新編鎌倉志卷之二 やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
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新編鎌倉志卷之二

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いた。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。「こ」の字を潰したような踊り字は「々」に代えた。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本では「已」と「巳」の活字の一部が誤って植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。【二〇一一年一月九日】
本文を校訂、誤字脱字を補った。【二〇一一年一月十三日】
底本とした昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』は多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせるものがあるが、今回、新たに入手した汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した。校訂ポリシーの詳細については「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注の最後の部分を参照されたい。【二〇一一年五月二十一日:校訂開始 二〇一一年六月七日:校訂終了】【二〇一三年二月十四日:「江亭記」注の一部に改訂・追記】]



新編鎌倉志卷之二

○鳥合原 鳥合原トリアハセハラは、八幡宮の東の鳥居トリヰの外のハタケ也。相ひ傳ふ、昔し相模サガミ入道宗鑑ソウカンニハトリアハせ、イヌ挑合イドミアハせし地なり。故にナヅくと。【東鑑】に、建永二年三月三日。實朝サネトモ將軍、キタ御壺ヲンツボに於て雞鬪會ニハトリアハセ有とあり。此事をアヤマリイヽ傳へたるか。或人の曰く、あはせとイフ事は、鳥居合トリヰアハセと云事也。流鏑馬場ヤフサメババの東西に鳥居あり。故に名となり。

賴朝屋敷

○賴朝屋敷 賴朝屋敷ヨリトモヤシキは、烏合原トリアハセハラの東也。【東鑑】に、治承四年九月九日、千葉介常胤チバノスケツネタネマウシテ云く、當時の御居所ゴキヨシヨ要害ヤウガイの地にアラず。又御曩跡ゴノウセキにもアラズスミヤカ相模國サガミノクニ鎌倉に出しめ給ふべし。常胤ツネタネ門客等をアヒヒキヰて、御迎ヲンムカひに參向サンカウすべきのヨシ申す。同十月六日、相模國サガミノクニ著御チヤクギヨあり。同九日、大庭平太景義ヲホバノヘイタカゲヨシ奉行として、大倉郷ヲホクラガウ御亭ゴテイの作事を始めらる。但し合期ゴウゴ沙汰サタイタしがたきに因て、暫く知家事兼道カネミチ山内ヤマノウチタクウツされ、此を建立コンリウす。同く十二月十二日上總介廣常カツサノスケヒロツネタクより、新造シンザウ御亭ゴテイ御移徙ヲンワタマシありと有。則ち此の所ろ也。其のヒロサ八町四方ばかりあり。今見る所ろは分内セハキヤウなれども、法華堂ホツケダウなど、賴朝ヨリトモ持佛堂チブツタウと云へば、此ヘンスベ殿宇デンウなるべし。又【東鑑脱漏】に、元仁ゲンニン二年十月十九日、相州〔時房〕武州〔泰時〕參會サンクワイせしめタマフ御所ゴシヨ御地ヲンチコト御沙汰ヲンサタ有。相人サウニン淨法師シヤウホツシマウシテ云く、右大將家法華堂のシタ御所ゴシヨ四神相應シジンサウワウ最上サイジヤウの地なり。ナン他所タシヨウツさるべけんや。珍譽法眼チンキハウゲンマウシテ曰く、法華堂の前の御地ヲンチ不可然(然るべからざる)のトコロなり。西方の岳上ガクシヤウに、右幕下ウハクカ御廟ゴビヤウアンず。 其のヲヤツカタカフして、ソノシタるは、子孫シソン無之(之き)ヨシ本文ホンモンへたり。幕下バツカ御子孫ゴシソン御座ヲハシまさず、タチマチ符合フガウせしむべき歟。若宮大路ワカミヤオヽヂは、四神シジンヲウ勝地シヤウチナリ。西は大道ダイダウミナミミチヒガシカハあり、キタ鶴岡ツルガヲカミナミ海水カイスイタヽヘ池沼チシヤウに可准(ジユンずべしと)云云。 ヨツ此地コノチ治定ヂジヤウヲハる。嘉禎カテイ二年三月十四日、若宮大路の東に、御所を立らる。四月二日木作コヅクリ始め、八月四日御移徙ヲンワタマシ也とあり。是れ賴經將軍ヨリツネシヤウグントキの事なり。シカレ賴朝ヨリトモ以後イゴは、此地コノチハルカ西南の方にキヨせられたると見へたり。今其所不知(知れず)。按ずるに、今の寶戒寺ホウカイジの地、江間屋敷エマヤシキヘンと見へたり。關東將軍の次第は、【東鑑】に、賴朝ヨリトモ賴家ヨリイヘ實朝サネトモ、已上三代將軍、アハセて四十箇年。平の政子マサコ賴經ヨリツネ賴嗣ヨリツグ宗尊ムネタカ親王・惟康コレヤス親王・久明ヒサアキラ親王・宗邦ムネクニ親王、以上治承四年庚子より。元弘三年癸酉まで、百五十四年とあり。【梅松論】には、政子マサコノゾヒて、將軍總じて九代也とあり。
[やぶちゃん注:治承四(一一八〇)年から元弘三・正慶二〈持明院統元号〉(一三三三)年は実際には一五三年であるが、所謂、数えで起年を一年足している。]

○法華堂〔附賴朝並義時墓〕 法華堂ホツケダウは、西御門ニシミカトの東の岡なり。相傳ふ、賴朝の持佛堂ヂブツダウの名也。【東鑑】に、文治四年四月廿三日、御持佛堂に於て、法華經講讀始行せらるとあり。此の所歟。同年七月十八日、賴朝、專光坊に仰て曰く、奧州征伐のタメヒソカに立願あり。ナンヂ留守ルスコウじ、此の亭のウシロの山に梵宇を草創すべし。年來の本尊の正觀音像を安置しタテマツラタメなり。同年八月八日、御亭のウシロの山にヨヂ登り、梵宇營作を始む。[やぶちゃん字注:ここ底本では「梵字」とあるが、「梵宇」と改めた。影印によっても「梵宇」であることを確認出来た。]マヅ白地アカラサマ假柱カリハシラ四本をタテ、觀音堂の號を授くとあり。今雪の下の相承院リヤウするなり。賴朝のマモリ本尊正觀音の銀像も、相承院にあり。今コヽには彌陀、幷如意輪觀音・地藏の像あり。地藏は、モト報恩寺の本尊〔事在報恩寺條下(事、報恩寺の條下に在り)〕なりしを、イヅれの時かコヾに移す。如意輪は、良辨僧正のチヽ太郎大夫時忠トキタヽと云し人、由比ユヒチヤウにてアリし時に、息女ソクジヨ遺骨ユイコツを、此の如意輪の腹中にヲサむとひ傳ふ。又石山寺より佛舍利五粒をヲサむるヨシの書き付も入てあり。今は分身して三合ばかりも有と云ふ。又異相イサウなる僧の木像モウザウあり。何人の像と云事を知人シルヒトなかりしに、建長寺正統菴の住持顯應、此像を修復シユフクして自休が像也と定めたり。兒淵に云傳へたる自休はコレ。【佐竹系圖】に、明德二年六月朔日、源の基氏モトウヂ故右大將家の法華堂に、常陸の國那珂郡ナカゴヲリの莊の内太田郷オヽタガウを寺領にツケらるゝとあり。【東鑑】に、建暦元年十月十三月、鴨長明カモノチヤウメイ入道蓮胤レンイン、法華堂に參り、念誦讀經ネンジユドクキヤウアイダ懷舊クワイキウナミダシキりにモヨホす。一首の和歌を堂のハシラに題して云く、「クサもなびきし秋の霜キヘて、ムナシコケハラふ山風」今按ずるに、昔は法華堂と云モノコレのみに非ず。【東鑑】に、右大將家・右大臣家・二位家・前の右京兆等の法華堂とあり。【佐竹系圖】にも、佐竹サタケ上總の入道、比企谷ヒキガヤツの法華堂にて自害すとあり。シカれば、此の法華堂には不限(カキラざる)なり。其の比法華を信ずる人多き故、持佛堂を皆法華堂と名る歟。此法華堂を、右大將家の法華堂と云なり。
[やぶちゃん字注:以下、「賴朝墓」及び「平義時墓」の見出しの次の行以下は、底本では全体が一字下げ。「○法華堂」の項中であることを示す。以下、原則として同様の処置を施した部分については、この注を略す。]

賴朝墓ヨリトモノハカ 法華堂のウシロの山の上にあり。【東鑑脱漏】に、法華堂、西の方岳上ガクシヤウに、右幕下の御廟ゴビヤウを安ずとあり。


平の義時ヨシトキハカ 今はナシ、【東鑑】に、元仁元年六月十八日、前の奧州義時ヨシトキを葬送す。故右大將家の、法華堂の東の山の上を以て墳墓とす。號新法華堂(新法華堂と號す)とあり。

○西御門 西御門ニシミカド 〔高松寺鐘銘、御門作帝、恐非也(高松寺の鐘の銘に、御門ミカドミカドに作る、恐〔らく〕は非ならんや。)〕は、法華堂の西の廣き谷也。賴朝卿ヨリトモケウの時、西の門有し跡なり。《東御門》東御門ヒガシミカドイフ所ろもあり。南北の門も、【東鑑】に見たり。今其の跡不知(知れず)。南門は、畠山ハタケヤマ屋敷を以てカンカフれば、大倉村の邊ならん。北門は、和田合戰の時、尼御臺所アマミダイドコロ實朝サネトモ御臺所ミダイドコロ等、營中をサリ、北門より鶴が岡の別當坊へ渡御し給ふとあり。


○報恩寺舊跡〔附白旗明神社〕 報恩寺ホウヲンシの舊跡は、西御門ニシミカドの西の谷にあり。南陽山報恩護國禪寺ナンヤウサンホウヲンゴコクゼンシと號す。上杉能憲ウヘスギヨシノリを、法名道※報恩寺と號す。開山は義堂なり。【日工集】に、應安四年十月十五日に、ワレ上杉ウヘスギ兵部※公インコウの請に應じて、一刹を鎌倉城の北に創す。又永和二年十一月十三日、報恩寺の佛殿立柱(柱を立つ)。檀那上杉ウヘスギ兵部の大輔能憲ヨシノリ。入山證明(山に入〔り〕て證明す)。又永和四年四月十七日、上杉能憲敬堂道※ウヘスギヨシノリケイダウイン居士逝去、トシ四十六とあり。能憲ヨシノリは、明月院道合ダウガウアニなり。當寺の本尊、今法華堂にあり。近來カノ地藏を修復す。腹内に書付カキツケあり。繪所エトコロ宅間掃部タクマカモン法眼淨宏作す。上杉能憲ヨシノリタメに造立すと。又【空華集】に、義堂の化鐘の偈、幷にカネメイあり。其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん字注:「※」=「煙」-「火」+「言」。三箇所とも同じ。なお、底本では植字ミスによって初出箇所で活字が左を上にして転倒してしまっている。以下、鐘銘は底本では全体が二字下げとなっている。]

  報恩化鐘偈幷序

凡禪教律院法器之制、莫先於鐘、故建寺安衆、不論大小刹必先庀焉、若吾禪院、其禪誦之起止、齋粥之早晩、送迎緩急之節、皆鐘主之、加復凡聞是鐘聲也無幽顯無遠近、警昏導迷、停輪息苦、獲益者不可勝計焉、昔南陽豐山有九鐘、霜降則自鳴、今玆新寺、山稱南陽、而鐘未成、不亦缺典乎、於是爲偈代疏、仰叩諸檀官貴長者、或男或女、同心樂施成就、其福可量哉、西門有寺稱南陽、未有鳴鐘警夜長、但得諸人齊著力、一聲不待五更霜。
[やぶちゃん注:以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  報恩化鐘の偈幷に序
凡そ禪教律院法器の制、鐘より先なるは莫し。故に寺を建て衆を安〔ん〕ずるに、大小刹を論ぜず。必ず先〔づ〕コレを庀〔め〕、吾が禪院のごとき、其の禪誦の起止、齋粥の早晩、送迎緩急の節、皆鐘之を主〔ど〕る。加復シカノミナラズ凡そ是の鐘聲を聞くや、幽顯と無く遠近と無く、昏を警して迷を導き、輪を停め苦を息む。益を獲る者の勝〔へ〕て計〔ら〕ふべからず、昔し南陽の豐山に九鐘有り、霜降れば則ち自ら鳴る。今の新寺、山を南陽と稱す、而も鐘未だ成らず。亦缺典ならずや、是に於て偈を爲〔し〕て疏に代へ、仰〔ぎ〕て諸檀・官貴・長者に叩く。或は男或は女、心を同〔じく〕し施〔し〕を樂〔み〕て成就せば、其の福量るべけんや、西門に寺有り南陽と稱す。未だ鳴鐘の夜長を警むる有らず、但だ諸人の齊〔し〕く力を著〔く〕ることを得ば、一聲待たず五更の霜。
「庀〔め〕」は「をさめ」、「息む」は「やむ」、「警むる」は「いましむる」と読む。「化鐘」というのは暫くなかった鐘を新たに作り直すという意であろう。「缺典」とは規則や文書・体裁などが不完全であることを言う語。]


  相州南陽山報恩護國禪寺鐘銘幷敘

寺權輿於應安三年辛亥十月十五日、越五年鐘魚尚闕、爰有鬻高麗國銅鐘者、厥直萬錢、開基住山比丘五臺沙門義堂周信、作偈募縁而市之、乃爲銘、銘曰、維新蘭若、鐘磬未完、大哉法器、出自三韓、四佛影現、九乳星攢、厥音鏗爾、聽者咸歡、上而天界、下而冥間、警寢戒食、息苦停酸、豐嶺霜霣、禪堂月寒、扣惟無盡、應亦莫殫、庶乎萬歳、君臣永安、永和改元乙卯冬十二月日、建寺檀那關東副元帥上杉、大檀那關東都元帥左典廐源朝臣。
[やぶちゃん注:表題の最後の「敘」は底本では「序」であるが、訂した。但し、「敘」は「叙」と同字で「序」と等しい。「扣惟無盡」の「扣」は底本では「控」であるが、影印で正した。以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  相州南陽山報恩護國禪寺鐘の銘幷敘
寺は應安三年辛亥十月十五日に權輿す。ココニオヒて五年鐘魚尚を闕く。爰に高麗國の銅鐘を鬻る者有り、厥の直し萬錢、開基住山の比丘五臺の沙門義堂周信、偈を作り、縁に募〔り〕て之を市ひ、乃し銘爲る。銘に曰、維れ新蘭若、鐘磬未だ完からず。大なるかな法器、三韓より出づ。四佛影のごとく現〔は〕し、九乳星のわアツまる。厥の音鏗爾として、聽者咸歡ぶ。上にして天界、下にして冥間、寢を警して食を戒め、苦を息め酸を停む。豐嶺霜ち、禪堂月サムし、扣〔く〕時は惟れ盡ること無し。應も亦殫〔くる〕こと莫し。庶乎コイネガハクハ萬歳、君臣永安ならんことを。永和改元乙卯冬十二月日。建寺の檀那關東の副元帥上杉。大檀那關東の都元帥左典廐源朝臣。
「鬻る」は「うる」(売る)、「厥の」は「その」、「市ひ」は「かひ」(買ひ)「咸」は「みな」(皆)、「殫〔くる〕」は「つくる」(尽くる)と読む。
「乃し」は「いまし」(今し)で今の強調形で訓読していると思われる。
「鐘魚」は鐘と魚板(魚をかたどった木製の板で時を知らせるために叩く)のこと。
「九乳」は梵鐘の異称。「鏗爾」は「かうじ」で金石や高級材木などが出す音を指す。
「霣」は落ちるの意(音はイン・コン・ウン)。
「扣〔く〕時は」の「扣く」は「たたく」(叩く)で、以下の「時は」の「時」は送り仮名にある。
「應」は「オウ」と音読みして鐘の余韻のことを指しているように思われる。]


白旗シラハタ明神の社 テラ滅して社も又ホロぶ。義堂祭白幡神(白幡の神を祭る)文あり。其の略に云、慶安六年、ホシ、次癸丑(癸丑に次る)。冬十一月十五日、南陽山報恩護國禪寺、白旗大明神靈祠成るとあり。
[やぶちゃん注:「次る」は「やどる」(宿る)と読む。「歳」を「ほし」と訓じているが、これは木星のことを指す。太陽を十二年で周回する木星は歳星(さいせい:単に「歳」とも。)と呼ばれ、天文・暦法や占星術に於いて重要な役割を持っていた。]


○保壽院舊跡 保壽院ホウジユインの舊跡は、報恩寺舊跡の西南也。源の基氏モトウヂの母、保壽院淸江寛公禪尼ホウシユインセイカウクハンゼンニの菩提所なり。開山は義堂和尚。【日工集】に、應安七年九月廿九日、源の基氏モトウヂ保母ホウボ淸江夫人逝す。夫人の遺命に依て、西御門ニシミカドの別殿をナヅケて保壽院と云ふ。又幼府君ヨウフクン、保壽院に入て燒香のツイデワレ【貞觀政要】を獻してイマシ云、唐の太宗天下をヲサむ、皆此の書に在り。幕下天下を治めんとならば、亦ヨロシく此書にシタカフべしと。府君領すとあり。按ずるに、府君とは、源の氏滿ウヂミツなり。又氏滿、保壽院に入香をタキ、茶話のツイデに、義堂、氏滿ウヂミツより【吾妻鏡アヅマカヾミ】を拜借ハイシヤクして讀之(之を讀む)。實にワガ日本は、敬佛崇神(佛をウヤマひ、神をアガむる)の國なりと申されしこともあり。 又【上杉禪秀記】に、禪秀ゼンシウ亂の時、滿隆ミツタカ持仲モチナカ西御門ニシミカド保壽院にコモて、ハタアゲらるとあるは此のトコロなり。【鎌倉大草子】【鎌倉九代記】にも此事見へたり。

○高松寺〔附太平寺舊跡〕 高松寺カウセウジは、報恩寺の向ひ、東北のヤツ也。西御門ニシミカドの内なり。法華宗比丘尼テラなり。紀伊の大納言源の賴宣卿ヨリノブキヤウの母堂三浦氏、チカらをアハセて建立也。《太平寺》此の地はモト太平寺タイヘイジの舊跡なり。太平寺は、相ひ傳ふ賴朝卿、池禪尼イケノゼンニ隨侍ズイジせる姪女テツジヨあり。コレを鎌倉へ呼下ヨビクダしてヲホセに云は、禪尼の御恩ゴヲンフカしとイヘども。今世にイマさざれば報ずるによしなし。其の恩を以て汝に報ぜんと思ふ。何事にても所望あらばマウせとあり。女の云く、有爲ウイの世界にアニノゾむ事有ん哉。ワレネガハクハくは出家して、世間の女人、或は父母ヲツト有て、出家する事をユルサざる者も、一度ヒトタビ我が寺院に入て後は、其サマタゲ有べからずと云ふの免除メンシヨの寺をタテて、居住せばタンなんと云ふ。これに因て太平寺をタテて、彼の尼を以て開山とすと也。アマの法名不知(れず)。其の後源の基氏モトウヂ後裔コウエイ淸溪セイケイ和尚を中興とすと云ふ。或は云、持氏モチウヂの息女昌泰道安シヤウタイタウアン成氏シゲウヂの息女昌全義天シヤウゼンギテン生實御所ヲヒミノゴシヨ源の義明ヨシアキラの息女靑岳セイガク和尚、皆此寺に住持すと云ふ。房州の里見氏サトミウヂ兵亂の時、住持靑岳和尚をウバひ取て、ツマとしてより以來、テラ頽破タイハすとなり。イヅれの説もたしかならず。圓覺寺の開山塔の昭堂は、太平寺の佛殿なりと云ふ。《福嚴寺》三浦の長柄ナガエ福嚴寺フクゴンジと云あり。太平寺の隠居也。今は建長寺龍峯菴の末寺也。【鎌倉年中行事】に、公方樣御寺クバウサマヲンテラと申は、淨妙寺・長壽寺・大休寺・延福寺・瑞泉寺・長德寺・永安寺・勝光院・太平寺・天壽院・冷光院・保壽院、以上十二箇所也とあり。此外比丘尼の五山の事あり。今皆ホロびたり。


鐘樓〔鐘銘あり〕
[やぶちゃん字注:「〔鐘銘あり〕」は底本では「鐘樓」の項目見出しに続く文になっているが、これは影印によって割注であることが判明したので、訂した。以下、鐘銘は底本では全体が二字下げとなっている。]

  高松寺鐘銘

東海路、相模國、鎌倉郡、西帝谷、法華尼道場之根本、山名壽延、寺號高松、三浦藤氏定環女、水野前文主監源忠元之簾中、高松院日仙之所創建也、臻當世殿堂門、楣百擧悉足、猶恨未有洪鐘已久矣、於是高松之女、前淡州太守源重良之閨中、慧雲院覿之不耐、發普救濟六趣四生、驚昏啓聵、兼而擬當息女理應院日通大姉之開悟之弘願、取其遺財、鑄鎔華鯨焉、敢非欲求稱譽、所以肅送迎齊教令、使人天幽明異類、因音聞以返開自性、成無上道也、是則寺之完美、爲之銘曰、傳聲之器、範金烹銅、資汝考撃、爾響四通、下徹地府、上振天宮、脱幽出厄、驚昏啓蒙、破鴛鴦睡、驚蝴蝶夢、萃賢迎聖、累德積功、十方無間、如風度空、山怪告漢、霜降鳴豐、方石有罄、洪音無窮、物我由聽共證圓融、維時寛文第十一、太歳辛亥南呂上浣日、檀越一色右京源朝臣直房内室、住持比丘尼妙雲院日隆、長谷正東兩山嗣法境心日勝謹誌。
[やぶちゃん注:以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  高松寺鐘の銘
東海路、相模の國、鎌倉郡、西帝谷ニシミカドガヤツ、法華尼道場の根本、山を壽延と名〔づ〕け、寺を高松と號す。三浦藤氏定環のムスメ水野ミツノ前の文主監源の忠元の簾中、高松院日仙の創建する所なり。當世に臻〔り〕て殿堂門楣、百擧悉く足る。猶を恨〔むら〕くは未だ洪鐘有らざること已に久きを、是〔に〕於〔て〕高松の女め、前の淡州の太守源の重良の閨中、慧雲院之を覿て耐へず、普く六趣四生を救濟し、昏を驚し聵を啓かんことを發し、兼て當息女理應院日通大姉の開悟の弘願に擬して、其の遺財を取て、華鯨を鑄鎔す。敢て稱譽を求〔め〕んと欲するに非ず、送迎を肅み教令を齊へ、人天幽明異類をして、音開に因て以て返〔り〕て自性を開き、無上道を成さしむる所以んなり。是則〔ち〕寺の完美なり。之が銘〔を〕爲〔し〕て曰く、傳聲の器、金をイガタし銅をる。汝に資〔し〕て考撃し、爾が響〔き〕四に通す。下、地府に徹し、上、天宮に振ふ。幽を脱し厄を出〔だ〕し、昏を驚し蒙を啓く。鴛鴦の睡を破り、蝴蝶の夢を驚〔か〕す。賢を萃め聖を迎へ、德を累ね功を積む。十方間て無く、風の空を度るがごとし。山怪漢に告〔げ〕、霜降〔り〕て豐に鳴る。方石はツクルコト有〔る〕とも、洪音は窮り無〔かり〕けん。物我聽に由〔り〕て共に圓融を證せん。維れ時寛文第十一、太歳辛亥、南呂上浣の日、檀越一色右京源の朝臣直房内室、住持比丘尼妙雲院日隆、長谷正東兩の山の嗣法境心日勝謹〔み〕て誌す。
「臻〔り〕て」は「いたりて」、「肅」は「つつしみ」、「齊へ」は「そろへ」、「萃め」は「あつめ」(集め)と読む。「聵」は音「ガイ・ゲ・カイ」で、耳が聞こえないこと、聾者を意味する。
「華鯨」は梵鐘の異称。影印では「使人天幽明異類」の「使」の字には右下に「シテ」の送り仮名、左側面に「ムル」の送り仮名と「中」、その下に「二」点が打たれている。取り敢えず上記のように二回繰り返して使用して訓読したが、このような漢文訓読法は私は見たことがない。識者の御教授を乞うものである。
「爾が」は影印では「爾カ」であるが一応、私は「これが]という指示語として訓読した。
「十方間て無く」の「間て」は「へだて」と読んでいるものと思われる。]

○來迎寺 來迎寺ライカウジは、高松寺の南隣なり。時宗、一遍上人の開基、藤澤フジサワの淸淨光寺の末寺なり。或人【來迎寺勸進の状】一卷を所持す。來迎寺には無之(之無し)。藤原の行能が筆跡なり。其の文如左(左のごとし)。

[やぶちゃん字注:以下、「來迎寺勸進状」は底本では全体が二字下げとなっている。]

來迎寺勸進沙門了然、敬白、請殊蒙十方檀那助成建立一宇精舍、安置金銅彌陀如來一光三尊像、勸修不斷念佛、引導法界羣類状、右當于鎌倉縣、有小笠原谷、谷中構簫寺之基趾、山下排草舍之道場、奉安彌陀佛、號曰來迎寺、草創仍、雖起自伴氏之靈夢、〔事見縁起〕茅苫未全、獨難覆本尊之聖容、烏瑟之相好何處安矣、不異祗桓寺之荒蕪、雁宇之締構何日成焉、孰與姑蘇臺之寂寞、空對低屋之卑室、唯冀成風之不日、如了然者、十忍之法衣無全、何有薛襟募工之價、八定之資粮甚乏、豈有蔬鉢分食之備乎、若非十方檀那加被、爭遂一宇華構之懇丹、依玆唱知識於處々、莫恥寸鐵尺木之奉加、仰助成於人々、誰厭小因大果之施入、潯陽九派之水、起自濫觴之流、華嶽千仞之峯、始于飛塵之土、誰謂功不甚大、豈褊施之微少、中懷之懇緒不幾、纔開三間四面蘭若建立、本尊之冶鑄雖終、猶泥一光三尊蓮容安置、涯分之志、地望未達、仰願十方貴賤、宜與我大功誓願、乃至四衆男女、蓋憐此無縁之善巧、善力有餘之故、現世各々保萬葉之延壽、化功歸已之故、當生皆預三華之接手、仍勸旨趣奉唱如件。
[やぶちゃん注:以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
來迎寺勸進の沙門了然、敬〔ひ〕て白す。殊に十方檀那の助成を蒙り、一宇の精舍を建立し、金銅の彌陀如來一光三尊の像を安置し、不斷念佛を勸修し、法界羣類を引導せんと請ふ状。右鎌倉縣に當〔り〕て、小笠原がヤツ有り、谷中に簫寺の基趾を構へ、山下に草舍の道場を排き、彌陀佛を安じ奉り、號して來迎寺と曰〔ふ〕。草創※に仍る。伴氏の靈夢より起〔こる〕と雖〔も〕、〔縁起に事は見〔え〕たり〕茅苫未だ全からず、獨り本尊の聖容を覆ひ難し。烏瑟の相好何の處にか安〔らは〕ん。祗桓寺の荒蕪に異ならず。雁宇の締構何〔れ〕の日か成〔ら〕ん。姑蘇臺の寂寞に孰與イヅレ、空〔し〕く低屋の卑室に對す。唯〔だ〕冀〔く〕は成風に日あらざらんを。了然がごとき者、十忍の法衣全きこと無し。何ぞ薛襟工を募るの價ひ有〔ら〕ん。八定の資粮甚だ乏し。豈に有蔬鉢食を分〔くる〕の備へ有らんや。若し十方檀那の加被に非〔ず〕ば、爭〔で〕か一宇華構の懇丹を遂〔げ〕ん。玆に依〔り〕て知識を處々に唱ふ。寸鐵尺木の奉加に恥〔づ〕ること莫〔か〕れ。助成を人々に仰ぐ。誰か小因大果の施入を厭はん。潯陽九派の水、濫觴の流れより起り、華嶽千仞の峯、飛塵の土に始〔ま〕る。誰か謂ふ功甚だ大ならずと。豈に褊施の微少ならんや。中懷の懇緒幾ならず、纔〔か〕に三間四面蘭若の建立を開く。本尊の冶鑄終〔る〕と雖ども、猶を一光三尊蓮容安置に泥む。涯分の志、地望未だ達せず、仰ぎ願〔ふ〕は十方の貴賤、宜〔し〕く我が大功の誓願にクミすべし。乃至四衆の男女、蓋ぞ此の無縁の善巧を憐れまざらん。善力有餘の故に、現世各々萬葉の延壽を保ち、化功歸已の故に、當生皆三華の接手に預〔け〕ん。仍〔り〕て勸旨の趣き唱へ奉ること件のごとし。
「泥む」は「なづむ」と読む。
「※」は{「権」-「木」+(下に)「旧」}の字であるが、字義も読み不明であるが、これは「舊」の異体字か誤字ではあるまいか。識者の御教授を乞う。
「排き」は「ひらき」(開き)と読んでいるものと思われる。
「安〔らは〕ん」は「ン」のみが振られており、訓読は私の推測である。
「爭〔で〕か」は「いかでか」と訓読した。]

