やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

鎌倉攬勝考卷之五

[やぶちゃん注:底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いて翻刻した。「鎌倉攬勝考」の解題・私のテクスト化ポリシーについては「鎌倉攬勝考卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。
【作業開始:二〇一二年八月三一日 作業終了:二〇一二年一〇月五日】]

鎌倉攬勝考卷之五

   
佛刹

長壽寺
 山ノ内往來路に總門あり。寶龜山と號す。關東諸山の第一なり。足利尊氏將軍追福の爲に、鎌倉公方基氏朝臣の剏建なり。尊氏卿の法號を、長壽寺殿妙義仁山大居士と號す。延文三年戊戌四月廿九日薨逝。京都にては等持院殿と稱す。古えは當寺も七堂ありし由。
開山勅諡正宗廣智禪師、諱印元、字音古先其行狀記の略云、
[やぶちゃん注:古先印元(永仁三(一二九五)年~応安七・文中七(一三七四)年)は鎌倉から南北朝の臨済僧。円覚寺桃渓徳悟の下で出家、文保二(一三一八)年に入元、嘉暦元(一三二六)年に帰国している。以下、底本では「行狀記の略」全体が一字下げ。] 姓藤氏、薩州人也、始六歳辭親航海、抵東關相州圓覺桃溪悟禪師室、薙染奉侍其左右、既逮六年、嘉元三年、師十二歳、桃溪示寂、悟廼建長開山蘭溪禪師高弟也、文保二年師二十四歳、附舶到岸元參諸師、既歸住諸山名區有年、左武衞將軍〔源基氏〕建長壽寺、命師爲開山祖、師六十五歳、赴圓覺請、未幾領建長寺衆、有東菴曰廣德、凡師所剏建、丹州願勝・信州盛興・武州正法・攝州寶壽、皆爲開山、度徒若干、受戒法者、不可勝記、師晩年養老於長壽、應安七年正月廿日、頗示微恙、談笑如平日、廿四日午刻、索筆書身後行事遺誡幷書心印大字、擲筆逝矣、世壽八十、僧臘六十七、葬全身於後曇芳菴、其塔曰心印云云。
餘は略す。
[やぶちゃん注:以上は長寿寺蔵の「開山 勅諡正宗廣智禪師古先元和尚の行狀」一冊から植田が抜粋したものを、無理矢理、継ぎ接ぎしたものと思われ、後半だけでなく、冒頭及び中間部省略がある(特に中間部の非常に大きな省略は殆んど印元の元での修業の仔細と帰国に至る経緯、帰国後の住持閲歴等をほぼ完全にカットしてあり、「行狀記」梗概としての価値を失っていると言ってよい)が認められ、引用された部分も、多くの字句改変を行っている。それは特に指示しないが、「新編鎌倉志巻之三」の「長壽寺」の「開山 勅諡正宗廣智禪師古先元和尚の行狀」正本本文と比較対比して読まれんことを切に望む。一応、以下に、この植田の略文を「新編鎌倉志巻之三」正本訓読文を参考に書き下しておく(〔 〕は私が補った字)。
姓は藤氏、薩州の人なり。始め六歳、親を辭し、海に航して、東關相州圓覺桃溪悟禪師の室にたより、薙染ちせんして其の左右に奉侍すること、既に六年におよぶ。嘉元三年、師十二歳、桃溪示寂す。悟はすなはち建長の開山蘭溪禪師の高弟なり。文保二年に到りて、師二十四歳、舶に附きて元に到り、諸師に參ず。既に歸りて諸山名區に住むこと有〔餘〕年、左武衞將軍〔源の基氏。〕長壽寺を建つ。師、開山祖たり。師六十五歳、圓覺の請に赴く。未だいくばくもならずして建長の衆を領す。東菴有り、廣德と曰ふ。凡そ師、剏建する所、丹州の願勝・信州の盛興・武州の正法・津州の寶壽、皆、開山たり。徒を度すること若干、戒法を受く者る、勝つて記すべからず。師、晩年、老を長壽に養ふ。應安七年正月二十日、頑る微恙を示す。談笑平日のごとし、二十四日の午の刻に、筆を索て身後行事遺誡を書し、幷びに心印の大字を書す。筆を擲ちて逝す。世壽八十、僧臘六十七、全身を後ろの曇芳菴に葬る。其の塔を心印と曰ふと云云。
正本の書き下しや私の語釈は「新編鎌倉志巻之三」を必ず参照されたい。]

客殿 本尊釋迦・文殊・普賢。開山幷中峰の木像、尊氏將軍束帶の木像有。往昔は佛殿に惟久殿の額を掲しといふ。客殿とは獅王殿と號し、是も額ありし由。

[足利尊氏束帯の木像]



[やぶちゃん注:本図でも寿福寺の実朝像と同じく、衣冠束帯がそれぞれのパートで「クロ」(ほう:上着。)・「シロ」(指貫:下穿き。)と色指定されている。私は本像を見た記憶がないが、胡粉等による着色がなされているものか。識者の御教授を乞う。]

尊氏將軍廟塔 客殿の後なる山際に有。五輪の如き塔なり。

[尊氏將軍庿塔]

[やぶちゃん注:右に小さく
高四尺許
とある。水輪のような球形部及び風輪・空輪相当の正面部分に梵字が見えるが、判読不能。本来の五輪塔ならば、東方発心門の梵字で下の地輪からそれぞれの種字、「ア」(地)・「バ」(水)・「ラ」(火)・「カ」(風)・「キャ」(空)と刻むが、この図のそれらは、その何れにも似ていない。しかし、現存するものを見ても(例えばここ。因みに、この鎌倉通の「もちださん」という方は、恐らく、私のかつての同業者であり、且つ、我々夫婦の知っている方であると思われる)、これはもう、五輪塔ではない。そもそもがこの各部は孰れも五輪塔のパーツですらなく(敢て言うなら下から二つ目は地輪のように。下から四つ目は小さな五輪塔の火輪のようにも見えるが、写真で見る限り、二つ目のものは方形の端に有意な縁取りがあり、これは恐らく地輪ではない)、宝篋印塔の、それも複数の異なった大きさの宝篋印塔のパーツを殆んど美意識なく積み上げた奇態な塔である。私は何故か、尊氏が国賊とされた時代の皮肉な名残りのように、この無惨な墓を、哀しくも感じるのである。]

開山塔跡 客殿より南の山にあり。昔は曇芳菴と號し、額あり、心印と。開山の書なりといふ。今は塔もなく、舊地を寶塔と唱ふ。明朝の宋景濂が、開山の碑銘を撰したる文、【護法錄】に見へたり。玆には略す。
[やぶちゃん注:「明宋景濂」とは宋濂そうれん(一三一〇年~一三八一年)のこと。元末明初の著名な政治家・儒者。明初詩文三大家の一人。景濂は字。朱元璋(後の洪武帝)に招聘され、儒学を太子に講義、「元史」の編纂を行った。 「護法錄」とは宋濂の文集から仏教関係の作品を選んだもので雲棲袾宏編、万暦四四(一六一六)年の序がある。但し、宋濂が何故、後に本邦の古先印元の碑銘を書いたのか(年齢差十五、印元来唐時、宋濂は僅か八~十六歳)は調べきれなかった。
「玆には略す」とあるが、植田は恐らく「護法錄」を見ていない。これは明らかに「新編鎌倉志巻之三」の「長壽寺」の、
開山塔の跡 客殿より南、山上にあり。昔は曇芳菴と號し、額は心印と有しと也。今は塔なし。其地を寶塔と云ふ。明宋景濂、古先和尚の碑の銘を作る。【護法録】に載す。今こゝに略す。【護法録】に載す。今こゝに略す。
を引き写したに過ぎないことが、最早、明白だからである。]

撞鐘 此寺の鐘なれども、いつの頃散逸せしにや、當時は圓覺寺の正續院にあり。彼院へ移せし謂れしれず。此寺の鐘なる事は銘文に見えたり。
[やぶちゃん注:以下、底本では鐘銘全体が一字下げ。]
   相州路寶龜山長壽禪寺鐘銘
康應元年僧堂既成、尚闕鐘魚、爰有賣銅鐘者、其直三萬錢、而今募緣市之、懸於堂前以爲永遠法器、應永丁丑、仲春日、幹緣比丘等禪、住持比丘等海、知事比丘心乘、 [やぶちゃん注:以下、鐘銘を「新編鎌倉志巻之三」に基づき、書き下す。
庚應元年、僧堂既に成る。尚を鐘魚を闕く。爰に銅鐘を賣る者有り、其のあたひ三萬錢、而今、緣を募りて之をひ、堂前に懸けて以て永遠の法器と爲す。應永丁丑 仲春日 幹緣比丘等禪 住持の比丘等海 知事の比丘心乘。
「庚應元年」元中六・康応元/嘉慶三年は西暦一三八九年。
「應永丁丑」は応永四年(一三九七)年。
「幹緣」は仏殿修造や造仏に際し、縁を募って喜捨を受けることを言う。そのために作る詩文、所謂、勧進帳を幹縁疏かんえんそとも言う。]

寺寶
 尊氏將軍 文書 一通   義詮將軍 文書 一通
 氏滿朝臣 文書 一通   持氏朝臣 文書 一通


[明月院並禪興寺旧跡]

[やぶちゃん注:右下の横向きの文字は、
 山ノ内往還
か? また、左下の岩窟の前(雲上)には、
 岩窟二三あり
 其いにしへの
 矢倉なるにや
 古墳なるか
    しれず
とある(二行目は自信がない)。]

禪興寺 福源山禪興仰聖禪寺と號す。淨智寺と相向ひ、明月院の門を入て、左の方に佛殿あり。關東十刹の第一なりという。今は廢して佛殿一宇存するのみ。平時賴の建立なり。《最明寺》【東鑑】に、建長八年、將軍宗尊親王山ノ内の最明寺に御參り。精舍建立の御禮佛とあるは爰の事なり。開山は道隆禪師なれども、無及德詮を第一祖とす。時賴の精舍を最明寺と號し、法名をも最明寺と稱せり。平重時が極樂寺を開建し、法名を極樂寺と稱す。金澤實時が稱名寺も又其如し。然るに最明寺の號を改たる謂れは、ものに見えず。何ゆへなるにや。扨此禪興寺は、建長寺派下の僧侶、西堂に任ずるものは、禪興寺住持職の事とある公文を得て、其階にすゝむ。されば巨福山の西堂の寺なり。今は頽廢せしかど、其法式今顯然たり。中古足利家の世となり、氏滿朝臣大檀越として、堂塔造立せられし地圖、今明月院に藏す。明月院は、もと禪興寺の塔頭なりしが、今は明月院の持なり。彼寺傳にいふ、上杉安房守憲方、當寺の檀越なり。明月院は憲方の法號なりといふ。又云、上杉家の始祖修理大夫重房、建長四年、將軍家宗尊親王御供申て當所に來り、山ノ内に住居せしより、當寺の世々檀越となりしゆへ、重房が像をも佛殿に安ずといへり。
[やぶちゃん注:この記載は珍しく、多くのパートが植田のオリジナルと言ってよい。なお、禅興寺は明治の初めに廃絶している。
「最明寺の號を改たる謂れは、ものに見えず」「鎌倉市史 社寺編」の「明月院 附最明寺・禅興寺」の項によれば、『最明寺は時頼の別業の持仏堂といって悪ければ禅定室であって、一箇の寺院とはいえない。別に住職がいたのでもないのである。従って時頼の死後はすぐに廃してしまった』。これを後に『時宗が再興したもの』が禅興寺と考えられている。
「西堂」禅宗寺院で、他の寺院の前住職を呼ぶ語。当該寺院先代住職は東堂と呼び、中国で西を賓位(客位)とするところからの呼称。ここは建長寺以外の建長寺派の住職は当該寺院の住持を退いた後は、禅興寺住持となるのが定式であった、現在、寺は衰退して見る影もないが、その格式法は今も厳格に守られ行われている、ということを言ったものであろう。
「上杉憲方」(建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)は関東管領。法号及び戒名を明月院天樹道合と言った。墓所は明月院に現存。]

佛殿 本尊は釈迦の頭ばかりあり。惠心の作といふ。堂内土間也。蜀大帝像〔一軀〕・韋駄天〔一軀〕・地藏尊〔一軀〕、各運慶の作。平の時賴の木像・上杉重房・同憲方木像有。祖師堂には、大覺禪師の像幷位牌に、開山建長大覺禪師座とあり。
又云、【鎌倉志】には、時宗・貞時が木像ありと載たれども、時宗・貞時が木像は、圓覺寺中佛日菴にあり。爰には時賴・重房の木像のみあり。泥塑の像は、大覺禪師の作といふ。牌有。最明寺崇公禪門覺靈とあり。玉隱和尚の像もあり。

[平時賴木像 禪興寺佛殿ニ安ず]


[平時頼像]

[やぶちゃん注:座像右手上部の記述は、
 平時賴の像なり 東鑑云弘長三年十一月廿一日戌の刻
 入道正五位下行相模守平朝臣時賴年三十七
 最明寺の北亭にて卒去臨終のよそをひ
 三衣を著し縄床により座禪し
 聊も動揺の氣なしと云云
と記し、左手上部にある像の説明は、
 此像ハ大覚禪師の作といふ
 今ハ彩色落て泥塑の如くに
 見へけるより以和紙になすりて
 彩色をせしものと見へたる
とある(最後の「見へたる」の判読は自信がない)。「泥塑」は土人形のこと。この像は現存しないように思われる。似たようなものや写像を見たことがない。]


[上杉重房木像]

[やぶちゃん注:右上に
 上杉始祖
  修理大夫重房木像
    禪興寺佛殿に安ず
とある。]
[やぶちゃん注:植田先生、面目躍如! 「新編鎌倉志巻之三」の齟齬を指摘している。但し、これは「新編鎌倉志」の誤りかどうかは分からないのである。そこには、
佛殿 本尊は釋迦なり。首ばかり、慧心の作なり。土地堂には蜀の大帝の像一軀、韋駄天の像一軀、運慶が作。地藏の像一軀、運慶が作。平の時宗・同じく貞時・上杉重房の像各々一軀、祖師堂には、大覺禪師の像あり。牌に、開山建長大覺禪師の座とあり。平の時賴の像あり。
とあって、この叙述は、木像の見間違いではなく、実際に仏殿に北条時宗・北条貞時・上杉重房の木像三体、土地堂には蘭渓道隆及び北条時頼の木像二体、計五体の頂相(しんそう)があるとしているからである。当時は実際にそれらの木像があったのかも知れない。それが急速に衰退する中で、江戸も後期の文政年間には盗難や焼失によって失われていたということも十分考えられるからである。現在はこの内、明月院に上杉重房木像(重文)のみが伝わっている(何処かへ移転した可能性もあるが、諸本にはそうした『これらの木像の移転現存記録』は見出せなかった)。
以下、牌銘は底本では全体が二字下げ。]
  梁牌銘
上祈、皇心廣大、聖德無邊、保叡算於千秋、固宏基於億載、本寺大檀那正五位下行左馬頭源朝臣氏滿敬書。〔左方〕
伏願、檀信歸崇、承靈山付囑旨、法輪常轉、興少林直指禪、康曆元年己未十二月二日、開山大覺禪祖四世孫住持文怡謹立。〔右方〕
[やぶちゃん注:以下、梁牌銘を影印に「新編鎌倉志巻之三」に基づき、書き下したものを示す。
  梁牌の銘
上には祈る、皇心廣大、聖德無邊、叡算を千秋に保ち、宏基を億載に固くせん。本寺の大檀那正五位下行左馬頭源朝臣氏滿敬書〔左方。〕。
伏して願ふは、檀信歸崇、靈山付囑の旨を承け、法輪常に轉じて、少林直指の禪を興さん。康暦元年己未十二月二日 開山大覺禪祖四世の孫住持文怡謹みて立つ〔右の方。〕。
「文怡」は「もんたい」と読むか。黄檗宗の禅僧で、彼はこの銘を記した康暦元(一三七九)年に八王子権現の本地垂迹説として知られる「華厳菩薩記」を書いている。]

鐘樓 天和二年の新鑄ゆへ銘文は略す。
[やぶちゃん注:銘文と銘文訓読及び私の語注が「新編鎌倉志巻之三」の「禪興寺」の「福源山禪興仰聖禪寺鐘銘」にある。非常に長いが、退屈でないオリジナリティに富んだ臨場感に富んだ戯曲のような興味深い鐘銘と言える。参照されたい。]

相模守平時賴石塔 佛殿の後にあり。甃して、上に五輪塔あり。其形破壞して全からず。
[やぶちゃん注:「甃」は「いしだたみ」と訓ずる。現在の明月院に現存。]

[最明寺時賴の墓碑]

[やぶちゃん注:標題の次に、
 禪興寺佛殿の左の方にあり
 文字剝落す
とある。]

玉澗 佛殿の前の川を名く。 維新橋 玉澗の橋を名附。

六國見 境内の北に見ゆる高山、圓覺寺の上の山なり。安房・上總・下總・武藏・相模・伊豆の六國の山峰見ゆるゆへ名とす。
[やぶちゃん注:恐らくは誰もがここにこの「六國見」山(古くは「ろっこくみやま」と呼んだようである。現在は「ろっこくけん」で通称する)を記載するのを奇異に思われるであろう。これが植田のふがいないところである。即ち、これが正に「新編鎌倉志」の無批判な引き写し、現地へ赴いての実証的な記載が行われなかった疑惑を感じさせる部分なのである。即ち、「新編鎌倉志巻之三」の「禪興寺」の正にこの位置にも、「六國見」が項立てされているからである。しかも「新編鎌倉志」では、ちゃんと、
六國 佛殿の後に見ゆる高山なり。圓覺寺の上の山なれども、明月院の十景の一なる故に爰に記す。安房・上總・下總・武藏・相模・伊豆の六國見ゆ。故に名く。
と、ここに配した理由が示されているのである。これなくして、ここに配する理由は、これ、ない! またしても情けないですぞ! 植田先生!]

