靈、倶に悔過を蒙り、普く利益に潤ひ、盡く迷衢を出(で)て、同(じ)く覺場に登(ら)ん。銘に曰(く)、『聲々規に中り、韻々儀に應ず。寢興の刻を報じ、禪誦の時を告ぐ。煩惱の夢に覺し、見聞の哀を解く。忽(ち)邪險を破(り)て、直(ち)に眞慈を生ず。幽冥の苦を止め、流轉の羇を脱し、惟れ功、惟れ德、億千萬斯、故を以(て)古德の云、「劫石は消(ゆ)る日有り、洪音は盡(く)る期無し。」と。』(と)。正保二年八月六日 雲居叟希膺
「娣」は「てい」と読み、妹(弟の嫁の意もある)の意。朝倉正世の妹か(二人いる)。「迷衢」は「めいく」と読み、「衢」は世間、迷妄のちまたの意。「羇」は「き」で羈旅に同じ。旅の意。「億千萬斯」の「斯」は「シ」と読み、詩句のリズムを整えるための助字で意味はない。]
坐禪巖 山の上にあり。石切山イシキリヤマの南鄰なり。雲居坐禪せし所と云ふ。
[やぶちゃん注:「卷之四」の寿福寺図の左下(東南の角)を見ると、「望夫石」の下方に「石切山」とある。]

◯無量寺谷 無量寺谷ムリヤウジガヤツは、興禪寺の西の方のヤツなり。昔し此處に無量寺と云寺有。泉涌寺の末寺也しと云。今はし。按ずるに【東鑑】に、文永二年六月三日、故秋田の城の介義景ヨシカゲが十三年の佛事を無量壽院にて修すとあり。義景は、藤九郎盛長モリナガが子にて、居宅甘繩アマナハなり。此邊まで甘繩アマナハの内なれば、此の寺歟。《無量寺》後に無量寺と云傳る歟。又【鎌倉九代記】に、禪秀ゼンシウ亂の時、持氏モチウヂ方より、無量寺クチへは上杉ウヘスギ藏人憲長ノリナガ、百七十騎にて向へらるとあるは此所なり。今鍛冶タンヤ綱廣ツナヒロが宅有。
[やぶちゃん注:底本では最後の「鍛冶タンヤ」の左側に「カヂ」のルビが附く。現在の鎌倉駅から北西に向かったところに佐助隧道があるが、その手前の崖下に旧岩崎邸跡地があり、扇ヶ谷一丁目この辺り一帯を「無量寺跡」と通称する。二〇〇三年に、この旧岩崎邸跡地から比較的規模の大きい寺院庭園の遺構が発見されたことから、この辺りに比定してよいであろう。この庭園発掘調査により、庭園内の池が一気に埋められていること、埋めた土の中より一三二五年から一三五〇年頃の土器片が大量に出土していること、園内建物遺構の安山岩の礎石に焼けた跡があること等から、庭園の造成年代は永仁元(一二九三)年の大震災以後、幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年前後に火災があり、庭園は人為的に埋められたと推定されている。私には一気に庭園を埋めている点から、同時に廃寺となったと考えても不自然ではないように思われる(庭園発掘調査のデータはゆみ氏の「発掘された鎌倉末期の寺院庭園遺構を見る」を参照させて頂いた)。
「秋田の城の介義景」は安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)のこと。執権北条泰時・経時・時頼に仕え、評定衆の一人として幕政に大きな影響力を持った御家人。
「義景は、藤九郎盛長が子にて」は誤りで、安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)は義景の祖父。彼の父は安達景盛(?~宝治二(一二四八)年)で、彼と義景が安達氏の磐石の権勢を創り上げた。
「上杉藏人憲長」は系図から見ると、上杉禅秀の乱の際の関東管領であった上杉憲基の祖父憲方の弟である上杉憲英の孫に当たる。
「鍛冶綱廣」現在も相州正宗第二十四代刀匠として御成町の山村綱廣氏に継承されている。]

◯法住寺谷 法住寺谷ハフヂウジガヤツは、無量寺が谷の南なり。ムカシ律宗の寺の舊跡也と云傳ふ。

◯裁許橋 裁許橋サイキヨバシは、佐介谷サスケガヤツより流れ出る川にワタせるハシなり。天狗堂テングダウの東にあり。里俗の云、賴朝ヨリトモの時、此所に屋敷ヤシキ有て訴訟を決斷す。故に名くと。今按ずるに、【東鑑】に、正治元年四月一日、賴家ヨリイヘ將軍の時、問注所モンヂウシヨを※外にてらる。是賴朝卿の時は、營中と一所に就て、訴論の人をケツせらるゝの間だ、諸人羣集して、鼓騒をなし、無禮をあらはすの條、頗る狼藉のモトヒたり。故に他所に於て此儀をヲコナはる。熊谷直實クマガヘナヲザネ久下直光クゲノナヲミツ境論サカイロン對決の日、直實、西侍ニシザムラヒに於て、鬢髮をはらふの後、永く御所中の儀を停止せられ、善信が家を以て其所とす。今又別※を新造せらるとあり。又同(じ)き二年五月十二日、念佛名の僧等を禁斷し給ふ。比企ヒキの彌四郎、ヲヽせをウケタマはり、これを相ひ具し、政所マンドコロの橋の邊にかひ、袈裟をりてくとあり。又和田合戰の時、御所の西南政所マンドコロの前にて戰ふとあれば、此の所、賴朝屋敷よりは西南なれば、政所マンドコロありけるか。又朝夷名アサイナの三郎義秀ヨシヒデ足利アシカヾの三郎義氏ヨシウヂと、政所マンドコロの前のハシカタハラに於て相ひふと有。問注所モンヂウシヨ政所マンドコロの跡ならん歟。賴朝の時に限るべからず。その後のことにてもあらん。《西行橋》或人の云、西行橋サイギヤウバシとも云ふ。西行、鎌倉に來り、此のハシに踟蹰する故に名くとなり。何れをとしがたし。按ずるに【東鑑】に、西行、鎌倉に來る事、文治二年八月十五日、賴朝、鶴が岡參詣の時、鳥居トリヰの邊に徘徊する老僧あり。名字をはしめ給へば、佐藤兵衞の尉憲淸ノリキヨ法師也とあり。此橋鶴が岡の二の鳥居へ近し。西行橋と云も、ヨリトコロなきにあらず。
[やぶちゃん注:「※」=「土」+「郭」。「郭」に同じい。
「久下直光」(くげなおみつ 生没年不詳)は武蔵国大里郡久下郷(現・埼玉県鴻巣市)を領した武士。以下、ウィキの「久下直光」から引用する。『熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は以後激しい所領争いをした。更に治承・寿永の乱(源平合戦)において直実が源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元』(一一八二)年五月『に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。勿論、直光はこれで収まらず、合戦後の建久』三(一一九二)年、『熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。同年』十一月、『直光と直実は頼朝の御前で直接対決することになるが、口下手な直実は上手く答弁することが出来ず、梶原景時が直光に加担していると憤慨して出家してしま』う。『もっとも、知盛・頼朝に仕える以前の直実は直光の郎党扱いを受け、直実が自分の娘を義理の伯父である直光に側室として進上している(世代的には祖父と孫の世代差の夫婦になる)こと、熊谷郷も元は直光から預けられていた土地と考えられており、直光に比べて直実の立場は不利なものであったと考えられている』とある。
「對決の日」実際の対決は建久三(一一九二)年十一月二十五日である。「吾妻鏡」から引用する。
廿五日甲午。白雲飛散。午以後屬霽。早旦熊谷次郎直實与久下權守直光。於御前遂一决。是武藏國熊谷久下境相論事也。直實於武勇者。雖馳一人當千之名。至對决者。不足再往知十之才。頗依貽御不審。將軍家度々有令尋問給事。于時直實申云。此事。梶原平三景時引級直光之間。兼日申入道理之由歟。仍今直實頻預下問者也。御成敗之處。直光定可開眉。其上者。理運文書無要。稱不能左右。縡未終。卷調度文書等。投入御壺中起座。猶不堪忿怒。於西侍自取刀除髻。吐詞云。殿〔乃〕御侍〔倍〕。登〔利波天〕云々。則走出南門。不及歸私宅逐電。將軍家殊令驚給。或説。指西馳駕。若赴京都之方歟云々。則馳遣雜色等於相摸伊豆所々并筥根走湯山等。遮直實前途。可止遁世之儀之由。被仰遣于御家人及衆徒等之中云々。直光者。直實姨母夫也。就其好。直實先年爲直光代官。令勤仕京都大番之時。武藏國傍輩等勤同役在洛。此間。各以人之代官。對直實現無礼。直實爲散其欝憤。屬于新中納言。〔知盛卿。〕送多年畢。白地下向關東之折節。有石橋合戰。爲平家方人。雖射源家。其後又仕于源家。於度々戰塲抽勳功云々。而弃直光。列新黄門家人之條。爲宿意之基。日來及境違乱云々。
◯やぶちゃんの書き下し文
廿五日甲午。白雲飛散し、午以後、霽に屬す。早旦、熊谷次郎直實と久下權守直光、御前に於て一决を遂ぐ。是れ、武藏國熊谷と久下の境相論の事なり。直實、武勇に於ては、一人當千の名を馳せると雖も、對决に至りては、再往知十の才、足らず。頗りに御不審をのこすに依りて、將軍家、度々尋問せしめ給ふ事有り。時に直實、申して云く、
「此の事、 梶原平三景時、直光を引級するの間、兼日に道理の由を申し入るるか。仍て今、直實頻に下問に預る者なり。御成敗の處、直光、定めて眉を開くべし。其の上は、理運の文書、要無し。左右とかうに能はず。」
と稱し、こと未だ終へざるに、調度・文書等を卷き、御壺の中に投げ入れ座を起つ。猶、忿怒に堪へず、西の侍に於て、自ら刀を取り、髻をはらひて、詞を吐きて云く、
「殿の御侍に登りはてんに。」
と云々。
 則ち南門を走り出で、私宅に歸るに及ばず、逐電す。將軍家、殊に驚かしめ給ふ。或る説に、西を指して駕を馳らす、若しや京都の方へ赴くか、と云々。
 則ち雜色等を相摸・伊豆の所々幷びに筥根・走湯山等へ馳せ遣はす。直實の前途を遮りて、遁世の儀を止むるべしの由、御家人及び衆徒等の中に仰せ遣はさると云々。
 直光は、直實の姨母をばが夫なり。其のよしみに就き、直實、先年直光の代官と爲し、京都大番に勤仕せしむるの時、武藏の國の傍輩等、同じ役を勤め、在洛す。此の間、各々人の代官を以て、直實に對し、無礼を現はす。直實、其の欝憤を散らさんが爲に、新中納言〔知盛卿。〕に屬し、多年を送り畢んぬ。白地あからさまに關東へ下向の折節、石橋合戰有り。平家の方人かたうどと爲し、源家を射ると雖も、其の後又、源家に仕へ、度々の戰塲に於て勳功をきんづと云々。
 而して直光をて、新黄門の家人に列するの條、宿意の基と爲し、日來、境の違乱に及ぶと云々。
「新黄門」の「黄門」は中納言の唐名で平知盛のこと。本文が引用している建久十・正治元(一一九九)年四月一日の方の記事も掲げておく。
四月大一日壬戌。被建問注所於郭外。以大夫屬入道善信。爲執事今日始有其沙汰。是故將軍御時。營中點一所。被召决訴論人之間。諸人群集。成皷騒。現無礼之條。頗爲狼藉之基。於他所可行此儀歟之由。内々有評議之處。熊谷与久下境相論事對决之日。直實於西侍除鬢髮之後。永被停止御所中之儀。以善信家爲其所。今又被新造別郭云々。
◯やぶちゃんの書き下し文
四月大一日壬戌。問注所を郭外に建てらる。大夫さかん入道善信を以て、執事たること、今日始めて其の沙汰有り。是れ、故將軍の御時、營中の一所を點じ、訴論人を召し决せらるるの間、諸人群集し、皷騒こさうを成し、無礼を現はすの條、頗る狼藉のもとゐたり。他所に於て此の儀を行うべきかの由、内々評議有るの處、熊谷と久下と境相論の事、對决の日、直實、西の侍に於て鬢髮を除ふの後、永く御所中の儀を停止せられ、善信の家を以て其の所と爲す。今又、別郭を新造せらると云々。
この幕府外の三善善信邸内に移された問注所は現在の御成小学校向いに同定され、それを示す石碑のすぐ脇に裁許橋が残る。西行橋は面白いが(西行由縁の遺跡では彼はしばしば思案したり戻ったりする)、これは裁許(判決)の厳しい不吉な響きを嫌った、後の付会という感じがする。]


