やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


新編鎌倉志卷之三

[やぶちゃん注:「新編鎌倉志」梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いたが、これには多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせる箇所がある。本巻より底本データを打ち込みながら、同時に汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した後、部分公開する手法をとる。校訂ポリシーの詳細については「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注の最後の部分を参照されたい(但し、この巻より、更に若い読者の便を考え、読みの濁音落ちと判断されるものには私の独断で濁点を大幅に追加し、現在、送り仮名とされるルビ・パートは概ね本文ポイント平仮名で出した)。【 】による書名提示は底本によるもので、頭書については《 》で該当と思われる箇所に下線を施して目立つように挿入した。割注は〔 〕を用いて同ポイントで示した(割注の中の書名表示は同じ〔 〕が用いられているが、紛らわしいので【 】で統一した)。「こ」の字を潰したような踊り字は「々」に代えた。本文画像を見易く加工、位置変更した上で、適当と判断される箇所に挿入した。なお、底本・影印では「已」と「巳」の字の一部が誤って印字・植字されている。文脈から正しいと思われる方を私が選び、補正してある。【テクスト化開始:二〇一一年六月十三日 作業終了:二〇一一年八月二十日】]

新編鎌倉志卷之三

○巨福呂坂 巨福路コフクロ〔或作小袋路或作禮又作呂(或は小袋路コフクロに作る。路或は禮に作る。又は呂に作る)。〕サカは、雪下ユキノシタより建長寺の前へいづる切通キリトヲシなり。【太平記】幷【神明鏡】に、新田義貞ニツタヨシサダ、鎌倉合戰の時、堀口美濃の守貞滿サダミツを、巨福呂坂コフクロサカ指向サシムケらると有は、此所にはあらず。市場村イチバムラの西に、巨福呂谷コフクロガヤと云所あり。是をすなり。則此道筋ミチスヂなり。此の所ろは、巨福呂谷コフクロガヤサカの名なり。【太平記】【神明鏡】をも、巨福呂谷コフクロガヤとなして見るべし。古老の云、此の邊より市場村イチバムラの邊までを、巨福呂谷コフクロガヤと云。故に建長寺を巨福山コフクサンと云也と。【鎌倉九代記】に、新田義興ヨシヲキ脇屋義治ワキヤヨシハル、鎌倉に攻入セメイりし時、基氏方モトウヂガタの兵、小袋坂コブクロサカ假粧坂ケワヒサカに集りてカタめたりとあるは、市場村イチバムラの西をふには非ず。則ち此の所ろをすなり。義興ヨシヲキ義治ヨシハル、已に源氏山ゲンジヤマへ登り、鶴が岡ヤマへ登るとあるを以て知る也。

○靑梅聖天 靑梅聖天アヲムメノシヤウデンは、雪下ユキノシタより小袋坂コフクロサカへ登る左に小坂コサカあり。巖窟イハヤの内に聖天のミヤ有。故にサカを聖天坂と云ふ。是を靑梅アヲムメの聖天と云事は、俗に傳ふ、鎌倉の將軍、一日ヤマハナハだしふして、時ならず靑梅をノゾまる。諸所を尋ぬるに、此宮の前にニハかに靑梅のる。是を將軍に奉て、終にヤマへぬ。故に名くと。

○地藏堂 地藏堂ヂザウタウは、小袋坂コフクロサカより山の内へユケば右の方にあり。《心平寺》羅陀山カラダセン心平寺と云ふ。建長寺の境内なり。【鎌倉ヲホ日記】に、建長元年に、小袋坂コフクロサカの地藏堂建立とあれば、建長寺草創以前、地獄谷ジゴクガヤツと云し時より、地藏此の所にあり。濟田サイタ地藏の根本なり。事は建長寺の條下にあり。


[建長寺圖〔右を以て前と爲す〕]
[やぶちゃん注:底本では上図を下を右向きに一枚で配し、影印では見返し一頁で分割して同様に下を右向きに配している。底本の上図は極めて美事に影印の上下(左右)が合成されており、建長寺全体を総覩するに相応しい布置となっている。]

○建長寺 建長寺ケンチヤウジは、巨福山コフクサンと號す。五山の第一なり。相模守平の時賴トキヨリの建立なり。【東鑑】に、建長五年十一月廿五日、建長寺供養也。去る建長三年十一月八日に、事始有て既に造畢す。丈六の地藏菩薩を以て中尊とす。同像千體を安置す。相州、殊に精誠をコラさしめ給ふとあり。開山、宋の大覺禪師、イミナは道隆、蘭溪と號す。寛元四年丙午に來朝す。【元享釋書】に傳有て詳かなり。今寺領九十五貫九百文なり。

[やぶちゃん注:以下、大項目内の寺内の小項目は二行目に渡る場合、底本では一字下げ。以降の大項目内も同様なので、以下、この注は略す。]

金龍水キンリウスイ 西の外門の前に有。鎌倉五名水の一つなり。

東の外門 ガクは海東法窟、崇禎元年十一月、竹西書とあり。
[やぶちゃん注:この崇禎すうていという年号は本邦の元号ではない。明代最後の第十七代皇帝毅宗(崇禎帝)の治世中に用いられた元号である。元年は西暦一六二八年に当たる。]

西の外門 額は天下禪林、崇禎元年十一月、竹西書とあり。竹西は朝鮮人なり。

總門ソウモン 額は巨福山コフクサン。筆者不知(知れず)。或は寧一山ネイイツサンと云ひ、又は趙子昂テウスガウふ。《百貫點》巨ノ字、上の一畫の下に、一點をクハへて書たり。時人褒美して、此の額此の點を加へて、百貫のアタヒソヘたりと云しより、百貫テンと云ふなり。
[やぶちゃん注:「巨ノ字」の「ノ」はママ、次項の「宋ノ子曇」も同じ。]

山門 額は、建長興國禪寺、二行に書す。宋ノ子曇が筆なり。山門の樓上に十六羅漢ラカンあり。いつの時か紛失して、今八體あり。又此門下にて、七月十五日に、梶原施餓鬼カジハラセガキと云を行ふ。相傳ふ、昔し開山在世の時に、武者一騎來て、施餓鬼會の終りたるを見て、後悔コウクハイの色有て歸る。時に禪師これを見て、ヨビかへさせて、又施餓鬼會をモフけてかしむ。時に彼武者、我は梶原景時カヂハラカゲトキが靈なりといひてシヤし去る。シカしより以來、此寺には毎年七月、施餓鬼の會終てノチ、梶原施餓鬼と云を設るなり。心経を梵音ボンヲンにて、二三人にてむ。の大衆は無言にて行道するなり。是を此寺にて梵語心經と云なり。

浴室ヨクシツ 總門を入、右の方にあり。浴室と額有。筆者不知(知れず)。

佛殿 祈禱のハイカケて、毎晨祈禱の經咒不怠(ヲコタらず)。本尊地藏、應行が作。相ひ傳ふ此寺建立なき以前、此の地を地獄谷ヂゴクガヤツと云、犯罪の者を刑罰せし處なり。平の時賴トキヨリの時代に、濟田サイタと云者、重科に依て斬罪に及ぶ。太刀とり、フタ大刀までてども不切(れず)。刀を見ればれたり。何のユヘかあるとひけるに、濟田サイタ荅て曰、我れ平生地藏菩薩を信仰して常に身を不放(ハナたず)。今も尚モトドヾりの内に祕すと云ふ。依てこれを見れば、ハタして地藏の小像あり。セナカカタナの跡あり。君臣歎異して、スナハ濟田サイタトガユルす。濟田此の地藏を心平寺の地藏の肚中トチウヲサむとなり。此の寺草創の時、佛殿の地藏の頭内に移す。タケ一寸五分、臺座ともに二寸一分、立像の木佛モクブツなり。セナカカタナアトありと云ふ。佛殿の内、土地堂ツチダウには、太帝・太元・韋駄天・感應使者カンインスシヤ・聖德太子・千手觀音・文殊・藥師の像あり。又代々ダイ/\將軍の位牌あり。昔は地藏・釋迦・觀音の三佛、三千佛ありと云ふ。【大友興廢記】に、建長寺二千體の小地藏り。さゆうと云モノの作也と有。祖師堂には達磨・慧能・百丈・臨済、開山の像、前代住持の像牌等あり。
[やぶちゃん注:「太帝・太元・感應使者カンインスシヤ」は共に道教の神の一人。
「太帝」は特に太湖地方で絶大な信仰を集めた水神系の土地神であった祠山張大帝を指し、「太元」は恐らく大元神で道教の最高神の一人太一神のことを言う。
「感應使者」は元は道教の土地神の一人(この特異な読みは他では未見)。彼らは皆、本邦の禅宗寺院にしばしば伽藍守護神として祭られている。
以下の「梁牌銘」は、底本では全体が二字下げ。以降の鐘銘・漢詩等でも同じであるが、影印ではそのような字下げは行われていないので、以下、この注を略す。]
  梁牌銘
今上皇帝、千佛垂手扶持、諸天至心擁護、長保南山壽、久爲北闕尊、同胡越於一家、通車書於萬國、正五位下行相模守平朝臣時賴敬書〔左の方にあり〕伏願、三品親王征夷大將軍、干戈偃息、海晏河淸、五穀豊登、萬民康樂、法輪常轉、佛日増輝、建長五年癸巳十一月五日、住持傳法宋沙門道隆謹立、〔右の方にあり。〕
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  梁牌の銘
今上皇帝、千佛手を垂れて扶持し、諸天心を至して擁護す。長く南山の壽を保ち、久〔し〕く北闕の尊と爲る。胡越を一家に同じ、車書を萬國に通ず。正五位下行相模の守平朝臣時賴トキヨリ敬〔し〕て書す。〔左の方にあり。〕伏して願〔は〕くは、三品親王征夷大將軍、干戈偃息し、海晏河淸し、五穀豊登、萬民康樂、法輪常に轉じ、佛日輝を増〔さ〕ん。建長五年癸巳十一月五日。住持傳法宋の沙門道隆謹〔み〕て立つ。]

鐘樓 山門の東方、山の上にあり。カネカコみ一丈四尺七寸、アツさ四寸、タケ六尺六寸、龍頭リウヅ一尺七寸、銘如左(左のごとし)。
  巨福山建長興國禪寺鐘銘
南閭浮提、各以音聲長爲佛事、東州勝地、聊蒐榛莾剏此道場、天人影向、龍象和光、雲歛霏開兮樓觀百尺、嵐敷翠拂兮勢壓諸方、事既前定、法亦恢張、圍範洪鐘結千人之緣會、宏撞高架鎭四海之安康、脱自一摸、重而難揚、圓成大器、鳴則非常、蒲牢纔吼、星斗晦藏、羣峯答響、心境倶亡、扣之大者其聲遠撒、扣之小者其應難量、東迎素月、西送夕陽、昏寐未醍、攪之則寤、宴安猶恣、警之而莊、破塵勞之大夢、息物類之顚狂、妙覺覺空、根塵消殞、返聞聞盡、本性全彰、共證圓通三昧、永臻檀施千祥、因此善利、上祝親王、民豐歳稔、地久天長、建長七年乙卯二月廿一日、本寺大檀那、相模守平朝臣時賴、謹勸千人同成大器、建長禪寺住持宋沙門道隆謹題、御勸進監寺僧琳長、大工大和權守物部重光。
[やぶちゃん注:以下、「鐘銘」を影印の訓点に従って書き下したものを示す。但し、「鎌倉市史 考古編」に基づき、「叩之大者其聲遠撒」の「撒」を「徹」に訂した。
  巨福山建長興國禪寺鐘の銘
南閭浮提、各々音聲を以て長〔なへ〕に佛事を爲す。東州の勝地、聊か榛莾を蒐り此の道場を剏む。天人影向し、龍象光を和ぐ、雲歛〔ま〕り霏開け樓觀百尺、嵐敷き翠拂ふ勢諸方を壓す。事既に前定し、法も亦恢張す。洪鐘を圍範して千人の緣會を結び、高架に宏撞して四海の安康を鎭む。一摸より脱して、重〔く〕して揚〔げ〕難し、大器を圓成して、鳴〔く〕時は則〔ち〕非常、蒲牢纔に吼へ、星斗晦藏す。羣峯響に答へ、心境倶に亡ぶ。之を扣〔ち〕て大なる者は其の聲遠く撒す。之を扣〔ち〕て小なる者は其の應量り難し。東の方素月を迎へ、西の方夕陽を送る。昏寐未だ醍めず。之を攪〔す〕時は則〔ち〕寤む。宴安猶を恣なるも、之を警めて莊なり。塵勞の大夢を破り、物類の顚狂を息む。妙覺覺空、根塵消殞す。返聞聞盡〔き〕て、本性全く彰る。共に圓通三昧を證し、永く檀施千祥に臻る。此の善利に因て、上は親王を祝し、民豐かに歳稔し、地久〔し〕く天長〔か〕らん。建長七年乙卯二月廿一日、本寺大檀那、相模の守平の朝臣時賴トキヨリ、謹〔み〕て千人を勸めて同〔じく〕大器を成す。建長禪寺住持宋の沙門道隆謹〔み〕て題す。御勸進監寺の僧琳長、大工大和の權守の物部重光モノヽベノシゲミツ
「剏む」は「はじむ」(始む)、「寤む」は「さむ」(醒む)、「臻る」は「いたる」(至る)と読む。
「榛莾」は「しんまう」「しんばう」と読み、草木が生い茂っているさまを言う。従って「蒐り」は「かり」(刈り)と読んだ。
「霏」は、ここでは雲や霞、また、そのように真理を曇らせるものの謂いででもあろう。]

觀音殿クワンヲンデン 佛殿の前、東方にあり、ガクは圓通閣。毎月十八日、大衆アツまりて觀音懺法ゼンハウあり。
[やぶちゃん注:底本では本見出しは「聖日殿」であるが、影印で訂した。
「懺法」は「せんぼふ」と読み、経を誦して罪過を懺悔する法要を言う。]
  圓通閣          俊明極
聞思修證得。  圓應十方通。  耳聽衆色別。
眼觀諸響同。  朱門設嚴像。  白屋奉眞容。
此閣何神驗。  靈光魯殿雄。
[やぶちゃん注:「俊明極」は「しゆんみんき」と読み、元徳元(一三二九)年に元から来朝、建長寺に住した臨済宗楊岐派松源派高僧、明極楚俊。「太平記」の「俊明極参内事」に預言者として登場する。以下にJーTEXT版国民文庫本の当該部を正字化して一部省略、更に私なりの読みを恣意的に加えたものを示す(正規の本文ではないことに御注意あられたい)。
去ぬる元享げんかう元年の春の比、元朝より俊明極とて、得智の禪師來朝せり。天子直きに異朝の僧に御相看の事は、前々さきざき更に無かりしか共、此君禪の宗旨に傾かせ給ひて、諸方參得の御志をはせしかば、御法談の爲に此禪師を禁中へぞ召されける。事の儀式餘りに微々ならんは、吾が朝の可恥とて、三公公卿も出仕のよそほひをつくろひ、蘭臺金馬らんだいきんめも守禦の備を嚴くせり。夜半に蠟燭をてて禪師參内せらる。主上紫宸殿に出御成りて、玉坐に席を薦め給ふ。禪師三拜禮訖りて、香を拈じて萬歳を祝す。時に勅問有りて曰く、「山にかけはしし、海にふなばしして得々として來たる。和尚何を以てか度生せん。」と。禪師答へて云く、「佛法緊要の處を以て度生せん。」と。重ねて曰く、「正當恁麼しやうたういんも時奈何。」と。答へて曰く、「天上に星有り、皆北にたんだく。人間、水として東に朝せずといふこと無し。」と。御法談畢りて、禪師拜揖はいいふして退出せらる。翌日別當實世さねよ卿を勅使にて禪師號を下さる。時に禪師勅使に向かひて、「此の君、亢龍かうりようの悔ひ有りと雖も、二度帝位をませ給ふべき御相有り。」とぞ申されける。今、君、亢龍の悔に合せ給ひけれ共、彼の禪師の相し申たりし事なれば、二度ふたたび九五きうごの帝位を踐ませ給はん事、疑ひ無き思めすに依りて、法體の御事は暫く有るまじき由を、強ひて仰せ出されけり。
「可恥」は中国語で「恥ずかしい」の意で、ここでは音で「かち」若しくは「はぢ」訓じているか。
「度生」は「じしょう」と読むネット上のテクストを見たが、意味不明。世を渡るの意か。
「得々として」は、わざわざ。「拱く」は、ある方向に向かうことを言う。
「亢龍の悔」の「亢龍」は天高く登りつめた龍で、盛者必衰の理を言う。
「拜揖」は朝廷内での儀式礼儀所作の作法のこと。
「九五」易では最大の陽数を九とし、五を君位に配する。そこから中国では「九五」で、この上なき地位としての帝位を意味するものとなった。
以下に、本漢詩を影印の訓点に従って書き下す。
  圓通閣          俊明極
聞思修證得て
圓應十方に通ず
耳に聽けば衆色別なり
眼に觀れば諸響同じ
朱門嚴像を設け
白屋眞容を奉ず
此の閣何ぞ神驗なる
靈光魯殿雄なり
「聞思修」とは般若(智慧)の働く様態を三段階にわけたもので、まず聞き、次に思考し、最後に修行を実践することにより証(般若の感得)を得るとする。
「靈光魯殿」は本来は魯の恭王が建てた壮大な宮殿霊光殿のこと。]

方丈ハウヂヤウ 龍王殿と名く。釋迦・蘭溪・時賴トキヨリ〔束帶〕の像をく。

書院シヨヱン 《聽松軒》聽松軒と名く。

蘸碧池サンヘキチ幷に影向ヤウガウの松 共に書院のニハにあり。【元享釋書】に、福山寢室のウシロイケあり。池のカタハラに松あり。其の樹條直コエダナヲし。一日斜めにノベフして室にムカふ。衆僧これをアヤシむ。禪師語て云、偉服イフクの人、松の上に居て我と語る。我問ふ何れの處に住すると。コタへて曰、山の左鶴岡ヒダリツルガヲカなりと。カタヲハつて不見(見へず)。其の人の居るを以ての故に松ノベフスのみ。諸徒のイハく、鶴が岡は八幡大神の祠所なり。ヲソらくは神こゝに來るのみ。これより其の徒其の樹に欄楯ランジユンして、ナヅけて靈松と云ふとあり。今或は影向ヤウガウマツと云ふ。
[やぶちゃん注:「欄楯」は「らんじゆん」と読み、仏塔を取り巻く柵をいう。]
  蘸碧池          俊明極
誰鑿地爲沼。  寒泉涵泳深。  靑林浮水面。
翠巘浸波心。  竪看山形側。  横觀樹影沈。
晩遊成勝賞。  聊作五言吟。
[やぶちゃん注:「蘸」は「ひたす」の意。以下、影印に従って訓読したものを示す。
  蘸碧弛          俊明極
誰か地を鑿〔ち〕て沼と爲す
寒泉涵泳して深し
靑林水面に浮び
翠巘波心を浸す
タチザマれば山形側〔だ〕ち
横に觀れば樹影沈む 晩遊勝賞を成し
聊か五言の吟を作す
「涵泳」は「水にひたって泳ぐ」の意で、ひたり味わうこと。
「翠巘」は「すゐけん」又は「すゐげん」若しくは「すゐごん」と読み、緑なす峰のこと。]

開山塔 外門の額、嵩山スウザン〔佛光筆。〕中門の額、西來菴〔筆者不知(知れず)。〕昭堂シヤウダウの額、圓鑑エンカン〔關山の筆。〕昭堂の内、右の方に達磨の像あり。開山の像は自作なり。カタハラに拄杖あり。開山ソウより携へ來る。故に渡海トカイの拄杖と云なり。左の方に、乙護童子ヲトゴダウジの像あり。コレ江島エノシマの辨才天より、隨侍のタメツカハして、開山一生の間だ隨身すと云傳ふ。然れども乙護ヲトゴ童子は、本より伽藍には有べき物なり。江の島より來にあらじ。
[やぶちゃん注:「拄杖」は「しゆぢやう」若しくは「ちゆうぢやう」と読み、禅僧が行脚の際に用いる杖をいう。
「乙護童子」は御法童子とも言い、仏法守護に使役される童形をした鬼神。なお、この話は常楽寺境内にある無熱池伝説に基づく。寛元四(一二四六)年に来朝した大覚禅師蘭渓道隆(当時三三歳)は、数年後に執権北条時頼の懇請により鎌倉に入ったが、彼を開山として迎える建長寺が完成する(「東鑑」に建長五(一二五三)年落慶供養とある)までは、常楽寺に居住していた。彼には宋から随伴した給仕係(この職を宋の寺院にあって乙護と言った)の童子がいた。この少年があまりに美しかったがために、世間では禅僧たる者があろうことか美少女を侍らせているという悪評判が立った。するとこの童子、白蛇(白龍とも)となって、その正体が実は江ノ島の弁財天の使者たる乙護童子(護法童子)であったことを示したという話である。]

舍利樹シヤリジユ  昭堂シヤウダウマヘにある混柏ビヤクシンを名く。【元亨釋書】に、蘭溪を闍維シヤイして、五色の舍利を待たり。其のケフリ樹葉にれて、纍々然ルイルイゼンとして皆舍利をツヾルる。門人遠方より至る者、數十日をて葬所に到て、林木を搜索して多く舍利をたりとあり。コレより舍利樹と名くとなり。
[やぶちゃん注:「混柏」は現在、一般には「柏槇」と書く。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱ヒノキ目ヒノキ科ビャクシン属で建長寺のものは、和名カイヅカイブキ(異名カイヅカビャクシン)
Juniperus chinensis cv. Pyramidalis

であろう。成長が遅いが高木となり、赤褐色の樹皮が縦に薄く裂けるように長く剥がれる特徴を持つ。これが自己認識を解き放つことを目指す禅宗の教義にマッチし、しばしば禅寺に植えられた。
「闍維」は荼毘のこと。パーリ語の漢音訳で他にも「闍毘」(じゃび)「闍鼻多」(じゃびた)「耶維」(やい)等とも書く。]

嵩山スウザン幷に兜率巓トソツテン 開山塔のウシろの山を嵩山と號し、ミネ兜率巓トソツテンと云ふ。兜率巓に、開山幷に佛光の石塔あり。佛光禪師は、圓覺寺の開山なれども、建長寺にて葬る故に、塔は嵩山スウザンにあり。
  嵩山           俊明極
五嶽標中岳。  屹居天地心。  衡常如侍衞。
岱華似恭欽。  慧日輝幽谷。  慈風動少林。
孰知西祖意。  昭顯海東岑。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  嵩山           俊明極
五嶽中岳に標とし
屹として天地の心に居す
衡常侍衞のごとく
岱華恭欽するに似たり
慧日幽谷に輝き
慈風少林を動〔か〕す
孰〔れ〕か知〔ら〕ん西祖の意
昭顯す海東の岑
「岱華」は中国の名峰泰山と崋山を指す。]

寺寶
圓鑑エンカン 壹面 厨子ヅシに入れ、西來菴にあり開山所持のカヾミなり。タカさ三寸五分、ヨコ三寸あり。鏡面に、觀音半身の像、手に團扇をち少し俯したる樣に見ゆるなり。頭に天冠をいたゞく。首尾、如意の如に見ゆる物の端に、瓔珞を垂る。タマツラぬるイトはなし。下にキンの如くなる物を著す。眼裏にはヒトミを不入(入れず)。鏡のウシロに、水中に三日月ミカヅキカゲサカサマ鑄付イツく。其の高さ半分ばかりあり。上に梅の枝を鑄付イツけたり。是をヒツサげるやうにクワンを付たり。カヾミの形如鼎(カナヘのごとし)。是を圓鑑エンカンと號する事は、開山在世の時より、ミ〔ヅカ〕ら圓鑑と額をき、今に昭堂シヤウダウけさせ給を以てなり。其圖如左(左のごとし)。

               [圓鑑圖]



【元享釋書】に、大覺禪師所持のカヾミあり。沒後其の徒これをヲサむ。或人ユメみらく、其の鏡禪師の儀貌を留むと。に告てひ見れば髣髴として觀自在の像に似たり。諸徒傳へて異之(之をアヤしむ)。平帥ヘイソツ〔平の時宗〕これを聞て、請てに入る。其の晻曖をウタガふて、タクミに命じて磨治せしむ。初め幽隠なり。一磨をて、大悲の像、鮮明嚴好なり。平帥ヘイソツ悔謝して作禮す。後に寧一山記作るとあり。【日件録】に、西來菴に大覺禪師の圓鑑あり。マノアたりこれをハイすれば、鏡中に觀音の半身ハンシンの像あり。芭蕉バセウの扇をつ。正く視れば濛々モウモウとして、ハルカに見れば儼然たりとあり。又宗牧が【東國紀行】に、建長寺御影堂のカヾミヘヲモテくもりたるに、十一面の尊容、さだかにをがませられたりとかけり。十一面には非ず。の如くなる像なり。寧一山及び諸師の記文左如(左のごとし)。
[やぶちゃん注:「晻曖」は「あんあい」と読み、本来は樹木が鬱蒼と茂って小暗く、森林の気が立ち込めているさまをいうが、ここでは鏡面の厚味をもった暗さを言っている。]

  圓鑑讚幷序      寧一山
圓覺寺比丘宗英、得此鏡於宋國持歸、經三年後、大覺退壽福往甲州、以鏡送獻之、經一旬餘、忽然鏡面垢生、其後漸々現大士慈容、法光寺殿〔平時宗〕聞之、收藏禮事之、二年後、造本寺觀音像乃藏腹中、今繪此像求題、一寧爲述偈云、衆生法界性、湛如圓鏡明、一念忽然起、乃有生佛名、此鏡自宋國、萬里逾滄溟、鎔錬出摸冶、作此博山形、虗圓淨無垢、日月當靑冥、師資互獻授、不敢私緘縢、一朝半蒙翳、如呵晨霧輕、靜觀翳霧中、大士如幻成、良哉白衣仙、救苦唯尋聲、度人生死海、應現隨羣情、現無量手眼、圓通唯徹證、是必有大緣、故示水月影、偉哉法光寺、珍藏此淨聖、不敢閟以私、造像藏此鏡、要令緇與白、投誠共瞻敬、今復繪此像、用以示永々、我説偈贊揚、無言無自性、嘉元三年、乙巳、淸明節、一山一寧比丘拜書。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って書き下し文を示す。
  圓鑑の讚幷に序      寧一山
圓覺寺の比丘宗英、此の鏡を宋國に得て持ち歸る。三年を經て後、大覺壽福を退〔き〕て甲州に往くときに、鏡を以て之を送り獻ず。一旬餘を經て、忽然として鏡面垢生ず。其後漸々に大士の慈容を現ず。法光寺殿〔平の時宗トキムネ〕之を聞〔き〕て、收藏して之に禮事す。二年の後、本寺の觀音の像を造〔り〕て乃ち腹中に藏む。今ま此の像を繪〔き〕て題を求む。一寧爲に偈を述ぶ。云く、衆生法界の性、湛だ圓鏡の明なるがごとし。一念忽然として起〔き〕て、乃ち生佛の名有〔り〕。此の鏡宋國よりす。萬里滄溟を逾ゆ。鎔錬摸冶を出〔で〕て、此の博山の形を作る。虗圓淨して無垢、日月靑冥に當る。師資互〔ひ〕に獻授す。敢〔へ〕て私に緘縢せず、一朝ナカば蒙翳、晨霧の輕〔き〕を呵〔ふ〕がごとし。靜〔か〕に翳霧の中を觀れば、大士幻に成るがごとし。良〔き〕かな、白衣の仙、苦を救〔ひ〕て唯聲を尋す。人を生死の海に度して、應現羣情に隨ふ。無量の手眼を現〔は〕し、圓通唯徹證、是れ必〔ず〕大緣有〔ら〕ん。故に水月の影を示す。偉〔なる〕かな、法光寺、此の淨聖を珍藏す。敢〔へ〕て閟〔ぢ〕て以て私せず。像を造〔り〕て此の鏡を藏す。緇と白とをして誠を投じて共に瞻敬せしめんことを要す。今復た此の像を繪〔き〕て、用〔ひ〕て以て永々に示す。我偈を説〔き〕て贊揚す。言も無く自性も無し。嘉元三年 乙巳 淸明の節 一山一寧比丘拜書す。
「逾ゆ」は「こゆ」(越ゆ)、「閟〔ぢ〕て」は「とぢて」(閉ぢて)と読む。]

  同贊         佛光禪師
示現宰官、示現菩薩、示現比丘、三原作夢、一處失照、有來由絶朕兆、古佛鏡中明、千山孤月皎。
菩薩應現諸三昧。 變化無在無不在。 夢裏眞形鏡裏觀。 空花實相無留礙。 無學叟祖元拜贊。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って書き下し文を示す。影印では後半部も普通の文章のようになっているが、確かにこれは七言の絶句形式をとっているので、底本通り、詩句として扱った。最後の行が署名であるので、詩の後に空行を設けた。
  同贊         佛光禪師
示現宰官、示現菩薩、示現比丘、三原夢を作し、一處照を失ふ、來由有りて朕兆を絶す。古佛鏡中明〔か〕に、千山孤月皎〔ら〕かなり。
菩薩の應現諸三昧
變化在も無く不在も無し
夢裏の眞形鏡裏に觀る
空花實相留礙無し

無學叟祖元拜贊
「皎〔ら〕かなり」は「きよらかなり」(清らかなり)と訓じているものと思われる。この「皎」自体が白く美しい月の光を意味する語である。
「留礙」とは引き留め妨げること。]

  同贊         月江印和尚
日面佛、月面佛、露影藏形、弄巧成拙、悟得牛過窻櫺、掃蕩無明窠窟、幻化空身即法身、西方入定東方出、謂是巨福開山、又是觀音化迹、等閑打破鏡來看、方信本來無一物、日本國建長禪寺開山大覺禪師鏡中現觀音相、育王月江正印拜贊。
[やぶちゃん注:底本では「櫺」は「(「木」+「靈」)」であるが影印で訂した。以下、影印の訓点に従って書き下し文を示す。
  同贊         月江印和尚
日面佛、月面佛、影を露〔は〕し形を藏す。巧を弄して拙と成し、牛の窻櫺を過〔ぐ〕を悟得す。無明の窠窟を掃蕩して、幻化空身即ち法身、西方に入定して東方に出づ。謂く是れ巨福の開山、又是〔れ〕觀音の化迹、等閑に鏡を打破し來〔り〕て看れば、方に信ず本來無一物なることを。日本國建長禪寺の開山大覺禪師鏡中觀音の相を現す。育王の月江正印拜贊。
「日面佛、月面佛」は「碧巖録」の第三則等にある公案。以下に示す。
擧、馬大師不安。問院主、和尚、近日尊候如何。大師云、日面佛、月面佛。
○やぶちゃんの書き下し文
 擧す、馬大師、不安。院主いんじゆ問ふ、
「和尚、近日、尊候そんこう如何。」
大師云く、
日面仏にちめんぶつ月面仏がちめんぶつ。」
○やぶちゃん現代語訳
 禅宗第八祖馬祖道一禅師が病み伏せった。病勢、頓に篤くなり、まさに命終たらんとせし時、監寺かんすが、見舞いの言葉を掛けた。
「和尚様、今日のお加減はいかがで御座る?」
すると、馬祖が言った。
「日面仏、月面仏。」
と。
監寺かんすは禅宗寺院に於いて住持の代わりに執務を執った役をいう。「日面佛」は千八百の齢いを持つとされる長寿の仏。逆に「月面佛」は一日一夜命終する短命の仏。
続く「牛の窻櫺を過〔ぐ〕」も「無門関」の第三十八則に出る著名な公案である。以下に、私の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」から引用する(読みは本ページに合わせてルビ化した)。
  三十八 牛過窓櫺
五祖曰、譬如水牯牛過窓櫺、頭角四蹄都過了、因甚麼尾巴過不得。 無門曰、若 向者裏倒、著得一隻眼、下得一轉語、可以上報四恩下資三有。其或未然、更須照顧尾巴始得。 頌曰 過去墮抗塹 回來却被壞 者些尾巴子 直是甚奇怪

淵藪野狐禪師書き下し文:
  三十八 牛、窓櫺さうれいを過ぐ
 五祖曰く、
「譬へば、水牯牛すいこぎうの窓櫺を過ぐるがごとし、頭角四蹄ずかくしたいすべて過ぎをはんぬに、甚麼なんに因りてか尾巴びは過ぐることを得ざる。」 と。
 無門曰く、
「若し者裏に向ひて顚倒して、一隻眼をけ得、一轉語を下し得ば、以てかみは四恩に報じ、しも三有さんぬたすくべし。其れ、或ひは未だ然らずんば、更に須らく尾巴を照顧して始めて得べし。」 と。
 頌して曰く、
過ぎ去れば
抗壍こうざん
回り來れば 却りてやぶらる
者些しやさ尾巴子びはす
まさに是れ 甚だ奇怪

淵藪野狐禪師訳:
  三十八 牛が、連子窓の向こうを過ぎる
 五祖慧能が言う。
「例えば、水牛が連子窓の向うを過ぎて行くのを室内から見ているとしよう。――牛の頭が見えた、次に角、そして二本の前足、ずーと胴体が続き、二本の後ろ足、が見えるな――さて、『牛』の全てはそこを過ぎ去った――それなのに、どうして尻尾が通り過ぎるのが見えぬのじゃ!?」
 無門、商量して言う。
「もしもこの、さまに向かって、さかしまに、独眼一徹、見切ってしまい、転迷開悟の一言を、牛糞のごと、ポンとコロっと吐き出せたなら、この世に中で、父母ちちははほとけ王様衆生、そこから受ける貴い恩に、すっかりすっきり報いてしまい、この世の苦しむ、ありとある、衆生凡夫も、救い済み。――さても、勿論、そんなことが出来んとなれば、まず何よりも須らく、この『しっぽ』をば見届けよ、それがお前の生きる道!」
 次いで囃して言う。
通り過ぎれば 落とし穴
戻るとなれば 粉微塵
そもそも『ここ』の「しっぽ」こそ
まさしく 真正大妖怪!
「三有」は広義には、欲界・色界・無色界の三界の生存領域に於ける生存様態である欲有・色有・無色有を指す。輪廻のシステムの中では現在の生存である本有、未来の当有、その中間の生存である中有を指す。ここでは、漠然と生死輪廻の反復であるこの世のことを言っている。]

  同贊         元僧本無
日本國建長禪寺靈鏡見像贊〔有序〕宋成都蘭溪禪師道隆、得法於無明性和尚、遂佩大父松源單傳直指之道、往化日本、爰感國君輔、臣衆相契合、大振厥宗晩示滅于建長之寢室、弟子收瘞舍利西來菴、賜大覺禪師圓鑑之塔、已而相州太守平公時宗、追慕罔怠、忽一夕夢、師語曰、世間生死人之大常、公何哀戀不已、吾之徒德温、收吾生前所蓄銅鑑、公若欲見老僧、看鑑足矣、覺而召温叙夢事索鑑覽之、果若雲霧中微有人面焉者、亟命工刮磨之、乃得觀世音菩薩妙相歴然具備、合府僚佐爭先快覩、莫不嗟異、太守、感玆靈瑞、爲剏圓覺禪寺、造傑閣以奉大士、且併藏其靈鏡焉、師之法孫元壽、求良工繪鏡像于素帛將寘于西來菴以永禮供養、過予天竺、炷香求贊、敬説偈曰、稽首靈智妙法身、徧現十方無量刹、慈應之用不思儀、如月在水春在花、上天竺峯寶陀岩、鷹巣鏡容十二面、光明顯靈靡差忒、施作佛事無有窮、從是東行日本土、有大比丘衆所歸、宰官夢與鏡現像、等施悲願力如是、我聞菩薩本因地、由聞思修入三摩、心精遺聞證圓通、此方乃以音聞得、良由無礙慈忍力、十方言音起即觀、以是比丘大機用、似鏡照鏡空藏空、佛子若以同異求、離氷求水無是處、彼以無媒應一切、我今亦以無言贊、滴露投置浮幢王、同一器量無邊表、諸來善入圓鑑門、作是觀者名正觀、至正癸未春三月二日、杭州路上天竺廣大靈感觀音教寺傳天台教沙門釋本無、題于白雲堂。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  同贊         元の僧本無
日本國建長禪寺靈鏡見像の贊〔有序(序有〔り〕〕宋の成都蘭溪禪師道隆、法を無明性和尚に得たり。遂に大父松源單傳直指に道を佩び、往〔き〕て日本を化す。爰に國君の輔を感ぜしめ、臣衆相ひ契合して、大に厥の宗を振ふ〔。〕晩に滅を建長に寢室に示す。弟子舍利を西來菴に收め瘞む。大覺禪師圓鑑の塔と賜ふ、已にして相州の太守平公時宗トキムネ、追慕怠ること罔し。忽〔ち〕に一夕夢〔み〕らく、師語〔り〕て曰〔く〕、世間の生死は人の大常、公何ぞ哀戀已まざる。吾が徒德温、吾が生前蓄〔ふ〕る所の銅鑑を收む。公若し老僧を見んと欲せば、鑑を看ば足〔り〕なんと。覺めて温を召して夢の事を叙〔し〕て鑑を索〔し〕て之を覽るに、果して雲霧の中に微〔か〕く人面なる者の有〔る〕がごとし。亟に工に命じて之を刮り磨し、乃ち觀世音菩薩の妙相歴然として具〔さ〕に備〔ふ〕るを得たり。合府の僚佐先を爭〔ひ〕て快覩し、嗟異せずと云〔ふ〕ことなし。太守、玆の靈瑞を感じて、爲めに圓覺禪寺を剏して、傑閣を造り以て大士を奉ず。且つ併〔せ〕て其の靈鏡を藏す。師の法孫元壽、良工を求め鏡像を素帛に繪〔き〕て將に西來菴に寘〔き〕て以て永く禮し供養せんとす。予に天竺に過〔ぎ〕て、香を炷き贊を求む。敬〔ひ〕て偈を説〔き〕て曰〔く〕、稽首す靈智妙法身、徧く十方無量刹に現す。慈應の用不思儀、月の水に在〔り〕春の花に在〔る〕がごとし。上天竺峯寶陀岩、鷹巣の鏡容十二面、光明顯靈差忒靡し。施作佛事窮〔は〕り有〔る〕こと無し。是より東行す日本の土、大比丘有り衆の歸する所、宰官の夢と鏡に現ずる像と。等〔し〕く悲願力を施すこと是のごとし。我れ聞〔く〕菩薩本と因地に、聞思修より三摩に入る。心精遺聞圓通を證す。此の方乃ち音聞を以て得たり、良に無礙慈忍力に由る。十方言音起〔き〕て即ち觀、以〔てす〕るに是の比丘大機用、鏡の鏡を照〔ら〕し空の空を藏すに似たり。佛子若し同異を以て求めば、氷りを離〔れ〕て水を求む是のコトハリ無し、彼れ無媒を以て一切に應ず。我今亦無言を以て贊す。滴露投じ置〔く〕浮幢王、同一の器量邊表無し。諸來善く入る圓鑑の門、是の觀を作〔る〕者を正觀と名〔づ〕く、至正癸未春三月二日、杭州路上天竺廣大靈感觀音教寺傳天台教の沙門釋の本無、白雲堂に題す。
「瘞む」は「うづむ」(埋む)、「亟に」は「すみやかに」(速やかに)と読む。「厥の」は「この」で指示語。
「微く」は「よはく」(弱く)と訓じているか。「こまかく」の可能性もある。
「剏して」は「しやうして」又は「さうして」と音読みして、「始める」の意。
「差忒靡し」の「差忒」は「さとく」と読み、「誤り」のこと、「靡し」は「なし」(無し)と読むので、「間違いは一切ない」の意。
「因地」は「因位」の連声表現で、修行中の菩薩道にある仏の位を言う。
「三摩」は「三昧」と同じ。]

  同贊         元僧梵琦
生蜀之蘭溪、即以爲號、出宋之淛水、謂称飽參、姑蘇雙塔見無明老人、擧牛過窻櫺而透徹、廬山歸宗夢張公水部、願身隨瓶鉢以護持、得拄杖於異僧、感天童之護法、及開日本巨福、王臣敬崇、屢坐名藍道場衲子圍遶使松源慧燈不夜、播大覺遺教無窮、茶毘示末後涅槃、舍利入西來翠堵、囑平太守相見於鏡中、果睹聖觀音、毎彰於身後、堂々大道、亹亹淸規、付之的子親孫、仰若泰山北斗者也、日本國巨福山建長禪寺開山第一代祖大覺禪師蘭溪道隆和尚遺像、遠孫比丘元志侍者求贊、至正丙午春、嘉興路在城報恩光孝禪寺前住山楚石道人梵琦敬書。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って元僧梵琦の贊を読み下したものを示す。
  同贊         元の僧梵琦
蜀の蘭溪に生る、即ち以〔て〕號と爲す。宋の淛水に出〔で〕、謂〔ひ〕て飽參と称す。姑蘇雙塔に無明老人に見へ、牛窻櫺を過〔ぐ〕を擧〔げ〕て透徹す。廬山の歸宗張公水部を夢みて、願ふ、身瓶鉢に隨〔ひ〕て以〔て〕護持せんを。拄杖を異僧に得、天童の護法を感ず。日本巨福を開〔く〕に及〔び〕て、王臣敬崇す。屢々名藍道場に坐して、衲子圍遶して松源の慧燈をして夜ならざらしむ。大覺の遺教を無窮に播す。茶毘末後涅槃を示す。舍利西來の窣堵に入る。平太守に囑して鏡中に相見す。果して聖觀音を睹る。毎に身後に彰はる。堂々たる大道、亹亹たる淸規、之を的子親孫に付す。仰〔ぎ〕て泰山北斗のごとくなる者のなるなり。日本國巨福山建長禪寺開山第一代の祖大覺禪師蘭溪隆和尚の遺像。遠孫比丘元志侍者贊を求む。至正丙午の春、嘉興路在城報恩光孝禪寺前住山楚石道人梵琦敬〔し〕て書す。
「無明老人」は松源崇岳の法嗣であった無明慧性のこと。
「衲子圍遶」の「衲子」は「のうす・のっす」と読み、禅宗の粗末な袈裟である衲衣(のうえ)、「圍遶」は「ゐねう」で「囲繞」に同じ。
「窣堵」は「窣堵波」で「そとば」、ストゥーパ、仏塔のこと。
「睹る」は「みる」(見る)。
「身後」は没後の意。
「亹亹」は時や水が流れるさまを言うが、鏡像の美しさの比喩であろう。]

