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朝日新聞連載「心」(「こゝろ 上 先生と私」パート初出)

朝日新聞連載「心」(「こゝろ 中 兩親と私」パート初出)

「こゝろ」マニアックス

やぶちゃん贋作「こゝろ佚文」

やぶちゃんの教え子のマニアック「こゝろ」小論文

夏目漱石作

 先生の遺書(五十五)~(百十)やぶちゃんの摑み

『東京朝日新聞』

大正3(1914)年6月16日(火曜日)

         ~8月11日(火曜日)掲載分

(単行本「こゝろ」「下 先生と遺書」該当パート)

 

[やぶちゃん冒頭注:本テクストは、今から96年前の今日から『東京朝日新聞』及び『大阪朝日新聞』に全110回で連載された夏目漱石の「心」の復刻を、2010年の同一日付で私のブログに連載することで、日本人が最初に漱石の「心」に出逢った、その日その日を、同じ季節の中、且つ元の新聞小説の雰囲気で日々味わうことを目指した私のブログ・プロジェクトに端を発するものである。

 本作は新聞連載時は一貫して「心(こゝろ)」と漢字表記で、現行の単行本「こゝろ」のように「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の3パートには分かれておらず、最終百十回迄、やはり一貫して「先生の遺書」という副題で維持された。

 今回、単行本の「下 先生と遺書」に相当する第(五十五)章から第(百十)章を滞りなく公開し得た。それを記念して該当パートを一挙にここに置くものである。これによって私の人生の「心」という憂鬱の邸宅設計図はほぼ完成された。後は細部に改築の手を加えてゆくだけだが、特にその更新はここで示さない。「心」の家の大きな新改築と増築(発見と改造)に至った際のみ、それぞれのパートの冒頭末尾に増改築箇所の更新内容を注記する予定である。

 テクスト化に関する凡例及び献辞等は「心 先生の遺書(一)~(三十六) 附やぶちゃんの摑み」の冒頭注を参照されたい。

 なお、この連載は理由は不明であるが、『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』で途中から掲載日がズレを生じ始め、最終的には『東京朝日新聞』の第百十回(最終回)掲載が大正3(1914)年8月11日(火曜日)であったのに対し、『大阪朝日新聞』のそれは8月17日(月曜日)と6日遅れとなっている。

 本作を愛する私にとって、今回の2010年同一日付ブログ連載と私のコメントである「摑み」の完遂は、個人的には大きな感慨の中にある。これからも本作は恋する多くの若人のバイブルであり続けるであろう。私はその誰かの――先進諸国よりペルーやトルコやアイスランドや南極を旅することを愛する、アカデミズムよりも凡夫の「心」を持った私の様な誰かの――一水先案内人であることが出来れば、恩幸これに過ぎたるはない。【2010年8月11日(水曜日)に】今日の友人の助言により、上野公園のシナリオの一部を改変した(先生の履物を洋靴に変えた)。【2011年1月3日】]

 

 

 漱 石

 

  先生の遺書

    (五十五)

「‥‥私は此の夏あなたから二三度手紙(てかみ)を受け取りました。東京で相當の地位を得たいから宜しく賴むと書いてあつたのは、たしか二度目に手に入つたものと記憶してゐます。私はそれを讀んだ時何とかしたいと思つたのです。少なくとも返事を上げなければ濟まんとは考へたのです。然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです。御承知の通り、交際區域の狹いといふよりも、世の中にたつた一人で暮してゐるといつた方が適切な位(くらゐ)の私には、さういふ努力を敢てする餘地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。實をいふと、私はこの自分を何うすれば好(い)いのかと思ひ煩つてゐた所なのです。此儘人間の中に取り殘されたミイラの樣に存在して行かうか、それとも…其時分の私は「それとも」といふ言葉を心のうちで繰返すたびにぞつとしました。馳足(かけあし)で絶壁の端迄來て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のやうに。私は卑怯でした。さうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶したのです。遺憾ながら、其時の私には、あなたといふものが殆ど存在してゐなかつたと云つても誇張ではありません。一步進めていふと、あなたの地位、あなたの糊口(ここう)の資(し)、そんなものは私にとつて丸で無意味なのでした。何(ど)うでも構はなかつたのです。私はそれ所の騒ぎでなかつたのです。私は狀差へ貴方の手紙(てがみ)を差したなり、依然として腕組(うでぐみ)をして考へ込んでゐました。宅(うち)に相應の財産があるものが何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といつて藻掻(もが)き廻るのか。私は寧ろ苦々しい氣分で、遠くにゐる貴方に斯んな一瞥を與へた丈でした。私は返事を上げなければ濟まない貴方に對して、言譯のために斯んな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾(ぶしつけ)な言葉を弄するのではありません。私の本意は後を御覧になれば能く解る事と信じます。兎に角私は何とか挨拶すべきところを默つてゐたのですから、私は此怠慢の罪をあたなの前に謝したいと思ひます。

 其後私はあなたに電報(でんはう)を打ちました。有體(ありてい)に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語(ものかた)りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙(てかみ)を寄こして呉れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退(そつちの)けにして、何であなたが宅を空けらるものですか。その御父さんの生死(しやうし)を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。―私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症だからよく注意しなくつては不可いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の腦髓よりも、私の過去が私を壓迫(あつはく)する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我(が)を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。

 あなたの手紙(てがみ)、―あなたから來た最後の手紙―を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに己(や)めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、己(や)めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。

やぶちゃんの摑み:何よりも先生の遺書の冒頭の復元が大切である。「私」の叙述を素朴に信ずるなら、その遺書は、次のようになる(「‥‥」を連続した文章の前略表示とするならば直に改行せず続けてもよいと思われるが、実際にテクストとして表示してみると、明らかな息継ぎが見られるので、改行とした)。

   《冒頭復元開始》

 あなたから過去を問ひたゞされた時、答へる事の出來なかつた勇氣のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。然し其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります。從つて、それを利用出來る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の經驗として教へて上る機會を永久に逸するやうになりますさうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉が丸で嘘になります。私は已を得ず、口で云ふべき所を、筆で申し上げる事にしました。

 私は此の夏あなたから二三度手紙を受け取りました。東京で相當の地位を得たいから宜しく賴むと書いてあつたのは、たしか二度目に手に入つたものと記憶してゐます。私はそれを讀んだ時何とかしたいと思つたのです。少なくとも返事を上げなければ濟まんとは考へたのです。然し自白すると、私はあなたの依賴に對して、丸で努力をしなかつたのです。御承知の通り、交際區域の狹いといふよりも、世の中にたつた一人で暮してゐるといつた方が適切な位の私には、さういふ努力を敢てする餘地が全くないのです。然しそれは問題ではありません。實をいふと、私はこの自分を何うすれば好いのかと思ひ煩つてゐた所なのです。此儘人間の中に取り殘されたミイラの樣に存在して行かうか、それとも…其時分の私は「それとも」といふ言葉を心のうちで繰返すたびにぞつとしました。馳足で絶壁の端迄來て、急に底の見えない谷を覗き込んだ人のやうに。私は卑怯でした。さうして多くの卑怯な人と同じ程度に於て煩悶したのです。遺憾ながら、其時の私には、あなたといふものが殆ど存在してゐなかつたと云つても誇張ではありません。一步進めていふと、あなたの地位、あなたの糊口の資、そんなものは私にとつて丸で無意味なのでした。何うでも構はなかつたのです。私はそれ所の騒ぎでなかつたのです。私は狀差へ貴方の手紙を差したなり、依然として腕組をして考へ込んでゐました。宅に相應の財産があるものが何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位々々といつて藻掻(もが)き廻るのか。私は寧ろ苦々しい氣分で、遠くにゐる貴方に斯んな一瞥を與へた丈でした。私は返事を上げなければ濟まない貴方に對して、言譯のために斯んな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと無躾な言葉を弄するのではありません。私の本意は後を御覧になれば能く解る事と信じます。兎に角私は何とか挨拶すべきところを默つてゐたのですから、私は此怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思ひます。

 其後私はあなたに電報を打ちました。有體に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙を寄こして呉れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退けにして、何であなたが宅を空けらるものですか。その御父さんの生死を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。―私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症だからよく注意しなくつては不可いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の惱髓よりも、私の過去が私を壓迫する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。

 あなたの手紙、―あなたから來た最後の手紙―を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに己めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。

   《復元終了》

但し、これはおめでたく「私」を信じた場合の復元案である。「‥‥」この箇所には、「私」が読者に示さなかった省略部分がある可能性がある。例えば、素朴な疑問としてこんなことをあなたは考えないか? これは遺書である。遺書は死にゆくものがその死を表明し、思いを残すためのものである。さすれば、死はそこで最重要表明である。死、特に自殺の場合、その表明は最優先される(Kの遺書を見よ)。死を最初に明言しない遺書と言うのは、何より、それを読むものにとって『不親切』である。特に本件のように異様に長い場合、その最後まで読みきらなければ実は執筆者が自殺することが分からないという『遺書』は『不親切』どころか『悪い遺書』の例となる。複雑な理由があって説明を要する場合でも、単刀直入に自死することを冒頭に述べることは遺書としての当然の体裁ではないか? ところが先生の遺書の場合、その冒頭で示されるのは、せいぜい「其自由はあなたの上京を待つてゐるうちには又失はれて仕舞ふ世間的の自由に過ぎないのであります。從つて、それを利用出來る時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の經驗として教へて上る機會を永久に逸するやうになりますさうすると、あの時あれ程堅く約束した言葉が丸で嘘になります。私は己を得ず、口で云ふべき所を、筆で申し上げる事にしまし」や、次章の「あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臟を立(たち)割つて、温かく流れる血潮を啜らうとしたからです。其時私はまだ生きてゐた。死ぬのが厭であつた。それで他日を約して、あなたの要求を斥ぞけてしまつた。私は今自分で自分の心臟を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足です」という言辞だけである。勿論、先生が自死を「私」に『止められたくない』という絶対的意思はある。さればこそ、先生はそれを避けたとも言い得るかも知れない。しかし、送られた手紙(「私」が遺書としてこれを厳しく意識する以前には飽くまで手紙である)をどう読むかは「私」の自由であって、実際に「私」はその末尾を読んで当たり前のこと乍ら、先生の自死を直覚し、東京へと旅立つのである。ところが、ここに新聞小説読者と単行本読者の大きな違いが生じてくることになる。即ち当時の読者には、その遺書の最後を読むすべがない――只管、読み進む外は、先生の死の意味を知ることは出来ないのである。ここで初めて我々は真っ正直に馬鹿正直にゆっくらと最初から先生の覚悟の遺書を読み進める「私」となる他はない――「私」と一体になる――恒星を食べて生きているバルンガが太陽と一体になるように――のである。だからこそ遺書を読んだ後のシーンに客観的に「私」を描く展開は不要となる。既にあなたは「私」となりきった後だからである――。

この特殊性は新聞小説として読者を最後まで読ませるに、実に意地悪く巧妙にして憎い手法である。しかし、作中の先生は、飽くまで漱石ではない。小説として遺書を書いているのでは、毛頭ない。とすれば、ここ、この遺書の冒頭に、何か――私の自殺を止めようとすることは最早不能であることを語る言葉――省略された言辞があったのではないか?――何より、私が先生であったならば、必ずそれを書いて、要らぬ無駄な「私」の心配を――「お止めなさい」――と「私」に優しく語りかけるであろう、と思うのである。但し、これは相応の死の覚悟の中で書いているその冒頭部であり、「それ所の騒ぎでなかつた」直後の死の決断の中で書かれている端緒であるから、そんな「私」への配慮は働かぬとも言われるかも知れない(しかし、そのような配慮は実際に「私」への謝罪として本章に表れているのだ)。だから必ずや省略されているのだ、とは言い切れぬ。しかし、このように検証してくると、逆にその可能性は寧ろ高いとさえ言い得る気が私にはしてくるのである。

以上、そのような「私」による先生の遺書の恣意的な省略の可能性を我々は射程に入れて先生の遺書を読み解かなくてはならない、ということである。

それは「こゝろ」を初めて読んだ際、誰もが感じる、ある不審にも基づく。

この(五十)の冒頭は引用を表わす通常の鉤括弧(「こゝろ」では二重鉤括弧)で始まりながら、章末には、閉じるための鉤括弧がない。実は最終章(百十)を除いて総てがそうなっている事実に着目せねばならぬ(最終章のみは全体が「 」で括られている)。これは何を意味するか? 勿論、最初の鍵括弧は、これが『遺書であること』を常に読者に喚起する必要上のものであり、更に最後の鍵括弧の消失は逆に連載小説として次回に『続いていること』を同じく喚起する必要上のものであるとも言われるであろう。しかしその手法は同時に次のような可能性を強く示唆するものでもある。即ち、

遺書は全文ではない、その途中に、「私」が施した恣意的な省略部分が存在する可能性があるという事実を示している可能性

である。私は「省略がある」と言っているのではない。

私は「省略の可能性を常に射程に入れるような批判的な注意深いテクストの読みが不可欠である」ということを、ここから教訓としなくてはならない

と言いたいのである。これは私には過去30年以上、常に本作に向かう時の、自戒の言葉でもあり、私が「こゝろ」のテクスト論的解釈へ許容する外延であると言ってよい(言っておけば、この外延には秦恒平のような「私」と靜の結婚という仮定は微塵も含まれない)。

以下、私の推定する先生の最期の時系列を以下に示しておく。但し、(四十九)の「やぶちゃんの摑み」に記した漱石がやらかした齟齬を無視したものである。

明治45(1912)年 35歳

7月30日(火)        明治天皇崩御。

9月13日(金)        乃木大将殉死の報に触れる。同日、私へ電報を打つ。

                「チヨツトアヒタイガコラレルカ」

9月14日(土)か       私からの電報を受け取る。同日、再び私へ電報を打つ。

  15日(日)        「コナイデモヨロシイ」         

9月16日(月)か       自殺を決意、遺書の執筆を始める。

  17日(火)

9月25日(水)~26日(木) 遺書を書き上げる。

9月26日(木)~27日(金) この間に遺書郵送。

9月26日(木)~28日(土) この間に自殺。

但し、先生には乃木大将殉死の報に触れた際に、漠然としたもの乍ら、自死へのスイッチが入っていた。でなければ「私」に逢って秘密の過去を告白する気になるはずがないからである。自死と過去の告白はそのような不可分のものであることは、最早、言うまでもないことだ。であるから、実際に遺書を書き終わる頃の先生には自分が自殺を決意したのは乃木の殉死の日である、という意識が刷り込まれたはずである。だから先生は遺書の最後で「私が死なうと決心してから、もう十日以上になります」という言い方をしているのである。そういう意味に於いて私の推定には齟齬はないと考えている(後述する(四十九)の「やぶちゃんの摑み」の注も必ず参照のこと)。

♡「二三度手紙を受け取りました」三度である。一通目は、

①(四十)で帰郷後、7月20日(土)~29日(金)の間、恐らくその前半の何処かで書いた「原稿紙へ細字で三枚ばかり國へ歸つてから以後の自分といふやうなものを題目にして書き綴つた」もの。「その手紙のうちには是といふ程の必要の事も書いてないのを、私は能く承知してゐた。たゞ私は淋しかつた。さうして先生から返事の來るのを豫期してかゝつた。然しその返事は遂に來なかつた」書簡。

であり、次は、

②(四十三)で、8月中下旬、「私」が「父や母の手前」社会での相応の「地位を出來る丈の努力で求めつゝある如くに裝ほはなくてはならな」くなり、仕方なく、しぶしぶ「先生に手紙を書いて、家の事情を精しく述べた。もし自分の力で出來る事があつたら何でもするから周旋して呉れと」依頼する書状である。その時、「私は先生が私の依賴に取り合ふまいと思ひながら此手紙を書いた。又取り合ふ積でも、世間の狹い先生としては何うする事も出來まいと思ひながら此手紙を書いた。然し私は先生から此手紙に對する返事が屹度來るだらうと思つて書いた」ものであったが、やはり遂に先生からの来信はなかった書簡。

である。最後の三通目は、

③乃木大将殉死の翌日である9月14日(日)、先生より「チヨツトアヒタヒガコラレルカ」との電報に対し、「出來る丈簡略な言葉で父の病氣の危篤に陷りつゝある旨も付け加へたが、夫でも氣が濟まなかつたから、委細手紙として、細かい事情を其日のうちに認めて郵便で出した」書簡。

の以上三通を指す。

♡「あたな」勿論、「あなた」の誤植。

「此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから」これは遺書の最後に表われる遺書を書くための一人の時間の確保を言う。即ち、遺書が長いものとなることが分かっていた先生は丁度、靜の「叔母が病氣で手が足りないといふ」渡りに舟――その渡し守はカロン――の話を耳にし、自分から「勸めて遣」ることで、落ち着いて遺書執筆するための時間を確保し得た。叔母のところに自然に靜を送り出すための仕儀に、一日二日が必要であったことを言うのである。

「私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です」繰り返さないが、この叙述はおかしい。先行する(四十九)の「やぶちゃんの摑み」の私の恨みの注を是非ご覧あれ。]

 

 

  先生の遺書

    (五十六)

 「私はそれから此手紙を書き出しました。平生(へいせい)筆を持ちつけない私には、自分の思ふやうに、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、貴方に對する私の此義務を放擲(ほうてき)する所でした。然しいくら止(よ)さうと思つて筆を擱(おい)いても、何にもなりませんでした。私は一時間經たないうちに又書きたくなりました。貴方から見たら、是が義務の遂行を重んずる私の性格のやうに思はれるかも知れません。私もそれは否みません。私は貴方の知つてゐる通り、殆ど世間と交渉のない孤獨な人間ですから、義務といふ程の義務は、自分の左右前後を見廻しても、どの方角にも根を張つて居りません。故意か自然か、私はそれを出來る丈切り詰めた生活をしてゐたのです。けれども私は義務に冷淡だから斯うなつたのではありません。寧ろ鋭敏過ぎて刺戟に堪へる丈の精力がないから、御覧のやうに消極的な月日を送る事になつたのです。だから一旦約束した以上、それを果さないのは、大變厭な心持(こころもを)です。私はあなたに對して此厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆を又取り上げなければならないのです。

 其上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私丈の經驗だから、私丈の所有と云つても差支ないでせう。それを人に與へないで死ぬのは、惜いとも云はれるでせう。私にも多少そんな心持があります。たゞし受け入れる事の出來ない人に與へる位なら、私はむしろ私の經驗を私の生命と共に葬つた方が好(い)いと思ひます。實際こゝに貴方といふ一人の男が存在してゐないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで濟んだでせう。私は何千萬とゐる日本人のうちで、たゞ貴方丈に、私の過去を物語(ものかた)りたいのです。あなたは眞面目だから。あなたは眞面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云つたから。

 私は暗い人世(じんせい)の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。然し恐れては不可せん。暗いものを凝と見詰めて、その中から貴方の參考になるものを御攫(おつか)みなさい。私の暗いといふのは、固(もと)より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。又倫理的に育てられた男です。其倫理上の考は、今の若い人と大分(だいぶ)違つた所があるかも知れません。然し何(ど)う間違つても、私自身のものです。間に合せに借りた損料着(そんれうぎ)ではありません。だから是から發達しやうといふ貴方には幾分か參考になるだらうと思ふのです。

 貴方は現代の思想問題に就いて、よく私に議論を向けた事を記憶してゐるでせう。私のそれに對する態度もよく解つてゐるでせう。私はあなたの意見を輕蔑迄しなかつたけれども、決して尊敬を拂ひ得る程度にはなれなかつた。あなたの考へには何等の背景もなかつたし、あなたは自分の過去を有つには餘りに若過ぎたのです。私は時々笑つた。あなたは物足なさうな顏をちよい/\私に見せた。其極(きよく)あなたは私の過去を繪卷物のやうに、あなたの前に展開して呉れと逼(せま)つた。私は其時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中(なか)から、或生きたものを捕(つら)まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臟を立(たち)割つて、温かく流れる血潮を啜(すゝ)らうとしたからです。其時私はまだ生きてゐた。死ぬのが厭であつた。それで他日を約して、あなたの要求を斥ぞけてしまつた。私は今自分で自分の心臟を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停(とま)つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足(まんそく)です。

[♡やぶちゃんの摑み:ここは先生が何故、「私」にだけ秘密の過去を語るのかをはっきりと明示した重要な部分である。先生の遺書を抜粋で読む高校国語授業は掟破りと言わざるを得ないが(私は三十数年間、全文授業を自身にも生徒にも課してきた)、少なくともこの遺書の冒頭と、そして最後は教科書に載せるべきである。載っていなければ、必ず読ませ、教師が音読すべき部分である。それは勿論、見た目、一聴、実に不思議で謎めいた暗号のようにしか見えまい。しかし、それでいいのだ。諸君(ネット上に散見される「こゝろ」全文を読ませるのなんぞナンセンスという国語教師を指す)が抜粋しかやらないのであれば、せめて、そうした謎かけに終わる、将来、「こゝろ」を読みたくなるような読書案内としての授業に徹するがよい。――嫌悪感を覚える「舞姫」は豊太郎を憎悪するベクトルに於いて授業が可能であるが、「こゝろ」は、その作品を愛さぬ人間には、授業は出来ぬ。鮮やかに捨てるがよい。試験のためや統一授業のためにやるのなら、君は国語教師としての節や覚悟の欠片(かけら)もない愚者以外の何者でもない。

♡「私はそれから此手紙を書き出しました」というのは、前段と繋げた時、如何にもおかしい。実際にやってみよう。

   《復元開始》

 其後私はあなたに電報を打ちました。有體に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙を寄こして呉れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退けにして、何であなたが宅を空けらるものですか。その御父さんの生死を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。―私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症だからよく注意しなくつては不可いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の惱髓よりも、私の過去が私を壓迫する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。

 あなたの手紙、―あなたから來た最後の手紙―を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに己めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。

 私はそれから此手紙を書き出しました。平生筆を持ちつけない私には、自分の思ふやうに、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、貴方に對する私の此義務を放擲する所でした。然しいくら止さうと思つて筆を擱いても、何にもなりませんでした。私は一時間經たないうちに又書きたくなりました。貴方から見たら、是が義務の遂行を重んずる私の性格のやうに思はれるかも知れません。私もそれは否みません。私は貴方の知つてゐる通り、殆ど世間と交渉のない孤獨な人間ですから、義務といふ程の義務は、自分の左右前後を見廻しても、どの方角にも根を張つて居りません。故意か自然か、私はそれを出來る丈切り詰めた生活をしてゐたのです。けれども私は義務に冷淡だから斯うなつたのではありません。寧ろ鋭敏過ぎて刺戟に堪へる丈の精力がないから、御覧のやうに消極的な月日を送る事になつたのです。だから一旦約束した以上、それを果さないのは、大變厭な心持です。私はあなたに對して此厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆を又取り上げなければならないのです。

 其上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。……(以下、略)

   《復元終了》

直ぐに気がつくはずである。この文脈はおかしい。私「から來た最後の手紙」「を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひ」、「それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけ」たが、「一行も書かずに己め」た。何故なら「何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから」であると同時に、「此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已め」たと言うのに、ところが、そこで「來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つた」直後に「私は」「此」秘密の「私の過去」を総て記した「手紙を書き出し」た、という。こんな悪文は私だって書かない。明らかにおかしな文章である。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏もこの違和感に着目され、『読者は前項との矛盾にいささかとまどい、その間に予想以上の時間の経過があったのかといぶかしむ(連載の切れ目であることも関係するかもしれない)。』と記されている。連載云々は私も分かるが、私の推定によれば9月14日(土)か15日(日)に私からの電報を受け取った先生は、当然同日内に再び私へ「コナイデモヨロシイ」という返電をしたと思われ、9月16日(月)か17日(火)辺りには明確な自殺を決意し、遺書の執筆に入らなければならない。これは残る先生のリミットの時間が作品上でも明確に閉じられている以上、動かせないのである。従って読者が感じる遺書執筆に取り掛かるまでの「間に予想以上の時間の経過があ」ることは、あり得ないのである(私もそう初読時、素直にそう感じたのである)。――とすれば――どのような可能性が考えられるか――前の「此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから」の注を採録する。

これは遺書の最後に表われる遺書を書くための一人の時間の確保を言う。即ち、遺書が長いものとなることが分かっていた先生は丁度、靜の「叔母が病氣で手が足りないといふ」渡りに舟――その渡し守はカロン――の話を耳にし、自分から「勸めて遣」ることで、落ち着いて遺書執筆するための時間を確保し得た。叔母のところに自然に靜を送り出すための仕儀に、一日二日が必要であったことを言うのである。

この内容が、二つの章の間に挟まれていたとしたら如何であろう(下線部は私の復元例)。

   《復元例開始》

 其後私はあなたに電報を打ちました。有體に云へば、あの時私は一寸貴方に會ひたかつたのです。それから貴方の希望通り私の過去を貴方のために物語りたかつたのです。あなたは返電を掛けて、今東京へは出られないと斷つて來ましたが、私は失望して永らくあの電報を眺めてゐました。あなたも電報丈では氣が濟まなかつたと見えて、又後から長い手紙を寄こして呉れたので、あなたの出京出來ない事情が能く解りました。私はあなたを失禮な男だとも何とも思ふ譯がありません。貴方の大事な御父さんの病氣を其方退けにして、何であなたが宅を空けらるものですか。その御父さんの生死を忘れてゐるやうな私の態度こそ不都合です。―私は實際あの電報を打つ時に、あなたの御父さんの事を忘れてゐたのです。其癖あなたが東京にゐる頃には、難症だからよく注意しなくつては不可いと、あれ程忠告したのは私ですのに。私は斯ういふ矛盾な人間なのです。或は私の惱髓よりも、私の過去が私を壓迫する結果斯んな矛盾な人間に私を變化させるのかも知れません。私は此點に於ても充分私の我を認めてゐます。あなたに許して貰はなくてはなりません。

 あなたの手紙、―あなたから來た最後の手紙―を讀んだ時、私は惡い事をしたと思ひました。それで其意味の返事を出さうかと考へて、筆を執りかけましたが、一行も書かずに己めました。何うせ書くなら、此手紙を書いて上げたかつたから、さうして此手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がたゞ來るに及ばないといふ簡單な電報を再び打つたのは、それが爲です。

 しかし此長い手紙を書くには相應な時間と何よりも家人に氣付かれぬやうにする必要がありました。ところが丁度、先達てから妻の親類の者が病氣で不如意だといふ話を耳にしてゐたものですから、私はその宅へ妻を手傳に遣ることで落ち着いて此手紙を書くための時間を確保し得たのです。

 私はそれから此手紙を書き出しました。平生筆を持ちつけない私には、自分の思ふやうに、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、貴方に對する私の此義務を放擲する所でした。然しいくら止さうと思つて筆を擱いても、何にもなりませんでした。私は一時間經たないうちに又書きたくなりました。貴方から見たら、是が義務の遂行を重んずる私の性格のやうに思はれるかも知れません。私もそれは否みません。私は貴方の知つてゐる通り、殆ど世間と交渉のない孤獨な人間ですから、義務といふ程の義務は、自分の左右前後を見廻しても、どの方角にも根を張つて居りません。故意か自然か、私はそれを出來る丈切り詰めた生活をしてゐたのです。けれども私は義務に冷淡だから斯うなつたのではありません。寧ろ鋭敏過ぎて刺戟に堪へる丈の精力がないから、御覧のやうに消極的な月日を送る事になつたのです。だから一旦約束した以上、それを果さないのは、大變厭な心持です。私はあなたに對して此厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆を又取り上げなければならないのです。

 其上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。……(以下、略)

   《復元例終了》

私はやはり疑惑を拭えぬのだ。やはり先生の遺書は完全ではないのだ。「私」によって、省かれた部分が、ある。――これは現在、殆んど私の中で確信に近いものになっているのである。

♡「私の過去」「を人に與へないで死ぬのは、惜いとも云はれるでせう。私にも多少そんな心持があります」ここに半ば公的な言説(ディスクール)が示される。これは漱石の矜持でもある。漱石が本作の広告文として『自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を獎む。』と言った自信の源泉から吹き上げてきた言葉である。後の部分でも「是から發達しやうといふ貴方には幾分か參考になるだらうと思ふ」とまで言っている。「是から發達しやうといふ貴方」とは措定めされた不特定多数の若者への謂いである。不特定多数の、たった一人の「私」という若者への、である。

♡「たゞし受け入れる事の出來ない人に與へる位なら、私はむしろ私の經驗を私の生命と共に葬つた方が好いと思ひます。實際こゝに貴方といふ一人の男が存在してゐないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで濟んだでせう。私は何千萬とゐる日本人のうちで、たゞ貴方丈に、私の過去を物語りたいのです」ここに「私」が唯一選ばれた理由が開示される。即ちその冒頭部を解するなら、

○先生は私の過去の意味が理解出来ない、批判的対象でしかないとしか心に映らぬ輩ばかりがこの世には満ち溢れていると感じていた。

○そのような輩には私の過去を語る価値がない、語っても私の過去が愚かな思惟によって毒されるだけでなく、誤読されたその輩の精神やその誤読した輩が棲息する社会そのものに致命的な害毒とさえなるかも知れない。

と読んで大きな誤りはないと思われる。そして容易に気づくはずである。

○先生は「私」をこの世で今、誰よりも愛している。何故なら、愛している靜にさえ語らない自己の過去の秘密を「私」「たゞ貴方丈に、私の過去を物語りたい」と言っているからである。君は自分の知られたくない忌まわしい過去を誰になら、語れる? 愛してもいない人間には決して語れぬ。信頼する親族にも友人にも語ることを躊躇するであろう。その究極の秘密を語れるのは、至上の愛を感じている相手以外には在り得ない。先生は「私」(=読者である「あなた」)を愛している。

そして遂に全「日本人」(この批判的限定性に着目せよ!)の中で「私」が選ばれた理由の第一命題が示される。

♡「あなたは眞面目だから。あなたは眞面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云つたから」「たゞ貴方丈に」「私の過去を物語りたい」のは、

Ⅰ 「私」が全日本人の中で先生にとって唯一「眞面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと」いう思いを持った存在である。

から、である。もうお分かりの通り、この第一命題は直ちに真として認識され、そして「私」=読者である「あなた」への真の命題として示されるのである。お分かりか? 真摯な「私」である真摯な『唯一の先生の人生の総体・その実在・その精神から生き生きとした教訓を得たい! 絶対に得る! と既に言明している』「あなた」が、先生に、選ばれて在るのである。ここをぼんやり過ぎてしまい、この意味を十全に『覚悟』出来ずに先生の遺書を読んでも、君には、先生は、何にも! 語ってはくれないであろう――

♡「暗いものを凝と見詰めて、その中から貴方の參考になるものを御攫みなさい」と先生が言う時、よろしいか?! 既にしてこの手記を記している今の「私」(それは本作を読み終えた時の読者である「あなた」自身だ!)は、遺書の中から、その先生の言う「暗いものを凝と見詰め」得、「その中から」自分の「人生そのもの」の想像を絶する「參考になるものを」「攫」んでいる、捕(つら)まえている、のである! でなくて、どうして本作が在る価値があろうか?!

♡「倫理的に暗い」「私は倫理的に生れた男」「倫理的に育てられた男」「其倫理上の考は、今の若い人と大分違つた所があるかも知れません」この連続する「倫理」は字画の上からも強烈に読者の目を射る。極めて強烈である。さすれば我々はこの倫理を解析することは先生を理解する上で不可欠である。倫理という概念は大きく言って二つの柱から成り立つであろう。一つは善悪の判断という倫理的(道徳的)判断とその規準であり、それを受けた倫理的(道徳的)罰としての罪障感及びその倫理を宗教的法的な規準とする社会の道徳的批判と実行行為としての処罰である(私の謂いは飽くまで一般論を述べている。江藤淳がこれらの言葉を美事にうまく用いて「こゝろ」論を書いているからといって、それに組みするものではないことをお断りしておく)。そのような二階層の倫理の中で先生を正確に規定しなくてはならないわけだが、それが一筋繩ではいかないのが、私達自身の倫理の基底概念と先生の立脚点が大きく異なるからである。それを先生は「其倫理上の考は、今の若い人と大分違つた所があるかも知れません」という言葉で危ぶんでいるもいるわけだが、そこで一部の評論家のように、従って結果、「私」は先生の倫理的意味を理解出来ないなんどという、本書を読むことを無化してしまう解釈(『分からないことが分かるのだ』というような詭弁には私は全く組することが出来ない)を生み出すことにもなるのであるが、「私」にはその「今の若い人と大分違つた」「其倫理上の考」えが必ず分かる、のである。先生も、そして漱石も100%分かるものとして、遺書を書き、「心」を書いている。でなくて、先生が「私」(「あなた」自身!)を選ぼう?! 漱石があの広告文で『自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を獎む。』というとんでもない大上段の文句を書くだろう?! そして気づくべし! 「然し何う間違つても、私自身のものです」という自己同一性の鮮やかにして高らかな表明を! ここには先生の少年のような透明な瞳が見える。そしてそれは、その魂を共有出来た「私」や私やあなたと同じ眼の色をしているのだ!――

♡「損料着」貸衣装。

♡「貴方は現代の思想問題に就いて、よく私に議論を向けた」この言葉は、我々が「こゝろ」の「上 先生と私」の書かれなかった様々なシチュエーションを想起させてくれる、私にとってとても嬉しい一節である。即ち、そのようなシーンは一つも描かれていないけれど、「私」が先生に対してアップ・トゥ・デデイトな「現代の思想問題」について、頻繁に「議論を向けた」事実を物語っているからである。そこで語られた「現代の思想問題」とは如何なるものであったのか……そうして、そこでどんな風に「私」は私見を述べたのだろう?……それを聞く先生はどんな風に笑って、どんな一言を発したのだろう?……私は長く「こゝろ」を読んできたが(授業のためにも私は少なくとも有に20回以上は読み返している)……詰らないことですが、私はよくそれを思ふのです。……ところが、その議論の内容について、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」に誠に嬉しいコンパクトに纏められた注が附してあるのである。藤井氏の引用したものの孫引きで少々お恥ずかしいのであるが、如何にも分かり易いので以下に藤井氏の総括も含めて一部引用する。まずは権田保之助「貞操問題の文化的基礎」(『心理研究』大正4(1915)年12月~大正5(1916)年1月連載)を引用して(改行マークを実際の改行に変えた)、

   《引用開始》

「日露戦争の日本は精神界にはた物質界にまことに多事多難の時代でありました。其の前までは或は本能満足主義といひ或は自然主義と云ひまして、なほ理論家の空論にすぎませんでした個人主義思想は日露戦争後の社会経済状態の変化と共に今や空論家理想論者の手を離れて実際家実行家の手に移つたのであります。或は刹那主義と称し或はプラグマチズムと申しまして名は様々に異りは致しますが、詮じ詰めれば其等は最早空理空論としての個人主義ではなくして、実際としての個人主義の異名にすぎなかつたのであります。

 理想より現実に、空論より実行に移り行きました個人主義は二三文芸家や少数思想家の玩具たる地位を去つて、多数国民の生活に於ける生命に続く第二の要素となつたのであります」。要するに個人主義精神の浸透・定着を指摘しているわけだが、これをもう少し具体的に思想家名をあげながら、科学万能の唯物的傾向の時代から世紀末を経て唯心的傾向への転換をたどっているのが、野上白川述の「近代思想講話」(『新文学百科精講 前編』新潮社、大3。このあと『近代文芸十二講』(新潮社、大10)を始めとしていろんなところに再利用されることになる概括の定番)だ。一三〇頁にも及ぶ大部のものなので、目次を手がかりとして簡単に紹介してみると、ルソー=浪漫主義による権威の破壊に続いて、破壊のあとの懐疑厭世(=「世紀の痼疾」)を代表して登場してきたのがショーペンハウエルらであったとされる。十九世紀の半ばになると自然科学の勃興とともに科学的精神が台頭し、ダーウィンに代表されるごとく一八七〇年頃までは科学万能の時代が続く。そしてこの科学的精神と先の懐疑思想の流れとが個人主義的思想を育んだとされ、代表的思想家としてはニイチェ、キルケゴール、イプセンらがあげられている。いっぽう科学的精神にもとづいてこの個人主義をもおびやかしたのが機械的人生観=マルクスらの唯物史観だった。哲学上・文学上の自然主義もこの物質万能の精神に基礎をおくものだったが、やがて世紀末=デカダンの風潮が兆すのと並行して、物質万能への懐疑が生まれてくる。そうしてそれらの動きを経た現代の思想動向は、非物質的傾向=唯心論の台頭と捉えられる。その流れを代表する思想家としては、プラグマティズムのウィリアム・ジェームズ、人格哲学のオイケン、直覚主義のベルグソンらがあげられている。すなわち浪漫主義(唯心的傾向)→自然主義(唯物的傾向)→新浪漫主義(新唯心的傾向)という流れがたどれるわけであり、「肉の自覚」(自然主義)から「霊の自覚」へ、というのが大正三年時点での現代思想の到達点であった。

   《引用終了》

正に百花繚乱、唯心主義と唯物主義のみならず、哲学と宗教と科学と技術が四つに組んず解れつの異種格闘技戦をしていたのである。その組み方は、例えばキューリー夫妻によるラジウムの発見(1898年)は目に見えない放射線が神秘のパワーとしてお目出度く認識され、東京帝国大学助教授福来友吉の千里眼事件(明治431910)年)、日本に於ける最大規模の大正の心霊ブームといった一筋繩では行かない世界へと発展してゆくことにも注意する必要があるように思われる。……実は私は「こゝろ佚文」の前に、昔、先生と「私」をホームズとワトソンに擬えて、鎌倉の矢倉の中で起こった猟奇的殺人事件を解決させるという推理小説を構想したことがあるのだ。……光明寺裏の別荘でウロボロスの輪を先生に説明させたり、鎌倉の矢倉の起源や矢倉の分布の特性・鎌倉石の特徴を利用した殺人トリック……そこには何とかの南方熊楠をも登場させる予定だったなあ……きっと楽しいエピソードになったであろう……でももう、僕はもうそんな小説を書く気力はない……というより私にはもともと、その才能はなかったんだ……そんなことは、実は私は十歳になる前、とうの昔に自覚していたことなんだ……どなたかに、こうした設定や腹案は差し上げよう……どうです? あなた、書いてみませんか? 『書かれなかった』先生と「私」の蜜月の一齣を?

♡「あなたは物足なさうな顏をちよい/\私に見せた。其極あなたは私の過去を繪卷物のやうに、あなたの前に展開して呉れと逼つた。私は其時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まへやうといふ決心を見せたからです。私の心臟を立割つて、温かく流れる血潮を啜らうとしたからです」全「日本人」の中で「私」が選ばれた理由の第二命題が示される部分である。

○「私」が先生に先生の過去を完全に開示するように要請したことが、先生に初めて「私」への尊敬の念を惹起させた。

○その尊敬の念が生じたのは、「私」が遠慮なく、先生が心に秘密にしている部分から、生々しいある真実を摑み出して、自己の人生の糧にしようという覚悟の決心を見せたからである。

Ⅱ 「私」が先生の心臓を断ち割って、そこから吹き出す熱い血潮を啜ることで、その中に含まれる先生の魂のDNAを(核情報を)「私」が「私」の遺伝子の中に取り入れよう(盗核しよう)とした。

から、である。これは第一命題の言い換えでないことに注意せねばならぬ。それは先生の「核」心に迫るための発展命題である。

♡「私は今自分で自分の心臟を破つて、其血をあなたの顏に浴せかけやうとしてゐるのです。私の鼓動が停つた時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出來るなら滿足です。」私がいつもここを朗読すると生徒に言うことを書いて終わりとしよう。これは先生の自死が無駄なものでない、意味ある行為である――即ち単純な罪障感による処罰なんどでない、ことを意味する。先生の自律的な自死によって吹き出す血潮は、「私」の顔に意識的に先生によって吹き掛けられ、そして先生の心臓停止と同時に、「私」の中にはヒラニア・ガルバ(黄金の胎児・宇宙卵・始まりである混沌)としての『新しい命』が宿る――断定する――「宿る」のである。本作を読む「あなた」の中には必ずその『新しい命』が宿る! でなければ、本作を読む価値は、全く、ない。――]

 

 

  先生の遺書

    (五十七)

 「私が兩親を亡くしたのは、まだ私の廿歳(はたち)にならない時分でした。何時か妻(さい)があなたに話してゐたやうにも記憶してゐますが、二人は同じ病氣で死んだのです。しかも妻が貴方に不審を起させた通り、殆ど同時といつて可(い)い位に、前後して死んだのです。實をいふと、父の病氣は恐るべき膓窒扶斯(ちやうチブス)でした。それが傍(そば)にゐて看護をした母に傳染したのです。

 私は二人の間に出來たたつた一人の男の子でした。宅(うち)には相當の財産があつたので、寧ろ鷹揚(おうやう)に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時兩親が死なずにゐて呉れたなら、少なくとも父か母か何方(どつち)か、片方で好(い)いから生きてゐて呉れたなら、私はあの鷹揚な氣分を今迄持ち續ける事が出來たらうにと思ひます。

 私は二人の後に茫然として取り殘されました。私には知識もなく、經驗もなく、また分別もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍に居る事が出來ませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さへまだ知らせてなかつたのです。母はそれを覺つてゐたか、又は傍のものゝ云ふ如く、實際父は回復期に向ひつつあるものと信じてゐたか、それは分りません。母はたゞ伯父に萬事を賴んでゐました。其所に居合せた私を指さすやうにして、「此子をどうぞ何分」と云ひました。私は其前から兩親の許可を得て、東京へ出る筈になつてゐましたので、母はそれも序(ついで)に云ふ積らしかつたのです。それで「東京へ」とだけ付け加へましたら、伯父がすぐ後を引き取つて、「よろしい決して心配しないがいい」と答へました。母は強い熱に堪へ得る體質の女なんでしたらうか、伯父は「確(しつ)かりしたものだ」と云つて、私に向つて母の事を褒めてゐました。然しこれが果して母の遺言であつたのか何うだか、今考へると分らないのです。母は無論父の罹つた病氣の恐るべき名前を知つてゐたのです。さうして、自分がそれに傳染してゐた事も承知してゐたのです。けれども自分は屹度(きつと)此病氣で命を取られると迄信じてゐたかどうか、其處になると疑ふ餘地はまだ幾何でもあるだらうと思はれるのです。其上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通つた明かなものにせよ、一向記憶となつて母の頭に影さへ殘してゐない事がしば/\あつたのです。だから‥‥然しそんな事は問題ではありません。たゞ斯ういふ風に物を解きほどいて見たり、又ぐる/\廻して眺めたりする癖は、もう其時分から、私にはちやんと備はつてゐたのです。それは貴方にも始めから御斷りして置かなければならないと思ひますが、其實例としては當面の問題に大した關係のない斯んな記述が、却(かへつ)て役に立ちはしないかと考へます。貴方の方でもまあその積で讀んで下さい。此性分が倫理的に個人の行爲や動作の上に及んで、私は後來(こうらい)益(ます/\)他(ひと)の德義心を疑ふやうになつたのだらうと思ふのです。それが私の煩悶や苦惱に向つて、積極的に大きな力を添へてゐるのは慥(たしか)ですから覺えてゐて下さい。

 話が本筋をはづれると、分り惡くなりますからまたあとへ引き返しませう。是でも私は此長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他の人と比べたら、或は多少落ち付いてゐやしないかと思つてゐるのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響きももう途絶えました。雨戸の外にはいつの間にか憐れな虫の聲が、露の秋をまた忍びやかに思ひ出させるやうな調子で微(かす)かに鳴いてゐます。何も知らない妻は次の室(へや)で無邪氣にすや/\寢入つてゐます。私が筆を執ると、一字一畫(くわく)が出來上りつゝペンの先で鳴つてゐます。私は寧ろ落付いた氣分で紙に向つてゐるのです。不馴(ふなれ)のためにペンが橫へ外(そ)れるかも知れませんが、頭が惱亂して筆がしどろに走るのではないやうに思ひます。

[♡やぶちゃんの摑み:先生の生年が語られていない。一気に17歳から先生は書き出したのか? 拘りのある先生の書き方としては唐突な気がする。この頭に実は簡単な新潟の出身地に関わる叙述と生年及び生家の梗概等が簡単にでも語られるのが私は『普通』であると思う。そして先生が、それを省いてここから書いた、とは思われない。先生の死に動転している「私」や読者には、そうした編年的年譜的事実の省略は不自然さを感じさせない。だから、今まで気づかなかったのだ。しかし、こうして指摘するとあたかも源氏が11歳から17歳の青年になるまでが描かれないのと同じく、妙に不満なのである。私は少なくともおかしいと思うのである。私が先生で遺書を書くとしたら、こんなは処理方法は絶対しない。数行でいいのだ。必ず生年と家柄を述べるであろう。生家への言及は実際、(五十九)で「私の家は舊い歴史を有つてゐる」と現われる。決して先生は財産が相応にある自家の家系について決して無関心ではなかったはずだ。その財産のルーツについて語るべき義務もあると思われるし、先生は『語ったはずである』。――だとすれば、やはり、その部分は「私」によって省略されたものと私には思われるのである。次回「私は東京へ來て高等學校へ這入」ったという叙述が出現する。これが、先生の出生年の根拠になる。高等学校が明治の学制の中に置かれるのは明治27(1894)年6月の高等学校令公布によってである。従って、先生の出生は明治8(1875)年が限界値で、それ以前には遡ることは出来ない。尋常中学校での留年等を想定すれば可能だが、先生とKは同級生で大学も同時に入学している。Kも先生も相当に優秀であったと考えてよいし、先生は至って健康体であることもよく語られる。従って留年の可能性は消去される。初めて新制の3年制である高等學校の1回生や2回生であったならば、その特異性(初めての学制や先輩が一つ上しかいない)から必ずや、それが語られるはずであろう。それを語らないのは、彼が入学した時、既に上級生が揃ってことを示すと私は考える。そこで私は、先生の青年を、

明治10(1877)年前後

新潟に生まれる

とするものである。

更にこの章以降、実は第(六十九)回に至るまで、看過出来ない誤りが、ずっと続くことを言っておかなくてはならない。先生を騙した(とする)「伯父」なる人物である。次の(五十六)にはっきりと「父の實の弟」と語られている訳で、これらは総て「叔父」の誤植である。それが正されるのは、郷里を捨てたエピソードも終わり、下宿の奥さんへの猜疑心が起こるところ、「叔父に欺された私は」という第(七十)回の、最後の一文である。同時に「叔母」であるべき部分も総て「伯母」となっているので要注意。それにしても、ここまで徹底してしまうと、読者は、嘗て私が指摘したように、俄然「私」と兄が、父亡き後の実家の管理を「叔父」ではなく「伯父」だったからこそ、彼にに頼もうと考えていることと重ね合わせ易かったものとは思われるのである。

♡「膓窒扶斯」腸チフスは真正細菌プロテオバクテリア門ガンマプロテオバクテリア綱エンテロバクター目腸内細菌科サルモネラ属の一種チフス菌Salmonella enterica var enterica serovar Typhiによって引き起こされる感染症。以下、ウィキの「腸チフス」より引用する(学名フォントの一部を変更した)。『感染源は汚染された飲み水や食物などである。潜伏期間は7~14日間ほど。衛生環境の悪い地域や発展途上国で発生して流行を起こす伝染病であり、発展途上国を中心にアフリカ、東アジア、東南アジア、中南米、東欧、西欧などで世界各地で発生が見られる。日本では感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律で三類感染症に指定されており、感染症病院での治療が義務付けられている。また、以前は症状が似ているため発疹チフスや腸結核と同一の病気と考えられてきていた。だが、病原菌が全く違ったため別の病気だとわかった。一方、腸チフスと類似した疾患であるパラチフスは、チフス菌と同じサルモネラの一種であるパラチフスA菌ならびにパラチフスB S. enterica serovar Parathyphi Aserovar Paratyphi B )による』。『日本において「チフス」と呼ばれる疾患には、この腸チフスの他、パラチフス、発疹チフスの3種類が存在する。このうち腸チフスとパラチフスはともにサルモネラに属する菌株による疾患であるが、発疹チフスはリケッチアの一種である発疹チフスリケッチア Rickettsia prowazekii)による疾患である。これらの疾患は、以前、同一のものであると考えられ、いずれもチフスと呼ばれていた』。『チフスという名称はもともと、発疹チフスのときに見られる高熱による昏睡状態のことを、ヒポクラテスが「ぼんやりした、煙がかかった」を意味するギリシア語 typhus と書き表したことに由来する。以後、発疹チフスと症状がよく似た腸チフスも同じ疾患として扱われていたが、1836年に W. W. Gerhard が両者の識別を行い、別の疾患として扱われるようになった。それぞれの名称は、発疹チフスが英語名 typhus、ドイツ語名 Fleck typhus、腸チフスが英語名 typhoid fever、ドイツ語名 Typhus となっており、各国語それぞれで混同が起こりやすい状況になっている。日本では医学分野でドイツ語が採用されていた背景から、これに準じた名称として「発疹チフス」「腸チフス」と呼び、一般に「チフス」とだけ言った場合には、これにパラチフスを加えた3種類を指すか、あるいは腸チフスとパラチフスの2種類のことを指して発疹チフスだけを別に扱うことが多い。ただし、英語に準じて腸チフスを「チフス熱」という呼ぶこともまれにある』以下、「感染経路」について。『無症状病原体保有者や腸チフス発症者の大便や尿に汚染された食物、水などを通して感染する。これらは手洗いの不十分な状態での食事や、糞便にたかったハエが人の食べ物で摂食活動を行ったときに、病原体が食物に付着して摂取されることが原因である。ほかにも接触感染や性行為、下着で感染する。胆嚢保菌者の人から感染する場合が多い。ネズミの糞から感染することもある。上下水道が整備されていない発展途上国での流行が多く、衛生環境の整った先進諸国からの海外渡航者が感染し、自国に持ち帰るケース(輸入感染症)も多く見られる』。以下、「発症病理」について。『腸チフスは、サルモネラの一菌型(血清型)であるチフス菌の感染によって起こる。食物とともに摂取されたチフス菌は腸管から腸管膜リンパ節に侵入してマクロファージの細胞内に感染する。このマクロファージがリンパ管から血液に入ることで、チフス菌は全身に移行し、菌血症を起こす。その後、チフス菌は腸管に戻り、そこで腸炎様の症状を起こすとともに、糞便中に排泄される』。以下、「症状」について。『腸チフスの症状の推移。グラフは体温の変化感染後、714日すると症状が徐々に出始める。腹痛や発熱、関節痛、頭痛、食欲不振、咽頭炎、空咳、鼻血を起こす。34日経つと症状が重くなり、40度前後の高熱を出し、下痢(水様便)、血便または便秘を起こす。バラ疹と呼ばれる腹部や胸部にピンク色の斑点が現れる症状を示す。腸チフスの発熱は「稽留熱(けいりゅうねつ)と呼ばれ、高熱が1週間から2週間も持続するのが特徴で、そのため体力の消耗を起こし、無気力表情になる(チフス顔貌)。また熱性せん妄などの意識障害を起こしやすい。2週間ほど経つと、腸内出血から始まって腸穿孔を起こし、肺炎、胆嚢炎、肝機能障害を伴うこともある』。『パラチフスもこれとほぼ同様の症状を呈するが、一般に腸チフスと比べて軽症である。』以下、現在の予防及び治療について。『弱毒生ワクチン(4回経口接種)と注射ワクチン(1回接種)が存在するが、日本では未承認。そのため日本国内でワクチン接種する際は、ワクチン個人輸入を取り扱う医療機関に申し込む必要がある。経口生ワクチンを取り扱っている医療機関は非常に少なく、輸入ワクチンを取り扱っている医療機関の多くは不活化である注射型のものを採用している。有効期間は経口ワクチンが5年、不活化Viワクチンが2~3年間程と言われている。そのほかは手洗いや食物の加熱によって予防できる。治療はニューキノロン系抗菌剤が多く用いられている。耐性菌を押さえるためにはシプロフロキサシンやトリメトプリムスルファメトキサゾール(ST合剤)を使用する。近年、バングラデッシュを中心に、治療耐性腸チフスが発生しているため、ワクチン接種が重要と思われる。ワクチンの効力が出るのは接種完了後2週間ほどしてからなので、現地での接種は賢明ではなく、国内で接種を完了することが薦められる。なお、経口生ワクチンを選択した場合、経口のコレラワクチン(新型コレラワクチン)の同日接種は6時間間隔をあけてからの服用が望ましいので注意が必要である』。なお、『治療後も1年間ほどチフス菌を排出する』とある。

♡「鷹揚」鷹が空を悠然と飛ぶようなさまから、人柄が、小さなことにこだわらずゆったりとしているさま、人品がおっとりとして上品なさまを言う。この評は後の(六十六)で下宿の奥さんの先生への評言としても再生される重要な先生の人格を表象する語である。

♡「だから‥‥然しそんな事は問題ではありません」このリーダの復元が必須である。まず、整理してみよう。まず関連事実を「○」で、リーダに関わると思われる先生の感懐を「●」で纏めて見る。

○先生は父母の死の後、茫然と知識も經驗も分別もない状態で取り残された。

○母は父の死に目に立ち会っていない。それどころか母は自分が死ぬ際に父の事実を伝えていなかった。

●しかし、死の床にあって母が暗に父の死を悟っていたか、回復期に向いつつあるものと信じていたかは、分からない。傍で看病した者が言うことにはそう信じていたというが、それが真実である言い得るかどうかは、甚だ疑問である。

○母は万事、伯父(実際には叔父)を信頼していた。

○殆んど死の床にあった母は私を指さすようにして、「この子をどうぞ何分」「東京へ」と言ったが、それは、私が既に以前から両親の許可を得て、東京の高等学校へ進学する手筈になっていたことを主に指す内容であったと判断してよい。その言葉だけで、伯父(叔父)は母の懇請を理解したかのように、「よろしい決して心配しないがいい」と答えた。

●母はチフスの引き起こす高い熱に堪え得る――論理的な思考を鈍らせずにはっきりと遺言として認識して口頭で示すことの出来る――体質の女性であったかどうかは、分からない。

○ところが、伯父(叔父)は「確かりしたものだ」と私に母の事を褒めた。

●「然しこれが果して母の遺言であつたのか何うだか、今考へると分らない」、甚だ疑問である。

○母は勿論、父の罹患した病気が腸チフスであること、それが看病している自分に伝染し、重い腸チフスの場合、接触感染した患者も同様の重症に陥るという事実も知っていた。

●「けれども」母が「自分は屹度此病氣で命を取られると迄信じてゐたかどうか、其處になると疑ふ餘地はまだ幾何でもあるだらうと思はれる」。

●「其上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通つた明かなものにせよ、一向記憶となつて母の頭に影さへ殘してゐない事がしば/\あつた」程である。

以上の「●」を辿ってゆけば、「だから‥‥」のリーダの復元は容易である。即ち、

「だから、『母が法的な意味に於いて、この伯父(叔父)を以って民法で言うところの私の後見監督人としての指定をした』という言明及びそう主張して後見監督者となった伯父(叔父)の見解とその後の後見監督権の行使には甚だ以って疑義がある。」

ということである。けれども、『それは今、この遺書を書く「今の私」にとっては』」「然しそんな事は問題ではありません」と言うのである。これは先生が思ったより――論理的に物事を冷静にちゃんと見ている、お目出度いとっちゃん坊やなんかではない――という厳然たる事実を示すものである。先生のいう私は「鷹揚」な性格だという言葉に、読者は欺されてはならないのである。それにまた気づくようにと、漱石はこうした巧妙な仕掛けを配しているのだとも言えるのである。

♡「たゞ斯ういふ風に物を解きほどいて見たり、又ぐる/\廻して眺めたりする癖は、もう其時分から、私にはちやんと備はつてゐたのです。それは貴方にも始めから御斷りして置かなければならないと思ひますが、其實例としては當面の問題に大した關係のない斯んな記述が、却て役に立ちはしないかと考へます。貴方の方でもまあその積で讀んで下さい。此性分が倫理的に個人の行爲や動作の上に及んで、私は後來益他の德義心を疑ふやうになつたのだらうと思ふのです。それが私の煩悶や苦惱に向つて、積極的に大きな力を添へてゐるのは慥ですから覺えてゐて下さい」これは意味深長な初期注記である。ここで漱石は、遺書の書き手である先生に、自分と同じような神経質な傾向、病的な関係妄想様の思い込みや強迫傾向があることを事前に注記しているのである(実際にそれは随所に現れることになる)。そうして、そのような認識(病識に近い謂いで私は用いている)の元に先生は遺書を書いている、従って、そのようなものとして遺書を読み解くように心掛けねばならぬ、という警告まで発しているというべきである。我々は先生の遺書を鵜呑みにしてはならないのである。――そしてもう一つの大事な点――「ぐる/\廻して眺めたりする癖」である。先生の心の動きが既にして円運動であることが示される。ここに最も分かり易い「心」の謎の円運動の解答の選択肢が示された。しかし、如何にもな分かり易い選択肢が必ずしも正解でないことは最早、高校生諸君の方が自明であろう。というよりも、これは「心」の中の謎の円運動の一つの写像に過ぎないのではないかということである。

♡「是でも私は此長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた他の人と比べたら、或は多少落ち付いてゐやしないかと思つてゐるのです」授業でよく質問をしたもんだ。こんな当たり前のことにさえ、ろくに達意で答えられない高校生がいる。「私と同じ地位に置かれた他の人」とは、どんな人ですか? 勿論、自死を決意して遺書を書く「他の人」ですね。

♡「世の中が眠ると聞こえだすあの電車の響きももう途絶えました。雨戸の外にはいつの間にか憐れな虫の聲が、露の秋をまた忍びやかに思ひ出させるやうな調子で微かに鳴いてゐます。何も知らない妻は次の室で無邪氣にすや/\寢入つてゐます。私が筆を執ると、一字一畫が出來上りつゝペンの先で鳴つてゐます。私は寧ろ落付いた氣分で紙に向つてゐるのです。不馴のためにペンが橫へ外れるかも知れませんが、頭が惱亂して筆がしどろに走るのではないやうに思ひます」遺書の中で特異的に遺書を執筆している先生の姿が髣髴と描かれる印象的なシーンである(他にこのようなシーンは妻を伯母の家に看病に行かせ、時々帰ってくる妻、その際にこの遺書を隠したというやや説明的な最終章以外にはない)。如何にもロマン的だ。そこには先生のペンの音と共に、遠い電車――汽車ではない。あのレールの音だ――そして、隣室の靜の静かな寝息の音(ね)さえ聴こえてくるではないか。私には靜を愛する先生の優しさが、ここに感じられる。『先生だけの靜』の寝息である。]

 

 

  先生の遺書

    (五十八)

 「兎に角たつた一人取り殘された私は、母の云ひ付け通り、此伯父を賴るより外に途はなかつたのです。伯父は又一切を引き受けて凡ての世話をして呉れました。さうして私を私の希望する東京へ出られるやうに取り計つて呉れました。

 私は東京へ來て高等學校へ這入りました。其時の高等學校の生徒は今よりも餘程殺伐で粗野でした。私の知つたものに、夜中(よる)職人と喧嘩をして、相手の頭へ下駄で傷を負はせたのがありました。それが酒を飲んだ揚句の事なので、夢中に擲(なぐ)り合(あひ)をしてゐる間に、學校の制帽をとう/\向ふのものに取られてしまつたのです。所が其帽子の裏には當人の名前がちやんと、菱形の白いきれの上に書いてあつたのです。それで事が面倒になつて、其男はもう少しで警察から學校へ照會される所でした。然し友達が色々と骨を折つて、ついに表沙汰(おもてさた)にせずに濟むやうにして遣りました。斯んな亂暴な行爲を、上品な今の空氣のなかに育つたあなた方に聞かせたら、定めて馬鹿馬鹿しい感じを起すでせう。私も實際馬鹿々々しく思ひます。然し彼等は今の學生にない一種質朴な點をその代りに有つてゐたのです。其頃私の月々伯父から貰つてゐた金は、あなたが今、御父さんから送つてもらふ學資に比べると遙に少ないものでした。(無論物價も違ひませうが)。それでゐて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず數ある同級生のうちで、經濟の點にかけては、決して人を羨ましがる憐れな境遇にゐた譯ではないのです。今から回顧すると、寧ろ人に羨ましがられる方だつたのでせう。と云ふのは、私は月々極つた送金の外に、書籍費、(私は其時分から書物を買ふ事が好(すき)でした)、及び臨時の費用を、よく伯父から請求して、ずん/\それを自分の思ふ樣に消費する事が出來たのですから。

 何も知らない私は、伯父を信じてゐた許りでなく、常に感謝の心をもつて、伯父をありがたいものゝやうに尊敬してゐました。伯父は事業家でした。縣會議員にもなりました。其關係からでもありませう、政黨にも緣故があつたやうに記憶してゐます。父の實の弟ですけれども、さういふ點で、性格からいふと父とは丸で違つた方へ向いて發達した樣にも見えます。父は先祖から讓られた遺産を大事に守つて行く篤實一方の男でした。樂みには、茶だの花だのを遣りました。それから詩集などを讀む事も好きでした。書畫骨董といつた風のものにも、多くの趣味を有つてゐる樣子でした。家は田舍にありましたけれども、二里ばかり隔つた市(し)、―其市には伯父が住んでゐたのです、―其市から時々道具屋が懸物だの、香爐だのを持つて、わざ/\父に見せに來ました。父は一口にいふと、まあマンオフミーンズとでも評したら好(い)いのでせう、比較的上品な嗜好を有つた田舍紳士だつたのです。だから氣性からいふと、濶達な伯父とは餘程の懸隔がありました。それでゐて二人は又妙に仲が好(よ)かつたのです。父はよく伯父を評して、自分よりも遙に働きのある賴もしい人のやうに云つてゐました。自分のやうに、親から財産を讓られたものは、何うしても固有の材幹(ざいかん)が鈍る、つまり世の中と鬪(たしめ)ふ必要がないから不可(いけな)いのだとも云つてゐました。此言葉は母も聞きました。私も聞きました。父は寧ろ私の心得になる積で、それを云つたらしく思はれます。「御前もよく覺えてゐるが好(い)い」と父は其時わざ/\私の顏を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにゐます。此位(くらゐ)私の父から信用されたり、褒められたりしてゐた伯父を、私が何うして疑がふ事が出來るでせう。私にはたゞでさへ誇(ほこり)になるべき伯父でした。父や母が亡くなつて、萬事其人の世話にならなければならない私には、もう單なる誇りではなかつたのです。私の存在に必要な人間になつてゐたのです。

やぶちゃんの摑み:

「高等學校」固有名詞としての本郷区向ヶ岡弥生町(現在の文京区弥生一丁目の東大農学部付近)にあった「第一高等學校」を指す。東京帝國大學(明治101877)年4月12日に東京開成学校と東京医学校が合併して「東京大學」が創立され、明治191886)年3月の帝国大学令により「帝國大學」と改称、明治301897)年年6月の京都帝国大学の設置に伴って「東京帝國大學」と改称後、昭和221947)年9月に再び「東京大學」に戻された)に入学するための予備門に相当する。先生の頃は、一部を除いて成績が劣悪でない限りは無試験で第一高等學校から東京帝國大學に入学することも可能であった。「私」も同じ学制であるから(但し、彼の頃は第一高等學校成績優秀者のみが無試験であったものと思われる)、ここで確認しておくと、現在の小学校と同様の就学年齢(数え7歳以下同様)により義務教育尋常小学校6年制の後、中等学校に13歳で入学(5年制)を経、18~19歳で高等学校(3年制)入学、順調に進学したなら、大学(この頃は3年制。4年は医学部のみ)入学は21~22歳。卒業時で24~25歳(満で23~24歳)となる。実際には明治後期の東京帝國大學卒業生の平均年齢は27歳前後であったらしい(漱石も数えで27歳卒業)。

