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鬼火へ


片山廣子集 縦書版へ

昭和六(一六三一)年九月改造社刊行『現代短歌全集』第十九巻版》 全


[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年九月十五日発行の改造社版『現代短歌全集』第十九巻に所収された「片山廣子集」は、大正五(一九一六)年三月二十五日に佐佐木信綱主宰の結社『心の花』の出版部門である竹柏会出版部発行東京堂発売の『心の花叢書』の一冊として刊行された片山廣子の第一歌集『翡翠』(かわせみ)と、昭和二十九(一九五四)年一月第二書房発行の第二歌集『野に住みて』の狭間に位置する、実質的な意味で第二歌集と言ってよい作品である。当時、廣子は五十三歳。
 本頁は原本を底本とした。底本に附されている表題及び著者近影、短冊についてはスキャンで読み込み、補正を加えた(近影は満足出来る程度には至らなかったが、私としてはどうしても彼女の写真を載せたかった)。詞書の前は底本では特に行空けはないが、判読し易くするために有意に空行を設けた。歌中に「輕井澤にて八首」という詞書が出現するが、これは底本では、その第一首である「霧ふかしうぐひすむせぶ……」の歌の末尾に丸括弧ポイント落ちで『以下八首輕井澤にて』記されているものである。如何にも無粋な処理であり(同巻の他の歌人の部分を見ると全集としての統一形式である)、私の判断で空行を有意に前後に入れ、且つ「*」を前後に附して、以上の( )注記も表現を変えて詞書として前へ出した。なお、一部の歌の後に私の注を附した。私のHPでは他に

片山廣子歌集「翡翠」 全
片山廣子歌集「翡翠」抄――やぶちゃん琴線抄五十九首――
片山廣子歌集「野に住みて」 全 附やぶちゃん注
片山廣子歌集「野に住みて」抄――やぶちゃん琴線抄七十九首――
片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》 
を用意している。【二〇〇九年五月六日】 注追加。二〇〇九年五月十六日】 縦書化に際し、表記の一部とルビ化を行った。【二〇一一年三月十日】



片山廣子集







片山廣子氏

   

[やぶちゃん注:直筆短冊。

くりおつるみねのほそみちゆきかへり
にかくうれしもひとりなること ひろ子

本歌は、本文に所収していない。「にかく」は「苦く」である。]


 

 

 

    はじめて六里が原にあそぶ

 

わがさきに夕だちすぎけむ熔岩のくづれたる路のいちめんのつゆ

 

わが上をひとむらの雲流れゆくむらさめをはりいま靑きそら

 

のぼり來し山のたひらにとんぼ飛ぶ谿にも山にも黄いろき日のひかり

 

小瀨溪にこの松山はつづくといふ松の葉光りどこまでも松の山

 

山あひの空の明るき日だまりにわれらの煙草のけむり尾をひく

 

あかるくて草とそらあり草のうへに時のわからぬ日のひかりつよく

 

赤砂の淺間のやまの山ひだに光るすぢあり陽にふるへつつ

 

尾のひかるしろきけもののかたちして雲一つとほる淺間のおもてに

 

雨遠くすぎ日のすきとほる草丘は一めんにほそきすすきの穗ばかり

 

草も日もひとつ寂しさのこの野はらに生きたる人もまじらむとする

 

靑くさの傾斜のむかふ大ぞらにひかる山山は荒浪のごとく

 

いきものはわれわれのみと思ひゐたる野原の遠くに牛群れて立てり

 

とほくて顏もみえざる野うしども野のところどころに時どきうごく

 

ならびゐて何ともいはずかぎりなき物たりなさにしづみゆく

 

八月の空氣の中に一ところわが心のまはり暗きかげあり

 

わがむすめそばなる母をわすれはて野原のなかにさびしげなるかな

 

雲を見るわが子の瞳くろぐろとこの野のなかに靜かなるかな

 

野のひろさ吾をかこめり人の世の人なることのいまは悲しも

 

野のとほくに雲のかげうごき一ぽんの樹のたつところも曇りたるかな

 

[やぶちゃん注:「六里が原」(=六里ヶ原)は淺間山の北東山麓一帶を指す地名。淺間山を見上げ、山頂からの鬼押し出しの溶岩流蹟がはっきりと見え、四方の眺望が素晴らしい。淺間山方向は天明噴火の影響から、植生が乏しく溶岩がむき出しであるが、下方にはカラマツ林が廣がる。廣子は第二歌集『野に住みて』では、この歌群を次の「日中」歌群の後に回している。『野に住みて』は各大パート(この歌群の場合「輕井澤にありて」)の中で、ほぼ時系列に順列されていると推定出来、私は歌柄から見ても、芥川龍之介の死後の孤獨感が反映されているように感じられる作品群(即ち、次の「日中」歌群よりも時系列に於いて後)といとりたい。本歌集では、夫の死後一年後と思われる比較的古い吟が途中に入っていたり、第一歌集『翡翠』の抜粋が最後に回っているなど、時系列での順列はなされていないと私は考えている。但し、廣子が芥川龍之介と一緒に六里ヶ原に行っていないという事実を確認していないので断言は出来ないし、軽井沢は馴染みであった廣子が、芥川とは無縁に芥川の生前に六里ヶ原に行った可能性も勿論、十分考えられはする。]

