やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
鎌倉攬勝考卷之八
[やぶちゃん注:底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。「鎌倉攬勝考」の解題・私のテクスト化ポリシーについては「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の私の冒頭注を参照されたい。なお、テクスト化の効率を高めるため、この巻以降(最終巻から昇順に逆にテクスト化している)は私の詳細な注は、取り敢えず中止とし、私が読んで難読・意味不明と感じたものにのみ「注」を附した。これは注作業が面倒だからではない。単純に本書のテクスト化効率を高めるためである(そうしないと「新編鎌倉志」もこれも完成しないうちに私が鬼籍に入ってしまうような不安を感じるからでもある。半ば冗談、半ばは本気で。それだけの覚悟で私は注を附けている)。文中、項目の頭の「○」は、底本では優位に太字である。詳細注は後日に期す。【作業開始:二〇一一年九月七日 作業終了二〇一一年九月十五日】
鎌倉攬勝考卷之八
御所跡並第跡
右大將家柳營舊跡 大倉街坊の北側、平坦の地なり。總計するに凡六町四方許、大倉の御所と稱するは是なり。《賴朝屋敷》土人等が賴朝屋敷と唱ふるは非禮なり。荏柄天神の境地と、和田平太胤長が第地なり。西は三浦駿河前司義村と、畠山次郎重忠が第地、南は大倉の街道に接す。北の方は法華堂の山際に接せり。治承四年九月初旬、千葉介常胤が執奏に仍て、此地を居所と定め給ひ、同十月六日鎌倉に著御し給ふ。いまだ居館修營の沙汰に及ばざれば、民舍をして御宿館と定められ、大庭平太景義に命じ給ひ、先假に居館を營むべしとて、山の内の
[やぶちゃん注:「知家事」は鎌倉幕府の政所の職名。案主(あんじゅ・あんず:文書・記録等の作成保管に当たった職員。)とともに事務を分掌した。「移徙」は「わたまし」又は「いし」と読み、引越のこと。「野叟」は村の古老を言うが、ここでは農民。]
建暦三年五月五日、和田義盛が兵を起して御所を圍みし時、朝夷奈義秀が、御所の南門を破り、廣庭へ亂入しける時に、營中より火を放ち、殿營に火掛りければ、右府は北門より法華堂へ御動座、尼御所と御臺は雪の下別當坊へ御立除あり。翌六日、靜謐に及びしゆへ、右府將軍は、法華堂より大倉の大江廣元が家へ御移、殿營も造建せしかば、廣元が亭より御移徙あり。此時に尼御所の亭は、火災をまぬかれ給ふといふ。偖去る五日、義秀が御所の南庭へ亂入し勇を奮ひけれども、皆人義秀に出あわぬやうに馳廻り、各々義秀が豪勇を畏れしゆへ、出逢ふものなし。義秀相手を求んと八方へ乘廻す時、足利三郎義氏、御所の政所の邊にてはたと行逢、義秀を見て馬を返さんとする處を、義秀馬上ながら義氏の草摺を取。義氏一鞭あてければ駿足ゆへ草摺の緒を切て溝渠の向へ飛越けり。義秀は橋へ廻り追かけんとせし内、義氏迯のびけりとあり。
[やぶちゃん注:「出あわぬ」はママ。]
【鎌倉志】には、正治元年四月、※外へ移されし政所にての事也とあれば、善信が執事する問注所をいふにや。彼所は問注所と唱ふ。義秀が御所の南庭へ亂入せし時の事なれば、御節所の政所の事なるべし。爰の柳營に、右大將治承四年より、實朝將軍承久元年迄御住居の舊館を、尼御臺所の御住所とせられしが、同年九月廿二日申ノ刻、阿野四郎が濱の宅の北邊より出火し、戌の刻に至り南風烈敷、濱の庫倉前より、東は名越の山際に至り、西は若宮大路より北へ延て、二品禪尼御所〔右府舊跡なり。〕燒亡。依て二品禪尼〔政子。〕は、若宮〔賴經將軍。〕御亭へ御移有て、暫く御同居と云云。是より爰の御所の再營を止られければ舊跡とぞなりける。右大將家より賴家・實朝、以上將軍家三代の舊趾、前後合て四十年に及ぶ。此後賴經將軍よりの舊趾は、十町の東北なり。
[やぶちゃん注:「※」=「土」又は「王」+「郭」。「庫倉」は「こさう」と読むようであるが、如何なる倉か不明。「吾妻鏡」にこう現れるところを見ると、由比ヶ浜の、現在の材木座海岸から和賀江ノ島辺りに建っていたと思われる幕府の公的な倉庫(軍用船舶用か何らかの備蓄用か)か。]
宗牧が【東國紀行】云〔天文十三年。〕後藤案内いたし、うちいづるほどに、めにちかき谷々、右大將家の御跡、山かつもこゝろあるにや、はたにもなさず、芝しげらせ、はなち飼駒所えがほなり。するすみ・いけずきひやされしながれ水さひいて閑ぜもみえずと云々。され共此頃までは畑にもひらかざるにや。【梅花無盡藏】に、萬里居士、東相府及び列侯舊栖の地を歴觀して、高聲に
[やぶちゃん注:「さひいて閑ぜもみえず」不学にして読解出来ず、「(名馬所縁の名所なれども)さして閑寂の趣感ぜず」の謂いか? 識者の御教授を乞う。]
將軍家六代御所跡〔幷執權北條氏第跡附代々之大概。〕 若宮小路の東、筋替橋の南小町の北にて、古名大倉なるゆへ、大倉辻又は塔の辻とも唱ふ。此所は治承以來、北條時政・義時迄執權の住居の地なり。然るに承久元年七月、左大臣〔道家公。〕賢息賴經卿下向の砌より、義時が第を以て假の御所に構へ、此地を裂て將軍家の御所とし、北の方北條が亭經營す。【東鑑】に承久元年七月十九日午時、左京大夫義時が大倉の亭へ入御と云云。此御所の地は、三方の地界の所ゆへに區々に唱へ、大倉の御所とも、小町の御所とも、又は若宮大路新造の御所も見へたり。五大堂供養をせらるゝ時、將軍南門を出御、小町大路を北へ行き、塔の辻を東に行くと云云。建長四年四月朔日、宗尊親王御下向、鎌倉着御の路次、稻村崎より由比濵鳥居を經て、西下馬橋に至り、暫く御輿を控へ、前後の供奉人各下馬す。中下馬橋を東へ行、小町口を經て、入御相州〔時賴。〕御亭と云云。自是先、此御所を經營の時、評議有し事を或記に載たるは、元仁二年十月、御所の地形の事を評せられけるに、
同年執權泰時の亭も、十二月十九日新亭へ移徙せしといふ。是迄は、御所も北條の亭も假館にて有しといふ。或説に、相人が御所の地を評せしを、批判せしものあり。若宮大路は、四神相應の勝地なりといへば、將軍家御子孫も繁昌すべきに、承久元年賴經卿纔二歳にて下向、在職十八年にて歸洛し給ひ、御幼息賴嗣卿、纔六歳にて將軍に任ぜられ、在職八年にて天ん變の事度々有しとて、是も急に歸洛、建長七年八月、入道大納言賴經卿逝去〔三十九。〕同年十月賴嗣將軍〔十八。〕。其後は後嵯峨上皇の一の宮、一品中務卿宗尊親王を迎へ奉る〔十二とも十一とも云。〕。鎌倉騒動の事有しゆへ、女房輿を用ひ給ひ、急に御歸洛、網代輿をさかさまに寄て出給ふ。在職廿四年。其後に、後深草〔本院。〕の御子久明親王を迎へ奉り、鎌倉の主君と仰ぎしが、天變度々にて、亂逆の事も有しゆへ、德治三年七月御歸洛、在職廿年、其後御子守邦親王を主君と崇しが、鎌倉騒動絶ず。終に元弘の大亂に及び、在職廿六年、正慶二年五月廿二日〔高時滅亡の日なり。〕、入道せられ、同七年逝去〔三十三。〕。扨條に御歸洛とあるは、皆執權の爲に逐れ給ひしなり。攝家將軍二代、親王將軍家四代、都合六代、承久元年より元弘三年迄に百十五年に及べり。明哲の主將にあらざれば、四神相應の勝地も馮にたらず。是も時道のしからしむる處にぞ有けん。右大將家、治承四年に鎌倉に覇府を開かれしより、實朝公の薨逝承久元年迄三代にして、纔に四十年許なり。夫に六代將軍家の百十五年を加へて、都合百五十五年なり。執權北條時政より、義時・泰時・經時・時賴・時宗・貞時・高時八代なり。【梅松論】には、泰時の子時氏を加へて九代とすれども、實は八代なり。
[やぶちゃん注:「馮にたらず」は「たのむにたらず」(恃むに足らず)と読む。]
○執權 北條氏の第には、遠江守時政住せしが、名越の宅を住所とし、此所には左京大夫義時が住所とせり。右大將家薨ぜられ、賴家十八歳にて繼げるゆへ、是より時政が權抦を執れり。建仁三年九月、比企能員が亂有しより事起り、賴家もまた政道にそむけること多きゆへ、同廿一日、時政・廣元和議し、賴家を伊豆の修善寺へ謫す。元久元年七月、修善寺にて歿し給ふ〔二十三。〕。建仁三年九月、實朝卿纔十歳にて關東の長者になり、征夷將軍に任ぜられければ、尼御所の計らひにて、實朝卿を補佐すべしとて、時政が名越の館へ渡らせ給ふ。然るに時政が、實朝卿を失ひけんと、暴惡を企て、害心うたがひなき由、阿波房潜に二位禪尼へ告申ければ、兼て思ひし處なりとて、直に北條時政・三浦義村・結城朝光・長沼宗政・天野政景・平九郎胤義等して[やぶちゃん注:この頭の「北條時政・」は衍字と思われる。但し、次文に見るように以下の武将は実は首謀者時政が事前に召し集めていた連中であるから、この錯誤が生じたのかも知れない。]、實朝卿を迎へさせ、義時が塔の辻の館へ御移あり。時政が家に警衙とし召集し[やぶちゃん注:前注から考えればここは「召集せし」とあるべきところ。]、御家人皆義時が館へ馳向ひ、實朝卿を守護し、是より義時執權に備り擁護し奉る、扨時政も先非をくひ、此日入道し、翌廿日伊豆の北條へ下向せり。
[やぶちゃん注:以下の「牧の方も失はれけり。」までの文章は底本では全体が一字下げ。]
時政が凶害を謀りしは、其後妻牧の方といふが勸しに依て、實は老耄も及び、後妻にまどはされて、牧の方が産し女の壻は、右衞門佐朝雅なり。其父は武藏前司義信は、平治の亂に義朝に隨ひ、右大將家の兵を揚しに及て、一族の上首たり。其先は甲斐源氏にて、甲斐三郎の裔なれば 此朝雅を將軍になさんとの姦計なり。右大將家の親昵世家の畠山重忠を討せ、又稻毛重成を殺し、比企能員を討滅し、仁田忠常を殺させ、賴家卿をも伊豆へ謫し、其一子一幡をも失ふ。偖實朝卿をも謀らんとせし暴惡、畏るべき事なり。其壻朝雅も、京都にて佐々木盛綱・後藤基淸が爲に討れ、牧の方も失はれけり。
○義時 執權二十年にて、承久の亂後、元仁元年六月十三日卒す〔六十七。〕。【東鑑】には、義時が卒せしを潤飾して、念佛を唱へ順次往生すとあり。【保暦間記】には、近習の小侍に刺殺されしと見ゆ。一説には、深見三郎といふもの、恨有て、其病床にあるに乘じ刺けるを、亘理平太といふ者、七十餘なるが、傍にありて推隔しかど叶ず、義時は刺れぬ。深見をば平太が討けりともいふ。按ずるに、義時も罪惡すくなからず。承久の亂後、三帝〔後鳥羽・土御門・順德帝。〕を流し、二皇子〔六條宮・冷泉宮。〕を流し、一帝〔九條の廢帝と申す。〕を廢し、賴家御卿幷其子二人、又賴朝卿の子一人、賴朝卿の弟〔全成。〕一人、姪一人〔阿野冠者。〕、其上一説には、公曉を討せたることゝもいふ。和田亂に黨せし人々、右大將家の恩顧の人々なるを、皆討せ、内心には名家の列士是をにくむといへども、諸家多く下風に靡き、兵勢多ければ對揚叶ひがたく、仍て無是非唯憤を含みて、其下知に應ぜし人々多かりき。義時が、一つ善事を行ひしは、承久の亂後沒收の地多きを、自分一ケ所も領せず、悉く軍功の人々に分ち與へければ、夫ゆへ天下の諸士渠を仰し事なりといへり。されども罪多ければ、安穩に卒すべき人にあらず。
