やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ

芥川龍之介「地獄變」やぶちゃん注

          copyright 2008 Yabtyan

「地獄變」大正七年四月 芥川龍之介 本文へ

○本ページは、私の電子テクストである大正8(1919)年新潮社刊の芥川龍之介作品集『傀儡師』所収版の「地獄變」(但し、底本は昭和551980)年ほるぷ社『特選 名著復刻全集 近代文学館』で復刻されたもの)の別ページ注である。各章ごとにベースとした当該青空文庫版の明白な誤植及び疑義、岩波版旧全集本文との気になる相違箇所、そしてオリジナルな注を施してある。なお、注釈の幾つかについては昭和461971)年刊の筑摩書房版全集類聚「芥川龍之介全集」の脚注を一部参考にした。ここに謝す。

また、検索で此方に直に来られた方は、このリンクで私のHP「鬼火」又は私の「やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇」へ一度向われることをお勧めする。

 

■芥川龍之介「地獄變」やぶちゃん注

 

・地獄變:地獄変相図のこと。「変相」とは、仏教に於いて極楽や地獄の有様について、主に勧善懲悪の教導の目的を持って描かれた絵画。閻魔王以下の裁判風景及び八大地獄――等活・黒縄(こくじょう)・衆合(しゅごう)・叫喚地獄・大叫喚・焦熱・大焦熱・無間(むげん)地獄――と各種付属の地獄――この8つの地獄の四方の四門の門外に、更にそれぞれ4つの小地獄が付随する(十六遊増地獄)ので、これを合わせてという。従ってこれに本体である八大地獄を加算すると16×8+8=136で百三十六地獄となる。但し、インドの世親による「倶舎論」には、それとは別に八大地獄の周囲には十六遊増地獄以外に八寒地獄なるものがあるともされる。すると、ここではそれぞれの熱地獄と寒地獄を有効数と数えるべきであろうから、実に136×2+2=174となる。いや、それどころか地獄の数は64000とする説もある。まことに地獄は見切れないバラエティ・ショーである――を具体的に描き、複数の組絵(掛け軸)になるものも多いが、本作に登場する良秀の絵は一枚の屏風絵である。

 

   一

 

・堀川大殿:「大殿」は貴人の当主の父又は貴人の跡取り息子に対して当主をいう敬称。若殿の反対語。勿論、大臣の敬称としてもあり、「おおいどの」や「おとど」等とも読む。後者の場合、まず狭義の太政官の大臣、次に正親三条(おおぎまちさんじょう)家・三条西家・中院家の大臣家を指すが、前者の謂いに拡大して捉えれば、広義には公卿クラスの地位にある人物ではあろう。架空の人物ならば、「狭衣物語」の主人公狭衣の男君の父である字面では完全一致する「堀川大殿」(ほりかわのおとど)がいる。彼は、数代前の天皇で上皇となって亡くなった故院の御子という設定で、研究者の記載によれば、作中の彼は関白職にはあるものの、実際の内大臣なのか、既に大臣を退いているかは不明とある。その居宅も北は二条・南は三条坊門・東は西洞院・西は堀川通に囲まれた四町(平安朝の一町は約121mで、この「四町」とは西洞院大路と堀川小路に挟まれた実際の一区画四町分を指すから、121×121×4=58,564㎡、しかし、これに通常ならばそれぞれの一区画の間にあるはずの小路の幅員を入れることになり、高校生向けの便覧に記載されている通り仮に12mとして、12×121×4+144(「田」の字型の中央の辻部分)=5,952㎡となり、64,516㎡、凡そ二万坪)に及ぶ広大なもので、それに象徴されるかのような権勢を縦にしている人物として描かれている。実在した人物でこの表記にほぼ一致し、堀川に居住した人物としては、「堀川殿」と呼ばれた公卿藤原兼通(ふじわらのかねみち 延長3(925)年~貞元2(977)年)がいる。右大臣師輔の次男(兄に伊尹、弟に兼家)で、兄弟の骨肉の争いで内大臣、関白となる。堀川大臣と称せられた曽祖父藤原基経の造営になり、兼通が改修したその居宅は、平安京の左京三条二坊九町から十町にかけて存在し、堀河院(堀川殿)と呼ばれた。これは現在の二条通と堀川通によって画される、東西約120m・南北約250m(凡そ30,000㎡、九千坪)の邸宅で、その庭園の美と共に平安京きっての名邸とされた。貞元元(976)年の内裏の火災により、円融天皇(第64代)はここに移り、世に今内裏と呼ばれた(これ以降、本邸は後の白河・堀河・鳥羽天皇の里内裏となる)。兼通の子には顕光(あきみつ 天慶7(944)年~治安元(1021)年 堀河左大臣。道長一族に祟りをなしたとされ俗に「悪霊左府」と呼ばれた)や、媓子(こうし 天暦元(947)年~天元2979)年 堀河中宮。「大鏡」兼通伝には幼少時は父兼通には可愛がられなかったが利発な優しい人柄であったとする。後の円融天皇中宮)らがあり、これらは如何にも本作中の若君と姫君のイメージと近いように私には思われる。

・これまでは固より、後の世には恐らく二人とはいらつしやいますまい:岩波版旧全集は初出に従い、「後の世にも恐らく二人とはいらつしやいますまい」とする。穏当な判断である。

・大威德明王:仏法を守護し、如来の変化身とも言われる五大明王の一。五大明王とは真言密教(東密)にあっては不動・降三世(ごうざんぜ)・軍荼利(ぐんだり)・大威徳・金剛夜叉の五明王を指す。但し、天台密教(台密)にあっては金剛夜叉明王が烏枢沙摩(うすさま)明王に替わる。大威德明王は西方を守護し、本邦では六面(各面三眼)六臂六脚(この多足は仏像では大威徳のみの特徴である)で白い水牛に跨る図像が一般的である。各手には、大威徳の三昧耶形 (さんまやぎょう)=象徴である仏敵を打ち据えるための護法の棍棒である宝棒の他、鉾・剣・弓・矢・竜索等を持ち、髑髏の瓔珞や冠を着けており、衆生を傷つける毒蛇・悪竜(煩悩の意であろう)を征する。大きな威徳ある明王の謂いで、古くから戦勝祈願や怨敵調伏の修法に於ける軍(いくさ)の守護仏として尊崇された。

・お邸:筑摩書房全集類聚版では「御邸(おやしき)」と表記し、訓じている。

・始皇帝や煬帝:両皇帝の異常性を暗示する謂いであるから、虎狼の心を持つと「史記」に記された前者の焚書坑儒や異常なまでの不老不死への執着等を、煬帝の場合は、文字通りの暴虎馮河であった大運河建設や三次に及ぶ高句麗遠征等の激しい国費の浪費や無謀な労役徴兵、ひいてはその後の酒色に耽った末路を指すのであろう(但し最近は、両者とも暴君ではなかったという再評価の機運が高まっている)。

・群盲の象を撫でるやうなものでもございませうか:岩波版旧全集は初出に従い、「群盲の象を撫でるやうなものででもございませうか」とする。穏当な判断である。

・大腹中:太っ腹。度量が大きいさま。

・二條大宮の百鬼夜行に御遇ひになつても、格別御障りがなかつた:筑摩書房全集類聚版では「ひやくきやぎやう」と訓じている。本話は、前掲の藤原兼通の父である藤原師輔(延喜8908)年~天徳4960)年)が百鬼夜行に遭遇した「大鏡」の「右大臣師輔」の逸話を元にしていると思われる。藤原師輔は、藤原北家の藤原忠平の次男で、有職故実に通じ、後の藤原一族の繁栄を導いた人物。以下に該当箇所を掲載する(底本は佐藤謙三校注の昭和441969)年角川文庫版を用いたが、私のポリシーから一部の漢字を恣意的に旧字体に代えた。底本の親本である国史大系本が附記したと思われる「師輔」の表示は省略し、「御」の読みは「おほん」に変えた。後ろにオリジナルな語注及び現代語訳を設けた)。

 

 この九條殿は、百鬼夜行(ひやくきやぎやう)にもあはせたまへるは。何れの月といふことはえうけたまはらず。いみじう夜ふけて、内裏(うち)よりまかでさせたまふに、大宮より南ざまへおはしますに、あははの辻のほどに、御車のすだれうち埀れさせたまひて、「御車(みくるま)牛(うし)かきおろせ、かきおろせ」と、急ぎ仰せらるれば、あやしと思へど、かきおろしつ。御隨身(みずゐじん)・御前(ごぜん)どもも、いかなる事のおはしますぞと、御車のもとに近く參りたれば、御下簾(おほんしたすだれ)うるはしくひき埀れて、御笏(おほんさく)とりて、うつぶさせたまへるけしき、いみじき人にかしこまり申させたまへる御さまにておはします。「御車は榻(しぢ)にかくな。ただ隨身どもは、轅(ながえ)の左右(ひだりみぎ)のくびきのもとにいと近く候(さぶら)ひて、さきを高く追へ。雜色(ざふしき)どもも聲絶えさすな。御前どもも近くあれ」と仰せられて、尊勝陀羅尼(そんしようだらに)をいみじう讀み奉らせたまふ。牛をば御車のかくれの方にひき立てさせたまへり。さて、時中(ときなか)ばかりありてぞ、御すだれあげさせたまひて、「今は牛かけてやれ」と仰せられけれど、つゆ御供の人は心えざりけり。後々(のちのち)に、「しかじかのことのありし」など、さるべき人々にこそは、忍びて語り申させたまひけめど、さるめづらしき事は、おのづから散りはべりけるにこそは。

 

やぶちゃんの語釈:

☆「大宮大宮より南ざまへおはします」内裏の東側面を大内裏の南北に走る東大宮大路の方を指す。当時の師輔邸(九条殿)は、ここを完全に南に下り東に折れた大内裏の東南(現在の京都駅のすぐ南)にあった。

☆「あははの辻」二条大宮の四辻(両大路の交差する内裏の東南の角の辻で旧冷然(泉)院邸の西南の角)。「あはは」は原義未詳とするが、ここは当時から怪異の起こりやすい辻として認識されており、驚きを示す感動詞の「あは」や「あはや」の転であろう。

☆「御車牛かきおろせ」とは、『牛車の牛をはずして、車の轅を地面に降ろせ』と命じている。

☆「御前」は前駆け。

☆「御笏」は衣冠束帯時に右手に持つ象牙の細長い板。

☆「御車は榻にかくな」とは、牛車をすぐに動かせるように、榻(駐車時に轅をかけるために用いる台。降車器具にも兼用)に轅を掛けるな、駐車ではなく停車せよと命じているのである。

☆「くびき」は軛で、牛車の左右の轅の先端部の横木(牛の首にセットして車を曳かせる部分。着脱可能)をいう。

☆「さきを高く追へ」は、隨身は供回りの先頭に位置して、牛車の前方に向かって先払いの言挙げを殊更に声高くせよ、ということであろう。

☆「尊勝陀羅尼」は正しくは「佛頂尊勝陀羅尼尼經」。サンスクリット語のままに読む経で、特に悪霊退散の効験で知られる。

☆「時中」は半時で、現在の約一時間。

☆「散り」は、世間に漏れて噂となる、の意。

 

やぶちゃんの現代語訳:

 この九条殿師輔様が百鬼夜行にご遭遇なさったのが、いずれの年の何月のことであったかは、承っておりませぬが、大層夜が更けて、内裏からご退出なさった時に、大宮大路より南へと向かわれようとする際、まさに物の怪の出来で有名な、あのあははの辻にさしかかって、

九条殿は突然、牛車の簾を性急に下ろさせなさり、

「牛をはずして、車を停めよ、停めるのじゃ」

と急き立てるようにおっしゃるので、車副(くるまぞい)の者どもは内心、いぶかしく思いながらも、牛車の轅を降ろしました。隨身や前駆けの者は皆、『如何なることがあられたのであろう。』と、お車の近くへ参りますと、九条殿は下簾をすっかり下までお降ろしになられて、中で笏を手に取り、うつ伏せになっておられるのですが、そのご様子は、あたかもひたすら、高貴などなたかの前で、畏まっていらっしゃるかのようにいらっしゃるのです。

「牛車は榻の上に乗せるな。ただ随身どもは、轅の左右の軛の辺り、なるべく私の傍に伺候し、道の前方に向かって声高く先払いを致せ。雑色どももその後ろで同様に言上げをして声を絶やすでない。前駆けの者どもも、前に出ず、近くにおれ。」

と仰せられて、御自身は尊勝陀羅尼を一心不乱にお唱え申し上げなさる。そのような人の配置ですから、牛はと言えば、御車の後方に引き立てさせておかれました。さて、凡そ半時ほどが過ぎた頃、漸く簾を上げさせなさって、

「今はさて、もうよい、牛を繋ぎ、牛車をやれ」

と仰せられましたが、お供の者どもは皆、いったい何がどうしたことか、全くわけが分からないことでございました。ずっと後になって、「あははの辻でこのようなことがありました。」などと、それなりに親しい高貴な方々には、ごく内密にお話申し上げなさるようなことがございましたようですけれども、さすがにこれほど格別に奇妙な出来事は、自然、世間へ漏れて噂となってしまうことなのでございますよ。


・融の左大臣の靈でさへ、大殿樣のお叱りを受けては、姿を消したのに相違ございますまい:これは「今昔物語集」の巻二十七の「川原の院の融の左大臣の靈(りよう)を宇陀院見給へる語(こと) 第二」を受ける。以下に引用する(底本は池上洵一編の2001年岩波文庫版を用いたが、私のポリシーから一部の漢字を恣意的に旧字体に代え、読めると思われるルビの一部を省略し、底本のルビを歴史的仮名遣いに替えた。後ろにオリジナルな語注及び現代語訳を設けた)。なお、この類話は「今昔物語集」成立に先行する「江談抄」(大江匡房(10411111)の談話を後の藤原信西の父に当たる蔵人藤原実兼が筆記した随筆で11041108年頃の成立)にも載るが、こちらは藤原資仲の談話として記し、そこでは京極御息所と一緒に渡御し、二人して「房内の事」(性交)を行った直後に出現、宇多法皇が叱咤すると「靈物恐れながら法皇の御腰を抱」き、そばにいた御息所失神、助け起こして還御し、加持祈禱の末にからくも蘇生した。河原の院の戸には武器による傷があり、これは帝を神祇が守護し申し上げて、融の霊を退散させたものであろうと記す。

