やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


鎌倉攬勝考卷之六


[やぶちゃん注:底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。「鎌倉攬勝考」の解題・私のテクスト化ポリシーについては「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の私の冒頭注を参照されたい。なお、テクスト化の効率を高めるため、八巻以降(最終巻から昇順に逆にテクスト化している)は私の詳細な注は、取り敢えず中止とし、私が読んで難読・意味不明と感じたものにのみ「注」を附した。これは注作業が面倒だからではない。単純に本書のテクスト化効率を高めるためである(そうしないと「新編鎌倉志」もこれも完成しないうちに私が鬼籍に入ってしまうような不安を感じるからでもある。半ば冗談、半ばは本気で。それだけの覚悟で私は注を附けている)。詳細注は後日に期す。
【作業開始:二〇一一年九月二十九日 作業終了:二〇一一年十月四日 最新注補足:二〇一一年十月十四日

鎌倉攬勝考卷之六

  佛 刹


寶戒寺
 金龍山圓頓院と號す。天台宗東叡山末。前條に出せし將軍賴經卿以來六代の御所跡と、執權北條氏が舊跡なり。傳へいふ、尊氏將軍のはからひにて、後醍醐帝へ奏し、高時が爲に、葛西谷の北條が菩提寺なる東勝寺を爰に移し、彼一族等が骸骨を改め葬り當寺を建立す。開山は法性寺の長老五代國師、諱惠鎭慈威和尚といふ。圓觀僧正と號す。後伏見・後二條・花園・後醍醐・光嚴帝造五代帝王の戒師となれるゆへ、五代國師と號す。延文元年三月朔日示寂す、七拾六歳なり。第二世は慈源和尚といふ。又普川國師と號せり。此人は尊氏將軍の第二子、性質多病なるゆへ、五代國師の加持祈念を得て其後弟子となり、此寺の二祖となる。古えは四宗兼學なりしが、今は天台宗にて東叡山末なり。寺領九貫六百文を附せらる。
佛殿 本尊地藏、左右梵天・帝釋、ともに唐佛なり。地藏尊は、行基作、此地藏は、尊氏將軍の守本尊といふ。不動の像は大山の不動と同作といふ。外に開山と二世の像あり。
寺寶
尊氏将軍文書 二通
右二通の内、一通は開基の謂れ、一通は寄附状なり。
地藏畫像 一幅 尊氏將軍、日課に書給ふものゝ内なり。
寫は荏柄社に圖を出せしゆへ、玆に略す。
平高時畫像 或は自筆といふ。


[平高時画像]

[やぶちゃん注:画像の左に、

平高時画像
 是は宝戒寺境内德崇権現の神躰に祀れり
 建武二年 後醍醐帝御勅に仍て勧請の時に
 神躰とせしといふ其後安せる由寺傳にいふ
 此画像は高時入道が自画なりといふ説を信し
 かたし

と添え書きする。]

三千佛畫像   三幅 唐筆
涅槃像     一幅 唐筆
五代國師自撰記 一册
同 自筆状   三通
普川國師像
德宗權現社 寶戒寺境内南にあり。北條高時を祀る。
【北條九代記】に、高時が屋敷跡に寶戒寺を建立し、多くの亡魂を吊ひ、高時を德宗權現と號し、鎭守に祝ひ給ひければ、怨靈も鎭りぬとあり。【異本太平記】に、相模入道乃一跡、德崇をば内裡の供御領所に置るゝとあり。【梅松論】北條が家督と德崇と號すとあり。
山王社 境内鎭守、門を入て右の方にあり。


[宝戒寺境内鎮守山王社御神体]


[やぶちゃん注:円盤状の御神体の裏の図の上部に、

宝戒寺境内
鎮主山王社之
神躰也

表に七社の本
地佛を鑄附
靣徑五寸許

というキャプション、御神体裏面に彫られた文言は、

山王七社
大行事早尾御正躰一靣

右應永二年〔丁亥〕二月晦日造立之於御身躰者
自元有之鏡以下荘等新造之於御遷宮者
三月二日爲佛法佋隆利益有情護国利民也

 當寺住持沙門興顗奉造躰

とある。「山王七社」は山王信仰の根本である比叡山麓の日吉ひえ神社の本山・摂社・末社の二一神社を上・中・下の、それぞれ七社ずつに三区分した呼称の上七社を言う。「大行事早尾」もその中七社の中の、大行事神社(現在は大物忌神社に改称)と早尾神社を指す。「應永二年〔丁亥〕」とあるのは不審。応永二(一三九五)年の干支は「乙亥」であるから、絵の読み取り違いか。「佋隆」は「せうりゆう」と読み、「佋」は「昭」に同じであるから、助け高めることを言うのであろう。]

妙隆寺 小町の西頰、叡昌山と號す。法華宗中山の末なり。開山日英、二世は日親、此僧を鍋かぶり上人と異名し、宗門にては其名高し。
寺寶
 曼陀羅 三幅 日親筆
 法華  三部 筆者不知
 紺紙金泥法華經 無量義經 普賢觀經
行の池 寺の後にあり。日親此池に手をひたし、一日に一指づつ、十指の爪を放し、百日の内に元のごとくヲイかえらば、所願成就と誓ひ、血を此他にて洗ひ、其水のしたゝりで曼陀羅を書、爪切の曼陀羅といふ。當寺の什物とせしが、先年退院の住持が盗み行しといふ。

大巧寺 是も小町の西頰なり。傳へいふ、古へ長慶山正覺院大行寺。眞言宗にて、梶原屋敷の邊にありしが、故有て、其後大巧寺と改て此地に移し、日蓮、妙本寺に在し時法華宗となり、九老僧日澄開山とし、妙本寺の院家となれり。寺領七貫二百文。
産女ウヅメの寶塔 堂内に一間四面の二重塔あり。是を産女の寶塔といふ。第五世日棟、毎夜妙本寺の租師堂へ参り、或夜、夷堂橋の邊より産女の幽魂出で、日棟に回向を得、苦患をまぬかれ度由をいふ。日棟是が爲に回向す。産女※金一包を捧ぐ。是を受く其爲に造立す。幽靈の出たる池橋はしらの跡も今存すといふ。夷堂橋より少し北なり。
[やぶちゃん注:「※」=「襯」-「衤」+「貝」。「※金」で「しんきん」と読み、「※」は銭をやる、の意であるから、回向の礼金をいう。]
寺寶
曼陀羅 三幅 日蓮書
一は祈禱の曼陀羅といふ。經文ちらし書なり。
一は理路の曼陀羅といふ。
一は星くだりの曼陀羅といふ。日澄、庭前の靑木に掛て日天子を拜する時、星くだりしゆへ名附、其靑木今も存するといふ。
無邊行菩薩の名號 日蓮書
日蓮乃滑息  曼陀羅 一幅 日朗書
舍利塔 五重の玉塔なり。
濱名が石塔 境内にあり。北條氏政の臣、濱名豐後守時成といふ。法名妙法、子息蓮眞・母妙節、三人の石塔なり。
番所堂 濱名時成が建立といふ。

本覺寺 大巧寺の南隣、妙嚴山と號す。身延山の末なり。永享年中草創。此寺は東國法華宗の小本寺なり。日出上人の弟子日朝、當寺の二世なり。廿歳の時より、身延山に住する事四拾年、身延山の法式此代に定むと。當寺三世日耀え日朝よりの書に、摠じて東三十三ケ國、別して關八州の僧祿に任じ置事に候得ば、萬端制法肝要に侯と云云。今寺領拾二貫二百文。
[やぶちゃん注:「摠」は「總」の俗字。]
寺寶
曼陀羅  一幅 日蓮書
日蓮消息 十通
記録   一册 日出上人、天台宗と問答せし時の執權是非を糺し、田園寄附の由、自筆なり。
外に北條家判物あり。

延命寺 米町の西にあり。淨土宗安養院末なり。堂に立像の地藏を安ず。土俗ハダカ地藏といふ。又は前出し地藏ともいふ。裸形にて双六局をふみ、厨子入、衣を着せたり。參詣のものに裸にして見する所なり。地藏へ女根を作り附たり。むかし北條時賴が、婦人と双六のカケモノして婦人負たるゆへ、地藏を念じければ、忽ち女體に變じ、局の上に立りといふ。不敬の形に造り、佛を玩戯するにやあらん。信じがたし。
[やぶちゃん注:「賭」は、底本では「貝」を「日」に変える。]

