やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ

芥川龍之介による片山廣子歌集「翡翠」評

[やぶちゃん注:大正五(1916)年六月発行の雑誌『新思潮』の「紹介」欄に掲載。署名は表記の通り、「啞苦陀」である。底本は岩波版旧全集を用いた。最後に、岩波版新全集の草稿を附したが、恣意的に正字に代えた。この歌集名「翡翠」は「かはせみ(かわせみ)」と訓読する。]

片山廣子 第一歌集 「翡翠」 全 へ


片山廣子歌集「翡翠」抄――やぶちゃん琴線抄59首――へ

 

翡翠 片山廣子氏著   芥川龍之介




 この作者は、序で佐々木信綱氏も云つてゐる樣に在來の境地を離れて、一歩を新しい路に投じ樣としてゐる。「曼珠沙華肩にかつぎて白狐たち黃なる夕日にさざめきをどる」と云ふ樣な歌が、其過去を代表するものとするならば、「何となく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり」と云ふ樣な歌は、其未來を暗示するものであらう。勿論、後者の樣な歌に於ては、表現の形式内容二つながら、この作者は、まだ幼稚である。しかし易きを去つて難きに就いたと云ふ事は、少くとも作者自身にとつて、意味のある事に相違ない。そして同時に又この歌集が、他の心の花叢書と撰を異にする所以は、此處に存するのではないかと思ふ。左に二三、すぐれてゐると思ふ歌を擧げて、紹介の責を完する事にしやう。

   灌木の枯れたる枝もうすあかう靑木に交り霜とけにけり。

   日の光る木の間にやすむ小雀ら木の葉うごけば尾をふりてゐる。

   沈丁花さきつづきたる石だたみ靜にふみて戸の前に立つ。

 それから母としての胸懷を歌つた歌に、眞率な愛す可きものが、二三ある。

   たゆたはずのぞみ抱きて若き日をのびよと思ふわが幼兒よ。

   我をしも親とよぶびと二人あり斯くおもふ時こころをさまる。

 野口米次郎氏の序も、内容に適切である。裝幀は淸洒としてゐる。 (啞苦陀)







「翡翠」草稿[やぶちゃん注:新全集草稿ではただ「翡翠」となっている。]



[やぶちゃん注:底本では編者が附した原稿順序を示すⅠが初行の頭に入る。]
 序文で佐々木信綱氏も云つてゐる樣に この作者は 今 岐路に立つてゐる 表現の形式から云つても 内容から云つても昨日と今日の中間に立つてゐる。これは「何となく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり」と云ふ樣な種類の歌と「曼珠沙華肩にかつぎて白狐たち黃なる夕日にささめきをどる」と云ふ樣な種類の歌とが この集の随所に幷錄されてゐるのを見ても 知れるかと思ふ 勿論この作者は まだ前者の樣な種類の歌では 後者の樣な種類の歌程 手に入つた技巧を持つてゐない。否 寧 或場合には 甚しく幼稚な思想成り感情なりを 同じ樣に幼稚な技巧で表白した 投書家程度の歌さへも發見される。しかし この作者が 新しい路を開拓する爲に一歩を投じたと云ふ事が 既にそれだけで 作者にとつても
[やぶちゃん注:底本ではここに編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]讀者にとつても 意味のある事ではないだらうか。少なくとも從來 心の花叢書の中で出版された女流の歌集に比して「翡翠」の一巻はこの點に或獨自の特色を備へた歌集ではないだらうか。それのみならず この作者が 率直に自分の生活――殊に愛兒に対する感情を謠つた歌には かう云ふ淸新な作がある

   たゆたはずのぞみ抱きて若き日をのびよと思ふわが幼兒よ

   我をしも親と呼ぶびと二人あり斯くおもふ時こころをさまる。

 景物を謠つた歌から 二三すぐれてゐると思ふのを擧げると、

   沈丁花さきつづきたる石だたみ靜にふみて戸の前に立つ

   極樂寺椿のまろ葉靑光る日に温まり浪のおときく

 それから 物足りなく思はれるのは この集に採錄した歌の製作年月が明にされていない事である。
[やぶちゃん注:底本ではここに編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]