 

 

 

    日中

 

はれやかに沓掛の町の屋根をみるこの川ほとり人なく明るし

 

しみじみとわれは見るなり朝の日の光さだまらぬ浮洲の夏ぐさ

 

風あらく大空のにごり澄みにけり山々にしろき卷雲をのこし

 

板屋根のふるび靜かなる町なかにただ一羽飛ぶつばめを見にけり

 

さびしさの大なる現はれの淺間山さやかなりけふの靑ぞらのなかに

 

かげもなく白き路かな信濃なる追分のみちのわかれめに來つ

 

われら三人影もおとさぬ日中につちうに立つて淸水のながれを見てをる

 

しづかにもまろ葉のみどり葉映るなり「これは山蕗」と同じことを言ふ

 

土橋を渡る土橋はゆらぐ草土手をおり來てみればのびろし畑は

 

さびしさに壓されて人は眼をあはすもろこしの葉のまひるのひかり

 

あかるすぎる野はらの空氣まなつ日の荒さをもちてせまりくるなり

 

日傘させどまはりに日あり足もとのほそながれを見つつ人の來るを待つ

 

日の照りのいちめんにおもし路のうへの馬糞にうごく靑き蝶のむれ

 

[やぶちゃん注:公開はこれに先立つ(大正十四(一九二五)年)が、芥川龍之介の旋頭歌「越びと」の、

うつけたるこころをもちてまちながめをり。
日ざかりの馬糞ばふんにひかる蝶のしづけさ。

は、その心に於いて本歌との相聞歌であると言って異を唱える人は最早あるまい。]


 

四五本の樹のかげにある腰かけ場ことしも來たり腰かけてみる

 

しろじろとうら葉のひかる々ありて山すその風に吹かれたるかな

 

われわれも牧場のけものらとおあなじやうに靜かになりて風に吹かれつつ

 

おのおのは言ふことなくて眺めたり村のなかよりひるの鐘鳴る

 

友だちら別れむとして草なかのひるがほの花みつけたるかな

 

をとこたち煙草のけむりを吹きにけりいつの代とわかぬ山里のまひるま

 

[やぶちゃん注:片山廣子の親友であり、故芥川龍之介の弟子であった堀辰雄は、大正十四(一九二五)年の夏を輕井澤で過したが、その際、義父上條松吉に宛てた書簡類があり、それを後年、堀辰雄自身が整理して「父への手紙」として整理した際のメモが遺されている。そこにはこれらの歌群を指すと思われる『○片山廣子「日中」』という柱の下、『夏の末、片山夫人令孃、芥川さんと一緒にドライブした折の作』という記載がある。これは現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、同年八月下旬二三日~二七日頃の出來事である。廣子四七歳、芥川龍之介三三歳であった。先日来、感じていたことだが、この最後の一首、堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」の、私の愛してやまない、あの名文、

 

 その夕がたのことである。その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂って、ふいにそれを嗅いだりすると、なんだか身のしまるような気のするほどだった。だが、もうすっかり疲れ切っていた僕たちはそれにもだんだん刺戟が感ぜられないようになりだしていた。そうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんということもなしにこうして歩いて見るのをこんどの旅の愉しみにして来たことさえ、すこしももう考えようともしなくなっているほど、――少くとも、僕の心は疲れた身体とともにぼおっとしてしまっていた。

 突然、妻がいった。

「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあったのとは、すこしちがうんじゃない? ここのは、こんなに真っ白だけれど、あそこのはもっと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びていたわ。……」

「そうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くさそうに、妻が手ぐりよせているその一枝へ目をやっていたが、「そういえば、すこうし……」

 そう言いかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに、蘇らせ出していた。

 

にインスパイアされているような気がしてならないのである。]

 

 

 

    病める間島弟彦氏に

 

あけくれをいかにおはすとただ思ふさむく明るきこのごろの日は

 

[やぶちゃん注:間島弟彦(まじまつぎひこ 明治四(一八七一)年~昭和三(一九二八)年)は明治・大正期の銀行家。第十五国立銀行支配人にして歌人であった間島冬道(ふゆみち)の七男。廣子と同じ東洋英和学院卒業後、アメリカ留学、十五銀行に勤務。三井銀行に転じて横浜支店長から常務となった。父とともに歌人としても知られた。一九二八年三月二十一日五十八歳で逝去している。]

 

 

 

    閑居

 

靜脈のをぐろく見ゆるほそき手をひとりながむる日ぐれなりけり

 

庭の樹の葉ずれみだれて遠ぞらのゆふ日のひかりわが顏にあたる

 

ふくろふよなが遠ごゑさびしさを我みづからの聲ともきけり

 

 

 

    犬

 

いぬ走る夏ぐさの路を見てあはれわが顏にあたるひとつぶの雨

 

