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The Well of the Saints John Millington Synge
聖者の泉 (三幕) ジョン・M・シング著 松村みね子訳
[やぶちゃん注:本作はアイルランドの作家John Millington Syngeジョン・ミリントン・シング(1871~1909)が1905年に発表した戯曲である。
私の好きな不条理演劇のバイブルとも言うべき同じアイルランド出身の作家Samuel Beckettサミュエル・ベケット(1906~1989)の「ゴドーを待ちながら」(フランス語版“En attendant Godot”は1952年、英語版“Waiting for Godot”)は、本作を意識して書かれた。
更に訳者であるペンネーム松村みね子は、本名片山廣子、芥川龍之介のあの『越しひと』である。この翌年に運命の出逢いをすることとなる芥川龍之介は、実は先にこの「聖者の泉」を原文で読み、かの「鼻」や「芋粥」の主題のヒントを得るに至ったとも考えられている(ブログ・コメントを参照)。
底本は、2000年沖積舎刊ジョン・M・シング著松村みね子訳「シング戯曲全集」を用いた(本書の初版は大正12(1923)年7月新潮社から刊行された)。底本に準じて人物名はゴシック、台詞本体は明朝で表記し区別をつけた。また底本では台詞が二行目以降に及ぶ場合、二行目以降は全て一字下げであるが、ブラウザの不具合が生じる関係上、それは無視し、ト書きの改行箇所も底本通りではなく、ブラウザでの不具合を考えて私の判断で行ってある。【2009年3月3日追記】第二幕及び第三幕の台詞合計2箇所に疑義を示しておいた。【2009年3月4日追記】ネット上の“Project Gutenberg”の英語版原文“THE WELL OF THE SAINTS A Comedy in Three Acts By J. M. Synge”で、第二幕の該当疑義箇所を確認した。以下に原文を引く。
MARY DOUL. It's them that's fat and flabby do be wrinkled young, and that whitish yellowy hair she has does be soon turning the like of a handful of thin grass you'd see rotting, where the wet lies, at the north of a sty. (Turning to go out on right.) Ah, it's a better thing to have a simple, seemly face, the like of my face, for two-score years, or fifty itself, than to be setting fools mad a short while, and then to be turning a thing would drive off the little children from your feet.
[She goes out; Martin Doul has come forward again, mastering himself, but uncertain.]
以上からやはりここはメリーの台詞であることが確認されたので、松村みね子女史に敬意を表しつつも、訂正した。悪しからず。]
人
マーチン・ダオル やつれ汚れた盲目の乞食
メリー・ダオル マーチンの妻、やつれ果てた醜婦、同じく盲目、五十近い女
チミー 初老にちかい中年の男、元気のいい鍛冶屋
モリー・ビルン 金髪のうつくしい娘
ブリード 同じく綺麗な娘
マット・シモン
聖人 雲水の僧
ほかにも大勢の男女
百年か、あるいはもっと昔のアイルランド東部の山中のさびしい村
第一幕
右手、数個の大きな石などある道路、後方、低いくずれかけた石垣、
その中央に近く垣の壊れた抜け路あり、右手、寺院の壊れかけた門、
門(もん)の傍に灌木のやぶあり、マーチン・ダオルおよびメリー・
ダオル、左手より探りながら出て来て右手の石の方に行き、その辺
に腰かける。
メリー マーチンや、ここはどこだろうな?
マーチン 抜け穴のとこは通り過ぎたろう。
メリー (首を上げて)そんなに来たかねえ! 何しろ、今日は日が暖かになったねえ、秋ももう末なんだが。
マーチン (日あたりに両手を出して)暖かい筈だよ、こんなに高く南に回ってるからなあ! ひる前いっぱい、お前がその金色の髪をいじってる間に、みんながクラッシの市(いち)に行ってしまったろう。
メリー 市に行きがけは駄目さ、牛をひっぱったり、豚の児を車に載せてキュウキユウいわせて行く時なんぞ、何をくれるものか。(腰かける)お前だってそのくらい知ってるくせに、口小言ばかし言ってる。
マーチン (彼女の側(そば)に腰かけて、彼女から渡された藺(よし)を裂き始める) 口小言でもいわざあ、お前のどら声をきいてると気が変になる、どうもまったく、不思議などら声を出すなあ、お前は器量はいいんだそうだが。
メリー 年が年じゅう、雨の降るなかでも野天でくらしていりゃ、どら声にもなろうじゃないか? こんな生活(くらし)は声のためにはわるいんだよ、それでもな、いつもわしらの顔や頸(くび)に吹きつける、あのしめっぽい南風は、白い綺麗な皮膚(はだ)のためにはいいんだとよ、わしのような皮膚のためにはな――綺麗な皮膚ほど、女をうつくしく見せるものはないからなあ。
マーチン (機嫌よく、しかしからかうように)おれは時々お前の美貌(かお)のことを考えると、分からなくなるよ、時々は、お前がべっぴんでないのじゃないかと思うこともあるんだ、おれが子供で、目あきの時分には、美しい顔のものは声も好い声だったがな。
メリー そんな事をいいなさんな、鍛冶屋のチミーやマット・シモンやパッチ・ルーやほかにも大勢がわしの顔をほめたのをお前も聞いてるだろう、バリナトーンではわしのことを盲(めくら)美人と言ったのをお前も聞いてるじゃないか。
マーチン (前と同じ調子で)それもそうだが、いつかの晩がたモリー・ビルンが言ったことがほんとうなら、お前は化け物みたいだそうだ。
メリー (鋭く)かわいそうに、あの女は嫉妬(やけ)たんだあね、鍛冶屋のチミーがわしの髪を褒めたあとだったからねえ――
マーチン (嘲るような皮肉な声で)やけたんだと!
メリー やけたんだとも、マーチン・ダオル、もしあの子がやいたのでなかったにしろ、年の若い馬鹿な人間は眼の見えない者をからかうのが癖だあね、わしらをだますのを手柄にでも思ってるんだろう、どんなにわしらが器量よしだって、わしらにゃそれが見えないんだからねえ。
(彼女、満足し切った様子で片手を自分の顔にあてる)
マーチン (すこし愚痴っぼく)おれは長い夜々(よるよる)考えることがある、もしおれたちにたった一時間でも、たった一分間でも、自分の姿が見えたら素敵だろうと思うんだ、おれたちが東部(ひがし)の方の七つの県に誰ひとり追つけないほどの立派な男や立派な女だと、自分たちで見ることが出来たらなあ――(にがく)そうすりや目あきの弥次どもがどんな嘘をいいやがろうと、ひと言だって聞くんじゃないがなあ。
メリー お前が大馬鹿でなけりゃ、今だってあいつらのいうことは聞かないがいい、マーチン・ダオル、眼の見える人間は悪い奴らだよ、どんな美しい物を見たって、見ない振りをして、馬鹿馬鹿しい嘘を言って悦(よろこ)んでるんだ、あのモリー・ビルンがお前に聞かしたような嘘を言って。
マーチン あの女は嘘をいってるかも知れないが、あの女の声はいつきいても好い声だなあ、豚を呼ぶ時の声だって、長い草の中で鶏を呼んでる声だって。(考え深く)ああいう声を持ってるのは、美しい柔らかい丸っこい肉つきの女だろうと思う。
メリー (呆れ切って、また鋭くいう)丸っこかろうと平ったかろうと、余計な心配をしなさんな。あの女が浮気っぽい馬鹿な女だってことは遠くからでも分からあね、いつも井戸端で大騒ぎをして笑ってるじゃないか。
マーチン 若い女が笑うのは気持ちのいいもんじゃないか?
メリー (にがく)気持ちが好いと? 女があんな大きな声で馬鹿笑いをしてるのを聞いてるのが気持ちが好いのかい? ああ、ああ、あの女は男の心を取るのがうまいねえ、チミーが店で仕事をやってる時、あの女がグリーナンからやって来ようもんなら、チミーは息をはずませたり、自分の手を握って見たり、大騒ぎやらかすから。
マーチン (少し愉快げに)お前の側に並べて見れば、あの女なんぞ何でもないと、いつもあの男が言ってるが、それにしても俺は、どこの男にしろお前の顔を見て息がはずんで来るのをまだ聞いたことがない。
メリー わしはな、そこらの路をはね歩いて、足を見せびらかしたり、首を長くして男に眼づかいするような娘っ子とは違うんだから……やれやれ、この世界はひどい事だらけだなあ、マーチン・ダオル、物欲しそうな眼つきをして、うまい口をきいて、何一つ本気にもならないで、のし歩いてる奴らを見るとなあ。
マーチン (悲しそうに)そりや、まったくそうかも知れねえ、が、人の話じゃ、若い娘が路を歩いてるのを見るなあ、素敵なもんだそうだ。
メリー お前が目あきでいたら、お前もほかの連中に負けない悪ものかも知れないな、わしゃ目あきと夫婦にならないでいいことをした、大悦びでわしの亭主になってくれる男はたくさんいたけれど――目あきというものは、よっぽど変なものだな、どんな真似をやらかすか見当がつかない。
(暫時(ざんじ)の間)
マーチン (何かに聴き入る)だれか路をやって来る。
メリー その草を隠してしまうがいい、あいつらがあら探しの眼でまた見つけ出して、わしどもを金持ちだなんて言って一文もくれないかも知れないから。
(彼ら、藺(よし)をかくす。左手から鍛冶屋のチミーが来る)
マーチン (乞食らしい声を出す)おだんな様、どうぞ盲目(めくら)のマーチンに銀貨を一つやっておくんなさいまし、銀貨を一つ、銅貨でもよろしゅうございます、おだんな様がご繁昌なさりますように、神様にお祈りいたしますでございます。
チミー (両人の前に立ち止まる)なあんだい、つい先だって、俺の足音が分かると言ってたくせになあ!
(チミー、腰かける)
マーチン (平常の声に返る)モリー・ビルンがお前の前に歩いてる時か、それとも五、六間も後からのらのらついて来る時なら、俺にも分かるがなあ、お前が今日のような歩き方をやってるなあめったに聞いたことがないて。路で何かちがった事にでも出っくわしたような歩きっぷりだな。
チミー (息を切りながら暑そうに顔の汗を拭く)ほんとうに、お前はいい耳だな、嘘つきにしてもなあ。おらあ、まったく、市(いち)で奇妙不思議な事をきいたんで、大急ぎでやって来たんだ。
マーチン (少し馬鹿にした調子で)お前はいつでも不思議な事をきいたと言ってるが、大てい不思議でも何でもねえ事じゃねえか、だが、今日のは、まったく不思議な話かも知れねえぞ、お前が午すぎにもならない内に帰って来て。クラッシの草っ原で音楽入りの見世物をやったり、飛びっくらだの、踊りだのやるのを見ないで来るんだからなあ。
チミー (ふくれて)おれはな、今じっきにここんとこですばらしく不思議な事がおっぱじまるのを知らせに来てやったんだ、(マーチン・ダオル、仕事する手を止める)クラッシの草っ原にだって広いレンスターじゅうにだって、まあだこんな事は一度だってあったことはねえんだ、だが、お前はたいしたお利口もんだから、おれの話なんざあ聞く気はねえんだろうよ。
マーチン (興味をもって、それを信じないらしく)ここで不思議な事がおっぱじまるんか、ここでか?
チミー ここで、この路の四つ辻んとこで、あるんだ。
マーチン ここんとこで何かあったのは、いつぞや爺さんが金を持って家(うち)へ帰ってくところをぶつ殺されて、死骸は沼に打ちこまれた、かわいそうに、あれぐらいなもんだろう。そんな事を今夜またやられちゃ困るよ、ここの四つ辻はおれたちの領分なんだ、お前たちの悪戯(わるさ)だの、不思議な真似だのは真っぴら御免だ、俺たち二人が、これでけっこう不思議な見物(みもの)だからなあ。
チミー もし俺に思(おぼ)し召しがあれば、今日ほんとうの不思議な話があるのを聞かしてやるんだがなあ、お前たちが考えもつかない嬉しい事が起こるまいものでもないんだが。
マーチン (興味をもって)岩のうしろへ酒屋でも出来るんかな? 雨の降るなかを大骨折って探りさぐり沼を越していかねえでも、ここにいて一杯のめれば、ありがたいこった。
チミー (まだ機嫌わるく)酒屋なんぞ出来やしない、まるで、そんな話じゃねえ。
メリー (チミ一に機嫌をとる調子で)泥棒をそこらの樹へぶら下げるんじゃないかい、人間が首をくくられてぶら下がってるところは面白い物だってわしゃ聞いたことがあるが、それにしても、わしらにゃ面白いことはないよ、見えないんだからねえ。
チミー (少し機嫌よくなる)だあれも今日は首なんぞ絞られやしない、メリー・ダオル、だが、神さまのお助けで、お前が死ぬ時までにや、首を絞られる人間を幾度でも見物が出来るかもしれない。
メリー はあて馬鹿な事をいいなさんな……どうしてわしに大勢の人間が首を絞られるのを見物が出来ると思う、七つの時から盲らになつたわしに?