[やぶちゃん注:義時の死因は「吾妻鏡」には脚気衝心と霍乱(熱中症や急性の胃腸炎・下痢症状を言う)とするが、上記の近習の遺恨による刺殺説の外(グーグル・ブックスの佐藤風人「源実朝の生涯」(二〇〇六年文芸社刊)の立ち読みでは、鶴ヶ岡神宮寺別当職となった公暁の身の回りの世話役として義時が指図して宛がったのが深見三郎
○泰時武藏守 義時が死後二七日に、泰時・時房京より下向〔是迄兩人京都守護、六波羅に住せし始なり。〕。元仁元年六月廿六日下着、先由比濱邊稻瀨川の藤澤左衞門尉淸近が家に宿し、翌廿七日、泰時鎌倉の亭に移る〔小町西北。〕、【東鑑】に見へたり。中一日を隔て二位尼に見參す。直に將軍御後見を命ぜらる。是より執權たり。義時が後妻、泰時が異母、是は伊賀守朝光が女なり。先に時政が後妻牧の方が好計を謀りしと同敷、義時が後妻の女壻、宰相中將實雅を將軍とせんと、後妻の兄弟一類謀し合せしを、二位尼此事を聞出きれて、禪尼の計らひにて各々譴責せられ、皆咎に伏しければ、後室を伊豆北條へ流し、其兄弟伊賀式部丞光宗を初とし、國々へ流され事治れり。同九月五日、泰時は二位禪尼に申請ふて、父義時が遺領を、男女の兄弟に分ち與ふ。二位尼の仰に、嫡子の分すくなし、是は如何にと有しを、泰時申て云、執權の身なれば、所領の事に望なし、只諸弟等に賑すべき事といふ。二位尼も頻に感涙を催し給ひき。是より先に、異母が、伊賀光宗等と奸謀を運せし時、二位尼、三浦義村に和平の謀を廻らすべしとの命有ければ、義村、翌日泰時が許に行て、光村等制止せし由を申す。泰時更に政村に、害心なし、いかで阿黨を存せんやとて、喜びし色もなく、又驚し氣色もなしとぞ。其異母弟政村に、少も怨なく所領を分ち與へけり。斯る寛仁大度にして、よく朝廷を崇め、主君を敬ひ、諸士に親しく、一族を憐み、おのれ儉を以て專らとし、讒に從四位下に敍し[やぶちゃん注:この「讒」は「纔」の誤字であろう。]、昇進せざれば、外の大名等も尊官位を望むものなかりき。
四條院崩御の後に、皇胤ましまはざりしに、土御門院の皇子後嵯峨院を立參らす。成敗式目を定めて、法令を正しくせしかば、天下にて善政を唱へし。依て父祖がなせし惡行も消て。子孫永く武家の權を執りし事も、皆泰時が餘德の報應なるべしといへり。嫡男修理亮時氏は、先立て寛喜元年六月廿九日に歿けるゆへ、嫡孫時氏が子、經時を以て世繼とし、嘉祿三年六月十五日卒〔六十二。〕。執權十九年。
○經時 初左近將監後任武藏守 寛元四年四月十九日、病に依職を辭し、其弟左近將監時賴に讓り、入道し、同閏四月朔日卒す〔三十二。〕。執權纔に五年なり。
○時賴 今左近將監後任相模守 職に任ぜし初に、三浦若狹前司泰村の亂有て、干戈を動し、三浦の黨類を殲し、其後相州義時が三男重時〔泰時の弟。〕京都警衞に在しを招て、兩執權を置。重時陸奧守と成、[やぶちゃん注:「・」を読点に改めた。]時賴相模守と成。是より兩執權加判たらしむる始也〔重時が極樂寺と號す。赤橋等の祖なり。〕。寛元四年七月廿七日、大納言入道將軍賴經卿歸洛し給ふ。前後鎌倉中物騷にて、近國の御家人馳參る事度々、終に寶治元年泰村が事有。建長四年二月廿日、和泉前司行方・武藤左衞門尉景賴上洛す。是は、後嵯峨上皇の一の宮を申下して、將軍とせん爲也といふ。同年四月朔日、一品中務卿宗尊親王御下向。同月三日前將軍賴嗣卿歸洛し給ふ。同五年、時賴建長寺を建て供養す。庚元元年三月、重時加判執權を辭し、其弟政村を執權加判とす。同二年十一月時賴辭職、世を次男時宗に讓。執權十一年、入道し〔三十歳。〕、山の内へ退隱して最明寺と號す。重時・政村兩執權あれども、時賴政務を沙汰せり。弘長三年十一月廿二日、時賴山の内にて卒す〔三十七。〕。
[やぶちゃん注:「兩執權加判」は執権と連署で、連署は実質上の副執権であった。]
時賴先に、惣領式部丞時輔を置て、次男時宗が若年なる者に家を讓りけるゆへ、時宗が代に至り、時輔野心の企有とて、京都六波羅に在りしを討せたり。是時宗が兄を討の罪あれども、時輔が不義の計ひせしより起れりといふ。
○時宗左馬頭 家繼し時は十三歳なるゆへ、武藏守長時〔陸奥入道重時の子なり。〕、左京大夫政村〔泰時の弟重時にも弟なり。〕此兩執權補佐す。文永元年八月、長時卒せしゆへ、時宗執權となる〔相模守に任ず。〕。同三年六月の頃より、鎌倉物騷敷、關東の御家人馳集る。同七月二十日、將軍宗尊親王、女房輿を用ひられて歸京し給ふ。同五年十二月、蒙古の牒状宰府に來る。同十年五月、執權政村卒す〔六十九、義時の四男。〕。義政執權加判〔重時が四男。〕。同十一年三月蒙古襲來。建治三年五月義政加判を辭す。是より時宗一判たり。四年蒙古阿刺罕・范文虎等大いに襲來。六年業時執權加判たらしむ〔重時が子。〕。七年時宗病に依て入道し、道果と號す。此日卒す〔三十四。〕。執權二十一年。家を嫡男貞時に讓る。
○貞時 十四歳にて家を繼、左馬權頭。貞時君年なるゆへ、其外舅秋田城之介泰盛陸奧守に任じ、威を恣にす。内管領平左衞門尉賴綱と快からず、たがひに威を爭ひ、終に亂を生じ、兩家とも討滅せらる。建治十年六月業時入道す。宣時を執權加判とす〔宣時は時房が孫。〕。永仁元年、貞時初て北條東兼時を六波羅より筑紫へ遣し、鎮西探題として長門に置て、西國・中國の事を司らしむ。異賊の押とす〔兼時は時賴が孫、時輔が子なり。建治九年六波羅なり。〕。正應二年八月、俄に惟康親王歸京し給ふ。後深草院の御子、當今の御弟久明親王を迎へ奉り、鎌倉の主君とす。同四年十一月、三河守範賴の玄孫、吉見太郎義世謀反の聞有て、鎌倉にて誅せらる。正安三年八月、貞時入道す。崇演といふ。其壻師時に職を讓る〔師時は時賴が孫、是も時輔が子なり。〕。又時村は政村の子にて長者たれば、師時に副て執權加判せしむ。嘉元三年正月、宗方〔宗方は時賴が孫、駿河守なり。〕、時村を殺す。是師時・時村二人、貞時が名代にて執權せしを、宗方・師時も權を爭ひ、先時村を殺し、師時をも討んと、久明親王の仰と稱し、兵を集しを、貞時怒り、陸奧宗宣・宇都宮貞綱をして宗方を討。宗宣を師時に副て加判せしむ。德治二年鎌倉騷動の事ありしゆへ、久明親王入洛し給ふ。久明の御子守邦親王、纔七歳なるを主君とす。應長元年九月帥時頓死〔三十七。〕。同十月貞時卒す〔四十一。〕。執權十八年、剃髮後十年、都合廿八年。嫡子高時に家を讓る。
[やぶちゃん注:ここに記されるのは前半が霜月騒動、後半が嘉元三(一三〇五)年に起こった嘉元の乱(北条宗方の乱)であるが、多くの研究者の記載を読む限りでは、後者は宗方による騒擾ではなく、実は貞時の北条一族内での求心力の低下の中で、権力闘争を利用した同族内統御を画策した謀略であった可能性が極めて高い。この乱の戦後処理の多くの不審点や、これを期に急速に貞時が執政の意欲を失っていくことが、逆にその疑いを感じさせるものである。またそれが御内人長崎円喜らを台頭させることへと繋がってゆくあたりも、この謀略の結果的な失敗が幕府滅亡をより加速させたと言ってよいであろう。]
貞時十四歳にて家を繼、十五歳にて外祖・外戚を殺す〔城介泰盛・其子宗景。〕。其主君を逐ふ事二人〔惟康・久明。〕帝位を廢する事兩度なり。正應元年貞時が計らひにて、後宇多帝をおろし參らせて、後伏見帝を位に即奉る。正安三年正月、貞時使を遣して、後伏見院をおろし參らせ、後二條院を位に即奉る。其威を恣にして東宮を立給ふも、皆貞時が心に任せらる。國家すでに善政を稱すといへども、干戈頻に動き、城之介泰盛・長崎賴綱・北條宗方・吉見、前後四ケ度なり。只一事稱することは、五年の間、貞時國々へ使を遣し、守護の善惡、民間の疾苦を問ふ。其使行先にて惡事ありしを、貞時知らざりしが、出羽の羽黑の山伏、鎌倉へ來て直訴せしより、使の惡事を糾明し罪に行ひ、夫より使に又使を出すこと、年中に百人餘とあり。夫ゆへに諸國能治り、善政を稱せしといふ。又云、時賴が入道して諸國を遊歴せしことを、古く人の唱ふる處なれども、時賴は卅歳にて入道し、山の内へ退隱し、三十七にて卒す。其間も【東鑑】に缺たる事見へず。殊に多病故、使を出したることも見へず。按ずるに、貞時が使を出して善惡を聞しと混じ、時賴が法號最明寺、貞時が法號最勝園寺といへば、誤り傳へたるものならん歟。
[やぶちゃん注:最後の最明寺時頼と最勝園寺貞時との類似からの名推理は素晴らしい。]
○高時 家を繼〔九歳〕。宗宣と煕時連署執權たり〔煕時は時村が孫、貞時が婿なり。〕、貞時が内管領長崎入道圓喜と、高時が舅秋田城之介時顯と、遺言を請て高時を補佐す〔圓喜は賴綱が甥、光綱が子、時顯は泰盛が弟、賴盛が子。〕。正和元年六月宗宣卒し、煕時一判たり。圓喜・時顯威を奮ふ。同四年煕時卒しければ、基時・貞顯執權たり〔基時は業時が孫、貞顯は義時が玄孫、金澤實時が孫なり。〕。同五年基時職を辭す。高時十四境にて執權と成。文保元年三月相模守〔十五。〕、二年關東より花園帝をおろし後醍醐帝を立。元亨二年、奧の安東五郎反す。是は訴ありしに、圓喜職を高資に讓り、高資驕て高時を蔑如せし頃なれば、兩方より賂を取て、然も私有しゆへなり。又攝州の渡邊・紀州の安田・大和の越智に武家を叛く事は、承久以來、北條を叛く事の始なり。正中元年、土岐賴貞が事有。同二年、日野資朝・俊基下向、嘉暦元年高時入道す〔二十四。〕。崇鑑と號す。北條守時・維貞執權たり。同二年維貞卒す。元德二年茂時執權たり〔煕時の子。〕。同九月高資が逆威甚敷、高時ひそかに其一族高賴をして誅せんとし、事あらはれて高賴奧へ流されて、高資が威彌盛なり。元弘元年八月帝笠置へ行幸、九月笠置陷て帝を捕申て、正慶元年隱妓國へ遷す、五月楠正成兵起り、八月赤松兵起り、二年五月京兩六波羅陷て、仲時・時益討れ、同廿二日高時等義貞の爲に滅さる。當職十一年、入道後七年〔三十一。〕。
守邦將軍同日入道して、同七月逝、卅三歳。
御臺所〔政子〕御産所舊跡 比企谷は比企禪尼が住居ゆへ、其邊にとて兼日御所經營有て、治承六年七月十二日、御臺御産氣に依て御移居あり。御産所の事は、梶原景時に仰付、八月十二日御男子御平産、十月十七日、御臺幷若君御産所より營中へ還入し給ふといふ。
[やぶちゃん注:「比企禪尼」(生没年不詳)は、武蔵国比企郡代官であった藤原秀郷の流れを汲む比企掃部允妻で、源頼朝の乳母。伊豆蛭ヶ小島に流謫の身となった頼朝に二十年の間頼朝に米等の仕送りを続けた(夫は頼朝挙兵前に死去)。長女及び次女はそれぞれ源範頼と源義経に嫁いだ。男子に恵まれなかったため、比企掃部允の家督は甥比企能員を尼の猶子として迎えて継がせた。文治二年(一一八六年)六月十六日の条に、
