やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

耳嚢 卷之四  根岸鎭衞



注記及び現代語訳 copyright 2012 藪野直史

[やぶちゃん注:底本は三一書房一九七〇年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。
 以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。
 底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明五(一七八五)年頃に始まり、没する前年、文化十一(一八一四)年迄の実に三十年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクのあるものは私の完成版若しくは作業中版である)、
「卷之一」の下限は天明二(一七八二)年春まで
「卷之二」の下限は天明六(一七八六)年まで
「卷之三」は前二巻の補完(日付を附した記事がない)
(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)
「卷之四」の下限は寛政八(一七九六)年夏まで(寛政七年の記事の方が多い)
「卷之五」の下限は寛政九(一七九七)年夏まで(寛政九年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)
「卷之六」の下限は文化元(一八〇四)年七月まで(但し、「卷之三」のように前二巻の補完的性格が強い)
「卷之七」の下限は文化三(一八〇六)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)
「卷之八」の下限は文化五(一八〇八)年夏まで
「卷之九」の下限は文化六(一八〇九)年夏まで
(ここで九〇〇話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、四~五年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)
「卷之十」の下限は死の前年文化十一(一八一四)年六月まで
といった凡その区分を推定されておられる。但し、失礼ながら本巻の「珍物生異論の事」は寛政九年のクレジットのはっきり出る記事で、『下限は寛政八(一七九六)年夏まで』というのはおかしい。一応、指摘しておきたい。【作業終了:二〇一二年八月二一日】二〇一二年一〇月二一日追記:附け損なていた目次を冒頭に附した。]

目  次

  卷之四

耳へ蟲の入し事
耳中へ蚿入りしに奇法の事
小鬼餠を咽へ詰めし妙法の事
修柴精心の事
蝦暮の怪の事 
怪をなす蝦蟇は別種成事
陰德陽報疑ひなき事
陰惡も又天誅不遁事
狂歌滑稽の事
狐狸のために狂死せし女の事
木星月をぬけし狂歌の事
呪に奇功ある事(二カ條)
鼻血を止る妙呪の事
賤婦答歌の事
連歌師滑稽の事
大久保家士淳直の事
井上氏格言の事
猫物をいふ事
人には品々の癖有事
古風質素の事
龜戸村道心者身の上の事
實情忠臣危難をまぬがるゝ事
景淸塚の事
不時の異變心得あるべき事
油垢を落す妙法の事
戲藝にも工夫ある事
鯛屋源介危難の事
番町にて奇物に逢ふ事
小兒産湯を引く事
雷鶴を撃ちし事
靈獸も其才不足の事
化獸の衣類等不分明の事
疱瘡神狆に恐れし事
聖孫其しるしある事
螺鈿の事
人間に交狐の事
誠心可感事
しやくり呪の事
靑砥左衞門加增を斷りし事
珍物生異論の事
初午奇談の事
産物者間違の事(二カ條)
不義の幸ひ又不義に失ふ事
魔魅不思議の事
怪刀の事(二カ條)
黄櫻の事
一向宗の信者可笑事
松平慶福寛大の事
蠻國人奇術の事
奇病の事
小兒行衞を暫く失ふ事
金子かたり取し者の事
賊心の子を知る親の事
咽へ尖を立し時呪の事
美濃國彌次郎狐の事
老狐名言の事
目黑不動門番の事
助廣打物の事
古へは武器にまさかりもありし事
鯲を不動呪の事
八坂瓊の曲珠の事
澤庵漬の事
痔の神と人の信仰可笑事
神祟なきとも難申事
眼の妙法の事
齒の妙藥の事
金瘡燒尿の即藥の事
館林領にて古き石槨を掘出せし事
老姥の殘魂志を述し事
女の幽靈主家へ來りし事
淸乾隆帝大志の事
慈悲心鳥の事
亂舞傳授事の事
藝には自然の奇效ある事
大名其職量ある事
戲場者爲怪死の事
怪妊の事
剛氣の者其正義を立る事
信州往生寺石碑の事
坂和田喜六歌道の事
隱逸の氣性の事
牛の玉の事
鬼僕の事
怪病の事
氣性の者末期不思議の事
津和野領馬術の事
俄の亂心一藥即效の事
賤夫奇才の事
曲禪弓の事
田鼠を追ふ呪の事
剛氣其理ある事
女の髮を喰ふ狐の事
疝氣呪の事
老人へ教訓の哥の事
痔疾呪の事
忠信天助を獲る事
雷を嫌ふ者藥の事


耳嚢 卷之四

 耳へ虫の入りし事

寛政七年卯六月下旬、池田筑州營中にて語りけるは、夜前甚難儀せし事ありし由。其事をせちに尋ければ、燈のもとに頭を傾け居しに、耳の内へ餘程の虫と覺へ飛入りて、無躰に穴中をかき分つと思ひしが、甚いたみ絶がたく偏身中に成てくるしみける故、親族家童打寄て是を出さんとするに百計なし。兼て長屋へ來れる外科ぐわいれう、耳のうちへ虫の入りしを近頃取出せし事を咄しけるを彼家に覺へて、右外科の許へ申遣しける故、五更のころ彼醫師來りて樣子を見、紙よりの先へ何か膏藥をつけて耳の内へ入、痛む所迄屆きし後暫く有りて引出せしに、膏藥とけて右虫に付て出しを見れば、米つき虫と俗に呼る虫也。彼醫師に即效を賞し尋けるに、別段の藥にもあらず、萬能膏まんのうかうの由。一度にて不取出とりいでざる事もあれど、耳中の熱にて膏藥潤ひ、右虫を付て引出す由。尤油藥をさし候へ共虫を殺し候故、いたみはさるといへども取出すにかたき由語りけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:「卷之三」掉尾とは特に連関を感じさせないが、後注で見るように、この直後に主人公の池田筑州は大目付に就任している。さすれば、この飛んで耳に入る夏の虫の珍事は、実は「卷之三」掉尾の「吉兆前証の事」の変形とも取れなくはない。
・「寛政七年卯」西暦一七九五年。
・「池田筑州」は旗本池田長恵(いけだながしげ/ながよし 延享二(一七四五)年~寛政十二(一八〇〇)年)。通称、修理。官位は従五位下筑後守で、中奥番士・小十人頭・目付を歴任して天明七(一七八七)年に京都町奉行に抜擢(ここで官位を叙任)。寛政元(一七八九)年、江戸南町奉行、寛政七(一七九五)年六月二十八日に大目付に就任している。本件は正に大目付になる直前の出来事である(当時、根岸は勘定奉行)。参照したウィキの「池田長恵」には、『豪胆な性格であり、苛烈、強引な仕置も多く、失態を犯して将軍への拝謁を禁止されたことも幾度かあったが、陰湿さのない単純明快な人物であり、煩瑣な案件にも果敢に踏み込んで大胆な措置を下すため一定以上の人望があったという。老中首座松平定信の側近である水野為長が著した『よしの冊子』によれば長恵は感情豊かでコミカルな人物であったらしく、ミスを犯して落胆しているところを定信に激励されて立ち直ったり、その定信が老中を罷免させられた際は、大声を上げて泣き叫び、鬼の目にも涙とはまさしくこのことだと評判になるなど、一喜一憂する長恵の姿が伝わっている』と長恵の人柄を伝える。その感じを訳で出したいと思う。
・「絶がたく」底本には「絶」の右に『(耐え)』とある。
・「外科」は「がいりょう」で、外科治療及び外科医の意。
・「彼家に覺へて」一九九一年刊の岩波文庫版「耳嚢」では、『耳の中へ虫の入りしを出せし事を近頃咄しけるを彼家士覺へて』とあり、こちらの方が素直に読める。訳ではこれを採った。
・「五更」午前三時から午前五時頃(一説に午前四時から午前六時頃)。暁から曙で、この医師も、とんでもない時間に往診を頼まれたものである(但し、旧知の先輩の細君で、昔、蛾が耳に入って半狂乱となり、深夜一時を過ぎていたけれども救急車を呼ばざるを得なかったという実話を私は聞いたことがあり、それはそれは堪え難いものであるらしい)。
・「紙より」紙縒こより。
・「米つき虫」鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridaeに属する昆虫の総称であるが、和名を「コメツキムシ」とする種は存在しない。「米搗虫」「叩頭虫」と書き、転倒して腹面が上になると頭と胸を仰け反るように下へ曲げて「へ」の字型となった後、急速に頭と胸を逆に起こし、その反動で飛び跳ねて正立する。この際、前胸部の腹面側にある棘状の突起が、中胸部にある窪んだ部分で受け止められるが、その瞬間にかなり有意に認識出来る「パチン」という音がする。和名はその動作と音が米搗きに類似することに由来する。擬死が知られるが、しっかり飛翔もする。本邦には約六百種が棲息する。
・「萬能膏」所謂、あらゆる腫物・外傷などに効くとする膏薬。それぞれの地方の医師や売薬業者が同様のものを製造していたものと思われるが、館山市教育委員会生涯学習課のHP
http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0017&strID_Page=013&strID_Section=02
には「八束の万能膏」として、『万能膏は何にでも効く万能薬で、とくに農家の人々にはアカギレによく効く膏薬として評判だった。八束村福沢(南房総市富浦町)の川崎林兵衛の先祖は医師であったといい、祖父の時代から膏薬を製造していた。明治になって売薬免許を得るとハマグリの貝殻に入れて販売し、農業が機械化してアカギレがなくなる戦後まで製造販売が続いていた』とある(リンクの通知を要求しているのでアドレス表示とした)。
・「油藥」は軟膏の別称であるから、先の「萬能膏」のようなものも含まれるが、ここは現在でも耳に虫が入った場合の救急法として知られる、通常の家庭用食料油若しくは粘度の低い(注入が容易で虫が溺れ易い)液状油薬を注している。因みに、耳鼻科のサイトなどを管見すると、これは外耳道に比して比較的小さな蟻などでは効果が期待出来るが、蛾やこのコメツキムシなどの大きさでは溺死するのに時間がかかり、逆に暴れて外耳や鼓膜を損傷する危険性があると注意を喚起している。
・「痛はさる」は「痛みは去る」である。

■やぶちゃん現代語訳

 耳へ虫が入ってしまった事

 寛政七年卯年六月の下旬のことで御座った。
 池田筑州長恵殿が御城内で私に語ったことに、
「……いやぁ、昨夜の、甚だ難儀な目にうて御座った……」
との由、私も興味本位でつい、こと細かに尋ねてみて御座ったところ……

……うとうとと致いて、燭台近くに頭を傾けておったところへ、飛んで火に入る……どころでは御座らぬ! 灯から耳の中へと
――ズッ!――
と、余程、大きな虫らしきものが、これ、飛び入って、の!……それがまた、無体なことに、奥へ奥へと、耳の穴を搔き分け搔き分け、ずずいずいずいと、これまた、性懲りもなく、掻き分け入るわい! と思うた……ところが……
「!!!――!!!――!!!」
……いや! その痛いの痛くないの!……全身、これ、脂汗あぶらあせまみれ、七転八倒、輾転反側、如何ともし難き仕儀と相成って御座ったじゃ!……親族の者やら従僕やらが、これがまた、碌な策も御座らぬくせに浮塵子うんかの如く寄ってたかって、ああしろ、こうせい、それはあかん! これが宜しくは御座らぬか?……なんどと申してはこれを取り出さんとせしも……あぁ! 最早、万事休す!……
……と……
……以前から拙者の屋敷の長屋の知れる者のところに、よう参っておった外科医が近頃、「耳の中へ虫のったを取り出だいた」と話しておったを幸い、家士が思い出して、機転を利かし、この外科医の元へと急患の使いを出だいて御座った……
……五更の頃、かの医師が来て、診察と相成った……
……と……
……直きに、紙縒りの先に何やらん膏薬をつけ、耳の内へとすうっと差し入れた……
……と……
……痛うてかなわん、と思うて御座った辺りまで、その紙縒りが、届いた……
……と、感じたあと……
……暫くあって紙縒りを引き出せば、紙縒りの先に固まってくっ付いて御座った膏薬はすっかり溶けて、かの虫がべったりと張りついたまんまに、出て参った……これを見れば……ほれ、コメツキムシと俗に呼ばはる、あの虫じゃ!……
……拙者はもとより、家中の者どもも皆、かの医師の秘薬仁術の即効を賞讃致いて、
「貴殿の施薬致いた、その御薬は?」
と尋ねたところが、
「いや、別段、これといった医薬にては御座らぬ。普通の――万能膏――で御座る。」
と、きた。
「一度の施術では取り出だせぬことも御座るが――この度はうまく参りました。耳内部の体温によって自然、膏薬がゆっくりと溶け、粘性の高い液体となって耳中全体を潤し、それに虫が附着致いたところで、引き出すので御座る。――尤も、民間療法で知られる如く、耳に粘度の低い油薬あぶらぐすりを直接しますれば虫は溺れて死にまするが――さて、この方法、虫が暴れることによって生ずる痛みを除去することには有効で御座れど、事後、耳中から当の虫の死骸を首尾よく摘出致すは――これ、難、で御座る。」
と、語って御座ったよ……

……とのことで御座った。



 耳中へ蚿入りし奇法の事

 右の席に柳生主膳正しゆぜんのかみかたりけるは、耳中へむかでの入りしは、中をも損ざし苦敷ものゝ由。同人召仕の者右の苦しみ有りしに、或人の言、猫の小便をさせば右百足を殺し即効を得るの由、是を用ひしに早速快復せし由。猫の小便を取には、猫をぬりものなどの上へ捕置、生姜をすりて猫の鼻の先へすり付れば極めて小便を通ずる由。一事の奇法ゆへに爰に記し置ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:外耳への虫の侵入への施術で直連関。というより、前話の池田筑州長恵外耳道米搗虫侵入事件の談話場面からの続き。但し、今度の侵入者は、恐るべし! ムカデ、である。ムカデが睡眠中の人の鼻や耳、口の中に稀に侵入することは知っていたが、数年前のネット上で、東南アジアのさる国の婦人、かなり以前から鼻の違和感を覚えており、専門医に診てもらったところが、鼻腔内に数年(!)に亙って数センチのムカデ(この場合は真正のムカデであった)のが寄生しており、生きたムカデが彼女の鼻腔から目出度く摘出されたというショッキングなニュースを読んだことがある。これ、ホントよ!
・「蚿」「むかで」のルビは底本のもの。音は「ケン・ゲン」。「むかで」と訓じているが、「廣漢和辞典」には『馬蚿は、やすで。おさむし。あまびこ。』とあり、ここに並ぶ呼称は節足動物門多足亜門ムカデ上綱唇脚(ムカデ)綱 Chilopoda に属するムカデではなく、総て、「おさむし」(筬虫)も「あまびこ」(雨彦)も多足亜門ヤスデ上綱倍脚(ヤスデ)綱Diplopoda に属するヤスデ類の異称である。「オサムシ」は形状が機織の用具である「筬」(「をさ(おさ)」:竹の薄片を櫛歯状に並べて枠をつけた織目の密度を決める道具。)に似ていることから、「アマビコ」は雨後によく出現することから、他に刺激を受けた際に丸くなり習性から「ゼニムシ」(銭虫)・「エンザムシ」(円座虫)、また形状の類似から「ババムカデ」(婆百足)などと呼ばれる。恐らく、この時代、現在のようにはムカデ類とヤスデ類を区別していない(現在でも生理的に嫌悪する方は大抵、同類と見なす)ので、ムカデの訓も、あり、であろう。但し、形状は似ているものの(実際にはヤスデ類は倍脚類と称するように前三節の体節のみ一節に一対脚で四節以降の後方節は総て一節二対脚であるのに対し、ムカデ類は総て一体節一対脚で観察すれば容易に判別出来る)、ムカデのような咬害や咬毒を持たず、生物学的にも近縁関係にはない。なお、人体に侵入する可能性は家屋内への侵犯が多いムカデの方が高いと言える。ところで、「和漢三才図会」の「巻第五十四 湿性類」では「蜈蚣」(むかで)と「百足」(をさむし)として、連続して記載し、ちゃんと別種で扱っているのだが、面白いのは、その「蜈蚣」の項に以下のようにあることである。
凡性畏蜘蛛。以溺射之即斷爛也。又畏蛞蝓。不敢過所行之路。觸其身則死。又畏蝦蟇。又雞喜食蜈蚣。故人被蜈蚣毒者、蛞蝓搗塗之、雞尿桑汁白鹽皆治之。
○やぶちゃんの書き下し
凡そ、性、蜘蛛を畏る。ゆばりを以て之を射る時、即ちただる。又、蛞蝓なめくじを畏る。敢へて行く所の路を過ぎず。其の身に觸るる時は則ち死す。又、蝦蟇ひきを畏る。又、雞、喜んで蜈蚣を食ふ。故に人、蜈蚣に毒せらる者、蛞蝓をば搗きて之を塗り、雞の尿・桑の汁・白鹽、皆之を治す。
クモの「尿」やニワトリの「尿」が挙がっている点、本話との共通性が認められる。しかしニワトリはいいとして、クモの「いばり」は私自身、見たことがない。さればこそ、面白い。
・「柳生主膳正」は旗本柳生久通(延享二(一七四五)年~文政十一(一八二八)年)。柳生久隆長男。歴代の勘定奉行の中で最も長い期間、二十八年強勤めている。官位は玄蕃、後に従五位下主膳正に叙任されている。天明八(一七八八)年に勘定奉行上座に異動し、勝手方を担当しており、前項の寛政七年のクレジットであれば、その任にある。参照したウィキの「柳生久通」には『松平定信の近習番を務めた水野為長が市中から集めた噂を記録した『よしの冊子』によると、町奉行に就任した当初、「三代将軍・徳川家光の剣術指南役を務めた柳生一族の家系の者が町奉行になった」』と江戸市中で専らの噂となったものの、『町奉行としての仕事ぶりは、「白洲の場においては、大した知恵も出ず、衣服を取り繕ったり、帳面に書かれていることを繰り返し穿鑿したりしている」と評され、前任者の石河政武のような知恵も出せず、久通が百年勤めても石河の一年分の仕事にも及ばないとまで言われた。また、仕事に念を入れすぎるために「怪しからずめんみつ丁寧」と評され、処理に時間がかかり経費もその分余計にかかったという』とあるが、一方、『勘定奉行上座に就任した久通は、老中の松平定信には気に入られ、当時勘定奉行だった根岸鎮衛たちが申請してもなかなか承知しなかった案件を、久通に頼んで上申してもらったら、すぐに許可が下りたという。仕事には熱心であったが、同時に江戸城からの退出時間は非常に遅かった。久通の部下である御勘定たちは、奉行が帰らないので先に退出するわけにもいかず、そのために毎日のように日没後に下城することを強いられ、非常に難儀した。同僚の勘定奉行である久世広民から「もうよかろふ」と催促されても仕事を切り上げず、寛政四年(一七九二年)に定信が久世を通して「暑い時は御勘定所も早めに仕事を終えた方がいい」と伝えたところ、久通はその日は特に遅くまで仕事をし、その後も同様に遅くまで城に残って仕事を続けたと』の逸話を記している(引用中、アラビア数字は漢数字に代えた)。ここに筆者根岸鎮衛の名が登場するのも、頗る面白いではないか。
・「損ざし」はそのまま「そんざし」と読む。「ざす」は使役の助動詞「さす」で、「傷つける」「損なう」の意味のサ行四段活用の他動詞である。
・「生姜をすりて猫の鼻の先へすり付れば極めて小便を通ずる」ショウガやニンニク、タマネギなどの香辛料相当の素材が、犬猫には有意に毒性を持つことはよく知られている。ショウガが猫の強い利尿作用を持つかどうかは知らないが、この民間療法、猫にとってはとんだ受難と言えよう。

■やぶちゃん現代語訳

 耳の中へ百足が入ってしまった際の変わった対処療法の事

 先の池田筑州長恵殿の米搗虫耳入りの一件を、同席して御座った柳生主膳正久通殿が聴かれ、
「――拙者も虫の耳入りでは少々変わった療法を知って御座る。――」
と、語りだされた……

――そもそも、まず――耳の中にムカデがってしまった折りには――ムカデのこと故、耳の穴を無二無三に暴れ回って傷つけるがため――これ、大層――痛う、御座る、での。――
――実は、拙者の召し使う或る者の耳に――その、まさに正真正銘、かのムカデが入っての、甚だ苦しんで御座ったじゃ。
 すると、ある者が言うに、
「猫の小便いばりを耳に注せば、このムカデ、たちどころに死んで即効を得ること、間違いない。」
とのことじゃ。
 さればこそ、まずはともかくもこれを試してみようという仕儀になって御座ったところが――まっこと、瞬く間に本復致いた、ということで御座る。
 ……時に、猫の小便は如何にして取るか、で御座るか? それに就きては、まず――
①猫を、塗り物なんどの椀の上に、捕えて押さえ置く。
り下ろいた生姜を、その猫の鼻先へたっぷり擦り付くる。
……これにて、万事、瞬時に猫は、小便いばりを致す、ということなので御座る……

はあん……そういうもので御座ろうか……ともかくも、極めて稀なる一事への、飛び切り変わった処方、なればこそ……ここに、記し置くもので御座る。



 小兒餅を咽へ詰めし妙法の事

 小鬼の餅を喰ひてのどへ詰りくるしむ時は、鷄のとさかの血をとりて呑ませ候得ば、或ひは内へ治り又は吐事妙也。衞肅同寮の彦坂某の子、物あたり右の奇藥にて難儀をばすくひしよし。

□やぶちゃん注
○前項連関:奇なる救急法で直連関。
・「鷄のとさかの血」について、底本の鈴木棠三氏の補注では、後の浮世絵師で戯作者の暁鐘成(あかつきかねなり 寛政五(一七九三)年~万延元(一八六一)年)の書いた「雲錦随筆」には、『大根おろしのしぼり汁がきくとある』と記し、漢方系の記載を管見すると、「鶏冠血」と称して意識不明の患者の顔面にこれを万遍なく塗布すると回復するともある。鶏の血は、軽便に供給出来ることからか、原始社会の呪術ではしばしば用いられる呪具である。
・「衞肅」は底本補注で『モリヨシ。九郎左衛門。根岸鎮衛の長男』で寛政三(一七九一)年に『御小性組に入』り、その当時三十一歳とある。この親族情報から、本記載は本巻の中では最も古い部類の記載である可能性があるように思われる。
・「同寮」底本「寮」の右に『(僚)』と傍注。
・「物あたり」底本この右に『(尊本「まのあたり」)』と傍注。岩波版カリフォルニア大学バークレー校本も「まのあたり」。こちらを採る。

■やぶちゃん現代語訳

 子供が餅を喉に詰まらせた際の救急法の事

 子供が餅を食って、誤って喉に詰まらせて苦しむ際には、鶏の鶏冠とさかの血を採って呑ませて御座れば、速やかに餅は胃の腑へと入って治るか、若しくは餅を吐いて、まっこと、妙法である。我が子衛肅もりよしの同僚である彦坂某の子は、まさにこの妙法奇薬によって事なきを得て危急を救われたとのことである。



 修行精心の事

 阿部家の家士何某、弓術に執心にて多年出精の處、ハヤケといふ癖起りて的にむかへば肩迄不寄よらずして放れ、卷藁に向ひて勝手耳を過る事なし。依之これによつて其師も、執心はさる事ながら、弓の稽古は思ひとまりて一向やめ候へかしと諫めしかど、朝夕此事を工夫して、我心に留んと思ふに我拳われこぶしにて放すといへるは口惜き事也と、家に傳りし主人より賜りし古畫の屏風へ、主人紋付の衣服をかけて、是を射んには誠に人間の所爲にあらずと、右に向ひて弓を引きしに、こらへず放しければ、とても弓取事は難成き我也と、我身ながら身を恨みて、愛子を向ふへ置て是を射んに、拳を放れば我子の命を取るも不辨わきまへざる癖とやいふべき、左あれば我も死んとて、則弓を引、我子へ差向て暫しためらいしに、弓術執心の故、又は恩愛は別段の事にや、いつものはやけもうせて放さゞりしが、それより絶ず修行せしに、終に右癖も止りしとや。

□やぶちゃん注
○前項連関:救急時の妙法から弓術悪癖矯正の心理学的暗示効果に基づく妙法で連関。
・「阿部家」底本鈴木氏注には安倍能登守(忍城主十万石)の他、同定候補を四家挙げておられる。
・「ハヤケ」は「早気」と書き、弓で的を射る際、中てようと思う気持ちが早って、弓の弦を引いて的を狙い(これを「かい」と言う)、そして矢を放つ、その瞬間のタイミングを微妙にフライングしてしまう悪癖をいう弓道用語。但し、本件を読むに、これは一種の動作特異性を示す心因性の不随意運動や、中枢神経系障害による不随意で持続的な筋収縮に起因する運動障害であるジストニー(dystonia)等が疑われる。
・「卷藁」正式な的前ではなく、稽古用の的。
・「勝手」右手。武士用語で、馬手めて妻手めて苅手かつて・引手ともいう。因みに、左手は弓手ゆんで又は押手と呼ぶ。
・「我拳にて放つ」岩波版長谷川強氏の注に「拳」は『弓に矢をつがえて引きしぼった時の握り加減』とあり、放つ右手の拳ということになる。因みに、弓道では「あたりこぶし」という用語があり、これは的をイメージとして手元に引き寄せて射る、的を弓手の拳の上に移し取って射る、という射的の極意を意味する。この場合の「拳」は左手であるが、そのあたり拳を自分が十分に引き寄せずに放っているという謂いで採れば、この拳は左手の拳と採れないこともない。訳では両方で採った。
・「我子へ差向て暫しためらいしに」ここは岩波版カリフォルニア大学バークレー校本では「我子へ差向て暫くかためしに」と大きく異なる。後者の場合、「暫くかためし」は、的を狙って強く引き絞った「会」の状態の弓をそのまま暫く保ったことを謂い、こちらの方が明らかに文脈に即して自然である。訳ではこちらを採った。

■やぶちゃん現代語訳

 弓道修業精進の事

 阿部家の家士何某は、弓術修行に熱心で何年にも亙って不断に精進を重ねてきたので御座ったが、ある時から「早気」という悪癖を生じ、的に向かうと弓を肩まで十分に引き絞る前に矢が放たれてしまい、練習用の巻藁に向かってさえ、右手が耳を過ぎることが御座らなんだ。依って、弓の師からも、
「精進堅固なは認めよう――が――かくなった上は最早――弓の稽古は諦め、向後はきっぱり弓は――やめたが、よかろうぞ」
と諫められた――いや、見放されたが、
『……日々不断にこのかいの瞬時を工夫致いて、己れの一念を以って「止めよう」と思うておるにも拘わらず……その我が両の拳が思うように働かず、勝手に弓を放ってしまうというのは……如何にも口惜しきことじゃ!』
と、さて己が屋敷に戻ると、家に代々伝わる先祖が主人から賜った古き絵描き屏風へ、主家御紋の付いた衣服を掛けて、
『これを射たらんには最早、まっこと、武士の所為にてはあらず!』
と念じて、これに向かって弓を引き絞った……
……が……
……やはり堪え切れずに、放してしまった……されば……
「……とても……とても弓取のこと……その道の成り難きは我じゃ、ッ!……」
と我が身ながら、自身を恨んで、
「……我が愛する子を向こうに据えてこれを射んとするに、それでもこの拳を矢の放るるとなれば……我が子の命をうばうも弁えぬ人に非ざる者の宿痾の癖でのうて、案であろう! かくあるとすれば我も死なん!」
と独り言上げすると、即座に我が子を前に立たせ、
――きゅっ!――
と弓を引き絞った――
……差むこうた我が子……
……当たり拳に引き移る……我が子の顔……
……時が立った……
これぞ弓道求道の賜物か、はたまた子の親を愛して親の子を愛する恩愛の情は格別の力を持って御座ったものか――
かねてよりの執拗しゅうねき早気も失せ、「会」は「会」そのままに保たれて、矢はいつまでも放たれずに男の肩に御座った――
 それより、不断に修行を重ねたところ、遂に早気の癖もすっかり止んだ、ということで御座る。



 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事

 營中にて同寮の語りけるは、狐狸の怪は昔より今に至りて聞も見るも多し。ひきも怪をなすもの也。厩に住めば其馬心気衰へ終に枯骨となり、人間も床下に蟇住て其家の人うつうつと衰へ煩ふ事ありし。ある古き家に住る人、何となく煩ひて氣血衰へしに、或日雀などえんばなに來りしに、何の事もなく椽下へ飛入て行衞不知。或は猫鼬の類椽際に居しを、椽下へわれと引入るゝ樣に入て行衞知れず。かゝる事度々ありし故、あるじ不思議に思ひ、床を離し椽下へ人を入搜しけるに、大きなる蟇窪める所に住み居たりしが、毛髮枯骨の類夥敷傍に有りし故、全ひきの仕業也と、彼ものを打殺し捨て床下を掃除なしければ、彼病人も日にまし癒へけると也。餘壯年の時、西久保の牧野方へまかりて、黄昏の時庭面を詠め居しに、春の事なるが、通例より大き成毛虫石の上を這ひ居たりしに、椽の下より蟇出て、右毛蟲よりは三尺餘も隔てし場所へ這來り、暫くありて口を明くと見へしが、三尺程先の毛虫を吸ひ引と見へて、右毛虫は蟇の口の内へ入りける。されば年經し蟇の、人氣を吸んも空言とは思はれず。又柳生氏の語りしは、上野寺院の庭にて蟇、鼬をとりし事あり。是も氣を吹かけしに鼬倒れて死せしを、土をかけて其上に蟇の登り居しゆへ、翌日右土を掘りて見しに鼬の形はとけ失しと右寺院の語りし由、咄しけるとなり。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]
但、蟇の足手の指、前へ向たるは通例也。女の禮をなす如く指先をうしろへ向ける蟇は、必怪をなすと老人語りし由、坂部能州ものがたりなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:前項との連関より、寧ろ、巻頭三つの虫類・鳥類関連の奇法のエピソードと蟇の持つ超常能力の連関が認められ、注でも示した通り、その中の「耳中へ蚿入りし奇法の事」の話者である柳生主膳正が再登場して強い人的連関もある。
・「蝦蟇」は「ひき」と読む。一般にはこの語は大きな蛙を全般に指す語であるが、その実態はやはり、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよいと思われる。ヒキガエルは洋の東西を問わず、怪をなすものとして認識されているが(キリスト教ではしばしば悪魔や魔女の化身として現れる)、これは多分にヒキガエル科 Bufonidae の多くが持つ有毒物質が誇張拡大したものと考えてよい(本話柄もその典型例と考えられる)。知られるように、彼等は後頭部にある耳腺(ここから分泌する際には激しい噴出を示す場合があり、これが例えば本話の「三尺程先の」対象を「吸ひ引」くと言ったような口から怪しい「白い」気を吐く妖蟇のイメージと結びついたと私は推測している)及び背面部に散在する疣から牛乳様の粘液を分泌するが、これは強心ステロイドであるブフォトキシンなどの複数の成分や発痛作用を持つセロトニン様の神経伝達物質等を含み(漢方では本成分の強心作用があるため、漢方では耳腺から採取したこれを乾燥したものを「蟾酥せんそ」と呼んで生薬とする)、ブフォトキシンの主成分であるアミン系のブフォニンは粘膜から吸収されて神経系に作用し幻覚症状を起こし(これも蝦蟇の伝説の有力な原因であろう)、ステロイド系のブフォタリンは強い心機能亢進を起こす。誤って人が口経摂取した場合は口腔内の激痛・嘔吐・下痢・腹痛・頻拍に襲われ、犬などの小動物等では心臓麻痺を起して死亡する。眼に入った場合は、処置が遅れると失明の危険性もある。こうした複数の要素が「マガマガ」しい「ガマ」の妖異を生み出す元となったように思われるのである。因みに、筑波のガマの油売りで知られる「四六のガマ」は、前足が四本指で後足が六本指のニホンヒキガエルで、ここにあるような超常能力を持ったものとしてよく引き合いに出されるが、これは奇形種ではない。ニホンヒキガエルは前足後足ともに普通に五本指であるが、前足の第一指(親指)が痕跡的な骨だけで見た目が四本に見え、後足では、逆に第一指の近くに内部に骨を持った瘤(実際に番外指と呼ばれる)が六本指に見えることに由来する。
・「同寮」底本「寮」の右に『(僚)』と傍注。
・「われと」「自と」で、自ずと、の意。
・「西久保」麻布の台地と愛宕山に挟まれた低地の呼称。現在の港区虎ノ門一帯。現在でも港区の一部の地名に残る。
・「牧野」老中を務めた寛政の遺老の一人、牧野備前守忠精(ただきよ 宝暦十(一七六〇)年~天保二(一八三一)年)。越後長岡藩第九代藩主。但し、岩波版の長谷川氏注に、『ただし備前守中屋敷は愛宕山東の愛宕下』で微妙に地域がずれることを指摘する。
・「柳生氏」先行する「耳中へ蚿入りし奇法の事」の情報提供者である旗本柳生久通。
・「女の禮をなす如く指先をうしろへ向ける」古式では座位で手をついて礼をする際、女性は指先を内側へ向けて指の背をついた。
・「坂部能州」坂部広高。底本鈴木氏注に天明三(一七八三)年に四十二歳で『養父広保の遺跡を継ぐ。八年御目付』、寛政四(一七九二)年に『大坂町奉行、従五位下能登守』となる。寛政七(一七九五)年に南町奉行となり、同八年には西丸御留守居とある。

■やぶちゃん現代語訳

 蟇の怪の事 附 怪をなす蟇は別種である事

 城中で同僚から聞いた話。
 「狐狸の怪については昔より今に至るまで、実際に見聞きする話柄も多い。しかし、ひきも怪をなすのである。蟇が厩舎に巣くうと……そこの馬、徐々に心気馬力が衰えて参って、遂には骨と皮となり……人の場合も屋敷の床下に蟇が巣くうと……そこに住まう人も、これ……徐々に鬱々と致いて病みつき、重く患ふこと、これ、あり。
 例えば、こんな話がある。
 さる古き屋敷に住める家人が、これといった理由もなく煩いついて、見るからに気色血色ともに激しく衰えていったと。ある日のこと、屋のあるじが、雀なんどの縁側の近くに飛び来たっているのを、何とのう見ておった……と……何やらん、雀が縁の下へ引き込まれるように飛び入って、そのまま出て来ずになった。そこで、暫く、よう見ておったところが……猫や鼬の類いも縁近くに居ったと思いしが……縁の下へと……ふらふらと自然と、何かに引かれるように入いっていっては……そのまま行方知れずと、相いなる……
 かくなることが余りに続いたが故、あるじは不思議に思うて、人を呼び、床を剥がし、縁の下へ人を入れて捜させた……ところが……床下の底の、ぐっと窪んだ地面の真ん中に……これ、大きなる蟇が……蹲っておった……そうしてその、蟇の周りには……何やらん……獣の毛や髪の毛やら……ばらばらになった、何ぞの骨やら皮やらの類いが……これ、ほんに夥しくあったが故……今までの不思議は皆、この蟇が仕業であったと、即座に蟇を叩き殺して捨て、床下を清掃致いた。すると、かの病人も日に日に癒えたということである。」
 さて、私も、壮年の時分、西久保にある牧野備前守忠精殿の屋敷を訪ねた折りのことである。黄昏時で、丁度、御屋敷の前庭を眺めて御座った――そうさ、春の日のことで御座る――ふと見ると、普通よりも大分大きなる毛虫が一匹、庭石の上を這って御座ったが、そこへ縁の下から一匹の蟇が這い出て御座ったのを見た……蟇は……そう、毛虫よりは三尺ほども離れた場所に這ってきては……そこに、凝っと……毛虫の方を向いたままに、とどまって御座った……そうして……暫くすると……蟇の奴は……ぱっくり口を開いた……かと見えたが……ふと見れば……三尺ほども先の、かの毛虫を……見に見えぬ糸でもあるかの如く……吸い引くと見えて……ゆっくり……ゆっくり……かの毛虫は……遂には――すっと――蟇の口の中へと、入ってしもうた。……
 かくなる私の体験からしても――年経た蟇は人の生気を吸う――というも、強ち、空言とは思われない。
 また、先の柳生主膳正しゅぜんのかみ久通殿の語られたことには――
――上野のさる寺院の庭にて、蟇が鼬を捕えたことがあった。その際も、蟇は鼬に触れず、専ら口から、その妖なる気を吹きかけておったが、突如、離れたところにおった鼬は昏倒、即死のていにて、さらに見ておると蟇はその鼬の遺骸に土をかけて土饅頭の如くにし、その上にやおら這い上って凝っとしておったと。翌日、見ると、既に蟇はおらず、土饅頭を掘ってみたところが、鼬の遺骸はすっかり溶け失せておったと、かの寺の者が語って御座った、と――。
[根岸附記:「但し、『蟇の後ろ足の指が前を向いているものは、普通の蟇であって妖気を操るような蟇ではない。女が正しく三つ指ついて礼をするように、後ろ足の指が皆、後ろを向いておるものは、これ、必ず怪をなす。』と古老が語った。」という話を、坂部能州広高殿が語って御座った。]



 陰德陽報疑ひなき事

 寛政七年夏の事なるが、靑山御先手組とか又御持組おもちぐみとかの同心、御切米番おきりまいばんと唱へ、年番にて一組の御切米玉落たまおちに札差へ至りて、同心仲ケ間の御切米金を不殘受取歸りしに、遙々の道なれば歸り道に辻駕つじかごを借りて戻りけるが、組屋敷近く成て、駕にて歸らんも同心仲間の思はくを計りて、途中より下りて駕舁かごかきに別れしに、藏前にて請取りし金子、財布の儘駕の向ふへ置しが、駕に置忘れてければ驚きて早速立戻り右駕の者を尋けるが、いづちへ行けん行方もしれず。こわいかにせんと十方とはうに暮、身躰爰に極り死なんとせしが、まづ我宿に歸り、此譯人にかたらで死んも口惜き事と、仲ケ間の年古き者を招き、斯々の事に付死を決せし由語りければ、げにもさる事ながら、まづ暫く命を全ふして右金子の行衞尋かたもあるべしと、當惑ながら死を止めて立歸りしに、翌日見知らざる侍案内を乞て對面を申入れしが、妻出て取込事ありて御目に懸り候事もいたし兼候段斷りければ彼侍のいへる、爰元の御亭主何ぞ取落されたる品は無之哉、氣遣ひ候筋には無之間對面いたし度旨申けるを、彼同心聞て早速立出で尋ければ、昨日途中より辻駕に乘りしに右駕の内に金子入とみへし財布あり。駕昇の所持とも思われざる故、密に右の内を改しに札差の仕切書付御名前も有之ゆへ持參せし由を語り、金子の高其外を尋問ひて、無相違由にて右金子を渡しければ、同心夫婦の悦び大かたならず。まづ休み給へと色々引留しに、右金子返濟いたす上は我等もいかばかり悦ばしとて立歸る故、名前抔聞しかど答なくて歸りぬ。さるにても命の親ともいふべき人を唯に歸さん樣なし。然れども不言いはざれば詮方なしと、惣門の番をする男を賴み右侍の跡を附させけるに、和田倉内松平下總守屋敷へ入りぬ。依之これによりて右惣門の番人下總守門番に、只今御屋敷へ入りし人は御家中にて家名何と申人にやと尋ければ、下總守門番にては何か怪敷あやしき儀とも心得けるや、下郎の來りて名前を聞くは答へんも六ケ敷むつかしきとや思ひけん、不知しらざる由にて一向取合不申まうさざる故、詮方なくて右の下郎は歸りて右の同心にかたりしが、さるにても此儘捨置んも便なしとて、翌日彼同心自身おのづと彼屋敷の門番所へ至り是非々々承度うけたまはりたき心にて、金子を落せし事幷拾ひ返して名を語らざる譯を荒增かたりて尋けれど、かゝる人心當りなき由門番人挨拶なれば、是又詮方なくて歸りしが、はるか兩三ケ月過て彼侍右の同心の元へ來りてければ、夫婦も殊の外に歡びて厚く禮を述ければ、彼侍の申しけるは我等も今日は禮に參りたる也、過し頃主人門へ兩度迄參りて我等事を尋給ふ事、幷に荒增咄あらましはなし給ひし事を門番人より申立たる故、主人より段々たづねの上、外々の見及びのためとて褒美有て加增を給り、前々四拾石の宛行あてがひへ廿石とかの高增有之しゆへ、吹聽かたがた禮に參りたりといゝし儘、家名を切に尋問ひしがかたらずして歸りける由。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせないが、冒頭二つが『寛政七年卯六月下旬』の聞き書きで、それと話者が柳生で前項にも連関し、これが同じ「寛政七年夏の事」と時系列の連続性が認められる。
・「靑山御先手組」「御先手組」先手組さきてぐみのこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約十組と筒組(鉄砲組)約二十組の計三十組で、各組には組頭一騎、与力が十騎、同心が三十から五十人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある(アラビア数字を漢数字に変換した)。当時、青山権太原(ごんたわら:現在の港区赤坂青山。)先手組組屋敷が多かった。
・「御持組」御持組は持筒組と持弓組に分かれ、戦時における将軍護衛の鉄砲隊と弓隊で、持筒組三組と持弓組二組で、各組には組頭一騎、与力が七騎、同心が五十五人配置された。平時は城内の西丸中仕切門(桜田門の内側の門)を警護した。
・「御切米番」「卷之一」等で既出であるが、再注しておくと、幕府の大多数の旗本・御家人は『蔵前取り』『切米取り』といって幕府の天領から収穫した米を浅草蔵前から春夏冬の年三回(二月・五月・十月)に分けて支給された。多くの場合、『蔵前取り』した米は札差という商人に手数料を支払って現金化していた。「御切米玉落に札差へ至り」とあるのは、この切米の支給を受ける旗本・御家人には支給期日が来ると『御切米請取手形』というふだが支給され、その札を受け取り代行業者であった札差に届け出、札差は預かった札を書替役所に持参の上、そこで改めて交換札を受け取り、書替奉行の裏印を貰う。その後、札差が札旦那(切米取り)の札を八百俵単位に纏め、半紙四つ切に高・渡高わたしだか・石代金・札旦那名・札差屋号を記して丸めて玉にし、御蔵役所の通称『玉場』に持参した。この玉場には蓋のついた玉柄杓という曲げ物があって、役人は札差が持ち寄った玉を纏めて曲げ物の中に入れる。この曲げ物の蓋には玉が一つずつ出る穴があって、役人が柄杓を振ると、玉が落ちて出てくる仕組みになっていた。玉が落ちると、札差は玉(半紙)に書かれている名前の札旦那に代わって米や金を受け取る。そうして同時に札旦那に使いの者を走らせ、玉が落ちた旨を報知、知らせを受けた札旦那は、札差に出かけて現金化した金や現物の米を受け取るというシステムであった。そしてこの切米には組単位で支給される支給米があり、これを受け取り分配する者は組内で順番制を採っていて、それが「御切米番」であると思われる。
・「こわ」正しくは「こは」。
・「仕切書付」給与支給明細書。
・「和田倉内」外濠の最も内側にあった和田倉門。
・「松平下總守」伊勢桑名藩第四代藩主松平忠功(ただかつ 宝暦六(一七五六)年~文政十三(一八三〇)年)。
・「外々の見及び」家中の他の家士へ彼の陰徳を広く示すことをいうか。
・「宛行」禄を割り当てること。また、その禄や所領。

■やぶちゃん現代語訳

 人知れず善行を積まば必ずや良き報いとなって現わるという事

 寛政七年の夏のことである――が、青山御先手組だったか御持組だか、はっきりとは覚えておらぬが――その組の、さる同心が御切米番に当たって御座った。これは一年交代の――組内に支給される御切米の玉落ちを受けて、札差へ行って、組の同心連中全員の御切米金を残らず全部受け取って来る――役で御座った。
 さて、その同心、仲間の御切米金を受け取って帰ったのだが――少しばかり遠方で御座ったがため――帰りには辻駕籠を雇って戻った――近くまで戻った――戻ったものの、さて、組屋敷に駕籠で乗り付けるというのは、何やらん妙に仰々しく、同心仲間に見られると何かと冷やかされるのではなかろうかと慮って――途中で降りて、駕籠搔きに別れた――が!――蔵前にて受け取って御座った金子を、財布の儘に駕籠の真向こう置いておいたのを――何としたことか、駕籠にそのまま置き忘れてしまったことに気づく――驚いて慌てて後戻り、駕籠搔きを探してみたものの、最早、何処いずちへ行ったものやら、行方知れずじゃ。
「……こ、これは……一体、どうしたら……」
と、この同心は途方に暮れて御座った――
『……進退……いや……この一つばかりの身体窮まれり……最早、死のう……』
と覚悟したものの、
『……取り敢えず……我が家へ帰り……そうじゃ、せめて、かくなった訳を人に懺悔せずに死ぬるも口惜しきことなれば……』
とて、組屋敷に戻って、仲間内でも年嵩の者を秘かに招くと、
「……という不甲斐なき次第につき……最早、死を決して……御座る……」
と語ったところが、

「……うう、む……げに尤もなる謂いではある……が、しかし……その……まずはじゃ……暫く命を永らえ全うしてじゃな……まあ、その、右金子の行方を探いてみるが……先決じゃろて……」
と諭され――万事休すの無為無策乍らも――その日は、自家へ立ち返った。――
 ところがじゃ――翌日のこと、かの同心に見知らぬ侍が来訪して来て案内あないを乞うて対面を申し入れてきて御座った。妻が応対して、
「……その……只今、取り込みごとの御座いまして……お目にかかりかねますればこそ……どうか……」
と断ったところが――その侍が言う。
「……こちらの御亭主……何ぞとり落とされたる品は、これ、御座らぬかの……。ともかくも……お気遣いは御無用にて、まずは何としても御対面致したく存ずる――」
それを隣室に聞いた同心、恥も外聞もなく間髪入れず、飛び出して訪問の意を訊ねたところ、
「……昨日、帰宅の折りに辻駕籠に乗って御座ったが、その駕籠の中に、金子入と見えた財布、これ在り。どう見ても駕籠搔きの持ち物とも思われぬ故、こっそり中を改めたところが、札差の仕切書付に貴殿のお名前も御座ったればこそ、ここに持参致いた次第――」
とのこと。その侍は同心に、金子の額や財布の形状やら中身なんどについて、幾つか尋ね問うた上で、
「うむ、間違い御座らぬ。」
と、かの金子入りの財布を懐から出して、同心に渡した。
 同心夫婦の悦びようは、勿論、一通りのことでは、御座ない。
「……いや!……その!……ま、まずは……ごゆるりと、なされるがよい!……」
と、動転の中にも喜色満面で侍を引き留めたが、
「――いえ――右金子を無事にお返し致いた上は……拙者もいかばかりか悦ばしく存ずる――」
と言うが早いか、侍は問うに名さえ告げず、帰ってしまった。
「それにしても――命の恩人ともいうべきお人を、ただ帰すなんどということは――これ、あってはならぬこと……されど、お名乗りもなくば詮方のう……」
そこでかの同心、取り敢えず、すぐに出て組屋敷の門番をして御座った男に頼んで、かの侍の跡をつけさせたところ、侍は和田倉門内の松平下総守殿の屋敷へと入っていった。
 そこでこの門番、かの下総守屋敷の門番に、
「只今、御屋敷へお入りになったお人は、御家中の、名を何とおっしゃるお方で御座いますか?」
と尋ねた。
ところが、下総守屋敷の門番は、かくも不躾なる相手の様子を怪しんで御座ったのか、はたまた、どこの馬の骨とも分からぬ下郎が、御家中の者の名を訊ねるに安易に答えては、何やらん面倒なことにもなるとでも思うたのか、
「知らぬ。」
と、一向、取り合わず、黙って御座った。
 これにては詮方なくて、命ぜられた門番はそのままたち帰って、かの同心に、かくかくで御座った由、報告してその日は終わった。
「――それにしても――いや、このままにしておくわけにては――許されぬ――」
と翌日、かの同心は自ら、かの下総守屋敷の門番の詰所へ至り、是非に是非にと思いを込め、大枚の金子を落といたことや、それを届けて貰もろうたに、どうしても名を乗っては下さらなかったことどもをあらまし説明致いて尋ねてみたものの、
「そのような人に心当たりは御座いませぬ。」
と門番は答えるばかり。これまた、致し方なく帰って御座った。
 ――ところが、それからかれこれ、三月ほど過ぎたある日のこと、かの恩人の侍が、同心の家にひょっこりやって来た。
 同心の夫婦も殊の外喜んで、手厚く礼を述べたところが、かの侍の申すことに、
「――いや、拙者もお礼に参ったので御座る。過日、主家へ二度まで参られ、拙者のことをお尋ねになられたこと、ならびにこの度の一件のあらましを門番にお話になられたこと、このことにつき、門番より主人へ申し立てが御座っての。されば主人からも、その段につき、拙者に何度かのお尋ね、これあって――家中の外の者への模範とせんがためとて、褒美として加増を賜っての――前々よりの四十石の碌へ、その――二十石もの加増が、これ、御座った。故に、お知らせ方々、礼に参ったという次第で御座る。」
 と言ったかと思うと――同心は当然、「お名前を! どうか!」と再び切望致いたので御座ったれど――またしても、名乗ることなく帰っていった、ということで御座る。

 *

 陰惡も又天誅不遁事

 或駕舁辻駕に出歸り候砌、右駕の内に二三十金の金子財布にいれ有しを見出し二人にてわけとらんと言ひしが、乗りし人粗ほぼ所もしれたれば返し可申と相談して、壹人の棒組ばうぐみ我よく彼人の所をしれりとて、右金子を持て行きしが其夕暮棒組のもとへ來りて金子壹分とかあたへ、先方へ歸しければ悦び候て金貮分呉候間、半分分ケにせし由を言し故、棒組實事と思ひて不足なる禮なりと思ひながら其通りに過すぎせしが、程なく彼者酒見世さかみせ出して、暫くは賑やかな暮しゝけるが天罰遁れざるや、棒組を欺きかへしゝ由にて不殘右金子をかすめし程なれば、常々いかなる惡事もありけん、牛込加賀屋鋪原やしきはらなりける頃、右道端に今は乞食をなして居たると、彼棒組のかたりしに、既に其乞食を見し人語りはべる。

□やぶちゃん注
○前項連関:陰徳陽報と真逆の陰悪天誅で直連関。話柄も駕籠搔きの登場で類似する。
・「二三十金」三十両ならば、現在に換算すると最低でも数百万円、駕籠搔きらの労賃基準なら恐らくは一千万円強に当たる。
・「ほぼ」は底本の編者ルビ。
・「二人にてわけとらんと言ひしが、乗りし人粗所もしれたれば返し可申と相談して、壹人の棒組我よく彼人の所をしれりとて、右金子を持て行きしが」訳では特定しなかったが、私はこの二人の台詞がどちらのものであるかが興味深い。悪事を働く動機と台詞の順列からは、

甲「二人にてわけとらん」
と言ひしが、
乙「乗りし人所もしれたれば返し可申」
と相談して、
甲「我よく彼人の所をしれり」
とて、右金子を持て行きし

となるが、これは如何にもつまらぬ。寧ろ、

甲「二人にてわけとらん」
と言ひしが、
乙「乗りし人所もしれたれば返し可申」
と相談して、
乙「我よく彼人の所をしれり」
とて、右金子を持て行きし

の方が話柄として生きる。則ち、この悪者は実は「山分けしよう」と言った甲ではなく、「返した方がいい」と如何にも分別ある諭しをする相方乙こそが悪者であったとするシークエンスの方が面白く、現実味もあるのである。
・「金貮分」一分金は一両の1/4だから、総額でも三万円から高く見積もっても八万円程度で、確かに拾った額からすれば不当に少ない。
・「牛込加賀屋鋪原なりける頃」これは、筆録時から更に本話柄の時間に立ち戻った状況解説で、底本の鈴木氏注と岩波版の長谷川氏の解説などを総合すると、現在の新宿区市谷いちがや加賀町で、現在の一・二丁目付近に江戸時代初期の加賀藩主前田光高夫人清泰院(水戸頼房息女、後に家光養女)の屋敷があったことからかく呼ばれた。夫人は明暦二(一六五六)年に死去、享保八(一七二三)年の火災で焼け落ちた以後は空き地となって「加賀原」とも呼ばれた。後には武家屋敷となったとあるが、さすれば本件は「加賀原」であった時代まで遡る。「卷之四」の下限は寛政八(一七九六)年夏までであるから、享保八年の間には七十三年の懸隔がある。残念ながら諸注は「後には武家屋敷となった」時期を記さない。しかし、本話が有意に過去に遡る事実であること、尚且つ、しかし「右道端に今は乞食をなして居たると、彼棒組のかたりしに、既に其乞食を見し人語りはべる」という末尾から、その乞食となった駕籠搔きを実見した人物が現に今も(若しくは最近まで)現存していた事実を示す。私が言いたいのは、この話はある(恐らくは数十年に及ぶ)有意な過去の事実譚として語られながら、その伝承者は生存しており、現在時に有機的に結びついた話柄として現在的都市伝説として機能しているという事実である。この最後のさりげない附言は、有意に古い噂話(本来、古い噂話はその古さにおいて致命的であるはずなのに)という属性を持ちながら、頗るリアルな印象を与えるように機能しているのである。

■やぶちゃん現代語訳

 人知れず悪事を働くもまた天誅を逃れられぬという事

 ある駕籠搔き二人、辻駕籠の客を送り終えて早仕舞いにして帰ろうとした。その時、駕籠搔きの一人がふと覗いた駕籠の中に、何と二、三十両もの金子を財布に入れたのを見つけた。
「……二人して……わ、わ、分けちまおうぜ……」
と言ったが、相方は、
「……いや、乗ったお人も屋敷の所在も、だいたいの見当は知れておる。……返した方がよかろう……」
と話うた。そこで返すことになったが、一人が、
「……幸い、儂は客人を降ろした辺りをよく知っとるから、儂が返してくるわ……」
と、かの金子を持って出かけて行ったが、夕暮れになって、相方のところへやって来て、金一分とやらを与え、
「先方へ返したところが、いや、ひどく悦んで御座っての、謝礼と言うて金二分くれたで、半分けにしょうな」
と言うたという。
 片割れは、『……それにしても、あの大枚に……如何にもしょぼい礼じゃ、のぅ……』と思いつつも、相方の言うことを真に受けて、そのまま打ち過ぎて御座った。
……が……
 程なくして、金を届けに行ったと言ったその相方は、急に駕籠搔き家業から足を洗うと、ちょとした呑屋なんどを開いて、如何にも派手に暮らして御座ったそうな。
……が……
……天罰は、これ、遁れられぬものなので御座ろう……相方をも欺き、返したと偽って大枚の金子を残らず掠め取って平気の平左という鉄面皮おたんちんなればこそ……常日頃より、どんなにか極悪の悪事をも働いて、平然と白を切っておったので御座ろう……
……かの男……
――この話、ほれ、あの牛込加賀屋敷辺りが、未だ空き地で御座った頃のことで御座る――
きゃつめ、あの加賀原かがっぱらの道端で――乞食――しとるじゃ。」
と騙された元相方が語った、と――その頃、その話を彼から聞き、また実際に、その乞食となった男を見たという人が、私に語って御座った話である。



 狂歌滑稽の事

 安永寛政の頃、狂名もとの木阿彌と名乘て狂歌を詠る賤民ありしが、麻布の稻荷へ人の形を畫て眼へ釘をさしあるをみて、
 目をかきて祈らば鼻の穴二ツ耳でなければきく事はなし
と書て札を下げければ、あけの日右の人形の耳へ釘を指しける故、
 眼を耳にかへすがへすもうつ釘はつんぼう程も猶きかぬなり
と亦々札を下げければ、此度は繪を止めて藁人形へ一面に釘をさしけるゆへ、
 稻荷山きかぬ所に打釘はぬかにゆかりの藁の人形
と札を下げければ、其後は右の形も見ヘずなりぬと。

□やぶちゃん注
○前項連関:天誅と呪詛は一種のホワイトとブラックのマジックで連関するか。
・「安永寛政」間に天明を挟んで西暦一七七二年から一八〇一年までの二十九年間。
・「もとの木阿彌」元木網(享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。本姓は渡辺(金子とも)、通称、大野屋喜三郎。京橋北紺屋町で湯屋を営みながら狂歌師として売り出し、狂歌仲間の娘すめ(狂名智恵内子ちえのないし「卷之三」の「狂歌流行の事」に既出)と夫婦となる。天明元(一七八一)年に隠居剃髪、芝西久保土器町に落栗おちぐり庵を構え、無報酬で狂歌指導に専念、唐衣橘洲からごろもきっしゅう四方赤良よものあから(大田南畝)らとともに天明狂歌の一翼を担う。和歌や国学の深い素養に基づきつつ、平明な言葉で詠んだ彼の狂歌は爆発的人気を誇った。狂歌作法書「浜のきさご」、「新古今狂歌集」(古人から当代の門人までの狂歌撰集。寛政六(一七九四)年刊)等。
・「麻布稲荷」現在、東京都港区麻布十番一丁目四番六に麻布十番稲荷神社があるが、これは、戦災後の合祀で、元は末広神社と竹長稲荷神社であった。末広神社は慶長年間(一五九六年~一六一五年)の創建で、元禄四(一六九二)年までは麻布坂下町の東方の雑式に鎮座していたが、同六(一六九四)年に永井伊賀守によって現在の坂下町四一の社域に遷座された。「青柳稲荷」「末広稲荷」と呼ばれ、明治二十(一八八七)年に末広神社と改称されている。一方、竹長稲荷神社の方は、嵯峨天皇の弘仁十三(八二三)年に慈覚大師が八咫鏡を以て武蔵国豊島郡竹千代丘(現在の鳥居坂上)に稲荷大明神を勧請したものが起源とされ、寛永元(一六二四)年に現在の麻布永坂町四十三番地に遷座された。近接するのでどちらとも言い難いが、呪詛の効力から言えば、圧倒的に古い後者、「竹長稲荷神社」に同定しておきたい。
・「目をかきて祈らば鼻の穴二ツ耳でなければきく事はなし」の歌は「人を呪わば穴二つ」の諺に引っ掛けて、
○やぶちゃん通釈
――おぞましき呪いは、あんたも呪われる――相手と自分の墓穴二つ――きっと必ず待ってるぞ――ところが目鼻も二つ穴――同じ二つの穴ならば――この絵の耳は健やかに――ぼこっと、二つ残って御座る――耳がなければ呪詛「聞かぬ」――聴こえぬなれば、さればとよ――この釘とても「効かぬ」とよ――呪詛はさっぱり「効かぬ」とよ――
といった掛詞の洒落になっている。文字通り、鼻で陰湿な恨みを笑い飛ばしているところが、強靭な批判性を持った狂歌として上手い。
・「眼を耳にかへすがへすもうつ釘はつんぼう程も猶きかぬなり」今度は耳だから、それをつんぼに洒落て、
○やぶちゃん通釈
――何遍何度も呪詛しても――当然必然、つんぼうは――如何なるものも存じませぬ――「聞かぬ」存ぜぬ――呪詛「効かぬ」――
と前歌を受けて更に畳掛ける。「かへすがへすも」からは、呪った当人が丑の刻に再度参って目の釘を引き抜き、耳に打ち直したことを指す、と考えた方が面白いように思われる。ここでは釘が増えない方が、次のシチュエーションで読者が受ける映像的強烈さからみて、効果的であると考えるからである。
・「稻荷山きかぬ所に打釘はぬかにゆかりの藁の人形」藁人形の藁は、その原材料が稲で、糠と縁がある。更に糠と呪詛の釘が誰にも美事に「糠に釘」を連想させ、その成語を用いた、ダメ押しの狂歌となる。
○やぶちゃん通釈
――ここは竹長稲荷山――稲から取れる糠と藁――も一つ挙げれば「糠に釘」――打っても打っても「糠に釘」――やっぱりさっぱり呪詛「効かぬ」――されば、あんたのこのおぞましい――人心惑わす、とんでもない――時代遅れの呪いの呪法――結局、全然、全く以て――如何なるものにも、効きませぬ――阿呆ドアホウ馬鹿臭い――トンデモ愚劣な成しようじゃ――
と、忌まわしい呪詛者を、掛詞と縁語を重ね合わせた洒落のマシンガンで、テッテ的に笑気ガス弾で機銃掃射にしているのである。

■やぶちゃん現代語訳

 狂歌滑稽の事

 安永から寛政年間にかけて、狂歌の雅号を「もとの木阿弥」と称した身分賤しい狂歌師が御座った。
 ある日、彼が麻布稲荷の境内に参ったところが、一本の木陰に人形ひとがたを描いた絵の、その眼へ釘を刺してあるのを見つけて御座った。そこで木阿弥、にんまりとして、
  目を画きて祈らば鼻の穴二ツ耳でなければきく事はなし
とさらさらっと書いて、それをわざわざ御札にし、絵の傍らに下げておいた……
 さても翌日のこと、木阿弥が再び参詣してみると、今度は、目からやおら引き抜かれた釘が、今度は、このその耳の辺りに打たれて御座る。そこで木阿弥、またにんまり、
  眼を耳にかへすがへすもうつ釘はつんぼう程も猶きかぬなり
とさらさらっと書いて、それをまたまた御札にし、絵の傍らに下げておいた……
 さても翌日になる。木阿弥が再三参詣してみると、今度は、絵をやめて――何と、藁人形が――それもその全身に夥しい釘が打たれた藁人形が、木にぶっ刺されて御座った。それを見た木阿弥、呵々と笑ろうて、
  稲荷山きかぬ所に打つ釘はぬかにゆかりの藁の人形
とさらさらっと書いて、それをまたまた御札にし、絵の傍らに下げて帰った……
 さてもその日翌日、藁人形は何処かへ消え去り、その稲荷での呪詛の仕儀も絶えてなくなった、ということで御座る。



 狐狸のために狂死せし女の事

 寛政七年の冬、小笠原家の奥に勤し女、容儀も右奥にては一二と數えけるが風與ふと行衞を失ひ、全缺落まつたくかけおちいたしけるならんと、其宿をも尋問たづねとひけれども曾て見へざれば、輕き方と違ひ四壁嚴重の屋敷、とりどり、疑ひけるが、日數廿日程過て、同じ長局ながつぼねの女手水ちやうづを遣ひける手水鉢の流れへ、白き手を出し貝殼にて水をくむを見て、右女驚き氣絶せし故、同部屋は不及申、何れも缺附かけつけ見れば、怪敷女やうのもの椽下へ入るを見て、大勢にて差押ければ、彼行衞不知女故、湯水等を與へ尋問ひしに、始はいなみしが切に尋ければ、我等はよきよすがありてよろしき所へ緣につき、今は夫をもちし由を申ゆへ、いづ方成哉と聞侍れど其答もしかじかならず。色々すかして尋ければ、さらば我住方へ伴ひ申さんとて椽の下へ入りける故、跡に付て兩三人立入りしがはるか椽下を行て一ケ所の椽下に、胡座筵など敷て古き椀茶碗を並べ、此所住家成由故、夫の名など尋しに、兼て咄せしとほりの男也とて名もしかと不答、誠に狂人の有樣故、其譯役人へも斷り、宿を呼て暇を遣しけるが、兩親も悦びて早々醫薬等施し療養を加へけれど、甲斐なくして無程身まかりしとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:「稲荷」から「狐狸」、「狂歌」と狂的呪詛から「狂死」で、連関。この話柄は「耳嚢」の抜粋本等には必ずと言ってよい程引かれるもので、私も高校時代、学生雑誌の怪談特集で読んだのが最初であると記憶するのだが、私は個人的に、「耳嚢」の中で、映像として最も不気味、且つ、悲哀に満ちた一番の話として本話を挙げたいのである。……美しい女房の発狂、縁の下の愛する男との二人きりの隠れ里――幻覚を伴う重篤な統合失調症か、程無くなくなったという点からは予後の悪い何らかの器質的疾患による脳の変性か脳腫瘍等も疑われる――また例えば、心因性精神病として、その発症の原因の一つに、家内での秘やかなゴシップなどを想起してしまうと――失踪の際、真っ先に恐らく複数の者が「全缺落いたしけるならん」と考えたことがその強い可能性を示唆すると言えないか? また、彼女の『縁の下の棲家』の上は一体、誰の部屋だったのか?……なんどということまでがひどく気になってきて――猶のこと、この話は一読、私には忘れ難いものとなっているのである。
・「小笠原家」小笠原右近将監忠苗(おがさわらただみつ 延享三(一七四六)年~文化五(一八〇八)年)豊前小倉藩十万石の第五代藩主。小笠原家宗家六代。寛政三(一七九一)年、藩主となり、従四位下右近将監に叙任。
・「長局」宮中や江戸城大奥・大家に於いて、長い一棟の中を幾つもの局、女房部屋として仕切った住居。局町つぼねまちとも言う。
・「缺附見れば」底本には右に『(駆附け)』と傍注する。

■やぶちゃん現代語訳

 狐狸のために狂死した哀れなる女の事

 寛政七年の冬のこと、小笠原家右近将監忠苗ただみつ殿御屋敷の、奥に勤めて御座った女房――その容姿は……まず一、二を争うという女で御座ったが――ふと、行方知れずになった。
 口さがない家中の者どもは、
「……あの器量じゃて、全く以てどこぞの誰かと深うなって、駆け落ち致いたに違ない……」
などと噂致いた。人を遣って実家をも尋ねさせたが、帰った様子も、これ、御座ない。ともかくも十万石の大藩の御屋敷なれば――これ、その辺の普通の武家の話とは訳が違う――四方の守り、厳重にして鼠一匹逃げ出しようも御座ない、といった造りなればこそ、家中の者どもも、なんやかやと不審を抱いて御座った。
 さて、それから二十日ほど過ぎた、ある日のこと、行方不明になった女房と同じ長局ながつぼねに住んで御座った女房が一人、庭の手水ちょうず使つこうた……が……傍らの、その手水鉢へと流れておるかけいの水の流れに……ふと……目をやったところ……
――すーうっと……
――縁の下の方から……
――白い手が伸び……
――手に持った貝殻柄杓で……水を……汲んだ……
女房、
「きぇッ! エエエッツ!」
と叫び声を挙げて、その場に昏倒致いた――
――そこで、同部屋の者は言うに及ばず、家中の在の者どもも残らず駆けつけたところが、怪しき女のようなる者一人、今にも縁の下へと潜り込まんとするを見出だし、大勢にてとり押さえて御座った。
……と……
……この不審の女は……何と! かの行方知れずになって御座った女であったが故、者ども皆、吃驚仰天、ともかくも湯水なんどを与え、一体、どうしておったか、と問いただいてみた。
 女は最初、黙ったままで、口を利くのを拒んで御座った風であったが、周りが強く詰問致すうちに、
「……わらわは……よきよすがの……御座いまして……宜しきところへ……えんづきまして……今は……夫を持って御座います……」
と申す。そこで、
「――そりゃまた、はて、何処いずこじゃ!」
と聞き返せど、女の返事は一向、はっきりせぬ。そこで色々、なだめすかして尋ねてみたところが、
「……さればこそ……我が住む方へ……伴って差し上げますれば……」
……と……
――縁の下へ……
――入る……
――されば、大の大人、合わせて三人、跡について縁の下へと立ち入るという仕儀と相成った。
――庭縁から――遙かずっと先の縁の下の、ある所に――茣蓙や筵などが敷かれて御座って――そこにまた、古びた椀やら茶碗やらも並べ立ててある――女はそこまで這いずって行くと、
「……ここが……妾と夫の……住まう屋敷に……御座います……」
と平然と答える。
――従った男の一人が――顏にへばりついた気味きびの悪い蜘蛛の巣を拂いつつ、吐き捨てるように問うた。
「――して! その夫の名は、何と申すのじゃ!」
……と……
「……はて……それはもう……ほれ、かねて既に……お話し申し上げて御座います通りの……あの、お方で御座いまする……」
と、ぬらりくらり、遂に名もはっきりとは申さぬ。
――さても、そののちの訊問にても、この女房の話は、その全てが全く以って訳が分からず、これは最早、正真正銘の狂人の有り様なればとて、既に行方不明の届を出して御座った役人へは、『かくなる仕儀にて』と委細報告の上で、この女の実家の者を呼び出だいて、いとまを遣わして御座った。
 女の両親はと言えば、行方知れずの娘が戻ったと聞いて悦んだのも束の間、娘の変わり果てたうつけたすがたを見、早速に医師を呼んでは薬石なんど施し、療養につとめたものの……その甲斐ものう、哀れ、程のうして身罷った……ということで御座る。



