やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ



新編鎌倉志卷之七

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いたが、これには多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせる箇所がある。第三巻より底本データを打ち込みながら、同時に汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した後、部分公開する手法を採っている。校訂ポリシーの詳細についても「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注の最後の部分を参照されたいが、「卷之三」以降、更に若い読者の便を考え、読みの濁音落ちと判断されるものには私の独断で濁点を大幅に追加し、現在、送り仮名とされるルビ・パートは概ね本文ポイント平仮名で出し、影印の訓点では、句読点が総て「。」であるため、書き下し文では私の自由な判断で句読点を変えた。また、「卷之四」より、一般的に送られるはずの送り仮名で誤読の虞れのあるものや脱字・誤字と判断されるものは、( )若しくは(→正字)で補綴するという手法を採り入れた。歴史的仮名遣の誤りは特に指示していないので、万一、御不審の箇所はメールを頂きたい。私のミス・タイプの場合は、御礼御報告の上で訂正する。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。原則、踊り字「〻」は「々」に、踊り字「〱」「〲」は正字に代えた。なお、底本では各項頭の「〇」は有意な太字である。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本・影印では「已」と「巳」の字の一部が誤って印字・植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。
【テクスト化開始:二〇一一年十二月十二日 作業終了:二〇一二年一月二十一日】]

新編鎌倉志卷之七

〇小町 小町コマチは、若宮小路ワカミヤコウヂの東より南へクジけて行、夷堂橋ヱビスダウバシまでの間を云。【東鑑】に、建久二年三月四日、小町大路コマチヲホヂヘン失火す。江間殿エマドノ・相模の守等、人屋數十宇燒亡。南風ハゲしく餘煙如飛(飛ぶがごとし)。鶴が岡若宮の囘廊・經所・幕府等コトゴトく灰燼となるとあり。
[やぶちゃん注:「若宮小路」この名称については、若宮大路と同一とする説、若宮大路の鶴岡八幡宮寄りの中央に築かれた段葛を指すという説、三の鳥居から鉄の井までの鶴岡八幡宮の前面の西の路をいうとする説などがあるが、ここでの用法は明白で、鶴岡八幡宮の三の鳥居の左右(東西)を抜ける路全体をこう呼称している。これは実は既に「卷之一」の「鶴岡八幡宮」『一の鳥居トリイマヘ東西へトヲマチを、【東鑑】には、横大路ヨコヲホチと有。《若宮大路》一の鳥居トリイより、大鳥居までを、若宮大路とあり。今は堅横タテヨコともに、若宮小路コウジコウジと云イフなり』とある(図で分かる通り、この一の鳥居は現在の三の鳥居であり、大鳥居は一の鳥居を指す)。同「鶴岡八幡宮圖」を見ても、三の鳥居から鉄の井までの鶴岡八幡宮の前面の西の路の部分に「雪下若宮小路」とあり、反対側には頭が切れているが、影印で見ると「自此東寶戒寺小路」と路地の説明(小路名ではない)があるから、「新編鎌倉志」の時代には、この鎌倉時代の横大路は現在の若宮大路の中間部にある二の鳥居の部分まで(そこから海側の大鳥居=現在の一の鳥居までの部分は、別に琵琶小路と呼んだことも図で分かる)をどちらも「若宮小路」と呼称していたことが分かる。
「建久二年」は西暦一一九一年。
「江間殿」は北条義時。この頃には伊豆北条の近隣である現在の静岡県伊豆の国市南江間を領していたことから、かく呼ぶ。
「相摸の守」は大内惟義。
因みに、この未曾有の大火については「吾妻鏡」に不思議な記述がある。則ち、前日の三月三日夜のこと、侍所に伺候していた儒学者広田大和守維業これなりの子息である広田次郎邦房という者が「明日鎌倉に大火災出で來たる。若宮、幕府殆んど其の難を免るべからず」と予言、人々は如何に儒教を学んだとしても未来の予言は出来まいものを、と笑ったという記載である。火災の当日の記載にはただ、「凡そ邦房の言、 掌を指すが如きか。」と美事に的中したと一言あるだけなのであるが、若い時にここを読んだ私は『何でこいつを放火犯として取り調べなかったのかな?』と思ったものである。]


[寶戒寺
葛西谷圖]

〇寶戒寺〔附北條屋敷 賴經以後代々將軍屋敷 屏風山 小富士 土佐房屋敷の跡〕 寶戒寺ホウカイジは、小町コマチの北、若宮小路コウヂヒガシなり。金龍山キンリウザンと號す。圓頓エンドン寶戒寺と額あり。筆者不知(知れず)。《高時宅地》此の地は相模サガミ入道崇鑑ソウカン平の高時タカトキが舊宅なり。故に源の尊氏タカウヂ、後醍醐天皇へソウして、高時タカトキタメ葛西谷カサイガヤツの東勝寺をウツして、北條の一族の骸骨ガイコツアラタハウムり、此寺を建立せり。開山は、法勝寺の長老、五代ゴダイ國師なり。相ひ傳ふ五代ゴダイ國師は、坂本サカモトの人、諱は慧鎭エチン、慈威和尚と云、圓觀エンクハン僧正と號す。後伏見帝・後二條帝・花園帝・後醍醐帝・光嚴帝、五代帝王のカイの御師と成たる故に、五代國師と號す。延文元年三月朔日、七十六歳にて寂すとなり。【太平記】に、圓觀エンクハン上人と申は、モトは山徒にて御座ヲハしける一が、顯・密兩宗のサイ、一山に光りるかとウタガはれ、智行兼備ケンビホマレ、諸寺に人きが如し。五代聖主の國師として、三聚淨戒の太祖たりとあり。ノチに相模入道、結城ユウキ上野の入道に預けて、奧州へ下す。開山、帝王の戒師なる故に、昔し此寺にも戒壇を立たりと云。尊氏タカウヂの第二男、イトケナふして多病なりし故に、五代國師に祈禱せしめ、ツイに其子を國師の弟子とし、慈源和尚と云、普川國師と號す。此寺の第二世なり。此寺昔は四宗兼學なりしが、今は天台一宗也。今九貫六百文の寺領あり。按ずるに、【東鑑】に、江間義時エマノヨシトキ大倉亭ヲホクラノテイとあり。或は義時ヨシトキの亭、小町のカミとあり。共に此の地の事なり。此の所ろ、小町のカミにて大倉ヲホクラの内なり。時政トキマサは、後に名越ナゴヤテイに居せられたり。其の後ち代々の執權、相模サガミ入道に至るまで、爰に居す。【太平記】に、去る程に餘煙四方よりカヽつて、相模サガミ入道殿ドノの、屋形ヤカタ近くカヽりける。今朝までは、奇麗なる大厦高墻タイカカウシヤウカマへ、忽に灰燼とるとあるは、此地の事也。【東鑑】を見れば、頼經ヨリツネ以後の代々の將軍も、此の屋敷ヤシキに執權と一所に居宅とへたり。賴朝屋敷ヨリトモヤシキの條下とらしるべし。【東鑑】に、關東執權の次第は、時政トキマサ義時ヨシトキ泰時ヤストキ經時ツネトキ時賴トキヨリ時宗トキムネ貞時サダトキ高時タカトキなり。【梅松論】には、泰時が次に時氏をクハへて、已上九代也とあり。
[やぶちゃん注:「圓頓」は正しくは「ヱンドン」で、「円満頓足」の略。天台宗の教義で、一切を欠くことなく瞬時に具備することが出来ることを意味し、実相を間髪を入れず悟って成仏することを言う。
「東勝寺」宝戒寺の南西二〇〇メートルの葛西ヶ谷の山裾にあった。現在の北条高時腹切りやぐらのすぐ下方一帯。開山退耕行勇、開基北条泰時で、嘉禄元(一二二五)年に執権となった泰時が北条氏の私的な菩提寺として建立したものであるが、元来、有事の際の城砦としての機能を持っていたことは、ここに最後に高時以下、北条一門が籠って自刃したことからも分かる。
「法勝寺」は「ほつしようじ(ほっしょうじ)」と読み、平安後期から室町期まで東洛外の白河の現京都市動物園辺にあった六勝寺(平安後期の院政期に天皇・皇后が白河に建てた六寺院で、総ての寺院に「勝」の字が付く)の一つ。承保三(一〇七六)年、白河天皇の建立。応仁の乱以後に衰微廃絶して現存しない。
「五代國師」「諱は慧鎭、慈威和尚」「圓觀」(弘安四(一二八一)年~正平十一・延文元(一三五六)年)は、鎌倉後期から南北朝の天台僧。永仁三(一二九五)年に比叡山延暦寺に入り、授戒し、円頓戒を学んだが、嘉元元(一三〇三)年頃に叡山を下って遁世、一時は禅僧となるが、嘉元三(一三〇五)年頃、師興円に従って再度遁世、北白川に律院元応寺を建立、元の円頓戒の修養と宣揚に勤めた。後に後醍醐天皇の帰依を受け嘉暦元(一三二六)年に法勝寺勧進職から住持となる。元弘の乱では倒幕計画に参画するが、情報漏洩によって未然に発覚、円観は陸奥国に流されている(「相模入道、結城上野の入道に預けて、奧州へ下す」がそれ)。建武の新政後は法勝寺に戻って東大寺大勧進職にも任ぜられたが、朝廷分裂後は北朝についた。宝戒寺を含む彼が重視した円頓戒の道場たる遠国四戒壇(他に加賀国薬師寺・伊予国等妙寺・筑紫国鎮弘寺)を開くことに尽力した。彼はまた、原型とされる三十余巻本「太平記」の編纂者と目されている(以上はウィキの「円観」を参照した)。
「三聚淨戒」地持経・瓔珞経などに見られる三種の菩薩戒のこと。摂律儀戒(一切の悪を捨て去ること)・摂善法戒(一切の善を実行すること)・摂衆生戒(一切の衆生に遍く利益を施すこと)を言う(「大辞林」による)。
「【太平記】に、去る程に餘煙四方より……」以下は、元弘三(一三三三)年五月二十二日の東勝寺合戦の最後のシーンの記事であるが、「去る程に餘煙四方よりカヽつて、相模サガミ入道殿ドノの、屋形ヤカタ近くカヽりける。」は「鎌倉ひようの火事」からの北條屋敷炎上のリアル・タイム描写からの引用、「今朝までは、奇麗なる大厦高墻タイカカウシヤウカマへ、忽に灰燼とる」の部分は、既に勝敗決した「安東入道自害の事」の安東(後掲する「塔辻」の注参照)が稲村ヶ崎で敗北、帰参したところが、北条屋敷は全焼し無念の自害の覚悟を述べた直後のシーンで、巧みに繋いである。「大厦高墻」は高い垣根を廻らした大きな構えの建物を言う。
「泰時が次に時氏を加へて、已上九代也とあり」の謂いは、執権にならなかった時氏が入っているが、彼は泰時の嫡流であり、前掲の執権で得宗であった八人に彼を加えると北條氏得宗家九代が勢揃いするのである。後の「北条九代記」とはこの謂いである。]
本堂 本尊地藏。左右に梵天・帝釋。共に唐佛也。五代幷に普川の像。地藏、行基の作。此地藏は尊氏のマモり本尊と云ふ。不動、大山ヲホヤマの像と同作とふ。聖天の像もあり。
[やぶちゃん注:「本尊地藏」この本尊は「唐佛」地蔵とも呼ばれるようであるが、現在、本像は像内銘によって、正平二十・貞治四(一三六五)年仏師三条法印憲円作と確認されている。なお、この銘文中には「關東寳戒寺」とあり、これによって本像は京都で造立されて鎌倉へ移送されたものと推定されている。通常「唐佛」というのは中国で造立されたか、中国人仏師によって作像されたものを呼称するのであるが、憲円なる京都の仏師は渡来の仏師であったのか? 平安中期から鎌倉期にかけて定朝じょうちょうの高弟長勢を祖とした京都三条に工房を持った工房グループに三条仏所があり、長勢の弟子円勢以下、長円・賢円・明円など円の字を名にもつ仏師が多いため、後世、円派とも称した集団があるが、その流れを汲む仏師と思われる。但し、本像の作像期には定朝の子とされる覚助かくじょを祖とした七条仏所に押されて三条仏所は衰退していた。「普川の像」この木像は応安五(一三七二)年作の寿像(モデルの生前に作像したもの)である。「不動、大山の像と同作と云ふ」「大山」は雨降山あぶりさん大山寺の本尊不動明王であるが、因みに大山寺のものは文永十一(一二六四)年の願行上人による鋳造である。「聖天の像」とは木造歓喜天立像。現存するが秘仏として普段は非公開(私は未見)。歓喜天としては像高一五五センチに及ぶ異例の大型像で木造では本邦最古という。]
寺寶
尊氏タカウヂの書 壹通 其文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、文書は底本では全体が一字下げ。]
  奉寄圓頓寶戒寺相模國金目郷半分事
右相模守高時法名崇鑑、天命已盡、秋戒忽臻、是以、當今皇帝、被施仁慈之哀恤、爲度怨念之幽靈、於高時法師之舊居、被建圓頓寶戒之梵宇、爰尊氏、奉武將之鳳詔、誅逆徒之梟惡、征伐得時、雄勇遂功、然間滅亡之輩、貴賤老幼、男女僧俗、不可勝計、依之割分金目郷、所寄寶戒寺也、是偏宥亡魂之恨、爲救遺骸之辜也、然則皇帝久施殷周之化、愚臣早同伊呂之功、仍奉寄如件、建武二年三月廿八日、圓頓寶戒寺上人、參議源朝臣、〔有判。〕
[やぶちゃん注:以下、尊氏文書を影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  圓頓寶戒寺に相模の國金目の郷半分を寄せ奉る事
右相模の守高時タカトキ法名崇鑑ソウカン、天命已に盡て、秋戒忽ち(イタ)る。是を以、當今皇帝、仁慈の哀恤を施さる。怨念の幽靈を度せんが爲めに、高時法師が舊居に於て、圓頓寶戒の梵宇を建て、爰に尊氏、武將の鳳詔を奉じ、逆徒の梟惡を誅し、征伐、時を得、雄勇、功を遂く。然る間だ滅亡の輩、貴賤老幼、男女僧俗、(ア)げて計ふべからず。之に依て金目カナメの郷を割分して、寶戒寺に寄する所なり。是れ偏(へ)に亡魂の恨を(ナダ)め、遺骸の辜を救(は)んが爲めなり。然る時は則ち皇帝久(し)く殷・周の化を施し、愚臣早く伊・呂の功に同(じ)からん。仍て寄せ奉ること、件のごとし。建武二年三月廿八日 圓頓寶戒寺上人 參議源朝臣 〔判有り。〕
金目の郷」は現在の平塚市金目地区。「當今皇帝」は後醍醐天皇。「哀恤」は「あいじゆつ」で、憐み恵むこと。「辜」は「つみ」若しくは「とが」と読んで、むくろとなって放置されて救われずにいるということの罪の謂いであろう。「伊・呂の功」の「伊・呂」は伊尹いいんと呂尚。伊尹は殷の湯王が暴君桀王の夏を滅ぼすに功あった軍師。太公望呂尚は御存知、周の武王が紂王の殷を滅ぼすに功あった軍師。なお、「鎌倉市史」によればこの文書は原本(直筆)ではなく、室町中期に書き写されたものと推定される、とある。]
同證文 三通 寺領寄進の事を載す。
地藏の畫像 一幅 尊氏の筆なり。尊氏、平生、地藏を崇敬す。故に鎌倉に木・石・畫像の地藏多し。荏柄エガラにもあり。
平の高時タカトキが畫像 一幅 或は云く自筆なり。
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之六」の「寶戒寺」の項に図あり。] 三千佛の畫像 三幅 唐筆。
涅槃の畫像 一幅 唐筆。
五代國師の畫像 一幅
五代國師の自撰記 一册 國師の自筆。
五代國師の自筆の状 貮通
普川國師の畫像 壹幅
    已上
德宗權現トクソウゴンゲンの社 北條高時ホフヂヤウタカトキなり。【北條五代記】に、平家の亡魂ドモウラみをなすよしマフすに因て、高時タカトキ屋敷ヤシキの跡に寶戒寺を建立し、多くの平家の亡魂を弔ひ、高時タカトキを、德宗權現と號し、此寺の鎭守にイハタマひければ、さてこそさしもしづまりぬとあり。《德宗領》按ずるに【異本太平記】に、相模入道の一跡、德宗〔或作崇(或は崇に作る)。〕領をば、内裏の供御料所に被置(置かる)とあり。又【太平記】に、駿河の國入江の莊と云は、本は、德宗領にて有しを、朝恩にクダタマハるとあり。又【若州守護職次第】に、相模の守時宗トキムネ、德宗の御分國とあり。又貞時サダトキシタにも德宗とあり。然れば北條一家の總領の知行所を、德宗領と云たるにや。ハジめて社に名付ナヅけたるにはあらざるなり。
[やぶちゃん注:「供御料所」は年貢の内で宮中の食糧に充てるものを管理する部局を言う。「駿河の國入江の莊」現在の静岡県清水市清水区。]
山王權現の社 門を入て右にあり。
屏風山ビヤウブヤマ 寺のウシろ、東に有る山を云ふ。屏風を立たるがゴトくなり。
小富士コフジ 屏風山の傍の高き峯を云ふ。社あり。社中に富士フジの如くなるイシあり。淺間大菩薩と銘あり。毎年六月一日男女參詣多し。
土佐房が屋敷ヤシキアト 寺の南の方の畠を云也。土佐房昌俊トサバウシヤウシユンが屋敷のアトと云傳ふ。寶戒寺の地内なり。
[やぶちゃん注:「土佐房昌俊」(?~文治元(一一八五)年)は興福寺金剛堂の堂衆であったが、年貢に絡むトラブルで代官を討って捕縛され、関東に護送されたが、罪を許されて頼朝に臣従、後、義経誅伐に名乗りを上げて、義経の六条室町亭に夜討をかけるが逆に敗走、鞍馬山に逃げ込んだものの、義経の郎党に捕らえられて六条河原で晒し首にされている。]

〇葛西谷〔東勝寺舊跡 彈琴松〕 葛西谷カサイガヤツは、寶戒寺の境内、川をへて東南のヤツなり。《東勝寺》山の下に、イニシへの靑龍山東勝寺の舊跡あり。東勝寺は、關東十刹の内なり。開山は、西勇和尚、退耕行勇の法嗣也と云ふ。今は寺亡テラホロびたり。【太平記】に、相模入道殿、千餘騎にて、葛西カサイが谷にコモり給ひければ、諸大將のツハモノ共は、東勝寺に充滿ミチミチたり。是は父祖フソ 代々ダイダイ墳墓フンボの地なれば、爰にてツハモノ共にフセ矢射ヤイさせて、心ろシヅカに自害せんタメ也とあり。又相模サガミ入道殿も腹切り給へば、總じて其の門葉たる人、二百八十三人、我れサキにと腹切ハラキり、屋形ヤカタけたれば、猛火盛んにノボり、黑煙天をカスめたり。後に名字をタヅぬれば、此の一所にて死する者、スベて八百七十餘人也。鳴呼アヽ此の日何なる日ぞや、元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌、-時に滅亡して、源氏多年の蟄懷、一朝にヒラくる事をたりとあり。今も古骨ココツり出す事りと云ふ。《事彈松》又昔し此の山上に彈琴松コトヒキマツと云あり。松風のヲト尋常ヨノツネにかはれりとなん、【梅花無盡藏】にものせたり。今はなし。
[やぶちゃん注:「心ろシヅカに自害せんタメ也とあり」この部分は「太平記」の「鎌倉ひようの火事付長崎父子武勇の事」からの引用で、以下は一気に飛ばして巻十一の掉尾「高時幷一門以下於東勝寺自害の事」のエンディング・ダイジェストへと繋げている。引用簡潔にして上手い。「猛火」は「みやうくわ(みょうか)」と読む。「蟄懷」とは心の内に蟠っていた不平不満。「【梅花無盡藏】にものせたり」室町時代の禅僧歌人で太田道灌の知己でもあった万里集九(ばんりしゅうく 正長元(一四二八)年~?)の東国紀行「梅花無尽蔵」の文明十八(一四八六)年の記事に、この東勝寺旧跡に至って「彈琴松を看る」とあり、室町後期まではこの松が残っていたことが分かる。]

〇塔辻 タフツヂは、寶戒寺の南の方、路のカタハラに石塔あり。卑俗、北條屋敷の下馬ゲバなりと云傳ふ。按ずるに、【太平紀】に、高時タカトキ滅亡の時、安東アンドウ左衞門入道聖秀シヤウシウ、いざや人々ヒトヒト、とても死せんずるイノチを、御屋形ヤカタけ跡にて、心閒コヽロシヅカに自害して、鎌倉殿カマクラドノの御恥をスヽがんとて、ノコされたる郎等餘騎を相ひ從へて、小町口コマチグチノゾむ。先々サキサキ 出仕シユツシの如く、タフツヂにてムマよりると有。寶戒寺は、北條屋敷なれば、此邊下馬と見へたり。此の外に鎌倉中にタフツヂと云所多し。第五卷にもでたり。然れども【東鑑】【太平記】【鎌倉九代記】等に、塔辻とすは此所ばかりなり。
[やぶちゃん注:「安東左衞門入道聖秀」安東聖秀(あんどうしょうしゅう ?~正慶二・元弘三(一三三三)年)は北条高時の臣従した武将。鎌倉攻めの先鋒新田義貞の妻の伯父であった。「太平記」の「安東入道自害の事」には、稲村ケ崎で義貞軍と戦って敗れ、北条屋敷へ帰参した時には既に屋敷は焼け落ち、一門は東勝寺に落ちていた。聖秀は屋敷では誰一人として腹かっ切って自害した者はないと聞いて口惜しがり、本文引用の覚悟を述べた。その直後、義貞の妻から投降を勧める使いが来たが、聖秀は恥を恥とも思わぬ降伏を拒絶、『一度は恨み一度は怒って彼の使の見る前にて、其の文を刀に拳り加へて、腹掻切りてぞ失せ給ひける』とある。凄絶であるが、それだけに私の好きな「太平記」の1シークエンスでもある。「第五卷にも出でたり」「第五卷」の「〇塔辻」を参照。]

〇妙隆寺 妙隆寺ミヤウリウジは、小町コマチ西頰ニシカハにあり。叡昌山エイシヤウサンと號す。法華宗、中山ナカヤマの末寺なり。開山は日英、二代目は日親、堂に像あり。日親を、異名に鍋被ナベカブリ上人と云。宗門にカクれなき僧なりと云ふ。
[やぶちゃん注:「中山」とは正中山法華経寺。千葉県市川市中山にある文応元(一二六〇)年創立の日蓮宗大本山寺院で、中山法華経寺とも呼ばれる。
「日親」(応永十四年(一四〇七)年~長享二(一四八八)年)は日蓮宗のファンダメンタリズムである「不受不施義」を最初に唱えたとされる人物で、その経歴も一筋縄ではいかない。永享五(一四三三)年、中山門流総導師として肥前国で布教活動を展開するが、その折伏の激烈さから遂には同流から破門されてしまう。同九(一四三七)年には上洛して本法寺を開くが、六代将軍足利義教への直接説法に恵まれた際、「立正治国論」を建白して不受不施を説いて建言の禁止を申し渡されてしまう。永享十二(一四四〇)年にはその禁に背いたとして投獄、本法寺は破却される。その捕縛の際、焼けた鉄鍋を被せられるという拷問を受けて、その鍋が頭皮に癒着、生涯離れなくなったため、後、その鍋を被った奇態な姿のままに説法を説いたという伝説が誕生、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」と呼ばれるようになった。翌嘉吉元(一四四一)年、嘉吉の乱で義教が弑殺されて赦免、本法寺を再建している。寛正元(一四六〇)年、前歴から禁ぜられていた肥前での再布教を行ったために再び本法寺は破却、八代将軍足利義政の上洛命令を受けて京都に護送、細川持賢邸に禁錮となったが、翌年寛正四(一四六三)年に赦され、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建している(以上は主にウィキの「日親」を参照した)。折伏ガンガン、ファンダメンタル不受不施派、カンカンに熱した鉄鍋被り、自分で十指の爪を抜く――かなり危険がアブナイ、御人である。]
寺寶
曼荼羅 三幅 日親の筆。
同 一幅 中山の第三祖日祐の筆。
法華の三部 壹凾 筆者不知(知れず)。紺紙金泥なり。法華經・無量義經・普賢觀經也。
[やぶちゃん注:「普賢觀經」観普賢菩薩行法経。観普賢経とも。四四一年頃に成立した大乗経典の一つ。法華経の結経とされ、普賢菩薩の観法・六根の懺悔清浄の法などを説く。]
  已上
ギヤウイケ 寺のウシロにあり。日親此池にヒタし、一日に一指づゝ、十指のツメをはなし、百日の間に本の如くカヘらば、所願成就と誓ひ、出る血を此池にて洗ひ、其の水をシタで曼荼羅をく。《爪切の曼荼羅》爪切ツメキリの曼荼羅と云て此の寺に有しを、法理の異論に依て、住持退院の時、盜みりしとなり。

〇大巧寺 大巧寺ダイギヤウジは、小町の西頰ニシガハにあり。相ひ傳ふ、昔は長慶山正覺院大行寺と郷し、眞言宗にて、梶原屋敷カジハラヤシキの内にあり。ノチに大巧寺と改め、此の地に移すとなり。梶原屋敷カジハラヤシキの條下に詳かなり。昔し日蓮、妙本寺在世の時、此の寺法華宗となり、九老僧日澄上人を開山とし、妙本寺の院家になれり。今二十四世なり。寺領七貫二百文あり。棟札に、延德二年二月廿一日とあり。
[やぶちゃん注:「梶原屋敷の内にあり」とあるのは「後に」「此の地に移す」で分かるように、この寺は元は十二所の梶原屋敷内にあった。寺伝によれば、源頼朝がこの十二所の大行寺で軍評定をして合戦に臨んだところ勝利を得たことから寺号を大巧寺と改め、その後にこの地に移転したとある。]
産女ウブメ寶塔ホウタフ 堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を産女ウブメの寶塔と云ふ事は、相ひ傳ふ、當寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、毎夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋エビスダウバシワキより、産女ウブメの幽魂出て、日棟にひ、廻向にアヅカつて苦患をマヌカヨシを云ふ。日棟これがタメに廻向す。産女ウブメ、※金一包ヒトツヽミサヽげて謝す。日棟これを受て其の爲に造立すと云ふ。寺の前に産女幽魂の出たるイケ橋柱ハシバシラの跡と云て今尚存す。夷堂橋エビスダウバシの少し北なり。
[やぶちゃん注:「※」=「貝」+「親」。「※金」は「シンキン」と読み、施しのための金を言う。ここでは自身の廻向のための布施。この一連の説話については、大功寺公式サイトの「沿革」に詳細な現代語のPDFファイル「産女霊神縁起」がある。一読をお薦めする。]
寺寶
曼荼羅 三幅 共に日蓮の筆。一幅は、祈禱の曼荼羅と云ふ。病則消滅、不老不死の八字を書加ふ。日蓮、房州小湊コミナトカヘり、七十餘歳の老母にふ。老母頓死す。日蓮、悲哀にたへずして祈誓キセイす。弘法グハフの功むなしからずば、フタヽハヽイノチイカし給へと念じヲハつてコレを書す。たちまちにいてよみがへる。命ぶること四年也と云傳ふ。經文は散書チラシガキ也。妙本寺にもコレあり。一幅は、瓔珞の曼荼羅と云ふ。上に瓔珞あり。一幅は星下ホシクダりの曼荼羅と云ふ。日證此を庭前の靑木アヲキに掛て日天子を禮す。時に星下ホシクダる故に名く。其の靑木アヲキ今猶を存す。
[やぶちゃん注:「妙本寺にも是あり」私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の「曼陀羅」の項に日蓮の「臨滅度時の御本尊」と呼称される十界曼荼羅の画像を示してある。参照されたい。「瓔珞」は「やうらく(ようらく)」と読み、珠玉を連ねた首飾りや腕輪を言う。本来はインドの装身具であったが、仏教で仏像を荘厳しょうごんするための飾り具となり、また寺院内の蓮台などの宝華ほうけ状の荘厳全般をも指し、ここでは天蓋からぶら下げるタイプのものを指しているか。なお、大巧寺公式サイトによれば、現在この二幅は本山の妙本寺霊宝殿に寄託されており、うち一幅が日蓮聖人による御真筆とされ、大巧寺が真言宗から日蓮宗に改宗した際のものと思われる、とある。そこには弘安二(一二七九)年のクレジットがあるらしい。「星下り」流れ星の出現は日蓮の奇瑞としてもしばしば語られている。]
無邊行菩薩の名號 壹幅 日蓮の筆。
[やぶちゃん注:「無邊行菩薩」日蓮宗や法華宗で言う「法華経」に登場する四菩薩(四士とも)の一人。上行じょうぎょう・無辺行・浄行・安立行あんりゅうぎょう。彼らは特殊な菩薩で、菩薩行の修行者ではなく、既に悟達した如来が末法救済のために再び再臨した大菩薩とされている。]
日蓮の消息 壹幅
曼荼羅 壹幅 日朗の筆。
舍利塔 壹基 五重の玉塔なり。
[やぶちゃん注:これは高さ約三〇センチ程の、産女霊神神骨を収めたとされる水晶の五輪塔。非公開であるが大功寺公式サイトに画像がある。]
  已上
濵名ハマナが石塔 北條氏政ホウデウウヂマサの家臣、濵名ハマナ豐後の守時成トキナリ、法名妙法、子息蓮眞、母儀妙節、三人の石塔なり。
[やぶちゃん注:「北條氏政」(天文七(一五三八)年~天正十八(一五九〇)年)は戦国期の相模国の大名で後北条氏の第四代当主。武田信玄の娘婿で、武田義信・武田勝頼は義兄弟。父氏康の後を継ぎ北条氏の関東での勢力拡大に務めたが、豊臣秀吉との外交策に失敗、小田原の役を招いて最後には降伏、切腹した。「濵名豐後の守時成」については、ネット上に大巧寺の譜代旦那であったこと、現在の横須賀市にあった相模国三浦郡森崎郷に関わって、天正三(年二月十七日附の浜名時成証文写が現存し、「今度三浦森崎郷永代致買得候」とあり(「神奈川県史」による)、更に時成はこの森崎郷を買い取った後、鎌倉大巧寺に永代寄進しているという。さればこそ彼とその家族の墓がここにあるのも頷ける。]
番神堂バンジンダウ 濵名ハマナ時成建立すと云ふ。
[やぶちゃん注:「番神堂」とは三十番神を祀った堂のこと。三十番神は神仏習合の本地垂迹説による信仰で、毎日交替で一ヶ月(陰暦では一ヶ月は二十九か三十日)の間、国家や民を守護し続けるとされた三十柱の神仏を指す。鎌倉期に流行し、特に日蓮宗で重要視された。]

〇本覺寺 本覺寺ホンガクジは大巧寺の南鄰にあり。妙嚴山メウゴンザンと號す。身延山の末寺なり。開山日出上人。永享年中に草創すとひ傳ふ。此寺は東國法華宗の小本寺コホンジ也。當寺の三世日耀へ、日朝より書をツカはして曰、總じて東三十三箇國、別して關八州の僧録にニンく事に候へば、萬端制法肝要に候と云云。日朝上人は、日出上人の弟子、當寺第二世なり。廿歳にして身延山に住す。身延山第十一祖なり。在住四十年。身延山の諸法式も此の代に定む。此の書も身延山より遣はすと云ふ。本尊は釋迦・文殊・普賢なり。十二貫二百文の寺領あり。
[やぶちゃん注:現在の本覚寺の山門がある場所の前には当初、夷堂と呼ばれる堂があった(現在、昭和五十六(一九八一)年に再建されたものが山門内にある)が、これは頼朝が開幕の折り、幕府の鬼門にあたる方向の鎮守として建てたとされる天台宗系のものであった。文永十一(一二七四)年、佐渡配流から戻った日蓮がこの夷堂に一時期滞在し、目と鼻の先の小町大路で辻説法を展開した由縁から、後の永享八(一四三六)年、一乗院日出が夷堂を天台宗から日蓮宗に改めてこの本覚寺を創建したとされる。 後、身延山を再興した第二世行学院日朝は、身延山への参詣が困難な老人や女性のため、身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めた。そこから当寺は「東身延」とも呼称される。この夷堂は、本覚寺創建時には境内に移された模様であるが、明治の神仏分離令で寺と分離されてしまい、同地区の七面大明神・山王台権現を合祀して蛭子神社となったが、夷堂再建後に夷神は戻されたという(以上はウィキの「本覚寺」に拠った)。
「法華宗」これは狭義の日蓮宗と同じい。
「小本寺」本末制度の一寺格。寛文五(一六六五)年に第四代将軍徳川家綱により発布された「宗門改帳」及び「諸宗寺院法度」によって宗門支配が強化されたが、平安時代からあった本末制度も元禄五(一六九二)年に厳密な見直しが行われ、全ての下位の寺が本山の管理下に置かれた。上から順に本山・本寺・中本寺・小本寺・直末寺・孫末寺といった系統で纏められた。本記載以後に中本山となり、昭和四十九(一九七四)年に由緒寺院(日蓮宗系で日蓮や宗派の顕著な事蹟を持つ寺院を言う)として本山に昇格した。
「日朝」(応永二十九(一四二二)年~明応九(一五〇〇)年)は寛正三(一四六二)年に身延山久遠寺十一世法主となった身延中興の三師(他に十二世日意と十三世日伝)の筆頭。]
寺寶
曼荼羅 壹幅 日蓮筆。
日蓮の消息 十通
記録 壹册 日出、天台宗と問答す。時の執權是非をタヾし、又 修法の怪異に驚き褒美し、田園を寄附するの由、日出の自筆なり。此外北條家の判形の文書數通あり。
[やぶちゃん注:「時の執權」前掲した通り、日出が開山したのは永享八(一四三六)年であるから「執權」というのは誤りで鎌倉公方足利持氏のこと。一説に他宗からの訴えによって捕縛された日出は処刑されそうになるも持氏の夢枕に夷神(日出は頼朝・日蓮所縁の夷堂を拠点として布教活動を行っていた)出現し、日出を殺してはならぬと告げたともされる(日蓮譲りの法難である)。持氏は法心堅固な日出やその信徒に逆に感服し、無罪放免に加えてこの本覚寺の建設資金まで賜ったともされる。]
  已上
〇夷堂橋 夷堂橋エビスダウバシは、小町コマチ大町ヲホマチとの境にあり。座禪川ザゼンガハの下流なり。ムカシは此の邊にエビス三郎の社ありしとなり。今はなし。
[やぶちゃん注:「夷三郎」は現在でも夷神の別名として通用しているが、本来は「夷」と「三郎」は異なった神であったものと考えてよい。「三郎」はイサナキとイサナミの最初に産んだ奇形児蛭子とも、大国主命(大黒)の三番目に生まれた子の事代主命とも言われ、後者が出雲の美保崎で命が魚を釣ったという伝承から「三郎」は魚と釣竿を持った姿で描かれる祀られるようになったともされる。それに海神・漂着神・来訪神として複雑に習合を繰り返してきたらしい夷神に更に習合して夷三郎という一体神化が行われたらしい。後にここに建てられる蛭子神社は明治新政府の神仏分離と習合祭祀という極めて政治的行為であったが、偶然にも「蛭子」を神社名として、夷神のルーツを遠望させる形見となっているのは面白い。]

〇大町〔附米町〕 大町ヲホマチは、夷堂橋エビスダウバシ逆川橋サカガハバシアイダの町なり。《米町》大町ヲホマチの四つ辻より西へ横町ヨコマチを、米町コメマチと云。大町ヲホマチ米町コメマチの事、【東鑑】に往々見へたり。
[やぶちゃん注:「逆川橋」大町四ツ角(本文の「四つ辻」)から横須賀線を渡って材木座へと向かうと、朱色の魚町橋を渡った左側に路地があり、入ってすぐの所に架橋されている。この「逆川」という名は、この滑川の支川が地形の関係からこの部分で大きく湾曲して、海と反対、本流滑川に逆らうように北方向に流れているために付けられたものである。「米町」鎌倉幕府は、商業活動への社会的認識の未成熟と要塞都市としての軍事的保安理由から、建長三(一二五一)年に御府内に於いては指定認可した小町屋だけが営業が出来るという商業地域限定制を採り、大町・小町・米町・亀ヶ谷の辻・和賀江(現在の材木座辺りか)・大倉の辻、気和飛坂(現・仮粧坂)山上以外での商業活動が禁止された。その後、文永二(一二六五)年にも再指定が行われて、認可地は大町・小町・魚町いおまち・穀町(米町)・武蔵大路下(仮粧坂若しくは亀ヶ谷坂の下周辺か)・須地賀江橋(現在の筋違橋)・大倉の辻とされている。]


[妙本寺周辺]