[佐介谷圖]


◯佐介谷〔附 御所の入 國淸寺の跡 蓮華寺の跡 稻荷の社 隠里 錢洗水 藥師堂の跡〕、佐介谷サスケガヤツは、ヤツ入口イリクチ東南へ向ふ。分内ヒロふして、其内は又谷々ヤツヤツ多し。【東鑑】に、寛元四年六月廿七日、入道大納言家〔賴家。〕越後の守時盛トキモリが、佐介のダイに渡御し給ふとあり。《佐助亭》又同五年正月卅日、越後の入道勝圓シヤウエンが、佐介のテイウシロの山にヒカモノ飛行すとあり。又建長二年六月廿四日、佐介に居住する者俄に自害す。く者キソひ集り見る。此の人のムコあり、日來ヒゴロ同宅す。其のムコ 田舍イナカへ下る。其のヒマウカヾひ、艶言エンゲンを息女にカヨはす。息女あはてゝ許容キヨヤウせず。クシげて、取之者(之を取る者)は骨肉もみな他人にヘンずるのヨシを稱す。彼のチヽの息女の居所に到り、屏風の上よりクシる。彼の息女。不意(ヲモはず)これをとる。仍てチヽすでに他人になぞらへてコヽロサシげんとす。時にムコ不圖(ハカらず)田舍より歸り來るアイだ、タチマり、悲むにたへずして自害す。ムコ、仰天し悲歎の餘り即ち離別す。ツマチヽの命にしたかはざるに依て、此の珍事出來す。不孝のイタすところなり。芳契ハウケイをほどこす事あたはずと云、アマツサへ出家修行して、シフト亡後バウゴトムラふとあり。又土俗の云、上總介カズサノスケ千葉チバノ介・三浦ミウラノ介の三介サンスケ此所に住居す。故に三介サスケヤツづくと。是はヨリトコロなし。古き記録等には、佐介サスケとばかりあり。ヤツの字はなし。今は佐介がヤツと云ふ。佐介遠江の守が舊跡も此所にあり。又上杉ウヘスギ安房の守憲基ノリモトが舊宅も此の所にあり。【鎌倉大草子】に、應永廾三年十月二日。犬懸イヌカケの入道上杉禪秀ウヘスギゼンシウ〔氏憲。〕管領源持氏モチウヂ伯父ヲヂ 滿隆ミツタカをかたらひ叛逆の時、持氏は、大倉ヲホクラの御所より、上杉憲基が佐介の亭に遁れ來り、滿隆禪秀が兵を防ぎタヽカはる。終に不叶(カナはず)して、持氏も憲基も極樂寺口ゴクラクジグチへかゝり、片瀨カタセ腰越コシゴヘを打過、伊豆の國淸寺へ落行給ふとあり。
[やぶちゃん注:「入道大納言家」の割注「賴家」は誤り。これは前将軍九条頼経のことである。
「入道越後の守時盛」は北条時盛(建久八(一一九七)年~建治三(一二七七)年)。連署北条時房嫡男。佐介流北条氏祖で佐介時盛とも称した。
「又建長二年六月廿四日、佐介に居住する者俄に自害す」以下の奇怪な近親相姦事件は建長二(一二五〇)年の六月大二十四日の出来事である。以下、「吾妻鏡」から引用する。
廿四日戊午。今日居住佐介之者。俄企自害。聞者競集。圍繞此家。觀其死骸。有此人之聟。日來令同宅處。其聟白地下向田舎訖。窺其隙。有通艶言於息女事。息女殊周章。敢不能許容。而令投櫛之時取者。骨肉皆變他人之由稱之。彼父潜到于女子居所。自屏風之上投入櫛。息女不慮而取之。仍父已准他人欲遂志。于時不圖而聟自田舎歸着。入來其砌之間。忽以不堪慙。及自害云々。聟仰天。悲歎之餘。即離別妻女。依不随彼命。此珎事出來。不孝之所致也。不能施芳契之由云々。剩其身遂出家修行。訪舅夢後云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿四日戊午。今日、佐介に居住の者、俄に自害を企つ。聞く者きほひ集ひ、此の家を圍繞ゐねうし、其の死骸を觀る。此の人の聟有り。日來、同宅せしむ處、其の聟、白地あからさまに田舎へ下向し訖ぬ。其の隙を窺ひ、艶言えんげんを息女に通ずる事有り。息女、殊に周章し、敢て許容する能はず。而るに櫛を投げしむるの時、取らば、骨肉、皆他人に變るの由、之を稱す。彼の父、潜かに女子の居所に到り、屏風の上より櫛を投げ入る。息女こころならずして之を取る。仍りて父、已に他人になぞらへ、志を遂げんと欲す。時に圖らずして聟、田舎より歸着し、其の砌に入り來たるの間、忽ち以てはぢに堪へず、自害に及ぶと云々。聟、仰天悲歎の餘り、即ち妻女を離別す。彼の命に随はざるに依りて、此の珎事ちんじ出で來たる。不孝の致す所なり。芳契ほうけいを施すに能ざるの由と云々。剩へ其の身は出家を遂げ修行し、舅の夢後ぼうごを訪ふと云々。
「芳契」は目出度い契りの意で、通常、宗教上の師弟芳契(法嗣)などに用いる語であるが、衆道の関係にも用いたりもする。「夢後」は死後・後世。「広辞苑」の「夢後」の項には何とこの「吾妻鏡」の箇所が引用されている。「櫛を投げしむるの時」云々の部分はイサナキとイサナミの、黄泉国からの呪的逃走譚の中でイサナキが櫛を投じたことによって、兄妹であり夫婦であった関係が変更され、現世の生成神と冥界の破壊神とに断絶分離することから生じた、近親相姦を許容するような不思議な俗信と推察されるが、詳しいことは不明である。このような記載例が本邦に他にあるのなら、是非御教授願いたい。寧ろ話柄全体はフランス民話の「皮っ子」型で、実父と娘の近親相姦という枠と呪物としての櫛が美事に一致している。しかしこれはあの狭い鎌倉での、一級歴史資料たる「吾妻鏡」に載る、群衆が『聞く者競ひ集ひ、此の家を圍繞し、其の死骸を觀』た、実際に起こった事実として語られているのである。異様に面白い。というより、この記載の最後の道義にあなたは異様なものを感じないか? 聟が『仰天悲歎の餘り、即ち妻女を離別』するのは仕方がないし、彼が『出家を遂げ修行し、舅の夢後ぼうごを訪』ったのも殊勝である。――しかし、ここで世論が、娘が素直に父の近親相姦の『命に随はざるに依りて、此の珎事ちんじ出で來た』ったのであり、これはこの娘の『不孝の致す所』であって、娘がここで父の意を汲みつつ、何らかの合法的な方法で父の欲望を実行させずに、それでいてそれを満たすような『芳契ほうけいを施す』ことが出来なかった(いや、聟に知られぬように素直に従えなかった)ことが原因である、と言って娘を非難しているように、読めはしないだろうか? 私の誤読なら御教授を乞うものであるが、ここには、当時の男の御都合主義の論理が反映してはいまいか? いや、もっと退いて見るなら、このような父子相姦や近親相姦の悪夢が、実は資料に現れない水面下では決して稀有な異常なものではなかったことを図らずも意味しているのではあるまいか?――更に、「新編鎌倉志」の編者が『タチマり』という絶妙のオリジナルな脚色を施している部分にも着目すべきである。私の管見したところでは「吾妻鏡」の諸本にはこの記載はない。これは正しくポルノグラフィである。なお、ここでは「佐介」の地名由来が考察されているが、そこには現在伝わるところの頼朝に纏わる伝承が一切記されていない。これについては後掲される「稻荷社」で注する。]

御所入ゴシヨノイリ 此のヤツの内にあり。古老の云、平の經時ツネトキの住せし所也と。按ずるに、【光明寺記主の傳】に、平の經時、佐介が谷に隠居し、專修念佛してソツすとあり。經時ツネトキの墓、佐々目の山のフモトにあり。此の所より不遠(遠からず)。
[やぶちゃん注:付図を見る限りでは、現在の銭洗弁天への登り道の下方南の平地であるが、「御所入」とは如何にも奇妙な地名である。通常「御所」は大臣・将軍、親王以上の皇族の居所や本人を指すが、そのような人物が当地に居を構えた記録はない。「鎌倉攬勝考卷之一」の「地名」にある「御所入」の項では、先の「佐介谷」に引用されている北条時盛の屋敷をこことし、寛元四年に、ここに前将軍頼経が入御したことと、更にやはり同所「入道勝圓」の屋敷に文永三年七月、宗尊親王が渡御されたという「吾妻鏡」の記事を引き合いに出して「御所入」を説明しているのだが、どうも説得力に欠くように思われる。これでは市内には無数の「御所入」が出現することになろう。東京堂出版の「鎌倉事典」の「御所入」では、『常盤にある「殿ノ入」「御所之内」などという地名は、執権北条政村邸、浄明寺の「御所ノ内」は足利氏に由来するものであろう』とし、『鎌倉には、ほかにも御所谷などの地名が残されていて、いずれもが有力武将の屋敷跡とされている』と記すのだが、やはり私には目から鱗とはいかない。もっと説得力のある見解を求む。
「佐々目の山の麓」とは、甘縄神明社の東の尾根を隔てた佐々目ヶ谷の奥の峰を言うか。そこならば確かにこの御所入からは一キロもなく、遠くない。また、そこに北条経時の墳墓があったことは、「鎌倉攬勝考卷之九」の「北條武藏守平經時墳墓」の記載に明らかである。以下に引用する。
經時は、兼て別業を佐々目谷へ構へ、寛元四年四月十九日、病に依て職を辭し、執權を弟時賴に讓り、落髮し、同年閏四月朔日に卒す。佐々目山の麓に葬り、後此所に梵字を營み、長樂寺と號すとあり。今は其墳墓しれず。
第四代執権北条経時の墓は現在、彼が開基である海岸に近い光明寺のやや高台にある。ところが「新編鎌倉志卷之七」の光明寺の項には経時墓の記載がない。これは一体、何を意味するのであろう。按ずるに、この卷之五の記載によって、「新編鎌倉志」の時代には「攬勝考」の言う長楽寺の跡さえ既になかったが、辛うじて経時の墓はそこにあったことが分かる(『經時の墓、佐々目の山の麓にあり。此の所より遠からず』)。しかし、「攬勝考」の頃にはその墳墓が消失していた(『今は其墳墓しれず』)。しかしそれ以前の何時の頃にか、彼の墓石の一部はこの佐々目ヶ谷から光明寺に移されていた。ところが光明寺開山塔と一緒にそれを置いたがために、「攬勝考」の頃には、少なくとも一般には、それが経時の墓との認識がなされていなかったのではなかろうか。識者の御教授を乞うものである。]