犬とわれとことなる路をゆくときに麥畑のをんな眼をみあげつつ

 

三匹の犬とほくの靑き路をはしるしろ犬よくろ犬よたのしくはしれ

 

 

 

    伊豆網代村にて

 

このやまに網代觀音おはしますしめやかに深く笹生ひしげり

 

 

 

    しろき猫

 

しろき猫くらき芝生をすぐるとき立ちどまりわれを見たるうに思ふ

 

りん鳴りていづこの門かあくらしきわが一人歩くほそ路のやみに

 

 

 

    かや山のうらへ

 

地獄谷けむりほのかに立ちまよふ晴れたるあさを山のぼりゆく

 

ちがや光る箱根の山のまろき峰すれすれにあさの雲來たりつつ

 

かぜも日もあたるままなるはだか木の木のもとに立ち富士を見にけり

 

しろじろとみやまは雪をかぶりつつあまりまぢかに大なるかな

 

わがたまに明るきゆめをあたへつる駿河をみれば靑きもや引けり

 

するが野の裾野は靑きもや引きてもやよりのぼるうすけむりあり

 

かや山のこの日だまりにひとりあればわが肩かけのくろく照るかな

 

叢林のもみぢのなかを胸しろき小鳥まひいでて駿河に下る

 

かれ草の中のむら鳥舞ひたちてひとりの我をのこしさりけり

 

 

 

    百合

 

極樂寺谷ゆりの根掘りおこしおくり來し翁つつがもなきや

 

わがめづる極樂寺村いまごろは冬日やはらかに鳥なきてあらむ

 

ときほどくわらづとの中のましろ百合やまつちのにほひ靜かなるかな

 

極樂寺つばきの谷にわれわれの住む家ほしとつねに言ひつつ

 

[やぶちゃん注:これらの「極樂寺」とは、鎌倉の極楽寺を指すと思われる。]

 

 

 

    生死

 

なほりなば嬉しからまむと君いひしその細きこゑ夜も日もきこゆ

 

生も死も神のままにとのたまひつなほいかばかり祈りたまひし

 

鎌倉も今よからむと二人して庭の春日を見てゐたりけり

 

花ぐもるこの曇り日をみ墓べの花たえまなく散りてあるらむ

 

雨の日も雪ふる日にもくすしたちの車のありしわが門なるを

 

われひとり取りのこされつ東京をけふまた見れば涙ぐましき

 

雨にぬれし新橋驛の石段をひさびさに踏めばさびしかりけり

 

人はみなかなしきまみに我を見てかげの旅びとと來しやとまどふ

 

君やががて君みづからのためにしも生くる日あらむと仰せたまひし

 

うれしくもひとの賴みしこの身はやおろそかにせむと思ふにはあらず

 

子ら二人われと向かひて茶をのめば父かへりたまふ夜のごと思ふ

 

たらちねの老いたる母のわがために泣きたまふ日を見んとやおもひし

 

 

 

    夕

 

神無月すすきを分くる道の上のそら靑ければことに寂しき

 

すすきのほ野にも丘にもひろがりてさやかなる日の夕べなりけり

 

物ほしうはたたよりなく迷ひ兒の泣きいづるごと泣かまほしけれ

 

まよひ來て富士あるそらをながめつつ夕野のいきをふかく吸ふかな

 

 

 

   一年を經て

 

身を一つをかなしきものに思ひそめやや遠ざかるなき人とわれ

 

人のため祈りし我はそのままに共に死にけむ物うしこの春

 

生きてあればのぞみもありとおほせつるその言葉さへむなしとおもふ

 

わかき日のさびしきをりに祈りつるその神神もとほくおもはる

 

イタリヤの古城に似たるさびしさの中に住むかなわがわかき子ら

 

我さきに死なばさびしくおはさむとわかき日のわれは言ひけるものを

 

あまつ星いと遠々しなき魂よこのごろもわれを護りたまふや

 

 

 

    輕井澤なる野澤の原にすみて

 

わたりし鳥しきりにとぶを見てあれば遠山の根のたそがれそむる

 

高原は夜ぎりにしづみわが上に星の夜ぞらのちかより來る

 

夜の山をいでてあそぶやかうもりの鳴く音ちかよる野のすみの家

 

しみじみと寂しうぞ見る遠山のはるかなる嶺の秋のしらゆき

 

おち髮ぞひとすぢのこるわが枕うす靑きあさのひかりに見れば

 

上のそら眞靑にすみて大あらしのはての卷ぐも山のうへをはしる

 

あめやみぬ山のすがたもあらはれて雲散りそむる夕べなるかな

 

電線はしきりにな鳴りぬ夕風のふきしをる野のいつぽんのみち

 

野のきりは黄ばみて見ゆれ雨の日の雲より來たるけふのたそがれ

 

 

 

    碓氷見晴台にのぼりて

 

いつぽんの樹もなき山のたひらなりねぼけたる鴉うへを鳴きゆく

 

山も山もかすみの中なるをながめたりどこを眺めても遠きとほき山

 

