やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

新編鎌倉志 序三種 凡例 引用書目

[やぶちゃん注:以下は「新編鎌倉志」全八巻本文の全テクスト化終了を受けて、手付かずにしていた同書の三種の序及び凡例と引用書目一覧をテクスト化、注釈を施したものである。同書の梗概は「新編鎌倉志卷之一」の私の冒頭注を参照されたい。基礎底本は昭和四(一九二九)年雄山閣刊『大日本地誌大系 新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』を用いたが、これには多くの読みの省略があり、一部に誤植・衍字を思わせる箇所があるため、底本データを打ち込みながら、同時に汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)によって校訂した。本頁では特に大幅に私の推定の読みや送り仮名を( )で加えてあるので、注意されたい。また以下総て、活字の大きさ(それぞれに書体や大きさが微妙に違うのであるが)も影印のものを参考にしながらポイントを恣意的に決めた。【二〇一二年三月四日】]

新編鎌倉志


   
洛陽書肆柳枝軒藏版㊞

[やぶちゃん注:以上は汲古書院平成十五(一九九三)年刊の白石克編「新編鎌倉志」の影印(東京都立図書館蔵)に載る表紙の文字列で、底本にはない。参考までに掲げておく。同書の白石氏の解説によれば、「洛陽書肆柳枝軒」は本書の刊行を懇望した京都の出版者、茨城多左衛門(柳枝軒は雅号か屋号)である。]



[やぶちゃん注:以下の序は影印を見ると本文は全体が一字下げで、「本朝」・「水戸相公」・「相公」等の尊称語の箇所では、改行され冒頭から記載されている(最後のクレジット「貞享」も同じ)。当該箇所の改行のみを再現しておいた。使用漢字及び㊞の位置なども影印を優先した。]

新編鎌倉志序
黍離降而爲變風、昔成周衰、而王道微、於是乎然矣、蓋我
本朝、源將軍賴朝、覇於天下、建基於相州鎌倉、而爲都會之地、爾後、北條氏專挾主之權、足利氏造背嫡之謀、治平爭亂、其間二百餘年、故遺蹤古蹟、棊布星列、爲其地也、峰廻谷轉、泉淸土肥、滄海渺茫、島嶼縈紆、固爲一名區、東西南北、來徃江都者、必無不游觀斯勝矣、其游觀者、必叙其所唱詠、必記其所登渉、亦既久矣、猶未見其全備者也、甲寅之夏、
水戸相公、至自常陽、偶出鎌倉之塗、暫駐駕于斯、歴覽其地、命詞臣、筆記名勝、猶爲未盡、再命一二學生、窮探遍尋、索隠闡幽、或詢古老、或問漁樵、而考訂舊錄野乘、採摭爲編、山海・地里・川谷・宮社・巖窟・泉石・橋路・村巷・寺院・墳墓・人物・題詠之類、無不該載、名曰新編鎌倉志、諸序凡例皆具矣、復命節爲之序、節嘗遊其地者、再矣、其勝槩畧熟之、今讀斯編、事物詳記、巨細畢擧、欣然如入其境、而以爲、既遊者知其所未知、未遊者覩其所末覩、徃遊者挾之小槖、不假郷導、可謂能事畢矣、嗚呼
相公、尊儒崇文、且有志於我歴朝之史、及有斯編、亦是其餘意也乎、顧夫周官、有職方・土訓・誦訓之職、掌道四方九州之事物、後世有地志者、乃其遺法而復史官之所釆也、昔
本朝亦有之、今既泯矣、如斯志、亦可謂繼絶之一端也、節才陋筆短、不堪作文、而又難拒其命、聊以敍其事耳、
貞享乙丑穀雨之日
寉山野節誠
  ㊞ ㊞