國淸寺コクシヤウジの跡 《寺の内》此内にテラウチと云処あり。國淸寺の跡と云ふ。【鎌倉大草子】并に【上杉禪秀記】に、上杉憲顯ウヘスギノリアキの建立也とあり。今按ずるに、【扶桑禪林諸祖傳】に、松嶺秀和尚の傳に、上杉大全居士長基ウヘスギダイゼンコジチヤウキ、豆州の國淸寺をウツして、湘江の佐谷サコク鼎建テイケンすとあり。大全ダイゼン居士は、安房の守憲定ノリサダなり。長基チヤウキは其の法名なり。明月院道合憲方ダウカフノリカタが子にて、憲基がチヽなり。憲顯がためにはマゴなり。【空華集】に豆州の國淸寺は、昔しリツ院にて、高雄タカヲの文覺上人の舊宅也。上杉憲顯ウヘスギノリアキリツアラタめてゼンとし、佛國禪師の弟子無礙謙公を開山祖とすとあり。【鎌倉九代記】に、憲顯を、伊豆の國淸寺に葬る。法名は國淸寺殿桂山道昌ケイザンダウシヤウと云ふ。然るときは、憲顯は伊豆の國淸寺を再興せられ、其の孫憲定マゴノリサダが時に、伊豆の國淸寺を此所にウツしたるを。【大草子】【禪秀記】には、憲顯が建立とかきたり。又滿隆ミツタカ禪秀ゼンシウが亂の時、持氏モチウヂ憲基ノリモトテイに居せられしを、岩松イハマツ治部大夫・澁川シブカハ左馬の介がツハモノ、國淸寺に火をかけゝれば、餘煙佐介サスケテイに、もへかゝるとあり。其の後はへたり。本尊は、今伊豆の國淸寺に在と云ふ。
[やぶちゃん注:「國淸寺の跡」は「鎌倉廃寺事典」附録の「鎌倉廃寺地図」では、佐助ヶ谷の前の法住寺の北の尾根を越えた位置に指示されてある。伊豆の国清寺は弘安二(一三六二)年、鎌倉公方足利基氏の執事を務めた畠山国清が創建したと言われ、後に慶安元(一三六八)年、関東管領上杉憲顯が亡父憲房の菩提のために中興したと伝えられている。「鎌倉廃寺事典」によれば、この佐介ヶ谷の国清寺も上杉憲顯が亡父憲房の菩提のために建立したものと考えられ、両寺院には何らかの関係があることは推測される、とあり、ここに記されるような同一寺院の移築再建といった解釈はしていない。なお、現在の伊豆の国清寺は公式には本尊を観音菩薩としながら、釈迦堂と称する仏殿があってそこに釈迦如来像があり、これを本尊とするネット上の記載もある。もしかすると、これが「本尊は、今伊豆の國淸寺に在と云ふ」というここの記載と関連するか。識者の御教授を乞う。]


蓮華寺レンゲジの跡 《光明寺畠》今俗に光明寺畠クハウミヤウジハタケと云ふ。光明寺、モト此の地にあつて、蓮華寺と號す。後に光明寺と改む。【鎌倉ヲホ日記】に、建長三年、經時ツネトキの爲に、佐介サスケに於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠此ヤツに居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。光明寺の條下及び【記主上人の傳】に詳也。
[やぶちゃん注:現在の鎌倉市佐助二丁目(トンネルを越えた法務局前の四つ角の西南地域)に比定されている。「鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝」には、『然阿良忠が仁治元年(一二四〇)二月、鎌倉に入り、住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた。時の執権経時は良忠を尊崇し、佐介谷に蓮華寺を建立して開山とし、ついで光明寺とその名を改め、前の名蓮華の二字を残して方丈を蓮華院となづけた。寛元元年(一二四三)五月三日、吉日を卜して良忠を導師として供養した』と記されてあり(「鎌倉廃寺事典」より引用)、更に「風土記稿」によれば、この時に現在の材木座の位置に移転したように記しているが、この記載には多くの疑問がある、と記す。推測としては佐介の現在地で悟真寺→蓮花寺→光明寺(その時、方丈を蓮華院とし、現在位置に移転)という過程が浮かび上がるのだが、「鎌倉廃寺事典」の蓮花寺の項では、この「蓮花寺」とは違う同名異寺が存在した可能性をも示唆している。]

稻荷イナリ社 此の谷の内にあり。山林シゲりたる地なり。扇が谷華光院の持分モチブンなり。毎年二月の初午ハツムマの日、鎌倉中の男女參詣多し。雪の下等覺院に、尊氏タカウヂの證文一通あり。其の文に、凶徒對治祈禱の事、殊可被致精誠之状如件(殊に精誠を致さらるべきの状、件のごとし)、延文四年十二月十一日、佐介が谷の稻荷社別當三位僧都の御房とあり。尊氏の判あり。
[やぶちゃん注:現在の佐介稲荷。「鎌倉攬勝考卷之三」でも『佐介谷稻荷社』とあり、現在のように「佐介稲荷」と呼称されるようになったのは比較的新しいか。但し、本社はこの地の地名の由来の淵源に関わるものともされる。伊豆蛭ヶ小島に配流の身となっていた頼朝の夢枕にここの稲荷神が翁となって立ち、天下統一を予兆して平家討伐を慫慂、蜂起して開幕に至った。建久年間(一一九〇~九八)、頼朝は夢告成就を以て本社を見出し、畠山重忠に命じ、ここを霊地と定め、社殿を造営させたとする。かつて頼朝が兵衛の佐であったことから、一般に彼を佐殿すけどのと呼称するが、その「佐」殿を「助」けた神ということで「佐助稲荷」と言われたとするものである。しかし、先にも記載がある通り、古くは「佐介」という表記ばかりが残る。神聖なる故事に於いて表記を変えることはしばしば見られることであるが、ならばこそ「新編鎌倉志」の編者がこの超弩級に大切な地名由来譚を落とすはずがない。「鎌倉攬勝考」でも語られないということは、本社の頼朝由来の縁起自身の伝承が決して古いものではないことを意味しているように感じられるが、如何?]

隠里カクレザト 稻荷の近所にある。大巖窟を云ふなり。
[やぶちゃん注:「ある」は影印でもママ。現在の銭洗弁財天宇賀福神社の由緒によれば、頼朝が巳年であった元暦二・文治元(一一八五)年の巳の月(旧暦四月)巳の日に、ここの宇賀福神が翁となって立ち、西北の仙境に湧く福水で神仏を供養すれば天下は泰平に治まるという夢告に従い、ここに霊水を発見、洞を穿って社を建立し宇賀神を祀ったと伝承されている。次項に記される「錢洗水」の信仰は、下ること七十二年後の同じ巳年であった正嘉元(一二五七)年の仲秋に、時の執権北条時頼が、頼朝の遺徳に加えて、五行で「金」の「辛巳かのとみ」(=金富)「成る」「かね(=金)の日」なればこそ民草に福徳が授けられる日であるとして参詣を勧めたことに始まるとされ、同時に、祀られた弁財天を信仰し、この霊水で洗い清めるならば、元来が不浄である金銭をも清浄なる福銭と化すという習慣も生まれたようである。時期的に鎌倉新仏教である日蓮の法華経による現世利益思想とシンクロナイズしているのが面白い。]

錢洗水ゼニアラヒミヅ 隠里の巖窟の中にあり。福神錢をアラふと云ふ。鎌倉五水の一つ也。

藥師堂の跡 里老の云、此ヤツ入口イリクチの東南に、昔は藥師堂有と云傳ふ。然れども今其の所不分明(分明ならず)。按ずるに【東鑑】に、正嘉二年正月十七日、秋田の城の介泰盛ヤスモリ甘繩アマナハの宅より火出てゝ、南風頻りに吹て、藥師堂のウシロの山をへて、壽福寺等燒失すとあり。泰盛は盛長モリナガが孫なり。盛長が屋敷、甘繩明神の東にあれば、藥師堂其の北にあたれり。【鎌倉大草子】に、禪秀亂の時、持氏モチウヂ憲基ノリモトテイコモられしが、藥師堂ヲモテへは、結城ユウキ彈正の少弼、二百騎にてムカへらるとあり。持氏の時まで有つる歟。
[やぶちゃん注:この「藥師堂」は「鎌倉廃寺事典」でも位置が特定されておらず、また本文の記載の殆どが、この「新編鎌倉志」の記述に依拠している。但し、この「盛長が屋敷、甘繩明神の東にあれば、藥師堂其の北にあたれり」という記述からすると、現在同定されている長楽寺若しくはその東の万寿寺(いずれも廃寺)の何れかとほぼ同位置にあったものと考えられる。]

〇天狗堂 天狗堂テングダウは、長谷ハセ小路より、佐介谷サスケガヤツ入手イリテの右の山の出前デサキなり。昔し愛宕アタゴヤシロありけるとなり。【太平記】に、天狗堂と、扇が谷に軍ありと云は、此所の事なり。
[やぶちゃん注:「天狗堂」佐介ヶ谷の東側丘陵の南端に天狗堂山という名が残る。ここには愛宕神社があったと伝えられ、祭神の愛宕権現が天狗に仮託されたことから、こう呼ばれたものと思われる。但し、私は「太平記」の天狗堂が現在の窟不動の東にあった愛宕社(最近、堂が大破してしまい地面に石組みのみが残るようである)で、これとは別な天狗堂であった可能性も考えている。識者の御教授を乞うものである。]

