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鬼火へ

片山廣子歌集「野に住みて」 全 附やぶちゃん注  縦書版へ

 

[やぶちゃん注:以下は、片山廣子の第二歌集『野に住みて』(昭和二十九(一九五四)年一月二十五日第二書房発行)の目次・奥付を除く全文である。詞書については、最も大きな歌群パート主題を二字下げポイント上げ、その中の歌群主題を三字下げとし、更にそれにポイント落ちのエピグラフがつく場合は、前の詞書と同ポイントで、四字下げとした。底本では漢字の「黑」の字体の一部が新字体となっているが、筆者の書き癖ではなく、印刷会社の活字の問題と判断し、正字に直した。なお、一部の歌の後に簡単な注を附したが、特に地誌的歴史的内容については、人によっては無用な蛇足とも見える方、逆に注がないのを不親切に思われる方もいるかと思う。これは私自身にとって不分明・不確かなものを中心に選んでいるからと理解されたい。同書のカバー・表紙と背と裏表紙・中扉・中扉写真の画像をスキャンして読み取り、挿入した。その際、原本の汚損が激しいため、写真以外には相当な汚損除去の補正を加えてある(カバー写真の右上の破損が写真に及んだ部分は除去していない)。更に、扉写真の「濱田山の家」は「栗田享撮影」というクレジットが入っているが、撮影者の著作権の確認は行っていない。カバー写真の撮影も恐らく同じ人物によるものと思われるので、著作権者からの指摘がなされた場合には、この二枚の画像は撤去する。同様に、中扉の表題下の絵も作者・著作権共に不明であるが、これは明らかに表題用として一体のものとして描かれており、本書の一部と見做すべきものと思われる。なお、一部の歌の後に私の注を附した。私のHPでは他に

片山廣子歌集「翡翠」 全 

片山廣子歌集「翡翠」抄――やぶちゃん琴線抄五十九首――

片山廣子集 《昭和六(一九三一)年九月改造社刊行『現代短歌全集』第十九巻版》全 

片山廣子歌集「野に住みて」抄――やぶちゃん琴線抄七十九首――

片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》

を用意している。【二〇〇九年五月十六日】

「人に打たれ」の歌に新知見による補注を施した。【二〇一〇年一月四日】

縦書化に向けて注の表記の一部を改造した。【二〇一一年二月二十七日】]

 

 

[やぶちゃん注:カバー。必ず冒頭注参照のこと。写真中の棕櫚から左の表紙部左表題「歌集 野に住みて 片山廣子」の「み」の脇にまで伸びている。茎のように表題に伸ばした線が、さりげなくお洒落である。この直線は写真中の棕櫚の葉柄の中心部辺りまでしっかり写真上に印刷されており、確信犯のデザインである。]

 

 

[やぶちゃん注:表紙・背「歌集 野に住みて 片山廣子」・裏表紙。補正したためにこの画像では殆んど消えいているが丸背の下部には、カバーの背の下部にあるものと同じ出版社の第二書房のロゴが、同じ位置に同じ大きさで無色で凹凸に押印されている。]

 

 

[やぶちゃん注:中扉表題。「歌集/野に住みて/片山廣子」「株式會社/第二書房」。必ず冒頭注参照のこと。]

 

 

[やぶちゃん注:中扉後の写真。片山廣子の「濱田山の家」。「栗田亨撮影」のクレジットが入っている。必ず冒頭注参照のこと。この家、とんでもなくモダンではないか。]

 

 

 

野に住みて 片山廣子

 

 

 

 東北にて 昭和十六年――十八年

 

   東北にて

 

東北に子の住む家を見にくれば白き仔猫が鈴ふりゐたり

 

胡桃の樹さはに實をもつ坂みちのふるき石段おりてゆくなり

 

わがむすめの庭の樹すべてわか木にて廣瀨川のみづ町をゆく見ゆ

 

大野はら千歳の驛にわが待てば林檎をのせて靑森の汽車

 

[やぶちゃん注:「千歳の驛」は山形県の仙山線羽前千歳うぜんちとせ駅か。]

 

三十分汽車まつとわが歩きつつ千歳の町に大き梨を買ふ

 

かぜに日に樹樹さらされて色深む神無月なり陸奥むつの山ゆく

 

たまきはる生命たのしみみちのくの鳴子なるごの山の紅葉みむとす

 

[やぶちゃん注:「鳴子」は、陸羽東線の鳴子なるこを指すか。「燈火節」(昭和二八(一九五三)年六月暮らしの手帖社刊)の随筆「東北の家」にも、

たまきはる生命たのしみみちのくの鳴漢なるかの山のもみぢ見むとす

の表記で所収する。その作品本文によれば、昭和十七(一九四二)年十月、廣子六十四歳の時、仙台にて小旅行への旅立ちの際の一首である。地図上からの推測であるが、前の「大野はら」の歌から、一行は、仙山線で仙台を出発、山形県山形市の終点羽前千歳駅で奥羽本線に乗り換えて北上した後、山形県新庄市新庄駅で陸羽東線りくうとうせんに乗り換え、終点小牛田こごた駅から東北本線を南下して仙台へ戻るというルートを取ったように見受けられる。]

 

安倍の子ら荒きうからが戰ひしこの山國のまあかき紅葉

 

[やぶちゃん注:「安陪の子ら」は、陸奥の豪族として覇権を握った安倍頼時、特にその子であった貞任・宗任兄弟を指している。永承六(一〇五一)年から康平五(一〇六二)年にかけて、彼等が朝廷に対して起した反乱を、官軍として追討派兵された源頼義・義家父子軍が仙北で展開した前九年の役を主題としている。]

 

いやはてのいのち燃えつつもえ散らむ出羽いではの山の今日のもみぢ葉

 

平らかに小川流れてもみぢ濃き瀨見の湯の山たそがるるなり

 

[やぶちゃん注:「瀨見の湯」は山形県最上郡最上町、陸羽東線瀬見温泉駅にある温泉。伝説によれば、義経が平泉落ちの途次、北の方が産気づいて、産湯を探した弁慶が長刀の柄で水蒸気の出る岩を叩き割って噴出させたという由来を持つ。]

 

繪のやうなりと一言にいひし松島の靑波こひしかの島島も

 

 

 

   秋夜

 

    鹽釜の町をあるきて

 

滿月もちの夕べうす霧まける港町は魚のにほひす路にも橋にも

 

鹽釜のみやしろ高くのぼりしに海のいさり火きらめき初めぬ

 

りんご賣り梨うる夜店は電氣あかり明るしうしろに泊るからつぽの船

 

 

 

   中尊寺

 

ほのかに光りたたずみいます御佛よみちのくの山に老いたまひける

 

そのかみの日本につぽんの長者藤原氏のみたまら休む山に來にけり

 

經藏の金泥の經はいまの吾にかかはりもなく古りにけるもの

 

大杉もうごく日光ひかり閑寂しづかなる山寺の路にわれはよそびと

 

山栗のおち散らばりし坂路より田の面をみれば田に人もなく

 

山に添ふ白き川原を水ながれ何のことなくひかりて流るる

 

東北の山寺のなかにわが觸れし虚無の感じを秋風に吹かす

 

[やぶちゃん注:本「中尊寺」歌群は、「燈火節」(昭和二十八(一九五三)年六月暮らしの手帖社刊)の随筆「東北の家」から、昭和十六(一九四一)年十月の作と推定される。]

 

 

 

   仙臺にて

 

丘のうへはしだり櫻の花咲きみち東北の都市みやこ日もきよらなる

 

[やぶちゃん注:昭和十八(一九四三)年四月中旬の作。「燈火節」(昭和二十八(一九五三)年六月暮らしの手帖社刊)の随筆「東北の家」にも所収し、その作品本文によれば、仙台にある『躑躅が丘』、現在、榴岡つつじがおか公園と呼ばれる桜の名所での嘱目吟と推定される。ただし、随筆の方では、

丘のうへはしだり桜の花咲きみち東北のみやこ日も淸らなる

と二箇所の表記が異なる。]

 

ましろ花こぶしの花が空をおほひ香煙ながるる政岡の寺

 

[やぶちゃん注:「政岡の寺」は仙台市宮城野区にある日蓮宗東北総本山考勝寺を指す。歌舞伎「伽羅先代萩」で幼君鶴千代を守るために、自分の子供を犠牲にする有名な政岡のモデルとされる、三代藩主伊達綱宗の側室四代藩主綱村(幼名亀千代)の生母三沢初子の墓がある。「燈火節」(昭和二十八(一九五三)年六月暮らしの手帖社刊)の随筆「東北の家」に、前の歌を詠んだ『躑躅が丘』の花見をした後、『丘の中ほどにある政岡の寺といふのを見た。大きな辛夷の木が一ぽん立つてゐて、無數の白い花が靑ぞらを覆ふやうに咲いてゐた。寺の中からはお線香のにほひがしてお經の聲がもれて來る。ここに來てえらい政治家政岡の話を考へ、辛夷の花の下の古い寺を見ると、芝居に出る忠義の見本みたいなつまらない人形ではなく、彼女の本物はもつと美しくお色けもあり、時々は好ましい笑顏も見せたことと思はれる。すばらしい腕をもつてゐた人にちがひない。』とある。如何にも廣子らしい想像で微笑ましい(底本は新字であるが恣意的に正字に直した)。]

 

 

 

   石の卷

 

入海の淺瀨の水草日にねむる手樽てだるの驛をわが過ぎにける

 

入海いりうみの淺瀨の水草みくさ日にねむる手樽てだるの驛をわが過ぎにける》

 

[やぶちゃん注:以下総て昭和十七(一九四二)年十月の作。「燈火節」(昭和二十八(一九五三)年六月暮らしの手帖社刊)の随筆「東北の家」により同定。「手樽の驛」の「手樽」は通常「てたる」と呼称し、宮城県宮城郡松島町手樽字茨崎にある仙石線の駅名。松島湾の最奥に位置する。随筆「東北の家」には、以下のこの「石の卷」首群の多くが再録されている。その直前では、石巻の日和山を訪れた後、その裏山に小野小町の墓と伝えるものがあると聞いて(実見は出来ず)、『小町はふるさとの土を踏むため果してどの辺まで歩いて來たのだらうか? 何か心のゆかりを求めての旅であつたと思はれる。この日めづらしく私は歌を詠んだ。』と記す(底本は新字であるが恣意的に正字に直した)。随筆「東北の家」所収のものは一部表記が異なるものがあるため、異なるものについては随筆「東北の家」版のものを《 》で示した。但し、本歌集所収の表記を参照にして正字に直してある。]

 

をはり悲しく田道たぢ將軍が眠りいます蛇田へびたよけふは秋の日のなか

 

《をはり悲しく田道たぢ將軍が眠りいます蛇田よけふは秋の日のなか》

 

[やぶちゃん注:「燈火節」(昭和二十八(一九五三)年六月暮らしの手帖社刊)の随筆「東北の家」にも所収する一首で(本文では、この一首だけ別に先行して出る)、その作品本文によれば、昭和十七(一九四二)年、仙台から石巻への旅の途次、仙石線蛇田へびたでの車中吟である。「田道將軍」は「たみち」とも読み、仁徳天皇の御代に蝦夷えみしが反乱を起したのに対して、派遣された上毛かみつけの田道将軍のこと。蛇田村禅昌寺の近く、仙台への街道沿いに古墳があり、古来、「瓶塚」と呼ばれ、田道将軍の墳と伝えられている。「蛇田」という地名は、善戦空しく戦死した田道を、敵ながら天晴れと前線の兵士であった三人の蝦夷たちが憐れんで埋めたところ、非情な蝦夷の頭が怒って、その墓を暴こうとした。すると墓穴から大蛇が出現し、蝦夷の兵を悉く殺し尽くした。ただその埋葬した三人だけが助かったという話によるとする。]

