やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
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鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀 附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:本日記(德川光圀歴覽記と通称)は私の全テクスト化注釈を終えた「新編鎌倉志」(リンク先は巻一)のプロトタイプである、水戸藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)が、延宝二(一六七四)年五月(水戸出発は四月二十二日、五月二日上総から乗船して金沢に入った)に、相州金沢・鎌倉の名所旧跡を歴遊した際の家臣に記録させた日記である(因みに、ドラマで水戸黄門諸国漫遊は知らぬ者とてないが、実際には彼の大きな旅行は、この鎌倉行たった一度きりであったと言われていることは知っておいてよかろう)。
 底本は吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」を用いたが、私のポリシーに則り、恣意的に漢字を正字化したが、正字化に際しては影印本「新編鎌倉志」の表記に準じたつもりである。従って原本を確認したわけではないが、この方がより原本に近いものと考えよいと思われる。「~ノ~」「~ガ~」「~ガ崎」の「ノ」「ガ」は多くが底本ではポイント落ちであるが同ポイント表記とし、割注も同ポイントで〔 〕表記とした。繰り返し記号「〱」は正字化した。ルビはブログ版では( )で示した。なお、本文中に底本編者によるママ表記や誤字正字注があるが、そのままでは編集権を侵害するので、私が確認にした上で、私の注として直後に配した。また、返り点の施された部分は後に( )で私の訓読を附し、返り点は省略した。各項目の前には空行を設けた(他にも本文中の注の後に読み易さを考えて一部空行を設けた部分がある)。私の注は「新編鎌倉志」及び「鎌倉攬勝考」に注対象としたものについては、これを総て省略したのでそれぞれの各巻を参照されたい。
 底本解説によれば、鎌倉では水戸家所縁の英勝寺(徳川家康側室英勝院(お梶の方)の菩提を弔うために創建された。光圀は英勝院の庇護の元で成長し、寛永一一(一六三四)年にはこの英勝院に伴われて江戸城で将軍家光に謁見している。「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」の項及び私の注なども参照されたい)の塔頭春高庵を宿所とし、七日間に亙って歴覧した。その際、勿論、諸社寺に於いても種々の供応がなされ、特別な開帳が行われた場合もあり、当時の一般庶民の鎌倉遊覧とは自ずと異なるものではある。
 光圀は若き日より、歴史への関心がいや増しに深く、明暦三(一六五七)年、水戸家の世子教育を受けていた江戸小石川藩邸に於いて、早くも史局を設置、紀伝体歴史書「大日本史」の編纂作業に着手している。寛文元(一六六一)年、常陸国水戸藩二十八万石の第二代藩主となった後、寛文年(一六六三)年には史局を小石川邸に移して彰考館としている。
 この祖父家康が尊崇した最初の武家政権を樹立した源家鎌倉幕府(家康の愛読書は「吾妻鏡」であったとされる)、東国武士団の本拠であった本鎌倉来訪は、光圀満四十四歳で時であった。
 その二年後の延宝四(一六七六)年の秋、この資料をもとに彰考館館員であった河井恒久に鎌倉の社寺名刹の来歴に就いて本格的に調べるよう命じ、当時、鎌倉の地誌に詳しい鎌倉英勝寺に療養中であった現地医師松村清之に自身の記載の補正をさせたが、業半ばにして河井が亡くったため、同館員力石忠一が代わって、実に十一余の歳月を費やして貞亨二(一六八五)年に書き上げられたのが、「新編鎌倉志」全八巻十二冊からなる史上初の本格的な鎌倉地誌であった。
 これは私の「新編鎌倉志」及びそれに継ぐ幕末の植田孟縉の手になる鎌倉地誌書「鎌倉攬勝考」(リンク先はそれぞれ巻一)の全テクスト化(注釈附)を受けて、ブログで電子テクスト化したもののHP一括版である。藪野直史【二〇一三年一月四日】
 不詳としていた冒頭の「燈寵崎」「海馬嶋」「旗立山」に近世史研究家「ひょっとこ太郎」氏の御教授により、同定情報を追記した。【二〇一三年一月二十日】
 同氏より更に追加情報あり。これで「旗立山」も解明!【二〇一三年一月二十二日】
 「ひょっとこ太郎」氏より御指摘を頂き、「鹽嘗地藏」の「明道ノ石佛」の注を補正。【二〇一三年一月二十五日】]

 
鎌倉日記 乾

鎌倉日記目錄
[やぶちゃん注:目録は底本では四段組。改行されていると判断される部分や、下巻標題の前後は一行空けとした。]

 瀨戸明神
 稱名寺〔附金澤文庫〕
 能見堂〔附金岡筆捨松〕
 光觸寺
 鹽嘗シホナメ地藏
 五大堂
 梶原屋敷
 馬冷場
 持氏屋敷
 佐々木屋敷
 英勝寺
 源氏山〔附藥王寺〕
 泉谷
 扇井
 大友屋敷
 藤谷
 飯盛山
 阿佛屋敷
 智岩寺谷
[やぶちゃん注:「岩」は、現代の鎌倉地誌資料では「岸」とする(以下、「現代の鎌倉地誌資料では」の部分は省略して「現在、~。」と表記する)。]
 尼屋敷
 ホウセン寺舊跡
[やぶちゃん注:「ホウセン寺」は現在、「法泉寺」。]
 靑龍寺谷
[やぶちゃん注:これは位置と音の類似から見て、「清涼寺谷しょうりょうじがやつ」のことである。]
 景淸籠
 山王堂跡
 播磨屋敷
 六國見
 六本松
 假粧ケハイ
 葛原岡〔附唐絲籠カライトノロウ
[やぶちゃん注:ママ。「唐絲籠」は釈迦堂ヶ谷の南でここでは位置がおかしい。]
 梅谷
 武田屋敷
 海藏寺
 淨光明寺
 網引地藏
 藤爲相石塔
 壽福寺
 鶴岡八幡宮
 鐵井
 鐵觀音
 志一上人石塔〔附稻荷社〕
 日金山
 岩不動
 鳥金原
[やぶちゃん注:「金」は現在、「合」。原本記載の誤りであろう。]
 賴朝屋敷
 キドブン
[やぶちゃん注:本文には頼朝屋敷の北西の田の呼称とし、頼朝の同時代の人名としつつ、『未だ審らかならず』とあり、私は初耳の(「新編鎌倉志」には所収しない)現在に伝わらない貴重な地名である。当該項で考証する。]
 報恩寺
 永福寺
 西御門
 高松寺
 来迎寺
 法華堂
 東御門
 柄天神
 天台山
 大樂寺
 覺園寺
 大塔宮土籠
 サン堂
[やぶちゃん注:本文に、大塔宮土籠の北東の田の呼称とする。私は初耳の(「新編鎌倉志」には所収しない)現在に伝わらない貴重な地名である。当該項で考証する。]
 獅子谷
 瑞泉寺
 鞘阿彌陀
 杉本觀音
 犬翔谷
[やぶちゃん注:これで「いぬかけがやつ」と読ませているものと思われる。]
 衣張山
 封國寺
[やぶちゃん注:「報國寺」の誤りであろう。]
 ナメリ
 淨妙寺
 鎌足大明神〔附鎌倉山里谷七郷〕
 十二郷谷
[やぶちゃん注:十二所の別称(旧称とも言われる)。]
 胡桃谷
 中谷
[やぶちゃん注:本文参照。釈迦堂ヶ谷のことらしい。]
 大御堂谷
 歌橋
 文覺屋敷
 屏風山
 畠山屋敷

是ヨリ下卷

 寶戒寺
 葛西谷〔塔辻〕
 大町小町
 妙隆寺
 妙勝寺
[やぶちゃん注:廃寺。「新編鎌倉志」に所収しない。]
 大行寺
 本覺寺
 夷堂橋
 妙本寺
 田代屋敷
 田代觀音
 辻藥師
 亂橋
 材木座村
 丁子谷
[やぶちゃん注:本文には、乱橋橋の東の谷とするが、不詳。「新編鎌倉志」に所収しない今は失われた鎌倉の谷戸名である。]
 紅谷
 桐谷
 補陀落寺
 逆川橋
 光明寺
 道寸城
[やぶちゃん注:住吉城址のこと。]
 景政石塔
[やぶちゃん注:景政を祀る御霊神社内の石塔(若しくは様のもの)を指しているように思われるが、後に「御靈宮」があるので違う。本文では由比ヶ浜の北にある、としている。]
 荒井閻魔
 下若宮
 ハダカ地藏
 畠山石塔
 巽荒神
 人丸塚
 興禪寺
 無量寺谷
 法性寺屋敷
 千葉屋敷
 諏訪屋敷
 佐介谷〔附稻荷大明神隱里〕 
 裁許橋
 天狗堂
 七觀音谷
 飢渇畠
 笹目谷
 塔辻
 盛久首座
 甘繩明神
 水無瀨
 大梅寺
[やぶちゃん注:光則寺の別称。]
 大佛
 御輿嶽
 長谷觀音
 御靈宮
 星月夜井
 虛空藏堂
 極樂寺
 月景谷
[やぶちゃん注:現在は「月影ヶ谷」。]
 靈山崎
 針磨橋
 音無瀧
 日蓮袈裟懸松
 稻村崎
 袖浦
 十一人塚
 七里濱
 金洗澤
 腰越村
 萬福寺
 袂浦
 龍口寺
 龍口明神
 片瀨川
 西行見歸松
 笈燒松
 唐原
 砥上原
 江嶋
 杜戸
 小坪村〔附多古江〕
 鷺浦
 飯嶋
 龜井坂
[やぶちゃん注:亀ヶ谷切通の別称。]
 長壽寺
 管領屋敷
 明月院
 禪興寺
 浄知寺
[やぶちゃん注:「浄智寺」。原本の誤り。]
 松岡山
 圓覺寺
 建長寺
 地藏坂
[やぶちゃん注:本文には建長寺の前を出て、南に行く路の路傍に伽羅陀山の地蔵堂がある所とあるが、不詳。当該項で考証する。]
 小袋坂
[やぶちゃん注:巨福呂坂切通のこと。]
 聖天坂
[やぶちゃん注:これは巨福呂坂切通の旧道を言っているか。]
 佐竹屋敷
 安養院
 花谷〔附蛇谷〕
 松葉谷
 妙法寺
 安國寺
 名越入
[やぶちゃん注:本文によれば材木座村と名越切通を結ぶ道の呼称。]
 長勝寺
 日蓮乞水
 名越坂
 名越三昧場
[やぶちゃん注:本文によれば、古い記録に、名越切通の北方の山巓に少し開けた場所があり、そこに石塔が一基立つとも、男石塔・女石塔の二基があるとも記すが、今は場所さえ不明である、と記すもの。これも初耳の、光圀の時代には失われていた古跡のようにも見えるが、これはどうも現在のまんだら堂を指しているようにも思われるが、如何?]
 法性寺

鎌 倉 日 記

 甲寅五月二日辰ノ刻、上總ノ湊ノ旅寓ヲ出、鎌倉ヲ歴攬セントテ金澤ノ浦ヘ渡ル。松平山城守重治、送錢ノ爲ニ船數艘ヲ飾リテ海ニ浮ブ。群船順風ニ䌫ヲトヒテ前後ニ行ク。船中ニテ燈寵崎ノ前海馬嶋ヲ望ミ、旗立山ヲ過ル。番所アリ。大岡次郎兵衞守之(之を守る)。走水ノ觀音堂ヲ見ル。金澤ノ御代官坪井次郎右衞門ヨリ、案内船三四艘ヲ出シ迎フ。北ノ方二本目ノ出嶋アリ。南方猿嶋ヲ見テ、夏嶋ノ北ヲ廻リ、野嶋崎へ入ル。野嶋又ハ百間嶋ト云。此所ニ紀州南龍院ノ鹽風呂ノ舊地アリ。南方ニ笠島・烏帽子嶋・箱崎・雀浦ヲ望ミ、瀨戸ノ辨才天ノ社ヲ見テ瀨戸橋ニツキ、明神ニ至ル。橋ノ北三松一本アリ。俗二傳フ、照天姫ヲフスべシ所ナリトゾ。
[やぶちゃん注:「送錢」は見送りの意の「送餞」(「餞送せんそう」の方が一般的)の誤りであろう。
「松平山城守重治」上総佐貫藩第二代藩主松平重治(寛永一九(一六四二)年~貞享二(一六八五)年)。当時は奏者番、延宝六(一六七八)年に寺社奉行、天和元(一六八一)年には修理亮に遷任したが、この光圀来訪の十年後ノ貞享元(一六八四)年十一月、濫りに身分の低い者と交わって綱紀を乱したとして改易され、身柄は陸奥会津藩主保科正容まさかたに預けられた。重治は三〇〇俵高となって佐貫城は破却、貞享二(一六八五)年二月に身柄を江戸から会津に移送されたが、直後に病に倒れて同年八月二日に享年四十四歳で死去した。貞享二年は奇しくも「新編鎌倉志」が成った年である(重治の事蹟はウィキの「松平重治」に拠った)。
「燈寵崎」不詳。識者の御教授を乞う。(以下の追記を参照。)
「海馬嶋」不詳。識者の御教授を乞う。(以下の追記を参照。)
「旗立山」不詳。識者の御教授を乞う。(以下の追記を参照。)

【二〇一三年一月二十日追記】本日未明、近世史の研究家であられる金沢八景近くに在住されておられる「ひょっとこ太郎」氏よりメールを頂戴し、以下の事実が判明した。まず、光圀の金沢への経由ルートに問題を解く鍵があった。底本では単に延宝二(一六七四)年『五月二日に上総から船で金沢に渡ったが』、『三浦半島の走水の観音堂を過ぎた頃には、金沢の代官が案内船三、四艘を出してい』た、とあたかも直線コースで金沢へ向かったように記すだけなのだが、本文の『走水ノ觀音堂ヲ見ル』に着目すべきであった(これは現在の観音崎であり、実は彼らは、ここで一時下船している可能性さえ見えてきた)。以下、「ひょっとこ太郎」氏のメールから引用させて戴く。
   《引用開始》
光圀一行が、房総半島の上総湊を船出したのが、延宝二年五月二日で、金沢に同日到着したようです。
「徳川光圀」(鈴木暎一著・吉川弘文館)では、海上を直線コースで来ているように書かれていますが、光圀は金沢に来るときに、日記から、走水→猿島→夏島→野島というルートを辿っていることから、観音崎(走水)方面から北上してきていると考えられます。
ですので、「海馬嶋」は、久里浜沖にある「海驢(アシカ)島」のことだと考えています。
「燈寵崎」とは、その目前に「海馬嶋」があるということは、浦賀の「燈明崎」のことだと考えています。
地元で「旗立山」といえば、葉山(鎌倉時代に三浦氏の城があった)と鎌倉(光圀が行った英勝寺の裏)にある山の名前で、これらは東京湾側からは絶対に見えません。
この日記が時系列で記述されているとすれば、久里浜と走水の途中に「旗立山」があるわけで、この辺りで山といえば観音崎の灯台がある山くらいしか思い当りません。
ここを「旗立山」と呼んだという記録は見たことがありません。
ここに、旗でも立ってあったのでしょうか……。
光圀は、その後二回も家臣を金沢、鎌倉に派遣してから日記を完成させていますので、誤記は無い筈なんですが。
   《引用終了》
これで、「海馬嶋」は久里浜沖の海驢(あしか)島であり、「燈寵崎」は浦賀の燈明崎と同定された。後は「旗立山」であるが、これは「ひょっとこ太郎」氏もおっしゃられている通り、漁師などは旗を立てた山を目印に操舵することが多いから、もしかすると、同船していた船頭が名指した土地の通称の山名などを、そのままに記したのかも知れない。以上、「ひょっとこ太郎」氏の御協力に深く謝意を表したい。
【二〇一三年一月二十二日追記】本日、前記の「ひょっとこ太郎」氏より再度メールを頂戴し、以下の事実が更に判明した。
   《引用開始》
ここ数日、「旗立山」が気になって、「新編鎌倉志」を読み直してみて、ようやく理解ができた気がします。
「旗立山」とは、江戸時代に走水奉行所があった「旗山崎」のことではないかと考えます。
「散策コース1(東京湾眺望コース) 10 御所ケ崎・走水番所跡」
旗山崎の名は、日本武尊やまとたけるのみことが上総に渡る時海が荒れて進めず、臨時の御所を設けて軍旗を立てたことに由来するそうで、ここを「旗立山」と言ったかは不明ですが、光圀の頃にも伝説はあったのでしょうね。
延宝二年当時の奉行が大岡次郎兵衛直政だそうです。
リンク先の写真は、走水小学校方面から、岬の小山を見たものですが、この小山が「旗立山」になると考えます。岬の小山を船で過ぎると、すぐ走水番所のある海岸に出ますので、ここで上陸して大岡に引見し、走水観音を見てから、船で金沢方面に向かったのだろうと思います。
   《引用終了》
これを以って、上記三つの不詳は美事に氷解したと言ってよいと思う。「ひょっとこ太郎」氏に多謝!
「大岡次郎兵衞」当時、走水奉行はしりみずぶぎょうであった人物(大岡直成?)。走水奉行とは、江戸湾(現在の東京湾)の水上交通の拠点であった走水(現在の神奈川県横須賀市)を支配した江戸幕府の遠国奉行。三崎奉行や下田奉行と連携して江戸から出る船舶の監視取締に当たった。元禄二(一六八九)年に廃止。
「金澤ノ御代官坪井次郎右衞門」底本の編者注によれば、「壺井」が正しい。]

   瀨戸明神〔瀨戸或ハ作迅門(迅門に作る)〕
 社司ガ云。此浦ハ治承四年四月八日、源賴朝豆州三嶋大明神ヲ勸請アリ。社司ハ千葉ノ氏族ナリト云。社領百石、御當家四代ノ御朱印アリ。其文ニ武州久良岐郡六浦郷ノ内云々トアリ。額二正一位大山積神宮ト、二行ニアリ。裏書ニ、延慶四年辛亥四月廿六日〔戊□〕沙彌寂尹トアリ。神殿ニ是ヲ納ムトゾ。舊記ニ正一位第三赤神宮ト云ハ誤也。社ノ左ニ大ナル古木ノ柏槇アリ。里民蛇柏槇ト云。金澤八木ノ一也。其外此邊ニ柏槇ノ大樹多シ。
 寶物 龍王ノ面、拔頭ノ面〔倶ニ古物ニテ妙作ナリ〕 左右二隨身アリ。安阿彌作ト云。二王ハ運慶ノ作ト云。鐘アリ。銘別紙ニ載タリ。
[やぶちゃん注:「迅門」は「新編鎌倉志卷之八」の「瀨戸明神」では『或作迫門(或は迫門に作る)』とある。「迫門」で「せと」、「迫」の誤字のようにも見えるが、瀬戸は潮汐の干満により激しく早い潮流が生じるから、速い意を持つ「迅」を当てて「せ」と読ませているとすれば、表記の一つとして認めることは可能である。
「戊□」は戊辰。
「別紙」少なくとも底本の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」には「別紙」相当のものは所収しない。この「鎌倉日記」には失われた付属資料があるものと思われる。]

   稱 名 寺
 金澤村ニアリ。眞言律ニテ西大寺ノ末也。寺領百石アリ。龜山院ノ敕願所、越後守平實時本願主、同顯時建立ナリトゾ。開山ハ審海和尚也。本尊ハ彌勘佛、運慶ノ作也。昔ノ塔二重ハ頽廢シ、一重ノミ殘レリ。二王アリ。運慶ノ作也ト云。堂ノ左ニ鐘アリ。銘ニ武州六浦庄稱名寺ト云々トアリ、平實時・顯時ナドノ字略見ユレドモ、銅靑浮ンデ文章分明ナラズ。昔ノ盛ソナル時、唐土ヨリ書籍多ク船ニノセ來テ、此地ニ納ム。所謂金澤ノ文庫也。儒書ニハ黑印、佛書ニハ朱印ニテ、金澤文庫ト云文字アリ。今ハ書籍四方ニ散ウセヌト也。一切經モ切レ殘リタルヲ本堂ニ籠置タリトゾ。文庫ノ舊地ハ長者谷トテ、此後ロナリト云。或ハ此寺内トモ、門前ニアリトモ云。未詳。道春丙辰紀行ニ、越後守平貞顯此所ニテ淸原教隆ニ群書治要ヲ讀セケルト云。道春ガ見侍リシモ文選、清原師光ガ左傳、教隆ガ群書治要、齊民要術、律令義解、本朝粹ノ類、私續日本紀ナドノ類、其外人家ニ所々アリケルモ、一部ト調タルハ稀也。
[やぶちゃん注:「銘ニ武州六浦庄稱名寺ト云々トアリ」とあるが、「新編鎌倉志卷之八」には『大日本國武州六浦莊稱名寺鐘銘』とあり、この「稱名寺ト云々」の「ト」は衍字である。
「平實時・顯時ナドノ字略見ユレドモ、銅靑浮ンデ文章分明ナラズ」とあるが「新編鎌倉志卷之八」には美事に全文が翻刻されている。その内、「鐘銘」の方に「實時」の名が、「改鑄鐘銘幷序」の方に「顯時」の名がそれぞれ見える。
「道春丙辰紀行」林羅山(道春は出家後の法号)が元和二(一六一六)年に書いた江戸から京都までの東海道紀行。本書は「新編鎌倉志」の引用書目に挙がらず、称名寺の項にも言及がない。以下の列記される書名も含め、本日記オリジナルの記載である。]
 寶物 十六羅漢畫像一幅、細字 禪月大師筆
 釋迦像一幅、西大寺ノ興正菩薩ノ作也。
 愛染像一幅〔或云天照大神ノ作也、龜山院ノ御守本尊ト云。〕
 三尊ノ彌陀木像〔長三寸五分 惠心ノ作〕
 不動立像〔長二寸五分〕 弘法一刀三禮作
 彌勒泥塑像〔長三寸坐像〕 同作
 法華經信解品一卷 同筆
 細字瑜伽論一卷 天神筆
 請雨經一卷 同筆
 一切經  彌勤堂ニアリト云。
 佛舍利   數不知(知らず)多シ
  八祖相承ノ舍利トテ祖代々相傳、弘法ニ至テ大和ノ室山ニ納置シヲ、龜山院ノ勅ニ因テ此寺ニ納ト也。往昔ハ敕符アリト云。
 牛玉一ツ  鹿玉一ツ
 靑磁花瓶 四ツ 同香爐
  昔唐船三艘、瀨戸ノ浦ニツク。其時靑磁ノ花瓶、香爐等ヲ持來ル故、其地ヲ三艘ノ浦ト云。
アラハシヤノウノ五寸文殊畫像細字一幅 弘法筆
[やぶちゃん注:「アラハシヤノウ」は「新編鎌倉志卷之八」に「阿羅波左曩」とあり、これは文殊を表す真言(梵語原音)である。]
楊貴妃簾〔尾州熱田ノ寶物ナリシヲ龜山院ノ勅ニ因テ此寺ニ納ム。〕
  五箇院アリ。一﨟ハ光明院、二ーハ阿彌陀院、三ーハ大寶院、四ーハ一室、五ーハ開眼院ト云。
[やぶちゃん注:「﨟」は僧院の順位を示すもの。「ー」は「﨟」の字の繰り返しを示す記号であろう。]
 此地二四石八木ト云名物アリ。美女石・姥石ノ二ツハ此堂ノ右ノ池邊ニアリ。布石ト云ハ瀨戸明神ノ前ノ池ノ端ニアリ。飛石ト云ハ金龍院ノ山ノ上ニアリ。三島大明神ノ飛クル石ナリト云。八木ハ靑葉楓、爲相歌ニ
  イカニシテ此一本二時雨ケン 山ニ先タツ庭ノ紅葉々
 西湖梅白シ。八重ノ花也。普賢櫻花千葉シベアリ。色白シ。櫻梅八重ノ櫻ナリ。瀨戸ノ大柏槇、雀浦松、此六本ハ今猶現ニ有。黑梅・文殊櫻此二本今ハナシ。西湖梅・普賢櫻・靑葉楓・櫻梅ノ四本ハ、昔ノヒコバヘトテ小木ニテ、此堂前ノ庭ニアリ。右何レモ唐土ヨリ傳タリト云。或云、室木ノ山ニ箱根權現ノ小社アリ。神木トテ犬楠ノ大樹アリ。コレハ八木ノ一ツ也ト。
 金澤ハ武藏ノ内也。徒然草ニ甲香此浦ヨリ出ヅ。所ノ者ハヘナタリト云ト野槌ニ書リ。今金澤ニテ尋ヌレバ、バイト云。亦ツブトモ云。兼好ガ時ハヘナタリト云ケルニヤ。往古此所へ唐船ノツキケル時、名猫ヲノセ來クル故ニ、今至テ金澤ノカラネコトテ名物ナリ。

   能見堂 〔一作濃見堂、又作能化堂、能見道(一つに濃見堂に作り、又、能化堂・能見道にも作る。)〕
 能見堂ハ近年久世大和守廣之建之(之を建つ)。此邊ノ鹽燒濱ヲカマリヤノ谷ト云。相傳フ、能見堂ハ繪師巨勢金岡、此所ノ美景ヲ寫ント欲シテ模スルコトヲ得ズ。アキレテノツケニソリタル故ニ俗ニノツケン堂ト云。或ハ云ク、風光ノ美、此所ヨリ能ミユル故ニ能見堂ト云。又能見道トモ書ク。昔ハ此堂ナシ。此地ヨリ望メバ瀨戸ノ海道能ミユル故也トゾ。堂ノ前ニ筆捨松ト云一株有リ。金岡多景ヲ寫シヱズシテ筆ヲ此松ニ捨シト也。又二本アル松ヲ夫婦メウト松ト云。此地ヨリ上下總、房州、天神山、鋸山等海上ノ遠近ノ境地、不殘(殘らず)見ユル天下ノ絶景也ト云。里俗相傳テ有八景(八景有り)ト云。
 山市晴嵐。能見堂ノ東ニ町屋ト云所ノ民村連リタル地ヲ云。或云、峠ト云所ヲ云ト也。或ハ瀨戸明神ノ前、辨才天ノ西ノ方ヲ云トナリ。
 平沙落雁。町屋ノ東、野嶋ガ崎ノ東北ノ方平方ト云所ノ西ヲ云。
 漁村夕照。野島ガ崎ノ南へ出張タル所ヲ云。或曰、瀨戸ノ浦邊ヲ云。又夏嶋ヲ云。
 遠浦歸帆。野嶋ノ西ニ室ノ木ト云所ノ東前ヲ云。
 江天暮雪。室ノ木ノ少南、セガ崎ト云所ヲ云。或曰、野島ノ少シ西ヲ云也。或云、富士ヲ望タル景ヲ云。
 瀟湘夜雨。六浦ノ西ニ照天ノ宮トテ叢祠アルヲ云。或云、コヅミト云所ヲ云。釜利屋村ノ内テコノ明神ノ北、鹽屋ノアル邊ヲ云。或曰、笠嶋ナリ。
 遠寺晩鐘。六浦ノ南ノ茂林ヲ云。或云、瀨戸ノ橋ノ邊ヲ云ナリ。
 洞庭秋月。野嶋ノ北、稱名寺ノ少東ノ出崎二紫村權現ノ叢祠アリ。其南ヲ云。或云、ハラト云所也。里俗マチマチニ云故ニ其所一決シガタシ。今見聞ノ僅二書シルシ侍リヌ。
 此圖別紙ニアリ。烏帽子島ノ入江ヲ雀浦ト云。菅公ノ小祠アリ。鎌倉荏柄ノ天神モ雀柄ト書ト里翁物語シ侍リヌ。金澤ヨリ濱路ヲ帷子へ出ル通有リ。路程甚近シト云。遂ニ能見堂ヲ下イ、鎌倉ヘ行ニ、瀨戸ノ南ニ金龍院ト云禪寺、道ノ側ニ有。六浦濱ヲスギ、六浦河幷六浦橋ヲ渡ル。此橋ヨリ照天姫身ヲ投タル河ナリ。其南ニ小川流レ出ル。侍從川ト云。照天ガ乳母ナリトゾ。此所ニ油堤ト云所アリ。是モ侍從ガ舊跡也。ソレヨリシテ相武州ノ境ノ地藏トテ、岩ニ大ナル地藏ヲ切付テ有。鼻缺地藏ト云。爰ヲ過テ大切通シ、小切通シトテ二ツ有り。朝夷奈義秀ガ一夜ニ切ヌキタルト云也。六浦ヨリ鎌倉へノ入口也。上總介ガ石塔トテ大切通ト小切通トノ間、南ノ方ノ田ノ中ニアリ。此所ヲ過テ海道ノ西北ノ方ヲ牛房谷ト云。首塚ト云モ爰ニアリ。
[やぶちゃん注:「八景」「新編鎌倉志卷之八」の記載はもとより、「鎌倉攬勝考卷之十一附録」にある、後年(元禄八(一六九五)年)、明からの渡来僧で光圀の友人でもあった東皐心越とうこうしんえつ(崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)の「八景詩歌」及び、私が附した歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の図版もお楽しみあれ。なお、「此圖別紙ニアリ」の「此圖」とは八景の位置(若しくはスケッチか)を指すものと思われる。この「別紙」の発見が望まれる。
「牛房谷」牛蒡谷。「新編鎌倉志卷之二」の掉尾にあり、そこでは正しく「牛蒡」とある。]

   光觸寺〔或ハ光澤寺工作ル、非ナリ〕
 光觸寺ハ道ヨリ南ノ端也。山號モ光觸山ト云。開山ハ一遍上人、藤澤ノ末寺也。光觸寺ト額アリ。後醍醐天皇ノ宸筆也。本尊ハ阿彌陀也。長ハ法ノ三尺ト云、靈佛也。脇立ハ勢至、湛慶作、觀音、安阿彌作ナリ。
 順德院ノ御宇、建保三年ニ源實朝ノ婢妾村主ノ氏女ト云者、運慶ヲ賴テ此彌陀ヲ作ラシム。彌陀ノ四十八願ニ准ジテ四十八日ニ成就ス。又湛慶・安阿彌ヲシテ、同體ノ彌陀三像四十八日メノ同時工作リ畢ラシム。氏女持佛堂ニ安置シテ萬藏法師ト云者ヲシテ、常ニ香華ヲ捧ゲシム。後寓歳法師ガスヽメニ因テ、男女佛道ニ歸依シ、薙染シテ遁去ル者多シ。氏女怒テ火印ヲ以テ寓歳ガ頰エアテケル時、此彌陀身替ニタチテ左ノ頰燒タリ。因玆(茲に因りて)寓歳罪ヲユルサル。氏女懺悔シテ佛師ヲ召テ廿一度迄火痕ヲ修理スレドモ成就セズ。今ニ燒痕アリト云ドモ、時既ニ闇シテ見へズ。俗ニ頰燒阿彌陀ト云也。委クハ縁起二見へタ[やぶちゃん注:底本には編者により『(リ)』と送られている]。縁起二卷、筆者ハ藤爲相、繪ハ土佐ナリトゾ。究テ奇絶ナル繪ナリ。跋ニ文和第四暦暮秋下旬權大僧都靖嚴トアリ。縁起ヲ寄進スル由ヲ書ケリ。厨子ハ持氏將軍ノ寄進ナリトテ、誠ニ昔ノ風彩殘テ見ユ。初ハ田代ノ阿闇梨ト云者、比企谷[やぶちゃん注:底本には編者により『(ニ)』と送られている]〔或ハ岩ニ作ル〕藏寺ト云寺ヲ立テ、此佛ヲ安置ス。其時ハ天台宗ニテ有シヲ、持氏ノ屋敷へ近キ故ニ、此所へ移シテ時宗ニナルト也。尊氏・氏滿・滿兼・持氏ノ位牌アリ。堂ノ前ニ小祠アリ。熊野權現ヲ勸請シタリトナリ。
[やぶちゃん注:「源實朝ノ婢妾村主ノ氏女ト云者」の「婢妾」は下女兼側室の謂いである。こうはっきりと書かれたもの見たことがないが、考えて見れば村主すぐりという父姓を示し、他の伝承では「町のつぼね」という房号が示され、尚且つ、運慶を始めとする当代の名仏師に彼女自ら作仏を命じ得るというのは、これ、相当な地位でなければならぬことになる(私の偏愛する頰焼阿彌陀について私が今日までこの事実に思い至らなかったことに慚愧の念を覚える)。
「後寓歳法師ガ勸ニ因テ、男女佛道ニ歸依シ、薙染シテ遁去ル者多シ。氏女怒テ火印ヲ以テ寓歳ガ頰エアテケル」というカタストロフへのプロットも微妙に「新編鎌倉志卷之五」の「光觸寺」に載る、現在、人口に膾炙するものと異なる。寧ろ、当該注で示した「沙石集」の信心者の少女のストーリーからの推移過程が窺われて興味深い。是非、比較されたい。
「闇シテ」「くらくして」と訓じていよう。
「文和第四暦」正平十(一三五五)年。
「靖嚴」不詳。この奥書の寄進文は「新編鎌倉志卷之五」や「鎌倉攬勝考」にも載らない。
「〔或ハ岩ニ作ル〕藏寺」の右上方には『像ヲ歟』という傍注がある。これは割注の上に本来は字があったが、恐らくは書写の中で失われたか判読が著しく難しくなり、昔の書写した人物が「像」の字が「藏寺」の割注の前にあったか、と書き添えたものと思われる。くどい様だが即ち、「像藏寺」は或いは「岩藏寺」にも作る、の謂いである。正しくは恐らく現在の山号である「岩藏」であろう。因みに、これについては後掲される「田代觀音」の条も参照のこと。]

   鹽 嘗シホナメノ 地 藏
 光觸寺ノ門前、海道ノ北ノ瑞、辻堂ノ内ニ石像アリ。六浦ノ鹽ウリ、鎌倉へ出ル毎ニ商ノ最花トテ鹽ヲ供スル故ニ云也。或云、昔石像光リヲ放シテ、鹽賣打タヲシケル故ニ云ト也。明道ノ石佛ノ放光ノ事、思合セ侍ヌ。五大堂ニ到ル。
[やぶちゃん注:「最花」初穂料のこと。
「明道ノ石佛」不詳。安土桃山時代の僧に光空明道こうくうみょうどうなる人物がいるが、関係あるか? 識者の御教授を乞うものである。【二〇一三年一月二十五日追記】「ひょっとこ太郎」氏より御指摘を戴いたが、これは、全くの私の凡ミスであった。「新編鎌倉志卷之二」の「鹽甞地藏」の項に記載があった。以下に引用すると、
異域にも亦是あり。程明道、京兆の簿に任ずる時、南山の僧舍に石佛あり。歳々としとし傳へ云ふ、其の首ひかりを放つと。男女集まり見て晝夜喧雜たり。是よりさきまつりごとをなす者、佛罰を畏れて敢て禁ずる事なし。明道始て到る時、其僧をなじつて云く、我聞く石佛歳々光を現ずと、其の事ありや否や。僧の云く、これあり。明道戒めて云、又光を現ずるを待ちて、必ず來り告よ。我職事あれば往事ゆくことあたはず。まさに其首を取て、ついて是を見るべしと云ふ。是よりして又光を現ずることなし。此事明道の行状に見へたり。
大陸の故事の引用であった。「ひょっとこ太郎」氏のメールには『朱子学を極めた光圀としては、朱子学・陽明学の源流と言われた程顥ていこうに私淑していたと考えられますので、こんな逸話を知っていたのかも知れません。あるいは、注釈なしで書いているところから、江戸時代の武士階級なら誰もが知っている有名な逸話だったのでしょうか。私は、聞いたこともない逸話ですが。』とあった。因みに、程顥(一〇三二年~一〇八五年)は北宋の儒学者で、明道先生と称された朱子学・陽明学の源流の一人である。「ひょっとこ太郎」氏に謝意を表する。]

   五 大 堂
 海道ヨリ北ノ河向ヒニアリ。明王院大行寺ト云。眞言宗也。本寺ハ御室仁和寺也。本ハ大藏谷ニ有テ、賴朝ノ所願所也ト云。東鑑ニ文應二年正月廿一日、五大尊堂ヲ建立、幕府ノ鬼門ニ相當ル。六月廿九日二供養トアリ。平經時、重テ修造ス。本尊ハ不動、筑後法橋作ナリ。或云、願行ノ作ナリト。近比マデ五大尊トモニ有シガ、四ツハ燒失シテ不動ノミ殘レリ。
 明石一心院ト云モ舊跡ニテ、光觸寺ノ南ノ谷、柏原山ノ下ニアリトゾ。
 好見月輪寺ト云モ舊跡也。光觸寺ノ北ノ谷ニアリトゾ。
 大慈寺ノ舊跡ハ五大堂ト光觸寺ノ間ノ南ノ谷ニアリ。此三ケ寺ノ事ハ具二束鑑ニ見へタリ。

   梶 原 屋 敷
 五大堂ノ南、道ヨリ北ノ山際ニアリ。梶原平藏景時ガ舊跡也。
[やぶちゃん注:景時の通称は「平藏」ではなく「平三」。]