〇妙本寺〔附比企谷 比企能員舊跡 竹御所〕 妙本寺メウホンジ長興山チヤウコウザンと號す。日蓮説法ハジめの寺なり。相傳ふ日蓮の俗弟子比企大學ヒキノダイガク三郎と云し人、建立す。日蓮在世の時、日朗に附屬する故に、日朗を開山とす。正月二十一日、開山忌あり。此寺の住持池上イケガミの本門寺を兼帶するなり。塔頭十六坊、院家二個院あり。一貫五百文の御朱印あり。此の地を比企谷ヒキガヤツと云ふ。比企ヒキの判官能員ヨシカズが舊跡なり。今按ずるに、武州に比企郡ヒキノコヲリと云ふあり。賴朝ヨリトモの乳母能員ヨシカズが乳母、武州比企の郡を請所ウケドコロとして居す。故に比企尼ヒキノアマと號す。ヲヒの能員を猶子として、共に此の所に來り居す。故に比企谷ヒキガヤツと云なり。賴朝ヨリトモ幷に政子マサコ比企尼ヒキノアマが家に渡御の事、又賴家ヨリイヘ能員ヨシカズが家にて遊興の事、【東鑑】にへたり。能員ヨシカズムスメは、若狹局ワカサノツボネと號して、賴家の妾にて、一幡君イチマンキミハヽなり。故に能員ヨシカズ、恩寵アツく、權威サカんなりしが、北條家をホロぼさんと謀るに因て、建仁三年九月二日、北條の時政トキマサ名越ナゴヤにて誅せらる。一族此の地にて悉くホロびたり。【東鑑】に詳なり。【十六夜日記】に、阿佛が歌あり。「忍びねは比企ヒキヤツなる杜鵑ホトヽギス、雲井にタカくいつか鳴らん」。
[やぶちゃん注:「比企大學三郎」比企能本。建仁三(一二〇三)年の比企の乱で滅びた比企氏の当主比企能員の子で、出家して日学と名乗ったとされる人物。比企高家とも。「武州に比企郡と云ふあり」現在も埼玉県中央部に比企郡として現存する。]
本堂 此処の堂には、元阿彌陀の像を安ず。其像は、大學三郎が持佛堂の佛なりしを、近年盗みられて、今は立像の釋迦・鬼子母神・四菩薩を安ず。釋迦は、陣和卿が作と云ふ。日蓮、伊豆へ配流の時、立像の釋迦を隨身す。後に日朗に付屬す。其像イマは本國寺に有り。故にコヽにも又立像の釋迦を安ずと也。
[やぶちゃん注:「本國寺」京都府京都市山科区にある、日蓮宗の大本山大光山本圀寺のこと。]
御影堂 本堂の北にあり。祖師一尊を安置す。日蓮在世の間、弟子日法隨身して、詳に容貌を寫すとなり。列祖の牌あり一。又大学三郎が牌もあり。上に法華の題目をき、下に開基の檀那日學位、同簾中理芳位とあり。日學は、比企ヒキの大學三郎が法名也。毎年二月十五日、大學三郎がタメに勤行あり。時僧の云、大學三面は、比企ヒキの判官能員ヨシカズが末子なり。チヽ能員ヨシカズ誅せられし時、伯父ヲヂ伯耆ハウキの法師と云人、山の内證菩提寺住持にて、其の時京の東寺に在しが、大學三郎を出家せしめ、京にカクく。後に文士ブンシとなり、順德帝に奉仕(仕へ奉り)、佐渡の國へ御トモ申す。賴經ヨリツネ將軍の御臺所ミダイドコロは、能員ヨシカズが外孫なるゆへに、大學三郎老後に御免を蒙り、鎌倉へ下り、竹御所の御タメに此金谷比企谷ヒキガヤツにて法華堂を建立し、僧を集め持經して、法名を日學と云ひ、妙本と號す。故に當寺にもづくとなり。
[やぶちゃん注:「賴經將軍の御臺所」「竹御所」(建仁二年(一二〇二)年~天福二(一二三四)年)は源頼家の娘、鞠子(または媄子よしことも)。母は比企能員の娘若狭局(「尊卑分脈」では木曽義仲の娘とする)。二歳で比企能員の変が起こり、父頼家は後、修善寺で暗殺されるが、建保四(一二一六)年に祖母政子の命によって、十四歳で叔父源実朝の正室信子の猶子となった。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の第四代将軍藤原頼経に嫁いでいる。]
寺寶
曼荼羅 三幅共に日蓮筆。一幅は、蛇形の曼荼羅とふ。タケ四尺許、ハヾ三尺餘。日蓮、池上イケガミにて、此曼荼羅に向て遷化也。故に臨滅度時の曼荼羅と號す。蛇形と云は、ムカシ兵亂の時、當寺へ濫妨ランバウありしに、此曼荼羅、の中に落て、蓮の字のはねたる所ろ蛇形にへたるを、ヌスビト ヲソれて去たると也。故に名く。本行院のウシロに、蛇形の井と云今にあり。一幅は、歸命の曼荼羅と云、佛名に悉く南無の字を書加ふ。故に名く。一幅は、祈禱の曼荼羅と云。カイは、大巧寺の下にあり。其外、日蓮の曼荼羅數多アマタあり。
[やぶちゃん注:「蛇形の曼荼羅」「臨滅度時の曼荼羅」現存する十界曼荼羅。現在は「臨滅度時の御本尊」と呼称され、現在の日蓮宗に於いて重宝と指定された宗定本尊でもある。これは特に日蓮の有力壇越の一人であった武蔵国池上郷(現・東京都大田区池上)の池上宗仲邸(現・本行寺)で、日蓮が弘安五(一二八二)年十月十三日に入滅した際、その枕元に掛けられたものとされている。「解は、大巧寺の下にあり」とは前掲の「大巧寺」の項の寺宝の「曼荼羅」の条に、この「祈禱の曼荼羅」のいわれは既に書いてある、の意。


この画像はウィキの「日蓮」にあるパブリック・ドメインの「臨滅度時の御本尊」の画像である。]
日蓮の消息 九通 其内に、御書の第六番目にせたるあり。
日蓮遺骨の塔 壹基
法華經 壹部一卷 タケ六寸ばかり、細字也。日蓮の筆なり。前に名判ナハンあり。
同 壹部 日朗の筆なり。
日朗の墨蹟 壹幅
毘沙門天の像 壹軀 傳教の作。
佛舍利 壹粒 水晶の塔に入、高さ一尺五寸バカり。平の重時シゲトキ所持なりと云ふ。
[やぶちゃん注:「平の重時」北条重時(建久九(一一九八)年~弘長元(一二六一)年)のこと。第二代執権北条義時三男。母は義時の正室比企朝宗(比企能員の兄弟に当たる)の娘。六波羅探題・鎌倉幕府連署。なお、この比企朝宗は滅亡の折りの比企一族の中には名を見出し得ない。それ以前に亡くなっていたのか、はたまた義時の舅に当たることから生き延びたのかは不明である。]
大黑天の像 壹軀 運慶が作。
天照大神の像 壹軀 運慶が作。
八幡大神の像 壹軀 運慶が作。
東照宮直の御判 壹通 濫妨狼籍禁制の御書。小田原陣ヲダハラヂンの時、筥根ハコネにて、日惺頂戴すとなり。
[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「御判」は「判物はんもつ」のことで、将軍・守護・大名が直に発給した文書でも、発給者自身の花押が記されたものをいう。一般には所領安堵・特権付与などを行う場合に用いた。「日惺」は思文閣刊の「美術人名辞典」(デジタル版)によれば、『鎌倉比企谷妙本寺・江戸池上本門寺両山の貫主に招請され』、徳川家康からは『江戸に寺地を与えられて善国寺など五か寺を開創した。豊臣秀吉の方広寺大仏供養の出仕問題では、不受不施派の日奥を助けようと上京するが果たせず、その帰途』、慶長三(一五九八)年、四十九歳で示寂した、とある。妙本寺は、江戸初期までは日蓮宗の中でも排他性の強いファンダメンタルな不受不施派(江戸幕府はその後も弾圧と禁制を加え続けた)の末寺を多く抱えていた。]
  已上
竹御所タケノゴシヨの舊跡 本堂へ上る道の左にあり。今卵塔場ランタフバなり。竹御所とは、源の賴家ヨリイヘの女子、比企能員ヒキノヨシカズが外孫、將軍賴經ヨリツネ御臺所なり。【東鑑】に、安貞二年正月廿三日、賴經、竹御所に入御とあり。
[やぶちゃん注:ウィキの「竹御所」によれば、『他の頼家の子が、幕府の政争の中で次々に非業の死を遂げていく中で、政子の庇護のもとにあり女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子死去後、その実質的な後継者となる。幕府関係者の中で唯一頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は幕府の権威の象徴として、御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たした』とある。寛喜二(一二三〇)年、二十八歳で十三歳の第四代将軍藤原頼経に嫁いだ。『夫婦仲は円満であったと伝えられる』。その四年後の天福二(一二三四)年三月に懐妊し、『頼朝の血を引く将軍後継者誕生の期待を周囲に抱かせるが、難産の末、男子を死産、』竹御所自身も、重い妊娠中毒症と思われる少症状で同時に亡くなってしまう(享年三十三。後掲する「吾妻鏡」では何故か「三十二」とある)。この『竹御所の死により源頼朝の血筋は完全に断絶』することになった。]

〇田代觀音堂〔附田代屋敷〕 田代タシロの觀音堂は、普門寺と號す。妙本寺の東南なり。安養院の末寺、堂の額に、白花山ハククハサンと有。坂東巡禮フダ所の第三なり。本尊、千手觀音なり。此の西の方を田代屋敷タシロヤシキと云。田代タシロの冠者信綱ノブツナが舊跡也。今は畠なり。
[やぶちゃん注:この寺は図を見ても妙本寺の東南東の一尾根越えた近在地に示されている。これはどう見ても安養院の位置ではない。現在、一部のガイドがこの田代観音堂と安養院を同一に扱っているものが見受けられるが、図を見ても分かる通り、位置的には安養院に近いものの、別個な寺院で、そもそも「安養院」はこの後に別に掲げられているのである。実はこの寺については『相模国風土記』に延宝八(一六八〇)年十月晦日の火事で安養院に移った旨の記載がある。この年号に注目されたい。「新編鎌倉志」の元となった光圀自身の来鎌は延宝二(一六七四)年、その後に本書が完成印行されたのが貞亨二(一六八五)年、正に執筆途中に田代観音堂は移動してしまったのである。従ってこの地図は辛くも残った本当の「田代觀音堂」の位置を伝えるものなのである。因みに幕末の文政十二(一八二九)年刊の「鎌倉攬勝考卷之七」は、その事実を知らずに恐らく実地調査もせず、ご覧になれば分かる通り、ほぼそのままに書き写してしまった結果、あたかもその頃にも田代観音堂が実在したかのような、
田代觀音堂 普門寺と班す。妙本寺の東南なり。安養院末、堂の額に白華山と有。本尊千手觀音、坂東第三番の札所。此の西の方を田代屋敷と唱ふ。田代冠者信綱が舊跡。今は畑なり。
というとんでもない誤記述を犯している。「田代信綱」(生没年不詳)は石橋山の戦で頼朝に従い、後、源義経の下で平家討伐に辣腕を振るった。後三条天皇後胤とも伝えられる人物である。]

〇延命寺 延命寺エンメイジは、米町コメマチの西にあり、淨土宗。安養院の末寺なり。《裸地藏》堂に立像の地藏を安ず。俗にハダカ地藏と云ふ。又前出マヘダシ地藏とも云ふ。裸形ラギヤウにて雙六局スゴロクバンを蹈せ、厨子ヅシに入、キヌせてあり。參詣の人に裸にして見するなり。ツネの地藏にて、女根ニヨコンを作り付たり。昔し平の時賴トキヨリ、其の婦人との雙六スゴロクアラソひ、タガひにハダカにならんことをカケモノにしけり。婦人けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じバンの上につと云傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。ソウじて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於てへてなき事也とぞ。人をして恭敬の心をこさしめんタメの佛を、ナン猥褻ワイセツテイに作るべけんや。
[やぶちゃん注:編者は珍しく、聖なる地蔵を女体に刻んで、あろうことか会陰まで施すなんどということは破廉恥極まりないと不快感を示し、吠えている。面白い。白井永二編「鎌倉事典」によれば、この本尊は江戸への出開帳も行ったとあり、恐らくこの秘所を参拝者に見せることが行われていたのではなかろうか。現在okado氏のブログ 「北条時頼夫人の身代わりとなったお地蔵さま~延命寺~」でかなり古い法衣着帯の写真を見ることが出来る。「總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ」とあるが、これは感情的な謂いで、正しくない。鎌倉期には仏像のリアルな写実性が追及され、また生き仏のニュアンスを与えるために裸形の仏像に実際の衣を着せることが一部で流行した。奈良小川町にある伝香寺の裸地蔵、同じく奈良高御門町の西光院の裸大師、西紀寺にしきでら町の璉城寺れんじょうじの光明皇后をモデルとしたとされる裸形阿弥陀如来像、奈良国立博物館所蔵裸形阿弥陀如来立像等がそれで、実際に私は以前にある仏像展の図録で、そうした一体の裸形地蔵写真を見たことがあるが、その股間には同心円状の何重もの渦が彫り込まれていた。聖なる仏にあっては生殖器は正に異次元へと陥入して無限遠に開放されているといった感じを受けた。但し実はそれは私には、デュシャンの眩暈の「回転硝子盤(正確さの視覚)」を見るようで、デュシャン的な意味に於いて、逆にエロティクに見えたことを付け加えておく。]

〇教恩寺 教恩寺ケウヲンジは、ホウサンと號す。米町の内にあり。時宗ジシウ藤澤フヂサハ道場の末寺なり。里老の云、モトは光明寺の境内、北の山ぎはに有しを、延寶六年に、貴譽上人此地に移す。《善昌寺》モト此の地に善昌寺と云て光明寺の末寺あり。廢亡したる故に、教恩寺を此に移し、モトの教恩寺の跡を、所化寮とせり。本尊阿彌陀、運慶が作。相傳ふ、平の重衡シゲヒラトラハれにツイて、此の本尊を禮し、臨終正念をイノりしかば、彌陀の像、打うなづきけるとなん。
[やぶちゃん注:「藤澤道場」現在の神奈川県藤沢市にある時宗総本山清浄光寺しょうじょうこうじ代々の遊行上人が法主ほっすであることから遊行寺の通称の方が有名。「善昌寺」未詳。これは善勝寺という名越にあった廃寺と同一である可能性が「鎌倉廃寺事典」に記されている。「平の重衡」(保元二 (一一五七)年~文治元(一一八五)年)平清盛五男。宗盛・知盛・徳子の実弟。治承四(一一八〇)年五月の以仁王と源頼政の挙兵ではこれを鎮圧、同年十二月には園城寺から南都の焼き討ちの総大将として興福寺・般若寺・大仏を含む東大寺の堂塔伽藍一切を焼尽、多数の僧が焼死した。源平合戦では墨俣川・水島・室山合戦など勝利を収めたものの寿永三(一一八四)年二月の一の谷の合戦で捕虜となって鎌倉に護送された。その潔さから頼朝に厚遇されたが、南都焼討の遺恨を持った興福寺と東大寺両寺衆徒の強い要求に頼朝も抗し切れず、奈良に再送られて木津川畔で斬首された。]
寺寶
サカヅキ 壹箇 平の重衡シゲヒラ千壽前センジユノマヘと酒宴の時のサカヅキなりと云傳ふ。大さ今の平皿ヒラザラに似て淺し。木ウスくして輕し。内外黒塗クロヌリ、内に梅花の蒔繪マキエあり。
[やぶちゃん注:この「盃」は、「吾妻鏡」の伝える、捕虜重衡を潔い武士としてもてなした頼朝(自身は出席せず)の宴の際の、元暦元(一一八四)年四月二十日の以下の記事に登場する盃と思われる。
廿日戊子。戊子。雨降。終日不休止。本三位中將〔重衡〕依武衞御免有沐浴之儀。其後及秉燭之期。稱爲慰徒然。被遣藤判官代邦通。工藤一臈祐經。幷官女一人〔號千手前。〕等於羽林之方。剩被副送竹葉上林已下。羽林殊喜悦。遊興移剋。祐經打鼓歌今樣。女房彈琵琶。羽林和横笛。先吹五常樂。爲下官。以之可爲後生樂由稱之。次吹皇麞急。謂往生急。凡於事莫不催興。及夜半。女房欲皈。羽林暫抑留之。與盃及朗詠。燭暗數行虞氏涙。夜深四面楚歌聲云々。(以下略)
四月小廿日戊子。雨降る。終日不休止。本三位中將〔重衡。〕、武衞の御免に依りて、沐浴の儀有り。其の後、秉燭の期に及び、徒然を慰めんが爲と稱し、藤判官代邦通、工藤一臈祐經幷びに官女一人〔千手前と號す。〕等を羽林が方へ遣はせらる。剩へ竹葉・上林已下を副へ送らる。羽林殊に喜悦す。遊興、剋を移す。祐經、鼓を打ち、今樣を歌ふ。女房、琵琶を彈き、羽林横笛を和す。先ず五常樂を吹き、下官の之を爲すを以て後生樂と爲すべしの由、之を稱す。次に皇麞急わうじやうきふを吹きて、往生急と謂ふ。凡そ事に於て興を催さざるは莫し。夜半に及び、女房、皈らんと欲す。羽林、暫く之を抑へ留め、盃を與へ朗詠に及ぶ。燭暗くして數行虞氏の涙。夜深うして四面楚歌の聲と云々。(以下略)
「平家物語」も載る二人の悲恋の物語の始まりに登場する盃なのである。]
   已上

〇逆川 逆川サカカハは、名越坂ナゴヤサカよりナガれて西北に行く。故に逆川と云。大町ヲホマチ辻町ツヂマチアイダへ流れ出て、閻魔川エンマガハふて入海(海に入る)。大町と辻町ツヂマチとの間に橋あり。逆川橋と云ふ。鎌倉十橋の一つなり。
[やぶちゃん注:この川名については前掲の「〇大町」の私の注も参照されたい。]

〇辻町 辻町ツヂマチは、逆川橋より乱橋ミダレバシまでの間を云なり。
[やぶちゃん注:この町名はそう古くない時期に生じた新しい町名と推定されている。]

〇辻藥師 辻藥師ツヂヤクシは、逆川の南み、辻町の東頰ヒガシガハにあり。《長善寺》長善寺と號す。眞言宗也。本尊藥師、行基の作。十二神もあり。
[やぶちゃん注:この「長善寺」について貫・川副著「鎌倉廃寺事典」には、『もと名越松葉ヶ谷安国論寺の後山をこえたところ、現在国鉄名越隧道の西の谷、字御嶽に長善寺蹟というところがあるが、これがこの寺の旧地か』とあり、『それがいまの辻の薬師のところに移ったが、本堂は今の電車線路の通る位置にあったため取り払われた』とするから、鎌倉の廃寺の中でも極めて新しい明治期に物理的に廃されたことが分かる。因みに、現在の辻の薬師の線路を渡ったところで芥川龍之介は新婚時代を過ごした。なお、その直近に私の藪野家の実家がある。]
寺寶
ケン 壹口 長さ三尺ばかり、無銘、大進坊が作と云ふ。
[やぶちゃん注:「大進坊」は鎌倉時代の刀工。大進坊祐慶。]
  已上

〇亂橋〔附連理木〕 ミダレ〔或作濫(或は濫に作る)。〕バシは、辻町ツヂマチより材木座ザイモクザワタ石橋イシバシなり。鎌倉十橋の内なり。【東鑑】に、寶治二年六月十八日、寅の尅に、濫橋ミダレバシの邊、一許町以下南に雪る。如霜(霜のごとし)とあり。ハシの南に連理木レンリボクあり。
[やぶちゃん注:「寶治二年」は西暦一二四八年。「一許町」は「吾妻鏡もママであるが、これは「一町許り」の謂いであろう。この橋から南の海に向かって一〇九メートルほど局所的に雪が降ったというのである。「連理木」とあるが現存せず、樹種も不明である。「鎌倉攬勝考卷之一」の村名の「乱橋」にも「十橋」の「乱橋」にも記載がないところをみると、幕末には既になかったものと思われる。]

〇材木座 材木座ザイモクザは、亂橋ミダレバシの南のハマまでの漁村を云ふ。里民魚をりてワザとす。【徒然草】に、鎌倉の海に竪魚カツヲと云ウヲは、彼の境には左右なき物にて、もてなすものなりとあり。今も鎌倉の名物也。是より由比のハマへ出て左へけば、飯島イヒシマの道右へけば鶴が岡の大鳥居の邊へ出るなり。
[やぶちゃん注:「もてなすものなりとあり」の部分は底本では「もてなすもの也と有」であるが影印本で訂した。以下に「徒然草」第百十九段を引用しておく。
鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かのさかひには、さうなきものにて、このごろもてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申しはべりしは、「この魚、おのれら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づることはべらざりき。かしらは、下部しもべも食はず、切りて捨てはべりしものなり」と申しき。かやうの物も、世の末になれば、上樣かみざままでも入りたつわざにこそはべるなり。
多田鉄之助「たべもの日本史」(一九七二年新人物往来社刊)には、当時、下種とされた鰹が鎌倉武士に好まれたのは「カツヲ」が「勝男」通ずるからとある。にしてもだ! 私はカツオが大好きで、たたきなら大蒜さえあれば一尾一人で食い尽くせるほどだ! 従って兼好のこの一文だけは永遠に許せないぞ! 糞坊主が!
 なお、本書「新編鎌倉志」の元となった光圀自身の来鎌は延宝二(一六七四)年、その後に本書が完成印行されたのが貞亨二(一六八五)年であるが、山口素堂が材木座海岸で詠んだとされる名吟、
 目には靑葉山ほととぎす初鰹
は延宝六(一六七八)年の作、また芭蕉の知られた、
 鎌倉を生きて出でけん初鰹
は元禄五(一六九二)年の作、更に、蕉門十哲の一人其角には、
 まな板に小判一枚初がつを
の句があることからも分かる通り、正にこの光圀の時代には将軍家へも献上され、通人は鎌倉で揚がった初鰹を舟通いでわざわざ鎌倉にやってきて、一尾一両で買うのをお洒落としたのであった。これらの句をここに並べてみると、実に「いいね!」
「大鳥居」は現在の一の鳥居のこと。]

〇畠山重保石塔 畠山重保ハタケヤマシゲヤスが石塔は、由比の濵にある五輪をふ。明德第四、癸酉霜月日、大願主道友とり付てあり。年號、重保よりハルノチなり。按ずるに【東鑑】に、元久二年六月廿二日、軍兵由比の濵にキソハシつて、謀叛のトモガラ畠山ハタケヤマ六郎重保シゲヤスを誅すとあり。或は後人重保シゲヤスタメてたるか。萬里居士【無盡藏】に、壽福寺に入て、人丸家ヒトマルヅカを山顚よりノゾみ、六郎が五輪を路傍にすとあり。又此の石塔の西の方を畠山屋敷ハタケヤマヤシキふ。是も重保シゲヤスが舊宅ならん。里俗、或は畠山重忠ハタケヤマシゲタヾが石塔とシメし、又重忠シゲタヾが屋敷なりと云傳ふ。恐はならん。重忠シゲタヾが屋敷は、筋替橋の西北にあり。重忠シゲタヾは、重保シゲヤスと同日に、武藏國二俣川フタマタカハにて誅せらるとあり。父子なり。
[やぶちゃん注:「明德第四」は西暦一三九三年。畠山重保の誅殺(享年未詳。実際には謀反人征伐の報で出陣した彼を騙し討ちにするという謀殺以外の何ものでもない)は元久二(一二〇五)年六月二十二日であるから、実に百八十八年後の建立である。銘は正確には「明德第四癸酉霜月三日大願主比丘道友」で、この施主については不詳。現在のところは畠山重保との血族関係はない人物と考えられており、墓と伝えられるこの宝篋印塔も供養塔と考えるべきである。畠山重保は武勇に長けた人物であったが、この由比ヶ浜での戦闘中、持病の喘息の発作が起こったために本意ならず討たれたとされることから、後にこの塔は咳の神「六郎様」(重保の通称)と呼ばれて呼吸器の病気平癒を願う人々の信仰の対象となった。父重忠は重保謀殺の知らせを受け、是非に及ばずと同日、武蔵国二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区二俣川及び鶴ケ峰付近)で幕府軍と交戦、討死にした。享年四十二歳。]

〇下宮舊地 下宮シモノミヤの舊地は、由比ユヒハマ大鳥居の東にあり、【東鑑】に、賴朝卿、鎌倉に入り給ふ時、先づハルかにツルヲカの八幡宮をヲガタテマツるとあるは、此の所に有し時也。此の所に有しヤシロを、今の若宮ワカミヤの地にウツタテマツらんタメに、ホンシン兩所の用捨を、寶前にてミクヂり、今の若宮の地に治定し給ふ。本と有は此の所の事、新とあるは今の若宮の事なり。コヽを鶴が岡と云ゆへに、小林コバヤシへ遷してノチも、鶴が岡の若宮と云なり。鶴が岡の條下と照し見るべし。
[やぶちゃん注:現在の材木座一丁目にある元八幡。「吾妻鏡」の記載は治承四(一一八〇)年十月小七日丙戌の鎌倉入御の冒頭に、
〇原文
先奉遙拜鶴岡八幡宮給。
〇やぶちゃんの書き下し文
先づ鶴岡八幡宮を遙拜し奉り給ふ。
とあるのを指す。続く記載も同年同月十二日の冒頭、
〇原文
十二日辛卯。快晴。寅尅。爲崇祖宗。點小林郷之北山。構宮廟。被奉遷鶴岡宮於此所。以專光房暫爲別當職。令景義執行宮寺事。武衞此間潔齋給。當宮御在所。本新兩所用捨。賢慮猶危給之間。任神鑒。於寳前自令取探鬮給。治定當砌訖。然而未及花搆之餝。先作茅茨之營。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日辛卯。快晴。寅の尅、祖宗を祟めん爲に、小林郷の北山を點じ、宮廟を構へ、鶴岡宮を此の所に遷し奉らる。專光坊を以て暫く別當職と爲し、景義をして宮寺の事を執行せしむ。武衞、此の間潔齋し給ふ。當宮の御在所、本・新兩所の用捨、賢慮猶ほ危み給ふの間、神鑒しんかんに任せて、寳前に於て自ら鬮を取り探らしめ給ひ、たうみぎりに治定し訖ぬ。然れども、未だ花構のかざりに及ばず、先ず茅茨ばうしの營みをす。
を元としている。「神鑒」は神のお告げ。「茅茨」は茅葺のこと。
ここで筆者が述べるように実は「鶴ヶ岡」というのはここの旧地名なのである。]

〇新居閻魔 新居閲魔アラヰノエンマは、由比の濵大鳥居の東南にあり。新居山と號す。堂に圓應寺エンワウジと額あり。開山は知覺禪師、建長寺の末寺なり。寺領は、建長寺領の内にて、三貫文を附す。《寶藏院》別當は山伏ヤマブシにて、寶藏院と云。堂に閲魔の木像あり。昔し運慶頓死して地獄に至り、直に閻魔王を、蘇生して作たる像なりと云傳ふ。倶生神グシヤウジン奪衣婆ダツエバ〔俗に三途河サンヅガハウバと云ふ。〕の木像もあり。しかれども寛文十三年に此閻魔の像を修する時、ハラの中より書付カキツケ出たり。建長二年出來、永正十七年再興、佛師下野法眼如圓、建長の役人德順判、興瑚判とあり。【建長寺維那イノ帳】に、德順は明應七年、興瑚は永正五年の所にへたり。【鎌倉年中行事】に、七月十六日、ハマの新居の閻魔堂エンマダウ、閻王寺と號す。應永大亂の時の亡魂御トムラヒタメに、施餓鬼之事を、扇が谷海藏寺へヲホせて修せらるとあり。源の成氏シゲウヂの時なり。
[やぶちゃん注:この新居閻魔堂は往古は由比の郷にある見越ヶ嶽(大仏東側の山)に建てられたと推定されるが(本文で開山を建長寺開山蘭渓道隆の弟子智覚大師とするが、これは建長寺落慶以前であり、智覚大師の事蹟とも合わず、信じ難い)、後に滑川の当時の川岸近く(現在の鎌倉市材木座五丁目十一番地付近)に移された。なお、その後、本書が刊行された貞亨二(一六八五)年から十八年後の、元禄十六(一七〇三)年十二月三十一日に発生した元禄大地震の津波によって当時の建物が大破し、翌年に建長寺門前の以前に建長寺塔頭大統庵があった場所(現在の鎌倉市山之内の円応寺)に移転している。
「寛文十三年」は西暦一六七三年。
「建長二年」は西暦一二五〇年であるが、先に示したようにこの造立時期は容易には信じ難い。
「永正十七年」は西暦一五一二年。この年の「再興」とは、明応七(一四九八)年八月二十五日に発生したマグニチュード8を越えるとも言われる東海道沖大地震による津波被害を受けてのことかと思われる。二〇一一年九月の最新の研究によれば、この時、鎌倉を推定十メートルを超える津波が段葛まで襲い、高徳院の大仏殿は倒壊、以後、堂宇は再建されずに露坐となったとも言われている。この時、伊勢志摩での水死者が一万人、駿河湾岸での水死者は二万六千人に上ったと推定されている。
「應永大乱」は、室町時代、応永六(一三九九)年、旧鎌倉幕府御家人であった守護大名大内義弘が室町幕府第三代将軍足利義満に対して反乱を起こし、堺に籠城の末に滅ぼされた一件を言う。この時、第三代鎌倉公方足利満兼は同心して討幕軍を進めたが、当時の関東管領上杉憲定に諌められて中止、戦後に義満に謝罪している。
「源の成氏」足利成氏。第五代鎌倉公方。永享の乱で自害した第四代鎌倉公方持氏の遺児で満兼の孫に当たる。
 なお私は円応寺というと、十王の一人初江王の裳裾の躍動感もさることながら、同じく国宝館に展示されている人頭杖が頗る附きで大好きだ。これは倶生神の持物とされ、杖の柄の部分鍔のような大きな円盤の上に、恐ろしい三眼の忿怒相の鬼神の首と妙齢の美女の首の二つが寄り合って載っている(一説に前者は泰山府君、後者は財利をもたらす弁財天の姉で、妹と反対に喪失神である暗闇天女とも言われるが、少なくとも前者はどう見ても違う感じがする)。私の記憶では、実はこの忿怒相の首が亡者の生前の善行を、可愛い(しかし如何にも冷たい眼をした)女の首が悪行を語るはずである。バーチャル・リアリティみたような浄玻璃何かより、こっちの方が断然、いいね!
最後に。円応寺の閻魔の首と言えば、私は、この元禄十六(一七〇三)年の津波から程ないことかと思われる、鎌倉の昔話として伝わる、あるエピソードが忘れられぬ。
――津波に襲われ、辛うじて閻魔像の首だけが残った閻魔堂跡の掘っ立て小屋。
――供僧がせめてもと、閻魔像の首を横に渡した板の上に置き、香華などを供えて祀って御座った。
――ふと覗いた旅の男、
「こりゃ面白れえ! へッ! まるで閻魔の首級の晒首じゃ!」
と、呵々大笑して去っていく。……
――蔭で聞いていた供僧、おずおずと閻魔の前に進み出でると、
「……かくなる理不尽なる物言い……閻魔大王様……さぞかし、御無念、御腹立ちのことと……存じまするッ……」
と泣きながら呻くように申し上げた――と――
――閻魔の首が答えて言った。
「腹もなければ腹も立たぬ」――
……お後がよろしいようで……]

○補陀落寺 補陀落寺フダラクジは、南向山ナンカウザン歸命院と號す。材木座の東、民家のアイダにあり。古義の眞言宗にて、仁和寺の末寺なり。開山は、文覺上人なり。勸進帳のれたるあり。首尾破れて、作者も年號も不知(知れず)。其の中に文覺、鎌倉へ下向の時、賴朝ヨリトモ卿、比來ヒゴロの恩む報ぜんとて、此寺をてられしとあり。其後頽破せしを、鶴が岡の供僧賴基ライキ、中興せしとなり。今按ずるに、此勸進帳のブンも、賴基の作。賴基は、【鶴岡供僧職次第】に、佛乘坊淨國院の賴基大夫法印、文和四年二月二日の寂す、千田大僧都と號すと有。本尊、藥師。十二神、運慶が作也。文覺上人の位牌あり。開山權僧正法眼文覺尊儀とあり。賴朝ヨリトモの木像あり。カヾミ御影ミヱイと云ふ。白旗シラハタ明神と同じテイなり。同位牌あり。征夷大將軍二品幕下賴朝神儀とあり。
[やぶちゃん注:「文和四年」は西暦一三五三年。]
寺寶
八幡の畫像 壹幅 束帶ソクタイにて袈裟をかけ、數珠ジユズたしむ。カムリより一寸ばかり上に日輪をゑかく。
寶滿菩薩の像 壹軀 八幡のヲバなり。鶴が岡にもあり。社家にては見目ミメ明神と云ふ。
[やぶちゃん注:「寶滿菩薩」は、一般には宝満山に降臨したとされる神武天皇母玉依姫の中世の神仏習合による別称である。「見目明神」は「みるめ」若しくは「みめ」と読み、三嶋大明神の随神の女神。]
平家調伏の打敷ウチシキ 壹張 打敷は俗語也。卓圍の事なり。
[やぶちゃん注:仏壇の卓に掛け、前に垂らす荘厳具。]
平家の赤旗アカハタ 壹流 幅二布、ナガさ三尺五分あり。九萬八千の軍神と、書付カキツケてあり。
[やぶちゃん注:「二布」は「ふたの」と読み、「布」は布の長さを言う数詞。並幅(反物の普通の幅で鯨尺で九寸五分、現在の約三十六センチ相当)の二倍の幅、約六十二センチ。]
古文書 三通 一通は、北條氏康ホウヂヤウウヂヤストラの朱印、天文廿二年癸丑十一月十五日とあり。一通は、大道寺源六と有。二貫三百文寄附の状也。一通は、賴朝ヨリトモを弔ふべき事の書たり。判の上に冬就フユナリとあり。
[やぶちゃん注:「北條氏康」(永正十二(一五一五)年~元亀二(一五七一)年)は相模の戦国大名。後北条氏第三代目当主。室町期の有力被官山内・扇谷両上杉氏を関東から追放、武田・今川との間に甲相駿三国同盟を結ぶなど、世に『相模の獅子』と恐れられた武将。
「天文廿二年」西暦一五五三年。
「判の上に冬就とあり」これは判読の誤りで「文就」ではなく「文龍」である。昭和三十三(一九五八)年吉川弘文館刊「鎌倉市史 資料編第一」の補陀落寺文書(資料番号五九四)「文龍書状(折紙)」を底本にして、以下に復元する(底本に示された改行を復元、判読不能の部分の右に傍注する編者による推定字は□の後に〔 ?〕で、左に傍注する編者による誤字補正字は□の後に〔→ 〕で示した)。

賴朝之御弔 七月十二日ニ六百□〔文?〕
油錢百卅文□□貮斗淡路方ヘ
渡申候ニ、衆中
へ尋候へば、
努々 無其儀候申、承
及候間、兩月分
壹貫貮□□□〔百文?〕進之侯、供僧
中以其計、御
勤あるべく候、
殊更七月之事ハ
《裏へ》
御とふらひ念比ニ
あるへく候處ニ、彼
方へ尋候ヘハ住坊
にて弔申□□□更愚間〔→簡〕不□□恐々謹言、
 九月十二日            文龍(花押)
    補陀落寺 御坊             龍德

頭注によれば、龍徳院の文龍という僧が補陀落寺に書簡をもたらして源頼朝の供養を催促している書状で、そちらには既に油銭(灯明に代表される供養料であろう)百三十文を淡路守を通じて渡したはずであるが、それが届いていないということであるから、改めて二箇月分の油銭を送るので、供養の儀、よろしく頼むという内容らしい。なお、文書の後に注して本文書の執筆年代は未だ不明の由、記してある。
 なお、私はこの補陀落寺というと、文覚上人自刻と伝えられる真っ黒な裸像を思い出すのだが、ここには記されていないのが残念だ。一説に出家後の那智の滝での荒行の様を刻したとされる、思いっきり奇体なデフォルメで、不敵にして人間離れした面相がとっても好きなのに! 因みに、この注を記した先日、二〇一一年九月二十七日の「紀伊民報」によれば、先日の台風十二号によって、熊野那智大社とその周辺部は激しい被害に見舞われ、『本殿裏手の石垣が崩れ、建物にも被害が及んだ。落差日本一を誇り、勇壮な姿を見せていた那智大滝の滝つぼも変形した。その下流、文覚上人が荒行をしたという故事に由来する文覚の滝も消失。有史以来の景観が一変した』という。――文覚よ――君の打たれた瀧は――もう、ない――]
   已上

鐘樓の跡 今跡のみ有てカネもなし。當寺のカネは、松岡マツガヲカ東慶寺にあり。農民、松が岡の地にてり出したりと云ふ。銘を見れば、當寺のカネなり。兵亂の時、紛散したるなるべし。其文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が一字下げ。この鐘に関わって「鎌倉市史 社寺編」の「補陀落寺」の注に『頼基は仏乗坊の八代及び十代で、建武三年六月に還補されているから、この寺の鐘』『ができた観応元』(一三五〇)『年には供僧であったことになる。供僧は原則としてその坊に居住することになっていたから』『頼基は特別に当寺の住職を兼ねていたものか、或は別人かということになる』とし、本書の筆者が『鐘銘と寺号によって、本尊は観音であったはずであるといっている。従うべきであろう』と記す。]
  補陀落寺鐘銘
就相陽城之海濵、有富多樂之寺院、雖尚具八吉六勝之德、只恨欠二聽五觀之儀、繇玆住持賴基、唱十方之檀越、造九乳之蒲牢、眇覿拘留孫之已往、雅示化如來之明宣、慣彼舊矩、企此新製、作銘曰、鍠々淸響、殷々虗音、雷警諸蟄、風折醉沈、呼嵩壑應、動海潮鳴、普門無外、圓通云生、希兮微兮、一陰一陽、克磨慧鏡、乍斷業綱、撃蒙叩寂、浮空和霜、明辨夢覺、長告晁昏、器簴梵※、銘勒紺園、日月倶懸、天地久存、住持比丘賴基、大工大和權守光連、鑄成右兵衞尉家村、結縁貴賤緇素一萬餘人、觀應元年庚寅八月日〔此銘の文、幷寺號を以考るに、當寺の本尊は觀音なるべき者也。然ども今藥師也。〕。
[やぶちゃん注:「※」=「广」+「睪」。以下、鐘銘を影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  補陀落寺鐘の銘
相陽城の海濵に就て、富多樂の寺院有り。尚を八吉六勝の德を具すと雖へども、只た恨むらくは二聽五觀の儀を欠くを。玆に(ヨ)(り)て住持賴基ライキ、十方の檀越を唱へ、九乳の蒲牢を造る。ハルかに拘留孫クルソンの已往を覿るに、雅(び)に如來の明宣を示す。彼の舊矩に慣(れ)て、此の新製を企つ。銘作(り)て曰(く)、「鍠々(クワウクワウ)たる淸響、殷々たる虗音、諸蟄を雷警し、醉沈を風折す。嵩に呼ばつて、壑、應じ、海を動(か)して、潮、鳴る。普門外か無く、圓通コヽに生ず。希なり微なり、一陰一陽、(ヨ)く慧鏡を磨し、乍ち業綱を斷ず。蒙を撃ち、寂を叩き、空に浮び、霜を和す。明に夢覺を辨じ、長く晁昏(テウコン)を告ぐ。器、梵※に簴し、銘、紺園に勒す。日月と倶に懸り、天地と久(し)く存す。」と。住持比丘賴基 大工大和の權の守光連 鑄成右兵衞尉家村 結縁の貴賤緇素一萬餘人 觀應元年庚寅八月日
「尚を八吉六勝の德を具すと雖へども、只た恨むらくは二聽五觀の儀を欠くを」不詳。堂宇は完備しながら梵鐘が欠けていることを残念に思っていたことを言うのであろうが、「八吉六勝」「二聽五觀」の数の意味が不明。識者の御教授を乞う。
「拘留孫」は拘留孫仏のことで、釈迦が世に現れる前にいた過去七仏の第四仏。現世界が成立安定して続く賢劫げんごうの時代に現れるとされる千仏の第一仏。
「雅(び)に如來の明宣を示す。彼の舊矩に慣(れ)て、此の新製を企つ」は鐘鋳造の動機を述べているが不学にして意味がとれない。識者の御教授を乞う。
「鍠々」は鐘の音の形容。
「醉沈」沈酔と同じで煩悩に浸って迷うさまを言うか。
「壑、應じ」は「嵩」=高い峰に木霊したかと思うと、それが即座に「壑」=谷に響き、という意味であろう。
「晁昏」は朝夕。「鎌倉市史 考古編」の「鎌倉の古鐘」では「鼂」とあるが、これも「テウ(チョウ)」で「晁」と通じ、朝の意。
「梵※」「※」=「广」+「睪」。梵鐘のことかその細部名称らしいが、読みも意味も不詳。識者の御教授を乞う。
「簴し」は「ごし」若しくは「きよし」と読む。この字は鐘を懸けるための台の柱を言う。鐘掛け。
「紺園」寺院のこと。
「勒す」刻む。
「大工大和の權の守光連」は「鎌倉市史 考古編」の「鎌倉の古鐘」に、『当時関東鋳物師として活躍した物部氏の棟梁』とある。]