 

みちのくの海邊の家にみだれ咲く黄菊しら菊すためにありとも

 

《みちのくの海邊の家にみだれ咲く黄菊しらぎくすためにありとも》

 

まひるまの空氣騒がして鷗とぶ船つくり場の黑き屋根のへ

 

眞昼間まひるまの空氣騒がして鷗とぶ船つくり場の黑き屋根のへ》

 

昼食ひるげせむ家たづねつつ鷗飛ぶ裏町をゆき橋わたり行き

 

水に立つ石垣ふるく黑ずみて秋日のなかに白きかもめら

 

海かぜも日もまともなる丘の上に大洋おほうみにむく神のみやしろ

 

《海かぜも日もまともなる丘の上に大洋おほうみに向く神のみやしろ》

 

石の巻日和山ひよりやまのうへにわが見たる海とそらとの異なる日光ひかり

 

《石の巻日和山ひよりやまのうへにわが見たる海とそらとのことなる日光ひかり

 

靑海の波に一すぢかげりあり北上川の水流れ入る

 

《靑海の波にひとすぢかげりあり北上川の水流れ入る》

 

大洋は秋日まぶしくいにしへの伊峙いし水門みなとを船出づるけふも

 

大洋おほうみは秋日まぶしくいにしへの伊峙いし水門みなとを船出づる今日も》

 

[やぶちゃん注:「伊峙の水門」は石巻の港の古称。]

 

日和山ひよりやまの南にむける傾斜面けふも菊さき海かぜ吹くや

 

日だまりに櫻葉ちりし家むらよまた見む日なく遙かなるかも

 

[やぶちゃん注:以上の二首は随筆「東北の家」に所収しない。]

 

 

 

  ふるき家 昭和十八年――十九年

 

[やぶちゃん注:底本では「――」の後が「九年」となっているが、誤植と判断して補正した。]

 

   秋

 

夏深む蔬菜の畑守りつつみのりしものら枯るるを見たり

 

芝を刈り草かり淸むるわが庭に蜥蜴のともら影ものこさぬ

 

われよりもしづかに暮らす人ありて季節變れば文たまはりぬ

 

秋づきてさびしき生活くらし狐など訪ひくる支那の物がたりめく

 

機おりの聲にきき入り秋の夜の小さきものに親しみおぼゆる

 

[やぶちゃん注:「おり」はママ。]

 

 

 

   湖魚

 

湖魚すこし送ると書きし文ありてけふを樂しくわが待ちしもの

 

波くぐりさばしるものの姿體かたちして身の透きとほり光る乾魚ほしうを

 

富士堕つる裾野のうみのみづ深くいのちをちし魚身らひかる

 

いをくづの泳ぎいきづく世界などわれの知らざる世とは思はず

 

魚見つつみづうみ思ひ水おもひまぼろしは飛ぶ秋の山原

 

霧うごくしろき湖邊うみべの一ところわがために灯をともしたまへる

 

 

 

   海鳥

 

けむり吐く煙突多き大崎のそら舞ひおりし眞白きかもめ

 

冬がれの街路樹のかげに立ちとまりめざましく見る一羽の鷗

 

三共の工場くらく日を背おひ前なる川にしろき鷗とぶ

 

堀割の油うく水とすれすれに飛ぶ鳥のつばさ眞白なるかな

 

母の墓訪はむと來つる大崎に海こそ見えねしろき海鳥うみとり

 

海かぜの流れのままに鷗らは煙突多き靑ぞらもとぶ

 

 

 

   栗

 

物ともしき秋ともいはじみちのくの鳴子なるごの山の栗たまひけり

 

[やぶちゃん注:「鳴子」は、陸羽東線の鳴子なるこを指すか。先行する「東北にて」にも「たまきはる生命たのしみみちのくの鳴子なるごの山ののもみぢ見むとす」と現れる。]

 

晴れくもる秋日のなかに育ちけむ手にのせてみる遠き山の栗

 

來む春も生きてあらむと賴みつつわれ小松菜と蕪のたねまく

 

芝庭に日ごと來りて蟲ひろふ嘴あかき鳥に聲かけてみる

 

栗鼠あそぶ林のなかの家のこと子は言ひいでて行けよとすすむ

 

 

 

   はうれんさう

 

あをあをとはうれんさうの葉がみえてけさ降りし雪は優しくわかく

 

こもりゐも外氣の霜にかこまれて足のゆびの霜やけいたむ

 

 

 

   微笑

 

生きてをる吾みづからをいたはりぬ世を隔てたる友らは遠し

 

いくたびか老いゆくわれをゆめみつれ今日の現在うつつは夢よりもよし

 

夢おほく無知なりし日も悲しみに屈してありし日も過ぎてゆき

 

年とりぼけてもう駄目と生きてゐるひとりの人をかれら葬る

 

鬪爭は大河のごとく地を捲きて古りたるものぞ押しながさるる

 

わが前に白くかがやく微笑なり月日流れて友をおもふとき

 

 

 

   待つ

 

待つといふ一つのことを教へられわれ髮白き老に入るなり

 

あまざかるアイルランドの詩人らをはらからと思ひしわが夢は消えぬ

 

世をさかる寡婦ひとりのわれにうらやすく人の洩らしし嘆きもあはれ

 

脚折れし玩具の鹿を箱によせかけ痛むこころに立たせて見つつ

 

動物は孤食すと聞けり年ながくひとり住みつつ一人ものを食へり

 

まどふ吾に一つ示教をしへたまひける或る日の友よ香たてまつる

 

地獄といふ苦しみあへぐところなどこの世にあるを疑はぬなり

 

[やぶちゃん注:廣子が「待つとい」うことを「教へられ」たのは誰か?――「嘆き」を「うらやすく」「洩らし」た「人」は誰か?――「脚折れし玩具の鹿」は誰かに似ていないか?――既に亡くなった「まどふ吾に一つ示教たまひける或るひの友」とは誰か?――そうして思い出さないか?

       地  獄

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂樂と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂樂と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂樂と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。(芥川龍之介「侏儒の言葉」より)]

 

 

 

   六義園

 

もみぢ葉も殘らぬ庭をゆきゆきて遠世のひとの聲を聞きたり

 

六義園の笹山のぼり悲しくなりぬ大きなる古き庭は明るく

 

うねり曲がる笹山の徑おり行けり大池の島に鷗ら日を浴ぶ

 

 

 

   早春

 

火を吹けばわが息に炭火おこるなりそとは風まじり雨荒き夜

 

生れづき二月もちかし町かどの花屋に白きしくらめんを見る

 

夢にひとり池のまはりを歩く氣もち肌さむしけふ友らとわかれて

 

 

 

   影

 

死をつれて歩くごとしと友いへりその影をわれもまぢかに感ず

 

うつそみはみな老ゆるなりわが友よしづかに老いむと人に言ひつつ

 

ひと歸りわれ一人なる部屋のなか寒くおもひて火をまもるなり

 

息しづかに夜ふけの部屋に祈ることはわれみづからにいふ言葉なる

 

 

 

   野牛

 

野牛のごとく心のうごき重ければひと行く道にわがゆかざりし

 

友もたずもの言ふこともすくなければ自己おのれにこもり老いゆくならむ

 

子とわれとすでに幾つも波を越えあるときは世に馴れし思ひする

 

ともにあればいつも若しと思ひゐたるわが子もやがて年ふけむとす

 

移したればさかじと思ひし山茶花の紅きつぼみ見ゆすでに霜月

 

 

 

   淺間山

 

あらきかぜ木むらのしげみ吹きみだし椿の花が目にたちて搖れる

 

女ひとり老いゆく家はものよどみきたなき心地す雨か雪か降れ

 

一人なる夜の卓子にわが指と銀器がくろき影をもちたり

 

はつきりと夜なかに覺めておもひゐたり淺間山はこよひ黑くねむるや

 

赤いあかりほのかに壁に映りをり耳なりすれば目をさましゐる

 

死ぬことを恐ろしきやうに思ひはじめ一二歩われは死に近づける

 

 

 

   柳

 

    四月一日、鎌倉にて

 

うらわかく柳のいとの靑む日にむすめとまゐる白旗の宮

 

[やぶちゃん注:「白旗の宮」は鎌倉市西御門にある白旗神社を指す。この付近は開幕当初の大倉御所があった場所で、その北の隅に当たるここは、源頼朝の持仏堂があった。頼朝の死後、法華堂と呼ばれ、頼朝はここに葬むられた。神社右手奥の山上に源頼朝の墓があるが、これは島津氏によって勝手に作られた贋物である。因みに、私の母は私を妊娠していた頃、この墓の右手の頼朝茶屋で、女中をしていた。]

 

 

 

   九品佛にて

 

うすぐもる春日はるびの寺に鳥鳴けりさかりの梅が黄ろくみゆる

 

からうじて淸らかにありし寺庭もやや荒れむとすみいくさの春

 

人なくほのぼのとして異國の寺めきぬうす眠るごとく太陽がある

 

わがうごきを鳩らの身に感ずるならむ一せいに飛びわれ驚かさる

 

金いろの佛の御膝ほのかなる暗き御堂に鳩の羽音す

 

むさし野の西の丘べに昔より佛いまししを今日をがみたる

 

武藏野のこの僻村むらざとにみほとけを請じまつりし日を憶ひみつつ

 

御佛とわれと距離のとほきかな呼びまゐらする心寂しく

 

大寺のうしろを行けば田舍みちなり松かぜの中に墓石いし彫る人あり

 

[やぶちゃん注:「九品佛」は、浄真寺は東京都世田谷区奥沢にある浄土宗の寺。東急大井町線の駅名「九品仏」は本寺の通称である。上品上生じょうぼんじょうしょうから下品下生げぼんげじょうまでの九品くぼんの往生の印を結んだ阿弥陀仏九体を祀る(但し、この印は手印ではなく、唇の端の部分で示しているため、視認による判別は至難)。ここは古くは豪族世田谷吉良氏の奥沢城があった。小田原の役の後、同城が廃された後、寛文五(一六七五)年に当地の名主であった七左衛門が寺地として貰い受け、延宝六(一六七八)年、珂碩上人かせきしょうにんが同地に現在の浄真寺を開山した。因みに、この寺には通称『お面かぶり』、二十五菩薩来迎会らいごうえという祭儀がある。三年に一度行われるもので、本堂と上品堂との間の空中に渡された橋を、阿弥陀如来を先頭に、二十五菩薩が渡御するものである。この如来・菩薩面はフル・フェイス・マスクで、実際の僧侶らが被って行う。ご存じない方は、「NPO法人無形民俗文化財アーカイブズ」の「浄真寺の二十五菩薩練供養 東京都指定無形民俗文化財」の動画を是非、ご覧あれ。なかなか、くるものがある。

 

 

 

   母

 

むさし野の大きなる家にうまれ出でて母はともしく老いたまひけり

 

はなれ住みて母もむすめも老いぬれば記憶うすらぎぬ共にありし日の

 

母のゐるましろき壺を土深く納めて心やすらかになりぬ

 

うつそみに思ひしことの數かずもかくて消えゆく母よわすれたまへ

 

かずならぬわが生命さへ母のために一つの樹かげつくりしと思はむ

 

 

 

   よき言葉

 

友のいひしよき言葉われと共にあり雨つゆのごとく心うるほす

 

わがさもしき生活くらしの中にけふは花を插す宴會のカアネーシヨン

 

わが祖父が長者なりしをおもひ出でぬ映畫より夢よりなほ不思議なる

 

くたびれて地下鐵おりし夜ふけなり全身うつる歩廊の鏡

 

 

 

   恐れつつ

 

惜しみなく時よ流れてながし去れ陰影かげ深かりしわが生命なる

 

みちのくの遙かなる町に住む子より文來たりけり猫が子を産みしと

 