しめりかぜいちめんのくま笹に音をたつこの山も今かすみのなかならむ

 

仰むきにくまざさの中に寢たくおもふ笹の葉はさわぎすぐそこに空がある

 

すももの花みちにも峽にも降りつつあり峽をみおろして墓二つ立てる

 

遠みねのほのかなるいろの山ざくら散りつつやある山つちましろに

 

 

 

    扇谷にて

 

たのしくも餠くひてあり土工らはまひる日しろき路のかたはら

 

[やぶちゃん注:「扇谷」とは「おおぎがやつ」と読み、鎌倉の地名である。廣子は一時、ここに居住していた。]

 

 

 

   さびしくてあれば

 

あめつちにいたづらごとの多くありわが眼もむなしくくもりて死なむ

 

その日よりけふまでおなじこと思ふとつげなばわれを恐れたまはむ

 

人によりわがゆめみたるとしつきのそとに世界はめぐりたるかも

 

ながれたる二つの星のゆく道の遠ざかりつつかすかになほある

 

 

 

   大森のうた

 

蜘蛛かろく風にふかれて落ちてきぬわがまなさきに長くいとひき

 

をさなご我との心ひとところによりて夕べの星見えたりけり

 

ゆすぶるるぺんぺん草の根のあたり虫とびはねてつゆけかりけり

 

菫あかきいも掘りにけりほりおこす土もひえびえ秋ふかみつつ

 

わたり鳥ゆくかな空をはるばると我つかれつつ門入りくれば

 

くもり日の秋の日の消ゆるたそがれにばらしろじろと浮きてぞみゆる

 

ほのあかりただよふ空のかうもりよわが眼のうみし影かもなれは

 

かり穗ほす大野歩めばうすら日のもや和らかう心ぬくもる

 

ゆふぐもる冬菜の畑のくろつちに男ひとりゐて菜をたばねつつ

 

ごみを燒くけむりうす靑うけむりつつ北風ふけばゆるる椎の木

 

日のひかり靜かなるかなあてどなく見つむる我のまはりに滿てり

 

木せいはほのかににほひ木洩れ日のひかりこまかく苔にきえつつ

 

けふもまた空黄いろみてくるるなり風はやすまり我はさびしく

 

どくだみの花多くある崖のうへの二階の障子やぶれてあるかな

 

頰さむく坂をおりつつ枯枝の木の間にとほき夕やけを見る

 

 

 

    馬込

 

あたらし赤つちの路をおりくればわが眼のしたにかぜ吹くたけやぶ

 

 

 

    女

 

きみ死にてわれをば教へたまはりぬ人の死ぬるはみづからのため

 

 

 

    「翡翠」より

 

[やぶちゃん注:詞書によれば、以下は第一詩集『翡翠』からの抜粋ということになるのであるが、中には意外なことに『翡翠』に所収しない歌さえ含まれている。また、引用の順序も底本とは全く一致せず、漢字平仮名表記の異同が殆んどの歌で見られる(うるさくなるので特に注記は避けたが、意図的に――体系的に――多くを書き換えようとしているとしか考えられない程に多い。特に漢字から平仮名への置き換えが甚だしい)。以上の諸点を考えるならば、これはあくまで印象に過ぎないが、もしかするとこの選歌は原『翡翠』の歌稿に拠っている可能性があるとも言える。更に言えば、『「翡翠」より』という詞書によって、これらの歌を過去のものとしてカモフラージュし、その実、現在時制の自己感情を秘かに吐露したものと言えまいか? そうした視点から見ると、これらの歌は、実は第一歌集の廣子による自選という興味以上に、改めて意味深い歌群となって我々の前に立ち現れてくるのである。『片山廣子歌集「翡翠」全』を別ウィンドウで開いて、是非、対照されたい。]

 

靑き空ひかりに暗しくだる日に向ひてひろき斜面をのぼる

 

野を歩む我もめづらしうららなる天つ靑ぞら我が上にあり

 

灌木のかれたる枝もうすあかう靑木に交り霜とけにけり

 

なにとなく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり

 

人におそれ我にをののきわが心いとしのびかにいづこへか行く

 

かぎりなく憎き心も知りてなほ寂しき時はおもひいづるや

 

いぶかしみ世はわれを見るわたつみの底より來つる少女のごとく

 

神も死もややむつましきものとしぬこのごろ知りしさびしさの中に

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。]

 

朝霜のしろき松の葉ながめゐて人ゆるさむとかすかにおもふ

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。]

 

さまざまのよしなしごとを積上げし生命くづれむ日のはかなさよ

 

くしけづるこの黑髮の一すぢもわが身の物とあはれみにけり

 

此日ごろ我みづからをながめつつかなしびもしぬおどろきもする

 

大森のいと靜かなる山陰にあさゆふ我も祈りてあらむ

 

生死にかかはりあらぬことながらこの十日ほど心にかかる

 

身をまもる心起りしその日よりこの悲しみはわれに來りし

 

[やぶちゃん注:この歌、『翡翠』では、

身を守る心起りし其日より此かなしびは我に來りし

とで表記だけでなく表現も異なる。]

