[やぶちゃん注:大正十五(1926)年一月発行の雑誌『サンデー毎日』に掲載。底本は岩波版旧全集を用いたが、ルビは読みが振れるもののみのパラルビとした。傍点「・」は下線に代えた。一部に注を付した。]
身のまはり 芥川龍之介
一 机
僕は學校を出た年の秋「芋粥」といふ短篇を新小説に發表した。原稿料は一枚四十錢だつた。が、いかに當時にしても、それだけに衣食を求めるのは心細いことに違ひなかつた。僕はそのために口を探し、同じ年の十二月に海軍機鬪學校の教官になつた。夏目先生の死なれたのはこの十二月の九日だつた。僕は一月六十円の月俸を貰ひ、晝は英文和譯を教へ、夜はせつせと仕事をした。それから一年ばかりたつた後僕の月俸は百円になり、原稿料も一枚二円前後になつた。僕はこれらを合せればどうにか家計を營めると思ひ、前から結婚する筈だつた友だちの姪と結婚した。僕の紫檀の古机(ふるづくゑ)はその時夏目先生の奧さんに祝つて頂いたものである。机の寸法は竪三尺、横四尺、高さ一尺五寸位であらう。木の枯れてゐなかつたせゐか、今では板の合せ目などに多少の狂ひを生じてゐる。しかしもう、かれこれ十年近く、いつもこの机に向つていることを思ふと、さすがに愛着(あいじやく)のない譯でもない。
二 硯 屏
僕の青磁の硯屏(けんぺい)は團子坂の骨董屋で買つたものである。尤も進んで買つた譯はない。僕はいつかこの硯屏のことを「野人生計の事」といふ隨筆の中に書いて置いた。それをちよつと摘録すれば――
或日又遊びに來た室生は、僕の顏を見るが早いか、團子坂の或骨董屋に青磁の硯屏の出てゐることを話した。
「賣らずに置けといつて置いたからね、二三日中にとつて來なさい。もし出かける暇がなけりや、使(つかひ)でも何でもやりなさい。」
宛然(ゑんぜん)僕にその硯屏を買ふ義務でもありさうな口吻である。しかし御意通りに買つたことを未だに後悔してゐないのは室生のためにも僕のためにも兔に角欣懷(きんくわい)といふ外はない。
この文中に室生といふのはもちろん室生犀星君である。硯屏はたしか十五円だつた。
三 ペン皿
夏目先生はペン皿の代りに煎茶の茶箕(ちやみ)を使つてゐられた。僕は早速その智慧を學んで、僕の家に傳はつた紫檀の茶箕をペン皿にした。(先生のペン皿は竹だつた。)これは香以(かうい)の妹婿に當たる細木伊兵衞(さいきいへゑ)のつくつたものである。僕は鎌倉に住んでゐた頃、菅虎雄先生に字を書いて頂きこの茶箕の窪んだ中へ「本是山中人 愛説山中話」と刻ませることにした。茶箕の外には伊兵衞自身がいかにも素人の手に成つたらしい岩や水を刻んでゐる。といふと風流に聞えるかも知れない。が、生來の無精のために埃やインクにまみれたまま、時には「本是山中人」さへ逆さまになつてゐるのである。
[やぶちゃん注1:「茶箕」は煎茶の殻・塵を取り除く箕である(最近では靴べらのような形をした茶筒から茶葉を掬う道具を指しているが)。]
[やぶちゃん注2:「香以」は森鷗外が「細木香以」で考証した幕末の大通。芥川龍之介の養母トモは細木香以の姪(香以の妹である須賀の子)であった。本文中の須賀の婿は、本名を細木伊三郎と言うようである。]
[やぶちゃん注3:「本是山中人 愛説山中話」(もとこれさんちうのひと とくをあいすさんちうのわ)は、特にその初句を芥川は好んで揮毫した。筑摩書房全集類聚版注では出典不詳とあるが、中国の禅僧蒙庵岳の「鼓山蒙庵岳禪師四首」の一首「本是山中人 愛説山中話 五月賣松風 人間恐無價」からである。]
四 火 鉢
小さい長火鉢を買つたのもやはり僕の結婚した時である、これはたつた五円だつた。しかし抽斗の具合などは値段よりも上等に出來上つてゐる。僕は當時鎌倉の辻といふ處に住んでゐた。借家は或實業家の別莊の中に建つてゐたから、芭蕉が軒を遮つたり、廣い池が見渡せたり、存外居心地のよい住居だつた。が、八疊二間、六疊一間、四疊半二間、それに湯殿や臺所があつても、家賃は十八円を越えたことはなかつた。僕らはかういふ四疊半の一間にこの小さい長火鉢を据ゑ、太平無事に暮らしてゐた。あの借家も今では震災のために跡かたちもなくなつてゐることであらう。