   馬 冷 場
 梶原屋敷ノ北ノ山下ニ、生唼・磨墨ノスソシタル所也土石。岩窟ノ内三水アリ。
[やぶちゃん注:「生唼・磨墨」は「いけずき」「するすみ」と読み、源頼朝の持っていた名馬。「平家物語」の「宇治川の先陣争い」で知られ、生唼(「生食」「池月」とも書くが、後者なら「いけづき」となる。名の表記が変わるのは馬主の身分の違いを憚った変名と思われる)は佐々木高綱に、磨墨は梶原景季に、それぞれに戦闘に先立って与えられた。「生唼」とは、馬でありながら生き物に喰らいつくような勇猛なる馬の意、「磨墨」は墨を磨ったようなあくまで深くくろい毛並の意である。「新編鎌倉志卷之二」の「公方屋敷」の条に「御馬冷場ヲンムマヒヤシバ」として出るが、特にここでは「生唼」の名の由来を記したかったので特に注した。]

   持 氏 屋 敷
 馬冷場ノ前、梶原屋敷ノ東ノ芝野也。是ヲ時氏屋敷トモ基氏屋敷トモ云。土俗ニハ公方屋敷ト云テ、持氏將軍ノ屋敷也ト云。光觸寺へ近シト云へバ持氏ノ屋敷ナルべシ。時ハ持ノ字ノ篇ヲ誤リ、基ハ持ノヨミヲ、ヲ云誤ルナラン歟。大友興廢記ニ持氏屋敷トアリ。公方代々ノ屋敷也。
[やぶちゃん注:伝承の字音の誤伝考証をここで光圀本人が行っているところに着目したい。彼は優れた考証家であったのだ。
「大友興廢記」は「新編鎌倉志」の引用書目にも載るが、杉谷宗重著になる四百年に及ぶ豊後大友氏の興廃を記した史書。寛永十二(一六三七)年頃の成立か。剣巻及び二十二巻二十三冊。大友氏の興廃を描く。八十歳の杉谷の父と老翁の話をもとに書かれたとされる。]

   佐々木屋敷
 馬冷場ヨリ西ニアル芝野也。是ヨリ滑川ノハタヲ通リ、淨妙寺・杉本ノ觀音ノ前ヲ歴テ、歌橋ト云小橋ヲ渡リ、灯時ニ雪ノ下ヲ過ギ、英勝寺ニ至テ寺主ニ見へ、終ニ春高庵ニ入ヌ。時既戌ニ近シ。江府ヨリ近侍ノ者來リ迎ヘ、酒ナド勸テ喜ブ。漸ク江邸ニ至ル心地シテ長途ノ勞ヲイコヘヌ。三日辰起、上衣下裳シテ英勝寺ノ佛堂ニ詣リ、拈香作禮シ、方丈二入テ齋膳ヲ喫シ畢リ、庵ニ歸リ上衣ヲ脱シテ馬ニ乘ジ泉谷ニ到ル。
[やぶちゃん注:「佐々木屋敷」は「新編鎌倉志」に所収しない。どの佐々木氏かも不詳。
「戌」午後八時。
「江邸」は「がうてい(ごうてい)」で江戸の上屋敷のことか。
「辰」午前八時。この日の光圀の旅程はなかなかの強行軍で(たった一日で上総から金沢に入って八景近辺、更に朝比奈を越えて英勝寺までの旅程である)、また、翌三日の朝には御老公御自ら騎馬して精力的に歷覧しているさまが活写されている。これ――ドラマの黄門様をたった一回の鎌倉で演じている本人――という気がしてくるから不思議。]

   英 勝 寺
 東光山ト云。扇谷源氏山ノ下ニアリ。山門ノ額英勝寺、寛永帝之敕筆也。太田道灌ノ故屋敷也。委ハ縁起ニ見へタリ。五百石ノ寺領アリ。寺寶
 惠心一尊彌陀       一幅〔始ノジャウソウ庵上ル〕
 後陽成院寅翰天神名號      一幅   弘法兩界曼多羅         一幅
 中將姫稱讚淨土經        一箱   同繡梵字ノ三尊         一幅
 小野ノ於通天神畫        一幅   同天神畫〔自畫自贊假名ナリ〕  一幅
 増上寺國師短册         一枚   同名號             一幅
 南光坊東照三所權現ノ墨蹟    一幅   源空ノ自畫像          一幅
 同證文裏書〔本願寺第七世眞譽筆〕一幅   源空手蹟板行ノ名號       一幅
 伏見院宸筆ノ阿彌陀經      一部   松嶋瑞岩寺雲居作〔英勝寺拈香文〕一軸
 惠心三尊ノ彌陀         一幅   中將姫繡梵字          一幅
 惠心金泥ノ曼多羅繪       一幅   同筆廿五菩薩          一幅
 大文字ノ繪名號〔弘法筆カト云〕 一幅〔故相承院上ル〕
[やぶちゃん注:次の二項は前行に続いているが、読み難いので改行した。]
 法華經一部〔天神ノ筆〕     八軸〔長曲尺ニテ八寸二分半〕
 西明寺圓測ガ撰仁王經疏     一箱   智恩院ノ宮ノ名號        一幅
 同ジ宮ノ法然一枚起請      一幅   ミダレハンギ          一幅
 天神法華經ノ添狀〔後陽成院ノ宸筆〕 一幅 毘須羯摩作三尊         一厨子
 法皇勅額            一枚   英勝院殿追悼詩歌〔五山名緇ノ諸作也〕 一軸
 高野山文殊院立詮        一軸   佛舍利〔小寶塔ニ入〕      一箱
 御朱印             一箱
   通計三十二種
[やぶちゃん注:「寛永帝」後水尾天皇。
「〔始ノジャウソウ庵上ル〕」底本には右に『(ママ)』注記がある。この庵は「新編鎌倉志卷之四」の英勝寺にも載らず、英勝寺にはこのような名の庵があったという記載は見出し得ない(但し、「新編鎌倉志卷之四」に付随する境内絵図には数多くの建物は散見する)。
「曼多羅」の表記はママ。
「ミダレハンギ」未詳。「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」寺宝にも相当物は見当たらない識者の御教授を乞う(そもそも「鎌倉志」では寺宝は項目総計二十種で大幅に数が異なっている)。]


   源 氏 山
 或ハ旗立山トモ云。又御旗山トモイフ。英勝寺ノ上ノ山也。源賴義・義家、安倍貞任ヲ征伐ノ爲二奧州下向ノ時、此山二旗ヲ立、出陣ノ祝ヒアリシ故ニ云トゾ。旗竿ノ跡トテ近比マデ穴有ケルガ、今ハ草木生茂テ見へズ。又扇谷ノ中ノ第一ノ高山ナル故ニ俗ニ大山トモ云。山上ヨリ由比濱・富士嶺、遠近ノ秀麗奇勝目前ニ見ユ。英勝寺ノ後ロニ、不受不施ノ寺アリ。梅立寺ト云。江戸大乘寺ノ末寺也。昔ノ藥王寺ノ舊跡也。公儀ノ法禁ヲ恐ルニ依テ、今ハ藥王寺ト云ナリ。

   泉  谷
 英勝寺ノ東ノ二三町バカリ行處ノ總名也。扇井・藤谷ナド皆泉谷ノ内也。或云ク、此谷ノ東ニアカシガ谷ト云地アリト云。

   扇  井
 飯盛山ノ下二岩ヲ扇ノ地紙ナリニ切テ、水少シ有處ヲ云。東鑑ニハ扇井・扇谷ト云所見へズ。太平記ニハ扇谷ト書シ事多シ。今按ズルニ海藏寺ヲ扇谷山ト號スル時ハ、海藏寺ノ邊ヲ扇谷ト云べキ歟。

   大友屋敷
 扇井ノ南ノ畠也。

   藤  谷
 大友屋敷ノ東南ヲ云。藤爲相鎌倉へ下ラレシ時、假二居ケル跡ナリトゾ。山ノ上ニ爲相ノ石塔アリ。藤谷百首トテ爲相ノ歌アリト云。

   飯 盛 山
 扇井ノ上ノ山ヲ云。

   阿佛屋敷
 源氏山ノ北ノナゾヘニ阿佛ノ蘭塔アル故ニ阿佛ノ蘭塔屋敦トモ云。極樂寺ノ南ニ月影谷ト云所アリ。阿佛ノ住ケル地ナリトゾ。
[やぶちゃん注:「ナゾヘ」「なぞえ」は、斜め。斜交はすかい、の意。
「蘭塔」はママ。卵塔が正しい。]

   智岩寺谷
 阿佛ノ蘭塔屋敷ヨリ北ノ畠ヲ云。古ハ寺有ケレドモ頽敗セリ。近比マデ地藏堂ノミ有ケリ。此地藏今ハ雪下ノ供僧淨國院ニアリ。ドコモ地藏ト云トゾ。
初堂守ノ僧貧窮ニシテ佛餉モ供スべキ物ナキ故ニ、此地ヲ遁去ソト思ヒ定メシ夜ノ夢ニ、地藏枕上ニ現ジテ、ドコモドコモトバカリ云テウセケリ。僧此心ヲ覺リ、何クヘモ行ズシテ、一生ヲ終へケルトゾ。マシテノ翁ノダメシ思ヒ出シ侍リヌ。
[やぶちゃん注:「智岩寺谷」は現在、「智岸寺谷」と書く。
「マシテノ翁」とは鴨長明の「発心集」の三に所収する「一 江州増叟がうしうましてのおきなの事」を指す。以下に原文を示す。
 中比なかごろ、近江の國に乞食しありく翁ありけり。立ちても居ても、見る事聞く事につけて、「まして」とのみ云ひければ、國の者、「ましての翁」とぞ名付けける。させる德もなけれども、年來へつらひありきければ、人も皆知りて、見ゆるにしたがひて、あはれみけり。其の時、大和の國にある聖の夢に、此の翁必ず往生すべき由見たりければ、結緣けちえんのために尋ね來たりて、則ち翁が草の庵にやどりにけり。かくて、「夜なんど、いかなる行をかするらん」とて聞けども、更に勤むる事なし。聖、「いかなる行をかなす」と問へば、翁、更に行なき由を答ふ。聖、重ねて云ふやう、「我、まことは、汝が往生すべき由を夢に見侍てげれば、わざと尋ね來たるなり。隱す事なかれ」と云ふ。其の時、翁云はく、「我、誠は一つの行あり。則ち、『まして』と云ふことくさ、是なり。餓ゑたる時は、餓鬼の苦しみを思ひやりて『まして』と云ふ。寒く熱きに付いても、寒熱地獄を思ふ事、又かくの如し。諸々の苦しみにあふごとに、いよいよ惡道を恐る。むまき味にあへる時は、天の甘露を觀じてしうをとどめず。もし、たへなる色を見、勝れたる聲を聞き、かうばしき香を聞く時も、是、何の數にかはあらん。彼の極樂淨土のよそほひ、物にふれて、ましていかにかめでたからんと思ひて、此の世の樂しみにふけらず」とぞ云ひける。聖、此の事を聞きて、涙を流し、掌合はせてなむ去りにける。必ずしも淨土の莊嚴しやうごんを觀ぜねども、物にふれてことはりを思ひけるも、又、往生のわざとなんなりにけり。
・「中比」そう遠くない昔。
・「まして」には①いっそう。なおさら。②言うに及ばす。言うまでもなく。の意があるが、この場合は①で、後に重い対象が措定されている。
・「寒熱地獄」八大地獄の内の極寒地獄と焦熱地獄を併称したもの。
・「惡道」通常は地獄・餓鬼・畜生道の三悪道(三悪趣)を指すが、この場合は地獄を指していよう。
・「よそほひ」様態。有様。趣。
・「莊嚴」浄土や仏を飾っているとされる最上の智徳や相好そうごう(仏の身体に備わっている三十二相と八十種の美的な特徴)のこと。
・「業」仏家の行い。修行。]

  尼 屋 敷
 智岩寺谷ノ北ノ畠ヲ云。二位尼ノ居宅地トゾ。御前谷ト云テ尼屋敷ノ北並ヲ云。今按ニ尼御前ノ屋敷ニテ尼屋敷ト一ツナルヲ、里俗誤テ二ツニ分テ、賴朝ノ御臺ノ屋敷ナリト云。異名同地也。

   ホウセン寺舊跡
 尼屋敷ノ向ヒ東ノ畠ヲ云。
[やぶちゃん注:現在の表記は「法泉寺」。]

   靑 龍 寺 谷
 御前谷ノ東向ヒ、ホウセン寺ノ北ノ畠ヲ云。
[やぶちゃん注:これは「新編鎌倉志卷之四」に「淸涼寺谷」と載せるものの誤りである。恐らくは聴書きの際、清涼の音の「しやうりやう(しょうりょう)」に青龍を当ててしまった誤記であろう。現在は「新清凉寺谷」として残るが、少なくとも廃寺となった寺の方は、貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」(昭和五五(一九八〇)年有隣堂刊)で「せいりょうじ」と読んでいる。]

   景 淸 籠
 假粧坂へ上ル左リ道ヨリ西ノ大巖窟ナリ。景淸都ヨリ下ルベキノ支度ノ爲ニ設ケタリト云傳フ。鎌倉ニテ景淸ヲ籠ニ入シ事ハ本書ニ見へズ。景清ガ女ヲバ龜谷ノ長ニ預ケシト也。
[やぶちゃん注:「本書」不詳であるが、「新編鎌倉志卷之四」の「景淸籠」の考証記載から見ると、ここは『景淸ヲ籠ニ入シ事』への疑義と考えられ、「本書」は恐らくは「吾妻鏡」を指すと思われる。]

   山 王 堂 跡
 景清ガ籠ノ西北ノ方也。

   播 磨 屋 敷
 景清ガ籠ノ北、道ノ左也。里老ガ云。賴朝ノ近臣播磨守某ガ屋敷ナリ云。此ヨリシテ假粧坂へノボル坂ノ中段ニ、六國見ト云山見ユ。

   六 國 見
 小高キ峯也。坂へ上ル束ノ少シ北ヲ云。從是(是れより)安房・上總・下總・武藏・相摸・伊豆ノ六ケ國能ク見ユル。

   六 本 松
 假粧坂ノ北、六國見ノ西ニ六本アル松ヲ云。駿河次郎淸重ガ此所ニノボリ、鎌倉中ヲ見タル舊跡也トゾ。

   假 粧 坂
 梅谷ノ上、西へ上ル坂、往來ノ道ナリ。昔ノ首實檢ノ地也。平家ノ大將ノ首ヲケハヒタル故ニ云ト也。又古へ傾城遊女ノ居タリシ所ナル故ニ云トモ云リ。曾我物語、ケハヒ坂ノ麓ニ五郎時宗ガ通ヒシ遊女アリ。梶原源太モ亦此女ニ通ヒテ歌ナドヨミケルトナン。時宗ガ歌モ有。坂ノ上ニ至テ西向ヒニ左介谷、隱レ里、ガタタウガ谷、南ニ天狗堂、東ノ山ハギべ屋敷、最明寺ノ塔、諏訪山、等ノ峯、各林藪ヲ眺望ス。左介谷ト云ハ此邊ノ總名ニシテ大ナル谷也。

   葛原岡〔附唐絲ガ籠〕
 假粧坂ヲ打越テ北ノ野ヲ云也。昔右少辨俊基ヲコヽニテ害スルト也。相摸守高時ヲ亡サルル計策ハ、專ラ此人ノ所爲ナリトテ、京都ニテ召コメ、鎌倉へ下シテ誅セラルヽ也。假粧坂ヨリ舊路ヲ再ビ下テ、海藏寺へ行路次ノ景淸ガ籠ヨリ東ノ岐路ニ尻ヒキヤグラト云大岩屋アリ。又ハヘヒリ矢倉トモ土民ハ云リ。〔ヤクラトハ、里語ニイハヤノコトヲ云ナリ、〕
或ハ是ヲ唐絲ガ寵ナリ土石。俗二傳フ、唐絲ハ手塚太郎光盛ガ女也。賴朝二仕へ居ケルガ、木曾義仲へ内通シテ、賴朝ヲ殺サン爲ニ、中刀ワキサシヲ常ニ懷中二隱シ置ケリ。遂二顯レテ籠舍シケルト也。
[やぶちゃん注:「唐絲籠」は釈迦堂ヶ谷の南でここでは位置がおかしい、と目次の注で書いたが、この本文を読む限り、これは光圀の錯誤ではなく、実際にこの頃、「尻ヒキヤグラ」(尻引やぐら)別名「ヘヒリ矢倉」(屁放やぐら?)と呼称するやぐらがここにあって、それ釈迦堂ヶ谷の南の現在知られている「唐糸やぐら」とは別個な伝承としてあったとしか考えられない。位置的に見て、現在、景清の牢を中心とした化粧坂下やぐら群と呼称されるやぐら群の中でも最北に位置する(若しくは現存せずかつて「した」)やぐらを指している(「鎌倉市史 考古編」に載る『鎌倉期の標準的な』『山裾の藁谷氏裏のやぐら』というのがこれか?)。但し、その場合でも「新編鎌倉志卷之二」では正しく現在知られている位置で示されていることから、この当時は鎌倉には「唐糸やぐら」と呼ばれたやぐらが二箇所(もしくはそれ以上)あったもの考えられる。そもそもが、やぐらは墳墓であって牢ではない。鎌倉御府内には想像を絶する数のやぐらが散在するから、こうしたものの中から「景清の」「唐糸の」はたまた「護良親王の」、「土牢つちろう」なるものが後追いの伝承によって創作され、不当に同定されたと考えてよい(護良親王の土牢などはまことしやかに復元されて大塔の宮にあるけれども、「鎌倉攬勝考卷之七」で植田盂縉も反論している通り、古記録を見る限り、家屋内への軟禁である。多くの場合、鎌倉では重罪人でも彼等は家臣団の誰彼へお預けになって家屋内に禁錮されており、実は「土牢」などは滅多に存在しなかったのである)。私は本来の葬送された人物になってみれば、鵜の目鷹の目で「牢屋」として眺められ、踏み込まれては、死後の安穏もへったくれもない、とんでもない迷惑であろうと思うのである。それにしても――「唐糸草子」で知られる義女唐糸のおしこめられたやぐら伝承にしては、如何にも尾籠なやぐら名である。今に残らなくてよかったと私は思うのである。
中刀ワキサシ」「唐糸草子」前半の重要なアイテム。木曽家伝来の銘刀「ちやくい」(著衣?)で、政子の入浴に従った際に、それを懐帯しているところを見咎められ、木曽家伝家の銘刀と頼朝に見破られ、唐糸がアサッシンであることが露見してしまうのである。]

   梅  谷
海藏寺へ行道也。尻引櫓ノ東ノ畠ヲ云。或云、ツヾキノ里ニアリトゾ。今按ニ夫木集ニツヾキノ原、相摸トアリ。
 タカ里ニツヽキノ原ノ夕霞 姻モ見エス宿ハワカマシ     從二位家隆
此地ノ事ヲヨメルカ。ツヾキノ里ト云所、不分明。
[やぶちゃん注:私はこの地名に何か麗しい響きを覚えてならない。「新編鎌倉志卷之四」では、
◯梅谷〔附綴喜の里〕 梅谷ムメガヤツは、假粧坂ケワヒザカの下の北の谷なり。此邊を綴喜里ツヾキノサトと云ふ。【夫木集】に、綴喜原ツヾキノハラを相模の名所として、家隆の歌あり。「が里につゞきの原の夕霞、烟も見へず宿はわかまし」と。此の地を詠るならん。
とするだけで、ここは「鎌倉攬勝考卷之一」の「地名」の記載の方が考証を含んで詳細であるから、特別に以下に私の注とともに転載する。
綴喜(ツヾキノ)里 假粧下の北の谷をいふと。【夫木集】に、相模の名所とせしゆへに此里なりと土人等は傳えければ、【類字】に綴喜の里山城綴喜郡とあり。又【歌林】には綴喜里、山城・武藏に同名ありと載たり。【名寄松葉】には載せず。按ずるに、武藏の都筑は同名なりといへども、文字も違ひ、鎌倉よりは東に當り三里半許、山城に綴喜郡の稱名に綴喜と【和名抄】にも見たれば、【類字】の載る所當れるならん。茲にいふべきならねど後の考へに出す。
【夫木】
誰さとにつつきの原の夕霞、烟も見へすやとはわかまし[家隆卿]
【新拾遺】
やかて又つつきの里にかきくれて、遠も過ぬ夕立の空[爲世卿]
[やぶちゃん注:「假粧下の北の谷」大きな扇ヶ谷の西、化粧坂に登る小さな谷に当たるが、現在では、この「綴喜の里」という呼称は廃れているように思われる。美しくいい字の地名なのに、惜しい。
「【類字】」「色葉字類抄」(平安時代末期に成立した橘忠兼編の古辞書)のことか。本書冒頭の引用書目には「假名字類抄」とあるが、こういう書名はない。
「綴喜郡」は「つづきのこおり」と読む。山城国に属した郡で、現在も京都府の郡名として存続している。
「【歌林】」「類聚歌林」(伝山上憶良編著の奈良時代前期の歌集で正倉院文書)のことか。本書冒頭の引用書目には所載しない。
「武藏の都筑」現在の横浜市緑区・青葉区・都筑区の全域と瀬谷区・旭区・保土ケ谷区・港北区・川崎市麻生区の各一部を含む旧武蔵国の郡名。
「【名寄松葉】」「松葉和歌集」(江戸前期の内海宗恵編になる歌枕名寄なよせの和歌集)のことか。本書冒頭の引用書目には所載しない。この引用書目ははっきり言って杜撰である。
「家隆卿」藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)。鎌倉初期の公卿・歌人。歌の下の句「やとはわかまし」は、よく意味が分からない。宿は見つかるだろうか、の意の「宿は分かまし」か。識者の御教授を乞う。
「爲世卿」二条(藤原)為世(ためよ 建長二(一二五〇)年~暦応元・延元三(一三三八)年)。鎌倉から南北朝期の公卿・歌人。上句の「かきくれて」は暗くなる、曇るの意。心情としての、心が哀しみに沈むの意をも、余韻とするか。]

   武田屋敷
 梅谷ノ少シ北ノ畠ナリ。

   海 藏 寺
 武田屋敷ヨリ北ノ入也。ヱゲガ谷ト云。寺門ニ入、西北ノ方ニジャクグハイガ谷見ユ。山號ハ扇谷山、開山ハ玄翁、中興ノ祖トス。初玄翁ノ師空外ト云僧居住ス。玄翁相嗣テ居之(之に居す)。寂外ト云。曹洞宗也。後ニ那須野ノ殺生石ヲ祈テヨリ以來、大覺禪師ノ五世ノ嗣法ニテ臨濟派トナル。故ニ今建長寺ノ塔頭也。建長寺領ノ内、昔繩一貫二百文收ルト也。本尊ハ御腹藥師ト云テ春日ノ作也。初此藥師ノ像土中二有テ、毎夜小兒ノ呼聲シケルヲ、玄翁異ク思ヒ、其所ヲ見ルニ金色ノ光リヲ放ツ小墓アリ。異香四方ニ薫ズ。立寄テ袈裟ヲヌギ、墓ニオホヘバ泣聲止ケリ。明テ此墓ヲ掘ケルニ、一寸八分ノ藥師ノ像アリケリ。依之(之に依りて)藥師ノ像ヲ彫リ、其腹中二納置シト也。今モ有ト云。故ニ土人ハ啼藥師トモ云也。
寺寶
 玄翁自畫自讚像     一幅
  贊ハ文字湮滅シテ其ノ字、誠ノ字等一二字ノミ能ミユル。繪ハ分明ナリ。
 二十五條ノ袈裟     一ツ
  玄翁授法ノ時及殺生石ヲ祈タル時ノ袈裟ナリ。
 五部大乘經 是ハ全部ナラズ 二十箱
[やぶちゃん注:「ヱゲガ谷」は會外谷。
「ジャクグハイガ谷」寂外谷。「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の「寂外菴跡」の項には「蛇居谷」と書いて「じゃくがや」とも呼んだとある。
「昔繩」底本では「甘繩」の誤りかという旨の傍注が附されるが、建長寺は寺領の記録が殆んど伝わらず、海蔵寺の割当が鎌倉の「甘繩」であったかどうかは分からない(「鎌倉市史 資料編第三」の資料番号二二二の天正一九(一五九一)年の「建長寺朱印領配分帳案」によって海蔵寺分が「二百文」であることは確認出来る)。]

   淨光明寺
 泉谷ノ内、藤谷ノ南也。山號ハ泉谷山。此寺古ヘハ四宗兼學ナリシヲ今ハ禪律ノミニテ泉涌寺ノ末也。四貫八百文ノ寺領アリ。武藏守平長時、建長年中ノ建立、開山ハ眞聖乘國師ナリ。本尊ハ寶冠ノ阿彌陀ト云名佛也。寺内三慈恩院ト云有。其内ノ寶物
[やぶちゃん注:以下の解説部が二行以上に及ぶものは底本では二字下げになっている。]
 愛染明王  願作ノ作也
 寺僧云、願行ハ禪僧ニテ一生泉涌寺ニ居住ス。
[やぶちゃん注:「愛染明王」の下の「願作」は「願行」の誤り。]
三千佛繪  弘法筆  一幅
地藏木像〔矢拾ヒノ地藏ト云。錫杖ニハ矢ガラヲ用ユ。長時ノ守リ本尊也。一戰ノ時分ニ、矢ダネツキケレバ、敵陣ヨリ小僧一人走リ來テ、放チ捨タル矢ドモヲ拾ヒ捧ゲルト也。アヤシク彼地藏ヲミレバ、矢一筋杖ニ持ソヘケルト云傳タリ。〕
[やぶちゃん注:「長時」は北条長時(赤橋長時)で第六代執権であるが、「新編鎌倉志卷之四」の「淨光明寺」の「慈恩院」の項に載る「矢拾地藏」でも、また現在の伝承でも、この主人公は北条長時ではなく、ずっと後の足利直義である。異伝承があったものか、単なる光圀の聴き違いかは不明。]
 大塔宮位牌
  表ニハ沒故兵部卿親王尊靈
  裏ニハ建武七年七月廿三日トアリ。
[やぶちゃん注:「建武七年七月廿三日」「建武七年」は西暦一三四〇年であるが、この元号はおかしい。後醍醐天皇は建武三(一三三六)年二月に延元に改元しており、建武の元号を使い続けた北朝方でも建武五年八月に暦応に改元している。誤記か、そもそもこの位牌自体が偽物である可能性も疑われる。]
 寺内華藏院ノ寺寶
 八幡御影 畫像    一幅
 弘法影  畫像    一幅
 右是ヲ互ノ御影ト云也。文覺上人高雄ヨリ此寺ニ移スト也。八幡ノ御影ハ弘法ノ筆、弘法ノ影ハ八幡ノ筆ニテ、互ニ容ヲウツサレケルト云傳フ。
 八坂不動       一軀
 文覺鎌倉ニ負來ルヲ、後此寺二安置ス。淨藏貴所、八坂ノ塔ノ傾クルヲ祈リ直セシ時ノ本尊ナリト云。此年延寶二年甲寅ニ至テ七百八年也トゾ。
 壒嚢抄曰ク。神護寺ニ幡ノ御影アリ。是ハ大師、昔、東大寺ノ南ノ大門二行ケル時、對面有テ相互三和影ヲ寫シ玉ヘリ。神納メ冷房ニアリ。細筆ノ神影ハ初ヨリ高雄寺ニ安置セラレシヲ、近衞院ノ御宇ニ、東大寺ノ鎭守ニ祝ヒ進ゼントテ、南都ヨリ頻ニ申請ク。又八幡ヨリ去ル保延六年正月廿三日ノ炎上ニ、延書帝ノ勅定ニ依テ、敦實親王造作シ玉ヒシ僧俗二體ノ外殿ノ御神體燒失セシ故ニ、社家ヨリ強チニ望ミ申ケレバ、鳥羽上皇聞召テ不思議ノ重寶ナリトテ、鳥羽ノ勝光明院ノ寶藏ニ召納メラレシヲ、後人修造ノ時、又申請テ返シ納メラルヽト也。其大菩薩ノ徹影ハ僧形ニテ、赤蓮華ニ坐シ、日輪ヲ戴ヒテ勅袈裟ヲ掛テ錫杖ヲ持シメ玉フト云云。今按ズルニ、是モ亦文覺鎌倉ニ持來スルナルべシ。後ニ此寺ニ納メ置タリト見へタリ。此事浮屠ノ説ニハカク云傳タレドモ、信ズルニ足ラズ。八幡宮ヲ僧形ニ畫クルモ疑ガハシキコト也。辨ズルニタラザル事ナレバ詳ニ書セズ。
[やぶちゃん注:「壒嚢抄あいのうしょう」からの引用の内、「神納メ冷房ニアリ」の部分は、「神筆ノ影像ハ納冷房ニアリ」が正しい(「新編鎌倉志卷之四」の「淨光明寺」の項の「八幡并弘法の畫像」に拠る)。
「保延六年」西暦一一四〇年。
「八幡宮ヲ僧形ニ畫クルモ疑ガハシキコト也」とあるが、当たらない。ウィキの「八幡神」によれば、八幡信仰は、東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(七四九年)に宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたという記録が残っており、早くから仏教と習合していたことが分かっている。天応元(七八一)年には、朝廷が宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈っており、これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まる契機となった。後の本地垂迹説にあっては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされ、平安時代以降、武士の尊崇を集め、同時に本地垂迹思想の拡大によって八幡神は僧形で表されるようになる。これを僧形八幡神と呼び、明治の廃仏毀釈までは僧形八幡神の図像は寧ろ、一般的なものであった。]

  網引地藏〔又滿干地藏トモ云〕
淨光寺ノ本堂ノ後ニアリ。ミチヒノ窟トモ云。巖窟ノ内ニ石地藏ヲ安置ス。地藏ノ後ニクボカナル所アリ。潮滿候ニ從テ往來スルト云ドモ、今ハ塵ノミ埋ミ乾タル處也。藤爲相卿ノ建立ナリト云。或曰、昔由比ノ濱ニテ網ニ懸テ上リタル故ニ網引ノ地藏ト云也。
[やぶちゃん注:「クボカ」「窪か」で窪んだ箇所の謂い。]

    藤爲相石塔
 網引地藏ノ後ノ山ヲ上リ、巓ニ有リ。此山上ヨリ西北ニ大友屋敷・飯盛山・藤谷等眼下ニ見ユル也。此東峯ヲ打越テ多寶寺谷・泉井アリ。多寶寺谷ニ寺ハナシ。忍性菩薩ノ石塔トテ大ナル五輪アリ。文字ハナケレドモ、淨光明寺ニ云傳タリ。泉井谷ノ邊ニ潔キ水涌出ル也。淨光明寺ノ門ノ向ヒ南ニ内藤帶刀忠興ガ屋敷有、茂林鬱々タリ。歸テ壽福寺二詣ル。