「二里ばかり隔つた市」先生の実家と叔父の家のある市の距離であるが、約7.8㎞は相応に離れている。未だ人力車の時代であることに注意。なお、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は次章のこの懸隔に注して二里=約4㎞とされているが、何かの勘違いであろう。そんなに近いものを(私は4㎞は近いと思う)田舎住まいの叔父が「二里も隔つた私の家」と、係助詞の「も」は使わない。

「詩集」新体詩なんどを想起してはいけない。漢詩集である。

「マンオフミーンズ」“a man of means”で、“means”は常に複数形で資産・財産の意味となるから、ここは資産家・素封家・財産家の謂い。既に(二十七)の郊外の植木屋のシーンで、「私」の家の財産の話に先生が問いかけ、それに対して「私」が、

「先生は何うなんです。何の位の財産を有つてゐらつしやるんですか」

と尋ねたシーンで先生の口から直接「財産家」の語が語られている。そこで先生は「私」に、

「私は財産家と見えますか」

と訊ね、「私」が、

「左右でせう」

と答えると、

「そりや其位の金はあるさ。けれども決して財産家ぢやありせん。財産家ならもつと大きな家でも造るさ」

と小金持ちであることは認め、しかし今は「財産家」ではないと言う。この直後、先生は例の謎の円をステッキで描き、それを(恐らく真ん中に)突き立てて、

「是でも元は財産家なんだがなあ」

と半ば独り言のように言った上、更に科白として再度、

「是でも元は財産家なんですよ、君」

と、わざわざ確認するように言い直してから「私の顏を見て微笑」するのである。この「財産家」というこ、の二人の会話から最も遠く感じられる単語の連発シーンをこうしてここに並べてみると、ある点に気付く。先生は自身を元財産家であると明言しているのである。これは叔父に卑劣にも奪われたが私は元財産家だった、という『だけ』の即物的な意味であろうか? 普通は、そう、とるであろう。しかし、ここに私は実の父と自分を重ね合わせている先生を見るのである。先生の実父はここ以外では具体的に描かれないが、少なくとも「私」が父に感じているような、決定的懸隔を感じているようには思われない。寧ろ、上品な趣味人、田舎紳士として「先祖から讓られた遺産を大事に守つて行く篤實一方の」父像に先生はとても共感しているのだと言ってよい。そして、続く『「御前もよく覺えてゐるが好い」と父は其時わざ/\私の顏を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにゐます』という部分を見るまでもなく、その父を見つめる少年の先生の眼差しは素直な尊敬と愛に満ちている。植木屋でのシーンでも先生は、実は無意識にこの父と自分を殆んどぴったりダブらせているように思われ、そこでの物謂いも、ここからフィード・バックすると、そのような先生の中にある無意識的な内実(潜在的古典的「家」意識)を伝えるているように思われるのである。また、こうした溝のない父子関係は、本作中では希有であり、それが先生の考える理想的な男=強権を発動しない誠実な父権者として先生に実は深く意識されていた――先生の中の至福の父存在であった――と考えてよいのではなかろうか。

「濶達」闊達、豁達とも書く。心が大きく、小さな物事に拘らない性格で、度量の大きい人物を評する語。

「材幹」才幹。物事を成し遂げるための知恵や能力。手腕。

「鬪(たしめ)ふ」「鬪(たゝか)ふ」又は「鬪(たたか)ふ」のルビ誤植。]

 

 

  先生の遺書

    (五十九)

 「私が夏休みを利用して始めて國へ歸つた時、兩親の死に斷(た)えた私の住居には、新らしい主人として、伯父夫婦が入れ代つて住んでゐました。是は私が東京へ出る前からの約束でした。たつた一人取り殘された私が家にゐない以上、左右でもするより外に仕方がなかつたのです。

 伯父は其頃市(し)にある色々な會社に關係してゐたやうです。業務の都合から云へば、今迄の居宅に寢起する方が、二里も隔つた私の家に移るより遙かに便利だと云つて笑ひました。是は私の父母が亡くなつた後(あと)、何(ど)う邸(やしき)を始末して、私が東京へ出るかといふ相談の時、伯父の口を洩れた言葉であります。私の家は舊い歴史を有つてゐるので、少しは其界隈で人に知られてゐました。あなたの郷里でも同じ事だらうと思ひますが、田舍では由緒のある家を、相續人があるのに壞したり賣つたりするのは大事件です。今の私ならその位の事は何とも思ひませんが、其頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、家は其儘にして置かなければならず、甚だ處置に苦しんだのです。

 伯父は仕方なしに私の空家へ這入る事を承諾して呉れました。然し市の方にある住居も其儘にして置いて、兩方の間を往つたり來たりする便宜を與へて貰はなければ困るといひました。私に固より異議のありやう筈がありません。私は何んな條件でも東京へ出られゝば好(い)い位(くらゐ)に考へてゐたのです。

 子供らしい私は、故郷を離れても、まだ心の眼(め)で、懷かしげに故郷(ふるさと)の家を望んでゐました。固より其處にはまだ自分の歸るべき家があるといふ旅人の心で望んでゐたのです。休みが來れば歸らなくてはならないといふ氣分は、いくら東京を戀しがつて出て來た私にも、力強くあつたのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後(あと)、休みには歸れると思ふその故郷の家をよく夢に見ました。

 私の留守の間、伯父は何んな風に兩方の間を往來してゐたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな一つ家の内に集まつてゐました。學校へ出る子供などは平生恐らく市の方にゐたのでせうが、是も休暇のために田舍へ遊び半分といつた格(かく)で引き取られてゐました。

 みんな私の顏を見て喜こびました。私は又父や母の居た時より、却つて賑やかで陽氣になつた家の樣子を見て嬉しがりました。伯父はもと私の部屋になつてゐた一間(ひとま)を占領してゐる一番目の男の子を追ひ出して、私を其處へ入れました。座敷の數も少なくないのだから、私はほかの部屋で構はないと辭退したのですけれども、伯父は御前の宅(うち)だからと云つて、聞きませんでした。

 私は折々亡くなつた父や母の事を思ひ出す外に、何の不愉快もなく、其一夏を伯父の家族と共に過ごして、又東京へ歸つたのです。たゞ一つ其夏の出來事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、伯父夫婦が口を揃へて、まだ高等學校へ入つたばかりの私に結婚を勸める事でした。それは前後で丁度三四回も繰り返されたでせう。私も始めはたゞ其突然なのに驚ろいた丈でした。二度目には判然(はつきり)斷りました。三度目には此方(こつち)からとう/\其理由を反問しなければならなくなりました。彼等の主意は簡單でした。早く嫁を貰つて此所の家へ歸つて來て、亡くなつた父の後を相續しろと云ふ丈なのです。家は休暇になつて歸りさへすれば、それで可(い)いものと私は考へてゐました。父の後を相續する、それには嫁が必要だから貰ふ、兩方とも理窟としては一通り聞こえます。ことに田舍の事情を知つてゐる私には、能く解ります。私も絶對にそれを嫌つてはゐなかつたのでせう。然し東京へ修業に出たばかりの私には、それが遠眼鏡(とほめがね)で物を見るやうに、遙か先の距離に望まれる丈でした。私は伯父の希望に承諾を與へないで、ついに又私の家を去りました。

やぶちゃんの摑み:

「子供らしい私は、故郷を離れても、まだ心の眼で、懷かしげに故郷の家を望んでゐました。固より其處にはまだ自分の歸るべき家があるといふ旅人の心で望んでゐたのです。休みが來れば歸らなくてはならないといふ氣分は、いくら東京を戀しがつて出て來た私にも、力強くあつたのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ後、休みには歸れると思ふその故郷の家をよく夢に見ました」穢れを知らぬ少年の先生が見える印象的なシーンである。また、(五十七)で先生の過去の開示が始まってから、最初に独立使用される語としての「心」(こころ)が現われる部分でもある。「休みが來れば歸らなくてはならないといふ氣分は」「力強くあつたのです」の「ならない」は、休みになったら故郷に帰らねばならないという平板な義務・責任の用法ではなく、必ず自ずから故郷へ帰るべきはずである、必ず自律的に故郷へ帰るに決まっている、という「力強」い意思表示の用法であることに注意したい。「休みには歸れると思ふ」という可能と期待の助動詞「る」を見ても明白である。故郷と先生との短い蜜月の、美しくも儚いロマンティックな描写となっている。私の好きな部分である。但し、この「子供らしい」という形容は戴けない。漱石が先生の遺書の中でのみ特異的に用いている語で、この後も複数回出現するが、これは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の藤井氏によれば、英語の“innocent”の直訳的な用法と思われ、『この頃の日本語表現としてはどちらかと言えば熟さない言い方』であると批評している。同感である。私も初回「こゝろ」を読んだ際、極めて奇異に感じた用語の一つである。意味としてはそれぞれの箇所で、純真無垢な、汚(けが)れなき少年のような、汚れを知らぬ、素直な、純真な、純情な、素朴な、真っ正直な、馬鹿正直な、とっちゃん坊やの、等の訳語に置き換えれば概ね文意が通じる。

「伯父夫婦が口を揃へて、まだ高等學校へ入つたばかりの私に結婚を勸め」「其突然なのに驚ろいた」「彼等の主意は簡單で」「早く嫁を貰つて此所の家へ歸つて來て、亡くなつた父の後を相續しろと云ふ丈」という部分を、その昔の私も含めた愚かな国語教師は、特にここで解説もせず(ひどい教師は教科書に載らないことをいいことに読みもせずに)、叔父の財産横領を隠蔽するための明々白々な策略として通り過ぎ、遂には純真な若々しい高校生たちに本作をとんでもない誤読に導いて来た。この時代に、この田舎で、且つ、相応な素封家の一人息子の遺産相続人であった先生のような若者の場合、高等学校入学前後(数え二十歳前後)に結婚を考えるのは、決して異例のことではない。いや、極、当たり前であったという事実を、現代の高校生にちゃんと認識させなくてはならぬのだ。この叔父夫婦がここで結婚話を持ち出すのは、当たり前のコンコンチキチキチキバンバンイチゴ白書なんだということを伝えなくてはならぬ! 現代の小便臭いモラトリアム・ゴブリン共とは訳が違うのだ(その代り、今のような過酷な受験地獄もなかったが)。社会的人間としての成長期待と成人としての社会的要請度が格段に異なるのだということを教えなくてはならぬ。そのようなものであるということは、先生自身が直ぐ後でも言っている。「父の後を相續する、それには嫁が必要だから貰ふ、兩方とも理窟としては一通り」どころでない至極尤もなことなのである! それは先生にも心底分かりきったことであったことは、更に直後に先生が「ことに田舍の事情を知つてゐる私には、能く解ります。私も絶對にそれを嫌つてはゐなかつた」とダメ押しのように述べていることからも明白なのだ(「絶對にそれを嫌つてはゐなかつた」とは、何も生理的にそうした提案や結婚を嫌悪していた訳では毛頭ない、と言ったニュアンスであろうか)。にも拘わらず、端折った誤った国語授業が、叔父の裏切りと財産横領を厳然たる事実として読者の意識に定着させてしまったのだ。――私は実はこの、これから先生の口から語られる『叔父の裏切り』『叔父による財産横領』なる事実が本当にあったかどうか、疑わしいとかなり以前から考えてきた。――これは殆んど都市伝説の類い、先生の病的な関係妄想(但し、一見正当に思われるような理路が総てに付けられた偏執狂的関係妄想)の結果であると、今はほぼ確信していると言ってよい。これ以降の『叔父の裏切り』『叔父による財産横領』に拘わる私の摑みはそうした傾向性を強く持っているということを押えておいてお読み頂きたい。]

 

 

  先生の遺書

    (六十)

 「私は緣談の事をそれなり忘れてしまひました。私の周圍(ぐるり)を取り捲いてゐる靑年の顏を見ると、世帶染みたものは一人もゐません。みんな自由です、さうして悉く單獨らしく思はれたのです。斯ういふ氣樂な人の中(うち)にも、裏面(りめん)に這入り込んだら、或は家庭の事情に餘儀なくされて、既に妻を迎へてゐたものがあつたかも知れませんが、子供らしい私は其處に氣が付きませんでした。それから左右いふ特別の境遇に置かれた人の方でも、四邊(あたり)に氣兼をして、なるべくは書生に緣の遠いそんな内輪の話は爲(し)ないやうに愼しんでゐたのでせう。後から考へると、私自身が既に其組だつたのですが、私はそれさへ分らずに、たゞ子供らしく愉快に修學の道を步いて行きました。

 學年の終りに、私は又行李を絡(から)げて、親の墓のある田舍へ歸つて來ました。さうして去年と同じやうに、父母のゐたわが家(いへ)の中で、又伯父夫婦と其子供の變らない顏を見ました。私は再び其所で故郷の匂を嗅ぎました。其匂は私に取つて依然として懷かしいものでありました。一學年の單調を破る變化としても有難(ありかた)いものに違なかつたのです。

 然し此自分を育て上(あげ)たと同じ樣な匂の中で、私は又突然結婚問題を伯父から鼻の先へ突き付けられました。伯父の云ふ所は、去年の勸誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同(どう)じでした。たゞ此前勸められた時には、何等の目的物がなかつたのに、今度はちやんと肝心(かんしん)の當人を捕まへてゐたので、私は猶困らせられたのです。其當人といふのは伯父の娘即ち私の從妹(いとこ)に當る女でした。その女を貰つて呉れゝば、御互のために便宜である、父も存生中そんな事を話してゐた、と伯父が云ふのです。私もさうすれば便宜だとは思ひました。父が伯父にさういふ風な話をしたといふのも有り得べき事と考へました。然しそれは私が伯父に云はれて、始めて氣が付いたので、云はれない前から、覺つてゐた事柄ではないのです。だから私は驚ろきました。驚いたけれども、伯父の希望に無理のない所も、それがために能く解りました。私は迂闊(うくわつ)なのでせうか。或はさうなのかも知れませんが、恐らく其從妹に無頓着であつたのが、重な源因になつてゐるのでせう。私は小供のうちから市(し)にゐる伯父の家へ始終遊びに行きました。たゞ行く許りでなく、能く其處に泊りました。さうして此從妹とは其時分から親しかつたのです。あなたも御承知でせう、兄妹の間に戀の成立した例(ためし)のないのを。私は此公認された事實を勝手に布衍(ふえん)してゐるのかも知れないが、始終接觸して親しくなり過ぎた男女(なんによ)の間には、戀に必要な刺戟の、起る淸新な感じが失はれてしまふやうに考へてゐます。香(かう)をかぎ得るのは、香を焚き出した瞬間に限る如く、酒を味はうのは酒を飲み始めた刹那にある如く、戀の衝動にも斯ういふ際どい一點が、時間の上に存在(ぞんざい)してゐるとしか思はれないのです。一度平氣で其處を通り拔けたら、馴れゝば馴れる程、親しみが增す丈で、戀の神經はだん/\麻痺して來る丈です。私は何う考へ直しても、此從妹を妻にする氣にはなれませんでした。

 伯父はもし私が主張するなら、私の卒業迄結婚を延ばしても可(い)いと云ひました。けれども善は急げといふ諺もあるから、出來るなら今のうちに祝言の盃(さかづき)丈(だけ)は濟ませて置きたいとも云ひました。當人に望(のぞみ)のない私には何方(どつち)にしたつて同じ事です。私は又斷りました。伯父は厭な顏をしました。從妹は泣きました。私に添はれないから悲しいのではありません、結婚の申し込を拒絶されたのが、女として辛かつたからです。私が從妹を愛してゐない如く、從妹も私を愛してゐない事は、私によく知れてゐました。私はまた東京へ出ました。

やぶちゃんの摑み:私は本件の出来事を明治301897)年の夏、先生20歳の時と推定している。上の通り、本章末には飾罫がない。なお、理由不明であるが、本第(六十)回掲載の大正3(1914)年6月21日日曜日(『大阪朝日新聞』の掲載は23日火曜日)の翌日6月22日月曜日は何故か『東京朝日新聞』『大阪朝日新聞』両紙共に掲載がない。漱石の原稿が遅れた訳ではあるまい(であれば二日遅れている『大阪朝日新聞』が第五十九回を掲載しているはずだからである)。これは専ら朝日新聞社側の問題であるようだ。上の通り、本章には末尾の飾罫がない。

「同(どう)じでした」「同(おな)じ」のルビ誤植。

「結婚問題を伯父から鼻の先へ突き付けられ」「今度はちやんと肝心の當人を捕まへてゐ」「其當人といふのは伯父の娘即ち私の從妹に當る女で」「その女を貰つて呉れゝば、御互のために便宜である、父も存生中そんな事を話してゐた、と伯父が云ふのです。私もさうすれば便宜だとは思ひました。父が伯父にさういふ風な話をしたといふのも有り得べき事と考へました」従兄妹同士の結婚は古くは当たり前に行われており、明治30年代にあっては、至ってありがちな結婚であった。勿論、現在の婚姻法でも許されている。但し、この頃から同時に、遺伝学的な問題性が取り沙汰されるようになってはいた。例えば、私(やぶちゃん)が卒論とした明治181885)年生れの尾崎放哉は、明治381905)年、東京帝国大学法学部1年21歳の折りに、16歳で知り合い、相思相愛の仲であった従妹沢芳衛(よしえ:彼女の父が放哉の母の弟。)に結婚を申し込んだが、医科大学生であった芳衛の兄静夫の強い反対にあって断念している。この挫折感が放哉の人生を大きく狂わせることとなったが、ある意味、この挫折なしにはまた、かの絶唱群を我々は読めなかったとも言われるかも知れぬ。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」には、作家阿部次郎のケースを掲げている。これは先生の時代にもっと近く、条件もぴったりである。

●阿部次郎

は、明治341891)年 第一高等学校入学 18

で、次郎の母の弟である叔父の娘(本話と全く同じ従妹で、その頃未だ13歳であった)との結婚を高校入学直前に仄めかされたが、その内容は、

・彼の学費の半分を叔父が援助する。

代りに、

・従妹と婚約すること。

・阿部次郎の母の実家の跡継ぎとなること(この叔父は養子として家を出ていた)。

という交換条件が含まれたものでもあった。この婚約は翌351892)年に一旦纏まったが、381895)年に破棄されたが、この従妹は結局、阿部次郎の弟と結婚しているそうである。

更に、藤井氏は高校在学中の結婚(入籍)の例として寺田寅彦のケースを示している(従兄妹との結婚ではない。以下の資料は藤井氏のデータに私の調べたものを附加してある)。

●寺田寅彦

は、明治291896)年 熊本の第五高等学校入学 19

で、そこで正に本作の作者となる英語教師であった夏目漱石、物理学教師田丸卓郎と出会い、両者から大きな影響を受けたのであるが、彼は、

明治301897)年 松山第十旅団長阪井重季少将娘坂井夏子と学生結婚 20

している。これは入籍であって、未だ15歳であった新妻夏子は寺田の郷里高知で別居、実際の同居は明治321899)年に東京帝国大学理科大学に入学後のことであった(しかし哀しいかな、明治351902)年に妻夏子は20歳で結核のため夭折した)。

最後に、私のオリジナル資料として、

●芥川龍之介

の場合を紹介しておこう。その初恋は従妹ではないが、先生と違って(日常的に見馴れると恋は起こらぬと言っている点)同年の幼馴染み(実家新原家の近所)であった吉田弥生である(父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた)。芥川龍之介は、

大正3(1914)年 7月20日頃~8月23日 23歳(満22歳)

で、この時、友人らと共に千葉県一宮海岸にて避暑し、専ら海水浴と昼寝に勤しんでいたが、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して二度目のラブレターを書いて、その後、正式に結婚も申し込んでいる(傍線部に注意! 更に言えば、先生の遺書中の先生とKの夏季休業の房州行の場面は実に同年7月14日~7月17日の連載である!)。

そしてこの時、芥川は未だ

東京帝国大学英吉利文学科1年

であった。しかし乍ら、この吉田弥生との結婚は養家芥川家の猛反対にあい、翌年2月頃に破局を迎えることとなる。吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系であった)、弥生が龍之介と同年齢であったこと等が主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があった)。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、大正4(1915)年4月20日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来た。丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いたという。4月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をしたともある。鷺只雄氏は河出書房新社1992年刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。そうして正にこの弥生への強烈な恋情の炎の只中に書かれたのが避暑から帰った直後の、

大正3(1914)年9月1日『新思潮』に発表した、

「青年と死と

であり、破局後の大正4(1915)年4月1日に『帝国文学』発表したのが、かの作家級軍艦芥川船出の一篇、

「ひよつとこ」

であった。その後、その傷心を慰めるための親友井川恭(後に恒藤姓)の誘いによって、同年8月3日から23日まで井川の故郷松江を訪れ、

後に「松江印象記」となる「日記より」

が書かれているのである。

以上――やや年齢は高いものの、芥川龍之介でさえ大学一年で自律的に結婚しようと動いた事実が知れる。……そしてお気づきになられただろうか……傍線部……丁度、この滞在の前半は、正に……この「心」の連載最後に当たるのである……一宮の砂浜……「心」を読む恋に目覚めた龍之介……遠い夏、ハレーションの映像……そして「青年と死と」という意味深長な題名……その作品の末尾のクレジットは『(一五・八・一四)』……これは西暦

1914年8月15日

夏目漱石の「心」の『東京朝日新聞』の連載終了

は、正にこの4日前、

1914年8月11日

のことであった。

――芥川龍之介は当然、「心」を読んでいたと考えてよい。読まぬはずがない。――

――とすれば――

――この「青年と死と」という作品は、一つの――

――芥川の、漱石の「心」への答え――

として読むことが可能だ、ということである。……是非、私の電子テクスト「青年と死と」「ひよつとこ」「日記り」をお読みあれかし。

……さてさて、本線に戻す……もういいだろう。これらの具体的データを見ても、叔父の言は驚くべき言でも、異様な謂いでも何でない当たり前の提案なのである。そもそもこの章の頭をよく読めば、先生自身が当時の高校生で結婚という『普通の実体』を既に描写しているのではないか。「私の周圍を取り捲いてゐる靑年の顏を見ると、世帶染みたものは一人もゐ」ず、一見「みんな自由で」「悉く單獨らしく思はれた」ものの、「斯ういふ氣樂」に見える「人の中にも、裏面に這入り込んだら、或は家庭の事情に餘儀なくされて、既に妻を迎へてゐたものがあつたかも知れ」ない。しかしとっちゃん坊やだった「私は其處に氣が付」かなかったに過ぎない。また「左右いふ特別の境遇に置かれた人の方でも、四邊に氣兼をして、なるべくは書生に緣の遠い」結婚や家督相続といった学問から遠く離れた軽蔑すべき「内輪の話は爲ないやうに愼しんでゐたので」ある。「後から考へると、私自身が既に其組だつた」にも拘わらず、私はそのことを全く解していない世間知らずのトンチキとして、好きな勉強さえしてりゃいいぐらいな気持ちで過していたのである、と述べているのである。そして当時の読者の多くも、逆にこの先生の過剰な反応にこそ異様な印象を受けていたと考えても強ち間違いではないと思われるのである。

……そうそう、最後に……私(やぶちゃん)の両親はしっかり従兄妹同士である。――母方の祖父以外の親族は、やはり遺伝的弊害を慮って反対したが、歯科医であった祖父は「お前達がそれを覚悟して結婚をするのであればよい」と言ってくれたそうである。因みに生後一年過ぎに私は左肩関節の骨髄性結核性カリエスに罹患した。宣告した医師は「これは勿論、遺伝による病気ではないが、この先、このお子さんがどうなるか分からない上に、次に生む子が遺伝病になる可能性は普通の夫婦より高い。お子さんは御産みにならぬがよろしいでしょう。」と御丁寧に母に御忠告を垂れたという。だから私は一人っ子である。……

……最後の最後に、もう一つ言おうか?……私の場合、最初に『この女性と結婚しよう』とはっきりと思ったのは、何歳の時であったか?

……これは私自身のことですから判然言へるのです。それは大學一年數えで廿歳(はたち)の冬の、あの鎌倉の海岸でのことでした。確かに私はあの時、あの人を妻にしたい、確かに妻にしたいと思つたのです――いや、是では又しても脱線の脱線でした。話が本筋をはづれると、分り惡くなりますからまたあとへ引き返しませう……

「伯父の希望に無理のない所も、それがために能く解りました」「伯父の希望」を確認しよう。それは、

実家の跡継ぎとなるべき先生が、その後見(若しくは代理)管理権者である叔父の娘と、現在、高等学校在学中の20歳で結婚すること

である。そして後述するように如何にも尤もな現実的提案として叔父は、

「卒業迄結婚を延ば」して、実際の二人の同居は大学に入ってからでもよく、その場合、可能ならば形の上での「祝言の盃丈は」「今のうちに」「濟ませて置」くのが希望

なのだがという当時の田舎の跡継ぎの青年にとって真っ当至当梅干弁当的にオーソドックスな提案をさえしているのである。そしてよろしいか? それを先生は「伯父の希望に無理のない所も」種々の事情を勘案すれば真っ当至当梅干弁当的に「能く解りました」と述べているのである! 叔父は何にも見た目、「變」じゃないのだ! それを先生も認めているのである! では「變」なのは誰か? それは取りも直さず先生なのだ! 先生の「變」は一つに分かり易い解に向かうばかりなのである。即ち、

従妹は嫌いじゃないが、恋愛の対象者として見たことは一度としてなく、妻にしたいとは毛頭思わぬ見馴れ過ぎた大いして美しいとも思わぬ女

だ、という冷たい拒絶感だけなのである。先生の意識が明らかに「變」な方向へと向き始めるプレの部分であるから、十分に注意したい。先生が叔父の行動に疑問を抱き始めるように、先生の思考と疑心暗鬼――(五十七)で先生が注意を喚起した内容をもう一度蘇らせる必要があるのだ。整理してみよう。母の最期の床の叔父への疑義的言及記載を受けた部分である。それは次のような謂いに変換出来る。

――私は幼い頃からこのように「物を」殊更意味深長に「解きほどいて見たり、又」必要以上にしつこく「ぐる/\廻して眺めたりする」「變な」「癖」を身につけていました。――今、これを読んでいる貴方からは、例えば「當面の問題に大した關係のない」ように見える脱線のような私の「記述が、却て」この私の遺書全体を読み解く上には重要な意味を孕んでいて、思いの外、「役に立」つかもしれない「と考へます。貴方の方でもまあその積で讀んで下さい。此性分が倫理的に」私自身や他者の「個人の行爲や動作の上に」悉く「及んで」しまった結果、「私は後來益他の德義心を疑ふやうになつたのだらうと思ふのです」が、そのバイアスを、あなたはしっかり計算した上で、私のこの遺書の内容や私の言葉を冷静に勘案することが何より大切です。そこから生じた疑心暗鬼「が私の煩悶や苦惱に向つて、積極的に大きな力を添へて」、時には真実を歪めさせたり、時には対象を誤って認識させたりして「ゐる」ということあるのです。私の感懐や論理に批判的な視線で向かうことも必要であろうこと「は慥」なこと「ですから覺えてゐて下さい」。――

今、私は以上の書き換えを恣意的だとは思わない。何故なら、――これだけ一般論としての叔父の側の論理の尋常性を、先生自身に畳み掛けて述懐させている漱石を見ると――以前の注では、私は微妙にその確信犯性に留保を加えたこれども――先生の尋常ならざる病的な疑心暗鬼に気付くことが大切です、と精神病の病歴のある漱石先生が語りかけているのだ、という確信的な思いが、今回のこの同日公開プロジェクトで、章を追うごとに日増しに強くなってきているからである。

「布衍」は勿論、「敷衍」が正しい。

「戀に必要な刺戟の、起る淸新な感じが失なはれてしまふやうに考へてゐます」この読点は不自然。原稿にはなく、誤植。単行本では消失している。]

 

 

  先生の遺書

    (六十一)

 「私が三度目に歸國したのは、それから又一年經つた夏の取付(とつつき)でした。私は何時でも學年試驗の濟むのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷(ふるさと)がそれ程懷かしかつたからです。貴方にも覺えがあるでせう、生れた所は空氣の色が違ひます、土地の匂も格別です、父や母の記憶も濃かに漂つてゐます。一年のうちで、七八の二月を其中に包まれて、穴に入つた蛇の樣に凝としてゐるのは、私に取つて何よりも温かい好(い)い心持だつたのです。

 單純な私は從妹との結婚問題に就いて、左程頭を痛める必要がないと思つてゐました。厭なものは斷る、斷つてさへしまへば後には何も殘らない、私は斯う信じてゐたのです。だから伯父の希望通りに意志を曲げなかつたにも關らず、私は寧ろ平氣でした。過去一年の間いまだかつて其んな事に屈托した覺もなく、相變らずの元氣で國へ歸つたのです。

 所が歸つて見ると伯父の態度が違つてゐます。元のやうに好い顏をして私を自分の懷に抱かうとしません。それでも鷹揚に育つた私は、歸つて四五日の間は氣が付かずにゐました。たゞ何かの機會に不圖變に思ひ出したのです。すると妙なのは、伯父ばかりではないのです。叔母も妙なのです。從妹も妙なのです。中學校を出て、是から東京の高等商業へ這入る積だといつて、手紙で其樣子を聞き合せたりした伯父の男の子迄妙なのです。

 私の性分として考へずにはゐられなくなりました。何うして私の心持が斯う變つたのでらう。いや何うして向ふが斯う變つたのだらう。私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗つて、急に世の中が判然見えるやうにして呉れたのではないかと疑ひました。私は父や母が此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛して呉れるものと、何處か心の奥で信じてゐたのです。尤も其頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。然し先祖から讓られた迷信の磈(かたまり)も、強い力で私の血の中に潜んでゐたのです。今でも潜んでゐるでせう。

 私はたつた一人山へ行つて、父母(ふぼ)の墓の前に跪づきました。半は哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。さうして私の未來の幸福が、此冷たい石の下に橫はる彼等の手にまだ握られてでもゐるやうな氣分で、私の運命を守るべく彼等に祈りました。貴方は笑ふかも知れない。私も笑はれても仕方がないと思ひます。然し私はさうした人間だつたのです。

 私の世界は掌(たなごゝろ)を翻へすやうに變りました。尤も是は私に取つて始めての經驗ではなかつたのです。私が十六七の時でしたらう、始めて世の中に美くしいものがあるといふ事實を發見した時には、一度にはつと驚ろきました。何遍も自分の眼を疑つて、何遍も自分の眼を擦りました。さうして心の中であゝ美しいと叫びました。十六七と云へば、男でも女でも、俗にいふ色氣の付く頃です。色氣の付いた私は世の中にある美しいものゝ代表者として、始めて女を見る事が出來たのです。今迄其存在(ぞんざい)に少しも氣の付かなかつた異性に對して、盲目(めくら)の眼(め)が忽ち開(あ)いたのです。それ以來私の天地は全く新らしいものとなりました。

 私が伯父の態度に心づいたのも、全く是と同じなんでせう。俄然として心づいたのです。何の豫感も準備もなく、不意に來たのです。不意に彼と彼の家族が、今迄とは丸で別物のやうに私の眼に映つたのです。私は驚ろきました。さうして此儘にして置いては、自分の行先が何うなるか分らないといふ氣になりました。

やぶちゃんの摑み:ここで先生にはデリカシーのデの字もない、と若き日に「こゝろ」を読んだ私は思ったものである。今もこの一連のシーンの先生が私は嫌いである。従妹との結婚を断った時、せめて先生との結婚を承諾していた従妹の内心を気遣ってやってしかるべきなのに、逆に、断ると「從妹は泣きました。私に添はれないから悲しいのではありません、結婚の申し込を拒絶されたのが、女として辛かつたからです。私が從妹を愛してゐない如く、從妹も私を愛してゐない事は、私によく知れてゐました。私はまたました」なんどと描写し、従妹の心境を一刀両断して平気で「東京へ出」て行く。そして「いまだかつて其んな事に屈托した覺もなく、」一年後に「平氣で」「相變らずの元氣で國へ歸」って来て、何の屈託もないへらへら面(づら)で叔父一家と接しようとしている。そのデリカシーのなさに、先生は『いっちょも』気付いていないのだ。更に(というよりだからこそ)当然起こるべくして起こっている(起こった)叔父一家の当たり前の変容に「歸つて四五日」も「の間」気づかないという先生は――「變」も「變」、とんでもなく「變」だ!

 これは先生が「鷹揚に育つた」からでも、世間知らずのとっちゃん坊やだからでもない。――

 況や、先生自身が後で言うような、人が良いからとか、「生れたままの姿」の純真無垢な人柄であったから、でも毛頭、ない。――

 ただ、何処か妙に『鈍感』なのである。何とも言えぬ部分で『社会的に必要とされるような最低限の共有感覚・思いやりが欠落している』としか思われないのだ。――

 実はこれは、この後の成人後や結婚後の先生にも顕著に見られ(「私」や靜を交えた会話中にもしばしば現れた。挙げるまでもないが、とびっきりのものを示すなら第(八)章の「子供は何時迄經つたつて出來つこないよ」「天罰だからさ」であろう。これだけでも十分である)、それを我々はずっとKの事件による人格変容としてのみ捉えて来たのではなかったか。

 しかしどうであろう、ここを見ると、

●叔父一家の変容を「不思議」に思い乍ら、その分かりきった理由が分からないばかりか、例の関係妄想を中心とした「考へずにはゐられな」い「私の性分」を先生は起動させてしまう。

そこでは、当然考えねばならない自己側の問題性への心理的なベクトル、

●「何うして私の心持が斯う變つたの」かという自省的で、正しい解答に至れるはずのモーメントが『一応は』示される。

ところが、それは、

●「いや」という理屈抜きの否定辞によって一瞬のうちに鮮やかに逆転させられてしまう。

そして先生は、

●「何うして向ふが斯う變つたのだらう」という言明に置き換えてしまうと同時に、自己側の要因を完全に払拭し去ってしまう。

更にその後は雪崩の如くに、

■「私が伯父の」不審な「態度に心づいた」心の動き

□初めて女の美に目覚めた時の心の動き

と全く同じように、

★極めて直感的な作用によるもの

であって、

★「俄然として心づいたので」あって、それは非論理的で主観的なもの

★「何の豫感も準備もなく、」即ち、なんらの根拠もなく「不意に來たの」もの

だとさえ言い放つのだ。その果てに、

×「不意に」訳が分からないうちに叔父と「彼の家族が、今迄とは丸で」人間でないような「別物」に変容してしまった

×「此儘にして置いては、自分の行先が何うなるか分らないといふ氣にな」ってしまった

×「今迄伯父任せにして置いた家の財産に就いて、詳しい知識を得なければ、死んだ父母に對して濟まないと云ふ氣を起した」(次章冒頭)

という心理状態に陥ったと訴えるのである。

 以上の先生の心的変成(主訴)は一種の病的なゲシュタルト崩壊に見えてくる。俄然先生「個人の有つて生れた性格」上の問題として浮かび上がって来はしまいか?

 これらの現象は、現在で言うなら、他者と共感出来にくい、コミュニケーション障害若しくはコミュニケーション方法の偏頗性や特殊化が見られる“Asperger syndrome”アスペルガー症候群などの一種の高機能発達障碍に近い反応であるように思われるのである(私のこの謂いは決してアスペルガー症候群を差別するものではない。そもそも私はアスペルガーは人格の一つのパターンであって、病的なものだという認識に立たない。私なども最近、実はそのボーダーと称せられるところに位置しているのではないかとさえ思うこともあるほどである)。

――あなたという演出家・監督が、ある特定の役者に演じさせる以上(それはあなた自身であるのが最もよい)、我々は是が非でも先生という人間の等身大を知らねばならぬ。そのためには――そうした変異的人格・人格障碍や境界例、神経症・精神病的要素までも射程に入れておかなければ(勿論、一部の病跡学的評論のように、そのような障碍を持っているということを証明して作品分析が出来たと思うような、救いようのない解釈学の袋小路に入ることは厳に慎まねばならぬのだが)、先生という謎の人物は何時までたっても私達の前に『姿』として見えてこない、面影のままである、と私は言いたいのである。

 なお、私はこの場面をとりあえず、明治311898)年の夏、先生21歳の時と仮定している。

「生れた所は空氣の色が違ひます、土地の匂も格別です、父や母の記憶も濃かに漂つてゐます。一年のうちで、七八の二月を其中に包まれて、穴に入つた蛇の樣に凝としてゐるのは、私に取つて何よりも温かい好い心持だつたのです」「空氣の色が違」い「格別」な「土地の匂」に満ちた「生れた所」=故郷で何より「父や母の記憶」が「濃かに漂つてゐ」る中で「穴に入つた蛇の樣に凝としてゐる」ことが「私に取つて何よりも」「温かい好い心持」、至福の時であったと語る先生の心性は、極めて分かり易い母体回帰願望である。そしてそれは、すぐ後で先生にして意外な、霊的感懐にまで高められるのである。

「東京の高等商業」高等商業学校。現在の一橋大学の前身。この子が「東京の」と言っているのは、まだ校名が「高等商業学校」であったから。明治351902)年に神戸高等商業学校(現在の神戸大学)の設置に伴って東京高等商業学校に改称している。その後、東京商科大学から東京産業大学となり、戦後、東京商科大学へ戻してすぐ、学制改革によって一橋大学となった(名称は学生の投票によるそうである)。

「私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗つて、急に世の中が判然見えるやうにして呉れたのではないかと疑ひました。私は父や母が此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛して呉れるものと、何處か心の奥で信じてゐたのです。尤も其頃でも私は決して理に暗い質ではありませんでした。然し先祖から讓られた迷信の塊も、強い力で私の血の中に潛んでゐたのです。今でも潛んでゐるでせう。」この一連の叙述を問題にしている論文を不勉強にして知らないのだが、これは意外にも理知的に見える先生の中の霊的世界観・祖霊崇拝や『血脈』という神秘主義的霊性――若しくはそのような思想によって代償され正当化され隠蔽され得るような非社会的或いは反社会的心性と言い直してもよい――が表明されているということである。そしてそれは「今でも」先生の心に「潛んでゐる」のである。冒頭「父や母の記憶も濃かに漂つてゐ」ると暗示され、更にこのすぐ後の段落でも示されるように、父母の魂が同じ空間に見えないけれども存在し、自分を生前と同じく守ってくれているという素朴な祖霊崇拝に象徴されるような民俗的心性が西欧近代思想を備えていると自任している先生の内には確かにあった、いや、今も、ある、のである。そしてそれは当然、我々を次のような答えを導く。即ち、「私は」どのような人間であれ、「此世に居なくなつた後でも、居た時と同じやうに私を愛し」たり、憎んだりし続けてい「るものと、何處か心の奥で信じてゐ」るという命題へである。

『死んだ父母――は今も私の傍におり、私を愛し、守ってくれている、私は信じている。』

『死んだK――は今も私の傍におり、私を愛している或いは憎んでいる、と私は信じている。』

『死んだ奥さん――は今も私の傍におり、私と娘とを愛し、見守っている或いは監視している、と私は信じている。』

『死んだ私――このこの遺書を読む君や妻の傍におり、君や妻を愛し、見守っている或いは監視している、と私は信じている。』

これらの命題が総て真である世界、それが先生の世界、「先生の遺書」という世界なのだ、と先生は言明していると言ってよい――そしてそれは

先生は、この世に実体が無くなった今も、「私」が遺書の最後の約束を破らないかどうか、監視している――

ということをも、意味する。……しかし……しかしそれは、その民俗世界、先生の個人的な「精神」世界に止まるものではないと私は思う。――その「霊性」は、先生が正に最期に語るところの「明治の精神に殉死する」の「精神」という言辞と、ダイレクトに結びついてくるものであるように、私には思われるのである――。

「私の世界は掌を翻へすやうに變りました。尤も是は私に取つて始めての經驗ではなかつたのです。私が十六七の時でしたらう、始めて世の中に美くしいものがあるといふ事實を發見した時には、一度にはつと驚ろきました。何遍も自分の眼を疑つて、何遍も自分の眼を擦りました。さうして心の中であゝ美しいと叫びました。十六七と云へば、男でも女でも、俗にいふ色氣の付く頃です。色氣の付いた私は世の中にある美しいものゝ代表者として、始めて女を見る事が出來たのです。今迄其存在に少しも氣の付かなかつた異性に對して、盲目の眼が忽ち開いたのです。それ以來私の天地は全く新らしいものとなりました。」これは先生の初恋のエピソードの記載である。Kとの三角関係ばかりを高校2年生の教科書が抜粋、クロース・アップしてきた結果、我々は先生の初恋をどこかで「御孃さん」とのそれであったかのように錯覚しているが、実際には先生は新潟の地方都市で、満1516歳の中学校時代(正に現在の高校1~2年)、初恋を既に経験していたのである。そして先生は、特定の個人の女性に向けられた、その憧憬や恋情を、純粋な美へ昇華された感動、人生の鮮烈な一瞬として心に刻んでいたのである。先生の純情な心が垣間見られる美しい映像だ。僕が映画監督なら是非ともこのシーンを膨らまして撮りたい欲求にかられるであろう。

――だが、そんなことはどうでもいいのだ――

実は、問題はその異性への欲求に目覚めた忘れ難い刻印の記憶を、先生が『この場面』で用いている『異常性』にこそ気づかねばならぬのではないか?!

 まず、この「掌を翻へすやうに變りました」という語句は極めてねじれた使用がなされていることに着目せねばならぬ。これは普通に

『叔父一家の態度が掌を返したようにがらりと冷たく他人行儀になった』

という謂いでは、『ない』。これは

『先生の側の世界が非論理的な一瞬の先生の直覚によって掌を返したように変容した』

という謂い『以外のなにものでもない』のである。

 即ち、ここで先生は

叔父一家の外的変容によって、『先生自身の世界を見る目=人間を見る目』が掌を返したようにネガティヴな方向に開示された

のは、その数年前のこと、中学時分の少年であった先生の初恋の経験の時、

女人の美しさを真に感じた自己側の感性の変容によって、『先生自身の世界を見る目=人間を見る目』がポジティヴな方向に開示された

時の感覚と全く同じであった、と言明しているのである――

これは若き日に読んだ私には一見、感性的にも理性的にも不整合な、そして救いようのない不幸な共時感覚(シンクロニティ)であるように思われてならなかった。この時、先生の心性に何か得体の知れない異常な力が働いて、おぞましい関係妄想による関連付けがなされたのではなかろうか、とさえ思わせた。――しかし、先生=漱石が、『それでも』、冷徹に確信犯的に訴えているようにも、今は思われる――

「同じなのです! それはただ愛憎のベクトルの方向が異なっているだけで、全く同じものなのです!」

――と。

因みに漱石の場合はどうであったか? 25歳の時、明治241991)年7月17日には以前から心惹かれていたある女性と行きつけの眼科医で出会い、衝撃と激しい恋情を催したり(当時の正岡子規宛書簡による)、また、同年7月下旬には兄和三郎の妻登世が重い悪阻のために死去したが、彼女への「悼亡」句を実に十三句も残しており、江藤淳は漱石がこの義姉登世に対しても、ある種の恋愛感情を抱いていたとある(以上は主に集英社昭和491974)年刊の荒正人「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」等に依った)。しかし、それに遡ること2年前の23歳の折り、この「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」明治221889)年2月16日の条に興味深い一節を発見する。

『二月十六日(土)、文部大臣森有礼の葬儀が青山斎場で行われ、それに参列する行列を路傍で見送り、美しい娘を見そめたものと想像される。「其當時は頭の中へ燒付けられた樣に熱い印象を持つてゐた――妙なものだ」(『三四郎』)とも書いている(これは、創作とも事実とも受け取られる)。』

この「三四郎」の叙述は確かにこの「心」の叙述の言い換えのように見受けられる。

……これは「やぶちゃんの摑み」であって、思いつきに過ぎぬし、牽強付会であるのかも知れぬ。私自身の関係妄想とも言えよう……しかし……しかし私の中に「こゝろ」の中の謎が、確実にまた一つ、増えた気がしていることは事実である……]

 

 

  先生の遺書

    (六十二)

 「私は今迄伯父任せにして置いた家の財産に就いて、詳しい知識を得なければ、死んだ父母(ちちはは)に對して濟まないと云ふ氣を起したのです。伯父は忙がしい身體だと自稱する如く、毎晩同じ所に寢泊はしてゐませんでした。二日家へ歸ると三日は市の方で暮らすといつた風に、兩方の間を往來して、其日其日を落付のない顏で過ごしてゐました。さうして忙がしいといふ言葉を口癖のやうに使ひました。何の疑も起らない時は、私も實際に忙がしいのだらうと思つてゐたのです。それから、忙がしがらなくては當世流ではないのだらうと、皮肉にも解釋してゐたのです。けれども財産の事に就いて、時間の掛る話をしやうといふ目的が出來た眼で、この忙がしがる樣子を見ると、それが單に私を避ける口實としか受取れなくなつて來たのです。私は容易に伯父を捕(つら)まへる機會を得ませんでした。

 私は伯父が市の方に妾(めかけ)を有つてゐるといふ噂を聞きました。私は其噂を昔し中學の同級生であつたある友達から聞いたのです。妾を置く位(くらゐ)の事は、此伯父として少しも怪しむに足らないのですが、父の生きてゐるうちに、そんな評判を耳に入れた覺のない私は驚ろきました。友達は其外にも色々伯父に就いての噂を語つて聞かせました。一時事業で失敗しかゝつてゐたやうに他から思はれてゐたのに、此二三年來又急に盛り返して來たといふのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染め付けたものゝ一つでした。

 私はとう/\伯父と談判を開きました。談判といふのは少し不穩當かも知れませんが、話の成行からいふと、そんな言葉で形容するより外に途(みち)のない所へ、自然の調子が落ちて來たのです。伯父は何處迄も私を子供扱ひにしやうとします。私はまた始めから猜疑の眼で伯父に對してゐます。穩やかに解決のつく筈はなかつたのです。

 遺憾ながら私は今その談判(だんはん)の顛末を詳しく此處に書く事の出來ない程先を急いでゐます。實をいふと、私は是より以上に、もつと大事なものを控えてゐるのです。私のペンは早くから其處へ辿りつきたがつてゐるのを、漸(やつ)との事で抑へ付けてゐる位です。あなたに會つて靜かに話す機會を永久に失つた私は、筆を執る術(すべ)に慣れないばかりでなく、貴い時間を惜むといふ意味からして、書きたい事も省かなければなりません。

 あなたは未(ま)だ覺えてゐるでせう、私がいつか貴方に、造り付けの惡人が世の中にゐるものではないと云つた事を。多くの善人がいざといふ塲合に突然惡人になるのだから油斷しては不可ないと云つた事を。あの時あなたは私に昂奮してゐると注意して呉れました。さうして何んな塲合に、善人が惡人に變化するのかと尋ねました。私がたゞ一口金と答へた時、あなたは不滿な顏をしました。私はあなたの不滿な顏をよく記憶してゐます。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時此伯父の事を考へてゐたのです。普通のものが金を見て急に惡人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在(ぞんざい)し得ない例として、憎惡と共に私は此伯父を考へてゐたのです。私の答は、思想界の奧へ突き進んで行かうとするあなたに取つて物足りなかつたかも知れません、陳腐だつたかも知れません。けれども私にはあれが生きた答でした。現に私は昂奮してゐたではありませんか。私は冷かな頭で新らしい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きてゐると信じてゐます。血の力で體(たい)が動くからです。言葉が空氣に波動を傳へる許りでなく、もつと強い物にもつと強く働き掛ける事が出來るからです。

やぶちゃんの摑み:ここでも先生の感じ方は冷静に読んでみるとおかしい。叔父が「忙がしい身體だと自稱する如く、毎晩同じ所に寢泊はしてゐ」なかった、「二日家へ歸ると三日は市の方で暮らすといつた風に、兩方の間を往來して、其日其日を落付のない顏で過ごしてゐ」た、また常日頃「忙がしいといふ言葉を口癖のやうに使」ったというのは、明らかに叔父が先生の実家を管理し始めた当初からのことで、今に始まったことではない。叔父は実家を管理する承諾をした際、「然し市の方にある住居も其儘にして置いて、兩方の間を往つたり來たりする便宜を與へて貰はなければ困るとい」(五十九)っているからである。そこは先生も「何の疑も起らない時は、私も實際に忙がしいのだらうと思つてゐた」「忙がしがらなくては當世流ではないのだらうと、皮肉にも解釋してゐた」と述べている。「何の疑も起らない時」とは即ち、3年前に実家管理を叔父に任せてから今日までの3年弱の期間を指していることは明白である。また過去2回の夏期休暇の限定された帰郷を通して観察してみて、時間的な余裕を持った中で総合的に解釈して、始めてその忙しがり方が「當世流」であるという「解釋」は下し得るのであるから、これもやはり『実家管理を叔父に任せてから今日までの3年弱の期間』の中で形成された見方と考えざるを得ない。私がくどく書いている理由がお分かり頂けるだろうか? 即ち、これらを『今心付いた』叔父が財産を横領していたから、ここで急に先生を避けているのではないか、という疑惑の理由として掲げるのは聊か『おかしい、ずれている』のである。叔父の態度は財産を手にした際、その直後の1回目の帰郷の時と2回目で、そうした態度は一貫して変わっていないのである――ところが、我々は巧妙な先生の語り口の罠(トラップ)に引っ掛かってしまうのだ。この直後に「けれども財産の事に就いて、時間の掛る話をしやうといふ目的が出來た眼で、この忙がしがる樣子を見ると、それが單に私を避ける口實としか受取れなくなつて來た」「私は容易に伯父を捕まへる機會を得」られなかった、という作中内現在時制を持ち込まれると、――あたかも「忙がしい身體だと自稱する如く、毎晩同じ所に寢泊はしてゐ」なかった、「二日家へ歸ると三日は市の方で暮らすといつた風に、兩方の間を往來して、其日其日を落付のない顏で過ごしてゐ」た、また常日頃「忙がしいといふ言葉を口癖のやうに使」う叔父はこの3度目の帰郷の際の叔父の、「掌を返」したような態度変容である――かのように読めるよう、巧妙に作られているのである。そして先生はその直後に「私は伯父が市の方に妾を有つてゐるといふ噂を聞きました」という決定的に『見える』疑惑の傍証を挙げてもいるのである。しかし、当時、畜妾は小金持ちのステイタス・シンボルみたようなものであって、怪しむに足らぬものである。皮肉ではなく、この精力的な叔父が、当時にあって妾の一人も持っているのは男の甲斐性だったはずだ、と現代の私(やぶちゃん)でさえ(知識としては)思うのである。ところがここでも多くの人がトラップに美事にかかるのではあるまいか。――『最近』この叔父が「二日家へ歸ると三日は市の方で暮らすといつた風に、兩方の間を往來して、其日其日を落付のない顏で過ごしてゐ」たのは「伯父が市の方に妾を有つてゐ」たからだ、だって「父の生きてゐるうちに、そんな評判を耳に入れた覺」はなかったんだから!――という時間軸を不当に圧縮して、正に『最近』の出来事――先生の財産の横領が半端でない大金に及んだ『最近』若しくはその横領分が更に金を生んだ『最近』の出来事――として読者に誤読させる方向を狙って書かれていると私は思うである。私は叔父はもう先から妾を持っていたものと私は思う。趣味人で叔父を買っていた先生の父親がそんな評判を息子に話すはずもなく、先生の叔父が先生の親代わりになる以前、先生の友人がこの叔父に特に興味関心を持つとも思われないし、妾を持っていることを知り、それをわざわざ先生に話すとも思われない。話す必要性がその時点ではないからである。逆に先生が叔父に疑惑を持って友人に根掘り葉掘り聞き始めれば、友人が財産管理以前から畜妾していたという時間軸を無視して語ってしまうことも大いにあり得るであろう。

 それでも先生が最後に放つ「一時事業で失敗しかゝつてゐたやうに他から思はれてゐたのに、此二三年來又急に盛り返して來たといふのも」中学の友人から聞いた叔父の財産横領「疑惑を強く染め付けたものゝ一つ」だったという叙述は確かに疑うには足るものである。と言うか、疑うに足るのはこれ一件と言ってもよいのである(細かいことを言うなら、ここでその友人は「此二三年來」と言っている。先生の財産の代理管理を叔父が本格的に受け持つようになったのはこの時点からは早くても3年弱前である。腸チフスの流行時機は夏から秋であるが、高等学校入学直前として父母の死は3年前の7~8月、法的措置が正式に取り交わされたのが郷里を立つこの時であるとすればである)。微妙な時機である。これが疑惑の決定的証拠とはやはり言えないのではないかという言いも決して排除は出来ないことになる(まるで叔父に雇われたやくざな弁護士が「疑わしきは被告人の利益に!」と主張しているようになって来たな)。天邪鬼に言えば、読者には灰色となるように設定されている痕跡さえ明らかと言えるようにも思えるのである。

「遺憾ながら私は今その談判の顛末を詳しく此處に書く事の出來ない程先を急いでゐます。實をいふと、私は是より以上に、もつと大事なものを控えてゐるのです」こうしたコマ落しは、次の章でも突如現われる。ここで我々は次章冒頭で明言される叔父の財産横領の事実を立証する弁論を全く提示されずに読み進めざるを得ないこととなる。私が裁判員であれば、意義を唱えるところである。何故なら、後はただ、先生の側の一方的な心理変容の叙述を読まされるだけで、そもそも叔父による現実の違法な財産横領があったのかなかったのか、あったとすればそれがどの程度のものであり、その民法上の有責性はどの程度のものであったのかを知ることは、遂に全く出来ないからである。この叙述のブレイクはその点、如何にも『先生』が疑わしい、と言わざるを得ない。私には決して看過出来るものではない。そういう意味で、本テクストの先生の叔父に関わる陳述部分を、私という裁判員が極めて疑いを持って読むこと、再審議の提案をここで強く請求することを、先生も漱石も拒否出来ないと言ってよいのである。

「思想界の奧へ突き進んで行かうとするあなた」そう、それが読者である、そう、あなたなのだ!

「私は冷かな頭で新らしい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きてゐると信じてゐます。血の力で體が動くからです。言葉が空氣に波動を傳へる許りでなく、もつと強い物にもつと強く働き掛ける事が出來るからです」「現に私は昂奮してゐたではありませんか」から引き出されるこの言葉は奇しくも(既に遺書を読んだ「私」が書いているんだから奇しくもないんだが)田舎に帰った「私」の第(二十三)章の以下の部分を髣髴とさせる。

 私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。兩方とも世間から見れば、生きてゐるか死んでゐるか分らない程大人しい男であつた。他に認められるといふ點からいへば何方も零であつた。それでゐて、此將棋を差したがる父は、單なる娯樂の相手としても私には物足りなかつた。かつて遊興のために往來をした覺のない先生は、歡樂の交際から出る親しみ以上に、何時か私の頭に影響を與へてゐた。たゞ頭といふのはあまりに冷か過ぎるから、私は胸と云ひ直したい。肉のなかに先生の力が喰ひ込んでゐると云つても、血のなかに先生の命が流れてゐると云つても、其時の私には少しも誇張でないやうに思はれた。私は父が私の本當の父であり、先生は又いふ迄もなく、あかの他人であるといふ明白な事實を、ことさらに眼の前に並べて見て、始めて大きな眞理でも發見しかたの如くに驚ろいた。

更にここで着目したいのは、「血の力で體が動く」という時の「血」である。これは霊としての魂としての「血」である。「言葉が空氣に波動を傳へる許りでなく、もつと強い物にもつと強く働き掛ける」という時、これは物理的な波動ではなく不可視の「霊波動」、「言霊」の意である。先生は「熱した舌で」語る時、そこには霊や魂が宿る、そうして語られた「平凡な説」は、最早言葉上の陳腐「平凡」を越えて霊の輝きを持っている、そうしてそれを捉(つら)まえた時、人間は真に「生きてゐる」と言えるのだ、と語っている。先生の内なる神秘主義的霊性が語られているところである。しかし、あの会話の文脈の中で「金」のことだ、と言われると……俄然、「私」同様、ぷいっと、したくなる。そうして、このように遺書で詳細に告白されても……私(やぶちゃん)は、やっぱり、ぷいっと、したくなるのである。]

 

 

  先生の遺書

    (六十三)

 「一口でいふと、伯父は私の財産を胡魔化したのです。事は私が東京へ出てゐる三年の間に容易く行なはれたのです。凡てを伯父任せにして平氣でゐた私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません。然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう。

 若し私が伯父の希望通り伯父の娘と結婚したならば、其結果は物質的に私に取つて有利なものでしたらうか。是は考へる迄もない事と思ひます。伯父は策略で娘を私に押し付けやうとしたのです。好意的に兩家の便宜を計るといふよりも、ずつと下卑た利害心に驅られて、結婚問題を私に向けたのです。私は從妹を愛してゐない丈で、嫌つてはゐなかつたのですが、後から考へて見ると、それを斷つたのが私には多少の愉快になると思ひます。胡魔化されるのは何方にしても同じでせうけれども、載せられ方からいへば、從妹を貰はない方が、向ふの思ひ通りにならないといふ點から見て、少しは私の我が通つた事になるのですから。然しそれは殆ど問題とするに足りない些細な事柄です。ことに關係のない貴方に云はせたら、さぞ馬鹿氣(げ)た意地に見えるでせう。

 私と伯父の間に他(た)の親戚のものが這入りました。その親戚のものも私は丸で信用してゐませんでした。信用しないばかりでなく、寧ろ敵視してゐました。私は伯父が私を欺むいたと覺ると共に、他(ほか)のものも必ず自分を欺くに違ひないと思ひ詰めました。父があれ丈賞め拔いてゐた伯父ですら斯うだから、他のものはといふのが私の論理(ロヂツク)でした。

 それでも彼等は私のために、私の所有にかゝる一切のものを纏めて呉れました。それは金額に見積ると、私の豫期より遙に少いものでした。私としては黙つてそれを受け取るか、でなければ伯父を相手取(どつ)て公け沙汰にするか、二つの方法しかなかつたのです。私は憤りました。又迷ひました。訴訟にすると落着迄に長い時間のかゝる事も恐れました。私は修業中のからだですから、學生として大切な時間を奪はれるのは非常の苦痛だとも考へました。私は思案の結果、市に居(を)る中學の舊友に賴んで、私の受け取つたものを、凡て金の形に變へやうとしました。舊友は止した方が得だといつて忠告して呉れましたが、私は聞きませんでした。私は永く故郷を離れる決心を其時に起したのです。伯父の顏を見まいと心のうちで誓つたのです。

 私は國を立つ前に、又父と母の墓へ參りました。私はそれぎり其墓を見た事がありません。もう永久に見る機會も來ないでせう。

 私の舊友は私の言葉通りに取計らつて呉れました。尤もそれは私が東京へ着いてから餘程經つた後の事です。田舍で畠地などを賣らうとしたつて容易には賣れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取つた金額は、時價に比べると餘程少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が懷にして家を出た若干の公債と、後から此友人に送つて貰つた金丈なのです。親の遺産としては固より非常に減つてゐたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、猶心持が惡かつたのです。けれども學生として生活するにはそれで充分以上でした。實をいふと私はそれから出る利子の半分も使へませんでした。此餘裕ある私の學生々活が私を思ひも寄らない境遇に陷し入れたのです。

やぶちゃんの摑み:先生がここで始めて明言する叔父による財産横領への私(やぶちゃん)の疑惑(否定ではない)の提示とその分析は前章までに十分に尽くした。ただ付け加えるならば、私は叔父による財産横領(先生の確認を得ずに行われた財産流用及びそれによる損失の不補填)が実際にあったとして(逆に1円たりとも全くなかった可能性も私は少ないように思う)、叔父自身も他の親族も含めて、それが横領であるという意識はなかったのではないかと考えている。「凡てを伯父任せにして平氣でゐた」と私が言う以上、当時の民法が規定していた最低年一回の親族会への報告義務など、田舎のことであるから酒の席のなあなあで済まされていたと考えてよいし、叔父のみならず親族会も、財産状況報告どころか、財産管理運用に関しては万事叔父の裁量に任せておけばよい、幾許かの金銭ならば一時的に流用してそれが増えれば悪いこっちゃない、ぐらいな理解であったと私は思うのである(これは現在の民法上の訴訟でも「面倒見てやってんだから」という幾等も見受けられる事例であろう)。即ち、犯罪としての罪障感などは、叔父ら(家族及びそれを知っていて黙認していた親族)の内心には微塵もなかった、と私思うのである。そう考えた時、私は、この場面での親族の動きも自然に納得されるのである。だいたいが、東京に行って好き勝手し、夏には帰ってへらへら遊び、そのくせ、従妹との結婚は厭です、あなた方はグルになって私を欺した、「策略で娘を私に押し付けやうとした」「好意的に兩家の便宜を計るといふよりも、ずつと下卑た利害心に驅られて、結婚問題を私に向けた」のだ、なんどと言い出す、頭でっかちの生意気な青書生に味方する人は、田舎でなくても、先生の親族には全くいなかったと断言出来るように思われるのである。更に言えば、民俗的運命共同体としての「ムラ」としての意識が未だ色濃く残っていた当時にあって、こういう人物は「ムラ」を危くする異人として認識され、排除・抹殺されても仕方がない存在であったと言ってもよい。先生は自分から故郷を出たが、実際には故郷を追われたと言ってもよいのである。ここに私が授業で先生を故郷喪失者とする真の所以がある。

「然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」私はこの台詞を、

『「凡てを伯父任せにして平氣でゐた」この「私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません」。が、「記憶して下さい、」これからお話する秘密の過去に纏わる一件を経てしまった後の私、「あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」が、「然しまた何うかして、もう一度あゝいふ生れたままの姿に立ち歸つて生きて見たいといふ心持も起るのです」。』

という意味でとってきた――そして今後もそういう意味で取り続ける。ところが、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」では、どうもそのようには取っておられないように思われる。藤井氏は「塵に汚れた後の私」を(五十九)の「子供らしい私」を“innocent”の訳語的用法とし、ここはそれに対応して、『innocentでなくなった私、というほどの意味だろうか。すぐその前では、innocentであった時代を指して「純な尊い男」とも言っている。』と注されている。即ち、藤井氏は、

『「凡てを伯父任せにして平氣でゐた」この「私は、世間的に云へば本當の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、或は純なる尊い男とでも云へませうか。私は其時の己れを顧みて、何故もつと人が惡く生れて來なかつたかと思ふと、正直過ぎた自分が口惜しくつて堪りません」。――そして私は、叔父に裏切られることによって「子供らしい」「生れたままの」「純な尊い」「姿」を完全に失いました。――「記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は」叔父に裏切られて人を信じられなくなった「塵に汚れた後の私です」。遂に「金に対して人類を疑」(六十六)うようになった――人間を信じられなった――「きたなくなつた」のです「きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」。』

という風に、座標軸をこの郷里出奔の時点に置いた前後として認識しているように読める。……言われてみると、書かれた文章をここだけ取り出して本作を全く知らない人に読ませれば、そのように読むのが自然だとも言えるようにも見える……

……が……しかし、果たして、そうだろうか?