教恩寺 米町の内にあり。寶海山と號す。時宗藤澤淸淨光寺末也。土人いふ、もとは光明寺境内の山際に有しを、延寶六年爰に移せり。此所は善昌寺と云光明寺末寺の廢せし所なり。又教恩寺の在し跡を所化寮とす。
[やぶちゃん注:「所化寮」とは修行中の僧侶の寮をいう。]
本尊阿彌陀 運慶作といふ。
寺寶
盃 一箇 傳へいふ。平重衡、千壽前と酒宴の盃なりといふ。内外黑ぬり、内に梅花の蒔繪あり。大いさ、今時の平皿の如くにて淺し。木薄く輕し。
[やぶちゃん注:この「盃」は、「吾妻鏡」の伝える、虜重衡を潔い武士としてもてなした頼朝(自身は出席せず)の宴の際の、元暦元(一一八四)年四月二十日の以下の記事に登場する盃と思われる。
四月小廿日戊子。戊子。雨降。終日不休止。本三位中將〔重衡〕依武衛御免有沐浴之儀。其後及秉燭之期。稱爲慰徒然。被遣藤判官代邦通。工藤一臈祐經。幷官女一人〔號千手前。〕等於羽林之方。剩被副送竹葉上林已下。羽林殊喜悦。遊興移剋。祐經打鼓歌今樣。女房彈琵琶。羽林和横笛。先吹五常樂。爲下官。以之可爲後生樂由稱之。次吹皇麞急。謂往生急。凡於事莫不催興。及夜半。女房欲皈。羽林暫抑留之。與盃及朗詠。燭暗數行虞氏涙。夜深四面楚歌聲云々。(以下略)
四月小廿日戊子。雨降る。終日不休止。本三位中將〔重衡。〕、武衛の御免に依りて、沐浴の儀有り。其の後、秉燭の期に及び、徒然を慰めんが爲と稱し、藤判官代邦通、工藤一臈祐經幷びに官女一人〔千手前と號す。〕等を羽林が方へ遣はせらる。剩へ竹葉・上林已下を副へ送らる。羽林殊に喜悦す。遊興、剋を移す。祐經、鼓を打ち、今樣を歌ふ。女房、琵琶を彈き、羽林横笛を和す。先ず五常樂を吹き、下官の之を爲すを以て後生樂と爲すべしの由、之を稱す。次に皇麞急わうじやうきふを吹きて、往生急と謂ふ。凡そ事に於て興を催さざるは莫し。夜半に及び、女房、皈らんと欲す。羽林、暫く之を抑へ留め、盃を與へ朗詠に及ぶ。燭暗くして數行虞氏の涙。夜深うして四面楚歌の聲と云々。(以下略)
「平家物語」も載る二人の悲恋の物語の始まりに登場する盃なのである。]


[やぶちゃん注:比企谷妙本寺の図]


妙本寺 長興山と號す。日蓮説法始の寺なり。寺傳に、元祖上人の俗弟子、比企大學三郎が建立、日蓮在世の時、日朗に附屬す。ゆへに日朗を以開山とす。正月廿一日開山忌あり。此寺の住持、池上本門寺を兼帶すといふ。塔頭十六坊、院家二箇院あり。寺領一貫五百文を附せらる。此寺境内を比企が谷といふ。比企判官能員が舊居跡也。此人の住せしより、地の名に稱することは、地名の條と第跡に出たれば合せ見るべし。

本堂 この堂はもと阿彌陀堂にて、彌陀の像を安ず。大學三郎が持佛堂の本尊なり。近年盜みとられ、いまは釋迦立像・鬼子母神・四菩薩を安ず。釋迦は陳和卿が作なりといふ。日蓮伊豆へ配流のとき、釋迦を持參す。後に日朗に附屬す。其像、今は本國寺にありといふ。
[やぶちゃん注:この文、意味が取れない。伊豆に日蓮が配流された(弘長元(一二六一)年の伊豆伊東への最初の伊豆法難)際に、この伝陳和卿作の「釋迦立像」を持参したが、後にその像を弟子の日朗に譲った、そしてその「釋迦立像」は、現在は「本國寺」にあるというのでは、この幕末時に妙本寺にあった「釋迦立像」とは一体、何物なのか? いや、なかったのか? 「本國寺」とは現在の京都府京都市山科区にある日蓮宗の大本山大光山本圀寺か。而して現在の本圀寺の寺宝の「三箇の霊宝」筆頭に立像釈迦像とあるが、これか? しかし乍ら、現在の妙本寺には同時代の竹御所供養堂(新釈迦堂)にあった釈迦如来像が寺宝とされている。さても?――と悩んでいたところが、実はこれは植田が「新編鎌倉志卷之七」の記載を端折って援用したことによる錯誤であることが分かった。該当箇所を引用すると、

本堂 此処の堂には、元阿彌陀の像を安ず。其像は、大学三が持佛堂の佛なりしを、近年盗みられて、今は立像の釋迦・鬼子母神・四菩薩を安ず。釋迦は、陣和卿が作と云ふ。日蓮、伊豆へ配流の時、立像の釋迦を隨身す。後に日朗に付屬す。其像イマは本國寺に有り。故にコヽにも又立像の釋迦を安ずと也。

とある。これは日蓮の伊豆配流の法難の際に日蓮は守護仏として立像の釈迦を身に附けて行き、それは始祖守護の大事な仏像として直弟子日朗に譲られた。その由緒ある釈迦立像は現在、本国寺にあるが、そうした由縁から日蓮宗の由緒ある寺院であるここ妙本寺でも、特に大切に立像の釈迦を祀っているのである、ということである。植田先生、ちょっと手抜きが酷すぎますぞ!]
租師堂 本堂より北にあり。比企谷の法華堂といふはこれなり。祖師一尊を安ずるゆへ、また御影堂とも唱ふ、日蓮在世の内弟子日法、隨身して容貌を寫せし像なり。また大學三郎が牌有。上に法華の題目を書き、下に開基檀那日學位・同簾中理芳位とあり。毎年二月十五日、大學三郎が法事あり。寺傳に、大學三郎は比企判官能員が末子、父誅せられし砌、伯父伯耆法印といふは、證菩提寺に住し、その時京の末寺に在しが大學三郎を出家させ、京に隱し置き、後に文士となり、順德帝に仕え奉り、佐渡國へ御供せり。
賴經將軍の御臺所は、能員が外孫なるゆへ、大學三郎、老御免を蒙り鎌倉へ下り、竹の御所の御爲に、比企谷に法華堂を建立し、僧を集めて持經し、法名日學といひ妙本と號す。後に寺の名とす。
寺寶
曼陀羅 三幅 皆日蓮書、一幅は蛇形の曼陀羅といふ。昔兵乱の時當寺へ濫妨せしに、此曼陀羅井の中に落て、蓮の字のはねたる節、蛇形に見へけるゆへ、盗おそれ去といふ。本行院の後に蛇形の井有。一つは歸命の曼陀羅といふ。悉く南無を書添たり。一つは祈禱の曼陀羅といふ。大巧寺の條に出すと同じ。此外、日蓮の書なる曼陀羅あまたあり。
[やぶちゃん注:現在、妙本寺には日蓮「臨滅度時の御本尊」と呼称される十界曼荼羅が寺宝としてあり、これは現在の日蓮宗に於いて重宝と指定された宗定本尊でもある。これは特に日蓮の有力壇越の一人であった武蔵国池上郷(現・東京都大田区池上)の池上宗仲邸(現・本行寺)で、日蓮が弘安五(一二八二)年十月十三日に入滅した際、その枕元に掛けられたものとされる。以下にウィキの「日蓮」にあるパブリック・ドメインの「臨滅度時の御本尊」の画像を掲げておく。



「歸命の曼陀羅」がこれを指すか。以下、寺宝「天照大神尊像」迄は二段組になっているが、一段で示す。]
日蓮消息  九通
日蓮遺骨塔 一基
法華經一巻 〔細字。日蓮書。〕
法華經一部 日朗筆
毘沙門一軀 傳教大師作
佛舍利一粒 〔水晶塔入、高一尺五寸、北條高時所持の物也。〕
大黑天一軀 運慶作
八幡大神尊像 右同作
東照宮御判物 〔小田原御陣の時、箱根にて日惺頂戴す。禁制の御判物なり。〕
[やぶちゃん注:「判物」は「はんもつ」と読み、将軍・守護・大名が直に発給した文書でも、発給者自身の花押が記されたものをいう。一般には所領安堵・特権付与などを行う場合に用いた。「日惺」は思文閣刊の「美術人名辞典」(デジタル版)によれば、『鎌倉比企谷妙本寺・江戸池上本門寺両山の貫主に招請され』、徳川家康からは『江戸に寺地を与えられて善国寺など五か寺を開創した。豊臣秀吉の方広寺大仏供養の出仕問題では、不受不施派の日奥を助けようと上京するが果たせず、その帰途』、慶長三(一五九八)年、四十九歳で示寂した、とある。妙本寺は、江戸初期までは日蓮宗の中でも排他性の強いファンダメンタルな不受不施派(江戸幕府はその後も弾圧と禁制を加え続けた)の末寺を多く抱えていた。]
【大草紙】に、佐竹上總介入道、家督の事に付て持氏朝臣の不審を蒙りければ、應永廿九年十月三日、比企谷にありけるを、持氏朝臣、上杉淡路守憲直に仰付られ軍勢を發し給ふ。佐竹も打て出防ぎ戦ひけるが、終に不叶して、妙本寺の法華堂に籠り、主従十三人自害して失けり。其靈魂たゝりをなしけるゆへ、靈魂を一社の神に祀りけるとあり。