明月院 禪興寺の東北にあり。古えは塔頭なれ、今は却て禪興寺の方丈なりと唱ふ。建長寺領の内、三拾壹貫文の領を附せり。明月院領の事を、永祿二年、【小用原所領役帳】に、卅一貫九百七拾文、相州東部岩瀨の内今泉とあり。開山は密室守嚴和尚、大覺禪師の法孫なり。開基は上杉安房守憲方也。法名を明月院大樹道合と號す。應永元年十月廿四日卒、歳六十。本尊觀音腹中に、小佛像數千を納む。虛空藏と愛染の像といふ。其傳えを失ふ。開山の像を安ず。此寺地は、最明寺時賴が大廈の幽亭を構へし舊跡なり。北條氏滅亡し、此亭も荒廢せし跡へ、上杉憲方が當寺を造立せしものなりといふ。明月院の舊地は、憲方が塔窟の前なる畠地なり。
[やぶちゃん注:「永祿二年」西暦一五五九年。
「密室守嚴」(みっしつしゅごん ?~元中七/明徳元・康応二(一三九〇)年)は蘭渓道隆の五代目の法孫。
「應永元年」西暦一三九四年。
「大廈の幽亭」大きな構えの屋敷の隠居所。]
寺寶

九条袈裟 一頂 蓮糸にて織たるものといふ。大覺禪師より相承す。

舍利 一粒 金塔に入たり。源義經所持の舍利。古河御所より納給ふ。金紋紗の直垂の袖に包み有しを、袖は古河に殘給ふ。
[やぶちゃん注:「古河御所」は古河公方(室町後期から戦国にかけて下総国古河(現・茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。享徳四(一四五五)年に第五代鎌倉公方足利成氏が享徳の乱の折りに鎌倉から古河に本拠を移して以来、古河公方と呼称)にあった古河城。渡良瀬川東岸にあって、古河御所とも呼ばれた。
「金紋紗」は「金紗・錦紗」のことであろう。紗の地に金糸などを織り込んで模様を表した絹織物を言う。]

布袋木像 運慶作。

牡丹繪 二幅對 超昌筆。牡丹花種々、一種毎に、其の傍に金字にて花の名を書けり。

二十八祖畫像 一幅 唐畫  鶴の繪 一幅 筆者不知

鳩繪 一幅 宋徽宗皇帝の筆なりといふ。

禪興寺幷に明月院地圖 圖の表に源氏滿朝臣の花押あり。

中峰自賛像 一幅  指月和尚畫像 一幅
[やぶちゃん注:「中峰」とは中峰明本(ちゅうほうみょうほん 一二六三年~一三二三年)のこと。「新編鎌倉志巻之三」の「長壽寺」の寺宝「勅諡正宗廣智禪師古先元和尚の行狀」にも登場した元代の禅僧。杭州銭塘県(現・浙江省杭州市)生。十五歳で出家、一二八六年に天目山獅子巌高峰原妙に師事、一二八九年には原妙から心印(以心伝心による悟り)を伝授された。一二九五年、原妙は没するに際し、明本に住持を継がせようとしたが、明本は固辞し、第一座の僧に譲って、自身は山を下った。後、遊行行脚、幻住庵と名づけた庵を各地に造って、そこに仮寓した。如何なる名刹からの慫慂にも応ぜず、時の皇帝仁宗の招聘にも応じなかったが、それでも金襴の袈裟と号・院号を下賜された高僧である。古先印元などの渡中した日本人僧が参禅しており、その際に下された品と思われる(以上の事蹟はウィキの「中峰明本」を参考にした)。
「指月和尚」指月僧胝(しげつそうてい 生没年不詳)。戦国期の臨済僧。この絵は弟子で法嗣である画僧仙渓僧才(せんけいそうさい 生没年未詳)の筆になる。講談社のデジタル版「日本人名大辞典」によれば、この頂相画は天文二〇 (一五五一) 年頃に書かれたもので、建長寺の雲英祖台が賛を書いている。前の「中峰自賛像」とともに「新編鎌倉志巻之三」の賛文を参照されたい。]

玉隱和尚畫像 一幅
[やぶちゃん注:玉隠英璵(ぎょくいんえいよ 永享四(一四三二)年~大永四(一五二四)年)は室町後期から戦国初期の臨済宗大覚派僧。以下、本書にしばしば引用される「梅花無尽蔵」の作者万里集九と親しかったので特にここにウィキの「玉隠英璵」より引用したい(アラビア数字を漢数字に代えた)。『信濃国東部の武家滋野氏の出身と言われている。鎌倉禅興寺明月院の器庵僧璉に学び、その後継者として同院宗猷庵に居住した。応仁の乱後の鎌倉五山を代表する文人として知られ、漢詩や書に優れた。また、太田道灌と親交が厚く、道灌を通じて万里集九とも親しくした。文明一八年(一四八六年)に万里集九が鎌倉を訪れた際には、玉隠の宗猷庵を宿所としている。延徳三年(一四九一年)に行われた金沢文庫検査封鍼の際に立会人を務め、明応七年(一四九八年)には将軍足利義高によって建長寺一六四世住持に任ぜられた。後に明月院に退いて禅興寺の再建に尽くした』。『大永四年(一五二四年)に九十三歳の高齢で示寂。後に朝廷より「宗猷大光禅師」の諡号が贈られた』。『明月院宗猷庵に墓所があり、生前の玉隠自讃が記された肖像画が明月院にのこされている他、玉隠作成による建長寺所蔵の西来庵修造勧進状、浄智寺所蔵の西来庵修造勧進状はともに重要文化財に指定されている』。]

上杉道合の石塔 方丈の西北にて、山麓に洞窟を作り、其内の正面に釋迦・多寶の像、又十六羅漢を左右に彫付たり。相並て一窟あり。是を道合が石塔なりとて、古碑三・四あり。文字見えず、皆剝落せり。【鎌倉九代記】にいふ、上杉安房守入道道合、應永元年十月廿四日歿し、軀を極樂寺に埋葬せし由を載たれど定かならず。
[やぶちゃん注:ここに記されているように上杉憲方の墓と伝えられる七層塔が極楽寺切通沿いにある西方寺址(西方寺は頼朝の時代に笹目に建立された寺と伝えられ、後に移転して極楽寺の一院となったものと考えられている)にも存在する。並建されている五層塔は憲方妻のものとも伝えられており、極楽寺切通を挟んで反対側の崖下にはこの妻が建てたとされる憲方の逆修塔(生前に建てる供養塔)も残されている。本塔も恐らくは逆修塔と考えられる。なお、このやぐらは現在知られる鎌倉の中でも最も豪華な彫刻の施された大規模なやぐらと言ってよい。]

[上杉憲方木像]

[やぶちゃん注:標題の左に、
  明月院ニ安ず
とある。本文には記載がない。これもまた、現存しないように思われる。]

甕の井 院の後にあり。當所十井の一つなり。
[やぶちゃん注:岩盤を垂直に掘り貫いて作ったと考えられる井戸で、内部が水瓶のように膨らみを持っていることから「つるべの井」と呼ばれる(「新編鎌倉志」は「かめのゐ」と読ませており、本書も同じであろう。現在でもそうも呼称する)。鎌倉十井の中でも数少ない現在も使用可能な井戸であるが、掘削年代は江戸期と伝えられている。]

東慶寺 松岡山と號す。淨智寺の並なり。禪宗の尼寺なり。當寺開基は、源賴朝卿の叔母なりと、【鎌倉物語】に載たり。其據あるにや、未考。【松岡過去帳】を閲するに、開山は北條相模守時宗の室家、秋田城介泰盛が女にて、北條貞時が母なり。潮音院覺山志道和尚と號す。時宗は弘安七年四月四日に卒す。其明年落飾して、當寺を剏建せり。十月九日に毎年開山忌あり。二世は龍海尼、三世は淸澤、四世は須宗、五世は用堂和尚、是は後醍醐天皇の姫宮なり。山に入て薙染し給ふ。應永三年丙子八月示寂せらる。六世は仁芳、七世は簡宗、八世は松圭、九世は應礀、十世は甘聰、十一世は柏室、十二世は靈菴、十三世は郎翁、十四世は聞璋、十五世は明玄、十六世は渭繼、十七世は旭山和尚、是は小弓御所〔或作生實〕八正院源の義明の息女なり。弘治三年七月十日示寂。十八世は瑞山、十九世は瓊山和尚、喜連川源賴純朝臣の息女なり。二十世は天秀和尚、豊臣秀賴公の息女なり。元和元年に、東照大神祖君の命に依て、山に入て薙染し、時に八歳なり。正保二年二月七日示寂、佛殿のうしろに石塔あり。二十一世は永山和尚、喜連川源尊信朝臣の息女、此後は鑒住なり。寺領二拾貫文なり。【小田原所領役帳】に卅貫文、東郡之内、笠間の内前、岡と野葉にてとあり。
[やぶちゃん注:文字注を先に示す。「九世は應礀」の「礀」の字は底本では「閒」が「間」、これは同字であるから、「礀」とした。音は「ケン・カン」である。谷の意。また「十三世は郎翁」は「即翁」の誤り。最後の「卅貫文」「貫」は底本「貰」、誤植と見て訂した。
「當寺開基は、源賴朝卿の叔母なりと、【鎌倉物語】に載たり。其據あるにや、未考」「鎌倉物語」は万治二(一六五九)年に京都で板行された中川喜雲著になる鎌倉案内記。但し、これについては「鎌倉市史 社寺編」に「鎌倉物語」『には頼朝の叔母美濃局の創建で、覚山尼によって禅宗に改めたという伝があるが、鎌倉時代を通じてこれを証明する資料は何もない』とあるから、誤説として退けてよいであろう。
「秋田城介泰盛が女」誤り。覚山尼(かくさんに 建長四(一二五二)年~徳治元(一三〇六)年)は安達泰盛の「むすめ」妹、安達義景の娘である。義景の三男であった泰盛以下の安達家は、この妹覚山尼出家の翌年、弘安八(一二八五)年十一月の霜月騒動で内管領平頼綱によって亡ぼされている。この時、この覚山尼は安達一族の子息を庇護したと見られており、その七年後、平禅門の乱で頼綱が貞時に亡ぼされて安達家の名誉回復と再興が行われたが、そこには覚山尼の存在が大きかったと言われている。ウィキの「覚山尼」によれば、彼女は『夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、直接史料は無いが、これが元で東慶寺は縁切寺、もしくは駆け込み寺となったと言われている』とある。但し、「鎌倉市史 社寺編」では、東慶寺蔵の「開山系図」「由緒書」に、『後世東慶寺を天下に著名にした縁切法がこの覚山尼の時に成立したことを記しているが確証はない』と、この早期の縁切り寺法成立には懐疑的で、『東慶寺のアジール的性格については。『唐糸草紙』によって江戸時代以前に遡り得るらしいことはわかっているが、いわゆる縁切寺法の資料は江戸時代中期以後のものである』とし、その『現在最古のものは元文三年(一七三七)の離縁状であるから、江戸時代の丁度半ばごろのものである』とある。但し、明治三七(一九〇五)年の史料編纂所の調査の際には、それを遡る『享保十八年(一七三三)年よりの数年の駈入書留(駈込女に関する記録)、元禄三年(一六九〇)以来の日記数十冊があったらしいが、大正の震災で大部分湮滅してしまい残』っていないともある。
「源義明」足利義明(?~天文七(一五三八)年)室町後期の武将。第二代古河公方足利政氏の子で第三代の足利高基の弟。若くして出家していたが、父と兄が対立して内紛状態となると、還俗、ここで足利義明と名を改め、関東各地で勃発した個別な小権力闘争に加わり、上総国真里谷城主武田信清の支援を受けて、下総国の千葉氏配下の小弓城を攻略占拠した。小弓公方を自称して親族の古河公方方と独立して対峙した。後、信清と対立、信清が没すると真里谷武田氏の内紛に介入、武田信隆を追放して武田信応を当主とした。一方、追放された信隆は足利高基とその子晴氏に加え、相模国の後北条氏と同盟して義明と敵対、天文七(一五三八)年、義明は大軍を率いて下総国国府台に出陣、北条氏綱と決戦、善戦したがここで戦死している(以上は主にウィキの「足利義明」を参照にした)。
「喜連川源賴純」足利頼純(天文元(一五三二)年~慶長六(一六〇一)年)。別名、喜連川頼純。但し、正しくは頼純ではなく頼淳であるらしい。足利義明次男、小弓公方家当主。国府台合戦での父義明の戦死後、落ちのびた安房国里見義康の元で庇護を受け、後、後北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐によって下総から兵を撤退、それに乗じて里見氏とともに父の本拠地小弓城を奪還したと推定されている。後に秀吉(頼純娘が側室)に大名への復帰を許されて下野国喜連川城を領した(以上はウィキの「足利頼純」を参照した)。
「天秀和尚」は俗名奈阿姫なあひめ、法号は天秀法泰(慶長十四(一六〇九)年~正保二(一六四五)年)と称す。記されるように豊臣秀頼の娘で、元和元(一六一五)年大坂城落城の際に捕えられて処刑されそうなるが、秀頼正室にして徳川秀忠の娘、家康によって大阪城から救出された千姫(天樹院)が養子として救命した。その後、同年中に当時の東慶寺住持瓊山法清の付弟ふてい(寺にあって法燈を嗣ぐべき者として選ばれた弟子をいう)として入山した。円覚寺黄梅院古帆周信に学び、沢庵宗彭にも参禅を試みたという才媛であった。寛永二十(一六四三)年のこと、圧政を敷いていた愚昧な会津藩主加藤明成と対立して出奔した功臣にして筆頭家老であった堀主水の妻子がこの東慶寺に逃げ込んだが、明成は探索の末、高野山に逃れた主水のみならず、この妻子も兵を送って捕縛、堀一族諸共に処刑してしまった(会津騒動)。この暴挙を天秀尼は天樹院に訴え出、圧倒的な明成批難の世論の中、明成は所領没収となった。現在、縁切り寺として知られる東慶寺の縁切寺法の本格的な整備は、この天秀尼の入山に負うところが大きい(以上は、主に「朝日歴史人物事典」の牛山佳幸氏の解説を参考にした)。
「喜連川源尊信」は喜連川尊信(元和五(一六一九)年~承応二(一六五三)年)のこと。江戸前期の大名。先に挙がっている「喜連川源の賴純」足利賴純の嫡流を汲む。下野喜連川藩主喜連川家三代当主。家臣間抗争であった喜連川騒動を鎮静できなかった責任を問われて慶安元(一六四八)年、幕府により隠居させられた。
「鑒住」「鑒」は「鑑」と同字であるが、「鑑住」という語は見慣れない。これは恐らく「かんじゅう」→「かんず」→「かんす」と読ませ、監寺かんすのことを言っているように思われる(「寺」は唐音で「ス」と読む)。これは禅宗の用語で、住持の下に位置する都寺つうす・監寺・副寺の三職の二番目の役職を言うもの。一山を監督して衆僧を統括する重役である。要は住持代理と読み替えてよい。「鎌倉市史 社寺編」によれば、宝永四(一七〇七)年の第二十世永山法栄尼示寂後、再び無住(天秀尼示寂後も無住期があった)となったとあるが、但し、その三十一年後の元文三(一七三八)年に京都の高辻家から玉淵尼が入院、十年後の寛延元・延享(一七四八)年 に病いのために帰京、『これ以後明治にいたるまで無住となった』とある。無住期は塔頭の蔭凉軒院主などが院代を勤めていたらしいから、この「鑒住」というのも監寺相当であった塔頭庵主による住持代理という意味と考えてよいであろう。近代になって明治五(一八七二)年に円覚寺末寺となり、この時の院代順荘尼は明治三十五(一九〇二)年に示寂、翌年堯道古川慧訓が住持して尼寺としての歴史は閉じられた。
「寺領二拾貫文」「【小田原所領役帳】に卅貫文」「新編鎌倉志巻之三」は「寺領百二十貫文也なり」と記す(「鎌倉市史 社寺編」では総計百十二貫強。二十五貫で百石相当)。幕末期には流石に減っている。「小田原所領役帳」とは「小田原衆所領役帳」で、相模の戦国大名北条氏康が作らせた一族・家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳。永禄二(一五五九)年の奥書を持つ。
「東郡之内、笠間の内前、岡と野葉にてとあり」この読点は誤りであろう。恐らくこれは、
 東郡の内、笠間の内、前岡と野葉にて、とあり
で、相模国東郡(高座と鎌倉を合わせた郡名)の中の、笠間(現在の横浜市栄区の南部にある笠間よりも遙かに広域の戸塚区・港南区の一分をも含んだ一帯)の前岡(現在の戸塚区舞岡の俗称か)と野葉(現在の港南区野庭の俗称か)を所領とする、の謂いである。鎌倉市史 社寺編」に秀吉の時代の『所領は山内庄舞岡郷、同じく野庭郷』とある。]