子のために重荷とならむを恐れつつも老いゆく吾の心よりかかる

 

 

 

   白鷺

 

相模の國府の跡をたづね行かば寂びしからむと見あぐるもみぢ葉

 

大ぞらに火をく山を見なれては蒼ぐらきかな相模のやまやま

 

母が好む寂しきものの息吹する大山を見よと吾子いひしなり

 

さがみ川中洲の砂に白鷺が一羽立ちつつ秋日にしろし

 

さざ波のかがやき光る川なかに白鷺が立ち風に吹かるる

 

山路より蓆を多くつみて來し車に逢ひぬ厚木のはづれ

 

山山に山窩ら住みし世はすぎたれ厚木はけふも山のにほひす

 

 

 

   大森海岸

 

茶屋の庭は石と松ばかりなり海すぐそこに動きくもり日

 

 

 

   外人墓地

 

    昭和十三年、横濱にて

 

大ぞらと市街まちに向へる傾斜面十字架のまへに咲ける花花

 

 

 

   鐵橋

 

水涸れし川原はるかに日をうけて鐵橋がたかく野をつなぎゐる

 

川原の石みな温かくぬくもりて空に片よるまあかき冬日

 

わかくて見し川はみづ流れ野に靑さあり小舟人をはこびゆきし

 

野をおほひ家家つらなり人住めり限りなく人は殖えゆくならむ

 

きつねや犬と野に住みし祖先らも寂しくなり川などながめけむ

 

 

 

   沼袋百觀音

 

日のひかり身にしみて淸し武藏野の家まばらなる野の空氣なり

 

十二月ひる暖かく觀音の庭いちめんに霜けむりつつ

 

あたたかき日向の庭に百觀音庭木のごとく立ちいますなり

 

ひとびとよろこび心につくりたる觀音の姿みなすこし違ふ

 

築山にひとりの觀音いましけり花捧げられ香うすく烟り

 

思ひまどふ一つの事に引かれつつ吾まゐるなり百觀世音

 

[やぶちゃん注:「沼袋百觀音」は東京都中野区沼袋、西武新宿線沼袋駅のすぐ北にある真言宗東寺派の寺院。創建は非常に新しく、明治四十五(一九一二)年七月に明治天皇病気平癒祈願して草野栄照尼なる尼僧が現在地に観音石像一体を造立、崩御後、大帝への感謝と哀悼のために彼女を開基として、大正元(一九一二)年に寺となった。境内には寄進された観音石像約百八十体が建ち並び、通称「百観音」とも呼ばれる。本来、百観音とは、西国三十三観音・坂東三十三観音・秩父三十四観音の三大霊場を総称するものであるが、ここの観音像はそれらの各札所本尊を模しているとされ、「写し霊場」としての機能を持っている。本尊は如意輪観世音菩薩。]

 

 

 

   三崎にて

 

秋の日の三崎のみなと海に向く家家の窓みなひらきたり

 

さかな樽無數にならぶ町うらに氷をひけり若ものがひとり

 

 

 

   桃畑

 

    久しくゆかざりし極樂寺に行きて

 

極樂寺秋日みちたる谷ゆけばわが親たちが住むかと思ふ

 

やがてわれら住まむと思ひし谷あひはさやけき秋の日和なるかな

 

かりそめにわがおとなへば谷の家のおく深き土間に人はありけり

 

日あたりによめな咲きたる岩山のいづれの隈か雀とびたる

 

樹樹うもれ風たち騒ぐすすき山けものの通る路を見にけり

 

秋の日のわが山畑の芒山すすきの中に稻荷あるなり

 

谷かこむ山の樹すがしわれやがてここに住まむと人は言ひしも

 

柿あかし海かぜの來るこの谷にわがうつそみを老いゆかしめば

 

いちめんに雜草ひかり桃畑の桃の木いまははすがれたるかも

 

 

 

   砂漠

 

    舊約聖書、出埃及記をよみ、モーセをおもふ

 

四十年砂漠のなかに住みけりと讀みしは古きよそぐにのこと

 

山にのぼり約束の國のぞみ見て息たえけるとふみには書けり

 

おもひ凝り曠野あらのの石に彫みける十のおきても人忘れたり

 

ぬすむなかれとおきては言へりひもじさに砂漠の民ら盗みしならむ

 

[やぶちゃん注:四首とも、明白に戦時中の作で、当時の日本国民の行く末を「出エジプト記」のイスラエルの民に擬えて警喩した反戦歌であることに着目されたい。]

 

 

 

   煙草

    友田恭助氏を

 

わがいのち劇に捧ぐといひし人もたたかひなれば支那に死にたり

 

一ぽんの煙草を人とわかち吸ひいのち死ぬるをきみは知りけむ

 

クリークのにごりたる水に隠れけむかの美しくしづかなるかほ

 

「一つの生命われ死なむにつぽんのため」友田ほほゑみ言ふ心地する

 

狹き門くるしき道をあゆみたる道のいやはてに死は輝けり

 

[やぶちゃん注:「友田恭助」(明治三十二(一八九九)年~昭和十二(一九三七)年)は新劇の俳優。築地小劇場創立に参加し、昭和七(一九三二)年に築地座を結成、雑誌『劇作』等での活動を通して、若い演劇人・劇作家を育てた。その後、文学座の創立に参加するも、直後に召集され、昭和十二(一九三七)年十月六日、上海郊外の呉淞で戦死した。享年三十八歳。恐らく、廣子とは、松村みね子名義でのアイルランド文学・イギリス文学の戯曲翻訳等を通して、親交があったものと推定される。]

 

 

 

   すぎし日

 

    志賀すゑ子夫人を

 

白菊のにほひみつる部屋に君いましぬ額づきて聞くすぎし日の聲を

 

[やぶちゃん注:「志賀すゑ子」なる人物は不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

 

   街の湯

 

たそがるる街湯まちゆの窓のあかり明し人こゑこもり湯を浴びる音

 

湯氣こもる大きな湯ぶねに浸りゐて無心に人の裸體を見つつ

 

われもまた湯氣にかこまれ身を洗ふ裸體むらがる街湯まちゆのすみに

 

春の夜の雨もきこえしわが家のひとりの湯ぶね戀ふるともなく

 

湯げむりにうごめき光るわれらはも裸體を日常街湯つねの姿のごとく

 

いにしへの病者を洗ひたまひけむ大き湯殿をふと思ひたる

 

[やぶちゃん注:最後の一首は、「元亨釈書」養老七(七二三)年の条に現れる、光明皇后がハンセン病患者の垢を擦り、膿を吸って施療につとめたという伝説を主題とする。]

 

 

 

   希望

 

いつよりか激しき心しづまりていまは老いゆく花ある家に

 

感ずることこの頃すこしにぶりたるわれはまことに老いそめしなり

 

火のごとく燃え盡きることありと聞きわかき吾はそれを悲しく思ひし

 

祈ること何ものこらぬ年になり枯木のごとく人死ぬるなり

 

あたたかに厨のもののにほひ立つ日の暮れかたは子の家をおもふ

 

あらたまの硬きこころは親より受けふつつかにわが子も世を生きるならむ

 

希望のぞみもつは希望のぞみ失ふことなりと吾にいひけるその友も死に

 

 

 

   とほき追想

 

おもひ出は今かそかなりこともなくしづかに生きて死にたまひける

 

世ばなれて老いゆく父をあはれみし若きむすめよ吾にやあらぬ

 

香水を手巾てふきに撒きてわが父が海彼に住みし一千八百八十年

 

おともなく遠くその世はさかれどもわが現身に父いますなり

 

生きよどむ今日のこころに思ひやり父を呼ぶかな時さかりつつ

 

やみの夜の庭に散歩のたばこの火憶ひいだしぬわがわかき父よ

 

人に打たれひとを打ちえぬさがもちて父がうからは滅びむとする

 

[やぶちゃん注:「父」とは廣子の父、ニューヨーク領事やロンドン総領事などを勤めた外交官吉田二郎。その「父がうから」とは、廣子の弟で吉田家の長男吉田東作を指す。これについて廣子の評伝的小説「ひとつの樹かげ」を書いた作家阿部光子は、その調査の過程で彼について、この歌を示して以下のような事実を述べている。この『歌にこもっている思いは深い。廣子は長女で次女の次子は上田夫人となって平穏な一生を終えたが、末の弟東作は、大正十二年の関東大震災の時、白い麻服を着て外出中、朝鮮人と間違えられて、警防団のなぶりものになった。そのショックから立ち直れず、昭和二十年、世を終えるまで、口も利かなければ、笑いもしないで、いつも白い服を着ているという生活であった。母は本郷に、小さい家を借りて、彼とふたりきりの生活をしていた。』。以上の阿部氏の引用は二〇〇五年講談社刊の川村湊「物語の娘 宗瑛を探して」よりの孫引きである。川村氏はこの後、本歌集の後に載る

 むかし高麗びと千七百九十九人むさし野に移住すとその子孫かわれも

を引用し、廣子の父二郎は埼玉県大里郡出身であること、埼玉及び都下多摩地区を占める武蔵野が古来、朝鮮半島からの渡来人が住み着いた地と伝承されることを掲げ、この『「むかし高麗びと」という歌も、そうした渡来人の歴史を踏まえた作品であることは自明である』とされ、『だが、弟の東作の身の上に降りかかった悲劇を知った上でこの歌を読むと、「朝鮮人と間違」われたという不幸な偶然を、むしろ「われ(われわれ)も」朝鮮人の子孫なのだという必然に変えようとしてように思われる。それは敷衍していえば、弟の不幸や不運は、「間違い」や「思い違い」や偶然のものではなく、必然的な「父がうから」の悲劇であり、受難であったと片山廣子が受け止めようとしているためと考えられる』。『それは虐げられ、植民地支配されている被植民の国の民族に対する共感であり』、『大英帝国の植民地として、長らく政治的、経済的、文化的な支配を受けてきたアイルランドの文学作品を翻訳し続けてきた「松村みね子」には、植民地となった地域の民族の苦しみや悲しみが共感されないはずはなかった』と記される。この歌の解としてこれ以上の炯眼は他にない。]

 

 

 

   ふるき家

 

子がうゑし芽生の楓そだちけりしみじみ愉し古きに住み

 

かがみのやうに古き板戸を光らせむと雨ふる朝もみがきつつたのし

 

髮のいろやや變りゆく母ながら汝が母をあまり心にかくるな

 

女らの靜かにくらすまひる間を黑きのら猫が縁にあがりくる

 

[やぶちゃん注:この「黑猫」は芥川龍之介の影であると私は信じて疑わない。私の電子テクスト、昭和三(一九二八)年五月刊の雑誌『若草』に松村みね子名義で掲載された「黑猫」を是非お読み頂きたい。]

 

くれはやき山手の坂を下りくれば花屋のあかりに菊の花しろく

 

[やぶちゃん注:「くれはやき」の歌については、片山廣子の随筆「花屋の窓」(昭和二十五(一九五〇)年九月発行の雑誌『女人短歌』に掲載され、「燈火節」(昭和二十八(一九五三)年六月暮らしの手帖社刊)に、昭和十一(一九三六)年頃の廣子の歌として、

暮れかかる山手の坂にあかり射して花屋の窓の黄菊しらぎく

という一首が示されており、本歌はその改案と思われる。この「暮れかかる」の歌については、私の電子テクストの、片山廣子の随筆「花屋の窓」及び芥川龍之介の『Gaity座の「サロメ」』を是非合わせてお読み戴きたい。]

 

 

 

   おもひいづる

 

伊吹嶺に灰いろの雲かかりゐて心をぐらく旅ゆきしなり

 

訊ねける加納の家は菊咲きて唐傘のほね日に乾されゐし

 

傘のほね秋の空氣に開かれて明るき前庭にはのいくつもの圓

 

男らのいで入る土間のおくに立ち傘屋の妻はほそく美し

 