  同紀實        德雋
曩焉有比丘宗英者、之宋得鏡、形肖博山、持之而歸、後三載、大覺祖師、遭乎流言而有甲州之行、英將其鏡獻之於師、以備顧鑑、師旋于相之巨山未幾而逝矣、神足德温收郷之鏡、本部太守平公時宗、追慕師而不可見、晨夜憂想罔怠、一夕、師夢告平公曰、死也者人之大常也、何故哀之劇、吾之徒德温有鏡、吾平生愛之也、欲見老僧看此鏡足矣、覺而召温索其鏡覽之、如雲霧中有人而昏、命工磨之、之乃觀音大士之妙相悉備、闔府僚屬、乃至遐邇州縣來禮者憧々不絶、毋不歎異、平公、感斯奇瑞、以其鏡秘之、躬以奉圓覺寺山門之閣、或日、平公悔郷聽流言之過而爲之也、爾來今埀百年矣、應安甲寅、十一月二十三日、將夜、圓覺寺倏遭畢方之崇、巨山以其此隣、衆咸駭而愴惶、老而疲者攀陟而望之、壯而健者匍匐而救之、夜迨過半、炎上稍息、有守嚴者、篤行之僧也、嗟彼廣居罹于斯災矣、戚々乎念之、坐久而假寐、空中有聲曰、汝知之否、祖師現形之鏡、藏于寶雲閣千手大悲之腹中矣、嚴也、恍惚應之日非也、我聞之於師、其置正觀音腹也、若曰在于千手則謬也、遽焉夢覺、乃呼同舍者語之、翌日嚴將守高者、訪鹿阜於灰燼之中而歸、將過利濟菴之門傍、有木像仆地、手足摧折不見其首、往來者圍之爭覩曰、火發庫堂、其焰先及大殿之北阿、而後燬于山門、人得延燎之有隙、上閣救聖像、茫々焉從其高檐放落之、故梵相用致傷損、守嚴以手搜像腹、鏗然有聲、取而視之鏡也、使若有人誘之然、高也懼人喧逐濫隨、故濳袖之速行、將到巨山尚以爲遲、輒就路側出之、以拜觀其鏡瑩如也、聖像見于鏡心、畧有晻瞹之色擁其像如一翳生于晴虗焉、我祖本形、淨智圓明、體自空寂、蕩々焉、如如焉、無相無蹟、豈以鏡中收見徒誇乎人哉、嗚呼、時丁末運、善巧淺薄、於是彰著其靈異以視不信心者耳、佛光、一山、本無、月江、虎關諸師、有贊焉、有銘焉、有序焉、有傳紀焉、今併撫其言、以爲事實、元綸首座、俾余書之、永留西來菴、永和元年、季冬朔也、法孫比丘德雋九拜書。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って元僧梵琦の贊を読み下したものを示す。
  同紀實        德雋
曩焉ムカシ比丘宗英と云〔ふ〕者有〔り〕。宋に之〔き〕て鏡を得たり。形、博山に肖たり。之を持〔ち〕て歸る。後三載、大覺祖師、流言に遭〔ひ〕て甲州の行有〔り〕、英其の鏡將て之を師に獻じ、以て顧鑑に備ふ。師、相の巨山に旋〔り〕て未だ幾ならずして逝す。神足德温、サキの鏡に收む。本部の太守平公時宗トキムネ、師を追慕して見るべからず、晨夜に憂想怠ること罔し。一夕、師夢に平公に告〔げ〕て曰〔く〕、死は人の大常なり。何の故にか哀〔し〕むことの劇しき。吾が徒德温、鏡有り。吾平生之を愛す。老僧を見んと欲せば此の鏡を看ば足なんと。覺めて温を召し其の鏡を索〔し〕て之を覽る。雲霧の中に人有るがごとくにして昏し。工に命じて之を磨せしむ。乃ち觀音大士の妙相悉く備はる。闔府の僚屬、乃至遐邇州縣〔より〕來り禮する者憧々として絶へず。歎異せずと云ふこと毋し。平公、斯の奇瑞を感じて、其の鏡を以て之を秘し、躬から以て圓覺寺山門の閣に奉ず。或〔は〕曰〔く〕、平公サキ流言を聽〔く〕の過〔ち〕を悔〔い〕て之を爲〔す〕となり。爾來より今百年に〔ナン〕/\とす。應安甲寅、十一月二十三日、將に夜ならんとする時、圓覺寺倏ち畢方のタタリに遭ふ。巨山、其の此、隣なるを以て、衆咸く駭〔き〕て愴惶す。老〔い〕て疲〔れ〕たる者は攀陟して之を望み、壯にして健なる者は匍匐して之を救ふ。夜過半に迨〔び〕て、炎上稍々息む。守嚴と云〔ふ〕者有り、篤行の僧なり。彼の廣居斯の災に罹るを嗟いて、戚々として之を念ふ。坐すること久〔く〕して假寐す。空中に聲有り〔て〕曰〔く〕、汝之を知るや否や、祖師現形の鏡、寶雲閣千手大悲の腹中に藏すと。嚴や、恍惚として之に應〔じ〕曰〔く〕、非なり、我之を師に聞けり、其れ正觀音の腹に置くなり、若し千手に在〔り〕と曰ふは則ち謬なりと。遽焉として夢覺む。乃ち同舍の者を呼〔び〕て之を語る。翌日、嚴、守高と云〔ふ〕者を將て、鹿阜を灰燼の中に訪〔ね〕て歸る。將に利濟菴の門傍を過〔ん〕とする時、木像の地に仆〔れ〕たる有〔り〕。手足摧折して其の首を見ず。往來の者之を圍〔み〕て爭ひ覩て曰〔く〕、火庫堂より發す、其の焰、先づ大殿の北阿に及〔び〕て、而して後、山門を燬く。人、延燎の隙有〔る〕を得て、閣に上り、聖像を救ふ。茫々焉として其の高檐より之を放落す。故に梵相用〔ひ〕て傷損することを致す。守嚴、手を以て像腹を搜れば、鏗然として聲有〔り〕、取りて之を視れば鏡なり。若人有〔り〕て之を誘〔ふ〕がごとくならしむること、然り。高や、人の喧〔し〕く逐ひ濫しく隨〔ふ〕を懼る。故に濳〔か〕に之を袖にして速〔か〕に行く。將に巨山に到〔ら〕んとして、尚を以て遲しと爲。輒ち路の側に就〔き〕て之を出〔だ〕し、以て其の鏡を拜し觀れば瑩如たり。聖像鏡心に見はる。畧々晻瞹の色有〔り〕て其の像を擁す。一翳の晴虗に生ずるがごとし。我が祖の本形、淨智圓明、體ヲ〔ノヅカ〕ら空寂。蕩々焉たり、如如焉たり。相も無く、蹟も無し。豈に鏡中に見る攸ろを以て徒〔ら〕に人に誇〔ら〕んや。嗚呼、時、末運にアタり、善巧淺薄、是に於て其の靈異を彰著して以て不信心の者に視せしむるのみ。佛光・一山・本無・月江・虎關の諸師、贊有〔り〕、銘有〔り〕、序有〔り〕、傳紀有〔り〕、今其の言併せ撫〔し〕て、以て事實と爲。元綸首座、余をして之を書せしめ、永く西來菴に留む。永和元年、季冬朔なり。法孫比丘德雋九拜して書す。
「德雋」は日本語読みなら、「とくしゆん」又は「とくぜん」である。
「旋〔り〕て」は「かへりて」(帰りて)、「幾ならず」は「いくばくならず」と訓じた。
「闔府」は「がうふ」又は「かふふ」と読み、幕府内総て、の意。
「遐邇」は「かじ」と読み、遠近のこと。
「憧々と」は人々が絶えず行き来するさま。
「躬から」は「みづから」と読む。
「畢方のタタリ」の「畢方」は「ひつぽう」と読み、「山海経」に現れる鶴に似て一本足の、怪火をもたらす不吉な妖鳥とされ、転じて不審火による火難の謂いとなった。
「衆咸く駭〔き〕て愴惶す」は「衆咸(しげ)く駭(おどろ)きて愴惶す」と読み、「(隣り合った)建長寺の衆僧が皆、驚いて慌てた」の意。
「攀陟」は「はんちよく」と読み、高い場所に登ることをいう。
「迨〔び〕て」は「およびて」(及びて)と訓じているものと思われる。
「廣居」は広い住まいのことで、ここは大伽藍の円覚寺を指す。
「嗟いて」は「なげいて」(嘆いて)と読む。
「戚々として」は憂えて思い患って、の意。
「遽焉」は「きよえん」と読み、俄かに、の意。
「鹿阜」の「阜」には小高い山の意があり、円覚寺の山号は瑞鹿山であるから、円覚寺のある山という意であると思われる。
「燬く」は「やく」(焼く)。
「延燎」は「えんれう」で延焼のこと。
「鏗然」は「かうぜん」と読み、金属や石・楽器などが高い音を出すさまをいう。
「瑩如」は「えいじよ」と読み、はっきりとして鮮やかで美しいさま。
「蕩々焉たり」は広大である、ゆったりとして穏やかである、といった意。
「如如焉たり」とは仏教用語で、思慮分別を加えないあるがままの実相を示していることをいう。
「攸ろ」は「ところ」(所)と読む。]

按ずるに、本無ホンムの贊の中に、太守感茲靈瑞、爲剏圓覺禪寺(太守茲の靈瑞を感じて、爲めに圓覺禪寺を剏む)とあり。【元享釋書】に、弘安二年に、佛光禪師來朝、五年に圓覺寺る。佛光禪師を開山第一祖とすとあり。しかれば圓覺寺は此奇瑞の爲の故に創するにあらず。本無は異邦の人なる故に、此事を詳にせざるならん。今按ずるに、【古今醫統】に、畫寫鏡法、雌黄一錢、粉霜磠砂、各一分、右細研以膠水調、任意於鏡上描畫人物花草故事、候乾火燒片時、以磨鏡、藥磨去其畫自見(鏡に畫寫する法、雌黄シワウ一錢、 紛霜フンサウ磠砂トウシヤ、各々一分、右細かに研してニカハ水を以て調へ、意に任〔せ〕て鏡の上に於て人物・花草・故事を描畫し、乾を候て火にくこと片時、以て鏡を磨す、藥磨し去〔り〕て其の畫ヲ〔ノヅカ〕ゆとあり。ノチに義堂の【日工集】を見るに、應安七年十一月廿三日五更に、圓覺寺失火す。其の災起りは、其の日寺僧鬻柴(シバる)者と價を論じて、鬻柴者(シバる)をノノシめりハズカしむ。其の男ヒソかに寺に入、柴屋シバヤに火をナゲて去る。故に燒亡す。其の夜建長の守嚴首座、ユメツゲ有と稱して、圓覺山門の閣に登り、觀音の像を破り、其ムネカクすところの寶鏡をり、建長の方丈に歸る。諸人キソて希有とす。是れケダし事の變に因て、ヌスタバるなり。亦犯罪ならず上杉ウヘスギ刑部の大輔憲春ノリハル來て、圓覺の火災をひ、又圓覺の靈鏡の建長にウツる事を聞て、希有なりふ。義堂曰、吾が家ハジめより如是(是のごときの[やぶちゃん注:「の」はママ。ルビの衍字。])の怪を不説(説かず)。是れ巫覡邪法のテラふところなり。古人の云、打破鏡來れ、與汝相見せん(鏡を打破し來れ、汝と相〔ひ〕見せん)。又曰、明鏡亦非臺(明鏡も亦臺に非ず)と、是心鏡をいふなり。而も尚打破するも亦非之(之を非とす)。況や幻藥を以て鑄る所の世鏡を守らんとあり。
[やぶちゃん注:「石黄」は雄黄のことで、硫化砒素As2S3からなる硫化鉱物。黄色。半透明、樹脂光沢を持つ。古くから顔料として使用、有毒。
「錢」は重量単位で一両(約三十七グラム強)の十分の一、三・七五グラム。
「粉霜」は昇汞のことで、塩化第二水銀HgCl
2。激しい腐食性毒性を有する。
「磠砂」は「ろしや」と読み、塩化アンモニウムNH
4Clのこと。鍍金等に使用される。
「分」は重量単位で一両の百分の一、約〇・三七五グラム。

この最後の附言は誠に面白い。元僧のとんでもない勘違いと思い込みを鋭く指摘、不思議な魔鏡のハウ・トウも掲げて、要するに、この円鏡、開祖蘭渓道隆所縁のあらたかなものでも何でもない、円覚寺から建長寺に移ったという霊異譚めいたものも、よく考えればあろうことか禅坊主の窃盗罪、それも由々しき火事場泥棒ではないか(本書が書かれた江戸時代、火事場泥棒は火付け盗賊と並んで最も重い罪として認識されていたことに注意)という厳しい批判も附されている。最後に、関東管領上杉憲春が円覚寺に五山文学の学僧義堂周信を訪ねてこの不審を問うたというエピソードを配し、そこで義堂はこの話を妄説として一蹴したばかりか、返す刀ならぬ鏡で一種の公案を示して破鏡、一刀両断という味な仕儀となっているのである。しかし、本編中に描かれている慶安七(一三七四)年の円覚寺大火というのは実は、このような単純なものではなく、建長寺開山大覚(蘭渓道隆)派門徒とその遷化後を継いで建長寺住持となり、後に円覚寺開山となった仏光(無学祖元)派の両門僧徒の抗争が「火種」となった建長寺と円覚寺の極めて政治的な出来事であったのであり、その只中に円覚寺の住持としてあった義堂の深い苦悩をこそ押えておかねばならないと思われる。そうして読むと、最後の義堂の言葉は、更に更に深い警策として骨に響くものとなる。]

開山自作の小觀音の像 壹軀 タケ一寸五分。
[やぶちゃん注:自作というは伝承であって、毛頭、事実ではあり得ない。「鎌倉市史 社寺編」は『無論、誤りである』と断じている。]

開山九條の袈裟 貮頂 クワンは水晶。

開山七條の袈裟 貮頂 環は玳瑁、六角なり。

開山の念珠 貮連 金剛子。

開山の直綴ジキトツ 三領。
[やぶちゃん注:「直綴」とは偏衫(へんさん:上衣)と裙子(くんす:下衣)とを直接腰の部分で綴り合わせて一枚とした僧衣。]

開山の坐具 貮張

朗然居士の畫像 壹幅 開山自筆の贊なり。如左(左のごとし)。
拙而無比、與它佛祖結深寃、老不知羞、要爲人天開正眼、是非海中闊歩、輥百千遭、劍戟林裏横身、好一片膽、引得朗然居士、於※拳上能定乾坤、負累蘭溪老人、向巨福山倒乘舴艋、相同運出自家珍。一一且非從外産、辛未季春、住持建長禪寺宋蘭溪道隆、奉爲朗然居士、書于觀瀾閣。
[やぶちゃん注:「寃」は影印では(うかんむり)が(あなかんむり)であるが、こちらを採った。「※」は底本では{(上)「雨」+(下)「隻」}で、影印ではその「雨」が「兩」のように見受けられる字体。この「朗然居士」とは現在、蘭渓を招聘した時の執権北条時宗と推定されている。以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
拙にして比無し、它の佛祖と深寃を結ぶ。老〔い〕て羞を知らず、人天の爲に正眼を開〔か〕んことを要す。是非海中に闊歩して、輥百千遭、劍戟林裏に身を横〔た〕ふ。好一片の膽、朗然居士を引〔き〕得て、※拳上に於て能く乾坤を定む。蘭溪老人に負累して、巨福山に向〔ひ〕て倒〔る〕に舴艋に乘る。自家の珍を運出するに相同じ。一一且つ外より産するに非ず。辛未季春、住持建長禪寺宋の蘭溪道隆、朗然居士が奉〔らん〕爲に、觀瀾閣に書す。
「它」は「ほか」(他)と訓じているか。「輥」は「こん」でぐるぐる回ることを言う。「舴艋」は「さくまう」と読み、小さな舟のこと。]

牓 貮幅 開山の筆。
[やぶちゃん注:「牓」は「ばう」と読み、懸け札。額。]

金剛經 壹卷 開山の筆。

朱衣の達磨の畫 壹幅 開山の筆。

釋迦の畫像 壹幅 顏輝が筆。
[やぶちゃん注:「顏輝」は宋末元初の画家。生没年不詳。廬陵(現在の江西省吉安。別に浙江省江山とも)の出身。「寒山拾得図」など、怪奇にして神秘な画風は他の追従を許さないものであった。奇態な道釈画や水墨の猿を得意としたが、現在、本邦で確かな真筆とされるのは京都知恩院蔵になる「蝦蟇鉄拐図」一幅のみである。]

觀音の畫像 卅二幅 啓書記が筆。
[やぶちゃん注:「啓書記」は室町時代中期の画家の固有名。名を賢江、字を祥啓と言ったが、建長寺の書記を務めたことから一般にこの名で呼ばれる。京都で芸阿弥真芸に師事、当世の水墨画の名人として知られた。]

白衣の觀音の畫像 壹幅 思恭の筆。
[やぶちゃん注:「思恭」は関思恭(せきしきょう 元禄十(一六九七)年~明和二(一七六六)年)で、江戸期の著名な書家。]

涅槃像 貮幅 一幅は兆殿司テウデンス、一幅は新筆。
[やぶちゃん注:「兆殿司」は室町前半の画僧。淡路生。名は吉山、字は明兆。兆殿司は通称で、師大道一以が東福寺二十八世となって東福寺殿司(禅寺で殿堂の掃除・灯明・香華・供物などの雑務一般を取り仕切った役僧)を務めたことによる。]

羅漢の畫像 八幅 兆殿司筆。

十六羅漢の畫像 壹幅 顏輝が筆。

十六善神の畫像 壹幅 唐筆。
[やぶちゃん注:般若経の誦持者を守護するとされる十六の夜叉神。十二神将+四大天王で十六。]

三幅ツイの繪 中は釋迦、思恭が筆。左右は猿猴、牧溪モツケイが筆。案ずるに釋迦・猿猴別筆なれども、取合トリアはせて對とす。畫體相ひ似たるを以なり。
[やぶちゃん注:「牧溪」(?~一一八〇年)は蜀の画僧。姓は李、名は法常。臨安長慶寺の雑役僧であったが、水墨画に優れ、日本画にも大きな影響を与えた画家で、猿は彼の得意とする画題であった。]

並蔕蓮ヘイテイレンの繪 貮幅 顏輝が筆。
[やぶちゃん注:「並蔕蓮」は、一つの茎からハスの花が二つ並んで咲いているものを言う。中国では一般には夫婦和合の画柄として好まれるものである。]

牡丹の繪 壹幅 唐筆。

法華經 貮部一軸 紺紙金泥、日蓮の筆也。袖紙ソデカミの繪も日蓮の筆也と云ふ。八の卷の末に、金泥にて如此(此のごとき)判あり。又つぎめつぎめにも有。【花押藪】を考るに、源の持氏のハンなり。如左(左のごとし)。


  源持氏判

右の外に、開山の袈裟等、散失して常州に有しを、我が相公これをヲサめらる。相公、住持頑室グハンシツアタふる書、幷寶物等如左(左のごとし)。
   與頑室和尚書         源光圀
未接道容、渇望日久、伏惟寶坊淸靜、法候萬福、就告家臣額田久兵衞信通、世々藏大覺禪師法衣墨蹟等、是宜在貴寺者、故今附介喜捨、永以鎭山門、其物件録別幅、收納惟幸。
   延寶六年七月廿四日
[やぶちゃん注:以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
   頑室和尚に與〔ふ〕る書         源の光圀
未だ道容に接せず、渇望日〔に〕久し。伏して惟〔んみ〕れば寶坊淸靜、法候萬福、就〔き〕て告す家臣額田久兵衞信通ノブミチ、世々大覺禪師法衣墨蹟等を藏む。是〔れ〕宜〔し〕く貴寺に在〔る〕べき者なり。故に今、介に附して喜捨し、永く以て山門を鎭す。其の物件別幅に録す。收納惟〔れ〕幸〔ひ〕。
「惟〔んみ〕れば」は「おもんみれば」、「惟〔れ〕幸〔ひ〕」は「これさいはひ」と読む。
「介に附して」とは取り次ぐ形で、謂いか。]

大覺禪師の相伽梨〔黄紗 環は玳瑁〕   壹頂
[やぶちゃん注:「梨」は底本・影印ともに{「犂」-「牛」+「木」}であるが、ここは僧侶の袈裟である「僧伽梨」(そうかり)のことであるから、訂した。後掲の空山和尚の項も同様に処理した。]

大覺禪師の尼師壇〔黄紗〕        壹張
[やぶちゃん注:「尼師壇」は「にしだん」と読み、六物(ろくもつ:僧尼が常持する六種の物。大衣・上衣・内衣の三衣さんえ・鉢・飲み水を漉すための袋である漉水嚢ろくすいのう、そして尼師壇。)の一。座臥する際に用いる地に敷く方形をした布のこと。]

大覺禪師の拂子ホツス             壹柄

大覺禪師の肖像             壹幅

大覺禪師の牙〔納玉塔(玉塔に納む)〕  壹箇

大覺禪師の墨蹟〔誡衆法語、具名字印章(衆を誡〔む〕る法語、名字印章を具ふ)。〕 貮幅

空山和尚の相伽梨〔生絹 環は象牙〕   壹頂

空山和尚の尼師壇〔緞子ドンス〕        壹張

錦江和尚の肖像〔讚は中孝。〕      壹幅

不動明王幷に矜伽羅コンガラ制多迦セイタカ       各々壹軀
   〔峯照月の彫造、栂尾トガノヲの明慧の供養。〕

  復水戸相公書     建長頑室玄廉
如賜示教、雖未奉芝顏、辱惠鳳箋、薫沐拜誦、就審臺閣鈞安、尊侯佳勝、伏承、大家之良臣額田氏信通、累世所祕在之大覺祖之法衣墨蹟等、所録別幅之件々、永令鎭護吾山門、不堪戰慄感荷之至、誠惟四百年後如逢蘭溪再世之春、閣下、非仁德之渥、爭蒙如斯之餘庇乎、噫時哉有數、圭復無措、佗時趨于貴府、速伸忱謝、皇恐端肅不悉。
[やぶちゃん注:以下に影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  水戸相公に復する書     建長頑室玄廉
示教を賜〔ふ〕がごとく、未だ芝顏を奉ぜずと雖ども、辱く鳳箋を惠まる。薫沐拜誦、就〔き〕て審〔か〕にす臺閣鈞安、尊侯佳勝、伏して承はる。大家の良臣額田ヌカタ信通ノブミチ、累世祕在する所の大覺祖の法衣墨蹟等、別幅に録する所の件々、永く吾が山門を鎭護せしむ。戰慄感荷の至〔り〕に堪へず、誠に惟れは四百年後蘭溪再世の春に逢〔ふ〕がごとし。閣下、仁德のアツきに非〔ず〕ば、爭〔で〕か斯〔く〕のごときの餘庇を蒙らんや。噫、時なるかな數有〔り〕、圭復措くこと無〔く〕、佗時貴府に趨〔り〕て、速〔か〕に忱謝を伸〔べ〕ん。皇恐端肅不悉。
「圭復」は人から来た手紙を繰り返し読むこと。「佗時」は後日、「趨〔り〕て」は「はしりて」(走りて)と読む。]

建長興國禪寺の碑の文 壹卷 其の文如左(左のごとし)。碑は今へたり。
[やぶちゃん注:底本は影印と校訂してみると、かなりの誤植が見られるが、いちいち注していない。]
吾佛之以導人者、變化無方、出沒無狀、無過明心見性、一以同歸者也、然有生上智者鮮希、於自強易爲修習、習之猥屑鄙俚、流而忘返、輒淪於不意之郷、孰知聖性淸明在余之躬者耶、於是達磨以來百丈、建爲叢林廣居、使其混處其間、一以淸規而繩率之、共弘厥旨、猶蓬生麻中、未曾不自直、由是王臣知其事事者、不負靈山之囑、克任厥責殆徧於天下也、所以今玆日本建長寺者、實由是矣、蓋乃先是掌國政者平公朝臣時賴、天縱明識、欲興厥宗、而土曠人稀、末由就緒、有西蜀蘭溪道隆禪師者、得法於開先慧性禪師、性、嗣靈隱崇岳禪師、岳傳於達磨爲二十五世孫、隆、既妙悟、玆欲宣化、期遠遊與道偕行、當趙宋淳祐六年、本朝寛元丙午之歳萬里波浪一息來朝、公乃窺其顏角、而語諸左右曰、非人間世之所有也、而西方聖人之教、不治而不亂、國政有是余何憂哉、然其教各々有所宗、禪爲統要、國亦備矣、而至人未至、覺悟者鮮、故不易治、抑々乃堂々大道、猶若靑天蓋有不能出者、猶可惜哉、人其至矣、吾將有爲、未幾請師姑主常樂小刹、乃遍擇靈地、至建長辛亥、得之於此山内、曰巨福禮郷、十一月初八日、開基創草、爲始作大伽藍、擬中國之天下徑山、爲五岳之首、山以郷名、寺以年號、請師爲開山第一祖、乃悉常樂之産、於玆復増置若干所、爲常任管業、常樂既虛、乃於玆寺、月々輪上殿僧衆十員、以一員守之、爲之定式、閲二載、癸丑、規模稍々備、先是欲大殿立三尊、公曰、此地昔幽谷也、嘗爲刑場、誤犯國憲者、殞首於此多矣、庸知又非爲陰獄耶、先有地藏菩薩祠於此亦有意也、今毋他設、宜即以是爲本尊、於是爲其像、而作丹崖翠壑之狀、以擬佉羅陀山、安處其中、復作小像千數、擁衞兩傍、既畢請師觀之、乃歎曰、勝哉人間之事、乃有希奇者若是耶、何故此余未來朝時、所夢見似之、先兆如此、豈偶然哉、余之於此有緣也久矣、而一日蝦夷國人來朝、公其乃無佛世界以、欲地藏專化之、使其遊寺以植善根、而其蝦夷指之曰、是若人者、常倶羣小像遊吾國、不識從何所來、乃有其像在於玆耶、公曰、蓋其本願欲度若等耳、今吾携若于玆、蓋亦是之意焉、當以嚴奉事之、然果有之能偕其來否、夷人諾之、明年又來朝曰、所約若人者、招之不可、趂之不及、但得其所遺手執錫杖上一金鐶耳、謹以奉獻、視之像所執者果失其一、又師之將來朝也、遇一方面大目長鬚美秀者諸途、而前曰、師道宜東、化緣在彼、時其至矣、毋自趑趄、師訝而驚且敬之、心不覺口語曰、斯何人耶、又而作之識余之心事耶、欲詰其故、彼則前趨失其所在、俄一望間有古神祠、隨分入欲炷香、乃祠山大帝行廟、儀表當軒、即所遇者、猶若與語、於是默禱之曰、此眞君壯予行耶、余何莫謹切於此哉、去計決矣、而果若適所聞命、願爲護法、因而既主玆寺、即奉其爲護法者、於是大啓玄關妙闡洪機、鐘鏜鼓鞳、雷轟霆震、象繞龍圍、山臨海赴、肅々焉、棣々焉、濟々焉、洋々焉、何曾昔之有哉、然則何爲乎、是乃莫不各々揣厥己大焉之事、而此未受血氣成形之以前、果爲誰耶、嗚呼怪哉、令之歴々言咲、或喜或悲何從而來、於寤於寐、一耶、異乎、而又五之宗祖、垂範設教、無所不入、乃至萬有各異、百家自張、乖離和合、錯綜定位焉、夫即今華堂廣構、大座寛横、彼主人者指揮酬答、又曷所以爲哉、廓爾之者、如觀杲日麗天、在吾方寸間耳、其有未徹、則亦不假食息矣何哉、蓋乃若夫佛祖宏綱、置而不論、人壽百年、希乎滿者倘乃刹那變改、將何以乎、智者行之、識者倣之、如志以求吾所失本物、終必得之、而後已、此固蓋非唯是沙門釋子之事而已矣、凡厥有生孰莫大於斯哉、眞化既弘、顯悟者有之、密契者有之、寺之未建以前不無禪刹、然而叢林規範、法則儀式、往々人亦皆未閑也、乃至與夫考犍稚魚板法器等類、師皆躬自爲人耳、引手諄諄、教誨亹々、而不爲倦、尚多差忒、是後明師宿德繼以作興、至于今日何其盛哉、先是有南詢禪者覺音者、遇師於天童師問國之法道、音曰、八宗並行、禪固有之、未之廣也、由之師有東焉之興、八宗者、蓋謂三論・法相・倶舍・成實・華嚴・律・天台・眞言、此外又有淨土宗、然原夫最初佛法玆來、自欽明十三年壬申之歳百濟以獻經像、至建長辛亥則已七百年矣、諸宗陸續來於中國、亦已殊不復枚論、禪則自達磨熊耳西歸之後、逾八十有六年、當本朝推古二十有一、歳在癸酉、去欽明壬申六十二年、云來於玆、興聖德太子、歌詞酬答、然所示相狀不以貴人嚴、謂猶信解品説、長者方便脱瓔珞服也、知是時未以化行、復示空棺、隨乃隠去、次則有釋道昭、白雉年間、本傳法相、玄奘謂曰、經論文博、勞多功寡、我有禪宗、其旨微妙、傳爾以歸、既返從學之者非爲鮮也、又後聖武天平七年、唐玄宗時、釋道璿者、來玆弘化、復嵯峨代間、釋名慧蕚、奉皇太后命、渡海求法、鹽官齊安國師、使釋義空倶以歸朝、后建檀林蘭若處之、後蕚再返於彼、僦土刻石以爲豐碑、詳記其事歸置本朝、題曰日本國首傳禪宗記、然綿歴歳月、寢而不傳、乃至建久二年、有千光法師名榮西、兩入炎宋、以傳宗旨並及衣盂而歸、建立禪刹、安處徒侶、抑々亦夥矣、而西則曰、吾之滅後逾五十歳、禪當大興、玆草々耳、玆落成、果如其數、蓋有時也、嘗常論之、至人大數、出隠歇興皆有其時、非適然耳、非特今時、前古皆然、唯以世代遼、莫盡知焉、今以迦文之道、東播之迹、明珠尚爾、而況又復遠於其前者耶、周穆王時、文殊目連已至化導、且示高四臺、是迦葉佛第三會説法之處、人聞周之穆王之代已怪矣、況迦葉佛哉、此乃道宣律師、得之於天人語也、豈其誑乎、時王因造三會道場、築中天之臺、其高千仭即列禦寇所謂化人者也、信不誑矣、是故又有啇太宰問孔子之聖、遂指西方之人、蓋是佛法久已徧播天下者矣、史氏失書至於隆替、人亦莫知今人唯云自漢明至於今者、或沈、亦不知其幾、然皆可攷、而所謂叢林之盛以弘厥旨者、孰有如於今哉、彼之若是、此亦然也、莫逃乎時、或曰、夫是宗也、理絶人區、事出天外、何以時爲謂乎、曰然、固若是、曰理曰事猶訓蒙之説、姑從之言、蓋以絶人區之理、出天外之事、欲行天下以導乎人倫者、必以天之時人之宜也、譬夫天之時者、有宵與晝、人之宜者、有作與息、若夫不由宵晝、自強作息、當宵而征、晦昧蹇澁、或至顚仆、曷若待晝以往、昭明大達、直前絶阻、無所不通者、不在言矣、此非時宜而何、是故斯道行、玆寺建、有力檀那、于以効誠、名德宗師、於以弘化、此時之宜也、由之人物萃聚、規矩馳張、使人々廓自己靈、猶夫晝往之所、徹見纖悉、何所掩而蔽乎、所謂理絶人區、事出天外、皆在乎我耳、其自昧者如之何、寺之建、自圓成、越五十六載、平公之孫名貞時、繼掌國事、後爲沙門、名崇演、奏賜勅額、定爲今額、余偶主玆、自開山數至二十八葉、計寺歴歳、爲九十六載、示所有記文請爲碑、固余素不能爲是者、謝之再四、聊不獲已、偏審其事、乃爲之書、復爲頌曰、身毒聖人弘化初、事出天外理絶區、人有上智及下愚、性近習遠將何如、淸規大智爲典謨、高堂大殿羅衆徒、龍蛇混雜爲之倶、一々自寶滄海珠、扶桑覆東南隅、下有長者德不孤、丕哉廣構何渠々、金襴大士高厥居、大鼓砰轟雷震虛、玉塵不動電繞樞、指揮佛祖當軒趨、二十八葉非後余、萬事必與時相於、世出世間同一途、象龍索記仍命書、刻垂不朽同居諸。〔此碑文中に、開山より二十八葉と有を考れば、妙高菴の開基、肯山聞悟、號覺海禪師也。其人の作ならん。文體絶作にあらず。録するに不足といへども久く當山に傳るものなれば、姑く載之。〕
[やぶちゃん注:「是乃莫不各々揣厥己大焉之事」の「己」は底本・影印共に「已」であるが、文意から「己」とした。以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。直接話法の一部には鍵括弧を附して読み易くした。
吾が佛の以て人を導くは、變化無方、出沒無狀、明心見性に過ぎたるは無し。一に以て歸を同〔じう〕する者なり。然〔れ〕ども生れて上智なる者有ること鮮希なり。自らツトむるに於ては修習を爲し易し。之を習〔ふ〕こと猥屑鄙俚、流〔れ〕て返ることを忘れ、輒〔ち〕すれば不意の郷に淪む。孰れか聖性淸明余が躬に在〔る〕ことを知る者ならんや。是〔に〕於〔て〕達磨以來百丈、叢林の廣居を建〔て〕爲し、其れをして其の間に混處せしめ、一に淸規を以て之を繩率して、共に厥の旨を弘む。猶を蓬の麻中に生ずるがごとし。未だ曾て自〔ら〕直からずんばあらず。是に由〔り〕て王臣其の事を事とすることを知る者の、靈山の囑に負かず。克く厥の責に任じ、殆ど天下に徧し。所以へに今玆の日本建長寺は、實に是に由る。蓋し乃ち是〔れ〕より先國政を掌る者の平公朝臣時賴トキヨリ、天縱の明識、厥の宗を興さんと欲す。而〔れ〕ども土曠しく人稀にして、末だ緒を就くに由しなし。西蜀の蘭溪道隆禪師と云〔ふ〕者有り、法を開先の慧性禪師に得たり。性は、靈隱崇岳禪師に嗣ぐ。岳は達磨より傳へて二十五世の孫たり。隆、既に妙悟、玆に化を宣〔べ〕んと欲して、遠遊して道と偕に行〔か〕んことを期す。趙宋の淳祐六年、本朝寛元丙午の歳に當〔り〕て萬里の波浪一息に來朝す。公乃ち其の顏角を窺〔ひ〕て、諸左右に語〔り〕て曰〔く〕、「人間世の有る所に非ず。而して西方聖人の教は、治めずして亂れず、國政是れ有らば余何をか憂へんや。然れども其の教へ各々宗とする所ろ有〔れば〕、禪を統要と爲す。國にも亦備へり。而れども至人未だ至らず、覺悟の者鮮し。故に治め易からず。抑々乃ち堂々たる大道、猶を靑天の蓋ふて出〔づ〕ること能はざること有がごとくなる者の、猶を惜〔し〕むべきかな。人其れ至りぬ。吾將に爲ること有らんとす。」〔と〕。未だ幾〔も〕ならずして師を請〔ひ〕て姑く常樂の小刹に主たらしむ。乃ち遍く靈地を擇ぶ。建長辛亥に至て、之を此の山の内に得たり。巨福禮郷コブクロノガウと曰ふ。十一月初八日、開基創草す。爲めに始めて大伽藍を作る。中國の天下徑山に擬して、五岳の首と爲す。山はガウを以て名〔づ〕け、寺は年を以て號す。師を請〔ひ〕て開山第一祖と爲〔す〕。乃ち常樂の産を悉す。玆に於て復た若干の所を増し置〔き〕て、常任の管業と爲〔す〕。常樂既に虛し。乃ち玆の寺に於て、月々上殿僧衆十員を輪して、一員を以て之を守らしむ。之が爲に式を定む。二載を閲〔し〕て、癸丑、規模稍々備〔は〕れり。是より先き大殿に三尊を立〔て〕んと欲す。公の曰〔く〕、「此の地、昔し幽谷なり。嘗て刑場たり。國憲を誤り犯す者は、首を此に殞すること多し。庸ぞ又爲に陰獄非〔ざる〕ことを知〔ら〕んや。先に地藏菩薩の祠を此に有ることも、亦た意有り。今他の設け毋し。宜しく即ち是を以て本尊と爲すべし。」〔と〕。是に於て其の像を爲〔し〕て、丹崖翠壑の狀を作り、以て佉羅陀山カラタセンに擬して、其の中に安處す。復た小像千數を作〔り〕て、兩傍に擁衞す。既に畢〔り〕て師を請じて之を觀せしむ。乃ち歎じて曰く、「勝〔た〕れたるかな、人間の事、乃ち希奇なる者の有ること是のごとくなるや。何が故ぞ、此れ余が未だ來朝せざるが時、夢に見る所之に似たり。先兆此〔く〕のごとし。豈に偶然ならんや。余が之、此に於ける緣有ることや、久し。」〔と〕。而して一日蝦夷エゾの國の人來朝す。公、其の乃ち無佛世界には、地藏專ら之を化せしことを欲することを以て、其れをして寺に遊〔び〕て以て善根を植へしむ。而して其の蝦夷エゾ之を指〔し〕て曰〔く〕、「是れカクノゴトき人は、常に倶に羣して小像吾が國に遊ぶ。何れの所ろより來るを識らず。乃ち其の像玆に在ること有ありや。」〔と〕。公曰〔く〕、「蓋し其の本願若等ナンヂラを度せんと欲するのみ。今ま吾れナンヂらを玆に携るも、蓋し亦是の意なり。當に以て嚴〔か〕に之を奉事すべし。然も果して之有らば能くトモに其れ來らんや否や。」〔と〕。夷人之を諾す。明年又來朝して曰〔く〕、「約する所のごとき人は、之を招けどもかず、之を趂〔へ〕ども及ばず、但だ其のノコす所手に執る錫杖の上一金鐶を得るのみ。謹〔み〕て以て奉獻す。」〔と〕。之を視れば像の執る所の者の、果して其の一を失ふ。又師の將に來朝せんとするときや、一の方面大目長鬚美秀なる者に諸途に遇ふ。前して曰〔く〕、「師の道宜しく東すべし、化緣彼こに在り、時、其れ至れり、自〔ら〕趑趄すること毋れ。」〔と〕。師訝〔り〕て驚き且つ之を敬ふ。心覺へず口に語〔り〕て曰〔く〕、「斯れ何の人ぞや。」〔と〕。又而して「之余が心事を識ることをすや。」〔と〕。其の故を詰らんと欲すれば、彼れ則ち前に趨〔り〕て其の所在を失ふ。俄に一望の間に古神祠有り、分に隨〔ひ〕て入〔り〕香を炷〔か〕んと欲す。乃ち祠山大帝の行廟、儀表軒に當る。即ち遇ふ所の者なり。猶を與に語るがごとし。是に於て之を默禱して曰〔く〕、「此れ眞君予が行〔ひ〕を壯なりとするや、余何ぞ此に謹切すること莫〔から〕んや、去計決せり。而して果して若し聞く所の命に適せば、願〔ひ〕は護法たれ。」と。因て既に玆の寺を主とる。即ち其を奉じて護法者と爲〔す〕。是に於て大〔い〕に玄關を啓き、妙に洪機を闡く。鐘鏜鼓鞳、雷轟霆震、象繞り、龍圍み、山臨み、海赴く。肅々焉たり、棣々焉たり、濟々焉たり、洋々焉たり。何ぞ曾て昔の有ならんや。然らば則〔ち〕何の爲ぞや。是れ乃ち各々厥の己が大焉の事を揣らずと云〔ふ〕こと莫し。而れども此れ未だ血氣を受け、形を成さざるの以前、果して誰とか爲るや。嗚呼、怪〔なる〕かな。之をして歴々として言〔ひ〕咲〔か〕し、或は喜び、或は悲まらること、何くよりして來る。寤に於てし、寐に於てす。一なるか、異なるか。而して又、五の宗祖、範を垂れ教〔へ〕を設け、入らざると云〔ふ〕所無し。乃至萬有各異なり。百家自ら張る。乖離和合、錯綜して位を定む。夫れ即〔ち〕今ま華堂廣く構へ、大座寛〔や〕かに横〔た〕ふ。彼の主人者の指揮酬答、又曷〔れ〕ぞる所以なるや。廓爾たる者は、杲日の天にカヽるを觀るがごとし。吾が方寸の間に在るのみ。其の未だ徹せざること有る時は、則ち亦、食息をも假らざることは何ぞや。蓋し乃ち夫の佛祖の宏綱のごときは、置〔き〕て論ぜず。人壽百年、滿つる者のマレなり。倘くは乃ち刹那に變改せば、將に何を以てせんや。智者は之を行ひ、識者は之を倣ふ。如し志し以て吾が失する所の本物を求めば、終に必ず之を得て、而して後に已まん。此れ固とに蓋し唯〔だ〕是れ沙門釋子の事のみに非ず。凡そ厥の有生孰〔れ〕か斯より大なること莫〔から〕んや。眞化既に弘く、顯悟の者之有〔り〕、密契の者之有〔り〕、寺の未だ建たざる以前、禪刹無〔き〕にはあらず。然れども叢林の規範、法則の儀式、往々人亦皆未だナラはざるなり。乃至夫の考擊・犍稚・魚板・法器等の類と、師皆躬自〔ら〕、人の爲にするのみ。手を引くこと諄諄、教誨亹々として、倦〔む〕ことを爲さざれども、尚を差忒多し。是の後、明師宿德繼〔ぎ〕て以〔て〕作興す。今日に至〔り〕て何ぞ其れ盛〔ん〕なるや。是れより先き南詢の禪者覺音と云〔ふ〕者有〔り〕、師に天童に遇ふ。師、國の法道を問ふ。音が曰〔く〕、「八宗並び行はる。禪固とより之有り。未だ之を廣めず。」〔と〕。之に由〔り〕て師東焉の興有〔り〕。八宗は、蓋し三論・法相・倶舍・成實・華嚴・律・天台・眞言を謂ふ。此の外又、淨土宗有り、然も夫の最初の佛法玆に來るを原ぬるに、欽明十三年壬申の歳百濟以て經像を獻じてより、建長辛亥に至〔り〕て則ち已に七百年、諸宗陸續として中國より來たる。亦已に殊に復た枚論せず、禪は則ち達磨熊耳西歸の後より、八十有六年を逾〔え〕て、本朝推古二十有一、歳癸酉に在るに當る。欽明壬申を去ること六十二年、コヽに玆に來〔り〕て、聖德太子と、歌詞酬答す。然も示す所の相狀、貴人の嚴を以てせず、謂く猶を信解品に説ける、長者方便して瓔珞の服を脱せるがごとし。是の時未だ以て化の行はれざることを知〔り〕て、復た空棺を示す。隨〔ひ〕乃ち隠れ去る。次には則〔ち〕釋の道昭有〔り〕。白雉年間、本と法相を傳ふ。玄奘謂〔ひ〕て曰〔く〕、「經論文博し、勞多〔く〕して功寡し。我に禪宗有り。其の旨、微妙なり。爾ぢに傳〔へ〕て以て歸しむ。」〔と〕。既に返〔り〕て從學の者鮮〔な〕しと爲〔る〕に非ず。又後聖武の天平七年、唐の玄宗時、釋の道璿と云〔ふ〕者、玆に來〔り〕て化を弘む。復た嵯峨の代間に、釋名は慧蕚、皇太后の命を奉じて、海を渡〔り〕て法を求む。鹽官の齊安國師、釋の義空をして倶に以て歸朝せしむ。后、檀林蘭若を建て之に處らしむ。後、蕚再び彼に返る。土を僦り石を刻〔み〕て以て豐碑と爲〔す〕。詳〔か〕に其の事記して歸〔り〕本朝に置く。題して日本國首傳禪宗記と曰ふ。然も歳月を綿歴し、むで傳へず。乃ち建久二年に至〔り〕て、千光法師、名は榮西と云ふ有り、兩び炎宋に入〔り〕て、以て宗旨並及び〔に〕衣盂を傳へて歸る。禪刹を建立し、徒侶を安處すること、抑々亦た夥し。而して西則ち曰く、「吾が滅後五十歳を逾〔え〕て、禪當に大〔い〕に興るべし。玆に草々たるのみ。」と。玆の落成、果して其の數のごとし。蓋し時有〔る〕なり。嘗て常に之を論ず。至人の大數、出隠歇興皆其の時有〔り〕。適然に非〔ざ〕るのみ。特とに今時のみに非ず。前古皆然り。唯〔だ〕世代の遼なるを以て、盡く知ること莫し。今以〔てす〕るに迦文の道、東播の迹、明珠尚を爾り。而も況〔ん〕や又〔た〕復た其の前より遠き者をや。周の穆王の時、文殊目連已に至〔り〕て化導す。且つ高四臺を示す。是れ迦葉佛第三會説法の處、人周の穆王の代聞〔き〕て已にアヤしめり。況〔ん〕や迦葉佛をや。此れ乃ち道宣律師、之を天人の語に得たり。豈に其れ誑さんや。時の王因〔り〕て三會道場を造り、中天の臺を築く。其の高〔き〕こと千仭、即ち列禦寇が所謂る化人と云〔ふ〕者なり。信に誣ひず。是の故に又、有啇の太宰、孔子の聖を問ふ。遂に西方の人を指す。蓋し是れ佛法久〔し〕く已に徧く天下に播〔かに〕す〔る〕者なり。史氏書を失〔ひ〕て隆替に至る。人亦た知ること莫し。今の人唯だ云ふ、漢明より今に至ると云〔ふ〕者の、或は沈む、亦た其の幾くと云ふことを知〔ら〕ず〔と〕。然も皆攷ふべし。而して謂は所る叢林の盛にして以て厥の旨を弘する者の、孰れか今に如くこと有〔ら〕んや。カシコの是〔く〕のごとき、此にも亦た然り。時に逃るゝこと莫れ。或〔るひと〕の曰〔く〕、夫れ是の宗や、理、人區を絶し、事、天外に出づ。何ぞ時を以て謂ふを爲るや。〔と〕。曰く、然り。固とに是〔く〕のごとし。曰〔く〕理、曰〔く〕事、猶を訓蒙の説のごとし。姑く之に從〔ひ〕て言はん。蓋し以〔てす〕るに人區を絶するの理、天外に出づるの事、天下に行〔き〕て以て人倫を導〔か〕んと欲する〔モ〕ノは、必ず天の時、人の宜〔しき〕を以てなり。譬へば夫れ天の時は、宵とヒルと有り。人の宜〔し〕きは、作とむと有り。若し夫れ宵晝に由らず、自ら強〔ひ〕て作息し、宵に當〔り〕て征せば、晦昧蹇澁、或は顚仆に至〔ら〕ん。曷ぞ晝を待〔ち〕て以て往き、昭明大達、直前絶阻、通ぜずとす〔る〕所無き〔モ〕ノに若かん。言〔ふ〕に在らず。此れ時の宜〔しき〕に非〔ず〕して何ぞ。是の故に斯の道行はれ、玆の寺建つ。有力の檀那、ココに以て誠を効たし、名德の宗師、コヽに以て化を弘む。此れ時の宜〔しき〕なり。之に由〔り〕て人物萃聚し、規矩馳張す。人々をして自己の靈を廓かにせしむること、猶を夫の〔ヒ〕ル往〔く〕の所のごとし。徹見纖悉にして、何の所か掩〔ひ〕て蔽さんや。謂は所る理人區を絶し、事、天外に出ること、皆な我に在るのみ。其の自ら〔マ〕イす者の之を如何ん。寺の建つ。圓成してより、コヽニヲイテ五十六載、平公の孫名は貞時サダトキ、繼〔ぎ〕て國事を掌る。後に沙門と爲る。名は崇演、奏して勅額を賜ひ、定めて今の額と爲〔る〕。余偶々玆に主とる。開山よりカズヘて二十八葉に至る。計するに寺の歴歳、九十六載たり。所有の記文を示して碑爲〔ら〕んことを請ふ。固とに余〔モ〕トより是を爲すこと能はざる者なり。之を謝すること再四、聊か已むことを獲ず、偏に其の事を審〔か〕にして、乃ち之が爲に書す。復た頌を爲〔し〕て曰く、身毒ケントクの聖人、化を弘むる初め、事、天外に出〔で〕て、理、區を絶す。人に上智及び下愚有り。性、近く、習、遠〔く〕して、將に何如とかせん。淸規は大智を典謨と爲〔し〕、高堂大殿衆徒を羅らぬ。龍蛇混雜して之が倶と爲り、一々自ら寶とす、滄海の珠、扶桑覆ふ東南の隅、下に長者有り德孤ならず。丕ひなるかな、廣構何ぞ渠々たる。金襴大士、厥の居を高くす。大鼓砰〔と〕轟き、雷、虛に震ふ。玉塵動かず、電、樞を繞る。佛祖を指揮し當軒趨る。二十八葉後のワレに非ず。萬事必ず時と相ひ於てす。世出世間同〔じ〕く一途。象龍、記を索めて仍〔り〕て書を命ず。刻〔み〕て不朽に垂れて居諸に同〔じく〕す。
[「淪む」は「しづむ」(沈む)、「厥の」は指示語で「その」、「負かず」は「そむかず」(背かず)、「克く」は「よく」、「曠しく」は「むなしく」(虚しく)、「姑く」は「しばらく」(暫く)、「庸ぞ」は「なんぞ」、「趨〔り〕て」は「はしりて」(走りて)、「闡く」は「ひらく」(開く)、「揣らず」は「はからず」、「曷〔れ〕ぞ」は「いづれぞ」、「倘くは」は「もしくは」、「躬自〔ら〕」は「み/みづから」、「原ぬる」は「たづぬる」、「逾〔え〕て」は「こえて」(越えて)、「効たし」は「いたし」(致し)、「羅らぬ」と「つらぬ」、「丕ひなるかな」は「おほひなるかな」と読む。
「蓬の麻中に生ずる」は「荀子」に出る故事成句で「捻じ曲がって伸びる性質の蓬でも、真直ぐに伸びていく性質の麻の中にあれば特に手を加えずとも、自然、真直ぐに伸びるように、人も相応の人物と交われば正しく感化されて成長する。」という謂いである。
「丹崖翠壑」は「たんがいけいがく」と読み、赤土の崖と緑の渓谷の意。
「佉羅陀山」は「からだせん」「きゃらだせん」とも読み、須弥山を囲む七金山の一つ。地蔵菩薩が住まう浄土とされる。
「携るも」は「ひきつれるも」と訓じた。
「趂〔へ〕ども」は「おへども」(追へども)と訓じておいた。
「趑趄」は「ししよ」と読み、行き悩む様子を言う語。これは実は底本では「趂趄」、影印では(そうにょう)の中が「火」のようなものに見えるのであるが、幾つかの漢字と熟語からこれが妥当と判断した。
「祠山張大帝」は先に「佛殿」の項で注した、特に太湖地方で絶大な信仰を集めた水神系の土地神であった祠山張大帝を指す。
「妙に洪機」とあるが、これは「妙洪機」で「洪」なる「妙機」で、「広大無辺な妙機」の謂いであろう。妙機とは「類稀な機根」の謂いで、機根とは仏の教えを聞いて修行し得る能力を言う。
「鐘鏜鼓鞳」は「しようたうこたふ」と読み、仏具の鉦や太鼓の音の盛んなことを言う語。
「棣々焉たり」は「たいたいえんたり」と読み、礼儀に則り威儀の整ったさまを言う。
「大焉」は本来なら偉大の謂いと思われるが、この場合は仏根、能力の謂いか。「寤」は「ご」と読み、目覚めるの意。「廓爾」は心の広やかなさまを言うか。
「杲日」は「かうじつ」と読み、輝く太陽のこと。
「固とに」は複数回現れるが「まことに」と訓じているものと思われる。
ナラはざるなり」の「閑」には「慣れる・習熟する」の意味がある。
「考擊」は文字列から寺院の仏具であることは間違いないが、不詳。識者の御教授を乞う。
「犍稚」は「けんち」と読み、寺院で、振鈴や次の魚板のような木・瓦・銅・鉄など、時刻を報ずるために打ち鳴らす音を出すもの総てをかく言う。
「諄諄」はよく分かるように繰り返し教え諭すさま。
「亹々」は「びび」と読み、休まず努力するさまを言う。
「差忒」は「さとく」と読み、誤りのこと。
「釋の道璿」は「しやくのだうせん」(七〇二年~七六〇(天平宝字四)年)は唐代の禅僧。入唐した日本人僧らの要請を受け、鑑真に先立って天平八(七三六)年に来日、大和国大安寺に禅院を開いた。天平勝宝四年東大寺大仏開眼供養会の呪願師(じゅがんじ)をつとめた。弟子の一人である行表は後に最澄の師となった。
「慧蕚」は「ゑがく」と読み、入唐(但し、当時は五代十国時代)した日本人僧。彼は九一六年に帰国しようとした際、日本に招来せんとして携えた五台山の観音菩薩像が普陀山(ふださん:現・浙江省舟山群島にある島。)で渡日を拒み、ここが後に中国四大仏教名山(五台山・九華山・峨眉山・普陀山)となったという故事で知られる。
「鹽官」は地名。現在の浙江省海寧市。
「后、檀林蘭若を建て之に處らしむ」の末尾「處らしむ」は送り仮名の判読に自信がない。取り敢えず使役で「とどまらしむ」と訓じておいた。
「僦り」は「かり」(借り)と読んでいるか。土を借りるというのはやや不審。
「並及び〔に〕」は二字で「なら(び)」と訓じているものと思われる。
「衣盂」は衣服と食器。
「高四臺」は不詳。識者の御教授を乞う。
「道宣律師」(五九六年~六六七年)は唐代、南山律宗の開祖。ここで言う天人との対話は、晩年の彼の「律相感通伝」のことで、そこには彼の幻視した天人によって、仏教や中国の文化・神話に関わる驚天動地の始原の真相が対話形式で記されている。なお、ここで「時の王」というのは唐王朝第三代高宗を指す。高宗が僧侶に対して、皇帝・親に対して跪拝せよという勅命を発した際、道宣が敢然とこれに異義を唱え、高宗に撤回させたというエピソードでも知られる。
「列禦寇が所謂る化人と云〔ふ〕者」は「列子」の「周穆王篇」に載る「千変万化」の語源となった異人、仏や菩薩が衆生済度のために仮に人の姿となった化身を指している。以下に該当箇所の一部を示す。
周穆王時、西極之國、有化人來。入水火、貫金石、反山川、移城邑、乘虛不墜、觸實不※。千變萬化、不可窮極。
[やぶちゃん字注:「※」=「石」+「亥」。]
◯やぶちゃんの書き下し文
周穆王の時、西極の國、化人有りて來る。水火に入り、金石を貫き、山川をかへし、城邑を移し、虛に乘ずるも墜ちず、實に觸るるもさまたげられず。千變萬化して、窮極すべからず。
これは所謂、老荘で言う「真人」という感じか。
「晦昧蹇澁」は「くわいまいけんじふ」と読み、暗くはっきりせず、言葉にならないさまを言う語であろう。
「顚仆」は「てんふ・てんぷ」と読み、逆さまに転げ落ちること。
「廓かにせしむる」の「廓」には「大きい・広い」の意があるから、私としては「おほらかにせしむる」と訓じておきたい。
「碑爲〔ら〕んこと」の「爲〔ら〕ん」は「つくらん」と訓じた。「典謨」は「典謨訓誥」(てんぼくんこう)のことで、本来は「書経」に載る四種類の文体を言うが、転じて聖人の教え・経典の意となった。
「砰〔と〕轟き」の「砰」は「ひやう」で物の打ち合う大きな音であるから、私は「ひやうととどろき」と訓じた。
「樞」は北斗七星の第一星、ひいては宇宙の真ん中を言うのであろう。
最後に。編者の『文體絶作にあらず。録するに不足といへども』という謂いが、テクスト化の中で何となく分かってきた。勿論、浅学の私には何箇所かの不明箇所があるのであるが、それでも妙に、全体を通じて何か馴染めない違和感を感じるのである。まず、この文章、建長寺を顕彰するに便所の百ワットで、無駄に長い。且つ同一じ熟語の使用と相同類似表現がやたらに多い。開祖蘭渓道隆の幾つもの逸話も、言わずもがなの「サザエさん」「ドラえもん」最終回の都市伝説クラス、また、その霊験譚なるものも、まるで映像が浮かんで来ない如何にも凡庸な描写に終始している。さらに言えば、その教化の謂いでは、どこぞの政治家のように自律的な禅機や機根より寺を支える権力への阿りが見え見えで、派閥を維持管理する規律規範を何より重んじており、どこぞの教育者のように矯正主義に基づく俗臭芬々たる如何にもな底の浅い思想を、禅語を駆使してごてごてに塗り固めているところなど、禅者・宗教家はもとより、心ある凡俗ならば、どこか退屈不快な感を抱くのではあるまいか。少なくとも私はそう感じたのである。この建長寺二十八世肯山聞悟覚海禅師なる人物、後掲されるように建長寺塔頭妙高院の開山であり、この塔頭は蘭渓道隆の法を嗣いだ大覚派の拠点として知られた。さもありなんという気がする。既に先の「圓鑑」の注で示したように、後の建長寺大覚派と円覚寺仏光派のキナ臭い抗争と義堂周信の苦悩を知った私には、編者とは或は違った意味で、この寺伝の有難い銘文を素直に読むことが出来ないと言えるのである。]
  以上
[やぶちゃん注:この「以上」は「寶物」の項の終了を示すもの。]