總門 山の内往來路に相接す。

山門 額、東慶總寺禪寺と書たる額を掲ぐ。筆者不知。

佛殿 本尊釋迦・文殊・普賢、各金銅の像なり。

方丈幷庫裡 寺傳にいふ、方丈は先年大破に及びけるに依て、駿河大納言家の御殿を當寺に移すといひ、殿内の張付は、皆狩野守信が筆なりといふ。近來は住持の尼僧なく、鑑司持なるゆへ、方丈には住せず。依て所々破壞に及といふ。
[やぶちゃん注:「駿河大納言」これは徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)のこと。第二代将軍徳川秀忠三男。母は浅井長政の娘で正室のごう。第三代将軍家光は同母兄。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国であったことから、駿河大納言と通称した。寛永八(一六三一)年、不行跡(家臣一名もしくは数人を手討ちにしたとされる)を理由として甲府への蟄居を命じられ、寛永九(一六三二)年の父秀忠の危篤に際しても江戸入りを許されなかった。秀忠死後、風説流布の咎で改易、領国全てを没収されて、上野高崎に逼塞させられ、寛永一〇年十二月六日、幕命により高崎の大進寺において自刃した。享年二十八であった。家光との確執の中で消えて行った不運の人であった。彼と東慶寺の関係については、「鎌倉市史 社寺編」には、以下の記載がある。
   《引用開始》
 今東慶寺に残る寛永十一年の仏殿棟札銘(『資料編』三ノ三三九)に、表には檀那天寿院建立のこと、及び住持法清和尚の名とその弟子法泰尼の寄進のことが記され、裏には「当大樹御乳母春日局御執持焉」とある。ところでこれについて『寺例書』に「駿河大納言様の御殿御寄附……客殿・方丈等右御殿を以つて御建立遊され今に有之侯」とあり、一方『由緒書』には「客殿・仏殿・方丈・蔭凉軒・門等は駿河大納言様御殿を引せられ本寺御再建」とあって仏殿が含まれているが、『口上覚』には、仏殿は含まれていない。さてこの時の客殿は大正十二年の震災で倒潰し、仏殿はそれ以前に横浜三渓園内に移されて現存しているが最近の修理で江戸期以前の作風であることがわかった。恐らく永正の火災後に再建され寛永に修理をしたものであろうという。が、さきの棟札の裏に記した春日局(斎藤氏)は実は忠長の悲運と関係の深い人である。これは禅定師がいわれるように、「忠長卿の非業な最後に対して局は御家安泰と安堵の胸をさすりながらもその菩提を弔わずにはいられず、これを天寿院にはかり」(『駈入寺』)忠長の屋敷をその因縁深い東慶寺に移し、家光も祠堂金をよせ、仏殿以下を再興し供養したものであろう。ともあれこの棟札は足利公方家及び後北条家の俗縁につながる女性、豊臣家秀頼の息女、千姫、さらに春日局と、四者四様の運命をになう女性が表裏に名を連ねているわけである。
   《引用終了》
簡単に注すると「天寿院」は千姫のこと、「禅定師」は以下の引用書「駈入寺」の著者で前東慶寺住職井上禅定のことである。
「狩野守信」狩野探幽の諱。
「鑑司」先に示した「鑒住」、監寺かんすのことと考えて間違いない。]

觀音堂 山門の外右の方にあり。

鐘樓 山門外右にあり。此寺の鐘は、天正十八年、小田原陣の時紛失せり。今の鐘は寺領の地より、村民が掘出せしものといふ。銘文を見るに、補陀洛寺の鐘なり。是も亂世の時奪ひ去て、土中へ埋しもの歟。觀應元年の鐘なり。銘は彼寺の條に記す。當寺の紛失せし鐘銘の寫、當寺にあり。年號は元德四年の鑄成なり。銘文の寫は略す。
[やぶちゃん注:この「紛失せり」とする東慶寺あった東慶寺の本来の鐘は、現在、静岡県伊豆の国市韮山にある本立寺に移されて現存しており、「當寺の紛失せし鐘銘の寫、當寺にあり。年號は元德四年の鑄成なり」西暦一三三二年、鎌倉幕府滅亡の前年のクレジットを持つ銘(その写し)は「新編鎌倉志巻之三」に載るので参照されたい。
――植田は約束を破っている!
――彼はここで東慶寺にある補陀洛寺の鐘の観応元年のクレジットを持つ銘は「彼寺の條に記す」と言っておきながら……
「鎌倉攬勝考卷之六」の「補陀落寺」の条に、彼は鐘銘を載せていない!
これははっきり言って読者への由々しき背信行為である。
この際――私は「新編鎌倉志卷之七」の「補陀落寺」の条にある「鐘樓の跡」を「東慶寺在の補陀落寺の鐘」の銘を含め、ここに総てを転載して刻み(読み易く一部を変更した)、久遠に植田の不徳義を光圀とともに糾弾することとする――なお、補陀落寺は東慶寺とは無縁な真言宗の寺院である。

鐘樓の跡 今跡のみ有てかねもなし。當寺のかねは、松岡まつがをか東慶寺にあり。農民、松が岡の地にてり出したりと云ふ。銘を見れば、當寺のかねなり。兵亂の時、紛散したるなるべし。其文左のごとし。
[やぶちゃん注:以下、鐘銘は底本では全体が一字下げ。この鐘に関わって「鎌倉市史 社寺編」の「補陀落寺」の注に『頼基は仏乗坊の八代及び十代で、建武三年六月に還補されているから、この寺の鐘』『ができた観応元』(一三五〇)『年には供僧であったことになる。供僧は原則としてその坊に居住することになっていたから』『頼基は特別に当寺の住職を兼ねていたものか、或は別人かということになる』とし、「新編鎌倉志」の筆者が『鐘銘と寺号によって、本尊は観音であったはずであるといっている。従うべきであろう』と記す。]
  補陀落寺鐘銘
就相陽城之海濵、有富多樂之寺院、雖尚具八吉六勝之德、只恨欠二聽五觀之儀、繇玆住持賴基、唱十方之檀越、造九乳之蒲牢、眇覿拘留孫之已往、雅示化如來之明宣、慣彼舊矩、企此新製、作銘曰、鍠々淸響、殷々虗音、雷警諸蟄、風折醉沈、呼嵩壑應、動海潮鳴、普門無外、圓通云生、希兮微兮、一陰一陽、克磨慧鏡、乍斷業綱、撃蒙叩寂、浮空和霜、明辨夢覺、長告晁昏、器簴梵※、銘勒紺園、日月倶懸、天地久存、住持比丘賴基、大工大和權守光連、鑄成右兵衞尉家村、結縁貴賤緇素一萬餘人、觀應元年庚寅八月日〔此銘の文、幷寺號を以考るに、當寺の本尊は觀音なるべき者也。然ども今藥師也。〕。
[やぶちゃん注:「※」=「广」+「睪」。以下、鐘銘を「新編鎌倉志」影印本の訓点に、基本、基づいたものを示す。
  補陀落寺鐘の銘
相陽城の海濵に就て、富多樂の寺院有り。尚を八吉六勝の德を具すと雖へども、只た恨むらくは二聽五觀の儀を欠くを。玆にりて住持賴基らいき、十方の檀越を唱へ、九乳の蒲牢を造る。はるかに拘留孫くるそんの已往を覿るに、雅びに如來の明宣を示す。彼の舊矩に慣れて、此の新製を企つ。銘作りて曰く、「鍠々くわうくわうたる淸響、殷々たる虗音、諸蟄を雷警し、醉沈を風折す。嵩に呼ばつて、壑、應じ、海を動かして、潮、鳴る。普門外か無く、圓通ここに生ず。希なり微なり、一陰一陽、く慧鏡を磨し、乍ち業綱を斷ず。蒙を撃ち、寂を叩き、空に浮び、霜を和す。明に夢覺を辨じ、長く晁昏てうこんを告ぐ。器、梵※に簴し、銘、紺園に勒す。日月と倶に懸り、天地と久しく存す。」と。住持比丘賴基 大工大和の權の守光連 鑄成右兵衞尉家村 結縁の貴賤緇素一萬餘人 觀應元年庚寅八月日
「尚を八吉六勝の德を具すと雖へども、只た恨むらくは二聽五觀の儀を欠くを」不詳。堂宇は完備しながら梵鐘が欠けていることを残念に思っていたことを言うのであろうが、「八吉六勝」「二聽五觀」の数の意味が不明。識者の御教授を乞う。
「拘留孫」は拘留孫仏のことで、釈迦が世に現れる前にいた過去七仏の第四仏。現世界が成立安定して続く賢劫げんごうの時代に現れるとされる千仏の第一仏。
「雅びに如來の明宣を示す。彼の舊矩に慣れて、此の新製を企つ」は鐘鋳造の動機を述べているが不学にして意味がとれない。識者の御教授を乞う。
「鍠々」は鐘の音の形容。
「醉沈」沈酔と同じで煩悩に浸って迷うさまを言うか。
「壑、應じ」は「嵩」=高い峰に木霊したかと思うと、それが即座に「壑」=谷に響き、という意味であろう。
「晁昏」は朝夕。「鎌倉市史 考古編」の「鎌倉の古鐘」では「鼂」とあるが、これも「テウ(チョウ)」で「晁」と通じ、朝の意。
「梵※」「※」=「广」+「睪」。梵鐘のことかその細部名称らしいが、読みも意味も不詳。識者の御教授を乞う。
「簴し」は「ごし」若しくは「きよし」と読む。この字は鐘を懸けるための台の柱を言う。鐘掛け。
「紺園」寺院のこと。
「勒す」刻む。
「大工大和の權の守光連」は「鎌倉市史 考古編」の「鎌倉の古鐘」に、『当時関東鋳物師として活躍した物部氏の棟梁』とある。]

蔭涼軒 方丈の北にあり。海珠菴 山門を入て右にあり。
永福軒 山門を入て左にあり。靑松院 佛殿の東北にあり。
妙音菴 靑松院の北なり。
[やぶちゃん注:塔頭。「鎌倉市史」では「蔭涼軒」の「涼」は「凉」と表記する。]

長屋 總門の内、古來より用人とて在住し、山内幷領内の事を司る。また云、若き女の尼ならずして、此寺に居るものは、うとましきをつとをすてたるゆへ、これ迄の夫、離緣の券書を與えざれば、再緣することもなりがたく、深き憂にしづみ、詮方なく此寺え駈入、その事を願ひ、三ケ年當寺に籠居すれば先の夫も思ひはれて、離緣に及ぶ事になりける由。 このゆへに、關東のもの駈入て、この事を願ふもの常に絶ざりし。
[やぶちゃん注:――植田の裏切りには思わず怒ったが――彼は最後にオリジナルに縁切寺法を記して呉れているから、許すことにしよう(「新編鎌倉志」には一切記載がない)。縁切寺法には幾多の解説サイトがあるので省略するが、「鎌倉市史 社寺編」には最後の駈け込みは明治三(一八七〇)年と記した後、諸資料から本駈込寺法は『江戸前期に遡り得る』もので、『江戸時代のはじめに近いころから江戸は、もとより武相房総の農村の無智な女達の間に、この寺の名がつねに胸裡に記憶されていたと想像することはいささか心和むものがある』と述べられている。この執筆は川副武胤氏によるもので、『無智な女達』というところは今なら物議を醸しそうな形容乍ら、「市史の白眉」と喧伝され、「いささか」生硬にして読むに面白くはない「鎌倉市史」の中で、ここは、読んでいて「いささか心和むものがある」箇所ではある。また、東慶寺公式HPの年表によれば、幕末の慶応二(一八六六)年の駈入り女人は四十二名、寺法による在寺者が四名、逗留者が一名で実に四十七名に及んだ旨、日記に記録されている。この画期的な女人救済法も、明治四(一八七一)年に社寺領上地令によって明治政府が寺領没収したのと同時に、縁切寺法も禁止されてしまった(東慶寺HPのこの歴史解説部分には明治六年五月に『「人民自由の権利」によって松ヶ岡の寺法は、裁判所に引き継がれ、女性も男性同様に離婚の申し立てができるようになった』と記されてあるが、この楽観的なもの謂いにはやや疑問を感じる)。……駈込み寺としての機能を失った東慶寺は、円覚寺の塔頭のようになり、……そうして近代文化人の談合する墓の山となり、菖蒲畑のある花の寺となり、北鎌倉観光のお洒落な目玉施設へとすっかり変質してしまった……私は東慶寺が永遠に尼寺であったらと……今も何処かで夢想するのである……]