六月小十六日壬戌。二品幷御臺所渡御比企尼家。此所樹陰爲納凉之地。其上瓜園有興之由。依令申也。御遊宴終日云々。
六月小十六日壬戌。二品幷びに御臺所、比企尼が家へ渡御す。此の所、樹陰納凉の地なり。其の上、
「苽園」は観賞用の瓜の花園か。文治三年(一一八七)年九月九日の条に、
九月小九日丁未。比企尼家南庭白菊開敷。於外未有此事。仍今日迎重陽。二品幷御臺所渡御彼所。義澄。遠元以下宿老之類候御共。御酒宴及終日。剩献御贈物云々。
九月小九日丁未。比企尼が家、南庭に白菊
「開敷」は花が咲き開くこと。参考にしたウィキの「比企尼」によれば、「吉見系図」には『孫娘の婿である源範頼が謀反の咎で誅殺された際、頼朝に曾孫の助命嘆願を行い、範頼の男子』二人を出家させて連座を逃れたとあることから、範頼が修禅寺に幽閉される建久四(一一九三)年八月までの生存は確認で出来る。
この項は年号に誤りがある。これは源頼家の出産所であるから、治承六年(そもそも治承は五年まで)ではなく寿永元(一一八二)年七月十二日のことである。以下に「吾妻鏡」の当該記事を引く。
十二日庚辰。御臺所依御産氣。渡御比企谷殿。被用御輿。是兼日被點其所云々。千葉小太郎胤正。同六郎胤賴。梶原源太景季等候御共。梶原平三景時。可奉行御産間雜事之旨。被仰付云々。
十二日庚辰。御臺所御産氣に依りて比企谷殿に渡御す。御輿を用ひらる。是れ、兼日其の所を點ぜらると云々。千葉小太郎胤正、同六郎胤賴、梶原源太景季等、御共に候す。梶原平三景時、御産の間の雜事を奉行すべきの旨、仰せ付らると云々。
「兼日」は「けんじつ」または「あらかじめ」と読む。頼家出産の記事は、同年中八月十二日の、
十二日庚戌。霽。酉尅。御臺所男子平産也。御驗者專光房阿闍梨良暹。大法師觀修。鳴弦役師岳兵衛尉重經。大庭平太景義。多々良權守貞義也。上總權介廣常引目役。戌尅。河越太郎重賴妻〔比企尼女。〕依召參入。候御乳付。
十二日庚戌。霽。酉の尅、御臺所男子御平産なり。御驗者は專光坊阿闍梨
である。同年中の還御の記事は以下の十月十七日の条。やや長いが比企尼関連の記事でもあるので、全文を引用する。
十七日甲寅。御臺所幷
十七日甲寅。御臺所幷びに若公御産所より、營中に入御す。佐々木太郎定綱、同次郎經高、同三郎盛綱、同四郎高綱等、若公の御輿を舁き奉り、小山五郎宗政、御調度を懸け、同七郎朝光、御劔を持す。比企四郎能員、御
「請所」は「うけどころ」とも。平安末から室町時代にかけて、地頭や荘官らが荘園領主に対して定額の年貢を納入する代わりに荘園の管理を請け負ったシステム。これよって荘園領主は実質的な荘園支配権を失い、荘園制の解体が一気に進んだ。
以上、この頼家の産所(出産時の血の穢れを避けるためであり、恐らく産後は速やかに壊されたものと思われる)は現在の妙本寺の寺内にあったと考えてよい。]
御臺所〔政子〕濱御所の舊跡 建久三年七月十八日、御産所渡御于名越御館〔號濱御所。〕、御産所に經營、是は去る四日御産所新建と云云。
[やぶちゃん注:これは源実朝の出産所である。「吾妻鏡」建久三(一一九二)年七月十八日から引く。
十八日戊子。天霽風靜。御臺所渡御于名越御舘。〔号濱御所。〕被點御産所也云々。
十八日戊子。天、霽、風、靜かなり。御臺所、名越の御舘に渡御す〔濱御所と号す。〕。御産所に點ぜらるるなりと云々。
この「濱御所」とは現在の鎌倉市大町六丁目にあった北条時政の別邸である山荘のことで、現在の釈迦堂切通しは、その裏門に相当する(山荘は釈迦堂切通しから東北東に約百程入った衣張山の麓にあった)。]
竹乃御所の舊跡 先年御産所を點じて、營作し給ひし。賴家卿の姫君にして、賴經將軍の御臺所のすみ給ふ殿舍也。此姫君も比企能員が外孫なるゆへ、此所はもと能員が舊跡なるに依て、此所に設給ひしにや。安貞二年正月廿三日、將軍家〔賴經。〕入御、夜に入て還御といふ。此舊跡、今は妙本寺堺内北寄にて、寺の墳墓の地となれり。
[やぶちゃん注:「竹御所」(建仁二年(一二〇二)年~天福二(一二三四)年)は源頼家の娘、鞠子(または媄子(よしこ)とも)。母は比企能員の娘若狭局(「尊卑分脈」では木曽義仲の娘とする)。二歳で比企能員の変が起こり、父頼家は後、修善寺で暗殺されるが、建保四(一二一六)年に祖母政子の命によって、十四歳で叔父源実朝の正室信子の猶子となった。参照したウィキの「竹御所」によれば、『他の頼家の子が、幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子死去後、その実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は幕府の権威の象徴として、御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした』とある。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の第四代将軍藤原頼経に嫁いだ。『夫婦仲は円満であったと伝えられる』。その四年後の天福二(一二三四)年三月に懐妊し、『頼朝の血を引く将軍後継者誕生の期待を周囲に抱かせるが、難産の末、男子を死産、』竹御所自身も、重い妊娠中毒症と思われる少症状で同時に亡くなってしまう(享年三十三。後掲する「吾妻鏡」では何故か「三十二」とある)。この『竹御所の死により源頼朝の血筋は完全に断絶』することになった。彼女の墳墓は比企一族滅亡の地にしてその菩提を弔う妙本寺にあるが、これは「鎌倉攬勝考卷之七」の「妙本寺」の「祖師堂」の条に、本堂の北にある祖師堂(法華堂)の由来を記して、
賴經將軍の御臺所は、能員の外孫ゆへ、大學三郎、老後御免を蒙り鎌倉へ下り、竹の御所の御爲に、比企谷に法華堂を建立し、僧を集めて持經し、法名を日學といひ妙本と號す。後に寺の名とす。
とある。
なお、間違ってはいけないのは、この「竹乃御所の舊跡」の「吾妻鏡」の安貞二(一二二八)年一月の引用記事は、前二項とは異なり、出産時のことではなく、また、「竹御所」も人ではなく、後の法華堂の位置にあったと推定される彼女個人の住居への渡御を記していることである。以下、「吾妻鏡」から引用しておく。
廿三日丁酉。霽。午尅。將軍家入御竹御所。御狩衣。御乘輿也。越後守。駿河守已下數輩供奉。武州豫被候于儲御所。入夜還御云々。
廿三日丁酉。霽。午の尅、將軍家、竹御所に入御。御狩衣、御乘輿なり。越後守、駿河守已下の數輩、供奉す。武州、豫め儲けの御所に候ぜらる。夜に入りて還御と云々。
ここで誤読し易いのは植田が冒頭で、この比企ヶ谷にある「竹の御所」を、あたかも懐妊する以前にあらかじめ占って、早々と建てられた産所のように記しているからであるが、これは誤りである。何故なら、竹御所の出産は別な場所、北条時房(以下の「吾妻鏡」の『相州』)の屋敷で天福二(一二三四)年に行われているからである。以下、該当箇所を引く(供奉の名簿は省略した)。
七月小廿六日癸亥。御臺所令移御産所〔相州第。〕供奉人々數輩。渡御相州亭之後。及子剋有御産氣。廷尉定員催鳴弦役人。十人參進。〔各白直垂。立烏帽子。〕
天福二年七月小廿六日癸亥。御臺所御産所〔相州の第。〕へ移らしむ。供奉の人々數輩。相州が亭へ渡御の後、子の剋に及び御産氣有り。廷尉定員(さだかず)、鳴弦の役人を催す。十人參進す〔 各々、白の直垂、立烏帽子。〕。
北条時房邸は現在、神奈川県鎌倉市雪ノ下一丁目二七三番に同定されている。若宮大路の西側で鶴ヶ岡八幡宮に近い位置で、妙本寺からは有意に離れている。参考までに以下、「吾妻鏡」の翌日の竹御所の出産・逝去の当該箇所を引いておく。
七日甲子。寅剋御産。〔兒死而生給。〕御加持辨僧正定豪云々。御産以後御惱乱。辰剋遷化。〔御歳卅二。〕是正治將軍姫君也。
廿七日甲子。寅剋御産。〔
「正治將軍」は頼家のこと。幸薄い、しかし忘れ難いもう一つの鎌倉時代史の中の女人である。]
二位禪定尼御所の亭跡 龜ケ谷の邊、御前が谷とも唱ふ。建長三年十一月十三日、禪定二位家御渡徙の儀あり。龜が谷新造の御第に入御し給ふ。御輿を用ひらる。散位廣資朝臣反閇に候す。祿を賜ふ。右近大夫仲親これを役す。扈從〔直垂立烏帽子。〕此二位禪定は、賴經將軍の御臺なり。賴家卿の息女にて、比企能員が孫、二棟の御方とも號せり。
[やぶちゃん注:ここでも植田は前の「賴家卿の息女」で「比企能員が孫」である第四代将軍頼経の正妻竹御所の来歴と混同して大きな誤りを犯している。落飾後に「二位禪定尼」と呼ばれる「二棟の御方」とも呼ばれたこの女性は、同じ頼経の寵妃で幕府政所の公事奉行であった中納言藤原(中原)親能の娘である。「吾妻鏡」の建長三(一二五一)年十一月十三日の該当箇所を引く(扈従の名簿は省略した)。
十三日戊戌。戌尅。禪定二位家有御移徙之義。龜谷新造御第入御。被用御輿。散位廣資朝臣候反閇。賜祿〔二衣。〕。右近大夫仲親役之。扈從〔直埀、立烏帽子。〕。
十三日戊戌。戌の尅、禪定二位家、御移徙の義有り。龜谷の新造の御第へ入御。御輿を用ゐらる。散位廣資朝臣、
本文にも現れるが、「散位」は位階だけで官職を持たないことで、「
公方家營館舊跡〔附公方家代々之大概〕
○基氏朝臣〔左馬頭。〕 御館の地は、五大堂と淨明寺の間の地をいふ。徃昔此所は、右大將賴朝卿治世の始より、大膳大夫大江廣元が宅地にて、建暦三年五月、和田亂の時、將軍の御所兵燹に罹りしゆへ、實朝公此亭へ御移、同八月二日新御所へ此亭より御移徙といふ。仁治年中、五大堂の地を定め給ふ時に、堂地まで彼屋敷の地先かゝりしといふこと、【東鑑】に見へたり。