もう一度「記憶して下さい、あなたの知つてゐる私は塵に汚れた後の私です。きたなくなつた年數の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかに貴方より先輩でせう」を、実際に声に出して味わってみて欲しい。

 するとやはりそのような解は不能であるという強い思い湧いてくるのである。そもそも叔父に騙されたここまでの一件は「秘密の過去」でも何でもない。それは幼馴染みのKも、奥さんも、靜も知っていることだ。そんなものを「記憶して下さい」なんどと先生が言うこと自体、おかしい。私には「塵に汚れた後の私」という語は、もっと先生の人生総体の、非常に重い「過去」として、「私」にのしかかって「壓迫」(三十一)してくるのである。

 それは何故か?

 それはが正に『ここ』が先生の遺書の核心部である秘密の過去へ開かれる『門』であるからである。

 実際にこの章の最後の一文「此餘裕ある私の學生々活が私を思ひも寄らない境遇に陷し入れた」という一文がそのことを如実に示している。

 そして何より――「記憶して下さい」――である。

 私は「こゝろ」というと先ずこのフレーズが思い起こされるのである。このフレーズは御承知の通り、もう一度出現する。それが閉じられるもう一つの『門』である――

 記憶して下さい。私は斯んな風にして生きて來たのです。始めて貴方に鎌倉で會つた時も、貴方と一所に郊外を散步した時も、私の氣分に大した變りはなかつたのです。私の後(うしろ)には何時でも黑い影が括(く)ツ付いてゐました。私は妻のために、命を引きずつて世の中を步いてゐたやうなものです。貴方が卒業して國へ歸る時も同じ事でした。九月になつたらまた貴方に會はうと約束した私は、嘘を吐(つ)いたのではありません。全く會ふ氣でゐたのです。秋が去つて、冬が來て、其冬が盡きても、屹度(きつと)會ふ積でゐたのです。

最終章の一つ前第(百九)章の終り近くである。これは極めて重要な部分である。この次の段落で明治天皇が崩御し、乃木の殉死があって、その中で先生の自死が慌しく決せられるのである。この「記憶して下さい」というフレーズは、それが始まる(六十二)の『ここ』から、この(百九)の『ここ』までに係るのだと私は思うのである。即ち、「記憶して下さい」こそが「先生の秘密の過去」という先生の生き血で描いた絵の、荘厳な「額縁」なのである。先生は私に、

これから語り出すことこそ大事だ! ここに、ここまで書かれた秘密の私の過去を記憶せよ!

と命じているのであって、間違えても、

×「下卑た」「叔父」に騙されて汚れてしまった私を記憶せよ!

なんどと言っているのでは毛頭『ない』!

「親の遺産としては固より非常に減つてゐたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、猶心持が惡かつたのです。けれども學生として生活するにはそれで充分以上でした。實をいふと私はそれから出る利子の半分も使へませんでした」前注では藤井氏の注に難癖(謂われなきと反論されるかも知れない)をつけたが、「漱石文学全注釈 12 心」の本章の注では特に「公債」や「それから出る利子」について詳細なデータが示されていて素晴らしい。詳細な計算は該当書を見て欲しいが、ここで藤井氏は、この時点で先生が手にした財産を24,000円と推定されている(月々の生活費を50円とした試算。一般的な標準から考えるともう少し生活費を下げて考えてもよいようにも思われる)。因みに先生は結婚後に、靜の実家の財産と寡婦扶助料(日清戦争で戦死した亡父の未亡人である奥さんに支払われいたと考えられるもので藤井氏の別な箇所の注によれば平均年額145円とある)等に加え、奥さんが持っていた可能性が高いと思われる国債(靜の亡父は軍人であるから海軍公債等)などを合わせ、そこから得られた利子(公債の殆んどが年5分で、償還期間も極めて長かったと藤井氏注にある)をまた新たな公債購入に当てたりし乍ら、財産を膨らまして高等遊民としての元金にしていったものと考えられる。ともかくもここでは、かなりとんでもない小金持ちの――高級マンションに住むような(住めるようなの謂いである)――お洒落でやや気障でさえある(先生は「その時分からハイカラで手数のかゝる編上を穿いて」(八十)いる)帝大生の先生をイメージしなくてはならない。]

 

 

  先生の遺書

    (六十四)

 「金に不自由のない私は、騒々しい下宿を出て、新らしく一戸を構へて見やうかといふ氣になつたのです。然しそれには世帶道具を買ふ面倒もありますし、世話をして呉れる婆さんの必要も起りますし、其婆さんが又正直でなければ困るし、宅を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、と云つた譯で、ちよくら一寸(ちよつと)實行する事は覺束なく見えたのです。ある日私はまあ宅(うち)丈でも探して見やうかといふそゞろ心から、散步がてらに本郷臺を西へ下りて小石川の坂を眞直に傳通院(でんづうゐん)の方へ上がりました。今では電車の通路になつて、あそこいらの樣子が丸で違つてしまひましたが、其頃は左手が砲兵工廠(はうへいかうしやう)の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐたものです。私は其草の中に立つて、何心なく向(むかふ)の崖を眺めました。今でも惡い景色ではありませんが、其頃は又ずつと趣が違つてゐました。見渡す限り緑が一面に深く茂つてゐる丈でも、神經が休まります。私は不圖こゝいらに適當な宅はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を橫切つて、細い通りを北の方へ進んで行きました。今日(こんにち)でも好(い)い町になり切れないで、がたぴししてゐる彼(あ)の邊(あたり)の家並は、其頃の事ですから隨分汚ならしいものでした。私は露次を拔けたり、橫丁を曲つたり、ぐる/\步き廻りました。仕舞に駄菓子屋の上さんに、こゝいらに小じんまりした貸家(かしや)はないかと尋ねて見ました。上さんは「左右ですね」と云つて、少時(しばらく)首をかしげてゐましたが、「かし家(や)はちよいと‥‥」と全く思ひ當らない風でした。私は望のないものと諦らめて歸り掛けました。すると上さんが又、「素人(しらうと)下宿ぢや不可ませんか」と聞くのです。私は一寸氣が變りました。靜かな素人屋に一人で下宿してゐるのは、却つて家を持つ面倒がなくつて結構だらうと考へ出したのです。それから其駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教へてもらひました。

 それはある軍人の家族、といふよりも寧ろ遺族、の住んでゐる家でした。主人は何でも日淸戰爭の時か何かに死んだのだと上さんが云ひました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官學校の傍とかに住んでゐたのだが、厩(うまや)などがあつて、邸が廣過ぎるので、其處を賣り拂つて、此處へ引つ越して來たけれども、無人(ぶにん)で淋しくつて困るから相當の人があつたら世話をして呉れと賴まれてゐたのださうです。私は上さんから、其家には未亡人(びばうじん)と一人娘と下女より外にゐないのだといふ事を確かめました。私は閑靜で至極好からうと心の中に思ひました。けれどもそんな家族のうちに、私のやうなものが、突然行つた處で、素性の知れない書生さんといふ名稱のもとに、すぐ拒絶されはしまいかといふ懸念もありました。私は止さうかとも考へました。然し私は書生としてそんなに見苦しい服裝(なり)はしてゐませんでした。それから大學の制帽を被つてゐました。あなたは笑ふでせう、大學の制帽が何うしたんだと云つて。けれども其頃の大學生は今と違つて、大分世間に信用のあつたものです。私は其塲合此四角な帽子に一種の自信を見出した位(くらゐ)です。さうして駄菓子屋の上さんに教はつた通り、紹介も何もなしに其軍人の遺族の家を訪ねました。

 私は未亡人に會つて來意を告げました。未亡人は私の身元やら學校やら專門やらに就いて色々質問しました。さうして是なら大丈夫だといふ所を何處かに握づたのでせう、何時でも引つ越して來て差支ないといふ挨拶を即坐に與(あたへ)て呉れました。未亡人は正しい人でした、又判然(はつきり)した人でした。私は軍人の妻君といふものはみんな斯んなものかと思つて感服しました。感服もしたが、驚ろきもしました。此氣性で何處が淋しいのだらうと疑ひもしました。

やぶちゃんの摑み:本格的に先生の秘密の過去へと入る導入部である。「今日でも好い町になり切れないで、がたぴししてゐる」「隨分汚ならしい」町の「露次を拔けたり、橫丁を曲つたり、ぐる/\步き廻」る。再び「ぐる/\」と円運動をする先生――そして――太田豊太郎にとってのクロステル街のような、女だけの世界――奥さん・御嬢さん・下女――母性性・女性性・子宮の襞へと入り込んでゆく先生の後姿が見える。

 これからの重要な舞台となるこの素人下宿は何処にあったか? 先生の遺書を仔細に読み解いて見ると、それはかなり狭い範囲に絞り込むことが可能である。同定のための絞込み作業の過程は省略するが、私はこの下宿は富坂の中程の北にある中富坂町の中央部から北側を東西に走る堀坂の間にあったと考えている。以下、後に作製した第(八十七)回の摑みからこの下宿近辺の地図について叙述した部分そのままコピー・ペーストしておく。やや意味が繋がらない部分は、第(八十七)回を通読されたい。

――そして私は遂にネット上で誰もが自由に拡大縮小して見られる明治時代のここの地図を発見した!

「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」内の明治161883)年参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」(現所蔵番号:YG/1/GC67/To 002275675)である。

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-15.html

(注:「国際日本文化研究センター」は原則HP以外へのリンクを禁じているので以上のアドレス表示に留める。これをコピーしてアドレスに入れれば表示される)

これを拡大して見ると、

蒟蒻閻魔源覚寺の東は斜面に茶畑が広がる広大な個人の邸宅

であることが分かる。私が想定している本作中時間は明治311898)年頃であるが、明治421909)年の東京1万分の1地形図でも依然としてこの邸宅は残っている(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」付録地図等参照)。更に拡大してこの明治16年地図を仔細に見ると、

「寺覚源」の「寺」の字の右、墓の西に標高7.8 m

のマークがあり、そこから南へ大邸宅の茶畑の下の小路を南へ移動すると、

邸宅の垣根の東南の角に出、ここは標高9.2m、ここがこの道の最高地点

であることが分かる。先生はここを通った。だから「細い坂路を上つて」と言っているのである。この地点から南の方には先生の下宿はない。何故か? さっき言った通り、ここが最高地点で、ここから南のルートは坂を下る(砲兵工廠方向へ)からである。先生は

「細い坂路を上つて宅へ歸りました」

と言っているのであってみれば、更に

邸宅の垣根の東南の角標高9.2 m地点から西の坂を登ったすぐの南辺りに下宿はあった

(北は大邸宅の石垣又は壁であるからあり得ない)と考えるべきではあるまいか。この地図上の等高線を見ても、ここはかなりの高台となっており、源覚寺の南の善雄寺から西に伸びる坂の頂点、この大邸宅の西南の角の部分(既に小石川上富坂町内になる)は標高が21.2mもある。

先生の下宿――それは例えば、この地図の

標高17.0mマーク近辺、大邸宅の石垣の向かい辺り、「小石川中富坂町」と書かれた地名の「中」の字の辺りにあった

と想定してみても決して強引ではないのではあるまいか。

そして上記の地図上で中富坂町から南に下った地点「坂富西」の「坂」の字の右上の地点で標高15.77mを見つけてほしい。そしてそこからもう少し登った標高20.05mの北にある荒地をみつけてほしい。こここそ本章で「其頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐたものです。私は其草の中に立つて、何心なく向の崖を眺めました。今でも惡い景色ではありませんが、其頃は又ずつと趣が違つてゐました。見渡す限り緑が一面に深く茂つてゐる丈でも、神經が休まります。私は不圖こゝいらに適當な宅はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を橫切つて、細い通りを北の方へ進んで行きました。」とある「右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐた」場所なのである。

♡「傳通院」文京区小石川3-14-6にある浄土宗寺院。当時、高等師範学校英語嘱託であった28歳の夏目漱石は明治271894)年10月から翌年4月に松山の中学校に赴任する迄、小石川区表町七十三番地(現在の文京区小石川3-5-4)伝通院の西脇に付随した尼寺法蔵院(宝蔵院)に下宿している。この頃の漱石は神経衰弱で関係妄想や幻覚が著しかった時期で、数々の奇行が知られている。また、この3年前の明治241991)年7月17日には以前から心惹かれていたある女性と行きつけの眼科医で出会い、衝撃と激しい恋情を催したり(当時の正岡子規宛書簡による。3年後のこの伝通院下宿時期にも毎日のようにこの眼科へ通院していた)、また、この7月下旬には兄和三郎の妻登世(とせ)が重い悪阻のために死去したが、彼女への「悼亡」句を実に十三句も残しており、江藤淳は漱石がこの義姉登世に対しても、ある種の恋愛感情を抱いていたとしている(以上は主に集英社昭和491974)年刊の荒正人「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」等に依った)。

♡「砲兵工廠」東京砲兵工廠は日本陸軍の兵器製造工場。以下、ウィキの「東京砲兵工廠」より引用する。『1871年(明治4年)から1935年(昭和10年)にその機能を小倉工廠に移転するまで操業し、小銃を主体とする兵器の製造を行った。また、官公庁や民間の要望に応えて、兵器以外のさまざまな金属製品も製造した』。(中略)『18703月(旧暦)、造兵司は東京の旧幕府営の関口製造所と滝野川反射炉を管轄とし、それらの設備を元に東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡(元後楽園遊園地)に建設し、1871年に火工所(小銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業が開始された。後に板橋火薬製造所・岩鼻火薬製造所・十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場を管下においた』。

(中略)『1879年(明治12年)「砲兵工廠条例」(陸軍省達乙第79号達)の制定に伴って、1010日陸軍省達乙74号より「東京砲兵工廠」となり、1923年(大正12年)41日より施行された「陸軍造兵廠令」(大正12330日勅令第83号)によって、大阪砲兵工廠と合併し「陸軍造兵廠火工廠東京工廠」と改称し』ている。その後は『同年9月1日の関東大震災によって甚大な被害を受けたあと、小石川工場の本格的な復旧には多大な経費が必要なことから、造兵廠長官の直轄であった小倉兵器製造所への集約移転が図られ、1931年(昭和6年)から逐次、小倉へ移転が実施された。1933年(昭和8年)10月、小倉兵器製造所は小倉工廠となり、兵器製造所に加え砲具製造所・砲弾製造所を増設。193510月、東京工廠は小倉工廠へ移転を完了し、約66年間の歴史の幕を閉じた。跡地は払い下げられ、後楽園球場となった』。『現在、小石川後楽園内には砲兵工廠の遺構がいくつか保存されており、また工廠敷地の形状をかたどった記念碑も設置されている』。――雨上がりの泥だらけの富坂……Kと靜に出逢う先生……その視線の左手……武器の製造工場……戦争……先生とK……。戦争と「こゝろ」!――私の教え子の「こゝろ」論の一つ「トゥワイス・ボーン」をお読みあれ!

♡「右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐた」ここが何故空地であったかは、江戸時代の切絵図を見ると判然とする。火除け地であったからである。

♡「私は露次を拔けたり、橫丁を曲つたり、ぐる/\步き廻りました」「心」の中の謎の円運動の一つの写像の内、遺書に表れる先生の実際行動の円運動の初出部分である。

「未亡人(びばうじん)」このルビは誤植ではない。この時代は「みばうじん」「びばうじん」両様の読みが用いられていた。因みに「未亡人」と言う語は本来、夫と共に死ぬべき存在なのに未だに死なない女の意で、元来は自称の卑語であった。

♡「主人は何でも日淸戰爭の時か何かに死んだのだ」この駄菓子屋の上さんの言は特に後で補正されないところを見ると、軍人であった奥さんの夫は日清戦争(明治271894)年7月~明治281895)年3月)で戦死していると断定してよい。

♡「厩などがあつて、邸が廣過ぎる」この叙述から若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」によれば、亡夫は陸軍の佐官級(大佐・中佐・少佐)であったか、若しくは将官(大将・中将・少将)であった可能性もないとは言えないとする。

♡「未亡人は正しい人でした、又判然した人でした。私は軍人の妻君といふものはみんな斯んなものかと思つて感服しました。感服もしたが、驚ろきもしました。此氣性で何處が淋しいのだらうと疑ひもしました」何だか猫の「我輩」か「坊つちやん」の坊ちゃんが出て来たみたようなシーンで、面白い。「正しい人でした」は私には奇異な言葉遣い、「判然した人でした」は女はうじうじして「はつきり」しない人種という女性蔑視、「感服もしたが、驚ろきもし」、「此氣性で何處が淋しい」もんか「と疑ひもし」た――ちょっと息抜きしているように『見える』……いや! 違う……気づかねばならぬ……

奥さんは「正しい人」であり

奥さんは「判然(はつきり)した人」であり

奥さんは果断に富んだ「氣性」の持主

なのである。そんな奥さんに――正しく判然としないこと――など、ない。

……この奥さんこそ本作中にあって鮮やかに唯一「正しい」「判然」とした判断を下している人物なのではあるまいか?

……靜の母=「奥さん」は実は本作中にあって『何もかも総てを知っていて「正しい」「判然」とした判断を下している人物』なのではあるまいか?!……]

 

 

  先生の遺書

    (六十五)

 私は早速其家へ引き移りました。私は最初來た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。其處は宅中(うちぢう)で一番好(い)い室でした。本郷邊に高等下宿といつた風の家がぽつ/\建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い間の樣子を心得てゐました。私の新らしく主人となつた室は、それ等よりもずつと立派でした。移つた當座は、學生としての私には過ぎる位(くらゐ)に思はれたのです。

 室の廣さは八疊でした。床の橫に違ひ棚があつて、緣と反對の側には一間(けん)の押入が付いてゐました。窓は一つもなかつたのですが、其代り南向の緣に明るい日が能く差しました。

 私は移つた日に、其室の床に活けられた花と、其橫に立て懸けられた琴を見ました。何方(どつち)も私の氣に入りませんでした。私は詩や書や煎茶を嗜なむ父の傍(そば)で育つたので、唐めいた趣味を小供のうちから有つてゐました。その爲でもありませうか、斯ういふ艶めかしい裝飾を何時の間にか輕蔑する癖が付いてゐたのです。

 私の父が存生(ぞんしやう)中にあつめた道具類は、例の伯父のために滅茶々々にされてしまつたのですが、夫でも多少は殘つてゐました。私は國を立つ時それを中學の舊友に預かつて貰ひました。それから其中で面白さうなものを四五幅裸にして行李の底へ入れて來ました。私は移るや否や、それを取り出して床へ懸けて樂しむ積でゐたのです。所が今いつた琴と活花を見たので、急に勇氣がなくなつて仕舞ひました。後から聞いて始めて此花が私に對する御馳走に活けられたのだといふ事を知つた時、私は心のうちで苦笑しました。尤も琴は前から其處にあつたのですから、是は置き所がないため、己(やむ)を得ず其儘に立て懸けてあつたのでせう。

 斯んな話をすると、自然其裏に若い女の影があなたの頭を掠めて通るでせう。移つた私にも、移らない初からさういふ好奇心が既に動いてゐたのです。斯うした邪氣が豫備的に私の自然を損なつたためか、又は私がまだ人慣れなかつたためか、私は始めて其處の御孃さんに會つた時、へどもどした挨拶をしました。其代り御孃さんの方でも赤い顏をしました。

 私はそれ迄未亡人の風采や態度から推して、此御孃さんの凡てを想像してゐたのです。然し其想像は御孃さんに取つてあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからあゝなのだらう、其妻君の娘だから斯うだらうと云つた順序で、私の推測は段々延びて行きました。所が其推測が、御孃さんの顏を見た瞬間に、悉く打ち消されました。さうして私の頭の中へ今迄想像も及ばなかつた異性の匂が新らしく入つて來ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。

 其花は又規則正しく凋れる頃になると活け更へられるのです。琴も度々鍵の手に折れ曲がつた筋違(すぢかひ)の室に運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に頰杖を突きながら、其琴の音を聞いてゐました。私には其琴が上手なのか下手なのか能く解らないのです。けれども餘り込み入つた手を彈かない所を見ると、上手なのぢやなからうと考へました。まあ活花の程度位なものだらうと思ひました。花なら私にも好く分るのですが、御孃さんは決して旨い方ではなかつたのです。

 それでも臆面なく色々の花が私の床を飾つて呉れました。尤も活方は何時見ても同じ事でした。それから花瓶(くわへい)もついぞ變つた例がありませんでした。然し片方の音樂になると花よりももつと變でした。ぽつん/\糸を鳴らす丈で、一向肉聲を聞かせないのです。唄はないのではありませんが、丸で内所話でもするやうに小さな聲しか出さないのです。しかも叱られると全く出なくなるのです。

 私は喜んで此下手な活花(いけはな)を眺めては、まづさうな琴の音に耳を傾(かたぶ)けました。

[♡やぶちゃんの摑み:舞台となる家屋の詳細な推定間取りを以下に公開する。これは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の271ページ、Kを自分の下宿に引き取る「こゝろ」「下 先生と遺書」の「二十三」、「心」第(七十七)回相当の冒頭「私の座敷には控への間といふやうな四疊が附屬して居ました」の「控への間」の注に『間取り例』として画像掲載されている明治431910)年12月8日付『朝日新聞』「時代の家屋(十)」掲載の間取りの例を参考に、私が手を加えて作図したものである。私の妻(さい)や建築会社に勤務する知人の助言も参考にした。

なお、上の通り、ここから第(七十一)回迄の7回分の飾罫は明らかに今迄のものとは異なり、有意に痩せてたものが用いられている。

♡「高等下宿」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は西山卯三「すまい考今学――現代日本住宅史」(彰国社1989年刊)から引用して「木造二階建で、日露戦争後の一九〇五年の建設、五本の二〇センチ角の大黒柱を上下につらぬく頑丈な建築で、当初は地方の金持ち息子や留学生の泊まる高等下宿であった」「本郷館」という高等下宿の存在を示されている。それは部屋も六畳から九畳と一般的な下宿屋に比べると広く、また明治451912)年7月15日付『朝日新聞』の「下宿の四苦八苦」という記事の引用には、「高等下宿を標榜して居るもの」「高等下宿と称して居る処」(これは、「という紛い下宿が」という含みであろう)が至るところにあったと注されている。この家はこの前者の真正高等下宿よりも、使用されている建具や雰囲気が遙かに高級であることを示している。

♡「私はそれ迄未亡人の風采や態度から推して、此御孃さんの凡てを想像してゐたのです。然し其想像は御孃さんに取つてあまり有利なものではありませんでした。軍人の妻君だからあゝなのだらう、其妻君の娘だから斯うだらうと云つた順序で、私の推測は段々延びて行きました。所が其推測が、御孃さんの顏を見た瞬間に、悉く打ち消されました。さうして私の頭の中へ今迄想像も及ばなかつた異性の匂が新らしく入つて來ました。私はそれから床の正面に活けてある花が厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました」ここは先生が靜に一目惚れを我々に告白するシーンである。如何にも余裕派時代を髣髴とさせる漱石の語りである。若き日の私などはここで失笑してしまった。――だって、これって先生が、

『……ありゃ、悪いけどへちゃむくれの男みたようなオバサンだからな……あの面相を母親に持った娘なんだよな……軍人の娘でさ、この男みたような軍神の妻の人柄の娘でさ……こりゃ、とてもとても、期待は、出来んな……』

と思ってた。ところが! すっごい美人だったからびっくらこいた!……と述べているのだから――。また、ここでは(六十一)という不快な叔父の裏切りの中で喚起された初恋の女の面影が暗に比較されて、申し分なく靜が遙かに美しいという無言の支持がなされているのであろう。しかしそうした言辞が全くないことから、その結果として読者は先生の初恋をここに、靜が初恋の相手であるかの如くに、錯誤してしまうのである。

なお、私はこれを明治311898)年頃で、先生は満20歳、靜は1617歳と推定している。即ち御嬢さんの出生は明治141881)年前後となる。

♡「私は喜んで此下手な活花を眺めては、まづさうな琴の音に耳を傾けました」上手い台詞である。この日、大正3(1914)年6月27日土曜日のこの「心」の連載を読んだ男どもの多くは、一日中、多かれ少なかれ心の何処かで、初恋の頃の自分の気持ちを思い出して独り蔭で微苦笑していたに違いない――。]

 

 

  先生の遺書

    (六十六)

 「私の氣分は國を立つ時既に厭世的になつてゐました。他(ひと)は賴りにならないものだといふ觀念が、其時骨の中迄染み込んでしまつたやうに思はれたのです。私は私の敵視する伯父だの叔母だの、その他の親戚だのを、恰も人類の代表者の如く考へ出しました。汽車へ乘つてさへ隣のものゝ樣子を、それとなく注意し始めました。たまに向から話し掛けられでもすると、猶の事警戒を加へたくなりました。私の心は沈鬱でした。鉛を呑んだやうに重苦しくなる事が時々ありました。それでゐて私の神經は、今云つた如くに鋭どく尖つて仕舞つたのです。

 私が東京へ來て下宿を出やうとしたのも、是が大きな源因になつてゐるやうに思はれます。金に不自由がなければこそ、一戸(こ)を構へて見る氣にもなつたのだと云へばそれ迄ですが、元の通り私ならば、たとひ懷中(ふところ)に餘裕が出來ても、好んでそんな面倒な眞似はしなかつたでせう。

 私は小石川へ引き移つてからも、當分此緊張した氣分に寛ぎを與へる事が出來ませんでした。私は自分で自分が耻づかしい程、きよと/\周圍を見廻してゐました。不思議にもよく働らくのは頭と眼だけで、口の方はそれと反對に、段々動かなくなつて來ました。私は家のものゝ樣子を猫のやうによく觀察しながら、黙つて机の前に坐つてゐました。時々は彼等に對して氣の毒だと思ふ程、私は油斷のない注意を彼等の上に注いでゐたのです。おれは物を偸まない巾着切(きんちやくきり)見たやうなものだ、私は斯う考へて、自分が厭になる事さへあつたのです。

 貴方は定めて變に思ふでせう。其私が其處の御孃さんを何うして好(す)く餘裕を有つてゐるか。其御孃さんの下手な活花を、何うして嬉しがつて眺める餘裕があるか。同じく下手な其人の琴を何うして喜こんで聞く餘裕があるか。さう質問された時、私はたゞ兩方とも事實であつたのだから、事實として貴方に教へて上けるといふより外に仕方がないのです。解釋は頭のある貴方に任せるとして、私はたゞ一言(ごん)付け足して置きませう。私は金に對して人類を疑ぐつたけれども、愛に對しては、まだ人類を疑はなかつたのです。だから他(ひと)から見ると變なものでも、また自分で考へて見て、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平氣で兩立してゐたのです。

 私は未亡人(びぼうじん)の事を常に奥さんと云つてゐましたから、是から未亡人と呼ばずに奥さんと云ひます。奥さんは私を靜かな人、大人しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めて呉れました。けれども私の不安な眼つきや、きよと/\した樣子については、何事も口へ出しませんでした。氣が付かなかつたのか。遠慮してゐたのか、どつちだかよく解りませんが、何しろ其處には丸で注意を拂つてゐないらしく見えました。それのみならず、ある塲合に私を鷹揚な方だと云つて、さも尊敬したらしい口の利き方をした事があります。其時正直な私も少し顏を赤らめて、向ふの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で氣が付かないから、左右御仰るんです」と眞面目に説明して呉れました。奥さんは始め私のやうな書生を宅へ置く積ではなかつたらしいのです。何處かの役所へ勤める人か何かに坐敷を貸す料簡で、近所のものに周旋を賴んでゐたらしいのです。俸給が豐でなくつて、己(やむ)を得ず素人屋に下宿する位の人だからといふ考へが、それで前かたから奥さんの頭の何處かに這入(はいつ)てゐたのでせう。奥さんは自分の胸に描いた其想像の御客と私とを比較して、こつちの方を鷹揚だと云つて褒めるのです。成程そんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金錢にかけて、鷹揚だつたかも知れません。然しそれは氣性の問題ではありませんから、私の内生活に取つて殆ど關係のないのと一般(はん)でした。奥さんはまた女丈にそれを私の全體に推廣(おしひろ)げて、同じ言葉を應用しやうと力(つとめ)るのです。

[♡やぶちゃんの摑み:

♡「私の氣分は國を立つ時既に厭世的になつてゐました。他は賴りにならないものだといふ觀念が、其時骨の中迄染み込んでしまつたやうに思はれたのです。私は私の敵視する伯父だの叔母だの、その他の親戚だのを、恰も人類の代表者の如く考へ出しました。汽車へ乘つてさへ隣のものゝ樣子を、それとなく注意し始めました。たまに向から話し掛けられでもすると、猶の事警戒を加へたくなりました。私の心は沈鬱でした。鉛を呑んだやうに重苦しくなる事が時々ありました。それでゐて私の神經は、今云つた如くに鋭どく尖つて仕舞つたのです」統合失調症の初期症状に似ている。また直後に「私は自分で自分が耻づかしい程、きよと/\周圍を見廻してゐました。不思議にもよく働らくのは頭と眼だけで、口の方はそれと反對に、段々動かなくなつて來ました。私は家のものゝ樣子を猫のやうによく觀察しながら、黙つて机の前に坐つてゐました。時々は彼等に對して氣の毒だと思ふ程、私は油斷のない注意を彼等の上に注いでゐたのです。おれは物を偸まない巾着切見たやうなものだ、私は斯う考へて、自分が厭になる事さへあつたのです」とあるのは関係妄想(被害妄想や視線恐怖)や強迫神経症様症状(この遺書の記載時ではなく、当時の先生自身に一定の病識が認められるような感じがする点では統合失調症ではなく、こちらのようにも思われる)が精神医学の症例のように示される。

♡「私が東京へ來て下宿を出やうとしたのも、是が大きな源因になつてゐるやうに思はれます」続く遺書を読んで見て、初めて了解されることであるが、この時、先生はKと同じ部屋に一緒に下宿している(場所は不明であるが、漱石の場合は東京人であるが東京大学予備門予科に入学(明治171884)年9月)後の翌年前後に十人程の友人と神田区猿楽町(現在の千代田区猿楽町)の末富屋に下宿しているのが一つのヒントとなりそうではある。ここからなら富坂辺りにぶらりと貸し家探しに来れる近距離である)。第(七十四)回で「私が東京へ來て下宿を出やうとした」時と同時間のシーンがやや違ったアングルから描かれる。

私の郷里で暮らした其二ヶ月間が、私の運命にとつて、如何に波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と幽鬱と孤獨の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入つて又Kに逢ひました。すると彼の運命も亦私と同樣に變調を示してゐました。彼は私の知らないうちに、養家先へ手紙を出して、此方から自分の詐(いつはり)を白狀してしまつたのです。(以下略)

この後、Kの養子縁組解消から復籍迄が、凡そ年1年弱の期間で描写される。その間、Kとの絡みの中での先生の行動は示されるものの、そのKの復籍事件間のどの時点で、先生がKと別れてここに住まいを移したかは語られない。先生の物謂いから判断するに、感触では東京へ帰ってKの変調を知った直後(1~2ヶ月以内)のようには見受けられる。一見、窮地に陥ったKへの思いやりに欠けるように見受けられる行動ではあるが、Kの独立独歩自律自戒の禁欲的精神からも、またそれをよく理解していた先生――そして先生自身も疑心暗鬼から来る激しい人間不信(厭人傾向)に陥っていた――を考えれば、互いに少し一人になって考えてみる必要もあろうと考えて不思議ではない。また、先生としても小説としても、ここでKの存在を持ち出してしまうと、却って分かり難くなるから避けたと考えてよい。Kは経済状況が急迫し、直ぐにでもアルバイトを始めなければ生活が立ち行かなくなっていたから、生活時間も悩める小金持ちの先生とは真逆となり、二人で生活することは物理的に難しくなったものと容易に判断もされるのである。

♡「元の通り私ならば」「元の通りの私ならば」の「の」の脱字。

♡「貴方は定めて變に思ふでせう。其私が其處の御孃さんを何うして好く餘裕を有つてゐるか。其御孃さんの下手な活花を、何うして嬉しがつて眺める餘裕があるか。同じく下手な其人の琴を何うして喜こんで聞く餘裕があるか。さう質問された時、私はたゞ兩方とも事實であつたのだから、事實として貴方に教へて上けるといふより外に仕方がないのです。解釋は頭のある貴方に任せるとして、私はたゞ一言付け足して置きませう。私は金に對して人類を疑ぐつたけれども、愛に對しては、まだ人類を疑はなかつたのです。だから他から見ると變なものでも、また自分で考へて見て、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平氣で兩立してゐたのです」我々はアンビバレントな感情がコンプレクス(心的複合)として心に共時的に両在することを殊更に他者に説明することは不可能である。逆にそのような二律背反の共存は通常の人間一般にとって当たり前に存在し、それは決して異常で理解不能なことでは、ない、はずである。にも拘らず、先生はそれに理由付けを必要とした(それは「私」の持つ違和感を深読みし過ぎたとも言える。「私」という人間を見損なっているとも言えるように私は思う)。その理由が問題である。

私は『金』に対して人類を疑ぐった。最早、決して信頼することはない。

が、

私は『愛』に対しては未だ人類を疑ぐってはいなかった。

である。いや、直ちにこの命題は以下の発展命題の真であることを証明する。即ち、

私は『愛』に対しては未だ人類を疑ぐってはいなかったし、今、この遺書を書いている現在も私は『愛』に対して疑ってはいないのだ――だから愛する『人』を私は信頼している。即ち――現在の靜も、そして誰よりも君を――。

と先生は言っているのである。いや、この発展命題を厳密提示するなら、そこに必要条件が見えてくる。

『金』という概念から君たちが完全に遮断されていること、別乾坤にあることを条件として、私は現在の靜も、そして誰よりも君を『愛』する。

という命題である。これは厳しい言明であり、物凄い枷である。いや、それは先生自身にとってもである。先生は何事もこのような二項対立の中に自身を追い込んでしまう。そのように考えることが自他に対して分かりよいと安易に考える傾向にある。それが先生を生地獄へと導く導火線であるように私には思われるのである。

そして漱石と『金』に纏わる精神変調と言えば、ズバリ、ロンドン留学帰朝後4日目(1月28日か)に漱石がやらかした異常行動が直ぐに浮かぶ。火鉢にあたっていた満4歳にもならぬ長女の筆を、いきなり殴りつけたのである。コンパクトに纏められた平井富雄「神経症夏目漱石」(福武書店1990年刊)から引用する(「漱石の思い出」の引用は底本では全体が二字下げ)。

   《引用開始》

 この事件について、鏡子夫人は次のように説明している。

 「ロンドンにいた時の話、ある日街を散歩していると一乞食が哀っぽく金をねだるので一銅貨を出して手渡してやりましたそうです。するとかえって来て便所に入ると、これ見よがしにそれと同じ銅貨が一枚便所の窓にのっているというではありませんか。小癪(こしゃく)な真似をする、常々下宿の主婦(かみ)さんは自分のあとをつけて探偵のようなことをしていると思ったら、やっぱり推定通り自分の行動を細大洩らさず見ているのだ。しかもそのお手柄を見せびらかしでもするように、これ見よがしに自分の目につくところへのっけておくとは何といういやな婆さんだ。実に怪しからん奴だと憤慨したことがあったそうですが、それと同じような銅貨が、同じくこれ見よがしに火鉢のふちにのっけてある。いかにも人を莫迦(ばか)にした怪(け)しからん子供だと思って、一本参ったというのですから変な話です。私も妙なことをいう人だなと思いましたが、それなり切りでこの事ほ終ってしまいました」(『漱石の思い出』)

 これを、そのまま素直に受けとるなら、漱石は「被害的追跡妄想」に襲われていた、ということになる。しかし、愛する子供が火鉢にあたり、そこに銅貨一枚があったとしても、ここは日本の自分の家庭だという現実認識が働いたなら、娘を唐突に「一本参らせる」ことはまずあるまい。

 したがって、漱石はロンドンの異常体験を、東京へも持ちこんでしまい、両者の区別が現実に出来ていなかったほど頭が混乱していた、と取るのがまず妥当と言うべきであろう。あとは、陰うつ、悔恨、自罪感、空白感、不機嫌などの抑うつ的気分が、つい抑え切れなかったあげくの病癖と解して良いのではあるまいか。乞食や銅貨について云々のところは、後に漱石が自らの奇行を弁明するために鏡子夫人に語った事のように思われてならない。それほど、帰朝直後、漱石はロンドン生活における悪い体験を、漠然とでもなおかかえ続けていたのであろう。そうして、それほど、当時の漱石の気分は、抑うつが深く、かつ罪責感情の拡がっていたことを、この事件からぼくら知るのである。

   《引用終了》

なお、平井氏はロンドン時代の漱石を神経衰弱から進行した鬱病であったのではないかと推定されておられる。

♡「鷹揚」鷹が高い空を悠然と飛ぶ様から、小さなことに拘らず、ゆったりとしている様。おっとりとして上品な様。挙止動作が落ち着いていて、寛大な心の持主である様を言う。大らか。

♡「這入(はいつ)てゐた」の「つ」のルビは底本では上を左にして転倒している。

♡「奥さんはまた女丈にそれを私の全體に推廣げて、同じ言葉を應用しやうと力るのです」……先生、あなたは女を見縊り過ぎてゐますよ……特に奥さんを……奥さんはそんな単純じゃありません……そのようにお目出度く単細胞に振舞っているだけですよ……。]

 

 

  先生の遺書

    (六十七)

 「奥さんの此態度が自然私の氣分に影響して來ました。しばらくするうちに、私の眼(め)はもと程きよろ付かなくなりました。自分の心が自分の坐つてゐる所に、ちやんと落付いてゐるやうな氣にもなれました。要するに奥さん始め家のものが、僻(ひが)んだ私の眼や疑ひ深い私の樣子に、てんから取り合はなかつたのが、私に大きな幸福を與へたのでせう。私の神經は相手から照り返して來る反射のないために段々靜まりました。

 奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風に取り扱つて呉れたものとも思はれますし、又自分で公言する如く、實際私を鷹揚だと觀察してゐたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それ程外へ出なかつたやうにも考へられますから、或は奥さんの方で胡魔化されてゐたのかも解りません。

 私の心が靜まると共に、私は段々家族のものと接近して來ました。奥さんとも御孃さんとも笑談(ぜうだん)を云ふやうになりました。茶を入れたからと云つて向ふの室へ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買つて來て、二人(ふたにん)を此方へ招いたりする晩もありました。私は急に交際の區域が殖えたやうに感じました。それがために大切な勉強の時間を潰される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には一向邪魔にならなかつたのです。奥さんはもとより閑人(ひまじん)でした。御孃さんは學校へ行く上に、花だの琴だのを習つてゐるんだから、定めて忙がしからうと思ふと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に餘裕を有つてゐるやうに見えました。それで三人は顏さへ見ると一所に集まつて、世間話をしながら遊んだのです。

 私を呼びに來るのは、大抵御孃さんでした。御孃さんは緣側を直角に曲つて、私の室の前に立つ事もありますし、茶の間を拔けて、次の室(へや)の襖の影から姿を見せる事もありました。御孃さんは、其處へ來て一寸留まります。それから屹度私の名を呼んで、「御勉強?」と聞きます。私は大抵六づかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めてゐましたから、傍(はた)で見たらさぞ勉強家のやうに見えたのでせう。然し實際を云ふと、夫程熱心に書物を研究してはゐなかつたのです。頁(ページ)の上に眼は着けてゐながら、御孃さんの呼びに來るのを待つてゐる位(くらゐ)なものでした。待つてゐて來ないと、仕方がないから私の方で立ち上るのです。さうして向ふの室の前へ行つて、此方から「御(ご)勉強ですか」と聞くのです。

 御孃さんの部屋は茶の間と續いた六疊でした。奥さんはその茶の間にゐる事もあるし、又御孃さんの部屋にゐる事もありました。つまり此二つの部屋は仕切があつても、ないと同じ事で、親子二人が往つたり來たりして、どつち付かずに占領してゐたのです。私が外から聲を掛けると、「御這人(おはいん)なさい」と答へるのは屹度(きつと)奥さんでした。御孃さんは其處にゐても滅多に返事をした事がありませんでした。

 時たま御孃さん一人で、用があつて私の室へ這入つた序(ついで)に、其處に坐つて話し込むやうな塲合も其内に出て來ました。さういふ時には、私の心が妙に不安に冒されて來るのです。さうして若い女とたゞ差向ひで坐つてゐるのが不安なのだとばかりは思へませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るやうな不自然な態度が私を苦しめるのです。然し相手の方は却つて平氣でした。これが琴を浚(さら)ふのに聲さへ碌(ろく)に出せなかつたあの女かしらと疑はれる位、耻づかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をする丈で、容易に腰を上げない事さへありました。それでゐて御孃さんは決して子供(ことも)ではなかつたのです。私の眼には能くそれが解つてゐました。能く解るやうに振る舞つて見せる痕迹さへ明かでした。

[♡やぶちゃんの摑み:今回の「摑み」には先生の遺書のフェイク私の私小説「御孃さんと私」を入れ込んである。お楽しみあれ。

♡「奥さんは心得のある人」やや分かり難い表現であるが、亡き軍人であった夫の細君として万事に気の利いた内助の功を発揮しててきたと思われるといった生活史から類推されるところの、気配りのある、気の利いた、万事呑み込みが早いタイプの女性であった、という意味であろう。

♡「わざと私をそんな風に取り扱つて呉れたものとも思はれますし、又自分で公言する如く、實際私を鷹揚だと觀察してゐたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それ程外へ出なかつたやうにも考へられますから、或は奥さんの方で胡魔化されてゐたのかも解りません」……いいえ、先生、絶対に前者なのですよ。奥さんは何もかも分かつてゐる呑み込みの早い「心得のある人」なのです……先から言つてゐるでせう、あなたは女を見縊り過ぎです……。

♡「時たま御孃さん一人で、用があつて私の室へ這入つた序に、其處に坐つて話し込むやうな塲合も其内に出て來ました」この部分、現在の高校生ではややピンとは来ないのではないか、という気もするので一言付け加えておきたい。この私が若き日に「こゝろ」を読んだ時、著作当時の社会道徳・男女観からして、既にしてこの『異常な』行動をする靜や、それを黙認している母である奥さんは、先生を最早、はっきりとした靜の結婚相手として暗に公認していると受け取った(それほどに若き日の私は保守的な男女観を持っていた、という訳では決してないのでご注意あれ)。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏もここに注し、この靜の行為は当時の読者から見て『いささか常軌を逸したものであったと言えるかもしれない』とし、最後に興味深い引用をお示しになられている。『ちなみに間借りした家の娘とのちに結ばれた岩波茂雄の場合も、その娘は「掃除以外にには岩波の部屋にはひつたことはなかつた」(安倍能成『岩波茂雄伝』岩波書店。昭和32)という。ついでに言えば、このことへの安倍のことさらな言及は『心』の先生・Kとお嬢さんの場合を視野に入れてのことであった可能性もある。』(下線やぶちゃん)。先生と靜の結婚を私は明治341901)年と推定しているが、岩波茂雄の結婚は明治391906)年のことである。

 

   *   *   *

 

   御孃さんと私   やぶちやん     (copyright 2010 Yabtyan

 

……私(わたくし)は大學時分、中目黑の素人屋に下宿してゐました。私の部屋の隣には年老いた大家夫婦の三十に近い未婚のOLの御孃さんの部屋がありました。この御孃さんとは凡そ三年程の間一緒の屋根の下に暮らしたのですが、御孃さんと言葉を交はしたのは數へる程しかありませんでした。

 最終學年の十一月の上旬の事、唯一度だけ彼女の部屋の戸を叩いた事が有りました。

 私の大學の卒業論文は和綴で是が非でも題箋は筆で記さねばなりませんでした。私の卒論は「咳をしても一人」で知られる『層雲』の俳人を扱つた「尾崎放哉論」でしたが、彼の名前は之何れの字をとつても如何にも配置の難しい字に思はれました。御孃さんが書道を趣味にしてをられることは何時休日になると漂つて來る墨の匂故に入つた先(せん)から知れてゐましたから、其題箋を思ひ切つて彼女に賴んでみることにしました。まともに御孃さんの顏を拜したのも其時が初めてでした。

 突然の下宿人の懇請ではありましたが、御孃さんは當初二つ返事で快く請けがつて呉れました。

 ところが一週日が過ぎた頃、突然彼女が私の部屋の硝子戸の扉を矢張り初めて叩いたのでした(私の部屋は彼女と姉との昔の子供部屋だつたのです。戸は全面が半透明の硝子障子の引戸で、私は何時もその向かうに夜遅く仕事から歸つて來た彼女のシルエツト許りを目にして過して來たのでした)。

 狹い廊下のことですから殆ど彼女の化粧の香が鼻を擽る程數糎(センチ)の距離を置いて顏を見合はせることとなりました。彼女は、

「お書きするのは容易(たやす)いのですけれど、書道を少し齧つて來た私には矢張り貴方の卒業論文の表紙ですもの、御自身でお書きになる方が絶對好(い)いと思ふんです。」

と言ふのです。卒論は既に書き上げて餘裕で芥川龍之介全集の全卷通讀なんどに現をぬかしてゐた當時の私には晴天の霹靂でした。

「私、實は筆が大の苦手なもんですから」

と聊かはにかんで答へたのですが、

「失禮ですけれど下手でも御自身でお書きになるのが好いと思ふんです。私が書いたら、將來屹度失望なさると思ふんです」

御孃さんは「將來屹度失望なさる」といふところに妙に力を込めて言ふのでした。私はそれでもなほ、

「決して失望しませんから」

と決まりの惡い笑みを浮かべ乍らも實際本氣でさう思ひつつ食ひ下がつては見ました。が、

「いゝえ。屹度、失望なさいます」

と何故か少し焦点を外した目をし乍ら、請けがつて呉れませんでした。

 私は甚だ殘念に思ひつつ、禮を言ふと自室の戸を閉めやうとしました。

 すると其時、彼女が私の部屋のベツドを指さして、

「その、二段ベツド、狹いでせう。小學生の頃、姉が下私は上に寢てゐたのよ」

と笑ひ乍ら訊きました(この子供部屋の姉妹の爲の二段ベツドは据付だつたのです)。

「えゝ、頭が突つかへるので此の三年の間ずつと斜めになつて寢てました」

と私は剽輕に答へた。お孃さんは大袈裟に體を震はせて如何にも可笑しくてならないといふ感じで笑ひました。それは私には少女のやうな可愛らしい笑ひに見えました。

 實は私は其時初めて彼女が斯くも綺麗な方だつたのだと今更乍ら氣づいたのでした。さうして内心何うして結婚されないのだらうなんどと訝しんだのさへ覺えてゐます。

 數カ月の後(のち)、私は首尾良く卒業し、神奈川縣の公立高校に赴任することとなつて其下宿を引き拂つたのでしたが、その間際、何時ものやうに夜遅くに歸つて來た御孃さんに廊下でばつたり出食はして別れの挨拶をせねばならぬ羽目に陷りました。

「御卒業お目出たう」

と彼女が言ひました。何か二言三言儀禮上の言葉を交はしたとは思ひますがすつかり忘れてしまひました。只最後に、私はもう此の御孃さんとも二度と會ふこともなからうと思ふと少し許り大膽な氣持になつてゐましたから、

「あの‥‥何故御結婚なさらないんですか。‥‥お美しいのに‥‥」

と如何にも失禮な問を御孃さんにかけて仕舞ひました。その頃の私は傍(はた)から見れば富山の田舍から出て來た垢拔けない書生位(くらゐ)にしか思はれてゐなかつたものと思ひます。御孃さんも例外ではありませんでしたらう(私の生まれは實は鎌倉で小學校を卒業するまでは其處に居たのですが、其のやうな話を大屋夫婦に話したのは卒業も間近になつてのことでしたから)。だから逆に御孃さんも質朴なる愚か者の問と受け流して氣障な嫌味とは取らずにゐて呉れたものか(勿論私の述懷は眞正直なものでしたが)、惡戯つぽく微笑んだ後(のち)、

「‥‥お世辭でも嬉しいわ。私はね、一寸體が丈夫ではないの。老いた父や母の面倒も私が見なくてはならないし。‥‥私ね、諦めてゐるの。‥‥でもね、結婚ばかりが人生ではないわよ」

と判然(はつきり)言ふと「お休みなさい」と笑顏の儘御孃さんは颯爽と自分の部屋の方に消えて行つたのでした。

 ――もう三十年以上前のことになりますが、私は今も時々あの御孃さんの最後の笑顏を思ひ浮かべるのです。すると何故か少し後ろめたいやうな不思議に哀しくそうして懷しい心持が私の心を過(よ)ぎるのを常としてゐるのです。 (二〇一〇・六・六)

 

   *   *   *

 

♡「御這人(おはいん)なさい」勿論、「入」の誤植。

♡「さういふ時には、私の心が妙に不安に冒されて來るのです。さうして若い女とたゞ差向ひで坐つてゐるのが不安なのだとばかりは思へませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るやうな不自然な態度が私を苦しめるのです。然し相手の方は却つて平氣でした。これが琴を浚ふのに聲さへ碌に出せなかつたあの女かしらと疑はれる位、耻づかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をする丈で、容易に腰を上げない事さへありました。それでゐて御孃さんは決して子供ではなかつたのです。私の眼には能くそれが解つてゐました。能く解るやうに振る舞つて見せる痕迹さへ明かでした」青年期に読んだ際、一読、忘れ難いシーンだ……無意識か意識してのことの媚態か……読者である私が判断に苦しみ、そして、手にアセが滲み……心の臟が高鳴ってくるシーン……御嬢さんの体から“Femme fatale”ファム・ファタールの匂いが漂ってくるのだ……。]

 

 

  先生の遺書

    (六十八)

 「私は御孃さんの立つたあとで、ほつと一息するのです。夫と同時に、物足りないやうな濟まないやうな氣持になるのです。私は女らしかつたのかも知れません。今の靑年の貴方がたから見たら猶左右見えるでせう。然し其頃の私達は大抵そんなものだつたのです。

 奥さんは滅多に外出した事がありませんでした。たまに宅を留守にする時でも、御孃さんと私を二人ぎり殘して行くやうな事はなかつたのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいふのは變ですが、奥さんの樣子を能く觀察してゐると、何だか自分の娘と私とを接近させたがつてゐるらしくも見えるのです。それでゐて、或塲合には、私に對して暗に警戒する所もあるやうなのですから、始めて斯んな塲合に出會つた私は、時々心持をわるくしました。

 私は奥さんの態度を何方(どつち)かに片付て貰ひたかつたのです。頭の働きから云へば、それが明らかな矛盾に違ひなかつたからです。然し伯父に欺かれた記憶のまだ新らしい私は、もう一步(ほ)踏み込んだ疑ひを挾(さしはさ)まずには居られませんでした。私は奥さんの此態度の何方かゞ本當で、何方かゞ僞(いつはり)だらうと推定しました。さうして判斷に迷ひました。ただ判斷に迷ふばかりでなく、何でそんな妙な事をするか其意味が私には呑み込めなかつたのです。理由(わけ)を考へ出さうとしても、考へ出せない私は、罪を女といふ一字に塗り付けて我慢した事もありました。必竟女だからあゝなのだ、女といふものは何うせ愚なものだ。私の考へは行き詰(つま)れば何時でも此處へ落ちて來ました。

 それ程女を見縊(みくび)つてゐた私が、また何うしても御孃さんを見縊る事が出來なかつたのです。私の理窟は其人の前に全く用を爲さない程動きませんでした。私は其人に對して、殆ど信仰に近い愛を有つてゐたのです。私が宗教だけに用ひる此言葉を、若い女に應用するのを見て、貴方は變に思ふかも知れませんが、私は今でも固く信じてゐるのです。本當の愛は宗教心とさう違つたものでないといふ事を固く信じてゐるのです。私は御孃さんの顏を見るたびに、自分が美くしくなるやうな心持がしました。御孃さんの事を考へると、氣高い氣分がすぐ自分に乘り移つて來るやうに思ひました。もし愛といふ不可思議なものに兩端(りやうはじ)があつて、其高い端(はじ)には神聖な感じが働いて、低い端(はじ)には性慾が動いてゐるとすれば、私の愛はたしかに其高い極點を捕(つら)まへたものです。私はもとより人間として肉を離れる事の出來ない身體(からだ)でした。けれども御孃さんを見る私の眼や、御孃さんを考へる私の心は、全く肉の臭を帶びてゐませんでした。

 私は母に對して反感を抱くと共に、子に對して戀愛の度を增して行つたのですから、三人の關係は、下宿した始めよりは段々複雜になつて來ました。尤も其變化は殆ど内面的で外へは現れて來なかつたのです。そのうち私はあるひよつとした機會から、今迄奥さんを誤解してゐたのではなからうかといふ氣になりました。奥さんの私に對する矛盾した態度が、どつちも僞りではないのだらうと考へ直して來たのです。其上、それが互違に奥さんの心を支配するのでなくつて、何時でも兩方が同時に奥さんの胸に存在してゐるのだと思ふやうになつたのです。つまり奥さんが出來るだけ御孃さんを私に接近させやうとしてゐながら、同時に私に警戒を加へてゐるのは矛盾の樣だけれども、其警戒を加へる時に、片方の態度を忘れるのでも翻へすのでも何でもなく、矢張依然として二人を接近させたがつてゐたのだと觀察したのです。たゞ自分が正當と認める程度以上に、二人が密着するのを忌むのだと解釋したのです。御孃さんに對して、肉の方面から近づく念の萌さなかつた私は、其時入らぬ心配だと思ひました。しかし奥さんを惡く思ふ氣はそれから無くなりました。

[♡やぶちゃんの摑み:先生の遺書世界に最初に登場する重要な思想アイテムの提示部である。但し、その核心である4段落目以外、その前後を挟む叙述部分は『先生の阿呆さ加減』が著しい。聞き飽きたところのこうしたことにかけては単細胞生物である漱石由来の偏狭な「私は女らしかつた」という“Misogyny”(ミソジニー・女性蔑視・女性嫌悪) に始まり、『当り前田のクラッカー』状態の奥さんの接近と警戒の『フツーの態度が分からない人格障碍』である先生が美事である。まずは一章の2/3も費やして、この『分かり切った内容が何となくフツーに分かるようになるまでの自分』を細述する先生は、殆んどの読者が『フツーでない』と思ったということは認識すべきではあろう。その上で、アイテムを整理しよう。これが授業ならまずは板書で、

[先生の人生観(恋愛観)]

◎先生の御嬢さんへの「愛」は「信仰に近い愛」である。

◎この時点での先生の御嬢さんへの「愛」は“Platonic love”(プラトニック・ラヴ)である。

◎先生にとっての一般概念としては「本当の愛は宗教心とさう違つたものでない」。

◎神聖←――――――愛――――――→性欲

 「私の愛はたしかに其高い極點を捕まへたもの」だという鮮やかな言明。

と押えるところだ。

 またしても二極分化・二項対立である。恋愛という混沌(カオス)なればこそに全きものであるものを、先生は崇高な属性を付与させた「神聖」と忌むべき不潔なるものとしての属性の烙印を押してしまった「性欲」の二項に分化させて、さらにそれを鋭く対置させて、それで秩序的宇宙(コスモス)が出来ると幻想している。しかしそれは、先生の遺書世界(先生の世界ではない! 「先生の遺書世界」と私が言っていることに注意されたい!)にあって弁証法的な定立と反定立のようにアウフヘーベン(止揚)はしないのである。鋭く対置されたままに、引き裂かれ、遂には互いに互いを刺し貫いてしまうのだ。先生の悲劇はここに始まる、と言ってよい、と私は思うのである。

 因みに私は旧来、授業では「……ここで脱線すると……」と言いながら、“Platonic love”=プラトン哲学の愛=ソクラテスの考えた愛=「パイドロス」の「愛」とは何かを語ってきた。本来、真の“Platonic love”とは「精神的愛」なんどという薄っぺらい日本語で示し得るものではない、男女の肉体的欠損部を結合するだけの愛は不完全であり、男性同士の愛こそが至高の“Platonic love”であることをソクラテスは「パイドロス」で語っていることを声を大にして言ってきた。「パイドロス」を是非読みなさいとも言ってきた。――しかし、それが“Platonic love”の真理であり、私は「ヘンな先生」でも「アブナイ先生」でもなければ、況や本作の「脱線」でさえもなかった――ということに是非とも気づいて欲しいのである。]

 

 

  先生の遺書

    (六十九)

 「私は奥さんの態度を色々綜合して見て、私が此處の家で充分信用されてゐる事を確めました。しかも其信用は初對面の時からあつたのだといふ證據さへ發見しました。他を疑ぐり始めた私の胸には、此發見が少し奇異な位(くらゐ)に響いたのです。私は男に比べると女の方がそれ丈直覺に富んでゐるのだらうと思ひました。同時に、女が男のために、欺まされるのも此處にあるのではなからうかと思ひました。奥さんを左右觀察する私が、御孃さんに對して同じやうな直覺を強く働かせてゐたのだから、今考へると可笑しいのです。私は他を信じないと心に誓ひながら、絶對に御孃さんを信じてゐたのですから。それでゐて、私を信じてゐる奥さんを奇異に思つたのですから。

 私は郷里の事に就いて餘り多くを語らなかつたのです。ことに今度の事件に就いて、は何にも云はなかつたのです。私はそれを念頭に浮べてさへ既に一種の不愉快を感じました。私は成るべく奥さんの方の話だけを聞かうと力めました。所がそれでは向ふが承知しません。何かに付けて、私の國元の事情を知りたがるのです。私はとう/\何もかも話してしまひました。私は二度と國へは歸らない、歸つても何にもない、あるのはたゞ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大變感働したらしい樣子を見せました。御孃さんは泣きました。私は話して好(い)い事をしたと思ひました。私は嬉しかつたのです。

 私の凡てを聞いた奥さんは、果して自分の直覺が的中したと云はないばかりの顏をし出しました。それからは私を自分の親戚に當る若いものか何かを取扱ふやうに待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。寧ろ愉快に感じた位です。所がそのうちに私の猜疑心が又起つて來ました。

 私が奥さんを疑ぐり始めたのは、極些細な事からでした。然し其些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張つて來ます。私は何ういふ拍子か不圖奥さんが、伯父と同じやうな意味で、御孃さんを私に接近させやうと力めるのではないかと考へ出したのです。すると今迄親切に見えた人が、急に狡猾な策略家として私の眼に映じて來たのです。私は苦々しい唇を嚙みました。

 奥さんは最初から、無人(ぶにん)で淋しいから、客を置いて世話をするのだと公言してゐました。私も夫を嘘とは思ひませんでした。懇意になつて色々打ち明け話を聞いた後(あと)でも、其處に間違はなかつたやうに思はれます。然し一般の經濟狀態は大して豐(ゆたか)だと云ふ程ではありませんでした。利害問題から考へて見て、私と特殊の關係をつけるのは、先方に取つて決して損ではなかつたのです。

 私は又警戒を加へました。けれども娘に對して前云つた位の強い愛をもつてゐる私が、其母に對していくら警戒を加へたつて何になるでせう。私は一人で自分を嘲笑しました。馬鹿だなといつて、自分を罵つた事もあります。然しそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに濟んだのです。私の煩悶は、奥さんと同じやうに御孃さんも策略家ではなからうかといふ疑問に會つて始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、萬事を遣つてゐるのだらうと思ふと、私は急に苦しくつて堪らなくなるのです。不愉快なのではありません。絶體絶命のやうな行き詰つた心持になるのです。それでゐて私は、一方に御孃さんを固く信じて疑はなかつたのです。だから私は信念と迷ひの途中に立つて、少しも動く事が出來なくなつて仕舞ひました。私には何方(どつち)も想像であり、又何方も眞實であつたのです。

[♡やぶちゃんの摑み:奥さんへの、

『私の財産が目当ての策略家ではないか?』

という猜疑心が昂まってゆくと同時に、遂にはそれが絶対不可侵神聖至高のはずの御嬢さん自身への共同正犯疑惑、

『御嬢さんもグルではないか?』

という疑心暗鬼にさえ発展してしまう。しかし、同時に御嬢さんへの愛は至高至善神聖不可侵であることに変わりはなく、「私には何方も想像であり、又何方も眞實であつた」と先生は言う。

『御嬢さんもグルではないか?』という「迷い」

〈葛藤状況〉

『御嬢さんを』愛し「固く信じて』いるという「信念」

そのアンビバレントな状況が痙攣的に再び新たな二項対立・二極分化の袋小路へと先生を導いて行ってしまうのである。

♡「狡猾な策略家」私は奥さんの意識の中に当然そのような計算は働いたと思う。当時、奥さんが国から貰っていた寡婦扶助料は若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の藤井氏の本章の注によれば、丁度私が想定している本作中時間である明治311898)年頃に極めて近い明治301897)年の統計では、受給者が248人、平均受給額は年額145円であったある。実際には亡夫は佐官級以上であったと思われるからもっと高額であると考えられるが、それでも相応の現在の家屋の維持・娘一人の養育費・老後の生活等を考えると経済的には厳しいものと思われる。さればこそ、この現時点で経済的に何らの不安要素のないこの青年、日常の真面目さから認識可能な手堅い生真面目さ、人格的な鷹揚さ(但し、ここはそこに巧妙に隠された猜疑的な性質までは見抜けなかったものとも思われようが、私は奥さんはそこもとっくに見抜いて、しかもそれを容易に外部に向ける惧れはまずない人格の持主であるとまで先生の性格を見切っていたことと私は思うのである)総てを総合的判断して、将来の靜の夫として認識していたと私は思う。そして、それは「策略」でも何でもない。叔父のケースと同様、当時の読者も、今の読者も『フツーに肯んずるところの正当な行為』であると私は思うのである。それは暗黙の内に靜にも了解されていた。この時点ではあくまでまだ二人の暗黙の了解事項であったものと思われるが、これは直ぐに第(七十二)回で馬鹿でも分かる形で明示されることになるのである。

 実はそんなことより気になるのは、陳述する側の先生の言葉遣いである。叔父と穏やかならざる『日淸談判破裂して』(「欣舞節」若宮萬次郎作詞作曲)を思わせる「談判」を開き、この新しい戦線では敵方の「策略」による巧妙な心理戦を蒙って(いると思って)激しく「先生」の兵力は殺がれている。

――そうである。戦争である。――

そして「策略」というこの語は、忌まわしくも先生自身の良心が悪意の先生へと鏡返しで用いることになる語であることに注意せねばならぬのである。順に見ておこう。

 「策略」と言う語は実は既に叔父との談判一戦の際に出現している。初戦は第(六十三)回「一口でいふと、伯父は私の財産を胡魔化したのです」に始まる

『新潟実家の乱』

での一場面2段落目「伯父は策略で娘を私に押し付けやうとしたのです。好意的に兩家の便宜を計るといふよりも、ずつと下卑た利害心に驅られて、結婚問題を私に向けたのです。私は從妹を愛してゐない丈で、嫌つてはゐなかつたのですが、後から考へて見ると、それを斷つたのが私には多少の愉快になると思ひます。胡魔化されるのは何方にしても同じでせうけれども、載せられ方からいへば、從妹を貰はない方が、向ふの思ひ通りにならないといふ點から見て、少しは私の我が通つた事になるのですから」(下線部やぶちゃん。以下同じ)という部分である。叔父の「策略」に乗せられて敗北して知らずに居るところであったが、従妹の首を掻いた局地戦だけでも復讐相当にはならぬものの溜飲を下げた戦いであったと言うのである。

 第2ラウンドがご覧の通りのこの

『東京下宿の変』

での心理戦による膠着状態で、相手方の推定戦術として奥さんに対して「策略」の語が用いられ、更にはその特命「策略」を奉じた別働隊とも疑われる特別攻撃隊「靜」隊にも「策略」が疑われたのである。そして

『第九十五次対K戦争』

では

『私は丁度他流試合でもする人のやうにKを注意して見てゐたのです。私は、私の眼、私の心、私の身體、すべて私といふ名の付くものを五分の隙間もないやうに用意して、Kに向つたのです。罪のないKは穴だらけといふより寧ろ明け放しと評するのが適當な位に無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管してゐる要塞の地圖を受取つて、彼の眼の前でゆつくりそれを眺める事が出來たも同じでした。/Kが理想と現實の間に彷徨してふら/\してゐるのを發見した私は、たゞ一打で彼を倒す事が出來るだらうといふ點にばかり眼を着けました。さうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。私は彼に向つて急に嚴粛な改たまつた態度を示し出しました。無論策略からですが、其態度に相應する位な緊張した氣分もあつたのですから、自分に滑稽だの羞耻だのを感ずる餘裕はありませんでした。私は先づ「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と云ひ放ちました。是は二人で房州を旅行してゐる際、Kが私に向つて使つた言葉です。私は彼の使つた通りを、彼と同じやうな口調で、再び彼に投げ返したのです。然し決して復讐ではありません。私は復讐以上に殘酷な意味を有つてゐたといふ事を自白します。私は其一言でKの前に橫たはる戀の行手を塞がうとしたのです』

と禁断の最終兵器である策略核を、突然、同盟していたK国の首都の宮殿にスパイを送り込み、美事に起爆させ粉砕してしまうのであった(しかもおぞましいことにその核物質はその同盟国が心血注いで開発した「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」物質という強力特殊な原子爆弾の覚悟の材料であったのだ)。

 このように先生は逸早い索敵を行い、勝利を収めたと確信する。ところがその結果は予想外の惨憺たるものとなった。

『第百二次対K戦争』

に向けて最強の隣国奥さん抜け駆けで決定的な同盟条約即日締結という策略に成功した先生は、実は自分の裏切り行為の策略を既に何日も前にKが知っていた事実を知り、驚愕するのである。先生は

『勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日餘りになります。其間Kは私に對して少しも以前と異なつた樣子を見せなかつたので、私は全くそれに氣が付かずにゐたのです。彼の超然とした態度はたとひ外觀だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考へました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遙かに立派に見えました。「おれは策略で勝つても人間としては負けたのだ」といふ感じが私の胸に渦卷いて起りました。私は其時さぞKが輕蔑してゐる事だらうと思つて、一人で顏を赧らめました。然し今更Kの前に出て、耻を掻かせられるのは、私の自尊心にとつて大いな苦痛でした』

と自国の完全敗北を自覚したものの、手を拱き、遂に手遅れとなってK国は自から滅亡してしまうのである。

 先生は「心」の総ての戦争で勝つことが出来なかった――

 それは何故か?