   壽 福 寺
 山號ハ龜谷山、英勝寺ノ南隣、源氏山ノ下也。今按ニ龜谷ハ總名ニテ、扇谷・泉谷ナドト云ハ其内ノ小名也。壽福寺ヲ龜谷山ト云へバ、東鑑ニ義朝ノ龜谷ノ御舊跡トアルハ、壽福寺ノ事ナリトモ云。詞林采葉云、是山鎌倉中央第一ノ勝地也。寺ハ源實朝建保三年ニ建立、開山ハ千光國師、天童虛庵ノ嗣法也。元亨釋書ニ詳ナリ。本尊ハ釋迦・文殊・普賢、コノ釋迦ヲ籠釋迦ト云。カゴニテ作リ、上ヲハリタリ。陳和卿トイフ唐人ノ作也。前ハ十刹ノ位ニテ有シヲ、後ニ鎌倉五山ノ第三ニ列セリ。七堂加藍ノ石ズヘノ跡今ニアリ。御當家御朱印八貫五百文有、斛ニシテ三十石餘也ト云。古昔イボナシ鐘ト云名鐘アリ。開山千光ノ唐土ヨリ取來ル也。小田原陣ノ時、鐵砲ノ玉ニ鑄テ、今ハ亡タリ。積翠庵ノ後ニ小堂アリ。法雨塔ト云額アリテ、内ニ千光ノ木像アリ。
 寺寶 松風玉〔内ニ佛舍利三粒アリ。金色ノ光リアリト云〕
 後ノ山ノ上ニ、ヱカキヤグラトテ、實朝ノ石塔アリ。四方ト上ヲ極彩色ニ牡丹・カラ草ナドヱガキタル巖窟也。今ニ慥ニ能ミユル。風霜ニアハザル故カ。石塔少モ不損(損ぜず)、又祖師塔ノ岩窟一ツアリ。又桂陰庵ト云寺アリ。住僧以天ト云。千光ノ畫像コヽニアリ。新筆ニテ唐僧隱元ガ讚アリ。坐禪堂ニ鎌倉六地藏ト云名佛ノ中ノ一躰アリ。一木ニテ蓮華座迄作付ナリ。此寺ニ石窟ヲ開テ浴室トナス。方九尺許。又石窟ヲ厨トナス。僕奴ヲ此窟中ニヲキ、以天ハ日夜禪堂ノ繩床ニノミ坐スト也。ソレヨリ出テ寺ノ南ニ歸雲洞トテ洞有。其中ヲ通リ、南方へ行コト二町許ニ山有。石切山ト云。石岨※矻タリ。強テ此ニ登テ海邊ヲ眺望スルニ、萬里ノ波濤寸眸ニ入ル。暫ク行厨ヲ設ケ、微醺吟詠而庵ニ歸ル。
[やぶちゃん注:「※」=「石」+「聿」。
「※矻」は「ロツコツ」と読み、「※」は岩石の高く危な気なさま、「矻」は岩石の固いさまを言う。]
 四日、昨夜ヨリ大ニ風雨シテヤマズ。外ニ出ガタシ。金澤稱名寺ノ僧ヲ呼テ律宗ノ衣袈裟ヲ見テ、人ヲシテ其製ヲ問シム。僧曰、大衣二十五條〔九品アリ〕、下々品〔九條兩長一短〕、下中品〔十一條〕、下上品〔十三條〕、中下品〔十五條〕、中々品〔十七條〕、中上品〔十九條〕、上下品〔廿一條〕、上中品〔廿五條四長一短〕、以上七條〔兩長一短〕、五條縵衣〔兩品〕、七條五條沙彌用之(之を用ふ)、縫目ニ葉ヲ石入、但フセヌヒ計ニ風呂敷ノ如ニスル也。褊袗〔此ハ本ノギシ覆肩ノ二衣ヲ縫合テヘンザント云也。是コロ也。モハ別也。裳ヲ又ハ裾ト云ナリ。〕
[やぶちゃん注:「其製」袈裟は小さく裁断した布を縫い合わせたものを素材とし、小さな布を縦に繋いだものを条と呼んで、これを横に何条か縫い合わせて作る。ここではその条数と一部の形状が九品九生に対応していることが解説されているのだが、上品上生がなく、「以上七條」とある「以上」の意味が分からない。調べてみると、この「大衣だいえ」は袈裟の分類で最も正式な、衆生を教化する際に掛ける「僧伽梨」と呼ばれるものを指していると思われ、そこには実際に九種存在し、二十三条のものが本文には抜けていること、本文で中品に相当する三種の袈裟の長短(一条を構成する長条と短条の組み合わせをいう)も欠けていることが分かった。即ち、ここは「大衣」の後の「二十五條」を抜き、欠落を補い、
大衣〔九品アリ〕、下々品〔九條兩長一短〕、下中品〔十一條〕、下上品〔十三條〕、中下品〔十五條三長一短〕、中々品〔十七條〕、中上品〔十九條〕、上下品〔廿一條〕、上中品〔廿三條〕、上々品〔廿五條四長一短〕、以上七條
とあるべきところなのであり、そうすると「以上」は「大衣」は「以上。」であると私は判読するものである。
「七條〔兩長一短〕」これは「鬱多羅僧」という袈裟で、堂に於いて衆生とともに修行する際に掛ける普段着である。
「五條縵衣〔兩品〕」これは「安陀会あだらえ」という袈裟で、肌に直接纏い、作務や行脚の際に用いる作業着である。「縵衣まんえ」とは大きな一枚の布の四辺に縁を縫い着けただけの模様のない最もシンプルな縫い方を指す。なお、この割注「兩品」というのは解せない。調べてみると、安陀会の条の形状は一長一短であるから「兩条」とするところを、上の「品」に引かれた誤字と読む。
「縫目ニ葉ヲ石入」底本には『(ママ)』表記がある。一読すると、袈裟の縫い目に何かの植物の葉を縫い入れるような感じに読めてしまうが、そうではない。条を構成する長条や短条の重なる部分を「葉」と呼び、ここの仕立て方を言っているらしい(「石」は誤字の可能性が強い)。この部分の縫い方には「鳥足縫い」「馬歯縫い」「縁参」といった飾り縫いがあるが、ここではそうしたものではない極めてシンプルな縫い方を言っているものと思われる。
「褊袗」は「ヘンサン・ヘンザン」と読み、「褊衫」とも書く。僧衣の下着の一種で、垂領(たりくび:襟を肩から胸の左右に垂らして引き合わせて着用すること。)で背が割れている主に上半身を覆う法衣(下半身には以下に述べられる裙子くんすを着用する)。上に袈裟を掛ける。
「ギシ覆肩」「ギシ」は恐らく「祇支」で、元来は尼僧が袈裟の下に附ける長方形の布衣を言う語。袈裟を掛けるように、左肩に掛けて左肘を覆い、一方は右の脇の下に通して着用する。宗祇支・僧祇支とも書く。「覆肩」は「ふくけん」と読み(次の説明に現れる)、前の祇支の様態からも尼の反対側の右肩を覆う布衣と考えてよいであろう。後文を読むと、男僧もこれらを用いている。
「是コロ也。モハ別也。裳ヲ又ハ裾ト云ナリ」考えたこともなかったが、成程、「ころも」とは「ころ」と「裳」であったのか! 「ころも」の語源について、「日本国語大辞典」には、
①キルモ(着裳)が転呼(松岡静雄「日本古語大辞典」)。
②キルモノ(服物・着物)の義(「日本釈名」・「名言通」・「和訓栞」・「紫門和語類集」)
③クルムモ(包裳)の意。(大島正健「国語の語根とその分類」)
を挙げるが、①や③からは、光圀のように「ころ」と「も」を上下に分離する考え方はおかしくない。]
裙〔律ノ興ル魏ノ世ヨリ始ル。本ハ袖ナシ。故ニ尼衣乳ノミ見ユルコトヲ制シテギシフクケンヲ用フ。ヘンサンニハアラズ。魏ヨリ以來袖ヲソフ間ノ水ヲモラス心ナリ。〕尼ニハ制衣、僧ニハ聽衣〔ヌイメヲ外邊ヲヒラクト云田。〕仕立ルニ古來周尺ヲ用ユ。今ノ匠尺ノ八寸ヲ以一尺トナス。周尺ハ南都ニテ六物ニソヘ用ユ。四度ノ制アリ。一ニハ袈裟ヲウチカケテ着ス。ケサノマへ象ノ鼻ノ如シト外道ノ誹謗アリ。二ニハ謠女ノ衣ノ如シト云。於是(是に於いて)改テ座具ヲ以テヲサユ。三ニハ座具ヲ肩ニカケ袈裟ノ上ニヲクコトヲソシル。於是(是に於いて)座具ヲ袈裟ノ下ニヲク。是四度ノ制也。裳ハ右マヘ、コロハ左マヘニ着ス。コロハ前後ニ紐アリ。
[やぶちゃん注:「裙」これで「クン」又は「クンス」と読んでいよう(文脈から見ると、「モ」と読んでいる可能性もある)。裙子で、僧侶がつける、黒色で襞の多い主に下半身用の衣服。内衣ないえ腰衣こしごろもとも言う。
「律」刑罰法令としての律令は魏晋南北朝時代に発達、七~八世紀の隋唐期に整備されて当時の本邦や朝鮮諸国(特に新羅)の律令の形成へ影響を与えた。
「尼衣乳ノミ見ユルコトヲ制シテギシフクケンヲ用フ」「尼衣」は「ニエ」と読んでいるか。「ミ」は衍字か。
「袖ヲソフ間ノ水ヲモラス心ナリ」「ソフ」は付け加えるの意であろう。「水ヲモラス心ナリ」が分からない。「水をさす」で乳の覗けてしまうのを邪魔して見えぬようにするの意、という意味か? 識者の御教授を乞うものである。
「聽衣〔ヌイメヲ外邊ヲヒラクト云田。〕」底本には「聽衣」の横に『(ママ)』と傍注、「田」の右に『云カ』と傍注する。これは尼には前述のような胸を隠すための「制衣」が、男僧には「律衣りつえ」(自ら僧として修行し、戒律を守る為に着用する僧衣の謂い)が定められているという謂いの誤字か? 「ヌイメヲ外邊ヲヒラク」の謂いが分からない。男僧の場合は、胸が見えても問題がないので、袖の部分が開放になっているの謂いか? 若しくはここは禅宗で改良された僧衣の一つ「法衣ほうえ」=「直綴じきとつ」のことを指しているか。直綴とは褊衫と裙子を腰のところで縫い合わさせた一体型の僧衣のことを指す。但し、それを「ヌイメヲ外邊ヲヒラク」とは言うまい。また「律衣」や「法衣」は褊衫を含むので、ここで明白に「ヘンサンニハアラズ」という謂いとも矛盾してしまう。ここも識者の御教授を乞うものである。
「周尺」周代に用いられたとされる尺。周尺単位は短かったという漢人の説により一尺を曲尺かねじやくで六寸(一八・一八センチメートル)或いは七寸六分(二三・〇三センチメートル)ほどとするものをいう。漢尺は八寸(二四・二四センチメートル)程度。
「六物」は「ろくもつ」と読む。初期仏教に於いて比丘(出家者)が所有を義務づけられた六つの生活用品、三種類の袈裟と鉢(合わせて「三衣一鉢さんねいつぱつ」)・漉水囊ろくすいのう(飲水から虫を除くための水し)と坐具(敷物)を指す。比丘六物。その形状や大きさ・材質などに厳しい制限があった。
「坐具」は本来、禅宗と時宗以外では用いない。]
 コロヲ覆肩フクケント云。左ヲギシト云。ギシハ古來ノコロ也。フクケンハ右ヲ覆也。故ニ左ヲ下ニシ右ヲ上ニス。是興正菩薩ノ制ナリ。興正ハ思圓上人也。招提寺ノ開山大悲菩薩ノ制ハ内衣ノ如ク左ヲ上ニス。周尺西大寺ニハ定テ可存(存すべき)歟。六物圖書一册靈芝ノ作幷ニ本書有、律三大部六十卷ノ内行事抄ノ内衣藥二衣篇ヨリ拔書廿部、律ノ内四律ヲ立分通大乘是ナリ。採分摘三册有。右ノ末書也。教戒議比丘ノ行事ノ作法ヲ云物ナリ。一册有。南山道宣作ナリト云ナリ。南都西大寺ノ末、眞言律ハ稱名寺ト極樂寺ト也。又觀音寺ノ第子圓通寺トテ金澤ニ有。泉涌寺ノ末禪待ハ淨光明寺ナリ。是ハ袈裟ハ西大寺同樣ニテ、コロモノ威儀カハル也。
[やぶちゃん注:「興正菩薩」は「こうしやうぼさつ」と読む。真言律宗僧叡尊(建仁元(一二〇一)年~正応三(一二九〇)年)。興正菩薩は謚号、思円は字。興福寺の学僧慶玄の子。戒律を復興、奈良西大寺の中興開山。弘長二(一二六二)年には執権北条時頼の招聘により鎌倉にも下向している。
「六物圖書」不詳。平安時代の作とされる「仏制比丘六物図」のことか?
「採分摘」不詳。寛文七 (一六六七)年板行の「仏制比丘六物図採摘」のことか?
「南山道宣」律宗の中で最も広まり,鑑真によって日本へ伝えられた南山律宗の開祖とされる僧。
「又觀音寺ノ第子圓通寺トテ金澤ニ有」底本には「第」の右に『弟カ』と傍注するが、「弟子」でも意味が通らない。そもそもこの「圓通寺」は現在の横浜市金沢区瀬戸にあったものを指すと考えられるが(金沢文庫駅から見える廃寺)、「新編鎌倉志卷之八」には、
○圓通寺 圓通寺エンツウジは、引越村ヒキコヘムラの西にあり。日輪山と號す。法相宗。南都法隆寺の末寺なり。開山は法印法慧、寺領三十二石、久世クゼ大和の守源の廣之ヒロユキ付するなり。
とあって「觀音寺」なるものものが現われない。法隆寺は本来、法相宗であった(第二次大戦後に聖徳宗を名乗って離脱している)が、「觀音寺」と通称されたという記載はない(そう呼ばれてもおかしくはないとは思うが)。この部分も識者の御教授を乞うものである。]
 淸書ニハ此袈裟衣制ハ別卷ニス。宰相殿依着圖(着圖に依る)也。
[やぶちゃん注:先にも述べたが、この「鎌倉日記」にはここに示された「別卷」が存在し、そこには「宰相」光圀自身が実際に各種の袈裟を着装して図とした絵があったのである。この絵が見かったものである。そこでは本文の幾つかの不審箇所も明らかとなるであろうに。]

   鶴岡八幡宮

 午ノ時少シ晴ニ因テ鶴岡ニ至リヌ。又東鑑ニ此社ハ伊與守賴義奉勅、安倍貞任ヲ征伐ノ時ニ八幡神ニ祈テ因テ康平六年八月、潛ニ石淸水ヲ由比郷ニ勸請ス。〔下宮是也。〕其後永保元年二月陸奧守義家修復ス。其後治承四年十月十二日、源賴朝祖宗ヲアガメンガ爲ニ、小林ノ郷ノ北ノ山ヲ點ジテ宮廟ヲ構へ、鶴岡ノ社ヲ此所ニウツス。
               鎌倉右大將
  鎌倉ヤカマクラ山ニ鶴岳 柳ノ都モロコシノ里
  千年フル鶴岡へノ柳原 靑ミニケリナ春ヲシルヘニ
 新拾遺          左兵衞尉基氏
  鶴岡木高キ松モ吹風ノ 雲井ニヒヽク萬代ノ聲
 夫木集            爲實朝臣
  鶴岡アフクツハサノタスケニテ 高ニウツレ宿ノ鶯
   二王門額  鶴岡山
 本社應神天皇
 額 八幡宮寺〔竹内御門主ノ筆ナリ。〕
[やぶちゃん注:「竹内御門主」曼殊院良恕法親王まんしゅいんりょうじょほうしんのう(天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)は陽光院誠仁親王第三皇子で後陽成天皇の弟に当たる。曼殊院門跡(現在の京都市左京区一乗寺にある竹内門跡とも呼ばれる天台宗門跡寺院・青蓮院・三千院(梶井門跡)・妙法院・毘沙門堂門跡と並ぶ天台五門跡の一)。第百七十代天台座主。書画・和歌・連歌を能くした。]
 若宮仁德天皇
 額若宮大權現 靑蓮院御門主ノ筆ナリ。
[やぶちゃん注:「靑蓮院御門主」尊純法親王そんじゅんほうしんのう(天正一九(一五九一)年)~承応二(一六五三)年)。父は応胤法親王。慶長三(一五九八)年、天台宗門跡青蓮院第四十八世門跡となる。慶長一二(一六〇七)年に良恕法親王から伝法灌頂を受く。寛永一七(一六四〇)年に親王宣下を受けて尊純と号す。後、天台座主。書に秀でた。]
 先ヅ護摩堂ニ入リ、五大尊ヲ見ル。運慶作也。義經ヲ調伏ノ時、膝ヲ折タルト云、大日ノ牛、今ニアリ。ソレヨリ舞臺ヲヨギリ、神宮寺へ行。本尊藥師、行基ノ作也。十二神、運慶作也。神宮寺ノ前ニ松一本有。舞ニ神宮寺ノ前ノ松ト云ハ是也トゾ。神宮寺ノ東ノ山際ニ、若狹前司泰村ガ舊蹟アリ。ソレヨリ大塔五智如來ヲ見ル。新佛也。台徳公御再興ノ時作ルト也。輪藏ニ一切經幷ニ四天王ノ像アリ。實朝書簡ヲ朝鮮へ遣シ、取ヨセタル一切經也。極テ善本也。此毘沙門ノ像ハ渡海守護ノ爲二載來ルト也。高良・熱田・三嶋、若宮ノ東ノ方ノ小社是也。天神・松童・源太夫、本社ノ下、公曉ガ實朝ヲ殺セシ銀杏樹ノ西ノ小社也。松童ト云ハ、八幡ノ牛飼、源太夫ト云ハ、八幡ノ車牛ナリトゾ。本社ノ前、左二金燈籠一ツ有。延慶三年庚戌七月日、願主滋野景善勸進藤原行安トアリ。右ニ寛永年中ノ金燈籠一ツアリ。
[やぶちゃん注:「舞ニ神宮寺ノ前ノ松ト云ハ」義経四天王の一人、駿河次郎清重を主人公とした謡曲「清重」。清重(シテ)が伊勢三郎義盛(ツレ)とともに源義経に従おうと山伏に身をやつして武蔵国に至るも、梶原景時(ワキ)に見破られて自刃するまでを描く。現在は廃曲。
「延慶三年庚戌七月日、願主滋野景善勸進藤原行安トアリ」「延慶三年」は西暦一三一〇年、「新編鎌倉志卷之一」の「樓門」には『前に銅燈臺二樹兩傍にあり。左の方にある燈臺の銘に、延慶三年庚戌七月、願主滋野景義、勸進藤原の行安とあり』と滋野景義と記すが、「鎌倉市史 社寺編」には「滋野景善」とあり、本文が正しいものと思われる。因みにこの人物は相模国の武将と思われるが不詳である。「藤原行安」不詳。戦国武将に同姓同名がいるが、先の滋野と連名であって時代が合わないから、全くの別人。]
 神寶
  弓矢 空穗〔矢十五本、眞羽ナリ。篦ハ黑シ。古物ニテ珍シキ形也。矢ノ根色々有、其中ニ〕
   長三寸二分
    
   長一寸一分
           如此(此くのごとき)ノ形アリ。眞鍮ヲ以テ作ル。
   キセルノスイ口ノ如シ〕
[やぶちゃん注:ここまで〔 〕内全体が割注。図は底本では「如此(此くのごとき)ノ形アリ」の上、それぞれの長さを示した前行の部分とパラレルに配されているが、ここでは上記のように分けた。矢の根の図は「新編鎌倉志卷之一」の「眞羽矢」にある図の方が遙かに分かり易い。]
 衞府太刀   二腰〔二尺餘、無銘、鞘梨地〕
 兵庫鍍太刀  二腰〔二尺餘、無銘、兵庫鍍トイヘドモ古法トハ異ナリ。〕
[やぶちゃん注:「兵庫鍍太刀」「ひやうごくさりのたち」と読む。太刀の帯取の紐に銀の鎖を用いたもので鎌倉時代に流行した。兵具鎖の転訛。]
 硯箱〔梨地、蒔繪ハ籬ニ菊金具〕 一ツ
 十二手箱〔其内ニ櫛二三十バカリアリ。皆此圖ノゴトシ。〕
   昔ノモノハタヱニシテ、カバカリノ物モ目トマルコヽチセリ。
[やぶちゃん注:「タヱ」はママ。「妙」であろう。]
   
[やぶちゃん注:図中の①の箇所に「穴二」、②の箇所に「穴三」、③の箇所に「穴二」、④の箇所に「穴三」とあり、対応した突起が描かれている(当該画像のそれをそのまま写すことは編集権を侵害する恐れがあるため、敢てこのような方法をとった)。「穴」とあるようにこれは櫛の背の部分にある窪みを突起物で指示したものと思われる。実際に「新編鎌倉志卷之一」の「櫛圖」では、左向きに置かれた櫛の背のこちら側の平面部に同数の白い穴を描いてある。]
 十二單〔香色ノ裝束ナリ。裳ナシ。緋ノ袴アリ。麹塵ノ袍アリ。地紋麒麟鳳凰ニテ三ノハヾナリ。カバ色ノ直衣モアリ。右ノ三色ハ、八幡ノ母后ノ道具ナリト云フ。〕
[やぶちゃん注:「香色」は「こういろ」で黄褐色のこと、「麹塵ノ袍」は「きくぢんのはう(きくじんのほう)」と読む。意味はともに「新編鎌倉志卷之一」の「十二單」で詳述してあるので参照されたい。「三ノハヾナリ」の箇所には底本では『(布脱カ)』という編注が附されているが、これは「三布みの幅なり」と普通に読め、私には脱字とは思われない(勿論、「三布の幅なり」であってもいいのだが、「三布幅みのはば」という言い方の方が私は寧ろ自然であると感じる)。]
  袈裟座具 香色
   以上ハ鳩峯ヨリ勸請ノ時來ルト云。
  太刀   二腰〔銘行光、二尺餘リ、メクギ穴ナシ。〕
  太刀   一腰〔綱家、三尺餘、無銘〕
  太刀   一腰〔泰國、三尺餘、無銘〕
  太刀   一腰〔綱廣、三尺許、有〕
[やぶちゃん注:「有」の後は「銘」の脱字か。但し、「新編鎌倉志卷之一」の同部分には、実は四振り総てに当該刀工の銘があるように書かれている。不審。]
  愛染明王 弘法ノ作也ト云。長六七寸バカリノ丸木ヲ   如此(此くのごとき)ノ形ニシテ、蓋ト身ニ分ケ、愛染ヲモ臺座マデモ作付ニ一本ニテ刻ム。鎌倉ニ古佛多キ中ニ極テ妙作ナリ。
[やぶちゃん注:「丸木ヲ   如此ノ形ニシテ」の三文字分の空隙はママ。光圀は概念図を描こうとして書き忘れたものらしい。]
  藥師  一軀
   弘法ノ作也。廚子ニ入。前ニ十二神ヲ小ク刻ミ、兩扉ニ四天王ヲ彫ル。極細ノ妙作也。
  大般若經一卷
   弘法ノ筆、梅テ細字ニテ至テ分明也。大般若一部六百卷ヲ二卷ニ書ツムル。殘ル一卷ハ鳩峯エアリトナリ。
[やぶちゃん注:「ツムル」は「詰める」の意。]
  後小松院院宣  一通
   應永二十一年四月十三日トアリ。
  賴朝直判書   二通
 其外代々將軍家、北條家ノ證文ドモ多シ。卷物二軸トナス。條々不可枚擧(枚擧すべからざる)也。今考索ノ助ニモ成ベキ事ヲ、コヽニ書シルス。
 一武藏國稻目・神奈河兩郷云々
[やぶちゃん注:これは文永三(一二六六)年五月二日のクレジットを持つ「北條時宗下文」(「鎌倉市史 資料編第一」の八)のことを指している。以下に示す(文中「役」は底本では(にんべん)である)。
鶴岡八幡宮領武藏國稲目・神奈河兩郷役夫工米事、如先下知狀者、云御燈、云御供、重色異他之間、被免除彼役了、以他計略可令沙汰其分〔云々〕早任彼狀、可令下知之狀如件、
   文永三年五月二日             (時宗花押)
  武藏目代殿
「役夫工米」は「やくぶくまい・やくぶたくまい」と読み、二十年に一度行われた伊勢神宮式年遷宮造営費用として諸国の公領・荘園に課された臨時課税を言う。「鎌倉市史 社寺編」で、この鶴岡八幡宮の社領であった二郷についての当該賦役免除という特別な計らいを命ずる文書を解説して、『執権であり武蔵の国司であった北条時宗は、社領武蔵稲目(いなめ)・神奈河両郷(前者は川崎市内、後者は横浜市神奈川区内)に賦課する役夫工米にうついては、先例によりこれを免除するよう同国の目代に命じた。この両郷は前に社領として寄進され、役夫工米免除のことについて下知状が出されていた。稲目は御燈料所で、神奈川は御供料所であったと思われるが、社領の中これらの料所に限りこの頃は役夫工米が免除されたらしい。しかしその免除の文は政所で肩替りしてこれを弁済したのである。なお、稲目・神奈河両郷が寄進された月日は分明ではない』とある。以下の文書注は、読み難くなるので注の後に空行を設けた。]

 一永和年遍照院僧正一〔云云〕〔昔ハ僧正ニモ任ジタルコトヲ知ベル。〕
[やぶちゃん注:これは永和五(天授五年/康暦元・永和五(一三七九)年)年閏四月十三日のクレジットを持つ「鎌倉府政所執事〔二階堂行詮〕奉書」(「鎌倉市史 資料編第一」の四二)のことを指している。以下に示す。

安房國岩井不入計半分〔号大方分、〕事爲鸖岡八幡宮本地供々※、所被預置也、任例可有其沙汰之狀、依仰執達如件、
   永和五年閏四月十三日          沙 弥(花押)
    遍照院僧正御房

「※」=「米」+「斤」。「料」に同じい。この文書は鎌倉御所足利氏満が安房国平群(へぐり)郡岩井にある不入斗いりやまず(本来は「不入斗」は一村として貢粗を納めるまでに至らない小集落をいうが、ここでは地名として意識されているようである。現在の千葉県富山町北部不入斗。旧北条氏領)の半分を鶴岡八幡宮本地供々料(本地仏の御供料所)として遍照院賴印僧正に預け置くことを言っている。その後の文書類によれば、この八ヶ月後の十二月二十三日には頼印を管領として、その管理を委ねている。
 「知ベル」は感覚的なものだが、「知(ル)ベシ」の誤りではなかろうか? ここで光圀は、僧正にも土地の管領(職)を公に文書で任ずることが行われたということが分かる、と言っているのではあるまいか? 識者の御教授を乞う。]

 一武藏國金曾木彦三郎、市谷孫四郎〔云云〕 基氏ノ判形アリ。今按ニ俗ニ金杉ト云ハ、金曾木ノコトカ。
[やぶちゃん注:これは、一つは正和元(一三一二)年)年八月十一日のクレジットを持つ「鎌倉將軍〔守邦親王〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の一七)のことを指している。以下に示す。

寄進
 鶴岡八幡宮
  武藏國金曾木彦三郎重定所領事
右、依將軍家仰、奉寄如件、
    正和元年八月十一日
                相模守平朝臣(花押)

「金曾木」当時、金曽木重定が領していた豊島郡小具おぐ郷で、現在の東京都荒川区にあった。旧北豊島郡尾久町おぐまち
「相模守平朝臣」は第十二代執権北条煕時ひろとき。光圀が『基氏の判形あり』とするのは不審。両者の花押は似ても似つかず、第一、基氏では時代も違う。

次の「市谷孫四郎」の寄進に関わる文書は鶴岡八幡宮編「鶴岡八幡宮年表」によれば神田康平氏旧蔵とする文書にある由、記載がある。
「金杉」東京都台東区下谷にあった旧地名で金杉があるが、これを言っているか?]

 一武藏國平井〔云云〕
[やぶちゃん注:これは、応永一九(一四一二)年)年三月十七日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六二)のことを指している。以下に示す。
寄進 鶴岡八幡宮
  武藏國平井彦次郎跡事
 右、為當社領寄附也者、早守先例、可被致沙汰之狀如件、
     應永十九年三月二十七日
                左兵衞督源朝臣(花押)
「鎌倉市史 社寺編」には「武藏國平井彦次郎跡」を『(東京都西多摩郡郡内か)』とする。]

 一六郷保〔云云〕。保内ト云ハ昔ヨリ有來リタルコトナルベシ。
[やぶちゃん注:これは、応永一九(一四一二)年)年三月十七日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六二)のことを指している。以下に示す。
寄進  鶴岡八幡宮寺
  武藏國入東郡難波田小三郎入道跡事
 右、爲同國六郷保内原郷替、所寄附之狀如件、
    應永七年十二月廿日
                左馬頭源朝臣(花押)
「入東郡」は後の埼玉県入間郡。「六郷保」は現在の東京都大田区にあった荏原郡。この文書は鎌倉公方足利満兼が、従来、鶴岡八幡宮寺に寄進していた六郷保内原郷の代替寄進地として、入東郡内の難波田小三郎入道の跡地を寄進する、という内容である。この「保」とは、平安時代後期(十一世紀後半以後)から中世にかけて新たに生まれた所領単位である。以下、ウィキの「保」を引用する。保は『人名や地名を冠して呼ばれ、「荘」「郷」「別名」と並んで中世期を通して存在した』。保は「別名べちみょう」(「別納べちのうみょう」の意で、十一世紀の半ば以降、公領の荘園化を防ぐため国衙が在地有力者の私領確保の欲求に妥協しつつ開発を認め、官物・雑公事の納入を請け負わせたことから成立した土地制度上の一呼称)『とともに国衙から一定地域の国衙領の占有を認められ、内部の荒野の開発と勧農、支配に関する権利を付与されたものを指したが、保は別名とは違って在家(現地住民)に支配が及んでいたと考えられている。ただし、国守が負っていた何らかの負担を土地に転嫁する際に採用された所領形式とする異説もある』。『保司と称された開発申請者は在地領主とは限らず、有力寺社の僧侶や神官、知行国主や国守の近臣、中央官司の中下級官人など、在京領主と称される官司や権門関係者も多かった。このため、保司の中でも在地系の「国保」と在京系の「京保」に分けることができる。国保と京保の違いは官物の扱い方にあり、前者は国衙領として国衙に納入されるのに対して、後者は直接官司や権門に納められていたため形式上は国衙領のままであったものの実質において彼らを領主とする荘園と大差がなかった。便補保は国衙が封物確保の義務を免除される代わりに便補の措置のために官司・権門側に認めた京保の一種と言える。勿論、在京領主が直接京保を経営するのは困難であったから、現地の有力者に公文職などを与えて在地領主して経営にあたらせる方法が取られた』。『国保・京保ともに、国司(国守)が交替するごとに再度承認の申請をする必要があり、時には再申請を認めず国衙領として回収しようとする国司との間で紛争が生じることもあった。これに対して、中央から太政官符・宣旨などを得て立券荘号して正式に荘園として認められるものや、保の形態のまま為し崩し的に寺社領・諸司領・公家領などとされて国衙の支配から離脱する事例もあったが、依然として国衙領として継続した場合もあった』とある。]

一常陸國那珂東國井郷内〔云云〕
[やぶちゃん注:これは、応永二一(一四一四)年八月廿日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六五)のことを指している。以下に示す。
寄進
 鶴岡八幡宮
  常陸國那珂東國井郷内〔佐竹左馬助跡、〕事
 右、去十六日於社頭依下人狼藉、收公之、爲武藏國津田郷内方丈會※所不足分、所寄附之狀如件、
   應永廿一年八月廿日
                左兵衞督源朝臣(花押)
「※」=「米」+「斤」。「料」に同じい。これは「鎌倉市史 社寺編」に、『佐竹義人の下人が常陸国那珂東国井郷(水戸市内)の内の地を没収して、これを武蔵国津田郷(埼玉県大里郡大里村[やぶちゃん補注:現在は熊谷市。])の内の方丈会料所不足分の補として当社に寄進した』ことを示す文書とある。佐竹義人(さたけよしひと 応永七(一四〇〇)年~応仁元(一四六八)年)は守護大名、常陸守護、佐竹氏第十二代当主。関東管領上杉憲定次男で佐竹義盛の養子。関東管領上杉憲基の弟。家督相続の恩があって一貫して持氏派であったが、永享の乱後は実家上杉氏との関係改善を図って存命を図った。]

一上總國周東郡〔云云〕
[やぶちゃん注:これは、応永二四(一四一七)年一月一日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六六)のことを指している。以下に示す。
奉寄進
 鸖岡八幡宮
  上総國周東郡大谷村〔岩松左馬助入道跡、〕事
 右、爲天下安全、武運長久、所奉寄附之狀如件、
     應永廿四年正月一日
                左兵衞督源朝臣(花押)
これについて「鎌倉市史 社寺編」には、上総国周東郡大谷おおやつ村は現在の千葉県袖ケ浦町(旧君津郡小糸町)内とし、『これは禅秀にくみした岩松満国の所領を没収したものの内である』と記す。上杉禅秀の乱は同応永二四年年一月十日に氏憲(禅秀)が持氏の叔父満隆や持氏の弟で養嗣子であった持仲とともに、まさに鶴岡八幡宮の雪ノ下の別当坊で自害して終結するのだが、この寄進状はその後にクレジットを遡って発せられたものであろう。]

一常陸國北條郡宿郷〔云云〕

[やぶちゃん注:これは、応永二四(一四一七)年閏五月二日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六七)のことを指している。以下に示す。
奉寄進
 松岡八幡宮
  常陸國北条郡宿郷〔右衞門佐入道跡、〕事
 右、爲天下安全、武運長久、所奉寄附之狀如件、
     應永廿四年閏五月二日
                左兵衞督源朝臣(花押)
「常陸國北条郡宿郷」は現在の茨城県つくばみらい市、旧筑波郡内にあった「右衞門佐入道」故上杉禅秀の没官領を寄進する内容である。]

一相摸國小田原關所〔云云〕 永享四年持氏ノ證文ニアリ。關所昔ヨリ久シキコトカ。
[やぶちゃん注:これは、永享四(一四三二)年十月十四日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕御教書」(「鎌倉市史 資料編第一」の八〇)のことを指している。以下に示す。
松岡八幡宮御修理要脚事、所寄相模國小田原關所也、早三ケ年之間宛取關賃、可令終修造功之如件、
   永享四年十月十四日     (花押)
     信濃守殿
これは八幡宮の営繕修理費用の分担を小田原の関所に当て、大森頼春に銘じて小田原関所の三年分を割り当てて修造を終らせた旨の文書である。大森頼春(?~応仁三(一四六九)年)旧駿河国駿東郡領主。応永一三(一四〇六)年にも鎌倉公方足利満兼による円覚寺修繕のため、伊豆国三島に関所を設置して関銭を徴収した記録がある。上杉禅秀の乱鎮圧の功によって鎌倉公方足利持氏より箱根山一帯の支配権を与えられた。応永二四(一四一七)年頃に小田原城を築いている(ウィキの「大森頼春」に拠ったが一部誤りを正した)。]

一持氏ノ證文ニ朱字ニ書タルアリ。永享六年トアリ。
[やぶちゃん注:これは、永享六(一四三四)年三月十八日のクレジットを持つ「足利持氏血書願文」(「鎌倉市史 資料編第一」の八五)のことを指している。以下に示す。
於于鶴岡
 大勝混合尊等身造立之意趣者、爲武運長久、子孫繁榮、現當二世安樂、殊者爲攘咒咀怨敵於未兆、荷關東重任於億年、奉造立之也、
  永享六年三月十八日
     從三位行左兵衞督源朝臣持氏(花押)
       造立之間奉行
           上椙左衞門大夫
底本には最後に『コノ文書ハ、血ニ朱ヲ混ジテ書シタルモノナリ』という編者注が附されている。この「咒咀怨敵」(呪詛の怨敵)とは将軍足利義教のことを指す。「上椙左衞門大夫」については「鎌倉市史 社寺編」には持氏の側近上杉『憲直か』とする。]

一武藏國久良郡〔云云〕 今按ニ和名抄ニ久良ト書テ、久良岐ト倭訓アリ。社僧云、綸旨甚多カリシヲ、度々ノ囘祿ニ悉燒失シヌトナリ。
[やぶちゃん注:これは、まず貞治四(一三六五)年七月二十二日のクレジットを持つ「将軍家〔足利義詮〕御内書」(「鎌倉市史 資料編第一」の三三)のことを指している(御内書ごないしょは、室町幕府の将軍が発給した私的な書状形式の公文書で、形式は差出人が文面に表記される私信と同様のものであるが、将軍自身による花押・署判が加えられており、私的性格の強い将軍個人の命令書とは言え、御教書に準じるものとして幕府の公式命令書同様の法的効力を持った)。以下に示す。
鸖岡八幡宮雜掌申、武藏國久良郡久友村郷事、故御所一円御寄附狀分明也、無相違※樣可有計御沙汰候、謹言、
   貞治四年七月二十二日      義詮(花押)
   左兵衞督殿
「※」~「辶」+(「寿」-「寸」+「友」)。「違」か。底本には末尾に、鶴岡八幡宮文書原本には最後の宛名が欠けているため、東京大学史料編纂所架蔵の相州文書に拠って補った旨の注記がある。この文書及び関連する資料について「鎌倉市史 社寺編」には、『鶴岡八幡宮雑掌は社領武蔵国久良岐郡久友郷(横浜市内)のことについて幕府に訴えるところがあった。このため』この文書が発給されて『久友郷を当社に安堵するように命じている。この久友郷は尊氏』(「故御所」)『によって寄進されたものであるが、金曾木かなそぎ重定・市谷孫四郎等の跡』(前出文書)『や鶴見郷などと共に別当領ではなかったと思われる。こえて応安元年(一三六八)八月二十一日、足利金王丸(氏満)は武蔵国箕田郷の地頭職の内の河連村(鴻巣市川面)を当社に寄進した。なおこののち同六年四月二十八日、義満は久友郷を鶴岡八幡宮雑掌に渡付するよう氏満に命じている。(『資料編』一の三三・三五・三八)』とある。]

 牛玉    一顆
 鹿玉     同
 如意寶珠   同
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が三字下げ。]
前ノ袈裟座具ト此如意寶珠ハ、内陣ニ入テアル由ニテ見ルコトナシ。社僧云、如意寶珠ト云モノ二種アリ。一種ハ自然ト龍ノ頸上ニアル珠ヲ云。是ヲ肝頸ノ珠ト云。一種ハ能生ノ珠ト云。眞言ノ法ヲ樣々執リ行ヒテ修シ得テナル珠ナリ。此社ニアル如意寶珠ハ、能作生ノ珠ナリト云。
 五鈷
 是ヲ雲加持ノ五鈷ト云、古器也。昔醍醐山ニ範俊・義範ト云二人ノ名僧アリ。範俊ハ法兄也。義範ハ法弟也。天下早魃アリ。義範勅ヲ承テ神泉苑ニテ雨ヲ祈ル。範俊、義範ガ吾ニ先テ勅ヲ奉ルコトヲフヅクム。時ニ黑雲ムラガリ起テ將ニ雨フラントスルニ、範俊ガ五鈷忽鴉ト化シテ雲ヲ呑却ス。故ニ雲加持ト名付ル也。
[やぶちゃん注:「フヅクム」清音の「ふつくむ」が正しい。「憤む」「恚む」で、怒る、怒り恨むの意のマ行四段活用の動詞。]
 朝鮮鈴  ヒヾキ惡クシテ日本ノ鈴ニシカズトゾ。
[やぶちゃん注:「鈴」は音読みして「レイ」。]
 菩提心論   一卷 細字ナリ。智證大師ノ筆
 功德品    一卷 細字也。菅相公ノ筆
 心經     一卷 基氏ノ筆、紺紙金泥一字三禮ナリ。名判アリ。
 心經     一卷 紺紙金泥。氏滿ノ筆。至德二年二月十六日名判トモニ備ル。
 御影
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が三字下げ。]
昔ヨリ傳タレドモ、今ニ終拜見シタルモノナシ。錦ノ袋ニ入、長三尺計ニ、幅八寸四方程ノ箱二納メ、鳥居ヲ立、注連ヲ引、十二ケ院ノ供僧一ケ月ヅヽ守護シ、毎月座ノ行ヒ勤メニ法華經ヲヨムト也。何モノト云事ヲシラズ。何ノ御影ゾト問へバ、定テ八幡ノ御影ナルべシト答フ。俗ニ囘リ御影ト云フ。
[やぶちゃん注:「今ニ終拜見シタルモノナシ」底本では「終」の右に『(ニ)』と送り仮名を注す。
「座ノ行ヒ勤メニ」底本では右に『(三座ノ行ヒヲツトメィ)』とある。光圀による、この回御影まわりみえいに於ける日に三座行われた勤行の掛け声の傍注であろう。]
 本社ノ前二鶴龜ノ石一ツアリ。水ニ洗へば、光澤出テ鶴龜ノ形ノ如クカヾヤキ見ユ。影向ノ石ニツアリ。御手洗ノ池ヨリ出ルトゾ。賴家參籠ノ時ニ、海中ヨリ龍燈アガリ、此石ニ影向スルトナリ。側ニ武内ノ社アリ。賴朝堂本社ノ西ニアリ。白幡明神ト賴朝トヲ合祭ル。賴朝ノ木像アリ。左ニ住吉明神ノ木像、右ニ聖天アリ。愛染堂、賴朝堂ノ前也。愛染ハ運慶作也。堂ノ内ニ地藏アリ。腹ノ内ニモ千躰ノ地藏アリト云。二位ノ禪尼ノ本尊也トゾ。側ニ鐘アリ。正和五年二月ト銘アリ。願主ノ姓名ナシ。酒宮、二王門ノ前ナリ。神躰ハ酒宴醉臥ノ體也ト云。其外小社多シ。實朝ノ社アリ。柳營ノ宮トモ云。ソレヨリシテ十二ケ院ノ内等覺院ニ至ル。弘法自作ノ鍍大師トテ木像ニテ膝ヲ屈伸スルヤウニ作リタル也。安置シタル堂ヲ蓮華定院ト云。勅書アリ。板面ニ書寫シテアリ。御祈禱可仕(仕るべき)由ノ勅意、執達ハ左少辨俊國、應永二十七年十二月十三日トアリ。此院ノイリノ谷ニ八正寺トテ、昔ノ八幡ノ大別當僧正ノ舊跡ナリト云。惠光院ニ釋迦アリ。名佛也。左右二普賢・文殊アリ。獅子ノ像ナド極テ見事也。阿彌陀ノ小像、其外古佛多シ。總テ八幡ノ社領永樂錢八百四十文也。今ノ三千二百石餘ニアタルトゾ。十二坊アリ。一坊ニ三十八貫文充分領ス。神主大友志摩ハ百貫、小別當周英ハ五十首領スルトゾ。周英ハ妻帶ニテ、禪宗也。今ノ一臘ヲ淨國院ト云。老僧次第ニ、一臘ヲ囘リ持ニスルト也。僧正院ニ賴朝ノ法華堂ノ本尊ヲ引、安置セラレシナリ。彼本尊ハ賴朝石橋山合戰ノ時、杉山ニ寵リ、己ニ難儀ノ時、彼佛ヲ取出シ、岩上ニヲカル。兵ドモ不審ス。賴朝ノ曰ク、サスガニ源氏ノ大將ノ、常ニ身ヲ放タズト、カバネノ後ニイハレンハ口惜カルべシト也。其後護持ノ僧拾ヒテ奉ルトゾ。銀ノ一寸六分ノ觀音ナリ。ソレヲ今木像ノ觀音ノイタヾキニ納テ有ト也。
[やぶちゃん注:「酒宮、二王門ノ前ナリ。神躰ハ酒宴醉臥ノ體也ト云」とあるがこれは伝聞で、実は既にこの奇体な神体はなかった。「新編鎌倉志卷之一」の鶴岡八幡宮の項の「稻荷社」の中に、
今の稻荷のやしろ、本は仁王門の前に有て、十一面觀音と、醉臥すいぐはの人の木像を安じ、さけの宮と號す。近き頃大工遠江とをとをみと云者有。甚だ酒をこのんで此を寄進す。寛文年中の御再興の時、其體てい神道・佛道に曾て無き事也とて、酒の宮醉臥の像を取捨とりすてて、觀音ばかりを以て、稻荷の本體として、此丸山に社を立て、ふるきに依て松岡の稻荷と號す。前の鎌倉の條下に詳なり。十一面觀音を稻荷明神本地と云傳る故に、此社内にも十一面を安ずる也。
と記す。
「總テ八幡ノ社領永樂錢八百四十文也」の「文」は「貫」の誤り。
「僧正院ニ賴朝ノ法華堂ノ本尊ヲ引……」底本では「僧正」の右に『(相承カ)』と編注がある。]
 又押手ノ聖天ト云モ同堂ニアリ。是ハ本比叡山ニ有ケリ。昔或人官女ヲ戀ヒ、セン方ナクシテ此聖天ニ千日詣ズ。其利生ニヨリ、官女男ノ家ニ通ヒ來レリ。宮中ニ此事アラハレ、其由ヲキハメ問ニ、官女我心トモナク、夢幻ノヤウニシテサソワレ行ト云。群臣ハカリテ彼門ニ手ノ形ヲ墨モア押テヲケト云へバ、教ニ任セテヲス。歸テノ後、人ヲ見セシムルニ、路中ノ門々ニ皆手形有テ、何ヲソレト知ガタシ。是又聖天ノナス所ナリトゾ。是神力トハ云ナガラ、宮女ヲカクナセシハ罪ナリトテ、關東ニ拾シヲ、鎌倉ニ安置セシト也。此故ニ押手ノ聖天トハ云也。
[やぶちゃん注:「關東ニ拾シヲ」は「すてシヲ」の誤りであろう。]
 昔ハ廿五ノ菩薩ヲ表シテ廿五坊有シガ、中比絶果タルヲ、東照宮十二坊ニ建立ナサレシト也。
 今宮トテ東ノ谷ニ宮アリ。社ノ後ロニ大杉五本一株ヨリ生出タリ。何モ二カヒ程アリ。里俗天狗ノ住所トテ恐ルト也。八幡ノ社ノ圖別紙アリ。大華表ハ北條氏綱立ト云。又社再興モ有シト也。關束兵亂記云。小弓殿ハ高家ト云ヒ、強將ト云ヒ、縱ヒ合戰ニ打勝トモ、二戰三戰シテ漸々城ヲ取べキナド、兼テ小田原衆モ思ヒシニ、氏綱武勇人ニ勝レ、謀ガマシキ故ニ、輙ク討取ル樣ニ立願ドモアリ。其願ヲ果ン爲、又ハ子孫ノ武運ヲ祈ン爲ニ、天文三年ノ春、上官囘廊等ニ至迄、再興セラル。其時ノ普請奉行幷社中法度等ノ書付、詳ニ鶴岡日記ニ載タリ。同五年八月廿八日二假殿遷宮アリ。其後氏康、先君ノ遺願ヲモ果シ、且ハ武運ノ榮久ヲモ祈ン爲ニ、同廿一年卯月十二日〔或ハ十一年卯月十日ニ作ル〕由比濱ニ大鳥居修造ノ事終シカバ、先例ニ任セ、一切經ヲ轉讀アリ。其外金銀ノ幣吊、太刀・長刀・馬鞍ニ至迄、種々ノ寶物ヲ進ラスル。
[やぶちゃん注:「大華表」大鳥居。
「小弓殿」小弓公方足利義明。第二代古河公方足利政氏の子。この部分は戦国時代に下総国の国府台こうのだい城(現在の千葉県市川市)一帯で北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた国府台合戦の内、北条氏綱とその子氏康対足利義明・里見連合軍の第一次国府台合戦(天文七(一五三八)年)を背景とする。義明は奮戦の末、敗死した。
「輙ク」は「たやすく」と読む。]