華嚴塔ケゴンタフの跡 勝上巘シヤウジヤウケンノボミチの左にあり。華嚴塔供養の䟽り。其の畧に云、鎌倉縣、山内居住、菩薩戒弟子尼圓成、爲故夫主最勝園寺〔平貞時なり〕一十三囘忌建之、元亨三年、孟冬、於玆日慶懺、圓覺壽福兩山和尚、安座點眼佛事、三寶弟子菩薩戒尼圓成䟽云云。
[やぶちゃん注:二箇所に現れる「䟽」は「疏」と同字。以下、略伝部分を影印に従って書き下す。
鎌倉縣、山の内の居住、菩薩戒の弟子アマ圓成、故夫主最勝園寺〔平の貞時サダトキ〕一十三囘忌の爲めに之を建つ。元亨三年、孟冬、玆の日に於て慶懺す。圓覺壽福兩山の和尚、安座點眼佛事、三寶の弟子菩薩戒のアマ圓成疏す云云。
「慶懺」は「きやうさん」と読み、落慶に同じ。新たに仏像・経巻・堂塔等を完成した際に行う供養のこと。]

  華嚴塔           俊明極
 佛現舍那身。  頓機人罕聞。  深窮華藏海。
 廣演竺乾文。  密護如欄楯。  祕函標相輪。
 都廬高七級。  千古鎭乾坤。
[やぶちゃん注:以下、漢詩を影印に従って書き下す。
  華嚴塔           俊明極
 佛は舍那身を現ず
 頓機人聞くこと罕なり
 深く窮む華藏海
 廣く演ぶ竺乾の文
 密護欄楯のごとし
 祕函相輪を標はす
 都廬高さ七級
 千古乾坤を鎭す
「舍那身」は毘盧遮那仏びるしゃなぶつ。「頓機」速やかに悟ることの出来る教え。「罕」は「まれ」(稀)と読む。「竺乾」はインド。「欄楯」仏塔を囲む柵のような垣根。]

勝上巘
シヤウジヤウケン
 方丈北の高山を勝上ケンと云。開山の坐禪窟ザゼンクツあり。昔し開山、此窟中にて坐禪したまひしとなり。今窟中に石地藏あり。又傳へ云ふ、禪師此の窟中にて坐禪す。一遍上人來視て詠歌(歌を詠〔み〕て)云、「ヲドりはねてふしてだにもかなはぬを、いねむりしてはいかゝあるべき」禪師聞之(之を聞〔き〕て)、倭歌作て荅へて云く、「ヲドりはねニハひろふ小雀コスヾメは、ワシのすみかをいかゞシルへき」。此時上人、禪師に參して、阿誰タソを受て大悟すと云ふ。窟の右の側らに上人坐禪せし窟有。是故にや、禪師三百年忌のトキ、遊行上人の衆徒三百餘員、宿忌半齋に出仕して、昭堂の前にてヲドり念佛執行せしとなり。一遍上人、號は知眞坊、正應二年八月二十三日に寂すとなり。其時の宿坊妙高菴なり。又禪師、甲州東光寺に、信州諏訪スワの明神現して師に謁す。師鎌倉に歸る日、神送り來る。藤澤に至て、師トヾマらん事をユルして、遊行の鎭守たらしむと云傳ふ。七月廿七日、藤澤に諏訪の祭りある是なり。窟へく左の方に地藏堂あり。地藏は運慶が作なり崇境寺と名く。
[やぶちゃん注:「たそ」は当て読みで、「あた」が正しい。「他是阿誰」として知られた有名な公案。私の「無門関」テクストから引用する。
  四十五 他是阿誰
東山演師祖曰、釋迦彌勒猶是他奴。且道、他是阿誰。 無門曰、若也見得他分曉、譬如十字街頭撞見親爺相似。更不須問別人道是與不是。 頌曰 他弓莫挽 他馬莫騎 他非莫辨 他事莫知

淵藪野狐禪師書き下し文:
  四十五 かれは是れ、阿誰あた
 東山演師祖しそ曰く、
「釋迦・彌勒、猶ほ是れ、かれなり。且くへ、他は、是れ、阿誰ぞ。」
と。
 無門曰く、
「若し、他を見得して分曉ぶんげうならば、たとふれば、十字街頭に親爺を撞見たうけんするがごとくに相似たり。更に別人に問ふて、是と不是とをふを須ひず。」
と。
 頌して曰く、 かれの弓 挽くこと莫かれ 他の馬 騎すこと莫かれ 他の非 辨ずること莫かれ 他の事 知ること莫かれ

淵藪野狐禪師訳:
  四十五 彼とは、一体、誰か!?
 東山の五祖法演禅師が言う。
「釈迦如来や弥勒菩薩なんどと言うても、きゃつらは皆、まだ『彼』の奴隷に過ぎん。さあ、おのれら! 言うてみよ! 『彼』とは、一体。誰か!?」
 無門、商量して言う。
「若し『彼』を、はっきり見届け得たならば、譬えて言はば、十字路の、ごった返した街角で、てめえの親父おやじにばったり出逢う、そんな機縁と変わりはない。どこのどいつが今更に、そいつが本当にこの俺の、親父かちゃうかと誰彼に、聞くはずないこと、確かなことじゃ!」
 次いで囃して歌う。
彼の弓 それは引いてはいけない
彼の馬 それは乗ってはならない
彼の非 それは云々してはならない
彼の事 それは知ってはならない
[淵藪野狐禪師注:「他」は、西村注によれば、『口語第三人称代名詞。彼、彼女、それ、単複両用。禅者はこれによって真実の自己を指す。「渠」に同じ。』とする。また、「阿」については、『接頭語。疑問詞の前に付いて「阿誰」「阿那」「阿那箇」。親しみをこめて、「阿婆」「阿郎」「阿爺」など。』とある。]
「宿忌」は忌日の前日。逮夜。
「半齋」は禅宗で早朝の粥と昼食の間の時刻を言う。]

觀瀾閣クハンランカク 今はホロびたり。勝上巘坐禪窟の前に跡有。
   觀瀾閣         義堂
 軒臨滄海渺風煙。  坐見數州來往船。  世事紛々白鷗外。  百年眞樂一床眠。
[やぶちゃん注:以下、漢詩を影印に従って書き下す。
   觀瀾閣         義堂
 軒滄海に臨〔み〕て風煙渺たり
 坐して見る數州來往の船
 世事紛々たり白鷗の外
 百年の眞樂一床の眠
熱帯雨林の長大なる猛毒蜈蚣の如き「建長興國禪寺の碑の文」の後に、蒼海を渡る一匹の白蝶の如き清涼な禅味の詩一篇である。]

仙人澤センニンタク 勝上巘より西の方にあり。幽閒の地なり。

不老水フラウスイ 仙人澤の傍にあり。鎌倉五名水のヒトつなり。

華藏院 門外にあり。伯英和尚諱は德俊、嗣法了堂(了堂に嗣法す)。當山六十世、八月十二日示寂。

禪居菴 門外にあり。大鑑禪師諱は正澄號淸拙(淸拙と號す)。嗣法愚極(愚極に嗣法す)。嘉曆元年來朝、當山二十二世、曆應二年正月十七日示寂、世壽六十六、寺ムカふに堂あり。摩利支天なり。又髮長カミナガ明神と云あり。淸拙の老母、師をひ、宋より渡りたるに、師不謁(謁せず)。ウラみて死す。明神に勸請すとなり。

玉雲菴 妙慈弘濟大師、諱は一寧、號一山(一山と號す)。嗣法頑極(頑極に嗣法す)。台州の人、當山の十世、正安二年に來朝す。文保元年丁巳十月廿五日示寂、世壽七十一、傳在【元亨釋書】(【元亨釋書】に在り)。

廣德菴 正宗廣智禪師、諱は印元、號古先(古先と號す)。嗣法中峯(中峯に嗣法す)。薩州の人、當山の三十八世、應安七年正月廿四日示寂、世壽八十。宋景濂碑銘を作る。事は長壽寺の下に有。

寶珠菴 本覺禪師、諱は素安、號了堂(了堂と號す)。嗣法同源(同源に嗣法す)。筑州の人、大覺の法孫なり。當山三十五世、貞和元年十月廿日示寂。此處に啓書記が舊跡あり。貧樂齋と云ふ。玉隠和尚の詩あり。如左(左のごとし)。
 三尺門前鋪土花。單衣也足破生涯。松風夜度大平樂。奸賊從來不打家。
[やぶちゃん注:以下、漢詩を影印に従って書き下す。
 三尺の門前土花を鋪く
 單衣也だ足る破生涯
 松風夜度る大平樂
 奸賊從來家打せず
承句の「也だ」は「ただ」と訓じていると判断した。]

龍峯菴 佛燈國師、諱は德儉、號約翁(約翁と號す)。嗣法大覺(大覺に嗣法す)。相州の人、當山十五世、元應二年五月十九日示寂、世壽七十六。【七會の録】有て世に行はる。

龍源菴 此菴は元と傳燈菴なり。傳燈菴絶て後、正統菴の中に龍源軒と云有しを此に移し、今龍源菴と云也。傳燈菴は宋の子曇の塔也。子曇の傳【釋書】にへたり。

正統菴 佛國禪師、應供廣濟國師、諱は顯日、號高峯(高峯と號す)。後嵯峨帝之皇子也(後嵯峨帝の皇子なり)。嗣法佛光(佛光〔に〕嗣法〔す〕)。當山十四世、正和五年十月廿日示寂、世壽七十六。録あり。正統菴の額は良恕法親王の筆なり。
[やぶちゃん注:「應供廣濟國師」は彼に更に追贈された国師号。]

天源菴 大應國師、諱は紹明、號南浦(南浦と號す)。嗣法虛堂(虛堂に嗣法〔す〕)。駿州の人、當山十三世、延慶元年十二月廿九日に示寂、世壽七十三。【四會の録】あり。堂の額、普光とあり。後宇多帝の宸筆なり。堂に南浦の像あり。經藏には、一切經あり。門に雲關と額あり。大燈和尚投機の所なり。透過雲關無舊路(雲關を透過して舊路無し)と頌せしは此の所なり。

寶泉菴 佛果禪師、諱は存圓、號天鑑(天鑑と號す)。嗣法無礙(無礙に嗣法〔す〕)。當山六十三世、應永八年四月十一日示寂。

向上菴 國一禪師。諱は世源、號太古(太古と號す)。嗣法佛光(佛光に嗣法〔す〕)。常州人、當山十七世、元亨元年九月廿五日世壽八十九にして示寂。

妙高菴 覺海禪師、諱は聞悟、號肯山(肯山と號す)。肥前の人、嗣法石菴(石菴に嗣法〔す〕)。當山廿八世、八月二日示寂。

長好院 ムカシは拙誠菴と號す。織田三五郎平の長好ナガヨシホウムつてノチ、長好院と改む。長好ナガヨシを極岩空八居士と云ふ。石塔あり。
[やぶちゃん注:「織田三五郎平の長好ナガヨシ」は織田長好(元和三(一六一七)年~慶安四(一六五一)年)は織田頼長の長男、織田信長の大甥。信長の実弟であった祖父織田長益の興した茶の湯有楽流を継承、茶人として名を成した。その死去に際して親族や茶人千玄室らに宛てた「織田三五郎遺品分配目録」は、茶人大名の所持名物を知る第一級資料である。彼の墓地は京都の建仁寺にもある。]

正宗菴 大興禪師、諱は道然、號葦航(葦航と號す)。嗣法大覺(大覺に嗣法〔す〕)。信州の人、當山六世、正安三年十二月六日に示寂。

同契菴 妙覺禪師、諱は禪鑑、號象外(象外と號す)。嗣法桃溪(桃溪に嗣法〔す〕)。肥州の人、當山三十一世、文和四年十一月十八日、世壽七十八にて示寂。

千龍菴 昔は雲澤菴と云ふ。今改之(之を改む)。佛日焰惠禪師、諱は楚俊、號明極(明極ミンキと號す)。嗣法虎岩(虎岩に嗣法〔す〕)。明州人、元德二年來朝、當山廿三世、建武三年九月廿七日示寂、世壽七十五。
[やぶちゃん注:この明極という僧については、先行する「觀音殿」の私の注を参照。]

雲外菴 佛壽禪師、諱は妙環、號樞翁(樞翁と號す)。嗣法佛國(佛國に嗣法〔す〕)。下野の人、當山三十世、文和三年二月十八日示寂、世壽八十二。

回春菴 佛覺禪師、諱は德※、號玉山(玉山と號す)。嗣法大覺(大覺に嗣法〔す〕)。信州の人、當山二十世、建武元年十月十八日示寂、世壽八十。此菴のウシロに大覺池と云あり。大龜常にると云ふ。《原田地藏》又上の山に原田ハラタ地藏と云あり。地中にウヅめて有となり。相傳ふ、原田ハラタの次郎種直が、鎌倉に來り、ヲノレチヽの骨も此中に有やとて、由比の戰死の人の骨どもをあつめ、粉にして地藏を作り。こゝにくと云ふ。
[やぶちゃん注:「※」=「椸」-「木」+「王」。読みは「とくし」か「とくせ」であろうか。但し、現在の回春院のネット上の複数の記載には「徳璇」とあって、「とくせん」と読んでいる。原田種直(生没年不詳)は平安末期の武将。保元の乱以降、平氏配下の有力な武士団を形成、文治元(一一八五)年三月の壇ノ浦の戦いの後は領地を没収された上、扇ヶ谷(他説もあり)に幽閉された。しかし、本記述とは合わず、彼は鎌倉では死んでいない。建久元(一一九〇)年には赦免されて、更に鎌倉幕府御家人として筑前国怡土いとの庄に領地を与えられている。この説、如何にもおかしい。そもそも「由比の戰死の人の骨ども」というのは、原田種直との時代的な整合性を考えるなら、石橋山の合戦後の由比ヶ浜合戦(小壺坂合戦・小坪合戦とも)ということになる。頼朝を支持した三浦一族が鎌倉の由比ヶ浜で当時は平家方であった畠山重忠軍と対峙、いくたりかの戦死者が出た一件であるが、これは三浦と畠山のかなり限定的な小競り合いであって、原田種直との関連性は極めて薄い気がする。更に言えば、勿論、この当時、ここは鬱蒼とした山中であり、ここに地蔵を持ち込む必然性が認められない(骨のない供養のためならば、由比ヶ浜の近在に建ててこそである)。それ以降の由比ヶ浜の大規模な戦闘となれば下ること、幕府滅亡の際の鎌倉合戦しかないのである。どうも何らかの伝承の誤りがあるものと思われる。私の知る限りでは、この原田地蔵なるもの自体、現在に伝わっていないものと思われる。]
   已上十八院、今存するものなり。

雲光菴 大圓禪師、諱は覺圓、號鏡堂(鏡堂と號す)。嗣法環溪(環溪に嗣法〔す〕)、西蜀の人、當山七世、德治元年九月廿六日示寂、世壽六十。【東渡諸祖傳】に出たり。

通玄菴 知覺禪師、諱は道海、號桑田(桑田と號す)。嗣法大覺(大覺に嗣法〔す〕)、當山九世、延慶二年正月八日元寂。

正受菴 佛慧禪師、諱は道隠、號靈山(靈山と號す)。嗣法雪岩(雪岩に嗣法〔す〕)、杭州の人、元應元年に來朝、當山十九世、正中二年三月二日示寂、世壽七十一。

都史菴 佛頂禪師、諱は慧宗、號白雲(白雲と號す)。嗣法佛光(佛光に嗣法〔す〕)、下野の人、當山廿六世、貞和二年十月晦日示寂、世壽八十四。

傳芳菴 覺雄禪師、諱は圓範、號無隠(無隠と號す)。嗣法大覺(大覺に嗣法〔す〕)、紀州の人、當山十二世、德治二年十一月十三日示寂、世壽七十八。

梅岑菴 仁菴和尚、諱は賈賢、嗣法天初(天初に嗣法〔す〕)。當山百四十世、五月十七日示寂。

大智菴 實翁和尚、諱は聰秀、嗣法葦航(葦航に嗣法〔す〕)。當山三十六世、二月廿六日示寂。

大統菴 佛觀禪師、諱は玆永、號靑山(靑山と號す)。嗣法夢窻(愚極に嗣法〔す〕)。當山三十九世、十月九日元寂。

梅洲菴 佛種慧㳃濟禪師、諱は圓月、號中岩(中岩と號す)。嗣法東陽(東陽に嗣法〔す〕)。當山四十二世、永和元年正月八日示寂、世壽七十。

金龍菴 石室和尚、諱は善玖、嗣法古林(古林に嗣法〔す〕)。筑州の人、當山四十三世、康應元年九月廿五日示寂。

廣巖菴 東傳和尚、諱は士啓、嗣法南山(南山に嗣法〔す〕)。筑州の人、當山四十五世、應安七年四月廿一日示寂。

龍淵菴 草堂和尚、諱は林芳、嗣法龍山(龍山に嗣法〔す〕)。黄龍派也、當山五十一世、十一月十七日に示寂。

正本菴 可翁和尚、諱は妙悦、嗣法佛國(佛國に嗣法〔す〕)。當山五十二世、八月廿二日示寂。

華光菴 鈍夫和尚、諱は全快、嗣法靈岩(靈岩に嗣法〔す〕)。當山五十三世、至德元年八月十四日示寂、世壽七十八。

龍興菴 智覺普明禪師、諱は妙葩、號春屋(春屋と號す)。嗣法夢窻(夢窻に嗣法〔す〕)。甲州の人、當山五十四世、嘉慶二年八月三日示寂、世壽七十八。

長生菴 中山和尚、諱は法頴、嗣法佛應(佛應に嗣法〔す〕)。相州の人、當山五十六世、康應元年十一月七日示寂、世壽七十四。

大雄菴 月心和尚、諱は慶圓、嗣法月翁(月翁に嗣法〔す〕)。當山五十八世、九月十六日示寂。

瑞林菴 曇芳和尚、諱は周應。嗣法夢窻(夢窻に嗣法〔す〕)。當山五十九世、應永八年九月七日示寂。

建初菴 宗遠和尚、諱は應世、嗣法肯山(肯山に嗣法〔す〕)。當山六十二世、三月十日示寂。

傳衣菴 大圓和尚、諱は興伊、嗣法容山(容山に嗣法〔す〕)。當山六十四世、七月十九日示寂。

正法院 老僊和尚、諱は元耼、嗣法養直(養直に嗣法〔す〕)。當山六十五世、二月九日示寂。
[やぶちゃん注:「耼」は「たん・ばん・まん・だん・なん」などと読む。]

金剛院 東暉和尚、諱は僧海、嗣法一峯(一峯に嗣法〔す〕)。當山六十六世、六月廿七日示寂。

吉祥菴 藏海和尚、諱は性珍、嗣法西江(西江に嗣法〔す〕)。當山六十七世、六月十一日元寂。

一溪菴 心源和尚、諱は希徹、嗣法月山(月山に嗣法〔す〕)。應永十年十月十三日示寂。

岱雲菴 東岳和尚、諱は文昱、嗣法大拙(大拙に嗣法〔す〕)。武州人、當山七十一世、應永廿三年二月廿三日示寂。

實際菴 佛印大光禪師、諱は曾可、號久菴(久菴と號す)。嗣法無礙(無礙に嗣法〔す〕)。當山七十三世、應永廿四年正月廿六日示寂。上杉憲顯ノリアキが孫憲將ノリマサが子也、嘗入中國(嘗て中國に入る)。

竹林菴 德岩和尚、諱は保譽、嗣法大曉(大曉に嗣法〔す〕)。當山七十四世、七月十三日示寂。

正濟菴 大綱和尚、諱は歸整、嗣法樞翁(樞翁に樞翁〔す〕)。正月七日示寂。

東宗菴 日峯和尚、諱は法朝、嗣法大喜(大喜に嗣法〔す〕)。當山八十九世、四月三日示寂。

壽昌院 慶堂和尚、諱は資善、嗣法大素(大素に嗣法〔す〕)。當山九十二世、正月廿五日示寂。

右塔頭の名、【關東五山記】にすと云ども、今は廢滅して、僅づか十八院あり。

◯龜谷坂〔附勝緣寺谷〕 龜谷坂カメガヤツサカは、扇谷アフギガヤツと、山内ヤマノウチとの間だ也。南は扇が谷、北は山の内也。壽福寺を、龜谷山キコクサンと號して、龜が谷の中央なり。此の所は龜が谷へサカの名なり。龜が谷坂を登て扇谷坂アフキガヤツサカクダれば、左に勝緣寺が谷と云あり。昔しテラ有と云ふ。今は此の谷に、天神の小祠あり。山内の方へ行、左は長壽寺なり。

[長壽寺圖]

◯長壽寺〔附尊氏屋敷〕 長壽寺チヤウジユジは、寶龜山ホウキサンと號す。關東諸山の第一なり。源の基氏モトウジ父尊氏チヽタカウヂの爲に建立す。尊氏を長壽寺殿妙義仁山メウギニンザン大居士と號す。〔尊氏、京都にては等持寺と云、鎌倉にては長壽寺と云。〕延文三年戊戌四月廿九日に薨ず。當寺に牌あり。開山は古先和尚、下の行狀に詳かなり。昔しは七堂ありしとなり。今はホロびたり。鐘は圓覺寺山門の跡にあり。其の銘如左(左のごとし)。
   相州路寶龜山長壽禪寺鐘銘
康應元年僧堂既成、尚闕鐘魚、爰有賣銅鐘者、其直三萬錢、而今募緣市之、懸於堂前以爲永遠法器、應永丁丑、仲春日、幹緣比丘等禪、住持比丘等海、知事比丘心乘。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘を影印に従って書き下す。
康應元年僧堂既に成る。尚を鐘魚を闕く。爰に銅鐘を賣る者有〔り〕、其の直ひ三萬錢、而今、緣を募〔り〕て之をひ、堂前に懸〔け〕て以て永遠の法器と爲〔す〕。應永丁丑 仲春日 幹緣比丘等禪 住持の比丘等海 知事の比丘心乘
「幹緣」は仏殿修造や造仏に際し、縁を募って喜捨を受けることを言う。そのために作る詩文、所謂、勧進帳を幹縁疏かんえんそとも言う。]

客殿 本尊、釋迦・文珠・普賢〔作者不知。〕開山幷に中峯の木像・尊氏の木像〔束帶。〕昔は佛殿有て、惟久殿と號し、客殿を獅王殿と云ふ。

尊氏のビヤウ 客殿のウシロ山際ヤマキハにあり。又此の寺の南を尊氏屋敷と云ふ。大倉ヲホクラ幷に巽荒神タツミノクハウジンの東にも、尊氏屋敷あり。三所共に尊氏の舊宅なるべし。

開山塔の跡 客殿より南、山上にあり。昔は曇芳菴と號し、額は心印と有しと也。今は塔なし。其地を寶塔と云ふ。明宋景濂、古先和尚の碑の銘を作る。【護法録】に載す。今こゝに略す。
[やぶちゃん注:「明宋景濂」とは宋濂(そうれん 一三一〇年~一三八一年)のこと。元末明初の著名な政治家・儒者。明初詩文三大家の一人。景濂は字。朱元璋(後の洪武帝)に招聘され、儒学を太子に講義、「元史」の編纂を行った。
「古先和尚」とは古先印元(永仁三(一二九五)年~応安七・文中七(一三七四)年)のこと。鎌倉から南北朝の臨済僧。円覚寺桃渓徳悟の下で出家、文保二(一三一八)年に入元、嘉暦元(一三二六)年に帰国している。
「護法録」とは宋濂の文集から仏教関係の作品を選んだもので雲棲袾宏編、万暦四四(一六一六)年の序がある。但し、宋濂が何故、後に本邦の古先印元の碑銘を書いたのか(年齢差十五、印元来唐時、宋濂は僅か八~十六歳)は調べきれなかった。]