廣元は嘉祿元年六月十日に卒す〔七十八〕。其四男藏人大夫入道西阿は、毛利氏を稱して、此廣元が第に住居し、寶治元年六月、三浦泰村・同光村が陰謀には黨せざれども、西阿の妻室は泰村が妹なるゆへ、妻室の言に因て、兵起りし時泰村が陣に馳加り、合戰敗績に及びければ、終に三浦が一族とゝもに右大將家の法華堂に籠り、西阿入道父子兄弟自殺し、遺跡沒收の後に、此軸を足利左馬頭義氏入道正義に賜ひしより、足利家の屋敷となり、代々の第地には宮内少輔泰氏住給ひ、左馬頭義氏は爰にすみ給ふ。【東鑑】に、足利左馬頭正義が大倉の亭とあるは、此所の事也。其後尊氏將軍の御父、讃岐守貞氏入道觀爰に住ければ、將軍〔尊氏。〕も同敷住居せられ、元弘二年、讃岐入道此所にて歿し給ふといふ。【梅松論】にいふ、當將軍尊氏重て討手に御上洛、御入洛は同四月下旬なり。〔【太平記】には四月廿七日に鎌倉を立給ふとあり。〕元弘元年にも、笠置城退治の、一方の大將として御發向有しなり。今度は、當將軍の御父淨明寺殿御逝去一兩月の中なり。いまだ御佛事の御沙汰にも及ず、御悲涙に絶食させ給ふ折ふしに、都へ御進發有べきと、高時禪門申間、此上は異儀にも及ずとて御上洛有けり。依て深き御恨とぞ聞へし云云。同五月二日の夜、尊氏將軍の御息千壽王殿〔義詮。時に四歳〕、鎌倉大倉谷の亭を落給ひ、同九日新田義貞が、上野に起て武藏國へ入給ふ時、千壽王殿を家臣紀五左衞門尉具し申て、彼陣に加はり給ふといふ。此事を鎌倉にて貴賤聞傳へて驚きけるに、其後程もなく京都にて尊氏將軍綸旨を賜り、御領所丹波國篠村へ下り給ひ、御旗を揚給ふと云云。扨鎌倉に此事聞へければ、高時禪門大に怒り、當所尊氏將軍の屋敷へ火を懸て燒拂ける。依て同五月廿二日、高時入道滅亡の後、千壽王殿此地へ入給ふに、舊第不殘燒うせけるゆへ、二階堂別當永福寺へ入給ひ、暫く旅館とせらる。翌建武元年、左馬頭直義朝臣下向の時も、永福寺に居給ひ、相模次郎時行亂の砌、尊氏將軍鎌倉へ御打入、大御所呼〔尊氏。〕下御所〔直義〕ともに、又永福寺御宿陣有て、夫より御先先祖代々の若宮大路の舊地へ屋形を構へ、御兄弟父子すみ給ふといふ。是【梅松論】に見ゆる處なり。基氏朝臣を居住の始として、觀應の頃、關八州の主に定め給ひし以來、爰に居館をしめられ、氏滿・滿兼・持氏・成氏朝臣、康正元年に至て鎌倉を落て、下總國古河へ移り給ふ。今川貞世が記せしものに、大御所〔尊氏。〕と大休寺殿〔直義。〕と、又御合體いとゞ定りき。就夫兩御所潜に御談合有けるは、京の坊門殿〔義詮。〕は如何申させ給ふとも、御改させ給ひがたし。然ば終に天下をたもたせ給ひがたかるべし。縱令(タトヒ)少々御政道たがひ申こと有ても、關東の大名等一同をば、日本國の守護たるべし。然らば又此御兄弟の御中に、鎌倉殿を置申されて、京都の御守護になし申されて可有目出度と、御内談有て、坂東八ケ國を光王御料基氏に讓り申されて、御子々孫々坊門殿〔義詮。〕乃御代の守りたれと、くれぐれ申置給ひしなりと云云。
[やぶちゃん注:「兵燹」は「へいせん」と読む。「燹」は野火のことで、戦火の意。
「藏人大夫入道西阿」は毛利季光(建仁二(一二〇二)年~宝治元(一二四七)年)。「鎌倉攬勝考卷之九」の「三浦駿河前司義村第跡」「毛利藏人大夫季光第跡」「大江季光入道西阿墓石」本文と私の注を参照されたい。ここで語られている内容もしっかりカバーしている。]
按ずるに、さればこそ此時、御兄弟御談合の上、基氏朝臣を東城の主とし、執事に畠山圖淸を命じて御歸洛と思はれける。此時は、觀應三年の春の事なれば、基氏朝臣は〔暦應三年に産れ、文和五年鎌倉へ入給ひ、觀應三年に鎌倉の主と成給ふ、時十三なり。〕繞に十三歳ならん[やぶちゃん注:「繞」は「纔」の誤植であろう。]。又同記にいふ、其後兩御所隱れさせ給ひし後、京都を恨み申輩、内々關東を勸め申樣なりしかと、終に大御所の御素意を守らせ給ひしを、京都よりは大休寺殿〔直義。〕の御申によりて、鎌倉を別に取立申たると思召つめられて、御内心には御怖畏有りしにや。如此にては、終に天下の煩と思召て諸神に御誓ひ、鎌倉殿基氏朝臣は、寶篋院殿〔義詮。〕より、先立申させ給ひけると承及しかども、實説は人の知るべきにあらずと云云。是今川貞世が記する處にて、まのあたり見聞せし人なれば、疑ふべきにあらず。偖基氏朝臣は、義詮將軍の同母弟にして直冬は庶兄なり。
[やぶちゃん注:「今川貞世」(嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年?)は鎌倉後期から南北朝・室町初期の守護大名。室町幕府の九州探題・遠江・駿河国の半国守護。法名了俊。幕府内にあって精力的に活躍したが、後に将軍足利義満に謀叛を疑われて失脚、晩年になって「太平記」を自身の体験事実から批判的に論じた歴史書「難太平記」などを書くなど、文人としても名高い。恐らく本項で引かれているのも「難太平記」であろう。私は馬鹿なのか、この「又同記にいふ」以下の意味が今一つ腑に落ちない。何方か、ここだけ分かり易く訳してもらえないだろうか?]
基氏朝臣〔左馬頭。〕、鎌倉にすみ給ふ頃、關東の内上野・下野又は奧羽迄も南方の一味、多く鎌倉の下知に應ぜざれば、鎌倉に居ながら下知を加ふるも手遠なりとて、執事道誓と議せられ、武藏國入間川の岸上に陣營を設給ひ、延文二年より其所へ宿陣をめさる、其遺趾とて、于今岸上に塹壘殘れり。同三年九月、執事道誓が、謀計にて、新田義興を武藏國矢口津にて討亡し、同四年京都の加勢とし、道誓に東國の大軍を將ひて上洛せしめらる。庚安元年に、基氏鎌倉へ還入し給ひ、其年道誓が罪惡を、東國の大名等訴る。依て道誓が罪を譴て追却し給ふ。上杉民部大輔憲顯に越後の守護を賜ひ、執事に命じ給ひければ、元の守護芳賀兵衞入道禪可、越後にて憲顯と戰ふこと數月、又憲顯が執事として越後より鎌倉へ入を、途中にて討んと用意するよし、基氏朝臣聞給ひ、大に怒り、宇都宮へみづから大軍を將て禪可を討給ふ。貞治三年六月の事なり。憲顯鎌倉へ入て執事となれり。然るに同六年四月、基氏朝臣逝し給ふ〔二十八〕。法諡瑞泉寺殿と號す。
[やぶちゃん注:「道誓」は畠山国清(?~正平十七・貞治元(一三六二)年)。改名して道誓を名乗った。足利氏支流畠山氏の出身で南北朝から室町期の守護大名。関東管領。ウィキの「畠山国清」によれば、正平八・文和二(一三五三)年、『尊氏が関東地方の統治のために設置した次男の鎌倉公方足利基氏を補佐する立場の関東管領となり、伊豆の守護となった。同年、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移し(入間川御陣)、遠縁である秩父氏ら武蔵平一揆を率い、武蔵守護にもなり権勢を振る』い、五年後の正平十三・延文三(一三五八)年に南朝方の新田義興を謀殺している。正平十四年・延文四(一三五九)年には第二代『将軍足利義詮からの援軍要請を受け、関西に攻め上った。しかし陣中で仁木義長と対立、幕府執事(管領)の細川清氏と協力し、義長を政治から失脚させる』も正平十五・延文五(一三六〇)年になると、『今度は清氏が義詮と対立し失脚することになり、政治的に苦しい立場となった。国清は軍勢と共に関東へ無断で帰還したが、清氏の投降で攻勢に出た南朝により京都が一時失陥する事態を招くことになり、これにより国清はますます面目を失うことになった』。正平十六・康安元(一三六一)年には『かつての直義派の武将達から基氏に対して国清の罷免の嘆願が出ると、国清は失脚し領国の伊豆へ逃れた。国清は伊豆の豪族達を糾合することで基氏に抵抗しようとしたが、伊豆の豪族達の協力は得られず、三津城や金山城を落とされるなど敗戦を繰り返し、最後の牙城として籠城した修禅寺城も落とされ、基氏に降伏した。その後の国清の消息は定かではなく、降伏時に斬殺されたとも流浪の末に大和で窮死したともいう』とある。「譴て」は「せめて」と訓じているのであろう。]
○氏滿朝臣右兵衞督 基氏朝臣の令息なり。康暦元年〔文和五年三月三日改元。〕、此年の春、鎌倉へ濃州土岐大膳大夫康行が亂聞へて、上杉憲方入道道合、三月十旦豆州三島まで出陣せり。康行も落ぬと聞て三島に逗留せり此折節、氏滿と京都將軍義滿公と心よからず。氏滿は東國にて十一國の兵を隨て、義滿將軍の政務をば天下苦しみしゆへ、將軍を討て、天下の責苦しみを救はんとて、上洛の志あり。義滿公、上杉刑部大輔憲春に書を賜ひしかば、憲春頻に諌しかど、氏滿は用ひられず。憲春諌兼て自害しぬ。氏滿其志を感じ、上洛を止む〔悉敷【大草紙】に見へたり。〕。
[やぶちゃん注:最後の割注の「悉敷」は「委敷」の誤植で、「くはしくは」(詳しく)の「は」の脱落したものか。]
康暦二年、小山下野守義政、宇都宮基綱と戰死す。依て翌永德元年、小山退治として、氏滿朝臣坂東十二國の兵を催し、上杉安房守を將として攻給ふ。氏滿朝臣は府中高安寺に陣座、同九年義政降參、入道して永賢と號し、如何思ひけん、翌年三月又叛きけるゆへ、木戸上杉攻、四月十三日永賢入道自害し、子息若犬丸は落失けり。武衞も、五月朔日村岡より鎌倉へ還入。至德三年五月、若犬丸祇園の城に楯籠、近郷を押領す。當國の守護木戸修理亮が方へ、若犬丸逆寄に攻來。木戸打負て足利庄へ引退く。七月二日、御所發向せられ、古河の城に御座、若犬丸段沒落し行方を不知。依て十二月鎌倉へ還入し給ふ。嘉慶元年五月、常陸國小田讚岐入道直高、野心ありて若犬丸を隠置由聞へしかば、六月十三日、小田が子二人被召預、上杉中務大輔朝宗大將にて小田が城を攻。小田城を落て下野男體山に楯籠る。此城高山にて力攻に落がたし。十一月廿四日より戰といへども、勝負も見へず。翌康應元年五月十七日、曉天に攻ければ、小田家士百餘人腹切て、城中より火を掛燒拂ひ小田沒落す。明德三年五月、陸奧・出羽兩國を鎌倉の御分國に賜ふ。關東にては是只事に非ず、鶴が岡八幡宮の御惠みなるべしとて、宮寺の久敷御修理なかりしを御再營あり。應永三年春、小山若犬丸奧州へ迯下り、田村庄士淸包を賴み、古新田義宗の子新田相州[やぶちゃん注:「古」は「故」の誤字であろう。]、其從弟刑部少輔など大將として、白河邊へ打出る由聞へければ、鎌倉武衞十ケ國の軍兵を將ひて、二月廿八日御進發、六月朔日結城修理大夫が館に御座、新田・小山・田村悉く退散、行方をしらず落けるゆへ、七月朔日鎌倉へ歸座。同四年正月廿四日、會津の三浦左京大夫、若犬丸が幼息二人を捕て參らす。是は六浦の海に沈らる。同五年十一月四日、氏滿朝臣逝す〔四十六〕。永安寺殿と號す。
[やぶちゃん注:冒頭「康暦二年、小山下野守義政、宇都宮基綱と戰死す」というのは、後文を読んでもおかしいことに気づく。戦死したのは
○滿兼朝臣左兵衞督 氏滿朝臣の令息、時に〔二十一。〕。執事上杉中井大輔朝宗入道禪助、應永六年春より陸奧・出羽兩國の堅として、鎌倉の御弟滿貞〔篠川。〕・滿直〔稻村。〕・兩人下向、稻村と篠川に御座。同年十一月廿一日、御所武衞、謀叛の聞へあり、府中高安寺に陣し、又足利庄へ進發せられ、翌七年三月五日鎌倉へ御歸座、管領朝家が頻に諌しゆへなり。
鷹永九年五月、京都にて武家三職・七頭を定めらる。三職は斯波・細川畠〔執事別當。〕、七或は山名・一色・赤松・京極は都奉行〔侍所別當。〕、是を四職といふ。奏者は伊勢守貞行。又武田・小笠原を弓馬札式奉行とす[やぶちゃん注:「札式」は「禮式」の誤りか。]。又兩吉良・今川・澁川は武者頭たりと云云。又關東にても是に倣ひ、鎌倉管領を將軍とも、御所とも、公方とも稱し、執事家老を管領と號す。千葉・小山・長沼・結城・佐竹・小田・宇都宮・那須を八屋形と唱ふ。