 木星月をぬけし狂歌の事

 寛政七卯の年の秋、木星月の内をぬけし事ありしを、人々品々吉凶を評して恐れ論じけるが、狂歌の名ありける橘宗仙院詠るよし。

  月の内に星の一點加れば目出度文字の始なりけり

□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前の狂歌で直連関。
・「寛政七卯の年の秋、木星月の内をぬけし事ありし」これは月で木星が隠される天体現象である木星蝕を指している。中野康明氏の「こよりと木星蝕」の頁には、この「月と地球の間を木星が抜ける」などという阿呆臭い都市伝説とは違った、極めて科学的な驚くべき江戸の博物学者の姿が描かれているのである。則ち、その寛政七(一七九五)年のこと、『幕府天文方の高橋至時と間重富が夕方に道を歩いていたら、満月と木星が近接していた。二人は木星蝕が起きることを察知し、「こより」と穴あき銭で即席の振り子時計を作り、一人は木星が月に隠れる瞬間を合図し、もう一人はその時点からの振り子の振れの数を数えた』。二人は『司天台(天文台)に急いで帰り、備え付けの振り子時計で「こより振り子」の周期を校正して、蝕の開始時刻を計算』、『木星が月から現れる時刻は司天台の振り子時計で正確に測定できた』というのである。中野氏は『木星蝕を予測し、とっさに即席の振り子時計を作って観測するとは、凡庸な人間にはなかなかできることではな』く、『また、寛政時代には振り子の法則も知られており、司天台には精密な振り子時計も備え付けられていたとは、江戸時代の科学技術も大したものである』と賞讃されている。その精緻さに叫喚し共感するものである。
・「橘宗仙院」先行する「卷之三」の「橘氏狂歌の事」で、岩波版長谷川氏注に橘『元孝・元徳もとのり元周もとちかの三代あり。奥医から御匙となる。本書に多出する吉宗の時の事とすれば延享四年(一七四七)八十四歳で没の元孝』とあったが、これは寛政七(一七九五)年のことであるから、今度は二代目元徳か三代目元周ということになる。
・「月の内に星の一點加れば目出度文字の始なりけり」「月」の字の最後に一画の星=「ヽ」を加えれば、左右が繋がって「目」の字となり、これは「目出度めでたき」という文字列の星の列、吉兆の「始まり」で御座ったよ、という洒落のめした言祝ぎの狂歌である。

■やぶちゃん現代語訳

 木星が月を突き抜けた狂歌の事

 寛政七年の秋のこと、何でも――木星が月を突き抜けた――という専らの噂で御座った。人々は、星が星を食うた、貫いたと、その不思議の意味するところの吉凶を、口々にあげつろうて御座ったが、狂歌で名を知られた橘宗仙院殿がそれを聴いて、次のように詠んで御座ったと。
  月の内に星の一点加ふれば目出度き文字の始なりけり



 呪に奇功ある事

 水に漬し餅或は草あんぴなど唱へ候品、あぶりこの上に乗せて燒くに、過半は右あぶりこへ附きて其樣見苦しく、詮方なきもの也。此春兒孫にやきなんとてはたきもの抔あぶりこに乗せて燒しに、かたの如く燒付ていと見苦しかりしを、召使ふ老婆是を見て、右はまじなふ事ありとて、右あぶりこのこげ付るを淸めて片手にあぶりこを持、我天窓あたまの上を三度廻して、扨火に掛て焼しに、一向こげ付不申故不審にぞんじ、別のあぶりこを取寄、始は常のごとく火に掛けしに、燒付て見苦しかりし故、又淸めて頭の上を三度廻し燒けるに聊不損いささかもそんぜず、誠に不思議成事也と老たる人に語りければ、それは承及うけたまはりおよびたる事也、あぶりこに不限、鐵きうの上にて肴など燒も同じ事也と語りし。天窓の上を廻すといふは、人氣をうくる故の譯にもあるやらん。いづれ理外の論なるべし。

□やぶちゃん注
○前項連関:どうでもよいような吉凶占い話から如何にも実用的な呪いで連関。金属の場合、十分に高温にしてから焼くと焦げ付かないというのはよく言われる。これは附着したタンパク質が加熱されると、金属と反応して熱凝着を起こし、それが結果として鉄と対象物の接着効果を示すからであろう。さすれば、金属の温度を十分に上げて、中間の接着変性を起こしにくくさせるために綺麗に洗い上げることが、熱凝着を回避させる結果を生み、効果的であるようには思われる。更に私は、この話の「天窓の上」というのを、頭の上方ではなく、頭髪に「附けた」状態で「三度廻」すことで、頭髪の脂分が金属に付着し、被膜としての効果を持つからではないかと推測するのであるが、如何であろう?
・「水に漬し餅」餅に黴が生えないようにするために水に入れておく保存法。私が小さな頃は母が普通にそうしていたのを思い出す。それでも、黴は生えるし、腐りもする。――小学校二年生の記憶に――母が水の中で青くなった餅を、裏庭に穴を掘って埋めているのを見ていた――「あんた、こんなこと、御祖母ちゃんにだけは絶対言っちゃだめよ。」と言った――何故か、私は今も忘れない。
・「草あんぴ」草餅。「あんぴ」は「餡餅餅あんぴんもち」で、「餡餅」の宋音「アンピン」に由来し、餡の入った餅又は大福餅を言う。別に「あんびん」とも称す(この場合の「アンビン」は唐音で禅寺から起った語とする)。
・「あぶりこ」は「焙り籠」「炙り子」で、火鉢や囲炉裏の端で餅などを焼くための鉄製の網状のもの。必ずしも四角とは限らない。
・「はたきもの」「叩き物」身代を使い果たすことを言うので身分の低い下女などをかく呼んだ可能性もあるが、寧ろ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の「はしたもの」(召使の下女)の誤記と考えた方が自然か。
・「天窓あたま」は底本のルビ。
・「鐵きう」「鉄灸」若しくは「鉄弓」と書き、火の上に掛け渡して魚などを炙るのに用いる、細い鉄のや串のこと。細い鉄線を格子状に編んだものも。鉄橋・鉄架などとも言う。

■やぶちゃん現代語訳

 まじないに不思議な効き目のある事

 水に漬けた餅、あるいは柔らかい草餅なんどといったものをあぶに乗せて焼くと、大半はその焙り籠に焦げついて、如何にも見苦しく、どうにも困るもので御座る。
 この春も、子や孫たちのために焼こうと、召し使うておる若い下女などが、焙り籠に乗せて焼いたところ、例の如く、べっちゃりと網に焼きつき、それがまた焦げて、いかにも見た目も悪い、何とも無様な焼き餅と相成って御座った。
 すると、それを見ておった、召し使つこうて御座るところの、さる老女が、
「こういう時は、ちゃんとまじないがある、て。」
と言うと、焙り籠の焦げを綺麗に削ぎ落いて清めると、片手にその炙り籠を持ち、自分の頭の天辺でするすると三度回し、さて、これを以って再び火に掛け、餅を焼いた。
――と――
一向、焦げ付くこと、これ御座らず、上手いこと、焼けた。
 端で見て御座った私も不思議に思うたによって、試しに別の焙り籠を持って来させ、最初はそのまま普通に火に掛けて餅を焼いたところが――これ、やはり焦げついて見苦しいものとなったが故、さて、これをまた、老女のした如くに掃除して、頭の上で三度回して焼いたところ――いささかも、これ、焦げつかず、形も崩れず、相い成った。
 さすれば、後に、
「いや、かくかくのことにて、まっこと、不思議なることで御座った。」
と、さる老人に語ったところ、
「それは先刻承知のことじゃ。焙り籠に限らず、鉄灸てっきゅうなんどの上で魚を焼くにても、同じことじゃて。」
――人の頭の上で回すと、人の気を金気かなっけが受けて変性するとでも、言うので御座ろうか? 何にしても、いや、人知論外のことと言うべき不可思議で御座った。



   又

 鱈或は鹽引しほびき其外鹽肴しほざかな鹽ものゝ類汐たぐひしほを出し候に、紙を四角に切りておのへおのへおのへおのへと書て、右水の上にうかむれば立所に鹽出し候由、これ又一人のみにあらず、我知れる人一兩人語り侍る。

□やぶちゃん注
○前項連関:食品調理のまじないで直連関。
・「鹽引」塩漬けの鮭のこと。

■やぶちゃん現代語訳

  まじないに不思議な効き目のある事 その二

 鱈或いは塩漬け鮭、その他塩蔵処理した海産物、その他の陸産食品の塩蔵加工食品の塩抜きのを致す際には、紙を四角に切って、それぞれに「おのへ」「おのへ」「おのへ」「おのへ」と書いた上で、塩出しにそれらを入れた容器の水に浮かべると、これ、たちどころに塩出しが終わる。このことも、知人独りのみならず、私の知人二人までもが、語ったことで御座る。



 鼻血を止る妙呪の事

 鼻血出る人左より出れば己が左りの睾丸かうぐわんを握り、右なれば右の睾丸を握り、兩樣なれば兩睾を握れば、感通して立所たちどころに止由。呪ふ人女なれば乳を握りてまじなひに妙なるよし。

□やぶちゃん注
○前項連関:まじない直連関。医学的根拠はない。以下、複数の信頼出来る耳鼻咽喉科のサイトを参考にして、正しい鼻血の止血法を示しておく。まず、衣服を緩め、気持ちを落ち着かせて、上体を起こして椅子に座らせる(これが最善である)か、何かに背を凭させて床に座る姿勢をとらせ、必ず顔をやや下に向けさせる(血液が咽喉から気管へ流入するのを防ぐためで、しばしば行われる横向きの横臥や上方を仰がせる方法は完全な誤りで、絶対に上を向かせてはならない。なお、血液を飲み込みそうな場合、嘔吐や嚥下反応を起こすことがあるので、飲み込ませずに吐かせるようにする)。 次に、親指と人刺し指で小鼻を抓んで(水に潜る時の要領で)五分から十分程度、圧迫する(殆どの鼻血は鼻中隔前方の鼻孔から一~一・五センチの位置の、粘膜表面に血管が近接分布する、小鼻の内部に当たるキーゼルバッハ部位で発生するからである。鼻梁の上部の硬い骨の部分を押さえるケースが多いが、そこでは止血効果は期待出来ない。寧ろ、上を押さえるならもっと上部の、目頭の間を圧迫するのがよい。鼻に近い動脈はこの付近を通っているからである)。この時、冷たいタオルや氷嚢などで鼻全体を冷やすことが出来ると、血管収縮によって更に効果が期待出来る(この圧迫止血を二十分以上行っても止まらない場合は、貧血症状に繋がり、単なる鼻血に留まらない他の疾患による出血の可能性があるので速やかに耳鼻咽喉科を受診する)。なお、鼻に詰め物をするのは必ずしもよいとは限らない。特に鼻紙を詰めると、抜く際に鼻腔内を更に損傷させる危険性があるので、これも行うべきではない。止むを得ず詰め物をする場合は、柔らかな布や綿を用い、且つ、奥まで詰めないようにすることが肝心である。首の後ろを叩くという方法がよくとられるが、これには止血効果がなく、その際に仰ぐ姿勢となるため、よくない。

■やぶちゃん現代語訳

 鼻血を止める優れたまじないの事

 鼻血が出た人は、左の鼻腔からの出血であれば左の睾丸を握り、右の鼻腔からの出血であれば右の睾丸を握り、両鼻腔からの出血であれば両方の睾丸を握らば、たちどころに効き目の御座って止血するとのこと。因みに――まじなう被験者が女の場合は、睾丸の代わりに乳房ちぶさを握れば、まじないは同様に効果覿面という。



 賤婦答歌の事

 寛政四年の頃、靑山下野守家士在所より往來の折から、木曾路寢覺の里に足を休、名におふ蕎麥抔を食しけるに、給仕の女其おもてに蕎麥かすといへる物多くありしを、
  名にめでゝ木曾路のいもがそばかすは寢覺の床のあかにやありなん
かく詠て書付あたへければ、彼女憤りける氣色して勝手へ入しが、程なくかへしとおぼしく書付たるもの持來りし故、これを見るに、
 蕎麥かすはしづが寢㒵ねがほ留置とめおきてよい子を君に奉りぬる
とありければ、人の代りて詠たるか、當意即妙のところ感じ取はべりしと、右家士のゆかりある人咄しければ書留ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:四つ前の狂歌で連関。実話というより、太田道灌の山吹の狂歌版パロディという感じである。
・「寛政四年」西暦一七九二年。
・「靑山下野守」青山忠裕(あおやまただひろ/ただやす 明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)。丹波篠山藩第四代藩主。本話柄とは関係ないが、彼は天明五(一七八五)年に家督を継いだ後、寺社奉行・若年寄・大坂城代・京都所司代といった幕閣要職を総浚いして文化元(一八〇四)年に老中に着任後、実に三十年強勤め上げた、文化文政期の幕閣の要人である。天保六(一八三五)年、隠居。
・「木曾路寢覺の里に足を休、名におふ蕎麥抔を食しける」木曽川の水流で花崗岩が侵食されて出来た木曽八景の一つ、寝覚ノ床の名物蕎麦屋として越前屋がある(蕎麦屋として現存)。そのHPの「越前屋の歴史」によれば、寛永元(一六二四)年創業、日本で三番目に古い蕎麦屋とされる。宿場の立場茶屋として栄え、訪れた北川歌麿・十返舎一九・岡本一平・前田青邨などの書画が残されており、島崎藤村の「夜明け前」にも登場する老舗である(現代語訳では私の嫌いな藤村をパロった)。
・「蕎麥かす」雀斑(そばかす/じゃくはん)。米粒の半分の薄茶・黒茶色の色素斑が、おもに目の周りや頰等の顔面部に多数できる色素沈着症の一種。雀卵斑じゃくらんはんとも言う。主因は遺伝的体質によるものが多く、三歳ぐらいから発症し、思春期に顕著になる。なお、体表の色素が少ない白人は紫外線に対して脆弱であり、紫外線から皮膚を守るために雀斑を形成しやすい傾向がある。「そばかす」という呼称は、ソバの実を製粉する際に出る「蕎麦殻」、則ち、「ソバのかす」が本症の色素斑と類似していることによる症名であり、「雀斑」「雀卵斑」の方は、スズメの羽にある黒斑やスズメの卵の殻にある斑紋と類似していることからの命名である。
・「名にめでゝ木曾路の妹がそばかすは寢覺の床のあかにやありなん」は、在原業平の「名にしおはばいざ言問はむみやこ鳥我が思ふ人はありやなしやと」や、三条右大臣藤原定方の「名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」をベースとした狂歌で、名勝寝覚の床と女中の蕎麦かすがくっついた女中部屋の寝床を掛け、恐らくは暗にびっくりするような雀斑に「寝覚め」も掛けている。「妹」は「芋」で「蕎麦」を引き出し(流石に「芋姉ちゃん」の意まであるまい)、「あか」は木曽川の水流の閼伽あか(水)で舞台の縁語であり、更に雀斑を喩える水垢、暗に「垢抜け」ない雀斑女の田舎女の寂しさを想像して揶揄してもいよう。
――「寝覚ノ床」の名にし負うた――木曽路の娘の、その雀斑は――独り寝の淋しい寝床でついた、垢ででもあろうか……
・「蕎麥かすはしづが寢㒵に留置てよい子を君に奉りぬる」の「しづが寢㒵」は「賤が寢㒵」で卑称。文字通り、雀斑を実際の蕎麦かす(蕎麦を挽いた滓)に掛け、「よい子」を「よい」と「よい」(蕎麦粉)に掛けた。
――蕎麦かすははしたであるこの私めの顔にとどめおいて――敢えてよい――よい蕎麦粉を――貴方様には奉りまする……

■やぶちゃん現代語訳

 賤婦の返歌の事

 寛政四年の頃、青山下野守の家士が、丹波篠山の在所から江戸へ往来した折りの出来事で御座るという。

――木曾路はすべて山の中である。そばづたいに行く崖の道を……数十間の深さに臨む木曾川の岸を……山の尾をめぐる谷の入り口を辿ってゆく……と……目覚めんばかりに美しき、碧水奇岩の寝覚の床が現れる――

……拙者、そこで足休めを致いて、名にし負う名代の越後屋の蕎麦をたぐって御座ったところ、その折りに給仕致いた娘、その顔が、これが、まあ、驚くべき美事に仰山なる――そばかすじゃ! そこで一首、
  名にめでて木曽路の妹の蕎麦かすは寝覚の床のあかにやありなん
と詠んで書きつけたものを渡いた。
――と――
この田舎娘、何やらん、非道う憤った気色で店の奥へ入ったかと思う
――と――
うして、返しと思しく、何やらん、書きつけたものを持ち来たって、さし出だいたのを見れば、
  そばかすは賤が寝顔に留め置きてよい子を君に奉りぬる
と御座った……

「……誰か、好き者が代わって詠んだものかとも思わせる……いや、その当意即妙に、すっかり感じ入り……軽き戯れにうとうたこと、大いに恥じ入りました……。」
と本人が語ったということを、この家士に所縁ゆかりある人が話したのを、私が書き留めたもので御座る。



 連歌師滑稽の事

 向秀といへる連歌師、人の夢賀の句を乞ひけるに、忘れて過ぬれば、いかにも面白く目出度事をとせちに乞ければ、歌をよみて贈りけるとぞ。
 龜に櫛鶴かうがひの愁あり用に立ざる君は千代まで

□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌で直連関。
・「向秀」不詳。この号は竹林の七賢に因むか。ならば「しょうしゅう」と読む。これは江戸時代の話ではなく、もっと古い話かも知れない。
・「夢賀」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「壽賀」で、長寿の言祝ぎの謂いである。こちらを採る。
・「龜に櫛鶴かうがひの愁あり用に立ざる君は千代まで」以下、通釈しておく。
……亀は甲羅を鼈甲の櫛にされる……鶴は脛骨を髪飾りのこうがいにされる宿命的な愁いが御座る……が……正真正銘……未来永劫……何らの役に、これっぽちも……立ちは申さぬ御貴殿は……千年、万年、生きらりょうぞ! いやいや、これぞ! めでたや、のう! めでたや、のう!

■やぶちゃん現代語訳

 連歌師の滑稽の和歌の事

 向秀とかいう連歌師、ある時、人に長寿をいおうた一句をと乞われておったが、これ、すっかり忘れて御座ったのを、「……どうか、如何にも面白うてやがて目出度き御句を!」執拗しつこく乞われたので、その場でさらりと一首を詠んで贈った、という。
  亀に櫛鶴かうがいの愁あり用に立たざる君は千代まで



 大久保家士惇直の事

 寛政五丑年三月、執政松平越中守殿浦々見分の事有て、相州根府川ねぶかはの御關所を通行ありしが、駕を不用歩行もちひずかちよりして右御関所へ行懸り笠を用ひられしを、御關所の番士大久保加賀守家士大木多次馬たじま立出、御關所に候間笠を取候樣近習の士へ斷りしゆへ、越中守殿にも其精勤を感賞ありて、加賀守へも通達有之、江戸表へも被申越まうしこされしや、その書取を爰に記す、
[やぶちゃん注:以下、「書取」は底本では全体が二字下げ。なお、一部の訓読が難しいが、「書取」の原型を味わって貰うため、ここでは読みを示さず、注の方で全文再掲の上、難読語を訓じておいた。]
今日根布川御關所通行の節、風與心得違にて笠脱不申候處、番士大木多次馬笠之儀心付け候。自分心得違の儀は江戸表同列迄申達にて可有之候。勿論加賀守殿より御達筋には不及候。扨多次馬年若に相見候得共、嚴重精勤の段一段の事、加賀守殿御申付宜故之事と存候。多次馬儀心得方宜段は、御褒被掛御目ヲ可然哉に存候、此段も無急度申達候事。
右は多攻馬が其職を守る、越中不明公惇直なるを稱して爰にしるし置ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。巻頭より本格的な武辺物がなかっただけに、意識的に配したものとも思われる。
・「惇直」は武士としての根岸の最も好む語で「じゆんちよく(じゅんちょく)」と読み、純粋で正直なこと。一途で正しいことを言う。
●書取訓読
今日、根布川御關所通行の節、風與ふと心得ちがひにて、笠、脱ぎ申さず候ふ處、番士大木多次馬、笠の儀、心付こころづけ候ふ。自分心得違ひの儀は江戸表同列迄申し達しにて之れ有るべく候ふ。勿論、加賀守殿より御達おたつしの筋には及ばず候ふ。さて、多次馬年若に相ひ見へ候得さふらえども、嚴重精勤の段、一段の事、加賀守殿御申し付、宜しき故の事と存じ候ふ。多次馬儀、心得方ここえかた宜しき段は、御褒め、御目を掛られ然るべきやに存じ候ふ、此段も急度無きつとなく申し達し候ふ事。
・「執政松平越中守」陸奥白河藩第三代藩主松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政十二(一八二九)年)。彼は松平家の養子であって、実父は御三卿田安徳川家初代当主徳川宗武、則ち、徳川吉宗の孫に当たる。天明七(一七八七)年より寛政五(一七九三)年まで老中首座並びに将軍輔佐となって寛政の改革を実行した。寛政五(一七九三)年三月に伊豆・相模・安房・上総・下総の海防巡見を行っており、本話はその折りのものである。但し、この四ヶ月後の七月二十三日、やはり海防巡見中に突如将軍より辞職を命ぜられ、失脚している。「執政」は幕政全般を取り仕切った将軍に次ぐ老中職を指す。
・「根府川の御關所」現在の小田原市根府川のJR根府川駅を降り、急坂を少し下ったところに小田原藩の根府川関所跡がある(実際の跡は関東大震災で埋没、新幹線工事によって川床となった)。箱根の脇関所として、熱海・伊東への海辺街道の監視を行う重要な関所であった。
・「大久保加賀守」大久保忠顕(宝暦十(一七六〇)年~享和三(一八〇三)年)。小田原藩第六代藩主。参照したウィキの「大久保忠顕」には、藩財政の窮乏を懸命の引締政策で乗り切ろうとするも上手く行かず、『おまけに幕府から海防を命じられ、さらに財政は逼迫した。このため、藩の改革は長男・忠真と二宮尊徳によって受け継がれることとなる』とある。
・「同列」同輩の老中。老中の定員は四人から五人で、寛政五(一七九三)年の時点では老中首座の定信以下、松平信明・松平乗完のりさだ本多忠籌ほんだただかず戸田氏教とだうじのりらがいた。
・「急度無きつとなく」は、内々に、非公式にの意。
・「不明公」松平定信を指しているが、不詳。彼の別号には楽翁・花月翁・風月翁・白河楽翁があり、諡号は守国公であるが、「不明公」というのは見当たらない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、ここは「相公しょうこう」で、これは宰相の尊称。「不明」と「相」の字の類似性が深く錯字を感じさせる。「相公」で採る。

■やぶちゃん現代語訳

 大久保家の惇直なる家士の事

 寛政五年丑年の三月、老中松平越中守定信殿が海辺を巡見なさった。相模国根府川の御関所をお通りになられた際――この時偶々、定信殿は駕籠を用いられておらず、徒歩でかの御関所へとお入りになり、尚且つ、笠を用いられたままで御座った。すると、関所番士であった大久保加賀守忠顕殿の家士、大木多次馬がすっと立ち出で、越中守殿近習の者に向かって、
「御関所にて御座れば――笠をお取り下さいまするように――」
と断りを入れて御座った故、越中守殿、
「……これは……うむ、うっかりして御座った。」
と笠をお取りになられた――。
――後日のこと、越中守殿にはかの大木多次馬の惇直なる精勤を殊の外お褒めになられ、加賀守殿へもこのことのお達し、これ、あり――また、この話、江戸表にも伝わって御座ったればこそ――その越中守殿お達しの写しを、ここに記す。

本日、根府川御関所を通行した折り、ふとした心得違いにて笠を脱ぎ申さずに御座ったところ、貴殿番士大木多次馬、脱笠だつりゅうの儀につき、注意を受けて御座った。この己れの心得違いの儀に就きては、江戸表同列の老中連に対し、拙者自ら申し達することと致して御座る。されば無論、加賀守殿よりかく不埒者有ったを御達しする筋にては及ばざることに御座る。さて――この多次馬、未だ年若に見申したなれど、その惇直にして堅固厳重なる精勤の段、これ一段と優れて御座ること、主加賀守殿の御申付、これ、宜しき故のことと存じ申し上ぐる。多次馬の優れた判断力と精勤の儀に付ては、必ずお褒めおかれ、また、御目をかけられて然るべきことと存じ申し上ぐるを、この件に就きても、内々に老中連に申し達する所存にて御座る。

 以上は、大木多次馬がその職分を美事に守った忠と誠と、また、越中守相公定信殿の惇直を讃えるため、ここに記しおいたもので御座る。



 井上氏格言の事

 明和安永の頃、井上圖書ずしよといへる御書院の組頭ありしが、或日他組の番頭なりし北條阿房守途中にて出會しに、安房守は乘輿のりこし、圖書は歩行かちにて馬をひかせ通りしゆへ、會釋なく駕の際を通りしを、安房守より圖書番頭へ、乘輿の脇をおもてを合せ通行に一向會釋なきは如何との咄を圖書聞て、五十人の御番衆の内には多分歩行にて往來の者も多く、依之途中にて番頭等へあひ候ても見ぬふりを致候儀申合に候。是は御旗本へ途中にて逢れ候節、番頭にても下輿げよ下乘も可有之事、候ば御城往來にも幾たびか下乘可有之故の儀に候。右の通りの安房守存寄に候はゞ、重ての儀組一同申合、下乘の遠慮なくひかへ候樣可申合旨申ければ、是にこまりてたはぶれ事になして事濟ぬと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:平時の武辺物で連関。岩波版の長谷川氏の注には、『図書は礼をすれば番頭も駕籠・馬から下り返礼せねばならぬ。その煩わしさを厭わぬというのなら以後会釈をするよう申合せようといった』と解説されている。実は私の頭が鈍いのか、『番頭も駕籠・馬から下り返礼せねばならぬ』と読める部分が、何処であるかはしかと分からぬのであるが、この謂いは正に安房守がビビる核心を補強するものであることは確実だから、井上の台詞の最後に出させて貰った。
・「明和安永」西暦一七六四年から一七八一年。次が天明で寛政と続く。本執筆時と推定される寛政八(一七九六)年より十五年から三十年ほど前となる。
・「井上圖書」井上図書頭正在(いのうえまさあり 享保十六(一七三一)年~天明七(一七八七)年)。明和四(一七六七)年御小性組頭、安永二(一七七三)年大目付、安永八(一七七九)年従五位下図書頭、天明五(一七八五)年普請奉行。ネット情報では杉本苑子の小説「冬の蝉」では硬骨漢として描かれているらしい(未読)。
・「御書院の組頭」「御書院」は書院番で将軍直属の親衛隊。六組(当初は四組)で一組の内訳は番士五十名・与力十騎・同心二十名の構成からなる。番頭は各組の指揮官で、その番頭の補佐役が組頭。
・「北條阿房守」北条安房守氏興(ほうじょううじおき 享保十五(一七三〇)年~寛政九(一七九七)年)宝暦三(一七五三)年従五位下安房守。新番頭から明和二(一七六五)年御小性組番頭、安永七(一七七八)年大番頭、天明五(一七八五)年には駿府城代となった。以上の事蹟から、本話は井上が御小性組頭となった明和四(一七六七)年から暫く経った頃で(話柄から直後とは考えられない)、井上が大目付に昇進する安永二(一七七三)年以前ということになる。一つ違いだからどちらも、三十代後半から四十歳前後である。
・「乘輿」とあるが、「輿」は駕籠のことを意味している。

■やぶちゃん現代語訳

 井上氏の格言の事

 明和・安永の頃、井上図書頭正在殿という御書院番組頭が御座った。
 ある日、他の組の番頭であった北条安房守氏興殿と擦れ違った。この時、安房守は駕籠に乗り、図書の方は徒歩で馬を引かせての通行で御座った故、会釈せずに駕籠の脇を通った。
 ところが、後日のこと、安房守より井上殿の番頭へ、
「貴殿支配の組頭井上殿じゃが……我ら番頭が乗る駕籠の脇を正面から擦れ違うに、一向、会釈も御座らぬとは、これ、如何なものか、の。」
と小言の御座ったを井上殿聞きて、
「――はて。五十人から御座る御番衆の内には、大概は徒歩立ちにて往来する者も多く、これに依って、路次ろしにて番頭などへうて御座っても、見て見ぬ振りを致すようにするが、我等が申し合わせに御座る。これは――もし、番頭御自身が、路次で御旗本にうて御座った折りには――番頭御自身、駕籠を降り、馬を下りねばならぬ、と言うが道理――ということで御座る――さすれば、番頭御自身、御登城・江戸市中御通行の砌りには、これ、幾度も、駕籠や馬を、下りねばならぬが――道理――ということになろうと存ずる。――いや――もし、かくの通りが守るべき道理と、安房守御自身がおっしゃるので御座らば――さても、ここでしっかと組々一同申し合わせの上、遠慮のう、下乗して控えて会釈致し、当然の如、それに続くところの番頭御自身の御下乗による御挨拶を、かたじけのう、しっかとお受け申すよう――周知徹底致すが所存にて、御座る――。」
と申し上げた。
 流石の安房守も、これには困り果てて、
「……い、いや、……その、あれは、の……ちょっとした冗談じゃ、て。……」
と言い紛らかいた、とかいうことで御座る。



 猫物をいふ事

寛政七年の春、牛込山伏町の何とかいへる寺院、祕藏して猫を飼ひけるが、庭に下りし鳩の心よく遊ぶをねらひける樣子故、和尚聲をかけ鳩を追ひ逃しけるに右猫、殘念也と物言しを和尚大におどろき、右猫勝手の方へ逃しを押へて小束こづかを持、汝畜類として物をいふ事奇怪至極也、まつたく化け候て人をもたぶらかしなん、一旦人語をなすうへは眞直に猶又可申、もしいなみ候においては我殺生戒を破りて汝をころさんと憤りければ、かの猫申けるは、猫の物をいふ事我等に不限、拾年餘もいき候へばすべて物は申ものにて、夫より拾四五年も過候へば神變を得候事也。しかしながら右の年數命をたもち候猫無之これなき由を申ける故、然らば汝物いふもわかりぬれど、いまだ拾年の齡ひに非ずとたづね問ひしに、狐と交りて生れし猫は、其年功なくとも物いふ事也とぞ答ける故、然らば今日物いひしを外に聞ける者なし、われ暫くも飼置かひおきたるうへは何か苦しからん、是迄の通可罷在とほりまかりあるべしと和尚申ければ、和尚へ對し三拜をなして出行しが、其後いづちへ行しか見へざりしと、彼最寄に住める人のかたり侍る。

□やぶちゃん注
○前項連関:武辺物二本の後のティー・タイムという感じでもある。但し、連関というわけではないが、井上の立て板に水を流すような理詰めの口調と、猫の猫による猫のための猫族の語り口が何だか似ている気がして面白い。本話は妖猫譚としてよく単独でも引かれ、「耳嚢」の怪談でも一番人口に膾炙するものと思われるが、私はこの和尚との問答と、その結末が、何かしみじみとして、忘れ難く好きなのである。
・「牛込山伏町の何とかいへる寺院」牛込山伏町は現在の新宿区市谷山伏町で、非常に狭い町である。ここには現在、真宗大谷派の常敬寺という寺があるが、ここか。この寺には海老一染太郎の墓があるが、この偶然が何だか面白い。――私は小学校二年生頃、父の会社の慰安会に母と一緒に行って、司会をしていた海老一染之助・染太郎の「何かおやりになりたい方は御座いませんか?」という言葉に、真っ先に手を挙げて舞台に上がり、ハモニカで文部省唱歌の「故郷」を吹いた。――吹き終ったら、染太郎師匠が、あの金ツボまなこをぎょろつかせてにっこり笑うと、「坊ちゃん、上手いねえ! おじちゃんのお弟子になるか?」と言った(その時、染之助師匠がいつもより多く傘を回してくれたかどうかは――定かではない)。――「私はずっと、はらはらし通しだったわ」――がその思い出の、母の語り草だった。――僕の「耳嚢」である。
・「祕藏して猫を飼ひける」この「祕藏して」は、こっそりと隠しての意ではなく、大切に可愛がり育てることの意である。但し、寺社で動物を飼うことを禁ずる習慣は古くからあった。例えば密教の高野山や比叡山に行われた、女人禁制・魚肉の持込の禁止・動物の飼育の禁止(但し、一種類の動物だけは山の神の使いとして飼うことが許可され、高野山では犬が飼われた)・大きな音を立てることの禁止という四つの禁忌の中に含まれている。但し、これは殺生戒等に基づく仏教戒律とは関係がないようである。
・「ねらひける」は底本のルビ。
・「小束」は「小柄」が正しい。日本刀の鞘の鍔の部分に付属する小刀。平時は普通のナイフのように用いるが、武器として棒状手裏剣などにもなる。
・「もし」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 猫がものを言う事

 寛政七年の春、牛込山伏町の何とかという寺院で、一匹の猫が大切に飼われて御座った。
 ある日のこと、和尚が庫裡くりから見ておると、この猫、庭に下りた鳩の、無心に遊んでおったを、凝っと狙って御座る様子なれば、和尚、
「喝!」
と声をかけて鳩を追いはらってのがいた……ところが……
……猫が……
……「残念なり。」……
……と……
……言うた……
――和尚、大いに驚き、この猫の庫裡裏へ逃げたを取り押さえ、小柄突きつけ、
「――汝、畜類の身にありながら、物を言うとは奇怪千万きっかいせんばん! 全く、化け猫となって人をもたぶらかそうものじゃ! 一旦人語を成した上は、素直に諦め白状致せい! もし――これを聞かぬとならば――我――殺生戒を破りて――汝を殺さん!」
と憤った。
……と……
……かの猫が……
……答える……
「……猫のものを言うは、我らに限ったことでは、ない……十年余も生きて御座れば……どんな猫も……ものは申すものにて……それより十四、五年も過ぎて御座れば……どんな猫も……神通力を得て御座るものじゃ……しかしながら……まず、その齢いを保てる猫は……御座らぬのぅ……」
と申す故、
「――ウム! 然らば、汝がものを言うも、尤もなることと合点致いた。が――汝、未だ十年の齢いにも届かざるは如何!――」
と一喝致いた。
……と……
「……狐と交わって生まれた猫は……これ、その年の甲を経ずとも……ものを言うものじゃ……」
との答え。
 されば、和尚、
「――然らば今日、汝のものを言うたを外に聞く者は、ない。我も暫く飼いおいて参ったものなればこそ――何の不都合があろうぞ?――さても、これまで通り――この寺で――もの言わぬただの猫として――暮らすがよいぞ。」
と申したところ、
……猫は……
和尚に正対しょうたい三拝致いて、走り去った……。
 それから……何処いずちへ行ったものか……とんと見えんようになった、という。
 かの寺の最寄りに住む人が語った話に御座る。



 人には品々の癖ある事

 寛政六年冬の事也し。御用を承る御具足師妙珍何某が方へ、綺羅人品とも格別ならざる武士參りて、具足一領こしらたく、注文は如此かくのごとく也と書付を見せ、凡何程にて出來可致哉いたすべきやと尋ける故、妙珍も其人物右樣の具足可申付まうしつくべしとも思わざる故、凡百兩餘にては出來可致旨を答へければ、左候はゞぢき賴度たのみたき由を申ゆへ、世には品々の手段にてかたり事などいたす事もあれば氣遣敷きづかはしきゆへ、いよいよ被付候はゞ職分の者へもとく聞糺ききただし直段ねだん極可申きはめまうすべき旨を申斷まうしことはり相返し、手代てだい共と相談評議しけるが、右の武士いかにも金高の武具等申付候人品にも無之、注文通には凡百兩餘にては出來も可致候へ共、百五拾金とも申候て可然しかるべく旁々かたがた右居宅をも見屆け可然しかるべしと咄合候處、翌日猶又右侍罷越、彌々積りは出來候と尋ける故、百兩餘とは凡積り申上候得共、とくと御好の趣を以積り合候處、百五拾兩に候はゞ急度きつと念を入相仕立可申旨を申候處、左候はゞ其通り賴入たのみいる、早速取懸り可給たまふべき旨にて、手附金五拾兩相渡、證文受取罷歸まかりかへり候樣子に付、尚又疑ひ候て、明日御屋敷へ罷出猶又可相伺なほまたあひうかがふべき旨を申、翌日所書ところがきとほり小石川三百坂へ罷越右屋敷を承り候處、門塀家作の樣子も甚破損のていにてもつとも貧家と見へけるゆへ、一たびは驚き一度は疑ひながら、案内申入すなはち主に對面せしに、前日參れる人にて、則取懸候趣をも申越、妙珍も類燒已來金子不手廻ふてまはり故、今少し内貸うちかし相願候趣申入けるに、隨分可差遣さしつかはすべき段には候得共、當時金子貮十兩は有合ありあひ候得共、跡三十兩は明日可相渡あひわたすべき由にて、右貮十兩を渡しけるゆへ請取歸り、取懸りの儀申付、さるにても不思議成儀、右屋敷近所にて承合うけたまはりあひ候ても、至て不勝手にて諸拂買懸はらいかひがかり等も不束ふつつかに成行候由故、何とも不審なる事と思ひ居たるに、間もなく右じん罷越、彌々取懸り給候との尋故、下鐵したがね其外相みせければ、此間約束の金子の由にて三十兩相渡ける故、妙珍も驚入、さてさて此節新規に御好を以て甲胃御仕立と申儀餘り無之候、御心掛乍憚はばかりながら感心致し申候、私職分の儀故御好通り相仕立、此上の御入用はまけ候て可差上さしあぐべしと申ければ、右武家以の外憤り、最早相賴間敷あひたのむまじきさだめて屋敷の樣子我等が人品、右ていの大金可差出さしだすべき者に無之これなしと見候ての事に是有べし、我等は若年より武具造立ざうりふの心懸にて、萬事の雜費をも差置、入用をたくはへ、此度仕立の儀申付候處、武器へ對し負け候と申す儀何とも得難其意そのいえがたし、最早入用も捨可申すてまうすべき間仕立無用の旨を申候故、妙珍も殊の外こまり、誠に恐入おそれいり候儀、風與ふと申違ひに候間、殘金はひき候て仕立可差上さしあぐべしと相わびければ、武具に引候との儀よろこばしからず、いづれ賴まじきとて殊の外憤り歸りける故、妙珍父子親類迄も日々三百坂の屋敷へ通ひ、手を摺り詫いたし、翌卯の正月までもいまだ不相濟あひすまざる由、所々にての噂也。名前は差合さしあひあれば不語かたらざる由、我も兩三人より聞およびし事也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。武辺物へ流れを戻した。本話はその末尾の洒落が笑話や落語にありそうな感じであるが、根岸の実際の聞書きであること、登場人物の一方が完全に特定された実在する具足製造の商業行為を行っている人間であること(これが作り話であれば営業妨害に相当する内容である)、もう一方の匿名の武士も、本話中の情報を用いれば数人に若しくはある一人の特定実在人物に同定することは必ずしも難しくないこと(こういう堅物で偏屈な武士は必ずしも珍しくないと思われる)、などを考えると実話であったと考えてもよいようにも思われる。私の好きな話柄である。
・「寛政六年」西暦一七九四年。
・「具足師妙珍」幕府御用達の甲冑製造師妙珍。底本の鈴木氏の注に、『明珍が正しい。遠祖宗徳が甲冑と鍔の名工で、子孫業をつぎ、名工多く、この一門で甲冑の製造を独占するにいたった。明珍は第三十二代宗介が近衛天皇から賜わった号であるが、一門これを称した』とある。保元の乱絡みでいわくつきの、十六歳で夭折した近衛天皇の在位は永治元(一一四二)年から久寿二(一一五五)年。武家の台頭と軌を一にして賜号を受けたというのが興味深い。
・「綺羅」「綺」は綾織りの絹布、「羅」は薄い絹布の意で、本来は美しい衣服を言う。ここでは実際のみすぼらしさを憚っての単に服装の意。
・「職分の者」この頃になると甲冑製造は工房システムでの分業であったのであろう。それぞれの部位の細工を担当する者を言う。
・「小石川三百坂」現在の文京区小石川三丁目と四丁目の境、伝通院の西にある坂。元は三貊さんみゃく坂と言った(この原呼称の意味は不明)。ここは播磨坂周辺に上屋敷を持っていた松平播磨守頼隆が登城の際に通った道で、松平家の仕来りで、藩主登城の際の徒歩の供侍は、まず玄関で殿にお目通りし、それから直ぐに着替えて登城の列に加わることとなっていた。徒歩侍の者は、登城の列が伝通院横のこの坂を登り切るまでに追いつけなかった場合、三百文の罰金を支払う掟となっており、そこから松平家家士がこの坂を三百坂と呼び、一般でもかく呼称されるようになった旨、懐山子の「江戸志」にある。
・「類燒」本話は寛政六(一七九四)年の出来事とするが、まさに江戸の花、寛政年間には四(一七九二)年・五年・六年と立て続けに江戸は大火に見舞われている。
・「内貸」代金の一部前払い。
・「當時金子貮十兩は有合候得共、跡三十兩は明日可相渡由」この文脈から考えると、既に内金五十両が支払われている百五十両という金額に対し、「今少し」という売手の言葉を受けて、買手が自律的に「では明日までには、総額百両耳を揃えて支払おう」と言っていることが分かる。これは恐らく当時の不文律で、通常は支払総額の2/3を内金とするのが相場だったことを示すものではあるまいか? 但し、百五十といった高額の場合はその限りではなかった、最初の五十両若しくはプラス二十の七十両で既に十分であった可能性が高い。でなければ、後日、七十プラスの三十両を主が持参した際、妙珍が「驚入」とは思えないからである。識者の御教授を乞うものである。
・「拂買懸」支払いと買い掛かり(代金後払い)。
・「下鐵」具足本体に用いるための原材料の鉄板であろう。
・「妙珍も殊の外込り」底本では「込り」の右に『(困り)』とある。
・「翌卯」翌寛政七(一七九五)年乙卯きのとう
・「妙珍父子」ここで主役を演じているのは父か子か。子では役不足なので先代の父、大旦那と採りたい。子は既に店の実務を担当していた若旦那と判断した。頑是無い小さな子でも謝罪効果はあろうが、本話柄の父妙珍はどうみても老獪で若くない。
・「名前は差合あれば不語」江戸切絵図を見るとこの三百人坂には左右に二十四軒ほどの屋敷が並んでいる。こいつかな? こいつかも? なんどと夢想しつつ、切絵図を見るのも、私には楽しみの一つである。

■やぶちゃん現代語訳

 人にはそれぞれに多様な性質たちのある事

 寛政六年冬のことであったという。
 幕府御用を承る御具足師妙珍何某が方へ、服装人品ともに、如何にも見栄えのせぬ武士が来店致いた。
「……具足一領、拵えたい。仕様は、かくに通りで。」
と書き付けを見せ、
「……さても、凡そ、如何程にて、仕立てられようか、の。」
と訊ねた故、妙珍も――その、かくもみすぼらしい風体ふうていの者に、指し示された書付に御座るような立派な仕様の具足を誂える器量や金があろうとは思わざる故、
「……さても、凡そ、百両ほどなれば……出来ましょうか、の。」
と答えた。するとその侍、
「相い分かった。では、直ぐにとり掛って貰いたい。」
と申す。
 妙珍は、そこで、
『……近頃、世間では思いもよらぬ手練手管で、とんでもないかたりなど致すこともあればこそ……この男、大いに……不審じゃ……』
と思い直し、
「……ああ、いや……さてもご正式にご注文なさるので御座れば、各々の細工職人が方へも、ご要望の仕様につき、仔細打ち合わせ聞きただいて、正確なお値段を決めさせて頂いた上で、それをお示し申し上げますれば。」
と受注の儀はまずは留保致いて、侍には帰ってもろうた。
 男が帰った後、妙珍は手代どもを集めて頭を突き合わせ、いろいろ相談評議致いた上、
「……いや……あの侍、とてもかくなる精緻な仕様の高価なる武具など、とても注文致すべき人品にては、ない。注文通りのものならば、まあ、百両余りにては出来も致そうが……百五十両、とふっかけてみても、まんざら法外な値とも言えまいtえどうじゃ?……その話方々、先方の居宅の様子なんども……それとのう探って参る、というのも、よかろうが。」
と決した。
 ところが翌日、またしてもかの侍がやって参り、
「さても、見積もりは出来て御座るか?」
と訊ねるので、明珍、慇懃に、
「はい。――昨日は『百両余り』と、凡その見積もりを申し上げましたが、とくとお好みの仕様を仔細検討させて戴きましたところ、百五十両で御座いますれば、当方、請け負い申し上げ、必ずや、精魂込めてお仕立て申し上げようと存じまする。」
と申したところ、男は、
「……なれば……よし! そのように頼んだ。早速にとり掛って貰いたい。」
と、手付金五十両を支払い、当該前金領収の證文を受け取って帰って行った。
 しかし――その一部始終を見て御座っても、妙珍は、未だ不審が晴れない。
「……儂が明日直かにお屋敷へ参って……なお、また……いろいろと……様子を窺ってみよう。」
と店の者に言うた。
 翌日、注文書の所書きの通り、小石川三百坂へ参って、かの侍の屋敷を訪ねて見たところが、門や塀――いや、その家作全体の在り様は――これ、損壊甚だしく、文字通り、廃屋の如くにして究極の貧家――といった体たらくで御座った。
 一たびはそのおぞましいばかりの棄景に驚き呆れて、一たびは『こんなところに、かくも五十両を出した武士の、住んでおろうはずもない』と深く疑念を持ちながらも、案内を乞うた。
 あるじが出て来て、対面致いたところ――
 確かに――前日参った侍で御座った。
 妙珍は、早速に作具の用意にとり掛った旨の嘘を申し述べた上で、
「……実は拙者儀も、……先般の大火類焼以来、……そのぅ、金繰りに困って御座いましてのぅ……その、……今少し、内金を相い願いたく存じ、参上致いた次第にて御座いまする。……」
という話を持ち出してみた。すると、
「……うむ……それなりに追加の金子を差し遣わすに異存はない。ただ……ただ今は、手元のあり合わせ、これ、二十両ほどしか御座らねば……あとの三十両は、明日渡そうぞ。」
と言うたか思うと、即座にその二十両を渡いた。
 店に戻った妙珍は、直ぐに手代どもに作具の準備に入ることを命じならも、
「……いや、それにしても不思議なことじゃ、……行きしなと帰りがけにも、かの屋敷の近所にてそれとのう、話を聴いてみたところでも、かの侍、至って勝手不如意にして、諸々の支払い売掛けなんども、殆んどがこれ、滞っておるとの専らの噂……それで、百両、基、百五十両の具足に、かの五十両と、この二十両をぽんと出すとは……何とも不審なることじゃ……」
と独りごちで御座った。
 そのような晴れぬ思いの中で仕事をして御座った妙珍のもとへ、間もなく――侍の申した通り、正確に、その翌日のこと――かの御仁が来店致いた。
「いよいよ本格的な作具にとり掛って呉れて御座ろうかの?」
との問いであった故、幸い、届いて御座った発注した鉄素材や、その外、注文書にあったのと同じさねしころの見本を見せなど致いたところ、男は満足気に、
「先般、約束の金子じゃ。」
と言って、三十両出だいた。
 疑いばかりかけて御座った妙珍も――まさか、自ずと後ろめたい不要の三十両を、あの貧窮貧相なる男がちゃんと耳を揃えて持ってくるとは思いもよらねばこそ――流石に驚いて、
「……あっ……さてもさても、この天下太平の折りから、新調の具足一式を、それも美事なるご自身のお好みによる、細部仕様書まで添えてのご注文というは、これ、とんと御座らぬことにて御座いまする。――さても武士としての、そのお心懸け、憚りながら、感服仕って御座いますれば、私めも具足師、この命にかけて、お好み通りに相い仕立て申し上げますれば、――この上のお代は、負けさせて戴きますればこそ……」
と言い掛けたところが――
――かの武士、以ての外に憤って――
「……何?! 最早、頼まん! 定めて拙者が屋敷の様子、我らが人品を垣間見て、かくなるほどの大金を差し出せるような者にては――ない――と踏んだのに違いがなかろうが! 拙者、若年より不断に武具造立ぞうりゅうをこそ心懸けとして参り、あらゆる雑費を切り詰め、切り詰め、他に掛る金をさえもそちらに回さずに貯え、貯え、この度、ようやっと具足仕立ての儀を、貴殿に申し付けたところじゃった!……むむむ、むむむ!……その、武士の武器へ対し……『負けさせて戴く』と申すは!……何とも、貴殿の『感服』と申すその心根の真意も、これ、はかり難し!!……最早支払いたる前金七十両も、これ、捨て申せば――仕立て無用!!!」
と、戦場の名乗り宜しく、大音声にて呼ばわる。
 妙珍はすっかり心を見透かされたによって殊の外に困り果て、土間に飛び降りると、地にぬかせんばかりに低頭した。
「……誠に、恐れ入って御座りまする!……あれは、その、……ふと、申しようをたごうたに御座れば……あの、その、……残金は、……引きまして……お仕立て申し上げますれば……」
と詫び言を言うた。
――ところが――
「……何と、なッ?! 武具に、言うに言欠いて……『退く』……となッ?! 面白うない!! 何れにせよ、もう、頼まん!!!」
と喚くや、男は、殊の外憤ったまま、ぶるぶると全身を武者震いさせて、帰って御座った。
 それ故、困惑した妙珍は、後継ぎとして既に店に出て御座った子を連れ、更にはそれなりの御武家方に知れる方の御座る親類なんどまで繰り出して、お百度ならぬ三百坂の、お屋敷へと日参致いては、手を擦っては詫びを致いたものの――翌七年卯年の正月になっても――未だ、かのお武家さまのお怒りは解けず、妙珍のおたなも不名誉なれども如何ともし難し、致し方なくして、全く以て困り切って御座る――というは、私の勤務先など、しばしば、いろいろな所で、もっぱらの噂となって御座る。
「……このお武家の名は……いや……差し障りがあれば名は申しますまい……。」
との由、私自身、三人もの違った者より聞き及んだ話で御座る。



 古風質素の事

 板倉二代目周防守、年始登城可有之これあるべくとて、前年の暮白無垢しろむく古びたりとて新調を申付られ候を、家老何某承りて、白無垢新調を被仰付おほせつけられ候由故見分いたし候處、是迄の御小袖御古びも相見へ候得共、年始御用おんもちばかりに新調被仰付候は如何に候由いさめて、新調めに被致いたされけると、家記にもしたため有之由、當周防守直々物語りにて承りける。當時諸侯に無之これなく候共、白無垢一ツ新調ぐらいの儀、我々にても家來共へ可申聞程の事にも無之。時勢の變化はさまざま成ると記し置ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:鎧新調が店主の何気ない一言から「仕立て無用!!!」となったシーンから、小袖新調がうるさ型の爺の一言で沙汰やみとなる類感的連関がまずあり、加えて、あばら家で借金に首の回らない冴えない武家が、高価な鎧一式に拘って百五十両を倹約(というより別腹の力技で)貯めたという変な話から、殿様に衣一枚でも倹約を諫言するド吝嗇家老と変な「家記」(主家先祖の記録・家伝)でも連関する。
・「板倉二代目周防守」板倉重冬(寛文十二(一六七二)年~宝永六(一七〇九)年)。伊勢亀山藩第二代藩主。板倉家宗家第五代。板倉家では先々代の第二代当主重宗が周防守を叙任しているので、板倉家での周防守拝命二代目ということ。享年三十八で亡くなっている。この内容は本書記載時より、彼の没年で計算しても九十年近く前となる。
・「白無垢」この場合は、礼服の下に着る以下の小袖の絹仕立ての白衣。
・「小袖」ここでは大宝の衣服令で定められた、礼服の大袖の下に着る筒袖・盤領まるえりの衣服。
・「當周防守」板倉勝政(宝暦九(一七五九)年~文政四(一八二一)年)。備中松山藩弟四代藩主。板倉家宗家第十代。板倉家直系で重冬の曾孫。重冬の孫初代備中松山藩藩主板倉勝澄の七男。

■やぶちゃん現代語訳

 古風なる質素の事

 ある年の暮、板倉周防守二代目板倉重冬殿は、年始めの登城には、白無垢が如何にも古びえおると、新調をお申し付けになられたところ、家老何某はこのご指示を承るや、
「白無垢新調せよと仰せ付けになられたによって、拙者、直々に検分致いて御座ったところ、これまでの御小袖、多少の古びも見えぬでは御座らねど、年始に用いらるるためにだけ、新調をお仰せ付けらるるというは、これ――如何なものかと――存じまする――。」
とお諫め申し上げたによって、重冬殿の小袖一枚新調のお話、お沙汰やみとなさった…………と……
「……いや、まこと、そう、家伝の書にもしたためられて御座るでの。」
と、今の周防守、重冬殿ご子孫であらせられる、当の板倉勝政殿、直々の物語りの内にて承った話で御座る。
 当節、諸侯大名にのうても、白無垢ひとつ新調するぐらいのことは、我らの身分の者でも、家来どもへいちいち断って、その考えに耳を傾けるほどのことは、御座らぬ。時世の変化というものは、これ、さまざまなるものじゃなあと感じ入ったによって、ここに記し置いた。



  龜戸村道心者身の上の事

 好事の人、春日野行しゆんじつやかうして龜戸天神梅屋敷の邊を逍遙してある庵へ立寄りしに、奇麗に住居てあるじの道心者爐の許に茶を煮てありしに、火を乞ひ茶を無心して暫く咄しけるが、彼道心者風雅を愛するとも見へず、土地の者共不覺、住居の庵幷右屋敷も道心者の所持の由故、彼身の上を尋けるに、道心者大息を附き、さらば身の上を咄し可申、我等若き頃出家にて有しが、甲州山梨郡の産にて東禪寺の住職たりしが、公事ありて江戸表へ出風與ふと遊所へ通ひ、品川なる三星屋むめといへる女に深く契りて路用も遣ひ切、村方へは路用雜用の由僞りて多くの金子を掠取かすめとり、彼遊女の殘れる年季を金子を出し受出し、芝邊にたなをかりてなを殘る金子もありしを商賣にも取付とりつかんと、在所へは公事不利運ふりうん故缺落せしと披露して暫く暮しけるが、或日外へいでし留守に、彼受出せし女房殘る金子を持て行衞不知成ぬ。我身彼女故に古郷へ歸る事もならず身を捨し處、かく見捨ぬる志の憎く腹だゝしさに、足手あしてそらに尋けれど行衞も知れず、今更古郷へも歸り難く、しなんと心を定めてうかうかと駒形堂の邊に入水せんとたたずみ居たりしが、朝より暮合迄物をくはでありければ人も怪しみけるに、本所横あみ邊に住居ける向フみずの五郎八といへる親仁分おやぢぶん通りかゝりて尋ける故、ありの儘に語りければ、仕方こそあるべし我かたへ來るべしとて連歸り、めしを焚せ飴を賣せ、何卒汝が女房を見付出すべし、見付候ても必手を出さず早々歸りしらすべしとて、所々を賣歩行うりあるかせ、三年目に麻布市兵衞町多葉粉屋の隣、煮賣にうり酒屋の女房に成り居候を見出し五郎八に語りければ、夫より一兩日過て、右道心者を伴ひ五郎八儀椛町の同じ親仁分方へ至りて、我等今日市兵衞町にて喧嘩可致間、共節立入呉候樣申談まうしだんじ、夫より道心者を伴ひ市兵衞町へ至り、道心者は其邊へ隱し置、我等呼候迄は決て出間數いでまじき由申含め、彼煮賣茶屋へ入りて酒肴を好み、暫く休み居て煮賣屋の女房も立出てける時其手を捕へ、そもじに引合ひきあはせ候ものありとて表へ向ひ道心者を呼びける儘、早速立入て右女を捕へ、汝は大まひの金子を以身請なし不便ふびんを加へけるに、能くも金子迄奪ひとりて立退しと、髮の毛を手に握りて打擲ちやうちやくに及びけるゆへ、をつと大に驚き是は理不盡成事と憤りけるを五郎八捕て押へ、汝は人の女房をそゝなかし金子を盜ませ立退き候上は、盜賊の張本也とて同じく打擲いたしけるゆへ、近所隣家の者立集りしを、彼麹町の親分表より五郎八を見かけ是はいかなる事ぞと割て入、近所の者を押へて彼煮賣屋の亭主に向ひ、其方事此儘露顯におよばば死罪にもおこなはるべし、先づ女にぬすませし金子は返し、うちの事也、首代くびだいを出して扱ひ可然しかるべしといりわけを所の者へも語りければ、いづれも其ことはりに伏し、彼女持迯もちのがれし金子三十兩其外首代など號して金五拾兩程、彼煮賣屋が身上しんしやうをふるひ爲差出さしいださせ、彼道心者を連れて歸り、汝を見捨たる女なれば彼れに執心も殘るまじ、髮の毛をむしり坊主同樣になしたる上は最早遺恨も散ずぺべし、椛町の者へは我等より禮金も通し事濟たり、是よりは我方にて是迄の通り商ひいたし暮すべしとて、年年たち一年になれ共、煮賣屋が取戻せし金子をくるべき樣もなければ、萬端意氣地は尤成五郎八なれ共、如何なし呉るゝと怪しみけるが、暫く有て五郎八彼者を呼び、是迄辛方せし事感心せり、さりながら其方の身分中々商ひ等いたし身をもつべき者にもあらず、一旦死をきはめたる事なれば、本意をとげたる上は最早世の中に望みあるべからず、それがし煮賣屋より取戻せし金子、何程に貸附け置て當時何程に成りたる間、龜戸かめいどに地面を買ひ置たり、地代店賃ぢだいたなちんにて其方一分いちぶんは生涯を迭らるべし、庵を立遣たてつかはす間出家して一生を樂に暮すべしとて、此所へ移し呉れぬ。その後五郎八も身まかりければ、彼が世話故今一身の生涯くるしからず、ひとへかれが影也と朝夕五郎八が菩提をとむらひ、月日を送りぬると語りしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。この話、今まで私とお付き合いして下さった方は、前に同じような話を読んだ記憶がおありになるであろう。実はこれ、底本注で鈴木氏も指摘しているように、「卷之一」の「山事の手段は人の非に乘ずる事」のコンセプトと酷似する。違いは主人公の急場を助け、後に詐術を弄する人物が先の者では実は悪玉、本話では実は善玉というオチの違いが、確かにそれは読後の対照的な印象の違いを生み出している。本話の方が遙かに気持ちがいいのだが、デーテイルのあまりの酷似は聊か興を殺ぐものがあり、更に捻くれて言えば、宿命的人間悪の存在を認める私なんぞは、先の救われない話柄の方が、嫌だけど、リアルだな、とは思うのである。
・「龜戸天神梅屋敷」通称亀戸梅屋敷は浅草の呉服商伊勢屋彦右衛門の別荘清香庵で、往時は三百余本の梅の木が植えられ、将軍吉宗や水戸光圀も訪れた名園であった。底本注や岩波版長谷川氏注には清香庵を『百姓喜右衛門の庵号』とするが、喜右衛門は彦右衛門の何代か後の後裔で、この喜右衛門の代辺りから呉服商を廃業、ここで梅の栽培に専心したものらしい。ここは、かの傑作、歌川広重の安政四(一八五七)年作「江戸名所百景表題」「梅屋舗うめやしき」と、それを一八八七年に油絵で模写したゴッホの“Japonaiserie : l'arbre (Prunier en fleurs)”(「日本趣味・梅の花」)で世界に知られる、あの臥龍梅(光圀の命名になるが、後に吉宗によって代継梅と改名されたという)があった。この庭園は、その後、明治四十三(一九一〇)年の豪雨による隅田川の氾濫により、臥龍梅他多くの梅が枯れ、その後、工場の煤煙の影響で大正末頃には閉園された(以上の梅屋敷の情報は主に、きたろう氏のブログ「きたろう散歩(名所江戸百景を歩く)」『第5回 「亀戸梅屋舗うめやしき」を探査する(上)』を参照させて頂いた。リンク先には各種画像や地図が完備されている。是非、御覧あれ)。現在は、江東区亀戸三丁目の路傍にひょろっとした梅と石碑が淋しく立つのみである。
・「東禪寺」甲府市桜井町に鳳皇山東禅寺という同名の寺が現存する。武田家家臣桜井信忠を開基として寛永二(一六二五)年開山、曹洞宗。
・「公事」現在で言う民事訴訟。その審理や裁判をも含めて言う語。
・「風與」の「ふと」は底本のルビ。
・「品川なる三星屋むめ」品川宿の三星屋という女郎屋の女郎であった梅という女。
・「店」の「たな」は底本のルビ。
・「公事不利運」民事訴訟敗訴。
・「缺落」一般に「駆落・駈落」などと書いて、現在では専ら、婚姻を許されない相愛の男女が、秘かに他所へ逃れることの意で用いるが、古くは単に、秘かに逃げること、逐電や出奔の意で用いた。
・「芝」現在の東京都港区に、現在も残る町名。但し、当時の芝は遙かに広域を示すもので、東海道の発展に伴って急速に発展繁栄し、村の周辺域も含めて「芝」と呼ばれるようになった。
・「足手を空に」手足が地に着かないほど慌てふためいてあちこち走り回ること。「足を空に」「足も空に」などとも使う。
・「駒形堂」駒形堂は現在の駒形橋のたもと南側(ここは浅草の観音像が顕現し上陸した地とされる)にあった浅草寺に属する御堂。天慶五(九四二)年、円仁作馬頭観音を祀るために建てられたのが起りと伝える。関東大震災後、雷門二丁目駒形公園内に移築された。
・「本所横あみ」は、現在の東京都墨田区両国周辺。
・「食」の「めし」は底本のルビ。
・「麻布市兵衞町」現在の港区六本木。この旧市兵衛町のど真ん中に六本木ヒルズは立つ。
・「煮賣酒屋」一膳飯と酒を供する店。
・「そもじ」「其文字」と書く。「そなた」の「そ」に「もじ(文字)」を添えたもので、二人称代名詞。もと、中世には女性から目上の男性に対して用いる語であったが、近世以降になると、女性から対等か目下の男性、または男性から女性に対して用いるようになった。
・「そゝなかす」そそのかすに同じい。
・「内の事也」底本には右に『尊本コノ四字ナシ』とある。盗んだ金を返す、それは分かり切った当然のことで、という意であろう。
・「首代」首を切られる、則ち死罪の代わりに出す金の意。「首代銀くびしろぎん」「首銭」等とも言った。小学館の「日本国語大辞典」の「首代」引用例には、まさにここの部分が引かれている。
・「いりわけ」は「入り訳」で、込み入った事情・いきさつ・子細の意。
・「辛方」底本には「方」の右に『(抱)』の傍注を附す。
・「何程」は、意識的伏字として用いているように思われる。
・「吊ひ」既出であるが、「弔」の俗字。

■やぶちゃん現代語訳

 亀戸村の道心者のその身の上の事

 風雅をこととする人、ある春の一日いちじつ、亀戸天神や梅屋敷の辺りを逍遙して御座ったところ、とある庵を見つけて立ち寄った。小綺麗に住みなして、あるじの道心者が炉辺にて茶を煎じて御座る。煙草の火を乞い、茶を無心して、暫く話して御座ったが……どうもこの屋の主人、かくなる隠棲を致すべき風雅を愛する人とも見えず、また、どう見ても、地の者とも思えず、さり気なく尋ねて見れば……いや、確かに、住まうところの庵並びに隣接する屋敷なんども、これ、この道心者の所有のものの由なれば、不思議に思って、失礼乍ら……と、その身の上を尋ねたところが……かの道心者、
――フウっ――
と大きく溜息をつくや……

「……されば……拙者の身の上、これ、お話致しましょう。……我らは若き日は、れっきとした出家で御座った。甲州山梨郡の生まれにて、東禅寺の住職をして御座ったが、寺絡みの公事くじのため、江戸表へ出でましが……なかなか思うように公事も運ばねば、無聊をかこっておりますうち……ふと……その……遊廓へ、通うようになってしもうたので御座る。……品川は三星屋の、梅という女と……その……ふこう契りを交わすことと、相いなって……檀家や村の衆の用意致いて呉れた路銀も、あっという間に使い切って……それからというもの……村方へは、路用のため、雑用のためと言うては、偽って多くの金子を掠め取る、という体たらく……かの遊女の残った年季を、その騙した金で支払って請け出し、芝辺におたなを借り、なお残った金も御座ったれば、それを元手になんぞ商売でもしようと存じ……在所へは『公事敗訴と相い成った故、我ら、最早ぬしらに遇わす顔もなければ、恥ずかしながら遁走致す』と披露して……暫くの間は……これ、言うのも恥ずかしながら、面白可笑しゅう……暮らして御座った。
 ある日、我ら、外へ出でておった、その留守に……かの受けだした女房の梅が……ありったけの金子を持ち出して……行方も知れず、相いなって御座った。……この我が身は……実にこの女故に……最早、故郷ふるさとへは、帰ることもならざるまでに、この身を捨てたに……だのに、かくも、かの女の、我を見捨てた、その心の……憎さ、腹立しさ……足を棒にし、そこいら中、死に物狂いで訊ね廻ってはみたものの……忽然と消えて……行方も知れず。……幾ら、面の皮が厚うても……今更、故郷へ帰るなんどということも、これ、出来ず……『死のう』……と心を定めて、ふらふらと……駒形堂辺りに……入水せんと佇んで御座った。……がその日は、朝から日暮れまで、一口も物を食わずに駆け回って御座ったれば……風体ふうてい容貌、挙止動作……これ、尋常ならざるていなればこそ、道行く人は怪しんで御座った。
……と……
そこに、本所横網辺りに住みなして御座った『向こう見ずの五郎八ごろっぱち』と呼ばれた親分さんが通りかかって、
「どうしたい? わけえの?」
と尋ねられ、ありのままに、答えました。すると、
「……まあ、やりようは、あろうというもんだぜぃ。……俺んとこへ、来いや――」
と、私を連れ帰り……
……それからというもの……
……その五郎八親分のところに寄宿致すことと相い成って……
……私は……炊事やら……飴売りやらを命ぜられ……
……日を暮らすよすがと致いて御座いました。
 そうして、親分の言うことに、
「何としてもお前さんの女房を見つけ出そうじゃねえか。但し、見つけて御座っても――絶対に手を出すな。――いいか? すぐに帰って、俺に知らせるんだ、ぜ。」
と言って、飴売りとして、方々売り歩かされました。……
……さて……
……飴売り稼業を始めて、丁度、三年目のこと……
……とうとう、かの梅を……麻布市兵衛町の煙草屋の隣の煮売酒屋の……そこの女房に、なっておりましたを……
……見つけました…………
……言われた通り、何もせず、姿も見せずに、とって返し、五郎八親分に知らせましたところ……
……それから一両日過ぎて、親分は私を連れて、麹町の、同じように町を仕切って御座った別の親分さんの元へ参りますと、
「……俺は今日、市兵衛町で喧嘩をやらかそうと思う――が――その節は――どうか――仲に割って入って、おんえねえかい?――」
と何やら意味深に談合致いて、それから私を連れて市兵衛町へと赴くと、私を梅のいる店から見えないところに隠させておいて、
「――いいか――俺がお前さんを呼び招くまでは――絶対、ここを出ちゃあ、いけねえぜ――」
と言い含めると、親分、さっさと例の煮売茶屋へと入って行く――
――親分は酒肴を頼んで、暫く酒を呑んでは肴を食いなどしているうち――
――煮売茶屋の女房梅も店の奥から出てくる――
――と――
――親分、ぱっ! と、その手を捕らえ――
「――お前さんに、引き会わせたい男が――いるんだがね――」
――と言うや――表へ向かって私の名を叫んだ――
……私は……早速、店に飛び込むと、梅を捕まえて、
「……大枚の金子をはろうて、請け出してやったに……憐れみをも、かけてやったに……よくも……よくも、なけなしの金子まで奪い取って……よくも……よくも、逃げよった……なあッ!!……」
と……私は……梅の髪をむんず握み……めちゃくちゃに……ぶちのめしました……
 されば夫なる者、訳も分からず奥より走り出で、大いに驚き、
「……これは何事じゃ! 理不尽なる乱暴ではないか!」
と憤った。
――と――
五郎八親分は亭主に組み付き、土間に引き倒して押し伏せ、
「――お前さん! 人の女房をそそのかして――金子を盗ませ――手に手をとって、逃げた――この上は――あんた、盗賊の張本だぜぃ!!」
と、これもまた、ぼこぼこの目に遇わせる――。
さればこそ、隣り近所の者が、すわ何事と群がっては、騒ぎは波のように広がって参りました――
――と――
そこへ、件の麹町の親分さんが偶然の如くに通りかかった風をして、表から五郎八親分を見かけ、
「おぅおぅおぅおう! 何やってるんでぃ!」
と割って入る――この親分、馴染みの煮売酒屋の夫婦に加勢しよう集まって御座った近隣の者どもをも押し止め、五郎八親分の語る訳を、これまた、如何にも初めて聴くかの如くにして聴き終ると、徐ろに亭主に向かって、
「……お前さん、これがこのまま公けになったとならば……金品横領、不義密通、その反省の色としもなし……こりゃあ、死罪、ということになろう、のぅ。……まずは、女に盗ませた金を返すはもとより……ほかに、首代を出すのが……当然じゃろう、な……」
といった感じで諭した上、かくなった経緯いきさつをその場で縷々説明致いたので、不義密通の夫婦を始めとして、その場に御座った者どもの誰もが、そのことわりに伏して、結局、煮売酒屋の亭主は、梅が持ち逃げした金三十両の他に、首代などと称し金五十両ほど……これは、かの煮売酒屋夫婦の、ありったけのもので、出せるものは悉く出させたので御座った。……
 五郎八親分は私を連れ帰ると、
「――きゃつは、お前さんを見捨てた女だ。もう、あんなもんに執心も残るまい?――髪の毛を毟り、お前さんと同じ、坊主同然にしてやったからには、最早、遺恨も散じたであろ。――麹町の者へは俺から礼金を遣してある。されば――事は済んだ。……これからは、俺んとこで、これまで通り、飴売り商いなんど致いて、暮らすがよい。……」
 ところが……それから半年たち、一年経っても……煮売屋の、例の取り戻した金子を呉れるような素振りも御座らねば……いえ、何事にも誰にも負けぬ意気地強固な五郎八親分なればこそ、嫉み疑うというた訳では御座らねど……まあ、その、『あの金子、一体どうして呉れるおつもりなので御座ろうか』というほどには、怪しんではおりました。
 暫くたったある日のこと、五郎八親分が私を呼び、
「――これまで、飴売り商い、よう、辛抱した。――なれど、この数年、一緒に釜の飯を喰って分かったが、お前さんの人品は、こんな賤しい日銭を稼ぐ商いなんどを世過ぎと致す者にては、これ、御座ない。――さても、一度は死を決したる身なれば、本懐を遂げた上は、最早、この世には未練は、御座るまい。儂が煮売酒屋から取り戻いたあの金子は、××に、貸し付けておいたれば、今、×××両になったによって――その金で亀井戸に土地を買ってある。――長屋や屋敷もあれば、その地代と店賃たなちんで、お前さん一人ぐらいなら、一生食ってゆけようほどに。お前さんは、もとより道心者じゃったの――庵も建て遣わすによって、再び出家の身となって――生涯、安楽に暮らすがよかろう――」
と……此処へ住まわせて下すったので御座る。……