正法寺 山の内管領第跡の東にあり。往昔、建長寺塔頭正法院といふが有けるに、中古以前より廢せり。正法院の開基は老仙和尚、諱※、建長六十五世なりといふ[やぶちゃん字注:「※」=「耳」+「冉」。]。其廢跡を、先年加藤氏の禪尼再建して正法寺と號し、建長寺の末菴なる尼寺なり。加藤氏の事を繹るに、奧州會津若松城主、四拾萬石加藤式部大輔明成〔左馬助嘉明が嫡男なり。〕が寛永十六年のころ、家老堀主水といふもの主命にたがひて、一族幷家來多勢引具し、若松城を立退て。其時城下をはなれ、中野といふ所にて鐡砲を放ち、又往來の橋を燒て去りぬ。主の明成、此事を聞て討手を遣しけれど、終に遁去て、堀は鎌倉に忍び居たりしが、討手向ふと聞て高野山へ赴しに、明成彼山へ使者を立、速に搦取て出さるべき旨をいふ。此山に來らざる由を答ふ。明成大ひに怒り、所領に替て彼家老追捕せん事を訴え、軍兵を高野山へ向んとす。堀又此山にも留まり兼て、紀伊殿の御領内に隱れしを聞て、明成また紀伊殿へ此由を申て、軍兵を向んとす。堀も居る所なく關東へ忍び來り、公廳え壹封の書を奉り、罪なき由を申披んとす。明成公儀へ、堀を下し賜ふべき由願ひけるゆへ、終に堀を明成に賜ひしかは、同十八年若松にて堀を誅したり。既に所領に申替たる家人、願ひのまゝに誅せし上は、唯有べき事ならず、同二十年身の病を申、國務にたえず、仍て所領悉く召上られん事を申せしかば、此時家斷絶す。將軍家も、嘉明が英名武功の家絶ん事を憐み給ひ、程經て式部大輔明成が嫡男明友を被召出、一萬石賜ひけり。此明友の實母は、妾にて有しが、斷絶の砌、江戸屋敷より、資財道具を鎌倉へ送り、建長寺え寄附し、其身も鎌倉へ來り、此正法寺を再興せられしといふ。
[やぶちゃん注:この寺については「鎌倉廃寺事典」に、山ノ内にあった禅宗寺院正法寺しょうぼうじとして載り、以下のように記されている。
   《引用開始》
 明月院古絵図に見える。徳泉寺の隣、すなわち山ノ内の往還に面して東側にあった。この寺は古く元亨三年(一三二三)北条貞時の十三年忌供養の際僧衆五人を参加させている。一方、建長寺の塔頭に正法院というのがあり、老僊元※[やぶちゃん注:本文の字と同じ。以下、同。]の塔所であるが、元※は応永六年(三九九)に寂している。明月院古絵図は氏満の花押があるが、氏満は応永五年(一三九八)に死んでいるので明月院に記されている正法寺がそのまま元※の塔所であるとは考えられない。しかし応永五年に死んだ氏満の署名のあるこの図は、氏満の歿年齢四十歳という若さから考えて、かなり応永に近い頃の作製と見得るので、応永に近いころ建長寺の門前に正法寺という寺があって、しかも別に応永六年に寂した元※の塔所が、同名を負って建長寺内外に成立することは考えられない。したがって鎌倉時代に成立した正法寺は、応永に近い時代まで存在し、老僊元※がここに退隠し、のちそれが塔頭となって「寺」が「院」または「庵」(『延宝伝燈録』老僊元※の伝)にかわったのではあるまいか。
   《引用終了》
「老僊元※」は「ろうせんげんたん」と読むものと思われる。
「加藤氏」「奧州會津若松城主、四拾萬石加藤式部大輔明成〔左馬助嘉明が嫡男なり。〕」加藤明成(天正二〇(一五九二)年~万治四(一六六一)年)は陸奥国会津藩第二代藩主。従四位下、式部少輔。加藤嘉明(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年:豊臣恩顧の大名であったが、大坂冬の陣で江戸城留守居を務め、大坂夏の陣では第二代将軍徳川秀忠に従って徳川方として参加した、準譜代の名将として知られた。)長男。寛永八(一六三一)年の父の死後、家督と会津藩四〇万石の所領を相続したが、堀主水を始めとする反明成派の家臣たちが出奔すると、これを追跡して殺害させるという事件(会津騒動:以下に注す。)を起こし、そのことを幕府に咎められて改易された』。その後、長男明友(元和七(1621)年~天和三(一六八四)年)『が封じられた石見国吉永藩に下って隠居した。長男(庶子)の明友は、初め家臣に養われていたが取り立てられ、加藤内蔵助明友と名乗って加藤家を継いだ。天和二(一六八二)年には近江国水口藩二万石に加増転封され、加藤家は幕末まで存続している(以上はウィキの「加藤明成」に拠った)。
「加藤氏の禪尼」加藤明成の正室保科正直の娘のことか。
「繹る」は「たづぬる」と読む。
「寛永十六年のころ、家老堀主水といふもの主命にたがひて、一族幷家來多勢引具し、若松城を立退て……」は会津騒動のこと。以下、ウィキの「会津騒動」より引用する。第二代会津藩主『明成は、飯田忠彦の『大日本野史』によれば「明成財を貪り民を虐げ、好んで一歩金を玩弄す。人呼んで一歩殿といふ。歴年、貪欲暴横、農商と利を争ひ、四民貧困し、訟獄止まず、群臣あるひは諫むるも聴かず」とあるほど、暗愚な人物だった。このため、藩政に興味を示さず、その貪欲な性格から金集めに熱中して重税を敷いたと伝えられている。「私欲日々に長じ、家人の知行、民の年貢にも利息を掛けて取り、商人職人にも非道の運上を割付け取りける故、家士の口論、商工の公事喧嘩止むことなし」(古今武家盛衰記)とある』。『このため、藩政は嘉明時代からの家老である堀主水』(ほりもんど 天正一二(一五八四)年~寛永一八(一六四一)年)『が行なった。堀は嘉明時代の功臣で、大坂の役では戦功を挙げたことから金の采配を嘉明より恩賞として与えられた人物である。先代からの実績もあり、戦国時代の気骨もある人物であるから、堀は明成の素行に対して何度も諫言した。しかし明成は聞き入れず、堀と明成は次第に不仲になっていく』。『そんなとき、堀の家臣と明成の家臣が喧嘩をするという事件が起こる。一方は筆頭家老の家来、一方は藩主の直臣であったことから奉行の権限で裁けることではなく、明成による裁断が仰がれた。すると明成は堀の家来に非があるとして処罰し、さらに堀も連座として蟄居を命じた。この処置に怒った堀は、蟄居を破って明成のもとに現れ、再度の裁断と処罰の無効を訴えた。これに対して明成は、無断登城を理由に家老職を罷免し、嘉明から信任の証として与えられていた金の采配も取り上げた』。寛永一六(一六三九)年四月一六日、堀主水は『実弟の多賀井又八郎ら一族郎党を率いて、白昼堂々と若松城から立ち去った。しかもこのとき、若松城に向かって鉄砲を撃ち、関所を押し破るという暴挙にも出ている』。『この行為に怒った明成は、藩の軍勢を動員して堀を探索させた。しかし堀は、明成の報復を恐れて高野山に逃れた。明成は、重税で潤沢に蓄えのあった資金を使って幕閣を買収し、幕府の命令で高野山に対し、堀の引渡しを訴えた。幕閣は買収されたこともあろうが、恐らくは外様大名であり、豊臣氏恩顧の大名で大藩の雄・加藤氏を取り潰す絶好の機会と捉えてこれを承諾し、堀の引渡しを高野山に命じた』。結果、高野山にもいられなくなった堀は、紀州徳川家徳川頼宣(本文の『紀伊殿』)に救いを求め、『江戸の将軍・徳川家光のもとに明成の悪行を訴えて助けを求めた。しかし家光や幕閣らにとっては、加藤氏の勢力を削減できさえすれば理由はどうでもよ』く、『堀は家臣でありながら関所を破り、城に鉄砲を撃ちかけた大罪人として明成に引き渡され、後に明成によって一族郎党と共に処刑された』。『このような非道が世間で許されるわけがなく、特に堀一族の処刑には領民や家臣も明成に非難の声をあげた。幕府も明成に対して、騒動を理由に領地の削減を通告』、寛永二〇(一六四三)年四月、『明成は「我は病で藩政を執れる身ではなく、また大藩を治める任には堪えられず、所領を返還したい」と幕府に申し出』、同年五月、『幕府は加藤氏の改易・取り潰しを命じたが、加藤嘉明の幕府に対する忠勤なども考慮し』、明成に一万石を新たに与えて家名再興を許した。ところが、これに明成の方が応じなかったために、幕府は明成の子明友に対して、新たに石見吉永藩一万石を与え、家名を再興させた。『明成は明友の庇護のもとで藩政に口出しせずに余生を送』った、とある(引用元には随所に「要出典」の出典引用を求める注記が附くが、本文との齟齬はない)。]


[粟船村 常樂寺]


常樂寺 粟船山と號す。離山より北の方、粟〔或作靑〕船村に有。此寺の略傳記云。
 此地往昔爲海濱、以載粟船繫干此、一夕變而化山、今粟船山是也、其形如船、又海濵化爲桑田。人家于此、故曰粟船村、山南曰垢拂村、昔掃船中垢處也、又山北有小山、形圓轉、里民呼曰柄杓山、汲垢水器化山、其餘依名不具記、此地四仞之下、腐具朽蘆、古株靑泥等今猶存。鑿井知焉云云。
[やぶちゃん注:「腐具朽蘆」は「新編鎌倉志巻之三」では「腐貝朽蘆」。以下、「常樂寺略傳記」の引用部を「新編鎌倉志巻之三」基づいて書き下したものを示す。
古老相ひ傳ふ、粟船を以て村に號することは、山に依りて名を得たり。此の地、往時むかし海濵たり。以て粟を載する船を此に繋ぐ。一夕變じて山と化す。今の粟船あはふな山、是れなり。其の形、船のごとし、又、海濵化して桑田と爲る。人、此に家す。故に粟船村と曰ふ。山の南を垢拂あかはらひ村と曰ふ。昔、船中の垢を掃ふ處なり。又、山の北に小山有り、形、圓轉たり。里民呼びて柄杓ひしやく山と曰ふ。垢水を汲む器、山と化す。其の餘の依名よりな、具さに記さず。此の地四じんの下、腐貝朽蘆・古株靑泥等、今猶ほ存す。井を鑿ちてれを知る。
「四仞」の「仞」は中国の深度の単位であるが、和算に換算した定まったものがない。四尺~七尺の説があるから、約一・二メートルから二・一メートルの地下の謂いである。縄文海進の時代はこの粟船(現在の大船の古名)まで深い入江が延びていた。ここに示された古老の伝承は驚くべき古代を語って素晴らしいではないか。]
此寺は武藏守泰時の建立なり。泰時を常樂寺と號し、法名を觀阿と云ふ。位牌あり。本尊は阿彌陀三尊なり。【東鑑】に仁治二年十二月晦日、前武州〔泰時〕渡御于山内巨福呂別居、秉燭前令還給云云、按ずるに、巨福呂別居とあるは、粟船に別居を構へし事ならん。古えは山ノ内の莊なる由、今も居福呂谷といふ邊より、凡七八町を隔たり。泰時は、翌仁治三年六月十五日に卒し、粟船村へ埋葬して、常樂寺と稱するは、泰時が別居の事なるべけれとも、【東鑑】に、仁治三年の條脱漏せしゆへ却て其事しれず。仁治二年三月十六日、今日有評定、事終、人々退散、前武州〔泰時〕猶還座評定所、覽庭上落花、有一首の御獨吟云云。
 ことしけき世のならひこそものうけれ、花の散なん春もしられす
此歌を人々、前武州の辭世なるべしといえるとかや。夫より時々所勞の事ありといふ。【正統記】に、泰時心正しく政すなほにして、よく人をはぐゝみ、物に驕らず、公家の御事をおもくし、本所の煩ひを止めしかば、風の前に塵なくして、天の下則しづまりき。年代を累しこと、偏に泰時が力とも申傳ふめる。陪臣として、久敷權を執ることは、和漢兩朝先例なし。其主たる賴朝すら、二世をば過ず。泰時德政を先とし、法式を堅くす。おのれが分をはかるのみならず、親族幷あらゆる武士道もいましめ、高官位を望むものなかりき云云、寛元々年六月十五日、故前武州禪室周闋御佛事、於山内粟船御堂被修之、北條左親衞〔幷〕武衞參給、遠江入道前右馬權頭・武藏守以下、人々群參。有曼茶羅供、大阿闍梨信濃法師道禪〔幷〕讃衆十二口云々、建長六年六月十五日、迎故前武州禪室十三年忌景、被供養彼墳墓粟船御堂、導師信濃僧正道禪、眞言供養也、請僧之中納言律師定圓〔光俊朝臣の息子〕。藏人阿闍梨長信等、爲此御追福行八講、自京都態所被招請也、相州〔時賴〕御聽聞云云、此前年十一月廿九日、諏方兵衞入道蓮佛が、山ノ内に一堂建立、今日供養、是は奉爲故前武州〔泰時〕追福とあれば、爰の常樂寺に一堂を經營し、兼て忌景の設にカヒツクロヒしものならん歟。【元亨釋書】に云、副元帥平時賴は、隆蘭溪が、宋より來化せしを請じ迎えて、先爰の常樂寺へ安居せしむとあり。或はいふ、此寺もとは天台宗なる由記したれど、眞言宗なるべし。扨蘭溪が住せしより以來、禪派になりしといふ。此ゆへに、梵仙が榜に、開山蘭溪と云云。
[やぶちゃん注:「秉燭」は「へいしよく(へいしょく)」と読み、「燭をるの意から転じて、火の点し頃。夕方。
「仁治二年三月十六日、今日有評定……」仁治二年(一二四一)年三月十六日の条を以下に示す。
〇原文
十六日甲辰。此間。將軍家令加御灸五六ケ所御云々。今日有評定。事終。前武州持參事書。被披覽御前之後。人々退散。前武州猶還着評定所。覽庭上落花。有一首御獨吟。
 事しけき世のならひこそ懶けれ花の散らん春もしられす
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日甲辰。此の間、將軍家、御きうを五六ケ所へ加へしめたまふと云々。
今日評定有り。事終りて前武州、事書ことがきを持參し、御前に披覽せらるるの後、人々退散す。前武州猶ほ評定所へ還り着き、庭上の落花をらんじて、一首御獨吟有り。
  事しげき世のならひこそものうけれ花の散るらん春もしられず
・「將軍家」は第四将軍藤原頼経。
・「事書」は、評定で詮議決定した内容を箇条書きにして摘録した文書。名称は各文の文末を「~事」としたことに由来する。一首は、政務多忙のうちに、桜が散り春がいってしまうことさえ知らずにいたことをつらく嘆くものである。
「所勞」は疲労から来る病い。
「【正統記】に……」は「神皇正統記」の後嵯峨院の条にあるものを簡略叙述したもの。知られた北畠親房のこの部分の泰時評は、義時への評価を絡めつつ、殆んど絶賛に近い。
「寛元々年六月十五日、故前武州禪室周闋御佛事……」寛元元(一二四三)年六月十五日の条を以下に示す。
〇原文
十五日庚申。天霽。故前武州禪室周闋御佛事。於山内粟船御堂被修之。北條左親衛幷武衞參給。遠江入道。前右馬權頭。武藏守以下人々群集。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪。讚衆十二口云々。此供。幽儀御在生之時。殊抽信心云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日庚申。天霽。 故前武州禪室周闋しうけつの御佛事、山内粟船あはふな御堂に於て之を修せらる。北條左親衞幷びに武衞參り給ふ。遠江入道・前右馬權頭・武藏守以下の人々群集ぐんじゆす。曼茶羅供の儀なり。大阿闍梨信濃法印道禪。讃衆十二口と云々。此の供は、幽儀御在生之時、殊に信心をぬきんずと云々。
・「故前武州禪室」は北条泰時。
・「周闋」は一周忌(その終わり)。
・「北條左親衞」は北条經時。
・「武衞」は北条時頼。
・「遠江入道」は北条朝時。
・「前右馬權頭」は北条政村。
・「武蔵守」は北条朝直。
・「曼茶羅供」は「まんだらぐ」と読み、真言宗最高の法会の一つ。両界曼荼羅を掲げて諸尊を供養する法会。
・「幽儀」死者の霊で泰時のこと。
「建長六年六月十五日、迎故前武州禪室十三年忌景……」建長六(一二五四)年六月十五日の条を以下に示す。
〇原文
十五日乙酉。霽。今日。迎前武州禪室十三年忌景。被供養彼墳墓靑船御塔。導師信濃僧正道禪。眞言供養也。請僧之中。中納言律師定圓〔光俊朝臣子〕。備中已講經幸。藏人阿闍梨長信等在之。爲此御追福御八講。自京都態所被招請也。相州御聽聞。御佛事已後。相州令歸山内御亭給之處。鎌倉中騒動。路次往返之輩。多以帶兵具。仍則渡御鎌倉御亭也。
〇やぶちゃんの書き下し文
大十五日乙酉。霽。今日、前武州禪室十三年忌景きけいを迎へ、彼の墳墓靑船あをふなの御塔を供養せらる。導師は信濃僧正道禪。眞言供養なり。請僧しやうそうの中、中納言律師定圓〔光俊朝臣の子。〕・備中已講經幸・藏人阿闍梨長信等、之に在り。此の御追福御八講の爲に、京都よりわざと招請せらるる所なり。相州御聽聞。御佛事已後、相州山内の御亭へ歸らしめ給ふの處、鎌倉中、騒動す。路次往返の輩、多く以て兵具を帶す。仍りて則ち鎌倉の御亭へ渡御せらるなり。
・「靑船」は粟船。
・「八講」法華八講。法華経八巻を八座に分け、通常は一日に朝夕二座を講じて四日間で完了する法会。促音を無表記として「はこう」と綴っている場合もある。
・「鎌倉中、騒動す」不明。「吾妻鏡」では翌日、幕府警護に集まった諸士を時頼が披閲し、その際の名簿が載るが、特に直後に兵乱はない(この日の夕刻に月食が起こってはいる)。
「此前年十一月廿九日、諏方兵衞入道蓮佛が……」建長五(一二五三)年十一月二十九日の条を以下に示すが、これについて「鎌倉市史 社寺編」には、『これが山ノ内のどこであり、常楽寺と何らかの関係があったかそれとも何ら関係なく営まれたものであるか不明である』とある。
〇原文
廿九日甲辰。晴。諏方兵衞入道蓮佛。山内建立一堂。今日遂供養。是奉爲武州前刺史禪室追福云々。辰日追善事無先規之由。有傾申之輩。而參河守教隆眞人勘申云。入道中納言〔能保卿〕奉爲 後白河法皇追福。甲辰日供養小堂。宇治阿彌陀堂供養又爲辰日。是追善也云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿九日甲辰。晴。諏訪兵衞入道蓮佛、山内に一堂を建立し、今日、供養を遂ぐ。是れ武州前刺史禪室追福の奉爲おんためと云々。辰の日の追善の事、先規無しの由、かたぶけ申すの輩有り。而るに參河守教隆眞人勘申まひとかんじんして云く、入道中納言 〔能保卿〕、後白河法皇追福の奉爲おんため、甲辰の日、小堂を供養す。宇治阿彌陀堂の供養も又、辰の日たり。是追善なりと云々。
・「諏訪兵衞入道蓮佛」諏訪盛重(生没年不詳)。諏訪社大祝職にして得宗被官御内人。承久の乱の後間もなく被官として泰時に出仕、泰時側近として活躍した。嘉禎二(一二三六)年に泰時の邸宅が新造されると同時に御内人として敷地内に屋敷を構えている。「吾妻鏡」では弘長元(一二六一)年六月二十二日の条に、宝治合戦で滅んだ三浦義村の子息良賢をその残党とともに生け捕る、という記事を最後とする。
・「武州前刺史禪室」は北条経時。
・「刺史」は国司と同義。
・「傾け申す」は、貶す、非難するの意。
・「參河守教隆眞人」清原教隆(正治元・建久十(一一九九)年~文永二(一二六五)年)は儒者。本名、仲光。仁治元(一二四〇)年、正五位下。鎌倉に下って幕府に仕え、建長二(一二五〇)年に第四代将軍九条頼嗣の侍講となり、同四年には引付衆及び第五代将軍宗尊親王侍講を兼務。金沢実時による金沢文庫創設は彼の教導によるところが大きいとされる。「眞人」は天武一三(六八四)年に制定された八色姓やくさのかばねの一つで、継体天皇の近親とそれ以降の天皇・皇子の子孫に与えられた最高位の姓。但し勿論、この頃には既にそうした政治的地位は失った有名無実の名誉姓に過ぎなくなっていた。
・「勘申」儀式などの諸事につき、先例・典故・吉凶・日時などを調べて上申すること。勘進。
・「入道中納言 〔能保卿〕」一条能保。
「忌景」「景」は日の意で、死者の回向えこうなどをする日。忌日。
「設」は「まうけ(もうけ)」で、儀式の執り行い。
カヒツクロヒしもの」準備をするために建てたもの。
「或はいふ、此寺もとは天台宗なる由記したれど、眞言宗なるべし。扨蘭溪が住せしより以來、禪派になりしといふ」即ち、植田はシンプルに、時頼の招聘によって蘭溪道隆がここに住み(但し、来鎌の当初は寿福寺に錫を掛けていた)、後に常楽寺が臨済宗建長寺派の寺となった事実から、蘭溪の入室の直後に、本寺が古くからの真言密教系寺院から純粋な禅寺へと改宗したと植田は言うのであるが、ここには複雑な事情が絡み合っており、一概には断定出来ないのである。それは、最後に示された建長六年の「吾妻鏡」の記載にある。わざわざこの十三回忌供養のために京都から招請した僧は、いずれもご覧の通りの密教系の僧侶であり、そこで修せられた仏事も『眞言供養』とある。蘭溪が建長寺に入るのは建長五年十一月である。にも拘わらず、この翌建長六年六月の泰時十三年回忌供養の導師が、今や飛ぶ鳥を落とす勢いとなっていたはずの、そして、当山所縁であるはずの蘭溪道隆その人ではなく、わざわざ『信濃僧正道禪』を招いての『眞言供養』であったという事実は、この寺が少なくとも禅密兼修の道場であったことを意味していよう。実は常楽寺開山と伝えられる高僧退行行勇も禪密兼修の僧であった。ところが、そう単純には裁断出来ない面が外にある。それは泰時の戒名である。彼は臨終の間際に、『觀阿』という阿彌陀の「阿」を採ったと推定される戒名を得ている。これは極楽往生を願った、即ち、念仏宗の影響を泰時が受けた、彼の墓があるこの常楽寺本尊は阿弥陀三尊(但し、現存するものは室町期の作)である――こうした事実は、浄土教との絡みも本寺にはあったことを示唆しているようにも思われるからである。ところが、禪寺になっている資料はないかというと、本記載で参照した「鎌倉市史 社寺編」によれば、本寺の鐘について『ここに現存する鐘は宝治二年(一二四七)の銘があり、』この初めに「家君禪閣墳墓之道場也、境隔囂喧、定催坐禪之空觀、寺號常樂。」(蓋し家君禪閤墳墓の道場なり。境、囂喧を隔て、坐禪の空觀を催すに定まれり。寺、常樂と號す。)という記載が現われ(「囂喧」は「がうけん(ごうけん)」で喧々囂々、人々が喧しく騒ぎたてるさま。以上の鐘銘は「新編鎌倉志卷之三」から引用した)、『この年には常楽寺と称していたことを知ると共に、泰時の墳墓があること(いま泰時の墓あり)及びこの年には禅寺となっていたことを知ることが出来る』とあり、補注して浄智寺蔵の建長寺西来庵の修造勧進状に『この時期に北条泰時の女法名戒妙大姉がこの寺と関係が深く、道隆に帰依していたようである』とあるのである(この「鎌倉市史 社寺編」には、この部分の私の記述で大方の有益な示唆を頂いており、参照した部分も多いのであるが、蘭溪の建長五年建長寺入室の叙述の直後に、『とするとその同じ年の六月に泰時の十三回忌供養が行われたときの導師が道隆でなくて信濃僧正道禅であるのは……』とあるのは不審で、これは「翌年の六月」の誤りとし思われない。「吾妻鏡」にはそのような記載はない)。
 これは一体何を意味するのであろう?
本尊の阿弥陀三尊と泰時の戒名「觀阿」(仁治三(一二四二)年六月十五日没)からは浄土教の匂いがする
が、その五年後『寶治貮年戊申三月廿一日』に鑄られた、
鐘の「銘」には宝治二(一二四七)年三月二十一日時点で、正真正銘、禅道場である と言い、ところが、その七年後の
「吾妻鏡」建長六(一二五四)年六月十五日の条の泰時十三回忌では、真言寺院よろしく真言の高僧がはるばる京から下向、「眞言供養」が行われている
一時は四十八の塔頭を擁し、仁政の名君北条泰時の御霊を祀り、鎌倉禅宗のチャンピオン蘭溪所縁の由緒あるこの寺乍ら、諸本には詳しい寺史は不明とする。内容を形骸化させながら派閥のセクト主義に陥ってゆく、その後の建長寺派・円覚寺派の世界とは、全く異なった、鎌倉仏教界の自由な空気を持った道場が、この御府内でも、比較的周辺的な位置にあったこの常楽寺には、パラダイスのようにあったのかも知れないと夢想してみるのも面白い。]