同九年奧州の宮方、伊達大膳大夫政宗入道圓教隠謀を企、篠川の滿貞の下知を叛きしゆへ、上杉右衞門佐氏憲發向す。伊達打負て降參す。同十年四月廿五日、新田義隆〔義治の子、相模守。〕、箱根山中底倉に隠れ居たりしを、安藤隼人をして討取。此安藤は底倉・木賀を賜ふ。應永十七年七月廿二日、滿廉朝臣逝す〔二十四〕。勝光院殿と號す。
[やぶちゃん注:「三職」は室町幕府の管領に任ぜられる格式を持つ三家のこと。三管領の別名。「七頭」は、その三管領に次ぐ家格の七家を指す。「兩吉良」というのは、吉良満義・満貞父子が本拠地吉良荘を離れている間に満義四男尊義が吉良荘の東条を強引に押領して東条吉良氏と名乗って独立、尊義と嫡男が支配を維持した西条吉良氏と対立したが、この西条・東条両吉良氏の謂いかと思われる。「八屋形」は関東八屋形のこと。鎌倉公方を支える(時に拮抗する)勢力として守護(若しくは相当格)に任ぜられる格式(屋形号を称することが出来る)絶大な支配権を持った八家を指す。「新田義隆」は脇屋義則(文和四(一三五五)年~応永十(一四〇三)年?)とも言う。「箱根山中底倉」は現在の宮ノ下温泉の富士屋ホテルから武蔵野別館辺り。]
○持氏朝臣〔右兵衞督 幼名光王〕 滿兼朝臣の令息なり。管領上杉右衞門佐氏憲入道禪秀なり。禪秀解辭職、其後憲基。憲實管領なり。此年新田貞方〔義宗の子、刑部少輔。〕侍所千葉介をして七里濱にて斬る。同廿年十一月、奧の宮方伊達松犬丸等、大佛の城に籠る。鎌倉より下知有て、畠山修理大夫國詮〔二本松にあり。〕命じて攻落す。同十九年、由比濱の大鳥居建立し給ふ。同廿二年四月、管領右衞門佐禪秀、御所持氏を恨み申事有て辭職籠居し、潜に御所の叔父滿隆と持仲〔持氏の弟なり。〕等を語らひ、南方の亂を待て兵を起さんとす。同七月關東の兵鎌倉に集る。同廿日歸國すべき由、持氏御所より下知す。同廿三年七月中旬、八州の兵鎌倉に集る。何十一月二日の夜、御所の御叔父滿隆〔新御所殿といふ。〕持氏朝臣の弟持仲〔滿隆の猶子、殿の御所といふ。〕氏憲入道が一族幷同意の老旗をあぐ。同三日。持氏御所、微行して管領憲基が佐介の館に到給ふ。同六日、扇谷の上杉彈正少弼氏定、大將として戰ひけるが軍破れ、持氏朝臣幷管領憲基御供申鎌倉を落らる。上杉氏定手負ければ御供も不叶、藤澤道場へ入て自殺す〔四十三。〕。御所を駿河へ落し、今川を御賴可然とて、御所と憲基を御供せし兵部少輔憲元幷今川、踏止て討死し、夜の間に箱根山に入給ふ。爰にて夜を明し、翌七日箱根別當置證實御案内し、駿河の大森が館へ御入。又夫より駿州瀨名へ御出あり。今川上總介範政を御賴み。憲基は豆州國淸寺へ落行けり。御跡より參る味方の人々も、御所の御行末をしらず、唯伊豆の國淸寺へ御出と心得、追々馳參る。敵も國淸寺に御座と思ひ、國淸寺へ押寄合戰す。敵寺内へ火を懸ければ、憲基は夜に紛れ、越後を差て落行けり。國淸寺にて、木戸將監滿範を初廿一人討死す。此事京都義持將軍聞給ひ、今川幷大森・葛山等へ御教書をなきる。翌廿四年正月、今川・大森・葛山鎌倉へ攻入しかば、禪秀打負て、同十日雪の下の坊へノ入る、滿隆・持仲・禪秀が父子兄弟並ぶ快尊等自害す。同十七日、持氏朝臣鎌倉へ御歸座。岩松持國は、禪秀が聟なるが、上野へ落行殘黨を催し、岩松にて起りしかば、同五月、舞木宮内馳何て戰ひ、岩松持國を生捕鎌倉へ奉りければ、同五月十三日天用を斬る。[やぶちゃん注:この叙述には錯誤がある。「岩松持國」は「岩松滿純」の誤りで、天洋用は満純の法号である。また、彼が鎌倉(江ノ島)龍ノ口で斬首されたのは応永二十四年(一四一七)年の五月十三日とされるので一年ずれている。]同廿九年十月十三日、佐竹上總介入道、持氏朝臣に叛く。閏十月、上杉淡路守憲直に仰て佐竹を攻。佐竹終に打負て、比企谷にて自殺せり。同卅年の春、常陸國住人小栗孫五郎平滿重隠謀を企、鎌倉へ叛しゆへ、持氏朝臣退治として結城が城に御座、八月二日より城攻、小栗も用意の事ゆへ防ぎ戰ひけれど、終に城を攻落さる。小栗行方を不知。宇都宮右馬頭持綱も、小乘と同意にて落行しを、鹽谷駿河守追かけて討取。桃井下總守も佐々木近江入道も、一味の由にて討る。八月十六日、結城より府中高安寺迄歸陣、京都より小栗追討の多勢駿河迄來り、城落ると聞て歸る。翌卅年二月、京都より照西堂御使として高安寺へ來る。五月西堂歸京、九月又府中へ來り、持氏朝臣をさまざま諫て、京・鎌倉御和睦、甲州の武田安藝守は禪秀が縁者なれば、先達て一色刑部大輔持家を向られ合戰し、毎度一色打負けるゆへ、同廿三年持氏朝臣みづから出馬し、武州横山口より發向あり。武田信長と猿橋へ馳向ひ戰けるが、武州の七黨秩父口より亂入するゆへ、信長降參しける。依て鎌倉へ召連給ふ。永享六年十一月。信州の小笠原大膳大夫と村上中務大輔と戰ひ、村上加勢を鎌倉にこふ。持氏朝臣諾す。上杉憲實諌云、小笠原は京都の御家人なり、私に討がたしといふ。是より持氏朝臣と憲實快からず。同四月、村上が加勢として、上杉陸奥守憲直の仰て、武州の本一揆の兵を催しける。是は憲實を誅さん爲と聞ゆ。憲實驚て、七歳の愛子を、七月廿五日上野へ遣す。同六月、持氏朝臣の令息賢王丸元服、義久と名付く。憲實例のごとく京都へ申、諱を望まるべしと、屢諫けれども聞ず。却て渠が參賀の節誅すべき由聞て、病と稱し參らず。八月十四日上野へ赴く。同十五日、御所より一色時直を上野へ差向られ、みづからも武州府中に陣し給ふ。同九月、義教將軍へ綸旨を請ひ、御教書を添て、上杉中務少輔持房を大將として關東に差向く。同月十日箱根合戰、京方打負。去る四日より憲實も、上州白井の城を發し、十九日に武州分陪に陣す。廿七日京勢足柄を越て早川尻に至る。鎌倉方戰ひ破れ。同十月十三日、鎌倉の留守三浦介時高、三浦へ遁る。同十七日、三浦が兵大藏谷等放火、御所燒亡。同十一月十日、三浦介鎌倉に入、義久落る。梁田・名塚・河津等留り戰て死す。同二日持氏朝臣降を請ふ。同五日出家す。義久に家を讓らむ事を請ふ。憲實此由を京都へ訴。義教將軍聞ず。同七日、上杉憲直・一色直兼自害す。同十一年二月、持氏朝臣幷滿貞〔滿兼の弟、篠川殿。〕自殺〔持氏四十二。〕。同廿八日義久自殺〔十五歳。〕。憲實、彼父子の命を請ふ事數十度なれど不叶。依て自殺せんとす。家臣が爲に止られ、豆州國淸寺へ閑居し、出家して長櫟菴と號す〔憲實が事は、末に出せしゆへに茲に略す。〕同十二年正月、持氏朝臣の令息春王・安王兩人、日光山に忍び給ひしを、結城中務大輔氏朝が城へ入給ふ。同四月、上杉淸方結城に向ふ。京都よりの下知にて、慈覺入道をも催す。同年七月廿九日より、結城が城を大軍にて圍む。是より結城合戰なり。鎌倉は持氏朝臣父子、永享十一年二月失給ひしより、寶德元年九月、成氏朝臣鎌倉の主に成給ひし迄、凡十年鎌倉に主君闕たり。
[やぶちゃん注:この持氏と成氏の事蹟は「鎌倉攬勝考卷之九」の「上杉憲忠第跡」その他で詳述しているので参照されたい。「南方の乱」というのは、恐らく小栗判官伝説のモデルとなった、禅秀に組した常陸真壁郡小栗を支配していた小栗満重のことであろう。彼の先祖は南方を号している。]
○成氏朝臣左馬頭 寶德元年九月九日、關東の主となり鎌倉へ入給ふ。持氏朝臣の第四子、幼名永壽王と申き。父持氏朝臣一亂の時、永享十年十一月朔日、僅五歳に成給ふを、鶴岡八幡社迄落しける。然るに、瑞泉寺畠在西堂、懷に入、常陸國住人筑波別當大夫郎等二人御供申、甲州へ忍び行、鍛冶が家に隱れ、夫より信州へ落行て、大井越中守持光を賴置申けるが、同十二年三月四日、御舍兄二人春王・安王、日光山に隱れおはせしを、結城中務大輔氏朝が城へ迎へける時、此永尊王も同敷結城へ行給ひしが、翌嘉吉元年四月結城も落て、氏朝父子自殺、春王・安立捕れ、濃州垂井の金胎寺にて斬れ給ふ。春王〔十五。〕、安王〔十三。〕。此永壽王も捕れ給ひしが、纔に七歳成ゆへ命を助けられ、美濃の守護土岐左京大夫に預らる。武運強き人にて、稀有に命助り給ふを、神明の加護なり。此人出生の時より加持僧にて有し僧、永壽王上洛の前夜、一首の歌を、夢中の告を蒙りけり。
つみの身をよそにさながら引かへて、告に聞つゝよろこびとしれ
彼僧、餘り有がたき御告なれば、此歌を卷數の裏に書て奉りける。されば今度、關東の主に任じ給ふことは、越後の守護上杉相模の守房定、關東の諸士と評議して、九年の内毎年上京して訴状を奉り、基氏の雲孫永壽王を關東の主君とし、等持院殿御遺命を守り、京都の御固たるべき由願ひける。寶德元年正月御沙汰有て、永壽王を關東の主に定め給ひ、將軍御對顏有て、二月十九日關東御下向に議定し、諱の字を賜ひ左馬頭に任じ成氏とぞ稱せり。此君の和歌の師なりし徹書記、歌を贈らる、
九年きみ九重の内をたに、見すともなれし月をわすれそ
あやうきを天かけりてや守るなん、雲井の鶴が岡人のかみ
古への契りたがへず榮えなば、都を仰け君が行すゑ
此人五歳の時召捕れ、十四歳にて關東の主となるを、君恩とは申ながら、偏に鶴が岡八幡宮・荏柄天神の加護なるべしとて、上洛の時に僧が夢相の歌を語りたれば、徹書記、
よろこびとおもひ合せき比款を、つけに北野の夢のしるしは
同年九月九日鎌倉へ御入、御所の造営いまだ出來終らぎるゆへ、淨智寺に御逗留有て、同十一月晦日御所へ移徙あり。管領憲實を召出し給へども、出家して行方をしらず。憲實が末子龍若丸を伊豆より尋出し、老臣等京都へ申て管領とし、右京亮憲忠と號す。管領若輩なる故、家老長尾左衞門尉景仲、諸事を名代に執行ふ。成氏朝臣は、憲忠に對し別義なしといへども、出頭の輩上杉を妨申ものも有けるゆへ、君臣不和となる。其頃扇ケ谷上杉の長臣太田備中守資淸と、山の内の家老長尾景仲は、憲實の時の如く關東を治んとす。成氏朝臣も若輩とはいへども、英武の器なれば、太田・長尾と快からず。兩人は相談、此儘にては如何きま上杉退治程も有まじ、事のおふきにならざる先に、此方より御所を退治すべしと、太田資淸・長尾景仲諜し合せ、一味同心の兵を催し、寶德二年四月廿一日、其勢五百餘騎、御所へ押寄んとする由火急の告有といへども、防戰が不及、廿日の夜半に江島へ遁給ふ。太田・長尾腰越迄追來り、濱邊にて合戰あり。太田・長尾が郎等百餘人討死し、相州糟谷庄へ引退く。憲忠も心より起らざれども叶ふましと思ひ、相州七澤山へ引籠る。御所より京都へ御註進有ければ、龍西堂鹿王院御使として下向、不儀の輩を優め、憲忠と和平可有由御下知なり[やぶちゃん注:「不儀の輩を優め」は「鎌倉大草紙」によれば、ここは「不儀の輩令優免」とあるから、「不儀の輩を優免せしめ」で、「不義の輩ではあるが、大目にみてやって」という意である。植田はそれを短縮し「不儀の輩を優免」とし、尚且つ「免」を「め」と読み、平仮名にしたものかも知れないが、非常に読み難い。]