〇辨谷 辨谷ベンガヤツは、補陀落寺フダラクジの東の谷をふ。土俗、紅谷ベニガヤツふは非なり。或は別谷ベツガヤツとも云ふ。【田代系圖】に、鎌倉のベツが谷は、千葉殿チバドノ敷地シキヂなり。スケ唐名カラナを別駕とふ間だ、別が谷と云也とあり。
[やぶちゃん注:「千葉殿」は、頼朝の信頼極めて厚かった御家人筆頭、千葉常胤(元永元(一一一八)年~建仁元(一二〇一)年)のこと。上総国相馬御厨を支配、保元の乱では源義朝に従い、頼朝の挙兵にも一族挙げて馳せ参じ、木曾義仲及び平家追討に活躍、文治五(一一八九)年の奥州藤原氏追討の際には東海道大将軍として出陣している。これらの勲功により下総・上総の他、薩摩・肥前・豊前・陸奥といった各地の所領を得、下総守護に補された。その折りの彼の官位が上総権介・下総権介であり、これから千葉介と呼ばれるようになったが、この「介」の唐名が「別駕」で、本記載の谷戸名由来説はそれに基づく。彼の屋敷はこの弁ヶ谷東方、現在の材木座四丁目付近に同定されている。]

〇崇壽寺舊跡 崇壽寺ソウジユジの舊跡は、辨谷ベンガヤツの内にあり、昔は此の谷皆ヤツミナ崇壽寺の地内なりと里老カタれり。此寺は、北條相模守平の高時タカトキ入道崇鑑ソウカンが建立にて、金剛山崇壽寺と號す。開山は南山和尚、諱は士雲、聖一國師の法嗣なり。建武三年十月七日に寂す。崇壽寺は、元亨元年に創造也。【南山の行實】に詳なり。【太平記】に高時滅亡の時、長崎次郎高重タカシゲづ崇壽寺の長老南山和尚に參り、左右にイフして問て云く、如何なるか是れ勇士恁麼インモの事。和尚答て曰く、不如吹毛急用前(吹毛急に用ひてスヽまんには如かず)とあり。崇壽寺の鐘銘、其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:本寺は応永三十一(一四二四)年までは存在していたことが確認出来る(「鎌倉廃寺事典」による)。
「建武三年」は西暦一三三六年、「元亨元年」は西暦一三二一年。
「南山和尚」南山士雲(建長六(一二五四)年~建武二(一三三五)年)は遠江出身の臨済僧。臨済宗聖一派の二大門派の一つである荘厳門派の祖として達磨大師以来の純粋禅を宣揚した。東福寺の円爾の元で出家、大休正念・無学祖元参禅した後、東福寺に戻って円爾から無準師範より伝わる法衣を授けられ、延慶三(一三一〇)年、東福寺の第十一世となっている。鎌倉では、この崇寿寺を開山したほか、建長寺・円覚寺などにも住している。
【南山の行實】」とは「東福第十一世南山和尚行実」のことで、竹庵大縁の手になる士雲の伝記。
「長崎次郎高重」(?~元弘三・正慶二(一三三三)年)は御内人(北条氏得宗家被官)。長崎高資嫡男。以下の「太平記」の記載は同書巻第十の十四の「長崎高重最期合戦の事」に基づく。ここは全体が大変面白いシークエンスなので、かなり長くなるが以下に引用(底本は岡見正雄校注角川文庫版を用いたが、恣意的に正字に直し、右下にある送り仮名や一部のルビを同ポイントで本文に出した。カタカナは校注者の入れたもの。繰り返し記号「〱」は正字に直し、漢文脈は私が( )で補足した。また、直接話法は改行した)し、私の語注(主に原文底本の脚注を参考にさせて頂いた)と現代語訳を附した。

〇原文
[やぶちゃん注:直接話法は改行した。]
  ○長崎高重最期合戰の事
 去程に長崎次郎高重は、始め武藏野の合戰より、今日に至るまで、夜る晝る八十餘箇度の戰ひに、まいさきけ、かこみを破てみヅカラあたる事、其の數を不知(知ラざり)しかば、の者・若黨わかたう共、次第にほろぼされて、今はわづかに百五十騎に成にけり。五月二十二日に、源氏はや谷々やつへ亂れ入つて、當家の諸大將、太りやく皆討れ給ぬと聞へければ、かためたる陣とも不云(云はず)、只敵の近づく處へ、馳合はせあはせ々々、八方の敵をはらつて、四たいかためを破りける間、馬つかれぬればへ、太刀打ればき替て、みヅカラ敵を切て落す事三十二人、陣をやぶる事八箇度なり。角て相摸入道の御坐おはしま葛西谷かさいのやつへ歸り參て、中門にかしこまなみだを流し申けるは、
高重たかしげ奉公ほうこうの義を忝クして、朝夕恩顏をんがんを拜し奉りつる御名殘なごり、今生に於ては今日をかぎりとこそ覺へ候へ。高重一人數箇すか所の敵を打らして、數度の戰ひにまい度打勝候といへ共、方々の口々皆め破られて、敵の兵鎌倉中に充滿じうまんして候ぬるうへは、今は矢長やたけに思ふ共不可叶候(かなふべかラず候)。只一筋に敵の手に懸らせ給はぬ樣に、思召定させ給ひ候へ。但し高重かへさんじてすゝめ申さん程は、無左右御自害候な(左右無く御自害じがい候な)。うへの御存命ぞんめいの間に、今一度こゝろよく敵の中へ懸け入り、思ふ程の合戰して冥途めいどの御とも申さん時の物の語りに仕候はん。」
とて、又東勝とうせう寺を打出づ。其のうしかげを相摸入道はるか見送みおくり給て、是れやかぎりなるらん名殘惜なごりをしげなるていにて、なみだぐみてぞ被立たる(立たれたる)。
さき次郎よろひをばて、すぢかたびらの月日したるに、精好せいがうの大口のうへに赤いと腹卷はらまき手をば不差(さず)、兎鷄とけいと云ける坂東ばんどう一の名馬に、金具かながいくら小總こふさしりがひけてぞつたりける。是を最後と思定ければ、先づ崇壽寺そうじゆじの長老南山和尚なんざんをしやうに參じて、案内申ければ、長老威儀いぎして出合給へり。方々のイクさ急にして甲冑かつちうたいしたりければ、高重はにわに立ながら、左右にゆうして問て曰く、
如何いかなるこれ 勇士ゆうし恁麼いんも。」
和尚こたへて曰く、
吹毛すいもう急にもちいて不如前(すゝまんにはかず)。」
高重此の一句を聞て、問訊もんじんして、門前より馬引きせ打つて、百五十騎の兵を前後に相隨へ、笠符かさじるしかなぐりて、しづかに馬をあゆませて、敵陣にまぎれ入る。其の志ざしひとへに義貞よしさだに相近付かば、つて勝負を決せん爲也。高重たかしげ旗をも不指(さず)、打物のさやをはづしたる者無ければ、源氏の兵敵とも不知(知らざり)けるにや、をめをめと中をひらいてとをしければ、高重、義貞にちかづく事わづかに半町計り也。すはやと見ける處に、源氏のうんつよかりけん、義貞の眞前まつさきひかへたりける由良ゆら新左衞門是れを見知て、
「只今はたをも不指(指さず)相ちかづく勢は長崎次郎と見ルぞ。さる勇士ゆうしなれば定て思ふ處有てぞ是までは來ルらん。あますなもらすな。」
と、大音擧をんあげてよばゝりければ、先陣にひかへたる武藏の七たう三千餘騎、東西より引裹ひつゝつんででまん中に是をめ、我も我もと討んとす。高重は支度したく相い違しぬと思ければ、百五十騎の兵を、ひしひし一所へ寄せて、同をんに時をどつとげ、三千餘騎の者共を懸拔かけぬけ懸入交合まじりあひかしこあらはこゝかくれ、火をらしてぞ戰ける。聚散離合しゆさんりがうの有樣は須臾しゆゆ變化へんくわして前に有るとすれば忽焉こつゑんとしてしりへにある。御方かと思へばきつとして敵也。十方に分身して、萬卒ばんそつに同く相あたりければ、義貞よしさだの兵高重たかしげが在所を見定めず、多くは同士どし打をぞしたりける。長はま六郎是を見て、
「無云甲斐(云ふ甲斐かい無き)人々の同士打かな。敵は皆笠符かさじるしを不付(付ず)とみへつるぞ、中にまぎれば、それしるしにしてんで討テ。」
と下知しければ、甲斐信濃武藏相模の兵共、ならべてはむずとみ、組で落ては首を取るもあり、被捕(捕らるる)もあり、芥塵かいぢん掠天(天をかすめ)、汗血かんけつ地を糢糊もごす。其の在樣かう王がかんの三將をなびかし、魯陽ろやうが日を三しやに返し戰しも、是れには不過(過ぎじ)とぞ見へたりける。され共長さき次郎は未被討(未だ討タれず)、主ジウ只八騎に成て戰けるが、猶も義貞に組んとうかがふて近付く敵を打はらひ、やゝもすれば差違さしちがへて、義貞兄弟を目に懸てまはりけるを、武藏の國の住人横山よこやまの太郎重眞しげざねへだてて是れに組んと、馬をすゝめて相近づく。長さきもよき敵ならば、組んと懸合て是を見るに、横山太郎重眞也。さてはあはぬ敵ぞと思ければ、重眞を弓手ゆんでに相け、かぶとはち菱縫ひしぬひの板まで破着わりつけたりければ、重眞二つに成て失にけり。馬もしりゐに被打居て(打へられて)、小膝こひざを折てどうど伏す。同國の住人しやうの三郎爲久ためひさ是を見て、よき敵也と思ければ、つゞいて是に組んとす。大手をはだけてせ懸る。長さき はるかに見て、からからと打わらふて、
たうの者共に可組ば(組むべくば)、横山をも何かは可嫌(きらふべき)。はぬ敵を失ふ樣、いでいで己れに知せん。」
とて、爲久がよろひ上卷あげまきつかんで中にひつさげ、弓杖ゆんづゑ五杖計り安々やすやすわたす。[やぶちゃん字注:「※」=「爬」-「巴」+「國」。]其の人飛礫ひとつぶてあたりける武者二人、馬よりさかさまに被打落て(打ち落されて)、いてむなしく成にけり。高重たかしげ今はとても敵に被見知ぬる上は(見知られぬる上は)と思ければ、馬をへ大音揚をんあげて名乘けるは、
桓武くわんむ第五のわう葛原かつらはらしん王に三代のそんたいらの將軍貞盛さだもりより十三代、さきの相摸の守高時たかとき管領くわんれいに、長崎入道圓喜ゑんき嫡孫ちやくそん、次郎高重たかしげ、武をんを報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者はよれや、組ん。」
ままに、よろひの袖引ちぎり、草ずりあまた切り落し、太刀をもさやをさめつゝ、左右の大手をひろげては、ここかしこちがひ、大童おほわらはに成てらしける。懸る處に、郎等共馬の前に馳ふさがつて、
「何なる事にて候ぞ。御一所こそ加樣にまはましませ。敵は大勢にて早やつ々に亂入り、火を懸け物を亂妨らんばうし候。急ぎ御歸候て、守殿かうのとのの御自害じがいをもすゝめ申させ給へ。」
と云ければ、高重郎等に向てのたまひけるは、
あまりに人のぐるが面白さに、大殿をふどのに約束しつる事をもわすれぬるぞ、いざさらばかへり參ん。」
とて、主じう八騎の者共、山のうちより引歸しければ、げて行とや思ひけん、兒玉黨こだまたう五百餘騎、
「きたなし返せ。」
のゝしつて、馬をあらそふてつ懸たり。高重、
「ことごとしの奴原やつばらや、何程の事をか出すべき。」
とて、聞ぬよしにて打けるを、手しげふて懸りしかば、主じう八騎きつと見歸て馬のくつばみを引まはすとぞみへし。山の内より葛西かさいやつ口まで十七度まで返し合せて、五百餘騎を追退しりぞけ、又しづ々とぞ打て行ける。高重がよろひに立處の矢二十三筋、蓑毛みのけ如く折かけて、葛西のやつへ參りければ、祖父をほぢの入道待けて、
「何とて今までをそりつるぞ。今は是までか。」
と問れければ、高重かしこまり、
し大將義さだに寄せ合せば、くん勝負せうぶをせばやと存候て、二十餘度まで懸入候へ共、遂に不近付得(近付き得ず)。其の人と覺しき敵にも見合ヒ候はで、そゞろなるたう奴原やつばら四五百人、切落てぞて候つらん。あはつみの事だに思ひ候はずは、猶も奴原をはま面へひ出して、ゆんに相近ヅけ、車切くるまぎり胴切どうぎり 立破たてわりに仕リ、棄度すてたく存ジ候つれ共、うへの御事何かと御心もとなくてかへり參て候。」
と、聞くもすずしく語るにぞ、最期さいごに近き人々も、少し心を慰めける。

〇やぶちゃん語注
・「武藏野の合戰」分倍河原合戦。元弘三・正慶二(一三三三)年五月の新田義貞と幕府軍の戦い。
・「角て相摸入道の御坐おはします葛西谷」「角て」は「かくて」、「相模入道」は北条高時、「御坐おはします葛西谷」は東勝寺。
・「今は矢長やたけに思ふ」の「矢長やたけに」は「彌猛いやたけに」で「なお一層」の当て字。
・「左右無く御自害じがい候な」の「な」は禁止の終助詞。呼応の副詞と終助詞の「な……そ」よりももっと厳密な禁止を表わす。
・「すぢかたびらの月日したる」は縦方向に染めた糊を強くひいた大帷おおかたびら(白布で仕立て、単の直垂の下に重ねて着た衣)に、太陽と月の模様が押し出されたもの。
・「精好せいがうの大口」「精好」は中世以降に公家・武家で用いられた絹織物の一つ。縦糸に練り糸または生糸を密にかけて、横糸に太い生糸を織り入れて固く緻密に織った平絹。「大口」は大口袴のこと。裾の口が大きい下袴。平安時代には公家が束帯の際に表袴うえのはかまの下に着たものであるが、鎌倉時代以降は武士が直垂や狩衣などの下に着用した。
・「赤いと腹卷はらまき」赤糸おどしの鎧。茜または蘇芳で染めた縅(小札こざねを革や糸などの緒で上下に結び合わせること)。「腹卷」は大鎧に比べて腰部が細く身体にフィットしており草摺部分の間数も多く、実戦での動態性能を高めた鎧である。
・「小總こふさしりがひ」小さな総を飾りとして附けた馬の尾の下から後輪しずわ(馬の鞍の背後にめぐらした部分)の四緒手しおで(鞍の前輪と後輪の左右四箇所に附けた金物の輪を入れた部分)につなげる緒を言う。
・「長老」住職。
・「威儀いぎして出合給へり」禅宗の式法に則った仕儀で出迎えられた、の意。
・「左右にゆうして」士雲の左右に控えた僧たちに礼をして。「揖」は手を交差させて低頭する、禅宗の礼法。禅宗では「揖」を「イツ」と読むが、本来のこの漢字の発音は「イフ」で、「新編鎌倉志」はそちらでルビを振っている。
・「如何いかなるこれ勇士ゆうし恁麼いんも」「恁麼いんも」は公案に於いて、その、この、そんな、こんな、そのように、このように、の意で、話題にしている事物の状態を指して言う。ここでのように、どうして、いかにしてという疑問詞としても用いる。與麼とも書く。『――「勇士の振る舞い」とは――これ如何?――』。
・「吹毛すいもう急にもちいて不如前(すゝまんにはかず)」「吹毛」とは、刃先に吹きつけた毛さえも自然に裁ち切れる意から、よく切れる剣のことを言う。『――利剣を振るって、只管、前に進むあるのみ――』。
・「問訊もんじん」禅宗の礼法の一つ。年長者に敬意を表して合掌し低頭すること。本来は、その後に相手の安否を尋ねるのが順序。
・「打物のさや」刀の鞘のこと。
・「源氏の兵敵とも不知けるにや」は「源氏のつはものてきとも知らざりけるにや」と読むものと思われる。新田義貞は正しくは源義貞。新田氏は上野源氏とも言い、源義家の四男義国の長子である新田義重に始まる「源氏」で、上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)を領有した。
・「半町」一町は約一〇九メートルであるから、凡そ五〇メートル強。
・「由良ゆら新左衞門」底本脚注に『上野国新田郡宝泉村(太田市)由良(新田氏の本拠地近く)出身の武士か』とある。
・「あますな」は「余すな」で、取り残すな、討ち漏らすなの意。
・「武藏の七たう」平安時代後期から室町にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模などの近隣諸国にも勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称。横山党・児玉党・猪俣党・村山党・野与党・たん党・西党・綴党・私市党などが挙げられるが、「吾妻鏡」には「武蔵七党」という表現がないことなどから、南北朝時代以降の呼び方と考えられ、七党の数え方も文献により異なり一定していない(以上はウィキの「武蔵七党」の拠った)。
・「きつとして」本来は山が高く聳えるの謂いであるが、ここでは見るからに確かに、間違いなくの意。
・「十方に分身して、萬卒ばんそつに同く相あたりければ」その狭い戦闘地の中で巨万の新田軍に対して諸所で、同時に高重が立ち現れたことを言う。従者の中に影武者が含まれていたか。
・「長はま六郎」底本脚注に「太平記」巻十四及び巻十六に「長濱六郎左衞門尉」とある人物で、先に出た『由良氏と共に新田氏の有力な侍で、武蔵国賀美郡(児玉郡上里村)長浜出身』の武蔵七党の一つであった丹党の出身か、とある。
・「汗血かんけつ地を糢糊もごす」汗と血糊が滴って地を覆ってしまう惨状を言っているのであろう。
・「かう王がかんの三將をなびかし」底本脚注に『項羽が垓下で戦った時、漢の騎将の漢嬰と赤泉侯が戦ったことが史記。項羽本紀に見える。三将とは漢嬰と赤泉侯と一都尉を指すらしい』とある。
・「魯陽ろやうが日を三しやに返し戰し」底本補注に『魯陽は楚の平王の孫』の『司馬子期の子で楚の県公』で、彼が『韓と戦った時に日が暮れようとして』いたため、戦況を好転させるために太陽が沈まない『二十八宿の三宿の距離に』戻す(「三しやに返」す)ために、『戈をとり太陽を招き返した』故事に基づくと解説がある。
・「新田兄弟」新田義貞と実弟脇屋義助(嘉元三(一三〇五)年~康永元・興国三(一三四二)年)。二人とも新田朝氏の子。弟の脇屋姓は支配地であった群馬県太田市の脇屋町に由来する。脇屋義助は兄とともに挙兵し、鎌倉攻めに参加していた。元弘三(一三三三)年八月には討幕の褒賞として正五位下に叙位。左衛門佐に任官、以後、兵庫助・伊予守・左馬権頭・弾正大弼などを歴任、常に義貞と行動を共にした。義貞の戦死後は越前国黒丸城を攻め落としたものの、室町幕府軍に敗れて越前国から退去している。康永元・興国三(一三四二)年には中国四国方面の総大将に任命されて四国に渡ったが、伊予国国府で発病、病没した(以上はウィキの「脇屋義助」に拠った)。
・「武藏の國の住人横山よこやまの太郎重眞しげざね」底本脚注に『武蔵七党の横山氏か。武蔵国多摩郡横山(八王子市横山町)辺の多摩丘陵』の出身で、ここは『古代に多摩の横山と言われる地に居た武士団横山党』が支配しており、『七党系図には重真は時安の子、「元弘三鎌倉死」と注す』とあるから、この人物と考えてほぼ間違いない。
・「かぶとはち菱縫ひしぬひの板」兜の頭部を守るための鉢の周囲に垂れ下がる後頭部や首周りを守るためのしころには一の板・二の板と幾枚かの裾板が下がるが、その最下段の板を「菱縫」と言う。赤革の紐や赤糸の組紐でもってX形(模様は菱形に見える)に綴じていることからかく言う。横山の首は一刀両断、完全に頸部まで真っ二つにされたことになる。とんでもない高重の怪力が示されるショッキングなシーンである。
・「同國の住人しやうの三郎爲久ためひさ」底本脚注に『庄氏も武蔵七党の児玉党本庄氏か』とある。
・「上卷あげまき」鎧の逆板さかいた(背の屈伸を自由にするために作った幅三センチ程のすき間を覆う板)の繰締くりじめかん(鎧の下端背部に取り付けた金属製の輪。緒を通して締める)に附ける三方に輪を作った総角結びの緒のこと。
・「弓杖ゆんづゑ五杖計り」弓丈ゆんだけ(弓長)という距離単位。弦を張らない弓のそれぞれの先端末弭うらはずから本弭もとはずまでの長さを一杖ひとつえとした。通常一杖は七尺五寸で約二・二七メートルであるから、高重は為久を摑んで実に十一メートル以上も投げ飛ばしたということになる。そしてそれに弾き飛ばされた騎乗の武士二人が血を吐いて死んだというのだから、怪力もここまで来ると神域に入る。
たいらの將軍貞盛さだもり」平貞盛(?~永祚元(九八九)年?)平安中期の武将。坂東平氏平国香嫡男。天慶三(九四〇)年、藤原秀郷とともに積年の因縁の同族平将門を攻め滅ぼしている。鎮守府将軍・陸奥守・丹波守を歴任、「平将軍」と称した。
・「管領くわんれいに、長崎入道圓喜ゑんき」この「管領」は執事や家老職を示す一般名詞。円喜は鎌倉幕府の執権北条氏の宗家である得宗家の執事、得宗被官である御内人の筆頭として「内管領」「御内頭人」と呼ばれたが、これは幕府の正式な役職名ではない。
・「亂妨らんばう」略奪。
・「守殿かうのとの」「大殿をふどの」はいずれも北条高時を指す。これについては底本脚注に『本来、守殿は相模守で、この時赤橋守時が相模守であった筈だが、前に自害した事が見え、高時は「太守」と当時』の『文書に書かれ』、『前段にも大殿とある』と記す。
・「兒玉黨こだまたう」平安後期から鎌倉期にかけて武蔵国で割拠した武士団の一つで、主に武蔵国北端域全域(現在の埼玉県本庄市や児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点とした、所謂、武蔵七党中でも最強の勢力集団であった。
・「折かけて」刺さった矢を抜かずにばっと折ってそのままにしておくこと。丁度、蓑のように見える。
・「そゞろなる」これといって殺すまでもない下賤の。

〇やぶちゃんの現代語訳
[やぶちゃん注:シークエンス・シーンごとに自在に改行し、一部に意訳も施した。]
  ○長崎高重最期の合戦の事
 そうこうするうちに、長崎高重は武蔵野分倍河原の戦いより今日に至るまで、昼夜分かたず八十余の戦いにあって、常に幕府軍の先鋒に立って倒幕軍の囲みを破って、自ら敵に相い対すること、その数知れずという奮戦であったが、配下の者どもも次第に討ち亡ぼされてしまい、今は僅かに百五十騎になってしまった。
 時に五月二十二日、源(新田)義貞率いる倒幕軍はすでに鎌倉の谷戸々々へと雪崩打って乱入し、北条得宗・御内人家の大将もその殆どが討たれなさったと聞いたので、高重は誰が守備致す陣であろうと委細構わず、ただもう敵の迫ってくる場所へと所構わず馬を馳せ合わせ馳せ合わせて、八方の敵をうち払っては、東西南北四方の敵の堅めを破ってはまた破り、馬が疲れれば即座にざっと乗り換え、太刀が折れればはっと佩き替えて、自ら敵の首級を切って落とすこと実に三十二人、敵陣を破ること、八度に及んだ。
 かくするうち、高重は相模入道北条高時様のおわしますところの葛西ヶ谷東勝寺へ帰参致いて、寺の中門の前に畏まって、涙を流しつつ申し上げることには、
「高重、かたじけなくも父祖代々得宗家げ御奉公致いて、朝に夕に殿の御尊顔を拝し奉って参りました……されど……お名残り惜しう御座いますれど……今生に於いてはそれも今日を限りと……存じまする……この高重、今に至るまでたった一人で幾つもの敵を打ち散らし、幾度もの戦いにその都度、勝利致いて参りましたが……鎌倉の方々の口々は皆、攻め破られてしまい、敵の兵どもが鎌倉中に充満しておりまする以上……今となっては拙者一人が如何に奮い立ってみたところで……最早如何なる望みも叶うものでは御座らぬ……ただ! ただともかくも! 殿だけは、敵の手におかかりになるなんどということが御座いませぬよう……どうかそれだけは思し召し下さいまするよう!……但し……この高重めが、今一度、ここへ帰参致いて……殿に、それをお勧め致す、その時までは……決して無暗に御自害なされてはなりませぬぞ!――さあ! 殿が御存命の間に、さても今一度、快く敵中深く駈け入り、思う存分に合戦して――殿の冥土の御伴を致す折りの物語りの一つも――やらかして参りましょうぞ!」
と言い放つや、また高重は東勝寺から討ち出て行った。
 その後ろ姿を相模入道は遙かに見送りなさりつつ、名残惜しげに、涙ぐんで、いつまでも佇んでおられたのであった。
 さても長崎次郎高重は、兜を脱ぎ捨て、日と月を染め抜いた筋の帷子かたびらに、精好織せいごうおりの大口袴の上に赤糸縅あかいとおどしの腹巻を着し、小手をば付けず、兎鶏とけいと名付けた坂東一の名馬に、金と貝の蒔絵を散らした鞍を据えて、小房のしりがいを懸け、ざっと跨る。
 これおのが最後の戦さと思い定めたれば、高重はまず、崇壽寺そうじゅじの住持南山和尚の下に参じ、案内を乞うた。
 和尚は威儀を正して高重を出迎えなさった。方々の戦さが火急なれば、高重は甲冑を帯びたままに庭に立ったままであったが、左右の人々に礼法に従って挨拶した後、和尚に問うた。
「――「勇士の振る舞い」とは――これ如何?――」
和尚、答えて曰く、
「――利剣を振るって、只管、前に進むあるのみ――」
と。
 高重、この一句を聞くや、黙って深謝し、寺の門前にて馬を引き寄せると、ざっと跨り、百五十騎の郎等を前後に従え、自身の笠符かさじるしをかなぐり棄て、者どものそれも同じく棄てさせると、いとも静かに馬を歩ませて、敵陣へと紛れ込んでゆく。目指すはもうただ一つ、新田義貞に相いまみえたならば、一気に討って勝負を決せんがためであった。
 高重は旗も指さず、郎等の一人として刀を鞘から抜いた者も一人としてない。源(新田)義貞軍の兵は、これまた誰一人として、彼らを敵であると気付かないのか?――見よ、連中を! 平然と陣の中央をわざわざ開いては、高重一行を通しているではないか?!
 かくして高重は、新田義貞から僅かに半町ほどの距離にまで至った。すわ、今や! と思うほどに――源(新田)氏の運が強かったというべきか――義貞の真正面で控えていた由良新左衛門が、高重一行に気づき、
「只今、あの旗も指さずに近づいて来る連中じゃ! あれは長崎次郎高重と見たぞ! あ奴! 相当な強者じゃて、何ぞ企んでこんな所まで入って来たに違いない! 取り逃がすでないぞ! 討ち漏らすなっ!」
と大音声おんじょうを挙げて叫んだ。さればこそとて、先陣に控えていた武蔵七党三千余騎が一斉に動いた。東西から左右に広がって押し包むように長崎らを包囲し、我も我もと討ちかけてゆこうとする。
 高重は
『――糞!――目算が外れたか――』
と、百五十騎の自兵をびっしりと一ヶ所に寄せ固めると、一気に同音で雷鳴のような鬨を挙げて、新田軍三千余騎の者どもの中に、懸け抜け、懸け入り、交じり合い、かしこに現れてはここにぞ隠れ、鎬を削って火花を散らし、大激闘を展開する。高重軍の離合集散のそのありさまは瞬く間の変幻自在――前に立ったかと思えば――忽然と後ろに現われ――味方かと思うたれば――いや、実に確かに敵なり――その狭い戦闘地の中の巨万の新田軍に対し――至る所で――同時に高重が立ち現れた――義貞の軍兵は今、高重が何処にあるかも見定めることが出来ぬ――いや、それどころか多くの新田の兵は同士討ちさえ始めてしまう始末である。
 新田軍の長浜六郎はこの惨状を見て、
「何たる愚かなる者どもの同士討ちかッ! いいか! 敵は皆、笠符かさじるしを指しておらぬと見たぞッ! 同士の兵の中に紛れ込んだれば、笠符かさじるしの有無を見て、無き者に組みついて、討ちとるのじゃッ!」
と伝令する。さればこそとて今度は甲斐・信濃・武蔵・相模の兵どもが、笠符かさじるしのない者を目がけては、複数で押し並んでは、むんずと組み付き、組み付いては馬から落とした。相手の首を取る者もあり、捕縛される者もあり――芥塵が天を覆い尽くし、粘る汗と血が地に広がって覆い尽くす――曾て、かの項羽が漢の三将軍を靡かせ――魯陽が天を行く太陽を招き返して戦った折りでも――かくまで酷たらしい惨状ではなかったと思うほどの、修羅場で御座ったよ……
 されど、高重は未だ討たれることなく、主従八騎となっても戦い続け、なおも義貞に組み摑んと、機を窺っては、近づいて来る敵を打ち払い、どうかすると相手を深追いせずに軽くやり過ごしたりしては、新田義貞・脇屋義助兄弟を探し求めては広くもない戦場を懸け回っていた。
 そこに武蔵国の住人横山重真しげざねが、義貞義助を狙う高重の間に押し割って高重めに組まんと、馬を進めてやって来る。
 高重も、
「相手にとって不足のない敵ならば、一つ、組んでやろう。」
と、見たところが、横山重真である。高重は、
「さてもまともに戦うに価いする武士ではないわ。」
と、やおら寄せてきた重真を左手でぐいと摑むと、重真の兜の鉢の脳天からしころの菱縫の板の下がった頸辺りまで、太刀を一気に振り下ろした――
――重真の頭部は美事、真二つ割れて――即死――
――馬も後ろに尻餅を搗くように一度斃れ――次いで前膝をぼきっと折ってどうと横倒しに伏してしまった――
 これを見た同じ武蔵国の住人庄為久しょうのためひさが、
「よきかたきじゃッ!」
とて、間髪を入れず高重に組み摑んとした――
――為久は両手をばっと左右に広げて駆け寄ってくる――
――それを長崎高重――遙かに見て――
――かんらからから――とうち笑う――
「おい!! 武蔵の糞七党の連中なんぞと俺がまともに組み合うとでも、思ってるのか? そんな甲斐のないことをするぐらいなら、さっきの横山をどうして嫌ったりするものか!――だったら、あ奴ももう少しはまともな死に方が出来ただろうにのう――手前ら如き、戦うに値しない下種を相手にする時にゃ――どんな仕方で――るか――さあさあ、一つお前に見せてやろうじゃねえか!」
と言うが早いか、高重は為久の鎧の背中、上巻の部分をぐいと摑むと――
――ふわっと宙に引っ提げた――
――かと思う間もなく――
――為久の体は空高く上がって――
――凡そ五杖ほども投げられ――飛ぶ鳥の如――渡って行った――
……そうして……
――そうしてその人礫ひとつぶてに運悪く当たった新田の騎馬武者二人は――
――二人が二人とも――馬から真っ逆さまに落ちて――
――二人が二人とも――ゲッ! と血反吐を吐いて――
――あの世行き……
 高重は、
『……今となっては……もうここまで我を見破られてしまった上は……しゃあないな――』
と、馬を停めて大音声を張り上げて名乗りを挙げる。
「――桓武第五皇子葛原親王より三代の孫、平の将軍貞盛より十三代、前の相模守高時の管領なる長崎入道円喜の嫡孫、長崎高重、武恩を奉ぜんがため、今日只今討死せんとするぞ! 世に名を上げんと思わん者は、寄れや寄れ! さあ、組まん!」
と言うや、鎧の袖引きちぎり、草ずりをさんざんに切って落とし、太刀をも鞘に納めるや、ばっと左右に両手を広げては、ここに馳せ合い、かしこに馳せ違い、大童のざんばら髪で、もう無二無三、気違いの如く駆け回って御座った。――
 そんな中、高重の郎等どもが前に馳せ参じて馬を塞ぐと、
「何をなさって御座りまするか! 殿御一人がかくも馳せ回っておられても、敵は大軍にて、最早、鎌倉の谷戸々々に乱入、火をかけ、略奪の限りを致いて御座る! ここは! 急ぎ! 東勝寺へお帰りになられ、守殿高時様に御自害を御薦め申し上げて下さいまするようにッ!!」
と腸を絞り出すように叫んだ。高重は息を納めて、郎等におっしゃるに、
「……余りに敵の逃げるが面白きゆえに……そうじゃ……大殿高時様に約束した事をも……すっかり忘れておったぞ――さあ! されば帰参せん!」
と、主従八騎の者ども、山ノ内から東勝寺へと引き返したところ、高重が落ち延びんとすると思ったか、児玉党五百余騎が、
「逃ぐるとは何と穢い! 馬返して勝負せいッ!」
と罵りつつ、馬に鞭打って追いかけて来る。高重は、
「糞ぎょうぎょうしい野郎どもじゃ! まあ、よいわ、所詮、きゃつら、何程のことも出来はせぬて。」
と、罵声は聞かぬふりにて鞭打って走らせたが、何時までたっても執ねく追いかけてくる。――とある所で主従八騎、馬を留め、きっと一斉に追手へ向き直り、馬の轡を引き回した――山内から葛西ヶ谷の入口まで、実にかくなるぎらついた目線を返し合わせること十七度、たった八騎で五百余人を美事追い退かせて――最後は再びいとも心静かに馬歩ませて東勝寺へと入ったのであった。
 高重が、鎧に矢を二十三本、突き刺さっていたのを折り曲げたままに蓑毛の如くにして葛西ヶ谷の東勝寺へ帰参したところ、祖父の長崎円喜入道が出迎え、
「……今まで何をしてかくまで遅くなったのじゃ?……さても今は……これまでか……の……」
と問うたので、高重、畏まって、
「もし大将義貞に巡り逢えたならば、組み付いて最後の勝負を致さんと存じておりましたが、二十余度まで敵陣に駈け入ったものの、遂に見参出来ず仕舞い、義貞と思しき敵将にも遭遇致さず、吝嗇臭い郎党の奴ばら四・五百人程を、切って捨てて参りました。殺生の罪業という一抹の思いさえ、これ御座りませなんだら――そうさ、なおもきゃつらを由比ヶ浜の正面へと追い出だいて、己が左右に近づけては、輪切りにも胴切りにも縦割りにも致し、塵や芥同然に海辺に抛り棄てたくも存じましたけれども――なれど、上様の御事が何としても気掛かり、上様の御心痛のほどが心懸かりで、かくも帰参致いて御座います。」
と、聴くも大層涼やかに語るその言葉に、既に最期の近いことを覚悟して御座ったその場の人々も、何とのう、少しばかり心が慰められて御座ったよ。