〇千葉屋敷 千葉屋敷チバヤシキは、天狗堂テングダウの東のハタケを云ふ。相ひ傳ふ千葉介常胤チバノスケツネタネが舊宅なりと。【東鑑】に、阿靜房安念、司馬シバ甘繩アマナハの家に向ふと云は是なり。司馬シバとは、千葉の成胤ナリタネを云なり。成胤は、常胤が嫡孫にて、胤正ナリマサが子なり。
[やぶちゃん注:現在、鎌倉で千葉屋敷跡というと、ここに現れた第五代当主成胤の玄孫第九代宗胤の嫡男胤貞(但し、彼は叔父胤宗に家督を横領されて千葉氏当主とはなっていない)の別邸があったという妙隆寺一帯を指すが、これでは位置がおかしい。ここで言っている「天狗堂の東」(=天狗堂山の東)に近いのは、現在の鎌倉駅西北、正宗の井戸の辺りにあった正に千葉常胤屋敷跡と伝承されている場所である。各種遺構からもここと同定して間違いない。ここなら次の「甘繩」の呼称も肯んずることが出来る範囲である。
「【東鑑】に、阿靜房安念、司馬の甘繩の家に向ふ」とは建暦三(一二一三)年二月十五日の記事を指す。以下に引用する。 二月大十五日丙戌。天霽。千葉介成胤生虜法師一人進相州。是叛逆之輩中使也。〔信濃國住人靑栗七郎弟。阿靜房安念云々。〕爲望合力之奉。向彼司馬甘繩家處。依存忠直。召進之云々。相州即被上啓此子細。如前大膳大夫有評議。被渡山城判官行村之方。可糺問其實否之旨被仰出。仍被相副金窪兵衛尉行親云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
二月大十五日丙戌。天霽。千葉介成胤、法師一人を生け虜り、相州に進ず。是れ、叛逆の輩の中使なかつかひなり〔信濃國住人、靑栗あをぐり七郎が弟、 阿靜房安念と云々。〕合力かふりよくうけたまはりを望まん爲に、彼の司馬の甘繩の家へ向ふ處、忠直を存ずるに依りて、之を召進ずと云々。相州、即ち此の子細を上啓せらる。前大膳大夫のごときと評議有りて、山城判官行村の方へ渡され、其の實否じつぷを糺し問ふべきの旨、仰せ出さる。仍りて、金窪かなくぼ兵衛尉行親を相ひ副へあると云々。
「中使ひ」は手先、使い走りの意。これは信濃の泉親衡が頼家遺児千寿を将軍に擁立して、北条氏を打倒せんとする謀議発覚の端緒となった出来事で、そこに和田一族の者が含まれていたことが後の和田合戦の引き金となる。
「司馬」千葉成胤は千葉介(下総国の次官級)で、司馬はその唐名。]

○諏訪屋敷 諏訪屋敷スハヤシキは、千葉屋敷チバヤシキの東南の畠をふ。昔し諏訪スハ氏の宅宇タクウありしとなり。
[やぶちゃん注:「諏訪氏」は得宗被官で北条泰時の側近として活躍した諏訪盛重(生没年不詳)のことである。現在の鎌倉市役所駐車場付近がその屋敷跡に比定されている。]

〇七觀音谷 七觀音がヤツは、天狗堂より西の方のヤツなり。昔し此の所に觀音堂りと云ふ。按ずるに【東鑑】に、元久元年十二月十八日、尼御臺所アマミダイドコロの御願として、七觀音のザウを圖繪せらるとあり。或は此の像安置の堂ありつるか。又建長二年十二月十八日、相州〔時賴。〕室家の御願として、七觀音堂の前にて、誦經を修せらるとあり。此の所
[やぶちゃん注:「鎌倉廃寺事典」では、七観音を祀った寺がここにあったのではなく、杉本寺や岩殿寺などを名数とした観音の一つを祀った寺があったという意味でとり、佐々目ヶ谷の東側の尾根が下がった地に、これを比定している(但し、名は「七観音」)。「吾妻鏡」の建長二年(一二五〇)年十二月の該当箇所を見ると、
十八日己酉。爲相州室家御願。於七觀音之堂前。被修誦經。各仰其別當等。塩飽左衛門大夫信貞奉行之。
〇やぶちゃんの書き下し文
十八日己酉。相州室家の御願と爲し、七觀音の堂前に於て、誦經を修せらる。各々其の別當等に仰す。塩飽しあく左衛門大夫信貞、之を奉行す。
とあって、「各々其の別當等に仰す」の「各々」「等」が明らかに一つの寺院ではないことを意味していると考えるべきで、至当な解釈であると言える。]

〇飢渇畠 飢渇畠ケカチバタケは、裁許橋サイキヨバシの南路端ミチバタなり。此の所昔より刑罰ケイバツの所にて、今も罪人をさらし、斬戮する地なり。故に耕作カウサクをせず。飢渇畠ケカチバタケと名く。
[やぶちゃん注:現在の六地蔵で、これは後世、その処刑された者たちを供養するために祀られたものとされる。因みに、私はこの近く、高浜虚子の娘の嫁いだ家の隣りに、幼少の頃に住んでいたらしい。亡き母の語り草で、井戸端で洗濯する母に背負われた私は、隣から響いてくる吟詠の声を、子供ながらに口真似てヒョウヒョウと叫んでいたという。――頑是無い無垢だった頃の――私の話である――]

〇佐佐目谷〔附經時墓〕 佐佐ササ〔或作笹(或は笹に作る)。〕目谷メガヤツは、飢渇畠ケカチバタケの西の方のヤツなり。《長樂寺》此のヤツに昔し寺有、長樂寺と號す。法然の弟子隆觀リウクハン住せしとなり。又武藏の守平の經時ツネトキ、寛元四年閏四月朔日に卒し、佐佐目サヽメの山のフモトに葬る。ノチに梵宇をタテらる。又賴嗣ヨリツグ將軍の御臺所ミダイドコロをも、經時ツネトキハカカタハラに立と、【東鑑】に見へたり。今トモに其の所を知人なし。
[やぶちゃん注:「經時墓」については前掲の「蓮華寺の跡」の私の注を参照のこと。「隆観」(久安四(一一四八)年~安貞元(一二二八)年)は浄土宗長楽寺流の祖であった隆寛のことか。藤原資隆の子で、当初は天台宗の学僧であったが、後に法然の高弟子となり、洛東の長楽寺に住した。元久元(一二〇四)年、法然から「選択本願念仏集」を授受したが、嘉禄三(一二二七)年の専修念仏停止の綸旨による嘉禄の法難で法然らと共に遠国追放となり、隆寛は陸奥国配流とされた。ところが護送役の毛利季光(西阿。大江広元四男で関東評定衆であったが、宝治元(一二四七)年の宝治合戦で妻の実家である三浦方に付いて法華堂で息子らと共に自刃した。因みに彼は後の毛利元就の先祖)が帰依、配流地へは八十歳の高齢であった隆寛の身代わりとして弟子が赴き、隆寛は鎌倉で北条朝直(初代連署北条時房四男。後に幕府評定衆)を教化した後、八月に毛利の領地相模国飯山(現・神奈川県厚木市)に入って、同年十二月(没年の安貞元年を西暦一二二七年としなかったのは、この月は既に一二二八年に入っているから)にこの地で没している。寺号といい、ほんの一時とは思われるが、鎌倉での北条朝直教化の折り、ここに住したか。「頼嗣將軍の御臺所」の墓が北条経時と一緒にあるのは彼女が経時の妹檜皮姫ひはだひめ(寛喜二(一二三〇)年~宝治元(一二四七)年)だからである。寛元二(一二四四)年に経時に命で頼嗣の御台所となったが、兄の死去の翌年、十八で夭折した。]

〇塔辻 塔辻タフノツヂは、佐佐目谷サヽメガヤツの東南道端に、二所フタトコロ石塔セキタフり。鎌倉に此の類のタフ多し。ツヂにあれば塔辻タフノツヂと云。建長寺・圓覺寺の前、又雪下ユキノシタ テツ觀音の前、又小町口コマチグチにもあり。【東鑑】等の古記に、塔の辻とすは皆小町口コマチグチを云なり。里俗の云、由井ユヒの長者太郎大夫時忠トキタヾモノ、三歳の兒をワシにつかまれ、方々ハウバウタヅモトめて、道路にてたる骨肉コツニクのある所ごとに、是やの骨肉ならんかとて、菩提の爲に立たる石塔也。是故に所々シヨシヨに塔のツヂと云所ろ多しと。今按ずるに【詞林採草抄】に、大織冠の玄孫に、染屋ソメヤの太郎大夫時忠トキタヾ、南都良辨ラウベンチヽ也。文武天皇の御宇より、聖武天皇の御宇に至るまで鎌倉に居住し、東八箇國の總追捕使となりて、東夷をシヅむとあり。是ならんか。然れども未詳(未だ詳(か)ならず)。良辨のチヽとはいへども、【元亨釋書】にも不載(載せず)。【釋書】に、良辨は近州志賀の里人、或は相州の人ともふと有。又ワシにつかまれし事もあれば、相ひるにや。
[やぶちゃん注:「小町口」鎌倉愛好家には言わずもがなであるが、小町大路は若宮大路東側を、朝比奈からの金沢街道の突き当たりである筋替橋を基点として、南方向に並走、乱れ橋を渡って材木座海岸に出る名称であり、現在の小町通り(この道自体は極めて新しく名称も近代の産物)とは若宮大路を隔てて対称位置にある。なお、「吾妻鏡」の記載からこの「小町口」とは二の鳥居東側、現在の鎌倉警察署北側を言う。正に日蓮の辻説法跡碑が建つ辺りに相当する。
「染屋太郎大夫時忠」この辻の近く、現在の鎌倉文学館近くにある鎌倉青年団の歴史碑「染屋太郎太夫時忠邸跡」には『此處の南方に長者久保の遺名あるは彼の邸址と唱へらる 尚甘繩神明宮の別當甘繩院は時忠の開基なりしと云ふ』記す。
「良辨」良弁(ろうべん 持統天皇三(六八九)年~宝亀四(七七四)年)は、奈良期の華厳僧で義淵に師事、東大寺の開山として知られ、元来は日本人ではない百済系渡来人の一族出身と考えられている。最後の「鷲につかまれし事もあれば」とは「沙石集」などに載せる良弁の説話で、彼は近江国の生れであったが、二歳の頃、野良に出ていた母が目を離した隙に鷲に攫われ、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられて僧となったというもので、三十年の後に観音の結縁によって母子が再会というストーリー。「鷲の育て児」型説話の典型の一つである。良弁は別名金鷲こんす行者とも称する。
「文武天皇の御宇より、聖武天皇の御宇に至るまで」「文武天皇の御宇」は西暦六九七年から七〇七年で、「聖武天皇の御宇」は西暦七二四年~七四九年である。間に元明と元正天皇が入って、実に最大値五十二年間になるが、これは染屋時忠なる人物が良弁の父であったとしても矛盾はない。但し、寧ろこの人物は良弁の関東に於ける大仏勧進の有力な協力者であった可能性が高いと指摘する意見もある。]

〇藤九郎盛長屋敷 藤九郎盛長トウクラウモリナガ屋敷ヤシキは、甘繩アマナハ神明社の前、東の方を云。【東鑑】に、治承四年十二月廿日、武衞ブエイ 御行始ミユキハジめとして、藤九郎盛長トウクラウモリナガが、甘繩アマナハの家に入御し給ふとあり。其後往々ワウワウ見へたり。
[やぶちゃん注:「藤九郎盛長」は安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)頼朝の最初期からの側近中の側近。上野国奉行人・三河守護となったが生涯、官職には就かなかった。「御行始め」とは、新築した居所から初めて外出する儀式を言う。この十二月初旬に大倉御所が完成し同十二日に頼朝の移徙わたましの儀が行われている。]