○東御門 東御門ヒガシミカドは、法華堂の東鄰なり。賴朝卿の時、東門ありと云ふ。西御門ニシミカドの條下と、テラミルへし。


荏柄天神圖


○荏柄天神〔附和田平太胤長屋敷〕 荏柄エガラ〔荏或作草(荏、或は草に作る)〕の天神は、大倉オホクラ村の東、海道の北なり。當社は賴朝卿の時より有なり。しかれども祝融のハザハ度々タビ/\にて、記録不傳(傳はらず)、文獻徴とすべきなし。【東鑑】に、正治三年九月十一日、荏柄エガラ社祭ヤシロマツリなりとあり。又建暦三年二月二十五日、澁河シブカハ刑部の六郎兼守カネモリ、十首の詠歌を、荏柄エガラの聖廟に進ずとあり。今十九貫二百文の御朱印あり。別當を一乘院と云ふ。眞言宗、洛の東寺の末寺なり。本社に菅丞相束帶の像を安す。作者不知(知れず)。アシ膝燒ヒザヤケふすぶりてあり。 五臟六腑を作り入れ、内にレイカケシタとし、頭内に十一面觀音を作りこむと云ふ。又門前に、關取場セキトリバと云所ろあり。今はハタケとす。相ひ傳ふ、北條氏直ホウデウウジナヲより、ミヤの前に關をすへ、關錢セキセントリ、宮造營の爲に寄附せられし所ろなりと。其の關札板に書付カキツケ今にあり。鶴が岡の一の鳥居より、當社馬場前バヽサキまで、六町バカリあり。
[やぶちゃん注:底本では「燒ふすぶりてあり」とあるが、影印の「ふすぶりてあり」を採った。]


神寶
[やぶちゃん字注:以下、各項目の次行以降は、底本では一字下げ、漢詩群及び漢文「江亭記」は底本では全体が二字下げとなっていて、漢詩や作者名では字配も有意に間隙を設けているが、省略した。]
天神自畫の像 壹幅 【ヲホ日記】に、長享元年、荏柄エガラの天神、駿河スルガより還座、自筆の畫像也とあり。是ならん。
龜山帝の院宣 壹通 弘安三年五月五日、權大納言、あてどころは、民部卿法印御房とあり。
源尊氏ミナモトノタカウヂ自畫自讚の地藏 壹幅 讚文如左(左のごとし)。
夢中有感通、令我畫尊容、利濟徧沙界、善根無所竆、爲天化藏主、仁山書、文和四年六月六日(夢中に感通有り、我をして尊容をエカヽしむ。利濟沙界に徧く、善根竆る所ろ無し、天化藏主が爲に、仁山書す。文和四年六月六日)とあり。仁山は、尊氏の道號なり。【梅松論】に、尊氏、ミ〔ヅカラ〕毎日地藏を圖繪し、自讚御判有とあり。駿州淸見寺にも、右の如くなる尊氏自讚の地藏の像あり。
[やぶちゃん注:「自」には「ミ」のみの読みが振られているので、例外的に表記のように補った。]


【瑜伽論】 貳卷 菅丞相の筆、ナガサ二寸五分、一行に二十五字。此論は一部百卷の物なり。シカルを十卷にカキつゞめらる。其内の二卷なり。餘は極樂寺ゴクラクジに三卷、金澤カナザハ稱名寺シヤウミヤウジに一卷、高野金剛三昧院に一卷、竹生島に一卷アハセて八卷は今尚を存す。其外の卷は、在所不知也(知れざるなり)。

天神の名號 壹幅 將軍源の義持ヨシモチ筆、南謨天滿大自在※神ナムテンマンタイジザイテンジン、顯山と有て、義持の花押クワアフあり。顯山は、義持ヨシモチの道號なり。
[やぶちゃん字注:「※」=(くさかんむり)+「曳」。]

同 壹幅 鶴滿丸ツルミツマル六歳書すとあり。相ひ傳ふ、親鸞上人の童名なりと。

【心經】 壹卷 紺紙金泥、源の基氏モトウヂの筆なり。

【法華經】 壹部 三浦の道寸ダウスンが筆也。

同 壹部 大覺禪師の筆也。

【天神の縁起】 三卷 書は土佐が筆、詞書コトバガキは藤原の行能なり。當社の縁起にてはなし。菅丞相一代の事跡をかけり。

歌仙 三十枚 三藐院の關白信尹ノブタヾの筆也。六枚不足。

アウキ地紙ヂガミ 壹枚 古歌八首を書、其内二首、はしがきあり。台德公の御自筆也。

カタナ 壹腰 正宗マサムネが作と云。無銘。長さ一尺三寸五分、廣さ三寸五分。今の世に小刀チヒサガタナと云製也。指表サシヲモテムメウラに天蓋不動の梵字、倶利伽羅クリカラを彫る。大進坊が彫物也。サヤ黑塗クロヌリ也。梅の蒔繪マキヱ有り。

カウガヒ 壹本 後藤祐乘が彫物ホリモノ、梅なり。長さ九寸五分。

詩板 壹枚 梅の詩をヱリたる板なり。又此詩を寫して一軸となしてヲサむ。井伊の掃部の頭直孝ナヲタカの家臣、岡本ヲカモト半助石上宣就イソノカミノノブナリが筆なり。其の詩如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、影印に拠る漢詩本文の書き下しは見た目の不統一を考え、直後に二字下げ各句改行でそのまま(送り仮名の追加をせずに、そのままで)示した。]


  賀神前種梅人〔於荏柄天神一字分韻〕(神前に梅を種〔ゑ〕人を賀す〔荏柄天神於て一字分韻〕)

              前壽福建宗長會
聖朝翼贊獨能文。  靈廟年深北野君。
東閣官梅春不老。  移來鋤破一庭雲。
              前の壽福建宗長會
  聖朝の翼贊獨り文を能す
  靈廟年深し北野の君

  東閣の官梅春老ひず
  移し來て鋤破す一庭の雲


              曲江繼趙
菅廟依山山日輝。  栽梅人欲詠梅歸。
如傳神語丁寧謝。  黄鳥穿花自在飛。
              曲江繼趙
  菅廟山に依て山日輝く
  梅を栽る人梅を詠して歸んとす

  神語を傳て丁寧に謝するがごとし
  黄鳥花を穿て自在に飛ぶ

              前建長東岳文昱
菅君降迹顯神威。  官客移梅對靈闈。
無限東風吹雪盡。  淸香和月入春衣。
              前の建長東岳文昱
  菅君迹を降して神威を顯す
  官客梅を移て靈闈に對す

  限り無き東風雪を吹き盡す
  淸香月に和して春衣に入る

              前建長像初聞光
調鼎有功王佐才。  神前得意手栽梅。
一生只被此花惱。  人道菅丞相再來。
              前の建長像初聞光
  調鼎功有り王佐の才
  神前意を得て手から梅を栽ゆ

  一生只此の花に惱さる
  人は道ふ菅丞相再たひ來ると
[やぶちゃん注:「調鼎」とは宰相のこと。]


              前淨智慶堂資善
史君材質世楩楠。  淸廟栽梅春半酣。
應使德香天下遍。  一枝開北一枝南。
              前の淨智慶堂資善
  史君の材質世楩楠
  淸廟梅を栽て春半は酣なり

  應に德香をして天下に遍からしむべし
  一枝は北に開き一枝は南
[やぶちゃん注:「楩楠」は「べんなん」と読み、クスノキのことで、天下の名木、ひいては最上を言う。]

              大建臣幢
知君材力在扶顚。  分種官梅菅廟前。
壁畫詩人三十六。  對花無語又年々。
              大建臣幢
  知ぬ君か材力顚るに扶るに在るを
  官梅を分ち種ふ菅廟の前

  壁畫の詩人三十六
  花に對して語無く又年々
[やぶちゃん字注:転句「壁畫」の「畫」は、底本では最終画で「田」の字の左右に縦画が入る(上の部分には接続しない形)が、これはどうも印刷会社の植字のストックの中にこの異種字が混じっているものらしく、他を見ると通常本文の「畫像」等の「畫」の字もこの異字であったり、「畫」であったりしているので、通常字体の「畫」とした。以下、出現しても注は略す。「顚る」は「くつがへる」と読む。]


              前壽福大茂淨林
忠孝兼全誰匹儔。  不知何以答神休。
官梅移入菅宮裡。  花萼相輝月一樓。
              前の壽福大茂淨林
  忠孝兼全し誰か匹儔ならん
  知らず何を以てか神休に答ん

  官梅移し入る菅宮の裡
  花萼相ひ輝く月一樓
[やぶちゃん注:「匹儔」は「ひつちう」と読み、匹敵の意。]

              海東聞爾
丞相祠堂地自淸。  種梅爲壽國昇平。
山雲吹散慈容現。  月在寒稍夜々明。
[やぶちゃん注:結句は底本では「年在寒稍夜々明」であるが、影印では上記の通り。訓読から誤植と見て、こちらを採る。]

              海東聞爾
  丞相の祠堂地自淸し
  梅を種て壽を爲す國の昇平

  山雲吹散して慈容現す
  月は寒稍在て夜々明し


              前建長久菴僧可
栽梅階下享天神。  他日必成調鼎人。
信種星兒心地濶。  淸香遍界萬年春。
              前の建長久菴僧可
  梅を階下に栽て天神に享す
  他日必ず調鼎の人成ん

  信種星兒心地濶し
  淸香遍界萬年の春

              前淨智堅仲妙彌

封植梅花結好因。  威權在手宰臣身。
和光遍照三千界。  天下稱之北野神。
              前の淨智堅仲妙彌
  梅花を封植して好因を結ふ
  威權手に在り宰臣の身

  和光遍く照す三千界
  天下之を稱す北野の神

              相陽存香
國家柱石法英檀。  菅廟栽梅月下看。
應是神君多喜色。  暗香夜入御簾寒。
              相陽の存香
  國家の柱石法の英檀
  菅廟に梅を栽て梅月下に看る

  應に是れ神君喜色多かるべし
  暗香夜御簾に入りて寒し

              信陽心榮
菅氏名高宇宙中。  千詩百賦意無窮。
宮墻添得宮梅樹。  也識靈神有感通。
              信陽の心榮
  菅氏名高し宇宙の中
  千詩百賦意窮り無し

  宮墻添得たり宮梅の樹
  也た識る靈神感通有ことを
[やぶちゃん注:結句「也た」は「ただ」(唯)と訓じていると思われる。]

              赤城芳尊
皂蓋移梅雨後山。  神靈應是破天顏。
至誠以代溪毛薦。  無限馨香滿世間。
              赤城の芳尊
  皂蓋梅を移す雨後の山
  神靈應に是れ天顏を破るなるべし

  至誠以て溪毛の薦に代ふ
  限り無き馨香世間に滿つ
[やぶちゃん注:「皂蓋」は「さうがい」と読んで、黒い覆いのこと。雨後の灰色の空を言うか。]

              黑駒聞興
官暇愛梅栽掖垣。  黄昏移影傍宮門。
山庭碧淺長鑱雨。  ※破靑苔春一痕。
[やぶちゃん注:「※」=「属」+「斤」。]
              黑駒の聞興
  官暇梅を愛して掖垣に栽ゆ
  黄昏の影を移して宮門に傍ふ
  山庭碧り淺し長鑱の雨
  ※破す靑苔春一痕
[やぶちゃん注:「掖垣」は宮殿等の両側に作られた垣根のこと。「傍ふ」は「そふ](添う)と読む。「長鑱」は「ちやうざん」と読み、柄の長い鋤のこと。「※破す」は「ちよくは・とくは・さくは」と読み、鋤で突き崩すことを言うのであろう。]


              前建長心源希徹
種梅菅廟玉庭傍。  添得天神靈跡光。
調鼎功名今尚在。  德香長共此花香。
              前の建長心源希徹
  梅を種ゆ菅廟玉庭の傍
  添へ得たり天神靈跡の光
  調鼎の功名今尚を在り
  德香長に此の花と共に香し


              金華永杲
威靈如在與天齊。  庭宇栽梅探品題。
花譜眞人朝午夜。  暗香送月玉階西。
              金華の永杲
  威靈在すかごとくにして天と齊し
  庭宇梅を栽て品題探る
  花譜眞人午夜に朝す
  暗香月を送る玉階の西
[やぶちゃん注:作者の僧号「永杲」は「えいかう」と読む。]

              範堂圓摸
社稷奉神傾至誠。  廟廊英器國干城。
花中御史衞門外。  日月高懸七字名。
              範堂圓摸
  社稷神を奉して至誠傾く
  廟廊の英器國の干城
  花中の御史衞門の外
  日月高く懸る七字の名


              菊隠中亮
移得江南第一株。  芳姿千歳鎭靈區。
調羹慣入湯王夢。  松樹任他秦大夫。
[やぶちゃん注:「湯王」の「湯」は、底本では「渇」の「ヒ」が(「兦」-「入」+「人」)であるが、暫く影印に従うこととする。同じく「松樹任他」は底本では「松樹任地」であるが、何れも私には訓読の意味不明のため、取り敢えず影印で訂した。本詩の転・結句の故事成句、訓読及び意味を含めてお手上げである。識者の御教授を乞う。]
              菊隠中亮
  移し得たり江南の第一株
  芳姿千歳靈區を鎭す
  調羹湯王の夢に入るに慣ふ
  松樹任他あれ秦の大夫


              養愚宗育
天神靈廟亂山深  階下幽庭座不侵
應獻淸香成欝鬯。  黄金難鑄種梅心。
              養愚宗育
  天神の靈廟亂山深し
  階下の幽庭座侵さず
  應に淸香を獻して欝鬯と成すべし
  黄金鑄難し梅を種る心
[やぶちゃん注:「欝鬯」は「うつちやう(うっちょう)」と読み、周王が先祖を祭る祭祀の中で祖霊に捧げられる御神酒のこと黍を発酵させて醸造した酒に鬱金(ウコン)を混ぜたものという。]


              龍湖中簡
豈同薄俗薦溪毛。  獨種梅花不種桃。
仰止上天封七字。  美名照世古今高。
              龍湖中簡
  豈に薄俗の溪毛を薦るに
  獨り梅花を種て桃を種へず
  上天に仰止して七字に封せらる
  美名世を照して古今高し
[やぶちゃん注:「薄俗の溪毛」は「世の常の水気を好む植物」の意か。「薦るに」は恐らく「そなふるに」(供えるに)と訓じていると思われる。]

              前建長大綱歸整
丞相祠堂歳月遙。  栽梅庭下得春饒。
開花未必爭先後。  雪自南枝次第消。
              前の建長大綱歸整
  丞相の祠堂歳月遙なり
  梅を栽て梅庭下春を得ること饒し
  花を開ことは未だ必す先後を爭はず
  雪は南枝より次第に消す
[やぶちゃん注:「饒し」は「おほし」(多し)と読んでいるものと思われる。]

              東郊中田
靈宮維德配天居。  宇宙神威日赫如。
瑤砌種梅人共聖。  春風花影雪踈々。
              東郊中田
  靈宮維れ德天に配て居す
  宇宙神威日に赫如たり
  瑤砌梅を種て人聖に共ふ
  春風花影雪踈々
[やぶちゃん注:「赫如」は「しやくじよ)」で眩しいまでに光り輝くことか。「瑤砌」は「えうせい・えうさい」と読んで、石の階(きざはし)の意。「共」は恐らく「供」で「そなふ」と読んでいる。「踈々」は「しよしよ・そそ」と読み、疎らであることを言う。]


              西湖門獻
我法英檀誠有功。  況種梅樹近神宮。
聲名不滅菅家主。  遍界春香花信風。
              西湖門獻
  我か法の英檀誠に功有り
  況や梅樹移して神宮近く
  聲名滅せず菅家の主
  遍界春香し花信の風


              宗傳良教
菅宮翼々出雲層。  雄鎭東津氣象増。
栽得官梅和月立。  照人神鑑冷於冰。
              宗傳良教
  菅宮翼々として雲層を出づ
  東津を雄鎭して氣象増す
  官梅を栽得て月に和して立つ
  人を照す神鑑冰より冷かなり


              心聞性聰
一樹種梅丞相祠。  春風得意雨晴時。
德香長屬調羹手。  絶勝甘棠曾入詩。
              心聞性聰
  一樹梅を種丞相の祠
  春風意を得て雨晴る時
  德香長に調羹の手に屬して
  絶勝す甘棠の曾て詩に入るに


              祖牧
遺廟種梅春正濃  良哉此地示靈蹤。
昭々神德堪瞻仰。  一夜新生千樹松。
              祖牧
  遺廟梅を種て春正に濃なり
  良かな此の地靈蹤を示す
  昭々たる神德瞻仰に堪だり
  一夜新に生す千樹の松


              相城東秀
何啻輔君能正邪。  敬神故是種梅花。
信根不淺起於地。  百世留春保國家。
              相城の東秀
  何ぞタヾ君を輔て能く邪を正すのみならん
  神を敬して故に是れ梅花を種ふ
  信根淺からず地より起る
  百世春を留めて國家を保たん


              前淨智無言昌謹
菅家遭廟幾春秋  官客栽梅傍玉樓
紅白香飄花世界。  更無閒夢到羅浮。
              前の淨智無言昌謹
  菅家の遺廟幾春秋して
  官客梅を栽て玉樓に傍ふ
  紅白香飄る花の世界
  更に閒夢の羅浮に到る無し


              長川祥久
把百花魁深種時。  宮前重有德香吹。
神風永與春風扇。  留得江南第一枝。
              長川祥久
  百花の魁を把て深く種る時
  宮前重て德香の吹有り
  神風永く春風と扇く
  留得たり江南の第一枝
[やぶちゃん注:「扇く」の読みは「あふぐ」。]


              柏堂純榮
天神垂迹境増佳。  環植梅花漏玉※。
應是百靈來擁護。  儼然廟貌在巓崖。
[やぶちゃん注:「※」=「王」+「皆」。底本では「玉階」。同義であろう。]
              柏堂純榮
  天神迹を垂て境増々佳なり
  梅花を環し植て玉※に滿つ
  應に是れ百靈の來て擁護するなるべし
  儼然たる廟貌巓崖に在り


              前壽福東曙等海
雲靈省近上臺星。  肅々行宮夜不扃。
酒掃何人千載後。  孤芳約月植中庭。
              前の壽福東曙等海
  雲靈省は上臺星に近し
  肅々たる行宮夜扃
  酒掃何人ぞ千載の後
  孤芳月に約め中庭に植ふ
[やぶちゃん注:「扃」は「とざす」(鎖す)と訓じているのであろう。「約め」は「しめ」と読ませているか。]


              縱壑光巨
瞻仰神光慕德香。  栽梅更好近彫梁。
社前巫覡祝君壽。  便與虚空較短長。
              縱壑光巨
  神光を瞻仰して德香を慕ふ
  梅を栽て更に好し彫梁に近くに
  社前の巫覡君か壽を祝す
  便ち虚空と短長を較ふ


              大中正憧
丞相祠堂崖谷阿。  憑高禁禦列逶迤。
料知明鑑無偏照。  添種梅花月色多。
              大中正憧
  丞相の祠堂崖谷の阿
  高に憑る禁禦列て逶迤たり
  料り知る明鑑偏照無ことを
  梅花を添種て月色多し
[やぶちゃん注:「逶迤」は「いだ」と読み、うねうねと曲がりくねって続くことをいうが、この承句、私には意味がしっくりこない。識者の御教授を乞う。「料り」は「はかり」と読む。]


              石上宣就
右荏柄聖廟神前、賀栽梅人之詩數篇、東關五岳耆老之傑作也、宮寺一乘院先師、鏤板擣梁以爲席上之奇觀、然歳月久而板面爛朽、惜乎成蠹棲、文字漸欲泯、因玆一乘院當住柳長師、因余需書楮上、其憚雖不少、師之命難固辭、掃醫眼揮龜手、染禿毫淋亂墨、鳴呼、顧余多年疎嬾、筆硯以塵埃、頽齡勞衰、胸襟無覺知、恐字々烏焉爲馬、傍眼潤色所希而已矣、楮末有餘白、卒綴野詞、以奉仰神威云爾、爲傳正續萬年芳、各植梅花聖廟傍、神德與陰陽共遍、靈威兼日月齊光。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓読に従って読み下したものを示す。

              石上宣就イソノカミノブナリ
荏柄エガラの聖廟の神前、賀梅を栽る人を賀するの詩數篇、東關の五岳耆老の傑作なり。宮寺一乘院の先師、板にり梁に擣て以て席上の奇觀と爲す。、然れとも歳月久〔しく〕して板面爛朽、惜ひかな、蠹棲と成〔らん〕ことを。文字漸く泯〔び〕んと欲す。玆に因て一乘院の當住柳長師、余に因て楮上に書〔か〕んことを需む。其の憚り少からず雖ども、師の命固く辭し難し。醫眼を掃ひ龜手を揮ひ、禿毫を染め亂墨を淋く、鳴呼、顧ふに余多年疎嬾、筆硯以て塵埃、頽齡勞衰、胸襟覺知無し。恐〔るる〕は字々烏焉馬と爲る。傍眼の潤色希ふ所〔ある〕のみ。楮末餘白有り、卒に野詞を綴〔り〕て、以て神威を仰ぎ奉るとのみ云〔ふ〕。正續萬年の芳を傳へんが爲に、各々梅花を植ふ聖廟の傍ら、神德は陰陽と共に遍し。靈威は日月と光を齊ふ。
「泯〔び〕ん」は「ほろびん」(滅びん)、「齊」は「そろふ」(揃う)と読む。「蠹棲」は「こせい・とせい」と読み、紙魚(シミ)が棲みつくことを言う。「疎嬾」は「そらん」と読み、怠惰で投げやりなさまを言う語。「醫眼」とあるからには、石上宣就の本職は医師であったか。]


【江亭記】 壹卷 其文如左(左のごとし)。

  寄題江戸城靜勝軒詩序
武州江戸城者、太田左金吾道灌源公所肇築也、自關以東與公差肩者鮮矣、固一世之雄也、威愛相兼風流籍甚、比來騒亂以來、欽承王命者、八州内才三州、三州之安危係于武之一州、武之安危係于公之一城、可謂二十四郡唯一人、夫城之爲地、海陸之饒、舟車之會、他州異郡蔑以加焉、壘之高十餘丈、懸崖峭立、固以繚垣者數十里許、外有巨溝浚塹、咸徹泉脉瀦以粼碧[やぶちゃん字注:「粼」の(つくり)にはもう一つ「く」が付いているが、本字で示した。]、架巨材爲之橋、以爲出入之備、而鐵其門、石其墻、磴其徑左盤右紆、聿升其壘公之軒峙其中、閣踞其後、直舍翼其側、戌樓保障庾厩廠之屬、爲屋者若干、西望則逾原野、而雪嶺界天、如三萬丈白玉屏風者、東視則阻墟落、而瀛海蘸天、如三萬頃碧瑠瑙田者、南嚮則浩乎原野、寛舒廣衍、平蕪茵布一目千里、野與海接、海與天連者、是皆公几案間一物耳、以故軒之南名靜勝、東名泊船、西名含雪、公息斯遊斯、則一日早午晩之異、一年春夏秋之變、千態萬状拍几可翫者、雖互出更呈、而所以出焉呈焉者凡三焉、東瀛晨霞之絢如、南野薰風之颯如、西嶺秋月之皎如者、天之所與也、遠而漚波曙兮島嶼分、鴉背曛兮岡巒紫、近而腴田旁環、陂水常足、某林可樵、某叢可蘇者、地之所獻也、城之東畔有河、其流曲折而南入海、商旅大小之風帆、漁獵來去之夜篝、隠見出沒於竹樹烟雲之際、到高橋下、繋纜閣櫂、鱗集蚊合、日々成市、則房之米、常之茶、信之銅、越之竹箭、相之旗旄騎卒、泉之珠犀異香、至鹽魚漆枲、巵筋膠藥餌之衆、無不彙聚區別者人之所賴也、於呼不出此室、收天地人以爲吾有、韙哉於是乎、懼其搖而散正矣慮其躁而失常矣、杜戸瞑目厚養弗已、發之於言則淸者成歌詞、和者成政化、然後乃定其神、乃寧其氣、神與氣合而太淸爲輿、元氣爲馬、逍遙於玄々無窮之域、則雖鬼神弗克測其機也矣、靑牛眞人有曰、躁勝寒靜勝熱、淸淨爲天下正、蘇灣城解之曰、成而不缺、盈而不冲、譬如躁之不能靜靜之不能躁耳、夫躁能勝寒而不能勝熱、靜能勝熱而不能勝寒、皆滯於一偏而非其正也、唯泊然淸淨不染於一、非成非缺、非盈非冲、而後無所不勝、可以爲天下正矣、今也公之以所守扁於軒、不翅勝熱、無所不勝、則宇宙間與公相爭而相戰者未之有也、所謂可以爲天下正者也、其不知焉者、咸謂公之威愛、能俾人忻懼矣、如舍雪泊船者、浣花老人蜀中倦遊之境、題扁所及、而以此地同此景摘以爲名、在公乃吟中一風流爾、聽松村菴翁由幼至老、鴻藻片章、被於天下、其名諠傳者、六十餘年於此矣、是以公欲需翁題詩其上者、蓋亦有年矣、丙申夏、適介人請詩及跋、且要屬能言之二三子題于後、書于板、掛于室、俾關左人歌之、翁告予曰、我未嘗東遊、奚以得措一辭、幸子所目撃述以序可也、予退讓弗允、蓋予之序乘韋也、翁之詩與跋呉※也、遂以所聞見者次而爲之序、文明八年丙申、秋八月、羣玉峯叟蕭菴龍統、
[やぶちゃん注:最後の方にある「※」は底本では「鼎」であるが、影印では「※」=(上)「日」+(下)「折」である。影印で訂した。意味は不明であるが、甚だ優れたもののことを謂うか。
 以下、ここまでの「序」について、影印の訓点に従って訓読したものを示す。