 それは――戦争をしていると思っていたのは、実は何を隠そう、先生だけだったからである――。

 今一度、言う。「こゝろ」とは一種の戦争論である。人間にとって、人間である以上、決して避けられぬ己のエゴイズムとの、戦争の話なのである――是非とも私の教え子の「こゝろ」論の一つ「トゥワイス・ボーン」を再読されたい。]

 

 

  先生の遺書

    (七十)

 「私は相變らず學校へ出席してゐました。然し教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるやうな心持がしました。勉強も其通りでした。眼の中へ這入る活字は心の底迄浸み渡らないうちに烟の如く消えて行くのです。私は其上無口になりました。それを二三の友達が誤解して、冥想に耽つてでもゐるかのやうに、他の友達に傳へました。私は此誤解を解かうとはしませんでした。都合の好(い)い假面を人が貸して呉れたのを、却て仕合せとして喜びました。それでも時々は氣が濟まなかつたのでせう、發作的に焦燥ぎ廻つて彼等を驚ろかした事もあります。

 私の宿は人出入の少い家でした。親類も多くはないやうでした。御孃さんの學校友達がときたま遊びに來る事はありましたが、極めて小さな聲で、居るのだか居ないのだか分らないやうな話をして歸つてしまひました。それが私に對する遠慮からだとは、如何な私にも氣が付きませんでした。私の所へ訪ねて來るものは、大した亂暴者でもありませんでしたけれども、宅の人に氣兼をする程な男は一人もなかつたのですから。そんな所になると、下宿人の私は主人(あるじ)のやうなもので、肝心の御孃さんが却つて食客(ゐさふらふ)の位地(ゐち)にゐたと同じ事です。

 然しこれはたゞ思ひ出した序に書いた丈で、實は何うでも構はない點です。たゞ其處に何うでも可くない事が一つあつたのです。茶の間か、さもなければ御孃さんの室で、突然男の聲が聞こえるのです。其聲が又私の客と違つて、頗ぶる低いのです。だから何を話してゐるのか丸で分らないのです。さうして分らなければ分らない程、私の神經に一種の昂奮を與へるのです。私は坐つてゐて變にいら/\し出します。私はあれは親類なのだらうか、それとも唯の知り合ひなのだらうかとまづ考て見るのです。夫から若い男だらうか年輩の人だらうかと思案して見るのです。坐つてゐてそんな事の知れやう筈がありません。さうかと云つて、起(たつ)て行つて障子を開けて見る譯には猶行きません。私の神經は震へるといふよりも、大きな波動を打つて私を苦しめます。私は客の歸つた後で、屹度忘れずに其人の名を聞きました。御孃さんや奥さんの返事は、又極めて簡單でした。私は物足りない顏を二人に見せながら、物足りる迄追窮する勇氣を有つてゐなかつたのです。權利は無論有つてゐなかつたのでせう。私は自分の品格を重んじなければならないといふ教育から來た自尊心と、現に其自尊心を裏切してゐる物欲しさうな顏付とを同時に彼等の前に示すのです。彼等は笑ひました。それが嘲笑の意味でなくつて、好意から來たものか、又好意らしく見せる積なのか、私は即坐に解釋の餘地を見出し得ない程落付を失つてしまふのです。さうして事が濟んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんぢやなからうかと、何遍も心のうちで繰り返すのです。

 私は自由な身體(からだ)でした。たとひ學校を中途で己(や)めやうが、又何處へ行つて何う暮らさうが、或は何處の何者と結婚しやうが、誰とも相談する必要のない位地に立つてゐました。私は思ひ切つて奥さんに御孃さんを貰ひ受ける話をして見やうかといふ決心をした事がそれ迄に何度となくありました。けれども其度毎に私は躊躇して、口へはとう/\出さずに仕舞つたのです。斷られるのが恐ろしいからではありません。もし斷られたら、私の運命が何う變化するか分りませんけれども、其代り今迄とは方角の違つた塲所に立つて、新らしい世の中を見渡す便宜も生じて來るのですから、其位(くらゐ)の勇氣は出せば出せたのです。然し私は誘(おび)き寄せられるのが厭でした。他(ひと)の手に乘るのは何よりも業腹でした。叔父に欺まされた私は、是から先何んな事があつても、人には欺まされまいと決心したのです。

やぶちゃんの摑み:「然し教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるやうな心持がし」、「勉強」にも同様に実が張らない。「眼の中へ這入る活字は心の底迄浸み渡らないうちに烟の如く消えて行く」ように感じて、更に「無口にな」る――集中力の減衰と不定愁訴、対人忌避、そして「時々は氣が濟まなかつた」からか、「發作的に焦燥ぎ廻つて」「周囲の者を「驚ろかした」というのは典型的な躁鬱病の様態を示している。この病識が果してその当時の先生にあったものか、現在の遺書を書く、このような躁鬱状態からある程度抜け出た、ある程度健全な精神状態にある先生の過去の自分による観察であるのかは微妙に留保される(「それでも時々は氣が濟まなかつたのでせう」という推量部)のだが、私は当時の先生には相応な病識(重篤な鬱状態ではなく)があったと考える。無口になった先生のことを「二三の友達が誤解して、冥想に耽つてでもゐるかのやうに、他の友達に傳へ」、その友人がそれを教えてくれた時に、先生は「は此誤解を解かうとは」せず、逆に「都合の好い假面を人が貸して呉れたのを、却て仕合せとして喜」んでいる点がその証左と言い得るように思われる。

「御孃さんの學校友達がときたま遊びに來る」という叙述から、私は靜の女学校が家から徒歩圏内にあると推定している。そしてそれは東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)ではないかと思うのである。これは実はある別な私の推論から導き出される推定でもある。それは第(百)回の先生の謎の「いびつな圓」に纏わる私の或る推論からである。今回の「やぶちゃんの摑み」を執筆するに際して、私はいろいろなオリジナルな角度からこれを書こうと思ったのは言うまでもない。その中でも未だに自分で腑に落ちない箇所を何とか解析して見たいという欲求は大きい。中でも私にとって大きなそれは多様な意味を持っていると思われる先生の謎の円運動にある。その中でも特に私が気になってしょうがないのは漱石が確信犯で示すところの第(百)回に現われる円であった。該当箇所を第九十九回の終わりから復元して(百回の頭の鉤括弧を除いて連結)見てみよう。言わずもがな、Kを出し抜いて奥さんに御嬢さんを呉れろと話した、その日の午後のシーンである。

   *

 私は午頃又茶の間へ出掛けて行つて、奥さんに、今朝(けさ)の話を御孃さんに何時通じてくれる積かと尋ねました。奥さんは、自分さへ承知してゐれば、いつ話しても構はなからうといふやうな事を云ふのです。斯うなると何んだか私よりも相手の方が男見たやうなので、私はそれぎり引き込まうとしました。すると奥さんが私を引き留(と)めて、もし早い方が希望ならば、今日でも可(い)い、稽古から歸つて來たら、すぐ話さうと云ふのです。さうして貰ふ方が都合が好いと答へて又自分の室に歸りました。然し默つて自分の机の前に坐つて、二人のこそ/\話を遠くから聞いてゐる私を想像して見ると、何だか落ち付いてゐられないやうな氣もするのです。私はとう/\帽子を被つて表へ出ました。さうして又坂の下で御孃さんに行(い)き合ひました。何にも知らない御孃さんは私を見て驚ろいたらしかつたのです。私が帽子を脱つ(と)て「今御歸り」と尋ねると、向ふではもう病氣は癒つたのかと不思議さうに聞くのです。私は「えゝ癒りました、癒りました」と答へて、ずん/\水道橋(すゐだうはし)の方へ曲つてしまひました。

 私は猿樂町から神保(じんはう)町の通りへ出て、小川町の方へ曲りました。私が此界隈を步くのは、何時も古本屋をひやかすのが目的でしたが、其日は手摺(てずれ)のした書物などを眺める氣が、何うしても起らないのです。私は步きながら絶えず宅の事を考へてゐました。私には先刻の奥さんの記憶がありました。夫から御孃さんが宅へ歸つてからの想像がありました。私はつまり此二つのもので步かせられてゐた樣なものです。其上私は時々往來の眞中で我知らず不圖立ち留まりました。さうして今頃は奥さんが御孃さんにもうあの話をしてゐる時分だらうなどと考へました。また或時は、もうあの話が濟んだ頃だとも思ひました。

 私はとう/\萬世橋を渡つて、明神(みやうしん)の坂を上つて、本郷臺へ來て、夫から又菊坂を下りて、仕舞に小石川の谷へ下りたのです。私の步いた距離は此三區に跨がつて、いびつな圓を描いたとも云はれるでせうが、私は此長い散步の間殆どKの事を考へなかつたのです。今其時の私を回顧して、何故だと自分に聞いて見ても一向分りません。たゞ不思議に思ふ丈です。私の心がKを忘れ得る位(くらゐ)、一方(はう)に緊張してゐたと見ればそれ迄ですが、私の良心が又それを許すべき筈はなかつたのですから。

   *

 私は若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の巻末に収載されている「三区にまたがるいびつな円」(森鷗外立案『東京方眼図』より、明治42)」を凝っと見つめてみた。これは藤井氏が該当地図に先生の歩いたルートを太字で記したものである。このいびつな円の中心になりそうなランドマークは何か? 江戸切絵図まで持ち出して考えてみたりしたが、矢張りこの森鷗外の地図に立ち帰った。そこで俄然心附いたのである。いびつな円の中心は駿河台であるが、その東北には東京女子高等師範学校がある。そしてそこには嘗て同附属高等女学校があった。即ち、

『いびつな円=楕円の一方の焦点は靜が通っている女学校ではなかったか』

と考えるのである(もっと一方の焦点に近い位置には猿楽町があり、ここには高等女子仏英和学校があるが、第(三十五)回で、先生が自分が死んだらという仮定を語る場面、先生が「おれの持つてるものは皆な御前に遣るよ」と言うのに対して、靜が「何うも有難う。けれども橫文字の本なんか貰つても仕樣がないわね」と答えるところが、どうも「仏英和学校」とは合わないという気を起こさせるのである)。勿論、靜は既に学校帰りの稽古(琴か花か。琴は出張教授であったことからここは花か? 何れにせよ私は、この稽古の師匠の家さえも東京女子高等師範学校附属高等女学校の近くであった、このいびつな円の内にあったと仮定したい)も終えて、先生と冨坂下で出逢ってはいる。従って家に帰ってはいる。しかしこの「いびつな円」を「楕円」と解すれば、御嬢さんの日常的生活の半ばを支配する女学校を一方の焦点とすれば、その反対の焦点を残りの生活圏である実家と捉えることが可能である。そしてその時Kがいる東京帝国大学はこの円の北方にあり、その圏内から完全に疎外遮断されているのである。即ち、先生は無意識に『御嬢さんという存在』を自身のこの楕円の圏内に捕(つら)らまえていると言えないだろうか?――これはあくまで現在の私の思いつきに過ぎず、また私自身で変更を加えるかも知れないが、今、私の意識を捉えて放さない強迫観念ではあるのである。

「食客(ゐさふらふ)」居候の当字。

「たゞ其處に何うでも可くない事が一つあつたのです。茶の間か、さもなければ御孃さんの室で、突然男の聲が聞こえるのです。其聲が又私の客と違つて、頗ぶる低いのです。だから何を話してゐるのか丸で分らないのです。さうして分らなければ分らない程、私の神經に一種の昂奮を與へるのです。私は坐つてゐて變にいら/\し出します。私はあれは親類なのだらうか、それとも唯の知り合ひなのだらうかとまづ考て見るのです。夫から若い男だらうか年輩の人だらうかと思案して見るのです。坐つてゐてそんな事の知れやう筈がありません。さうかと云つて、起て行つて障子を開けて見る譯には猶行きません。私の神經は震へるといふよりも、大きな波動を打つて私を苦しめます。私は客の歸つた後で、屹度忘れずに其人の名を聞きました。御孃さんや奥さんの返事は、又極めて簡單でした。私は物足りない顏を二人に見せながら、物足りる迄追窮する勇氣を有つてゐなかつたのです。權利は無論有つてゐなかつたのでせう。私は自分の品格を重んじなければならないといふ教育から來た自尊心と、現に其自尊心を裏切してゐる物欲しさうな顏付とを同時に彼等の前に示すのです。彼等は笑ひました。それが嘲笑の意味でなくつて、好意から來たものか、又好意らしく見せる積なのか、私は即坐に解釋の餘地を見出し得ない程落付を失つてしまふのです。さうして事が濟んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんぢやなからうかと、何遍も心のうちで繰り返すのです」ここで先生は、自身の行動が奥さんや靜にとって、靜を占有したいという彼女に対する見え見えの恋愛感情嫉妬心の表明となってしまっていることを、全く意識していない点で極めて特異である。奥さんや靜が先生を将来の婿候補として捉えて、そのような方向に進行させようと動くに違いないという当然の成り行きに、全く気がついていないのである。また、先生は彼等の答えが「又極めて簡單で」、その男が靜とどのような関係にあるかを全く伝えてくれない答えであったから、私には甚だ不満足で、そうした「物足りない顏を二人に見せながら、物足りる迄追窮する勇氣を有つてゐなかつた」「權利は無論有つてゐなかつた」と言うのである。奇妙な謂いである。少なくともその簡単な答えの内容を示すべきだのに、それがない分、如何にも変である。その上、「私は自分の品格を重んじなければならないといふ教育から來た自尊心と、現に其自尊心を裏切してゐる物欲しさうな顏付とを同時に彼等の前に示」さざるを得なかったと大上段に振りかぶった事大主義的表現がそれに続くのだから、読者は奇異に思わざるを得ない。それどころか、そんな変な先生を、変な先生として「彼等は笑」ったに過ぎないのに、「それが嘲笑の意味でなくつて、好意から來たものか、又好意らしく見せる積なのか、私は即坐に解釋の餘地を見出し得ない程落付を失」わせるような笑いだったと言うのである。いや、そこには明らかに『あら、この人焼いてるのかしら?』というニュアンスの笑いがあったであろう。そして、そのような女の感覚を先生は激しく嫌ったことは事実であり、それは分からないではない。しかし先生は、そのような判断不能であるはずの印象から、ネガティヴな「いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんぢやなからうか」という解釈だけを選択的に取り出し、「何遍も心のうちで繰り返」して心傷として刻み込むのである。このシーン、奥さんと靜の無気味な笑い顔の目と唇、歯のアップである――まるでその無気味さを映像的に抽出するために書かれているようなこの部分、私にはやはり先生の尋常でない病的な被害妄想を感じさせると言わざるを得ない。

「私は思ひ切つて奥さんに御孃さんを貰ひ受ける話をして見やうかといふ決心をした事がそれ迄に何度となくありました。けれども其度毎に私は躊躇して、口へはとう/\出さずに仕舞つたのです。斷られるのが恐ろしいからではありません。もし斷られたら、私の運命が何う變化するか分りませんけれども、其代り今迄とは方角の違つた塲所に立つて、新らしい世の中を見渡す便宜も生じて來るのですから、其位の勇氣は出せば出せたのです。然し私は誘き寄せられるのが厭でした。他の手に乘るのは何よりも業腹でした。叔父に欺まされた私は、是から先何んな事があつても、人には欺まされまいと決心したのです」ここは「心」の強力な摑みの部分である、と私は思っている。先生は人間社会の人的交流が多かれ少なかれ駆け引きの産物であることを認識していない。だから尊いとも言えるのであり、私(これは「私」であり、やぶちゃんでもあり、今これを読んでいるあなたでもある)が先生に惹かれる理由もそこにあるのであるが、問題はそうした自己本位の世界の保守と実践は、容易に偏狭な利己主義の合理化に繋がる危険性を孕んでいるという一点に先生は気づいていない。「誘き寄せられるのが厭」「他の手に乘るのは何よりも業腹」「是から先何んな事があつても、人には欺まされまいと決心した」先生は後に遂に、自らを信頼しているKを「誘き寄せ」、「手に乘」せ、「欺ま」すことになるからである。先生は勿論、その自己矛盾に気づいた。しかしその直後、Kは自死したのであった。

――以下は聞き流して戴こう。

私自身が

――「是から先何んな事があつても、人には欺まされまいと決心」する――

……それとほぼ相同な決心をしたことが若き日にあったことを告白する。

……中学2年の時、私は或る女生徒に恋をした。しかし告白した彼女からは

「ごめんなさい。さようなら。」

とだけ書いた手紙を貰った。自殺も考えた。……幸い、失恋で自殺した青年の生活史を新聞記者が追うさまを描いた如何にもクサい小説を書いて切り抜けた。……

……それから十年後のことである。神奈川で教員になった私が夏休みに両親の住む田舎へ帰ったところ、母が

「……あんたに縁談話が来てるんだけど……」

と言った。

妙に語頭も語尾も濁すのが気になった。

聞けば、それは私の親友の母から持ち込まれたものであった(その頃、公立高校の教師は安定した職業として田舎では婿の職業としては相応に評価されていた)。

……ところが、その相手の名を母から聞いた瞬間、私は愕然としたのだ――

「……実はあんたが昔好きだったっていう○○○子さんっていう人なんだけど……」

――それは、あの「ごめんなさい。さようなら。」とだけ別れの手紙を送りつけた女だった。……

私は

「はっきりと断って下さい。」

と吐き捨てるように母に答えたのは言うまでもない。

……そして

……そして私はその時、正に

「是から先何んな事があつても、」女「には欺まされまいと決心」したのだ――

……そうして

……しかし私はそれをその後忠実に貫いた故に……

……その仔細は語れぬが、結果として多くの女性を悲しませる結果となった、と今の私は、痛感している……

……だからと言って『欺すぐらいなら欺されるほうが好い』なんどというキリスト教的噴飯博愛主義を私は訴えたいのでは、毛頭ない……

……ただ私は……

――「人には欺まされまい」という対意識は既にして他者そして『自己自身でもある』ところの『人』を欺まさんとすることと相同である――

と……思うのである、とだけ言っておこう……]

 

 

  先生の遺書

    (七十一)

 「私が書物ばかり買ふのを見て、奥さんは少し着物を拵(こしらへ)ろと云ひました。私は實際田舍で織つた木綿ものしか有つてゐなかつたのです。其頃の學生は絹の入つた着物を肌に着けませんでした。私の友達に橫濱の商人か何かで、宅は中々派出に暮してゐるものがありましたが、其處へある時羽二重(はぶたへ)の胴着(どうぎ)が配達で屆いた事があります。すると皆ながそれを見て笑ひました。其男は耻かしがつて色々辯解しましたが、折角の胴着を行李の底へ放り込んで利用しないのです。それを又大勢が寄つてたかつて、わざと着せました。すると運惡く其胴着に蝨(しらみ)がたかりました。友達は丁度幸ひとでも思つたのでせう、評判の胴着をぐる/\と丸めて、散步に出た序に、根津の大きな泥溝(どぶ)の中へ棄ててしまひました。其時一所に步いてゐた私は、橋の上に立つて笑ひながら友達の所作を眺めてゐましたが、私の胸に何處にも勿體ないといふ氣は少しも起りませんでした。

 其頃から見ると私も大分大人になつてゐました。けれども未だ自分で餘所行(よそゆき)の着物を拵へるといふ程の分別は出なかつたのです。私は卒業して髯(ひけ)を生やす時代が來なければ、服裝の心配などはするに及ばないものだといふ變な考を有つてゐたのです。それで奥さんに書物は要るが着物は要らないと云ひました。奥さんは私の買ふ書物の分量を知つてゐました。買つた本をみんな讀むのかと聞くのです。私の買ふものゝ中には字引もありますが、當然眼を通すべき筈でありながら、頁(ページ)さへ切つてないのもあつたのですから、私は返事に窮しました。私は何うせ要らないものを買ふなら、書物でも衣服でも同じだといふ事に氣が付きました。其上私は色々世話になるといふ口實の下に、御孃さんの氣に入るやうな帶か反物(たんもの)を買つて遣りたかつたのです。それで萬事(ばんし)を奥さんに依賴しました。

 奥さんは自分一人で行くとは云ひません。私にも一所に來いと命令するのです。御孃さんも行かなくてはいけないと云ふのです。今と違つた空氣の中に育てられた私共は、學生の身分として、あまり若い女などと一所に步き廻る習慣を有つてゐなかつたものです。其頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少躊躇しましたが、思ひ切つて出掛けました。

 御孃さんは大層着飾つてゐました。地體(ぢたい)が色の白い癖に、白粉を豐富に塗つたものだから猶目立ちます。往來の人がじろ/\見て行くのです。さうして御孃さんを見たものは屹度(きつと)其視線をひるがへして、私の顏を見るのだから、變なものでした。

 三人は日本橋へ行つて買ひたいものを買ひました。買ふ間にも色々氣が變るので、思つたより暇がかゝりました。奥さんはわざ/\私の名を呼んで何うだらうと相談をするのです。時々反物を御孃さんの肩から胸へ竪(たて)に宛てゝ置いて、私に二三步退いて見て呉れろといふのです。私は其度ごとに、それは駄目だとか、それは能く似合ふとか、兎に角一人前の口を聞きました。

 斯んな事で時間が掛つて歸りは夕飯(ゆふめし)の時刻になりました。奥さんは私に對する御禮に何か御馳走すると云つて、木原店(きはらだな)といふ寄席のある狹い橫丁へ私を連れ込みました。橫丁も狹いが、飯を食はせる家も狹いものでした。此邊の地理を一向心得ない私は、奥さんの知識に驚ろいた位です。

 我々は夜に入つて家へ歸りました。其翌日(あくるひ)は日曜でしたから、私は終日室の中(うち)に閉ぢ籠つてゐました。月曜になつて、學校へ出ると、私は朝つぱらさうさう級友の一人から調戲(からか)はれました。何時妻(さい)を迎へたのかと云つてわざとらしく聞かれるのです。それから私の細君は非常に美人だといつて賞めるのです。私は三人連で日本橋へ出掛けた所を、其男に何處かで見られたものと見えます。

やぶちゃんの摑み:靜の美しさが作中最も鮮烈に描かれるシーンである。撮影の腕の見せどころである。上記の通り、標題の背景画が変更されている。やっと変な翳から解放される。どうもあれは私は気に入らなかった。

「羽二重」ウィキの「羽二重」より引用する(記号の一部を変更した。『羽二重(はぶたえ、英: habutae silk)は平織りと呼ばれる経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種。絹を用いた場合は光絹(こうきぬ)とも呼ばれる。通常の平織りが緯糸と同じ太さの経糸1本で織るのに対し、羽二重は経糸を細い2本にして織るため、やわらかく軽く光沢のある布となる。白く風合いがとてもよいことから、和服の裏地として最高級であり、礼装にも用いられる。日本を代表する絹織物であり「絹のよさは羽二重に始まり羽二重に終わる」といわれる』。『羽二重は日本では近世から始められたと伝わっている伝統的な織物である。明治10年頃から京都や群馬県桐生などで機織り機の研究が進められ、明治20年頃には福島県川俣、石川県、福井県などで生産されるようになった。明治時代、日本の絹織物の輸出は羽二重が中心であり、欧米に向けてさかんに輸出され、日本の殖産興業を支えた。羽二重は国内向けのものと輸出向けのものがあり、輸出されるものを「輸出羽二重」と呼んだ』。記事の感触が独特で、私の妻に言わせると「手に吸い付くような感じ」だそうである。因みに私の家には羽二重は妻の和装喪服一着があるのみである。

「胴着」胴衣・胴服とも。和服の上着と襦袢との間に着る綿入れを短くしたような防寒用の衣服。

「絹の入つた」単行本「こゝろ」では「絹」に「いと」という当て読みをしているが、初出は通常に「きぬ」とルビする。「蝨」昆虫綱咀顎目シラミ亜目ヒトジラミ科コロモジラミPediculus humanus corporis。典型的なシラミらしい形をしたシラミである。

「根津の大きな泥溝」江戸切絵図と現在の地図を重ねて調べると、を見ると不忍池の北西角から真北に向かって川が伸びており、これは現在の不忍通りに平行して流れ、通りと同様に根津神社の約300m離れた東北のところで北北東に曲る藍染川と、西南西へと流れて根津神社の西側を除く周囲に接する流れに分かれている。この二つの川筋は現在消滅して一部が暗渠になっているが、私は藍染川ではなく、この江戸切絵図にある藍染川から分岐した根津神社の周囲の側溝がこの頃は残っていて、それを「泥溝(どぶ)」と表現しているのではなかろうかと考える。言わずもがなであるが、根津神社の南は直ぐに東京大学の敷地となっている。

「私は卒業して髯を生やす時代が來なければ」「ひけ」は勿論「ひげ」の誤植。この謂いや作者漱石のことを考えれば、先生は大学卒業後に髭を生やしていた可能性が高い。幾つかの「こゝろ」の後発の出版物の挿絵などでそのようなチャップリン様の鼻髭を生やした先生の絵を見た気もする(漱石自身は30代にカイゼル髭、晩年はちょび髭であったようだ)が、私が監督なら、「私」と逢う先生に髭は生やさせない。

「頁さへ切つてないのもあつた」フランス装(綴じ)・アンカット装(本)のことを言っている。仮綴装本の一種で、綴じただけで裁断をせず、縁を折り曲げただけの紙表紙などで包んだ装本のこと。ペーパー・ナイフを用いてページごとに切って読むようになっている。元来は愛書家がオリジナルに装丁し直すためのものであったが、装丁しない分、安価であった。但し、後には詩人や作家が自装本の一つのお洒落として採用したりしたが、復刻本以外、現在では殆んど見かけることはない(面倒ではあるが、詩集などでは読む覚悟や読後完了感、さらに切る際の一種の緊張感が堪らなくよく、私は好きである)。職場で隣に座っている数学の今年の24歳の新任教師に聞いてみたが知らなかった。こういう注こそ現代の若者には必要である。

「御孃さんの氣に入るやうな帶か反物を買つて遣りたかつた」名目上は普段お世話になっている下宿の大屋さんへの御礼という訳であるが、「帶か反物」と言っているものの反物と合わせた帯を購入したものと考えてよい。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」はここに注して、「明治の東京生活」という本に(小林重喜著・1991年角川書店刊と思われる)明治311893)年の記事として、高島屋飯田新七(高島屋デパートの前身)で

白縮緬 1反 14円98銭

朱珍丸帯1本 13円90銭

で購入した記載があるとする。先生は藤井氏が挙げたものと同程度か、それ以上の相応に高価な帯と反物を買ったと考えてよいと思われるが、靜に買ったものだけでも、藤井氏も推定する30円程度はしたものと考えてよい。明治30年代の1円は基準対象によって異なるが、これは現在の金額に直すと、最低でも15万円以上、25万円程度には相当することになる。藤井氏が『いくら経済的に余裕があるとはいっても、単に「色々世話になる」礼であるなどとは、とても思われないだろう』という意見は首肯出来る。次章部分の注でも藤井氏は『ここでのプレゼントは、下宿先の娘さんへの、というよりも、むしろフィアンセへの、と取ったほうがふさわしいくらいの豪勢なものだった』と記される。これにも私は激しく同感する。これこそKの自死を招かぬ平穏――「心」という小説が成立しなくなる重大なシークエンスであったのだ(この注内容は次章注にも続く)。

「地體」名詞で、「その物本来の性質・その物質の基本・それ自身」の意で、「自体」と同じ。

♡「日本橋へ行つて買ひたいものを買ひました」「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏は、三人が買い物をした店を、日本橋の橋の北側にあった三井越後屋呉服店(後の三越呉服店)か、反対の南側にあった白木屋呉服店の何れかであろうと同定されている。

♡「木原店」現在の日本橋区通一丁目附近、今は完全な高層ビル街に変貌して往時の印象は全くない。前注に記した白木屋は後に東急百貨店となり、更にその跡地に現在はコレド日本橋ビルがある。このコレドと左側にある西川ビルの間の今や何の変哲もない細い通りが、「白木屋の橫町」「木原店」と呼ばれ、左右共に美味の評判高い小飲食店が目白押しに建ち並んでいた。ここは江戸時代、文字通り通一丁目として、江戸で最も繁華な場所で、明治のこの頃は未だその面影が残っており、東京一の飲食店街として浅草上野よりも知られた通りであった。俗に「食傷通り」「食傷新道(じんみち)」などとも呼ばれた。]

 

 

  先生の遺書

    (七十二)

 「私は宅へ歸つて奥さんと御孃さんに其話をしました。奥さんは笑ひました。然し定めて迷惑だらうと云つて私の顏を見ました。私は其時腹のなかで、男は斯(こん)な風にして、女から氣を引いて見られるのかと思ひました。奥さんの眼は充分私にさう思はせる丈の意味を有つてゐたのです。私は其時自分の考へてゐる通りを直截に打ち明けて仕舞へば好かつたかも知れません。然し私にはもう狐疑(こぎ)といふ薩張(さつぱ)りしない塊がこびり付いてゐました。私は打ち明けやうとして、ひよいと留(と)まりました。さうして話の角度を故意に少し外(そ)らしました。

 私は肝心の自分といふものを問題の中から引き拔いて仕舞ひました。さうして御孃さんの結婚について、奥さんの意中を探つたのです。奥さんは二三さういふ話のないでもないやうな事を、明らかに告げました。然しまだ學校へ出てゐる位(くらゐ)で年が若いから、此方(こちら)では左程急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、御孃さんの容色に大分(だいぶ)重きを置いてゐるらしく見えました。極(き)めやうと思へば何時でも極められるんだからといふやうな事さへ口外しました。それから御孃さんより外に子供(ことも)がないのも、容易に手離したがらない源因になつてゐました。嫁に遣るか、聟を取るか、それにさへ迷つてゐるのではなからうかと思はれる所もありました。

 話してゐるうちに、私は色々の知識を奥さんから得たやうな氣がしました。然しそれがために、私は機會を逸したと同樣の結果に陷(おちい)いつてしまひました。私は自分に就いて、ついに一言(いちごん)も口を開く事が出來ませんでした。私は好い加減な所で話を切り上げて、自分の室へ歸らうとしました。

 さつき迄傍にゐて、あんまりだわとか何とか云つて笑つた御孃さんは、何時の間にか向ふの隅に行つて、脊中を此方へ向けてゐました。私は立たうとして振り返つた時、其後姿を見たのです。後姿だけで人間の心が讀める筈はありません。御孃さんが此問題について何う考へてゐるか、私には見當が付きませんでした。御孃さんは戸棚を前にして坐つてゐました。其戸棚の一尺ばかり開いてゐる隙間から、御孃さんは何か引き出して膝の上へ置いて眺めてゐるらしかつたのです。私の眼はその隙間の端(はじ)に、昨日(きのふ)買つた反物を見付け出しました。私の着物も御孃さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあつたのです。

 私が何とも云はずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改たまつた調子になつて、私に何う思ふかと聞くのです。その聞き方は何をどう思ふのかと反問しなければ解らない程不意でした。それが御孃さんを早く片付けた方が得策だらうかといふ意味だと判然(はつきり)した時、私は成るべく緩(ゆつ)くらな方が可(い)いだらうと答へました。奥さんは自分もさう思ふと云ひました。

 奥さんと御孃さんと私の關係が斯うなつてゐる所へ、もう一人男が入り込まなければならない事になりました。其男が此家庭の一員となつた結果は、私の運命に非常な變化を來してゐます。もし其男が私の生活の行路を橫切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き殘す必要も起らなかつたでせう。私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ事です。自白すると、私は自分で其男を宅へ引張つて來たのです。無論奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隱さず打ち明けて、奥さんに賴んだのです。所が奥さんは止せと云ひました。私には連れて來なければ濟まない事情が充分あるのに、止せといふ奥さんの方には、筋の立つ理窟は丸でなかつたのです。だから私は私の善(い)いと思ふ所を強ひて斷行してしまひました。

やぶちゃんの摑み:遂にKが登場する。しかし、それ以上に、このシークエンスは前章からの流れの中でK登場以前の遺書前半のクライマックスなのである。まずは私のこの部分のシナリオを味わってもらおう。

 

 夏目漱石原作やぶちゃん脚色「心」撮影用台本 (copyright 2010 Yabtyan

 

◎シーン72(モノクロ・1シークエンス27ショット)

(F.I.)

●茶の間

夕食後、茶の時間。各自の前に平らげた箱膳。中央に火屋の大き目な洋灯(ランプ)。

○ショット1(ランプの火屋を右になめて箱膳を含めた先生のフル・ショット。)

先生「……実は今日、大学で友人の一人から何時妻を迎えたのかと冷やかされましてね。お前の細君は非常に美人だなどと言って賞められました。(靜の方をちらりと見る。)どうも一昨日(おとつい)、三人連れで日本橋へ出掛けたところを、その男に何処かで見られたようです。」

○ショット2(箱膳を含めた奥さんの左からのフラットなフル・ショット。向うに伏目がちにはにかんでいる靜にも焦点を合わせて入れる。)

奥さん「まあ……(笑いながら)でも定めし、ご迷惑でしたろう?」

と笑ったまま、やや探るような下目遣いで見る。

○ショット3(先生の頭部のフル・ショット。)

その目に気づきながら、気づかぬ振りをして先生は平静を装う。少し間。先生、何か口を開いて言いかけようとする。がまた、口を噤んで、また暫く間を置いてから、

先生「……あの……時に、お嬢さんには……その、縁談のお話などは、当然もう、おありになるんでしょうね?」

○ショット4(奥さんの頭部のフル・ショット。向うにぼんやりした靜の面影。)

奥さん「(笑いながら)……ええ、二、三そういう話がないでも御座いませんが……でもねえ、未だ女学校へ通っているぐらいで、年も若う御座いますしね……こちらでは、さほど急いでは御座いませんの……」

○ショット5(靜の横顔のフル・ショット。)

靜「ま……こっちではなんて……あんまりだわ!」

とぷっと膨れる。しかし、直ぐに笑顔。

○ショット6(ショット2と同じ位置から。奥さん、靜の方を向く。向うに笑みを浮かべた伏目がちの靜。)

そのまま奥さん、ゆっくりと顔を左手(先生の方)へ直る。満足げな笑み。

奥さん「まあ……決めようと思うなら……宅(うち)では二人ぎりです御座いますから、いつでも直ぐに決められますけれど……そりゃあ、どうしても、この子一人ぎりで御座いましょう?……ちょいと、思案致しますこともないわけでは、ありませんの……」

○ショット7(天井から三人を俯瞰。)

暫し、沈黙。先生、茶を啜る。

○ショット8(アップ。)

先生の右の眼鏡の前面に映る奥さんと靜を含む茶の間の、やや歪んだ映像。

○ショット9(ショット1と同じ仰角のフル・ショット。)

先生、再び口を開き、また閉じる。そうして徐ろに上体を起こして、

先生「……さて……では、そろそろお暇致します……」

と立ち上がる。(そのままカメラは少し引いて先生の立ったフル・ショットへ)

先生、頭(こうべ)を右に廻して振り返り、茶の間の奥を凝っと見下ろす。

○ショット10(フラットに。)

いつの間にか、茶の間奥の戸棚の前に、こちらに背を向けて座っている靜。

○ショット11(アップ。)

先生の顔。眼鏡に奥さんと靜の映像が写っている。

○ショット12(アップ。)

靜の右後ろから横顔。

(カメラ、ゆっくり靜の膝の上へとティルト・ダウン。)

膝の向う、30㎝程引き開けられた戸棚。戸棚から伸びる艶やかな靜の反物。

それをゆっくりと撫でる靜の手。

(カメラ、その動きに沿って戸棚の方へパン。)

戸棚の中の隅。

靜の反物に重ね置かれている先生のすっきりとした紺の反物。

○ショット13(アップ)

反物に眼を落としている靜の右横顔。

○ショット14(先生の右眼鏡をフレームにして魚眼レンズ。)

茶の間の奥の靜、見上げる奥さん。

○ショット15

先生、何も言わずに左の廊下の障子の方へ歩みかける。

○ショット17(煽りのバスト・ショット。)

奥さん「(急に改たまった調子で)どう思われます?」

○ショット18(バスト・ショット。)

振り返る先生。

先生「……は? 何をですか?……」

○ショット19(15よりさらに寄った煽りのバスト・ショット。)

奥さん「この子を……早く片付けた方がよろしいでしょうかねえ?……」

○ショット20(茶の間奥、戸棚の下位置から、座った伏目の靜の右半身をなめて。)

見上げる奥さんと先生。

先生「……そうですね……なるべくゆっくら方が、好(い)いでしょう。……」

○ショット21(19よりさらにさらに寄った煽りのバスト・ショット。)

奥さん「……(笑って)私もそう存じます。……」

○ショット22(先生の頭部煽り。)

先生「では、お休みなさい。」

○ショット23(廊下上から俯瞰。)

障子を開けて出る先生。頭越し、向うに奥さんと背を向けた靜の面影。

○ショット24(ショット20と同じ茶の間奥の戸棚下位置から、座った更に伏目がちになった靜の右半身をなめて。)

茶の間を出てゆく先生。障子、閉まる。

○ショット25(奥さんのバストショット右側から。)

奥さんの顔から笑顔が消え、少し失望した風でゆっくりと靜の方を見る。

○ショット26(バスト・ショット。)

戸棚の前の靜の背中。分かるか分からないか程、靜、頭を落す。(遠ざかる先生の足音が被る。)

○ショット27(アップ。)

ランプの火屋。炎。

(F.O.)

 

 この最後の靜の背中こそが本章の最大の摑みである。

 前章に続いて、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の、このシークエンスに対する、私が全面的賛同する藤井氏の解説をお示しする。前章の日本橋への買物のシーンで『すでにプロポーズの機は十分に熟していたのではないか。加えて、その夜の外食といい、翌々日の友人等の噂、そしてその報告をキッカケとするお嬢さんの将来の話とお膳立てはできていた』と藤井氏は断じる(「キッカケ」のカタカナ表記はママ)。そして『にもかかわらず、先生は「一言も口を開」かず、「好い加減な所で話を切り上げて、自分の室へ歸らうと」する。部屋の隅で背中をこちらへ向け、買ってもらった反物をみつめていたお嬢さんの失望は、いかばかりであったろう』と記す。ここに私は激しく共感するのだ。それが先の私の映像台本のラストのショット26の謂いなのでもある。『先生には』靜と結婚したいという『意志はないのではないかと母娘は』激しい内心の失意と共に『思わざるをえなかったのではないか』という見解にも共鳴出来る。最後に、『にもかかわらず、意志がないなどとは信じられないという半信半疑の思いが、奥さんに「何う思うか」というすがりつかんばかりの問いを発せしめているのだ。』という言明は、言いえて妙と言わざるを得ない鋭い指摘なのである。奥さんを演じる私の映画「心」の女優には、是が非でもこのショット17から25までの演技を覚悟してディグしてもらわねばならないのである。

 先生は「後姿だけで人間の心が讀める筈はありません」と言う。そうだろうか? 我々は後姿にさえ落胆や懼れやときめきを読み取れる。読み取れぬ先生はおかしいと私は思う。いや、先生は後に、同じようにKの視線を三度見逃す――読み取るべき内容を読み落すこと、読み違えるで人生の岐路を致命的に踏み誤ってゆく先生――しかし、それが人間の多くの真実でもある、とも言えるのかも知れない。かく批判的に言い起した私でさえ――『私という人生は失敗だった。』という私であってみれば――

 なお、この回と次の回のみ、最後の飾罫が上の通り、明らかに白ヌキのものに変わっている。

「男は斯んな風にして、女から氣を引いて見られるのか」女は、こうした台詞回しや態度で、ターゲットとした男に暗に誘いかけて、その気持ちを探り出そうとするのか、というやや批判的なニュアンスを持った意である。しかし先生はいつもの「狐疑」によって、同様の意図を持った探りを以下に発動させ、同様の企みとして「奥さんの意中を探つ」て「色々の知識を奥さんから得」ることに美事に成功するわけであり、「女から氣を引いて見られる」どころか、その逆手を取って先方から戦略上有益な情報を入手し得たと、何処かで冷めたような余裕で発言している様子さえ見えるのである。

「狐疑」狐は疑い深い性質の動物であるという認識から、相手のことを疑うことを指す。「狐疑逡巡する」等と使い、疑いためらってぐずぐずすることを言う。

♡「昨日買つた反物」単行本「こゝろ」では「一昨日(おとゝひ)買つた反物を」と訂正されている。

「其男が此家庭の一員となつた結果は、私の運命に非常な變化を來してゐます。もし其男が私の生活の行路を橫切らなかつたならば、恐らくかういふ長いものを貴方に書き殘す必要も起らなかつたでせう。私は手もなく、魔の通る前に立つて、其瞬間の影に一生を薄暗くされて氣が付かずにゐたのと同じ事です」この物謂いの異様さにお気づきになられただろうか? その叙述は徹頭徹尾、

『その男によって』『その男のために』私の人生は致命的に暗くされた

と訴えているのである。是が非でも確認しておかずにはおられない。誰のために? 誰でもない、ここで不当に「魔」とされているKのために、である。

●「私の運命」は「其男が此家庭の一員となつた結果」「非常な變化を來し」致命的に救いがたいものとなってしまった――

●「もし其男が私の生活の行路を橫切らなかつたならば」私は「かういふ長いものを貴方に書き殘す」ような数奇な人生を送ることもなく、平穏な人生を、君という良き弟子を得て幸せな余生を送ることが出来た――

●その時「私は」予め防御の姿勢をとることも出来ず、手玉に取られるように「其男」、即ち、私にとっての「魔」的存在が、やすやすと私の魂を通り抜けて私の人生を完膚なきまでに未来永劫破壊して行くのを、ただ成す術もなく(というより安全だと騙されて)黙って見過していたようなものだ――

●「其男」即ち「魔」的存在がしかけてきた、「瞬間の」、しかし、どす黒い本質的な暗黒物質で出来上がった「影に」心を刺し貫かれて私の大事な「一生を薄暗くされて」しまったことに「氣が付かずにゐた」のと同じなのだ――

駄目押しは、

●おまけに如何にもおめでたい事に、「私は自分で其」悪魔のような「男を宅へ引張つて來たの」だった――

と言うのだ。私は読み直す毎に、この部分が苦くなる――如何にも先生の「謂い」の厭な場面として苦くなるのである。

「所が奥さんは止せと云ひました。私には連れて來なければ濟まない事情が充分あるのに、止せといふ奥さんの方には、筋の立つ理窟は丸でなかつたのです」女の第六感は正しい。いいや、奥さんは第六感なんどという怪しげなものではなく、ちゃんとした判断の中でこの後に起こること起こり得ることを予期しているのである。それは事実としても少しも不思議なことではなく、また、この奥さんをここで、私はイタコや巫女に比して見てもよいである。アブナい話に脱線しよう、というのではない。単純なことだ。イタコは、超自然の能力を発揮し霊と会話する、のではない(そう「信じる」ことを私は否定しない)。彼らは、鋭く研ぎ澄ました五感を鋭敏に働かせて、その依頼者の声や抑揚や息遣いから各人の中にある心的複合(コンプレクス)を瞬時に理解し、自らその依頼者の求むるところの霊になりきって(それを「演じる」というか「憑く」というかは最早問題ではない)、その依頼者=生者の側の魂を慰める、熟達した感覚者の謂いなのである。「止せといふ奥さんの方には、筋の立つ理窟は丸でなかつた」わけではない。分かり易い「理窟」はあるのだ。それは、ここでの奥さんの虞れが再度示される第(七十七)回で極めてはっきりと理解されるように書かれているのだ。「前にも話した通り、奥さんは私の此處置に對して始めは不贊成だつたのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商賣でないのだから、成るべくなら止した方が好いといふのです。私が決して世話の燒ける人でないから構ふまいといふと、世話は燒けないでも、氣心の知れない人は厭だと答へるのです。それでは今厄介になつてゐる私だつて同じ事ではないかと詰ると、私の氣心は初めから能く分つてゐると辯解して已まないのです。私は苦笑しました。すると奥さんは又理窟の方向を更へます。そんな人を連れて來るのは、私の爲に惡いから止せと云ひ直します。何故私のために惡いかと聞くと、今度は向ふで苦笑するのです。」苦笑するしかあるまい。これが分からぬ先生は鈍感以外の何者でもない。但し、だからそれを止めるかどうかという問題とは、また違ってくることも事実である。何れにせよ、最近流行りの言葉を用いるなら『先生の自己責任』であることに変わりはない。私なら――私が先生ならどうか? 矢張り、下宿にKを連れて来るであろう――。

 

 

  先生の遺書

    (七十三)

 「私は其友達の名を此處にKと呼んで置きます。私はこのKと小供(ことも)の時からの仲好でした。小供(ことも)の時からと云へば斷らないでも解つてゐるでせう、二人には同郷の緣故があつたのです。Kは眞宗の坊さんの子でした。尤も長男ではありません、次男でした。それである醫者の所へ養子に遣られたのです。私の生れた地方は大變本願寺派の勢力の強い所でしたから、眞宗の坊さんは他のものに比べると、物質的に割が好かつたやうです。一例を擧げると、もし坊さんに女の子があつて、其女の子が年頃になつたとすると、檀家のものが相談して、何處か適當な所へ嫁に遣つて呉れます。無論費用は坊さんの懷から出るのではありません。そんな譯で眞宗寺は大抵(だいてい)有福(いうふく)でした。

 Kの生れた家も相應に暮らしてゐたのです。然し次男を東京へ修業に出す程の餘力があつたか何うか知ません。又修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏まつたものか何うか、其處も私には分りません。兎に角Kは醫者の家へ養子に行つたのです。それは私達がまだ中學にゐる時の事でした。私は教塲で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に變つてゐたので驚ろいたのを今でも記憶してゐます。

 Kの養子先も可なりな財産家でした。Kは其處から學資を貰つて東京へ出て來たのです。出て來たのは私と一所でなかつたけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。其時分は一つ室によく二人も三人も机を並べて寐起したものです。Kと私も二人で同じ間(ま)にゐました。山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨(にら)めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでゐて六疊の間の中(なか)では、天下を睥睨(へいげい)するやうな事を云つてゐたのです。

 然し我々は眞面目でした。我々は實際偉くなる積でゐたのです。ことにKは強かつたのです。寺に生れた彼は、常に精進といふ言葉を使ひました。さうして彼の行爲動作は悉くこの精進の一語で形容されるやうに、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬してゐました。

 Kは中學にゐた頃から、宗教とか哲學とかいふ六づかしい問題で、私を困らせました。是は彼の父の感化なのか、又は自分の生れた家、即ち寺といふ一種特別な建物(たてもの)に屬する空氣の影響なのか、解りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遙に坊さんらしい性格を有つてゐたやうに見受けられます。元來Kの養家(やうか)では彼を醫者にする積で東京へ出したのです。然るに頑固な彼は醫者にはならない決心をもつて、東京へ出て來たのです。私は彼に向つて、それでは養父母を欺むくと同じ事ではないかと詰りました。大膽な彼は左右だと答へるのです。道のためなら、其位(くらゐ)の事をしても構はないと云ふのです。其時彼の用ひた道といふ言葉は、恐らく彼にも能く解つてゐなかつたでせう。私は無論解つたとは云へません。然し年の若い私達には、この漠然とした言葉が尊とく響いたのです。よし解らないにしても氣高い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行かうとする意氣組(いきくみ)に卑しい所の見える筈はありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKに取つて何の位有力であつたか、それは私も知りません。一圖な彼は、たとひ私がいくら反對しやうとも、矢張自分の思ひ通りを貫いたに違ひなからうとは察せられます。然し萬一の塲合、賛成の聲援を與へた私に、多少の責任が出來てくる位の事は、子供(ことも)ながら私はよく承知してゐた積です。よし其時にそれ丈の覺悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起つた塲合には、私に割り當られただけの責任は、私の方で帶びるのが至當になる位な語氣で私は贊成したのです。

やぶちゃんの摑み:「K」とは誰か? 実はこれはトリック・スターではないか? 「我輩は猫である」の先生は「苦沙彌先生」でK、「坊つちやん」の「清」もK、そして漱石の本名も夏目金之助で「K」である。

◎Kのプロフィル(Ⅰ)

・同郷の幼馴染みで浄土真宗の僧侶の次男

 →実家は(先生と同じく)財産家。

・医者の家に養子に行く

 →当然のこととして養家の跡継ぎとして医者にならねばならない。

・Kは「強い」

 →我々は二人とも「眞面目」であったが彼は私より遙かに「強い」。

・Kは常に「精進」という言葉を使用

 →寺に生れたからでもあるが、Kは実際の僧よりも遙かに僧らしい性格であった。

・Kは実生活に於いてもその「精進」を完全実践

 →私はそんなKを内心畏敬していた。

・Kは中学時代から宗教・哲学を好んで語った

 →そうした関心の主因が僧である父の直接の影響なのか、それとももっと血脈的な彼の属した寺という家系に属すものであるかは定かではないが、兎も角私には難しい問題ばかりで困らせられた。

・Kは「道のためなら」養父母を欺いても構わないと公言

 →医師になる気は全くない。「道のため」の学問を自律的に選び取る覚悟を持つ。

 なお、この前回とこの回のみ、最後の飾罫が上の通り、明らかに白ヌキのものに変わっている。

「私の生れた地方は大變本願寺派の勢力の強い所」本願寺派は親鸞の墓所大谷廟堂(現・大谷本廟)を発祥とする本願寺=西本願寺=「お西さん」を本山とする浄土真宗の最大派閥である。建永2(1207)年、後鳥羽上皇による専修念仏の停止(ちょうじ)及び不良僧善綽房らの死罪、宗祖法然と弟子親鸞らの流罪の宣旨が下されて、親鸞は越後国国府(現・新潟県上越市)に配流された。5年後の建暦元(1211)年に順徳天皇より勅免の宣旨が下るが、そのまま建保2(1214)年の東国布教出立まで、親鸞はここに約7年間留まっている(その間、土地の豪族越後三善氏の娘恵信尼(えしんに)と結婚している)。ここの叙述からは新潟県長岡市与板町与板にある新潟別院周辺がイメージされる。与板第8代藩主井伊右京亮直経の発願に始まる由緒ある別院である。

「東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました」この事実はしっかりと押さえておかなくてはならない。先生は東京に出て、叔父との一件を経た後、Kと分かれてあの下宿に引き移る高等学校3年間はKをルーム・メイトとして一緒に住んでいたのである。

「山で生捕られた動物が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨めるやうなものでしたらう。二人は東京と東京の人を畏れました。それでゐて六疊の間の中では、天下を睥睨するやうな事を云つてゐたのです」私の好きな一節である。「睨める」がやや気になる向きもあろうが、これは文語が入り込んでいるからで、「睨む」という口語のマ行五段活用の動詞の未然形に、文語の完了(ここでは存続)の助動詞「り」の連体形(接続は命令形)が付いたもので「睨んでいる」の意である。「天下を睥睨する」はこれでで成句で、にらみつけて勢いを示す、威勢を張るの意。私のイメージの中にアマラとカマラ(現在は彼等狼少女は事実ではないとされるが)のように抱き合っている裸の先生とKの映像が浮かぶ――それは決して気味の悪いものではない――少年愛である――先生とKとの精神的な若衆の蜜月の時代の面影なのである――。

「よし其時にそれ丈の覺悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起つた塲合には、私に割り當られただけの責任は、私の方で帶びるのが至當になる位な語氣で私は贊成したのです」先生がこの遺書で最初に用いる「覺悟」の語である。]

 

 

  先生の遺書

    (七十四)

 「Kと私は同じ科へ入學しました。Kは澄ました顏をして、養家(やうか)から送つてくれる金で、自分の好な道を步き出したのです。知れはしないといふ安心と、知れたつて構ふものかといふ度胸とが。二つながらKの心にあつたものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平氣でした。

 最初の夏休みにKは國へ歸りませんでした。駒込のある寺の一間を借りて勉強するのだと云つてゐました。私が歸つて來たのは九月上旬でしたが、彼は果して大觀音(おほかんのん)の傍(そば)の汚ない寺の中に閉ぢ籠つてゐました。彼の座敷は本堂(ほんたう)のすぐ傍の狹い室でしたが、彼は其處で自分の思ふ通りに勉強が出來たのを喜こんでゐるらしく見えました。私は其時彼の生活の段々坊さんらしくなつて行くのを認めたやうに思ひます。彼は手頸に珠數を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する眞似をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數(じゆず)の輪を勘定するらしかつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓い輪になつてゐるものを一粒づゝ數へて行けば、何處迄數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰(つまぐ)る手を留(と)めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふのです。

 私は又彼の室に聖書を見ました。私はそれ迄に御經の名を度々彼の口から聞いた覺がありますが、基督(キリスト)教に就いては、問はれた事も答へられた例もなかつたのですから、一寸驚ろきました。私は其理由を訊ねずにはゐられませんでした。Kは理由(わけ)はないと云ひました。是程人の有難がる書物なら讀んで見るのが當り前だらうとも云ひました。其上彼は機會があつたら、コーランも讀んで見る積だと云ひました。彼はモハメツドと劒(けん)といふ言葉に大いなる興味を有つてゐるやうでした。

 二年目の夏に彼は國から催促を受て漸く歸りました。歸つても專門の事は何にも云はなかつたものと見えます。家(うち)でも亦其處に氣が付かなかつたのです。あなたは學校教育を受けた人だから、斯ういふ消息を能く解してゐるでせうが、世間は學生の生活だの、學校の規則だのに關して、驚ろくべく無知なものです。我々に何でもない事が一向外部へは通じてゐません。我々は又比較的内部の空氣ばかり吸(せつ)つてゐるので、校内の事は細大(さいだい)共(とも)に世の中に知れ渡つてゐる筈だと思ひ過ぎる癖があります。Kは其點にかけて、私より世間を知つてゐたのでせう、澄ました顏で又戻つて來ました。國を立つ時は私も一所でしたから、汽車へ乘るや否やすぐ何うだつたとKに問ひました。Kは何うでもなかつたと答へたのです。

 三度目の夏は丁度私が永久に父母の墳墓の地を去らうと決心した年です。私は其時Kに歸國を勸めましたが、Kは應じませんでした。さう毎年家へ歸つて何をするのだと云ふのです。彼はまた踏み留まつて勉強する積らしかつたのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らした其二箇月間が、私の運命にとつて、如何に波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰返しません。私は不平と幽鬱(いううつ)と孤獨の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入(い)つて又Kに逢ひました。すると彼の運命も亦私と同樣に變調を示してゐました。彼は私の知らないうちに、養家先へ手紙を出して、此方(こつち)から自分の詐(いつはり)を白狀してしまつたのです。彼は最初から其覺悟でゐたのださうです。今更仕方がないから、御前の好きなものを遣るより外に途(みち)はあるまいと、向ふに云はせる積もあつたのでせうか。兎に角大學へ入つて迄も養父母を欺むき通す氣はなかつたらしいのです。又欺むかうとしても、さう長く續くものではないと見拔いたのかも知れません。

やぶちゃんの摑み:上の通り、ここで当初の飾罫に戻っている。

「Kと私は同じ科へ入學しました」旧制第一高等学校は明治271894)年以降、帝国大学予科と位置づけられ、第一部が法学・政治学・文学、第二部が工学・理学・農学・薬学、第三部が医学に分科していた。私の推定は明治281895)年(又は前年)に二人は同時に入学しており、私の考える先生の後の専門(心理学)から言えば、二人は第一部に入ったことになる。医師の家に養子に行ったKは当然の如く第三部に入っていなければならないのに、この18歳の高等学校入学最初の時点から養父母を完全に欺いていたことになる。

「大觀音」現在の東京都文京区向丘にある浄土宗天昌松翁院光源寺のこと。通称「駒込大観音」の方が知られる。江戸後期から現在の地にある。奈良長谷寺の本尊を模した1丈6尺の大きな観音像で知られた(但し、本尊は阿弥陀如来)。漱石は「三四郎」に「大觀音の乞食」を登場させており、「硝子戸の中」の(九)では漱石自身の一高時代を回想して友達O(太田達人)との思い出の中で『大観音の傍(そば)に間借をして自炊してゐた頃には、よく干鮭(からざけ)を焼いて佗びしい食卓に私を着かせた。或時は餠菓子の代りに煮豆を買つて來て、竹の皮の儘雙方から突つつき合つた』などとある(因みに両作では「おおぐわんのん」と濁って読んでいる)。荒正人氏の集英社版漱石文学全集別巻の年譜を見ると、明治161885)年19歳の項に、『春から夏にかけて(推定)、太田達人と頻繁に交渉する。太田達人(大愚山人)は、大観音(おおかんおん)の傍らにすむ漢詩人・間中雲帆の離れ四畳半に下宿代なしで友人と二人で住む。その下宿に毎日のように訪れ、何度も泊る。』とある(この年譜を見る限りでは、当時の漱石の下宿は神田区猿楽町(現・千代田区)の末富屋とあるが、荒氏の記載のように頻繁に訪れており、漱石自身としては「硝子戸の中」のように『間借をして自炊』感覚であったのであろう)。残念ながら当時の観音像は昭和201945)年3月の空襲で寺院諸共焼失、現在のものは最近の建立になるものである。

「彼は手頸に珠數を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する眞似をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數の輪を勘定するらしかつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓い輪になつてゐるものを一粒づゝ數へて行けば、何處迄數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰る手を留めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふのです」私は頗るこのシーンが好きである。それは二つの観点からである。それを語っておきたい。まず、この数珠を数える行為は、先生は奇妙に思ってはいるけれども一般によく行われる行の一つである。釈迦の伝説に由来し、その百八個の珠(実際の数珠は個数を減じてあるが)を御仏の名を称えながら繰り返し数えることで魂が浄化され、遂にそれが数百万辺に至れば百八煩悩の業苦も消滅すると言われる反復行である。

 まず私がこの部分に強く引かれるのは、この遺書を執筆している先生自身が、特異的にその現在時制で「詰らない事ですが、私はよくそれを」この遺書を書いている今この時にも「思ふのです」と述懐している点である。即ち、話の核心に入る前の、即ち、汚れる前の『清浄なる先生の記憶の中にあるKの思い出』の、その中でも最も深く刻まれているKの姿こそが、この数珠を繰る姿である、という点である。私は先生にとってのKという存在を考える時、このシーンのKにこそ原初的に立ち戻って始めて先生とKの関係は見えてくるのではないかと思っている。

 そして勿論、もう一つの魅惑は例の円運動である。特にこれは永遠に終わらない円環である。嘗てイッセー尾形が先生を演じたドラマ版ではラスト・シーン、海岸で笑顔の先生が数珠を断ち切って投げ打つシーンがセットされていた――私の好きなバッハのクラヴィーア曲集第1巻第1番前奏曲が被って、全体がスタジオ・セットによる撮影という点に無理はあったものの、そのエンディングの解釈は頗る印象的であったのを覚えている(詳細な感想は私のブログ『「こゝろ」3種(+1)映像作品評』を参照)。――「Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰る手を留めたでせう」

と先生が言う時、今、こうしてこの摑みを記している私も、

――「Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰る手を留めた」のか

を考えてしまうのである。そしてそこにこそ、

――その止まったKの「爪繰る手」の映像にこそ――

「心」を開明(解明ではない!)する禪機があるのではあるまいか? と思われてならないのである――。

「モハメツドと劒」一般には「コーランか剣か」で知られる成句。ウィキの「コーランか剣か」から引用する。『意味は「(イスラム教に)改宗するか、死ぬか」となる。「信仰か戦争か」と解釈されることもある。イスラム教の勢力が拡大するのに伴い、征服者が占領地民に対して用いた態度を言葉で示したものとされる。「右手にコーラン、左手に剣」とされることもある』。『実際には「コーランか貢納か剣か」といわれていて、イスラム帝国が占領した敵の都市に住んでいた住民にいった言葉とされている。イスラーム法下では異教徒、とりわけ『アブラハムの宗教』を信じるものはジズヤさえ支払えば、厳しい差別的待遇を受けるとはいえ基本的な信教の自由・財産権・生命権などを保障されていた』。『但し狂信的・教条的イスラーム指導者が現れた場合、『コーランか剣か』という厳しい要求が突きつけられることもあったのは事実である。歴史上ではムワッヒド朝やアウラングゼーブ時代のムガル帝国などで狭義の強制改宗が行われた。また多神教徒と啓典の民では待遇も異なり、前者にはより『コーランか剣か』という問いが突きつけられたことが多かった』。ムハンマドの言行録集である『ハディースには、まさに「強制」という項目が存在する。そこではムハンマドがユダヤ人に「コーランか剣か」を突きつけた歴史が語られている。

「我々がモスクに居たとき、神の使徒(=ムハンマド)が来て、『ユダヤ人達のところへ行こう』と言ったので、我々は彼と共に出かけ、或る学校に入った。そこで預言者(=ムハンマド)が『ユダヤ人達よ、イスラームを受け入れよ、そうすれば身の安全を保証されよう』と言ったとき、彼らが『ムハンマドよ、お前の伝えたいことはそれか』と尋ねたので、彼は『そうだ』と二度答え、さらに『お前の伝えたいことはそれか』と尋ねられたときも、彼は『そうだ』と答えてから、『大地はアッラーと使徒(=ムハンマド)のものであることを知れ。わたしはそこからお前たちを追い出そうと思う。お前たちのうちで何がしかの財産を持つものは、それを売れ。さもなければ、大地はアッラーと使徒のものであることを知れ』と言った」―ハディース「強制」二の一