 

 今昔、川原の院は、融の左大臣の造て住給ける家なり。陸奥(みちのく)の國の鹽竃の形(かた)を造て、潮の水を汲入て、池に湛へたりけり。樣々に微妙(めでた)く可咲(をかし)き事の限を造て住給けるを、其の大臣失て後は、其の子孫にて有ける人の、宇陀の院に奉たりける也。然れば、宇陀の院、其の川原の院に住せ給ける時に、醍醐の天皇は御子に御(おはしま)せば度々行幸(ぎやうかう)有て微妙(めでた)かりけり。

 然(さ)て、院の住せ給ける時に、夜半許に、西の臺(たい)の塗籠(ぬりごめ)を開て、人のそよめきて參る氣色の有れば、院見遣(みやら)せ給けるに、日の裝束直(うるは)しくしたる人の、大刀帶(はき)て笏取畏(かしこ)りて、二間許去(の)き居たりけるを、院、「彼(あれ)は何に人ぞ」と問せ給ければ、「此の家の主(あるじ)に候ふ翁也」と申ければ、院、「融の大臣か」と問せ給ければ、「然(さ)に候ふ」と申すに、院、「其れは何ぞ」と問はせ給まへば、「家に候へば住候ふに、此く御ませば、忝(かたじけな)く所せく思給ふる也。何(いか)が可仕(つかまつるべ)き」と申せば、院、「其れは糸(いと)異樣(ことやう)の事也。我れは人の家をやは押取て居たる。大臣の子孫の得(えさ)せたればこそ住め、者の靈(りやう)也と云へども、事の理(ことはり)をも不知ず、何(いか)で此(かく)は云ぞ」と高やかに仰せ給ければ、靈掻消(かきけ)つ樣に失にけり。其の後、亦現るゝ事無かりけり。

 其の時の人、此の事を聞て、院をぞ忝く申ける。「猶、只人には似させ不給ざりけり。此の大臣の靈に合(あひ)て、此樣(かやう)に※[やぶちゃん字注:※=(やまいだれ)の中に「室」。](すく)やかに異人(ことひと)は否不答(えこたへ)じかし」とぞ云けるとなむ語り傳へたるとや。

 

やぶちゃんの語釈:

☆「融の左大臣」は源融(弘仁13822)年~寛平7895)年)。嵯峨天皇十二男。嵯峨源氏融流初代で、光源氏のモデルともされる。六条にあった私邸河原院は作庭に際して陸奥国の塩釜の浦(現在の松島湾)の景を模し、実際の海水を今の尼ヶ崎辺りから汲み入れ藻潮焼く風情を楽しむ等、贅を尽くしたと伝えられる。但し、融は陸奥出羽按察使の任にはあったが、「続日本後紀」により遥任であることが判明している。これらの景は従って、彼自身の実見によるものではないと思われる。

☆「其の子孫」を、「源氏物語河海抄」は融の次男であった源昇とし、宇多院に献上したと記す。「宇陀の院」は第59代宇多天皇(貞観9867)~ 承平元(931)年)で、源昇が延喜16916)年正三位に昇進し河原の院を献納した際には、既に醍醐天皇(第60代 元慶9885)~ 延長8(930)年)に譲位し法皇となっていた。

☆「西の臺」は西の対の屋で、寝殿造りの母屋の西方に張り出した別棟(「源氏物語」の「夕顔」の帖で、河原院とおぼしい某院で夕顔が霊にとり殺されるのも西の対)。

☆「塗籠」は、周囲を土壁で塗り固め、一箇所だけ遣り戸を付けた部屋。納戸や寝室として用いた。

☆「院見遣せ給けるに」の「せ」を訳によっては使役でとる。現実的には院が一人であることは考えられないが、どうも「院が供の者に見に遣らせる」という訳は、この場面に如何にも不似合いである。後文でも取り巻きの者は画面に登場していない以上、ここは最高敬語でとり、「見遣る」は、目を向けるの意でとりたい。

☆「二間」の「間」は、こういう場合、通常は建物の柱と柱の間を言う。長さの単位ならば凡そ3m60㎝。

☆「彼は何に人ぞ」及び「其れは何ぞ」は「そこにいるのは誰か?」及び「そいつが何の用だ?」という御下問。

☆「家に候へば住候ふに、此く御ませば、忝く所せく思給ふる也。何が可仕き」とは、「私の家でございますから住んでおりますのに、その私の家にこのように帝がいらっしゃっておられますので、畏れ多くも如何にも窮屈で気詰まりな感じが致しますによって、一体どうしたらよろしいのでしょう?」の意。この「給ふる」は謙譲の補助動詞。

☆「我れは人の家をやは押取て居たる」は反語。「私は人の家を強引に奪って住んでいるのであろうか、いや、違うぞ」の意。

☆「者の靈」は、得体の知れない物の怪の意である。ここは融の霊と認識しながら、そうではない下等な霊であろう、このように道理を弁えないのは、といういなしたニュアンスを持つか。

☆「※(すく)やかに」[※=(やまいだれ)の中に「室」。]は、「健やかなり」と同義で、きっぱりと、しっかりとの意。

 

やぶちゃんの現代語訳:

 これも今となっては昔のこと、今も知られる河原の院というのは、もとは融の左大臣様がお造りになり、住んでおられたお屋敷なのです。陸奥出羽按察使であられた融様は殊の外、あの陸奥の国の塩釜の浦の美観を好まれましたが故に、それを模してお庭をお作りになり、なんとまあ、わざわざ海水を汲み入れて池と成されたのでございます。かように、様々にこの上もないほど贅の限りを尽くしてお住まいになっておられたのですが、その融の左大臣様が亡くなって後は、その子孫にあたる方が、宇陀院にこの河原の院を献納したのでございます。そのようなわけで、宇陀院がその河原の院にお住まいになっておられた時には、時の帝であられた醍醐天皇は宇陀院の御子であられたのですから、度々ここに行幸もあり、まことにめでたくも良きお屋敷でございました。

 さて、その宇陀院がお住まいになっていらっしゃた時のことでございます、とある夜半、西の対の塗籠を押し開けて、誰(たれ)やら人が、さらさらという衣擦れの音をさせながらやって来る気配が致しましたので、院がそちらの方をご覧になったところ、きちんと晴れの装束をなした人が、太刀を佩き笏を手にして、院から二間ほど離れた位置にかこまって座っておりましたのを、院が

「そこに居る者は誰(たれ)か」

とお尋ねになられると、

「この家の主人の翁にございます」

と申すので、院が

「融の左大臣か」

と重ねてお尋ねになられると、

「左様でございます」

と申し上げるので、院が更に

「何の用じゃ」

とお尋ねになられると、

「私の家でございますから住んでおりますのに、その私の家にこのように帝がずっといらっしゃっておられますので、畏れ多くも、如何にも窮屈で気詰まりな感じが致すのでございます。いかが致したものでございましょうや?」

と申し上げたので、院は

「それはまた、如何にもおかしな申し様じゃ。我は人の家を無理矢理奪い取ってここに居るとでも申すか? 我はかつての主であった融の左大臣の、その子孫が献上したからこそここに住んでおるのじゃ。融の霊を語る怪しげな物の怪と言えども、世の当たり前の道理をも弁えず、何故そのような不埒千万なことを申すか!」

と仰せられ、声高く一喝なさったところ、その霊はかき消すように失せたのでございます。そうしてその後、二度とは現れることはなかったのでございます。

 当時の人々はこの出来事を聞いて、前にもまして宇陀院を畏れ敬い申し上げて、

「やはり宇陀院はただのお人とはまるで違っておられることだ。他の方では、この左大臣の霊に逢って、このようにぴしゃりと言ってのけることは、とてもできそうもない。」と言ったと、今も語り伝えているということです。

 

・權者:神や仏等が、民や衆生を救うために、この世に人の姿を借りて現れた「者」を言う。権化。権現。

・大饗:芥川はこれに「おほみあへ」の訓を与えているが、こう訓じてしまうと、天皇の食事を指すことになり、意味が通らない。ここは「おほあへ」(おおあえ)又は「たいきやう」(たいきょう)とルビするのが正しいと思われる。こちらの「大饗」は固有名詞としては、平安期に宮中及び大臣家で行われた恒例の饗宴を指した。ここは堀川の大殿の地位が不詳であるから、大臣大饗でないとは言えないが、その可能性は著しく低いように思われるので、一般名詞としての豪華な宴会の意でとっておく。

・白馬:このシーンは「白馬の節会」にひっかけた、見るからに不遜な堀川の大殿の行為が示される。「白馬の節会」は正月七日に行われ、天皇が紫宸殿で馬寮(めりょう)の官人が引く二十一頭の白馬を御覧した後に、宴を催した。七日の節会とも言う。なお、これを「あをうま」と訓じることについては、多くの解説で本来は、本来はこの儀式には「青馬」(濃い青みを帯びた黒い毛並の馬)を用いたが、後に白馬に替わったことから、文字は「白馬」で読みは古来の「あおうま」と書くようになったとするのだが、これには大いに不満である。私は南方熊楠も「白馬節会について」や「馬に関する民俗と伝説」で提唱しているように「光線の工合で青く見えるから白を青と混じ呼んだ」のだと思う。

・賜はる:ここは「与える」の尊敬語(謙譲語にとると実際の天皇主催の白馬の節会の際の情景となって文意が通じなくなる)。ここは堀川の大殿が自ら催したオーギィ(大饗宴)の際に、その客達へあたかも「白馬の節会」と見まごうような白馬三十頭を御土産におやりになった、という意味である。

・橋柱:架橋工事などの順調な進捗や完成を神に祈るため、生贄として人を橋脚や水底に埋めることを言い、ここではその人柱として立てる人間を指している。私の電子テクストの南方熊楠「人柱の話」同初出の「人柱の話」(上)・(下)、更に私のブログの「明治6年横浜弁天橋の人柱」等を是非、参照されたい。

・華陀:「三国志」等で知られる、後漢から三国時代にかけての医師。華佗とも書く。

・震旦:サンスクリット語で中国を指すチーナ・スターナ“Cīna-sthāna”(秦の土地)の漢訳語。古く中国の称。

・御腿:筑摩書房全集類聚版では「おんもゝ」と訓じている。

・瘡:芥川はこれに「もがさ」の訓を与えているが、「もがさ」では「痘瘡」で天然痘の意味となり、適切ではない。「かさ」で腫れ物、出来物を指す。この腫れ物はかなり大きいものであったように見受けられ、良性の腫瘍とは思われない。私はここで芥川は、大殿の猥雑性を、鼠径リンパ肉芽腫や梅毒等の性病の症状として暗に示しているように思われてならない。

・重寳:筑摩書房全集類聚版では「ちようはう」と訓じている。

・良秀:「宇治拾遺物語」三八「繪佛師良秀、家の燒(やくる)を見て悦(よろこぶ)事(こと)」巻第三の六(後掲の注の「よぢり不動」の項に全文掲載)に現れる絵師で、岩波古典文学大系の同書頭注によれば、異本には「明実」という名に作るともある(但しどの異本かの明示がない)。「十訓抄」にも『繪仏師良秀といふ僧』という記載があり、日本最古の画人伝である元禄6(1693)年刊の狩野永納著「本朝画史」にもこの逸話を載せる。まずは実在した人物と考えてよい。

 

   二

 

・丁字染:ここは黄色味を帯びたやや赤みを帯びた茶の強い色を言う。本来は染色法の一種を言い、現在は香辛料としてしられる双子葉植物綱ばら亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジ(クローブ)Syzygium aromaticumの蕾の煮汁で染めたもの。

・狩衣:盤領(まるえり)で脇を縫い合わせず、袖に括(くく)があるだけの上着。下に指貫(さしぬき)の袴をはく。平安期には公家の平服。

・揉烏帽子:薄く漆を塗り柔らかくもんでしわを寄せた烏帽子。

・脣の目立つで赤いのが:「目立つて」の誤植。

・紅がつくのだとゝ申した人も居りましたが:「紅がつくのだと申した」(『芥川龍之介集』)又は「紅がつくのだなどゝ申した」の衍字と思われる。岩波版旧全集では初出及び『地獄變』に従い、「紅がつくのだなどゝ申した」とする。

・小女房:まだ若い侍女。

・曹司:宮中や貴族の邸内に設けられた官人・女官のための個人用の部屋。

・楚:筑摩書房全集類聚版注では単に「むち」と記すが、少し不親切な注だと思う。ここは仮に悪霊左府顕光の幼少の面影であったとしても、木の枝の葉をむしったむち状のものであって、刑具の鞭や杖では戴けない気がするが、如何か? 彼はそこに楚を捨てているのである。類聚の注がそのつもりなら私は不親切な注であると思う。

・柑子:蜜柑であるが、我々にお馴染みの温州蜜柑(ムクロジ目ミカン科ミカン属ウンシュウミカンCitrus unshiu。江戸時代に突然変異で生まれた)のようなものではない(芥川龍之介はそこまで考証していないとは思うが)。それ以前にあったムクロジ目ミカン科ミカン属キシュウミカンCitrus kinokuniは中国産の蜜柑の変種とも、国産種とも言われるが、不明である。蜜柑の伝来自体が奈良・平安期に遣唐使によるというだけではっきりしない。ただ、この「柑子」は、今よりももっと硬くすっぱいものをイメージした方がよさそうである。

・哀れな聲を出して啼き立てました:ベースとした青空文庫版では「蹄き立てました」とするが、誤植である。

・紫匂の袿:「紫匂」は襲の色目。表が紫、裏が薄紫。「袿」は、上流社会の女性の正装である唐衣姿の際、唐衣と裳(も)の下に着る、丈が長く、裾も広い衣服。

 

   三

 