   鐵  井
 鶴岡町屋ノ西南ノ隅、路傍ニアル井ナリ。此地ヨリ鐵觀音ヲ掘出タル故ニ名トス。

   鐵ノ觀音
 鐵井ノ西向ヒニ小堂アリ。觀音ノ鐵像首計有ヲ小堂ニ入置ク。極テ大ナル首ナリ。新淸水ノ觀音ト號ス。

   志一上人ノ石塔〔附、稻荷社〕
 右ノ石塔若宮ヨリ西脇ノ町屋ノ後ロノ山上ニアリ。土俗ノ云ルハ、志一ハ筑紫ノ人也。訴訟有テ下ラレ、スデニ訴訟モ達シケルニ、文状ヲ古里ニ忘置テ如何セント思ハレシ時、常々ミヤヅカヒセシ狐アリシガ、一夜ノ内ニ故郷ニ往キ、彼文状ヲクハヘテ曉ニ歸り、志一ニタテマツリ、其マヽ息絶テ死ケリ。志一訴訟叶ヒシカバ、則彼狐ヲ稻荷ニ祭リ、社ヲ立ツ。坂ノ上ノ脇ニ小キ社有。是其小社也。志一ハ左馬頭基氏ノ代ニ、上杉崇敬ニヨリ鎌倉へ下ラレケルト無極抄ニ見へタリ。太平記ニ仁和寺志一坊トアリ。又志一細川相摸守淸氏ニタノマレ、將軍ヲ咒咀シケルトアリ。此僧ノ事歟、未審(未だ審らかならず)。又此所ヲ鶯谷トモ云トナン。
[やぶちゃん注:「無極抄」は近世初期の成立になる「太平記評判私要理尽無極抄」という「太平記」の注釈書である。
「細川相摸守淸氏」細川清氏(?~正平一七/康安二(一三六二)年)は室町幕府第二代代将軍足利義詮の執事。官位は左近将監、伊予守、相模守。参照したウィキの「細川清氏」によれば、『正平九年・文和三年(一三五四年)九月には若狭守護、評定衆、引付頭人に加え、相模守に補任される。翌正平一〇年/文和四年(一三五五年)の直冬勢との京都攻防戦では東寺の敵本拠を破る活躍をした。正平一三年/延文三年(一三五八年)に尊氏が死去して仁木頼章が執事(後の管領)を退くと、二代将軍足利義詮の最初の執事に任ぜられた』。『清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り分国の若狭において半済を強行するなど強引な行動があり、幕府内には前執事頼章の弟仁木義長や斯波高経らの政敵も多かった。正平一五年/延文五年(一三六〇年)五月、南朝に対する幕府の大攻勢の一環で清氏は河内赤坂城を陥れるなど活躍した。この最中に畠山国清ら諸将と反目した仁木義長が分国伊勢に逃れ追討を受けて南朝に降ると、清氏は幕政の実権を握ったが、将軍義詮の意に逆らうことも多かったという』。『同年(康安元年、三月に改元)九月、将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぐと、清氏は弟頼和・信氏らと共に分国の若狭へ落ち延びる。これについて、「太平記」は清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏にも野心があったと記し、今川貞世(了俊)の「難太平記」では、清氏は無実で道誉らに陥れられたと推測している。清氏は無実を訴えるものの、十月には斯波高経の軍に敗れ、比叡山を経て摂津天王寺に至り南朝に降った。十二月には楠木正儀・石塔頼房らと共に京都を奪取するが、すぐに幕府に奪還された』。『正平十七年/康安二年(一三六二年)、清氏は細川氏の地盤である阿波へ逃れ、さらに讃岐へ移った。清氏追討を命じられた従弟の阿波守護細川頼之に対しては、小豆島の佐々木信胤や塩飽諸島の水軍などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現香川県綾歌郡宇多津町、坂出市)に拠って宇多津の頼之勢と戦った。「太平記」によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。但し、「新編鎌倉志卷之四」には、
〇志一上人石塔 志一上人の石塔は、鶴が岡の西、町屋のうしろ鴬谷うぐひすがやつと云所の山の上にあり。里人云、志一は、筑紫の人也。訟へありて鎌倉に來れり。已に訟へも達しけるに、文状を本國に忘置て、如何せんと思はれし時、平生志一につかへし狐ありしが、一夜の中に本國に往き、明くる曉、彼の文状をくわへて歸り、志一に奉り、其まゝ息絶へて死しけり。志一訟へかなひしかば、則ち彼の狐を稻荷の神と祭りを立つ。坂上さかのうへの小祠是也。志一は、管領くはんれい源の基氏の他に、上杉家、崇敬により、鎌倉に下られけるとなん。【太平記】に、志一上人鎌倉より上て、佐々木佐渡の判官入道道譽だうよの許へおはしたり。細川相模守淸氏にたのまれ、將軍を咒詛しゆそしけるとあり。
と記す。「太平記」巻三十六「淸氏叛逆の事」によれば、志一は佐々木道誉のもとにあって、細川清氏に頼まれて荼枳尼天の外法(ウィキの「荼枳尼天」に『狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている』とあり、志一と稲荷のラインが美事に繋がる)を以って将軍を呪詛したことが記されている。]

   日 金 山
 日金山松源寺ハ、鐵觀音ノ西ニアル小寺ナリ。本尊地藏、豆州ノ日金ヲ勸請スルトナリ。

   岩 不 動
 松源寺ノ西ノ山根ニアリ。弘法ノ作トテ岩窟ノ内ニ石像アリ。岩不動見畢テ、日既ニ虞淵ニ迫ル。因テ春高庵ニ歸憩フ。
 五日卯單二英勝寺ノ佛堂ニ詣リ、及ビ方丈へ行テ、端午ノ節ヲ賀ス。辰ノ半ニ庵ヲ出、再ビ鶴岡ニ至リ、辨財天ヲ見ル。運慶作ニテ妙音辨才天ノ木像也。膝ニ横へタル琵琶ハ、小松大臣ノ持タル琵琶ナリ上云。池中ニ七島アリ。神職ガ曰ク。賴朝平家追討ノ時、二位ノ尼ノ願ニテ、大庭平太景義ヲ奉行トシテ、社前ノ東西ニ池ヲ掘シム。池中ニ東ニ四島、西ニ四嶋、合テ八嶋ヲキヅヒテ、西國ノ八島ニ准ジ、束ノ一嶋ヲ破テ、八島ヲ東方ヨリ亡スト祝ス。東ニ三島ヲ殘ス。三ハ産也。西ニ四嶋ヲ置ク。四ハ死也ト云心也ケルトゾ。ソレヨリ八幡ノ東門ヲ出ル。
[やぶちゃん注:「虞淵」「グエン」と読む。元来は、太陽が入るとされた伝説上の場所を指し、そこから夕方、黄昏の意となった。
「景義」は大庭景義(?~承元四(一二一〇)年?)。「景能」とも表記した。桓武平氏で相模国高座郡南部(現在の茅ヶ崎市・藤沢市)にあった大庭御厨(鎌倉時代末期には十三郷が有する相模国最大の伊勢神宮領)を領した。鎌倉権五郎景正を祖とし、保元の乱では弟大庭景親(石橋山合戦では平氏方として頼朝軍を大破、後に処刑)とともに義朝に従い、鎮西八郎為朝と戦い、治承四年の頼朝挙兵の当初から参加して功があった年来の御家人で、曽我の仇討ちの後、頼朝弟範頼に謀反の嫌疑がかけられ、古くからの範頼配下でもあった大庭景義は出家・謹慎を命ぜられたが、後に許されて、建久六(一一九五)年の東大寺再建供養の際には頼朝の隨兵を許されるなど、幕府草創期の長老として厚く遇された。]

   烏合セ原
 八幡ノ東門ノ出口北ノ畠也。昔相摸入道鳥ヲ合セ、犬ヲイドミ合セシ所ナル故ニ云トナリ。
[やぶちゃん注:「相摸入道」北条高時。]

   賴朝屋敷
 烏合セ原ノ向ヒ、八幡東門ノ東也。東鑑ニ治承四年十月六日、兵衞佐殿、安房・上總ヨリ武藏ヲ經、鎌倉へ打入玉フ。同九日、細事立ラルベキトテ奉行ヲ大庭平太景義ニ仰付ラル。御屋作ノ事、知家事兼道ガ山内ノ宅ヲ大倉ノ郷ニウツサレ、是ヲ建立ス。同十二月十二日、大倉ノ御館へワタマシ、賴朝・賴家・實朝・平政子、ソレヨリ賴經・賴嗣・宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王迄、此屋敷ニ居ラル。治承四年ヨリ守邦迄、百五十年餘也。其廣サ八町四方有ト云。今見ル處ハ、分内セバキ樣ナレドモ、法華堂ナド、賴朝ノ持佛堂ト云へバ、此邊總テ屋敷構へノ内ナルべシ。
[やぶちゃん注:「東鑑ニ治承四年十月六日、兵衞佐殿、……」「吾妻鏡」治承四(一一八〇)十月六日の条。
〇原文
六日乙酉。著御于相摸國。畠山次郎重忠爲先陣。千葉介常胤候御後。凡扈從軍士不知幾千万。楚忽之間。未及營作沙汰。以民屋被定御宿舘云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
六日乙酉。相摸國に著御す。畠山次郎重忠、先陣たり、千葉介常胤、御後に候ず。凡そ扈從こしようの軍士、幾千万を知らず。楚忽そこつの間、未だ營作の沙汰に及ばず、民屋を以つて御宿舘に定めらると云々。
・「楚忽の間」急に決まったことであるため。

「同九日、……」「吾妻鏡」治承四十月九日の条。
〇原文
九日戊子。爲大庭平太景義奉行。被始御亭作事。但依難致合期沙汰。暫點知家事〔兼道〕山内宅。被移建之。此屋。正暦年中建立之後。未遇回祿之災。淸明朝臣押鎭宅之符之故也。
〇やぶちゃんの書き下し文
九日戊子。大庭平太景義、奉行として、御亭の作事を始めらる。但し、合期がふごの沙汰を致し難きに依りて、暫く知家事〔兼道。〕の山内宅を點じ、之を移し建てらる。此の屋は正暦年中建立の後、未だ回祿のわざわひに遇はず。晴明朝臣の鎭宅の符を押すの故なり。
・「合期」「期に合ふ」の字音読み。諸作事や貢献・納租などを所定期間内に完了すること。
・「知家事」は「ちけじ」と読み、政所の役職。別当・令・案主あんじゅの下の四等事務官。
・「兼道」不詳であるが、個人のHP「北道倶楽部」の「奈良平安期の鎌倉 頼朝の父義朝の頃」のページの「知家事(兼道)が山内の宅」に鋭い考証が載せられてある。そこでは「知家事兼」道の邸の解体された木材が、大倉まで、どのルートで運ばれたかの考証までなさっておられ、極めて興味深い。
・「正曆年中」西暦九九〇年から九九五年。
「晴明朝臣」安倍清明。
・「鎭宅」鎮宅法。仏教で新築・転居の際に新居の安全を祈るための密教の修法。除災のためにも行う。家堅めの法ともいう。

「同十二月十二日、……」「吾妻鏡」治承十二月十二日の条の当該部。
〇原文
十二日庚寅。天晴風靜。亥尅。前武衞將軍新造御亭有御移徙之儀。爲景義奉行。去十月有事始。令營作于大倉郷也。時尅。自上總權介廣常之宅。入御新亭。御水干。御騎馬〔石禾栗毛。〕和田小太郎義盛候最前。加々美次郎長淸候御駕左方。毛呂冠者季光在同右。北條殿。同四郎主〔義時〕。足利冠者義兼。山名冠者義範。千葉介常胤。同太郎胤正。同六郎大夫胤賴。藤九郎盛長。土肥次郎實平。岡崎四郎義實。工藤庄司景光。宇佐美三郎助茂。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱。同三郎盛綱以下供奉。畠山次郎重忠候最末。入御于寢殿之後。御共輩參侍所。〔十八ケ間。〕二行對座。義盛候其中央。著致云々。凡出仕之者三百十一人云々。又御家人等同搆宿舘。自爾以降。東國皆見其有道。推而爲鎌倉主。所素邊鄙。而海人野叟之外。ト居之類少之。正當于此時間。閭巷直路。村里授號。加之家屋並甍。門扉輾軒云々。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日庚寅。天晴れ、風靜か。亥尅、前武衞將軍、新造の御亭に御移徙わたましの儀有り。景義、奉行として、去る十月、事始め有り。大倉郷の營作せしむるなり。時尅に、上總權介廣常の宅より新亭に入御す。御水干、御騎馬〔石禾の栗毛〕。和田小太郎義盛、最前に候じ、加々美次郎長淸、御駕おんが左方に候じ、毛呂冠者季光、同じく右に在り、北條殿、四郎主、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同太郎胤正、同六郎胤賴、藤九郎盛長、土肥次郎實平、岡崎四郎義實、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱以下、供奉し、畠山次郎重忠、最末に候ず。寢殿に入御の後、御共の輩は侍所〔十八ケ間。〕に參じ、二行に對座す。義盛、其の中央に候じて著到すと云々。
凡そ出仕の者三百十一人と云々。
又、御家人等、同じく宿舘を搆へる。しかりしてより以降、東國、皆、其の有道を見て、推して鎌倉の主と爲す。所は素より邊鄙にして、海人野叟の外、ト居ぼくきよの類ひ、之れ少なく、正に此時に當るの間、閭巷りよかう、路を直し、村里にを授け、加之しかのみならず、家屋、甍を並べ、門扉、軒をきしると云々。(以下略)
・「時尅」定刻。
・「加々美次郎長淸」弓馬術礼法小笠原流の祖として知られる小笠原長清(応保二(一一六二)年~仁治三(一二四二)年)。甲斐源氏一族加賀美遠光次男。高倉天皇に滝口武士として仕えた父の所領の内、甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、元服の折に高倉天皇より小笠原の姓を賜ったとされる。源頼朝挙兵の際、十九歳の長清は兄秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許されたが、主家である平家を裏切って頼朝の元に参じた、と伝えられる。治承・寿永の乱でも戦功を重ね、父と同じ信濃守に任ぜられた。海野幸氏・望月重隆・武田信光と並んで「弓馬四天王」と称された(以上はウィキの「小笠原長清」を参照した)。
・「毛呂冠者季光」毛呂季光もろすえみつ(生没年未詳)。大宰権帥藤原季仲の孫で武蔵国入間郡毛呂郷(現在の埼玉県入間郡毛呂山町)に住した。頼朝の直参。以下、ウィキの「毛呂季光」によれば、『子の季綱は頼朝が伊豆国の流人であった頃、下部(しもべ)らに耐えられない事があって季綱の邸あたりに逃れていたところ、季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返した。この事から頼朝に褒賞を受け』、『武蔵国和泉・勝田(埼玉県比企郡滑川町和泉・嵐山町勝田)を与えられており、季光の准門葉入りも、貴種性だけでなく流人時代の報恩に拠るものがあったと思われる』とある。
・「北條殿」北条時政。
・「同四郎主」北条義時。
・「山名冠者義範」(生没年未詳)新田義重の庶子。山名氏祖。ウィキの「山名義範」によれば、上野国八幡荘の山名郷を与えられ、山名氏を称した。父義重は挙兵した頼朝になかなか従おうとしなかったために頼朝から不興を買って幕府成立後は冷遇されたが、逆に義範はすぐさま頼朝の元に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、源氏門葉として優遇された、とある。
・「工藤庄司景光」(生没年未詳)は頼朝に呼応して安田義定らと甲斐で挙兵、富士山北麓の波志太はしだ山で平氏方の俣野またの景久を敗走させた。八十歳頃の建久四年(一一九三)の富士の巻狩りで大鹿を射損じ、間もなく病没したという。通称は荘司(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
・「宇佐美三郎助茂」宇佐美祐茂うさみすけもち(生没年未詳)。工藤祐経の弟。伊豆田方郡(現在の静岡県)宇佐美荘を本領とする宇佐美氏祖。頼朝の挙兵時から従い、奥州攻めや京都入りにも加わった。通称は三郎。名は「助茂」とも書く(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
・「土屋三郎宗遠」(大治三(一一二八)年?~建保六(一二一八)年?)。土肥実平の弟で相模国土屋(現在の神奈川県平塚市土屋)を本拠地とした土屋氏始祖。頼朝の挙兵から側近として仕え、石橋山の戦いで敗れた頼朝に従い、安房に逃れた七騎落の一人とも言われる。同年九月の甲斐源氏との連携作戦では北条時政とともに頼朝の使者となって重要な役割を果たしている。以後、有力御家人の一人として活躍したが、承元三(一二〇九)年五月、宿怨から梶原家茂(梶原景時の孫)を和賀江島近くで殺害し、侍所別当和田義盛のもとに出頭、身柄を預けられた。宗遠の主張には十分な正当性が認められなかったが、翌月、将軍源実朝は故頼朝の月忌にも当たっていたため、特に彼を赦免している(以上は、ウィキの「土屋宗遠」に拠った)。
・「侍所〔十八ケ間。〕」侍所の主部で儀式を行うために設けられた、長大な大きさの部屋の固有名詞のようである。十八間は約三七・八メートルに相当する。・「有道」正道に叶っていること。正しい道に叶った行いをしていること。

「八町」約八七三メートル弱。]

   キドブン
 此地ハ賴朝屋敷ノ北西ノ田ナリ。キドブンハ賴朝ノ時ノ人也ト云。未審(未だ審らかならず)。
[やぶちゃん注:不詳。私の今までの鎌倉郷土史研究では出逢ったことがない地名である。現在は名も土地も消失しているものと思われる。これが武士であったと仮定し、「キド」と呼称する姓「木戸」「城戸」「嘉戸」「城門」「貴戸」等で「吾妻鏡」を検索したが、該当者はいない。識者の御教授を乞う。]

   報 恩 寺
 西御門ノ左ノ方二見ユル谷也。今ハ寺ナシ。

   永 福 寺
 西御門へ入口ノ右ニ見ユル谷也。今ハ寺ハ亡ビ、田中二礎ノミアリ。賴朝奧州ノ泰衡退治ニ下向有テ、秀衡建立ノ金堂ヲ見テ、歸テ此寺ヲ建立ス。建久三年ヨリ土石ヲ運ビ地引ス。同十一月廿五日、永福寺供養、將軍御參詣、寛喜四年九月廿九日、賴綱將軍永福寺ノ林頭ノ雪見ン爲ニ出ラレ、歌ノ會アリ。判官基綱・武州泰時等ノ倭歌アリ。
[やぶちゃん注:「賴綱」は「賴經」の誤り。]

   西 御 門
 賴朝屋敷ヨリ直ニ北へ行。民村少計リ有所ヲ云。土俗ノ云。是ハ賴朝ノ時、西ノ御門ト云儀也。東御門モ其心ナリ。

   高 松 寺
 西御門ノ入ノ終リ也。法華宗ノ尼寺也。紀州亞相賴宣ノ母儀建立ナリ。詳ニ鐘ノ銘ニアリ。鐘ノ銘別紙ニ載ス。

   來 迎 寺
 高松寺ノ南隣、時宗也。一遍ガ開基、藤澤道場ノ末寺也。此ヨリ舊路ヲ歸リ、又東行スレバ法華堂也。

   法 華 堂
 西御門ノ東岡邊ノ小杉森是ナリ。眞言宗ナリ。此本尊ハ阿彌陀也。今ハ雪下ノ供僧相承院ニ有。今ハ道心者ノ僧居之(之れに居す)。如意輪觀音ノ木像アリ。運慶作也。僧謂テ云。
 昔由比太郎持忠ト云者ノ娘、七歳ニシテ死ス。其骨舍利五粒ニナル。ソレヲ拾ヒ、此觀音ノ腹中ニ納ム。分身シテ三升計ニナル。頭ワレテ溢レ出ルト云傳フ。今モ五粒ハ此像内ニ有、分身セシ三升計ノ舍利ハ相承院ニ有ト。此寺ハ相承院持分也。報恩寺ノ本尊ナリシト也。地藏脇立ニ有。又報恩寺ノ開山キウジト云ル唐僧ノ像トテ脇立ニ有。寺ノ上ニ賴朝ノ墓有土石。如意輪堂モフケイ寺トモ云。賴朝ノ持佛堂ナリト云。
[やぶちゃん注:「持忠」は「時忠」の誤り。
「報恩寺ノ開山キウジト云ル唐僧ノ像トテ脇立ニ有」「新編鎌倉志卷之二」の「法華堂」の項に、
異相なる僧の木像あり。何人の像と云事を知人なかりしに、建長寺正統菴の住持顯應、此像を修復して自休が像也と定めたり。兒淵に云傳へたる自休は是歟。
とあるから、この「キウジ」は「ジキウ」の誤字であろう。
「如意輪堂モフケイ寺トモ云」底本では「如意輪堂トモフケイ寺トモ云」の「ト」の脱字と推定されているが、「フケイ寺」の呼称は不詳。識者の御教授を乞うものである。但し、昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊の貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」の「法華堂」の記載を管見しても「如意輪堂」、「フケイ寺」に相当するような呼称は出て来ない。]

   東 御 門
 法華堂ノ東ノ谷也事ハ、西御門ノ所ニ見へタリ。

   荏柄天神〔源順ガ和名鈔ニ荏草エガラト有リ〕
 法華堂ノ東也。十九貫二百文ノ御朱印アリ。僧云。賴朝以前ヨリ有社也。然ドモ祝融ノ災度々ニシテ記録傳ハラズ。文獻徴トスべキナシト云。別當ヲ一乘院ト云。眞言宗ニテ京洛ノ東寺ノ末ナリ。菅相公ノ束帶ノ木像アリ。作者知レズ。足腰ヤケフスモリテ有。五臟六腑ヲ作入トナリ。ロノ内ニ鈴ヲカケテ舌トシ、頭二十一面觀音ヲ入ト云。兩脇ノ小宮ハ、紅梅殿・老松社也。
[やぶちゃん注:「祝融の災」火災。中国で火を司る神を祝融と呼ぶことに基づく。「回禄」も同じ。]
 神寶
  尊氏自畫自讚ノ地藏像  一幅
[やぶちゃん注:次の讃の解説は底本では全体が二字下げ。以下の解説も同じ(以下略す)。]
讚曰、爲天化藏主仁山書、文和四年六月六日、善根無所窮 利濟徧沙界 令我畫尊容 夢中有感通。朱印及ビスへ判アリ。
[やぶちゃん注:「文和四年」西暦一三五五年。]
  天神自畫像       一幅
  天神筆瑜伽論      二卷
長二寸五分、廿五字充アリ。此經ハ一部百卷ノ物ナリ。シカルヲ十卷ニ書ツヾメラレケル其内ノ二卷ナリ。殘ハ極樂寺ニ三卷、金澤ノ稱名寺三卷、高野山ノ金剛三味院三卷、合テ七卷ハ今猶存セリ。其外三卷ハ有所シレズト別當一乘院語キ。
  天神名號              一幅
義持將軍ノ自筆也。一行物也。
南謨天滿大自在※神顯山朱印カクノ如シ、スへ判モ有。
[やぶちゃん注:「※」=(くさかんむり)+「曳」。「朱印」は横書きで底本は四方枠入り。「顯山」(足利義持の法号)の朱印が押されていることを示す。
「スへ判」花押。]
  緣起                三卷
畫ハ土佐ガ筆也。書ハ行能カト云。當社ノ建立ノ事ハ不見(見えず)。只天神ノ事ヲシルセリ。
  扇ニ古歌八首  台德公ノ自筆也ト云。此内二首ハハシ書アリ。
[やぶちゃん注:「台德公」徳川秀忠。]
  太刀                一腰
正宗、銘ナシ。長一尺三寸六分、ハヾ二寸四分、サシ表ニハ梅、裏ニハ天蓋不動ノ梵字、倶利伽羅不動ヲ彫ル。
大進坊ホリモノ也。
  笄 〔後藤祐乘彫物、梅、長九寸五分〕一本
  小刀〔嶋田助宗作〕         一本
  柄〔後藤乘眞彫物、梅、黑塗ノ鞘、梅ノ蒔繪也〕一本

    天 台 山
 覺園寺ノ上ノ山也。覺園寺へ行道ヨリ見ユル。
[やぶちゃん注:何故か、これと次の「大樂寺」の標題は四字下げとなっている。]

    大 樂 寺
 覺園寺ノ入口左ノ方ニ有。泉涌寺ノ末ニテ禪律也。覺園ノ寺内ナリ。本尊ヲ試ミノ湯ノ不動ト云。金佛也。願行ノ作ト云。大山ノ不動ヲ鑄ン爲ニ先試ニ鑄タル佛ナリトゾ。愛染、運慶作也。藥師、願行作ナリ。

   覺 園 寺
 二階堂ノ内也。山號ハ鷲峯山ト云。律宗也。泉涌寺ノ末也。七貫百文ノ御朱印有。本尊藥師・日光・月光ハ澤間法眼作ナリ。十二神ハ運慶作。相模守平貞時、永仁四年二建立、開山ハ心惠和尚、諱ハ知海、願行ノ嗣法也。黑地藏又ハ火燒地藏トモ云。堂前ノ山根ニアリ。義堂・絶海唐土ヨリ取來ル佛也。毎年七月十一日ノ夜、鎌倉中ノ男女參詣ス。或云、有時此地藏ヲ彩色ケレドモ、一夜ノ内ニ又本ノゴトク黑クナリケリ。毎日毎夜地獄ヲメグルニヨリ、火焰ニフスボリ、黑クナルトナン。罪人ノ苦ミヲ見テ堪カネ、自ラ獄卒ニカハリ、火ヲタキ、罪人ノ煩ヲ休メラルヽト也。鳴呼此等ノ妄鋭辨ズルニ足ズ。何ゾ愚民ヲ塗炭ニヲトシ入ルヤ。
 此寺ニ源次郎・彌次郎ガ塔ト云有ト舊記ニ見へクリ。住僧ニ問ヘバ曰ク、此レ俗説ノ僞也。開山ノ石塔ヲ誤テ云也ト。山根ニハワムネノ井アリ。山上ニワメキ十王、ダゴツキ地藏ト云テ石佛アリ。見ルニタラヌ物也ト云。山上ニ弘法ノ護摩堂ノ礎ノ跡アリトゾ。爰ヲ出テ東北ノ側ニ大平寺ノ跡、今ハ畠ニナリテアリ。
 寺寶
  心惠嘉元四年自筆ノ状、判有。源尊氏自筆梁牌二枚
[やぶちゃん注:以下の説明は、底本では三字下げ。]
一枚ニ文和三年十二月八日、住持沙門思淳謹誌トアリ、則自筆ヲ染ノヨシ證文有。
  院宣、綸旨、將軍家ノ證文數通
[やぶちゃん注:「澤間」は「宅間」の誤り。平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の鎌倉・室町期の絵仏師としてしばしば登場する。
「彩色ケレドモ」「彩色シケレドモ」の脱字か、若しくは「彩色」を「いろどり」と訓じているか。
「鳴呼此等ノ妄鋭辨ズルニ足ズ。何ゾ愚民ヲ塗炭ニヲトシ入ルヤ」地蔵の業火による黒焼きというホラーの伝承、黄門様はお好みではないらしい。このようにダイレクトな感懐が語られるのは本作では珍しいことである。
「源次郎・彌次郎ガ塔」初耳である。この伝承についてご存知の方の御教授を乞うものである。
「ダゴツキ地藏」団子窟だんごやぐら、別名、地藏窟のことであろう。「鎌倉攬勝考卷之九」末の挿絵を参照されたい。この部分の叙述から光圀は百八やぐら群を踏査していないことが分かる。……黄門様、鎌倉に来てここを見なかったのは、一生の不覚と存じます……。]

   大塔宮土籠
 覺園寺ノ東南ノ山根ニ有。二段ノ石窟ナリ。内ハ八疊敷計モアリ。穴深フシテ廣シ。大塔宮兵部卿親王ヲ足利直義ウケ取、鎌倉へ下シ奉リテ、二階堂ノ谷ニ土ノ籠ヲ塗テ入レ參ラスト云々。後終ニ亂起ニ及テ、東光寺ニテ害シ奉ルト。今石窟ノ前ノ畠ハ東光寺ノ舊跡也ト云。御首ヲバ捨置タリシヲ、理致光院ニ葬ト云ヘリ。是ヨリ東へ出テ行バ、石山ガ谷見ユル。天台山ノ南ノ谷ナリ。
[やぶちゃん注:「石山ガ谷」不詳。現在の永福寺跡の奥にある西ヶ谷、若しくはその北の亀ヶ淵の奥の杉ヶ谷、或いはこれらを総称する谷戸名か。]

   サ ン 堂
 土籠ノ北東ノ田ヲ云。田中ニウバコ石ト云小石アリ。
[やぶちゃん注:これは「山堂」で永福寺跡のこと。]

   獅 子 谷
 土龍ノ北ニ獅子岩トテ、唐獅子ノ如ナル石ノ見ユル峯ヲ云。此ヨリ田間ヲ行バ、四ツ石トテ石三ツ有。一ツハ流テ失タルト云。サン堂ノ礎石カト云フ。勝福寺ノ舊跡北ノ方ニ見ユ。永安寺ノ舊跡天台山ノ下ニ見ユル畠也。持氏最後ノ所也ト云。長者谷、天台山ノ少北ノ谷ヲ云。

   瑞 泉 寺
 號金屏山(金屏山と號す)。天台山ヨリ東南ノ間也。濟家宗ニテ關東ノ十刹也。寺領三十八貫文アリ。源基氏建立。開山ハ夢想國師也。本尊ハ釋迦、夢想國師ノ木像アリ。夢想ノ袈裟・輿等今ニ有トナン。過リ見ルニ及ズシテ谷ヲメグリ、岸ヲ束へ出テ鞘阿彌陀ヘユク。
[やぶちゃん注:当初は瑞泉院と号し、その開基は鎌倉幕府重臣二階堂道蘊どううんで嘉暦二(一三二七)年に夢窓疎石を招いて開山とし創建した。後に足利尊氏四男の初代鎌倉公方足利基氏が夢窓に帰依、当寺を中興して寺号を瑞泉寺と改めたものである。]

   鞘阿彌陀
 五峯山理致光寺ト額アリ。覺園寺ノ末也。今ハ道心者ノ僧居之(之に居す)。此山上ニ大塔ノ宮ノ石塔有。此寺ニテ宮ヲ葬タリト云。鞘阿彌陀ト云ハ、名佛ヲ腹中ニ作入タル故トナリ。願行ノ開基也。願行ノ大山ノ不動ヲタル蹈鞴タヽラ畠ト云ハ、理致光寺ヨリ西ノ土手ノ内也ト云。舊キ位牌ニ當寺開山勅謚宗燈意靜宗師ト有。此ヨリ細徑ヲ東南へ囘リ、金澤海道へ出ル。舊記ニ理致光院ハ淨光明寺ノ末ト云ハ誤也。且寺ヲ院ニ作モ誤ナリ。

   杉本觀音
 金澤海道封國寺ノ西南ニアリ。順禮ノ札所第一ナリ。天台宗ニテ始ハ山伏ナリシガ、今ハ淸僧トナル。杉本寺ト云。額子純ト名アリ。山號ハ大藏山ト云。開山行基、賴朝再興、叡山ノ末寺也。寺領五石六斗アリ。中尊ノ十一面觀音ハ慈覺ノ作、右ノ十一面觀音ハ行基ノ作、左ノ十一面觀音ハ惠心ノ作也。三躰トモニ神佛ナリト云。又其前二十一面觀音運慶作。釋迦唐佛也。昆沙門澤間法眼ノ作也。運慶ト云モ、澤間法眼ト云モ實ハ一人也。初叡山二在テ僧ノ時ハ運慶ト云、後佛師ニ成テ敕許有テハ澤間法眼ト呼ブ。實ハ二名一人也ト云ト住僧語リ侍リヌ。東鑑ニ、文治五年十一月廿三日、夜二人リ大倉觀音堂燒亡。別當當臺上人燒亡ヲ落涙シ、堂ノ砌ニ至リ、堂ノ内へ走リ入リ本尊ヲ出ス。衣ハ悉クヤケ、身體ハ敢テ無恙(恙無し)ト云リ。
[やぶちゃん注:「封國寺」は「報國寺」の誤り。
「澤間法眼」は既注の通り、「宅間法眼」の誤りであるが、この運慶=宅間法眼説は初耳であるが、作風も異なり、信じ難い。
「別當當臺上人」は「別當淨臺上人」(「吾妻鏡」には「淨臺房」とする)の誤り。]

   犬翔谷〔或曰、衣掛谷〕
 杉本ノ西南ノ谷ナリ。

   衣張山〔或犬カケ山トモ云〕
 犬翔谷ノ上ノ山ナリ。鎌倉中ノ高山ナリ。昔此所ニ比丘尼寺アリシニ、彼比丘尼松クイニ掛衣(衣を掛け)サラセシガ、其松枝葉繁榮シテ、今上ノ山ニ松ノ大木二本アルヲ云ト也。亦短册ノ井トテアリ。西ノ方ニ大石ノ角ナルアリト云。
[やぶちゃん注:「短册ノ井」「大石ノ角」不詳。これは今は全く伝承されていない失われた古跡名と思われる。凄い! 万一、御存じの方があれば是非、御教授を乞うものである。]

   封 國 寺
 澤間山ト號ス。杉本ノ向ヒノ谷也。建長寺ノ末、十刹ノ内、五山ノ第二也。中尊釋迦、左ハ文殊、右ハ普賢、阿難・迦葉・大帝・大權・感應カンイン使者ナドノ木佛アリ。澤間ノ迦葉トテ、極テ妙作也。澤間ノ法眼作ナリ。寺領十三貫文アリ。伊與守源家時建立、開山佛乘禪師、内ニ當寺開山敕謚佛乘禪師天岸慧廣大和尚ト書タル位牌幷佛乘源家時ノ木像アリ。舊記ニ漸入佳境ノ額有トアレドモ、今ハ失セテ無之(之れ無し)。前ニ滑川流タリ。〔東海道名所記ニ此次ニ杉ガ谷ト云地アリト云。〕
[やぶちゃん注:標題の「封」は「報」の誤り。
「澤間山」報国寺のある場所は宅間ヶ谷と呼称されるから、「澤」は「宅」の誤りであるが、報国寺の山号は今も昔も「功臣山こうしんざん」で誤りである。但し、本文にある宅間法眼作の迦葉はかなり有名で、「鎌倉市史 社寺編」にもこの寺は宅間寺ともいったとあるから、それを山号に聴き間違えたものと思われる(但し、この迦葉像は明治二三(一八九〇)年の火災で焼失、現存しない)。
「十刹ノ内、五山ノ第二也」誤り。五山の第二は御存じの通り、円覚寺であり、関東十刹(=鎌倉十刹)にも含まれていない。これは憶測であるが、報国寺の寺格は五山・十刹に次ぐ「諸山」(五山・十刹に加えられなかった禅林に対して与えられたもので、原則、五山同様に室町幕府将軍御教書によって指定された)である、という話を聴き違えたものかとも思われる。
「大權」恐らくは道教の神の一人である太帝か太元であろう。太帝は特に太湖地方で絶大な信仰を集めた水神系の土地神であった祠山張大帝を指し、太元は恐らくは大元神と同じで、道教の最高神の一人太一神のことを言う(なお、次注参照)。
「感應使者」元は道教の土地神の一人。前注に示した太帝・太元とともに、本邦の禅宗寺院にはしばしば伽藍守護神として祭られている。
「伊與守源家時」幕府御家人であった足利伊予守家時(文応元(一二六〇)年~弘安七(一二八四)年)。彼は弘安八(一二八五)年の霜月騒動で敗死した安達泰盛に与みしていたが、一説には泰盛の強力な与党で姻族であった北条一門の佐介時国の失脚に関与して自害したのではないかとも言われる。彼の墓は報国寺に現存するが、実際の報国寺開基は南北朝期の上杉重兼で、家時と関係の深い上杉氏が供養したものと推測される(以上はウィキの「足利家時」に拠った)。「伊豫(伊予)守」はしばしば「伊與守」とも書かれる。
「漸入佳境」「漸く佳境に入る」で、「晋書」の「顧愷之こがいし伝」に基づく故事成句。画家の愷之は甘蔗(=サトウキビ)を食べる際、甘みのない先の方から食べるのを常としていたが、それをある人に訊かれたその答えに由来する。一般には話や状況などがだんだんと興味深い部分にさしかかってくることを言うが、ここでは禅の三昧境を意味している。
「杉ガ谷」現在、鎌倉市二階堂小字に「杉ヶ谷すぎがやつ」が残る。]

   滑  川
 澤間へユケバ越ル川ヲ云。此流ノ上下トモニ通ジテ滑川ナレドモ、太平記ニ載タル所ヲ見ルニ靑砥左衞門居屋敷此邊ニ有ケルカ。靑砥左衞門ガ十錢ヲ以テ松明ヲ買取出シタルト也。
[やぶちゃん注:「澤間」は「宅間」の誤り。前掲の宅間寺(=報国寺)のこと。現在の伝承では宝戒寺の裏、北条高時以下の腹切やぐらに向かう滑川二架かる橋を青砥橋と呼称し、この辺りを例の伝承の現場とする。但し、青砥藤綱はモデルはあったかもしれないが、実在は疑われ、この比定自体の学問的意味はないに等しいと私は考えている。]

   淨 妙 寺
 稻荷山ト號ス。五山ノ第五也。讚岐守源貞氏立。開山退耕和尚、諱ハ行勇、千光ノ嗣法ナリ。昔ハ十二院有シガ、今ハ直心庵ノミ殘レリ。開山塔ヲ光明院ト云。今四貫三百文ノ御朱印アリ。直義ノ木像アリ。鍛冶廣光ガ舊蹟舊記ニ載タレドモ、今ハ亡タリ。古ノ井モツブレタリ。
[やぶちゃん注:「鍛冶廣光」(たんやひろみつ 生没年未詳)は、南北朝期相州伝鍛冶の代表ともいえる鍛冶職人。正宗門人と言われるが、年代から見て合わず、実際には貞宗の門人であるとも言われる名刀工。この「鍛冶廣光ガ舊蹟舊記ニ載タレドモ、今ハ亡タリ。古ノ井モツブレタリ」の部分は「新編鎌倉志卷之二」の「淨妙寺」の項にも載らず、現在の鎌倉関連書にも不載で、この記載はもしかすると、失われた記憶を発掘された黄門様の知られていない快挙ではあるまいか?!]