[比企一族滅亡の塚の図]


[やぶちゃん注:左手に立つ標柱は「比企一門打死亡靈之塚」で、底本画像の字は「亡」の篆書体である。標柱右側面には「建仁三年癸亥九月二日」とある。更に上部に、

妙本寺祖師堂より
右の山麓に有銀杏
の朽株の内に小石
塔を置
比企の一族此地にて
戦死せり

というキャプションがある。]


[源頼家嫡男一幡の袖塚の図]


[やぶちゃん注:標柱「源賴家卿嫡男一幡君御廟」。右上部に、

賴家卿の御子一幡君の跡
妙本寺釋迦堂の傍にあり
梅の木一株あり古木ハ枯て
其後植添たるもの也

というキャプションがある。]

[比企一族の墓の図]



[やぶちゃん注:比企一族の墓の上部には、

比企谷祖師堂の右の方に一族の
塚あり 其の先の麓に
あり 此五輪の墓石の苔を
拂へば銘有能本の墓石
賜紫日顗とあり此日顗ハ
當寺の住僧にて爰の山上
にある題目の碑は日蓮の
四百五十年忌に彼日顗の
建し題を銘せり仍て考
ふに其時此の墓石一層を
彼日顗の再建せしもの
なるべし

というキャプションがある。「賜紫」は賜紫沙門のことで、皇帝から法懐大師という大師号を授けられた尊者を言う。但し、この文中の事蹟には誤りがある。墓所の再建者は日顗にちがい上人ではなく、日顯上人で、これは文字の読み取りを誤ったものであろう(池上本門寺二十五世守玄院日顗は実在した同時代の日蓮宗の名僧でもあったので刷り込みも働いたものと思われる)。四百五十年遠忌は享保十六(一七三一)年に時の貫主第二十五世守玄日顕(池上長栄山本門寺と妙本寺は一主兼帯であった。ここにも植田の誤解の一因があるようだ)によって修されたもので、実は先に掲げられた「比企一門打死亡靈之塚」及び「源賴家卿嫡男一幡君御廟」もこの際に建立されたものである(標柱が如何にも綺麗なのはそのせい)。画中の比企一族の墓の銘は、左から、

比企廷尉藤能員
法名長興灵儀廟

廷尉藤原能員
    妻
三浦氏妙本灵
[やぶちゃん注:「灵」は「靈」の俗字。]

比企法橋能本室
理芳靈亡廟
[やぶちゃん注:画像の「亡」の部分の字は篆書体。]

廷尉能員之子
大学三郎能本
本行院日学上人

と読める。]


[佐竹上総介入道山入与義やまいりともよし主従十三人の塔の図]



[やぶちゃん注:佐竹一族討死のやぐら図の上方には、

比企谷祖師堂より右の方
山麓に岩窟あり古石塔
數多あり是は佐竹上總介
 主從ノ十三人の塔なりと
           いふ

というキャプションがある。]

安養院 名越入口街道より北にあり、祇園山といふ。浄土宗なり。智恩院末。此寺元は律宗にて、開山願行上人なり。十五世昌譽といふ時より、浄土宗となる、其前住の牌は皆律僧なり。初は長谷の前、稻瀨川の邊に在しが、元弘乱後爰に移すといふ。本堂に阿彌陀の坐像あり。客殿にも阿彌陀の坐像有。兩尊阿彌陀が作なり。寺領一貫六百文。
寺寶
傳通記全部 記主上人の嫡嗣寂惠書
法然上人行状圖繪 土佐筆
涅槃像 一幅 唐筆
彌陀三尊畫像 一幅 宅間法眼筆
二十五菩薩像 一幅 右同筆
[やぶちゃん注:以下原文では全体が二字下げ。]
安養院境内に、二位尼の廟塔と稱するものあり。訝しきものなり。靈牌もありて、法號を寺號とすれども、其銘文殊にあざやかなり。此塔の如きもの三基あれども、文字も分明ならず。右の方は尊觀といふ文字見ゆるのみ。是は古き世代の僧の石塔なるべし。此塔のみ、法號・歿年月迄いと鮮明なるはいかにやあらん。
[やぶちゃん注:以下に底本にある図像を示すが、「此塔」以下で植田が不審を抱いている通り、この基礎の銘は、現在、後年の追刻と判断されている。但し、本塔自体は確かに北條政子慰霊の宝篋印塔と思われ、鎌倉幕府滅亡後の室町期の作と伝承されている(追刻は更にその後と考えてよいか)。なお、その右手にあるものは徳治三(一三〇八)年の銘を持ち、現在、最古の関東様式になる宝篋印塔とされるものである。浄土宗名越派の開祖であった尊観良弁(延応元(一二三九)年~正和五(一三一六)年)の墓と考えられ、やはり追刻された銘によれば、造塔石工は心阿(忍性の配下にあった石工として知られる人物)とある。]

[やぶちゃん注:伝二位尼北条政子墓の図]



[やぶちゃん注:宝篋印塔には、

二位政子
  御法号
安養院殿
如實妙觀
大禪定尼
嘉祿元年
酉七月十三日

の文字が記され、本図では塔身に鼻音化記号の点を附した種字様のもの(ぴったりくるものを探し得なかった)が書かれているが、実際の塔身にはかなり異なるキリーク(阿弥陀如来や千手観音などを意味する)が彫られている。この図の種字は絵師(若しくは実見者)がいい加減に記したものと思われる。]

安國寺 名越村の東なり。此寺と長勝寺の所を、松葉が谷と號す。山號は妙法山といひ、妙本寺末也。門の扁額、安國論窟、大永元年巳歳十月十三日、幽賢書と題す。門内左の方に岩窟あり。日蓮、房州小湊より渡り、窟中にて【安國論】をあむといふ。内に日蓮石塔あり。日蓮、法華の首題を唱へ初し處也。
本堂 釋迦を安ず。
[やぶちゃん注:次の記載は底本では前行の下に一字空けで続く。]
御影堂 日蓮の像を安ず。
寺寶
【松葉谷安國論縁起】 一卷
同縁起の繪      一幅

長勝寺 名越切通へ登る南の谷にあり。松葉谷本國寺の舊跡、今は京都本國寺の末なり。石井山と號す。境内に岩を切穿ちたる井あり。石井と稱し、十井の内なり。寺僧の話せるに、古へ日蓮菴室を結び、後に日朗・日印・日靜と次第に住し、日靜爰の本國寺を京都へ移し本國寺と號し、此所をば日叡に附屬せしむ。日叡、寺號を改め妙法寺とす。日叡を妙法房といひしゆへなり。其後塔辻へ移し、又其後辻町へ移し、此地荒蕪の境となりしを、中興日興法師舊地を慕ひ、一寺建立し長勝寺と號す。其再興の年時、中興日隆が寂も傳へず。寺領四貫三百文。豐臣家禁制書も有。本堂は小田原北條家の時、遠山因幡守宗爲建立す[やぶちゃん注:「守」は底本「寺」。誤りとして訂した。]。仍て夫婦の木像あり。本尊釋迦を安ず。鐘あり。寛永の鑄成ゆへ銘文は略す。又寺僧云、今の辻町啓運寺と[やぶちゃん注:「運」は底本「蓮」。後の二箇所は「運」であるから誤りとして訂した。]、名越妙法寺と、近年寺號を替たり。啓運寺はもと妙法寺なるを、今は啓運寺といひ、名越の妙法寺はもと啓運寺なるを、今は妙法寺といふなん。

法性寺 名越坂を踰る道より東の方にあり。日蓮當國へ來り始て此所の岩窟に住し、弘安九年に法性寺を建立す。猿畠山と號し、妙本寺末なり。
客殿、法華題目・釋迦・多寶を安ず。山の中段に影堂あり。堂の前に日朗の墓あり。日朗遷化は妙本寺なり。堂の後に窟あり。日蓮石塔も有、又堂の北に、窟相双で六ツあり。六老の窟といふ。猿畠の事は、於猿畠の條に出す。
[やぶちゃん注:「猿畠山」は「えんはくさん」と読む。]

妙法寺 右同所松葉谷にあり。龍嚴山と號す。前寺と阿同宗、京都本國寺末なり。

啓運寺 辻町にあり。右同宗、同本山なり。山號は松光山といふ。此二寺の事、長勝寺の條に粗出せり。

行願寺[やぶちゃん注:これは「別願寺」の誤り。後掲注参照。] 名越にあり。時宗なりし由、當時廢せり。境内に持氏朝臣の墓碑といふものあり。無銘なり、圖左のごとし。佛壇に靈牌ありしといふ。石塔の圖他にまれなり。眞僞は定かならず。
[やぶちゃん注:別願寺は鎌倉公方代々の菩提寺で、鎌倉に於ける時宗の拠点でもあった。この寺は鎌倉時代に真言宗の能成寺という寺として既に存在していたが、弘安五(一二八二)年に当時の住職公忍が一遍に帰依して名を覚阿と改めて時宗に改宗、同時に寺名も別願寺に変えたものである。「別」と「行」は誤り易い字ではあるが、底本では目次から索引、頁見出しに至るまで、総て「行願寺」で、これは想像を絶する確信に満ち満ちた誤りと言える。原典がそうなっているのだろうか。この宝塔は現在も伝持氏墓と呼称され乍らも、造立は遡る鎌倉末期と推定されている。]