チミー お前いままでに聞いたことがあったか、そこの海の向こうに島があって、四(よつたり)人のえらい聖人さまの墓所(はかしょ)があるという話を?
メリー 聞いたことがある、西の国からもみんながそこまでおまいりに行くという話だった。
チミー (力を入れて)その墓所のうしろに、青々した苔の生えた泉があるそうだ、その泉の水を一滴(ひとたらし)でも盲らの目につけてやったら、盲人は忽(たちまち)この世に生きてる誰にも負けなく眼が見えるようになるという話だ。
マーチン (興奮して)チミー、ほんとうか? お前、うそじゃねえか?
チミー (不愛想に)ほんとうだ、マーチン・ダオル、お前、今度こそほんとにしてもいい、お前もずいぶんいろんな出たらめを今まで本当だと思っていたんだからなあ。
メリー どこかの若い衆でもやってそのお水を持って来て貰おうか、あしたの朝、壜を洗って、パッチ・ルーに行って来て貰おう、あいつにたっぷり酒を飲まして、藁ん中に隠してある銭(ぜに)をちいっとくれてやろう。
チミー 俺たちとおんなじような罪の深い人間を使いにやっても役にゃ立つまい、おれが聞いたにゃ、そのお水を持ち運ぶ人間の心がきたねえと、その清いお水まで汚れちまうんだそうだ、路で娘っ子をながめたり、酒屋でひとくち飲んだりしている間に。
マーチン (失望して)おれたちが自分で歩いてゆくには恐ろしく遠いとこだからなあ、いくら不思議な事でも、おれたちにゃ、ありがたくねえなあ。
チミー (マーチンの方に向き、気短く)何しに歩いていくんだ? お前たち、目が見えないとおり耳もつんぼになったんか、おれは、ここで不思議な事が始まると言ってきかしたじゃないか。
マーチン (カッとして)そんならそれで、涎(よだれ)のたれそうなお前のでけえ口をあけて、どんなあんばいしきにその不思議な芸当が始まるんか聞かせるがいい、無駄口をきいてるうちに日が暮れちまう。
チミー (不意に立ち上がる)どうら帰ろう、(メリー・ダオ~立つ)お前たちと尋常な口をきいて時をつぶすがものはねえ。
メリー (立って、自分の興奮を押し隠して)チミーさんや、まあわしの方に来て、あれに構わないでおくれ。(チミー立ち止まる、彼女、手探りでチミーの側に行き、服をひっぱる)お前、わしにゃ怒っていやしまい、どうぞなあ、わしにすっかり話して聞かして、もうだますのはよしてくんな……お前が自分でそのお水を持って来たんか?
チミー なあんの、おれは持って来やしない。
メリー じやあ、その不思議な話をきかしておくれよ、……チミーさん……誰がそのお水を持って来るんだい?
チミー (心が和らいで)それはな、立派な聖人様が持って来なさる、神様の聖人さまだ。
メリー (畏(おそ)れ入って)聖人さまが?
チミー そうよ、立派な聖人さまが、長あい上着を着て、はだしで、アイルランド中(じゅう)のお寺をめぐって歩きなさるんで、お水をちいっとばかり提げて来なすった、ああいうお方なりや、どんなぽっちりのお水でも、死にかけた者も癒してやりなさり、目の見えない者にも、静かな日に高い空を飛んで行く茶いろの鷲のように、はっきりと物を見させて下さるそうだ。
マーチン (杖を探りながら)チミー、どこにおいでなさる? すぐ行こう。
チミー まあ落ちついていなさい、マーチン。聖人様はここと山とのあいだの、お寺や名所を回ってお祈りをあげていなさる、そして聖人様の後にはいつも大勢が従いて歩いている聖人様はけっこうなお祈りをお上げになって、それから断食もやりなさるんで、そのおかげでまるでお前の膝の上のからっぽの藺(よし)のように痩せていなさるよ、それが済むとここへ来なすってお前ら二人を癒して下さる――おれたちがお前らの話を申し上げておいたからなそれからそこの寺でお祈りをお上げなさるそうだ。
マーチン (急にメリー・ダオルの方に向いて)じゃあ、今日おれたちは自分を見ることが出来るんだな? ああ、ありがたい、まったく、ほんとだろうなあ?
メリー (ひどく悦よろこんでチミ一に)わしゃ、ちょっくら行って、しまっといた肩掛けを持って来るひまがあるだろうか、人の話では、わしがあれを頭に被ってる時がいちばん美しく見えるそうだから。
チミー そりや持って来る時間はあるとも――
マーチン (何か聴き入る)黙って……河の方から人が来るようだ。
チミー (左手の方を眺めて、不思議そうに)あの娘たちは俺が来る時は聖人様の後について歩いていたんだがなあ……こっちヘやって来る、(舞台の入り口ちかく行く)何か手に持って来る、まるで子供が前掛けにたくさん玉子を隠して歩いてるようにゆっくり歩いて来る。
マーチン (聴きながら)あれは、モリー・ビルンだろう。
(モリー・ビルンとブリード、左手より登場、マーチン・ダオルの
方まで行く、お水の器、聖人の鈴および上衣を持っている)
モリー (口かるく)マーチン、よろこびなさい、わたしはね、西の国の四人(よつたり)の聖人さまのお墓の川側のお水をここへ持って来たよ、お前もじっきにわたしたちとおんなじように眼があくよ――
チミー (モリーの側まで行き、彼女の話を遮(さえぎ)る)その話はこの男も知ってるんだ。だが一体、どこへ聖人様は行ってしまいなすった、どうしてお前たちみたいな者にお水を預けなすったんだ?
モリー 向こうの空に雲が出て来たんで、聖人様は遠路をするのが心配になりなすったんだよ。今ね、グリーナンの十字架のとこで御祈禱するって、繁った森の中を分けて昇って行きなすったよ、あとでこの路を通って、そこのお寺へ来なさるとさ。
チミー (まだ驚きがやまず)それでお前たち二人にお水を預けなすったんかい? まったく不思議だなあ。(すこし左手へ寄る)
モリー 若い衆たちが聖人様にお話ししたんだよ、聖人様の昇っていらっしやろうてえ路の茨(いばら)だの、まっすぐな滑りそうな岩だのばかしで、誰にだってとても物を持っては行かれませんて、それで聖人様はそこらを見回しなすったが、私たち二人にお水と、長あい上衣と、鈴とをお渡しなすったのよ、この世の中に、若い娘ほど汚れ気のない清い者はいないとおっしゃって。
(メリー・ダオル、もといた席近く行く)
メリー (腰かけながら、ひとりで笑う)はてさて、聖人さまは正直だねえ、だが、それも嘘じゃないわ。
マーチン (前の方に屈みながら両手を出す)お水をおれの手に持たしてくれ、モリー・ビルン、確かにほんとだと思えるように。
モリー (マーチンに水を渡す)奇蹟というものはあらたかなものさ、お前が手に持っただけで、癒るかも知れないよ。
マーチン (見回す)だめだよ、モリー。ちっとも見えやしない。(器を振る)ぽっちりつか入っていないぞ。まったく驚いた奇蹟だなあ、これっぱかしの物が盲人(めくら)を癒して、立派な女だの、若い娘だの、この世の中にあるいろんな美しいものまで見せてくれるとはなあ。
(マーチン、手探りでメリー・ダオルを探して水の器を渡す)
メリー (器を振る)やれやれ、ありがたいねえ。
マーチン (ブリードの方に指さす)あの子が持ってるなあ何だい、音がしてるが?
ブリード (マーチン・ダオルの側に行く)これは聖人様の鈴だよ、聖人様がご祈禱なさりにどこかの山を上がっていらっしやる時、この鈴を鳴らしていらっしやるのさ。
(マーチン・ダオル、両手を出す、ブリード、鈴を渡す)
マーチン (鳴らす)美しい、いい音がするねえ。
メリー その可愛い涼しい音をきいてみると、断食ばかりやっていなさる聖人様がお体につけて遠くの方から持って来なすったものだと分かるねえ。
(ブリード、マーチンの後方を通り、少し右手に寄る)
モリー (聖人の上衣を拡げて)マーチンや、立ってごらん、聖人様の長い上衣をお前に着せて上げよう。(マーチン・ダオル立ち上がり、少し中央に近く、前に進み出る)お前が神さまの聖人さんになったら、どんな恰好だか見てやろう。
マーチン (立ち上がり、少し恥ずかしそうに)聖人様というものは美しいものだと教父さまたちが褒めなさるのをおれはたびたび聞いたことがある。
(モリー・ビルン、上衣をマーチンにひっかける)
チミー (心配して)モリー、構わずにおいた方がいいよ、お前がその上衣で悪戯(わるさ)をしてるのを聖人様が見なすったら、何といいなさるだろう?
モリー (気にもかけず)見える筈がないじゃないか、森の中でお祈りしてる人に?(彼女、マーチンを振り向かして見る)なんて立派なありがたそうな聖人様だろう、ねえ鍛冶屋のチミーさん?(ばからしい顔をして笑う)メリー・ダオル、立派な好い男だよ、今お前が見たら、お前はひどくえばっちまうだろうよ、神様のところから落っこちた天の使いの長(かしら)みたいに。
メリー (静かな自信をもってマーチン・ダオルの側に行き、その上衣に触る)ほんとに、今日わしらはえばれるだろう。
(マーチン、まだ鈴をふっている)
モリー (マーチンに)ねえ、マーチン・ダオル、お前、一生のあいだ、そういう姿で歩いていて、神様の聖人様たちと鈴を鳴らしていたら、うれしいと思わないかい?
メリー (彼女の方に向いて、激しく)どうして神さまの聖人様たちと鈴を鳴らして歩けると思う、わしという女房があるに?
マーチン あれのいうのはほんとうだ、鈴を鳴らして歩くのは立派な生活(よすぎ)かも知れねえが、おらあ、バリナトーンの盲(めくら)美人と夫婦でいた方が好いようだ。
モリー (嘲る調子で)そんな事を考えてるのかい、かわいそうに、どんな女だか、まるで知らないんだねえ。
マーチン まるで知らねえんだ。だが、今日あれの顔を見るのかと思うと、たまらなく待ち遠しい。
チミー (困った様子で)お前はよく知ってるじゃないか、お前たちのような人間は手で触るだけでもいろんな事が分かるだろう。
マーチン (まだ上衣をいじりながら)それは、分かるとも。だが俺には顔のことはまるで分からねえ、それから立派な綺麗な上衣なんぞもな。俺は今までめったに上衣に触って見たことはない、顔にもめったに触ったことはないんだ、(愚痴っぼく)若い娘っ子というものは、ひどくはずかしがりなものでねえ、チミー、それに俺なんぞのことは娘っ子は構ってくれないんだ、俺は好い男だとみんなが言っちゃいるが。
メリー (機嫌よく、馬鹿にしながら)あの声はどうだい、おかしいじゃないか、痩せっぽちの若い娘たちの話をする時っていうと、あんな声を出す、この西の土地の奇観(めずらしいもの)といわれてる女を女房に持っているくせにして。
チミー (憐むように)お前たち二人とも今日は奇観(めずらしいもの)を見るんだ、うそじゃない。
マーチン 彼女(あれ)の黄ろい毛だの、白い肌だの、大きな眼だの、奇観(めずらしいもの)だとみんなが言って聞かしてくれたが、まったく……
ブリード (左手を眺めて)聖人様が森の裾のとこから出ていらっしゃる……モリー、上衣を脱がしておしまい、見つかるよ。
モリー (ブリードにせわしく)鈴を取り返してその人を石のとこに立たせてお置き。(マーチン・ダオルに)さあ上を向いとくれ、上衣をはずすから。(彼女、上衣を脱がして、それを自分の腕に投げかける、それからマーチンを押しやってメリー・ダオルの側に立たせる)そこに立っていて、大人しくしているんだよ、口をきいちゃいけない。
(彼女とブリード、マーチンらより少し左方に、神妙にして立つ、
手に鈴や上衣を持って)
マーチン (心配らしく自分の着物をなおしながら)こんな風をしてお目に懸かって悪かあないか、手水をつかってキチンとしないでもいいだろうか?