   鎌足大明神〔附、鎌倉山里谷七郷〕
 淨妙寺ノ西ノ岡ニ林アリ。則チ淨妙寺ノ鎭守トナシテ有詞林采葉云。鎌倉トハ鎌ヲ埋ム倉ト云詞也。其濫觴ハ、大織冠鎌足、イマダ鎌子ト申奉シ比、宿願ノ事マシマシテ鹿嶋參詣ノ時、此由比ノ里ニ宿シ玉ヒシ夜、靈夢ヲ感ジ、年來所持シ玉ヒケル鎌ヲ、今ノ大藏ノ松ガ岡ニ理玉ヒケルヨリ鎌倉郡ト云。
[やぶちゃん注:「大織冠鎌足、イマダ鎌子ト申奉シ比」ウィキの「藤原鎌足」によれば、鎌足は元は『中臣氏の一族で初期の頃には中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていた(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行なった中臣鎌子とは別人)。その後(なかとみのかまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる』のが正しいとある。なお、以下、読み難いので、適宜、空行を設けた。]

   夫木集          中務郷御子
  東路ヤ餘多郡ノ其中ニ  爭テ鎌倉サカヘソメケソン
[やぶちゃん注:「中務郷御子」の「郷」は「卿」の誤り。後嵯峨天皇の第一皇子で第六代将軍となった宗尊親王のことである。「御子」は「みこ」で皇子のこと。因みに後嵯峨天皇の長子であり、父からも寵愛されていた彼が皇位を継承出来なかったのは、母(平棟基むねもとの娘棟子)方の身分が低かったことによるもので、ウィキの「宗尊親王」によれば、『皇位継承の望みは絶望的であり、後嵯峨天皇は親王の将来を危惧していた。その一方で将軍家と摂関家の両方を支配する九条道家(頼嗣の祖父)による幕府政治への介入に危機感を抱いていた執権北条時頼も九条家を政界から排除したいという考えを持っていた。ここにおいて天皇と時頼の思惑が一致したため、「皇族将軍」誕生の運びとなったのである』とある。和歌を読み易く書き換えておく(以下の和歌でも同じなのでこれを省略する)。
  東路や數多郡あまたこほりのその中にいかで鎌倉榮え染めけむ
「夫木和歌抄」の巻三十一の雑十三に所載する。]

   萬葉集         人   丸
  薪コレ鎌倉山ノ高キ木ヲ  松トナカ云ハヽ戀ツヽヤアラン
[やぶちゃん注:「薪コレ」は「薪コル」の誤り。書き損じであろう。「万葉集」巻第十四の三四三三番歌。「東歌」の「相模国の歌」三首の最後で、従って当然、本歌の作者は不詳であって柿本人麻呂ではない。
  薪伐たきぎこる鎌倉山の木垂こだる木をまつとが言はば戀ひつつやあらむ
「薪伐る鎌」に「鎌倉」を掛けて引き出し、そこから「鎌倉」で木の繁茂する「鎌倉山」(これは固有名詞というよりも鎌倉の周囲の山々の謂いである)を更に掛けて引き出し、
……その鎌倉山は……木の枝が垂れるほどの鬱蒼とした山々であるように見えるが……いや――そこに生えているのは、そうではない――枝の垂れぬ「松」なのだ――そうだ、彼女は「待っ」ていては呉れない……「待っている」と言って呉れたのなら、どうして私はこんなにも恋に苦しむことがあったろうか、いや、なかった……
という意である(訳には講談社文庫版中西進訳注「万葉集」を参考にした)。]

   家集         大納言公任
 忘草艾ツム計成ニケリ アトモ止ヌ鎌倉ノ山
源順ガ和名抄ニ、鎌倉郡ノ内ニ鎌倉ト云所アリ。
[やぶちゃん注:底本では「艾」の右に『(苅)』と傍注する。
  忘れ草刈り摘むばかりなりにけり跡も留めぬ鎌倉の山
であるが、「新編鎌倉志卷之一」の冒頭「鎌倉大意」に載せる当該歌で私が考証したように、この歌は「近江輿地志略」に載り、「かまくらやま」でも、比叡山山系の神蔵山かまくらやま(神蔵寺山とも)を歌ったものとするので、引用は錯誤である。光圀のこの記載を受けて「新編鎌倉志」も無批判引用してしまったものか、若しくは光圀直々に掲載の指示を行ったものかも知れない。]

   續古今集        鎌倉右大臣
  宮柱フトシキタテヽ萬代□ 今ソサカヘン鎌倉ノ里
[やぶちゃん注:底本□の右に『(ニ)』と傍注する。「続古今集」の巻二十の「賀」及び実朝家集「金槐和歌集」の巻之下の「雑部」に所載する。
  宮柱太敷ふとしき立てて萬代よろづよに今ぞさかへむ鎌倉の里
「太敷き」は形容詞ではなく、「宮殿などの柱をしっかりとゆるがないように地に打ち込む。宮殿を壮大に造営する。」の意のカ行四段活用の動詞の連用形で、「万葉集」の柿本人麻呂の歌(第四五番の長歌他)などに見られる古い語である。]

   夫木集         藤原基政
  昔ニモ立コソマサレ民ノ戸ノ 煙ニキハウ鎌倉ノ里
[やぶちゃん注:「藤原基政」不詳。「新編鎌倉志卷之一」の冒頭「鎌倉大意」に載せる当該歌では「藤原基綱」とあり、そこで私はこの人物を後藤基綱(養和元(一一八一)年~康元元(一二五六)年)と推定した。藤原秀郷の流れを引く京の武士後藤基清の子。評定衆・引付衆。幕府内では将軍頼経の側近として、専ら実務官僚として働き、歌人としても知られた人物である。
  昔にも立ちこそまされ民の戸の煙賑けぶりにぎはふ鎌倉の里
「夫木和歌抄」の巻三十一の雑十三に所載する。]
鶴岡記ニ鎌倉谷七郷トハ、小坂郷小坪 小林郷〔下若宮邊佐介等〕 葉山郷 津村郷 村岡郷 長尾郷 矢部郷ヲ云也。或云、鎌倉七口トハ、名越切通 朝比奈切通 巨福呂坂〔今按ニ呂ハ路ニ作べキ歟〕 龜谷坂 假粧坂 大佛切通 極樂寺切通 是也。此外ニ小坪道〔小坪松林ヘカヽリテ行也。路程十里餘アリト云。〕池子道〔十二所村ヨリ右ニ道有。柏原ニ出、池子村ニ至ル。柏原ノ内左ニ金澤道アルナリ。〕ト云二筋アルナリ。
[やぶちゃん注:「路程十里餘アリ」恐らくこの「十里餘」は特殊な路程単位である関東道(坂東路)であろう。安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、関東で用いられた坂東里(奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかったから、十里は約六・五キロメートル強である。光圀の宿所であった英勝寺を起点にして小坪海岸を経て逗子へ抜ける(これを小坪道と同定してよかろう)海岸線を現在の地図上で辿ってみると、六・五キロメートルに相当するのは逗子海岸の南の端、葉山マリーナの鼻の根であり、数値上も問題がない。これを通常の一里とり、この距離を大きくとって鎌倉から三浦半島の突先三崎までの距離とする見解に対しては、地図上で海岸線を英勝寺―小坪から、ほぼ国道一四三号に沿って南下してみても、距離実測で三崎中心部にある三崎市役所までは三十キロ弱しかない。従って私は採らない。]


   十二郷谷〔十二所村トモ云〕
淨妙寺ヨリ東南ノ谷、民家三軒今ニアリ。川越屋敷ト云ハ十二郷谷ノ東隣也。
[やぶちゃん注:「川越屋敷」河越重頼(?~文治元(一一八五)年)のことと思われる。武蔵国入間郡河越館の武将で新日吉社領河越荘の荘官。頼朝の命で義経に娘(郷御前)を嫁がせた事から源氏兄弟の対立に巻き込まれて誅殺された(事蹟はウィキの「河越重頼」に拠る)。但し、ここに彼の屋敷があったという事実を証明するものはない。]

   胡 桃 谷
十二郷谷ノ北向ヒノ西ナリ。

   中 谷〔今按ニ釋迦谷歟〕
名越口ノ切通ノ前ノ谷ヲ云。釋迦堂谷トモ云フ。雪下ヘ歸ル海道ヨリ名越口ヲ遙望ス。此ヨリ三浦へ出ル切通アリ。犬翔谷ノ西ノ谷ナリ。

   大御堂谷
 中谷ノ西隣也。阿彌陀山トモ云。今ハ畠ニテ七堂伽藍ノ礎石アリ。勝長壽院ノ舊跡也ト云。文覺弟子ノ僧開基ナリ。義朝ノ廟所、鎌田政淸ガ骨ヲモ葬ル。東鑑ニ、兵衞佐殿朝敵ヲ悉ク誅シ、亡父ノ追善ニ一宇ヲ建立セントテ、鎌倉中ノ勝地ヲ見、御所ノ南ノ山ノ麓ニ勝タル地形アリ。因テ元暦二年二月十九日、南堂ノ事、初潛ニ此事ヲ後白河法皇へ奏聞アリケバ、叡感ノ餘リニ、東ノ獄門ノアタリニ於テ、故左馬典厩ノ首ヲ尋ラレ、鎌田兵衞政淸ガ首ヲ相副へ、江判官公朝ヲ敕使トシテ、是ヲ被下(下さる)。政淸ガ首ハ南堂ノ地ニ葬リ、御堂勝長壽院ト號ス〔云云〕。
 闇齋遠遊紀行ニ、此地ニ實朝ヲモ葬ルト云リ。
[やぶちゃん注:「闇齋遠遊紀行」江戸前期の儒者で神道家の山崎闇斎(元和四(一六一九)年~天和二(一六八二)年)が明暦四・万治元(一六五八)年に著わした紀行文。]

   歌  橋
 金澤海道荏柄ノ馬場崎ノ少東也。
[やぶちゃん注:「崎」は「先」の誤りであろう。]

   文覺屋敷
 歌橋ノ西向ヒ、大御堂ノ西隣ナリ。其上ノ山ヲ小富士ト云也。杉森アリ。

   屏 風 山
 小富士ノ眉、文覺屋敷ヨリ南方寶戒寺ノ後ノ山ナリ。

   畠山屋敷
 雪下ノ入口ニアル小橋ヲ筋違橋ト云。其北ヲ畠山屋敷ト云。東鑑ニ、正治元年五月七日、南門畠山次郎ガ家ニ、醫師時長ヲ置ル。御所ノ近所タルニ因テ也。



鎌倉日記 坤

   寶 戒 寺
 若宮ノ前ノ町屋ノ東南方也。號金龍山(金龍山と號す)。舊記ニ法海寺工作ルハ非ナリ。初ハ律宗、今ハ天台宗也。本尊地藏、左右ニ梵天・帝釋アリ。唐佛ナリ。六地藏ノ一ニテタケタ地藏卜云也。後醍醐天皇ノ御願所、圓頓寶戒寺ト額アリ。此地ハ昔ノ北條屋敷ニテ代々ノ執權此所ニ居ル。尊氏葛西谷ノ東照寺ヲ此所ニ引テ、北條一族ノ骸骨ヲ埋葬テ寺ヲ建立スル也。開山ハ坂本ノ人ニテ、法性寺ノ長老五大國師也。尊氏此僧ヲ尊仰シテ、洛都ヨリ招キ、此寺ニ居セシム。尊氏ノ第二男、幼シテ病氣ナリシヲ、五大ヲシテ祈商セシメ、終ニ其子ヲ五大ノ弟子トナス。普川國師卜云。此寺ノ二代目也。五代後ニ故郷ノ馴シキ由ヲ尊氏へ謂テ洛ニ歸テ、死ストナリ。此寺四宗兼學ニテ、天台律也。戒壇ヲ立ルハ比叡卜此寺トノミ也。聖天ノ木像アリ。五大・普川ノ木像モアリ。川向ニ普川入定ノ地アリト也。今九貫六百文ノ御先印アリ。尊氏ノ守リ本尊ノ地藏、行基ノ作也。不動大山ノ佛卜同作ナリ。高時ヲ德宗權現卜祝ヒテ寺門ノ内ニ山王權現ト兩社相並テアリ。五大ハ慧鎭トモ慈威和尚トモ云タル人ナリ。
 寺寶
  尊氏自筆地藏畫     一幅
[やぶちゃん注:以下の割注は、底本では三字下げ。]
〔寺僧謂テ云。尊氏平生地藏菩薩ヲ崇敬スル故ニ、鎌倉中ニ木石畫像ノ地藏多シトナリ。〕
[やぶちゃん注:以下は、底本では三行二段組であるが、一段とした。]
  平高時畫像〔或云、自畫也。〕       三幅
  三千佛唐筆〔本尊、彌陀・釋迦・藥師ナリ。〕三幅
  涅槃像唐筆                一幅
  五大國師影                一幅
  五大自筆狀                三幅
  普川國師影                一幅
[やぶちゃん注:「タケタ地藏」六地蔵は六道由来であろうが、そのそれぞれに名前があるというのは不学にして初見。識者の御教授を乞う。
「尊氏葛西谷ノ東照寺ヲ此所ニ引テ、北條一族ノ骸骨ヲ埋葬テ寺ヲ建立スル也」「東照寺」は「東勝寺」(次項「葛西谷」参照)の誤り。これは「新編鎌倉志卷之七」の「寶戒寺」の項も踏襲しており、「新編相模国風土記稿」にも記すが、誤りである。東勝寺は南北朝時代に未だ存在していたからである(「鎌倉廃寺事典」によれば廃寺となったのは永正九(一五一二)年よりも後のことである)。]

   葛 西 谷
 寶戒寺ノ東南ノ川ヲ踰テ向ノ谷ヲ云。山下ニ古ノ東照寺ノ跡アリ。束照寺谷ト云。時政屋敷ト云モ此所ナリトゾ。相摸守高時、元亭三年五月廿二日、四十二歳ニシテ此所ニテ自害、其時八百七十餘人自害ス。平家九代、一時ニ滅亡シテ、源氏多年ノ憤懷ヲ一朝ニヒラクルコトヲ得クリ。今モ朽骨ヲ掘出スコト多シト云。上ノ山ニ琴引ノ松ト云アリ。松風尋常ニカハレリトナン。
[やぶちゃん注:前項と同じく「東照寺」は「東勝寺」の誤り。
「元亭」は「元弘」の誤り。]

   塔  辻
 寶戒寺ノ前ニアリ。高時ノ下馬ナリト云。石塔二ツアリ。又云、油井長者太郎大夫ト云シ者、三歳ニ成シ娘ヲ鷲ニ取ラレ、肉ムラノ落クル所毎ニハ菩提ノ爲ニトテ立タル石塔ナリト云。此外所々ニ有トナリ。
[やぶちゃん注:「油井長者太郎大夫」は由井の長者太郎大夫時忠のことであるから、「油井」は「由比」の誤り。]

   大町小町
 寶戒寺ノ前ヨリ比企谷マデノ間ノ町ヲ云。

   妙 隆 寺
 叡昌山ト號ス。法華宗、中山院家ノ法宣院ノ末寺也。開山ハ日英也。法理ノ異論有シ故、歴代モ慥ニシレズトナン。
[やぶちゃん注:「中山ノ法宣院」千葉県市川市中山にある文応元(一二六〇)年創立の日蓮宗大本山寺院正中山法華経寺の塔頭の一つで格式の高い四院家と呼ばれる寺。
「法理ノ異論有シ故」これは二代目の日親(応永十四年(一四〇七)年~長享二(一四八八)年)が、室町期から幕末まで厳しく弾圧された日蓮宗のファンダメンタリズムである「不受不施義」を最初に唱えたとされる人物であることに由来する謂いであろう。「新編鎌倉志卷之七」の「妙隆寺」でも注しているが、その経歴も一筋縄ではいかない。永享五(一四三三)年、中山門流総導師として肥前国で布教活動を展開するが、その折伏の激烈さから遂には同流から破門されてしまう。同九(一四三七)年には上洛して本法寺を開くが、六代将軍足利義教への直接説法に恵まれた際、「立正治国論」を建白して不受不施を説いて建言の禁止を申し渡されてしまう。永享十二(一四四〇)年にはその禁に背いたとして投獄、本法寺は破却される。その捕縛の際、焼けた鉄鍋を被せられるという拷問を受けて、その鍋が頭皮に癒着、生涯離れなくなったため、後、その鍋を被った奇態な姿のままに説法を説いたという伝説が誕生、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」と呼ばれるようになった。翌嘉吉元(一四四一)年、嘉吉の乱で義教が弑殺されて赦免、本法寺を再建している。寛正元(一四六〇)年、前歴から禁ぜられていた肥前での再布教を行ったために再び本法寺は破却、八代将軍足利義政の上洛命令を受けて京都に護送、細川持賢邸に禁錮となったが、翌年寛正四(一四六三)年に赦され、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建している(以上は主にウィキの「日親」を参照した)。折伏ガンガン、ファンダメンタル不受不施派、カンカンに熱した鉄鍋被り、自分で十指の爪を抜く――かなり危険がアブナイ、御人である。また、「鎌倉攬勝考卷六」の「妙隆寺」を見ると、
行の池 寺の後にあり。日親此池に手をひたし、一日に一指づつ、十指の爪を放し、百日の内に元のごとくをいかえらば、所願成就と誓ひ、血を此他にて洗ひ、其水のしたゝりで曼陀羅を書、爪切の曼陀羅といふ。當寺の什物とせしが、先年退院の住持が盗み行しといふ。
とあり、「鎌倉市史 社寺編」には『不受不施派の住職が持ち去ったのであろう』と書かれてある。]

   妙 勝 寺
 常光山ト號ス。法華宗、本尊釋迦、上總ノ妙光寺ノ末也。開山ハ日胤ナリ。
[やぶちゃん注:この寺、現存しないが、「鎌倉廃寺事典」に『宗旨未詳。小町、小町口』にあった寺として、ズバリ、「妙勝寺」という寺が挙がっている、「新編相模国風土記稿」には名を挙げただけで説明もない。と記した上で、亀田輝時編集になる雑誌『鎌倉』の『三の二(九)の七二頁に「小町夷神社前の辻の北側にもと妙勝寺という寺があつてその辻があつてその辻の所に大石があり、其の石が日蓮辻説法の腰掛石だが、現今のところに移されたものだといふ」とみえる。最近昭和三十四年頃まで、祟りがあると噂があって空地であったが、今は宏壮な邸宅となっている』とあり、『同五の二(十九・二十)一一七頁、延宝八(一六八〇)年の「鎌倉中御除地覚」に「本寺上総国茂原 妙勝寺法花」とみえる』とも記す。本光圀の日記は延宝二(一六七四)年五月である。前後の寺から見ても――間違いない! これこそ! 『宗旨未詳。小町、小町口』とされてきた妙勝寺である!]

   大 行 寺
 長慶山ト號ス。法花宗、池上ノ末寺也。寺領二貫五首文アリトナン。

   本 覺 寺
 妙嚴山ト號ス。法華宗、身延ノ末寺也。關東ノ小本寺。源持氏時代ニ建立也。開山ハ日出、本尊釋迦・文珠・普賢ナリ。
 寺寶
  日蓮曼多羅
  同文書
 夷堂橋、小町ト大町トノ境ニアリ。滑川ノ流也。
[やぶちゃん注:「曼多羅」の「多」はママ。]

   妙 本 寺
 比企谷ニアリ。長興山ト號ス。日蓮説法最初ノ寺ナリ。大學三郎ト云シ者ノ建立、日蓮存生ノ間、日朗ニ附屬スル故ニ、日朗ヲ開山トス。正月廿一日開山忌今ニ怠ラズ。本尊釋迦ノ立像ナリ。日蓮伊豆へ配流ノ時、立像ノ釋迦隨身ノ佛ナリ。後ニ日朗ニ附屬ス。本國寺ニ納リテ有故ニ、此ニモ立像ノ釋迦ヲ本堂ニ置トナリ。影堂ニ日蓮ノ木像アリ。此寺池上トカケ持也。寺中池上ト同ジ塔頭十六アリ。院家ニツアリ。今ノ看主ハ本行院日諦ト云。
 寺寶
  日蓮蛇形大曼荼羅
[やぶちゃん注:以下の「日蓮蛇形大曼荼羅」の割注は、底本では通常の割注と同じくポイント落ちで全体が三字下げ。]
〔初ハ臨滅度時ノ曼荼羅ト云。池上ニテ臨終ノ時書レタルトナリ。池上ハ在家ナル故ニ(此寺ハ日蓮説法始ノ寺故ニ)納置、或時蓮ノ字ノハネタル所、蛇形ノ如ク見へクル故ニ蛇形ノ曼荼羅ト云。長サ四尺餘、幅三尺餘。〕
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志巻之七」の「妙本寺」注に画像を配してある。]
  日蓮曼荼羅              四幅
  同消息〔御書ノ第六番目ニ載タルトゾ。〕四幅
  同細字法華經             一部
  〔八卷一軸口ニ名判アリ。至テ妙筆ナリ。長サ六寸バカリ〕。
  同祈禱曼荼羅             一幅
  〔散シ書ニテ春蚓秋蛇ノ勢アリ。至極怪奇ナル筆天下ニ一幅ノ名物ナリト云。〕
[やぶちゃん注:「春蚓秋蛇」「しゆんいんしうだ(しゅんいんしゅうだ)」と読み、春の蚯蚓(みみず)や秋の蛇のように、字も行もうねうねと曲がりくねっていること。一般には字が下手なことの譬えである(「晋書」王羲之伝賛に基づく)。]
  日朗墨蹟               一幅
  東照宮御直判
  〔濫妨狼籍禁制之和書、小田原陣ノ時、箱根ニテ惶頂載スルトナリ。〕
[やぶちゃん注:「惶」は日惶のこと。]
  水晶塔〔高サ一尺五寸ニ舍利一粒アリ。此舍利塔ハ平重時祕藏タリトナリ。〕
   比企谷ノ歌              阿佛
  忍音ニ比企谷ナル郭公 雲井ニイツカ高ク鳴ラン
[やぶちゃん注:この歌は「十六日記」に、
  しのびねはひきのやつなる時鳥くもゐにたかくいつかなのらん
の、かなり異なった形で出る。「ひき」は地名の「比企」ヶ谷とホトトギスのの「ひきし」に掛けてある。期待していたホトトギスの声を滞在していた極楽寺の月影ヶ谷で一声も聴かぬのを、ついそこの比企ヶ谷では既に人も聴いたなんどというのを知っての作で、
――忍び音に鳴くという比企がやつ時鳥ほととぎすは……いつになったら空高く鳴いてくれるのであろう……
という歌意である。]
 本堂ノ北ノ方ニ、頼家ノ娘竹濃御所ノ舊跡アリ。今ハ蘭塔場也。此谷ハ昔、比企判官能員ガ舊跡ナリト云。
[やぶちゃん注:「竹濃御所」「濃」は「の」の意か。竹御所(建仁二(一二〇二)年-~天福二(一二三四)年)は頼家の娘で、寛喜二(一二三〇)年に二十八歳で十五歳歳下の第四代将軍藤原頼経に嫁いだ。四年後に男子を出産したが死産、本人も三十三歳の若さで死去した。位記の名は鞠子(妙本寺の寺伝よれば媄子よしことする)。これを以って、源家嫡流たる頼朝の血筋は完全に断絶した(以上の事蹟はウィキの「竹御所」を参照した)。]

   田代屋敷
 田代ノ觀音ノ北ノ前ナル畠也。田代判官信綱ガ舊跡也。建仁三年九月二日ニ害セラルト云リ。
[やぶちゃん注:「田代判官信綱」(生没年不詳)は後三条天皇の後胤といい、父は伊豆守為綱、母は狩野工藤介茂光娘と伝える。石橋山の戦いで頼朝に従い、三草山・一の谷・屋島の合戦では源義経の麾下にあったが、文治元(一一八五)年に西海にあった信綱に対し、頼朝は義経に「隨ふべから」ず、という書状を遣わしている(以上は「朝日日本歴史人物事典」による)。その後の事蹟は不詳であるが、ここで光圀が建仁三(一二〇三)年「九月二日ニ害セラル」と言っているのは何かの誤解と思われる。この日は確かに「害せら」れてもおかしくはない。かの比企能員の変で比企一族が滅ぼされた日であるからである。ところが、「吾妻鏡」には彼の名は登場していない。頼朝直参の家臣であり、万一参加していて戦死したとすれば、名が挙がらないことはあり得ないからである(実は「吾妻鏡」の彼の最後の叙述は事蹟に記した、元暦二年(八月に文治に改元)四月二十九日の、彼に義経に「隨ふべから」ずの命が頼朝から下された部分なのである)。さらに、信綱について調べると、伊豆市の公式HP内の「市指定-史跡・名勝」の中に「田代信綱の墓及び砦跡」が挙がっており、そこには、平家追討の恩賞によって伊豆の狩野荘田代郷(母の在であろう)の地頭に補せられ、更に承久の乱にても功を立てて、和泉国大島郷の地頭職を得ているとあり、建仁三年に死んでいては承久の乱もへったくれもない。あるネット上の未確認記載(データ元は明らかでない)では没年を、安貞二(一二二八)年か、とするものがあった。ともかくもこの「田代屋敷」とは、恐らくは比企一族方の家臣団の誰かの館などを誤認した伝承ではなかろうか。]

   田代觀音
 關東ノ順禮三番目ノ札所也。本尊ハ木像ノ千手觀音也。本體ハ繪像ナリト云。今ハ安養院ニ在ト也。本堂ノ額ニ白花山トアリ。今按ニ燒阿彌陀ノ緣起ニ、田代ノ阿闍梨我藏寺ヲ建立ト云フハ是歟。
[やぶちゃん注:「今按ニ燒阿彌陀ノ緣起ニ、田代ノ阿闍梨我藏寺ヲ建立ト云フハ是歟」は、先行する「光觸寺」の条を再見のこと。]

   辻 藥 師
 觀音ヨリ南ニテ少シ東へ入タル所ナリ。長善寺ト云。本尊ハ藥師十二神、行基ノ作ト云。大進坊作ノ寶劍アリ。長サ三尺計。無銘也。眞言宗ナレバ、祈念ノ法具ニ用ルトナリ。

   亂  橋
 觀音ヨリ南ノ少キ石ハシ也。橋ノ西ニ連理ノ木アリ。
[やぶちゃん注:底本では「少」の右に『(小)』と編注する。「杠」は一本橋のこと。]

   材木座村
 亂橋ノ南ノ漁村也。徒然草ニ云。鎌倉ノ海ニ鰹魚ト云魚ハ、彼界ニハ左右ナキ物ニテ、此比モテナス物也ト有。此邊スベテ漁人多シ。

   丁 字 谷
 亂橋ノ東ニアリ。

   紅  谷ベニノヤツ
 花ノ谷材木座ノ村ヨリ村、名越ノ方ニ見ユル谷ナリ。

   桐谷〔或ハ霧谷ニ作ル〕
 補陀落寺ノ後ヲ云也。又光明寺ヨリ名越ノ方ノ谷ヲ云トモ云傳フ。東海道名所記ニ、右ノ方ニ祝嶋ト云地アリ。
[やぶちゃん注:「祝嶋」不詳。初見。「東海道名所記」を私は所持していないので、確かなことは言えないが、これはもしかすると和賀江の島のことを指して言っているのではあるまいか? 補陀落寺背後の峰から右手海方向という位置関係と、「祝」と「和賀江」の文字が妙に通底するように思われるのである。識者の御教授を乞うものである。]

   補陀落寺
 南向山歸命院ト號ス。材木座ノ東、町屋ノ内ニアリ。古義ノ眞言宗ナリ。本寺ハ御室也ト云フ。賴朝五十三歳ノ木像アリ。
 寺寶
  平家調伏之時之打數
  平家ノ赤旗        一ツ
  〔幅二布二尺アリ。長サマチマデ三尺五分、其下ハ切レテシレズ。地ハ赤布ニ、九萬八千軍神ト亭付アリ。〕
[やぶちゃん注:「二布」は「ふたの」と読み、「」は布の長さを言う数詞。並幅(反物の普通の幅で鯨尺で九寸五分、現在の約三十六センチ相当)の二倍の幅、約六十二センチを言うから、二布二尺(この場合もやはり鯨尺の一尺と考えて約三八センチメートルとすると)は、約一・三八メートルとなる。「三尺五分」分は鯨尺だと約三八ミリメートルになるので約三メートルとなる。源平の旗は恐らく我々が想像する以上に大きかったことが分かる。]

   逆 川 橋
 辻ト大町トノ境ナリ。名越坂ヨリ西北へ流ルル川ナル故ニ逆川ト云ナリ。

   光 明 寺
 山門ニ天照山ト勅額アリ。本堂ニ勅謚記主禪師ト額アリ。武藏守平經時建立。開山記主、號ハ然阿、諱ハ良忠。詳ニ記主ノ傳記アリ。佛殿ニ阿彌陀三尊、運慶作也。腹ノ内ニ道慶作記主自作ノ木像有。寺領十貫文アリ。
 寺寶
 大名號〔長さ九間、文字の内は八間アリ。幅九尺アリ。弘法筆ト云。古ハ房州ノ金胎寺ノ什物ナリシガ、一亂ノ時奪取テ此寺ニ納トナリ。〕
[やぶちゃん注:「房州の金胎寺」とは現在の関東三大厄除け大師の一つ、通称遍智院小塚大師、正式名曼茶羅山金胎寺遍智院のことか。弘法大師自らが弘仁六(八一五) 年に創建したと伝えられる知られざる名刹。但し、現在の住所は館山市大神宮で、「新編鎌倉志卷之七」に載せる「佐野」とか「砂場」という地名を見出し得ない(今考えるに、この『弘法、佐野の砂場スナバにて下書シタガキをかゝれたり。故に佐野の名號と云ふと也』という「砂場」は固有名詞ではなく、砂地を使って、の謂いかも知れない)。識者の御教授を乞う。]
 菅相公硯            一面
 松陰硯             一面
 〔裏ニ永享五年十二月廿五日トアリ。法然ヨリ聖光へユヅリ、聖光ヲリ紀主へユヅリテ今ニアリ。紀主ノ添帖アリ。〕
[やぶちゃん注:「永享五年」西暦一四三四年。足利持氏の永享の乱(永享一〇年)のきな臭さが臭い始めた頃である。]
 二位殿硯            一面
 阿彌陀畫            四幅 トモニ惠心筆
 中將姫繡阿彌陀像        一幅
 當麻曼荼羅緣起         二卷
 〔字ハ勅筆カト云。畫ハ土佐筆ナリ。〕
 法然名號            一幅
 同筆三部經           三卷
 法然影             一幅〔聖光筆〕
 記主自筆弟子〔江〕讓状     一通
 記主影〔鏡ノ影ト云。自畫ナリ。〕一幅
 十九羅漢像〔唐筆、信忠筆ト云傳フ〕
 南岳袈裟            一ツ
 傳通院開山了譽ノ十八通
 祈禱堂阿彌陀          一軀 運慶作
 魂室ノ阿彌陀          一軀
  定朝作、惠心ト同時ノ人、俗名ヲサダトモト云シ人ナリ。
[やぶちゃん注:「魂室」不詳。「新編鎌倉志卷之七」の「光明寺」の「祈禱堂」の本尊とするものかともと考えられるが(但し、ここでも後掲される「内藤帶刀忠興一家の菩提所」に、その『靈屋に阿彌陀、如意輪の像を安ず。阿彌陀は定朝が作』ともある)、但し、その何れにも「魂室」の文字はない。字面から本尊と同様の胎内仏のように読めるが……識者の御教授を乞う。]
 善導直作木俊          一軀
  衣ノ上ニ金字ニ阿彌陀經ヲ書テアリ。
 江嶋辨才天木像         一軀
[やぶちゃん注:ここに何故江の島弁財天像があるかは、「新編鎌倉志卷之七」の「光明寺」の「祈禱堂」に経緯が記されてある。]
山ニ善導ノ墓アリ。寺内ノ南ニ、内藤帶刀忠興室ノ菩捏所アリ。
[やぶちゃん注:「内藤帶刀忠興室ノ菩捏所」の「室」は不要。「新編鎌倉志卷之七」で注したが、特に再注する。私はかつてここが好きでたびたび訪れたものだった。初代日向延岡藩主内藤忠興が十七世紀中頃に内藤家菩提寺であった霊岸寺と衝突、光明寺大檀家となってここへ内藤家一族の墓所を移築したものである。実際には現在も光明寺によって供養管理されているが、巨大な法篋印塔数十基を始めとして二百基余りの墓石群が、鬱蒼と茂る雑草の中に朽ち果てつつある様は、三十数年前、初めてここを訪れた私には真に「棄景」というに相応しいものであったのである。]

  道 寸 城
 三浦道寸義同ガ古城、光明寺ノ南隣ノ山ナリ。永正ノ比ニヤ、北條早雲ト戰ヒテ三浦荒井へ引寵リ、三年アリテ終討死ス。北條五代記ニ詳ナリ。別紙ニ圖アリ。小壺村ノ内ニモ古城山アリ。圖ニ見へタリ。此所ヨリ飯嶋ナドヲ望ミテ由比濱ヲ歸ル。
[やぶちゃん注:この図は現存しないのか? これがあれば、現在はほぼ完全に失われた住吉城址及び、ここに言うところの小坪の砦(若しくは住吉城に付随する城塞構造部)の如き遺構が分かるのであるが……。]

   荒井闇魔
 濱ヨリ少シ北ニ堂アリ、運慶頓死シ、地獄ニテ直ニ間魔王ヲ見、蘇生シテ作タル像ナリ。倶生神・三途河ノ姥、同作也。今按ニ是浮屠ノ邪説ナルコト明ケシ。佛法本朝ニ入ラザル前ニ、死シテ再ビ生ル者アレドモ十王ヲ見タル者ナシ。欽明帝以後、蘇生ノ者或ハ十王ヲ見ズト云者多シ。是本其ナキコトヲ知べシ。誠ニ司馬温公ノ格言思ヒ合セ侍リヌ。運慶ガ見タルコトハ左モ有べシ乎。邪説ニ淫シテ居ルガ故也。其外破レタル古佛多シ。堂ノ内ニ圓應寺一額アリ。別當山伏寶藏院ト云。
[やぶちゃん注:光圀は少なくとも十王思想、いや、その口調からは地獄思想そのものを全く信じていなかったことが分かる。「高譲味道根之命たかゆずるうましみちねのみこと」という神号を持つ神道家だからね。]

   景政石塔
 由比濱ノ北ニ小ナル塔アリ。目疾ヲ患ル者、是ニ祈リテ驗アリト云。
[やぶちゃん注:未確認であるが、ネット上の情報では江戸時代の鎌倉絵地図には材木座辺りに「けいせいとう」(影政塔か)という名の石塔があったとある(現存しない)。その内、図書館で調べてみようと思う。]

   下 若 宮
 裸地藏ノ東南ノ濱ニアリ。悉ハ鶴岳ノ條ニ見へタリ。
[やぶちゃん注:由比の若宮であるが、「濱」とあり、当時、如何にこの辺りの海岸線が現在よりも後退(貫入)していたかが、よく分かる描写である。
「裸地藏」次項の現在の材木座一丁目にある延命寺のこと。
「悉ハ」は「委ハ」の誤りで「くはしくは」と読む。]

   裸 地 藏
 中ノ石ノ華表ノ東ニアリ。延命寺ト云。淨土宗安養院ノ末寺ナリ。立像ニテ雙六局ヲフマヘタリ。廚子ニ入、衣ヲ着セテアリ。參詣ノ人アレバ裸ニシテ拜マシムル也。常ノ地藏ニテ女體也。
 昔景明寺時賴、其婦人ト雙六ノ勝負ヲ爭ヒ、裸ニ成ン事ヲ賭ニシケリ。婦人負テ此地藏ヲ念ジケルニ、忽女體ト變ジ、局上ニ立ト也。吁浮屠ノ人ヲ欺ク、カヽル邪説ヲナセリ。此等ノ事ハ彼教ニモ有マジキ事也。無禮ノ甚キ禽獸ニ等キ者也。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之七」の「延命寺」でも、『參詣の人に裸にして見するなり。常の地藏にて、女根ニヨコンを作り付たり。昔し平の時賴、其の婦人との雙六を爭ひ、互ひに裸にならんことをカケモノにしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じバンの上に立つと云傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總そうじて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲の佛を、何ぞ猥褻のテイに作るべけんや』と怒り捲くっていたのは、成程! 黄門さま自身が、憤激して許せなかったからなのね!]