  江戸城靜勝軒に寄題す詩の序
武州江戸城は、太田左金吾道灌源公の肇〔め〕て築く所なり。關より以東、公と肩を差する者の鮮し。固に一世の雄なり。威愛相〔ひ〕兼〔ね〕、風流籍甚なり。比來騒亂より以來、ツヽシんで王命を承る者の、八州の内、才に三州、三州の安危、武の一州に係り、武の安危、公の一城に係る。謂〔ひ〕つべし、二十四郡唯一人と。夫れ城の地たる、海陸の饒なる、舟車の會、他州異郡以て加〔ふ〕ること蔑し。壘の高きこと十餘丈、懸崖峭立〔し〕て、固く繚れる垣を以〔て〕する者の數十里許〔り〕、外に巨溝浚塹有〔り〕、咸な泉脉に徹してミヅタめて以て粼々〔として〕碧たり。巨材を架して之を橋と爲〔し〕、以て出入の備と爲す。其〔の〕門を鐵にし、其〔の〕墻を石にし、其〔の〕徑をイシタヽミにす。左に盤り、右に紆る。聿に其のソコに升れば公の軒、其の中にソビへ、閣其の後に踞す。直舍其の側に翼し、戌樓・保障・庫庾・厩廠の屬、屋たる者若干。西に望めば則〔ち〕原野をへて、雪嶺天を界ふ、三萬丈白玉の屏風のごとき者。東に視れば則〔ち〕墟落を阻〔み〕て、瀛海天を蘸す、三萬頃の碧瑠瑙田のごとき者。南に嚮〔へば〕則〔ち〕浩乎たる原野、寛舒廣衍、平蕪茵のごとくに布き、一目千里、野、海と接し、海、天と連〔な〕る者。是れ皆、公の几案の間の一物のみ。故を以〔て〕軒の南を靜勝と名〔づ〕け、東を泊船と名〔づ〕く。西を含雪と名〔づ〕く。公、斯に息ひ斯に遊ぶ時は、則〔ち〕一日早午晩の異、一年春夏秋の變、千態萬状、几を拍〔ち〕て翫ぶべき者、互に出〔でて〕更々呈〔す〕と雖ども、焉に出〔で〕焉に呈する所以の者のおよそそ三なり。東瀛晨霞の絢〔の〕ごとき、南野薰風の颯〔の〕ごとき、西嶺秋月の皎〔の〕ごときは、天の與〔ふ〕る所なり。遠〔き〕にては漚波アケに島嶼分れ、鴉背の曛〔れ〕て岡巒紫きなり。近〔き〕にては腴田旁に環り、陂水常に足る。某の林樵すべき、某の叢蘇すべき者のは、地の獻ずる所なり。城の東畔に河有り、其の流〔れ〕曲折して南の方、海に入る。商旅大小の風帆、漁獵來去の夜篝、竹樹烟雲の際に隠見出沒す。高橋の下に到〔り〕て、纜を繋ぎ櫂を閣〔く〕して、鱗のごとくに集〔ま〕り蚊のごとくに合す。日々に市を成す。則ち房の米、常の茶、信の銅、越の竹箭、相の旗旄・騎卒、泉の珠・犀・異香、鹽魚・漆・枲、巵筋・膠・藥餌の衆に至〔る〕まで、彙を聚〔め〕て區別せずと云〔ふ〕こと無き者は人の賴〔む〕所ろなり。於呼、此の室を出〔で〕ずして、天地人を收〔め〕て以て吾が有と爲す。韙なるかな。是に於てや、其の搖〔ぎ〕て正を散ぜんことを懼れ、其の躁〔ぎ〕て常を失せんことを慮る。戸を杜ぢ、目を瞑〔く〕し、厚く養〔ひ〕てまず。之を言に發する時は、則〔ち〕淸める者は歌詞と成り、和〔やか〕なる者は政化と成る。然して後に乃ち其の神を定め、乃ち其の氣を寧〔ん〕ず。神と氣と合ふ、而して太淸を輿と爲〔し〕、元氣を馬と爲〔し〕、玄々無窮の域に逍遙するときは、則〔ち〕鬼神と雖ども其の機を測ること克はざるなり。靑牛眞人曰ること有り、躁は寒に勝ち、靜は熱に勝つ。淸淨は天下の正たり。蘇灣城之を解して曰〔く〕、成〔り〕て缺けず、盈て冲〔し〕からず、譬〔へ〕ば躁の靜なること能はず、靜の躁なること能はざるがごとし。夫れ躁能く寒に勝〔て〕ども熱に勝〔つ〕こと能はず、靜能く熱に勝〔て〕ども寒に勝〔つ〕こと能はず、皆一偏に滯〔り〕て其の正に非〔ざる〕や、唯〔だ〕泊然淸淨にして一に染まず、成に非ず、缺に非ず、盈に非ず冲に非ず、而〔る〕の後ち勝たずと云ふ所無きは、以〔て〕天下の正たるべし。今まや、公の守る所を以て軒に扁す。だ熱に勝〔つ〕のみならず、勝たざると云〔ふ〕所無きときは、則〔ち〕宇宙の間、公と相〔ひ〕爭〔ひ〕て相〔ひ〕戰ふ者の未だ之れ有〔る〕なし。謂〔は〕所る以て天下の正たるべしと云〔ふ〕者のなり。其〔の〕焉を知〔ざる〕者のは、咸な謂く、公の威愛、能〔く〕人をして忻懼せしむと。舍雪泊船のごときは、浣花老人蜀中倦遊の境なり。題扁及ぶ所ろは、而も此の地此の景に同じきを以摘〔り〕て以〔て〕名と爲す。公に在〔り〕ては乃ち吟中の一風流のみ。聽松村菴翁、幼より老に至〔る〕まで、鴻藻片章、天下に被〔は〕る。其の名諠〔し〕く傳〔ふ〕る者の、此に六十餘年、是を以て公、詩を其〔の〕上に翁の題せんことを需〔め〕んと欲する者、蓋し亦年有り、丙申の夏、適々人に介して詩及び跋を請ふ。且つ能言の二三子屬して後に題し、板に書し、室に掛〔け〕て、關左の人をして之を歌はしめんことを要す。翁予に告〔げ〕て曰〔く〕、我れ未だ嘗て東遊せず、奚を以〔て〕一辭を措〔く〕ことを得ん。幸に子が目撃する所〔を〕述して以て序せば可ならん。予退讓すれども允さず。蓋し予が序は乘韋なり。翁の詩と跋とは呉※なり。遂に聞見する所の者を以て次〔し〕て之が序と爲〔す〕。文明八年丙申、秋八月、羣玉峯叟蕭菴龍統
「※」=(上)「日」+(下)「折」。「才に」は「わづかに」、「饒なる」は「ゆたかなる」と訓じているか。「蔑し」は「なし」(無し)、「繚れる」は「めぐれる」、「咸な」(二箇所あり)は「みな」(皆)、「盤り」は「まはり」(回り)、「升れば」は「のぼれば」(登れば)、「茵のごとくに布き」は「しとねのごとくにしき」、「翫ふべき」は「ならふべき」、「曛〔れ〕て」は「たそがれて」、「杜ぢ」は「とぢ」(閉じ)、「諠〔し〕く」は「かまびすしく」、「適々」は「たまたま」、「允さず」は「ゆるさず」と読む。
「粼々」は「りんりん」と読み、せせらぎの擬音語であろう。
「紆る」は「めぐる」若しくは「盤り」と同じく「まはる」と読むか。私は前者で読みたい。「界ふ」は送り仮名から「となりあふ」(隣合う)と訓じているか。
「蘸す」は音「サン」であるが、「瀛海」(えいかい:大海。)を受けるなら「ひたす」と訓じたい。
「更々」の「々」は底本になく、影印では「〱」であるが、訂した。これは恐らくは「ますます」と訓じているものと思われる。
「絢如」以下の「○如」は、影印の記号から推して、「けんじよ」のように総て音読みしている可能性が高いが、如何にも私には詰屈に感じられるので、半可通自分勝手流で読んだ。
「天の與〔か〕る所なり」の「與かる」は「あづかる」と読んでおいた。
「岡巒」は「かうらん」と読んで、高い台地と山を指す語。
「陂水」は「はすゐ」と読み、人工の堤の水のこと。
「夜篝」は音読みしており、「ヤコウ」若しくは「ヤク」である。
「櫂を閣〔く〕して」は「かくして」と読んでいるものと思われ、舟の纜(艫綱)を繋ぎ、「櫂を漕ぐことをやめる」の意である。
「枲」は「し」で苧(からむし)、麻のこと。
「巵筋」は間に熟語を示す記号が入っているので、この二字でセットのようだが、意味不明。後掲する「江戸名所図会」ではこの二字を分離し、「巵」を「梔」(クチナシ)とし、「筋」については「茜」(アカネ)の誤字ではないかと割注がある。識者の御教授を乞う。【二〇一四年二月一四日追記】「日暮里富士見坂を守る会」の池本達雄氏より以下の御指摘を頂戴した。
   《引用開始》
「巵筋」は、(元)黄溍撰『文献集巻三』の「賈諭」が出典のようです。それによれば、「漆枲、巵茜、筋膠、藥物」とあります。「茜」の文字の遺漏と思われます。
   《引用終了》
池本様の指摘された黄溍の「賈諭」は「諸子百家 Chinese Text Project」(中文テクスト)の《文獻集卷三》の80・81列で確認出来る(全体の文意は不学にしてわからない)。そこから見てここは池本氏のおっしゃるように「巵茜、筋膠」の「茜」の脱字と考えてよい。「筋膠」は動物の筋や皮骨から製せられる膠の謂いかと思われ、「巵茜」の「巵」(音シ)には臙脂・紅の意があるから、ここはこの「巵茜」でアカネの根から精製される赤い顔料の謂いと私は読んだ。池本氏に心から感謝申し上げる。
「克はざるなり」は「あたはざるなり」で「能はざるなり」と同じ。
「盈て冲〔し〕からず」は「みちてむなしからず」と読ませているものと思われる。「忻懼」は「きんく」で喜んだり、畏れたりすること。
「乘韋」【二〇一四年二月一四日改訂】「日暮里富士見坂を守る会」の池本達雄氏より以下の御指摘を頂戴した(一部の表記及び表現に手を加えさせて戴いた。池本氏は「春秋左氏伝」に当該箇所も示して下さったが、そこは省略させて戴き、最後に引用された中文サイトの「漢語大詞典」の解説を生かさせて戴いたことをお詫び申し上げる)。
   《引用開始》
「乘韋」は、四枚の(牛の)なめし皮です。乘(「乗る」意とは別義)は、四頭立ての馬車の意味から転じて「四」、「韋」はなめし皮の意味だそうです。『春秋左氏伝』僖公三十三年春条が出典であり、『左伝』のこの故事から、重要な事柄の前の簡単なご挨拶(または贈物)といった意味に転じて使われます。森鷗外の「伊沢蘭軒」でも贈物の意味で使われています。『左伝』では、哀公七年春条でも使われています。
乘韋 四張熟牛皮。《左傳•僖公三十三年》“﹝秦師﹞及滑、 鄭商人弦高将市於周、遇之、以乘韋先牛十二犒師。”《左傳•杜預注》「乘、四韋。先韋乃入牛。古者將獻遣於人、必有以先之。」《孔頴達疏》「遺人之物、必以軽先重後、故先韋乃入牛。」後用以比喻先送的薄礼。(清)錢謙益 《送方爾止序》「將有捧盤而致胙者、以余言爲乘韋其可也。」(漢語大詞典)
それにしても『江亭記』の著者は、恐るべき漢籍の知識を持っていたものだと思わざるをえません。
   《引用終了》
この後の「呉※」(ごせい)が不明であるが、これが「晢」と同字であるとすれば、「哲」(賢い)の意となり、大きいの意を持つ「呉」を「優れた」の意で採るならば、以下の詩こそが珠玉の本体であり、私の序なんぞは池本氏の御指摘にあるような「簡単なご挨拶」、ちょっとした挨拶代りのようなつまらぬものであるという謙遜の辞として腑に落ちるのである。池本氏に心から感謝申し上げたい。

 さて、以上の「江亭記」の序は影印の訓読に依った書き下し文であるが、私には読解不能な箇所が散見される。幸い、「江戸名所圖會」に、これとほぼ同文の「江亭記」が書き下し文で所収されているので、それを参考に示すこととする。底本は一九九六年筑摩書房刊の市古夏生・鈴木健一校注「江戸名所図会」を用いたが、漢字は本テクストによる正字としたが、本文と区別するために底本通り、ルビは平仮名とし、底本通りの現代仮名遣としたが、拗音化を施した。かなり訓読が異なるが、更に本文を読解し易くなるものと思われる。なお、〔 〕は校注者による割注。

  江戸城靜勝軒せいしょうけんに寄題す詩の序
 武州江戸城は、太田左金吾道灌源公のはじめて築く所なり。關より以東、公と肩をならぶる者のすくなし。もとより一世の雄なり。威愛相兼ね、風流籍甚せきじんなり。このごろ騒亂以來、命をつつしみて承る者、八州の内、わづかに三州、三州の安危、の一州にかかり、武の安危、公の一城に係る。二十四郡ただ一人とひつべし。
 それ、城の地たるや、海陸のゆたかなる、舟車の會ふ、他州異郡をもつて加ふることなし。壘の高さ十餘丈、懸崖峭立けんがいしょうりつ、固むるに繚垣りょうえんをもつてする者、數十里ばかり、外に巨溝浚塹しゅんざん有り、みな泉脉せんみゃくちょとおりもつて粼碧りんぺきたり。巨材を架してこれが橋となし、もつて出入の備となす。しかしてその門を鐵にし、そのかきを石にし、その徑をいしだたみ、左盤右紆さばんううここにその壘にのぼる。公のけんは、その中にそばだち、かくは後にうずくまる。直舍その側に翼し、戌樓じゅつろう保障ほしょう庫庾こゆ厩廠きゅうしょうたぐいおくをなす者若干なり。
 西のかた望むときんば原野をえて、雪嶺天に界し、三萬丈白玉の屏風びょうぶのごとき者、東のかた視るときんば墟落きょらくへだてて、瀛海えいかい天をひたし、三萬けい碧瑠瑙へきるり田のごとき者、南のかたにむかふときんば浩乎こうこたる原野、寛舒廣衍かんじょこうえん平蕪へいぶ しとねのごとくき、一目千里、野と海とに接し、海と天とつらなる者。これみな公の几案きあんの間の一物のみ。ゆゑをもつて軒の南を靜勝せいしょうなづけ、東を泊船はくせんなづく。西を含雪がんせつと名く。公ここにいこひここ遊ぶ。すなはち一日早午晩そうごばん、一年春夏秋の變、千態萬状、を拍つてなもてあそぶべき者、互に出でてかはるがはるあらはすといへども、これを出だでしこれを呈する所以ゆえんの者は凡そ三つ東瀛晨霞とうえいしんか絢如けんじょたる、南野薰風くんぷう颯如さつじょたる、西嶺秋月の皎如こうじょたるは、天のあたふる所なり。遠くしては漚波おうはあけぼの島嶼とうしょに分かれ、鴉背あはいたそがれ岡巒こうらんの紫きなる、近くしては腴田ゆでん かたわらにめぐり、陂水はすいに常に足る。それの林のきこりつべく、それのくさむらくさかるべきは、地の獻ずる所なり。
 城の東畔に河有り、其の流〔れ〕曲折して南の方、海に入る。商旅大小の風帆ふうはん、漁獵來去らいきょ夜篝やこうは、竹樹烟雲ちくじゅえんうんの際に隠見いんけん出沒す。高橋の下に到〔り〕て、ともづなつなかいく。うろこのごとくに集まり蚊のごとくに合し、日々に市を成す。則ち房の米、じょうの茶、信の銅、越の竹箭ちくせんそう旗旄きぼう・騎卒、泉の珠犀異香、鹽魚・うるしあさくちなし・筋〔あかねの誤りか〕・にかわ藥餌やくじおおきに至るまで、彙聚いしゅう 區別くべつせざるなきは、人の賴るところなり。
 ああ、此の室を出でずして、天地人を收め、もつてわが有となす。おおいなるかな。
 ここにおいてや、其の搖ぎてせいを散ぜんことをおそれ、其のそうにしてじょうを失はんことをおもんぱかつて、ざし目をぢて、厚養してまず。これを言に發するときんば、淸める者は歌詞と成り、和なる者は政化と成る。しかして後、すなはち其のかみを定め、すなはちその氣をやすんじて、神と氣と合ふ、しかして太淸たいせい輿となし、元氣を馬となして、玄々げんげん無窮の域に逍遙しょうようするときんば、鬼神といへどもその機を測ることあたはざるなり。靑牛眞人へることあり。躁は寒に勝ち、靜は熱に勝つ。淸淨は天下の正たりと。蘇灣城これを解していはく、成つてかけけず、みちむなしからず、たとへば躁の靜なることあたはず、靜の躁なることあたはざるがごときのみ。それ躁はよく寒に勝ちて、熱に勝つことあたはず、靜能く熱に勝ちて、寒に勝つことあたはず。みな一偏に滯つて、その正に非ざるや。ただ泊然淸淨一に染まず、成るに非ず、缺くるに非ず、盈に非ず冲に非ず、しかして後勝たずと云ふところなきは、もつて天下の正たるべしと。いまや、公の守るところをもつて軒になづく。ただ熱に勝つのみならず、勝たざるといふことなくきんば、宇宙のあいだ、公と相爭つて相戰ふ者、いまだこれあらざるなり。いはゆるもつて天下の正たるべき者のなり。そのこれを知らざる者は、みな謂ふ、公の威愛、よく人をして忻懼きんくせしむと。
 舍雪泊船のごときは、浣花かんか老人がしょく倦遊けんゆうの境なり。題扁だいへん及ぶところ、この地この景に同じきをもつて、つてもつて名となす。公にありてはすなはち吟中の一風流のみ。聽松村菴翁、幼より老に至つて鴻藻片章こうそうへんしょう天下をおおひ、その名の喧傳する者ここに六十餘年なり。これをもつて公、詩をその上に翁の題することをもとめんと欲する者、けだしまた年あり。丙申の夏たまたま人に介して詩及びばつを請ひ、かつ能言のうげんの二三子に屬して後に題し、板に書して室に掛け、關左かんさ〔関東。〕の人をしてこれを歌はしめんことをもとむ。翁予に告げて曰く、我れ未だ嘗て東遊せず、なんぞもつて一辭をくことを得んや。幸にが目撃するところを述べて以て序せば可なりと。予退讓たいじょうするもゆるさず。けだし予が序は乘葦じょういなり。翁の詩と跋とは呉※ごていなり。つひに聞見するところの者をもつてしてこれが序となす。
  文明八年丙申〔一四七八〕秋八月


羣玉峯叟蕭菴龍統ぐんぎょくほうそうしょうあんりょうとう

最終段落中の、「喧傳」は底本・影印共に「諠傳」、「乘葦」はやはり底本・影印共に「乘韋」、「※」=(上)「日」+(下)「折」。]

             村菴靈彦
傳聞靜勝軒中景。  四面窻扉一々開。
野闊靑丘呑蔕芥。  天晴碧海望蓬莱。
南帆似自平蕪過。  漁火如從遠樹來。
我老無期泊船處。  關心西嶺雪成堆。
             村菴靈彦
  傳へ聞く靜勝軒中の景
  四面窻扉一々開く
  野闊して靑丘蔕芥を呑み
  天晴て碧海蓬莱を望む
  南帆平蕪より過るに似たり
  漁火遠樹より來るがごとし
  我老て泊船を期する處無し
  心に關る西嶺雪堆を成す


             雪樵景※
[やぶちゃん注字:「※」=「苣」の「巨」を「臣」に代える。]
兵鼓聲中築受降。  聞君延客日臨牎。
風帆多少載詩去。  吹雪士峯晴堕江。
             雪樵景※
  兵鼓聲の中受降を築く
  聞く君が客を延て日に牎に臨むと
  風帆多少詩を載せ去る
  雪を吹く士峯晴て江堕つ


             默雲龍澤
籍々威名關以東。  又知天下有英雄。
鼓鼙不起邊城靜。  驅使江山入※中。
[やぶちゃん字注:「※」は「殻」の「几」を「弓」に代える。]
             默雲龍澤
  籍々たる威名關以東
  又知る天下英雄有ることを
  鼓鼙起らず邊城靜かなり
  江山を驅使して※中に入る

             補菴景三
江戸城高不可攀。  我公豪氣甲東關。
三州富士天邊雪。  收作靑油幕下山。
            補菴景三
  江戸城高して攀づべからず
  我が公の豪氣東關に甲たり
  三州の富士天邊の雪
  收て靑油幕下の山と作る


             蕭菴龍統
雲連雪嶺水連呉。  城上軒窓開畫圖。
最愛似留行地日。  碧天低野入平蕪。
             蕭菴龍統
  雲は雪嶺に連り水は呉に連る
  城上の軒窓畫圖を開く
  最も愛す地を行く日を留むるに似たるを
  碧天野に低て平蕪に入る

[やぶちゃん注:前掲分の「序」と同様に、この詩の部分の一九九六年筑摩書房刊の市古夏生・鈴木健一校注「江戸名所図会」を底本とするテクストを示す。漢字は本テクストによる正字としたが、本文と区別するために底本通り、ルビは平仮名とし、底本通りの現代仮名遣としたが、拗音化を施した。

             村菴靈彦
  傳へ聞く靜勝軒中の景
  四面の窻扉一々開く
  野はひろ靑丘せいきゅう蔕芥たいかい
  天は晴れて碧海へきかい蓬莱ほうらいを望む
  南帆は平蕪へいぶより過ぐるに似たり
  漁火は遠樹よりきたるがごとし
  われ老いて期することなし泊船の處
  關心す西嶺の堆塊たいかいを成すを

             雪樵景※せっしょうけいし
[やぶちゃん注字:「※」=「苣」の「巨」を「臣」に代えるが、中の内側の部分が特異(言葉では説明し難いので省く)。]
  兵鼓聲中受降じゅこうを築く
  聞く君客をいて日に牎に臨むと
  風帆多少詩をせて去り
  雪を吹く士峯は晴れて江に
[やぶちゃん字注:底本の「江戸名所図会」では「牎」は「窓」とある。]

             默雲龍澤
  籍々せきせきたる威名關より以東
  また知る天下英雄有ることを
  鼓鼙こへい起こらず邊城靜かなり<
  つて江山をして※中こくちゅうに入らしむ
[やぶちゃん字注:「※」は「殻」の「几」を「弓」に代える。]

             補菴景三
  江戸城高うしてづべからず
  我が公の豪氣東關に甲たり
  三州の富士天邊の雪
  收めて靑油幕下の山と

             蕭菴龍統
  雲は雪嶺につらなり水は呉に連なる
  城上の軒窓は畫圖を開く
  最も愛す留行りゅうこうの地に似たるの日
  碧天へきてん野にれて平蕪へいぶに入る

一部の本文に明白な異同があり、やや訓読も異なる。]


古今壯遊之士、有志於四方者、必以經歴關左山東之地爲先焉、凡遊關左者必以見富士山、過武藏野渡隅田河、登筑波山、則皆誇四方觀遊之美也、予壯年之時、跂而望之、然今耄矣、遂初志者、百不獲一、以是爲恨、頃間太田左金吾源公者、關左之豪英也、守武州江戸城、而有功於國矣、蓋武之爲州也、以用武爲名、甲兵四十萬、應卒如響、乃山東之名邦也江戸之城、於是乎在、雄據其要而堅備其壘、所以一人當險、萬虜不進、亦乃武州之名城也、矧夫此城最鍾勝景、寔天下之所稀也、睥睨之隙、隨地形勢、彼有樓館、此有臺榭、特置一軒、扁曰靜勝之軒是爲其甲也、亭曰泊船、齋曰含雪、各其附庸也、若其憑軒燕座、回瞻四面、則西北有富士山、有武藏野、東南有隅田河、有筑波山、此乃四方之觀、在此一城也、而一城之勝、又在此一軒也、繇是四方有志之士、不欲復遠遊、倶願一登此城、到此軒者、亦其理之當然也、而今金吾公、託其客之西上者、求京師諸人之題詠、而將藻飾其軒楣間之詩板也、得命同題者、及予五人、然此五人之中、東遊躳歴其地者、惟統正宗一人而已、故以序屬正宗、具陳于前、告不知者、如往觀焉、於是就予以求後題、不肯拒辭、輙用所聞於正宗之説、而附于篇末、且復傳語金吾公、雖予耄矣之後、而跂望之志尚在焉、文明八年、龍集丙申、八月初吉、書于岩栖之村菴、希世靈彦。
[やぶちゃん注:終わり近くの「惟統正宗一人而已」は、底本では「惟統正宗人而已」であるが、影印で訂した。
 以下、ここまでの跋文について、影印の訓点に従って訓読したものを示す。

古今壯遊の士、四方の志有る者、必〔ず〕關左山東の地を經歴するを以て先と爲〔す〕。凡そ關左に遊ぶ者は必ず富士山を見、武藏野を過ぎ、隅田河を渡り、筑波山に登〔る〕を以て、則ち皆四方觀遊の美を誇るなり。予、壯年の時、跂〔し〕て之を望む。然も今耄たり。初志を遂〔ぐ〕る者、百に一をも獲〔ら〕ず。是を以〔て〕恨〔み〕と爲す。頃間、太田左金吾源公は、關左の豪英なり。武州江戸城を守〔り〕て、國に功有り〔と〕。蓋し武の州たるや、武を用〔ふ〕るを以て名と爲〔す〕。甲兵四十萬、應卒、響のごとし。乃ち山東の名邦なり。江戸の城、是に於てか在り。其の要に雄據して堅く其のわごを備ふ。所以に一人險に當れば、萬虜進まず、亦乃〔ち〕武州の名城なり。矧や夫れ此の城最も勝景を鍾む。寔に天下の稀なる所なり。睥睨の隙、地の形勢に隨ひ、彼に樓館有〔り〕、此に臺榭有り。特に一軒を置く。扁して靜勝の軒と曰〔ふ〕。是れ其の甲たるなり。亭を泊船と曰ふ。齋を含雪と曰〔ふ〕。各々其の附庸なり。若し其の軒に憑〔り〕て燕座して、四面を回瞻する時は、則〔ち〕西北に富士山有〔り〕、武藏野有〔り〕、東南に隅田河有〔り〕、筑波山有〔り〕、此れ乃ち四方の觀、此の一城に在り。而して一城の勝、又此一軒に在り。是に繇〔り〕て四方志有〔る〕の士、復た遠遊せんことを欲せずして、倶に一たび此の城に登り、此の軒に到らんことを願ふ者は、亦其の理の當然なり。而〔して〕今、金吾公、其の客の西上する者に託して、京師諸人の題詠を求む。將に其〔の〕軒楣間の詩板を藻飾せんとなり。命を得て同〔じ〕く題する者、予と五人、然も此の五人の中、東遊して躳ら其の地を歴る者の、惟だ統正宗一人のみ。故に序を以〔て〕正宗に屬す。具に前に陳して、知らざる者に告〔げ〕ること、往〔き〕て觀〔る〕がごとし。是に於て予に就〔き〕て以て後題を求む。肯〔へ〕て拒み辭せず。輙ち正宗に聞〔く〕所の説を用〔ひ〕て、篇末に附す。且つ復た金吾公に傳語す、予、耄の後と雖ども、而も跂望の志尚を在りと。文明八年、龍丙申に集る、八月初吉、岩栖の村菴に書す。希世靈彦

「壘」の読みは「ワコ」に見える。連想から輪籠の意で採り、「わご」と訓じておいた。但し、このような語法があるかどうかは知らない。識者の御教授を乞う。
「矧や」は「いはんや」(況や)、「鍾む」は「あつむ」(集む)、「寔に」は「まことに」、「繇〔り〕て」は「よりて」(因りて)、「躳ら」は「みづから」(自ら)と読む。
「跂〔し〕て」は「きして」と読み、爪先立ち、背伸びをすること。後掲する「跂望」に同じ。
「臺榭」は「たいしや・だいしや」と読み、高楼のこと。
「齋」は書斎の意であろう。
「附庸」は、原義は皇帝に属さず、大国に従属する小国の意であるが、ここでは静勝軒の付帯施設であることを言う。
「軒楣間」は三字を熟語としており、「けんびかん」と読んで、静勝軒の楣(のき)の間、という意味である。「跂望」は「きばう」と読み、待ち望むことを言う。
 以下、前掲分同様、この跋部分の一九九六年筑摩書房刊の市古夏生・鈴木健一校注「江戸名所図会」を底本とするテクストを示す。漢字は本テクストによる正字としたが、本文と区別するために底本通り、ルビは平仮名とし、底本通りの現代仮名遣としたが、拗音化を施した。

 古今壯遊の士、四方に志有る者は、必ず關左〔関東〕山東の地を經歴するをもつてさきとなす。およそ關左に遊ぶ者は、必ず富士の山を見、武藏野をよぎぎり、隅田河を渡り、筑波山に登る。すなはちみな四方觀遊の美に誇るなり。予壯年のとき、して之を望む。しかれどもいまはぼうせり。初志をぐる者、百に一をず。これをもつて恨みとなす。
 このごろ聞く、太田左金吾源公は、關左の豪英なり。武州江戸城守りて、國に功有りと。けだし武の州たるや、武を用ふるをもつて名となす。甲兵四十萬、卒に應ずること響のごとし。すなはち山東の名邦なり。江戸の城、ここにおいてかあり。その要に雄據ゆうきょして、堅くその壘を堅備す。一人けんに當たれば萬虜も進まざる所以は、またすなはち武州の名城なるなり。いはんやこの城は最も勝景をあつめて、まことに天下の稀とするところなり。睥睨へいげいひま、地の形勢にしたがつて、かれに樓館あれば、これに臺榭だいしゃあり。とくに一軒を置く。扁して靜勝の軒とふ。これその甲たるなり。亭を泊船と曰ひ、齋を含雪と曰ふ。おのおのその附庸ふようなり。 もしその軒によつて燕座えんざして、四面を回瞻かいせんするときんば、西北に富士山あり、武藏野あり、東南に隅田河あり、筑波山あり、これすなはち四方の觀のこの一城にあるなり。しかして一城の勝は、またこの一軒にあるなり。これによつて四方に志あるの士、また遠遊を欲せず、ただ一たびこの城に登つてこの軒に到ることを願ふも、またその理の當然なるなり。しかしていま金吾公、その客の西上する者に託して、京師諸人の題詠を求め、まさにそのけん楣間びかん詩板しはん藻飾そうしょくせんとす。めいを得て題を同じくする者は予と五人なり。しかれどもこの五人の中、東遊して其の地をみづからたる者は、ただ統正宗〔正宗龍統〕一人のみ。ゆゑに序をもつて正宗に屬し、つぶさに前につらねて、知らざる者に告げ、往きてこれを觀るがごとくならしむ。ここにおいて予に就いてもつて後題を求む。あへて拒辭きょじせず、すなはち正宗に聞くところの説をつて、篇末に附す。かつまた金吾公に傳語す、予耄せるの後といへども、しかも跂望きぼうの志尚ありと。
 文明八年龍集丙申〔一四七六〕八月初吉、岩栖の村菴に書す
希世靈彦  


一部本文に異同があり、やや訓読も異なる。]

  寄題左金吾源大夫江亭(左金吾源大夫が江亭に寄せ題す)
             湘山暮樵得幺
士嶺衝天東海瀾。  靜中勝景畫中看。
一由旬雪梅花鶻。  載泊前灣晩照殘。
             湘山の暮樵得幺
  士嶺天を衝く東海の瀾
  靜中の勝景畫中に看る
  一由旬の雪梅花の鶻
  載て前灣に泊て晩照殘る


             武陵興德
華構臨江天宇低。  北帆南楫日斜西。
髩端雪白漁竿客。  萬頃玻瓈可釣齊。
             武陵の興德
  華構江に臨て天宇低る
  北帆南楫日斜めに西す
  髩端雪白し漁竿の客
  萬頃の玻瓈齊を釣るべし


             相陽中榮
華館相收主亦賢。  江亭玆試武城絃。
東溟浸戸波黏地。  西嶺當窻雪界天。
珠履三千門下客。  玉樓十二洞中仙。
憑誰説與蘇夫子。  赤壁休誇前後篇。
             相陽中榮
  華館收を相て主も亦賢し
  江亭玆に試む武城の絃
  東溟戸を浸して波地に黏ず
  西嶺窻に當て雪天を界ふ
  珠履三千門下の客
  玉樓十二洞中の仙
  誰に憑きてか説與せん蘇夫子
  赤壁誇るを休めよ前後の篇
[やぶちゃん注:「界ふ」は送り仮名から「となりあふ」(隣り合わせる)と訓じているか。]


             河陽東勸
士嶺之東湘水北。  一亭新架有高城。
閭閻撲地育民庶。  經籍滿床羅俊英。
鷗渚鷺汀春晝靜。  竹籬茅舍暮光晴。
丹靑難畫戰圖外。  帷幄運籌張氏情。
             河陽東勸
  士嶺の東湘水の北
  一亭新に架して高城有り
  閭閻地を撲て民庶を育し
  經籍床に滿て俊英を羅す
  鷗渚鷺汀春晝靜なり
  竹籬茅舍暮光晴る
  丹靑畫き難し戰圖の外
  帷幄籌を運す張氏が情

[やぶちゃん注:前掲分同様に、この詩の部分の一九九六年筑摩書房刊の市古夏生・鈴木健一校注「江戸名所図会」を底本とするテクストを示す。漢字は本テクストによる正字としたが、本文と区別するために底本通り、ルビは平仮名とし、底本通りの現代仮名遣としたが、拗音化を施した。

  左金吾源大夫が江亭に寄せ題す
             湘山暮樵得幺しょうざんぼしょうとくよう
  士嶺天をく東海の瀾
  靜中の勝景畫中のかん
  一由旬ゆじゅんの雪梅花ばいかこつ
  せて前灣にはくすれば晩照殘る
[やぶちゃん字注:「江戸名所図会」では「湘山暮樵得幺」の「幺」は一画目の右下に折れる部分がない字体であるが、表記出来ないので、本底本のママとした。]

             武陵〔武蔵国〕興德
  華構かこう江に臨んで天宇てんう
  北帆南楫なんしゅう日西にななめなり
  髩端ひんたん雪白し漁竿ぎょかんの客
  萬頃ばんけい玻瓈はりさいを釣るべし

             相陽〔相模国〕中榮
  華館ところ主も亦賢なり
  江干こうかんここに試む武城のげん
  東溟とうめいは戸をひたし波地に
  西嶺窻に當たつて雪は天に界す
  珠履三千門下の客
  玉樓十二洞中のせん
  誰につてか説與せつよせん蘇夫子そふうし
  赤壁せきへき誇るをめよ前後の篇
[やぶちゃん注:「窻」は「江戸名所図会」では「窓」。]