白菊のちひさき花の咲きかこむ庭のはなれに人住みてゐし

 

雨かぜは激しくとも晴るる時あらむ生きておはせよとわが言ひにけり

 

美濃の國稻葉のぐんのはちす田の中なる寺にわがすわりし緋毛氈

 

[やぶちゃん注:過去に、廣子の知人の、番傘の産地として著名な岐阜市加納の和傘職人の友人宅を訪問した際の回想吟と思われる。旧稲葉郡加納町は昭和十五(一九四〇)年二月一日に岐阜市に編入されており、この訪問は最後の一首から、それ以前のものと推定出来る。]

 

 

 

   砧

 

    昭和十四年五月、富岡冬野氏を砧に訪ふ

 

草の名をよく知る友と路ゆけり武藏野のはしの靑き砧まち

 

[やぶちゃん注:歌友であった富岡冬野(明治三十七(一九〇四)年~昭和十五(一九四〇)年四月二十五日)は、本名靑木ふゆの(富岡は母方の姓)、別名松崎流子、富岡鉄斎の孫である。昭和十五(一九四〇)年七月発行の『心の花』の彼女への追悼随筆「輕井澤と砧と」の本文によれば、本首は同年、映画会社勤務であった富岡の夫が上海に赴任することとなり、その離別の挨拶に富岡の住む世田谷区砧を訪れた際の歌である。この歌はその追悼文にも現れるが、そこでは

草の名をよく知る友と路ゆきぬ武藏野のはての靑き砧まち

と姿を変える。こちらでは助動詞や「はて」の語の選びに、レクイエムとしての廣子の繊細な心遣いが感じられて心打たれる一首である。]

 

 

 

   荻窪

 

    なき與謝野晶子夫人のみまへに

 

夏山の中なる家にいませどもすでに歴史に入りたまひける

 

大なるもの終る日のさびしさは君みづからも知りたまひけむ

 

むさし野の雜草靑きひとつに歌會せしはわかきひとびと

 

筆ほそく晶子と書きける御文をただ一つわが持ちてゐたりし

 

につぽんの三代みよを貫ぬく歌の橋かけたる人も今は神なる

 

[やぶちゃん注:「三代」は、与謝野晶子が明治十一(一八七八)年生れで、昭和十七(一九四二)年五月二十九日に亡くなっていることを指す。]

 

 

 

   春夜

 

鏡にうつしながむる窓外そとの椿の花しぼり花咲き春はいま盛り

 

 

 

   いちご

 

    ながく住みたる大森を離れて井の頭線なる

    濱田山に移らむとす

 

かぜ立ちてまだ春わかきわが庭もいちごは白き花もちてゐる

 

つる伸びていちごは花をもちそめぬ蓬に交る赤きそのつる

 

[やぶちゃん注:昭和十九(一九三四)年春、『殆ど一生といつてもよいほど長く住み馴れた』大森新井宿から杉並区浜田山への疎開を考えていた(実際の移転は六月)頃、廣子六十六歳の折の歌。昭和二十五(一九五〇)年一月号『心の花』所載の「いちごの花、松山の話など」にも所収する。随筆本文の歌の直後には『いちごの花を見ても名殘惜しく、何時またこの家に歸つて來られるかと夢想もできない未來に心を走らせてみたりした。』(恣意的に正字に直した)と記している。但し、そこでの表記はそれぞれ、

風立ちてまだ春わかきわが庭にいちごは白き花もちてゐる

つる伸びていちごは花をもちそめぬ蓬にまじる赤きそのつる

となっている。]

 

 

 

  野に住みて 昭和十九年――二十二年

 

   野に住みて

 

    昭和十九年六月、濱田山

 

人げ遠き野の風物に交じりゐて生きのこらばとわれは恐るる

 

夜かぜ吹く野のわが家にかへりくれば星ぞら更けてものいふ星星

 

北方より爆音來たる星ぞらの星濡れひかり夜露ふりつつ

 

わが母も老いたまひぬと子がいひし嘆きの言葉ひとづてに聞き

 

われを守り吾に仕ふるわかき子をむすめと賴み野の家にくらす

 

枯笹はら粉雪しろくかかりゐて雀飛びたつ朝の路なる

 

雪の日にただしみじみと祈るなり春來たるなり春來たるとき吾をあらしめ

 

ふりに降りはやたそがるる大雪に天地はいま死のいろとなる

 

春さむき深夜よふけの庭に立ちつくしこよひも燃ゆる空を見つつをり

 

 

 

   使

 

    昭和二十年三月二十四日達吉急逝す、わかれ住みて十月を經たり

 

使來てわれにいひける言葉なりかならず驚きなさいますな

 

[やぶちゃん注:昭和二十一(一九四六)年初頭の作と推定される。達吉は長男。享年四十五歳。東京大空襲直後であり、その後の散発的空襲のために亡くなったものかと推測していたのだが、病死であることが判明した。詞書の「わかれ住みて」とは、その年の六月に廣子が長年住み慣れた大森新井宿から杉並区浜田山に疎開した事実を指すか。としても「わかれ」の意が強く働いていると考え、作歌時期を推定した。]

 

 

 

   虚無

 

    輕井澤にありて八月十五日終戰の御放送をきく

 

虚無深くまひるの庭に向ひゐぬ蝉一つ鳴く眞晝の庭に

 

三千年の月日おもりしこの國をさかまく海の浪くぐらしむ

 

山さけては大洋おほうみのそこに堕つるごとく御國なだれて沈まむとすも

 

混沌の原始むかしに興り榮え來ていま一瞬にほろびむとしぬ

 

もみぢ葉は散りみだれつつ山川の早瀨ましろし日本の秋

 

終戰を見きはむるまで生きむとぞわがいひし言のあはれなるかな

 

木の花のさき散る春は過ぎにけりおもかげ變る海の島國

 

 

 

   かへり來て

 

秋の日の碓氷の道のきのこはも落葉のなかに首あげてゐむ

 

生きすぎし生命とはおもへ淺間嶺のすそ野の家に麥してゐぬ

 

いのちありてわが武藏野にかへり來ぬ照りかげる日は明日のまにまに

 

わが子われを訪ね來たりし日のごとく夕やけ雲の秋の日暮るる

 

かかる世には母に先立ち行くことのなきにあらずと言ひしを憶ふ

 

ほほゑみて靜かにものをいひし人いまわが側にゐるとおもはむ

 

霜月のひえびえとする風の日に手をもみてひとり野の家にをる

 

一もとのいてふの黄葉かがやききしわが庭に今日は秋ものこらぬ

 

[やぶちゃん注:「黄葉」は「もみぢ」と読ませるのであろう。]

 

こよひまた夜ふけの窓に見てありぬ秋野に光る一つの燈火あかり

 

 

 

   遠富士

 

頰さむく廢墟の町を歩みゐて遠ぞらにみる富士はましろし

 

すくはれぬ塵ひぢの世にも遠富士よ汝を見るものに夢をみさしめ

 

[やぶちゃん注:「塵ひぢ」は「塵泥」で、本来は塵と泥、塵芥ちりあくたの意、転じて取るに足らぬもの、無価値なものの形容の意。]

 

 

 

   浮浪人

 

いつまでもおなじ事つづく世と思ひ薔薇さかせゐしわが古き家

 

たたかひに敗れしもののみじめさをわれ今さらに嘆きいはめや

 

水ばかりのみける人ら飲食おんじきの店店つづく街にさまよふ

 

家家のともしき夕餉をはりしやあかるく暗くやけ野の燈火あかり

 

露もちて皿に盛られし胡瓜などあをく涼しくむかしの如く

 

飯のほかにさかなのほかにも世のなかに欲しきものあり心苦しむ

 

一枚の紙幣をもちて今日を過ぎ心しぼみぬ吾を笑ふや

 

浮浪人のほうけごころに堕ちたまふなと亡き子來たりて吾にいひたる

 

 

 

   越路

 

雪の國越路のいとこ贈りける鹽はたふとし雪より白し

 

雪の國わが子の父がをさなくて別れ來にける越のくにはや

 

早春のかぜ吹く街の闇市の皿にもられし小さきりんご

 

街かどに秋刀魚といわし賣る店のもうけをわが思ひみし

 

[やぶちゃん注:「もうけ」はママ。「儲け」であろうが、であれば「まうけ」である。「設け」でも「まうけ」である。]

 

 

 

   生くること

 

何ごとのよきことあらむやとわびつるもなほ好きことを夢みるわれらは

 

むさし野と信濃と往きつかへりつつ二とせ吾は靑海を見ず

 

敗戰と革命のなかに月日ゆき樹ぐさのやうにそだつ子供ら

 

砂糖ほしくりんごも欲しく粉もほしとわが持たぬ物をかぞへつつをる

 

生くること難かしくなりし世の中に紛れ生きよとわが子言ふならむ

 

 

 

   わかき友

 

    竹柏園の若き友宇野榮三氏を

 

南方に眠りし人のおもかげをたのしき過去の或る日につなぐ

 

[やぶちゃん注:「竹柏園」は佐佐木信綱主宰の歌誌「心の花」を発行する短歌結社竹柏会の別名。]

 

 

 

   野はらの家

 

雪のこる畑の前方さきの竹やぶも黄ばみ光りて春のいろなる

 

ただ暫しと京濱の家にわかれ來て野はらの風にも霜にも馴れぬ

 

人よりもすこし多くのいもなど食べさむき野はらに何時までか住まむ

 

心凍えうつしみ弱り野の家になほいくたびの冬を越すべき

 

ながかりしわが世の日かず限りあれば會はまくほしも野の明けくれに

 

[やぶちゃん注:「まくほし」は「せむことを欲し」で、「~することが望ましい」「~したい」の意。願望を表す助動詞「まほし」の前身とも言われ、「万葉集」等に現れる古形。]

 

 

 

   遙けきもの

 

ふるき友の笑ひごゑなど思ひうかべ田舍のくらし靜なり今日も

 

きさらぎの麥生に向ふ窓よりぞ遙けきものが目に映りくる

 

 

 

   春日

 

人にいふごとく物いひ白猫のしろきのど毛をかき撫でてゐる

 

いまのわが所在ありば忘れて春の日に古き石佛の繪など見てをり

 

わらべ三人春日を浴びてならび行く左の端が一ばん大きい

 

火をのがれ春しづかなる家むらよ八重の櫻も今をさかりに

 

おろかしき母かなけふも春日みつつなほ靑年なる顏おもひゐし

 

うつそみの思ひあまりて祈ること神ならねども吾はききたり

 

美しき遠世となれる月も日もわれに教ふること多かりし

 

ひとりゐの門を出づれば入日あかき檜原の道を人も來らず

 

 

 

   夏ふかく

 

むさし野よめざましく淸しこの國が戰はざりし好き日のごとく

 

朝つゆの草徑すぎて家家のかぼちやのみのり見て歩くなり

 

朝日いまのぼらむとすも靄うすくながるる畑の茄子のむらさき

 

靑き野の葉のうへ流るる露よりか朝ぞらよりか初秋かぜは

 

 

 

   騒音

 

燒跡のちひさき店をのぞきみて寶石いし賣らむとぞわれは入りたる

 

すぎし世の古りたる物は捨てもせむ吾みづからをわれは負ひつつ

 

たべものや軒を並べて人らゆくわが身に遠きまちのにぎはひ

 

わかきらが海彼に死ぬ日まぼろしはあやに明るき銀座を見しや

 

わざはひの空より降りし日は遠く人ら群がりぎんざを歩く

 

いはけなく若きぎんざも街をゆく人みな古し外國よそぐにのひとも

 

店さきに刀自はほほゑみ手を振りてむかしの友のわれを呼びをる

 

[やぶちゃん注:「刀自」は、「とじ」で、ここでは店の女将おかみさんのこと。]

 