モリー どんな風をしていたって構いなさるものかい……聖人様は、アイルランドいちの別嬪(べっぴん)の側を歩いていなすったって、ご自分の眼を上げてその女の顔を見なさりもしまい‥…だまっておいで!
(聖人、左手より、群集を従えて来る)
聖人 これが話にきいた二人の気の毒な人たちか?
チミー (世話人らしく)左様でございます、聖人様、こやつらはいつもこの辻に出ておりまして、通りがかりの人たちに銭を貰いましたり、灯明(あかり)のために蘭(よし)の皮を剥がしましたり、それでちっとも悲しそうな顔もいたしませんで、大声で勝手な事を申して、冗談好きの者とは冗談も言い合ったりしております。
聖人 (マーチン・ダオルおよびメリー・ダオルに)月日の光も見ることが出来ず、神に祈ってお聖(きよ)いひじりの姿を見ることも出来ぬお前方(がた)の身の上はつらいものであろう、しかし、お前方のように不幸の中で元気よくしている者こそ今日、神がお前方に与えて下さる視力(めのちから)をも立派に役に立てることであろう。(上衣を取って身にまとう)草もない裸の岩の上に神の四人のひじりの墓がある、この水がまずしい裸の人たちのために用いられるのも、不思議はない。(水と鈴とを受け取って肩からぶら下げる)わしが遣わされたのは、お前方のようなしなびた貧しい人々のところだ、金持ちはお前たちを見返りもしまい、ただ僅かの銭かパンくずでも投げてやるぐらいなものであろう。
マーチン (心配そうに身を動かして) その人たちが彼女(あれ)を見つけますと、こんな美しい女………
チミー (マーチンを振り動かす)黙って、聖人様のお言葉をきいていろ。
聖人 (彼らを暫時ながめて、言葉を続ける) たとえお前たちはどんなに汚れやつれていようとも、全能なる神はアイルランドの金持ちどものようではおいでなさらぬから、お前たちをあわれに思(おぼ)し召されて、カシラの湾にわしが小さい舟に載せて持って来た水の力で、お前たちの目をあけて下さるであろう。
マーチン (帽子を取り)聖人様、わしゃ待っています――
聖人 (マーチンの手を取り)わしはお前を先に癒して、それからお前の妻を癒すことにする。そこの寺に行こう、神に祈りを捧げなければならぬから。(行こうとしてメリー・ダオルに言う)心を静かにして心の中で神にお礼を申し上げていなさい、この世の主であらせられる神の御力が、お前ごとき者の上に与えられるということは誠に大なる奇蹟と言わねばならぬ。
群衆 (聖人の後に押し合って)行って見よう。
ブリード おいでよ、チミー。
聖人 (彼らを手真似で押さえる)そのままで待っていなさい、わしは大勢の者にお寺の中でひそひそ話をやって貰いたくない。そこで待っていなさい。そして罪によって盲らもこの世に生まれ来たということを考えて、いつわりの予言者や異教徒や、婦女子や鍛冶屋どもの言に迷わされぬように、人間の霊を汚そうとするすべての知識に迷わされぬように、自分たちめいめいのために祈りを上げているがよい。
人々退く。聖人、寺に入る。メリー・ダオル、寺の入り口の方に半分
ほど手探りで進み、路に近く跪(ひざまず)く、人々、右手の方にか
たまっている。
チミー 聖人様の声はすてきな好い声だねえ、断食なんぞやりなさらなければ、立派な強い人だろうになあ!
ブリード 聖人様が手を動かしなさるとこを見た?
モリー この土地で誰か聖人様みたいにお祈りが出来ると、すてきだわねえ、この土地の私たちの井戸の水だって、お祈りさえ本式に出来れば立派に利き目があるに違いないんだよ。そうなればあんな寂しい所から水を持って来なくつても大丈夫なんだけれど、あすこの土地と来たら、ちゃあんとした家もなし、立派な様子の人間もいないんだってね。
ブリード (右手より寺の戸口の方を見入りながら)ごらんよ、マーチンがひどく顫(ふる)えているわ、跪いて。
チミー (心配そうに)かわいそうに……今日あれが自分の女房を見たら、どうするだろう? あんな皺くちゃのしなびた婆さんを美しい女だなんて嘘をきかしていたのは悪かったなあ。
マット あれが怒る理窟はないよ、おれたちはあの男が目が見えないあいだ悦ばしたり、うぬぼれさしたりしていたんだからなあ。
モリー (メリー・ダオルの席に腰かけて、髪を直したりして)もしそれで怒ったところで、これからはおかみさんの事ばかし考えている暇はないだろうよ、誰だって二週間か三週間も自分の女房の顔を見ていたら、女房なんてたくさんになってしまうだろうさ。
マット それは真理(ほんと)だよ、モリー、お前のご亭主になる男が、夜ひる、お前の側にいて、嬉しい思いをするよりは、あすこの路っぱたに跪いているあの婆さまの事で、おれたちが嘘をついたお蔭で、盲らのマーチンの方がどれだけ嬉しい思いをしたことか分からねえ。
モリー (侮(あなど)り切って)余計な口をきかないがいい、マット・シモン、わたしのご亭主になるのはお前じゃないから、たとえお前にその思し召しがあって、どんなにうまい口をきいたってお世辞を言ったって。
チミー (あきれてモリーに)聖人様がそこで祈りをしておいでなさるに、大きな声をしなさんな。
ブリード (大声で) 黙って……黙って……目があいたようだよ。
マーチン (寺の中で大声でいう) ああ、ありがたい……
聖人 (おごそかに)アイルランドをあわれみて、おんめぐみを下したまわりたる父と子と聖霊をほめたたえまつる……
マーチン (感極まって)ああ、ありがたい、ほんとに見える……お寺の石垣が見える、石垣の上の青い羊歯(しだ)が見える、そして聖人様、あなたも見えます、大きい広い空が見えます。
(マーチン歓び切って夢中で駈け出し、メリー・ダオルが立とうとす
るところを通り過ぎる、通り過ぎる時、彼女の方を少しよけて行く)
チミー (他の人たちに)彼女あれがまるで分からないんだね。
(聖人、マーチン・ダオルの後から出て来てメリー・ダオルを寺に連
れて入る。マーチン・ダオル、人々の方に来る。男たちはマーチン
と娘たちの中間にいる。マーチン、杖をもって自分の位置を確かめ
る)
マーチン (嬉しそうに叫ぶ)あれがチミーだ、おれには、頭の黒さでチミーが分かる……あれがマット・シモン、マットは脚の長さで分かる……あれはパッチ・ルーだ、悪戯ずきの眼をして、赤い毛だ。(メリー・ダオルの席にいるモリー・ビルンを見る、マーチンの声の調子まったく変わる)ああ、みんなの聞かしたのは嘘じゃない、メリー・ダオル。ああ、おれがお前を見ないうちに死んでしまわなかったことを神様にも七人の聖者様にもお礼いおう。あのお水にもお礼いおう、そのお水を国じゅう持って歩きなさるそのおみ足にもお礼いおう、今日という日にもお礼いおう、聖人様をここへ連れて来てくれた人たちにもお礼いおう、お前の髪は美しい髪だなあ、(モリー、少し困って頭をうなだれる)そして柔らかい肌も、眼も、うつくしいなあ、今まで見えなかったその目が見えるようになったら、聖人様方も天からおっこちて来なさるかも知れない。(彼女の側に行く)首を上げて見せてくれ、メリー、おれは東の国の王様たちよりももっと幸福(しあわせ)だということをよく知りたいからなあ、首を上げてくれ、もうじっきお前もおれを見ることが出来るよ、おれだってそれほどみっともない人間じゃない。
(マーチン、彼女に手を触れる、彼女、飛びあがる)
モリー 退(ど)いておいで、わたしの頤(あご)をよごさないでおくれ。
(人々、大声に笑う)
マーチン (心惑うように)お前の声はモリーの声だ。
モリー わたしが自分の声を出したって、それがどうしたの? わたしを幽霊だとでも思ってるのかい。
マーチン お前たちの中でどれがそうなんだ?(ブリードの前に行く)お前がメリー・ダオルか?みんなの言ったのにお前の方がよく似てるようだ。(彼女を熟視する)お前の髪は黄ろいし、肌は白いし、お前の肩掛けからはおれが持ってる草の匂いがする。
(マーチン、彼女の肩掛けを押さえる)
ブリード (肩掛けをひったくり)わたしゃ、お前のおかみさんじゃないよ、そっちへ行っとくれ。
(人々また笑う)
マーチン (あやぶみながら、他の娘に) じゃお前か? お前はそれほど器量よしじゃないが、お前でもたくさんだ、お前の鼻つきはいいし、手や足も綺麗だから。
娘 わたしはまだ盲らと取っ違えられたことはないよ、目あきの女はお前みたいなものと夫婦になる気づかいはない。
(彼女、横を向く、人々また笑う、彼ら、すこし後方に離れて、マー
チンを左手に一人のこす)
人々 (嘲る) マーチン、もう一度当てて見な、もう一度、今度は見つかるよ。
マーチン (腹立たしく)どこへ彼女(あれ)を隠したんだ? お前たち、けちな畜生の仲間が、おれの一生の大事な日におれをなぶり者にしたり、馬鹿にしたりするというのは、ひどいじゃないか? ああ、お前たちは好い気になってるんだな、ろくでなしの泣きそうな眼をしてるくせに、西の土地に二人はないと言われたおれの女房とこの俺をなぶりものにして、好い気でいるんだな?
(背中を寺の方に向け、この言葉を言ってる間にメリー・ダオル、目
あきになって寺を出て来る、にやにやとはにかみ笑いをしながら手
に向かって寺から出て来て、マーチンの少し後方まで来る)
メリー (マーチンが言いやめると同時に)どれがマーチンだい?
マーチン (急に身を振り向けて)たしかに彼女(あれ)の声だ。
(二人あっけに取られて見交わす)
モリー (マーチンに)側に行って、頤のとこに手をかけて、わたしに言ったような事をいってごらん。
マーチン (低い声で、激しく)もし今俺が口をきけば、おれはお前たち二人にひどい事をいわなけりや……
モリー (メリー・ダオルに)メリー、お前何もいわないのかい? 肥った脚と、羊のような短い頸の、この人をお前、どう思う?