方丈の額 開山蘭溪の書なり。

[方丈の「圓鑑」の額]


表門 粟船山と、黄檗木菴が書の扁額を掲ぐ。寺領は建長寺領の内、永壹貫八百文鎌倉十二社村にて分附す。
[やぶちゃん注:道隆の縁によって常楽寺は「建長寺根本」と称され、永く建長寺から寺領を配当されていた。
「黄檗木菴」木庵性瑫(もくあんしょうとう 一六一一年~貞享元(一六八四)年)江戸前期の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の禅僧。福建省生。木庵は道号、性瑫は法諱。黄檗隠元の法嗣。承応四・明暦元(一六五五)年に既に来日していた隠元に招かれて長崎福済寺住持となり、後、宇治黄檗山万福寺第二代住持、江戸紫雲山瑞聖寺開山となった。能書家としても知られ、隠元・即非とともに黄檗三筆と称される。]

寺寶 定規 二篇なり。板に彫て、一篇は蘭溪、一篇は梵仙の書なり。其寫長文ゆへ、玆に略す。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之三」に原文写しあり。とても面白いものなので是非、お読み戴きたい。それに――植田先生よう、そんなに「長文」じゃあ、ありませんゼ!]

洪鐘 鐘は寶治二年のものなり。是も銘文の寫は略す。
[やぶちゃん注:銘文写しはこれも「新編鎌倉志卷之三」にあり。]


[文殊堂「秋虹殿」扁額]

文殊堂 佛殿に向て左の方にあり。
秋虹殿の額を掲ぐ。大覺禪師の書なり。文殊・不動・毘沙門を安ず、文殊は頭ばかり、蘭溪が宋國より將來し、躰は本朝にてみづから作りつぎて、全體にせしといふ。
[やぶちゃん注:「鎌倉市史 社寺編」には「秋虹殿」の扁額については『道隆の書というがこれは疑わしい』とある。「新編鎌倉志卷之三」では、特に記さぬところを見ると、これはもしかすると、江戸後期に発生した比較的新しくでっち上げられた伝承なのかも知れない。
「文殊」現存するが秘仏。鎌倉時代の作で、右手に如意、左手に経巻を持って磐座いわくらに座す。胎内名札によって永禄十(一五六七)年五月に仏師長盛が彩色をし直し、安永二(一七七三)年には仏師三橋宮内が修理したことが分かっている。総高七九・八センチメートル。]

阿彌陀堂 門より正面にあり。

泰時の墳墓 阿彌堂の後にあり。

[平泰時墓碑  高四尺五寸]

[やぶちゃん注:正面の梵字は彼の戒名からすれば阿彌陀を示す「キリーク」かと思われるが、左下方がおかしい。現在の墓は、この梵字の下部の部分欠損が激しい。この墓、如何にも形がおかしいとずっと感じている。宝篋印塔か宝塔かが崩れたものを、寄せ集めた感がある。]

姫宮 泰時の墓より左の方の山にあり。寺傳に、泰時の女といふ。今は古松一株あり。土人姫松と唱ふ。當寺の過去帳に載て、法號蛔妙大姉とあり。
[やぶちゃん注:これは後述する大姫の墓とも伝えられる。実は先に引用された「粟船山常楽寺略記」には北条政子が娘大姫と、後述する婿木曽義仲嫡男源清水冠者義高の菩提を弔うために創建したと記されているのである。]

色天無熱池 寺の艮の隅にあり。
[やぶちゃん注:蘭溪道隆と乙護童子おとごどうじ(御法童子に同じ。仏法守護に使役される童形をした鬼神)の伝説の池。寛元四(一二四六)年に来朝した大覚禅師蘭渓道隆(当時三三歳)は、数年後に執権北条時頼の懇請により鎌倉に入ったが、彼を開山として迎える建長寺が完成する(「吾妻鏡」に建長五(一二五三)年落慶供養とある)までは、常楽寺に居住していた。彼には宋から随伴した給仕係(この職を宋の寺院にあって乙護と言った)の童子がいた。この少年があまりに美しかったがために、世間では禅僧たる者があろうことか美少女を侍らせているという悪評判が立った。するとこの童子、白蛇(白龍とも)となって、仏殿前の銀杏樹を七まわり半廻ると、この色天無熱池を尾で叩き、その正体が実は江ノ島の弁財天の使者たる乙護童子であったことを示したという話である。]

義高石塔 寺後の山上にあり。石面に木骨冠者義高公の墓とあり。
[やぶちゃん注:現存するが、江戸も後期の作と思われ、尚且つ、哀しくなる程に、如何にも粗末なものである。]

木曾塚 姫宮より西にあり。此塚、もとは常樂寺の未申の方なる田の中に、十町許も隔て在しを、村民是を木曾免といひし由、是は木曾義仲嫡子淸水冠者義高の塚なり。此人は、義仲より質として、鎌倉に來し給ひければ、右大將家の姫君に嫁して、鎌倉に在りしが。元曆元年正月、江州にて義仲討れにければ、禍ひ義高が身に至らん事を、女の貌にやつし、同四月廿一日の早天に、御所を忍び意で給ふ。其日の夕刻に右大將の聞に達しければ、堀藤太親家、武藏國河越へ向ひけるが、同二十六日、入間河原にて親家が郎黨藤内光澄冠者義高を誅し、首を持來て實撿に備へ、後に此邊え其首を埋葬せしといふ。もとは田圃の中に古塚在りしを、延寶八年二月廿一日、田の主石井某といふもの、塚を掘出し、其中に靑磁の瓶有。内に枯骨土にまひれて有けるを、悉く洗ひ淸めて、常樂境内に移し、塚を封して木曾塚と稱しけるといふ。
[やぶちゃん注:私はこの話が、鎌倉の恋愛史の中で最も悲劇的なものとして忘れ難い。以下、私が「新編鎌倉志卷之三」の「木曾塚」に注したそのまんまであるが、転載して、二人の恋の形見としたい。
とても印象深く木曽清水冠者義高(承安三(一一七三)年~元暦元(一一八四)年)は源(木曾)義仲の嫡男。寿永二(一一八三)年に頼朝の挙兵に呼応し、以仁王遺児北陸宮を奉じて信濃国に蜂起した義仲は、頼朝と不和であった義仲の叔父志田義広と新宮行家を庇護したことなどから頼朝の怒りを買い、一触即発の険悪な事態に陥ったが、義仲が当時十一歳であった長男義高を人質として鎌倉へ差し出して(恐らく同年夏頃以降には現着していたと思われる)和議が成立した。この際、義高は信濃の豪族の子弟で同年の側近海野幸氏らとともに頼朝の長女大姫(治承二(一一七八)年~建久八(一一九七)年)の婿として鎌倉へ入城している。ところが指揮系統を維持出来なかった山猿義仲は結局、頼朝の疑心暗鬼と後白河の策謀にはめられて元暦元(一一八四)年一月に宇治川合戦で範頼・義経の義仲追討軍に敗走、粟津で討死してしまう。同年四月二十一日、最早、存命の意味を失った義高を頼朝が誅殺することを御付の女房たちから知った大姫は、僅かに数え七歳であったが義高を逃がそうと近習幸氏を義高の影武者とし、義高を女房姿に変装させ、大姫の侍女らに囲まれて屋敷を出でて、蹄を綿で包んだ馬に跨ると鎌倉を秘かに脱出したとされる(この辺りは「吾妻鏡」によるが、この脱出劇には実は政子も加担していたという説もある)。翌一日、幸氏は美事に影武者役を果たすが、その夜になって露見、激怒した頼朝は幸氏を捕縛監禁し、堀親家らに義高誅殺を命じる。大姫がこれを聴き、「姫公周章令銷魂給」(姫公、周章し魂を銷ししめ給ふ)と激しいショックを受けた様子が「吾妻鏡」には描かれている(以下も引用も同じ)。後、武蔵国入間河原で追討軍親家の郎党であった藤内光澄に討たれた享年十二歳の義高の首は、四月二十六日に鎌倉に光澄によってもたらされた。これは内密にされていたが、直に大姫に漏れ、彼女は「愁歎之餘令斷漿水給」(愁歎の餘り、漿水を斷たしめ給ふ)と、水も喉を通らない激烈な悲哀の心傷を受けてしまう。これはASD(急性ストレス障害)の劇症型で、拒食と意識障害が生じているとなれば、若年性神経症が疑われる。以下、同年六月の記事を示す。
廿七日甲申。堀藤次親家郎從被梟首。是依御臺所御憤也。去四月之比。爲御使討志水冠者之故也。其事已後。姫公御哀傷之餘。已沈病床給。追日憔悴。諸人莫不驚騒。依志水誅戮事。有此御病。偏起於彼男之不儀。縱雖奉仰。内々不啓子細於姫公御方哉之由。御臺所強憤申給之間。武衛不能遁逃。還以被處斬罪云々。
◯やぶちゃんの書き下し
廿七日甲申。堀藤次親家が郎從梟首さる。是れ、御臺所の御憤に依りてなり。去ぬる四月の比、御使と爲して志水冠者を討つの故なり。其の事已後、姫公、御哀傷の餘り、已に病床に沈み給ひ、日を追ひて憔悴す。諸人驚騒せざる莫し。志水誅戮の事に依りて、此の御病有り。偏へに彼の男の不儀に於て起こる。縱ひて仰せを奉ると雖も、内々に子細を姫公御方に啓せざるやの由、御臺所強く憤り申し給ふの間、武衛遁逃するに能はず、還りて以て斬罪に處せらると云々。
私はこの義高と大姫の逸話が鎌倉時代の影のエピソードの中でも何より哀しく忘れ難いのであるが――それにしても――幾ら大姫がぶらぶら病になったからと言って――幾ら政子のヒステリーが手につけられなくなったからと言って――訳の分からぬうちに呼び出され――訳の分からぬうちに斬首されたであろう――ヨーゼフ・Kならぬ誅殺実行者藤内光澄は、文字通り――理不尽不可解不条理シュール――覿面体面いい面の皮――まっこと死んでも死にきれなかったであろうことは、推測するに余りあるというもんだ。――
大姫はその後十年を経ても、義高への思いに浸り続けて悶々とし、床に伏すことの多い生活が続いた。建久五(一一九四)年、頼朝は十七歳になった大姫に、下向して来た自身の甥で公家であった一条高能(十八歳)との縁談を進めようとするが、大姫は「及如然之儀者、可沈身於深淵之由被申云々」(然るごときの儀に及ばば、身を深淵に沈むるべきの由申さると云々)と答えたという。それでも頼朝は性懲りもなく、翌建久六(一一九五)年二月には政子や頼家とともに大姫をも伴って東大寺の落慶供養のために上洛した際、土御門通親などを通じて大姫を後鳥羽天皇妃にするための入内工作を盛んに企てている。しかし、薬石効無く建久九(一一九七)年七月十四日、大姫は二十歳で天に召された。彼女の症状はASDから速やかにPTSD(心的外傷後ストレス障害)に移行後、恐らく拒食や自傷行為を繰り返し、重い鬱病または統合失調症へと増悪したものと私には思われる。反幕派であった後鳥羽には入内の意向はなかったであろうし、和歌は別として、あの何事にも拘る異常な人格の後鳥羽の妃にならなかったのは幸いであったか。いや、万一妃になっていたら、案外、承久の乱以後、傷心の夫と隠岐に自律的に付き添って渡ってしまい、あの絶海の孤島の自然の中で、不思議に哀しい笑みを漏らしていたかも、知れぬ。……
「延寶八年」は西暦一六八〇年。この五月に徳川綱吉が江戸幕府第五代将軍となっている。]