 

花も見ず息をもつかずいそぎ來しわが世の道をいまふりかへる

 

あくびして我にかへればやはらかきまつげのかあげに溢るる涙

 

鳥も鳴かず靜かなる日よわが魂のかそけき響そらにきこゆや

 

すみとほる光の底にやすらへる枯木を見つつ心しづけし

 

神います遠つ靑ぞら幕のごとふとひらかれて見つるまぼろし

 

わくらはのあくがれ心野を越えてわすれし路にふといでにけり

 

かさかさと野ねずみ渡る枯葉みち古りしけやきににほふ秋の日

 

ほんのりと月のさびしいゆふ方は涙をためて立つとも知らず

 

何となく心きよまる朝日かなこのくま笹の霜のしろさよ

 

われ君をめづと自ら欺きしそのゆめ覺めてなほ生きてあり

 

ふしぎなる人ごころかな香合のなかなる香をかぐここちする

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。「香合」は「かふごふ(こうごう)」と読む。香を入れるための小さな円形の容器を言う。]

 

ある夕べ迷ひきたりしこの思ひやど貸ししより追へども去らず

 

わがよはひ我がならはしも皆すててよみがへる日のあれとのぞみぬ

 

けふわれは指環わすれていで來つれ手ぶくろをとれば手のさむげなる

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。]

 

霜ぐもり色もなき日よ香水をまきて僅かに樂しむこころ

 

かりそめのなさけもうれしよろこびて憐みうけん我ならねども

 

やはらかき小夜着こよぎの中に埋もれて勞れたる眼をねむるもうれし

 

鳥のこゑ空にちらばるきさらぎの暖かき日に人まちにけり

 

極樂寺椿のまろ葉靑光る日にあたたまり浪のおとをきく

 

やぶかげのしげみが中のしろき花わがみほとけにたてまつらばや

 

日の光る木の間にやすむ小雀ら木の葉うごけば尾を振りてゐる

 

[やぶちゃん注:この歌、『翡翠』では、

日の光る木の間にやすむ小雀ら木の葉うごけば尾を振りてゐぬ

とで末尾の表現が異なる。]

 

つばめ來ぬ山の若葉に埋もれ住む遠方人のゆめ使かも

 

やはらかき涙ながれて知らぬ間に遠世の我の歸りきたりし

 

芝草のつめたき庭に星見ればをとめごころの又歸りくる

 

あなかなし一人いませる母をさへ女にしあれば見すてまつりぬ

 

わが心のせて流さむ小舟もが朝のかぜふく灰いろの海

 

折々はしらぬ旅人ひとつやどにあるかとおもふつまとわれかな

 

折々のよろこびおそれかなしみよ小さき花と散りて咲きて散る

 

しろき犬せなの卷毛のつややかに日に眠るかな芝も靑みぬ

 

たゆたはずのぞみ抱きて若き日をのびよと思ふわがをさなごよ

 

生死のいのちの瀨戸に立たむ日ぞまばたきの間に思ひいづべき

 

ふるびたる木ぼりの像にわが夢をそときかせ見んわらひいづべし

 

谷川に眠れる小石千年の夢さめむとき大海を見む

 

道づれに狐もいでよそばの花ほのかにしろき三日月のよひ

 

一人ゐてあまりつよくも物おもふ空にこゑして答へは來ずや

 

しろき花あかき花咲き蜥蜴など走りし庭のあるじを憶ふ

 

しろき雲白鳥なして二つゆく欅さゆらぐ上の靑ぞら

 

何となきただ一言をかぎりなく味はひて見つ眠るをわする

 

湯のたぎる火鉢に倚りて只一人風吹く空の靑きに見入る

 

あたらしき人をあらたに戀しえむ若さにあらばうれしからまし

 

うつせみは木より石よりさびしけれこのますぐなるさがをすてばや

 

何ならぬ帶もとめ得し今日もなほ我がよろこびの日にかぞへばや

 

ああねずみよるをいのちの汝がむれの盜みて食めと思ふわがおもひ

 

わがゆめに折々みえし白鳥の羽音す春のほのぐらきあさ

 

このめしひ手びきの人を待ちわびぬ風は西吹き又みなみ吹く

 

こよひ我このたたかひに勝ち得ぬと神の御座みくらに灯のともるらむ

 

大わたつみ踏みてわたらむ信もなし立ちてはかなくただのぞむかな

 

白鷺の幅のまへなるしろつつじ朝のねどこにほのかにぞ見る

 

[やぶちゃん注:この歌、『翡翠』には所収しない。いや、それどころかこれは、昭和二十九(一九五四)年刊第二歌集『野に住みて』に、「軽井沢にありて」大歌群に「しろき蛾」という詞書で「つるや旅館、もみぢの部屋にて」という芥川龍之介追想の確信犯的エピグラフを持って出現する歌群の冒頭の一首、