             河陽〔河内国〕東勸
  士嶺の東湘水しょうすいの北
  一亭あらたに架して高城にあり
  閭閻りょうえん地をつて民庶みんしょを育す
  經籍けいせきは床に滿ち俊英をつら
  鷗渚鷺汀おうしょろてい春晝靜なり
  竹籬茅舍ちくりぼうしゃ暮光ぼこう晴る
  丹靑畫き難し戰圖せんとの外
  帷幄いあくはかりごとめぐらす張氏ちょうしじょう


一部の詩句に明白な異同があり、やや訓読も異なる。]

  左金吾源大夫江亭記
關左形勝之雄、以武爲冠、武者大國也、其山木奇傑、而兼要嶮者、江戸其武之冠乎、距相府連※1可百里焉、緑蕪白沙並海以北、王簪之山、羅帶之水、跋渉忘勌、而不覺日之將晩也、翠壁丹崖、屹然以高峙、珍卉佳木、蔚然而中秀、廼左金吾公源大夫之所築新城也、攀以躋焉、俯以臨焉、四面斗絶、直下百丈、東南佳山水、歴々以在杖履之下、南顧則品川之流、溶々漾漾以染碧、人家鱗差乎北南、而白墖紅樓、鶴立翬飛、以翼然乎其中、東武之一都會有揚一益二之亞稱也、東望則平川縹緲兮長堤緩廻、水石瑰偉兮佳氣欝芬、謂之淺艸濵、白花大士遊化之場、巨殿寶坊、輪奐以掩映乎數十里瀛、補洛妙境、神人所幻云、其後則滄洲茫乎、百川與海會、呉楚東南坼、乾坤日夜浮、即此乎、其前則谷岩出汲、而原野莾蒼、天塹之幾多仞、一夫當關則百萬不可以近、世乃知此地面勢、實一方金湯之最、而無所與二也、昔周室中微、有諸侯患、仲山甫城于東方、國人安以集也、宣王大興焉、公柵於斯、外扼敵之喉襟、内據武府之腹背、東民賴之、公之功可謂與仲山甫顏行者、城上置閒燕之室、扁曰靜勝、靜勝蓋兵家之機密乎、當其西簷、而有富士峰之雪、天削芙蓉以玉立三萬餘丈、其窻曰含雪也、凭南檻、則積水涵天、沙觜含吐洪潮、以出縮于曉夕、羣山隔岸雲、鬟梳洗濃翠、而隱見于陰晴、自然無軸之畫也、鳧渚鷗汀、漁家民屋、枕藉以雜處、沙戸水扉、人朴地淸、旅船之所泊也、靑龍赤雀、舳艫相銜、蘭棹桂槳、舸經舫緯如織、而欵乃之聲無斷也、江情湖思寔樂矣哉、締小亭曰泊船也、摘字於浣花詩史、其人襟宇瀟洒、措意於騒雅之域、弗語而可以知而已、於是湘中僧、即以詩鳴其道者、或慕嚮公之逸韻、或歆羨其山水之美、以寄詩言志、金薤琳琅、其音玲瓏而成章、余亦寓錚々於餘響魚目入珠、燕石濫璞、非志也、公之求之嚴也、重以紙尾書而見命、余朴而野者、文何之有邪、然督責弗遏、※2避無地辭、磨鈍鐫朽以聊且概記其景象之曼乙而云爾焉、文明丙申、秋之杪也、湘山暮樵得幺。
[やぶちゃん注:「※1」=「巾」+「莫」。「※2」=「享」+「單」。以下、「左金吾源大夫江亭記」について、影印の訓点に従って訓読したものを示す。

  左金吾源大夫江亭記
關左形勝の雄、武を以〔て〕冠と爲し、武は大國なり。其の山木奇傑にして、要嶮を兼する者は、江戸其れ武の冠か。相府に距てて連※1百里なるべし。緑蕪白沙海に並〔び〕て以て北す、王簪の山、羅帶の水、跋渉勌〔む〕ことを忘〔れ〕て、日の將に晩〔れ〕んとするを覺へざるなり。翠壁丹崖、屹然として以〔て〕高く峙ち、珍卉佳木、蔚然として中に秀づるは。廼ち左金吾公源大夫の築く所の新城なり。攀〔ぢ〕て以て躋り、俯して以〔て〕臨む。四面斗絶、直下百丈、東南の佳山水、歴々として以て杖履の下に在り。南に顧るときは則〔ち〕品川の流〔れ〕、溶々漾々として以て碧を染む。人家北南の鱗差す。而して白墖紅樓、鶴のごとく立ち、翬のごとくに飛ぶ。以て其の中に翼然たり。東武の一都を會〔にして〕揚一益二の亞稱有〔る〕なり。東に望むときは則〔ち〕平川縹緲として長堤緩く廻る。水石瑰偉として佳氣欝芬、之を淺艸濵と謂ふ。白花大士遊化の場なり。巨殿寶坊、輪奐として以〔て〕數十里の瀛を掩映す。補洛の妙境、神人の所幻と云ふ。其の後ろは則〔ち〕滄洲茫乎して、百川海と會す。呉楚東南に坼〔け〕、乾坤日夜浮ぶと云〔ふ〕は、即ち此れか。其の前は則〔ち〕谷岩出沒して、原野莾蒼たり。天塹の幾多仞して、一夫關に當るときは則〔ち〕百萬以て近〔づ〕くべからず。世乃ち知〔る〕此の地面勢、實に一方金湯の最にして、二〔つ〕に與る所無きなり。昔し周室中ごろ微にして、諸侯の患有り。仲山甫、東方に城く。國人安んじて以て集る。宣王大〔い〕に興る。公、斯に柵して、外に敵の喉襟をニギり、内〔に〕武府の腹背に據り、東民之を賴る。公の功、仲山甫と顏行する者のと謂ひつべし。城上閒燕の室を置く。扁して靜勝と曰〔ふ〕。靜勝は蓋し兵家の機密か。其の西簷に當〔り〕て、富士峰の雪有〔り〕、天芙蓉を削〔り〕て以〔て〕玉のごとくに立〔つ〕こと三萬餘丈、其〔の〕窻を含雪と曰〔ふ〕なり。南檻に凭るときは、則〔ち〕積水天に涵し、沙觜、洪潮を含吐し、以〔て〕曉夕に出縮す。羣山岸雲を隔て、鬟梳、濃翠を洗〔ひ〕て、陰晴に隱見す。自然無軸の畫なり。鳧渚鷗汀、漁家民屋、枕藉して以〔て〕雜處す。沙戸水扉、人、朴に、地、淸し。旅船の泊る所なり。靑龍赤雀、舳艫相銜む。蘭棹桂槳、舸經舫緯、織るがごとくにして、欵乃の聲斷〔ゆ〕ること無〔き〕なり。江情湖思寔に樂〔し〕ひかな。小亭を締〔び〕て泊船と曰〔ふ〕なり。字を浣花詩史に摘り、其の人、襟宇瀟洒、意を騒雅の域に措くこと、語らずして以〔て〕知べきのみ。是〔に〕於〔て〕湘中の僧、即ち詩を以〔て〕其道に鳴る者の、或は公の逸韻を慕嚮し、或は其の山水の美を歆羨す。以て詩を寄〔せ〕て志を言ふ。金薤琳琅、其の音玲瓏として章を成す。余も亦錚々を餘響に寓す。魚目珠に入り、燕石璞を濫るは、志非ず。公の之を求〔む〕ること嚴なればなり。重〔ね〕て紙尾に書するを以て命ぜらる。余、朴にして野なる者、文何ぞ之れ有んや。然も督責遏まず。※2避辭するに地無し。鈍を磨し、朽を鐫り、以て聊か且つ其の景象の曼乙を概記すと、しか云ふ。文明丙申、秋の杪なり。湘山の暮樵得幺。
「※1」=「巾」+「莫」。「※2」=「享」+「單」。「勌〔む〕」は「うむ」(倦む)、「峙ち」は「そばだち」、「廼ち」は「すなはち」、「躋り」は「のぼり」(登り)、「翬」は「きじ」(雉)、「城く」は「きづく」(築く)、「遏まず」は「やまず」(止まず)と読む。
「連※1」は「れんばく」と読み、直線距離で、といった謂いか。
「蔚然として」は「うつぜんとして」と読み、「鬱然」と同義で草木の生い茂るさまを言う。
「鱗差」は魚の鱗のように多く差し向かい合っていることを言うのであろう。
「白墖」について、後掲するように「江戸名所図会」では「未詳」としているが、これは「はくたう」と読み、「墖」は「塔」と同義、原義は白い仏塔の意味で、寺院の多層塔のことを指している。後の「紅樓」は一般には妓楼を意味するから、僧俗混在する江戸の景を言うと思われる。
「揚一益二」は、本来は、中国で揚州は天下第一の都会であり益州(現在の成都)がそれに次ぐ、という意味である。宋代になって水運が盛んとなった結果、交通の要衝が繁栄したことを言う語で、江戸をそれらに擬えたものであろう。
「瑰偉」は「くわいゐ」と読み、「魁偉」と同義で、体格や規模が並外れて逞しく大きいさまを言う。
「掩映」は「えんえい」と読み、対比の妙によって相互に引き立たせ、際立たせ合うことを言う。
「呉楚東南に坼〔け〕、乾坤日夜浮ぶ」は杜甫の有名な五言律詩「登岳陽楼」の一節である。以下に掲げておく。
   登岳陽樓    岳陽樓に登る
  昔聞洞庭水   昔聞く 洞庭の水
  今上岳陽樓   今上る 岳陽樓
  呉楚東南坼   呉楚 東南に坼け
  乾坤日夜浮   乾坤 日夜に浮ぶ
  親朋一字無   親朋 一字無く
  老病有孤舟   老病 孤舟有り
  戎馬關山北   戎馬 關山の北
  憑軒涕泗流   軒に憑りて 涕泗流る
「仲山甫」(生没年未詳)は周王朝宣王に仕えた名臣で、王朝の中興に大いに功があった。しかし、実際には専横な宣王の下で本質的には不遇であったとも言える。例えば、異民族西戎との戦争中には、南方の諸侯国の兵力が極度に殺がれたため、王自ら戸口調査を実行して強引に男子を徴用しようとしたのを諫めたが容れられず、また、魯の公子二人が入朝した際に、宣王が弟の戯をいたく気に入り、軽率にも魯国の太子に立てさせようとした折りも諫めたが、やはり聞き入れられていない。結果的に宣王は周の滅亡を加速させた。彼は優れた忠臣を持った暴君の愚王に過ぎなかったと言ってよい。
「閒燕の室」とはプライベート・ルームの意であろう。
「鳧渚」は「ふしよ」と読み、鴨のいる水際のこと。
「欵乃」は「あいたい・あいだい」と読み、舟歌の意。
「浣花詩史」は杜甫の詩総体を指す語。杜甫の詩を総称して「詩史」と呼称し、また杜甫所縁の杜甫草堂は渓谷の名から浣花草堂とも言い、その中心建物を詩史堂という。
「歆羨」は「きんせん」と読み、羨むこと。
「金薤琳琅」は「きんかいりんらう」と読み、金で出来た箱に収められた美しい玉のことを言う。ここでは詩品の格調高雅なるを言う。
「※2避」はよく分からないが、どうも申し出を固く回避する、といった謂いのように思われる。識者の御教授を乞う。
 以下、前掲分同様に、この「左金吾源大夫江亭記」の一九九六年筑摩書房刊の市古夏生・鈴木健一校注「江戸名所図会」を底本とするテクストを示す。漢字は本テクストによる正字としたが、本文と区別するために底本通り、ルビは平仮名とし、底本通りの現代仮名遣としたが、拗音化を施した。

   左金吾源大夫江亭記
 關左形勝の雄、武をもつてかんとなす。武は大國なり。その山木奇傑にして、要嶮を兼ぬる者、江戸はそれ武の冠たるものか。相府そうふへだたること連※1れんばく百里ばかり。緑蕪白沙海に並びてもつて北す、王簪おうしんの山、羅帶らたいの水、跋渉ばっしょうしてむを忘れ、日の將にれんとするを覺えざるなり。翠壁丹崖すいへきたんがい屹然きつぜんとしてもつて高くそばだち、珍卉佳木ちんきかぼく蔚然うつぜんとして中にひいづる。すなはち左金吾公源大夫の築く所の新城なり。
 ぢて以てのぼり、してもつて臨む。四面斗絶とぜつ、直下百丈、東南の佳山水、歴々もつて杖履じょうかもとにあり。南顧するときんば品川の流は溶々漾々ようようようようとしてもつてへきを染む。人家は北南の鱗差りんしして、白墖〔未詳〕紅樓、鶴立翬飛かくりつきひし、もつてその中に翼然よくぜんたり。東武の一都會にして一を揚げ二を益すの亞稱あるなり。東望するときんば平川は縹緲ひょうびょうにして長堤ゆるめぐり、水石瑰偉かいいとして佳氣欝芬うっぷんたり。これを淺艸の濵と謂ひ、白花大士遊化ゆうげの場なり。巨殿寶坊、輪奐りんかんとしてもつて數十里のうみ掩映えんえいす。補洛ふらくの妙境にして神人の幻ずるところといふ。其の後はすなはち滄洲茫乎そうしゅうぼうこして、百川ひゃくせん海にかいす。呉楚ごそ東南にわかれ、乾坤けんこん日夜に浮ぶとは、すなはちこれか。その前はすなはち谷岩出没して、原野莾蒼ぼうそうたり。天塹てんざん幾多仞いくたじん一夫いっぷ かんに當るときんば百萬もつて近づくべからず。世すなはちこの地の面勢は實に一方の金湯きんとうの最たるを知る。ともに二つあるところなきなり。
 昔、周室中微し、諸侯のわずらひあり。仲山甫ちゅうざんぽ、東方にきずき、國人安んじてもつて集るや、宣王おほいに興る。公、ここにさくするや、外に敵の喉襟こうきんやくし、内は武府の腹背に據り、東民これにる。公の功、仲山甫と顏行がんこうする者のと謂ひつべし。
 城上に閒燕かんえんの室を置き、扁して靜勝と曰ふ。靜勝はけだし兵家の機密か。其の西檐せいえんに當たりては、富士峰の雪有あり。天芙蓉ふようを削りて、もつて玉立すること三萬餘丈、その窻[やぶちゃん字注:底本の「江戸名所図会」は「窓」。]を含雪と曰ふなり。南檻なんかんるときんば積水せきすい天をひたし、沙觜洪潮さしこうちょう含吐がんとし、もつて曉夕に出縮す。羣山は岸を隔て、雲鬟うんかん濃翠のうすいくしけずり洗ひ、しかして陰晴に隱見す。自然無軸むじくの畫なり。鳧渚鷗汀ふしょおうてい、漁家民屋、枕藉ちんしゃしてもつて雜處す。沙戸水扉、人は朴にして地は淸し。旅船の泊るところたるや、靑龍赤雀せきじゃく舳艫じくろ あい ふくみ、蘭棹桂槳らんとうけいしょう舸經舫緯かけいぼうい織るがごとくにして、欵乃あいだいの聲斷ゆることなきなり。江情湖思まことに樂しいかな。
 小亭をむすびて泊船と曰ふ。字を浣花かんかの詩史にる。その人の襟宇瀟洒きんうしょうしゃにして、意を騒雅そうがいきくこと、語らずしてもて知べきのみ。ここにおいて、湘中しょうちゅうの僧郎にして詩をもつてその道に鳴る者、あるは公の逸韻を慕嚮ぼけいし、あるはその山水の美を歆羨きんせんし、もつて詩を寄せ志を言ふ。金薤琳琅きんかいりんろう、その音玲瓏れいろうとして章を成す。余もまた錚々そうそう餘響よきょうぐうす。魚目の珠に入り、燕石えんせきたまみだすは、志非ざるも、公のこれを求むるや嚴なり。重ねて紙尾の書をもつて命ぜらる。余は朴にして野なる者、文何ぞこれあらんや。しかれども督責まず、※2避た  ひするに地なし。にわかに鈍を磨き朽をり、もつていささかしばらくその景象の曼乙まんいつ※3おおむねしるすとしかいふ。文明丙申〔一四七六〕秋のはじめなり。

湘山暮樵得幺  

「※1」=「巾」+「莫」。「※2」=「享」+「單」。「江戸名所図会」では「概」が「※3」=(上)「既」+(下)「木」の字形で載る。「江戸名所図会」では「湘山暮樵得幺」の「幺」は一画目の右下に折れる部分がない字体であるが、表記出来ないので、本底本のママとした。一部本文に重要な異同があり(文意も変化している)、訓読もかなり異なっている。対比して読まれることをお薦めする。]
   已 上
[やぶちゃん注:これは「新編鎌倉志卷之二 荏柄天神 神寶」の「江亭記」引用の終了を意味している。]


紅梅殿

老松殿 共に本社の左右にあり。

和田ワダの平太郎胤長タネナガが屋數 【東鑑】に、胤長タネナガが屋敷の地、荏柄エガラの前に在て、御所の東鄰なれば、昵近ジツキンサムラヒ面々メンメンこれを望申ノゾミマウとあり。胤長タネナガは、建保元年三月、流罪せらる。舊跡今ハタケとなる。其所不分明也(其の所分明ならざるなり)。

○大樂寺 大樂寺ダイラクジは、胡桃山コトウサン千秋大樂寺と號す。覺園寺の門を入り左の方に有。律宗也。開山は公珍和尚、本尊は鐵像の不動、願行の作、是をコヽロミの不動と云ふ。大山オホヤマの不動をし時、先づコヽロミたる像と云ふ。愛染〔運慶作〕藥師〔願行作〕此寺、昔は胡桃谷クルミガヤツにありしが、後爰に移す。胡桃がヤツ條下に詳也。


覺園寺圖

○覺園寺 覺園寺カクヲンジは、鷲峯山ジユホウザンと號す。禪律にて、泉涌寺の末寺也。永仁四年に、平の貞時サタトキの建立也。開山は、心慧和尚、諱は智海、願行の法嗣なり。本尊は、藥師・日光・月光・十二神、何れも宅間法眼が作と云ふ。按ずるに、【東鑑】【梅松論】【太平記】等に、藥師堂谷ヤクシダウガヤツと有は此の地の事なり。【東鑑】に、建保六年七月九日、右京兆義時ヨシトキ大倉郷オホグラガウに一堂を建立し、運慶が所造(造る所ろ)の藥師の像を安置す。同年十二月二日供養を遂らるとあり。又建長二年二月八日、相州時賴トキヨリ、大クラの藥師堂に參らる。又同三年十月七日、藥師堂がヤツ燒亡ジヤウマウ、二階堂に及ぶ。南の方宇佐美ウサミの判官が荏柄エガラの家より到るとあり。又【帝王編年記】に、義時建立の藥師堂、號大倉新御堂(大倉の新御堂と號す)とあり。然れば當寺建立の前より、藥師堂有しとへたり、今七貫百文の御朱印あり。鶴が岡の一の鳥居より、當寺まで、十四町ばかりあり。
[やぶちゃん字注:「梁牌銘」は底本では全体が二字下げとなっていて、字配も有意に間隙を設けている。以下、「棟立井」迄の各項目の次行以降は、底本では一字下げとなっている。]

  梁牌銘
今上皇帝、聖壽無疆、天下元黎、淳風有道、異國降伏昌懇祈之法場、伽藍常住、轉不窮之法輪、人々歸敬三寶、國々歌樂太平、敬白、征夷大將軍正二位源朝臣尊氏謹書、〔左の方にあり。〕
征夷將軍、冠蓋一天、武威統於萬邦、榮運及於億載、梵宇固基、至慈尊之出世、法燈無盡、照徧界之重昏、衆僧和合、諸天擁護、敬白、文和三年十二月八日、住持沙門思淳謹誌、〔右の方に有。尊氏自筆を染めるの由、證文あり。此梁牌は修理の時の年號也。〕
[やぶちゃん注:影印に従って訓読文を附す。一部の句読点を変更・排除し、割注は省略した。
  梁牌の銘
今上皇帝、聖壽無疆、天下元黎、淳風有道、異國降伏懇祈の法場を昌にし、伽藍常住、不窮の法輪を轉ず。人々三寶に歸敬し、國々太平を歌樂す。敬〔し〕て白す 征夷大將軍正二位源朝臣尊氏謹書
征夷將軍、蓋として一天を冠〔する〕こと、武威萬邦を統べ、榮運億載及ぶ。梵宇基を固して、慈尊の出世に至る。法燈盡ること無し。徧界の重昏を照す。衆僧和合し、諸天擁護せん。敬〔して〕白す 文和三年十二月八日 住持沙門思淳謹誌]


寺寶

不動の畫像 壹幅三尊 八千枚五十餘度の行者智海、七十餘歳書之(之を書す)。下に判あり。智海は心慧の諱なり。

伽藍の目録 壹幅 嘉元四年四月廿一日、開山住持心慧書、下に判あり。

年中行事 一卷 思淳筆。

  已上

地藏堂 ガク、大地殿。ワキに永祿十二歳己巳[やぶちゃん字注:ここ底本では「已已」とあるが永禄十二(一五六九)年は「己巳」(つちのとみ)であるので訂した。]十月二十四日とあり。大地殿の三字は八分字ハフンジなり。昔しのガクはふるくなりて、ツクナヲしたる物なり。傍に芳春院李龍周興新造旃(新に旃を造る)とあり。《黑地藏》地藏を、俗に火燒ヒタキ地藏と云ふ。【鎌倉年中行事】には、クロ地藏と有て、持氏モチウシ參詣の事みへたり。相伴ふ、此の地藏、地獄を廻り、罪人のクルシみを見てたへかね、自ら獄卒ゴクソツにかはり火をき、罪人のホノヲをやめらるゝとなり[やぶちゃん字注:底本は「焔」であるが、影印で正字に訂した。]。是故に、毎年七月十三日の夜、男女參詣す。數度彩色サイシキを加へけれども、又一夜の内にモトの如く黑くなるとなん。鶴岡賴印僧正の行状に、至德二年三月二十七日、佐々木サヽキ近江の守基淸モトキヨ使ツカヒとして、賴印僧正に被仰(仰せられて)云、二階堂の地藏菩薩は義堂和尚造進するトコロなり。建長寺の前住椿庭和尚、雖被供養(供養せらると雖も)、存する子細あるに因て、カサネて開眼供養の義をのべらるべしとあり。此地藏堂建立の時、奇事多し。【沙石集】に見へたり。【沙石集】には丈六の地藏とあり。鎌倉の濱に有しを、東大寺の願行上人、二階堂へ移すと云へり。

弘法護摩堂の跡 山上にあり。

棟立井ムネタテノヰ 山上にあり。相ひ傳ふ弘法此井を穿て、伽の水をむと云ふ。鎌倉十井の一つなり。

塔宮土籠圖
○大塔宮土籠 大塔宮オホタフノミヤ土籠ツチノロウは、覺園寺の東南、二階堂村ニカイダウムラの山の麓にり。二段の石窟なり。内は八疊敷ばかりもあり。【太平記】に、建武元年五月三日、大塔の宮を、足利直義アシカガタヾヨシうけり、鎌倉へ下しタテマツて、二階堂がヤツ土籠ツチノロウりてぞ置參ヲキマイラせける。後に亂ヲコるに及て直義タヾヨシ淵邊フチベ伊賀の守義博ヨシヒロに命じて云く、始終アタとならせらるべきは、兵部卿親王也。御邊ゴヘンは急ぎ藥師堂がヤツハセ歸て、ミヤし殺しマイラせよと下知せられければ、義博ヨシヒロカシコマツウケタマハリ候とて建武二年七月二十三日にコロタテマツる。御クビをば藪の中へげ入たりしを、理致光院の長老、葬禮の事イトナむとあり。則ち此の所ろなり。石塔は理智光寺の山上にあり。按ずるに、【通鑑】に、北齋王高洋、其の弟永安王シユン、上黨王クワントラヘテ皆なるに鐵籠を以てし、地牢ヂロウに置く。飮食溲穢幷に一所に在。又高湛、祖珽をとらへて、桎梏して、地牢の中に置く。 ヨル蕪菁をシヨクとす。マナコタメフスべらる。是に因て明をウシナふとあり。所謂(謂は所る)地牢は、ツチロウなるべし。異域にもる事也。然れどもヤウタンは、君とし兄として、其の弟其の臣をトラふ。直義タヾヨシは、臣下として、親王をシイせり。滔天の罪惡、誅戮のがるべきにあらず。

○東光寺舊跡 東光寺トウクハウシの舊跡は、大塔の宮の土籠の前のハタケ也。醫王山イワウザンと號す。開山未考(未だ考〔せ〕ず)。【鎌倉ヲホ日記】に、建武二年七月二十三日、兵部卿の宮、直義タヾヨシが爲に、東光寺に於て生害せらるとあり。【竺仙録】に、貞和三年七月二十三日、日本國、相模州、鎌倉縣、東光禪寺住持比丘友桂、國朝のタメに寶塔を建立すとあり。【空華集】に、義堂、東光寺にて、大塔の宮をトムラふの詩あり。

[やぶちゃん字注:以下、詩全体が底本では二字下げ、字配も有意に間隙を設けているが、省略した。]

  東光弔大塔兵部卿親王
              義堂
塔影稜々半入雲。  王孫曾此洒啼痕。
獄中劒氣衝天起。  門外兵塵蔽日昏。
山鳥乍驚龍鳳質。  野童那識帝王尊。
興亡不上禪僧眼。  只見靈光巋獨存。
[やぶちゃん注:以下、影印に従って書き下したものを示す。

  東光に大塔兵部卿親王を弔ふ
              義堂
  塔影稜々として半〔ば〕雲に入る
  王孫曾て此に啼痕を洒く
  獄中の劒氣天を衝〔き〕て起り
  門外の兵塵日を蔽〔ひ〕て昏し
  山鳥乍ち驚く龍鳳の質
  野童那ぞ識〔ら〕ん帝王の尊
  興亡は禪僧の眼に上らず
  只〔だ〕見る靈光の巋として獨り存することを

「洒く」は「そそぐ」、「巋」は「き」と読み、山の高く険しいさまから、孤高に独立するさまを言う。]

○永福寺舊跡 永福寺エウフクジ舊跡は、土籠ツチノロウの北の方なり。昔二階堂の跡なり。里俗は、山堂サンダウとも光堂ヒカリダウとも云ふ。田の中に礎石ソセキ今尚を存す。俗に四石ツイシ姥石ウバイシなど云あり。【東鑑】に、文治五年十二月九日、永福寺の事始也。奧州に於て、泰衡ヤスヒラ管領の精舍を御覽ぜしめ、當寺の華構をクハダてらる。彼の梵閣等並宇之中(宇を並ぶる中)、二階堂あり。大長壽院と號す。專らこれをせらるに依て、別して二階堂と號す。建久三年十一月廿日、營作已に其の功を終ふ。御臺所ミダイドコロ御參ヲンマイリとあり。其の外イケをほり、阿彌陀堂・藥師堂・三重の塔・御願寺等建立の事あり。元久二年二月、武藏の國土袋の郷を、永福寺の供料にツノらるとあり。貞永元年十一月廿九日、賴經將軍、永福寺の林頭の雪覽給ミタマハん爲に渡御、倭歌の御會あり。但し雪氣雨脚に變ずるの間だ、餘興未盡(未だ盡ず)して還御す。路次にて判官基綱モトツナ申して曰く、 雪爲雨無全(雪雨に爲に全き無し)。武州泰時ヤストキこれをきかしめ給ひ、ヲホセられて云く、「あめの下にふればぞ雪の色も見る」とあれば、又基綱モトツナ、「三笠ミカサの山をたのむかげとて」とあり。【梅松論】に、義詮ヨシアキ御所ゴシヨ、四歳の御時、大將として。御輿コシにめされて、義貞ヨシサタと御同道有て、關東御退治以後は、二階堂の別常坊に御座ありし、諸サムラヒ悉く四歳の若君ワカキミゾクタテマツリりしこそ、目出メデタけれとあるは、此寺の別當坊也。
[やぶちゃん注:影印では「永福寺」に「エイフクジ」の読みを振るが、現在知られる「ようふくじ」という特異な読みを示すために、ここは底本に従った。江戸期には「えいふくじ」と呼称してものとも思われる。]

○獅子巖 獅子巖シシガンは、永福寺舊跡の北、山のミネにあり。イハカタチ獅子の如くなる故に名く。【護法録】に云、浦江縣の東南三十五里に有山(山有り)。俗其形蹲踞して、獅子シシの如なるを以て、獅子岩シシガンと云ふ。異國・本朝、事相ひ似たり。俚語に、二階堂ニカイダウ獅子舞シシマヒミネと云なり。昔は永福寺の内なり。永福寺の内に、二階堂有て、繁昌の時は、寺内ヒロクして、此の邊よりハルか東南のムラまでを、今に二階堂村ニカイダウムラと云なり。此獅子巖より南の方、永福寺の礎石の有所を考へ見るに、【東鑑】に、正嘉元年八月十八日、陰陽師等、未明ビメイ西御門ニシミカドの山に登て見れば、時に殘月在西(時に殘月西に在り)。日出東(日は東に出づ)。彼れ是れ方角をタヾせば、最明寺サイミヤウジ永福寺は、卯酉ウトリに相ひ當り、大慈寺と最明寺とは、辰戌タツイヌに相ひ當ると有。今我が相公のメイフクんで、此の編纂ヘンサンのために此地に來り、彼の山上に登り方角を見れば、賓に此獅子巖シシガンの山の南の方と、禪興寺ゼンコウジとは、正東西に相ひ當るなり。