メリー 神様が目をあけて下すっても、目の前にこういう人を見せて下さるとは、なさけない。
マーチン 自分の眼に自分が見えないのを、神様の前に両膝ついて礼をいえ、もしお前に自分の姿が見えたら、きいきい声を出して谷の中をかけ回る気違い婆のように、お前も気が狂って、そこらを駈けずり回るだろう。
メリー (少しずつ自分を呑み込めたらしく)もしわしがみんなの言ったように美しくはないにしろ、わしゃ髪の毛もある、大きな目もある、白い肌も――
マーチン (怒りに充ちた声で叫ぶ)髪の毛だと、大きな目だと?……世界のどこの隅の牝馬の頭のひとっちょぼの毛だって、お前の頭のきたならしいもじゃもじゃつ毛よりはよっぽど見ばがいい、どんながつがつの牝豚の二つの眼だって、お前が海のように青いといってるその眼よりは美しい。
メリー (彼の言葉を遮って)きょうお前を癒してくれたのは悪魔だろう、そんな牝豚なんぞの悪口をいうのは、悪魔がきょうお前を癒してくれて嘘つきの狂人にしたんだろう。
マーチン お前こそ、十年この方、俺によるひる嘘をついていたな、だがもう神様がおれの目をあけて下すったんで、皺くちゃ婆の正体が見えた、お前なんぞおれの子を生む女じゃない。
メリー お前に似たくしやくしやの子なんぞ生むものか。お前よりはもっとましな男と夫婦になった女でも、子供がないのを神様にお礼いうがいい、空を飛んでいる雲雀(ひばり)や鴉(からす)や天の使いを驚かすような子供を生んでこの世界のお荷物にして天を寂しくしないことを、お礼いうがいい。
マーチン どこか寂しいとこを探して身を隠してしまえ、さあ行け、さもなければ、男も女もお前を見て、神様の聖いお水でどうぞ自分たちの目を見えなくして下さいと、夢中になって膝から血が出るまで祈りをすることだろう、誰だってお前のようなものを見ているよりは百年も目が見えないでいた方がいい、千年も見えないでいた方がいい。
メリー (杖を上げて)わしがひどくお前を打ったら、お前はまた盲らになれるだろう、そしてもうお前の願ってることも叶ったから――
(聖人、寺の入り口に現れる、祈りに首をうなだれている)
マーチン (杖をあげてメリー・ダオルを左手の方に追い払う)退(ど)いていろ、退かなけりゃ、お前の頭のけちな脳みそを往来に叩き出してやる。
(マーチン、彼女を打とうとする、チミー、彼の手を押さえる)
チミー 乱暴をやっちゃ済むまいぞ、聖人様がお祈りをやっていなさるになあ?
マーチン 聖人なんぞ勝手にしやがれ。(チミーから離れようともがく)たった一遍でいい、うんと彼女を打たしてくれ、後生だ、そうすりや、もう俺は死ぬまで大人しくしている。
チミー (彼を振り動かす)静かにしないかというに。
聖人 (進んで中央に立つ)二人とも歓びに心が乱れておるのか、それとも、見る物がはっきり分からんのか、初めて癒された者は、よくそんな事もあるが?
チミー 聖人様、二人ともはっきり見えすぎるのでございます。今二人とも大喧嘩をやりました、お互いにみっともない恰好をしているといって。
聖人 (彼らのあいだに進み入る)お前たちの目をあけて下すった神がお前たちの頭にもう少しの分別をも与えて下すって――この世の二人のあわれな罪人であるお前たち二人の互いの姿をばかりは見ていないで――時には高い山々にも海に流れおちる急流の上にも輝く神の霊(みたま)の光輝(みひかり)を見ることが出来るように、わしは祈る。そういう事を考えておれば、お前たちは人間の顔のことを忘れてしまうであろう、そして神に祈り神を讃えて、すぐれた聖人と同じように、古い衣を身にまとい皮は骨を蔽うばかりの生活をもするようになろう。(チミ一に)もう落ちついておるようだ、放してやりなさい。(マーチンをはなす)そしてお前も、(メリー・ダオルに言う)大声であらがうことはやめなさい、女には悪いことだ。そして神の御力を見ることが出来たお前がた皆の衆、暗い夜々もきょうの事を忘れずに、アイルランドのまずしい、とぼしい人たちの上に神の大なる慈悲(なさけ)と愛憐(あわれみ)とを与えられたことを考えていなさい。(上衣を身にひきまとい)では、お前がたみんなの上に神の祝福(めぐみ)を祈る、わしはこれからアナゴランに行く、そこにはつんぼの婦人がいる、それからララグに行く、そこには白痴の男が二人いる。それからグレンアシルに行く、そこには生まれつき盲らの子供たちがいるということだから。そして今夜は聖ケビンの床に寝て、神に感謝し、お前がたみんなの上に大いなる祝福(めぐみ)を祈ろうと思う。
(聖人、首をさげる)
――幕――
第二幕
村の往来際、左手、鍛冶屋の仕事場の戸口、毀(こわ)れた華やそ
の他いろいろ散らかっている。中央に近く井戸あり、その上に板が
のせてあり、その後方に人の通る余地あり。マーチン・ダオル、仕
事場近くに坐って木の枝を小さくちょん切っている。
チミー (仕事場の中でカンカン音をさせて、やがて呼ぶ)おい、急いでやってくんな……ひるっからあたらしく火を起こさなくっちゃならないんだに、まあだ半分もやっていないじゃないか。
マーチン (陰気くさく)ひるまでこの枯れ枝を叩き割っていたらおれは死んじまう、豚の食うほどの物も食わせられないで、腹が空(へ)ってしようがない。(戸口の方に向き)お前が自分で出て来て叩っ切れ、ぜひこの枝がいるのなら。人間というものはなあ、毎日ひとっきりは休息(やすみ)の時間がなくてどうなるものかい。
チミー (槌を持って出て来て、じりじりしながら)もうーペん追ん出されて、乞食がしたいのか? 考えて見ろ、お前は食わして貰い、寝る小屋も貰い、仕事賃も貰ってる、お前の話をきいてると、俺がお前をなぐつたり、お前の金貨を盗みでもしそうに聞こえる。
マーチン 盗まれるような金貨を俺が持ってれば、お前は泥棒だってやりかねないぞ。
チミー (槌を投げ捨て、すでに切られた枝を拾い上げ戸口に投げ)だいじょうぶ、お前が金貨を持つ心配はない、そんななまけ者のやくざものが。
マーチン そうさ、お前んとこにいちゃ、金貨を持つ心配はあるまいよ、おれが盲目(めくら)でグリーナンに坐っていた時分の方が、ここへ来て一日じゆう一生懸命働いて貰う金より、よっぽど余計もらっていた。
チミー (呆れて、手を止めて)一生懸命はたらくと?(マーチンの側に来て)おれが、一生懸命はたらく働き様を教えてやる、上着を脱ぎなさい、袖をまくるんだ、そしておれが仕事の灰をかき捨ててしまうあいだに、うんとどっさり切れ、でなければ、もう一刻もお前を置いちゃおかれない。
マーチン (恐ろしそうに)この寒ぞらに上着なしでいて風をひけというんか?
チミー (命令するように)そら、上着をぬぐんだ。それとも追ん出されて乞食になるか。
マーチン (にがく)ああ、なさけない!(上着を脱ぎはじめる)お前はおかみさんが死んだ時、シーツをひっぱいでお墓に埋めたという話だが、それに、お前は冬になると生きてる家鴨(あひる)の毛をむしって、皮ばかりで寒中大雨の中を駈け回らせておくという話もきいた。(袖をまくし上げる)ほかにもいろんな不思議な噂をきいたがな、今日という今日から、おれはどの話もみんな真実(ほんと)にする、そして人にもきかしてやる。
チミー (ふとい枝を下から引き出して)さあ、こいつを切るんだ、おしゃべりはもうやめだ、おれはてんでお前の話なんぞ聞いちゃいないから。
マーチン (枝を受け取り)ひどく大きな枝だなあ、こんな大きな木を切るのはつらいな、樹皮はつべたいし、空気のなかの霜で手がすべるに。
チミー (もう一と抱えかかえ上げて)今月になったんだ、寒いのも当たり前だろう、凍るのも当たり前だろう? (仕事場に入る)
マーチン (枝を切りながら不平そうに)あたりまえかなあ、チミー? 毎日毎日しめっぽい、いやな日ばかり来る、おれは盲人でいて、山の上に吹きまくられるうす黒い雲なんぞ見ない方がいい、みんなが寒さのために、お前の鼻みたいな赤い鼻をしてるのを見ない方がいい、お前の目みたいな、泣きそうな眼をしているのを見ない方がいい、気の毒になあ、チミー。
チミー (戸口に向いて瞬またたきしているのが見える)目があいたのが不足になって来たのか?
マーチン (ひどく愚痴に)目が見えるのは、情けないことさ、お前のような人間の側でくらすのも、情けないことさ、(枝を切り割って投げ捨てる)女房を持つのも情けないことさ、(また別の枝を切り)おれが思うに、神様がこの世を見なされば、悪い日ばかりで、お前のような人間ばかし歩き回っていて、それが湿糞(どろくそ)の中にすべり込んでばかしいやがるんだから、神様も情けなく思いなさるだろうよ。
チミー (鉄床(かなとこ)の上で鍋鉤を叩きながら)忘れちゃいけないぞ、マーチン・ダオル、聖人様が癒して下さった者でも、またしばらく立ってから見えなくなる者がたくさんあるんだ。噂にきけば、メリー・ダオルもまた眼がかすんで来たという話だ、もし神様が今のお前の言いぐさを聞きなさりゃ、恕(ゆる)してはお置きなさるまい。
マーチン おれの目が見えなくなる心配はない、こんな曇った日でも、お前の目のまわりの意地わるの皺まで、おれには一本のこらず見えるんだから。
チミー (鋭くマーチンを見る)東の方の雲が晴れてから、今日は曇ってはいないぞ。
マーチン おれを恐ろしがらせようと、そんなに一生懸命になりなさんな。おれが盲らの時分、お前はおれにでたらめの嘘ばかりついていたっけ、もう好い加減に、嘘はやすみだ、(この時メリー・ダオル、右手より人に気づかれず入る、青い物をいっぱい入れた袋を腕にかけている)アイルランドの大馬鹿どもが時々馬鹿をやりくたびれてやすみにしてくれなけりゃ、人間もゆっくりと落ちつく暇はないよ、(ふっと顔を上げてメリー・ダオルを見る)やれ、くわばら、また来やがった。
(マーチン、彼女に後ろを向けて忙しく働きはじめる)
チミー (彼らの方に見向きもせず通りすぎようとするメリー・ダオルに、面白そうに)メリー・ダオル、あの男を見な。朝っぱらから今までなまけて無駄口ばかり叩いていたあの男に一生懸命仕事を始めさせたとは、お前も偉(えら)いな。
メリー (かたぐるしく) チミーさん、いったい、何の話だい?
チミー あの男の話さ、あすこにいるあの男を見な、シャツから背中がはみ出ているぜ。今夜お前ここへ来て着物のほころびを縫ってやるがよかろう、ずいぶん長く話もしないじゃないか。
メリー お前さんたち二人でわしをいじめておくんなさるな。
(つんとして左手に去る)
マーチン (仕事をやめて彼女の後を見おくる)不思議だなあ、あいつは二日とおれの顔を見ずにいられないんだから。
チミー (嘲りながら) お前の顔をか? まるでお前の方を見ないで横を向いて行っちゃつたじゃないか、土手のこちら側で酔っぱらいが女と話でもしているのを神父さんが見ないで通るようになあ。(マーチン・ダオル立ち上がり、仕事場の隅まで行って左手を眺めている)よせよ、あんな女なんぞ構いなさんな。よせと言ってるになあ、お前の着る物や食う物の心配もしず、かなしいとも思わずに、ぐんぐんお前を捨ててった女だ、そんな奴の心配をしなさんな。
マーチン (腹を立てて大声で)チミー、お前も知ってる筈だ、おれの方からあの女を追っ払ったんだ。
チミー 嘘をいえ、だが、どちらがどちらを追ん出したって、おれの知ったことじやない、早くこちらへ戻って来て仕事をやんな。
マーチン (向き直って)いま行く。
(マーチン、中央に向かって一、二歩進み、立ちどまって右方を見る)
チミー 何を見てるんだ?
マーチン 向こうから来る人がある……モリー・ビルンのようだ、水の入れ物を持って歩いて来る。
チミー モリーが来たって、お前がなまけているにゃ当たらない、あの女に構わずどしどし枝をちょん切ってくれ、もうちっとたったら鞴(ふいご)を吹いて貰いたいから。(鍋鈎を投げ出す)
マーチン (叫ぶ)今度はおれに焦げるようなあつい思いをさせるのか?(振り向いて鍋鈎を見て、それを取り上げる)鍋かぎか? こんな物をこさえるんで朝っぱらからくしやみをやったり汗をかいたりしていたのか?