・或時娘の風邪の心地で:初出及び『地獄變』では「或時娘が風邪の心地で」とする。「が」がよい。

・袙:貴族が膚に近く、単(ひとえ)の上、下襲の下に着た服。

・全くこの猿を可愛かつた:「全くこの猿を可愛がつた」の誤植。

・物見車:祭礼や物見遊山の行楽に乗って出かけるための牛車。

・横川の僧都:一般に「横川の僧都」の名で知られるのは、実在した天台宗の高僧であった源信(天慶5(942)年~寛仁元(1017)年)、恵心僧都である。特に寛和元(985)年に書いた「往生要集」三巻は、地獄及び極楽往生に関わる要諦を纏め、念仏を勧修して浄土信仰及び後の鎌倉新仏教に於ける浄土教拡大に大きな力となった。比叡山延暦寺の俗化堕落を厭い、横川の恵心院に隠栖した。寛弘元(1004)年、権少僧都に進むも翌年辞退している。「後拾遺往生伝」平維茂の条等によれば、彼は絵画としての来迎図の創始者と目されていた(但し真筆と伝えるものはない)。それは正しく良秀の地獄変相図の対と言えるものである。私は個人的に「往生要集」の、その地獄の叙述の変相に大学時代、胸躍らせて読み耽ったものであった。

 

   四

 

・慳貪:物惜しみし、吝嗇で欲深いさま。

・檜垣の巫女:ここで芥川は世阿弥の最高傑作との称せられる「檜垣」をイメージしているように思われる。以下、増田正造「能百番 下」(1979年刊平凡社から新書)の「桧垣」の一部を引用する(なお、「檜垣」とはひのきの薄い板を斜めに編んで作った垣根を言う)。

 

肥後の岩戸山に参籠の僧(ワキ)に、毎日仏へ捧げる水を供える老女(前シテ)があった。彼女は白川のほとりに隠棲した白拍子の話をして消える。白川の川霧の中から桧垣の庵が見え、老女(後シテ)が現れ、罪の報いの刑罰も、仏の力でしばしやすらいでいる様を述べ、老悴の悲しさに沈みつつも、かつて、都の歌人から、舞を所望された思い出を舞う。若き日の面影も美しい衣装もない老いの身にとって、それは恥ずかしいことであると同時に、舞姫のプライドを満足させることでもあった。「桧垣の女の、身の果てを」と重々しく歌いあげた亡霊は、罪の救いを求めて消える。(成仏する脚本の流儀も。)

 老いの時点から、若い日のはなやぎを回想し、それをまた死後の彼女が地獄から遠望しているという、二重構造の夢幻能を世阿弥は完成したのだ。

 「求塚」や「定家」など、地獄の能の系列にある曲だが、仏縁によって苦患が小康状態を得、地獄の描写をベールのかなたに遠ざけた淡々とした筆致が、かえって底知れぬおそろしさを感じさせる。

 「閑寺小町」「姥捨」と共に三老女とされる最奥の曲。

 

私には白拍子姿の巫女である、その老女の若き日の姿が、この芥川龍之介の「地獄變」のワン・シークエンスに見えるような気がするのである。

・御靈:古来日本人は、尋常でないと判断される天変地異や疫病等の発生に対しては、そうした原因を、生前に人間離れした強いパワーを持っていた武将の霊魂、冤罪や怨を持って死んで行った非業の貴人といった人々の怨霊のためであるとして深く畏れた。そうした霊を御霊と称する。有名どころでは菅原道真や平将門、鎌倉権五郎景政、崇徳院等がこれに当たる。これを鎮め崇めることで逆に守護霊へと変換し、我々の精神世界の防衛システムに取り組んでしまった信仰を御霊信仰という。

・傀儡:原義は木偶を操って見せ金品を得た流浪の芸人。本来はそうした人形遣いであるが、芥川のイメージしているのは、そうした傀儡師の音曲や人形ぶり等を取り入れた歌や舞踊見せながら、同時に春を鬻いで各地を放浪した傀儡回しの女、傀儡女を指している。

・像り:「像(かたど)り」と読む。

・詰り:「詰(なじ)り」と読む。

・冥罰:神仏によって下される罰のこと。天罰。

・慢業重疊:とんでもなく傲慢で、不遜で、尊大であること。

・川成:本姓は余(あぐり)、後に改姓して百済川成(くだらのかわなり ?~853)。左近衛府に出仕。絵師。「今昔物語集」巻二十四「百濟川成、飛彈の工(たくみ)と挑みたる語(こと) 第五」にエピソードが載るので引用する(底本は池上洵一編の2001年岩波文庫版を用いたが、私のポリシーから一部の漢字を恣意的に旧字体に代え、読めると思われるルビの一部を省略し、底本のルビを歴史的仮名遣いに替え、繰返しや括弧等の記号の一部を変更し、後ろに☆で語注を設けた。なお、底本では脱落箇所をルビで補っている)。

 

 今は昔、百濟川成と云ふ繪師有りけり。世に並無き者にて有りける。滝殿(たきどの)の石も、此川成が立てたる也けり。同き御堂の壁の繪も、此の川成が書きたる也。

 而る間、川成、從者の童を逃しけり。東西を求けるに不求得りければ、或高家の下部を雇て語ひて云く、「己れが年來(としごろ)仕(つかひ)つる從者の童、既に逃たり。此尋て捕へて得させよ」と。下部の云く、「安事には有れども、童の顔を知たらばこそ搦めむ」と、「顔を不知しては何(いか)でか搦めむ」と。川成、「現(げ)に然る事也」と云て、畳紙(たたうがみ)を取出て、童の顔の限(かぎり)を書て下部に渡して、「此れに似たらむ童を可捕き也。東西の市は人集る所也。其邊(ほとり)に行て可伺き也」と云へば、下部、其顔の形を取て、即ち市に行ぬ。人極て多かりと云へども、此に似たる童無し。暫く居て、『若しや』と思ふ程に、此れに似たる童出來ぬ。其形を取出て競(くら)ぶるに、露違たる所無し。「此也けり」と搦(からめ)て、川成が許に將(いて)行ぬ。川成此を得て見るに、其童(そのわらはなれば)、極(いみじ)く喜びけり。其比(ころおひ)、此を聞く人極じき事になむ云ける。

 而るに、其比、飛彈の工と云ふ工有りけり。都遷(みやこうつり)の時の工也。世に並無き者なり。武樂院(ぶらくゐん)は、其の工の起たれば微妙(みめう)なるべし。

 而る間、此工、彼の川成となむ各(おのお)の其の態(わざ)を挑にける。飛彈の工、川成に云く、「我が家に一間四面の堂をなむ起たる。御(おは)して見給へ。亦、『壁に繪など書て得させ給へ』となむ思ふ」と。互に挑乍ら、中吉(なかよ)くてなむ戯れければ、『此く云事也』とて、川成、飛彈の工が家に行ぬ。行て見れば、實(まこと)に可咲氣(をかしげ)なる小さき堂有り。四面に戸皆開たり。飛彈の工、「彼の堂に入て、其内見給へ」と云へば、川成延(ゑん)に上(のぼり)て南の戸より入らむと爲るに、其戸はたと閉づ。驚きて廻りて西の戸より入る。亦其戸はたと閉ぬ。亦南の戸は開(ひらき)ぬ。然れば北の戸より入るには其戸は閉て、西の戸は開ぬ。亦東の戸より入るに、其戸は閉て、北の戸は開ぬ。此如廻(めぐ)る廻る數度(あまたたび)入らむと爲るに、閉開(とぢつひらき)つ入る事を不得。侘て延より下ぬ。其時に、飛彈の工咲(わら)ふ事限無し。川成、『妬(ねたし)』と思て返ぬ。

 其後、日來(ひごろ)を經て、川成、飛彈の工が許に云遣る樣、「我が家に御座(おはしま)せ。見せ可奉き物なむ有る」と。飛彈の工、『定めて我を謀らむずるなめり』と思て不行(ゆ)か(ざる)を、度々(どど)懃(ねむごろ)に呼べば、工、川成が家に行き、此(かく)來れる由を云入れたる、「此方(こなた)に入給へ」と令云(いはし)む。云に隨て、廊の有る遣戸を引開たれば、大きなる人の黒み脹臭(ふくれくさり)たる臥せり。臭き事鼻に入樣也。不思懸(おもひかけざる)に此る物を見たれば、音(こゑ)を放て愕(おびえ)て去(のき)返る。川成、内に居て、此の音を聞きて咲ふ事限無り(かぎりなし)。飛彈の工、『怖し』と思て土に立てるに、川成其遣戸より顏を差し出でて、「耶(や)、己れ此く有りけるは。只來れ」と云ひければ、恐づ恐づ寄りて見れば、障紙のあるに、早う、其の死人の形を書きたる也けり。堂に被謀(はかられ)たるが妬きに依て此くしたる也けり。

 二人の者(ものの)態(わざ)、此なむ有ける。其比の物語には萬の所に此を語てなむ皆人譽けるとなむ語り傳へたるとや。

 

やぶちゃんの語釈:

☆「滝殿」について諸注は後の嵯峨の大覚寺とし、大覚寺のこの滝等の作庭は百済川成と次の注の巨勢金岡の共同制作という口伝があるとする。芥川はこの伝承を知っていたか。

☆「高家」は、摂関家や大臣家等の高貴で権門の家を指す。

☆「童の顔を知たらばこそ搦めむ」は係り結びが不全である。「搦めめ」となるべきところ。つまらぬことだが国語教師としては指摘しておかざるを得ない。

☆「畳紙」は懐紙のこと。貴族は播磨国多可郡杉原谷(現在の兵庫県多可町)で漉かれた杉原紙や、楮を原料とした縮緬状のしわを有するやや高級な檀紙を用いた。

☆「顏の限」顔だけを。

☆「飛彈の工」は、ここでは固有名詞で用いられている。

☆「都遷」は平安遷都を指す。延暦13794)年。

☆「武樂院」は正しくは豊楽院。大内裏の南やや西寄りに位置する。東に隣接する朝堂院と並んで最も大きな建築物で、節会等を行った大遊宴会場である。

☆「延」は縁側。

☆「大きなる人の黒み脹臭たる臥せり」これは、私の耽溺する「九相詩絵巻」で描くところの、肪張相・血塗(けつず)相・肪乱相のいずれかの図であると考えてよい。恐らくは青黒く腐敗し、風が臭気を二~三里に伝えるとする血塗相若しくは肪乱相、乃至はその両相の中間相の死体描写である。

☆「臭き事鼻に入樣也」は、その臭いたるや、鼻が曲がるほどであった、というのであるが、これは勿論、そのスーパー・リアリズム故の幻嗅であったというわけである。そうして、芥川は「地獄變」の良秀の絵に対してこの部分を転用し「死人の腐つて行く臭氣を、嗅いだと申すものさへございました」を導き出したと言ってよい。

☆「早う」副詞で、なんとまあ、さては、実は。

 

やぶちゃんの現代語訳:

これも今となっては昔のこと、百済川成という絵師がおりました。世に並ぶ者はないと評判の、名人でございました。ほれ、あの世間でも知られたあの滝殿の石庭の石もこの川成が立てたもの。同じ滝殿の御堂の壁画もこの川成が描いたものでございます。

 さてある時のことでございます、川成は勝手よく厳しく使っておりましたところの従者の童子に、逃げられてしまいました。あちことと探し回ってみましたものの、見つかりませんので、さる高家の下人を私的に雇って言うことに、

「儂が長年使っておった童子が、まんまと逃げよった。これを探して捕まえ儂の元に連れ戻してもらいたいのじゃ。」

と。すると下人が言うことに、

「それはた易いことだが、その童子の顔を知っておればこそ捕まえられもしよう、」と言いつつ、「顔も知らんでどうして捕まえられようか。無理だ。」と。

川成は、

「いや、確かにそうであったわい。」

と言って、懐紙を取り出すと、ささっと童子の顔だけを描いて下人に渡し、

「これに似たような童子を捕まえればよい。京の東と西の市は人の集まるところじゃ。その辺に行って探すがいい。」

と言うので、下人はその即席の似顔絵を手に、すぐ市に行きました。市中は人がとても多かったものの、この似顔絵に似た童子はいません。ところが、もう暫く、『もしかすると見つかるかも知れぬ』と思いながら、下人がその市に佇んでいたところが、この似顔絵に似た童子がやって来たのでした。その顔かたちを、懐から似顔絵を取り出して比べてみたところが、微塵も違いません。「こいつだ!」とばかりに捕えて、川成の許に引き連れて行きました。 川成がこの連行してこられた者を引き受けて、見ると、まさにその童子に違いなく、たいそう川成は喜んだということです。その当時、この話を聞いた人は、さらりと空で描いた絵が本人に生き写しとは、全く大したもんだと、評判し合ったということです。

 ところでまた、その頃のこと、飛騨の工と言う名の工匠がおりました。平安遷都の際に贅を尽くした新京造りに関わった大工です。こちらもまた、世に並ぶ者はないと評判の、名人でございました。さてもあの内裏の豊楽院は、その大工の手がけた作物であればこそ、素晴らしいものなのございましょう。

 さても、この工と先の百済川成とが、互いの技を競い合ったことがございました。ある日、飛騨の工が川成に言うことには、

「我が家に一間四方の堂を建て申した。どうぞ、お出かけになってご覧下されい。貴方に、その堂の壁に絵など描いて戴きたいなどとも思うておりますによって。」

と。川成は、これまでも、互いに技を競いながらも仲よく、かくの如く親しいざっくばらんな交わりもしておりましたから、「この度もそのように心遣いをして誘うてくれたのじゃな。」と思って、川成は飛騨の匠の工の家を訪問致しました。

 川成が行ってみますと、ほんにおかしな趣向の小さなお堂があります。四方の戸が皆開いております。飛騨の工が、

「あのお堂にお入りになって、どうぞその中をご覧下され。」と言うので、

川成は縁に上がり、まず南の戸から入ろうとしますと、その戸が、ぱたん、と閉じる。驚いて、西に回って、西の戸から入ろうとする。すると、その戸が、ぱたん、と閉じてしまいました。そして、見ると今度は南の戸が開いています。ならば、と北の戸より入ろうとすると、北の戸は閉じて、西の戸が開いてしまう。また今度は、東の戸から入ろうとすると、その戸は閉じて、北の戸が開いてしまう。このようにして、ぐるぐるぐるぐる回り巡って、何度入ろうとしても、戸は閉じてはまた開き、堂に入ることが出来ません。遂に川成は困り果て疲れ果てて縁から降りたのでした。まさにその時、飛騨の工がこの上ない大笑いしたことは、申し上げるまでもありますまい。川成は、悔しがって帰ったのでございます。