寺寶

尊氏の狀 壹通

義詮の狀 壹通

氏滿の狀 壹通

持氏の狀 壹通

開山 勅諡正宗廣智禪師古先元和尚の行狀 壹册
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]
師諱印元、字古先、姓藤氏、關西薩州人也、始六歳、不混羣兒遊戲之中、辭親航海、遙抵東關相州圓覺桃溪悟禪師室、薙染奉侍其左右、既逮六年矣、嘉元三年、師十二歳、桃溪示寂、悟廼建長開山蘭溪禪師高弟也、曾在鄮峯頑極和尚會裏、掌藏鑰、飽參碩德也、師到文保二年、二十四歳、鋭圖南志、附舶到岸、便挈一錫直登天台華頂峯頂、參見無見覩禪師、數月之間、咨以心法、覩憐其奮勵敏惠、指見天目山中峰國師、一見愜素志、老幻、示法語數段、其畧云、設使於未悟之際、千釋迦萬彌勒、傾出四大海佛法、入儞耳根、總是虛妄塵勞、皆非究竟法、禪師領慈誨、刻苦服膺、與衆作息、已許參堂、自誓參覲老幻之外、不出堂門默究自怡者僅、經五六寒暑、告辭遊金陵鳳臺古林茂禪師法席、掛錫依棲、聊領雪隱事、社中名勝、如了菴欲、仲謀猷、南山日、大道蹊、竺仙遷公、莫逆往來、皆有契遇忘年之交誼、兩旋西浙、歴參諸大尊宿、靈石、月江、笑隱、斷江、別傳、無言、各贈以挽留餞別法偈矣、時古心誠禪師、建立雪巖宗旨於大仰、師不遠千里、便問江南津、集雲峯下參四藤條禪、叢林翕然、英衲爭趨、師周旋盤礴一歳有餘、復歸呉松曹溪、時日本樞府平相公、遠馳檄命具禮、敦請眞淨住持淸拙禪將整頓叢規、拙翁開書允諾、促裝欲赴其命、師送到海壖告別、拙翁、正欲同師附舶往、師固辭、告以誓而不歸本國之意、翁、再三懇求不已、師亦飄然相隨東矣、嘉曆二年、拙翁領建長、命使師典藏鑰、冬節秉拂、韻吐如鐘、詞鋒俊快、拙翁、翌日陛座讚揚、延元四年、師四十三歳、天龍天龍夢窓國師、請住甲州慧林、師已赴命、拈香嗣天目中峯大和尚、明年、住京師等持、貞和三年、師五十三歳、遷京師眞如、未幾、再董等持、源相公、偶々以建長虗席敦請、固辭讓以無隱晦和尚、師五十六歳、住京師萬壽、又遷相州淨智、同年八月、檀賢藤氏、創奧州普應寺爲開山第一世、又華房州天寧律居、請師爲開山禪刹、六十四歳、左武衞將軍〔源基氏〕建長壽寺、命師爲開山祖、師六十五歳、赴圓覺請、未幾領建長衆、有東菴曰廣德、凡師隨檀信請所剏建、丹州願勝、信州盛興、武州正法、津州寶壽、皆憑師盡爲開山、切度徒若干、受戒法者、不可勝記、師晩年養老於長壽、而不倦來參接化、貴官頂謁、以寛撫物、以惠救孤、師之平生應酬語句、更無彫蟲篆刻之體、一實尤慕高古朴畧之風、應安七年正月二十日、頗示微恙、談笑如平日、二十四日午刻、索筆書身後行事遺誡、幷書心印大字、擲筆逝矣、世壽八十、僧臘六十七、葬全身於後曇芳菴、其塔曰心印、其神足宣演二子、聊記其師出處大概、示僕要爲證、僕與師親炙、五十餘年、知師行脚始末甚詳、宣演二子斯藁子遍歴南方將乞塔銘於大手筆、其志勤矣、故摩老眼、少述疇昔見聞矣、永和二曆丙辰、仲春上澣、前巨峯石室叟善玖謹書〔今按ずるに、宋景濂所作(作る所ろの)碑の銘は蓋し此文を潤色して成者ならん。〕
[やぶちゃん注:以下、「勅諡正宗廣智禪師古先元和尚の行狀」を影印に従って書き下す。
師諱は印元、字は古先、姓は藤氏、關西薩州の人なり。始め六歳、羣兒遊戲の中に混せず、親を辭し海に航して、遙〔か〕に東關相州圓覺桃溪悟禪師の室に抵り、薙染して其の左右に奉侍すること、既に六年に逮ぶ。嘉元三年、師十二歳、桃溪示寂す。悟は廼ち建長の開山蘭溪禪師の高弟なり。曾て鄮峯の頑極和尚の會裏に在〔り〕て、藏鑰を掌る。飽〔く〕まで碩德に參ず。文保二年に到〔り〕て、二十四歳、圖南の志を鋭して、舶に附〔き〕て岸に到る。便ち一錫を挈〔げ〕て直〔ち〕に天台華頂峯頂に登〔り〕て、無見の覩禪師に參見す。數月の間、咨〔る〕に心法を以〔て〕す。覩、其の奮勵敏惠なるを憐〔み〕て、指〔し〕て天目山中峰國師に見へしむ。一見して素志を愜ふ。老幻、法語數段を示す。其の畧に云〔く〕、設〔け〕使ひ未悟の際に於て、千釋迦萬彌勒、四大海の佛法を傾出して、儞が耳根に入〔る〕とも、總べ〔て〕是〔れ〕虛妄塵勞、皆、究竟の法に非ず〔と〕。禪師、慈誨して領す。刻苦服膺、衆と作息す。已に參堂を許さる。ミ〔ヅカ〕〔ら〕誓〔ひ〕て老幻に參覲するの外、堂門を出〔で〕ず、默究自怡すること、五六寒暑を經、告辭して金陵の鳳臺古林茂禪師の法席に遊〔ぶ〕。錫を掛〔け〕て依棲す。聊か雪隱の事を領す。社中の名勝、了菴の欲・仲謀の猷・南山の日・大道の蹊、竺仙・遷公、莫逆往來、皆、契遇忘年の交誼有り。兩び西浙に旋〔り〕て、諸大尊宿に歴參す。靈石・月江・笑隱・斷江、別傳、無言、各々贈るに挽留餞別の法偈を以〔て〕す。時に古心の誠禪師、雪巖の宗旨を大仰に建立す。師、千里を遠〔し〕とせず、便ち江南の津を問ふ。集雲峯下に四藤條の禪に參す。叢林翕然として、英衲爭ひ趨る。師、周旋盤礴すること一歳有餘、復た呉松の曹溪に歸る。時に日本の樞府平相公、遠く檄命を馳せ、禮を具へ、敦く眞淨の住持淸拙禪將の叢規を整頓せんことを請ふ。拙翁、書を開〔き〕て允諾し、促裝して其の命に赴んと欲す。師、送〔り〕て海壖に到〔り〕て別〔れ〕を告ぐ。師、送〔り〕て海壖に到〔り〕て別〔れ〕を告ぐ。拙翁、正に師と同〔じ〕く舶に附〔き〕て往〔か〕んと欲す。師固く辭す。告〔ぐ〕るに誓〔ひ〕て本國に歸らざるの意を以てす。翁、再三懇求して已まず。師亦た飄然として相ひ隨〔ひ〕て東す。嘉曆二年、拙翁、建長を領す。命じて師をして藏鑰を典どらしむ。冬節秉拂、韻吐鐘のごとし、詞鋒俊快、拙翁、翌日、陛座讚揚す。延元四年、師四十三歳、天龍夢窓國師、請〔ひ〕て甲州慧林に住せしむ。師已に命に赴く。香を拈じて天目中峯大和尚に嗣ぐ。明年、京師の等持に住す。貞和三年、師五十三歳、京師の眞如に遷る。未だ幾ならずして、再び等持に董す。源相公、偶々建長の席を虗するを以て敦く請ふ。固く辭して讓るに無隱の晦和尚を以てす。師五十六歳、京師の萬壽に住む。又、相州の淨智に遷る。同年八月、檀賢藤氏、奧州の普應寺を創〔り〕て開山第一世と爲〔す〕。又、房州の天寧の律居を華〔り〕て、師を請〔ひ〕て開山禪刹と爲〔す〕。六十四歳、左武衞將軍〔源の基氏〕長壽寺を建つ。師に命じて開山祖と爲〔す〕。師六十五歳、圓覺の請に赴く。未だ幾ならずして建長の衆を領す。東菴有〔り〕、廣德と曰〔ふ〕。凡そ師、檀信の請に隨〔ひ〕て剏建する所ろ、丹州の願勝、信州の盛興、武州の正法、津州の寶壽、皆師に憑〔き〕て盡く開山と爲〔す〕。切に徒を度すること若干、戒法を受〔く〕者る、勝〔つ〕て記すべからず。師晩年老を長壽に養ふ。來參接化に倦〔ま〕ず、貴官頂謁す。寛を以て物を撫し、惠を以て孤を救ふ。師の平生應酬の語句、更に彫蟲篆刻の體無く、一實に尤も高古朴畧の風を慕ふ。應安七年正月二十日、頗る微恙を示す。談笑平日のごとし、二十四日の午の刻に、筆を索〔り〕て身後行事遺誡を書し、幷〔び〕に心印の大字を書す。筆を擲〔ち〕て逝す。世壽八十、僧臘六十七、全身を後の曇芳菴に葬る。其の塔を心印と曰ふ。其の神足、宣・演の二子、聊か其の師の出處の大概を記し、僕に示して證と爲んことを要す。僕師と親炙すること、五十餘年、師の行脚始末を知ること甚だ詳かなり。宣・演の二子、斯の藁子を以〔て〕南方を遍歴して將に塔の銘を大手筆に乞はんとす。其の志、勤めり。故に老眼を摩〔し〕て、少〔し〕く疇昔の見聞を述ぶ。永和二曆丙辰 仲春上澣 前の巨峯石室叟善玖謹〔み〕て書す
この伝記録は、最後に記されているように古先印元の法嗣であった等宣と等演が古先印元の行状について記したものを元に、古先印元と旧交があった臨済宗の禅僧石室善玖(せきしつぜんきゅう 永仁元(一二九四)年~元中六(一三八九)年)が永和二(一三五八)年に書いたものである。石室も同文保二(一三一八)年に入元、やはり同じ金陵保寧寺古林清茂の法を嗣いで、八年後(印元の帰国より一年前か)に帰国、天竜寺・円覚寺・建長寺に住した。偈や頌を始めとする詩文に優れ、初期五山文学の名僧として知られる。
「抵り」は「たより」(頼り)と読んでいると思われる。「逮ぶ」は「およぶ」、「挈〔げ〕て」は「ひつさげて」、「儞が」は「なんぢが」と読む。
「薙染」は「ちせん・ちぜん」と読み、剃髪して墨染の衣を着る、即ち仏門に入ることを言う。
「鄮峯の頑極和尚」の「鄮峯」は「ぼうほう」と読み、中国五山の一つである明州(現・浙江省)の阿育王山鄮峰広利寺を、また「頑極」は「がんこく」と読み、その阿育王寺の高僧頑極行弥(がんこくぎょうみ)を指すものと思われる。
「會裏」は「(一期一会で会うた師の)家の内」という意味。
「藏鑰」は「ぞうりん」と読み、本来は寺院の経蔵の鍵のことであるが、それを所持した経蔵の管理者(経は寺院の最重要の宝であり、相応な高位職となる)である蔵主(ぞうす)を言う。
「圖南の志を鋭して」とは大きな志を一心に抱いて、の意。
「天台華頂峯頂」は現在の浙江省天台県北部の山中にある華頂講寺のこと。最澄や円珍もここで修行した。
「無見の覩禪師」の「覩」は「と」又は「つ」と読み、華頂講寺の高僧無見先覩(一二六五年~一三三四年)のこと。
「咨〔る〕」は「はかる」と読み、問う、の意。師に就いて禅の心の働きを問い続けて修練せんとした、の意。
「天目山中峰國師」は天目山幻住庵の中峰明本国師(一二六三年~一三二三年)。ここで印元が参禅した文保二(一三一八)年、元の延祐五年には、当時の皇帝仁宗より宮中に召されたが応じず、それでも仁宗より金襴の袈裟と仏慈円照広慧禅師の号に加えて師子正宗寺という院号を下賜された高僧である。
「愜ふ」は一応、「かなふ」と訓じたつもりであるが、「おもふ」(思ふ)の可能性もある。ともかくも、明本は印元を一目見て、脈ありと思ったということであろう。
「自怡」は「じい」と読み、(学究することを)自然に心から喜び楽しむことを意味する。
「雪隱の事を領す」は東司(とうす:便所)の掃除係。禅宗にあっては東司は神聖で重要な伽藍の一つである。
「名勝」は名徳ある僧を言う「明匠」を絶景に喩えて掛けたもので、以下の「了菴の欲、仲謀の猷、南山の日、大道の蹊、竺仙の遷公」の清茂の弟子の何人かは後に著名な高僧となった人物である(「大道の蹊」は不詳)。了庵清欲(一二八八年~一三六三年)・仲謀良猷(生没年不詳)・南山(東明)慧日(一二七二年~一三四〇年)・竺仙梵僊(一二九二年~一三四八年)。
「翕然」は「きふぜん」と読み、多くのものが一つに集まり合するさまを言う。
「盤礴」は「ばんばく」と読み、想念が胸中に満ち溢れることを言う。
「淸拙禪將」は呉松曹渓の真浄寺の清拙正澄禅師(一二七四年~延元四・暦応二(一三三九)年)。鎌倉末から南北朝初に来日した禅僧で日本の臨済宗大鑑派祖。嘉暦元(一三二六)年、北条高時の招聘を受けて渡日、鎌倉建長寺に住してここに示されたように禅規を刷新した。浄智寺・円覚寺を経て、建武の新政以後は後醍醐天皇の勅命を受けて京都建仁寺・南禅寺などに住し、後、信濃国守護小笠原貞宗の招きにより信濃伊賀良の開善寺開山となった。建長寺の彼の隠居所である禅居庵は貞宗の建立(一三二七年)になる。建仁寺にて示寂。彼が記した禅宗の規律集「大鑑清規」は後の小笠原流礼法にも影響を与えたとされる。
「海壖」は「かいぜん・かいせん」と読み、海辺のこと。
「秉拂」は「ひんほつ・ひんぽつ」と読み、原義は払子(ほっす)を手にとる意。禅宗にあって住持又はそれに次ぐ首座(しゅそ)が払子を執って法座に上り説法することを言う。
「陛座」は「しんぞ」と読み、禅宗で高座に上ることを言う。
「京師の等持」は現在の京都市中京区御池通高倉上ル東に、足利尊氏邸と接してあった等持寺。この寺、開山は夢窓国師とされ、実際の開山であったこの印元は抹消されている。これについては印元を尊崇した足利直義と兄尊氏の相克、そして印元と尊氏寄りであった夢窓との対立が根にある。これについては個人のHP「かげまるくん行状集記」の「等持寺」のページに詳しい。当該ページには本「勅諡正宗廣智禪師古先元和尚行狀」についての現代語による解説も含まれており、私の本注でも大いに参考にさせて頂いた。この場を借りて、かげまる氏に御礼申し上げるものである。
「源相公」は足利尊氏のこと。
「東菴」は前の住持の住む塔頭のこと。建長寺の「廣德菴」の項を参照。
「丹州の願勝、信州の盛興、武州の正法、津州の寶壽」は印元が開山となった寺院。先に引いた個人のHP「かげまるくん行状集記」の「等持寺」には、それぞれ『丹波国(京都府中部・兵庫県北東部)の願勝寺・信濃国(長野県)盛興寺・武蔵国(東京都)正法寺・摂津国(兵庫県南東部・大阪府北部)宝寿寺』であることが示されている。
「午の刻」午前十二時前後。
「神足」は「しんそく・じんそく」と読み、高弟のこと。
「上澣」は「じやうくわん」と読み、上旬のこと。]
    已上

○山内 《山内莊》山内ヤマノウチは、粟船アワフナ本郷ホンガウ倉田クラタ戸塚トツカヘンまで、山の内のシヤウなり。東明慧日の筆蹟にて、圓覺寺文書の目録に、山内の吉田の郷田一町御寄進の狀とあり[やぶちゃん注:影印は「御奇進む」とあるが、底本を採った。]。吉田ヨシタの邊まで山の内のシヤウと見へたり。里人は、東は建長寺、西は圓覺寺の西野の道端ミチハタ、川邊に榎木エノキあるをサカヒとして、それより東を山内と云ひ、西を市場村イチバムラ 巨福路谷コフクロガヤと云。【東鑑】に、建久三年三月廿日、山の内に於て百箇日の温室ヲンシツあり。往返ワウヘンの諸人、幷に土民等可浴(ヨクすべき)のヨシフダを路頭に立らる。後白河の法皇御追福のタメ也とあり。又建仁二年十二月十九日、賴家ヨリイヘ、山の内の莊へ、鷹場タカバランに御イデとあり。又仁治元年十月十九日、前の武州〔泰時ヤストキ〕の御沙汰として、山の内の道をツクらる。是れ嶮難の間だ、往還のワヅラヒあるに依て也とあり。又昔し首藤ストウ刑部丞俊通トシミチ、始て相模の國山の内に居宅す。故に山の内を家號とす。舊宅未考(未だ考へず)。家紋は、白一文字・黑一文字也。俊通は、鎌田カマタ兵衞正淸マサキヨとは從兄弟イトコなり。首藤ストウの系圖に見へたり。
[やぶちゃん注:「東明慧日」(とうみょうえにち 一二七二年~暦応三・興国元(一三四〇)年)は鎌倉末から南北朝初めにかけての曹洞宗の宋からの渡来僧。延慶二(一三〇)年に幕府の前の執権北条貞時の招聘により渡日、翌年、鎌倉禅興寺(明月院の本寺)に住した後、延慶四(一三一一)年に円覚寺に移って第十世となる。後に東庵として塔頭白雲庵を建てるが、引き続いて寿福寺・建長寺住持を勤めた。白雲庵にて示寂。円覚寺は臨済宗であるが、彼は曹洞宗の高僧で、当時の禅門の自由な気風を感じさせる。因みに私の家の菩提言所はこの白雲庵である。
「温室」は「をんじつ」とも読み、かつて主に寺院が貧民や病者を対象として、行った施浴の施設。寺内の浴室を開放したり、仮設の施設を設けて行った。後の江戸の銭湯の呼称となる湯屋(ゆうや)も同じ。
「首藤刑部丞俊通」(?~平治元(一一六〇)年)は平安後期の武将、通称滝口刑部丞。藤原秀郷の後裔で、保元・平治の乱に際には子俊綱とともに源義朝に従い、京四条河原で討ち死にした。
「鎌田兵衞正淸」(保安四(一一二三)年~永暦元(一一六〇)年)は平安後期の武将。藤原秀郷流首藤氏の一族、相模国鎌田権守通清の子。源義朝家人にして義朝とは乳兄弟。平治の乱で敗走、尾張国野間内海(現在の知多半島の野間大坊)の舅長田忠致を頼るも逆に裏切られ、義朝は風呂場で、正清は毒酒を飲まされて騙し討ちにされた。因みに、この野間内海の近く、河和は私の父方の祖父が結核で亡くなった因縁の地である。]

○德泉寺舊跡 德泉寺トクセンジの舊蹟は、山の内の管領屋敷の東し、町屋のウシろ也。上杉朝宗トモムネ建立なり。朝宗トモムネを德泉寺法名道元禪助菴主と號す。應永廿一年八月廿五日卒す。開山は東嶽和尚、諱は文昱、大拙の法嗣たり。
[やぶちゃん注:「上杉朝宗」(?~応永二一(一四一四)年)は南北朝・室町期の武将。関東管領。次の「官領屋敷」に出る関東上杉氏祖である上杉憲顕の弟憲藤の子。上総守護となり鎌倉公方足利氏満を補佐、応永二(一三九五)年、関東管領。鎌倉犬懸ヶ谷に住み、犬懸上杉氏と称えた彼の家系は室町期を通じて上杉氏総領格の一門として勢力を持った。]

○管領屋敷 管領屋敷クハンレイヤシキは、明月院の馬場先ババサキ、東鄰のハタケ也。上杉ウヘスギ民部の大輔憲顯ノリアキ、源の基氏モトウヂ執事シツジとして此所に居す。其の後上杉家ウヘスギケ、代々此の所に居宅す。其の時鎌倉にても京にせて、管領クハンレイを將軍或は公方クバウなどと稱し、執事シツジ管領クハンレイと云故に、此のトコロを管領屋敷と云なり。後に上杉顯定アキサダ、上州平井ヒラ〔ヰ〕シロに居す。しかれども山の内の管領と云ふ。憲顯ノリアキの末流を、山の内上杉ウヘスギと云なり。扇谷アウギガヤツの上杉と云あり。扇谷〔アフギ〕ガヤツの條下にツマビラかなり。
[やぶちゃん注:「上杉民部の大輔憲顯」(徳治元(一三〇六)年~応安元・正平二三(一三六八)年)は南北朝期の武将。関東執事から関東管領。足利尊氏・直義の従兄弟。特に直義とは同年で親しかった。鎌倉で足利義詮を補佐したが、もう一人の執事であった高師冬と対立、観応二・正平六(一三五一)年に師冬を滅ぼして関東の実権を握った。その後、兄と不仲になった直義を匿おうとして尊氏と対立、敗走、信濃に追放となった(観応の擾乱)。後、鎌倉公方足利基氏に許されて復帰、貞治二・正平一八(一三六三)年は入鎌して関東管領となった。足利氏による関東支配の中核を担い、更に関東上杉氏勢力の基盤を固めた人物。
「上杉顯定」(享徳三(一四五四)年~永正七(一五一〇)年)は戦国の武将。関東管領。越後守護上杉氏の出身であったが山内上杉家当主を継ぎ、四十年以上の長きに亙って関東管領職を務めた。古河公方足利成氏との対立、家臣長尾景春の反乱、同族の扇谷上杉定正との抗争、越後の長尾為景との戦い(この戦で戦死)など、兵乱の只中を生きた、山内上杉氏の最後の光芒を放った人物である。
「上州平井」現在の群馬県藤岡市平井にあった山内上杉氏の本城。この城下町は高崎市山名根古谷地区まで及び、『関東の都』と呼ばれて繁栄した。]

○尾藤谷 尾藤谷ビトウガヤツは、管領屋敷のムカひ、淨智寺の東鄰のヤツ也。里人の云く、昔し尾藤ビトウ左近將監景綱カゲツナ此に居す。又圓覺寺ガク添狀ソヘジヤウに、延慶元年十一月七日、進上、尾藤左衞門尉殿、越後の守貞顯サダアキとあり。此尾藤歟。又佛日菴に、小田原よりの文書あり。鼻頭谷ビトウガ〔ヤツ〕と書けり。
[やぶちゃん注:「尾藤景綱」(?~文暦元(一二三四)年)は鎌倉初期の武士。藤原秀郷の末裔で、北条泰時に近侍した。彼は鎌倉幕府史上、初代の家令となったが、「東鑑」によれば、その時既に泰時の邸内に彼が住居を構えていた旨、記載がある。但し、泰時邸は当時の幕府正面、現在の宝戒寺のある位置であることが判明しているので、本文のこれがもし尾藤の居宅とするならば、彼が身内の事件に端を発して出家した嘉禄三(一二二七)年以降のことかとも思われる。しかし彼は病没する前日まで家令として幕政実務を取り仕切っていたことが分かっており、彼をこの同定候補とするのには疑問がある。
「延慶元年」は西暦一三〇九年。
「越後守貞顯」は幕府滅亡とともに自害した北条(金澤)貞顕(弘安元(一二七八)年~元弘三(一三三三)年)。鎌倉幕府第十五代執権。彼は嘉元二(一三〇四)年に越後守、正和二(一三一三)年に武蔵守に遷任されているから、この添状と合致する。当時、彼は幕府寄合衆・引付頭人であった。但し、こちらの「尾藤左衞門尉」は何者か不詳。識者の御教授を乞う。]

[禪興寺幷明月院圖]

◯禪興寺〔附最明寺舊跡。〕 禪興寺ゼンカウジは、福源山フクゲンサンと號す。淨智寺のムカひ、明月院の門を入て左なり。關東十刹の第一也。平の時賴トキヨリの建立、スナハ最明寺サイミヤウジの舊跡なり。【東鑑】に、建長八年七月十七日、宗尊將軍、山の内の最明寺に御マヒり。此精舍建立のノチ、始て御禮佛也。同年十一月廿三日、相州時賴トキヨリ、最明寺にて落飾、法名覺了房道崇カクリヤウバウダウソウ、戒師はソウ道隆タウリウとあり。當寺の開山も道隆なれども、無及德詮を第一祖とす。昔は七堂伽藍ありしと也。源の氏滿ウヂミツ建立の時の堂塔幷に地圖、今明月院にあり。甚だ廣大なり。今は佛殿ばかりあり。明月院の持分モチブンなり。寺の僧の云く、上杉道合ダウガウは、當時の檀那なり。明月院は、道合の菩提所なるゆへに、當寺を領するとなり。
[やぶちゃん注:「上杉道合」は上杉憲方(建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)のこと。道合は法号・戒名で正式には明月院天樹道合。墓所は明月院に現存。関東管領。]

佛殿 本尊は釋迦なり。クビばかり、慧心エシンの作なり。土地堂には蜀の大帝の像一軀、韋駄天の像一軀、運慶が作。地藏の像一軀、運慶が作。平の時宗トキムネ・同〔じ〕く貞時サダトキ・上杉重房シゲフサの像各々一軀、祖師堂には、大覺禪師の像あり。牌に、開山建長大覺禪師の座とあり。平の時賴トキヨリの像あり。泥塑也。蘭溪ランケイの作と云ふ。牌に最明寺入道禪門の覺靈とあり。又玉隠和尚の像あり。或人アルヒト、金地院の最嶽叟にふ、鎌倉に何の異事イジかある。答〔へ〕て曰く、實朝將軍右大臣・最明寺崇公禪門の覺靈・開山建長大覺禪師の座、此三本の牌、他にコトなり。此事寺僧の物語なり。
[やぶちゃん注:以下、牌銘は底本では全体が二字下げ。]
  梁牌銘
上祈、皇心廣大、聖德無邊、保叡算於千秋、固宏基於億載、本寺大檀那、正五位下行左馬頭、源朝臣氏滿敬書〔左方。〕。伏願、檀信歸崇、承靈山付囑旨、法輪常轉、興少林直指禪、康曆元年己未十二月二日、開山大覺禪祖四世孫、住持文怡謹立〔右の方。按ずるに、文怡は、悦山と號す。大覺四世孫なり。〕
[やぶちゃん注:以下、梁牌銘を影印に従って書き下す。
  梁牌の銘
上には祈る、皇心廣大、聖德無邊、叡算を千秋に保ち、宏基を億載に固〔く〕せん。本寺の大檀那、正五位下行左馬の頭、源の朝臣氏滿敬書〔左方。〕。伏して願〔ふ〕は、檀信歸崇、靈山付囑の旨を承け、法輪常に轉じて、少林直指の禪を興さん。康曆元年己未十二月二日 開山大覺禪祖四世の孫 住持文怡謹〔み〕て立つ〔右の方。按ずるに、文怡は、悦山と號す。大覺四世の孫なり。〕
「文怡」は「もんたい」と読むか。黄檗宗の禅僧で、彼はこの銘を記した康暦元(一三七九)年に八王子権現の本地垂迹説として知られる「華厳菩薩記」を書いている。]

鐘樓 鐘銘あり。其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が二字下げ。]
  福源山禪興仰聖禪寺鐘銘
大日本國、相州路、鎌倉縣、福源山禪興仰聖禪寺者、最明寺殿道崇公、插一莖艸、我祖大宋國大覺禪師、秉化權之道場、而甲於十刹者也、左典厩源氏滿公、相尋成厥志矣、殿堂門廡、僧房輪藏、凡叢林所宜有悉具焉、焚鐘鏗々、淸親井々、四衆圍繞、八部護持矣、時乎、數罹兵燬盡歸灰燼也、惟奉佛之殿、如魯之靈光之巋然、因以爲修禪之場、禪師眞相及崇公塑像宛爾、朝香夕燈、梵行黽勉無間斷也、烟霞既老、日炙風吹頗就傾側、久抱輿復之志而不得之、寛文改元、辛丑歳、東都豪貴内藤佩帶内助、上杉氏、嘆斯敗壞、畀黄金若干施鳳樓之手、輪奐改觀、晝踊夜禪、緇徒復苦無寶鐘之制也、延寶第六、鈞選、前長壽東陽杲禪師、董蒞此席、誓革舊弊、修繕像設、杲禪師族出長坂氏、長坂氏血鑓九郎本名彦五郎信政也、早立勇志、享祿天文間、毎臨戰場、毋不安釁其鑓、源淸康公、屢賞厥武功、辱稱血鑓九郎、自是大旌勇名於華夷、何之榮加焉、儞徠冡嗣必以之稱、可謂貽厥孫謀而世其祿也、信政孫長坂信次、纉箕裘勤侍幕下、東照大神君、賜名於小血鑓、累位升五品、補丹州刺史、不幸不得其死然、於是乎、令嗣血鑓九郎貞雄、卜隠於江濵、嘯歌山水、消遣世慮、力去塵累、淸淨自居、延寶第九、辛酉、仲夏初四日、宴如終世、於其啓手之間、謂信之、欲薦祖先資幽冥、則歸依三寶、棄捨家資、必鑄銅鐘、此予志矣、信之、謀諸杲禪師、禪師、可其言、且、説云、凡梵鐘之設、厥功也偉哉、修多羅院、聞説經乎光中、大莊嚴寺、脱受苦乎地府、向此音中、證果拔苦、不可勝言、夫息已往之業輪、證當來之聖果、其驗無迅於梵鐘也、信之、卒然涕泣云、嗟吁、信次、已不得其死、貞雄亦隠沒不遂夙志、僅中年去世、宿昔之所感可知而已、貞雄遺言誠有以乎哉、請遄促此事也、相共勠力、開紅爐吹皮鞴、以鑄此巨鏞焉、造化輔冶功、立成大器矣、不煩於官、而工敏於事、高樓亦架焉、貞雄志願、於玆成就矣、仍乞山野銘焉、山野嘉於其貞雄末後之願輪、與緇徒從前之願輪、輪々宛轉相共優遊覺路、略叙其顚末、係以小銘、銘曰、湘之勝域、瑞靄飛騰、聿來胥字、建寺度僧、畫棟結霧、雕甍鏤水、其孰爲此、王室股肱、鈞選董席、蘭溪雲仍、丕開爐鞴、彙集羣能、鳧氏成器、離婁督繩、高架樓上、非圓非楞、洪纎考撃、全無虗應、雷輷鯨吼、石裂崖崩、犇馳龍象、驚覺聾夢、姑蘇月落、豐嶺霜凝、庭臺烟樹、等演宗乘、仰冀、塵刹奮響、悲願恢弘、自利利他、福源増、返聞聞性、禪道勃興、四海一軌、百穀三登、佛日舜日、日々同升、旹天和第二、龍輯玄※閹茂、皐月初四日、前南禪見僧司剛室叟崇寛謹銘、當山住持比丘東陽道杲、施主長坂血鑓九郎信之、冶工武州江戸宇多川藤四郎藤原次重。
[やぶちゃん注:影印で確認する限り、「※」=「黙」-「犬」+「攴」。以下、「福源山禪興仰聖禪寺鐘銘」を影印に従って書き下す。直接話法部分に会話記号を附した。
  福源山禪興仰聖禪寺鐘の銘
大日本國、相州路、鎌倉縣、福源山禪興仰聖禪寺は、最明寺殿道崇公、一莖艸を插み、我が祖大宋國の大覺禪師、化權をるの道場にして、十刹に甲たる者なり。左典厩源の氏滿公、相ひ尋いて厥の志を成す。殿堂門廡、僧房輪藏、凡そ叢林の宜〔し〕く有るべき所ろ、悉く具〔は〕る。梵鐘鏗々として、淸親井々たり。四衆圍繞し、八部護持す。時なるかな、數々兵燬に罹〔り〕て盡く灰燼に歸す。だ佛を奉ずるの殿、魯の靈光の巋然たるがごとし。因て以て禪を修するの場と爲〔す〕。禪師の眞相及び崇公の塑像、宛爾たり。朝香夕燈、梵行黽勉として間斷無し。烟霞既に老ひ、日炙り風吹〔き〕て頗る傾側に就く。久〔し〕く輿復の志を抱〔き〕て之を得ず。寛文改元、辛丑歳、東都の豪貴内藤佩帶の内助、上杉氏、斯の敗壞を嘆じ、黄金若干を畀へて鳳樓の手を施し、輪奐觀〔る〕ものを改む。晝踊夜禪、緇徒復た寶鐘の制無きことを苦しむ。延寶第六、鈞選、前の長壽東陽の杲禪師、此の席に董し蒞〔み〕て、誓〔ひ〕て舊弊を革め、像設を修繕す。杲禪師、族は長坂ナガサカ氏に出づ。長坂ナガサカ血鑓チヤリ九郎本との名は彦五郎信政ノブマサなり。早く勇志を立て、享祿天文の間、戰場に臨む毎に、其の鑓を釁ぬらずと云〔ふ〕こと毋し。源の淸康キヨヤス公、屢々厥の武功を賞し、辱く血鑓九郎と稱す。是より大〔い〕に勇名を華夷に旌す。何の榮〔え〕か焉に加〔へ〕ん、儞れより徠た冡嗣必ず之を以て稱す。謂〔ひ〕つべし、厥の孫謀を貽して其の祿を世にすと。信政の孫長坂信次ノブツグ、箕裘をいで幕下に勤侍す。東照大神君、名を小血鑓コチヤリと賜ふ。累りに位五品に升り、丹州の刺史に補せらる。不幸にして其の死然を得ず、是に於て、令嗣血鑓チヤリ九郎貞雄サダオ、隠を江濵に卜して、山水に嘯歌す。世慮を消遣し、力〔め〕て塵累を去り、淸淨にして自〔ら〕居れり。延寶第九、辛酉、仲夏初の四日、宴如として世を終ふ。其の手を啓くの間に、信之ノブユキに謂へらく、「祖先に薦め、幽冥に資せんと欲せば、則ち三寶に歸依し、家資を棄捨し、必ず銅鐘を鑄よ。此れ予が志なり。」と。信之ノブユキ、諸を杲禪師に謀る。禪師、其の言を可とし、且つ、説〔き〕て云く、「凡そ梵鐘の設け、厥の功や偉なるかな。修多羅院、説經を光中に聞き、大莊嚴寺、受苦を地府に脱す。此の音中に向〔ひ〕て、果を證し、苦を拔くこと、勝〔つ〕て言ふべからず。夫れ已往の業輪を息〔み〕て、當來の聖果を證する、其の驗、焚鐘より迅きは無し」〔と〕。信之、卒然として涕泣して云く、「嗟吁、信次ノブツグ、已に其の死を得ず、貞雄サダオも亦隠沒して夙志を遂げず、僅に中年にして世を去る、宿昔の所感知〔ん〕ぬべきのみ。貞雄サダオが遺言誠にユヘ有るかな。請ふ、遄〔か〕に此の事を促〔さ〕ん。」〔と〕。相ひ共に力を勠〔は〕せ、紅爐を開き皮鞴を吹〔き〕て、以て此の巨鏞を鑄る。造化冶功を輔け、立〔ちどこ〕ろに大器成る。官を煩はせずして、工、事を敏〔く〕し、高樓も亦架す。貞雄の志願、玆に於て成就す。仍〔り〕て山野に乞〔ひ〕て銘せしむ。山野、其の貞雄の末後の願輪と、緇徒從前の願輪と、輪々宛轉として相ひ共に覺路に優遊することを嘉し、略々其の顚末を叙〔べ〕て、係るに小銘を以てす。銘に曰く、湘の勝域、瑞靄飛騰す。コヽに來て字を、寺を建て僧を度す。畫棟霧を結び、雕甍水を鏤む。其の孰〔れ〕か此〔れ〕を爲る。王室の股肱、鈞選席を董す。蘭溪の雲仍、丕〔い〕に爐鞴を開き、羣能を彙集す。鳧氏器を成し、離婁繩を督す。高く樓上に架し、圓に非〔ず〕楞に非〔ず〕、洪纎考撃して、全く虗應無く、雷輷り鯨吼へ、石裂け崖崩る。龍象を犇馳して、聾夢を驚覺す。姑蘇月落ち、豐嶺霜凝る、庭臺烟樹、等〔し〕く宗乘を演ぶ。仰ぎ冀〔はく〕は、塵刹響を奮〔ひ〕、悲願恢弘、自利利他、福源増、返聞聞性、禪道勃興、四海一軌、百穀三登、佛日舜日、日々同〔じ〕升らん。旹に天和第二、龍玄※閹茂に輯〔む〕る。皐月初四日、前の南禪見僧司剛室叟崇寛謹〔み〕て銘す。 當山の住持比丘東陽道杲 施主長坂血鑓九郎信之ノブユキ 冶工武州江戸宇多川藤四郎藤原次重
「尋いて」は「おとないて」と読んでいるか。
「門廡」は「もんぶ」と読み、門の庇のこと。
「鏗々と」は「かうかうと」と読み、鐘の音が鳴り渡るさま。
「井々たり」は「せいせいたり」で、秩序だってブレのないさま。
「兵燬」は「へいくゐ」と読み、兵火のこと。
「魯の靈光」は、魯国の恭王劉余は数多くの宮殿を建造したが、その悉くが戦禍を受け、ただ一棟霊光殿のみが焼失を免れたという故事に基づく。
「巋然」は「きぜん」で、高く聳え立つこと。
「宛爾」は「宛然」と同じで、そっくりなさまを言うか。
「黽勉」は「びんべん」と読み、務め励んで精を出すこと。
「畀へて」は「あたへて」(与へて)と読む。
「輪奐」は「りんかん」で、建物が広大で立派なさま。
「鈞選」は「きんせん」と読むのであろうが、意味不詳。杲禅師の名か。識者の御教授を乞う。
「杲禪師」の「杲」は「かう」と読む。この人物については本記載によれば、戦国時代の武将長坂信政(?~元亀三(一五七二)年)に始まる長坂一族の出身ということになる。本文にも現れる長坂信政は三河の松平家家臣で、松平清康・広忠・家康(後の徳川家康)の三代に仕えて槍働きで名を挙げ、血鑓九郎の異名で知られた。
「董し蒞〔み〕て」は「ただしのぞみて」(質し望みて)と訓じておいた。最後の方にあるように「席を董す」で、見張る、管理するの意となり、寺内にあって衆僧を監督する第一位、住持に就くことを言う。
「革め」は「あらため」(改め)であろう。
「釁ぬらず」は「ちぬらず」(血塗らず)と訓じていると思われる。この鐘の由来は武士いう業、殺生戒を強く意識すればこその因縁譚の事蹟記載乍ら、こういう表現が鐘銘に記されるというのは、かなり異例な感じを受ける。いや、正直、退屈でないオリジナリティに富んだ臨場感に富んだ戯曲のような興味深い鐘銘と言える。この鐘、今に伝わらないのであろうか? 実際の銘を読んでみたい気がする。
「源の淸康」は松平清康(永正八(一五一一)年~天文四(一五三五)年)三河松平氏第七代当主。徳川家康の祖父。
「儞れより徠た」は「爾来」と同字である。取り敢えず「これよりまた」と訓じておいた。
「冡嗣」は底本・影印ともにこの表記で「ぼうし」と読めるが、「冡」は蔽うとか暗い・愚か、といった意味で、この熟語では意味が通じない。これは「家嗣」の誤字ではあるまいか。
「箕裘」は「ききう」と読み、父祖の業(または、その業を継ぐこと)を言う。弓職人の子は、まず手始めに、弓の素材の一つである柳の枝を曲げて箕(み。みの。:笊状の農作業用具。)を作ることから学び、よい鍛冶屋の子は、まず、鞴に用いる獣皮を継ぎ合わせて裘(かわごろも:皮製の衣服。)を作ることから学ぶ、という「礼記」学記篇の故事に基づく。
「累りに」は「しきりに」と読み、ここでは、絶えず、速やかにという意であろう。
「升り」は「のぼり」(昇り)と読む。
「死然を得ず」とは天寿を全う出来なかったことを言う。ネット上の未確認情報であるが、この長坂信次はかぶき者で、旗本間の騒擾を仲裁しようとして逆に斬られて亡くなったらしく、彼の代で長坂家は改易されたという。確かにこの後の嗣子貞雄の「隠を江濵に卜して、山水に嘯歌す。世慮を消遣し、力めて塵累を去り、淸淨にして自ら居れり」という生活態度は改易によって蟄居している感じを如実に示しているように思われる。
「宴如として」とは、安らかにの意。
「修多羅院、説經を光中に聞き、大莊嚴寺、受苦を地府に脱す」「修多羅」とは本来、釈迦の直接の言葉を記した御経のことを言うが、ここは後の「大莊嚴」が「寺」を修飾しているのと同様に「院」に掛かる神聖霊験な意の形容であろう。私の野狐禅によれば、釈迦の説教は有難い寺院の内の隈なく照らす慈悲の眼に見えぬ光の中にこそ聞き、寺院という結界は衆生の受苦をこの世の地上にあってそのままに不可視に解脱させて下さる有難い空間である、以下、その寺院空間の不可視の梵鐘の音もそれとまた同じ、いや、何よりも感化迅速である、ということを説いているのではあるまいか。識者の御教授を乞うものである。
「遄〔か〕に」は「すみやかに」と訓じた。
「皮鞴」は対句表現からは「紅爐」に合わせて「ひはい」と音読みすべきであろうが、私は「ふいご」、もっと言うなら吹革という正しい当て字音たる「ふいごう」と読みたい。
「巨鏞」は「きよよう」と読み、巨大な釣鐘のこと。
「緇徒」の「緇」は墨染めの衣のことで、僧・僧侶。杲禅師を指す。
「雕甍」は「てうばう」と読み、彫刻を施した瓦のこと。
「鏤む」は「ちりばむ」と読む。
「蘭溪の雲仍」とは「蘭溪道隆の法嗣を受けた九代目」という意味か。仍孫(じょうそん)・雲孫という語があり、これは続柄で直系九世に当たる子孫を言う。子・孫・曽孫・玄孫・来孫・昆孫・仍孫・雲孫の順である。
「丕〔い〕に」は「おおいに」と読む。
「爐鞴」は素直に「ろはい」と読んでおく。
「鳧氏」は「ふし」と読む。釣鐘や鉦鼓は中国神話にあっては音楽を司る、この鳧氏が創ったとされる。
「離婁」は「りろう」と読む。離朱とも。やはり中国神話上の人物で、視力抜群で百歩離れた所からでも毛の先端を見極めた。そこから「離婁の明」(視力・眼力が人並みはずれて優れていること)という語も生まれた。ここでは細心の注意を要する繩をもって鐘を吊り上げる職人の技を賛美・言祝ぎしているのであろう。
「楞」は「ろう」で、四角く、角張っていることを言う。
「洪纎考撃」不詳。識者の御教授を乞う。
「輷り」の「輷」は音「コウ」、訓で「とどろく」と読むが、明らかな「リ」の送り仮名であるから、ここは「なり」(鳴り)と読んでいるのであろう。
「龍象」は学徳優れた高僧、又はその僧が住む場所を言う。
「犇馳」は「ほんし」と読み、文字通り、走らせること。
「聾夢」は「ろうむ」で、仏の教えに対して無知蒙昧であることを比喩したものであろう。
「宗乘」とは禅宗にあって宗義や悟達の境地を言う語。他の教えを余乗と称して宗門内で区別した。
「旹に」は「ときに」(時に)と読む。
「輯〔む〕る」は「まとむる」と訓じておいた。
「天和第二」「天和」は「てんな」と読む。西暦一六八二年。この年、元禄文化を代表する井原西鶴の「好色一代男」が発刊された。また、この鐘がなった七箇月後の十二月二十八日、有名な通称お七火事、天和の大火が江戸で起こっている。]

平の時賴トキヨリ荼毘所ダビシヨ 佛殿のカタハラにあり。【東鑑】に弘長三年十一月廿二日、戌の刻に、入道正五位下行相模の守平の朝臣時賴、年三十七、最明寺の北亭にて卒去。臨終のヨソヲヒコロモ 袈裟ケサチヤク繩床ジヤウジヤウに上り、坐禪し、イササか動搖の無し。頌に云く、葉鏡高く懸る、三十七年、一搥打碎、大道坦然と。同く廿三日葬禮すとあり。時賴トキヨリ、奉佛修禪事(佛に奉じ、禪を修する事)、【元亨釋書】願雜王臣の下に傅を出せり。按ずるに、【東鑑】に相州時賴トキヨリ山の内のテイと有は、此最明寺の地也とみへたり。

玉澗ギヨクカン 佛殿の前の川を名く。 維新橋 玉澗の橋を名く。

六國 佛殿のウシロゆる高山なり。圓覺寺のウヘの山なれども、明月院の十景の一なる故に爰に記す。安房アハ上總カヅサ下總シモフサ武藏ムサシ相模サガミ伊豆イヅの六國見ゆ。故に名く。

○明月院 明月院は、禪興寺の東にあり。開山は密室守嚴和尚、大覺の法孫ナリ上杉安房守憲方ウヘスギアハノカミノリカタの建立。憲方ノリカタを明月院天樹道合テンジユダウガフと號す。應永元年甲戌十月廿四日逝去、六十歳。本尊觀音、ハラウチに小佛像數千あり。大日虛空藏・愛染の像也と云ふ。密室の木像あり。此の院は、昔は禪興寺の塔頭タツチウなり。今は禪興寺方丈とす。建長寺領の内、三十一貫文、此寺に附す。

   寺寶

九条の袈裟 壹頂 藕絲にてると云ふ。黄龍より千光、千光より大覺、大覺より無及、相承して今に存す。
[やぶちゃん注:「藕絲」は「ぐし」と読み、蓮の茎から採った糸のこと。]

舍利 壹粒 金塔に入。源の義經ヨシツネ マモりの舍利。古河コガの御所よりこれを納む。金文紗の直垂ヒタタレの袖にツヽんで有しを、袖は古河にノコすと云ふ。
[やぶちゃん注:「古河の御所」は古河公方(室町後期から戦国にかけて下総国古河(現・茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳四(一四五五)年に第五代鎌倉公方足利成氏が享徳の乱の折りに鎌倉から古河に本拠を移して以来、古河公方と呼称)にあった古河城。渡良瀬川東岸にあって、古河御所とも呼ばれた。

「金文紗」は「金紗・錦紗」のことであろう。紗の地に金糸などを織り込んで模様を表した絹織物を言う。]

布袋の木像 壹軀 運慶が作。 牡丹の繪 貳幅對 超昌が筆なり。牡丹花種々あり。一種ごとに、其のカタハラに金字にて花の名を書す。

二十八祖の畫像 萱幅 唐畫。 鶴の繪 壹幅 筆者不知(知らず)。

鳩の繪 壹幅 宋の徽宗皇帝の筆と云傳ふ。

禪興寺幷に明月院の地圖 壹枚 圖の面に源氏滿ウヂミツの花押あり。ムカシ繁昌ハンジヤウの時の圖也。

中峯自贊の像 壹幅 贊に曰く、天目山不遠、遠山在眉睫、要識幻住眞、畫圖難辨別、春滿錢塘潮、秋湧西湖月、覿面不相瞞。也是眼中屑、遠山華居士、冩幻影請汚老幻、明本信筆とあり。〔讚の中に幻住と有は中峯の菴号なり。〕
[やぶちゃん注:「中峯」とは中峰明本(ちゅうほうみょうほん 一二六三年~一三二三年)のこと。先に掲げた「勅諡正宗廣智禪師古先元和尚の行狀」にも登場した中国元代の禅僧。杭州銭塘県(現・浙江省杭州市)出身。字は中峰、号は幻住道人、諡は智覚禅師。十五歳で出家、一二八六年に天目山獅子巌高峰原妙に師事、一二八九年には原妙から心印(以心伝心による悟り)を伝授された。一二九五年、原妙は没するに際し、明本に住持を継がせようとしたが、明本は固辞し、第一座の僧に譲って、自身は山を下った。後、遊行行脚、幻住庵と名づけた庵を各地に造って、そこに仮寓した。如何なる名刹からの慫慂にも応ぜず、時の皇帝仁宗の招聘にも応じなかったが、それでも金襴の袈裟と号・院号を下賜された高僧である。先に示した古先印元などの渡中した日本人僧が参禅しており、その際に下された品と思われる(以上の事蹟はウィキの「中峰明本」を参考にした)。以下、「贊」を影印の訓点に従って書き下す。
天目山遠からず、遠山眉睫に在り。幻住が眞を識〔ら〕んことを要せば、畫圖辨別し難し。春は滿〔つ〕錢塘の潮、秋は湧〔く〕西湖月、覿面相ひ瞞せず。是れマタ眼中の屑、遠山華居士、幻影を冩して老幻を汚〔さ〕んことを請ふ。明本筆に信ず。
「覿面」は「てきめん」、目のあたりにして、の意。]