本話は「太平記」の中でも頗る私の好きな場面である。士雲と高重の禅問答を心の鬨として戦闘が開始される。私にはこの二人の出会いが史実であったかどうかなどは全く問題ではない。大嫌いな小林秀雄の「平家物語」ではないが、正に本作の中で総ての人物が活き活きと動き生き死すという絶え間ないうねりが魅力なのである。]
[やぶちゃん注:以下、鐘の銘は底本では全体が一字下げ。]
  金剛山崇壽禪寺鐘銘
飯嶼之艮、鎌倉之巽、辨谷霊區、椎輪禪苑、芟夷荊榛、聳出輪奐、山曰金剛、劫石横偃、寺號崇壽、祝延聖算、羣岫矗々、長江袞々、漁翁釣雪、牧童歸晩、補陀大士、儼坐岸畔、入三摩地、慈眼悲觀、音聞圓通、根塵消渙、爰募豪雄、洪鐘圓範、四悉爲爐、六度爲炭、和眞性金、百錬千煆、大器已成、聲振霄漢、大夢忽破、長夜早旦、冥顯對累、盡停怨恨、水陸飛潛、共脱苦患、凡曰助縁、各願圓滿、地久天長、河淸海晏、檀門椿葉、八千爲限、伽藍香火、三會不斷、嘉曆二丁卯年十月五日、大檀那菩薩戒弟子崇鑑、開山住持傳法沙門士雲、謹銘當寺本願士恭、大工沙彌道光。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  金剛山崇壽禪寺鐘の銘
飯嶼イヒジマウシトラ、鎌倉のタツミ辨谷ベンガヤツの霊區、椎輪の禪苑、荊榛(ケイシン)芟夷(サンイ)して、輪奐(リンクワン)たるを聳出す。山を金剛と曰(ひ)、劫石横(た)はり(フ)す。寺を崇壽と號す。聖算を延(べ)んことを祝す。羣岫矗々(ぐんしうちくちく)、長江袞々、漁翁雪に釣り、牧童晩に歸る。補陀(フダ)の大士、岸畔に儼坐し、三摩地(サマヂ)に入(り)て、慈眼悲觀、音聞圓通、根塵消渙、爰に豪雄を募つて、洪鐘圓に範す。四悉を爐と爲、六度を炭と爲。眞性の金を和して、百錬千煆、大器已に成(り)て、聲霄漢(セウカン)に振(る)ふ。大夢忽ち破れ、長夜早くく。冥顯對累、盡く怨恨を停め、水陸の飛潛、共に苦患を脱す。凡て曰(く)助縁、各願圓滿、地久(し)く天長く、河淸み海(ヤス)(ら)かに、檀門の椿葉(チンエフ)、八千を限(り)と爲、伽藍の香火、三會斷(た)ざらんことを。嘉曆二丁卯の年十月五日 大檀那 菩薩戒の弟子ソウ鑑 開山住持傳法の沙門士雲 謹(み)て銘す 當寺の本願士恭 大工 沙彌道光
「椎輪」は本義は竹や木で作った古代の粗末な車で、そこから転じて、物事の始めの段階を言う。
荊榛(ケイシン)」はイバラとハシバミで、それらがおい茂る雑木林。
芟夷(サンイ)」除草、刈り取ること。
「輪奐」の「輪」は高大を、「奐」は大きく盛んなことを意味し、広大で立派な建造物の謂い。
「劫石」は「ゴフジヤク(ごうじゃく)」若しくは「ゴフセキ(ごうせき)」と読み、通常は四十三億二千万年という一劫(カルパ)が有機体が「石」と化すに相当する途轍もない長さであるという仏教上の比喩であるが、ここは年を経た古石というそのままの物理的な意味である。
「聖算を延べんこと」天皇の寿命(宝算とも言う)が延びること。
羣岫矗々(ぐんしうちくちく)」山の峰々が聳え立つこと。
補陀(フダ)の大士」補陀落山に住む菩薩の謂いで、観世音菩薩の異称。
「儼坐」は「ゴンザ」又は「ゲンザ」で厳かに座禅すること。
三摩地(サマヂ)」三昧。サンスクリット語サマーディの音写。
「煆」は「カ」若しくは「ケ」と音読みし、原義は「熱いこと」で、強力な熱を加えること。
霄漢(セウカン)」は大空。
「冥顯對累」「冥顯」は「ミヤウケン(みょうけん)」若しくは「ミヤウゲン(みょうげん)」と読み、冥界と顕界。死後の世界と娑婆世界を謂うが、後ろの「對累」が分からない。禅宗では「累」は重なった足で座禅のことを言うから、両界の堺を越えた意識の中で「対坐」座禅して、の意か。
「檀門の椿葉(チンエフ)」の「椿葉」は通常は長寿のことを指すから、ここは檀家人々の長命を祈り、ということか。
「三會」は「サンヱ(さんえ)」若しくは「さんね」と読み、「竜華三会」「弥勒三会」のこと。釈迦入滅後五十六億七千万年後に兜率天から弥勒菩薩がこの世に出でて竜華樹の下で悟りを開くが、そこで行う総ての衆生を救うための三度の法座を言う。
「嘉曆二丁卯年」は西暦一三二七年であるが、「鎌倉市史 考古編」によれば、この年干支の表記は通常なら「嘉曆二年]と記し、その下に割注同様の形で左に「卯」右に「丁」とする。古式では殆どがそうなっており、この銘が正しいとすれば極めて珍しい記載方法であると注してある。なお本鐘は現存せず、この銘文が知られるのみである。
……残念でしたな、寺も鐘も「三會」どころか、たった百年しか持ちませなんだぞ……皮肉なる無常ですな……そもそも禪にあって、私は長寿や三会なんぞを持ち出すってのは、如何なものかと存ずる……残ったのは……ほら、ただ……この空しい紙の記録だけですぞ……士雲和尚……いや……和尚は、その未来まで予測しなすってかく謂うたか……だとすれば、あんたは確信犯の大馬鹿者じゃ……拙者は鐘を両手で頭に被り、裸足でとっとと由比ヶ浜に立ち出でましょうぞ!……]

〇經師谷〔附桐が谷〕 經師谷キヤウジガヤツは、辨谷ベンガヤツの北にあり。土俗ちやうじが谷と云ふ。【東鑑】に、經師がヤツとあるは此の地の事なり。又此東のヤツを桐〔或作霧(或は霧に作る)。〕がヤツと云ふ。鶴岡記録の奧書ヲクガキに於桐谷書す(桐谷に於いて書す)とあり。此の所の事歟。
[やぶちゃん注:材木座の東北、弁ヶ谷の北・桐ヶ谷の西北の現在の長勝寺の東、名越にある谷。写経を行う経師たちがここに住していたか。「吾妻鏡」元久二(一二〇五)年六月二十三日の条に榛谷はんがや四郎重朝が子の重季・秀重ともども三浦義村に討たれた(重朝が畠山重忠の乱で従兄弟であった重忠謀殺に荷担したことを主罪とし、また、三浦氏にとっては三浦義明討死の最後の恨みを晴らす格好となった)記事で、「於經師谷口」で謀殺とあり、鎌倉時代から存在した古い谷戸名であることが分かる。「桐谷」というと、「桐が谷」(きりがやつ・きりがや)と呼称する淡紅色で主に八重咲きの、最高級品種とされる桜があるが、この花は実はここ桐ヶ谷に植生していたことに由来するという。「鶴岡記録」は「鶴岡社務記録」のこと。歴代社務職であった別当の日記。初代別当円暁より第十九代頼仲までの、建久二(一一九一)年三月より文和四(一三五五)年四月の約百六十年間を記録している。]


[光明寺圖]


〇光明寺 光明寺クハウミヤジは、補陀落寺の南鄰なり。天馬山と號す。モト佐介谷サスケガヤツに在しを、後に此の地に移す。當寺開山の傳に、寛元元年五月三日、前の武州の太守平の經時ツネトキ佐介谷サスケガヤツに於て淨刹を建立し、蓮華寺と號し、良忠リヤウチウを導師として、供養をのべらる。後に經時ツネトキ、靈夢有て光明寺と改む。方丈を蓮華院と名くとあり。經時ツネトキを蓮華寺殿安樂大禪定門と號す。當寺に牌あり。【東鑑】に、經時ツネトキ佐佐目ササメノの山麓に葬るとあり。開山は記主禪師、諱は良忠リヤウチウ、然阿と號す。石州三隅の莊の人なり。父は宰相藤原の賴定、母はトモ氏、正治元年七月二十七日に生る。弘安十年七月六日に示寂す。年八十九、﨟七十四。聖光上人の弟子なり。聖光は法然上人の弟子なり。良忠リヤウチウの弟子六人有て、今に六派相ひ分る。所謂(謂は所る)六派は、京都の三は、一條ノ禮阿ライア・三條ノ道光ダウクハウ・小ハタ慈心ジシンなり。關東の三箇は、白旗シラハタ寂慧ジヤクエ〔光明寺第二世。〕・名越ナゴヤ〔ノ〕尊觀ソンクハン〔大澤流義の祖。〕・藤田ノ持阿ジア〔藤田流義の祖。〕是を六派と云ふ。當寺は六派の本寺なり。六派の内白旗シラハタ大澤ヲホサハのみ今尚をサカんなり。四派は斷絶す。十七箇寺の檀林は白旗シラハタなり。昔し經時ツネトキ、武州安達郡アダチノゴホリの内、箕田郷ミタノガウを寄附して寺領とすと云ふ。今寺領、三浦ミウラ柏原村カシハバラムラにて百石をタマふ。當寺にカネあり。銘を見れば、竹園山法泉寺の鐘なり。何れの時に爰に移しける事を不知(知れず)。鐘の銘は、法泉寺が谷の條下に載す。
[やぶちゃん注:「鎌倉事典」の三山進氏の「光明寺」の記載には、『仁和元年(一二四〇)鎌倉に入った良忠のため、経時が佐介ケ谷に一寺を開き蓮華寺と名づけたが、のち同寺を現在地に移し、寺名も光明寺と改めたと伝える』という本記載と同様の記事を掲げた後、『移建・改名の時期については寛元元年(一二四二)とする記録もみられるものの確証はな』く、『良忠のために大仏朝直が開創した悟真寺が蓮花寺と改名、さらに光明寺に発展した』という別説を掲げる。
「前武州太守平經時」北條経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年) 第四代執権。父時氏が早世したため、仁治三(一二四二)年に祖父泰時のあとを継いで十八歳で執権に就任、執権在任中に将軍頼経の関係が悪化、寛元二(一二四四)年に将軍職を子頼嗣に譲らされる将軍交代劇が起こるが、病いが悪化し、在任四年足らずで執権を弟の時頼に譲って出家、法名を安楽と号したが、出家後十日、二十二歳で夭折している。
「良忠」(正治元(一一九九)年~弘安十(一二八七)年)浄土僧。石見国三隅庄(現在の島根県那賀郡三隅村)出身。諡号記主禪師は示寂七年後の永仁元年(一二九三)年に伏見天皇より贈られた。
「父は宰相藤原賴定」とあるが、これは誤りと思われる。「勢陽雑記」の「補陀落山観音寺」(四日市在)の項に開山良忠の伝として「御堂關白八代の末葉、宰相賴定の孫山僧圓實が子也。」とある。また、その他浄土宗寺院の複数記載を見ても参議であった藤原頼定の子とは記されていない。
「經時を佐佐目山麓に葬る」北条経時の墓は現在、光明寺のやや高台に後に掲げられる開山塔と一緒に立つ。ところがこの「新編鎌倉志」では位牌の存在は示されているものの、経時の墓の記載がない。「鎌倉攬勝考卷之九」の「墳墓並墓碑」では、
北條武藏守平經時墳墓 經時は、兼て別業を佐々目谷へ構へ、寛元四年四月十九日、病に依て職を辭し、執權を弟時賴に讓り、落髮し、同年閏四月朔日に卒す。佐々目山の麓に葬り、後此所に梵字を營み、長樂寺と號すとあり。今は其墳墓しれず。
とあり、「鎌倉攬勝考卷之六」の「光明寺」の記載にも載らない。これは按ずるに、開山塔と一緒にあったために経時墓と認識されていなかったのではあるまいか。しかし、現存する経時の墓は、これ、かなり立派な宝篋印塔で目立ち過ぎるぐらいなんだけどなぁ。
「聖光上人」聖光房弁長しょうこうぼうべんちょう(応保二(一一六二)年~嘉禎四(一二三八)年)現在の浄土宗では第二祖とし、鎮西流の祖。当初は比叡山に学んだ天台僧であったが、建久八(一一九七)年に法然と出逢い、即日、弟子となった。筑後国山本(現在の福岡県三井郡)に善導寺を建立して九州における念仏の根本道場を創立するなど、九州西北部を中心に活躍したことから鎮西上人・筑紫上人・善導寺上人などと尊称される。
「六派」良忠の死後、彼の弟子であった良暁・性心・良空・尊観・然空・道光の六人が主に活躍、互いに各自の正統性を主張して六派に分かれ、それがまた布教上の弊害とはならず浄土宗興隆の貢献となり、結果的には鎮西流が正統化、法然・弁長・良忠の正統的浄土宗の三代相承の系譜が確立した。鎮西派は良忠の死後、白旗派・名越派(大澤派)・藤田派・一条派・木幡派・三条派に分裂するが、その中の白旗派が主流となって現在の浄土宗の根幹となった。ここで言う「六派」とは、鎮西派分派の六派である。
「十七箇寺の檀林は白旗なり」とあるのは「十八箇寺」の誤り。近世、光明寺は、浄土宗の関東十八檀林の第一位の寺として栄えた。「関東十八檀林」とは、浄土宗に帰依していた徳川家康が定めた、浄土宗の学問所十八箇寺を言う。昭和二十一年(一九四六)年にここ光明寺で新時代の総合的教育を目指した鎌倉アカデミアが生まれたのも故なしとしないわけである。
「武州安達郡の内、箕田郷」現在の福島県安達郡安達町。
「三浦柏原村」現在の葉山町にあった。
「鐘銘は、法泉寺が谷の條下に載す」「新編鎌倉志卷之四」法泉寺谷の「竹園山法泉寺鐘銘」を参照。]
外門 昔し佐介谷サスケガヤツに有し時、平の經時ツネトキヲトヽ 時賴トキヨリ、外門に額を掛て、佐介淨刹サスケノヂヤウセツと號すと、記主の傳にへたり。今は額なし。
山門 額、天照山とあり。後花園帝の宸筆なり。裏に、永享八年丙辰十二月十五日賜畢とあり。
[やぶちゃん注:「永享八年」は西暦一四三六年。]
開山堂 開山木像を安ず。自作なり。勅諡記主禪師とある額を此堂にカケしとなり。今寶物の内に載す。本傳に、開山遷化七年の後、永仁元年七月に、ヲクリナ記主禪師と賜ふとあり。
客殿 三尊を安ず。阿彌陀の像は運慶が作。觀音勢至像、作者不知(知れず)。
方丈 蓮華院と號す。阿彌陀の像を安ず。此像も運慶が作にて肚裏に運慶が骨を收むと云ふ。
祈禱堂 今は念佛堂と云ふ。昔は祈禱堂にて祈禱のガクを掛しとなり。額は、今寶物の内に載す。本尊は阿彌陀、慧心の作と云ふ。左の方に辨才天の像あり。昔し江の島の辨才天の像、トキ暴風き來て、此寺の前海濱に寄泊る。里民相ひ議して彼のシマカヘす。其後又來る。如此(此くのごとく)する事三度なり。ヨツて寺僧御鬮ミクシるに、永く此の寺にトヾまるべき由なり。故にコヽに安ずと云。右の方に善導ゼンドウの像あり。自作と云ふ。衣に金泥にて阿彌陀經を書たり。文字皆へて今はシヤウの字ばかり見ゆるなり。ヲク善導塚ゼンドウヅカシタに詳なり。天和元年に、施主有て、昔の祈禱堂を此の所へ新に建立し、常念佛を始め晝夜チウヤ不怠(怠らず)。
[やぶちゃん注:「天和元年」は西暦一八六一年。]
寺寶
勅額 貮枚 一枚は、後宇多帝の宸筆、勅諡記主禪師とあり。一枚は、後土御門帝の宸筆、祈禱の二字なり。裏に福德二年辛亥九月吉日とあり。祈禱堂の額なり。福德の年號不審。恐はアヤマりたる歟。
[やぶちゃん注:「福德二年辛亥」を誤彫琢とするが、これは違う。まず「福德」という元号は公には存在しないものの、実際に私年号として室町時代に関東地方を中心とする東日本で使用されており、西暦一四九〇年を元年とする史料が多いが、一四八九年・一四九一年・一四九二年を元年とする史料もあるという。以下、ウィキの「私年号」の「中世後期」の記載によれば、『室町幕府による分権体制への移行は地方の自立化を促したが、一部勢力の間では反幕意識を表明するために私年号が使用されたこともあった。具体的には、禁闕の変後に近畿南部の南朝遺臣(後南朝)が使用したという「天靖」「明応」、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の子・成氏を支持する人々が使用した「享正」「延徳」などがその例である』としながら、正にこの十五世紀末以降、『戦国期に発生した私年号は、依然として戦国大名の抗争の中にありながら、従来の私年号とは性格を大きく異にしていることが指摘できる。すなわち、「福徳」「弥勒」「宝寿」「命禄」などは、弥勒や福神の信仰に頼って天災・飢饉などの災厄から逃れようとする願望の所産であって、単なる政治的な不満と反抗を理由に公年号の使用を拒否していた訳ではない。しかも、これらの私年号の多くは甲斐国(山梨県)から発生し、寺社巡礼の流行に乗じて中部地方・東北地方に伝播したとみられ、現在東国の広い地域に残る板碑・過去帳・巡礼札などの中にその実例を確認し得る。こうした事態の背景には、幕府と鎌倉公方との対立による改元伝達ルートの乱れや途絶があったに相違なく、その意味において、広範囲に通用した私年号は中世後期東国の歴史的所産と呼べるものであろう』と記されている。この干支「辛亥」は、公的な年号で延徳二(一四九〇)年を元年とするならば、その「福德二年」西暦一四九一年は、正しく辛亥ひのといとなる。そして、第一〇三代天皇後土御門帝の在位は寛正五(一四六四)年~明応九(一五〇〇)年であるから完全に合致するのである。]
南嶽大師の袈裟 壹頂 竹布にて九條なり。法然、初め叡山に在て、天台の碩學たり。因之(之に因て)叡空より之傳(之を傳ふ)。是れ圓頓戒相承の表信なりといふ。
[やぶちゃん注:「南岳大師」は慧思(えし 五一五年~五七七年)。中国北魏の天台宗二祖とされる高僧。
「竹布」は「ちくふ」と読み、元来は中国語である。竹の繊維をもって編んだ布であるが現代の精製になるしなやかな竹布とは全く異なり、麻布のように固くごわごわしたもの。唐代から使用された。
「九條」の「条」とは袈裟の基本的な縫製法で、小さく裁断した布を縫い合わせて縦に繋いだものをいう。これを横に何条か縫い合わせて袈裟を作るが、条数は一般に五条・七条・九条の三種で、条数の多い方が尊位となる。
「叡空」(?~治承三(一一七九)年)は平安後期の天台僧で比叡山第一の学僧として知られた。久安六(一一五〇)年、法然は彼に入門している。
「圓頓戒」円戒とも。天台宗で行われる戒で、これを受ける者は、既に成仏が約束されるという。]
阿彌陀經 壹卷 聖光の筆。寛喜二年七月二十一日、一字三禮して書と奧書ヲクガキあり。
[やぶちゃん注:「寛喜」は西暦一二三〇年。]
紫石の硯 壹面 是を松陰マツカゲの硯といふ。松鶴龜マツツルカメ彫物ホリモノあり、裏に永享五年十二月廿五日と、小さくり付てあり。相ひ傳ふ平の重衡シゲヒラ受戒の時、法然にアタふ。法然是を聖光に讓り、聖光また記主キシユに與ふ。記主自筆の譲り状あり。今按ずるに、永享五年は、法然(・)記主の時代に非ず。後人のきたるなるべし。右の三種、記主の法嗣寂慧房ヂヤウエバウに附屬するの状一通、弘安九年八月とあり。記主の自筆なり。
[やぶちゃん注:「永享五年」は西暦一四三三年で、筆者の言う通り、全く問題にならない。誰が彫ったか、本硯そのものの伝承性が全く失われてしまうとんでもない馬鹿書きである。「弘安九年」西暦一二八六年という良忠示寂の前年の自筆譲渡の書状があるとするものの、ここまでくると、この一瑕疵によってこの三品総ての伝承そのものが限りなく嘘であると思われても仕方あるまい。どの馬鹿小僧だ! 悪戯書きをしたのは!]
六字の大名號 壹幅 弘法の筆。ナガさ九間、ヒロさ九尺バカり。是は房州佐野の金胎寺の什物なるを、兵亂の時奪ひ取てコヽにありと云ふ。弘法、佐野の砂場スナバにて下書シタガキをかゝれたり。故に佐野の名號と云ふと也。
[やぶちゃん注:「房州佐野の金胎寺」とは現在の関東三大厄除け大師の一つ、通称遍智院小塚大師、正式名曼茶羅山金胎寺遍智院のことか。弘法大師自らが弘仁六(八一五) 年に創建したと伝えられる知られざる名刹。但し、現在の住所は館山市大神宮で、「佐野」「砂場」という地名を見出し得ない。識者の御教授を乞う。]
スヾリ 貮面 一面は菅丞相の硯と云傳ふ。一面は二位のアマ 平政子タイラノマサコの硯と云傳ふ。
天照大神の像 壹軀 タケ三寸バカり八幡の作と云ふ。
[やぶちゃん注:八幡神の神技にて作られたということである。]
阿彌陀の畫像 四幅 一幅は後陽成帝宸筆、三幅は慧心の筆。
[やぶちゃん注:「後陽成帝」は安土桃山から江戸初期の第一〇七代天皇。在位は天正十四(一五八六)年~慶長一六(一六一一)年。「慧心」は「往生要集」を書いた本邦の浄土教の実質上の開祖的存在である慧心(惠心とも書く)僧都源信(天慶五(九四二)年- 寛仁元(一〇一七)年)のこと。]
阿彌陀の繡の像 壹幅 中將ヒメの製。
[やぶちゃん注:「中將姫」は天平時代、尼となって当麻寺(奈良県北葛城郡)に入り、信心した阿弥陀如来と観音菩薩の助力で一夜にして蓮糸で当麻曼荼羅(観無量寿経曼荼羅)を織り上げたと伝えられる伝説上の女性。「繡」は「ぬひとり」と訓じていよう。]
稱讃淨土經 壹卷 中將姫の筆。
淨土の曼荼羅 壹幅 慧心の筆。當麻の曼荼羅を寫せり。
[やぶちゃん注:「當麻の曼荼羅」は通称「当麻曼荼羅たいままんだらと呼ばれる、先に掲げた奈良当麻寺の中将姫伝説に基づく蓮糸曼荼羅と言われる図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称で、「曼荼羅」と称するものの、本来の密教に於ける胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅とは全く関係がなく、現在、正式には「浄土変相図」と呼ぶのが正しい。]
同縁起 貮卷 詞書コトバカキハ後京極良經ヨシツネ公の筆、土佐トサ將監光興ミツヲキが筆。
[やぶちゃん注:波乱万丈の人生を経た中将姫が極楽往生を祈念して蓮糸で曼荼羅を一夜のうちに織り上げ、二十九の歳、阿弥陀如来と二十五菩薩の来迎とともに極楽へと旅立つまでを語る。光明寺の公式サイトの宝物の記載によれば、延宝三(一六七五)年に光明寺大檀越であった陸奥磐城平藩第三代藩主にして延岡藩内藤家宗家初代内藤義概よしむねにより寄進されたとある。この縁起絵巻にはずっと後に松平定信の添書一巻が附されたものが残っており、「鎌倉市史 資料編 第三第四」に載るその全文は以下の通り(原文には濁点がなく読みにくいので、適宜補った)。
この曼荼羅縁起は、住吉法眼慶恩が筆なり、筆力顯然として疑ふべからず、まいて住吉家の古記に、慶恩が曼荼羅縁起をゑがきしことしるし有をや、抑慶恩ハ元曆・建久のころ、攝津國すミよしの繪所なり、さればこそ詞書せられし、後京極殿下と代もあひかなふべけれ、しかるに永眞の證侍るハいかゞあらむ、よてこのことをあきらかにしらしむがため、寛政五年十月九日、左將源定信がいつけ侍るなり、
                            (花押)
これから私も提起するが「新編鎌倉志」の如何にも信じがたい記載とは、全く異なる絵師の候補を挙げ、妄説の排除と彼なりの同定を行っている。以下、幾つかの語注を附す。「住吉法眼慶恩」は慶忍(生没年未詳)が正しい(但し、この読み誤りは古くからあったもの)。鎌倉時代の絵仏師で建長六 (一二五四)年に子の聖衆丸とともに「絵因果経」を描いており、その奥書から彼が摂津住吉(現在の大阪府)出身で介法橋と称されたことが分かる。土佐広通(住吉如慶)によって画流住吉派遠祖とされた。「後京極殿下」は次注の藤原(九条)良経のこと。「永眞」は狩野永真安信(慶長十八(一六一三)年~貞享二(一六八五)年)。江戸前期の狩野総本家八代目絵師。狩野永徳の孫、探幽は長兄。幕府奥絵師。英一蝶の師でもあった。「寛政五年」は西暦一七九三年、この添書を記した約二ヶ月前の七月二十三日、寛政の改革の失敗により、定信は老中を辞任させられている。どんな思いの中で彼はこれを記したのか、少し気になる。「いつけ」は「言ひ附け」か。
「後京極良經」九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)のこと。摂政関白九条兼実次男。従一位・摂政・太政大臣。和歌・書道・漢詩に優れたが、特に書の技量は天才的とされ、後に「後京極流」と呼ばれた。
「土佐將監光興」は江戸前期の御用絵師。寛永二十(一六四三)年に亡くなった京の名妓二代目吉野太夫の絵を描いているから、彼の活躍時期は内藤の寄進時期とは一致すると見られる。しかし詞書作者と絵師・寄進者の時間的開きが余りにも大きいのが不審。但し、現在は本絵巻は国宝で、「鎌倉事典」では、鎌倉時代の後期大和絵の優れた作風を備えた作と同定されており、詞書・絵はともに筆者不明としている。]
阿彌陀の名號 壹幅 法然の筆也。脇書ワキガキに西光往生、保延辛酉三月十九日、當承安四年甲午父の三十三回忌(承安四年甲午父の三十三回忌に當る。故に源空書之(之を書す)とあり。
[やぶちゃん注:「保延辛酉」は保延七(一一四一)年。「承安四年」は西暦一一七四年。]
淨土の三部經 壹函 法然筆。但し小經シヤウキヤウは不足にて、萬無マンム上人、金泥にてかきそへたりと云ふ。
[やぶちゃん注:「萬無上人」(慶長十二(一六〇七)年~延宝九(一六八一)年)江戸前期の浄土僧。増上寺の還無げんむに師事、この光明寺などを経て、延宝二(一六七四)年には知恩院三十八世に就任した。]
法然の畫像 壹幅 自筆。カヾミエイと云ふ。
[やぶちゃん注:「鏡の影」とは聖人の画像にしばしば見られる呼称で、鏡に映した如く、聖人の容姿を伝える画のことを言う。]
記主の畫像 壹幅 自筆。カヾミエイと云ふ。
十九羅漢の畫像 十九幅 唐畫。
一枚起請 壹幅 尊鎭法親王の書。
[やぶちゃん注:「尊鎭法親王」青蓮院宮尊鎮法親王(永正元(一五〇四)年-天文十九(一五五〇)年)室町後期から戦国期の天台座主。後柏原天皇第三皇子。能書家として知られた。「鎌倉市史 資料編 第三第四」によれば、これは源空(法然)自筆と称する一枚起請文を筆写したことを示すものだが年次が詳らかでない、とある。]
十八通 壹册 了譽の自筆なり。
[やぶちゃん注:「了譽」とあるが、これは良譽の誤りであろう。良誉定慧じょうえ(永仁四(一二九六)年~建徳元(一三七〇)年)は光明寺第三世。]
源の基氏モトウヂの證文 壹通 貞治二年二月廿七日、有判(判有り)。
[やぶちゃん注:「鎌倉市史 資料編 第三第四」によれば、上総国北山辺郡(現在の千葉県山武さんぶ郡)湯井郷の争論につき、光明寺に湯井郷を安堵するという内容。]
光明寺開山記主禪師の傳 壹册 沙門道光作とあり。道光(、)諱は了慧。望西樓バウセイロウと號す。良忠の弟子なり。
[やぶちゃん注:道光(寛元元(一二四三)年~元徳二(一三三〇)年)は鎌倉生。三條派祖。法然・弁長・良忠三代の伝記を作り、円頓戒に精通した。慈心・然空と並んで良忠門下三傑の一人。]
北條氏直朱印  壹通
[やぶちゃん注:「北條氏直」(永禄五(一五六二)年~天正十九(一五九一)年)は相模国の戦国大名。小田原城主。後北条氏第五代当主。これは「鎌倉市史 資料編 第三第四」の「四八五 某印判状」として紹介されるものか。編者はこの「四八五」判状の筆者を後北条二代当主北条氏綱か、その一族又は家臣のものと推定、「新編相模国風土記稿」には寺伝として足利義晴のものとある、と記す。]
東照宮の御朱印 壹通
  已上

開山の石塔 山にあり。山を天照山と云ふ。
善導塚ゼンドウヅカ 總門のマヘ松原にあり。善導金銅像を安ず。相ひ傳ふ、昔唐船日本へ渡る時、善導の像、僧と化してり來り、筑前の國にく。鎭西善導寺の開山聖光、一夜夢(み)らく、善導大師來朝して筥崎ハコザキにあり、きたりムカへよと、ツゲマカせて彼の地にイタる。ハタして像あり。其地に一宇を建立す。其の後善導寺に迎へらる。良忠リヤウチウ、鎭西にヲモムき、聖光にエツす。則ち其像を附屬せらる。良忠靈像にムカつて、ワレ是より關東の諸國に化をホドコさんと思ふ。其の間だ何れの國にても、有縁の地に跡を止め給へと云て、海にれたてまつる。其の後良忠鎌倉に來り、佐介谷サスケガヤツに居す。由比(ユ)ヒヲキに、光明赫奕たること七日七夜、漁父アヤしみをなす處に、靈像忽然として由比の濵に上り給ふ。良忠よりて一宇を建立して彼の像を安ず。光明寺是れなり。其の像は今念佛堂に安ず。靈像漂泊の地を善導塚と名く。此の銅像は、祈禱堂の像を摸してけるとなり。
[やぶちゃん注:善導(六一三年~六八一年)は唐代の浄土教大成者。長安を中心に終生念仏者として暮らし、日本の浄土教に大きな影響を与えたが、勿論、渡日などはしていない。]
内藤帶刀忠興タヾヲキ一家の菩提所 寺の南にあり。靈屋タマヤに阿彌陀、如意輪の像を安ず。阿彌陀は定朝ジヤウテウが作。定朝ジヤウテウは、後一條帝の時の佛師なり。佛師の僧綱に任ずる事、定朝より始る。【下學集】【古事談】にへたり。
[やぶちゃん注:私はかつてここが好きでたびたび訪れたものだった。初代日向延岡藩主内藤忠興が十七世紀中頃に内藤家菩提寺であった霊岸寺と衝突、光明寺大檀家となってここへ内藤家一族の墓所を移築したものである。実際には現在も光明寺によって供養管理されているが、巨大な法篋印塔数十基を始めとして二百基余りの墓石群が、鬱蒼と茂る雑草の中に朽ち果てつつある様は、三十数年前、初めてここを訪れた私には真に「棄景」というに相応しいものであったのである。]
蓮乘院 總門をり右にあり。光明寺草創以前に、眞言宗の寺あり。蓮乘寺と云ふ。今の蓮乘院是なり。開山此寺に居て光明寺を建立す。故に今に住持入院の時は先づ此院に入てノチ方丈に入る。古例なりと云ふ。當院の本尊阿彌陀の木像、ハラの内に書付あり。貞治二年三月十五日、修復之(之を修復す)とあり。傳へ云、運慶が作にて、千葉の常胤ツネタネマモリ本尊なりと。
[やぶちゃん注:「貞治二年」は正平十八年、西暦一三六三年。「鎌倉攬勝考卷之七」の「蓮華寺跡」及び私の注も参照されたい。]
專修院 總門を入左にあり。此の二箇院、共に光明寺の寺僧寮なり。
千體地藏堂 總門を入右にあり。

[飯島小壷圖]

〇飯島〔附六角井〕 飯島イヒジマは光明寺より南の方、漁村なり。【東鑑】に、壽永元年十一月十日、賴朝ヨリトモ寵愛の妾龜前カメノマヘ、伏見の冠者廣綱ヒロツナ飯島イヒジマの家に住す。しかるに此の事隱密ヲンミツの所に、北條殿ホフデウドノの室家牧御方マキノヲカタ、賴朝の御臺所ミダイドコロマフされしかば、イキドホタマひて、マキの三郎宗親ムネチカヲヽせて、廣綱ヒロツナが家を破却せしめらるとあり。《六角井》ムラの南に、六角ロクカクの井と云(ふ)名水あり。鎌倉十井の一つなり。イシにてたゝみたり。里俗の云、昔し鎭西の八郎源の爲朝タメトモ、伊豆の大島ヲホシマより、我が弓勢ムカシにかはらずやとて、天照山をさして遠矢トヲヤを射る。其の十八里をへて此井の中に落たり。里民げれば、ヤジリは井の中にトヾまる。今も井を掃除すれば、其のヤジリゆると云ふ。時取げて、明神にヲサめければ、井の水かはけり。又井の中へ入れば、モトの如く水き出ると也。ヤジリナガさ四五寸と云ふ。鶴が岡一の鳥居より、此地まで、四十町餘あり。
[やぶちゃん注:現在の鎌倉市と逗子市の堺、材木座海岸東南隅の岬を言う。この海に張り出した港和賀江ノ島ある浜は鎌倉時代には西浜とも呼称しており、関所が存在した。これは後の室町期まで続き、またこの徴税管理監督権を極楽寺が握っていた。日蓮が「聖愚問答抄」で忍性を批判する中に現れる『飯嶋の津にて六浦の關米を取る』というのがそれである。
 以下に続くのは、壽永元(一一八二)年十一月に起こった新興鎌倉幕府あわや転覆という女好きの頼朝の不倫スキャンダルの事故の顛末である。やや長くなるが「吾妻鏡」の関連記事を日を追って順に見て行こう。
《「もう、やってられないワ!」――頼朝不倫発覚! マタニティ・ブルーの政子大ギレ!――十一月十日附》
〇原文
十日丁丑。此間。御寵女〔龜前。〕住于伏見冠者廣綱飯嶋家也。而此事露顯。御臺所殊令憤給。是北條殿室家牧方密々令申之給故也。仍今日。仰牧三郎宗親。破却廣綱之宅。頗及耻辱。廣綱奉相伴彼人。希有而遁出。到于大多和五郎義久鐙摺宅云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁丑。此の間、御寵女〔龜の前。〕伏見の冠者廣綱が飯嶋の家に住むなり。而るに此の事露顯して、御臺所殊に憤らしめ給ふ。是れ、北條殿室家の牧の御方、密々に之を申さしめ給ふの故なり。仍りて今日、牧の三郎宗親に仰せて、廣綱のいへを破却し、頗る耻辱に及ぶ。廣綱、彼の人を相ひ伴ひ奉り、希有にして遁れ出で、大多和五郎義久の鐙摺あぶずりの宅に到ると云々。
〇やぶちゃん注
「龜の前」は頼朝の伊豆蛭ヶ小島での流人暮らしの頃からの女房の一人。頼朝はこの年の六月一日、後の頼家を妊娠中の政子には内密に(「吾妻鏡」に「外聞の憚りあるによつて」とある)亀の前を小窪こくぼ(現在の小坪。飯島ヶ崎の逗子市側)の中原小忠太光家(頼朝側近の文官で後に政所知家事となる)の宅に呼び寄せていたが、通うのに不便なため、飯島(現在の逗子市小坪五丁目で飯島ヶ崎の鎌倉側)の「伏見冠者廣綱」(頼朝右筆)邸に移したのである(この頃の三浦方面へのルートは海路が主で、小坪への間道は不便であった)。「北條殿室牧の御方」時政の後妻、政子の継母。「牧の三郎宗親」姓でお分かりの通り、牧の方の父で時政の舅(一説には牧の方の兄とも)。出自は下級の貴族という。後の事蹟は不明であるが、彼の子の時親は元久二(一二〇五)年の牧氏事件(時政と牧の方が実朝を廃して娘婿平賀朝雅の新将軍擁立を企てたもので、政子と義時によって朝雅は誅殺、時政は執権を廃されて牧の方と共に出家させられた上、伊豆に幽閉)の際に出家しているから、一族、運には恵まれなかったというべきであろう。「大多和五郎義久」の「五郎」は誤りで「三郎」三浦義明三男。義澄の弟。現在の横須賀市大田和とここ鐙摺に城砦を持っていた。「鐙摺」現在の葉山町鐙摺。
《「やってやろうじゃネエか!」――頼朝逆ギレ! 宗親の髻がキられて宙に飛んだ!――十一月十二日附》
〇原文
十二日己卯。武衞寄事於御遊興。渡御義久鐙摺家。召出牧三郎宗親被具御共。於彼所召廣綱。被尋仰一昨日勝事。廣綱具令言上其次第。仍被召決宗親之處。陳謝卷舌。垂面於泥沙。武衞御欝念之餘。手自令切宗親之髻給。此間被仰含云。於奉重御臺所事者。尤神妙。但雖順彼御命。如此事者。内々盍告申哉。忽以與耻辱之條。所存企甚以奇恠云々。宗親泣逃亡。武衞今夜止宿給。
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日己卯。武衞、事を御遊興に寄せ、義久の鐙摺の家へ渡御す。牧の三郎宗親を召し出し、御共に具せらる。彼の所に於て廣綱を召し、一昨日の勝事しようしを尋ね仰せらる。廣綱、具に其の次第を言上せしむ。仍りて宗親召し決せらるるの處、陳謝舌を卷き、面を泥沙に垂る。武衞御欝念の餘り、手づから宗親のもとどりを切らしめ給ふ。此の間、仰せ含め含められて云く、「御臺所を重く奉る事に於ては、尤も神妙なり。但し、彼の御命に順ふと雖も、此の如き事は、内々に盍ぞ告げ申さざるや。忽ち以て耻辱を與ふるの條、所存のくはだて甚だ以て奇恠なり。」と云々。宗親泣きて逃亡す。武衞、今夜止宿し給ふ。
〇やぶちゃん注
「事を御遊興に寄せ」義久の手の者が宗親による破却と鐙摺避難についての一報を内々に頼朝に知らせたものであろう。遊覧にこと寄せて破砕実行者宗親を有無を言わさず引き連れて真相を確かめんとしている。「勝事」珍事。とんでもない怪事件。通常は「快挙」の意であるが逆の忌み言葉として用いた。「舌を卷き」通常は現在と同じく感嘆・賛辞を示すが、激しい恐怖を感じた際にも用い、ここはそれ。
《「ワシゃ、もう、やってられんね!」――温帯もキレた! 時政、無許可で伊豆へ進発!――十一月十四日附》
〇原文
十四日辛巳。晩景。武衞令還鎌倉給。而今晩。北條殿俄進發豆州給。是依被欝陶宗親御勘發事也。武衞令聞此事給。太有御氣色。召梶原源太。江間者有隱便存念。父縱插不義之恨。不申身暇雖下國。江間者不相從歟。在鎌倉哉否。慥可相尋之云々。片時之間。景季歸參。申江間不下國之由。仍重遣景季召江間。江間殿參給。以判官代邦通被仰云。宗親依現奇恠。加勘發之處。北條住欝念下國之條。殆所違御本意也。汝察吾命。不相從于彼下向。殊感思食者也。定可爲子孫之護歟。今賞追可被仰者。江間殿不被申是非。啓畏奉之由。退出給云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十四日辛巳。晩景、武衞鎌倉へ還らしめ給ふ。而るに今晩、北條殿俄かに豆州へ進發し給ふ。是れ、宗親御勘發かんぼつの事を鬱陶せらるるに依てなり。武衞此の事を聞かしめ給ひ、はなはだ御氣色有り。梶原源太を召し、「江間は穩便の存念有り。父縱ひ不義の恨をさしはさみ、身の暇を申さずして下國すと雖も、江間は相ひ從はざるか。鎌倉に在るや、慥に之を相尋ぬるべし。」と云々。片時へんしの間に、景季歸參し、江間下國せざるの由を申す。仍りて重ねて景季を遣はして江間を召す。江間殿參り給ふ。判官代邦通を以て、仰せられて云く、「宗親、奇恠を現はすに依りて勘發を加へるの處、北條欝念をとどめて下國の條、殆んど御本意に違ふ所なり。汝、吾が命を察し、彼の下向に相ひ從ざること、殊に感じ思しす者なり。定めて子孫の護りたるべきか。今の賞、追つて仰らるべし。」と。江間殿是非を申されず、畏れ奉るの由を啓して退出し給ふと云々。
〇やぶちゃん注
「勘發」命令の不履行を上位者が叱ること。譴責。「江間」は北条義時。この頃には伊豆北条の近隣である現在の静岡県伊豆の国市南江間を領していたことから、かく呼ぶ。「穩便の存念有り」事を荒立てることを好まぬ気性なれば、の意。「不義の」は頼朝に対する不義の、意である。
《「アンタ! 懲りないわね!」――亀ちゃん戦々恐々! されど強気の頼朝、再び小坪の愛の巣へトンボ返りを命ず――十二月十日附》
〇原文
十日丙午。御寵女遷住于小中太光家小坪之宅。頻雖被恐申御臺所御氣色。御寵愛追日興盛之間。憖以順仰云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丙午。御寵女、小忠太光家が小坪の宅に遷り住む。頻りに御臺所の御氣色を恐れ申さると雖も、御寵愛、日を追ひて興盛の間、なまじひを以て仰せに順ふと云々。
〇やぶちゃん注
政子の嫉妬心への強迫的恐怖、「なまじひを以て仰せに順ふ」の部分も亀の前の心境に立って叙述している。筆者のドラマティクな創りが光る。
《「あたしだって、ヤルときゃヤルわよ!」――急展開! 伏見の冠者流罪さる!――十二月十六日附》
〇原文
十六日壬子。伏見冠者廣綱配遠江國。是依御臺所御憤也。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日壬子。伏見の冠者廣綱を遠江國に配す。是れ、御臺所の御憤りに依りてなり。
〇やぶちゃん注
伏見の冠者広綱こそいい面の皮であるが、彼はこれ以前から頼朝の右筆として不倫のラブレターの代筆などもしていたらしく、何はともあれ、上司のスキャンダルの責任をとって断罪された気の弱い哀れな男ではある。……もう少し、どうなるか見たいよね……ところが、だ……実はこの記事が「吾妻鏡」亀の前スキャンダルの最後の記事なのである。翌年は野木宮合戦から木曾義仲の入京、平家都落、十月には後白河法皇の東国支配権を認める宣旨があって、義仲追討(後に平家追討)の範頼・義経両軍の鎌倉出陣、と……もうそれどころの騒ぎではなくなっちゃうんだな……というよりも、私の「新編鎌倉志」をここまでお読みになってこられたほどの方なら御存知の通り、翌寿永二(一一八三)年というのは「吾妻鏡」から脱落している(一部が二年前の養和元年閏二月に錯入)……それにしても、美貌で控えめな女性とされた亀の前……鈴木しづ子のように、その後の行方は遙として知れないのであります……ちょっと淋しいね……
「六角の井」この井戸の形は六角形ではなく八角形であるが、六角が鎌倉持分で二角が小坪分であることから、かく言うと伝えられる。以前は井戸替えの際には為朝所縁の鏃の入った竹筒を使用したが、本文とはやや異なるが、ある時これを怠ったがために悪疫が流行ったことから、それ以来今も鏃は竹筒に封じ込めて井戸の中に奉納してあると現在に伝承されている。その他にもありがちな弘法が掘った井であるとか、井戸側面にある龍頭まで水が減ると必ず雨が降るとか、妙本寺の蛇形の井とは地中で繋がっているとか、伝承の多い十井の一つではある。今は何だかものものしい櫓に覆われているようだが、私が二十の折りに見た時には、未だ世間の市井の井戸として機能していたのに、ちょっと淋しい。いやいや、それよりなにより、大島から「十八里」(約六八・四キロメートル)とは直線距離を美事に計測していることに「舌を卷く」ぞ! 本土に最も近い大島最南端の乳が崎から単純直線距離で測っても五八・三キロメートル、三原山の頂上からだと六五キロメートル、とんでもなく正確なんである。珍説(「ちんせつ」 いやさ! 「ちんぜい」)どころか真説、「鎭西ちんぜい」為朝も涙流して、アッ! 喜ぶ西ぜい!]