   畠山石塔
 大鳥居ノ西ノ柱ノ側ニアリ。明德二年、比丘道友ト刻テアリ。文字分明ナラズ。畠山六郎ガ爲ニ後ニ立タルカ不審イブカシ

[やぶちゃん注:この部分、日記であるために改行なく続くが、敢えて空行を挟んだ。]

鳥居ノ間ノ道ヲ、ビハ小路ダンカヅラト云也。遂ニ雪下へ入ル。八幡ノ西ノ出サキノ山、日金山ノ西ヲカブト山ト云ナリ。薄暮ニシテ旅寓ニ歸リヌ。

 六日、辰ノ刻ニ出テ江嶋へ行ントス。路スガラ巡見ス。

   巽 荒 神
 今小路ノ出崎、左ノ杉森ノ内ノ堂ヲ云。壽福寺ノ辰巳ニ當テアリ。古ハ壽福寺ノ鎭守カ。今ハ淨光明寺ノ持分也。社領一貫文アリ。

   人 丸 墓
 荒神ノ東後ロナリ。平家ノ侍景淸ガ娘ヲ人丸ト云シ其ガ墓也ト云。

   興禪寺〔或禪ヲ作泉、非ナリ〕
 汾陽山ト號ス。壽福寺ノ南隣也。松嶋ノ雲居ガ作ノ鐘ノ銘アリ。別紙ニ載之(之を載す)。寺ノ北ニ望夫石トテ長キ石アリ。畠山六郎由比ノ濱ニテ打死ニシケルヲ、其婦人此山ヨリ望テ、終ニ石トナルト云。山ノ上ニ坐禪石アリ。此寺新地ナリ。寛永年三朝倉筑後守菩提ノ爲子息甚十郎建立シ、松嶋雲居和尚ヲ開山トシテ雲居ノ弟子ヲ請ジ住持セシム。筑後守室保福院モ此寺ニ葬ル。岩窟三石塔・石燈寵等アリ。本尊釋迦・阿難・迦葉ナリ。
[やぶちゃん注:本時は鎌倉では極めて新しい創建でありながら、早々に(江戸末期)に廃寺となっている。
「朝倉筑後守」底本では『(德川忠長家老、宣正)』と傍注する。徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)は江戸時代初期の駿府藩主。徳川秀忠三男。母は浅井長政の娘で正室の江、家光は同母兄。寛永八(一六三一)年に不行跡(家臣一名もしくは数人を手討ちにしたとされる)を理由として甲府への蟄居を命じられ、二年後の寛永一〇年十二月六日、幕命により高崎の大進寺において自刃した。享年二十八歳であった(以上はウィキの「德川忠長」に拠った)。朝倉宣正(のぶまさ 天正元(一五七三)年~寛永一四(一六三七)年)織豊時代から江戸前期の武将。徳川秀忠に仕え、小田原攻め・上田攻めに従軍した上田七本槍の一人。徳川忠長の付家老となり、寛永二(一六二五)年には遠江掛川城主を兼ねたが、忠長の改易により大和郡山に蟄居、その後、許されて妻の兄である土井利勝に招かれた(以上は講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「朝倉宣正」に拠った)。
「甚十郎」底本では『(正世)』と傍注する。朝倉宣正次男。詳細不詳。]

   無景寺谷
 壽福寺ノ西南ノ山際也。今鍛冶綱廣ガ居所也。
[やぶちゃん注:「無景寺谷」の「景」は「量」の誤り。次項も同じ誤りをしている。]

   法性寺屋敷
 無景寺谷ノ少シ南隣也。

   千葉屋敷
 法性寺屋敷ノ少シ南ナラビノ畠ナリ。東鑑ニモ甘繩ノ千葉屋敷トアリ。

   諏訪屋敷
 千葉屋敷ノ東ノ田中ニアル畠也。

   左介谷〔或作三介谷〕
 長谷小路へ谷ノ口開ケリ。西方岡邊ノ松森ハ、稻荷大明神ヲ勸請ス。此下ニカクレ里ト云テ、大ナル岩窟アリ。光明寺開山記主、初ハ此谷ニ住ス。記主俗名ハ佐介ト云シ故ニ地ノ名トセリ。又ノ説ニ三浦介・上總介・千葉介三人此谷ニ住居セシ故ニ、三介谷トモ云ト也。又佐介遠江守舊跡也トモ云。東鑑ニ佐介遠江守ト云者ノ事アリ。
[やぶちゃん注:「カクレ里」現在の銭洗弁天。]

   裁許橋〔又作西行橋〕
 天狗堂ノ東ノ少シキ橋也。賴朝ノ時、此所ニ屋敦アリテ訴訟ヲ聞キ、罪人ヲ刑罪スル故ニ云トナリ。俗ニ云、西行鎌倉ニ來リ、此橋ニスル故ニ西行橋ト云ト也。左介谷ヨリ流出ル川ニ渡セル橋ナリ。
[やぶちゃん注:「踟蹰」は「ちちゆう(ちちゅう)」で、進むのをためらうこと、ぐずぐずと立ち止まること、躊躇。但し、西行が頼朝の行列と逢ったのは鶴岡社頭で、この伝承は「裁許」の「さいきよ(さいきょ)」の音から生じた誤説である。]

   天 狗 堂
 無量寺谷ノ南ノ出崎ノ山ヲ云。芝山ニテ樹木ナク見スキクル山ナリ、昔此所ニ愛宕堂有ト也。今ハ礎計アリ。

   七觀音谷
 天狗堂ノ西ノ谷ナリ。

   飢 渇ケカチ 畠
 裁許橋ノ南、七觀音ノ東ノ道際ナリ。此所昔ヨリ刑罰場ニテ、今モ人ヲサラシ、成敗スル地ナリ。作毛ナラザル故ニ、飢渇畠ト云トナン。
[やぶちゃん注:「今モ」とするのは意外である。光圀の頃にても、一種の私刑のようにそうした晒しが行われていたものか。]

   笹 目 谷
 七觀音ヨリ西南ノ谷也。コヽニ昔法然ノ弟子隆觀、長樂寺ト云寺アリテ住セシト也。武藏守平經時、寛元四年閏四月朔日ニ卒シ、二日ニ此山ノ麓ニ葬ト云。此所マデ小町ノ内ナリ。是地小町ト長谷トノ境也ト。

   塔  辻
 笹目谷ノ南端ニ多クアル塔也。事ハ前ノ塔ノ辻ノ所ニ見へタリ。

   盛久首座
 笹目谷ノ南ノ方、海道ヨリ北ノ瑞ニ荒地、方六七尺計、畠ノ端ヲ取殘シテアリ。

   甘繩明神
 笹目谷ノ西、長谷觀音へ行ク海道ノ北ノ谷ニ茂林アル所也。藤九郎盛長ガ舊跡也。御靈宮・長谷大佛・神明・左介谷・笹目谷・無量寺谷マデハ甘繩ノ内ナリ。東鑑ニ見エタリ。

   水無瀨ノ川
 長谷へユク道ノ小橋也。古歌ニミナセノ川ト有。ミナセ川ハ山城・攝津・大和ニモアリト云。俗ニ傳テイナセ川ト云。實朝大佛谷ニテ此川一覽ノ時分イナト云魚、海ヨリノボリケルヲ見テ、遂ニイナセリ川一名ヲ付ラレ、歌ヲヨマル。其歌ニ
  鎌倉ヤ御輿カ嶽ニ雪消テ イナセリ川ノ水マサリケリ
[やぶちゃん注:現在の稲瀬川。
「イナ」出世魚のボラ目ボラ科ボラ(鯔)
Mugil cephalus の、二〇センチメートル程度の成魚の直前の若魚の時の名。ナヨシなどとも呼ぶ(粋で勇み肌の若い衆を言う「いなせ」は、彼らの好んだ月代さかやきの青々とした剃り跡をイナの青灰色の背に見たてた「イナの背」とも、また、彼らがわざと髷を派手に跳ね上げた髪型を好んだのを、「イナの背鰭」に譬えたとも言われる)。
「イナセリ川」前掲のイナが先を争うように河口付近で青い背を見せて「せる」(「競る」か「る」か)様子を謂うのであろう。ボラは同体長の個体同士で大小の群れを作っては水面近くを盛んに泳ぎ回り、しなしば海面上にジャンプする。時には体長の二~三倍の高さまで跳び上がることがあり、「イナがせる」というこの語はなかなかリアルであると私は思う。
 しかし、この歌自体は実朝の歌として正式には伝わっていない。少なくとも「金槐和歌集」には所収せず、そもそもが「金槐集」には初句を「かまくらや」とする和歌は、意外なことに、ない、のである。「万葉集」でも「みなのせ」であり、この稲瀬川は、文字通りいなせなピカレスクのレビューたる、歌舞伎の「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」(通称「白浪五人男」)二幕目第三場の、知られた「稲瀬川勢揃いの場」の舞台でもあるから、この魅力的な名は後世の付会に過ぎまい。一応、和歌を書き直しておくと、
  鎌倉や御輿がたけに雪消えていなせり川の水まさりけり
なお、以下、読み易くするため、注の後に空行を設けた。]

   萬葉集
  マカナシミサネニハ早ク鎌倉ノ ミナノセ川ニ汐ミツランカ
[やぶちゃん注:「万葉集」巻十四にある、詠み人知らずの歌であるが、各所の訓読がおかしい。現在の一般的な読みは、
  ま愛しみさ寢には行く鎌倉の美奈の瀨川に潮滿つなむか
である。「新編鎌倉志卷之五」の「稻瀨河」でも注したが、訳を再掲しておく。
――お前のことを、私は心からいとおしく思って共寝するために向かっている――鎌倉の美奈の瀬川は、今頃、潮が満ちてしまっているだろうか――たとえそれでも私はお前のもとに行かずにはおられぬのだ――
と言った意味である。]

   名所歌          參議爲相
  汐ヨリモ霞ヤサキニミチヌラン ミナノセ川ノアクル湊ハ
  サシノホルミナノセ川ノ夕汐ニ 湊ノ月ノカケソチカツク
[やぶちゃん注:読み易く、書き換えておく。
  潮よりも霞や先に滿ちぬらん水無瀨川の明くる湊は
  さし上る水無瀨川の夕潮に湊の月の影も近づく
「名所歌」は江戸初期の連歌師里村昌琢編になる名所別類題和歌集として有名な「類字名所和歌集」(元和三(一六一七)年成立)のこと。]

   楚忽百首        從三位爲實
  立マカフ波ノ塩路モヘタヽリヌ ミナノセ川ノ秋ノ夕霧
[やぶちゃん注:「楚忽百首」戦国時代の連歌師宗牧そうぼくの編になる選集か(「新編鎌倉志 引用書目」にはそうある)。但し、この歌「夫木和歌抄」所収の同人のものとは微妙に異なる。以下に示す。
 立迷ふ波の潮路に隔たりぬ水無の瀨川の秋の夕霧
この歌については、私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之一」の「稻瀨川」所収のものを参考にした。]

   夫木集        野々宮左大臣
  東路ヤミナノ瀬川ニミツ汐ノ ヒルマモシラヌ五月雨ノ比
[やぶちゃん注:「野々宮左大臣」は徳大寺公継とくだいじきんつぐ(安元元(一一七五)年~嘉禄三(一二二七)年)の号。後鳥羽・土御門・順徳・仲恭・後堀河帝五朝に亙って仕えた公卿。官位は従一位左大臣まで昇った。
  東路や水無瀨川に滿つ潮のひる間も知らぬ五月雨の頃
「鎌倉攬勝考卷之一」の「稻瀨川」所収の「夫木集」からとするものは、
  東路や水無瀨川に滿つ潮のひる間も見えず五月雨の頃
とある。]

   大 梅 寺
 大佛ヘ行下馬西ノ方也。宿屋トモ云。時賴ノ臣宿屋左衞門入道行時ガ舊跡也ト云。因テ行時山ト號ス。開山ハ日朗、本覺寺ト相持也。山ノ上ニ日朗ガ籠アリ。注畫讚ニ委シケレバコヽニシルスニ及バズ。始ハ光觸寺ト云ケルヲ、近來古田兵部少輔後室再興シテ大梅寺ト云。是ヨリ大佛へユク。西ノ方ハ藤澤へ出ル海道也。
[やぶちゃん注:現在の光則寺のこと。文永八(一二七一)年、日蓮が龍ノ口の法難で佐渡配流となった際、当時の執権北条時頼は弟子の日朗らも捕縛、家臣の一人であった宿屋左衛門尉光則に預け、邸内の土牢に幽閉させた。ところが監視役であった光則自身が日蓮帰依、文永一一(一二七四)年の日蓮の放免後は自邸を寺に改め、日朗を開山に迎えて父行時(彼も文応元(一二六〇)年七月に日蓮の「立正安国論」を北条時頼に建白したとされる人物である)の名を山号に、我が名を寺号にして創建したと伝えられる。その後、衰退したらしく、寺歴は詳しくない。
「古田兵部少輔重恒後室」「古田兵部少輔重恒」は江戸前期の石見浜田藩第二代藩主古田重恒(しげつね 慶長八(一六〇三)年~慶安元(一六四八)年)のこと。ここで妻が出るのであるが、彼は世継問題に絡んだお家騒動である古田騒動で知られる。以下、ウィキの「古田重恒」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えした)。『慶長八年(一六〇三年)、伊勢松坂藩主・古田重勝の長男として山城国にて生まれる。慶長一一年(一六〇六年)に父が死去したとき、四歳という幼少だったために後を継ぐことができず、家督は叔父の重治が継ぐこととなった。そして元和九年(一六二三年)五月、叔父の重治から家督を譲られて藩主となった。同時に叙任している。その後は藩主として大坂城普請や寛永一四年(一六三七年)の京極忠高改易後の松江城在番で功績を挙げている』。ところが、『正保三年(一六四六年)六月、江戸にある藩邸において、古田騒動が始まった。重恒は四十歳を過ぎても子に恵まれなかった。このため、後継ぎが無いために改易されることを恐れた江戸家老の加藤治兵衛と黒田作兵衛は、古田一族の古田左京の孫に当たる万吉を重恒の養子として後継ぎにしようと画策した。ところがその計画を加藤らから打ち明けられたことで知った重恒の側近・富島五郎左衛門が重恒にそれを伝えてしまう。重恒は自分に無断でそのような計画を立てていた加藤や左京らに対して激怒し、その一派全てを殺してしまったのである。そして慶安元年六月十六日(一六四八年八月四日)、重恒は嗣子無くして四十六歳で死去。後継ぎが無く、ここに古田氏は改易されたと言われている』。但し、『この古田騒動には異説が多く、他の説では山田十右衛門という重恒の寵臣が、三名の家老の権勢を疎んじて重恒にこの三名のことを讒言し、それを信じた重恒が三名の家老を殺害。しかし重恒自身もまもなく狂気で自殺してしまったと言われている』。『いずれにしろ、重恒に実子も養子もなかったことは確からしく、そのため重恒の死去により、無嗣断絶で古田氏は改易となった』とある。本文に「後室」とあるから、彼女は正室ではない(正室は前藩主である叔父重治の長女である)が、世継騒動であるから彼女も渦中にあったわけである。彼女は出家後(重恒の死後であろう。彼女の示寂は寛文九(一六六九)年である)、大梅院常学日進と名乗って、如何なる所縁からかは不明であるが、この光則寺の堂宇を再興した。それによって「大梅寺」「大梅院」とも呼称されたのである。]

   大  佛
 此所ヲ大澤ト云。初ハ建長寺ノ持分ナリシガ、今ハ光明寺ノ持也。道心者居之(之に居す)。大佛ノ長ケ三丈五尺、膝ノ横五問半、袖口ヨリ指ノ末マデ二尺七寸六分アリト也。東鑑ニ建長六年八月十七日、深澤里ニ金銅ニテ八丈釋迦如來ヲ鑄始メ奉ルト有。此像ノ事ナランカ。然ドモ今ノ像ハ彌陀ノ印相ナリ。又仁治年中ニ、遠江ノ淨光坊、六年ノ間三尊卑ヲ勸進シテ、八丈ノ阿彌陀佛ヲ木像ニ作奉ルトナン。加茂長明ガ海道ノ記ニモ、由井ノ邊ニ八丈ノ阿彌陀木像ノ事ヲ書リ。或云、其木像ハ破壞シテ巖窟ノ内ニ有ト。又曰、山號ハ大異山、寺號ハ淨仙寺ト云トナン。初メ木像ノ釋迦堂ノ號、サダカニシレル人ナシ。東海道名所記ニ、大佛ヨリ右ノ方ニ盛久ガ松トテ磯ニアリ。
[やぶちゃん注:「大澤」「深澤」の誤り。
「道心者居之」というのは、堂宇が存在しないが、庵のようなものを構えて僧が管理している、という謂いであろう。
「長ケ三丈五尺」約一〇メートル六〇センチメートル。現在の公式実測数値は仏身高一一メートル三一・二センチメートル。
「膝ノ横五間半」約一〇メートル弱。
「二尺七寸六分」約八三センチメートル。
「建長六年八月十七日」建長四(一二五二)年の誤り。『十七日己巳。晴。(中略)今日當彼岸第七日。深澤里奉鑄始金銅八丈釋迦如來像』とある。
「加茂長明」ママ。鴨長明。
なお、ここで示される大仏の謎及び最後の「盛久が松」については、「新編鎌倉志卷之五」の「大佛」及び私の注と、その三項前にある「盛久頸座」及び私の注を参照されたい。]

   御輿嶽〔或作御越〕
 大佛へ行東ノ上ノ山ナリ。稻荷大明神有ト云。
             中務卿宗尊親王
  都ニハ早吹ヌラシ鎌倉ヤ 徹輿ガ崎ノ秋ノ初風
   詞林采葉
  鎌倉ノ御越カ崎ノ岩ノヱノ 君カクユヘキ心ハモタシ
[やぶちゃん注:「吹ヌラシ」及び「岩ノヱノ」はママ。それぞれの和歌は読み易く書き換えておく。
  都にははや吹きぬらん鎌倉や御輿が崎の秋の初風
  鎌倉の見越しが崎の石崩いはくえの君が悔ゆべき心はもたじ
表記は、「新編鎌倉志卷之五」の「御輿嶽」本文所収の同歌の表記も参考にした。]

   長谷觀音
 大梅寺ノ西南也。海光山ト號ス。額ニ長谷寺トアリ。子純筆ナリ。淨土宗、光明寺ノ末也。養老元年ノ草創ナリト云。寺領二貫文アリ。本尊ハ十一面觀音ナリ。長二丈六尺二分、三十三年充ニ開帳スルト也。サレドモ内陣ニ入テ燈寵ヲ引上テ照シ見ル。春日ノ作ニテ大和ノ長谷ノ觀音ト一木ナリ。是ハ末木ニテ作ルト云。脇ニ木像ノ僧ノ形アリ。德道上人ト名ク。開山ナリトモ又ハ順禮ノ元祖ナリトモ云。開山ニシテ順禮ノ元祖ナルカト別當慈照院語リヌ。阿彌陀、聖德太子ノ木像、畠山六郎ガ持佛堂ノ本尊ノ勢至菩薩アリ。坂東順禮札所ノ第四番也。今ノ堂ハ酒井讚岐守忠勝再興也。六月十七日夜ハ當寺ノ會ニシテ、貴賤僧俗參詣スト云リ。
[やぶちゃん注:私は、これを読んで、二百二十年の後に、同じ場所で、同じようにして、この観音を見、激しい感動に打たれた、ある私の愛する人物の手記を、思い出さずにはおれない。以下に引用したい。

          十二
 そこから、われわれは音に聞こえた鎌倉の観音寺の前にいたる。衆生の心魂を救わんがゆえに、永遠の平和のために一切を捨離し、百千万億劫の間、人類と苦難を共にせんがために、涅槃をすてた慈悲憐憫の女仏。――これが観世音だ。
 三層の石階を登って、堂のまえに行くと、入口にひかえていた若い娘が立って、われわれを迎えに出てくる。番僧を呼びに、その娘が本堂の中へ姿を消したと思うと、入れかわりに、こんどは白衣の老僧があらわれて、どうぞおはいりと会釈をする。
 本堂は、今まで見てきた寺と同じくらいの大きさで、やはり同じように、六百年の歳月で古色蒼然としている。屋根からは、さまざまの奉納の品や、字を書いたもの、色とりどりにきれいな色に塗った無数の提灯などが下がっている。入口と向かい合わせのところに、ひとりぽつねんと坐っている像がある。大きさは、人間と同じくらいで、人間の顔をしている像だ。それがへんに薄気味わるく皺のよった顔のなかから、化物じみた小さな目玉をして、こちらを見ている。その顔は、むかしは肉色に塗られ、衣は水色にいろどられてあったのが、いまは、年とともに積り積った塵ほこりのために、全部が白ちゃけてしまっている。その色の褪せたところが、爺ぐさい姿にかえってよく調和して、ちょっと見ると、生きている托鉢坊主を見ているような気がする。これがおびんずるヽヽヽヽヽで、東京の浅草で、無数の参詣者の指になでられて形の擦りへってしまっている、あの有名な像と同じ人物だ。入口の左と右には、筋骨隆々たる、物すごい形相をした仁王が立っている。参詣人が吐きつけた紙つぶてが、深紅の胴体に点々とこびりついている。須弥壇の上には、小さいけれども、ひじょうに好感のもてる観音の像が、炎のちらちらするさまを模した、細長い光背を全身に負うて立っている。
 が、この寺が有名なのは、この小さな観音像のためではないのだ。ほかに、もうひとつ、条件づきで拝観できる像があるのである。老僧が、流暢な英語で書かれた歎願文を、わたくしに示した。それには、参詣者は、本堂の維持と寺僧援護のために、応分の御寄進が願いたいとしてある。宗旨ちがいの参詣者のためには、「人に親切にし、人を善人にみちびく信仰は、すべて尊敬する価値がある」ことを銘記せよ、といって訴えている。わたくしは賽銭を上げて、大観音を拝観させてもらうように、老僧に頼んだ。
 やがて、老僧が提灯に灯をともして先に立ち、壇の左手にある狭い戸口から、本堂の奥の高い暗がりのなかへと案内をする。しばらくのあいだ、あたりに気をくぼりながら、そのあとについて行く。提灯がちらちらするほかには、何も見えない。やがて、なにやらピカピカ光った物の前にとまる。しばらくすると、目がだんだん闇になれてきて、目の前にあるものの輪郭が、しだいにはっきりしてくる。そのうちに、その光った物は、何かの足であることがわかってくる。金色こんじきの大きな足だ。足の甲には、金色の衣の裾がだらりとかかっている。と、もう一方の足も見えてくる。してみると、これは、何か立っている像だ。今、われわれのいるところは狭いけれども、天井のばかに高い部屋であることがわかる。そして、頭のずっと上の神秘めいた闇のなかから、金色の足を照らしている提灯の灯影の輪のなかへと、長い綱が何本も下がっているのが見える。その時老僧は、さらに提灯をふたつともして、それを、一ヤード[やぶちゃん注:約九〇センチメートル。]ずつほど離れて下がっている綱についたかぎにひっかけると、ふたつの提灯を、同時に、するすると上にたぐり上げた。提灯がゆらゆら揺れながら、上の方へするする上がって行くにつれて、金色の衣がだんだんに現われてくる。やがて、大きな膝の形が二つ、もっこりとあらわれたと思うと、つぎには、彫刻をした衣裳の下にかくれている、円柱のような二本の太股の線があらわれてくる。提灯は、なおも揺れながら、上へ上へと昇って行く。それにつれて、金色のまぼろしは、いよいよ闇のなかに高くそびえ、こんどは何が出てくるだろうという期待の心が緊張してくる。頭のずっと上の方で、目に見えない滑車が、コウモリの鳴くようなキイキイ軋る音を立てるほかは、何の物音もしない。そのうちに、金色の帯の上のあたりに、胸らしいものが見えてくる。すると、つづいて、冥福を祈るために高くあげられている、金色さんぜんたる片方の手が見えてくる。つぎには、蓮華をもった片方の手が、そうして、いちばん最後に、永遠の若さと無量のやさしさをたたえて、莞爾かんじとして微笑みしょうしたもう、金色の観音の慈顔があらわれる。
 このようにして、神秘の闇のなかから現じたもうたこの女仏――古代が産み、古代美術が創造した作品の理想は、ただ、荘厳というようなものだけにはとどまらない。この女仏からひきだされる感情は、ただの讃歎というようなものではなくて、むしろ、畏敬の心持だ。
 美しい観音の顔のあたりに、しばらく止まっていた提灯が、この時、さらに滑車のきしる音とともに、また上へ昇って行った。すると、なんと見よ、ふしぎな象徴をあらわした、三重の冠があらわれた。しかも、その冠は、無数の頭と顔のピラミッド――観音自身の顔を小さくしたような、愛らしい乙女の美しい顔、顔、顔の塔であった。
 けだし、この観音は、十一面観音なのである。

この筆者が、如何にこの観音像に感動したかは、以下、次の「十三」章をまるまる、この長谷観音の縁起を語ることに費やしていることからも分かる(光圀や「新編鎌倉志卷之五」の「長谷觀音堂」の記述と比べれば、その温度差は天地ほども違うと言える)。しかも――もう誰かはお分かりであろう――彼は日本人では――ない――いや――後に日本人となったアイルランド人――小泉八雲である。これは彼の日本来日直後の印象を纏めた明治二十四年に刊行された、
HEARN, Lafcadio Glimpses of unfamiliar Japan 2vols. Boston and New York, 1894.
で、引用は私の尊敬する翻訳家平井呈一氏の「日本瞥見記(上)」(一九七五年恒文社刊)に拠った。著作権が存続するが、この項には最も相応しい引用であると確信し、章全体の引用を行った。これは著作権侵害に当たる行為に相当するとは私は思っていないが、著作権者からの要請があれば、必要な引用としての観音の描出シーンを残して前半部を削除する用意はある。]

   御 靈 宮
 長谷ヲ出テ南行シ、少シ西ノ方ノ民村ヲ過テ、星月夜ノ井ノ北ナル山ノ下ニアリ。權五郎景政ヲ祭ト也。

   星月夜井
 極樂寺ノ切通へ上ル坂口ニアル小キ井ナリ。昔ハ晝モ星ノ影、井ノ中ニ見へケル故ニ、星月夜ト云ト也。一女此井ノ中へ莱刀ヲ取落シタリ。是ヨリシテ星ノ影見ユズトナン云傳フ。一説ニ此井ニテハナシ。昔ノ道ハ山ノ上ニアリ。井モ其邊エアリトナン。
   後堀河百首          常陸
  我ヒトリ鎌倉山ヲ越ユケハ 星月夜コソウレシカリケレ
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直すと、
  我ひとり鎌倉山を越へ行けば星月夜ほしづきよこそ嬉しかりけれ
である。]

   虛空藏堂
 星月夜井ノ西ニアリ。道心者守之(之を守る)。此堂ノ中ニ石アリ。常ニ濕ヒアリト云。黑ク滑ナル石ナリ。

   極 樂 寺
 靈山山ト號ス。入口ニ辨慶ガ腰カケ松アリ。是義經腰越ヨリ押歸サレシ時、此松ニ腰ヲカケ、鎌倉ノ方ヲ望ミ、怒レル色アリテ歸タリト云傳フ。律宗西大寺ノ末也。本尊釋迦、西大寺ノ開山興正ガ作ナリ。嵯峨ノ釋迦ノ寫ニテ、西大寺・小大寺ト共ニ一作也。十大弟子ノ木像アリ。作者シレズ。陸奧守平重時建立、左ニ興正ガ木像アリ。道明寺ニモ同作ノ木像アリ。少シモ違ハズ。興正ガ自作トゾ。至極能作クル故ニ、儼然トシテ生ルガ如シ。右ニ忍性ガ木像アリ。良觀ト號ス。興正ガ第一ノ弟子也。大佛ノ別當也。八十三ケ寺建立スルト也。相武ノ間ニモ多シト云。今詳ニ知レガタシ。二王門ノ礎石アリ。昔ハ四十九院有シガ、今ハ只一院アリ。吉祥院ト云。今寺領九貫五百文ノ御朱印アリ。
 寺寶
 九條袈裟            一ツ
  〔乾陀穀子袈裟、東寺第三傳ト書付アリ。乾陀國ノ布ト云。八祖相承トテ弘法マデ傳ハル。又東寺ノ第三ノ祖へ傳ハル上ト云。〕
 中將姫心經ヲ繡クル打敷     一ツ〔大サ一尺二寸四方〕
 八幡廿五條ノ袈裟        一ツ〔地ハ紗ナリ。〕
 天神瑜迦論           三卷
  〔長サ二寸五分、一行ニ廿五字ヅヽアリ。極テ細字ナリ。住僧云、鶴岡及稱名寺ノ天神細字ノ經ハ、皆此寺ヨリ分散シタルトナリ。〕
 嘉暦二年綸旨          一通
 右馬允政季〔建武二年證文、其中ニ武藏國足立郡箕田郷云々。〕
 尊氏自筆證文、又自筆ノ狀アリ。
 氏滿自筆證文          一通
 義滿文狀            一通
 舊記ニ藕絲ノ九條ノ袈裟アリ。釋迦ノ袈裟トハ大ナル誤ナリ。又千服ノ茶磨、千服ノ茶碗トテ路邊三石アリ。此寺ノ繁昌ヲ知セン爲ト也。
[やぶちゃん注:「嘉暦二年綸旨」は後醍醐天皇によるもの。
「右馬允政季」末尾に「證文」が抜けている。足利直義の直近の家臣と思われる。本證文は「新編鎌倉志巻之六」の「極樂寺」の当該項の私の注に提示してある。
「足立郡箕田郷」現在の埼玉県鴻巣市。
「天神瑜迦論」は「瑜伽論」とするのが正しい。正確には「瑜伽師地(ゆがしじ)論」という。「新編鎌倉志巻之六」の「極樂寺」の当該項の私の注を参照されたい。
「藕絲」は音「グウシ」、「はすのねのいと」(蓮の根の糸)の意。ここは何らかの旧記に、極楽寺寺宝に『藕絲の九條の袈裟あり』とあって、それを『釋迦の袈裟』とするが、それは大きな誤りである、の意であろう。]

  月 影 谷
 極樂寺ノ後ロ也。昔ハ暦ノ出ル所ト云リ。此所ニ阿佛屋敷ト云アリ。十六夜記ニ、東ニテ住ム所ハ月影谷トゾ云ナルトアリ。
[やぶちゃん注:「暦ノ出ル所」「新編鎌倉志巻之六」の「月影谷」には『昔は暦を作る者居住せしとなり』とある。]

   靈 山 崎
 切通ヨリ海中へ出崎ヲ云。此所日蓮雨ヲ乞フ所ナリ。

   針 磨 橋
 極樂寺ノ南、七里濱へ出ル路ノ小橋ナリ。

   音 無 瀧
 針磨橋ノ南、七里濱へ出ル口也。沙山ノ松蔭ヲ廻リ傳ヒテ落ル水也。常ハ水モナシ。沙山ナル故ニ、瀧落ルト云トモ音ナシ。因テ音無瀧ト云也。

   日蓮袈裟掛松
 音無ノ少シ南ノ海道ノ西ニアル一本松也。
[やぶちゃん注:「音無」前掲の音無瀧の脱字であろう。]

   稻 村 崎
 靈山崎ノ西ノ出崎ニ、稻ヲ積タル如クノ山アリ。是ヲ稻村ト云。其南ノ海上ヲ稻村崎ト云フ。コノ海邊ヲ横手原ト云トゾ。新田義貞鎌倉ヲ攻ル時、此海廿四町干潟ト成、平沙渺々トシテ横矢ノ舟、澳ニ漂フトナリ。因之(之に因りて)名タルトナリ。
[やぶちゃん注:「澳」「おき」と読む。沖。
「名タルトナリ」「名附タルトナリ」の脱字であろう。]

   袖  浦
 靈山崎西ノ出崎、七里濱ノ入口、左ノ方稻村崎ノ海瑞ヲ云ナリ。地形袖ノ如シ。西行ノ歌トテ里民ノ語シハ
  シキ浪ニヒトリヤネナン袖浦 サハク湊ニヨル舟モナシ
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
  重波(しきなみ)に獨やねなむ袖の浦騷ぐ湊(みなと)に寄る舟もなし
「しきなみ」は「頻波」とも書き、次から次にしきりに寄せてくる波のこと。但し、今回調べてみて分かったのだが、これは西行の歌ではなく、公卿で歌人の藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)の作であることが分かった。阿部和雄氏のHP「山家集の研究」「西行の京師」(MM二十一号)に、
東海道名所図会も記述ミスが多くて、完全には信用できない書物です。同じに[やぶちゃん字注:ママ。]相模の国の項で、
  しきなみにひとりやねなん袖の浦さわぐ湊による船もなし
という、藤原家隆の歌を西行歌として記述するというミスもあります。
とある。……もしかするとこれ……この黄門様のミスがルーツか? 但し、この「袖の浦」は「能因歌枕」に出羽国とする歌枕を用いたもので、ここの袖の浦とは無縁である。尤も歌枕であるから、出羽のそれの実景とも無縁で、ただ涙に濡れた「袖」を歌枕の「袖の浦」の名に託し、更に「浦」に「裡(うら)」の意を掛けているのは、以下の和歌群も同じである。以下、和歌注の後に空行を設けた。]

