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鬼火へ

東北・北海道・新潟   芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:昭和2(1927)年8月発行の雑誌『改造』に「日本周遊」の大見出しのもとに上記の題で掲載。底本は岩波版旧全集を用いたが、総ルビは読みの振れそうなものだけのパラルビとした。これは前年度末から改造社が刊行を始めた『現代日本文学全集』(一冊一円の低価格であったことから円本全集と呼ばれた)の宣伝のための講演旅行であった。この年の一月に姉の夫西川豊が火災保険放火疑惑の中で鉄道自殺したため、その経済援助等の必要からも龍之介はこの年、こうした宣伝講演会等に頻繁に出席している。この時は9日間8箇所での講演(内、車中泊二泊)というタイトなスケジュールで、妻文や佐々木茂索宛書簡等には想像以上の心労に悲鳴をあげている龍之介が垣間見える。龍之介の行程を1992年河出書房新社刊鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」及び1993年岩波書店刊宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引付年譜」等を参考に以下に記す。昭和2(1927)年5月の日録である。

13日(金) 上野駅2230発常磐線青森行急行夜行列車で里見クと東北・北海道方面への宣伝講演旅行に出発。

14日(土) 720仙台着。東北帝大勤務の小宮豊隆と木下杢太郎を訪問、共に昼食。午後、先代公会堂で講演。

15日(日) 盛岡の盛岡劇場にて「夏目先生の事」の演題で講演。

16日(月) 1142発急行にて盛岡発、2200函館着。

17日(火) 1630より函館市公会堂にて「雑感」の演題で講演。2316発急行にて函館発。

18日(水) 754札幌着。昼間は北海道大学にて「ポオの美学について」、夕刻に大通小学校にて「夏目先生の事ども」の演題でそれぞれ講演。

19日(木) 800発急行で札幌発、1232旭川着。1630より錦座で「表現」の演題で講演。1815発急行で旭川発、2144札幌着。この日は札幌泊か。

20日(金) 小樽着。1700より花園小学校にて「描かれたもの」(或いは「描ける物」「描けているもの」とも)の演題で講演。これが本来は宣伝旅行最後の講演となるはずであった。ちなみに、その聴衆の中に東京に上京する直前の若き日の伊藤整がおり、その際の情景は伊藤の「若い詩人の肖像」に描かれている(その中での演題は「描かれたもの」)。1048発急行で小樽発、函館へ向う。

21日(土) 700函館着、800青函連絡船乗船、1200青森着。ここで上京する里見クと別れる。私的講演で新潟に向う時間調整と休養のために、旅館塩谷支店旅宿するが、そこで『東奥日報』の講演会のため居合わせた秋田雨雀及び片岡鉄兵と会い、新聞社と秋田の勧めに従い、1630より青森市公会堂での講演会に参加、「漱石先生の話」の演題で講演。ちなみに、その際の聴衆には弘前高等学校(現弘前大学)文科甲類一年生であった十九歳の太宰治がいた。ここで改造社宣伝班と別れ、2300発北陸回りの急行に乗車し新潟に向かう(秋田までは雨雀らと同乗の可能性あり)。

22日(日) 夜、新潟着。龍之介の府立三中時代の校長であった八田三喜が当時新潟高等学校(現新潟大学)をしており、私的に講演依頼があったものと推察される。

24日(火) 新潟高等学校講堂で「ポオの一面」と題して講演、その後に同校教官らと宿舎であった篠田旅館にて座談会をした。(宮坂は『「新潟新聞」記事より』という注を附してこれを24日の項に入れるが、鷺はこれらを23或いは24日とする)。

27日(金) 田端に帰宅(宮坂はこの帰宅を推定として28日(土)にクレジットしている)。

……25〜27日の3日間(宮坂説と鷺説の最長をとると24〜28日の5日間)の日録に空白がある。龍之介はどこで何をしていたか? 宮坂年譜には28日の後に、唐突に、この月の上旬か下旬には日にちが特定されない例の平松麻素子との帝国ホテル再心中未遂事件が記されている。……かもしれない。……いや、別な彼のギミー・シェルターで……平松麻素子とは別な「月光の女」と、いたのかもしれない、それは、もしかしたら……。そうして、不思議なことに、ここに執筆年月日をまさにこの行方不明の5月26日とクレジットする作品があるのである(「人を殺したかしら?」)……。]