[やぶちゃん注:㊞は以下の如し。


以下、影印に従って訓読したものを示す。送り仮名や読みの一部を私が( )で補った。句読点等は詠み易くするために適宜、変更、更に増やしてある。

新編鎌倉志序
黍離(シヨリ)降(り)て變風と爲る。昔し成周衰へて、王道微(か)なり。是に於てや然り、蓋し我が
本朝、源將軍賴朝、天下に覇たり。基を相州鎌倉に建てゝ、都會の地とシカシヨり後、北條氏(、)主を挾むの權を專(ら)にし、足利氏、嫡に背くの謀をす。治平爭亂、其の間だ二百餘年、故に遺蹤古蹟、(ゴ)の如(く)に(シ)き、星の如(く)に列なる。其の地たるや、峰、廻り、谷、(メグラ)(ら)し、泉、淸く、土、肥(へ)たり。滄海渺茫、島嶼縈紆(エイウ)(マコト)とに一名區たり。東西南北、江都に來徃する者の、必ず斯の勝に游觀せざると云(ふ)こと無し。其の游觀する者は、必ず其の唱詠する所を叙(し)て、必ず其の登渉する所を記すること、亦、既に久し。猶(ほ)未だ其の全く備(ふ)る者を見ざるなり。甲寅の夏、
水戸相公(シヤウコウ)、常陽より至る。偶々鎌倉の塗に出づ。暫らく駕をコヽトヾめ、其の地を歴覽し、詞臣に命じ、名勝を筆記せしむ。猶を未だ盡さずと、再たび一二の學生に命じて、窮め探り、遍(ね)く尋ね、隠れたるを(モト)フカきを(ヒラ)く、或は古老に(ハカ)り、或は漁樵に問(ひ)て、舊錄野乘(ヤジヨウ)を考訂し、採り(ヒロ)ひて編を爲す。山海・地里・川谷・宮社・巖窟・泉石・橋路・村巷・寺院・墳墓・人物・題詠の類、ね載せずと云(ふ)こと無し。名(づけ)て「新編鎌倉志」と曰ふ。諸序凡例、皆、具(は)る。復た節に命じて之が序をツクらしむ。節、嘗て其の地に遊ぶ者の、再たび、其の勝槩(シヨウガイ)ホヾ之を熟す。今、斯の編を讀むに、事物詳らかに記し、巨細(コトゴト)く擧ぐ。欣然として其の境に入るがごとし。而して以爲(オモへ)らく、既に遊べる者は其の未だ知らざる所を知り、未だ遊ばざる者は其の末だ(ミ)ざる所を覩ん。徃(き)て遊ばん者の之を小槖セウタクに挾みて、郷導を(タヨ)らず、謂(ひ)つべし、能事(ノウジ)(ヲハ)んぬと。嗚呼アヽ相公、儒を尊び、文を崇め、且つ我が歴朝の史に志有り、斯の編、有るに及ぶ。亦た是れ、其の餘意ならんか。(フリム)くに、夫れ、周官、職方・土訓・誦訓の職、有り。四方九州の事物をふことを(ツカサ)どる。後世、地志有る者の、(ムカ)し其の遺法にして、復た史官の(ト)る所なり。昔し本朝、亦た之れ有り。今、既にホロびぬ。斯の志のごとき、亦た絶(え)たるを繼(ぐ)の一端と謂ひつべし。節、才いやしく、筆短く、文作るに堪へず。而も又、其の命を拒むに難し。聊か以て其の事を(ノ)(ぶ)るのみ。
貞享乙丑穀雨の日
  寉山野節誠
    ㊞㊞
「黍離降りて變風と爲る」世の栄枯盛衰を述べたものであろう。「黍離」はもと、「詩経」王風にある亡国を嘆く詩の題名で、詩は滅んだ国の旧都の跡にきびが手入れされることなく生い茂って、荒れはてた光景を詠んでいる。通常は「黍離の嘆」や「麦秀黍離」の成語で用いられる。ここでは黍の穂が吹いて、その埃が舞い上がる時というのは、国が亡ぶ際のシンボルであり、それによって今までとは全く異なった風が起こって、政体が変化し、謂わば盛者必衰の理が現れる、ということを謂わんとしているものと私は読む。
「主を挾む權」の「挾む」は「はさむ」若しくは「さしはさむ」と読んで、鎌倉幕府のあるじたる源氏の将軍家を輔弼するというフラットな意味でも読めるが、「專らにし」という言い回しや、次の足利の叙述とも対になると考えると、ここはもっと悪い意味で、将軍家を挟んで押えつけて実権を握り、恣に振る舞って、という意味であろう。
「嫡に背くの謀」後醍醐天皇を追放し、南北朝の動乱を招いたことを考えれば、「嫡」は正当にして自律的な(私はそうは思わないが)天皇の直系の流れを指し、それに背く政体を謀議し、強引に樹立したことを謂うか。但し、「嫡」自体には天皇の正当な血筋という意味はない。
「棊の如くに布き」の「棊」は「碁」に同じい。碁で碁石を碁盤に打つように、びっしりと布置され、の意であろう。
「縈紆」には「曲がりくねる」の他に「纏わる」「絡む」の意があるが、島影が海景色に纏わるという後者か。主に江ノ島や六浦を意識するものか。
「甲寅」は延宝二(一六七四)年。
「水戸相公、常陽より至る。偶々鎌倉の塗に出づ」「水戸相公」水戸藩主水戸光圀(寛永五(一六二三)年~元禄十三(一七〇一)年)は従四位上右近衛権中将・従三位・参議で、「相公」は参議の唐名。「常陽」は徳川光圀が第二代藩主となった水戸藩があった常陸国の中国風呼称で、現在の茨城県中部及び北部。「塗」は「途」で道の意。徳川光圀自身が延宝二(一六七四)年五月に来鎌、英勝寺春高庵を宿所として七日間に渡って名所旧跡を歴遊、家臣に記録させた「鎌倉日記」が本書のプロトタイプである(因みに、ドラマで水戸黄門諸国漫遊は知らぬ者とてないが、実際には彼の大きな旅行は、この鎌倉行一回きりであったと言われている)。本「新編鎌倉志」は、この「鎌倉日記」を元に、延宝年間(一六七三~一六八一)に家臣で彰考館(光圀が『大日本史』編纂のために江戸小石川門の藩邸内に置いた修史局)館員であった河井恒久(友水)や、松村清之(伯胤)・力石忠一(叔貫)らに命じて編纂した。後、延宝四(一六七六)年の秋、河井に社寺名刹の来歴に就いて調べさせ、当時、鎌倉英勝寺に療養中であった現地の医師松村清之は頗る鎌倉の地誌に詳しく、河井はこの松村に自身の記載の補正をさせたが、業半ばにして河井が亡くなり、力石が代わって、実に十一余の歳月を費やして貞亨二(一六八五)年に書き上げられた、全八巻十二冊からなる史上初の本格的な鎌倉地誌である。これらの経緯は三番目の力石忠一の序文に詳しい。