[瑞泉寺並永安寺旧迹]



[やぶちゃん注:この図中にある「永安寺」は「やうあんじ(ようあんじ)」と読み、「鎌倉攬勝考卷之七」の最後の方に、
永安寺舊跡 瑞泉寺門外右の谷なり。公方氏滿朝臣の開基なり。法號永安寺山全公と稱す。應永五年十一月四日逝す。開山曇芳和尚、諱周應、夢窓國師の法嗣なり。建長寺瑞林菴の始祖、又永享十一年二月十日、持氏朝臣此寺へ籠居し給ひ、嫡男義久に家讓らん事を請ふ。京都義教將軍聞ず。持氏朝臣〔四十二。〕・滿貞〔滿兼の御弟篠川殿。〕自殺す。夫より後、此寺も何れの頃にか廢地となれり。
とある寺である。なお、この図の徧界一覧亭のある背後の山と九十九折は強烈な誇張画で、鎌倉市街図を見れば分かる通り、こんな峨ゝたる山巓ではない。]

瑞泉寺 朝夷奈切通の北寄にあり。錦屛山と號す。本尊釋迦〔作不知〕。開山夢窻國師、開基足利基氏朝臣、瑞泉寺玉岩昕公と法號す。寺領圓覺寺領の内、三拾八貫文を寄附す。基氏朝臣を開基とは稱すれども、國師は嘉曆元年此地に菴室を造り、南芳菴と號し、同二年瑞泉寺といふを建立せし由など、國師の【語錄】に見へたり。されば其後足利家の世となりて、基氏朝臣再建せられしより、開基檀越と稱せし事ならん。【夢窻語錄】云、
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]
嘉曆元年九月、至鎌倉、於永福寺傍、卓菴曰南芳、同二年平公〔平高時〕、又以淨智固請不可免、勉強應之、過夏勇退歸南芳、八月移錦屛山、建瑞泉蘭若、同三年、師在瑞泉、是歳造觀音堂、又於絶頂構亭、名遍界一覽、仍題偈、明極淸拙同賦、鏤版掲焉、冬元帥〔高時〕以圓覺請、不赴。〔下略〕
[やぶちゃん注:「遍界一覽」の「遍」はママ。以上の訓読を私なりに試みる。
嘉曆元年九月、鎌倉は永福寺の傍らに至り、菴を卓して曰く、南芳。同二年平公〔平高時〕、又、淨智を以て固請し、免かるべからず、勉強して之に應じ、夏を過ぐして勇退、南芳へ歸す。八月、錦屛山に移りて、瑞泉蘭若を建つ。同三年、師、瑞泉に在り、是の歳、觀音堂を造り、又、絶頂に亭を構ふ。名づけて遍界一覽、仍ち偈を題す。明極・淸拙、同じく賦し、版をしてここに掲ぐ。冬、元帥〔高時〕圓覺を以て請ふも、赴かず。
「嘉曆元年」は西暦一三二六年、当時夢窓疎石五十一歳。
「卓」は立てるの意で、この南芳庵は現在の瑞泉寺の南、永福寺の傍らにあった。
「瑞泉蘭若」この時は瑞泉院と称した。
「鏤」は刻む。
「赴かず」とあるが、翌年元徳元(一三二九)年に更に請われて、やむなく八月に円覚寺に入っている(九月に退き、甲斐に慧林寺を開き、この瑞泉院とを往還している内に元弘三(一三三三)年の幕府の滅亡を迎えた)。
「明極」俊明極しゅんみんき。元徳元(一三二九)年に元から来朝、建長寺に住した臨済宗楊岐派松源派高僧、明極楚俊。
「淸拙」は呉松曹渓の真浄寺の清拙正澄禅師(一二七四年~延元四・暦応二(一三三九)年)。鎌倉末から南北朝初に来日した禅僧で日本の臨済宗大鑑派祖。嘉暦元(一三二六)年、北条高時の招聘を受けて渡日、鎌倉建長寺に住して禅規を刷新した。浄智寺・円覚寺を経て、建武の新政以後は後醍醐天皇の勅命を受けて京都建仁寺・南禅寺などに住し、後、信濃国守護小笠原貞宗の招きにより信濃伊賀良の開善寺開山となった。建仁寺にて示寂。彼が記した禅宗の規律集「大鑑清規」は後の小笠原流礼法にも影響を与えたとされる。]
圓覺寺派下の西堂の寺なり。彼派下の僧侶、西堂に任ずるものは、瑞泉寺住持職の事とある公文を得て其階にすゝめり。其法則今顯然たり。
[やぶちゃん注:「西堂」は禅宗寺院で当該寺院の先代住職を東堂と呼ぶのに対して、他の寺院の前住職をよぶ尊称であるから、瑞泉寺には円覚寺派の前住職の隠棲地であったことを言う。]

開山塔 總門を入て右の方、山際にあり。夢窻國師の像幷源基氏朝臣・氏滿朝臣の木像有、此邊に基氏朝臣の墓碑も有。


[足利基氏朝臣木像 瑞泉寺に安ず]


[足利氏満朝臣 木像 同前]

[やぶちゃん注:「鎌倉市史 社寺編」によれば、足利基氏は貞治六(一三六七)年に享年二十八歳で亡くなる(死因ははしかとされる)と、その遺命によってここに葬られ、ここに本寺は関東総支配の鎌倉公方家塔所となったが、瑞泉院から瑞泉寺への改名もこの頃のことではいかと推定されている。]

座禪窟 開山塔の後に大ひなる巖窟あり。開山座禪せしところなり。
[やぶちゃん注:因みにこの前に現在復元されている夢窓疎石作と伝えられる石庭は、上記の観音堂や徧界一覧亭と同じく嘉曆三(一三二八)年頃から南北朝期に作庭されたものと考えられるが(但し、「鎌倉市史 社寺編」は夢窓の作庭であるという確証はないとする。私は個人的には、創建当初の地割に従って復元されたという現在の禅宗様式の庭には、何ら魅力を感じていない)、早い時期に土砂に埋没し、先行する「新編鎌倉志」にも本書にも示されていない。]

編界一覽亭迹 座禪窟の上の山なり。登路十八曲の坂なり。夢窻、此亭にての詩歌あり。
  前もまたかさなる山の菴にて、梢につゝく庭のしら雲
 天封尺地許歸休。  致遠釣深得自由。
 到此人々眼皮綻。  河沙風景我焉廋。
 此餘一覽亭の詩篇、多く僧侶佳調なれども、悉く略す。
[やぶちゃん注:「編」はママ。
和歌を読み易く書き直しておく。
  前もまた重なる山の庵にて梢に續く庭の白雲
以下、「新編鎌倉志卷之二」の当該漢詩の訓読に基づき、以下に書き下し文を示す。
 天 尺地せきちほうじて 歸休を許す
 遠を致し 深をさぐりて 自由を得たり
 此に到りて 人々 眼皮ほころ
 河沙の風景 我いづくんぞかくさん
以下、拙訳を示しておく。
 天は 我に僅かの地を封じ 一時の休息を与えて呉れた
 遠きを見極め 深きを探って 我は今自在の観想を得ている
 此処に到らば たれもが皆 眼から鱗じゃ
 遙かに無限に広ごる景観 これをどうして 隠しおおせようか
結句の意味がよく分からない。この地を万人のものとして開放する、の謂いであろうか? 識者の御教授を乞うものである。因みに、復元された現在の徧界一覧亭は一般人は立ち入り禁止、背後の山上の尾根を通る天園ハイキング・コース側から向かっても有刺鉄線と警報装置が配されている(少なくとも二〇年前はそうだった)。夢窓がこれを見たら――どう思うであろうか?
「一覽亭の詩篇」「一覽亭記」以下、膨大な詩群は、「新編鎌倉志卷之二」本文及び私の書き下し及び注を参照されたい。但し、その分量たるや、半端ねえ。御覚悟あれかし。]
【梅花無盡藏】に、萬里居士が詩あり。
尋瑞泉之古刹、攀斷崖數十丈、認一覽亭之所在、只殘礎縱横、亭子不存、枝茂林深、四面之風致十一、不能望之、遠則富士之半巓、近則鶴岡之左股、僅掛蜘蛛之網底耳、國師行道之寶地、四衆絶輻輳之跡、紫苔荒而黄葉積、無一木之可與之公案、吁監院之懶歟、寺産之薄歟、抑亦山靈之祕淸境歟、未爲易識焉、謹作一覽亭詩云。
東驢素念別非鞭。  一覽亭西富士烟。
殘礎苔荒黄葉積。  蛛絲底有國師禪。
[やぶちゃん注:以下、市木武雄氏編の「梅花無尽蔵注釈」を参考にしながら書き下したものを以下に示す。
瑞泉の古刹を尋ぬ。斷崖數十丈をぢ、一覽亭の所在を認む。ただ、殘礎、縱横にありて、亭子、存せず。枝、茂り、林、深くして、四面の風致、十にいつも、之を望む能はず。遠くは則ち富士の半巓、近くは則ち鶴岡の左股さこ、僅かに蜘蛛の網底まうていに掛かるのみ。國師行道ぎやうだうの寶地も、四衆、輻輳ふくそうの跡を絶つ。紫苔したい荒れて、黄葉くわふえふ積り、一木のあたふべきの公案も無し。ああ、監院のらんか、寺産のはくか、抑々そもそも亦、山靈の淸境を祕するか、未だ識り易しと爲さざるなり。謹んで一覽亭の詩を作りて云ふ。
東驢とうろの素念 別にべんするに非ず
一覽亭の西には 富士のけぶ
殘礎 こけ荒れて 黄葉積もる
蛛絲しゆしの底に 國師の禪有り
これは省略された冒頭部から、文明一八(一四八六)年一〇月二九日の鎌倉来訪時のものであることが分かる。起句の意味が分からない。残念ながらグーグル・ブックスで参考出来た「梅花無尽蔵注釈」では、語注や訳の部分が公開されていない。その内、管見する機会があったら補塡する。――それにしても蜘蛛の巣の底に眺める富士は、鉄条網の底の富士に比べたら、雲泥の風流ではないか。――]

理智光寺 五峰山と號す。永福寺舊跡より東。古へは此邊も大倉と號しけり。往昔、貞永元年十二月廿七日、後藤大夫判官基綱、故右府〔實朝〕追薦の奉爲ヲンタメに、大倉に一寺建立の功をなせり。供養導師は辨僧正定豪〔鶴岡大別當〕と云云。夫より後に至り、理智光寺と稱し、願行を開山とし、禪律にて、京都泉涌寺の末也。開山願行の牌に、開山勅諡宗燈憲靜宗師と有。佛壇に大塔宮の牌あり。寺傳に云、淨光明寺の慈恩院に有しが、是は常寺に有べきものとて、爰へ移せしといえり。《鞘阿彌陀》本尊阿彌陀〔作不知〕腹籠りに靈佛を納しゆへに、土人是を鞘阿彌陀と唱ふ。此寺今は尼寺と成。山内東慶寺の末となれり。
[やぶちゃん注:現在、大塔宮の墓の南西の谷を理智光寺谷と称し、この大塔宮墳墓を含むこの谷戸全域を寺域としていたと考えられる。明治二(一八六九)年に廃寺となり、現在、寺域の殆んどは宅地化されている。「鎌倉廃寺事典」によれば、南北朝頃までは「理智光院」と称しており、天文年間五(一五四七)年前後以降、「理智光寺」となったものと推定される、とある。
「貞永元年十二月廿七日、後藤大夫判官基綱……」は「吾妻鏡」貞永元(一二三二)年十二月二十七日の記事。植田はこの『大倉』に建てたという寺を本寺の濫觴としているが、現在の記載では、ここまで遡ったものは見当たらない。当該条を以下に引いておく。
廿七日壬寅。後藤大夫判官基綱大倉堂供養。導師辨僧正定豪。奉爲故右府將軍追善。成建立之功云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿七日壬寅。後藤大夫判官基綱、大倉堂、供養す。導師は辨僧正定豪。故右府將軍の追善の奉爲おんために建立の功を成すと云々。
「後藤大夫判官基綱」(養和元(一一八一)年~康元(一二五六)年)は初代評定衆の一人。歌人としても知られ、また彼の記録が「吾妻鏡」の一次資料として利用されていると考えられている。
「定豪」「鎌倉攬勝考卷之三」「鶴岡大別當舊跡」の「大別當歴世の名籍」の項の「定豪」を参照。
「追薦」追善の俗用。誤植ではない。
「願行」(建保三(一二一五)年~永仁三(一二九五)年)は真言僧、憲靜大和尚のこと。号を圓満、字を願行と称した。賜号は宗燈律師。顕密浄律の諸宗に兼通し、画僧としても知られた。
「淨光明寺の慈恩院に有しが、是は常寺に有べきものとて、爰へ移せしといえり」これは「新編鎌倉志卷之二」の「理智光寺」にも書かれているが、「鎌倉廃寺事典」によれば、現在残る天文十六(一五四七)年の文書から当時、『理智光寺(院)が衰微して、同宗である淨光明寺の慈恩院が兼務あるいは管理していた』がことが分かり、一時、これら願行・大塔宮位牌が一時慈恩院に移されていたものを、その後の中興で本来あったここへ戻したという意味である旨、解説がある。
「腹籠りに靈佛を納しゆへに、土人是を鞘阿彌陀と唱ふ」こ阿弥陀像は廃寺後、覚園寺に移されて現存するが、胎内仏は今はない。]


[護良王廟答]

[やぶちゃん注:「答」は「塔」。絵を見ても、この時既に、不完全な宝篋印塔と化していたことが分かる。]

護良王石塔 山上にあり。宮のなきがらを、住僧が葬奉りしなり。佛壇に位牌あり。
兵部卿尊雲法親王尊儀 裏に建武二乙亥年七月念三日。
[やぶちゃん注:「尊雲法親王」は大塔宮おおとうのみやと同じく護良親王の幼名である。悲劇の貴公子は、同時に勇猛な武士にはよくあった幼名を通す、 puer eternus プエル・エテルヌスでもあったということか。]

鍍場タヽラ 西の方にあり。是は大乘寺の本尊、鐡像の不動を鎔工せし所といふ。
[やぶちゃん注:「鍍場タヽラ」のルビはママ。但し、「新編鎌倉志卷之二」の同項では「鑪場タヽラバ」とあるので、誤植の可能性が高い。
「大樂寺」後の同項を参照。]

覺園寺 藥師堂谷にあり。鷲峰山と號す。禪律にて、京都泉涌寺の末、永仁四年平貞時の建立なり。開山心惠和尚、諱智海と號し、願行上人の法嗣。本尊薬師・日光・月光・十二神、ともに宅間法眼が作といふ。此地往昔藥師堂を、先祖義時が建立せしゆへ、藥師堂谷と唱へしも、燒亡せしより、四十六年を歷て、此時また古名の藥師堂谷へ安置し、一寺再建せしものなり。今寺領七貫百文といふ。
[やぶちゃん注:「永仁四年」西暦一二九六年。
「心惠」智海心恵しんえ(?~嘉元四(一三〇六)年)は先涌寺願行上人(先の「理智光寺」注参照)に師事、元瑜げんゆらから真言密教小野・広沢両流を、極楽寺の忍性らに戒律を学ぶ。当時の第九代執権北条貞時の深い帰依を受けた。
「宅間法眼」平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の鎌倉・室町期の絵仏師としてしばしば登場する。]

寺寶

不動畫像 一幅 三尊、開山心惠筆。

伽藍目錄 一幅 右同筆。 年中行事 一卷 思淳筆。
[やぶちゃん注: 「思淳」朴艾思淳ぼくがいしじゅんは覚園寺中興の祖とされる南北朝初期の僧。]