指月和尚の畫像 壹幅 贊に曰、虛空五彩畫雲端、無相相還眞相看、應物現形福源水、指頭明月影團々、右前禪興明月堂指月和尚肖像、嫡弟仙溪首座、繪之、就于老衲需贊揚、不贅成云、天文、龍集辛亥、季春廿一日。建長修幻道人釋祖台、書于聽松軒下。
[やぶちゃん注:以下、賛を影印の訓点に従って書き下したものを示す。
虛空五彩雲端に畫く。無相の相は眞相に還〔り〕て看よ。物に應じて形を現す福源の水、指頭の明月影團々、右は前の禪興明月堂指月和尚の肖像、嫡弟仙溪首座、之を繪〔き〕て、老衲に就〔き〕て贊揚を需む。贅成せずと云ふ。天文、龍辛亥に集〔ま〕る。季春廿一日 建長修幻道人釋の祖台、聽松軒下に書す。
なお、この「仙溪」なる僧については、個人のHP「ルーツ座間」の「座間と鎌倉」に考証がある。]

玉隱和尚の畫像 壹幅 贊有。文字湮滅して不分明(文明ならず)。
  已上

カメの井 院の後ろにあり。鎌倉十井の一つなり。

上杉道合ウヘスギダウガフの石塔 方丈の西北に岩窟イハヤをほり、其の中にあり。十六羅漢を窟中の兩方に切付キリツケたり。中央は釋迦多寶なり。【鎌倉九代記】には、上杉ウヘスギ安房の守入道道合ダウガフは、應永元年十月廿四日、アシタシモ諸共モロトモ消行キヘユキける。シカバネをば極樂寺に送りて、草根一堆のツカヌシとなすとあり。然らば此には石塔ばかりるか。

明月院の舊跡 道合ダウガフ石塔の前のハタケ也。昔は此に憲方ノリカタ靈屋タマヤ有しとなり。

[淨智寺圖]
[やぶちゃん注:本図は補正効果が出ないほどに印刷のスレがひどい。]
◯淨智寺 淨智寺ヂヤウチジは、明月院のムカフなり。金峰山と號す。五山の第四なり。平の師時モロトキ建立。師時モロトキを淨智寺と號す。法名は道覺と云。寺に牌あり。開山は宋の佛源禪師、諱は正念大休と號す。文永六年に來朝す。【元亨釋書】に傳あり。當寺は、宋の兀菴禪師の開基なれども、後宋に歸る時、附法の弟子眞應禪師壯年なり。故に佛源にコトバを遺す。因て眞應・佛源禪師を開山とも云なり。今寺領六貫百文餘あり。【鎌倉大草子】に、京の村雲ムラクモの大休寺の開基妙喆メウテツ侍者は、夢蔥國師の法眷にて、源の直義タヾヨシの歸依僧なり。關東へ下向、淨智寺に住し、大同妙喆ダイドウメイテツ和尚と號す。悟道發明の人にて、正念に終り給ひし事、寺の舊記に殘れり。しかれども【太平記】には、曾てしらざる事を、いかなる無智愚盲のわざりやありけん、妙喆メウテツ妙吉メウキツと書、或は愛宕アタゴの天狗の化したると記し置たりとあり。
[やぶちゃん注:「平師時」は北条師時(建治(一二七五)年~応長元(一三一一)年)。第十代執権。浄智寺は第五代執権時頼三男北条宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は北条師時とされるが、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。以下の開山の経緯についても本文にある通り特異で、当初は日本人僧南洲宏海(「眞應禪師」は彼の諡号)が招聘されるも任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧ごったんふねいを開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に没している。
「京の村雲の大休寺の開基妙喆侍者」の「大休寺」については、本文にも示されている「太平記」巻二十六の「妙吉侍者事付秦始皇帝事」の中に夢窓國師の弟子である「妙吉侍者と云ける僧」を以て、足利直義が「一条堀川村雲の反橋もどりばしと云所に、寺を立て宗風を開基」し、「馬門前に立列僧俗堂上に群集す。其一日の布施物一座の引手物なんど集めば、如山可積」という繁盛振りを見せたとあり、これがここに示された大休寺(若しくはその前身)であったと考えられる。
「妙喆侍者」(?~正平二一・貞治五(一三六六)年:但し、没年については正平四・貞和五(一三四九)年説もあり)は臨済宗の禅僧。陸奥国福島の出身で下野国雲巌寺の高峰顕日(仏国国師)から嗣法、京都北禅寺(後の安国寺)を開山、京都真如寺や浄智寺の住持を務め、浄智寺では作庭も行っている。「侍者」は本来、仏や菩薩に近侍する者の言いであるから、ここでは高僧に従う僧の身分を表す謂いではない。ただ、「太平記」での「妙吉」は、荼枳尼の修法を操って、直義の盲目的帰依を勝ち取り、妙吉に批判的であった室町幕府内の直義の対立勢力高師泰・師直兄弟を秦の滅亡をベースにした作話で批判した話で煽り、後の観応の擾乱を醸成せんとする佞僧として描かれている。「愛宕の天狗の化したると記し置たり」というのは妙吉の、悪意に満ちたこの煽りのエピソードの末尾に「太平記」作者が記したコメント「仁和寺の六本杉の梢にて、所々の天狗共が又天下を乱らんと様々に計りし事の端よと覚へたる」を言っているものと思われる。これは「太平記」巻二十五に記された幕政を操ろうとする僧階級の奸計への批判を、この権力欲と奸智に満ちた妙吉に敷衍した表現と思われる。HP「南北朝列伝」の「妙吉」の解説によれば「太平記」では、この妙吉自身が南朝方の怨霊によって乱を起こすために操られているという設定であると記す。更に、本記載にもある「鎌倉草紙」について、この妙吉が同時代にいた高僧大同妙喆と同一人物とする話が「鎌倉大草紙」に載っており、『妙喆は江戸初期に編纂された名僧列伝「本朝高僧伝」にも伝記が載る人物で、陸奥国の生まれで高峰顕日の弟子ということでは確かに夢窓疎石と兄弟弟子の関係にある。京の北禅寺・真如寺、鎌倉の浄智寺などに移り住んだ人物だが、「大草紙」は『直義の師で、師直に憎まれて鎌倉に下り浄智寺に入った』との記述をした上で『よく物を知らない太平記の作者はこれを「妙吉」と誤記した上に愛宕の天狗の化身のように書いている』と批判している。この記事をもってこの二人が同一人物とする説もあるのだが、「大草紙」自体が「太平記」より百年も後に書かれていること、「園太暦」が「妙吉」と明記していること、「高僧」イメージとのギャップから否定的にみる意見の方が強い』(記号の一部を変更した)とある。「園太暦」は「えんたいりゃく」と読み、南北朝期の公家洞院公賢とういんきんかたの日記。そもそもが「太平記」は歴史物語であって虚構性が結構強く、この見解が正しい気が私はする。
「法眷」は「はふけん」又は「ほつけん(ほっけん)」と読み、同じ師について学ぶ法燈の仲間を言う。
「正念に終り給ひし」とは、釈迦の正しき教えに導かれて物事の本質をあるがままに捉え、常に真理を求めて邪念に捕われることがあられなかった、という意。]

外門 ムカシ、佛光の筆にて、寶所在近と額有しと也。今はホロびたり。

山門 昔し、解脱門と額有しとなり。今はなし。

佛殿 本尊は釋迦・弥勒・阿彌陀なり。作者不分明(作者分明ならず)。

寺寶

韋駄天 壹軀 宅間法眼が作。

地藏の像 壹軀 運慶が作。

平の貞時の證文 貮通。

   已上

鐘樓 門を入左にあり。鐘の銘如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、底本では鐘銘は全体が二字下げ。]
   相州金峯山淨智禪寺鐘銘
            東海小比丘仁叟碩寛撰
須彌南畔、吠瑠璃樹下、日域、關東道、相模州鎌倉府、金峯山、淨智禪寺、雖爲湘山五峯一員、二百年來、寶殿荒廢矣、而今環寺殘衆相議、而企一宇鼎建之功、鑄小鐘以掛旃、銘曰、鹿山之巽、龜谷之乾、五岳靈地、八州福田、功德成就、淨智同圓、橐龠已奮、模範爰連、華鐘陶鑄、蒲牢完全、雖爲形小、預先禮專、攪凡鳧眠、結聖諦緣、宵分百八、靜慮三千、法規茂々、號令闐々、檀門久遠、宗風永扇、常輝舜日、伏望堯天、十方擧世、祝太平年、慶安二己丑歳、八月初七日、勸進耆舊、龜齡・禪・歴、掌財監寺、是滿、助緣、崇逸、同禪積、同元成、冶 工武州江都住宇多川甚左衞門藤原親次。
[やぶちゃん注:以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。
   相州金峯山淨智禪寺鐘の銘
            東海小比丘仁叟碩寛撰
須彌の南畔、吠瑠璃樹下、日域、關東道、相模の州鎌倉府、金峯山、淨智禪寺は、湘山五峯の一員〔と〕爲すと雖ども、二百年來、寶殿荒廢す。而今〔イ〕ま環寺の殘衆相〔ひ〕議して、一宇鼎建の功を企て、小鐘を鑄て以〔て〕旃を掛く。銘に曰〔く〕、鹿山のタツミ、龜谷のイヌヒ、五岳の靈地、八州の福田、功德成就、淨智同圓、橐龠已に奮ひ、模範爰に連〔な〕る。華鐘陶鑄して、蒲牢完全なり。形ち爲ること小なりと雖〔も〕、預め禮の專〔ら〕ならんことを先にす。凡鳧の眠を攪き、聖諦の緣を結ぶ。宵分百八、靜慮三千、法規茂々、號令闐々、檀門久遠、宗風永く扇き、常に舜日を輝〔か〕し、伏して堯天望〔ま〕ん。十方擧世、太平の年を祝す。慶安二己丑の歳、八月初七日、勸進の耆舊、龜齡・禪歴、掌財の監寺、是滿、助緣、崇逸、同禪積、同元成、冶工武州江都の住宇多川甚左衞門藤原親次。
「旃」は音「セン」、訓で「はた」(旗)。寺院に掲げて庶人を招く旗指物のこと。
「橐龠」は音で「タクヤク」、当て読みで「ふいご」(鞴)である。
「凡鳧の眠を攪き」は「ぼんふのみんをかき」と読み、「凡鳧」は普通の雁、転じて凡夫の衆生の比喩か。
「聖諦」は「しやうたい」と読み、苦集滅道の四諦、仏道を明らめた聖が見る絶対の真理を指す語。
「闐々」は「てんてん」と読み、勢いの盛んなさま、活力に満ちているさま。
「耆舊」は「ききう」と読み、「耆」は六十歳の別称で耆旧で年寄り・老人のことを言う。]

開山塔 藏雲菴と名く。佛源の塔には非ず。眞應禪師の塔也。眞應諱は宏海、號南洲。嗣法兀菴(南洲と號す。兀菴に嗣法す)。

甘露井カンロセイ 開山塔のウシロる淸泉を云なり。門外左の道端ミチバタに、淸水き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。

盤陀石バンダセキ 開山塔の後ろにあり。
[やぶちゃん注:挿入画を見る限り、円柱状の巨石であるから、これは恐らく現在の山西省東北部五台県にある古来からの霊山五台山(普陀山)にある奇霊石である盤陀石に倣ったものであろう。ただ、この石、現在の浄智寺では少なくとも私は見たことがない。]

正紹菴 佛宗禪師、諱は崇喜、嗣法佛光(佛光に嗣法す)。上野の國の人也。元亨三年六月八日示寂。今此一菴ばかりあり。

正源菴 佛應禪師、諱は妙準、號太平。嗣法佛國(太平と號す。佛國に嗣法す)。

龍華山眞際精舍 法海禪師、諱は靜照、號無象。嗣法石溪(無象と號す。石溪に嗣法す)。

正覺菴 佛性禪師、諱は妙受、號天菴、嗣法佛國(天菴と號す。佛國に嗣法す)。

楞伽院 竺仙和尚、諱は梵僊、嗣法古林(古林に嗣法す)。明州の人。元德二年來朝、貞和四年戊子七月十六日示寂、世壽五十七。
[やぶちゃん注:「楞伽」は「りようが」と読み、大乗仏典の一つである楞伽経に由来する。経の中に禅について説かれているため、中国初期の禅宗では特に重じられた。]

大圓菴 別傳和尚、諱は妙胤、嗣法虗谷(虗谷に嗣法す)。

同證菴 心聞和尚、諱は令聞、嗣法南峯(南峯に嗣法す)。

正印菴 大同和尚、諱は妙哲、嗣法佛國(佛國に嗣法す)。

興福院 大見和尚、諱は妙喜、嗣法大年(大年に嗣法す)。

福生菴 義耕和尚、諱は可田。
 右塔頭の名、【關東五山記】に有といへども、皆廢亡す。

[東慶寺圖]

◯松岡 松岡マツガヲカは、圓覺寺の南ムカフなり。東慶寺と號す。比丘尼寺にて、禪宗也。開山は北條ホフデフ平の時宗トキムネの室、秋田城介義景ジヤウノスケヨシカゲムスメ貞時サダトキハヽなり。潮音院覺山志道和尚と號す。時宗トキムネ、弘安七年四月四日に卒去。明年落飾して當寺を創す。十月九日開山忌あり。第二世は龍海の雲和尚、第三世は淸澤和尚、第四世は須宗和尚、第五世は、用堂和尚、後醍醐天皇の姫宮ヒメミヤなり。山に入て薙染受具し玉ふ。應永三年丙子八月に示寂なり。第六世は仁芳の義和尚、第七世は簡宗の擇和尚、第八世は松圭の杉和尚、第九世は應礀の化和尚、第十世は甘聰の棠和尚、第十一世は柏室の樹和尚、第十二世は靈菴の鷲和尚、第十三世は即翁の心和尚、第十四世は聞璋見和尚、第十五世は明玄遠和尚、第十六世は渭繼※和尚、第十七世は旭山の晹和尚、生實ヲヒミ〔或作小弓非也(或は小弓ヲユミに作るはなり)。〕御所ゴシヨ八正院源の義明ヨシアキラの息女なり。弘治三年七月十日に示寂。第十八世は瑞山の祥和尚、第十九世は瓊山淸和尚、喜連川キツレカハ源の賴純ヨリズミの息女なり。第二十世は天秀の泰和尚、豊臣秀賴トヨトミヒデヨリの息女なり。元和元年に東照大神君の命に依て、山に入〔り〕薙染す。時に八歳。正保二年乙酉二月七日に示寂、佛殿の後に石塔あり。第二十一世は永山和尚、喜連川キツレカハ源の尊信タカノブ息女。則ち今の住持なり。寺領百二十貫文也。
[やぶちゃん注:「※」=「王」+「廣」。第九世の法号にある「礀」の字は底本では「閒」が「間」、影印では「閒」が「問」であるが、どちらの字もなく、「間」は「閒」と同字であるから、「礀」とした。音は「ケン・カン」である。谷の意。
「晹」は音「エキ・セク・セキ・シャク」で、蔭るの意。
「源の義明」足利義明(?~天文七(一五三八)年)室町後期の武将。第二代古河公方足利政氏の子で第三代の足利高基の弟。若くして出家していたが、父と兄が対立して内紛状態となると、還俗、ここで足利義明と名を改め、関東各地で勃発した個別な小権力闘争に加わり、上総国真里谷城主武田信清の支援を受けて、下総国の千葉氏配下の小弓城を攻略占拠した。小弓公方を自称して親族の古河公方方と独立して対峙した(本文ではこの呼称を非としているのは不審)。後、信清と対立、信清が没すると真里谷武田氏の内紛に介入、武田信隆を追放して武田信応を当主とした。一方、追放された信隆は足利高基とその子晴氏に加え、相模国の後北条氏と同盟して義明と敵対、天文七(一五三八)年、義明は大軍を率いて下総国国府台に出陣、北条氏綱と決戦、善戦したがここで戦死している(以上は主にウィキの「足利義明」を参照にした)。
「喜連川源の賴純」足利頼純(天文元(一五三二)年~慶長六(一六〇一)年)。別名、喜連川頼純。但し、正しくは頼純ではなく頼淳であるらしい。足利義明次男、小弓公方家当主。国府台合戦での父義明の戦死後、落ちのびた安房国里見義康の元で庇護を受け、後、後北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐によって下総から兵を撤退、それに乗じて里見氏とともに父の本拠地小弓城を奪還したと推定されている。後に秀吉(頼純娘が側室)に大名への復帰を許されて下野国喜連川城を領した(以上はウィキの「足利頼純」を参照した)。
「天秀の泰和尚」は俗名奈阿姫(なあひめ)、法号は天秀法泰(慶長十四(一六〇九)年~正保二(一六四五)年)と称す。記されるように豊臣秀頼の娘で、元和元(一六一五)年大坂城落城の際に捕えられて処刑されそうなるが、秀頼正室にして徳川秀忠の娘、家康によって大阪城から救出された千姫(天樹院)が養子として救命した。その後、同年中に当時の東慶寺住持瓊山法清の付弟(ふてい:寺にあって法燈を嗣ぐべき者として選ばれた弟子をいう。)として入山した。円覚寺黄梅院古帆周信に学び、沢庵宗彭にも参禅を試みたという才媛であった。寛永二十(一六四三)年のこと、圧政を敷いていた愚昧な会津藩主加藤明成と対立して出奔した功臣にして筆頭家老であった堀主水の妻子がこの東慶寺に逃げ込んだが、明成は探索の末、高野山に逃れた主水のみならず、この妻子も兵を送って捕縛、堀一族諸共に処刑してしまった(会津騒動)。この暴挙を天秀尼は天樹院に訴え出、圧倒的な明成批難の世論の中、明成は所領没収となった。現在、縁切り寺として知られる東慶寺の縁切寺法の本格的な整備は、この天秀尼の入山に負うところが大きい(以上は、主に「朝日歴史人物事典」の牛山佳幸氏の解説を参考にした)。
「喜連川源の尊信」は喜連川尊信(元和五(一六一九)年~承応二(一六五三)年)のこと。江戸前期の大名。先に挙がっている「喜連川源の賴純」足利賴純の嫡流を汲む。下野喜連川藩主喜連川家三代当主。家臣間抗争であった喜連川騒動を鎮静できなかった責任を問われて慶安元(一六四八)年、幕府により隠居させられた。
不思議なことに本記載には、縁切寺法の記載が一切見られない。これは何故だろう? 識者の御教授を乞うものである。縁切寺法には幾多の解説サイトがあるので省略するが東慶寺公式HP年表によれば、幕末の慶応二(一八六六)年の駈入り女人は四十二名、寺法による在寺者が四名、逗留者が一名で実に四十七名に及んだ旨、日記に記録されている。この画期的な女人救済法も、明治四(一八七一)年に社寺領上地令によって明治政府が寺領没収したのと同時に、縁切寺法も禁止されてしまった(東慶寺HPのこの歴史解説部分には明治六年五月に『「人民自由の権利」によって松ヶ岡の寺法は、裁判所に引き継がれ、女性も男性同様に離婚の申し立てができるようになった』と記されてあるが、この楽観的なもの謂いにはやや疑問を感じる)。駈込み寺としての機能を失った東慶寺は明治三六(一九〇三)年に男性の古川堯道老師が男僧第一世住持となって尼寺としての格をも失い、円覚寺の塔頭のように変質してしまう。私は東慶寺が永遠に尼寺であったらと、今も夢想する。]

山門 額、東慶寺禪寺とあり。

佛殿 本尊、釋迦・文殊・普賢、共に金銅の像なり。

鐘樓 山門外、右にあり。此寺のカネは、小田原ジンの時失して、今カネは、松が岡の領地にて、農民ほり出したりと云ふ。銘を見るに補陀落寺フダラクジの鐘なり。故に此鐘の銘は補陀落寺の條下に記す。此寺の昔の鐘の銘今尚殘れり。其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が二字下げ。]
  相陽山内松岡東慶寺鐘銘
梵刹置鐘兮、令人天休息輪廻苦、利大矣、松岡住山了道長老、以寺用百緡鑄洪鐘、求銘於圓覺淸拙叟、銘曰、松岡之山、寺曰東慶、鐵磨花宗、末山芳省、緇流駢羅、禪學鼎盛、必假洪鐘、發號施令、孔方載馳、工※是命、爐鞴奏功、範摸畢正、簨簴既張、蒲牢斯震、晨興夜坐、朝諷夕詠、鯨音一吼、趍集卒敬、左建右圓、天近樓迎、新聲飄揚、邇遐應、層旻聞聰、厚壤徹聽、十虗消殞、五濁淸淨、聞塵忽空、返我聞性、檀門福壽、紺園殊勝、千秋萬年、國界安靜、壬申、元德四年、結制後二日、都寺比丘尼遠峯性玄、首座比丘尼無染親證、住持比丘尼果菴了道、大檀那菩薩戒尼圓成。〔圓成は平の貞時の室の戒名なり。了道は、或人の曰〔く〕、當寺第六世仁芳と共に兩住持也と。然れども第六世にては、時代相應せず。何代目の住持と云〔ふ〕事未考(未だ考へず)。〕
[やぶちゃん注:「※」=(にんべん)+「埀」。この鐘は現在、静岡県伊豆の国市韮山にある本立寺に移されて現存している。以下、鐘銘を影印の訓点に従って書き下したものを示す。
  相陽山内松岡東慶寺鐘の銘
梵刹鐘を置〔き〕て、人天をして輪廻の苦を休息せしむ。利大なり。松が岡の住山了道長老、寺用百緡を以て洪鐘を鑄、銘を圓覺の淸拙叟に求む。銘に曰〔く〕、松が岡の山、寺を東慶と曰〔ふ〕。鐵磨の花宗、末山の芳省、緇流駢羅、禪學鼎盛、必ず洪鐘を假〔り〕て、號を發し、令を施す。孔方載ち馳せ、工※是れ命ず。爐鞴功を奏め、範摸畢く正し、簨簴既に張〔り〕て、蒲牢斯に震ふ。晨興夜坐、朝諷夕詠、鯨音一たび吼へて、趍集して卒く敬す。左建右圓、天近く樓迎ふ。新聲飄揚、邇〔く〕はし、遐〔く〕は應ず。層旻聞〔く〕こと聰く、厚壤徹聽す。十虗消殞、五濁淸淨、聞塵忽ち空して、我が聞性に返る。檀門福壽、紺園殊勝、千秋萬年、國界安靜、壬申、元德四年、結制の後二日、都寺の比丘尼遠峯性玄、首座の比丘尼無染親證、住持の比丘尼果菴了道、大檀那菩薩戒尼圓成。
「緇流駢羅」は「しりゆうべんら」と読み、「緇」は墨染めの衣で「緇流」で僧侶世界をいい、「駢羅」は馬を並べることであるから、優れた学僧が引きも切らずやってくることを言うか。
「鼎盛」は正に今現在盛んである、という意。
「孔方」は「孔方兄」(こうほうひん)の略で、「兄」の「ひん」という音は仏教用語にしばしば見られる唐音である。魯褒の「銭神論」の「親愛すること兄の如く、字して孔方と曰ふ」に基づき、銭(ぜに)の異称である。
「載ち」は「すなはち」、「畢く」は「ことごとく」と読む。
「簨簴」は「しゆんきよ」と読み、鐘を架けるための横木をいう。
「趍集」は「ちしふ」と読み、走り集まること。
「卒く」も「ことごとく」と読む。
「邇〔く〕」は「ちかく」(近く)、「遐〔く〕」は「とほく」(遠く)と読む。
「元德四年」は西暦一三三二年、鎌倉幕府滅亡の前年である。
「結制」とは「結夏」(けつげ)のことで、寺院にあって夏安居(げあんご:夏の暑い時期、外出をせずに一所に籠もって修行を行うこと。)を始めた日のことで、陰暦の四月十六日を言う。]

蔭凉軒 方丈の北にあり。

海珠菴 山門を入〔り〕右にあり。

永福軒 山門を入〔り〕左にあり。

靑松院 佛殿の東北にあり。

妙喜菴 靑松院の北なり。
  右皆脇寮ワキリヤウなり。
[やぶちゃん注:「脇寮」は塔頭に同じい。]

[圓覺寺圖]
[やぶちゃん注:原図の汚損が激しく、補正を加えた結果、黄変が生じた。悪しからず。]
○圓覺寺 圓覺寺エンガクジは、瑞鹿山ズイロクサンと號す。五山の第二なり。相模の守平の時宗トキムネ、弘安年壬五臘月八日に建立。開山は宋の佛光禪師、諱は祖元、字は子元、弘安二年に來朝。【元亨釋書】に傳あり。今寺領百四十貫文あり。
[やぶちゃん注:「臘月」は十二月。]

白鷺池ハクロチ 門の左右にる池を云ふ。開山來朝の時、八幡大神、白鷺ハクロと化して、鎌倉の郷導をなし、此池にトヾまれり。因て此地に寺を建立す。是の故に白鷺池と名くと云ふ。

外門 今は無し。妙莊嚴域と云額有しとなり。

總門 額、瑞鹿山とあり。後光嚴帝の宸筆なり。

山門の跡 山門は今ホロびて、礎石のみあり。額、圓覺興聖禪寺とあり。花園帝の宸筆也。此所に鐘あり。鐘樓もなく、四柱を立て小鐘を懸たり。メイを見れば、長壽寺の鐘なり。何れの時こゝに移し置たる事歟。寺僧も不知(知らず)。銘は長壽寺の條下に記す。

佛殿 額、大光明寶殿とあり。後光嚴帝の宸筆なり。春屋の添狀あり。曰く、貴寺佛殿の寶額、染勅筆降賜候(勅筆を染めて降〔し〕賜〔は〕り候)、誠に山門千歳の恩澤、叢林萬方の光輝に候哉、珍重々々、正月廿五日妙葩とあり。祈禱の額は夢窻の筆なり。本尊は寶冠の釋迦・梵天・帝釋、郷殿キヤウトノが作なり。祖師堂に、達磨百丈・臨濟、開山の像あり。前住の牌あり。土地堂に、伽藍神、又代々將軍の牌あり。
[やぶちゃん注:以下、梁牌銘は底本では全体が一字半下げ。]
  梁牌銘
皇圖益固、猶逾億萬斯年、民士淸平、廣統三千刹海、本寺大檀那、左中將征夷大將軍源朝臣義滿敬立。〔東方。〕佛域新開、儼靈山法筵日、祖庭深密、榮少林華木春、永和二年丙辰十月念九日、庚辰、當代住持嗣祖沙門此山妙在謹題。〔西の方。按ずるに此山妙在は、當山第四十三世、定正院の開基也。〕
[やぶちゃん注:「春屋」は室町期の臨済宗の禅僧春屋妙葩(しゅんのくみょうは 応長元年(一三一二)年~元中五・嘉慶二(一三八八)年)。五山十刹制度を創始、五山派を興して五山文化に大きく貢献した僧として知られ、京の名刹天龍寺・南禅寺・相国寺・臨川寺などの住持となった。諡号、知覚普明国師。師は母方の叔父であった夢窓疎石。「郷殿」という仏師は不詳。識者の御教授を乞う。以下、梁牌銘を影印の訓点に従って書き下したものを示す(東方の牌と西方の牌を改行した)。なお、「民士淸平」は「鎌倉市史 資料編第二」の二一九「圓覺寺佛殿梁牌銘」には「民土淸平」とするが、影印も「鎌倉攬勝考卷之四」でも「士」とする。意味からは「土」が正しいように見受けられるが、暫くママとする。識者の御教授を乞う。
  梁牌の銘
皇國益々固し。猶を億萬斯年を逾〔え〕ん。民士淸平、廣く三千刹海を統ぶ。本寺の大檀那、左中將征夷大將軍源の朝臣義滿ヨシミツ敬〔ひ〕て立つ。
佛域新に開き、靈山法筵の日より儼〔か〕なり。祖庭深密、少林華木の春より榮ふ。永和二年丙辰十月念九日、庚辰、當代住持嗣祖沙門此山の妙在謹〔み〕て題す。
「逾〔え〕ん」は「こえん」(越えん)、「儼〔か〕なり」は「おごそかなり」と訓じた。
「念九日」は「廿九日」のこと。「廿」の俗音が「念」に通ずることから用いるという。]

明鏡堂跡 佛殿の東にあり。
方丈 聖觀音の木像を安ず。此像元は明鏡堂の本尊なりしが、堂頽破して、此に移し安ずと云ふ。毎月十八日、大衆懺法あり。
[やぶちゃん注:「懺法」は「せんぼふ(せんぼう)」と読み、経を誦して罪過を懺悔さんげをする法要。ここでは観音懺法。]