 そのことがあって後、数日経って、川成は飛騨の工の許に使者を遣って、以下のように消息致しました。

――今度は我が家にお出まし下されたく候。お見せ申し上げたき物が正に御座候。――

 受け取った飛騨の工が、『川成の奴、きっと俺に仕返しをしようとしてるんだろう。』と思って無視して行かずにおりますと、何度も何度も丁重に誘いをかけて来ますので、仕方なく遂に工が川成の家に行きまして、この通り参りましたぞと、下の者に案内を乞うたところ、川成は下の者に、

「まずはこちらへお入り下さい。」

と言はせたのでありました。その言われるままに、廊下を抜けてその先の遣り戸を引き開けたところが、そこには、腐敗した気が貯まって大きくなって見える人の、すっかり黒ずんで腐って膨れ上がった死人(しびと)が横たわっています。その臭いたるや、鼻が曲がるほど! 思がけず、このようなものを見たので、工は、図らずも、ぎゃあ! と叫んで、恐れおののいて飛んで廊下の外の庭へ飛び退りました。さて、川成はその死体のある部屋の中にいて、その工の叫び声に、これまた、この上ない大笑いをすること、すること。飛騨の工はと言えば、恐ろしいことよ! とぶるぶる震えて素足のまま、庭の地面に突っ立っておりますと、川成が、その遣り戸から顔を出して、

「や、儂はここに居りまするぞ。さ、構わず入られよ。」

と言うので、恐る恐るそこに近づいて見ますると、遣り戸の内側のすぐの所に衝立障子があって、何とまあ、その障子に死人の姿形が描かれたものだったのでございました。これは勿論、工自身が危ぶんだように、先般、あのお堂で騙されたのが悔しくて、このように川成が意趣返しをしたのでございました。

 二人の技量は、ざっとこのようなものでありました。当時の噂話と言えば、何処へ行ってもこの話で持ちきりで、皆、両人どちらをも褒めちぎったものだと、今も語り伝えているということです。

 

・金岡:巨勢金岡(こせのかなおか 生没年未詳)。9世紀後半の画家。宇多天皇や藤原基経、菅原道真、紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば造園にも才能を発揮し、貞観10868)年~14872)年にかけては神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、川成同様、真筆は現存しない。仁和寺御室で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な田の稲が食い荒らされる――朝になると壁画の馬の足が汚れていて、そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話や、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会い、絵の描き比べをしようという――金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をする――すると二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと飛んで来て絵の中に再び納まった――金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり筆を松の根本に投げ捨てた――その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であったというエピソードが今に伝わる。

・龍蓋寺:通称、岡寺。現在の奈良県高市郡明日香村にある真言宗の東光山真珠院龍蓋寺。天智天皇の勅願により法相宗の祖である義淵僧正が建立。日本最初厄除けの寺という。ここに記されるような良秀作の絵画伝承はない。芥川龍之介がここで龍蓋寺という固有名詞をあえて出したことへの分析は行われる価値があろう。

・五種生死:これは正しくは「五趣生死」(以下「七」でも「五種」とあるが、一々注記しない。「十二」に現れる際は正しく「五趣生死」の表記である)。正確には絵であるから五趣生死輪図である。五種の生き物の生きる五つの空間を言う五趣の生死の輪廻、の謂いである。仏教世界はまず欲界・色界・無色界の三界に分けられる。最下の層が欲界で欲にとらわれた五種の生物が棲む。その居住空間を地獄・餓鬼・畜生・人間・天上とし「五趣」と呼び、そこで生死を繰り返して輪廻転生することが「五趣生死」であるという。この五趣に阿修羅道を加えたのが六道で、同じ謂いが「六道輪廻」である。こうした「五趣生死輪図」は地獄変相図の変形であり、インドのアジャンタ遺跡に既にその痕跡があり、現在でもチベット・ネパール等で国々で見られる。本邦では「七大寺巡礼私記」(大江親通による嘉承元(1106)年及び保延6(1140)年の二度に亙る南都諸大寺巡礼見聞記録)に、奈良興福院の中門にこの五趣生死輪図と推定される絵が懸けられていたらしい記録があるとするが、作例近世より前の作例は現存しない。

・三年と盡たない中に:「盡(た)たない中に」と読む。

・横紙破りな:和紙は漉き目が縦に走っており横には破りにくいことから、自分の思った通りを無理にでも押し通そうとすること。極めて我儘なこと。

・それが反つで:「反つて」の誤植。

・かいなで:「掻き撫で」のイ音便。表面をちょっとなでただけで、ものの奥深いところを知らないこと。未熟。

・總じで:「總じて」の誤植。

・智羅永壽:この名は「今昔物語集」巻二十「震旦の天狗智羅永寿、此の朝に渡れる語(こと)第二」で知られる天狗の固有名詞であるが、そこでは「ちらようじゅ」と読んでいる。以下に引用する(底本は池上洵一編の2001年岩波文庫版を用いたが、私のポリシーから一部の漢字を恣意的に旧字体に代え、読めると思われるルビの一部を省略、底本のルビを歴史的仮名遣いに替え、繰返し等の記号の一部を変更した。なお、底本では脱落箇所をルビで補っている点に注意されたい。後ろにオリジナルな語注及び現代語訳を設けた)。

 

 今昔、震旦に強き天宮(てんぐ)有けり。智羅永壽(ちらやうじゆ)と云ふ。此の國に渡にけり。

 此の國の天狗に尋ね會て、語て云く、「我が國には止事無(やんごとな)き惡行の僧共數(あまた)有れども、我等が進退(しんだい)に不懸(かか)らぬ者は無し。然れば、此の國に渡て、修驗の僧共有りと聞くは、『其れ等に會て、一度力競せむ』と思ふを、何(いか)が可有き」と。此の國の天狗、此れを聞て、「極て喜(うれし)」と思て、答て云く、「此の國の德行の僧共は、我等が進退に不懸ぬは無し。掕(りやう)ぜむと思へば、心に任(まかせ)て掕じつ。然れば、近來(このごろ)可掕(りやうずべ)き者共有り。教へ申さむ。己(おのれ)が後(しりへ)に立て御(おは)せ」と云て行く後に立て、震旦の天狗も飛び行く。比叡(ひえ)の山の大嶽(おほたけ)の石(いしの)率都婆(そとば)の許に飛び登て、震旦の天狗も此天狗も道(みちの)邊(ほとり)に並(なみ)居ぬ。

 此の天狗、震旦の天狗に教ふる樣、「我れは人に被見知(みしられ)たる身なれば、現(あらは)には不有(あら)じ。谷の方の藪に隱(かくれ)て居たらむ。其(そこ)は老法師の形と成て、此に居給て、通らむ人を必ず掕ぜよ」と教へ置て、我れは下の方の藪の中に、目を偭(そば)にして隱居て見れば、震旦の天狗、極氣(いみじげ)なる老法師に成て、石率都婆の傍に曲(かがま)り居り。眼見(まみ)糸(いと)氣踈氣(けうと)なれば、「少々の事は必ず爲(し)てむ」と見ゆれば、心安く喜(うれ)し。

 暫(しばら)許(ばかり)有れば、山の上の方より、餘慶(よきやう)律師と云ふ人、腰輿(たこし)に乘て、京へ下る。此の人は只今貴(とうとき)思え有て、「何(いか)で掕ぜむ」と思ふに、極て喜し。漸く率都婆の許(もと)過る程に、「事爲(す)らむかし」と思て、此の老法師の方を見れば、老法師も無し。亦、律師も糸平らかに弟子共數(あまた)引き具して下ぬ。怪く、「何(いか)に不見えぬにか有らむ」と思て、震旦の天狗を尋たれば、南の谷に尻を逆樣にて隱れ居り。此の天狗寄て、「何(な)ど此(かく)は隱れ給へるぞ」と問へば、答ふる樣、「此の過つる僧は誰(た)そ」と問ヘば、此の天狗、「此れは只今の止事無き驗者餘慶律師と云ふ人也。山の千壽院より内の御修法(みしゆほふ)行ひに下るゝ也。貴き僧なれば『必ず恥見せむ』と思ひつる物を、口惜く過し給ひつるかな」と云へば、震旦の天狗、「其の事に侍りとよ。『者の躰(てい)の貴氣に見えつるは此れにこそ有(あん)めれ』と喜しく思へて、『立出む』とて見遣つるに、僧の形は不見ずして、腰輿の上の、高く燃えたる火の焰にて見えつれば、『寄ては火に被燒もこそ爲れ。此れ許は見過してむ』と思て、和(やは)ら隱ぬる也」と云へば、此の天狗疵咲(あざわらひ)て云く、「遙に震旦より飛び渡て、此許(かばかり)の者をだに引き不轉(くるべかさ)ずして過つる、糸弊(つたな)し。此の度だに、渡らむ人必ず引き留て掕ぜよ」と。震旦の天狗、「尤宣ふ事理也。吉(よ)し、見給へ、此の度は」と云て、初の如く石率都婆の許□て居ぬ。

 亦此天狗も初の如く谷に下て、藪に曲りて見れば、亦喤(ののしり)て人下る。飯室(いひむろ)の深禪權僧正(じんぜんごんのそうじやう)の下給ふ也けり。腰輿の前に一町許前立(さきだて)て、髮握(ちぢ)かみたる童の杖提(ひさげ)たるが腰□たる、人を掃ひ行く。『此の老法師、何(いかが)すらむ』と見遣れば、此の童、老法師を前々(さきざき)に追ひ立て打ち持行く。法師、頭を□て逃ぬ。敢て輿の傍に可寄くも不見えず。打ち掃て過ぬ。

 其の後、此天狗、震旦の天狗の隱たる所に行て、初の如く恥(はぢ)しめ云ヘば、震旦の天狗、「糸破無(わり)き事をも宣ふかな。此の前に立たる童の可寄(よるべ)くも非(あら)ぬ氣色なれば、『被捕(とらへら)て頭打ち不被破(わられ)ぬ前に』と思て、急ぎ逾(すぎ)ぬる也。己が羽の疾さは、遙に震旦よりも片時の間に飛渡るに、此の童の早氣(はやげ)なる氣色は、己には遙に増(まさり)たり氣也(げなり)つれば、益無(やくな)く思ひて立隱ぬる也」と答れば、此の天狗、「尚此の度だに念じて、渡らむ人に取り懸り給ヘ。此の國に渡り給て、甲斐無て返(かへり)なむは、震旦の爲に面目無かるべし」と、返々す恥(はぢ)しめ云ひ聞かせて、我れは又本の所に隱れて居ぬ。

 暫許有れば、人の音(こゑ)多くして下より登る。前に赤(あかき)袈裟着たる僧の、前を追て人掃て渡る。次に若き僧、三衣筥(さむえのはこ)を持て渡る。次に輿に乘て渡り給ふ人を見れば、山の座主(ざす)の登り給ふ也。其座主と云は、横川の慈惠(じゑ)大僧正也。「此の法師に取懸ぬらむや」と思て見れば、髮結ひたる小童部二三十人許、座主の左右に立て渡ぬ。

 而る間、此老法師(おいほふし)も不見ヘず、初の如く隱れにけり。聞ば、此小童部の云く、「此樣(かやう)の所には由無き者有て伺ふ事有を、所々に散(ちり)て吉く□て行かむ」と云ヘば、勇たる童部楚(すはえ)を捧て、道の喬平(そばひら)に弘まり立て行と見るに、益(やく)無ければ、彌(いよい)よ谷下て藪に深く隱ぬ。聞けば、南の谷の方に、此童部の音にて云く、「此に氣色怪き者有り。此、捕ヘよ」と。他の童部、「何ぞ」と問ば、「此に老法師の隱れ居(ゐる)ぞ。此は只者には非ざめり」と云ヘば、他の童部、「慥(たしか)に搦めよ。不逃すな」と云て、走り懸りて行ぬ。『穴(あな)極(いみ)じ。震旦の天狗被搦ぬなり』と聞と云ヘども、怖しければ、彌よ頭を藪に指入れて、低(うつぶ)し臥せり。藪の中より恐々(おづおづ)見遣たれば、童子十人許して、老法師を石率都婆の北の方に張り出て、打ち踏み掕ずる事無限し。老法師、音を擧て叫ぶと云ヘども、□者無し。童部、「何(なん)ぞの老法師ぞ。申せ申せ」と云て打ば、答ふる樣、「震旦より罷渡たる天狗也。渡給はむ人見奉らむとて此に候ひつるに、初め渡給ひつる餘慶律師と申人は、火界(かくわい)の呪(しゆ)を滿(みて)て通給ひつれば、輿の上、大に燃ゆる火にて見えつれば、其をば何がはせむと爲る。己れ燒けぬべかるつれば、逃て罷去にき。次に渡り給ひつる飯室の僧正は不動の眞言を讀て御しつれば、制多迦(せいたか)童子の鐵(くろがね)の杖を持て、副(そひ)て渡り給はむには、誰か可出會(いであふべ)きぞ。然ば深く罷り隱れにき。今度(このたび)渡り給ふ座主の御房は、前々の如く、猛く早き眞言も不滿給(みてたま)ず、只止觀と云ふ文(もん)を心に案じて、登り給ひつれば、猛く怖しき事も無く、深くも不隱ずして、傍に罷寄て候つる程に、此く被搦れ奉て、悲き目を見給つる也」と云ヘば、童部、此の事を聞て、「重き罪有る者にも非ざなり。免して追ひ逃してよ」と云て、童部、皆一足づゝ腰を踏て過ぬれば、老法師の腰は踏み被齟(なやまされ)ぬ。