『コーランか剣か』という"神話"の対極にあるもう一つの神話として、親イスラーム的学者によって唱えられ続けてきた『イスラームは平和と寛容の宗教、宗教的迫害とは無縁』というものがある。バーナード・ルイスはこの二つの神話はともに一定の真実を含んでいるが、実態はより複雑なものであると述べている』とある。この言葉が属性として持つ強力な攻撃性や対峙性は鎌倉新仏教であった、Kの惹かれている日蓮にも共通するものが見られ、Kの石部金吉的な一徹頑な人格や強烈な使命感と相俟ってKの意識構造の解明には必携のアイテムではある。そしてこの二人の宗派とKのもう一つの共通性が、その内に激しい原理主義者(ファンダメンタリスト)が潜んでいる点でもある。

「私の郷里で暮らした其二箇月間が、私の運命にとつて、如何に波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰返しません。私は不平と幽鬱と孤獨の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入つて又Kに逢ひました。すると彼の運命も亦私と同樣に變調を示してゐました」ここは極めて重要なシーンであると私は思っている。何故なら、始めて遺書の冒頭以降、今まで主に語られて来た先生の側の時系列的陳述が、Kの時系列とぴったりリンクして立体的に見えてくる仕掛けとなっているからである。そしてそれは時間軸だけでなく、傷ついた共鳴する魂という精神軸の交差でもあるのである。

 

 

  先生の遺書

    (七十五)

 「Kの手紙を見た養父は大變怒りました。親を騙すやうな不埒なものに學資を送る事は出來ないといふ嚴しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを私に見せました。Kは又それと前後して實家から受取つた書翰も見せました。これにも前に劣らない程嚴しい詰責(きつせき)の言葉がありました。養家(ようか)先へ對して濟まないといふ義理が加はつてゐるからでもありませうが、此方(こつち)でも一切構はないと書いてありました。Kが此事件のために復籍してしまふか、それとも他(た)に妥協の道を講じて、依然養家に留まるか、そこは是から起る問題として、差し當り何うかしなければならないのは、月々に必要な學資でした。

 私は其點に就いてKに何か考があるのかと尋ねました。Kは夜學校の教師でもする積だと答へました。其時分は今に比べると、存外世の中が寛ろいでゐましたから、内職の口は貴方が考へる程拂底でもなかつたのです。私はKがそれで十分遣つて行けるだらうと考へました。然し私には私の責任があります。Kが養家の希望に背いて、自分の行きたい道を行かうとした時、贊成したものは私です。私は左右かと云つて手を拱(こまぬ)いでゐる譯に行きません。私は其塲で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを跳ね付けました。彼の性格から云つて、自活の方が友達の保護の下に立つより遙かに快よく思はれたのでせう。彼は大學へ這入つた以上、自分一人位(くらゐ)何うか出來なければ男でないやうな事を云ひました。私は私の責任を完(まつた)うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思ふ通りにさせて、私は手を引きました。

 Kは自分の望むやうな口を程なく探し出しました。然し時間を惜む彼にとつて、此仕事が何の位辛かつたかは想像する迄もない事です。彼は今迄通り勉強の手をちつとも緩めずに、新らしい荷を脊負つて猛進したのです。私は彼の健康を氣遣(きつか)ひました。然し剛氣な彼は笑ふ丈で、少しも私の注意に取合ひませんでした。

 同時に彼と養家との關係は、段々こん絡(がら)かつて來ました。時間に餘裕のなくなつた彼は、前のやうに私と話す機會を奪はれたので、私はついに其顛末を詳しく聞かずに仕舞ひましたが、解決の益(ます/\)困難になつて行く事丈は承知してゐました。人が仲に入つて調停を試みた事も知つてゐました。其人は手紙でKに歸國を促がしたのですが、Kは到底駄目(ため)だと云つて、應じませんでした。此剛情な所が、―Kは學年中で歸れないのだから仕方がないと云ひましたけれども、向ふから見れば剛情でせう。そこが事態を益(ます/\)險惡にした樣にも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、實家の怒りも買ふやうになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果もありませんでした。私の手紙は一言の返事さへ受けずに葬られてしまつたのです。私も腹が立ちました。今迄も行掛り上、Kに同情してゐた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする氣になりました。

 最後にKはとう/\復籍に決しました。養家から出して貰つた學資は、實家で辨償する事になつたのです。其代り實家の方でも構はないから、是からは勝手にしろといふのです。昔の言葉で云へば、まあ勘當(かんたう)なのでせう。或はそれ程強いものでなかつたかも知れませんが、當人はさう解釋してゐました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに繼母に育てられた結果とも見る事が出來るやうです。もし彼の實の母が生きてゐたら、或は彼と實家との關係に、斯うまで隔りが出來ずに濟んだかも知れないと私は思ふのです。彼の父は云ふまでもなく僧侶でした。けれども義理堅い點に於て、寧ろ武士(さむらひ)に似た所がありはしないかと疑はれます。

やぶちゃんの摑み:私は、この章部分を大切にしたいと思う。何故なら、この章で先生は一緒に住んでいたKと別れて、奥さんの下宿へと引き移っていると考えるからである。実は本作では、Kとの絡みの中で、どこで別居が始まった(奥さんの下宿に引き移った)かが、不思議なことに分明でないのである。私はとりあえず、本章の第二段落の最後、「それで彼の思ふ通りにさせて、私は手を引きました。」という瞬間にそれを求めている。これは大事なことだ。何故なら、そこが先生とKとの、精神の微妙な分岐点であるからである。先生は何故、Kと別居するシーンを描かなかったのか? これは「心」の大きな謎として、今、私の中に浮上してきた。

◎Kのプロフィル(Ⅱ)

・Kは自尊心・自立心が強い

 →極めて自律的な存在としてのKに先生は何処かで自分にはないタイプの精神の「強さ」を見、羨ましさ(嫉妬)を抱いている

・Kが「剛情」であるのは継母(生母とは死別)に育てられた結果であろうという私の推測

 →Kには母性愛の欠損及び抑圧され変形したエディプス・コンプレクスがあると考えてよい(それは漱石との生活史と重なる)

☆先生もKも『故郷喪失者』となった事

「手を拱(こまぬ)いでゐる」は誤りではない。これが正しい音で、現在の「こまねく」というのは「こまぬく」が音変化したものである。本来は「腕組みをする」ことであるが、そこから多く「腕をこまぬく」といったの形で、「何もしないで傍観する」の意となった。但し、「で」は接続助詞「て」の濁音化で、用法としては誤りである。ガ行五段活用動詞のイ音便形に接続する場合(「脱いで」「嗅いで」等)と誤って用いたものと思われる。

「私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の効果もありませんでした。私の手紙は一言の返事さへ受けずに葬られてしまつたのです。私も腹が立ちました。今迄も行掛り上、Kに同情してゐた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする氣になりました」先生の手紙が何故「何の効果も」ないのか? 「一言の返事さへ受けずに葬られてしまつた」のか? 先生が「腹が立」つ程無視されたのは何故か? 先生が「それ以降は理否を度外に置いても」とことん「Kの味方をする氣に」俄然なったほど無視された理由は奈辺にあったか? 先生は書いていないが容易に想像がつくのである。同郷の幼馴染み、先生の家もKの家も財産家、檀家は違っても同じ浄土真宗檀徒であった可能性も高く、だとすれば――先生の叔父や先生の親族と、Kの実家及びKの養家が全く相互に知り合いの関係になかった可能性の方が断然低い。されば叔父の一件で故郷を出奔した直後の先生は、かの故郷で著しく評価が悪かったと考える方が自然である。先生の手紙が無視され、それどころかKと実家養家との険悪な状況に対して、「融和する」どころか『あそこの不良学生に唆された』『同じ穴の狢じゃ!』なんどと罵られ(「山で生捕られた」狢ども「が、檻の中で抱き合ひながら、外を睨めるやうな」ものか)、正に火に油を注ぐ結果とさえなっていたのではなかったか、とも考えられるのである。しかしそのようなことを先生は一切書いていない。これは叔父のことを思い出すのも厭なだけではなく、先生の実は激しいノスタルジアが、故郷の現実の人々への激しい嫌悪によって完全に遮断されているからであると私は思うのである。即ち、先生は故郷憎悪故にこそ自分が介入したことで事態を悪化させていることにさえ気付いていないのだと私は思うのである(それをKが理解していたとしても、そういうことをKが先生に告げるなどということは100%考えられない。性格的にも考えられないし、そんな余裕はこの時のkには、ない)。

「最後にKはとう/\復籍に決しました」旧民法第四編「親族」第四章「親子」第二節「養子」の「第四款「離縁」にある第八百七十条下に(前部を略した)

離縁ノ訴ハ之ヲ提起スル権利ヲ有スル者カ離縁ノ原因タル事実ヲ知リタル時ヨリ一年ヲ経過シタル後ハ之ヲ提起スルコトヲ得ス其事実発生ノ時ヨリ十年ヲ経過シタル後亦同シ

とある。Kの養子縁組の解消(離縁)と復籍手続がかなり一気に行われた(次章「Kの復籍したのは」大学「一年生の時でした。それから二年生の中頃になる迄、約一年半の間、彼は獨力で己れを支へて行つた」とあり、K自身の高校3年夏の手紙での養家への告白から一年以内に総てが片付いている)、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」でも藤井氏がしばしば注しているように、主に法的な理由からでもあった。

「勘當」この時代、既に「勘當」は出来なかった(藤井氏は旧民法第四編「親族」第二章「戸主及ヒ家族」の第七百四十九条

家族ハ戸主ノ意ニ反シテ其居所ヲ定ムルコトヲ得ス

2 家族カ前項ノ規定ニ違反シテ戸主ノ指定シタル居所ニ在ラサル間ハ戸主ハ之ニ対シテ扶養ノ義務ヲ免ル

3 前項ノ場合ニ於テ戸主ハ相当ノ期間ヲ定メ其指定シタル場所ニ居所ヲ転スヘキ旨ヲ催告スルコトヲ得若シ家族カ正当ノ理由ナクシテ其催告ニ応セサルトキハ戸主ハ裁判所ノ許可ヲ得テ之ヲ離籍スルコトヲ得但其家族カ未成年者ナルトキハ此限ニ在ラス

の「3」にある「離籍」を提示しておられるが、藤井氏自身も推定されているように、これは有り得ない。言葉通り「復籍」して終わりで、実家と実質的経済や冠婚葬祭の連絡が絶たれ、K自身や先生から見れば「昔で言えば勘当みたようなものだ」と受け止めたに過ぎない。実質的勘当であっても実際には後に、K自殺の報知を受けて父と兄が即座に上京し、先生と面会している。Kの遺骨を引き取りに来たものである。そこで先生はKの遺骨を雑司ヶ谷に葬る提案をし、それが受け入れられる。私は永くこのKの父親は「義理堅い點に於て、寧ろ武士に似た所がありはしないかと疑はれ」るという語を養家との関係、及び子であるKの風格への暗示(Kはこの父と同じく潔く、正に武士・侍として鮮やかに自害するという点で)理解して来たが、今回、これは実はこのKの埋葬に関わる部分への伏線(「Kを、私が萬事世話して來たという義理」(百四)もあって先生の提案を許諾したという下りへの)でもあったのだということに、今更、気いた。

♡「彼の父は云ふまでもなく僧侶でした。けれども義理堅い點に於て、寧ろ武士に似た所がありはしないかと疑はれます」侍に似ているKの父――それは侍のように潔く自決してゆくKの面影でもあるのではあるまいか。]

 

 

  先生の遺書

    (七十六)

 「Kの事件が一段落ついた後で、私は彼の姊(あね)の夫から長い封書を受取りました。Kの養子に行つた先は、此人の親類に當るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、此人の意見が重きをなしてゐたのだと、Kは私に話して聞かせました。

 手紙には其後Kが何うしてゐるか知らせて呉れと書いてありました。姊が心配してゐるから、成るべく早く返事を貰ひたいといふ依賴も付け加へてありました。Kは寺を嗣いだ兄よりも、他家へ緣づいた此姊を好いてゐました。彼等はみんな一つ腹から生れた姉弟(きやうだい)ですけれども、此姊とKの間には大分年齒の差があつたのです。それでKの小供の時分には、繼母よりも此姊の方が、却つて本當の母らしく見えたのでせう。

 私はKに手紙を見せました。Kは何とも云ひませんでしたけれども、自分の所へ此姊から同じやうな意味の書狀が二三度來たといふ事を打ち明けました。Kは其度に心配するに及ばないと答へて遣つたのださうです。運惡く此姊は生活に餘裕のない家に片付いたゝめに、いくらKに同情があつても、物質的に弟を何うして遣る譯にも行かなかつたのです。

 私はKと同(どう)じやうな返事を彼の義兄宛で出しました。其中に、萬一の塲合には私が何うでもするから、安心するやうにといふ意味を強い言葉で書き現はしました。是は固より私の一存でした。Kの行先を心配する此姊に安心を與へやうといふ好意は無論含まれてゐましたが、私を輕蔑したとより外に取りやうのない彼の實家や養家に對する意地もあつたのです。

 Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃になる迄、約一年半の間、彼は獨力で己れを支へて行つたのです。所が此過度の勞力が次第に彼の健康と精神の上に影響して來たやうに見え出しました。それには無論養家を出る出ないの蒼蠅(うるさ)い問題も手傳つてゐたでせう。彼は段々感傷的(センケメンタル)になつて來たのです。時によると、自分丈が世の中の不幸を一人で脊負つて立つてゐるやうな事を云ひます。さうして夫を打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未來に橫はる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くやうにも思つて、いら/\するのです。學問を遣り始めた時には、誰しも偉大な抱負を有つて、新らしい旅に上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍(のろ)いのに氣が付いて、過半は其處で失望するのが當り前になつてゐますから、Kの塲合も同じなのですが、彼の焦慮り方は又普通に比べると遙に甚しかつたのです。私はついに彼の氣分を落ち付けるのが專一だと考へました。

 私は彼に向つて、餘計な仕事をするのは止せと云ひました。さうして當分身體を樂にして、遊ぶ方が大きな將來のために得策だと忠告しました。剛情なKの事ですから、容易に私のいふ事などは聞くまいと、かねて豫期してゐたのですが、實際云ひ出して見ると、思つたよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはたゞ學問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養つて強い人になるのが自分の考だと云ふのです。それには成るべく窮屈な境遇にゐなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、丸で醉狂です。其上窮屈な境遇にゐる彼の意志は、ちつとも強くなつてゐないのです。彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる位(くらゐ)なのです。私は仕方がないから、彼に向つて至極同感であるやうな樣子を見せました。自分もさういふ點に向つて、人生を進む積だつたと遂には明言しました。(尤も是は私に取つてまんざら空虚な言葉でもなかつたのです。Kの説を聞いてゐると、段段さういふ所に釣り込まれて來る位、彼には力があつたのですから)。最後に私はKと一所に住んで、一所に向上の路を辿つて行きたいと發議(はつぎ)しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に跪まづく事を敢てしたのです。さうして漸(やつ)との事で彼を私の家に連れて來ました。

やぶちゃんの摑み:先生がKを下宿に招いた理由が示される。勿論、そこにはKが養家を欺くことに賛同したことへの責任性を基底としているが、実際にはKの精神的変調を心配してのことであった。取り敢えずは、自己の精神状態にある種の変調を見出すにある時は敏感、ある時は極めて鈍感な先生の精神が、この時は極めて正常に(それは本当に正常と言えるか?)働いた結果、正しく(それは本当に正しいと言えるか?)Kの精神分析に成功したということである(それは本当に成功と言えるか?)

◎Kの決意

×「學問」≠人生の「目的」

○「意志の力を養つて強い人になる」=人生の「目的」=「道」

↓そのためには

「なるべく窮屈な境遇にゐなくてはならない」

↓しかし現実には

●先生の分析

Kは決意実現のために「精進」を実践しているとは言えず、かなり重い神経衰弱になっている

↓しかし

Kは「剛情」で懐柔に容易に落ちない

↓そこで「仕方がな」いから「彼に向つて至極同感であるやうな樣子を見せ」

○「彼の前に跪まづく事を敢てした」

 →第(十四)回の先生の言葉と直連関

「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未來の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未來の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」

↓具体的には

「自分も君と一緒に意志の力を養つて強い人になりたいのだ」と依願し、最後には「君と一所に住んで、一所に向上の路を辿つて行きたい」

とまでKに言明した(してしまった)行為を指す

以上、先生はここで総体に於いて「仕方がな」いから「彼の前に跪まづく事を敢てした」と自己合理化を始めていることに着目されたい。誰がどう言おうとこれは『自己合理化』である。先生がこの後に告白することながら、我々には既に想定可能な事実がある。そもそも先生は常にKを畏敬していた、Kに及ばないという意識を持っていたではないか(七十八)。そのK「の前に跪まづく事」は先生にとって「敢て」と条件付けなければならない技では、実は、なかったはずである。いや、なかったのだ――。

「Kは寺を嗣いだ兄よりも、他家へ緣づいた此姊を好いてゐました。彼等はみんな一つ腹から生れた姉弟(きやうだい)ですけれども、此姊とKの間には大分年齒の差があつたのです。それでKの小供の時分には、繼母よりも此姊の方が、却つて本當の母らしく見えたのでせう」母性愛の欠損を補っていたのがこの姉であったが、その姉の姻族が養家であったのは、Kにとって逆に辛かったものと解される。Kはそのつもりはなくてもこの愛する母代わりであった姉に泥を塗ったことになるからである。その心痛は恐らくKにとって最も辛く激しいものであったのではあるまいか? 因みにここの「姉弟」の「姉」だけは表記の字体で他は「姊」である。

「此姊は生活に餘裕のない家に片付いたゝめに、いくらKに同情があつても、物質的に弟を何うして遣る譯にも行かなかつた」という点に於いてこの姉や義兄は先生への偏見を持っていなかった可能性が強いように思われる。なればこそ先生に宛ててKについての消息の問い合わせを出し得たのである。即ち、この義兄(姉)は財産家ではなく、先生の一族やKの一族、そして義兄に繋がる養家一族の富裕グループとは一線を画していると読めるのである。なればこそ先生もそのような「Kの行先を心配する此姊に安心を與へやうといふ好意」を幾分かは込めて返事を認めたものの、全体は「萬一の塲合には私が何うでもするから」御心配なく、といった「強い言葉で書き現はし」たものとなってしまった。それは先の「私を輕蔑したとより外に取りやうのない彼の實家や養家」の先生の手紙の無視「に對する意地」に染め付けられた強烈なものであった。――この時点でも私は先生が自分の不評がKの一件に悪影響を与えていることに考えが及んでいない。いや、先生の生涯を貫くことになるアンビバレントな田舎憎悪が既に出来上がってしまっていたと言えるのである。

「感傷的(センケメンタル)」勿論、「チ」の誤植。

「それから自分の未來に橫はる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くやうにも思つて、いら/\するのです。學問を遣り始めた時には、誰しも偉大な抱負を有つて、新らしい旅に上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍(のろ)いのに氣が付いて、過半は其處で失望するのが當り前になつてゐますから、Kの塲合も同じじなのですが、彼の焦慮り方は又普通に比べると遙かに甚しかつたのです。私はついに彼の氣分を落ち付けるのが專一だと考へました」この部分、実は大学3年間の学問生活についての一般論を述べた部分であるにも拘わらず、先生やKがまるで卒業学年であるかのような錯覚を起してしまうところであるが(実際には先生の下宿に引き移る以前の描写であるからこのKは大学1年の年末から2年次半ば冬頃までである)、それ程にKが学問探究に真摯にして性急であったことを示すためではある。

「彼は寧ろ神經衰弱に罹つてゐる」これは明言してよいが、Kは狭義の精神疾患としての当時の神経衰弱では、決してない。説明がまどろっこしいが、まず「神経衰弱」という疾患(病態)自体が現在、精神疾患の名称として用いられていない。以下、ウィキの「神経衰弱」から引用する。『神経衰弱(しんけいすいじゃく、英: Neurasthenia)は、1880年に米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である』。『症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから病名が輸入され日本でも有名になった』。『病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない』のである。ここで着目してよいのは、その当時であっても具体的症状として眩暈・筋緊張性頭痛・睡眠障害・消化不良といった身体症状が挙げられ、それに付随する形で強迫感や焦燥感を伴う不定愁訴がある、即ち、現在の心身症とほぼ同等のものを念頭に置いてよいということである。そのような観点から見てもKの状態は、正常範囲内にある。まず身体的な不具合を訴えておらず、先生はせいぜい怒りっぽくなったという変化を記すばかりであり、これは当時のKが置かれた状況を考えれば当然過ぎる正常な反応と考えられる。況や、自律神経失調症や神経症的病態は、この後の先生の叙述にも現われて来ない。Kは神経症や精神病ではない。しかし即ちそうした理解は、我々にKの自殺をそのようなものに帰して手っ取り早く分かったように処理することが不能である、という困難な事実を提示してもいるということに気付かねばならぬ。

「彼の前に跪まづく事を敢てした」冒頭に示した通り、これが第(十四)回の先生の言葉と直連関していることは疑いない。但し、新聞小説の読者がそのように、直連関を感じ、即座にその言葉を思い出したかと言えば、やや疑問が残る。私は過去に新聞の連載小説を数回読んだ記憶がある。一番はっきりと覚えているのは大学時分の井上靖の「四角な舟」(現代のノアの箱舟を目指そうとするけったいな人物の物語であったように思う)であったが、毎回切り抜きはしたものの、読みながら過去の回を読み返し覚えが殆んどない。当時の読者の読み方が如何なるものであったかは想像出来ない。新聞が大切に保存されたものかどうか分からぬが(私が小学校の頃、鹿児島の大隈半島のど真ん中の岩川の母の歯医者であった祖父の実家では毎日着実に便所の落とし紙に加工されていた)、単行本のように容易にフィード・バックはされなかったものとは思われる。

 閑話休題。第(十四)回の叙述を、ここに則して書き換えるならば、

「Kの膝の前に跪づいたといふ記憶が後に、今度は其Kの頭の上に足を載させるやうな結果を生んだのです。Kが私から未來の侮辱を受けたやうには――私は、あなたから未來の侮辱を受けたくはないのです。だから今のあなたからの尊敬を斥ぞけたいと思ふのです。私によつて御孃さんを呉れろといふ拔け驅けをされたことであの時Kが感じたであらう一層淋しい感じを――私は我慢するのは厭だ。だから代りに淋しい今の私を我慢したいのです。自由と獨立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう。」

ということになろうか。]

 

 

  先生の遺書

    (七十七)

 「先生の座敷には控(ひかへ)の間といふやうな四疊が付屬してゐました。玄關を上つて私のゐる所へ通らうとするには、是非此四疊を橫切らなければならないのだから、實用の點から見ると、至極不便な室でした。私は此處へKを入れたのです。尤も最初は同じ八疊に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考へだつたのですが、Kは狹苦しくつても一人で居る方が好(い)いと云つて、自分で其方(そつち)のはうを擇(えら)んだのです。

 前にも話した通り、奥さんは私の此處置に對して始めは不贊成だつたのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商賣でないのだから、成るべくなら止した方が好いといふのです。私が決して世話の燒ける人でないから構ふまいといふと、世話は燒けないでも、氣心の知れない人は厭だと答へるのです。それでは今厄介になつてゐる私だつて同じ事ではないかと詰ると、私の氣心は初めから能く分つてゐると辯解して己(や)まないのです。私は苦笑しました。すると奥さんは又理窟の方向を更へます。そんな人を連れて來るのは、私の爲に惡いから止せと云ひ直します。何故私のために惡いかと聞くと、今度は向ふで苦笑するのです。

 實をいふと私だつて強ひてKと一所にゐる必要はなかつたのです。けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼は屹度それを受取る時に躊躇するだらうと思つたのです。彼はそれ程獨立心の強い男でした。だから私は彼を私の宅へ置いて、二人前の食料を彼の知らない間にそつと奥さんの手に渡さうとしたのです。然し私はKの經濟問題について、一言(ごん)も奥さんに打ち明ける氣はありませんでした。

 私はたゞKの健康に就いて云々しました。一人で置くと益(ます/\)人間が偏窟になるばかりだからと云ひました。それに付け足して、Kが養家と折合の惡かつた事や、實家と離れてしまつた事や、色色話して聞かせました。私は溺れかゝつた人を抱いて、自分の熱を向ふに移してやる覺悟で、Kを引き取るのだと告げました。其積であたゝかい面倒(めんたう)を見て遣つて呉れと、奥さんにも御孃さんにも賴みました。私はここ迄來て漸々(だん/\)奥さんを説き伏せたのです。然し私から何(なん)にも聞かないKは、此顛末を丸で知らずにゐました。私も却てそれを滿足に思つて、のつそり引き移つて來たKを、知らん顏で迎へました。

 奥さんと御孃さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何かをして呉れました。凡てそれを私に對する好意から來たのだと解釋した私は、心のうちで喜びました。―Kが相變らずむつちりした樣子をしてゐるにも拘らず。

 私がKに向つて新らしい住居の心持は何うだと聞いた時に、彼はたゞ一言(げん)惡くないと云つた丈でした。私から云はせれば惡くない所ではないのです。彼の今迄居た所は北向の濕つぽい臭のする汚ない室でした。食物も室相應に粗末でした。私の家へ引き移つた彼は、幽谷(いうこく)から喬木(けうぼう)に移つた趣があつた位(くらゐ)です。それを左程に思ふ氣色を見せないのは、一つは彼の強情から來てゐるのですが、一つは彼の主張からも出てゐるのです。佛教の教義で養はれた彼は、衣食住(いしよくちう)について兎角の贅澤をいふのを恰も不道德のやうに考へてゐました。なまじい昔の高僧だとか聖徒(セーント)だとかの傳を讀んだ彼には、動ともすると精神と肉體とを切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻すれば靈の光輝が增すやうに感ずる塲合さへあつたのかも知れません。

 私は成るべく彼に逆らはない方針を取りました。私は氷を日向へ出して溶かす工夫をしたのです。今に融けて温かい水になれば、自分で自分に氣が付く時機が來るに違ひないと思つたのです。

やぶちゃんの摑み:この回の連載で漱石の怒りが遂に爆発する。お分かりの通り、この冒頭のとんでもない誤植(×「先生」→○「私」)によってである。こんな誤植が何故起こるのか、私も理解に苦しむガクブルものである。漱石は即日、朝日新聞の自身の担当者である山本に電話をかけるが旅行中で通じないため、直ぐに朝日新聞編集長佐藤鎮一宛で書簡を認めている(岩波版旧全集書簡を底本とした。「先生の座敷」の「先生」部分及びその後の「私とかいた」の「私」には底本では「○」の傍点が付くが下線に代えた)。

七月九日 木 前九-10 牛込早稻田南町より 京橋區瀧山町四東京朝日新聞社内佐藤鎭一へ〔封筒表

の宛名に「朝日新聞編輯長殿」とあり〕

 拜啓小生小説「心」の校正につき一寸申上ます。校正者はむやみにてにをはを改め意味を不通にすることがあります。それからわざと字をかへてしまひます。今七月九日の最初の「先生の座敷」などは先生では全くトンチンカンにて分かりかね候。小生は先生と書いたる覺更に無之私とかいたと思へどそれもたゞ今は覺えず。小生は自分に校正の必要ありて訂正致さねばならず。甚だ御迷惑ながら御調を願ひます。夫から向後の校正にもう少し責任を帶びてやるやうにそのかゝりのものに御注意を願ひます。あれ以上出來ないなら已むを得ませんからゲラを小生の方へ一應御𢌞送を願ひます。小生の書いたものは新聞として大事でなくとも小生には大事であります。小生は讀者に對する義務をもつて居ります。小生は今日山本氏に電話をかけた處旅行中で留守であります、何處へ此事件を申していゝか分かりませんそれであなた宛で出します 以上

   七月九日      夏目金之助

  朝日新聞編輯長殿

Kの一件について筆の勢いがついてきた回であるだけに、漱石先生の癇癪は凄かったものと思ってよいであろう(一日遅れの7月10日(金)掲載の『大阪朝日新聞』では正しく「私」となっている)。その大事なKの内実を纏めておく。

◎Kの人間観

☆「精神」と「肉体」を区別する~霊肉二元論の原理主義者(ファンダメンタリスト)としての相貌

☆賤しい「汚穢」なる「肉」を常に「鞭撻」すれば必ず「靈」の至高の「光輝」へと繋がる

 →「精神」の絶対的価値を信仰、「肉体」を卑しみ、両社を二項として完全対峙させる

これは、Kが「靈」の「光輝」のためには「肉体」を容易に投げ打てる人間であることをも意味していることに注意せねばならぬ。

「私は溺れかゝつた人を抱いて、自分の熱を向ふに移してやる覺悟」先生が遺書で二度目に用いる「覺悟」の語である(初回は第(七十三)回)。溺れた遭難者Kは先生の舟板に縋りついた。先生は嘗て一緒に「檻の中で抱き合」ったようにKを抱いて温めてやった(七十三)――しかし私は皮肉にもここで「カルネアデスの舟板」を思い出してしまうのだ。――時が経って、先生の縋っていた舟板はKの重みで沈み始めた。このままでは先生自身の生命が危い。先生は、安心しきって疲れきって寝ているKをその隠し持ったナイフを取り出し、覚悟の中で喉笛を引き裂いて――海に沈めた――。

この先生のこの場合の行為は、

刑法第三十七条 緊急避難

1.自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

2.前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。

によって無罪となる――。

「私は氷を日向へ出して溶かす工夫をした」これといい、前の「私は溺れかゝつた人を抱いて、自分の熱を向ふに移してや」ったという言いといい、先生の優越的作善叙述は如何にも鼻につく。鼻を撲(う)つと言い直してもよい。そうした臭さを先生は意識する。だから次章冒頭で「私は奥さんからさう云ふ風に取扱かはれた結果、段々快活になつて來たのです。それを自覺してゐたから、同じものを今度はKの上に應用しやうと試みた」のだと、奥さんに振って自分への批判的視線を避(よ)けるのである。しかし、そうした合理化は我々も日常的に使う手法ではある――そして、普段から彼には「及ばない」というコンプレクスに打ちのめされていた先生が、ここでKに対して激しい優越感と異様な自己肥大を起したとしても、それは強ち、理解出来ないことでは、ない。]

 

 

  先生の遺書

    (七十八)

 「私は奥さんからさう云ふ風に取扱かはれた結果、段々快活になつて來たのです。それを自覺してゐた私は、今それをKのために應用しやうと試みたのです。Kと私とが性格の上に於て、大分相違のある事は、長く交際つて來た私に能く解つてゐましたけれども、私の神經が此家庭に入つてから多少角が取れた如く、Kの心も此處に置けば何時か沈まる事があるだらうと考へたのです。

 Kは私より強い決心を有してゐる男でした。勉強も私の倍位(くらゐ)はしたでせう。其上持つて生れた頭の質が私よりもずつと可かつたのです。後では專門が違ひましたから何とも云へませんが、同じ級にゐる間は、中學でも高等學校でも、Kの方が常に上席を占めてゐました。私には平生(へいせい)から何をしてもKに及ばないといふ自覺があつた位です。けれども私が強ひてKを私の宅へ引張つて來た時には、私の方が能く事理を辨(わきま)へてゐると信じてゐました。私に云はせると、彼は我慢と忍耐の區別を了解してゐないやうに思はれたのです。是はとくに貴方のために付け足して置きたいのですから聞いて下さい。肉體なり精神なり凡て我々の能力は、外部の刺戟で、發達もするし、破壞されもするでせうが、何方にしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、能く考へないと、非常に險惡な方向へむいて進んで行きながら、自分は勿論傍(はた)のものも氣が付かずにゐる恐れが生じてきます。醫者の説明を聞くと、人間の胃袋程橫着なものはないさうです。粥ばかり食つてゐると、それ以上の堅いものを消化(こな)す力が何時の間にかなくなつて仕舞ふのださうです。だから何でも食ふ稽古をして置けと醫者はいふのです。けれども是はたゞ慣れるといふ意味ではなからうと思ひます。次第に刺戟を增すに從つて、次第に營養機能の抵抗力が強くなるといふ意味でなくてはなりますまい。もし反對に胃の力の方がぢり/\弱つて行つたなら結果は何うなるだらうと想像して見ればすぐ解る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全く此處に氣が付いてゐなかつたのです。たゞ困難に慣れてしまへば、仕舞に其困難は何でもなくなるものだと極(き)めてゐたらしいのです。艱苦を繰り返せば、繰り返すといふだけの功德で、其艱苦が氣にかゝらなくなる時機に邂逅(めぐりあ)へるものと信じ切つてゐたらしいのです。

 私はKを説くときに、是非其處を明らかにして遣りたかつたのです。然し云へば屹度(きつと)反抗されるに極(きま)つてゐました。また昔の人の例などを、引合に持つて來るに違ひないと思ひました。さうなれば私だつて、其人達とKと違ひつてゐる點を明白に述べなければならなくなります。それを首肯(うけが)つて呉れるやうなKなら可(い)いのですけれども、彼の性質として、議論が其處迄行くと容易に後(あと)へは返りません。猶先へ出ます。さうして、口で先へ出た通りを、行爲で實現しに掛ります。彼は斯うなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壞しつゝ進みます。結果から見れば、彼はたゞ自己の成功を打ち碎く意味に於て、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。彼の氣性をよく知つた私はついに何とも云ふ事が出來なかつたのです。其上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神經衰弱に罹つてゐたやうに思はれたのです。よし私が彼を説き伏せた所で、彼は必ず激するに違ひないのです。私は彼と喧嘩をする事は恐れてはゐませんでしたけれども、私が孤獨の感に堪へなかつた自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤獨の境遇に置くのは、私に取つて忍びない事でした。一步進んで、より孤獨な境遇に突き落すのは猶厭でした。それで私は彼が宅へ引き移つてからも、當分の間は批評がましい批評を彼の上に加へずにゐました。たゞ穩かに周圍の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。

  正誤  前回初「先生の座敷」とあるは、「の座敷」の誤植

 

やぶちゃんの摑み:前回の漱石の怒りを受けて最後の上記のような正誤訂正が入っている。底本では「先生」及び「私」に傍点「・」が附されているが、下線に代えた。

先生が超えられない存在としてのKが示される章である。

◎Kのプロフィル(Ⅲ)

・Kは「私より強い決心を有してゐる」男であった

・Kは私より「倍」勉強する男であった

・Kは私より生まれつきの才能が「ずつと」あった

・Kは私より中学・高校を通じて成績が常に「上席」にあった

私には普段から「何をしてもKに及ばない」という明確な自覚があった

致命的な劣等感である。この友人関係そのものが、私には不幸に思われる。

「是はとくに貴方のために付け足して置きたいのですから聞いて下さい」以下の部分、実は私は「心」の中で『いらない』と思うところなのである。漱石は真面目に語っているのだが、私には胃を悪くした漱石がタカジアスターゼ錠の壜を握って、自らが正しいと考える胃腸養生法=精神養生法のその要諦を、口角泡を飛ばして弁じている様が見えて来て、思わず噴飯してしまうところなのである。――これは遺書に書くことじゃあ、ないんじゃない? 少なくとも私ならこんなことを書いている暇は、ない!――当時の読者はどう思ったんだろう?――と、こんな減らず口を叩いているから、私には何時までたっても「こゝろ」の核心が見えて来ないのかもしれない――この、私が『いらない』と思い、噴飯物だと言い放つ、ここにこそ「こゝろ」のテーマは隠れているのかも、知れないなぁ……。

「多少神經衰弱に罹つてゐたやうに思はれた」のは誤りである。前章注で述べた通り、Kの精神は至って健全である。]

 

 

  先生の遺書

    (七十九)

 「私は蔭へ廻つて、奥さんと御孃さんに、成るべくKと話しをする樣に賴みました。私は彼の是迄通つて來た無言生活が彼に祟つてゐるのだらうと信じたからです。使はない鐵が腐るやうに、彼の心には錆が出てゐたとしか、私には思はれなかつたのです。

 奥さんは取り付き把(は)のない人だと云つて笑つてゐました。御孃さんは又わざ/\其例を擧げて私に説明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kは無いと答へるさうです。では持つて來ようと云ふと、要らないと斷わるさうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだと云つたぎり應對をしないのださうです。私はたゞ苦笑してゐる譯にも行きません。氣の毒だから、何とか云つて其塲を取り繕ろつて置かなければ濟まなくなります。尤もそれは春の事ですから、強ひて火にあたる必要もなかつたのですが、是では取り付き把がないと云はれるのも無理はないと思ひました。

 それで私は成るべく、自分が中心になつて、女二人とKとの連絡をはかる樣に力めました。Kと私が話してゐる所へ家の人を呼ぶとか、又は家の人と私が一つ室に落ち合つた所へ、Kを引つ張り出すとか、何方(どつち)でも其塲合に應じた方法をとつて、彼等を接近させやうとしたのです。勿論Kはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと起つて室の外へ出ました。又ある時はいくら呼んでも中々出て來ませんでした。Kはあんな無駄話をして何處が面白いと云ふのです。私はたゞ笑つてゐました。然し心の中では、Kがそのために私を輕蔑してゐる事が能く解りました。

 私はある意味から見て實際彼の輕蔑に價(あたひ)してゐたかも知れません。彼の眼の着け所は私より遙かに高いところにあつたとも云はれるでせう。私もそれを否みはしません。然し眼だけ高くつて、外が釣り合はないのは手もなく不具(かたわ)です。私は何を措(お)いても、此際彼を人間らしくするのが專一だと考へたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像(イメジ)で埋まつてゐても、彼自身が偉くなつて行かない以上は、何の役にも立たないといふ事を發見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まづ異性の傍(そば)に彼を坐らせる方法を講じたのです。さうして其處から出る空氣に彼を曝した上、錆び付きかゝつた彼の血液を新らしくしやうと試みたのです。

 此試みは次第に成功しました。初のうち融合しにくいやうに見えたものが、段々一つに纏まつて來出しました。彼は自分以外に世界のある事を少しづゝ悟つて行くやうでした。彼はある日私に向つて、女はさう輕蔑すべきものでないと云ふやうな事を云ひました。Kははじめ女からも、私同樣の知識と學問を要求してゐたらしいのです。左右してそれが見付からないと、すぐ輕蔑の念を生じたものと思はれます。今迄の彼は、性によつて立塲を變へる事を知らずに、同じ視線で凡ての男女(なんにょ)を一樣に觀察してゐたのです。私は彼に、もし我等二人丈が男同志で永久に話を交換してゐるならば、二人はたゞ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだらうと云ひました。彼は尤もだと答へました。私は其時御孃さんの事で、多少夢中になつてゐる頃でしたから、自然そんな言葉も使ふやうになつたのでせう。然し裏面の消息は彼には一口も打ち明けませんでした。

 今迄書物で城壁をきづいて其中に立て籠つてゐたやうなKの心が、段々打ち解けて來るのを見てゐるのは、私に取つて何よりも愉快でした。私は最初からさうした目的で事を遣り出したのですから、自分の成功に伴ふ喜悦を感ぜずにはゐられなかつたのです。私は本人に云はない代りに、奥さんと御孃さんに自分の思つた通りを話しました。二人も滿足の樣子でした。

やぶちゃんの摑み:

「私は彼の是迄通つて來た無言生活が彼に祟つてゐるのだらうと信じたからです。使はない鐵が腐るやうに、彼の心には錆が出てゐたとしか、私には思はれなかつたのです」この「のだらうと信じたからです」及び「としか、私には思はれなかつたのです」という陳述に着目せねばならぬ。その先生の推測は根本に於いて誤っていた、ということを今の先生は認めている、ということである。Kは何も肉体的にも精神的にも不健全不健康な方向へ向かってはいなかった、Kへの先生の『思いやりから行った善意の手だて』はその本質に於いて誤りであった、ということを今の先生は認めている、ということである。「不具(かたわ)」歴史的仮名遣いとしては「かたは」が正しい。一日遅れの翌日の『大阪朝日新聞』版では正しく「かたは」とある。

「私は何を措いても、此際彼を人間らしくするのが專一だと考へたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像(イメジ)で埋まつてゐても、彼自身が偉くなつて行かない以上は、何の役にも立たないといふ事を發見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まづ異性の傍に彼を坐らせる方法を講じたのです。さうして其處から出る空氣に彼を曝した上、錆び付きかゝつた彼の血液を新らしくしやうと試みたのです」今回、ここを読みながら私が連想したのは、あの怪物であった。――Kの身長は高い。先生が見上げるほどに、である。「Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私は其時やつとKの眼を眞向に見る事が出來たのです。Kは私より脊の高い男でしたから、私は勢ひ彼の顏を見上げるやうにしなければなりません。私はさうした態度で、狼の如き心を罪のない羊に向けたのです。」(第(九十六)回=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十二)。――先生はK「の頭が偉い人の影像(イメジ)で埋まつて」いるだけ――魂の入っていない智の機械に過ぎないのだ気付き(=と思い込み)、その「彼自身」を「偉く」=「人間らしくする」「第一の手段として、まづ異性の傍に彼を坐らせる方法を講じた」。「さうして其處から出る空氣に彼を曝した上、錆び付きかゝつた彼の血液を新らしくしやうと試みた」(!)――「罪のない羊」を「心」を持った人間にすること――それは美事に『成功』したが、それは先生にとって「魔物のやうに思へ」(九十一)る怪物となり、先生「は永久彼に祟られたのではなからうかといふ氣さへ」(九十一)するに至った――そうですね? 先生?!――Dr.Victor Frankenstein?!――

……嵌ったぞ!……

――Kは“KUWAIBUTU”(怪物)のK――ここから僕の脳髄に黒い染みとなった妄想――“Frankenstein: or The Modern Prometheus 「フランケンシュタイン、或いは現代のプロメテウス」はフランケンシュタイン』(Frankenstein)は、イギリス女性小説家Mary Wollstonecraft Godwin Shelleyメアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン・シェリー(179718511797年は寛政9年に、1851年は嘉永4年相当)が1818年(本邦では文化15・文政元年に相当)年に匿名で出版したもので、現在我々が知っているストーリーは1831年の改訂版によるものである(但し、実際には原作ではフランケンシュタインは博士ではなく一学生で、正当な科学者でさえない)。以下、ウィキの「フランケンシュタイン」の梗概を引用しようじゃないか(下線部やぶちゃん)。

   《引用開始》

『スイスの名家出身の青年、ヴィクター・フランケンシュタインは科学者を志し故郷を離れてドイツで自然科学を学んでいた。だが、ある時を境にフランケンシュタインは、生命の謎を解き明かし自在に操ろうという野心にとりつかれる。そして、狂気すらはらんだ研究の末、『理想の人間』の設計図を完成させ、それが神に背く行為であると自覚しながらも計画を実行に移す。自ら墓を暴き人間の死体を手に入れ、それをつなぎ合わせることで11月のわびしい夜に怪物の創造に成功した

しかし、誕生した怪物は、優れた体力人間の心、そして、知性を持ち合わせていたが筆舌に尽くしがたいほど容貌が醜かった。そのあまりのおぞましさにフランケンシュタインは絶望し、怪物を残したまま故郷のスイスへと逃亡する。しかし、怪物は強靭な肉体を与えられたがために獣のように生き延び、野山を越えて遠く離れたフランケンシュタインの元へ辿り着いた。自分の醜さゆえ人間達からは忌み嫌われ迫害され、孤独のなか自己の存在に悩む怪物は、フランケンシュタインに対して自分の伴侶となり得る異性の怪物を一人造るように要求する。怪物はこの願いを叶えてくれれば二度と人前に現れないと約束するが、更なる怪物の増加を恐れたフランケンシュタインはこれを拒否してしまう(フランケンシュタイン・コンプレックス)。創造主たる人間に絶望した怪物は、復讐のためフランケンシュタインの友人・妻を次々と殺害。憎悪にかられるフランケンシュタインは怪物を追跡するが、北極に向かう船上で息を引き取る。そして、創造主から名も与えられなかった怪物は、怒りや嘆きとともに氷の海に消えた

   《引用終了》

以下、これを強引に「心」に書き換えてみようじゃないか。

新潟の名家出身の青年であった先生は学者を志し故郷を離れて東京で人間の「心」を解明する心理学を学んでいた。だが、ある時叔父に欺かれ、更には故郷の人間達からは忌み嫌われ迫害されたのを境に先生は、激しい人間の「心」への不信に陥ることとなった。一方、怪物Kは自分の頑なさゆえに養家を欺き、故郷の人間達からは忌み嫌われ迫害されて、遂には実家からも勘当同然となったが、強靭な肉体を与えられたがために獣のように生き延び、やはり故郷新潟の野山を越えて遠く離れた東京の先生の下宿へ辿り着いた。生命の謎を解き明かし自在に操ろうという野心にとりつかれていた先生は、知性ばかりが先行する、どこか人間の心を欠いている(ように見えると先生が判断した)怪物Kを『理想の人間』にすべく、その設計図を完成させ、怪物Kの心を操作する計画を実行に移す。自ら『理想の人間』の心と思い込んだパーツをつなぎ合わせることで先生は遂に怪物の創造に成功したしかし、誕生した怪物は、優れた体力と人間の心、そして、知性を持ち合わせているように先生には思われてきて、あろうことかその怪物Kに対して激しい憎悪にかられるに至る。それは嫉妬であり、先生の愛する靜への怪物Kの感情移入への危惧に基づくものであった。そして遂に怪物Kは正に先生のその危惧の通り、自分の伴侶となり得る異性の怪物、靜を一人欲しいと要求するに至る。だが怪物Kは同時に自身の理想と現実の二項対立の中で激しく煩悶することとなる。孤独のなか自己の存在に悩む怪物Kは、創造主である先生にその助言を求める。しかし創造主でありながら、その被造物に我が身が滅ぼされるかもしれないと畏れる先生のFrankenstein Complex(フランケンシュタイン・コンプレックス)が「精神的に向上心のない者は、馬鹿だ」という創造主としての第一命題を突きつけて拒否してしまう。創造主たる人間に絶望した怪物K、創造主から名も与えられなかった怪物は、怒りや嘆きとともに自死する。しかし怪物Kは霊となって復讐のため先生の友人・妻にさえ暗い影を落とし続けるのであった。先生は自身の心に纏い付く怪物Kの影を追跡するが、明治という時代の船が沈み行くに際会して、その怪物Kの生成と消滅、更にはそうした自身の正しいと思った時代精神の中にあった自己の存在に思い至り、その明治と言う船の沈み行く船上で自ら命を絶って息を引き取るという生き方を選び取るのであった。

……う~む、我乍ら、こりゃ遣り過ぎだわい――

♡「彼はある日私に向つて、女はさう輕蔑すべきものでないと云ふやうな事を云ひました。Kははじめ女からも、私同樣の知識と學問を要求してゐたらしいのです。左右してそれが見付からないと、すぐ輕蔑の念を生じたものと思はれます。今迄の彼は、性によつて立塲を變へる事を知らずに、同じ視線で凡ての男女を一樣に觀察してゐたのです。私は彼に、もし我等二人丈が男同志で永久に話を交換してゐるならば、二人はたゞ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだらうと云ひました。彼は尤もだと答へました」この部分は勿論、Kの女性観の大きな変化修正を示すものとして今まで着目されてきたに違いない。それはそれで重要な部分ではある。しかし、今回、私には俄然、その中間部の「Kははじめ女からも、私同樣の知識と學問を要求してゐたらしい」という言葉が気になり出したのである。Kは正に「パイドロス」でソクラテスがプラトンに語った男性同士の、人間として最も理想的で崇高な愛の形を先生に求めていたのであるという、私の確証がここに示されて在ると感じるからなのである。

「自分の成功に伴ふ喜悦を感ぜずにはゐられなかつた」先生はKという存在、その精神を完膚なきまでに読み違え、全く見当違いのあらゆる誤った処方をKに施して自己満足に浸り、悦に入っている。若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の藤井氏もここに注して『Kへの根本的な誤解に基づく自己満足に先生がひたっていることがわかる。』とお書きになっておられる。]

 

 

  先生の遺書

    (八十)

 「Kと私は同じ科に居りながら、專攻の學問が違つてゐましたから、自然出る時や歸る時に遲速がありました。私の方が早ければ、たゞ彼の空室(くうしつ)を通り拔ける丈ですが、遲いと簡單な挨拶をして自分の部屋へ這入るのを例にしてゐました。Kはいつもの眼を書物からはなして、襖を開ける私を一寸(ちよつと)見ます。さうして吃度(きつと)今歸つたのかと云ひます。私は何も答へないで點頭(うなづ)く事もありますし、或はたゞ「うん」と答へて行き過ぎる塲合もありました。

 ある日私は神田に用があつて、歸りが何時もよりずつと後れました。私は急ぎ足に門前迄來て、格子をがらりと開けました。それと同時に、私は御孃さんの聲を聞いたのです。聲は慥(たしか)にKの室から出たと思ひました。玄關から眞直に行けば、茶の間、御孃さんの部屋と二つ續いてゐて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、といふ間取なのですから、何處で誰の聲がした位(くらゐ)は、久しく厄介になつてゐる私には能く分るのです。私はすぐ格子を締めました。すると御孃さんの聲もすぐ己(や)みました。私が靴を脱いでゐるうち、―私は其時分からハイカラで手數のかゝる編上を穿いてゐたのですが、―私がこゞんで其靴紐を解いてゐるうち、Kの部屋では誰の聲もしませんでした。私は變に思ひました。ことによると、私の疳違ひかも知れないと考へたのです。然し私がいつもの通りKの室を拔(ぬけ)やうとして、襖を開けると、其處に二人はちやんと坐つてゐました。Kは例の通り今歸つたかと云ひました。御孃さんも「御歸り」と坐つた儘で挨拶しました。私には氣の所爲(せゐ)か其簡單な挨拶が少し硬いやうに聞こえました。何處かで自然を踏み外してゐるやうな調子として、私の鼓膜に響いたのです。私は御孃さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひつそりしてゐたから聞いて見た丈の事です。

 奥さんは果して留守でした。下女も奥さんと一所に出たのでした。だから家に殘つてゐるのは、Kと御孃さん丈だつたのです。私は一寸首を傾けました。今迄長い間世話になつてゐたけれども、奥さんが御孃さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例(ためし)はまだなかつたのですから。私は何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした。若い女に共通な點だと云へばそれ迄かも知れませんが、御孃さんも下らない事に能く笑ひたがる女でした。然し御孃さんは私の顏色を見て、すぐ不斷の表情に歸りました。急用ではないが、一寸用があつて出たのだと眞面目に答へました。下宿人の私にはそれ以上問ひ詰める權利はありません。私は沈默しました。

 私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も歸つて來ました。やがて晩食の食卓でみんなが顏を合せる時刻が來ました。下宿した當座は萬事客扱ひだつたので、食事のたびに下女が膳を運んで來て呉れたのですが、それが何時の間にか崩れて、飯時には向ふへ呼ばれて行く習慣になつてゐたのです。Kが新らしく引き移つた時も、私が主張して彼を私と同じやうに取扱はせる事に極めました。其代り私は薄い板で造つた足の疊み込める華奢な食卓を奥さんに寄附しました。今では何處の宅でも使つてゐるやうですが、其頃そんな卓の周圍に並んで飯を食ふ家族は殆どなかつたのです。私はわざ/\御茶の水の家具屋へ行つて、私の工夫通りにそれを造り上(あげ)させたのです。

 私は其卓上で奥さんから其日何時もの時刻に肴屋(さかなや)が來なかつたので、私達に食はせるものを買ひに町へ行かなければならなかつたのだといふ説明を聞かされました。成程客を置いてゐる以上、それも尤もな事だと私が考へた時、御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出しました。然し今度は奥さんに叱られてすぐ己(や)めました。

やぶちゃんの摑み:靜の悪戯っぽい笑いのアップと共に、遂に先生の嫉妬が発動する。

「Kと私は同じ科に居りながら、專攻の學問が違つてゐました」第(七十四)回注で示したように、私の推定は明治281895)年(又は前年)に二人が同時に第一高等学校に入学、二人は第一部(法学・政治学・文学)に入ったと考えている。また、第(二十五)回では「私」との関係で先生の専門を推定した。煩瑣を厭わず、その注内容を以下に示すと、即ち(二十五)の「私の選擇した問題は先生の專門と緣故の近いものであつた」という叙述により、先生の専攻した学科と「私」の専攻している学科が同一分野であることが分かるのである。その専門分野は勿論、理科ではなく文科であり、また本文から先生はその分野の新知識の吸収に最早積極的ではない(これで理科が完全に排除される)から、そのような新知識・新学説や今日的判断・新しい判例を必要とする法科ではあり得ないと考えた。そうなると漱石の専門であった英文科等が頭に浮かぶのであるが、そうした文学科や史学科であるにしては、先生と「私」との会話に一切そうした具体的会話が見出せない点、除外するべきであると思われる。そうなると哲学か宗教か心理学辺りが同定候補となるが、哲学や宗教はKの平生の言説から彼の専門分野と同定出来ること、及び「後では專門が違ましたから」という表現が現われるのでこれらも排除される。私は先生と「私」二人の専門は心理学ではなかろうかと踏んでいる。明治の末年と言えば心理学は正に急速に興隆してきた学問であった。新刊書も続々出現し、有島武郎や芥川龍之介等、多くの邦人作家もそうした学術書を参考にして実験的な小説を書いたりした。因みに作品名「心」にも相応しいし、統合失調症に罹患した(と私は考えている。諸説の一つには神経症との見方もある)経験のある漱石には複雑な思いはあったであろうが、興味深い学問ではあったはずだ。なお、当時の東京帝国大学の学科については、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の第(二十五)回の「練り上げた思想」の注に、東京帝国大学文科では『明治三十七年九月から従来の九学科制が廃止され、哲学科、史学科、文学科からなる三学科制がとられていた。ちなみに哲学科のなかの専修学科(明治43より)としては、「哲学及哲学史」、「支那学」、「印度哲学」、「心理学」、「倫理学」、「宗教学」、「美学」、「教育学」、「社会学」があった』とある。先生の卒業を私は明治311898)年に想定しているので、東京大学文学部のサイトで9学科制を確認すると以下の通りである。

第一 哲学科

第二 国文学科

第三 漢学科

第四 史学科

第五 博言学科

第六 英文学科

第七 独逸文学科

第八 国史科

第九 仏蘭西文学科

以上の条件を総合し、この9学科を眺めると矢張り先生は第一哲学科が相応しい気がする。そうしてKは哲学史か宗教を専攻し、先生は心理学を取ったのではなかったか。そうして「私」の卒業は明治451912)年であるから、上記の専修科について他の学科も再度確認しておくと、明治431910)年9月で3学科19専修学科を確認出来る。

第一 哲学科

  哲学・支那哲学・印度哲学・心理学・倫理学・宗教学・美学・教育学・社会学

第二 史学科

  国史学・東洋史学・西洋史学

第三 文学科

  国文学・支那文学・梵文学・英吉利文学・独逸文学・仏蘭西文学・言語学

矢張り「私」が学んでいそうな専修学科は第一哲学科の心理学であろう。では先生の時代に遡った第一哲学科の「専門の學問」のデータとなるが、それについては本章の注で藤井氏が、『哲学科で必修を課せられている科目で「専攻の學問」と言えるようなものとして』以下の9科目を掲げておられる。

哲学史

論理学

心理学

東洋哲学

社会学

倫理学

審美学

教育学

精神病論

これら(藤井氏の叙述では総ての科目ではないようであるが)から、先生の専攻は心理学ととして、Kはどれであろう。Kの印象から真っ先に除去可能と思われるのは後半の5科目であろう。数理的な論理学も外してよいであろう。彼の広範貪欲な宗教や哲学思想への関心からは、哲学史か東洋哲学が考えられる。単なる総覧的なものには到底飽き足らないKである。哲学史はKには浅薄に思われたであろう。従って私は

Kの専攻は東洋哲学

と推定するのである。

「私は其時分からハイカラで手數のかゝる編上を穿いてゐた」先生は実はかなりお洒落である。格好いいのである。それだけでも私は先生になれないのである。

「今迄長い間世話になつてゐたけれども、奥さんが御孃さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例はまだなかつた」これは勿論、先生にとって理解し難い不審ではある。先生の言は事実であろう。しかし――そういう事実を常に意識して観察していた先生とは――これまた、やや普通ではないと言えないか。先生はそれまでの一年半程、常に今、この家内に誰がいて誰がいないかを不断に観察し続けていたということになるからである。

「私は何か急用でも出來たのかと御孃さんに聞き返しました。御孃さんはたゞ笑つてゐるのです。私は斯んな時に笑ふ女が嫌でした」及び「御孃さんは私の顏を見て又笑ひ出しました」二度の「笑ふ女」といしての靜が登場する。ここには作者漱石自身の“Misogyny”(ミソジニー・女性蔑視・女性嫌悪)が投影されている。しかし――私も先生や漱石に同感である。この「笑ふ靜」は五人の貴公子に難題を出して破滅させてゆく「竹取物語」前半のかぐや姫のように珍しく「意地悪な靜」「ちょっと厭な靜」であり、ここに私は無意識的悪意を持った少女の面影を、更には“Femme fatale”「宿命の女」としての靜を見出すのである。但し私の「ファム・ファタール」の謂いは屈折した誤義としての「小悪魔的妖女」「確信犯として男を破滅させる悪女」の謂いではない。あくまで「宿命の女」を孕んだ少女である――私は芥川のように女は男にとって「諸悪の根源である」とは思われない(芥川龍之介「侏儒の言葉」のそれはまたある種の芥川龍之介のポーズとしての“Misogyny”であった)。しかし確かに、次のようには言いたい欲求を抑えられないのである――女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち宿命そのものである――と。ここの靜の笑いは、先生のKへの嫉妬心の兆しの萌芽となる。正にそうした意味に於いて、「宿命的な笑い」ででもあるのではなかろうか。

「其代り私は薄い板で造つた足の疊み込める華奢な食卓を奥さんに寄附しました」「巨人の星」の世代である我々には至って馴染み深いチャブ台である。それをどこか「日本的」なもの、昔からの「庶民的」なものと認識間違いをしている若者は多いと思われる。ところがここでの先生の叙述を読めば分かる通り、これは極めて新しい習俗なのである。家庭的なチャブ台は出現し普及してから、高々百年ほどしか経っていないのである。以下、ウィキの「卓袱台」から引用する(記号の一部を変更した)。『卓袱台(ちゃぶだい)は、日本で用いられる四本脚の食事用座卓。一般的に方形あるいは円形をしており、折畳みができるものが多い。上座、下座という上下の関係があまり感じられず、昭和初期の家族の団欒を象徴するシンボルとして取り上げられる』。『1887年(明治20年)ごろより使用されるようになり、大正末期から昭和初期にかけて全国的な普及を見た』。『しかし1960年(昭和35年)ごろより椅子式のダイニングテーブルが普及し始め、利用家庭は減少していった』。その名称は『チャブダイと書く漢字としては卓袱台以外にも、茶袱台、茶部台、食机、その他にも古くは森田草平の『煤煙』や徳田秋声の『黴』で書かれている餉台などがあ』り、『地域によっても呼称は異なり、富山県、岐阜県、三重県、兵庫県、佐賀県、長崎県、熊本県などの一部ではシップクダイ、シッポクダイ、ショップクダイと、岩手県、富山県、岐阜県、滋賀県、鳥取県、島根県、愛媛県などの一部では飯台と呼称される場合がある』とする。『語源についても諸説あり、正確には判っていない』が、『有力なものとしては中国語でテーブル掛けを意味する卓袱(南中国音ではチャフ)から来たとするもの』や、『同じくご飯を食べることを意味する吃飯(チャフン、ジャブン)から来たとするもの、中国人移民からアメリカへ広まった料理チャプスイ(英語: Chop Sui、チョップスウイ、チョプスイ)が元になったとするものなどがある』。『1870年(明治3年)に仮名垣魯文が著した「萬国航海西洋道中膝栗毛」に既にチャブダイという言葉が西洋料理店の食卓を指す俗語として登場していることから、名称としてはこの頃には広まっていた可能性がある』。『卓袱台の標準的な形状としては正円形、楕円形、正方形、長方形の4種がある。製作上の無駄が多いことと、日本の住宅事情から長方形の形状をした卓袱台がもっとも多く利用された』。『大きさは直径60cmから240cmまでのものと、豆チャブと呼ばれた直径25cmから30cmくらいのものなどがあった。一般的な卓袱台を4人で囲む場合、一人当たりの使用スペースは膳を用いた場合よりも狭くなるが、皿の共有化がなされることで、結果的にゆとりが生じる』。『高さは15cmから24cmくらいが一般的であったが、これは時代を経る毎に高くなり、現在は30cm前後のものが一般化している』とある。先生が作らせたものは恐らく円形か楕円形で、身長が高いKに会わせて比較的高いタイプのものを先生が特注で作らせたとも考えられる(しかし、そうすると身長が低く低い箱膳に慣れていた御嬢さんや奥さんには少し不便になるから、高いとしてもここに示された24㎝内外のものであろうか)。『脚は丸脚、角脚、挽物脚などがあり、戦後に入ると金属製の脚が登場した。それぞれ固定のもの、折畳みが可能になっているものがある』。『素材は木製ではハリギリ製がもっとも多く、高級なものではケヤキやサクラが用いられた。それ以外にもタモ、マツ、シオジ、スギ、トチノキ、クリ、キハダなど様々な材料が使用され』、『塗装には漆塗りや蝋塗り、ニス塗り』があった。明治後期以前の本邦で食台の歴史が以下に示される(若い人は必読)。『撥脚台盤などといった大きな食卓を使う習慣は、奈良時代には既に中国より入っており、貴族社会においては同じ階級のものが同一食卓を囲む場合があったが、武士が強い支配力を持つようになると上下の人間関係がより重要視されるようになり、ほぼ全ての社会において膳を使用した食事が行われはじめた』。『江戸時代に入ると出島などでオランダ人や中国人などの食事風景を目にする機会が出るようになり、それらを真似た洋風料理店では座敷や腰掛式の空間に西洋テーブルを置き、食事を供する場が登場しはじめる』。『享保年間以降はこうした形式の料理屋が江戸や京にも出現し始め、そこで用いられるテーブルや座卓を「シッポク台」とか「ターフル台」などと呼称するようになった』。以下、卓袱台の普及と衰退について叙述される。『明治時代に入ると西洋館の建築などに伴い洋風テーブルの導入が進められた。町にも西洋料理店をはじめ、ミルクホールやビヤホールが生まれ、洋風テーブルの使用がなされるようになった。この頃には西洋料理屋を「チャブ屋」、西洋料理を「チャブチャブ」、そこで用いられるテーブルを「チャブ台」と呼称する俗語が誕生しており、チャブダイという名称は広く知られるようになった』。『1895年(明治28年)ごろになると折畳み式の座卓に関する特許申請が出るようになり、徐々にではあるが、座卓が家庭へと進出し始めたことが伺える。1903年(明治36年)には『家庭の新風味』において堺利彦が一家団欒という観点から膳を廃し、卓袱台の使用を呼びかけるなど、家庭への浸透が始まった』。私が考える本章の作品内時間はこの普及黎明期であった明治321899)年である。『1911年(明治44年)に農商務省が出した『木材の工芸的利用』によれば、卓袱台は東京のみで製造卸50件、販売問屋100件、職人500人、13000個の生産があったとされている』。『卓袱台はこの後昭和初期までに全国的な普及を見せるが、特に1923年(大正12年)の関東大震災を契機として膳から卓袱台へと移行した家庭が多かった』。『また、膳から卓袱台への移行により個人の食器よりも共用食器が増えたことから食器を洗う習慣が見られるようになり、定着したのもこの頃である』。しかし『卓袱台の生産は1963年(昭和38年)をピークに減少傾向に転じ、生活習慣の変化や洋風化指向の時代の流れに乗って次第にダイニングテーブルへと移り変わっていった』。『ダイニングテーブルを一般家庭の食卓にいち早く取り入れたのは農家であった。1948年(昭和23年)、GHQの指導により農村の生活改善運動が全国的に展開されると農村の台所事情は変化を見せはじめた』。『生活を楽にすることが主とした課題に挙げられ、土間を改善して食事場とし、野良仕事の土足のまま食事ができるようにするテーブルや座敷と土間の境界にテーブルを設けて半々で座る方式などが奨励された』。『農林省農業改良局が1954年(昭和29年)に出した『農家の台所改善 - 設計の仕方と実例』に既にその具体的手法が紹介されている』。『ダイニングテーブルが都市圏へ急激に浸透をはじめるのは1955年(昭和30年)ごろからで、日本住宅公団による集合住宅が販売されるようになってからであった』。『集合住宅にはダイニングキッチンの概念が取り入れられ、目的に即した利用がなされるよう、テーブルを作り付けにして売り出した。住宅公団は、洋風化のブームに乗りダイニングキッチンを大々的に宣伝し、販売実績を挙げるとともにテーブルの普及促進の役割を果たしたと言える』。『高度経済成長期に入るとこの流れはますます加速し、1966年(昭和41年)に13.6%だったダイニングテーブルの普及率は1988年(昭和63年)には67.3%となっ』てチャブ台は殆んどの家庭から姿を消すこととなった。