「……そののち、五郎八親分も身罷られましたが……親分さんの、あり難いお世話によりまして……今、この一身の生涯は苦しからず……ひとえにあのお方のお蔭と、朝夕、五郎八親分さんの菩提を弔い、安穏なる月日を送って御座いまする……」
と、語ったとのことで御座る。



 實情忠臣危難をまぬがる一事

 明和天明の此とかや。下総國古河こがに豪家の百姓次郎右衞門といへるは、壹人の倅次郎吉才發怜悧成しが、年此に成て勞症ともいふべき病を受けて鬱々と暮しけるを、兩親をはじめ大きに歎き、江戸橘町に出店有りける故療治保養に差出しけるに、惡友にいざなはれて吉原町へ通ひ大金を遣ひ捨ける故、次郎右衞門大に怒り、早々村方へ呼下し一間をしつらひ嚴敷きびしく蟄居せしめけるに、恩愛のしのびがたく母の歎きやるかたなき故、一類打寄て次郎右衞門へ願ひかこひを出しけるに、吉原町にて深く馴染ける俵屋の半蔀はじとみといへるを戀こがれける故、無程鬱病を生じ又々煩けるが、近頃は心底もあらためうわきなる氣色もなければ、又々打寄次郎右衞門へ江戸表へ出養生でやうじやうの事願ひけれども、始は得心不致いたさざりしが、一子を見殺しなんも無意の所爲のよししきつて申者有りて、又々橘町の出見世へ遣しけるに、始に替り自身升秤ますはかりをとりて實躰じつていに家業なしける故、一類の悦び大方ならず。しかるに夏の頃也しが、又々風與惡敷にさそはれ吉原町へ至り半蔀に馴染、多分の金銀を遣ひ捨候故、次郎右衞門大に怒り早速江戸表へ出、かゝる不所存の者は家を失ふ前生の因果成べしと、一類手代共の申をも不取用とりもちひず舊離勘當なしけるゆへ、次郎吉も今は詮方なく、しるべとてもなければ、吉原町にて以の外目を懸し茶屋船宿のかたへ尋行しに、勘當うけし事もしれたる事なれば、古へに引かへ能き言葉をかけ候者も無之、中々半蔀抔に可引合躰ひきあはすべきていならざれば、しほしほとして衣紋坂えもんざかを徘徊せしに、むかし座敷へ呼び心安かりし牽頭持たいこもち義兵衞といへる者に出合しに、此者志厚きものにや、次郎吉が樣子を深く尋とひて、當時居住ゐすまひなくば我方へ來り給へとて、己が宿へ伴ひ食事をあたへ、毎度半蔀より御身の事を尋問給へば、今宵引合可申迚まうすべしとて、損料にて衣類を拵へ、金子壹兩與へて俵屋へ同道せしに、半蔀が歡び大かたならず。何分御身の方に暫くかくまひ給へ、入用は我身より出さんとて親切に世話致し、義兵衞もともども介抱すれども、いつを限りと世話に可成なるべき如何いかがなれば、奉公にてもいたし可申由ゆへ、次郎吉義兵衞相談の上、いにしへ次郎吉召仕ひし長八といへる者、麻布市兵衞町にをりけるを尋て至りしが、此長八は夫婦ぐらしにて身薄みうすの者なれども、あく迄忠臣成者にて深くかくまひ、本店へ申なばいづれ手當も出來なんに、男氣なる者にや又は子細やありけん、一衣をぬぎて夫婦して次郎吉を介抱しけるに、義兵衞よりしらせけん、半蔀よりは度々次郎吉へ文を差越けるを、吉原よりの屆文と聞ては若旦那の身のむし成と、請取ては破り捨候樣子故、次郎吉も深く歎けども詮方なし。是は扨置き半蔀は、次郎吉ヘ音信おとづるれども一度もいなせの返事だになければ深く案じ煩しが、彼義兵衞を呼て深く相談に及びしに、さ程に思ひ曲輪など缺落いたし候はゞ、大雨か大雪の日など宜かるべしと教へければ、或日大雪の降りけるに妹女郎卷篠まきしのへむかひ、御身數年兄弟のちなみ大方ならず、誠に我身一生のたのみ承知有之成と尋ければ、卷篠も幼年より深く世話に成りし事、いか樣の事也とも命にかへて受合うけあはんといゝし故、次郎吉が事を語り、此雪に紛れ曲輪を拔出で次郎吉を尋んとおもふ間、裏の方水口みづくちしまりをゆるめ給はるべしと賴しかば、其姿にては遁れ出ん事かたかるべしと尋しに、兼て拵らへ置きし、木綿の布子に麻の衣頭巾迄拵へ、此通りにて出候由申ければ、卷篠かの水口を明け置ければ、道心者のていにて竹の子笠をかむり、夜明前右切戸より出て、大門をも難なく拔出しにとがむる人なければ、麻布市兵衞町と尋て遙々尋行て、ようやくに長八が宅へ尋當り次郎吉を尋、長八にもしかじかと語りければ、長八もその貞節深切を感じ、元より男氣成者なれば安々と受合うけあひ、次郎吉一同にかくまひ置しが、兼て不勝手ふかつての長八、ことに兩人の厄介何れも手助に成べき者にもなければ、朝暮の煙も立兼し故、夫婦相談の上女房を奉公に出し可申とて彼是承合せけれ共、年もはやたけぬれば遊女奉公にも出しがたく、何卒給金よろしく、勝手に成べき方をと搜しけるに、市ケ谷邊にて御先手細井金右衞門組與力にて笠原何某といへる者、妻相果あひはて家事の世話いたし候女子を尋ける故、右笠原方へ金弐兩弐分にて奉公すみいたしけるが、右金も長八程なく遣ひ果しまたまた困窮、詮方なく色々心を苦しめけるが、主人の爲にはぬすみ致し候者も有之事と風與惡心出て、盜にてもせばやと次郎吉、半蔀へは用事有りて山の手迄參り候間能く能く留守し給へと言て、市ケ谷佐内坂牛込邊を夜通しあるきしが、中々盜抔可致場所もなきゆへ、うかうかと市ケ谷邊を立歸りけるが、ある與力躰の屋敷に表の塀に階子はしごかゝり居しゆへ、天のあたへと思ひしが、我より先に盜賊と見へ立入り、大きなる風呂敷包を表へ投出しやがて階子を下りける故、後より階子共おし倒し、にげんとするを取て押へ、それがしは主人のため金子無之これなく候ては難成なりがたき事ありて、命を捨て盜に入らんと思ひし處、今御身に廻り逢ひし也、定て盜たる金子可有之これあるべし、何卒貸し呉候樣、實意をあらはし歎きければ、流石盜賊ながら彼實情にや感じけん、此方へ來り給へと市ケ谷の土手へ至り、扨々御身は感ずるに餘りあり、今晩盜取候金子何程に候哉數も存ぜざれ共、是を御身に與ふるなりと言ひしかば、かたじけなき段挨拶に及び、いづれ右金子主人の勘當ゆるされば一倍にして可返かへすべき間、住所名乘なのりをかたり給へと申ければ、彼盜賊答へて、何ぞ住所も有べきや、かゝる非道の生業なせば程なく刑死すべき身也、何ぞ禮に及ぶべきと取合ざれば、左はあるべけれ共我盜賊に候共さふらふとも恩を請て其恩を報ざらんとひたすら申しければ、かの盜賊にある事ならば我は程なく刑死すべき間、今日を忌日として跡をとむらひ給はるべしと、とむる袖をふり切ていづくともなく迯去りし故、長八も詮方なく、貰ひし金を改見けるに三拾五兩有りし故押戴き居たる所に、最初の盜賊盜計ぬすみばかりにも無之これなく火を附けたりしや、ありし場所の遠火事とてさはぎ燃立もえたちける故、驚きて早々其場を遁れ歸る道にて、加役方を勤し金右衞門組の笠原何某通り懸り、怪敷由にて聲をかけ捕候故、品々申譯致せども不聞入ききいれざる故ふり切て又々迯出すを、追缺おひかけ單物ひとへものの袖をとらへ、糸やゆるみけん袖引ちぎられて、這々迯延はふはふにげのびて市兵衞町へ立歸り、彌々兩人を介抱しけるが、或日豆腐調ととのへに長八出しに、かの市ケ谷にてひききられし單物へ新しく切レを縫付着つけちやくいたし候を、彼笠原廻り先にて見咎、彼片袖に引合ひきあはせ段々と詮儀して、町内組合も出て長八にき惡事致侯者に無之由しいて申立けれ共、取用無之とりもちひこれなく入牢いたしけるゆへ、町内の者より次郎右衞門橘町の店へ通じければ、早速次郎吉半蔀は橘町へ引取、段々長八が譯もしれ、何故に橘町の店へは不通哉つうぜざるや、扱々是非なき次第也と、是又長八が惡事可致者に無之段日々訴ける。次郎右衞門も江戸表へ出、諸神諸佛日々のごとく足手を空に長八が命乞をなしけるとかや。佛神は正直のかうべに宿り給ふの諺空しからず、諸神の加護也けるや、爰に不思議の事こそ出來ぬれ。長八は日々の責呵にて最早命も續べきにあらず、何れ火を付候に落可申おちまうすべく候、日毎に笠原何某相役高田久之丞無躰むたいの吟味に絶兼たえかね、盜にいり火を附候趣に落けるが、かの長八妻は笠原何某方に勤けるが容色いやしからざる故笠原事度々戀慕して口説くどきけれど、夫有し由にて其心に隨はざりしに、或日笠原儀なんぢが夫長八盜に入火を附候儀、それがしが吟味にて白状いたしたれば、迚も助るべきにあらず、それよりは我心に隨へなど醉狂の儘口説ける故、彼女大きに驚き、扨は笠原が横戀慕故に夫を無實の罪に落すならんと、町奉行依田豐前守方へ駈込願いたし候處、段々吟味の上長八儀盜賊に無之段相分り、殊に長八に金子をあたへし盜賊も其節入牢いたしをり、右市ケ谷の火附其身にて長八に無之由申立、笠原高田は不正の吟味故改易に成、細井金右衞門も不念ぶねんの御咎にて御役御免有し由。さて又長八夫婦は次郎右衞門方へ引取、厚く賞して作大將さくだいしやうとやらにいたし、半蔀は受出して次郎吉が妻と成し由。次郎吉儀沈淪ちんりんの内恩義有し者へは逸々いちいち其禮を述、今に榮へ居ける由。右次郎吉直々の咄しを聞しとかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:論理的な連関は感じないが、読み終えた際の爽やかさは妙に共通している。この話、濡れ場もあり、また、主役が実は好男子次郎吉ではなく、一回の元使用人長八であって、その長八の手に汗握る波乱万丈の最終展開が眼目という、まるで浄瑠璃の五段構成にそっくりであるが、以下の注で検証したように、これは作り事ではなく、その主要なコンセプトは事実に基づいているらしい。実に面白い。善玉長兵衛と長八、悪玉笠原某と高田久之丞、絡む美形の長八女房、無名ながら愛すべきピカレスクの火つけ盗賊と、役者は十二分に揃っている。長八の奉行所での拷問責めという、観客垂涎の眼目もあればこそ、まこと、文楽の舞台にしたいというのが、実は私の正直な感想なのである。――さればこそ、今度このたびのやぶちゃんの現代語訳は、半端なく、凝って御座るぞ――東西東西とざいとうざ~い……
・「明和天明」安永を中に挟んで西暦一七六四年から一七八九年まで。明和の前が宝暦、天明の後が寛政。
・「勞症」辞書では労咳、則ち、肺結核としか記載しないが、近世物ではしばしば神経症や精神病の様態に対してもこの語を用いており(この次郎吉の話柄時制での状態と、『次郎吉儀沈淪ちんりんの内恩義有し者へは逸々いちいち其禮を述、今に榮へ居ける由。右次郎吉直々の咄しを聞しとかたりぬ』という点から見て、予後の良い一過性の心因性神経症であったと考えてよいか)。最後にから見ると、ここでもその意で採るべきであろう。岩波版の長谷川氏の注にも『肺病。また一種の神経症。』とある。
・「橘町」日本橋橘町。江戸時代初期にここに京都西本願寺別院があったが、その門前に立花を売る家が多かったことから立花町、後に橘町に改めた。現在の東日本橋の南西部分、両国と道を隔てた反対側の一画を言う。次郎右衞門の「出店」は具体的に如何なる商売かは示されていないが、次郎右衞門が豪農であることから、何らかの農作物の販売に関わる商店か問屋であった可能性が高いように思われる。
・「俵屋」天明八(一七八八)年作の山東京伝の黄表紙「時代世話二挺鼓じだいせわにちょうつづみ」にも登場する吉原でも評判の妓楼であった。
・「半蔀はじとみ」は底本のルビ。この源氏名を持った遊女は実際に吉原の俵屋にいた岩ことが、岩波版長谷川氏注の『宝暦期の細見に吉原京町一丁目俵屋小三郎(後には四郎兵衛)抱え、揚代昼夜二分として名が出る』で分かる。但し、宝暦だと冒頭の時代設定からやや厳しい気はする。但し、遊女の源氏名は継がれた場合もあるから、本話が事実譚である可能性の有力な証左の一つであることには変わりがなく、更に以下の「細井金右衞門」の注で明らかになるように、本件は明和四(一七六七)年の事件であることが明らかにされることから、まさにこの宝暦期の細見に出る「半蔀」こそが彼女である可能性が高くなるとも言える。因みに古語難読語としてしばしば出題される半蔀とは、内藤藤左衛門作の三番目物謡曲「半蔀」に基づくもので、実は源氏物語の夕顔を意識した源氏名と思われる。謡曲「半蔀」は、雲林院の僧が立花供養で夕顔の花を捧げる女の言葉により五条辺りを訪ねると、夕顔の絡まった半蔀を押し上げて夕顔の霊が現れ、源氏との昔を語って舞う、という結構である。
・「惡敷にさそはれ」底本には「惡敷」の右に『(惡友カ)』と傍注する。「惡しき(者)」と読んでも問題はないと思われるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「悪友」となっており、それで採る。
・「舊離勘當」「舊離」は、不行跡の子弟が失踪などした際、その者が残した負債の連帯責任から免れるため、親族が奉行所に届け出て、失踪者を人別帳から除名し、絶縁することを言う。現在の失踪宣告に近いか。対する「勘當」は、親が子との縁を絶つことを言い、これは正式に奉行所への届出が必要であった(この法的措置は主従・師弟関係でも有効であった)。但し、前者は、しばしば勘当と混同され、ここでも勘当の接頭語のように附帯しているものと考えてよいであろう。
・「衣紋坂」日本橋土手通り(日光街道)から吉原大門の間にあった坂でS字型を成していた。遊客がここで身なりを整えたことに由来するとされ、湾曲しているのは将軍家日光参拝など際、街道から遊廓を見通せないようにしたためという。
・「牽頭持たいこもち」は底本のルビ。「太鼓持」や「幇間」と書くのが普通であるが、小学館の「日本国語大辞典」には、引用例にまさに「耳嚢」のここを引いている。但し、「牽頭持」の字の意味については明らかにされていない。滑稽御愛想を言って人の気を引くのを、「頭を牽く」と言ったものか。識者の御教授を乞うものである。
・「身薄」金がないこと。貧乏。
・「身のむし成」隠喩で「身の虫なり」(御身に附くあしき虫なり)の意か。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『身のふため成』とあって『ふため』の右に『(不為)』とあって、これは「身の為にならざるなり」(御身がためにならざることなり)の意で、こちらの方が文脈からは(この後の半蔀に対する長八の誠意に満ちた行動などから)、より自然でよい。後者で採る。
・「いなせ」「否諾」「せ」は肯定の意で、①不承知か承知か。諾否。②安否。ここは②の意。
・「さ程に思ひ曲輪など缺落いたし候はゞ、大雨か大雪の日など宜かるべしと教へければ」この台詞が幇間の台詞であることを考えると、私は辛気臭い真剣な話し合いでは、逆に興が殺がれる気がする。これは幇間の洒落のめした戯れ唄や踊りのイメージで語られてこそ臨場感があると思う。例えば「思ひ曲輪」は「思ひ狂は」の掛詞のようにである。これは私の勝手な解釈である。でも面白いと自分では思っている。そもそも遊廓の中で幇間が遊女相手に、あろうことか、遊廓足抜けの指南をするという驚天動地のシークエンス、どうして凡百の映像や演出で我慢出来ようか?! 私の現代語訳では思い切った翻案訳を施してある。――御笑覧♪ 御笑覧♪
・「承知有之成」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の「承知有之哉これあるや」でないと台詞としておかしい。
・「水口」本来は、台所の水を汲み入れるための口を言うが、そこから台所の意。
・「朝氣」底本では「氣」の右に『(餉)』と傍注する。
・「御先手組」「卷之二」の「明君其情惡を咎給ふ事」の注参照。若年寄支配、江戸の治安維持を職掌とした。泣く子も黙る火付盗賊改方長官は、御先手組の頭が加役として兼務した。
・「細井金右衞門」細井正利(ほそいまさとし 享保二(一七一七)年~安永九(一七八九)年)。底本の鈴木氏注に、明和四(一七六七)年、彼が正に本話の事件処理に関して、役目落度のため処罰されたことが「寛政重修諸家譜」に載るとあって、原文が示されてある。以下、該当箇所を正字に変えて示す。
「明和三年六月十八日より盜賊追捕の事を役す。四年六月二十日これをゆるされ、閏九月十六日さきに放火せしものをとらへて獄に下し、罪科に處すべきむね言上にをよぶにより、なを穿鑿あるのところまさしく寃罪なるに決せり。總じて囚人を糾明することは、その情をつくし、ことにかゝりあへるものをもあまねくとひたゞすべきに、たゞに與力高田久之丞にのみまかせをきしよし、よりて久之丞を推間あるのところ、かれも罪にあたらざるとは心得ながら、もとめて放火の科にをとせしむね白状にをよぶ。しかるうへは正利がはからひ疎なるに論なし。しかのみならずこの事により、ひそかに久之丞がもとに文通し、其餘配下の同心等市店にをいて不束なる所行多かりし條、みな正利が職務にこゝろを用ふることゆるがせにして、配下の制導の等閑なるによれりとて職をうばひ、小普請に貶して逼塞せしめられ、五年正月二十七日ゆるさる。」
記述から読み取れる事件、高田久之丞という名の一致といった本記載によって、本話の信憑性は各段に上がるといってよい。それにしても――正にいつの世にも、こういった輩は絶えないものと見える。……これまさに、どこかの検察庁の不祥事そのものと同じではないか。
・「佐内坂」現在の新宿区市谷左内町の西南にある。現在は町名と同じく「左内坂」と表記される。
・「かの盜賊にある事ならば」の右には『(專經關本「彼賊さ有事ならば」)』という傍注がある。傍注の方でないと意味が通じない。
・「加役方」ある役職にある者がさらに別の職を兼務することを言う。先の「御先手組」注を参照。
・「單物へ新しく切レを縫付着つけちやくいたし候を」は「單物へ新しく切れを縫付けしものを着用致し候を」ということである。
・「責呵」は「呵責」の意。
・「依田豐前守」依田政次(よだまさつぐ 元禄十六(一七〇三)年~天明三(一七八三)年)。「卷之一」の「石谷淡州狂歌の事」に既出。旗本。ここではウィキの「依田政次」から引用しておく(数字を漢数字に変えた)。『享保元年(一七一六年)、十四歳の時に八代将軍徳川吉宗に拝謁、享保十年(一七二五年)に小姓組に入り、小納戸、徒士頭と昇進し、目付になる。そこから作事奉行を経て、能勢頼一の後任として宝暦三年(一七五三年)に北町奉行に就任し、明和六年(一七六九年)まで務めた後、さらに大目付へと栄進し、同時に加増されて千百石の知行を得た。晩年は留守居役となり、大奥の監督に尽力したが、大奥の女中達と反目し、天明二年(一七八二年)に老齢を理由に致仕、翌年に死去』した。『北町奉行在任中には』尊王論者の弾圧事件と知られる『明和事件の解決に手腕を振るい、彼らに死罪、獄門、遠島などの処分を下した。他にも、札差と旗本の間で対立が生じてエスカレートした際に仲介を務め、一方で踏み倒しや不正な取立てを行う者に対しては徹底した調査を行って厳罰に処し、不正の横行を抑止することに尽力した』とある。彼の北町奉行勤務と本事件時は一致している(但し、ウィキには豊前守ではなく、『官位は和泉守』とある)。
・「改易」武士の身分を剥奪、領地・家屋敷などを没収する刑で、切腹に次ぐ重刑である。
・「不念ぶねんの御咎」「不念」は江戸時代の法律用語で、現在の過失犯の中で重過失に相当する。予見出来たのにも拘わらず、不注意で事件や犯罪事実が発生したと認定された様態を指す。重罰が下される。対義語は軽過失に相当する「不斗ふと」。
・「作大將」農家の作男の頭。冒頭にあるように次郎右衛門は下総国古河(現在の茨城県古河市)の豪農である。
・「沈淪」ひどく落魄れること。零落。
・「逸々いちいち」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 忠厚によって危難を免れた事

「……東西東西とざいとうざ~い……「契情實忠臣蔵けいせいぼんちゅうしんぐら」全段……演じます大夫たゆう……豊竹藪之大夫……東西東西とざいとうざ~い東西とうざ~いと……」

《古河屋敷座敷牢の段》
 明和から天明頃の話、と聞いて御座る。
 下総国古河こがに豪農の百姓で次郎右衛門と申すものが御座ったが、彼には次郎吉という、才気煥発にして怜悧なる一人息子がおった。
ところが、その次郎吉、成年になろうという砌り、世間で言うところの労症の如き病いを患い、日々鬱々として暮らして御座ったを、両親を始め、一族郎党、大いに嘆いて御座った。
 さてもそこで、次郎右衛門、江戸橘町にちょいとした商いを致す出店でみせを持って御座ったれば、次郎吉を江戸での療治の便べんや、商いをさせてみるのも、これ、気分を変えよう保養にもなろうほどに、と送り出した、と思しめされい。
 ところが、次郎吉、知りうた悪友どもに唆かされ、吉原へと通うようになり、次郎右衛門が渡いて御座った大枚の金子も、湯水の如くあっという間に使い捨ててしもうた故、次郎右衛門、これを知ると、大いに怒り、早々に次郎吉を実家へと呼び戻いて、一間を座敷牢にしつらえ、厳しく蟄居させてしもうた。
 が、恩愛の情、忍びがたく、母ごは、この我が子の狂人の如き扱われようを嘆くこと、詮方なく、一族の者も仲に入って、次郎右衛門に懇請したによって、次郎右衛門も己が所行を幾分か後ろめたく思うて御座ったのでもあろう、直きに次郎吉を座敷牢から出だいた。
 ところが次郎吉はと言えば、吉原町にて深く馴染んで御座った俵屋の半蔀はじとみという女に、すっかり恋い焦がれてしもうて、程のう、重い鬱の病いを生じ、またまた煩いつく仕儀と、相い成って御座った。
 しかし、暫くすると、このたびは見た目も、浮かれて御座った心底も改まった様子、浮ついた気色も、これ、御座らなんだによって、またまた一族打ち寄って談合に及び、次郎右衛門へ再度、次郎吉を江戸表へ出養生でようじょうさせることを願って御座った。
 が、次郎右衛門、これ、なかなか得心致さぬ。されど、
「――一子を見殺しにせんとするは、無惨の所行じゃ!」
と頻りに申す者が御座って、次郎右衛門もしぶしぶ許諾致いて、再び次郎吉を橘町の出店へ遣わすことと、相い成って御座った。
 さて、出店へ舞い戻った次郎吉、前とはうって変わって、自分から升や秤を手にし、実直に商売に勤めて御座った故、次郎右衛門一類の悦びようは、これ、尋常では御座らなんだ。

《橘町出店勘当の段》
 しかるに、その年の夏のことで御座った。
 不図、またしても悪友に誘われ、またしても吉原町を訪れ、またしても半蔀に馴染み、またしても大枚の金銀を使い捨ててしまった故、次郎右衛門、またしても大いに怒ったかと思うと、この度は即座に、自ずから江戸表の店に駆け込むと、次郎吉に向かって有無を言わさず、
「――かくなる出来損ないを倅れと持つは――家産をうしのう前世の因果に、ほかならぬ!」
と一喝致いたかと思うと、その場に御座った親類やら手代どもの止めるも聞かず、
「――旧離勘当じゃ!――」
と吐き捨てて、次郎吉を店から追い出してしもうた。――

《吉原大門衣紋坂の段》
 ……さて、次郎吉、かくなっては最早致し方なく、こんな時に頼りとする方もなければ、吉原町にて殊の外目をかけて御座った茶屋や船宿なんどを訪ねる――が、こうした世界の常で、次郎吉が勘当を受けたことは、先刻承知の助、既にすっかり知れ渡って御座って――かつてに引きかえ、すってんてんの馬鹿息子に、親しげないつもの挨拶すら掛けて呉れる者も御座なく、かくなる上はなかなかに、愛しい半蔀を垣間見ん、なんどという話ですら、ない。――
 そんなかんなで、悄然として衣紋坂えもんざか辺りを徘徊して御座ったところ、昔、半蔀との座敷へ呼んでは、心安うして御座った幇間たいこもちの義兵衛という者に出逢った。
 ――さてもこの男、さげしまるる幇間なれど、奇特なことに、人情には厚い者ででも御座ったか――次郎吉の尋常ならざる風情を見、問い訊ね、訳を知れば、
「……ご当座、お住まいもご座らぬとなれば、あっしの浅茅が宿へ、まずは、お泊りおくんなせぇ。」
と、自分の家へ伴い、食事を与えると、徐ろに、
「……次郎吉の檀那……実はね、あっしが逢うたんびに……半蔀さん、『……次郎吉さんはどうしておりゃる……次郎吉さんのこと、あんた、知らんかぇ……』と……そりゃもう、しょっちゅう年中、責めてお尋ねになるんでげす。……されば――今宵一つ、あっしが旦那方を、お引き合わせ致しやしょう――」
と、義兵衛、言う――

《俵屋の段》
 義兵衛は次郎吉を連れて、貸衣装屋にて衣裳を拵えさせ、手ずから金子一両を与えて、俵屋へと同道する。
 半蔀の、悦んだの悦ばないの――
「……次郎吉の檀那のこと、どうか義兵衛殿、お前さんの方で、暫く匿っていておくんなまし。入り用の金子は、これ、あちきが出だしやんす。」
とは半蔀の言葉で御座った。

《麻布市兵衛長屋の段》
 それからというもの、半蔀は俵屋の主人に隠れ、秘かに次郎吉へ真心のこもった世話を致し、義兵衛ともども次郎吉の面倒を見て御座ったが、ある時、次郎吉が、
「……いつまでも、こうして、世話になっておるというのも……如何なれば……何処ぞに……奉公にでも出ようと思う……」
と申す。
 しかし――義兵衛の見たところ、如何にも弱々しく頼りなげで、「奉公」の「ほ」の字は、半蔀に「ほれた」の「ほ」しか知らぬといった様子なればこそ――次郎吉の行く末につき、更に義兵衛と委細相談の上、ともかくも、と、昔、次郎吉が召し使って御座った長八という者を、麻布市兵衛町に訪ねて御座った。
 この長八なる者、夫婦めおと二人、如何にも貧しい暮らし振りで御座ったが、あくまで忠厚なる者にて、次郎吉を預かると、しっかりと秘かに匿って御座った。かの次郎右衛門の出店へ、かくかくしかじかと内密に申し出でれば――勿論、次郎右衛門へは内密で、であるが――取り敢えずは、なにがしかの当座入用の金子も得られたであろうに――この長八――男気のためか、はたまた、何ぞ、そうは出来ぬ過ぎぬる奉公の折りの事情でも、出店の者や次郎右衛門に対し、何ぞ御座ったものか――裸同然になるも覚悟で、夫婦して全力で、次郎吉の世話をして御座った。
 また、義兵衛より知らされたのであろう、半蔀よりは、度々長八へ文が寄越されて御座ったが、それを長八は、
『――吉原からの届け文と聞きては――若旦那の御為おんために、ならぬ――』
と受け取るそばから、破り捨てて御座る様子故、蔭でこれを知った次郎吉は内心、深い嘆きを抱いてはおったが、匿われた居候の身なれば、詮方なく、凝っと黙って御座ったのであった。

《雪景色吉原俵屋の段》
 それはさて置き、半蔀はと言えば、次郎吉に何度も文を書いておるに、一度として、一言ひとことの安否を知らせる返事さえも御座ない。されば、深く案じては、ひどう煩悶致いて御座った。
 思い余った半蔀は、義兵衛を呼び、思いの丈をありのまま、ぶつけて御座った。
 すると義兵衛――すっきりとした不思議に優しげな笑みを浮かべると――
「……♪チャカポコ♪チャカポコ♪チャチャチャ♪……♪さほどに思い曲輪など♪……♪思い狂わば♪……♪曲輪なぞ♪……♪駈け落ち致すが相場にそうろ♪……♪曲輪を駆け落ち致すには♪……♪そうさな、大雨、大雪の♪……♪日など宜しく然るべし♪……♪チャカポコ♪チャカポコ♪チャチャチャ♪……」
と幇間の洒落節をうとうて御座った――。

 それから程のう、大雪が、降った。
 半蔀、妹女郎の巻篠へ向かい、
「……お前さん、この数年、お互い、二つとない姉妹のちなみを以って過いて参りやんしたのし……なれば、まことにあちき、一生の頼み……これ、承知して呉れやんすか……」
と訊ぬる。巻篠、
「……幼き日よりふこうお世話になったねえさんの頼み……いかさまのことなるとも……命に代えて……受け合いましょう……」
と答える。
 されば――と、半蔀は次郎吉とのことを巻篠に語る。
「……この雪に紛れ……曲輪を抜け出で……次郎吉さんの元へ、参ろうと存ずれば……裏のくりやの戸締まりを……ちょいと緩めて……おかしゃんせ……」
と頼む。
「……アイ。……なれど、姐さん、そのお姿にては……遁れ出づること……難しゅう御座んせんかのし?……」
すると、半蔀、かねてより、この時のために用意しておいたものか、木綿の布子ぬのこに、麻の衣と頭巾まで拵えたを、取り出だいて、
「この通りにて……曲輪を――出、ま、す――」
ときっぱりと、言うた。……

 ……巻篠、出て来て、かの厨の戸口の、締めて御座った鍵を開け、そのままにしておく……
 ……暫く致いて、道心者のていをなし、粗末な竹の子笠をかぶった半蔀、出て来る……
 ……夜明け前で御座る……
 ……半蔀、かの厨の潜り戸を抜け……
 ……大門をも、難なく抜け出で……
 ……真っ白なる雪の中……
 ……寒々とした薄き白無垢の姿にて……
 ……咎むる者とて一人もなく……
 ……人気のない衣紋坂……
 ……これ、半蔀の、下って参る……

《謠 道行》
 ……半蔀の……
 ……かくて……
 ……麻布の市兵衛町……
 ……市兵衛町へと……
 ……訊ね尋ね……
 ……遙々……
 ……尋ね行き行きて……
 ……漸く……
 ……市兵衛長屋の長八の……
 ……にぞ確かに……
 ……附き当たりけり……
 ……アア、当たりけり……

《長屋雪中の段》
 半蔀は次郎吉と対面たいめ致し、長八にもかくかくしかじかと語りければ、根が正直者の長八、半蔀の稀なる貞節と、その情けの、いや深さに感じ入り、元より男気のある長八なれば、やすやすと受けうて、次郎吉ともども、匿いやしのうことと、相い成って御座った。

《市ヶ谷屋敷端の段》
 されど、兼ねてよりの赤貧の長八、殊に、かの二人の厄介、言わずもがな、かくもうて御座ればこそ、何の手助けの役にも、これ、立ち申さざれば、あっと言う間に、朝餉あさげの煙も立たざる仕儀と相いなって御座った。
 そこで長八夫婦は相談の上、長八の女房を奉公に出ださんことと決したが、齢いも最早過ぎぬれば、遊女奉公にも出だし難しと、女房、
「……何とか、給金よろしゅう……少しは、愛する長八さんと勝手になれるお仕事は、ないかいな……」
と捜して御座ったところ、市ヶ谷辺に御先手細井金右衛門組の与力にて笠原何某という者、妻を病いにて亡くし、家事の世話致すに相応しい女子おなごを捜しておる、ということ故、この笠原方へ前金二両二分にて奉公致すことと相い成り、それも成ったれど、この金も、長八、次郎吉、半蔀二人のために瞬く間に使い果たいて、またまた困窮致す仕儀と相い成る。
 散々に心を苦しめ、途方に暮れた長八、
「……主人のためとなれば……盗みを致し候うも……また、ようある事じゃ……」
と、かの長八に不図、悪心の起こって――盗みでもするしか御座らぬ――と、次郎吉、半蔀へは、
「……用の向きがご座いまして、山の手まで行って参りますによって、よくよくお留守を、おたの申します。……」
とさり気なく言いて、市ヶ谷左内坂、牛込辺を夜通し歩いて御座ったが、なかなかど素人が盗みなんどの出来るような屋敷など、これ、あろうはずもなく、ぼんやりと、もと来た道を引き返し、市ヶ谷辺まで立ち戻ったところが、ある与力のと思しい屋敷の塀に、梯子が一つ掛かって御座った。さればこそ、
『――これぞ! 天の恵みじゃ!――』
とここに押し入らんと思うたが――しかし、これは玄人の盗賊の仕儀にて、既にそれらしき者、先に押し入って御座って――丁度まさに、その折り、その男、大きなる風呂敷包みを、ぽん! と表へ投げ出す――それがまた、長八の立って御座った足元へと転がる――やがて、梯子を降りて参る盗賊――
 長八、すっと梯子を降りかけた盗賊の背後に忍び寄り、梯子諸共押し倒し、驚いて逃げんとするとする盗賊を取り押さえ、
「……我らは、主人の為、金子、これ、御座らねば、如何ともし難き儀の御座れば……命を捨てて盗みに入らんと思って御座ったところ……今、かくもお前さまに、ここで廻りうた……これ、まさに巡り合わせに御座る……定めて盗みたる金が御座ろうほどに……どうか! その金――お貸し――下されぃ!……」
と、持ち前の真正直さから、奇妙に誠意を尽くいて嘆願致いたところが、流石に盗賊とは申せ、その心根とまっとうなるに感じたものか、
「……まずは……こちらへ来たり給え……」
と、盗賊は市ヶ谷の土手へと長八をいざない、
「……さてさて……お前さんの思いにゃ、これ、すっかり心、打たれわい。……今晩、盗み取って御座った金子……これ、いか程あるやも知れぬが……これ総て……お前さんに――やろう。」
と言うた。長八、
かたじけい!」
と地べたに附して平服に及び、
「――何れ、右金子、主人の勘当許さるる時には、倍にしてお返し申す! どうかご住所お名前など、お教え下されぃ!……」
と申す。盗賊、
「……ちゃんちゃら、可笑しいわい! 盗賊なんどにどうして住所の御座ろうか。かかる非道の生業なりわいを致いておれば、ほどう、刑死となろうが、身の上。礼なんど、及ぶものには、御座らぬて……」
と取り合わず。長八、
「……そうは申さりょうが、我ら、たとえ御身の盗賊にて御座ろうとも、恩を請けて、その恩に報わずば……これ、なりませぬ!……」
只管ひたすら、頼む。なれば、かの盗賊、
「……そうたって申さるるのであれば……そうさ、我ら、ほどう、刑死となろうによって――今月今夜を忌日と致いて――我らが跡――そのとむらいを、よろしゅう、お頼み申す――」
と、盗人は長八のとどめる袖を振り切って、何処いずくともなく逃げ落ちる――。
 残された長八も詮方なく、まずは、と貰った風呂敷の内なる金子を改め見れば、三十五両も御座った。
 長八、いや高々と、夜空にこれを押し戴いて御座った。
――と――
……最前の盗人……これ、盗みばかりでなく、屋敷内に火をかけでも致いたので御座ったか、かの屋敷のあった辺り、
――火事じゃ!
という騒ぎの声あって、焰の燃え立つさまも見えければ、驚いて、早々にその場を遁るる。

 ところが、その帰るさ……火付盗賊改方を勤めて御座った金右衛門組の――何としたことか、勿論、長八には一向に分からざれども、こは長八が女房の奉公して御座る――笠原何某、不図、通りかかり、長八を怪しんで、誰何すいか致すと、路に押し止める。
 長八、いろいろと言い訳なんど致いたものの――みすぼらしき風体ふうてい、不審なる大風呂敷、やって参った方向の火事……これら総て、誰が見ても、クロ、とうたごう趣き故――聞き入れず、捕縛せんとすればこそ――
――長八、笠原を振り切って逃げ出す
――追っ驅くる笠原
――笠原、長八が単衣ひとえの袖を摑む
……と……袖の糸の、古び緩んででも御座ったか、
――袖、引き千切られ
――長八、ほうほうの体にて
――市兵衛町へと立ち戻った。……

《市兵衛長屋路次ろしの段》
 長八、かくしてこの大枚にて、いよいよあるじ次郎吉と半蔀を世話致いて御座った。
 ある日のこと、長八、豆腐を買いに出るに、笠原に引き千切られた袖に、新しく端切れを縫いつけて御座った、かの単衣を来て歩いておったところ、かの笠原、たまたま見廻りの途次にて見咎め、笠原、かの折りより常時持ち歩いて御座った、かの片袖端切れを取り出だいて、長八の袖の繕いとためつすがめつ、
「それ! まごうかたなき同じ品、同じ破れ目なればこそ!」
と、段々に長八を問い詰めたれば、市兵衛町町内の組合方も出張って参り、笠原に、
「――長八に限って悪事を致す者にては、これ、御座りませぬ――」
と申し立てたものの――端切れの符牒、美事に一致、かかる実証あればこそとて――全く以てお取り上げにならず、そのまま入牢と相い成って御座った。
 直ぐに、町内の次郎吉の一件を知れる者より、次郎右衛門方の橘町おたなへ、かくかくしかじかにて、と通じて御座った故、ことの成り行き、訳も分からず、途方に暮れて御座った次郎吉、半蔀は、早速に橘町へ引き取られた。

《橘町出店の段》
 店内みせうちにて、段々に長八の次郎吉をかくもうて御座った趣きなんども知れるにつれ、かつて長八とも親しくして御座った手代衆は、
「……何故なにゆえ、我らがこの橘町のおたなへ、正直に通ぜなんだものか?――さすれば、いかさまにも出来たものを――さてさて是非もない仕儀と相い成って御座ったのぅ……」
と、こちらも途方に暮れて御座ったが、取り敢えず、手代衆からも、これまた、御奉行所へ、
「――長八儀、これ、悪事を致す者にては御座らぬ――」
段、毎日のように訴え出て御座った。
 そうこうする内、知らせを聞いた次郎右衛門も江戸表へ参って、己れ自ら願い出でて、長八冤罪の趣きを訴え、また、市中の諸神諸仏へも日参致いては、長八の命乞いをなして御座ったという。

《奉行所拷問蔵の段》
 ――「仏神は正直者のこうべに宿り給う」――
との諺、これ、まことにて、諸神の御加護にて御座ろうか、ここに稀有の不思議が出来しゅったい致いた。――
 「――長八儀、日々の責めに耐えかね、最早、命も続こうとも思われず……何れ、早晩……『火を点け申した』と、落ちましょうぞ……フハフハフハフハ……」
とは、笠原何某が相役高田久之丞の、笠原への言上ごんじょう……
……その高田が日ごとの無体むたいの拷問……鞭打ち、石抱き、海老責め、吊るし……責めに次ぐ責めの、その吟味、遂に耐え兼ね、長八は……
「……盗みに入りて……火を……つけ……申した……」
と嘘の自白を強要され……落ち、申した。――

《市谷笠原屋敷の段》
 その間、長八が妻は、笠原何某方にずっと精勤致いて御座ったが、その容色、殊の外に美麗なればこそ、笠原こと、度々、横恋慕致いては口説いて御座ったれど、女房は、
「夫がおりまする。」
ときっぱり突き離いて、決して随わなんだ。
 ある日のこと、笠原、かの女房が供した酒肴に舌鼓を打ちながら、いやらしき舌なめずりなんどして、かの女を眺め、
「……汝が夫、長八儀……今日、盗みに入って火を点けましたと……それがしが吟味にて……白状致いた……されば、とても命の助かろうはずも、これ、ない……どうじゃ?……これよりは、我らが心に従え……」
なんどと、酔った勢いで口説いた。

《北町奉行所御白洲の段》
 女房、これを聞いて大きに驚き、
『……さては笠原、妾へ横恋慕の故、夫を無実の罪に落といたに違いない――』
と、即座に、北町奉行依田豊前守様方へ駆込訴え致いた。
 名奉行として名高い依田政次様直々、段々に再吟味がなされ、その結果、まさしく長八儀は、これ、盗賊にあらざる段、これ、相い分かったよって――
 殊に、長八に金子を与えたかの盗賊も、丁度、その折り、別のとがによって入牢致しおり、呼び出だされた御白洲にて、御奉行様に向かい、
「――確かに、市ヶ谷の火つけ盗賊は我らの所行にて――そこにおわす長八にては、これ、御座ない――」
と申し立てたから、これ、大騒ぎとなって御座った。
 かくなればこそ、依田豊前守様は、
――長八儀証言と盗賊儀自白は、これ、真実まことなること明白にして、長八儀は――冤罪
と相い決し、
――笠原儀及び高田久之丞儀は、不正の吟味、これ、あれば――改易
と相い決し、
――細井金右衛門儀は、職務怠慢にして配下の支配、等閑なおざりなるによって過失重く不念ぶねんなりとて――御役御免の上、小普請におとし、逼塞
申し付けられた由。

 ……さて、無罪放免となった長八とその女房は、次郎右衛門実家へと引き取られ、手厚く褒賞を受け、長八は次郎右衛門小作の作大将とやらになって御座った。
 ……半蔀儀は、次郎右衛門世話によって、俵屋より正式に請け出だされ、次郎吉が妻となった、とのこと。
 ……また次郎吉儀は、勘当されて御座った間、恩義のあった長兵衛や巻篠らを、一人ひとり訪ね歩いては、かの折りの礼を述べ……今も古河にて次郎右衛門二代目として、栄えて恙なし、とのこと。

「……さても、右の長き伝、これ、正しく、この次郎吉本人の、直々にての話を聞いてのもの。……」
と、私の知れる人の語ったことで、御座る。



 景淸塚の事

 御代官を勤し三代已前の池田喜八郎西國支配の時、享保八年日向國に景淸の塚ありと聞て土老へ尋しに、宮崎郡下北方村沙汰寺といへるに寺の石碑をさして、是なる由申ければ、能々其碑を見るに、年經ぬると見へて苔むせしに、水鏡居士と彫付あり。喜八郎は和歌をも詠ける故、
  世々經とも曇りやはする水鏡景淸かれとすめる心は
と書付、其邊へ出役しゆつやくせし手代に爲持もたせ、右墳墓へ手向けるを、頰骨あれて怖げ成老人、何事也やと尋る故、景淸の塚と聞て和歌を手向候由申ければ、奇特成事、我等無筆也そこにて書給はるべしとて、こふに任せて筆取ければ、
  心だにすめばかげ淸水かゞみくもらずすめる世こそ嬉しき
と言て書消て失ぬる故、其邊の草刈童に尋しに、何方の人にや不覺おぼえざる者の由申せしとかや。此事つてありて武者小路公蔭聞たまひて、
  ます鏡世々にくもらぬ跡とめて景淸き名を聞くもかしこし
右實蔭の歌は明和六年の比、喜八郎次男諸星明之丞在番の節の事の由。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。藤原景清(生没年不詳)は俗に悪七兵衛で知られる平家の武将。治承四(一一八〇)年に安徳天皇の滝口の武士となり、源平合戦を奮戦、壇の浦の合戦後に潜伏した後には、源頼朝に降伏して建久六(一一九五)年三月の頼朝東大寺大仏供養の日に断食して自死した(長門本「平家物語」)とも、捕縛されて鎌倉へ護送され、預けられた八田知家の邸で絶食して果てた(鎌倉の扇ヶ谷には「景清の籠」と称される岩窟がある。私の「新編鎌倉志卷之四」の「景淸籠」を参照)とも、翌建久七年の京での平知忠(知盛遺子)の乱に加わった末に行方をくらました(延慶本「平家物語」)とも伝えられる。平家残党伝説の一人として数々の説話を各地に残しており、謡曲「景清」を始めとして、後々の浄瑠璃や歌舞伎、落語に至るまで、様々な創作作品に取り上げられるトリック・スターである。本編は短い話柄の中で和歌を主体に緩急緩を見せ、更に正に謡曲の複式夢幻能を意識した構成をとったものとなっている。知られる「景清」は娘とのたまさかの邂逅を描くもので、今一本の「大仏供養」も頼朝暗殺を扱った現在能である。この話柄のような能が、あってもいい。
・「池田喜八郎」池田季隆(延宝六(一六七八)年~宝暦四(一七五四)年)。第六代将軍家宣将軍就任前から勘定役、正徳三(一七一三)年上州代官、その後、不正によって小普請に落とされるも、享保三(一七一三)年に許されて、西国筋代官に復職した模様だが、ネット上の情報によれば、享保十四(一七二九)年に、再び部下の不正により処罰を受けている(如何なる処罰内容かは不明)が、底本の鈴木氏注では宝暦元(一七五〇)年に致仕、とあるから重い処罰ではなかったものと思われる。鈴木氏は更に、『三代前とあるが、寛政当時の当主は孫の但季』であったと錯誤を指摘しておられる。
・「西國支配」底本の鈴木氏注によれば、享保三年の武鑑によれば、彼は上州の代官七人の一人で、現在の九州地方を支配していた代官は室七郎左衛門とあり、記憶違いを指摘されておられる。ネット上の情報とは大きな食い違いを示すが、私はそれを確認する資料を持ち合わせていない。どちらが正しいのか、識者の御教授を乞うものである。
・「享保八年」西暦一七二三年。以下に示した景清所縁とも言われる宮崎市生目いきめ神社関連のネット上の情報では、『豊後国日田の郡代』池田季隆が参拝して、本話の原歌とも思われる、
  かげ淸く照らす生目の鏡山末の世までも雲らざりけり
という歌を献納したのは、元禄二(一六八九)年三月三日とする(例えば「神社探訪」という個人(御夫婦)のHPのこちらのページ)。が、元禄二(一六八九)年では池田季隆満十一歳、丸で『七人の代官』ならぬ「七人の侍」の菊千代になってしまう。この齟齬についてお分かりの方は、是非とも御教授願いたい。
・「景淸の塚」宮崎市下北方町には、現在、藤原景清廟なるものがあり、景清の墓と娘人丸の墓と伝えるものが現存する。例えば、高橋春雄氏の「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」の「謡蹟めぐり 景清 かげきよ」には、『景清はこの地にきて「源氏一門の繁栄を見るに耐えず、「この拙者の健眼が敵であるぞ」と叫んで自ら両眼を抉って投げた。その地が生目であり、生目神社に祀られている』とする(ここは全国にある景清伝説の遺跡を総攬出来る、素晴らしいページである。是非、御覧あれ)。この生目神社は同市生目亀井山にあり、この神社に纏わる伝承では『頼朝は平景清の武勇を惜しんで、自分の下に重く用いたいと思った。しかし景清は、その厚意を断って、西国に流してくれるように願った。頼朝は景清』に日向国『宮崎郡北方百町、南方百町、池内村百町、計三百石を与えた。文治二年十一月、景清は家臣の大野、黒岩、高妻、松半まつは、山野、旧橋ふるはし、重長、有半ありわの諸氏を引き連れて、日向に下り、下北方古城(宮崎市)に居城』、『その地に住み着いてのち、景清は深く神仏に帰依した。下北方名田みょうだ帝釈寺たいしゃくじ、岩戸寺、浮之城、正光寺などを建立した。静かな余生を送りたいと考えたが、過去に対する追憶や後悔、源氏が勢力をふるっている現実に対する不満などのために、煩悶はんもんし続けた。ついにはその苦しさから逃れるために、自分の両眼をえぐって、虚空こくうに投げつけた。投げられた両眼は付近の生目の地(宮崎市生目)にとどまった。現在、目の神様として知られている生目神社は、その景清の両眼を祭っているといわれている』とある(先の「神社探訪」という個人(御夫婦)のHPの日向民話集の引用より)。
・「宮崎郡下北方村沙汰寺」現在の宮崎市下北方町。ここには真言宗の古城村今福寺末の神集山沙汰寺があったが、明治三(一八七〇)年に廃絶したと伝える(「角川日本地名大辞典」に拠る)。
・「世々經とも曇りやはする水鏡景淸かれとすめる心は」「景淸かれ」は「影淸かれ」の、「すめる」は「澄む」と「住む」の掛詞。また以下の歌も同様だが、ふんだんに縁語が用いられてもいる。私の勝手な通釈。
……永い年月を経るとも、曇ることがあろうか?――いや、決して、ない――ということを私は信ずる……水鏡よ……いついつまでも、清くあれ……そう願う、それが古人の美しき心を願う……私の正直な嘘のない澄んだ心にて……その心もて、この世に住まんとせちに願う……
・「心だにすめばかげ淸水かゞみくもらずすめる世こそ嬉しき」私の勝手な通釈。
……身は、宇宙のあらゆるところに、自在に住みなし……心は、あるがままに、自在に澄みきっておればこそ……水鏡に映る影も、久遠とわに曇ることなど――決して、ない――曇ることなく全き澄める世に……我も住んで、おることこそ……これ、我が喜び……
なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 心だにすめばかげきよ水かゞみくもらずすめるよしぞうれしき
の表記で載る。大意は変わらない。
・「書消て」底本では「書」の右に『(搔)』の傍注を附す。
・「つて」は底本のルビ。
・「武者小路公蔭」底本には右に『(ママ)』の傍注を附す。公卿・歌人であった武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ 寛文元(一六六一)年~元文三(一七三八)年)の誤記。和歌の師でもあった当時の霊元上皇の歌壇にあって代表的歌人であった。
・「ます鏡世々にくもらぬ跡とめて景淸き名を聞くもかしこし」「ます鏡」は「真澄の鏡」の約で、和歌では「清き」「影」などの枕詞で、ややひねりを加えて用いている。私の勝手な通釈。
……年月経ても、その古えの光栄は……一抹の曇りもなく、記憶に刻まれて御座る……五百年を経た今も……忠にして誠なる景清様の御名を聞くに……畏れ多くもかしこくもまこと勿体なきことにて御座ることよ……
・「明和六年」西暦一七六九年。当時、根岸は勘定組頭であったが、直ちに江戸の根岸が聴いたというはおかしいから、これはもっとずっと後に諸星明之丞から(若しくは諸星を知れる者からの伝聞で)根岸が聴いた談話であろう。
・「諸星明之丞」諸星信豊。池田喜八郎季隆の次男で、後に諸星信方養子となった。天明四(一七六七)年に大番組頭となっている(底本鈴木氏注)。大番組頭は、江戸城警備隊隊長相当の侍大将(騎馬隊指揮官)である大番頭配下の中間管理職相当の職。
・「在番」大番衆が交替制で二条城・大坂城などの勤務に当たることをいう。

■やぶちゃん現代語訳

 景清塚の事

 今の池田殿の、その三代前の御代官を勤めて御座った池田喜八郎季隆殿が、西国筋支配の御代官をなさっておられた頃、享保八年のことと言う。
 季隆殿、人伝てに、日向国に景清の塚ありと聞いたによって、その地へ赴き、土地の古老に尋ねてみたところ、宮崎郡下北方村沙汰寺という寺に案内あないされ、老人はそこに御座った石碑を指して、これで御座ると申すによって、よくよくその石碑を見るに、随分に年経たものと見えて、すっかり苔むして御座ったれど、幽かに「水鏡居士」と彫付けが御座った。喜八郎は和歌をも詠む人で御座った故、
  世に経とも曇りやはする水鏡景清かれとすめる心は
と書付けた歌を詠んで、後日、その辺りに出向くことになっておった部下の男に持たせ、かの墳墓に手向けさせんせしが、その男の眼前に、
――頬骨もすっかり枯瘦致いた、怖ろしげなる老人が一人――
忽然と現われ、
「――何事ぞ――」
との尋ね故、
「……景清の塚と聞いて、和歌を手向けておる……」
と、委細主人の趣きを申したところ、
「――それは奇特なる事――我らは無筆なるによって――そこもと――我らが代わりとして――お書き下されよ――」
と乞うによって、筆を執れば、
  心だにすめばかげきよ水鏡曇らずすめる世こそ嬉しき
と詠んだかと思うと――老人は――ふっと、かき消えてしまった――
 男は、近くで草を刈っておった童べに尋ねてみたものの、
「――どこの人や、よう、知らん――」
と答えた、とのことで御座る。……

 このことあって後、和歌の名家武者小路実陰さねかげ様が、このことをお聞き及びになられ、
  ます鏡世々に曇らぬ跡とめて景清き名を聞くもかしこし
 この実蔭様の御詠のことは、明和六年の頃、喜八郎次男諸星明之丞が、二条城に在番して御座った折りのことの由で御座った。



 不時の異變心得あるべき事

 寛政七卯年予が懸りにて、野田文藏御代官所武州□郡□村萬太郎といへるもの、村長に疵付ける事に付吟味せしに、萬太郎事亂心といへるにもあらざれ共、癪氣強起りし時は差詰り亂心同樣成事もありける由。親市之丞名主役いたし引負ひきおひ有之ゆへ、追々御代官文藏より催促のただしありしに、市之丞儀も差詰りたる人物にや、引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知、尤市之丞は右引負己前借金相嵩あひかさみ困窮せし故、退役して□□□へ名主役も讓りぬ。右□□儀も市之丞一類の事なれば、償ひの世話も五人組一同世話いたしけるが、萬太郎儀例の差詰り候心底や、市之丞來りて萬太郎家内へ返納方の相談に參りしに、理不盡に寢所より立出小刀を以疵付候事成故、右始末を尋ければ、田畑を差出し質入等の儀をも賴置候上は、名主方にていかやうにも世話をなして可相濟を、等閑なほざりにいたし候段心外にぞんじ、名主を殺其身自害すべきと覺悟せし由申に付、名主へ疵付候事ながら畢竟差詰り候心底よりの儀、名主の疵も數ケ所ながら淺疵にて命にかゝわり候程の事にもあらざれば、たすくる筋もあるべしと留役澤左吉へ申渡委敷くはしく吟味いたし、十一月廿四日萬太郎は不及申、長き口書を讀聞よみきかせて、口合くちあひとして予も出席いたし家來足輕も相詰、留役も四五人並び居て白洲のていも威儀嚴重ならざるとも言難きに、口書半過なかばすぎの比、貫太郎儀落椽おちえんにこれある燭臺を逆手に持、踊上りて口書を讀居候左吉へ及越に打懸り、うはハ椽へうつぶしに成り候故、予も取押へ候心得にはあらざれども、前へ進みて即時萬太郎が背へ登り、押へ居し燭臺を首筋へ懸け押へしに、有合ありあひ候留役家來も立懸り候間、足輕に引下ろさせ事淸けるが、左吉額月代ひたいさかやきへ懸け餘程の打疵出來て血走りけるゆへ、右の者療治の手當等申付畢ぬ。其節は心附ざりしが跡にて考ぬれば、右騷にて夫切それぎりに成しなば奉行も痕附候抔と跡の評判も如何ゆへ、ぢきに一件の者共の殘り候口書を右白洲におゐて讀聞せ口合せをせしが、是は最初は心附ざりし、扨又奉布は其任も有之事なれば、下役へ差圖すべきは、自身萬太郎へ登りしは輕々敷、怪我にてもいたし候はゞ不相濟事と批判する人もあらんとも思ひしが、又立歸りて考候へば、右一件翌日より巷の評判品々ありしに、右てい背中へ登り不差押さしおさへざれば、奉行も迯しなど風説せんは武におゐて無念成べし。能々こそ麁忽そこつにもあれ萬太郎を押けるよと、今更思ひつゞけ侍る。右萬太郎は松平伊豆守殿へ申立、追て死罪に申付、事濟ける。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。本格は武辺実録物。今回は、そうした実録を意識して少し現代裁判物風の訳を心掛けた。更に言うなら、本件は公的なお白洲で発生した不祥事の、事故報告書のていを成していることにも着目して訳してある。なお、一部に錯誤としか思えない不自然な部分があるが、力技で訳してあるので、ご注意願いたい。
・「寛政七卯年予が懸りにて」当時の根岸は勘定奉行であったが、恐らくは訴訟関連を扱う公事方勘定奉行として、評定所で関八州内江戸府外の訴訟を担当していたものと思われる。
・「野田文藏」野田元清。寛政元(一七八九)年十一月御代官(底本注に拠る)。
・「癪氣強起りし時は差詰り亂心同樣成事もありける」萬太郎なる人物は、単なる癇癪持ち、短気で粗暴な性格であったととるには難しい気がする。この場合の「癪気」とは恐らく、痙攣を伴うヒステリー症状を意味し、直後に記される父親市之丞名にも同様な傾向が見られたとあり(但し、名主役を執務出来る程度には社会性が保持されていたと思われるので彼の方は単なる性格上の個人差の範囲内であったのかも知れないが、多額の借金と義務放棄による失踪という反社会性をみると、やはり異常性格の疑いは拭えない)、後半の意味不明の乱暴狼藉(何らかの関係妄想を動機としたものと私は推測する)を見ても遺伝的な性格異常若しくは萬太郎の脳の病的な器質的変性などが疑われ、少なくとも他虐傾向の強い境界性人格障害の疑いは濃厚である。
・「引負」百姓の納めた年貢を名主が着服して上納しないこと。また、その金銭のこと。(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。
・「五人組」幕府が町村に作らせた隣組組織。近隣の五戸を一組として、連帯責任で火災・盗賊・キリシタン宗門といった取り締まりや年貢の確保及び相互扶助義務を負わせた。
・「萬太郎儀例の差詰り候心底や、市之丞來りて萬太郎家内へ返納方の相談に參りしに」失踪したはずの市之丞が再登場していて、意味が通らない。一度は時制を微妙に戻して再登場させて訳してみたが、如何にも不自然で細部の齟齬が多過ぎる。そこで、取り敢えず錯文と見て、疑われるが、「市之丞來りて」の部分を、前の「引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知」の頭に移して「市之丞來りて、引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知訳した。大方の御批判をお願いしたい。
・「留役」評定所留役。勘定やその下の支配勘定から昇進してきた実務官僚。現在の最高裁判所書記官であるが、本件を見ても分かる通り、評定所での実質的な審理は彼ら留役が中心となって行っていたと思われ、現在の予審判事にも相当しよう。
・「澤左吉」沢実福さわさねとみ。「新訂寛政重修諸家譜」に寛政二(一七九〇)年十二月四日支配勘定より評定所留役となるとあり、『時に五十一歳』と割注があるので、本件当時は数え五十六歳(因みに根岸は五十九歳)。今の私と同年である。その後の記載がないから、彼はこの身分で致仕したようだ(この事件が理由かも知れない)――頭部をがっつりやられた日にゃ――私なら、やってらんねえゼ――
・「長き口書」「口書」は被疑者などの供述を記録したもの。供述調書。足軽以下と百姓・町人に限っていい、武士・僧侶・神官などの場合は口上こうじょう書きという。私はこの「長き」が上手いと思うのである。「口書」は、そもそもが供述内容の漏れがないようにするため、元来が冗長でくだくだしく長いものである。それを根岸が「長い」とわざわざ言ったのは、本件の、特に被告人萬太郎の供述調書が、度を越して『異例に長かった』ことを意味しているのではないか、と考えるのである。萬太郎はそれでなくても情緒不安定であるから、供述時間も長く、その内容も論理的に纏めにくく、長大になったであろうことは容易に想像出来る。そして問題は萬太郎の、それを凝っとお白洲に座って聞いていなければならない、彼の精神状態にある。供述調書は長かったが、しかし、所謂、論理的な辻褄を合わせるために、実際の供述とは違ってかなり意味内容が改変されていたに違いない(それはもしかすると萬太郎の処罰を軽減するために、よかれと思って澤左吉やその配下の取り調べの役人が行ったものかも知れない)。――自分が言ったことじゃない……そうじゃない……それは誰が言ったことだ!……嘘だ! 違う! お前らは俺を狂人だと思ってるだろ!……こうした萬太郎の心理と、その果てにある行動――私はこの「長き口書」が事件発生の転回点であったと思うのである。
・「口合」口書(供述調書)の確認。
・「落椽」当時の法廷に相当する「お白洲」の建物内の「公事場」の下の二段になった縁側の下側の縁側を言う。以下に、ウィキの「お白洲」から引用する。当時のお白洲は最上段に『町奉行をはじめとする役人が座る「公事場」と呼ばれる座敷が設けられており、対して最下段には「砂利敷」が設置され、その上に敷かれた莚に原告・被告らが座った。もっとも、武士(浪人を除く)や神官・僧侶・御用達町人などの特定の身分の人々は「砂利敷」には座らず』公事場から砂利敷方向に設置された二段に分かれた『座敷の縁側に座った。武士・神官・僧侶は上縁』(二段ある縁側の上側の部分)『に座ることから上者、それ以外は下縁』(二段ある縁側の下側の部分)『に座ったために下者と呼ばれた。一方、役人のうち与力は奉行より少し下がった場所に着座したが、同心は座敷・縁側に上がることは許されず、砂利敷の砂利の上に控えていた』。『お白洲には突棒・刺股・拷問用の石などが置かれた。これらは実際の使用よりも、原告・被告に対する威嚇効果のために用いられたと考えられている。なお、奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いていたことが明らかにされており、時代劇などに見られる屋外の砂利敷のお白洲は史実とは異なる』。『お白洲とは、「砂利敷」に敷かれた砂利の色に由来している。もっとも古い時代には土間がそのまま用いられており、白い砂利敷となったのは時代が下る。白い砂利を敷いたのは、白が裁判の公平さと神聖さを象徴する色であったからと言われている』ともある。根岸が実際に勤務した佐渡奉行所が現在、復元されており、私は今年二〇一二年三月に訪れて、この謂いが正しいことを実見した。
・「うはハ」の「うは」は底本のルビである。意味が取り難い。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『おのれは』とあり、こちらを採る。
・「松平伊豆守殿」松平信明(まつだいらのぶあきら 宝暦十三(一七六三)年~文化十四(一八一七)年)。三河吉田藩第四代藩主、本件当時は老中首座。寛政の遺老の一人。
・「下役へ差圖すべきは」の「は」は、文法上は係助詞で詠嘆ぐらいにしかとれないが、文脈上は不自然である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは『下役へ指図すべき身分』とある。こちらを採る。
・「右一件翌日より巷の評判品々ありしに」さらりと流して書いているが、恐らくその殆どは根岸の天晴れな行動を褒め讃えたものであったであろうことは想像に難くない。

■やぶちゃん現代語訳

 不足の事態による異変に際して相応の心得を持っているべき事

 寛政七年卯年、公事方勘定奉行であった私の担当で、御代官野田文蔵元清殿御支配の武州某郡某村萬太郎という者に関わる、同村村長に対する傷害事件を審理した。
 被告人萬太郎は、乱心発狂によるものという訳ではないようであったが、癇癪が昂じてくると、遂には一時的に狂人同様となることもある、という報告であった。
 彼の親で名主を勤めていた市之丞は、引負金としか思われない年貢滞納が有意にあったため、御代官野田文蔵殿より、何度か支払方督促に関わる追及や出頭の指示があったが、この市之丞も被告人萬太郎と同様、所謂、一種の常軌を逸して『キレ易い人物』ででもあったものか、本件発生以前、或る日、現名主某のところへふらっとやって来ると、
『引負金の儀 如何なることあろうとも上納致すによって 倅萬太郎儀 宜しく頼み候』
という名主某宛の書き置き一通を残したまま出奔、行方知れずとなった。
 尤も市之丞は、以上の引負金疑惑以前より、その他の多額の借財が嵩んでおり、甚だ困窮していたがために、この時点よりも前に名主を退役し、現名主某にそれを委譲している。
 さて、右現名主某も市之丞の一族であったがため、一族の命運にも掛かかることであれば、名主役を譲られた何某を含む五人組一同で、市之丞名義の借財を中心とした残務処理を行わざるを得なくなった、というのが事件前のあらましである。
 当該傷害事件はその直後に発生した。
 現名主某は、市之丞の後継ぎである萬太郎へ、この借財関連の相談のために再三の呼び出しをしたが――彼は件の癇癪が昂じての、確信犯の拒否であったか――なしの礫であったがため、現名主某が直接、萬太郎の家へ行き、とりあえず萬太郎の家族に、失踪した市之丞の引負金返納義務の説明と、五人組で相談したところの、その現実的な支払方法についての内容を提示する段へと漕ぎつけたのであったが、その直後、萬太郎は奥の寝所から荒々しく飛び出して来たかと思うと、理不尽にも所持していた小刀を持って名主某に切り付け、傷を負わせた。
 後に、その犯行に及んだ際の理由を訊問したところ、萬太郎は、
「……あの時は、五人組の方へ、失踪した父親の田畑でんぱたを差し出し、目ぼしい家財の質入れなども依頼しておいた故、この上は彼らが、うまく塩梅して処理してくれるものと考えていた。ところが、奥でそれとなく聴いていると、結局彼らは、いたずらに事態を放置していたばかりで、金銭の調達も代官所への新規申し入れも、何一つしていなかったことが分かった。それは私にとって甚だ心外なこととして感じられ、衝動的に怒りが昂じてきた結果、名主某を殺害し、自分も自害しようと覚悟したものである。……」
と供述している。
本件については、名主への傷害行為が既遂されているとは言え、感情の昂ぶりによる衝動的な行動であり――本人の供述するその動機には、幾分、理解出来るところもない訳ではなく――名主の受傷も複数箇所に及ぶとはいうものの、何れも浅いもので、命に関わる程のものではない――ここは逆に言えば、供述とは異なり、故意としての殺意の認定を躊躇させるものでもある――故に萬太郎の処分については、何らかの形で助けようもあるであろうと判断し、これらの私の見解を実務担当の留役である沢左吉へ申し渡し、詳しく審理することとなった。
 十一月二十四日、被告人万太郎を常規通り、お白洲に出廷させ、長い口書き――今回のそれは私もしびれを切らす程に長いものであった――を萬太郎に読み聞かせる、所謂、供述調書読み上げによる内容確認の儀である口合いであったため、常規通り、私も出席した。いつもと変わらず、私の家来や足軽も詰め、留役も四、五人の者が縁に並び居、公事場から砂利敷に至るお白州の様態も普段と同じで、特に警護警戒・威儀仕様に危機管理上の問題点があったと認め得る要素は全くと言っていい程なかった。にも関わらず、口書き読み上げが半ばを過ぎた頃、万太郎が、落縁に駆け寄り、常規通り設置してあった燭台に手を掛け、それを逆手に持って縁に躍り上がり、口書きを読み上げていた左吉へ打ち懸ったかと思うと、萬太郎は、その脇にどうっとうつ伏せに倒れた。
 私も、こうした場面に於いて、不心得者を直接自身で取り押さえるべき責務を持っていると思っていた訳ではなかったが、実際には咄嗟に、奥座より前へ進み出、即刻、万太郎の背部に登って押さえ、当人が未だに摑んでいた燭台をもぎ取って、それを当人の首筋へ強く押し掛け、身動き出来ないように全身を押さえつけた。――その間、数秒のことと思う。――勿論、居合わせた他の留役らや家来どもも、ほぼ同時に萬太郎におどりかかって押さえつけたので、難なく足軽によって砂利敷へと引き下ろさせて事は済んだのであるが、左吉は額から月代さかやきにかけて、かなり酷い打撲傷が認められ、夥しい出血もあったため、右左吉外傷の手当がまず先決と判断し、医師の救急往診を命じ、一旦、休廷として、関係者を下がらせた。
 その際、実は自分では特に意識しなかったことなのであるが――本件決着後、暫くして、落ち着いて考えてみたところでは――私は、この騒ぎの中で、本件審理をこのまま中断して他日へと延期した場合、『さぞかし、奉行も傷を負ったに違いない』などという誤った噂にならぬとも限らぬ――との考えからであったと思われるが、直ちに本件関係者を再度出廷させた上、残っていた口書きを、乱闘のあった――既に血など拭き取り、平時に復させておいたお白州に於いて平常通り、厳粛に読み聞かせ、今度は滞りなく、口合いを終了した。――再度、弁明するが、以上のことは、行動したその時点では、私自身、自覚的に認識していたものではない。
 さても、奉行はその任務に相応しい行動様式もあることであれば、一般的に考えれば、他者に命じて行い得る仕儀は須らく下役へ指図するべき身分ではある。さすれば、私自身が、狼藉を働いた萬太郎の背へと攀じ登ったなどということは、極めて軽率なことであり、万一、怪我などを負ったなどということにでもなったならば、これはただでは済まない――評定所機能の停止に関わる、ゆゆしき事態を惹起するところであった――などと批判する向きもあるであろうと思われたが、……また一方、翻って考えれば、かの一件については――翌日より世間にあっては、有象無象、いろいろな評判が立って御座ったが――あの事態にあって、背中へ攀じ登って押さえつけなかったならば、『――奉行も逃げたとよ――』なんどいう風評が立っては、これ、武士として無念なること、言うまでもない。……いや、確かに度を越した、軽率なる行動であったとは申せ、よくぞ――何ぞの講談の奉行の如く――まんまと、ぐいと萬太郎を押さえたことで御座った、と、今更以って、思い続けておること、頻りで御座る。……
 なお、萬太郎については、松平伊豆守信明のぶあきら殿へ本評定所内での乱暴狼藉傷害の件、その私の処置なども漏らさず申し立てて、追って死罪が申し付けられ、一件落着と相い成った。