 座主過ぎ給て後、此の天狗、谷の底より這ひ出て、老法師の腰踏み被折て臥せる所に寄て、「何ぞ。此度は爲得(しえ)たりや」と問ヘば、「いで、穴かま給ヘ。痛くなの給ひそ。其(そこ)を憑(たの)み奉てこそ、遙なる所を渡て來りしか。其れに、此く待ち受て後、安くは教ヘ不給ずして、生佛の樣也ける人共に合せて、此く老腰踏み被折れぬる事」と云て、泣き居り。此の天狗の云く、「宣ふ事尤も理也。然は有れども、『大國の天狗に在(ましま)しければ、小國の人をば、心に任て掕じ給ひてん』と、思て教ヘ申しつる也。其に、此く腰を折り給ひぬるが糸惜き事」と云て、北山の鵜の原と云所に將(いて)行てなむ、其の腰を茹(ゆで)愈してぞ、震旦には返し遣ける。

其の茹ける時に、京に有ける下衆(げす)、北山に木伐(きこり)に行て返けるに、鵜の原を通ければ、湯屋に煙(けぶり)の立ければ、「湯涌(わかす)なめり。寄て浴(あみ)て行かむと」思て、木をば湯屋の外に置て、入て見(みれ)ば、老たる法師二人、湯に下て浴む。一人の僧は腰に湯を沃(い)させて臥たり。木伐人(きこるひと)を見て、「彼(あ)れは何人の來るぞ」と問ヘば、「山より木を伐て罷返る人也」と云けり。而るに、此湯屋の極く臭くて、氣怖しく思えければ、木伐人頭(かしら)痛く成て、湯をも不浴ずして返にけり。其後、此の天狗の人に託(つき)て語けるを此木伐人傳ヘ聞てぞ、其日を思ひ合せて、鵜の原の湯屋にして老法師の湯浴し事を思ひ合せて語りける。

 此天狗の人に託(つき)て語けるを、聞き繼て、此く語り傳ヘたると也。

 

やぶちゃんの語釈:

☆「我等が進退に不懸らぬ者は無し」は、我々の思いのままに翻弄できない奴などいない、と自慢している。

☆「掕ぜむ」は、ひどい目に遭わせてやろう、の意。

☆「大嶽」比叡山山頂の四明ヶ岳の通称。

☆「石率都婆」板碑と解釈するものが多いが、石製の卒塔婆とは、本来なら広く五輪塔等の石塔類を言う。

☆「眼見糸氣踈氣なれば」は、目つきが如何にも気味悪く恐ろしげであるので、の意。

☆「餘慶律師」第二十代天台座主。正暦2(991)年没。

☆「腰輿」前後に人が付いて手で持ち上げる乗り物。

☆「内の御修法」は内裏に於いて加持祈禱を執り行うこと。

☆「許□て居ぬ」の欠字は「曲(かがま)り」であろう。私は実は、この説話集等の脱字欠落に対する注釈によく現れる「漢字表記を期した意識的欠字」という意味がよく理解できないでいるのである。これは書写時に漢字が不明であるから後で調べようとしたということか? それにしても何故、それがこんなに頻繁に現れるのか? いや、ここでは譬えば既に用いている「曲」が何故書けないのか? 他に何か呪術的意味合いでもあるのか? 大学生の時に教授に聞いておけばよかったな。識者のご教授を願う。

☆「深禪權僧正」正しくは尋禪。第十九台天台座主。永祚2(990)年没。はからずもこの人は百鬼夜行遭遇の藤原師輔の十男である。

☆「一町」は約109m

☆「杖提たるが腰□たる」の欠字は、やはり「曲(かがめ)たる」であろう。

☆「頭を□て逃ぬ」の欠字について諸注は「頭を抱へて」とするが、やはり同字の意識的な欠字と捉えて「頭を曲(かがめ)て」とするのは如何か。

☆「三衣筥」僧侶の三種類の僧衣(袈裟)を入れる箱。

☆「慈惠大僧正」良源。第十八代天台座主。永観3(966)年没。

☆「所々に散て吉く□て行かむ」の欠字について諸注は、「漁りて」「探りて」等の欠字であろうとするが、ここもやはり同字の欠字と捉えて「よく曲(かがまり)て」(探る動作として)とするのは如何か。

☆「道の喬平に弘まり立て行」、腕っ節の強い童子たちが、ずんずんと道の両側に均等に広がって進んでくるシーンである。

☆「穴」は感動詞に漢字を当てただけ。

☆「火界の呪」火界真言。不動明王の陀羅尼の一つ。不動明王を念じてその仏敵調伏の大火炎をイメージする。

☆「不動の眞言」これは次の制多迦童子を招聘するところから不動明王自体をイメージする真言陀羅尼を指すのであろう。

☆「制多迦童子」不動明王八大童子の一人。一般に不動明王の尊像の脇侍として、制吐迦童子は向かって左に、矜羯羅童子は向かって左に侍す。制吐迦童子は一般的にスポーツ万能系の、矜羯羅童子は知的で優美な美少年のイメージである。

☆「止觀」本来は「摩訶止観」という書を指す。隋代に天台宗宗祖智顗(ちぎ)の教説を弟子の灌頂(かんじょう)が筆録したもの。天台宗の修行法である観心を体系的に説いた奥義書。ここでは慈惠大僧正がその「摩訶止観」の書かれた思想のイメージ(=文)の「観想」を行っていたことを指すのであろう。

☆「重き罪有る者にも非ざなり」は注記がないが、「非ざるなり」の脱字か。

☆「北山の鵜の原」は当時の京都市北方の丘陵地帯を総称して言った。

☆「沃させて」注ぎかけて、の意。

☆私は最後の部分、このイソップの「都会の鼠と田舎の鼠」のような荒唐無稽な話を強引に真実に引き付けとする――この日本の天狗が人に憑依してこの話をし、それを樵が伝え聞いて、そう言えばあの日変な客が湯につかってたけが! やっぱり!――という涙ぐましいアフター・ケアが好きだ。

 

やぶちゃんの現代語訳:

 これも今となっては昔のこと、中国に強い天狗がおりました。智羅永寿(ちらえようじゅ)と言いました。それが日本へ渡って来たのでございます。

 この智羅永寿、まず、日本の天狗を捜して逢うや、偉そうに申しますことには、

「我が中国には、徳行を持った天狗の魔道に反したとんでもない悪逆非道の僧どもがあまたおるが、我ら天狗族の意のままにならぬものなどは一人として、おらぬ。されば、この日本という小さき国に渡って参ったは、その小さい割には修験の道を積んだやはり悪逆非道の僧どもがいると聞いてのことよ。そ奴らに会うて、一度力競べをせんと思うがの、どんなもんじゃい。」

と。日本の天狗はこれを聞いて、たいそう嬉しく思い、

「勿論、この国のとんでもない悪逆非道の徳行僧とても、我ら本邦の天狗族の意のままにならぬ者などは、とんと、ござらぬ。天狗道に法り戒めのために懲らしめようと思わば、思いのままに存分に痛めつけて参った。なれども貴殿のそのような真率なる精進の覚悟、大いに感じ入るによって、近頃、新たに増長致してそろそろ少しばかり懲らしめねばなるまいと思われ奴らがござる。よって、教え申そう。私めの後ろについておいでなされよ。」

そう言うや飛び立った日本の天狗の後について中国の天狗も飛んで行きます。やがて飛び来った場所は、比叡山の大嶽の石の卒塔婆の近く、その路傍に二人して並んで腰をおろしております。

 さて、日本の天狗は中国の天狗に向かって諭すように、

「私めは本邦の人々に顔を見知られておりますれば、姿を露わに致すはうまくありますまい。とりあえず、あちらの谷の方の藪の中に隠れておることに致しまする。貴殿は、そうさな、老法師の姿に身を変じて、ここにおられて、ここを通る人間をば必ずや懲らしめてやって下され。」

と教えておいて、自身はちゃっかり、谷の下の方の藪の中にすっぽり隠れて、見つからぬように横目がちになって上の様子を覗って見ますと、中国の天狗は、如何にも荒行苦行を積んだ如き老法師にまんまと化けて、石の卒塔婆の傍にしゃがんでおります。ですが、その眼付きは、殊の外、ただただ気味悪く恐ろしげであって、それを見た日本の天狗には、そのただならぬ眼光から察するに、『これはその邪悪真正な光に相応なことはきっとやらかすことであろう。』と見えたので、日頃、実は手も足も出ない高徳の僧どもに、やっと積年の我らが怨みを晴らすことが出来るものと、内心、感じたことのない安堵と手放しの嬉しさがこみあげてくるのでした。

 暫くすると比叡の山の上の方から、余慶律師という方が手輿に乗って京へ下るためにやって来られます。この余慶という人物はそれこそ今、高僧として、世評も高い、『さてこ奴を中国の天狗殿、どのように料理して屠ってくれるであろう。』と思うと、日本の天狗は、もうぞくぞくすること、この上もありません。余慶律師の輿が漸く卒塔婆の脇を通り過ぎようとする、『さても何が起こるか!?』と期待つつ、例の天狗が化けしゃがんでいるはずの老法師の方を見てみる……と……老法師どころか、天狗も誰も、おりません。そうこうするうちに、律師一行は何事もなく平穏無事に、あまたの弟子どもを引き具して山を下って参ります。如何にも奇怪で、『何故中国の天狗殿お姿が見えなくなってしまつたのであろうか。』と訝りつつ、中国の天狗を探し廻ったところ、何とまあ、向こう側の南の谷に尻を逆さまにして隠れています。日本の天狗は詰め寄ると、

「何でこのようなところにお隠れになっておられるのか!?」

と問うと、それには答えず、

「ここを今過ぎたあの僧は、誰じゃ?」

聞き返しましたから、

「奴は現今優れた験者の誉れ高い余慶律師という人間でござる。比叡山千寿院より内裏で執り行われる御修法(みずほう)を修すために京都へ下るところであったのです。貴殿の相手として不足のない悪逆非道の貴僧にござればこそ、必ず彼奴(きゃつ)に大恥をかかせてくれるものと思うておりましものを。口惜しくも何もせずに見逃してしまわれたとは。」

と難ずると、中国の天狗曰く、

「いや、そのことでござるよ。『人の風体がまこと貴げに見えたればこそ、懲らすべき輩はこやつであるな!』と嬉しく思い、『さあて、いっちょ、やったるか!』と彼奴に眼を向けたところが、儂の千里眼には、その輿の中の見えるはずの僧余慶の姿形が、とんと見えぬ、ただただ彼奴の乗っているはずの輿の上一面が、紅蓮の焔に覆われているのが見えるばかり、『近寄ったら火に焼かれてしまう、こりゃあかん! こ奴だけは見過そう!』と思うて、やおら隠れたわけでござる。」

と言えば、日本の天狗はあざ笑って、

「はるか中国より飛び来たって来られた貴殿、かばかりのものさえも自在に引き転ばすことも出来ずに見逃すとは、如何にも情けなや! この次ばかりは、やってくる人間を必ず引き留めて打擲されよ!」

と。流石に中国の天狗も、

「いや、尤もなる道理でござる。よし、見給え! こたびは確かに!」

と気を取り直して、初めのごとく石の卒塔婆の下にかがみこみました。

 日本の天狗も、前同様、谷に下りて薮の中にしゃがんで見ておりましたところが、また、賑やかに声がして人間が下って参ります。飯室の深禅権僧正が下山なさるのでございました。すると、輿のずっと前に一町ばかりも前に立って、如何にも尋常ならざる縮れた髪の屈強な童子で、太の杖をひっ提げて、腰を屈めてねめつくように人払いをしつつやって来ます。日本の天狗は『あの老法師は、一体どうするであろう。』と見てみると、この童子が、老法師をさんざんに杖で追い立てては、先へ先へと追い立てて行くではありませんか。老法師はなされるがままに頭を卑屈に屈めたまま逃げ惑うて行くばかり。とても輿の傍へなんぞ、近寄るどころの騒ぎでさえありませなんだ。かように打ちはらわれているうちに、この一行も通り過ぎたのでございます。


 その後、日本の天狗は、かように中国の天狗が追われて隠れていた所へ走り寄って行きますと、前のように彼に散々の侮蔑を浴びせて批難致しましたところが、中国の天狗は、

「何とまあ、理不尽なことをおっしゃるのじゃ。この度の先払いに立っておった童の勢い、あの近づくべくもかなわぬ面構えを見さっしゃったか!? あれを見れば、『これはもうあの童子に捕えられ頭を打ち割られぬ前に!』と思えばこそ、急ぎ逃げたのでござる。さても儂の持つ羽の速さは、遥か海を越えた彼方の中国より、この日本まで、あっという間に飛び渡れるほどのものでござれる、されど、あの先の童子のすばしっこい足力の速さ、身のこなしというたら、それはそれは遥かに勝っているように見受けらるれば、手向かいするも無益のことと思い、早々に立ち隠れたわけでござる。」

と答えたので、日本の天狗は、聊か呆れつつも、

「では、最後にもう一度、今度こそ覚悟なされ、やってくる人間に襲い懸かって、美事お仕留めなされよ。ともかくも、この国に遥々渡り遊ばされて、何の甲斐もなくて帰るのは、お国のためにも如何にも面目ないことではごさらぬか!」

と散々に侮蔑の言葉を浴びせて、我、日本の天狗は、またもとの藪に隠れて座ったのござる。

 
と、暫くして、がやがやと大勢の人の声と共に、今度は下界から山の上へと登って来るものがございました。先頭に赤い袈裟を着た僧が先払いをしつつやって来ます。その次には若い僧が、三衣の箱を持って続きます。その次に輿に乗ってやって来る人間を見ると、これはまさに現今の比叡の山の座主であらっしゃいます。比叡山天台座主と言えば、それは横川の慈恵大僧正なのでございます。日本の天狗は、『さても! あの中国の天狗がこの大物法師に襲い懸かるか!』と手に汗握って見ておりますと、髪を結った小童子ばかり二三十人、座主の輿の左右についてやって来ます。

……しかしまたしても、例の老法師の姿はどこにも見えませず、さてはまた、初めのように隠れてしまったのでした。日本の天狗の耳に、この小童部の一人が言う言葉が聞こえました。