 以上、最後に本作の中でこの「チャブ台」がやはり重要なアイテムであることに着目して欲しいのである。

○チャブ台なるものが正に「円」である点

○着座する者に対してランクを与えない点

である。――たかがチャブ台、されどチャブ台――である。]

 

 

  先生の遺書

    (八十一)

 「一週間ばかりして私は又Kと御孃さんが一所に話してゐる室を通り拔けました。其時御孃さんは私の顏を見るや否や笑ひ出しました。私はすぐ何が可笑しいのかと聞けば可かつたのでせう。それをつい默つて自分の居間迄來て仕舞つたのです。だからKも何時ものやうに、今歸つたかと聲を掛ける事が出來なくなりました。御孃さんはすぐ障子を開けて茶の間へ入つたやうでした。

 夕飯の時、御孃さんは私を變な人だと云ひました。私は其時も何故變なのか聞かずにしまひました。たゞ奥さんが睨めるやうな眼を御孃さんに向けるのに氣が付いた丈でした。

 私は食後Kを散步に連れ出しました。二人は傳通院(でんづうゐん)の裏手から植物園の通りをぐるりと𢌞つて又富坂の下へ出ました。散步としては短かい方ではありませんでしたが、其間(あひだ)に話した事は極めて少なかつたのです。性質からいふと、Kは私よりも無口な男でした。私も多辯な方ではなかつたのです。然し私は步きながら、出來る丈話を彼に仕掛て見ました。私の問題は重に二人の下宿してゐる家族に就いてゞした。私は奥さんや御孃さんを彼が何う見てゐるか知りたかつたのです。所が彼は海のものとも山のものとも見分の付かないやうな返事ばかりするのです。しかも其返事は要領を得ない癖に、極めて簡單でした。彼は二人の女に關してよりも、專攻の學科の方に多くの注意を拂つてゐる樣に見えました。尤もそれは二學年目の試驗が目の前に逼つてゐる頃でしたから、普通の人間の立塲から見て、彼の方が學生らしい學生だつたのでせう。其上彼はシユエデンボルグが何うだとか斯うだとか云つて、無學な私を驚ろかせました。

 我々が首尾よく試驗を濟ましました時、二人とももう後一年だと云つて奥さんは喜こんで呉れました。さう云ふ奥さんの唯一の誇りとも見られる御孃さんの卒業も、間もなく來る順になつてゐたのです。Kは私に向つて、女といふものは何にも知らないで學校を出るのだと云ひました。Kは御孃さんが學問以外に稽古してゐる縫針(ぬいはり)だの琴だの活花だのを、丸で眼中に置いてゐないやうでした。私は彼の迂濶を笑つてやりました。さうして女の價値はそんな所にあるものでないといふ昔の議論を又彼の前で繰り返しました。彼は別段反駁もしませんでした。其代り成程といふ樣子も見せませんでした。私には其處が愉快でした。彼のふんと云つた調子が、依然として女を輕蔑してゐるやうに見えたからです。女の代表者として私の知つてゐる御孃さんを、物の數(かぞ)とも思つてゐないらしかつたからです。今から回顧すると、私のKに對する嫉妬は、其時にもう充分萌(きざ)してゐたのです。

 私は夏休みに何處かへ行かうかとKに相談しました。Kは行きたくないやうな口振を見せました。無論彼は自分の自由意志で何處へも行ける身體(からだ)ではありませんが、私が誘ひさへすれば、また何處へ行つても差支へない身體だつたのです。私は何故行きたくないのかと彼に尋ねて見ました。彼は理由も何にもないと云ふのです。宅で書物を讀んだ方が自分の勝手だと云ふのです。私が避暑地へ行つて涼しい所で勉強した方が、身體の爲だと主張すると、それなら私一人行つたら可(よ)からうと云ふのです。然し私はK一人を此處に殘して行く氣にはなれないのです。私はたゞでさへKと宅のものが段々親しくなつて行くのを見てゐるのが、餘り好(い)い心持ではなかつたのです。私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を惡くするのかと云はれゝば夫迄です。私は馬鹿に違ひないのです。果しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲に入りました。二人はとう/\一所に房州へ行く事になりました。

やぶちゃんの摑み:遂にKへの嫉妬心が言葉として明示される。上の通り、この回には飾罫がない。この連載日当日の日付の東京朝日新聞社内山本松之助宛書簡が残されているが、十日の葉書で言うだけ言って翌日には誤植による正誤の一札も入ったからか、また、今回は内容的に文壇の大御所としてのこちら側の責任もある依頼というところで、漱石の口吻は思ったより穏やかである(底本は岩波版旧全集の書簡番号一八四五。文中「かけなたなたたから」「御邊」の右に「原」のママ表記。後者は「其邊」の誤記であろう。〔 〕は全集編者による補正)。

 七月十三日 月 午後一時-二時 牛込區早稻田南町七番地より 京橋區瀧山町四番地東京朝日新聞社内山本松之助へ

 拝啓久々御無音奉謝候此間一寸電話を御宅へかけた處御旅行中で今日頃御歸りといふ御返事でしたから一寸用事丈申上ます、兩三日前志賀直哉君(當時雲州松江に假寓小説の件をかねて上京)見え、實は引きうけた小説の材料が引き受けた時と違つた氣分になつてもとの通りの意氣込でかけなたなたたから甚だ勝手だがゆるして貰ひたいといふのです。段々事情を聞いて見ると先生の人生觀といふやうなものが其後變化したため問題を取り扱ふ態度が何うしてもうまく行かなくなつたのです、違約は勿論不都〔合〕ですが、同君の名聲のため朝日のためにも氣に入らない變なものを書く位なら約束を履行しない方が雙方の便宜とも思ひましたが、多少私の責任もありますし、又残念といふ好意もあつたので再考を煩はしたのです、所が今朝口約の通り返事がきて好意は感謝するが今の峠を越さなければ筆を執る譯に行かないといふのです。それで私の小説も短篇が意外の長篇になつてあれ丈でもう御免を蒙る間際になつてゐる際ですからあとを至急さがす必要があるのですが御心當りはありますまいか。如何でせう。私は先年鈴木に高濱にも賴まれましたが兩氏とも今となつて都合つくや否は疑問であります、小川氏も間接に相談はありましたがあの人のものは如何かと存じます、德田君は今東京にゐないやうです、夫に途中で行きつまる恐があります。中勘助が銀の匙のつゞきを書いてゐるやうですが、あれなら間に合ふかも知れません、兎に角私の責任問題ですからいざとなれば先生の遺書の外にもう一つ位書いてもいゝですがどつちかといふとあれで一先づ切り上げたいと思つてゐますから御邊御含みの上一應御熟考を煩はしたいと思ひます。先は用事迄 以上

      七月十三日        夏目金之助

    山 本 笑 月 樣

因みに、お分かりとは思うが、文中前半の「先生の人生觀」の「先生」は志賀直哉のことを指していて、「心」の先生とは無関係で、後半の部分に現れる人名は鈴木が鈴木三重吉、高濱が高濱虚子、小川は小川未明、德田は德田秋聲である。この「心」連載終了後の人選は後日の書簡によれば鈴木三重吉に決まったことが分かる(7月17日鈴木三重吉宛岩波旧全集一八五〇書簡)。

「傳通院の裏手から植物園の通りをぐるりと𢌞つて又富坂の下へ出ました」この「植物園」は小石川植物園のこと。恐らく当時は正式には「東京帝國大學理科大學附屬植物園」であったか(現在は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」である)。古くは江戸幕府の小石川御薬園(おやくえん)で、更に八代将軍吉宗が享保7(1722)年に町医師小川笙船の目安箱投書を受け、園内に小石川養生所を設けた。明治201877)年の東京帝国大学開設と共に同大学理科大学(現・理学部)の附属植物園となって一般にも公開されるようになった。本作内時間当時は既に明治301897)年に本郷の大学敷地内にあった植物学教室が小石川植物園内に移転、講義棟が作られて本格的な植物学講義が行われていた(以上はウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」を参照した)。私は先生の下宿を中冨坂町(現在の北部分、現在の文京区小石川二丁目の源覚寺(蒟蒻閻魔)から南西付近に同定しているが、そこから北の善光寺坂通りに出て横断、現在の小石川三丁目を北西に横切って行くと伝通院裏手になる。そこから北東に向かうと小石川植物園のすぐ脇を南東から北西に抜ける通りに出られる。植物園の西の角で北東から南西に走る網干坂にぶつかって現在の営団丸ノ内線茗荷谷駅方向へ湯立坂を南へ登り、現在の春日通り(但し当時は旧道で現在より南側に位置していた)へ出、南東に下れば冨坂から冨坂下へ至り、そこから北へ下宿に戻るルートと思われる。これは地図上で大雑把に実測しても実動距離で5㎞は確実にある。当時の散歩の5㎞は大した距離ではないが、夕食後の腹ごなし散歩としては45分から1時間は短かくはない。私がこのルートに拘るのは、一つは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏が「このコースはせいぜい二、三キロメートルの距離』で『当時としてはむしろ短い距離とも言える』から、『あるいは、先生にとっての話題も重要性と、要領を得ないKの返答ぶりとが、実際以上に長く感じさせたということか。』と注されているのが納得出来ないからである。漱石がこんな心理的時間を「散步としては短かい方ではありませんでしたが、其間に」という文脈で用いるとは思われない。尚且つ、ここ伝通院は漱石が実際に下宿した先でもあるのである。藤井氏のルートは恐らく私の考えているルートとは違い、もっと南西寄り(植物園から離れた通り)に出て、尚且つ、植物園も西の角まで至らずにすぐのところで春日通りに抜ける吹上坂か播磨坂を通るコースを考えておられるのではないかと思われるが、私はこの推測に異議を唱えるのである。

 ――何故か――

 それは私がもう一つ、このコースに拘る理由があるからである。それは――このコースが、実はあるコースの美事な対称形を――数学でいう極座標の方程式 r2 = 2a2cos2θ で示されるlemniscate レムニスケート(ウィキ「レムニスケート」)若しくは無限記号を――成すからである。もうお分かり頂けているであろう。そうだ。あの御嬢さんを呉れろというプロポーズをしてから先生がそわそわしつつ、歩いたあの「いびつな圓」の、美事な対称形である(第(百)回=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十六)。後に地図で示したいと思ってはいるが、あの距離も凡そ5㎞で、更に稽古帰りの御嬢さんとプロポーズ直後の先生が出逢うのが「富坂の下」=0座標である。ここからほぼ北西に今回のルートが、南東に後の「いびつな圓」ルートが極めて綺麗な対称が描かれてゆくのである。私はこれを漱石の確信犯であると思うのである。新しい私の謎である。――いや!――そこに今一つのルートが加わるであろう――勿論、お分かりだろうが……しかし、それはまた、そこで……。

「二學年目の試驗が目の前に逼つてゐる頃」当時の東京帝国大学文科大学では6月中旬の一週間程度が学年末試験期間であったから、この描写は6月上旬である(くどいが私が考える本章の作品内時間ならば明治331900)年の6月上旬である)。

「シユエデンボルグ」Emanuel Swedenborg エマヌエル・スヴェーデンボリ(1688年~1772年)スウェーデンのバルト帝国出身の博物学者・神学者で、現在、本邦ではその心霊学や神智学関連の実録や著述(主要なものは大英博物館が保管)から専ら霊界関係者に取り沙汰される傾向があるが、その守備範囲は広範で魅力的である。ただ漱石がここでKに彼の名を挙げさせたのは、多分にその神秘主義的部分、一種のスピリッチャリズムのニュアンスをKに付与させたかったからであるようにも思われる。以下、ウィキの「エマヌエル・スヴェーデンボリ」より引用する(一部の記号を変更、追加した)。父は『ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した』人物で、エマヌエルは『その次男としてストックホルムで生まれ』た。『11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官になる。31歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなど頻繁にでかける』。『1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、スヴェーデンボリという人材を重視した王室の庇護により、回避された。 神秘主義者への転向はあったものの、スウェーデン国民及び王室からの信用は厚く、その後国会議員にまでなった。国民から敬愛されたという事実は彼について書かれた伝記に詳しい。スヴェーデンボリは神学の書籍の発刊をはじめてからほぼイギリスに滞在を続け、母国スウェーデンに戻ることはなかった』。『スヴェーデンボリは当時 ヨーロッパ最大の学者であり、彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などで、結晶学についてはスヴェーデンボリが創始者である。 動力さえあれば実際に飛行可能と思えるような飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボリが26歳の時であり、現在アメリカ合衆国のスミソニアン博物館に、この設計図が展示保管されている』。『その神概念は伝統的な三位一体を三神論として退け、サベリウス派に近い、父が子なる神イエス・キリストとなり受難したというものである。ただし聖霊を非人格的に解釈する点でサベリウス派と異なる。聖書の範囲に関しても、正統信仰と大幅に異なる独自の解釈で知られる。 またスヴェーデンボリはルーテル教会に対する批判を行い、異端宣告を受けそうになった。国王の庇護によって異端宣告は回避されたが、スヴェーデンボリはイギリスに在住し生涯スウェーデンには戻らなかった。 彼の死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 New Church とも)を創設した』。『スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも若干散見され、例えばイマヌエル・カントは「視霊者の夢」中で彼について多数の批判を試みている。だがその批判は全て無効だと本人が後年認めた事は後述する。フリードリヒ・シェリングの「クラーラ」など、スヴェーデンボリの霊的体験を扱った思想書も存在する。三重苦の偉人、ヘレン・ケラーは「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」と発言している』。『彼の神秘思想は日本では、オカルト愛好者がその神学を読む事があるが、内容は黒魔術を扱うようなものではないため自然にその著作物から離れていく。その他、ニューエイジ運動関係者、神道系の信者ら』『の中にある程度の支持者層があり、その経典中で言及されることも多い。新エルサレム教会は日本においては東京の世田谷区にあり、イギリスやアメリカにも存在する』。『内村鑑三もその著作物を読んでいる』が、彼及びその支持者の思想を『異端視する向きが』あることも事実で、『一例として、日本キリスト教団の沖縄における前身である沖縄キリスト教団では、スウェーデンボルグ派牧師(戦時中の日本政府のキリスト教諸教会統合政策の影響からこの時期には少数名いた)が、戦後になって教団統一の信仰告白文を作ろうとしたところ、米国派遣のメソジスト派監督牧師から異端として削除を命じられ、実際削除されるような事件も起きている』と記す。スヴェーデンボリは『神の汎神論性を唱え、その神は唯一の神である主イエスとしたのでその人格性を大幅に前進させており、旧来のキリスト教とは性格的・構造的に相違がある。スヴェーデンボリが生前公開しなかった「霊界日記」において、聖書中の主要な登場人物使徒パウロが地獄に堕ちていると主張したり』、『同様にプロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちたと主張はした。だが、非公開の日記であるので、スヴェーデンボリが自身で刊行した本の内容との相違点も多い。この日記はスヴェーデンボリがこの世にいながら霊界に出入りするようになった最初の時期の日記であるため、この日記には、文章の乱れや、思考の混乱なども見られる。なお、主イエスの母マリアはその日記』『に白衣を着た天国の天使としてあらわれており、「現在、私は彼(イエス)を神として礼拝している。」と発言している』。『なお、スヴェーデンボリが霊能力を発揮した事件は公式に二件程存在し、一つは、ストックホルム大火事件、もう一つはスウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件で』、これは心霊学の遠隔感応として、よく引き合いに出されるエピソードである。『また、教義内の問題として、例えば、霊界では地球人の他に火星人や、金星人、土星人や月人が存在し、月人は月の大気が薄いため、胸部では無く腹腔部に溜めた空気によって言葉を発するなどといった、現代人からすれば奇怪でナンセンスな部分もあり、こうした点からキリスト教徒でなくても彼の著作に不信感も持ってみる人もいる』。『彼の生前の生き方が聖人的ではない、という批判もある。例えば、彼より15歳年下の15歳の少女に対して求婚して、父親の発明家ポルヘムを通して婚姻届まで取り付けておきながら少女に拒絶された。 また、生涯独身であったわけだが、若い頃ロンドンで愛人と暮らしていた時期がある、とされている。しかし主イエスから啓示を受けた後、女性と関係したという歴史的な事実は全くない。次にスヴェーデンボリは著作「結婚愛」の中で未婚の男性に対する売春を消極的に認める記述をしている。倫理的にベストとはいえないかもしれないが、基本的にスヴェーデンボリは「姦淫」を一切認めていない。一夫多妻制などは言語道断であり、キリスト教徒の間では絶対に許されないとその著述に書いている』。『スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を1757年に目撃した、と主張した。しかし現実世界の政治・宗教・神学上で、その年を境になんらかの変化が起こったとは言えないため、「安直である」と彼を批判する声もある』。『哲学者イマヌエル・カントは、エマヌエル・スヴェーデンボリについて最終的にこう述べている。『スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と。』(K・ ペーリツ編「カントの形而上学講義」から)。哲学者ラルフ・ワルド・エマソンも、エマヌエル・スヴェーデンボリの霊的巨大性に接し、カントと同様、その思想を最大限の畏敬の念を込めて称えている』。以下、スヴェーデンボリから影響を受けた著名人として、ゲーテ・バルザック・ドストエフスキイ・ユーゴー・ポー・ストリンドベリ・ボルヘスなどの名を挙げてある。『バルザックについては、その母親ともに熱心なスヴェーデンボリ神学の読者であった。 日本においては、仏教学者、禅学者の鈴木大拙がスヴェーデンボリから影響を受け、明治42年から大正4年まで数年の間、スヴェーデンボリの主著「天国と地獄」などの主要な著作を日本語に翻訳出版しているが、その後はスヴェーデンボリに対して言及することはほとんどなくなった。しかし彼の岩波書店の全集には、その中核としてスヴェーデンボリの著作(日本語翻訳文)がしっかり入っている』とある(国立国会図書館近代デジタルライブラリーでエマヌエル・スヴェーデンボリ鈴木大拙訳「天界と地獄」が画像で読める)。このシーンは私の推定では明治331900)年の夏であるが、夏目漱石はイギリス留学前の明治321899)年には既に知っていた。同年の「小説『エイルヰン』の批評」(『ホトトギス』)に「『エイルヰン』の父に『シュエデンボルグ』宜しくとい云ふ神秘学者が居る」と述べている。』とあるからである(これは若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」のこの部分の注の示唆に拠った)。

――しかし大事なことは、ここで何故「シユエデンボルグ」か、ということではないか?! 先生は明らかに「シユエデンボルグ」の霊界観念を意識して叙述している。あの第(六十二)回で先生が示した内容に注意しなくてはならない。先生は神秘主義的霊性を信じているのだ! それはとりもなおさず――Kは死んでも「シユエデンボルグ」のように現世と――先生と繋がっている――ということを伏線として示しているのではなかったか?! 私は大正という時代が近代に於いて、最も大衆が素朴に(この謂いは素直な謂い皮肉を込めた謂いの両方を含む)心霊ブームに沸いていた時代であったと理解している。キュリー夫妻が写真を感光させる目に見えない『神秘の』放射線(先の私の微妙な謂いはこうしたエポックにあるということである)を放つラジウムの発見は、実に明治311998)年である。本作の公開は大正3(1914)年で、アカデミズムはこの直前に、かの東京帝国大学の福来友吉博士らによる千里眼事件(リンク先はウィキ)によってこうした現象への疑似科学の烙印が早々に捺されていたが、本作中の現在時制は先に示した通り、明治331900)年前後である。

「御孃さんの卒業も、間もなく來る順になつてゐた」靜が如何なる女学校に通っていたかは不明であるが(当時最も多かった女学校はキリスト教系のものであったが、私は「いびつな圓」の関係から一つの可能性として東京女子高等師範学校附属高等女学校を考えていることは第(七十)回の摑みを参照されたい)、一応、当時の改正中学校令に沿った学校と考えるならば、尋常小学校4年・高等小学校2年・女学校5年終了で、通常数え18歳(満17歳)という年齢になる。靜がこの明治331900)年7月で女学校を卒業したとすれば、御嬢さんの出生は明治141881)年か、その翌年辺りと推定し得る。

「今から回顧すると、私のKに對する嫉妬は、其時にもう充分萌してゐた」当時は先生はそれを意識していなかった、自覚していなかったことが明示されている。即ち、無意識下の当時の心理を遺書を書いている時点の先生が分析している、という点を押さえておく必要がある。]

 

 

  先生の遺書

    (八十二)

 「Kはあまり旅へ出ない男でした。私にも房州は始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田(ほた)とか云ひました。今では何んなに變つてゐるか知りませんが、其頃は非道い漁村でした。第一(だいち)何處も彼處(かしこ)も腥(なまぐ)さいのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦り剥(む)くのです。拳のやうな大きな石が打ち寄せる波に揉まれて、始終ごろ/\してゐるのです。

 私はすぐ厭になりました。然しKは好(い)いとも惡いとも云ひません。少なくとも顏付丈は平氣なものでした。其癖彼は海に入(はひ)るたんびに何處かに怪我をしない事はなかつたのです。私はとうとう彼を説き伏せて、其處から北條(ほうでう)に行きました。北條と館山は重(おも)に學生の集まる所でしたさういふ意味から見て、我々には丁度手頃の海水浴塲だつたのです。Kと私は能く海岸の岩の上に坐つて、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。岩の上から見下す水は、又特別に綺麗なものでした。赤い色だの藍の色だの、普通市塲(しぢやう)に上らないやうな色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでゐるのが鮮やかに指さゝれました。

 私は其處に坐つて、よく書物をひろげました。Kは何もせずに默つてゐる方が多かつたのです。私にはそれが考へに耽つてゐるのか、景色に見惚(みと)れてゐるのか、若しくは好きな想像を描いてゐるのか、全く解らなかつたのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしてゐるのだと聞きました。Kは何もしてゐないと一口答へる丈でした。私は自分の傍(そば)に斯うぢつとして坐つてゐるものが、Kでなくつて、御孃さんだつたら嘸(さぞ)愉快だらうと思ふ事が能くありました。それ丈ならまだ可(い)いのですが、時にはKの方でも私と同じやうな希望を抱いて岩の上に坐つてゐるのではないかしらと忽然疑ひ出すのです。すると落ち付いて其處に書物をひろげてゐるのが急に厭になります。私は不意に立ち上ります。さうして遠慮のない大きな聲を出して怒鳴ります。纏まつた詩だの歌だのを面白さうに吟ずるやうな手緩(てぬる)い事は出來ないのです。只野蠻人の如くにわめくのです。ある時私は突然彼の襟頸を後(うしろ)からぐいと攫(つか)みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向(うしろむき)の儘、丁度好い、遣つて呉れと答へました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。

 Kの神經衰弱は此時もう大分可(よ)くなつてゐたらしいのです。それと反比例(はんひれい)に、私の方は段々過敏になつて來てゐたのです。私は自分より落付いてゐるKを見て、羨ましがりました。又憎らしがりました。彼は何うしても私に取り合ふ氣色を見せなかつたからです。私にはそれが一種の自信の如く映りました。然しその自信を彼に認めた所で、私は決して滿足出來なかつたのです。私の疑ひはもう一步前へ出て、その性質を明らめたがりました。彼は學問なり事業なりに就いて、是から自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になつたのだらうか。單にそれ丈ならば、Kと私との利害に何の衝突の起る譯はないのです。私は却て世話のし甲斐があつたのを嬉しく思ふ位(くらゐ)なものです。けれども彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです。不思議にも彼は私の御孃さんを愛してゐる素振(そふり)に全く氣が付いてゐないやうに見えました。無論私もそれがKの眼に付くやうにわざとらしくは振舞ひませんでしたけれども。Kは元來さうふ點にかけると鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫(だいぢやうふ)といふ安心があつたので、彼をわざ/\宅へ連れて來たのです。

やぶちゃんの摑み:ここから4章分が先生とKの印象的な房州ロケとなる。連載中、作中の季節と読者の時制が最も近似する摑みの時間でもある。――概ねハレーション気味の写真に海の音(おと)蝉や虫の音(ね)のSEが被り――最も鮮烈な「丁度好い、遣つて呉れ」や誕生寺での日蓮絡みのエピソード、旅宿の夜の二人の会話シーン等、何れをとっても写欲をそそる魅力的なシークエンスである。私はこの旅行を明治331900)年の7月下旬か8月と推定している。その行程の概略(推定を含む。その推定根拠となる漱石の実際の房州行は後掲)を見ておこう。

霊巌島〔推定〕

↓〈船~三浦半島横須賀・浦賀経由便か〔推定〕〉

保田

富浦

↓〈徒歩(以下同じ)〔推定〕〉

那古(K「丁度好い、遣つてくれ」)

房州の鼻

小湊/鯛の浦/誕生寺(Kの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という台詞)

銚子

↓〈この間、一部川舟を利用した可能性がある〉

両国(軍鶏を食う)

小石川中富阪町

この旅行のモデルとなったのは、漱石23歳、第一高等中学校本科第一学年夏季休業中の明治231889)年8月7日(水)から8月30日(金)迄の23日間に及ぶ房州・上総・下総の旅行である(以下、主に集英社昭和491974)年刊の荒正人「漱石文学全集 別巻 漱石研究年表」に拠る)。同行者は複数の学友で豊後出身の川関(イニシャルが「K」である!)や井原市次郎ら。荒氏の推定を含む行程を以下に示す。

霊巌島〔推定〕

↓〈船~横浜や三浦半島横須賀・浦賀経由便か。約5時間の行程。〔推定〕〉

保田(数日滞在、海水浴をする。絶句数種を試作、正岡子規から手紙を受け取る)

鋸山(眺望絶佳。中腹にある日蓮宗日本寺に参堂して瞑想、漢詩「君不見鋸山」(『木屑録』(ぼくせつろく)本文文中に所収)の吟あり)

↓〈房州南部の旧道を横断したか若しくは

↓ 半島南部を廻ったか若しくは

↓ 船を利用したか〉

小湊/鯛の浦/誕生寺

東金(漢詩「自東金至銚子途上口號」(『木屑録』所収)の吟あり)

犬若(千葉県海上郡神村犬若。銚子附近の村。ここの旅宿「犬若館」に泊る〔推定〕)

↓(舟で利根川を遡る。漢詩「賃舟溯刀水舟中夢鵑娘鵑娘者女名非女也」

↓ (『木屑録』所収)の吟あり)

野田(この地の東方にある旅宿「三堀旗亭」に泊る。漢詩「天明舟達三堀旗亭即事」(『木屑録』所収)の吟あり)

関宿

↓(江戸川を南下したか〔推定〕)

東京(牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)の夏目家自宅へ帰る)

漱石はこの頃、既に養家塩原家と縁組を解消し、復籍していた。また、これ以前、明治201986)年9月頃迄は自活の意識高く、私塾教師のアルバイトをしながら下宿をしていたが、その不潔な生活のために急性トラホームに罹患し、この頃は実家に戻っていた。

――どうです、如何にも『K』その人の生活と重なるのではありませんか?――

なお、荒氏によれば、この実際の旅行自体に不明部分が多い。また荒氏は全行程を約360㎞と算定されている。

今回、この房州行の部分の摑みを考えるのに、初めて漱石の漢詩文集『木屑録』にざっと目を通したが、この『木屑録』なるもの、「こゝろ」を考える上で、どうも重要なアイテムになりそうだということに遅まきながら気がついた次第である。

「保田」現在の千葉県安房郡鋸南町保田。ここの海岸には「房州海水浴発祥地」の碑があり、その由来は何と! 房州の海水浴は明治221988)年に夏目漱石が保田海岸で遊泳したのが最初だからだそうである! こんなところに「心」関連碑があるなんて! リンク先(「昭和の思い出・ちょっといい話、投稿募集中!懐かしネットワーク - まぼろしチャンネル」)も引用している『木屑録』から引いておく(底本は岩波版旧全集を用いた)。「心」の本箇所がこの実体験に基づくものであることが如実に分かる。

余自遊于房浴日鹹水少二三次多五至六次浴時故跳躍爲兒戲之狀欲健食機也倦即橫臥熱砂上温氣浸腹意甚適也如是者數日毛髮漸赭面膚漸黄旬日之後赭者爲赤黄者爲黑對鏡爽然自失

○やぶちゃんの書き下し文

余、房に遊びてより、日々鹹水(かんすゐ)に浴す。少なきも二三次、多きは五六次に至る。浴する時は故(ことさら)に跳躍し、兒戲の狀を爲す。食機を健やかならしめんと欲すればなり。倦まば即ち熱砂上に橫臥す。温氣、腹に浸み、意、甚だ適なり。是くのごとき者(こと)、數日にして毛髮漸く赭(あか)らみ、面膚漸く黄ばむ。旬日の後(のち)、赭(しや)は赤と爲り、黄は黑と爲る。鏡に對し爽然として自失す。

♡「海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦り剥くのです。拳のやうな大きな石が打ち寄せる波に揉まれて、始終ごろ/\してゐるのです」ここに1994年刊の岩波版新全集で重松泰雄氏は注して『このような保田での先生の乱暴な海水浴の状況は、作品の冒頭におけるあの繁華で、文明化された海水浴場の光景といかにも鮮やかなコントラストをなす。ここにも、先生やKの時代と「私」など新しい青年たちの時代との明瞭な対比的構図があるといってよいだろう』(底本の傍点「ヽ」は下線に代えた)とされる。同様に重松氏は第(五十八)回の先生の学生の頃の知人喧嘩沙汰の部分に注され、このような対比の構図は『先生の遺書ではこの後も反復して現れ』『そこには』学生の「私」が生きる『〈現代〉との対比の中で、〈自らの時代〉の固有性を浮かび上らせ、語り伝えんとする先生の姿勢が明瞭である。』と語っておられる。――『〈現代〉との対比の中で、〈自らの時代〉の固有性を浮かび上らせ、語り伝えんとする先生』――実に示唆に富む言葉ではないか。

「海に入るたんびに何處かに怪我をしない事はなかつた」Kは背は高いものの不器用である。運動は特に得意な方ではなさそうな印象である(但し、文弱タイプではない)。逆に先生は本作の冒頭やこの部分を見ても、少なくとも水泳は非常に得意である。逆に一見文弱タイプに見えながら、至って健康な肉体の持ち主であることは「こゝろ」の上パートでも十全に分かる。私のように酒を浴びるように呑むこともない。本作に特徴的な腎臓病からは最も遠く、私のような糖尿病からは最遠位にある。

「其處から北條に行きました。北條と館山は重に學生の集まる所でした。さういふ意味から見て、我々には丁度手頃の海水浴場だつたのです。」ここは極めて珍しく単行本では以下のように、大きく書き換えられている。

私はとう/\彼を説き伏せて、其處から富浦に行きました。富浦から又那古(なご)に移りました。總て此沿岸は其時分から重に學生の集まる所でしたから、何處でも我々には丁度手頃の海水浴場だつたのです。

「北條」は北条町のことで千葉県安房郡にかつて存在した町である。現在の館山市の中部に位置し、現在の内房線館山駅(実は現在の内房線館山駅は旧房総西線時代には安房北条駅であったが、昭和211946)年に改称している)がある地域で、館山町と並ぶ安房地域の拠点の一つであった。ここで先生の言う「館山」の方は館山町で、現在の館山市の中部の館山駅より南側の館山城寄りにあった町のことである。即ち、現在の館山は旧来は北条であり、館山とは別個な町であったのである。現在の館山市は昭和141939)年に新設合併によって誕生した市で、本当の館山町とは全く異なる自治体なのである。その辺りの自治体変更を以下に示す。

明治221889)年

町村制の施行により館山町・上真倉村・下真倉村が合併して館山町(初代)が発足した。

大正3(1914)年41

豊津村と合併し、改めて館山町(2代目)が新設される。(4月1日で本連載の3ヶ月前になる。即ち本連載時には未だ北条と館山は別個な町であったことが分かる)

昭和8(1933)年

北条町と合併、館山北条町が発足。同日館山町(2代目)は消滅した。

昭和141939)年

館山北条町が那古町及び船形町と合併し、館山市が新設され、同日北条という町名は消滅した。

(以上は主にウィキの「北条町」及び「館山町」の記載を参考にした)。なお、この単行本での書き換えは、この日の新聞連載を読んだ漱石の後輩である第一高等学校英語教師であった畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう 明治4(1871)年~大正121923)年:英語学者・文芸評論家。号は芥州。山形生。仙台二高から東京帝国大学、更に大学院に進み、その在学中に雑誌『帝国文学』に文芸批評を執筆、以降『太陽』『火柱』『明星』といった文芸雑誌に文芸評論を寄稿した。明治31(1898)年から一高の英語教師となり、その間、早稲田・青山学院等でも英語を教えた。明治411908)年以降は「大英和辞典」(昭和6(1931)年完成刊)の編纂に心血を注いだが、完成を見ずにに病没した。以上の事蹟は「朝日日本歴史人物事典」を参考にした。)が、本章の描写に違和感を覚え、漱石に地名の誤りではないかという手紙を出したことによるものと思われる。この連載日当日発信の漱石の以下のような葉書が残されている(底本は昭和421967)年刊の岩波版旧全集「第15卷 續書簡集」を用いた。旧全集書簡番号一八四七である)。

七月十四日 火 後一-二 牛込區早稻田南町七より 本郷區駒込西片町十番地畔柳都太郎へ 〔はがき〕

 御注意ありがたう、私の見たのは房州のどこだらう、金谷とか那古とかいふ邊かも知れない。然しあれは想像ではありません、たしかに見たのです。沖の島とか鷹の島とかへ行けばあんなところがありますか一寸教へて下さい

この文面からは、保田上陸の後、北条と館山という完全に隣接する地の殊更な移動への疑問以外に、「赤い色だの藍の色だの、普通市場に上らないやうな色をした小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでゐるのが鮮やかに指さゝれ」るような「海岸の岩」場はあの辺りの海岸線にはない、という注意をも畔柳は指摘しているようにも思われる。この手紙で漱石が言及している「沖の島」及び「鷹の島」は共に現在の千葉県館山市南方の館山湾(鏡浦)にある。現在の海上自衛隊館山航空基地の西に沖ノ島が、同基地北東の角部分が高ノ島(国土地理院表記)である。沖ノ島は周囲約1㎞の小島で館山湾の南端に位置する砂洲によって繋がったトンボロ(陸繋島)である。但し、この陸繋島化は関東大震災によるものなので、本作の頃は陸から500m程離れた純然たる島であった。現在は海水浴場や約8000年前の縄文海中遺跡、更に世界的にも珍しい珊瑚の北限域の無人島として知られている。高ノ島(「鷹の島」)の方は完全に基地の東北部分に突き出た形で陸化しており、地図上では富士見という地名も与えられているが、これは昭和5(1930)年に大規模な埋立造成によってこの海軍館山航空隊が開隊された結果で、本作の頃はやはり館山港見下ろすような形の湾内に浮かぶ孤島であった。現在も平安時代に祀られたと伝えられる鷹之島弁財天があり、漁師や船員の信仰を集めている。海軍・海上自衛隊というのも故なきことでないという訳か。なお、これら館山周辺の仔細な地名を出しているところを見ると、漱石の実際の明治231889)年の房州行は、所謂、半島南部を廻ったか若しくは船を利用した可能性が高いように見受けられる。

「赤い色だの藍の色だの、普通市塲に上らないやうな色をした小魚」これは極めて高い確率でスズキ目 ベラ亜目ベラ科 Labridae のベラ類のキュウセンやニシキベラ等であろう。以下、ウィキの「ベラ」より引用する。『日本近海には約130種が生息し、磯やサンゴ礁などで普通に見ることができる』。『ベラ科の魚は体長1030cm程度の比較的小さな種類が多い』(但し、コブダイやメガネモチノウオ(ナポレオンフィッシュ)等は大形種や大形個体が見られる)。『多くは鮮やかな色彩をもち、雄と雌で体色が異なる。成長に伴って性転換を行う種も多い。キュウセンなど一部の種は夜、砂に潜って眠ることが知られている。ソメワケベラの仲間は、他の魚の口の中や体表を掃除するという特異な生態をもっており、掃除魚などと呼ばれる』。『4亜科・60属・500種ほどが知られる大きな科である。全世界の熱帯から温帯に広く分布し、浅い海の砂底、岩礁、サンゴ礁に生息する。日本にも数多くの種類が分布している』。『成魚の大きさは全長10cmほどのホンソメワケベラから、2m以上に達するメガネモチノウオまで種類によって異なるが、ふつう海岸で見られるのは全長20cmほどの小型種が多い。体は細長く側編し、海藻やサンゴ、岩のすき間をすり抜けるのに都合がよい体型をしている。また、種類によっては体をくねらせて砂にもぐることもできる』。『体表はスズキ類やイワシなどにくらべて粘液が多く、ぬるぬるしている。体色は種類によってさまざまで、白、黒、青、緑、橙、赤などの組み合わさった美しい体色の種類もいる。また、性別や成長の度合いによって体色がちがう種類もいて、同種でもオスとメス、幼魚と成魚で別種のようにみえる種類もある』。『雌性先熟の性転換をすることが知られている。性転換して雄になった個体は雌を惹きつける派手な色彩に変化し、縄張り内の複数の雌と繁殖を行う。また、種類によっては生まれながらの雄もいる。前者を二次雄、後者を一次雄と呼ぶ。一次雄は集団産卵やスニーキングやストリーキングにより繁殖を行うが、二次雄と同じ派手な色彩に変化し、縄張りを持つこともある。』とある。この「スニーキング」とは二次雄の縄張りに侵入し、二次雄がいない隙を見て雌とペアリングする生殖行動を、「ストリーキング」は二次雄の縄張りに侵入し、二次雄と雌が産卵するのを見計らって割り込み放精をする生殖行動を言う。『ほとんどの種類が肉食性で、丈夫な歯をもち、ゴカイや貝、甲殻類などを捕食する。また、ほぼすべての種類が昼行性で、夜は岩陰にひそんだり、海底の砂にもぐったりして眠る。同じようにして冬眠をおこなう種類もある』。『春から秋にかけてよく漁獲されるが、冬のコブダイなど一部を除くと漁業価値は低い。特に釣りで多く漁獲されるが、関東では「餌盗り」や「外道」として扱われ、釣ったその場で捨てられることもある。一方、関西では高級魚として扱われ専門の遊漁船も出るほど人気がある。なお夜は休眠するので、あまり漁獲されない』。『身は軟らかいが、刺身、煮付け、唐揚げ、南蛮漬けなど、いろいろな料理で食べられる。キュウセンは関東地方などの東日本では評価が低いが、関西以西、特に瀬戸内海沿岸ではギザミと呼ばれ、美味な魚として評価されている。これは太平洋で育ったものは身が締まらず水っぽく大味になるのに対し、瀬戸内海などで育ったものは早い潮流によって身が引き締まるためである。したがって、個々の地域による文化的、味の嗜好で、価値観の差違が発生しているわけではない』以下、「分類」の項(一部にフォント・記号を追加した)。『ベラ科Labridaeには約500種が含まれ、大きく4亜科に分けられる。また分類が困難な種も多い。

○タキベラ亜科 Bodianinae

○ブダイベラ亜科 Pseudodacinae

○カンムリベラ亜科 Corinae

○モチノウオ亜科 Cheilininae

以下、下位分類と主な種のリストを挙げる。

○タキベラ亜科 Bodianinae

・イラ Choerodom azurio - 体長25 cm。背中はピンク色で顔と尾は青っぽく、背びれと尻びれは黄色っぽい。成長したオスの額はでっぱる。胸びれの上に黒っぽい斜めの線がある。

・コブダイ Semicossyphus reticulatus - カンダイとも呼ばれる。全長11m。成長したオスは額が出っ張る。幼魚は体が赤く、背びれ、尻びれ、尾びれが黒、目から尾びれまで白い線が走る。成長すると全身が赤褐色になり見た目は全く別の魚になってしまう。冬が旬で高級魚として扱われる。

○ブダイベラ亜科 Pseudodacinae

1属1種

・ブダイベラ Pseudodax moluccanus

○カンムリベラ亜科 Corinae

・ニシキベラ Thalassoma cupido - 全長20 cm。ホンベラによく似ているが腹部が青い。

・ホンソメワケベラ Labroides dimidiatus - 体長12 cm。体側に黒い縦帯がある。他の魚の口や体表の掃除をすることで有名である。

・ムスメベラ Coris picta - 体長18 cm。体側に黒い縦帯がある。

・ホシササノハベラ Pseudolabrus sieboldii - 体長20 cm。以前はアカササノハベラ P. eoethinus と同種と考えられており、ササノハベラ P. japonicus という名称が与えられていた。両者とも体色は褐色だが、アカササノハベラは名の通り赤みが強い。外洋に面した防波堤などでよく釣れる、釣り人にはおなじみの魚である。

・キュウセン Halichoeres poecilopterus - 日本の本州以南に広く分布し、岩礁と砂底が入り混じったような環境に多い。メスは体長20 cm ほどで体色は黄褐色で、オスは体長30cm 以上になり、体色は黄緑色をしている。成長するにつれメスからオスへ性転換すると考えられている。オスメスとも赤い点線が縦に数本はいり、目から尾びれまでと背びれの根もとに黒い線が走っている。夜や冬は砂にもぐって休眠するため、釣りは日中に行われる。関東ではあまり食用にしないが、関西では好まれ、高値で取引される。特に刺身が珍味であり喜ばれる。

・ホンベラ Halichoeres tenuispinnis - 体長13cm。体色は緑が主体でニシキべラに似ているが、色が薄くまた、赤い色をしている。ベラのなかではキュウセンやニシキべラと並んで温帯域に適している。

○モチノウオ亜科 Cheilininae

・メガネモチノウオ Cheilinus undulatus - インド洋から太平洋のサンゴ礁に分布する巨大魚で、ナポレオンフィッシュともよばれる。成長したオスは全長2mを超え、カンダイのように額がでっぱる。メスは全長1m以下で、額はでっぱらない。

・テンス Xyrichtys dea - 全長30cm。体色は赤っぽく腹びれと尻びれは黄色っぽい。海底の砂地に生息しており、危険を感じると一瞬で砂に潜り込む』。私が富山に住んでいる時、キスの外道で結構釣れたものである。色が鮮やか過ぎて逆に食をそそらない嫌いがあるが、実際食ったが、キュウセンやニシキベラはやや身が柔らかいが、結構美味いと私は思う。なお、ここら辺り、『木屑録』本文に、保田から一里ばかりのところに在る半月型の湾に大きな岩礁があり、そこから海を臨むと海藻が茂り「游魚行其間錦鱗尾忽去來」という描写がある。

♡「私は不意に立ち上ります。さうして遠慮のない大きな聲を出して怒鳴ります。纏まつた詩だの歌だのを面白さうに吟ずるやうな手緩い事は出來ないのです。只野蠻人の如くにわめくのです」実際の漱石の旅行では冒頭に一部を示したように『木屑録』に多量の漢詩が詠まれている。この夕日に向かって(にしよう)喚くシーンは正に青春ドラマの一齣、そう言えば千葉県の県知事は正にそのクサイドラマの主役をはっていた大根役者じゃあ、ねえか……これも「心」の因縁かのう……

「ある時私は突然彼の襟頸を後からぐいと攫みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向の儘、丁度好い、遣つて呉れと答へました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました」ここは「心」を考える際に私にとって極めて大切なワン・シーンである。それはここが、これから続く漱石の確信犯行為

★『Kの眼を見逃す先生(1)』

という象徴的シチュエーションの最初のシーンだからである。このシーンを先生の目線で実際の映像として撮ってみれば分かる。

 

○カメラ、急速に背後から岩場の突先に座り込んでいるKに近づき、Kの頭の後ろまで一気に迫って画面の上からインした先生の手首がKの襟首を、グイ! と摑む。

先生(オフで)「こうして海の中へ突き落としたら……どうする――」

摑みながら微かに震える先生の手首――微動だにしないKの伸びきってほつれた後ろ髪、焼けた首筋、垢の浮いた太陽光を透過した薄赤い耳介――それをなめて向うの眩しく輝く海、白く遠い波頭――

K(後ろ向きのそのままに)「ちょうどいい――やってくれ――」

はっとしたようにKの襟首を離れる先生の手。はっきりと震える先生の指――ゆっくり画面右上へ消え――同じくKの微動だにしないKの伸びきってほつれた後ろ髪、焼けた首筋、垢の浮いた太陽光を透過した薄赤い耳介――それをなめて向うの眩しく輝く海、白く遠い波頭――

(ホワイト・アウト)

 

先生は、この時――「丁度好い、遣つて呉れ」と言う、そのKの眼も表情も見落としている。見ることが出来ないのである。これこそ私は漱石が仕組んだ

Kの眼を見逃す

=Kの真意を見逃す

=Kの心を見落とす先生

という分かり易い伏線であると考えて止まないからである。これは私が「こゝろ」の全文授業を始めた教員1年目、実に31年前からのオリジナルな解釈なのであるが、第(百三)回(=「こゝろ」「下 先生と遺書」四十九)の「Kの死に顔が一目見たかつた」先生が「見る前に手を放してしまう」というシーンまで、この『Kの眼を見逃す先生』は実に5回も出現するのである。そして――私のここでの謂いは

見落とすべきでなかったKの眼を何度も見逃す先生

=Kの眼を見ていれば分かったはずの当然の真実を、Kの眼を見なかったばかりに段階的にも論理的にも理解出来なかった先生

=Kの心を決定的に見落とし、致命的な誤読を重ねてしまう先生

という意味でカタストロフへと直進してゆく原動力となっていることを意味している。即ち、分かり易く言えば私は、

★この時点でKには既に靜への恋愛感情が芽生えており、その感情と自己の求道の信条との矛盾に早くも悩み始めている

と解釈するのである。ここでKが座っている岩場が如何程のものかは分からない。しかし、水泳で飛び込むことが可能な数メートルのものでないことは明らかだ。これは突き落とされれば死ぬるかも知れぬような、いや、死ぬであろう断崖絶壁鋭利奇岩の岩礁であればこそ、この先生の「斯うして海の中へ突き落したら何うする」という語は生きてくる。そしてそれに間髪を入れぬKの「丁度好い、遣つて呉れ」という答えが慄然と迫るのだ。

 ここの解釈は二様に考え得るであろう。

 一つはこれが一種の禪問答のパロディとして機能するという解釈である。在り得ぬことではない。ニヒルを気取るのが好きな私(やぶちゃん)がKなら、先生のこうした悪戯(冗談)に対してこんな風に「ちょうどいい――やってくれ――」と答える可能性はないとは言えぬ。いや、高い確率でニヒルな笑みを浮かべて、友人の先生にそう答えると言ってもよいという気さえする。

 しかし、私にはこの前後のKと御嬢さんとの絡みの展開からみて、このKが所謂、精進一途の道にあって、肉を鞭撻すれば精神の光輝がいや高まるとういう意味で肉体を卑しみ、だからここでは、

×「――こんな肉体? 俺の求道的人生に、肉体なんて、そんなものに未練などは金輪際ないね――ちょうどいい――やってくれ――」

とやや先生の売り言葉に軽くいなした買い言葉、先生の如何にも軽い冗談に余裕の禪気で応酬したに過ぎない――なんどという解釈は私には逆に誠心にして重厚な宗教的に真面目であるKにとって『Kらしくない下らぬ冗談』としか思われないのである。Kはこんな軽い冗談は吐かぬ。少なくとも、どうも近頃、求道的に精進しているとは全く思われない先生なんぞにこんなことを言われたなら、私がKならいつものフンといった調子で無視すると言ってもよい。

 されば、もう一つの解釈しか、ない。即ち、この「丁度好い、遣つて呉れ」とは、

○「――実は――正しく今の自分は――このままこの断崖をお前に突き落とされて死んでもいいぐらいに、己れの信条を裏切りしつつあるのさ――だから――ちょうどいい――やってくれ――」

という謂い以外にはないのである。これを私は私の大事な「こゝろ」解釈の基底部に据えて動かすつもりはないということを、ここに言明しておく。なお、ここら辺りも『木屑録』本文の、例の保田から一里ばかりのところに在る半月型の湾にある15m程の巨人の掌のような断崖があり、その絶壁の端に平坦な数人がやっと座れる場所があったと書き、そこに「欲墜不墜」という言葉が記されている。これがこのシーンのルーツであろう。

「Kの神經衰弱は此時もう大分可くなつてゐたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になつて來てゐたのです」繰り返すまでもないが、再度確認しておくが、Kは神経衰弱ではない。至って健全である。勿論、前注で示した通り、私は自己心内の葛藤のためにややアンビバレントな感情は心内にあると考えているが、それは健全な青年の『理想と現実』の悩みの範囲内――正にこの時点ではKの中ではのっぴきならない肥大した大きな対立項としては生育していないと言っても私には正しいと思われる――である。むしろ、このシーンの前後を見るに、先生の方が例の関係妄想と被害妄想の傾向が先鋭化してきつつあり、正常な状態から逸脱しつつあるように読める。それを先生は確かに「私の方は段々過敏になつて來てゐた」と叙述するのだが、これも、遺書を書いている際の先生が当時を回想して自己分析した結果なのか、当時の先生にそのような『病識』がその頃既にあったのかという点は留保せざるを得ない曖昧な書き方である。私は『病識』はなかった、という立場を採る。それによって本作は近代日本文学史上最初の本格的に多層的心理分析的手法を採った小説となるからである。

「私は自分より落付いてゐるKを見て、羨ましがりました。又憎らしがりました。彼は何うしても私に取り合ふ氣色を見せなかつたからです。私にはそれが一種の自信の如く映りました。然しその自信を彼に認めた所で、私は決して滿足出來なかつたのです。私の疑ひはもう一步前へ出て、その性質を明らめたがりました。彼は學問なり事業なりに就いて、是から自分の進んで行くべき前途の光明を再び取り返した心持になつたのだらうか。單にそれ丈ならば、Kと私との利害に何の衝突の起る譯はないのです。私は却て世話のし甲斐があつたのを嬉しく思ふ位なものです。けれども彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです。不思議にも彼は私の御孃さんを愛してゐる素振(そふり)に全く氣が付いてゐないやうに見えました。無論私もそれがKの眼に付くやうにわざとらしくは振舞ひませんでしたけれども。Kは元來さうふ點にかけると鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫(だいぢやうふ)といふ安心があつたので、彼をわざ/\宅へ連れて來たのです」この一連の心理分析中、「けれども彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなる」という箇所が、始めて先生とKと靜の三角関係、お嬢さんをはっきりと掲げた三角関係の明示となっている点で、極めて重大な箇所である。ここでの先生=「私」の分析過程の病的状況を整理しよう。

・私は最近のKが精神的に明らかに自分より落付いたように観察された。

↓(その結果)

・私は精神的余裕の中で自分よりも豊かな精神生活を送っているものと類推し、Kを羨ましく思うようになった。

↓(同時に)

・私には、私のことをKが軽くあしらい、何となく馬鹿にして取り合わないように見え始め〈←先生の被害妄想部分〉、それが却って『そうした精神の安定をお前に与えてやったのは他ならぬ私なのに』という不満から、憎たらしく思うようにさえなった。

↓(同時に)

・『私のことをKが軽くあしらい、何となく馬鹿にして取り合わないように見え』る様子が、別な角度から見れば、一種のKの揺ぎない自信のポーズの如く見えもした(その結果としてますます普段からあったKへの劣等感が昂まった)。

↓(取り敢えずその人生への「Kの自信」

↓ は認めてやってもよいと思ったものの)

・私の疑いはそこで満足して留まらず、その「自信」や「変化」の理由を明らかにしないでは済まなくなった。〈←先生の関係妄想と強迫観念

↓(その疑問)

・彼は学問や人生上の生き方などに就いて、これから自己の進んで行くべき求道的精進に満ちた前途の光明を再び取り返した心持になったのか?

↓(現在の余裕と安定がそれだけの理由によるもなら)

○「Kと私との利害に何の衝突の起」らないから「私は却て世話のし甲斐があつたのを嬉しく思ふ位」である。

↓(しかし)

×K「の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば」「私は決して彼を許す事が出來な」い!〈←関係妄想=それは結果として事実であり、妄想ではなかったことになるのだが、これは病的な妄想の過程で実は偶然、後の結果的事実に至ったに過ぎないのである。それが如何に病的なものであるかは、この「私は決して彼を許す事が出來な」い、という言辞を取り上げるだけで十分である。自分で勝手に妄想を肥大させ、仮想の目に見えない壁を相手に唾を吐きかけ、痛罵する先生の怒号が聴こえてくるではないか?!〉

……そして先生はこの最後の病的なネガティヴな答え(先生にとって)を知らず知らずの内に選び取ってしまうことになる。

「不思議にも彼は私の御孃さんを愛してゐる素振に全く氣が付いてゐないやうに見えました」これは事実。Kは全く気付いていない。「無論私もそれがKの眼に付くやうにわざとらしくは振舞ひま」わなかったせいもあるが、「Kは元來さうふ點にかけると鈍い人」であることは完璧な事実である。先生が「最初からKなら大丈夫といふ安心があつたので、彼をわざ/\宅へ連れて來た」という告白も、私のイメージするKでも、さもありなんという気がする。ここで確認しておく必要があるのは、この遺書を読む者の中に形成されるK像は殆んど個人差が生じないように先生によって描かれている点である。勿論、その心の動きを先生は大きく致命的に誤解してゆき乍らも、一方では、読者がイメージするK像には大きな印象のブレがないように、ある種絶妙な客観的視点でもに描かれているという驚異的な漱石の筆致を味わう必要がある。これは先生がKをそのように理解させようとする悪意、少なくとも意識的悪意ではない。無論、先生がKを恋敵と意識する、人生の致命的失敗の起点にKが立っていることを告解する際には、無意識的な悪意の発露はあっても、そうした悪意によって読者のK像を意図的に歪めようとする意識は微塵も働いていないという点を押えておくべきであろう。]

 

 

  先生の遺書

    (八十三)

 「私は思ひ切つて自分の心をKに打ち明けやうとしました。尤も是は其時に始まつた譯でもなかつたのです。旅に出ない前から、私にはさうした腹が出來てゐたのですけれども、打ち明ける機會をつらまへる事も、其機會を作り出す事も、私の手際(てきは)では旨く行かなかつたのです。今から思ふと、其頃私の周圍にゐた人間はみんな妙でした。女に關して立ち入つた話などをするものは一人もありませんでした。中には話す種を有たないのも大分」だいぶ)ゐたでせうが、たとひ有つてゐても默つてゐるのが普通の樣でした。比較的自由な空氣を呼吸してゐる今の貴方がたから見たら、定めし變に思はれるでせう。それが道學の餘習なのか、又は一種のはにかみなのか、判斷は貴方の理解に任せて置きます。

 Kと私は何でも話し合へる中でした。偶には愛とか戀とかいふ問題も、口に上らないではありませんでしたが、何時でも抽象的な理論に落ちてしまふ丈でした。それも滅多には話題にならなかつたのです。大抵は書物の話と學問の話と、未來の事業と、抱負と、修養の話位(くらゐ)で持ち切つてゐたのです。いくら親しくつても斯う堅くなつた日には、突然調子を崩せるものではありません。二人はたゞ堅いなりに親しくなる丈です。私は御孃さんの事をKに打ち明けやうと思ひ立つてから、何遍齒掻ゆい不快に惱まされたか知れません。私はKの頭の何處か一ケ所を突き破つて、其處から柔らかい空氣を吹き込んでやりたい氣がしました。

 貴方がたから見て笑止千萬な事も其時の私には實際大困難だつたのです。私は旅先でも宅にゐた時と同じやうに卑怯でした。私は始終機會を捕える氣でKを觀察してゐながら、變に高踏的な彼の態度を何うする事も出來なかつたのです。私に云はせると、彼の心臟の周圍は黑い漆で重く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎ懸けやうとする血潮は、一滴も其心臟の中へは入らないで、悉く彈き返されてしまふのです。

 或時はあまりにKの樣子が強くて高いので、私は却つて安心した事もあります。さうして自分(しぶん)の疑ひを腹の中で後悔すると共に、同じ腹の中で、Kに詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間のやうに見えて、急に厭な心持になるのです。然し少時(しばらく)すると、以前(いせん)の疑ひが又逆戻りをして、強く打ち返して來ます。凡てが疑ひから割り出されるのですから、凡てが私には不利益でした。容貌もKの方が女に好かれるやうに見えました。性質も私のやうにこせ/\してゐない所が、異性には氣に入るだらうと思はれました。何處か間が拔けてゐて、それで何處かに確(しつ)かりした男らしい所のある點も、私よりは優勢に見えました。學力(がくりき)になれば專問こそ違ひますが、私は無論Kの敵でないと自覺してゐました。―凡て向ふの好(い)い所丈が斯う一度に眼先へ散らつき出すと、一寸安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。

 私達は三四日して北條を立ちました。Kは落ち付かない私の樣子を見て、厭なら一先(まづ)東京へ歸つても可(い)いと云つたのですが、さう云はれると、私は急に歸りたくなくなりました。實はKを東京へ歸したくなかつたのかも知れません。二人は房州の鼻を廻つて向ふ側へ出ました。我々は暑い日に射られながら、苦しい思ひをして、上總の其處一里に騙されながら、うん/\步きました。私にはさうして步いてゐる意味が丸で解らなかつた位です。私は冗談半分Kにさう云ひました。するとKは足があるから步くのだと答へました。さうして暑くなると、海に入つて行かうと云つて、何處でも構はず潮へ漬りました。その後を又強い日で照り付けられるのですから、身體が倦怠(だる)くてぐた/\になりました。

[♡やぶちゃんの摑み:『先生のぐるぐる』である。先生のKへの圧倒的な劣等感が被害妄想となって典型的な自己劣勢自己卑小化へと向かうシーンである。ある時は、

○Kの孤高にして崇高な姿に安心すると同時に自分の疑いを後悔すると共に、心中でKに詫びることさえあった

↓(そして)

○詫びながら自分が如何にも非常に下等な人間に見え、自己嫌悪に陥った

↓(ところが暫くすると逆に)

×Kの御嬢さんへの特異感情や二人の関係への猜疑が増殖し始める

↓(すると不安と自己の劣等性が絵巻物のに広がってゆく)

×Kの容貌も自分よりも女に好かれるタイプのように見える

×Kの人格も私のようにこせこせしていない点で異性には好まれるに違いない

×Kの人柄は何処かちょっと間が抜けて見えるのだが、それでいてそれでまた何処かしっかりした男らしい所がある点でも自分より対女性間にあっては優勢に見える

×Kの明晰な頭脳は最早私など敵ですらない

という自覚を明確に持ってしまう先生である。

私は先生に問いたい。

――では「Kの容貌」の何処が女心をくすぐるのか?

――先生は言えない。

――「性質も私のやうにこせ/\してゐない」とあるが先生は自他共に認めるところの「こせ/\してゐない」「鷹揚」な性質であるはずではなかったか?

――先生は返答出来ない。

――Kは海に入っても必ず怪我をしてくるような不器用で「間が拔け」た男である。その何処が「確(しつ)かりした男らしい所」なのか?――

先生ははっきりと示すことが出来ない。

――「專問」が異なる以上、一概に比較出来ないと先生御自身が言っているのに、しかし「Kの敵でないと自覺」する程、先生、あなたの「學力」は貧しくレベルの低いものだったのですか?