[伝鎌倉公方足利持氏墓の図]


[天照山光明寺の図]



光明寺
 天照山と號す。辨が谷補陀洛寺の南寄、門前は材木座の漁村にて海濱なり。關東惣本山と稱す、十八檀林紫衣の上首なり。寺領、三浦の柏原にて百石を附せらる。當寺もとは佐介谷にありしを、後に爰に移す。
[やぶちゃん注:「十八檀林」は関東十八檀林。檀林とは僧の養成を主とした寺院を言い、これは浄土宗に帰依していた徳川家康によって公的に認められた寺格であった。]
寺傳に云、寛元元年五月三日、前武州太守卒平經時、佐介谷に於て淨刹を建立し、蓮華寺と號し[やぶちゃん注:「蓮華寺」は底本「蓮華守」。誤りとして訂した。]、良忠を導師として供養せられ、後に經時靈夢に依て、光明寺と改む。方丈を蓮華院と名附くといふ。經時、法名蓮華寺殿安樂大禪定門と號す。當寺に位牌あり。【東鑑】には、經時を佐々目山の麓に葬るとあり。開山は記主禪師、諱は良忠、然阿と號す。石州三隅庄の人なり。父は宰相藤原賴定、母は伴氏、正治元年七月廿七日生る。弘安十年七月六日寂、年八十九、﨟七十四、聖光上人の弟子。聖光は法然上人の弟子。良忠の弟子六人有て、今に六派相分る。六派といふは、京部の三箇は、一條の禮阿・三條の道光・小幡の慈心なり。關東の三箇は、白旗の寂惠〔光明寺第二世。〕・名越の尊觀〔大澤流の祖。〕・藤田の持阿〔藤田流の祖。〕。是を大澤といふ。當寺は六派の本寺也。其内白旗・大澤の兩派のみ、今に盛なり。其餘は斷絶。關東十七ケ寺の檀林は白旗なり。昔經時、武州足立郡の内實田郷を寄附せられ。此寺の鐘を見るに、竹園山法泉寺の鐘なり。何の時に爰に移せしや、鐘の銘は清拙の作なり。法泉寺は今は廢せり。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]
  竹園山法泉寺鐘銘
鐘器之宏、音韻高遠、發上々機者也、建長首座爲當寺住持、了堂素安禪師、捐己貲以鑄之、與寺相爲永久、金山淸拙正澄遂爲之銘、曰、山竹園、寺法泉、系西來、葉は再傳、禮樂興、鐘惟先、命工※、掌範埏、液金銅、聲注川、大器成、簨簴懸、杵洪撞、音遐宣、司夜旦、令人天、息輪苦、開定禪、心聞洞、十虚圓、咬七條唱機縁、鏗月霜、到客船、梵刹隆、檀壽延、國永安、君萬年、大歳庚午、元德二年三月二日、大工山域權守物部法名道光、
[やぶちゃん注:「※」=「亻」+「垂」。これは「すい」と読み、中国は尭代の伝説上の名工の名。以下、「新編鎌倉志卷之四」の「法泉寺谷」に載る鐘銘の、影印本にある訓点に従って書き下したものを示す(但し、ルビと〔 〕は私の補塡)。
  竹園山法泉寺鐘の銘
鐘器の宏なる、音韻高遠、上々機を發する者なり。建長の首座、當寺の住持と爲り、了堂素安禪師、己が貲をえん〔し〕て以て之を鑄、寺と永久に相爲す。金山の淸拙正澄、遂に之が銘をつくる。曰〔く〕、『山は竹園、寺は法泉、系は西來、葉は再傳、禮樂興〔り〕て、鐘、惟れ先んず。工※に命じて、範埏はんえんを掌らしむ。金銅を液して、聲、川に注ぐ。大器成〔り〕て、簨簴しゆんきよ〔に〕懸く。杵、洪に撞〔き〕て、音、とほ〔く〕に宣ぶ。夜旦を司り、人天を令す。輪苦を息め、定禪を開く。心聞、洞かに、十虚、圓なり。七條を咬み、機縁を唱ふ。月霜にかうなり、客船に到る。梵刹、隆に、檀壽、延ぶ。國、永安、君、萬年。』と。大歳庚午 元德二年三月二日 大工の山域の權の守物部法名道光
「貲」は「資」に同じ。「捐」は義捐金の捐で、金品を出して人を救うこと。「範埏はんえん」は金属を適切な割合で捏ねることを言うか。「簨簴しゆんきよ」は鐘を懸けるための縦横の木をいう。「洞かに」は「すみやかに」(速やかに)と読んでいるか。「かう」は金属の鳴る音の形容。なお、「鎌倉攬勝考卷之七」の「法泉寺廢跡」及び私の注も参照のこと。]
總門 昔佐介谷にありし時、經時の弟時賴、額を滿掲て佐介淨刹と號すと。開山記主の傳に見へたり。今はなし。
山門 天照山の額あり。後花園帝の宸筆也。裏に永享八年丙辰十二月十五日賜畢とあり。
開山堂 勅謚記主禪師の額あり。伏見帝の宸筆也。
開山乃木像を安ず。遷化七年の後に、永仁元年七月、勅諡を賜ふとあり。
客殿 三尊を安ず。阿彌陀は運慶作、觀音・勢至は作不知。
方丈 蓮華院と號す。あみだを安ず。此像は運慶作にて、胎内に運慶が骨を收むといふ。
祈禱堂 今は念佛堂といふ。昔は祈禱堂にて、祈禱の額を掛けるが、いま寶物の内にあり。本尊阿彌陀、惠心作。左の方に辨天の像あり。昔江島辨才天の像、ある時暴風烈敷時、この寺の前海濱に寄泊る。里人相議して彼島に歸す。其後又來る。如此すること三度なり。因て寺僧御鬮を取に、ながくこの地に止るべき由なり。ゆへに爰に安ずといふ。右の方に善導の像あり。自作といふ。衣に金泥にて彌陀經を書きたり。文字明らかならず。天和の頃より、常念佛をこの堂にて修せり。


[光明寺額 四枚]