「こういう人気のない怪しい場所には、まま下賤邪道の者が潜んでおり、隙を覗ってあわよくば何ぞ仕掛けようとすることがあるから、我らは皆、各所に広く散ってよく屈み込んで探りつつ参ろうぞ。」

と言うたが早いか、血気盛んな勇みたった童子たちは、手に手に小枝の鞭を取り、道の両側に均等に広く散開して前進してくる様子で、日本の天狗も、万事休す、すわ、見つけられては大変だと、更に谷底深く下って、より深いところの藪に隠れて息を潜めておりました。すると、聞けば、向こうの南の谷の方で一人の童子の声が高まって、

「ここに怪しい輩がある! こやつを引っ捕えよ!」

と叫ぶ。他の童子たちが、

「なんだ!」

と叫ぶ。先の童子が、

「ここに老法師(よろぼし)が隠れていたぞ。こやつ、只者には見えぬわ!」

と言うので、他の童子たちが、

「しっかり捕まえておけ! 逃すな!」

と言い放って、その他大勢が走りかかって行きました。日本の天狗は『ああ! えらいことになった! 中国の天狗は、とうとう捕まったに違いない!』とは思ったものの、彼は怖ろしいので、いよいよ頭を藪の中へさし入れてうつ伏しておりました。しかし、それでも気になりますから、そおっと頭を上げて藪のすき間から恐る恐る見ますと、童子たち十人ばかりが、藪から追い出された件の老法師を、石の卒塔婆の北の根方へ引きずり出だして、棒で殴るわ、足で蹴るわ、散々に打擲しています。老法師がいくら悲鳴を上げて叫んでも、誰一人慈悲を示そうとする者もおりません。

「どこぞの法師面の老いぼれだ! 申せ! 申せさぬか!」

そう言いながら、童子たちはなおも打擲の手を緩めませぬ故、たまりかねた老法師は答えて、

「中国より渡って参りました天狗でございます。たまたま、ここに参詣致し、ここをお通りになられるありがたいお方たちを拝見致そうと思い、ここに伺候しておりましたが、初めにお通りになられた余慶律師とおっしゃる御人(じん)は、火界の呪を怠りなく十全に隙なくお唱えになってお通りになられました故、輿の上は一面の大紅蓮の焔のみ見えるばかりで、何の致しようがありましょうや? 何とも致しようもございませず、いえ、それどころか、うっかりすれば私ねが焼けて死にそうにも思われましたので逃げ去っておりました。次にお通りなさった飯室の僧正は不動の真言を誦しておられました故、かの眷属である制多迦童子が、鉄の杖を持ってつき添ってのお通りとなられては、何としてご対面する術(すべ)がございましょうや。そこで余りのご威光に深く畏れて、深く退きまして隠れておったのでございます。されどこのたびお通りなさった座主の御坊様は、前々の方のごとく怖ろしい霊妙なる真言をも唱えられているわけでもなく、ただただ天台の止観の文々のみを心に深く案じてお登りになって来られましたので、御坊様への猛く怖ろしき思いもなくて、また藪深くも隠れることもせずに、ついお通りになる道の傍近くに参上致しておりましたところ、このように搦められ申し上げることとなり、心ならならずも悲しい目をみさせて頂いておりまする次第でございまする。」

と泣く泣く申し上げましたので、童子たちはその現実離れした懺悔を聞き、

「ちょいとおかしい奴で、重い罪人でもないな。許して追っ払え。」

と云い交わして、童子たち一人一人が皆一足ずつ老法師の腰を踏みつけて去って行ったので、老法師の腰は散々に踏み砕かれ、その痛みは言いようもありませんでした。

 座主一行がお通りなってしまわれると、日本の天狗はこそこそと谷の底から這い出して来て、老法師の、腰を踏み折られて臥している所にすごすごとやって来ますと、

「どうなされた。こたびはうまくやりおおせられましたか。」

と、白々しく聞くので、さすがの中国の天狗も、

「えい、お黙りあれ! そのように白々しいむごいことを言わっしゃるな! 儂もそなたを頼りに思い申し上げてこそ、遥かな中国からここまで渡ってまで、そうしてこのとんでもない場所にまで参ったのでじゃ! それなのに、そなたはこのように人間を待ち受けている間に、それぞれの出会うところ人間についての有様を教えることもなく、極悪非道の徳行なんぞはるかに超えた極めつけの忌まわしい生仏に見まごう人間どもとこの儂を争わせて! 挙句の果ては、これ、見るがいい! このように老いの腰も踏み折られて、しもうたわ!!」 

そう言って、中国の天狗は泣いております。日本の天狗は恐縮して、

「仰せ言、一々ご尤も。なれど、『貴殿はなんと申しても中華の大国の天狗におわしませば、この小国日本の人間なんぞは、まず思うままに打擲なさるに違いない。』と思えばこそ、この場所、かの人々をお教え申し上げたのでござる。それなのに、このように腰まで折られなさることは、さてもさてもお気の毒なことで……」と言訳と弁解をすると、北山の鵜の原という温泉に、腰を砕いた中国の天狗を連れて行って、そこで折られた腰を湯治させて、中国へと送り返してやりました。

 さても、その両天狗が湯治しておりました折、京に住まいする下人が、北山へ木を伐採に行った帰り、件の鵜の原を通りかかりましたところが、湯屋に煙が立っておりまので、一っ風呂、浴びてゆくか、と思い立って、切った木を湯屋の外に置いて入って見ますると、老いた法師が二人、浴場で湯浴みをしております。一人は腰に湯を流させて、横になっております。その横になった法師が入ってきた樵(=下人)を見て、

「そこに来たのは何者か。」

と尋ねる声、それに

「山より木を伐ってまかり帰る人間でございます。」

ともう一人が答えたのでした。ところが丁度その時、樵は、この湯屋全体が我慢がならないほどに臭く、更に訳もなくなく気恐ろしい感じがしてきて、同時に樵の頭に激しい頭痛が生じて来、結局、樵は湯に入ることもなく帰ったというのです。後日、この日本の天狗が或る人に憑依して以上の話を語ったのを、まさに、この樵が伝え聞いて、その日があの日と同じ日だったことに気づいて、鵜の原の湯屋で老法師二人が湯治していた事実とを意味ある一致と考えて、このように今も語り伝えているということです。

・渡つで:「渡つて」の誤植。

 

   五

 

・辻冠者:市中を徘徊する不良少年。

・稚兒文殊:文殊菩薩は通常は普賢菩薩と共に釈迦如来の脇侍として描かれるが、文殊菩薩が仏法の純真無垢な智慧を象徴するところから、執着のない稚児のような「智」ということで、図像や絵画では子供に仮託する作例も多い。これを稚児文殊又は童形(どうぎょう)文殊と言う。

・見事な出來事でございましたから:「見事な出來でございましたから」の衍字か。岩波旧全集は「出來」としながら、校閲の注記がない。

・御言:筑摩書房全集類聚版では「御語(おことば)」と表記して訓じている。

・褒美にも望みの物を取らせるぞ:岩波版旧全集は初出及び『地獄變』に従い、「褒美には望みの物を取らせるぞ」とする。穏当な判断である。

・娘の方は父親の身が案じられるせゐでせうでゞもございますか:岩波版旧全集は初出に従い、「娘の方は父親の身が案じられるせゐでゞもございますか」とする。また『地獄變』は「娘の方は父親の身が案じられるせゐでゞもございませうか」とあるとする。『地獄變』を支持する。

 

   六

 

・十王を始め眷屬たち:中国で発生した地獄思想は、中国思想のプラグマティックな側面を発揮して、現世の法制度の建前と本音を十王信仰に具現する。冥界にあって死者の現世での功罪の裁判審理は通常では七審制であり、それが没後七日目ごとの法要と対応する(密教系に起こったある仏が教化のために他の仏に化仏したとする本地仏の対応を=で示した)。

秦広王(初七日=不動明王)

初江王
(十四日=釈迦如来)

宋帝王(二十一日=文殊菩薩)

五官王(二十八日=晋賢菩薩)

閻魔王(三十五日=地蔵菩薩)

変成王(へんじょう 四十二日=弥勒菩薩)

泰山王(四十九日=薬師如来)

の順である。但し、これでは三人の裁判官が余る。それが救済措置としての追加の三審制である。

平等王(百ヶ日=観音菩薩)

都市王(一周忌=勢至菩薩)

五道転輪王(三回忌=阿弥陀如来)

以上が冥官の十王である。これらの冥官の裁きの対象は民事刑事どころではなく五戒やら殺生戒やら悪口言動やら細分化されているようだが、十人もいると分担が困難になるようで、説によって一定しない。中には、前の裁判官の取調べを再度検証しているところもあり、又その間、被告(人←刑事訴訟では必要)の遺族は道士や僧に供養を頼み紙銭を燃やして「地獄の沙汰も金次第」ともなる点、如何にも現世の写しではないか。但し、禊をもって洗い流してしまう結構毛だらけな本邦にあっては、更に手厚いことに全員推定無罪的再審請求に相当する美味しい最終三審が待っているのである。それが日本固有の十三仏信仰であり、

蓮華王(七回忌=阿※如来〔あしゅく ※=「閃」の「人」の下に更に「从」。〕)

祇園王(十三回忌=大日如来)

法界王(三十三回忌=虚空蔵菩薩)

による最終救済制度によって衆生は済度されるわけだ。なお、ここでは眷属と言っているので、道教系から出向している副裁判官、

泰山父君(閻羅庁の閻魔王の脇で補佐する絵をよく見る)

及び地獄法廷の書記官・補佐官たる、

司命

司録

等の冥府の事務官を代表する者(罪人の氏名や罪状を読み上げたり記録したりする)、亡者の個別な検察側証人とも言うべき、

倶生神(ぐしょうしん 同名天・同生天と呼ぶ二神で、人の誕生から死に至るまでその人の左右の肩にあってその人の全所業を全て記録する)

更には、

牛頭

馬頭

青鬼

赤鬼

等(実際にはもっとカラフルである。これらはまさに現実の放置された死体の変相をリアルに示した色である)の有象無象の鬼卒(現在の刑務官)といった者達も、良秀の「地獄變屏風」の中には含まれているということである。

・劍山刀樹:地獄の一種というか、一風景としての針の山のような刀の林のようなものをイメージすればよい。具体的には仏道の修行者を邪魔したり謗ったり、羊頭狗肉をした業者や横領罪・詐欺罪に相当する者が落ちる地獄に正しく巨大な針の山である刀山地獄があり、又、山があって、そのことごとくの樹木の枝葉末節まで、すべてが剣で出来ており、その山や木に登り降りさせられて体が散々に裂ける剣樹地獄というのもある。そこは私の記憶では女色に耽った男が落ちるという個別罪状があったように思う。即ち、樹上に裸体の女が微笑んで手招きをし、ムラムラきて刀樹を登り、体はギタギタに切れるが、登りきると女はいない。ふと下を見ると、地上で同じ裸女が同じように微笑んで手招きをする、またムラムラときて――といったシジフォスを繰り返す。何度もやって体がバラバラになったら鬼が塵取りで集めてゴロゴロと臼に入れて挽くと、その粉に陰風がヒュウと吹けば亡者はハイ元通り、又最初から繰り返す――のである。授業で私が好んでよく言ったから、覚えている教え子諸君も多いであろう。そうだ、私はこの地獄の話が、大好きだ……如何にも授業のような脱線の注になってしまった。お後がよろしいようで……。

・點々と黄や藍を綴つて居ります外は:『地獄變』では「點々と黄や藍を綴つて居りまする外は」とあるとする。朗読のリズムから言うと、『地獄變』がよい。

・月卿雲客:公卿と殿上人。当時のハイ・ソサエティの上澄み。

・五つ衣:「五つ衣(ぎぬ)」と読む。平安期の女房の装束。肌着である単(ひとえ)と上着に当たる表着(うわぎ)の間に五枚の「袿」(うちぎ)を重ねて着たもの。従って当時の通常の貴族女性は計七枚以上は着ることになる。但し、後には一枚の衣で袖口や裾を五枚重ねたように仕立てるようになった。

・青女房:まだ年齢が若く、物慣れない身分の低い女官。筑摩書房全集類聚版の注では『青侍の妻で、貴族の家に仕えている者。』とするが、とらない。なお、青侍とは、公卿に仕える六位の侍を言う。出仕する際に着る上衣である袍(ほう)が青かったことからの名称である。

・侍學生:筑摩書房全集類聚版では「さむらひがくしやう」と訓じている。宮中の滝口の武士や帯刀の陣等に貴人警護のガードマンとして勤務しながら、大学寮や諸氏の開いた大学別曹(例えば藤原氏の創設した勧学院等)で学ぶ勤労学徒。

・細長:子供着の一。色は白で、水干に似ているが、もっとゆったりとして、袖に飾り紐が垂れ下がる。

・神巫:「かむなぎ・かみなぎ・かうなぎ」とも読む。神秘的な能力によって神事に関わり、神に代わって神意を人に伝える寄代。シャーマン。巫女(みこ)。

・蝙蝠:筑摩書房全集類聚版では「かはほり」と訓じている。

・生受領:この「生」は接頭語で「生侍」等と同じ用法。人を表す名詞に付いて、年功が足りない、世慣れていない、年が若いなどの意を示す。「受領」は、実務国守として地方に赴任しなければならない受領階級、所謂「中の品」=中流階級の貴族を言う。筑摩書房全集類聚版の注では『たいしたこともない国司。』とするが、果たしてそうか? たいしことのある国司なんているのかい(人格的にはいるかもしれないが)? これは恐らく上流貴族から見た「受領階級」全体への「生」、多分に侮蔑的な「受領」そのものへの接頭語である。

・笞:鞭(むち)。

・千曳の磐石:千人で曳いてもびくともしないような重く大きく硬い石。

・怪鳥:勿論、冥界の想像上の奇怪な鳥である。無間(むげん)地獄(ここは別名阿鼻(あび)地獄ともいう)には八万四千の怪鳥が飛び交い、その嘴からは火を噴き出して、それが亡者の上に雨のように降り頻るとする。又、生前、腹黒くていつも喧嘩していたり、動物虐待をした人間が落ちる地獄として鶏(とり)地獄というオプションも用意されている。私の耽溺する「地獄草紙」では、強大で火に包まれ、嘴から火炎を噴くという、ラドンもラルゲリウスもびっくりの巨怪鳥が亡者を焼き殺し、鋭い足爪で蹴散らし潰している。