 油垢を落す妙法の事

 いかやうに油付たる衣類にても、里芋をうで候湯にて洗へば落ちる事妙也。予が方に抱へし小女親元にて仕覺しとて、娘共のかりゆひなどにせし油に染たる小切を貰ひ洗ひて見せけるに、緋縮緬紅絹もみの類、色をも失はず元の如くに成候故、油に染み襟油抔附たる切レを洗ひ見しに、いささか色を損ぜず新しく成りし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:冒頭に幾つか出たまじないの類と遠く連関。これは呪いというより、里芋の何らかの成分が化学反応によって油を分解する可能性もあろう。但し、管見では現在は知られていないようである。里芋をゆでた際に出る所謂、アクやぬめりの中に含まれる成分としてはムチン・ガラクタン・シュウ酸カルシウム・ホモゲンチジン酸等の外、タンパク質分解酵素も含有しているようであるが、化学ご専門の方、御教授を願えると恩幸、これに過ぎたるはない。……因みに、私のお母さんの味は、このぬめりをしっかりと含んだ味噌汁だった。妻にも作れないし、今までどこでもあの不思議な舌触りと味に出逢ったことはない。もう母はいない。永遠にあの味には出逢えないのだろうか……。
・「里芋」単子葉植物綱サトイモ目サトイモ科サトイモ Colocasia esculenta
・「かり結」髪を洗ったあと、一時的にざっと結っておくことを言う。
・「紅絹もみ」絹織物の一種で、真赤に無地染めにした薄地の平絹をいう。ウコンで下染めしたものをベニバナで上染めして仕上げる。花を揉んで染めることから「もみ」と名がついた。戦前までは女性の和服長着の胴裏どううらや袖裏として用いられていたが、薄い色の着物の場合、表に色が出てしまうため、現在ではあまり用いられなくなった(以上は主にウィキの「紅絹」に拠った)。

■やぶちゃん現代語訳

 油垢を落とす妙法の事

 どんなに油が染み付いた衣類であっても、里芋を茹でて御座った湯にて洗えば、たちどころに落ちること、これはまっこと、不思議なる事実で御座る。私の家にて雇うておる小女が、親元にてやり方を覚えたとのことにて、私の娘どもが仮結いなどの折りに添えて用いた、油に染みた小切れを貰い受けて、試みに洗って見せたのであるが、緋縮緬や紅絹もみの類いが、全く色落ちすること、これなく、元の如くになって御座った。襟にべったりと油染みが出来た切れを洗ってみても、これ、聊かも色を損なわずに、新品同様になったのには驚いて御座った。



 戲藝にも工夫ある事

 あやつり芝居に藤井文次といへる木偶遣でぐつかひ有りしが、寶曆明和ころ上手と評判ありしに、戀女房染分手綱こひにようばうそめわけたづなといへる淨瑠璃に道成寺のやつし事ありしが、觀世太夫方へ至りて道成寺の能を承度うけたまはりたき旨をねがひしが、戲場の者へ傳授等は難成事の由斷れど、其執心を感じて近日道成寺の能申合まうしあひある間、參りて内見は勝手次第の旨語りしを、大に悦びて其日に至り、右稽古を一心に見しが、右染分手綱の狂言始りて文次より觀世の家内へ見物を乞しゆへ、觀世も見物に至りけるに、染分手綱道成寺に貞之進人形を遣ひしが、觀世が舞ひし道成寺に聊も違はず、其所作いふばかりなく面白かりしが、鐘を上げ候節面テを切り候所、暫く手間取いさゝか後れけるやうなり。右相濟觀世太夫其藝を稱美して、右面テのきりかた後れし事を難じければ、至極尤の御尋なれど右は木偶を遣ひ候氣取也。其仔細は貞之進は鐘の内にて腹を切り仕組しぐみなれば、面テを切候所すみやかにせざる由答ける。觀世も其藝功の工夫を感じける也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。今までもしばしば見られた技芸譚であるが、人形浄瑠璃は始めてである。
・「藤井文次」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『藤井文治』とする。岩波版長谷川氏注によれば、藤井姓を持つ人形遣は、現在、知られる限りでは豊竹座にしかないが、『文治』を名乗る者はその中にはいない、とある。
・「寶曆明和」西暦一七五一年から一七七二年。次注から分かるように、宝暦元年なら、この芝居は出来立てほやほやの新作であったことになり、藤井文次の定之進の演技は正にオリジナルの可能性が極めて高く、更に観世太夫元章は、下世話の人形芝居のことなれば、その筋さえも知らなかった、と考えてよい。そう設定してこそ、本話は生きる。なお、この頃は既に現在のような三人遣いが行われていたので、この定之進も、その主遣が文治であったと考えてよいであろう。なお、この頃、作者根岸は満十四~三十五歳、後半の頃ならば既に評定所留役(宝暦十三(一七六三)年就任)に就いている。
・「戀女房染分手綱」は浄瑠璃、時代物。全十三段。吉田冠子かんしと三好松洛の合作。宝暦元(一七五一)年、大坂竹本座初演。底本の鈴木氏の注によれば、『同年秋には江戸中村座の歌舞伎に上演され、四幕目道成寺伝授の段が大当たりをとった』とある。道成寺好きで「――道 成 寺 鐘 中――Doujyou-ji Chronicl」といったページを作っている私としては、さもありなん、という気がする。現在上演されることが多いのは十段目の「重の井子別れの段」。全体は所謂、馬追い与作の伝承をインスパイアしたもので、本作自体が宝永四(一七〇七)年初演の近松門左衛門「丹波与作待夜小室節たんばのよさくまつよのこむろぶし」の改作でもある。以下、梗概を記す。
――丹波城主由留木ゆるぎ左衛門の若殿が祇園の芸妓いろはを身請けしようとするが、実はいろはは由留木家奥家老伊達与三兵衛の息子の与作に惚れていた。与作は由留木家お抱えの能楽師竹村定之進の娘で腰元であった重の井と恋仲にあり、二人の間には与之助という男児が出来てしまったため、秘かに与作の忠僕一平の母に預けられている。与作は若殿からいろはの身請けを命ぜられ金子を預るが、鷲塚八平次らに奪われた上、国元からは横領の疑いを受け、父与三兵衛から勘当されてしまう。
――八平次の兄官太夫は不義の詮議にかこつけて重の井に横恋慕し、重の井の不義が露顕、彼女の父定之進は辞職するが、最後の願いとして、かねてより主君由留木左衛門の所望であった「道明寺」秘伝伝授を願い出る(以上が、初段から四段目までの内容)。
――以下、本作の場面である五段目「能舞台定之進切腹の段」。「道成寺」伝授の日、前シテの白拍子を定之進が、ワキ僧を重の井が舞うが、シテ鐘入りの後、鐘が引き上げられると、後シテの鬼女(演じている定之進は既に切腹している)が現れ、演技半ばに定之進は、命と引き換えにして不義密通の娘重の井の命乞いをする。大殿は、その心根に感じ、重の井を許して娘調姫しらべひめの乳母を命ずる。定之進は祝儀の場故に不浄の死を憚って、瀕死のままに重の井に別れを告げ、籠に送られ出て行く。
――以下、馬子となった与作にいろはが絡み、調姫の関東入間家への嫁入りの東下りの道中、附き添った重の井がひょんなことから子供の馬子三吉(実は与之助)と再会する(ここが「重の井子別れの段」)。
――その後、諸事万端解決へと向かって与作は帰参が叶い、舅定之進の敵として官太夫を討って後、改めて重の井を正妻、小万(元のいろは)を側室、三吉改め与之助を嫡男として大団円となる。
以上は、二〇一一年三省堂刊の「文楽ハンドブック」及び、ちはや様の「虹色空間」『文楽「恋女房染分手綱」』の記事を参照させて頂いた。私は哀しいかな、「恋女房染分手綱」の文楽の舞台を未だ見たことがない。従って注や現代語訳にはとんでもない誤りがあるかも知れない。識者の御指摘をお願い申し上げる。また向後、実見の折りには、本注及び現代語訳を予告なく改訂する可能性があることをお断りしておく。
・「やつし事」姿を変える演出のこと。「やつし」はみすぼらしくする、姿を変えるという意味の「やつす」が名詞化した能・歌舞伎用語である。普通なら、道成寺で鐘入り後に前シテの白拍子が後シテの鬼女に変ずることが「道成寺」の「やつし」であるが、ここは「恋女房染分手綱」で能楽師定之進が前ジテ白拍子で鐘入り後、鐘が引き上げられると後シテの鬼女が現われるものの、それはすぐに演者定之進が覚悟の割腹を図って出現したのであったという真相をも「やつし」に含んでいる点に注意されたい。
・「觀世太夫」観世元章(かんぜもとあきら 享保七(一七二二)年~安永二(一七七四)年)・観世流十五世宗家。観世左近と称した。『国学を好んで考証を好み、田安宗武、賀茂真淵、加藤枝直等の協力のもと、「明和の改正」と言われる謡曲の詞章を大改訂を行い、『明和改正謡本』を刊行。しかし、詞章の大改訂は周囲には不評で、元章の没後数ヶ月で廃された。ただし、すべてが以前に戻されたのではなく、新しい演曲や舞台上の演出に関する詞章の改訂、節付記号などは後代に受け継がれて現在に至る。作品「梅」は観世流の現行曲』。『十代将軍徳川家治の若い頃から能楽の指南を務めた』功績により、宝暦二(一七五二)年に『分家を認められ、弟の観世織部清尚に別家させる。四座一流に次ぐ地位を認められ、幕府の演能にも出演する資格を得』、『宗家伝来の面や装束も分与し、これがのちに観世銕之亟家となる。現在でも、観世流において「分家」といえば銕之亟家を指す』(以上はウィキの「観世元章」から引用した)。「銕之亟」は「かんぜてつのじょう」と読む。
・「傳授」道成寺は難曲中の難曲で、特に鐘入の前後は各流派で異なり、その演技演出、鐘中の仕儀や舞台上での合図などは秘伝に属する。
・「申合」本来は相撲で力量が互角の力士同士が行う稽古、転じて能・芝居の稽古・リハーサルを言う。
・「面テを切り」能で、顔を鋭く早く一方へ動かして物を見る仕草を言う。歌舞伎でも用いる。
・「氣取」趣向・工夫。この場合、筋に合わせた演出方法を言う。
・「仕組」作品の趣向・工夫、ひいてはその筋や構成の意。
・「面テを切候所速にせざる」文次曰く――定之進は鐘入の後、腹を切っている。しかし、劇中では誰一人、それを知らない。それを受けて、腹を切った能楽師が鬼女となって演じた場合を考え、面の切り方をゆっくりさせた、切腹した状態であれば本来の演技が不可避的に遅くなるのが当然であり、その様を微妙に示す演出を施した――というのである。

■やぶちゃん現代語訳

 戯芸にもそれぞれ相応の工夫のある事

 操り芝居に藤井文次とか名乗った人形遣いがおったが、宝暦・明和の頃、上手と専らの評判の者で御座った。
 「恋女房染分手綱こいにょうぼうそめわけたづな」という浄瑠璃に、「道成寺」を元としたやつし事があったが、それを演じるに当たって文次は、観世流十五世太夫元章もとあきら殿のもとへ出向き、是非とも「道成寺」の能について、お話を伺いたき旨、願い出たが、無論、太夫は、
「――人形芝居の者などへ、これ、伝授など、以ての外のこと――」
と断ったが、執拗に願い出る、その文治の根気執心に感じて、
「……近々道成寺の能の稽古が御座れば……まあ、参りて内輪に見るは、これ、勝手次第……」
と告げたところ、文次は喜色満面となり――
――さても、その日を迎えると、文次はこの稽古を、凝っと一心に――見つめて御座った。……
 さて、その「恋女房染分手綱」の浄瑠璃芝居の興行の初日、文次より観世家方へ、
――お畏れ乍ら 我らが賤しき芝居乍ら 御見物方を乞い願い申し上ぐる――
旨、御座った故、観世太夫も何がなし、興味が持たれて、自身、芝居小屋へと出向いて芝居見物と相い成った。
 「恋女房染分手綱」五段目「能舞台定之進切腹の段」には、能楽師竹村定之進が主君へ「道成寺」を伝授をする場面が御座る。その人形は無論、文次が遣って御座った――
……と……
――その人形の身のこなし……
――これ、観世が舞った「道成寺」と……
――いや、聊かの違いも御座ない……
その所作は――えにも言い難き興を抱かせるまっこと、確かなもので御座った。……
……ただ、鐘を引き上げたという砌、定之進がおもてを切るというところで……文次、暫く手間取って……聊か切れが遅れたように見えた……それを観世太夫は見逃さずに御座った。
 舞台が恙なく終わった後、楽屋に赴いた観世太夫は、実に率直に、その文治の芸の神技ならんを称美した上で、
「――ただ、かの面の切れ方の遅れたこと――これをのみ瑕疵とせんか――」
と、批評致いた。
 すると、文治、
「ご尤もなるお尋ねで御座いますが、あれは人形をつこう上での、演出上の工夫で御座いまする。その具体な訳は、このお話にあっては、ご覧戴きました通り、能楽師定之進は、鐘の中にて腹を切っておる、という筋立てになって御座いますれば、腹を切った能楽師の演ずる鬼女の、その面を切る仕草も、これ、素早くは致さぬので御座いまする。」
と答えた、という。
 観世も、その芸の工夫には、いたく感心じた、ということで御座る。



 鯛屋源介危難の事

 駿河國に呉服商しける鯛屋源助といへる有德うとくの町人ありしが、雪中庵蓼太りやうたが門人にて風雅の道に執心し、比は秋の中ばに鳳來寺のあたりをたづねなんと、一僕を召連かのあたりを一見して、尚又古跡を尋んと、一僕はわる事有りて先へ辭し、一人にて爰しこ知らぬ山路をも踏分しに、折ふしの急雨にて立よるべき雨舍あまやどりの影もなく、やうやうにとある人家へよりて雨具をとゝのへんとせしに、賣るべき雨具も持ず、氣毒きのどくにはあれどいたしかたなし、旅の空こそ難儀成べし、是より一二町先に長屋門の家あり、是に立寄て雨具抔乞はゞ施し可申と、一人側にて語りける故幸ひの事と思ひ、壹貮町町袖笠に雨をしのぎてかの長屋へ立寄雨具を乞しかば、安き也とて雨具を持出しが、内より五十にあまる男出て、是より先山道にて殊に日も夕陽なれば難儀し給ん事なれば、今宵は此處に泊り給へと言ければ、幸の事と思ひ一宿なしけるが、外より見しとは格別にちがひ、ゆたかに暮したる樣子にて、膳部などもかたの如く奇麗にて、夜もすがら百韻など主ともども口ずさみて、翌日も朝より降しきり、深切にとゞめける故、其心に隨ひ足を留めけるに、一間隔たる放れ座敷にて琴の調など氣高く聞へける故、通ひする女子に尋ければ、あれ此家の隱居にて、琴は娘成人の彈ける由かたるも奧ゆかしく、夜に入て人なき折から五十計の老たる局らしき老女出て、四方山の咄の上、此あるじは娘計にて男なし、兼て聟を求め給ふが御身の樣子は娘とも相應にて、此處に暮し給はんは行末安き事也とすゝめければ、源助も心に思ひけるは、駿河の身上しんしやうは弟に讓り此處に住居せんは、商賣の道に心を苦めんよりはし也と思へば、我等は駿河にて呉服商賣せる者なるが、歸りて親其外類へも相談して、追て其趣意にも隨はんと、あくれば暇を告て立出しに、歸りには必寄り給へと厚くもてなしけるゆへ、立別れ山路を多葉粉のみながら通りしに、右道筋にて村名忘れたり、孝行奇特の儀、公儀より御褒めなりし善七といへる者の居村を通り、門先に多葉粉呑候者へ火を乞ひければ、かしがたき由をことはる。善七家並やなみの家に至り火を乞ひければ、もへさしを表へ投出して與へける故其譯を尋しに、譯あればこそとて不取合。彼善七右の樣子を見て、年若成人いたはしき事也、全く欺れしものならん、譯を言て聞せよといへど、外々の者どもも、不便にはあれども譯を言ても仕方なしとて皆々立去りぬ。其跡にて、如何樣の譯あるやと右善七に歎き尋ければ、御身一兩夜止宿し給ふ所は此處の穢多頭也、火の穢たる人なれば最早御身の宿せん者もなく、痛はしさに語り申也と聞て大に驚き、此難如何して免れんと歎ければ、いたわしき事ながら、彼穢多頭は素人を聟抔にとるを外聞にもいたし、もはや口々へも目付めつけを付て、御身の此山路を出候を伺ふならんと語りければ、彌々身の上の難儀を悲しみ涙を流して賴ければ、然らば其の老母ありて日毎に里の藥師へ參詣する間、これも佛の智遇なれば、彼老母に形を似せ給へと、しかじかの衣類抔を上へ着せて、壹人の僕に爲負おはせ、面をも飽まで包みて翌朝里へ送りしが、必道すがら聲ばしたてそと深く誡めけるが、や途中にて若き者抔五六人立集り、如何に昨日の旅人はいづ方へ行しや、不思議に見へざる由を咄合ふ聲を聞ても、犬狼の吠る聲かと怖しく思ひ、やうやく里へ出我宿に歸りて、厚く彼善七方へも禮をなしけるとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:ホカイビトと呼ばれて差別された芸人の戯芸譚から、言われなき身分制度によって穢多と呼ばれ差別された人々の話へ。こうしたおぞましい差別意識が時に今も、我々の中に容易に蘇ってくることがあることを肝に銘じて読みたい。表題では「源介」で本文は「源助」だが、訳では「源助」に統一した。
・「雪中庵蓼太」御用縫物師で俳諧師であった大島蓼太(享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)。信濃国那郡大島出身。二十三歳の時に服部嵐雪門の雪中庵二世桜井吏登に入門。その後剃髪て行脚、延享四(一七四七)年、三十歳で雪中庵三世となった。江戸座宗匠連を批判、芭蕉復帰を唱えて天明の中興の大きな推進力となった。生涯に行脚すること三十余、選句編集二百余、免許した判者四十余、門人三千と言われ、豪奢な生活をしたことで知られる。以下、数句を示しておく。

 たましひの入れものひとつ種ふくべ
 夏瘦の我骨さぐる寢覺かな
 世の中は三日見ぬ間に櫻かな
 擲てば瓦もかなし秋のこゑ
 更くる夜や炭もて炭をくだく音
 夕暮は鯛に勝たる小鰺かな

・「賣るべき雨具も持ず、氣毒にはあれどいたしかたなし、旅の空こそ難儀成べし、是より一二町先に長屋門の家あり、是に立寄て雨具抔乞はゞ施し可申と、一人側にて語りける」というこの男に私はある疑念を持つ。笠がなくとも、止むかも知れぬ雨に一時宿らせることも出来る。また、いわくつきの屋敷を彼は何の躊躇もせず指示している。私は彼はかの穢多頭の配下の者であろうように思われるのである。彼はこうした若い男の旅人があった場合に、かの屋敷へと誘導することを命ぜられている人物ではないか、と思うのである。
・「長屋門」使用人などが住んだ長屋が左右に附属した大きな門。江戸時代、民間では郷村武士の家格をもつ家や苗字帯刀を許された富裕な農家及び庄屋などが長屋門を造った。但し、この場面でのそれは、恐らく古いもので、規模も小さく、相当に汚損したものであったのであろう。でなければ、後でわざわざ「外より見しとは格別にちがひ、ゆたかに暮したる樣子にて」とは言わない。「格別に」というところで、人気のない、ぼろぼろの幽霊屋敷染みた長屋門を想起するのがよい。
・「百韻」俳諧連歌の作品形式の一つで、百句からなる。
・「穢多」中世から近世に於ける賤民身分の一つ。江戸期には非人とよばれた人々とともに士農工商の下におかれて居住地の制限や、本話で特徴的な火の貸し借りの禁止(容易に燃え移るように穢れが移るという類感呪術であろう)など、社会的な細部に及ぶ不当な差別を受けた。殺生と結びついた職業差別に起源を持ち、主に皮革業に従事したり、犯罪者の逮捕や罪人の処刑などに使役された。明治四(一八七一)年の太政官布告によって法的には平民とされながら、世間では公然と「新平民」と呼ばれて差別が続いた。社会的差別は今も残存している(以上は主に「デジタル大辞泉」の記載に従った)。
・「目付」見張り。ここで穢多頭は、源助が自分の婿になるという情報を流して、差別を逆手にとって外濠を埋め(というより差別によるウォールを里山に張り巡らして源助に実家への帰還を諦めさせるのである)、更に見張りによって実質的に源助の下山を阻止、懐柔して再び屋敷に連れ帰って、強引に婚礼を遂げるという計略であろうと思われる。
・「爲負おはせ」は底本のルビ。
・「聲ばし立そ」品詞分解すると、
 聲(名詞)ばし(取り立て・副助詞)たて(動詞・タ四・未然)そ(禁止・終助詞)
で、「ばし」は、呼応の副詞のように下に禁止の意を伴って「~などは決して」の意を示す(但し、この用法は平安末期以降)。

■やぶちゃん現代語訳

 鯛屋源助危難の事

 駿河国に呉服商をして御座った鯛屋源助という裕福な町人があった。
 彼はかの雪中庵寥太(の門人で、俳諧風狂の道に執心し、頃は秋の半ば、紅葉美麗な鳳来寺の辺りを尋ねんものと、一僕を召し連れ、かの山里を一見の上、なおも古跡を尋ねんとて――かの下男はよんどころない用があったがために先に帰し――一人にて、ここかしこ、不案内な山道をも臆せず、踏み分けて行御座ったところ、折から俄かに雨となり、宿るべき物蔭もなく、やっとのことで一軒の民家を見出だしたによって立ち寄り、雨具を売ってもらおうとしたところが、
「……売れる雨具は御座らぬ……気の毒じゃが、諦めておくんない。…………とは言うても、この天気に、その旅の空じゃ……そうさ……ここより一、二町先に、長屋門の家が御座る。……そこに立ち寄って雨具なんど乞うたれば……きっと施してくれようぞ……」
その家に一人でおった者が、かく語った故、雨も激しくなればこそ、これ幸いと、その一、二町を袖を笠に雨を凌いで、その長屋門へと走り込むと、
「雨具をお貸し下されい!」
と声をかけた。すると、
「安きことじゃ――」
と声がして、下男の者が雨具を持って出て参ったが、すぐ後、奥より五十過ぎの男が出て参って、
「……これより先、山道にて……ことに、もう日も暮れかけて御座ったれば……今宵は、ここにお泊まりなさるが、よかろう……」
と言うたれば、源助も、天の助け、これまた幸いなることと、一夜を借りた。
 案に相違して、先程来、外より見たのとはまるでちごうて、たいそう裕福なる暮らしを致いおる様子にて、出だされた夕餉の膳や椀なども、一様に美麗なるものにて、またあるじには風流の覚えも御座り、二人して夜もすがら、百韻なんどを口ずさんで過ごいた。
 ――さて、翌日も、朝より雨の降りしきって、止む気配なく、主も親切に引き留める故、その言葉に甘え、また一日、逗留致いて御座った。
 ――と、一間隔てた離れの座敷にて、琴の爪弾きなんどが、如何にも優雅な雰囲気で聴こえて参った。
 ――源助を世話して御座った女中に尋ねたところ、
「あれはこの家のご隠居所でご座いまして、あのお琴は、ご主人さまの――お嬢さまが――弾いておられるので御座いまする――」
と答えるのを聞くや、彼はもう何やらん、まだ見ぬその娘とやらに、不思議に心惹かれて御座ったという……。
 ――その夜のこと、宛がわれた部屋に独り御座ったところが――五十ばかりの年老いた、如何にも高貴なお方の御局然とした老女が現れ、四方山の話を致いた――その果てに、
「……ここ主は……娘ばかりにて男の子が御座らぬ……かねてより婿をお求めになられておらるるが……はあて……御身のご様子……これ、まさしく……お嬢さまにお似合い……ここで、こうして……ずっとお暮らし頂けましたならば……まっこと、行く末は……ご安泰に御座いまする……」
と突如、慫慂しょうようさるればこそ、源助も、
『……駿河の店は、これ、弟に譲っちまって……どうよ、ここで暮らすっちゅうのは……あんな商売の道に、嫌な思いをするぐらいなら……こっちの方が、ずっとマシじゃ!……』
と思うたによって、
「……我らは……駿河にて呉服商いをしておりまする者なれど……ここは一つ、家へ帰って、親その他親類縁者へも相談の上……追って……その……有り難きお申し出に随わん……という所存にて御座ればこそ……」
と告げた。
 明くれば秋晴れ、一時の暇乞いを告ぐると、
「――お帰りになるは――必ず、この家――御来駕――お待ち申して――おりまするぞ……」
と、土産なんども貰って、手厚く見送られた。
されば、立ち別れた後、のんびり山路を煙草なんど吹かしながら下ってゆく。
その道筋にて、とある村――村名は失念致いた――確か、何ぞ孝行なる行いによって御公儀から御褒美を賜ったという、ほれ、善七とかいう者の住もうておった村じゃ――を通った。
 門先で煙草を呑んでおった者へ火を借りんと乞うたところが、
「貸せネエ――」
と断わる。
 かの孝子善七の家のある並びに辿りついたによって、再び火を乞うたところが――燃えさしの木を――投げて与えられた……。
 あまりの仕打ち故、その訳を誰彼に尋ねてみたものの、誰もが、
「……訳は……ある、で、の……」
と口を濁して取り合わぬ。かの善人善七、見かねて彼らに言うた。
「……まんず、若いお人なれば……いや、いたわしいこっちゃ……全く以て、まんまとだまされたものでござろう……みんな……ちゃんと、訳を言うて……聴かしたりや……。」
と言うたが、その外の者どもは、
「……確かに、な……確かに、可哀そうなこっちゃ……」
「哀れなれど……なあ……」
「……いや……訳を言うても……もう、遅いわ……」
「……そやなあ……仕方ないゎ……」
などと、口々に言うては立ち去ってしもうた。
 残された源助、訳も分からず、呆然として暫く立ち竦んで御座ったが、徐ろに善七のかたに向き直ると、
「……こりゃ……一体、如何なる訳が……あると言うんで!?」
と叫んだ。
 善七が答える。
「……お前さんが一両夜泊まった、あの家は……この辺りの穢多頭なんだよ。……あそこに泊まっちまったお前さんは……これもう、火の穢れた人となっちまった、という訳さ……例えば最早、お前さんを泊めて呉れよう者、家に入れて呉れよう者は……これ、もう、この辺りじゃ、一人もおらんぜ……まあ、その……あまりのいたわしきこと故、その訳を、有体に述べたまでの、ことじゃが……」
源助、あまりのことに驚き、
「……こ、この……災難から……の、遁れるには……い、一体どうしたら……」
と歎いたところ、善七、
「……いたわしいことなれど……かの穢多頭は、もうとっくに、素人のお前さんを婿としてとる、ちゅうことを、この近辺で公然と触れ回っておる。……最早、この山里から出る道筋には見張りを置いて御座って、お前さんが、これから山道を出でんとするところを、手ぐすね引いて、窺っとるんだろうなぁ……」
源助は、万事休した己が身の上の難儀を悲しみ、涙を流して善七に縋りついた。
 善七は暫く考えて、
「……されば……我らに老いた母が御座るが、これが日々、下の里の薬師へ参詣すればこそ……これもまた、仏の知遇なれば……かの我が老母に、姿形を似せてみなさるが、よかう……」
と言うと、あれやこれや、老母のさまざまな衣類をとっかえひっかえ着せてみて、一番しっくりくるものを選んでおっかぶせるように着せると、善七の使って御座った下男の背に負わせ、顔まですっかり包み隠いた仕儀で、里方へと送ってやった。
 出しなに善七は、
「――よろしいか? 必ず道中、声をば出しては、これ、なりませんぞ!――」
と厳重に注意致いた。
 いや――まっこと――善七の言う通り、道の各所にて、若い男どもが五、六人、たむろって御座って、
「――なんじゃあ?! 昨日の旅人はどこへ行ったじゃあ?! 不思議に、姿が見えんようになっちまったぞ!!」
と、荒々しう話し合う声なんどが耳を打つにつけ、源助には、まるで野犬や狼の吠え声かとも思われて、心底、恐ろしく、ようよう里方へと抜けられ、ほうほうのていにて我が家へと立ち戻った。
 後日、機転を利かして救って呉れた善七方へは、人をやって手厚い謝礼を致いた、ということで御座る。



 番町にて奇物に逢ふ事

 予が一族なる牛奧うしおく氏壯年の折から、相番あひばんより急用申來まうしきたり、秋夜風強き夜一侍を召連、番町馬場の近所を通りしに、前後行來もたゆる程の大雨にて、道の側に女など見へてうづくまり居しが、合羽やうのものを着、傘笠の類ひも見へず、確に女とも不見、合點行かず樣子故右の際を行過しに、召連たる侍、あれは何ならん、とく見可申哉みまうすべきやと言しが、いらざるものゝ由をこたへしに、折ふし挑灯を持たる足輕使躰あしがるづかひていの者兩人脇道より來る故、右の跡につき元來し道へ立戻り、彼樣子を見んとせしに、始見し所に何にても見へず、四邊うちはれたる道なれば、何方へ行べきややうもなしとて口ずさみ歸りしが、門へ入んとせし頃頻りに寒氣せしが、翌日おこりを煩ひ廿日程惱みしが、召連し者も同樣寒氣して熱病を廿日程惱ひけるとかや。瘴癘しやうれいの氣の雨中に形容をなしたるならん。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。久々の耳嚢怪談である。構成は遙かに複雑であるが、私の好きな怪談の一篇岡本綺堂の「妖婆」は場所も番町で、道端に怪しい老婆を見るという話柄の初期設定はよく似ている(リンク先は青空文庫版)。
・「牛奧氏」「卷之二」の「鄙姥冥途へ至り立歸りし事」にもこの姓の人物が登場する。その話柄も老女蘇生譚で本話と類感する。そこで注した通り、旗本の中にこの姓があり、先祖は甲斐の牛奥の地を信玄から与えられてそのまま名字としたらしい。岩波版長谷川氏注には幕臣で、鎮衛の一族(但し、東洋文庫版鈴木棠三氏注の孫引きの指示有り)とする。ここの底本の注では、鈴木氏は『寛政譜には同姓五家あり、どれか明らかでない』ともある。
・「相番」江戸時代の幾つかの職務の当番や宿直の中には二人一組で交互にその職務を務めるものが多い。
・「番町馬場」御用明地騎射馬場(三番町馬場)のこと。現在の靖国神社参道に当たる。
・「前後行來もたゆる程の大雨にて、道の側に女など見へてうづくまり居しが」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、ここが、
 前後行來も絶る程の大雨にて、提灯一つを不吹消ふきけさざるやう桐油とうゆの陰にして通りしに、道の側に女子とも見へてうづくまり居しが、
となっている。「桐油」は長谷川氏注に『桐油をひいた紙の合羽』とある。これはあった方が場面の流れとしては自然。底本はここを脱文したと考えてよい。これを挿入して訳した。「桐油」は双子葉植物綱トウダイグサ目トウダイグサ科アブラギリ Vernicia cordata の種子から採れる油で、塗料や油紙の材料として盛んに使われた。但し、エレオステアリン酸などの毒性を持つ不飽和脂肪酸を含むため食用にはできない。

・「合點行かず樣子故右の際を行過しに、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 合點行かざる樣子故、右の際を行過しに、
とある。こちらの方がよいが、文脈から言えば、
 合點行かざるままに、右の際を行過しに、
とあるべきところであろう。そのように訳した。
・「とくと」は底本のルビ。
・「始見し所に何にても見へす」は底本では「見へす」とある。訂した。
・「四邊打はれたる道」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 四邊打はなれたる道
となっている。「晴れたる」(見通しがよい)、「離れたる」(淋しい)どちらでも通ずる。
・「歸りしが」相番の急な出務要請を受けているのに、このシチュエーション、そこへ出向く前では不自然である。冒頭で、その帰り、という設定にして訳した。
・「瘧」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫 Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカ Anopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫 Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫 Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫 Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫 Plasmodium ovale の四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。
・「瘴癘」水気を含んだ自然界に生ずる毒気によって起こると考えられていた熱病。

■やぶちゃん現代語訳

 番町で奇体なるものに出逢う事

 私の一族である牛奥うしおく氏の壮年の頃の話。
 相番の者から急用の出務要請の使いが参って、秋の、雨風の強い夜で御座ったが、部下一名を召し連れて出で、その帰り、番町馬場の近所を通った折り、前後の往来、人も絶えるほどの大雨となって、提灯一つを大事大事に、吹き消されぬように桐油きりゆの紙合羽の蔭にして、しずしずと歩いて御座った。
……すると……
……道の傍らに、誰やらん、女と見える者が蹲っておって……その者、合羽ようのものを着てはいるものの、番傘や被り笠の類いも見えず……いや実は……確かに女である、とも定かでは御座らなんだ……いやもう、如何にも妖しげな感じのする、『者』で御座った。
 合点のゆかぬままに、その者の側を通り過ぎたところ、召し連れて御座った侍が、
「……先程の、『あれ』は……一体、何で御座いましょう?……一つ、確かめて参りましょうか?……」
と申したが、
「……いらぬことじゃ。」
と答えたものの……丁度、提灯を持った足軽風の者が、二人連れで、すぐの脇道からやって参って、今しがた我らが来た方へと向かわんとせし故、不審なる者の由話しを致し、彼等の後について、元来た道を戻って、かの妖しき者の様子をとくと見んとしたところ……
……最初に見かけた場所には……
……何者も……
……何も見えずに、御座った……
……そこは四辺、遙かに見通しのよい、如何にも、もの寂しい道で御座った故、
「……何処いずこへ参ったものであろう……」
「……いえ、短い間のこと故、何処どこへ行けようはずも、これ、御座いませぬ……」
などと、二人して不審を呟きつつ、帰ったので御座ったが、
……屋敷の門へ入らんとした、丁度、その時……
……しきりに寒気が致いて参って……
……いや、もう、その翌日にはおこりを発症致いて、そのまま二十日ほど病み伏せって御座った……
……かの召し連れて御座った侍も……
……ほどのう、同様の寒気がし、よう似た熱病のため……
……我と同じく、二十日ほど病み伏せった――との、こと。
 ……さても……瘴癘しょうれいの気が……雨中に人形ひとがたとなって……姿を現わした……と、で、も……言うのであろうか……



 小兒産湯を引く事

 出産後小兒即時に産湯をひく取揚婆とりあげばばの役目也。二番湯とて三日目に湯を引事これ又定例なるが、出生より三十六時の内に二番湯を引事と或る人の語りしが、予が孫出生せし三日目、取揚婆に障る事ありしや來らず、四日目に湯を引しを、預け置ける小兒科木村某來りて、以の外の由、こよひさつこうの愁なき樣いたし度とて、其手當など教示して歸りしが、其夜は別條なかりしが六ツ目の日より煩ひて撮口さつこうの症となりつひに失ひける。後人の心得のため爰にしるしぬ。一番湯たりとも延し候て不遣つかはざるは害なし。出生三日迄は臍のしまり宜敷よろしき故湯の愁なし。四日目よりは臍のかわきてあがり候程合ほどあひなれば、右臍の穗より濕氣入れば果して撮口を生じ候ものと彼木村某かたり侍る。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。冒頭三項に出るような「小兒餅を咽へ詰めし妙法の事」などと通底する民間療法・習俗の一つのように見えるが、もうすこし民俗学的な根が深い。ここでは特に三日目の二度目の産湯(これをやはり産湯と呼ぶ)が問題とされているが、それは一義的にはここに記されるような医学的根拠に基づくものではなく、専ら宗教的儀礼的なものであったと考えられている。
・「産湯」現在は専ら分娩直後に使う湯を言うが、古くは分娩直後の湯浴みと、ここに示された三日目の湯浴みを区別した上で、両方を同じように産湯と呼称していたようである。「産湯」という呼称には出産後初めての湯浴みという意味以外に、大地母神である産土神への無事の感謝と生育の守護を祈る儀式であり、産湯の水は本来は自然界の水気に産土神を象徴したものと考えられ、この「お清め」によって神の産子=氏子となるといった意味が孕まれている。産湯に邪気を払う塩や酒を入れると風邪をひかない強い子に育つといった俗信もそうしたものの名残りと考えてよい。但し、分娩直後の産湯の水は穢れたものとされ、陽の当たらぬ産室の床下や、占いが示す当該の方角の特定の場所に捨てたようであり、捨てた場所が悪いと夜泣き癖が残るという俗信は広く信じられてもいた。三日目に使う湯は「産湯」又は「湯め」、「湯殿始め」と呼称し、これが済んで始めて「三日祝いの晴れ着」が行われた。里方から贈られた袖のある「手通し」と称する産着を着せて三日の母子の恙無きことを祝う儀式で、これを見ても、三日目の産湯が本来は儀礼的傾向の強いものであったことは明らかである。主に参考にした平凡社「世界大百科事典」の大藤ゆき氏の「産湯」の項によれば、「三州奥郡産育風俗図絵」に、『分娩して後産が出て、へその緒を始末してから生児を洗うのを〈初湯はつゆ〉または〈とりあげの湯〉といい、そのためには大すり鉢を用いた。三日の湯以後はたらいを用いたという。偉人の産湯に使われたという湧き水の伝説は全国に分布しているが、その水を妊婦が飲むと安産するとか、女児の産湯に用いるなど不思議な薬効を説いているものもある』(読点記号を変更した)と記されている。
・「出生より三十六時の内」当時、一ときは現在の約二時間であるから、三日後の七十二時間後は『三十六時』に相当する。
・「さつこう」「撮口」は漢方医学で「臍風」「噤風」等とも言い、新生児の破傷風のこと。ここに示されたように臍帯切り口から感染することが多かった。現在でも発展途上国では数十万から百万程度の破傷風による死亡が推定されており、その大多数は乳幼児や幼児で、特に新生児の臍の緒の不衛生な切断による新生児破傷風が大多数を占める。以下、参照したウィキの「破傷風」から引用すると、罹患は『土壌中に棲息する嫌気性の破傷風菌(Clostridium tetani)が、傷口から体内に侵入することで感染を起こす。破傷風菌は、芽胞として自然界の土壌中に遍く常在している。多くは自分で気づかない程度の小さな切り傷から感染して』おり、『芽胞は土中で数年間生きる。ワクチンによる抗体レベルが十分でない限り、誰もが感染し、発症する可能性はある。芽胞は創傷部位で発芽し増殖する。新生児の破傷風は、衛生管理が不十分な施設での出産の際に、新生児の臍帯の切断面を汚染し発症する。ヒトからヒトへは感染しない』。『破傷風菌は毒素として、神経毒であるテタノスパスミンと溶血毒であるテタノリジンを産生する。テタノスパスミンは、脳や脊髄の運動抑制ニューロンに作用し、重症の場合は全身の筋肉麻痺や強直性痙攣をひき起こす』(この薬理作用とその発症機序及び毒素と抗毒素は明治二十二(一八八九)年から翌年にかけて北里柴三郎によって発見された)。『一般的には、前駆症状として、肩が強く凝る、口が開きにくい等、舌がもつれ会話の支障をきたす、顔面の強い引き攣りなどから始まる。(「牙関緊急」と呼ばれる開口不全、lockjaw)徐々に、喉が狭まり硬直する、歩行障害や全身の痙攣』(強直性痙攣による手足・背中の筋肉の硬直が発生し全身が弓なりに反る。リンク先に一八〇九年にイギリスの著名な神経解剖生理学者サー・チャールズ・ベル(一七七四年~一八四二年)の描いた患者の画が載る)、といった『重篤な症状が現れ、最悪の場合、激烈な全身性の痙攣発作や、脊椎骨折などを伴いながら死に至る』とある。潜伏期間は三日から三週間で、『神経毒による症状が激烈である割に、作用範囲が筋肉に留まるため意識混濁は無く鮮明である場合が多い。このため患者は、絶命に至るまで症状に苦しめられ、古来より恐れられる要因となっている』。死亡率は高く、五十%。成人でも一五%から六〇%、新生児に至っては八〇%から九〇%と極めて高率を示し、幸いにして生存しても、新生児破傷風の罹患患者は難聴の後遺症が残ることがある、とある。
・「臍の穗」底本には右に『(臍の緒)』の傍注を附す。

■やぶちゃん現代語訳

 小児に産湯を浴びせる事

 出産後、小児にすぐ産湯を浴びせるは、これ、産婆の役目で御座る。二番湯と言って三日目に湯を浴びせることは、これまた定例のことで御座れど――出生から三十六時、三日以内に、この二番湯は浴びせること――とある人の語ったを、以前に聞き知っては御座った。――
 私の孫は出生しゅうしょうして三日目、産婆に何か不都合でも御座ったか、やって来なんだがため、一日遅れて四日目に湯を浴びせて御座ったが、これを聞いた当家かかりつけの小児科医木村某が参って、以ての外の仕儀と気色ばみ、
「……ともかくも今宵、破傷風に罹患する虞れのなきよう、処置致いたい……」
と、その応急処置と、急変時の手当の仕方などを指示して帰って御座った。
 その夜はこれと言って別状なく御座ったが――六日目より煩いついて――撮口の症状を呈し――遂に――亡くなって御座った。……
 後人の心得のため、ここに記しおく。
 なお、一番湯については、それを延ばしたり、有体に言わば、使わずとも、これ、害はない。その理由は、出生三日目迄は臍の締まりがよろしい故、湯浴みによる臍部からの病毒の感染の恐れはないからである。
 ――しかし四日目からは、臍の緒が完全に乾き切ってしまう頃合いで御座れば、その臍の尾の干乾びた隙間より湿気が入ると、果たして破傷風を発症する仕儀と相い成る――と、その木村某が語って御座ったよ――



 雷鶴をうちし事

 寛政八辰年春、雷の鳴りし事ありしが、林大學頭營中におゐて語りけるは、同人知行に奇事有りし由。武州おし領近所にて雷落て鶴を三羽打殺しける由。尤空中を舞ひけるにや、又は求食あさる鶴を打しやと尋けるが、其程は難分わかりがたし、晝の事にて雷甚しかりしに其村の百姓、側の家に雨を凌ぎて、少しやみけるゆへ立出みしに、鶴三羽雷に打れて翼を損ざしくすぼりて有し由、あるべき事ながら珍ら敷事也と語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:自然界の瘧りの毒気が人型を現じる怪談から、長寿のシンボルたる鶴が雷に打たれて焼け燻っているという奇談連関。なお、これはあり得るか、と言われればないとは言えないが、文中で問題となっているように、飛んでいた場合は極めて可能性は低いものと考えられる。飛んでいる鳥は周囲とほぼ同電位であるから、雷を誘わず、生体であるから静電気が溜まる可能性はあっても、雷が鳴る際は周囲の湿度も高く、鳥の大きさも小さいので(鶴は相対的にはかなり大きいが)、静電気もなかなか溜まらない可能性があるので飛翔中の鳥の落雷の可能性は小さいという記載がネット上にある。そもそも大型の鶴が三羽飛翔中に雷電に打たれるという可能性は更に小さい。寧ろ、地上に降りて近接していた三羽の鶴(鶴が首を伸ばしていれば広大な湿地や平地ではやや高いし、当然、地面と同電位になる)の何れか一匹、若しくはその近くにある、例えば樹木や竿、百姓の鍬などに大きな落雷があった場合、こうした集団雷撃死はあってもおかしくはない、という気がする。
・「寛政八年」は丙辰で西暦一七九六年。
・「林大學頭」儒学者林述斎(明和五(一七六八)年~天保十二(一八四一)年)。林家第八代。寛政五(一七九三)年、林錦峯の養子となって林家を継ぐ。昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化や儒学教学の刷新、「寛政重修諸家譜」「徳川実紀」「新編武蔵風土記稿」といった公刊史書の編纂事業など、寛政の改革に於ける文部行政を推進した。当時、二十八歳で根岸より三十一も若い。
・「武州おし」「おし」は底本のルビ。現在の埼玉県行田市にあった忍藩。
・「難分わかりがたし」は底本のルビ。
・「くすぼりて」「燻ぼる」で煙によって黒くなる、すすけるの意。

■やぶちゃん現代語訳

 雷が鶴を打った事

 寛政八年辰年の春、頻りに雷が鳴った日が御座ったが、その折り、林大学頭述斎殿が城中にて雑談のうちに語って御座ったことで、同人の知行所にて、奇異なること、これ、御座った由。
 「……武州おしの近隣の村のことなるが、雷が落ちて鶴を三羽打ち殺した、というのじゃ。――尤も、その三羽、空中を舞っていたところを雷撃されたのか、又は地に降り立ちて餌を探しているところを打たれたのか、とその者に尋ねてみたので御座るが、その辺りは、よく分からぬということにて――ともかくも、昼間のことにて、雷雨、殊の外、厳しき折から、その村の百姓、近場の農家にて雨を凌ぎて、少し小振りになって参ったによって立ち出でてみたところが、目の前の原に、鶴が三羽、雷に打たれて翼を焼かれ、ぷすぷすと烟りを吹きながら、全身、これ、黒ずんで御座った――とのこと。……まあ、あり得ぬ話では御座らねども、やはり珍しきことでは御座る。」
と語って御座った。



 靈獸も其才不足の事

 武江眞崎まつさきに稻荷の靈社ありて、寶曆の頃より參詣群集ぐんじゆをなし、其後明和安永の比は少しく衰へぬれど、好事の遊人は春秋に逍遙の場所とせり。天明の頃右場所にお出狐いでぎつねといへる狐あり。是は彼境内の一穴中に濟る。信心の輩彼邊の茶店の婦女によりて菓子或は食物を穴の邊に供してお出お出と呼べば、穴中より狐出て彼食物を食しけるを、品々興じ唱へける事ありしが、其後は右狐いづちへ行けん今は其沙汰もなし。仙臺家の家士齋藤所平と言るは、江戸生れにて仙臺の事は不案内なるが、春の此眞崎稻荷へ參詣し、傍の茶鄽ちやみせによりてお出狐の事を尋しに、今は呼でも不出、定て所をかへしならんといゝければ、所平甚殘り多く、扨々遲く來りしゆへ其樣子を不見事とて委敷くはしく尋問ひしに茶みせの女、狐は奇怪の物也、一ト年我等娘十二になりけるが、しづの子なれば今に一字をひく事もならざるが、右に付て唯ならぬ事など申故、不思議とせつに尋ければ、我等は爰元の狐なれど官位の事にて最早ほかへまかるなり。年月世話にもなりぬれば此娘に付て暇乞をなす也、緣あらば又こそ來るべしとて、一首の歌を其邊に有し扇に書置たりとて右の扇を見せけるに、彼娘無筆なるが相違なきが、扇に書し歌もつたなからざるとはいひがたけれど、
  月は露露は草葉に宿かりてそれからこれへ宮城のゝ原
 かく認有りしを珍らしきに任せて、彼婦人に金子貮百ぴき與へ、彼麁末そまつ成扇を貰ゐ請て、表具などして家中の同志の友集合の節見せけるが、さるにても上の句は面白けれど下の句分らざると咄しければ、右友の内奧州所生の者ありて、右狐は奧より下りしや、是は奧州宮城野にて古き物語有事なるを聞き覺へて、流石は畜類也、歌の月をも全く不覺なるべしといいし故、右古き物語の事を問ひければ、いつの比にやありけん、奧州ある寺に居けるちご、和歌を好み詠て宮城のゝ月萩を賞して、ある時月は露露は草葉に宿かりてとよみて、下の句を色々案じけれど心にうかまず、明暮宮城のに立つくしてつひに病の床にふし身まかりぬ。不便の事とてとり寄て一塊の塚に埋みてとむらひしが、夫より宮城のゝ原にて月さやかなる夜あるいはうち曇れる比は、誰ともしれず、月は露露は草葉に宿かりてと詠じては、わつと言て一團の煙火たちぬるよし。師の坊聞て不便の事に思ひて、鐵如意を携て月さやかなる夜宮城の原に至りて、同宿の僧など召連今や今やと待居たりしに、夜も四更の頃かとよ、一團の煙ありて聞に違はず、月は露露は草葉に宿かりてと詠じわつといふ聲せしを、師の坊大聲に、それこそこれよ宮城野の原といゝて鐵如意を投付しに、其後は佛果を得道せしや、宮城野に右の怪も無かりし由。畜類なれば右の下の句をおぼえ迷ひけるならんといゝし。左も有べきや。

□やぶちゃん注
○前項連関:鶴三羽雷撃死からお狐さまの動物奇談で直連関。鶴の雷撃もあればこそ、狐の人に馴れるのは、餌付けを禁ずるキタキツネを見れば、分かる。岩波版の長谷川氏の注に、津村淙庵(つむらそうあん 元文元(一七三六)年~文化三(一八〇六)年)の「譚海」の『十に同様の話をしるし、雲居禅師と宮千代の事とする』とある。参考までに、「譚海」の該当話を以下に掲げておく(底本は本底本と同じ「日本庶民生活史料集成 第八巻 見聞記」所収のものを用いたが、読みは私が適宜補った)。

〇明和の頃、江戸隅田川の北岸、眞崎明神の境内、稲荷の祠のかたはらなる茶店の老媼に、馴たる狐ありて、おうなよぶときは狐ひとつ明神のかたより出來る。茶店にあつまる客、是に物などあたふれば、狐それを食しをはりて、又ふらふらともとのかたへかへりうせける。人々是を興ある事にいひ傳へて、専ら世の中にもめづらしきことにいひたるに、其後いつとなく此事絶たり。寛政四年の春、萱場丁かやばちやうの町人冬木三右衞門と云もの、此茶店にあそびて狐の事を尋ければ、其狐は元來奧州仙臺のものにはべりしかば、此さきのとし故郷へ歸りぬといふ。夫はいかにして慥成たしかなる証據にても在事にやと尋ければ、老媼彼狐本國へかへり侍るとき、和歌を一首とゞめて歸り侍りしといふ。こはめづらしきことなり、其歌なにとぞ見たきよし乞ければ、其媼短册を一枚取出て、是にさぶらふとてみす、あやしき手蹟にて、筆のたちどもそこはかとなけれど一首の歌あり、
  月は露つゆは草葉にやどかりてそれからそれを宮城野の萩
三右衞門いとめづらかなる事におぼえ、何とぞ此たんざくもらひ度よし、しひて所望せしかば、老媼もそしなき望にをれてゆるしつ。三右衞門大によろこび、金子などあたへもてかへりて、人にも此事をかたりいで、殊にもて祕藏しおけるに、仙臺の侍醫工藏平介といふ人、或る日三右衞門かたへ來る時、主人本國の物がたりなどのついでに、此事をかたり出たるに、平助もふしぎ成事におぼえて、或時主人の間に侍せしついで、又此事を申上ければ、陸奧守殿ゆかしきことに聞かれ、何とぞそのたんざく見たきよし懇望により、平助又三右衞門をとひて、たんざくを借得て、陸奧守殿へみせまゐらせければ、珍敷めづらしき事にぞんぜらるゝ所、側に侍せし用人申けるは、成ほど此狐御領地のものにあるべし、その仔細は元來此うた久しく御國に申傳まうしつたへたる歌にて、人のよくぞんじたる事に候へば、さやうに推量いたされ候。但御國にて申傳候とはうたの上下少したがひ候。そのをもむきは、むかし松島の雲居うんご禪師の召仕めしつかへる童子に、宮千代と申もの御座候。此童子生質きしつ和歌を好み候所、病氣付やみつき候内も、日夜うちすてずよみうちに、月は露つゆは草葉にやどりけりと申上しんじやうの句を按得あんじえ候て、いろいろ考候へども、下の句をなしえず、やがて其まゝに病氣おもり相はて候。その後おのづから宮城野の原へ、化物いづるよし申いだし、のちのちは此化もの歌を吟じてあるき候よし、雲居禪師がめしつかへる宮千代が幽靈なりと、もつぱら申つたへ候を、禪師聞得て、何にもあれあやしき事とて、一夜禪師宮城野へ行て、幽靈の實否をたゞされけるに、あんのごとく夜ふけて、宮千代形を現じきたり、月下に歌をぎんじさまよひあるき候。禪師よく聞けば、月はつゆ露は草ばにやどりけり、といふ上の句をいくたびも沈吟して行かふさまなり、そのとき雲居禪師聞すまして、とりもあへず、それこそそれよ宮城野のはぎと、下の句をつけられければ、言下に此幽靈形消て見得ず。その後ふたたび宮城野へ、宮千代の靈いづる事なく候、禪師の辭に覺悟して、成佛なし候事と人申つたふる也。それがために祠をたてて、神にまつり候。今に石權現とて宮城野に御座候は、かの宮千代の靈を祭りたる祠に候よし、人みな申侍候事に候。此狐もよく此歌を聞覺え候まゝ、それをやがて書候はんにて候。畜類ゆへおぼえあやまりて、かく書たがへ候か、何にも候へ右申上侯物がたりの、うたをおぼえ居候まゝ、御領内の狐に相違無レ之候かと、申上けるとぞ。いとめづらしき物語になん。

「陸奧守殿」明和の頃の仙台藩は第六代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)。陸奧守。「雲居禪師」雲居禅師(天正十二(一五八二)年~万治二(一六五九)年)伊予の土佐一條家重臣小浜左京の子。九歳で出家、東福寺内の永明院を経て妙心寺蟠桃院一宙禅師に師事。寛永十三(一六三六)年、仙台二代藩主伊達忠宗の懇請を受けて瑞巖寺九十九世となった。「石權現」現存しないか、名称が変わったものと思われ、不詳。……いや、それにしても――この短冊も扇も――茶店の奥には……同なじものが、これ、ゴマンとあるんだろうなぁ……

・「武江眞崎に稻荷の靈社あり」真先(真崎)稲荷。荒川区南千住に現存(但し、場所は異なる)。天文年間(一五三二年~一五五四年)に石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝えられる。喜多村節信ときのぶの「喜遊笑覧」によれば、伊豆国君沢郡真崎村(現在の静岡県の伊豆半島の西北部のあった郡であるが、「真崎村」というのは現認出来ない)の稲荷が、官位をとろうと東武まで出ばって来たが、何か因縁でもあったものか、不図、この地に留まってより小社を建て、本国の村名をそのままに真崎の稲荷と唱えるようになった、とあり、また、供物をしてもそれを狐が食べなかった時は願は叶わぬ、といった顎が外れそうになる愚説があるとも記している。もとは隅田川の「橋場の渡し」の北にあって、その門前は景勝地として知られており、奥宮の狐穴から出現する『お出狐』は、対岸にある三囲みめぐり稲荷の狐と並んで有名であった。江戸中期より繁昌し始め、宝暦七(一七五七)年頃には、名物となった吉原豆腐を使った田楽を売る甲子きのえね屋、川口屋などの茶屋が立ち並び、焼物の狐の像なども売られていた。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」などと当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。大正十五(一九二六)年、東京ガス千住工場建設に伴って石浜神社(これももとは橋場にあって朝日神明宮と言った)に併合されて摂社となり、そちらに移転した。(以上は底本の鈴木氏注及び私の御用達「東京紅團」の「岡本綺堂の東京を歩く 稲荷神社散歩」の「真崎稲荷神社」の教育委員会の紹介文を元にした記載を参照させて頂いた)。
・「寶曆の頃より參詣群集をなし、其後明和安永の比は少しく衰へぬれど」「寶曆」は明和の前、西暦一七五一年から一七六四年で、「明和安永」は西暦一七六四年から一七八一年。次が天明(西暦一七八一年から一七八九年)で、その後に寛政が続く。本執筆時と推定される寛政八(一七九六)年を起点とすると、「天明の頃」は十五年から七年程前の近過去でる。
・「お出狐」底本の鈴木氏注に、「お出で」は「御出」で『御いでなさいの御いで。伏見稲荷の神幸行事を御出というので、この字面を用いるようになったか』と考証され、以下に書誌学者三村竹清翁の注として『十九巻本我衣巻二、安永三年の下に云、真崎神明の境内に、水茶屋の婆々油揚などを持って、おいでおいでと呼ぶ時は、狐出ると、皆人見物に行く』とある、とする。
・「濟る」底本には「濟」の右に『(住)』の傍注。「すめる」と訓じていよう。
・「茶鄽」茶店に同じ。底本で鈴木氏はここに注して、再び三村竹清翁の注を次のように『岡持がかきし、後はむかし物語に云、真崎稲荷はやり出て、田楽茶屋の出来たるは、我二十二三歳、宝暦六七年の頃なるべし、鳳岡先生の会日に、其はなしを初て聞けり、江戸町の名主は先生の門人にて、英男が別て甲子屋と申茶やの田楽はよしと申也など、先生に語りしを聞けり、其後大に繁栄し、青楼の婦人をいざなひて遊ぶ人も多かりき、向島の秋葉は、今信仰薄くなりて淋しけれど、茶やの賑ひは替らず、真崎は神威とともに茶屋も衰へたり、真崎は手前の角、若竹や(後袖すりや)又甲子や、川口屋、玉や、いねや、仙石や、きりや、道を隔てゝ八田屋など、いづれも繁昌なりき。また続飛鳥川に云、真崎稲荷、安永明和頃繁昌、祠の下辺に狐住て、お出お出と呼と出来る、油揚を遣す、大勢見物あつても、恐れず出で来たり、恭按、享和の頃、お出お出という狐出たり』と多量に引用され、最後にこの人気は『招き猫などと通ずる心理もあったろう』と推測されている。
・「宮城のゝ原」宮城野。現在の宮城県仙台市東方にあった広大な原野。ツツジの名所として知られた榴岡つつじがおかから東に延びる平野を指す。歌枕で、宮城野の萩として知られた。現在の仙石線の榴ヶ岡駅周辺や隣の宮城野原駅から陸奥国分寺跡のある木ノ下あたりまでが当該地に当たる。
・「貮百疋」一般には一貫=一〇〇疋=一〇〇〇文であるから、二〇〇〇文。平均的金貨換算なら三万三千円ほどになる。これに表装代も含めれば、結構な金額となろう(しかし、これ、このぐらいの値段はしないと、この話は話として面白くない)。齋藤所平なる男、全く以て好き者である。
・「歌の月をも全く不覺なるべし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『歌の心をも全く覺えざるなるべし』である。両義を採った。
・「ちご」は底本のルビ。
・「四更」五更の第四。現在の午前一時(或いは二時とも)頃からの二時間程の間を指す。丑の刻や丁夜ていやと同時刻。深夜から未明の境界的時間で、霊の出現に相応しい。
・「覺迷ひけるならん」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『覺へ違ひけるならん』である。両義を採った。

■やぶちゃん現代語訳

 霊獣たらんもその才に足らんこともある事

 武江真崎に稲荷の霊社がある。
 宝暦の頃より、参詣の者、群集ぐんじゅをなし、その後、明和・安永の頃になってからは少しく人気も衰えたようであるが、それでも今も、好事の遊び人なんどの春秋の逍遙の場として知れて御座る。
 天明の頃、此処に「お出で狐」という狐が棲んでいた。こ奴は、この真崎稲荷の境内にあった一穴に住みなしており、近くの茶店に訪れた婦女が、菓子やら食い物やらを穴の辺りに供えて、「お出で、お出で」と呼べば、穴中より狐が出で来て、かの供物を食べるということで、稲荷参詣の者どもの間では評判で御座った。――が――その後は、この狐、何処いづこへ行ったものやら――今は、とんと、絶えてなく、そんな噂も聞かずになって御座る。――
 仙台家の家士斉藤所平と申す者――彼は江戸の生まれにて、仙台のことは不案内で御座った――、とある春の一日いちじつ、真崎稲荷へ参詣し、傍らの茶店へ寄って、そこの女に『お出で狐』のことにつき、尋ねてみたところが、
「……生憎、今は呼んでも出て来ずなってしまいました。きっと棲み家を移したのと違いますかねぇ……」
との答え故、所平、如何にも残念そうに、
「……さてもさても、今少し遅う御座った故、名にし負うた『お出で狐』を拝めなんだか……」
と呟きつつ、この茶汲み女に、『お出で狐』が姿を隠す前後のことを、詳しく尋ねてみた。するとこの女の曰く、
「……狐って、ほんに不思議なもので御座います。……ある年、うちの娘……当時は十二歳で御座いましたが……こんな賤しい茶屋の娘で御座いますから、今でも一と文字たりとも、これ、字を書くことなんぞは出来ませんのですが……この娘に……かの『お出で狐』がとり憑いて……まあ、ただごとではないこと……これ、口走ります故……不思議に感じ、いろいろと尋ねてみましたところが……
『――我ラハ此処モトニ住メル狐ナレド――官位ノ沙汰御座レバコソ最早――此処ヲ出ヅルコトト相イ成ッタ――永キ年月世話ニモナッタレバコソ――コノ娘ニ憑キテ暇乞イヲセントス――縁アラバコソ又来タランコトモアルベシ――』
と厳かに語ると……一首の歌を……その辺に置いて御座いました扇を取り上げて……さらさらと……書きおいて御座いましたので……」
と言いつつ、その扇を見せた。
 その扇はと見ると――娘の無筆なるは、これ、間違いなく――書かれたその字は、これ、まあ、何というか――『拙くない』とは言い難い――といった代物では御座った――が――それでも判読出来得る程度の文字では――これ、ある――さても、その一首、

 月は露露は草葉に宿かりてそれからこれへ宮城のゝ原

 と認めて御座った。
 ――所平、物好きなる者にて、珍しきに任せ、その如何にも貧しい女に金子二百疋をも与え、その如何にも粗末なる扇を貰い請け、ご丁寧にも立派な表具なんどまで致いた上――仙台藩御家中の、同志の者どもの集える会にて、お披露目致いた。
「……それにしても……上の句は相応の謂いなれど……下の句は……何じゃら、分からんのぅ……」
とある者が呟いた。すると、友の中に、奥州生まれの者が御座って、
「……この狐は、奥州から下って来たものならんか?……これは……奥州宮城野に伝わる古き昔語りを、この狐が聴き覚えており……とは言うても、流石に畜類のことじゃ……歌のまことの『月の心』の部分……悟入の眼目を……誤って覚えておったということであろうの……」
と語った故、皆してその古き昔語りにつき、彼に訊ねた。――

「……何時の頃のことにかありけん……奥州の、とある寺に住まう稚児……大層、和歌を好いて御座ったが……ある時……かの仙台宮城野の月と萩を賞し……

 月は露露は草葉に宿かりて

と詠んだ。……そうして、その下の句を……これ……いろいろと案じて御座った……御座ったれど……これ、いっかな浮かんで来ず……毎日……毎日……かの宮城野に出でて一日中……野原に立ち尽し……歌を詠み上げぬままに……ついに病いの床に臥して……身罷って御座った。……寺にては、不憫なることとて、亡骸を宮城野に野辺送り致いて……そこに一塊の塚を設けて埋めとむろうて御座った。……それからというもの……宮城野の原にては……月の清かなる……或いは……うち曇れる夜には……たれとも知れず……

 月は露露は草葉に宿かりて……

と詠ずる声のあって、すぐ……

 ――わっツ!――

という悲痛なる叫びとともに……
……一団の鬼火が……
……立った……という……
――さて――この稚児の師の坊は、この噂をお聴きになられ、不憫なることに思われて、一日、鉄の如意を携えると、月の清かなる夜、宮城野の原にお立ちになられた。
 同宿の僧などを召し連れ、今ならんか、今ならんか、と待っておられたところ……夜も四更に至る頃で御座ったか……一団の鬼火が現れ……噂に違わず……

 月は露露は草葉に宿かりて……

と詠じ……

 ――わっツ!――

という悲嘆の声がした――が――
――その時――
――師の坊、大喝して

「――それこそこれよ宮城野の原!――」

と言い放ち、持った鉄の如意を鬼火に投げつけた……
   *
……さても、そののちは――稚児の残れる執心も仏果を得道致いたので御座ろうか――宮城野にてはかの怪異、なくなって御座ったということじゃ。
 畜類なればこそ、この師の悟入一喝の下の句を、獣の哀しさ、迷いのあって、誤って覚えておったので御座ろうか……。」

 なるほど――霊力を持ったる獣たらんも、その才にはやはり、獸故に、哀しいかな、足らんことも、これ、あるということ――ででも、あるのであろうか。



 化獸の衣類等不分明の事

 大坂に古林見意といへる醫師ありしが、彼見意が語りける由。眞田山さなだやまの邊に學才ありし老人ありし故行き通ひて物抔尋問ひしに、或日人物勿躰もつたいらしき男、衣類さわやかにて彼老人の許に來る者ありて、老父、遠方來りし事を尋ければ、用事有て遠國へ參る間、暫しの暇乞に來りしといふ。當時は藤森ふじのもり邊に居候趣にて、彼老人召使ふ者に申付、外より貰ひし牡丹餅を盆に乘せて出しければ、何か禮謝して彼男人躰じんていに不似合、手又は箸などにて取らずして、うつむきて口にてぢかしよくしければ、遠方なれ早々歸るべしと、老父の辭に隨ひ暇乞ふて立歸りぬる。跡にて、藤森迄は此邊よりは里數も是あるに、今日暮に及び歸るといゝしが、夜通しにも歸る事にやと見意彼の老人に尋しに、彼者は暮ざる内に歸るべし、實は狐なる由、且彼ものが着服は何と見紛ふやと尋ければ、何か立派には見へしが品は不覺おぼえざる由申ければ、さればとよ、狐狸の類ひすべて妖怪の者の着服は何と申事見留みとめがたき物の由、彼老人語りしと見意直々ぢきぢきにわが知れる人に語りし由也。

□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐で直連関。エイリアンの着衣が見たこともないような、地球上に存在しない素材で出来ている――というのと通底する。
・「古林見意」底本の鈴木氏注に、古林見宜(桂庵)の後裔であろう、とされる。古林見宜(ふるばやしけんぎ 天正七(一五七九)年~明暦三(一六五七)年)は江戸前期の儒医で、桂庵と号した。播磨国飾磨郡の出で赤松氏則の子孫という。京で医術を修業、大坂聚楽町にて医師を開業する一方、同門の堀杏庵とともに京都嵯峨に医師養成を目的とした学舎を創設、門人三千人を数えた(以上は「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。
・「眞田山」現在の大阪市天王寺区の北東端にある真田山町。真田山は慶長十九(一六一四)年の大阪冬の陣の際、大阪城の弱点とされた南方面の防御を強化するために、大阪方の真田幸村が築いた出城であったとされる。
・「藤森」は京都市伏見区深草の地名。同地区には伏見稲荷がある。
・「藤森迄は此邊よりは里數も是ある」凡そ十里以上あったと考えられる。大阪の真田山と京都の藤森では現在の地図上の直線実測でも三十九キロ程ある。時速五キロとしてもヒトの足なら八時間は有にかかる。狐の時速は諸資料によれば、時速約四十八キロから、アカギツネで七十二キロ(瞬間最大時速であろう)とあるから、時速五十キロとすれば、文字通り、一時間かからないうちに(恐らくは夕方と思われる当話柄内時間から日没の前までに)辿り着くことが可能である。
・「すべて」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 妖獣の衣類等は不分明で得体の知れぬものを素材としている事

 大阪に古林見意という医師があったが、その見意が語ったとの由。

……真田山の辺りに、医術に特異な学才を持った老人が御座った故、拙者、この老人の元に頻繁に通っては、日頃の種々の疑問疑義を尋ねたり致いて御座った。
 そんなある日の訪問の折りしも、相応なる人物と思しい男で、如何にも小ざっぱりとし、いや、それでいて何とも言えぬ不思議な美しさを感じさせる衣を纏った男が、この老人のもとを訪ねて御座った。
 老人が、
「――遠方より遙々の御到来、如何致いたかな――」
と訊ねると、
「――用事の御座るによって、遠国へと参ることと相い成り――暫しの暇乞いに参りました――」
と答える。
 拙者は部屋の端にて、それとのう、二人の会話を聞いて御座ったのだが――その会話の趣きから察すると――この男、今は京の藤の森辺りに住んでおるらしい。
 かの老人が、召し使つこうて御座った者に申し付け、貰い物なるよしの牡丹餅を盆に載せて男に出したところ……
……人声としては如何にも奇妙な……
……知れる言語にては御座ない、何か意味のよう分からぬ詞にて、礼のようなるものを述べた……
……かと思うたら……
……その男……
……かの相応の身分と思わるる風体ふうていからは想像も出来ぬままに……
……手も箸も使わず……
……牡丹餅を、これ……
……顔を俯けて……
……アンぐりと……
……口だけで……
……食べて御座った……。
と、
「――遠方なれば、の――早々に帰ったがよかろうぞ――」
という老人の言葉に促され、男は短い暇の詞を述べると、立ち帰って御座った。――
 ――さてもその後刻のこと、
「……藤の森までは、ここいらからは相当の里数が御座るが……今最早、この日暮に及んで『帰れ』とおっしゃられたが……これ……夜通し歩いて……帰る、ということになりますかな?……」
という拙者の意地の悪い質問に、老人、平然と、
「――かの者は――日も暮れぬうちに帰り着くじゃろ――実はな――あれは――人――でにては――ない――狐――じゃ――」
と答え、間髪を入れず、
「――貴殿――あの者の着ておった――服――あれは――何と見たもうた?」
と訊ぬる故、
「……何やらん、立派なものには見えました……が……如何なる素材にて出来て御座ったか……はて……よう分かりませなんだ……いや……寧ろ……何やらん……不思議なことにて御座るが……今……はっきり言うて……よう……覚えておりません……」
と申したところ、
「――さればとよ――狐狸の類い――総て妖怪なる『もの』の着れる衣服なるものは――これ――何とも訳の分からぬ――記憶も残らぬ――人の意識には不分明にして不可視不可知に等しい――妖しき『もの』なのじゃ――」
と、かの老人が語って御座った。……