寺寶

佛牙舍利 長さ一寸二分〔水晶の塔に納む。正續院にあり。正續院は、モト舍利殿にて、祥勝院と號す。後に開山塔とす。【日工集】に、【正續院舍利記】に云、建仁開山千光、實朝大臣殿と世世ヨヽ互に師檀香火の緣あり。千光、大臣殿の命をけて宋に渡り、佛牙舍利を取て來る。今の正續院の佛牙是也とあり。又【舍利記】一卷、正續院に有。其文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:以下、梁牌銘は底本では全体が一字半下げ。]
  萬年山正續院佛牙舍利記
日本國、相州、鎌倉都督、右府將軍源實朝、一夕、夢到大宋國、入一寺嚴麗、因見長老陛座説法、衆僧圓繞、道俗滿庭、實朝、向傍僧問彼寺名、僧曰、京師能仁寺也、次問長老誰、僧曰、當寺開山南山宣律師也、又問宣律師入滅年久、何今現在、曰汝未知耶、聖者難測、生死無隔、應現隨處、律師今現再誕日本國、實朝大將軍是也、又問、長老左邊侍者是誰、僧曰、侍者今現再誕日本國、鎌倉雪下供僧良眞僧都是也、實朝、夢中問答數刻而覺、心中生奇異想、便以使者召良眞僧都、僧都又有夢、早晨詣幕府、使者於路上相遇、即隨使者參詣、實朝先問曰、僧都來何也、僧都仍悉説夢中事、實朝曰、與我夢合也、其時壽福寺開山千光和尚又有夢、三夢事不差、實朝自悟南山之後身、深希拜彼靈跡、仍廢世務思之在茲、因懷渡宋之志、便命工造船、諸官僚聚謀、令工作船不動之謀、船成以啓實朝、即致祓禊之祭、推欲泛海、果是船不動、以爲不祥而止矣、便遣十二人使節於大宋國、良眞僧都、葛山願成爲首、大友豐後守・小貮孫太郎・小山七郎左衞門・宇都宮新兵衞・菊池四郎・村上次郎・三浦修理亮・海野小太郎・勝間田兵庫・南條次郎等、齎金銀貨財、載材木器用、遂達大宋國京師能仁寺、相通夢中事、金銀施佛僧、材木修殿宇、衆僧不堪抃躍、聚議計報答、使者等語寺主曰、我國貸財不乏、況復將軍不欲也、深願佛牙舍利、借與一年、持還本國、使將軍致瞻禮結勝緣、將軍歡喜何物過此、寺主云、帝王有勅封、難出外國、使者等懇切請之曰、濳持深藏、不使人知、將軍信士也、一禮之後、速返謝、衆僧議授使者、寺僧數人、爲舍利伴使者來朝、道經京城、皇帝有旨留之、安内道場、保護供養、過半年餘、使者等空歸關東、言上事來由、右府、及數度奉使者、終不合叡慮、實朝大怒曰、天氣不憐我渡宋之意、還抑留舍利、遺恨次第也、外國有其例、起百萬兵奪一人僧、理猶必然、況是佛身舍利也、豈可比量、不如我只一人、上洛遂瞻禮、藤九郎盛長、年埀八十、白髮滿頭、已雖老蒙、聞實朝怒、思事可惡、扶杖參謁、泣諌實朝止之、眞忠臣之義也、躬自請使節、實朝許之、不日裝束、已及發行曰、今度逆旅、偏爲老翁浮沈、不思再生還、海道供奉者二千餘騎、遂達京城、不入旅邸、直詣内裏、奏聞實朝之愁訴、皇帝猶不聽、盛長跪庭上、大怒高聲叫云、走上宸殿必致自害、官僚相噪皆各奏聞、皇帝不悦、作勅封出舍利、盛長又奏、老翁於關東、悉聞良眞僧都願成等語舍利尊容、-見即知舍利尊容、而後面賜勅封爲幸、又有旨曰、然者疑勅封耶、又奏曰、勅封雖可恐、使節之義尋常如此、不賜一官許昇殿、面封舍利授之、盛長歓喜頸繫舍利、速出内裏不還旅館、即日直赴關東、先以使者報關東、實朝大喜預掃道路布荒薦、供奉數萬、新飾衣裳、實朝徒歩跣足、行待小田原館、盛長已到、捧舍利獻實朝、實朝受之、涕涙悲泣、燒香禮拜、便捧載小輿、實朝躬自舁肩、遠歸鎌倉、伶人前後奏舞樂、姣童左右擎旌蓋、萬人奉幣帛雲集、十方獻香花雨散、時又有瑞相、紅雲一道出鶴岡廟、擁舍利輿、皆道神靈來迎、南海波上峨冠者數百、連現合掌、良久沒、是又龍王出現歟、觀者驚歎、實朝愈流感涙、遂到鎌倉安勝長壽院、特建大慈寺遷之、毎年十月十五日、有舍利會、天下逆亂、飢饉疫病、旱魃洪水、世世於舍利塔前禱之、皆有靈驗、天災頓息、異國蒙古、文永・弘安、兩度侵本朝、祈禱塔前、兩度有瑞光、指西南方、其亂即息、關東代々都督、崇敬此舍利皆蒙德、鎌倉諺曰、國土平安、武運久長、皆依舍利崇敬受威靈云々、萩原天皇・後醍醐天皇、兩度有勅命雖被召、爲鎌倉鎭守之靈物故終無進獻、勅命兩度有叡感止之、最勝園寺殿〔平貞時。〕曰、佛牙舍利、自鎭關東埀二百年、崇敬因異它、我累祖安穩、鎌倉繁昌實不疑之所也、後代有怠、必喪運祚、圓覺妙場、鎌倉戌亥方也、鎭此舍利、永代爲鎌倉守護之靈祠也、便於圓覺寺、特剏舍利殿、以還大慈寺佛牙此也、記出問注所、史詞雖拙薄、理事分明、故存舊文、私不加筆削、勝長壽院乃大御堂也、大慈寺乃新御堂也、燬建武兵火云、舍利殿舊號祥勝院也、良眞房跡、今建長寺妙高菴、元弘三年癸酉七月八日綸旨云、可以圓覺寺舍利殿、爲開山常照國師塔頭之旨天氣也、今萬年山正續院也、觀應三壬辰四月十八日、征夷將軍、入山瞻禮佛牙舍利也、舍利奇瑞一件、在公方記録不載、中山和尚記録曰義時息女年八歳、俄有神託云、我自鶴岡來、垂跡於此境、年未久、草創事踈、身心不安、茲有奇特事、佛牙舍利、自大宋國、遙降臨此境、三界之寶、何物過此、我等日々時々致瞻禮、漸滅業報、然者垂跡此境、永代不有限、非唯我一神、日本國中天神地神、大神小神、禮敬無隙、福祿増長、此境衆生、盡得壽福、汝等諸人不知耶云、神即擧、
[やぶちゃん注:この驚天動地の実朝渡宋計画自体は実話であるが、後に見るように「新編鎌倉志」の編者も述べる通り、一般に知られる話柄とは極端に異なっている。本話が荒唐無稽な作話であることは、後半で安達盛長が登場することによって判然とする(それは後の「藤九郎盛長」の注で明らかにする)。――しかしこれ、面白い!――以下、「萬年山正續院佛牙舍利記」を影印の訓点に従って書き下したものを示す。直接話法部分に鍵括弧を使用した。
  萬年山正續院佛牙舍利の記
日本國、相州、鎌倉の都督、右府將軍源の實朝、一夕、夢に大宋國に到る。一寺に入れば嚴麗なり。因〔り〕て長老陛座説法〔を〕見る。衆僧圓繞し、道俗庭に滿〔つ〕るを、實朝、傍〔ら〕の僧に向〔ひ〕て彼の寺の名を問〔ふ〕。僧の曰〔く〕、「京師の能仁寺なり。」と。次に問〔ふに〕、「長老は誰そ。」〔と〕。僧の曰〔く〕、「當寺の開山南山の宣律師なり。」と。又問ふ、「宣律師は入滅年久し。何ぞ今現在する。」〔と〕。曰〔く〕、「汝未だ知らざるや。聖者測り難し。生死隔て無く、應現處に隨ふ。律師、今、現に再たび日本國に誕ず。實朝大將軍是なり。」と。又問〔ふ〕、「長老の左邊の侍者は是れ誰そ。」と。僧の曰く、「侍者、今、現に再たび日本國に誕ず。鎌倉の雪の下の供僧良眞僧都是なり。」と。實朝、夢中問答數刻にして覺む。心中奇異の想を生じ、便ち使者を以〔て〕良眞僧都を召す。僧都〔も〕又夢有り、早晨に幕府に詣る。使者路上に於〔い〕て相〔ひ〕遇ふ。即ち使者に隨〔ひ〕て參詣す。實朝先づ問〔ひ〕て曰〔く〕、「僧都來ることは何ぞや。」と。僧都仍〔り〕て悉く夢中の事を説く。實朝の曰〔く〕、「我が夢と合へり。」と。其の時、壽福寺の開山千光和尚〔も〕又夢有り、三夢、事、差はず。實朝ミ〔ヅカ〕〔ら〕南山の後身なりことを悟り、深く彼の靈跡を拜せんことを希ひ、仍〔りて〕世務を廢して之を思ふこと茲に在り。因〔り〕て渡宋の志を懷く。便ち工に命じて船を造らしむ。諸の官僚聚〔ま〕り謀〔り〕て、工をして船を作〔り〕て動かざるの謀をせしむ。船成〔り〕て以て實朝に啓す。即ち祓禊の祭を致〔す〕に、推して海に泛〔べ〕んと欲す。果して是の船動かず。以て不祥と爲して止む。便ち十二人の使節を大宋國に遣はず。良眞僧都・葛山の願成、首たり。大友ヲホトモ豐後の守・小貮シヤウニマゴ太郎・小山ヲヤマ七郎左衞門・宇都宮ウツノミヤ新兵衞・菊池キクチ四郎・村上ムラカミ次郎・三浦ミウラ修理のスケ海野ウンノ小太郎・勝間田カツマタ兵庫・南條ナンデウ次郎等、金銀貨財をモタラし、材木器用を載せ、遂に大宋國京師能仁寺に達し、夢中の事を相〔ひ〕通じ、金銀〔を以て〕佛僧に施し、材木〔を以て〕殿宇を修す。衆僧抃躍に堪へず、聚〔ま〕り議して報答を計る。使者等寺主に語〔り〕て曰〔く〕、「我が國貸財乏〔し〕からず、況〔ん〕や復た將軍欲せざるをや。深く願〔は〕くは佛牙の舍利、借與すること一年、本國に持し還り、將軍をして瞻禮を致し、勝緣を結ばしめん。將軍の歡喜何に物か此〔れ〕に過〔ぎ〕ん。」〔と〕。寺主の云〔ふ〕、「帝王勅封有り、外國に出〔だ〕し難し、使者等懇切に之を請〔け〕て曰〔く〕、「濳〔か〕に持し深く藏して、人をして知らしめじ。將軍は信士なり。一禮の後、速〔か〕に返謝せん。」と。衆僧議して使者に授け、寺僧數人、舍利の爲めに使者に伴〔ひ〕て來朝す。道京城に。皇帝旨有〔り〕て之を留め、内道場に安き、保護供養せしむ。半年餘を過〔ぎ〕て、使者等空〔し〕く關東に歸〔り〕て、事の來由を言上す。右府、數度に及びて使者を奉〔ず〕れども、終に叡慮に合はず。實朝大〔い〕に怒〔り〕て曰〔く〕、天氣、我が渡宋の意を憐〔れ〕まず、還〔り〕て舍利を抑留す。遺恨の次第なり。外國其の例有〔り〕、百萬の兵を起して一人の僧を奪ふ、理猶を必〔ずや〕然り。況〔ん〕や是〔れ〕佛身の舍利をや。豈に比量すべけんや。如かじ、我只一人、洛に上〔り〕て瞻禮を遂〔げ〕んには。」と。藤九郎盛長、年八十にナンナンたり。白髮頭に滿〔ち〕、已に老蒙と雖へども、實朝怒ると聞〔き〕て、事の惡かるべきを思ひ、杖に扶〔け〕られて參謁し、泣〔き〕て實朝を諌〔し〕て之を止む。眞の忠臣の義なり。躬自ミ〔ヅカ〕ら使節を請ふ。實朝之を許す。不日に裝束す。已に行を發するに及〔び〕て曰〔く〕、「今度の逆旅、偏〔へ〕に老翁が浮沈たり。再たび生きて還〔ら〕んことを思はず。」と。海道供奉の者二千餘騎、遂に京城に達して、旅邸に入らず、直〔ち〕に内裏に詣で、實朝の愁訴を奏聞す。皇帝猶を聽かず。盛長庭上に跪き、大〔い〕に怒〔り〕て高聲に叫〔び〕て云〔く〕、「宸殿に走り上〔り〕て必ず自害を致〔さ〕ん。」と。官僚相〔ひ〕噪〔ぎ〕て皆各〔々〕奏聞す。皇帝悦びず、勅封を作〔り〕て舍利を出〔だ〕す。盛長又奏すらく、「老翁關東に於〔い〕て、悉く良眞僧都・願成等が舍利の尊容を語るを聞けり。-たび見ば即ち舍利の尊容を知〔ら〕ん。而して後にマノアタりに勅封を賜はゞ幸ならん。」と。又旨有〔り〕て曰〔く〕、「然らば勅封を疑ふか。」と。又奏して曰〔く〕、「勅封恐るべしと雖へども、使節の義尋常此〔く〕のごとし。」と。一官を賜はざるに昇殿を許し、マノアタりに舍利を封して之を授く。盛長歓喜して頸に舍利を繫け、速〔か〕に内裏を出でゝ旅館に還らず、即日直〔ち〕に關東に赴く。先づ使者を以〔て〕關東に報ず。實朝大〔い〕に喜〔び〕て預〔め〕道路を掃ひ、荒薦を布く。供奉數萬、新〔た〕に衣裳を飾る。實朝徒歩跣足にて、行〔き〕て小田原の館に待つ。盛長已に到〔り〕て、舍利を捧〔げ〕て實朝に獻ず。實朝之を受〔け〕て、涕涙悲泣し、香を燒〔き〕て禮拜す。便ち捧〔げ〕て小輿に載す。實朝躬自〔ら〕肩に舁き、遠く鎌倉に歸る。伶人前後に舞樂を奏し、姣童左右に旌蓋を擎ぐ。萬人幣帛を奉じて雲のごとくに集〔ま〕り、十方香花を獻じて雨のごとくに散ず。時に又瑞相有〔り〕、紅雲一道鶴が岡の廟より出でゝ、舍利の輿を擁す。皆道ふ神靈來り迎ふと。南海の波上峨冠せる者數百、連〔な〕り現じて合掌し、良〔く〕久〔しく〕して沒す。是〔れ〕又龍王出現せるか。觀〔る〕者驚歎す。實朝愈々感涙を流す。遂に鎌倉に到〔り〕て勝長壽院に安ず。特に大慈寺を建てゝ之を遷す。毎年十月十五日、舍利會有り、天下の逆亂、飢饉疫病、旱魃洪水、世世ヨヨ舍利塔の前に於〔い〕て之を禱る。皆靈驗有り。天災頓に息む。異國の蒙古、文永・弘安、兩度本朝を侵す。塔前に祈禱す。兩度瑞光有〔り〕て、西南の方を指す。其の亂即ち息む。關東代々の都督、此の舍利を崇敬して皆德を蒙る。鎌倉の諺に曰〔く〕、『國土平安、武運久長、皆舍利崇敬に依〔り〕て威靈を受く。』と云々。萩原天皇・後醍醐天皇、兩度勅命有〔り〕て召さるると雖へども、鎌倉鎭守の靈物なるが故に終に進獻無し。勅命兩度叡感有〔り〕て之を止む。最勝園寺殿〔平の貞時。〕曰〔く〕、「佛牙の舍利、關東を鎭してより二百年に〔ナン〕/\たり、崇敬它に異なるに因〔り〕て、我が累祖安穩たり。鎌倉の繁昌實に疑はざるの所なり。後代怠り有らば、必〔ず〕運祚を喪さん。」と。「圓覺の妙場は、鎌倉の戌亥の方なり。此の舍利を鎭して、永代、鎌倉守護の靈祠と爲〔さ〕ん。」と。便ち圓覺寺に於〔い〕て、特に舍利殿を剏め、以て大慈寺の佛牙を此に還す。記、問注所より出づ。史詞拙薄なりと雖へども、理事分明、故に舊文を存して、私に筆削を加へず。勝長壽院は乃〔ち〕大御堂なり。大慈寺は乃〔ち〕新御堂なり。建武の兵火に燬くと云ふ。舍利殿舊と祥勝院と號す。良眞房の跡は、今の建長寺の妙高菴なり。元弘三年癸酉七月八日綸旨に云〔く〕、『圓覺寺の舍利殿を以て、開山常照國師の塔頭と爲べきの旨、天氣なり。』と。今の萬年山正續院なり。觀應三壬辰四月十八日、征夷將軍、山に入〔り〕て佛牙の舍利を瞻禮すと。舍利の奇瑞一件、公方の記録に在り、載せず。中山和尚の記録に曰〔く〕、『義時が息女年八歳、俄に神託有〔り〕て云く、「我鶴が岡より來〔り〕て、跡を此の境に垂る。年未だ久〔しか〕らず、草創、事、踈にして、身心安〔か〕らず。茲に奇特の事有り、佛牙の舍利、大宋國より、遙に此の境に降臨す。三界の寶、何物か此〔れ〕に過〔ぎ〕ん。我等日々時々に瞻禮を致して、漸く業報を滅す。然らば跡を此の境に垂るゝこと、永代限り有らざらん。唯だ我れ一神のみに非ず、日本國中天神地神、大神小神、禮敬〔すること〕隙無く、福祿増長、此の境の衆生、盡く壽福を得ん、汝等諸人知らざるや。」と云〔ひ〕て、神は即ち擧る。』と。
「佛牙舍利」は釈迦の歯である。私は二十歳の頃、この舎利殿の中にたった一人で入ったことがある。不法侵入であるが、六国見山を跋渉する内に道に迷い、舎利殿の後方に偶然出たという不可抗力による。舎利が祀られていたが、それは所謂、水晶であったと記憶している。
「差はず」は「たがはず」と読む。
「祓禊」は「みそぎはらえ」と読み、穢れを除く祓い清めの神事。
「能仁寺」は九江三大禅寺の一つ、中国九江(現・江西省九江市)に現存する南朝梁代に創建された能仁寺のことか。ただこの文章では「京師の」と称しており、当時の南宋の首都は臨安(杭州)で、ど如何にも不審である。
「南山宣律師」は先行する「建長興國禪寺の碑の文」にも登場した道宣律師(五九六年~六六七年)のこと。唐代南山律宗の開祖。今のところ「能仁寺」とこの道宣の接点が見当たらない。
「良眞僧都」不詳。識者の御教授を乞う。
「千光和尚」は栄西(永治元(一一四一)年?~建保三(一二一五)年)の諡号。本邦の臨済宗開祖にして天台密教葉上流流祖。建仁寺開山。喫茶の習慣を本邦に伝来させた人物としても知られる。
「葛山の願成」不詳。「葛山」はかつては修験者の道場として知られた、現在の奈良県御所市にある葛木御歳神社かつらぎみとしじんじゃか、葛城一言主神社かつらぎひとことぬしじんじゃを指すか。合わせて識者の御教授を乞う。
「大友豐後守」とは大友能直(承安二(一一七二)年~貞応二(一二二三)年)か。大友氏初代当主。頼朝近習。「吾妻鏡」には彼を頼朝の『無双の寵仁』(並ぶ者なき寵臣)と記す。ウィキの「大友能直」によれば建久七(一一九六)年に『豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行とな』ったとあるので官位は一致する。因みにこの人物には頼朝落胤説がある。奥富敬之氏の「吾妻鏡の謎」によれば彼の母親『利根局はかつて源頼朝の妾であり、また養父の中原親能が頼朝の側近だったことから頼朝の寵愛を受け、後の大友氏の興隆の因となる。母との関係から能直を頼朝の落胤とする説があり、大友氏の系図では能直を頼朝の庶子としているが、信憑性はないと見られている』とのことである。
「小貮孫太郎」不詳。識者の御教授を乞う。「吾妻鏡」に「小貮種直」で載る原田種直を考えたが時代が合わない。
「小山七郎左衞門」は有力御家人であった小山(結城)朝光日阿(仁安三(一一六八)年~建長六年(一二五四)年)。小山氏は藤原秀郷をルーツとする。母寒河尼さむかわのあまが頼朝の乳母であった関係から近習、元服の際も頼朝が烏帽子親となっている。平家追討では木曾義仲の殲滅から壇ノ浦まで連戦、奥州合戦、更には承久の乱にも従軍した歴戦の勇士。ウィキの「結城朝光」によれば『頼朝が東大寺再建の供養に参列した際、衆徒の間で乱闘が起こったが、この時朝光は見事な調停を行い、衆徒達から「容貌美好、口弁分明」と称賛された』とある。頼朝逝去直後の正治元(一一九九)年の梶原景時を失脚させた連判状上訴では、その中心的役割を担った。若年の頃より念仏宗に親しんだ彼は法然・親鸞に帰依、晩年は出家して結城上野入道日阿と号した。因みに、不思議なことにこの人物にも頼朝落胤説があるという。「朝光公記」に『伊豆配流中の頼朝の世話をしていた寒河尼の娘との間に生まれ、寒河尼の実家・八田家へ預けられた後、小山政光と寒河尼の三男(四男説もある)として育てられたという』のである。ウィキではその信憑性はないと見られていると補記されている。
「宇都宮新兵衞」宇都宮信房(保元元(一一五六)年~文暦元(一二三四)年)か。石橋山合戦以来の旧臣。晩年、仏教に帰依した。
「菊池四郎」不詳。識者の御教授を乞う。菊池姓を名乗るこの時期の人物としては菊池氏第八代の菊池隆能であるが、彼は承久の乱で後鳥羽方に組しているので、この使節団には相応しくないか。「四郎」とあるから彼の弟か傍系か。
「村上次郎」不詳。識者の御教授を乞う。村上姓を名乗るこの時期の人物としては信濃村上氏の嫡流の村上為国の三男村上安信なる人物がいる。彼は村上氏系図を見ると「二郎」とある。
「三浦修理亮」不詳。識者の御教授を乞う。三浦氏の一族でこの時期に修理亮を名乗っていた可能性がある人物としては、宝治合戦後に北条氏に滅ぼされる三浦泰村の娘婿三浦秀胤の長男に三浦修理亮政秀がいる。
「海野小太郎」海野幸氏(うんのゆきうじ 承安二(一一七二)年~?)のこと。別名、小太郎。没年は不詳であるが、彼が頼朝から第四代将軍頼経まで仕えた御家人であることは確かである。弓の名手として当時の天下八名手の一人とされ、また武田信光・小笠原長清・望月重隆と並ぶ「弓馬四天王」の一人に数えられた。参照したウィキの「海野幸氏」によれば、『木曾義仲に父や兄らと共に参陣』、。寿永二(一一八三)年に『義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行』そのまま鎌倉に留まった。ところが元暦元(一一八四)年に『木曾義仲が滅亡、その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げ』た。幸氏は『義高が死罪が免れないと察し』、鎌倉を脱出させるに際して『同年であり、終始側近として仕えていた』彼が『身代わりとなって義高を逃が』した。『結局、義高は討手に捕えられて殺されてしまったが、幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた』という変則的な登用である。
「勝間田兵庫」不詳。識者の御教授を乞う。保元の乱で義朝に従った勝間田成長(開幕後は頼朝から御家人として信任を得ていたが、建久六(一一九五)年に乱闘刃傷沙汰を起こして領地を没収されている)の縁者か。
「南條次郎」不詳。識者の御教授を乞う。但し、「吾妻鏡」第三巻の建久六(一一九五)年月十日の頼朝が上洛して東大寺の供養に参じた際の、供奉人行列の随兵の中に「南條次郎」の名を見出すことが出来る。彼であろう。
「抃躍」は「べんやく・へんやく」と読み、手を打って踊り上がって喜ぶこと。
「瞻禮」は「せんれい」と読み、礼を尽くして拝礼すること。
「信士」は仏法に帰依して受戒した在家の男子のこと。
「皇帝」は実朝在世後期であるから順徳天皇。但し、後鳥羽上皇の院政期であり、この話柄でのこの後の宮中の様子は承久の乱以前の反幕的気分が濃厚であるから、後鳥羽上皇をイメージした方がよりマッチするようには思われる。
「安き」は「おき」(置き)と読む。
「天氣」は天皇の機嫌・気分。天機とも。
「藤九郎盛長」安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)。頼朝の伊豆流以来の昵懇の側近。正治元(一一九九)年の頼朝死後は出家、蓮西と号す。同年中に第二代将軍源頼家を牽制する十三人の合議制度の一人となったが、翌年四月二十六日には亡くなっている。享年六十六歳。ここで本話の荒唐無稽の作話事実が暴露されてしまう。実朝の渡宋計画の始動時期は建保四(一二一六)年以前には遡れない。この時、とっくに盛長は死んでいる(もし生きていたと仮定すると文字通り「年八十二になんなんたり」ということになるのが面白い)。そもそも盛長逝去の際、実朝は未だ九歳の少年である。因みに彼には謎の頼朝の死に関わって、御所警護中に女装して愛人のもとに忍んで行こうとした頼朝を不審者として誤殺したという、有り難くない奇説がある。
「不日」は、あまり日を経ないうちに、の意。
「小輿」は「こごし」と読み、小さな輿こしのこと。台の四辺を朱塗りの高欄を巡らしたもので屋形はない。人が乗る場合、附き添う従者が傘を台上に翳した。ここでも勿論、厳かに傘をさし掛けられた舎利の、その映像が大事。
「姣童」は「かうどう」と読み、美少年のこと。
「旌蓋」は「せいがい」で「旌」は旗竿の先に旄(ぼう)という旗飾りをつけ、更にこれに鳥の羽などを垂らした飾り旗を指し、蓋は先に述べた貴人にさし掛ける傘のことを言う。
「擎ぐ」は「ささぐ」と読む。
「南海の波上峨冠せる者數百、連なり現じて合掌し、良く久しくして沒す」というのは蜃気楼のような光学現象が疑われる。直前に「萬人幣帛を奉じて雲のごとくに集まり」とあり、これが逆転層によって投影されたものとも考えられよう。私はこの部分は「北條九代記」に現れる頼朝が稲村ヶ崎で安徳天皇や平家一門の亡霊波間に出現して心身悩乱の末に死去する(因みに実際の頼朝の死は病態から見て恐らく脳卒中であろう)下りの逆転インスパイアと読む。
「萩原天皇」は花園天皇のこと。文保二(一三一八)年に後醍醐天皇に譲位した。仙洞御所洛西花園の萩原殿に住んだことから、生前より萩原法皇と称された。禅宗に深く帰依し、建武二(一三三五)年に出家、法名を遍行と号した。
「最勝園寺殿〔平の貞時。〕」北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)。鎌倉幕府第九代執権。「最勝園寺殿」戒名の殿号。正しくは最勝園寺殿覚賢。彼の生きた時代は北条得宗への権力集中と内政腐敗によって、後醍醐天皇による討幕運動へと発展する翳りの時代であり、ここでの彼の言葉はそれを予兆する不吉なものとして造形されていよう。
「它に」は「ほかに」(外に)と読む。対象が人間の場合は「他」、事物の場合は「它」を用いる。
「運祚」は天から受けた幸福の意。天運。
「剏め」は「はじめ」(始め)と読む。
「舎利殿」創建は弘安八(一二八五)年又は延慶二(一三〇九)年とされており、貞時在世中であるから叙述の矛盾はない。ここは建武二(一三三五)年に円覚寺開山無学祖元の塔頭となり、叙述されるように正続院と号するようになった。応安七(一三七四)年の円覚寺炎上(若しくは永禄六(一五六三)年の円覚寺全焼。但し、これらは叙述にあるような戦禍にによるものではない)の際に、この舎利殿も炎上したと思われ、現在我々が見る国宝の舎利殿は、室町前期に造られた鎌倉尼五山の一つであった大平寺(廃寺)の仏殿を移築(移築時期については室町後期とも天正年間ともいう)したものである。
「燬く」は「やく」(焼く)と読む。
「舊と」は「もと」(元)と読む。
「觀應三壬辰四月十八日、征夷將軍」の征夷大将軍は足利尊氏のこと。
「中山和尚」は先に掲げた建長寺の「長生菴」の項に「中山和尚、諱は法頴、佛應に嗣法す。相州の人、當山五十六世、康應元年十一月七日示寂、世壽七十四。」とある人物か。康応元年は西暦一三八九年。
「義時」影印でも同じであるが、北条義時ということになる。私は実朝の暗殺を、一般に考えられているように三浦氏によるものではなく、この北条義時の奸計に富んだ陰謀と考えているが(私の考えは拙作「雪炎」を御笑覧あれ)、義時がそうした疑惑を隠蔽するために、大倉薬師堂十二神将の犬神のエピソードを配したように、実朝の昇進願望や政務怠慢、更にはあり得ない渡宋計画に内心大いにいら立っていた義時が、建前として実朝の仏舎利招聘を讃えるようなエピソードを考えたとしても実はおかしくない気がする。但し、前掲の中山和尚が「長生菴」記載の人物と同一だとすれば、その人の記録では義時では余りにも時代が合わない気がする(この「記録」なるものが鎌倉時代史・仏教史のようなものであったとすれば別である)。「長生菴」の中山和尚が生きたのは室町幕府第三代将軍足利義満(正平十三・延文三(一三五八)年~応永十五(一四〇八)年)支配の時期と一致する。「義」の一字が一致する。これはしかし、ただの初読の際の違和感からの単純な思い付きではある。義満の話であるとなると、逆に仏舎利招聘から時間が立ち過ぎてしまい、この娘の神託の謂いと合わないとも言える。
以下、「新編鎌倉志」の編者による附言が続く。]
此舍利の記何人の作と云事を不知(知らず)。【善鄰國寶記】にも、此記を畧してせたり。按ずるに【東鑑】に、陳和卿は、宋人、東大寺の佛をツクる也。彼の寺供養の日、賴朝ヨリトモ、對面あらんとヲホせらるれども、多く人の命をち給ふ、罪業ヲモしとて不謁申(謁し申さず)。建保四年六月八日、鎌倉に來り、實朝サネトモ將軍は權化ゴンケの再誕也。恩顏を拜せんがタメ 參上サンジヤウすと。實朝、對面あり、和卿三拜して曰、貴客は、昔し宋朝育王山長老たり。我は其の門弟に列すと。此事去る建曆元年六月三日丑刻に、將軍家、御寢のアイダに、高僧一人來て、此ヲモムキげたてまつる。御夢想ゴムソウの事、アヘ御詞ヲンコトバに不出(出されざる)處に、六个年に及〔び〕て和卿がマウすと符合す。仍て實朝、前生の住所育王山を拜せんタメに、唐に渡り給はんとて、和卿にヲホせて、唐船を造らしむ。同〔じ〕く五年四月十七日造畢す。役夫數百人彼の船を由比の浦に浮〔か〕めんと、筋力をツクけども、此の所唐船出入の海浦に非るユヘウカべ出す事あたはず。イタヅらに砂頭に朽ち損ずとあり。此記とは異なり。【帝王編年記】の説も【東鑑】と同じ。【日工集】に、貞治六年四月十五日、府君源の氏滿、圓覺寺正續院に入て、佛牙の舍利を頂戴す。府君一代に一度開封(封を開く)。是れ大宋國京師能仁寺の舍利也とあり。又【神明鏡】に、建永年中、葉上ヤウジヤウ僧正・明慧上人、遣唐使として、道宣ダウセン律師の在世の時、感德有し佛牙の御舍利、所望のタメに渡しけり。唐帝よりマウタマはつて歸朝り。實朝サネトモ大臣は、道宣の再誕也。さて鎌倉のイヌヰ正續院にき奉る。葉上ヤウジヤウは建仁寺の本當たりしかば、此寺に於て禪法を初め修す。我が朝禪法のハジめなり。明慧は栂尾トガノヲ建立なりとあり。
[やぶちゃん注:「善鄰國寶記」は京都相国寺の僧瑞渓周鳳の著になる中国朝鮮との外交交渉史や相互の渡来僧に関わる本邦初の外交資料集。垂仁天皇八八(五九)年より文明十八(一四八六)年の長大な時間をカバーしているが、参照したウィキの「善隣国宝記」によれば、『五山派禅僧が有している仏教天文学的な世界観や』「神皇正統記」『の引用に基づく「神国」観念の表明がなされている』箇所が散見され、当時の『五山派が持つ外交文書作成の権限を将来にわたって保持していくために著した』ものとあり、確かにそうした如何にもな臭いが濃厚なエピソードであると言える。
「陳和卿」(ちんなけい 又は ちんわけい 生没年不詳)は南宋から渡来した工人。「玉葉」によれば寿永元(一一八二)年来日という。同年に名僧重源の招聘によって東大寺伽藍再興及び大仏仏頭鋳造を引き受けた。後、所領の不満から東大寺側と不仲になり、本文にある通り、建保四(一二一六)年に突如、鎌倉に下向、実朝に謁見して渡宋を進言、そのための巨船まで造立したが、遠浅の由比ケ浜での進水は失敗に終わった(「萬年山正續院佛牙舍利記」にあるように、北条義時らによって秘密裏に何らかの進水不能の工作がなされた可能性も高い)。その後の消息は不明。「彼の寺供養の日」以下の頼朝との一件や東大寺との不和を見ても、また、如何にもな事大主義的な比喩表現を使用するとこから見ても、人格上はかなり癖のある怪しい人物であることが分かる。「新編鎌倉志」の編者は建保四(一二一六)年の「吾妻鏡」の回顧再記載から引用しているものと思われるので、以下に、実際の「吾妻鏡」の建久六(一一九五)年三月十三日の頼朝との面会謝絶部分から引用し、書き下しておく。
十三日戊戌。晴。將軍家御參大佛殿。爰陳和卿爲宋朝來客。應和州巧匠。凡厥拝盧遮那佛之修餝。殆可謂毘首羯摩之再誕。誠匪直也人歟。仍將軍以重源上人爲中使。爲値遇結緣。令招和卿給之處。國敵對治之時。多断人命。罪業深重也。不及謁之由。固辞再三。將軍抑感涙。奥州征伐之時以所着給之甲冑。幷鞍馬三疋金銀等被贈。和卿賜甲冑爲造營釘料。施入于伽藍。止鞍一口。爲手掻會十列之移鞍。同寄進之。其外龍蹄以下不能領納。悉以返献之云々。
◯やぶちゃんの書き下し文
十三日戊戌。晴。將軍家、大佛殿へ御參。爰に陳和卿、宋朝の來客と爲し、和州の巧匠に應ず。「凡そ盧遮那佛びるしやなぶつ修餝しゆうしよくを拜むに、殆んど毘首羯摩びしゆかつまの再誕と謂ひつべし。誠に直だなる人に匪ざるか。」と。仍りて將軍、重源上人を以て中使と爲し、値遇結緣の爲に、和卿を招かしめ給ふの處、「國敵對治の時、多く人命を斷つ。罪業深く重きなり。謁に及ばず。」の由、固辞再三す。將軍感涙を抑へ、奥州征伐の時、着給ふ所の甲冑幷びに鞍馬三疋、金銀等を以て贈らる。和卿、賜はる甲冑を造營の釘料と爲し、伽藍に施入す。鞍一口を止め、手掻會十列てがいじふれつ移鞍うつしぐらと爲し、同じく之を寄進す。其の外の龍蹄以下は領納に能はず、悉く以て之を返し献ずると云々。
「修餝」は「修飾」であるが、前後から尊顔の意であろう。
「毘首羯摩」は帝釈天の弟子で、仏師の祖とされる伝説上の人物である。「手掻會十列の移鞍」手掻会とは害を転じて生かす会式から転害会ともいう、東大寺供養で行われた神式の式会の一つであるから、会式で十番目の列に配されることになっている予備乗換用の馬の鞍のことであろう。
「龍蹄」は鎌倉時代に於ける駿馬や立派な馬を指す語。丈(たけ:背高。)四尺(約百二十一センチ)以下を駒、四尺以上を龍蹄、更に四尺を越える悍馬の場合、その超過分を通常単位の寸(約三センチ)の数値を以って何騎と称した。頼朝はその身長からか八騎(やき:四尺八寸。約百四十五センチ。)を好み、それ以上の大きな八騎に余る馬を嫌った。日本では戦国時代になっても未だサラブレッドは移入されておらず、在来馬である体の小さな木曽馬であった(だからこそ鵯越で畠山重忠は馬を背負えた)。
ここでは頼朝が珍しくも、和卿の不遜な固辞に怒りもせず、逆に感涙して寄進までしている(それも殆んど返納されているのに)のは意外で面白い。
「建保四年六月八日」以下の「吾妻鏡」の和卿対面関連記事を抜粋して引用、書き下しを示す。
八日庚寅。晴。陳和卿參着。是造東大寺大佛宋人也。彼寺供養之日。右大將家結緣給之次。可被遂對面之由。頻以雖被命。和卿云。貴客者多令斷人命給之間。罪業惟重。奉値遇有其憚云々。仍遂不謁申。而於當將軍家者。權化之再誕也。爲拜恩顏。企參上之由申之。即被點筑後左衛門尉朝重之宅。爲和卿旅宿。先令廣元朝臣問子細給。
   *
十五日丁酉。晴。召和卿於御所。有御對面。和卿三反奉拜。頗涕泣。將軍家憚其礼給之處。和卿申云。貴客者。昔爲宋朝醫王山長老。于時吾列其門弟云々。此事。去建曆元年六月三日丑尅。將軍家御寢之際。高僧一人入御夢之中。奉告此趣。而御夢想事。敢以不被出御詞之處。及六ケ年。忽以符号于和卿申狀。仍御信仰之外。無他事云々。
◯やぶちゃんの書き下し文
八日庚寅。晴。陳和卿參着す。是、造東大寺大佛の宋人也。彼の寺供養の日、右大將家結緣し給ふの次でに、對面を遂げらるべきの由、頻に以て命じらると雖も、和卿云はく、「貴客は多く人命を斷ちしめ給ふの間、罪業、惟れ重し。値遇奉るは其の憚り有り。」と云々。仍て遂に謁し申されず。而るに當將軍家に於ては、「權化の再誕なり。恩顏を拜さんが爲、參上を企つ。」の由之を申す。即ち筑後左衛門尉朝重の宅を點じられ、和卿の旅宿と爲す。先づ廣元朝臣をして子細を問ひ給ふ。
   *
十五日丁酉。晴。和卿を召し、御所に於て御對面有り。和卿三反さんべん拜し奉り、頗る涕泣す。將軍家、其の礼を憚り給ふの處、和卿申して云はく、「貴客は、昔、宋朝醫王山の長老と爲す。時に吾、其の門弟に列すと。」云々。此の事、去んぬる建曆元年六月三日丑の尅、將軍家御寢のきはに、高僧一人夢の中に入りたまひ、此の趣を告げ奉る。而るに御夢想の事、敢て以て御詞に出だされざるの處、六ケ年に及び、忽ち以て和卿の申し狀に符号す。仍りて御信仰の外、他事無しと云々。
ここでは「醫王山」とあるが、阿育王あいくおうざんが本来の古称で後に育王山・医王山とも書かれるようになった。中国浙江省東部の山で、二八一年に西晋の劉薩訶(りゅうさっか)がアショカ王(阿育王)の舎利塔を建立した地で、宋代には広利寺として五山の一つであった。
「仍て實朝、前生の住所育王山を拜せん爲に、唐に渡り給はんとて」以下の「吾妻鏡」の渡宋造船計画から建保五(一二一七)年四月の進水失敗までの関連記事を抜粋して引用、書き下しを示す。まず、建保四年十一月小の条から。
廿四日癸夘。晴。將軍家爲拜先生御住所醫王山給。可令渡唐御之由。依思食立。可修造唐船之由。仰宋人和卿。又扈從人被定六十餘輩。朝光奉行之。相州。奥州頻以雖被諌申之。不能御許容。及造船沙汰云々。
次に建保五年四月大の条から。
十七日甲子。晴。宋人和卿造畢唐船。今日召數百輩疋夫於諸御家人。擬浮彼船於由比浦。即有御出。右京兆〔義時。〕監臨給。信濃守行光爲今日行事。隨和卿之訓説。諸人盡筋力而曳之。自午剋至申斜。然而此所之爲躰。唐船非可出入之海浦之間。不能浮出。仍還御。彼船徒朽損于砂頭云々。
◯やぶちゃんの書き下し文
廿四日癸夘。晴。將軍家、先生の御住所醫王山を拜し給はんがため、唐へ渡りしめたまふべきの由、思しし立つに依りて、唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰ほす。又、扈從こしやうの人六十餘輩を定めらる。朝光之を奉行す。相州、奥州、頻に以て之を諌め申されると雖も、御許容に能はず。造船の沙汰に及ぶと云々。
   *
十七日甲子。晴。宋人和卿、唐船を造り畢んぬ。今日、數百輩の疋夫を諸御家人から召し、彼の船を由比の浦に浮かべんと擬す。即ち御出有り。右京兆〔義時。〕監臨し給ふ。信濃守行光、今日の行事を爲す。和卿の訓説に隨ひ、諸人筋力を盡して之を曳く。午の剋より申の斜めに至る。然しながら、此の所のていたるに、唐船の出入すべきの海浦に非ざるの間、浮き出す能はず。仍りて還御す。彼の船、徒らに砂頭に朽ち損ずと云々。
「相州」は北条義時。
「奥州」は大江広元。「午の剋より申の斜め」の「斜め」は当該時刻の終わりに近いことを言うから、進水式は午前十一過ぎ頃から始まり、午後四時半、実に五時間以上を費やして数百人の人夫で曳いても浮かばなかったのである。

「源の氏滿」は第二代鎌倉公方足利氏満(延文四・正平十四(一三五九)年~応永五(一三九八)年)。彼はここに記される貞治六(一三六七)年の四月二十六日に父基氏の死去をうけて、正式には九月九日に鎌倉公方となっている。恐らく危篤状態に陥った父から実質上の権限委譲がなされたのであろう。
「【神明鏡】に」以下の部分には複雑で多様な矛盾がある。「神明鏡」は十四世紀後半に書かれたと推測される作者不詳のかなり雑駁な編集になる年代記(神武天皇から後花園天皇まで)。「神明鏡」を私は所持していないので「新編鎌倉志」の編者の転載時の誤りの可能性も否定出来ないが、取り敢えず以下にそれらの矛盾点を中心に注を掲げる。
「建永年中」とは西暦一二〇六~一二〇七年である。これでは実朝渡中計画よりも前になり、尚且つ、突如として現れる「實朝大臣は、道宣の再誕也」という言辞も、寧ろ「吾妻鏡」の和卿の台詞を受けて使っている感がある。
「葉上僧正」は後述されるように建仁寺を建立した栄西(永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)を指すが、彼は一一六八及び一一八七年の二度入宋しているものの、建永年間には渡中していない。また、道宣所縁の仏牙舎利を持って帰国したという事実についても、調べた限りでは見当たらない。後、記される通り、元久二年(一二〇五)年に京に本邦初の禅寺である建仁寺を開き、第一世となった。翌年の正に建永元(一二〇六)年には重源の後任として東大寺勧進職に就任、既にこの時、齢六十五歳である。
「明慧上人」この人物は後で「栂尾建立なり」とある以上、山城国栂尾高山寺開山にして夢記で知られる華厳宗の僧明恵である(「慧」は「惠(恵)」と同じである)。ところが、明恵(承安三(一一七三)年~寛喜四(一二三二)年)は二度、天竺へ渡らんとして果たせなかったことが知られている。即ち、明恵は渡中していないのである。但し、栄西の建仁寺建立の二年後に高山寺を開いた彼は、しばしば栄西を訪れて問答をしたと伝えられており、その折りに栄西が茶の効能を語って喫茶を勧め、明恵が茶の実を栂尾に播いて京に於ける茶の普及にも功があったことが知られている。]

開山自畫自讚像 壹幅 讚文如左(左のごとし)。
者俗漢無眼目、不怕人罵、只怕人觸、懽喜花柳春風、惡發天翻地覆、有來由沒拘束、優曇花正開、※々遠山緑、弘安七年九月三日、無學翁書于得月樓。按ずるに得月樓は、建長寺方丈の二階の名なり。今は樓なし。額は方丈にあり。
[やぶちゃん注:「※」=(上)「山」+(下)「召」。以下、讚を影印の訓点に従って書き下して示す。
の俗漢、眼目無し。人の罵るを怕れず、只〔だ〕人の觸るゝを怕る。懽喜すれば花柳春風、惡發すれば天翻〔へ〕り地覆〔へ〕る。來由有〔り〕て拘束沒し、優曇花正に開く。※々として遠山緑なり。弘安七年九月三日 無學翁得月樓に書す。
「懽喜」は「かんき」で歓喜に同じ。さすれば「惡發」は怒ることか。「優曇花」は「うどんげ」、仏教の伝説上の花で三千年に一度花が咲き、その開花とともにすべての大陸を支配する最上の聖王である金輪王がこの世に出現すると言われる。]

寧一山自筆狀 壹通 其文に正續菴承仕行者可與邊地一宇、乾元二年正月三日と有。狀の初に花押あり。其の形ち如左(左のごとし)。一山と云ふ字歟。
[やぶちゃん注:以下、自筆狀を影印に従って、書き下して示す。
正續菴承仕の行者に、邊地一宇を與ふべし 乾元二年正月三日
この花押――いいねえ――。]
[寧一山の花押]

臨濟禪師の畫像 壹幅 無準の贊なり。
[やぶちゃん注:「無準」は「ぶしゆん」と読み、無準師範(一一七七年~一二四九年)は南宋の禅僧。明州清涼山や育王山(前掲注参照)などの名刹の住持を経て、五山第一位径山(きんざん)萬寿寺住持となった。円覚寺開山無学祖元や画僧牧谿(もっけい)は彼の門弟で、 日中両国で尊崇された高僧である。]

佛鑑禪師の畫像 壹幅 璵東陵の贊なり。
[やぶちゃん注:「璵東陵」は東陵永璵(とうりょうえいよ 一二八五年~一三六五年)元の僧。無学祖元の甥で、足利直義の招聘により観応二・正平六(一三五一)年に来日、京の天竜寺・南禅寺、建長寺・円覚寺などの住持を歴任した。]

伏見帝の宸筆 壹幅 勅諡佛光禪師と有。三行大字也。

花園帝幷後光嚴帝の宸筆 壹軸 花園帝の宸筆は圓覺興聖禪寺とあり。三行大字なり。後光嚴帝の宸筆は、瑞鹿山大光明寶殿とあり。共に一軸とす。
[やぶちゃん注:ここで「幅」でなく「軸」と言っているのは、本来、別々な一幅であったものを、合わせて一軸に表装し直したことを言うためであろう。]

後小松帝の院宣 壹幅 至德元年七月五日とあり。

光嚴帝の綸旨 壹幅 夢窻國師に賜る綸旨なり。

五百羅漢の畫像 五十幅 内十七幅は兆殿主が筆。餘は唐筆なり。
[やぶちゃん注:「兆殿主」は「兆殿司」で「てうでんす」と読む。先行する建長寺の「涅槃像」の注を参照されたい。]

平の時宗トキムネの書 壹幅 自筆と云ふ。【釋書】に、己卯〔弘安二年。〕年、吾が建長虗席(席を虗す)。副元帥平の時宗トキムネ、疏幣をソナへて海にフナハタシして、名宿を聘す。メイボクゲンを以て遐招につとあり。ケダし此の時入宋の沙門センエイ等にアタふる書ならん。其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:「疏幣」は底本・影印ともに「疏」の(へん)が(足:あしへん)になっているが、これは「疏」と同字であるから、「疏」を用いた。「疏幣」とは恐らく一条ずつわけて意見を述べた上奏文のことを言うものと思われる。]
時宗、留意宗乘、積有年序、建營梵苑、安止緇流、但時宗、毎憶樹有其根、水有其源、是以欲請宋朝名勝助行此道、煩詮英二兄、莫憚鯨波險阻、誘引俊傑禪伯、歸來本國、爲望而已、不宣、弘安元年戊寅十二月廿三日、詮藏主禪師、英典主禪師、時宗和南。
[やぶちゃん注:円覚寺に現存する本書状を見ると脱字や誤字があることが分かる。その部分を《 》で挿入・指示した。以下、書状を影印に従って、書き下して示す。
時宗トキムネ、意を宗乘に留むること、積みて年序有〔り〕、梵苑を建營し、緇流を安止す。但し、時宗毎に憶ふ、樹はその根有〔り〕、水はその源有〔り〕、是を以て宋朝の名勝を請〔じ〕て、此の道を助行せんと欲す。詮・英二兄を煩〔は〕す。鯨波の險阻を憚ること莫く、俊傑《の禪伯》を誘引し、本國に歸り來〔ら〕んことを望みと爲るのみ。不宣。 弘安元年戊寅 十二月廿三日 詮藏主禪師 英典《座》禪師 時宗トキムネ和南
「詮・英」は蘭渓道隆の法嗣であった禅興寺二世無及徳詮と傑翁宗英(そうえい)。「藏主」は経蔵の管理責任者、「典座」は「てんぞ/てんざ」と読み、禅宗寺院の六知事の一つで、大衆の斎飯などの食事を司った厨房長で、傑翁も同義。「不宣」は「ふせん」で「不一」「不悉」と同じく、自分の言うべきことを語り尽くすことが出来ていない甚だ拙文にて、という意の卑小を示す手紙の結語。本招聘を受けて来日したのが円覚寺開山となる無準師範の嗣法である無学祖元仏光国師である。]

佛光禪師の書 壹幅 自筆。
祖元、端肅皇悚申覆、茲承鈎汗、緘至、圓覺供僧田産、將軍公文、及鈎座備申文狀、共三紙、一々燒香覽訖、山懷甚爲法門爲賀、誠是國家及大將軍太守、千年植福之基、萬劫作佛之本、老懷預此鉢飯、霑惠多矣、佛天照臨、誠非小事、謹此申謝、來日參詣府墀、面既、不宜、祖元皇々申覆、〔右此に書を取合せて時宗トキムネ佛光に與へ、佛光時宗トキムネに返簡と云ふ。然れども文路不通(通ぜず)。按ずるに別物ならん也。〕
[やぶちゃん注:「緘」は底本では「縅」であるが、はっきりしないが影印では「女」には見えない。少なくとも私はこの「縅」の字の可能性は極めて低いと考える。何故なら「縅」は国字であり、未だ宋にあって日本語を理解していないはずの彼が本字を用いるはずがないからである。文脈からもこれは「手紙」の意の「緘」である。以下、書状を影印に従って、書き下して示す。
祖元ソゲン、端肅皇悚申覆す。茲に鈎汗を承る。緘至る。圓覺供僧の田産、將軍の公文及び鈎座備申の文狀、共に三紙、一々香を燒〔き〕て覽訖る。山懷甚だ法門の爲に賀することを爲す。誠に是れ、國家及び大將軍・太守、千年福を植〔う〕るの基ひ、萬劫佛と作るの本、老懷此の鉢飯を預る。霑惠多し。佛天照臨、誠に小事に非ず。謹みて此に謝を申ぶ。來日府墀に參詣して、面既せん。不宜。祖元皇々申覆
「端肅」は「たんしゆく」と読み、「正しく厳か」の意。
「皇悚」は「こうしよう」と読み、「恐惶」と同じく畏れ敬う意の同じく頭語の辭であろう(中国語文であるから読みは本来はあまり意味をなさないが)。
「申覆」は日本語ではあまり見かけない用法だが、やはり謹んで申し上げるといった謂いの頭語であろう。
「鈎汗」「鈎座」は不詳。識者の御教授を乞う。
「霑惠」は「てんけい」で恵みを与えて潤すこと。
「申ぶ」は「のぶ」(述ぶ)と訓じているのであろう。「府墀」は「ふち」で「墀」は階(きざはし)の意であるから、幕府殿下に、という意であろう。
「面既」というのも見かけない語だが、「既」には「間もなく」の意があるから、すぐにご対面致しましょう、という意と思われる。]

後光嚴帝の宸筆 壹幅 額なり。最勝輪と有。

後小松帝の宸筆 壹幅 額なり。黄梅院とあり。

靑蓮院道圓法親王の墨跡 壹幅 至德元年十二月十一日とあり。
[やぶちゃん注:道円法親王(元仁元(一二二四)年~弘安四(一二八一)年/別に承元四(一二一〇)年~延応二(一二四〇)年とも)は土御門天皇皇子。真言僧。仁和寺蓮華光院や西院に住し、西院宮・安井宮と称せられた。]

開山所持のスヾリ 壹面 圓硯班石なり。徑り一尺ばかり、アツさ一寸五分あり。

觀音の畫像 壹幅 唐畫。筆者不知(知れず)。

跋陀婆羅菩薩の畫像 壹幅 畫師宗淵が筆。
[やぶちゃん注:「跋陀婆羅菩薩」は「ばつだばらぼさつ」で、インドのバドラパーラという僧。「妙法蓮華経」第一巻序品第一に登場する菩薩で、入浴せんとして開悟したとされ、僧堂では浴室に祀られる。「宗淵」(生没年不詳)は室町後期の画僧。鎌倉円覚寺蔵主。雪舟に師事、彼の画風を忠実に嗣いだ愛弟子であった。]

辨財天の石像 壹軀 紫石、タケ七寸り、蛇形なり。相ひ傅ふ、圓覺寺の鐘をる時、江の島より來ると云ふ。

南院國師眞跡 壹幅

普明國師眞跡 壹幅

勅會法華御八講の役付の書 壹卷 東明和尚の筆なり。元亨二年十月廿四日とあり。
[やぶちゃん注:「勅會法華御八講」は天皇臨席のもとに行われた法華八講を指す。「妙法蓮華経」八巻を一巻ずつ八座に分けて読誦・講釈する法会で、死者の追善供養を目的とし、正式には朝夕二座四日間で行う。「東明和尚」は東明慧日(とうみょうえにち 一二七二年~暦応三・興国元(一三四〇)年)で、鎌倉末期に来日した曹洞宗の禅僧。明州(現・浙江省)出身。延慶二(一三〇九)年、北条貞時に招聘されて来日、円覚寺の他に禅興寺・寿福寺・東勝寺・建長寺などの住持を歴任、当時の臨済宗の鎌倉にあって曹洞の気を大いに吐いた人物である。円覚寺では白雲庵に住した。先にも記した通り、私の家の菩提寺はこの白雲庵である。]

南山自贊の畫像 壹幅 贊文如左(左のごとし)。
者箇面觜、太奇恠矣、儞是阿誰、我不知儞、喚作南山、不是不是、鑑公太守、所寫影像、携來求贊とあり。是崇壽寺の開山也。鑑公は平の高時なり。
[やぶちゃん注:「南山」は南山士雲(建長六(一二五四)年~建武二(一三三五)年)。大休正念や無学祖元に参禅、延慶三(一三一〇)年に東福寺第十一世となった。後に来鎌、崇寿寺(現存せず。現在の材木座附近に比定されている)を開いたが、建長寺・円覚寺などにも住した。以下、「贊」を影印の訓点に従って書き下したものを示す。
者箇の面觜、太だ奇恠。ナンヂは是れ阿誰タソ。我儞を知らず、喚〔ん〕で南山と作す。不是不是。鑑公カンカウ太守、寫す所の影像、携へ來〔り〕て贊を求む
「者箇」は「しやこ」と読み、「この」という指示語。「面觜」は「めんし」で、顔付。「者箇」とともに禅の公案によく見られる。]

前平中納言奉書の添狀 壹幅 平中納言未考(未だ考へず)。
[やぶちゃん注:これは次の西園寺の書状の一つ、「鎌倉市史 資料編第二」の資料番号五一「西園寺公衡御教書」の伏見上皇の建長寺及び円覚寺の両寺を定額寺じょうがくじとなす院宣の伝達文(クレジットは延慶元年十二月廿三日)、
 建長・圓覺兩寺事、
 前平納言奉書〔副官苻二通〕
 如此候、仍執達如件、
       十二月廿三日   〇(花押)
              □(朱印)
及び資料番号四五「伏見上皇院宣」(クレジットは延慶元(一三〇八)年十二月廿二日)に登場する公卿平経親つねちか(文応元年か弘長二年(一二六〇か一二六二)年?~?)である。平時継の子。正応六(一二六二)年に参議、正和二(一三一三)年に権大納言進んだ。正二位。文保元(一三一七)年の伏見上皇死去に際、出家した。]

。]

西園寺の書 貳幅 一幅は伊豆の守殿、維親とあり。二幅は名なし。文章は同じ事なり。
[やぶちゃん注:「西園寺」は西園寺公衡さいおんじきんひら(文永元(一二六四)年~正和四(一三一五)年)。鎌倉後期の公卿。内・左・右大臣を歴任、権勢を振るった。「西園寺の書 二幅」これは恐らく「鎌倉市史 資料編第二」の資料番号四五「西園寺公衡書狀」及び五一「西園寺公衡御教書」を指すか。とすると四五は先に掲げられた伏見帝(上皇)が宸筆を染めた円覚寺額を証明する文書(クレジットは延慶元(一三〇八)年九月二十九日)、五一は伏見上皇の建長寺及び円覚寺の両寺を定額寺じょうがくじとなす院宣の伝達文(クレジットは延慶元年十二月廿三日)。定額寺とは本来、奈良・平安期に官大寺や国分寺に次ぐ寺格と認めることをいうが、正式なものは正暦元(九九〇)年を最後に姿を消しているとされるから、有名無実なものと考えてよいか。]


平貞時圓覺寺の壁書 貳幅 一幅は、永仁二年正月日とあり。一幅は、乾元二年二月十二日とあり。共に貞時の花押あり。

同自筆の書 貳幅

平高時書 壹幅 文保二年五月廿二日とあり。文章初に如左(左のごとく)なる花押あり。則〔ち〕高時タカトキが花押なり。
[平の高時の花押]
源尊氏自筆法華經 壹卷、卷の第八なり。奧書ヲクガキに、奉爲三品觀公大禪定門、修五種妙行、觀應三年九月五日、書冩了、正二位源尊氏〔花押あり。〕觀公クハンカウは、尊氏の父貞氏サダウヂ也。貞山道觀と云。淨妙寺の條下に見へたり。
[やぶちゃん注:以下、「奥書」を影印の訓点に従って書き下したものを示す。 三品觀公クハンカウ大禪定門のタテマツらんタメに、五種の妙行を修す。觀應三年九月五日、書冩し了る。正二位源の尊氏
「觀應三年」は西暦一三五二年。但し、この同月二十七日に文和に改元。先立つ同年二月に弟直義が急死しており、一般には病死とされるが、「太平記」では兄尊氏による毒殺説を記す。何れにせよ、本法華経書写の背景には父貞氏への追善の影に、直義への思いがあると見てよいであろう。]