[やぶちゃん注:それぞれの画像は、
右上「勅謚記主禪師」
左上「天照山」
左下「祈禱」
で本文に記載されているものであるが、右下のものは本文に記載がない。ご覧の通り、額下には、
當山九世
祐崇上人書
とあるのみで、謂われも、書かれた字も説明されていない。そこで調べてみると、この人物は光明寺の(というよりも浄土宗に於ける重要な儀式である)「お十夜」に関わる名僧であることが分かる。以下、光明寺の公式HP「光明寺十夜法要」から引用すると、『光明寺第九代観譽祐崇上人は名僧の誉れ高く、宮中に上って浄土の法門を天皇に御進講されたところ叡感極めて篤く、明応四』(一四九五)年『の十月、光明寺で「十夜法要」を行うことを勅許されました。以来今日に至るまで五百余年の間、年々歳々、十月を期して奉修してきたのが、大本山光明寺の十夜法要で』、『今日では全国の浄土宗寺院において「十夜法要」が行われています。当山の十夜法要は、古式に従い、引声阿弥陀経・引声念仏によって行われ、昼夜にわたり参拝の人々で賑わっています』とある。この叙述から、私はこの額は、勅許を賜ったことを記念して祐崇上人が、
右下「阿彌陀」
と書いて掲げたものではあるまいかと推測した。これは私の勝手な想像である。識者の御教授を乞うものである。]
寺寶
勅額 二枚 一ツは伏見帝の宸筆、敕諡記主禪師とあり。一ツは後土御門帝宸筆、祈禱の字、裏に、福德二年辛亥九月吉日とあり。
南岳大師袈裟 一頂 竹市也。九條〔。〕法然、初め叡山にて碩學たり。依て叡空より傳ふ。是圓頓戒相承の表信なりといふ。
[やぶちゃん注:「南岳大師」は慧思(えし 五一五年~五七七年)。中国北魏の天台宗二祖とされる高僧。「竹市」が分からない。袈裟の文様で竹(の節?)と市松文様を組み合わせたものか。は「竹布」の誤植である、「新編鎌倉志巻之七」の「光明寺」同「南岳大師の袈裟」を参照のこと。「九條」は、「法然」に繋がるものではなく、袈裟の種類と思われるので句点を配した。条とは、袈裟の基本的な縫製法で、小さく裁断した布を縫い合わせて縦に繋いだものをいう。これを横に何条か縫い合わせて袈裟を作るが、条数は一般に五条・七条・九条の三種で、条数の多い方が尊位となる。「叡空」(?~治承三(一一七九)年)は平安後期の天台僧で比叡山第一の学僧として知られた。久安六(一一五〇)年、法然は彼に入門している。「圓頓戒」円戒とも。天台宗で行われる戒で、これを受ける者は、既に成仏が約束されるという。]
阿彌陀經 一卷 聖光筆、寛喜二年七月廿一日、一字三禮と奧書有。
紫石硯 一面 松陰の硯といふ。鶴龜松の彫あり。裏に年號あれど時代違えり。平重衡受戒の時、法然に與ふ。法然是を聖光に讓り、聖光また記主に與ふ。記主の法嗣寂惠房に附屬するの状有り。弘安九年八月と有。記主の自筆なり。
六字大名號 一幅 弘法の書たり。長九間、幅九尺許。是は房州佐野の金胎寺什物なるを、兵亂の時奪取て爰に納る歟。ゆへに佐のゝ名號と云ふ。
硯 二面 一ツは菅丞相の硯と云、一ツは二位禪尼政子の硯なりと云ふ。
天照大神像 神作といふ。
阿彌陀畫像 四幅 一ハ後陽成帝宸筆、三ツは惠心の筆。
阿彌陀繡像 一幅 中將姫の製。
[やぶちゃん注:「中將姫」は天平時代、尼となって当麻寺(奈良県北葛城郡)に入り、信心した阿弥陀如来と観音菩薩の助力で一夜にして蓮糸で当麻曼荼羅(観無量寿経曼荼羅)を織り上げたと伝えられる伝説上の女性。]
稱讃淨土經 一卷 中將姫の筆。
淨土曼荼羅 一幅 惠心筆。
淨土曼荼羅縁起 二卷 〔書ハ後京極良經公筆、繪ハ土佐將監光興筆。〕
阿彌陀名號 一幅 法然筆。脇書に西光徃生、保延辛酉三月十九日、當承安四年甲午父三十三回忌、故源空書之とあり。
淨土三部經 一函 法然筆。但小經は不足にて、萬無上人、金泥にて寄添たりといふ。
法然畫像 一幅 自筆。鏡の御影といふ。
記主畫像 一幅 自筆。鏡の御影といふ。
十九羅漢 十九幅 唐筆。
一枚起請 一幅 尊致法親王の書。
十八通 一册 了譽筆。
源基氏朝臣文書 一通
開山記主禪師傳 一册 沙門道光作。開山の弟子。
北條氏直朱印  一通
大神君古御朱印 一通
開山石塔 後の山にあり。山を天照山といふ。
善導塚 善導の金像を安ず。いにしへ此邊に漂着し給ひし地なり。傳へいふ、唐船日本へ渡海する時、善導大師の銅像僧と化して乘來り、筑前に着。鎭西善導寺の開山聖光の夢に、善導大師來朝して筥崎にあり、きたり迎へよと、告に任て彼地に至る。果して像あり。其地に一宇を建立す。其後善導寺に迎へ給ふ。良忠鎭西に赴き、聖光に謁す。則其像を附屬せらる。良忠靈像に向て、吾はこれより關東の諸國を化せんとおもふ、その間何れの國にても、有縁の地に跡を止め給へといひて、海に入奉る。その後良忠鎌倉に來り、佐介谷に居す。由比の澳に、光明赫奕たること七日七夜、漁父怪みけるに、靈像忽然として由比の濱に上り給ふ。良忠よりて一宇を建立し彼像を安置す。光明寺これなり。其靈像は今念佛堂に安じ、その所を善導塚と名附く。爰の像は、渡海の像を摸して鑄鎔のものなり。
[やぶちゃん注:善導(六一三年~六八一年)は唐代の浄土教大成者。長安を中心に終生念仏者として暮らし、日本の浄土教に大きな影響を与えたが、勿論、渡日などはしていない。]
内藤氏一家の墳墓 堂あり。寺より南にあり。堂内阿彌陀如意輪の像を安ず。彌陀は定朝が作といふ。
[やぶちゃん注:私はかつてここが好きでたびたび訪れたものだった。初代日向延岡藩主内藤忠興が十七世紀中頃に内藤家菩提寺であった霊岸寺と衝突、光明寺大檀家となってここへ内藤家一族の墓所を移築したものである。実際には現在も光明寺によって供養管理されているが、巨大な法篋印塔数十基を始めとして二百基余りの墓石群が、鬱蒼と茂る雑草の中に朽ち果てつつある様は、三十数年前、初めてここを訪れた私には真に「棄景」というに相応しいものであったのである。]
蓮乘院 總門の内右にあり。爰に光明寺剏建以前に、眞言宗の寺あり。蓮乘寺といふ。いまの蓮乘院なり。開山此寺に居給ひて、光明寺を建立す。ゆへに今入院のとき、住持先此院に入て後、方丈に入る古例なり。當院の本尊阿彌陀木像腹内に書付あり。貞治二年三月十五修復之、運慶作、千葉常胤の守本尊也と云。
[やぶちゃん注:「鎌倉攬勝考卷之七」の「蓮華寺跡」及び私の注も参照されたい。]
專修院 總門の内左にあり。此二院共に光明寺の寺僧寮也。
千體地藏堂 總門の内右にあり。

補陀落寺 材木座の東、民家の間にあり。南向山歸命寺とも號せり。古義眞言宗、仁和寺の末なり。開山文覺牛上人勸進帳の破たるもの[やぶちゃん注:「牛」は衍字か。]、首尾しれず、其中に、文覺鎌倉下向の時、頼朝卿、日來の恩を報ぜんとて、此寺を建立せられし由あり。此帳は、中興賴基法印といふが、頽廢せしを再興の時の勸進帳なるべし。古への本尊は藥師・十二神、ともに運慶が作なり。賴朝卿の像あり。是を鏡の御影と號す。白幡明神と同じ體なり、同敷位牌もあり。開山權僧正法眼文覺尊儀とある位牌有。中興開山賴基は、【鶴岡供僧職次第】に、佛乘坊淨國院賴基太夫法印、文和四年二月二日寂とあり。此人觀應の初に再興し、本尊を觀音として、寺號を補陀落寺と改め、鐘も其頃造立の銘あり。此鐘今は松岡山東慶寺にあり。
寺寶
八幡畫像 束帶にて袈裟を掛、念珠を持給ふ[やぶちゃん注:底本は「念殊」。]。冠より一寸程上に日輪を畫く。
寶滿菩薩像 一軀 是は八幡のヲバなりといふ。鶴岡にもあり。鶴岡にもあり。社傳には見目明神なりと號す。
[やぶちゃん注:「寶滿菩薩」は、一般には宝満山に降臨したとされる神武天皇母玉依姫の中世の神仏習合による別称である。「見目明神」は「みるめ」若しくは「みめ」と読み、三嶋大明神の随神の女神。]
平家赤旗 一流 幅二布、長サ二尺五分有。九萬八千軍神と書付てあり。
平家調伏の打敷 一張
古文書 三通の内、一通は北條氏康が虎の朱印、天文廿二年癸丑十一月十五日とあり。
一通は大導寺源六、二貫三百文寄附の状なり。
一通は文就と有て、判有り。賴朝公を弔ふべき事を載たり。
 【鎌倉志】に冬就とあれど、本書を見るに、文就なり。其寫次に出す。
[やぶちゃん注:以下の判読不能部分は底本では長方形の空欄表示になっているが、ここでは底本字数分の□表示とした。]
賴朝之御弔七月十二日に之有油錢百卅□□□貮斗淡路方へ渡申候□□衆中へ尋候へば努々無其儀候申承及候間兩月分壹貫貮□□□進侯廿□□中以三斗御勤可有候殊更七月之事は御とふらひ念頃にあるべく候處彼方へ尋候へば住坊は弔申□□□□候間□□□恐々謹言
 九月十六日      文就花押
  補陀落寺御坊然德
[やぶちゃん注:残念ながら、これは実は「新編鎌倉志」だけでなく、植田の判読も誤りで「文就」ではなく「文龍」である。昭和三十三(一九五八)年吉川弘文館刊「鎌倉市史 資料編第一」の補陀落寺文書(資料番号五九四)「文龍書状(折紙)」を底本にして、以下に復元する(底本に示された改行を復元、判読不能の部分の右に傍注する編者による推定字は□の後に〔 ?〕で、左に傍注する編者による誤字補正字は□の後に〔→ 〕で示した)。

賴朝之御弔
七月十二日
六百□〔文?〕
油錢百卅文□□貮斗淡路方ヘ
渡申候
、衆中
へ尋候へば、
努々
無其儀候申、承
及候間、兩月分
壹貫貮□□□〔百文?〕進之侯、供僧
中以其計、御
勤あるべく候、
殊更七月之事ハ
《裏へ》
御とふらひ念比

あるへく候處
、彼
方へ尋候ヘハ住坊
にて弔申□□□更愚間〔→簡〕不□□恐々謹言、
 九月十二日            文龍(花押)
    補陀落寺
御坊             龍德