。故安房守が舍弟道悦といふ僧、駿州より江島御陣へ參り、憲忠父子が造意にあらず。全く家人等が企ゆへ、御優めの事を尉ければ[やぶちゃん注:ここは「優免」を「ゆうめ」と読んでいるのであろう。]、御宥恕有て、同八月成氏朝臣鎌倉歸座、憲忠幷太田・長尾も御ゆるしを蒙て鎌倉へ歸る。其後も又隠謀の聞有けるゆへ、翌三年十二月廿七日の夜、憲忠は御所の爲に討れたり。是より彌御所方・上杉方と立分れ、君臣の軍起り、東國の大名里見・千葉・佐竹・結城・宇都宮・小山・武田等は、御所の旗下に屬し其威を奮ふ。長尾・太田も鎌倉を去、山の内上杉・扇ケ谷の上杉、上野と武藏へ移り、成氏朝臣は武州へ働き出て、鬪爭止時なし。太田・長尾、斯ては叶ふまじとて、扇ケ谷上杉持朝・越後の上杉定昌等と議し、成氏朝臣退治の事を京都へ申、御教書幷御旗を申おろし討伐せんとす。然るに享德四年六月十六日、京都よりの御下知を得て、今川上總介範忠、海道五ケ國の兵を催して鎌倉へ攻入、御所を初とし、谷七郷の神社彿寺幷民屋等を燒拂、或は追捕しければ、北條九代の全盛は元弘に滅亡し、尊氏將軍よりの繁榮は、此時皆燒滅し、僧俗他邦へ離散せり。御所方の軍兵悉く敗走して落行、成氏朝臣も武藏國菖蒲に落て、敗軍の士を集め、夫より總州下河邊の城に籠られ、長録元年十月下河邊より古河へ移り住給ふ。其頃扇ケ谷持朝は河越へ城を取立、太田資淸は岩槻へ城を取立、左衞門大夫は江戸城を取立、山の内上杉は上州白井と武州鉢形に住し、御所と兩上杉の合戰年を經て絶ず。數十度の戰の事は、【大草紙】等に見へたれば玆に略す。偖上杉顯定が時に至て、文明十年に成氏朝臣と和平になれり。是より兩上杉又戰を始む。成氏朝臣は明應六年古河にて逝し給ふ〔六十四。〕。
附 録
古河御所之次第
鎌倉に係らざることなれども、成氏朝臣子孫漸々零落し、
沉淪し給ふことの大概をしるす。
[やぶちゃん注:「沉淪」の「沉」は「沈」の異体字。「ちんりん」で没落、落魄れることを意味する語。]
成氏朝臣、享德四年鎌倉を落給ひ、下總下河邊に到り、長祿元年古河に移られ、明應六年逝し給ふ。其令息左馬頭政氏朝臣家を繼、其令息高基朝臣、其令息晴氏朝臣迄古河に住給ひ、天文廿二重に至る迄凡百年許なり。同年十月北條氏康が爲に古河を落され、御所捕えられて相州波多野といふ所に蟄し給ふ。此晴氏朝臣の令息を義氏朝臣といふ。是は北條氏綱が女を迎へ、晴氏朝臣の室とし給ひ、其女の産する人ゆへ、氏康が爲には外甥なれば、諸事氏康がはからひて京都へ申、晴氏の家督とし、左馬頭に任ぜらる。古河御所義氏朝臣と稱し、鎌倉の葛西ケ谷監居館を設け置たるが、【小田原記】に、永祿の初葛西ケ谷にて逝し給ひ、令息はなくて女子二人あり。基氏朝臣より義氏朝臣迄九代にして、鎌倉公方の嫡流は絶たり云云。或書には、天正十年卒去、嗣子なく一女を以て喜連川國朝朝臣の室として、古河御所の名跡とせらるゝ由。尚委敷葛西ケ谷の條を合せ見るべし。
鎌倉執事幷管領之次第
〔義詮朝臣代〕
○上杉修理亮憲藤〔上杉兵庫頭憲房の嫡男なりともいひ、又は憲房の甥なる上杉伊豆守重能が弟なりともいふ。本宅宅間なり。〕左馬頭義詮朝臣鎌倉に御座ゆへ、執事になされけるに、同年三月廿五日信濃國にて討死せしゆへ、【大草紙】に載たれど、執事の間もなく討死せしといへば、もしくは同年とあるは、何年の誤にやあらん。左馬頭義詮朝臣鎌倉を立給ひしは、貞和五年十月四日の事にて、同廿二日入洛せられしかば、貞和五年迄執事の闕たる事は、凡十年許なれども、【太平記】には、貞和より觀應元年迄師冬が執事せし由、又上杉民部大夫憲顯と、高大和守、或は細川阿波守和氏等執事せしよふに見へたり。詳ならず。
[やぶちゃん注:「又は憲房の甥なる上杉伊豆守重能が弟なり」のは植田の考えるように異説なのではない。上杉憲藤は確かに上杉憲房の子である。ところが後に甥の上杉重能が重能の母の弟に当たる憲房の養子となったために、上杉重能の弟でもある訳である。憲藤も重能も足利尊氏・直義とは実の従兄弟関係にある。「何年の誤にやあらん」の「何年」というのは訳が分からない。「何」は不明という意味か、「四」の誤植か。現在の資料では上杉憲藤の関東執事就任は建武四・延元二(一三三七)年で、暦応元・延元三(一三三八)年二月に尊氏に従って上洛、翌月、南朝方北畠顕家軍との摂津渡辺河の戦いで同年三月一五日に戦死している(享年二十一歳)。植田が多様な説に困惑しているのは、当初の関東執事が原則二人体制を取っていたことを理解していないための錯誤である。その初期には上杉憲顕、斯波家長、高師冬、畠山国清らが配されていたが、後に上杉家世襲職となった。義詮の代の関東執事は、
斯波家長 一三三六~一三三七
上杉憲藤 一三三七~一三三八 山内上杉氏
上杉憲顕 一三三八 山内上杉氏
高 師冬 一三三九~一三四四
上杉憲顕 一三四〇~一三五一 山内上杉氏 再任
高 重茂 一三四四~一三四九
で、貞和五年(正平四年)は西暦一三四九年であるから、植田の言うような関東執事の欠員は実際には起こっていない(植田はこの後の記載でもそうであるが、関東執事を枚挙出来ていない)。なお、この内の最後の
〔基氏朝臣代〕
○高播磨守師冬 高武藏守師直養子なり。
或記に云、貞和五年十月、左馬頭基氏朝臣關東の主に任じ給ひ、京都より鎌倉下向せらる。其頃より師冬を執事とし給ひ、觀應元年、基氏朝臣に叛きしゆへ死を賜ひければ、鎌倉を逐電し甲斐國へ遁れ、洲澤の城に楯籠りけるが、國人の爲に洲澤にて討れけり。
[やぶちゃん注:前注の通り、彼は義詮の代に一度、関東執事になっている。ここにも、基氏の代の関東執事を示しておく。
高 師冬 一三四九~一三五一 再任
(ここに欠員期間があるか)
畠山国清 一三五三~一三六一 法号道誓
高 師有 一三六二~一三六三
上杉憲顕 一三六三 山内上杉氏 再々任
上杉 某 一三六四 名前及び出自詳細不詳
(ここに詳細不詳期間あり)
上杉憲顕 一三六六~一三六八 山内上杉氏 就任四度目
貞和五年(正平四年)は西暦一三四九年。「洲澤の城」は現在、須沢城と記すものが多い。山梨県南アルプス市白根町に在った。]
〔同断〕
○畠山阿波守國淸入道道誓
觀應三年尊氏將軍鎌倉下向、政義と御和睦とゞのひ[やぶちゃん注:「ゞ」は「ゝ」の誤植であろう。]、此時より國淸をして基氏朝臣の執事になし給ひ、將軍は無程歸洛し給ふ。其後道誓が謀にて、兵衞佐義興を武藏國矢口の津にて討ける〔【神明鏡】には、延文三年九月十九日の事とあり。【太平記】には、十月十日の事に記し、今も十月十日を例祭の日とするものは、【太平記】に因て設けたれども、此説は誤れるなるべし。〕。延文四年十月八日、京都の御加勢として、道誓大軍を率ひて上洛し、南軍と戰ひ赤坂の城を落し武威を奮ひしが、故執事仁木賴景が弟左京大夫義長を討んと、私の軍を仕出し、今の執事細川淸氏に黨し、義詮將軍を劫して、義長追討の御教書をこひたれどもならず。其處に乘じて南軍大ひに起りしかば、關東の大名等長陣に倦て、思ひ/\に東國へ下向したれば、道誓も鎌倉へ歸る。東國にて、諸大名一致して道誓が罪惡を敬許嗷訴するに依て、御不審を得て謀叛を企て、康安元年の冬、道誓鎌倉を落て伊豆へ走る。豆州へ至り修禪寺へ籠城す。鎌倉より討手を向られければ、貞治元年九月十八日の夜、道誓修禪寺を落て中山道を經て上洛し、吉野へ降を請へども許されず、困窮し竟に死けりといふ。
[やぶちゃん注:畠山国清道誓入道については先行する「基氏朝臣」の注を参照のこと。新田義興(新田義貞次男)の討死の日は、現在でも資料や植田が言う彼を祀る新田神社(東京都大田区矢口)の例祭は、正平十三・延文三年十月十日となっている。]
〔基氏朝臣代〕
○上杉民部大輔憲顯 上杉兵庫頭憲房の二男。貞治三年執事になれり。此人は尊氏將軍の親戚の續にて有けるが、將軍を叛き、御兄弟不和の軍起りし時、錦小路殿へ屬し將軍の敵となり、觀應二年八月十六日、將軍は直義追討の宣旨を蒙り、都を進發し給ふ。直義は十月八日、北陸道を經て鎌倉へ來る。十一月晦日、薩埵山合戰の時、上杉民部大夫憲顯・長尾左衞門等、大軍を將ひて由井・蒲原へ向ひし。夫より直義敗軍に及びければ、上杉・長尾は信濃固へ落行。其後又宮方に屬し、武藏守義宗、越後國より出て碓氷峠に陣せし時、尊氏將軍武州石濵の御陣にて聞給ひ、勸應三年二月廿五日、碓氷峠へ向ひ給ふ。此時民部大輔憲顯は、長尾と同敷新田義宗に一味し、碓氷峠にて將軍と合戰し、軍敗して、義宗は越後へ奔り、上杉憲顯と長尾は、又信濃國へ蟄居せり。【大草紙】に、上杉憲顯の二男民部大輔憲顯、山の内の先祖なり。此人は尊氏公と錦小路御不和の時、錦小路殿の味方に參りけるゆへ、將軍御にくみ有けれど、案内者第一の人にて、關東の堅め此人にあらずんば叶ふまじと思召ければ、召出されけり。其上基氏公の御乳母子にて、幼きより懷きそだて申されける間[やぶちゃん注:底本「そたて」。]、旁可然由にて[やぶちゃん注:「
[やぶちゃん注:「錦小路殿」は足利直義。「薩埵山合戰」は
〔氏滿朝臣代〕
○上杉左衞門三郎能憲 實は憲期顯の從弟、上杉伊豆守重能の子也。
應安二年執事と成、後薙髮し、法名道謹と號し、永和四年四月十七日卒す。
[やぶちゃん注:ここにも、氏滿の代の関東執事(憲春の代で関東管領)一覧を示しておく。
上杉朝房 一三六八~一三七〇 犬懸上杉氏
上杉能憲 一三六九~一三七八 宅間上杉氏
上杉憲春 一三七七~一三七九 山内上杉氏 職名を関東管領に変更
上杉憲方 一三七九~一三九二 山内上杉氏 一三八二年一月辞任・六月再任 法号道合
上杉憲孝 一三九二~一三九四 山内上杉氏
上杉朝宗 一三九五~一四〇五 犬懸上杉氏
最後の朝宗は後半、次代鎌倉公方滿兼の関東管領を引き継ぐ。]
○上杉刑部大輔憲春 民部大輔憲顯の男なり。
氏滿朝臣御代、至德三年の頃より、執事の號を改て管領と唱ふ。康暦元年三月八日自殺す。法號道珍。〔自殺せし謂れは、前に出たれば爰に略す。〕
[やぶちゃん注:割注にある通り、上杉憲春自死の件は、「氏滿朝臣右兵衞督」の項に示されている。]
〔同斷〕
○上杉安房守憲方入道合 憲春の舍弟なり。
康暦元年四月晦日管領と成、明德三年四月廿二日依病辭職、入道して道合と號し、應永元年十月四日卒す。〔法號明月院天樹道合。卒する時年六十、山の門明月院を開建し、此に葬す。〕
[やぶちゃん注:割注の「山の門」は「山の内」の誤植であろう。上杉憲方道合については「新編鎌倉志三」の「禪興寺」の私の注などを参照されたい。]
〔同斷〕
○上杉安房守憲定入道大全 安房守憲方の男。
明德三年四月廿二日管領と成、應永五年十一月四日、氏滿朝臣逝去に依て離職、入道して大全と改す。應永十九年十月卒す。法號光照寺。