・毒龍:手前味噌であるが、龍とくれば、私の電子テクストである寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を是非、一見されたい。芥川は勿論、具体的なイメージなどしていないであろうが、以上の「龍」の項には『其の毒、涎(よだれ)に有り、怒る時は、毒、頭・尾に在り』とし、「虬龍」の項には、「日本書紀」を引いて実在した毒龍の記載、『仁德帝六十七年に、備中の川島河の派(かはまた)に大虬有り。其處に觸るる者、必ず毒を被りて多く死亡す。……』を引用する。

・呵責:「良心の呵責(かしゃく)」という文脈でしか使わなくなった結果、これを自己反省程度にしか思っていない学生がいるのに最近驚いた。これは本来、厳しく咎めて叱ること、責め苛むことを意味する。ここではズバリ、刑罰・処罰の意味である。

・纍々と:累々と。積み重なって、連なり続くさま。

・炎熱地獄:焦熱地獄とも。ここは、その先の大焦熱地獄も含めたイメージであろう。そこで亡者は間断なく猛火を身に受け、焼かれ、また鉄を溶解沸騰させた釜の中に逆様に投げ込まれて煮詰められるのである。

・奈落:サンスクリット語で地獄を意味する“Naraka”の漢訳語「奈落迦」から。地獄。

・苦艱:「くげん・くかん」と読む。筑摩書房全集類聚版では「くげん」とルビを振る。困難。苦難。

・奈落の苦艱が畫かれませう:芥川が本作で「畫」の字を訓読みしているのはここのみで、筑摩書房全集類聚版では「畫(ゑが)かれませう」と訓じている。

 

   七

 

・福德の大神:単純に福徳と幸運を齎してくれる神の謂いであるが、すぐ後の狐の出現からこれは稲荷信仰を指す。更にそれが豊川稲荷のように神仏習合の中で荼吉尼天を本地仏とするようになったことや、荼吉尼天の原型がヒンドゥー教の破壊神カーリーの眷属であり、人肉や人間の心臓を食らう夜叉とされること、又、後に真言密教立川流が荼枳尼天を祀って性交を即身成仏のシンボルとしたこと等を考えてゆくと如何にも良秀好みの世界が開けてくる気がしない?

・靈狐:狐には霊格が存在し、天狐・仙狐・空狐・善狐・気狐・金狐・銀狐・赤狐・白狐・黒狐を「霊狐」とするという。一般に人に害や悪さを加えるのは低位の狐で、地狐・中狐・宙狐などと呼び、「野狐」と総称する。

・結燈臺:「むすびとうだい」とも。三本の木の枝の中央(又はやや上方)を紐で結び、その上下を捻って開き、下を三脚にして、上部空間に油沙皿を乗せた灯台。当時の灯台の高さは三尺二寸(67㎝弱)であったが、良秀の場合は、作画用のものなので、もっと低い切台であったと思われる。

・燒筆:デッサン用の木炭のこと。

 

   八

 

・奈落には――己の娘が待つてゐる:「地獄變」の中で、尤も鮮烈な台詞である。これは夢の中の良秀に語りかけてくる謎の話者の台詞を良秀が繰り返しているのであるから、「奈落には――お前の娘が待つてゐる」が正しいところではあるが、魘された寝言という設定ではこの方が自然である。そうしてここで芥川は『既に良秀の娘は地獄よりも地獄的な世界に生きている』ということを言わんとしているということに気づかねばならない。「地獄變」を論ずるなら、まずこの待っている娘の映像をクロース・アップせねばならぬ。

・待つてゐるから、この車へ乘つて來い――この車へ乘つて、奈落へ來い:「地獄變」の中で、最後のカタストロフ以上に印象的な伏線シーンである。「この」は勿論、良秀自身の地獄變屏風の中央に描こうとして描けない「この」牛車である。そうして、その牛車に乗りこんだら、それは奈落へと向かって堕ちてゆき、そこに「お前の娘が待つてゐる」のだ、と良秀に語りかけてくる謎の話者は言うのである。だから、お前の娘に逢うために来い、と言っているのである。牛車と娘と良秀の三者の構図をスケッチから見直す必要があるように私には思われる。それほど、世の芥川龍之介「地獄変」についての評論は退屈極まりない。

 

   九

 

・横道な:試しにネット辞書の「大辞泉」を引いてみよう。『1 人間としての正しい道に外れていること。また、そのさま。よこしま。邪道。 「この思いもよらない出来事には、いくら―な良秀でも、ぎょっと致したのでございましょう」〈芥川・地獄変〉』とある。何だか私は嬉しくなってしまった。

 

   十

 

・冥助:筑摩書房全集類聚版では「みやうじよ」と訓じている。神仏の助け。

・耳木兎:フクロウ目のメンフクロウ科Tytonidae又はフクロウ科Strigidae。フクロウとミミズクは外見からの呼び名であり、生物学的な分類学上の呼称ではない。頭部の左右上方に突き出た耳介のように見えるものを羽角(うかく)と言い、その羽角のない種をフクロウ、羽角のある種をミミズクと名付けたのである。

・蓋にかかつて:「蓋(かさ)にかかつて」と読む。優勢であるのに乗じて、徹底的に攻めてかかることを言う。一般には「嵩(かさ)」を用いる。

・水沫(しぶき):「しぶき」というルビは「沫」の右手に振られているので、ここは「みづしぶき」と読む。

・猿酒:ましら酒とも。秋や冬に、猿が樹木の洞(うろ)や岩の窪みなどに貯えておいた果実や木の実が、自然発酵して酒のようになったものとするが、そのような事実を私は知らない(現在は、樫や椎の実・団栗のようなでんぷん質の多いものや、種々の果実を発酵させて得る酒を、日本酒と区別して猿酒と呼称している)。

・饐(す)ゑたいきれがだ何やら怪しげなものゝけはひを誘つて:これは

「饐ゑたいきれが何やら怪しげなものゝけはひを誘つて」

又は

「饐ゑたいきれだが何やら怪しげなものゝけはひを誘つて」

の誤植であろう。ベースとした青空文庫版及び岩波版旧全集(注記なし)は、

「饐(す)ゑたいきれだか何やら怪しげなものゝけはひを誘つて」

と訂正するが、私は前の複数の並列を考えると、「だが」はあっても「だか」は限りなくないように思われるのであるが、如何か? 識者の意見を俟つ。

・舐つて:「ねぶって」と読む。

 

   十一

 

・これには弟子も二度、度を失つて:『地獄變』では「これには弟子も二度、色を失つて」とあるとする。『地獄變』がよい。

・木兎:この章では、芥川は「みみづく」に相当する語に「耳木兎」「木兎」を併用しているが、特に差別化された意味を持たせてはいないので、ここで注するに留める。

 

   十二

 

・老爺(おやぢ):ベースとした青空文庫版では「老爺(おやじ)」とするが、誤植である。

・更が闌けてから:夜が更けることであるが、何時ぐらいであろうか。

・五種生死(しゆしやうじ):ベースとした青空文庫版では「(ごしゆしやうじ)」と、「ご」の読みを入れるが、底本にはない。正しい読みだが、テクストとしては衍字である。

・丁度その頃の事でございまませう:「丁度その頃の事でございませう」の衍字。

 

   十三

 

・性得(しやとく)愚(おろか):ベースとした青空文庫版では「性得愚(しやとくおろか)」とするが、ここは『生れつき、愚かな私は』というニュアンスの部分で、「性得愚」という三文字熟語を一般名詞として認識することは私には出来ないので、ルビ(訓読)を分離した。

 

   十四

 

・香染め:「丁子染め」に同じ。「二」の同注を参照。

・抽んでて:「抽(ぬき)んでて」と読む。

・御微笑:筑摩書房全集類聚版では「御」にのみ「ご」のルビがあるので、「びしょう」と読ませるつもりであろう。確かに音読みでよい。

・「さやうででござりまする。が、私は先年大火事がございました時に……:「さやうでござりまする」の衍字。

・よぢり不動:本話は高校一年の古文の教科書に頻繁に所収する「宇治拾遺物語」巻第三の六の三八「絵仏師良秀(りょうしゅう)、家の焼(やくる)を見て悦(よろこぶ)事」に基づく。芥川龍之介の本作品自体が、これにインスピレーションを得た作である。以下に引用する(底本は1960年岩波書店刊日本古典文学大系27の渡邊・西尾校注「宇治拾遺物語」を用いた。ルビは殆んど省略し、後ろにオリジナルな語注及び現代語訳を設けた)。

 

これも今は昔、繪佛師良秀といふありけり。家の隣より、火いできて、風おしおほひて、せめければ、逃出でて、大路へ出でにけり。人の書かする佛もおはしけり。また、衣着ぬ妻子なども、さながら内に有けり。それも知らず、たゞ逃出でたるをことにして、むかひのつらにたてり。見れば、すでに我家に移りて、煙ほのほくゆりけるまで、大かた、むかひのつらに立てながめければ、「あさましきこと」とて、人ども、來とぶらひけれど、さわがず。「いかに」と人言ひければ、むかひにたちて、家のやくるをみて、打うなづきて、時々笑けり。「哀(あはれ)、しつるせうとく哉(かな)。年比(ごろ)は、わろく書けるものかな。」といふ時に、とぶらひに來たる者共「こはいかに、かくては立ち給へるぞ。あさましきことかな。物のつき給へるか」と言ひければ、「何條(なんでふ)物のつくべきぞ。年比、不動尊の火焰(くわえん)をあしく書きける也。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。是こそ、せうとくよ。此道を立てて世にあらんには、佛だによく書き奉らば、百千の家もいできなん。わたう達たちこそ、させる能もおはせねば、物をも惜しみたまへ」といひて、あざわらひてこそたてりけれ。

 其後にや、良秀がよぢり不動とて、今に人々めであへり。

 

やぶちゃんの語釈:

☆「せうとく」は多くが「所得」を当てるが、底本の校注者同様、私は疑義を感じる。古典の初学者にとって辞書に出ていない字はそれだけで行き詰る。私もその一人だった。底本の校注者は「抄徳」として幸いを抜き取るという字を当ててはどうかとする。諸手を挙げて賛成である。勿論、意味は通常授業で訳すように、儲けもの、でよい。

☆「何條」は、反語の副詞。

☆「わたう」は我党。二人称複数の人称代名詞。複数の相手に向かって親愛の気持ち、または卑しめて言う語。おまえさんたち。語気と続く文から言えば、後者であるが、前者との折衷になる更なる不遜語ととった方がより効果的である。

☆「よぢり不動」の「よぢり」とは「捩り」で、ねじれるの意。不動明王に特異的な火炎光背の焔のよじれ方が立体的且つそれ故にリアルであったが故の通称である。

 

やぶちゃんの現代語訳:

 これも今となっては昔のこと、絵仏師良秀という者がおりましたそうです。隣の家から出火して、風が覆い被さるように強く吹いて、火が良秀の家にも迫ってまいりましたので、良秀は逃げ出して、大路へ出ておりました。それなりの貴人が良秀に注文して書かせていた仏画も、家の中にほったらかしにして、そのままあらっしゃったとも言います。いえ、それどころか、また、衣を着ていない妻や子なども、そのまま家の中に残したままでございました。家の中に家族らが残っておるということにも一切の関心を持つことなく、ただただ逃げだしたことをよいことにして、家の前の通りの反対側に突っ立っておりました。見ると、既に火は良秀の家に移って、煙や炎がくすぶってもうもうと巻き出すに至るまで、良秀はずうっと道の反対側に立って燃える我が家を眺めておりましたから、「大変なことになりましたなあ!」と言って、人々がやってきて火事場見舞いをしますが、良秀は一向に騒ぐ気配もございません。「どうかされたのか?」と、心配もし不審に思って見舞った人が尋ねたので、同じく反対側に立ったまま、家が焼けるのを見ては、何と、うなづき、何と、時々笑いさえします。そうして、一人ごちて「ああ、何とまあ、確かな大変なもうけものをしたことか! 長年の間、まっこと、まずく書いてきたことだった!」と言いますので、見舞いに来ていた者どもが、「これはまた、どうしてこのような場所に、このようにお立ちになっていらっしゃるのか!? あきれ果てたことです! もしや物の怪でもお憑きになられたのか!?」と言いましたところ、「どうして物の怪なんぞが取り憑くはずがあろうか。儂は正気じゃ! 長年の間、不動明王の火災光背をまっこと下手に書いてきたものだ、今見れば、まっことこのように燃えるものであったのだと、合点したのじゃ。これこそ、もうけものなのじゃ。この画道を専門としてこの世を渡ろうとするからには、ただもう仏さえうまく書き申し上げるならば、百や千の家などきっとすぐに建つであろうよ。お前さんたちこそ、これといった個性的な才能も、残念ながらお持ち合わせにならないので、つまらぬ物を惜しみなさるのじゃ。」と言い放って、あざ笑って、その燃える炎の前にすくっと立ち尽くしていたのだそうでございます。

 その後のことでございましょうか、「良秀のよじり不動」といって有名になり、今に至るまでも人々が称賛し合っておりますのでございます。

 

・御前もあの給は御承知でございませう:「給」は「繪」の誤植。

・三面六臂:三面六臂というと一般には阿修羅をイメージする人が多いであろうし、他には摩利支天像がそのように描かれることもある。しかし、阿修羅は八部衆の、摩利支天は天部十二天の仏法の守護神であって鬼卒ではない。芥川の創作かとも思われるが、一種、羽黒山神社で大晦日から元日にかけて行われる松例祭の縁起について、羽黒修験の教義書「拾塊集」に以下の伝承が載る。慶雲年間(704707)のある年の暮れに三面六臂の麤乱鬼(そらんき)なる鬼の出現が鳥海山・岩鷲山(現在の岩手山)の山上から邪気を放ち、悪疫を流行させた。数百人が死亡し田畑も荒れ果てた。この時、羽黒権現が郡司の七歳になる娘に憑依して、「鬼の形を大松明に作って焼きつくせ」と託宣し、麤乱鬼は退散して悪疫は収まった。それを記念する行事が松例祭であるとする。但し、私はこの松例祭を見たことがないが、現在は恙虫の虫送りに同化してしているらしく、このような形象は残っていないであろう。しかし、名前もいいね、三面六臂の麤乱鬼。