頭注によれば、龍徳院の文龍という僧が補陀落寺に書簡をもたらして源頼朝の供養を催促している書状で、そちらには既に油銭(灯明に代表される供養料であろう)百三十文を淡路守を通じて渡したはずであるが、それが届いていないということであるから、改めて二箇月分の油銭を送るので、供養の儀、よろしく頼むという内容らしい。なお、文書の後に注して本文書の執筆年代は未だ不明の由、記してある。
 なお、私はこの補陀落寺というと、文覚上人自刻と伝えられる真っ黒な裸像を思い出すのだが、ここには(「新編鎌倉志」にも)記されていないのが残念だ。一説に出家後の那智の滝での荒行の様を刻したとされる、思いっきり奇体なデフォルメで、不敵にして人間離れした面相がとっても好きなのに! 因みに、この注を記した先日、二〇一一年九月二十七日の「紀伊民報」によれば、先日の台風十二号によって、熊野那智大社とその周辺部は激しい被害に見舞われ、『本殿裏手の石垣が崩れ、建物にも被害が及んだ。落差日本一を誇り、勇壮な姿を見せていた那智大滝の滝つぼも変形した。その下流、文覚上人が荒行をしたという故事に由来する文覚の滝も消失。有史以来の景観が一変した』という。――文覚よ――君の打たれた瀧は――もう、ない――]

正覺寺 小坪村の徃來より北の方にあり。住吉山と號す。本尊阿彌陀、淨土宗、光明寺末なり。光明寺開山傳記に、三住吉谷悟眞寺に住して淨土宗を弘通すとあり。昔は悟眞寺といひしや、今も土人悟眞寺とも唱ふ。

淨光明寺 泉谷にあり。泉谷山と號す。建長三年平長時の建立。長時の法名專阿といふ。開山は眞聖國師、諱眞阿、【東鑑】、文永二年五月三日、故武州禪門〔長時。〕忌景の佛事、泉谷新造の堂にて修すとあり。此寺、眞言・天台・禪・律・華嚴・三論・法相・淨土の八宗兼學なり、寺領四貫八百文を附せらる。
【梅松論】に、將軍〔尊氏。〕は、先日勅使下向の時、歸洛すべきよし仰下され、御參なき條本意にあらず、君の御芳志わすれ奉るべきにあらざれば、今度の事、條々所存にあらずと思召けるゆへ、政務をば直義に御ゆずり有て、細川源藏人賴春並近習兩三輩召具せられ、潜に淨光明寺に御座有しが、海道の合戰難儀たる由聞く、將軍仰けるは、守殿〔直義。〕命を落されば、我有ても無益なり。但し違勅は心中に於て更におもひもふけず。八幡大ぼさつも照覽あれとて、同月八日鎌倉發馬し給ふと云云。尊氏將軍も、一旦は勅違の御愼有て、此寺に御逼塞せられしことならん。
阿彌陀堂 堂塔・佛殿頽廢し、今はこの堂ばかりなり。本尊は阿彌陀の三尊、上品上生の彌陀と唱ふ。開山並平長時の木像を安ず。
[やぶちゃん注:印の「上品上生」は誤り。上品中生印である。鎌倉期の鎌倉地方特有の技法である「土紋」がはっきりと現認出来る仏像の一つ。土紋とは粘土や漆などを混ぜたものを花などの文様を彫った木型に入れ、それを型抜きして仏像の衣部分に押し付けて接着し、極めて立体的な衣紋を表したものである。私は大学生の時分、夏の夕暮れに、初めてこの寺を訪れた。庭を掃除なさっておられた先々代住職大三輪龍卿師から声を掛けて頂き、話をさせていただく内に、何故か師に痛く気に入られてしまい、特別にこの阿彌陀三尊像を拝観させて頂いたのを忘れない。収蔵庫のライトを総て点けて下さり、土紋も数センチの距離から実見させて頂いた。「重要文化財に指定されると、雨漏りのする本堂には置いておけない。管理も五月蠅くってね、金もかかる。信仰の対象だったものを秘仏のように蔵に入れておくのは、信仰とは違うね。」とおっしゃったのを今も忘れない。そうして――私はその時――直下から見上げたこの上品中生印のしなやかな指と――その先に透ける阿彌陀如来の静謐な尊顔に――曰く言い難い不思議なエクスタシーを感じたのであった――それは私の若き日の――忘れ難い鎌倉の稀有の美の一瞬――だったのだ。]
寺寶
後醍醐帝綸旨 二通 一は元弘三年十月十五日とあり。一は同年十二月廿日とあり。
[やぶちゃん注:鎌倉幕府滅亡(元弘三(一三三三)年五月二十二日)の直後である。「綸旨」については次項を参照。]
後小松帝官符宣 二通 ともに嘉慶三年二月とあり。
[やぶちゃん注:勅旨(天皇の命令や意向)が太政官によって太政官符・太政官牒などとして文書化される際にその文書作成を行う弁官局の史が口頭で勅旨の内容を聞き取るが、この際、弁官史は備忘録としてその内容を書き記した。それが後に勅旨対象者へそのまま発給されるようになり、文書として様式化して宣旨となった。従って、ここで言う「官符宣」というのは極めて正式な太政官符に記された宣旨ということになる。前にある「後醍醐帝綸旨」の「綸旨」とは院政期から鎌倉期以降に宣旨や院宣が多発されるようになるに伴い、宣旨の発給手続きを簡略化したものを言う。嘉慶三年(五月に康応に改元)は北朝方で使用された元号で、南朝では元中六年、西暦一三八九年。]
同 口宣案 一通 應永廿年九月廿四日、淨光明寺開山眞阿に勅して、眞聖國師と賜ふとあり。
[やぶちゃん注:「口宣案」は「くぜんあん」と読み、勅旨伝達の際に作られる文書の一つで、内侍から勅旨を聞いた事務官である殿上人の蔵人が、その内容を備忘録として紙に書いて(これを口宣書き)、その勅旨伝達の実務担当である上卿しょうけいには口頭で伝えたことに基づく呼称で、非公式な公式書式に則った文書の一種である。]
尊氏將軍の古文書 二通
源直義文書    三通
基氏朝臣古文書  二通
氏滿朝臣文書   一通
滿兼朝臣文書   一通
持氏朝臣文書   二通
義滿朝臣文書   一通
上杉顯定文書   一通 花押あり。
淨光明寺地圖   一枚 花押地の堺にあれども、何人かしれず。
愛染像      一軀
千手觀音像    作不知
廿五條袈裟    一頂 願行上人の受持なり。
三千佛畫像    一幅 弘法大師筆。
不動像 一軀 是を八坂の不動といふ。相傳ふ、淨藏貴所、八坂の塔の傾きたるを、祈り直せし時の本尊といふ。文覺上人、鎌倉に持來、後に此寺に安置すといふ。
[やぶちゃん注:「淨藏貴所」(寛平三(八九一)年~康保元(九六四)年)は平安中期の天台僧。文章博士三善清行八男。平将門の調伏や多くの霊験・呪術で知られたゴーストバスターである。]
八幡並弘畫像 一幅 この兩像を互の御影と號す。八幡の御影は弘法の筆、弘法の御影は八幡の筆にて、互に形を寫せしものといふ。もと高雄寺に在しを、禁廷へ召納られしを、建久八年、文覺上人申請く、其後鎌倉に持來り、此寺に納たりといふ。按ずるに、八幡神と空海とは、時代格別相たがふ。定て夢幻に神影を寫せるにもせよ、弘法の形を神影なりといふは、是も又不思議の説也。
慈恩院 本堂の西にあり。地藏の立像あり。《失拾地藏》これを失拾地藏といふ。源直義が守り本尊なり。直義合戰のとき、矢種つきたるに、小僧一人走り來て、發捨たる矢を拾ひ直義に參らす。怪敷思ひ、守りの地藏を見るに、矢一筋を錫杖に持ち添たりといふ。今も錫杖はヤガラなり。これより簳地藏と名附く。近來山ノ内の徃來端へに堂を營み移し、道俗結縁の爲に拜せしむ。また此寺に直義の位牌あり。當院本願贈正二位大休寺殿古山源公大禪定門、裏に觀應元年二月廿六日とあり。また護良親王の牌も在しが、院主理智光寺へ送りしといふ、柴屋軒宗長が【東路のつと】にいふ、今月五日、天源菴に立寄侍りしが、夫より淨光明寺の慈恩院にして、
   風やけさ枝にとをゝの松の雪
華藏院 本堂の東にあり。願行の作の不動を安ず。この二院、ともに智菴和尚の開基なり。智菴は眞聖國師の法嗣なり。
玉泉院 本堂の西にあり。源直義の文書あり。

英勝寺 壽福寺の北隣なり。東光山と號す。太田氏英勝院禪尼、自菩提の爲に、念佛道場を此地に剏建し給ひ、水戸賴房卿の息女を薙染せしめ開山とす。此地はもと、太田持資入道道灌の舊宅の地なりといふ[やぶちゃん注:底本「入道」は「人道」。訂した。]。此禪尼は、道灌より四代の孫源六郎康資入道武菴の女なり。寺領三浦郡池子村にて、四百二十石を附せらる。
總門 額は東光山とあり。曼珠院二品良恕法親王書。

[總門の額]