〇和賀江島 和賀江島ワカエノシマは、飯島イヒジマの西の出崎を云なり。【東鑑】に、貞永元年七月十二日、勸進の上人往阿彌陀佛ワウアミダブツ申しふにいて、舟船著岸のワズラからしめんが爲に、和賀江島ワカエノシマキヅくべきのヨシ、同八月九日、其の功をふるとあり。《飯島崎》今は里人飯島崎イヒジマガサキと云ふ。モト飯島と同所なり。
[やぶちゃん注:現存する日本最古の築港跡で、海上への丸石積み(これらの石材は相模川・酒匂川・伊豆海岸などから運搬されたと考えられている)によって作られた人工港湾施設である。以下、ウィキの「和賀江島」の「歴史」より引用する(アラビア数字を漢数字に変更した)。『鎌倉幕府の開府以降、相模湾の交通量は増加していたが、付近の前浜では水深の浅い事から艀が必要であり、事故も少なくなかった。このため、一二三二年(貞永元年)に勧進聖の往阿弥陀仏が、相模湾東岸の飯島岬の先に港湾施設を築く許可を鎌倉幕府に願い出た。執権の北条泰時はこれを強く後援して泰時の家臣である尾藤景綱、平盛綱、諏訪兵衛尉らが協力している。海路運ばれてきた相模国西部や伊豆国の石を用いて工事は順調に進み、一二三二年八月一四日(旧七月十五日)に着工して一二三二年九月二日(旧八月九日)には竣工した。なお、発起人の往阿弥陀仏は筑前国葦屋津の新宮浜でも築島を行なっていた土木技術の専門家である。一二五四年五月二十四日(建長六年四月二十九日)には問注所と政所それぞれの執事宛に唐船は四艘以下にするよう通達があり、南宋などから船が来港していた可能性がある』。『鎌倉時代の半ば以降に忍性が極楽寺の長老となってからは、和賀江島の敷地の所有および維持・管理の権利と、その関所を出入りする商船から升米とよばれる関米を徴収する権利が極楽寺に与えられていた。一三〇七年七月二十六日(徳治二年六月十八日)には関米を巡る問題で訴訟を起こした記録があり、管理の一端がうかがえる』。『江戸時代には和賀江島は「石蔵」や「舟入石蔵」と呼ばれ、付近の材木座村や小坪村(現・逗子市)の漁船などの係留場として使われていた。一七五〇年(寛延三年)頃、小坪村が島の西南方に新たな出入口を切開き、被害を受けた坂之下村や材木座村との間で一七六四年(明和元年)に相論が起きた。翌年、出入口の幅を九尺とし、三月から九月まで七ヵ月間は口を塞ぎ、残りの十月から二月までの五ヵ月に使用するという条件で和解したという』。『また鶴岡八幡宮の修復工事の際には材木や石を運ぶ船が停泊しており、少なくとも一六九六年(元禄九年)から翌年と一七八一年(天明元年)には八幡宮とともに島の修復工事も実施された。一八二六年(文政九年)の八幡宮修理に際しては、満潮時には』一メートル以上『海中に隠れるようになってしまっているとして材木座村が島の修復を願い出ている』。私の父は戦前、よくここで小さなイイダコを採ったという。私は三十数年前、干潮時のここを訪れ、浜から二百メートル程の先端まで歩いたことがあったが、そこで見つけたのは丸石にへばりついたイイダコならぬコンドームだった。]

〇小坪村〔附切通〕 小坪コツボ〔坪或作壺(坪或は壺に作る)。〕ムラは飯島の東の漁村なり。《鷺浦》此浦を鷺浦サギガウラとも云となん。片濵カタハマにて多景の地なり。西南を望めば、萬里の波濤碧天をヒタし、士峯ジホウ眼下につ。切通キリトヲシあり。小坪コツボの切通と云ふ。杜戸モリド三崎ミサキへ行なり。三崎へは、關東道三十里餘あり。【東鑑】に、壽永元年六月、賴朝ヨリトモ愛妾龜前アイセウカメノマヘを、中太光家ミツイヘ小窪コクボの宅にマネく。此の所御濵出ヲンハマイデ便宜ビンギの地たりとあり。按ずるに、小窪は小坪コツボなり。後に光家ミツイヘ小坪コツボの宅と出たり。又建久四年七月十日、海濵涼風に屬す。將軍家、小坪コツボの邊に出給ふとあり。又正治二年九月二日、將軍賴家ヨリイヘ、小坪の海邊を歴覽し給ふ。海上に船をヨソヲひ、盃酒をケンず。而るに朝夷名アサイナの三郎義秀ヨシヒデ、水練のキコへあり。此ツイでに其のゲイアラはすべきよし、御命ありければ、義秀ヨシヒデフネよりり、海上に浮み往還數十度、結句ナミソコり、暫く不見(へず)。諸人アヤしみをなす所に、きたるサメ三喉をヒツサげて、御船の前に拜みがる。滿座カンぜずと云事なしとあり。其の外代々の將軍遊覽の地なり。又【盛衰記】に、三浦義盛ミウラノヨシモリ畠山重忠ハタケヤマノシゲタヾと、此小坪坂コツボサカにて相ひ戰ふ事みへたり。
[やぶちゃん注:「士峯ジホウ」は富士山のこと。
「小坪の切通」これは光明寺裏から、へっぴり坂と俗称した間道を抜ける山越えルートを言っているものと思われる。
「三崎へは、關東道三十里餘あり」の「關東道」とは坂東路、田舎道を意味する語で、同時にこの表現は特殊な路程単位を用いていることを意味する。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかったから、「三十里餘」は約二〇キロメートル強となる。地図上で海岸線を現在の小坪から、ほぼ国道一四三号に沿って南下すると距離実測で三崎中心部にある三崎市役所までが二十四キロ弱である。
「後に光家が小坪の宅と出たり」は先に「飯島」で掲げた亀の前スキャンダルの「十二月十日」の項の「御寵女遷住于小中太光家小坪之宅」を指す。
「正治二年九月二日、將軍賴家、小坪の海邊を歴覽し給ふ」この正治二(一二〇〇)年九月二日の小坪遊覧の記事は、まことに面白い。以下に示す。
〇原文
二日乙夘。快晴。羽林令歴覽小壺海邊給。小坂太郎。長江四郎等儲御駄餉。有例笠懸。結城七郎朝光。小笠原阿波弥太郎。海野小太郎幸氏。市河四郎義胤。和田兵衞尉常盛等爲其射手。次海上粧船献盃酒。而朝夷名三郎義秀有水練之聞。以此次可顯其藝之由。有御命。義秀不能辞申。則自船下。浮海上。往還數丁。結句入波底。暫不見。諸人成恠之處。提生鮫三喉。浮上于御船之前。滿座莫不感。羽林以今日御騎用之龍蹄。〔名馬。諸人爲竸望。〕給義秀之處。義秀兄常盛申云。水練者雖不覃義秀。於相撲者可有長兄之驗。置御馬於兄弟之中。覽相撲之後。就勝負可被下之云々。羽林御入興。着御船於岸。於小坂太郎前庭。被召决之。二人共解衣裝立向。其勢色不異力士。無勝劣于對揚。各取合及數反。此間所立之地頗如震動。人以爲壯觀。義秀頻好勝負。常盛聊有雌伏之氣。爰江馬殿感興餘。起座被隔立于兩人之中。于時常盛不及着衣。裸兮乘件馬。揚鞭逐電。義秀後悔千万。觀者皆解※。彼馬奥州一名馬也。廣元朝臣献之。常盛日來雖成平所望。不被下云々。秉燭之間。還御鎌倉。
[やぶちゃん字注:「※」=「阜」+「頁」。]
〇やぶちゃの書き下し文
二日乙夘。快晴。羽林小壺の海邊を歴覽せしめ給ふ。小坂太郎、長江四郎等御駄餉だかうまうく。例の笠懸有り。結城七郎朝光、小笠原阿波弥太郎、海野小太郎幸氏、市河四郎義胤、和田兵衞尉常盛等其の射手たり。次で海上に船を粧ひ、盃酒を献ず。而して朝夷名三郎義秀、水練の聞へ有り。此の次いでを以て其の藝を顯すべしの由、御命有り。義秀辞し申すに能はず、則ち船より下り、海上に浮び、往還數丁、結句、波底に入り、暫く見へず。諸人恠しみ成すの處、生き鮫三こうひつさげ、御船の前に浮上す。滿座感ぜずといふこと莫し。羽林、今日の御騎用の龍蹄〔名馬。諸人竸ひて望みを爲す。〕を以て義秀に給はるの處、義秀が兄常盛申して云く、「水練は義秀におよばずと雖も、相撲に於いては長兄の驗有るべし。御馬を兄弟之の中に置き、相撲を覽ずるの後、勝負に就き之を下さるべし。」と云々。羽林、御入興ごじゆきよう、御船を岸に着け、小坂太郎の前庭に於いて、之を召决せらる。二人共に衣裝を解き立向ふ。其の勢色力士に異ならず。對揚たいやうに勝劣無し。各々の取合い數反すへんに及ぶ。此の間立つ所の地、頗る震動するがごとし。人以て壯觀と爲す。義秀、頻に勝負を好む。常盛聊か雌伏の氣有り。爰に江馬殿、感興の餘り、座を起ちて兩人の中に隔て立たる。時に常盛、衣を着るに及ばず、裸にて件の馬に乘り、鞭を揚げて逐電す。義秀、後悔千萬、觀る者皆おとがひを解く。彼の馬は奥州一の名馬なり。廣元朝臣、之を献ず。常盛、日來平に所望を成すと雖も、下されずと云々。秉燭へいしよくの間に鎌倉に還御す。
〇やぶちゃん注
・「羽林」頼家。羽林は「羽のごとく速く、林のごとく多い」の意で、本来、中国で北辰(北斗星)を守護する星の名であったが、そこから転じて皇帝(天皇)を護る宮中の宿衛の官名となった。本邦では近衛府の唐名となった。当時頼家は左近衛中将(直後の十月に左衛門督に遷任)。
・「和田兵衞尉常盛」和田常盛(承安二(一一七二)年~建保元(一二一三)年)は後で出て来る義秀の兄。弓の名人として知られたが、後、和田合戦で一族と討死した。
・「駄餉だかう」「だこ」とも。野外での昼食。弁当。
・「生き鮫三こう」の「喉」は勿論、喉笛の意であるが、ここは義秀がサメ三尾の鰓に片手の指を突き刺して引っさげている様を言っていよう。一種の数詞のように用いて面白い。
・「對揚たいやう」後に「勝劣無し」と続くが、この語自体が互角に渡り合うことの意。但し、ここは相撲であるから、互いに対し、がっぷり四つに組んで、釣り揚げんとするも互角、離れてはまた組んでまた固まる、といったニュアンスを伝えて面白く読める。
・「江馬殿」は「江間」が正しい。北条義時。呼称については前述した。
・「おとがひを解く」は「頤」に同じ。顎をはずさんばかりに大笑いする。
・「秉燭へいしよくの間」燭をる頃の意で、夕刻。

「三浦義盛、畠山重忠と、此小坪坂にて相ひ戰ふ」所謂、「小坪合戦」若しくは「由比ヶ浜合戦」と呼ばれるもので、三浦義盛は和田義盛のこと。治承四(一一八〇)年八月十七日の頼朝の挙兵を受け、同月二十二日、三浦一族は頼朝方につくことを決し、頼朝と合流するために三浦義澄以下五百余騎を率いて本拠三浦を出立、そこにこの和田義盛及び弟の小次郎義茂も参加した。ところが丸子川(現・酒匂川)で大雨の増水で渡渉に手間取っているうち、二十三日夜の石橋山合戦で大庭景親が頼朝軍を撃破してしまう。頼朝敗走の知らせを受けた三浦軍は引き返したが(以下はウィキの「石橋山の戦い」の「由比ヶ浜の戦い」の項から引用する)、その途中この小坪の辺りでこの時は未だ平家方についていた『畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来た事情を知らない義盛の弟の和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た』ものの、この場はとりあえず『停戦がなり、双方が兵を退いた』とある。但し、この後の二十六日には平家に組した畠山重忠・河越重頼・江戸重長らの大軍勢が三浦氏を攻め、衣笠城に籠って応戦するも万事休し、一族は八十九歳の族長三浦義明の命で海上へと逃れ、義明は独り城に残って討死にした。]

〇正覺寺〔附住吉明神 導寸城跡 數珠掛松〕 正覺寺シヨウガクジ小坪コツボ村の海道の北にあり。住吉山と號す。光明寺の末寺なり。《悟眞寺》光明寺開山の傳記に、三浦住吉谷ミウラスミヨシガヤツ悟眞寺に住して、淨土宗を弘通すとあり。正覺寺を、昔は悟眞寺とも云ひしか。里民今もなを或は悟眞寺とふなり。山の上に住吉明神の祀あり、此邊すべて住吉と云ふ。
[やぶちゃん注:ここで言う「悟眞寺」というのは「光明寺」の冒頭注で示した光明寺の前身で別な所にあったとする悟真寺と同一である。これには疑義があるが、光明寺開山の良忠を荼毘に付した場所はこの正覚寺のある場所と考えられ、現在の同寺でもその遺跡と伝える。「鎌倉事典」の三浦勝男氏の「正覚寺」の項では、この悟真寺は、『背後に住吉城をひかえていることから、再三の合戦の被害で廃寺となったが、天文十年(一五四一)光明寺十八世快誉上人が正覚寺を起立したと伝える』と記す。]
三浦の導寸ダウスン城跡シロアト 寺の西南の山にあり、切拔キリヌキホラ二十餘間ありて、寺へトヲるなり。前に道あり。此を三浦導寸ミウラノダウスンシロアトと云ふ。【鎌倉九代記】【北條五代記】等に、三浦陸奧守義同ミウラムツノカミヨシアツ入道導寸ダウスン永正九年八月に、北條新九郎長氏ナガウヂに、相州住吉スミヨシシロをもヲトさるゝとあるは此處なり。里人、光明寺の南方の山を導寸ダウスン城跡シロアトなりと指しシメす。則ち此處へ相ひ續(き)て同じ所也。《くらがりやぐら》俗にくらがりやぐらと云ふ。總じて鎌倉の俚語に、巖窟イハヤをやぐらとふなり。
[やぶちゃん注:「三浦の導寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年?~永正十三年(一五一六)年)は東相模の初期の戦国小大名。「導寸」は道寸とも書き、彼の出家後の法名。通常はこちらで呼ばれることの方が多い。平安から綿々と続いてきた相模三浦氏血脈の最後の当主にして、北条早雲に拮抗する最大勢力であったが、北条に攻められ、三浦の新井城で三年の籠城の末、討死した。
「北條新九郎長氏」戦国大名の嚆矢たる北條早雲(永享四(一四三二)年又は康正二(一四五六)年~永正十六(一五一九)年)のこと。「長氏」は彼の諱とされ、他の諱に氏茂も伝えられたが、現在は盛時が定説である。早雲というのは早雲庵宗瑞そうずいという彼の号に基づく。
「俗にくらがりやぐらと云ふ。」前に光明寺裏山の記載があるため一読、分かりにくいが、この「くらがりやぐら」とは、この「切拔キリヌキホラ」手掘りの隧道を指している。「鎌倉攬勝考卷之九」の所載する唯一の「古城址」の「三浦陸奧守義同人道道寸城跡」の冒頭がそれをはっきりと述べている。
小坪正覺寺の東南、住吉の社あるゆへ、住吉の城とも唱へし由。城山は、光明寺の山より地つゞけり。此所を三浦道寸が城跡といふ。住吉の社地より山中を切拔たる洞口を、大手口なりといふ。入口の洞穴を、例の土人が方言に、くらがりやぐらと稱す。
この隧道は現在未確認である。ところがこれに関わってこの隧道を探索している方がいる。「山さ行がねが・ヨッキれん」の平沼義之氏で、その「隧道レポート 小坪のゲジ穴」後編にそれはある。私は長くこの「くらがりやぐら」をこの平沼氏踏査の隧道だと固く信じて来た。実は三十数年前に私はこの隧道を通り抜けているのだ(現在はリンク先でご覧の通り、出口が封鎖され通行出来なくなっている)が、その際、リンク先の画像でも分かる通り、隧道自体が上り坂となっている以上に、途中で大きく隧道が左へ湾曲しているため、中は真暗なのである(因みに私は照明器具を持たずに手探りでこの天井にゲジゲジの群生する中を抜けたわけであった)。従って「くらがりやぐら」という呼称が実感として落ちて、そう思い込んでいた訳である。この隧道の海側の口は正に住吉明神のすぐ右手にあって「鎌倉攬勝考」の「住吉の社地より山中を切拔たる洞口」という表現にもぴったり一致する点も手伝った。ところが、平沼氏がこの探査の折りに出逢った六十歳ほどの地元男性の証言では、この隧道は戦後になってから地元の人たちが自宅と農地とを往復するための近道として掘ったものとあり、更にその最後で平沼氏はデジタル地図ソフトの地図を示され、この隧道より有意に南側の位置に、この隧道よりも凡そ倍弱の長さ(百メートル弱か)の隧道が示されているのである。これが幻の「くらがりやぐら」であることは間違いない。ネット上を検索すると「三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡」という書物に「掘拔の穴 東の方は表門、北の方は裏門、住吉城双方へ掘拔也。裏門を出れば姥ヶ谷小坪の後也。」とあって、前者が幻の「くらがりやぐら」で、後者は現在の住吉隧道のプロトタイプか、消滅した別隧道を言うか。――しかし、今や、「くらがりやぐら」どころか、この無名の「ゲジ穴」さえも消滅させられようとしている。かつて歩いた場所がなくなることを痛烈に意識するということは――それは『私の病い』に基づくものなのだろうか、それともこの『現実世界そのものの病い』の現象なのだろうか――]
數珠掛松ジユズカケマツ  切拔キリヌキカタハラにあり。里民、百日の間だ、住吉に參詣して、數珠をカケるなり。ヨツて名づく。
[やぶちゃん注:正覚寺の公式HPには『境内には、良忠上人あるいは頼朝が数珠を掛けたと云われる「数珠掛松」があ』ったとある。]

〇名越 名越ナゴヤ〔或作那古谷(或は那古谷に作る)。〕は大町ヲホマチの四つ辻より、山に隨て南の材木座ザイモクザに至るまでの東方を、皆と名越ナゴヤ云ふ。【東鑑】に、建久三年七月廿四日、幕下、名越殿ナゴヤドノに渡御すとあり。又元久三年二月四日、實朝サネトモ將軍、ユキ給はん爲に、名越山ナゴヤヤマの邊に御出とあり。名越の事往々ワウワウ へたり。名越の内谷々ヤツヤツ多し。名越ナゴヤ切通キリトウシノチに出す。
[やぶちゃん注:「建久三年」は西暦一一九二年であるから、「幕下」は勿論、頼朝。「名越殿」は北条時政邸を指す。「元久三年」は西暦一二〇六年。実朝、未だ満十三歳の少年である。]

〇安養院 安養院アンイヤウインは、名越ナゴヤ入口イリクチ、海道の北にあり。祇園キヲン山と號す。淨土宗、知恩院の末寺なり。此寺初め律宗リツシウにて、開山願行上人なり。其十五世昌譽和尚と云より、淨土宗となる。昌譽より前任の牌は、皆律僧なり。初め長谷のマヘ(、)稻瀨川イナセカハの邊に在しを、相模サガミ入道滅亡の後、コヽウツすと云傳ふ。本堂に、阿彌陀の坐像、客殿にも阿彌陀の坐像を安ず。共に安阿彌が作なり。寺領一貫六百文あり。
[やぶちゃん注:本寺は複雑な経緯を辿っており、ウィキの「安養院」によれば、長楽寺・善導寺・田代寺という何れも廃寺となった鎌倉の三つの前身寺院が関係している。祇園山と号した律宗寺院長楽寺は、嘉禄元(一二二五)年に北条政子が頼朝の菩提を弔うために長谷笹目ヶ谷に願行を開山として創建した寺と伝えられるが、これは元弘元(一三三三)年の幕府滅亡と共に兵火により焼失、大町にあった善導寺に統合されて安養院長楽寺と号した(安養院は政子の法号)。一方、先に掲げられた如く、田代寺は先立つ建久三(一一九二)年に田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷に建立したものと伝えられ、江戸期に安養院に統合されたものである。本寺に現存する千手観音は田代寺にあったことから、現在も田代観音と称されている。「願行上人」真言僧憲静(けんじょう ?~永仁三(一二九五)年)のこと。京都深草嘉祥寺にて出家し、京都泉涌寺の智鏡及び醍醐寺の頼賢らに密教などに師事して、泉涌寺六世となる。後に鎌倉の大楽寺・理智光寺の開山、相模の大山寺再建後、弘安二(一二八〇)年には大勧進となって東寺を再興、高野山復興にも尽力した。]
寺寶
傳通記 全部 記主上人の嫡嗣寂慧の自筆。
[やぶちゃん注:「記主」良忠のこと。「寂慧」良暁(建長三 (一二五一) 年~嘉暦三(一三二八)年)当初、天台僧であったが、後に鎌倉で浄土宗三祖良忠に師事、弘安九(一二八七)年法嗣、師の鎮西流興隆に尽力、良忠没後の分裂紛争の中では白旗派祖として良忠の正統を主張した。]
繪傳 貮幅 土佐が筆。法然上人一世の行状を圖畫す。
涅槃像 壹幅 唐畫。
彌陀三尊の畫像 壹幅 宅間法眼が筆。
[やぶちゃん注:「宅間法眼」平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の絵師として鎌倉・室町期の絵仏師としてしばしば登場する。]
二十五の菩薩の畫像 壹幅 宅間法眼が筆。
   已 上

〇佐竹屋敷 佐竹屋敷サタケヤシキは、名越ナゴヤ道の北、妙本寺の東の山に、五本ボネアフギの如なる山のウネあり。其の下を佐竹秀義サタケヒデヨシが舊宅と云。【東鑑】に文治五年七月廿六日、賴朝、奧州退治の時、宇都宮ウツノミヤタマふ時、佐竹サタケの四郎秀義ヒデヨシ、常陸國より追つてサンクハはる。而して佐竹が所持(持つ所の)旗、無紋の白旗シラハタ也。二品ニホン〔賴朝。〕是をトガタマひ、つて月をだすの御アフギを佐竹にタマはり、ハタの上にくべきのヨシ仰せらる。御ハタヒトしかるべからざるの故也。佐竹、御ムネにしたがひ、是を付るとあり。今に佐竹サタケの家これを以てモンとす。此山のウネも、家の紋をかたどり作りたるならん。又【鎌倉大草子】に、應永二十九年十月三日。佐竹サタケ上總の入道、家督カトクの事に付て、管領持氏モチウヂの御不審を蒙り、比企谷ヒキガヤツに有けるが、上杉憲直ウヘスギノリナヲに仰せて、法華堂にて自害してウセぬ。又其靈魂タヽリをなしける間、一社の神にマツりけるとあり。其の今はなし。此地佐竹代々サタケダイダイの居宅とみへたり。法華堂は、比企が谷妙本寺の事なり。
[やぶちゃん注:現在の大町にある大宝寺(文安元(一四四四)年創建)の境内が同定されており、その境内には、佐竹氏の守護神社であった多福明神社(大多福稲荷大明神)がある。これは「其靈魂祟をなしける間、一社の神に祀りけるとあり」とは無関係なのであろうか?(私には「大多福稲荷大明神」という呼称自体がこの御霊の封じ込めであるように思われるのだが) 更に言えば何故、本書には当時あったはずの大宝寺の記載がないのは何故か? 識者の御教授を乞う。
「佐竹秀義」(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年)。佐竹家第三代当主。頼朝挙兵時は平家方につくが、後に許されて家臣となり、文治五(一一八九)年の奥州合戦で勲功を挙げて御家人となった。建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に随行、承久三(一二二一)年の承久の乱では老齢のために自身は参戦しなかったものの、部下や子息を参戦させて幕府に忠義を尽くした。彼はこの名越の館で七十五歳で天寿を全うしている(以上はウィキの「佐竹秀義」を参照した)。
「文治五年」は西暦一一八九年。
「應永二十九年」西暦一四二二年。
「佐竹上總の入道」佐竹与義(ともよし ?~応永二十九(一四二二)年)佐竹氏第十六代当主佐竹義篤の弟師義の子で、佐竹山入やまいり家第三代当主。常陸国久米城(現在の茨城県久慈郡)城主。鎌倉府と結託していた佐竹宗家との抗争の果て、応永二十三(一四一六)年の上杉禅秀の乱で禅秀方に参加、持氏方の佐竹義人らを攻撃して乱後も執拗に抵抗を続けたが、鎌倉公方足利持氏の討伐によって、比企谷法華堂で一族諸共に自害した。家督は嫡男義郷、次いで彼の弟祐義が継いだが、宗家との抗争は山入一揆として継続し、与義の死後八十数年後の永正元(一五〇四)年、与義玄孫氏義が滅ぼされるまで続くことになる。本文中に持氏の佐竹討伐の理由を「家督の事に付て」と述べているのは、この宗家との骨肉の抗争を指すようである(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」の市村高男氏の記載に拠った)。私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の項に、「佐竹上総介入道山入与義主従十三人の塔の図」がある。参照されたい。
「上杉憲直」宅間ヶ谷上杉氏。持氏の側近中の側近であったが、後に幕府軍に敗北した持氏に裏切られて敗死した。]

〇花谷〔附慈恩寺の舊跡〕 花谷ハナガヤツは、佐竹屋敷の東方にあり。《慈恩寺》此のヤツに、慈恩寺とテラあり。足利直冬アシカヾタヾフユの菩提テラなり。直冬タヾフユを慈思寺玉溪道昭と號す。嘉慶元年七月二日に卒す。開山は桂堂聞公なり。京五山の名僧、詩をダイして此の所の風景を稱美す。其詩を板に彫て、今圓覺寺傳宗菴にあり。其詩如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:この寺は「鎌倉廃寺事典」によれば、成立は鎌倉時代であるが、万里集九の「梅花無尽蔵」に『「脚倦不登慈恩塔婆之旧礎」とあって、文明末(一四八五)にはすでに廃絶していたこと』が知れる、とある。しかし、以下に見る漢詩によって、この慈恩寺なるものが由比ヶ浜(飯島)に近く、境内には多様な種類の草花樹木が植えられ、池塘や岩窟、何より七層の荘厳な塔を持った相応な規模の禅寺であったことが知られるのである。
「足利直冬」(生没年不詳)は南北朝期の武将。以下、「朝日日本歴史人物事典」の今谷明氏の記載に依ると、足利尊氏の長男であったが、母の出自の低さもあって尊氏に疎まれ、鎌倉の東勝寺の喝食かっしき(稚児)となった。建武三・延元元(一三三六)年に『尊氏の室町幕府開幕後上洛して認知を求むるも冷遇され、叔父足利直義の養子となって直冬と称した』。貞和四・正平三(一三四八)年には『左兵衛佐に任官。紀伊の南軍討伐に功を立て、翌年には長門探題として西下した』が、この直後の観応元・正平五(一三五〇)年に『観応の擾乱が勃発し、備後鞆から上陸した直冬は、高師直党の杉原氏らに攻撃され肥後に没落した。ここで土豪河尻氏の庇護を受け、鎮西探題と征西府の対立を利して勢力を伸張、翌年、尊氏・直義の一時講和により鎮西探題に補任された』。ところが翌文和元・正平七(一三五二)年に『直義が暗殺されると尊氏との関係は決裂。同年太宰府で南軍に敗れ長門に脱出したのち、一転して南軍に下り幕府に反した。その翌年には直冬党の一部が京都を占領』して文和四・正平十年には『山陰の雄山名時氏らと南軍を糾合して京都に侵入、尊氏・義詮父子は近江に逃亡した。直冬は自身入京し東寺に居陣したが』父尊氏の反撃によって二ヶ月で京都を放棄、以後は安芸で時氏の庇護を受けた。貞治二・正平十八(一三六三)年には大内弘世・山名時氏の幕府帰参によって基盤を失ってしまい、貞治五・正平二十一年末を最後に『その消息は途絶え、中国地方山間部を流浪したと推定される』。『その数奇な生涯で南北朝後半期に異彩を放つ』人物である、とある(以上の引用の内、読点を変更してある)。なお、本文には嘉慶元(一三八七)年七月二日に逝去とあるが、定かではない。
「桂堂聞公」桂堂士聞。多くの記載から見ると南北朝期の臨済僧らしい。ところが諸記録から鎌倉期まで確実に創建は遡るという訳である。
「京五山の名僧、詩を題して此の所の風景を稱美す」「鎌倉廃寺事典」に『応永中(一三九四~一四二七)京都五山の詩僧らが当寺の勝景を賞して詩を賦し、これを同二十五年(一四一八)寺主永貞が板に刻し、円覚寺前住一曇聖瑞がその序をつくって掲げたもの』とある。]
[やぶちゃん注:以下、底本では序を含む「慈恩寺詩」全体が二字下げ。]
   慈恩寺詩序
天地之間、維元氣之結之融、突而爲山、呀而爲谷、然觀遊之與乎人者、或奧而坳、窪而邃、増之有樹之茂石之藂、蓊鬱膏薈蔚、宜乎幽人之所盤旋、樂而不返者爲得之、或曠而軼、雲雨出林莽、増之有臺而崇、閣而延、天爲之高、地爲之闢、宜乎英邁之士、出乎萬類遊乎物之始、卒歳優游者爲得之、蓋天作之、地成之、皆高明幽貞之具於是乎在、相之治、直東北之交、岡連谷盤、突而起、坳而窪、其曰華谷、兼奧與曠而有之、寺額慈恩、初桂堂聞公、開而基之、大年椿公、繼而輪之奐之、公不入州府三十年、終于山、山之峭壁斗絶克肖、其攢巒迤邐、有堂宇列焉、廊廡簷牙、廻且啄、浮圖層出、淸泰摩尼之殿、白花禪悦之構、龕室千軀像設、森列厥徒、栖心禪誦、石之詭環、水之渟滀、而怪木奇卉、紅紛緑駭、不徒席几而爲耳目之玩也、所謂天墜地出、以授乎人歟、京師名德、以不遂登臨之美爲歎、詩以詠之、極詞於幽遐瑰詭、以往來其懷、山水之秀益々以彰、慕而題之者安可已乎、嗟蘭亭之遭右軍、盛跡粹然、後續者洗林澗之媿歟、詩凡若干首、寺之主永貞叟、刻而掲之、請紀其首、庶列名而有榮耀焉、應永戊戌、暮之春、九華山人釋聖瑞序(〔)按ずるに聖瑞は、圓覺寺の前住一曇なり。(〕)
[やぶちゃん注:「聖瑞」一曇聖瑞(いちどんしょうずい 生没年未詳)室町時代の臨済僧・常陸国法雲寺の復庵宗己そうきの法嗣。円覚寺や京都南禅寺住持となる。詩文にも優れ、著作に「幽貞集」がある。九華山人は別号。以下、影印の訓点に従って書き下した「慈恩寺詩序」を示す。難読字が多いので私の読みを( )でルビした。
   慈恩寺の詩の序
天地の間は、維れ元氣の結の融、突として山と爲り、呀として谷と爲る。然れども觀遊の人に(アヅ)かる者の、或は奧にして坳、(ワ)にして邃。之を増すに樹の茂・石の(ソウ)有(り)、蓊鬱薈蔚(ヲウウツワイウツ)たり、宜べなり、幽人の盤旋する所ろ、樂(しみ)て返らざる者、之を得(た)りと爲ること、或は(クワウ)にして(イツ)。雲雨、林莽より出(づ)。之を増すに臺にして(タカ)く有(り)、閣にして延く、天、之が爲に高く、地、之が爲に(ヒロ)く、宜べなり、英邁の士、萬類を出でゝ物の始(め)に遊び、歳を(ヲ)(ふ)るまで優游する者、之を得(た)りと爲ること、蓋し天、之を作り、地、之を成す。皆、高明幽貞の具、是に於て在り。相の治、東北の交ひに(アタ)(り)て、岡連(な)り、谷(マル)く、突として起り、坳にして窪、其れを華谷ハナガヤツと曰(ふ)。奧と曠とを兼(ね)て之有り。寺、慈恩と額す。初め桂堂聞公、開(き)て之を基し、大年椿(ダイネンチン)公、繼(ぎ)て之を輪し之を(クワン)す。公、州府に入らざること三十年、山に終ふ。山の峭壁、斗絶(ヨ)く肖たり。其の攢巒迤邐(サンランイリ)たる、堂宇の列なる有り、廊廡簷牙(ラウブエンガ)、廻(り)て且つ啄み、浮圖(フト)層出す。淸泰摩尼の殿、白花禪悦の構、龕室千軀像設(け)たり。森列せる(ハジメ)の徒、心を禪誦に栖ましむ。石の詭環し、水の渟滀(テイチク)して、怪木奇卉、紅、紛し、緑、(オドロ)く。徒だに席几にして耳目の玩と爲るのみなり。謂は所(る)、天、墜し、地、出して、以(て)人に授(か)るか。京師の名德、登臨の美を遂げざるを以て歎と爲し、詩以て之を詠じ、詞を幽遐瑰詭(イウカカイキ)に極めて、以(て)其の懷に往來す。山水の秀、益々以(て)彰はる。慕(ひ)て之に題する者、安んぞ已むべけんや。アヽ蘭亭の右軍に遭へる、盛跡粹然たり。後に續く者、林澗の媿はぢを洗んか。詩凡そ若干首、寺の主永貞叟、刻(し)て之を掲げ、請(し)て其の(ハジ)めに紀せしむ。(ネガハ)くは名を列して榮耀有らんことを。應永戊戌、暮の春、九華山人釋の聖瑞序す。
「元氣の結の融」は天地の間にあって万物生成の根本となる精気が結ばれたり融けたりすることで現象することを言う。
「呀」は恐らく「ガ」と読んで、谷の空虚なさまを言う。
「坳」は「アウ(オウ)」又は「エウ(ヨウ)」で、窪んだ所。
「邃」は奥深い、の意であるから、ここは「奥」深く凹(「坳」)であって、凹(「窪」)であって而して奥深く遠い、という意であろう。多変数関数論の「凸」の反対みたような形而上学的な謂いか。
「藂」は「叢」に同じく、群がること。
「蓊鬱薈蔚」「蓊鬱」「薈蔚」もともに草や木が盛んに茂っているさま。
「幽人」隠者。
「盤旋」「ハンセン」若しくは「バンセン」で回遊する、経巡ること。
「曠にして軼」明白にして優れている、の謂いか。
「延く」は「ひく」ではあるまい。「ながく」(長く)か「とほく」(遠く)であろう。
「高明幽貞」高潔なる隠者のことか。「易経」の九二の『道を履むこと担担たり。幽人貞にして吉なり。象に曰く、幽人貞にして吉なりとは、中自ら乱れざれば也。』に基づくと思われる。
「大年椿公」曹洞宗の名僧大年祥椿(だいねんしょうちん 永享六(一四三四)年~永正十(一五一三)年)。
「之を輪し之を奐す」「輪奐」は建物が壮大で華麗なことであるから、寺院の盛隆させたことを言う。
「山の峭壁、斗絶克く肖たり」とは、慈恩寺を囲む山の屹立した様は、ここがまさに俗界と断固として隔絶している様に似ている、という意味であろう。
「攢巒迤邐たる」の「攢巒」は群がっている山々、「迤邐」はゆったりとしている様。
「廊廡簷牙」「廊廡」は堂の前の左右に延びた回廊。「簷牙」鋭い牙のように軒先に突き出た軒の端。
「浮圖」僧侶。
「淸泰摩尼」は総てを叶えてくれる如意宝珠の意。
「石の詭環し、水の渟滀して」「詭環」不詳。「渟滀」は水が留まり溜まる、水が湛えられるの意であり、転じて学問の広く深いことを言うが、前者の「詭環」はどうもよい意味ではとれそうもない(正しからざる方途を以て石が水を遡る意ではなかろうか)。識者の御教授を乞う。
「幽遐瑰詭」幽かに遠く、何とも奇異な雰囲気で、という謂いか。しっくりとこない。識者の御教授を乞う。
「蘭亭の右軍に遭へる」名筆とされる右軍将軍王義之の「蘭亭序」は、義之が三五三年、名士を自身の別荘に招き、その中の蘭亭で曲水の宴を催したが、その際、酔いに任せて作られた詩集序文の草稿が「蘭亭序」であった。ここは「唐宋八家文」に所収する柳宗元の「邕州馬退山茅亭記」冒頭に基づいている。以下に示す。