同直判の狀 貳幅あり。一幅は、建武一二年九月十五日と有。一幅は、文和三年十一月廿日とあり。

源の義滿の墨跡 四幅 一幅は宿龍とあり。一幅は桂昌とあり。一幅は普現とあり。皆大字なり。朱印二つ有。上は道有とあり。下は天山とあり。共に小篆文なり。按ずるに。義滿、ハジめは道有と號し、後に道義と改む。又一幅は、圓覺正續院に、常陸ヒタチ小鶴コツルの庄を寄附の狀なり。應永三年十二月廿七日、入道准三后前太政大臣と有て、下に花押クワアフあり。【花押藪】にすると同じ。
   已上

鐘樓 佛殿の左の方、山の上にあり。鐘銘如左(左のごとし)。
   相摸州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘銘
鶴岡之北、富士之東、有大圓覺、爲釋氏宮、恢廓賢聖、蹴蹈象龍、範圍天地、槖籥全功、鎔金去鑛、鍛錬頑銅、成大法器、啓廸昏蒙、長鯨吼月、幽谷傳空、法王號令、神天景從、祐民贊國、植德旌忠、停酸息苦、超越樊籠、高輝佛日、普扇皇風、浩々湯々、聲震寰中、風調雨順、國泰民安、皇帝萬歳、重臣千秋、正安三年辛丑七月初八日、大檀那從四位上行相摸守平朝臣貞時、勸緣同成大器、當寺住持、傳法宋沙門子曇謹銘、勸進者舊僧宗證、奉行、兵部橘朝臣邦博、同兵庫允源朝臣仲範、大工、大和權守物部國光、掌財、監寺僧至源、道虎、此月十七日巳時、大鐘昇樓、洪音發虛、謹具名目于后、喜捨助緣僐信、共壹千五百人、本寺僧衆、貮百三十員、大耆舊、慧寧・覺眼・宗證・道範・頭首、覺泉・覺俊・師侃・玄挺・崇喜・道生・性仙、知事聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂德凞・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗和尚子曇。里俗アヤマり傳へて云く、此のカネは、イニシへ龍宮より上る。故に種々の奇瑞ありと。
[やぶちゃん注:「佛殿の左の方」とは、本尊から見てで、仏殿に向かってだと右手である。この鐘は、総高二五九・四センチ/口径一四二センチの鎌倉期の特徴をよく示した梵鐘であり、現在の鎌倉でも最大の梵鐘である。以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。
   相摸州瑞鹿山圓覺興聖禪寺鐘の銘
鶴が岡の北、富士の東、大圓覺有〔り〕。釋氏の宮〔と〕爲〔す〕。賢聖を恢廓し、象龍を蹴蹈す。天地を範圍して、槖籥功を全〔き〕す。金を鎔し、鑛を去り、頑銅を鍛錬す。大法器を成して、昏蒙を啓廸す。長鯨月に吼す。幽谷空に傳ふ。法王の號令、神天景從す。民を祐け、國を贊け、德を植〔ゑ〕て、忠を旌〔は〕す。酸を停め、苦を息む。樊籠を超越す。高く佛日を輝〔か〕し、普く皇風を扇ぐ。浩々湯々として、聲、寰中に震ふ。風調ひ、雨順ひ、國泰かに民安し。皇帝萬歳。重臣千秋。正安三年辛丑七月初八日、大檀那從四位上行相摸の守平の朝臣貞時サダトキ、緣を勸め、同〔じ〕く大器を成す。當寺の住持、傳法、宋の沙門子曇謹〔み〕て銘す。勸進は舊僧宗證。奉行、兵部タチバナの朝臣邦博クニヒロ。同兵庫の允源の朝臣仲範ナカノリ。大工、大和權の守物の部の國光。掌財、監寺僧至源・道虎。此の月十七日巳の時、大鐘樓に昇り、洪音虛に發す。謹〔み〕て名目を后に具ふ。喜捨助緣の僐信、共に壹千五百人、本寺の僧衆、貮百三十員、大耆舊は、慧寧・覺眼・宗證・道範、頭首は覺泉・覺俊・師侃・玄挺・崇喜・道生・性仙、知事は聰因・知足・可珍・至牧・天順・元安・祖安、西堂は德凞・自聰・德詮・源淸・志遠、當寺住持宋西澗和尚子曇。
「恢廓」は「かいかく」と読み、広く大きなさまを言うが、ここは禅門として広く学僧聖賢のために門戸開いて、の意。
「象龍を蹴蹈す」の「象龍」は聖人高僧の比喩で、「蹴蹈」は「しゆうたう」と読み、中国語では蹴躓けつまずくの意であるが、そうした聖賢が必ず足を留める、という意であろう。
「槖籥」は「たくやく」と読み、蹈鞴たたらで用いるふいごのこと(槖は袋状の物、籥は笛(吹管)の意)。「鑛」精錬していない金属。荒金。
「啓廸」は「けいてき」と読む。啓発と同じい。
「景從」は「けいぢゆう」で、影のように必ず伴うこと。いつも一緒にいること。
「贊け」は前の「祐け」と同じく、「たすけ」と読む。
「旌〔は〕す」は「あらはす」と訓じておいた。
「樊籠」は「ばんろう・はんろう」と読み、煩悩に縛られていることを言う。
「正安三年」は西暦一三〇一年。
「大檀那從四位上行相模の守平の朝臣貞時」第九代執権北条貞時。
「子曇」は最後に示される宋から渡来した当代の円覚寺住持西澗子曇で、「せいかんすどん」と読む。
「大耆旧」の「耆」は六十歳の意で、式典での賓者たる大年寄り。
「頭首」は式典の実務指揮者のことであろう。
「師侃」は音読みなら「シカン」。
「知事」は通常、禅宗に於いては六知事のことを指す。即ち、庶務雑事を司る六つの役職で都寺(つうす:総監督。)・監寺(かんす:住持代理で実務責任者。)・副寺(ふうす:会計。)・維那(いの:実務担当者。)・典座(てんぞ:斎糧全般。賄方。)・直歳(しっすい:伽藍修理や寺領の山林田畑の管理及び作務一式担当。)の総称であるが、ここでは鐘竣工の儀式の庶務方の意であろう。七人いる。
「西堂」は「せいだう」と読み、中国で古来、西を賓位とすることから、禅宗で当該所属寺院の先代住職を「東堂」と呼ぶのに対して、他の寺院の前住職を敬意を込めて呼ぶ際に用いる語である。
「德凞」は音読みなら「トクキ」。]

開山塔 方丈の西北にコト四五町バカりにあり。正續院と名く。門に萬年山と額あり。此院、昔は平の貞時サダトキの建立にて祥勝院と號し、佛牙の舍利殿なりしを、後に開山塔とすと云ふ。昭堂の上に常照と額あり。開山の木像、肩膝カタ・ヒザに、ハトリヤウとをく。【元亨釋書】に、祖元宋にありし時、禪定の中に當て神人をる。告て云、願くは和尚我が國に降れと。如是(是のごとくする)事アマタたび。神人の至るごとに、ヒトつの金龍來て袖の中に入る。亦羣鴿子あり。或は靑白の者、或は飛啄のワザ、或は予がヒザウヘにのぼる。其のユヘを不測(ハカらず)。此の國にるに及で、人有て語て曰、當境に神あり。八幡大菩薩と云ふ。後に八幡宮に至り、殿梁の上を視るに、數箇スカの木鴿子あり。是を問ふ。コタふる者の曰く、これ神の使鳥のみ。予則ち知る、定中の峨冠は、此の神なる事を。老僧がコヽに到る、偶然ならざるのみ。老僧が陋質を造らば、膝の上に鴿子及び金龍を安じて、以て往年のシンに應ぜよと有。又ゲン掲傒斯ケツケイシ、塔の銘を作る。其文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:「羣鴿子」は「ぐんかふし」と読み、群れ飛ぶハトのこと。
「讖」は預言。祖元が見た予知夢のことを指す。
「陋質」は自身の肖像の謙遜語。所謂、頂相(ちんそう)である。国の重要文化財である本像は鎌倉前期の頂相の傑作とされる。三十年以上前、風入れで見たが玩具のような鳩が座椅子の左右に配され、左の鳩の前にはこれまたエレキングの幼体みたような龍がちょこんととまっていた。祖元は最後まで日本語を覚えなかったと言われるが、その悪戯っぽい眼光と頰をちょっと意地悪そうにきゅっと引いたその表情は何か私には親しげであった。
「掲傒斯」(けいけいし 一二七四年~一三四四年)は元の文学者。貧家に育ったが刻苦勉励、翰林国史院編修となり、以降も翰林侍講学士などを歴任、公務としての歴史書編纂はもとより、名文家・名書家としても知られた。]
   佛光禪師塔銘
應奉翰林文字登仕郎、同知制詰、
    兼國史院、編脩官、掲傒斯撰、
書、
    資政大夫禮部尚書全岳柱篆、
佛法入中國、至宋末莫盛於呉越之間、蕑公、奮響於淨慈、範公、揚英於諬徑山、月公、擢穎於靈隠、聞公、掲照於育王、靈鷲則愚公建其標、大慈則觀公振其軌、天童則一公抗其旌、升其堂、入其奧、幷包翕受、融液暢朗、則佛光禪師、師會稽鄞人、許伯濟之子也、初母陳、夢一僧抱嬰兒來、遂有娠、將産夜、見白衣女子登其牀、端妙姝麗、不類當世人、忽不見、俄頃而産、白光滿室、及睟試以百玩、惟咲取佛書一卷而已、七歳入小學、沈驚寡言、功兼諸生、平居與姉妹坐必異席、遇酒肉如見惡臭、惟間入山寺、聞禪誦聲即欣然慕之、年十三、遭父憂、遂祝髮淨慈、事簡禪師爲弟子、明年、入徑山禮範公、語輙不契、居五年、忽夜四更、聞廊前板響乃大悟、遂下靈隠、見月公、之育王謁聞公、聞公移淨慈以記室名、辭、再上徑山、還淨慈留知藏、參愚公於靈鷲、叩觀公於大慈、一日、見井上轆轤、大發無礙機、凡昔聞諸老言、未契者皆脱然、若固有不假磨礱自出光澤、不待剷※[やぶちゃん注:「※」「爽」+「刂」。]、自入規矩、於是師之道益々隆、德益々尊、四方傾企慕向者日益々衆、里人羅季勉治萍郷、辟主白雲居七年、終母喪、再遼還靈隠、賈太傳、悦其道、請主台之眞如、又居七年、歸之如水赴壑、德祐初辟地雁峰、大兵忽臨、白刄交師頸、師竪坐説法不顧、衆斂兵作禮而去、明年、還天童依一公、而宋亡、明年、夏五月、日本有賢大夫曰平將軍者遣使來迎、慨然赴之、六月、至日本、平將軍而下、傾國郊迎、入主建長寺、平將軍、平將軍、躬執弟子禮、越五年、平將軍、建寺曰圓覺、復延師主之、一據講席、羣鹿咸集、因號其山曰瑞鹿之山、至元廿三年、庭前桂橘忽夏枯、師曰、吾將逝矣、九月三日、手書別諸方、至夕擧偈、竟端坐而逝、後三日葬其骨建長之後山、壽六十一、僧臘四十九、後四十有一年、其徒慧廣、來遊袁之仰山、道過余乞銘、余聞西域諸國、去中土至遐遠、然車馬可計日而至、而其人不知有孔氏者、諸佛之所興也、東南諸國邈在海中、而皆言孔氏、蓋去中土近、人居巽離文明之方、然尊信佛法與西域同、特以海路不能限之耳、佛光禪師、起會稽、其道甚尊顯平將軍、得以坐致之者、其地近、又適其時也、嗚呼、佛光、亦忠孝人哉、師諱祖元、字子元、又自號無學云、銘曰、邈矣前聖、萬化之宗、孔釋雖異忠孝則同、有聞佛光、其德靡晦、火德既微、東入于海、孰知我元、參天配地、孔釋並隆、無遠弗至、東望大海、混々茫々、惟師之道、其大莫量、載瞻扶桑、杲杲出日、惟師之德、照曜四溢、師既往矣、國人具來、惟師之化、永世弗摧。
[やぶちゃん注:「蕑公」の「蕑」は底本及び影印では「閒」が「間」であるが、ユニコード表示が不能なため、同正字である本字を採用した。但し、後の注で見るようにこれは「簡」の誤りである。以下、影印の訓点に従って書き下したものを示す。
   佛光禪師塔の銘
應奉翰林文字登仕郎。同知制詰。
    兼國史院。編脩官。掲傒斯撰。
書。
    資政大夫禮部尚書全岳柱篆
佛法中國に入〔り〕てより、宋の末に至〔り〕て呉越の間より盛〔ん〕なるは莫し。蕑公、響を淨慈に奮ひ、範公、英を諬徑山に揚げ、月公、穎を靈隠に擢〔き〕て、聞公、照を育王に掲ぐ。靈鷲は則ち愚公、其の標を建て、大慈は則ち觀公、其の軌を振ふ。天童則〔ち〕一公、其の旌を抗く。其の堂に升り、其〔の〕奧に入〔る〕。幷包翕受、融液暢朗なるは、則〔ち〕佛光禪師、師は會稽の鄞〔の〕人、許伯濟が子なり。初め母陳、夢みらく一僧嬰兒を抱〔き〕來たると。遂に娠すること有り。將に産せんとする夜、白衣の女子其の牀に登るを見る。端妙姝麗、當世人に類ず。忽ち見へず、俄頃にして産す。白光室に滿つ。睟に及〔び〕て試るに百玩を以〔て〕す。惟〔だ〕咲〔ひ〕て佛書一卷を取るのみ。七歳にして小學に入る。沈驚寡言、功、諸生を兼ず。平居姉妹と坐するに必ず席を異にす。酒肉に遇へば惡臭を見〔る〕がごとし。マヽ山寺に入〔り〕て、禪誦の聲を聞〔き〕て即ち欣然として之を慕ふ。年十三にして、父の憂〔ひ〕に遭ふ。遂に淨慈に祝髮し、簡禪師に事〔へ〕て弟子と爲る。明年、徑山に入〔り〕て範公を禮す。語輙すれば契はず。居ること五年、忽ち夜四更、廊前の板響を聞〔き〕て乃ち大悟す。遂に靈隠に下り、月公に見、育王に之〔き〕て聞公に謁す。聞公、淨慈に移る時、記室を以て名ず。辭す。再たび徑山に上り、淨慈に還〔り〕て知藏に留〔ま〕る。愚公に靈鷲に參じ、觀公を大慈に叩く。一日、井上の轆轤を見て、大〔い〕に無礙の機を發す。凡そ昔し諸老の言を聞〔き〕て、未だ契はざる者の皆な脱然たり、モトより磨礱を假らずして自ら光澤を出〔だ〕し、剷※[やぶちゃん注:「※」「爽」+「刂」。]を待たずして、自ら規矩に入ること有るがごとし。是に於て師の道益々隆くに、德、益々尊し。四方の傾企慕向する者日益々衆し。里人羅季勉萍郷に治たり。辟して白雲に主〔せ〕しむ。居ること七年、母の喪を終ふ。再び靈隠に還る。賈太傳、其の道を悦〔び〕て、請〔ひ〕て台の眞如を主〔せ〕しむ。又居ること七年、之に歸すること水の壑に赴くがごとし。德祐の初、地を雁峰に辟く。大兵忽ち臨〔み〕て、白刄師の頸に交〔は〕る。師、竪坐説法して顧みず。衆兵を斂さめ禮を作して去る。明年、天童に還〔り〕て一公に依る。而して宋亡びたり。明年、夏五月、日本に賢大夫平將軍と曰ふ者の有〔りて〕使をして來り迎へしむ。慨然として之に赴く。六月、日本に至る。平將軍より下〔つ〕かた、國を傾〔け〕て郊迎す。入〔り〕て建長寺を主とる。平將軍、躬〔づ〕から弟子禮を執る。コヽニヲイて五年、平將軍、寺を建てゝ圓覺と曰ふ。復た師を延〔き〕て之を主〔せ〕しむ。一〔た〕び講席に據る〔や〕、羣鹿咸く集る。因〔り〕て其の山を號して瑞鹿の山と曰〔ふ〕。至元廿三年、庭前の桂・橘忽ち夏枯る。師曰く、「吾將に逝せんとす。」と。九月三日、手書して諸方に別れ、夕に至〔り〕て偈を擧〔げ〕、竟に端坐して逝す。後三日、其の骨を建長の後山に葬る。壽六十一、僧臘四十九。後四十有一年、其の徒慧廣、來〔り〕て袁の仰山に遊ぶ。道過〔ぎ〕て余に銘を乞ふ。余聞く、西域の諸國、中土を去ること至〔つ〕て遐遠なり。然〔れ〕ども車馬日を計〔り〕て至るべし。而も其の人、孔氏と云〔ふ〕者有るを知らず。諸佛の興る所なり。東南の諸國は邈〔か〕に海中に在り、而も皆、孔氏を言ふ。蓋し中土を去ること近し。人、巽離文明の方に居る。然も佛法を尊信すること西域と同じ。特に海路之を限ること能はざるを以てのみ。佛光禪師、會稽より起り、其の道甚だ尊顯。平將軍、以て坐ながら之を致すを得るは、其の地近く、又、其の時にカナへばなり。嗚呼、佛光も、亦、忠孝の人なるかな。師、諱は祖元、字は子元、又、ミ〔ヅカ〕〔ら〕無學と號すと云ふ。銘に曰く、『邈たり前聖、萬化の宗、孔釋異なりと雖ども忠孝は則ち同じ。聞〔く〕こと有〔り〕佛光、其の德晦きを靡し、火德既に微にして、東の方、海に入る。孰か知〔ら〕ん我が元、天に參じ、地に配す。孔釋並び隆んにして、遠として至らざると云ふこと無し。東の方、大海を望〔ま〕ば、混々茫々、惟れ師の道、其の大〔い〕さ量り莫し。載ち扶桑を瞻れば、杲杲として出〔づ〕る日あり。惟れ師の德、照曜四に溢る。師既に往きぬ。國人具に來る、惟れ師の化、永世までに摧けず。』〔と〕。
最初に本銘をより良く読み解く素材とするために、「元亨釈書」及び「かげまる行状集記」の「真如寺」の記載やウィキの「無学祖元」等を元に彼の詳細履歴を示しておく。無学祖元(一二二六年~弘安九(一二八六)年)は中国明州出身の渡来僧。日本に帰化して(但し終世、日本語を話せなかったとされる)臨済宗無学派(仏光派)の祖となった。字は子元、諡号を仏光国師及び円満常照国師と言い、現地では浄慈じんず寺・白雲庵・能仁寺で北礀居簡や無準師範に師事し、来日後は建長寺・円覚寺及び現在の京都市北区にある真如寺の住持を務めた。弟子には高峰顕日や規庵祖円がおり、高峰門下には後の五山派の濫觴となる名僧夢窓疎石がいる。著述や真筆として「仏光国師語録」「与長楽寺一翁偈語」「六祖慧能図賛文」等が残る。以下、年譜を示す。
 一二二六年  明州慶元府鄞県翔鳳郷のかつての高官の末裔であった許家に
        元伝」では南宋の宝慶二(一二二七)年三月十八日とする)。
 一二三七年  兄であり、僧として名を成していた仲挙和尚懐徳の命で杭州
        臨安府の浄慈寺の北礀居簡のもとで出家。この浄慈寺は九七
        五年、五代十国の頃に杭州を領していた呉越によって建立さ
        れた古寺で、南宋の杭州遷都後は同じく杭州にある五山第二
        位霊隠寺と並ぶ名刹として五山第四に格されている。
 一二四〇年代 径山の無準師範に参ず(本文によれば出家・受戒した翌年で
        あるから十四歳)。またこの頃、石渓心月や虚堂智愚・物初
        大観・環渓惟一らの名僧に歴参した。
 一二六二年  袁州萍郷の宰である羅季勉に招聘され、台州東湖の白雲庵に
        移る。
 一二六三年  臨安府霊隠寺退耕徳寧に師事して第二座となる。
 一二六九年  南宋の宰相賈似道(一二一三年~一二七五年)の推挙により、
        住持として真如禅寺に入院(じゅえん)。祖元、この時四十
        四歳。南宋、元の猛攻を受け、風前の灯火。
 一二七五年  兵火頓に激しく、温州雁蕩山能仁普済寺に避難。
 一二七六年  能仁寺を襲った元軍の前でたった一人榻に座って平然と後に
        「示虜」「臨剣の頌」と呼ばれることになる偈を詠んで九死
        に一生を得る。この年に臨安は陥落し、南宋滅ぶ。以下にそ
        偈を示す。
         乾坤無地卓孤筇
         喜得人空法亦空
         珍重大元三尺劔
         電光影裏斬春風
○やぶちゃんの書き下し
         乾坤 孤筇こきようつるに 地なし
         喜び得たり 人空にして 法亦た空なることを
         珍重す 大元三尺の劔
         電光 影裏 春風を斬る
○淵藪野狐禪師訳
         この天地 竹杖一本 立てられへん!
         悦しいやないかい! 儂は手に入れたで!
          ――人は空 仏法もまた空やっちゅうことをな!
         お前さん 大元国の三尺の その仰山な刀一本 後生大事しなはれや
         電光一閃 人の首 すっぱりするりと
          ――春風はるかぜを 気持ちよう 斬るようじゃて!
 一二七七年  天童山に戻る。嘗ての同門で旧知の天童山住持環渓惟一の推
        挙によって第一首座となる。
 一二七九年  鎌倉幕府執権北条時宗の招聘に応じて六月二十二日江南を出
 (弘安二年) 帆する(当初は環渓惟一を招くことになっていたが、惟一が
        八十歳と高齢であったため、祖元が代行することとなった)。
        八月二十日、鎌倉着。蘭渓道隆遷化後の建長寺住持となる。
        時宗を始めとする鎌倉武士団の厚い信仰を受ける。
 一二八一年  正月、礼拝に来た時宗に「莫煩悩」(煩い悩むなかれ)と書
 (弘安四年) き与える。時宗の不審に対し、彼は「春夏之間、博多、擾騒。
        而一風纔起萬艦掃蕩。願公、不爲慮也。」(春夏の間、博多、
        擾騒せん。而れども一風纔かに起りて萬艦掃蕩せん。願はく
        は公、慮を爲さざらんや。)と言って元寇襲来とその撤退を美
        事に予言したとされ、弘安の役前後の幕府の対外政策にも大き
        な影響力を持った。
 一二八二年  十二月八日、ある意味で北条氏の私的な菩提寺でもあった建長
 (弘安五年) 寺に対し、主に元寇での戦没者追悼の意を含んだ、公的な北条
        氏菩提寺として時宗が開基した円覚寺の開山となる。時に祖元
        五十七歳。本邦臨済禅の重鎮となる。
 一二八六年  夏、旱り。六月二十四日、新執権北条貞時から雨乞いの祈禱を
 (弘安九年) 求められ、幕府へ赴いた。貞時が、画龍一軸を持ち出して賛を
        請うので祖元が揮毫すると、俄かに庭前の桂や橘が枯れ、祖元
        は「吾將逝矣。」と言った。九月三日、端坐して逝去。九月六
        日、骨を建長寺の後山に葬った。享年六十一。
以下、語注を附す。
「蕑公」は「浙江工商大学日本文化研究所 新聞明細査看」の「元」の記事中に現れる「鐵菴集」の本銘を見ると、「簡」である。従ってこれは祖元の最初の師である北礀居簡(一一六四年~一二四六年)を指す。
「範公」は第二の師、無準師範を指す。師範は明州清涼山や育王山などの名刹を歴住後、五山第一位径山万寿寺住持となった高僧で、画僧牧渓・入宋僧円爾などの高弟を輩出している。
「月公」は石渓心月(?~一二五四年)を指す。
「聞公」は参考にしたに「かげまる行状集記」の「真如寺」の中に育王山から浄慈寺に移って来た名僧偃溪広聞が旧知の祖元に寺の記室を司らせて書記にしようとしたが、祖元はこれを辞退したというエピソードを載せるので、これは偃溪広聞(一一八九年~一二六三年)を指すと考えてよいであろう。
「愚公」は虚堂智愚(一一八五年~一二六九年)を指す。この智愚との応酬も絶妙! 特に智愚が学僧が天台山国清寺へ赴くこととなった際、智愚が自作の『送別の詩を無学祖元に見せた。無学祖元は「内容に全く禅がありません」といったため、虚堂智愚は「お前はそれでも五山の蔵主だというのか」といって無学祖元の顔面を送別の詩の紙で打ちすえた』というエピソードはぶるっちゃうぐらい、いい! 私はその場に居合わせたようなデジャ・ヴ感覚がしてくるほどだ! 「かげまる行状集記」の「真如寺」をお読みあれ!
「觀公」は物初大観(一二〇一年~一二六八年)を指す。
「一公」は天童山住持環渓惟一(?~一二八一年)を指す。惟一は祖元の先師無準師範の法嗣で、無学祖元とは嘗て同門であった。
「擢〔き〕て」は「ぬきて」と訓じておいた。
「旌」は音で「セイ」と読んでおく。旗のこと。
「抗く」は「あぐ」と読む。
「升り」は「のぼり」と読む。
「幷包翕受」は「へいはうこふ(又は「きふ」)じゆ」と読み、恐らく意味は兼ね合わせ合わせ受ける、あらゆるものを総合して享受することを言うのであろう。一種の止揚(アウフヘーベン)のようなものか。
「融液暢朗」は「ゆうえきちやうらう」で、文字列と前の「幷包翕受」から考えると、享受した全総体が混然一体となって融合し、液体のようになって、自己や世界全体に遍くはっきりと延び広がっていくことを言うか。識者の御教授を乞う。
「鄞」は「ぎん」、拼音で「Yín」。現在の浙江省寧波市鄞県。
「姝麗」は「しゆれい」と読み、美しい女性の形容。
「俄頃」は二字で「にはかにして」と訓じているものと思われる。
「睟に及〔び〕て」の「睟に及〔び〕て」は「すい」と読み、正視するという意味であるから、焦点が合うようになることを言うのであれば、生後三ヵ月程を想定してよい。但し、履歴の参考にした「真如寺」の記載には一歳頃とあるから、中国では数え二歳のことをこう言ったのかも知れない。識者の御教授を乞う。
「咲〔ひ〕て」は「わらひて」と訓じた。
「沈驚」とは、通常ならば驚くべき事柄に対しても落ち着いてそれを受け止めることを言うか。
「事〔へ〕て」は「つかへて」と訓じた。
「姉妹」は実は影印では「娣妹」(ていまい)である。しかし、これは影印の誤刻と判断される。何故なら「娣」は妹という意味だからである。
「語輙すれば契はず」の「語輙」は「ごてふ」と音読みして、何かを語る度ごとに、の意か。「契はず」は「あはず」と読むしかない。すると、ここは「語輙すれども契はず」ではないか? 即ち、師範公の公案を幾ら聴いても禅機に遭わなかったという意味ではないかと私は考える。識者の御教授を乞うものである。本注を記載後に発見した「かげまる行状集記」の「真如寺」の中に「仏光国師語録」に基づく以下のエピソードを載せる。『無準師範は無学祖元に「狗子無仏性の話」を示し参禅させ』た。これは「趙州の狗子」と呼ばれる趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)の著名な公案で、趙州が『ある僧に「犬にも仏性がありますか。」と問われ、「ない。」と答え、その僧はさらに「上は諸仏から下はありに至るまで、すべて仏性があります。犬にはなぜないのですか。」と問いかけると趙州従シンは「彼に業識性があるからだ。」と答えたというものである(『趙州録』上)。大乗仏教ではすべての人間や存在は仏性、すなわち仏になる可能性を具えていると説いているが、ここでは有無を分別による二元論ではなく、それを超越した「無」であるとされ、この「狗子無仏性の話」は参禅者を論理以前の世界に導く公案としてたびたび用いられた。無学祖元もこの公案には相当苦労したようで、この間の事情について、以下のように述べている』(以下、数字を漢数字に変更した)。『「老僧(無学祖元のこと)は十四歳の時に径山に登り、十七歳の時に発心して。「狗子無仏性の話」に参じた。自ら一年を期して、了当(不備のないようにする)を要したが、とうとうわからなかった。また一年を要したが、それでもまだわからない。さらに三年たったがまた悟りを得られなかった。五・六年目に到っても悟りを得られなかったが、この「無」字だけを見続けた。夢にも見、天や地もただこの「無」字だけ。中間にもこれだけということを老僧は自ら教えられた。」(『仏光国師語録』巻九、告香普説首座請益)』とあるのは、私のここの解釈の強い裏付けになろう。なお、「趙州の狗子」には「ある」という答えもある。ご興味のある方は私の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」の第一の公案に挙げられているので、お読み頂ければ幸いである。
「板響」は禅宗寺院で時刻を告げるために打ち鳴らす魚板の音であろう。
「遂に靈隠に下り」とあるが、ここには師師範との丁々発止のエピソードが省略されている。やはり「かげまる行状集記」の「真如寺」を是非、お読みあれ。
「記室」禅宗寺院の役職で六頭(首座・書記・蔵主・知客・浴主・庫頭(後には知殿))の一つ。書記・外史・外記などとも呼ぶ。職掌は文書全般に及び、手紙・叢林間でやり取りする正式な書状、法要に於ける疏にまで及ぶ。首座に次ぎ、蔵主(知蔵)よりもランクが高い。
「知藏」は蔵主とも言う。禅宗寺院の役職で六頭の一つ。蔵は「大蔵経」及び経蔵を指し、寺院内の経典・論書の管理をする司書職である。
「一日、井上の轆轤を見て、大〔い〕に無礙の機を發す。……」このエピソードも「かげまる行状集記」の「真如寺」の記載が解釈の糸口となる。『秋に天童寺に戻ったが、大慈寺の物初大観(一二〇一~六八)に参禅した。宝祐二年(一二五四)には大慈寺の浄頭(じょうとう:廁(東司)を掃除し洗浄水などを汲んで管理する役職。)となっている。ある日、井楼にて水を汲むためロクロを動かしていると、百千の三昧がみなロクロを動かす手頭にあるように思え、かつて師無準師範より提示された香厳撃竹の話がまるで別室に入ったかのように解けたのであった。無準師範が世を去って七年、その顔が無学祖元の心に想い出された(『仏光国師語録』巻第九、告香普説首座請益)』(アラビア数字を漢数字に改めた)。清新なる禅機の一瞬のスカルプティング・イン・タイムである。
「磨礱」は「まろう」と読み、研ぎ磨くこと。
「剷※[やぶちゃん注:「※」「爽」+「刂」。]」不詳。「浙江工商大学日本文化研究所 新聞明細査看」の「元」の記事でもこの箇所は脱字になっている。底本では「夾」+「刂」で、これは「刺」と同字であるから「さんし」と読んで、角ばった部分を削り落として差し込むといった意味になると思われる。
「萍郷」は「へいきやう」と読む。現在の江西省西部にある萍郷市。ここは後の辛亥革命・中国共産党の革命蜂起の地として知られる。
「辟して白雲に主〔せ〕しむ」の「辟」は「へき」で、引き抜くこと、ヘッド・ハンティングである。
「里人」これは中国の国守に当たる牧宰のことと思われる。
「太傳」は職名。五府(太傳、太尉、司徒、司空、大将軍)の最高位。
「台の眞如」台州東湖(現在の浙江省紹興市東湖)にある真如寺(但し、現在は中華人民共和国直轄地上海市)。
「壑」は「たに」(谷)。
「德祐」は南宋恭帝の治世に使用された元号。初年は西暦一二七五年。
「地を雁峰に辟く」の「辟く」は「さく」(避く)。
「慨然」は心を奮い起こすさま。
「郊迎」は客人を郊外まで迎えに出て礼を尽くすことを言う。
「延〔き〕て」は「ひきて」と訓じ、招くの意でとった。
「咸く」は「ことごとく」。
「至元廿三年」の「至元」は西暦一三三五年~一三四〇年の間、元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号。至元二十三年は弘安九(一二八六)年。
「僧臘」僧侶が出家してからの年数を言う。法臘とも。
「慧廣」は天岸慧広(文永十 (一二七三)年~建武二(一三三五)年)は、『鎌倉後期の臨済宗の僧。武蔵(埼玉県)生まれ。俗姓は伴氏。十三歳で建長寺の無学祖元に投じた。のち東大寺の戒壇院で受戒し、各地を歴訪したが、下野(栃木県)雲巌寺の無学の弟子高峰顕日に参じ、法を嗣いだ。次いで円覚寺に移った高峰に同行してその首座となる。元応二(一三二〇)年に物外可什らと共に元に渡って、幻住派の中峰明本に参じたのち、各師を訪ね、五十七歳のとき帰国した。鎌倉浄妙寺などに住したあと、休耕庵に退居。また上杉重兼は報国寺を開いて天岸を第一世とした。諡号は仏乗禅師。』。(以上は「朝日日本歴史人物事典」の藤田正浩氏の解説から引用したが、アラビア数字を漢数字に変え、カンマを読点に変え、一部に読点を追加してある)。
「遐遠」は「かをん」と読み、遠いこと。
「邈」も遠いことを言うが(音は「バク・マク」)、「ニ」と送っているので「はるかに」と訓じておいた。
「巽離文明」は八卦の方位。「巽」は東南、「離」は南であるから、日本列島の形状からこう言ったか。
「会稽」祖元一二六九年に一人立ちして住持となった真如禅寺は台州東湖(現在の浙江省紹興市東湖)近くにあるが、この現在の紹興市南部あるのが臥薪嘗胆でしられる会稽山。
「邈たり」ここは音は「バク・マク」で読んでいよう。
「靡」は音で「ミ・ビ」で読んでいよう。(暗愚を)なびき払うという謂いか。
「火德既に微にして」陰陽五行説の相剋説に基づく謂いと思われるが、不学にして不詳である。識者の御教授を乞う。
「載ち」は「すなはち」。
「瞻れば」は「みれば」(見れば)。
「杲杲」は「かうかう」と読み、日の光の明るいさまを言う。]

宿龍池シユクリヤウチ 開山塔のウシろにあり。開山來朝の時、龍現して舟を護りヲクる。而して此の池に止る。故に名く。坐禪窟 開山塔のウヘにあり。開山坐禪せし所なり。

鹿岩
ロクガン
 方丈のウシろの山上にあり。此の寺草創の時、鹿シヽの奇瑞ある故に瑞鹿山ズイロクサンと號す。鹿岩シヽガン有も此故なり。
[やぶちゃん注:表題項目の「鹿岩」の右側には「ロクガン」のルビがあるが、底本・影印ともに、その「鹿岩」の左側には「シヽガン」というルビが振られている。また、影印では「草創」が「創草」となっているが、底本を採った。]

妙香池メウカウチ 方丈の北にあり。

虎頭岩コトウガン 妙香池の北に有。

佛日菴 正續院の東北にあり。檀那塔なり。所謂(謂は所る)檀那は、平の時宗トキムネの塔を慈氏殿と號す。木像あり。位牌に法光寺殿道果ダウクハ大禪定門、弘安七年甲申四月四日とあり。同〔じ〕く貞時サダトキの塔を無畏殿と號す。木像あり。位牌に最勝園寺殿宗演大禪定門、慶長元年十月廿六日とあり。同〔じ〕く高時タカトキの塔を同光殿と號す。木像あり。位牌に日輪寺殿崇鑑大禪定門、元弘三年五月廿二日とあり。潮音院殿覺山志道大姉と位牌あり。時宗トキムネの室、松が岡の開山なり。
[やぶちゃん注:「松が岡」は東慶寺のこと。]

桂昌菴 承先和尚、諱は道欽、嗣法默翁(默翁に嗣法す)。十二月六日寂す。

傳宗菴 南山和尚、諱は士雲、嗣法聖一(聖一に嗣法す)。建武三年十月七日寂す。崇壽寺の開山なり。
[やぶちゃん注:「崇壽寺」は鎌倉弁ヶ谷(現在の九品字の南東、光明寺の北。但し、別な地にあったという説もある)にあった寺。北条高時開基で元享元(一三二一)年に創建された。]

白雲菴 東明和尚、諱は慧日、嗣法直翁(直翁に嗣法す)。曆應三年十月十四日寂す。六十九。
[やぶちゃん注:私、藪野家の菩提寺である。但し、私はここの墓には入らない。母と同じく慶応大学医学部に献体後、母と同じ多磨霊園慶応大学医学部献体合葬無縁墓地に入る。]

富陽菴 東嶽和尚、諱は文昱、嗣法大拙(大拙に嗣法す)。應永廿三年二月廿三日寂す。
[やぶちゃん注:「文昱」は「ぶんいく」と読む。]

壽德菴 月潭和尚、諱は中圓、嗣法義堂(義堂に嗣法す)。應永十四年九月七日寂す。

正傳菴 大達禪師、諱は正因、號明岩(明岩と號す)。嗣法西澗(西澗に嗣法す)。應安二年四月八日寂す。

萬富山續燈菴 佛滿禪師、諱は法忻、號大喜(大喜と號す)。嗣法大平(大平に嗣法す)。今川基氏モトウヂなり。貞治五年九月廿四日寂す。五十三。
[やぶちゃん注:「法忻」は「ほうきん」と読む。「今川基氏」(正嘉三(一二五九)年~元亨三(一三二三)年)は三河国幡豆郡今川荘(現在の愛知県西尾市今川町)を支配した今川家第二代当主。法忻はその四男。この父の家系は後の戦国大名今川氏の祖流の一つとなる。]

傳衣山黄梅院 正覺心宗普濟玄猷佛統天龍國師、諱疎石、號夢窻(夢窻と號す)。嗣法佛國(佛國に嗣法す)。観應二年九月寂晦日示寂。

如意菴 佛眞禪師、諱は妙謙、號無礙(無礙と號す)。嗣法佛國(佛國に嗣法す)。應安二年七月十三日寂す。

歸源菴 佛慧禪師、諱は是英、號傑翁(傑翁と號す)。嗣法之菴(之菴に嗣法す)。永和四年三月十二日示寂。

天池菴 容山和尚、諱は可允、嗣法險崖(險崖に嗣法す)。延文五年四月十八日示寂。

藏六菴 佛源禪師、諱は正念、號大休(大休と號す)。嗣法石溪(石溪に嗣法す)。温州の人。文永六年己巳十月九日來朝。正應二年十一月晦日示寂。世壽七十五。

 右の十二院、今存するものなり。

龍門菴 高山和尚、諱は通妙、嗣法寒潭(寒潭に嗣法す)。五月十七日寂す。

海會菴 朴中和尚、諱は梵淳、嗣法通菴(通菴に嗣法す)。永享五年十二月晦日寂す。

東雲菴 東陵和尚、諱は永璵、嗣法雲外(雲外に嗣法す)。貞治四年五月六日寂す。
[やぶちゃん注:「永璵」は「えいよ」と読む。]

慶雲菴 香林和尚、諱は讖桂、嗣法肯山(肯山に嗣法す)。二月十八日寂す。
[やぶちゃん注:「讖桂」は「しんけい」と読む。]

珠泉菴 學海和尚、諱は歸才、嗣法大綱(大綱に嗣法す)。永享十年廿九日寂す。

正源菴 少室和尚、諱は慶芳、嗣法空室(空室に嗣法す)。永德元年十二月十日寂す。

寶龜菴 梅林和尚、諱は靈竹、嗣法大川(大川に嗣法す)。應安七年三月三日寂す。

臥龍菴 大川和尚、諱は道通、嗣法佛源(佛源に嗣法す)。曆應元年三月二日寂す。

利濟菴 東峰和尚、諱は通川、嗣法佛源(佛源に嗣法す)。文和二年二月二十三寂す。

定正菴 此山和尚、諱は妙在、嗣法佛國(佛國に嗣法す)。永和三年正月二十二日寂す。

瑞光菴 眞覺禪師、諱は志高、號天外(天外と號す)。嗣法南洲(南洲に嗣法す)。兀菴の法孫。應永二年八月朔日寂す。

大義菴 天澤和尚、諦は宏潤、嗣法雲屋(雲屋に嗣法す)。貞治六年十月十四日寂す。

長壽院 佛地禪師、諱は慧林、號雲屋(雲屋と號す)。嗣法佛光(佛光に嗣法す)。元德元年五月十日寂す。

瑞雲菴 大本禪師、諱は居中、號嵩山(嵩山と號す)。嗣法西潤(西潤に嗣法す)。康永二年二月六日寂。

寶珠院 大雅和尚、諱は省音、嗣法古調(古調に嗣法す)。六月八日寂す。

靑松菴 大拙和尚、諱は祖能、嗣法千岩(千岩に嗣法す)。永和三年九月十三日寂す。

大仙菴 宏覺禪師、諱は德悟、號桃溪(桃溪と號す)。嗣法大覺(大覺に嗣法す)。嘉元四年十二月六日寂す。

等慈菴 不聞和尚、諱は契聞、嗣法東明(東明に嗣法す)。應安元年七月十二日寂す。

妙光菴 無外和尚、諱は方圓、嗣法不聞(不聞に嗣法す)。應永十五年五月五日寂す。

頂門菴 大傳和尚、諱は有承、嗣法大淸(大淸に嗣法す)。十三日寂す。

雲光菴 東林和尚、諱は友丘、嗣法一山(一山に嗣法す)。慶安二年八月廿三日寂す。

 右の二十一院、【五山記】にすと云へども、今はなし。

○十王堂橋 十王堂橋イフワウダウバシは圓覺寺の前を西へ行〔け〕ば、藥師堂あり。其のマヘハシを名〔づ〕く。藥師堂の前に、此のゴロまで十王堂りしが、今ホロびたり。

○離山 離山ハナレヤマは山の内より西へけば市場村イチバムラ也。ムラ出口デクチミチ二條あり。北は戸塚トツカ道、西は玉繩タマナハ道。戸塚トツカ道の東に芝山シバヤマあり。是を離山ハナレヤマと云〔ふ〕。里老の云〔く〕、梶原カジハラ平三景時カゲトキ古城フルシロと。梶原が舊宅は、五大堂の北にあり。鶴が岡一の鳥居より、此〔の〕地まで、三十三町あり。