〇甘繩明神 アマ〔甘或作海士(甘、或は海士に作る)。〕ナハ明神は佐佐目谷サヽメガヤツの西、ミチの北にある茂林なり。天照大神を勸請す。神主カンヌシ小池氏コイケウヂ也。【東鑑】に、文治二年正月二日、二品ニホン〔賴朝。〕幷に御臺所ミダイドコロ甘繩アマナハ神明シンメイミヤ御參ヲンマイリとあり。又甘繩アマナハ神明シンメイ奉幣の事、往々ワウワウ見へたり。卑俗或はアヤマつてたまなはとモノあり。玉繩タマナハと云ふは、山内ヤマノウチの莊の内にあり。〔按ずるに、【東鑑】に、甘繩アマナハに、たまなはと假名を付(け)たり。【北條九代記】に、玉繩タマナハの城を甘繩アマナハと書(き)て假名はたまなはと付(け)たり。【東鑑】は タヾしくして假名あやまり、【北條九代記】は假名正(し)くして字あやまる。讀(ま)ん(とする)人心を付(け)よ。又【關東兵亂記】に玉繩の城あり。皆山の内の莊の内にあるを指すなり。〕此地より西の方は長谷村ハセムラ也。東北の山に隨て、無量寺がヤツまで甘繩アマナハの内なり。
[やぶちゃん注:「甘繩明神」社は関東武士団の神格的存在である源八幡太郎義家生誕の地ともされる、鎌倉でも最も由緒ある鎌倉最古の神社。先に挙がった染屋太郎太夫時忠が和銅三(七一〇)年に創建したと伝えられる。「無量寺が谷まで甘繩の内なり」これは甘縄神社の氏子の地域が扇ヶ谷一帯まで及んでいたのみならず、甘縄という地名が、鎌倉時代には後の扇ヶ谷(「吾妻鏡」には「扇谷」という地名は用いられていないことは「卷之四」の「扇谷」の条にもある)の一部に及ぶ広範囲を呼ぶ地名として普通に用いられていたことを意味している。また、割注によって「玉繩村」や「玉繩城」が広大な山の内荘の中に含まれていたこと、それら(現在の大船地区に相当)を含む上位地名として広範な「山の内」という地名が、本作が書かれた江戸期にあってもやはり普通に用いられていた(少なくともそうした認識が残っていた)ことをも意味していよう。]

〇盛久頸座 盛久モリヒサクビは、塔のツヂの道より南、ハタケハタに、芝野シバノ六七尺四方ノコして有。【長門本平家物語】卷に、主馬シユメの入道盛國モリクニ末子バツシに、主馬シユメの八郎左衞門盛久モリヒサ、京都にカクけるが、年來の宿願にて、等身トウシンの千手觀音を造立して、淸水寺の本尊の右の脇に奉置(き奉り)、千日參詣す。右兵衞の佐殿スケ、北條の四郎時政トキマサヲホセられ、盛久モリヒサ京都にカクたるヨシ キコへければ、北條京中を尋ね求めけれども、更にタヅね不得(ず)。る時下女來て、にや盛久モリヒサは、淸水寺へ夜ごとにマウで給ふなりとぞマフしたる。北條ホフデウ ヨロコんで、淸水寺の邊に人をき、ウカヾせ、盛久をつて、右兵衞の佐殿スケタテマツる。盛久モリヒサ已に鎌倉に下著す。梶原景時カジハラカゲトキ、仰をウケタマハつて、心中の所願をタヅマウすに、子細を不述(述べず)。盛久モリヒサは平家重代相傳の家人、重恩厚德の者也。早く斬刑にシタガふべしとて、土屋三郎宗遠ムネトヲヲホせて、クビハネらるべしとて、文治二年六月二十八日に、盛久を由比濱ユヒノハマに引すゆ。盛久西に向て念佛十邊バカリ マウしけるが、如何イカヾ ヲモひけん、南に向て又念佛二三十遍バカリ マウけるを、宗遠ムネトヲ 大刀タチクビつ。其の太刀ナカよりれぬ、又打(つ)太刀も目貫メヌキよりれにけり。不思議のヲモひをなすに、富士のすそより光り二筋フタスヂ、盛久が身にアタりたるとぞ見へける。宗遠ムネトヲ使者を立て、此由を右兵衞の佐殿に申す。又右兵衞の佐殿の北方キタノカタユメに老僧一人で來て、盛久斬首ザンシユの罪にてられ候が、げて宥免ユウメン サフラふべきヨシ申す。北方キタノカタ誰人タレビト御座ヲハするぞ。僧マフされけるは、我は淸水邊キヨミヅヘンサフラソウなりと申すとヲボへてユメさめて、右兵衞の佐殿ドノに此のヨシ マフさる。コレつて盛久をへされたり。右兵衞の佐殿、所帶ショタイはなきかとひ給へば、紀伊の國にサフラひしかども、君の御領ゴリヤウにまかり成て候サフラふと申す。安堵アンド御下文ヲンクダシブミを給るとあり。又【東鑑】に、大夫の尉伊勢の守平の盛國モリクニ入道、去年し下され、文治二年七月二十五日、斷食ダンジキしてす。コレ下總の守季衡スヘヒラが七男、平家の氏族也とあり。此盛國モリクニは、盛久モリヒサチヽにはあらず。盛久モリヒサチヽ盛國モリクニタメには叔父ヲヂなり。盛久モリヒサ父子フシの事は、【東鑑】に不見(見へず)。
[やぶちゃん注:「主馬の入道盛國」は平盛国(永久元(一一一三)年~文治二(一一八六)年)。平季衡の子で平氏の家士。保元・平治の乱に参戦した、清盛の側近中の側近である。元暦二・文治元(一一八五)年に鎌倉方に捕えられて鎌倉に移送されたが、本文にもある通り、日夜法華経を誦して一切を語らず、遂には翌年に断食して死去した。享年七十四。頼朝はこの盛国の忠義を讃えたという。本文ではこれを同名異人とし、二人の関係は叔父・甥の関係にあるとするが、現在の諸記載は同一人物としている。この同名異人説の根拠を御存知の方は、御教授を乞う。
本話は後に謡曲「盛久」として人口に膾炙するようになった観音霊験譚である。この跡は現在、江ノ電由比ヶ浜駅の北、由比ヶ浜通り長谷東町バス停近くに同定されている。]

〇稻瀨河 《水無能瀨川》稻瀨河イナセガハ、或は水無能瀨川ミナノセガハとも云ふ。大佛の方、御輿嶽ミコシガタケより長谷ハセマヘを、海の方へ流るゝ河なり。【東鑑】に、治承四年十月十一日、御臺所ミダイドコロ〔平の政子。〕伊豆の國阿岐戸郷アギトノガウより、鎌倉に入御し給ふ。日次ヒナミ不宜(宜しからず)に依て、稻瀨河イナセガハの邊、民屋に止宿し給ふ。又元暦元年八月八日、三河の守範賴ノリヨリ、平家追討使ツイタウシとして進發シンハツの時、扈從のトモガラ一千餘騎、賴朝卿、稻瀨河イナセガハの邊に棧敷サンジキカマへ見物し給ふとあり。【萬葉集】のウタに〔作者不知(知れず)。〕「かなしみ、さねにははゆく鎌倉の、水無能瀨川ミナノセガハシホみつなんか」。【夫木抄】に、野宮ノヽミヤの左大臣の歌に、「東路アズマヂ水無能瀨川ミナノセガハにみつしほの、ひるもみえね、五月雨サミダレコロ」。中納言爲相タメスケの歌に、「シホよりもカスミやさきにみちぬらん、水無能瀨川ミナノセガハのあくるミナトは」。又、「さしのぼる水無能瀨川ミナノセガハ夕潮ユウシホに、ミナトの月のカゲぞちかづく」。從三位爲實タメザネの歌に、「ちまがふナミのしほ路もへだゝりぬ、水無能瀨川ミナノセガハの秋の夕霧ユウギリ」。法印堯慧ギヤウヱが歌に、「水アサハマ眞砂マサゴナミも、水無能瀨川ミナノセガハ春雨ハルサメる」。此等コレラの歌、皆此河をみたり。水無能瀨川ミナノセガハと云は、山城・大和・攝津にもあり。又【梅松論】に義貞ヨシサダ、鎌倉合戰の時、大館宗氏ヲヽダチムネウヂ稻瀨河イナセガハに於てらると有も此の所なり。
[やぶちゃん注:「伊豆國阿岐戸郷」は秋戸郷・阿伎戸郷などとも書き、現在の熱海伊豆山温泉、特に入り江のあるホテル水葉亭の付近に同定されている。政子は石橋山合戦で敗れて安房に逃れた頼朝とは別行動をとり、凡そ一か月程、この地に隠れ潜んでいた。
「棧敷」の「サンジキ」のルビはママ。本項のルビは歴史的仮名遣の誤りが多いが、以下、ママ表記は省略する。
「眞かなしみ、さねにははゆく鎌倉の、水無能瀨川に潮みつなんか」は、「万葉集」巻十四にある、
 ま愛しみさ寢に吾は行く鎌倉の美奈の瀨川に潮滿つなむか
で、
――お前のことを、私は心からいとおしく思って共寝するために向かっている――鎌倉の美奈の瀬川は、今頃、潮が満ちてしまっているだろうか――たとえそれでも私はお前のもとに行かずにはおられぬのだ――
と言った意味である。
「野宮の左大臣」徳大寺公継(とくだいじきんつぐ 安元元(一一七五)年~嘉禄三(一二二七)年)のこと。左大臣実定三男。新古今集に五首入集、代々の勅撰集に計十七首が採歌されている。なお、影印本では初句の「東路」のルビが「アズマジヤ」とある。衍字として省略した。
「從三位爲實」五条為実(文永三(一二六六)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)は二条為氏四男。参議。「新後撰和歌集」などに入集。因みに彼の父二条為氏は、藤原北家御子左家嫡流で、権大納言藤原為家長男。和歌の名家二条家祖であるが、正に前掲される異母弟冷泉為相が相続争いの相手であった。
「堯慧」(大永七(一五二七)年~天正二(一六〇九)年)は戦国は江戸初期の真宗僧。権大納言飛鳥井雅綱三男で室町幕府将軍足利義晴猶子であったが出家、現在の三重県津にある専修せんじゅ寺第十二世として真宗高田派を興隆させた。大僧正。
「大館宗氏」(正応元(一二八八)年~正慶二・元弘三(一三三三)年)は上野新田荘大館郷領主。新田義貞の鎌倉攻めに従い、鎌倉極楽寺切通口突破の大将として幕府軍の大仏貞直軍と戦闘の末、五月十九日、討死。
なお、この今となっては何の変哲もない溝川を最も有名にしたのは文久二(一八六二)年初演の二代目河竹黙阿弥作「青砥稿花紅彩画あおとぞうしはなのにしきえ」(通称「白浪五人男」)の二幕目第三場の「稲瀬川勢揃いの場」であるが、これは河名を「鯔背いなせ」に掛けたものと言われている。因みに私はこの弁天小僧菊之助の雪ノ下浜松屋の場で「見顕し」の口上がたまらなく好きだ。鎌倉から江ノ島の名所尽くしを御賞味あれ(台詞の雰囲気を出すために現代仮名遣の正字とした)。
 知らざあ言って聞かせやしょう
 濱の眞砂と五右衞門が
 歌に殘せし盗人ぬすっと
 種は盡きねぇ七里ヶ濱
 その白浪の夜働き
 以前むかしを言やぁ江ノ島で
 年季勤めの稚兒ヶ淵
 江戸の百味講ひゃくみ蒔錢まきせん
 當てに小皿の一文字
 百が二百と賽錢の
 くすね錢せぇだんだんに
 惡事はのぼるかみみや
 岩本院で講中の
 枕搜しも度重なり
 お手長講と札付きに
 とうとう島を追い出され
 それから若衆わかしゅ美人局つつもたせ
 ここやかしこの寺島で
 小耳に聞いた祖父さんの
 似ぬ聲色こわいろで小ゆすりかたり
 名せぇ由縁ゆかりの辨天小僧
 菊之助たぁ俺がことだ
「百味講」は信者が集って寺院に百味の供物を供えること、またその集まりを言う。「蒔錢」は、社寺への参詣者が蒔き米のかわりにまく銭を言う。「小皿の」はけち臭い、「一文字」は一文銭を賭ける小博打。「枕探し」眠っている旅客の枕元から金品を盗むことを言う。「お手長講」手長は盗癖、「講」は集団、徒党を組んだ不良。「寺島」は江の「島」の「寺」の謂いであるが、実は初演の十三代目市村羽左衛門(後に五代目尾上菊五郎)の本姓が寺島で、その洒落でもある。続く「小耳に聞いた祖父さん」も、十三代目羽左衛門の先々代の祖父三代目菊五郎の演技を暗に指した洒落で、「似ぬ聲色」は、卑小表現による先々代へのオード、「名せぇ由縁」は「寺島」からの楽屋落ちの洒落のダメ押しである。]