チミー (鉄床の上に身をよせかけて、満足したようにいう)女房を持つ前にゃいろんな物を拵えなくっちゃならないよ、昨夜(ゆんべ)きいた事だが、聖人様がまたじっきにこの村をお通りになるそうだから、おれは聖人様の手でおれとモリーを夫婦にして貰おうと思うんだ……あの聖人様は、無料(ただ)でやってくれるという話だ。
マーチン (鍋鈎を下において、チミーをじっと見る)モリーもお前のような立派な丈夫な身体の亭主を授かったことを神様によっぽどお礼いわなくっちゃなるまいよ。
チミー (不安らしく)お礼を言ってもいいだろうじゃないか、あの女がいくら器量よしにしたところで?
マーチン (右手の方に眼をやる)それは、まったく、そうだろうとも……神様はお前さんたち二人をうまく組み合わせなすったもんだ、もしお前とおんなじような器量の女をお前が女房にしたら、この世にまたと見られないようなみっともねえ餓鬼どもを生み出すことだろうからな。
チミー (本気に気持ちをわるくして)ひどいことをいう、お前はひどい顔をしているが、お前の口はお前の顔よりまだひどいや。
マーチン (同じく気持ちを悪くして)おらあ、こんな寒い思いをさせられていくら醜い顔をしているにしろ、お前のようなびしょったねえ顔をした男は、おらあ、まだ見たことがねえ、モリーがやって来るに、そっちの古くさい小舎にはいって顔でも洗っちゃどうだ、そんなただれ眼をして、大きな鼻をつん出して、まるで路におっ立ってるぼろっ案山子(かかし)のようだ。
チミー (不安そうに路の方を見る) おれがどんな顔つきをしていたって、そんな事をあの女がかれこれ言うにゃ当たらない、おれは四部屋もある家を岡に建ててやったんだからな。(立ち上がる)だが不思議だよ、お前とメリー・ダオルと二人のおかげで、この村じゅうの人ばかりじゃない、ラスヴァナの方の連中まで顔つきがどうのこうのと、顔のことばかり考えたり言ったりするようになった。(仕事場の方に行く)お前に顔つきの話をされると不思議に気になるよ、おれも、ちょっと部屋にはいって、目のまわりのよごれでも洗って来ようか。
(チミー、仕事場に入る。マーチン、着物の端でこつそり顔をこする。
モリー・ビルン、バケツを持って右手より登場、井戸に来てバケツ
を充たそうとする)
マーチン こんちは、モリー・ビルン。
モリー (気にもかけず)こんちは。
マーチン うす暗い、いやな日で、難儀きったねえ。
モリー そんなに薄っ暗い日でもないわ。
マーチン いやな天気も、うすっ暗い朝も、けちくさい奴らも、(肩ごしに手真似で指す)目があいてれば見なければなんないが、しかしなあ、目のあいてるおかげには、お前のような素敵を、色のまっ白な、美しい娘を見ることも出来る……おらあ、お前を見るたんびに、聖人様と、お水と、天にいる神様の力をありがたく思っている。
モリー わたしは教父さまの話にきいてるよ、だれだって若い女を見ていちゃ、お祈りは出来やしないとさあ。
(コップでバケツの中に水をしゃくい込んでいる)
マーチン それは誰だっておれみたいな思いをしたことはあるまい、お前の声をきいていながら、眼でお前を見ることが出来ないというような思いは。
モリー お前みたいなずるの腹ぐろの馬鹿じじいが眼が見えないであそこに坐っていて、娘や年増が路を通るのをひと目も見ることが出来なかったのは、つらかったろうよ。
マーチン それはつらかったが、おれはお前が何かいう声を聞いたり、お前がグリーナンまで行く足音を聞いたりするのが、どれほど楽しみで、嬉しいことだったか、(悲しみを含んだ激しさをもって語り始める)お前の声はおらのようなみじめな盲人の心にいろんな事を考え出させた、だからお前の声を聞いた日には、おれはなんにもほかの事を考えることが出来なかった。
モリー そんな話をするんなら、お前のおかみさんに言っつけるよ……知ってるかい、おかみさんは後家のオフリンさんとこで蕁麻取りをやってるのよ、オフリンさんはお前たち二人があの四ツ辻で喧嘩をやって、お前がおかみさんにひどいことを言ったのを聞いてて、ひどくおかみさんをかわいそうがってしまったんだよ。
マーチン (じりじりして)誰でもいいから一人ぐらい、あの婆々や、グリーナンのあの日の事をおれに思い出させないで、きょうはどうした? とか何とか言ってくれてもよさそうなもんだがなあ?
モリー (意地わるに)お前が一生のうちの好い日だと言ったあの日の事を思い出させるのは結構なことだとわたしは思ったのさ。
マーチン 好い日だと?(仕事をうっちゃって、彼女の方に身を屈めながら、再び悲しそうに)それとも大悪日かもしれない、おれはあの日に目が醒めたんだ、ちょうど小さい子が婆さまの話をきいて、夜になって夢で立派な金の家に住んだり斑点(ぶち)の馬に乗ったりしてから、じつきに目がさめると、身体がさむくつて、藁屋根から雨が落ちていて、腹の空(へ)った驢馬が背戸で鳴いてるのを聞く時のような、真実(ほんと)の事に目がさめたんだ。
モリー (気にかけないで仕事を続けながら)マーチン・ダオル、お前きょうは面白い夢を見てるね、ゆんべ酒屋に行ったのかい?
マーチン (立ち上がり、彼女の方に来る、しかし井戸から――右手――離れた辺に立つ)酒屋なんぞにいくもんか、その薄ぎたねえ小舎に寝ていたんさ……煤けた藁の中に横になっていておれはお前の歩くのを見たり、乾いた路にお前の足音のひびくのを聞いたりすると思った、夢の中で、お前が笑ったり、かわいた丸木の天井の大きな部屋で面白い話をしていると思った、その時のお前の声は好い声だった、おれは、盲らが寝ているように寝ている方が、ここに起きていてこの薄っ暗い天気に鍛冶屋のチミーの小言をきいてるよりはよっぽど増しだと思う。
モリー (興味をもって彼を見る)お前はけちなつまらない爺さんだけど、言うことは変わってるのねえ。
マーチン おれは人がいうほどの爺さんでもない。
モリー 若い女とそんな話をするには、お前は爺さんだよ。
マーチン (がっかりして)お前のいうのも嘘じゃあるまい、おれはこの世に生きてる長い年月を無駄にしてしまった、年寄りの女を相手にして、恋を思ったり、恋を談(はな)したりして、おれはそのあいだじゅう鍛冶屋のチミーの嘘でだまされていたんだ。
モリー (少し誘うように言う)鍛冶屋のチミ一に好い讐打(かたきうち)を考えついたものさ……今日お前はあの人の嘘ばなしに恋をしているんじゃないねえ、マーチン・ダオル。
マーチン そうじやないとも、モリー、おれは一生懸命だ。(彼女の後方を過ぎて左手に来る)おれが聞いたには、イヴァレイクの塞(さい)の辺やコルクの領内では暖かい陽があたって明るい空が見られるそうだ。(彼女の方に屈(かが)んで)盲らだった男のためにも、お前のような好い恰好の頸つきの、お前のような皮膚(はだ)の女のためにも、明るい陽の光が何よりだ、今日これから二人で出かけよう、おれたちはそこから南の方の村々まで旅をして、市(いち)で話をして見たり唄をうたったりして、面白い一生が送れるだろう。
モリー (かなり面白く思って、振り向いてマーチンを頭から足まで見ている)さあねえ、あんまりみっともないと言って自分のおかみさんにさえ逃げられたお前が、わたしにそんな話をするのは、おかしいじゃないか?
マーチン (感情を傷つけられて、少し身を退(す)さり腹立たしく言う) それは、おかしいかも知れない、世の中の事はおかしい事ばかりだから。(低い声で、特に力を入れて) しかしお前に断っておくがな、もしあの女が俺のとこから逃げて行ったんだとしてもな、それはあの女に俺が見えたからじゃないんだ、おれがこの二つの眼であの女を見ていて、あの女の起き出すところも、物を食うところも、髪をゆうところも、床に寝つくところも、みんな俺が見ていると思ったからなんだ。
モリー (興味を持って、うっかり言う)どこの亭主だって、そうだろうじゃないか?
マーチン (彼女の注意をひいてる機会をのがさずに)おれが思うには、ほんとうに見えるものはすくないんだ。前に盲らでいたものででもなければ、ほんとうには見えないんだ。(興奮して)年とった女がだんだん枯れて墓場に近くなるのを見つける者もなければ、お前のような人を本当に見るものもないんだ、(彼女の方に屈んで)お前が、海の中の舟をひき寄せる灯台の灯のように、ひかり輝いているにしても。
モリー (彼から身を離して)マーチン・ダオル、そばに寄らないでおくれ。
マーチン (低い、物狂わしい熱情の声で、口ばやにいう)おれの言うのは真実だ、(彼女の肩に手をかけて、彼女の身を振り動かす)長いあいだこの世の悪い月日を見て来た男と夫婦になるのはやめてくれ、お前が朝起きて向こうの細路の小さい戸口から出て来る姿も、あんな男にはほんとの眼で見ることは出来まい、ほんとうに見えるものは、たとえ目がつぶれても、路を行く時には、お前の二つの眼が、自分の前にありありと見え、空を見れば、空にもお前の眼が輝いて、首を下げれば、目あきの人たちが世界じゅうのどこの道路(みち)にも見る堆糞(きたないもの)の代わりに、地べたにもお前の眼が見えるだろう。
モリー (催眠術にかかったように聞いていたが、不意に身を退(の)かして)気の違った人のいうようなことをお前は言ってるのね。
マーチン (彼女を迫って、彼女の右手に行く)お前のような人の側にいれば気が違うのも、もっともだ。そのバケツをおいて、おれと一緒に行ってくれ、おれは今日お前を見て、今までこの世界じゅうの誰もが見たことがないように、真実にお前を見たんだ。(彼女の腕をとり、物やわらかに右方にひき寄せようとする)イヴァレイクの土地やコルクの領に行って見よう、あすこいらの土地ではお前の両足で一歩踏んでも美しい花がたくさん踏みつけられて空気に好い匂いがするほどに花がたくさんあるそうだ。
モリー (バケツをおいて、身を放そうともがく)放しとくれ、マーチン! 放しておくれと言ったら!
マーチン 冗談にしないでくれ。さあ、あの樹の中の路から行こう。
モリー (仕事場の方に向き叫ぶ)チミー――チミー(チミー、仕事場から出て来る、マーチン、彼女を放す、モリー、興奮し切って、息を切らしながら、マーチンを指して)チミー、眼が見えなくなる人は、正気でなくなるものかねえ!
チミー (疑わしそうに、しかし何の事か分からず)この男が正気でないのは確かな事だよ、今まで眠らして貰ったり食わして貰ったり仕事の金まで貰っていたここの家からきょうは追ん出されるんさ。
モリー (前の調子で)チミー、この男はもっとそれよりも大馬鹿なのよ、この男を見ておくれ、口をあきさえすれば、わたしみたいな好い女がすぐ後を追っかけて行くものと思っているんだから、偉い人だと思わないかい?
(マーチン・ダオル、両手を目にあて舞台中央の方に身をちぢめて退(ひ)く、メリー・ダオル、左手より静かにやって来る)
チミー (呆れ返って)ああ、盲らは悪い奴らだ、ほんとうに悪い奴らだ。だが、今日今からここを出て行って、もうおれたちに世話をやかせて貰うまい。
(左方に向き、マーチンの上着と杖を拾い上げる、上着のポケット
から何か落ちる、チミー、それも拾い上げる)
マーチン (向き直って、メリー・ダオルを見、苦痛をもって嘆願するようにモリーに囁く)モリー、あの女と鍛冶屋の前でおれに恥をかかしてくれるな、どうぞ恥をかかしてくれるな、俺はお前に好いことを話してきかしていたんじゃないか、そして夢を……夜中……夢を見ていただけなんだ。(言いよどみ、空を見上げる)雷(かみなり)が来るのか、それとも、世界の最後(おわり)が来るのか?(メリー・ダオルの方に、ブリキのバケツに軽くぶつかりながら、よろけ行く)天が暗黒(やみ)に閉ざされて、空で大騒動(もめ)があるらしい。(メリー・ダオルの側に行き、彼女の左の腕を両手で握り――狂わしい声でいう)雷で暗くなって来たんだろうか! メリー、お前の眼ではっきりとおれが見えるか?