白鷺の幅のまへなるしろ躑躅ほのかなるかな朝の目ざめに

の完全な類型句である。勿論、この一首が廣子にとって古馴染みであった、芥川龍之介と邂逅する以前の、遠い以前の、「つるや旅館」での体験でなかった、とは言えない、言えないが、私はこれは、『翡翠』の時代の句ではない、と思う。即ち、廣子は嘘をついてまで、この一首をここに入れたかったのだ――そこには抑えても抑えきれない芥川への追慕の念があったから、ではなかったろうか。]

 

うたがひも恐もしらに物いひし春の日おもふ二人向へば

 

この日まで塵もすゑじと守りつる心二つにひびわれにけり

 

一すぢのわが落髮を手にとれば小蛇のごとく尾をまきにけり

 

死のかげの谷間をゆきてひろひつる黑き眞珠またまをいまも抱きて

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。]

 

きりぎりすものの寂しきあけがたを昔の人もききし音に鳴く

 

限りなく疲れたる眼にながめけりわががつまさきのなでしこの花

 

かすかなるなげきの聲は誰かきく糧にこと足りやすげなる子の

 

人並にものを思ひて人なみにたのしみを得るさがにもあらば

 

くだものと古き心は捨てて見む鳥やついばむ人や踏みゆく

 

人によりくるしくにがき世々を知りて滿ちたるいのち長くあらすな

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。]

 

ことわりも教も知らず恐れなくおもひのままに生きて死なばや

 

はかなうも女の淺き心もてただかりそめに戀はせしかど

 

さまざまのわが思ひをばになひ來しこのうつし身も捨てがたきかな

 

ゆめもなく寢ざめ寂しきあかつきを魔よしのび來て我に物いへ

 

あさましな過ぎ來し道を見かへればただわが影をわれ抱き來ぬ

 

ゆるしがたき罪はありとも善人の千萬人にかへじとぞおもふ

 

虫の音も風にみだるる夜の園を三たびめぐりて胸をさまりぬ

 

たやすうもきずつく心われ持つと知るや知らずや針さして行く

 

あふれいづる涙の川にわが心洗ひて見ればしろくありけり

 

うらわかき我がほそ指にはめられし指環もよごれ疵つきにけり

 

百とせも共に住むべき人をさへ憎む日ありとおもふに堪へず

 

いはけなき髮かきなでてをみなてふうつくしき名の君をかなしむ

 

七本の棕梠の木の間に月させば君を送ると倚りし門の扉

 

何となき物のすさびにゆめみつる夢の人とも異なれるかな

 

月の夜やなにとはなしに眺むればわがたましひの羽の音する

 

幾千の大木ひとしく靜まりて月の祝福めぐみをうくるこのとき

 

世のほかの尊き人と語りつるかの夏の夜のくらき山でら

 

からたちもいとやはらかに芽をふける靑き垣根の家なりしはや

 

人の世の掟は人ぞつくりたる君をおもはむ我がさまたげに

 

いづくにか別れむ路にいたるまで共に行かんとおもひさだめき

 

みちたらぬわかき心天地に知らざる神をよびていのりし

 

しみじみとうるほへる眼にわれを見る小犬は切に物いひたげに

 

飴うりを子らは追ひゆく秋の日の流るる道にのこる笛の音

 

沈丁花咲きつづきたる石だたみ靜かにふみて扉の前に立つ

 

たばこの香すこし殘れる部屋にゐて歸りし人を思ふあめの日

 

わがやまひ大かたいえしこの秋のそら渡るとり汝を見るもうれし

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。但し、廣子が罹患した大病については『翡翠』刊行以前のものが知られており、これは『翡翠』歌稿にあったものと考えられる。]

 

ちひさなる稻荷の宮のうす月夜桐の花ふみてあそぶ野ねずみ

 

こすもすや觀音堂のぬれ縁に足くづれたる僧眠りゐぬ

 

椿落つほこらの前の靑ぐろき水のおもては物音もせず

 

ぼやけたる光の中に海はありかれくさ原の艸やきてゐる

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。]

 

五日月沈まむとする春の夜を森のふくろがひとりごといふ

 

くろき雲のはしにふれたる星一ついま沈みたりくるる大ぞら

 

よひの海に灯が一つあり埋立地くろく平らによこたはるかな

 

秋の雨ひくき二階の窓あけてよごれたる子らの顔二つ出る

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。しかし長男達吉と長女總子と思われる幼い二人の子から、『翡翠』刊行以前のものと考えてよい。]

 

ちひさなる人形國の客人に小猫も交り叱られにけり

 

うなゐらの遊べる中を狐つきうり食みて來ぬ夏のゆふぐれ

 

女らはほそき帶して物くへりあひるの騷ぐとなりの家に

 

八重洲河岸河岸の夕日に石きざむシヤツ黄ばみたる人々のむれ

 

霜ぐもるみそらに交る工場のけむりを見つつ品川をすぐ

 

埋立地やや色かはる夏ぐさにちひさき橋はせなかいだせる

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。しかし、私には首前にある埋立地を読んだ印象的な一首との連関性が感じられる。]

 

あさの日は枯木に交る椎の葉にうすらに光りこもる鳥が音

 