〇光則寺〔附宿屋光則が舊跡〕 光則寺クハウサクジ行時山ギヤウジサンと號す。大佛へミチ ヒダリにあり。此所を宿屋ヤドヤとも云ふ。相傳ふ、平の時賴トキヨリの家臣宿屋ヤドヤ左衞門光則ミツノリ入道西信サイシン宅地タクチなりと。昔し日蓮、龍口タツノクチにてクビの座に及ぶ時、弟子日朝・日心二人、檀那四條の金吾、父子四人、安國寺にてつて、光則ミツノリアヅけ給ひ、土の籠に入らる。日蓮不思議の奇瑞有て害を免る。つて光則ミツノリシンを起し、宅地タクチに草菴をムスび、日朗を開山祖とす。光則ミツノリチヽの名を行時ユキトキと云。故にチヽの名を山號として、我が名を寺號とすと云ふ。近年、古田フルタ兵部の少輔重恆シゲツネが後室、大梅院再興す。《大梅寺》故に今大梅寺とも云なり。堂に、日蓮・日朗の木像、光則ミツノリ・四條の金吾父子四人の像もあり。妙本寺の末寺なり。
日朗のツチロウ 寺の北の方、山上にあり。
[やぶちゃん注:「四條の金吾」四条頼基(寛喜元年(一二二九)年~永仁四年(一二九六)年)。名越流北条氏江間光時の家臣で、日蓮の有力檀越であった。官位が左衛門尉であったことから、その唐名の金吾で称された。彼の屋敷跡が長谷の光則寺近くに現存する収玄寺である。]


[大佛圖]


〇大佛〔附切通〕 大佛は、大異山淨泉寺タイイサンジヤウセンジと號す。《深澤》此の所を深澤フカサハと云。大佛の坐像、タケ三丈九尺、ヒザの通りにてヨコ五間半、袖口ソデグチよりユビスヘまで二尺七寸餘あり。建長寺の持分モチブンなり。【東鑑】に、暦仁元年三月廿三日、相模の國深澤里フカサハノサト大佛殿の事始コトハジメなり。僧淨光、尊卑緇素ソンビシソを勸進して、此營作エイサククハダつ。同五月十八日、大佛の御頭擧ミグシアゲ タテマツる。メグリ八丈あり。仁治二年三月廿七日、深澤の大佛殿、上棟の儀あり。寛元元年六月十六日、深澤村フカサハムラに一宇の精舍を建立し、八丈アマリの阿彌陀の像を安ず。今日供養をのぶ。導師は、ケウの僧正良信、讚衆十人、勸進の聖人淨光坊、此六年の間だ、〔按ずるに、歴仁元より寛元元まで合せて六年。〕都鄙を勸進す。卑尊ヒソンを奉加せずと云事なしとあり。是皆賴經ヨリツネ將軍の時也。又建長四年八月十七日、深澤里に、金銅にて釋迦如來の像をタテマツると有。宗尊親王の時なり。源の親行チカユキが【東關紀行】に、由比ユヒウラに阿彌陀の大佛を作りたてまつる。コトの起りをタヅぬるに、モトは遠江の國の人淨光上人と云者有。ぎにし延應のコロに、關東の尊卑タカキイヤシキスヽめて佛像を作る。此の阿彌陀は八丈のタケ、木像也とあり。按ずるに暦仁元年に、淨光造作の佛も八丈の阿彌陀佛とあり。延應は暦仁の次の年なり。所謂(謂は所る)六年の内なれば、【東鑑】に符合せり。其の佛は何れの時か滅亡して、今の大佛は金銅の廬遮那佛なり。【東鑑】に所謂(謂は所る)、建長四年にたる佛か。堂なし。礎石のみあり。【鎌倉ヲホ日記】に、應安二年九月三日、大風、鎌倉の大佛殿顛倒。明應四年八月十五日、洪水、由比の濱の海水激揚して、大佛の堂を破るとあり。【建長寺過去帳】に、大佛の開山、大素和尚(、)諱は素一とあり。素一は、中興開山なりと云ふ。
[やぶちゃん注:「大佛は、大異山淨泉寺と號す」とあるが、現在は大異山高徳院清浄泉寺と号し、通称は高徳院で通る。初期は真言宗で極楽寺の忍性らが住持したが、後に臨済宗に改宗、建長寺末寺となった。本書が刊行された貞享二(一六八五)年には未だ建長寺に属していたが、直後の正徳年間(一七一一年~一七一六年)に増上寺祐天上人によって再興されて後は浄土宗に再改宗し浄土宗関東総本山光明寺末寺となって現在に続く。今もって開山・開基は不明で、本文で言及する大仏造立の経緯も史料が錯綜して謎が多い。「今の大佛は金銅廬遮那佛」とあるが、これは天保十二年(一八四一)年刊の「新編相模国風土記」に引き継がれてしまった本書の誤述で、鎌倉大仏は昆廬遮那仏ではなく阿弥陀仏であり、これが混乱に更なる拍車をかけた。これはもしかすると当時の寺僧らによっても昆廬遮那仏と誤伝されており、みんながみんなそう思い込んでいたというのが真相という気がする。現在、一つの推理としては最初に「吾妻鏡」に登場する木造阿弥陀如来が本尊として(銅製鋳造の木型としてではなく)作像され、後、「吾妻鏡」建長四(一二五二)年八月十七日の条に「深澤里奉鑄始金銅八丈釋迦如來像(深澤里に金銅八丈の釋迦如來像を鑄し始め奉る)」(但し、「釋迦」は「彌陀」の誤りととる)際、既存の木造阿弥陀像を木型として用いたのではないかと考えられている。但し、何れも「八丈」(二十六メートル強)と記しており、現在の大仏が台座を含めても総高十三メートル強であるのと一致しない。では本文の言うように「其佛は何れの時か滅亡して」しまったのか? しかし、ちょっと考えても不自然である。超弩級の大きさを誇る鋳造阿弥陀仏が誰にも記されることなくひっそりと朽ち毀れ、また誰も記載することなく新たに小振りに鋳造され祀られたなんてことを誰が信じられよう。そもそも当時の技術で木造八丈というのはあり得るのだろうか? 東大寺の大仏でさえ十八メートル程しかない。私はこの八丈とは、実は立位の仮定身長を示したものではないかと疑っているのであるが、識者の御意見を乞うものである。像を収めていた堂宇は、一部本文に示されている通り、「太平記」「鎌倉大日記」によって建武元(一三三四)年の台風、応安二(一三六九)の台風及び明応七(一四九八)年の地震と津波によって全壊に至り(本文の「明應四年八月十五日」は「鎌倉大日記」の誤りで明応七(一四九八)年八月二十五日が正しい)であり、以後は露座となったことが分かる。
「源親行」(生没年不詳)は鎌倉前期の歌人。河内本「源氏物語」の大成者として知られる。父源光行と共に実朝・頼経・宗尊の将軍三代に和歌奉行として仕え、しばしば鎌倉と京を往復した。「東關紀行」は仁治三(一二四二)年成立とされる「海道記」「十六夜日記」と合わせて中世三大紀行文の一つとされる。作者としては本文にある源親行以外に鴨長明や親行の父光行などが比定されてきたが、現在ではいずれも否定されており、作者未詳である。
「素一は、中興開山なり」江戸時代に書かれた「鎌倉大仏縁起」にも「其後應安二年己酉九月三日に亦大風大佛殿を顚倒せり、此時建長寺の大素和尚大佛殿を再建し給へり、因て大素禪師を大佛の中興開山と申侍るなり」とある。]
[やぶちゃん注:以下の二篇の漢詩は、底本では全体が二字下げ。]

  題銅大佛          東 里 居 士
   自註云、銅大佛、長七八丈、腹中空洞、應容數
   百人、無堂宇、而露坐突兀、洛諺云、南都半佛
   雲狐、雲狐之半佛東福
兄在南都弟東福。   可憐佛亦去年貧。
寶趺塵蝕無堂宇。   腸瘦纔容數百人。

  宿相之大佛寺        義     堂
早歳曾遊頻甲子。  羞將髮白對山蒼。
寺瀕海岸吹松激。  潮退灘沙送月長。
去鴈亡書家萬里。  寒砧牽夢楚三霜。
容懷蕭颯秋風晩。  憐爾園蓀小吐芳。

[やぶちゃん注:以上の漢詩二篇を影印本の訓点に従って書き下したものを以下に示す。自註は文頭まで上げて改行を施さなかった。

    銅大佛に題す        萬 里 居 士
自註に云く、銅大佛、タケ七八丈、腹中空洞にして、應に數百人を容るべし、堂宇無(く)して露坐突兀たり。洛の諺に云(く)、「南都の半佛、雲狐。雲狐の半佛、東福。」と。
  兄は南都に在りて 弟は東福
  憐れむべし佛も亦 年を去(り)て貧しきことを
  寶趺 塵蝕して 堂宇無し
  腸瘦せて 纔かに數百人容る

「萬里居士」は不詳。識者の御教授を乞う。「南都半佛、雲狐。雲狐半佛東福」という京の俚諺は、「京都故事」というこちらのページの記載から推測すると、南都(=東大寺大仏)の半仏が雲狐(=鎌倉大仏)、その鎌倉大仏の半仏が東福寺大仏(高さ五丈の本尊釈迦如来像であったが元応元(一三一九)年に焼失)という、鎌倉後期まで東大寺大仏を日本一と讃える謂いらしい。「半仏」とは元来「半分人で半分仏」の言いであるが、しかし、何故に鎌倉大仏を「雲狐」と呼称しているかが私には分からない。識者の御教授を乞うものである。