[やぶちゃん注:この叙述には複雑な錯誤がある。まず関東管領の順序から言って、ここの項は、
×上杉安房守憲定入道大全
ではなく、憲定の兄である、
○上杉伊豆守憲孝
でなくてはならない。本文も後に滿兼の関東管領となる上杉憲定の事蹟と混同しており、
○「安房守憲方の男。」
及び
○「明德三年四月廿二日管領と成、」
は正しいが(日付は未確認であるが元中九・明徳三(一三九二)年の四月に就任はしている)、
×「氏滿朝臣逝去に依て離職、入道して大全と改す。應永十九年十月卒す。法號光照寺。」
ではなく、
○「応永元年十一月病に依て離職、卒す。」
でなくてはならない。応永元年は西暦一三九四年で、憲孝は辞職後、間もなく死んだと推定されているからである。「入道して大全と改」し、「應永十九年十月卒す」る「法號」を「光照寺」と号するのも憲孝ではなく、後の憲定である。一応、正しいものをフェイクで示す(フェイクであることを示すために西暦を入れた)。
○上杉伊豆守憲孝 安房守憲方の男。
明德三(一三九二)年四月廿二日管領と成、応永元(一三九四)年十一月病に依て離職、卒す。
これらの誤記ははっきり言って歴史的編年記載としては致命的誤謬で、そのために、これ以降の叙述にも大きな錯誤が生じてしまっている。]
〔滿兼朝臣代〕
○上杉中務大輔朝宗入道禪助 犬懸上杉と申す。上杉修理亮憲藤の男なり。
應永五年十一月管領と成、應永十七年七月廿二日、滿兼朝臣逝去に依て解職、入道し禪助と號す。同廿二年八月廿五日卒す。〔壽七十六。〕
[やぶちゃん注:やはり叙述がおかしい。上杉朝宗の関東管領就任は、
×「應永五年十一月」
ではなく、
○応永二年(一三九五)年三月
である。滿兼が大内義弘と共に鎌倉公方足利満兼が呼応して挙兵しようとした際には、これを後に関東管領となる、山内上杉氏の上杉憲定と一緒に諌めている(朝宗は本文にあるように犬懸上杉氏)。朝宗は後、確かに、
○応永十二(一四〇五年)年九月に関東管領を辞任
しているのであるが、滿兼の逝去は
×「応永十七年」
ではなく、
○応永十六(一四〇九)年七月二十二日
である。
ここにも、滿兼の代の関東管領一覧を示しておく。
上杉朝宗 一三九五~一四〇五 犬懸上杉氏
上杉憲定 一四〇五~一四一一 山内上杉氏
憲定は後半、次代鎌倉公方持氏の関東管領を引き継ぐ。朝宗については「鎌倉攬勝考卷之九」の「上杉中務少輔朝宗舊跡」の本文や私の注を参照されたい。]
[やぶちゃん注:本来なら、ここに足利持氏の重要な初代関東管領上杉憲定の事蹟が入らなければならない。以下に、ウィキの「上杉憲定」を参照に、「鎌倉攬勝考」に擬して記載しておく(フェイクであることを示すために西暦を入れた)。
○上杉安房守憲定入道大全 安房守憲方の男。憲孝の舎弟なり。
應永元(一三九四)年、憲方の死に依りて家督を繼ぐ。應永六(一三九九)年、大内義弘に組して幕府に叛せんとせし滿兼朝臣を朝宗とともに諌止。應永十二(一四〇五)年、管領と成る。應永十七(一四一〇)年、持氏叔父滿隆の謀叛起こり、翌十八年辭職、翌十九年十二月十八日卒す〔三十八歳。〕。光照寺大全長基と號す。
持氏の代の関東管領一覧を示しておく。
上杉憲定 一四〇五~一四一一 山内上杉氏
上杉氏憲 一四一一~一四一五 犬懸上杉氏 法号禅秀
上杉憲基 一四一五~一四一八 山内上杉氏 一四一七年四月辞任・同年六月再任
上杉憲実 一四一九~一四三七 山内上杉氏
なお、憲定の法号「光照寺」と同名の時宗の寺院が北鎌倉にあるが、これは全く関係がない。]
〔持氏朝臣代〕
○上杉右衞門佐氏憲入道禪秀 朝宗の男なり。
應永十九年十月管領と成、同廿二年五月二日辭職、其後謀叛し、應永廿四年正月十日、淸隆・持仲を初、禪秀父子兄弟、不殘自殺して家斷絶せり。
[やぶちゃん注:上杉禅秀の乱に関しては、やはり「鎌倉攬勝考卷之九」の「上杉中務少輔朝宗舊跡」の本文や私の注を参照されたい。]
○上杉安房守憲基 故安房守入道大全が男。
應永廿二年五月管領となり、同廿四年正月十日、禪秀滅亡の後、如何思ひけるか、同廿八日辭職、三島へ下向せしを、御所よりさまざまの仰に依て、九月廿四日鎌倉へ歸り、管領に再任し、同廿六年十一月六日、依病職を辭。
系圖に、應永廿五年正月四日卒と云云。
[やぶちゃん注:「如何思ひけるか」とあるが、そもそも持氏と仲違いした犬懸上杉氏禅秀の後釜に山内上杉氏である憲基を据えたことが、禅秀蜂起の火種となった。最初は敗走して越後へ敗走、後に将軍義持らの力で再起して禅秀に勝つのであるが、関東管領として公方の駿河遁走や幕府擾乱の責任、敵対勢力とはいえ同じ上杉氏である禅秀一党を攻め滅ぼし、その流れを衰退させたことへの思いを感じた故と考えてよいであろう。応永「廿六年十一月六日、依病職を辭」すというのは誤りで、「管領に再任」するも翌「應永廿五年正月四日卒」すというのが現在の定説。享年二十七歳の若さであった。]
○上杉安房守憲實 憲基の男なり。
應永廿六年十一月六日、父憲基が闕に補せられ管領となる。其後永享十一年、持氏朝臣父子自害。憲實も此時自殺せんとせしを、家臣長尾芳傳是を止るゆへ、夫より三人の子を引連て豆州國淸寺に閑居し、出家して長棟菴と號す。然るに持氏朝臣の四男永壽王殿、希有にして免れ給ひ、寶徳元年二月京都より下向、左兵衞佐〔【大草紙】には左馬頭。〕、成氏朝臣と稱し、同年九月鎌倉へ御入の時、憲實御迎に參らんとせしが、御父持氏御兄弟三人迄も、憲實が爲にうせ給ひし事、定てうらめしく思召、身の爲子孫のため、大事なりと思ひ參らず。其後京都よりも御下知ゆへ、憲實を召けれど、先達て結城を攻し事をも恥て、子息二人を出家させ、國淸・晟藏主と號し、幷憲實が弟道悦長老と同敷行脚せんとて、一人の子を伊豆の山家へ隱し置、各打連、船に乘て伊豆國より周防國深川の大寧寺に赴き、其後年經て、寛正七年三月六日、山口の大寧寺にて歿すといふ。此の憲實は文武を兼備し、禮法を正しく、上を敬ひ下を惠みしかば、士民歸服しけり。足利の學校は、上古承和六年、篁が造立せし學問所も衰廢して、其舊跡のみ僅に殘りしを、長尾景久に命じ、政所の下知とし今の地に移し、京都將軍幷鎌倉公方家の御名字の地にて、他に異なりとて學領を寄附し、書籍等を異國より取寄、納めし書物今も存せり。武藏國金澤の學校も、北條氏繁昌の時、越後守顯時が、和漢の書籍を集め、學問所の舊跡なりとて此所をも再興して、宋板の書物を納けるが今は悉く散逸せり。【大草紙】に載る處の大略を記す。
[やぶちゃん注:上杉憲実については「鎌倉攬勝考卷之九」の「上杉憲忠第跡」の私の注に詳細を記してあるので、参照されたい。
「先達て結城を攻し事をも恥て」とは、幕命で已む無く出陣した結城合戦に於いて、持氏の遺児春王丸・安王丸が義教の命によって美濃で殺されたことを悔いての謂いであろう。
「晟藏主」は「せいぞうす」と読む。逝去の「寛正七年三月六日」については、現在は文正元・寛正七年(一四六六)年閏二月六日に推定されている。「上杉憲忠第跡」の私の注でも述べたが、彼の死は次期関東管領上杉憲忠の死よりも後である。義の人憲実が、義絶した憲忠の成氏の謀殺によって殺されたことを聞いて慟哭したという逸話は涙なしには読めない。
「足利の學校は、上古承和六年、篁が造立せし」という下りは、植田が述べているように「鎌倉大草紙」に基づくもので、平安期に小野篁によって承和六(八三九)年頃に創設されたという説によるが、篁が下野国に関わる役職に就いた記載はない上に、その頃には彼は流刑処分に遭っており、信憑性がない(
ウィキの「足利学校」による)。]
〔成氏朝臣代〕
○上杉右京亮憲忠 故意實の三男なり。
[やぶちゃん注:先の注に示した通り、「故」はおかしい。彼は父憲実の死の十年も前に謀殺されている。]
寶德元年十一月、京都將軍の御下知を得て諸家相議し、もとの管領憲實が末子、幼名龍若を伊豆の山家より尋出し、管領となせり。無程享德三年十二月廿七日、成氏朝臣の爲に討る〔三十二歳。〕。
[やぶちゃん注:上杉憲実については「鎌倉攬勝考卷之九」の「上杉憲忠第跡」の私の注に詳細を記してあるので、参照されたい。成氏の代の関東管領は実質的には、
上杉憲忠 一四四七~一四五四 山内上杉氏
のみである。成氏が室町幕府から解任されて鎌倉から逃亡、勝手に古河公方を名乗ったに過ぎないので、謀殺された彼一人ということになり、次の「上杉兵部少輔房顯」、次の次の「上杉民部大輔顯定」の頭の割注が成氏の代と掲げるのは、厳密にはおかしい。]
〔同斷〕
○上杉兵部少輔房顯 故管領憲實が五男。
[やぶちゃん注:ここの「故」もおかしい。彼が兄憲顯から引き継いで関東管領に就任した時(享徳四(一四五五)年)には、父憲実は健在、また房顯の死は続く文でも示されている通り、文正元・寛正七年(一四六六)年二月(現在は二月二十二日に同定されている)で、推定されいる憲実の死の同年閏二月六日よりも前になる。実子を失ってゆく義人憲実の悲痛と諦観は、これ以降の関東管領衰退の象徴的映像でもある。]
【大草紙】に云、憲實討れ、かくては叶ふまじとて、長尾入道、越後の守護上杉民部大輔定昌を上州白井へ招き相議し、憲忠の弟憲顯を取立けるが、是も無程寛正七年二月十一日、武藏國五十子の陣中にて、早世せり。〔或は文正元年二月十日ともいふ。〕
[やぶちゃん注:「長尾入道」は山内上杉家家宰として憲定以降、この房顯に至るまで辣腕を振るった長尾景仲。房顯は古河公方となった成氏と交戦を繰り返したが、寛正四(一四六三)年に、老臣長尾景仲が病没し、関東管領の辞意を表明するも、幕府に拒絶されている。:「五十子の陣」は「いかつこのじん」と読み、室町時代中期に武蔵国児玉郡五十子(現・埼玉県本庄市大字東五十子及び大字西五十子の一部)にあった平城のこと。上杉房顕が、古河公方足利成氏との対決の際、当地に陣を構えた。分明九(一四七七)年に逆臣長尾景春によって陥落、これによって山内上杉家は衰退、戦国時代の泥沼が展開していくこととなった。
以下、最後の名目上の戦国初期までの関東管領を示す(いや、謙信はもしかすると、真に理想的な関東管領であらんとしたのかも知れない)。但し、後に古河公方を支配下に置き、上杉憲政との抗争で関東での実権を握った一五五二年頃より、関東管領を自称したという北条氏康は除いた。
上杉房顕 一四五五~一四六六 山内上杉氏
上杉顕定 一四六六~一五一〇 山内上杉氏
上杉顕実 一五一〇~一五一五 山内上杉氏 古河公方足利成氏次男・上杉顕定養子
上杉憲房 一五一五~一五二五 山内上杉氏
上杉憲寛 一五二五~一五三一 山内上杉氏 古河公方足利高基次男・上杉憲房養子