「詞臣」元来は中国の翰林学士や中書舎人などの創作や文書作成の専門家を指した。ここでは光圀によって創建された小石川の、「大日本史」修史事業等を行った彰考館の藩士を指す。
「野乘」は「野史」「外史」に同じい。民間編集になる歴史書のこと。
「勝槩」は「景勝」に同じい。
「小槖」は小さな袋。旅行用の小型バックか。
「郷導」は土地の案内人のこと。
「能事、畢んぬ」通常は「能事畢れり」「能事足れり」で、自分のなすべきことは総て終わった、の意。
「且つ我が歴朝の史に志有り、斯の編、有るに及ぶ」本書に先立つ、彰考館による「大日本史」の、神武天皇から後醍醐天皇までの「本紀」の清書(延宝四(一六七六)年)及び天和年間に完成した「新撰紀伝」百四巻等を踏まえた謂い。
「周官、職方・土訓・誦訓の職、有り」は「礼記」の「周礼」に載る、孔子らによって理想的国家とされた周の官吏名。「職方」は地方行政を統括する「職方氏」で地方の地誌や特産を管理掌握した。「土訓」「誦訓」は各地の農地及び山林河川を巡察する官の中でも、特に歴史・地誌・風俗(禁忌・方言等を含む)を王に報告する役割を担った。
「貞享乙丑」貞享二(一六八五)年。
「穀雨」二十四節気の第六で、通常は旧暦の三月中に配される。現在の四月二十日前後に相当。
「寉山野節」底本では「鶴山野節」とある。人物不詳。識者の御教授を乞う。
「誠」文末に配して敬い奉るの意を添える辞と思われる。]



[やぶちゃん注:以下の二番目の序は影印では本文は全体が一字下げで、「相公」の尊称語の二箇所では、改行され冒頭から記載されている。当該箇所の改行と標題及び最後の「㊞」の前の三行に亙るクレジット(一字下げ)部分のみ再現しておいた。使用漢字及び㊞の位置なども影印を優先した。]

 新編鎌倉志序
是歳甲子孟冬、鎌倉志新編就、屬越觀覽、以爲之序、夫勝槩名區、惟得至人方顯其名、雖千古亦不能泯沒其跡、然則、跡由人顯、人由跡成者、若相州鎌倉之大觀、曩昔鞏國之基、文経武緯、聯芳繼美、兼之首創禪宗、乃海國祇園之鴻緒也、始自甲寅之夏、
相公從常陽、路繇此地、瞻奇仰勝、慨然而命編集、騒人文翰、逸士佳章、曁諸名山大刹、銘記唱酬、全成一書、仍復舊觀耳、正謂、
相公秉彜之德何深、求古之心何廣、埀裕於當來、不亦偉矣、不二嘉矣、第越至扶桑、而未躡其境、無非按圖摸索、略而序之、欲窮其勝者、具在斯志、可盡知云爾、
 于時
 甲子小春望
 大明東皐心越儔序
             ㊞  ㊞