 定家ノ歌トテ
  袖浦ニタマラヌ玉ノクタケツヽ ヨセテモ遠クカヘル浪カナ
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
  袖の浦にたまらぬ玉の碎けつゝ寄せても遠くかへる波かな
で定家の「内裏百首」の「恋廿首」(一二六五番歌)に、「袖浦」と前書して、
  そてのうらたまらぬたまのくたけつゝよせてもとをくかへる浪哉
 (袖の浦たまらぬ玉のくだけつつよせても遠くかへる浪かな)
と載るものである。]

                    順德院
  袖浦ノ花ノ波ニモシラサリキ イカナル秋ノ色ニ戀ツヽ
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
  袖の浦の花の波にも知ざりき如何なる秋の色に戀ひつつ
となる。「建保名所百首」所収。]

 海道記ニ長明此所ニ來テ
  浮身ヲハウラミテ袖ヲヌラストモ サシモヤ浪ニ心クタカン
[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、
  うき身をば恨みて袖を濡らすともさしもや浪に心碎けん
となるが、「新編鎌倉志巻之六」の「袖浦」では、
  浮身をば恨て袖を濡らすとも。さしもや浪に心くだけ
とある。]

  十一人塚
 極樂寺ノ切通ヨリ七里濱へ出ル路邊ノ左ニアリ。昔新田義貞ノ勇士十一人、此所ニテ討死有シヲ、塚ニ築コメ上ニ十一面觀音堂ヲ立クル跡ナリト云。

  七 里 濱
 腰越へ行、北ハ山、南ハ海ナリ。濱ノ浪打際ヲ云也。關東道七里アリ。古へ戰場ニテ、人ノ死骨、或ハ太刀ノ折レ、具足ノ金物ナド、砂ニ交テ今ニアリ。
[やぶちゃん注:「關東道七里」既に示した通り、「關東道」は坂東里で一里は六町、六五四メートルであるから、四キロ五七八メートル。但し、例えば現在の稲村ヶ崎の突端を起点に、現在の海岸線を西に計測してみても、当該距離の到達点は新江ノ島水族館辺りになってしまう。現在の七里ヶ浜の全長は二・九キロメートルとされる。この齟齬について、例えばウィキの「七里ヶ浜」には、近年これについては、鶴岡八幡宮と腰越の間の距離を言っており、それを「浜七里」と呼んだのではないかという説が出されている、とある。これは密教の「七里結界」に基づくもので、裏鬼門(南西)方向に七里の腰越までが浜七里だとし、鶴岡八幡宮の鬼門(北東)方向の横浜市栄区に今も野七里という地名が現存する、とある。但し、八幡宮からこの野七里までの直線距離は関東里の七里に満たないが、間には険阻な丘陵があるので朝比奈切通しを経由すると若干遠回りになる、ともある(それで実測関東道で七里となるということか)。『これはまだ通説にはなっていないようだが、興味深い説である』と記されてある。]

   金 洗 澤
 七里濱ノ中程、海へ流出ル澤ナリ。行合川トモ云也。此所ニテ古ハ金ヲ掘タル故ニ金洗澤ト云。亦日蓮龍ノ口ニテ成敗ニ極テ、敷皮ニナヲリケル時、奇瑞多キニ因テ其由ヲ告ル使ト、鎌倉ヨリ時賴ノ赦免ノ使ト、此川ニテ行合タル故ニ行逢川トモ云ト也。此後ロノ谷ニ津村ト云地アリ。昔ノ津村ノ湊ト云是ナリ。

   腰 越 村
 江嶋ノ前ノ村也。嚴本院ノ縁起ニハ、昔江嶋ニ大蛇住テ人ヲ取タル故ニ、子死戀ト書クト云フ。〔戀、一作越〕此海ノ前へ出タル山ヲ八王子山ト云ナリ。海中へ指出タル松アリ。是ヲ常動松ト云フ。常ニ風波此岸ニアタル故ニ此松動クト云。
[やぶちゃん注:「嚴本院」の「嚴」は「巖」の誤り。
「常動松」初見。読み不詳。現在の「小動こゆるぎ」という地名の由来であるから、これで「こゆるぎ」と読ませているか。識者の御教授を乞う。]

   万 福 寺  〔或ハ作滿〕
 龍護山ト號ス。眞言宗、手廣村靑蓮寺ノ末ナリ。開山行基。本尊藥師、行基作。義經ノ宿セラレシ所ナリト云。辨慶申狀ヲ書テ硯水ヲ捨タル所ノ池幷ニ松アリト云。馬上ヨリ望見テ過ヌ。
 〔私闇齋遠遊記ニ、辨慶書タル申狀ノ草創猶在、東鑑ニ載スル所ニハ、首尾ニ左衞門少尉ノ五字アリ、愁ヲ紅ニ作リ抱ヲ胞ニ作ル。想ニソレ淨寫シテ、コレヲ添、コレヲ改ルナラン。〕
[やぶちゃん注:「万」は「萬」としようと思ったが、変えずにおいた。割注は底本では全体が一字下げ。
「私闇齋遠遊記」不詳。朱子学者山崎闇斎やまざきあんさい(元和四年(一六一九)年~天和二(一六八二)年)の紀行か。識者の御教授を乞う。
「草創」は「草稿」の誤りであろう。以下の異同については、私が完全校閲・比較提示したものが「新編鎌倉志巻之六」の「滿福寺」注にある。是非、参照されたい。]

   袂  浦
 腰越ヨリ江嶋へノ直道、南へノ出崎ノ入江ノ濱、袂ノ如クナル地ヲ云トナン。
  夫木集        讀人シラズ
  ナヒキコシ袂ノ浦ノカヒシアラハ 千鳥ノ跡ヲタヘストハナン
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
  なびき越したもとの浦の甲斐しあらば千鳥の跡を絶えずとはなむ
「カヒ」は甲斐と貝を掛けていよう。]

   龍 口 寺
 寂光山ト號ス。腰越村ノ末ニアリ。日蓮ノ取立タル寺ニテ、初ヨリ開山ナシ。祖師堂ニ首ノ座ノ石アリ。石ノ籠モアリ。日蓮難ニ遭ヒシハ文永八年九月十二日ト云リ。七坊アリ。七ヶ寺ヨリ輪番ニ勤之(之を勤む)。七坊、妙傳寺〔比企谷ノ末〕、本成寺〔身延ノ末〕、本立寺〔比企谷ノ末〕、法玄寺、勤行寺〔玉澤ノ末〕、東漸寺〔中山ノ末〕、是ナリ。外ニ常立寺ト云アリ。悲田派武藏ノ碑文谷ノ末ナリ。近ゴロ公事有テ、今ハ輪番ニ入ラズ。本堂ニ日蓮ノ木像アリ。番神堂ハ松平飛騨守利次室再興也。

   龍口明神
 寂光山ノ東邦ニアリ。昔五頭龍王アリ。人ヲ以テ牲トセシニ、江嶋ノ辨才天女夫婦ノ契アリテヨリ、龍口明神ト祭ルトナリ。

   片 瀨 川
 藤澤海道ノ南へ流出ル小川也。駿河次郎淸重討死ノ所也。東鑑ニ片瀨ノ在所ノアタリニテハ片瀨トイフ。石上堂村ノ前ニテハ石上川ト云。
             中務卿宗尊親王
  歸來テ又見ンコトハカタセ川 ニコレル水ノスマヌ世ナレハ
  海道宿次百首        參議爲相
  打ワタス今ヤ汐干ノカタセ川 思ヒシヨリモ淺キ水カナ
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
  歸り來て又見ん事もかたせ川濁れる水の澄まぬ世なれば
將軍職を辞任し、本意ならず帰洛した際の歌とされる哀傷歌である。
  打ち渡す今や潮干しほひの片瀨川思ひしよりは淺き水かな]

  西行見歸松〔又西行モドリ松云〕
 片瀬村へユク路邊ノ右ニアリトナン。此所迄西行來シガ、是ヨリ歸タリト云。

   笈 燒 松
 片瀨村ヨリ南へ行道アリ。此所ヨリ出、六町程ユキテ在家ノ後ロノ竹藪ノ際ニアリトナン。駿河次郎淸重ガ笈ヲ燒シ所ナリト云。

   唐  原
 片瀬川ノ出崎、海ノ方、東南ノ原ヲ云。
   夫木集         藤原忠房
  名ニシオハハ虎ヤ伏ラン東野ニタツトイフナルモロコシカハラ
   同集          讀人不知
  遙カナル中コソウケレ夢ナラテ 遠ク見ユケリ唐カ原
[やぶちゃん注:最初の和歌の「タツ」は二字で「有」の草書の誤写であろう。和歌を読み易く書き直しておく。
  名にし負はば虎や伏すらむ東野あづまのに有りと云ふなるもろこしが原
  遙かなる中こそけれ夢ならで遠く見にけり唐が原
後者は「夫木和歌抄」では「唐が原」が「唐の原」である。]

   砥上原〔又砥身原トモ科見原トモ書ト云〕
 片瀬ヨリ西ニ當リテアリ。
   長明海道記
  ヤツマツノヤ千代ノカケニ思ナシテ トカミカ原ニ色モカハラシ
   里俗西行ノ歌トテ語シハ
  浦近キトカミカ原ニ駒トメテ 片瀨ノ川ノ汐干ヲソマツ
  立カヘル名殘ハ春ニ結ヒケン トカミカ原ノクスノ冬哉
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
  八松やつまつの八千代の蔭に思ひなして砥上とがみはらに色も變らじ
長明入鎌直前の嘱目吟とされる歌である。
  浦近き砥上原が原に駒とめて片瀨の川の汐干しほひをぞ待つ
  立ち歸ヘる名殘なごりは春に結びけむ砥上が原のくずの冬
但し、前者は後世の西行仮託作「西行物語」所収のもの、後者は西行の作ではなく、冷泉為相の和歌である(嘉元元(一三〇三)年頃に編せられた「為相百首」に所収する)。]

   江 嶋〔或榎嶋或ハ繪島工作ル〕
龍口ヨリ嶋マデ十一町四十間也。潮ノ落タル時ハ砂濱也。徒歩ニテモ渡ル。潮盈タル時ハ六町計モ水ヲ踰ル也。嶋ノ入口ヨリ辨才天ノ岩窟マデ十二町半、嶋ハ方廿五町餘有ト也。坂ノ上三石ノ華表アリ。金龜山ト云額アリ。辨才天ノ巖窟甚廣大ナリ。此巖窟ヲ江嶋ノ神トス。社壇ノ下ニ蛇形ト云テ、寶殊ヲ蛇ノ纏ヒタル躰ニ作リテアリ。弘法ノ作ト云。故ニ弘法ヲ巖窟ノ開基トス。嵯峨帝弘仁五年ニ弘法此窟中ニ參寵シテ、天照太神・春日・八幡等ノ諸神ノ像ヲ刻テ、勸請セラル。窟中暗黑、松明ヲ振テ入ル。胎藏界ノ穴、金剛界ノ穴トテ窟中ニ堺アリテ左右ニ分レ行、入事一町餘ニシテ石佛アリ。此ヨリ奧へハ、穴隘シテ立テ行べカラズ。行タル人モナシト云。ソレ迄ノ路ノ側ニ、弘法ノ祈出タルトテ、巖間ヨリ落ル淸泉アリ。蛇形ノ池、弘法ノ臥石アリ。手ヲ以テ授ルニ人肌ノ如ク、濕ニシテ滑膩ナリ。護摩ノ爐トテアリ。觀音アリ。弘法ノ作ト云。石ノ獅子、弘法歸朝ノ時、取來ルト云。
[やぶちゃん注:「天照太神」底本では「太」の右に『(大)』と誤字注をする。
「隘シテ」「せまくして」と訓じているように思われる。
「滑膩」は「カツジ」と読み、滑らかで光沢のあること。]
   長明海道記
 江ノ嶋ヤサシテ鹽路ニ跡タルヽ神ハ誓ヒノ深キナルヘシ
[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。
 江の島やさして潮路に跡たるる神は誓ひの深きなるべし
「跡たるる」は本地垂迹説に基づく。法華経普門品に「誓深如海」(弘誓深きこと海の如し)とある。]
 此日腰越村ヲ出テ、海濱ニ網ヲ設ケ、若干ノ魚鱗ヲ捕ラシム。御代官成瀨五左衞門、從ヒ來テ我ヲ饗ス。辨才天ノ窟ヲ出テ前ニ魚板マナイタ岩トテ面平ニ、大ナル岩アリ。其上三屋シテ四方ヲ眺望スルニ、萬里ノ廻船數百艘、帆腹膨朜トシテ、或ハ又漁艇商船海上ニ滿ミテリ。豆駿・上下總・房州等ノ諸峯連壑分明ニ眼前ニアリ。富士ハ兒淵ノ眞西ニアタル。兒淵ト名ルコトハ、昔建長寺廣德庵ニ自休藏主ト云有僧(僧有リ)、奧州志信ノ人也。江嶋へ百日參詣シケルニ、雪下相承院ノ白菊ト云兒、邂逅シテ後、忍ヨルべキ便ヲ求メシニ、其返事ダニナシ。或時此兒、夜ニ紛レ出テ江嶋ニユキ、扇ニ歌ヲ書テ渡守ヲ賴ミ、若我ヲ尋ル人アラバ見セヨトテ、カクナン。
  白菊トシノアノ里ノ人トハヽ 思ヒ入江ノ嶋ト答へヨ
  ウキコトヲ思ヒ入江ノ嶋陰ニ 捨ル命ハ浪ノ下草
ト読テ此淵ニ身ヲ投ケリ。自休尋來テ此事ヲ聞、カク思ヒ続ケル。
  懸崖嶮處捨生涯  十有餘霜在刹那
  花質紅顏碎岩石  妓眉翠袋接塵沙
  衣襟只濕千行涙 扇子空留ニ首歌
  相對無言愁思切 暮鐘爲執促歸家
ト読テ其儘海ニ入トナン。是ヨリシテ兒淵トハ云トゾ。
[やぶちゃん注:ここに注を挟みたい。
「御代官成瀨五左衞門」ウィキの「腰越地域」に、『戦国時代になると後北条氏の支配下に入り、北条氏滅亡後は徳川氏の支配下に入った。当初は玉縄藩領だったが、後に成瀬重治が知行し、その際検地を受けた。その後も旗本領となった』とある。
「膨朜」は「膨※」(「※」「朜」の最終の横一角を除いた、(つくり)が「亨」)であろう。「膨※」は「ボウカウ(ボウコウ)」と読み、腹が膨れるの意。順風満帆のこと。
「連壑」は「レンガク」と読み、連なった谷。
「奥州志信」は「しのぶ」と読み、陸奥国信夫郡しのぶのこおり。ほぼ現在の福島県福島市に等しい。
稚児白菊の和歌を分かり易く書き直しておく。
 白菊しらぎく信夫しのぶの里の人問はば思ひ入江いりえの島と答へよ
 うきことを思ひ入江の島かげに捨つる命は波の下草したくさ
禅僧自休の漢詩を書き下しにしておく。
 花質 紅顏 岩石に碎け
 十有 餘霜 刹那在り
 娥眉 翠黛 塵沙に接す
 衣襟 只だ濕ふ 千行の涙
 扇子 空しく留む 二首の歌
 相ひ對して言ふ無し 愁思 切なり
 暮鐘 たれが爲にか 歸家を促す
以下の文章は、底本では「是ヨリシテ兒淵トハ云トゾ。」に直に繋がっていて、改行していない。]
巖本院從者ヲ勞フべシトテ行厨ヲ送ル。成瀨氏海人ヲシテ石決明ヲ取シム。則魚板岩ノ前ナル海へ入テ捕之(之を捕ふ)。或ハ菜螺・大龍蝦・蛸魚等アリ。獻之(之を獻ず)。因テ諸士ト共ニ樂ム。遂ニ一葉ニ乘ジテ嶋嶼ヲ廻リ、巖本院ガ樓ニ上ル。士峯ノ雪筵ヲ照シ、海波淼漫トシテ無限風光ナリ。
[やぶちゃん注:ここに注を挟みたい。
「行厨」「カウチユウ(コウチュウ)」と読み、弁当のこと。
「菜螺」「榮螺」(サザエ)の誤字か。
「大龍蝦」イセエビ。
「蛸魚」タコ。
「淼漫」「ベウマン(ビョウマン)」と読み、水面が果てしなく広がっているさま。淼淼びょうびょう
以下の文章は、底本では「海波淼漫トシテ無限風光ナリ。」に直に繋がっていて、改行していない。]
ソレヨリ後緣起ヲ見ル。其略曰、武烈帝ノ時、金村大臣ト云長者、子十七人アリケルニ、皆五頭龍王ニ取ルヽトゾ。龍口寺ノ東ノ端ニ長者谷ト云所アリ。此時西ノ山沸出、辨才天女示現シテ五頭龍王ト夫婦トナル。欽明帝貴樂元年四月十四日、東ノ山ヲ諸神筑キ成ケルトゾ。此地ノ開基ハ役行者也。次ニ泰澄、次ニ道智、次ニ弘法、皆コヽニ來リ居ル。次三文德帝仁壽三年、慈覺上官ヲ創造ス。正治元年慈悲良眞下宮ヲ建立スル也。慈悲初ハ天臺宗ナリンガ後ニ禪ニ成トナリ。慈悲入宋シテ慶仁ニ逢、碑文ノ石ヲ取來ルト云。龍口山ノ後ニ當リテ阿彌陀池・光明眞言池トテ二ツアリシヲ、泰澄祈リツブスト也。又按ズルニ東鑑ニ者、養和三年、兵衞佐殿、腰越ニ出シ玉フ、御家人等供奉ス。ソレヨリ江島へ御參詣、今日高雄文覺、兵衞佐殿御願祈誓ノ爲、大辨才天ヲ此島ニ勸請ス。今日鳥居ヲ立ラルト云リ。昔北條時政、此島ニ詣テ、子孫ノ繁榮ノ事ヲ祈ル。三七日ノ夜、一人ノ美女來リ告テ云。汝ガ後胤必ズ國權ヲ執ン。其レ無道ナラバ七世ニシテ失フ事アラン。既ニシテ歸ル。時政驚怪シテ見レバ、大蛇ノ長二十丈バカリナルガ海中ニ入ヌ。其遺ス所ノ三鱗甚大ナリ。取テ是ヲ旗ニ着ク。所謂北條ノ三鱗形ノ紋是也。上宮巖本院ト額アリ。朝鮮國螺山筆也。辨才天女、弘法ノ作。幷ニ千躰地藏アリ、役行者ノ作ト云。巖本院再ビ酒饌ヲ設テ饗ス。多景ニヒカレ、シバシバ盃ヲ傾ク。人ヲシテ下宮ヲ見セシム。
[やぶちゃん注:「欽明帝貴樂元年」西暦五五二年。
「諸神筑キ」の「筑」は「築」の意。
「文德帝仁壽三年」西暦八五三年。
「正治元年」西暦一一九九年。
「養和三年」寿永二(一一八三)年。但し、これは養和二年四月五日の誤りである(底本にはその編者注記はない)。以下に「吾妻鏡」の当該部を示す。
〇原文
五日乙巳。武衞令出腰越邊江嶋給。足利冠者。北條殿。新田冠者。畠山次郎。下河邊庄司。同四郎。結城七郎。上総權介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文學上人。爲祈武衞御願。奉勸請大辨才天於此嶋。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事爲調伏鎭守府將軍藤原秀衡也云々。今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗澤邊。有牛追物。下河邊庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日乙巳。武衞、腰越邊、江嶋に出でしめ給ふ。足利冠者・北條殿・新田冠者・畠山次郎・下河邊庄司・同四郎・結城七郎・上総權介・足立右馬允・土肥次郎・宇佐美平次・佐々木太郎・同三郎・和田小太郎・三浦十郎・佐野太郎等、御共に候ず。是れ、高尾の文學もんがく上人、武衞の御願を祈らんが爲、大辨才天を此の嶋に勸請し奉り、供養の法を始め行ふ間、ことさらに以つて監臨せしめ給ふ。密議なり。此の事、鎭守府將軍藤原秀衡を調伏せんが爲なりと云々。今日、即ち鳥居を立てられ、其の後、還らしめ給ふ。金洗澤邊に於いて牛追物有り。下河邊庄司・和田小太郎・小山田三郎・愛甲三郎等、箭員やかず有るに依つて、各々色皮いろがは紺絹こんきぬ等を賜はる。
・最初の「御共」の内の名が挙がる十六名の人物を順に以下に正字で示しておく。
足利義兼・北條時政・新田義重・畠山重忠・下河邊行平・下河邊政義・結城朝光・上総廣常・足立遠元・土肥實平・宇佐美實政・佐々木定綱・佐々木盛綱・和田義盛・三浦義連・佐野基綱
・「文學上人」頼朝に決起を促した文覺は、こうも書く。
・「牛追物」鎌倉期に流行した騎射による弓術の一つ。馬上から柵内に放した小牛を追いながら、蟇目ひきめ神頭じんどう(鏑に良く似た鈍体であるが、鏑と異なり中空ではなく、鏑よりも小さい紡錘形又は円錐形の先端を持つ、射当てる対象を傷を付けない矢のこと。材質も一様ではなく、古くは乾燥させた海藻の根などが使われたというから、時代的にも場所的にも、ここではこの矢が如何にもふさわしい)などの矢で射る武芸。
・牛追物の名の挙がる四名の射手を順に以下に正字で示す。
下河邊行平・和田義盛・小山田重成・愛甲三郎季隆
・「箭員有るに依りて」牛に的中した矢数が多かったので。
・「色皮・紺絹」色染めをした皮革や藍染めの絹。

「腰越ニ出シ玉フ」「出シメ玉フ」の「メ」の脱字。
以下は、改行されている。]
 下宮ノカリ屋ノ前ヲ行、坂ノ上ノ左ニ無熱池ト云アリ。天笠ノ無熱池ヲカタドルト云。岸邊ニ蝦蟆カイル石トテ蝦蟆ニ似タル石アリ、昔慈悲此山ニ籠リシ時、蝦蟆障礙ヲナシケル故、加持シケレバ、終ニ此石ニナリケルトナン。池ノ右ノ方ノ坂ヲ上ル、道ノ左ニ福石ト云アリ。參詣ノ輩此石ノ前ニテ、或ハ鳥目、或ハ貝魚類ナドヒロフ時ハ、必ズ豐貴ニナルトナン。慈悲ノ木像アリ。鐘ニ金龍山與願寺鐘トアリ。土御門院ノ細字ニ、慈悲ノ宋ヨリ持來碑石此ニ納置ク。今ハ二ツニ折レテアリ。靑石ニテ幅二尺七寸、長サ四尺八寸、厚サ三寸五分也。左右ニ龍ヲ彫、中ニ古文字アリ。其文ニ曰ク
  
〔今案ニ楷書是ナルベキ歟。一字ノ大サ如此、コノ四字ヅヽ三行ナリ。剥缺シテ筆畫分明ナラズ。文字ノ外ニ緣アリ。極テ奇ナリ。舊記ニ屏屛風石トハ誤ナリ。〕
[やぶちゃん注:「蝦蟆カイル」カエル石で「蝦蟆」は蟇蛙。
「障礙」は「しやうげ(しょうげ)」と読む。「障碍」と書く。仏教で悟りの妨げとなるものをいう。障害。現在はこれで「しょうがい」とも読める。
最後の長い割注は実際には図の下にある。以下に、「新編鎌倉志巻之六」に載る碑文図を参考までに載せておく。
  
この図の方がより正確である。]
 寶物
  緣起            五卷 畫ハ土佐、筆ハ不知。
  天照太神ノ角        二ツ
  〔是ハ羽州秋田常樂添狀アリ。住僧云、蛇ノ角ナランカト。浮屠ノ民俗ヲ愚カニシ誣ル、此類多ルベシ。〕
[やぶちゃん注:「天照太神」底本では「太」の右に『(大)』と誤字注をする。
「誣ル」は「しいる」と読み、事実を曲げて言う、悪意をもってありもしない事を述べる、の意。 「強いる」と同語源である。]
  弘法作刀八昆沙門金像   一軀
   金ノ厨子ニ入テアリ。
  同阿彌陀繪        一幅
  九穴貝          一ツ
  二マタノ竹     一本
  駒ノ玉          一ツ
  太田道灌軍配團扇     一本
   練物ニシテ黑塗ナリ。
  北條氏康證文       一通
   其外禁制書ナド文狀多シ。
  慶安二年御朱印      一通
  〔境内山林竹木等ノ免狀、獵師町地子同船役者公役也トアリ。〕
 是ヨリ舟ニ乘ジテ島ヲ廻リテ南行ス。辨才天ノ窟ノ東ニ石窟アルヲ龍池ト云。此東ニ二ツヤグラト云テ穴二ツアリ。一ツハ新田四郎富士ノ人穴ヨリ此穴へ出ケルトナン。山ノ出鼻嶮キガケヲ泣面崎ナキツラガサキト云。其東ヲ聖天嶋ト云。又其東ニ離タル所ヲ鵜嶋ト云。始メ山ノ開ケル時、鵜十二羽來テ、此ニ集ル故ニ云トナリ。今ニ辨才天ノ使者也トゾ。此ヨリ海上ヲ渡テ東ノ方へ向フヲ、順風ニシテ一瞬ノ間ニ杜戸ニ到ル。杜戸ノ東南ニ社アリ。世計酒ト云村アリ。酒ヲ造テ此社ニ奉リ、年ノ豐凶ヲ知ナリ。杜戸ノ東ニ、離デサキアルヲ、トツテガ崎ト云也。豆州ノ大嶋等見ユル。城ガ嶋ノ北ニ見タルハ見崎、其北ヲ荒崎ト云。
[やぶちゃん注:「世計酒」は「よばかりざけ」と読むが、村名というのは如何にもおかしい。光圀の聞違いか、「世計ト云社アリ」の誤りであろう。これについて記す「新編鎌倉志巻之七」の「佐賀岡」の条にも、『此の所に佐賀岡の明神と云あり。守山大明神と號す。逗子村延命院の末寺、玉藏院の持分なり。里俗、世計ヨバカリの明神と云ふ。毎年霜月十五日、酒を作り置き、翌年正月十五日に、明神へ供す。酒の善惡に依て、戌の豐凶を計り知る。故に世計の明神と云ふ』とある。
「見崎」ママ。この「トツテガ崎」とは突渡崎で、現在の森戸と葉山の中間点の出先である柴崎海岸である。あそこから城ケ島は確かに見えるが、その北の剣崎が見えるというのは、やや不審な気もする。岬の頂上部が見えるということであろうか。実際に居住されおられる方の御教授を乞うものである。]

   杜  戸
 小壺村ノ東南ノ濱ニ小社アリ。三嶋明神ヲ勸請シタルト云。御當家四代ノ御朱印高七石アリ。祭禮ハ治承四年九月八日ニ賴朝勸請アリシ故ニ、今モ此日ヲ祭日トス。
 神寶
  猿田彦面         一ツ 運慶作
  靑葉ノ笛ノ寫シ      一管
  アコヵ小鼓筒       一ツ
[やぶちゃん注:「アコヵ」「阿古が」。但し、正しくは「阿古あこう」と読み、鼓胴作りの名工の名。初世の阿古は室町中期将軍義政の頃に在世した。]
  駒角           一本
  古證文          一通
  〔文和二年六月廿六日、相模國葉山郷内オリ田云々平判トアリ。相傳テ和田義盛ガ狀ト云トナン。〕
   證文          一通
   
〔此ヲ二位尼ノ袖判ノ狀ト云。其文ニ云ク。〕
 下 婦神禰宜職、奧ニ暦應二年十二月十六日トアリ。婦神ト云ハ何ノ義ゾト社司ニ問へバ、社司モシラズ。只是ハ此神ノ名ナリト云。
[やぶちゃん注:「〔此ヲ二位尼ノ袖判ノ狀ト云。其文ニ云ク。〕」という割注は、底本では花押の下にある。以下に、「新編鎌倉志卷之七」の「杜戸明神」の条にある花押を以下に示しておく。
  
これはもう、花押としては全く別物という感じである。]
  後鳥羽院々宣       一通
  〔勅使左中辨則實トアリ。其内ニ嘉元々年守殿明神トアリ。又刑部少輔物部恆光ノ字アリ。守殿ト書テ、モリトヽヨムカ、又モリトノト云カ、未審ラズ。此院宣文字漫滅、紙巳ニ朽幣シテ、何事トモシレ難シ。〕
[やぶちゃん注:「朽幣」は「朽弊」の誤り。]
 社ノ北ニ飛柏槇ト云樹アリ。三嶋ヨリ飛タルトテ岩ヨリ木へ倒レ懸リテアリ。社ノ西ニ千貫松、同ク南ニ腰懸松トテ、賴朝ノ憩タル木ト云。濱へ差出タル石ヲ高石ト云。高石ノ後ノ山ヲ心無シンナシ山ト云。御殿山・御城山ト云ハ所ノ總名ナリ。社ノ西ノ岩ニ、賴朝遊館ノ柱ノ穴アリ。賴朝ノ泉水トテ、岩間ニ淸キ所アリ。遊魚アリケルト云。左リ卷ノ采螺、昔ハアリシガ、今ハナシト也。若是ヲ取レバ神物也トテ、其僅海へ歸シ入ルト云。カケヒ疫神ト云木二本アリ。今ハナシト云。神主守屋和泉、物語シケルハ、不動・金迦羅・勢多迦・獅子等昔ハ有タリシガ、今ハスタレテナシト也。此地海中へ出張テ、水石至テ淸シ。類ヒナキ絶景ナリ。出崎ニ離レタル嶋ヲ夷磯ト云。杜戸ノ南ノ海上ニ名嶋ト云アリ。折シモ夕陽波ニ浮ンデ日ヲ洗フガ如シ。又舟ニ駕シテ歸ル。路次ニ濱邊ヲ見ル。杜戸ノ濱ニ添テ心無山、其西ノ村ヲアブツルト云。山ヲアブツル山ト云。其西ハ小壺村ナリ。
[やぶちゃん注:采螺は先にも出たが「榮螺」。光圀はこれを誤字ではなく確信犯的に「サザエ」の意で用いているようにも思われる。]

   小 壺 村
 漁村アリ。小壺ヲ隔テ、南ノ入ヲ多古江ノ入ト云。多古江川アリ。其川ノ南ノ小流ヲゴザイ川ト云。小壺ノ東北ノ向ニ當リタル地ヲコウノ嶽ト云。藥師アリト也。多古江川ノ東ニ六代御前ノ塚アリト云。
[やぶちゃん注:「ゴザイ川」は「ゴサイゴ川」の誤り。「御最後川」で六代御前がこの川畔で斬られたことに由来するという。]

   鷺  浦
 小壺ノ入ノ云ク。漁師ノ家多クアリ。片濱ニテ景地ナリ。
[やぶちゃん注:「ノ云ク」底本には右に編注で『(ヲ云ィ)』とある。この「ィ」は「意」の意か。]

   飯  島
 小壺村ノ西ナリ。賴朝舟着岸ノ煩ナカランメンガ爲ニ筑クト云。山ニ住吉明神ノ社アリトナリ。道寸ガ城モアリ。飯嶋ノ西ヲ和歌江嶋ト云。其西ハ材木座ノ漁村也。舟ヲ飯嶋ノ濱ニ着テ、馬ニ乘ジテ海濱ヲ歸。

 七日源敬公ノ月忌ナル故、早晨ニ光明寺ノ衆僧ヲ招キ齋饌ス。齋シ畢テ卯刻ニ及テ庵ヲ出、東北ノ方へ行。
[やぶちゃん注:「源敬公」右に光圀自身による『尾張大納言義直公ノ道號也』という傍注が附されている。これは家康の九男、尾張藩初代藩主徳川義直(慶長五(一六〇一)年~慶安三(一六五〇)年五月七日)のこと。光圀の父徳川頼房は家康の十一男であるから、伯父に当たる。]

   龜 井 坂
 淨光明寺ノ北東ニアリ。此地ヲ龜井谷ト云。龜井坂ノ入口ニ勝榮寺ト云寺ノ跡アリ。
[やぶちゃん注:現在の亀ヶ谷坂。
「勝榮寺」「鎌倉廃寺事典」に禅宗で所在地未詳とする。元応元(一三一九)年に北条貞時夫人覚海緣成尼の強請により、夢窓疎石が当時に寓したことが「夢窓国師年譜」にあるのが最古の記録で、後には建長寺正統庵の末寺となり、廃年は未詳とする。]

   長 壽 寺
 龜井坂ノ下ニアリ。建長寺ノ末寺、尊氏ノ建立也。尊氏ヲ長壽寺殿ト云。束帶ノ影像アリ。

   官領屋敷
 明月院ノ馬場ノ南隣ノ畠也。
[やぶちゃん注:「官領屋敷」の「官」は「管」の誤り。]

   明 月 院
 龜井坂ノ東北ナリ。建長寺ノ首塔頭也。高嶽院ト明月院ト建長寺ヲ輪番ニ勤ル也。上杉安房守憲方建立、法名道合明月院ト號ス。開山密室禪師、諱ハ守嚴、大覺ノ孫弟子也。密室ノ木像アリ。建長寺百貫ノ御朱印ノ内ニテ、三十一貫文此寺ニ附スト也。
 寺寶
 指月和尚畫像       一幅
 二十八祖唐繪       一大幅ニ畫ス
 趙昌畫          三幅對
 〔中ハ鶴ニ岩木、左右ハ種々ノ牡丹花、細字ニ牡丹ノ名ヲソレゾレニ書付ル。〕
 徽宗鳩畫         一幅
 仲峯自畫自讚       一幅
 〔贊云、天目山下不遠、遠山有眉※、要識幻住眞、畫圖難辨別、春滿錢塘潮、秋湧西湖月、覿面不相瞞、也是眼中屑、遠山華居士冩幻影、請汚老幻、旧本信筆。今ノ住持長老碩岷曰、仲峯國師名ハ明本和尚ト云、旧ハ明ノ字ナルべシト云。〕
[やぶちゃん注:「※」=「目」+「健」。但し、「新編鎌倉志卷之三」の当該項では「睫」である。「旧」は文脈から正字「舊」とはしなかった。]
 布袋木像         一體〔運慶作、極テ奇ナリ。〕
 源義經守ノ佛舍利
 藕絲九條袈裟       一ツ
  黄龍ヨリ千光へ傳へ、千光ヨリ大覺へ傳ルト云。
 氏滿在判ノ明月院地圖   一枚
寺内ニ織田三五郎長好ガ寺トテ、長好院ト云アリシガ、今ハ破レ亡ヌ。其跡トテモナシ。長好院ノ名寶モ皆他所へ散ズト也。明月院ノ寶物モ古ハ多カリシガ、今ハ散失シテ此外ハナシト云。庭除ノ風景殊ニ勝レタリ。方丈ノ西北ニ上杉憲方ガ石塔ノ岩室アリ。十大羅漢ヲ切付タリ。其東ノ畠、古ノ明月院ノ遺跡也トゾ。明月院前住、寛文十二年子ノ十月ニ卒ス。遺偈ノ寫シ。
  建長前住大年寛和尚遺偈、示寂八十一歳、十月廿九日、滅却正法驀直現出、白日靑天寒風拂地
[やぶちゃん注:「寛文十二年」西暦一六七二年。この「大年寛和尚」なる人物と遺偈については「新編鎌倉志卷之三」には不載。この偈の「驀直」は禅語では「まくじき」と読み、真っ直ぐに、の意である。何故、この最近の住持の遺蹟を光圀が記したのか不詳であるが、どうも、現住職碩岷に見せられた、この前住の偈自体に光圀は打たれたのではあるまいか。なお、建長寺絡みでは検索で大年碩寛なる人物の名前だけが検索で引っ掛かるが、現住の「碩岷」という名といい、本人の「大年寛和尚」という名といい、何となく気になる。識者の御教授を乞う。]

   禪 興 寺
 明月院ノ門ノ北ニアリ。本ハ十刹ノ第一ナリシガ、今ハ頽破シテ、僅ニ古ノ堂バカリ殘テ、明月院ノ持分也。福源山ト號ス。平時賴建立。開山大覺禪師也。最明寺崇公禪門覺靈トアル位牌アリ。蘭溪ノ付ラレタルト云。筆者モ蘭溪カ或ハホウリンカト云。
 最明寺建立故ニ寺ヲ最明寺トモ云。本尊ハ釋迦、首ハ惠心作ナリト云。
 寺寶
 伊達天像           一軀 運慶作
 蜀大帝像           一軀
 地藏像            一軀 運慶作
 土 佛            一軀 隆蘭溪作
 上杉重房木像         一軀
 北條時宗・時賴木像      二軀
 大覺禪師木像         一軀
 〔傍ニ開山建長大覺禪師ノ坐ト書付シ位牌アリ。大覺ノ自筆ト云。〕
[やぶちゃん注:「伊達天」は「韋駄天」の誤り。
「蜀大帝」は関羽のことか。]

   淨 知 寺
 明月院ノ西北ナリ。金峯山ト號ス。五山ノ第四也。寺領七貫文餘アリ。相摸守師時ノ建立。開山佛源禪師、詳ニ元亨釋書ニ見へタリ。本尊釋迦・彌勒・彌陀ナリ。龜山院ノ細字、文應元年ニ佛源禪師ハ宋ニ歸ル。附法ノ弟子眞應禪師ハ壯年ナルヲ以テ、徑山石溪和尚ノ法嗣佛源禪師言ヲ殘シケル故ニ、眞應・佛源兩師ヲ開山トモ云ナリ。寺へ上ル坂ノ下南ノ方ニ甘露水ト云名水アリ。
 寺寶
 竺泉畫像        一幅
 佛源木像        一軀
 伊達天像        一軀〔澤間法眼作〕
 地藏          一軀〔運慶作〕
 平貞時證文       二通
  此外寺寶ドモ有シガ、度々ノ囘祿ニ亡シト也。
[やぶちゃん注:「淨知寺」は「淨智寺」の誤り。
「澤間法眼」は「宅間法眼」の誤り。]