〇原文
夫美不自美、因人而彰。蘭亭也。不遭右軍、則淸湍脩竹、蕪沒於空山矣。是亭也、闢介閩嶺、佳境罕到、不書所作、使盛跡鬱堙、是貽林澗之媿、故志之。

〇やぶちゃん+教え子による書き下し文
 夫れ、美は自ら美ならず、人に彰せらるるに因る。蘭亭や、右軍に遭はずば、則ち淸湍脩竹の空山に蕪没するのみ。是の亭や、僻介閩嶺、佳境に到ること罕にして、作す所を書かずんば、盛跡をして鬱堙せしむ。是れ、林澗の愧を貽す。故に之を志す。

〇やぶちゃん+教え子による語注
・「淸湍脩竹」は「せいたんしうちく(せいたんしゅうちく)」と読む。
・「蕪没」は「ぶぼつ」と読む。埋もれるの意。
・「僻介閩嶺」は「へきかいびんれい」と読んで、僻地の峰々。介は界と同義か。閩は福建一帯の古称で中原に対比しての蔑称であるが、ここでは文明の中心から遠く離れた地方というほどの意であろう。
・「罕」は「かん」と読み、稀の意。
・「盛跡」景勝の地。
・「鬱堙」は「うついん」と読む。「堙」は「湮」の同じい。「隠」の同音同義。隠滅すること。
・「貽す」は「のこす」と訓じ、「遺」と同音同義で、残すの意。
・「林澗」は「りんかん」で「澗」は谷。山林の中の窪んだ土地を指す。
・「志す」は「あらはす」と訓じる。

〇やぶちゃん+教え子による勝手自在現代語訳
 そもそも、美はそれ自体として美であるのではなく、人に賞せらるることによって初めて美として我々の前に立ち現れてくるものなのである。あの「蘭亭序」を見るがよい。王右軍に行き逢わなかったなら、清く激しい水の流れや美事にすっくと伸びた竹も、人影なき深山に埋もれて誰一人としてそれを知る者はなかったであろう。自然の美とは、かく、名筆名文によってのみ初めて存在すると言ってよいのである。――さればこそ――正にこの馬退山茅亭である。そもそも僻地の山間にあっては、眺めの素晴らしい土地に到ることは、これ、稀なことである。その稀有の馬退山茅亭美景の感動を今、書き残さなければ、この稀に見る景勝の地の存在を誰にも知られずにあたら埋もれさせてしまうことになる。これは自然の持つ美に対する屈辱であり、極めて遺憾なことである。そこで私、柳宗元がこれを書き残すこととした。

以上の、訓読・語注・現代語訳には私の初代の教え子にして秘蔵っ子の愛弟子、中国語に堪能な杉崎知喜君の協力を得た。彼の柳宗元の説に関わっての大変興味深い感想を引用して、謝意を表したい。
『柳先生の主旨とは少し異なりますが、私は次のようなことを強く感じます。何か一点人工の手を加えると、大自然全体が瞬時にして鑑賞すべき風景、しかも気の遠くなるような文化の蓄積を背負った一幅の画になってしまうのが、中華文明の特徴ですね。例えば険しい崖に漢詩を掘り込むと、いきなり中華文明における名勝(泰山、赤壁などもそうでしょうか)に早変わりするように。人文世界に取り込まれて初めて自然は文人が愛でるべき対象になる、といっては言いすぎでしょうか。もし鎌倉が中国人の街だったら、稲村ガ崎の断崖に「湘南観止」とかなんとか大きな字を彫り込んでしまったことでしょう(討幕軍の稲村ガ崎越えにちなんだ文句にしたかもしれません)。崖に字を彫り込まなくても、文章で詠みこんでしまえば、これと同じことなのかもしれません。今回柳先生の文章に接して、去年広西の柳州への小旅行で柳侯祠に参拝したことを懐かしく思い出しました。』

「盛跡粹然」同前。『使盛跡鬱堙』から採った。王義之のその名墨跡は混じりっ気なく、蘭亭の景を映して美事な出来栄えの謂いであろう。
「林澗の媿を洗んか。」「媿」は「愧」「恥」に同じい。「洗んか」は「すすがんか」と読みたい。同前。後半『是亭也、闢介閩嶺、佳境罕到、不書所作、使盛跡鬱堙、是貽林澗之媿、故志之。』に基づき、不学乍ら推測するに、詩文に詠まれず、空しく林間の恥としてあったこの慈恩寺の景を、我らが雪がんとするか、の意であろうか。
「應永戊戌」応永二十五(一四一八)年。]
[やぶちゃん注:以下の漢詩では、影印の訓点に従って書き下したものをすぐ後に二字下げで示した。間違いのないと思われる送り仮名の一部は私が補ったが、詩の鑑賞を損なうので、特に括弧を施していない。作者の注は総て最後に回した。]

              前南禪大岳周崇
因循輦寺未抽身。  間令老來趨世塵。
聽説東南山水好。  一宵千里夢相親。

              前の南禪大岳周崇
  輦寺に因循して 未だ身を抽でず
  間に老來をもちて 世塵を趨らしむ
  聽説らく 東南山水 好しと
  一宵千里 夢 相ひ親しむ

[やぶちゃん注:「輦寺」は「サンジ」で自分がたまたま担っている住持僧としての地位を言うか。
「抽でず」は影印は送り仮名「て」であるが、ここは「ぬきんでず」と読んで濁音化した。
「趨らしむ」は「はしらしむ」と読む。
「聽説く」は「聞説らく」と同じく「きくならく」と読み、常套的伝聞表現。
「大岳周崇」(しゅうすう 貞和元・興国六(一三四五)年~応永三十(一四二三)年)は臨済僧。京都の等持寺や円覚寺で学び、義堂周信らに参禅、等持寺・相国寺住持から天竜寺第四十六世に就任し、第四代将軍足利義持の絶大な帰依を受けた。詩文にも優れ、蘇東坡詩講釈「翰苑遺芳」を残している。]

              前南禪玉畹梵芳
寓舍海東經十霜。  未遊花谷但聞名。
今觀諸老詩中景。  似遂昔年幽討情。

              前の南禪玉畹梵芳
  海東に寓舍して 十霜を經
  未だ花が谷に遊ばず 但だ名を聞く
  今觀る 諸老詩中の景
  昔年 幽討の情を遂ぐるに似たり

[やぶちゃん注:「幽討」佳景幽境の地を訪ね巡ること。
「玉畹梵芳」(ぎょくえんぼんぽう 貞和四・正平三(一三四八)年~?)は臨済僧。春屋妙葩しゅんおくみょうはの法嗣で、義堂周信に詩文を学んだ。後、建仁寺・南禅寺住持を務め、周崇同様、足利義持の帰依を受けたが、本詩を記した二年後の応永二十七(一四二〇)年に義持の怒りに触れ隠遁、以後の消息は不明とされる。水墨画にも優れた。]

              前南禪大周周奝
客至曾誇絶境殊。  慈恩山水冠東都。
蓬莱方丈世間有。  樓閣煙花天下無。
漲海觀瀾過遠浦。  富轡望雪趂脩途。
如何次第遊關左。  更宿招提探奧區。

              前の南禪大周周奝
  客至りて曾て誇る 絶境の殊なるに
  慈恩の山水 東都に冠たり
  蓬莱方丈 世間に有り
  樓閣煙花 天下に無し
  漲海 瀾を觀て遠浦を過ぎ
  富轡 雪を望みて脩途を趂ふ
  如何ぞ 次第に關左に遊びて
  更に招提に宿して奧區を探らん

[やぶちゃん注:「脩途」は「シウト(シュウト)」と読み、長い道のりのこと。
「趂ふ」は「おふ」(追ふ)と訓じていよう。
「關左」南を向くと左は東であるから、関東の意。
「招提」は元来は梵語の「招闘提奢」の略で四方の意であるが、転じて寺院、道場を言う。
「大周周奝」(しゅうちょう 貞和四・正平三(一三四八)年~応永二十六(一四一九)年)臨済僧。京都天竜寺大照円臨の法嗣。相国寺・南禅寺住持を務めた。]

            前南禪大愚性智
聞説慈恩野趣濃。散人何日託飄蓬。
山圍蜀道雲籠棧。水蘸湘江雨打蓬。
月黑玄猿吟曉洞。烟淸白鷺度秋空。
前年幸見士峯雪。不到駿城東又東。

            前の南禪大愚性智
  聞説らく 慈恩 野趣濃かなりと
  散人何れの日か飄蓬を託せん
  山蜀道を圍みて雲棧を籠め
  水 湘江を蘸して 雨 蓬を打つ
  月 黑くして 玄猿 曉洞に吟じ
  烟 淸くして 白鷺 秋空を度る
  前年 幸に見る士峯の雪
  到らず 駿城の東 又 東

[やぶちゃん注:「聞説らく」は「きくならく」と読み、常套的伝聞表現。
「飄蓬」は「ヘウホウ(ヒョウホウ)」で飛び散らうヨモギの葉で、行方定めぬ旅人の喩え。
「蘸して」は「ひたして」と訓ずる。
「駿城」駿河国のことか。今年は駿河国のその東のその東の辺り(伊豆半島辺りか)が、それもぼんやり霞んで見えるだけである、といった意味か。
「大愚性智」(しょうち ?~永享十一(一四三九)年)臨済僧。大海寂弘の法嗣。京都の東福寺・天竜寺・南禅寺・建仁寺などの住持を歴任した。]

            前天龍謙岩原冲
要意東行不可遮。相城南畔梵王家。
先看富士峯頭雪。遂宿慈恩塔下花。
屐齒澀時攀☆※。橋聲喧處蹈谽谺。
此遊眞箇何時果。白髮吟詩又及瓜。
[やぶちゃん字注:「☆」=「山」+「帶」。「※」=「山」+「臬」。なお、底本では「※☆」の語順であるが、影印で訂した。これは影印で見ると、二字が改頁のために分断されており、同じ山扁でもあることから、植字ミスというより、私は編者の錯字によるものであると考える。]

            前の天龍謙岩原冲
  意を要して東行 遮るべからず
  相城の南畔 梵王の家
  先づ看る 富士峯頭の雪
  遂に宿す 慈恩塔下の花
  屐齒 澀る時 ☆※を攀ぢ
  橋聲 喧しき處 谽谺を蹈む
  此の遊 眞箇 何れの時か果さる
  白髮 詩を吟じて 又 瓜に及ぶ
[やぶちゃん字注:「☆」=「山」+「帶」。「※」=「山」+「臬」。]
[やぶちゃん注:「屐齒」は「ゲキシ」と読み、下駄の歯。
「澀る」は「しぶる」で「澁」と同字。
「☆※」(「☆」=「山」+「帶」。「※」=「山」+「臬」。)は「テツゲツ」と読み、山の高い形容。
「谽谺」は「カンカ」と読み、谷の空しく深い形容。
「眞箇」は「シンコ」で、真実、本当に、の意。
「瓜に及ぶ」は不詳。「爪」の誤字かとも考えられるが、影印でも有意な右跳ねが入っている。識者の御教授を乞う。
「謙岩原冲」謙巖原冲(?~応永二十八(一四二一)年)は臨済僧。東福寺・天龍寺住持。]

        前相國嚴中周噩
見説慈恩寺。溪山淸且深。
花開春似雪。泉響夜如琴。
過客尋幽到。居人踐勝吟。
昔遊湘水上。遺恨欠登臨。

            前の相國嚴中周噩
見説らく 慈恩寺
溪山 淸くして且つ深しと
花 開けて 春 雪に似たり
泉 響きて 夜 琴のごとし
過客 幽を尋ねて到り
居人 勝を踐きて吟す
昔し 湘水の上りに遊ぶ
遺恨 登臨を欠く

[やぶちゃん注:「見説らく」は先の「聞説らく」と同義で「きくならく」と読みたい。常套的伝聞表現。
「踐きて」は「あるきて」と訓じた。
「嚴中周噩」(しゅうがく 延文四・正平十四(一三五九)年~正長元(一四二八)年)は臨済僧。九条経教(関白二条道平の子であったが関白九条道教の養子となった人物)の七男。春屋妙葩の法嗣。鎌倉で義堂周信に参禅、詩文に優れた。京都鹿苑寺院主、後に相国寺・南禅寺住持などを歴任した。]

            前の東福岐陽方秀
  金碧の招提 湘水の隈
  慈恩の一塔 崔嵬に倚る
  芳を尋ぬる人は 春風を逐ひて至り
  護法の龍は 雲氣に隨ひて回はる
  紫陌紅塵 閒日月
  琪花瑤草 小蓬莱
  如今 猶を記す 湘地を曾てせしことを
  ミヅカら愧づ 繁華 面を撲ちて來るを

[やぶちゃん注:「金碧の招提」は金色や青緑色に輝く寺の屋根とその荘厳具を言う。
「隈」は入江。由比ヶ浜沿海を指していよう。
「崔嵬」は「サイクワイ(サイカイ)」と読み、岩山の峻嶮なさま。
「護法の龍」仏法守護の神龍天護法善神のこと。「千手観音経」に基づく。
「紫陌紅塵」「紫陌」は帝都の街路、「紅塵」繁華街の埃。浮世の塵。俗世間の比喩でもある。この詩は全体が、恐らく以下の「唐詩選」に載る中唐の劉禹錫の七言絶句「自朗州召至京戲贈看花諸君子」に基づくものと思われる。
    自朗州召至京戲贈看花諸君子   劉禹錫
   紫陌紅塵拂面來
   無人不道看花回
   玄都觀裏桃千樹
   盡是劉郎去後栽
〇やぶちゃんの書き下し文
    朗州より召されて京に至りて戲れに看花の諸君子に贈る   劉禹錫
   紫陌の紅塵 面を拂ひて來り
   人の 花を看て回はるとはざるなし
   玄都觀裏げんとくわんり 桃千樹
   盡く是れ 劉郞 去りて後に栽ゑたり
〇やぶちゃん語注
・「全唐詩」には題の冒頭に「元和十一年」(西暦八一六年)とある。
・「玄都觀」長安朱雀街にあった道教の寺。
・「劉郎」は作者劉禹錫を指すと同時に、「幽明録」に載る漢代の中国版浦島伝説みたような劉晨と阮肇げんちょうの伝承の劉晨のイメージも効かせたもの。後漢の永平五(六十二)年に薬草取に出かけた二人が山中で迷うも絶世の美女に逢い、その御殿で半年ほど過ごすが、故郷が恋しくなり、戻ってみると既に三百年以上が経過して晋の太元八(三八三)年になっていたという話である。
〇やぶちゃんの現代語訳
長安の大路という大路には赤茶けた俗世の砂塵が顔を払うが如く吹きつけるが、
そこを行く人々は誰一人として、花見をした帰りだと言はぬ者とてない。
――ああ、そうか……あの玄都観の千本の桃の樹の花見か……
――あの桃の樹……あれは全て……今浦島のこの私が……左遷されて都を追われてから後……たかだか十二年の間に植えられて育ったもんに過ぎないじゃないか……
劉禹錫が左遷先から長安へ戻った折りの詠懐なのであるが、この詩が朝廷を愚弄するものであると非難されて再度、左遷されてしまうという憂き目に逢っている、まさにいわく附きの詩なのである。
「琪花瑤草」は「キカエウサウ(キカヨウソウ)」と読み、仙境に咲く(ような)美しい草花を言う。
「岐陽方秀」(きようほうしゅう 康安元・正平十六(一三六一)年~応永三十一(一四二四)年)は臨済僧。応永十八(一四一一)年に東福寺第八十世、本作をものした同二十五年には天竜寺第六十四世となっている。尾聯から見ると、彼は若き日に鎌倉かその近辺で参禅したことがあったものか。天竜寺第六十四世という高位にあることを「繁華 面を撲ちて來るを」とし、「自ら愧づ」としているのなら、元詩をインスパイアして、如何にも禅僧らしい洒脱な謂いである。]


            前東福明叔玄晴
海東蘭若扁慈恩。方外奧區堪品論。
靈隠山西天竺寺。祇陀林下給孤園。
虗堂秋老月侵壁。幽谷春長花擁門。
欲遂壯遊情未歇。扶桑掛眼向朝噋。

            前の東福明叔玄晴
  海東の蘭若 慈恩と扁す
  方外の奧區 品論に堪へたり
  靈隠山の西 天竺寺
  祇陀林の下 給孤園
  虗堂 秋 老いて 月 壁を侵し
  幽谷 春 長くして 花 門を擁す
  壯遊を遂げんと欲して 情 未だ歇まず
  扶桑 眼を掛けて 朝暾に向ふ

[やぶちゃん注:「祇陀林の下 給孤園」祇樹給孤独園ぎじゅぎっこどくおんのこと。中インドの舎衛しゃえ国にあった祇陀ぎだ太子の林苑であったが、給孤独と称した須達しゅだつ長者が買い求め、釈迦とその教団に譲り、そこに祇園精舎が建てられた。慈恩寺を祇園に擬えた。
「歇まず」は送仮名は「ス」であるが、「やまず」と訓じていよう。
「朝暾」は「テウトン(チョウトン)」と読み、朝日のこと。
「明叔玄晴」は臨済僧。先の大愚性智とともに、鎌倉期臨済宗の最大派閥円爾弁円えんにべんねん(諡号聖一国師)を始祖とする聖一派(特に京都を中心とした公家武家の上流層への臨済宗布教に貢献した)の一人。]

            前東福大川通衍
平生未得到瀟湘。緬想慈恩古道場。
海氣爲雲圍佛塔。山嵐帶雨洒禪房。
窓收柹葉秋書濕。鉢拾松花午爨香。
老矣勝遊應是夢。東樓目盡暮天長。
[やぶちゃん字注:五句目「濕」は、底本・影印共にこの「濕」の更に正字が示されているが、非常に説明し難い字体であるので、「濕」で表記した。]

            前の東福大川通衍
  平生 未だ瀟湘に到るを得ず
  緬かに想ふ 慈恩の古道場
  海氣 雲と爲りて 佛塔を圍み
  山嵐 雨を帶びて 禪房に洒ぐ
  窓 柹葉を收めて 秋書濕ひ
  鉢 松花を拾ひて 午爨香し
  老たり 勝遊 應に是れ夢なるべし
  東樓 目 盡きて 暮天 長し

[やぶちゃん注:「瀟湘」本来は瀟湘八景しょうしょうはっけいで湖南省の瀟水が湘江に合流し、洞庭湖となる一帯の絶景を言うが、ここは今風に言えば、文字通り、湘南の慈恩寺一帯の佳景をそれに擬えたものである。
「緬かに」は影印では「ニ」のみ送られているが、「はるかに」と訓じていよう。
「洒ぐ」は「そそぐ」と訓ずる。
「柹葉」の「柹」は「柿」の正字。
「午爨」は「ゴサン」と音読みしているものと思われ、昼飯のこと。但し、禅宗では原則、午後は食事を摂らないから(尚且つこれはその炊飯の匂いであるから)、これは我々が想定するよりもかなり早い時間、十時ぐらいを考えてよいのではなかろうか。勿論、直前の鉢に拾った松ぼっくりは飯を「爨ぐ」(炊ぐ)薪であろう。
「大川通衍」不詳。]

            前萬壽惟肖得岩
客舍相城春晝頭。人言花谷可銷憂。
紛々雙蝶似相引。寂々孤鶯伴獨遊。
古寺山隈塵不到。淸泉屋後雨添流。
而今廿載教如昨。最憶梨花院落幽。
[やぶちゃ字注:影印では「廿載」は「廾載」。分かり易い底本の方を採った。]
            前の萬壽惟肖得岩
  客舍 相城 春の晝るホトリ
  人は言ふ 花が谷 憂ひを銷すべしと
  紛々たる雙蝶 相ひ引くに似たり
  寂々たる孤鶯 獨遊を伴ふ
  古寺 山隈 塵 到らず
  淸泉 屋後 雨 流れに添ふ
  而今 廿載 昨のごとくならしむ
  最も憶ふ 梨花 院落の幽

[やぶちゃん注:「院落」塀で囲まれた寺院の中庭。
「惟肖得岩」惟肖得巖(いしょうとくがん 延文五・正平十五(一三六〇)年~永享九(一四三七)年)臨済僧。草堂得芳の法嗣。天竜寺・南禅寺などの住持を務めた。五山文学を代表する一人。]

            漚華道人周嘏
花谷名藍湘水濵。突然高塔逼星辰。
千年像教非無力。七寶莊嚴足動人。
岩底淸泉常滴雨。堦前古木獨留春。
投詩却恐涴佳境。句々渾含洛下塵。

            漚華道人周嘏
  花が谷の名藍 湘水の濵
  突然たる高塔 星辰に逼る
  千年の像教 力 無きに非ず
  七寶の莊嚴 人を動かすに足れり
  岩底の淸泉 常に雨を滴れて
  堦前の古木 獨り春を留む
  詩を投じて 却つて恐る 佳境を涴さんことを
  句々 渾て 洛下の塵を含む

[やぶちゃん注:「千年の像教」とは末法思想に於ける像法を指す。釈迦入滅後の千年目から二千年までの千年期を指す。先行する千年(これを五百年とする説もあり)の正法しょうぼうに於いては、釈迦の正しい「教」えと、それを信じて修「行」する者、そしてその精進によって正しい悟達に達した真実の「証」を得られる者が存在するとされるが、次の像法ぞうぼうでは「教」「行」はあるものの「証」を得られる者がいなくなるとする(その後の一万年は「行」も失われる末法がやって来るとする)。像法では解脱は望めないものの、形の上での仏法の布教は広く行われ、荘厳な寺院も盛んに建設されるとする。本邦では永承七(一〇五二)年をもって末法に入ったと広く信じられていた。但し、この末法思想は禅宗ではあまり問題にされず(禅の在り方からしても私は遠いと思う)、道元などは勝手非道な解釈を生み出す可能性を孕んだその内容に強い否定的な立場をとっているから、もしかするとここで作者は、末法思想自体への一種の皮肉を込めてこの第三句を書いているのかも知れない。
「堦前」の「堦」は「階」の別字体。
「涴さんことを」は「けがさんことを」と訓じている。
「漚華道人周嘏」慶仲周賀(貞治二・正平十八(一三六三)年~応永三十二(一四二五)年)のこと。臨済僧。相国寺春屋妙葩の法嗣。相国寺・天竜寺住持となる。慶中とも書く。漚華道人は別号。「漚華」は「オウカ」又は「ウカ」と読み、「浸す」「泡」「鷗」等の意味があるが、これは「泡」であろう。「嘏」は音「カ」で、「賀」同様、めでたいという意があるから、誤記ではあるまい。]

            錦城桂林明纎
花谷招提佳致多。春來和夢問如何。
天靑富士嵌空雪。鷗白瀟湘浩蕩波。
佛塔連雲穿碧落。僧鐘動月出岩阿。
難爲十日看花客。啼鳥一聲山雨過。

            錦城の桂林明纎
  花が谷の招提 佳致 多し
  春來 夢に和して如何と問ふ
  天は靑し 富士 嵌空の雪
  鷗は白し 瀟湘 浩蕩たる波
  佛塔 雲に連りて 碧落を穿ち
  僧鐘 月を動して 岩阿を出づ
  十日 花を看る客と爲り難し
  啼鳥一聲 山雨過ぐ

[やぶちゃん注:「佳致」優れた興趣。
「嵌空」早稲田大学図書館蔵の影印画像を見ると、「嵌」の右側に「カン」のルビ、「嵌空」左側に「カタハラノアナ」とルビがある。
「浩蕩」は「カウタウ(コウトウ)」で、広々として大きなさま。
「岩阿」は「グワンア(ガンア)」で岩山の曲がった場所。
「錦城の桂林明纎」不詳。「纎」は「繊」の正字。もし、これが渡来僧であったら「錦城」は成都の別称である。]

            南紀大鏡一訓
花谷傳聞風物新。怪松奇石自無塵。
月明兜率天宮曉。花白補陀岩上春。
鳥下生臺啣飯去。猿窺禪室學跏馴。
年來未遂東遊志。一錫何時往卜隣。

            南紀の大鏡一訓
  花が谷傳へ聞く 風物 新なりと
  怪松奇石 オノヅカら塵無し
  月は明なり 兜率天宮の曉
  花は白し 補陀岩上の春
  鳥 生臺に下りて 飯を啣へて去り
  猿 禪室を窺ひて 跏を學びて馴る
  年來 未だ遂げず 東遊の志
  一錫 何れの時か 往きて隣りを卜せん

[やぶちゃん注:「オノヅカら」のルビは「オ」しか振られていない。「ら」も実際には送られていない。
「月は明なり 兜率天宮の曉」弥勒菩薩が衆生済度のために修行している兜率天浄土に、慈恩寺の有明の月景を擬えた。
「花は白し 補陀岩上の春」前句同様、観音菩薩の居所とされる補陀落山(ポータラカ)に、白い花を仙花ときじくの花の如く配して擬えたものであろう。
「生臺」は「シヤウダイ(ショウダイ)」と読むか。寺院で衆生済度を目的として虫鳥に餌を与えるために設けられた木製の台のことと思われる。
「跏」結跏趺坐。座禅のこと。
「隣りを卜せん」は「晏子春秋」に基づく故事。「非宅是卜、唯隣是卜」(宅を卜せず、隣を卜す)で、住居を定めるのならば地相・家相などを占わずに、ともに住むこととなるべきその隣人を見極めよ、の意。禅家らしい謂いではある。
「南紀の大鏡一訓」不詳。]

            京兆心交
花谷慈恩趣不狐。合尖復見舊浮屠。
七層突兀龍蛇窟。四面展開煙雨圖。
雲霽山攢金翡翠。月明水蘸碧珊瑚。
杜陵野老曾登處。有此一欄風物無。

            京兆の心交
  花が谷の慈恩 趣き 狐ならず
  合尖 復た見る 舊浮屠
  七層 突兀たり 龍蛇の窟
  四面 展開す 煙雨の圖
  雲 霽れて 山 金翡翠を攢め
  月 明にして 水 碧珊瑚を蘸す
  杜陵の野老 曾て登る處ろ
  此の一欄の風物 有りや無きや

[やぶちゃん注:「合尖」は恐らく「ガツセン(ガッセン)」と読み、仏塔の最先端部の謂いであろう。
「舊浮屠」は古い仏塔の謂いであろう。
「突兀]は「トツコツ(トッコツ)」で、高く突き出ていること。
「金翡翠を攢め」宝石の金と翡翠の輝きと緑を、晴天の山々の草木の鮮やかな彩りに喩えた。「攢め」は「あつめ」(集め)と訓じる。
「碧珊瑚を蘸す」これも前句同様、碧玉と珊瑚の青と光沢を以て、寺庭の苑池に浮かぶ月を喩えた。「蘸す」は「ひたす」と訓じる。
「杜陵の野老 曾て登る處ろ」「杜陵の野老」は杜甫の別号。「曾て登る處ろ」とあるのは知られる「登岳陽樓」や「登高」を念頭に置くか。
「京兆の心交」不詳。]

            江東英文
聞説湘東山水奇。使人相望又相思。
塵中日月末歸去。海上蓬瀛空有期。
峭壁雲開圍翡翠。淸漣風動碎琉璃。
曠懷莫若慈恩塔。携手何時題一詩。

            江東の英文
  聞説らく 湘東 山水奇なりと
  人をして相ひ望みて 又 相ひ思はしむに
  塵中の日月 末だ歸り去らず
  海上の蓬瀛 空しく期有り
  峭壁 雲 開いて 翡翠を圍み
  淸漣 風 動いて 琉璃を碎く
  懷を曠することは 慈恩の塔に若くは莫し
  手を携へて 何の時か 一詩を題せん

[やぶちゃん注:「蓬瀛」は「ホウエイ」と読み、神仙の住む霊山蓬莱山と瀛州。
「琉璃」は「ルリ」で、紺青色のガラスのこと。
「懷を曠する」の「曠」は音で「クワウ(コウ)」と読んでいるものと思われるが、意味は感懐をはっきりと明らかに詩文に表す、の意である。
「江東の英文」不詳。]

            伊山大秀
一望東華路阻脩。慈恩聞熟似曾遊。
曲欄朝對士山雪。高閣晩臨湘水流。
樹杪層々孤塔出。花間矗々小亭幽。
他時壯觀心先約。更可題名留上頭。

            伊山の大秀
  一望 東華路 阻みて脩し
  慈恩 聞熟して 曾て遊ぶに似たり
  曲欄 朝に對す 士山の雪
  高閣 晩に臨む 湘水の流れ
  樹杪 層々として 孤塔 出で
  花間 矗々として 小亭 幽なり
  他時の壯觀 心 先づ約す
  更に名を題して 上頭に留む

[やぶちゃん注:「脩し」は「とほし」(遠し)と訓じていよう。
「聞熟して」何度も聞いて詳しく知っているために、の意。
「樹杪」は「ジユベウ(ジュビョウ)」木の梢。
「矗々」は「チクチク」と読み、真っ直ぐに立って伸びるさま。聳え立つさま。
尾聯「他時の壯觀 心 先づ約す/更に名を題して 上頭に留む」の意味がとれない。識者の御教授を乞う。
「伊山の大秀」不詳。]

            洛東龍派
澹陰樓閣養花天。華谷風光記昔年。
驅馬晝深紅杏雨。聽鶯曉淺緑楊烟。
曾同携手嗟誰在。毎一逢春情更牽。
聞説祇今得賢主。淸泉茂樹益増妍。

            洛東の龍派
  澹陰たる樓閣 養花の天
  華が谷の風光 昔年を記す
  馬を驅せて 晝 深し 紅杏の雨
  鶯を聽きて 曉 淺し 緑楊の烟
  曾て同じく手を携ふ アヽ 誰か在す
  一たび春に逢ふ毎に 情 更に牽かる
  聞説らく 祇今 賢主を得と
  淸泉 茂樹 益々妍を増さん

[やぶちゃん注:「澹陰」は「タンイン」で、静かで厳粛な奥深さを持った暗さを言うのであろう。
「在す」は「おはす」と訓じていよう。
「祇今」は「ただいま」と訓じる。
「妍」は音「ケン」、美しさの意。
「洛東の龍派」不詳。号からは龍山徳見(弘安七(一二八四)年~延文三・正平十三(一三五八) 年)を始祖とする臨済宗黄龍こうりょう派の流れを汲む僧であるように思われるが、如何?]

            海南明篤
孤錫東遊客相城。慈恩佳境勝聞名。
仙山海上幾塵隔。佛國人間何劫成。
翡翠護巣溪雨暗。虹霓射牅嶽雲晴。
猶思塔下留題處。滿塢梨花照眼明。

            海南の明篤
  孤錫 東に遊びて 相城に客たり
  慈恩の佳境 名を聞くに勝れり
  仙山 海上 幾か塵が隔つ
  佛國 人間 何れの劫にか成れる
  翡翠 巣を護りて 溪雨 暗く
  虹霓 牅を射て 嶽雲 晴る
  猶ほ思ふ 塔下 留題する處ろ
  滿塢の梨花 眼を照らして明かなり

[やぶちゃん注:「幾か塵が隔つ」影印では「か」「が」はどちらも「カ」。「いくばくかちりがへだつ」という訓読は何だかしっくりこない。恐らくは、この頷聯は――蓬莱山や瀛州や仏国土や人間じんかん道といったものはどれほど隔たっているか?――いや正に正しくこの慈恩寺にそれは現前するのだ――というようなことを表現しようとしているのではあるまいか?
「虹霓」は「こうげい」で虹のこと。古代中国では虹を竜の一種と考え、雄を虹、雌を霓(蜺)とした。
「翡翠」ここで初めて鳥のカワセミが登場する。先の「翡翠」も私はカワセミと捉えた解釈を考えたが、如何にも厳しかった。ここは気持ちよくすんなりブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ Alcedo atthis と書ける。私はカワセミが大好きなのである。
「牅」は音「ヨウ」、垣根・城・砦の意。ここは慈恩寺を包む山々を言うのであろう。
「塢」は音「ウ」、土手の意。慈恩寺の平地部分の境界に多数の梨の木が植えられていたのであろう。
「海南の明篤」不詳。]


〇蛇谷 蛇谷ヘビガヤツは、大藏ヲホクラの釋迦堂がヤツへ出る切通キリトホシカタハラなり。里人の云、昔し此所に老女あり。ワカヲトコと相ひ具せり。老女二十歳バカリなる女子ムスメちたり。年比ろ、ワタりて、老女の思へるは、我れヨハイカタムき、ワカき男に相ひナレん事、誠におこがまし。しかじ我が女子を男にアハせ、我は別に家を創てらんにはとて、彼男に語りければ、男うけがはず。猶をシタしかりけれど、老女、少しもうはの空ソラなる事にあらず。ノゾむ如にしたまへと。度々タビタビ云ければ、男いなびがたくて、我が居所のカタハラスコしき居をカマへて、老女をき、男は女子と相ひ具してげり。暫くワタりて、老身ワヅラふて、ネヤよりでざりければ、男の留守ルスに、女子ムスメハヽモトいて、此の程は御心ヲモく見へさせ給ふ、クスリなどタテマツラんやとひければ、ハヽ痛くシノんで事なき由をふ。女子ムスメの云く、何事か我にカクさせ給ふぞとてウラみければ、母モダし難くて云く、ヲトコに、そこを合せき、かくみなす事、我が心よりし事なれば、人を恨むべきに非ず。シカるを何となき寢覺ネザメのさびしき、又は二人住居フタリスマヒするを、餘所ヨソながら見なせしが、しそれ故にや、我兩手リヤウテ大指蛇ヲヽユビヘビり、我が身ながらもづかしくうらめしき事なりけんと、思ひワヅラふ計なり。是見よとて出すを見れば、日・クチアザヤかに有てげり。女子ムスメ ヲソロしく、二目フタメともる事なし。兎角トカク ワガあるユヘにやと思ひ、其まゝハシでて、テラへ入て出家しけり。男歸ヲトコカヘりて此の事を聞て、爲方センカタなくやをもひけん、其まゝヲトコサマをかへけり。わかき二人のモノだに出家す。ワレとても、いかでかあらんとてサマをかへ、諸國修行しければ、輪回リンエをはなれ、ユビモトゴトくなりけるとかや。つて蛇谷ヘビガヤツづくと云傳ふ。カモの長明が【發心集】にも、此古事をのせたり、シカれどもいづれの地とふ事を、たしかにきゝはべりしかど、わすれにけりとあり。今里人カタると、事實符合すれば、此所の事ならん。長明チヤウメイ、鎌倉へ來りしは、建暦の比なり。鶴岡の北にも蛇が谷と云所あり。是とはコトなり。
[やぶちゃん注:私は今回、この活字化を行いながら、このコンセプトが既に「新編鎌倉志卷之五」の「佐介谷」に出現する「吾妻鏡」所載の、異様な近親相姦譚と驚くべき奇妙な一致を示していることが気になった。比較してみよう。佐介谷近親相姦事件は、
初期設定:若い男(婿)と娘(男の若妻)と舅(娘の実父)の三人家族
   ↓
A:婿の留守に実の父が実の娘に迫る
   ↓
B:当初は拒むが仕方なく受け入れる
   ↓
C:直後に婿帰還
   ↓
D:舅の自死と婿の出家
といった経緯を示す(実はこの話の特に奇異な点は、私が憤った如く、実父の姦淫を当初は拒んだ――拒んで時間が経ってしまい、その結果、結果的に受け入れた瞬間に婿が戻ってしまったではないか、とでも筆者は文句を言っているようでもある――娘が筆者によって批難されているという点にあるのだが、今回はそこは問題にしない)。翻って、この里人の伝える蛇ヶ谷老女執心蛇形変身事件は、
初期設定:若い男(年増女の婿)と娘と年増女(娘の実母)の三人家族
   ↓
A :年増女は若い婿を娘に譲ろうとする
   ↓
B :当初は拒むが仕方なく受け入れる
   ↓
A´:婿の留守に実の母が実の娘に嫉妬で蛇に変じた指を見せる
   ↓
D´:娘の出家
   ↓
C :直後に婿帰還
   ↓
D" :婿の出家と年増女の出家
   ↓
E :年増女の指の復活
説話としてもスタイルの類似は当然であり、本話が恐らく最終的には執心を戒める仏教説話として変形したものであること(「発心集」に長明が採ったことなど)を考えれば、Eを説教性を付与するために後に附けたされたものとして排除することも可能である。先の話は本話のような都市伝説としての伝承ではなく、直近に起きた事実(あったこととして)の事件の準公記録、謂わば「噂話」である。これが私が授業でやったような「口裂け女」の「噂話」から「イザナキの呪的逃走」神話の「昔話」の古型への収斂であるというような民俗学的検証はそのうちにやってもよい。ただ私にはこの一致が単なる仏教説話の類型的無意識の共時性や、全くのただの偶然とは思われないのである。それが同じ鎌倉の眼と鼻の先の直近の出来事として語られている事実には――実は私は、この二つの話の中に、何かある隠された暗号があるのではなかろうか――などと夢想しているのである。
「長明が【發心集】にも、此古事をのせたり」以下に「発心集」の「母妬女手指成虵事」から引用する。私は「発心集」を所持していないため、「早稲田大学古典総合データベース」の慶安四(一六五一)の版本画像を視認してテクスト化した(判読不能な箇所は同データベースのもう一本の「発心集」画像で確認補正した)。但し、片仮名は総て平仮名に直し、ルビの一部は省略又は本文へ出し、一部の清音を濁音化、句読点にも変更・追加を加えてある。「〱」は正字に直した。〔 〕は私が補ったもので、また、一部会話に「 」を施した。漢文の題は訓読文を附けた。