メリー (彼女の腕を振りはなし、空袋でマーチンの顔を打つ)わしにゃお前がはっきり見えすぎるよ、そばへ寄らないでおくれ。
モリー (手を叩いて)そうだよ、メリー。そんな男はそうするがいい、今そこでわたしの足許に立っていて、一緒に逃げて、わたしにもお前みたいなみっともない乞食婆さんになってくれと、頼んだんだよ。
メリー (負けずに)モリー・ビルン、お前の頤(あご)の皮がしなびる時分になれば、アイルランドのどこの隅を探してもお前ほどの皺くちゃ婆々は見つかるまいよ……ちょうど二人が好い一対(とりくみ)さ、ほんとうに!
(マーチン・ダオル、舞台後方、中央より右にうしろ向きに立つ)
チミー (メリー・ダオルの側まで来て)モリーがお前みたいになるだろうなんて、恥を知らないか?
メリー 肥ってぐにゃついてる者の方が早くつから皺がよるんさ、そして白っぽい黄ろい髪の毛なんぞ豚小舎の裏の湿っぽい地に枯れ残っているちょぼちょぼの革みたいになってしまう。(立ち去ろうとして右手に向いて)それよりか、四十年経っても五十年経っても変わらないさっぱりした普通(ありきたり)の顔の方がいいわ、わしの顔のようなのの方が、ちょっとのあいだ馬鹿者どもを騒がせたって、そのうちには子供たちも側によりつかないような化け物になってしまうわ。[やぶちゃん注:本頁を読んだ友人からこの台詞が「モリー」のものとなっていることへの疑義を指摘された。底本は確かに「モリー」となっているが、冒頭注に示した通り、英語版原文はメリーの台詞であることが確認されたので、訂正した。【2009年3月4日追記】]
(メリー・ダオル、退場する、マーチン・ダオル、再び前に出る、強
いてふんばっているが、頼りなさそうな様子をしている)
チミー ああ、モリー、盲らの口に逢っちゃ、たまらないねえ。(マーチンの上着と杖を投げ出す)マーチン、ここにお前のぼろ荷物がある、お前の物はこれっ切りだから、これを持って、さっさと出かけて世界のどこへでもうろついて行け、もう一遍おれに出会うようなことがあれば、お前が盲らだろうが目あきだろうが、おれは大きな槌を持ち出して一と打ちぶったたいて最後審判(おさばき)の日までお前の目がさめないようにしてやるから。
マーチン (一生懸命に元気を出して)なんしに、おれにそんな事をいうんだ?
チミー (モリー・ビルンを指して)何しにおれがそんな事を言うか、分かっている筈だ。おれが女房にしようと思ってる良家(いいうち)の娘にお前みたいなうすぎたねえ馬鹿者がとんでもねえ馬鹿話をきかして、心配させる因縁はない筈だが。
マーチン (声を高くして) この娘はお前にからかってるんさ、どこの目あきの娘がお前なんぞと夫婦になるもんかい? モリー、この男を見なさい、この男を見なさい、おれにだってまだこの男は見える、大きな声を出して言ってやれ、今が言い時だよ、この男に自分の仕事場に入って、あすこへ坐って、くしやみをやったり汗を出したりしながら、最後審判(おさばき)の日が来るまで鍋鉤をこさえていろと、そう言ってやんをさい。(もう一度、彼女の腕を押さえる)
モリー チミー、この男をわたしの側に寄せないでおくれよ!
チミー (マーチンを押し退(の)ける)おれになぐられようというんか? モリーはおれのとこに置いて、お前に好いつり合いの自分の女房の後についてけ。
マーチン (失望して)モリー、何とも言わないんか、あいつの悪口に言い返してやらないんか?
モリー (チミーの左手に立ち)わたしはね、お前の姿を見たりお前の声をきいたりするのが死ぬほどいやだと、この人に言ってきかせてやるよ。さあさあ、お前のおかみさんの後を追っかけといで、またあの人に打たれたら、そこらの山をうろついてる鋳掛屋の娘たちを追っかけるか、町のじだらく女の中にでも行ってごらん、そうすれば、わたしみたいな几帳面に育った行儀の良い娘に男がどんな口をきいていいものか、そのうちには覚えられるだろ。(チミーの腕をとり)さあ、この人がどこかへ行ってしまうまで、仕事場にはいっていましょう、この人は恐ろしい眼つきをしだしたから、わたし怖いようだわ。
(彼女、仕事場に入る。チミー、敷居際に立ち止まる)
チミー ここいらでまたとおれに見つかるまいぞ、マーチン・ダオル。(腕をまくし上げる)鍛冶屋のチミーの腕っぶしの力は知ってるだろう、お前の頭のぼろい骨よりはもうちいっと固い物をぶっ挫(くじ)いたのもたびたびの事なんだぞ。
(仕事場に入り、自分のあとの戸をしめる)
マーチン (しばらく片手を目にあてて立つ)これがこの世でおれの眼が見る最後のものか――女の悪い心と男の馬鹿力と。ええ神さま、なさけない盲らをかわいそうと思ってくれ、もう今おれにはあいつらに仇をする力もないんだ。(しばらく手探りで探り回り、やがて立ち止まる)おれはもう力もないが、まだ祈りをする力は残ってる、どうぞ神様、きょうあいつらをほろぼして下さい、わしの魂が一緒に滅びても構わない、もし来世(あのよ)でまたあいつらを見る時、モリー・ビルンと鍛冶屋のチミーが、二人とも高い床の上に載っけられて地獄の苦しみをしているのが見られたら、……そんなざまの二人を見ることが出来たら、良い気持ちだろう、今日も明日も、どの日もどの日も永久(きりなし)に、もがいたりわめいたり、もがいたりわめいたりしているのが見られたら、その時にはおれも盲らじゃあるまい、地獄もおれには地獄じゃない、天国のようだろう、ただ神様にはないしょの事にしておくばかりだ。(探りながら退場しようとする)
――幕――
第三幕
第二幕と同じ舞台、ただ中央の石垣の破れ目が茨や何かの木の枝で
ふさがれてある。メリー・ダオル、再び盲目になり、左手より手さ
ぐりで登場、第一幕のごとく腰かける。すこしの藺(よし)を手に
持っている。
春のはじめごろのある日。
メリー (悲しそうに)ああ、どうしよう……どうしよう、せんの時には眼が見えないでも、これほど目先が真っ暗じゃなかった、わしゃもう死んじまおうか、一人で生活(くらし)を立てることはむずかしい、路通りもすくないし、風は寒いし。(藺を裂きはじめる)これからは、短い日もわしのためには日が長かろう、ひと目も見えず、一言も聞えず、なんにも思うことがなくて、ただマーチン・ダオルの悪い心に一日も早く罰(ばち)があたるようにって長いお祈りばかりやってるのでは。これからはもんながきっとわるくちの種にすることだろう、わしの側を通る時、指さして見たり、どこにあの男がいるかって訊いて見たりして、もう今日からは、わしの顔に長い白髪が散らばる婆さんになる時分まで、わしゃ好い気持ちにも落ちついた気持ちにもなれないことだろう。(髪をいじっている、やがて何かの物音をきく様子、暫時聴いている) なんだか変な、のろくさい足音が路に聞こえて来る……どうしよう、たしかに、あいつがやって来る。
(彼女、まったく静かにして動かずにいる。マーチン・ダオル、右手
より、同じく盲目になり探り来る)
マーチン (陰気に) メリー・ダオルの奴め、おれを騙して、好い女だと思わせやがった。あの聖人の奴め、おれの目をあけて、その嘘を見させてくれた。(メリーの側近く腰かける)鍛冶屋のチミーの奴め、おれの身が続かないほど働かせやがって、夜もひるも俺をすきっぱらの吹き抜きの腹にしておきやがった。いちばん憎らしいのはモリー・ビルンのやつ――(メリー・ダオル、賛成らしく首でほっくりする)それと、この世界じゅうの女という女の隠している悪い悪い魂だ。(マーチン、片手で顔を被うて、身を揺り動かす)これから俺は寂しいだろう、生きた人間はみんな悪い奴らにしろ、メリー・ダオルのようなきたねえ皺くちゃ婆々にしろ、一緒に坐っている方が、だれも側にいないよりは増しだ。もう俺はじっき死ぬだろう、寒い空気に一人ぼっちで腰かけていて、夜(よる)の来るのを聴いたり、鵜(つぐみ)が互いに鳴きあいながら茨の中に飛ぶのをきいたり、そうかと思うと、車が一台、東の方に遠くまで行くのが聞こえて、また別の車が西の方に遠く行くのが聞こえて、犬もなくだろうし、すこしの風が枯れ枝を動かすのも聞こえたりして。(きいている、重い溜め息をする)たった一人でここに腰かけていたら死んじまいそうだ、おれも眼が見えなくなった上に、今度は気違いになるかも知れねえ、誰だって恐ろしくなるだろう、たった一人で腰かけていて自分の息の音を聞いたり(小石の上に片足を動かす)自分の足の音を聴いたり、それにいろんな変な物がうごいていたり、小さい枝が折れたり、草が動いたり――(メリー・ダオル、軽く溜め息をする、マーチン、恐怖して彼女の方に向く)しまいにや、石の上に何だか息をしている者があると、嘘でなく、お日様やお月様を証人にしても言いたくなる、(暫時、彼女の方に聴いている、それから不安らしく立ち上がり、杖で探り回る)もう出かけようかな、だが俺は自分の杖がどこをつつき回してるんか、ちっとも分からない、怖くって怖くって死んじまいそうだ。(探り回るうち彼女の顔に触れる、マーチン叫ぶ)おれの傍に何だか冷たい生物(いきもの)らしい顔のものが腰かけている。(マーチン、逃げようとして方向を転じ、迷って石垣に突きあたる)もう路が分からなくなった! ああ、めぐみ深い神さま、どうぞ今日わしの手引きをして下さい、わしは朝も夕もあなたにお祈りを上げます、もう決して若い娘の行くあとにきき耳を立てたりいたしません、死ぬ日までなんにも悪い事をしないでおりますから
メリー (腹を立てて)神様に嘘をいいなさんな。
マーチン メリー・ダオルか、そうか?(我に返って、すっかり安心する)メリー・ダオルかよ?
メリー 長いあいだ開かなかった優しい声を出すじゃないか。わしをモリー・ビルンと取っ違えてるんじゃないか?
マーチン (顔の汗を拭き拭き彼女の方に来る) やれやれ、眼が見えると、不思議に人間をとまどいさせるなあ。俺が一生のうちにお前を怖がるようになるとは不思議だな、だが、ちいっとの間吃驚(びっくり)したって、もう直ぐ落ちついてしまう。
メリー そしたらまた、えばることだろう、きっと。
マーチン (少し離れて、きまり悪そうに腰かける)そんな口をきいたって、お前だって俺とおんなじにまた盲らになったということだがな。
メリー わしがまた盲らになったにしろ、わしゃ、ちゃあんと覚えているよ、わしの亭主は世界いちの馬鹿の顔をした背っぴくの真っ黒けの男だということを。それに、今日からもう一つ覚えたことは、気の毒な女が自分ひとりで静かに息をしているのを聞いて、おっかながって大騒ぎをやらかしたこともなあ。
マーチン それじゃ、こないだじゆうお前が井戸や澄んだ池を覗いて見た時、風も動かず空が明るい時、お前がどんな物を見たか、それも大かた、覚えているだろうな。
メリー そりや確かに、覚えているとも、もしわしがそこらの嘘つき共の言ったような姿ではないにしろ、わしゃ心の中に嬉しい嬉しい気持ちのするようなものを池で見つけたよ。
(彼女、もう一度、自分の髪に片手を触れる)
マーチン (皮肉に笑う)ふうん、そこうらの奴らは俺が正気でなくなったと言いやがったが、まだまだ俺もお前ほどにはなっていないな……かわいそうに、メリー・ダオル、もしお前が二人とない美人じゃなくとも、お前は東の州を歩き回ってる女の中で二人とはない気違い女だなあ。
メリー (馬鹿にして)お前はいつでも嘘をきき分ける耳を持っていると自慢していたが、お気の毒さまだな、今その耳を役に立てているつもりなのか。
マーチン もしお前が嘘を言ってるんでなけりや、お前は自分が六十か、それとも、五十くらいに見える皺くちゃ婆々でないと俺にいう積もりか!