[やぶちゃん注:㊞は以下の如し。


以下、影印に従って訓読したものを示す。送り仮名や読みの一部を私が( )で補った。句読点等は詠み易くするために適宜、変更、更に増やしてある。

 
新編鎌倉志序
是歳甲子孟冬、「鎌倉志新編」(ナ)る。越に屬して觀覽せしめ、以て之が序たらしむ。夫れ勝槩名區、(ヒト)り至人を得て、方に其の名を顯す。千古と雖も、亦た其の跡を泯沒すること能はず、然る時は則(ち)、跡は人に由(り)て顯れ、人は跡に由(り)て成る者なり。相州鎌倉の大觀のごときは、曩昔鞏國(ナウセキ)キヨウコクの基、文を經とし、武を緯とし、芳をツラね、美を繼ぐ。之を兼(ぬ)るに首として禪宗を(ハジ)む。(ムカ)し海國祇園の鴻緒(コウシヨ)なり。甲寅の夏、相公、常陽より、路(して)、此の地にり、奇を(ミ)、勝を仰ぎ、慨然として編集を命ずるより始(ま)る。騒人の文翰、逸士の佳章、(オヨ)び諸(々)の名山大刹、銘記唱酬、全く一書と成し、仍ち舊觀に復するのみ。正に謂(ひへ)らく、相公、るの德、何ぞ深く、古(へ)を求(む)るの心、何ぞ廣き。裕を當來に埀るゝこと、亦た偉ならずや、(マ)た嘉(な)らずや。だ越、扶桑に至(り)て、未だ其の境をまず。圖を按(じ)て摸索するに非(ず)と云(ふ)こと無し。略して之に序す。其の勝を窮(め)んと欲する者は、具(さ)に斯の志に在り。盡く知るべしと(シ)か云ふ。
 時に
 甲子小春望
 大明東皐心越儔序(ヂユジヨ)
             ㊞  ㊞
「越に屬して」私東皐心越に託して、の意。
「曩昔」以前。
「鞏國」は周の畿内にあった国。河南省鞏県(現在の鞏義市)。
「海國」海に囲まれた国で、本邦の意であろう。
「祇園」本来は須達しゅだつ長者が祇陀ぎだ太子の林苑を買い取り、釈迦のために建てた僧坊、祇園精舎を言うが、この序文の筆者は禅僧であるから、ここでは鎌倉幕府が建立して本邦に於ける禅宗の濫觴となった円覚寺や建長寺等の諸寺院のことを指すと思われる。 「鴻緒」帝王が国を治める事業を言う。
「繇り」「より」と読んでおいたが、意味は「寄る」(立ち寄る)ではない。遙か遠く行くという意味である。
「慨然」は、ここでは心を奮い立たせるさま。鎌倉の歴史と景観に激しく心打たれて、テンションが昂まったことをいう。
「彝を秉る」「秉彝へいい」とは、天から与えられた正しい道(光圀の史書地誌編纂の発願)を守ることをいう。
「裕を當來に埀るゝこと」不足のない完全なるもの(鎌倉地誌の詳細な総攬たる本書)を当来(未来)に垂れる(目上の者が目下の者に与えるの意に、後々まで残すの意を掛けるか)ことをいうのであろう。
「甲子小春望」貞享元(一六八四)年。「小春」は十月の異称。「望」は小の月の十五日(大ならば十六日)。二番目の序ではあるが、寉(鶴)山野節のそれよりも半年早く書かれている。
「大明東皐心越」東皐心越(とうこうしんえつ 崇禎十二(一六三九)年~元禄九(一六九六)年)は、江戸初期に明(一六四四年に清となる)から渡来した禅僧で、日本篆刻の祖と呼ばれ、又、中国の古琴を日本に伝えたことから日本琴楽の中興の祖ともされる。彼は、一六七六年、清の圧政から逃れるために杭州西湖の永福寺を出て日本に亡命、一時、清の密偵と疑われて長崎に幽閉されたが、天和三(一六八三)年にまさに本書の著者でもある徳川光圀の尽力によって釈放、水戸天徳寺に住して、専ら篆刻や古琴を教授した。後に病を得、元禄八(一六九五)年に相州塔ノ沢温泉などで湯治をしたが、その帰途、相州金沢を訪れ、自身が暮らした西湖の美景瀟湘八景に倣って八景を選び、八首の漢詩を残した。これが金沢八景の由来となった(なお、彼は薬石効なく、天徳寺に戻って同年九月に示寂した)。詳しくは「新編鎌倉志卷之八」及び「鎌倉攬勝考卷之十一附録」を参照されたい。特に後者の「八景詩歌」の項では心越の漢詩と京極無生むしょう居士(心越と同時代の武士にして歌人、禅僧であった京極高門(たかかど 万治元(一六五八)年~享保六(一七二一)年)のこと。丹後田辺藩主京極高直の三男。この京極の家系はばさら大名で知られた佐々木道誉の子孫で、和歌の名家でもあった。黄檗宗の高僧鉄眼道光らに師事して晩年、出家した。)の歌が示されており、また私の注では歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の各図を配し、彩りを添えるとともに往古を偲ぶ縁としてある。是非、御覧あれかし。
「儔序」とは、先の鶴山野節の序に連れ立った二番目の序の謂いであろう。]



[やぶちゃん注:以下の三番目の序は影印では本文は全体が一字下げで、冒頭の「延寶甲寅夏、我」と、次行の「水戸相公」及び「嚴命」「相公」の尊称語の三箇所及び最後のクレジットでは、改行され冒頭から記載されている。当該箇所のみ再現しておいた。使用漢字及び㊞の位置なども影印を優先した。]

 新編鎌倉志序
延寶甲寅夏、我
水戸相公、至自常陽、路過鎌倉、歷攬名勝、令吉常記所見聞焉、丙辰秋特遣河井友水如鎌倉、古祠舊寺以迨里巷荒村蒭蕘之言、質問載之、且探索鐘銘、碑文、披沙得金、去瑕全璧、所益居多、松村伯胤、曾以醫藥在英勝寺幾五十年矣、彼亦好古、友水日就考訂、然友水不幸未終其功而歿、今焉忠一尋承
嚴命、而抵鎌倉、問彼質此、酌古量今、至山川地理、則正其方位行程、參伍錯綜、以便觀覽、毎得古記・斷簡・片言・隻字、靡弗採擇、然如前記所載、未敢輕改、補闕攟遺、増損若干、大凡依舊貫、質以證錄、引用書悉錄于後、欲令人人知不敢妄作以有所據也、蓋嘗有題鎌倉記者三部、我
相公家藏本、而未詳何人著焉、非如世所行鎌倉物語者、然尚有不全、今忠一所述、參定異同、校讎文字、矯其非者、揚其是者、多積歳序略無遺憾、後之覽者、日加是正、誠孔幸焉、
于時
貞享甲子姑洗既望力石忠一謹序
        ㊞ ㊞