○理智光寺 理智光寺リチクハウジは、五峯山ゴホウザン理智光寺と號す。土の籠の東南なり。【太平記】には、理致光院とあり。本尊は阿彌陀、作者不知(知れず)。腹中に名佛をヲサむる故に、俗是をサヤ阿彌陀と云ふ。開山は願行。牌に當寺開山勅謚宗燈憲靜宗師とあり。願行の牌なりと云ふ。又大塔宮ヲホタフノミヤの牌あり。沒故兵部卿親王尊靈と有。ウラに建武二年七月廿三日とあり。此牌は淨光明寺の慈恩院に有しを、理智光寺にあるべき物也とて、慈恩院より當寺へ移しく也。

大塔の宮の石塔 山の上にあり。

鑪場タヽラバ 西の方にあり。願行、大山ヲホヤマの不動をたる所ろ也と云ふ。按ずるに、此所ろ胡桃山ゴトウザン大樂寺の舊跡に近し。

○永安寺舊跡 永安寺エイアンジの舊跡は、瑞泉寺の門外右の谷なり。永安寺は、源の氏滿ウチミツの菩提所なり。氏滿を永安寺璧山全公と云。應永五年十一月四日に卒す。開山は曇芳和尚、諱は周應、夢窓國師の法嗣也。建長寺瑞林菴の元祖なり。永享十一年己未[やぶちゃん字注:ここ、底本では「已未」とあるが永享十一(一四三九)年は「己未」(つちのとひつじ)であるから、補正した。]二月十日、持氏モチウヂ、此寺にて自害せらると云ふ。

瑞泉寺圖

○瑞泉寺 瑞泉寺ズイセンジは、理智光寺の東北にあり。錦屏山キンヘイサンと號す。關東十刹の内なり。源の基氏モトウシの建立なり。基氏を瑞泉寺玉岩昕公と號す。貞治六年四月廿六日、卒去なり。開山は、夢窓國師、本尊は釋迦〔作者不知(知れず)〕寺領三十八貫文を附す。圓覺寺御朱印の内なり。鶴が岡の一の鳥居より、十四五町はかり有。

開山塔 總門を入、右の方山際ヤマギハにあり、夢窓國師の像、幷に源の基氏モトウヂ・同く氏滿ウヂミツの像あり。

座禪窟 開山塔のウシロに大なる巖窟あり。夢窓國師の坐禪せし所なり。

偏界一覽亭跡ヘンカイイチランテイノアトカ 坐禪窟の上の山にあり。登る事十八キヨクサカなり。夢窓國師、此亭にての歌あり、云く、「前も又かさなる山のいほりにて、こずへにつゞくニハの白雪」。此外諸名僧の詩等ヲホし。左に記す。
[やぶちゃん字注:「こずへ」の「へ」はママ。以下、「一覽亭記」は底本で十頁に及ぶ。前書を含めて漢詩文全体が底本では二字下げ、字配も有意に間隙を設けているが、省略した。末尾の跋文は、底本では全体が一字下げである。]

  一覽亭記
名區勝概、充塞寰宇、天慳地秘、常悋於人、唯深機上智、旁搜遐討、摟玄剜賾、得司其要者焉、相陽之東、有紅葉谷、紆嶺而上一牛鳴地、入錦屏山下、洗泉脉々、前淨智夢窓石禪師、鑿岩敞地、創瑞泉練若以居、前峰後洞巧奪造化、洞之西、略彴横空、風磴委蛇、盤回十八曲至絶頂、翼然新亭、名之曰徧界一覽、暇日招予臨眺其上、大矣哉、屏張障列、若是其周回也、前有巨溟浸天、萬頃一碧、海外嵬々而傑出者、筥根、走湯、神山欝然、左有長谷、圓通大士闡化之境、右當富士、雄盤亘數百里、立空數千仞、積太古雪、突兀雲際、鶴岡靈山、則又分其次焉、且夫山川融結、高低遠近、各不相知、能司其要者、俾衆美奔趍、如挹如獻、千奇萬恠、雜然前陳、使天不能慳、而地不能秘也、幽花異卉、爛熳羣發、雲敷錦覆香風遠吹、方春之時、登斯亭也、則使人覩色明心、聞香入理、珍林寶樹、翹幢偃蓋、紫翠浮空、岩巒秀潤、方夏之時、登斯亭也、則使人増神育志、長養聖胎、霜露既降、楓林盡赤、商颷凄冷、來鴈叫雲、方秋之時、登斯亭也、則使人精爽飛越、覺天明朗、大雪新霽、凍日出海、諸峯璀璨、萬象寒色、方冬之時登斯亭也、則使人還源返本、歸復實際、然則斯亭者、非徒爲縱遊觀之樂而作也夫、甞試論之、十虚無間之謂遍、心所至極之謂界、殊途同歸之謂一、境與神會之謂覽、然此予之所謂人々者也、若夫包二儀、超三界、育萬物、空羣像、則山中主人、獨而有之、又非人々之所能知也、主人謝請以爲記、嘉暦四年己巳、修禊十日、巨福山人淸拙正澂撰。

[やぶちゃん字注:三句目他二箇所の「秘」はママ。「洞之西、略彴横空」の「彴」の部分、活字を新規に作ったためか、やや大きな植字でかすれている。実際には「勺」ではなく、中の点ははっきりと左右に平行に伸びている横画で、「鎌倉市史 資料編第三第四」の「二九四 偏界一覽亭記寫」でも同様であるが、この「彴」は当該字と同字と思われ、意味も「丸木の一本橋」又は「飛び石」という意で、ここにしっくりくるように思われる。とりあえずこの字を配しておく。「走湯」は底本では「走陽」であるが影印で訂した。これは後で注するように走湯権現、伊豆山のことである。「翹幢」は底本では「翹憧」であるが影印で訂した。これは後で注するように仏殿に飾る旗のことである。最後のクレジット「嘉暦四年」は底本では「已已」となっているが、嘉暦四・元徳元(一九二三)年は己巳(つちのとみ)であるので訂した。
 以下に、影印の訓点に従って書き下したものを示す。

  一覽亭記
名區勝概、寰宇に充塞す。天慳に地秘す。常に人に悋かなり。唯〔だ〕深機上智、旁く搜り遐〔か〕に討ね、玄を摟き賾を剜り、其の要を司〔る〕ことを得る者のなり。相陽の東に、紅葉がヤツ有〔り〕。嶺を紆〔り〕て上る一牛鳴の地、錦屏山下に入る。洗泉脉々たり。前の淨智夢窓石禪師、岩を鑿ち地を敞にし、瑞泉の練若を創めて以〔て〕居す。前峰後洞巧〔みに〕造化を奪ふ。洞の西、略彴空に横〔ぎ〕り、風磴委蛇たり。盤回十八曲にして絶頂に至る。翼然たる新亭、之を名〔づけ〕て徧界一覽と曰〔ふ〕。暇日予を招〔き〕て其の上に臨眺せしむ。大なるかな、屏張り障列〔な〕る。若し是れ其の周回や、前に巨溟有りて天を浸す。萬頃一碧、海外嵬々として傑出する者は、筥根・走陽、神山欝然たり。左に長谷ハセ有〔り〕、圓通大士闡化の境ひ。右は富士に當る。雄盤數百里に亘り、立つこと空に數千仞、太古の雪を積〔み〕て、雲際に突兀たり。鶴が岡の靈山、則〔ち〕又其の次を分〔か〕つ。且つ夫れ山川融結、高低遠近、各々相知らず。能〔く〕其の要を司る者は、よりて衆美を奔趍せしむ。挹〔く〕がごとく獻〔ぐる〕がごとし。千奇萬恠、雜然として前に陳〔ぬ〕る。天をして慳〔する〕こと能はず、地をして秘すること能はざらしむ〔る〕なり。幽花異卉、爛熳として羣〔が〕り發〔き〕、雲敷き錦覆〔ひ〕て香風遠く吹く。春の時に方〔り〕て、斯の亭に登るときは、則〔ち〕人をして色を覩て心を明にし、香を聞〔き〕て理に入らしむ。珍林寶樹、翹幢偃蓋、紫翠空に浮び、岩巒秀〔い〕で潤ふ。夏の時に方〔り〕て、斯の亭に登るときは、則〔ち〕人をして神を増し志を育ひ、聖胎を長養せしむ。霜露既に降り、楓林盡く赤し。商颷凄冷として、來鴈雲に叫ぶ。秋の時に方〔り〕て、斯の亭に登るときは、則〔ち〕人をして精爽飛越し、覺天明朗ならしむ。大雪新に霽れ、凍日海を出づ。諸峯璀璨、萬象寒色、の時に方〔り〕て、斯の亭に登るときは、則〔ち〕人をして源に還り本に返り、實際に歸復せしむ。然らば則ち斯の亭は、徒に遊觀の樂を縱にせんが爲にして作るに非〔ざる〕なり。夫〔れ〕、甞て試〔み〕に之を論ぜん、十虚無間、之を遍と謂ひ、心所至極、之を界と謂ひ、途を殊にして歸を同〔じく〕す、之を一と謂〔ひ〕、境と神と會〔ふ〕、之を覽と謂〔ふ〕。然も此れ予が謂〔は〕所る人々なる者なり。若〔し〕夫〔れ〕二儀を包ね、三界を超へ、萬物を育し、羣像を空〔しく〕するは、則〔ち〕山中の主人、獨〔り〕之を有す。又人々の能く知る所に非〔ざる〕なり。主人謝して請ふ以て記爲る。嘉暦四年己巳、修禊十日、巨福山人淸拙正澂撰す
影印では冒頭の「概」は{(上)「既」+(下)「木」}の字体である。「旁く」は「あまねく」(遍く)、「遐〔か〕に」は「はるかに」(遥かに)、「討ね」は「たづね」(尋ね)、「摟き」は「ひき」(引き)、「剜り」は「えぐり」(抉り)、「創めて」は「はじめて」、「陳〔ぬ〕る」は「つらぬる」、「發〔き〕」は「ひらき」、「育ひ」は「やしなひ」と読む。
「寰宇」は世界・宇宙。
「天慳」は天はそうした名勝を出し惜しみし、という意であろう。
「賾」は「さく・じやく」と読み、奥深いことを意味する。
「剜り」は「地を敞にし」の「敞」は「しやう」と音読みして、平らに広々とさせるの意で、さらに見晴らしを良くさせるという意もあるか。
「練若」は「れんにや」と読み、梵語の āranya の音訳「阿練若」の略で「阿蘭若(あらんにゃ)」に同じで、原義は僧の修行に適した地、転じて寺院。
「略彴」は「りやくしやく」と読み、小さな木橋。
「風磴」は「ふうとう」と読み、自然な(侘びた)石段の意か。
「巨溟」は「きよめい」と読み、大海のこと。相模湾を指す。
「嵬々」は「くわいくわい」と読み、高く勇壮なこと、ここでは海を隔てて遠く遠望する箱根及び頼朝所縁の伊豆の走湯権現のある熱海の伊豆山のことを言う。
「雄盤」とは富士の山体から裾野の雄大なことを言う語か。
「奔趍」は「ほんしゅ・ほんす」と読み、(名勝へ人々を)ひたすら走らせ、向かわせることを言うのであろう。その様子が「挹〔む〕がごとく獻〔ぐる〕がごとし」で、これは「こまぬく」「ささぐる」と読み、恰も景勝を拝するようである、という意と思われる。
「翹幢偃蓋」は「ぎやうだうえんがい」と読み、「翹幢」は鳥の長い尾羽のような寺院に飾る旗状の飾り、「偃蓋」は当初は天蓋と同義かと考えたが、これは所謂、「偃蓋松」で枝を低く這わせた松のことであろう。
「聖胎を長養せしむ」は「聖胎長養」(しょうたいちょうよう)で、悟後の修行とも言う。菩薩道の最終到達点であり、禅宗にあっては悟達=見性(けんしょう)に至った者がその後も心身を永く養い、悟りを更に育む謂いである。
「商颷」は「しやうへう」で秋風のこと。
「璀璨」は「さいさん」と読み、きらきらと光り輝くさま。
「包ね」は「かさね」と読んでいるか。]


  徧界一覽亭       夢窓國師
天封尺地許歸休。  致遠釣深得自由。
到此人々眼皮綻。  河沙風景我焉廋。
    徧界一覽亭     夢窓國師
  天尺地に封して歸休許す
  遠を致し深を釣て自由を得たり
  此に到て人々眼皮綻ぶ
  河沙の風景我焉んぞ廋ん。
[やぶちゃん注:白文の後に影印に従って書き下したものを示す(以下同じ)。「釣て」は「さぐりて」(探りて)、「廋ん」は「かくさん」(隠さん)と読む。]


  題瑞泉一覽亭      唐人旭元明〔出日工集〕
欄干縹緲錦峯頭。  塊視三山與十洲。
翠玉一峯知華岳。  靑煙九點見齊州。
無窮雲接蒼梧晩。  不盡波涵碧海秋。
便欲題詩招李白。  御風騎氣共仙遊。
    瑞泉の一覽亭題す  唐人カラヒト旭元明〔出日工集〕
  欄干縹緲たり錦峯の頭
  塊視す三山と十洲と
  翠玉一峯華岳を知り
  靑煙九點齊州を見る
  無窮の雲は蒼梧の晩に接し
  不盡の波は碧海の秋を涵す
  便〔ち〕詩を題して李白を招かんと欲す
  風に御し氣に騎〔し〕て共に仙遊せん


  春日遊一覽亭      曲江繼趙
路踏層々登翠微。  上頭亭子勢如飛。
春風吹散宿雲霧。  花柳千山錦一機。
    春日一覽亭に遊ぶ  曲江繼趙
  路層々を踏〔み〕て翠微に登る
  上頭の亭子勢飛ぶがごとし
  春風吹散す宿雲霧
  花柳千山錦一機


  和夢窓和尚遊一覽亭韻  四明梵仙
歴到靑雲最上頭。  叫開閭闔作同遊。
下方刹土無央數。  消得凭欄一轉眸。
    夢窓和尚一覽亭に遊〔ぶ〕の韻を和す  四明梵仙
  歴ねく到る靑雲の最上頭
  叫〔び〕て閭闔を開〔き〕て同遊を作す
  下方の刹土無央數
  消し得たり欄に凭〔れ〕て一〔た〕び眸を轉ずることを
[やぶちゃん注:「歴ねく」は間違いなく送り仮名が「子ク」であるが、読めない。「あまねく」では意味が通じないし、そのような意味も「歴」にはない。「子」が「ラ」の誤りで、「しばらく」と読むのなら、意味は通じるが、如何にもではある。識者の御教授を乞う。]


  題徧界一覽亭      前人
刹海三千在面前。  天風扶掖倚闌干。
眼高自覺乾坤小。  不欲迢々著意看。
    徧界一覽亭に題〔す〕      前人
  刹海三千面前に在〔り〕
  天風扶掖闌干に倚る
  眼高〔く〕して自〔から〕覺ふ乾坤の小〔なる〕ことを
  迢々として意を著〔し〕て看〔る〕ことを欲せず。
[やぶちゃん注:「迢々として」は、(心を)遥か高いところにおいて、の意であろう。]


  和夢窓和尚遊一覽亭韻  建長楚俊〔號明極〕
捫蘿陟近碧峯頭。  賓主歡呼樂勝遊。
物象爲供詩料用。  呈奇獻巧奪人眸。
    夢窓和尚一覽亭に遊ぶの韻を和す  建長楚俊〔號明極〕
  蘿を捫〔て〕近く陟り碧峯頭
  賓主歡呼して勝遊を樂〔し〕む
  物象爲めに供す詩料の用
  奇を呈し巧を獻じて人の眸を奪ふ
[やぶちゃん注:「蘿」は「ら」で、蔦蔓。従って「捫〔て〕」は「もちて」(持ちて)か「つかみて」(摑みて)と訓じていると思われる。後者であろう。「陟り」は「のぼり」。]


  題徧界一覽亭      前人
絶頂凭欄境物新。  重々雲海浩無垠。
眼觀爭似心觀好。  一念超過幾刹塵。
    徧界一覽亭に題す  前人
  絶頂欄に凭〔れ〕て境物新なり
  重々たる雲海浩として垠り無し
  眼觀爭でか心觀の好に似ん
  一念に超過す幾く刹塵ぞ
[やぶちゃん注:「垠り」は「かぎり」(限り)。「爭でか」は「いかでか」。]


  同           瑞鹿山人淸拙正澂
徧若虚空極周普。  界亡限劑超方所。
一醫纔存花亂舞。  覽不在眼爲眞覩。
四重樞要闢天府。  衆彙※々任旁午。
析出精明開肺腑。  直須披剥從頭數。
東弗于逮擣萬鼓。  西瞿耶尼走龍虎。
南閻浮提廓庭宇。  北鬱單越眇寸土。
部洲雙々如粟黍。  鄙彼東山徒小魯。
新亭爽塏名蓋古。  巧奪眞宰泣難禦。
手攀星辰與天語。  天慳鑿破勿愁苦。
大叫女媧吾語女。  雲根五色急錬補。
達人化境循此擧。  元氣溟濛日呑吐。
禪居説偈似亭主。  主翁點頭一笑許。
亘千萬世付仰頫。
[やぶちゃん字注:「※」=(てへん)+「從」。]
    同           瑞鹿山人淸拙正澂
  徧く虚空のごとく極〔め〕て周普
  界ひ限劑〔を〕亡して方所を超ゆ
  一醫纔〔か〕に存するは花亂舞
  覽眼に在らざるを眞覩と
  四重の樞要天府を闢く
  衆彙※々として旁午に任す
  精明を析き出〔だ〕して肺腑開く
  直に須〔ら〕く披剥して從頭に數ふ
  東に弗于逮萬鼓を擣つ
  西に瞿耶尼龍虎走〔ら〕しむ
  南〔に〕閻浮提庭宇廓なり
  北〔に〕鬱單越寸土眇たり
  部洲雙々粟黍のごとし
  鄙しむ彼の東山タヽに魯を小きなりとすることを
  新亭爽塏名古を蓋ふ
  巧に眞宰を奪〔ひ〕て泣〔くを〕禦ぎ難し
  手に星辰を攀〔げ〕て天と語る
  天慳鑿破す愁苦すること勿れ
  大に女媧を叫〔び〕て吾れ女に語〔ら〕ん
  雲根五色急に錬補せよ
  達人の化境此の擧に循ふ
  元氣溟濛として日呑吐す
  禪居偈を説〔き〕て亭主にシメ
  主翁點頭して一笑許〔す〕
  千萬世に亘〔り〕て仰頫に付す
[やぶちゃん字注:「眞覩」は「しんと」と読み、心にのみ見える真理といった意味か。「析き」は「さき」(割き)と読む。「弗于逮」は「ふつうたい」と読み、仏教に於いて世界の中心である須彌山(しゅみせん)の南にある、我々の住む閻浮提(えんぶだい)=瞻部州(せんぶしゅう)の東に浮かぶ大陸の名。以下、西に浮かぶ大陸が「瞿耶尼」で「くやに」、北が「鬱單越」で「うつたんえつ」と読む(「越」は「曰」とも書き、「うつたんわつ」とも)。「仰頫」は「ぎやうてう」で、高いところにあるものを低いところから仰ぎ見ることか。]


  又           瑞鹿山人淸拙正澂
迎闥山川入澱藍。  宛如帝網互交參。
頂門亞竪摩醘眼。  眨上眉毛落二三。
    又         瑞鹿山人淸拙正澂
  闥を迎〔へ〕る山川澱藍に入る
  宛〔も〕帝網のごとくにして互〔ひ〕に交參す
  頂門亞竪す摩醘が眼
  眉毛をサウ上すれば二三落つ
[やぶちゃん注:「闥」は「たつ」で、潜り門。「澱藍」は「でんらん」で、「泥藍」のこと。藍色の染料の原料となる藍色をした泥土の塊のようなものを言う。秋気の景色を言うか。「宛〔も〕」は「あたかも」。「帝網」とは「たいまう」と読み、「華厳経」所収の「梵網経」に書かれている、帝釈天の世界に張り巡らされた帝網(インドラネット)という網のことを言う。衆生はこの網によって総て結ばれており、その結び目は宝珠で出来ていて、その網と珠玉が宇宙の真理の楽を奏でるとも言われる。「摩醘」は「まかふ」であるが、これは「摩醯」(まけい)の誤りではあるまいか。摩醯首羅(まけいしゅら)は大自在天のことを指す。この部分、慧弼編「福州雪峯東山和尚語録」の中の「亞竪摩醯頂門眼」に基づくか。私の知識ではこの句、読解出来ない。識者の御教授を乞う。「眨上」は「さうじやう(そうじょう)」と読んで、本来は瞬くことである。]


  同           東明慧日〔塔曰白雲菴〕
脚力不辭窮到頂。  憑欄方覺眼頭寛。
平蕪盡處靑山外。  白鳥明邊正若看。
    同         東明慧日〔塔曰白雲菴〕
  脚力辭せず窮ち頂に到るを
  欄に憑〔り〕て方に覺ふ眼頭の寛きことを
  平蕪盡る處靑山の外
  白鳥明なる邊正に看〔る〕がごとし


  同           南山士雲〔塔曰傳宗菴〕
萬層巒上尺闌干。  收盡百城煙水寒。
若使善財最初到。  何須南走歴艱難。
    同         南山士雲〔塔曰傳宗菴〕
  萬層巒上尺闌干
  百城の煙水を收め盡して寒し
  若し善財をして最初に到らしめば
  何ぞ須〔ひ〕ん南走して艱難を歴ぶを
[やぶちゃん注:「歴ぶを」は「えらぶ」(選ぶ)と訓じておいた。この句、意味不明。識者の御教授を乞う。]


  同           雲屋慧輪〔塔曰長壽菴〕
望眼入雲天地寛。  大千曾不隔毫端。
空餘午夜一輪月。  誤作洞庭畫裏看。
    同          雲屋慧輪〔塔曰長壽菴〕
  望眼雲に入て天地寛し
  大千曾て毫端を隔てず
  空〔し〕く餘す午夜一輪の月
  誤〔り〕て洞庭畫裏の看を作る
[やぶちゃん注:「大千」は「三千大千世界」のこと。三千世界とも言い、須弥山(しゅみせん)を中心に日・月・四大州・六欲天・梵天等を含む集合を一世界単位とし、この千の集合を小千世界とし、更にその千の集合を中千世界、更にその千の集合体が大千世界。仏教的宇宙観の広大無辺性を意味する。]


  同           嶮崖巧安〔塔曰悟本菴〕
一峰正露半空間。  孤峻淸高絶頂寒。
眼力窮邊休著意。  古今一世似天寛。
    同         嶮崖巧安〔塔曰悟本菴〕
  一峰正に露〔は〕る半空の間
  孤峻淸高絶頂寒し
  眼力窮まる邊意を著〔く〕ることを休めよ
  古今一世天の寛に似たり。


  同           天岸慧廣〔佛乘禪師〕
天開靈秀神開祕。  盡遠窮高向上關。
未解諸塵三昧起。  莫辭來此倚闌干。
    同         天岸慧廣〔佛乘禪師〕
  天は靈秀を開き神は祕を開く
  遠を盡し高を窮む向上の關
  未だ諸塵三昧より起つことを解せざる
  辭すること莫れ此に來〔り〕て闌干に倚〔る〕ことを


  同           孤雲慧約〔常照國師〕
晴拂海天山潑翠。  八埏九野絶遮欄。
衲僧好今通天眼。  不作師顏咫尺看。
    同         孤雲慧約〔常照國師〕
  晴海天を拂〔ひ〕て山翠を潑ぐ
  八埏九野遮欄を絶す
  衲僧好し今ま通天の眼
  師顏咫尺の看を作さず
[やぶちゃん注:「潑ぐ」は「そそぐ」。「八埏九野」は「はちえんくや」で「八埏九界」のこと。真の仏国土の八方の果て、仏界以外の九界総てを言う。「九」は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六道に声聞・縁覚・菩薩界三つを加えた九つの世界を指す。「作さず」は「おこさず」と読んでいるのであろう。結句の「師顏咫尺の看を作さず」の「咫尺」はこの場合、一般的な距離が非常に短いことを言うのではなく、貴人の御前にて親しく拝謁することを意味し、句全体では、拝顔した師は少しもしゃっちょこばった儀礼を致す必要のない程に親しげであったことを言うのではなかろうか。]


  同           此山玅在〔塔曰定正菴〕
登臨一十八盤巒。  路盡逢顚倚曲欄。
無數劫微塵佛刹。  沙門雙眼裏親看。
    同         此山玅在〔塔曰定正菴〕
  登臨す一十八盤巒
  路盡き顚に逢〔ひ〕て曲欄に倚る
  無數劫微塵の佛刹
  沙門の雙眼裏に親〔し〕く看る
[やぶちゃん注:「親〔し〕く」の「く」は「ク」にしてはやや大き過ぎ、「り」にも見えるが、訓読出来ないので、暫く「く」としておく。]


  同           東陵永璵〔塔曰東雲菴〕
路紆百褶入層雲。  絶頂春和景物新。
南望雪山瀛海北。  諸峰點々一微塵。
    同         東陵永璵〔塔曰東雲菴〕
  路紆〔り〕て百褶層雲に入る
  絶頂春和して景物新〔た〕なり
  南に望めば雪山瀛海の北
  諸峰點々一微塵


  同           石室善玖〔塔曰金龍菴〕
南岳祝融穿碧落。  昔年騰蹈望扶桑。
錦屏一覽三千界。  雲漢擡眸眇大唐。
    同         石室善玖〔塔曰金龍菴〕
  南岳の祝融碧落を穿つ
  昔年騰蹈して扶桑を望む
  錦屏の一覽三千界
  雲漢眸を擡て大唐を眇す


  同           河南雪樵陸仁造
日本諸山秀可觀。  錦屏尤是好峯巒。
乾坤一覽無餘界。  雲霧長連十八盤。
瀑瀉岩前明似練。  葉飛谷口渥如丹。
幾時絶頂究幽勝。  試向危亭共倚欄。
    同         河南の雪樵陸仁造
  日本の諸山秀でゝ觀づべし
  錦屏尤も是れ好峯巒
  乾坤一覽無餘界
  雲霧長〔く〕連〔な〕る十八盤
  瀑瀉〔ぎ〕て岩前明なること練に似たり
  葉飛〔び〕て谷口渥きこと丹のごとし
  幾時ぞ絶頂幽勝を究めん
  試〔み〕に危亭に向〔ひ〕て共に欄に倚る
[やぶちゃん注:「瀉〔ぎ〕て」は「そそぎて」と読む。「練」は練り絹のこと。「渥きこと」は当初「あつきこと」と訓じていると思っていたが、これは「渥丹」(あくたん)の熟語のように、「こきこと」(濃きこと)と読んでいるととった。「危亭」の「危」は、高いの意である。]


  同           鑑翁士昭〔東福寺〕
孤峯頂上坐當軒。  異境靈踪總現前。
眼裏瞳人善通變。  神光照徹盡乾坤。
    同         鑑翁士昭〔東福寺〕
  孤峯頂上坐して軒に當る
  異境靈踪總〔て〕に現前
  眼裏の瞳人善く通變す
  神光照徹す盡乾坤


  同           慈洞
欄干高聲入雲端。  坐斷乾坤表裏寛。
窮到上頭親著眼。  大千不隔一眸間。
    同         慈洞
  欄干高く聲〔し〕て雲端に入る
  乾坤を坐斷して表裏寛し
  窮ち上頭に到て親〔し〕く眼を著〔く〕れば
  大千隔〔て〕て一眸の間


  同           雲山智越〔淨妙禪昌菴〕
層簷翼々翥林端。  前接雲天後倚山。
下視諸方皆※嶁。  教誰直透上頭關。
[やぶちゃん字注:「※」=「培」-「土」+「山」。]
    同         雲山智越〔淨妙禪昌菴〕
  層簷翼々として林端に翥して
  前は雲天に接し後ろは山に倚る
  視れば諸方を下し皆※嶁
  誰をしてか直に上頭の關を透らしめん
[やぶちゃん字注:「翥して」は「しよして」と読み、本来は「飛ぶ」「上がる」の意、(亭の庇が林の端に)飛ぶ鳥の羽のごとくに広がっているさまを言う。「※」=「培」-「土」+「山」。]


  同           關東元古
無数恒河沙刹境。  自它元不隔毫釐。
頂門眼照四天下。  正是當軒大坐時。
    同         關東の元古
  無数恒河沙の刹境
  自它元と毫釐を隔〔て〕ず
  頂門の眼は四天下を照す
  正に是れ當軒大坐の時


  同           大渡曇儀
高々峯頂立門風。  獨倚危闌望不窮。
萬里江山絶邊表。  都來收在寸眸中。
    同         大渡の曇儀
  高々峯頂門風を立つ
  獨り危闌に倚〔り〕て望窮らず
  萬里の江山邊表を絶す
  都來收〔め〕て寸眸の中に在〔り〕


  同           越山曇派
曲徑營回十八盤。  登臨幾度倚闌干。
微塵刹土無邊境。  六合雲收望眼寛。
    同         越山の曇派
  曲徑營回す十八盤
  登臨幾度か闌干に倚る
  微塵刹土無邊の境
  六合雲收〔め〕て望眼寛し


  同           曇昌
錦屏山頂勢高寒。  攀嶮登危天地寛。
終日凭欄回首處。  塵毛刹海列眉端。
    同         曇昌
  錦屏山頂勢高寒
  嶮を攀ぢ危に登〔り〕て天地寛し
  終日欄に凭〔れ〕て首を回す處
  塵毛刹海眉端に列〔な〕る


  同           妙紹
地靈人傑異人間。  妙處分明到者難。
觀盡海山千萬疊。  無邊刹境在毫端。
    同         妙紹
  地靈人傑人間に異ひ
  妙處分明に到〔る〕は難し
  海山千萬疊を觀盡〔く〕し
  無邊の刹境毫端に在〔り〕
[やぶちゃん注:「異ひ」は「たがひ」と読んだ。]