メリー マーチン、わしゃそんな事をいってるんじゃないよ、(熱心に前方にのり出して) わしゃ、そこいらの池で自分の顔を映して見た時、髪の毛がもうじっきに白くか、うす茶いろになるのに気がついた、それに、自分の顔が柔らかい白髪が垂れ下がるようになると好い顔つきになることも気がついた、わしゃ老女(としより)になれば、東の方の七つの州にも二人とないような老女(としより)になるだろうと思うんだ。
マーチン (本心から感心して)お前は利口な考えつきをする女だなあ、メリー・ダオル、ほんとによ。
メリー (勝ち誇って)そうだともさ、美しい白髪の女は立派なものだとわしゃ思う、あのキテ・ポーンが村で酒を売ってる時分、若い衆たちがいつまででもあの女(ひと)の顔を見ていて見あきなかったと、噂にきいているが。
マーチン (帽子をとり、自分の頭に触って見て、躊躇しながらいう)お前、気がついたか、メリー・ダオル、おれにもそんなような白髪が出て来そうか?
メリー (ひどく軽蔑して)お前にか、やれやれ!……もうじっきお前は、溝にころがってる古い蕪青(かぶら)みたいなまる禿げの頭になるだろう。お前がもう決して自分の体裁(みば)の好い話はしなさんな、そんな話が出来たのは、それはもう昔のことさ。
マーチン そんなひどいことは言うな、もしおれもお前のように、少しでも楽しみに出来ることがあれば、俺たちは昔とそれほど変わらない面白い日も送れるだろうに、そうすりゃ、それは珍しい好い話だろうじゃないか、おれはお前が白髪の美しい女でいるのに、おれがみっともない恰好していると思ったら、とても好い気持ちじゃいられない。
メリー わしにゃお前の顔をどうにもならないよ、マーチン・ダオル。鼠みたいなお前の眼も、大きなお前の耳も、お前の脂ぎつた頤(あご)も、わしが生みつけたものじゃないからねえ。
マーチン (悲しそうに頤を撫でていたが、やがて歓びに輝いた顔で)一つお前の忘れたことがあるぞ、お前がどんな利口な考えつきをやる女でも。
メリー お前の不恰好な脚のことか? それとも鉤(かぎ)みたいに曲がったお前の頸か、それとも、始終ぶつけ合って真っ黒けになつてる、お前の膝っ子か?
マーチン (悦んで馬鹿にし切って)それが利口な女の言いぐさか、ほんとうに、利口な女の言いぐさだ!
メリー (彼の声の中の歓びを不思議そうにして)もしお前が嘘でなくつて言うことがあるんなら、自分だけで話をしてるがいい。
マーチン (興奮して我慢し切れず言い出す)話というのは、これだよ、メリー・ダオル。おれはもうじっき髭を生やそうと思う、うつくしい、長い、白い、絹糸みたいな長あい髭だ、東の国に二つとは見られないような髭だ……ああ、白い髭は老人(としより)には立派なもんだね、鬚のおかげで、いい身分の人たちも立ち止まって銀貨や金貨を出してくれるだろう、髭というものはお前には持てないんだから、もう黙ってるがいいぞ。
メリー (嬉しそうに笑う)ふうん、まったく、わしらは立派な一対(ひとくみ)だね、まだこれから二人で面白い月日が送れるだろう、死ぬ時までには、ずいぶん話も出来るねえ。
マーチン 神様のお助けで、今日から好い日が送れる、教父さまだって頤に立派な白い髭の生えた老人のいう事なら嘘でも本気にしてくれるだろうから。
メリー 海の向こうから春になるとやって来る黄ろいチクチク鳴く鳥の声が聞こえる、もうお日様にも好い気持ちの暖かみがあるし、空気もいい気持ちになって来た、ここに静かにゆっくり腰かけて、地べたから芽ばえて伸びてく物のにおいを嗅いでいるのも、いいだろうねえ。
マーチン ついこの頃から山に芽を出しかけたファズの匂いがする、お前が口をきかずに黙って聞いていればグリーナンの羊の声もきこえるだろう、河の水量(みずかさ)が増して谿(たに)に大きな音をさせてるんで、羊の声も消されているが。
メリー (聴く)ほんとに、羊が啼(な)いている、山のこっちの面(がわ)で牡鶏や塒(ねぐら)の牝鶏の騒いでるのが一マイルもこつちから聞こえる。(彼女、ぴくりとする)
マーチン 西の方に聞こえる物音は何だ?
(鈴の音、かすかにきこえる)
メリー お寺の鐘じゃないね、風は海の方から吹いてるから。
マーチン (狼狽して)聖人の爺さんが、鈴を鳴らしてるんじゃないか。
メリー 聖人さんはまっぴらだ!(二人聴く)たしかに、この路をやって来る。
マーチン (試みにいう)逃げようか?
メリー どこへ逃げる?
マーチン 沼の中に細い路がある……接骨木(にわとこ)が繁ってる向こうの土手まで行きさえすれば、誰にも見つけられる気づかいはない、百人の衛士(さむらい)が通ったところで大丈夫だ、だが、ちいっとのあいだ目あきになっていたおかげで、俺たちにはあの路が見つからないかも知れない。
メリー (立ち上がる)なあに、見つかるとも。お前が勘のいいのは世間でも知ってる、冬だろうが夏だろうが、雪が積もっていようが、草や葉っぱがどんなに地に繁っていようが、お前ならすぐに路が見つけられる。
マーチン (彼女の手をとる)ちいっとこちらの方だ、ここいらでその路が始まっている。(石垣のくずれ目を二人して探る)抜け路のとこへ木でも一本倒したものか、それとも何か変わったことがあったかな、この前、おれがここを通ってからあとで。
メリー 枝の下っ側を這って通るがよかないか?
マーチン どうしていいか俺にもとんと分からねえ。眼の見えねえのは情けないこつたな、逃げることも出来ず、目あきにされちゃ大変だし。
メリー (泣き出しそうになって)ほんとに情けないこつた、どうしよう、わしらが目あきになったら、白髪になったって嬉しくもなんともない、毎日毎日白髪が抜けるのが見えるだろうし、雨で汚れるのも見えるだろうし。(鈴の音、近くきこえる)
マーチン (失望して)もうそこいらまで来た、とても逃げられない。
メリー お寺の西の隅のとこに茨がちょっぴり生えてたが、あすこに隠れられまいか?
マーチン よし、隠れて見よう。(暫時きいている)いそげ、森を歩いて来るみんなの足音がきこえる。(探りながら寺内に入る)
メリー 樹の中を若い娘たちが賑やかにしゃべって来る。(二人で茨のしげみを見出す) マーチン、ここにわしの左側に茨がある、わしが先に入るよ、わしの方が体が大きくつて、すぐ見えっちまうから。
マーチン (心配そうに首を振り向けて)大きな声をするな、黙っていないか?
メリー (半分ほど草むらに隠れて)さあ、わしの側においで。(二人しゃがむ、まだ外からよく見える)マーチン、これで見えるだろうか?
マーチン 大丈夫だろう、だが俺にも分からない、わかい女たちは、恐ろしいほど眼が早いから、墓のなかに寝ている男でも、見つけ出すかも知れない、あんな奴ら鬼に喰われちまえ。
メリー わるいことを言いなさんな、そんな事を言うと、神様が指さししてわしらの所在(ありか)を教えちまうかも知れないよ。
マーチン 馬鹿げた事を言うなよ、聖人様が言ったじゃないか、悪い人間が盲らになるんだって?
メリー もしほんとにそうなら、何かとてつもない悪い事を言って、あのお水でも、とてもわしらの眼が癒(なお)らないようにした方がよかろう。
マーチン おれは恐ろしくつてびくびくしてるに、そんなとてつもない悪い事なんぞ言えるもんか、よしんば何か言えたところで、今日、聖人さんの手から逃げようっていうには、善いことをいうのがいいか、悪いことをいうのがいいか、どうして分かる?
メリー みんなやって来る。石の上にみんなの足音がする。
(聖人、右手より登場、よそ行きの着物を着ているチミーとモリー・
ビルンを従えて来る、余(ほか)の人たちは前のとおりの姿)
チミー 聖人様、人の話では、きょうここいらの路にマーチン・ダオルとメリー・ダオルがいたということでございますが、どうか聖人様のお慈悲なさけでもう一遍なおしてやって下さいますまいか?
聖人 癒してやっても、よろしい、が、いったいどこにいる? お前たち二人をそこの寺で夫婦(いっしょ)にしてやらねばならず、わしもだいぶん忙しいからな。
マット (マーチンらの腰かけていたところで)この石の辺にあいつらの藺(よし)が散らばつている。きっと、この近所にいるに違いない。
モリー (驚いて指さす)チミー、あれをごらん。
(一同向こうを見てマーチン・ダオルを見つける)
チミー この昼ひなか、あんな処に寝ていやがって、なまけものだなあ。(そっちの方にどなりながら行く)こうれ、そこから出るんだ。ねぼうのお蔭で、もうちいっとで、大変な幸運を取り逃がすとこだったぞ、マーチン……なあんだ、二人ともいやがる!
マーチン (メリー・ダオルと共にあわてて起き出す)なんだよ、チミー、どうして俺たちを見逃しておけないんかなあ?
チミー 聖人様がおれたち二人をめあわせて下さろうというんで、ここまで来なすったんだ。おれはお前たちのためにも、どうぞ癒(なお)してやって下さるようお願い申しておいたぞ。お前は馬鹿な男だが、一度眼が見えて、もう一遍盲らになってまた乞食して口を過ごすのかと思うと、おれは根が親切だから、かわいそうでしょうがない。
(マーチン・ダオル、メリー・ダオルの手を引き探りながら右手に行
こうとする、帽子はどこかに落としてしまって、二人とも着物にご
みや草の実をつけている)
人々 そっちへ行くんじゃない、こちらだよマーチン。
(人々、マーチンを聖人の前に、ほとんど舞台中央に押しやる。マーチン・ダオルとメリー・ダオル、しよげ切って立っている)
聖人 恐れずとよろしい、神はおなさけ深いから。
マーチン 聖人様、わしどもは怖がっちゃいませんよ。
聖人 神の四人の聖者の泉の水で癒された者がしばらく経ってまた見えなくなることもしばしばあることだ、しかしわしが二度癒してやってものは、もう死ぬまで大丈夫、見える。(器から被いをとる)もうお水もちっとしか残っておらぬ、しかし、神のお助けあれば、お前たち二人はこれで十分癒してやれる、さ、そこの路へ跪きなさい。[やぶちゃん注:「二度癒してやってものは」は「二度癒してやったものは」の誤植と思われる。【2009年3月3日】]
(マーチン、メリー・ダオルと二人でくるりと向き直って逃げようと
する)
聖人 ここに跪けばよろしい、今度はもう寺に行かずと差し支ない。
チミー (腹立ち声で、マーチン・ダオルを引き向ける)頭がどうかしたのか、マーチン・ダオル? ここへ脆くんだ。聖人様のおっしゃることが聞こえないんか? 今お前に言ってきかせなすったがなあ?
聖人 さあ、跪きなさい、お前の立ってるところは地べたもかわいているから。
マーチン (困り切って)聖人様、どうかわしどもをうっちゃつてお置きなすって下さい。わしどもがお呼び申したわけではねえんですから。
聖人 神はお前たちを盲目になされて、すでに大いなる御教えを垂れたもうたのであるから、わしはもう苦行をせいとも断食をせいともいわぬ。わしを恐れるには及ばぬ、目をあけてやるから、跪きなさい。
マーチン (なおさら困って)聖人様、わしらは目をあけて下さいとはお願いしやしません。どうかうっちゃって去(い)って下さい、断食でも、お祈りでも、何でもかでもあなたの勝手になすって、わしらはこのまま、この四つ辻にうっちゃっておいでなすって下さい、このままの方が結構なんで、目をあけてもらいたくはねえんですから。
聖人 (人々に向かって)頭がどうかしたので、目あきにして貰って、生きて働き、この世界の不思議なことを見たいとも思わないのだろうか?