 以上は、見意本人が私の知人に直接語ったこと、とのことで御座った。



 疱瘡神狆に恐れし事

 軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人の語りけるは、同人妻は五十じに近くしていまだ疱瘡をせざる故、流行の時は恐れけるが、近所の小兒疱瘡を首尾克仕廻よくしまひてて幸十郎が門へ來りしを抱て愛し抔せしが、何とらん襟元より寒き心地しければ、早々にかの子を返し枕とりて休しに、何とやらん心持あしく熱も出るやうなる心持の處、夢ともなく風與ふと目を明き見れば、側へ至つて小さき婆々の、顏などは猶更みぢかきが、我は疱瘡の神也、此所へ燈明を燈し神酒備みきそなへを上げて給はるべしといいける故、召使ふ者に言付て神酒備をも取寄、燈明をも燈しけるに、兼て幸十郎好みて飼置けるちん六七疋もありしが、右婆々見へけるにや大にほへければ、彼婆々は右狆をとりのけ給へといゝけれども、かれはあるじの愛獸也、主は留守なればとり除る事かなひ難しと答へけるに、頻りに右の狆ほへ叫びける故にや、彼婆々は門口の方へと寄ると見へしが跡もなし。幸十郎は外へ用事ありて歸りけるに、燈明など灯し宿の様子ならねば、是を尋問ひしにしかじかの事妻の語りける故、大に驚き召仕男女に尋しに、様子はわからねど妻が神酒備を申付何かひとつ言をいゝし事、狆の吠へ叫びし事迄相違なき由かたりしが、右婆々歸りて後は妻心持もよく、熱もさめて平生に復しけるとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐のやんごとなき男に化ける話から、疱瘡神の婆となる話で直連関。
・「狆」日本原産の愛玩犬の一品種。英語でも“Japanese Chin”と呼ぶ。以下、ウィキの「狆」より引用する。『他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきた為、抜け毛・体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬である。 狆の名称の由来は「ちいさいいぬ」が「ちいさいぬ」、「ちいぬ」、「ちぬ」とだんだんつまっていき「ちん」になったと云われている。 また、【狆】と云う文字は和製漢字で中国にはなく、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである。 開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なく所謂小型犬の事を狆と呼んでいた。 庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた』。『祖先犬は、中国から朝鮮を経て日本に渡った、チベットの小型犬と見られ』るが、現在は、シーボルトの記述に拠る『戦国時代から江戸時代にかけて、北京狆(ペキニーズ)がポルトガル人によってマカオから導入され、現在の狆に改良された』という説が定説のようである。『室町時代以降に入ってきた短吻犬や南蛮貿易でもたらされた小型犬が基礎となったと思われ』、江戸期では享保二十(一七三五)年に清国から輸入された記録が残るとする。『狆の祖先犬は、当初から日本で唯一の愛玩犬種として改良・繁殖された。つまり、狆は日本最古の改良犬でもある。とは言うものの、現在の容姿に改良・固定された個体を以て狆とされたのは明治期になってからである。 シーボルトが持ち出した狆の剥製が残っているが日本テリアに近い容貌である。 つまり小型犬であれば狆と呼ばれていた事を物語る』。犬公方第五代将軍徳川綱吉の治世下(一六八〇年~一七〇九年)にあっては、江戸城内『で座敷犬、抱き犬として飼育された。また、吉原の遊女も好んで狆を愛玩したと』され、「狆育様療治」という書によれば、『狆を多く得る為に江戸時代には今で言うブリーダーが存在し、今日の動物愛護の見地から見れば非道とも言える程、盛んに繁殖が行われていた。本書は繁殖時期についても言及しており、頻繁に交尾させた結果雄の狆が疲労したさまや、そうした狆に対して与えるスタミナ料理や薬』に関する記述がある。『近親交配の結果、奇形の子犬が産まれることがあったが、当時こうした事象の原因は「雄の狆が疲れていた為」と考えられていた』 という。本執筆は寛政八(一七九六)年であるから、この享保二十(一七三五)年の清国からの輸入を起点に、約六十年で庶民レベルまで狆の飼育が大々的に広がったと考えられる。
・「軍書を讀て世の中を咄し歩行」軍記や武辺物などを講釈する芸人。「軍記読み」「軍書読み」「軍談師」とも呼ばれた、現在の講釈師のこと。
・「疱瘡」天然痘。「卷之三」の「高利を借すもの殘忍なる事」の私の注を参照されたい。
・「五十じ」底本には右に『(五十路)』と傍注する。
・「克仕廻よくしまひてて」は底本のルビであるが、「て」のダブりはママ。
・「そなへ」は底本のルビ。御供物のこと。

■やぶちゃん現代語訳

 疱瘡神は狆を恐れるという事

 軍記や武辺物を読んで生業なりわいと致いておる栗原幸十郎という浪人者が語った話で御座る。
 彼の妻は五十に近かったが、未だに疱瘡にかかったことがなかったがため、疱瘡流行の折りには、なにかと恐れて御座った。
 そんな小さな流行りのあったある時、近所の可愛がって御座った子供が、首尾よく疱瘡の軽くしてすんだとて、病み上がりの直ぐ後日に、幸十郎がの戸口へと遊びに来たを、抱いてあやいたり致いておったところが……何やらん、襟元より――ゾゾっと――寒気を感じたによって……早々にその子を家へと送り……自宅に戻るとすぐに、枕をとって横になった。……
 ……何やらん、気持ちも悪うなって参り、熱も出始めておる様子なれば……夢ともうつつとものう……ふっと……目を開けてみた……ところが……
……床のそばに……
……小さな小さな……
……老婆が……座って御座った――
……その老婆のその顔……
……これがまた……
……体の小ささに輪をかけて……
……異様に更に更に……
……小さい――
……その奇態な老婆が口を開いた。
「――我は疱瘡の神じゃ――ここへ灯明を灯し――お神酒みきに供物を――あげてたもれ――」
とのこと。
 熱に朦朧とする意識の中、かの妻は召使つこおておった者を呼んで言いつけると、お神酒とお供えなんどを取り寄せさせ、灯明をも灯して御座った。
 さて、このにはかねてより幸十郎が好きで飼って御座ったちんが、これ、六、七匹も室内におったが……
……彼ら狆には……
……もしや、この老婆が見えたものか……
――突如として、一斉に――
――!!!!!!!――
――狆どもが、激しく吠えたてる――
すると、かの老婆は、
「……あふぁ、ふぁあ、ふぁ!……こ、この、ち、ち、チンども!……ど、どこぞへ、と、取り除けて、お呉れ、や、ん、し!……」
と懇請する。かの妻、
「……あれらはあるじの愛犬で御座います。主は留守なれば、他の者のいうことは、これ、きかざればこそ、とり除けるは難しゅう御座います。……」
と熱に魘されるように答えた。
 さても――頻りに、かの狆が吠え叫んだ故か――かの小さな老婆――家の門口の方へと――すうっと寄って行ったかと見えた――が――そのままあとかたものう消えてしもうた。――
 さて、幸十郎、用事を済ませて外から戻ってみると――
――何やらん、辛気臭い灯明が灯され、見たこともない御神酒やら供物やらが立ち並んで御座る……
――我が家とも思えぬ様子なればこそ
――何が御座った、女房殿?
――妻は答える、しかじかと
――大いに驚き、召し使う
――男女に、委細尋ぬれば
――ようは分からぬ、奥様が
――お神酒お供物、命ぜられ
――何やら、誰かに喋るよに
――独り言をば、申されし
――それに加えて今一つ
――狆の頻りに吠えつきし
――それらのことは、相違なし……
……と、口を揃えて証言致いて御座った。
 而して付け加えておくと――かの老婆が消え去ってより後は、妻の具合はようなって、熱もさめて、すっかり普通の体調に復した――とのことで御座ったよ。



 聖孫其のしるしある事

 當時も孔子々孫は連綿として諸侯たる由。淸朝の乾隆帝巡狩じゆんしゆの時孔子の庿びやうに詣で、名は忘れたり、孔子の裔孫何某を見給ふに、其容貌進退の樣子、年若なれども温順にして至て其位を得たりしかば、帝も流石聖孫なるはなはだ賞歎してむこにせんとありしを、孔孫甚だ恐れ入て、勅にたがふは如何なれ共、幾重にもゆるし給はるべしと厚く乞願こひねがひけるに、其譯を尋ねられけるに、淸朝は夷狄の孫也、聖孫として夷狄と緑をくまんは先祖孔丘への恐れ有りと答へけるを、乾隆帝聞給ひて、尤の事也、流石に聖人の裔たる事をと感じて、中華世家の女を媒酌して婦人とし給ひし由。帝の惇直成じゆんちよくなるを却てしやうたんせしと、近頃渡りし書にて見しと望月氏なる儒生の語りけるを記ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。中国物は「耳嚢」の中では珍しい。
・「乾隆帝」(一七一一年~一七九九年)は清の第六代皇帝(在位:一七三五年~一七九六年)。台湾やビルマ・ヴェトナムなどへ遠征に総て勝利し清国最大の版図を実現して清朝の最盛期を実現したが、同時に上皇になった後は賄賂政治がはびこり、白蓮教徒の乱などが多発して、清朝没落の開始期ともなった。本件執筆時と思われる寛政八(一七九六)年、その二月九日に乾隆帝は退位している。
・「巡狩」古代中国で天子の諸国巡視を言う語。「巡守」とも書く。
・「孔子庿」孔子の生地とされる魯の昌平郷陬邑(すうゆう:現在の山東省曲阜。)に孔子の死後一年目(紀元前四七八年)に魯の哀公によって孔子旧宅を廟にしたのがルーツとされ、現在、孔廟と呼ばれて儒教の総本山として厚く信奉されている。
・「孔子の裔孫」ウィキの「孔子」の「子孫」及び「系譜」の項によれば、孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(十一世孫)、孔融(二十世孫)などがおり、孔子の子孫と称する者は、実は予想外に非常に多く、直系でなければ現在四〇〇万人を超すと言われている。本話でも感じられる通り、永い間、その子孫にも厚遇が与えられた経緯があり、『前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は一〇五五年、第四十六代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する』、とあって、更に『孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑八百戸を与えられ、「褒成侯」孔均も二千戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる』とする。なお、近代の直系であった『孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、一九四九年に台湾へ移住している』。『孔子の子孫一族に伝承する家系図は「孔子世家譜」である。孔子以降、現在に至るまで八十三代の系譜を収めたこの家系図はギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されて』おり、最新の「孔子世家譜」には初めて中国国外や女性の子孫も収録され、総数『二百万人以上の収録がなされた』とある(引用中の総てのアラビア数字を漢数字に代えた)。――正直言うと――何だか気持ちが悪い。
・「婦人」底本では右に『(夫人)』と傍注する。
・「夷狄」漢民族の時代の中国の周辺地域に存在した異民族の蔑称。一般に「東夷北狄南蛮西戎」呼ぶ。

■やぶちゃん現代語訳

 聖孫には相応の節のある事

 現在に至るまで、中国の孔子の子孫は、連綿として諸侯の地位にあるとの由。
 先般、譲位された清朝の乾隆帝は、その巡察の折りに、孔子廟に詣でて――名を失念致いたが――孔子の裔孫何某なる人物にお逢いになられたところ、その容貌や挙止動作、年若であるにも拘わらず、殊の外に優れて、その人柄も温順にして至って仁徳を持ったる人物で御座ったれば、帝も、
「流石、聖孫である。」
と甚だ賞賛なされた上、
「ぜひ我が娘の婿にせん。」
とのお言葉が御座った。
 ところが、かの孔孫は、甚だ恐れ入りながらも、
「勅命にたがうは畏れ多きことながら――何卒、それだけはお許し下さいまし。」
と丁寧に固辞致いたれば、帝は、その訳をお問いになられた。
 すると彼は、
「――お畏れながら――清朝は、これ――漢民族ならざる夷狄の子孫にて御座います。聖孫として――お畏れながら――夷狄と縁を結んでは、これ、漢人たる先祖孔丘へ申し訳が立ち申さぬので御座いまする。」
と――まっこと、畏れ多くも――言い放ったという。
 しかし、それをお聞きになられた乾隆帝は、
「――それは尤もなること。いや、流石に聖人の末裔じゃ!」
と感ぜられて、帝自ら、中華漢民族の名家の娘を媒酌して、かの聖孫の夫人とさせなさったとの由。
 これは却って、乾隆帝の、その純粋にして正しき御心なればこそ、と人皆、賞嘆致いた、と最近中国から渡ってきた書物に書かれていたのを見た、と望月氏という儒学者が語って御座ったのを記しおく。



 螺鈿の事

 中国の細工に螺鈿を以器物にり付たる多し。鈿は日本にて出生の物にあらず、後世日本にて近江の湖水より出る、俗に泥貝といへる類ひを螺と名付細工にしけるが、糀町に住る御具足師春田播摩はりま、右近江の螺を細工せしに、異国より渡りしに少しもおとらざる由を兼て語りしは、寛政七八年の比江戸溜池定浚じやうざらへの者掘出せし貝、近江の湖より出せし螺に少しも違ひなし。いまだ細工はせじが、彌々細工になして其しるし不違たがはざれば、彼貝には玉ある事と異国には言傳ふるなれば、玉も有べきやなど、親友なれば望月翁へ咄せしと、彼望月の翁語りける。

□やぶちゃん注
○前項連関:儒学生望月氏談話で連関。中国関連という共通性もある。
・「螺鈿」螺鈿細工は青貝細工とも言い、ヤコウガイ・アワビ・アコヤガイ・オウムガイ・ドブガイ(淡水産)などの貝殻の表層を除去して真珠層を取り出し、これを短冊形にして磨きをかけて粁貝すりがいとし、それを用途によって方形や小型のメダル状に打ち抜いたものを、木彫などの彫り込んだ空所に張り合わせて文様や図柄を描いた。「螺」は主な原材料である巻貝の意、鈿は嵌装することを言う。以下、「世界大百科事典」やウィキの「螺鈿」の記載を参照しながら、中国と本邦の螺鈿工芸の歴史を見ておく。中国では陥蚌かんぽう坎螺かんら螺浬らてんなどとも言う。貝で器物を飾ることは中国や朝鮮で古くから行われた。中国では西周の頃から貝を用いた加飾があったとされているが、螺鈿が発達するのは唐代で、ヤコウガイを紫檀などに嵌装する木地螺鈿が盛んに行われた。しかしその後、中国では螺鈿は停滞し、十世紀から十三世紀頃には寧ろ、日本産螺鈿器が珍重された。中国で螺鈿が再び盛んになるのは明代に入ってからである。本邦の螺鈿は奈良時代に始まり、「宋史」の「日本伝」には、永延二(九八八)年に橿然ちょうねんが宋へ螺鈿器を送ったとあり、北宋の頃に書かれた「泊宅編」には『螺鈿器は倭国に出づ』とあって、日本製螺鈿細工が中国を凌ぐものとなっていたことが分かる。十一世紀になると浄土信仰が盛んとなったが、螺鈿は蒔絵と結びついて豪華な阿弥陀堂建築の荘厳に用いられるようになる(平等院鳳凰堂須弥壇・天蓋や中尊寺金色堂等)鎌倉時代は和様螺鈿にとって最も輝かしい時期で、特に螺鈿鞍に於いて究極の技巧美を示した(ここまで「世界大百科事典」に拠る。以下はウィキ)。『室町時代になると中国の高価な螺鈿細工の影響を強く受け』、『安土桃山時代にはヨーロッパとの貿易によって螺鈿産業は急成長した。この頃は螺鈿と蒔絵の技術を使って、輸出用にヨーロッパ風の品物(例えば箪笥やコーヒーカップなど)が多く作られた。これらの品物はヨーロッパでは一つのステータス・シンボルとなる高級品として非常に人気があった。日本ではこの頃の輸出用の漆器を南蛮漆器と呼んでいる』。『江戸時代になっても螺鈿は引き続き人気を博したものの、鎖国政策によってヨーロッパとの貿易は大幅に縮小されたため、螺鈿職人は必然的に日本向けの商品に集中することとなった。江戸時代の螺鈿職人としては生島藤七、青貝長兵衛、杣田光正・杣田光明兄弟などが名高い』とある。
・「鏤り付たる」螺鈿細工には相応しい言葉で、正に彫り刻んで、そこに青貝のチップを嵌め込むのである。
・「泥貝」はカラスガイ Gristaria Plicata 及び琵琶湖固有種メンカラスガイ Cristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)を指していると考えてよい。但し、この話柄からは、それらとドブガイ Anodonta woodiana とは区別されていない。いや寧ろ、現在でも区別していない一般人は多いと思われる。形態上の判別は、その貝の蝶番(縫合部)で行う。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は、貝の縫合部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。何れもその貝殻の内層の真珠光沢は螺鈿細工に用いられる。私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 介貝部 四十七」の「蚌(ながたがひ どぶかい)」及び「馬刀(かみそりかひ からすかひ)」の項を参照されたい。
・「春田播摩」岩波版の長谷川氏注に文化六(一八〇九)年(本文の「寛政七八年」(西暦一七九五~九六年から十三、四年後である)の「武鑑」に具足師として名が出ている旨、記載がある。但し、そちらの表記は『播磨』である。
・「溜池」は固有名詞。江戸城の南西部の一部を構成していた外濠。現在の総理大臣官邸の南方にあった。元来は水の湧く沼沢地であり、その地形を活かしたまま外濠に取り込んだもので、江戸時代中期から徐々に埋め立てられ、明治後期には完全に水面を失ったとされる。現在は、細長かった溜池の長軸を貫く形で外堀通りが走っている(以上は主にウィキの「外濠(東京都)」に拠った)。
・「定浚」江戸城下の河筋・堀川の泥土・塵芥を定期的に行うこと。
・「玉」ここで言っているのは所謂、真珠である。実際に、ドブガイやカラスガイには淡水真珠が生じる(近年では十ミリを越える大型の淡水パールも技術的に可能となった)。なお、中国は紀元前二三〇〇年頃より真珠が用いられていたという記録があり、本邦に於いても「日本書紀」「古事記」「万葉集」に既に、その記述が見られる。「魏志倭人伝」にも邪馬台国の台与が曹魏に白珠(真珠)五〇〇〇を送ったことが記されており、「万葉集」には真珠を詠み込んだ歌が五十六首含まれる。当時は三重県の英虞湾や愛媛県の宇和海で天然のアコヤガイから採取されていたが、日本以外で採れる真珠に比べ、小粒であった(歴史部分はウィキの「真珠」に拠った)。真珠の博物誌は私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 介貝部 四十七」の「真珠(しんじゆ)」の項も参照されたい。

■やぶちゃん現代語訳

 螺鈿の事

 中国の工芸細工には螺鈿を以て器物に彫り嵌めたものが多い。鈿という工芸は日本で創出された技術ではない。後、日本でも近江の琵琶湖より採取される、俗に泥貝という類いの二枚貝を「螺」と称して、かの螺鈿細工に用いるようになった。
 麹町に居住する御具足師の春田播摩は、
「……近頃。この近江の螺を具足螺鈿の細工に使ってみたところが――これ、異国渡りの粁貝すりがいと比しても――少しも劣らぬもので御座る。……」
とかねてより語って御座ったが、寛政七、八年の頃のこと、
「……江戸の溜池の定浚じょうざらえの際、ある者が泥の中から掘り出した大きな貝が、この近江の琵琶湖から採取した――螺鈿に使用可能な真珠光沢を持って御座る泥貝――「螺」と、これ、少しも違いがない。……尤も未だ細工には使つこうてみては御座らねど、……いや、実際に細工に成して見て、その結果が異国渡りの粁貝と何らの違いも御座らぬということになれば、……
……余り、大きな声では言えんが、の……
……かの大陸の螺鈿に用いる貝には、の……
――その中に、希有の『珠』がある――
……と、かの異国にては言い伝えておることなれば、の……
……日本の、その泥貝にも、の……
――希有の『珠』がある――かも知れんのじゃ!……」
などと、親友なれば、望月翁に話したという。
 かの儒学者望月翁が私に語って御座った話である。



 人間に交狐の事

 丹波の國、處は忘れしが富家の百姓有りしが、數人其家にある翁の、山のそはに穴居して衣服等も人間のとほり食事も又しか也、年久敷仕へし幼兒を介抱などし、農事家事共手傳、古き咄などする事は更に人間とは思われず。され共年久敷ありければ家内老少共是を調寶して怪しみ恐るゝ者もなし。然るにある時かの家長にむかひて、我等事數年爰許にありて恩遇捨がたしといへども、官途の事にて此度上京して、永く別れを告也と語りける故、家長はさら也、家内共に大に驚き、御身なくては我家いか計か事足るまじ、殊には數年の知遇とて切に留めけれど、不叶かなはずとてあけの日よりいづち行きけん行衞知れざれど、彼翁別れを告る時、もし戀しくも思ひ給はゞ、上京の節富士の森にておぢいと呼給ふべし、必出て對面せんといゝし故、始て狐なる事を知りて藤の森に至り、うらの山へ行ておぢいとよばはりしかば、彼翁忽然と出來りて安否を尋ね四方山の物語りし、立別れける時、御身の知遇忘れがたければ、此上家の吉凶を前廣まへびろつげん、狐の三聲づゝ御身の吉事凶事に付鳴つきなきなば其愼み其心得あるべきと言て立別れしが、果して其しるしの通りなりし由。

□やぶちゃん注
○前項連関:四つと五つ前の妖狐譚で連関。表題は「人間に交はる狐の事」と読む。
・「仕へし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『仕へして』。こうでないと意味が通じない。
・「數人其家にある翁の」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『數年其家におる翁の』。ここもこうでないと意味が通じない。
・「富士の森」前出。藤の森。京都市伏見区深草の地名。同地区には伏見稲荷がある。
・「前廣に」副詞。前もって。予め。

■やぶちゃん現代語訳

 人間に交わる狐の事

 丹波国――在所は忘れたが――裕福な百姓があった。
 その家に、数年仕えておったとある翁で、山の崖にあいた穴に住まい致し、衣服なども人間と同じで、食事もまた、少しも変わるところなかった。年久しく仕えて、幼児の世話など致し、農事・家事なんども手伝い、古く遠い御世の話を、恰も見てきたかのように語る、その語り口なんどは、更に人とは思われぬ、所謂、異人奇の類では御座った。
 されども、長年の付き合いにてありければ、家内の者は老少を問わず、皆、彼を重宝して、怪しみ恐れる者は一人として、なかった。
 然るに、ある日のこと、その翁、の主人に告げた。
「――我らこと、数年、ここもとにあって厚遇を受け、まことにその御好意、捨て難く存ずれども――このたび、官位拝受のことあって、上京致すことと相い成って御座る。――永のお別れを告げんとこそ――」
と語る故、主人は勿論のこと、家内一同、大いに驚き、
「……御身なくては、我が家は立ち行かなくなろうほどに……」
「……何と申しても、永い付き合いでは御座らぬか……」
と、皆々、せつに引き留めて御座ったれど、
「――いや、こればかりは、我が意にてもどうにもならぬのじゃ――」
と、その翌日には、何処へどうしたのやら、行方知れずと相い成った。
 ただ、かの翁、前日に別れを告げた、その最後に、
「――もし拙者がこと、懐かしゅうお思いになられることなんぞの御座ったならば……上京の砌、藤の森をお訪ねあって、『おじい』とお呼びなさるがよい。……必ず、出でて、対面せんに……。」
と言い残して御座った故、一同の者は、これ、初めて――かの翁は狐であったを――知ったので御座った。
 後日のこと、家の主人、藤の森を訪れ、その裏山へと参って、
「おじい――おじい――」
と呼ばわったところ、かの翁、忽然と出で来たって、互いに安否を訊ね、四方山話を致いたが、さあ、その別れ際に、翁は、
「……御身の知遇、これ、まこと、忘れがたい。……なればこそ……向後、主が家の吉凶、これ、拙者が前もってお告げ致そうぞ。……狐が
――コン、コン、コン――
と、三度ずつ鳴く……それは御身の吉事や凶事につき、その予告をするものじゃと心得られよ……狐が
――コン、コン、コン――
と鳴いたならば……その時は、相応に身を慎み、吉凶の到来の心構えをなさるがよろしゅう御座る……」
と告げて別れたという。
 ……その後、果たして……
――コン、コン、コン――
と、三度の狐鳴きが御座ると……その通りの不可思議なることが、必ず起こった、との由。



 誠心可感事

 寛政七年、清水中納言殿逝去ありし。東叡山凌雲院に葬送なし奉り、俊德院殿とおくりなし奉る。名は忘れたるが、右屋形やかたに至て輕く勤仕なし、年も七旬に近く、好みて能のあひ狂言をなしけるが、黄門公御在世に能を好給ひし故、輕き者ながら御相手にも立ちし由。逝去後御目見以下の者故拜禮は難成なりがたけれど、御廟の後御幕張まくはりの外より日々拜禮をなしけるが、百ケ日御法事後御廟に參り、外に人も不居合ゐあはせざる故、御廟前の片影かたかげへ廻りて拜しけるを、御庿番の者も渠が深切を感じ見免みゆるし置しに、やうやく半時うつ臥して居ければ、死しやらんと思ひ迷ふ程なるに漸に起出ける故、いかに久しき拜禮也と右御庿番の者尋ければ、御在世の時好せ給ふ事故、龍田のあひを一番口の内にて相勤候由涙を流し申けるが、値遇の難有を思ひ出て歌をも詠たりとかたりしが、右歌は狂歌とも何か分らぬ事ながら、誠心の哀成事と人の語りける故爰に記ぬ。
 關守も暫しはゆるせ老の虫人こそしらね鳴ぬ日はなし

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。能絡みで遠く「戲藝にも工夫ある事」と連関。死亡時から「百ケ日」法要の出来事で、日付の特定まで可能な珍しい記事と言える。
・「清水中納言」徳川重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)徳川御三卿清水家の祖。第九代将軍徳川家重次男。官位は従三位左近衛権中将兼宮内卿・参議・権中納言。家名は江戸城清水門内の田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあったことに由来する。満五十歳の彼の死によって家重の血筋は断絶、子がなかったため、その後の清水家は再興と断絶を繰り返した。彼の逝去は寛政七年七月八日はグレゴリオ暦で一七九五年八月二十二日、和暦サイトの表から百ヶ日を計算したところ、この出来事は寛政七年十月十一日(西暦一七九五年十一月二十二日)のことになるはずである。季節を感じつつ、映像を想像されたい。
・「東叡山凌雲院」東叡山寛永寺三十六坊の塔頭の中では最も格式が高かったが、現存しない(上野駅公園口を出て道路を渡った現在の文化会館と西洋美術館附近にあったという)。
・「間狂言」能一曲の中で狂言方が演じる部分や役を指す。
・「黄門」中納言の透唐名。
・「御目見以下」御目見得以下。将軍直参の武士でも将軍に謁見する資格のない者。御家人。対語は「御目見得以上」で旗本が相当。
・「御庿番」の「庿」は廟に同じ。
・「龍田の間」謡曲「龍田」の間狂言の部分の意。能「龍田」は行脚僧が龍田明神参詣のため河内国へ急ぐ途中で龍田川まで来ると、一人の前シテの巫女が現われ、「龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん」という古歌をひいて引き止め、僧が、それは秋のことにて今はもう薄氷の張る時節と答えると、更に「龍田川紅葉を閉づる薄氷渡らばそれも絶えなん」という歌もあると答えて社前に案内、そこには霜枯れの季節にもかかわらず、未だ紅葉している紅葉のあるを不審に思う僧にこれは神木なることを語り、更に龍田山の宮廻りをするうち、巫女は自らが龍田姫の神霊であると名乗って社殿の中に姿を消す。その夜、社前で通夜をしている僧の前に、後ジテ龍田姫の神霊が現れ、明神の縁起を語り、紅葉の美しさを舞って夜神楽を奏でて虚空へと上って行くという複式夢幻能。私は書による知識のみで舞台を見たことがないので、残念ながら、この能の舞台を知らぬが、謠本を見るにワキツレで従僧二人が登場する。老人はこの一人を黄門公生前には演じたものであろう。それを「一番口の内にて相勤候」とは、ただワキツレとしての自分のパートだけではなく、前シテとワキの始まりから後シテとワキの夜神楽までを心に描き、己れの登場の部分の台詞を口の中にて演じたことを意味しよう。因みに、私の謠をする教え子からは、江戸時代の謡曲の上演時間は現在よりももっと短かった、演技は今のようなスローさとは大分、異なっていたらしいと聞いている。
・「値遇」底本には右に『(知遇)』と傍注。
・「關守も暫しはゆるせ老の虫人こそしらね鳴ぬ日はなし」幽冥界を隔てる廟を関所に喩え、番人を関守とし、御家人でも身分の低い老いた七十に近い己れを老いの虫に喩え、数え五十一の若さで亡くなった主君との老少不定を含ませた狂歌と言えよう。私の自在勝手訳を示す。
……あの世とこの世を隔てる関の番人と雖も……暫しの間は、かくするを許せかし……人はたれ一人知らずに御座れど……この、老いさらばえた秋の虫の如き、既に死すべき者なるに……主はあの世、己れは塚の外……その哀れを、泣かぬ日とて、ない……

■やぶちゃん現代語訳

 誠心感ずべき事

 寛政七年のこと、清水中納言徳川重好殿の御逝去が御座った。
 東叡山凌雲院に御葬送し奉り、俊徳院殿と諡り名され給うた。
 名は忘れて御座るが、清水殿の御屋形にて、至って身分の低い者として召し使われておった、年はもう七十に近い者にて、己の好みに能のあい狂言を致す者があったが、俊徳院殿黄門公御在世の折りは、殊の外、能をお好みになられたがため、低き身分の者ながら、その御相手をも勤めて御座ったとの由。
 御逝去後、御目見得以下の身分の者故、御廟所にては直接の拝礼を致すこと、これ、許されなんだが、かの老人は、目立たぬよう、御廟の後ろの幕張の外から、一日として欠かさずに御霊みたまを拝礼致いて御座ったという。
 百ヶ日の御法要の日のその終わった後のこと、彼はかの御廟に参ったが、偶々、外には人の居合わせたなんだが故、御廟前の目立たぬ物蔭に回り込んで、ひっそりと蹲っては拝み申し上げて御座ったそうな。
 御廟所の番方も、これに気づいては御座ったれど、以前からの、かの老爺の深く御主君を悼む心に打たれておった故、見て見ぬ振りを致いて、許して御座った。
 ところが、老僕は突っ伏したまま――半時もの間――そのまま――微動だにせぬ。――
 流石に番方も、
『まさか……死んでおるのでは……御座るまいか……』
と思い迷うほどにて御座った――
――が――
ようやっと、ゆるゆると身を起こいて、御廟所霊前より立ち出でた故、
「……如何にも永き拝礼であったのう……」
と、かの御廟番方の武士が訊ねたところ、
「……はい……御在世の砌、お好みであられたが故……「竜田」のあいを一番、口の中にて……相い勤めて御座いました故に……」
と述べつつ、涙を流して御座ったが、更に、
「……知遇の有り難きを思い出だいて……かくなる拙き歌一首も……詠まさせて……頂き申した……」
と語った。
 その歌――まあ、狂歌とも和歌とも称せぬようのものながら――その誠心の、これ、まっこと、哀れなること……と人の語ることにて候えば、ここに記しおく。
  関守も暫しはゆるせ老の虫人こそ知らね鳴かぬ日はなし



  しやくり呪の事

 しやくりを止るには、其人の口をあかせ、右口の内へ宗といふ文字を三度書けば止る事妙なりと、人の語りし故爰にしたため置ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。但し、本巻は巻頭からまじないずいている。
・「しやくり呪」しゃっくりを止めるまじないの意。「しゃっくり」という言葉は「刳りぬく」の意味の「さくる」の変化したもので、しゃっくりの腹を抉られるような感じに由来する。医学的にはミオクローヌス(myoclonus:筋肉の素早い不随意収縮。)の一種で、横隔膜又は他の呼吸補助筋の強直性痙攣によって声帯が閉じて音が発生することが一定間隔で繰り返される現象を言う。この「宗」の字を口の中に書くと言うのは迷信染みているが、そのためには大きく口を開かねばならず、尚且つ、宗の字三回は試みにやって見ると十秒以上はかかるので、その間、通常呼吸とはことなる呼吸をすることになり、効果があるとも言える。根拠なしでも、それを信じてやるならば一種のプラシーボ(偽薬)効果も期待出来よう。
 さて、私の知るものでは本件に似たものとして、
自分で掌に「森」という字を書いて飲み込む。
というのがある。これは嚥下行動が横隔膜に作用すると考えればやはり非科学的とは言えまい。現実には、しゃっくりを止める決定打は、ない。
 以下、信頼出来る医薬品メーカーのサイトや複数の質問箱・しゃっくり呪いの頁(思いの外多い)などを見ると、昔からの定番である、
〇びっくりさせる
〇息を止める
〇ゆっくりと息を吸う
〇胸に手を当てる
といったシンプルなものや、
〇腰に手を当てて左右の横隔膜部分を人差し指から薬指までの指で押し込み、同時に息を吸ってそのまま止める
という一見医学的処方のような記載、やはりしばしば聞くところの、
〇コップ一杯分の水を飲む
〇お椀に水をなみなみと張ってそれを向こう側から(深いお辞儀で顔が逆になったような状態)一気に飲み干す
この応用型で、私も聞いたことがある(が、面倒なのでやったことはない)、
〇お茶をいれた茶碗の上に割箸を十字に置き、それらの割箸を両手で固定し、それらのあいだからお茶を少し飲み、茶碗を九十度回転させながらそれを繰り返す
という方法(こちらの「じゃがべぇ~(^_-)-」氏のブログでの分布域を見ると、これは関西系の止め方らしい)、
〇ご飯を丸呑みする
〇盃一杯の酢を飲む
などの他、変形ものでは
〇スプーン一杯分の砂糖を食べる
〇柿のへたの煎じ薬を飲む
などがある。中でも面白いのは、
〇「豆腐の原料は何?」という質問に答えさせる
というのがあり、これはその答えの「大豆」という発声をすることに意味があるのではなく、驚かすのと同じで、突然、虚を付く質問をすることに意味があると思われる。即ち、意識をずらさせる効果であろう。従って質問は「ナスの色は何色?」「菜の花の色は何色?」と言ったヴァリエーションがあるらしい。
 かなり複雑ながら、効果があるとする記載が多いネットで見た方法をここに記しおく。
〇十二秒で止める方法
1 深く息を吸う。
2 ドアや扉の枠の下に移動する。
3 手を伸ばして上の枠をつかむ。
4 枠を押し上げる感じで腕を伸ばす。
5 背中を曲げて前に倒れるような感じで腹のストレッチをする。
6 息を止めたまま三十秒から六十秒、この姿勢を保つ。
最後にやはり面白いと思った記事を最後としよう。
〇“My father, a science teacher, always quickly offers his students a quarter if they hiccup again. Amazing and nearly foolproof!  2002  Jason-san(USA)”
因みに“a quarter”は二十五セント硬貨のことである。

■やぶちゃん現代語訳

 しゃっくりに効くまじないの事

 しゃっくりを止めるには、その人の口を大きく開かせた上、その口の中に人差し指を入れ、その口中にて「宗」という文字を三度書けば、ぴたりと止まる、のは実に奇妙なこと乍ら、本当ほんとのこと、と人の語った故、ここに記しおく。



 靑砥左衞門加増を斷りし事

 靑砥左衞門へ其此の鎌倉執權より、夢に左衞門精忠を以て加增あるべしと神示ある故加增給るべきとありしを、左衞門強てことはりに及びければ、いかなれば加增褒賞有べき事を、斷るとは愚昧且非禮ならんとありしに、左衞門答ていへるは、武邊其外手柄ありての加增ならば難有ありがたかるべし、夢の告を以加增を給はる事にあらば、靑砥左衞門を首刎はぬべしとの夢の告あらば首刎給ふべきやと、終にうけず有しと。面白き議論也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。定番の武辺物で、いい話ではある。
・「靑砥左衞門」多くのエピソードで知られる青砥藤綱(生没年不詳)。鎌倉後期の武士とされるが、実在は疑わしい(モデルとなった人物の存在可能性はある)。参照したウィキの「青砥藤綱」には、本記載と同ソースと思われる以下のような記載がある。
   《引用開始》
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。『弘長記』では評定衆に任じた、ともある。藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。
   《引用終了》
因みに、この時、藤綱は二十八歳であったとする。最も人口に膾炙するのは、以下の逸話で(アラビア数字を漢数字に変えた)、
   《引用開始》
かつて夜に滑川を通って銭十文を落とし、従者に命じて銭五十文で松明を買って探させたことがあった。「十文を探すのに五十文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は応えて「十文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。五十文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて六十文の利は大であるとは言えまいか」と。
次代執権の北条時宗にも仕え、数十の所領があり家財に富んでいたが、きわめて質素に暮らし倹約を旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に困窮している人々に与えた。藤綱がその職にあるときには役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。なお、『太平記』では藤綱を北条時宗及び次代執権の北条貞時の時の人としている。
《引用終了》
更に言っておくなら、『江戸時代には公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などの芸術作品にしばしば登場した。同様の性格を持つものとしては大岡政談が挙げられるが、江戸幕府の奉行・大名であった大岡忠相を登場させることには政治的な問題が生じやすかったため、歴史上の人物であった藤綱を代わりに主人公とした』ケースが多く見られ、藤綱は江戸時代の武辺物の定番的ヒーローであったことを忘れてはならない。なお、彼については、私の「新編鎌倉志 卷之六」の「固瀨村」の項に詳細なオリジナル注を施してある。参照されたい。
・「鎌倉執權」「弘長記」によるならば北条時頼、「太平記」にも同様の記載があり、そこでは北条時宗とする。こうした類話がごろごろある事自体、鎌倉の青砥橋で著名な青砥藤綱であるが、実は一種の理想的武士の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても実在はしなかったと私は考えている。

■やぶちゃん現代語訳

 青砥左衛門藤綱が御加増を断わった事

 青砥左衛門藤綱へ、その当時の鎌倉執権より、
「夢に『左衛門はよく勤めておる故に加増あるべし』との神託が御座ったによって加増して遣わさんと思う。」
と御下知が御座ったが――
――左衛門は、あくまでこれを断って御座った。
「加増・褒美を賜るとあられるを、断るとは愚昧じゃ――いや、何より非礼であろう。」
との執権のお言葉に、左衛門、答えて曰く、
「――武道その外の手柄あっての御加増ならば、これ、有り難くお受け致すが、これ、定法ならん。――なれど――夢の告げなんどを以て御加増賜わるということになれば――『青砥左衛門を斬首と処せ』――という告げが御座ったれば――御主おんあるじ殿――同様に――拙者が首を――お切りなさる、おつもりか?」
と、答え、遂に請けあわなかったということである。
 誠に面白い議論である。



 珍物生異論の事

 大前何某の娘を外へしけるに、右緣家の家僕ことの外骨折りし故、大前より提物さげものを與へけるに、寛政九年の春右家來大前の元へ來りて、拜領の提物つき桃核ももざね紐〆をじめを、松平能登守殿醫師山田宗周といへる者來りて一覧の上、兼て人に賴まれ候間貸し呉候樣申故、其乞そのこひに任せける處、其後右の醫師來りて、右紐〆の事は、兼て東海寺地中淨惠院に被賴たのまれし故借り受し也、右仔細は運慶の作にて東海寺に持傳へし十六羅漢を彫し桃核の紐〆什物じふもつたる所、四五年已前右之内一つ紛失せしゆへ、見當り候はゞ取戻の儀世話いたし呉候樣たのみに付、此間の紐〆を借受爭惠院へ見せ候處、紛失の品に無相違さうゐなき間、價ひは高料にて候共取戻したき由切にたのむ由を申候、たまはり候物故うかがふ由申ける故、大前聞て、右桃核の紐〆は親の代より持傳へし品にて、幼年より五十年來所持の處、東海寺紛失の品と聞て與へば、東海寺の什物盜物たうもつを買調ひ候に當り何共不相濟なんともあひすまざる事故、御身には外の紐〆可遣つかはすべき間、取戻し呉候くれさふらふ急度申談きつとまうしだんじ、代りには珊瑚珠さんごじゆの玉を與へける故、やうやくに取戻し返しけるが、如何いたしけるや不思議成事と人にも咄、右類は幾つもあるべき事と尋しに或人のいへるは、右は東海寺の僧不存ぞんぜざる由の儀にて、右類は世に數多あまたある品を、什物の十六羅漢の外はなき物と心得し故ならん、虞初新志ぐしよしんしといへる書に通有とほりありいひし故、安堵の思ひをなせしと大前語りける。
   記桃核念珠    經進文稾    高士奇
得念珠一百八枚、以山桃核爲之、圓如小櫻桃、一枚之中、刻羅漢三四尊、或五六尊、立者、坐者、讀經者、荷杖者、入定於龕中者、蔭樹趺坐而説法者、環坐指畫論議者、祖跣曲拳、和南而前趨而後侍者、合計之、爲數百五、蒲團竹笠、茶奩荷策、缾鉢經卷畢具、又有雲龍風虎、獅象鳥獸、戲猊猿猱、錯雜其間、初視之、甚了了、明窓浮几、息心諦觀、所刻羅漢、僅如一粟、梵相奇古、或衣文織綺繡、或衣袈裟、沓絺褐、而神情風致、各蕭散於松柏巖石、可謂藝至矣。

□やぶちゃん注
○前項連関:武辺物ではないが、武士の節が関わることから、緩く連関しているように見える。
・「珍物生異論の事」は「珍物、異論を生ずるの事」と読む。
・「提物さげもの」腰にさげて持ち歩く印や巾着、煙草入れなどの総称。「こしさげ」とも言う。ここは印籠ととって訳した。
・「寛政九年」西暦一七九七年。
・「桃核ももざね紐〆をじめ」の「紐〆をじめ」は「緒締」で、穴に口紐を通し、印籠・巾着・袋などの口を締めるもの。多く球形で玉・石・動物の角・象牙・金属・珊瑚などを素材とする。緒どめ。ここは桃の種に彫刻を施し、孔を開けて紐を通して印籠の口を締めるものとしたものと採っておく。
・「松平能登守」諸注は名を記さないが、美濃岩村藩第四代藩主松平乗保(寛延元(一七四八)年~文政九(一八二六)年)。当時は西丸若年寄で、後に老中となった。偶然と思われるが寛政九年は数え歳五十歳で、主人公の大前某と同世代であることが知れる。
・「山田宗周」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『山田宗固』とある。不詳。
・「東海寺地中淨惠院」は東京都品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派の万松山東海寺の塔頭浄恵院(現存)。ウィキの「東海寺」によれば、寛永十六(一六三九)年に徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建、沢庵を住職とし、沢庵禅師所縁の寺であるが、明治六(一八七四)年に寺領が新政府に接収されて衰退したとある。
・「」この読みは自信がないが、恐らく「根付」のことと判断して、かく読んだ。厳密には「根付」と「緒締」はセットになった別個な部品名であるようだが、ここでは同じものとして考えた。
・「與へば」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『与へ置かば』とある。こちらの方が意味の通りがよいので、それで訳した。
・「盜物たうもつ」の読みは自信がない。
・「虞初新志」明末清初の張潮撰になる小説集。以下は巻十六にある(底本では全体が二字下げ)。「維基文庫」(中国語版ウィキ)の「虞初新志 巻16」から原文全文を引用しておく(一部の漢字を変え、カンマと「:」を読点に、読点を「・」に、「《 》」を鍵括弧に代え、「!」は句点に変えた)。

記桃核念珠
──高士奇(澹人)
得念珠一百八枚、以山桃核爲之、圓如小櫻桃。一枚之中、刻羅漢三四尊、或五六尊。立者、坐者、課經者、荷杖者、入定於龕中者、蔭樹趺坐而説法者、環坐指畫論議者、袒跣曲拳和南麵前趨而後侍者、合計之、爲數五百。蒲團、竹笠、茶奩、荷葉、瓶缽、經卷畢具。又有雲龍・風虎・獅象・鳥獸・狻猊・猿猱錯雜其間。初視之、不甚了了。明窗淨幾、息心諦觀、所刻羅漢、僅如一粟、梵相奇古。或衣文織綺繡、或衣袈裟水田絺褐。而神情風致、各蕭散於鬆柏岩石。可謂藝之至矣。
向見崔銑郎中有「王氏筆管記」雲、唐德州刺史王倚家、有筆一管、稍粗於常用、中刻「從軍行」一鋪、人馬毛發、亭台遠水、無不精絶。每事複刻「從軍行」詩二句、如「庭前琪樹已堪攀、塞外征人殊未還」之語。又「輟耕錄」載、宋高宗朝、巧匠詹成雕刻精妙。所造鳥籠四麵花版、皆於竹片上刻成宮室人物・山水花木禽鳥、其細若縷、而且玲瓏活動。求之二百餘年、無複此一人。今餘所見念珠、雕鏤之巧、若更勝於二物也。惜其姓名不可得而知。
長洲周汝瑚言、「呉中人業此者、研思殫精、積八九年。及其成、僅能易半歳之粟。八口之家、不可以飽。故習茲藝者亦漸少矣。」噫。世之拙者、如荷擔負鋤、輿人禦夫之流、蠢然無知、唯以其力日役於人。既足養其父母妻子、複有餘錢、夜聚徒侶、飲酒呼盧以爲笑樂。今子所雲巧者、盡其心神目力、曆寒暑歳月、猶未免於饑餒、是其巧為甚拙、而拙者似反勝於巧也。因以珊瑚木為飾、而囊諸古錦、更書答汝瑚之語、以戒後之恃其巧者。
張山來曰、末段議論、足醒巧人之夢。特恐此論一出、巧物不複可得見矣、奈何。

さて以下、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」の文政六(一八二三)年刊の画像を元に訓読を試みる(当該画像の36~38に該当)。一部の原文は先の「維基文庫」版と異なるが、特にそこは示さない(こちらの方が正しいと思われる部分ばかりである)。〔 〕は割注、〈 〉は私の補綴。訓点は分かり易い左の和訓を総て採ったため、一部の文脈がおかしい(漢文訓読と和訓の混在)のはお許し願いたい。

桃核の念珠を記す     高士奇〔澹人〕
 念珠一百八枚を得、山桃の核を以て之を爲る。圓にしてちいさき櫻桃ゆすらむめのごとし。一枚の中、羅漢三四尊、或は五六尊を刻す。立〈つ〉者、坐す者、經を課する者、杖を荷ふ者、龕中〈た〉うのうちに入定する者、樹にいこひ趺坐して法を説く者、環坐指畫論議する者、袒跣曲拳、和南てをあはすして前に趨てしりぞき侍する者、合〈せ〉て之を計ふれば、數五百と。蒲團・竹笠・茶奩・荷策・瓶鉢・經卷、畢く具はる。又、雲龍・風虎・獅象・鳥獸・狻猊・猿猱有り。其〈の〉間に錯雜す。初〈め〉て之を視れば、甚だ了了はつきりならず。明窗淨几、息心諦觀すれば、刻む所の羅漢、僅〈か〉に一粟のごとし。梵相奇古、或は文織綺繡を、或は袈裟・水田みすあさぎ絺褐ちぢみのぬのこを衣る。而して神情風致、各々松柏岩石に蕭散す。藝の至と謂ふべし。
 向きに崔銑郎中、「王氏の筆管ふでのじくの記」に有〈る〉を見る。云く、『唐の德州の刺史王倚が家に、筆一管有〈り〉。やゝ常用より粗なり。中〔に〕「從軍行」一鋪を刻す。人馬毛髮、亭臺遠水、精絶ならざる無し。事每に複〈た〉「從軍行」の詩二句を刻す。「庭前の琪樹 已に攀るに堪〈へ〉たり 塞外の征人 殊に未だ還らざる」の語のごとし』〈と〉。又、「輟耕錄」に載す、宋の高宗の朝に、巧匠さいくにん詹成、雕刻精妙、造る所の鳥籠、四面の花版、皆、竹片上に於て成宮室人物・山水花木禽鳥を刻み、其〈の〉細き、縷のごとし。而して且つ、玲瓏すきとうり活動す。之を求〈む〉る〈こと〉二百餘年、複た此の一人〈として〉無し。今、余が見る所の念珠、雕鏤ほりものの巧に、更に二物より勝るがごとし。惜くは其〈の〉姓名得て知すべからず。長洲の周汝瑚、言ふ、「呉中の人、此〈れ〉を業とする者、思をみがき精をつくし、八九年を積〈む〉。其〈の〉成〈る〉に及〈び〉て、僅〈か〉に能く半歳のこめ易ふ。八口の家、以て飽くべからず。故に茲の藝を習ふ者、亦、漸く少なし。」〈と〉。あゝ、世の拙き者、荷擔にもち負鋤すきもち輿人かごかき御夫むまのくちとりたぐひ蠢然をろかしくとして無知ものしらぬ、惟〈だ〉其の力を以て日に人につかはれす。既に其〈の〉父母妻子を養ふに足〈れ〉り。複〈た〉餘錢有れば、夜は徒侶ともだちを聚め、酒を飲〈み〉、盧を呼〈び〉ばくえきし、以て笑樂を爲す。今、子が云ふ所の巧なる者、其〈の〉心神こんき目力がんりきを盡し、寒暑歳月をて、猶〈ほ〉未だ饑餒ひもじきめを免れざる〈が〉ごとし。是れ其〈の〉巧み甚〈だ〉拙と為す。而して拙き者、反〈り〉て巧みに勝〈た〉れるに似たり。因〈り〉て珊瑚木難を以て飾りて諸しを古錦に囊にし、更に汝瑚に答〈ふ〉るの語を書して、以て後の其〈の〉巧を恃む者を戒む。
張山來〈りて〉曰〈く〉、「末叚の議論、巧人の夢を醒するに足る。特に恐る、此〈の〉論、一たび出て、巧物、複た見〈る〉ことを得べからざる、奈何せん。」〈と〉。
これは――凄い。神技に通ずることの難しさ、世の多くの拙なる、自称「業師」を退けつつ、これを語ることが、真の技芸者の滅亡をも促すという虞れを述べるこれは「小説」(下らない話)どころか――現代にも十分通用する、立派な文明批評である。

・「経進文稾」不詳。「文稾」は草稿の意であろう。識者の御教授を乞う。
・「高士奇」(一六四五年~一七〇四年)は清の文人政治家・書家。出身は浙江省平湖とされる。国学生(官僚候補生)として首都北京で科挙に臨むも合格出来ず、売文を生業とした。彼の作文揮毫した新年の春帖子(しゅんじょうし:立春の日に宮中の門に言祝ぎの春詞を書いて貼ったもの)が偶然に聖祖康煕帝の目にとまり、帝の特別の配慮によって約十日間で三度の試験を受験、それぞれ首席の成績で合格し内廷供奉(ないていきょうほう:宮中侍従)に任ぜられ、後、礼部侍郎(文部副大臣)に至る。没後、その功労をもって「文格」と諡号された。代表作に帝室書画に関する鑑賞録「江邨銷夏録」(一六九三年)がある(以上は遠藤昌弘氏の「臨書探訪31(48)」に拠った)。
・「櫻桃」このままなら文字通りなら、バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属 Cerasus のサクラの実を指すが、先の左和訓の「ゆすらむめ」ならサクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa を指す。実は「櫻」という漢字は本来はユスラウメを指し、実のなっている様を首飾りを付けた女性に見立てた象形文字であった。実は食用になり、かすかに甘さを持ち、酸味は少ない。サクランボに似た味がする(ユスラウメの記載はウィキの「ユスラウメ」に拠った)。
・「龕」仏塔。
・「祖跣」原文の「袒跣」の誤り。「たんせん」と読み、肌脱ぎして、裸足になること。
・「曲拳」体を深く屈して拳を隠すようにして礼をすること。
・「和南」先の左和訓で示されているように、合掌して礼拝すること。
・「趨り」は「はしり」(走り)と読む。
・「茶奩」は「ちやれん(ちゃれん)」と読み、茶箱。茶は仏家の霊薬である。
・「荷策」禪で用いるところの警策、策杖、大きな杖の意であろう。
・「瓶鉢」酒器。
・「畢く」「ことごとく」と訓ずる。
・「風虎」普通は前の「雲龍」とセットで四字熟語「雲龍風虎」として龍のあるところに雲の沸き起こり、虎のあるところには必ず風が吹き荒ぶという意から、同類相い呼ぶことを言うが。ここは一種の聖獣への尊称のように「雲」「風」を用いている。
・「獅象」「しぞう」か。獅子と象で大型哺乳類を後の「獸」から区別して示したものか、それとも単一の動物名か。識者の御教授を乞う。
・「戲猊」狻猊しゅんげいのことであろう。伝説上の動物である唐獅子。獅子に似た姿で、煙や火を好むとする。そこから寺院の香炉の脚部の意匠にされた。高僧の座所を「狻座」「猊座」と言い、また、古く手紙の脇付に用いた「猊下」というのもこれがルーツである。
・「猿猱」「猱」は「じゆう」と読む。岩波版の長谷川氏の注は、これをサル目真猿亜狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属 Hylobates のテナガザルを指すとするが、私は直鼻猿亜目オナガザル科コロブス亜科シシバナザル属キンシコウ hinopithecus roxellana と考える。その根拠は私の電子テクスト「和漢三才圖會 巻第四十 寓類 恠類」の「猱 むくげざる」の私の注を参照されたい。但し「猿」との熟語になっているから、猿一般を現わしているので、特に同定の問題はない。
・「梵相奇古」羅漢の図像は通常、胡人の、しかも奇怪な姿形をとるものが多く、それを「胡貌梵相」と言う。ここもそれと同じことを指していよう。
・「文織綺」「文織綺繡」の脱字。「文織」は綾織(斜文織。経糸・緯糸が三本以上から構成される織物)、「綺繡」(美しく色染めした織物)。
・「沓」「水田」の錯字。文政本は濁音と歴的仮名遣にあやまりがある。「みづあさぎ」が正しい。「水浅葱」「水浅黄」薄いあさぎ色、水色を指す。古代の羅漢の着服していた僧衣の色か。
・「絺褐」音は「ちかつ」。「絺」は葛の細い糸で織った布帷子、「褐」は布子、粗末な着物、麻衣の意。粗末な麻布の短衣を言う。
・「神情風致」「神情」は人の表情の意で、それが持つ味わいの意。
・「蕭散」静かでもの寂しいこと。禪家で尊重される境地である。

■やぶちゃん現代語訳(訓読文は誤りの少ないと思われる「近代デジタルライブラリー」の文政六(一八二三)年版の当該箇所を基準とし、我流の文字選び・再訓読を行ってある。その後ろに現代語訳を配した)

 珍物が異論を生む事

 大前何某が娘を他家へ嫁がせたが、その折り、その家の縁家の家僕が殊の外、骨を折って世話致いて呉れた故、大前よりげ物を与えて御座った。
 ところが寛政九年の春のこと、かの家の家来が大前のもとへ参って、
「……実は……ご拝領致しました提げ物のことにつきましてで御座いますが……かの提げ物に附いて御座いましたところの……桃の実の緒締めについてで、御座います……その……拙者のところに松平能登守殿お抱えの医師山田宗周という者が訪ねて参りまして……たまたま拝領の桃の実の緒締めを見せましたところが……
『……仔細は申しかぬるが、かねてよりさる人に頼まれておったによって、どうか、一時、この緒締め、黙って貸しては下さるまいか。――』
と頻りに申します故、その乞いのままに貸しました。
 ところが、その後、暫く致しまして、また、かの医師が参り……その……申し上げにくいことにては、御座いまするが……、
『……この緒締めに就きて、訳を申さば……かねてより、東海寺塔頭の浄恵院より頼まれて御座った、とあることによって、貴殿より借り受けた仕儀に御座る。……この根付……仔細を申さば……運慶が作にて……東海寺にては代々……十六羅漢をりつけた桃の実の緒締めを秘蔵して御座った……ところが……四、五年以前……有体ありていに申せば……そのうちの一つが、紛失致いたので御座る。……故に、もしかくかくの仕様のものを見かけることがあったならば……それを取り戻して呉れるよう、宜しくとの、依頼で御座った。……されば、実は……この間の借り受けも、その儀に沿うた仕儀にて御座った……かの緒締め、浄恵院へ持参致し、見せ申したところが……紛失した品に間違い御座らぬ故、たとえ高値に御座っても取り戻したき由にて……どうか、切に! お頼み申す!……』
とのことにて……殿様よりの賜わりもの故……一体……どうしたらよいものか途方に暮れまして……お伺いに参上致しました次第にて、御座いまする……。」
と申し上ぐるによって、大前殿、
「――あの桃の実の緒締めは、親の代より伝来の品にて、我、幼年の折りより五十年来、ずっと所持して参った物。東海寺から紛失したものじゃと言うによって、成程、左様か、――それは違う品なるは確かなれど、これで良ければ、なんどと安易に売り渡いたとなれば――これ、東海寺宝物の盗品を我らが買うて平然と使つこうておったという冤罪を蒙らんとも限らぬ――これは、いっかな、納得出来ぬことじゃ!――さても――そうさ、御身には別の我ら所蔵の紐締めを遣わすによって――必ずや、かの紐締め、取り戻し候よう!」
ときつく申し渡いて御座った。
 代わりには後日、早速に、これまた高価な珊瑚珠の玉の紐締めをその者に与えて御座った故、家僕も恐縮致いて、まずは殿の名誉がためと、なんとか、かの医師に貸して御座った桃の実の緒締めを取り戻し、大前殿にお返し申し上げたとのことで御座った。
 後日、大前殿は、
「……これは一体、如何なることにて御座ったろうかのう。……今以って、不思議なことにて御座るのじゃ。……」
と知れる人なんどに、この話の一部始終を語り、また、その最後には、
「……こうした提げ物は、世間に幾つもあるものなので御座ろうか?……」
と問うたもので御座った。そんな中の、さるお人が答えて言うたことには、
「――それはかの東海寺の坊主の無知によるもので御座る。こうした類いの細工、実に世には数多ある品じゃ。それを自分の寺の宝物の、十六羅漢の荘厳しょうごんの外には、世になき逸物なり、なんどと思い込んでおった故、そんな馬鹿げた話になったに相違御座らぬ。『虞初新志』という書に次の通り、書かれて御座る。」
とのこと故、大前も安堵に胸を撫で下ろした――とは、大前殿本人の語ったことにて御座る。

[根岸注:添付資料「虞初新志」より]

  桃核の念珠を記す    経進文稾    高士奇
 念珠一百八枚を得、山桃の核を以て之をつくる。圓かにしてちいさき櫻桃ゆすらむめのごとし。一枚のうちに羅漢、三、四尊、或ひは五、六尊を刻す。立つ者、坐す者、經を課する者、杖を荷ふ者、龕中ぐわんちうに入定せる者、樹にいこひ趺坐して法を説く者、環坐指畫論議せる者、袒跣曲拳たんせんきよくけん、和南して前に趨てしりぞき侍する者、合はせて之をかぞふれば、數五百とす。蒲團・竹笠・茶奩ちやれん・荷策・瓶鉢へいはつ・經卷、ことごとく具はる。又、雲龍・風虎・獅象・鳥獸・狻猊しゆんげい猿猱えんじふ有りて、其の間に錯雜す。初めて之を視れば、甚だ了了とせず。明窓淨几、息心諦觀すれば、刻む所の羅漢、僅かに一粟のごとし。梵相奇古、或ひは文織・綺繡を、或ひは袈裟・水田みづあさぎ絺褐あさのぬのこを衣る。而して神情風致、各々松柏岩石に蕭散す。藝の至と謂ふべし。

   桃のの念珠について記す    経進文稾    高士奇
 百八粒からなる念珠を得た。山桃の実によって創られたものである。一つ一つの種が全き球体であって小さな桜桃さくらんぼのように見える。一粒の中に、羅漢が三尊から四尊、ものによっては五尊から六尊を彫琢してある。立つ者、座す者、経を読む者、杖を担う者、龕中にて入定せる者、樹に憩い、結跏趺坐して法を説く者、環座して絵を指して論議する者、肌脱ぎの裸足で蝦のように体を屈して礼をする者、合掌したままに前に走る者、又、逆に退いて侍する者。これ、合計すれば凡そ五百余りの羅漢像である。蒲団・竹笠・茶箱・策杖・酒器・経巻、悉く具わっている。またそれ以外にも遠景近景に雲竜・風虎・獅象しぞう・鳥獣・戯猊ぎげい猿猱えんじゅうがおり、それらの彫像の間に、これまた散りばめられているのである。但し、初めはこれを見ても、何が彫られているのかは、実は、よく分からない。明窓浄机して、息を調え、端然として観ずる時、そこに刻む所の羅漢、僅かに一粒の粟の如くに、その奇怪にして古色を帯びたるそれぞれの梵相が現前し、或いは文織・綺繡を着し、或いは袈裟・水浅黄・縐の布子を羽織る。而して一人ひとりの表情は味わいに富んで、各々が松柏や岩石の中へと貫入し、人気を払って寂莫じゃくまくの境地を開く。これはもう、至上の芸と言うべきものである。



 初午奇談の事

 寛政八年の初午は二月六日也けるが、其已前太鼓の張替抔渡世とせる穢多ゑた、本郷邊を通りしに、前田信濃守屋敷前にて、家僕とも見へる侍、太鼓の張替を申付、則破れし太鼓を渡しける故、其價を極めて右の侍は何の又左衞門と申者の由申ける故、右穢多は太鼓を張替、初午前日とかやに前田の屋敷へ至り、又左衞門と申人より誂へ給ふ太鼓出來の由門にて斷ければ、又左衞門といへる用人はあれども、年恰好抔は右穢多の申處とは相違せし上、太鼓張の儀又左衞門より申付候事なし、さるにても稻荷の太鼓を改見べしとて、社頭に於ゐて搜しければ太鼓なし。棄て破れ古びし太鼓の新らしく成りし事の不思議なりととりどり申けるが、價貮百疋餘の極を、穢多も右不思議にて直段ねだんを引下げしと人のかたりし。狐などの仕業や、又穢多或は前田家の家士の仕業にや。

□やぶちゃん注
○前項連関:先の妖狐譚と軽く連関。……でも……これは一体誰で、何の目的だったのか……ホームズに真相の謎解きをして貰いたい欲求に駆られるのは、僕だけであろうか?……ただの愉快犯とは……どうしても思えない、というのが私の習性なんである……
・「寛政八年の初午」全国の稲荷社の本社伏見稲荷神社の神が降りた日が和銅四(七一一)年二月の初午であったことから、全国で稲荷社を祀る。和暦サイトで確認したが、寛政八年の初午は壬午みずのえうまで、確かに二月六日である(グレゴリオ暦では一七九六年三月一四日に相当)。
・「穢多」平凡社「世界大百科事典」より引用する(アラビア数字を漢数字に、句読点及び記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって十七世紀後半から十八世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。一八七一年(明治四)八月二十八日、明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが,これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ,「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては,鎌倉時代中期の文永~弘安年間(一二六四~八八)に成立したとみられる辞書「塵袋ちりぶくろ」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バことばゾ穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また,ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが,末尾の「穢多」の二字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は,鎌倉時代末期の永仁年間(一二九三~九九)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第五段の詞書ことばがきと図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では,鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取えとり」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』(著作権表示:横井清(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。
・「前田信濃守」前田長禧(まえだながとみ 明和二(一七六五)年~文化二(一八〇五)年)は、江戸時代の高家旗本(高家は幕府の儀式や典礼を司る役職で朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があることから武家としては高い官位を授けられた)。安永九(一七八〇)年に高家職に就き、従五位下侍従伊豆守、後に信濃守。
・「貮百疋」既出であるが、一般には一貫=一〇〇疋=一〇〇〇文であるから、二〇〇〇文。平均的金貨換算なら三万三千円ほどになる。因みに、現在、和太鼓の皮は牛皮を用いるが、ネット上の一頭分販売価格(張替価格ではなく太鼓の皮用の単品)で六万円を超え、張替となると、ある業者では二尺のサイズ両面張替二十八万三千五百円とある。稲荷の太鼓で、その場で渡せる大きさだから小さいものとしても、それでも一尺四寸もので十二万六千円である。

■やぶちゃん現代語訳

 初午奇談の事

 寛政八年の初午は二月六日で御座った。
 それより少し前のこと、太鼓の張替なんどを生業なりわいと致いて御座った、とある穢多の身分の者、本郷近辺を通りかかったところが、高家前田信濃守長禧ながとみ殿御屋敷前にて、かの家僕と見え候う侍出でて呼び止められ、太鼓の張替を申し付けられ、その場で破れた太鼓を渡されたが故、品物見定めた上、張替修理費用概算を見積もって御座ったところ、相手はそれで頼むとの由。侍の姓名を問うたところ、又左衛門某なる由。
 さても請け負うたかの者、頼まれた日限までに――聞くところによると、それは初午の前日で御座ったらしい――太鼓の皮、しっかと張り替えた上、かの前田殿が御屋敷へと参上致いた。
「――又左衛門と申されるお方より、誂えるよう承りました太鼓の皮張り替え、出来申して御座りまする――」
と門番に言上致いた。
……が……
……どうも……おかしい……
……仔細を訊ねた門番……御家中に又左衛門某なる用人は確かに御座る……御座るが……どうもかの者に皮張替を依頼した人物の、その年格好なんどを聴くに……その者の申すのとはえろうちごうて御座った……まずはともかくと、又左衛門某に門前へ出向いてもろうたが……かの者も、このお方とは違う、と言う……いや、そもそもが……又左衛門某も太鼓の張替なんどは、申し付けた覚え、これ、御座ない、とのこと。
 そうこうするうちに、御家中の者どもが集まって来、皆して、
「……それにしても、よう分らんことじゃ……」
「……ともかくも、屋敷内の稲荷の太鼓じゃて……」
「……そうじゃ、まずはそれ、改め見ようと存ずる……」
ということに相い成り、屋敷内の稲荷の社を探いてみたところが……ちゃんと納めて御座ったはずの太鼓、これ……
……ない……
 皆々、
「……いや、確かに長く破れ古びた太鼓にては御座った……」
「……それが、その……新しくなって戻ったとは……」
「……こりゃ、いっかな……不思議なることじゃ……」
と口々に申して御座った。
 かの者の申し受けた値段は二百疋ちょっきりで御座ったが、かの者も、
「……へえ……かくなれば……不思議なることなればこそ……」
とて、言い値を引いて、えらい安うに手を打った、とのことで御座る。
――さても狐なんどの仕業か――はたまた実は、その穢多の謀ったことか――いや、或いは前田家御家中の中の悪戯好きの家士の仕儀ででも御座ったか――一向に分らず仕舞いで御座ったそうな。



 産物者間違の事

 或人三年酒を德利に入て仕廻忘れしに、七八年其餘も立て、藏の掃除などに取出せしに、德利もわれ何か底に殘りし一塊の有しを、人々よりて何ならんと疑ひし上、右一塊を奇麗にとり分て、事を好む者淸壽館せいじゆかんへ持行しに、諸醫判斷の上、上品のミイラ也と札を付し由。彼持主微笑せしと人の語りけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせないが、強いて言えば、ある意味、誰にも大きな損害を与えぬ怪しき騙りという繋がりはあるか。最後の「微笑」が――いいね!
・「産物者」学者。博物学者。
・「三年酒」一般に落語などで聞く「三年酒」は飲んだら三年目覚めないという都市伝説の秘酒であるが、ここは今流行りの古酒、三年寝かせた日本酒である。
・「何か底に殘りし一塊」三年酒の腐敗後の酒精滓か。有意に有形の固形物であるなら、何らかの外力によって徳利が割れて酒が流出するも、まだ幾分かが底部に残っていた折りに、破損個所から侵入した小動物(比較的大型の昆虫や節足動物・トカゲのような小型爬虫類・鼠の子のようなものが考えられる)が、そこでそのまま死亡し、乾燥したものと考えられる。最初はアルコールによる一種の液浸標本のようになり、その後にゆっくりと乾燥したと考えると文字通りの「ミイラ」で面白い(ここでの「ミイラ」は後注するように、所謂、生物体のミイラではないが)。
・「淸壽館」「躋壽館」が正しい。幕府の医学専門学校。現在の台東区浅草橋清洲橋通りにあった。明和二(一七六五)年、幕府奥医師多紀元孝(元禄八(一六九五)年~明和三(一七六六)年)が漢方医教育のために神田佐久間町に建てた私塾躋寿館を元とし(没年を見て分かるように創立の翌年に多紀は亡くなっている)、寛政三(一七九一)年に、医師養成の必要性を認めた幕府が官立の幕府医学館とした。台東区教育委員会の記載によれば、敷地約七千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保十四(一八四三)年には寄宿舎を増設して全寮制となり、広く一般庶民からの入学を許可、江戸後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献したとある。――さすれば、この記事、その最初期の(官立になってからと考えた方が面白い)、その象牙の塔の誉れに、少しばっかり、ちゃちゃを入れるものとして、面白いではないか。そうした敷衍訳を試みた。
・「ミイラ」先にも記したが、これは所謂、「ミイラ」ではなく、ああした「ミイラ」を原料にして作られたと考えられていたフウロソウ目カンラン科コンミフォラ(ミルラノキ)属 Commiphora の樹木から分泌される樹脂を原料とした「没薬(もつやく)」を指している。ウィキの「没薬」によれば、没薬とは、ミルラ(あるいはミル、Myrrh)とも呼ばれ、『ミルラも中国で命名された没薬の没も苦味を意味するヘブライ語のmor、あるいはアラビア語のmurrを語源と』しており、『古くから香として焚いて使用されていた記録が残されている。 また殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた。 古代エジプトにおいて日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。 またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。 ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』とする。『聖書にも没薬の記載が多く見られ』(具体はリンク先を参照)、『東洋においては線香や抹香の調合に粉砕したものが使用されていた』とある。形状は『赤褐色の涙滴状』の固まりで、『表面に細かい粉を吹いたような状態となる』とあり、リンク先の画像を見る限りでは、本件は徳利が割れた際に外部から雑菌や異物が入って腐敗が進行、その沈殿物が後にまた時間をかけて乾燥固形化したものという風に考えた方がよさそうだ。