  同           墨田光一
坐斷高々最上峯。  闌干下視十方空。
盡微塵刹不曾隔。  都在沙門雙眼中。
    同         墨田の光一
  坐斷す高々たる最上峯
  闌干下し視る十方空
  盡微塵刹曾て隔〔て〕ず
  都て沙門雙眼の中に在〔り〕


  同           武城曇春
簷翼凌層接漢天。  上頭關在碧峯巓。
倚欄送目窮邊表。  收盡三千及大千。
    同         武城の曇春
  簷翼凌層漢天に接す
  上頭の關は碧峯の巓に在り
  欄に倚り目を送〔り〕て邊表を窮む
  收盡す三千及び大千


  同           伊北嘉運
著屋最高峯頂居。  眼光逼塞四維裏。
好生觀也好生觀。  大地山河歸自己。
    同         伊北の嘉運
  屋を著く最高峯頂の居
  眼光逼塞す四維の裏
  好生觀也た好生觀
  大地山河自己に歸す
[やぶちゃん注:「著く」は「おく」。「四維」は「しゐ」若しくは「しゆゐ」と読み、天地の四つの隅の謂いで、乾(いぬい=北西)・坤(ひつじさる=南西)・巽(たつみ=南東)・艮(うしとら=北東)の四つの方角。転じて、天地。「好生觀」はよくしっかりと観(み)よ、という謂いか。識者の御教授を乞う。「也た」は「また」(又)。]


  同           無感良欽
憑高軒檻壓蒼崖。  到此登臨眼豁開。
要看大方無外處。  莫嫌盤道太縈回。
    同         無感良欽
  高に憑る軒檻蒼崖を壓す
  此に到〔り〕て登臨すれば眼豁開
  看んことを要す大方無外の處
  嫌ふ莫れ盤道太だ縈回するを


  同           汝知
軒窓開豁碧峰頭。  路繞岩隈墳致幽。
到得個中休歇地。  茫々宇宙寸眸收。
    同         汝知
  軒窓開豁碧峰頭
  路岩隈を繞〔り〕て墳致幽なり
  個中休歇の地を到得〔す〕れば
  茫々たる宇宙寸眸に收〔む〕
[やぶちゃん注:「岩隈」が「がんわい」と読む。「休歇」は「きうけつ」と読み、原義は休むことであるが、禅にに於いては寂滅の悟りを意味する。]


  同           筑波普傳
層簷接漢勢如飛。  天末雪收夕照微。
眼底頓空塵刹海。  當頭薦取目前機。
    同         筑波の普傳
  層簷漢に接して勢ひ飛〔ぶ〕がごとし
  天末雪收〔め〕て夕照微なり
  眼底頓に空〔しく〕す塵刹海
  當頭薦取す目前の機


  同           鳳城曇林
透得孤危那一關。  天開圖畫絶遮欄。
眼頭高掛靑霄外。  下視洪荒八極間。
    同         鳳城の曇林
  透得す孤危那の一關
  天圖畫を開〔き〕て遮欄を絶す
  眼頭高く掛く靑霄の外
  下視す洪荒八極の間
[やぶちゃん注:「孤危那の一關」は「孤危」で切れて、孤高の地、「那」は刹那の意に美しい、安らかの意も掛けているか。「洪荒」は「こうくわう」と読み、広大にして茫漠の意。「八極」は我々の世界である「八紘」の、更にその外側を言う語で、所謂我々には忌わしき、かの「八紘一宇」のその外を言う。]


  同           建長本心
宗匠機關在上頭。  令人高歩樂淸遊。
食觀不忍下山去。  盡十方空一目收。
    同         建長の本心
  宗匠の機關上頭に在り
  人をして高歩して淸遊を樂〔し〕ましむ
  食觀〔し〕て山を下り去るに忍〔び〕ず
  盡十方空一目に收む


  同           嚴島士瓊
極目推原毫髮間。  碧崔嵬外更無山。
乾坤蓋覆多少景。  向此軒中正好看。
    同         嚴島の士瓊
  目を極め推原す毫髮の間
  碧崔嵬の外更に山無し
  乾坤蓋覆す多少の景
  此の軒中に向〔ひ〕て正に看〔る〕に好し
[やぶちゃん注:「碧崔嵬」は「へきさいくわい」で、緑の山の頂上の意。]


  同           西都祥岩
大千捏聚一塵微。  回首方知宇宙低。
空盡眼頭無所有。  金烏玉兎自東西。
    同         西都の祥岩
  大千捏聚す一塵微
  首を回〔ら〕して方に知〔んぬ〕宇宙の低〔き〕ことを
  眼頭を空盡して所有無し
  金烏玉兎東西
[やぶちゃん注:「自」の「ヲ」は「をのづから」の読みを示すもの。]


  同           仁均
豁開雙眼望中寛。  閲盡風光獨倚欄。
本自十方無壁落。  微塵刹土現眉端。
    同         仁均
  雙眼を豁開して望中寛し
  風光を閲盡〔し〕て獨り欄に倚る
  本ヲ〔ノヅカ〕〔ら〕十方壁落無し
  微塵刹土眉端に現〔は〕す。
[やぶちゃん注:以上に示した通り、「本自」の「自」には「ヲ」の「をのづから」の読みを示す読みがあり、更に「本自」には熟語記号があることから「もとよりをのづから」と訓じているのではなかろうか。]


  同           良昇
石徑縈迂上碧巓。  黄人著屋縱遐觀。
眼頭到處無遮障。  日月星辰在曲欄。
    同         良昇
  石徑縈迂して碧巓に上る
  黄人屋を著〔き〕て遐觀を縱にす
  眼頭到る處遮障無し
  日月星辰曲欄に在り


  同           豐城可什
山重々又海漫々。  塵刹都來眨眼間。
見得分明非見見。  共誰高倚曲欄干。
    同         豐城の可什
  山重々又海漫々
  塵刹都來眨眼の間
  見得す分明非見の見
  誰と共にか高く曲欄干に倚〔ら〕ん
[やぶちゃん注:「塵刹」は無数の国土、「都來」は総てが目に飛び込んでくることを言うか。「眨眼」は目を瞬くこと。]


  同           聰壽
塵々刹々盡乾坤。  都在我儂心目間。
莫倚欄干上機境。  超過物外好生觀。
    同         聰壽
  塵々刹々盡乾坤
  都て我儂心目の間に在〔り〕
  欄干に倚〔り〕て機境に上すこと莫し
  物外に超過す好生觀
[やぶちゃん注:「我儂」は「がのう」と読み、我と彼(「儂」は一人称以外に三人称男性俗称にも用いる)、主体と客体の意である。「機境」とは行者の内なる禅機を持てるかどうかという素質及び禅機を導く観察対象を言う。 「好生觀」は先にも述べたが、真理を見抜くためによくしっかりと心の眼で観(み)るといった謂いか。]


  同           元洞
向上機關親拶透。  乾坤無處覓封疆。
寸眸未眺危欄外。  塵刹明々不覆藏。
    同         元洞
  向上の機關親しく拶透す
  乾坤封疆を覓〔む〕に處無し
  寸眸未だ眺〔ま〕ず危欄の外
  塵刹明々覆藏せず
[やぶちゃん注:「封疆」は「ほうきやう」と読み、国境、ここでは彼我の境界を言うのであろう。]


  同           懷義
捱到懸崖萬仞巓。  當頭著屋數椽寛。
十虚不隔絲毫許。  只在欄干咫尺看。
    同         懷義
  懸崖萬仞の巓に捱到して
  當頭屋を著〔き〕て數椽寛し
  十虚絲毫許を隔てず
  只欄干咫尺に在〔り〕て看る
[やぶちゃん注:「捱到」は「あいたう」と読み、辛うじて至るの謂いか。「絲毫」は「しがう」と読み、極めて僅かなことを言う。「許」は当初は、「ばかり」と訓じようと思ったが、如何にもリズムが悪いのでそのまま音読みで採った。この「咫尺」(しせき)は通常の、すぐ近くの意。]


  同           西都宗竺
天何高也地何寛。  多是紛々錯倚欄。
雙眼豁空超物外。  盡微塵刹一毫端。
    同         西都の宗竺
  天何ぞ高く地何ぞ寛き
  多くは是紛々として錯欄に倚る
  雙眼豁空して物外に超ゆ
  盡微塵刹一毫端
[やぶちゃん注:「豁空」は「くわつくう」で広々とひらけたさま。通常、「空豁」(くうかつ)であるが、平仄の関係で転倒させたのであろう。]


  同           相陽圓詢
危欄側立望何窮。  鳥道玄機無路通。
一對眼睛烏律々。  層巒疊嶂挿靑空。
    同         相陽の圓詢
  危欄側立〔ち〕て望何ぞ窮〔め〕ん
  鳥道玄機路の通ずる無し
  一對の眼睛烏律々
  層巒疊嶂靑空に挿む


  同           山陽曇晟
石磴重々到上方。  憑空架屋勢如翔。
當頭極望乾坤外。  萬象森羅廻不藏。
[やぶちゃん注:起句の「石磴」は底本では「石燈」であるが、影印で訂した。石の階のことである。]
    同         山陽の曇晟
  石磴重々上方に到る
  空に憑り屋を架して勢翔〔ぶ〕がごとし
  當頭望を極む乾坤の外
  萬象森羅廻〔る〕に藏さず
[やぶちゃん注:「藏さず」は「かくさず」。]


  同           東關聰文
面々峰巖翠作堆。  目前無地着塵埃。
十洲三島欄干外。  何事赤松招不來。
    同         東關の聰文
  面々の峰巖翠堆を作す
  目前塵埃を着るに地無し
  十洲三島欄干の外
  何事ぞ赤松招〔く〕とも來〔ら〕ざる
[やぶちゃん注:「十洲三島」中国の神話伝承に現れる神仙の住むという架空境。「赤松」は赤松子(せきしょうし)で、伝説時代の神農の頃の神仙。自らの身を焼いて仙化した尸解仙(しかいせん)。後世、仙人の代名詞となった。]


  同           仁與
高躡崔嵬到上頭。  靑霄雲外遠窮眸。
海山盡是欄干物。  不用馳神極隠幽。
    同         仁與
  高く崔嵬を躡〔み〕て上頭に到る
  靑霄雲外遠く眸を窮む
  海山盡く是れ欄干の物
  用ひず神を馳〔せ〕て隠幽を極〔む〕ことを
[やぶちゃん注:「躡〔み〕て」は「ふみて」と読む。]


  同           宗山
亂山重疊俯危巒。  路陟層雲幾屈蟠。
徙倚曲欄雙眼活。  大千初不隔毫端。
    同         宗山
  亂山重疊危巒に俯す
  路層雲に陟〔み〕て幾く屈蟠
  曲欄に徙倚して雙眼活す
  大千初より毫端隔てず
[やぶちゃん注:「徙倚」は「しき」と読み、「徙」は移る、移動するの意。]


  同           良雄
茫々六合絶封疆。  誰倚欄干對夕陽。
四大部洲塵刹境。  一毫頭許不曾藏。
    同         良雄
  茫々たる六合封疆を絶す
  誰か欄干に倚〔り〕て夕陽に對す
  四大部洲塵刹の境
  一毫頭許も曾て藏さず
[やぶちゃん注:「許も」は「ばかりも」と訓じずに音で採った。]


  同           宏韋
分寸躋攀上碧巓。  曲欄干外接雲天。
擡頭萬里風烟闊。  眼庭寥々眇大千。
    同         宏韋
  分寸躋攀して碧巓に上る
  曲欄干の外雲天に接す
  頭を擡れば萬里風烟闊し
  眼庭寥々として大千眇たり
[やぶちゃん注:「躋攀」は「せいはん」と読み、よじ登ること。]


  同           瑞香
崎嶇石磴入靑雲。  只擬身同天上人。
獨倚危欄舒望眼。  須彌百億等微塵。
    同         瑞香
  崎嶇たる石磴靑雲に入〔る〕
  只〔だ〕擬す身天上の人に同〔じ〕きを
  獨り危欄に倚〔り〕て望眼を舒れば
  須彌百億微塵に等し
[やぶちゃん注:「崎嶇」は「きく」で山道の険しいさま。]


  同           信峰眞獻
天路縈盤十八回。  無邊境致畫圖開。
主翁眼裏乾坤闊。  明月淸風入座來。
    同         信峰眞獻
  天路縈盤す十八回
  無邊の境致畫圖開く
  主翁眼裏乾坤闊し
  明月淸風座に入り來る。


  同           鎌倉元矩
眼力勞於脚力勞。  坤維面々勢周遭。
不關天下秋毫小。  自是岩房立處高。
    同         鎌倉の元矩
  眼力は脚力の勞よりも勞す
  坤維面々勢周遭
  天下秋毫の小なるにアヅからず
  ヲ〔ノヅカ〕〔ら〕是れ岩房立處高し
[やぶちゃん注:「坤維」は「こんゐ」で、地を支えているとされた大きな綱で、転じて台地の意。方位としての西南をも言うが、前者でよい。「秋毫」は「しうがう」で、極めて小さいことを言う。]


  同           宗胤
絶巓著屋聳雲衢。  萬里山川是有無。
開得通方作着眼。  渺然天地一蘧廬。
[やぶちゃん注:起句の「著」は底本では「着」であるが、影印で訂した。]
    同         宗胤
  絶巓屋を著〔き〕て雲衢に聳ゆ
  萬里の山川是〔れ〕有りや無〔き〕や
  開き得たり通方作者の眼
  渺然たる天地一蘧廬
[やぶちゃん注:「雲衢」は「うんく」と読み、雲居の山道のこと。]


  同           聰眞
危欄曲々倚雲霄。  立處高時眼亦高。
望外更無鍼隙地。  等觀天下若秋毫。
    同         聰眞
  危欄曲々雲霄に倚る
  立〔つ〕處高き時眼も亦高し
  望外更に鍼隙の地無〔く〕
  天下を等觀して秋毫のごとし。


  同           鳳城道州
盡十方空塵刹境。  明々只在屋詹頭。
更無毫髮可遮掩。  剔起眉毛落二籌。
    同         鳳城の道州
  盡十方空塵刹の境
  明々として只〔だ〕屋詹頭に在り
  更に毫髮の遮掩すべき無〔く〕
  眉毛を剔起すれば二籌に落つ
[やぶちゃん注:「二籌」は「にちう」で、「籌」は勝負事の点を数えるための棒。「一籌を輸(ゆ・しゆ)する」という故事成句があり、この「輸」は移すで、籌を相手に渡すという意味から「一つ負ける・僅差で敗れる・少し劣る」の意を示すが、「二籌に落つ」は意味不明であるが、「二」と言い、「落つ」と言い、これは救い難いダメ出しであろう。だとすると私には感触として所謂、禅問答の類いのように感じられるのである。――僅かな眉毛を抉り起こすようにでも意味深長にぎろりと睨んだら、はい、それまでよ――という意味なのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]


  同           正詢
路遶山腰取次攀。  門欄占斷上頭關。
盡扶桑國周遭境。  不出當人指顧間。
    同         正詢
  路山腰を遶〔り〕て取〔り〕次〔ぐ〕に攀づ
  門欄占斷す上頭の關
  盡扶桑國周遭の境
  當人指顧の間を出でず
[やぶちゃん注:転句は、日本国のあまねく総てがこの亭の内(景観)にあることを言うか。]


  同           文祖
拶到凌空萬仞峯。  路從峭壁嶮崖通。
神機密運無方所。  塵刹收歸一目中。
    同         文祖
  拶到す凌空萬仞の峯
  路は峭壁嶮崖より通ず
  神機密運方所無し
  塵刹收歸す一目の中


  同           不破宗璨
崎嶇峭峻路盤回。  行到層巓霽色開。
下視千峯倚欄立。  盡乾坤内景皆來。
    同         不破の宗璨
  崎嶇峭峻路盤回
  行〔き〕て層巓に到〔り〕て霽色開く
  千峯を下視して欄に倚〔り〕て立〔て〕ば
  盡乾坤の内景皆來る


  同           西都宗器〔南禪德雲菴廷用和尚〕
海闊山高連四團。  曲欄干上景無遺。
眼前歴々空宇宙。  天外回頭更是誰。
[やぶちゃん字注:承句の「曲欄干」の「欄」は「襴」となっているが、誤字と判断して訂した。影印でも「欄」である。以下にも同様な箇所があるが、略す。]
    同         西都の宗器〔南禪德雲菴廷用和尚〕
  海闊く山高〔く〕して四團に連〔な〕る
  曲欄干上景遺すこと無し
  眼前歴々として宇宙を空〔しく〕す
  天外頭を回〔ら〕せば更に是〔れ〕誰そ

  同           東都元譽
巍々峰頂絶遮欄。  靜坐當軒四望間。
意在目前誰了卻。  普天匝地一闌干。
[やぶちゃん注:転句「卻」は底本では「郤」であるが、影印で訂した。]
    同         東都の元譽
  巍々たる峰頂遮欄を絶す
  靜坐軒に當る四望の間
  意目前に在り誰か了卻せん
  普天匝地一闌干
[やぶちゃん注:「了卻」は「れいきやく」と読むが、意味不明。真意は眼前にあるのだから、ここは誰一人としてその真意を受け入れられない(「卻」にある「却」の意で採る)、分からない、感じられないなどということがあろうか、いや、必ずやその「在る」ことを即座に了解する、分かる、感じると言いたいのではあるまいか。識者の御教授を乞う。]


  同           武林慈懷
四顧寥々無際涯。  麗天日月遶簷牙。
眼中不着絲毫瞖。  大地山河空裏花。
    同         武林の慈懷
  四顧寥々として際涯無し
  天に麗〔し〕く日月簷牙を遶る
  眼中着〔か〕ず絲毫の瞖
  大地山河空裏の花
[やぶちゃん注:「瞖」は「えい」と音読みしているか。これは「目の翳り」(現代中国語では正に白内障を意味する)で、仏教に於いて実際の眼に見える実体は意味がないという思想、美しく見える花は瞖眼の凡夫の見る「空華」(本結句の「空花」に通じるか)に過ぎないという感懐を受けているように思われるが、如何? 識者の御教授を乞う。]


  同           紹彌
路繞羊腸進歩難。  飛欄高聳白雲間。
不藏天下於天下。  萬象都盧一目看。
    同         紹彌
  路羊腸を繞〔り〕て歩〔み〕を進〔むる〕こと難し
  飛欄高く聳ゆ白雲の間
  天下を天下に藏さず
  萬象都盧一目に看〔る〕
[やぶちゃん注:「都盧」は「盧」は入れ物で、総てをその景中に入れていることを言う。]


  同           全珠
絶頂高寒路嶮難。  十方空洞等閑看。
除非到此倚欄者。  餘外豈知天地寛。
    同         全珠
  絶頂高寒路嶮難
  十方空洞等閑に看る
  除非タダ此に到〔り〕て欄に倚る者の
  餘外豈に知んや天地の寛〔き〕ことを


  同           妙珂
頂峯新護曲欄干。  峭峻門風登者難。
空盡眼前無限境。  都盧收在一毛端。
    同         妙珂
  頂峯新護曲欄干
  峭峻門風登者難し
  空盡す眼前限り無き境
  都盧收〔め〕て一毛端に在り


  同           希醒
攀嶮躋危到絶巓。  悠然獨倚曲欄邊。
豁開一雙通方眼。  四顧分明極大千。
    同         希醒
  嶮を攀ぢ危を躋〔り〕て絶巓に到る
  悠然として獨〔り〕曲欄の邊に倚る
  豁開す一雙通方の眼
  四顧分明に大千を極む


  同           志純
萬仞孤峯壓數峯。  靈蹤幽奇在其中。
我來終日凭欄立。  刹海重々眼底空。
    同         志純
  萬仞の孤峯數峯を壓す
  靈蹤幽奇其の中に在り
  我來〔り〕て終日欄に凭〔れ〕て立てば
  刹海重々眼底に空す
[やぶちゃん注:結句「空す」は「くうす」と訓じているか。]


  同           宗昭
萬頃烟波千朶峯。  收來盡在兩眸中。
河沙刹土浮幢表。  只向門頭戸底通。
    同         宗昭
  萬頃の烟波千朶峯
  收〔め〕來〔り〕て盡〔く〕兩眸の中に在〔り〕
  河沙刹土浮幢の表
  只〔だ〕門頭戸底に向〔ひ〕て通ず
[やぶちゃん注:「河沙刹土浮幢」は菩提発心の仏国土のことか。]


  同           俊透
已眼豁開心路通。  大千曾不隔針鋒。
恒河沙數微塵境。  收在自家方寸中。
    同         俊透
  已眼豁開して心路通ず
  大千曾て針鋒を隔てず
  恒河沙數微塵の境
  收〔め〕て自家方寸の中に在〔り〕


  同           刑部正意
羊腸山路蹈雲登。  窮到孤峯最上層。
已眼豁開天地闊。  倚欄渾欲使飛騰。
    同         刑部正意
  羊腸の山路雲を蹈〔み〕て登る
  窮〔め〕て孤峯の最上層に到る
  已眼豁開して天地闊し
  欄に倚〔り〕渾て飛騰せしめんとす


  同           西都智信
歴盡孤危曲徑通。  欄干倚望細推窮。
無邊廣大塵毛刹。  究意那離當念中。
[やぶちゃん注:底本は起句に句点がないが、補った。]
    同         西都の智信
  孤危を歴盡して曲徑通ず
  欄干に倚望して細〔やか〕に推〔し〕窮む
  無邊廣大塵毛刹
  意を究めて那ぞ離〔さ〕ん當念の中
[やぶちゃん注:「那ぞ」は「なんぞ」。]


  同           鶴峯普在
等閑踏著通霄路。  獨倚天邊十二欄。
欲識毘盧眞淨體。  當頭還向此中觀。
    同         鶴峯普在
  等閑に踏著す通霄の路
  獨り倚る天邊の十二欄
  毘盧の眞淨體を識〔ら〕んと欲せば
  當頭還〔り〕て此の中に向〔ひ〕て觀る
[やぶちゃん注:「毘盧」は毘盧遮那仏。釈迦を超越した法身仏とされ、人知を超えた宇宙の真理によって衆生をあまねく照らして(光明遍照)、悟達へと導く仏とされる。]


  同           得定
金烏玉兎遶欄干。  到此方知宇宙寛。
不用遐觀重矯首。  騰身踊躍入雲端。
    同         得定
  金烏玉兎欄干を遶る
  此に到〔り〕て方に知る宇宙の寛〔き〕ことを
  用ひず遐觀重〔ね〕て首を矯〔め〕ることを
  身を騰〔のぼせ〕て踊躍すれば雲端に入る
[やぶちゃん注:「遐觀」は「けかん」と読み、事象の真実の姿を捉える摩訶止観の一つ。空観(くうがん:一切の存在には実体がなく空であると観想すること。)・仮観(眼前の現実とするものは仮に現象しているものであると観想すること。)・中観(ちゅうがん:空観と仮観は二つで一つであると観想すること。)の、この三つの見かたを同時に総て体得することによって真理に到達するとする。]


  同           東海竺元
峭峻門庭着脚難。  放開線路與人看。
塵々刹々無邊境。  盡在眉毛眼睫間。
    同         東海の竺元
  峭峻の門庭脚を着〔く〕こと難し
  線路を放開して人に與へて看せしは
  塵々刹々無邊の境
  盡く眉毛眼睫の間に在り


  同           天台稀融
乘閒絶頂倚層欄。  縱目山川隠約間。
※爾欲空乾像外。  須彌百億念中觀。
[やぶちゃん字注:「※」は「倏」の第三画(中央縦一画)を除去した字体。ここは「倏爾」、忽ちの意であろうから、書き下しでは「倏爾」とした。]
    同         天台の稀融
  閒に乘して絶頂層欄に倚る
  目を縱にす山川隠約の間
  倏爾として空せんと乾像の外
  須彌百億念中に觀る
[やぶちゃん字注:「乾像」は意味不明。識者の御教授を乞う。]


  同           智明
乘興躋攀不覺疲。  路頭布嶮與分危。
無邊刹境供雙眼。  只許通玄長者知。
    同         智明
  興に乘じて躋攀疲〔れ〕を覺へず
  路頭は布嶮と分危と
  無邊の刹境雙眼に供す
  只〔だ〕許す通玄長者の知〔の〕ことを


  同           天府志玄〔天龍二世無極和尚塔曰慈濟〕
琪樹瑤花遶路開。  縈回石磴上崔嵬。
山川萬里歸眉睫。  放下何妨歇去來。
    同         天府の志玄〔天龍二世無極和尚塔曰慈濟〕
  琪樹瑤花路を遶〔り〕て開く
  石磴を縈回して崔嵬に上る
  山川萬里眉睫に歸す
  放下して何〔ぞ〕妨〔が〕ん歇し去り來ることを
[やぶちゃん注:「琪樹」は「きじゆ」で、原義は西王母の住む仙山崑崙山北にある宝玉の稔るという木で、転じて美しい樹木を言う。「歇し」は「けつし」と読んでいる。意味は、尽きるの意か。]


  同           甲州宏友
坐斷屏峰最上層。  縱然萬境競頭爭。
欄干十二晴雲外。  大地山河鐵眼晴。
    同         甲州の宏友
  坐斷す屏峰の最上層
  縱然として萬境頭を競〔ひ〕て爭ふ
  欄干十二晴雲の外
  大地山河鐵眼晴


  同           相陽文韶
海闊山遙迥接空。  堆靑流碧幾重々。
脚頭不動危欄上。  遠近洪纎印兩瞳。
    同         相陽の文韶
  海闊く山遙にして迥〔る〕に空に接す
  堆靑流碧幾く重々〔と〕して
  脚頭動かず危欄の上
  遠近洪纎兩瞳に印す


  同           三笠興運
絶巓擎出曲欄干。  向上門庭進歩難。
脚力窮邊雙眼闊。  東西南北在毫端。
    同         三笠の興運
  絶巓擎げ出〔だ〕す曲欄干
  向上の門庭歩を進〔む〕ること難し
  脚力窮まる邊雙眼闊し
  東西南北毫端に在り
[やぶちゃん注:「擎げ」は「ささげ」。]


  同           開山祖粲
天門巨闢最高巓。  四顧寥々廓大千。
遮莫諸峯爭嶮峻。  座中齊在脚頭邊。
    同         開山の祖粲
  天門巨闢す最高巓
  四顧寥々として大千廓かなり
  遮莫あれ諸峯嶮峻を爭ふを
  座中齊〔し〕く脚頭の邊に在〔り〕
[やぶちゃん注:「巨闢」は「きよへき」で、雄大に開くこと。「廓かなり」は一応、「おほどかなり」と読んでおいたが、自信がない。送り仮名は「カ」ではないかも知れない。「遮莫あれ」は「さもあらばあれ」と訓ずる。]


  同           武原諒孚
錦屏畫出綺窓幽。  山水如麻亂入眸。
一十八盤難進歩。  時人莫向半途休。
    同         武原の諒孚
  錦屏畫出して綺窓幽なり
  山水麻のごとく亂て眸に入〔る〕
  一十八盤歩を進め難し
  時の人半途に向〔ひ〕て休〔む〕こと莫〔か〕れ


  同           龜山與悦
雲中透出錦屏山。  數曲朱欄縹渺間。
漠々大方本無外。  招來天下與人看。
    同         龜山の與悦
  雲中透出す錦屏山
  數曲の朱欄縹渺の間
  漠々たる大方本と外無〔し〕
  天下を招き來〔り〕て人に與へて看しむ


  同           丹山士令
横嶺飛甍接亂峯。  望州鳥石巧符同。
森羅萬象齊相見。  見後依前兩眼空。
    同         丹山の士令
  嶺に横〔は〕る飛甍亂峯に接す
  望州鳥石巧〔み〕に符同す
  森羅萬象齊〔し〕く相見〔る〕
  見後依前兩眼空し
[やぶちゃん注:「飛甍」は「ひばう」と読み、高い甍(いらか)。]


  同           不破圓遇
六窓洞達飽天風。  雲外猶疑有路通。
滄海無邊山萬疊。  一雙眸子瞭然空。
[やぶちゃん注:「瞭然」の「瞭」は底本では「暸」であるが、影印で訂した。]
    同         不破の圓遇
  六窓洞達して天風に飽く
  雲外猶〔ほ〕疑ふ路の通る有かと
  滄海無邊山萬疊
  一雙の眸子瞭然として空し


  同           信夫梁稟
羊腸屈曲到通玄。  陰々朱甍露絶巓。
是我平生雙眼活。  未曾見此遠風烟。
    同         信夫の梁稟
  羊腸屈曲して通玄に到る
  陰々たる朱甍絶巓に露はる
  是我平生雙眼活す
  未だ曾て此の遠風烟を見ず


  同           豐田德彩
絶頂連雲緑勝藍。  當軒富士若終南。
怡然縱目乾坤外。  華藏遊窮一十三。
    同         豐田の德彩
  絶頂雲に連〔り〕て緑藍に勝れり
  軒に當〔る〕富士終南のごとし
  怡然として目を縱にす乾坤の外
  華藏遊〔び〕窮む一十三


  同           月下淸源
欄干十二萬峯頭。  圖畫天開四望周。
人境倶忘休歇去。  塵々刹々溢雙眸。
    同         月下の淸源
  欄干十二萬峯頭
  圖畫天開〔き〕て四望周る
  人境倶に忘〔れ〕て休歇し去〔る〕
  塵々刹々雙眸に溢る


  同           荏柄正因
錦屏高出四無垠。  多少凭欄帳望人。
未至衲僧眞見處。  山河大地眼中塵。
    同         荏柄の正因
  錦屏高く出でゝ四に垠無〔し〕
  多少欄に凭〔る〕帳望の人
  未だ衲僧眞の見處に至らず
  山河大地眼中の塵
[やぶちゃん注:「垠」は音で「ぎん」若しくは訓じて「はて」(果て)と読んでいるものと思われる。]