[常樂寺圖]
[やぶちゃん注:本図の印刷ブレは底本の挿絵中、最もひどい。画像では判読不能の文字の補足しておくと、右手街道の上方には「自是東北岩瀨村今泉村道」、下方には「自是南鎌倉道」とあり、境内奥の池の中には「池熱無」とある。]
○常樂寺 常樂寺ジヤウラクジ離山ハナレヤマの東北、アフ〔或作靑(或は靑に作る)。〕船の郷にあり。粟船山ゾクセンサンと號す。【常樂寺略傳記】に曰く、古老相傳、以粟船號村、依山得名。此地往時爲海濵。以載粟船繋于此。一夕變而化山。今粟船山是也、其形如船、又海濵化爲桑田。人家于此。故曰粟船村、山南曰垢拂村、昔掃船中垢處也、又山北有小山、形圓轉、里民呼曰柄杓山。汲垢水器化山。其餘依名不具記。此地四仞之下、腐貝朽蘆、古株靑泥等今猶存。鑿井知焉とあり。此寺は平の泰時ヤストキの建立なり。泰時を常樂寺と號し、法名觀阿と云ふ。位牌に、過去觀阿禪門とあり。本尊、阿彌陀三尊なり。【東鑑】に仁治四年六月十五日、故前の武州〔泰時。〕周關の御事を、山の内粟船ヲフフナ御堂ミダウに於て修せらる。又建仁六年六月十五日。前武州〔泰時。〕十三年忌のため、彼の靑船アフフナ御塔ミタフを供養せらる。導師は大阿闍利道禪とあり。按ずるに、【元亨釋書】に、副元帥平時賴トキヨリ隆蘭溪リウランケイが來化を聞、いて常樂寺にらしむと有。此のテラモトは天台宗なりしが、蘭溪入院以後、禪宗になりたりと云傳ふ。故に梵仙の榜には開山蘭溪とあり。
[やぶちゃん注:「周關」とは聞き慣れない語であるが、前年の同日に泰時は逝去しているから、所謂、二周忌の祭事を言うものであろう。以下、「常樂寺略傳記」の引用部を影印の訓点に従って書き下したものを示す。
古老相傳ふ、粟船を以て村に號することは、山に依〔り〕て名を得たり。此の地、往時ムカシ海濵たり。以て粟をする船を此に繋ぐ。一夕變〔じ〕て山と化す。今の粟船アフフナ山是なり。其の形船のごとし、又、海濵化して桑田と爲る。人、此に家す。故に粟船村アフフナムラと曰〔ふ〕。山の南を垢拂村アカハラヒムラと曰〔ふ〕。昔し船中のアカを掃〔ふ〕處なり。又、山の北に小山有り、カタチ圓轉たり。里民呼〔び〕て柄杓山ヒシヤクヤマと曰ふ。垢水を汲む器、山と化す。其の餘の依名具〔さ〕に記さず。此の地四仞の下、腐貝朽蘆・古株靑泥等、今猶を存す。井を鑿〔ち〕て焉〔れ〕を知る。
縄文海進の時代は現在の大船まで深い入江が延びていた。ここに示された古老の伝承は驚くべき古代を語って素晴らしいではないか。「靑船」というのは初見、また本文では「アフフナ」以外に一箇所「ヲフフナ」のルビが見られ、現在の「オオフナ」という呼称へと遷移する過程も窺える。]

寺寶

定規 貳篇 共にイタコクしてあり。一篇は蘭溪ランケイ、一篇は梵僊ボンセン。其の文如左(左のごとし)。
[やぶちゃん注:「定規」は「住持によって定められた清規」を言う。清規とは「清浄大海衆(出家者総て)の規矩準繩」の略で、禅宗寺院にて安居する修行僧が守るべき規則を言う。]
光陰有限、六七十歳、便在目前、苟若虗過一生灼然難得復本、既挂佛衣之後、入此門來、莫分彼此之居、各々當行斯道儻以粟船上殿爲名、晝夜恣情、於戲非但與俗無殊、亦乃於汝何、今後本寺主者、既爲衆僧之首、當依建長矩式而行、畫則誦經之外、可還僧房中客前坐禪、初後夜之時、以香爲定式、領衆坐禪、二更三點可撃鼓、房主歸、衆方休息、四更一點、依復坐禪、至閑靜時方人寮、夜中不可高聲談論、粥飯二時、並須齊赴、不可先後、今立此爲定規、不可故犯、若有恣意不從之者、申其名來、可與重罰、住山道隆
              道隆 
[やぶちゃん注:「道隆」の後の鍵の手型のサインは蘭渓道隆の花押である(花押の発祥は中国唐代とされている)。「道」が元か。いや、ガツンと来るねぇ! 以下、道隆の定規を影印の訓点に基づいて書き下したものを示す。
光陰限有り、六七十歳、便ち目前に在り。苟〔く〕も若し虗〔し〕く一生を過〔さ〕ば灼然として本に復〔す〕ること得難し。既に佛衣を挂〔け〕ての後、此の門に入り來〔た〕る。彼此の居を分〔つ〕こと莫く、各々當に斯の道を行〔な〕ふべし。儻し粟船の上殿を以て名と爲し、晝夜情を恣にせば、、於戲アヽ、但だ俗と殊なること無〔き〕にのみに非ず、亦、乃れ汝に於て何のやある。今より後、本寺の主は、既に衆僧の首たり。當に建長の矩式に依りて行ふべし。ヒル則ち誦經之の外、僧房の中、客前に還〔り〕て坐禪すべし。初後夜の時は、香を以て定式と爲〔す〕、衆を領して坐禪、二更に三點鼓を撃つべし。房主歸〔り〕て、衆方に休息す。四更一點、依〔り〕て復た坐禪す。閑靜の時に至〔り〕て方に寮に人る。夜中高聲に談論すべからず。粥飯の二時、並に須〔ら〕く齊〔し〕く赴くべし。先後すべからず。今此を立て定規と爲〔す〕。故に犯すべからず。若し意を恣にして之に從はざる者の有〔ら〕ば、其の名を申し來れ。重罰を與ふべし。住山道隆
              道隆 
「六七十歳、便在目前」とあるが、蘭渓道隆(一二一三年~弘安元(一二七八)年)はまさしく数え六十六で、この時は開山となった建長寺住持に戻っていた。
「儻し」は「もし」と読む。
「乃し」は「それ」又は「これ」と指示語で訓じている。
「初後夜」は初夜から中夜を挟んで後夜、夜を凡そ現在の四時間で三分したものを言う。ここではその夜の時間帯全てを通してということで、ほぼ午後六時から翌朝の午前六時までを指す。
「二更」の方はもっと限定細分された夜を五等分したもので、初更を凡そ午後八時(もう少し後にずれ込む説もある)から午後十時までとするから、ここでは午前十時過ぎを言うか。「四更」は前注によって凡そ午前二時過ぎということになる。その後座禅が終わるのは早くても午前三時頃であろうから、起床が示されていないが(この蘭渓の式法は深夜の座禅行を強烈に組んであり、現在の禅家の式法とは異なる)、遅くとも五時には起床であろうから、途中に休憩があるとは言うものの、睡眠時間は正味二時間程度ということになるか。加えて禅の古式厳法、午前中の二回のみの斎の厳守。午後は一切、食物を口にしてはならないのである。これは過酷である。しかし、この定規が凄い点は、そこではない。そこに罰せられる対象に住山自身をも含めている点にこそある。「若し意を恣にして之に從はざる者の有〔ら〕ば、其の名を申し來れ。重罰を與ふべし。」の末文が強力な鉄丸の眼目として我々の胸を打つのは、そこにこそあると私は思うのである。]

常樂寺、乃建長之根本也、開山版榜、切々訓誨、明如日月、誠不可忽、今以、晩來之者似不知之、於輪番僧衆多遊它處、今評定宜時々撿點、或住持自去、或臨時委人、若乃點而不到之者、即時出院、各々宜知悉、評定衆、前堂柏西堂、都管信、都寺興、維那習藏主、方首座、安首座、桂首座、用都聞、衣鉢胃淸、貞和丁亥三月二日 住山梵僊
              梵僊 
[やぶちゃん注:「梵僊」の後の雪洞のようなサインは竺仙梵僊の花押である。「梵」の字が元であろうか。いや、可愛らしくていいなぁ! 道隆も梵僊も花押でもグンバツだ! 以下、竺仙梵僊の定規を影印の訓点に基づいて書き下したものを示す。
常樂寺は、乃れ建長の根本なり。開山の版榜、切々たる訓誨、明なること日月のごとし。誠に忽〔か〕にすべからず。今以みるに、晩來の者、之を知〔ら〕ざるに似たり。輪番に於て僧衆多く它處に遊ぶ。今、評定して宜〔し〕く時々撿點すべし。或は住持自〔ら〕去り、或は時に臨〔み〕て人に委ね、若し乃れ點じて到らざるの者は、即時に院を出〔だ〕さん。各々宜しく知悉すべし。評定衆、前堂柏西堂、都管信、都寺興、維那習藏主、方首座、安首座、桂首座、用都聞、衣鉢胃淸 貞和丁亥三月二日 住山梵僊
              梵僊 
「今以」訓点の様相からは、この二字で「いま」と訓じている模様。
「它處」の「它」は中国語で漠然とした対象を指す語であるから、この二字で「ここ」と訓じているものと思われる。
「住持自〔ら〕去り」は建長寺住持自身が根本道場である常楽寺に行き、実地に抜き打ちで定規が守られているか査察せよ、と言っているのであろう。
「前堂柏西堂」以下は総て禅宗での僧の役職と考えてよい(直前の「評定衆」は幕府の最高議決機関たるそれと一応、捉えておく。幕府にも常楽寺式法遵守を示しているのである)。以下、細部に不明な箇所があるため、錯綜した注となっている。誤った推論等、識者の御教授を乞う。「前堂」は前堂首座のことであるが、ここでは現在の常楽寺の住持の謂いか(それとも建長寺前堂たる梵僊自身を指しているか)。古来、首座にも前堂首座・後堂首座・立僧首座・名徳首座の区別があり、ここではその名残りであろうと思われる。南宋にあったような巨大な禅宗寺院では、実際に前堂と後堂という別々な前後に配された二僧堂があった。「西堂」は当該寺院の先代住職を東堂とよぶのに対して、他の寺院の前住職を呼ぶのに用いる。頭に附く「柏」は不詳。常楽寺前住職の法号か?
「都管信、都寺興」の「都管信」の「都管」は住持代理に当たる高位僧職と思われる。「都寺」は南宋期に置かれた事務担当の役僧である六知事(都寺・監寺・副寺・維那・典座・直歳)の筆頭であるから、位置から見て実務事務方の最高責任者の役僧と考えてよい。「信」「興」は人の法号か、それとも細分された役職か?
「維那習藏主」の「維那」は禅宗では「ゐの」「ゐのう」と読み、三綱(さんごう:寺院内の管理職に当たる三役僧。上座・寺主・都維那(ついな)。)の一つ、都維那を謂うと思われる。諸務や寺内の綱紀を司る役僧である。そうすると、ここは「維那習藏主」ではなく、「維那、習藏主」ではあるまいか? 「習藏主」は三綱の寺主の別名か、若しくは時代による呼称変異、穿って言えば寺主(蔵主)見習いで蔵主のナンバー2という意味かも知れない(但し影印でも句点は存在しない。但し、熟語を示す傍線は「維―那習藏―主」のように振られていはいる)。これははたまた、前後の「維那」「藏主」がセットの役職で先の注同様に、「習」はその人の法号か?
「方首座、安首座、桂首座」ここまで来ると、どうも「方」「安」「桂」というのは、どうもやはり人の法号のように思われてならない。何故と言うに、これらが古来の首座内の更に細分化された地位を示すものであれば、古資料に頻繁に出現しなくてはならないはずなのに、ネット検索では一向に網にかからないからである。加えて別な意味で気になるのは、首座が三人もいるというのは異例だということである。通常、首座は定員一名で、多くても先の注に附した通り、巨大寺院でも前堂首座と後堂首座の二人であるからである。尚且つ、現存する常楽寺を訪れて見れば分かるが、この寺は決して大きくはないのである(狭い寺内に犇めいて建物等があるという感じではあるが)。これは他寺、例えば建長寺の前堂首座と後堂首座の二人の首座が加わっているということではなかろうか?
「用都聞、衣鉢胃淸」不詳。「用都」と「衣鉢胃」が役職か。後者は衣鉢侍者(住持の衣鉢や身の回りの品を管理する侍者)のことではあるまいか? 更に言えば、これは「胃」ではなく「冑」(音「チウ(チュウ)」)ではあるまいか? この「冑」という字には世継ぎ・子孫の意があり、衣鉢の管理を任されたナンバー2の侍者、衣鉢という最も大切なものを任されたという意味での形式上の師のナンバー2という意味ではなかろうか?
「貞和丁亥」は貞和三・正平二年で、西暦一三四七年。後の観応の擾乱へと発展する、梵僊を崇敬した足利尊氏と弟直義の骨肉の争いが深まりつつあった頃である。
「住山梵僊」この定規は建長寺住持(「住山」)であった梵僊が、先達蘭溪道隆来日所縁の、「建長寺の根本」道場たるところの、常楽寺のために書いたものであるあることが判明する。すると、実はこの最後に記された歴々は建長寺と常楽寺の役僧を合わせた一覧なのではあるまいか、という推理が成り立つ(もしかすると常楽寺の全部か一部の役僧は建長寺の役僧の兼務であったのかも知れない)。本定規は竺仙梵僊(一二九二年~貞和四・正平三(一三四八)年)が亡くなる一年半程前(命日は八月十一日)に書かれたものである。ここから、私の妄想である。
――晩年の梵僊はある時、常楽寺に参じて、同じく死を身近に感じて記された先達の厳格にして覚悟に満ちた遺戒定規の真筆を見た。――
――さて、実は梵僊、当時の建長寺の修行僧の自堕落さを目の当たりにして式法の乱れを痛感していた(これは文中で、常楽寺に建長寺の修行僧が定期的に修学しに行っていた事実が示されているのが、妙に私には細かくてリアルに感じられ、且つ私の引っ掛かるところでもあるのである。実はここ常楽寺が梵僊の頃には、蘭渓の定規とは全く真逆に、体のいい修行僧のサボり場となっていたのではなかったか? 因みに、私の友人は二十数年前迄この常楽寺のすぐ傍に住んでいたのだが、常楽寺のすぐ脇、絵図の右手の三叉路のところにあったエロ本の自動販売機まで、深夜、円覚寺の坊主が高野の裏山を越えてこっそり買いに来るのをしばしば見かけたという。)。――
――ここに建長寺古式に基づく厳格な常楽寺式法をフィード・バックして再挙、建長寺の温故せぬ弛み切った愚僧どもに「喝!」を入れた。――
……さて、という私の解釈、作麼生?……]
  已上
[やぶちゃん注:この「已上」は底本では梵僊の署名の真上にあるが、影印を見ると、微妙に後ろにずれており、これは今までにも見られた本文の(梵僊自身の定規の擱筆を示すものではなく)「定規」全体の終了を示すものである。]

鐘樓 鐘の銘あり。
  鎌倉粟船山常樂禪寺鐘銘
鎌縣北偏、幕府後面、有一仁祠、蓋家君禪閤墳墓之道場也、境隔囂喧、定催坐禪之空觀、寺號常樂、自擬安養之淨刹、弟子、追慕難休、夙夜于苔壠之月、遺恩欲報、欣求於華界之雲、便鑄鳧乳之鐘、聊添鴈堂之飾、於是狂風韻遠、可以驚長夜之夢〔、〕輕霜響和、可以傳三會之曉、當時若不記録者、後代誰得相識哉、仍課刀筆以刻銘文、寶治貮年戊申三月廿一日、左馬允藤原行家法師法名生蓮、作辭、曰、偉哉斯器、造化自然、陰陽炭調、山谷銅甄、鳧氏功舊、蒲牢名傳、入秋兮報、應律兮懸、響和靑女、聲驚金仙、動三千界、振九五天、於是先主、早告歸泉、爾來弟子、屢々溺涙淵、深恩如海、淺報似涓、夙夜之志、旦夕未悛、桑門閒鎖、廬墳墓邊、花鐘新鑄、安道場前、揚九乳韻、祈七覺緣、開曉獲、長夜罷眠、下自八大、上至四禪、以此善種、萌彼福田、
[やぶちゃん注:以下、鐘銘を影印の訓点に基づいて書き下したものを示す。
  鎌倉粟船山常樂禪寺鐘の銘
鎌縣の北偏、幕府の後面、一の仁祠有り。蓋し家君禪閤墳墓の道場なり。境、囂喧を隔て、坐禪の空觀を催すに定〔ま〕れり。寺、常樂と號す。自ら安養の淨刹擬す。弟子、追慕休し難し。苔壠の月に夙夜す。遺恩報〔ぜ〕んと欲して、華界の雲を欣求す。便ち鳧乳の鐘を鑄て、聊か鴈堂の飾を添ふ。是に於て狂風韻遠して、以て長夜の夢を驚かすべし。輕霜響和して、以て三會の曉に傳ふ。當時若し記録せずんば、後代誰か相〔ひ〕識〔る〕ことを得んや。仍〔り〕て刀筆にホラせて以て銘文を刻む。寶治貮年戊申三月廿一日、左馬の允藤原行家フジハラノユキイヘ法師法名生蓮、辭を作る。曰く、偉なるかな斯の器、造化の自然、陰陽、炭、調ひ、山谷、銅、甄す。鳧氏、功、舊く、蒲牢、名、傳ふ。秋に入りて報じ、律に應じて懸〔け〕る。響〔き〕、靑女に和し、聲、金仙を驚〔か〕す。三千界を動じ、九五の天を振ふ。是に於て先主、早く歸泉を告ぐ。爾來シカシヨリ〔コノカ〕タ弟子、屢々涙淵に溺る。深恩、海のごとし。淺報、涓に似たり。夙夜の志、旦夕未だ悛〔ま〕らず。桑門閒に鎖して、墳墓の邊に廬す。花鐘新に鑄て、道場の前に安ず。九乳の韻を揚げ、七覺の緣を祈る。開曉、を獲〔り〕、長夜、眠を罷む。下、八大より、上、四禪至る。此の善種を以て、彼の福田を萌ず。
「囂喧」は「がうけん」で喧々囂々、人々が喧しく騒ぎたてるさま。
「苔壠」は「たいろう」で苔蒸した丘の意。
「鳧乳の鐘」梵鐘のこと。中国古代の音楽をつかさどる鳧氏(ふし)が最初に作ったとされることからで、「乳」は「九乳」で梵鐘に特徴的な上部にある九つの出っ張り部分を言う。
「甄す」は音「ケン・シン」であるが、ここは対句で訓じて「あきらかにす」と読み、意味はえり分けて明らかにするという意味で採る。これは推測でしかないが「陰陽~」以降は、鐘を鋳るための強い火力が用意され、土中から鋳る材料としての銅がえり分けられることを意味しているのではあるまいか。
「寶治貮年」西暦一二四八年。前年、宝治合戦で三浦氏が滅び、北条得宗による占有支配がが確立した。
「藤原行家」(貞応二(一二二三)年~文永十二(一二七五)年)は公卿、六条家の出身の歌人。号は九条。官位は従二位左京大夫に至る。「続古今和歌集」の撰者の一人。
「九五の天」の「九天」は中国で天を方位により区分したもの。中央を鈞天(きんてん)、東方を蒼天、西方を昊天(こうてん)、南方を炎天、北方を玄天、東北方を変天、西北方を幽天、西南方を朱天、東南方を陽天という。「五天」の方も「五天竺」の略語で東西南北と中央の天を指しており、ダブっているけれども全天空のことを言っていると考えてよい。
「涓」は小さな流れのことで、転じて(先師の深い恩に報いたのは)僅かばかりという意。
「未だ悛らず」の「悛らず」は「あらたまらず」と訓じておいた。「悔い改めるに十分でない」の意でとった。
「七覺」小乗仏教の修行体系である「三十七品菩提分法」に含まれる「七覚支」のこと。悟りを得るための七種の覚支、アプローチの仕方を指す。択法(ちゃくほう:様々な教えの中から真実の教えを選択し、偽りを捨て去る。)・精進(:一心不乱の努力をする。)・喜(:真実の教えを実践することに喜悦しつつ励む。)・軽安(:身心を軽く安静にする。)・捨(:対象への捉われを捨てる。)・定(乱れのない心を完全に集中する。)・念(平穏な想念を持続する。)覚支からなる。
「八大」仏や悟達者が覚知する八種の法門。少欲(欲を少かにす)・知足(足るを知る)・楽寂静(寂静を楽(ねが)ふ)・勤精進(精進を勤む)・不忘念(念ずることを忘れず)・修禅定(禅定を修む)・修智慧(智慧を修む)・不戯論(戯論せず)を挙げる。八念とも。
「四禪」欲界を超越して色界に生ずるところの四階梯の瞑想(禅定)の様態。第一階梯が初禅で、覚・観・喜・楽・一心の五支からなり、以下、第二禅(内浄・喜・楽・一心の四支)・第三禅(捨・念・慧(え)・楽・一心の五支)・第四禅(不苦不楽・捨・念・一心の四支)と続く。道元はその先の座禅を経て、初めて悟達への道が開けるとする。
「福田」仏法僧の三宝を稲作の豊穣に擬えて、かく言う。]

文殊堂 額、秋虹殿シウコウデンとあり。文殊・毗沙門・不動を安ず。文殊は、首ばかり、蘭溪宋より持來り、體は本朝にて蘭溪作りぎたるとなり。

泰時ヤストキハカ 山の上にあり。

姫宮ヒメミヤ 山の上にあり。相ひ傳ふ泰時ヤストキムスメの墓なりと。
[やぶちゃん注:これは後述する大姫の墓とも伝えられる。実は先に引用された「粟船山常楽寺略記」には北条政子が娘大姫と、後述する婿木曽義仲嫡男源清水冠者義高の菩提を弔うために創建したと記されているのである。]

色天無熱池 寺のウシトラスミにあり。

木曾塚
キソツカ
 姫宮ヒメミヤの西にあり。此の塚、モトは常樂寺の未申ヒツジサルの方、十町ばかり田の中に有て、里民んで木曾免キソメンと云ふ。相傳ふ、木曾義仲キソヨシナカの嫡子、淸水シミズの冠者義高ヨシタカが塚なり。義仲ヨシナカは江州にてたる。義高ヨシタカ賴朝ヨリトモ婿ムコにて、鎌倉にりしが、ひそかにノガれて、武州入間河原イルマガハラにて、追手ヲヒテホリの藤次親家チカイヘが郎黨、藤内光澄ミツズミたる。光澄ミツズミ首を持て歸る。實撿の後爰に葬ると也。【東鑑】に、元曆元年四月廿六日とあり。延寶庚申二月廿一日に、田の主石井イシイ某と云者、ツカを掘出して、今の所に移す。ツカの内に、靑磁の瓶あり。内に枯骨ドロまじはつて有しをアラキヨめて塚を建しとなり。
[やぶちゃん注:木曽清水冠者義高(承安三(一一七三)年~元暦元(一一八四)年)は源(木曾)義仲の嫡男。寿永二(一一八三)年に頼朝の挙兵に呼応し、以仁王遺児北陸宮を奉じて信濃国に蜂起した義仲は、頼朝と不和であった義仲の叔父志田義広と新宮行家を庇護したことなどから頼朝の怒りを買い、一触即発の険悪な事態に陥ったが、義仲が当時十一歳であった長男義高を人質として鎌倉へ差し出して(恐らく同年夏頃以降には現着していたと思われる)和議が成立した。この際、義高は信濃の豪族の子弟で同年の側近海野幸氏らとともに頼朝の長女大姫(治承二(一一七八)年~建久八(一一九七)年)の婿として鎌倉へ入城している。ところが指揮系統を維持出来なかった山猿義仲は結局、頼朝の疑心暗鬼と後白河の策謀にはめられて元暦元(一一八四)年一月に宇治川合戦で範頼・義経の義仲追討軍に敗走、粟津で討死してしまう。同年四月二十一日、最早、存命の意味を失った義高を頼朝が誅殺することを御付の女房たちから知った大姫は、僅かに数え七歳であったが義高を逃がそうと近習幸氏を義高の影武者とし、義高を女房姿に変装させ、大姫の侍女らに囲まれて屋敷を出でて、蹄を綿で包んだ馬に跨ると鎌倉を秘かに脱出したとされる(この辺りは「吾妻鏡」によるが、この脱出劇には実は政子も加担していたという説もある)。翌一日、幸氏は美事に影武者役を果たすが、その夜になって露見、激怒した頼朝は幸氏を捕縛監禁し、堀親家らに義高誅殺を命じる。大姫がこれを聴き、「姫公周章令銷魂給」(姫公、周章し魂を銷ししめ給ふ)と激しいショックを受けた様子が「吾妻鏡」には描かれている(以下も引用も同じ)。後、武蔵国入間河原で追討軍親家の郎党であった藤内光澄に討たれた享年十二歳の義高の首は、四月二十六日に鎌倉に光澄によってもたらされた。これは内密にされていたが、直に大姫に漏れ、彼女は「愁歎之餘令斷漿水給」(愁歎の餘り、漿水を斷たしめ給ふ)と、水も喉を通らない激烈な悲哀の心傷を受けてしまう。これはASD(急性ストレス障害)の劇症型で、拒食と意識障害が生じているとなれば、若年性神経症が疑われる。以下、同年六月の記事を示す。
廿七日甲申。堀藤次親家郎從被梟首。是依御臺所御憤也。去四月之比。爲御使討志水冠者之故也。其事已後。姫公御哀傷之餘。已沈病床給。追日憔悴。諸人莫不驚騒。依志水誅戮事。有此御病。偏起於彼男之不儀。縱雖奉仰。内々不啓子細於姫公御方哉之由。御臺所強憤申給之間。武衛不能遁逃。還以被處斬罪云々。
◯やぶちゃんの書き下し
廿七日甲申。堀藤次親家が郎從梟首さる。是れ、御臺所の御憤に依りてなり。去ぬる四月の比、御使と爲して志水冠者を討つの故なり。其の事已後、姫公、御哀傷の餘り、已に病床に沈み給ひ、日を追ひて憔悴す。諸人驚騒せざる莫し。志水誅戮の事に依りて、此の御病有り。偏へに彼の男の不儀に於て起こる。縱ひて仰せを奉ると雖も、内々に子細を姫公御方に啓せざるやの由、御臺所強く憤り申し給ふの間、武衛遁逃するに能はず、還りて以て斬罪に處せらると云々。
私はこの義高と大姫の逸話が鎌倉時代の影のエピソードの中でも何より哀しく忘れ難いのであるが――それにしても――幾ら大姫がぶらぶら病になったからと言って――幾ら政子のヒステリーが手につけられなくなったからと言って――訳の分からぬうちに呼び出され――訳の分からぬうちに斬首されたであろう――ヨーゼフ・Kならぬ誅殺実行者藤内光澄は、文字通り――理不尽不可解不条理シュール――覿面体面いい面の皮――まっこと死んでも死にきれなかったであろうことは、推測するに余りあるというもんだ。――
大姫はその後十年を経ても、義高への思いに浸り続けて悶々とし、床に伏すことの多い生活が続いた。建久五(一一九四)年、頼朝は十七歳になった大姫に、下向して来た自身の甥で公家であった一条高能(十八歳)との縁談を進めようとするが、大姫は「及如然之儀者、可沈身於深淵之由被申云々」(然るごときの儀に及ばば、身を深淵に沈むるべきの由申さると云々)と答えたという。それでも頼朝は性懲りもなく、翌建久六(一一九五)年二月には政子や頼家とともに大姫をも伴って東大寺の落慶供養のために上洛した際、土御門通親などを通じて大姫を後鳥羽天皇妃にするための入内工作を盛んに企てている。しかし、薬石効無く建久九(一一九七)年七月十四日、大姫は二十歳で天に召された。彼女の症状はASDから速やかにPTSD(心的外傷後ストレス障害)に移行後、恐らく拒食や自傷行為を繰り返し、重い鬱病または統合失調症へと増悪したものと私には思われる。反幕派であった後鳥羽には入内の意向はなかったであろうし、和歌は別として、あの何事にも拘る異常な人格の後鳥羽の妃にならなかったのは幸いであったか。いや、万一妃になっていたら、案外、承久の乱以後、傷心の夫と隠岐に自律的に付き添って渡ってしまい、あの絶海の孤島の自然の中で、不思議に哀しい笑みを漏らしていたかも、知れぬ。……
「延寶庚申」は延宝八年で、西暦一六八〇年。この五月に徳川綱吉が江戸幕府第五代将軍となっている。]

◯證菩提寺舊跡 證菩提寺シヨウボダイジの舊跡は、本郷ホンガウ上のムラに無量寺と云〔ふ〕眞言テラあり。スナハち是なり。證菩提寺を、五峯山ゴホウサンと號す。此邊も山の内莊なり。【東鑑】に、建保四年八月廿四日、相州〔時賴。〕ウケタマハツテ山の内證菩提寺にて、故佐奈田餘一義忠サナダヨイチヨシタヾが迫善を修す。又建長二年四月十六日、山の内證菩提寺修埋あり。是れ右大將家の御時、佐奈田の餘一ヨイチが菩提の爲に、建久八年に建立と有。本尊阿彌陀なり。故に後に無量寺と改めたる歟。
[やぶちゃん注:この寺は現在、実は証菩提寺という名で横浜市栄区上郷町に現存する。山号は五峯山一心院で高野山真言宗である。ここでは旧跡と呼んでいるのであるが、一部の資料を見ると逆に本来、無量寺(無量壽寺とも)と呼ばれていた時代があって、後に岡崎義忠(佐奈田与一)の父義実の死後に、義実の法名であった証菩提を寺号とするようになったという記載もある。この寺は源頼朝が石橋山の合戦で頼朝に従って二十五歳で最期を遂げた岡崎義実(三浦大介義明弟)嫡男佐奈田(真田)与一義忠の菩提を弔うために建立したもので、寺地は幕府の鬼門に当たる。建立は本文では建久八(一一九七)年とあるが、現資料では文治五(一一八九)年に同定されている(後の鐘銘にもそう記されているのにあえてこう記す根拠はなんだったのか不審)。本文記載以外にも建保四(一二一六)年には実朝によって義忠追善法要を行っているが、政子没後は次第に衰微した。それを第三代執権北条泰時の娘小菅ヶ谷殿がここに新たに二つ目の阿弥陀堂を建立して再興、北条政子の十三回忌を行ったということが「鶴岡社務式次第」に見える。
「佐奈田餘一義忠」は岡崎義実嫡男岡崎(佐奈田)与一(余一)義忠(久寿二(一一五五)年~治承四年(一一八〇)年)のこと。相模国大住郡(現在の神奈川県平塚市真田)を領した武将。源頼朝の挙兵に加わり、石橋山の戦いで奮戦、討ち死にした人物として「平家物語」などで名を残し、江戸時代には夭折の武勇の美少年として錦絵で人気を集めた。以下、ウィキの「佐奈田義忠」の美事な記載から引用する(アラビア数字を漢数字に変更、一部に字空けを施した)。『父義実の推挙により、頼朝は武勇優れる与一に「大庭景親と俣野景久(景親の弟)の二人と組んで源氏の高名を立てよ」と先陣を命じ』、『与一は討ち死にを覚悟し、五十七歳になる老いた郎党の文三家安に母と妻子の後事を頼もうとするが、家安は与一が二歳の頃から親代わりにお育てしたのだから最後までお伴をして討ち死にすると言い張り、与一もこれを許した』。『頼朝は与一の装束が華美で目立ちすぎるだろうから着替えるよう助言するが、与一は「弓矢を取る身の晴れの場です。戦場に過ぎたることはありますまい」と言うと白葦毛の名馬にまたがり、十五騎を率いて進み出て名乗りを上げる。大庭勢はよき敵であると見て大庭景親、俣野景久、長尾新五、新六ら七十三騎が襲いかかった』。『この合戦は夜間に行われ、その上に大雨で敵味方の所在も分からず乱戦となった。与一は郎党の文三家安に自分は大庭景親か俣野景久と組まんと思っているから、組んだならば直ちに助けよと命じた。すると、敵一騎が組みかかってきた、与一はこれを組み伏せて首をかき切るが、景親や景久ではなく岡部弥次郎だった。義忠は残念に思い、首を谷に捨ててしまった』。『闇夜の乱戦の中、敵を探していると目当ての俣野景久と行き会った。両者は馬上組みうち、地面に落ちてころげ、泥まみれの格闘の末に与一が景久を組み伏せた。暗闇のためにどちらが上か下か分からず、家安も景久の郎党も手が出せない。敵わじと思った景久は叫び声を上げ、長尾新五が駆け付けるがどちらが上下か分らない。長尾新五は「上が敵ぞ? 下が敵ぞ?」と問うと、与一は咄嗟に「上が景久、下が与一」と言う。驚いた景久は「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな」と言う。とまどった長尾新五は手探りで鎧の毛を触り、上が与一と見当をつけた。これまでと思った与一は長尾新五を蹴り飛ばし、短刀を抜いて景久の首をかこうとするが刺さらない。不覚にも鞘ごと抜き放ってしまった。鞘を抜こうとするが先ほどの岡部の首を切った時の血糊で鞘が抜けない。そうこうしているうちに長尾新五の弟の新六が背後から組みかかり、与一の首を掻き切ってしまった。享年二十五』。『主人を失った文三家安』も奮闘の末に『稲毛重成の手勢に討たれ』てしまう。後、晴れて政権を握った頼朝は『建久元年(一一九〇年)正月二十日、頼朝は三島、箱根、伊豆山参詣の帰りに、石橋山の与一と文三の墓に立ち寄り、哀傷を思い出し涙を流した』といわれる。『与一の戦死した地には佐奈田霊社』(現在の神奈川県小田原市石橋山)『が建てられている。与一が組み合っていたとき、痰がからんで声が出ず助けが呼べなかったという言い伝えがあり、この神社は喉の痛みや喘息に霊験があると』され、今も信仰を集める。]

寺寶

賴朝の證文 壹通 其の文如左(左のごとし)。
制止證菩提寺殺生事、四至、東限坂中幷小槻峯、南限谷澤木戸口、西限邉淵橋、北限竹後大道、右當寺者、彌陀如來利生之砌也、於件四至之所、不可殺水陸之生類者、自今以後若背此旨猶致狼藉者、不論貴賤、慥可被處罪科、依爲向後、制止如件、建久八年丁巳六月二日、賴朝判あり。
[やぶちゃん注:以下、證文を影印の訓点に基づいて書き下したものを示す。
證菩提寺にて殺生を制止の事。四至は、東は坂中サカナカ幷〔び〕に小槻の峯を限る。南は谷澤木戸口キドグチを限る。西は邉淵の橋を限る。北は竹の後の大道を限る。右當寺は、彌陀如來利生の砌り、件の四至の所に於て、水陸の生類を殺すべからざる者なり。自今以後、若し此の旨に背〔き〕て猶を狼藉を致す者は、貴賤を論ぜず、慥に罪科に處せらるべし。依〔り〕て向後の爲め、制止、件のごとし。建久八年丁巳六月二日
「横浜市 栄区 広報よこはま・栄区版 平成二十年九月号 道案内」の「六人衆の道案内 頼朝が鬼門につくりし證菩提寺」の寺領推定図を見て頂くと、この寺の広大さが判明し、凡その結界位置もほぼこの枠と一致すると推定出来る。東の坂中は枠の東北角である現在の関東学院の入り口に当り、西のリンク先にも示されている現存する辺淵橋は、図の黄色い四角の左の辺の中央(結界通り、証菩提寺から真西)のいたち川に掛かる橋である。]

古證文 貮通 一通は、其の文如左(左のごとし)。
山の内證菩提寺内、新阿彌陀堂、供僧職、二口の事、中納言の法師俊濟添ふ。右守先例(右先例を守〔り〕て)、如元可被致沙汰之狀如件(元のごとく沙汰致さるべきの狀、件のごとし)。元亨元年十二月廿九日。三位法印御房へ沙彌
とあり。花押あり。何人の判と云事未考(云〔ふ〕事、未だ考へず)。一通は文は大略前と同じ。建武元年十一月廿四日と有て、花押あり。今考るに、【花押藪】にのする所ろ、足利左馬の頭源の直義タヾヨシの判歟。
[やぶちゃん注:一通目と解説は連続した文になっているが、分かり易くするため、改行した。西暦で元亨元年は一三二一年、建武元年は一三三四年。]
以上

鐘樓 鐘の銘あり。其の文如左(左のごとし)。
海末相州山内本郷、有奇麗祠、號證菩提寺文治五年、剞劂終功、素律八月、供養整儀、金刹教主之安尊像也、瑩冰雪以微妙、幕府賢將之凝信心也、寄田園以隨喜、爾降寒暑相換、一百餘廻、雁宇雖未及頽危、鴻鐘既以破損、繇玆管領施主金吾禪儀、一族抽精誠三下遂治鑄、宜達逸音於千界、永垂勝利於羣生、作銘曰、偉哉法鼓、陶冶呈勤、二儀合氣、九乳備文、控待霜降、動知秋分、聲報山月、響達嶺雲、自邇覃遐、告曉與曛、無明除睡、十方驚听、德之廣被、豈敢不欣、凡厥四衆、悉預餘薰、文保二年戊午四月日、大工山城權守物部依光。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘を影印の訓点に基づいて書き下したものを示す。
海末相州山の内本郷に、奇麗の祠有〔り〕、證菩提寺と號す。文治五年、剞劂、功を終ふ。素律八月、供養儀整ふ。金刹教主の尊像を安ずるや、冰雪を瑩じて以て微妙なり。幕府賢將の信心を凝すや、田園を寄〔せ〕て以て隨喜す。爾降〔シカ〕シヨリ〔コノカ〕タ寒暑相〔ひ〕換〔は〕ること、一百餘廻、雁宇未だ頽危に及ばずと雖ども、鴻鐘既に以て破損す。玆に繇〔ひ〕て管領施主金吾禪儀、一族精誠を抽〔き〕て三下、遂に治鑄す。宜〔し〕く逸音を千界に達し、永く勝利を羣生に垂るべし。銘〔を〕作〔り〕て曰〔く〕、偉なるかな法鼓、陶冶、勤を呈す。二儀氣を合〔は〕せ、九乳文を備ふ。扣〔へ〕て霜の降〔る〕をち、動〔き〕て秋分を知る。聲、山月に報じ、響、嶺雲に達す。邇きより遐〔き〕に覃ぶ。曉とクレを告げ、無明、睡を除き、十方、くを驚〔か〕す。德の廣く被ふ。豈に敢て欣びざらんや。凡そ厥の四衆、悉く餘薰を預る。文保二年戊午四月日、大工山城權の守物部の依光。
「剞劂」は「きけつ」と読み、「剞」は曲がった刀、「劂」は曲がった鑿(のみ)で彫刻すること、彫刻物を言う。後文から見て、本尊の完成を言うか。
「素律八月」八月の異名に「素月」があり、「律」には「始め」の意があるから、八月一日か初旬の意。
「瑩」は音「ヤウ・エイ」で、磨いて光沢を出す意。
「繇〔ひ〕て」は「したがひて」(従ひて)と訓じた。
「管領施主金吾禪」最後に「文保二年」(西暦一三一八年)とあることから推測すると、鐘の鋳造を施主出来るのは幕閣の中心にいる人物でなくてはならない。当時は幕府末期で北条高時の得宗政治下、内管領である長崎高資(彼はこの数年前に父長崎円喜から内管領の地位を受け継いでいる)が実権を握った頃である。この「管領」とあるのは長崎高資を指すものと考えてよい。しかし、彼の法号や別名には「金吾」は見当たらない。しかし、同じ内管領に準ずる高資の部下の有力な御内人(みうちびと:得宗家に被官した武士。その筆頭を内管領と称した。)の中に尾藤金吾なる人物を発見出来た。取り敢えず、この人物に同定しておく。
「扣〔へ〕て」は底本では「控」。影印に従ったが、同字である。
「邇き」「ちかき」(近き)と訓ずる。
「遐〔き〕に覃ぶ」「遐〔き〕」は「とほき」(遠き)と訓ずる。「覃ぶ」は「のぶ」(延ぶ)と訓じた。鐘の音が遠くまで及ぶことを言う。
くを驚〔か〕す」とは、聴く者を驚かすという意。「物部依光」は当時、関東一円で盛んに造鐘した鋳物師棟梁物部国光の子。
鐘銘というのは大概ステロタイプで、鋳造に至る経緯と施主への讃とありきたりの銘で終わるのであるが、今までの鐘銘の中では、すこぶる附きでつまらない銘である。しかし、この歯が浮くような施主金吾への賛辞と「永く勝利を羣生に垂るべし」という言葉が、生きていたとすれば、恐らくこの十五年後に幕府の滅亡とともに自害して果てたに違いない金吾なる御内人の末期と皮肉に響き合っているようにも思えてくるのである。]

○大長寺 大長寺ダイチヤウジは岩瀨村の内に有。龜鏡山キキヤウサンと號す。淨土宗、知恩院の末寺也。開山は、増上寺の觀智國師なり。寺領五十石の御朱印あり。

○不動堂〔附男瀧 女瀧〕 不動堂フドウダウ今泉村イマイヅミムラの内にあり。今泉山と額あり。不動の石像、弘法の作と云ふ。堂のムカふにタキあり。高さ一丈計あり。南北に相ひ向てつ。南を男瀧ヲダキと云、北を女瀧メダキと云ふ。寺號は圓宗寺と云ふ。今八宗兼學也。
[やぶちゃん注:最後の「寺號は圓宗寺と云ふ。今八宗兼學也。」は貞享二年の影印本にはない。これは底本が後印本を基にしているためで、埋木によって実情に合わせて補刻した部分である。私は三十数年前、この現在は称名寺と号する寺を初めて訪れた、とある秋の時のことを思い出す。二つの瀧は今もあって結構な水量で落ちている。眺めていると近隣に住む男性が近寄ってきて、「いい瀧でしょ。夏場には子供が水浴びしたりしてるんですがね。実はこれは背後の住宅地から流れ出てるんですよ。でも彼らには可哀想だから言わないことにしています。」と呟いた。――可哀想だと思うなら、いや、言ってやれよって。]

○玉繩村 玉繩村タマナハムラは、山内より西方なり。【關東兵亂記】【鎌倉九代記】【北條盛衰記】等に、玉繩城タマナハノシロと有は此所なり。今松平備前の守源の隆綱タカツナ居宅とす。ノチ甘繩アマナハの條下とらし見るべし。鶴が岡鳥居より、此所まで、四十八町ばかりあり。
[やぶちゃん注:松平隆綱は松平正信(元和七(一六二一)年~元禄五(一六九三)年)のことと思われる。ウィキの「松平正信」によれば江戸時代の大名で、相模国玉縄藩第二代藩主。大河内松平家本家第二代。初代藩主であった松平正綱の次男。『兄の松平利綱が早世したため、代わって嫡子となり父の後を継』いだ。万治二(一六五九)年に江戸幕府奏者番となり、貞享三(一六八六)年まで務める。元禄三(一六九〇)年に隠居、家督を次男の正久に譲っている、とある。私が校訂に用いた「新編鎌倉志」影印本が貞享二年の刊行であるから、正信と考えて間違いない。「四十八町」は凡そ五・二キロメートル。]

○洲崎村〔附寺分村 町屋村〕 山内の西なり。【太平記】に、義貞ヨシサダ、鎌倉合戰の時、赤橋アカハシ相模の守守時モリトキを大將として、洲崎スサキの敵にけらるとあるは此所なり。赤橋アカハシハラりければ、十八日の晩程クレホトに、洲崎スサキ一番にヤブれて、義貞ヨシサダの官軍は、山の内まで入にけりとあり。山の内は東方なり。皆此の道筋ミチスヂ也。【鎌倉年中行事】に、藤澤炎上の時、公方〔成氏。〕洲崎スサキまで御出、それより御使ツカヒツカはさるとあり。此の村の東を寺分村テラワケムラと云ふ。西を町屋村マチヤムラと云、町屋村マチヤムラは、金澤にも此の名あり。
[やぶちゃん注:現在、地名としては「寺分」は「てらぶん」と呼称している。]


新編鎌倉志卷之三