[やぶちゃん注:㊞は以下の如し。


以下、影印に従って訓読したものを示す。送り仮名や読みの一部を私が( )で補った。句読点等は詠み易くするために適宜、変更、更に増やしてある。
 
新編鎌倉志序
延寶甲寅の夏、我
水戸相公、常陽より至る時、ミチ、鎌倉に過(ぐ)る。名勝を歷攬して、吉常をして見聞する所を記せしむ。丙辰の秋、特に河井友水をして鎌倉に(ユ)かしめ、古祠舊寺、以て里巷・荒村・蒭蕘(スウゲウ)の言に(イタ)るまで、(タダ)し問(ひ)て之を載す。且つ鐘の銘・碑の文を探索し、沙を(ヒラ)(き)て金を得、瑕を去(り)て璧を全(く)す。益す所ろ居多(オホ)く、松村伯胤、曾て醫藥を以て英勝寺に在ること幾五十年、彼も亦、古を好む。友水、日に就(き)て考訂す。然れども友水不幸(にして)未だ其の功を終(ら)ずして歿す。今、焉(に)忠一タヾカツ尋(ね)て、嚴命を承(り)て、鎌倉に(イタ)り、彼に問ひ、此に質し、古(へ)を酌み、今を量り、山川地理に至(り)ては、則(ち)其方位行程を正し、參伍錯綜して、以て觀覽に便ず。古記・斷簡・片言・隻字を得る毎に、採擇は(アラ)(ず)と云ふこと(ナ)し。然れども前記に載する所のごとき、未だ敢て輕く改めず、闕を補ひ、遺を(ヒロ)ひ、増損若干(ソコバ)く、大凡(オホヨ)そ舊貫に依り、質すに證錄を以(て)す。引用の書、悉く後に錄す。人人をして、敢て妄(り)に作らず、以て據る所ろ有(る)ことを知らしめんと欲す。蓋し嘗て「鎌倉記」と題する者、三部有(り)。我が相公家藏の本にして、未だ何人の著すと云(ふ)ことを詳(か)にせず。世に行ふ所の「鎌倉物語」のごとき者には非ず。然れども尚を全たからざること有(り)。今忠一が述(ぶ)る所ろは、異同を參定し、文字を校讎(コウシウ)し、其の非なる者を(タ)め、其の是なる者を揚(げ)て、多く歳序を積(み)てホヾ遺憾無し。後の覽者、日に是正を加へば、誠に(ハナハ)だ幸(ひ)ならん。
時に
貞享甲子姑洗既望(コセンキボウ)力石忠一謹(み)て序す
        ㊞ ㊞
「吉常をして」「吉常」は人名で、水戸藩士で彰考館員の鎌倉へも随行していた吉弘元常のことを指しているものと思われる。吉弘元常(よしひろもとつね 寛永二十(一六四三)年~元禄七(一六九四)年)は貞享五(一六八八)年に佐々宗淳さっさむねきよとともに彰考館総裁となって「大日本史」編修に当たった人物である。
「丙辰」延宝四(一六七六)年。
「河井友水」水戸藩士で彰考館員の河井恒久。
「蒭蕘」は「すうきょう」とも読んで草刈と樵のこと。身分の低い者を指す。
「沙を披きて金を得」広大な砂中から金を探し得るように、膨大な時間と労苦をもって貴重な資料を発掘したことを謂うのであろう。 「瑕を去りて璧を全くす」資料の不十分な瑕疵かし(きず)の部分をも調べ尽くして完璧なものとした、という謂い。
「居多」は元来、これで「きよた(きょた)」と読み、大部分を占める、の意。
「松村伯胤」松村清之。底本「大日本地誌大系」の例言には『時に松村淸之病を養うて鎌倉英勝寺に在り』とある。すると本序と合わせるなら、当時、鎌倉英勝寺に療養中であった現地の医師であったということになる。やや不審な感じがするのだが、暫くこれでとっておく。
「忠一」水戸藩士で彰考館員力石忠一(ちからいしちゅういち 寛永十八(一六四一)年~元禄六(一六九三)年)。
「參伍錯綜」「易経」の「系辭上」に載る「參伍以變、錯綜其數」(參伍して以て變じ、其數を錯綜す)に基づく。原義は易にあっては「陰陽の気が消長し変化して、筮竹の数を錯綜させて卜占を告ぐ」という意味であるが、ここはあらゆる資料を用いて綜合的に参照し、という意。
「鎌倉記」この三部の書物、不詳。識者の御教授を乞う。
「鎌倉物語」後掲する引用書目に出る中河喜雲著の「鎌倉物語」を指すか。万治二(一六五九)年に出された通俗鎌倉名所記で、菱川師宣が絵を描いている。
「隻字」隻辞。極短い言葉。
「人人をして、敢て妄(り)に作らず、以て據る所ろ有(る)ことを知らしめんと欲す」訓点の一部に不審な点があるが、訓ずるとこうなる。しかし、文意としては「敢て妄(り)に作らず、人人をして以て據る所ろ有ることを知らしめんと欲す」の方がすんなり意味が通る。
「參定」照らし合わせて定める。
「校讎」校正。校合。
「貞享甲子姑洗既望」貞享元(一六八四)年で、「姑洗」は三月の異称。「既望」は既に「望」満月を過ぎた意で、十六日の夜(大の月ならば十七日)。]



新編鎌倉志凡例
[やぶちゃん注:以下、底本では一字下げで「一」で各項目は総て二字下げである。本テクストでは「一」で改行した。]

凡編纂序次、不拘艸創前後、以鶴岡爲始、夫鶴岡鎌倉中央、而東西南北、通路從是分、行程自茲計、故今首卷先論鎌倉大意、次記鶴岡來由以爲始、東北終蛇谷、毎卷量一日行程、錄爲一册、以便歷覽、下皆倣之、第二、始鶴岡東鳥合原、終牛蒡谷、第三、始鶴岡西巨福路坂、終洲崎、第四、始鶴岡西鐵井、終梶原村、第五、始鶴岡西南今小路、終御靈宮、第六、始鶴岡西南星月夜井、終江島、第七、始鶴岡東南小町、終佐賀岡、第八、始鶴岡東朝夷名切通、終金澤、而全部自成八册、