山門 額は英勝寺とあり。後水尾帝の宸筆なり。

佛殿 額は寶珠殿とあり。良恕法親王の書。


[佛殿の額]


本尊阿彌陀佛〔運慶作。〕。左右に善導大師・法然上人の像あり。
[やぶちゃん注:以下、梁牌銘は全体が二字下げ。]
  梁牌銘
寺名英勝、山號東光、煩惱利健劒、苦海慈航、寛永二十年八月日、正三位權中納言源朝臣賴房立〔左ノ方。〕、惟玆檀越、新開道場、晨誦夜讀、云祈久長、住持玉峯淸因〔右ノ方。〕、
[やぶちゃん注:以下、「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」に載る梁牌銘の、影印本にある訓点に従って書き下したものを分かり易く加工して示す。
  梁牌の銘
《左方の梁銘》
寺を英勝と名づけ、山を東光と號す。煩惱の利健劒、苦海の慈航。寛永二十年八月日、正三位權中納言源の朝臣賴房立〔つ〕。
《右方の梁銘》
惟れ玆の檀越、新〔た〕に道場を開く。晨に誦し、夜はに讀〔み〕て、云〔ふ〕に久長を祈る。住持玉峯淸因]
鐘樓 門を入て右の方にあり。鐘銘の寫、
[やぶちゃん注:以下、鐘銘は全体が二字下げ。]
  相陽鎌倉英勝寺鐘銘
扇谷靈區、英勝精廬、巧鑄法器、新脱鞴模、華樓直架、蒲牢高呼、聲來耳徃、外圓中虚、漁嵐成曉・湘烟向晡、遍滿忍界、透徹迷廬、梵唄無倦、德音不孤、令聞千歳、日居月諸、寛永二十年、五月吉日、法印道春撰、冶工大河四郎左衞門吉忠、
[やぶちゃん注:以下、「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」に載る梁牌銘の、影印本にある訓点に従って書き下したものを示す。
  相陽鎌倉英勝寺鐘の銘
扇谷の靈區、英勝の精廬、巧〔み〕に法器を鑄る。新に鞴模を脱す。華樓、直〔ち〕に架し、蒲牢、高く呼ぶ。聲、來り、耳、徃く。外、圓かに、中、虚し。漁嵐、曉を成し、湘烟、晡に向ふ。忍界に遍滿し、迷廬に透徹す。梵唄、倦むこと無く、德音、孤ならず。令聞千歳、日居月諸。寛永二十年 五月吉日 法印道春撰す 冶工大河四郎左衞門吉忠
「鞴模」は不詳。鞴で熱した鋳型から割れることなく首尾よく鐘が脱け出たことをいうか。「晡」は「ほ」で、「曉」の対語、夕方。「日居月諸」の「居」「諸」は句末に置いて語調を整える助字で、一般には「日や月や」と訓じ、クレジットの謂いである。]
方丈 佛殿より西の方にあり。
寺寶
阿彌陀經 一部
天神名號 一幅 後陽成帝宸筆
天神畫像 一幅 小野於通が畫贊なり。贊は假名文なり。
兩界曼荼羅 一幅 弘法大師筆
阿彌陀像 一幅 惠心筆
三尊彌陀畫像 一幅 惠心筆
金泥曼荼羅  一幅 惠心筆
[やぶちゃん注:底本「金泥」は「金尼」。訂した。]
廿五菩薩畫像 一幅 惠心筆
稱讃淨土經  一部 當麻中將姫筆
繡の梵字三尊 一幅 中將姫造
源空自畫像  一幅
西明寺圓測仁王經疏 一部
大字繪名號  一幅 弘法大師筆
法華經    一部 菅丞相筆 經の長八寸二分半
後陽成帝宸筆の添状あり。
彌陀名號 一幅 増上寺觀智國師筆
短册 一枚   同筆
舍利塔  一基
阿彌陀の小佛像 一軀厨子入、毘須羯摩が作といふ。
【英勝寺記】 一軸 林羅山撰
石盤 方丈の前にあり。銘文は澤菴宗彭の撰なり。
英勝院太夫人墓並祠堂 佛殿より西にあり。基の後の岩に三尊を刻す。石碑の表には、英勝院長者清淸春とあり。墓の後に墓誌あり。弘文院林恕撰なり。其文長ければ略す。

華光院 壽福寺の向ひなり。もとは眞言宗、本尊不動なり。佐介谷稻荷の別嘗、古へは壽福寺の塔頭ゆへ、今も先此院に入て、夫より壽福寺へ普山せしといふ。今は別院となりぬ。
[やぶちゃん注:昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊の貫達人・川副武胤共著「鎌倉廃寺事典」によれば、華光院は「けこういん」と読む。その記載によれば、江戸期には鶴岡八幡宮寺と寿福寺の両方に所属していた可能性があるとする。]

藥王寺 海藏寺へ行右の方にあり。大乘山と號す。日蓮宗。本尊は安藝廣島の國前寺の客末なり。中興は大乘院日達といふ。國前寺を隱居し、此寺を中興すといふ。もとは眞言宗にて、夜光山梅嶺寺と號せし由。按ずるに、【鎌倉志】に載るとは、似てことなる記なり。
[やぶちゃん注:不受不施派。真言宗時代の旧寺名は梅立寺とも。私はこの寺も好きだった。お目当ては裏のやぐらにある風化して仏身を骨のように削ぎ落とされた石造四菩薩像だった。これも若き日の私のとっては「奇形中の棄景」であったのだ。]

興禪寺 壽福寺の南なり。扮汾陽山と號す、當時御旗本の士、朝倉氏の先祖、朝倉筑後守の子甚十郎といふが、先考の爲に建立す。開山は、奧州松原の雲居、諱希膺なり。山門額、汾陽山、黄檗木菴書。佛殿本尊釋迦・阿難・迦葉。鐘正保二年の銘あり。
座禪窟 山上にあり。雲居が坐禪せし所といふ。
[やぶちゃん注:前掲した「鎌倉廃寺事典」によれば本寺の創建は、朝倉甚十郎正世が亡父宣正の追善のために創建したことと、鐘銘のクレジットから、宣正逝去の寛永十四(一六三七)年二月以降正保二(一六四五)年以前であることが示されている。「鎌倉攬勝考」の記載の寺では飛び切り若い寺であるが、江戸時代末期に廃寺となったものと思われる。]