騒音のみなぎる辻をよぎりゆく百年前のわがうすき影

 

灰いろの雲のきれめの秋ぞらはあをく淸らにわれを澄ましむ

 

信號の笛鳴りひびきすきや橋の人波うごく過ぎし日のごと

 

 

 

   ひばりの歌

 

    大伴家持の歌をよみかへす折ありて

 

むかしびと詠みける春の歌のなかにひばりの歌をうつくしと思ふ

 

[やぶちゃん注:言わずもがなとは思うが、家持のひばりの歌と言えば、第十九巻の第四二九二番歌、天平勝宝五(七五三)年の作の著名な、

   二十五日、作る歌

うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しも獨りし思へば

にとどめを刺す(以下の注の「万葉集」の訓読は講談社文庫版中西進訳注「万葉集」を参照した。また、読みにくくなるのを避けるために、前の歌の注から次の廣子の歌に移る部分では有意に空行を設けた)。]

 

 

 

みかづきのうら若かりし歌びとの最初はじめの歌も花のにほひす

 

[やぶちゃん注:これは天平勝宝五(七五三)年、家持十六歳の折の作品(廣子が読み込む如く、作歌年代が特定されているものとしては家持の最初の和歌である)である巻六の九九四番歌、

   大伴宿禰すくね家持の初月みかづきの歌一首

ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも

を主題とする。この歌の前の九九三番歌はやはり「初月歌」として、叔母にして母のような、そうして恋人のような存在であった坂上郎女いらつめの、

月立ちてただ三日月の眉根掻きけ長く戀ひし君にあへるかも

があり、これが相聞歌であることが分かる。宴席での題詠かと思われる。ちなみに坂上郎女の歌は、眉が痒くなると思い人に逢える兆しという当時の俗説を踏まえている。]

 

 

 

なき父のいよよ戀しくしらぬひの筑紫の梅の歌よみかへす

 

[やぶちゃん注:これは家持の歌ではなく、彼が十三歳前後の時に亡くなった、まさに「なき父」大伴旅人(天智四(六六五)年~天平三(七三一)年)が太宰帥だざいのそちとして赴任した筑紫で詠んだ梅の歌、巻第八の一六四〇番歌を指すものと思われる(幼少の家持も同行)。

   太宰帥大伴卿の梅の歌

わがをかに盛りに咲ける梅の花殘れる雪をまがへつるかな

「まがへつるかな」は、山の上の少しばかりの残雪があって、それを梅の花と見紛うたよ、という意である。「なき父」を「いよよ戀しく」思っているのは、まず廣子であり、廣子が家持とダブり、そこから廣子の父が投影された旅人が現れるという重層効果をこの歌は持っているのである。]

 

 

 

春の苑くれなゐ深き桃の花の木かげの人は花よりもにほふ

 

[やぶちゃん注:著名な巻十九の四一三九番歌、越中国府の館(現高岡市伏木勝興寺付近)での、

春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ

の本歌取りである。]

 

 

 

フランスの詩人うたびとのごときほこり持ち政治する間に歌つくりせし

 

紀の女郎をとめ小鹿とよびしわかき子は幾つもの歌に映されてゐる

 

[やぶちゃん注:「紀の女郎」「小鹿」は、一般には「きのいらつめ」、「をじか(おじか)」と読み、家持の恋人の一人、紀鹿人きのかひとの娘である紀小鹿を指す。安貴王あきのおおきみの妻であった人物。そのエピソードについては、私の御用達である水垣久氏の「やまとうた」の「家持と人々 女たち(3) 紀小鹿女郎―きのおしかのいらつめ―」のページが詳細にして素晴らしい。]

 

 

 

射水川あさ漕ぐふねの船うたをやかたにひとりかみがききゐし

 

[やぶちゃん注:これは、天平勝宝二(七五〇)年三月、越中国府で詠まれた巻第十九の四一五〇番歌を主題とする。

   遙かにかはさかのぼる船人の唄を聞ける歌

朝床に聞けば遙けし射水河朝漕ぎしつつ唄ふ船人

「射水河」は国府の館近くを流れる現在の小矢部川。]

 

 

 

家まもる都のひとに贈るべくももの眞珠も欲しとぞ詠みし

 

[やぶちゃん注:これは、巻第十八の四一〇一番歌群を指す。

   京の家に贈らむが爲に、眞珠あらたまほりせる歌一首并びに短歌

珠洲すす海人あまの 沖つ御神に い渡りて かづき採るといふ 鮑玉はあはびたま 五百箇いほちもがも はしきよし つまのみことの 衣手の 別れしときよ 奴婆玉ぬばたまの 夜床よとこかたさり 朝寢髮 掻きもけづらず 出て來し 月日よみつつ 嘆くらむ 心なぐさに ほととぎす 來鳴く五月の あやめぐさ 花橘に きまじへ かづらにせよと 包みてやらむ(四一〇一)

白玉を包みてやらな菖蒲草あやめぐさ花橘に合へも貫くがね(四一〇二)

沖つ嶋いゆき渡りて潛くちふ鮑玉もが包みてやらむ(四一〇三)

吾妹児わぎもこが心なぐさにやらむため沖つ嶋なる白玉もがも(四一〇四)

白玉の五百箇いほつ集ひを手にむすびおこせむ海人はむがしくもあるか 〔一に云はく、「むがしけむはも」〕(四一〇五)

  右は、五月十四日に、大伴宿禰すくね家持、興に依りて作れり。

以下、簡単な語注を附す。なお、この真珠は恐らく彼が越中守として統治していた、現在の能登半島舳倉島産のものと思われる。

○(四一〇一)「はしきよし」:愛すべき。

(四一〇一)「夜床かたさり」:一方に退いて。一人寝の妻は夜の褥も片端に淋しく寝て、の意。以下、「嘆くらむ」までが想像の妻の景である。

(四一〇一)「包みて」:土産として。

(四一〇二)「合へも貫くがね」:「がね」は他者への願望を表す終助詞。貫き合わせて飾り玉にして欲しい、の意。

(四一〇三)の歌は海人への真珠採りの懇請歌。

(四一〇四)「ちふ」は「と言ふ」の省略形。

(四一〇五)「むがしくもあるか」(喜ばしいことであろう) 、「むがしけむはも」(喜ばしいことであるなあ)で真珠を採ってくれる(くれた)海人への言祝ぎの歌である。]

 

 

 

み越路のましろの鷹をうたに詠みて鄙のむすめは見かへりもせず

 

[やぶちゃん注:推測であるが、これは巻第十九の四一五四及び四一五五番歌にインスパイアされたものではなかろうか。

   八日に、白き大鷹を詠める歌一首并びに短歌

あしひきの 山坂超えて ゆきかはる 年のながく しなざかる こしにし住めば 大君の 敷きます國は 京師みやこをも ここもおやじと 心には 思ふものから 語りけ 見くる人眼ひとめ ともしみと 思ひし繁し そこゆゑに 心ぐやと 秋づけば 萩咲きにほふ 石瀨野いはせのに 馬だき行きて をちこちに 鳥踏み立て 白塗しらぬりの 小鈴こすずもゆらに あはせやり ふりけ見つつ いきどほる 心のうちを 思ひ伸べ うれしびながら 枕づく 妻屋の内に 鳥座とくらゆひ 据ゑてそ吾が飼ふ 眞白斑ましらふの鷹

矢形尾やかたをの眞白の鷹を屋戸やどに据ゑかき撫で見つつ飼はくしよしも

以下、簡単な語注を附す。因みに、私はこの越中国府跡の地高岡市伏木に、青春時代、六年間住んだ。そうして、その中学・高校の六年間を通じて一切、「万葉集」には関心を示さなかったことも告白しておく。

○「思ふものから」「ものから」は逆接の接続助詞で、京もこの越中も、帝がお治めになる土地という点で同じとは言うものの、の意。

○「語り放け……」は、この越中の地はあまりにひなで淋しく孤独で、親しく語り合う、見つめ合うことの出来る親しい人がおらず、そのような人が遠く離れて、近くにいないことを嘆く。

○「石瀨野」一般の注では当時の新川郡の地名とするが、国府のあった現在の高岡市伏木の外れにある岩瀬ととりたい。私の家はこの近くにあった。

○「馬だき」の「だき」は「く」で、馬の手綱を操る、馬を駆けるの意。

○「鳥踏み立て」は、野中に馬を駆け入れて鳥を追い立てることを言う。

○「白塗」銀鍍金メッキ

○「あはせやり」は、鈴を附けた矢を放って鷹を追う家持が、その矢とその鷹とを互いに争はせるといった意味合いである。

○「枕づく……」以下、次の短歌を含めて、独り身の淋しさを鳥籠の中で白いを持った優美な鷹を飼うことで癒す、といった描写である。

廣子はこの長歌の最後や短歌のイメージを、を持った優美な白鷹=粗野ながら魅力的な自然児の鄙の娘への、家持のラヴ・ソングとして換骨奪胎したのではあるまいか。識者の御批評を乞う。]

 

 

 

鳴きとよむ雉子きぎすのこゑを聞きながら朝かすむ山を見てゐたりけり

 

[やぶちゃん注:これは巻第十九の四一四八及び四一四九番歌を主調とする。

   あかときに鳴くきぎしを聞ける歌二首

杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしもかむ隠妻こもりづまかも

足引の八峯やつをの雉鳴きとよ朝明あさけの霞見ればかなしも

最初の歌は、一人寝の作者が悶々として寝られずに朝を向かえ、そこに雄の雉が雌を呼ぶ声を聴いての歌であろうか。人知れず隠しおいた妻であるはずの女を呼ぶお前は、その鳴き声でそれが人に知られてしまっているよ、それほどに、私のごと、妻が恋しいか、という感じであろうか。もっと違ったシチュエーションでセクシャルな意味合いも感じられないではないが、穏当にそう解釈しておきたい。]

 

 

 

みちのくにくがね花咲さくといはひける聖武の御代の日本の春

 

[やぶちゃん注:これは巻第十八の四〇九七番歌を直接の主調とする。この四〇九七は四〇九四番の長歌「陸奥國よりくがね出せる詔書をける歌一首」に附された三首の反歌の最後の歌である。この長歌は、聖武天皇の発願で天平十七(七四五)年に開始された東大寺盧舎那仏るしゃなぶつ建立に際し、現在の宮城県遠田(歌中では小田と表記)にある黄金山から初めて国産の金が採掘されたことを受けて仏前へ供えられた宣命(天平二十一(七四九)年四月一日附)を発した。その中で、天皇は今回の黄金発見が皇祖皇宗の恵みであることを言祝ぎ、民及び臣下の労をねぎらっている。特にその中でも大伴・佐伯の二氏の伴造とものみやつこ(次の歌の注を参照されたい)に対する忠誠心を称揚した。それを受けて大伴氏の嫡流としての家持が感激して詠ったものである。御存知のように、この歌は戦意発揚の軍歌「海ゆかば」の元である。「海行かば 水漬みづかばね 山行かば 草す屍 大王の にこそ死なめ」という一節は、まさに伝統的皇軍の一翼たる大伴氏族に伝えられた、雄雄しき「軍歌」であったらしい。