■やぶちゃん現代語訳

 博物学者誤認の事

 ある人、三年酒を徳利に入れて大事大事に箱に仕舞しもうたはよいが、それを、すっかり忘れて仕舞うて御座った。

 さて、七、八年も経って、蔵の大掃除なんど致いたところ、見つけて箱から取り出だいて見たところが、徳利は割れて仕舞うて酒はとうに一滴たりと残ってはおらず――ただ、その乾き切った、もと徳利の底と思しい辺りに――何やらん、得体の知れぬ――塊りが一つ――御座った。――
 家内の人々、打ち寄って、
「……何じゃろ?……」
と、皆して矯めつ眇めつするも――分らぬ。――

 さて、ここにある悪戯好きな男が御座った。
 彼、この異物を、当時の天下の躋寿館せいじゅかんへ――以上の事実を総て隠して、飽くまで出所不明の奇体なる異物という触れ込みで――持ち込んだところが、……
……居並ぶ医師ども……
……額に皺寄せて頻りに論議致いて御座ったが――
「――よく精製されたところの、所謂、ミイラと同定される。」
と決し、定式標本として恭しく箱に収められ、
――上品 木乃伊――
と記した標札を添附の上、医学館の棚に飾られることと相い成ったそうな。――

 かの三年酒の元の持ち主、これを聞いて微苦笑した――と、ある人の語った、ということで御座る。



   又

 近き頃産物者の判斷にて鐵木也とて、眞黑に至て堅き物の長さ五六寸にて四五寸廻りの物を所持せし人あり。いづれ奇品とて机上に調寶せしを、上總より抱へし下女是を見て、是は何ゆへ調寶なし給ふやと尋し故、鐵木と云物也と答へしかば、彼婢女はしため大きに笑つて、我々の國にはいくらも有品也、海中のあらめの根にて、食料にもならざる故取捨候品の由を申ける故、暫く寵愛せし鐵木、一時に寵衰へけるもおかし。

□やぶちゃん注
○前項連関:「博物学者誤認の事」その二。
・「鐵木」「鉄刀木」と呼ばれたマメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサン Senna siamea のことと思われる。東南アジア原産で、本邦では唐木の代表的な銘木として珍重された。材質硬く、耐久性があるが加工は難。柾目として使用する際には独特の美しい木目が見られる。他にも現在、幹が鉄のように固いか、若しくは密度が高く重い樹木としてテツボク(鉄木)と和名に含むものに、最も重い木材として知られるキントラノオ目科セイロンテツボク Mesua ferrea・クスノキ科ボルネオテツボク(ウリン) Eusideroxylon zwageri・マメ科タイヘイヨウテツボク(タシロマメ)Intsia bijuga が確認出来るが(これらは総て英語版ウィキの分類項目を視認したものだが、どれも種としては縁が遠いことが分かる)、これは英名の“Ironwood”の和訳名で、新しいものであるようだ。
・「あらめ」褐藻綱コンブ目コンブ科アラメ Eisenia bicyclis。種小名の bicyclis は「二輪の」で、本種の特徴である茎部の二叉とその先のハタキ状に広がる葉状体の形状からの命名である。かつては刀の小刀の柄として用いたほど、付着根とそこから伸びる茎部が極めて堅牢である。太平洋沿岸北中部(茨城県~紀伊半島)に分布し、低潮線から水深五メートル程度までを垂直分布とする。茎が二叉に分かれ、葉状体表面に強い皺が寄る。似たものに、カジメ Ecklonia cava とクロメ Ecklonia kurome があるが、カジメは太平洋沿岸中南部に分布し、水深二~十メートルまでを垂直分布とし、茎は一本で上部に十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るものの、葉の表面には皺が殆んどない点で区別出来、クロメは、カジメよりもやや南方に偏移する形で太平洋沿岸中南部及び日本海南部に分布し、垂直分布はカジメよりも浅く、二種が共存する海域では、カジメよりも浅い部分に住み分けする。茎は一本で上部にたはり十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るが、葉の表面には強い皺が寄っている。また、乾燥時にはカジメよりもより黒くなる。但し、クロメの内湾性のものは葉部が著しく広くなる等の形態変異が極めて激しく、種の検討が必要な種とされてはいる(以上の分類法等は二〇〇四年平凡社刊の田中二郎解説・中村庸夫写真の「基本284 日本の海藻」に依った)。以上は、私の電子テクスト、寺島良安の「和漢三才圖會 卷九十七 藻類 苔類」で私が注したものを省略加工して示した。よろしければそちらも参照されたい。

■やぶちゃん現代語訳

 博物学者誤認の事 その二

 最近のことにて御座る。
 学者の鑑定によって「鉄木――銘木タガヤサン――に間違いなし」とされた――漆黒・材質極めて堅牢・全長十五~十八センチメートル・周径十二~十五センチメートル――品を所持して御座ったお人があった。
 何れ、世にも稀なる奇品なりと、机上に厳かに飾り置いて大事にしておったところが、ある日のこと、家に召し使つこうておった上総より雇うて御座った下女、これを見て、
「……あのぅ……だんなさん……これは……はあ、まあ、こんなもんを……どうして、こんなに大事になさって、おられるんか、のぅ?」
と訊ねる故、田舎丸出しの無知なる婢女はしためなればと憐みの目を向けつつ、如何にも荘重に、
「――これは、の――鉄木と言うて、の――世にも稀なる、宝物ほうもつにも値するもの、な、の、じゃ――」
と言うた。
――と――
それを聞くなり、婢女、大いにわろうと、
「……だんなさん!……おいらの国ににゃ、こんなもん、いくらもあるじゃ!……海ん中のアラメの根えで、食いもんにもなんねえから、いっとう先に捨てっ、ちまうじゃ!――」
と申した。……
 ……永きに亙って重宝なりと大切にして御座った、奇品にして稀品のはずの『鉄木』が――これ、一瞬にして愛玩の情失せしとは――これ、実におかしきことじゃ。



 不義の幸ひ又不義に失ふ事

 予が元へ來れる者語りけるは、當春彼仁かのじん召仕ひし僕は桶川近所の者にて、神道のはらひなど朝夕せし故、其出所を尋しに、桶川宿最寄の神職の次男也しが、不行跡にて親元を立出、鈴を持て所々修行抔せしが、途中にて同職の者に出合しに、彼者も倶々ともども修行すべしとて一同所々徘徊せしが、或村方の同職の者方へ參りて、彼連れの一人申けるは、此邊には祈禱など賴べき人も有べきと尋ければ、右同職の者申けるは、富家の内に心當りはなけれども、是より半道計はんみちばかりあなたに酒造などいたし餘程の有德人うとくびと有りて、(不付合せも有るものにて、去年の事なるが、いづ方の者に候や女人、富家の井戸へ入りて死せしを、内々にて取出し寺へ葬りしに、當年)造りこみの酒三四本かわりて(大きなる)損失せしといふ沙汰の由語りければ、夫こそよき手段也とて、米を貮升餘飯に焚せ、黄土わうどを調へ、右飯に交へ握り飯にして彼一人申付、何卒右富家の者の井戸へ是を入置くべしと差圖して、扨彼富家に至りぬ。門に立て高間が原に神とゞまりしなど鈴打振りて、八卦占ひこのみ次第など申ければ、右酒屋の内より老人壹人出て手の内を與へ、さて占ひを賴む由にて酒の替りし事を言んとせしを押止め、我等占ひは此方よりさし候事と斷て、さて算木ぜいなどとりて暫く考へ、大きなる損をし給ふ、何れ水によりてのうれひ也、酒にてもかわりしやと言ける故、大きに驚き家内一同出て尚吉凶を尋しに、去年の頃人ならば女の井戸へ入りし事あるべし、右死骸は北の方へ葬り給ふならん、彼井戸に執心も殘りて水の色も常ならじと、まことらしく申ければ大きに驚きて頻りに信仰なしける故、右はとくと祈禱にても成し給はずばなをなを愁あらんといひし故、井戸を改見あらためみれば、げにも水の色くれなゐなれば、何分祈禱なし給へと頻に賴し故、しからば一室を明けて五色の木綿を與へ給へ迚、祈禱科なども約束して彼一室に籠り、供物抔をそなへ、右五色の木綿を四方に張て、右の内にて晝夜かわりがわりに鈴等を振りて、三日程は品々馳走などを受て、扨井戸をかへさせ水の色も復しければ、最早愁なしといゝて、金十兩の禮物と木綿五反と申請まうしうけて彼家を出、拾兩を三ツに分て跡兩人は博奕場ばくちばなどにて右金子を遣ひ、彼知れる人の小者へもすゝめけれど、我は不知由にて斷ければ、かゝる事にてまうけし金子遣ひ捨てよと勸けれど、いかに無益なりと隨はざれば、彼兩人も心よからざる樣子故立別れて、右金子三兩を懷中し所々修行して廻りけるが、ある山家に至りて日も暮かゝりけるに、泊るべき家居なかりしに、燈の影かすかに見へしに立寄て宿を乞しに、家内に人も見へず、一人年若なる女有りしが、日暮れ難儀し給はゞ止り給へといゝしまゝ、かたじけなき由にて一宿せしに、翌の日も雨ふりて止り給へと申けれど、女の壹人ある所なればいかゞあるべしと言ひしに、一人老男來りて、何かくるしかるべきと言し故、其心に任せ、雨晴ぬれば近邊を修行し、貰受もらひうけし米を携へ歸りしに、彼女右米などを仕廻しまひ錢など取仕廻とりしまひ、其外の仕向しむけ女房同前の取扱ひ故、思わず一兩日止宿せしが、或朝村方の者と覺しく拾四五人も彼家を取卷き、最初の老人來りて、御身若き女の一人住の所に三四日止宿ある上は、此所の聟に成て住居を極めよと動けれど、我は古郷に家督もありてつひには歸るべき身の上なれば、此所に止りがたき由言けれど、然らば女の獨り住の所に止るべきいはれなしと、怒責いかりせめけれど承知せざりければ、しからば打よ叩けよと大勢寄りて散々に打擲ちやうちやくし、にげんとするを取り押へ衣類をはぎ、懷中の金子をも奪ひ取、漸袷やうやうあはせ一ツにて追放されし故、ほうぼうの體にて迯のび、とある所に立よりてしかじかの事と語りければ、其宿り給ひし女の家は癩病にて、不殘のこらず死絶へて彼女壹人殘りし故聟をとらんと思へど、近郷近村にては彼筋かのすぢを嫌ひて誰も取組とりくむ者なければ、御身を引留ん爲にかくなしたるならんと語りし故大きに驚き、夫より江戸へ出て奉公をかせぎとせしと語りし由。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。但し、十七話前の「鯛屋源介危難の事」の構成類型譚で、あちらの穢多に対する誤った身分差別の意識が、ここではハンセン病の誤解と偏見に満ちた病者差別となっているもので、今の我々の感覚からすると如何にも不快な設定ではある。差別批判の視点を忘れずにお読みになられたい。なお、この主人公や同業者の職業については、「鹿島の事触れ」が最も近いように私には思われる。これは、古く毎春に鹿島神宮の神官が鹿島明神の御神託を触れて回ったことに由来する商売で、ニセ神官が吉凶・天変地異などの偽神託を触れ歩き、偽物のお札やまじない・祈禱などを生業とした者たちである。――最後に。――私は現代語訳で、女と過ごした「一兩日」を思い出すに、本話の主人公である話者の男に『何やらん、幸せで、御座いました』と勝手に言わせた。――この話の後半部は脱出に成功した/してしまった「砂の女」の主人公の話としても読める。――いや、そんなことはどうでもいい……私は……この話の最後に……彼は実は……かの村の女を哀れと感じている……と読みたいのである。……いや、私は……今の彼の毎日の朝夕の「祓」さえも……実は……あの三日の間だけ、夫婦めおとのように美しく純潔に触れ合った女の……「幸い」と「後生」のために……そのためだけに……秘かに行っている「祈り」ではなかったろうかと……私は……そう思っているのである……私は……そう思いたい人間なのである……。
・「(不付合せも有るものにて、去年の事なるが、いづ方の者に候や女人、富家の井戸へ入りて死せしを、内々にて取出し寺へ葬りしに、當年)」及び「(大きなる)」の括弧の右には、『(三村本)』と傍注する。これは旧三村竹清氏本(現在の日本芸林叢書本)によって補ったことを示す。「不付合せ」は「不仕合せ」の誤りで「ふしあはせ」=「不幸せ」であろう。私は、かの酒蔵の主人は、何かと面倒であるから、この女性変死事件を公にせず、「内々にて」――狂乱して入水した変死人としてではなく、恐らくは普通の路傍の行路死病人扱いとして――秘密裏に自家の檀那寺の無縁仏として葬ったものと推定する。そして、後の詐欺部分から推して、それをこの村の同業者は、極秘に情報を得ていたと考えるのである。そうでないと後の詐欺がそんなにうまく行くはずはないからである。そこで現代語訳では、私の推測する背景プロットを出してある。翻案ぽくなったが、この方が無理なくお楽しみ戴けるものと確信するものである。――それにしても――この前半の狂い入『水』した女は、実は後半の薄幸の癩病――生きながら業『火』に焼かれるとされた――筋の女と、奇しくも妖艶にしてシンボリックな額縁をなしているように感ぜられるのは、私の深読みであろうか?
・「桶川」現在の埼玉県桶川市。中山道桶川宿。
・「黄土の砥の粉」粘土(黄土)を焼いて粉にしたもの。刀剣の磨き粉・木材塗装・漆喰下地・目止め・漆器の漆下地等に用いた。ただ、これでは井戸の水は「紅」にはならないから、本来は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の当該箇所にあるように『べんがら・黄土を調へ』で、「紅殻」(第二酸化鉄を主成分とした赤色染料)が脱落したものと思われる。黄土を加えたのは、井戸水を如何にも毒々しく、濁った赤に染めるためであろう。「紅殻」を補って訳した。
・「何卒右富家」底本「右」は「石」。訂した。
・「手の内」乞食や托鉢僧・大道芸人などに施す金銭や米。
・「とく」は底本のルビ。
・「げに」は底本のルビ。
・「設けし金子」底本では「設」の右に『(儲)』と傍注する。
・「癩病」「癩」は現在はハンセン病と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属 Mycobacterium に属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。ハンセン病への正しい理解を以って以下の話柄を批判的に読まれることを望む。寺島良安の「和漢三才図会卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の項ではこの病について『此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり。』と書いている。これは「この病気は、四季の廻りの中で、秋に草木が急速に枯死する(=「粛殺」という)のと同じ原理で、何らかの天地自然の摂理たるものに深く抵触してしまい、その衰退の凡ての「気」を受けて、生きながらにしてその急激な身体の衰退枯死現象を受けることによって発病した『悪しき病』である。」という意味である。ハンセン病が西洋に於いても天刑病と呼ばれ、生きながらに地獄の業火に焼かれるといった無理解とした同一の地平である。因みに、マムシはこの病気の特効薬だと説くのであるが、さても対するところこの「蝮蛇というのは、太陽の火気だけを受けて成った牙、そこから生じた『粛殺』するところの毒、どちらも万物の天地の摂理たる陰陽の現象の、偏った双方の邪まな激しい毒『気』を受けて生じた『惡しき生物』である。」――毒を以て毒を制す、の論理なのである――これ自体、如何にも貧弱で底の浅い類感的でステロタイプな発想で、私には実は不愉快な記載でさえある。――いや――実はしかし、こうした似非「論理」似非「科学」は今現在にさえ、私は潜み、いや逆に、蔓延ってさえいる、とも思うのである……。

■やぶちゃん現代語訳

 不義なる幸いで得たものを再び不義によって失のう事

 私の元へよく訪ねてくる者の語ったことで御座る。
 今年の春のこと、彼の人が召し使って御座った下僕は――桶川辺りの出の者にて――朝夕、神道のお祓いなんどを、如何にもつきづきしゅう、欠かさず成して御座った故、その出自を問うたところ、桶川宿にある神社の神官の次男坊であったが、不行跡にて親元を追い出され、鈴を持っては、諸国を修行なんど致いて御座ったとのこと。……その放浪の折りのことである……

 ……そんな当てどない旅の途中、同じような身過ぎの者と道連れになり、
「いっそ一緒に修行せんがよかろうぞ。」
と、意気投合致しまして、連れ立って各所を徘徊致いておりました。……
 と、とある村にて、またおんなじ身過ぎの者のねぐらを訪ねた折り、その組んだ相方が、
「……この辺りにゃ、祈禱なんど、頼むような奇特なお人ももはや、御座らぬかのぅ?……」
と話を向けると、その村の騙り神官の申すことにには、
「……とんと金蔓になりそうな富裕の手合いにゃ、心当たりはなけれども……そうさの、この村から半里ほど参ったところじゃが……酒造りなんど致いて、随分と、裕福な御仁が御座るぞ。……そういやぁ、気の毒なことに、よ――去年のことじゃが――どこぞの馬の骨とも分らん女が一人……気の狂うてか、その豪家の井戸へ飛び込んで死んだを……面倒なことなれば、たれにも知られんようにと……こっそり井戸から引き上げて、豪家のすぐ北にある檀那寺の方へ葬って済ましたことがあったそうじゃ――我らが懇意にして御座るところの、その寺僧本人からこっそり聴いたによってな、こりゃ、間違いないわ――ところが、よ……その年のこと……これまた、聴いた話によればじゃ……豪家で仕込んでおいた大酒樽の三つ四つ、何故か知らん、すっかり腐って御座って、の……そりゃもう、ひどい損を致いたという、専らの噂じゃて……」
と、それを聴いた、かの相方、
――パーン!――
と膝を打って、
「それこそ――渡りに舟――というもんじゃい!」
と叫ぶや――かの屋の男に米の二、三升も飯に炊かせ、紅殻べんがらと粘土の砥の子を用意の上、それを混ぜ入れて堅めの握り飯をたんと作り、かの同職の男に声を顰めて、
「……どうか一つ、こいつらをな……その豪家の井戸へ……ぽぽぽい、ぽいっと……投げ入れて来て呉れんか、の……」
と指図致いておりました。……
 さて、その翌日のこと、私とその相方、そうしてその村の同業のニセ神官と三人同道の上、かの酒造り屋形のかどへと立っては、鈴高らかに振り鳴らいて、
「――高天原にィ!――神、しましィ!――」
「――八卦ェ!――占いィ!――」
「――お好み次第ィ!――」
なんどと、何時もの調子で呼ばはれば、かの屋形の内より老人が一人出でて参りまして、我らに施し致いた上、
「……さても……一つ……うらのうて呉れぬかの……実は……その、去年こぞの……」
と話しかけた途端、相方、
――ザッ!――
と老人が表の正面に右掌を差し出だし――老人が原因不明の酒の腐ったことを語り出さんとするを――食ってとどめ、
「――我ら占いは――そのうらのうべき事から――先ず占うて存ずる――」
と老人を黙らせる。
……と、さても、やおら算木・筮竹を取り出だし、
――タ! ターン!――
――ジャラジャラ! ジャラン!――
……と、これまた、まことしやかにあれこれ並べ替えては、数えなど致いて……暫く考えておる――振りを致いて――おる。
 そうして、徐ろに、
「……さて貴殿は『去年こぞ』――大いなる『損』――をなされたな――そは――何か――『水』――に関わる愁いなると見た――水――酒――貴殿の造れる酒に何ぞ変わりが御座ったのではあるまいか?……」
と美事な演技で言い放てば、老人、慌てふためいて、屋敷うちに走り込んだかと思うと、屋形の者ども一人残らず引き連れて参り、
「……ど、どうか! な、なっ、なおも、吉凶、占うて、下されぃイ!……」
と喉から声を絞り出して懇請する……
……相方はといえば……相変らず落ち着き払って、今度はさらに厳粛に、
「……『去年』の頃――『人』?――人ならば――恐らく――『女』――か――女が――『井戸へ落ちる』のが――見える……その女の『死骸』も見える……『北』――ここから北の方へ――その遺体はそこに貴殿が手厚うに葬られた――はずで御座った……が……待て!?……未だ……未だその井戸に……かの女の執心――これ、残って――見えるぞ!――見える!――『水』の――『水の色』が常ならぬ!……それじゃ! その井戸の水の変じるが如、酒も女の執念によって変じた! 腐ったのじゃッ!……」
とまたしてもまことしやかに申せば、一同、いよいよ驚愕、叫喚、一人残らず地に這って、我等ら三人を礼拝致いておりました故、すかさず相方が、
「……これは先ずは……とくと祈禱にてもお上げになられずんば……なおなお……禍根……これ、残しましょうぞ!……」
と申す故、誰ぞが――それは、今考えれば、かの村の同業者でも御座ったか――
「先ずは、井戸の方を改め見ん!」
と呼ばわるに、行って汲み上げて見れば……水の色……これ、まっこと……血の如く……赤こう……染まっておりました。……
……なればこそ、老爺は、
「……な、な、何分! どど、ど、どうか!……ね、ねっ、懇ろなる御祈禱、こ、これ、成したまえッ!!」
と頻りに願うので御座います。すると、やおら相方は、
「……然らば……お屋形うちに一間をお空け下され、また――結界に致すための五色の木綿を我らにお与え下されよ。……」
と、ちゃっかり概算の全祈祷料なんども示して契約致しますと――さてもその宛がわれた大広間に三人して――籠りました――
――供物なんどもふんだんに供えさせ、三人してふんだんに食い――
――高価な五色の木綿を四方に張って、外からは見えぬように致し――
――昼夜、三人、代わる代わる鈴を振って、残りの二人は――喰う――寝る――遊ぶ――
――それとはまた別に、この三日の間は正式の饗応も御座いました故――
――山海珍味の品々馳走――
加えて御酒ごしゅも飲み放題……
という仕儀にて……井戸の水も即日に汲み替えを命じておきましたによって……そう、三日目の朝には、すっかり元のきれいな水に戻っておりました。……
 四日目の朝、我らは、
「――これにて最早――愁い、御座らぬ――」
とかなんとか、殊勝に申しまして――
――祈祷料金十両の御礼――
――加えて褒美の、三人それぞれ木綿五反ずつ――
を申し請けて、まんまと、かの家を悠々、退去致いたので御座います。……

 十両は三つに山分け致しました。
 その後すぐ、他の二人は、その金子を博打場なんぞですっかり使い果たしてしまい、また私にも
「我らと同なじように――遣っちめえな。」
と、しきりに勧めましたが、私は勝負事は不調法なれば、断わりました。
「――ままよ――こうして得た銭は悪銭の泡く銭じゃて――きれいさっぱり使い果たすが、身のため、だ、ゼ――」
としつこく勧めるのですが、
「……いや……それじゃ、せっかくの金子……余りに、無益なこととなる。……」
といっかな従わずにおりましたところが……何やらん、二人はいたく気分を害した様子にて……いえ、はっきり申せば、かの二人……私の金子をねろうておるような気も致して参りましたによって……そこで、彼らとは、分かれたましたので御座います。……

 さて、私めはその三両を懐中に致いたままに、また気儘なる諸国行脚の旅に出でました。
 それから、そう日も経たぬ、ある日のことで御座いました。
 とある村里に辿り着いたところが、日も暮れかけておりましたに、泊まれそうな家もござらず、暗くなった中、燈火ともしびの幽かなに見えたに立ち寄り、一夜ひとよの宿を乞うたところ、家内には一人、年若き女があるばかりにて、他に人気はまるで御座いませなんだ。――
「――日暮れて難儀なさっておられるのであらば――よろしければ――お泊り下さりませ――」
と申しますによって、言葉のまま、
かたじけない。」
と申して、一泊致しました。――
 翌の日も雨が降っており、女は、
「――お留まりなさいませ――」
と申しましたが、流石に、
「……女子の一人住まいなれば……如何なものかと……思うて御座れば……」
と言い澱んでおりましたところへ、女の知り合いと思しい一人の老人が訪ねて参り、
「――何んの。何の不都合が御座ろうか。留まられるがよかろうぞ――」
と、やさしゅうにこれも勧め下さる故、その親切に甘えまして……その翌日は流石に雨の上がって晴れましたが、かの村里を中心にその近辺を渡り歩いて、貰い請けた米や銭を携えて女の家へと帰ってみると――
――かの女はその米をありがたくおし戴き――
――銭も神仏に祈願致いて仕舞い置き――
――米をかいがいしく炊き――
――ともに食い――
――ともに語り――
――ともに笑うて……
……そんな……そんな私に向ける……
――その眼――
――その仕草――
――その表情……
……これ……もう……女房も同然にて……私もあたかも……夫のように……
……何やらん、幸せで、御座いました……
……思わず、丸三日も止宿致いて御座ったのです。……

 ところが、その翌朝のことでした。
 村方の者と思しい、十四、五人の者が、
――ザザッ!――
とこの家を取り巻き、最初に訪ねて御座った老人が私の前に進み出でて、
「……お主……若き女の一人住まいのところに……三、四日止宿致いた上は……ここの――婿――となって棲み家と定めよ!――」
と打って変わった強面こわもてにて断言致すでは御座いませんか。
「……い、いえ……そ。そ、その……わ、我らには、こ、故郷に……つ、つ、継ぐべき家も、ご、御座ればこそ……い、何時かは帰らねば、なりませぬ、み、身の上にて……こ、ここには、と、とてものこと……と、留まること、で、出来にくう、ご、こ、御座いますれば、こ、こそぉ……」
と申しましたそばから、
「――何じゃとぅ!? 然らば――いたいけな女子おなごの一人住まいに――留まってよい謂われなんぞ――ないわッツ!!」
と、突如、老人は怒って、口汚く罵り、さんざんに責め立てましたが、私は遂に、承知致しませなんだ。……
「ようし! 分かった! 然らば! 皆の者! この男! っ殺せ! 叩っ殺セい!!」
と、知らぬ間に膨れ上がって御座った村人らが、大勢で私をとり囲んで、散々に、
――殴る
――蹴る
――
――叩く
――逃げんとするところを取り押さえられて……
――身ぐるみ剝がれ……
――懐中の金子も……ビタ一文残さず奪い取られてしまいました。……
……そうして……そうして、お恥ずかしい……お目こぼしのあわせ一つで……豚の死骸の如、放り出されてしまいましたので御座います……。

 ……それでも……その村里を……這々ほうほうていにて逃げのびまして……その近在の別の村の、とある屋にお世話になることとなり、お助け頂きまして御座います……。
 ……半死半生の状態から、やっと生気を取り戻いて、かのお助け頂いた方に、これまでの事を、かくかくしかじか、お話申し上げましたところ……
「……お前さん……お前さんが泊まったという、その家は……この辺でも知られた、癩病筋の、家じゃ……癩がために残らず死に絶え……かの娘一人が、生き残っておる家じゃによって……村の者どもも、かの娘を哀れに思うて……婿を取ってやろうといろいろ致いたのじゃが……この近郷近村にては……かの筋は最も忌みきらわれるもので、の……かの家のことも……もうすっかり知れ渡って御座ったれば……たれも、その話には、取り合わなんだ。……されば、他所者よそもんのお前さんを――渡りに舟――と、引き留めんがため……かくも企略を致いたもので、あろうのぅ……」
と……語って下さいました。……

……ええ……私も、ひどく驚きまして……それよりすぐ……逃げるように江戸へ出で……かく、奉公させて戴いておりまする次第にて……御座いまする……

★補遺――教え子からの本作及び本翻案訳への感想――
[やぶちゃん注:以下は、二〇一二年六月十九日夜七時四十二分の本作のブログ公開(ほぼ同時にフェイスブックのウォールへも投稿)の凡そ四時間後、その日の終わる十九日深夜十一時三十五分に「感想」という題名で私にメールでもたらされた、私の最初期の教え子にして秘蔵っ子であるT.S.君の文章の全文である。私にはあまりに過褒であるが、彼の文章は私の拙訳への批評という性質を遙かに超えて、彼自身のオリジナルな達意の文として美しい。私は私だけがこの美しいものを読むのが勿体ないと思うている――さればこそ、ここに勝手に公開させて貰うことにした。]
   ――――――
 先生、感想を申し上げます。フェイスブックでなく、Eメールでのご返事、お許しください。
先生は、主人公の男が村の女を哀れと感じている、と読んでおられます。私も全く同じです。それ以外にはあり得ないと感じます。どうしても忘れることのできないその三日間の記憶。儚く哀しい夢のような面影。その男はなぜ地道に奉公しながら、けなげにも朝夕の勤めを怠らないのか。それは、心を去ることのないあの女の姿が、彼を駆り立てるからに他ならないから。その上でまたこうも感じます。捨て切れぬ現実があったからこそ逃げて来ましたが、もし袋叩きに遭ったあの時、男が決心できていたなら、その家に残り、夢のような三日間を、そのまま生身の人間が享受する現実として固定させてしまうというのも選択肢にあったはず。しかしそうすることはできなかった。なぜなら、それほどまでの自らの “投企”というのは、人間は滅多なことでできるものではないから。今、彼は自分が行った選択を悔やんではいないけれど、そして正しかったと信じているけれど、もしそういう決心をしていたら……という夢想をせずにはいられない。そして、いや自分の心にそんな隙があるからこそ、女の姿は今でも、まじめな彼の行動や生き方を縛り続けるのでしょう。少なくとも昔語りをする時点では、男は彼女を、もうほとんど生身の現実の肉を持った存在として捉えていないかもしれない。ひとつの懐かしいもの、極言すれば、永遠の女性とでもいうような、ある母なるものに昇華してしまっていたかもしれないと感じます。
 先生は、冒頭数行で、早くも文章を主人公の男の独白として翻案されています。これは素敵です。文楽をご覧になった頃から、先生の文体は大きく変わりましたね。主人公の男には、やはり先生の書かれたように、是非とも伝統的な「語り」の日本語の力で、自分の人生を縛り付ける、苦しい、しかしかけがえのない甘美な過去を、物語ってもらわなくてはなりません。先生の翻案を読んでいると、私は文楽の様々な頭が瞼に浮かびます。また同時に、この話を能にしたらどんなだろうとも考えます。若い女にはどの面がふさわしいだろう……。そしてまた、こんなことも思います。あの先生の遺書のような語り口で、彼に過去を独白してもらったらどんなだろう。この怪しい発想には、自分でもちょっと背筋が寒くなりました。
 主人公の男に、私は自分自身の姿が二重映しになります。井戸に落ちて死んだ女と、村の女も二重映しになります。死んだ女の記憶は無意識の水底に沈み、その水面に村の女の面影がはかなく揺らいでいます。
   ――――――



 魔魅不思議の事

 或る人の語りけるは、小日向に小身の御旗本の二男、いづちへ行けん其行形をしれず。其祖母深く歎きて所々心懸けしに終に音信おとづれなかりしが、或時彼祖母本郷兼康かねやすの前にて、風與ふと彼二男に逢ひける故、いづかたへ行しやと或ひは歎き或は怒りて尋ければ、されば御歎きをかけ候も恐入候得共おそれいりさふらへどもいま程は我等事も難儀成事もなく世を送り候へば、案じ給ふべからず、宿へも歸り御目にかゝり度候へ共、左ありては身の爲人の爲にもならざる間其事なく過ぎ侍る、最早御別れ可申といふを、祖母は袖を引留めて暫しと申ければ、左思ひ給はゞ來る幾日に淺草觀音境内の念佛堂へ來り給へ、あれにて御目に懸るべしといひし故、立別れ歸りかくかくと語りけれど、(老にやれ給ふなりとて家内の者もとり合ざれど、其日になれば是非淺草へ可參まゐるべしとて、僕壹人召連れて觀音境内の念佛堂へ至りければ、果して彼次男來りてかれ是の咄をなし、最早尋給ふまじ、我等もいまは聊難儀なる事もなしと語り、右連れにもありける歟、老僧抔一兩輩念佛堂に見へしが、其後人だまりに立ちかくれ見失ひける由。召連れし小ものも、彼樣子を見しは祖母の物語と同じ事なる由。天狗といへるものゝ所爲にやと、祀母の老耄の沙汰は止みしとなり。)

□やぶちゃん注
○前項連関:私にはある強烈な連関を感じさせる。それは……かの癩病筋の家に生き残った女人と別れて俗世へ帰還した男の眼差しと、この失踪してたまさか姿を現わした次男の眼の輝きの中に――不思議に共通したあるペーソス(哀感)を感じるからである。……
・「魔魅」人をたぶらかす魔物。但し、ここでは異界の意の「魔界」と訳した。本話のような天狗による失踪譚や異界訪問譚は枚挙に暇がない。その中でも、天狗の導きによって神仙界を訪れ、そこで呪術修行をして帰って来たという天狗小僧寅吉を保護、その聞き書きを公刊した平田篤胤の「仙境異聞」(文政五(一八二二)年刊)は名高い。天狗小僧寅吉の幽冥界からの帰還は文政三(一八二〇)年の秋の末のこととされる。寅吉は七歳の時に天狗に攫われたとし、あちらの世界にいたのは七~九年とするものが多いので、最長で計算すると寅吉の天狗神隠し事件の発生は文化二(一八〇五)年まで遡れる。本執筆を寛政九(一七九七)年、同年中の事件と仮定すると、その間僅かに九年後……寅吉は異界で――この次男坊の指導を受けたのやも――知れぬな……
・「本郷兼康」現在の文京区本郷三丁目南側の東の角にあった雑貨店。現在は少し位置を動かしたが「かねやす」として現存する。以下、ウィキの「かねやす」より引用する。『「かねやす」を興したのは初代・兼康祐悦かねやすゆうえつで、京都で口中医をしていた。口中医というのは現代でいう歯医者である。徳川家康が江戸入府した際に従って、江戸に移住し、口中医をしていた』。『元禄年間に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業する。「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟にのれん分けをし、芝にもう一つの「兼康」を開店した。同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となる。これを裁いたのは大岡忠相であった。大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下した。本郷の店がひらがななのはそのためである。その後、芝の店は廃業した』。享保十五(一七三〇)年の大火の後、『復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があったあたりから南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた』(但し、後の文政元(一八一八)年に行われた江戸範囲を示す朱引の定めでは「かねやす」よりも遙か北側に引かれている)。『東京(江戸)という都市部において度重なる大火や地震、戦災を経ても同一店舗が』四〇〇年もの永きに亙って存在しているのは珍しいケースである、とも記されている。――ここはそういう意味でも、普通でないパワーを持つ「魔界」なのではないか? いや、そもそもここが江戸の境界であったとすれば、それは異界との境界でもあったのだ。祖母が失踪した、天狗の仲間となった、異界の者となった次男と遭遇するに、この場所は正しく民俗学的な異界への通路として相応しいということがここに判明すると言えるのではあるまいか?
・「其事なく過ぎ侍る」底本「其事なく過き侍る」。訂した。
・「(老にや……老耄の沙汰は止みしとなり。)」部分は底本に三村本からの補綴を示す右注記あり。
・「れ」自動詞ラ行下二段活用「る」。年をとってボケる、耄碌するの意。

■やぶちゃん現代語訳

 魔界の不思議の事

 ある人の語った話で御座る。
 小日向に住む小身の御旗本の次男、一体、どこへどうしたものやら、行方知れずとなった。
 その祖母、深く嘆いて、いつも方々に心懸けて捜し廻って御座ったれど、遂に何の音沙汰も御座らなんだ。
 ところが――
ある日のこと、その祖母自身が本郷兼康の前にて……
――ぱったり――
出逢うた! かの次男に!
「……!……いったい!……どこへおいでたえ?……」
と、あるいは嘆き、あるいは𠮟り、さらに尋ねたところ、
「……されば、皆様には多大なる御心配をお掛け致しおること、これ、まっこと、恐れ入って御座いまする。……なれど、今にては、我らも難儀なることものう、身過ぎ致いて御座いますればこそ。……どうか、ご案じめさるな。……実家へも立ち帰り、皆様にもお目にかかりたく思うはやまやまなれど……かく致いては……我が身のためにも、あらゆる人々のためにも……これ、よからざることにてあれば……結果、今まで打ち過ぎて参りました。……かくして……御祖母様おばばさま……これにて……最早、お別れ……申し上げまする……」
と立ち去らんとするを、祖母、
「お待ち!」
と、孫の袖取って引き留めた。
 細きたおやかなそのてえ……流石に孫には……振りはろえまい……
「……御祖母様おばばさま……かくも拙者がこと、心懸けて下すったなれば……来たる〇月×日に……浅草観音境内の念仏堂へ……お参り下されい。……そこにて……今一度だけ……お目にかかりましょうぞ……」
と言うて、雑踏の中に――姿を――消した……。
 家へ立ち戻るや、かの祖母、かくかくと今日の出来事を話いたものの、
「……御祖母様おばばさま、遂に……耄碌なされたのぅ……」
と、家内には、たれ一人としてとりう者とて、ない。
 なれど、約束のその日になったれば、
「孫は確かに言うたによって、必ず浅草へ参ります!」
と聞かず、従僕一人をめし連れて観音境内の念仏堂へと参詣致いたところ……
――果たして――約束通り――かの次男がやって参った……
「……御祖母様おばばさま……どうか最早……我らがこと……二度と、お探しなされるな……我らも今となっては、まっこと、聊かの難儀なること、これ、御座いませぬによって……」
と優しゅう語って聞かせた。……
……その連れにてもあったものか、奇体なる老僧なんどのそれとなく付き添うておるようなる者が一人、念仏堂の近くにて、うろついて御座った……
……が……ふと気付けば……かの孫は……かの老僧と人ごみの中へと紛れ……そのまま……見失みうしのうてしまったとのことじゃった。……
 召し連れておった小者も、祖母とかの次男との最後の邂逅の様は一から十まで見申し上げ、かの祖母様おばばさまの話の通り、とちこうて御座った。
 聞く者、皆、
「……かの失踪……これ、天狗、というものの、仕業にても、あろうか?……」
と噂致いた。
 祖母耄碌という風評は、これにて家中にては絶えた、とのことで御座る。



 怪刀の事

 松平右京亮寺社奉行にて被咄はなされけるは、同人家に三代も箱に入て土藏の棟木むなぎに上げ置刀あり。みぎ右京亮先代の足輕、毎夜うなされ甚苦しみける故、仔細もありやと色々療治などせしが、不斷はさしたる事なし。不思議なる事とて枕元の刀を外へ遣し臥せしかば、いさゝかその愁なかりし故、まつたく刀の所爲なるべしと、右刀を枕元に置て臥せば又前の如くうなさるゝ故、其語を申立主人へ差出しけるを、右のとほり藏の棟木へ上げ置由申傳へ、いか成ものにや改見んと思へども、事を好むに似たりとて家賴も押へ留る故、其通打過ぬと語りける也。(其後代替り有て改見しに、大原ノ安綱大同二年トアリ、彼家士海老原文八と語り)

□やぶちゃん注
○前項連関:天狗の魔界から妖しき魔刀へ。
・「松平右京亮」松平輝和(まつだいらてるやす 寛延三(一七五〇)年~寛政十二(一八〇〇)年)。上野国高崎藩第四代藩主。寺社奉行、大坂城代。松平輝高次男。天明元(一七八一)年、家督を継ぎ、奏者番から天明四(一七八四)年から寺社奉行を兼任。寛政十(一七九八)年、大坂城代となっている。
・「先代」文字通りの先代なら第三代藩主松平輝高であるが、これは自然に読むなら三代前で初代藩主松平輝規(まつだいらてるのり 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のことであろう。
・「家賴」底本には右に『(家來)』の傍注を附す。
・「(其後代替り有て改見しに、大原ノ安綱大同二年トアリ、彼家士海老原文八と語り)」底本には右に『(尊本)』と、尊経閣本による補綴を意味する傍注がある。因みに、唯一の全十巻完備本である岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には、この( )部分は存在しない。更に底本では最後の『語り』の右に『(ママ)』注記がある。これは内容と記載から見て、遙か後日になっての記載であり、根岸本人による書き込みでない可能性も高いものと思われる。
・「代替り」を次代とするなら第三代藩主松平輝高三男(輝和の弟)で老中ともなった高崎藩第三代藩主松平輝延(安永四(一七七六)年~文政八(一八二五)年)ということになるが、根岸以外の者による記載ならば、その後の代かも知れない。私は根岸以外の者の記載と採って訳した。
・「大原ノ安綱」(生没年未詳)は平安中期の伯耆国大原の刀工。大原安綱とも称した。以下、参照にしたウィキの「安綱」に、『安綱は伯州刀工の始祖といわれる。山城国の三条宗近などとともに、在銘現存作のある刀工としては最初期の人物の一人である。伯耆国の刀工である大原真守さねもりは安綱の子とされている』。『作刀年代は、日本の刀が直刀から反りのある日本刀(湾刀)に移行する平安時代中期と推定されている』。『太刀姿は平安時代特有の細身で腰反りが強く、切先に近づくにつれて身幅と反りが小さくなるもので、備前国の古備前派の作刀に似る。地鉄はやや黒ずみ、小板目肌を主体にして流れ肌や大肌が混じり、地刃の働きが顕著なものである。安綱には数代あるものと思われ、代が下がるほどに豪壮な作風となっているとされる』とあって、以下に作品が並ぶが、津山藩(津山松平家)伝来の名物「童子切」(国宝)に始まり、徳川家康佩刀(紀州徳川家重宝)・新田義貞佩刀(号「鬼切」最上家伝来)と錚々たる名品揃いである。
・「大同二年」西暦八〇七年。事実なら、作中内時間なら寛政九(一七九七)年まで九九〇年で、検分された時には一〇〇〇年が有に経過している。松平家伝来とするならまだしも、こりゃ足軽の持った打ち物としては、如何にも嘘くさい。
・「海老原文八」不詳。

■やぶちゃん現代語訳

 怪刀の事

 寺社奉行であられる松平右京亮輝和てるやす殿のお話しになられたこと。
 同人御屋敷に三代前より箱に入れて土蔵の棟木の上に載せ上げ置いて御座る刀があると……。

 右京亮輝和殿の先代初代藩主輝規殿が親しく使つこうて御座った足軽、毎夜毎夜、寝入ったる途端にうなされ、尋常ならざる苦しみよう故、これは何ぞ重き病いの前兆ならんかと、殿よりの命によりて、いろいろ療治なんどさせたもうたが――実は、不思議なは――かの足軽、日常、目の覚めておる間は、これ、全く、そうした病いの疑いの片鱗とて御座らぬことであった。――
 本人も――そもそもが就寝後のことにて、端の者どもも詐病でなきことは請け負うて御座ったれば――まっこと不思議なことと、ある時、かの足軽、常時帯刀して御座った刀――普段、就寝の折りには枕元に置いて御座ったもの――を、たまたま枕元ではのうて、外へ片づけて横になった――と――周囲の同輩の足軽どもが――気づいた。――
――かの男、全く以って――
――魘されておらぬのである……。
 翌日、同輩の一人が本人に告げた。
「……これ、全く以って、かの刀の所為せいに違いないぞ!……」
 そこで、試みに、次の晩はかの刀を枕元に置いて寝る――夜伽して御座った同輩の前で――またぞろ、かの男は前の如くに魘され始めた。……
 以上の訳を皆して上方へ申し上げ、主人輝規殿へご報告申し上げた。
 その後、輝規殿――代わりの刀と引き換えに、かの刀を足軽より召し上げられた上――かの妖刀を――土蔵の棟木の上へ載せ置かれ――そのままずっと据え置かるるようになった、申し伝えられて御座るそうな。

 右京亮殿談――
……一体、如何なる刀かと、拙者も検分致さんとせしが、
「敢えてただならぬ変事の起こるを殊更に好むに似たり。」
と家来どもも、平にと押し止めるが故、そのまま、打ち過ぎて未だに、かの打物の影も見たことは御座らぬ。……

[後日、本書を書写せる者の附記]
後日談として、その後、高崎藩主代替わりがあって、当時の藩主が土蔵の棟木より降ろさせて検分したところ、『「大原ノ安綱大同二年」の銘があった』と、私の知人である、かの高崎藩藩士海老原文八なる者が語った、ということを参考資料として、ここに記しておきたい。



   又

 小田切土佐守は其先そのせん甲州出の事なれば、武田晴信より先祖へ與へし長刀、今に所持して玄關の鎗懸にかざり置し由。折節玄關につむる時あとなどにし臥せば、かならず枕返しする事度々の由。營中にて物語りしを記し置ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:妖しき刀剣二連発。
・「小田切土佐守」小田切直年(寛保三(一七四三)年~文化八(一八一一)年)。旗本。参照したウィキの「小田切直年」に、『田切家はもともと甲斐武田氏に仕えており、武田氏滅亡後徳川家康の家臣となって近侍したという経緯を持つ。直年の頃には』凡そ三千石の知行地を拝領していた、とある。明和二(一七六五)年、二十三歳で西ノ丸書院番となり、その後使番・小普請、駿府町奉行・大坂町奉行と遠国奉行を歴任した後、寛政四(一七九二)年に五十歳で江戸北町奉行に就任、文化八(一八一一)年に在職のまま六十九歳で没するまで十八年間奉行の任務に当たった。歴代奉行中、四番目に長い永年勤続歴で、幕府が小田切に対して篤い信頼をおいていたことの証左で、奉行としても後の模範となる多数の優れた裁きを判例として残している。駿府町奉行在任中には男同士の心中事件を裁いたり、盗賊として有名な鬼坊主清吉を裁いたのも彼である。根岸は寛政一〇(一七九八)年に勘定奉行から南町奉行へ昇進しており、その後も、十三年に亙って小田切と町奉行を勤めた(根岸の勘定奉行は公事方であったと思われるから、実際には寛政四年起算で、小田切との付き合いは十九年に及ぶと考えてよいだろう)。ウィキによれば、両人の奉行在任中の面白い(不謹慎を失礼)裁きが載っている。インクブス的少女による奉公人青年への性行為強要の結果による、今なら業務上過失致死相当と思われる事件である。主家の十歳(満九歳?)の娘かよが、十九歳(満十八歳?)の『奉公人喜八に姦通を強要し、喜八がついに折れて渋々承諾し、行為中に突如かよが意識を失いそのまま死亡するという事件が起こり、小田切は根岸鎮衛と共にこれを裁断した。根岸と寺社奉行は引き回しの上獄門を、二人の勘定奉行は死罪を主張したが、小田切は前例や状況を入念に吟味し、無理心中であると主張、広義では死刑であるものの、死刑の中でも最も穏当な処分である「下手人」を主張した。最終的に喜八は死罪を賜ったが、この事例にも小田切の寛大かつ深慮に富んだ姿勢が伺える』とある(下手人は庶民に行われた斬首死罪の中では最も軽く、首を切るだけで資産没収などを行わないもの)。その以下には、逆に不名誉な記載もあるが、ここは小田切殿を立ててここまでとしておこう。
・「武田晴信」武田信玄の諱。
・「詰る時」底本では右に『尊本(詰る侍)』と注する。これで採る。
・「跡などにし臥せば」飾られた槍の方に足を向けて寝たりすると、の意。
・「枕返し」就寝中、知らぬうちに身体の位置が逆になることで、怪奇現象として古来、妖怪の仕業などとされた。

■やぶちゃん現代語訳

 怪刀の事

 小田切土佐守直年殿の御先祖は甲州の出であられる。武田信玄晴信公より小田切殿御先祖へ与えられた長刀と申されるものを今に伝えて、御屋敷の玄関の槍掛けに飾るおかれておられる由。
 折節、玄関番に詰める侍が、たまたま長刀に足を向けて寝たり致すと、必ず、枕返しに遇う、との由。城中にて物語なされたのをここに記しおいた。



 黄櫻の事

 櫻に黄色なきと咄合けるに、或人の言へるは、駒込追分の先に行願寺といへる寺に黄櫻あり。もつとも山吹黄梅などの正黄にはあらず。然れども白にうつりて黄色なる一重の花に、彼寺の名木と近鄰にももてはやしぬるを、旦家だんかの内ひそかに參詣の折から、根より出し芽をかきて四五度も植付しが、相應に生育しては枯ぬ。一本根づきしと覺しも、花咲出しを見れば一重の山さくらゆへ、和尚へしかじかの事有躰ありていに咄して、何卒植木したき由を願ひしかば、安き事也とてうけがへければ、植木やなど雇ひて繼穗つぎほせしに、是又花咲ぬれど山櫻の白きにて有りし故本意なく過しが、寺内にて根分せし櫻はやはり黄色にて有し由。土地にもよりけるや、不思議成事と語りぬ。右旦家と言るは、笛吹の春日市右衞門しゆんにちいちゑもん也とも聞し由也。

□やぶちゃん注
○前項連関:物怪から木怪へ。フローラの本格記載は「耳嚢」では珍しい。
・「黄櫻」この呼称は複数の桜の栽培品種を指すようで、代表種は二種、一つはバラ目バラ科サクラ属サトザクラの品種ギョイコウ Cerasus lannesiana 'Gioiko' で、「御衣黄」と書く。今一つは、ウコン Cerasus lannesiana 'Grandiflora'で、「鬱金桜」「黄桜」「浅葱桜(浅黄桜)」などとも呼ぶもの(人口に膾炙するカレーに含まれるショウガ目ショウガ科ウコン Curcuma longa とは全くの別種)。前者ギョイコウ Cerasus lannesiana 'Gioiko'は、花期はソメイヨシノより遅く、花の大きさは場所によって異なり、本州中部で直径二~二・五センチメートル、北海道で四~四・五センチメートル。花弁数は一〇から一五枚程度の八重、花弁は肉厚で外側に反り返る。色は白色から淡緑色、中心部に紅色の条線があり、開花時には目立たないが、次第に中心部から赤みが増してきて紅変し、散る頃にはかなり赤くなる。花弁の濃緑色の部分の裏側にはウコンにはない気孔が存在する(以上のギョイコウの記載はウィキの「ギョイコウ」に拠った)。後者のウコン Cerasus lannesiana 'Grandiflora'は、ギョイコウに比して色は緑色が弱く淡黄色。数百品種あるサクラのうちで唯一、黄色の花を咲かせる桜として知られる。花弁数は一五から二〇枚程度の八重、ギョイコウのようには厚くなく、気孔もない。本種は国外でも人気が高い(以上のウコンの記載はウィキの「ウコン」に拠った)。いずれも開花時期はソメイヨシノより遅めの四月中下旬で、ともに花の緑色は葉緑体によるものであるが、ウコン Cerasus lannesiana 'Grandiflora'の方が葉緑体の含有量が少ないため、もっと薄い淡黄色で、こちらの方が以上の通り、「黄桜」の呼称としては分があるが、本文では「一重」とあり、ウコンもギョイコウも八重であが、花弁数が少ない場合、八重の印象の持たないものもある点からギョイコウ Cerasus lannesiana 'Gioiko' を同定候補から外すことは出来ない。
・「駒込追分」中山道と日光御成街道(岩槻街道)の分岐点。当時、ここは本郷ではなく旧駒込村に属した。江戸期には現在の東大農学部前本郷通りの反対側にその一里塚があった。
・「行願寺」諸注より、文京区本駒込にある既成山光明院願行寺のこととする。駒込追分の北の東側にある浄土宗の寺で、品川願行寺開山観誉祐宗の孫弟子観誉祐崇が明応三(一四九四)年に開山、慶長年中は馬喰町にあったが、明暦の大火の後に現在地へ移転した。江戸期には塔頭九院を擁した大寺院であった。但し、ネット上の検索では、現在、ここに桜があるかどうか、それがウコンかギョイコウか、はたまた全くの別種かなどは判明しなかった。本文に「一重」とあるのも非常に気になっている。御存知の方は是非、お教え頂きたい。
・「春日市右衞門」諸注によれば、能の観世流笛方である春日家七世市右衛門長賢(享保六(一七二一)年~寛政十二(一八〇〇)年)。この話柄、最後にこの事実を明かすこと、それを最後に根岸が記していることに、私は興味がある。これは本話の原作者が、この話から能の「西行桜」などの花の精の登場する話柄を暗に連想させようとする意図があり、それを根岸はホームズよろしく、鋭く嗅ぎ取っているのではあるまいか? 識者の御意見を伺いたく思う。

■やぶちゃん現代語訳

 黄桜の事

 桜に黄色のものはないという話題になった折り、ある人の言うたことで御座る。
「……駒込追分の先の、行願寺という寺に、黄桜が、これ、御座るじゃ。尤も、山吹や黄梅といった感じのまっ黄色では御座らぬ。然れども、白っぽい黄色をした一重の花で御座っての、かの寺の名木として近隣にては、大層、もて囃して御座るものじゃ。……さても、左様なれば、さる檀家の者、毎度の参詣の折りから、こっそり、このねえから生えた、めえを掻き採って、四、五度もおのが屋敷の庭へ植え付けてみた……が……ある程度まで成長致いては……枯れる。……それでも、一本根付いた……かと思うたも……さても花の咲いたを見れば……これ、一重の……ただのしいろい山桜じゃったそうな。……さればこそ、この檀家、芽では無理と考えたによって、行願寺が和尚へ、今までの、こっそりぶっ掻いて御座った非礼不作法を深謝の上、『何卒、接ぎ木を致させて戴きたし!』と願い出たところ、和尚は『易きことじゃ』と承諾致いた故、玄人の植木屋なんども雇い、念には念を入れて、大事大事に接ぎ穂致いた……なれど……これまた、花は咲いたものの……ただのしいろい山桜じゃったという。……なれば、流石に、かの檀家も、仕方のう諦めた、とのことで御座ったよ。……因みに、寺内てらうちにて根分け致いた桜は、これ、やはり、黄色にて咲くとのこと故、これはもしや……かの地の特殊なるちいの質や不可思議なる養分にても、拠る、とでも申すので御座ろうかのぅ?……いっかな、不思議なことにて御座るじゃ……。」
 なお、この『檀家』というのは、観世の笛方の春日市右衛門であるとも聴いた、とのことで御座る。



 一向宗の信者可笑事

 近きころ東本願寺參向さんかうの時、大勢右かごに隨從して、貴餞門跡もんぜきを見るを値遇ちぐうと悦びけるが、或日本願寺門跡を拜むとて大勢駕の廻りを取卷ける中に、壹人の老姥らうば門跡を拜むとて駕の戸のきは取付輿とりつきこしの内へ頭を入けるを、門跡手にて頭を押出し給ふを見て、右の老姥が天窓あたまへは門跡の御手をふれられしとて、信者共大勢集りてうばが頭の毛を引拔、或はむしり取りし故、姥は漸々やうやうにその所を遁れしが、大形は髮はむしりきられて思わぬ法躰ほつたいをなしけると、其頃一同笑談に及びしとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:寺絡みで軽くは連関。既巻で明らかにしたように、根岸の宗旨は実家(安生家)が曹洞宗、養家の根岸家は浄土宗である。根岸は仏教には総じて比較的冷淡な傾向を持つように私には思われる。ここでも盲信の徒に対してかなり意地の悪い根岸の視線が窺える。
・「一向宗の信者可笑事」は「一向宗の信者笑ふべき事」と読む。
・「近き比東本願寺參向」とあるから、これは(本執筆時を下限の寛政九(一七九七)年とすれば)東本願寺第二十代法主達如(たつにょ 安永九(一七八〇)年~慶応元(一八六五)年)であろうか。彼は寛政四(一七九二)年に第十九代法主であった父乗如の示寂に伴って第二十代法主を継承。弘化三(一八四六)年に次男嚴如(大谷光勝)に法主を委譲するまで実に凡そ五十四年間法主(これは門主・門跡の浄土宗での尊称である)の地位にあった。寛政九年当時で未だ十七歳であった。もし、彼の父第十九代法主乗如(延享元(一七四四)年~寛政四(一七九二)年)とすると、彼の示寂した寛政四年二月以前に遡らなくてはならず、最低でも六年ほどのスパンが空き、「近き比」というのには私は抵抗がある気がする。青年の門跡がグイと婆さんの頭を押し出す方が話柄としては面白い。
・「値遇」縁あってめぐりあうことの意で、仏縁あるものに巡り逢うこと。「ちぐう」と読んでもよい。
・「天窓あたま」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 一向宗の信者お笑いの事

 近年の出来事で御座る。
 東本願寺門跡江戸参向の際、道中にても大勢の信徒が金魚の糞の如く追従致し、貴賤を問わず、一目、門跡がお姿を拝さんが値遇ちぐうの冥利と、誰もが大層な喜悦のうちにあるようで御座った。
 そんなある日のこと、やはり、本願寺門跡を拝まんとて、大勢、駕籠の周りを取り巻いて御座った中に、一人の老婆が御座った。この者、門跡を拝顔せんものと、あろうことか、駕籠の戸のきわにしがみ付いて、その隙間より輿の中へ頭をさし入れたのじゃが、当然の如く、門跡、手でもって、かの老婆の頭を外へと押し出しなされた。
 ――と――
「――このばばが頭へは――御門跡様が御手おんてをお触れになられたぞ!――」
と、誰かが叫ぶや……信徒どもが大勢……雲霞の如くに老婆の元へと群がって騒然となる……ある者は……婆の頭の毛を力任せに引き抜き……ある者は……摑んで捩じって毟り取る……老婆は這々ほうほうていにてその場を逃れたものの……大方の髪の毛、これ、毟り切られて……つんつるてんのつるつるてん……思わぬ法体ほったいとなって御座った、という……その頃、人々の集まっては、頻りに話題となった笑い話で御座ったとか……お跡、基、お後がよろしいようで……。



 松平康福寛大の事

 老職勤給ひし康福は可笑しき人也しが、一年類燒にて下屋敷燒失ありしに、飼置し鶴を其懸りの家來持除もちのきけるが、いかゞせしや雌鶴を一つ退落のきおとして燒死せしゆへ、右掛りの役人大に恐れ入て、不調法の由にて重役へ申立差扣さしひかへを伺ければ、康福打笑ひて、右鶴は千年目なるべしとて更に咎めなかりし由。愛鶴を不惜役人を不咎とがめざるの寛大、いさゝか學才の德と人の語りけるなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:一種の落とし話として連関。
・「松平康福」(享保四(一七一九)年~寛政元(一七八九)年)は石見浜田藩藩主から下総古河藩藩主・三河岡崎藩藩主を経、再度、石見浜田藩藩主となっている。幕府老中及び老中首座。官位は周防守、侍従。幕府では奏者番・寺社奉行・大坂城代を歴任、老中に抜擢された。記載通り、天明元年の老中首座松平輝高が在任のまま死去、その後を受けて老中首座となった。天明六(一七八六)年の田沼意次失脚は松平定信と対立、寛政の改革に最後まで抵抗したが、天明八(一七八八)年に免職された(ウィキの「松平康福」に拠る)。「卷之一」の「松平康福公狂歌の事」に既出。あちらでも如何にも滑稽ないい味を出している。
・「退落して」底本には右側に『(尊本「取落」)』と傍注する。

■やぶちゃん現代語訳

 松平康福殿寛大の事

 老中首座をお勤めになられた松平康福殿はまことに面白いお方で御座った。
 ある年、類焼を被られて御自身の下屋敷が焼失致いたことが御座ったが、その折り、邸内に飼っておられた複数の鶴を、その飼育係の家来が退避させて御座ったが、如何致したものか、康福殿御寵愛の雌の鶴を、一羽だけ捕り損のうて、焼死させてしまった。かの係りの役の武士は大いに恐れ入って、おのが不調法によるものなればとて、重役へ申告致いた上、自ら謹慎の処分を、と伺いを立てた。
 すると康福殿はうち笑って、
「――何の、あの鶴はの――丁度、寿命の千年目であったに、違いないわ。」
と、更にお咎めも、これ、御座らんなんだ由。
 御寵愛の鶴を惜しまず、係の役をも咎めぬ、その寛大さは、まっこと、真の学才の仁徳じゃと、人々の讃えたことにて御座る。



 蠻國人奇術の事

 長崎奉行を勤し人の用役を勤ける福井が、主人の供して崎陽に赴しに、母のわずらはしきと聞て頻りに江戸の事を思ひつゞけ、少し病氣にて鬱々と暮しけるが、是も又病氣故にや誠に朝夕の食事も不進忘然すすまずばうぜんと暮けるを、主人も大に憐みて品々療養を加へしに、或人の言へるは、右樣の病氣は紅毛おらんだ人に見せれば療治の奇法あるべしと言ひし故、紅毛屋敷へ至り通辭を以しかじかの事を語りければ、かぴたんすなはち醫師へ申付け、何か判斷の上、療治の仕方ありとて盤へ水をくみて、此内へ頭をいれ給へと言ひし故、其差圖に任せければ、襟を押へてしばらく水中へ押入置おしいれおき、眼を開き給へと通辭して申しける故眼を開きければ、凡そ六七間も隔て我母帷子樣かたびらやうの物を縫居ぬひゐたるやう成に顯然たり。其時水中より顏を引上げて何か藥など與へけるゆへ用之けるに程なく右病氣癒へてその頃交代にも至り、無滯とどこほりなく江戸へ着しに、彼母語りけるは、さても一年餘の在勤母子の恩愛戀しき事限りなかりしが、或日帷子を縫ひて其方そなたへ與へんとて針をとり思ひつゞけしに、窓より隣なる小笠原氏の境の塀を風與ふと見しに、右塀の上に御身の姿歴然と顯れ、暫し顏を見合しは夢にもあらず、もし長崎にて替る事もありしやと案じけるうちにも、我胸の迷ひよりと又かへり思ひし事ありしと語りける故、彼長崎にて紅毛人の療治を受し事を思ひ出で、其日限時刻等を尋しに符節を合けると也。まつたく幻術の類ひなるべし。紅毛は耶蘇やその宗門を今もつて專ら行ふ由聞しが、かゝる類にも有べしと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。超心理学でいう超感覚的知覚(ESP:Extrasensory Perception)の一種である精神遠隔感応(mental telepathy)、所謂、テレパシーを問題とした都市伝説であるが、母子の情愛を介するところで、嫌みがなく、私は好きな話である。術式自体は過心居士クラスの妖しげなもので、一種の催眠術のような感じはするものの、暗示は言語上の障壁が邪魔して無理があるし、何らかの麻薬による幻覚作用にしては丸薬は事後に飲ましているのが不審(水盤の水の中に何らかの薬物が溶かし込まれていた可能性もあるし、実際には母を見たという記憶は術後に投与された麻薬による記憶の錯誤の可能性も疑うことは出来る)なお、訳中のドクトル(医師)の台詞は、通辞の訳したものであるから、普通の日本語でよいのだろうが、どうもそれでは南蛮妖術の雰囲気が出ず、面白くない。さて、誰の何を真似たかは――ご想像にお任せしよう――
・「長崎奉行」寛政九(一七九七)年以前で直近の長崎奉行なら新しい順に松平貴強(たかます 一七九七年~一七九九年)・中川忠英(一七九五年~一七九七年)・高尾信福(のぶとみ 一七九三年~一七九五年)・平賀貞愛(さだえ 一七九二年~一七九七年)・永井直廉(一七八九年~一七九二年)で、恐らくモデルはこの辺りの誰かであろう(後掲される「亂舞傳授事の事」に、この中の平賀貞愛が登場するので、彼の可能性が一つ高くなるか)。この頃の長崎奉行は定員二名で、一年交代で江戸と長崎に詰め、毎年八月から九月頃に交替をした(以上は主にウィキの「長崎奉行」に拠った)。
・「紅毛おらんだ」は底本のルビ。
・「かぴたん」カピタン(甲比丹・甲必丹・加比旦などと漢字表記もした)は元はポルトガル語で「仲間の長」という意味。日本は当初、ポルトガルと南蛮貿易を行ったため、商館長をポルトガル語の“Capitão”(カピタン)と呼んだ。その後、南蛮貿易の主流はポルトガルからオランダに変わったが、この呼称維持された)は変わらなかった。先の長崎奉行の候補と合わせて考えると、このモデルとなった長崎商館長(カピタン)は第一四六代ヘイスベルト・ヘンミー(Gijsbert Hemmij 一七九二年~一七九八年)か第一四五代ペトルス・セオドルス・キャッセ(Petrus Theodorus Chassé 一七九〇年~一七九二年)となる(以上は日本語版及び英語版ウィキの「カピタン」に拠った)。
・「紅毛屋敷」長崎出島にあったオランダ商館。オランダ東インド会社の日本に於ける出先機関。慶長十四(一六〇九)年に平戸に設置され、寛永十八(一六四一)年に長崎出島へ移転した。出島に滞在するオランダ人は商館長(カピタン)・次席(ヘトル)・荷倉役・筆者・外科医(ドクトル)・台所役・大工・鍛冶など九人から十三人程度で、長崎奉行の管轄下に置かれた。長崎町年寄配下の出島乙名と呼ばれる選ばれた町人がオランダ人と直接交渉した。乙名は島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ・積出し・代金決済・出島の出入り・オランダ人の日用品購買の監督を行った。乙名の下には組頭・筆者・小使など四十人の日本人下役がおり、更に通詞は一四〇人以上いた。出島商館への出入りは一般には禁止されていたが、長崎奉行所役人・長崎町年寄・オランダ通詞・出島乙名とその配下の組頭などは公用の場合に限り、出入りを許された(以上はウィキの「オランダ商館」に拠った)。
・「六七間」約十一メートルから十二メートル強。この距離感がかえって自然なパースペクティヴを生み、リアルな印象を与えると言える。
・「我母帷子樣の物を縫居たるやう成に顯然たり」底本には、後半部の「居たるやう成に顯然」の右に『(尊本「居たり、誠に顯然」)』とある。「帷子」生絹や麻布で仕立てた、夏に着る裏を附けていない単衣ひとえの着物。

■やぶちゃん現代語訳

 蛮国人の奇術の事

 長崎奉行の用役を勤めた福井が、主人の供をして崎陽に赴任致いて御座った折り、彼の母が患いついた、という知らせを長崎で聞き、頻りに江戸のことを気に懸けるうち、福井自身も何とのう、病みついた感じで鬱々と日を暮らして御座ったが、そのうちに、とうとう朝夕の食事も喉を通らずなって、病み呆け、呆然として、見るからに尋常でない様態と相い成って御座った。
 主人の長崎奉行もこれを憐れみ、種々の療治を試みてはみたものの、芳しくない。
 そんな折りに、ある出島の関係者が言うに、
「……こうした病気は紅毛人に見せれば、何か、療治の奇法も御座るのでありますまいか……」
 とのこと故、長崎奉行の職権にて、福井を同道の上、紅毛屋敷を訪れ、通辞を通してかくかくしかじかの事情を話したところ、カピタンが部下のドクトルを呼び出だいて、何やらん相談を致いた上で、カピタンは、
「……治療ニヨロシキ法ガアリマス。……」
と、言うたかと思うと、ドクトルはやおら、室内に大きな水盤を持ち込ませ、そこに水を汲んで、
「……ココノ内ヘ頭ヲオ入レナサイ。……」
と言う故、その通りにする。
 ドクトルは福井の襟の辺りを上からそっと押さえ、暫く水中に福井の顔を押さえて御座った。
「……福井サン、福井サン、目ヲオ開ケナサイ。……」
と通訳を通して言われたので、福井は目を開けた――
――と――
『……およそ水を通して……六、七間も隔ったて御座いましたか……私の母が……帷子かたびら様のものを……縫っておるのが……まっこと……はっきり見えたので御座います。』《福井本人による後日談》
……見えた……と思うた……その途端……福井はドクトルによって水中より顔を引き上げられた上、何やらん丸薬なんどを与えられて、商館を後にした。
 その後、その丸薬を服用したところが、ほどなく病いも癒え、丁度、奉行交代の時期をも迎え、滞りのう、江戸へ帰着致いた。
 母も幸いにして病い癒え、健在であったは何よりであった。
 その福井の母が語る。――
「……さても一年余の長崎御在勤、御苦労にて御座いました。母子の恩愛故、御身がこと、案じられてなりませなんだが……実はある日のこと、帷子を縫いつつ、これを、愛しい御身に送らんと、針を運びつつ、御身のことのみ、思い続けて御座いましたところ……窓より、隣の小笠原様御屋敷との境の塀を、ふと、見ましたところが……その、塀の上に……御身の姿が……これ、はつきりと現われ……しばしの間、互いに顔を見合わせたこと、これ、決して夢にては御座りませなんだ。……もしや……長崎にて変わったことでもあったのではあるまいか、とも案じましたが……いいえと、また、これも、心の迷いかと思いかえしたり……まっこと、さような不思議がありました……。」
とのこと故、福井、かの長崎にて紅毛人に療治を受けたを思い出だいて、母がその不思議を見たと申す日時を尋ねたところが――完全に一致致いて御座った――というのである。――
 福井が語る。――
「……全く以って幻術の類なので御座いましょう。紅毛は耶蘇の宗門の魔術を、今以って専らに行のうておる由と聞いておりますが……そのような類いの妖術・奇術ででも、あったのでしょうか……」