上杉憲政 一五三一~一五六一 山内上杉氏 北条氏康が実権を奪取
上杉政虎 一五六一~一五七八 上杉憲政から家督と関東管領職譲渡 後の上杉謙信
織田信長の家臣であった滝川一益を最後に掲げる資料があるが、信長は足利義昭を追放して足利幕府の機構自体を否定しているのであるから、ここに挙げるべきではないと考える。]
〔成氏朝臣代〕
○上杉民部大輔顯定
同記に云、寛正七年二月十二日、房顯陣中にて歿せしゆへ、越後の守護上杉相模守房定の二男顯定を招き、諸家相議し、兵部少輔房顯が妹聟として、山の内を相續せしむべき由、長尾・扇ケ谷へも相談し、豆州政智御所の下知を請て、顯定を山の内殿に移し管領とす。寛正七年六月なり。九月改元文正となる。康正元年六月〔寶德四年也。〕、成氏朝臣古河へ奔り、山の内房顯は武州五十子に陣し、顯定も又其所に居れり。扇ケ谷の定政は、河越或は岩槻に住して、鎌倉をば御所も兩上杉も立去て、武藏國にて、御所と兩上杉合戰絶へず。漸く文明十年に成氏朝臣と上杉顯定和睦となり、是より顯定は上州白井へ歸城すとあれば、鎌倉には兩上杉も不住、山の内・扇ケ谷と稱號するのみ。此頃扇ケ谷修理大夫定政が長臣、太田道灌武略を廻らしけるゆへ、東士多く山の内を叛き、扇ケ谷へ從ふもの多ければ、是より兩上杉の軍起りけるが、管領顯定が謀にて、其主定政に長臣道灌を討せければ、又是より扇ケ谷の上杉は漸く衰へける。永正六年、越後の守護上杉房能〔越後府内の城主、管領賴定の弟なりと【北越記】に見ゆ[やぶちゃん注:「賴定」は顯定の誤り。]。〕を、家臣長尾越後守〔或は信濃守。〕爲景、逆心を起し弑しけるゆへ、管領顯定は越後へ出來し、爲景を討伐せんとて合戰に及びしが、永正六年六月、越後妻在莊長森原にて討死す〔五十七。〕。法號海龍寺可淳晴峰。此人十四歳の時より越後を出、山の内へ赴き管領となり、關東を領する事四十數年なりき。顯定實子なかりしかば、養子三人あり。【北越記】に云、一人は古河御所政氏朝臣の御末子四郎顯實、此人を諸家相議して、武州鉢形の城に入置けり。又二人は故管領憲實が二男、晟藏主に二人の男子あり。嫡男を五郎憲房といひ、次男を六郎定憲といふ。此二人をも養子とせり。五郎憲房は故憲實が孫なれば、東國の人々、衆議して管領の嗣となし、弟定憲は、越後上條の上杉兵庫助定實の弟分となし、上杉播磨守と號す。此人は大永元年、越後國頸城合戰の時自害すといふ。
[やぶちゃん注:「豆州政智御所」とは堀越公方(堀越御所)と呼ばれた足利政知(永享七(一四三五)年~延徳三(一四九一)年)のことで、名は政智・政氏とも記される。室町幕府第六代将軍足利義教次男。第七代義勝の異母弟、第八代義政の異母兄。後の第十一代義澄の父(以後、最後の第十五義昭まで彼の家系で続いた)。当初は出家していたが、康正三・長禄元(一四五七)年、鎌倉府の諸将から要請を受けた将軍義政の命により還俗、幕府に叛く足利成氏に対抗すべく長禄二(一四五八)年に下向、伊豆堀越に居を構えた。彼は成氏から剥奪されて空位となっていた鎌倉公方に取って代ることを考えていたが、長い闘争の末に、本文にある通り、上杉顕定と成氏が和睦してしまい、彼も文明十四(一四八二)年に成氏と和睦、遂に入鎌することも出来ずに後は伊豆北条にあって伊豆国一国の支配に留まった。晩年には幕府管領細川政元と内通して第十代将軍義植(よしたね)廃立を企てたりしたが、策半ばにして延徳三(一四九一)年、五十七歳で亡くなっている(但し後、義植は最終的に失脚し、政知の三男義澄が第十一代将軍となる)。死後、彼の家督相続に関わる内紛が起こるが、これが北条早雲による伊豆侵攻の原因となった。
「管領顯定が謀にて、其主定政に長臣道灌を討せければ」の「定政」は、上杉定正が正しい。何故、彼が敏腕の家臣道灌を討ったかについては諸説がある。ウィキの「上杉定正」によれば、成氏と顕定の和睦が成立するが、扇ヶ谷上杉氏の定正は『山内家主導で進められたこの和睦に不満であり、定正と山内顕定は不仲になる。また、乱の平定に活躍した家宰太田道灌の声望は絶大なものとなっており、定正の猜疑を生んだ』。文明十六(一四八六)年に『定正は太田道灌を相模糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招いて暗殺。死に際に、道灌は「当方滅亡」(自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという意味)とうめいたと』される。『謀殺の理由について、定正は「上杉定正消息」で家政を独占する太田道灌に対して家臣達が不満を抱き、道灌が(扇谷家の主君にあたる)山内顕定に逆心を抱いたためと語っている。これは定正の言い分であり、道灌の方も「太田道灌状」にて定正の冷遇に対する不信を述べている。実際には、家中での道灌の力が強くなりすぎ定正が恐れたとも、扇谷家の力を弱めようとする山内顕定の策略に定正が乗ってしまったとも言われる』とある。いずれにせよ、本文通り、また道灌の予言した通り、これが扇ヶ谷上杉氏の衰滅へと繋がってゆく。
「長尾爲景」は上杉謙信の父。
「越後妻在莊長森原」「妻在莊」は妻有荘(庄)で「つまりのしょう」と読み、古くは津張郡で、「つばり」が「つまり」となったものか。長森原は現在の新潟県六日町東北で六万騎山山麓。この一帯広域が妻有庄に含まれたか。
「古河御所政氏朝臣の御末子四郎顯實」一説に堀越公方足利政氏(政知)の弟。
「鉢形城」は現在の埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にあった城。
「弟定憲は、越後上條の上杉兵庫助定實の弟分となし、上杉播磨守と號す。此人は大永元年、越後國頸城合戰の時自害すといふ」という記載は現在の記載とは異なる。例えばウィキの「上条定憲」(上条氏は上条上杉氏)によれば、彼は上杉房実の子あるいは孫、或いは上杉顕定の実子とする説が掲げられており、逆に憲実の子晟蔵主の子という説を挙げていない。但し、『守護上杉氏に対し下克上した長尾氏に対し反抗的で』、永正六(一五〇九)年、『上杉顕定の越後侵攻に際しても長尾為景に敵対した(このときはのちに寝返って顕定を敗死に追いやったとされる)』とあり、永正十(一五一三)年に『上杉定実ら守護方と為景のあいだで抗争が勃発すると定憲も定実に応じて挙兵した』とあるから、「上杉兵庫助定實の弟分」というのは強ち誤りではない。但し、「頸城合戰の時自害す」とあるが、ウィキでは、その後も為景との抗争が再燃、国内外の反為景勢力の糾合に成功、天文五(一五三六)年に遂に『為景を隠居に追い込んだ』。『その後の動向は不明である』と記し、自害の記載はない。「頸城合戰」なる戦さも探し得なかった。ただ、天文五(一五三六)年四月十日に上条定憲・柿崎景家が頸城平保倉川にかかる三分一橋一帯で為景軍と激突した天下分け目の激戦がある(緒戦は為景軍が不利であったが、戦中に柿崎景家が寝返って上条本陣を襲撃したため、戦況が逆転、定憲は敗走した)。何となく、これっぽくは、ある。]
◯上杉兵部大輔憲房 顯定が孝子なり。實は憲實が孫にて、晟蔵主の子なり。
顯定戰死の後、關東の諸家相議し、山の内上杉の世繼とさだめて、上州白井に在城し、永正十五年管領に任ず。其後大永五年四月十六日白井にて卒す。
[やぶちゃん注:「白井」は「しろい」と読み、現在の群馬県渋川市白井。]
◯上杉民部大輔憲政 憲房の男なり。
憲政の管領に定りし年時、しかとしりがたし。
[やぶちゃん注:すでに示した通り、憲政は前任者上杉憲寛(古河公方足利高基次男で山内上杉氏憲房養子)を追放、山内上杉家家督を継いで関東管領に就任した。享禄四(一五三一)年のことである。]
相模・武藏は、大概小田原北條の爲に奪れ、天文年中河越合戰の時、兩上杉敗軍せしかば、憲政上州白井にも留まり兼ける故へ、弘治三年五月、憲政上州を沒落して越後へ奔り、長尾景虎入道謙信へ、上杉苗字幷管領職を讓り、父子の契約をぞしたりける。謙信尊敬し、越後の館の城へ安居せしめけるが、國中人民も管領の住給ふ所なればとて、
[やぶちゃん注:「上杉苗字幷管領職を讓」ったのは永禄四(一五六一)年三月で、鎌倉鶴岡八幡宮において長尾景虎に山内上杉家家督及び関東管領職を譲渡している(管領職の末期で辛うじて鎌倉が出現する数少ないシーンである。一説には永禄二(一五五九)年とも言われ、また更に先行する景虎を養子にした際(弘治三(一五五七)年頃)、既に関東管領職は譲渡していたとも言われる)。
「
「憲政は、景勝が家士霧澤左京之進といへる者の爲に、過て討れける」とあるが、ウィキの「上杉憲政」によれば、天正六(一五七八)年に謙信が死去すると、『養子景虎と景勝との間で家督をめぐる争い(御館の乱)が勃発する』(これも「おたてのらん」と現在は読む)。『旧山内上杉家臣に北条氏との関係を重視する意見もあって、憲政は景虎を支持したとされる。一方、当時越後に亡命していた山内旧臣の大部分(大石綱元、倉賀野尚行ら)は景勝方についていることが確認されている為、実際は不明である』。『当初は拮抗していた争いも、越後の国人勢力や武田勝頼に支持された景勝が有利になり、景虎は憲政の居館である御館に立て籠もり抵抗を続けるも窮地に立たされる』。天正七(一五七九)年、『憲政は景虎の嫡男道満丸と共に和睦の交渉のため、春日山城の景勝のもとに向かったが』、二人とも『景勝方の武士によって陣所で討たれた』とも、『四ツ屋付近で包囲され、自刃したとも』伝えられる。
以下は、表記通り全体が二字下げ。]
山の内上杉家十三代、犬懸上杉二代、ともに都合十五代、
外に高と畠山兩人を加へければ、都合十七代となれり。
[やぶちゃん注:私が注で示したものを数えると、再任を含めたのべ人数では、山内上杉家十九代、犬懸上杉家は三代、合わせて上杉家(一三六四年の不明の一名を加えると)二十三代、他の植田が数え挙げていない初期の関東執事複数配置も含めると実に全三十代となる。]
觀應の初、基氏朝臣鎌倉の主君と稱しより、執事・管領は數代なれども、君臣の和親なりしは、憲實が管領と成し始迄にて、永享三年の頃君臣不和と成、竟に主從の合戰始り、執事・管領の名あれども、關東の政事を沙汰する事及ばざれば、只其管領と稀するのみなり。
[やぶちゃん注:この民をそっちのけにした鎌倉公方と関東管領の泥沼の争いを見ていると、どこぞの国の、地震や原発被害に遭っている国民をそっちのけで権力闘争に明け暮れる、どこぞの政治家共を髣髴とさせる。いや、戦さに生きながら、憲實や謙信が、人としての義や徳を忘れなかったのに比べれば、彼らは即座に万死に値すると言えよう。]
鎌倉攬勝考卷之八終