   陸奧國より金を出だせる詔書を賀く歌一首、また短歌

葦原の 瑞穗の國を 天下り 知らしめしける すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日繼と 知らし來る 君の御代御代 敷きませる 四方の國には 山河を 廣み厚みと たてまつる 御調みつき寶は 數へ得ず 盡くしもかねつ 然れども 我が大王の 諸人もろひとを 誘ひ賜ひ 善きことを 始め賜ひて くがねかも たのしけくあらむ と思ほして 下惱ますに 鷄が鳴く 東の國の 陸奧の 小田なる山に 金ありと まうし賜へれ 御心を 明らめ賜ひ 天地の 神相うづなひ 皇御祖すめろきの 御靈助けて 遠き代に かかりしことを が御代に 顯はしてあれば す國は 榮えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の雄を まつろへの むけのまにまに 老人おいひとも 女童兒めのわらはこも しが願ふ 心らひに 撫で賜ひ をさめ賜へば ここをしも あやにたふとみ 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖かむおやの その名をば 大來目主おほくめぬしと 負ひ持ちて 仕へしつかさ 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大王の 邊にこそ死なめ かへり見は せじと異立ことだて 大夫の 淸きその名を 古よ 今のをつつに 流さへる おやの子どもそ 大伴と 佐伯の氏は 人のおやの 立つる異立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ繼げる 言のつかさそ 梓弓 手に取り持ちて 劍大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大王の 御門の守り 我をおきて また人はあらじ といや立て 思ひし増さる 大王の 御言のさきの 聞けば貴み(四〇九四)

   反歌三首

大夫の心思ほゆ大王の御言の幸の聞けば貴み(四〇九五)

大伴の遠つ神祖の奥つ城はしるしめ立て人の知るべく(四〇九六)

天皇すめろきの御代榮えむと東なる陸奥山に黄金花咲く(四〇九七)

   天平感寶元年五月十二日に、越中國こしのくにのなかつくに

   のかみの舘にして大伴宿禰家持、之を作れり。

私には廣子の敗戦のトラウマが感じられる歌である。]

 

 

 

大伴のつよくさやけき氏の名にくもりあらすなと常いのりつつ

 

[やぶちゃん注:やはり四〇九四番の長歌「陸奥國よりくがね出せる詔書をける歌一首」の内容を受ける。前歌の注を参照されたい。大伴氏は、「古事記」によると天孫降臨の際、やはり四〇九四番歌に現れる久米氏の祖神とされる天久米命あめのくめのみことと共に武装し、瓊瓊杵尊ににぎのみことを先導した天忍日命あめのおしひのみことの子孫とされる。大伴という名は「大きな伴造とものみやつこ」という意味で、特殊職能を保持した有力氏族の統率者という意味合いである。神話からも分かるように、彼らは物部氏と共に軍事を司る一族であった。大伴氏は中でも近衛兵・近衛師団・皇宮警察相当の天皇側近の警護を担当する一族であった。四〇九四番歌に現れる佐伯氏とは同族関係にあり、佐伯氏は主に広く皇軍全体の管理を担当した。]

 

 

   夢

 

遠くまでわが夢はわれを誘ふなり混亂の世のうつしみを置き

 

苦難の日みじかくされて日本は大わだつみにとりのこされぬ

 

傳説はけふもうつくし靑海の八十島越えて來し神神よ

 

春の來てあをむ國土に息づけば流浪民さすらひびととわれらを思はじ

 

たま消ゆる水火の底をくぐり來て靜かにわれら息づかむとす

 

うら深く苦しむ約されし平和は暗くすずしくあらむ

 

いのちたもち生きながらふる幸運さいはひのわれらの心柔らかならしめ

 

衣しろく日に乾されつつ東京もふるさとめきししづかなるとき

 

もろもろの悲しき事もあやまちも過ぎたるものは過ぎ去らしめむ

 

 

 

   いたち

 

山茶花のしろき花散る朝庭をわが見ると知らずいたちが通る

 

風もなく秋日みなぎる芝庭にいたち出で來ぬ野のにほひすも

 

うつくしき茶いろのけものすくすくと枯芝庭を野にむきて行く

 

鼬など秋日に歩くわが庭は古きむさし野の茅原なりけむ

 

 

 

  輕井澤にありて  大正十四年――昭和二十年

 

   日中

 

    信濃追分にて

 

はれやかに沓掛の町の屋根をみるこの川ほとり人なく明るし

 

しみじみとわれは見るなり朝の日の光さだまらぬ浮洲の夏ぐさ

 

風あらく大空のにごり澄みにけり山山に白き卷雲をのこし

 

板屋根のふるび靜かなる町なかにただ一羽飛ぶつばめを見にけり

 

さびしさの大なる現はれの淺間山さやかなりけふの靑空のなかに

 

影もなく白き路かな信濃なる追分みちわかれめに來つ

 

われら三人影もおとさぬ日中につちうに立つて淸水のながれを見てをる

 

しづかにもまろ葉のみどり葉映るなり「これは山蕗」と同じことを言ふ

 

土橋を渡る土橋はゆらぐ草土手をおり來てみればのびろし畑は

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「日中」歌群では、ここに、

さびしさに壓されて人は眼をあはすもろこしの葉のまひるのひかり

という一首が入る。]

 

明るすぎる野はらの空氣まなつ日の荒さをもちて迫りくるなり

 

日傘させどまはりに日あり足もとの細ながれを見つつ人の來るを待つ

 

日の照りの一めんにおもし路のうへの馬糞にうごく靑き蝶のむれ

 

[やぶちゃん注:公開はこれに先立つ(大正十四(一九二五)年)が、芥川龍之介の旋頭歌「越びと」の、

うつけたるこころをもちてまちながめをり。
日ざかりの馬糞ばふんにひかる蝶のしづけさ。

は、その心に於いて本歌との相聞歌であると言って異を唱える人は最早あるまい。]

 

四五本の樹のかげにある腰掛場ことしも來たり腰かけてみる

 

しろじろとうら葉の光る樹樹ありて山すその風に吹かれたるかな

 

われわれも牧場のけものらと同じやうに靜かになりて風に吹かれつつ

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九二五)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「日中」歌群では、ここに、

おのおのは言ふことなくて眺めたり村のなかよりひるの鐘鳴る

という一首が入る。]

 

友だちら別れむとして草なかのひるがほの花みつけたるかな

 

をとこたち煙草のけむりを吹きにけりいつの代とわかぬ山里のまひるま

 

[やぶちゃん注:以上の本歌群が最も濃厚な生前の芥川龍之介の影を持っていることは、以下の堀辰雄の記載によって明らかである。即ち、大正十四(一九二五)年の夏を輕井澤で過した堀辰雄が義父上條松吉に宛てた書簡類があり、それを後年、堀辰雄自身が整理して「父への手紙」として整理した際のメモが遺されている。そこにはこれらの歌群を指すと思われる『○片山廣子「日中」』という柱の下、『夏の末、片山夫人令孃、芥川さんと一緒にドライブした折の作』という記載があるのである。これは現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、同年八月の下旬、二十三日から二十七日頃の出來事である。廣子四十七歳であった。なお、私にはこの最後の一首は、後の、私の愛してやまない堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」の掉尾の名文(以下は新潮社昭和四十五(一九七〇)年刊「大和路・信濃路」より引用、但し、ルビは省略した)

 その夕がたのことである。その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂って、ふいにそれを嗅いだりすると、なんだか身のしまるような気のするほどだった。だが、もうすっかり疲れ切っていた僕たちはそれにもだんだん刺戟が感ぜられないようになりだしていた。そうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんということもなしにこうして歩いて見るのをこんどの旅の愉しみにして来たことさえ、すこしももう考えようともしなくなっているほど、――少くとも、僕の心は疲れた身体とともにぼおっとしてしまっていた。
 突然、妻がいった。
「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあったのとは、すこしちがうんじゃない? ここのは、こんなに真っ白だけれど、あそこのはもっと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びていたわ。……」
「そうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くさそうに、妻が手ぐりよせているその一枝へ目をやっていたが、「そういえば、すこうし……」
 そう言いかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに蘇らせ出していた。

にインスパイアされているような気がしてならないのであるが、如何であろう。]

 

 

 

   六里ヶ原にあそぶ

 

わがさきに夕だちすぎけむ熔岩のくづれたる路のいちめんの露

 

わが上をひとむらの雲流れゆく村雨をはりいま靑きそら

 

のぼり來し山のたひらにとんぼ飛ぶ谿にも山にも黄ろき日のひかり

 

小瀨溪にこの松山はつづくといふ松の葉光りどこまでも松の山

 

[やぶちゃん注:「小瀨溪」とは、軽井沢駅を北西北へ六キロ程行った山間にある小瀬を指すものであろう。一軒宿の小瀬温泉ホテルは明治期より知られている。「溪」は、ホテルの前を流れる小瀬川(上流に白糸の滝がある湯川の支流)を指しているものと思われる。]

 

山あひの空のあかるき日だまりにわれらの煙草のけむり尾をひく

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」には、ここに、

あかるくて草とそらあり草のうへに時のわからぬ日のひかりつよく

という一首が入る。]

 

赤砂の淺間のやまの山ひだに光るすぢあり陽にふるへつつ

 

尾のひかる白きけもののかたちして雲一つとほる淺間のおもてに

 

雨遠くすぎ日の透きとほる草丘は一めんにほそき芒の穗ばかり

 

草も日もひとつ寂しさのこの野はらに生きたる人もまじらむとする

 

靑くさの傾斜のむかふ大ぞらに光る山山は荒浪のごとく

 

生きものはわれわれのみと思ひゐたる野原の遠くに牛群れて立てり

 

とほくて顏もみえざる野うしども野のところどころに時どき動く

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」には、ここに、

ならびゐて何ともいはずかぎりなき物たりなさにしづみゆく

という一首が入る。]

 

八月の空気の中に一ところわが心のまはり暗きかげあり

 

わがむすめそばなる母を忘れはて野原のなかにさびしげなるかな

 

雲を見るわが子の瞳くろぐろとこの野のなかに靜かなるかな

 

野のひろさ吾をかこめり人の世の人なることのいまは悲しも

 

野の遠くに雲の影うごき一ぽんの樹の立つところも曇りたるかな

 

[やぶちゃん注:「六里ヶ原」は浅間山の北東山麓一帯を指す地名。浅間山を見上げ、山頂からの鬼押し出しの溶岩流跡がはっきりと見え、四方の眺望が素晴らしい。浅間山方向は天明噴火の影響から、植生が乏しく溶岩がむき出しであるが、下方にはカラマツ林が広がる。「軽井沢にありて」歌群内での順列から見ても(前掲「日中」歌群の直後)、歌柄から見ても、私には芥川龍之介の死後の孤独感が反映されているように感じられる。但し、昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」では、本歌群が冒頭を飾っている。また、その名称は「はじめて六里が原にあそぶ」で、「輕井澤にて」という更なる前書きはない。更に、そこでは例えば冒頭の一首の終句が「いちめんのつゆ」となっている等、全体に漢字平仮名表記の有意な異同が散見される。]

 

 

 

    碓氷

 

     見晴臺にのぼりて

 

一ぽんの樹もなき山のたひらなりねぼけたる鴉うへを鳴きゆく

 

山も山も霞の中なるをながめたりどこを眺めても遠きとほき山

 

しめり風いちめんの熊笹に音を立つこの山も今かすみの中ならむ

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」には、ここに、

仰むきにくまざさの中に寢たくおもふ笹の葉はさわぎすぐそこに空がある

すももの花みちにも峽にも降りつつあり峽をみおろして墓二つ立てる

という二首が入る。]

 

遠みねのほのかなるいろの山ざくら散りつつやある山つちましろに

 

[やぶちゃん注:これらの歌群が芥川龍之介自死の前か後ろかは容易には識別出来ないが、「軽井沢にありて」歌群内での順列から見ても(前掲「はじめて六里ヶ原にあそぶ」歌群の直後)、また歌柄に現れたある種の時空間の隔絶感や孤独感には、芥川の死後を感じさせるものが濃厚に漂っているように思われる。なお、昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「碓氷見晴台にのぼりて」(「台」はママ)と比べると、やはり有意な漢字平仮名表記の異同が見られる。]

 

 

 

   しろき蛾

 

    つるや旅館、もみぢの部屋にて

 

白鷺の幅のまへなるしろ躑躅ほのかなるかな朝の目ざめに

 

亡き友のやどりし部屋に一夜寢て目さむれば聞こゆ小鳥のこゑごゑ

 