 奇病の事

 松平京兆けいてうの物語に、此程奇成事あり。家中の侍の妻病氣にて里へ歸り居しが、風與ふと口走りていへるは、夫の外の女に心を寄せて我を見捨、不快に事寄ことよせ里へ差越せしも右女の仕業也と、或は恨み或は怒りなどせし有樣、一とほりの病氣とも見へず。右妻は至て其容貌も美麗なるよし。男は美道の沙汰はさしおき、いとたくましき人物の由。彼女の疑へる女は脇坂家の茶道なる者の娘にて、主人の奧に勤居つとめをりしが、彼男の人躰じんていを平日譽てことのふ執心せしよし。然れども不埒などありし事も聞かず、只しれる中のみ也しが、これ發熱して、彼本妻我を憎み呪詛せる抔口ばしり、此程は熱も覺て快よけれど、いまだ幻は右の事をいひ罵る由。まつたく狸狐のしわざに怪敷あやしき事もありぬと私に語り給ひぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:怪異譚連関だが、この話は根岸も怪異とせずに「奇病」としているように、これは一種の心因性精神病で、どちらの女も偶然に病的なヒステリーと強い関係妄想を呈した、一種の強迫神経症に相次いで罹患した(妻の病態とその恐らく名指しの自分への批難を聴いて、謂わばASD(Acute Stress Disorder 急性ストレス障害)に『感染』、病態を見るにPTSD(Posttraumatic stress disorder 心的外傷後ストレス障害)へと移行したと思われる。即ち、これは確かな事実であったと考えてよい。現代語訳では、そこを考えて、細部のリアルさを加えて翻案してある。
・「松平京兆」前の「怪刀の事」の松平輝和のこと。
・「事寄ことよせ」は底本のルビ。
・「美道」底本には右に『(尊本「美色」)』と傍注する。
・「脇坂家」播州龍野脇坂藩。寛政九(一七九七)年当時ならば、当主は第八代藩主寺社奉行(後年に老中)であった脇坂安董(わきさかやすただ 明和四(一七六七)年~天保十二(一八四一)年)である。当時、松平輝和は奏者番と、脇坂安董と同じ寺社奉行を兼任していたから、ここに脇坂家側の女の情報源としての接点が窺えると言える。
・「茶道」茶坊主。彼らは剃髪していたために「坊主」と呼ばれただけで、れっきとした武士。将軍や大名の下での、茶の湯に於ける給仕や接待を担当した。因みに、芥川龍之介の養家芥川家の家系は、将軍のそれである御数寄屋おすきや坊主で、由緒ある家柄であった。
・「彼本妻我を憎み呪詛せる」の「憎み」は底本では「僧み」。誤植と見て、訂した。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『うらみ』とあるから、「恨」の可能性もあるとは言える。
・「幻は」奇妙な謂いである。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『折りには』とあるから、これの誤写とも思われる。「かはりては」等と訓読するのは、如何にもつらい。岩波版で採る。

■やぶちゃん現代語訳

 奇病の事

 松平京兆輝和殿が語る。

……このほど、何とも奇妙な事が御座っての。
……家中の侍の妻が、病気で里へ帰っておったのじゃが、この女、ある日、突然、
「……夫は、他所の女に心を寄せてわらわを見捨てた! 病気を名目にして、里へ下がらせたも、その女が仕業!……」
と、恨みごとを口走るわ、怒って呶鳴りまくるわで、その有様、尋常の病いとも思われぬほどじゃ、と。……
……その妻で御座るか?
……聴くところによれば、容貌も、これ、十人並の美麗なる者と聴いて御座る。……
……その夫の方はと?
……そうさの……これは好色の噂はともかくとして……これも、まあ、なかなかの偉丈夫で御座る。……
……実は、の
……かの妻女が疑っておる『女』、というも……これ、分かって御座っての……これが、その、拙者の同僚で御座る、脇坂安董やすただ殿が屋敷の、茶坊主をしておる者の娘で御座っての……脇坂殿にも直接、お話を伺ったのじゃが……御屋敷の奥方に勤めておる娘とのことなのじゃが……
……実は、この娘……何でも、かの夫の侍とは、何処ぞで知りおうてでも御座ったらしく……かの男の人体じんていを、これ、普段から頻りに褒めそやしておったそうじゃ……まあ、何で御座るな、その、世間で言うところの――『ご執心』――というていでは御座ったと申す。……
……なれど、申しておくと――この二人の間に不埒なることがあった――なんどという噂は、これ、全く聞かぬは、拙者の家内にても脇坂殿御家中にても、これ、同じゃった……
……拙者も、実は……かの男を呼び出だいて、じかに問い質いてみたが……
……かの男は、やはり思うておった通りの実体じっていなる者にて御座っての……要は、ただ、互いに少しばかり見知っておったというだけの仲で御座ること、これ、相い分かり申したのじゃ。……
……ところがじゃ
……脇坂殿のお話によれば、かの茶坊主の娘も――
突如、高熱を発し、
「……あの、本妻が!……妾を恨んでおる!……呪詛致いておる!……」
なんどと口走りだしたと申すのじゃよ……
……まあ、近頃は、やっと熱も引いて、恢復致いたとは聞いて御座るが……未だに折に触れて、
「……本妻が!……妾を恨んでおる!……呪詛致いておる!……」
と、言い罵っておる由。……
……全く以って……狐狸なんどの仕業にてもあろうか、なんどと噂致いての……何ともはや、怪しきこともあるもんじゃて……

――と、私にお話になられた。



 小兒行衞を暫く失ふ事

 寛政六七の頃、番町に千石程もとれる何某とかや言るは、身上しんしやうも相應にて其主人折目高き生れにて有りしが、八才に成りし息女、ある日隣家へ三味線など引唄を唄ひて、乞食の男女門に立て囃子物などせし音を聞て、頻りに見度みたき由を申ける故、奧方もかろがろしきとて制し戒めけるを、いかにいふても聞わけず、庭へかけ出なんどせしを乳母など押止めけれど聞入ず、納戸なんどの内へ缺入かけいりしを、乳母はぢきに立て納戸へ押つゞき立入しに、娘の行方なしとの由奧方へしかしかとかたり、家中驚きて雪隱物置はいふに不及、屋敷中くまなく搜せどもしれざれば、主人の外へ罷りしを呼戻し、糀町變迄近隣を搜し尋れども更に影もなければ、奧方は大きに歎き、祈禱などして色々手を盡しけるに、三日目に納戸の方にて右娘の聲して泣し故、搜しけれど見へず。又庭にて泣聲せし故缺出かけだしみれば右娘成故、早々取押へ粥藥抔與へけるに、髮にはくもの絲だらけにて、手足抔はいばら萱野かやのを分け歩行ありきし如くに疵共きずども多くありし故、早々療養して右の樣子を尋問たづねとひしに、一向不覺おぼえざる由を右小女のいひしが、いかなる事にてありしや、其後は別の事もなく、當時は十五六才にも成べしと人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:狐狸によらんかの狂乱から天狗に攫われた如き神隠しへ。更に私はASD(Acute Stress Disorder 急性ストレス障害)直連関とも採る。異次元のパラレル・ワールドや天狗の神隠しなんどを肯定出来ず、怪しもうと思えば怪しめる隣家に門付する「乞食の男女」や当家の「乳母」も事件とは無関係――とすれば――この納戸と満七歳の少女に、その真相を解き明かす鍵を求めるしかあるまい。まず気づくのは、この手の超常現象や事件性のないとされる神隠しでは、失踪する人物に失踪動機がない場合が多いのだが、彼女は自分の望みが受け入れられないことへの激しい感情的高揚の動機がある点で、寧ろ、「神隠し」としては特異である。更に言うなら、彼女のヒステリー状態から、もしかすると彼女には脳に何らかの器質的な変性若しくは精神病質があったことも疑える(「其後は別の事もなく、當時は十五六才にも成べし」とあるが、正に婚期を迎えた千石取りの武士の娘で、例えば間歇的な意識混濁や癲癇といった症状があった場合でも、それを公にはしないであろう)。加えて、この納戸には現当主の知らない、例えば唐櫃の底が何らかのスイッチによって反転して床下へ抜けるような秘密の仕掛けがあって(時代劇ではしばしば見かけるが、ある種の武家屋敷には、そうした仕掛けが実際にある)、たまたまそうした箇所に入り込み、何らかの弾みでからくりの機能が起動し、彼女は床下に転落、その際に頭を打ったか、もしくは先にいったような体質(病質)から長時間の失神状態となったと仮定することは出来まいか。暫くして覚醒した彼女が真暗な床下を闇雲に這いまわって行ったなら、「髮にはくもの絲だらけにて、手足抔はいばら萱野を分け歩行し如くに疵共多く」生ずるのは全く以って自然であり、そうして遂には庭に通ずる縁側から脱出した、という仮説である。満七歳であれば、この未曾有の恐怖パニック体験はASDとなって、「右の樣子を尋問しに、一向不覺由を右小女」が証言するのも、よく理解出来るのである。本話は前項にある「狐狸のために狂死せし女の事」と私には類話として印象的に意識される話柄なのである。
・「千石程」ネット上の記載によれば、江戸時代に家禄千石の旗本は家数でいえば上位十六%に入るまずまずの家格で、軍役基準に照らすと、小者も含めて二十一扶持。大名の場合、相場は知行の三分の二が家臣の知行相当であったというから、家臣に千石出せるのは知行五万石以上の大名であろう、とある。因みに、根岸の場合を見ると、天明七(一七八七)年の勘定奉行抜擢後に家禄は二〇〇俵蔵米取から五〇〇石取りとなり、その後の寛政十(一七九八)年の南町奉行累進などでも加増があったと思われ、後に最終的には逝去直前の加増によって千石の旗本となっている。
・「缺出かけだし」は底本のルビ。寧ろ、私が附したように先に「缺入かけいりしを」とすれば、ここはいらない。
・「當時は十五六才にも成べし」本「卷之三」の執筆を寛政九(一八〇四)年とすると、たかだか二、三年でまだ十、十一歳となる。寛政六(一八〇一)年か七年から七、八年後は、享和元・寛政十三(一八〇一)年か享和二年となり、これは鈴木棠三氏が言う「卷之六」の下限である文化元(一八〇四)年に近い。そうして、鈴木氏はこの「卷之六」は先行する前二巻の補完的性格が強いとするから、この時期に根岸が、律儀に記載の補正を行った可能性が考えられる。

■やぶちゃん現代語訳

 小児の暫くの間の行方知れずの事

 寛政六、七年の頃のことで御座る。
 番町に、千石ほども扶持を持った、暮らし向きも相応にして、折り目正しき家柄の何とか申す御仁が御座って、八歳になる息女があられた。
 ある日、隣家へ三味線など弾いてざれ歌を唄っては物乞いする門付けの男女が来たって、その囃子なんどする音を聴き、かの息女、頻りに見たいとねだって御座った。奥方は、
「かのようなる下賤の者のなすを見るなんどというは軽々しきこと!」
とてお許しのまられず、強く𠮟って御座ったが、如何に言うても聞き分けずに、今にも庭へ駆け出さんとせば、乳母なんどが止めたれど、やはりお聞き入れになられず、その押さえた乳母の手を振り払うや、癇癪を起して部屋奥の納戸の中へと走り入ったによって、乳母はすぐ、その後を追うて、続いて納戸へと入ってみたところが――娘の姿――これ――ない。――
 乳母は直ちに奥方へ報じ、家中の者も皆、驚き、雪隠から物置に至るまで、屋敷中、隈なく捜して御座ったれど――やはりようとして――行方が知れぬ。所用にて外出して御座った主人を急遽、呼び戻いて、遙か南の麹町辺りまで足を延ばして、近隣近在を捜し尋ねたが――影も形も――ない。
 奥方は大いに嘆き、一両日、祈禱師を頼むなんど致いて、色々と手を尽くいたが――これ、万事休して御座った。――
 ――ところが――
……姿を消して丁度、三日目のこと、家中の者の一人が、
「……納戸のかたにて、かの姫様の声がしたやに思われまする!……」
と告げ、更に別な者からは、
「……確かに! 納戸の辺りにて、姫さまの泣く声を聞いて御座る!……」
とのこと故、納戸や、その周辺やら、捜いてみたものの、やはり――姿は見えぬ。
……なれど今度はまた……奥方自身、庭ではっきりと泣き声がするのを、聞いた!
……駆けつけて見ると……これ……
――娘――で御座った。
……慌てて抱きかかえ……粥や薬餌なんど与えて、介抱致いた。
……髪は蜘蛛の糸にまみれ、手足などは、いばらかやの野原を掻き分けて歩いて参った如く、傷や擦過の跡が夥しく残って御座った。
 即座に手厚き療養を致いて、落ち着いた頃合い、父母、打ち揃うて、
「……このあいだ……どこでどうして、御座ったじゃ?……」
と問うてみたれど……
「……なあんにも……覚えて……おらん……」
と娘は答えたと言う。
……一体……これは……どう解釈したらよいのであろうか?
……なお、この息女は、その後は別段、どうということものう、今は十五、六歳にもなっていよう、と知れる人が語ったことで御座る。



 金子かたり取し者の事

 番町邊と哉らん、須藤文左衞門とかいひし、武家などの仕送り用人をしてなま才覺の男有しが、去年とか去々年をととしとか師走の廿五六日に、金子貮拾兩かたりとられ、今に其無念を散ぜんと所々心掛て尋歩行たづねありく由、我が元へ來る人の語りける故、其子細を尋問しに、右文左衞門、池の端の料理茶屋とか又は藥屋とかへよりて休みしに、人品尤らしき老僧これも腰を懸て休居やすみゐたりしが、文左衞門へ向ひ相應の挨拶して世上の咄などせし上、文左衞門が仕送りなどするといへる咄しを聞き、我等知る人に、多分も無之これなしといへども金子五六百兩、丈夫なる處へ貸し附申度つけまうしたく、利分は五分位にて利安にいたし可申迚まうすべしとて賴まれぬれど、先方を氣遣ひ丈夫の處に無之これなく候ては世話も難成と咄しけるを文左衞門聞て大に喜び、何卒借出しあひならば、此節の事ゆへ丈夫に御世話可申とて賴ければ、老僧も喜び候ていにて、左候はゞ明日金主へ引合せ可申まうすべき間此茶屋へ來給へ、それがしは何寺とまうす小寺の住職也と語りけるゆへ、酒抔呑て暫く咄合はなしあひの上、金子は右の通至とほりいたつて丈夫成所を第一にし氣遣ひ被申候まうされさふらふ間、其手段なくては安堵いたすまじ、不思議に御身と昨日よりの知る人なれ共、數年の馴染の趣に金主へは可申談まうしだんずべく、金銀の取遣とりやりも今始てのふりに無之これなく、不斷とりやりいたし候樣に仕成しなし可申、御身も金子二三十兩程持參あれ、我等より用立候を返し被申候殊まうされさふらふこといたしすなはち御身の證文を返すなど、彼金主の前にて取引を致し見せ可申と、かたく約束して立別れしが、文左衞門は能き才覺出來しと、翌日早々彼茶屋へ至りければ、いまだ右出家は不來きたらず、茶屋にては右出家申付候由にて、精進料理を取交とりまぜ何か急度きつとしたる獻立などしてまつ由なれば、文左衞門もしばらく待居たりしが、彼出家昨日に彌增いやましに立派の裝束をして、隱居ていの禪門勿躰もったいしき侍兩人同道にて來り、酒など出し料理抔も丁寧に出して、扨御咄の人に引合可申由にて文左衞門を引合、右は兄弟同樣の數年の馴染にて、丈夫なる所は我等同樣に思召るべしと彼禪門侍へ申談まうしだんじ、盃など取遣りして彼禪門文左衞門に向ひて、老僧の御世話故相違もあるまじ、金子の儀は千兩程は御用だつべし、さりながら利分も安く可致いたすべく候へ共、間違候ては申分難成まうしわけなりがたき筋も候と語りし故、文左衞門も色々辯を振ひ、丈夫らしき申並まうしならべけるに、老僧も文左衞門も數年私とは金子の取遣りもいたし、いかにも丈夫の所は受合候事也、既に文左衞門より今日も金子取遣いたし候といへる故、文左衞門も懷中より金子を出し、先達ての金子三拾兩今日取上とりあげ候趣にて老僧へ渡せば、すなはち懷中より手形を取出し文左衞門へ渡し、ケ樣かやうの事に候間御案じ被成間敷なされまじと申ければ、禪門も侍も大に悦び候ていにて、右千金にても五百金にても明日手形等丈夫にいたし、禪門の宅は深川何所どこそこにて候間御越可有之おこしこれあるべしと念に念を入、酒數獻すこんに及びて文左衞門餘程沈醉の折から、禪門も侍も立歸りぬるてい故、風與ふと文左衝門心附て老僧を宿の亭主へ尋ければ、是も今少し已前立歸りぬ、今日の仕出し入用何程いかほどは文左衞門より可拂はらふべし被申置まうしおかれし候由故、大に驚きながらよもや僞もあるまじと彼是かれこれ渡りあひ、茶屋の入用をも拂ひて、さて翌日右禪門の宅深川を尋しに、右ていの名前も無之これなく、老僧の寺所は暫隔しばらくへだつる所なれども、前々日書付等に致し渡しぬる故、飛脚を立て問合とひあはすれど左樣の寺は無之これなき由故、文左衞門足摺あしずりして無念骨髓に徹し、三人の内何れか不捕とらへざる事は有べからずと、今もつて尋るよし。

□やぶちゃん注
○前項連関:神隠しの少女の家は番町、本話の詐欺にひっかかる主人公も番町辺りに住まい、地所繋がり。それにしても共犯三人(もしかすると主人公の用人について調べ上げるための登場しない詐欺団の探索方もいるかも知れない)のその衣裳から筋立てに至るまで、興行二日の巧妙な劇場型詐欺である。綿密な計画なしには無理で、酒に軽い眠り薬なんども仕込まれたかも知れぬ。「オレオレ詐欺」なんぞより手が込んでいて、欺される須藤文左衛門なる主人公が如何にも成り上がりの厭らしさを感じさせ、同情も生じず、不謹慎乍ら、極めて面白いダマしなのだ。僕は差し詰め、この禪門辺りをりたいね!
・「仕送り用人」財政担当の用人。武士である。
・「なま才覺」猿知恵。なまじ(中途半端で軽薄なこと)の才覚の略。
・「池の端の料理茶屋とか又は藥屋とかへ」の「藥屋」は不審。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『池の端料理茶屋とか又茶屋とかへ』で、こちらを採る。
・「不思議に御身と昨日よりの知る人なれ共」「昨日」はママ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『きのふ』。訳では「今日」とした。
・「急度きつとしたる獻立」ルビは底本のもの。立派な、精進料理の定式に則った献立。
・「禪門」俗人のままで剃髪し仏門に入った男子を言う。「禅定門」「入道」に同じい。

■やぶちゃん現代語訳

 金子を騙り取った者どもの事

 番町辺りに住んでおるらしい須藤文左衛門とか申す、武家なんどの仕送り用人を務めて御座った、生半可な才覚のくせに、それに驕って御座った男があった。
 去年で御座ったか――いや、一昨年で御座ったやも知れぬ――ある年の師走の二十五、六日のこと、金子二十両をだまし取られて、その怒り、冷めやらず、今にきっと、その無念を晴らさんものと、あちこちを執拗しゅうねく尋ね歩いておる由――我が元へしばしば参る御仁が語った故、その子細を尋ねたところ――

……この文左衛門、ある時、池の端の茶屋だか料理茶屋だかへ立ち寄って休んで御座った折りから、人品卑しからぬ老僧が一人、やはり、彼のそばに腰かけて休んでおった。文左衛門に、相応の僧侶らしい挨拶を致いて世間話なんど致いた上、彼が仕送り用人をしておるという話を聞くと、その老僧、徐ろに、
「……我らの知れる御仁に……まあ、大した額にては御座らねど……金子五、六百両ほどを……しっかりとした心配なきところに貸し付け致したき由にて……利率は五分程度の割安にてよきに計ろうて欲しい……とのことにて……拙僧に適当なる相手を捜いて呉れようと頼まれて御座ったれど……その御仁、特に取り引き相手の素性を……その……気に致いて御座っての……ともかくも、しっかりとした心配なきところにて御座らねば、うっかり世話も致しかぬるので御座るのじゃ……」
と話す。これを聴いた文左衛門は、大いに喜んで、
「なにとぞ!――もし、それ、拙者へ貸し出だいて下さらば――昨今の拙者の仕送りのこれこれの実績から推して頂きましても――しっかりと全く心配なきよう、お世話申し上ぐること、御約束致しましょう! どうか、一つ!」
と懇請すれば、老僧も喜べるていにて、
「そうとなれば、明日にでも早速、金主かねぬしへ引き合わせ致しますれば、この茶屋へお越し下されい。それがしは用向きのあって、江戸へ出て参っておりますが、▲▲にある●●寺と申すさき寺の住職にて御座る。」
と一決、酒など酌み交わし、暫く話しうて御座った。その話の中で、
「……くどいようじゃが、先方は『金子は何より、しっかりとした心配なきところを第一に』とお気遣いになっておられ、そこがツボじゃ……先方は、何ぞの信頼の証しなくしては安堵致しますまい。……そこでじゃ……不可思議なる縁にて、御身とは今日よりの知人にて御座るが……ここは一つ、二人は、もう数年の馴染みであるといった風に……金主へはそれとのう、知らせるに若くは御座らぬ。……金銀の遣り取りに就きても、今初めての様子にては、これ、御座らず……普段より、頻繁に遣り取り致いて御座るように見せ申すがよろしかろうぞ。……そこでじゃ……一つここは、御身も金子二、三十両程を明日みょにちご持参あって、それ、我らより用立て申し上げて御座ったことに致し、たまたまその場にてお返し下すったという風に見せ金致し……そこで拙僧は、やおら懐より御身の証文を出だいて返す……なんどとかの慎重なる金主の前にて、我らが昵懇にして相応の信用の取引を致いて御座るかのように見せ申すが……これ、よろしかろうと存ずるのじゃが、どうじゃ……?」
などと申す僧の言葉に、いちいち尤もなれば、文左衛門も請け合い、台詞なんどの綿密な取り決めを致し、別れた。
 帰る道すがら、文左衛門、笑みを浮かべ、
「いや、何とうまい具合に、仕送りの金蔓を、手繰り寄せたわい!」
と独りごちて御座った。――
 翌日、文左衛門、気が急いて早々に茶店を訪れて見たが、老僧は未だ来ておらなんだ。が、茶屋にては、
「お坊さまより申し遣って御座います。」
との由にて、精進料理を取り交ぜた、いかにも立派なる献立の下ごしらえやら準備やら致いて待っておるとの話し。
 かくして文左衛門も暫く待って御座ったところ、かの老僧が、昨日に、いや勝る、立派なる僧装束を纏い、更に隠居風の禪門と、何やら如何にも勿体ぶった侍の両人同道の上、現れた。
 用意した酒なんどが出だされ、料理なども丁寧に運ばれて参った。
 老僧は、
「――さて、昨日お話し申した御仁にお引き合わせ申そうぞ。――こちらは、拙僧、兄弟同様に親しくして御座るところの、数年の馴染みなる、須藤文左衛門殿じゃ。――しっかりとした心配なきところは――これ、拙僧同様――と、思召さるるがよかろうぞ。」
と禪門と侍に向かって語り、四人して献杯致いた。
 暫くすると、かの禅門が文左衛門に向かって、
「――老僧のお世話故、間違いも御座りますまい。――金子の儀は――そうさ、上限千両ほどまでならば即座に御用立て出来ましょう。……さりながら……いや、利率のことも格段に安く致そうとは思うて御座る……が……額も額、利分も格安なればこそ……万が一、間違いが御座っては……これ、困って御座るのじゃ……。」
と、案の定、シブりが入った。
 文左衛門も昨今の彼の実績なんどを交えて弁を奮い、己れが、正にしっかりとした心配なきところなることを滔々と述べ立て、老僧もまた、これに口添えして、
「文左衛門殿とは、もう数年に亙って金子の遣り取りを致し、いかにもしっかりとした心配なきところなること、これ、神仏に誓って請け合い申そうぞ。――そうじゃ――たまたまのことなるが――文左衛門殿とは、今日も別の一件にて金子の取引を致すことと相い成って御座るのじゃった。……ちょいと失礼仕る……」
とのこと故、文左衛門も懐中より用意しておいた金子をとり出だいて、
「……我らが別件の仕事なれば、御両人には失礼仕る――老師よ、こちらは先日御用立て戴きまして御座る金子三十両――本日、耳を揃えて返上仕りまする――。」
と、老僧へ渡す。――
 老僧は、金子を確かめると、懐中より手形を取り出いて、文左衛門へ渡いた。――
「……御両人には失礼仕った――なれど――御覧の通りの仕儀にて御座れば――御心配、これ、御無用で御座る!――」
と言えば、禅門も侍も、これ、大いに喜悦のていにて、
「――相い安堵致いて御座る!――安心の上は、千両にても五百両にても――明日にでも漏れなき定式の手形なんどを用意の上――拙者の屋敷は深川■■にて御座れば――お越し下されい!」
との確約――流石に慎重なる御仁と見えて、念には念を入れて――手形の書き方・日付・禪門の名の漢字の表記と言った細々したことまで打ち合わせて――そうこうする内……献杯も数十献に及び、文左衛門はすっかり酔っぱろうて、ふっと――居眠り致いて御座った。……
 ……ふと、気づいて回りを見渡せば――座敷には――誰も――おらぬ。
 座の様子を見れば禅門も侍も、とうに立ち帰った様子。
 文左衛門、思わず、非礼の不覚と思うたが……
『いや……それにしても……かの老僧は何処いずこへ参ったものか?』
と茶屋亭主に訊ねてみる。すると、
「今少し前にお帰りになられました。帰り際、今日の宴席仕出しの分は文左衛門さまよりお支払が御座る、と申し置かれて御座いました。」
文左衛門は、己れの泥酔の失態に加えて、宴会費用の意想外の出費に大いに驚き慌てて御座ったが、
「――かの商談、よもや、偽りなんどということは、これ、あるまいて。」
と――かの仕出し代金は予想以上の高額で御座った故――茶屋主人と交渉の上、何とか代金をも支払い終えて帰った。
 さて翌日、文左衛門は揚々と、かの禪門の深川■■にあるという邸宅を訪ねてみた。
……が……
……昨日、本人の言葉によってしたためて御座った、かの禪門の厳かなるなあは……
……たれひとり、知る者とて――ない――。
……文左衛門は真っ青になった……
……かの老僧の住まうという寺は、これ、江戸より外れた遠地に御座ったれども――三日前に話を決した折り、本人が備忘のためと『▲▲の●●寺住持××』なんどと書付けに致いたものを渡されて御座ったれば――飛脚を立て、その地の『▲▲の●●寺住持××』へ問い合わせてみた……
……ところが……
……そのような寺は、これ――ない――との返事……
 文左衛門は地団駄踏み、その無念、骨髄に徹し、
「……サ、三人のうち、いずれか一人でも、つ、つ、ツカマエまえずにャ、お、おカねえッ!!!」
と、今以て、捜し廻っておるとの、ことじゃ。



 賊心の子を知る親の事

 京都三條通りとらんに商人のありしが、一人の小鬼兒を持しが、彼悴かのせがれ五六才の時夏の事也しが、其親へ瓜を食度くひたき由を申けるを、後に調ととのあたふべしといひて過しに、暫く過て瓜商人來りしを呼て直段ねだんを付しが、直段不調ととのはずして瓜商人立歸りぬ。又こそ來んといひしに、彼の五六才の小兒、唯今商人瓜を落し置しとて椽下えんのしたより二つ取出しぬ。其親つくづくと考へて、右の小兒を責め尋しに、直段きめあひの内に瓜二つ橡下へ立廻る振り蹴込たる由を申ける故、彼親大に驚き或は歎き或は怒りて、迚も始終親の愁をなすべき事と、稻荷祭禮の節伏見海道人群集の節、突放して不知しらず顏にて宿へ歸りぬ。妻には途中にて見失ひしと語りて、鐘太鼓して組合を賴み、二三日は迷子を尋、程過ぬればそれなりにしてすみぬ。夫より五七年も過て、扨も捨し子はいかゞ也しやと、流石恩愛の忍びがたきにや、伏見海道へまかりしついでに或茶屋へ寄りて、四五年以前に我しれる人此邊にて子を見失ひしといひし事有りしと語りければ、其子はむかひの多葉粉やに居候若衆わかしゆ也。よき生れ付にて多葉粉屋夫婦實子の如く育て、手跡しゆせき抔も書て今は人も羨む程の子也と語る故、餘所ながら是を見るに、其容儀といひ發明らしき樣子殘る所なければ、扨々殘念成事をせしと思へども今更詮方もなく、又一年も立て其近所にて樣子を聞ば、彌々評判よろしき取どりの沙汰故、頻に殘念に成りて、今や妻にも語り彼多葉粉屋へ至り名乘らんと思ひしが、五六才の時親の愁とも成らんと一度見切りしを、今更ひるがへさんはきたなしとて打過けるが、又二三年過て彼所を通りしに、有し多葉粉屋も行方なし。先に腰懸て樣子を聞出せしみせに立寄、四方山の物語の上多葉粉屋の事を尋しに、其多葉粉屋は先に御咄申せし拾ひ子故に、今はいかゞ成けん行方も知らず、恐ろしきは彼拾ひ子、大きなる盜惡事ぬすみあくじをして、親迄も迷惑の事に及びしとの咄を聞て、よくこそ見限りて能も執着をはなちけるといひしとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:巧妙なる詐欺団から根っからの悪党の少年へ悪事連関。今回の訳は、今までのような根岸の語りを意識した、「御座る」調のくだくだしい感じに少し飽きたので(以降ではまた戻ると思うが)、全体に禁欲的でドライな訳文にしてみた。なお会話文ではやや京都弁染みたものを用いたが、私は京都弁をよく知らないので、心内語はほぼ標準語に統一した。
・「食度くひたき」底本は『くはせたき』とルビを振るが、訂した。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『くいたき』とある。
・「立廻る振り蹴込たる」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『立廻る振りして蹴込たる』とある。こちらを採る。
・「稻荷祭禮の節」伏見稲荷大社の稲荷祭。特にこれは一連の稲荷祭りの中でもその初日に当たる、神幸祭若しくは稲荷のおいでと呼ばれる祭りを指すものと思われる。陰暦三月の中の午の日(二番目の午の日)に行われた(現在は四月二十日の最寄の日曜日に行われている)。なお、三条通りから伏見稲荷へは南北直線距離最短でも五キロ弱離れる。
・「今更ひるがへさんは」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『今更帰さんは』とあるが、本書の方が、父の台詞としてはよい。本書でも実は「かへさんは」と訓じている可能性もあるが、私は文字通り、父親が心を飜す、翻意する、の意で採った。
・「よく」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 生来の賊心を持った子を見抜いた親の事

 京都三条通りとかに、とある商人があった。彼には一人の子があったが、この悴が五、六歳の時の、夏のことであった。その子が父に、
「瓜、べたい。」
と言うので、
「後でうてやるさかい。」
と言い紛らかしておいた。
 その日、暫くして、たまたま瓜売りが通り掛ったのを幸い、家内に呼び入れて値を訊いたが、これが如何にも高い。さんざん値引きを求めたものの、結局、折り合いつかず、買わずに帰した。子には、
「また、直きにほかのもんが売りに来はるて。」
と言い訳した。
 ところが、かの五、六歳の子供は、
「……さっき、瓜売りが落といていかはった……」
と言いながら、縁の下より瓜を二つ、取り出だす。
 父は黙って暫く考えていたが、結局、子をきつく問い糺いたところ、最後には如何にも厭そうに、見たこともない悪しき眼つきにて、それも平然と、
「……ねえをあれこれしとるに、瓜売りのそばで、遊んでおるふりして、ぽんと、瓜二つ、あんじょう、縁の下へ蹴り込んだんや。……」
と、うそぶく。……
……その聊かも悪びれる様子もない獰悪どうあくまなこに、父は大いに驚き、歎き、怒った。
……そうして……
『……さても、この子は、我ら親の、永き愁いともなろうほどに……』
と、心底、感じる自分に気づいていた。……

 翌年、三月の中の午の、伏見稲荷の祭礼の日、父は、かの悴を連れて祭り見物に出掛けた。
 伏見街道には稲荷のおいででの参詣人でごった返していた。
 父はその人混みの中へ――
――子を
――突き放した
――そうして
――素知らぬ顔をして
――そのまま家へ帰った。……
 妻へは、
「……伏見からの帰るさに、はぐれてしもた……」
と悲痛な思いで――を演じて――語り――二、三日の間は、そうした折りの定石通り、人を集めては鉦・太鼓を叩いて迷子捜しに奔走した――振りをした――。しかし、不幸にして――いや、彼には幸いにして――見つかることなく、妻へは神隠しに逢ったと諦めよ――と如何にもな諭しを入れ、それで――仕舞い――となった。

 それから五年か七年も過ぎた頃、
「……さても……捨てたこおは……どないしとるやろ……」
と――かくも非情の仕儀を講じた父も――流石に恩愛の情の忍び難かったものか――ある日のこと、所用で伏見街道へ参ったついでに、とある茶屋へ立ち寄って、店の者と四方山話をしつつ、それとなく、
「……四、五年ほど前のこと、我の知れる御仁が、この辺りで己が悴とはぐれてしもうたことがおますが……」
と水を向けると、
「……そら、向かいの煙草屋におらはる、若衆のことやおまへんか?! なかなか、かわらしいこおで、煙草屋の夫婦みょーとが実の子のように育てて、読み書きもえろううもうての! 今は近隣にても、たれも羨むほどのこおでおます。……」
と語る。
「……いや……そのこおとは……様子が違いますな……」
と言い紛らして、茶屋を出でて、立ち去る振りをした。
 そうして、暫く経ってから戻ると、物蔭より、そうっと煙草屋の方を覗いてみた。……すると……
……その端正な容貌といい……
……利発そうな雰囲気といい……
……最早、かの日の――邪眼の――面影は、これ、微塵も残してはおらなかった。……
『……さてもさてッ!……残念なことを、してしもうた!……』
と思ったが、今更、詮方もなかった。――

 また、一年が経った。
 また、かの近所にて、それとなく、かの悴の様子を訊く。――と――いよいよ評判よろしく、聴くことは皆、これ、何もかもが――褒め言葉に続く褒め言葉ばかり――であった。――
 これを聴くに至って――父は、流石に深く、慙愧の念に襲われた。
『……かくなる上は……妻にも総てを打ち明け……かの煙草屋へと参って……親の名乗り、しょうか……』
と、思ったのだが、
『……五、六歳の時、親の愁いともならんと……一度は見切りをつけて沿道に棄てたものを……今更、子知らずの、かの非道の思いと行いを……都合よう、翻して……返してくれと言うは……これは……汚ない!!……』
と、またしても、何もせず、うち過ぎた。――

 かくしてまた、二、三年が過ぎた。
 男がまた、かの伏見街道を通った。
 そこにあったはずの――煙草屋が――ない――。
 四、五年前、最初に床几に腰懸けて様子を訊き出した、あの煙草屋の正面にあった、かの茶屋へ立ち寄って、あの折りと同じ店の者と、又しても四方山話をしつつ、それとなく、なくなった向かいの煙草屋の話に水を向けると、
「……あの煙草屋は、ほうれ、ずうとせんにお話し致しました、あの拾い子のため……今はどないしてはるやろ……一家離散して、行方も知れんようになりましたんや……ああ、恐ろしゅうおすは、かの拾い子……よう言わん盗みや悪事を働き……親御はんともども……仕置きを受くる羽目になりはったんやそうどす……」
と語った。――
「……矢張り……さればこそ……よくこそ……あの時……かの者、きっぱりと、見限ったわ!……よくこそ……あの時……恩愛の執心、美事、見放いたわ!……」
と父は一人ごちた、とか言うことである。



 咽へ尖を立し時呪の事

 小兒抔のどへ魚の骨を立て難儀の時、鵜の鳥のがひの上に觜置はしおきて骨かみ流せ伊勢の神風、と三遍唱へてなづれば、拔る事奇々妙々の由。或人かたりける也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。先行するまじないシリーズの一。株式会社メディカルトリビューンのHPのここにある耳鼻咽喉科専門医の記載によれば、『喉に刺さりやすい魚の骨は、タイやサバなどの太くて大きな骨より、ウナギやイワシ、サンマなどの小骨が多い。刺さる場所は、外から見える扁桃へんとうが一番多いが、時には、喉の奥の舌の付け根である舌根扁桃に刺さることもあ』るが、これらの場所であれば局所麻酔を掛けて簡単に抜くことが出来るが、『さらに奥の声帯の裏側の下咽頭に刺さると、刺さり方によっては、全身麻酔で手術することにな』るとある。但し、『しばらくして痛みが消えれば、多分、骨は抜けているので、受診する必要はない』。『痛みが続くと、刺さったと思われる場所を指などで触って、自分で抜こうとする人がいる。あるいは、ご飯の丸のみを試みる人もいる。それでうまく抜ければよいが、刺さった骨の出ている頭の部分だけが折れ、残りの骨は粘膜の中に埋没し、痛みだけが残るケースも少なくない』ので、本記載のようなものも含めて生兵法は禁物である(最後に、食後に骨が刺さったようなチクチクした痛みが二~三箇月以上も続き、首にしこりがある場合は、咽喉癌の疑いがあるので専門医への診断を促している)。底本の鈴木氏の注に「松屋筆記」(江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風随筆)の「二」から引いて、『酢味噌をゆるくしたものに広東縮緬の粉をいれて飲ませれば、たちまち平癒するとある』とし(「広東縮緬」は不詳。ちりめんじゃこのことか? 識者の御教授を乞う)、またネット上でも、酢を飲むと刺さった骨が柔らかくなって抜けるとする投稿を見たが、これ、柔らかくなるには相当時間、その突き刺さった骨が酢に浸る必要があり、私は非科学的であると思うが、如何? 因みに、私は小学校二年生の夏、来客の残した鮨のエビの尾っぽの残骸を、賤しくもしゃぶり喰っているうちに咽頭へ突き刺さり、自分で抜こうとしてますます悪化、翌日、母に連れられて行きつけの歯科医に行き、抜いて貰った経験がある。馬鹿正直に当時の絵日記に書いてあるから、これ、否定しようがない恥ずかしい事実である。
・「尖」は「とげ」。
・「鵜の鳥の羽がひの上に觜置て骨かみ流せ伊勢の神風」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 鵜の羽の羽がいの上に嘴置きて骨かみながせ伊勢の神風
である。この和歌の意味には当然なんらかの民俗学的な故事が関与するものと思われるが、不学にして分らぬ。上の句の表現するところは、鵜が大きく喉を反らせて自分の羽交いの上に頭部(嘴)を置くことを意味することを考えると、その意を真似て大きく咽頭部を反らせる動作を伴っていた可能性がある。「かみ」は無論、「嚙み」と「神」を掛けて、「神風を」引き出し、その呪力による骨の粉砕を言上げするものであろう。更に、この岩波版の和歌を声に出してみると、明白に、上の句でハ音を、下の句でカ音を多く発音させる意図が見える。これを三度繰り返して顎を大きく緩やかに動かすことによって、咽頭内部の蠕動を促して、突き刺さったものを自然に押し出そうとするのが真の目的ではあるまいか。さすれば、効果のない迷信とも言えない気もしてくる。

■やぶちゃん現代語訳

 喉に棘が突き刺さった場合の呪いの事

 子供などが喉に魚の骨を突き立てて困った時、
  鵜の羽の羽がいの上に嘴置きて骨かみながせ伊勢の神風
と三辺唱えて喉の辺りをやさしく撫ぜると、たちどころに抜けるのは実に不可思議なることじゃ、とある人が語って御座った。



 美濃國彌次郎狐の事

 美濃國に彌次郎狐とて年を經し老獸ある由。郡村寺號共に忘れたり。右老狐出家に化して折節古き事を語りけるが、紫野の一休和尚の事を常に咄しけるは、一休和尚道德のさかんなるといふ事聞及びて其樣子をためさんと、其頃彼寺の門前に親子住ける婦人むこをとりしが、親子夫婦あいも穩やかならずして離縁しけるを聞て、彼女に化て一休のもとへ來りて、夫とは離れぬ、母の勘氣を受けて詮方なし、今宵は此寺にめ給はれといゝければ、-休答て、我々門前の者ゆへ是迄は對面もなしぬ、其門前を出ぬれば若き女を寺にはめがたしと斷ければ、出家の御身なれば何か外疑ほかのうたがひもあるべき。女の闇夜に迷はんを捨給ふは情なしと恨かこちければ、さあらば臺所のすみなりとも客殿の椽頰えんばな成共なりとも夜を明し給へ、座敷内へは入難しと被申ける故、其意に任せて宿しけるが、元來道德を試んとの心なれば、夜に入て一休の臥所ふしどへ忍入りて戲れよりければ、一休不屆の由聲を懸け、有合ありあふ扇やうの物にて背を打れしに、誠に絶入たえいりもすべき程に身にこたへ苦しかりし、げにも道德の高き人也とかの老狐語りし由。其外古き事など常に語りしが、今も活けるやと人の語りける。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関しないが、本巻では既出の通り、既に直接的な妖狐譚が有意に多く、これもその一連の妖狐シリーズの一つ(それ以外にも、既出記事ではその超常現象を「狐狸の仕業」とするものも多かったが、これは当時の一般的な物謂いであるから、連関というほどではない)。またこの一休咄の類は、既に「巻之二」の「一休和尚道歌の事」で挙げており、且つそれは本話同様、女色絡み(本話は堅固だが、あっちは奔放)である。なお、リンク先の私の注も参照されたい。
・「紫野」京都府京都市北区紫野にある大徳寺。一休(応永元(一三九四)年~文明十三(一四八一)年)。は応永二十二(一四一五)年にここで高僧華叟宗曇かそうそうどんの弟子となり、師の公案「洞山三頓の棒」に対し、「有漏路うろじより無漏路むろじに帰る一休み雨降らば降れ 風吹かば吹け」(「有漏路」は煩悩の世俗、「無漏路」は悟達の仏界の意)と答えて、それに因んで華叟より「一休」の道号を授けられた。応永二十七(一四二〇)年のある夜、鴉の鳴き声を聞いて俄かに大悟した。華叟は印可状を与えようとしたが、一休はそれを辞退、華叟は「馬鹿者!」と笑いつつ送り出したとされる。各地を流浪行脚、応仁の乱後の文明六(一四七四)年には後土御門天皇の勅命によってここ大徳寺の住持に任ぜられた。その再興に尽力はしたが、寺には住まなかったという(リンク先では一休の事蹟に「世界大百科事典」を用いたので、こちらはウィキの「一休宗純」を参考にした)。
・「古き事」本執筆時を寛政九(一七九七)年として一休の没年で計算しても、三〇六年前、この「彌次郎狐」は有に三百歳を越えている。
・「外疑ほかのうたがひ」と訓じたが、底本は「がいぎ」と音読みして、他人からの疑いの意で用いているのかも知れない。しかし、若き女の台詞として「外疑がいぎ」は如何にも相応しくないと思うのである。
・「臺所」禅宗ではこういう言い方はしない。厨房は典座てんぞという。

■やぶちゃん現代語訳

 美濃国の弥次郎狐の事

 美濃国に弥次郎狐と呼ばれた年を経た老獣がおるとの由――話柄の舞台となる郡村も寺号もともに失念致いた。――
 ――この老狐、出家に化けては、しばしば恐ろしく古い話を語ったりして御座ったが、殊の外、紫野の一休和尚の話を好んで話した。その中でも、弥次郎狐自身が女人に化け、一休和尚に挑んだという、とっておきの話で御座る――

……あるときのことじゃ、我ら、『一休和尚は道徳堅固なる名僧じゃ』というを聞き及び、それがまっことなるものか、一つ試したろう、と思うたのじゃった。
 丁度その頃、一休の御座った小さき寺の前に、母と娘の二人が住んで御座った。その若い娘が婿をとったものの、若夫婦との仲、また、母と娘との仲が、これ、穏やかならずして、どうも丁度その日、かの夫婦めおとは、これ、離縁したというを地獄耳じゃ……かの肉のほむらの冷めやらぬ娘にまんまと化けると、やおら、寺にったのじゃ……
「……夫とは離縁致し……母からは勘気をこうぶり……万事休して、御座りまする。……今宵、一夜……どうか、この寺に……お泊め下されぃ……」
と、よよと縋ったところが、一休、
「――我とそなたは寺と門前という仏縁の一つ世に住まいする者で御座ったが故、これまでは対面たいめ致いて参った者じゃ――なれど、かくも門前を出でて俗界へと奔ったとなれば――まこと、人の縁を断って、うら若き女人の丸のままと相いなって御座るそなたを――この寺内てらうちに泊めんというは、これ、如何にも難きことじゃ……」
と否んだによって、我らは、
「……悟りを開いたご出家の……外ならぬ徳道堅固のあなたさまにて御座いますれば……一体、何処の誰が、疑いを抱きましょうや!……女の一人、この闇夜に、行くあてものう、さ迷うて――この『女』独り、この真暗な『闇世』に、さ迷うておるを……お見捨てなさるとは……あまりに……あまりに……情けなきこと…………」
と恨みを含んで歎きつつ、そのまま地に泣き伏せば、
「……されば――座敷内に上ぐることはならずとも――典座てんぞの隅なりとも、客殿の縁の端なりとも、一夜ひとよをお明かしなさるが――よい。」
と申された。
……これも思う壺に嵌まったものじゃ……
……我ら、その意にしたごう振り致いて、まんまと泊まること、これ、出来た。
……元来が――一休なる者が、まこと、徳道堅固ならんかを試さんとの心なれば――夜に入って……一休の臥所ふしどに忍び入り、我らの柔肌にて戯れ寄った……ところが一休……
「――喝ッ!――不届者ッ!――」
と一喝すると――辺りに御座った小さな扇子のような物をもって――我が背を――
――タン!――
と――お打ちになられた――
「……いや! あの一撃! それは鉄槌よりも重う、強う御座った! いや! 正に死なんかと思う痛打で御座った!……いや! げにも……徳道を究めたお人の警策で、御座ったわいのう……」
 と、かの老狐は、しみじみと語って御座ったという。……
「……その他にも、かの老僧、いやさ、老狐……やはり信じ難いほど古いことなんどを年中、語って御座ったが……さても、今も生きておるものやら、どうやら……」
と私の知れる人が語って御座った。



 目黑不動門番の事

 目黑不動の門番、眼を病みて兩眼とも痛みて苦しみける故、藥など用ひて其しるしもなければ、心安き陰陽師おんやうじ八卦はつけ置貰おきもらひけるに、彼陰陽師ぜいをとりて、是は佛神の罰し給ふ所也といひしに、驚き候ていにかへりしが無程眼病癒し故、如何なし給ふと尋ければ、誠に卜筮ぼくぜいとほり佛罰を受しなり、恐るべし恐るべしといひしが、無程一眼又々惡敷あしく成しを尋て、彼陰陽師切に尋問たづねとひしかば、門番答へけるは、我等年久敷ひさしく門番をなせしに、日暮境内の門を〆て後も、參詣の者ありて門外より賽錢を投入れ候て拜する者少なからず、右投入し賽錢を我々の所持として、好める酒にかへて年月を過しぬ、卦面けめんに佛罰との給ふに考合かんがへあはすれば、誠に是ならんと不動へ深く懺悔して誤をのべて祈誓せしに、不思議に兩眼共其病ひ癒へけるに、右門へ投いるる賽錢を所持とせざれば好める酒ものむ事なりがたく、其悲しさ右投入るゝ賽錢を半分は不動へをさめ、半分は酒のあたひとなしけるに、又一眼かくの如し、と懺悔しとや。目黑不動尊も勘定筋はくわしき佛と、おかしさの儘爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐教訓譚から仏罰教訓談へ。本話は私には――眼病の「目」――目黒の「目」――八卦の「目」――賽銭鳥目の「目」――番人と不動の目算のその相違の「目」――といった類感的側面が、まっこと、興味深いのである。
・「目黒不動」東京都目黒区下目黒にある天台宗泰叡山瀧泉寺りゅうせんじの通称。本尊不動明王は江戸五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして知られる。江戸五色不動とは目の色ではなく、五方角(東・西・南・北・中央)を色で示したもので、一般には江戸城(青:江戸城紅葉山付近に創建された最勝寺教学院。現在は世田谷区太子堂に移転)を中心として水戸街道(黄:現在の墨田区東駒形隅田川畔に創建された最勝寺。現在は江戸川区平井に移転)・日光街道(黄:台東区三ノ輪の永久寺)・中山道(赤:文京区本駒込の南谷寺)・甲州街道(白:豊島区高田の金乗院)・東海道(黒:瀧泉寺)五街道起点附近より内側の江戸御府内を結界とする機能を持つと考えられているようである。
・「陰陽師おんやうじ」は歴史的仮名遣ではこう表記し、読む際に連声れんじょうで「おんみょうじ」「おんにゃうじ」となる。歴史的仮名遣で「おんみやうじ」などとは表記しないということである。
・「勘定筋」ものを計算すること、財政収支決算の分野、という意味であろうが、私はこの頃、根岸が罪刑を計量して処罰を下すことを日々の主要な仕事としていた公事方勘定奉行であったことを考え合わせれば、単に収支決算という意味ではなく、番人への違反相当の追徴金や当該犯罪行為への処罰の勘案といったニュアンスが含まれていると感じる。訳ではそれを出した。

■やぶちゃん現代語訳

 目黒不動門の門番の事

 目黒不動の門番が目を病んで、両眼とも激しく痛み、あまりに堪え難かった故、薬なんども用いてはみたものの、一向に効き目がない。そこで親しくして御座った陰陽師に八卦をうらのうてもろうたところ、陰陽師は最後の筮竹を取り置いて目を見た後、
「――これは――神仏が貴殿を罰せられたもの――と出て御座る。――」
と告げたところ、門番は驚愕のていながら、そのまま何やらん、むっとしつつも黙ったまま、帰って行って御座った。
 が、ほどのう、かの陰陽師、たまたま出うたかの番人に声を掛けて訊ねたところが、眼病はすっかり癒えたとのこと故、陰陽師が、
「如何なる『処置』を、これ、なされた?」
と訊ねた。ところが、番人はただ、
「……いやいや……まっこと卜筮ぼくぜいの通り……いやいや……仏罰を受けて御座ったじゃて……いやいや……恐るべし……恐るべし……」
と独り言の如、呟いておったそうな。
 ところが――ほどのう――またしても――片眼が悪うなった――とのことなれば、かの陰陽師、己れの八卦への自信もあればこそ、番人に詰め寄り、執拗しゅうねくその辺りに謂われあらんと問い質いたところ……門番は、やっと重い口を開いた。
「……我ら、永年、目黒のお不動さんの門番をして御座ったが……毎日、日暮れとともに境内の門を閉めるが勤めじゃ。……ところが閉めた後も参詣の者がおって、の……門外より、賽銭を投げ入れては拝む者、これ、少のうないのじゃ。……さても……かく投げ入れられた賽銭……その鳥目……これ実は永らく、我らが役得と致いて参ったものに御座って、の……それを好める酒に代えては……永の年月、暮らいて御座ったのじゃ。……なれど……過日、お主の打った八卦の目がしろしめしたところが……仏罰とのたまうたのと、これを考え合わすれば……まっこと、この役得と致いてきたことが……これ、悪因ならんと感じ入って、の……お不動さまへ深く懺悔致いて……我らが誤れる賤しき行いを総て述べ曝して……仏前に心より祈誓致いたのじゃ。……すると……不思議に両眼ともに、かの執拗しゅうねき病い……これ、嘘のように癒えて御座ったじゃ。……じゃが、の……かの閉じた門の内へと投げ入れらるる、かの鳥目……これ、役得とせずんば……好める酒も、これ、呑む能はざるが如し、じゃて、の……さもしい、さもしい、我らの哀しさじゃ……またぞろ、かの落ち散らばった鳥目を……半分はお不動さまへ納め、残りの半分は……これまた、酒をうための価いと致すに至ったので御座る……ところが……そうしたら、の……またしても、の……今度は、片方のめえ、だけ……かくの如くなったじゃて…………」
と懺悔致いて語った、とかいうことで御座る。
 ――いや――目黒不動尊も金銭勘定収支決算、当該追徴処罰勘案に至るまで――まっこと、細かい仏ならん、と可笑しく思うたによって、ここに記しおいたもので御座る。


 助廣打物の事

 津田越前守助廣が打し刀劍、近年もつぱら世に稱美せし事なり。右助廣は靑山下野守家の鍛冶の由。靑山家には多く所持の家來もある由。當時寺社役を勤ける浦山與右衞門が先祖、大坂より江戸へ歸る餞別に、右助廣と時代をひとしふせし井上直改兩人にて打し兩銘の刀ありて、至つて見事成ものゝ由。主人も右銘刀は無之これなき由、野州忠裕物語ありし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。暫くなかった武辺物で、しかも刀剣なれば本格物である。
・「津田越前守助廣」津田越前守助廣(寛永十四(一六三七)年~天和二(一六八二)年)は、本話記述時(寛政九(一七九七)年)から遡る百年以上前の、江戸延宝年間(一六七三年~一六八一年)に活躍した摂津国の刀工(彼は寛文新刀の最後期を飾る刀工で、彼の死後の元禄期(一六八八年~一七〇三年)は江戸時代で刀工が最も衰微した時期でもある。その後、徳川吉宗が享保六(一七二一)年に全国の名工を集め鍛刀をさせ、一平安代いちのひらやすよ主水正正清もんどのしょうまさきよ信国重包のぶくにしげかね南紀重国なんきしげくにの四人の名工に葵一葉紋を茎に刻むことを許して尚武を奨励したことから次の新々刀の時代を迎える)。通称甚之丞。以下、ウィキの「津田越前守助廣」より引用する。『新刀最上作にして大業物。ただし、刀剣書によっては、角津田・大業物、丸津田・業物などと制作年代によって刃味のランクが区別されていることもある』(日本刀は最上大業物・大業物・良業物よきわざもの・業物の四段階に分けられる)。『摂津国打出村に生まれ、初代助広(ソボロ助広)の養子となる。明暦三年(一六五七年)、越前守受領のち大坂城代青山宗俊に召抱えられる。大坂新刀の代表工であり、新刀屈指の巨匠である。一説に生涯に一七〇〇点あまりの作品を残したとされる。江戸の虎徹とともに新刀の横綱ともいわれ、また同じく大坂の井上真改とともに最高の評価がなされており、真改との合作刀もあり、交流があったことが伺われる。しかし、その人気とともに在銘品(「助廣」と銘のある刀剣)の多くが偽物であり、特に助広、虎徹、真改銘の偽物は数万点を超えると考えられる』(本話の冒頭の謂いから見ると、既にこの頃には多量の偽物が出回っていたものと考えてよかろう)。『刀匠であった養父に学び、二十二歳で独立。茎の銘が時期により異なる。二十二歳から三十歳までは「源・藤原」銘、三十一歳から三十八歳までは「津田」の田の字を楷書で切った角津田銘、三十八歳から晩年の四十六歳までは草書で丸く田の字を切った丸津田銘を使用した』(現在、特にこの丸津田が刀剣を扱う古物商の間では彼の特徴とされて珍重されることがネット上からは窺われる)。『初期には養父、大坂新刀諸工に見られる足の長い丁子刃等を焼くが、壮年期に大互の目乱れを波に見立て、地に玉焼きを交える濤瀾刃を創始し、後世含め諸国の刀工に多大な影響を与え、人気を博した。弟に津田越前守照広、妹婿に津田近江守助直がおり、それぞれ名工である。門人には常陸守宗重や大和守広近などがいる』。作風の特徴としては、造り込みは『脇差、二尺三寸前後の刀が多い。踏ん張りが付き先反りのつく、前時代の寛文新刀と比較して優しい姿となる。切先が伸びた姿のものが多い』(以下続くが、刀剣の専門用語が多く、注を附さねばならないので省略する)。『重要文化財に指定されている刀(銘「津田越前守助広 延宝七年二月日」、個人蔵)がある。その他、重要美術品に八件認定されている。また、都道府県、市町村で文化財に指定されているものが多い』(以上、アラビア数字を漢数字に代えた)。因みに、昔の刀鍛冶は、古くは公家に金を払って国守や国司名を貰い、「肥後守」や「上総介」を名乗ったり、召し抱えられた城主や藩主の叙任の名を賜ったりした者がいた。なお、私は「広」という間の抜けた字体が個人的に好きではない。訳でも彼の名前は「助廣」で通した。 ・「靑山下野守」青山忠裕(ただやす/ただひろ 明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)は丹波篠山ささやま藩第四代藩主。老中。寺社奉行・若年寄・大坂城代・京都所司代といった、幕閣の登龍門とされるポストを残らず勤めて文化元(一八〇四)年に老中に起用されて三十年以上勤め上げ、文化・文政期の幕閣の中心人物として活躍した。参照したウィキの「青山忠裕」によれば、文政元(一八一八)年に『藩領の王地山に、京焼の陶工欽古堂亀祐を招いて窯を開かせ』、『また、内政面では地元で義民とされる市原清兵衛ら農民の直訴を受け、農民が副業として冬季に灘など摂津方面に杜氏として出稼ぎすることを認めた』とある。
・「寺社役」青山忠裕は寛政五(一七九三)年から寛政八(一七九六)年まで寺社奉行を勤めたが、藩主が寺社奉行に就任すると、その家臣から抜擢された者が実務担当として寺社奉行の事務を執り行った。
・「井上直改」底本には『(尊・三本「眞改」)』と傍注する。「三本」とはもと、三村竹清氏が所蔵していたと考えられる「日本芸林叢書本」のことを指すものと思われる(本底本には凡例がない)。「眞改」が正しい(訳では正した)。井上真改(いのうえしんかい 寛永七(一六三〇)年~天和二(一六八二)年)摂津国の名刀鍛冶。本名、井上八郎兵衛良次。以下、参照したウィキの「井上真改」より引用する。『津田越前守助広とともに大坂新刀の双璧と称される刀工。俗に「大坂正宗」などとも呼ばれ、現在重要文化財に指定されている刀と太刀がある(現在、江戸期に製作された刀に国宝指定は無い)』。『刀の銘は壮年期まで「国貞」を用い、晩年「真改」と切る(「真改」の頃は御留鍛冶といって藩主の許可がないと作刀を引き受けられなかったため、「真改」銘の刀は少ない)。真改は陽明学を学び、中江藤樹の影響を強く受けたとも言われている。書をはじめ刀剣以外の美術・工芸にも造詣が深かったらしく、その書画も高く評価されている。酒豪だったらしい』。『一説には和泉守を受領していた国貞に儒学者の熊沢蕃山に「刀鍛冶が一国の太守を名乗るとは分不相応ではないか?」と諭され、以来「真改」銘に改めたとされている』。『作品の特徴としては直刃』が主で、『津田越前守助広との合作もある。地鉄は大坂新刀屈指の美しさ』とされる。『寛永七年(一六三〇年)、刀工であった井上国貞の次男として日向国木花村木崎にて生まれる。九歳のとき、当時京都に居た父の下に赴き作刀を学び始める。十代の後半には既に一人前の刀工としての力量を示し、二十歳ごろには盛んに父の代作を行ったといわれる。作刀は、殆ど大坂で行われた』。『慶安五年(一六五二年)、二十四歳で父の死去に伴い襲名。飫肥藩伊東家から父同様百五十石を与えられる。同年中の承応元年(一六五二年)、二十五歳の時に「和泉守」を受領ずりょう。銘を「和泉守国貞」と切る』ようになった(「飫肥」は「おび」と読み、日向国那珂郡南部(現在の宮崎県日南市のほぼ全域と宮崎市の南部を含む)にあった藩。藩主は外様大名であった伊東氏)。『寛文元年(一六六一年)、朝廷に作品を献上したところ賞賛され十六葉菊花紋を刀(なかご)に入れること許された。この頃より銘を「井上和泉守国貞」とした。寛文十二年(一六七二年)八月より、儒者の熊沢蕃山の命名で「真改」と改称。銘も「井上真改」と切』るようになったが、『天和二年十一月九日(一六八二年十二月七日)、急逝。食中毒とも一説に大酒の後、井戸へ転落したとも言われる。享年五十三。墓所は大阪上寺町の浄土宗重願寺』にある(以上、アラビア数字を漢数字に代えた)。
・「大坂より江戸へ歸る餞別に」私が不学にして馬鹿なのか、意味が分からない。この先祖が、何の目的で江戸から大阪に行ったのか(江戸の下屋敷詰め? 「大坂」は自藩の丹波のこととはちょっと思われない)、大阪で何をしたのか(これだけの名物の餞別を貰うということは、相応の働きがなくてはおかしい)、誰がそれを餞別として下したのか――助広の名物を持つ以上、これはもう青山の前の藩主としか思われないが、彼は「大坂」にいたということになる。すると、一つの可能性は見えてくる。実は初代藩主青山忠朝(あおやまただとも 宝永五(一七〇八)年~宝暦十(一七六〇)年)は宝暦八(一七五八)年十一月二十八日に大坂城代となっており、恐らくは現職のまま、宝暦十(一七六〇)年七月十五日に享年五十三歳で亡くなっているのである。即ち、この「浦山與右衞門が先祖」なる人物は丹波篠山藩江戸下屋敷詰めの藩士であり、当主忠朝の大阪城代就任に伴い、抜擢されて実務役を仰せ付かり、その職務を終えて、再び江戸屋敷へと帰ったことを言うのではなかろうか? 私の推理に何か不自然な点があれば、御指摘を願いたい。訳ではそのような解釈のもとに訳を敷衍した。

■やぶちゃん現代語訳

 助廣打物の事

 津田越前守助廣が打った刀剣は、近年専ら、世に名刀としてもてはやされておる。
 この助広という刀工は、青山家(現当主・青山下野守忠裕殿)召し抱えの鍛冶師であった由にて、また、青山家には多く、助広の銘の刀剣を所持する家来がおる、とも聞く。
 青山忠裕殿が寺社奉行をお勤めになっておられた当時、その寺社役方を勤めていた浦山与右衛門殿の御先祖が――何でも、初代御藩主であらせられた青山忠朝ただとも殿が大阪城代となられ際、その実務方として勤め上げて――その後に大阪よりもともと勤めておった江戸藩邸へと帰ることとなった折りに――殿よりの格別の――餞別として、この助広と時を同じうして活躍した名工井上真改しんかいと助廣とが、なんと、二人して鍛えた、珍しくもそのなかごに両人の銘を切った刀を、拝領致いたという。この刀、浦山家伝家の宝刀として今に伝えるが、それはそれは至って美事なるものの由にて、現当主であらせられる青山忠裕ただやす殿も、
「――このような銘を切った、かくなる名刀は――二つと、ない。」
と下野守忠裕殿御自身が、私に物語られた話で御座る。



 古へは武器にまさかりもありし事

 大猷たいいう院樣の御守りを、土井酒井一同に御育て申上し靑山忠親子息因幡守は、力量勝れけるや、柄七尺程のまさかりを越前守助廣に鍛へさせて戰場にも被用もちひられしが、右を學びて同樣の鉞を遣ふ勇士ありし故、不面白おもしろからずとて尚又正高まさにかさ大ぶりにして用ひし由。是又野州忠裕物語なり。

□やぶちゃん注
○前項連関:名工津田越前守助廣話で青山下野守忠裕直談で本格武辺二連発。
・「まさかり」は通常の木を切り倒す斧の中でも大きい斧或いは丸太の側面を削って角材を作るための刃渡りの広い斧を特にまさかりと呼ぶ。武器として特化した斧には、柄を長くして破壊力を増した戦斧(西洋のバトルアックス)や、目標に向かって投擲する投斧(インディアンの使用するトマホーク)などがあるが、本邦での戦斧の使用は南北朝以後と考えられており、文献では「太平記」に、観応の擾乱の末期、正平八・文和二(一三五三)年、幕府方の長山遠江守(藤原利仁の子孫遠山頼基か?)が南朝方の赤松氏範との一騎討ちで、五尺(約一五〇センチメートル)の大太刀二振りを佩いた上に、刃長八寸(約二四・五センチメートル)の大斫斧おおまさかりを持って戦ったという記載がある。なかなか面白いシーンなので、以下に該当箇所を示す(新潮日本古典集成「太平記 五」を一応の底本としつつ、総てを正字に代え、一部の読みや表記を変えた)。

赤松彈正少弼氏範は、いつもうちごみのいくさを好まぬ者なりければ、手勢ばかり五、六十騎引き分けて、返す敵あれば、追つ立て追つ立て切つて落す。
『名も無き敵どもをば、何百人切つてもよしなし。あつぱれ、よからんずる敵に逢はばや。』
と願ひて、北白河を今路いまみちへ向ひて歩ませ行くところに、洗革あらひがはの鎧のつま取りたるに、龍頭たつがしらの甲の緒をしめ、五尺ばかりなる太刀二振りきて、齒のわたり八寸ばかりなる大鉞おほまさかりを振りかたげて、近付く敵あらばただ一打に打ちひしがんと尻目に敵を睨んでしづかに落ち行く武者あり。赤松、遙かにこれをみて、これは聞ゆる長山遠江守ごさんめれ。それならば組んで討たばやと思ひければ、諸鐙もろあぶみ合せてあとに追つ著き、
「洗革の鎧は長山殿と見るは僻目ひがめか、きたなくも敵に後ろを見せらるる者かな。」
と、言葉を懸けて恥ぢしめければ、長山きつとふり返つて、からからとうち笑ひ、
「問ふはたそとよ。」
「赤松彈正少弼氏範よ。」
「さてはよい敵。ただしただ一打ちに失はんずるこそかはゆけれ。念佛申て西に向かへ。」
とて、くだんの鉞を以て開き、甲の鉢を破れよ碎けよと思ふさまに打けるところを、氏範、太刀を平めて打ちそむけ、鉞の柄を左の小脇に挾みて、片手にて、えい、や、とぞ引たりける。引かれて二匹の馬あひちかに成りければ、互に太刀にては切らず、鉞を奪はん奪れじと引き合ひける程に、蛭卷ひるまきしたる樫の木の柄を、中よりづんど引き切つて、手本は長山手に殘り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留まりける。長山、今まではわれに增さる大力あらじと思ひけるに、赤松に勢力を碎かれて、叶はじとや思ひけん、馬を早めて落ち延びぬ。氏範、大にきばを嚙みて、
「詮無き力態ちからわざゆゑに、組んで討つべかりつる長山を、打ち漏しつる事のねたさよ。よしよし敵はいづれも同じ事、一人も亡ぼすにしかじ。」
とて、奪ひ取りたる鉞にて、逃ぐる敵を追つ攻め追つ攻め切りけるに、甲の鉢を眞向まで破り付けられずといふ者無し。流るる血には斧の柄も朽つるばかりに成りにけり。
簡単な語釈を附しておく。
●「うちごみの軍」敵味方多数の軍勢が乱闘する集団戦。
●「今路」底本の山下宏明氏頭注に京都市左京区修学院から音羽川に沿い四明岳を経て延暦寺に至る』雲母きらら坂を限定的に言っているものか、とある。
●「洗革」薄紅色に染めた鹿のなめし革。揉んで柔らかくした白いなめし革とも。
●「僻目」見誤り。見間違い。
●「かはゆけれ」可哀そうだ。哀れなものよ。
●「鉞を以て開き」鉞を持って少し下がり。一騎打ちで打ち込むための助走のため。
●「太刀を平めて打ちそむけ」太刀を横に払って、鉞を振り下ろそうとする長山の機先を制し、自分の左体側にうち外させた、ということを言うものと思われる。
●「蛭卷」滑り止め・補強や装飾の目的で刀の柄や鞘、槍・薙刀・斧などの柄を、鉄や鍍金・鍍銀の延べ板で間をあけて巻いたもの。蛭が巻きついた形に似ることからの呼称。
●「詮無き力態ゆゑに」つまらぬ力較べなんどをしているうちに、の意。
●「一人も亡ぼすにしかじ」一人でも多くうち亡ぼすに若くはあるまい、の意。