  松 岡 山
 山門。東慶總持禪寺ト額アリ。本尊ハ釋迦・文殊・普賢、金銅ニテ鑄之(之を鑄る)。此寺ハ平ノ時宗ノ室、尼ト成テ學山和尚ト云。二代目ハ後醍醐天皇ノ姫宮、薙染シ玉ヒ、住持アリシトナン。或ハ學山已前ヨリモ尼寺ニテ有ケルガ、學山住テヨリ世上ニ名高クナルト也。今モ百廿貫文ノ寺領アリ。
[やぶちゃん注:「學山和尚」は「覺山和尚」の誤り。]

   圓 覺 寺
 五山ノ第二也。相模守時宗、弘安五年十月十四日建立。開山圓滿常照國師佛光禪師、諱ハ祖元、字ハ子元、無準ノ嗣法ナリ。亨釋書ニ詳ナリ。本尊ハ釋迦・梵天・帝釋ノ木像、倶ニ京ノ殿ノ作ナリト云。大門ノ額ニ瑞鹿山〔龜山院勅筆〕。法堂ノ額、大光明寶殿〔後光嚴院勅筆〕。百四十貫文ノ御朱印アリ。今ハ塔頭十九ヶ寺アリ。明鏡堂は本尊觀音、佛殿ノ脇ニアリ。毎月十八日ニ衆中寄合懺法アリ。
[やぶちゃん注:「亨釋書」「元亨釋書」の脱字。]
 寺寶
  常照國師自畫白讚
  時宗自筆佛法問答ノ狀幷佛光自筆ノ返札
  勅謚佛光禪師ノ掛物〔伏見院宸翰〕 一幅
  圓覺興聖禪寺ノ額         一幅
    山門ノ額ナリト云。筆者シレズ。
  平貞時ヨリ圓覺寺へノ壁書。其文ニ
     圓覺寺制府條々
   一 僧衆事
    不可過弐百人
   一 粥飯事
    臨時打給一向可停止之
   一 寺中點心事
    不可過一種
   一 寺參時※從輩儲事
    可停止之、
[やぶちゃん字注:「※」=「广」+(中に)「邑」。]
   一 小僧喝食入寺事
    自今以後一向可停止之、但旦那免許非禁制之限、
   一 僧徒出門女人入寺事
    固可守先日法、若違犯者可追放之、
   一 行老人工帶刀事
    固可禁制之、若有犯者永可追出之、
  右所定如件、
   乾元二年二月十二日  沙彌判ト有
[やぶちゃん注:提示の順序が逆。乾元二(一三〇三)年のこちらの寺院禁制の定め書きである制符状の方が次の同文書(クレジット永仁二(一二九四)年)よりも新しい。これは、「鎌倉市史 資料編第二」の資料番号三七の乾元二年二月十二日附「崇演〔北條貞時〕圓覺寺制符條書」である。「※從」はそこでは「扈從」となっている。題の「制府」はママ。寺内の僧衆の総員は二百人を超えてはならない・臨時の粥飯を支給してはならない(禅宗ではときという午前中一回の食事以外には原則上食事は認められないが、非時と称して昼や夜が認められていたが、ここはそれ以外の間食を禁じているのであろう)・寺内での点心(禅家で非時の昼食を指すが、これは一汁一菜のことと思われ、正式な食事である斎を含む総てか)は一種類を過ぎてはいけない・檀家が檀那寺に参る際には僧の供の者どもに対して饗応してはならない・檀那が許可した以外の小僧や喝食を寺に入れてはならない(稚児はしばしば同性愛の相手となった)・僧の出奔や女の入寺の禁止と違約した者の永久追放(破戒僧は恐らくは打擲されて死んだ場合もあろう)・行者や人工(寺内で作業する職人のことか)の帯刀禁止と違約した者の長期に亙る強制退去の内容である。これは次の禁制の円覚寺再通達版であるところをみると、これらを違反する僧衆が(高い確率で結局はこの後も)後を絶たなかったことを意味している。「沙彌」は貞時のこと。本文に異同はない。]

   禁制條々
  一 僧衆不帶免丁事
  一 禪律僧侶夜行佗宿事
   若有急用之時者爲長老之計可差副人也、
  一 比丘尼幷女人入僧寺事
   但許二季彼岸中日、二月十五日、四月八日、
   七月孟蘭盆兩日、此外於禪興寺者毎月廿二日、
   於圓覺寺者毎月初四日可入也、
  一 四月八日花堂結構事
  一 成臘牌結構事
  一 僧侶横行諸方採花事
  一 僧衆去所不分明出門事
  一 延壽堂僧衆出行事
  一 僧侶着日本衣事
  一 僧徒入尼寺事
  一 四節往來他寺作礼事
  一 僧衆遠行之時送迎事
   右條々於違犯之輩者不論老少、可令出寺也、若於有子細者可指申其名之狀如件、
    永仁二年正月日
                  貞時ノ判ナリト云。
[やぶちゃん注:これは、「鎌倉市史 資料編第二」の資料番号二四の永仁二年正月附「北條貞時禪院制符條書」で、題と内容から見ると、これは鎌倉御府内(と考えられる)の禅宗寺院への共通禁制の定め書きと考えられる。寺内の僧衆は必ず「免丁」――「めんちん」と読み、当該寺院の修行僧であることの安居あんご許可証――を所持すること・僧の夜間外出及び外泊の禁止(急用の場合は住持が許可することがあってよいが、その際には必ず人を同伴させることという例外条項あり)・比丘尼及び女性の入寺禁止と除外日の規定(春秋の彼岸の中日〔父母・祖霊の供養〕/二月十五日〔釈迦入滅の涅槃会〕/四月八日〔釈迦誕生の灌仏会〕/七月盂蘭盆両日〔父母・祖霊の供養〕/禅興寺のみ開基北条時頼の命日である毎月二十二日の法会/円覚寺のみ開基北条時宗の命日である毎月四日の法会)・灌仏会に於いてそれを執り行う花堂の供養は質素父母・祖霊の供養・その他の仏事に於ける授戒時の礼式や蠟燭や位牌も質素を心掛けること・僧侶が濫りに寺外に出歩き花を摘むことの禁止・僧衆の無断(行先を告げない)外出の禁止・延壽堂(病気の療養を行っている僧が居住した)の僧の外出禁止・禅僧の正式な宋様式でない日本服の着用禁止・男性の僧徒の天セラへの入寺禁止・四節(叢林に於ける結夏・解夏・冬至・年朝の日を指し、その日に行われる上堂説法のこと)に他の寺に行って礼(飛び入り参加か)をすることの禁止・僧衆の遠出の際の送迎餞別禁止と、それら総てについて違反するものは老若を問わず、寺から永久追放、万一、その違反に仔細がある場合はその内容を申告させよ、という実にこまごまとした禁制が示されていてまっこと面白い。資料二四には最後に貞時の花押があるとする。本文に異同はない(漢字表記は市史所収のもので確認した。「礼」はママ。「違犯」は「市史」では(しんにょう)の中が異なるが、底本通りとした)。]
 宿龍懸物         一幅〔天山道義トアリ。〕
 桂昌           一幅〔同筆〕
 普現           一幅〔同筆横ニ並ビテアリ。〕
[やぶちゃん注:「普現」は「普賢」の誤り。]
 敕會法華御八講役付書   一卷
  相摸入道ノ時ノ事也。レイサン和尚南山ナド云僧此寺ニ在シナリ。
 靑蓮院墨蹟        一幅
  至德元年十二月十一日トアリ。
 最勝輪ノ額        一枚〔後光嚴院宸筆〕
 黄梅院額         一枚
 〔後小松院寅筆二枚、倶ニ夢想堂ノ額ナリ。夢想ハ佛光ヨリ四十九年モ後ナリ。佛光ノ孫弟子ナリ。佛光ハ大覺俗衣ノ甥ナリ。〕
 大幅ノ唐畫ノ觀音     一幅
 浴室本尊跋陀婆羅菩薩畫  一幅
  筆者宗淵トアリ。
 五百羅漢畫        五十幅
  唐畫カ、兆典主カト云。
[やぶちゃん注:「兆典主」は「兆殿主」の誤り。]
 佛光硯          一面
 佛牙舍利幷記
  舍利ヲ琉璃ノ皿ニ入、匕(サジ)ヲ添テスクフテ見セシム。長一寸餘、五アリ。
 一山自筆状        一通
       是ハ山ノ書判也。則一山ノ文字ナリトゾ。
 臨濟像          一幅〔無準贊〕
 佛鑑像          同 〔璵東凌贊〕
 十六善神         同
 南院國師眞跡       同
 普明國師眞跡       同
 葦航和尚眞跡       同
 中山和尚眞跡       同
 貞時眞跡         四幅
 高時眞跡         一幅
 建長圓覺中納言奉書    一幅
 西園寺殿書        二幅
 六波羅越後守狀      一幅
 尊氏判形         二幅
 瑞泉寺判形        二幅
 同 眞跡         一幅
 法衣寄進状        同〔持氏眞跡〕
 鹿苑院眞跡        同
 此外書畫倶ニ多シ。枚擧スべカラズ。
塔頭ノ内續燈庵ノ寺寶
 尊氏自筆ノ法華經     八卷
 〔跋ニ奉爲三品觀公大禪定門修五種妙行觀應三年九月五日書寫了。正三位源尊氏判トアリ。續燈庵ハ佛滿禪師ト云僧開山ナリ。淨妙寺へモ住持シタル僧ナリ。〕
本堂ノ乘北へ行コト數町計ニシテ、開山ノ影堂アリ。萬年山續庵ト云。西御門ノ大平寺ト云尼寺ヲ引テ法堂ニ立ルト也。開山ノ木像ノ肩・背ニ鳩ト龍トヲ刻ム。妙作也。野鳥來テ肩ニナレ、百龍袈裟ニ現ズト云傳フ。詳ニハ神社考ノ鶴岡部ニ見へクリ。開山堂ノ上ニ坐禪窟アリト云。路險ニシテ上リ難シ。開山堂ノ東側ニ小池アルヲ宿龍地ト云。佛光日光へ渡シ時、一ツノ龍舟ヲ守護ス。後ニ鎌倉マデ送リ、上ノ池ニ宿セシ故ニ名付ト云。山ノ上ニ鹿岩アリ。此寺創立ノ時、鹿ノ奇瑞アルニ因テ瑞鹿山ト名ク。鹿岩アルモ此故ナリトゾ。本堂ノ北側ニ妙香池ト云池アリ。池ノ北ノ岩ヲ虎頭岩ト云。此寺ノ鐘極テ奇巧ナリ。高林ノ中ニ懸タリ。鐘銘幷ニ足利ノ寒松ガ福鹿懷古ノ詩文別紙ニ戴之(之を戴す)。
 表門ノ左右ニアル池ヲ白鷺池ト云。佛光來朝ノ時、八幡白鷺ト化シテ鎌倉ノ導引ヲシテ此池ニ止レリ。因テ此所ニ寺ヲ立テ、池ヲ白鷺池ト云。圓覺寺ヲ出テ南行シテ、第六天ノ森ヲ見ル。建長寺ノ西北、海道ヨリ西ニ有森ナリ。
[やぶちゃん注:「萬年山續庵」は「萬年山續統庵」の脱字。
「佛光日光へ渡シ時」は「佛光日本へ渡シ時」の誤り。
「足利」底本に右に『(足利学校)』と注する。]

   建 長 寺
 五山ノ第一ナリ。相摸守平時賴、建長五年ニ建立ス。開山大覺禪師、諱ハ道隆、蘭溪ト號ス。嗣法無明。詳ニ元享釋書ニ見へタリ。寺領九十五百九百文ナリ。表門ニ天下禪林ノ額、崇禎元年十一月日、竹西書ストアリ。門前ノ池ハ金龍水ト云名水也。山門ノ額巨福山、筆者シレズ。鐘アリ。至テ妙巧、鐘ノ銘、別幅戴之(之を戴す)。此寺昔ハ塔頭四十九ヶ寺アリシガ、今ハ廿一ヶ寺アリトナリ。昔ノ跡トテ今モ猶實ニ五山トオボシキハ圓覺・建長ノ二寺ノミ。境内廣ク、山澗林岡樹木欝々タル勝地ナリ[やぶちゃん字注:「澗」の「日」は底本では「月」。]。本堂ノ本尊、應行ノ作ノ地藏也。腹中ニサイタ地藏アリト云。應行ハ運慶ノ弟子也。此ニ谷アリ。地獄谷ト云。賴朝ノ時、犯罪ノ者ヲ成敗セシ所也。或時サイタト云者、科ニ因テ刑ニ逢ケルニ、敷皮ニナヲリケル時、人敢テ切ルべキ心地モナク、時ヲウツシケレバ、各罪ユルサレケリト心得テ退散シケリ。後ニ見レバ、多年尊信シケル地藏ノ首ニ、太刀ノ切目アリ。是ヨリ地藏ヲ地獄谷ニ安置シテ、サイタ地藏ト云ナリ。大友興廢記ニ、千躰ノ小地藏アリ。サユウト云者ノ作ナリト云。今ハ見へズ。但サイタ地藏ノコトカ。又開山堂ノ後ロヲ開山山ト云。地藏アリトナン。巳ニシテ方丈ニ到ル。龍源庵溪堂長老、諱ハ玄廉ト云僧迎接ス。方丈ノ後ニ靈松觀音石アリ、庭除多景也。千手觀音ノ木像〔常ニハ山門ニアリ。今修理ノ爲ニ暫ク此ニヲクト云。〕、時賴・開山ノ木像アリ。
[やぶちゃん注:「庭除」「除」も庭の意。庭園。中庭。]
 寺寶
  三幅對〔中尊釋迦  思恭筆  左右猿猴  牧溪筆〕
  羅漢            八幅
  〔但一幅ニ二人充畫ク、是ヲ唐畫ト云傳フ。狩野探幽永眞等ハ、兆典主ナランカト云フ。〕
 開山堂ニ詣ル。圓鑑ト云額アリ。開山大覺ノ筆ナリト云傳フ。開山自作ノ木像其側ニアリ。柱杖ヲ渡海ノ柱杖ト云。入唐ノ時携タル故ト也。外堂ニ迦葉・達磨ノ木像アリ。開山ノ舍利、院中ニアリト云。開山堂ノ前ニ舍利樹ト云木アリ、枝葉扶疎タリ、側ノ堂三上テ寺寶ヲ見ル。
[やぶちゃん注:底本では、この「達磨……」の右に編者による『(以下錯簡ニ付キ異本ヲ以テ補ウ)』という傍注がある。確かに、次の行で再び「寺寶」とある。また、この注によって本「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」は少なくとも二冊以上の異本があることが分かる。]
  寺寶
  
円鏡
〔此形ナル鑑ナリ。クモリテ分明ナヲズ。中ハサビノ如ク、高ク起上リタルアトアリ。〕
[やぶちゃん注:以下に「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項の「圓鑑えんかん」の図を示しておく。


 此鏡ノ記、前人ノ説詳也。其略ニ云。開山隨身之鏡也。入寂ノ時隨侍ノ僧ニ授ク。其後平時宗禪師ヲ慕ヒ、愁歎斜ナラズ。或夜夢ニ禪師時宗ニ向テ曰ク、シカジカノ僧ニ授ケ置シ鏡ニ、我容ヲ殘ス也。我ヲシタハヾ、此鏡ヲ見ヨトノ玉フ。夜明テ時宗此鏡ヲ尋トリテミガケバ、觀音ノ像ト見へタル紋アリ。時宗感ジテ圓覺寺ノ山ノ内ニ觀音三十三躰ヲ安置シ、寶雲閣ト名ケ、其本尊ノ首ニ納シガ、圓覺寺火災ノ時、建長寺ノ守嚴和尚坐禪シテ在ケルニ、空中ニ聲有テ守嚴ト呼。守嚴驚テ圓覺寺ニ行、門前ノ白鷺池ニ觀音ノ首アリ。取上見レバ中ニ此鏡アリ。即ソレヨリ建長寺へ納ト也。佛光・一山・月江・虎關ナドノ讚銘序ノ諸作多シ。
  大覺自作小觀音       一軀
  開山法語          二幅
  十六羅漢左右兩頭蓮    十八幅究
  觀音像〔顏輝筆〕    三十二幅
  朱衣達磨〔啓書記筆〕    一幅
  開山自畫自贊〔開山筆〕   一幅
   贊曰 拙而無比 與它佛祖結深※1 老不知羞 要爲人天開正眼
      是非海中濶歩 輥百千遭 劍戟林裏横身 好一片膽
     引得朗然居士
    於※2峯上能定乾坤
     負累蘭溪老
    向巨福山乘舴艋
    相同運出  自家珍
    一一且非  從外産
    辛未季春住持建長禪寺宋蘭溪 道隆
    奉爲朗然居士書干觀閣
     今案ズルニ辛未ハ文永八年ナリト。
[やぶちゃん注:「※1」=「窟」-「屈」+「免」、「※2」={(上)「雨」+(下)「隻」}。
「奉爲朗然居士書干觀閣」の「干」は「于」の、原本の誤りか底本の誤植と思われる。
「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項の「朗然居士の畫像」条に連続した文として示されてある賛を、ここと同じ位置で、句読点を排して配してみる。
    拙而無比 與它佛祖結深寃 老不知羞 要爲人天開正眼
    是非海中闊歩 輥百千遭 劍戟林裏横身 好一片膽
   引得朗然居士
  於※2拳上能定乾坤
   負累蘭溪老人
  向巨福山倒乘舴艋
  相同運出  自家珍
  一一且非  從外産
  辛未季春住持建長禪寺宋蘭溪 道隆
  奉爲朗然居士書于觀瀾閣
「寃」は影印では(うかんむり)が(あなかんむり)であるが、基礎底本とした地誌大系本を採っている。「※2」は影印では「雨」が「兩」のように見受けられる字体。大きな相違点は「※2」の次の字で、ここでは「峯」であるのが、「新編鎌倉志卷之三」では「拳」となっている点。この「朗然居士」とは現在、蘭渓を招聘した時の執権北条時宗と推定されている。以下に影印の訓点を参考に書き下したものを同じような配置で示しておく。
    拙にして比無し ほかの佛祖と深寃を結ぶ 老いて羞を知らず 人天の爲に正眼を開かんことを要す
    是れ非海の中に闊歩して こん百千遭 劍戟林裏に身を横たふ 好一片の膽
   朗然居士を引き得て
  ※2拳上に於いて能く乾坤を定む
   蘭溪老人に負累して
  巨福山に向ひて倒るに舴艋さくまうに乘る
  自家の珍を運出するに相ひ同じく
  一一且つ外より産するに非ず
  辛未季春住持建長禪寺宋の蘭溪 道隆
  朗然居士が奉らんが爲に觀瀾閣に書す。
「它」は「他」の意か。「輥」はぐるぐる回ることを言う。「舴艋」は小さな舟のこと。「※2拳上」は不詳、ただ本文の「※2峯上」の方が当たりな感じがする。雲を突いて出る峰などの謂いか。識者の御教授を乞うものである。]
  白衣觀音畫         一幅〔思泰筆〕
  金剛經           一部〔大覺筆〕
  紺紙金泥法華經       一部〔八軸〕
   日蓮筆、袖並ノ繪モ日蓮筆ナリト云。
  開山九條袈裟        四
  同衣            一
  坐具            一
  珠數            一
  掛羅            一連
[やぶちゃん注:「掛羅」は「くわら(から)」と読む。「掛絡」「掛落」とも書き、本来は禅僧が普段首に掛けて用いる小さな略式の袈裟を言うが、これは数詞を「連」としており(袈裟なら「頂」のはず)、推測であるが、掛羅袈裟に付けてある装飾用の象牙などの輪のことを言っているのではあるまいか。なお、次の「佛舍利」も参照のこと。]
  佛舍利           二〔一ツハ水晶、玳瑁ニテ六角〕
[やぶちゃん注:「玳瑁」の前に「一ツハ」を補いたい。「新編鎌倉志卷之三」の「寺寶」の中には、
開山九條の袈裟 貮頂 環クワンは水晶。
開山七條の袈裟 貮頂 環は玳瑁、六角なり。
という条々がある。この袈裟の数を見ると、合わせて「四」で、実は先の光圀の記載はいい加減であることが分かる。更に高い確率で、それら「袈裟」の水晶と玳瑁タイマイ製の袈裟の装飾具だけを外したものを光圀は見せられて、仏舎利と騙されたと考えられる(禅門なら平気でやりそうだし、実際、それは確信犯であるのかも知れぬ。円覚寺や建長寺などで私の実見した仏舎利と称するものは、その殆んどがどれも水晶であった)。]
  十六山善神         一幅〔唐繪、筆シレズ。〕
  〔寺僧云、唐畫八十幅ホドアレドモ、朽弊シタル所アル故ニ出サズ。此外ニ書畫甚多シ。詳ニ見ルニイトマアラズ。〕
 本堂ニ乙護童子ノ木像アリ。江嶋ヨリ飛來ルト云傳フ。溪堂長老ガ云、本ヨリ伽藍ノ守護神ニテ、寺ニアルべキコトナリトゾ。開山堂ノ總門高山ノ額ハ、納置テ出サズ。佛光ノ筆ナリ。西來庵ノ額、竹西筆ナリト云。興國禪寺ノ額、子曇西澗筆ナリ。傳燈庵ノ開山ナリト云。裏門ノ額ニ海東法窟崇禎元年十一月日竹西書トアリ。朝鮮人ナリ。建長寺ノ内、囘春庵存首座、長壽寺ノ天溪ナド云僧出テ案内セシ次デニ物語シテ云ク、此寺ノ後ニ池アリ。大覺池ト云。大龜常ニ居ルト云。
[やぶちゃん注:「開山堂ノ總門高山ノ額」の「高山」は「嵩山」の誤り。
「次デニ」は底本に右に『(序)』と補注するが、「次」は鎌倉時代以来、「ついで」と一般的訓ずるものである。]

   地 藏 坂
 建長寺ヲ出、南行シテ路傍ニ伽羅陀山ノ地藏堂アル所ヲ云。
[やぶちゃん注:これは当時既に廃寺となっていた伽羅陀山心平寺の地蔵堂である。「鎌倉廃寺事典」によれば、建長寺は元処刑場であったが、そこに元あった禅宗寺院が心平寺えあったとする。『建長寺創建の際、当心平寺の地蔵堂だけが残っていたのを、小袋坂上に移建したという』とする。「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の図の右下に「伽羅陀山地藏」と記す一堂が描かれてある。『この堂は小袋坂新道開通前まであって、いまは横浜三溪園に移されている。その本尊地蔵菩薩坐像は建長寺仏殿内に安置してある』とある。]

   小袋坂〔或ハ作巨福呂〕
 建長寺ノ南、地藏坂ヨリ南ノ切通ヲ云。延應二年〔月付落ル〕十九日、山ノ内ヲ切通シ、往還ノ通路ヲ作ル。賴經將軍ノ治世、泰時ノ執權ノ時ナリト云。山ノ内トハ小袋坂ヨリ北ノ出崎マデノ總名ナリ。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」の「山内」の条に『里人は、東は建長寺、西は圓覺寺の西野の道端、川邊に榎木あるを境として、それより東を山内と云ひ、西を市場村・巨福路谷こふくろがやと云』とある。この時期には既に現在の狭義の「山ノ内」と同領域にこの地名が限定されていたことが分かる。]

   聖 天 坂
 小袋坂ノ出崎ノ西南ノ高キ所ニ、昔聖天ノ宮アリシ故ニ、今モ其所ヲカク云トナン。遂ニ雪ノ下へ出テ旅寓へ歸リヌ。明日ハ早武江へ行ントスルニ、名越口見殘シツレバ、老臣等ヲ遣シテ是ヲ見セシム。
[やぶちゃん注:見残して去ってしまう部分を、ちゃんと家臣に命じて見聞させているところ、流石、黄門さま、面目躍如たる感がある。]

   佐竹屋敷
 名越海道ノ北、五本骨ノ扇ノ如クナル山ノウネアリ。其下ヲ云也。

   安 養 院
 祇薗山ト號ス祇薗ノ社アリ。本尊阿彌陀、淨土宗智恩院ノ末寺ナリ。開山願行也。二位尼ノ草創ニテ、長谷ノ前、水無瀨川ノ邊ニ有シヲ、高時滅亡ノ時、此地ニ移スト云傳フ。然ドモ舊記ナケレバ慥ニハ知ガタシ。願行ハ笹目ガ谷長樂寺開山隆觀ガ弟子也トイフ。按ズルニ向者サキニ淨光明寺ノ僧語テ云、願行ハ禪僧正義專一代居住シ、他ニ出ルコトナシト。又覺園寺ノ開山心意和尚ハ願行ノ嗣法也ト。覺園寺ハ律宗ニテ、泉涌寺ノ末也。然ラバ泉涌寺ノ僧ト云説、是ナルベシヤ。但願行ニ同名二人アリテ、此寺ノ開山ハ別ナルニヤ、未ダ審ナラズ。
[やぶちゃん注:「智恩院」は「知恩院」の誤り。この記載の疑義は、安養院がここに移転する前に善導寺(移転前に廃寺)という寺があったこと、この善導寺の開山が浄土宗名越派の祖であった良弁尊観(浄土宗三祖良忠の弟子)で下総・常陸・下野から東北地方全域へと教線を広げていったその本拠地が善導寺であったこと、その後に移って来た安養院はもと律宗であったものが途中で浄土宗に改宗された寺であること等による。しかし、今回、更に調べてみて不思議なことが分かった。それは、「鎌倉市史 社寺編」の「安養院」には、
 延享四(一七四七)年
六月に行われた『諸宗寺院本末改により京都知恩院末となる』という記載がある点である。この「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」は、
 延宝二(一六七四)年
五月の記録である。これは「鎌倉市史」の言う延享四年より七十三年も前に、既に知恩院末寺となっていたことを示している。これはどういうことか? 非公式には以前から既に知恩院末格となっていたものが、そこでの改組に伴い正式に認定されたということか? 識者の御教授を乞うものである。]

   花 谷〔附蛇谷〕
 内ニ谷々多シ。大倉へ出ル切通シニアリ。此谷ノ内ニ蛇谷ト云アリ。昔若キ男アリ。老女ト相具セリ。老女廿歳計ナル娘ヲ持タリ。年來住渡リテ老女ノ思ヘルハ、我齡傾キヌ。若キ男ニ相馴シコト、誠ニヲコガマシ。不若(かじ)我娘ヲ我男ニ合セ、吾ハ別ニ家ヲ作ラセテ居ンニハトテ、彼男ニカクト語ケレバ、男是ヲ受ゴハズ。猶親カリケレドモ、老女少モウハノ空ナルコトニアラズ。望ム如クニシ玉へト、度々云ケレバ、男モイナミ難クテ、我居所ノ側ニ、小キ居ヲ構テ老女ヲ居キ、男ハ娘ト相具シテケリ。一年ニ年住渡テ彼母、煩クテ閨ヨリ出ザリケレバ、男ノ留守ニ娘母ノ許へ行テ、此程ハ御心重ク見へサセ玉フ。藥ナド奉ンヤト問ケレバ、母痛ク忍テ事ナキ由ヲ云ケリ。娘ノ云ク、何事ヲカ我ニ隱サセ玉フゾトテ、泣恨ケレバ、母點シガタクテ曰ク、我男ニソコヲ合置テ、カタ住ナスコト專心ヨリシテナス事ナレバ、人ヲ恨ムべキニ非ズ。然ヲ何トナク寢ザメノサビシサ、又ハ二人住居ルヲ餘所ナガラ見ナセシガ、若ソレニヤ有ケン、我指二ツ蛇ニレリ。我身ナガラモ愧ク、妬シサニヤ成ケント思ヒ、煩フ計ナリ。是見ヨトテ出スヲ見レバ、兩ノ大指ハ蛇ニ成、目口アザヤカニ有テケリ。娘恐ロシク二目トモ見ルコトナク、トカク我ガ在故ニヤト思ヒ、其儘走出テ或ル寺へ行、尼ニナリニケリ。男歸テ此事ヲ聞キ、爲方ナクヤ思ヒケン、其マ、男モ樣ヲ化ケリ。母モ若キ二人ノ者共ダニ出家ス。我トテモ爭カ有ントテ、樣ヲカヘ、諸國修行シケバ、輪囘ヲヤ離レケン、本ノ如クエ指ハナリケルトカヤ。是ヨリシテ蛇谷ト云リ。長明ガ發心集ニ詳ナリ。今此所ヲ尋ルニ、イヅクトモ知レガタシ。今按ズルニ舊記ニカク引タレドモ、發心集ニハ何レノ國ト慥ニ聞侍リシカド、忘ニケリト云リ。沙石集ニ、鎌倉ニ或ル人ノ女、若宮ノ僧坊ノ兒ヲ戀テ、思ヒ死ニ死ヌ。骨ヲ善光寺へ送ラントテ箱ニ入置ケリ。其後兒病付テ物狂ハシクナリケレバ、一間ナル所ニ押コメテヲクニ、人ト物語スル聲シケリ。人物ノヒマヨリ見レバ、大キナル蛇ト向ヒ居ル。サテ終ニ兒モ死ニケリ。若宮ノ西ノ山ニ葬ムルニ、棺ノ中ニ大キナル蛇アリテ、兒ニマトハリタリ。サテ女ノ骨モ小蛇ニナリタリト云リ。此故事故ニ谷ノ名歟。
[やぶちゃん注:本話「母妬女手指成虵事(母、むすめを妬み、手の指、くちなはに成る事)」は「新編鎌倉志卷之七」の「蛇谷」で、「発心集」の正規本文も示して詳細な考証も附してあるので、是非、お読み頂きたい。また、最後に引く「沙石集」の「七 妄執に依つて女蛇と成る事」も「鎌倉攬勝考卷之一」の「蛇谷」で全文と語注を附してある。合わせてご覧頂きたい。従ってここでは表記上の問題箇所の指摘にのみ留める。
「不若我娘ヲ我男ニ合セ、吾ハ別ニ家ヲ作ラセテ居ンニハトテ」ここは、「我が娘を我が男に合はせ、吾は別に家を作らせてまんには若かじ、とて」と返らなければおかしい。
「煩クテ」「わづらはしくて」と訓じているか。若しくは「煩ヒテ」の誤記かも知れない。患って。
「母點シガタクテ」は「母默シガタクテ」の誤り。「もだし」と読む。]

   妙 法 寺
 楞嚴山ト號ス。本ハ不受不施ニテ松光山啓運寺ト云リ。日蓮始テ法華經ノ首題ヲ讀誦セシ所ナリ。本尊釋迦、開山日卯、中興日受ナリ。住持之云、誰ノ建立トモ知レズ。近來鎌倉久兵衞ト云市人ガ再興セリ。
[やぶちゃん注:「日卯」は「日印」の誤り。]

   安 國 寺
 妙寶山ト號ス。前記ニ寶久山ト云ハ誤ナリ。比企谷ノ末寺ナリ。本尊釋迦。此堂ハ廿年計以前ニ家臣小野角右衞門言胤再興ス。日蓮安房ノ小湊ヨリ始テ來リ、此堂ノ後ナル岩窟ニ居テ、安國論ヲ編ケルトナリ。内ニ日蓮ノ石塔アリ。前ニ影堂アリ。

   名 越 入
 材木座ト名越切通トノ間ヲ云。東鑑三建久三年七月廿四日、幕下名越殿に渡御ストアリ。

   長 勝 寺
 石井山ト號ス。名越坂へ通ル東北ノ谷ナリ。法華宗本國寺ノ末也。本尊釋迦、開山日卯、嘉暦元年ノ草創。其後日靜ハ尊氏ノ叔父ナル故、彌繁昌タリシガ、日靜本國寺へ入院ノ時、寺家多ク隨ヒ移リテヨリ以來、次第ニ零落シタリト也。寺領四貫三百文、豐臣秀吉幷三御當家四代ノ徹朱印アリ。秀吉禁制札モアリ。本堂ハ小田原北條家ノ時ニ、遠山因幡守宗爲再興ス。因幡守夫婦ノ木像アリト、寺僧隆玄院物語シ侍リヌ。
[やぶちゃん注:「日卯」は「日印」の誤り。]

   日蓮乞水
 名越切通ノ坂、鎌倉ノ方へ一町半計前ナル道ノ側ニ、少キ井ノ樣ナル所アリ。里翁ニ間へバ、果シテ是ヲ乞水ト云。是ハ日蓮安房ノ國ヨリ鎌倉ニ移ル時、此坂ノ中ニテ水ヲ求レバ、俄ニ涌出ケルトナリ。今ハ跡バカリアリ。

   名 越 坂
 三浦へ通フ道ナリ。杜戸ノ明神へ行ク陸道ハ此坂ヲ行也。此峠鎌倉ト三浦トノ境也。甚峻峻ニシテ道狹ク、左右ヨリヲヽヒタルガ如シ。峠ヨリ西ヲ名越ト云。東ヲ久野谷ト云。

   名越三昧場
 名越切通ヨリ北山ノ巓キ、少廣所三石塔一ツアリ。男石塔、女石塔アリト云事、前記ニアレドモ、今ハイヅクエアリトモ見へズ。

   御猿場山王
 小山三松少シ有所ヲ云。昔此ニ山王ノ社アリ。里老ガ云。日蓮鎌倉ニ始テ出ル時、諸人憎テ一飯ヲモ送ラズ。然ル時此山ヨリ猿ドモ、群ガリ來リテ、畑ニ集リ、喰物ヲ營ミテ日蓮へ送リケル故ニ云ト也。

   法 性 寺
 猿畠山ト號ス。寺ヨリ遙カ上ニ塔アリ。其上ノ岩穴ニ日蓮ノ影アリ。今ハ塔ノ内へ入置。塔ヨリ北ニ六老僧ノ籠アリ。塔ノ前ニ日朗ノ墓所アリ。其上ニシルシノ木トテ大ナル松アリ。弘安九年ニ日蓮此寺ヲ建立ス。猿ドモ我ヲ養シコト、山王ノ御利生トテ建立スト云リ。



 凡此等ノ事、郷導ノ教ニ任セ、見聞ニシタガヒテ草々シタ書トメヌ。鎌倉記・名所物語・順禮ナド云ル書ヲ指シテ舊記前書トハ云ナリ。件ノ書ニ戴ル事ノ詳ニシテ語ラザルヲバ贅スルニ及バズ。其泄シ殘シテ違ヒヌル事ヲ更ニ考へ正シ、且又モトヨリ聞ケルコトドモ思ヒ出ルマヽニ、アト前トナク雜へシルシヌ。鎌倉ノ地圖、三崎・杜戸・江島・金澤・鶴岳社・建長寺・圓覺寺・稱名寺・道寸古城等ノ諸圖、及ビ諸寺ノ鐘銘等ハ、別紙ニアリ。合テ見ルべシ。
  延寶二年〔甲寅〕五月 日

 引用書目錄
[やぶちゃん注:以下は底本では四段組。]
萬葉集        類衆和名抄
詞林采葉〔仙覺作〕  東鑑
太平記        徒然草
野槌         長明海道記
發心集        沙石集〔無位作〕
[やぶちゃん注:「無位」は「無住」の誤り。]
續古今和歌集     新拾遺倭謌集
未木集〔藤長淸作〕  類聚名所和歌〔昌瑑〕
[やぶちゃん注:「昌瑑」は連歌師里村「昌琢」の誤り。]
鶴岡記        鎌倉五山記
鎌倉物語〔中川喜雲〕 鎌倉順禮〔澤庵作〕
[やぶちゃん注:「中川喜雲」は正確には「中河喜雲」が正しい。]
鎌倉記〔松村〕    鎌倉集書〔手塚太郎左衞門〕
[やぶちゃん注:「鎌倉記〔松村〕」「鎌倉集書〔手塚太郎左衞門〕」ともに私は不詳。識者の御教授を乞う。]
鎌倉覺書〔四通〕   關東兵亂記
[やぶちゃん注:「鎌倉覺書〔四通〕」不詳。識者の御教授を乞う。]
寺社領員數記     大友興廢記
王代一覽       日本事跡考
[やぶちゃん注:「日本事跡考」寛永二〇(一六四三)年に儒学者林春斎が記した「日本国事跡考」のことと思われる。]
神社考        壒嚢鈔〔行譽〕
節用集        闇齋遠道紀行
道春丙辰紀行     東海道名所記〔淺井松雲作〕
 延寶三年〔乙卯〕正月 日
                吉元常
                   同校
                井友水
[やぶちゃん注:最後の記名は底本では詰まった二名の二行書きの中央下に「同校」がある。因みに、「新編鎌倉志序」の三種ある内の最後の「新編鎌倉志」参補である力石忠一のものの冒頭には、
延寶甲寅の夏、我
水戸相公、常陽より至る時、みち、鎌倉に過ぐる。名勝を歷攬して、吉常をして見聞する所を記せしむ。丙辰の秋、特に河井友水をして鎌倉にかしめ、古祠舊寺、以て里巷・荒村・蒭蕘すうげうの言にいたるまで、ただし問ひて之を載す。
とあることから、実際の本日記の筆録は、光圀の指示を受けた吉元常になることが分かる。]


鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀  附やぶちゃん注 完