あさ暗きねどこに聞けばこの部屋をとりまく樹樹に雨降りてをり

 

午前九時庭樹あかるし茶をいれてわが飮む音をきけばをかしく

 

湯上がりのわが見る鏡ふかぶかと靑ぐらき部屋の中に澄みたり

 

せと火ばち湯はたぎるなりわが側にしろき蛾の來たり疊にとまる

 

[やぶちゃん注:「つるや旅館」は長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢六七八にある老舗旅館。政財界の要人、正宗白鳥・島崎藤村・芥川龍之介・志賀直哉・谷崎潤一郎・室生犀星・堀辰雄ら数多くの文人に愛された。廣子にとっては以前からの定宿であったものと思われる。彼女が泊まった「つるや」の「もみぢ」の部屋は芥川の定部屋であった。「輕井澤にありて」歌群内での順列から見ても、また歌柄の孤独感、更に「亡き友」が芥川龍之介を指すこと、「白き蛾」が芥川の魂を暗示させるのは最早、明白である。但し、私は実際にはこれが「六里ヶ原」「碓氷」歌群よりも前の時空間で作られたと考えることも可能であると思っている(いや、その方が詩想としては、より鮮明になるとさえ言ってもよい)。なお、昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」では『「翡翠」より』という前書の中に、この中の二首が、次のような形で突如と出現している。

白鷺の幅のまへなるしろつつじ朝のねどこにほのかにぞ見る

瀨戸ひばち湯はたぎるなりわがそばにしろき蛾の來たりたたみにとまる

その廣子の確信犯的虚偽の理由が那辺にあったか、是非、そちらもご覧戴き、お考え頂ければと思う。]

 

 

 

   雨

 

    昭和十三年六月、輕井澤愛宕の奧に堀辰雄氏を訪ふ

 

風まじり雨降る山に杉皮の家ぬれてゐたり君はいますや

 

栗鼠なりしや雨ひかり降る前庭をはしり過ぎたる小さきものは

 

雨つゆの降りかかる木の間くぐり來て君が家の庭に栗鼠のはしる見たり

 

そらおほふ木の葉に雨のあたるおと樅の木肌を流れおちる水

 

むすめらしくほそき姿のわかづまは黑き毛いとの上衣を着たり

 

フランスの新聞をこまく裂きて堀辰雄暖爐の火をもす

 

大き爐にまる薪の火が燃えおこり全山の樹樹あめの音を立つ

 

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:昭和十三(一九三八)年六月の作。廣子六十歳。堀辰雄は、この年の四月に加藤多惠子と結婚している。その夫妻の仮住居であった軽井沢愛宕山水源池近くの新居への訪問吟。因みに、結婚に先立つ二月、辰雄は喀血している。フランスの」の「こまく」は底本のママであるが、「こまかく」の脱字である可能性もある。実際、引用者によってはこれを「こまかく」と表記しているものを見かける。」

 

 

 

   山すその町

 

かれ葦はら靑葦すでに育ちゐてあめつちの動き賴まるるなり

 

山すその町はひそかに灯をかくし屋根屋根くろく月も曇りたる

 

[やぶちゃん注:「山すその」の歌の結句の「月も曇りたる」の「る」は印刷不鮮明であるが、推測で「る」とした。少なくとも「り」ではない。]

 

 

 

   七月

 

七月の靑きいのちはすさまじく馬越まごえの原に葦さやぐなり

 

葦はらの中の砂地に立ちとまり人がうしろから來るやうにおもふ

 

わが傘のみ一つ見ゆるかと心づき葦はらのなかに傘たたみたり

 

[やぶちゃん注:「馬越の原」は南軽井沢、現在のプリンス・ホテルの近くであるが、今はゴルフ・コースになっている。]

 

 

 

   苔庭

 

    輕井澤の町のちかき室生犀星氏の庭にて

 

洞庭のうみかたどりし苔庭にゆれ映る日を見ていましけり

 

 

 

   初冬

 

かれ葦と枯木かさかさ音たつる野みちを過ぎて友がに來ぬ

 

夏庭に影をひろげし大木なり一葉もたず風にふかるる

 

ふと薪と白樺のも古板も大き爐に燃しあたたまる部屋

 

霜つよく草枯れはつる夜もひるも爐をあかく燃す野のひとつ家

 

冬來たる野なかの家に爐をもして熱きあづきをもてなされつつ

 

家ゆする山かぜはげし朴の葉も紅葉も捲きてふきとばさるる

 

山おろし木の葉吹きちらす野を越えてまさやかに濃く淺間がみゆる

 

こがらしに雲ちぎれ浮く野に來たり見むとおもはぬ淺間に遇へる

 

 

 

  秋も冬も  昭和二十四年――二十七年

 

   りんご

 

竹やぶの遠きうごきをながめつつ野はらの家はまた秋となる

 

夢とほく散歩に行けどうつそみはひとりの家にわが飯を食す

 

[やぶちゃん注:「食す」は「をす」と読む。]

 

四十路すぎわれ老いたりを思ひしも遙けくふるき物語なる

 

人は死に吾はながらへ幾世經て今も親しくいともしたしき

 

わが側に人ゐるならねどゐるやうに一つのりんご卓の上に置く

 

燈火あか滿てる小部屋の椅子におちつきて靑白き林檎むき始めたり

 

[やぶちゃん注:冒頭「燈火」は「あか」のルビ位置から推すと「あかり」のルビの脱字の可能性がある。]

 

あらし過ぎ秋日さしければ疊なき板敷の部屋も今日は晴ばれし

 

颱風あらしすぎぬ夏のなごりの一りんの百日草を靑き壺にさす

 

 

 

   すぎゆく日日

 

わが知らぬ人ばかりなる村里に今は安けくうらぶれてをり

 

鼬など秋の日和に迷ひくる野にちかき庭を珍しいがりぬ

 

こまごまと死ぬ日の事を思ひゐしその頃の吾はいとのびやかに

 

枯木はら滿月黑くあがり來ぬけふ初めての春がすみ立ち

 

紅椿の大き枝もち行く子あり三月と心あわてる

 

裸木の木はだのすぢめ見なれたる庭にいてふが片枝芽ぶきぬ

 

白つつじ影かと見えるうす紅のほのかな色に花花はにほふ

 

日のてりしは昔の事とおもはれて豪雨ふりそそぐこの連日を

 

過ぎし日の熊の平をおもひいづ官舍の庭のダリアの花も

 

[やぶちゃん注:最後の一首に現れる「熊の平」は、「熊ノ平」で、群馬県碓氷郡松井田町(現在は安中市)にあった国鉄信越本線の熊ノ平駅のことか。明治二十六(一八九三)年の信越本線横川~軽井沢間の開通に伴い、給水給炭所として設置され、その後、明治三十九(一九〇六)年には鉄道駅に昇格している。本歌集が出版される四年前の昭和二十五(一九五〇)年六月八日から十二日にかけて、同駅構内で、豪雨により四回に亙る大規模な崩落事故が発生、作業中の職員その他死者五十名、宿舎四棟八戸が埋没した(以上はウィキの「熊ノ平駅」を参照した)。その廃駅染みた(昭和四十一(一九六六)年に信号所に降格されて存続)景色はかつて信越線を頻繁に利用した私などには忘れがたいものである。]

 

 

 

   饗宴

 

麥の芽のいまだをさなき畑に向く八百屋の店は一ぱいの林檎

 

深山路のもみぢ葉よりも色ふかく店の林檎らくれなゐめざまし

 

立ちて見つつ愉しむ心反射して一つ一つの林檎のほほゑみ

 

みちのくの遠くの畑にみのりたる木の實のにほひ吾を包みぬ

 

手にとればうす黄のりんご香りたつ熟れみのりたる果物の息

 

すばらしき好運われに來し如し大きデリツシヤスを二つ買ひたり

 

あま酸ゆき香りながれてくだものと共にわがゐる秋の夜の部屋

 

宵淺くあかり明るき卓の上に皿のりんごはいきいきとある

 

日のくれて靜かなる家にりんご割る音がさくつと簡單にひびく

 

わがいのる人に言われぬ祈りなどしみじみ交る林檎のにほひ

 

人多く住みける家をおもひいづ林檎をもりし幾つもの皿

 

饗宴のをはりしあとの靜かさに時計を聽きぬ電氣あかりさやけく

 

[やぶちゃん注:廣子は以上十三首の内、「あま酸ゆき」「日のくれて」「人多く」の三首を除いたものを、昭和二十八(一九五三)年六月刊の「燈火節」(昭和二十八(一九五三)年六月暮らしの手帖社刊)に「林檎のうた」と題して再録している。随筆集「燈火節」の中で、短歌だけの内容の作品はこれ一篇のみであり、廣子の中では纏まった自信作であったものと考えられる。なお、「林檎のうた」では「すばらしき」の歌の「デリツシヤス」の表記が「デリシヤス」に変更されている。]

 

 

 

   春の色

 

みちのくに旅ゆきし日のおもひでは島島うかび靑ひかる波

 

本によみてわが親しみしみちのくなり野に人あらず山山にもみぢす

 

柿の實か柿のくち葉かよく見えぬしげみの小路すぎて訪ふ

 

夕ぞらいちめんに赤く霜ふくむ空氣のなかの野はくれてゆく

 

月がしろく霜も眞白き庭に向くがらす戸の家に今ははや寢む

 

けふよりぞ大寒といふに空靑し風をききつつ熱き茶をのむ

 

ひとりゐてトーストたべるわが姿ひとよ見るなと思ひつつをかし

 

老いてのちはたらくことを教へられかくて生きむと心熱く思ふ

 

竹籔ははや色かはる春の色か靑くきいろく遠い竹やぶ

 

きさらぎの麥生に向ふ窓よりぞはるけきものが眼に映りくる

 

われひとり時のうごきに遠くゐてまぼろしがゑがく忘れたる顏

 

 

 

   をんどり

 

ほのぼのと亡き子を思ひ堀辰雄のあたらしき本けふは讀みゐる

 

[やぶちゃん注:該当時期の堀辰雄の新しい本となると、昭和二十四(一九四九)年三月文芸春秋刊の「あひびき」、同年八月早川書房刊の「牧歌」の何れかであるが、後の歌に「七月」とあるので、前者であろうか。実は、本歌集が刊行された時(昭和二十九(一九五四)年一月)には、既に堀辰雄はこの世の人ではなかった。昭和二十八(一九五三)年五月二十八日、肺結核のため逝去、四十九歳であった。同年、廣子七十五歳。]

 

追分のなぞへの家に君が見る遠山山は空より靑からむ

 

[やぶちゃん注:「なぞへ」は、斜面の意。堀辰雄は、昭和十九(一九四四)年に、長野県北佐久郡軽井沢町大字追分に念願の新居を作って転居し、ここで亡くなった。]

 

無花果の葉影うごかぬ日ざかりにわが心ふいに曇りゆきたり

 

いてふ樹の靑き毛蟲が落ちきたるわづらはしさも夏の風物

 

洗面器バケツも並べ雨もりの部屋に本よむ氣をくさらすな

 

芝に交る雜草のしげりすさまじくわが部屋のそとは靑き七月

 

守宮やもりは手もてつかまり王のいへにをるとふみにありけり熱き國ならむ

 

[やぶちゃん注:ここに記される書は不学にして不詳。堀辰雄の作品であろうか。御存知の方は、御教授を乞う。もしや――龍之介ソロモン王の地か?]

