[やぶちゃん注:大正十四(1925)年六月一日発行の雑誌『俳壇文藝』に掲載。底本は岩波版旧全集を用いた。]
わが俳諧修業 芥川龍之介
小學校時代。――尋常四年の時に始めて十七字を並べて見る。「落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」。鏡花の小說など讀みゐたれば、その羅曼主義を學びたるなるべし。
中學時代。――「獺祭書屋俳話」や「子規隨筆」などは讀みたれど、句作は殆どしたることなし。
高等學校時代。――同級に久米正雄あり。三汀と號し、朱鞘派の俳人なり。三汀及びその仲間の仕事は詩に於ける北原白秋氏の如く、俳諧にアムプレシヨニスムの手法を用ひしものなれば、面白がりて讀みしものなり。この時代にも句作は殆どせず。
大學時代。――略ぼ前時代と同樣なり。
敎師時代。――海軍機關學校の教官となり、高濱先生と同じ鎌倉に住みたれば、ふと句作して見る氣になり、十句ばかり玉斧を乞ひし所、「ホトトギス」に二句御採用になる。その後引きつづき、二三句づつ「ホトトギス」に載りしものなり。但しその頃も既に多少の文名ありしかば、十句中二三句づつ雜詠に載るは虛子先生の御會釋ならんと思ひ、少々尻こそばゆく感ぜしことを忘れず。
作家時代。――東京に歸りし後は小澤碧童氏の鉗鎚を受くること一方ならず。その他一游亭、折柴、古原艸等にも恩を受け、おかげさまにて幾分か明を加へたる心地なり、尤も新傾向の句は二三句しか作らず。つらつら按ずるにわが俳諧修業は「ホトトギス」の厄介にもなれば、「海紅」の世話にもなり、宛然たる五目流の早じこみと言ふべし。そこへ勝峯晉風氏をも知るやうになり、七部集なども覗きたれば、禽鵺の如しと言はざるべからず。今日は唯一游亭、魚眠洞等と閑に俳諧を愛するのみ。俳壇のことなどはとんと知らず、又格別知らんとも思はず。たまに短尺など送つて句を書けと云ふ人あれど、短尺だけ恬然ととりつ離しにして未だ嘗書いたことなし。この俳壇の門外漢たることだけは今後も永久に變らざらん乎。次手を以て前掲の諸家の外にも、碧梧桐、鬼城、蛇笏、天郎、白峯等の諸家の句にも恩を受けたることを記しおかん。白峯と言ふは「ホトトギス」にやはり二三句づつ載りし人なり。