――先生は怒って反論するだろう、説明にならない何か分けの分からぬことを叫びながら。

これは最早、病的である。

 なお、この連載当日の日付の東京朝日新聞社内山本松之助宛書簡が残されている(底本は岩波版旧全集の書簡番号一八四八。文中「單單」「何うが」の右に「原」のママ表記。〔 〕は全集編者による補正)。

七月十五日 水 午後三時―四時 牛込區稻田南町七番地より 京橋區瀧山町四番地東京朝日新聞社内山本松之助へ

旅行先より御歸京のよしたまの骨休めも嘸かし御忙がしい事と存じます小説についての御教示は承知致しました。可成「先生の遺書」を長く引張りますが今の考ではさう/\はつゞきさうもありません、まあ百回位なものだらうと思ひます、實は私は小説を書くと丸で先の見えない盲目と同じ事で何の位で済むか見當がつかないのです夫で短篇をいくつも書といつた廣告が長篇になつたやうな次第です、「先生の遺書」の仕舞には其旨を書き添へて讀者に詫びる積で居ります。斯うして考へてゐると至極單單なものが原稿紙へ向ふといやにごた/\長く〔な〕るのですから其邊は御容赦を願ひます。

 つぎの人に就ては別段どんな若手といふ希望をもつた人も差當りあ〔り〕ません、志賀の断り方は道德上不都合で小生も全く面喰ひましたが藝術上の立場からいふと至極尤もです。今迄愛した女が急に厭になつたのを強ひて愛しふりで交際をしろと傍からいふのは少々殘酷にも思はれます。

 谷崎、田村俊子、岩野泡鳴、數へると名前は出て來ますが一向纏まりません、猶よく考へませうがあなたの方で何うが御擇を願ひます 先は右迄 勿々

  七月十五日        夏目金之助

   山本松之助様

 十三日の朝日にケーベルさんを停車場に送つて行つたやうな事を川田君が書きましたがどうした間違でせう。私は今夜ケーベルさんの所へ晩餐に呼ばれてゐます。先生は来月十二日頃船で歸るのです。

♡「道學の餘習」封建的儒教道徳の残滓。

♡「以前の疑ひが又逆戻りをして、強く打ち返して來ます」「以前の疑ひ」は直接に前章の「私は自分の傍に斯うぢつとして坐つてゐるものが、Kでなくつて、御孃さんだつたら嘸愉快だらうと思ふ事が能くありました」「が、時にはKの方でも私と同じやうな希望を抱いて岩の上に坐つてゐるのではないかしらと忽然疑ひ出すのです」という部分及び「彼の安心がもし御孃さんに對してであるとすれば、私は決して彼を許す事が出來なくなるのです」という疑心暗鬼へと先生の心が「又逆戻りをして、強く打ち返して來」る、ぐるぐると例の円運動で戻ってゆく、ということを指している。

♡「私達は三四日して北條を立ちました。」単行本「こゝろ」では丸ごと削除されている。前章の変更を受けたもの。

♡「上總の其處一里」江戸の浮世絵師安藤広重の句に、

菜の花やけふも上總のそこ一里

という句があるが、この句に関わって鋸南町の公式HP内「町報歴史資料館」のページに以下の記載がある。

   《引用開始》

嘉永5年(1852)2月25日から3月7日、広重56歳、再び房総旅行に出ました。まず鹿野山を参詣してから外房に出て、小湊誕生寺、清澄山を訪れた後、江見和田を通って内房に出ました「(三月五日)朝、画少認夫より馬にて那古まで行く、道間違にて田舎道一里程そん木の根坂峠の風景よし、一部の宿昼休、又また馬にて行く勝山風景よし、保田羅漢寺参詣(日本寺)、金谷の宿泊、房州の人六人相宿、不計図画のことあり、大勢色々雑談あり、其夜雨、朝まで降」

 金谷の宿で旅の夜長、相部屋の旅人と絵について熱心に語り合っている広重。この時の旅のスケッチから「房州保田の海岸」をはじめ多くの傑作版画が生まれました。

 翌日、天神山村(竹岡)から木更津までの乗合船は雨で欠航、しかたなく大急ぎで陸路、木更津まで向かいましたが、一足違いで江戸行きの船には間に合いませんでした。「葉桜や木更津船ともろともに乗りおくれてぞ眺めやりけり 菜の花やけふ(今日)も上総のそこ一里」

 これは日記に書かれたこの時の広重の心情を詠んだ句です。急ぐ広重が行き交う村人に木更津までの道のりを尋ねると、行けども行けども「そこ一里だよ」という答えしか返ってきません。「そこ一里」とは上総地方独特のあいまいな距離表現で、あと少しという意味だそうで、それを知らない広重の憤慨した顔が目に浮かぶようです。

   《引用終了》

♡「私にはさうして步いてゐる意味が丸で解らなかつた位です。私は冗談半分Kにさう云ひました。するとKは足があるから步くのだと答へました」この先生とKの呼びかけと応答(コール・アンド・レスポンス)は冗談半分の軽口なんどではない。立派な禪問答である。

先生「斯くも呻吟し步(あり)く事、此れ、作麼生(そもさん)何の所爲ぞ!?――」

K 「何が爲にてもあらず。足有り。故に步く。」

少なくともKにとっては確かにそうしたものとして発せられた禪語である。]

 

 

  先生の遺書

    (八十四)

 「斯んな風にして步いてゐると、暑さと疲勞とで自然身體(からだ)の調子が狂つて來るものです。尤も病氣とは違ひます。急に他(ひと)の身體の中へ、自分の靈魂が宿替(やどかへ)をしたやうな氣分になるのです。私は平生(へいせい)の通りKと口を利きながら、何處かで平生の心持と離れるやうになりました。彼に對する親しみも憎しみも、旅中限りといふ特別な性質を帶びる風になつたのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、又步行のため、在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來たのでせう。其時の我々は恰も道づれになつた行商のやうなものでした。いくら話をしても何時もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題には觸れませんでした。

 我々は此調子でとう/\銚子迄行つたのですが、道中たつた一つの例外があつたのを今に忘れる事が出來ないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊といふ所で、鯛の浦を見物しました。もう年數も餘程經つてゐますし、それに私には夫程興味のない事ですから、判然(はんぜん)とは覺えてゐませんが、何でも其處は日蓮(につれん)の生れた村だとか云ふ話でした。日蓮(にちれん)の生れた日に、鯛が二尾(び)、磯に打ち上げられてゐたとかいふ言傳へになつてゐるのです。それ以來村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至つたのだから、浦には鯛が澤山ゐるのです。我々は小舟を傭(やと)つて、其鯛をわざ/\見に出掛けたのです。

 其時私はたゞ一圖に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫がかつた鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。然しKは私程それに興味を有ち得なかつたものと見えます。彼は鯛よりも却つて日蓮の方を頭の中で想像してゐたらしいのです。丁度其處に誕生寺といふ寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでせう、立派な伽藍でした。Kは其寺に行つて住持に會つて見るといひ出しました。實をいふと、我々は隨分變な服裝(なり)をしてゐたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠(すげがさ)を買つて被つてゐました。着物は固より雙方とも垢じみた上に汗で臭くなつてゐました。私は坊さんなどに會ふのは止さうと云ひました。Kは強情だから聞きません。厭なら私丈外に待つてゐろといふのです。私は仕方がないから一所に玄關にかゝりましたが、心のうちでは屹度(きつと)斷られるに違ひないと思つてゐました。所が坊さんといふものは案外丁寧なもので、廣い立派な座敷へ私達を通して、すぐ會つて呉れました。其時分の私はKと大分考へが違つてゐましたから、坊さんとKの談話にそれ程耳を傾ける氣も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いてゐたやうです。日蓮は草(さう)日蓮と云はれる位で、草書が大變上手であつたと坊さんが云つた時、字の拙(まづ)いKは、何だ下らないといふ顏をしたのを私はまだ覺えてゐます。Kはそんな事よりも、もつと深い意味の日蓮が知りたかつたのでせう。坊さんが其點でKを滿足させたか何うかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向つて日蓮の事を云々し出しました。私は暑くて草臥(くたび)れて、それ所ではありませんでしたから、唯口の先で好い加減な挨拶をしてゐました。夫も面倒になつてしまひには全く默つてしまつたのです。

 たしかその翌る晩の事だと思ひますが、二人は宿へ着いて飯を食つて、もう寢やうといふ少し前になつてから、急に六づかしい問題を論じ合ひ出しました。Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事に就いて、私が取り合はなかつたのを、快よく思つてゐなかつたのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だと云つて、何だか私をさも輕薄ものゝやうに遣り込めるのです。ところが私の胸には御孃さんの事が蟠(わだか)まつてゐますから、彼の侮蔑に近い言葉をただ笑つて受け取る譯に行きません。私は私で辯解を始めたのです。

[♡やぶちゃんの摑み:日蓮に強く惹かれているKが描写される。それにしても、この冒頭一段落は読者に先生の御嬢さんへの恋のKへの告白を予想させるに十分な内容で、「急に他の身體の中へ、自分の靈魂が宿替をしたやうな氣分」になった「私は平生の通りKと口を利きながら、何處かで平生の心持と離れるやうにな」った、「彼に對する親しみも憎しみも、旅中限りといふ特別な性質を帶びる風になつた」、「つまり二人は」「在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來た」、「何時もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題」ではなく、旅に出る前から蟠っていた御嬢さんへの思いをKに語ってKに対する疑心暗鬼を払拭してしまおうという存分の「心」の丈を吐き出すに相応しい状態にあったと言っているのである。そして――漱石はそれを美事に裏切るのである。

□Kの実家=浄土真宗の寺院~親鸞~浄土三部経~作善否定・絶対他力・肉食妻帯(非僧非俗)・悪人正機

■Kの興味=日蓮~法華経~「立正安国論」~他宗を排撃、国教化し正法(しょうぼう)の仏国土を実現する~強烈な排他主義と独立独歩の自律性

なお、私はこのKの実家が浄土真宗で、その息子が強烈に日蓮に関心を向けているという関係が、後の宮沢賢治の父親と賢治との実際の関係を髣髴とさせていて極めて興味深いと考えている者である。

♡「小湊」旧千葉県安房郡小湊町大字内浦。現在、合併により鴨川市。

♡「鯛の浦」千葉県鴨川市旧安房小湊町の内浦湾から入道ヶ崎にかけての沿岸部の海域をこう呼称している。日蓮絡みで妙の浦とも呼ばれ、奇瑞に事欠かぬ日蓮の伝説を元とする。次注で見るようにここ小湊は日蓮誕生の地であるが、日蓮誕生の貞元元(1222)年2月16日には、この浦に近い淵に青蓮華が咲き、浦に大小の鯛が無数に集まったという。また、立宗後の日蓮が祖霊の供養に帰郷した折り、この浦に舟で漕ぎ出し、海に対して南無妙法蓮華経の題目を唱えたところ、波の上にその字が現れたかと思うと、無数の鯛が群れ寄って来、その題目の字を厳かに食べ尽くした。漁民はその奇瑞を畏敬して向後、鯛を日蓮上人の写し身として尊崇、この浦を殺生禁断の聖地としたという。この鯛の浦は水深10mから30mの浅海域であって、通常の深海性回遊魚であるスズキ亜目タイ科マダイ亜科マダイ Pagrus majorマダイがこのような海域に生息する例は世界的にも稀であり、永く魚類学会でも謎とされ、文化庁は昭和421967)年にはこの浦の鯛を特別天然記念物に指定している。最近の研究により、この浦のマダイが鯛の浦一帯から外延の小湊湾一円にかけての限定された浅海域で特異的に孵化・成長・産卵のライフ・サイクルを形成していることが分かってきた(以上は主に「鯛の浦遊覧船(南房総・鴨川小湊)」HP内の記載を参考にした)。私は小学校の4、5年生の時に祖母を連れた両親との御宿への旅の途中で訪れている。40年以上の少年の日の記憶であるが――この遊覧船に乗って、船端を叩いただけで(餌を投じる前に)青い海のそこから、紅色に虹の色を交えて輝くマダイが正に舞い踊るように何匹も何匹も湧き上がって来る――私は、その様をその際の驚きと共に昨日の事のように覚えているのである。だから私にはこの「其時私はたゞ一圖に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫がかつた鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました」という先生に恐らく誰よりも同一化出来るという自信があるのである(なお、この先生の描写は勿論、漱石自身の実体験としての驚きであった。『木屑録』に詳しい)。その頃から、海の生物は好きだった。序でに言うと、その遊覧船から戻って鯛の浦の岩場で父と磯の生物観察をしたが、妙に父が私のために張り切って、小さなバケツを片手にエビやら貝を探している内に、漁協の人に密漁者と疑われてしまったのであった。僕の前で、漁師にお灸を据えられている父が、僕の人生の記憶の中で、最も同情し、可哀想に思った父の姿であった。

♡「誕生寺」小湊山誕生寺。現在の千葉県鴨川市小湊183に所在する日蓮宗大本山。『1276年(建治2年)10月、日蓮の弟子の日家が日蓮の生家跡に、高光山日蓮誕生寺として建立。しかし、その後、1498年(明応7年)、1703年(元禄16年)の2度の大地震、大津波に遭い、現在地に移転された』。『その後、26代日孝が水戸光圀の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称したが、1758年(宝暦8年)に、仁王門を残して焼失し、1842年(天保13年)に49代目闡が現存する祖師堂を再建した』。『江戸時代の不受不施派(悲田宗)禁政のため幕命により天台宗に改宗するところだったが身延山が日蓮誕生地の由緒で貰いうけ一本山に格下げ(悲田宗張本寺の谷中感応寺、碑文谷法華寺は天台宗に改宗された。現谷中天王寺、碑文谷円融寺)。昭和21年大本山に復帰』している。先生が立派な伽藍と言っているが、現在も古形を残す仁王門と祖師堂を指して言っているものと推測される。仁王門は『1706年(宝永3年)建立。平成3年大改修。入母屋造二重門、間口8間(柱間は五間三戸)。宝暦の大火の際焼け残った誕生寺最古の建造物。両側の金剛力士(仁王)像は松崎法橋作。楼上の般若の面は左甚五郎作とされる。千葉県指定有形文化財』で、祖師堂は『1842年(天保13年)建立。入母屋造、総欅造り雨落ち18間4面(柱間は正面7間、側面6間)。高さ95尺。建材は江戸城改築用として、伊達家の藩船が江戸へ運ぶ途中遭難し、譲りうけたもの。日蓮像が安置される。聖人像が安置される御宮殿は明治皇室大奥の寄進による。堂内右側の天井には南部藩の相馬大作筆による天女の絵が描かれ』ている、とある(以上はウィキの「誕生寺」より引用)。最初に建立されたのは日蓮生誕の邸の跡地で、現在より妙の浦にもっと近い位置であったと考えられている。

♡「字の拙いK」「其癖彼は海に入るたんびに何處かに怪我をしない事はなかつた」(八十二)の不器用さのように、先生は時々さりげなくKの短所を小出しするので注意して拾っておきたい。そしてこの叙述により、逆に先生は達筆であることが暗に示されているとも言えよう。

♡「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」Kの『絶対』の信条であり、これが後にKに対する致命的な先生の最終兵器としておぞましくも使用されることになる以上、本作最大のキー・ワードの一つとして記憶しなくてはならぬ台詞である。さて、若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」で藤井氏はここに注して以下のように述べておられる。

   ≪引用開始≫

 こうした言葉を吐けるからには、まだこの時のKは、情にゆさぶられることで「確然不動の精神」を目指すみずからの智的・自力的修養にヒビが入ったとは思っていないようだ。また客観的にも、まだこの時点ではヒビを証するなにものもないことも確か。いつもとは少し様子の違うKのこうした攻撃的な態度から、先生だけでなくKも、非日常的な雰囲気の中で気持ちが高ぶっていたらしいことがうかがわれる。

   ≪引用開始≫

最初に注意しておくと、ここで藤井氏が「確然不動の精神」と鍵括弧で示しておられるのは「こゝろ」(「心」)の本文からの引用ではない。これは氏が第(七十六)回相当の「意志の力を養つて強い人になるのが自分の考だ」の部分に注した際、Kのこの考え方に近いとして引用されている浄土真宗(というのはちと皮肉な気が私はするが)の僧前田慧雲の「修養と研究」(井洌堂明治381905)年刊)の中に現れてくる言葉である。そこだけを引用すると、『前田は、収容・求道によって、どんな時にも心が微動だにすることのない「確然不動の精神」に到達することを最終目標としているが、修養の方法は智的(自力)修養と情的(他力)修養とに分けられるとしており、前者のスタイルがそれに近い。「お互各自に其智識を研いて、宇宙万有の真理を達観し、自己日常の行為を真理の定規から脱しない様に当て嵌めて其無限絶大の真理に合体せんと力める」というのが前田が下した智的修養の定義』であると纏められている、その「確然不動の精神」であるからお間違いなく。

話を本筋に向ける。私はこの藤井氏に見解に微妙に異義を唱えたいのである。私は既に前章で述べた通り、この時点で

Kの御嬢さんへの恋情は芽生えている

その結果として、

Kの心中での求道と恋愛の葛藤は既にして始まっている

と判断している。勿論、藤井氏の言う通り、先生の叙述を見る限りに於いては『「確然不動の精神」を目指すみずからの智的・自力的修養にヒビが入ったとは思っていないよう』に見え、『また客観的にも、まだこの時点ではヒビを証するなにものもないことも確か』なように見える。しかし、それは見た目の、それも極めて物証として心もとない先生の見た目の、数少ない客観的描写部分のみから(先生の疑心暗鬼に少しでも関わる部分は証拠価値がない)推測されることでしかなく、私は藤井氏のように『確か』と言い切ることは逆立ちしても出来ないと断言出来る。確かに「ヒビ」は入れていないかもしれない――入れていないが、寧ろ、既にそうした恋愛感情が自己の内に実在することがKの信念に――微細な揺さぶりをかけ始めている――が故にこそ、Kは「丁度好い、遣つて呉れ」=「――実は――正しく今の自分は――このままこの断崖をお前に突き落とされて死んでもいいぐらいに、己れの信条を裏切りしつつあるのかも知れぬな――だから――ちょうどいい――やってくれ――」という台詞が吐かれたのではなかったか?!――「足がある以上、歩け!」と自己を叱咤したのではなかったか?!――小蠅のように彼の脳髄に纏わりつくオジョウサンバエを激しく振り払おうとして「孤高の人! 日蓮! 日蓮! 日蓮!」と心に唱え続けたのではなかったか?!――藤井氏の言葉を逆手に使わせて頂くならば、『いつもとは少し様子の違うKのこうした攻撃的な態度』とは『非日常的な雰囲気の中で気持ちが高ぶっていた』からではなくて、既ににしてこの解決不能の二項対立にKが気がつき、その自己の求道を裏切りしている、恋情を抱きつつある認められざる対自己へ向けての処罰性・批判性・攻撃性が、御嬢さんへの恋情を是が非でも払拭するためでもあるKの日蓮の談話に載ってこない先生へと代償的に向けられたものと解する方が、私は自然であると思うのである。何より、Kの御嬢さんへの恋情が、この房州行以降で突如として勃興するという設定自体が、非現実的で、何より非小説的、面白くなく、私には在り得ないこととしか感じられないのである。これは単に私が惚れっぽい性格だからだ、お前みたいなフニャフニャした男は逢う前から御嬢さんが好きになるだろうよ! と言われれば、はい、それまでのことでは、ある……

 

 

  先生の遺書

    (八十五)

 「其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自説を主張しました。するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。―君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。

 私が斯う云つた時、彼はたゞ自分の修養が足りないから、他(ひと)にはさう見えるかも知れないと答へた丈で、一向私を反駁(はんばく)しやうとしませんでした。私は張合が拔けたといふよりも、却つて氣の毒になりました。私はすぐ議論を其處で切り上げました。彼の調子もだん/\沈んで來ました。もし私が彼の知つてゐる通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだらうと云つて悵然(ちやうぜん)としてゐました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。靈のために肉を虐げたり、道のために體を鞭つたりした所謂難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどの位(くらゐ)そのために苦しんでゐるか解らないのが、如何にも殘念だと明言しました。

 Kと私とはそれぎり寐てしまいました。さうして其翌る日から又普通の行商の態度に返つて、うん/\汗を流しながら步き出したのです。然し私は路々其晩の事をひよい/\と思ひ出しました。私には此上もない好(い)い機會が與へられたのに、知らない振をして何故それを遣り過ごしたのだらうといふ悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいといふ抽象的な言葉を用ひる代りに、もつと直截(ちよくせつ)で簡單な話をKに打ち明けてしまへば好かつたと思ひ出したのです。實を云ふと、私がそんな言葉を創造したのも、御孃さんに對する私の感情が土臺になつてゐたのですから、事實を蒸溜(じようりう)して拵らえた理論などをKの耳に吹き込(こむ)よりも、原(もと)の形そのまゝを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だつたでせう。私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自(おのづ)から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐた事をこゝに自白します。氣取り過ぎたと云つても、虚榮心が崇つたと云つても同じでせうが、私のいふ氣取るとか虚榮とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです。

 我々は眞黑になつて東京へ歸りました。歸つた時は私の氣分が又變つてゐました。人間らしいとか、人間らしくないとかいふ小理窟は殆ど頭の中に殘つてゐませんでした。Kにも宗教家らしい樣子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも靈がどうの肉がどうのといふ問題は、其時宿つてゐなかつたでせう。二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました。それから兩國へ來て、暑いのに軍鷄(しやも)を食ひました。Kは其勢(いきほひ)で小石川迄步いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ應じました。

 宅へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚ろきました。二人はたゞ色が黑くなつたばかりでなく、無暗に步いてゐたうちに大變瘦せてしまつたのです。奥さんはそれでも丈夫さうになつたと云つて賞めて呉れるのです。御孃さんは奥さんの矛盾が可笑しいと云つて又笑ひ出しました。旅行前時々腹の立つた私も、其時丈は愉快な心持がしました。塲合が塲合なのと、久し振に聞いた所爲(せゐ)でせう。

[♡やぶちゃんの摑み:房州行のエンディングである。次章はワン・クッションの後、遂にカタストロフへ向かって急傾斜を雪崩れてゆくこととなる。

♡「其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自説を主張しました」ここで言う先生の「人間らしい」の「人間」とは「智」に対する「情」の意である。そして「出立點が既に」Kの智力至上主義への「反抗的」な立場に立脚していたから「反省するやうな餘裕」もなく碌な論理的反証もないのに反論挑んだという。しかし勿論、そこには先生の側の告白欲求に関わるところの、御嬢さんへの恋情という個別的事実から帰納された「異性間の恋情を抱いてこそ人間が人間らしくなる」という自己弁護的要請が影響しているわけであるから、それが勢い情熱的で非論理的、そうして何より自己弁護的なものとならざるを得ず、そうして自己の卑俗な(という衒いの意識が先生にあることは既に先生が第(八十三)回で述べている)恋情肯定への言い訳に過ぎないという後ろめたさから、先生は「成程後から考へれば、Kのいふ通りでした」と後日思い至ることになるのである(これは遺書執筆時の「後から考へれば」では決してない。これはこの房州行から帰った直後のの近未来での感懐を指していよう)。

♡「するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。―君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。」この部分は字の文が殆んど二人の直接話法化している。後の部分も含めてここだけ脚本に直してみよう。

○安宿の一室。深更。

 K、気色ばんで先生を睨みながら、

K 「俺のどこが人間らしくないと言うんだ?」

 先生、Kをしっかと見つめながら、

先生「……君は人間らしいんだよ! あるいは人間らし過ぎるのかも知れないんだ! だけど、口先では、人間らしくないようなことばかり、言っているんだ! いや、また、人間らしくないように、振る舞おうとさえ、してるんだ!……」

 暫し、沈黙。K、ゆっくりと頭(こうべ)を垂らして、一変して声を落とし、

K 「俺は……俺はまだ、自分の修養が足りない……だから、人にはそう見えるかも知れん……」

 再び、沈黙。――ジィ――という二人の間に置かれた灯明の音。

 先生、手にした団扇でパンと軽く蚊を叩く。張り合いを失った先生は、懐柔するように直前の日蓮の話に話題を戻そうとする。

先生「……うん……いや……すまん……そう、日蓮、そうだった。日蓮の「立正安国論」、あの禪天魔、念仏無間、律国賊ってえのは凄いな……なかなか言えん……それでもって天皇まで日蓮宗化しようという……化け物(もん)みたような凄い話だな……」

 K、答えない。また暫し、沈黙。また――ジュ――という灯明の音。

 K、如何にも意気消沈して、打ちひしがれた声で、しかし恨みがましくはなく、

K 「……もしお前が……俺が知っている通りに、昔の無名の聖人や行者のことを知ったなら……お前はさっきのような的外れの攻撃は……決してしないだろう……」

 沈黙。

K 「……俺がどのくらい……その精進のために苦しんでいるか……それがお前に解ってもらえないのは……如何にも……如何にも残念だ。」

 先生、再び手にした団扇でパン! パン! と自分の胸を左右に叩いて、

先生「さあ、もう遅いぜ。明日は、また歩くぞ!」

 と、さっさと横に敷かれた御座に横たわり、Kに背を向ける。

 膝を見つめていたK、先生の方を見、ゆっくりと灯明に手を伸ばし、フッ! と吹き消す。

先生のナレーション『Kと私とはそれぎり寝てしまいました。』

 

♡「反駁(はんぱく)」このルビは底本画像では「は」か「ば」か「ぱ」か、印刷が不鮮明なために不詳であるが、底本の『東京朝日新聞』(7月17日(金)掲載)と『大阪朝日新聞』(7月18日(日)掲載)の校異欄に『「反駁(はんばく)」→「反駁(はんはく)」』とあることから本来の正しい読みである「はんばく」であることが分かる。但し、「心」の原稿は「はんぱく」である。

♡「悵然」悲しみ嘆くさま。がっかりして打ちひしがれる様子を言う。

♡「私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐた事をこゝに自白します。」ここは単行本で以下の通り、書き直されている。

私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ事をこゝに自白します。

日本語の構文上、この変更はやや正しい。厳密に言えば、完全に正しいものとするためには更に補正する必要がある。

×「私にそれが出來なかつたのは、~があつたため、~の勇氣が私に缺けてゐた→事をこゝに自白します。」

△「私にそれが出來なかつたのは、~があつたため、~の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ→事をこゝに自白します。」

○「私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたからであったといふ事をこゝに自白します。」

但し、本文の初期形でも意味は十二分に達する。

♡「私のいふ氣取るとか虚榮とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです」これは第(八十三)回に示されたその頃の男子学生の間では「女に關して立ち入つた話などをするものは一人もありませんでした。中には話す種を有たないのも大分(だいぶ)ゐたでせうが、たとひ有つてゐても默つてゐるのが普通の樣でした。比較的自由な空氣を呼吸してゐる今の貴方がたから見たら、定めし變に思はれるでせう。それが道學の餘習なのか、又は一種のはにかみなのか、判斷は貴方の理解に任せて置きます」と言った先生の言葉を直に受ける表現である。先生は、この時、何故御嬢さんへの恋を友人Kに告白出来なかったのかについて、当時の日本的風土・教育の中で培われた儒教道徳や、色恋沙汰を恥ずかしいもの・卑俗軟弱なものとする男尊女卑的傾向若しくは青春期特有のバンカラ気質のようなものが、当時の先生達の一般的心性としてあったからであり、決してそれは私(=先生)個人の性癖としての気障なポーズでも、格好つけ、エゴイスティクなめめしさのためでもなかった、ということだけは是が非でも「私」に理解して欲しい、そうしてもらえるだけで私は満足である、と言っているのである。

「東京へ歸りました」先に示した漱石23歳の第一高等中学校本科第一学年夏季休業中の明治231889)年8月7日(水)から8月30日(金)迄の23日間に及ぶ房州・上総・下総の旅行では、小湊の鯛の浦・誕生寺以降の行程は以下のようになっている。

東金

犬若(千葉県海上郡神村犬若。銚子附近の村。ここの旅宿「犬若館」に泊る〔推定〕)

↓(舟で利根川を遡る)

野田(この地の東方にある旅宿「三堀旗亭」に泊る)

関宿

↓(江戸川を南下したか〔推定〕)

東京(牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)の夏目家自宅)

この後、先生は「兩國へ來て、暑いのに軍鷄を食ひました。Kは其勢で小石川迄步いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ應じました」とあるのだが、以前から引っ掛かっていたことがある。この頃、路面電車は開通していないから徒歩でなければ人力車を雇うということになる。両国から小石川冨坂町までは現在の地図で計測してもせいぜい6㎞半程度であり、いくら炎天下で軍鶏を食ったからと言っても、房州を一周してきた彼等にとっては、これは大した距離ではない。にもかかわらず、ここで「小石川迄步いて歸らう」とKが言ったのは、何故か? これは即ち、この先生とKの房州旅行の最後が、漱石の実際の旅と同様、利根川の溯上から江戸川下りと、殆んど歩かない船旅であったことを意味しているのではなかろうか(上記の江戸川下りは推定であるが、可能性は極めて高い。まさに漱石らが行った直前、明治231889)年6月18日に利根川と江戸川間の運河開通しているからである)。

「忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました」私は取り敢えずこの房州行を明治331900)年の7下旬か8月に同定しているが、同年の出来事を見ると、東京が「忙しさう」な事件が一件見出せる。義和団事件である。ドラマ・ファンサイト「坂の上の雲マニアックス」の同年年表を参考に目ぼしい前後部分で私が興味深い(本作と連関し得ると考えられる)出来事を抜き出してみる(一部記載を省略・変更した)。

3月10日 治安警察法公布

3月30日 「軍艦マーチ」演奏される

5月15日 北京附近において義和団匪徒蜂起し、耶蘇教徒72名を殺害する

5月19日 陸軍省・海軍省官制改正され、軍部大臣の現役大・中将制確立 

5月26日 軍艦の造船を外国に注文せず、初めて千早艦横須賀にて進水

5月28日 義和団暴徒に対し、北京の各国公使対策協議決し出兵を宣言

5月30日 義和団事件に「笠置」艦派遣

5月31日 義和団に備え、各国兵北京に入る

6月06日 義和団、天津郊外で各国連合軍と戦闘 

6月11日 北京において日本公使館員杉山書記、義和団匪のため殺害される

6月15日 閣議、義和団鎮圧のため陸軍派遣を決定 

6月17日 北清事変に連合艦隊、大沽砲台を占領

6月20日 義和団、北京各国公使館を包囲。各国連合軍、天津砲撃

6月21日 清国皇帝、列強(北京出兵8国)に対し宣戦布告 

6月22日 北清事変応援のため、混成旅団三大隊宇品を出発

6月30日 各国連合軍、天津総攻撃

7月11日 北清事変、天津の激戦

7月13日 日英仏などの連合軍、天津総攻撃

7月14日 北清事変、連合軍天津城占領

7月26日 清の孫文、日本に亡命

8月01日 救世軍大尉矢吹幸太郎、東京新宿遊郭附近にて人身売買反対運動を起す

8月02日 各国連合軍、北倉付近に清兵を撃破

8月07 『萬朝報』紙上で、高徳秋水、非戦論を展開 

8月12日 日本軍通州を占領

8月14日 日本軍を主力とする各国連合軍、北京の砲撃を開始

8月15日 連合軍、北京公使館を奪回(北京占領)

8月17日 東京府下の水害(浸水家屋約19万戸)

8月24日 厦門(アモイ)の大谷派本願寺布教所、清国暴民のために焼かれ、

日本海軍がこれを鎮圧する

8月30日 幸徳秋水「自由党を祭る文」を「萬朝報」に発表

9月26日 山県内閣総辞職

9月29日 連合軍、山海関砲台を占領

もう少し先も示しておく。

1019日 第四次伊藤内閣成立

1026日 日本を初め在北京公使、北清事変講和会議を開き、第一回対清要求を議す

1108日 イギリスにて建造の戦艦「三笠」(後の日露戦争連合艦隊旗艦)、

バロー・イン・ファーネス造船所にて進水式挙行

♡「二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました」また「ぐる/\」の円運動、しかし、ここではKも一緒である。こうしたちょっとしたことが、この円運動が単なる先生のシンフォニックな心の動きだけを意味しているのでは、ない、と感じさせるところなのでもある。

♡「兩國へ來て、暑いのに軍鷄を食ひました。Kは其勢で小石川迄步いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ應じました」この何気ない部分が今回、先生のようにぐるぐる考えるうちに気になりだした。何故、暑いのに軍鶏なのか? まず「軍鷄」から注しておこう。ウィキの「軍鶏」 から引用する。『軍鶏(シャモ)はタイ原産の闘鶏用、観賞用、食肉用のニワトリの一種。シャモの名は当時のタイの呼称シャムに由来する』。『日本には江戸時代初期までには伝わっていた。各地で飼育され多様な品種が生み出された。また、沖縄方言ではタウチーと呼ぶが、台湾でも同じように呼ばれており、昔から台湾(小琉球)と沖縄(大琉球)の間に交流があったことの裏づけとなっている』。『タイでは闘鶏が広く行われ文化として根付いている。2004年にタイでも鳥インフルエンザが流行し、感染地域ではシャモにも処分命令が下りた。農家では長い年月をかけて交配し強いシャモを育て上げてきただけに大きな打撃となった』。『江戸時代の頃から廃用になった軍鶏を軍鶏鍋として食べたことでもわかるように、食用としても優れた特質を持つ。戦いのために発達した軍鶏の腿や胸の筋肉には、ブロイラーにはない肉本来のうまみがあり、愛好者は多い。現在では闘鶏の衰退により軍鶏の数自体が減ってきており、高級食材となっている』。実際、当時、この両国辺には何軒もの軍鶏を食わせる店があったと諸注にはある。『軍鶏の激しい気性から、気の短い人、けんかっ早い人の喩え、徒名につかわれる』。どうも気になるのだ……軍鶏の激しい気性……闘鶏……それを食った直後にKは「其勢で小石川迄步いて歸らうと」先生に挑戦する……「體力から云へばKよりも私の方が強い」と誇る先生はそれに、おう! とすぐさま応ずるのである……これは最早、「軍」(いくさ)でなくて、何であるか?!……もう一点付け加えておこう――。「體力から云へばKよりも私の方が強い」は「字の拙いK」に続き、またしてもKのデメリット表現である。先生が見上げなければならないほどの大男であるが、先生の方がKより『体力は強い』のである。今、これをお読みのあなた、どこかで文弱のひ弱でハンサムな先生をイメージしていなかったかな? 先生は極めて強靭な肉体の持主なのである。病気一つしない――肉体的には、ね――]

 

 

  先生の遺書

    (八十六)

 「それのみならず私は御孃さんの態度の少し前と變つてゐるのに氣が付きました。久し振で旅から歸つた私達が平生(へいせい)の通り落付く迄には、萬事に就いて女の手が必要だつたのですが、其世話をして呉れる奥さんは兎に角、御孃さんが凡て私の方を先にして、Kを後廻しにするやうに見えたのです。それを露骨に遣られては、私も迷惑したかも知れません。塲合によつては却つて不快の念さへ起しかねたらうと思ふのですが、御孃さんの所作は其點で甚だ要領を得てゐたから、私は嬉しかつたのです。つまり御孃さんは私だけに解るやうに、持前の親切を餘分に私の方へ割り宛てゝ呉れたのです。だからKは別に厭な顏もせずに平氣でゐました。私は心の中でひそかに彼に對する凱歌を奏したのです。

 やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた學校の課業に出席しなければならない事になりました。Kと私とは各自の時間の都合で、出入の刻限にまた遲速が出來てきました。私がKより後れて歸る時は一週に三度ほどありましたが、何時歸つても御孃さんの影をKの室に認める事はないやうになりました。Kは例の眼を私の方に向けて、「今歸つたのか」を規則の如く繰り返しました。私の會釋も殆ど器械の如く簡單で且つ無意味でした。

 たしか十月の中頃と思ひます、私は寢坊をした結果、日本服の儘急いで學校へ出た事があります。穿物(はきもの)も編上などを結んでゐる時間が惜しいので、草履を突つかけたなり飛び出したのです。其日は時間割からいふと、Kよりも私の方が先へ歸る筈になつてゐました。私は戻つて來ると、其積で玄關の格子をがらりと開けたのです。すると居ないと思つてゐたKの聲がひよいと聞こえました。同時に御孃さんの笑ひ聲が私の耳に響きました。私は何時ものやうに手數のかゝる靴を穿いてゐないから、すぐ玄關に上がつて仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐つてゐるKを見ました。然し御孃さんはもう其處にはゐなかつたのです。私は恰もKの室から逃れ出るやうに去る其後姿をちらりと認めた丈でした。私はKに何うして早く歸つたのかと問ひました。Kは心持が惡いから休んだのだと答へました。私が自分の室に這入つて其儘坐つてゐると、間もなく御孃さんが茶を持つて來て呉れました。其時御孃さんは始めて御歸りといつて私に挨拶をしました。私は笑ひながらさつきは何故逃げたんですと聞けるやうな捌けた男ではありません。それでゐて腹の中では何だか其事が氣にかゝるやうな人間だつたのです。御孃さんはすぐ座を立つて緣側傳ひに向ふへ行つてしまひました。然しKの室の前に立ち留まつて、二言三言内と外とで話しをしてゐました。それは先刻の續きらしかつたのですが、前を聞かない私には丸で解りませんでした。

 そのうち御孃さんの態度がだん/\平氣になつて來ました。Kと私が一所に宅にゐる時でも、よくKの室の緣側へ來て彼の名を呼びました。さうして其處へ入つて、ゆつくりしてゐました。無論郵便を持つて來る事もあるし、洗濯物を置いて行く事もあるのですから、其位の交通は同じ宅にゐる二人の關係上、當然と見なければならないのでせうが、是非御孃さんを專有したいといふ強烈な一念に動かされてゐる私には、何うしてもそれが當然以上に見えたのです。ある時は御孃さんがわざ/\私の室へ來るのを回避して、Kの方ばかり行くやうに思はれる事さへあつた位です。それなら何故Kに宅を出て貰はないのかと貴方は聞くでせう。然しさうすれば私がKを無理に引張つて來た主意が立たなくなる丈です。私にはそれが出來ないのです。

やぶちゃんの摑み:本章はこの十一月の出来事を中に挟んで折れ曲がり、遂にカタストロフへと雪崩れ込んでゆく。

「其日は時間割からいふと、Kよりも私の方が先へ歸る筈になつてゐました。私は戻つて來ると、其積で玄關の格子をがらりと開けたのです。すると居ないと思つてゐたKの聲がひよいと聞こえました。同時に御孃さんの笑ひ聲が私の耳に響きました。私は何時ものやうに手數のかゝる靴を穿いてゐないから、すぐ玄關に上がつて仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐つてゐるKを見ました。然し御孃さんはもう其處にはゐなかつたのです。私は恰もKの室から逃れ出るやうに去る其後姿をちらりと認めた丈でした。私はKに何うして早く歸つたのかと問ひました。Kは心持が惡いから休んだのだと答へました。

「御孃さんの態度の少し前と變つてゐるのに氣が付きました」と思い込んだだけである。それはこの段落の叙述全体を見渡すと容易に察せられる。御孃さんのその所作は「私だけに」しか解からなかったのである。即ち、私の錯覚である。それは「露骨」でなく、「甚だ要領を得てゐ」て、「私だけに解るやうに、持前の親切を餘分に私の方へ割り宛てゝ呉れた」ものであったと先生は言う。Kのみならず誰が見ても気付かぬように、である。そんな絶妙な手練手管を靜が持っているように今まで描かれていたか? これからも描かれているか? 私は靜が好きである――が、結婚後の靜を見てもそのような幽玄微妙な手技を持ち合わせているようには思われない。寧ろあの笑う女としての靜には、ある種の見え透いた雑な戦術が垣間見えるほどだ。御嬢さんは全く「凡て私の方を先にして、Kを後廻しにするやうに」はしなかったのだ。だから「Kは別に厭な顏もせずに平氣で」いたのは当たり前なのだ。「心の中でひそかに彼に對する凱歌を奏した」先生は真正の大馬鹿者であったのだ。このお目出度い上昇する優越感の急勾配が、直後の急速な下降に向かう地滑りの被害妄想を生み出すこととなる。

「不快の念さへ起しかねたらうと」これは誤植。原稿は正しく「不快の念さへ起しかねなかつたらうと」である。

「凱歌」勝鬨(かちどき)。戦争に勝った時、一斉に挙げる鬨(とき)の声。また、戦いに勝って凱旋する際、勝利を祝う歌。そう、やっぱり戦争なのである。

「奏したのです。」単行本では「奏しました。」と変更。

「何時歸つても御孃さんの影をKの室に認める事はないやうになりました」この描写はこの後の場面へのダークな猜疑的遠景として確信犯的に漱石が配したもののように思われる。即ち――この時期、実はKと御嬢さんは頻繁に宅(うち)の中で逢っていた。しかし、それは先生の時間割を知っている二人が先生の帰ってくる時刻を避けて密かに逢っていたのであったのだ――勿論、この後の疑心暗鬼のブラック・ホールへ墜ちてゆく先生がぐるぐると考えて辿りつく忌まわしい妄想の中で、である。

「私の會釋も殆ど器械の如く簡單で且つ無意味でした」という叙述は、実は先生とKがこの頃、殆んど親密な会話をしていなかったことを意味しているとは考えられまいか? 会釈でさえ「殆ど器械の如く簡單で且つ無意味」であると叙述する人間同士が、それ以外の時には砕けた話や難しい問題を議論しているとは思われない。この時点で既に先生の側からのKへの心的な連絡は完全に冷め切り、遮断されいた――と考えられはしまいか? 最早――敵でさえない――という凱歌を奏した彼は、旧来のようにKを畏敬し、旧来同様に親密になれるはずがない、とは言えまいか? 少なくともこう叙述する先生の眼は――慄っとするほど――冷たい――のである。

「たしか十月の中頃と思ひます、……」冒頭で基本的には先生の推測を疑心暗鬼の被害妄想と私はとるわけだが、以下のこのエピソードは、しかし、純然たる先生の被害妄想だけで説明するには、やや微妙な幾つかの問題も孕んでいるようには思われる。例えば「其日は時間割からいふと、Kよりも私の方が先へ歸る筈になつてゐ」たがKはいた。Kに言わせると「心持が惡いから休んだ」のだという。一日中いたのである。もしかすると半日の間、看病と称して靜はKの傍に付き添い、親しく話しをしていたのかもしれない(とも思わせる設定ではないか)。そもそも「心持が惡い」のに「机の前に坐つてゐる」Kは何をしていたのか? 「例の通り」とあるから書見をしていたのか? 書見をせずに机にぼうっと向いているKという構図は奇妙な光景だ。いや勿論、その直前に御嬢さんと話をしていたのだ。「Kの聲がひよいと聞こえ」、「同時に御孃さんの笑ひ聲が私の耳に響」くということは、Kが御嬢さんの笑いを誘うような応答を、話をしたことを意味する。平素女を馬鹿にしていたKが靜を笑わせるような話をするというのは、これは先生ならずとも、読者である我々にとっても驚天動地の出来事ではないか? 最近のKの心の中には何か、確かに新しい変化が起こったとしか思われない(それに気付かぬ先生。Kも先生の靜への恋情に気付かぬように、先生もKのそうした変化に気付いていないのである)。更に「すぐ玄關に上がつて仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐つてゐるKを見ました。然し御孃さんはもう其處にはゐなかつたのです。私は恰もKの室から逃れ出るやうに去る其後姿をちらりと認めた」という部分、この先生目線の靜の襟足は妙にエロティックで危いように私には映像化されるのである。全てを先生の妄想だけに帰することは出来ない気がしてくるのである。少なくとも――『……Kと靜……この二人には何かあるのではあるまいか?……』(実際にはそれは何でもないものかもしれない。しかし、それは遂に分からない)――と先生の内心と同様の思いを読者にも感じさせるように――漱石は確信犯で仕組んでいる。本作中出色の恋愛サスペンス劇がここに幕を切って落すのである。

「無論郵便を持つて來る事もある」ここが私には以前からやや気になっている。Kには友人らしい友人はいない上に養家とも実家とも縁が切れている。Kに郵便物が届くということがあるのだろうか? 唯一、血が繋がって気にして呉れている実の姉がいるが、彼女がそんなに頻繁に手紙を寄越すとは思われない。Kに郵便物が来ることは、殆んどないと考えた方が自然である。従って、これは靜がKの元へ行くことを納得するための、先生の心理上の無理な理由付けである可能性があるように思われるのである。

「是非御孃さんを專有したいといふ強烈な一念に動かされてゐる」ために先生は疑心暗鬼の二重螺旋を地獄の底まで下ってゆくことになる。先生には「そのうち御孃さんの態度がだん/\平氣になつて來」たように見えてきたのである。それは基本的には疑心暗鬼の延長上にあると一応考えてよいが、微妙な部分はある。何故なら直後に先生は「Kと私が一所に宅にゐる時でも、よくKの室の緣側へ來て彼の名を呼びました。さうして其處へ入つて、ゆつくりしてゐました」と断定している点である。以前には殆んどなかったと思われるそうした靜の挙止動作が明らかに先生の目に付くように増えた可能性は否定出来ない。「無論郵便を持つて來る事もある」で注したように、事実、増えたものと私は思うのである。]

 

 

  先生の遺書

    (八十七)

 「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔(こんにやくえんま)を拔けて細い坂路を上(あが)つて宅へ歸りました。Kの室は空虚(がらんど)うでしたけれども、火鉢(ひはち)には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳(かざ)さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種(ひたね)さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。

 其時私の足音を聞いて出て來たのは、奥さんでした。奥さんは默つて室の眞中に立つてゐる私を見て、氣の毒さうに外套を脱がせて呉れたり、日本服を着せて呉れたりしました。それから私が寒いといふのを聞いて、すぐ次の間からKの火鉢(ひはち)を持つて來て呉れました。私がKはもう歸つたのかと聞きましたら、奥さんは歸つて又出たと答へました。其日もKは私より後れて歸る時間割だつたのですから、私は何うした譯かと思ひました。奥さんは大方用事でも出來たのだらうと云つてゐました。

 私はしばらく其處に坐つたまゝ書見をしました。宅の中がしんと靜まつて、誰の話し聲も聞こえないうちに、初冬の寒さと佗びしさとが、私の身體に食ひ込むやうな感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私は不圖賑やかな所へ行きたくなつたのです。雨はやつと歇(あが)つたやうですが、空はまだ冷たい鉛のやうに重く見えたので、私は用心のため、蛇の目を肩に擔いで、砲兵工廠の裏手の土塀について東へ坂を下りました。其時分はまだ道路の改正が出來ない頃なので、坂の勾配(こうはい)が今よりもずつと急でした。道幅も狹くて、あゝ眞直ではなかつたのです。其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐるのと、放水(みづはき)がよくないのとで、往來はどろどろでした。ことに細い石橋を渡つて柳町(やなぎちやう)の通りへ出る間が非道(ひど)かつたのです。足駄(あした)でも長靴でも無暗に步く譯には行きません。誰でも路の眞中に自然と細長く泥が掻き分けられた所を、後生大事に辿つて行かなければなりません。其幅は僅か一二尺しかないのですから、手もなく往來に敷いてある帶の上を踏んで向へ越すのと同じ事です。行く人はみんな一列になつてそろ/\通り拔けます。私は此細帶の上で、はたりとKに出合ひました。足の方にばかり氣を取られてゐた私は、彼と向き合ふ迄、彼の存在に丸で氣が付かずにゐたのです。私は不意に自分の前が塞がつたので偶然眼を上げた時、始めて其處に立つてゐるKを認めたのです。私はKに何處へ行つたのかと聞きました。Kは一寸其處迄と云つたぎりでした。彼の答へは何時もの通りふんといふ調子でした。Kと私は細い帶の上で身體を替せました。するとKのすぐ後に一人の若い女が立つてゐるのが見えました。近眼の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣り越した後で、其女の顏を見ると、それが宅の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました。御孃さんは心持薄赤い顏をして、私に挨拶をしました。其時分の束髪は今と違つて廂が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐる/\卷きつけてあつたものです。私はぼんやり御孃さんの頭を見てゐましたが、次の瞬間に、何方(どつち)か路を讓らなければならないのだといふ事に氣が付きました。私は思ひ切つてどろ/\の中へ片足踏(ふ)ん込(ご)みました。さうして比較的通り易い所を空けて、御孃さんを渡して遣りました。

 私は柳町の通りへ出ました。然し何處へ行つて好(い)いか自分にも分らなくなりました。何處へ行つても面白くないやうな心持がしました。私は飛泥(はね)の上がるのも構はずに、糠(ぬか)る海(み)の中を自暴(やけ)にどし/\步きました。それから直ぐ宅へ歸つて來ました。

やぶちゃんの摑み:

「蒟蒻閻魔を拔けて細い坂路を上つて宅へ歸りました」「蒟蒻閻魔」は現在の東京都文京区小石川2丁目にある浄土宗の寺院常光山源覚寺の別称。ウィキの「源覚寺」によれば、『寛永元年(1624) に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建された。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848年)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。再建は明治時代になったが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた』とある。この閻魔像は『鎌倉時代の作といわれ、寛文12年(1672年)に修復された記録がある1メートルほどの木造の閻魔大王の坐像である。文京区指定有形文化財にもなっており、文京区内にある仏像でも古いものに属する。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴でこれは、宝暦年間(1751-1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に備え続けたといわれている言い伝えによるものである。以来この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、当閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。また毎年1月と7月には閻魔例大祭が行われる』とある。この先生の叙述は先生の下宿が「蒟蒻閻魔を拔けて細い坂路を上つ」た先、坂の上の方にあること、登って富坂のある砲兵工廠方向(南)に下ったりしてはいないということ、下宿が高台の地にあることを示唆している。私が推測した旧中富坂町の北方部である可能性はこれによって立証されたものと思われる。

――そして私は遂にネット上で誰もが自由に拡大縮小して見られる明治時代のここの地図を発見した!

「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」内の明治161883)年参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」(現所蔵番号:YG/1/GC67/To 002275675)である。

http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-15.html

(注:「国際日本文化研究センター」は原則HP以外へのリンクを禁じているので以上のアドレス表示に留める。これをコピーしてアドレスに入れれば表示される)

これを拡大して見ると、

蒟蒻閻魔源覚寺の東は斜面に茶畑が広がる広大な個人の邸宅

であることが分かる。私が想定している本作中時間は明治311898)年頃であるが、明治421909)年の東京1万分の1地形図でも依然としてこの邸宅は残っている(若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」付録地図等参照)。更に拡大してこの明治16年地図を仔細に見ると、

「寺覚源」の「寺」の字の右、墓の西に標高7.8 m

のマークがあり、そこから南へ大邸宅の茶畑の下の小路を南へ移動すると、

邸宅の垣根の東南の角に出、ここは標高9.2m、ここがこの道の最高地点

であることが分かる。先生はここを通った。だから「細い坂路を上つて」と言っているのである。この地点から南の方には先生の下宿はない。何故か? さっき言った通り、ここが最高地点で、ここから南のルートは坂を下る(砲兵工廠方向へ)からである。先生は

「細い坂路を上つて宅へ歸りました」

と言っているのであってみれば、更に

邸宅の垣根の東南の角標高9.2 m地点から西の坂を登ったすぐの南辺りに下宿はあった

(北は大邸宅の石垣又は壁であるからあり得ない)と考えるべきではあるまいか。この地図上の等高線を見ても、ここはかなりの高台となっており、源覚寺の南の善雄寺から西に伸びる坂の頂点、この大邸宅の西南の角の部分(既に小石川上富坂町内になる)は標高が21.2mもある。

先生の下宿――それは例えば、この地図の

標高17.0mマーク近辺、大邸宅の石垣の向かい辺り、「小石川中富坂町」と書かれた地名の「中」の字の辺りにあった

と想定してみても決して強引ではないのではあるまいか。

「坂の勾配が今よりもずつと急でした」上記の地図上で中富坂町から南に下った地点

「坂富西」の「坂」の字の右上の地点で標高15.77m

(因みに、そこからもう少し登った標高20.05mの北にある荒地は第(六十四)回で故郷を捨てた先生が住むための家を探して立ったあの場所である。「其頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えてゐたものです。私は其草の中に立つて、何心なく向の崖を眺めました。今でも惡い景色ではありませんが、其頃は又ずつと趣が違つてゐました。見渡す限り緑が一面に深く茂つてゐる丈でも、神經が休まります。私は不圖こゝいらに適當な宅はないだらうかと思ひました。それで直ぐ草原を橫切つて、細い通りを北の方へ進んで行きました。」に現れる場所である)で、

旧富坂の次の下った標高地点は9.7m

であるから、実に

標高差6.07m

である。道路標識にある斜度を示す『%』は高低差(垂直長)÷地図上の距離(水平長)でされるが、

この両地点間を仮に約50mとして12(この斜度はもっとある可能性がある)

となる。非舗装道路で、しかも雨上がりのこの斜度の坂を高下駄で歩くとなると、かなりしんどい。

「ことに細い石橋を渡つて柳町の通りへ出る間が非道かつた」上記「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」を拡大してみると、旧富坂(地図では西富坂と地名表示あるところ)を下ったところにある

標高6.63m記号表示の東に小さな流れに架かる橋

がまずある。しかし更にこの道を東に辿ったところ、

憲兵隊屯所の南方、荒地の只中にも同様な橋

が認められる。

先の標高6.63m記号表示のある橋からこの橋までの間は120m

で、南側には

砲兵工廠の鰻の寝床のような建物

が認められ、これが先生の言う

「其上あの谷へ下りると、南が高い建物で塞がつてゐる」

であることは間違いない。ということはこの後に続く

「ことに細い石橋を渡つて柳町の通りへ出る間」とは、この憲兵隊屯所の南方に位置する橋と柳町交差点の間を指している

と同定してよい。この

橋から柳町の間は約60m

であるが、実はここで気がついた!

よくこの地図を拡大して見て頂きたい!

橋のすぐ東に標高5.6mのマーク

があるが、

柳町交差点中央地点は6.2m

なのである! ここは

高低差60㎝で、この道が東の柳町交差点に向かって既に東方の小石川の台地の裾野にかかっていて逆にやや登り勾配であったことが分かるのだ!

私は若き日にここを読んだ際、坂を『下っている』先生が幾ら近視だったとは言え、Kや御嬢さんを目の前に来るまで視認出来なかったことを永く不審に思っていた。

しかし、これで眼から鱗だ!

即ち、先生はやや登り勾配であったから、足に気をとられていたからだけではなく、先生の視野には、向うから『下ってくる』形になる二人が入らなかったのである!

ここでは先生は道を下っていたのではなく『上っていた』のである!

――かくして我々は遂にこのシーンのロケ地を正しく発見した!

「蛇の目」蛇の目傘。笠の中心部分及び周辺を黒・紺・赤に塗って中央を白く抜き、蛇の目の形を表した傘。黒蛇の目・渋蛇の目・奴やつこ蛇の目などがある。元禄期に生れた高級傘である。以前、これを後掲する御嬢さんの髪の「蛇」の伏線として鬼の首を取ったように、ここにも既に「蛇」が出現している! と記した評論を読んだことがあるが、私の祖母などは普通に一般に傘を蛇の目と呼んでいたから、正直、その大真面目の文章を読みながら、失礼乍ら、私は失笑してしまった。今も私は「蛇の目」の『蛇』を次の御嬢さんの髪の『蛇』=闘争のシンボライズの伏線として漱石が確信犯で使用したとは、私には思われない。但し、私が「心」の監督なら、確かにこの傘の『蛇の目』をシンボリックに使って撮って見たいとは思う。またそれは『円』として連関する『目玉』としても映像化としても是非とも効果的に撮って見たい魅力的素材でもあるのであるが。

「足駄」足板の転かと言われる。古くは歯や鼻緒のある板製履物を総称する言葉であったが、近世以降は特に雨天時に使用する、通常の下駄よりも遙かに高い二枚歯のついた下駄。高下駄。

「私は不意に自分の前が塞がつたので偶然眼を上げた時、始めて其處に立つてゐるKを認めた」忘れてはいけない。Kは見上げるほど背が高い。且つ、彼も足駄風のものを履いて勾配のある道の上の方にいるのだ。見上げる巨人である。

「Kと私は細い帶の上で身體を替せました。するとKのすぐ後に一人の若い女が立つてゐるのが見えました。近眼の私には、今迄それが能く分らなかつたのですが、Kを遣り越した後で、其女の顏を見ると、それが宅の御孃さんだつたので、私は少からず驚ろきました」すぐ後には1m以上離れている印象ではない。だとすれば、先生の近視はかなり程度の重いものだと言える。かつ、眼鏡も合っていないようである。何故、合っていないのか? 合わないほど重いのではあるまい。これは恐らく、分厚いレンズをするのがお洒落じゃないからではないか? 先生はお洒落である。格好の悪い牛乳壜の底のような眼鏡をするのはいやなのではなかったろうか?

「其時分の束髪は今と違つて廂が出てゐないのです、さうして頭の眞中に蛇のやうにぐる/\卷きつけてあつたものです」これは当時女学生の間などで流行していた束髪の一種である西洋上げ巻きのことか。例えば、こちら(理容「髪いじり」HP内)に「左の手にて髪の根を揃え、右の手にてその髪を3~4度右の方へねじり、適宜、髷(まげ)を頭の上に作り毛の先も根元に押し込み、ところどころをヘア・ピンで乱れぬようにして止める」という束髪法と画像がある。この髪型を「蛇のやうにぐる/\」とやらかした漱石は明らかに確信犯である。それは多様なシンボルとして機能しているように思われる。とりあえずはウィキの「ヘビ」 の「文化の中のヘビ」からまず引用しておこう。『足を持たない長い体や毒をもつこと、脱皮をすることから「死と再生」を連想させること、長い間餌を食べなくても生きている生命力などにより、古来より「神の使い」などとして各地でヘビを崇める風習が発生した。最近でもヘビの抜け殻(脱皮したあとの殻)が「お金が貯まる」として財布に入れるなどの風習がある。また、漢方医学や民間療法の薬としてもよく使われる。日本でも白ヘビは幸運の象徴とされ特に岩国のシロヘビは有名である。また、赤城山の赤城大明神も大蛇神であり有名であるといえる』。『日本の古語ではヘビのことを、カガチ、ハハ、あるいはカ(ハ)等と呼んだ。民俗学者の吉野裕子によれば、これらを語源とする語は多く、鏡(ヘビの目)、鏡餅(ヘビの身=とぐろを巻いた姿の餅)、ウワバミ(ヘビの身、大蛇を指す)、かかし(カガシ)、カガチ(ホオズキの別名、蔓草、実の三角形に近い形状からヘビの体や頭部を連想)等があり、神(カミ=カ「蛇」ミ「身」)もヘビを元にするという』。『ただし、カガチはホオズキの古語、鏡の語源は「かが(影)+み(見)」、カカシはカガシが古形であり、獣の肉や毛髪を焼いて田畑に掛け、鳥や獣に匂いをカガシて脅しとしたのが始まりであって、それぞれ蛇とは直接の関係はないというのが日本語学界での通説である』。『ヘビは古来、世界的に信仰の対象であった。各地の原始信仰では、ヘビは大地母神の象徴として多く結びつけられた。山野に棲み、ネズミなどの害獣を獲物とし、また脱皮を行うヘビは、豊穣と多産と永遠の生命力の象徴でもあった。また古代から中世にかけては、尾をくわえたヘビ(ウロボロス)の意匠を西洋など各地の出土品に見ることができ、「終わりがない」ことの概念を象徴的に表す図象としても用いられていた。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教では聖書の創世記から、ヘビは悪魔の化身あるいは悪魔そのものとされてきた』。『ギリシャ神話においてもヘビは生命力の象徴である。杖に1匹のヘビの巻きついたモチーフは「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、欧米では医療・医学を象徴し、世界保健機関のマークにもなっている。また、このモチーフは世界各国で救急車の車体に描かれていたり、軍隊等で軍医や衛生兵などの兵科記章に用いられていることもある。また、杯に1匹のヘビの巻きついたモチーフは「ヒュギエイアの杯」と呼ばれ薬学の象徴とされる。ヘルメス(ローマ神話ではメルクリウス)が持つ2匹のヘビが巻きついた杖「ケリュケイオン」(ラテン語ではカドゥケウス)は商業や交通などの象徴とされる。「アスクレピオスの杖」と「ヘルメスの杖(ケリュケイオン)」は別のものであるが、この二つが混同されている例もみられる』。『また、インド神話においてはシェーシャ、アナンタ、ヴァースキなどナーガと呼ばれる蛇身神が重要な役割を果たしている。宇宙の創世においては、ナーガの一つである千頭の蛇アナンタを寝台として微睡むヴィシュヌ神の夢として宇宙が創造され、宇宙の構成としては大地を支える巨亀を自らの尾をくわえたシェーシャ神が取り囲み、世界を再生させるためには、乳海に浮かぶ世界山に巻き付いたヴァースキ神の頭と尾を神と魔が引き合い、乳海を撹拌することにより再生のための活力がもたらされる。これらの蛇神の形象は中国での竜のモデルの一つとなったとも考えられている』。『日本においてもヘビは太古から信仰を集めていた。豊穣神として、雨や雷を呼ぶ天候神として、また光を照り返す鱗身や閉じることのない目が鏡を連想させることから太陽信仰における原始的な信仰対象ともなった。もっとも著名な蛇神は、頭が八つあるという八岐大蛇(ヤマタノオロチ)や、三輪山を神体として大神神社に祀られる大物主(オオモノヌシ)であろう。弁才天でも蛇は神の象徴とされる場合がある。大神神社や弁才天では、神使として蛇が置かれていることもある。蛇の姿は、男根、剣、金属(鉄)とも結びつけられることから男性神とされる一方、豊穣神・地母神の性格としては女性と見られることも多く、異類婚姻譚の典型である「蛇女房」などにその影響を見ることができる』。さて、とりあえずここでは一番に多くの評者が指摘する、ネガティヴな邪性としての先生のKに対する戦闘・闘争の始動のシンボルとして漱石は用いていると見てよいと思われる。若き日に読んだ際の私もダイレクトにそのような比喩としてここを読んだ。しかし、同時にそれは、髪の持主である靜をも含めた登場人物総ての邪性やエゴイズム――はたまたグレート・マザー(太母)としての女性性――以前に私も示したウロボロスの「輪」――終わりがない先生の「ぐるぐる」――死と再生のスピリッチャリズムの「永劫回帰」――ゾルレンとして断ち切られるべき「循環」――いや、もしかすると全く逆にザインとしての「円環」の表象が、そこには暗示されているのかも知れない。――「円」――私にとって永遠にして最大の「こゝろ」の謎である。]

 

 

  先生の遺書

    (八十八)

 「私はKに向つて御孃さんと一所に出たのかと聞きました。Kは左右ではないと答へました。眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入つた質問を控へなければなりませんでした。然し食事(しよくし)の時、又御孃さんに向つて、同じ問を掛けたくなりました。すると御孃さんは私の嫌ひな例の笑ひ方をするのです。さうして何處へ行つたか中(あ)てゝ見ろと仕舞に云ふのです。其頃の私はまだ癇癪持でしたから、さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立ちました。所が其處に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人だつたのです。Kは寧ろ平氣でした。御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其處の區別が一寸(ちよつと)判然(はんせん)しない點がありました。若い女として御孃さんは思慮に富んだ方でしたけれども、其若い女に共通な私の嫌(きらひ)な所も、あると思へば思へなくもなかつたのです。さうして其嫌な所は、Kが宅へ來てから、始めて私の眼に着き出したのです。私はそれをKに對する私の嫉妬に歸して可(い)いものか、又は私に對する御孃さんの技巧と見傚(みな)して然るべきものか、一寸分別に迷ひました。私は今でも決して其時の私の嫉妬心を打ち消す氣はありません。私はたびたび繰り返した通り、愛の裏面(りめん)に此感情の働きを明らかに意識してゐたのですから。しかも傍(はた)のものから見ると、殆ど取るに足りない瑣事(さじ)に、此感情が屹度(きつと)首を持ち上げたがるのでしたから。是は餘事ですが、かういふ嫉妬は愛の半面ぢやないでせうか。私は結婚してから、此感情がだん/\薄らいでいくのを自覺しました。其代り愛情の方も決して元のやうに猛烈ではないのです。

 私はそれ迄躊躇してゐた自分の心を、一思ひに相手の胸へ擲(たゝ)き付けやうかと考へ出しました。私の相手といふのは御孃さんではありません、奥さんの事です。奥さんに御孃さんを呉れろと明白な談判(だんぱん)を開かうかと考へたのです。然しさう決心しながら、一日(にち)/\と私は斷行の日を延ばして行つたのです。さういふと私はいかにも優柔な男のやうに見えます、又見えても構ひませんが、實際私の進みかねたのは、意志の力に不足があつた爲ではありません。Kの來ないうちは、他の手に乘るのが厭だといふ我慢が私を抑へ付けて、一步も動けないやうにしてゐました。Kの來た後(のち)は、もしかすると御孃さんがKの方に意があるのではなからうかといふ疑念が絶えず私を制するやうになつたのです。果して御孃さんが私よりもKに心を傾むけてゐるならば、此戀は口へ云ひ出す價値のないものと私は決心してゐたのです。恥を掻かせられるのが辛いなどゝ云ふのとは少し譯が違ひます。此方(こつち)でいくら思つても、向ふが内心他の人に愛の眼(まなこ)を注いでゐるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。世の中では否應なしに自分の好(す)いた女を嫁に貰つて嬉しがつてゐる人もありますが、それは私達より餘つ程世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、當時の私は考へてゐたのです。一度貰つて仕舞へば何うか斯(か)うか落ち付くものだ位(くらゐ)の哲理では、承知する事が出來ない位私は熱してゐました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だつたのです。同時に尤も迂遠な愛の實際家だつたのです。

 肝心の御孃さんに、直接此私といふものを打ち明ける機會も、長く一所にゐるうちには時々出て來たのですが、私はわざとそれを避けました。日本の習慣として、さういふ事は許されてゐないのだといふ自覺が、其頃の私には強くありました。然し決してそれ許りが私を束縛したとは云へません。日本人、ことに日本の若い女は、そんな塲合に、相手に氣兼なく自分の思つた通りを遠慮せずに口にする丈の勇氣に乏しいものと私は見込んでゐたのです。

やぶちゃんの摑み:本章の最後は、先生の世代の旧態依然とした男女感覚・男女観が厳に示されているのだが、注意すべきは先生やKはそうであったが、同時代人ではあっても、明らかに先生やKと微妙に若い、受け手である靜も全く同様に考えていたと思い込むのは、やや早計である。そう思い込んでいる先生自身、早計である。

「眞砂町で偶然出會つたから連れ立つて歸つて來たのだ」「眞砂町」は現在の文京区本郷4丁目、前章の柳町交差点の北から下りて来る白山通りと東に伸びる春日通りに挟まれた東北部分一帯の旧地名である。漱石絡みでは、ここに愛媛県の育英事業による寄宿舎常磐会があり、学生時代の友人正岡子規が明治211888)年9月から2412月迄の3年間ここで寄宿生活をしている。前章で路上で逢ったKは先生の「どこへ行ったのか」と言う問いに対して何時ものようにふんという調子で「ちょっとそこまで」と答えている。彼は一体、何処に何しに行ったのだろう? 思い出してもらおう。「其日もKは私より後れて歸る時間割だつたの」だから彼は、この日、本来ならまだ大学で講義を受けていなくてはならなかったはずである。だから、先生も「何うした譯かと思」ったのである。奥さんにその疑問を洩らすと、奥さんは「大方用事でも出來たのだらう」と答えている。これは推測に過ぎないが、Kが一人で出たことは前後の関係から間違いないと見てよいだろう。御嬢さんはもっと前に外出していた。しかし――Kは何をしに真砂町方向へ出向いていたのであろう? 大学の講義をサボってまで(勿論、偶然休講であったのかもしれない)行かねばならない用事とは何であったのか? そしてお嬢さんと「偶然出會つた」わけだ――先生になりきってみれば、疑惑が払拭出来ないのは当然と言えば当然ではなかろうか? そして更に次の御嬢さんとの会話が先生の疑心暗鬼をいやが上にも増幅させることとなる。

「然し食事時、又御孃さんに向つて、同じ問を掛けたくなりました」これが「同じ問」であったとすると、

 

先生「……お嬢さん、今日は……彼と一緒に出られたんですか?」

御嬢さん「(笑いを浮かべながら)いいえ。」

先生「……。」

御嬢さん「(笑いを浮かべつつ、悪戯っぽく伏目がちの先生を覗き込むような感じで)ふふっ、私が何処へ行ったか、当ててご覧になって。」

奥さん 「(睨みながら)これ!」

御嬢さん、ペロと僅かに舌を出す。

Kは全く意に関せず、黙々と沢庵をぼりぼりかじって飯を食っている。

 

といったシーンになろうか(当時の御嬢さんが舌を出すような真似はしなかったかも知れない)。ここで先生はその様子を「御孃さんの態度になると、知つてわざと遣るのか、知らないで無邪氣に遣るのか、其處の區別が一寸判然しない點がありました」と描写したまま、「私」への解説に入って、このシーンを知らぬ間にフェイド・アウトしてしまう。その結果、我々は第(七十四)回に現われたあの「私の嫌ひな例の笑ひ方」――「何處へ行つたか中てゝ見ろ」という先生によって書き換えられたぞんざいな靜の口調――それは「癇癪持」だった当時の私の神経を逆なでするような謂い――「さう不眞面目に若い女から取り扱はれると腹が立」ったのに――「其處に氣の付くのは、同じ食卓に着いてゐるものゝうちで奥さん一人」だけで――Kはいつも以上に「寧ろ」飄々として私を完全に無視し「平氣で」あったと描写したままに――そこから現在時制を離れてしまい、そうしたお嬢さんの「私の嫌な所はKが宅へ來てから、始めて私の眼に着き出した」――それはもしかすると「Kに對する私の嫉妬」にもとづくものであったかもしれないが、場合によっては「私に對する御孃さんの技巧と見傚」すのが正しいと思われるような場面もあった――と述べて、嫉妬論に入るわけだ。この嫉妬と愛情の関係分析や恋愛論・結婚観は正鵠を射ており、私自身は何らの疑義も感じない。大いに共感すると言ってもよい。そう、この『遺書を書いている先生』のここでの見解は、美事に正しい。嫉妬にもこの直前の場面に対しても、である。――ところが『この回想の中の現在時制での先生』は、――この直前場面の分析を誤っているのである。その証拠に、我々はこの場面での靜の「嫌ひな笑ひ」を浮かべたアップの口元、「何處へ行つたか中てゝ見ろ」というぞんざいな口調ばかりがアップになり、先生の神経を逆なでにする「不眞面目」な「若い女」と、フンとした私を完全に無視して「平氣」な冷たいKの横顔ばかりが印象付けられる結果となるからである。

さて、ここを今回、靜や奥さんの意識からちょっと分析してみたいと思う。先の私のシーンを見て頂きたいのである。奥さんが「これ!」と靜を睨んだ点に注意しよう。ここで奥さんが先生に特に言葉添えて靜の行き先について述べるシーンがないのである。そこから奥さんは靜がその日何処へ行っていたかを当然知っている――靜がKと何処かに密かに行ったなどということは無論あり得ず、また靜とKが二人で何処かへ行ったことを奥さんは承知していて黙っている、なんどということも100%あり得ないのも当然である。だからこの「これ!」で終わりなのである。Kが平然としているのも当然である。Kの言う通り、「偶然出會つたから連れ立つて歸つて來た」に過ぎなかったからである。そのKが普段よりも一層「平氣で」あったのが奇異に先生に見えたのは、先生の疑心暗鬼に加えて、Kが自身の内的変化(御嬢さんへの恋愛感情)を外部への表出するのを抑止しようとする現象の結果である。そういう点では「Kは寧ろ平氣でした」という表面的な微妙な変異の観察は正しいと言える。問題は、では御嬢さんは何処へ何しに行ったのか? という点である。御嬢さんは(私の推測では)、

御嬢さん「(依然として例の笑いを浮かべつつ、悪戯っぽく伏目がちの先生を覗き込むような感じで)ふふっ、私が何処へ行ったか、当ててご覧になって。」

と焦らすのである。この「私が何処へ行ったか、当ててご覧になって。」は、二つの解釈が可能である。

 

①何処へ行ったか当ててもらいたいわ。

②何処へ行ったか貴方には決して分からないわ。

 

である。更にそこは、

 

Ⅰ 先生の知っている場所であって、しょっちゅう行っている場所。

Ⅱ 先生の知っている場所であるが、行ったことはない場所。

Ⅲ 先生は知らないし行った事もない場所。

 

の場合分けがあり得る。

②でⅢというのはこういう悪戯っぽい言い方にはならないから除外出来る。

①ならばⅠかⅡであり、たとえば、他の場面に現われる奥さんの妹と思われる叔母の家や、女学校の授業関連で東京帝国大学研究室や図書館、東京高等女子師範学校(現・御茶ノ水大学)等へ行ったケースが考え得る。真砂町で出会ったというのもそれならば自然に思われる。しかし、であれば、その事実を知るはずの奥さんが助け舟を出して先生にその事実を述べるものと思われるから選択肢からはずす。

但し、叔母の家であって、その用件が縁談であったとしたら? それを断わるために行ったとしたら?……しかしそれならば奥さんも必ず一緒に行かずにはおかないから、あり得ない。そもそも市ヶ谷の叔母の家では真砂町を歩いているというのは方向違いである。

そうすると②であってⅢのケースではないか?