    相の大佛寺に宿す       義     堂
  早歳 曾て遊(び)て 甲子頻なり
  羞(す)らくは 髮の白きを將つて山の蒼きに對することを
  寺 瀕して 海岸 松を吹(き)て激し
  潮退(き)て 灘沙 月を送ること長し
  去鴈 書亡し 家 萬里
  寒砧 夢を牽く 楚 三霜
  容懷 蕭颯たり 秋風の晩
  憐む 爾ち園蓀 小しく芳を吐くを

「義堂」本書にはしばしば登場する五山文学の名僧義堂周信。彼は遠い土佐の出身であった。「蓀」は「ソン」で、香草の意。]

大佛の切通キリドヲシ 大佛の西の方なり。常磐里切通キリドヲシゆれば、常磐里トキハノサトへ出るなり。【東鑑】に、治承五年九月十六月に、足利アシカヾ太郎藤原の俊綱トシツナが郎等、桐生キリウ六郎、シユ俊綱トシツナクビを持參して、梶原カジハラ平三がモトに案内を申す。しかるに鎌倉の中にれられず。ジキ武藏大路ムサシヲホヂより深澤フカサハ腰越コシゴヘに向ふとあり。深澤をへてミチ、此道筋ミチスヂならんか。鶴が岡一の鳥居より、此所まで、二十町ばかりあり。
[やぶちゃん注:「足利太郎藤原の俊綱」足利俊綱(?~寿永二(一一八三)年)下野国足利郡棟梁であった有力領主。平家方に与して奮戦したが、家来の桐生六郎に裏切られて謀殺された。ここに載るのは「吾妻鏡」でもよく知られた話である。以下に寿永二(一一八三)年の、その結末を引いておく。
九月十八日。桐生六郎以梶原平三申云。依此賞。可列御家人云々。而誅譜代主人。造意之企。尤不當也。雖一旦不足賞翫。早可誅之由被仰。景時則梟俊綱首之傍訖。
〇やぶちゃんの書き下し文
九月十八日、桐生六郎、梶原平三を以て申して云く、「此の賞に依りて、御家人に列すべし。」と云々。而るに「譜代の主人を誅す造意の企、尤も不當なり。一旦と雖も賞翫に足らず。早く誅すべし、」の由、仰せらる。景時、則ち俊綱の首の傍に梟し訖ぬ。
因みに、私が大学時代に旧鎌倉七切通の踏破を行った時、最も苦労したのが名越とこの大仏切通であった。名越は横須賀線の小坪トンネル左外側を登るまでは良かったが、踏み分け道もなく蜘蛛の巣だらけになって小一時間山中を彷徨った。それでも明らかな人工の石畳みに励まされた(今は逆に整備が入って研究家やハイカーが増え、すんなりと歩けるらしいが、それはそれで淋しい気もする)。大仏切通は常盤口から民家の裏庭を進んで入ったが、途中で崖が崩れており、藤蔓でよじ登って、泥だらけになった。――いや、まだあの頃は蜘蛛の巣と赤土だらけにさえなれば、民家の人も寺の坊さんも笑顔で迎えてくれ、誰も知らない仏像や遺跡を、まだ残っていた数少ない素のままの鎌倉を体験出来た――古き良き時代であった。]

〇御輿嶽 御輿ミコシガ〔或作見越(或は見越ミコシに作る)。〕ダケは、大佛の東の山なり。左京の大輔顯仲アキナカの歌に、「鎌倉や御輿ミコシタケに雪きへて、水無能瀨川ミナノセガハに水まさるなり」とあり。水無能瀨川ミナノセガハは、前に出す。《御輿崎》又は御輿崎ミコシガサキとも云なり。【萬葉集】の歌〔作者不知(知れず)。〕「鎌倉のみこしがサキの岩ぐえの、君がくゆべき、心はもたじ」。中務卿〔宗尊新王。〕の歌に、「ミヤコにははやきぬらん鎌倉や、御輿崎ミコシガサキの秋の初風ハツカセ」とあり。
[やぶちゃん注:「左京の大輔顯仲」は源顕仲(康平七(一〇六四)年~保延四(一一三八)年)で平安後期の公卿。堀河院歌壇で活躍した歌人。本歌も「堀川院御時百首」に所収するもの。
「鎌倉のみこしが崎の岩ぐえの、君がくゆべき、心はもたじ」は「万葉集」巻第十四の、
鎌倉の見越みごしの崎の石崩いはぐえの君が悔ゆべき心はもたじ
で、意味は、
……鎌倉の御越が崎の波で崩れた岩……その、岩くえ――くえ――くい――悔い……貴方が悔いるようなひどい仕打ちをするようなふたごこころは、私めは決して持ちますまいよ……
といった女性の側の誓い歌とされる。
私は小学校の一、二年の記憶の中にこの御輿ヶ嶽に義理の叔父の自転車の荷台に乗せてもらって登った記憶がある。今見るとそんなことは出来そうもない山なのだが、スキー一級の指導員の叔父はサドルの前に赤ん坊の従妹を載せ、僕を後ろに載せてうんうん言いながら確かに登って行った不思議な記憶があるのである。]

〇常磐里〔附常磐の御所の跡。〕 常磐里トキハノサトは、大佛の切通キリドヲシ ゆれば常磐里トキハノサトなり。【東鑑】に、建長八年八月廿三日、將軍家、新奧州〔政村マサムラ。〕が常磐トキハの第に入御し給ふと有。又弘長三年二月八日、政村マサムラ常磐トキハの御亭にて、一日千首の和歌の會の事あり。今此の内に、里民、常磐御所トキハノゴシヨと云傳る所ろあり。政村マサムラテイの跡なり。政村マサムラ常磐院定ジヤウバンインジヤウ〔或作覺(或は覺に作る)。〕ソウと號す。昔し此の所に常磐院を建たる歟。【新後撰集】に、藤原の景綱カゲツナが歌に、「うつろはで、萬代ヨロヅヨノホ山櫻ヤマサクラ、花もときはの宿ヤドのしるしに」。此の歌を【昌琢類聚】に、都の常磐トキハに附たり。鎌倉無案内の故ならん。此の歌の詞書コトバガキには、平の時範トキノリが常磐の山莊にて、寄花祝(花に寄する祝)と云事をよみ侍ハベりけると有。時範トキノリは、北條重時ホフデウシゲトキが孫にて、陸奧の守時茂トキモチが子なり。景綱カゲツナ重時シゲトキが兄、泰時ヤストキが家士也。按ずるに、時茂トキモチをも常磐と號す。政村マサムラヲヒなり。時茂より、時範に至まで、此の所に山莊ありつるならん。しかれば、此の歌、鎌倉の常磐をよめるならん。又此の所に、常葉松トキハノマツと云あり。
[やぶちゃん注:「建長八年八月廿三日、將軍家、新奧州〔政村。〕」の「建長八年」は西暦一二五六年、「將軍家」は宗尊、「新奧州〔政村。〕」は第七代執権北条政村(元久二(一二〇五)年~文永十(一二七三)年)。第二代執権北条義時五男。
「常磐院」とは寺院じみた謂いであるが、実際に現在の常盤にある約十一万平方メートルの北条氏常盤亭跡の指定地内には「法華堂跡」と伝えられる跡もある。
「藤原景綱」は藤原基綱か宇都宮景綱か。藤原景綱は清盛の家士で、一の谷の戦い辺りで行方不明になった平家方で、この常盤の地の事蹟には合わない。同定候補としては本文叙述にマッチする人物として、まず藤原基綱が挙げられる。これについて、「鎌倉攬勝考卷之九」の「陸奧守平重時並政村山莊舊跡」で著者植田孟縉も気付き、以下のように考証している。
【新後撰】
 こゝろはて萬代にほへ山櫻、花もときはの宿のしるしに
                    藤原基綱
詞かきに「平時重が常盤の山井にて、寄花祝といふことをよめる」とあり。此歌を【類字名所】に山城に入たり。【吐懷篇】にも是を考へ殘せし由、昌琢此うたを都の常盤に附せり。皆地理の不案内故なり。時範は時茂の子にて、重時が尊孫なり。時範に至る迄常盤に住せしならん。【鎌倉志】に、藤原景綱が歌とし、平泰時が家士なりとあり。されば尾藤左折將監景綱なれども、是は【東鑑】に、天福二年八月廿一日、武州家令尾藤左近入道道然、依所勞辭職、泰時より先に歿し、泰時の弟の重時が孫なる時茂が頃迄は、四十年餘も前に死たり。たとへ【新後撰集】に、藤原景綱とあるとも、詞書を考へ合すれば違ひなるべし。地理をも誤りあれば、其人を誤りしならん。依て玆に基綱としるせり。後藤大夫判官藤原基綱にて、實朝・賴經・賴嗣將軍家に仕へ、和歌にたづさはれる人なれば、宗尊親王の時迄存命し、山莊にてよみしなるべし。
和歌に異同が認められるが、ここでの×藤原景綱→◯藤原基綱という検証は鋭い。但し、ここのもう一人候補者がいる。以下の「平時範」の注で示す、宇都宮景綱(嘉禎元(一二三五)年~永仁六(一二九八)年)である。宇都宮景綱は将軍宗尊の側近中の側近として重用され、引付衆・評定衆も歴任した人物で和歌もよくした。宇都宮氏は藤原氏の分流である。
「昌琢類聚」は江戸初期の連歌師里村昌琢編「類字名所和歌集」のこと。
「都の常磐」は現在の京都府京都市右京区常盤か。
「平時範」北条時範(文永元(一二六四)年~徳治二(一三〇七)年)。六波羅探題北条時茂(北条重時三男)の子で、引付衆・六波羅探題。「新後撰和歌集」二首採歌されている。参照したウィキの「北条時範」によれば、宇都宮景綱の私家集「沙弥蓮愉集」には、景綱が時範の屋敷で催された花見の席で歌を読んだ記述がある、とする。
「時茂も常磐と號す」とは時茂が常盤流北条氏を名乗った祖であることを言う。
「政村が姪なり」時範の母は北条政村の娘。「姪」は「甥」の意をも持つ。]


[長谷圖]


