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槐 芥川龍之介
久米との舊交囘復のくさびに 芥川龍之介
――松岡君の創作モデル問題(二)
[やぶちゃん注:大正15(1926)年11月29日付『読賣新聞』の「よみうり文藝 月曜附録」欄に掲載された。底本は岩波版旧全集を用いた。底本後記によれば、掲載欄には他に、
沈默の後に――「憂鬱な愛人」を執筆するに際して 松岡譲
松岡君の創作モデル問題(1)――創作態度の純眞さを要す 久米正雄
松岡君の創作モデル問題(2)――久米との舊交囘復のくさびに 芥川龍之介
と『三本立で掲載された』とある。「松岡君の創作モデル問題」は柱としては一本であったということであろう。ついでなので、その該当の芥川龍之介の記事もここに、掲載しておく。但し、これは末尾を見れば分かるように、談話の筆記録である。ちなみに、ここで語られている松岡譲の小説は、彼の十年の沈黙を経た、雑誌『夫人倶楽部』昭和2(1927)年1月号から連載が開始されることになる、久米正雄の絡んだ夏目筆子との結婚に纏わる出来事を小説化した「憂鬱な愛人」を指す。題名は、底本は岩波版旧全集を用い、底本編者による仮題である表題も、底本のものを用いた。
久米との舊交囘復のくさびに
――松岡君の創作モデル問題(二) 芥川龍之介
この問題は講談社からも問ひ合せて來たけれども、新年號の仕事に迫はれてゐたり何かしてまだ返事を出してゐない。それには餘りこの問題を話したくないと云ふ氣も手傳つてゐる。唯まあ思ひついた所を云へば、松岡も定めしいろいろ書きたい事を持つてゐるだらう。しかし今度の小説を書くことによつて久米との間も舊に復する機會を得れば一番仕合せだと思つてゐる。尚又モデル問題に就いては勿論僕などは善く書かれたい。けれども何も松岡こつちの都合ばかり考へて書く次第ではなからうから不服な點があつた時はその時のことにしようと思つてゐる。(談)]
槐 芥川龍之介
槐と云ふ樹の名前を覺えたのは「石の枕」と云ふ一中節の淨瑠璃を聞いた時だつたであらう。僕は勿論一中節などを稽古するほど通人ではない。唯親父だのお袋だのの稽古してゐるのを聞き覺えたのである。その文句は何でも觀世音菩薩の「庭に年經し槐の梢」に現れるとか何とか云ふのだつた。
「石の枕」は一つ家の婆さんが石の枕に旅人を寐かせ、路用の金を奪ふ爲に上から綱に吊つた大石を落して放人の命を奪つてゐる、そこへ美しい稚兒が一人、一夜の宿りを求めに來る、婆さんはこの稚兒も石の枕に寐かせ、やはり殺して金をとらうとしてゐる、すると婆さんの眞名娘が私かにこの稚兄に想ひを寄せ、稚兒の身代りになつて死んでしまふ、それから稚兒は觀世音菩薩と現れ、婆さんに因果應報を教へる、この婆さんの身を投げて死んだ池は未だに淺草寺の境内に「姥の池」となつて殘つてゐる、――大體かう云ふ淨瑠璃である。僕は少時國芳の浮世繪にこの話を書いたのを見てゐたから、「吉原八景」だの「黒髮」だのよりも「石の枕」に興味を感じてゐた。それからその又國芳の浮世繪は觀世音菩薩の衣紋などに西洋畫風の描法を應用してゐたのも覺えてゐる。
僕はその後槐の若木を見、そのどこか圖案的な枝葉を如何にも觀世音菩薩の出現などにふさはしいと思つたものである。が、四五年前に北京に遊びのべつに槐ばかり見ることになつたら、いつか詩趣とも云ふべきものを感じないやうになつてしまつた。唯青い槐の實の莢だけは未だに風流だと思つてゐる。
北 京
灰捨つる路は槐の莢ばかり