  同           博多士聞
勝地多應當偉觀。  遠臨天外近東關。
頂門戳瞎摩醯眼。  海色平呑萬疊山。
[やぶちゃん注:「戳」の(つくり)は影印でも「攴」となっているが、「台北版電子仏典集成」の「嘉興大藏經 第三十二冊」の「不會禪師語録」第三巻 の中に「戳瞎摩醯眼」という全く同じ文字列(当該インデックス行J32nB276_p0340c04)を発見出来、ここでは「戳」となっているので、この字を採る。]
    同         博多の士聞
  勝地多〔く〕應に偉觀に當つべし
  遠〔く〕は天外に臨み近〔く〕は東關
  頂門戳瞎す摩醯が眼
  海色平呑す萬疊の山


  同           長崗通川
倚空華構冠東州。  彈壓人間百尺樓。
但見眼中天下小。  不知身在最高頭。
    同         長崗の通川
  空に倚る華構東州に冠たり
  彈壓す人間百尺の樓
  但〔だ〕見る眼中天下の小なることを
  知らず身は最高頭に在〔る〕ことを


  同           秩父士※
[やぶちゃん字注:「※」は「門」の中に「言」。]
奥域靈區豁閟慳。  四簷之外絶遮欄。
當軒大坐忘身世。  下視塵毛利海間。
    同         秩父の士※
  奥域靈區閟慳を豁す
  四簷の外遮欄を絶す
  當軒大坐身世を忘る
  下視す塵毛利海の間
[やぶちゃん注:「閟慳」は「ひけん」で、隠された蓄財の煩悩という意味か。]


  同           望月懷珠
雲連危構座中寒。  泥視三千刹海寛。
看至無邊無際處。  不知月上玉欄干。
    同         望月懷珠
  雲危構に連〔なり〕て座中寒し
  泥視す三千刹海寛きことを
  看て無邊無際の處に至れば
  知らず月の玉欄干に上るを


  同           武原宏先
曲欄干下宿雲屯。  海疊山重在脚跟。
見々之時見無見。  眼皮不動蓋乾坤。
    同         武原の宏先
  曲欄干の下宿雲屯まる
  海疊山重在脚跟
  見々之時見無見
  眼皮不動蓋乾坤
[やぶちゃん注:「屯まる」は「あつまる」(集まる)。]


  同           三谷友丘
面々軒窓入望舒。  八紘平遠是庭除。
眼光爍破四天下。  人在虚空背上居。
[やぶちゃん注:「八紘」は底本では「八絃」であるが、影印で訂した。]
    同         三谷の友丘
  面々の軒窓望に入〔り〕て舒ぶ
  八紘平遠是れ庭除
  眼光爍破す四天下
  人虚空背上に在〔り〕て居す
[やぶちゃん注:「舒ぶ」は「のぶ」と読み、のびやかに広がるの意である。ここでは望見する筆者の寛いだ心を意味していよう。「庭除」は庭と階(きざはし)、又は単に庭を指す。]


  同           鳳城德芙
雪錦屏風向上關。  欄干十二礙靑天。
海山第一扶桑景。  萬里如圖在目前。
    同         鳳城の德芙
  雪錦屏風向上の關
  欄干十二靑天を礙ふ
  海山第一扶桑の景
  萬里圖のごとく目前に在り
[やぶちゃん注:「礙ふ」は「ささふ」(支ふ)。]


  同           古渡德圓
十八盤頭獨倚欄。  山重々也海漫々。
揚修幼婦如知妙。  登陟莫辭行路難。
    同         古渡の德圓
  十八盤頭獨り欄に倚る
  山重々也た海漫々
  揚修が幼婦如し妙を知らば
  登陟辭すること莫れ行路〔の〕難
[やぶちゃん注:「也た」は「また」。「揚修」は曹操の知恵袋として知られる知将であるが、幼婦云々は不学にして知らない。識者の御教授を乞う。]


  同           相山正參
脚力窮邊到歇場。  大千捏聚置禪床。
悠然眼蓋乾坤外。  萬里江山未是長。
    同         相山の正參
  脚力窮〔ま〕る邊歇場に到る
  大千捏聚して禪床に置く
  悠然として眼蓋ふ乾坤の外
  萬里の江山未だ是〔れ〕長からず
[やぶちゃん注:「歇場」は「けつぢやう」で尽きるところで、ここはやっと亭に辿りつくことを言うのであろう。]


  同           直江禮智
雲背登々路詰盤。  座中乃有此江山。
危欄掛在蒼穹上。  八極風光透眼寒。
    同         直江の禮智
  雲背登々路詰盤
  座中乃〔ち〕此の江山有〔り〕
  危欄掛〔け〕て蒼穹の上に在〔り〕
  八極の風光眼に透〔し〕て寒し


  同           新田旨的
不知何處是窮邊。  盡十方空在目前。
休去更須重歇去。  莫將白眼望靑天。
    同         新田の旨的
  知らず何〔れ〕の處か是れ窮まる邊
  盡十方空目前に在〔り〕
  休〔し〕去〔る〕を更に須〔ら〕く重〔ね〕て歇し去るべし
  白眼を將て靑天を望むこと莫かれ


  同           梅谷善應
去得体時且放休。  大千之外擲雙眸。
靑鞋布韈娘生脚。  從此何須更遠遊。
    同         梅谷の善應
  去〔り〕得て体する時且つ放休
  大千の外雙眸を擲つ
  靑鞋布韈娘生の脚
  此より何ぞ須〔ひ〕ん更に遠遊するを
[やぶちゃん注:「靑鞋布韈」は「せいあいふべつ」で、草鞋と脚絆、旅装のこと。]


  同           翰江文昌
始破天慳詑海東。  好山環翠聳蒼穹。
無邊塵刹煙雲景。  走入危欄一曲中。
    同         翰江の文昌
  始めて天慳を破〔り〕て海東に詑る
  好山環翠蒼穹に聳ゆ
  無邊の塵刹煙雲の景
  走〔り〕て危欄一曲の中に入る
[やぶちゃん注:「詫る」は「ほこる」(誇る)。]


  同           帆山士昂
峯巒※翠入層柵。  座上重裘又覺單。
歴々八紘雖在目。  通法作者始能看。
[やぶちゃん字注:「※」は「賚」の「來」の部分、下部(七・八画の左右の払い)が(わかんむり)になっている字体。書き下しでは暫く「賚」で採っておく。]
    同         帆山の士昂
  峯巒翠を賚〔はり〕て層柵に入る
  座上重裘又單へなることを覺ふ
  歴々八紘雖在目
  通法作者始能看
[やぶちゃん字注:「賚」は「たまはりて」と訓じておいた。「重裘」は「ちようきう」で厚い毛皮製の衣。「單へ」は前段から「ひとへ」と訓じているものと思われる。]


  同           不破至德
全身坐斷上頭關。  白鳥明邊兩眼寒。
水萬支兮山萬疊。  等閑塞破玉欄干。
    同         不破の至德
  全身坐斷す上頭の關
  白鳥明なる邊兩眼寒し
  水萬支山萬疊
  等閑に塞破す玉欄干


  同           天山士悦
相收卜築此峯頭。  豈比尋山買沃洲。
收捨大千入毛孔。  不移寸歩眼中遊。
    同         天山の士悦
  收を相〔ひ〕て卜築す此の峯頭
  豈に山を尋〔ね〕て沃洲を買ふに比〔へ〕んや
  大千を收捨して毛孔に入る
  寸歩を移さずして眼中に遊ぶ
[やぶちゃん注:「相〔ひ〕て」は「うらなひて」。「比〔へ〕んや」は意味を汲んで「たとへんや」と訓じておいた。]


  同           大山妙超
玉欄之上與天通。  百億山河在掌中。
見後不須重再見。  人々眼裏有靑瞳。
    同         大山の妙超
  玉欄の上天と通ず
  百億の山河掌中に在〔り〕
  見後須ひず重〔ね〕て再見することを
  人々眼裏靑瞳有り


  同           日光圓昌
無邊刹境悉圓融。  入眼寧知眼識空。
萬里乾坤何太窄。  巍々獨座主人翁。
    同         日光の圓昌
  無邊の刹境悉く圓融
  眼に入〔り〕て寧ろ知〔ら〕んや眼識空なることを
  萬里の乾坤何ぞ太だ窄き
  巍々として獨座す主人翁


  同           相陽景恩
海濤峯樹碧重々。  兩袖淸風坐半空。
扁額中藏三隻眼。  豁空南北與西東。
    同         相陽の景恩
  海濤峯樹碧重々
  兩袖の淸風半空に坐す
  扁額中に藏す三隻眼
  豁空す南北と西東と


  同           西都士圭
不立孤危闢要關。  倚欄終日伴雲閒。
擬從箇裡分疆域。  却堕懸崖峭壁間。
[やぶちゃん注:承句の「閒」は底本では「間」であるが、影印で訂した。]
    同         西都の士圭
  孤危を立せず要關を闢く
  欄に倚〔り〕て終日雲の閒なるに伴ふ
  箇の裡より疆域を分〔け〕んことを擬すれば
  却〔つ〕て堕つ懸崖峭壁の間
[やぶちゃん注:「闢く」は「ひらく」。]


  同           京師妙受
向下應須向上看。  灼然到頂自平寛。
白雪喝散當軒坐。  海岳三千在睫端。
    同         京師の妙受
  向下應〔に〕須〔ら〕く向上に看るべし
  灼然として頂に到〔り〕て自〔ら〕平寛
  白雪喝散して當軒に坐す
  海岳三千睫端に在〔り〕


  同           羽山宏雅
高架層欄最上頭。  十虚周普座中收。
瞖生眼裡空華墜。  到此何如暫歇休。
    同         羽山の宏雅
  高く層欄を架す最上頭
  十虚周普座中に收む
  瞖眼裡に生じて空華墜つ
  此に到〔り〕何如ぞ暫く歇休せん


  同           武陵玅謙〔塔曰如意〕
十方虚空入眼睫。  睫々普入十方空。
大地山河是甚麼。  簷前鐵馬吼天風。
    同         武陵の玅謙〔塔曰如意〕
  十方虚空眼睫に入る
  睫々普く入る十方空
  大地山河是〔れ〕甚麼イカン
  簷前の鐵馬天風に吼ぶ [やぶちゃん注:「吼ぶ」は送り仮名が「フ」であることから、「さけぶ」と訓じてみた。]


  同           齊宮寛會
疊嶂連天蒼碧寒。  白雲擎出玉欄干。
孤筇到此暫休歇。  便覺胸中宇宙寛。
[やぶちゃん字注:承句の「擎出」の「敬」の左には汚れではない有意な(にすい)のような字画が存在するが、影印には認められないので無視して本字を同定した。転句の「筇」は底本・影印では「阝」ではなく「卩」であるが、竹の杖を意味するこの字に同定した。]
    同         齊宮の寛會
  疊嶂天に連〔なり〕て蒼碧寒し
  白雲擎げ出〔だ〕す玉欄干
  孤筇此に到〔り〕て暫く休歇〔す〕
  便〔ち〕覺ふ胸中宇宙の寛〔き〕ことを


  同           相陽契珣
老樹飛崖屋似懸。  不知身在最高巓。
天無四壁地無戸。  眼裡瞳人入大千。
    同         相陽の契珣
  老樹飛崖屋懸〔く〕るに似たり
  知らず身は最高巓に在〔る〕ことを
  天に四壁無し地に戸無し
  眼裡の瞳人大千に入る

  同           相陽妙慧
層霄之外掛危欄。  日月星辰遶座間。
傾盡滄溟來洗眼。  開窓我欲看靑山。
    同         相陽の妙慧
  層霄の外危欄を掛く
  日月星辰座間を遶る
  滄溟を傾け盡して來〔り〕て眼を洗ふ
  窓を開〔け〕て我靑山を看んと


  同           赤城妙策
雲軒高聳碧峰頭。  相見誰言在望州。
四面開窓窮八極。  大千全是海中漚。
    同         赤城の妙策
  雲軒高聳碧峰頭
  相見して誰か言ふ望州在りと
  四面窓を開〔き〕て八極を窮むれば
  大千全く是〔れ〕海中の漚
[やぶちゃん注:「漚」は「あわ」と訓じておく。]


  同           越山祥津
眼空四海獨凭欄。  萬象堂々天地間。
意在目前無外法。  山連碧水水連山。
    同         越山の祥津
  眼四海空して獨〔り〕欄に凭〔る〕
  萬象堂々たり天地の間
  意目前に在り外法無し
  山は碧水に連〔な〕り水は山に連〔な〕る


  同           吉水良聰〔建仁聞溪和尚〕
通霄向上路頭長。  華扁粘雲墨暈香。
雙眼明邊淸興遠。  笑拈藤蔓絆斜陽。
    同           吉水の良聰〔建仁聞溪和尚〕
  通霄向上路頭長し
  華扁雲に粘じて墨暈香〔ば〕し
  雙眼明なる邊淸興遠し
  笑〔ひ〕て藤蔓を拈じて斜陽を絆く
[やぶちゃん注:「絆く」は「つなぐ」。]


  同           西都士顏〔東福卍庵和尚〕
飛磴連雲十八盤。  靑雲在近手堪捫。
窓前踢倒煎茶水。  富士峯頭白浪翻。
    同         西都の士顏〔東福卍庵和尚〕
  飛磴雲に連〔な〕る十八盤
  靑雲近〔く〕に在〔り〕て手捫〔む〕に堪〔へ〕たり
  窓前踢倒す煎茶の水
  富士峯頭白浪翻〔へ〕る
[やぶちゃん注:「捫〔む〕」は「つかむ」。]


  同           日光妙安
高低遠近起峰巒。  八表無邊取性看。
雲外眼睛烏律潦。  虚空拽下掛欄干。
    同         日光の妙安
  高低遠近峰巒起る
  八表無邊性を取〔り〕て看る
  雲外眼睛烏律潦
  虚空拽下して欄干に掛る
[やぶちゃん注:転句は意味不明、識者の御教授を乞う。「拽下」は「えいか」と読み、引き下ろすこと。]


  同           名越守簡
遊息閒登萬仞峰。  十方坐斷眼頭通。
也知心外元無法。  看到靑山緑水中。
    同         名越の守簡
  遊息閒に登る萬仞の峰
  十方坐斷して眼頭に通ず
  也た知る心外元と無法
  看到す靑山緑水の中


  同           相陽下生
心隨境轉境非眞。  境逐心忘心是塵。
盡十方空倶殞滅。  可中方稱倚欄人。
    同         相陽の下生
  心は境に隨〔ひ〕て轉ず境は眞に非ず
  境は心を逐〔ひ〕て忘る心は是〔れ〕塵
  盡十方空倶に殞滅
  の中方に稱す欄に倚る人
[やぶちゃん注:「殞滅」は「ゐんめつ」で、落ち滅することであるから、日没の景か。「の」という訓は初見。「可」にはこのような指示語の用法はないから、当て読みである。]


  同           武原奇英
萬疊遙岑分蟻垤。  無邊巨海眇蹄涔。
也知地位昇高廣。  歴々三千屬下臨。
    同         武原の奇英
  萬疊の遙岑蟻垤を分つ
  無邊の巨海蹄涔眇たり
  也た知〔る〕地位高廣に昇ることを
  歴々たる三千下臨に屬す
[やぶちゃん注:「蟻垤」は「ぎてつ」と読み、蟻塚のこと。「蹄涔」馬の蹄鉄の跡が作った水溜りのこと。]


  同           大原奇宣
獨歩丹霄目力高。  大千元不隔秋毫。
幾人途路未休歇。  地北天南益自勞。
    同         大原の奇宣
  丹霄に獨歩して目力高し
  大千元と秋毫を隔てず
  幾人か途路未だ休歇せず
  地北天南益々自勞す
[やぶちゃん注:「丹霄」は「たんせう」で、「丹」は色ではなく、「丹心」と同じく、真の意、澄み切った大空の意である。]


  同           關東志薰
獨倚欄干眇大千。  眼中歴々幾山川。
外觀無物内無我。  屋角松濤吼半天。
    同         關東の志薰
  獨り欄干に倚れば大千眇たり
  眼中歴々幾く山川
  外觀は無物内は無我
  屋角の松濤半天に吼〔ゆ〕


  同           五臺普紹
懸崖峭壁要人行。  欲到毋辭努力登。
華藏重々歸眼底。  誰知身在碧雲層。
    同         五臺の普紹
  懸崖峭壁人の行〔か〕んことを要す
  到〔ら〕んと欲して辭すること毋れ努力〔し〕て登るを
  華藏重々眼底に歸す
  誰か知る身は碧雲層に在ることを


  同           長峰禪鑒
等視乾坤沒両般。  飛鳥走兎遶欄干。
不徒絶頂施床座。  只貴人々向上看。
    同         長峰の禪鑒
  乾坤を等視すれば両般沒し
  飛鳥走兎欄干を遶る
  徒〔ら〕に絶頂床座を施〔す〕のみにあらず
  只〔だ〕貴ぶ人々向上の看


  同           會津上闡
雲外凭欄著々高。  古今十世鏡難逃。
有時手捉天邊月。  打落虚空背上毛。
    同         會津の上闡
  雲外欄に凭〔れ〕て著々高し
  古今十世鏡逃れ難し
  有る時手に天邊の月を捉〔り〕て
  打落す虚空背上の毛
[やぶちゃん注:「著々」は「くっきりとして」の意。]


  同           西都義冲
九層雲上足遐觀。  誰信蟭螟眼裏寛。
摶取浮幢王刹海。  重々掛在玉欄干。
    同         西都の義冲
  九層雲上遐觀足れり
  誰か信ぜん蟭螟眼裏寛きを
  浮幢王刹海を摶取して
  重々掛〔け〕て玉欄干に在〔り〕
[やぶちゃん注:「蟭螟」は「せうめい」と読んで、「列子」湯問篇にある、蚊の睫毛に巣くう想像上の微小な虫のこと、転じて、極めて小さいことを言う。「浮幢王刹海」は菩提発心の仏国土のことか。]


  同           那須妙松
蜀錦屏風白玉欄。  回頭已在碧雲端。
眼妙十日無遺照。  萬象收歸粒粟寛。
    同         那須の妙松
  蜀錦屏風白玉欄
  頭を回せば已に碧雲端に在〔り〕
  眼は妙なり十日遺照無し
  萬象粒粟を收め歸〔り〕て寛し


  同           秋山妙竺
四簷雲片作簾※。  北斗藏身萬象空。
合眼黄昏開眼晝。  恒沙刹土在胸中。
[やぶちゃん字注:「※」=「木」+「龍」。]
    同         秋山の妙竺
  四簷の雲片簾※と作る
  北斗身を藏して萬象空し
  眼を合〔は〕すは黄昏眼を開くは晝
  恒沙刹土胸中に在り
[やぶちゃん注:「簾※」(「※」=「木」+「龍」)は「れんろう・れんる」と読み、木製の連子窓のこと。]


  同           大原妙瓊
朶々靑山開歩障。  重々滄海入庭除。
倚欄供望人無數。  墻壁休將夾大虗。
    同         大原の妙瓊
  朶々の靑山歩障を開く
  重々の滄海庭除に入る
  欄に倚り望に供す人無數
  墻壁將て大虗に夾むことを休〔せ〕よ
[やぶちゃん注:「朶々」は重なり合っているものを言う。「虗」は「虚」に同じ。]


  同           象先文岑
寶坊結構着奇功。  幻出風軒入半空。
峭壁巉崖通得路。  好山萬朶寸眸中。
    同         象先の文岑
  寶坊結構奇功を着く
  幻出す風軒半空に入り
  峭壁巉崖路を通し得たり
  好山萬朶寸眸の中

  同           越山圓旨
立處孤高見處寛。  定乾坤眼不相瞞。
挨開碧落通霄路。  把手同誰倚曲欄。
    同         越山の圓旨
  立處は孤高見處寛し
  乾坤を定〔む〕る眼相ひ瞞せず
  碧落通霄の路を挨開して
  手を把〔り〕て誰と同〔じ〕く曲欄に倚〔ら〕ん


  同           關西紹榮
四簷高出白雲頭。  萬象縱然自獻酬。
芥視三千大千外。  莫將雙眼限閻浮。
    同         關西の紹榮
  四簷高く出づ白雲頭
  萬象縱然としてヲ〔ノヅカ〕〔ら〕獻酬
  芥視す三千大千の外
  雙眼を將て閻浮を限ること莫し


  同           富士眞燈
翼々飛簷聳碧岑。  危欄曲々礙星辰。
有時送目靑霄外。  華藏重々總是塵。
    同         富士の眞燈
翼々たる飛簷碧岑に聳ゆ
危欄曲々星辰を礙ふ
有る時目を送る靑霄の外
華藏重々總て是れ塵
[やぶちゃん注:「礙ふ」は「さしつかふ」と読んでいるか。「礙」は「碍」と同義であるから、妨げることである。]


  同           高橋印元

大地撮來針眼大。  等閒抛向几前安。
虚空稽首須彌舞。  打鼓何妨普請看。
    同         高橋の印元
  大地撮來〔し〕て針眼大なり
  等閒に抛向して几前に安ず
  虚空稽首し須彌舞ふ
  鼓を打〔ち〕て何ぞ妨〔げ〕ん普請して看〔ん〕ことを
[やぶちゃん注:「稽首」は頭を地面に付けるまで低くした礼のこと。この句自体(どの句も、そして詩全体もであるが)が公案である。]


右の詩歌一卷として、【一覽亭集】と名く。卷末に曰く、一覽亭の事跡、正覺國師の年譜に云、嘉暦三年戊辰、師在瑞泉、於絶頂構亭、名徧界一覽。額後自記云、嘉暦四禩、己巳[やぶちゃん字注:底本「巳已」、嘉暦四・元徳元(一三二九)年は己巳(つちのとみ)であるから、訂した。]、孟春下澣、木訥叟踈石書、謹按嘉暦四年、乃元德初元也、爾來百十二年、遭兵難而斯亭無絶、實永享十一年春也、後四歳、嘉吉二年、壬戌、秋七月廿日、命工匠而創事、八月四日植柱、同月廿六日落成矣、資助悉出於江湖諸名德者也、化縁之簿藏于文庫、以永爲山中盛事、住持小比丘古教玅訓謹識。
[やぶちゃん注:以下、「正覚国師年譜」引用部分の漢文を影印に従って書き下したものを示す。一部、句読点を追加・変更した。
嘉暦三年戊辰、師、瑞泉に在りて、絶頂に於て亭を構ふ。徧界一覽と名〔づく〕。額後に自記して云〔く〕、『嘉暦四禩、己巳、孟春下澣、木訥叟踈石書す』。謹〔み〕て按ずるに嘉暦四年、乃〔ち〕元德初元なり。爾れより來た〔る〕百十二年、兵難に遭〔ひ〕て斯の亭、無絶〔す〕。實に永享十一年の春なり。後四歳、嘉吉二年、壬戌、秋七月廿日、工匠に命じて事を創む。八月四日柱を植つ。同月廿六日落成す。資助悉く江湖諸名德出〔づ〕る者なり。化縁の簿、文庫に藏し、以〔て〕永く山中の盛事と爲〔す〕。住持小比丘古教玅訓謹〔み〕て識す。
「創む」は「はじむ」、「植つ」は「うつ」と訓じていると思われる。]


○天台山〔附長者窪〕 天台山テンダイサンは、瑞泉寺の北の高山を名く。此山を天台と號する事、何れの代にナヅけたると云事不知(知れず)。記録もなく、古老も知れる人なし。今按ずるに、將軍家の屋敷ヤシキよりは、東北にて、鬼門キモンアタるゆへに、京都の天台山にニセナヅケたる歟。山上にノボれば、金澤、ナラビに江戸の海上、道中スヂまでミユるなり。山のキタヤツに長者がクボと云所あり。古事未考(未だ考へず)。


○歌橋 歌橋ウタノハシは、鎌倉十橋の一、荏柄エガラの天神の馬場さきより、少し東の道にあり。鎌倉十橋の一つなり。歌の橋と號する事、其いはれ不知(知れず)。
[やぶちゃん注:珍しく現在知られる由緒を不明としている。現在、歌の橋の脇にある昭和十二年三月鎌倉町青年団建立になる名所由来を記した碑から引用する。
鎌倉十橋ノ一ニシテ 建保元年(皇紀一八七三)二月 澁川刑部六郎兼守謀叛ノ罪ニヨリ誅セラレントセシ時 愁ノ餘リ和歌十首ヲ詠ジテ荏柄社頭ニ奉獻セシニ 翌朝 將軍實朝傳聞セラレ 御感アリテ兼守ノ罪ヲ赦サレシニヨリ 其ノ報賽トシテ此ノ所ニ橋ヲ造立シ 以テ神德ヲ謝シタリト傳ヘラレ此ノ名アリ
謀叛とは、宝暦三(一二一三)年に信濃国の泉親衡が故源頼家の三男栄実(幼名千寿丸)を担ぎ出して将軍とし、執権北条義時を倒そうとしたクーデターを指す。]


大御堂谷圖
[やぶちゃん注:「釈迦堂谷」の東の山道の消失点に書かれているやや読み難い文字列は「此山陽唐絲土籠有」という山向こうの見えない遺跡についての指示書きである。]

○文覺屋敷 文覺屋敷モンガクヤシキ大御堂ヲホミダウの西の方、賴朝屋敷ヨリトモヤシキ南向ミナミムカふなり。文覺、鎌倉に來て、此所に居すとなり。【東鑑】に、養和二年四月廿六日、文覺上人、營中に參す、去る五日より、三七日断食して、江島エノシマに參籠し、懇祈肝膽をクダき、昨日退出すと云ふ。是れ鎭守府の將軍藤原の秀衡ヒテヒラ調伏のためなりとあり。文覺の傳、【元亨釋書】にあり。

大御堂谷〔附御堂御所舊跡〕 《阿彌陀山》大御堂谷ヲホミダウガヤツは、歌橋ウタノハシの南向なり。阿彌陀山アミダサンとも云ふ。賴朝卿、最初の建立、勝長壽院の舊跡なり。《南御堂》勝長壽院を、南御堂ミナミノミダウとも、大御堂ヲホミダウとも稱する也。【東鑑】に、賴朝、元暦元年十一月廿六日、エイの東南に當て、一の靈崛レイクツあり。仍て梵宇の營作をクハダてらる。是先考の御廟を其の地に安すべきの由、存念し給ふの間、ヒソカに此由を後白河の法皇へ伺奏せらる。法皇も亦勳功クンコウを叡感し給ふ餘に、判官にヲホセて、ヒガシ獄門コクモンの邊に於て、故左典厩サテンキウ〔義朝〕の首を尋ね出され、鎌田の二郎兵衞の尉政淸マサキヨが首を相へ、江の判官公朝キントモを勅使として、是を下さる。文治元年八月卅日に下着す。二品ニホン〔賴朝〕ムカタテマツラタメに、ミヅカ稲瀨河イナセカハの邊に參向し給ふ。御遺骨を、文覺上人の弟子の僧、頸に懸奉カケタテマツラる。同年九月三日子の刻に、故左典廐の御遺骨、政淸マサキヨクビをそへて、南の御堂の地にホウムタテマツラる。同年十月廿一日、南の御堂の本佛をワタし奉る。丈六皆金色の阿彌陀佛。南都の大佛師成朝ジヤウテウ、去る五月廿一日に、御招請に依て參向し、佛像を造立す。同十月廿四日、御堂供養、導師は本覺院の僧正坊公顯、廾口ニジフクの僧をヒキヒて參堂、供養の儀をぶ。御堂を勝長壽院と號す。元久二年に實朝サネトモの時、勝長壽院の領、上總の國菅生スガフの莊十二箇郷の事とあり。又承久元年正月二十七日、實朝卿、公曉クギヤウシイせられ給ふ〔事出前。〕。廿八日イヌの刻に、勝長壽院の傍らに奉葬(葬り奉る)。去夜御首ミクシの在所を不知(知らず)。五體不具なり。依て昨日公氏キンウヂに給はる御ビンを、御頭ミクシモチひ棺に入れタテマツるとあり。今其の所ろ不知(知れず)。【帝王編年記】に、文暦元年に、鎌倉の二品禪尼ニホンゼンニ、故右大臣の爲に、高野山の内に金剛三昧院を建立す。奉行ジヤウの入道大蓮タイレン、俗名は景盛カゲモリ、本尊は正觀音也。御身に實朝サネトモ公の遺骨をむるとあり。按ずるに、實朝を火葬にしたる歟。壽福寺にも實朝の塔あり。

[やぶちゃん字注:以下、「御堂御節跡」の項の次行以降は、底本では一字下げである。]

御堂ミダウ御所ゴシヨアト 今其の所不知(知れず)。【東鑑】に、貞應元年二月廿七日、二位家ニイケ〔平の政子〕勝長壽院のヲクの地を點して、伽藍幷に御亭を建らる。同年七月廿六日御移徙ワタマシあり。《廊御堂》御堂御所と號し、又ラウの御堂と號す。薨御コウギヨの後、此地に火葬すとあり。壽福寺の開山塔に、二位尼ニイノアマの位牌あり。薨御の事も彼の下に記す。

○釋迦堂谷 釋迦堂谷シヤカダウガヤツは、大御堂の東鄰なり。【東鑑】に、元仁元年十一月十八日、武州泰時ヤストキ、亡父義時ヨシトキ、周關追福の爲に伽藍を建立せらる。今日ハシラ立、明年〔以下は【東鑑脱漏】に見へたり。〕六月十三日、新造の釋迦堂供養をげらるとあり。此地なるへし。