  母妬女手指成虵事(はゝむすめねたみ、ゆびくちなはこと
何れの國とか、たしかにきゝ侍りしかど忘れにけり。或る所に、身は盛りにてをとなしき妻にあひぐしたる男有けり。此妻、さきの男の子をなむ獨りもちたりける。いかゞ思ひけん、男に云樣、「我にいとまたべ、此の内に一あらん座敷に居、のどかに念佛なんどしてゐたらん。さて外の人をかたらんはよりは、これにある若き人を相ひ具して、世の中の沙汰せさせよ。さらにうとからん人よりは我が爲にもよからん。今は年たかく成てかやうのありさま事にふれて本意ほいならず」〔と〕、ともすればまめやかに打くどきつゝ云ふ事たび々になりぬ。「さ程思はるゝ事ならば𣴎うけたまはりぬ」とて、云ふがごとくして奥のかたにすゑて、男はまゝむすめなむ相ひ具して住みける。かくてときどきはさしのぞきつゝ何事かなどいふ。事にふれて、妻も男も、をろかならにやうにて年月を送る程に、有る時をとこ物へいたるに此の妻、母のかたに行きて、のどかに物語などする程に、母いみじう物思へけるけしきなるを心得ずおぼへて、「我には何事をかは隔て給ふべき、おぼされん事はの給ひあはせよ」といふ。「さらに思ふ事なし。たゞ此程みだり心地のあしくて」など云ひ、まぎらかす樣たゞならずあやしかりければ、猶々しゐてとふ。其時に母云やう、「誠には何事をか隠しも申さん。よに心うき事の有けり。此家の内のあり樣は心よりをこりて申〔し〕すゝめし事ぞかし。さればたれもさらさらうらみ申〔す〕べき事もなし。しかあるを、よるの寢覺などにかたはらのさびしきにも、ちと心のはたらく時も有り。又、晝、さしのぞかるゝ折りもあり。人のふるまひになりたるこそ思はざりしことかなれど、胸の中さはぐを是人のとがかは。あな、をろかの身かな、と思ひかへしつゝ過ぐれど、なを此事の深き罪となるにや、浅ましき事なむある」とて、左り右りの手をさしいでたるを見るに、大指をほゆびふたつながらくちなはになりて、目もめづらかに、舌さし出でて、ひろひろとす。むすめこれをみるに、目もくれ、心もまどひぬ。又、事もいはず、髪おろして尼になりにけり。男かへり來て、是を見て、又、法師になりぬ。もとの妻もさまをかへ、尼に成て、三人ながら同じ樣に行なひてなむ過ぎける。朝夕いひ悲しみければ、虵もやうやうもとの指に成にけり。後には母は京に乞食こつじきし歩きけるとかや。「まさしく見し」とて、ふるき人の語りしかば、近き世のことにこそ。女のならひ、人をそねみ、物をねたむ心により、多くは罪深き報ひを得るなり。中中樣にあらはれぬる事は、くひかへして罪ほろぶるかたもありぬべし。つれなく心にのみ思ひくづをれて、一生を暮らせる人の、つよく地獄の業を作りかためつるこそ、いと心うく侍れ。いかにもいかにも心の師となりて、かつはさきの世のむくひと思ひなし、かつは夢の中のすさみとも思ひけして、一念なりともくゆる心ををこすべき也。或る論には、人もし重き罪をつくれども聊かもくゆる心のあれば定業でうごうとならず、とこそ侍るなれ。

幾つかの語釈を附しておく。
・「かくてときどきはさしのぞきつゝ何事かなどいふ」の主語は男。「何事か」は「ご機嫌は如何ですか」。
・「物へいたる」は、「(ちょっとした用があって)行くべきところへ出掛けて」の意、「左り右り」は誤植ではなく、「ひだりみぎり」と読み、単に「ひだり」に引かれて「右」に「り」が付属したものである。
・「さしのぞかるゝ折りもあり」は「昼間、ちょっとした折にも、自然、睦まじいそなたたちの姿が目に入ることもある」の意。
・「人のふるまひになりたるこそ」とは男と娘が睦まじくなると同時に、自身が独り淋しい暮らしせねばならなくなるなんどということは」の意。
・「思はざりしことかなれど」の「か」は反語的疑問で、前の注の内容を受けて、そうなることを『思っていなかったとでも言うのか(そんなことは重々承知の上でお前は娘と男の契りを望んだのではなかったのか)と言われれば、その通りではあるのだけれど……』という意である。
・「是人の科かは」は、こうなったのも他の誰のせいでもない、私自身がそうした報いである、という反語。
・「目もめづらかに」蛇に目があったのではない。あきれんばかりことに、の意である。
・「中中樣にあらはれぬる事は、くひかへして罪ほろぶる方かたもありぬべし」の「中中」は「ありぬべし」に係って、『却って、この話の如く、嫉心が蛇の様態となってはっきり表に現われてしまった方が、しっかりとした慙愧と後悔の念が起こって、逆に罪が滅せられるといった良き結果を導くこともあるに違いあるまい』という意味である。
・「心の師」この「発心集」冒頭は、
 佛の教へ給へる事あり。心の師とは成るとも、心を師とする事なれと。
で始まる。これは『我々は自分自身の心に、自ら師として相い対し、その心の不当に拡張せんとするを抑えなくてはならぬ。決して勝手気儘に振る舞おうとする心(内の欲望)を師としてはならぬ』の謂いで、「大乗理趣六波羅蜜多経」巻七にある、
 八つには常に心の師と爲れども、心を師とせざれ。
に基づいている。

「長明、鎌倉へ來りしは、建暦の比なり」鴨長明は建暦元(一二一一)年、飛鳥井雅経と共に鎌倉に下向し将軍実朝と会見している。なお、彼の「発心集」は長明が没した建保四(一二一六)年(享年六十二歳)に近い最晩年の成立とされている。
「鶴岡の北にも蛇が谷と云所あり」「鎌倉攬勝考卷之一」の「〇谷名寄」には『鎌倉に蛇ケやつといふ所三ケ所あり』として、伝聞表現で『鶴ケ岡の東北にある谷』・『假粧坂の北の谷』・『釋迦堂谷より名越のかたへ踰る切通の邊なり』(「踰る」は「こえる」と訓ずる)と記す。現在、この三ヶ所の蛇ヶ谷はそれぞれ、
『鶴ケ岡の東北にある谷』=鶴ヶ岡八幡宮の東北、旧大蔵幕府西側一帯。現在の西御門及び東御門の一部を含む谷。
『假粧坂の北の谷』=扇ヶ谷海蔵寺奥の北側に残る古道大堀切から現在のハイキング・コースの一部を通って浄智寺方面へ至る瓜ヶ谷の南側の谷。
『釋迦堂谷より名越のかたへ踰る切通の邊』の谷=光明寺北側の谷。
に位置同定されている。しかし、私には本篇蛇ヶ谷の位置には疑問がある。本文で『大藏の釋迦堂が谷へ出る切通の傍なり』と言い、「攬勝考」が『釋迦堂谷より名越のかたへ踰る切通の邊なり』と言う表現である。この蛇ヶ谷というのは、すぐ北の釈迦堂ヶ谷へ「出る切通のすぐ側」にあり、逆に表現すれば大蔵から釈迦堂切通しを抜けて名越方面に「越えて行くルートの辺り」を言うと表現しているのである。現在の光明寺の北を言うのに「釋迦堂が谷」を出すのは如何にも隔靴掻痒でおかしいと私は思うのである。この蛇ヶ谷はそんな飯島寄南位置ではなく、現在の長勝寺や次の安国論寺の遙か北一帯にあったのではなかったか? あえて言うなら先に出た花ヶ谷辺りか、それより更に北の山裾まで北上して同定されなければ嘘であると思うのだ(さすれば「釋迦堂が谷」を位置説明に使用したとしても不自然ではないからだ)。考えてみれば、花ヶ谷の慈恩寺の漢詩群には海浜が近いことが詠み込まれている。蛇が多い谷が、その花ヶ谷よりも遙かに南の、しかも光明寺北側という当時の海岸線直近にあるというのは、私にはどうも解せないのである。]

〇安國寺〔附松葉が谷〕 安國寺アンコクジ、妙法山と號す。名越村の東にあり。妙本寺の末寺也。門のガク、安國論窟、大永元年巳歳十月十三日、幽賢書とあり。門に入、右の方に岩窟イハヤあり。日蓮房州の小湊コミナトより來り、此窟中に居て【安國論】をむとなり。内に日蓮の石塔あり。今按ずるに、注畫贊に、正嘉元年より始て、文應元年にカンガへ畢つて、【立正安國論】一卷をむと是なり。日蓮、法華の首題を唱へ初めし處なり。法性寺弘法グハウよりハジめ也とぞ。《松葉谷》松葉谷マツバガヤツと云は此の地を云なり。
[やぶちゃん注:「安國寺」とするのは編者の誤り。現在の呼称「安國論寺」が正しい。実はこの誤謬は深刻で、山の内の長寿寺の向かいに、こことは全く無関係な、それも臨済宗の「安國寺」が存在したからである(これは足利尊氏と直義が全国に建立した「安國寺」の一つであると考えられ、江戸時代には廃絶していた)。なお、本寺は日蓮を開山とするが、実際には直弟子日朗が文応元(一二六〇)年に「立正安国論」を日蓮が執筆した窟の傍に「安國論窟寺」なる寺を建てたのが始まりとされる。私は永いこと、日蓮のあの「四箇格言」は「立正安国論」の中にあるのだとてっきり思っていたのだが、今回、その誤りに気付いた。あれは「御義口伝上卷」にあるのだな――
   念佛無間禪天魔眞言亡國律國賊
その内容はステキにカゲキで、にも拘わらず発音してみると如何にも経文の如き小気味よい音律の響きを持っている。永遠に日蓮宗宗徒にはならない私でも、これはミリキ的ではある。
「大永元年」西暦一五二一年。]
本堂 釋迦の像を安ず。作者不知。
御影堂 日蓮の像を安ず。此の堂は元和年中に、水戸中納言の家臣小野ヲノ角衞門言員トキカズと云ふ者の再興なりと云ふ。
[やぶちゃん注:「元和年中」西暦一六一五年から一六二四年。「小野角衞門言員」水戸藩士。儒官にして歌人。寛永十七(一六四〇)年に本「新編鎌倉志」編纂を命じた水戸光圀光圀の傳役(もりやく:養育係)となった(当時光圀十三歳)。乱行で知られた若き日の光圀に対する厳しい教誡を十六箇条に亙って列記した「小野言員諫草」(正保元(一六四四)年)が残されている。しかし、それにしてはこの伝聞にして不確かな記載はやや不審である。]
寺寶
松葉谷安國論縁起 壹卷
同縁起の繪 壹幅
   已上

〇長勝寺〔附石井〕 長勝寺チヤウシヤウジは、石井山と沸す。名越坂ナゴヤザカへ通る道の南のヤツにあり。寺内にイハきたる井あり。鎌倉十井の一なり。故に俗にイシ井の長勝寺と云ふ。法華宗也。當寺は、洛陽本國寺の舊跡なり。今はカヘツて末寺となる。寺僧語て曰く、此地に昔し日蓮、菴室をめて居せり。後の日朗・日印・日靜と次第して居す。日靜は、源尊氏の叔父ヲジなるゆへに、此寺を京都に移し本國寺と號す。アトの長勝寺を、弟子日叡に相續して住せしむ。日叡寺號を妙法寺と改む。モト日叡を妙法坊とひしを以てなり。其の後大倉ヲホクラ塔辻タフノツヂへ移し、又其の後辻町ツヂマチへ移す〔寺僧の云く、今の辻町の啓運寺なり。近来妙法寺と、啓運寺と寺號をへたり。辻町の啓運寺は、モト妙法寺なるを、今は啓運寺と云ひ、名越ナゴヤの妙法寺は、モト啓運寺なるを、今妙法寺と云ふ。其の謂を不知(知らず)。〕。今の長勝寺は、荒地なりしを、中比日隆法師と云僧、舊地を慕ひ一寺をて、又寺號を長勝寺と號す。故に日隆を中興開山と云也。日隆は、房州小湊コミナトの人なりと云ふ。其の再興の年月、幷に日隆の死期も不知(知れず)。寺領四貫三百文あり。豐臣秀吉トヨトミヒデヨシ公、幷に御當家、代々の御朱印あり。秀吉公禁制の札もあり。本堂は、小田原北條家ヲダハラホウヂヤウケの時、遠山トヲヤマ因幡の守宗爲ムネタメ建立す。則ち夫妻フサイの木像あり。本尊は釋迦なり。
[やぶちゃん注:「當寺は、洛陽本國寺の舊跡なり」この「本國寺」は、現在、大光山本圀寺ほんこくじとして京都府京都市山科区にある。この「新編鎌倉志」記載時の同寺の寺地は、本文に現れる日静(にちじょう 永仁六(一二九八)年~正平二十四・応安二(一三六九)年)が貞和元(一三四五)年に光明天皇より寺地を賜って移った六条堀川であった(何故このようなまどろっこしい言い方をするかというと、第二次大戦後に経営難等の諸般の事情から堀川の寺地を売却し、現在の山科に移転しているからである)。日蓮が松葉ヶ谷草庵に創建した法華堂が第二祖日朗に譲られ、元応二(一三二〇)年に更に堂塔を建立したが、それがこの「本國寺」の濫觴となり、その建立地が現在の石井山長勝寺のある場所であったということである。これに後の妙法寺と啓運寺の錯綜が加わると、何が何だか分からなくなる。寺名問題は宗門の方にお任せしてこれくらいにしておく。
「寺内に岩を切り拔きたる井あり。鎌倉十井の一なり。故に俗にイシ井の長勝寺と云ふ」現在は長勝寺の前、逗子への道を隔てた向かい側に位置するが、これは当時の広義の寺域と考えて差し支えないと思われる。民家の間の小路の奥に現存し、井戸上部には六弁の花形をした直径約一一〇、高さ六〇センチの大柄で重厚な蓋が乗る。下の井戸の地表に突出した石の枠組も蓋と同じく六角形を成す(井戸内部は円筒形石造)。枠の一ヶ所が丁度、酒を入れる片口のように突出しており、現在はこの形状から「銚子の井」と呼称されている。私は鎌倉十井の中では、この井戸が何故か一番好きである。それはきっと市井の井戸として雰囲気を消さずに、今もひっそりとあるからかも知れない。
「日隆」は室町中期の日蓮宗の僧、日隆(至徳二年・元中二(一三八五)年~寛正五(一四六四)年)か(日隆と名乗る僧は多い)。現在はそのように伝えているようであるが、彼は越中国出身とあり、本叙述とは齟齬がある。]
鐘樓 堂の東にあり。銘あり。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が二字下げ。]
  長勝寺鐘銘
相州鎌倉石井山長勝寺者、日隆聖人所草創之精舍、而讀誦一乘妙典、所令貴賤男女趣佛地之靈場也、先茲大閣殿下秀吉公、東征之時、小田原城主、取當寺鐘以移居邑爾來鐘撃闕如矣、以故住持比丘壽仙院日桑法師、勸奬於諸檀、而新鑄此鐘、懸于小樓、當晨夕誦經之時也、鳴之令萬人覺無明深夜眠者、桑公之志、諸檀所致也、銘曰、聲々有慈、高通蒼天、響々救苦、遠徹黄泉、功業無記、德幾萬年、世々欲度、衆生無邉、人不敢疑、是稱福田、寛永甲子七月十三日相州鎌倉住大工芳川源左衞門、
[やぶちゃん注:以下、鐘銘を影印の訓点に従って書き下したものを示す。]
  長勝寺鐘銘
相州鎌倉石井山長勝寺は、日隆聖人の草創せし所ろの精舍にして、一乘の妙典を讀誦し、貴賤男女をして佛地に趣かしむる所の靈場なり。茲より先き大閣殿下秀吉公、東征の時、小田原の城主、當寺の鐘を取て以て居邑に移す。爾しより來(のかた)鐘撃闕如たり。故を以て住持の比丘壽仙院日桑法師、諸檀を勸奬して、新に此の鐘を鑄て、小樓に懸く。晨夕誦經の時に當てや、之を鳴して萬人をして無明深夜の眠を覺(ま)さしむるは、桑公が志し、諸檀の致す所なり。銘に曰く、聲々慈有り、高く蒼天に通ず。響々苦を救ふ。遠く黄泉に徹す。功業記すこと無し。德幾く萬年ぞ。世々度せんと欲す。衆生無邉、人敢て疑はず、是を福田と稱す。寛永甲子七月十三日 相州鎌倉の住大工芳川源左衞門
[やぶちゃん注:「一乘」は、仏と成るための唯一の教え。
「大閣殿下秀吉公、東征の時」豊臣秀吉が後北条氏の居城小田原城を包囲、城主北条氏政と子北条氏直は降伏の後に切腹となった小田原の役(天正十八(一五九〇)年)のこと。
「寛永甲子」寛永元(一六二四)年。]

〇日蓮乞水〔附鎌倉の五水〕 日蓮乞水ニチレンノコヒミヅは、名越ナゴヤの切り通しの坂より、鎌倉の方一丁半バカマヘ、道の南にある小井をふなり。日蓮、安房の國より鎌倉に出給ふ時、此のサカにて水をモトめられしに、此の水ニハカき出けると也。ミヅ斗升にぎざれども、大旱にもれずと云ふ。甚だ冷水也。土人の云。鎌倉に五名水あり。曰く金龍水キンリウスイ不老水フラウスイ餞洗水ゼニアラヒミヅ日蓮乞水ニチレンノコヒミヅ梶原太刀洗水カヂハラガタチアラヒミヅなりと。
[やぶちゃん注:現在の横須賀線名越坂踏切を海側に渡った、道の向かいの左正面に現存する。以下、鎌倉地誌で初めて鎌倉五名水が列記される部分である。五名水を概説しておく。
・「金龍水」建長寺門前、西外門を出た鑓水のこちら側(現在の信号機の付近)にあったが、道路の拡張工事で埋められ、現在しない。「新編鎌倉志第之三」の「建長寺圖」参照。
・「不老水」現在も建長寺内鎌倉学園旧グラウンドのネット裏にあるが、八重葎となり立入は禁止である。湧水は止まっているか著しく減衰している模様である。仙人がこの湧き水を飲んで、その容貌を保ったとされる。「新編鎌倉志第之三」の「建長寺圖」の西北の小高い山の裾にあり、そのやや南には「仙人澤」という場所を見出せる。
・「錢洗水」銭洗弁財天宇賀福神社に現存。現役で信仰を集める唯一の五名水である。
・「梶原太刀洗水」朝夷奈切通へ向かう山道左手の小川の対面に祠を伴って現存する。讒訴した梶原景時が頼朝の命で朝比奈切通手前の山腹にあった上総介広常邸で、双六の対戦中に広常を騙し討ちにして逃げる際、血染めの太刀をここで洗い清めたと伝えられる。
但し、この五名水については、現在、例えば「かまくら子ども風土記」等では、「不老水」の代わりに「甘露水」を挙げている。
・「甘露水」浄智寺総門手前の池の石橋左手奥の池辺にあった泉。現在、湧水は停止している。
しかし、ここは訪れると「鎌倉十井の一 甘露の井」のやや古い石柱標を伴っており、実際にやはりこの「新編鎌倉志」で初めて示される名数「鎌倉十井」の一つに数えられている。そこで「新編鎌倉志第之三」の「浄智寺」の項を見ると、
甘露井 開山塔の後に有る淸泉を云なり。門外左の道端に、淸水沸き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。
と記すのである。ここではっきりするのはどうも現在知られる「甘露の井」は、浄智寺内に二箇所あったこと(現在の浄智寺の方丈後ろなどには複数の井戸があるから二箇所以上あった可能性もある。これらの中には現在も飲用可能な井戸がある)、江戸時代の段階でそのいずれが原「甘露水」「甘露の井」であったか同定できなくなっていたことが分かる。私は五名水のプロトタイプは、やはり「不老水」の方であると思う。では何故これが外れたか。それは正に現在ここに立ち入れないことと関係すると思うのである。「五名水」の中で、ここのみが往時も現在も一般の街道に面していない。「不老水」は建長寺寺内の最深部にある。そもそも鎌倉に五名水だの十井だのが選ばれるのは、逆に鎌倉の水質が全般に悪かったことを示している。さすれば上質の水は、何より庶民の人口に膾炙し、且つ同時にそこが気軽に利用出来てこその「五名水」であり「十井」でなくてはならなかったはずである。しかも「金龍水」の源泉は「不老水」を含むものであり、庶民の水需要は街道沿いの「金龍水」で賄え、「不老水」まで行く必要もないからでもある。では何故「甘露の井」が新しい「五名水」の一つに選ばれたのか? これはまさに「甘露の井」が、上記の通り、実は複数存在したから、使い勝手がよかったからではなかったか? 更に言えば、「十井」の名前にも理由があると私は思うのだ。以下、現在の名称を列挙してみると、
甘露の井・瓶の井・底脱そこぬけの井・扇の井・泉の井・鉄の井・棟立の井・星月夜の井・銚子の井・六角の井
である。さてこの内、仮に「~水」(「みず」でもよいがやはり「~すい」が一番である)としてしっくりして、尚且つ響きのグレードがいや高いのは、もう「甘露水」しかない(「泉水」では漢字で見ると一般名詞のようでぴんと来ず、「星月夜の水」は響きはいいものの、井戸の底の星でこそ分かる名称で、これでは意味が分からぬ)。しかないどころか、これは観音菩薩が持つ浄瓶に入った水であり、それは甘露の法雨を齎すものであってみれば、この「甘露」は、実は「井戸」より「名水」にこそ相応しい名称なのだと私は思うのである。以上の推論は私の勝手気儘な解釈であることは断っておく。]

〇名越切通 名越切通ナゴヤノキリドヲシは、三浦ミウラく道也。此のタウゲ、鎌倉と三浦ミウラとのサカヒ也。甚だ嶮峻にして道狹ミチセバし。左右よりヲホひたるキシ二所フタトコロあり。卑俗大空峒ヲヲホウトウ小空峒コヲホウトウと云ふ。タウゲより東を久野谷村クノヤムラふ。三浦ミウラの内也。西は名越ナゴヤ、鎌倉の内なり。
[やぶちゃん注:「大空峒ヲヲホウトウ小空峒コヲホウトウ」の部分には幾つかの謎がある。まずルビであるが影印では、「大」には「ヲ」のみ、「小」には「コ」のみが振られ、「空」の右には「ヲホウ」が振られる。これは「大」が「ヲヲ(おお)」なのではなく、「空」が「ヲホウ(オホウ)」という読みであることを示す。ところが「空」には「ヲホウ(オオウ)」や「ホウ」という読みは存在しない。訛りとも考えられるが奇異である。「峒」は山中の蛮人で、その種族の住む山の中の洞穴の意である。名越の切通しは岩塊や切岸の著しく迫った狹隘路であるが隧道箇所はないが、暗く狹いことからかく称したものであろう。
「久野谷村」現在の逗子市久木の一部。
現在はネット上で見ると美事に史跡整備がなされて、一般的なハイキング・コースにさえ指定されているようであるが、今から三十数年前は詳細な鎌倉市街地図でも「名越の切通」のルートは途中で点線になって最後には消えており、ガイドブックでも踏査は難易度が高いと記されていた。二十一の時、私はとある梅雨の晴れ間に、ここの踏査を試みたことがある。意を決して古い資料にある古道痕跡の横須賀線小坪トンネル左外側を登るには登ったものの、その先には一切の踏み分け道もなく、鬱蒼とした八重葎――むんむんする草いきれの中、汗と蜘蛛の巣だらけになって小一時間山中を彷徨った。それでも時々見え隠れする地面に露出した明らかな人工の石組みに励まされた。「空峒」と思しいスリットのような鎌倉石の狭隘や掘割に出て、最後はまんだら堂に導かれ、今は取り壊された妙行寺の、拡声器で呼び込まれた(人が通ると何らかの仕掛けで分かるようになっており、住職自らがマイクで呼び込むのである)。そこで今は亡き老師小山白哲の奇体なるブッ飛んだ説法(地球儀を用いつつ、実に何億劫も前の宇宙の誕生から始まる非常に迂遠なもの)を延々と一人で聞かされた。たっぷり四十分はかかったが、頻りに質問などもしたせいか、老師には痛く気に入られ――「思うところがあったら、是非この寺へ来なさい、来る者は拒みませんぞ」――と言われたのを思い出す。そうして――「菖蒲が綺麗に咲いておる。見て行きなさい」――と言われた。……凄かった……グローブ大の、袱紗のような厚みを持った紫の大輪の菖蒲の花が、海原のように広がった紫陽花の海浮いていた……弟子らしき作業服の老人が菖蒲畑の手入れをしていたが、僕を見て――「和尚の話は退屈でしょう。よく耐えたねえ」――と声をかけられた。……そうして私は、初めて見る美事な多層のやぐら群や、住職が勝手に纏めてしまったり動かしたりした結果、史料価値が優位に下がったと噂される五輪塔群を一つ一つ眺めては、また一時間余りを過ごした。最後に寺の山門への坂の上で、和尚とさっきの御弟子が話しているのにぶつかった。聴こえてきたのは、先程の説法とは打って変わった……「テレビの撮影の予定は……」……「雑誌の取材の件じゃが……」……というひそひそ話であった。老師は、僕がまだいたのにちょっとびっくりして「まだおられたか。どうじゃった?」と聞かれ、僕が「やぐらとたいそう立派な菖蒲に感服致しました」と答えると、「そうかそうか」と微笑まれて私に合掌され会釈された――僕は生まれて初めて人に合掌と会釈を返し――山を降りた……それからすぐのことである……『鎌倉の隠れた花の寺』と称してまんだら堂の菖蒲や紫陽花が一躍ブレイク、老若男女の大集団があそこを日参するようになったのは……あそこで僕が見たのは……仙境と俗世の境の幻だったのかも知れない……今はもう……遠い遠い、懐かしい思い出である……
 最後に。ただ注を再掲するのも芸がない。先日、教員を辞めて書斎の整理をするうちに、実はこの時、小山白哲老師が直筆で書いて下さった驚天動地の宇宙創造説を発見したので、それを画像と電子テクストで御紹介し、今は亡き老師を偲びたい(大きい巻紙なので、画像はずらしながら四枚で全文を示した。不遜乍ら誤字と思われるものは後に[]で正字を示させて頂いた。判読不能の字は□とした)。

[小山白哲老師 宇宙創造之説(肉筆)]











(表)
  壞劫に爆発し空劫と
  なる百七十二億八千万年の
  生命がある 地球は成劫四月
  八日に火球体化し成劫二十劫
  年間は太陽が放出した
  水輪が火球体の上空を雲
  になって施[旋]回し成劫二十劫八十
  六億四億千万年の最終に雲
  爆裂的に地球に落下し
  たその一せつ那に塩が発生
  し水も空気も海も河も
  ある地球が完生[成]
  八十六億四千万年の生命がある
  生物が住劫四月八日である海に
  生物が住むこと八億六千四百
  万年
(裏)
  妙  法  蓮  華  経
  ┃  ┃  ┃  ┃  ┃
 □空輪 風輪 火輪 水輪 地輪 五輪
(ここに五輪塔の絵) 五大種
  全宇宙と地球人体生物
  悉を構成する
  生物が住む国が
  七十二桁ある
  照す太陽も七十二桁
  一つ一つの太陽系は
  二百八十万億の諸星
  がある  小山白哲
        二[七]十八年七月八日
……老師よ、私が師の説法を受けたのは、七月八日のことだったのですね……あの時、二十一歳だった私は五十五になりましたが、……全宇宙に七十二桁という天文学的な数の知的生命体が生きているという老師の言葉に……私は素直に感動し、そんな私をまた、気にって下さった老師よ……また、どこかで……数十劫経ちましたなら、お逢いしとう、存じます。……]


[御猿畠圖]

○御猿畠山〔附山王堂の跡〕 御猿畠山ヲサルバタケヤマ名越ナゴヤの切り通しの北の山、法性寺のミネ也。久野谷村クノヤムラの北なり。昔し此の山に山王堂あり。【東鑑】に、建長四年二月八日の燒亡、北は名越の山王堂とあり。又弘長三年三月十三日、名越ナゴヤの邊燒亡、山王堂其の中にありとあり。相ひ傳ふ、日蓮鎌倉へ始て來る時、此山の岩窟に居す。諸人未だ其人を知事なし。イヤしみニクんで一飯をも不送(ヲクらず)。其の時此の山よりサルどもムラガり來てハタに集り、食物シヨクモツイトナんで日蓮へ供じける故に名くと云ふ。其 後日蓮、サルどもの我をヤシナひし事は、山王の御利生なりとて、此山の南に法性寺を建立し猿畠山エンハクサン畠中と號す。今は妙本寺の末寺なり。山の中段に堂あり。法華經の題目・釋迦多寶を安ず。日蓮の巖窟イハヤは、堂のウシろにあり。窟中に日蓮の石塔あり。堂の北に巖窟イハヤナラんでムツあり。れ六老僧の居たる岩窟イハヤ也。堂の前に日朗の墓あり。日朗遷化の地は妙本寺なり。墓は此所にあり。寺建立は弘安九年也と云ふ。
[やぶちゃん注:「【東鑑】に、建長四年二月八日の燒亡、北は名越の山王堂とあり」とあるが、これは建長六(一二五四)年一月十日の記事の誤りであろう。以下に引用しておく。
〇原文
十日甲申。晴。西風烈。卯一點。濱風早町邊燒亡。至名越山王堂。人家數百宇災。日出以後火止。燒死者數十人云々。依彼穢。今日將軍家御神拜延引云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十日甲申。晴。西風烈し。卯の一点、濱風早く、町の邊、焼亡す。名越山王堂に至るまで、人家數百宇、災ひす。日の出以後、火止む。燒死者數十人と云々。彼の穢に依りて、今日、將軍家の御神拜延引すと云々。
「又弘長三年三月十三日、名越の邊燒亡、山王堂其の中にありとあり」これもおかしい。これも弘長三(一二六三)年三月十八日の記事の誤りであろう。
〇原文
十八日戊戌。天晴。亥尅。名越邊燒亡。山王堂在其中。失火云々。
但し、これらの山王堂は必ずしもここには同定出来ない。例えば現在、中世遺跡として発掘された「名越・山王堂跡」と呼ばれるものは北條時政邸跡の西、釋迦堂切通を挟んだ対称の位置にあり(鎌倉市大町三丁目一三四〇外。現在の電通鎌倉研修所付近)、ここはお猿畠ではない。上記の「吾妻鏡」の「山王堂」もここである可能性が高いように思われる。
「山王の御利生」猿は山王権現(日吉山王)の御使いとされる。
「釋迦多寶」これは元来は釈迦如来と多宝如来を意味する。後者は法華経に現れる東方宝浄国教主の如来で、釈迦の説法を讃した仏とされる。一つの多宝塔に釈迦と並べて配し、一塔両尊の本尊とすることが多い。ここでもそのような石塔と思われる。
「六老僧」は日蓮六老僧のこと。日蓮が死を前に後継者として示した直弟子日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人を指す。絵図を見て驚くのは、ここにあるやぐらが有意に六つの形状を示しており、そこに『六老僧巖窟』と記されていることである。ここは日蓮の弟子である彼等の羅漢堂でもあった(少なくともそのようなものとして認識されていた)のである。
「日朗」(寛元三(一二四五)年~元応二(一三二〇)年)は安国論寺で荼毘に付され、法性寺に葬られた。
「弘安九年」西暦一二八六年。]

〇岩殿觀音堂 岩殿イハドノ觀音堂は、久野谷村クノヤムラの内にあり。海前山岩殿寺カイゼンザンガンデンジと號す。寺僧の云、養老四年に、行基菩薩の開基なり。其の後はテラ へたりしを、七八十年以前に再興して、今は曹洞宗、海寶院の末寺也。本尊十一面觀音、此の像は、扇谷アフギガヤツ英勝寺太田ヲホタ氏禪尼、葬禮の時、六觀音を作る。其の一を此寺へ寄附す。其前は本尊もなかりしと也。坂東巡禮フダ所の第二なり。寺領五石の御朱印あり。【東鑑】に、文治三年正月廿三日、姫公ヒメギミ岩殿觀音堂にマイり給ふ。又承元三年正月五日、實朝將軍、岩殿イハドノ觀音堂に御參り、又寛喜二年十一月、岩殿イハドノ觀音堂イシズヘをすゆとあり。
[やぶちゃん注:当時の相州三浦郡久野谷郷、現在の逗子市久木にある。本文では山号を「海前山」とするが、現在は海雲山と称する。縁起には正暦元(九九〇)年に花山法皇が来山、ここを坂東三十三ヶ所観音巡礼第二番札所としたと伝えるが、勿論、伝承に過ぎない。因みに第一番は大蔵山杉本寺(杉本観音)、第三番が祇園山安養院田代寺(田代観音)、第四番が海光山長谷寺(長谷観音)でその他の寺も鎌倉周縁部に多い。第一番の杉本寺からは釈迦堂切通のある宅間ヶ谷を通って、岩殿寺に向かう巡礼道があった(現在も一部が残る)。ここで本寺の解説に頼朝の「姫公」(大姫)と「實朝將軍」の名が記されているのは、故なしとしない。実はこの坂東三十三ヶ所観音霊場の成立と発展は、鎌倉幕府成立とその代々の将軍家の深い観音信仰がもとになっており、実朝の代にこれが制定されたと推定されているからである。以下、「坂東三十三観音 公式サイト」の「坂東三十三観音の歴史」より引用する(西暦を漢数字に変え、改行後の冒頭に一字空けを施した)。
《引用開始》
坂東札所が第一番を鎌倉の杉本寺とし、鎌倉・相模それに武蔵に札所の多いこと(これは戦乱によって退転した武相の寺院を保護しようとした頼朝の政策を反映しているが)、そして安房の郡古寺を打ち納めとしているなど、鎌倉居住者に巡拝の経路が好都合になっているなど、鎌倉期成立説に妥当性を与えている。この時代、三浦半島あたりから上総や安房へ通ずる海上交通は発達していたので、容易にこの順路は考えられる。
 さて、頼朝がきわめて熱心な観音信者であったことは、『吾妻鏡』によって知られる。これは伝説ではあるが、伊豆横道の三十三カ所の創始者に頼朝が擬せられていることは、頼朝が札所信仰に全く無関心な人であったならばつくられない話であろう。また、実朝もしばしば岩殿寺などへ参詣しており、元禄頃の記録には「実朝公坂東三十三番札所建立」と明記されている。
 そして、この時期における坂東札所の創始を側面から促したのは、関東武士たちが平家追討などで西上した折、直接に西国札所を見聞し、信心を探めたことにあるといわれている。さらにいえば関東武士・土豪の間に、この頃、熊野参詣が行われており、巡礼への気分が高まっていたことも一因といえる。なお、浄土教の関東伝播に対し天台・真言寺院の自衛策の一環として、観音信仰が鼓吹されたのにも由るという。
 もちろん、この頃すでに関東の地にそれだけの観音霊場が開かれていたので、その組織化が可能であった。では誰が、いつ、どこで三十三カ所の霊場に連帯意識をもたせたのであろうか。建久三年(一一九二)後白河法皇の四十九日の法要を鎌倉の南御堂で頼朝が行った時に、武相の僧侶百名が招かれた。そのうちに杉本寺・岩殿寺・勝福寺・光明寺・慈光寺・浅草寺、いわゆるのちに坂東札所となった寺から合計二十一名が集まっている。あるいはこの時に観音系寺院による札所制定への協議がもたれたかも知れぬ。それに積極的に協力したのが杉本寺の浄台房・慈光寺の別当厳耀・弘明寺の僧長栄であったと推考されている。それも頼朝の意図を充分汲んでのことであったろう。
 ここで注意したいのは、関東八カ国に散在する三十三カ所の観音霊場を巡拝する者にとって、まず全行程が障害なく巡ることができるという保証である。それには各国が強力な支配者によって統制されていることが必要であり、国から国への旅を無条件で許してくれる政治態勢が不可欠である。その意味からしても、坂東札所は鎌倉幕府の成立をみてはじめて可能なことであったといえるのではなかろうか。
《引用終了》
「養老四年」西暦七二〇年。現在の寺伝では養老五(七二一)年に大和長谷寺の徳道上人がここに下向したことに始まり、数年の後に行基が十一面観音像を造立して安置したことから両者をともに開山と伝えている。
「扇谷英勝寺太田氏禪尼」英勝院のこと。徳川家康側室お勝の局の法名。「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」の項の「太田氏英勝院禪尼」の私の注を参照されたい。 「七八十年以前に再興」天正十九(一五九一)年に徳川家康によって再興された。本書刊行の貞亨二(一六八五)年から数えると九十四年前になるが、光圀の来鎌の延宝二(一六七四)年から数えるなら八十三年前で一致する(但し、その後、明治の廃仏毀釈で再び衰微している)。
「海寶院」岩殿寺の近く、現在の逗子市沼間に現存する曹洞宗の名刹。
「文治三年正月廿三日」は文治三(一一八七)年二月二十三日の誤り。「二月小廿三日乙未。依大姫公御願。於相模國内寺塔。被修誦經。藤判官代邦通。河匂七郎政賴等奉行之。姫公參岩殿觀音堂給云々。」(二月小廿三日乙未。大姫公の御願に依りて、相模國内の寺塔に於て、誦經を修せらる。藤判官代邦通、河匂かはは七郎政賴等之を奉行す。姫公は岩殿觀音堂へ參り給ふと云々。)この時、大姫は数え年十歳であったが、既に、この三年前の元暦元(一一八四)年の婿とされた木曾義仲嫡男清水冠者義高の斬殺によって重いPTSD(心的外傷後ストレス障害)に罹患していた。
「承元三年正月五日」これも承元三 (一二〇九) 年五月十五日等の誤り。「五月大十五日丁未。御參神嵩并岩殿觀音堂。」(五月大十五日丁未。神嵩こうのだけ并びに岩殿觀音堂へ御參す。)とある。「神嵩」は後掲。
「寛喜二年十一月、岩殿觀音堂礎をすゆとあり」は寛喜二年(一二三〇)年の「吾妻鏡」に「十一月大十一日戊戌。晴。勝長壽院内新造塔婆上棟。武州監臨云々。又被行變異御祈云々。今日。巖殿觀音堂居礎引地云々。勸進上人西願云々。」(十一月大十一日戊戌。晴。勝長壽院内の新造の塔婆上棟す。武州監臨すと云々。又變異の御祈をはると云々。今日、巖殿觀音堂の礎を居へ地を引くと云々。勸進上人は 西願と云々。)とあるのを指す。
最後に。ここは私が好きな泉鏡花の作品の中でも、とびっきりに偏愛する「春晝」「春晝後刻」の印象的な舞台でも――あるのだ――]