海藏寺〔附底脱井〕 扇谷山と號す。此邊迄扇ケ谷の内也。開山源翁禪師にて、初は曹洞派なるが、後に大盤禪師に嗣法して臨濟派となる。昔は別山なりしが、今は建長寺塔頭に屬す。建長寺額の内、一貫二百文を分附す。土人此邊を會下が谷といふ。
[やぶちゃん注:「會下が谷」の「會下」は「ゑげ」若しくは「ゑか」と読み、会座えざに集まる門下僧のことで、禅宗・浄土宗などに於いて師の下で修行するための場所をいう。]
底脱の井 德門の外右の方にあり。傳へいふ、昔上杉家の尼參禪して、此井の水を汲て投機の歌あり。
 賤の女がいたゝく桶の底ぬけて、ひた身にかゝる有明の月。
此因縁に依て、底脱の井といひ傳ふとぞ。又【鎌倉志】の説に、城陸奧守泰盛が女、金澤越後守顯時が室となる。後に尼となり、無着と號す。法名如大、佛光禪師に參して悟徹す。投機のうたあり。
 ちよのうが戴く桶の底ぬけて、水たまらねは月もやとらす。
ちよのうは無着の幼名なり。此底脱井のこと、無着が故事をあやまりて傳へたるにやと云云。さもあるべし。
[やぶちゃん注:「德門」とあるが、この井戸は現在は海蔵寺の山門の脇にある。但し、次の項で「總門」とあるから、これは山門ではなく総門のことを言うのであろうが、用例を知らない。なお、総門は所謂、広義の寺領の入り口にある門を指し、その中に寺の結界(浄界)としての山門(三門:本来は仏国土へと通ずる空門・無相門・無願門の三つの謂い。)がある。「ちよのう」は安達千代野(ちよの 生没年未詳)と伝えられ、安達泰盛の娘、北条顕時正室。千代能とも書く。]
總門 昔は此所に山門ありしといふ。
佛殿 本尊藥師、是を啼藥師といふ。寺傳に、むかしこの山にて、毎夜土中に小兒の啼聲しけるを、源翁怪みてその處を見るに、小墓あり。金色の光を放ち、異香四方に薰ず。立寄て袈裟を脱ぎ、墓に掩へば啼聲やみけり。夜明て其墓を掘て、藥師の木像頭面のみ出たり。少しも朽ずして鮮なり、則ち藥師の像を刻み、其腹内に收むといふ。
鐘樓跡 此寺の古鐘は今建長寺西來菴にあり。其銘に、大檀那常繼とあるは、上杉彈正少弼氏定が法名なり。普恩院常繼仙嚴と號す。當寺の檀那なり。鐘銘左のごとし。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が二字下げ。]
相州扇谷山海藏寺常住鑄鐘、勸進聖正南上座、大檀那沙彌常繼、應永念二年十一月念二日、
[やぶちゃん注:以下、「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」に載る鐘銘の、影印本にある訓点に従って書き下したものを示す。
相州、扇谷山海藏寺の常住、鐘を鑄る。勸進の聖、正南上座、大檀那、沙彌常繼、應永念二年十一月念二日
「大檀那、沙彌常繼」は海蔵寺檀那であった扇谷上杉家当主、上杉弾正少弼氏定(文中三・応安七(一三七四)年~応永二三(一四一六)年)の法名。氏定は犬懸上杉家当主で前関東管領であった上杉禅秀が乱を起した際、当初劣勢であった持氏方に合力したが、反乱軍に敗れて重傷を負い、この鐘銘を記した翌応永二三年一〇月八日に藤沢道場(現在の遊行寺)で自害している。
「念」は「廿」のこと。「念」と「廿」の中国音は共に<niàn>で音通することから。]
寺寶
五部大乘經 二十函 筆者不知。
二十五條袈裟 一頂 開山の袈裟なり。
開山自贊畫像 一幅 贊の文字滅して不見。像は鮮なり。
開山源翁禪師傳 一卷
[やぶちゃん注:以下、伝文(但し、これは全文ではない)全体が二字下げ。]
傳略云、師諱心昭號空外、源翁其諡號也、俗姓源氏、越前荻村人也、初生日空中有聲、曰、此兒爲最尊、幼投陸上寺、爲沙彌、翁性敏秀、七歳誦倶舍論、十有六薙染受具、此時渉獵釋墳一千卷、十有八謁峨山〔道元弟子。〕於諸嶽、參禪門宗究洞上旨、寶治中、後深草帝奉詔、往野州那須野題偈、擧拄杖卓一下、石忽破碎、自此翁道驗聞天下、其餘化度頗多、建治帝勅賜源禪師、弘安三年庚辰春正月七日寂、
[やぶちゃん注:以下、「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」に載る全伝文の、影印本にある訓点を参考にして書き下したものを示す(一部に脱字があるがママとした)。
傳略に云く、師、諱は心昭、空外と號す。源翁は其の諡號なり。俗姓は源氏、越前の荻村の人也なり。初め生れし日、空中に聲有りて曰く、『此の兒、最尊たり。』と。幼くして陸上寺に投じて、沙彌と爲る。翁、性、敏秀なり。七歳にして倶舍論を誦す。十有六にして薙染受具、此の時、釋墳を渉獵すること一千卷。十有八にして峨山〔道元の弟子。〕に諸嶽に謁して、禪門の宗に參じ、洞上の旨を究む。寶治中、後深草帝が詔を奉じ、野州那須野に往きて偈を題して、拄杖を擧げて卓一下す。石、忽ち破碎す。此れより翁の道驗、天下に聞こえ、其の餘、化度、頗だ多し。建治帝、勅して源禪師を賜ふ。弘安三年庚辰の春正月七日寂す。]
開山塔跡 佛超菴と號す。いまは廢す。方丈の後の山上に跡あり。
辨天祠 方丈の西のかたに窟あり。雨寶殿と號す。境内鎭守なり。
道智塚 蛇居谷ジヤクガヤ(ツ)の西南にあり。或は阿古耶尼の塚ともいふ。事實しれず。
[やぶちゃん注:「阿古耶尼」は阿古耶の松に纏わる伝説上の女性。右大臣藤原豊成の娘とも陸奥信夫領主藤原豊充の娘ともされ、詩歌管弦に優れ、松の精との悲恋で知られる。但し、現在の葛原岡神社の鳥居の傍に建つ鎌倉青年団の「藤原仲能之墓」の碑によれば、本海蔵寺の伝によって道智禅師藤原仲能の墓所と推察されている。仲能は鎌倉幕府評定衆、後に海蔵寺中興の檀家長となっている。位牌が海蔵寺に現存する。]
寂外菴跡 寺の西南にあり。寂外は當寺の第二世、源翁の法嗣なり。木像も寺にあり。此邊を寂外が谷といふ。または蛇居谷といふことは、古へ右大將家、この所を切通さんとて、餘程掘けるに、蛇のすむ石ありて、血流れしゆへ止ける由、依て蛇居谷といひ、其跡も有といふ。
塔 頭 棲雲菴  照用菴  崇德菴  翠藤菴  龍雲菴  龍溪菴  福田菴  龍隠菴等の跡あり。

光則寺〔附宿屋光則舊跡〕 大佛へ行道の左の方、執權北條時政の家臣、宿屋左衞門光則入道西信が宅地なりといふ。昔日蓮上人、龍の口にて首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾父子四人、安國寺にて召捕、光則に預け給ひ土牢に入らる。日蓮、不思議の奇瑞有て害を遁る。依て光則も信を起し、宅地を以て草菴とし、日朗を開山となし、光則が父の名を行時といふゆへ、父の名を山號とし、我名を寺號とす。中古以來、古田兵部少輔重恒が後室大梅院、再興すといふ。故に今は大梅寺とも號するよし。堂内に日蓮上人・日朗の木像、光則・四條金吾父子四人の像も有。妙本寺末なり。日朗が土牢、寺の北の方なる山上にあり。
 日朗赦免状寫



此赦免状は、京都本國寺に藏する本書を以て寫し出せり。
[やぶちゃん注:以上はご覧の通り、底本でも罫線内に完全活字化されている。一応、以下にテクスト化しておく。
  召  人  筑  後  房
  事  所  有  御  免
  者  仍  執  達
  件
 文永十年後五月廿八日
         行具 花押
         行平 花押
         光綱 花押
「後五月」は「閏五月」のことであろう。文永十(一二七三)年は閏五月がある。]

極樂寺 靈山山リヤウセンザンと號す。眞言・律、南都西大寺末なり。開山は忍性菩薩良觀上人、開基は陸奧守重時が建立、法號をば極樂寺觀覺と稱す。【東鑑】に、弘長元年十一月三日、平重時卒す六十四。時に極樂寺の別業に住す。發病の初より萬事をナゲウち、一心念佛正念にして終るとあり。【元亨釋書】に、初正嘉中沙門あり。一宇を營みて丈六の彌陀の像を安じ、名附て極樂寺といひ、落成に至らずして亡す。因て平重時、其宇を今の地に移して齋場とす。重時の子長時・同弟業時、ちからを合せ修營せしといふ。【帝王編年紀】に、永仁六年四月十日、關東將軍久明親王御祈禱の爲めに、十三ケ寺の寺領の違亂を停止、殺生禁斷の事あり。相州鎌倉郡極樂寺と云云。その一つなり。古は谷々に四十九院ありしといふ。今は吉祥院といふ一院ばかり。寺領九貫五百文なり。又門を入て右の方に、千服茶磨とて、大いなる石磨あり。昔此寺にて用ひしといふ。大寺なりし事を知らさんが爲なり。
本堂 本尊釋迦、興正菩薩の作なり。嵯峨の釋迦を摸せしといふ。十大弟子の像もあり。作不知。左に興正菩薩の自作の木像、右に忍性菩薩の是も自作の木像といふ。文殊の坐像もあり。古への文殊堂の本尊なりといふ。
【沙石集】に、慈濟律師此寺に住せし時、或夜のゆめに文殊告て曰、連歌したり、付よと、「いさ歸りなん本のみやこへ。」慈濟律師付たり、「思ひたつ心の外に道もなし」と云云。慈濟律師が夢に見しは、此像なりといひ傳ふ。文殊堂の跡の礎石、今尚存せり。
寺寶
九條袈裟 一頂 乾陀糓子の袈裟、東寺第三傳と書附有といふ。是は弘法大師の傳來にて、八祖相承とて、東寺の寶物なり。今此寺に有ものは、其袈裟を摸したる歟。
[やぶちゃん注:「乾陀糓子」は「けんだこくし」で、弘法大師が唐の長安で恵果阿闍梨から拝領したという袈裟の名。]
繡心經の卓圍 一張 當麻中將姫の製作といへり。廣さ一尺二寸四方。卓圍とは、俗に唱ふる打敷なり。
[やぶちゃん注:「打敷」は寺院や仏壇の須弥壇や前卓に、法会などの際に敷く荘厳具の一種。]
二十五條の袈裟 一張 紗なり。八幡大神の所持也といふ。八幡宮へ調進せしものなるべし。
瑜伽論 三卷 菅丞相の筆。
 其事、荏柄天神寶物の條に記す。
綸旨   二通 皆嘉暦二年とあり。
[やぶちゃん注:嘉暦二年は西暦一三二七年で、この綸旨は後醍醐天皇のもの。]
右馬允政季古書 一通
尊氏將軍文書  一通
義詮將軍文書  一通
義滿將軍文書  一通
氏滿朝臣文書  一通
千體地藏 弘法大師作、本尊長一寸許、千體長〔五六分許。〕、散逸して僅に三百許なり。
忍性菩薩行状略 一卷
開山忍性賜菩薩號勅書の寫



鎌倉攬勝考卷之六