〇長谷觀音堂 長谷ハセの觀音堂は、海光山カイクハウサンと號す。額に、長谷寺、子純筆とあり〔子純が事、在杉本寺下(杉本寺の下に在り)。〕坂東巡禮フダ所第四なり。光明寺の末寺なり。相ひ傳ふ、此觀音大和ヤマト長谷ハセより洪水にナガされ、馬入バニフへ流れりたるをげて、飯山イヒヤマに有しを、忍性ニンシヤウと、大江の廣元ヒロモトと謀て、此の所にウツすと。按ずるに忍性の傳に、建保五年にまる、十六にて出家すとあり。廣元ヒロモトは、嘉祿元年に卒す。時に忍性ヤウヤく九歳なり。ソノウへ【釋書】に弘長の始め、相陽にるとあれば、此の事不審。又云、和州長谷ハセの觀音と此觀音とは、一木のクスノキにて作れり。和州の觀音はモト、此像は木のスヘ也(と)。十一面觀音にて、タケ二丈六尺二分、春日カスガが作〔按ずるに、春日と云(ふ)は佛師の名なり。佛像のみにあらず、ガクの假面にも春日が作數多あり。舊記に、稽文會・稽主勳は、河内の國春日部の邑の人。兄弟共に佛師なりとあり。是を春日が作と云なり。浮屠附會の説に、春日大明神の作と云て、世人を迷はせり。不可信(信ずべからず)。〕。阿彌陀〔作者不知(知れず)。〕(・)十一面の像〔宅間法眼が作。〕(・)如意輪像〔安阿彌作。〕・勢至の像〔安阿彌作。〕(、)此の像は、畠山重忠ハタケヤマシゲタヾが、持佛堂の本尊と云傳ふ。聖德太子の像〔作者不知(知れず)。〕(・)和州長谷の開山德道上人の像〔自作。〕(。)毎年六月十七日、當寺のにて、貴賤老少參詣多し、寺領二貫文あり。鶴が岡一の鳥居より十八町許あり〔和州長谷寺觀音の像の事、并に德道が傳出【元亨釋書】(【元亨釋書】に出づ)。德道は乃ち法道仙人也。〕。
[やぶちゃん注:「稽文會・稽主勳」影印本では両「稽」の字が《(のぎへん)を(つくり)の左上に移動、(つくり)の中央の「ヒ」を「上」に変えた》字体であるが、底本に従った。二人とも奈良時代の仏師。神亀年間(七二四~七二九)に奈良長谷寺十一面観音像を造立した伝えられている。「稽」は「嵆」とも書く。ここでは「文會・主勳」を兄弟としているが、一説には父を文勲、弟を首勲と言い、やはり仏師であったともいう。長谷寺以外にも法隆寺などの古刹本尊造立の伝承が多い。長く実在が疑われていたが、名前からも唐から招聘された技術者集団と思われ、近年の研究では、その技術が飛騨匠らに継承された可能性が指摘されている。
「子純が事、杉本寺の下に在り」「新編鎌倉志卷之二」の「杉本寺」の条に『子純は建長寺第百五十九世。子純和尚(、)諱は得公歟。』とある。
「飯山」当時の相模国毛利荘内(現在の厚木市内)の地名。上杉和彦氏の論文「日本中世の伝承と相模国毛利荘」によれば、ここは大和国春日社の荘園であったと考えられ、また、そこを領有し、本拠地としたのが、他ならぬ大江広元であると推定される。 「此の事不審」この広元と忍性という有り得ない組み合わせが示されることについて、上杉和彦氏の論文「日本中世の伝承と相模国毛利荘」の結論では、
   《引用開始》
『新編鎌倉志』に見える伝承の中で、忍性との共同作業者として大江広元が登場したのは、広元の毛利荘領有のみならず、忍性が鎌倉幕府の保護を受けたという事実をも背景とし、広元という人格を鎌倉幕府権力の象徴とする意識を前提に成立したものだったのではないだろうか。
   《引用終了》
とされている。創作された当時の幕府内に於ける宗教的・政治的力学を象徴的に示している伝承であるという見解で、目から鱗である。詳しくは当該論文をお読み頂きたい。
「德道上人」(斉明天皇二(六五六)年〜天平七(七三五)年)は、道明上人の弟子で、二人共に奈良長谷寺の開山と伝えられる真言僧。因みに長谷寺は、江戸初期の慶長十二(一六〇七)年の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗して、現在に至っている。]
[やぶちゃん注:以下の棟札は、底本では全体が一字下げ。]
  棟 札
當寺者、觀音竪座之靈場、威力自在之効驗、擧世皆崇信之、雖然、大破年久、不能興焉、方今爲武門永昌、闔國治平之祈念、入圓通之境、開普門之道、乃使巧匠終土木之功、而所經營造替也、相模州鎌倉長谷觀音堂、正保二年乙酉、月日、若狹國主、從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝、奉行成田助右衞門尉、飯田新兵衞尉、大工桐山源四郎。
今の棟札なり。昔の棟札の寫し、光明寺にあり。其文如左(左のごとし)。
大日本國相模州、小坂郡、鎌倉府、海光山長谷寺、荒廢七零八落年久矣、於茲征夷大將軍源朝臣家康、修造再興、上棟不日而成就、豈不觀音方便乎、伏願、官門長保南山壽、久爲北闕尊、次冀佛法紹盛、的々相承、億萬年、維旹慶長十二年丁未七月十二日、大工吉野九郎右衞門尉、棟梁増田四郎左衞門尉、造營奉行石川吉兵衞尉、代官深津八九郎貞久、奉行伊奈備前守忠次、別當春宗、敬白、裡書、福山寶珠菴元英祥珪書焉。
[やぶちゃん注:以下、以上の新旧の棟札を影印本の訓点に従って書き下したものを示す。

《今の棟札》
  棟 札
當寺は、觀音竪座の靈場、威力自在の効驗、世を擧(げ)て皆、之を崇信す。然(る)と雖ども、大破年久(し)く、焉を興すこと能はず、方に今、武門永昌、闔國治平の祈念の爲めに、圓通の境に入り、普門の道を開く。乃(ち)巧匠をして土木の功を終へしめて、經營造替する所なり。相模の州鎌倉長谷觀音堂 正保二年乙酉 月日 若狹の國主 從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝タヾカツ 奉行成田助右衞門の尉 飯田新兵衞の尉 大工桐山源四郎

「闔國」は「かふこく(こうこく)」と読み、国中残る隈なく、の意。「正保二年」西暦一六四五年。「從四位上左近衞少將兼讚岐守源朝臣忠勝」は酒井忠勝(天正十五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年)のこと。武蔵川越藩第二代藩主・若狭小浜藩初代藩主。第三代将軍徳川家光及び次代将軍家綱の老中・大老であった。

《昔の棟札》
  棟 札
大日本國相模の州、小坂の郡鎌倉府、海光山長谷寺、荒廢七零八落年久し。茲に於(て)征夷大將軍源朝臣家康、修造再興す。上棟、日あらずして成就す。豈に觀音の方便ならずや。伏して願(は)くは、官門長く南山の壽を保ち、久(し)く北闕の尊と爲(ら)んことを。次に冀(は)くは佛法紹盛、的々相承、億萬年、維旹コレトキ慶長十二年丁未七月十二日 大工吉野九郎右衞門の尉 棟梁増田四郎左衞門の尉 造營奉行石川吉兵衞(の)尉、代官深津八九郎貞久サダヒサ 奉行伊奈イナの備前の守忠次タヾツグ 別當春宗 敬(し)て白(く) 《裡書ウラガキに》 福山寶珠菴元英祥珪書す

「北闕」は宮中の北の門を言う。帝の北の守りの意。「維旹コレトキ」は『このこと、時に』の意である。「裡書ウラガキに」の部分は編者によるものであろうと思われるので、《 》を附した。]
鐘樓 鐘の銘あり。如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下の鐘銘は、底本では全体が一字下げ。]
   長谷寺觀音堂鐘銘
新長谷寺、椎鐘威力十方施主、消除不祥、消除災難、心中所願、決定成就、檀波羅蜜、具足圓滿、文永元年甲子七月十五日、當寺住持眞光、勸進沙門淨佛、大工物部季重。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘を影印本の訓点に従って書き下したものを示す。
   長谷寺觀音堂鐘の銘
新長谷寺、椎鐘の威力(、)十方の施主、不祥を消除し、災難を消除し、心中の所願、決定成就。檀波羅蜜、具足圓滿。文永元年甲子七月十五日 當寺の住持眞光、勸進の沙門淨佛、大工物部季重。
「椎鐘」は鐘を突くこと。]
慈照院 本堂の北東にあり。
慈眼院 本堂の東にあり。

〇御靈宮 御靈宮ゴリヤウノミヤは、長谷村ハセムラより西南の方にあり。鎌倉權カマクラゴン五郎平の景政カゲマサが祠なり。景政カゲマサが事、【奧羽軍記】に詳かなり。【東鑑】に、建久五年正月、御靈社御奉幣、八田知家ハツタトモイへ使ツカヒたり。御靈の社の事、往々へたり。【保元物語】に、後三年の御合戰に、鳥海城トリノウミノシロヲトされし時、生年十六歳にて、ヒダリマナコをいさせて、其のを不拔(ヌカかず)して、タフて敵をち、名を後代にげ、今はカミといははれたる、鎌倉權五郎景政とあり。神主カンヌシは、小坂氏コサカウヂなり。景政が家臣のスヘ也と云ふ。梶原村カジハラムラにも、御靈の宮あり。里老の云、當社は、モト梶原村に有しを、ノチに此の地にも勸請す。故に今祭禮の時は、彼の所ろの 神主カンヌシふてツトむると也。
[やぶちゃん注:「鳥海城」鳥海柵(とりのみのき:現在の岩手県江刺郡金ヶ崎)。安倍氏大将安倍頼時が戦死した後三年の役の緒戦の戦場。
本項に被差別民であった非人に関わる伝承を持った面掛行列(はらみっと行列)の記載がないのは残念であるが、これは明治の神仏分離令までこの行列が鶴岡八幡宮放生会(八月十五日)で行われていたからであろう。「新編鎌倉志」の大きな弱点は即物的な地誌については微細に網羅しながら、それぞれの社寺での祭礼行事に対する洞察はかなり杜撰である点にある。但し、これは伝統的な地誌に於いては止むを得ないものであろう。祭祀の持つ無形性の核心部分は当時の地誌の記述対象ではなかったからである。なお、文中には梶原の御霊神社が本来の祭祀の場であり、後にここに分祀したという古老の話を載せるが、これは私には信じ難い。但し、ここで神主が祭儀に際して出張して来るという事実の記載は見逃せない。何らかの江戸時代の鎌倉の氏子支配構造や、鎌倉に於ける被差別民の歴史と関係がありそうである。御霊社は全国に数多くあり、ある時、ある人物の御霊信仰が爆発的に伝染し、各地に共時的に祭祀が分立したと考える方が自然な気が私にはするが如何か。梶原にある御霊神社は梶原景時の屋敷跡が同地に比定されることから、同じ鎌倉平氏である勇猛な武将鎌倉権五郎景政を氏族の祖神として祀ったと考えてよい。現在、この坂ノ下の御霊神社の方は、それ以前の平安後期の建立と推定されており、御霊は実は五霊で関東平氏五家の鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭各氏の祖霊を祀った神社が元であったとされている。それが後の御霊信仰の伝播に伴い、鎌倉権五郎景政の一柱となったと考えられているのである。因みに、私はこの神社が大好きである。御霊信仰に纏わるそのルーツの伝承から、力石伝説、江戸時代の滝沢馬琴の長男にして幕府医員であった種継に纏わる父馬琴の涙ぐましい息子の売り込みを感じさせる某人失明事件解明のエピソード、更に国木田独歩が棲んだ近代文学の足跡に至るまで、この神社で語れることは尽きないからである。もう、何年も行っていないな……]



新編鎌倉志卷之五