菊の影大きくうつる日の縁に猫がゆめみる人になりしゆめ

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。]

 

月見草みな上むきて夕ぐれのうすらあかりに月まちてゐる

 

ひそやかに落ち葉の上を踏むかとも靜かなる夜のあめの音かな

 

つまづきし一人の人を惜しむかな大き都のほろびつるごと

 

さまざまの形の石は水仙のかげなる水にしづみてありけり

 

吾子がめづる土の子犬のかはゆさよおなじ顏していつも我をみる

 

我が世にもつくづくあきぬ海賊の船など來たれ胸さわがしに

 

ゼズイトの僧渡り來し日の如くあやしき聲ぞ我が胸に入る

 

 [やぶちゃん注:「ゼズイト」はラテン語 Societas Iesu の前部の音訳で、イエズス会のこと。キリスト教カトリック教会の男子修道会。フランシスコ・ザビエルは創設者の一人。]

 

よなべするわらやの窓の細あかりほのににほひて野には霧ふる

 

はだしの子三四人して椎ひろふわが生垣のそとのほそみち

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しないが、『翡翠』時代の後期の廣子の作風ではある。]

 

草原のくぼ地にたまる水たまり雲一つちる神無月かな

 

枯尾花きよき空氣にすき透る十一月の野はあたたかに

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に、

枯尾花淸き空氣にすき透る十一月の野のあたたかに

の形で所収する。第四句の助詞の用法が異なる。]

 

曼珠沙華肩にかつぎて白狐たち黄なる夕日にささめきをどる

 

はばたきて下り來る鳩を數へゐぬ冬ともあらぬ淸き天つ日

 

幽靈もほそき裾して歩みくや夜のうすもやに月あかりする

 

芝草にかげろふ立ちて梅の散るしづかなる日よいま二時を打つ

 

おもひなくて秋の朝あけ死なん身か占なひ人よわれをうらなへ

 

しづ心ものも思はず野をあゆむあまぐもるみそらしたしまれつつ

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。]

 

君まさぬ名越の山のさびしさよ去年のままなる道を來しかど

 

[やぶちゃん注:この「名越」は恐らく「なごえ」と読み、鎌倉の東の外れ、逗子との境に位置する地名を指しているものと思われる。]

 



 

  輕井澤にて八首

 

霧ふかしうぐひすむせぶ雜木原とつくに人に路とひにけり

 

朝風に霧はれゆけば山つばめ木の葉のごとく吹かれて舞ひぬ

 

山羊の子は流のふちの桑の葉もはみ飽きたるか我により來る

 

夕もやに顏うかせたる花あざみ寂しき息を野にただよはす

 

月見草ひとりさめたる高原の霧にまかれて迷ひぬるかな

 

日ごろ我が思はぬ人もいとこひし日の入りあひにみやまどり鳴く

 

朝ぎりの底に夢みる高き木にうぐひす鳴けばわが心覺む

 

[やぶちゃん注:『翡翠』の「輕井澤にてよみける歌十四首」からの抜粋。やはり一部に平仮名表記への変更が加えられている。]

 



 

雲のかげ遠野をはしるまひる時みねに立ちつつ我がいひしこと

 

はらはらと葉の落つる時ほのあかき木の間の夕日靜かなるかな

 

夕ぞらに立ちたる杉のさびしさよ日にも風にもとりのこされぬ

 

つれづれに小さき我をながめつつ汝なにものと問ひて見つれど

 

なき人のある日のまみをおもひいづくろき日傘の中のわがゆめ

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。下の句「くろき日傘の中のわがゆめ」というイメージとその言辞といい、これは『翡翠』以前の歌柄ではないと思う。私はこの「なき人」を、種々の条件から推して、高い確率で芥川龍之介であると思う。]

 

星が飛ぶいづこへか飛ぶ天の川水ほのじろき夜の大ぞらに

 

秋の風あかつき吹けば我が魂も白き羽負ひとほき世に行く

 

朝霜や小錢こぜにと飯と持ていにし夜のぬすびとをあはれみにけり

 

ふと行きて歸らぬ人よたなそこを滑りて消えし玉ならなくに

 

その人のぬけたるのちの歴史こそ白紙のごとく何もなきかな

 

はげしうも降り來る雨の音の中に我と心のいさかふ夜なり

 

瀨戸ひばち湯はたぎるなりわがそばにしろき蛾の來たりたたみにとまる

 

[やぶちゃん注:この歌、『翡翠』には所収しない。いや、それどころかこれは、昭和二十九(一九五四)年刊第二歌集『野に住みて』に、「軽井沢にありて」大歌群に「しろき蛾」という詞書で「つるや旅館、もみぢの部屋にて」という芥川龍之介追想の確信犯的エピグラフを持って出現する歌群の掉尾の一首、

せと火鉢湯はたぎるなりわが側にしろき蛾の来たり畳にとまる

のほぼ完全な相同句である(漢字表記を無視すれば一切は相同である)! この一首は最早、廣子にとって古馴染みであった、芥川龍之介と邂逅する以前の、遠い以前の、「つるや旅館」での体験であったなどと言える人は一人としていまい。「白き蛾」は間違いなく芥川龍之介である。彼女が泊まった「つるや」の「もみぢ」の部屋は芥川の定宿であった。即ち、廣子は確かに嘘をついてまで、この新たな一首をここに入れたかったのだ――そこには明白に抑えても抑えきれない芥川への追慕の念があったから、という私の先の推理は誤っていなかったと言えないか!?]