〇東勝寺 東勝寺トウシヤウジは、池子村イケゴムラにあり。眞言宗、逗子村ヅシムラ延命院の末寺なり。本尊は不動、智證の作。寺領二石の御朱印あり。
[やぶちゃん注:遂にここに至って、私の行ったことのない場所が初めて出現した。私は十八の年から郷土史研究を続けて、現在の鎌倉市内とその辺縁部については未踏査の場所はないと自信を持って言えるのだが、それが昔の鎌倉御府内に拡大されると甚だ心もとないのである。この後に続く神武寺も実は行ったことがない。さればこそ以下は、主に東昌寺公式HPを参考に記載した。現在、逗子市池子にあるこの寺は東昌寺と表記するが、元は青龍山東勝寺であった。そのルーツは、現在の東昌寺内にある丈六阿弥陀如来を祀った阿弥陀堂にあり、ここの阿弥陀像は源実朝が公暁に暗殺された後、それを弔うために母政子が運慶に彫らせ、承久二(一二二一)年に池子の大上おおがみ阿弥陀ヶ谷(現在の県立逗子高校奥)に建立したものを、後にこの寺に移したものとされる(但し、現在の阿弥陀像は宝暦六(一七五六)年から三年間にわたる托鉢によって扇ケ谷の仏師三橋宮内忠之らによって再刻されたもの)。本文には記載がないが、この寺名が北条氏が滅んだ鎌倉の東勝寺(廃寺)と同名であるのは偶然ではない。元弘三(一三三三)年、北条高時以下一門家臣が鎌倉葛西ヶ谷東勝寺で自刃した際、当時の住持であった信海和尚が本尊の大日如来像(平家一門の成仏祈念のために源頼朝が全真僧都に命じて造立したと伝えられる古仏)を救い出し、山伝いに秘かに落ち延びて、この池子の地に改めて東勝寺を再建したと伝えられている。後、寛永十四(一六三七)年になってこの池子が水戸徳川家所縁の英勝寺支配下に入るが、その際、開山英勝院、即ち家康側室であったお勝の方及び水戸家に対する遠慮から「勝」の字を「昌」の字に改め、山号も変えて「海照山東勝寺」から「青龍山東昌寺」となった(丈六阿弥陀像を祀った阿弥陀堂もこの英勝寺の命によって東昌寺境内に移されている)。
「本尊は不動」とあるが、現在の本尊は元禄十二(一七〇〇)年の造立になる大日如来像。寺歴を見ると天文十五 (一五四六)年に不動明王像造立とあり、またあるネット上の記載には本尊の右の脇持の観音像に並んで「波切不動明王」と記された明王像が厨子に入って祀られているとある。これか。
「智證」は智證大師円珍(弘仁五(八一四)年~寛平三(八九一)年)のこと。天台寺門宗宗祖。智證は諡号。]

〇神嵩〔附神武寺 天狗腰掛松〕 神嵩カフノダケは、櫻山村サクラヤマムラの内なり。【東鑑】に、承元三年五月五日實朝將軍、神嵩カフノダケに御參とあり。行基菩薩の開基と云。寺を神武寺ジンムジと號す。ヲモテ門に、醫王山とガクあり。本尊は藥師〔行基の作。〕天台宗なり。寺領五石の御朱印あり。鐘樓あり。鐘に元和九年のメイあり。其文繁多、今シバラく畧す。嵩上ダケノウヘ甚だ高く、茂林欝々ウツウツたり。天狗の腰掛松コシカケマツと云あり。魔所マシヨなりとて、里人ヲソるる處なり。時々トキドキ奇怪の事ありと云ふ。
[やぶちゃん注:「【東鑑】に、承元三年五月五日實朝將軍、神嵩に御參とあり」は、承元三(一二〇九)年五月十五日の誤り。「五月大十五日丁未。御參神嵩幷岩殿觀音堂。御還向之間。渡御女房駿河局比企谷家。山水納凉之地也云々。」(五月大十五日丁未。神嵩幷びに岩殿觀音堂へ御參す。御還向の間、女房駿河局の比企谷の家へ渡御す。山水納凉の地なりと云々。)を指す。
「行基菩薩の開基と云」神武寺縁起によれば、神亀元(七二四)年に聖武天皇の命で行基が創建、平安期に円仁が再興したとする。
「醫王山」本寺は正式には医王山来迎院神武寺と称する。
「元和九年」西暦一六二三年。
「嵩上甚だ高く、茂林欝々たり」薬師堂に続く奥ノ院の辺りを言っている。ここは現在では横須賀市追浜へ抜ける鷹取山ハイキング・コースとなっている。ウィキの「神武寺」に、神武寺の周囲は『第三期の凝灰岩の岩場に囲まれ、森林の中にあるため気温が低く、従って相対湿度が高いため、シダ類や昆虫が多い』とある。
「天狗の腰掛松」前注で示した鷹取山は、山容が群馬県にある妙義山と似ることから湘南妙義と呼ばれ、江戸末期までは神武寺僧の修行場でもあったという。そこは恐らく山伏等の山岳仏教の道場としても機能していたと思われ、この天狗もそこに関わると推測される。この松は現存しない模様である。サイト「源義経の部屋」にテクスト化されている「三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡」の神武寺の項には宝物として「天狗の爪」を挙げてある(恐らくはサメの歯の化石のようなものであろう)。]

〇海寶院 海寶院カイホウインは、ムラの内、神武山と號す。神武寺ジンムジの下にあり。曹洞宗なり。開山は之源乎シゲンノコ和尚と云ふ。喜雲の怡和尚の法嗣なり。寺領十八石の御朱印あり。
[やぶちゃん注:先に示した「「三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡」には、
禪宗 長谷山 海寶院 御朱印拾八石
 此寺は元横須賀に在りしが住持和尚の願に依て此所に移すと云。本尊觀音、本尊は駿州伝寶村保壽寺。長谷川忠綱三浦郡代の時、東照宮御差圖にて駿州保壽寺の二代目之源和尚を住持に召呼れ御建立あり。之源和尚は菊長老と云て常に菊を愛す。因て菊長老と云。富士の根形の生れ故、富士の見ゆる地に寺を建立し度由願れける。ゆへ此處に引寺あり。是富士眺望の勝地なりと。此和尚富士川の大蛇を濟度致されし由、故に保壽寺の寶物に大蛇の鱗並蛇の牙有りと云。此海寶院は長谷川忠綱の開基也。
 忠綱法名 海寶院殿碩叟玄忠居士
文祿三年午八月、此長谷川七左衞門忠綱三浦郡檢地の改あり。
とある(漢字は恣意的に正字化し、「乏源」とあるのを「之源」に訂した)。「此和尚富士川の大蛇を濟度致されし由」現在、静岡県富士市伝法にある保寿寺には毒蛇の鱗とされるものが什物として残るという。これには以下のような伝承がある。現在の田子の浦港の奥の方、沼川と和田川が合流する場所は三股淵と呼ばれ、別名、生贄淵(和田川も生贄川の異名を持つ)と称したが、その謂われは、ここに一匹の竜蛇が棲んでおり、少女を生贄として食らっていたが、天正十五(一五八七)年六月二十八日に保寿寺二世であった之源(ある資料は「芝源」とするが同一人物であろう)が徳川家康の命によってその毒蛇を修伏させたというものである(以上は複数のネット上の記載を参考にした)。
ムラ」のルビの字配はママ。現在は「ぬまま」と読んでいる。但し、これは誤記ではないと思われる。人名地名ともに「沼間」と書いて「ぬま」と読むケースがあるからである。
「神武寺の下にあり」神武寺の麓、約五百メートル西北の位置にある。
「之源乎和尚」逗子市教育委員会の記載に拠れば、開基は徳川家康の代官であった長谷川七左衛門長綱、開山は之源臨乎和尚とある。
「喜雲の怡和尚」不詳。
「寺領十八石の御朱印あり」「相模国風土記稿」に天正十九(一五九一)年に十八石の御朱印を賜ったと記す。]

〇多古江河〔附御最後川〕 多古江タコエ〔或作田越(或は田越に作る)。〕ガハは、久野谷村クノヤムラの東南、多古江濵タコエバマへ落る川なり。【東鑑】に、建久五年八月廿六日。賴朝、多古江河タコエガハの邊に逍遙し給ふ。又【脱漏】に、元仁二年九月八日、多古江河原タコエガハラに八万千基の石塔を立らるとあり。此川上カハカミ久野谷村クノヤムラより落て、多古江タコエに入る所を御最後川ゴサイゴガハと云。相ひ傳ふ、六代御前ロクダイゴゼンの御最後の所なり。故に故に御最後ガハと名くと。里俗は誤てごさいガハと云ふ。【平家物語】に、六代ロクダイ御前は、高雄タカヲの奧に、行ひ澄して有けるが終に關東へ下され、岡部ヲカベの權の守泰綱ヤスツナに仰せて、相模の國田越河タコヘカハハタにてられにけり〔歳三十。〕と有。此の邊塩燒濵シオヤキバマなり。
[やぶちゃん注:田越川は現在の逗子市の中心部を縦断して逗子海岸南端で相模湾に開口する。
「久野谷村」現在の久木の一部で、逗子市街の西北に当たる。
「六代御前」は平高清(承安三(一一七三)年~建久十(一一九九)年)。平宗盛嫡男維盛の嫡男で平清盛曾孫。六代は幼名で平正盛から直系六代に当たることからの命名。「平家物語」の「六代斬られ」等、「平 六代」で記載されることが殆どである。寿永二(一一八三)年の都落ちの際、維盛は妻子を京に残した。平氏滅亡後、文治元(一一八五)年十二月、母とともに嵯峨大覚寺の北の菖蒲谷に潜伏しているところを北条時政の探索方によって捕縛された。清盛直系であることから鎌倉に護送・斬首となるはずであったが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れて文覚預りとなった。文治五(一一八九)年に剃髪、妙覚と号し、建久五(一一九四)年には大江広元を通じて頼朝と謁見、二心無き旨を伝えた。その後は回国行脚に勤しんだが、頼朝の死後、庇護者文覚が建久十(一一九九)年に起こった三左衛門事件(反幕派の後鳥羽院院別当たる土御門通親暗殺の謀議疑惑)で隠岐に流罪となるや、六代も捕らえられて鎌倉へ移送、この田越川河畔で処刑された。享年二十七歳であった。没年は建久九(一一九八)年又は元久二(一二〇五)年とも言われ、斬首の場所も「平家」諸本で異なっている(以上は主にウィキの「平高清」を参照した)。
「高雄の奥」六代の捕縛は文覚(彼は「高雄の上人」とは呼ばれる)の宿所があった京都三条猪熊とされる。これだと京都高雄山の奥と読める。
「岡部の權の守泰綱」(生没年不詳)は藤原南家工藤氏の流れを組む入江清綱の子で、駿河国志太郡岡部郷(現在の静岡県藤枝市岡部町)の地頭。鎌倉鎌倉初期の駿河武士団の代表的人物とされる。]

〇六代御前塚 六代御前塚ロクダイゴゼンノツカは、多古江河タコエガハの東にあり。六代ロクダイ御前は、平の惟盛コレモリの子三位の禪師と號し、法名は妙覺と云ふ。【平家物語】及び【異本平家物語】【保暦間記】等に、六代御前のられたる地、諸説コトなれども此所にツカあり。又御最後川ゴサイゴガハの古事もあれば、此所にてられたるを正とすべし。
[やぶちゃん注:現在、逗子市桜山の田越川河畔に六代御前の墓がある。但し、墓碑によれば六代の縁者を名乗る水戸藩士によって江戸時代に造立されたものという。]


〇鐙摺山〔附淺間山〕 鐙摺山アブスリヤマは、多古江濱タコエハマ杜戸モリドトホる道なり。里老の云、昔し賴朝ヨリトモ卿、三浦の邊へ出御の時、コヽにてアブミをすり給ふ。故に鐙摺山アブスリヤマと名けられしと也。山の間だセバミチなれば、誠に左もありぬべし。【東鑑】に、武衞〔賴朝。〕義久ヨシヒサ鐙摺アブスリの家に渡御し給ふとあり。又【盛衰記】に、三浦義盛ミウラヨシモリ畠山重忠ハタケヤマシゲタヾと合戰の時、鐙摺山にヂンを取とあり。此山の東南に高き山有。淺間山アサマヤマと云ふ。
[やぶちゃん注:この山は頼朝の旗揚げに加わった三浦義澄(後に出てくる三浦義盛(和田義盛)の伯父)が、ここに旗を立てて気勢を挙げたことから「旗立山」とも呼ぶ。
「【東鑑】に、武衞〔賴朝。〕義久が鐙摺の家に渡御し給ふとあり」については、先に「飯島」の項で引用した亀の前大スキャンダルを参照のこと。
「三浦義盛、畠山重忠と合戰の時」「三浦義盛」は和田義盛。先の義澄と行動を共にしたものと思われる。「合戰」は治承四年八月二十六日の衣笠城合戦の前哨戦である由比ヶ浜合戦のこと。前掲したように当時は畠山重忠は平家方であった。]

[杜戸圖]

[やぶちゃん注:岬先端の小島に「名島」、その岸寄りの岩礁帯の所に「頼朝遊館跡」とあり、その左(北西)方向に「富士山申八分見」とあり、これは図の「北」が十二時として、申の四刻辺りの西南西(十六時半の位置)の方向に富士山を望むことを言う。正に傾いたその文字上方方向である。同様に岬の先端直ぐの海上に書かれた「江島酉二分」は、岬のほぼ西正面やや南寄り(二十時半の位置)に江ノ島を望見することを示す。]
〇杜戸明神〔附名島〕 杜戸モリドノ〔或守殿、或作森(或は守殿、或は森に作る)。〕明神は、杜戸村モリドムラの出崎なり。ヤシロの北の山岸ヤマギシに川あり。森戸川モリドガハと云ふ。社司の云、賴朝卿、治承四年九月八日、三島の明神を勸請す。故に今に至て此の日祭禮をなすと云ふ。今按ずるに、賴朝卿、治承四年十月六日、相模國に著御、同九日、大庭ヲホバの平太景義カゲヨシを奉行として、大倉郷ヲホクラノガウに御亭を作りハジめらるとあり。しからば賴朝ヨリトモいまだ鎌倉へタマはざるサキに、勸請の事如何ん。社領七石の御朱印あり。神主カンヌシ 物部モノベの姓にて守屋モリヤ氏なり。弓削守屋ユゲノモリヤが後也と云ふ。
[やぶちゃん注:「大庭の平太景義」(大治三(一一二八)年?~承元四(一二一〇)年)は桓武平氏支流で鎌倉権五郎景政の曾孫に当たり、代々相模国大庭御厨(現在の神奈川県藤沢市大庭)を根拠地とした。若くして源義朝に従ったが、保元の乱で敵方についた義朝弟為朝の矢を受けた結果、歩行不自由となってしまい、家督は弟景親に譲って隠居した。後に頼朝蜂起の際には、弟が平家方追討軍の主将となったのに対して兄景義は頼朝に従った(弟景親の処刑には頼朝から嘆願の有無を問われたが一切の処置を御意に任せた)。後の幕府では老臣として重きをなした。
「物部の姓にて守屋氏」「弓削守屋」飛鳥時代の大連おおむらじ物部守屋(?~用明天皇二(五八七)年)のこと。彼の母は連弓削倭古やまとこの娘であり、守屋は実に物部弓削守屋大連と複数の姓を称した。]
神寶
猿田彦サルダヒコの面 壹枚 運慶が作。
横笛ヨコブエ 壹管 青葉アヲバの笛をせり。
[やぶちゃん注:「靑葉の笛」は悪源太義平や平敦盛のエピソードで知られ、ここでは後者かとも思われるが、青葉と名付けられた名笛伝承は各種あり、古いものは天智天皇の頃まで遡るともいう。現在の神宝として残っているかどうかは不詳。]
小鼓コツヾミドウ 一箇 阿古が作。
[やぶちゃん注:「阿古」は「あこう」と読み、鼓胴作りの名工の名。初世の阿古は室町中期将軍義政の頃に在世した。]
駒角コマノツノ 貮本
[やぶちゃん注:しばしば見られる一角獣ユニコーンのような角のある馬の伝承物である。実見していないが、これが相応に長いものであるとすると西洋で「ユニコーンの角」として残されているクジラ目ハクジラ亜目マイルカ上科イッカク科イッカク Monodon monoceros の左上顎切歯である可能性が考えられる。「貮本」とあるが、実はイッカクの中には二本の牙を有する個体が有意に認められるのである。小さなものであるなら、実際の馬の頭部に発生した石灰化した奇形腫瘤や、南方由来の大型の枝状珊瑚片(「新編鎌倉志卷之六」「江島」の「巖本院」の宝物に図入りである「蛇の角」のようなもの)などが想起出来る。]
院宣 貮通 一通には、勅使左中辨則實ノリザネとあり。其文の中に、嘉元元年、守殿モリドノ明神とあり。しからば守殿モリドノくを正とすべし。一通には、刑部の少輔物部恆光モノノベノツネミツとあり。今の神主の先祖なりと云ふ。
[やぶちゃん注:「嘉元元年」は西暦一三〇三年。]
フル文書モンジヨ 貮通。一通は、暦應二年十二月十四日とあり。是を二位尼平政子ニイノアマタイラノマサコ袖判書ソデハンノシヨと云傳ふ。右の方文章の始めに花押クハアフあり。按ずるに、【東鑑〔脱漏〕】に、二位尼政子は、嘉禄元年七月十一日に薨去とあり。暦應は後にて、光明帝の年號也。政子の書にアラざる事アキラけし。又按ずるに、源尊氏の夫人平の時子トキコを、二位家ニイケと號す。モシクは此人。年號は相應せり。一通は、文和二年六月廿六日とあり。奧に花押あつて、上に平の字あり。是を和田義盛ワダノヨシモリが書と云傳ふ。【東鑑】に、義盛ヨシモリは、建暦三年五月三日に滅亡す。文和は後にて、崇光帝の年號也。是も義盛ヨシモリにはあらず。兩書の判形を以て、【花押藪】、其外舊記をアマネく考(ふ)るに不知(知れず)。二書の判如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、影印のそれぞれの花押の右脇に書かれた解説を活字化しておく。底本では二段組の上段最後と下段冒頭の二つに画像が別れるが、影印では同一行で上下に配されている。底本には「和田義盛」の花押の上の「平」が消えている上に花押の画像が右へ四十五度近く傾くという資料的価値の著しく低下したものであるため、今回は影印本の画像を取り込んで下に示した。]
[やぶちゃん注:上の花押。]
二位尼平政子の袖判と云傳る書に
如此(此くのごとき)花押あり
            (花押)
[やぶちゃん注:下の花押。]
和田義盛が判と云傳
へたるもの如此(此くのごとし)
 平(花押)

[伝二位尼平政子袖判及び伝和田義盛書の花押]

[やぶちゃん注:「暦應二年」暦応二・延元四年は西暦一三三九年で、政子逝去の「嘉禄元年」は西暦一二二五年。実に百年近い齟齬がある。後の伝「和田義盛」文書といい、こんな一目瞭然の噴飯ものの伝承が何故まことしやかに伝えられたものか。気になるのは、どちらもその肝心の古文書の内容が記されていない点である。そっちの方に何か面白い理由がありそうだ。
「袖判」古文書の右端の余白に文書発行の認可の印として加えた書き判、花押のこと。文書の最後、左端にあるものは奥判という。
「源尊氏の夫人平の時子を、二位家と號す」記載内容に問題がある。源尊氏は足利尊氏のことであるが、彼の正室は「時子」ではなく、「登子」(「とうし・とうこ」)である。彼女は鎌倉幕府にあって北条得宗家に次ぐ家格であった赤橋家の出で、父は北条久時、兄は鎌倉幕府最後の執権赤橋(北条)守時であった。但し、この赤橋登子(徳治元(一三〇六)年~貞治四・正平二十(一三六五)年)は夫尊氏が建武三(一三三六)年に室町幕府を創立すると、その御台所として従二位に叙せられているから、確かに本文書の袖判の真筆者としては不自然ではない。
「文和二年」文和二・正平八(一三五三)年。和田義盛は、その百四十年も前の「建暦三」(一二一三)「年五月三日」の和田合戦で一族郎党とともに滅んでいる。「上に平の字あり」とあるが、和田義盛は三浦一族で三浦氏は桓武平氏平良文を祖とするから「平」姓ではある。]
  已上

飛混柏トビビヤクシン ヤシロの北にあり。三島ミシマよりキタるとて、イハひかゝりてあり。
[やぶちゃん注:裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属イブキ Juniperus chinensis か。現在も社域の五本が天然記念物に指定されている。その中でも海上に張り出した樹高約十五メートル・胸高の周囲約四メートルの一本は樹齢八百年と推定されており、尚且つ、野生種とも考えられている貴重なものである。]
千貫松セングハンマツ 社の西にあり。好事カウズの者、此の松の景、千貫のアタひありと云ふ故にナヅくとなり。
[やぶちゃん注:ネット上の記載の中には「好事家」ではなく、最早、森戸のオール・スター・キャストである頼朝と和田義盛が登場しているものがある。それによれば、養和元(一一八一)年、頼朝が、身を以て彼を守った三浦義明の追善のため、衣笠城へ向かう途次、この地で休息、海浜の岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えに参じていた和田義盛が「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えた、とある(伝承として出典は示されていない)。これもアリであろう。]
賴朝腰掛松ヨリトモノコシカケマツ 社の南にあり。賴朝卿イコふたる也と云ふ。【東鑑】に、元暦元年五月十九日、武衞、海濵逍遙し、由比浦ユヒノウラより乘船(船に乘り)給ひ、杜戸モリドキシき給ふ。御家人等、面々メンメンに舟船をカザり、杜戸モリドの松樹の下に於て有小笠懸(小笠懸コカサガケ有り)。コレ土のナラハシ也とあるは、此邊の事ならん。
[やぶちゃん注:「【東鑑】に、元暦元年五月十九日……」元暦元(一一八四)年五月の以下の記事を指す。
〇原文
十九日丙午。武衞相伴池亞相〔此程在鎌倉。〕右典厩等。逍遙海濱給。自由比浦御乘船。令着杜戸岸給。御家人等面々餝舟舩。海路之間。各取棹爭前途。其儀殊有興也。於杜戸松樹下有小笠懸。是士風也。非此儀者。不可有他見物之由。武衞被仰之。客等太入興云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五月大十九日丙午。武衞、池の亞相あしやう〔此の程鎌倉に在り。〕右典厩うてんきう等を相ひ伴ひ、海濱を逍遙し給ふ。由比浦より御乘船し、杜戸の岸へ着かしめ給ふ。御家人等面々舟舩しうせんかざり、海路の間、各々棹を取り前途を爭ふ。其の儀殊に興有るなり。杜戸の松樹下に於て小笠懸有り。是士風なり。此の儀に非ずば、他の見物有るべからざるの由、武衞、之を仰せらる。客等太だ興に入ると云々。
・「池亞相」は池大納言頼盛、平頼盛(長承元(一一三二)年~文治二(一一八六)年)のこと(「亞相」は大臣に次ぐ大納言を指す唐名)。平忠盛五男で清盛の異母弟に当たる。母は平治の乱で頼朝を救命した池禅尼(藤原宗兼娘宗子)。六波羅池殿に住んだことから池殿・池の大納言などと称された。清盛の政権下で正二位権大納言にまで登ったが、清盛との関係は良くなかった。寿永二(一一八三)年七月の平家都落ちの際には途中から京に引き返して後白河法皇の庇護の下、八条院に身を寄せたが、同年八月には解官されている。後、木曾義仲の追及を逃れて鎌倉に下向し、頼朝に謁見する。頼朝は頼盛の実母池禅尼の助命の恩義に報いるために頼盛を厚遇、平家没官領のうちの頼盛の旧所領の荘園を返付した上、朝廷に頼盛の本位本官への復帰を奏請、この「吾妻鏡」の記事の翌月、元暦元(一一八四)年六月に正二位権大納言に還任されて帰京、朝廷に再出仕している。但し、法住寺合戦を目前にした京都からの逃亡や頼朝の厚遇を受けたことが、後白河院近臣ら反幕勢力の反発を買ったものと推測され、同年十二月には子息光盛の左近衛少将奏請とともに官を辞した。文治元(一一八五)年に出家して重蓮と号し、翌年、没した。
・「右典厩」公卿一条能保(久安三(一一四七)年~建久八(一一九七)年)のこと。藤原北家中御門流の丹波守藤原通重の長男。但し、当時の彼は左馬頭(唐名左典厩)であったから「左典厩」の誤記。能保は妻に源義朝娘で頼朝同母姉妹であった坊門姫を迎えていたため、頼盛同様、頼朝の厚遇を受けた。
・「是士風なり。此の儀に非ずば、他の見物有るべからざる」の部分は、頼朝の直接話法に準じた記載である。本「新編鎌倉志」の記載との異同に注意されたい。「土風」ではなく、「吾妻鏡」は「士風」である。これは『(関東武士の)士風』の意である。「新編鎌倉志」の本文では、これを『土地の習わし』と読み、弓馬の芸の一つである小笠懸の仕儀を、この森戸辺の古来の土俗習俗であろう、と解説しているのだが、如何? 三浦氏の勢力下にはあったものの、近距離からの馬上からの射芸が、森戸のような狭い海浜での習俗として古くからあったとするのは、私にはやや疑問である(勿論、全否定出来る証左もないのであるが)。確かに「吾妻鏡」北条本は「土」であるが、現行「吾妻鏡」はこれを「士」とする。私は北条本は単なる「士」の字を「土」と誤ったに過ぎないと読む。ここは寧ろ登場人物に着目すべきで、都人として武士の風を失った頼盛や、姻族ながら公家である一条能保に対し、『これ、関東武士の誉れともいうべきものにて、この射芸にあらざれば、いかなる射芸も見物すること、これ、価値は御座らぬ!』と鎌倉武士の面目躍如たる自負を示したワン・シーンととるべきところであろう。]
高石タカイシ ハマへ指出たる石なり。
賴朝の遊館礎石ユウカンソセキの跡 社の西のイハハシラアナあり。
[やぶちゃん注:現在の「源頼朝公別野跡」とするものと同じであろう。それにしても図の中でのこの位置は岬の先の岩礁帯に示されている。これでは満潮時には容易に水没しそうだ。当時の海岸線はもっと先にあったものか。]
賴朝の泉水 岩間イハマに清冽たる水あり。昔は左卷ヒダリマキ榮螺サヾイあり。し是をれば神物なりとて、其のマヽ海へカヘし入るゝなり。又此の砂濵スナハマ相思子スガイヲヽくあり。
[やぶちゃん注:「左卷の榮螺」腹足類(巻貝)の巻きの方向は貝の頂頭部を上にして、殻の口が見えるように持った際、殻の口が向かって右側に見えるものを右巻き、左側に見えるものを左巻きと規定する。通常、巻く方向は種によって定まっており、腹足類の九割の種は右巻きと言われる(右旋回する理由はよく分かっていない)。但し、左右両巻きがどちらも存在する種にあっては内臓の配置も左右逆になっていることが確かめられており、現在の知見では巻く方向は、単体の遺伝子若しくは強く連鎖した複数個の遺伝子によって決定されていると考えられていることから、サザエの特異な左巻き個体出現し(発見論文を確認したわけではないが存在するようである)が常に「神物」として、特異的に同一海域に戻されプールされ続ければ、森戸の海岸に左巻きの遺伝子を持ったサザエが多く生息していたとしても不思議ではないように思われる。
相思子スガイ」現在、「スガイ」という和名はニシキウズガイ超科 Trochoidea サザエ科 Turbinidae のスガイTurbo (Lunella) coronatus coreensis に与えられている。私の電子テクスト「和漢三才圖會 介貝部 四十七 寺島良安」の「郎君子」から引用する(一部表記を本頁に合わせて省略整理し、ルビ化を行った)。
 《引用開始》

すがひ
郎君子
ラン キユン ツウ

相思子【本艸】
小嬴子【和名抄】
玉蓋【小螺子之盖】
【和名之太々美
俗云醋貝】[やぶちゃん字注:以上五行は前三行下に入る。]

本綱李珣云郎君子生南海有雌雄状似李仁靑碧色欲
騐眞仮口内含熱放醋中雌雄相逐逡巡便合即下卵如
粟状者眞也亦難得之物時珍云相思子状如螺中實如
石大如豆蔵篋笥積歳不壞若置醋中即盤旋不已此即
郎君子也婦人難産手把之便生極騐
和名抄云小螺子【和名之太々美】
似甲嬴而細小口有白玉之盖
者也玉盖【和名之太々美乃不太】
△按小螺子状類榮螺而極小灰白色有小厴如豆而扁
 碧白色名玉盖海人去殻取厴販之入磁噐浸醋即盤
 旋不已似相逐之貌兒女以爲戲京洛及山人不知螺
 之盖或以爲有雌雄加之謂生卵者皆憶見焉此貝紀
 州海中多有之毎二月廿二日攝州天王寺聖霊會有
 舞樂飾以大造花其花葩粘小螺子殻寺役人至住吉
 濱拾取之二月十八日暴風吹後必有之稱之貝寄風
 亦一奇也

すがひ
郎君子
ラン キユン ツウ

相思子【「本艸」〔=「本草綱目」〕。】
小嬴子したゞみ【「和名抄」。】
玉蓋【小螺子のふた〔=蓋〕。】
【和名、之太々美。俗に醋貝すがひと云ふ。】

「本綱」に、『李珣りじゆん云ふ、郎君子は南海に生ず。雌雄有り、状、李仁[やぶちゃん注:すももの種。または「杏仁」の誤植か。]に似て、靑碧色、眞仮〔:本種か別種かの区別〕を騐〔=こころ〕みんと欲さば、口の内にて含熱し、醋の中に放ち、雌雄相逐ふ。逡巡と便ち合し、即ち粟の状のごとき卵を下す者は眞なり。亦得難き物なり。』と。時珍云ふ、『相思子、状、螺のごとく、中實にして、石のごとし。大きさ、豆のごとく、篋笥けふしをさめて、歳を積んで壞れず。若し醋の中に置かば、即ち盤-旋めぐりて、已まず。此れ即ち、郎君子なり。婦人の難産に、手に之をるは便ち生ず。極めて騐〔=しるし〕あり。』と。「和名抄」に云ふ、『小螺子。【和名、之太々美。】甲-嬴つびに似て細小、口に白玉の盖有る者なり。玉盖。【和名、之太々美乃不太。】』と。
△按ずるに小螺子は、状、榮螺さゞゑに類して、極めて小さく、灰白色。小厴せうへた有り。豆のごとくして、扁たく、碧く、白色、玉盖名づく。海人、殻を去りて厴を取り、之をひさぐ。磁-噐やきもの〔=器〕に入れて、醋に浸せば、即ち盤旋して已まず。相逐ふの貌に似たり。兒女、以て戲と爲す。京洛及び山人、螺のふたなることを知らず、或は以て雌雄有りと爲し、加-之しかのみならず、卵を生むと謂ふは、皆、憶見〔=憶測〕なり。此の貝、紀州の海中に多く之有り。毎二月廿二日、攝州〔=摂津〕天王寺聖靈會しやうらいゑに舞樂有り、飾るに大なる造り花を以てす。其の花-葩つくりばなに小螺子の殻、く。寺の役人、住吉の濱に至りて、之を拾ひ取る。二月十八日、暴-風はやて吹きて後ち、必ず之有り。之を貝寄かひよせの風と稱す。亦、一奇なり。
[やぶちゃん注:俗名とする「スガイ」という和名は現在、ニシキウズガイ超科 Trochoidea サザエ科 Turbinidae のスガイTurbo (Lunella) coronatus coreensis に与えられている。叙述にあるように、本種の蓋(厳密には褐色のクチクラ層の部分が真の蓋で、盛り上がった石灰質の部分は炭酸カルシウムが二次的に沈着したもの)の外側(半球側)を下にして皿等に入れた酢の中に置くと、酸で炭酸カルシウムが溶解して二酸化炭素が発生、旋回する。
 「婦人の難産に、手に之を把るは便ち生ず」とはタカラガイの民俗(該当項参照)と一致するが、これは直前の「雌雄相逐ふ。逡巡と便ち合し、即ち粟の状のごとき卵を下す」という現象からの類感的信仰からくるのであろうか。識者の助言を求む。
 「和名抄」は正しくは「倭(和とも表記)名類聚鈔(抄とも表記)」で、平安時代中期に源順(したごう)によって編せられた辞書。
 「李珣」は海産の漢方薬を詳述した「海薬本草」という本を著わした唐の学者。
 「篋笥」は、竹製の小箱または長持・箪笥の類。
 「天王寺聖靈會」は大阪四天王寺の聖霊会を指す。この寺は推古帝元(五九三)年に聖徳太子が建立したとされる日本最初の官寺である。江戸中期の神沢杜口かんざわとこうの随筆「翁草おきなぐさ」に以下のように記す。
攝州大坂、二月十五、六日頃より二十日頃まで、南風荒く吹くを、郷俗、貝寄といふ。此の時、必ず堺七度濱へ郎君子數百万打ち寄るの故の稱なり。これを拾ひて、天王寺に贈る。寺僧かねて籠を作り置き、紙にて張り、幡の足の如く紙を多く下げ、糊して彼の寄せ貝をひしとつけ、長き竿に飾り、二十二日舞樂の時、石の舞臺の四隅に立てる、これ古へよりの例となむ。
なお、同所ではこのスガイは、龍神から聖徳太子への捧げものと信じられていたという。
 最後に、ここで挙げられている「シタダミ」という呼称は、現在の標準和名異名でシタダミと呼ばれる、もしくはそれを名前の一部に持つ種よりも、ニシキウズガイ超科に属するオオコシダカガンガラ・コシダカガンガラ・クボガイ・ヘソアキクボガイ等の小型巻貝の総称と認識したほうがよいように思われる。「甲嬴(つび)」(=ツブ)も同様で、現在でもこれは、一般に食用とする腹足類(巻貝)の通称である。]
《引用終了》
私は「新編鎌倉志」の筆者がサザエの記述の後に「砂濵に相思子も多くあり」と記していることから、私は所謂、スガイの「貝」や「貝殻」ではなく、あの特異な形をした本種の「蓋」を「相思子スガイ」と呼んでいるように思われる。]
名島ナジマ 杜戸モリドの西の海濵、六町ばかりにあり。賴朝ヨリトモ、遊興の所なりと云傳ふ。賴朝の腰掛石コシカケイシとてあり。賴朝卿杜戸モリドへ遊興の事、【東鑑】に往々ワウワウ見へたり。
[やぶちゃん注:現在は「菜島」と地図上に明記されている。]

〇突渡崎 突渡トウト〔或作戸(或は戸に作る)。〕のサキは、杜戸モリトの南に、ハナれたる出崎デサキあるをふなり。
[やぶちゃん注:これは次項の「心無シンナシ」の海岸の北端部、現在は港湾施設として埋め立てられてしまった柴崎海岸を言うものと思われる。私は十年程前、この海岸で一月の深夜に、高校の生物の授業の実験用のウニの採取を同僚と行ったのを、懐かしく思い出している。深夜の岩礁は――私の人生の中で素晴らしく楽しかった数少ない思い出である――私は今でも水族館の館員にならなかったことを心底、悔いている――そうすれば……僕の人生は全く違ったものになっていたに違いない……]

心無シンナシ〔或作新梨(或は新梨に作る)。〕ムラは、杜戸の濵にふて東方の村なり。ウシロの山を心無山シンナシヤマふ。此村より、鐙摺山アブスリヤマまでの間だに、村三个所ムラサンカシヨあり。是を三个村サンカムラと云ふ。
[やぶちゃん注:これは現在の真名瀬しんなせ海岸のある場所である――そしてここは――私の愛して已まない「ウルトラQ」の「バルンガ」の冒頭、土星ロケット・サタン一号が海へ落下する場所であり、またその直後に奈良丸博士が風船を持って岩に座っている場所でもある――そして、私の最後の――最後の『青春の恋の地』でもあった――奈良丸博士のように言おう――「いづれにしても、私には縁の深い」場所「だったといえる」――と――]

〇佐賀岡〔附世計の明神〕 佐賀サガ〔或作下(或はサガに作る)。〕は、心無村シンナシムラの南なり。是より三崎ミサキく也。【東鑑】に、治承五年六月、賴朝ヨリトモ三浦ミウラに渡御給ふ。上總の介廣常ヒロツネ佐賀岡サガヲカの濵に參會すとあるは此のハマ也。此の所に佐賀岡サガヲカの明神と云あり。守山モリヤマ大明神と號す。逗子村ヅシムラ延命院の末寺、玉藏院の持分モチブンなり。里俗、世計ヨバカリの明神とふ。毎年霜月十五日、サケツクき、翌年正月十五日に、明神へ供す。サケの善惡に依て、戌の豐凶ホウケウハカる。故に世計ヨバカリの明神とふ。昔し此の神、海上に出現す。其座石とて社前にあり。良辨僧正の勸請と云ふ。社領三石の御朱印あり。
[やぶちゃん注:森山神社として葉山に現存する。正式名称は森山社といい、社伝による祭神は奇稲田姫命、創建は天平勝宝(七四九) 年に東大寺開山の華厳僧良弁(ろうべん 持統天皇三(六八九)年~宝亀四(七七四)年)によって勧請されたとする(彼は鎌倉生ともされる)。往古は「守山大明神」「佐賀岡明神」と呼ばれ、現在の三ヶ岡大峰山(森山神社の西北に位置する山)にあった。察するに、これを「佐賀岡」と古称したらしい。すると先の「心無」に記述する「心無山」とは同地異称か、若しくは「三ヶ岡」という呼称から推測すると、この三ヶ岡大峰山は三つのピークがあり、その最も海岸寄りにあったものを心無山と呼んだのかも知れない。以下、参照した「森山神社例大祭 葉山町一色の森山社(通称・森山神社)例大祭実行委員会の広報」のブログに依れば、この森山社に合祀されている(南方熊楠が憤然と反対した悪名高い明治末の一村一社合祀令によるもの)吾妻社について、祭神は東征伝説所縁の日本武尊、その祠の右側には井戸があり、『日本武尊が東征の途次、こんこんと霊水が湧き出たる、この地で休憩され、走水から上総国へ向かわれたと伝えられて』おり、現在の森山神社の「世計り神事」では『この霊水を汲み上げて持ち帰った水に、麦麹を入れて神殿内に一年間納め、翌年これを検して吉凶を占』うとある。本記載の神事は今も健在であることが分かる。]



新編鎌倉志卷之七