凡毎條先記大意、次記其境内勝跡及寶物、如鶴岡條下、先記八幡鎭座、次至鳥居・樓門・上下宮・諸末社及神寶、次錄境内寺院舊蹤、使人見而易曉、餘皆準此、

凡毎條、始記眼目所先及者、故如寺社、先記山門鳥居、而書便于路程者、不必始於本社本堂、

凡示其方位者、至遠則曰在某東西南北、近則曰在某前後左右、其曰左右則觀者左右、前後則其地前後、

凡書中所載寶物、下有加註解訂評者、或謬或疑、亦不謾改削、如簡篇文書、有益于事則記全文、或繁擾華藻而希精要者、則摘句省章拾實遺華、獨抽事實而擧綱要耳、畫・木肖像之類、作者可疑者多矣、都從社司寺僧所言、今悉存焉、

凡全部、以倭字書、縱雖異邦書、有所援用則作倭字、至本朝書亦然、此爲字無反覆顚倒、使人易見也、

凡地名、不正文字、但以和訓相通而書之如東鑑之類、悉從舊文、其無所據者、姑取村翁野老之言、

凡鎌倉總圖冠于首卷、間有古今盛衰可興感慨者、亦加小圖、然不必之、

凡今所編集、北本郷、東金澤、西固瀨、南杜戸、畫此作志、地圖亦然、

金澤者、武州六浦莊、而非相州鎌倉郡、然昔時平實時・顯時等居此以降、實如一郷、且地理相接景勝秀美、閒人墨客過鎌倉、以遊金澤爲壯觀、故今併記、共曰鎌倉志、
新編鎌倉志凡例
[やぶちゃん注:以下、影印に従って訓読したものを示す。送り仮名や読みの一部を私が( )で補った。句読点等は詠み易くするために適宜、変更、更に増やしてある。

凡そ編纂の序次、艸創の前後に拘らず、鶴岡ツルガヲカを以て始と爲。夫れ、鶴岡は鎌倉の中央にして、東西南北、通路是れより分れ、行程、茲れより計る。故に今ま「首卷」は先づ鎌倉大意を論じ、次に鶴が岡の來由を記して以て始(め)と爲、東北の方、蛇谷ヘビガヤツに終る。卷毎に一日の行程を量り、錄して一册と爲、以て歷覽に便りす。下、皆、之に倣へ、「第二」は、鶴が岡の東、鳥合原トリアハセハラに始め、牛蒡谷ゴバウガヤツに終る。「第三」は、鶴が岡の西、巨福路坂コフクロサカに始め、洲崎スサキに終る。「第四」は、鶴が岡の西、鐵井クロカネノヰに始め、梶原村カヂハラムラに終る。「第五」は、鶴が岡西南、今小路イマコウジに始め、御靈宮ゴリヤウノミヤに終る。「第六」は、鶴が岡の西南、星月夜井ホシツキヨノヰに始め、江島エノシマに終る。「第七」は、鶴が岡の東南、小町コマチに始め、佐賀岡サガヲカに終る。「第八」は、鶴が岡の東、朝夷名切通アサイナノキリドヲシに始め、金澤カナサハに終る。而して全部ヲ(ノヅカ)ら八册と成る。

凡そ條毎に先づ大意を記し、次に其の境内の勝跡、及び寶物を記す。鶴が岡の條下のごとき(は)、先づ八幡の鎭座を記し、次に鳥居トリヰ・樓門・上下カミシモミヤ・諸(々)の末社、及び神寶に至る。次に境内寺院の舊蹤を錄す。人をして見て(サト)し易からしむ。餘は皆、此に準ぜよ。

凡そ條毎に、始めに眼目の先づ及ぶ所の者を記す。故に寺社のごとき(は)、先づ山門・鳥居を記し、而して路程に便りある者を書す。不必ずしも本社・本堂を始めとせず。

凡そ其の方位を示すには、遠きに至(り)ては則(ち)某しの東西南北に在りと曰ふ。近きは則ち某しの前後左右に在(り)と曰ふ。其の左右と曰ふは、則(ち)る者の左右なり。前後は則(ち)其の地の前後なり。

凡そ書中載する所ろの寶物、下に註解・訂評を加ふる者有り。或は謬り、或は疑はしきものも、亦た謾りに改削せず。簡篇・文書のごとき、事に益有る時は則(ち)全文を記す。或は繁擾華藻にして精要(マ)れなる者は、則(チ)句を摘み、章を省(き)て、實を拾ひ、華を遺す。獨り事實を(ヌ)(き)て綱要を擧(ぐ)るのみ。畫木・肖像の類、作者疑ふべき者、多し。(スベ)て社司・寺僧の言ふ所に從(ひ)て、今、悉く存す。

凡そ全部、倭字を以て書す。縱ひ異邦の書と雖ども、援用する所有る時は則(ち)倭字に作る。本朝の書に至(り)ても亦(た)然り。此れ、字に反覆顚倒無(く)して、人をして易からしめんが爲なり。

