[やぶちゃん注:大正七(1918)七月一日発行の雑誌『赤い鳥』(これが第一巻第一号であった)に掲載、後に『傀儡師』『沙羅の花』等に所収。底本は岩波版旧全集を用いた。但し底本は総ルビであるが、朗読時に読みのふれそうなものと難読語を除き、ほとんど排除した。]
蜘蛛の糸 芥川龍之介
一
或日の事でございます。御釋迦樣は極樂の蓮池(はすいけ)のふちを、獨りでぶらぶら御歩きになつていらつしやいました。池の中に咲いてゐる蓮の花は、みんな玉のやうにまつ白で、そのまん中にある金色の蕊(ずゐ)からは、何とも云へない好(よ)い匀(にほひ)が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極樂は丁度朝なのでございませう。
やがて御釋迦樣はその池のふちに御佇(おたたず)みになつて、水の面(おもて)を蔽つてゐる蓮の葉の間(あひだ)から、ふと下の容子を御覽になりました。この極樂の蓮池の下は、丁度地獄の底に當つて居りますから、水晶のやうな水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るやうに、はつきりと見えるのでございます。
するとその地獄の底に、犍陀多(かんだた)と云ふ男が一人、外の罪人と一しよに蠢いてゐる姿が、御眼(おめ)に止まりました。この犍陀多と云ふ男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ惡事を働いた大泥坊でございますが、それでもたつた一つ、善(よ)い事を致した覺えがございます。と申しますのは、或時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這つて行くのが見えました。そこで犍陀多は早速足を擧げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違ひない。その命を無暗にとると云ふ事は、いくら何でも可哀さうだ。」と、かう急に思ひ返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやつたからでございます。
御釋迦樣は地獄の容子を御覽になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを御思ひ出しになりました。さうしてそれだけの善い事をした報(むくい)には、出來るなら、この男を地獄から救い出してやらうと御考へになりました。幸、側を見ますと、翡翠のやうな色をした蓮の葉の上に、極樂の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。御釋迦樣はその蜘蛛の糸をそつと御手に御取りになつて、玉のやうな白蓮(しらはす)の間から、遙か下にある地獄の底へ、まつすぐにそれを御下しなさいました。
二
こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一しよに、浮いたり沈んだりしてゐた犍陀多でございます。何しろどちらを見ても、まつ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上つてゐるものがあると思ひますと、それは恐しい針の山の針が光るのでございますから、その心細さと云つたらございません。その上あたりは墓の中のやうにしんと靜まり返つて、たまに聞えるものと云つては、唯罪人がつく微(かすか)な嘆息(ためいき)ばかりでございます。これはここへ落ちて來る程の人間は、もうさまざまな地獄の責苦に疲れはてて、泣聲を出す力さへなくなつてゐるのでございませう。ですからさすが大泥坊の犍陀多も、やはり血の池の血に咽(むせ)びながら、まるで死にかかつた蛙(かはづ)のやうに、唯もがいてばかり居りました。
所(ところ)が或時の事でございます。何氣なく犍陀多が頭を擧げて、血の池の空を眺めますと、そのひつそりとした暗(やみ)の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるやうに、一すぢ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて參るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、思はず手を拍(う)つて喜びました。この糸に縋(すが)りついて、どこまでものぼつて行(ゆ)けば、きつと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極樂へはいる事さへも出來ませう。さうすれば、もう針の山へ追ひ上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
かう思ひましたから犍陀多は、早速その蜘蛛の糸を兩手でしつかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、かう云ふ事には昔から、慣れ切つてゐるのでございます。
しかし地獄と極樂との間は、何萬里となくございますから、いくら焦つて見た所で、容易に上へは出られません。稍(やや)しばらくのぼる中(うち)に、とうとう犍陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へはのぼれなくなつてしまひました。そこで仕方がございませんから、先(まづ)一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下りながら、遙かに目の下を見下しました。
すると、一生懸命にのぼつた甲斐があつて、さつきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底に何時の間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光つてゐる恐しい針の山も、足の下になつてしまひました。この分でのぼつて行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。犍陀多は兩手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ來てから何年にも出した事のない聲で、「しめた。しめた。」と笑ひました。所がふと氣がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、數限(かずかぎり)もない罪人たちが、自分ののぼつた後(あと)をつけて、まるで蟻の行列のやうに、やはり上へ上へ一心によぢのぼつて來るではございませんか。犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、暫くは唯、莫迦(ばか)のやうに大きな口を開いた儘、眼(め)ばかり動かして居りました。自分一人でさへ斷(き)れさうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人數(にんず)の重みに堪へる事が出來ませう。もし萬一途中で斷れたと致しましたら、折角ここへまでのぼつて來たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまはなければなりません。そんな事があつたら、大變でございます。が、さう云ふ中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まつ暗(くら)な血の池の底から、うようよと這ひ上(あが)つて、細く光つてゐる蜘蛛の糸を、一列になりながら、せつせとのぼつて參ります。今の中(うち)にどうかしなければ、糸はまん中から二つに斷れて、落ちてしまふのに違ひありません。
そこで犍陀多は大きな聲を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一體誰(だれ)に尋(き)いて、のぼつて來た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。
その途端でございます。今まで何ともなかつた蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下つている所から、ぷつりと音を立てて斷れました。ですから犍陀多もたまりません。あつと云ふ間もなく風を切つて、獨樂(こま)のやうにくるくるまはりながら、見る見る中(うち)に暗(やみ)の底へ、まつさかさまに落ちてしまひました。
後には唯極樂の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れてゐるばかりでございます。
三
御釋迦樣は極樂の蓮池のふちに立つて、この一部始終をぢつと見ていらつしやいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のやうに沈んでしまひますと、悲しさうな御顏をなさりながら、又ぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出さうとする、犍陀多の無慈悲な心が、さうしてその心相當な罰(ばち)をうけて、元の地獄へ落ちてしまつたのが、御釋迦樣の御目(おめ)から見ると、淺間しく思召されたのでございませう。
しかし極樂の蓮池の蓮(はす)は、少しもそんな事には頓着(とんぢやく)致しません。その玉のやうな白い花は、御釋迦樣の御足(おみあし)のまはりに、ゆらゆら萼(うてな)を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云へない好(よ)い匀が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極樂ももう午(ひる)に近くなつたのでございませう。
――大正七年四月――