○犬懸谷〔附御衣張山短尺石〕 犬懸イヌカケ〔懸或作駈〕ガヤツは釋迦堂の東鄰なり。土俗、衣掛谷キヌカケガヤツともふ。此の所ろと、釋迦堂がヤツとの間に、切拔キリヌキの道あり。名越ナゴヤへ出るなり。昔しの本道とみへたり。【平家物語】に、畠山ハタケヤマ三浦ミウラとの合戦の時、三浦の小次郎義茂ヨシモチ、鎌倉へ立寄タチヨリたりけるが、合戰の事を聞て馬に打乘り、犬懸坂イヌカケザカ馳越ハセコヘて、名越に出ると有。此の道ならん。又【東鑑】にも犬懸が谷の事往々ワウ/\見へたり。上杉朝宗ウヘスギトモムネ入道禪助ゼンジヨ、此道に居宅す。犬懸イヌカケの管領と號す。朝宗トモムネは山の内の德泉寺を建立なり。其の子上杉氏憲ウヂノリ入道禪秀ゼンシウを、犬懸イヌカケの入道と號す。《衣張山》此の上の山を衣張山キヌハリヤマと云ふ。相傳ふ賴朝卿、大藏がヤツに御座の時、夏日此山にきぬをはり、雪の降掛フリカヽるが如にして見紛ふ故に名くと也。或は云、昔の此の地に比丘尼テラありしに、彼の比丘尼、松の枝にキヌ掛晒カケサラせしが、其のノチに枝葉サカへて、今山の上にある二本の松の大木なりと云ふ。犬駈イヌカケを、俗に衣掛キヌカケふも此の意なり。短尺石タンジヤクイシと云ふ石、山上にあり。其所謂イハレを不知(知らず)。

○唐絲土籠 唐絲土籠カライトガツチロウは、釋迦堂がヤツミナミに巖窟あり。唐絲籠カライトガロウひ傳ふ。内に石塔數多あり。相傳ふ、唐絲は、手塚の太郎光盛ミツモリムスメなり。賴朝にツカへ居けるが、木曾義仲キソヨシナカへ内通して、賴朝を殺さんが爲に、脇指ワキザシを懷中にカクし置けり。遂にアラハれて此の土のロウに入ヲカれけるとなん。東御門ヒガシミカドの山の上にも、唐絲カライトが土の籠と云所ろあり。然れども非なりと云ふ。


○杉本觀音堂 杉本スギモトの觀音堂は、海道より北にあり。額に、杉本寺、子純筆とあり。子純は建長寺第百五十九世。子純和尚諱は得公歟。大藏山ダイザウサンと號す。坂東巡禮フダ所の第一なり。開山は行基なり。此寺は天台宗にて、叡山エイザンの末寺なり。中比衰微スイビして、妻帶サイタイの山伏なりしを、近年の住持の僧これをアラタめて、今は淸僧也。本尊十一面觀音〔慈覺の作。〕も十一面〔行基の作。〕左も十一面〔慧心の作。〕前にも又十一面あり〔運慶が作〕。釋迦〔天竺佛。〕毘沙門〔宅間が作。〕【東鑑】に、文治五年十一月廿三日、夜に入て、大倉ヲホクラの觀音堂回祿す。別當淨臺房、煙火を見て悲歎し、ホノヲの中へはしり入て本尊を出す。纔にコガるといへども、身體は敢てツヽガなしと。又建久二年九月十八日、幕下、大倉の觀音堂に御參の事あり。【太平記天正本】に、斯波シハ三郎家長イヘナガイクサなふして杉本の觀音堂にて腹切ハラキるとあり。天領五石六斗あり。

○報國寺 報國寺ホウコクジは、功臣山コウシンザン建中ケンチウ報國寺と號す。杉本スギモトの南ミムカフなり。関東の諸山なり。開山は佛乘禪師天岸慧廣、建武二年三月八日に寂ス。【東歸集】有て世に行はる。源ノ尊氏タカウヂの祖父伊豫ノ守家時イヘトキの建立なり。家時イヘトキを報國寺殿義恩と號す。木像あり。本尊は、釋迦・文殊・普賢・迦葉・阿難、迦葉は、宅間法眼が作也。宅間タクマの迦葉とイヽ傳へて名佛也。《宅間が谷》此邊を宅間タクマヤツと云なり。宅間が舊居歟。今寺領十三貫文あり。【空華集】に、漸く入境の標有とあり。今はなし。開山塔を休耕菴と云ふ。


○滑川 《胡桃川》滑川ナメリガハは、上にては胡桃川クルミガハと云ふ。淨妙寺の前よりシモま川でを滑川ナメリガハと云ふ。其のシモ文覺モンガク屋敷の邊にては、坐禪川ザゼンガハと云ふ。文覺此に居て坐禪する故に名くと云ふ。其シモ小町にて夷堂エビスダウ川と云ふ。其のシモ延命寺のワキ、大鳥居の邊にては、すみうり川と云ふ。《閻魔川》其のシモ閻魔堂の前にて閻魔川エンマガハと云。一川六名有。【太平記】に載するを見るに、靑砥アヲト左衞門藤綱フジツナが屋敷、此邊に有けるが、或時靑砥アヲト左衞門夜に入りて出仕シユツシしけるに、いつも燧袋ヒウチフクロに入てモチたるゼニを十文、トリはづして此滑川ナメリガハヲトしたりけるを、五十錢を以て松明タイマツカフて尋ね出したるとなり。諸人是をキヽ、小利大損かなとワラひければ、左衞門マユをひそめ、さればこそ御邊達ゴヘンタチは、ヲロカにして世のツヒヘを不知(知らず)、民をメグむ心なき人なり。ゼニ十文を只今求めずは滑川ナメリガハソコシズんで長くうせぬべし。某し松明タイマツひつる五十錢は、アキ人の家に留て長くウシナふべからずとイヘり。今按ずるに、【二程全書】に程子、昔し雍華の間に遊ぶ。關西の學者六七人從ひ行く。一日千錢をウシナふ。僕者の曰、晨裝にワスるに非ず。必ず水をワタる時に之をシヅむるならんと。程子曰惜哉(しいかな)、或人の曰、是れ誠に可惜也(惜しむべし)。一人の曰なる哉千錢、亦何ぞしむにらん。一人の曰、水中と嚢中と、人ウシナふと人ると、以て一視すべし。何ぞしむべき事をタンぜん。程子の曰、人マコトコレを得ばウシナふに非ず。今スナハち水にヲトさば用なし。吾是を以此をタンずと云ふ。是誠に異域同談なり。左衞門が心、程子にかなへり。

○十二所村〔附河越屋敷〕 十二所村ジフニシヨムラは、報國寺の東の民家なり。又は十二郷谷ジフニガウガヤツとも云ふ。里人の云、家村十二所ある故に名く。今は僅に三四所あり。【鎌倉大草子】に、上杉禪秀ゼンシウランの時、源の持氏モチウヂ、上杉憲基ノリモトが、佐介谷サスケガヤツタイノガく時、塔辻トウノツヂは、敵カヾリいて警固しける〔アヒ〕ダ岩戸イハトの上の山路を廻り、十二所ジフニシヨに懸り、小坪コツボへ打出、前濵マヘハマをへて、佐介サスケへ入せ給ふとあり。《河越屋敷》此東鄰を河越カハゴヘ屋敷と云ふ。河越の太郎重賴シゲヨリが舊宅か。

○胡桃谷〔附大樂寺舊跡〕 胡桃谷クルミガヤツは、淨妙寺の東のヤツ也。大樂寺の舊跡あり。昔し藥師堂有り。今はホロびて礎石のみあり。本尊は今大樂寺にあり。【大日記】に、永享元年二月十二日、永安寺炎上、類火に依て大樂寺焼失すとあり。此所ろ永安寺へチカければ、永享の比まで爰に有しとみへたり。


○淨妙寺〔附稻荷明神社〕 淨妙寺ジヤウミヤウジは、稻荷山タウカサンと號す。五山の第五也。開山退耕和尚、諱は行勇、千光の法嗣也。【鶴岡八幡宮供僧次第】に云、慈月坊の行勇、荘嚴坊法印、モトは玄信、周防の國の人、實は四條殿トノの息子。當社の供僧職は讓于有俊(有俊に讓り)、入壽福寺葉僧正室(壽福寺葉僧正の室に入る)。後補彼寺長老(後には彼の寺の長老に補し)第二世なり。又淨妙寺の開山なりと云云。按ずるに、源の尊氏の父、讃岐の守貞氏サダウヂを、淨妙寺殿貞山道觀と號す。元弘元年九月五日逝去、當寺の檀那にて、當寺を修復の後淨妙寺と改めたると見へたり。昔は當寺を極樂寺と號すと、【元亨釋書】に見へたり。寺領四貫三百文の御朱印あり。至德三年七月、源の義滿ヨシミツ、五山の座次を定め、建長寺を第一として、京師天龍寺の次也。圓覺寺を第二、壽福寺を第三。淨智寺を第四、淨妙寺を第五とす。是よりサキ、座位の沙汰あらず。此の時歸依の僧を贔屓ヒイキして、ワタクシサタメけるとなん。

佛殿 本尊は阿彌陀、作者不知(知れず)。
[やぶちゃん字注:以下、「直心菴」の項まで(実際には「知足菴」まであるが、「靈芝菴」以降は二行に亙っていない)項の次行以降は、底本では一字下げ(鐘銘は全体が一字半下げである。最後の塔頭消滅の追記は表記通り、一字下げとした。]

開山塔 光明院と云、開山の像あり。又源の直義タヽヨシの木像あり。又光明院殿本覺大姉と書たる位牌あり。ウラに法樂寺殿の嫡女、八月廿日逝去とあり。足利義氏アシカガヨシウヂを法樂寺殿正義シヤウギと號す。其ムスメを光明院と號す。權大納言隆親タカチカシツ隆顯タカアキの母と、足利アシカヾの系圖にみへたり。また日光山にて光明院講あり。日光の中興に昌宣と云僧あり。義氏ヨシウジの子なりと云ふ。光明院は昌宣の俗姉なる故に、其法事あるか。

鐘樓 門を入、右にあり。

  稻荷山淨妙禪寺鐘銘
稻荷山淨妙寺者、相陽五岳之其一也、天正庚寅之騒亂以來、鳴鐘缺典矣、粤秀甫昌三首座、出自己財鑄之、不日而成、請銘於余、峻拒不允、爲之銘、銘曰、荷山禪刹、淨域妙場、退耕明月、遍照扶桑、葉上眞子、流緇苑芳、雪覆富士、水遶瀟湘、九乳脱範、百練時剛、號令肅爾、贊我覺皇、鳧氏巧妙、鯨音悠揚、拘留靑石、後主淸涼、于晨于夕、以宮以商、倒懸息苦、善根無央、驚眠破夜、啓幽廸陽、殿廬岳麓、期豐嶺霜、聞塵淸淨、功德無量、九果六道、刹界十方、神人擁護、佛運綿長、承應第二、歳在癸巳、八月十九日、前住建長後住南禪最岳叟元良題、冶工太田佐兵衞尉正直。
[やぶちゃん注:以下、影印に従って、書き下した文を示す。
  稻荷山淨妙禪寺鐘の銘
稻荷山淨妙寺は、相陽五岳の其〔の〕一なり。天正庚寅の騒亂以來、鳴鐘缺典、ココに秀甫昌三首座、自己の財を出〔だ〕して之を鑄〔し〕、日やらずして成る。銘を余に請ふ。峻拒すれども允さず、之が銘爲る。銘に曰〔く〕、荷山の禪刹、淨域の妙場、退耕の明月、遍く扶桑を照〔ら〕す。葉上の眞子、緇苑の芳を流ぶ。雪、富士を覆ひ、水、瀟湘を遶る。九乳、範を脱し、百練、時し〔も〕剛し。號令肅爾として、我が覺皇を贊す。鳧氏巧妙、鯨音悠揚、拘留クルの靑石、後主の淸涼、晨に夕に、宮以て商以て、倒懸苦を息む。善根キハマリ無く、眠を驚〔か〕し夜を破る。幽を啓き陽を廸〔び〕く。廬岳の麓に殿ヲクれ、豐嶺の霜を期す。聞塵淸淨、功德無量、九果六道、刹界十方、神人擁護し、佛運綿長ならん。承應第二、歳癸巳に在〔り〕、八月十九日、前住建長後住南禪最岳叟元良題、冶工太田佐兵衞尉正直。
「允さず」は「ゆるさず」、「流ぶ」は「あぶ」(浴ぶ)、「廸〔び〕く」は「みちびく」(導く)と読む。
「葉上の眞子」とは木本類の花卉を言うか。識者の御教授を乞う。
「緇苑」は「しをん」と読み、黒い帳りを降ろしたように樹木花卉の鬱蒼とした園を言うと思われる。
「時し〔も〕」は「おりしも」と訓じておいた。
「肅爾」は「しゆくじ」と読み、鐘の音のおごそかなさまを言うものと思われる。
「覺皇」とは、国家安寧を言うか。識者の御教授を乞う。
「鳧氏」は「ふし」と読み、中国の伝承で、音楽を司り、最初に鐘を造ったとされる人物。転じて、釣鐘。
「拘留」は「くる」と読み、拘留孫仏のことと思われる。拘留孫仏は過去七仏の第四仏で、賢劫(げんごう:現在の我々の生存世界の時間。)の時に出現する千仏の第一仏とされる。
殿ヲクれ」は、原義なら最後に配すといった意味であるが、ここでは寺の意で、寺を建立し、という意で採った。]


稻荷社イナリノヤシロ 寺の西のヲカにあり。淨妙寺の鎭守なり。【東鑑】に、弘長元年五月一日、大倉の稻荷の邊イサヽ物怱モノサハガしとあり。堯慧法師が【北國紀行】に、淨妙寺に入てみるに、スギだかきヤシロは、稻荷明神也。白狐あらはる時は、寺家に佳瑞なり。門外の叢祠は、カマ手向タムハベり。往古の縁起うせて、ナンの御神とも不知(知れず)といへり。さては此御社は、大織冠の御鎭座か。山なる鎭守は、彼の靈劔のカマヲサめられし、鎌倉山是なりとをぼゆるとあり。今按ずるに、大織冠カマウヅみし地、並に稻荷の社・鎌倉山の事、前に記するが如く、此地には非ず。堯慧法師が紀行は、里俗の云ふにマカせて書たりとみへたり。

直心菴 天瑞和尚、諱は守政、應永三十年十一月晦日に寂す。壽六十云云。塔頭今殘り存する所コレのみなり。

靈芝菴 自收和尚諱は志淳、嗣法佛源禪師(佛源禪師に嗣法)。

瑞龍菴 靈岩和尚諱は道昭、嗣法桑田(桑田に嗣法)。

芳雲菴 芳庭和尚諱は法菊、嗣法太平(太平に嗣法)。

禪昌菴 雲山和尚諱は智越、嗣法無隠(無隠に嗣法)延文三年五月廿一日に寂す。

東漸菴 笑岩和尚諱は乾知。

佛智菴 象先和尚諱は乾岩、嗣法喝岩(喝岩に嗣法)。

萬春菴 三山和尚諱は祖教。

知足菴 蒙菴和尚諱は志聰。

 右塔頭の名、【五山記】にありとイヘども、今はホロビたり。

○延福寺舊跡 《雲谷山》延福寺ヱンフクジの舊跡は、淨妙寺の境内西北にあり。雲谷山ウンコウザンと號す。足利左馬の助源の高義タカヨシの菩提所なり。高義を延福寺と號す。尊氏のアニなり。開山は足菴和尚、佛國禪師の法嗣なり。

○大休寺舊跡 《熊野山》大休寺ダイキウジの舊跡は、淨妙寺の境内、延福寺の舊跡の西にあり。熊野山ユウヤサンと號す。此西の方に熊野クマノの祠あり。大休寺の跡には石垣イシカキの跡あり。古き二つあり。源の直義タヽヨシの菩提所なり。此の邊直義タヽヨシの舊宅也。直義タヽヨシを大休寺殿贈正二位古山慧源大禪定門と號す。又は大倉ヲホクラ二位の大明神と號す。開山は月山希一和尚、玉山の法嗣なり。貞治五年丙午六月十三日に示寂。直義の位牌は淨光明寺にもあり。又洛の村雲にも大休寺あり。直義タヽヨシの寺なり。


公方屋敷圖

○公方屋敷〔附飯盛山御馬冷場〕 公方屋敷クバウヤシキは、淨妙寺のヒガシ芝野シバノなり。此の所ろ、源の尊氏タカウジの舊宅にて、代々ダイ/\關東管領クワンレイの屋敷なり。【太平記】に、元弘三年五月二日の夜半に足利殿アシカヾドノの二男、千壽王殿センジユワウドノ大藏谷ヲホクラガヤツを落て、行き方不知(知れず)り給ふと有は、此屋敷なり。相模入道滅亡の後、尊氏タカウジは京都に居し、千尋王殿は義詮ヨシアキと號し、此の所に居住。後に上洛有て、其の舍弟基氏モトウヂ、關東の管領として、此屋敷に居住。自爾(シカるより)以來、氏滿ウヂミツ滿兼ミツカネ持氏モチウヂ、相ひ續で居住ナリ。持氏沒落の後、持氏の末子成氏シゲウヂ永壽王エイジユワウとて、土岐トキ左京の大夫持益モチマスあづかりて、信州にありしを、越後の守護上杉相模の守房定フササタ、京都の公方へ訴訟して、關東の主君とす。寶德元年二月十九日、鎌倉へ下向。此の所に御所造營有て居住なり。此の地繁昌の時、鎌倉にても京に似せて、管領を將軍と云ひ、或は公方クバウ、又は御所ゴシヨと稱す。故にココを今に公方屋敷と云ふ也。里俗或は尊氏屋敷・基氏屋敷・持氏屋敷などゝ云ふは此故なり。成氏シゲウヂノチに下野の古河コガ退シリゾく。其の子孫義氏ユシウヂ、鎌倉へ歸居キキヨネガふのヨシ、鶴が岡に願文數通あり。いづれの時か、古河コガの公方御カヘりあらんとて、ハタケにもせず。今に芝野シバノにしてをけりと、里老カタれり。關東管領興廢の事、【鎌倉大草子】【鎌倉年中行事】【鎌倉九代記】等に詳なり。尊氏屋敷は、巖窟堂イハヤダウの南方、又長壽寺の南鄰にもあり。三所共に尊氏の舊宅と云ふ。《飯盛山》此の所の南方に高き山あり。飯盛山イヒモリヤマと云ふ。富士權現を勸請す。【鎌倉年中行事】に源の成氏シゲウヂ、六月一日、飯盛山の富士參詣とあり。コヽならん。又此の公方屋敷東の山際に、御馬冷場ヲンムマヒヤシバとて、巖窟イハヤの内にミヅあり。賴朝ヨリトモの馬、生唼イケズキ磨墨スルスミの、すそしたるトコロなりとイヽ傳へて二所ろあり。淨妙寺より此邊まで、足利家アシカヾケの屋敷と見へたれば、賴朝に不可限(限るべからず)、馬も二疋のみならんや。鶴が岡の鳥居の前より此地まで十五町あり。
[やぶちゃん注:「すそしたる」は「馬の脚を洗った」の意。]

〇五大堂 五大堂ゴダイダウは、公方屋敷より東、海道よりは北、河のムカヒに有。明王院と云ふ。《大行寺》里民或は大行寺とも云ふ。眞言宗、仁和寺の末寺なり。賴經ヨリツネ將軍の祈願所なり。【東鑑】に、寛喜三年十月十六日、將軍家の御願として、二階堂の内に、五大尊堂を建立すべきの由、方角・日時を校量せらる。同年十一月十八日、五大尊の像造始ツクリハジメらる。嘉禎元年二月十日、堂建立。將軍家渡御あり。同年三月五日、鐘樓を立らる。同年六月廿九日、カネカケらる。同日に五大明王の像を安置す。同く明王院五大尊堂供養の儀有。願文は、大藏卿菅爲長スガノタメナガ草す。内大臣實氏サネウヂ淸書す。安鎭はベンの僧正定豪。將軍家出御とあり。今堂に、不動一尊を安ず。筑後の法橋が作。寛永年中の回祿に、四尊は燒失して、不動一尊殘れりと云ふ。藥師・大日の像もあり。【東鑑】を見れは、此の五大堂、初は甘繩の地に可建由(つべきヨシ)なりしが、賴經ヨリツネ若宮大路ワカミヤヲヒヂの屋敷よりは、鬼門キモンに當るを以て、此の地に定むるとなり。又嘉禎三年三月十日、二位家〔平の政子〕十三年の御忌景、追善の爲に、明王院の東に丈六堂をツクらるるとあり。北斗堂をも、此地の北邊に建られたることへたり。
[やぶちゃん注:「忌景」は「きけい」と読み、「景」は日の意で死者の回向などをする日。忌日に同じ。]

○大慈寺舊跡 大慈寺ダイジジ奮跡は、五大堂と、光觸寺とのアイダ、南のヤツにあり。【東鑑】に、建保二年七月廿七日、大倉の大慈寺供養なり。新御堂と號す。實朝サネトモ將軍の時なり。後正嘉元年十月一日修理の事あり。本堂・丈六堂・新阿彌陀堂・釋迦堂・三重の塔・鐘樓等、莊嚴の美、ホトンど古跡にぎたりとあり。宗尊親王の時なり。

○梶原屋敷〔附大巧寺舊跡〕 梶原屋敷カヂハラヤシキは、五大堂の北の方山際ヤマギハにあり。梶原カヂハラ平三景時カゲトキが舊跡なり。【東鑑】に、景時は、正治二年十二月十八日に、鎌倉をひ出され、相模の國の一のミヤクダる。彼家屋を破却して、永福寺の僧坊に寄附せらるとあり。賴家ヨリイヘの時也。今此所に、大きなる佛像のクビばかり、草菴に安置す。按ずるに、【東鑑脱漏】に、安貞元年四月二日、大慈寺の※内に於て、二位家〔平の政子〕第三年忌の爲に、武州泰時ヤストキ、丈六堂をタテらるとあり。此の所大慈寺へチカければ、ウタガふらくは其の丈六佛のクビならん歟。《大巧寺》又里老の云く、昔し大行寺とふ眞言テラ此所にあり。賴朝ヨリトモの祈願所にて、或は此の寺にて、イクサの評議して勝利を得られたり。故に大巧寺とアラタむ。ノチ小町コマチへ移し、日蓮宗となる。今の小町コマチの長慶山大巧寺是なりと。しかれども、【東鑑】等の記録に不見(見へず)。按ずるに、五大堂を大行寺と號すれば、昔しの大行寺の跡は、五大堂を云ならんか。不分明也(分明ならざるなり)。
[やぶちゃん字注:「※」=「土」+「郭」。]

○鹽甞地藏 鹽甞地藏シホナメヂザウは、道のハタ辻堂ツジダウの内にあり。石像なり。光觸寺の持分モチブンなり。六浦ムツラ鹽賣シホウリ、鎌倉へ出るごとにアキナひの最花ハツホとて、シホを此のイシ地藏に供する故に名く。或は云、ムカシ此石像ヒカリハナちしを、鹽賣シホウリ、像を打朴ウチタホして鹽をナメさせける。それよりヒカリを不放(ハナたず)。故に名くとふ。異域にも亦是あり。程明道、京兆の簿に任ずる時、南山の僧舍に石佛あり。歳々トシ/\傳へ云ふ、其のクビ ヒカリハナつと。男女アツまり見て晝夜喧雜たり。是よりさきマツリゴトをなす者、佛罰を畏れて敢て禁ずる事なし。明道始て到る時、其僧をナジつて云く、我聞く石佛歳々トシ/\ヒカリを現ずと、其の事りやイナや。僧の云く、これあり。明道イマシめて云、又ヒカリを現ずるをちて、必ず來り告よ。我職事あれば往事ユクコトあたはず。まさに其クビを取て、ツイて是を見るべしと云ふ。是よりして又ヒカリを現ずることなし。此事明道の行状に見へたり。此鹽賣シホウリ如何イカなる人にや。鶴が岡の一鳥居より、此所まで、廿町ばかりあり。
[やぶちゃん注:「鄠」は現在の中華人民共和国陝西省西安市にある戸県(こけん)の旧名。「簿」は主簿のことか。中央・各郡県の属官で、帳簿を管理し、庶務を司った。]

○光觸寺〔熊野權現小祠〕光觸寺クワウソクジは、藤觸山トウソクザンと號す。道より南也、開山は一遍上人、藤澤の淸淨光寺の末寺也。堂に光觸寺と額あり。後醍醐天皇の宸筆也。《頰燒阿彌陀》本尊阿彌陀〔運慶作。〕。觀音〔安阿彌作。〕・勢至〔湛慶作。〕此本尊を頰燒ホウヤケ阿彌陀と云也。縁起の略に云、順德帝、建保三年、京都に大佛師有り。雲慶法印と號す。將軍右大臣家の招請に因て下向の刻鎌倉佳人すくりの氏女町のツボネ、時にトシ卅五。雲慶に對面して、此佛をツクらしむ。四十八日を限り、成就せん事をネガふ。雲慶其の言に隨て成就す。來迎の三尊、タケは法の三尺なり。氏女信心歡喜して持佛堂に安置し、香花をサヽげ、持念ヲコタらず。家に萬歳法師と云シモ法師あり。常に専修念佛して信心有とへども、ネイにして妄語、偸盗人をハヅラはしむ。人これをニクむ。時に家々イヘ/\に物の失する事あり。人タガヒにこれを恥づ。起請誓文に及ぶ。獨り罪を萬歳に歸す。氏女イカつて、命じて是を禁ず。我が身は急用あつて、澁谷シブヤと云所へく。命を受る者、萬歳をからめて、クツワの水つきをいて、左のホウに火印をさす。退て見れば火痕なし。氏女還り怒らん事を恐て、フタヽび火印をさすとへども、又アトもなし。氏女ユメミらく、本尊の枕上に立て悲て曰、我がホウを見よと。氏女夢覺て本尊を見るに、火印のアトあり。涕泣懺悔して、萬歳が罪をユルし、龜谷カメガヤツより佛師を招て、火痕を修せしむる事、二十一に及ぶ。終にフクせず。末代人に見せしめんがタメに、修する事なかれと云て、其の後氏女出家して、法阿彌陀佛と號す。 《かなやき堂》 此奇異にヲドロいて、田代タシロの阿闍梨[やぶちゃん字注:「梨」は底本・影印共に「※」(「※」=「犂」-「牛」+「木」)であるが「梨」とした。]に寺地を請て、比企谷ヒキガヤツに岩藏寺と號し、一宇を建立し、本尊を安置す。世にこれをかなやき堂と云ふ。建長三年九月廿六日、氏女卒七十三にして、此本尊に向ひ、端坐合掌し、念佛して往生しぬ。萬歳は、後に大磯ヲホイソに菴を結び、彌々イヨ/\専修念佛し、名號をきあきなふて、大往生を遂畢トゲヲハんぬと云云。縁起二卷あり。筆者は亞相藤の爲相タメスケ、繪は土佐の將監光興ミツヲキなり。跋に文和第四の暦、暮秋下旬、大僧都靖嚴とあり。彌陀の厨子ヅシは、源の持氏モチウヂの寄進也。又【沙石集】に云。鎌倉に町のつぼねとやらん聞へし德人有ける。近くツカ女童メラフ、念佛を信じて、人目にはシノびつゝ、ヒソカに數返しけり。此のアルジキビしくはしたなく、物を忌祝イミイワふ事けしからぬホドなり。正月一日にかよひしけるが、申付たる事にて心ならず、南無阿彌陀佛とマフしけるを、此のアルジ ナヽメならずイカり、腹立て、いま/\しく人のしたるヤウに、今日ケフしも念佛申す事、返々カヘス/\不思議也とて、ヤガてとらへて、ゼニを赤くやきて片頰カタホウにあてゝげり。念佛の故には、何なるトガにもアタれと思て、それにツイても佛をぞ念じける。思はずにイタかりけり。さてアルジ年始トシノハジメツトメなんどせんとて、持佛堂にマフでゝ、本尊の阿彌陀佛金色の立像を拜しければ、御頰ヲンホウゼニカタチ クロく付て見へけり。怪みて能々ヨク/\見るに、金燒カナヤキしつるゼニカタチ、此めらふがカホほどにあたりてへけり。あさましなんどふばかりなくて、めらふをんでるに、聊もキズなし。アルジ大に驚き、慙愧懺悔して、佛師をんで金箔キンパクヲサするにハク幾重イクヘともなくカサぬれども、キズスベてかくれず。當時も彼の佛御坐ヲハシマす。金焼カナヤキ佛と申あひたり。マノアタヲガみて侍りし。當時は三角に見へハベりとあり。此の阿彌陀の事なるべし。前の説とは異なり。イヅレなる事を不知(知らず)。又堂に尊氏・氏滿・滿兼・持氏の位牌有。

クマ野の權現の小祠 堂の前にあり。鎭守なり。

〇一心院舊跡  《柏原山》一心院イチシンイン舊跡は、光觸寺の南方に、柏原山カシハバラヤマと云あり。《明石》其下にあり。其の所の名を明石アカシと云ふ。故に明石アカシの一心院と云ひ傳ふ。テラアトとも、又ダウニハともふ所あり。巖窟イハヤの内に木像のちたる有り。一心院の舊跡也と云傳ふ。

○月輪寺舊跡  《好見》月輪寺ゲツリンジの舊跡は、光觸寺の北、霧澤キリガサハの内に、好見ヨシミと云にあり。故に好見ヨシミの月輪寺とふ。其所にバウの屋敷と云所あり。月輪寺の跡なり。【鎌倉年中行事】に、勝長壽院・心性院・遍照院・一心院・月輪院、此五人は、公方樣クバウサマの護持僧なりとあり。心性・遍照の二院、其の跡不分明(分明ならず)。

○牛蒡谷〔附首塚〕 牛蒡谷見ゴバウガヤツは、光觸寺の北にあり。《首塚》此谷に首塚カウベヅカと云ふ巖窟イハヤあり。里人はカウベやぐらと云。鎌倉の俗語に、巖窟をやぐらと云なり。相ひ傳ふ、相模入道平の高時タカトキ、滅亡の時、一門のクビを爰にウヅむとなり。光觸寺の道、鹽甞シホナメ地藏より、峠坂タウゲザカへて金澤カナザハへ行なり。此坂を、朝夷名切通アサイナノキリトヲシと云也。朝夷名の切通より東は、第八卷に記す。


新編鎌倉志卷之二