凡そ地の名、文字を正さず。但だ、和訓相ひ通ずるを以て之を書す。「東鑑」の類のごとき(は)、悉く舊文に從ふ。其の據(る)所ろ無き者は、姑く村翁・野老の言を取る。

凡そ鎌倉の總圖、首卷に冠す。マヽ古今盛衰有(り)て感慨を興すべき者は、亦(た)小圖を加ふ。然れども之を必とせず。

凡そ今ま編集する所ろ、北は本郷ホンガウ、東は金澤カナザハ、西は固瀨カタセ、南は杜戸モリド、此をカギつて志(ナ)る。地圖も亦(た)然り。

金澤カナザハは、武州六浦ムツラの莊にして、相州鎌倉郡に非ず。然れども昔時、平實時タイラノサネトキ顯時アキトキ等此に居(り)てより以降(コノカ)た、實に一郷のごとし。且つ地理相ひ接して景勝秀美なり。閒人墨客、鎌倉に過(ぐ)る、金澤に遊ぶを以て壯觀と爲(す)。故に今、アハせ記して、共に「鎌倉志」と曰ふ。


「曉し易からしむ」分かり易く教え知らさせるようにした、の意。
「繁擾華藻」「華藻」は文飾を言うから、文章が乱れんばかりに膨大で、文飾甚だしい長文のものは、という意であろう。
「畫木」絵画や木像のことか。]



新編鎌倉志引用書目
[やぶちゃん注:影印は組なしであるが、底本の原則二段組の方を採用したが、割注が長い場合や私の注を附した場合は一段で示した。総ての解題を注すると膨大になるため、私の全く知らない(分からない)著作のみに禁欲的に注した。]