条件を並べてみる。

 

・奥さんが行き先を知っているが、そこが何処かを遂に言わない。

・稽古事ではない(だったらああいう聞き方はしない)。

・帰り道で逢った際、Kの後にいた「御孃さんは心持薄赤い顏をして、私に挨拶をし」ている。これはKと一緒だったからではなく、その「何処か」からの帰りであったからではないか?

・御嬢さんは何時になく操状態である(その言い方が如何にもハイであるから、先生の言い換えがきついものになった)。

・Kも勿論知らない(帰り道で逢ってもKに言わなかった。言えなかった)。

・真砂町の先にその「何処か」はある。

 

――以下は、あくまで私の牽強付会の一つの解釈である。その結論は陳腐なものである。ドラマにさえならぬ。

……靜は婦人科的な体調不良を最近感じていた。そこで奥さんに相談したところ、大事をとって東京大学附属病院の婦人科で診察をしてもらうのがよい、ということになった(その診察自体は数日前としてもよい。その方が靜の心理的には相応しい)。不安の中でその結果を受けに行ったが、何ら問題ないという結果であった。その帰りでKや先生にダブルで逢ってしまい、行き先が行き先であったから「心持薄赤い顏をし」たが、帰ってみれば、健康ということで、靜はすっかり嬉しくなり、食事の際の先生の言葉にも、『こんな元気な私が病院に行ったなんて、とっても当りっこないわ!』といったハイな気分の高揚から、つい悪戯っぽい謂いになってしまった。娘の気持ちも分からないではない奥さんではあったが、流石に「これ!」と、それをたしなめた。……

如何にもショボい仮定だと思われたかも知れない。――しかし十分あり得る現実的な可能性を私は考えたつもりである。実生活なんて実際にどうということのないショボいものである――どうということのある危いサスペンス劇場のようなKとの密会の可能性なんどを、先生のぐるぐるのようにずるずるずるずる引きずるよりも――ずっと私には真実らしく感じられる解釈なのである。

「極めて高尚な愛の理論家」結婚と言う実行行為を行う場合には、必ず相思相愛であることを必要条件としなければならない人間であるということ。相思相愛でなくては「愛」ではないという命題を真とする理論家。

「尤も迂遠な愛の実際家」真実、相思相愛であることを、必ず確認した上でなければ結婚という実行行為に移ってはならないと考える人間であるということ。相思相愛であるという命題が真であることが立証されねば結婚はあり得ないという厳密実際に則る人間。]

 

 

  先生の遺書

    (八十九)

 「斯んな譯で私はどちらの方面へ向つても進む事が出來ずに立ち竦(すく)んでゐました。身體(からだ)の惡い時に午睡(ひるね)などをすると、眼だけ覺めて周圍のものが判然(はつきり)見えるのに、何うしても手足の動かせない塲合がありませう。私は時としてあゝいふ苦しみを人知れず感じたのです。

 其内年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多(かるた)を遣るから誰か友達を連れて來ないかと云つた事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答へたので、奥さんは驚ろいてしまひました。成程Kに友達といふ程の友達は一人もなかつたのです。往來で會つた時挨拶をする位(くらゐ)のものは多少ありましたが、それ等だつて決して歌留多などを取る柄ではなかつたのです。奥さんはそれぢや私の知つたものでも呼んで來たら何うかと云ひ直しましたが、私も生憎そんな陽氣な遊びをする心持になれないので、好(よ)い加減な生返事をしたなり、打ち遣つて置きました。所が晩になつてKと私はとう/\御孃さんに引つ張り出されてしまひました。客も誰も來ないのに、内々(うちうぢ)の小人數(こにんず)丈で取らうといふ歌留多ですから頗る靜なものでした。其上斯ういふ遊技を遣り付けないKは、丸で懷手をしてゐる人と同樣でした。私はKに一體百人一首の歌を知つてゐるのかと尋ねました。Kは能く知らないと答へました。私の言葉を聞いた御孃さんは、大方Kを輕蔑するとでも取つたのでせう。それから眼に立つやうにKの加勢をし出しました。仕舞には二人が殆ど組になつて私に當るといふ有樣になつて來ました。私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかつたのです。幸ひにKの態度は少しも最初と變りませんでした。彼の何處にも得意らしい樣子を認めなかつた私は、無事に其塲を切り上げる事が出來ました。

 それから二三日經つた後(のち)の事でしたらう、奥さんと御孃さんは朝から市ケ谷にゐる親類の所へ行くと云つて宅を出ました。Kも私もまだ學校の始まらない頃でしたから、留守居同樣あとに殘つてゐました。私は書物を讀むのも散步に出るのも厭だつたので、たゞ漠然と火鉢(ひはち)の緣に肱(ひじ)を載せて凝(じつ)と顋(あご)を支へたなり考へてゐました。隣の室にゐるKも一向音を立てませんでした。双方とも居るのだか居ないのだか分らない位靜でした。尤も斯ういふ事は、二人の間柄として別に珍らしくも何ともなかつたのですから、私は別段それを氣にも留めませんでした。

 十時頃になつて、Kは不意に仕切の襖を開けて私と顏を見合せました。彼は敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞きました。私はもとより何も考へてゐなかつたのです。もし考へてゐたとすれば、何時もの通り御孃さんが問題だつたかも知れません。其御孃さんには無論奥さんも食付(くつつ)いてゐますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のやうに、私の頭の中をぐるぐる回つて、此問題を複雜にしてゐるのです。Kと顏を見合せた私は、今迄朧氣(おぼろげ)に彼を一種の邪魔ものゝ如く意識してゐながら、明らかに左右と答へる譯に行かなかつたのです。私は依然として彼の顏を見て默つてゐました。するとKの方からつか/\と私の座敷へ入つて來て、私のあたつてゐる火鉢(ひはち)の前に坐りました。私はすぐ兩肱(りやうびず)を火鉢(ひはち)の緣から取り除けて、心持それをKの方へ押し遣るやうにしました。

 Kは何時もに似合はない話を始めました。奥さんと御孃さんは市ケ谷の何處へ行つたのだらうと云ふのです。私は大方叔母さんの所だらうと答へました。Kは其叔母さんは何だと又聞きます。私は矢張り軍人の細君だと教へて遣りました。すると女の年始は大抵十五日過だのに、何故そんなに早く出掛けたのだらうと質問するのです。私は何故だか知らないと挨拶するより外に仕方がありませんでした。

やぶちゃんの摑み:私はこの歌留多取りのシーンを明治341901)年1月3日(木)前後とし、後半のKの告白に雪崩れ込むシーンを1月5日(土)前後と推定している。

「どちらの方面へ向つても進む事が出來ずに立ち竦んでゐました」「どちらの方面」前章の奥さんに御嬢さんを貰い受ける話をする方法と、御嬢さんに直接プロポーズをする方法を指す。確認になるが、前者は、御嬢さんの意志が確認出来ない状況下にあって、「極めて高尚な愛の理論家」であり「尤も迂遠な愛の実際家」でもある先生には当然実行不能であったからであり、後者は先生の内部に巣食う旧態依然とした男女感覚・男女観を主な理由としながら、それを更に靜に敷衍して、彼女が素直に正直にそれに応答するとは思えなかったからだとしている訳であるが、やはりこれは先生の側の自信のなさの弁解以外には受け取れないように思われる。

「身體の惡い時に午睡などをすると、眼だけ覺めて周圍のものが判然(はつきり)見えるのに、何うしても手足の動かせない塲合」金縛りのこと。先生(引いては漱石)はしばしばこのような体験をしたことがあることを意味している。ウィキの「金縛り」 より引用しておく。『医学的には睡眠麻痺と呼ばれる睡眠時の全身の脱力と意識の覚醒が同時に起こった状態。不規則な生活、寝不足、過労、時差ぼけやストレスなどから起こるとされる。脳がしっかり覚醒していないため、人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入っているのを見た、耳元で囁かれた、体を触られているといったような幻覚を伴う場合がある。これは夢の一種であると考えられ幽霊や心霊現象と関連づけられる原因になっている。ただし金縛りの起きる状態がほとんど就寝中であることから学者の説明は睡眠との関係についてである。覚醒状態においての「金縛り」というものについては科学的にはほぼ未解明であり、精神的なものに起因するとされることも多い。霊的なものを信じていない人の場合は、宇宙人に何かをされたなどという形式の認知になるという説がある』。『金縛りは、いきなり起こるわけではなく、必ず前兆がある。およそ13キロヘルツ(kHz)の"ジーン、ジーン"または"ザワザワー"とした、強い圧迫感を伴う独特の不快な前駆症状の数秒後~数分後に一瞬にして全身の随意運動が不可能となる。症状は数秒で収まるものから、30分以上に及ぶものもある。また、金縛りが解けてもすぐに前駆症状が現れ、再発することも多く、睡眠の妨げになる事も多い』。『前駆症状に気づいた時点で金縛りを回避しようと試みても、殆どの場合そのまま金縛りへと移行する』。『金縛りには、大きく分けて、閉眼型と、開眼型の二種類が存在する。ほとんどは前者のもので、実際には閉眼しているにもかかわらず、金縛りがかかる直前の室内の風景や、普段の室内の記憶が鮮明な夢となって映し出される。しかし、本人が閉眼型だと認知していない場合がほとんどである。閉眼型の特徴として、霊などの幻覚が見えたりし、恐怖感を強く感じる場合が多いことが挙げられる。ちなみに、体外離脱はこれに分類され、思春期の女性に多い。閉眼型の金縛りを自分の意思で解除する事は、ほぼ不可能である。 しかし、まれに開眼した状態での金縛りも存在する。開眼型の金縛りの特徴として、全身の随意運動を奪われるものの、嗅覚、聴覚、視覚(ただし眼球運動は不可能、もしくは不随意)が鮮明であり、金縛り状態のままテレビの視聴や車窓からの風景を鮮明に見ることも可能である』。以下、原因論が示されるが、データが示されずやや信憑性に欠く部分が認められるので注意してお読み頂きたい(但し、大変面白い!)。『睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠があるが、金縛りが起こるのはこのレム睡眠の時である。レム睡眠の時に夢を見るのだが、夢を見ている時には脳は活発に活動しているが、体は活動を休止している。レム睡眠は呼吸を休止させてしまうことがあり、強い息苦しさを感じたり、胸部に圧迫感を覚えることがある。他にも、他動的に四肢を動かされる感覚などを感じる場合もある。そのような不条理な状態を説明するために脳が「自分を押さえつけている人」などの幻覚・夢を作り出すと言われる』。『金縛りは、普段余り運動しない者が突然運動を行った場合などに起こりやすくなる。特に有酸素運動は金縛りを誘発しやすい。過酷な有酸素運動をしているスポーツ選手の中には、毎日のように金縛りに掛かる者も多い。また、旅行の移動中や宿泊地での金縛りも多い。これは、移動によって身体が疲弊しているのに対し、環境の変化などにより脳が興奮していることが影響している。その他、ストレスや肉体疲労が金縛りを引き起こすこと、体質的に金縛りに掛かりやすい(特に寝入りの悪い人)、事前に「このホテルは(幽霊が)出るらしいよ」などという噂話を聞くなど様々な理由がある。現在は金縛りの研究も進んでおり、閉眼型の金縛りは睡眠中に何度も起こすようなストレスを与えることで人工的に作り出す事も可能である』。『金縛りを初めて経験する者、経験が少ない者は、経験した事の無い前駆症状や、全身が動かなくなる独特の感覚から、金縛り現象を底知れぬ恐怖に感じる。特に、閉眼型の金縛りに掛かっている時には、僅かに思い浮かんだ事が過剰に増幅されるという特性がある。しかし、この特性を逆に利用し、たとえば、意図した人物との性的な事などを考えると、その人物が実際に現れたように感じたり、覚醒時には味わえないような驚くほどの強い快楽を得る事も可能であり、金縛りを楽しみにしている者も少数ではあるが存在する。ただし、実際に行ってみるとわかるが、金縛りの経験が少ない者は、容易に恐怖が上回ってしまい難しい。金縛り経験が豊富な者向けの高度な遊びといえよう。対して、開眼型の金縛りでは、幻覚が出る事が無く、基本的に恐怖感は持たないものの、独特の違和感や、随意運動ができないことから不快感を抱く例が多い』。以下、東西の民俗学的な金縛りの記載が続く。『古来から世界各地で睡眠麻痺に関するさまざまな説明が伝わっている。代表的なものを以下にあげる』と、『ラオスでは、睡眠麻痺は「ピー・ウム」として知られていた。これは睡眠中に幽霊のようなものが現れる夢を見て、幽霊が自分を押し付けているか、あるいは幽霊がすぐ近くにいるといったものである。通常、体験者は自分が目覚めているが、動く事はできないと感じている』。『中国の少数民族であるミャオ族の文化では、睡眠麻痺は「圧しつぶす悪魔」と呼ばれていた。睡眠麻痺の体験者はよく子供ぐらいの動物が自分の胸の上に乗っていると主張した』。『ベトナムでは、睡眠麻痺は「マ・デ」と呼ばれ、これは「幽霊に抑えつけられた」ことを意味する。ベトナムの人々は幽霊が身体のなかに入り込み、それが麻痺状態を起こすと考えていた』。『中国では、睡眠麻痺は「"鬼圧身"」あるいは「"鬼圧床" 」として知られる。これは文字通り訳せば「幽霊に抑えつけられた身体」あるいは「幽霊に抑えつけられた寝床」という意味になる』(簡体字を正字「圧」に変更した)。 『日本における「金縛り」という語は、時に英語圏の研究者によって学術論文などで使われる事もある』。『ハンガリーの民俗文化では、睡眠麻痺は「"lidércnyomás" "lidérc"の圧力)と呼ばれ、"lidérc" (生霊), "boszorkány" (魔女), "tündér"(妖精) あるいは "ördögszerető" などの超自然的存在によって引き起こされると考えられていた』。『 "boszorkány" という単語はトルコ語の「圧しつける("bas-")」という意味の語幹からきている』。『アイスランドでは、睡眠麻痺は通常「マラが来た」と呼ばれていた。マラとは古いアイスランド語で雌馬をさすが、これは悪魔のようなもので人間の身体の上に乗り、その人を窒息させようとするものと信じられていた』。『クルド人は睡眠麻痺を「モッタカ」と呼んでいる。彼らは何物かが幽霊か悪い精の姿となって人の上に現れ、窒息させようとするのだと信じていた』。『ニューギニアでは、この現象は「スク・ニンミヨ」として知られる。これは神聖な樹木が、自分の寿命を延ばすため人間のエキスを吸い取ろうとしているためと考えられた。神聖な樹木は通常は人に知られないよう夜にエキスを吸い取るのだが、たまに人間がその最中に目を覚ましてしまい、そのために麻痺が起こるのだと考えていた』。『トルコでは、睡眠麻痺は「カラバサン (暗闇の抑圧者・襲撃者)」と呼ばれていた。これは睡眠中に人々を襲う生き物と考えられていた』。『メキシコでは、睡眠麻痺は死んだ人の魂が人間に乗り移り、動きを妨害することによって起こるのだと信じられていた。これは「セ・メ・スビオ・エル・ムエルト(Se me subió el muerto)(死人が乗り移った)」と呼ばれる』。『アメリカ南部の多くの地域では、この現象は "hag" (魔女) と呼ばれ、通常なにか悪いことが起こる前兆と考えられた』。『「オグン・オル」とはナイジェリア南西部ヨルバ地方で睡眠障害の原因とされている。オグン・オル(夜の争い)は夜間での強烈な妨害をともなっており、この文化ではこれは悪魔が夢を見ている人間の身体と精神に入り込むものとして説明される。オグン・オルは女性の方が起こりやすいとされており、これは地上の配偶者と“霊的な”配偶者の不和によるものと考えられた。この状態はキリスト教の宣教師か、あるいは伝統的な呪術師が悪魔払いをすることで取り除けると信じられていた』。『ジンバブエのショーナ文化においては、「マッジキリラ」という単語が使われる。これは何かが非常に強く圧しつけている状態をさし、ほとんどの場合これはなにかの霊--とくに邪悪な霊--が人間をコントロールしてなにか悪い事をしようとしているとみなされていた。人々が信じるところによれば、魔女にはこういった能力があり、そのため魔女はしばしば人の魂をつかってその人の親戚にとりつくとされた』。『エチオピアの文化では「ドゥカック」という単語が使われる。ドゥカックは人が眠っている間にとりつくなにかの悪い霊と考えられていた。また睡眠麻痺は麻薬の一種である「カット(en:Khat)」の使用とも関連しているとされた。「カット」を使用していた者の多くは、長い間使っていたカットをやめた後に睡眠麻痺を経験したという』。『いくつかの研究によると、アフリカン・アメリカンの人々は睡眠麻痺にかかりやすい傾向があるという』。『これらは「魔女が乗っている」とか「haintが乗っている」と呼ばれている。また、ほかの研究によると、頻繁に(月に一度以上)睡眠麻痺にかかるアフリカン・アメリカンの人は「睡眠麻痺障害」があるとされ、このような人々は平均的な人よりもパニック障害にかかりやすい傾向があるという』。『これらの結果はほかの独立した研究者によっても確認されている』とある。

「歌留多」明治期に於いてはこうした正月のかるた取りが、数少ない男女の出会いの場として機能していたことは本章を読む上では非常に重要である。OCTOPUS氏のHPにある「競技かるたのページ」の論文から一部を引用する。『十畳の客間と八畳の中の間とを打抜きて、広間の十個処に真鍮の燭台を据ゑ、五十目掛の蝋燭は沖の漁火の如く燃えたるに、間毎の天井に白銀鍍の空気ラムプを点したれば、四辺は真昼より明に、人顔も眩きまでに輝き遍れり。三十人に余んぬる若き男女は二分に輪作りて、今を盛と歌留多遊びを為るなりけり。(*1)』〔『*1 尾崎紅葉「金色夜叉」(昭和4411月新潮文庫)より引用』という注記記載がある〕。『尾崎紅葉(18681903)のベストセラー小説「金色夜叉」(明治3035 年連載、未完)の中には明治当時のかるた会の模様が述べられている。娯楽の少なかった当時、かるたというのは格好の男女の出会いの場であったと想像される。実際、後のクイーン渡辺令恵の祖父母も、昭和5(1930)年頃ではあるが、かるたが縁で出会ったとのことである(*2)』〔『*2 渡辺令恵「競技かるたの魅力」(「百人一首の文化史」平成1012月すずさわ書店)』という注記記載がある〕。『当時のかるたの試合は、今日で言う所のちらし取り、あるいは2組に分かれての源平戦が主流であった。「金色夜叉」に描かれたかるたの試合は、どうやらちらし取りであったように思われる』(以上は同HP内の「3.競技かるたの夜明け」の冒頭「かるた会のあけぼの」より引用)。『黒岩涙香が開催した明治371904)年の第1回かるた大会の案内には「男女御誘合」とあり(*1)、当初かるた会は女性に大きく門戸を開いていた。だが、男尊女卑の傾向が著しかった時代で』あったため、明治414219081909)年頃に至って『かるたが世間に認知されるようになると、男女が交わって競技を行なう点が非難の的となる。「若い男女が入り乱れになつて、手と手を重ねたり、引手繰事(ひったくりっこ)をしたり、口の利き様もお互ひに慣れ慣れしくなり作法も乱れて居る」(*2)と、山脇房子は明治421909)年1月に指摘している。「今の若い男女は平常は隔てられて居て、いざかるたとでもなると、又極端に走りますからいけない」と、山脇は「風俗上衛生上の害を避ける為め」にテーブルの上での競技をも提案している。またその一方で、「相手が女では、バカバカしくて本気になって取れン」(*3)であるとか、「荒くれ男を向ふに𢌞して戦を挑むような女は嫌ひだ」「婦人は須らく男子に柔順で、繊弱優雅なるを愛する」(*4)などといった男性選手の言い分もあった。その結果、黒岩涙香としては当初の「平等意思」(*5)に反するとしながらも、東京かるた会は明治41(1908)年2月、傘下の各会と同盟規約を結ぶこととなる。その内容は「同盟各会の会員は勿論東京かるた会の出席者は素行不良ならざる男子たること」「同盟各会其他競技席上には婦人及素行不良と認めらるる男子の入場を拒絶すること」(*6)といったもので、これにより明治421909)年2月の5周年大会以降女流選手の大会参加は認められなくなる』。『しかし、完全に女性が閉め出されていたかというと、そうではなく、仙台では女流大会が開催されており、昭和2(1927)年の第1回大会では藤原勝子が優勝している。東京や山梨、筑波などでも同様の大会が開かれている(*7)』とある。因みに『かるた会が再び女流選手に門戸を開いたのは昭和9(1934)年1月5日の第22回全国大会からであった』(以下略。以上の引用部の注記は以下の通り。『*1 「萬朝報」明治37年2月11日』・『*2 山脇房子「風紀上より見たる歌留多遊び」(明治42年1月「婦人画報」)以下引用は同記事』・『*3 「朝日新聞」昭和30年1月5日「女のはな息」』・『*4*8 「かるた界 第8巻第2号」昭和9年12月 東京かるた会』・『*5*6 東京かるた会編「かるたの話(かるた大観)」(大正1412月 東京図案印刷)』・『*7 「かるたチャンピオン 95年のあゆみ」平成11年1月 全日本かるた協会』。以上は同HP内の「5.かるた黄金時代」の「女流選手のあゆみ」より引用)。ここで明治四十年代初頭に公的なかるた会が『男女が交わって競技を行なう点が非難の的とな』ったこと自体が、実はそれ以前、男女の手が触れあたりする私的な男女の正月のかるた取りが、密やかにそうした男女の交感の場でもあったことを図らずも物語っていると言えよう。そして最後に一言。――歌留多取とは戦闘である――

「Kはすぐ友達なぞは一人もない」Kにとって友達は先生一人きりなのである。

「内々(うちうぢ)」このルビは底本では「/\」の濁点つきである。明らかな誤植であるが、誤りをそのまま移すのが本翻刻のポリシーであるので「うちうぢ」としておいた。

「私はKに一體百人一首の歌を知つてゐるのかと尋ねました」これによってKが文学部文学科であることは完全に排除されるものと思われる。……が……国語教師でありながら私も教員になるまで、小倉百人一首の歌は実は殆んど知らなかったことを、ここに自白します……

「私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかつた」靜が荷担するK――そのKとの歌留多取りにさえ真剣になっている先生――である。この歌留多取は靜という女をKと取り合う一対一の白兵戦若しくは決闘の近きを告げるシーンなのでもあった。

「私は書物を讀むのも散步に出るのも厭だつた」先生の鬱屈が頂点に達していることが知られる。

「十時頃になつて、Kは不意に仕切の襖を開けて私と顏を見合せました。彼は敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞きました」このシーンは、これ以降の同一構図のシーンの最初に当る重要な場面である。あなたのスクリーンにしっかりとリアルに映像化してもらいたい。また、作中、珍しく時間が指定される場面としても特異的である。勿論、これは告白後の昼食を経て、午後の先生の煩悶、夜の描写へと続けるためであるのだが、私は妙に気になるのである。もう一つの重要な点がここにはある。即ち、Kは「敷居の上に立つた儘、私に何を考へてゐると聞」いたという描写である。古来、日本では敷居を踏むことはタブーであった。「部屋の敷居や畳の縁を踏むのは親の顔を踏むのと同じだ」と私の祖母や母は言ったものだ。それは民俗社会に於ける神聖な境界であり、そこを足下に踏むということは、或る他空間への侵犯を意味する。それは致命的な神話的世界観のカタストロフへのスイッチであった。ここはそういう意味で、先生の内実に軽率にも侵入してしまったKを美事に描く部分でもあるのである。

「其御孃さんには無論奥さんも食つ付いてゐますが、近頃ではK自身が切り離すべからざる人のやうに、私の頭の中をぐるぐる回つて、此問題を複雜にしてゐるのです。」「ぐるぐる」である。

「Kと顏を見合せた私は、今迄朧氣(おぼろげ)に彼を一種の邪魔ものゝ如く意識してゐながら、明らかに左右と答へる譯に行かなかつたのです」という唐突な叙述に注意しなくてはならない。表現上は「今迄」はだったのである――即ち、ここ以降、先生がKを「一種の邪魔もの」としてはっきりと「意識し」「明らかに左右と」言える存在になることを明確に示している、ように見える。しかしまた、ここ以前に先生がKをどういう存在として意識していたかをフィード・バックして再確認しておかなくてはならないことも言うまでもない。繰り返すが、ここまで先生の中には、

(嫉妬心から)Kを一種の邪魔者として意識している先生

↑葛

↓藤

(良心から)それを正当なものとしては認知出来ない先生

という構図があったのである。それがここまでの先生の心奥であったことが開示されているのである。我々は実は、この後の展開から、この前者の嫉妬心・邪魔者の方にばかり、意識が集中してしまうのであるが、かねてより私は後者にこそ着目すべきであると思っている。それまで先生にとってKは邪魔者ではなかった。いや、邪魔者どころか数少ない心許せる親友であった――いや、先生にとっては親友というよりも、もっと大切な存在であったと言ってよい。畏敬し、同時に孤独の痛みを分かち合った、獣のように抱き合った仲間――親友よりも大切な存在であったK――先生はKを無意識下に於いて愛していたのではなかったか?――私はそう思うのである――先生はKを愛していた――いや、先生は遺書を書く今もKを愛しているのではあるまいか? いや、遺書を書く今、先生は初めて心からKを愛していると言えるのではあるまいか?

「兩肱(りやうびず)」「りやうひぢ」の誤植。

「市ケ谷」この叔母さんなる人物は夫が奥さんと同じく軍人であると直後に言っている。奥さんと靜はここに引っ越してくる前は市ヶ谷の士官学校の傍に住んでいた(第(六十四)回参照)が、当時の軍人達は軍施設の近くに纏まって居住していることが多かった。

「叔母さん」奥さんの義理の妹の可能性もないとは言えないが、父が亡くなってもずっと、靜と先生が結婚後もずっと親戚関係を保っている(第(四十)回及び最終章参照)ところを見ると、奥さんの実の妹であると考えられる。

「女の年始は大抵十五日過」女正月(めしょうがつ)のこと。115日の小正月前後を言う。正月は女性は家内の事始と親戚や年賀の挨拶客の接待で忙しくて休みがなく年始廻りの挨拶も出来なかったため、年賀の行事が一段落した小正月の時期に一息ついたことからこう言う。地方によって時期や内容が大きく異なるが、場合によっては男が家事一切を取り仕切って女を休ませる風習があった地方もあった。]

 

 

  先生の遺書

    (九十)

 「Kは中々奥さんと御孃さんの話を己(や)めませんでした。仕舞には私も答へられないやうな立ち入つた事迄聞くのです。私は面倒(めんたう)よりも不思議の感に打たれました。以前私の方から二人を問題にして話しかけた時の彼を思ひ出すと、私は何うしても彼の調子の變つてゐる所に氣が付かずにはゐられないのです。私はとう/\何故今日に限つてそんな事ばかり云ふのかと彼に尋ねました。其時彼は突然默りました。然し私は彼の結んだ口元の肉が顫(ふる)へるやうに動いてゐるのを注視しました。彼は元來無口な男でした。平生(へいせい)から何か云はうとすると、云ふ前に能く口のあたりをもぐ/\させる癖がありました。彼の唇がわざと彼の意志に反抗するやうに容易(たやす)く開(あ)かない所に、彼の言葉の重みも籠つてゐたのでせう。一旦聲が口を破つて出るとなると、其聲には普通の人よりも倍の強い力がありました。

 彼の口元を一寸眺めた時、私はまた何か出て來るなとすぐ疳付(かんづ)いたのですが、それが果して何の準備なのか、私の豫覺は丸でなかつたのです。だから驚ろいたのです。彼の重々しい口から、彼の御孃さんに對する切ない戀を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。私は彼の魔法棒(まほふぼう)のために一度に化石されたやうなものです。口をもぐ/\させる働さへ、私にはなくなつて仕舞つたのです。

 其時の私は恐ろしさの塊りと云ひませうか、又は苦しさの塊りと云ひませうか、何しろ一つの塊りでした。石か鐵のやうに頭から足の先までが急に固くなつたのです。呼吸をする彈力性さへ失はれた位(くらゐ)に堅くなつたのです。幸ひな事に其狀態は長く續きませんでした。私は一瞬間の後(のち)に、また人間らしい氣分を取り戻しました。さうして、すぐ失策(しま)つたと思ひました。先(せん)を越されたなと思ひました。

 然し其先を何うしやうといふ分別は丸で起りません。恐らく起る丈の餘裕がなかつたのでせう。私は腋の下から出る氣味のわるい汗が襯衣(しやつ)に滲み透るのを凝と我慢して動かずにゐました。Kは其間何時もの通り重い口を切つては、ぽつり/\と自分の心を打ち明けて行きます。私は苦しくつて堪りませんでした。恐らく其苦しさは、大きな廣告のやうに、私の顏の上に判然りした字で貼り付けられてあつたらうと私は思ふのです。いくらKでも其處に氣の付かない筈はないのですが、彼は又彼で、自分の事に一切を集中してゐるから、私の表情などに注意する暇(ひま)がなかつたのでせう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫ぬいてゐました。重くて鈍い代りに、とても容易な事では動かせないといふ感じを私に與へたのです。私の心は半分其自白を聞いてゐながら、半分何うしやう/\といふ念に絶えず掻き亂されてゐましたから、細かい點になると殆ど耳へ入らないと同樣でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。そのために私は前いつた苦痛ばかりでなく、ときには一種の恐ろしさを感ずるやうになつたのです。つまり相手は自分より強いのだといふ恐怖の念が萌し始めたのです。

 Kの話が一通り濟んだ時、私は何とも云ふ事が出來ませんでした。此方も彼の前に同じ意味の自白をしたものだらうか、夫とも打ち明けずにゐる方が得策だらうか、私はそんな利害を考へて默つてゐたのではありません。たゞ何事も云へなかつたのです。又云ふ氣にもならなかつたのです。

 午食の時、Kと私は向ひ合せに席を占めました。下女に給仕をして貰つて、私はいつにない不味い飯を濟ませました。二人は食事中も殆ど口を利きませんでした。奥さんと御孃さんは何時歸るのだか分りませんでした。

やぶちゃんの摑み:遂にKの靜に対する恋情が先生に告白されるに至る。再度言う。この瞬間、先生はKを「一種の邪魔もの」としてはっきりと「意識し」「明らかに左右と」言える存在になる。そしてまた、ここ以前に先生がKをどういう存在として意識していたかをフィード・バックして再確認しておかなくてはならないことも言うまでもない。『友人』として『畏敬』し、とても私には及ばない巨大な存在としてのKを――。かつては孤独の痛みを分かち合った、獣のように抱き合った、先生が唯一『愛していたK』を、いや、『愛しているはずのK』を、いや『今も愛しているK』を――。……それにしてもこの回の掲載は大正3(1914)年7月22日水曜日である。……うだるような暑さではなかったか(少なくとも2010年の今日はそうである……そんな中で、このKの告白シーンを読んだ読者に……私は聊か気の毒な気さえ、するのである……。

〔Kの告白=対K戦第一ラウンド〕

◎本章=Kを「強者」とする私の第一次戦闘の強烈な敗北感と劣勢意識に関する報告書

「失策つた」

「先を越されたな」

◎先生とKの自己中心性

先生=Kの告白が記されない=忘れた=覚えていない=自己の側の心的状況の羅列に過ぎない

K=先生の顔に貼り付けられた苦しさに全く気付かない=自己の側の苦悩だけを一方的に告白

互いに互いの心理を無視した状況=エゴイズム

友情崩壊の予兆

「云ふ前に能く口のあたりをもぐもぐさせる癖がありました」Kにはチック症状があった可能性が疑われる。「彼の唇がわざと彼の意志に反抗するやうに容易く開かない」という叙述は深くそれを窺わせる描写である。「塚田こども医院」のHP内のヘルス・レター503から引用する。『チック症とは、ピクピクっとした素早い動きなどが、本人の意思とは関係なく、繰り返しおきてしまうものをいいます。一番多いのは瞬きで、そのほかにも、肩をぴくっと動かす、頭をふる、顔をしかめる、口を曲げる、鼻をフンフンならす、などいろいろとあります』。『声を出すチックもあります。ため息のように声や、咳払いがめだちます。中には意味のある言葉(それも「バカバカ」などの汚い言葉)を絶えず口にすることもあります』。『いずれも、本人はわざとやっているわけではなく、止めようと思っても止まりません』。『幼児から小学校低学年ぐらいまでの子に多く見られ』、『不安、ストレス、緊張、心の葛藤などがきっかけでおきることが多いと言われていますが、そのようなことがなくてもおきている子もいます。(例えば瞬きのチック症では、実際に結膜炎のために目が痒くて目をパチパチしていたのが「クセ」になっていたり、テレビを見すぎて目が疲れたことをきっかけにして始まっていることもあります。)』。『本人の性格が、感じやすい、傷つきやすいなど、優しい子に多いような印象もあります(もちろんそれがいけないということではありません)』。『精神的なストレスや緊張感から、一時的にこのような症状のでる子は、決して少なくありません。そのほとんどが、短期間に消えていって』しまいますが(中略)、『程度が強いもので、本人も気にして、そのために余計症状が強く出ているような場合は、お薬で抑えることもあります。だいたいは、短期間で症状がとれていきます』。『ときになかなか良くならないこともありますが、どうも周りがきちんとさせようとしていて、「こじれて」いるようです。そんなことがなければ、チック症は大きな問題ではないと、軽く考えて下さい』。『長引いたり、症状が強かったり、本人がすごく気にしているようなら、お薬をつかうこともありますので、受診されてみて下さい』とある。チックを気にしているお子さんを抱えている読者のために問題がないという記載まで引用させて頂いた。

「彼の重々しい口から、彼の御孃さんに對する切ない戀を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい」以下、この告白は総てが先生の心内語による、先生の側の心のみの叙述が行われ、且つ、その総てが終った「Kの話が一通り濟んだ時」まで、徹頭徹尾、Kの直接話法どころかKの告白の一語だに示されないのだ。「細かい點になると殆ど耳へ入らな」かったどころか「ぽつり/\と」「打ち明け」るK「の心」の一片だに我々には示されないことに注意せよ! それは完全な隠蔽であり、復元のしようがないのである! すると、次のような疑心暗鬼さえ生じはしないか!?

――Kは本当に『御嬢さんに對する切ない戀』を告白したのであろうか?

――それは『御嬢さんに對する』ものではなかったのではないか?

――先生がそう思い込んだに過ぎないのではないか?

――例えばだ! ちょっと考えてみて欲しいのだ! Kは、

×「俺は御嬢さんが……靜さんが好きだ……彼女への思いが募ってたまらない……どうしても自分が抑えられないんだ……道のためには女を愛してはいけないのだと自戒しながら……俺はあの、あの靜さんへの気持ちを、どうしても抑えられない……」

というような表現をしただろうか? 否! 寧ろ、

○「俺はその人が……好きだ……その人への思いが募ってたまらない……どうしても自分が抑えられないんだ……道のためにはその人を愛してはならない、許されないのだと自戒しながら……俺は、その人への気持ちを、どうしても抑えられない……」

と言った表現をしたと考える方が自然ではないか?

――私がここで何を言いたいか? もうお分かりであろう!――

――それは一つの――

――恐らく今まで多くの人が何となく感じていながら、誰一人はっきりとは言わずにいたのだ!――

――全く異なった「心」=「こゝろ」という作品の世界を開示する!――

――新たな作品「心」=「こゝろ」解釈の可能性がここに開けてくるはずである!――

――それは学生の「私」と靜が結婚するなんどという私にとってトンでもない解釈をするより遙かに正当にして正統な解釈であるとさえ私は思っていると告白する!――

――但し勿論、私はこの解釈が『真』だと言っているのではない!――

――それは解釈の、一つの選択肢ではあると言っているのである!――

――従って私はその選択肢を選び取って限定し、これから「やぶちゃんの摑み」を展開しようなんどとはさらさら思ってもいない……

……だから……この解釈に興味を持ったあなたは……私の、この新解釈のとば口を利用なさい。そして熱い自論を展開なさい。私はあなたがそうしてくれるならば満足なのです。……

……但し、文脈上は勿論、御嬢さんへの恋情告白であることは、直前でKが奥さんや御嬢さんのことに異常な興味を持って先生を質問攻めにしていることからも自然ではある。

――であるから『表向き』は先生は100%、Kのお嬢さんへの恋情告白として記述している。――しかし――

――しかし漱石が先生同様に100%であったかどうかは――私は微妙に留保するものなのである……。

最後に言う。――Kは『正しく』御嬢さんへの思いを先生に告白した――という通常の解釈に戻して、である――

――ここでの先生は汚い。

Kの靜への恋情だけは遂に封印してあの世に持って行ったのだ! 先生の意識は遂に遺書からもKの靜への切ない御嬢さんへの思いをさえ駆逐してしまったのである!――

「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたやうなものです」私は初読の折り、梶井の「檸檬」を思い出した。「見る人を石に化したといふゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴオリウムに凝り固まつたといふ風に果物は竝んでゐる」という下りだ。メドゥーサの首を突きつけたみたような凄い比喩だなあと思ったものである。流石にこれは英文学者の日本語だわ、とも思ったものである。序でに言うと、この「魔法棒」は魔法使いの「コメットさん」の「魔法の杖」だわな、と思ったものである(初読の高校当時、小学校時代ファンだったドラマの「コメットさん」の女優九重佑三子のイメージが焼きついていたのである。私は当時、所謂、ボーイッシュな女の子が好みだったのである)。「魔法棒」は明らかに“the magic wand”の直訳語である。]

 

 

  先生の遺書

    (九十一)

 「二人は各自(めい/\)の室に引き取つたぎり顏を合はせませんでした。Kの靜かな事は朝と同じでした。私も凝と考へ込んでゐました。

 私は當然自分の心をKに打ち明けるべき筈だと思ひました。然しそれにはもう時機が後れてしまつたといふ氣も起りました。何故先刻(さつき)Kの言葉を遮つて、此方(こつち)から逆襲しなかつたのか、其處が非常な手落(てぬか)りのやうに見えて來ました。責(せ)めてKの後に續いて、自分は自分の思ふ通りを其塲で話して仕舞つたら、まだ好かつたらうにとも考へました。Kの自白に一段落が付いた今となつて、此方(こつち)から又同じ事を切り出すのは、何う思案しても變でした。私は此不自然に打ち勝つ方法を知らなかつたのです。私の頭は悔恨に搖られてぐら/\しました。

 私はKが再び仕切の襖を開けて向ふから突進してきて呉れゝば好(い)いと思ひました。私に云はせれば、先刻(さつき)は丸で不意撃(ふいうち)に會つたも同じでした。私にはKに應ずる準備も何もなかつたのです。私は午前に失つたものを、今度は取り戻さうといふ下心を持つてゐました。それで時々眼を上げて、襖を眺めました。然し其襖は何時迄經つても開きません。さうしてKは永久に靜なのです。

 其内私の頭は段々此靜かさに掻き亂されるやうになつて來ました。Kは今襖の向で何を考へてゐるだらうと思ふと、それが氣になつて堪らないのです。不斷も斯んな風に御互が仕切一枚を間に置いて默り合つてゐる塲合は始終あつたのですが、私はKが靜であればある程、彼の存在を忘れるのが普通の狀態だつたのですから、其時の私は餘程調子が狂つてゐたものと見なければなりません。それでゐて私は此方(こつち)から進んで襖を開ける事が出來なかつたのです。一旦云ひそびれた私は、また向ふから働らき掛けられる時機を待つより外に仕方がなかつたのです。

 仕舞に私は凝(ぢつ)として居られなくなりました。無理に凝(じつ)としてゐれば、Kの部屋へ飛び込みたくなるのです。私は仕方なしに立つて緣側へ出ました。其處から茶の間へ來て、何といふ目的もなく、鐵瓶の湯を湯呑に注いで一杯呑みました。それから玄關へ出ました。私はわざとKの室を回避するやうにして、斯んな風に自分を往來の眞中に見出したのです。私には無論何處へ行くといふ的(あて)もありません。たゞ凝としてゐられない丈でした。それで方角も何も構はずに、正月の町を、無暗に步き廻つたのです。私の頭はいくら步いてもKの事で一杯になつてゐました。私もKを振ひ落す氣で步き廻る譯ではなかつたのです。寧ろ自分から進んで彼の姿を咀嚼(そしやく)しながらうろついて居たのです。

 私には第一に彼が解しがたい男のやうに見えました。何うしてあんな事を突然私に打ち明けたのか、又何うして打ち明けなければゐられない程に、彼の戀が募つて來たのか、さうして平生(へいせい)の彼は何處に吹き飛ばされてしまつたのか、凡て私には解しにくい問題でした。私は彼の強い事を知つてゐました。又彼の眞面目な事を知つてゐました。私は是から私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くを有つてゐると信じました。同時に是からさき彼を相手にするのが變に氣味が惡かつたのです。私は夢中に町の中を步きながら、自分の室に凝と坐つてゐる彼の容貌を始終眼の前に描き出しました。しかもいくら私が步いても彼を動かす事は到底出來ないのだといふ聲が何處かで聞こえるのです。つまり私には彼が一種の魔物のやうに思へたからでせう。私は永久彼に祟られたのではなからうかといふ氣さへしました。

 私が疲れて宅へ歸つた時、彼の室は依然として人氣のないやうに靜かでした。

やぶちゃんの摑み:続く1月5日(土)前後の午後のシーン。この第(九十一)回から第(九十三)回までのKの告白後の先生の心の動きを整理する。ここで先生は「私」の側の正当性、即ち「私は午前に失つたものを、今度は取り戻さうといふ下心を持つてゐました」の謂い、

『御嬢さんを愛したのは私の方が先だ! 私の御嬢さんなんだ! 私だけの靜なんだ!』

という既得のものと先生自身が意識するところの正統にして正当な優先権と占有権の回復を図ろうとしているのである。ところが、現在の情勢を先生は同時に外部から客観的にも観察する。すると、Kは先生よりも逸早く御嬢さんへの恋情を告白したことで、Kは自らの御嬢さんへの愛情に優先権を獲得したとも言える事実に思い至る。如何にずっと先(せん)から御嬢さんを先生が愛していたと言っても、それは誰にも語られたことがない秘密であった以上、それは何者によっても証明され得ないのである。いや、不特定多数の第三者(総ての他者)から見れば、御嬢さんへの恋情を表明したKの方にこそ、先行優先権はあるように思われる。御嬢さんへの愛を先生という他者に告白したということは、その事実によって一種の公的認知の待機状態にあると言ってよい。先生にとってその劣勢は明白であったのである。

 この劣勢下、先生の意識下にあっては、遂にKの『親友』という概念は完全に消去され、Kを明白な『敵』として認識するようになる。それは「變に氣味が惡かつた」「自分の室に凝と坐つてゐる」先生が作り出してしまった――Kが御嬢さんを愛したのは先生がそうさせたことは、これまでの叙述によって最早明白過ぎるほど明白である!――フランケンシュタインの怪物ような「彼の容貌を始終眼の前に描き出し」、あの怪物の心「を動かす事は到底出來ない」と思う。そして「私には彼が一種の魔物のやうに思へた」、「私は永久彼に祟られたのではなからうかといふ氣さへ」するに至るのである。

 この三章の間、一見、先生は依然としてその心情告白を受けたKの『親友』として、フラットな見方から彼の心情を推し量ろうとしているかのように陳述しているが、実際には、現在の先生自身の極めて不利な劣勢状況を、あらゆる可能性をサーチしながら何とか好転させようと、その材料を探しているに過ぎない。狡猾なスパイの索敵の視線以外の何物でもないのである。ここに我々は先生の急激なエゴイズムの肥大を見ることになるのである。

「手落(てぬか)り」当て読み。普通は「手抜かり」。

「時々眼を上げて、襖を眺めました。然し其襖は何時迄經つても開きません。さうしてKは永久に靜なのです」この頗る映画的な静の映像が素晴らしい。この無音ながら剃刀のような緊張の画面を撮りたい!

「凝(ぢつ)として」後の「無理に凝(じつ)としてゐれば」の歴史的仮名遣の方が正しい。

「私は仕方なしに立つて緣側へ出ました。其處から茶の間へ來て、何といふ目的もなく、鐵瓶の湯を湯呑に注いで一杯呑みました。それから玄關へ出ました。私はわざとKの室を回避するやうにして、斯んな風に自分を往來の眞中に見出したのです」Kを中心に据えた時計回りの円運動である。

「斯んな風に自分を往來の眞中に見出したのです。私には無論何處へ行くといふ的(あて)もありません。たゞ凝としてゐられない丈でした。それで方角も何も構はずに、正月の町を、無暗に步き廻つたのです。私の頭はいくら步いてもKの事で一杯になつてゐました。私もKを振ひ落す氣で步き廻る譯ではなかつたのです。寧ろ自分から進んで彼の姿を咀嚼しながらうろついて居たのです」対位法(コントラプンクト)的映像である。

正月の往来の賑やかな人の群れ。群れ。(以下、カット・バックよろしく)

――羽子板をする晴れ着姿の娘たち。嬌声。

――凧揚げに興ずる少年の笑顔。笑い声。笑顔。

――年始帰りの人力車の紋付姿の紳士。

――門松。万歳。蓬莱。

その中を自棄になって歩く先生。

「私は是から私の取るべき態度を決する前に、彼について聞かなければならない多くを有つてゐると信じました」この叙述によって、Kの告白は極めて心情的なものに留まっており、プロポーズや結婚といったような奥さんや御嬢さんに対する何らかの実行行為や具体的な恋愛の将来性などについては全く触れられていなかったことが分かる。もしそうした事実が一つでもあれば、先生はその後の戦術上、必ずや記憶していたはずであり、それを遺書にも明記したはずだからである。何故なら、これ以降の遺書は実録の戦記であるからである。]

 

 

  先生の遺書

    (九十二)

 「私が家へ這入ると間もなく俥(くるま)の音が聞こえました。今のやうに護謨輪(ごむわ)のない時分でしたから、がら/\いふ厭な響が可なりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。

 私が夕飯に呼び出されたのは、それから三十分ばかり經つた後の事でしたが、まだ奥さんと御孃さんの晴着が脱ぎ棄てられた儘、次の室(へや)を亂雜に彩どつてゐました。二人は遲くなると私達に濟まないといふので、飯の支度に間に合ふように、急いで歸つて來たのださうです。然し奥さんの親切はKと私とに取つて殆ど無效も同じ事でした。私は食卓に坐りながら、言葉を惜しがる人のやうに、素氣ない挨拶ばかりしてゐました。Kは私よりも猶寡言でした。たまに親子連で外出した女二人の氣分が、また平生(へいせい)よりは勝れて晴やかだつたので、我々の態度は猶の事眼に付きます。奥さんは私に何うかしたのかと聞きました。私は少し心持が惡いと答へました。實際私は心持が惡かつたのです。すると今度は御孃さんがKに同じ問を掛けました。Kは私のやうに心持が惡いとは答へません。たゞ口が利きたくないからだと云ひました。御孃さんは何故口が利きたくないのかと追窮しました。私は其時ふと重たい瞼を上げてKの顏を見ました。私にはKが何と答へるだらうかといふ好奇心があつたのです。Kの唇は例のやうに少し顫へてゐました。それが知らない人から見ると、丸で返事に迷つてゐるとしか思はれないのです。御孃さんは笑ひながら又何か六づかしい事を考へてゐるのだらうと云ひました。Kの顏は心持薄赤くなりました。

 其晩私は何時もより早く床へ入りました。私が食事の時氣分が惡いと云つたのを氣にして、奥さんは十時頃蕎麥湯を持つて來て呉れました。然し私の室はもう眞暗でした。奥さんはおやおやと云つて、仕切りの襖を細目に開けました。洋燈(ランプ)の光がKの机から斜にぼんやりと私の室に差し込みました。Kはまだ起きてゐたものと見えます。奥さんは枕元に坐つて、大方風邪を引いたのだらうから身體を暖ためるが可(い)いと云つて、湯呑を顏の傍へ突き付けるのです。私は已を得ず、どろ/\した蕎麥湯を奥さんの見てゐる前で飮んだのです。

 私は遲くなる迄暗いなかで考へてゐました。無論一つ問題をぐる/\廻轉させる丈で、外に何の效力もなかつたのです。私は突然Kが今隣りの室で何をしてゐるだらうと思ひ出しました。私は半ば無意識においと聲を掛けました。すると向ふでもおいと返事をしました。Kもまだ起きてゐたのです。私はまだ寢ないのかと襖ごしに聞きました。もう寐るといふ簡單な挨拶がありました。何をしてゐるのだと私は重ねて問ひました。今度はKの答がありません。其代り五六分經つたと思ふ頃に、押入をがらりと開けて、床を延べる音が手に取るやうに聞こえました。私はもう何時かと又尋ねました。Kは一時二十分(ふん)だと答へました。やがて洋燈をふつと吹き消す音がして、家中(うちぢゆう)が眞暗なうちに、しんと靜まりました。

 然し私の眼は其暗いなかで愈冴えて來るばかりです。私はまた半ば無意識な狀態で、おいとKに聲を掛けました。Kも以前と同じやうな調子で、おいと答へました。私は今朝彼から聞いた事に就いて、もつと詳しい話をしたいが、彼の都合は何うだと、とう/\此方(こつち)から切り出しました。私は無論襖越にそんな談話を交換する氣はなかつたのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考へたのです。所がKは先刻(さつき)から二度おいと呼ばれて、二度おいと答へたやうな素直な調子で、今度は應じません。左右だなあと低い聲で澁つてゐます。私は又はつと思はせられました。

やぶちゃんの摑み:

「私が家へ這入ると間もなく俥の音が聞こえました。今のやうに護謨輪のない時分でしたから、がら/\いふ厭な響が可なりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました」若草書房2000年刊藤井淑禎注釈「漱石文学全注釈 12 心」の本箇所の注によれば、明治401907~)年代には人力車の車輪は既にゴム製、更にはチューブ式のものが一般的であったと記す。私は本シーンを明治341901)年に同定している。この頃はまだ人力車の車輪部分は枠が木製で鉄製タイヤ相当部分が鉄製であった(藤井氏注による)。底本注には斉藤俊彦「人力車」から引用して、『木製の車輪に鉄輪をはめこんだものが、明治四十年代を境として、次第にゴム輪に交代していくのである。当時、ゴム製造工業がようやく発達して、人力車タイヤが盛んに生産されるようになったという背景がある。明治四十二年ごろから、人力車にソリッドタイヤがつけられるようになり、わずか二年ぐらいの間に全国の人力車が使用するようになったようである。(中略)明治四十五年には(中略)九割までが金輪(かなわ)からゴム輪にかえられたという。そして四十五年ごろからソリッドタイヤからしだいに空気入りタイヤとなり、大正三年にはほとんど空気入りたいやとなった。』とある。我々は先生の遺書を読む時、明治301897~)年代の、こうした音風景の中にいることを意識する必要がある。

「まだ奥さんと御孃さんの晴着が脱ぎ棄てられた儘、次の室を亂雜に彩どつてゐました」この描写は玄関の次の間である。すると、先生はKに声を掛けてKの部屋を抜け、次の間から茶の間に入ったものか。しかし、昼にわざわざKを避けて出て行くほどに嫌悪している先生がそうするとも思えない。もしかすると茶の間と次の間の間は襖ではなく、下部がガラス障子になっていて茶の間に入った際に、そこが透けて見えたのかもしれない。

「蕎麥湯」そば粉を湯で溶いた飲み物。発汗を促して、風邪によいとされた。「坊つちやん」の「二」の淸(きよ)の描写部分に「母が死んでから淸はいよいよおれを可愛がつた。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思つた。つまらない、廢(よ)せばいいのにと思つた。氣の毒だと思つた。それでも淸は可愛がる。折々は自分の小遣いで金鍔(きんつば)や紅梅燒を買つてくれる。寒い夜などはひそかに蕎麥粉を仕入れておいて、いつの間にか寢ている枕元へ蕎麥湯を持つて來てくれる。時には鍋燒饂飩(なべやきうどん)さへ買つてくれた。」とある。

「無論一つ問題をぐる/\廻轉させる丈で、外に何の效力もなかつたのです」例の先生の「ぐるぐる」である。

「Kは一時二十分だと答へました。やがて洋燈をふつと吹き消す音がして、家中が眞暗なうちに、しんと靜まりました」私には何か不吉な気がするシーンである。何で不吉なのかは美味く説明出来ない。しかし不吉である。そもそもこの細かな午前1時20分という時刻は一対何か?――私は――根拠はないのだが――

Kの自殺は1:20に決行された

と漠然と感ずるのである。

「私は又はつと思はさせられ」たのは何故か? 勿論、このしぶりから、Kが最早、先生の助言を必要とせず、果敢に自ら御嬢さんへの恋の道を自律的に歩もうとしているのではないか? と先生が思ったからである。]

 

 

  先生の遺書

    (九十三)

 「Kの生返事は翌日になつても、其翌日になつても、彼の態度によく現はれてゐました。彼は自分から進んで例の問題に觸れようとする氣色を決して見せませんでした。尤も機會もなかつたのです。奥さんと御孃さんが揃つて一日宅を空けでもしなければ、二人はゆつくり落付いて、左右いふ事を話し合ふ譯にも行かないのですから。私はそれを能く心得てゐました。心得てゐながら、變にいら/\し出すのです。其結果始めは向ふから來るのを待つ積で、暗に用意をしてゐた私が、折があつたら此方で口を切らうと決心するやうになつたのです。

 同時に私は默つて家のものゝ樣子を觀察して見ました。然し奥さんの態度にも御孃さんの素振にも、別に平生と變つた點はありませんでした。Kの自白以前と自白以後とで、彼等の擧動に是といふ差違が生じないならば、彼の自白は單に私丈に限られた自白で、肝心の本人にも、又其監督者たる奥さんにも、まだ通じてゐないのは慥でした。さう考へた時私は少し安心しました。それで無理に機會を拵えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の與へて呉れるものを取り逃さないやうにする方が好からうと思つて、例の問題にはしばらく手を着けずにそつとして置く事にしました。

 斯う云つて仕舞へば大變簡單に聞こえますが、さうした心の經過には、潮の滿干(みちひ)と同じやうに、色々の高低(たかひく)があつたのです。私はKの動かない樣子を見て、それにさまざまの意味を付け加へました。奥さんと御孃さんの言語動作を觀察して、二人の心が果して其處に現はれてゐる通なのだらうかと疑つても見ました。さうして人間の胸の中に裝置された複雜な器械が、時計の針のやうに、明瞭に僞りなく、盤上の數字を指し得るものだらうかと考へました。要するに私は同じ事を斯うも取り、彼(あ)あも取りした揚句、漸く此處に落ち付いたものと思つて下さい。更に六づかしく云へば、落ち付くなどゝいふ言葉は此際決して使はれた義理でなかつたのかも知れません。

 其内學校がまた始まりました。私達は時間の同じ日には連れ立つて宅を出ます。都合が可ければ歸る時にも矢張り一所に歸りました。外部から見たKと私は、何にも前と違つた所がないやうに親しくなつたのです。けれども腹の中では、各自(てんでん)に各自の事を勝手に考へてゐたに違ひありません。ある日私は突然往來でKに肉薄しました。私が第一に聞いたのは、此間の自白が私丈に限られてゐるか、又は奥さんや御孃さんにも通じてゐるかの點にあつたのです。私の是から取るべき態度は、此問に對する彼の答次第で極めなければならないと、私は思つたのです。すると彼は外の人にはまだ誰にも打ち明けてゐないと明言しました。私は事情が自分の推察通りだつたので、内心嬉しがりました。私はKの私より橫着なのを能く知つてゐました。彼の度胸にも敵(かな)はないといふ自覺があつたのです。けれども一方では又妙に彼を信じてゐました。學資の事で養家(やうか)を三年も欺むいてゐた彼ですけれども、彼の信用は私に對して少しも損はれてゐなかつたのです。私はそれがために却て彼を信じ出した位です。だからいくら疑ひ深い私でも、明白な彼の答を腹の中で否定する氣は起りやうがなかつたのです