 

かしこしと常にあふぎし其人のあやまち聞けばふとよろこばる

 

わが夢の海の白帆とふと浮ぶまぼろしびとのおも戀しけれ

 

枯木なほ白玉の花咲かせけり我が心をもかざりて見ばや

 

百年の前に死にける我ならむふと歸り來し見知らぬひとは

 

いく春か花は散りけむ眼を閉ぢて人の掟てし道をゆく間に

 

世の中の人のよろこびかなしみもよそぐにのこととききて病みつる

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。]

 

ひえびえと降りにふりくる雨のすぢ土のはだへにしみ透るかな

 

温かう物なつかしう頰にあつ駱駝の毛にもよきかをりする

 

よろこびとゆめとつづける我が世かな髮しろうなりやがて死ぬまで

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。]

 

鳥の巣の中よりあふぐ心地しぬ若葉のひまのいと靑きそら

 

をみななれば夫も我が子もことごとく身をかざるべき珠とおもし

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に、

女なればつまも我が子もことごとく身を飾るべき珠と思ひぬ

の形で所収する。ルビ及び第四句の助動詞の用法が異なって、微妙である。]

 

その日しもいろなき頰のあかむまで胸のをどりてよみがへりぬる

 

わかき日の強き心よくもり日もなほ空を見し淸き眼よ

 

おしなべてことくにびとの中にあればさびしき心われは言はざらむ

 

[やぶちゃん注:本歌は『翡翠』に所収しない。これは『翡翠』時代の歌柄とは微妙に異なるように思われる。いや、実際に古い歌であったとしても、彼女がこれを新たに選んだ底には、確かな反戦的な意識が響いているように感じられるのである。]

 

をさなごの眠りのうちのほほゑみとふと來りふと消えしよろこび

 

この思ひこの道のべに捨てていなむ花咲きみのる日よ來ずもあれ

 

老いぬれどむなし心のまづしさにいつはりをさへよろこびて聞く

 

生くる我とゆめみる我と手をつなぎ歩みつれぬ倒れて死なむ

 

子猫ならば遠野のやみに捨ててまし我がむねに來て何か啼くこゑ

 

わが指に小さく光る靑き石見つつも遠きわたつみを戀ふ

 

ひらけたるほそき路かなわが心行くにもあらずなほたゆたへり

 

よろこびかのぞみか我にふと來たる翡翠のはねのかろきはばたき

 

 

 

後記

 

片 山 廣 子

 

 大正五年に歌集「翡翠」を出した前後まで私は歌に熱心であつたやうだが、その翌年あたりからだんだん作らなくなつてしまつた。これはちやうどその時分から外國文學の飜譯に興味をもち始めた爲もあり、また熱情のない自分の歌が次第にマンネリズムに堕してゆくのに自分ながら不滿を持つたためもあらう。
 大正七八年ごろに作つたものは私がアイルランド民謠のなかでよみなれた即興詩風のものでそれもごく僅かしかない。それから後の十何年まるきり歌に縁なきものとなつてゐた。いま十日ばかりの日数で過去の歌全部を揃へようとしてみたが僅か百數首しかみあたらない、それを選んだりするとなほ少なくなるから、殆ど全部をそのまま入れることにした。
 過去のある時竹柏園門下で歌を學んだといふそれだけのことで私のあまり僅少な作品を専門家のもののあひだに竝べるのは、すこし厚かましく思はれるけれど、今後私が歌集を出す希望もないのだし、いまの機會に自分の歌をまとめておいた方がいいやうに思つて編輯者の好意を御遠慮しないことにした。
 集中、「日中」が大正十四年、「六里が原」が十五年作、間島氏におくる歌が昭和三年作、その後今日まで一首もない。「百合」の歌が大正七年頃の作で「翡翠」の歌のつぎに古いものであり、そのほかはそのあひだにはさまるものてある。「生死」「夕」の二つは大正九年である。「大森のうた」はをりをりに作つたものをあはせてあるから時が分らない、大ていは大正八年ぐらゐまでと思ふ。



年譜

明治十一年

束京麻布に生る、埼玉縣の人吉田一郎の長女。


明治二十九年

佐佐木信綱の門に入り作歌に志す。


明治三十二年

新潟縣の人片山良次郎と結婚。


大正五年

歌集「翡翠」を出版。同年ごろより鈴木大拙夫人ビアトリス指導のもとに初めてアイルランド文學に親しみ、爾來松村みね子の名を以て飜譯を事とし、次第に歌から離れた。


片山廣子集《昭和六(一六三一)年九月改造社刊行『現代短歌全集』第十九巻版》 全 完