地藏堂 額は大地殿と八分字、脇に永祿十二年己巳十月廿四日。古額を直せしものなり。傍に芳春院李龍周興新造旃とあり。此地藏を、土俗火燒地藏といふ。《黑地藏》【年中行事】に、黑地藏と有て、持氏朝臣參詣のこと見へたり。傳へいふ、此地藏、地獄を廻り、罪人の苦を見て堪兼、自ら獄卒に替り火をたき、罪人の熖をやすめらると。此ゆへ毎年七月十三日の夜は、男女群參す。彩色を加えけれど、又一夜の内に本のごとく黑くなるといふ。此堂建立の時、奇事ありしといふこと、【沙石集】に見へ初鎌倉の濱に有しを、願行上人二階堂へ移すともいえり。
[やぶちゃん注:この「沙石集」の話は同書「卷第二 六 地藏菩薩種々利益事」の冒頭に現れるもの。以下に示す(底本は一九六六年刊岩波古典文学大系版を用いたが、本文ルビ仮名カタカナ表記が読み難いため、ひらがな化して示し、繰り返し記号「〱」「〲」は正字化、一部のルビや編集記号を省略した)。
 鎌倉の濱に、古き地藏堂あり。丈六の地藏を安置あんぢす。其邊の浦人常にまうでけり。或時、日比詣ける浦人共、面々に夢に見けるは、若僧の美目形みめかたちちうつくしきが、「日來常に見參げんざんしつるに、人にうられて外へこそまかれ。さて名殘惜くて、詣で來る」と、の給ふと見て、怪み思ふ程に、此堂の主貧ぬしまづしき儘に、先祖の堂を賣間うるあひだ、東寺の大勸進の願行坊上人、是れを買て、二階堂の邊に遷造うつしつくらんとて、佛像を渡し奉るに、人夫不足にて思煩おもひわづらふ處に、いづくよりともなく、下種げす法師のせい大きなるが來りて、「十人が振舞はつかまつるべし」とて、持ち奉る、今十人ばかり不足なるに、此法師甲斐甲斐しくもちて、やすやすとはこび渡しつ。さてじきせさんとする程に、かきけつ樣にうせぬ。權化のわざにやと人怪む。同法の僧、たしかに見てかたり侍りき。さて彼の佛のうなじの貧相ひんさうにおわしますを、上人、佛師をよびて、なをさしめんとするに、「靈像にておわしませば、たやすやぶりがたし」と云ひければ、別の佛師をよばんとする處に、くだんの佛師來て、「夢に、わかききたりて、「只我身をばなをせ。苦見亡きぞ」と、仰らるゝと見て候へば」とて、直し奉りぬ。又其後檀那出來て、供料など寄進してけり。佛の相も人の相に違ずといへり。當代の不思議也。彼の上人の弟子の説也。世間又かくれなし。さて彼の夢に見奉りし浦人、信を致し、あゆみはこびて詣で、よその人も聞及ききおよび、貴びあがめ奉るとなん。〔以下、仏像補修の理を解くが省略する。〕]

弘法大師護摩壇跡 山上にあり。
[やぶちゃん注:この覚園寺境内の北の尾根の張り出しの部分、やや東の杉ヶ谷やぐら群を中心に、辺り一帯の多数のやぐら群を通称、「百八やぐら」と呼称している。「法王やぐら」や「団子窟」など、その幾つかは「鎌倉攬勝考卷之九」の最後に絵入りで紹介されているので参照されたいが、これらの大部分は古くからこの覚園寺の管理にあった、これについて私の知人(と言うより私の妻の知人と思われる)もちださんのHPの「百八やぐら群」に、ここが覚園寺の持ちとなったのはいつごろかはよくわからないとした上で、以下のような面白い記事を載せておられる。引用させて戴く。覚園寺文書の内の『室町時代の文書目録には「石蔵安堵状等、一結これ在り」とみえるが、これを「いはくら=やぐら」とよみ、その祭祀権・所有権などを公方府などから承認されたさいの文書群の存在をしめすもの、とのみかたがある。空想をめぐらせば、北条氏関係の古いやぐらをひきつづき供養することを覚園寺に許した(もとめた?)ということになるのだろう』。幕府滅亡後、『同寺はまず後醍醐天皇の勅願寺として、ついで足利氏が独自に復興した。思淳和尚は尊氏・直義から信任され、いまも住職等が懐中電灯で解説してくれる薬師堂』にある梁牌に『に尊氏とともにサインした長老である。こうした状況から見て、後醍醐や尊氏の意図は滅亡した幕府の亡霊を鎮魂供養することにあったとみてまちがいないし、梁牌にかかれているように天皇(後光厳天皇)や「征夷将軍」の息災長寿、異国降伏など、国家の重大事にかかわる怨霊ののろいを慎重に取り除くためだった。これを裏付けるのは命日供養のなかに直義(兄・尊氏によって殺害)の名もみいだせることである』。この梁牌のクレジット、正平九・文和三(一三五四)年『といえば尊氏によって元弘以来戦没者供養の一切経が書かれたのと同じ年にあたる』。『覚園寺文書で興味深いのは、薬師三尊の胎内銘札だ。江戸後期、天保のころに寺が荒廃したので、院代儀英、寺の目代源兵衛という者が仏像をねこそぎ江戸・回向院にはこんでいって出開帳(展覧会)をおこなった。これが失敗におわり、莫大な借金を負ったばかりか仏像も破損。追い詰められたふたりは逐電、のたれ死んでしまった。たまたま二階堂村の豪農が修繕費を負担して再興にこぎつけたが、のちの誡めにとこのてんまつを銘札に書き付けてのこすことにした、とある』。沢庵和尚の「鎌倉巡礼記」寛永十(一六三三)年の頃は、『荒廃した鎌倉の寺々のなかでも覚園寺はまだましなほうだった。それでも江戸後期にはこのていたらくにおちいっていた。やぐらももはや、だれのお墓でもなくなり、正体不明ななぞの遺跡になっていたらしい』とある。ここでもちださんが『室町時代の文書目録には「石蔵安堵状等、一結これ在り」とみえる』とするのは、「鎌倉市史 資料編第一」の覚園寺文書に載る応永一四(一四〇七)年六月十九日のクレジットを持つ五二二番資料「覺園寺文書目錄」中の一条、
一 石藏安堵等一結在之、
を指す。但し、同書には頭書して『石藏山淨業寺カ』とあって、「鎌倉市史」の編者はこれを足利将軍家の直轄領(御料所)にあった浄業じょうごう寺かと推定しており、百八やぐらのことを指すとは考えていない。因みに、やぶちゃんも言い添えて置くと、かつて現住職から私が伺った話では、敗戦まで、この外しようのない逆賊「尊氏」の梁牌サインのお蔭で、しばしば若き日の和尚は石を投げられた、とのことであった。]

棟立の井 是も山上にあり。弘法大師此井を穿ち閼伽水に汲給ふといふ。當所十井の一つなり。
[やぶちゃん注:境内の薬師堂裏の山際にある。棟立むねたての井というのは、山から流れ出る清水が家屋の棟立(破風はふの形をした石の下から湧き出ていることからの呼称で、別名、破風の井とも言われる。現在は昭和三十六(一九六一)年の山崩れのために土中に埋没し、棟形の一部しか確認できない、と白井永二編「鎌倉事典」(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊)にはある。]

大樂寺 今は覺園寺同所にあり。古へはくるみが谷に有しゆへ、胡桃山千秋大樂寺と號す。律宗なり。開山公珍和尚。本尊は鐡像の不動、願行上人作。是を試の不動尊といふ。大山の不動を鑄成の時、先試に鑄たる像といふ。
 愛染明王〔運慶作〕・藥師佛〔願行作〕、佛壇に安ず。
往昔剏建は、承元五年七月廿一日、伊賀寺朝光、永福寺の邊に一梵宇建立、今日供養、導師は葉上坊律師、讃衆八口相州幷室家匠作等御參と云云。胡桃谷にて其後囘祿せしゆへ、往昔の由來を失ふ。何の年にか此所に移しけるにや。
[やぶちゃん注:「大樂寺」(「だいらくじ」と読む)は明治維新時に廃寺となったと思われる。この本尊は願行上人が大山寺の不動明王を造る前に試しに造ったものと伝えられることから「試みの不動」と呼ばれた。ここにあった阿閦あしゅく如来(ここで「藥師佛」とするもの。同一視された)や愛染明王像は現在、覚園寺に安置されており、愛甲郡依智村浅間神社にはここにあった鐘(貞和六(一三五〇)年鋳造)が現存し、その銘文中には大楽寺の文保元(一三一七)年の伽藍興隆の記載がある(「鎌倉廃寺事典」に拠る)。
「承元五年七月廿一日、伊賀寺朝光……」これは「吾妻鏡」によるものであるが、建暦元・承元五(一二一一)年十月二十二日の誤りで、「伊賀寺」も「伊賀守」の誤りである。以下に示す。ただ、ここで断っておかなくてはならないのは、現在の鎌倉廃寺関連の大楽寺の記載には、本条を引かず、創建をここまで遡らせてはいないので注意されたい。
〇原文
廿二日庚子。晴。伊賀守朝光。永福寺之傍。建立一梵宇。今日遂供養。導師葉上坊律師。讚衆八人。相州幷室家。匠作等渡御。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿二日庚子。晴。伊賀守朝光、永福寺の傍らに、一梵宇を建立し、今日供養を遂ぐ。導師は葉上坊律師。讚衆八人。相州幷びに室家、匠作等渡御す。
「伊賀朝光」(いがともみつ ?~建保三(一二一五)年)は藤原秀郷流の関東の豪族で伊賀氏の祖。文治五(一一八九)年の奥州征討軍に参加して軍功を挙げ建仁三(一二〇三)年の比企能員の乱や建保元(一二一三)年の和田義盛の乱でも終始幕府軍として活躍、娘伊賀の方は第二代執権北条義時の後室で、北条政村などの母となったことから、幕府宿老として重きをなした。
「葉上坊律師」栄西。
「相州」北条義時。
「匠作」は修理亮で北条泰時。
「胡桃谷」は「くるみがやつ」と読み、淨妙寺東側の谷戸のこと。
「囘祿」火災。
「何の年にか此所に移しけるにや」「新編鎌倉志卷之二」の「「○胡桃谷〔附大樂寺舊跡〕」の項に以下のようにある。
○胡桃谷〔附大樂寺舊跡〕 胡桃谷クルミガヤツは、淨妙寺の東のヤツ也。大樂寺の舊跡あり。昔し藥師堂有り。今は亡びて礎石のみあり。本尊は今大樂寺にあり。【大日記】に、永享元年二月十二日、永安寺炎上、類火に依て大樂寺焼失すとあり。此所ろ永安寺へ近ければ、永享の比まで爰に有しとみへたり。
「鎌倉廃寺事典」はこの最後の永享元(一四二九)年二月十二日の焼失記事について「喜連川判鑑」や「鎌倉九代後記」にも同じ記載があり、この時まで大楽寺は胡桃谷にあった、即ち、この後に二階堂に移ったと考えてよいという主旨の記載がある。]

光觸寺 是は朝比奈切通往來の南寄に、藤觸山光觸寺とて、開山一遍上人、藤澤山淸淨光寺の末なり。客殿に光觸寺といふ額を掲ぐ。後醍醐帝の宸筆なりといふ。本尊阿彌陁〔運慶作〕・觀音〔安阿彌作〕・勢至〔堪慶作〕、此本尊を頰燒阿彌陁と唱ふ。緣起に云、順德帝の建保三年、京都に大佛師有。運慶法師と號す。將軍右大臣家の招に因て下向の時、鎌倉の住人すぐり氏女町の局、時年三拾五。運慶に此佛を、四十八日を限り作らしむ。來迎の三尊タケは法の三尺なり。氏女歡喜して、持佛堂に安置し、香花を捧持念怠らず。家に萬歳法師といふ下部法師有。常に專修念佛もて信心有といえども、侫にして人を煩らはしむ。皆人是を惡む。時に家々にて、物の失し事有。人々是を萬歳におはす。氏女怒りて是を禁ず。我身急用有て他所へ行し跡にて命を受るもの、萬歳を捕えて、轡の水つきを燒て、左の頰え火印し退く。されども大痕なし。氏女の夢に本尊起ていふ、我頰を見よと。氏女夢さめて佛を見るに、火印の痕有。是は萬歳が專修念佛の功德に因て、成べしとて、萬歳が罪を赦し、佛師に命じ、火痕を修すること二十一度に及といへども、終に復せず。末代人に見せんめんが爲に復せず。《かなやき堂》氏女出家し、法阿彌陁佛と號し、一宇建立し、此佛を安じかなやき堂といふ。建長三年九月六日、氏女七十三にて歿す。緣起二卷あり。筆者亞相藤原爲相卿、繪は土佐將監光興なり。本尊の厨子に、源持氏寄進とあり。又【沙石集】にも、鎌倉に町局とやらん聞へしといふ。以下少々違ふ處あり。いづれが其是なることをしらず。
[やぶちゃん注:「藤觸山光觸寺」は「とうそくざんくわうそくじ(とうそくざんこうそくじ)」と読む(「新編鎌倉志」も同じ)。但し、これは恐らく「藤澤山」の誤りと思われる(「鎌倉市史 社寺編」の光触寺の項に『江戸初期には藤沢山といった』とある)。私が鎌倉で最も偏愛し、最も足を運んだ寺である。
「建保三年」西暦一二一五年。
「將軍右大臣家」源実朝。この四年後に公暁に暗殺される。
「すぐり氏」未詳。村主すぐり姓は古代朝鮮語の村を意味する「スキ」に基づく語とも言われ、多くは韓・漢からの帰化人の小豪族(下級帰化人系とも)に与えられたと考えられている。
「町の局」「まちのつぼね」と読む。「東海道名所図会」は『うぢつぼね』とするが、これはまさに本伝承のように「すぐり氏女町うぢむすめまちつぼね」の文字列の誤読であろうと思われる。伝未詳。時に「年三拾五」とあるから、彼女は養和元・治承五(一一八一)年の生まれである。源頼朝挙兵の翌年、平清盛が死去した年である。彼女は実に頼朝から頼嗣に至る鎌倉幕府開幕のスリリングな前半を生きたことになる。なお、縁起には局は比企ヶ谷に岩蔵寺を建て、この阿弥陀如来像を本尊として祀り、手を合わせながら往生したと伝えられ、これが光触寺の前身とされるが、鎌倉の廃寺関連書には岩蔵寺という寺は所載されない。なお、現在の光触寺の山号は岩蔵山がんぞうざんである。昭和四九(一九七四)年に出た光触寺発行の「光触寺縁起」には、彼女の死後、『嫡女薬師尼は法名性如と称し、第二世となり、岩蔵寺を保持したが、弘安元年五月十七日に入寂』、『第三世となったのは町の局の孫(?)で一遍上人』『に帰依して光触寺開山となり作阿と号した。それまでこの寺は真言宗であったが、この時、時宗となった。時に弘安五年であった。これが光触寺の起源である。(真言宗であったのは七十九年間である初め比企ヶ谷にあったのを、現在地に移したというが、比企ヶ谷は果して現在の妙本寺の地のみをいったかどうか、定かでない。もと十二所を「山の内郷」といったが、現在の「山の内」は北鎌倉駅あたりである。かような点から見てこの辺もあるいは比企ヶ谷といったのではなかろうか。しかして光触寺は初めから現在地にあり、本堂を火印堂と称したこと、また鎌倉幕府の要路の人が此地に多く居住していた点から見て、町の局の邸宅もこの地にあり、邸宅を寺地にしたと考えてもよい』とある。
「轡の水つき」は手綱を附けるために馬の口に嚙ませる金具くつわ(口輪の意)の部分名で、手綱の両端を結び附けるための轡の引き手部分の呼称。「承鞚」「水付」「七寸」などと書き、「みずき」とも言う。リング状の金属製。
「建長三年」西暦一二五一年。第五代将軍藤原頼嗣が将軍職を解任され、京都へ送還された年である。
「筆者亞相藤原爲相」は歌道の冷泉家始祖である冷泉為相(弘長三(一二六三)年~嘉暦三(一三二八)年)。ウィキの「冷泉為相」によれば、建治元(一二七五)年の父為家死去後、父親の所領『播磨国細川庄』(現在の兵庫県三木市)『や文書の相続の問題で』正妻の子である『異母兄為氏と争い、為相の実母である平度繁の娘(養女)阿仏尼が鎌倉へ下って幕府に訴え』、『為相も度々鎌倉へ下って幕府に訴え』て結果的に勝訴する。その中で、『鎌倉における歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉連歌の発展に貢献』し、『娘の一人は鎌倉幕府八代将軍である久明親王に嫁ぎ久良親王を儲け』るなど、公家でありながら幕府との親密な関係を終始持った。『晩年は鎌倉に移住して将軍を補佐し、同地で薨去している』。『冷泉家の分家に藤谷家があるが、藤谷家の家名は為相が鎌倉の藤ヶ谷』に『別宅を構えたことに由来』し、『為相は山城国の他の公家からは、藤谷黄門と呼ば』れた、とある。彼の母で歌人でもあった阿仏尼(貞応元(一二二二)年~弘安六(一二八三)年)は、「十六夜日記」によって弘安二(一二七九)年に訴訟のため入鎌していることが分かるが、勝訴を得る以前に鎌倉で没したとも、帰洛後に没したとも言われる。なお、「亞相」とあるのは不審。これは大納言の唐名であるが、為相は正二位の権中納言である。ただ、この筆者を為相とするのは甚だあやしい。
「繪は土佐將監光興」とあるが、これも怪しい。但し、この「頰焼阿弥陀縁起」自体は現在、鎌倉時代の数少ない絵巻物として国の重要文化財に指定され、国宝館に所蔵されている。
「【沙石集】にも、鎌倉に町局とやらん聞へしといふ。以下少々違ふ處あり」以下は「沙石集 卷之二」に載る「阿彌陀利益事」を指す。登場人物が法師ではなく、可憐で信心深い女童という点で大きく異なり、それだけに展開も使用される小道具も違っている。これは「少々」どころではないので、以下に引用しておく(底本は一九六六年刊岩波古典文学大系版を用いたが、本文ルビ仮名カタカナ表記が読み難いため、ひらがな化して示し、繰り返し記号「〱」「〲」は正字化、一部のルビや編集記号を省略、表記の一部にも変更を加えた)。
 鎌倉に町の局とやらん聞し得人とくにん有けり。近く仕ふ女童、しかるべき宿善や有けん。念佛を信じて、人目には忍て、ひそか數反すへんしけり。此主は、きびしく、はしたなき物いみいはひ事けしからぬ程也。正月一日荷用かやうしけるに、しつけたる事にて、心ならず、「南無阿彌陀佛」と、申けるを、此主このあるじ、なのめならず忿いか腹立はらたちて、「いまいましく人のしにたる樣に、今日しも念佛申ず、返々まへすがへす不思議なり」とて、軈而やがて捕へて、錢を赤く燒きて、片頰かたほうにあてゝけり。念佛故には、いかなるとがにもあたれと思て、それに付ても、なほ佛を念じ奉ける。おもはずにいたみなかりけり。さて、主じ、年始のつとめなどせんとて、持佛堂にまうでて、本尊の阿彌陀佛の、金色の立像りふざうを拜し奉れば、御ほうに錢の形黑みて見へけり。怪みて能々よくよく見るに、金燒しつる錢の形、此女童が顏の程に當りて見へけり。淺間あさましなどもいふばかりなくて、女童をよびて見るに、いささかきずなし。主じ大きに驚きて、慚愧懺悔ざんきさんげして、佛師を呼て、金薄を、おさするに、はくともなく、かさなれども、疵はすべてかくれず。當時も彼佛おわします。金燒佛かなやきほとけと申あひたる、くはしく拜てはべりし。當時彼の疵三角に見ヘ侍ル。たしかの事也〔以下、信心堅固の理を解くが省略する。〕。
・「得人」裕福な人。
・「數反」数返。三度か四度から五度か六度ぐらい繰り返す回数を漠然という語。数度。
・「此主は、きびしく、はしたなき物忌、祝事けしからぬ程也」この町の局と言う女主人が普段の慶弔事や物忌みの際の準備やマナーに甚だ五月蠅く、そのミスに対しても苛烈であったことを言う。「なのめならず忿り腹立て」の伏線である。
・「荷用」食事の給仕。
・「なのめならず」常軌を逸して。
・「慚愧懺悔」四字熟語で、仏の前で今までの自分のことを種々反省し、その罪を告白して心を改めること。慙愧懺悔とも、ただ懺悔さんげとも書く。
・「金薄」金箔。
・「疵はすべてかくれず」傷は全く隠れない。
・「金燒佛」底本頭注に内閣第一類本には『かなやきほとけと申しける。ひきの谷にをはします』(カタカナを平仮名に改めた)とあって縁起の後日譚と一致する。
最後に。この注の後に――一九七八年の三月――私が二十一歳の春――雪の光触寺(後者は正確には光触寺の奥の谷戸昌楽寺谷で撮影したもの)で私が撮った二枚の写真を掲げて――私の愛する光触寺に別れを告げることとする――]