・私の描かうして描けぬのは:一見すると「私の描かうとして描けぬのは」の脱字のように見えはするが、果たしてそうか? 確かに岩波版旧全集は、注記なしでそのようにする。私はやや躊躇する。

・流石に御驚きになつたでございませう:岩波版旧全集は初出に従い、「流石に御驚きになつたのでございませう」とする。穏当な判断である。

 

   十五

 

・檳榔毛の車:牛車の一種。「檳榔」とは椰子の一種である単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ArecaceaeビンロウAreca catechuで、その葉を白く晒して細かく裂いて毛状に成し、車の屋形を覆ったもの(庇部分や庇下部にも同材料で垂らした飾りを附す)。上皇・親王・大臣以下、四位以上の者、僧正・大僧都・女官等が乗用出来た最高級の牛車の仕立てである。蘇芳簾(竹を赤色に染めたものを緋色の糸で編んで赤地の錦の縁を付けた簾)、蘇芳裾濃(すおうすそご)の下簾(下簾は簾の内側に掛ける絹または綾のことを言い、車外に長く垂らした。一般に蘇芳簾の下には蘇芳裾濃を用いた。この「裾濃」とは、衣服や布、鎧の縅(おどし)の色合いを言う語で、上が淡くて下へ向かうほど色が濃くなることを言う)、物見窓がなく開き戸があり、繧燗縁(うげんべり)の畳(菱形の文様が連続し、その周囲に種々の筋を添えてある文様を「繧繝」と言い、それを縁取りした畳。繧燗縁の畳は天皇などの極限られた上流貴族の座所にのみ用いられた)が敷かれた牛車。

・顏は煙に烟びながら:ベースとした青空文庫版は「顏は煙に咽びながら」とするが、誤植である。岩波版旧全集も注記なしで「咽」とする。「咽(むせ)びながら」で確かに穏当ではあり、「咽」の誤植と考えてよいであろう。

・鷙鳥:「鷙」は獰猛な鳥の意味で、ワシ等の肉食鳥。猛禽類。

・飛び繞つてゐる:「繞(めぐ)つてゐる」と読む。

・無益の沙汰:通常は何の価値もない無駄な行為の意であるが、ここでは心配する必要は全くない、必ず見せてやる、という強烈な自信の表明である。

 

   十六

 

・雪解の御所:不詳。ありそうでない名である。情報を求む。

・久しくどなたにも御住ひにはならなかつた所で:岩波版旧全集は初出に従い、「久しくどなたも御住ひにはならなかつた所で」とする。穏当な判断である。

・五位鷺:コウノトリ目サギ科ゴイサギNycticorax nycticorax。森林に棲息する夜行性の鳥。夜間、飛翔しながら「クワッ」若しくは「ギャァ」と大きく不気味に鳴く。ちなみに五位という命名の由来は、醍醐帝(元慶9885)年~延長8(930)年)が神泉苑に行幸した際、池の水際に一羽の鷺がいるのを、六位の官人を召して捕えるように命じた。捕らえようとすると鷺は羽繕いして今にも飛び立とうとする。帝自身が「宣旨ぞ」と叱すると、鷺は畏まって羽を広げたまま飛び立たなかったので、六位の官人はそれ捕らえて献上した。帝は「お前が宣旨に従ってこのように私の元に参上したのは、まことに神妙であるぞ。すぐに五位に任ぜよ。」と命じ、鷺は五位に叙せられた。帝は『今日から後は鷺の中の王たるべし』と記した札を鷺の首に懸けて放ったというエピソードによる(「平家物語」巻第五「朝敵揃」より)。

・大殿油:「おほとなぶら」とも読む。宮中や貴人の屋敷でともす燈し火を敬って言った語。

・灯影:筑摩書房全集類聚版では「ほかげ」と訓じている。

・淺黄:「あさぎ」と読む。薄い黄色。

・直衣:歴史的仮名遣いで「なほし」、現代仮名遣いでは「のうし」、発音する場合は「ノォシ」でよい。平安時代以後、天皇や公卿の平常服。衣冠束帯の袍(ほう)と同じ形で、烏帽子・指貫と一緒に着用するが、袍と異なり、色や細部の規定がない。「直衣」とは直(ただ)の衣で平服の意味。

・浮紋:糸をわざと浮き織りにした文様、又はその文様のある綾織物。逆に、糸を浮かさずに硬く締めて織ったものを「固紋」と言う。

・圓座:藁・菅(すげ)・藺(い)等を円形に編んだ敷物。わろうだ。わらざ。えんざ。

・先生陸奧の戰ひに:「先生」は「先年」の誤植。

・陸奧の戰ひ:これは前九年の役(10511062)と考えられる。ここで初めて具体的な作中時間が示され、設定は平安時代後期になる。後三年の役(10831087)もあるが、この「強力の侍」の体験の中に「飢ゑて人の肉を食」って云々とあるから、やはり前九年の役の戦況の膠着と長期戦がそれに相応しい。これは全くの感触でしかないが、彼は前九年の役で源頼義軍の兵卒として、天喜51057)年11月の安倍貞任との「黄海の戦い」に参戦したのではなかったか。頼義軍は冬期遠征という悪条件に加えて、兵力の劣勢、兵糧や物資不足に悩まされて、頼義・義家父子も数騎でからくも敗走するという惨憺たる結果に終わっているからである。ところが、そうするとうまくないこともある。モデルと考えられる人物達の生存年代と、かなりの齟齬が生じてしまう点である。さらに平安後期の武家台頭を考えると、大殿の勝手気儘な放恣乱行し放題というのも現実性がやや薄れるような気が、私にはしないでもないのである(後三年の役ではそれが更に顕著になってしまう)。

・腹卷:「ふっかん」と読みたい。鎧の一。胴を囲み、背中で合わせるようにした簡易の鎧である。ものの本には鎌倉後期から兵卒に用いられ始め、室町期に通常の武士の鎧の主流となったとあるが、私の知見では既に鎌倉初期に「腹巻」(ふっかん)として存在した。頼朝の上洛時に本人が着用したし、右大臣拝賀の式の朝に大江広元が実朝にその先例から着用を求めた(よろしければ私のお恥ずかしい若き日の時代小説「雪炎」をご笑覧あれ)。従って、平安後期にはこの「腹巻」(ふっかん)は確かに既にあった。

・鷗尻:太刀の尻を殊更に上に反らせて佩いていることを指す。威嚇的でかぶいた佩き方である。

・浮線綾:織り糸を浮かせることで文様の線を浮き出させて織った綾織物の総称であるが、一般には平安時代から鎌倉時代にかけて、文様を円の中に閉じ込めて形象化したものを指す。菊・唐花・橘・藤などの図案化がなされたが、特に好まれたのは蝶の文様であった。

・【※1】(はこ)[※1=(へん)「車」+(つくり)「非」。]:「大漢和辭典」によれば、この字の音は「ハイ」「バイ」「ベ」で、『車のものをのせるところ。車箱。』とする。牛車の乗用する箱型の車体部分(車を含まない)を指すと考えてよいか。

・仕丁:筑摩書房全集類聚版では「じちやう」と訓じている。平安時代以降、貴族の家で雑役に従事した下男。「しちょう」と読んでもよい。

・松明(まつ):芥川は「松明」の二字に「まつ」とルビを振る。たいまつ。

 

   十七

 

・窺つてゐると思ふ:岩波版旧全集は初出に従い、「窺つてゐるかと思ふ」とする。穏当な判断である。

・眗(めくば)せをなさいました:この「眗」については、ベースとした青空文庫版では『[#「目+旬」、第3水準1-88-80]』の字注を施すが、底本を検鏡してみると、この(つくり)の部分は「句」であって「旬」ではない。岩波版旧全集も注記なしで「眴」とする。確かに芥川が訓じている「めくばせ」ならば「眴」の字が一般的ではあるし、「大漢和辭典」等を調べると「眗」(音は「ク」「コウ」)の字には、きょろきょろ左右を見る、若しくは、笑う、名詞として落ち込んだ目といった意味で、めくばせの義はないから、誤植か誤字とすべきであろう。

・觀物:筑摩書房全集類聚版では「みもの」と訓じている。

・簾をさらりと揚げで:「揚げて」の誤植。

・けたゝましく音を立てで:「立てて」の誤植。

・【※2】(とこ)[※2=(へん)「車」+(つくり)「因」。]:本漢字は「大漢和辭典」にも所収しないので意味は分からないが、叙述から推せば、「十六」で注した「【※1】(はこ)」[※1=(へん)「車」+(つくり)「非」。]と同義で、牛車の乗用する箱型部分の車体を指すか、若しくはもっと限定したその乗用する箱型部分内部の畳が引かれた床面を指すと思われる。古文で「床(とこ)」と言えば、牛車の人が乗るところを指す。

・繡:筑摩書房全集類聚版では「ぬひ」と訓じている。刺繍。ぬいとり。縫。

・櫻の唐衣:「唐衣」は「からぎぬ」で、女官や貴婦人の正装である十二単(じゅうにひとえ)の一番上に着る丈の短い衣を言う。前の方は袖丈の長さと同じで、後ろはそれよりも短くて、袖幅は狭い。綾・錦・二重織物で仕立てて、裳とともにつけて一具とした。「櫻」は「櫻襲」の略で、襲の色目。表は白、裏は葡萄染(えびぞ)め(=薄紫)、若しくは一説に裏は赤花(=赤)ともいう。

・すべらかし黑髮:ベースとした青空文庫版は「すべらかしの黑髮」とするが、底本に「の」はないので衍字である。岩波版旧全集も注記なしで「すべらかしの黑髮」とする。それが穏当であろう。「すべらかし」は「垂髪(すべしがみ)」のことで、髪を肩の辺りで束ね、背後に長く垂らした髪型を言う。

・釵子:「さいし」と読む。宮中で女性が礼装する際、頭髪を上げることを目的として、挿して飾りとした金属製の簪(かんざし)。この直前に、こうした娘の上臈の装束一式を指図した大殿の爛々とした眼が見えるようだ。

・小造りな體つきは、色の白い頸のあたりは:実は初出ではここは「小造りな體つきは、猿轡(さるぐつわ)のかかつた頸(うなじ)のあたりは、」とあるとする。私は高校時代に本作を読んだとき、声を発しない娘にある違和感を感じていた。それは私の猟奇性かも知れない。いや、今回の作業中にもやはりどこかで微かな違和感を覚えていた。……しかし今、初出を見て、私は確かに猿轡が見えた。いや、見えずともよいのだということが分かった、と言うべきか。猿轡はどうでもよい。恐らく大殿は猿轡をさせた。だが、この娘には、猿轡等いらなかった。このカタストロフに猿轡は無粋である……私には、芥川がそのリアルな繩目を排除したことが、すんなりと腑に落ちたのである。いや、確かに私は今も変わらず猟奇的である――

 

   十八

 

・流蘇:この漢字表記が示すものは中国の装身具で、特に清朝の満州族の女性が髪飾りに着けた色とりどりの羽毛や絹糸を束ねて作った房飾りを言う語。勿論、ここでは流蘇は広義の房飾りである。

・袖格子:牛車の袖(乗用する箱の物見窓の前後の端の部分)の裏側が細かな格子にしてあるものを言う。

・天火が迸つた:「迸(ほとばし)つた」と読む。

・髮を口に嚙みながら:「十七」の最後の注で示したように、あそこに対応してここも初出は「猿轡を嚙みながら」とあるとする。

・十逆五惡:これは誰も指摘していないが「十惡五逆」の誤りである。「十悪」は身口意(しんくい)の三業(ごう)に渡る堕獄の行為を指し、殺生・偸盗・邪淫〔以上三悪は身業(しんごう)の悪〕・妄語・綺語(おべっかを使うこと)・悪口(あっく)・両舌(二枚舌)〔以上四悪は口業(くごう)の悪〕・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴〔以上三悪は意業(いごう)の悪〕を指す。「五逆」は一般に小乗仏教での殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血(すいぶつしんけつ 仏者・仏身を傷つけたり血を流させたりすること)・破和合僧(教団組織を壊乱すること)をいう。

・帛:「きぬ」と読む。

・壁代:宮殿や貴族の家で母屋と廂の間(通常は御簾の内側)に添えて、壁の代わりに垂らした幕のこと。見た目は几帳と類似する。

・繋いであつた:ベースとした青空文庫版は「繁いであつた」とするが、誤植である。

・火の中へはひつたのでござませう:「火の中へはひつたのでございませう」の脱字。

 

   十九

 

・金梨子地:「梨子地」は蒔絵の一種。漆の塗面に下地漆を塗り金の粉末を蒔いて、上に梨子地漆をかけて研ぎ出したものを言う。金粉が漆を通してまだらに見え、梨の実の表面に似ることからの命名。

・獅子王:百獣の王ライオン。但し、ライオン自身を見たことがなかった中国人や日本人がイメージした「獅子」は獅子舞に見るように、一種の神獣であり、その王である。

・まるで開眼の佛でも見るやうに:ベースとした青空文庫版は「まるで開眼(かいげん)の佛でも見るやうに」とあるが、底本にはルビはない。「開眼」とは、新造された仏像や仏画等を寺院伽藍や御堂に安置し、魂を請じ入れる法要を行うこと。

・たつた、御縁の上の大殿樣だけは:「たつた一人、御縁の上の大殿樣だけは」の脱字であろう。岩波版旧全集も先行する普及版に従って「一人」を入れるが、注記によれば初出以下諸本すべて「一人」はない。何故、芥川はこの脱落に気が付かなかったのかしら? そうして誰もそれを教えてあげなかったのかしら?

 

   二十

 

・人面獸心:筑摩書房全集類聚版では「にんめんじうしん」と訓じている。

・五常:儒教で人が常に守るべき五つの徳目を言う。仁・義・礼・智・信。