 萬葉集        續古今集
 新後撰集       新拾遺集
 大納言公任家集    更級記【菅原孝標女】
 西行物語
 海道記【世曰【鴨長明海道記】者非也、歌枕名寄、以海道記所載和歌爲鴨長明、今按歌者鴨長明作、而詞者後人所贅也乎、】
[やぶちゃん注:割注を影印の訓点に従って訓読したものを以下に示す。
【世に【鴨長明海道記】と曰(ふ)は非なり。歌枕の名寄に、海道記に載する所の和歌を以(て)鴨長明と爲。今按(ずる)に歌は鴨長明が作にして、詞は後人の贅する所ところなるか。】
「海道記」は「東関紀行」「十六夜日記」と並ぶ中世三大紀行文の一つで、貞応二(一二二三)年四月四日、「白河の渡り中山の麓に閑素幽栖する」五十歳を過ぎた侘士という出家が京都から鎌倉に下向し同月十七日に鎌倉着、十日程の滞在の後、予定していた善光寺参りをやめて帰京するまでを描く。成立時期はまず記載通りの貞応二(一二二三)年と考えてよいが、ウィキの「海道記」によれば、作者については寛文四(一六六四)年に本書が慶長二(一五九九)年の細川幽斎の跋を加えて「鴨長明海道記」と上梓されていることから、『古くから鴨長明と考えられてきたが、鴨長明の没年と本書の成立に齟齬をきたすため、鴨長明説は否定されている』とあるが、本書の記載から鴨長明説はかなり早い時期から否定的であったことが分かる。『作者は、作者は漢籍や和歌の道に通じた人物であることから、源光行を作者とする説もあるが、その経歴と齟齬することから、懐疑的な見方が大勢を占めている。ただし、本書の一部に虚構を想定するならば、源光行であってもおかしくはない。また、藤原秀能を作者とする説もある。近年では、承久の乱で犠牲になった葉室宗行を特に悼み、さらに承久の乱により落魄したかのような記述から、宗行の兄弟である下野守従五位下行長を作者とする説も』ある(下野守従五位下行長は「平家物語」の作者とされる信濃前司行長にも比定されている人物)。『いずれの説にせよ、作者を特定するには決め手に欠けるため、とりあえずは作者未詳とする他なく、今後の研究が待たれる』とある。]
 東關紀行【源親行】     後堀河院百首
 十六夜日記         藤原爲相海道宿次百首
 兼好家集          詞林采葉抄
 夫木集           北國紀行
 東國紀行【堯慧法印】    類字名所和歌集【里村昌琢】
 楚忽百首【宗牧】      懷中抄
 藻鹽艸           武藏野紀行【北條氏康】
 歌枕名寄          愚管抄【慈鎭和尚】
 保元物語          異本保元物語【鎌倉本・京本】
 源平盛衰記         平家物語
 異本平家物語【八坂本・鎌倉本・長門本】
 曽我物語          東鑑
 東鑑脱漏          古本東鑑纂【島津家藏本】
 帝王編年記         奥羽軍記
 大平記
 異本太平記【今出川家本・今川家本・毛利家本・天正本・金勝院本・西源院本・島津家本】
 保曆間記          若狹國守護職次第
 園太曆           梅松論
 神明鏡           鎌倉大草子
 鎌倉九代記         上杉禪秀記
 鎌倉年中行事【季高 源成氏家臣】
 鎌倉大日記         關東兵亂記
 北條五代記         北條盛衰記
 大友興廢記         八幡愚意訓
 鶴岡八幡宮記        鶴岡八幡囘御影緣起
 鶴岡日記          鶴岡記錄
 鶴岡八幡宮社務職次第    鶴岡供僧帳
 鶴岡神主家傳文書      鶴岡八幡宮寛文年中修理記
 鶴岡賴印僧正行状      普川國師新宮講式
 押手聖天緣起        關東五山記
 關東五山住持籍       建長寺過去帳
 泉涌寺末寺帳
 資受院校割帳案文
[やぶちゃん注:「校割帳」とは寺院で作成した寺持分の資財帳のこと。]
 東寶記【杲寶】
[やぶちゃん注:「とうぼうき」と読み、南北朝期の東寺の東寺観智院第一世杲宝(こうほう 徳治元(一三〇六)年~康安二・正平十七(一三六二)年)によって編纂された仏宝・法宝・僧宝の三編からなる東寺草創縁起から堂塔変遷及び法会記録等の寺誌。]
 頰燒阿彌陀緣起【光觸寺藏本】
 記主上人傳【道光】     常樂寺畧傳記
 江島緣起【巖本院藏本】   東海道名所記【淺井松雲】
 鎌倉名所記         鎌倉記【相承院藏本】
 鎌倉日記          鎌倉幷金澤三崎間割地理之圖
 鎌倉物語【中河喜雲】
[やぶちゃん注:医師で貞門の俳諧師にして仮名草子作家であった中河喜雲(寛永十三(一六三六)年?~宝永二(一七〇五)年?)が万治二(一六五九)年に菱川師宣画で出した仮名草子。通俗鎌倉名所記。]
 鎌倉巡禮記【澤菴宗彭】   和名類聚抄
 古事談           發心集
 沙石集           徒然草
 野槌
 壒囊抄
[やぶちゃん注:「塵添壒囊抄じんてんあいのうしょう」単に「壒囊抄」とも言う。行誉らによって撰せられた室町時代に成立した百科辞書・古辞書。]
 下學集           元亨釋書
 注畫贊
[やぶちゃん注:室町期に日證によって書かれた日蓮の伝記「日蓮上人註画讃」のことか。]
 扶桑禪林諸祖傳       東渡諸祖傳
 大休正念錄         竺仙錄
 空華集
 落絮集
[やぶちゃん注:「落絮集」は不詳。識者の御教授を乞う。]
 日工集
 日件錄【瑞溪周鳳】
[やぶちゃん注:「瑞溪周鳳」(ずいけいしゅうほう 明徳二年・元中八(一三九二)年~文明五(一四七三)年)は室町中期の臨済宗夢窓派の僧。第六代将軍足利義教に文才を高く評価され、永享八(一四三六)年に山城国景徳寺住持となる。翌年十刹の一つ等持寺住持となり、永享十一(一四三九)年には永享の乱の後処理のため、義教の命を受けて関東に下向している。永享十二(一四四〇)年、相国寺第五十世住持となる。義政の信頼厚く、室町幕府の外交文書作成などにも従事している。「日件錄」は正しくは「臥雲日件錄」で、周鳳の記した日記(以上はウィキの「瑞渓周鳳」を参照した)。]
 善鄰國寶記
[やぶちゃん注:前注した瑞渓周鳳が記した室町幕府の外交史書。文明二(一四七〇)頃の成立。古代から室町中期に至るまでの日本と中国及び朝鮮半島との外交史と周鳳が関わった室町幕府の外交文書などから成る(以上は「大辞泉」を参照した)。]
 東遊路行記【萬里居士】   梅花無盡藏【萬里居士】
[やぶちゃん注:「萬里居士」は万里集九(ばんりしゅうく 正長元(一四二八)年~?)のこと。室町時代の禅僧歌人で太田道灌の知己でもあった。]
 滑稽詩文
[やぶちゃん注:近世初期に書かれた禅僧による艶詩艶文・流行語や俗語を用いた詩文を蒐集したもの。]
 諸國鐘銘集         神社考
 佐竹系圖【常州太古山淸音寺藏本】
 足利系圖          北條系圖
 古本北條系圖【常州麻酔正宗寺藏本】
 上杉系圖          首藤系圖
 田代系圖          小栗系圖
 花押藪
 千手經讀蒙記【慧林】
[やぶちゃん注:「慧林」は慧林性機(えりんしょうき 万暦三十七(一六〇九)年~天和元(一六八一)年)明からの渡来した黄檗宗の僧。承応三(一六五四)年に隠元隆琦に従って来日、摂津の仏日寺住持となって隆琦の法を嗣いだ。延宝八(一六八〇)年、京都万福寺第三世となった。「千手經讀蒙記」は如何なる書物か不詳。識者の御教授を乞う。]
 通鑑綱目
[やぶちゃん注:「資治通鑑綱目しじつがんこうもく」のこと。中国の歴史書北宋の司馬光の「資治通鑑」の、南宋の儒学者朱熹の編になる注釈書。]
 皇明護法錄
[やぶちゃん注:不詳。識者の御教授を乞う。]
 古今醫統
[やぶちゃん注:明代の医師徐春甫じょしゅんほの編になる漢方医書。]
 本艸綱目
 二程全書
[やぶちゃん注:明代宋学の先駆的著作集。一六〇六年刊。北宋の思想家程顥ていこう程頤ていい兄弟の著述の集大成で徐必達の校訂になる(以上は「大辞泉」を参照した)。]
  通計壹百十九部



新編鎌倉志引用書目