[光触寺境内にて ©藪野直史]


[光触寺奥昌楽寺谷にて ©藪野直史]


報國寺 淨妙寺村にあり。功臣山建忠報國寺と號す。建長寺末なり。杉本觀音堂の南の方にて、滑川を隔たり。開山佛乘禪師天崖惠廣、建武二年三月十日寂す。開基は尊氏將軍の祖父伊豫守家時の建立、法號を報國寺殿義恩と稱す。木像法體の像あり。本尊釋迦・文殊・普賢幷阿難・迦葉を安ず。宅間法眼が作なり。今寺領拾五貫文。
開山塔を休耕菴と號す。
[やぶちゃん注:「天崖惠廣」は「天岸」の誤り。天岸慧広てんがんえこう(文永一〇(一二七三)年~建武二(一三三五)年 「惠」は「慧」と通字)臨済僧。武蔵生。俗姓は伴氏。十三歳で建長寺の無学祖元に投じ、後、東大寺戒壇院で受戒して各地を歴訪、下野雲巌寺の無学の弟子高峰顕日の法嗣となって円覚寺に移った高峰に同行、同寺首座となった。元応二(一三二〇)年には物外可什らと渡元、中峰明本に参じた後、各師を訪ねて五十七歳の時に帰国、元徳二(一三三〇)年二月以降は浄妙寺などに住した後、建武元(一三三四)年、上杉重兼の請ぜられて報国寺の第一世となって、ここで入滅した。
「足利家時」(文応元(一二六〇)年?~弘安七(一二八四)年?)は足利頼氏の子で尊氏の祖父。母は上杉重房の娘。妻は北条時茂の娘。足利の一族である今川了俊の書いた「難太平記」によると、足利氏の先祖である源義家の置文に「わが七代の孫にわれ生まれかわりて天下を取るべし」と書かれていたが、義家から七代目は家時であり、家時は天下を取れないことを知って、「わが命を縮めて、三代のうちに天下を取らしめ給へ」と祈願して自害したと記されている(生没年以外は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。]

高松寺 西御門村の内、東北の谷にあり。往昔は大樂寺といふ古刹の尼寺有しが、頽廢せしを、紀伊大納言賴宣卿の御母堂、幷三浦氏等力を合て、再建せられし法華宗の尼寺なり。土人傳へいふには、往古大樂寺といえるは、右大將家、池の禪尼に隨侍せし姪女あり。是を鎌倉へ呼下され、禪尼の報恩の爲にとて、此姪女尼となられ開基とし、一寺取立給ひし、大平寺是なりともいふ。其後源基氏朝臣の後裔、淸溪和尚を中興とせしともいひ、或は持氏朝臣の息女昌泰道安、又成氏朝臣の息女昌全義天、或は生實御所義明の息女靑岳和尚、玆に住せし頃、安房の里見義尚、弘治三年三浦の城が島へ着船し、鎌倉へ來り、所々追捕せし時、此寺の靑岳和尚を奪ひ、往て妻とせし由、それより廢せしといふ。
[やぶちゃん注:「かうしやうじ(こうしょうじ)」と読む。「往昔は大樂寺といふ古刹の尼寺有しが……」以下は既出の「大樂寺」と「大平寺」を混同した土俗の伝承をそのまま記載してしまったものであろう(但し、頼朝創建というのは「太平寺」の伝承である)。「大平寺」は鎌倉後期の創建か。この大平寺は最後に示される「弘治三年」西暦一五五七年の兵乱で頽破、「鎌倉廃寺事典」によれば、その後、『後北条氏の時代になって当寺の「客殿」を引いて円覚寺正統庵に移建した』。これは現在の円覚寺舍利殿を指し、円覚寺開山堂昭堂火災のあった永禄六(一五六一)年の直後と思われる。後に江戸期になって、三浦為春(天正元(一五七三)年~承応元年(一六五二)年)の娘で水野忠元の室であった高松院日仙が、寛永一八(一六四一)年に、この大平寺跡に高松寺を創建したとする。但し、これは「新編鎌倉志卷之二」の「高松寺」の項に載る鐘銘冒頭に『東海路、相模國、鎌倉郡、西帝谷、法華尼道場之根本、山名壽延、寺號高松、三浦藤氏定環女、水野前文主監源忠元之簾中、高松院日仙之所創建也當世』(海路、相模の國、鎌倉郡、西帝谷ニシミカドガヤツ、法華尼道場の根本、山を壽延と名づけ、寺を高松と號す。三浦藤氏定環のムスメ水野ミツノ前の文主監源の忠元の簾中、高松院日仙の創建する所なり)とあるのに拠るのであるが、「鎌倉廃寺事典」には、高松院は二年前の寛永一八年に亡くなっていることから「新編相模国風土記稿」では寛永一九(一六四二)年八月、水野忠元の『子の水野淡路守重良が高松院追福の為に創建したとして』おり、実際、『開山の住持は重良の室(高松院の女=慧雲院日照)の女、日隆である』と記してある(それ以降の、本書に記す事蹟は「鎌倉廃寺事典」には掲載されていない)。なお、「鎌倉廃寺事典」の「大平寺」の項でも『中・近世を通ずる時期に起った政治的・社会的変動の際、為政者が過去の伝統をいかように処理するかの一つの例を示すもの』と指摘しているが、ここで禅宗と日蓮宗の宗門の相違がありながら、同じ尼寺が同じ場所に建てられたことは、頗る興味深い事実である。
「紀伊大納言賴宣の御母堂」「紀伊大納言賴宣」は徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)。徳川家康十男、紀州徳川家祖にして第八代将軍徳川吉宗祖父。常陸国水戸藩・駿河国駿府藩・紀伊国和歌山藩藩主。その「御母堂」は家康側室のお万の方(天正八(一五八〇)年~承応二(一六五三)年)、法号は養珠院。後北条氏の出。ウィキの「養珠院」によれば、養父であった蔭山氏広は『代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受け、日遠に帰依した』(日遠は身延大野に本遠寺を創建、晩年は池上本門寺に入り、寛永八(一六三一)年、鎌倉経ヶ谷〔現在の大町にあったと推定される谷〕の不二庵に隠棲したが、万珠院を始め多くの信者が来参した)が、『家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていた為、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させてしまった。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の』『二枚の死に衣を縫ったため、流石に『これには家康も驚いて日遠を放免した』。『この万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、万は天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と七文字書いた物を賜ったという』とある。
「基氏朝臣の後裔、淸溪和尚を中興とせしともいひ」「鎌倉廃寺事典」に、かなり新しい編集になるものと思われるが、「報国寺過去帳」なるものがあり、そこには『「基氏室、氏満之母」とあり、永徳二年(一三八二)六月四日寂と伝える。この中興は基氏の歿後間もなく始まり、応安四年(一三七一)頃には伽藍もほぼ整っていたらしい』とある。 「或は持氏朝臣の息女昌泰道安、又成氏朝臣の息女昌全義天、或は」この末尾の「或は」は誤解を生む。前の二人は歴代住持の尼の名を記したもので、以下は「靑岳」の事蹟である。中興以後の本寺の繁栄は眼を見張るものがあり、「鎌倉廃寺事典」には、『「殿中以下年中行事』には尼五山の第一にあげられ、公方が毎年二月に参詣する例であった、とある。あの、ひっそりとして奥まった西御門に、多くの尼僧たちの姿を想像してみると――何か、胸がキュンとなる……破戒……破戒……
「生實御所義明」「おゆみごしよよしあき(おゆみごしょよしあき)」と読む。第二代古河公方足利政氏の子で小弓おゆみ(生実とも書く)公方を自称した足利義明(?~天文七(一五三八)年)。第三代古河公方足利高基の弟。ウィキの「足利義明」によれば、『早くから出家し、鶴岡八幡宮若宮別当(雪下殿)空然こうねんとして僧籍にあった。父と兄が対立すると(永正の乱)、下野国に移って宗済と改名し、その後還俗して名を足利義明と改め、上総国真里谷城主の真里谷信清の支援のもと、下総国小弓城を攻撃して千葉氏家臣の原胤隆・原虎胤・高城胤吉らを破って同城を占拠する。そして「小弓公方」を自称して古河公方と対立した』。『その後、対外政策で信清と対立し、信清が没すると真里谷氏の内紛に介入し、真里谷信隆を追放し信応を当主とした。一方で信隆は高基とその子・晴氏、そして相模国の後北条氏と結び義明と敵対する。天文七年(一五三八年)、義明は大軍を起こして下総国国府台に出陣し、北条氏綱と決戦を行った(第一次国府台合戦)。義明は武勇に優れ、自ら陣頭指揮をとる奮戦ぶりで、一時は晴氏・氏綱軍に優勢だったが、里見義堯が消極的で軍の士気が上がらず、氏綱の反攻に遭って戦死した』。『義明の死で小弓公方は滅亡したが、その子足利頼淳(頼純)は初めは里見義堯・義弘(義弘の正室青岳尼は義明の娘)、後に豊臣秀吉の庇護を受けて存続することができた』とある(アラビア数字を漢数字に代えた)。
「里見義尚」安房国の戦国大名で里見氏当主里見義弘(享禄三(一五三〇)年又は大永五(一五二五)年~天正六(一五七八)年)の誤り。幼名は太郎、初名義舜で「義尚」という呼称は見当たらない。永禄年間初めに父里見義堯よしたかより実権を譲られ、義舜よしきよから義弘へと改名したと言われている。以下、参照したウィキの「里見義弘」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代えた)。『永禄四年(一五六一年)、上杉謙信の北条氏康攻めに呼応したり、永禄七年(一五六四年)の第二次国府台合戦で北条綱成と戦うなど、父・義堯と同様に後北条氏と徹底して対立した。しかし、この第二次国府台合戦で北条軍に大敗して安房国に退却する。更に北条水軍などの攻撃と正木時忠、土岐為頼、酒井敏房ら上総国の有力領主の離反によって上総国の大半を喪失してしまった』。『このため、里見氏の勢力は一時、衰退したが三年後の永禄一〇年(一五六七年)、義弘は三船山の戦いで北条軍を撃破して勢力を挽回し、佐貫城を本拠地として安房国から上総国・下総国にかけて一大領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を築き上げ』、『天正五年(一五七七年)、これまでの態度を一転、北条家と和を結んだ』が、翌『天正六年(一五七八年)、上杉謙信の後を追うように久留里城にて急死した。だが、遺言に弟(庶長子ともいわれる)・義頼と嫡男・梅王丸への領土分割を命じた事から、死後に里見氏の分裂を招く事になった』とある。なお、彼による青岳尼の略奪婚は、北条氏康に抵抗した父義堯とともに弘治二(一五五六)年に行われた里見対北条の水軍戦「三浦三崎の戦い」(里見氏の大勝)の後日談ということになる。但し、前注でも分かるように、義弘は青岳を正室として迎えて、更に小弓公方北条義明の子足利頼淳よりあつ(頼純)が里見氏に保護されていることから、政略上の意味が大きいことを押さえておかねばなるまい。]

來迎寺 高松寺の南に隣れり。時宗、藤澤山淸淨光寺の末なり。開山は一遍上人といふ。
[やぶちゃん注:ここの本尊如意輪観音は私が鎌倉で最もエクスタシーを感ずる仏像の一つである(今一つは浄光明寺の上品中生印を結ぶ阿弥陀像である)。今は豪華な仏殿でおごそかにましましてしまっているが……
……私が十九の冬に訪れた時……
……小さな、本当に小さなそのお堂は、普通の町家の家のようで、その中で近隣のお婆さんたちが五、六人集まって、楽しそうに世間話をしていた……
……そのお婆さんたちのすぐ背後に、普通の家の仏壇のような凹んだ棚があり、そこに如意輪観音は座っておられた……
……まさに目の前に……
……その半跏思惟の、滑らかな腕や、ふくよかな脚……
……今にも私の胸の中にしだれかかってきそうな、その顔を拝した時……
……お婆さんの一人が、笑いながら言った……
「……お兄さん、よーぅ、見てって下さいねぇ……」
……私は何故か……
……不思議に……
……顔が赤くなるのを覚えた……
……お婆さんたちから蜜柑と和菓子をたくさん貰った……
「私は夕暮れの坂を――下りました」……]



鎌倉攬勝考卷之五