 

よわりはてすべてものうくなりし時涼風ふきてわれを生かしぬ

 

外苑にクローバの花しろく咲けりベンチの男われをじろりと見る

 

うすぐらき蒼古の空氣にとりまかれ苦しくなればわれは野に出づ

 

をさなごの母が放せるにはとりら草間にしろく夕べの散歩す

 

めざめゐて夜あけの鷄の聲をきくただ一羽鳴けるさびしきをんどり

 

 

 

   白桃

 

さつそうとパンパンひとり住む家に白桃の花は眞珠のごとし

 

初夏の心かろければバスに乗りわがむさし野を西へ西へ行く

 

一つの夢みたされて眠る人の如くけふの入日のしづかなる色

 

風こもる竹やぶ多くそのかみの井の頭街道いつも閑寂ひそやか

 

師がいます熱海の山邊おもへども汽車に乘りえずとほき國なる

 

 

 

   おもひでの駿河

 

      わが夫なくなりし大正九年には常のごとく輕

      井澤に避暑する氣力もなく心身よわりてあり

      しを、人のすすめにより御殿場にゆきて七月

      八月を過しぬ。記憶すでにうすらぎてわが世

      の事ともおぼえず、ただその夏の富士をかす

      かに思ひ出でて

 

富士が嶺を土なるものとながめつつ駿河の國に旅寢せし夏

 

竹むらの葉もれ日うごく苔庭に山うぐひすは鳴きて行きたり

 

靑きもや裾野をつつみひねもすに御山は見えず怠惰なる世界

 

山百合のあまりにほへば戸をあけて暗やみの中に香を流しやる

 

大きな富士はうつせみ吾とかかはりなくみそらに掛りむらさきの山

 

おどろきてわが仰ぎみし夕富士はオパルのごとく全山もえゐぬ

 

よる深き田中の家の窓により箱根をくだる灯をかぞへゐし

 

[やぶちゃん注:廣子の夫貞次郎は、大正九(一九二〇)年三月二十四日に亡くなった。貞次郎は大蔵省から日本銀行計算局長・文書局長・調査役を歴任した人物であった。]

 

 

 

   蠟の火

 

あたたまり靜かに眠る明日は吾生きてあるやと問ふこともなく

 

三月の朝の目ざめにわかき日の或る日の如くほのぼのとをり

 

子のためにけふ七年の法要すうらら春日は蠟の火ゆれず

 

一族の年長者よとわれを思ひ眠りに入りしひとびとを呼ぶ

 

芝庭の春日にむかひ一人ゐて田舍の菓子もコーヒも愉し

 

のびのびと無爲に一生を過し來てそのまま吾は眠らむと思ひし

 

春の日のめづらしびとと對ひゐてしどろもどろに語りけること

 

三つの子が年うへの子と遊びつつせいのびすればかなし三つの子は

 

人の子のこのをさなごを愛すればわが亡き後の事をかきおく

 

[やぶちゃん注:敗戦直前の昭和二十(一九四五)年に病死した長男達吉の、文字通りの七回忌法要での歌とすれば、昭和二十六(一九五一)年三月二十四日の歌群である。「一族の」は一種呪術的である。ここにいるのは、まさに古代の巫女である。族長としてのシャーマン、廣子は歌なるものの原初へと確かに回帰している。

 

 

 

   秋も冬も

 

うす紅に木槿の花がちりしきて庭樹樹けさは秋のけはひす

 

靑深き一つ庭とも見わたされ中に火を燃すけいとう數本

 

秋にありしづかなる日のあけくれや樹樹は一葉をいまだ落さぬ

 

棕梠の葉がかすかに搖れて靑暗しガラス戸のそといつぱいの秋日

 

こふるとも嘆くともなく思ひいづる昔の家はしづかにありし

 

有爲轉變すさまじかりし世紀にも心臆せずまだある生命

 

朝ぎりに心しめらせ思ひいづ信濃の秋の寂しかりしも

 

着物のこと思ふ日もあれど古びたるネルのひとへを秋も冬も着る

 

心深くひそかに祈るあめつちの秋にかこまれてうつそみ一つ

 

 

 

   むらさき

 

待つとなく一人ながむるむさし野の高井戸のそら春らしくなりぬ

 

春ぞらに遠山ひかる夕べにも山は山とのみ心に映る

 

むかし高麗びと千七百九十九人むさし野に移住すとその子孫かわれも

 

[やぶちゃん注:個人サイト「さいたまの歴史散歩」の埼玉県日高市新堀にある「高麗神社・聖天院」の紹介ページ等に拠れば、北武蔵(現在の埼玉県)に渡来人が移住してきた記録は、壬生吉志みぶのきし(生没年未詳。新羅系渡来人。大和政権による東国の直轄地化に伴い、管理者として摂津から移住してきた)の入植が六世紀末頃に認められるが、本格的な集団移住は斉明六(六六〇)年に唐・新羅連合軍による百済・高句麗の滅亡による移民が最初とされる。それは天智二(六六三)年の白村江はくすきのえの海戦で唐に敗れた倭国勢が百済の遺民を率いて帰国したことに始まり、ここで廣子が言う最大の大量移住が、霊亀二(七一六)年に行われた。その際には、甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野の七ヶ国の高麗人一七九九人が武蔵国に移され、高麗こま郡が置おかれた(「続日本紀」)。これは現在の日高市を中心に飯能市と坂戸市を含んだ地域と考えられている。郡司には、高麗若光こまのじゃっこう(生没年未詳)が任ぜられ、ある程度の高麗人による自治権が認められていたらしい。そこには彼等の持つ窯業・製鉄冶金・織物・装飾細工技術の集合的管理と、そうした新技術を持った異民族の力によって東国の未開地の土族集団を中央集権のシステムに組み入れる目的があったと思われる。なお、必ず先に掲げた「人に打たれ」の注も参照されたい。

 

はたらきて水のみて飯を頂きし昔びとの夢も小さくありけむ

 

花のごとく木草の如くわがうから枯れゆくならばそれもすべなし

 

生きるかひあるかと問はじ天地の一つの生命をわれ今日も愛す

 

雪やなぎましろにしだれ咲きみてり木の芽の靑む裏道をゆく

 

むらさきの忘れなぐさのこまかなる花花咲けりわが庭の四月

 

 

 

   天使

 

雨くらく秋初めての寒さなりみちのくの山に雪ふるといふ

 

あめのつちの秋深くなる朝なあさな枯れゆく骨の一點いたむ

 

十一月はこべも今は枯れむとすとりら忍べよ百日の冬

 

心あわていくばくの金欲しと思ふわが一生の最後の日のため

 

國追はれ大河のほとり迷ひゆく苦難の民の心にもなる

 

としつきを默して過ぎしまづしさよなづみ果てては誇ともなる

 

[やぶちゃん注:「なづむ」は第一義的には「悩み苦しむ」の意味で用いられていようが、更に派生的な「執着する」「こだわる」「打ち込む」の意をも示していよう。廣子は戦前・戦中・戦後を通して自分が黙って過ぎてきたことを深く自省しつつ、そこにしかし「黙す」という覚悟の中で確かに廣子として生きてきたことの人生の矜持を示しているのだと私は読む。]

 

丘にのぼり田におりてわが散歩せし馬込もけふは秋日好からむ

 

[やぶちゃん注:廣子は明治三十八(一九〇五)年二十七歳の時、鎌倉から現在の東京都大田区大森馬込山王三丁目に引っ越した。その後三十有余年、昭和十九(一八三四)年六十六歳で強制疎開のため、東京都杉並区浜田山に移るまでここに住んだ。]

 

追はれるやうなせはしき夢をみてゐたり覺めて深夜の靜かさを恐る

 

まつすぐに素朴にいつも生きて來し吾をみじめと思ふことあり

 

君みづから自らのためも計りませと言はむと思ひぬ天使に向ひ

 

けふ在りて明日もあらむとたのみつつ夢おほく生み愉しきごとし

 

よき歌の一つを欲しくわがいのち長くもがなとこの頃ぞ祈る

 

 

 

   暗殺者

 

柳の木ひさしくわれは見ざりしとすこしゆれゐる木蔭に寄りぬ

 

自轉車に何かけものの肢をのせ日のしろき道路走りゆきたり

 

水道路すでに秋なる日光に半裸の子らがバケツ下げて

 

いくつもの灌木のかげ路に落ちけふよさよならとかなかなの聲

 

芝のうへを蜥蜴がはしる身のひかり爬蟲のなかまの美しきもの

 

[やぶちゃん注:底本では「蜥蜴」が「蜥蝪」となっているが、「蝪」は土蜘蛛を意味する別字であるので、補正した。]

 

佐渡の海の光るをみつつ文かくとわれにゆかりの一人のむすめ

 

午後の電車の白衣の人に一枚の紙幣を上げてわが心すなほなり

 

[やぶちゃん注:「白衣の人」は、若い読者には分らないかも知れない。これは傷痍軍人である。]

 

一さつの本ほしけれどけふ吾の買ひ來りしは口に入る物

 

植民地のおもて通りを散歩して花屋の窓の花見つつ行く

 

[やぶちゃん注:この花屋はかつて先に示された「くれはやき」の歌で詠んだ、あの芥川龍之介ゆかりの花屋と同じであろう。そうして廣子はそこの芥川の影を見ているのだと私は思う。]

 

厠の汲取人になることもにつぽん人の一つの仕事

 

つれづれといふ言葉いまは忘れられ競技のごとく今日も走りぬ

 

書齋にシヤロツト・コルデーの繪を掛けて父はゆるしけむ美しき暗殺者を

 

[やぶちゃん注:「シヤロツト・コルデー」は Charlotte Corday シャルロット・コルデー(一七六八~一七九三)。フランス革命のジロンド派の刺客として、Jean-Paul Marat ジャン=ポール・マラー(一七四三~一七九三年七月十三日)を刺し殺した『暗殺の天使』。父吉田一郎は埼玉県出身、ニューヨーク領事・ロンドン総領事を勤めた外交官であった。]

 

 

 

   祈願

 

かそかなる涼風吹けばまひるまの疊に臥して秋をおもへり

 

風吹けばかたかたと鳴る棕梠の葉の葉かげに屈み草をぬきゐる

 

稻びかりわが庭の上をとびしとき夜目に見たるはかやつり草か

 

光見えず心まどへば他人よその子の四つになる子をいだきて話す

 

希望もつことも恐れて臆病は世捨人らしい表情をする

 

魚らの冷たいなめらかさを人間仲間が持たばかなしからむ

 

親不孝横町とよべる街うらにわが友ら四五人茶をのみてゐし

 

[やぶちゃん注:「親不孝横町」と呼称される場所であるが、インターネット検索をかけると、かなり有名な所としては神奈川県横須賀市若松町の京急横須賀中央駅前商店街大通りの裏通りの飲食店街が挙がってくる。しかし、ここについては『戦前は』「ションベン横丁」「親不孝横丁」等と呼ばれていたらしいとあり、時代が合わない。また、埼玉県所沢市の「盃横丁」が昭和五十五(一九八〇)年頃までは「ションベン横丁」「親不孝横丁」等と呼ばれていたとある。現在もこのように呼ぶところとしては、「親富孝通り」と書いて「おやふこうどおり」、福岡県福岡市中央区天神地区北西部を南北に走る飲食店街、正式名「天神万町通り」がある。以前は「親不孝通り」という表記で、現在でも「親不孝通り」と表記されることの方が多いとあるが、この命名は一九七〇年代とされており、位置的にも除外されるか。また、神奈川県横浜市関内駅近くの伊勢佐木モール(伊勢崎町通り)に平行して走る風俗店の林立する通りを、現在も「親不孝通り」と呼称している。但し、ここは昔は青線地帯であり、「ションベン横丁」という呼称の方が一般的であったようであり、廣子が昭和二十七(一九五二)年前後に喫茶する場所としては如何か。同定は意外に難しいようである。識者の御教授を乞う。]

 

よきむすめ玉葱の體臭にほひにほはせて底よごれたる街を行きたり

 

けふわれのかけし祈願はしら雪のふりつもる冬まで待ちてみむとす

 

 

 

片山廣子歌集「野に住みて」 全 附やぶちゃん注 完