マーチン わしゃ人ひとりの生涯には過ぎるほどいろいろな不思議なことも、ちょっとの間で、見てしまいました。
聖人 (いかめしい調子で)この世界の姿も、人間の上に現れた神の御姿もおがむことを悦ばぬ者があろうとは、わしは今日まで知らなかった。
マーチン (声を高くして)聖人様、この世の姿は見ものですねえ……わしが目をあいた時、初めて見たものは、あなたの血の流れている足で、石で傷だらけになっていましたっけ。あれは、大かた、神様のお姿の現れた物なんでしょう……それからわしがいちばん最後(しめえ)に見たのは、今あなたが鍛冶屋のチミーと夫婦にしてやろうとしていなさる、その娘の眼の中に見えていた地獄のようなおっかねえ心でした。きっと、それも好い見ものだったんでしょうよ。それから、まだ好い見ものは、路に北風が吹きまくって、空がしぶい色をしている時、馬も驢馬も犬までも、首を垂れて目をつぶっていましたっけ
聖人 それでは、お前はまだ夏もうつくしい春も知らないのか、アイルランドの聖人たちが神のために御堂を築いた土地のことも知らないのか? わしが思うに、狂人でなくて、明を失うことを願うものがあろうか、きらめき光る荘厳な海の姿を眺め、山にファズの花が咲いて、やがて山々がみそらの下に金の魚藍のように光り輝くのを見たいと願わぬ者があろうか?
マーチン そりやクノックやバラホールの話かね、そんならわしらの方がよっぽどよく見える、今すこし前までわしらはここに腰かけていて、土手の小さい草っぱの中にまで鳥が鳴いたり蜜蜂がうなつたりしてるのを聞いていた、暖かい夜になれば、そこいら中たまらをく好い匂いがして、空気の中には羽の迅(はや)いものが飛び回る音がきこえる、そうするとわしらは心の中で、見事な空をながめたり、湖を見たり、大きな河を見たり、耕やすに好さそうな山を見たりしますよ。
聖人 (人々に)こんな男に物をいうのは無駄なことだ。
モリー 聖人様、この男は怠けもので働くのが嫌いなんでござんしょう、あなたが癒しておやりなさらない前には、眠が見えるようになりたいと始終そればつかし言って、願ったり祈ったりしていましたもの。
マーチン (彼女の方に向いて)眠が見えればいいと俺はほんとうに願っていたのさ、だが俺は、自分の女房の顔と、それからお前の顔つきだけで、見ることはもうたくさんになつちゃつた、お前が男にからかってる時はおかしな悪い眼つきをするからなあ。
モリー 聖人様、この男のいう事をお気になさらないで下さい、ついこないだもわたしに悪い事を申しましたよ――それは女房持ちの男のいうことじゃないような悪い事で――こんな悪い心の男は、盲らのままでおいてやって下さる方がよろしいんでございます。
チミー (聖人に)聖人様、メリー・ダオルの方だけは癒してやって下さいませんか、この女はまことに大人しいかわいそうな女で、誰にも悪い事をしたこともなし、ひどい事をいったこともございません、ただこの男にいじめられた時か、村で若い女たちにからかわれた時だけは別としましても。
聖人 (メリー・ダオルに)メリー、少しでも道理が分かったなら、わしの足許に跪きなさい、お前の目をあけてやるから。
マーチン (前よりもなお反抗して)聖人様、よして下さい。この女が眼が見えれば、死ぬ時までも始終わしを見ていて、ひどいことばかしいうようになりますから。
聖人 (きびしく)この婦人が眼が見えるようにと自分で望んでいるのならば、お前ごとき者のために邪魔はされぬ。(メリー・ダオルに)それ、跪きなさい。
メリー (困ったように)聖人様、どうぞこのままでお置きなすって下さい、こうやっていれば、またじっきに幸福(しあわせ)な盲人(めくら)といわれるようになって、食う心配をしないでも、路っばたで一文二文ずつ貰って、気楽な時が送れましょうから。
モリー とんまな事をおいいでないメリー・ダオル。さあそこへ跪いて、聖人様に目をあけて頂きなさい、マーチンには自分の勝手に乞食をさせて、一文でも二文でも貰わせとくがいいよ。
チミー そうだともメリー、もしお前たちが勝手な我がままを言ってぜひ盲らになつていたいというのなら、もうここの土地じゃ誰もお前たちに手を出してやるまい、この世にどうにかこうにかお前たちが生きていかれるように一杯の食物だってくれる者はありやしまい。
マット もしお前が眠が見えればなあ、メリー、お前あの男の手引きをして一緒にどこへでも行かれる、ほころびも縫ってやられるし、よるひる気をつけていて、よそのどこの女もあの男の側に来ないようにも出来るだろう。
メリー (やや説得されて)それは、ほんとに、そうかも知れない。
聖人 さあ、そこへ脆くのだ、わしはまだ婚礼もやってやり、その上に日ぐれ前に自分の目ざす土地まで行かなければならぬから、急いでいるのだ。
人々 メリー、脆けよ! 聖人様のおっしゃる通り跪けよ!
メリー (心配そうにマーチンの方を見ながら)あの人たちの言うことは道理かも知れないから、聖人様、あなたの言いなさるとおりに、やりましょう。
(彼女、跪く。聖人、帽子をとり近くにいる者に預ける。残らずの人
たち、帽子を取る。聖人、一歩進んで、メリー・ダオルの手を持っ
ているマーチン・ダオルの手を離そうとする)
聖人 (マーチンに)どきなさい、お前はここに用はないから。
マーチン (聖人をあらっぽく退(の)けて、左の手をメリー・ダオルの肩にかけて立つ)聖人さん、どいて下さい、女房が盲らでわしゃ安心しているんだに、その安心のぶちこわしをやんないで下さい……あなたみたいなものが何しに夫婦の仲にはいって来なさるんだ――夫婦の話はあなたには分かるこっちゃないんだから――そのお水と、長いお祈りとで、大騒ぎをやらかしてさ? さあ、さっさとそっちへ行って、わしらはここの路っぱたへうっちゃって置いて下さい。
聖人 もしお前が目あきの男であって、そういうことをわしに言うたら、わしはお前の魂を地獄に堕とすような呪いもかけるであろうが、お前は、かわいそうに、気の毒な盲目の罪人であるから、わしは気にもかけぬ。(水の器を持ち上げて)お前の女房のために祈ってやるあいだ、わきに退いていなさい、もしいやだと言うても、ここに見ている人たちがそうさせるだろうから。
マーチン (メリー・ダオルをひっぱって)さあこちらへ来い、あの人なんぞに構うなよ。
聖人 (人々に向かって、命令的に)その男を押さえて遠くへ追い払ってしまえ。
(二、三人、マーチン・ダオルを捕える)
マーチン (振り放そうとして叫ぶ)聖人様、こいつらに放すように言って下さい! どうぞ放さして下さい、この女を癒そうとどうしようと、あなたの勝手にして構いませんから。
聖人 (人々に)放してやれ……ようやく分かって来たらしいから、放してやれ。
マーチン (人々の手から身を振りはなして、メリー・ダオルの方に探り寄り、巧者な鼻声になって)聖人様、どうぞ癒してやって下さい、わしゃ決して邪魔をしません――こいつも目があいたら、あなたの顔を見てきっとうれしがることでしょう! だが、どうぞわしも一緒に癒して下さい、でないと、こいつが嘘を言ってきかしてるかどうだかわしに分かりませんから、そうしてわしゃ、夜もひるもおありがたい聖人さん方を見ていたいと思いますから。
(メリー・ダオルより少し前方に出て跪く)
聖人 (半分は人々の方にも聞こえるように)長いあいだ眼が見えずにおって、自分の頭の中で奇妙な事ばかり考え続けていた者は、毎日働いたり祈ったりして暮らしておる我々のごとき普通の人間とは違っている、もしこの男が最後の時に至って正しい心に立ち返ったものならば、今日わしども一同にこの男が言った頑なな愚かしい言葉は忘れてしもうて、神の御心(みこころ)のままに、わしはこの男も癒してやりましょう。
マーチン (熱心に聴いている)聖人様、待っていますよ。
聖人 (水の器を持って、マーチン・ダオルの傍に立って言う)神の四人の聖者の墓より湧いたこの水の力をもって、お前の目にそそぐこの水の力をもって――(聖人、水の器を持ち上げる)
マーチン (不意に聖人の手から器を叩きおとす、器は舞台の遠くまでころがる、マーチン立ち上がる、人々、大声につぶやき始める)わしゃ情けない盲らの罪人かも知れねえが、耳は早耳だ、その入れ物の中にぽっちりしか水が入っていないのもわたしにゃようく分かってる、さあ聖人さん、さっさと出かけなさい、あなたはえらい聖人様だろうが、盲人だってあなたの思ってるよりはもうちっと利口で、それほどの弱虫でもねえんですよ、あなたの弱り切った足や皺くちゃの膝をひきずって出かけなさるがいい、断食やおありがたい生活(くらし)のおかげであなたは頭ばかり大きくなって腕は細っこくみじめなもんだ。(聖人、きびしい眼つきで暫時、彼を見ていたが、やがて振り返って、落ちている水の器を拾い上げる。それからメリー・ダオルを引き起す)鍛冶屋のチミーのように働いたり汗をかいたりで過ごすのも人の一生だし、あなたのように断食をやったり祈ったりお説教をやりながら過ごすのも一生なりゃ、わしらのように盲らの乞食で、微風が春の小さい葉っぱを吹き返す音を聞きながらお日様に当たっているのも一生だ。わしらは曇った日を見たり、聖人さんたちを見たり、この世をまごつき歩いてる汚れた足を見たりして胸くそを悪くしないでもいいわけだ。
(メリー・ダオルを連れて、前に腰かけていた石の方に探り行く)
マット あの男のようなものを、このグリーナンの村に、わしどもの近所にいさせるなあ、危なっかしい恐ろしいことだ。聖人様、あの男のおかげで、わしどもの上にまで天から悪い事が降って来やしますまいか?
聖人 (帯を固く締めて)神は慈悲ふかくいらせられる、しかし罪ある者は厳しくお罰しなさるであろう。
人々 さっさと行っちまえ、マーチン・ダオル、ここの土地から出ていっちまえ。お前のために神様のお手から大暴風や旱魃が来ちゃ大変だから。
(ある人たちは何か投げつける)
マーチン (反抗するように向き直って石を拾い上げる)ぎゃんぎゃん騒がずと、退いていやがれ、この石があたれば頭をぶち割られる奴が大勢できるぞ。そうら退いていろ、余計な事を怖がるには当たらねえ、おれたち二人はこれから南の土地へ行く、あっちの人たちは優しい声の人たちだ、どんなみっともねえ顔をしていたって、悪い心持っていたって、俺たちにゃまるで分からねえから大丈夫だ。(再びメリー・ダオルの手を取る)さあ行こう、南の方へ出かけよう、おれたちはこの土地の人間をあんまり見あきちゃった、こんな奴らの側にいて、朝うすっ暗い明方から夜になるまで嘘ばかりしやべってるのを聞いていたところで面白くもあるまい。
メリー (力なく)ほんとに、そうだねえ、じや、路は遠いだろうけど、行って見よう。人の話じゃ、あっちの土地へ行く路は、こっちの方にも沼はあるし、あっちの方にも沼があるし、うしろからは北風が吹きつける石ころ路を行くんだってねえ。
(二人、退場する)
チミー 南の方へいく路には、石の上を徒渉(かちわたり)してゆくような深い河もたくさんあるから、きっと、二人はじきに溺れ死んでしまうことだろう。
聖人 あれらはあれらで自分の運命(みち)を選んだのだ。神はあれらの霊魂(たましい)の上に慈悲あらせたまえ。(鈴を鳴らす)さあお前たち、モリー・ビルンと鍛冶屋のチミーの二人は寺に行くのだ、あそこで二人をめあわせて、お前がた一同の上にも祝福を与えてやろうから。
(聖人、寺の方に向く、彼らみんな行列をつくる、みんなが徐かに寺
内に進み入る時、幕が下りる)