 

東北・北海道・新潟

 
 上野――東海道線の汽車に乘るのは何でもない。が、東北本線の汽車に乘るのはなんだか僕を意氣地のない感傷主義者に變らせてしまふ。それは唯僕のゐる田端を――一度僕のあとにして來た田端をもう一度汽車の通る爲である。これは誰にでもあることかしら?

 

 仙臺――病院の廊下を押して來る、大きい氷を積んだ手車。その又氷に窓の外の木の芽や牛も映つてゐる。尤も幾分か歪んだまま。

 

 盛岡――停車場(ていしやば)はカアキイ色の服を着た青年何とか所(しよ)の人々に一ぱいになつてゐる。おまけに外はどしや降りになつてゐる。僕等の言葉は通用しても、彼等の言葉はもうはつきりはしない。何と云ふもの寂しさ。……

 

 又――僕等の宿の三階には疲れ切つた女中が一人(ひとり)、ぐつたり椅子によりかかつたまま、芽吹いた柳などを眺めてゐる。生暖かい風にでも溶けなければ善(よ)いが、……

 

 津輕海峽――もう少し船にでも醉はなければ、折角ここへ來た甲斐もありはしない。

 

 凾館――僕等は煤煙の中をくぐり、それから干し魚の匂を嗅ぎ、最後にもう暮れかかった櫻桃の花のへ辿り着いた。つまり君、「天路歴程」だね。……

 

 又――「櫻もまだ咲いてゐますね。空の色も何だか變つてゐる、……」

「ちよつと瓶(かめ)のぞきと云ふ色だわね。」

 

 札幌――クリストは上に、大學生は下に、……「すすき野」と云ふ遊廓どこですか?

 

 又――あの植物園全體へどろりとマヨネエズをかけてしまへ。(傍白。――「里見君、野菜だけはうまいでせう。」)

 

 又――孔雀は丁度キヤンデイイの樣に藍色の銀紙に包まれてゐる。

 

 又――有島武郎氏はポケツトの中にいつも北海道の地圖を持つてゐる。

 

 旭川――この連隊ラツパはしつ切りなしに同じ言葉を繰り返してゐる。――「冬は零下三十五度になります。」

 

 又――アイヌの女は谷に似てゐる。だんだん暮れかかつて來る山の火登(ほと)に。

 

 石狩平原――雪解けの中にしだるゝ柳かな。

 

 小樽――起重機は海を吊り上げようとしてゐる。定めしホツキ貝の多い海を。

 

 青森――公會堂は海と話してゐる。白じらと壁を聳(そ)ば立ててゐるものの、内心は海を恐れながら。

 

 又――もう十分早かつたら、林檎の花の咲いた中にほのぼのと鮭を食つてゐたものを。

 

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

   あはれ、あはれ、旅びとは

   いつかはこころやすらはん。

   垣ほを見れば「山吹や

   笠にさすべき枝のなり。」

 

 新潟――明治時代の東京はここの柳の並み木だのに殘つてゐる。まだどこかに北C事件の石版刷りの刷りの畫(ゑ)位(ぐらゐ)は賣つてゐるかも知れない。……

 

 又――午(ひる)もはやするめするめ燒かせよ藤の花。

 

 新潟高等學校――誰(だれ)だかこの中原悌次郎氏のブロンズの「若者」に惚れるものはゐないか? この「若者」は未だに生きてゐるぞ。

 

 信越線の汽車中――新潟の藝者らしい女が一人(り)、電燈の光の中に卷煙草をすつてゐる。卵の殼に似た顏をしながら。

 

 上野――黄金虫よりも多いタクシイはいつか僕を現實主義者にしてゐる。 (昭和二、六、二十一)