「流るる血には斧の柄も朽つるばかりに成りにけり」が慄っとするほど素敵だ!――但し、戦斧の使用は兵站の建設や城門破壊が主目的であったと考えられている(以上の鉞の解説部分は主にウィキの「斧」及び「戦斧」を参考にした)。本文ではこの鉞の柄の長さを「七尺」(約二メートル)とするのは、斧としては勿論、戦斧としても、とんでもなく長い。更にそれを更に一回り大振りにしたということは、斧部も柄もより大きく長くなるということになって、恐ろしく重く巨大で長い鉞――ガンダムが振りましてもおかしくない鉞ということになろうことは、これ、認識しておく必要があるであろう。
・「土井酒井」老中土井利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二十一(一六四四)年)と酒井忠世(元亀三(一五七二)年~寛永十三(一六三六)年)。同じく老中青山忠俊(天正六(一五七八)年~寛永二十(一六四三)年)と三名で家光の傅役(ふやく・もりやく)となった。因みに各人のついて簡単に解説しておく(複数の資料を参考とした)。
●土井利勝は、系図上では徳川家康の家臣利昌の子とするも、家康の落胤とも伝えられる。幼少時より家康に近侍し、次いで秀忠側近となった。家康の死後は朝鮮通信使来聘などを務めて幕府年寄中随一の実力者として死ぬまで幕閣重鎮として君臨した。
●酒井忠世は名門雅楽頭系の重忠と山田重辰の娘の嫡男として生まれ、秀忠の家老となる。元和元(一六一五)年より土井・青山とともに徳川家光の傅役となったが、家光は平素口数少なく(吃音があったともある)、この厳正な忠世を最も畏れたとされる。但し、秀忠の没後は家光から次第に疎まれるようになり、寛永十一(一六三四)年六月に家光が三十万の軍勢を率いて上洛中(彼はそれ以前に中風で倒れているためもあってか江戸城留守居を命ぜられていた)の七月、江戸城西の丸が火災で焼失、報を受けた家光の命によって寛永寺に蟄居、老中を解任された。死の前年には西の丸番に復職したが、もはや、幕政からは遠ざけられた。
●青山忠俊は常陸国江戸崎藩第二代藩主・武蔵国岩槻藩・上総国大多喜藩主。青山家宗家二代。江戸崎藩初代藩主青山忠成次男。遠江国浜松(静岡県浜松市)生。小田原征伐で初陣を飾り、兄青山忠次の早世により嫡子となった。父忠成が徳川家康に仕えていたため、当初は同じく家康に仕え、後に秀忠に仕えた。大坂の陣で勇戦し、元和二(一六一六)年に本丸老職(後の老中)となった。忠俊は男色や女装を好んだりした家光に対して諫言を繰り返したことから次第に疎まれ、元和九(一六二三)年十月には老中を免職、減転封、最後は相模国高座郡溝郷に蟄居した。秀忠の死後、家光より再出仕の要請があったが断っている。
・「靑山忠親子息因幡守」底本鈴木氏注には、「靑山忠親」は、遠江浜松藩第二代藩主青山忠雄(あおやまただお 慶安四年(一六五一)年~貞享二(一六八五)年)の旧名とする。彼は初代藩主青山宗俊(先の注の青山忠俊長男。以下に示す)の次男である。もうお分かりのように、ここには錯誤があって、「靑山忠親子息因幡守」は「靑山忠俊子息因幡守」で、青山宗俊(慶長九(一六〇四)年~延宝七(一六七九)年)を指す。即ち、
〇青山忠俊――青山宗俊――青山忠雄(忠親・青山宗家四代)……青山忠裕(青山宗家十代)
が正しい青山家系図であるが、これを
×忠俊孫・青山忠雄(忠親)――忠俊子・忠雄(忠親)父・青山宗俊
としてしまったためにタイム・パラドックスのようになってしまっているのである(訳では事実に合わせて訂した)。因みに、前掲の青山忠俊を除く、その子と孫について簡単に解説しておく。
●青山宗俊は、元和九(一六二三)年、父忠俊が家光の勘気を受けて蟄居になった際、父とともに相模高座郡溝郷に蟄居した(当時満十九歳)が、寛永十一(一六三四)年に家光に許され再出仕。書院番頭に就任して旗本となり、次いで大番頭、加増により大名となって、後には大坂城代を勤めた。延宝六(一六七八)年に遠江浜松藩五万石藩主青山家初代となった。彼は、「耳嚢卷之三」の「大坂殿守廻祿番頭格言の事」に記されている天守閣炎上の際の、実際の(リンク先の根岸の話には錯誤がある)当時の城代であった彼の沈着冷静な判断と処理方法をもって、賞讃された。底本の鈴木氏注には、この『大坂城代の時助広を家の刀匠とする』とある。しかし、そうすると、この本文にあるような鉞を奮うべき「戰場」が、ない。もしかすると、これは彼の父で、大坂の陣の勇士とされる青山忠俊の逸話ではあるまいか? 但し、その場合は助廣はもとより、その父ソボロ助廣であっても、この鉞の作者とするには無理が生ずる。取り敢えず、ここは本文通りに訳しておいた。
●青山忠雄は遠江浜松藩の第二代藩主。青山宗俊次男として信濃小諸にて出生、延宝七(一六七九)年、父の逝去により満二十八歳で家督を継いで第二代藩主となるも、六年後に三十四歳の若さで逝去、跡を弟で養子であった忠重が継いでいる。以下、青山忠裕に繋がる青山宗家系図(「……」部分の省略した五人)は多くが養子による縁組による嗣子である。

■やぶちゃん現代語訳

 古えは武器に鉞もあったという事

  大猷院家光様の御傅役もりやくとして、土井・酒井らと一丸になって将軍様をお育て申し上げた老中青山忠俊殿の御子息に当たられる青山因幡守宗俊殿は――その力量に於いては、これ、並外れたものをお持ちで御座ったのであろうか――その柄だけでも七尺程もあるまさかりを、かの名工越前守助広に鍛えさせ、実戦にてもそれを用いられたとのことで御座る。
 ところが、宗俊殿のその華々しい奮戦を見、それを真似て、同様の鉞を遣うて戦う勇士が現れた故、宗俊殿、
「――面白う――ない!」
と、なおも一回りも大振りなる鉞を助広に鍛えさせ、それを用いられた、とのことで御座る。
 これもまた、青山宗俊殿の御子孫に当たられる下野守忠裕殿御自身が、私に物語られた話で御座る。



 鯲を不動呪の事

 鯲を買ふ時、升に入りても踊り狂ふ故、一升調ひて外器ほかのうつはへうつせばわづか也。すへかさを臍へ當てゝ、白眼にらみつけて計らせれば、やがて一倍也と人のかたりし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。先行するまじないシリーズの一。――関係ないが、私は大の泥鰌好きである。――「駒形とぜう」を月一遍は喰わないと――致命的な鬱に襲われるのである。
・「鯲」は「泥鰌」「鰌」で条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus。因みに、私がよく授業で言った薀蓄は、ドジョウは鰓呼吸以外に腸呼吸をすることである。水面に浮き上がって再び潜る時、彼らは口から酸素を吸い、その圧を利用して肛門から二酸化炭素を排出している。彼等は水面に出られるような環境でないと――溺死――するのである。なお、「どぜう」という表記は歴史的仮名遣いとしては明白な誤りである。由来としては「どじやう」が四文字で縁起を気にした江戸商人が同音の三文字に変えたものとも言うが、不詳である。更に関心のあられる向きは、ドジョウの博物誌として、私の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「泥鰌」の項及び私の注を参照されたい。
・「不動呪」は「うごかさざざるまじなひ」と読む。
・「升に入りても」江戸の泥鰌売りは一升桝の量り売りであった。これを知らないと本話の意味が分からない。tachibana2007氏のブログ「食べ物歳時記」の「江戸っ子と泥鰌と川柳」に、
 こはさうに泥鰌の枡を持つ女 (「柳多留」)
と桝にぎゅつと一杯よ、泥鰌売りを睨みつけて買い求めても(これは新潮社日本古典集成の「俳風柳多留」の宮田正信氏の注によれば、跳ね回る泥鰌を気味悪く感じている女の情で描いたものとする。付句は「こぼれたりけりこぼれたりけり」。)
 おちつくとどじやう五合ほどになり (「万句合」安永三(一七七四)年
という始末で、泥鰌売りは踊り暴れる泥鰌を巧みに計り売りし、泥鰌が桝の中で落ち着いてみれば、半分ほどしか入っていなかった、とある(川柳の一部の表記を正しい仮名遣に直させて頂き、解釈も私の独断を交えた)。この五合が、更に本話柄の最後と繋がるのである。即ち、「一倍」、桝正一合強は買える、というのである。
・「末の蓋」岩波版長谷川氏注に『椀のふたの一番小さいもの。』とある。
・「白眼にらみつけて計らせれば、やがて」二箇所とも底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 泥鰌を動かないようにさせるまじないの事

 泥鰌を買う時、桝に入れても大暴れするゆえ、一桝うても、ほかの器に移して鎮まってみると、これ、どうみても、一枡どころか、悲しくなるほど僅かしかおらぬ――というは、これまた、世の常で御座る。
 そこで妙法を御伝授致そう。
その一 椀の蓋の一とう小さなを用意致いて、
その二 その蓋を泥鰌の腹の辺りにふと当て、
その三 その泥鰌をぐぃっと睨みつけた上で、
泥鰌売りにそう仕掛けた泥鰌を計らせれば――これ、まさに桝一杯に取れるので御座る……とは、さる知人の語った話で御座った。



 八尺瓊の曲珠の事

 神璽しんじはヤサカニノマガタマ也といふ説は恐れ多き事にて、雨下あまさかひなの論ずべき事にあらめ。往古は日本もたまを以て證據契約珍器ともなしけるや。□□□□□□□といへる人の許にて、先祖より大切になしけるものありとて、靑色の光りある石玉に紐を付印形つけいんぎやう程の大さにせしもの、幾重の服ふくさの内より取出し、古來より八坂にのまがたまと唱へる由主人の語りしと、予が元へ來る人の語りし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。根岸の信心惇直なる神道物。
・「八尺瓊の曲珠」「あましるし」たるところの三種の神器(草薙剣くさなぎのつるぎ(=天叢雲剣あまのむらくものつるぎ八咫鏡やたのかがみ・八尺瓊勾玉)の一つ、八尺瓊勾玉やさかにのまがたま。「八坂瓊曲玉」とも書く。ウィキの「八尺瓊勾玉」によれば、『大きな勾玉とも、長い緒に繋いだ勾玉ともされ、また昭和天皇の大喪の礼時に八尺瓊勾玉が入った箱を持った従者は「子供の頭くらいの丸い物が入っている様に感じた」と証言している』。『「さか」は尺の字が宛てられているが上代の長さの単位の咫(あた 円周で径約〇・八尺)のことである。ただし、ここでいう「八尺」は文字通りの「八尺」(漢代一尺約二三・九センチ計算で約一・八メートル)ではなく、通常よりも大きいまたは長いという意味である。また、「弥栄いやさか」が転じたものとする説もある』。『「瓊」は赤色の玉のことであり、古くは瑪瑙メノウのことである。璽と呼ぶこともあり、やはり三種の神器のひとつである剣とあわせて「剣璽」と称される。その存在について、「日(陽)」を表す八咫鏡やたのかがみに対して「月(陰)」を表しているのではないかという説がある』。『神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連たまつくりべの祖神となる玉祖命たまのおやのみことが作り、八咫鏡とともに太玉命ふとだまが捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊ににぎのみことに授けられたとする』(アラビア数字を漢数字に直し、一部に読みを振って、すべてルビ化した)。現在、三種の神器は、八咫鏡が伊勢の神宮の皇大神宮の、また天叢雲剣が熱田神宮の、それぞれの神体として祀られており、本八尺瓊勾玉は皇居吹上御殿の剣璽の間にレプリカの剣とともに安置されているとされるが、これらは皆、天皇自身も実見をしたことがなく、歴史的経緯を見ても、最早、実物ではあり得ない。また勘違いしている人も多いが、過去の事例を見ても三種の神器は即位の絶対条件ではない。
・「神璽」古くは清音「しんし」であった。通常、狭義には本八尺瓊勾玉や天子の印のことを言うが、三種の神器の総称としても用いる。
・「雨下る」底本には右に『(天さかる)』と傍注する。「天離る」で、空の彼方遠く離れてあるの意から、「ひな」「向かふ」の枕詞。
・「あらめ」底本には右に『(ママ)』注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「あらず」。だが、私は文脈からは「雨下る鄙の論ずべき事にあら」ず、と言っておきながら、その実(批判的視点ではあっても、事実として)、語り出してしまう以上、ここは実は根岸、「雨下る鄙の論ずべき事にこそあらめ、往古は日本も……」と「こそ」已然形の逆接用法のニュアンスであったと考える。そのように訳した。
・「璧」標題の「珠」と同義で、元来は丸い形をした美しい宝石を言うが、ここでは中国古代の玉器の一つを指す。扁平な環状で中央に円孔を持つ。身分の標識・祭器とされ、後には高級装飾品として用いられた。
・「□□□□□□□」底本には右に『(約七字分空白)』と傍注。神器に関わる禁忌を期した意識的欠字。

■やぶちゃん現代語訳

 八坂瓊曲玉の事

 『神璽しんじとは八尺瓊勾玉やさかにのまがたまである。』なんどという言説は恐れ多くも畏きも天離(あまさ)る我らが鄙の者どもが軽々に論ずべきことにては、これ、御座らねど、往古は日本も璧を以って証拠契約の珍宝珍器とも致いたものなので御座ろうか。
 □□□□□□□という人の元に、先祖より大切に伝えて御座るものがあるということで――それは、青色の光輝を持った石製の宝玉に紐を付け、印形いんぎょう程の大きさに成形したもので御座るが――それをまた、その主家の者が、幾重もの袱紗を、如何にも厳かにラッキョウの皮の如く何枚も何枚もひん剥いては、その内より大事大事に取り出だいて、
「――これ、当家にては――古来より――オッツホン!――『八坂にのまがたま』と唱えて御座るものにて御座る……」
と主人が勿体ぶって――否、不敬にも――語って御座った――と、私のところにしばしば訪れるさる人の、語った話で御座る。



 澤庵漬の事

 公事によりて品川東海寺へ至り、老僧の案内にて澤庵禪師の墳墓を徘徊せしに、彼老僧、禪師の事物語のついでに、世に澤庵漬とまうす事は、東海寺にては貯漬たくはへづけと唱へ來り候よし。大猷院樣品川御成にて、東海寺にて御膳被召上めしあがられ候節、何ぞ珍らしき物獻じ候樣御好みの折柄、禪師何も珍物無之これなく、たくわへ漬の香物かうのものありとて香物を澤庵より獻じければ、貯漬にてはなし澤庵漬也との上意にて、殊の外御賞美ありしゆへ、當時東海寺の代官役をなしける橋本安左衞門が先祖、日々御城御臺所へ香の物を、靑貝にて麁末成そまつなる塗の重箱に入て持參相納もちまゐりあひおさめけるよし。今に安左衞門が家に右重箱は重寶として所持せしと、彼老僧のかたり侍る。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、古事由来談として、断絶的とは言えない。
・「澤庵漬」ウィキの「沢庵漬け」によれば、『東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼ぶ』とし、『沢庵和尚の墓の形状が漬物石の形状に似ていたことに由来するという説』、『元々は「じゃくあん漬け」と呼ばれており「混じり気のないもの」、あるいは、「貯え漬け(たくわえづけ)」が転じたものであり、後に沢庵宗彭の存在が出てきたことにより、「じゃくあん」「たくわえ」→「たくあん」→「沢庵和尚の考案したもの」という語源俗解が生まれたとも』ある。何れにせよ、本話が記されたであろう寛政九(一七九七)年頃、十八世紀には『江戸だけではなく京都や九州にも広がり食べられていた』とある。『日本における伝統的な製法では、手で曲げられる程度に大根を数日間日干しして、このしなびた大根を、容器に入れて米糠と塩で』一ヶ月から『数か月漬ける。風味付けの昆布や唐辛子、柿の皮などを加えることもあ』り、『大根を日干し、塩を加えて漬けて水分を減らす事によって大根本来の味が濃縮され、塩味が加わり、米糠の中に存在する麹がデンプンを分解して生ずる糖分によって甘味が増すとともに』、『米糠の中に含まれる枯草菌の産出物によって、ダイコンは徐々に芯まで黄色から褐色に染まる』っていく(現在のものは多くが着色料・甘味料を用いている)。
・「東海寺」「澤庵禪師」などについては「耳嚢卷之一 萬年石の事」の私の注を参照。

■やぶちゃん現代語訳

 沢庵漬の事

 公事によりて品川東海寺に参ることが、これあり、事務方もひと段落したによって、老僧の案内あないにて沢庵禪師の墳墓の辺りを逍遙致いた。その折り、その老僧が禅師の逸話を物語って下された中に、御座った話である――

……世に『沢庵漬』と申すもの、これ、東海寺にては『貯漬たくわえづけ』と唱えて参って御座るものじゃ。……
……大猷院家光様が品川にお成りの砌り、東海寺にて御昼食の御膳をお召し上がりになられましたが、
「何ぞ、これ、珍しきものを、献ずるよう。」
とのお好みにて、沢庵禪師は、
「――禅刹なれば、何も珍しきものはこれ、御座らぬ――お口に合いますものかどうか――当寺伝来の貯え漬けの、香の物なればこれ、御座る。」
と、その香の物を沢庵より直々に献じ申し上げたところ、
……ポリ……ポリリ……ポリポリポリ……
「……これは、何と! 美味ではないか!……沢庵!……これは、『貯え漬け』では、なかろう! 『沢庵漬』、じゃ!」
と、殊の外、御賞美遊ばされた故――只今、東海寺代官役を致いておられる橋本安左衛門殿の御先祖が――翌日より毎日、御城御台所方へ――寺に御座った青貝細工の、献上には聊か粗末なる塗りの重箱にこの、『沢庵漬』、を入れて持ち参り、お納め申し上げて御座った由にて御座るとのこと。……
……今に、安左衛門殿の橋本家には、家伝の重宝と致いて、この重箱が、御座る由に御座る。……

……と、かの老僧が語って御座った。



 痔の神と人の信仰可笑事

 今戸穢多町の後ろに、痔の神とて石碑を尊崇して香華抔備へ、祈るに隨ひて利益平癒を得て、今はいささかの堂抔建て參詣するものあり。予が許へ來脇坂家の醫師秋山玄瑞かたりけるは、玄瑞壯年の頃療治せし靈岸嶋酒屋の手代にて、多年痔疾を愁ひて玄瑞も品々療治せしが、誠に難治の症にて常に右病ひを愁ひ苦しみて、我死しなば世の中の痔病の分は誓ひて救ふべしと、我身の苦しみにたへず常々申けるが、死せし後秀山智想居士と云し由。かゝる事もありぬと、かの玄瑞かたりし儘を記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。神仏関連の滑稽譚(少なくとも根岸にとって)として軽くは連関するか。
・「可笑」は「わらふべき」と読む。
・「今戸穢多町」昭和七(一九三二)年に浅草今戸町に一部編入された浅草亀岡町の江戸時代の旧地名。穢多頭として知られる浅草弾左衛門は、この付近に住んだ。町名でもこのような公然の差別が行われていた現実を我々は真摯・深刻に受け止めねばならぬ。それが先日迄、たかだか一五〇年の昨日の自分達であったことを批判的な意味に於いて忘れてはならぬ。この根岸の話の主部が、私にとって「可笑」しくないのと同様、こういう事実を知ることは「可笑」しくも嬉しくもない。だが、そこで目を瞑ってなにも語らぬ、何も注せぬ、諸本や現代語訳は、いや増しに、不快、であると言っておく。
・「痔の神」底本の鈴木氏注には藝林叢書本の三村竹清氏の注を引いて、『痔の神は、浅草玉姫町日蓮宗本性寺にある秋山自雲功雄尊霊の事にて、今も祀堂もあり、新川の酒問屋岡田孫右衛門手代善兵衛とて、小浜の生なり。痔疾に苦しむ事七年、延享元年甲子九月二十一日没せるなりと云』とある。この本性寺は現在の東京都台東区清川にあり、医療法人社団康喜会の運営するポータル・サイト「痔プロ.com」「痔の散歩道 東京編」に、奥沢康正氏の「京の民間医療」からの引用として、『秋山自雲尊者、秋山自雲功雄尊霊とも呼ばれる秋山自雲は、延享元年(一七四四)痔病に苦しんで亡くなったという岡田孫右衛門の法名です。岡田孫右衛門は、摂津国川辺郡小浜村(一説に安倉村)の造り酒屋に生まれ、姓は狭間といい、通称を善兵衛といいました。長じて江戸へ出て、酒問屋、岡田孫左衛門の所に奉公しましたが、見込まれて岡田家を継ぎ、岡田孫右衛門と改めました。三十八歳の時に痔病を患い、治療につとめましたが全治せず、ついに浅草山谷本性寺の題目堂に参籠して、法華経を唱え、病気の祈願につとめました。しかしその甲斐もなく、七年間痔病に苦しみ、延享元年(一七四四)九月二十一日四十五歳で亡くなりました。臨終に際して、「願わくば後世痔疾痛苦の者来って題目を信仰せば、われこれを救護し利益を垂れん」との誓願を発して瞑目したと伝えられます。その後、痔を患う友人が、墓前に願を垂れたところ、完治したといい、その噂はたちまち広がって、痔疾平癒の信仰が生れました。はじめは浅草の本性寺に祀られ、後に摂津国小浜村本妙寺と京都東漸寺に分祀され、更に後には、全国の日蓮宗寺院に分祀されていきました』とある(アラビア数字を漢数字に、二重鍵括弧を鍵括弧に代えた。リンク先では門柱の「ぢの神」や自雲の墓、祭祀する題目堂の写真を見ることが出来る)。なお、岡田孫右衛門が罹患していたのは痔ではなく、直腸癌であったものと思われる。
・「脇坂家」播磨龍野藩脇坂家。寛政九(一七九七)年当時の当主は、第七代藩主脇坂安親。
・「秋山玄瑞」脇坂家に仕えた秋山宜修(かくしゅう 生没年未詳)。「脚気辨惑論」などの医書が残る、江戸の著名な医師。
・「秀山智想居士」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『秋山自雲居士』とある。これでないと先に示した本性寺の事蹟とも一致しないし、また――「可笑事」――にもなるまい。但し、附言するなら、これは孫右衛門にとっては真剣な思いであったことを、その遺志は素直に真摯に受け取るべきものであり、「可笑」は私には極めて不快であることを言い添えておきたい。根岸の頻繁に現れる日蓮宗嫌いが悪い形で出た一篇と言えよう。

■やぶちゃん現代語訳

 痔の神と痔を患う人との可笑おかしな信仰の事
 今戸穢多町の後ろに痔の神と称して、石碑を尊崇、香花なんどを供え、これを祈るにしたがって痔の病状が好転快癒を得る、なんどという噂が忽ちのうちに広まって御座って、今ではちょいとしたお堂なんどまで建てられ、参詣する者も多いと聞く。
 私の元にしばしば来られる脇坂家の医師秋山玄瑞げんずい殿の話によれば……この謂われは……

……拙者、壮年の折り、療治致いて御座った患者に、霊岸島の酒屋手代が御座っての。
……この男、長年、痔疾を患っておって、拙者も種々の療法を試みては見たので御座ったが……いや、これがまっこと、真正の……甚だ重い難治性の痔疾で御座っての。
……この手代、不断に、この病いがため……その激しい痔の痛みはもとより……あれこれと思い悩んで、その、心の痛みにも苦しんで御座った。……
……また、彼は、
「……我ら、(痛)!……我らが死にましたならば……世の中の……痔病の苦艱くげんに陥った衆生しゅじょうの分は……これ、(痛)! ちこうて、その痛みより……救わんと、存ずる、(痛)!……」
と、我と我が身の、見るも無残なる堪えがたき激痛がために……七転八倒する最中さなかにあっても……常々、かく申して御座ったのじゃ。……
……なれど……結局……薬石効なく……亡くなって、御座った。……
……その戒名は『秋山自雲じうん居士』と申す。……
……それが、これ……かの痔の神の謂われで、御座る……

……と、いった事実が御座った、と、かの玄瑞が私に語ったそのままを、ここに記しおいて御座る。



 神祟なきとも難申し事

 是も玄瑞ものがたりけるは、同人壯年の頃、同職の者四五輩打連れて採草に出しが、新田大明神と號する義興よしおきの墳墓、今竹の植有うえある所にて、召連めしつれし小僧草を取しを、同伴の者差留さしとめなどせしを不用もちゐず、宿に歸りし後かの小僧の口ばしりて、我住所の草をとれる事の憎さよと罵りよばはりしゆへ、大に家内驚きて右の草を元のごとく戻しければ快全なしける由。英雄の怒氣凝然たる事なれば、後世神を殘すことはりもあらんか。

□やぶちゃん注
○前項連関:医師秋山玄瑞談二連発。
・「神崇なきとも」「かみ、たたりなきとも」と読む。
・「新田大明神と號する義興の墳墓」「新田大明神」は現在の東京都大田区矢口にある新田義興所縁の新田神社。新田義興(元徳三・元弘元(一三三一)年~正平十三・延文三(一三五八)年十月十日)新田義貞次男。奥州の北畠顕家に呼応して上野で挙兵、北畠の奥州軍に加わわった後、吉野で後醍醐天皇に謁見、元服。父義貞の戦死後は越後に潜伏したと考えられている。観応の擾乱とともに鎌倉奪還を目論見、上野国に於いて北条時行を旗頭として挙兵、正平の一統の破綻後は正平七・観応三(一三五二)年、宗良親王を奉じて弟義宗・従兄弟脇屋義治と再挙兵し、一時、鎌倉を占拠するも尊氏の反攻にあって追われる。尊氏没後の半年の後、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と、関東管領畠山国清によって送り込まれた刺客竹沢右京亮及び江戸遠江守高良によって、主従十三人とともに多摩川矢口渡で自刃して果てた。享年二十八歳。「太平記」巻之三十三に拠れば、義興の死後、謀殺の下手人であった江戸高良が矢口渡で義興の怨霊に逢い、惑乱狂死したため、現地の住民が義興の霊を慰めるために「新田大明神」として祀ったと記す(以上は主にウィキの「新田義興」を参考にした)。社殿の背後に円墳があるが、これは「御塚」と呼ばれ、新田義興の墓とされる。古くより「荒山」「迷い塚」などとも呼ばれ、ここに入ると必ず祟りがあるとされる。(現在は立入禁止。この部分は「古今宗教研究所」の「新田神社」の記載に拠った)これらは明和七(一七七〇)年江戸外記座で初演された江戸浄瑠璃の傑作平賀源内(福内鬼外名義)作の「神霊矢口渡」で頓に知られるものであるが、底本の鈴木氏注には『ただし、義興が憤死した矢口の渡はここではなく、もとの鎌倉街道筋の南多摩郡稲城町矢野口であるという説もある』とも記されている。
・「英雄の怒氣凝然たる事なれば、後世神を殘す理もあらんか」前段の如何にも意地の悪い書き方に比してこの素直さ、そして前段の悪意に満ちた表題「痔の神と人の信仰可笑事」と、この「神崇なきとも難申し事」という共感性を比較して見ても、根岸が神道系には(+)のバイアスが、仏教でも日蓮宗系に有意な(-)のバイアスがかかるという私の説を納得戴けるものと存ずる。

■やぶちゃん現代語訳

 神の祟りが無いとも言えぬ事

 これも私の知人、医師秋山玄瑞殿が物語って御座った話である。――

……拙者壮年の折り、同じく医業に携わる者四、五人をうち連れて、薬草の採取に出かけたことが御座った。
……矢口の渡しの近く、新田明神と号す社の後ろに……ほれ、新田義興の墳墓と伝えるものが御座ろう……さても今となっては、すっかり深き竹藪の植わって御座るところなれど……あの周辺で、採草致いて御座ったのじゃが……たまたま、拙者が召し連れて御座った小僧が……拙者からは大分、離れておった故……他の仲間が止めるのもよう聞かずに……かの古墳の内へと入り込んで、薬草を採ってしもうたのじゃ。……
……その日、小僧を連れて屋敷に戻ったのじゃが……夜になると……かの小僧、俄かに大声にて、何やらん、口走り始めた。それを聴くに、
「……我が棲家の草を取るとはッ!……そのことの、アアアッ、憎さよッ!……ウワアアアッ!!!」
と……これまた、子供の声とは思えぬ、野太き韋丈夫の、そりゃ、恐ろしき声にて御座っての……罵り呼ばわって走り回る……
……もう、家内の者も大いに驚き……
……ともかくも、かの言に従わんに若くはなしと一同決して、かの神域より採取した草を、元通り、戻いたところが……
……これ、何事もなかったかのように、小僧は元の通りに戻って御座ったのじゃ……。

――さても按ずるに――かく、英雄豪傑の類いの怒気というもの――これ、死して後も、そこに凝っと動かず、消えず、しっかと残るものなればこそ――死して後の世に、祟りなす、恐ろしき、神ともなって残る、という道理も――これ、決して――妄説とは言えぬのでは、御座るまいか?――


   眼の妙法の事

 柳生が元へ來れる八十の翁、眼鏡なくして今に物を見し故、其眼生めのしやうを賞し尋しに、かの翁四拾の頃商家に寄宿してありし時、夜々みせの者集りて錢をつなぐに、壹人の老人來りて我も手傳てつだはん迚、百文の錢をさしながら勘定するに、壯年の者同樣なれば人々是を賞しけるに、外に藥とて用ひし事もなく、田舍の事なれば眼の爲に醫藥を加へしと云事なし、或人の傳授にて、箒草はうきぐさをひたし物又は切合きりあへにして不絶たえず食する由おしへし故、我等も四十の頃より箒草を日々一度宛用づつもちゐるよし言ひし故、柳生も切合などにして食するに、給惡たべにくき物にもなしとかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:医師の薬草採取から民間治療の薬草で連関。しかしこのふらりとやって来た老人というのは、彼の眼の良さの話の盛り上がりの最中、緡から数枚の銭を掠め取って御座ったものではなかろうか? 人が信じられぬ拙者は、どうも意地悪く読み取ってしまうので御座る……。更に意地悪く言うと……根岸は箒草のあえものを果たして食べてみただろうか? 私はどうも食べなかった気がするのである。そもそもこれが妙法と根岸が信じたなら、彼なら即座に実行に移したはずであり、「柳生も切合などにして食するに、給惡き物にもなしとかたりぬ」で話を切るはずがない。根岸はこの話を、実は胡散臭いものとして記している気さえ、してくるのである……。
・「柳生」呼び捨てにしており、不詳。諸本も注しない。先行する該当人物もいない。もし、著名な剣術指南役の家系の大和柳生藩柳生氏ならば、当時の当主は徳川家斉の剣術指南役であった第八代藩主柳生俊則(享保十五(一七三〇)年~文化十三(一八一六)年)であるが、官位従五位下、采女正・能登守・但馬守であった彼であれば、流石に根岸も呼び捨てにはするまいとも思われる。しかし剣の達人が箒草の和え物をせっせと食っている図というは、これ、面白う御座るな。
・「眼生」眼性。眼のしょう
・「箒草」ナデシコ目アカザ科ホウキギ Kochia scoparia。中国原産。茎が箒のような細く固い。秋に茎ともに赤く紅葉する。古くは茎を乾燥して草箒に用いられた。秋田では、近年は畑のキャビアというキャッチ・コピーで知られる「とんぶり」として食用にする(因みに、「とんぶり」の語源は、ハタハタの卵の呼称である「ぶりこ」(こちらは、江戸初期に水戸藩主佐竹義宜よしのぶが関ヶ原の合戦で義によって石田三成方に加担したことから出羽国久保田藩(秋田藩とも呼ぶ)に転封された際、好きなブリが食えなくなったところに当地で採れるハタハタを食して賞美し、彼はその後、ハタハタをブリと思って食べ、その卵をブリコと呼んだことに由来するという説、嚙んだ際のブリッブリッという音に由来するという説がある)に似た、から伝来のもの、を意味する「唐鰤子とうぶりこ」が省略され、転訛したものとする説が有力とする。また、この実は漢方で地膚子じふしと呼称し、「神農本草経」の「上品」に『味は苦・寒。膀胱をつかさどり、小便が熱利するのを改善し、消化機能を補い、精気を益す。久しく服用すれば、耳目を聡明にし、身体を軽くし、老いによる衰えを防ぐ』、「名医別録」に『皮膚中の熱気を去り、悪瘡、疝を散じ、陰を強くする』とある。現在の中医学では利水滲湿薬に分類され、皮膚の風を散じ、膀胱の湿熱を清利する薬物とし、陰を強める作用があることから、古来補薬に配合されたことを陶弘景が記している。また性質が寒であることから、「新修本草」には目を洗い熱を去ったこと、「薬性論」には陰部の熱感ある潰瘍に煎じ汁で沐浴することなどが記され、ここでの健眼薬効も挙げられている(漢方部分は株式会社ウチダ和漢薬のHPの「生薬の玉手箱」の「地膚子(ジフシ)」を参照した)。
・「切合」「切り和え」「切り韲え」で、茹でて細かく切り、味噌などを混ぜてあえたもの。
・「給惡たべにくき」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 眼の妙薬の事

 柳生殿のもとへしばしばやって参る八十にもなろうという老人、眼鏡もかけぬのに、よう眼が利く故、その眼のしょうを褒め、如何いかがしてかくも良きか、と問うたところ、かく語った由にて御座る。
「……我ら、四十の頃、商家に寄宿致いて御座いましたが、店の者は毎夜集まって、その日の売り上げの銭勘定を致します。銭の穴に紐を通し、さしに致すので御座いますが……そんなある夜のこと、一人の老人がふらっと現われ、
「……細っけえ仕事じゃの……どうら、我らも手伝てつどうたろうかい。……」
と、百文の銭を刺しながら勘定致いて御座るのを見るに、これ、我ら壮年の者と変らぬ手際なれば、場に御座った者ども皆して、褒めそやいて御座いましたところが、
「……特にこれと言うて、特効の薬なんどを用いておるという訳にても御座らぬ……生まれも育ちも田舎のことなれば、眼なんどのため、わざわざ薬をぶくす、なんどというたことも、これ、御座らぬ……ただ、ある時のこと、ある人に教えられて、箒草ほうきぐさをおひたし又はきりあえにしての、しょっちゅう、食べて御座るのよ……それが効いて御座るのじゃろう、の……」
と老人が答えました。……
……はい、それからで御座います、我らも四十の頃より、この箒草を日々、必ず一度は食すように致いて御座いますのです。……」
 これを聴いた柳生殿も、この箒草をきりあえなどに致いて食しておられる由。
 柳生殿曰く、
「そう食べにくいものにても、これ、御座らぬ。」
とのことで御座る。


 齒の妙藥の事

 是も柳生氏かたりけるは、同人の齒性はのしやう至てあしく、壯年の比、口醫こういも四十迄は此齒の無難ならざらん事を示しけるが、或人の教にて、冬瓜とうがんを糠みそ漬にして干上ひあげ、黑燒にして日三度宛ふくみしが、五十に成ていまだ齒の愁ひなし。しかし一兩年又々るぎ抔する事ありしに、又人の教けるは、右冬瓜の黑燒、胡栗くるみの澁皮共黑燒になしたるを合せ、又チサのたうにたちたる軸を黑燒になし、三味合せて用ゆれば奇妙の由聞て、ちさの棠は時節後れて才覺なかりし故、冬瓜胡桃兩種を去年已來いらい用ゆるに、聊か快き事覺へしとかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:話者柳生氏及び民間療法で直連関。本話の話の運び、そしてエンディング――これ、やっぱり根岸の視線は、これ、かなり眇めな気がしてならないのである。
・「冬瓜」双子葉植物綱スミレ目ウリ科トウガン Benincasa hispida。インド及び東南アジア原産。本邦では平安時代から栽培されてきた。漢方では、体を冷し、熱をさます効果があるとされるので、歯周病による歯肉の腫れを鎮める効果が期待出来なくもない。
・「五十に成て」もしこの「柳生氏」が前項で示した柳生俊則であるとするなら、彼は享保十五(一七三〇)年生まれであるから、本巻執筆当時(寛政九(一七九七)年)では、数え七十歳で、計算が合わない。やはり彼ではあるまい。寧ろ、この謂いから、この「柳生氏」は根岸(当時、数え六十四歳)よりも若い可能性が高いということが分かる。
・「るぎ」は底本のルビ。
・「胡栗くるみ」は底本のルビ。マンサク亜綱クルミ目クルミ(胡桃)科クルミ属 Juglans の落葉高木の総称。本邦に自生するものは大半がオニグルミ(鬼胡桃) Juglans mandshurica var. sachalinensis。漢方では音読みして「コトウ」、若しくは胡桃仁「コトウニン・コトウジン)また胡桃肉コトウニクとも呼ばれ、同属のペルシアグルミ(セイヨウグルミ)Juglans regia の種仁を用いる。漢方系サイトの叙述によれば鎮咳・整腸効果があり、喘息・腰痛・便秘及び滋養薬として処方される。また、民間療法では未成熟の果実を摩り下ろして水虫や湿疹に外用すると効果があるとする。以上から見ると、ここでの使用は漢方というより、やはり民間療法の類いか。
・「チサ」キク目キク科アキノノゲシ属チシャ Lactuca sativa。聞きなれないかも知れないがレタス(“Lettuce”英名)の和名である。地中海沿岸原産で本邦には既に奈良時代に伝来している。但し、現在、我々が馴染んでいる結球型のレタスはアメリカから近年持ち込まれたもので、家庭の食卓に普及したのは一九五〇年代と新しい。それまでのチシャは巻かない(結球しない)タイプであった。キク科に属すことから分かるように本来の旬は秋である。従って、本話柄の後半のシークエンスは恐らく厳冬から春夏にかけてと推定出来る。なお、学名もレタスもチシャも語源は同根で、英名の語源となった属名の“Lacutuca”の Lac はラテン語で「乳」を意味し、チシャは乳草ちちくさが訛ったものである(因みに、イネ Oryza sativa の種小名と同じ“sativa”はラテン語で「栽培されている」の意)。これらは新鮮なレタスを切った際に白い乳状の苦い液体が滲出することに由来する命名であるが、これはラクチュコピクリン(lactucopicrin)と呼ばれるポリフェノールの一種で、これには軽い鎮静作用や催眠促進効果があり、十九世紀頃までは乾燥粉末にしたレタスを鎮静剤として利用していたとされるから、この話柄でも歯周病による鎮痛効果が期待されるとすれば、これも強ち迷信とは言えないかも知れない。
・「棠」底本には右に『(薹)』と傍注。たまたま歴史的仮名遣でも一致して「たう」であるが、ここは「薹」が正しい。「とうが立つ」の「とう」で、これは野菜の茎が伸びてしまい、食べ頃を過ぎてしまうことをいうから、チシャが旬を過ぎてすっかり葉が固くなり広がったものの堅い軸(茎)を指している。

■やぶちゃん現代語訳

 歯の妙薬の事

 これも柳生氏の語られた話で御座る。
「……拙者、生来、歯の性質たちが、これ、殊の外、悪う御座っての、壮年の頃には、もう口腔外科医から、
「……残念なことにて御座るが……四十までには、これらの歯……無事にては、これ、御座らぬと推測致しまする……。」
と宣告されて御座ったものじゃ。……
……ところが、ある人の教授にて、
――冬瓜を糠味噌漬けに致いたものを更に干し上げ、これを今度は黒焼きに致いて、毎日一度宛て、口に含むと効果がある――
との由にて……その後は欠かさず、その通りに致いて参った。……
……されば、ほれ、この通り、五十になった今にても、未だ歯の愁いなし!
……と申したいところで御座るが……
……実は一、二年ほど前より、またぞろ、歯がぐらつき始めて御座って、の……
……そこで、先の療治を教えて呉れた者に、再び相談致いたところ、また、教授を受けた。それによれば、
――まず、冬瓜の黒焼きに、胡桃を渋皮のままに黒焼きに致いたものを混ぜ合わせたものを用意致し、更にまた、とうの十分に立ってしもうたちしゃの固く太い軸を黒焼きになして、さても、この二種、都合内容物三種を合わせて、用いれば絶妙――
との由にて御座ったのじゃ。
……ところがじゃ……苣の薹が立ったものと言われても、の……その折りは、これ、とんだ時期外れで御座って、とてものことに手に入らなんだによって……とりあえずは、冬瓜・胡桃両種の黒焼きを合わせたもの、これ、去年以来、ずうっと服用致いて御座ったところ……

「……いや、根岸殿、聊か軽快致いたかの如き気が、致いて御座るのじゃ。……」

と、柳生氏は語って御座った。



 金瘡燒尿の即藥の事

 途中或は差懸り候て、血留ちどめ其外藥をもたざりし時、大造たいさうの疵はしらず、聊の疵か又やけどの愁ひには、靑菜をすりて付るに即效有る事と、坂部能州かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法三連発。火傷のまじないいや民間療法の記載は「耳嚢」には多出する。流石に江戸の花の火事ではある。
・「金瘡燒尿の即藥の事」底本には「燒尿」の部分に鈴木氏による『やけど』のルビがある。標題にはルビを振らないことを原則としてきたので、ここに記す。鈴木氏は「燒床」の誤字と考えておられるようである。「卷之一」の「燒床呪の事」に既出であるが、「燒床やけどこ」は火傷のこと。「やけど」とは「焼処やけどころ」の略であるから、それが訛って「やけどこ」となったものか。岩波版では長谷川強氏は「金瘡燒尿」には「金瘡きんそう焼尿やけど」とルビを振っておられるが、私は後ろを「やけど」と和訓する以上、切り傷を言う「金瘡」は「きんさう(きんそう)」ではなく、「かなきず」若しくは「きりきず」と訓じているように思われるが、如何?
・「大造たいさう」は底本のルビ。
・「やけど」は底本のルビであるが、これまでのルビは( )で附された鈴木氏によるルビであったのに対し、これは( )がないので、原本のルビと判断される。
・「靑菜」は一般には緑色の葉菜類、カブ・コマツナ・ホウレンソウなどを指すが、狭義にはカブの古名ではある。但し、叙述から緊急時に常にカブがあろうとも思われぬから、広範な食用の緑色葉菜類を指しているように思われる。ネット上では、アオキ・ツワブキ・ビワ・アロエ等の生葉が民間薬として挙げられている。
・「坂部能州」坂部能登守広高。本巻の先行する「蝦蟇の怪の事」に既出。寛政七(一七九五)年に南町奉行となり、同八年には西丸御留守居とある。

■やぶちゃん現代語訳

 切り傷・火傷の妙薬の事

 外出した際や、何らかの差し障りが御座って、血止め等の薬を所持しておらぬ時には、大きな外傷は問題外であるが、ちょっとした傷や、また火傷やけどを負って心配な折りには、近くに生えておる青菜などを擦って塗布すると即効があるということを、坂部能登守広高殿が語っておられた。


 館林領にて古き石槨を掘出せし事

 寛政八年の春、館林松平久五郎領内の寺院、三四日續て夢見しに、誰ともしらず來りて境内の畑地を掘りて見ば靈佛あらんと告し故、此僧律義篤實のものにて、其村長へかくと告ければ、かゝる事は何とやら奇怪にいたらんとて取合ざりしが、度々に及び右の僧迷ひを晴したき趣にかたりし故、然らば寺内の儀勝手次第たるべしといひしゆへ、寺にて人を集め深さ壹丈程巾貮間四方程も掘しに、一つの石槨せつかくを掘出せしが、内に太刀一振差添樣さしぞへやうの物ありて、差添の方は朽て銘のごとき文字もあれどわからず、且祠かつやしろやうのものに文字を彫り付たる壹尺四方程の物ありて、文字間滅まめつして讀兼よみかねぬれど、藤原の田原藤太秀郷を葬りし樣なる文言の由、領主役人へも申立けれど、餘り怪異にも流れ如何の事と評議しけれど、又士民の口説くぜちにて風聞も有んとて、月番の寺社奉行へ聞合て屆もせんと、右家士伊藤郡兵衞久世家へ來りて語りける由。公邊へ出なば委細の事も知れなんなれど、先聞し儘を爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。四つ前の新田義興から藤原秀郷で古武士武辺物奇譚連関。 ・「石槨」古墳時代の石製の、棺を入れる外棺。
・「松平久五郎」これは上野館林藩主松平(越智)家第四代松平武寛(宝暦四(一七五四)年~天明四(一七八四)年)、通称久五郎のことであるが、彼はご覧の通り、寛政八(一七九六)年前に亡くなっているからおかしい。これは武寛の長男で第五代当主であった松平斉厚(なりあつ 初名・武厚たけあつ 天明三(一七八三)年~天保十(一八三九)年)の誤りである。訳でも訂した。
・「差添」名詞。刀岩波のに添えて腰に差す短刀。脇差。
・「祠」カリフォルニア大学バークレー校版では『銅』であるが、銅製の埋葬碑文で磨滅というのは私にはしっくりこないので、採らない。
・「藤原の田原藤太秀郷」平将門追討や百足退治で知られる藤原秀郷(生没年未詳)は、下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜十六(九一六)年に隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族とともに流罪とされている(但し、彼は王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない)。将門天慶の乱では天慶三(九四〇)年にこれを平定、複数の歴史学者は平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している。この功により同年中に従四位下、下野守に任ぜられ、後には武蔵守及び鎮守府将軍も兼任した(以上の事蹟はウィキの「藤原秀郷」に拠った)。彼の墓と称せられるものは現在、かつて居城とした栃木県佐野市新吉水や群馬県伊勢崎市赤堀今井町(こちらは秀郷の死後、三男田原千国による供養塔と伝えられる)にあるが、館林藩内に相当する旧群馬県邑楽郡おうらぐん内には、管見する限りでは見当たらない。もしあれば、御教授を乞う。
・「月番の寺社奉行」寺社奉行定員は四名前後で自邸をそのまま役宅とし、月番制の勤務であった。勘定奉行・町奉行と並んで評定所を構成、各種訴訟処理を行った。寛政八年当時は土井利厚・板倉勝政・脇坂安董・青山忠裕。
・「間滅」底本「間」の右に『(磨)』と傍注。
・「久世家」岩波版長谷川氏注には後掲される「津和野領馬術の事」に出る「久世丹州」久世広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)か、とされる。天明四(一七八四)年に勘定奉行となって寛政の改革を推進、寛政八年当時は寛政四(一七九二)年よりの関東郡代をも兼ねていたので、本記述に合致する。これで採る。

■やぶちゃん現代語訳

 館林領内にて古き石槨が掘り出された事

 寛政八年の春、館林藩松平斉厚殿御領内の寺院の住僧、三、四日続けて同じ夢を見た、その夢――
……誰とも分らぬ者が立ち現れ、
「――境内の、どこそこの畑地を掘りなば――霊仏、有らん――」
と告げては消える……
――というていのもので御座った。  この僧、律儀にして篤実なる者で御座った故、その村の村長に、かくかくの由、告げたところ、
「……そのようなこと……これ何やらん、奇体なる趣きの話なればのぅ……」
と、当初は取り合わずに御座ったれど、この僧、何度も村長に面会に及び、
「――何としても、この疑念を晴らしたく存ずればこそ……。」
と執拗に掛け合って参る故、遂に村長も折れ、
「……然らば……寺内てらうちのことなれば……勝手に致すがよかろう。」
と許諾致いた。
 そこで、寺では檀家衆を集め、かの夢告の指し示した場所を、深さ一丈、幅二間四方程も掘ったところが――
――一つの石槨せっかくを掘り出だいた。 ――石槨の中には太刀が一振と脇差ようのものが封じられてあったが、その脇差様のものは、すっかり朽ち果ててしまっており、切った銘の如き文字もありはするものの、判読は、これ、不能で御座った。
――且つまた、石槨中にはそれとは別に、石碑様のものに文字を彫り付けた一尺四方程のものも入って御座って、その文字は、これやはり、摩滅して読み難くう御座ったれど、読もうなら、
『――藤原の田原の藤太秀郷を葬れり――』
といった文言で、御座ったという。
 以上の事実を領主及び役人へも申告致いたが、
「……発掘の経緯も出土の品々も……いや、これ、あまりに奇怪きっかいに過ぐればこそ……如何いかがなものか……」
と、議論百出、なれどもまた、
「……このまま等閑なおざりに致さば……いずれ、土民の噂ともなり、尾鰭も附いて、突拍子もない風聞としてお上のお耳に入らばこそ……これ、我らが対応の不備を咎め立てられんとも、限らぬ……」
ということになって、結局、月番の寺社奉行へ正式に申告致すことと相い成って御座った――ということを、かの館林藩家士伊藤郡兵衛殿が関東郡代久世広民殿方へ参上の上、物語って御座った由。
 御公儀への正式な調査報告書が提出されれば、もっと細かな事実も判明致すものと思われるが、先ずは伝え聞いたままを、ここに記しおくことにする。



 老姥の殘魂志を述し事

 御普請役元締を勤ける早川富三郎が祖母死しけるが、隣家の心安くせし同位の者方へ至りて安否を尋ける故、右の妻不快の事を尋、快よくて目出度抔述ければ、病中尋給りてかたじけなし、暇乞に參りしといひし故、御普請役の家内なれば、旅などへおもむき候やと相應の挨拶なしけるに、向ふの町家の心安き者の方へも行て、同じ樣に禮など述ける。久々わづらはれける老姥らうぼ快くて目出度めでたき由、暇乞抔の給ひし事もあれば、同輩の妻も町家の妻も、富三郎方へ罷らんと立出に、富三郎方にては葬禮の仕度などなしける故、驚きて尋ければ、右の老姥は今朝相果し由聞て、何れも驚きけるとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:霊異で軽く連関。実は「耳嚢」にはそれほど多くない、文字通り、本格の怪談物である。
・「老姥」は「らうぼ(ろうぼ)」と読んで、祖母の意。
・「御普請役元締」勘定奉行勘定所組頭の下役であった支配勘定(財政・領地調査担当)の、その下役の一職名。底本の鈴木氏注に『御役高百俵、御役金十両』とある。
・「早川富三郎が祖母死しけるが」怪談として「死しけるが」は意図的に外して訳した。
・「同位」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『同信』。後に「同輩」と出るので、主人が御普請役元締と同位の役方の意であろう。
・「御普請役の家内なれば、旅などへ赴候や」当時の慣習からは、職務上の外地への出張に於いては家族の同行は原則許されず、単身赴任であることが普通であると思われるので、訳では少し辻褄合わせを行った。

■やぶちゃん現代語訳

 老姥ろうぼの残魂の遺志を述べた事

 御普請役元締を勤めて御座った早川富三郎の祖母、隣家で親しくして御座った富三郎同輩方の屋敷へ参って、この同輩が妻へ無恙むようの挨拶に訪れた故、隣家の妻、富三郎祖母儀は病中にて思わしからざるを聴き及んで御座ったればこそ、かの祖母に、病いの様子を尋ね、
「すっかり快ようなられ、これはこれは、おめでとう御座りまする。」
と言祝いだ。すると、かの祖母、
「病中は、お見舞いを賜わって忝のう御座いました。今日は、暇乞いに、参りまして御座います。」
とのこと。御普請役の家内いえうちなれば、富三郎儀、職務によって遠国へでも出役するによって、祖母も養生でも兼ねて附き添うて、ともに旅立つのででもあろうかと、隣家の主婦も相応の挨拶をして別れた。
 主婦が、その帰るさを見送って御座ると、かの祖母は向かいの、やはり心安うして御座った町家の者のところへ寄って行き、同じ様に礼を述べておる様子で御座った。
 そこで、かの祖母の帰るを見計らって、かの同輩の妻、向かいの町家を訪ね、
「久しゅう煩はれておられた老姥の快気なされたは、これ、めでたいことにて御座いまする。旅立ちの暇乞いなんども賜わったことなれば。」
とて、同輩の妻も町屋の妻も、富三郎方へご快気祝いに旅立ちのお餞別のご挨拶を兼ね、二人してお訪ね申しましょう、ということ致し、すぐに一緒に立ち出でると、富三郎方へ参った。
 すると何やらん、富三郎方にては葬礼の支度なんどを致いておるようなればこそ、驚いて、
「……何方か、御不幸でも?……」
と尋ねたところが……
……かの祖母は今朝……儚くなられた由……
 かの両人、
「そんな! 先程、我らが宅へ元気に参られ……」
「そうで御座います、我らが宅へも! そうして何やらん、『暇乞いの挨拶』とか……」
と、驚き叫んだところで……声も出でずになった、とか申すことで御座る……



 女の幽靈主家へ來りし事

 鵜殿うどの式部といへる人の奧にて召仕ひ、數年奉公して目をかけ使ひし女、久々煩ひて暇を乞ひし故、養生の暇を通し暫く退けるに、右女來りて式部母隱居の宅へ至り、色々厚恩にて養生いたし難有ありがたき由をのべければ、老母も其病氣快よきを悦び賀して、いまだ色もあしき間よく養生いたし歸參してつとめよと申ければ、もはや奉公相成候由、土産とて手前にてこしらへし品とて團子を一重持參せし儘、左もあらばまづ養生がてら勤よかしとて挨拶なしければ、右女は其座を立て次へ行し故、老母も程なく勝手へ出、誰こそ病氣こころよきとて歸りしが、未色もあしければ傍輩も助合たすけあひて遣すべしと言しに、家内の者共右下女の歸りし事たれもしらずと答へて、所々尋しに行方なし。さるにても土産の重箱有しとて重を見しに、重箱はかたのごとくありて内には團子の白きを詰めて有し故、宿へ人を遣して聞しに、右女は二三日已前に相果しが、知らせ延引せし迚右宿の者來り屆候に、不思議の事也と鵜殿が一族のかたりける也。

□やぶちゃん注
○前項連関:女の死霊の挨拶連作。
・「鵜殿式部」岩波の長谷川氏注に鵜殿『長衛ながもり。寛政二年(一七九〇)御小性組頭、七年西城御目付。』とある。西城は江戸城西の丸のこと。鵜殿氏は藤原実方の末孫と伝えられるが、本家は衰亡、庶家長忠が徳川家に仕えて旗本として名を後世に伝えているとされるので、その子孫と考えて間違いないであろう。
・「一重」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『二重』とする。主人と家内の同僚の分も含むものであろうから、二重の方が自然か。

■やぶちゃん現代語訳

 女の幽霊の主家へ挨拶に参った事

 鵜殿式部長衛ながもり殿という御仁の奥向きにて召し仕え、数年奉公致いて目をかけて使って御座った女が、永らく病を患ろうて暇を乞うた故、養生のためにいとまを遣わして御座った。

 そんな暫く経った、ある日のこと、かの女、式部の母の隠居致いて御座った邸宅へと訪ねて参り、
「数々の厚き御恩を蒙り、永の養生をさせて戴きまして、まことに有難たく存じました。」
と挨拶致いた。
 老母も、
「そなたの病気、快方へ向こうたか?」
と悦んで、慶賀致いたが、
「……なれど……未だ、顔色も良うないのう。……さても、今少し、よう養生致いて、またすっかりようなったら、また帰参して勤めよや。」
と諭したところが、
「いえ、もうしっかりとご奉公致すこと、これ出来まする。」
と述べた上、土産と称し、
「これは手前が拵えました不束なる品にて御座いますが……」
と、団子を一重、すうっと差し出だいて御座った。
「そう申すのであれば……先ずは、養生の続きと心得て……無理せず、勤めるがよいぞ。」 と挨拶なしたところ、かの女、深々と礼を致いて、その座を立って、次の間へと引き下がって御座った。
 老母もほどなく勝手方へ回り、場に御座った者どもへ、次のように声を掛けた。
「××が病気快癒とて帰って参りました。なれど、未だ顔色もわろきことなれば、傍輩の者も、よう、皆、助けおうて遣わすように。」
と言うたところが、勝手方はもとより、家内の者ども皆、
「……大奥さま……その……お言葉ながら……手前どもたれ一人として……下女の××が帰ったとのこと……一向に存じませぬので、御座いますが……」
と答える故、
「そんな馬鹿なこと!」
と、家内のあらゆるところを捜させて御座ったれど……
……女は、忽然と消え失せて、これ、御座らなんだ。……
 老母は、それでも、
「……そんな!……それ! 何と言うても、ここに、土産の重箱がある!……」
と、老母の、居間を指すを見れば、確かに、かく仰せの重箱が御座った。
 そこでその重を開けて見たところ、内にはこれまた確かに、団子の白きが、綺麗に詰めおかれて御座った。
 さればこそ、かの女の里方へ人を遣はして訊ねさせたところ――
「――娘××儀は、二、三日ほど前……薬石効なく、相い果てまして御座いました……が……急な事とて、先様へのお知らせ、これ、延引致す結果と相いなり……まことに申し訳の程も御座いませぬ……」
と、かの里方の者、直々に言上の上、謝罪に参って御座った。

「……いや……全く以って……不可思議なることで御座った……」
とは、鵜殿殿の一族の者が、私に語って御座った直談にて御座る。



 淸乾隆帝大志の事

 乾隆帝けんりゆうてい治世の時反逆の者ありて召捕其罪を尋問せしに、彼主人申けるは、我は中華歴代の人物也、今の天子は夷狄いてきの種類なれば、是をほろぼして中華正流に復さんと思ふ事、あながち非とせんやと答ける時、帝の曰、人間より見れば或は華人或は夷狄人と云ふべし。天より見給はゞ華夷の差別なんぞあるべきや、縱堯舜たとひげうしゆん遠裔えんえいにて中華正流の天子たりとも、民をしいたげ惡逆桀紂けつちうの如くならば天なんぞ是を助けん、夷狄又しか也とありしかば、彼反人も屈伏しける由、近頃の書にて見しと黒澤儒生のかたりける。流石に五十餘年治世にて、此國と同じく四海太平に靜謐せいひつありし事、大量の英才と異國の事ながら爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。先行する「聖孫其のしるしある事」の珍しい中国物で連関。同じく儒学者からの話柄でもある。なお、不学にして本話が何を典拠とするものかは不明。識者の御教授を乞うものである。
・「乾隆帝」(一七一一年~一七九九年)は清第六代皇帝。在位は一七三五年~一七九六年。諱は弘暦、廟号は高宗。康熙帝・雍正帝に続く清朝絶頂期の賢帝。外征によって西域を押さえ、チベットにまで版図を広げた。学術を奨励、「明史」「四庫全書」といった多くの欽定書の編纂を命じており、中国の文物をこよなく愛し、自ら多くの漢詩ものしている(参照したウィキの「乾隆帝」によれば、現在の故宮博物院に残る多くのコレクションは彼の収集になるものと言う。本話の執筆時下限は寛政九(一七九七)年であるから、実にアップ・トウ・デイトな国外の未だホットな噂話と言える(但し、乾隆帝は祖父康煕帝の在位期間を超えることを遠慮して嘉慶帝に譲位したので、実際には院政をひいているから、実はこの話は現在進行形であるとも言えるのである)。
・「彼主人」底本に『尊本「反人」』と右に注する。訳は誤字と見て「反人」で採る。
・「たとひ」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 清乾隆帝の大志の事

 つい先日終わった清国は乾隆帝治世の出来事である。
 反逆者があって、この者を召し捕って、その罪科を糺した。
 するとその反逆者は以下の如くに主張した。
「私は中華歴代の正統なる漢人の子孫である。今の天子は満州人にして夷狄の類いであるから、これを亡ぼして中華の連綿たる正しき流れに復さんと思うこと――どうしてこの天道に適う志を――非道にも非とせんとするか!」
と答えた。
 それを聴いた乾隆帝は、
「一介の人間より見れば――或いは華人、或いは夷狄人とも言うのであろう。――しかし、天より見給うたならば、華人と夷人とに何の差があると言うのか?――たとえ中華伝承の聖王たる尭・舜の末裔にして中華伝統の連綿たる正しき流れを受け継いだ天子であろうとも――人民を虐げ、桀・紂の如き悪逆非道の中華伝説の暴君であったならば――天はどうしてこれを助けるはずはあろうか? いや、金輪際、ない。――このことわりは華人であろうと夷狄であろうと――また、同じで、ある。」 と答えた。
 かの反逆者も、流石にこれは屈服致いた、という話。……

「……近頃、唐伝来の書にて管見致いた話にて御座る。」
と、出入りの儒者黒澤殿が語ったものであるが、流石は五十有余年に亙る治世を、我が国と同じく、四海全き平らかにして波静か――搖るぎなき泰平安国を成し遂げられた皇帝なればこその、その志しを受けた出来事と言えるものにて、異国のことながら、想像を絶した度量の広さを持った英才ならんと感ずること頻りなれば、ここに記しおいて御座る。



 慈悲心鳥の事

 日光山に慈悲心鳥といへるあり。じひしんと鳴候由兼て聞しが、予御用に付三ケ年彼御山に登山せしが其聲聞ざりし故、大樂院龍光院外一山の輩に尋しに、中禪寺の奧などにては常に鳴く由。邂逅たまさかには日光の御宮近邊へ來りし事あり。鳩程の鳥にて羽翼美しき物なれど、餘り里近く出ざれば見る者稀の由語りしが、寛政の頃日光奉行を勤し太田志州、登山の折から中禪寺にても聞しが、大樂院の森にて新宮祭禮湯立ゆだてありし時其聲を聞しが、じひしんと心字をひき候て、餘程高く鳴候鳥也。葉隱れに鳴く故其形は志州見留ざりし由語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:乾隆帝の高邁なる志から畏れ多き権現様家康公の霊威瑞兆で連関。
・「慈悲心鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax。成鳥は全長凡そ三二センチメートル。頭部から背面にかけては濃灰色の羽毛で覆われ、胸部から腹面にかけての羽毛は赤みを帯びる。胸部には鱗模様を持つ。幼鳥は胸部から腹面にかけて縦縞が入っている。脚は黄色で脚指は前二本後二本の対し足。托卵する。日光では初夏(五月中旬)に渡って来て囀るが、和名も異名ジヒシンチョウもその鳴き声のオノマトペイアである。サイト「日光野鳥研究会」の「ジュウイチ」のページには、江戸時代に書かれた日光ガイドブック「日光山志」に日光はジュウイチの産地とあり、また『この鳥は「神山に住む霊鳥で、自らの名を呼ぶ」』などとされ、『「仏法僧」と鳴くと思われていたブッポウソウ、「法、法華経」と鳴くウグイスを加えて、日本三霊鳥として』崇められたとする。同族類では『ウグイス以外は、身近な鳥ではないだけに色々想像され、神格化された部分があったと思』われ、特に江戸時代有数の霊場であった日光に棲むことから格別な霊鳥と意識されたと考えられるとあり、また、「日光山志」『には、ジュウイチのいるところとして「荒沢、寂光、栗山辺にも多く(中略)人家のあるところでは声を聞くことは希なり」と書かれてい』るとも記す。リンク先では慈悲心鳥の鳴き声も聴ける。神霊の声を耳を澄ませてお聴きあれ。但し、他の音源を聴くに、私には「ヒュイチィ! ヒュイチィイ!」と聴こえ、また、連続して囀ると、本文でも触れているようにテンポと音程が徐々に早く高くなるように思われる。
・「予御用に付三ケ年彼御山に登山せし」既出であるが、根岸は勘定吟味役として、安永六(一七七七)年から安永八(一七七九)年までの三年間、日光東照宮・大猷院(家光)霊屋・本坊日光山輪王寺及びその附属建物並びに日光山諸寺諸堂諸社諸祠の御普請御用のために日光山に在勤している(「卷之一」の「神道不思議の事」参照)。
・「大樂院」当時の東照宮祭祀を司っていた日光山輪王寺の東照宮別当。廃仏毀釈で消失したが、現在の社務所の位置にあった。
・「龍光院」日光山輪王寺塔頭。大猷院霊屋の別当。非公開ながら建物としては残っている模様である。
・「中禪寺」中禅寺湖畔歌ヶ浜にある天台宗寺院。日光山輪王寺別院。
・「邂逅(たまさか)」は底本のルビ。
・「日光の御宮」東照宮。
・「太田志州」太田資同すけあつ(生没年不詳)。底本の鈴木氏注に寛政六(一七九四)年日光奉行、従五位下志摩守。寛政八年御小性組頭とあり、本話は恐らく寛政八、九年に根岸が彼から聴き取った話柄と思われる。根岸とは当時の官位は同等である。
・「新宮祭禮湯立」「新宮」日光山を構成する一つ、日光二荒山ふたらさん神社のこと。日光の三山である男体山(二荒山)・女峯山・太郎山の神である大己貴命おほなむちのみこと(大国主)・田心姫命たごりひめのみこと(宗像三女神の一人。)・味耜高彦根命あぢすきたかひこねのみこと三神を二荒山大神と総称して主祭神とする。詳しくは「卷之一」の「卷之一」の「神道不思議の事」を参照されたい。「湯立」は神前に釜を据えて湯を沸騰させ、トランス状態に入った巫女が持っている笹や御幣をこれに浸した後、即座に自身や周囲の者に振りかける儀式やそれから派生した湯立神楽などの神事を言う。これらのルーツは熱湯でも火傷をしないことを神意の現われとする卜占術の一種であった。この神事の様を描いたのが、他でもない、「卷之一」の「神道不思議の事」の後半部分である。

■やぶちゃん現代語訳

 慈悲心鳥の事

 日光山に慈悲心鳥というものが棲んで御座る。
 「ジヒシン」と鳴く、とかねてより聞き及んで御座ったが、私はかつて普請御用に附き、かの畏き霊山に三年の間登り詰めて御座ったれど、惜しいかな、一度としてその声を聞き及ぶことは、御座らなんだ。
 在勤中、大楽院・竜光院の他、一山の別当坊供僧や、その関係者なんどにも訊ねてみたところが、湖畔に御座る中禅寺の奥なんどにては常に鳴いておるとのこと。ある者は、
「……ごく稀には日光の御宮近辺へも来たることが御座る。鳩ほどの大きさの鳥にて羽根翼の美しいものにて御座れど、あまり里近くには現れざるものなれば、見ることの出来る者は稀にて御座る。」
との由、語って御座ったのを覚えておる。  つい先年の寛政の頃に日光奉行を勤めておられた太田志摩守資同よしあつ殿は、日光山在任の折り、湖畔の中禅寺にてもその鳴くを聞かれたとのことで御座ったが、また、大楽院の森にて二荒山ふたらさんの新宮祭礼の湯立ゆだて神事が御座った折りにも聞かれたとのことで、
「……『ジヒシーンー』と、『心』の字の部分のを、長ごう引いて御座っての、……また、そのの程は、よほど高うに、鳴く鳥にて御座る。……姿で御座るか?――いや、流石の霊鳥ならんか――葉隠れに鳴く故、その姿は、これ、拙者も見届けることは叶わなんだの。……」 との由、直に承った話にて御座る。



 亂舞傳授事の事

 亂舞らつぷ傳授事いかにもうやうやしくせし事、幷に謝禮等も弟子迄も夫々附屆つけとどけいたす事、らちなき事と咄のついでに、平賀式部少輔せうは七太夫が弟子にて彼道をも深く學びしに、式部少輔申けるは、されば其事也、或時七太夫に向ひ、傳授事の謝禮等あまり事重きは不當あたらざる事也、其藝に執心の者も貧乏の者は其志を不遂とげず無念の事と申ければ、七太夫答けるは、其職分の者其外格別執心の人には、其謝禮の厚薄を不論ろんぜず傳授する事も侍れど、其外金帛きんぱくを以て傳授に入用の懸るも譯のある事と存候ぞんじさふらふ、其子細は、元來亂舞は遊戲の藝なれば輕しめやすく、金銀不足なれば傳授する事もならずといふ處にて、其藝を重んずる所ありしと答し由。謂なき事ならずと爰に書とゞめぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:技芸譚で、先行する「戲藝にも工夫ある事」に遠く連関。この理屈、何やらん、ピンとくる。芸事に限らず、我らが如何なる行為にも、「執心」のないところ、神懸った超絶の舞い――ドゥエンデは宿らぬのである。
・「亂舞」本来は中世の猿楽法師の演じた舞のことだが、近世では能の演技の間に行われる仕舞などをいった。「らんぶ」とも読む。
・「平賀式部少輔」平賀貞愛さだえ(宝暦八(一七五八)年~?)。底本鈴木氏注に、安永五(一七七六)年従五位下式部少輔、同九年(二十三歳)に家を継ぎ、御徒頭・御目付を経て、寛政四(一七九二)年長崎奉行、同九年御普請奉行、とある(生年はこの記載から逆算した)。根岸より十九年下で、当時は三十代後半である。「少輔」は律令制の諸省の次官すけの職名で、大輔たいふの下に位する。読みは「しょうゆう」「すないすけ」等多様で、歴史的仮名遣は「せうふ」の音変化した「せふ」とする説もある。 ・「七太夫」シテ方喜多流の宗家が名乗る名の一つ。寛政期であるから九世喜多七大夫古能ひさよし(寛保二(一七四二)年~文政一二(一八二九)年)。江戸生。明和七(一七七〇)年に喜多流を継ぎ、喜多流中興の祖と呼ばれるが、この頃、第十一代将軍徳川家斉に宝生流が重用されたため、喜多流は実際には不遇をかこった。能芸史や能面の研究に精進し、「悪魔払」「仮面譜」などの多くの能楽書を残している。
・「金帛」きんと絹。附届けの謝金や絹織物の巻物(現在の舞踊で客に弁当代やお土産代として「巻物」と称するものを配るのかこれに由来するか)。
・「輕しめやすく」「かろんじめやすく」と読んでいるか。持って回った言い方で、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『かろんじやすし』の方が自然。

■やぶちゃん現代語訳

 乱舞の伝授事に纏わる事

 乱舞らっぷの伝授は、これ、如何にも仰々しく致すこと、また、並びにその謝礼なんども、伝授する師のみならず、その弟子にまでもいちいち附届けを致すことを、
「なんともはや、とんでもない仕儀じゃ……」
などと話しして御座ったところ、その場に御座った平賀式部少輔殿――高名な喜多流宗家七太夫古能ひさよし殿のお弟子にて、お若いながら、かの能楽の道にも造詣がふこう御座った――その平賀式部少輔が申されることに、
「されば、そのことで御座る。
 拙者、ある時、七太夫殿に向かい、
『……伝授の儀の謝礼など、これ、あまりに高過ぎるは……お畏れながら、聊か不都合にして不当では御座いますまいか? その芸に如何に熱心に精進致いて御座っても――貧乏なる者は――これ、その誠意なる志しを遂ぐる能わざること……これ、拙者、無念のことならんと存ずるので御座います……』
と申し上げた。すると、かの七太夫殿の答えは、
『――能楽を生業なりわいの職分と致す者、その他、格別に舞いに熱心にして精進致いておる御仁には――これ、その謝礼の多寡に拘らず、伝授することも御座る。――なれど、見方によっては、それなりの金品の遣り取りが乱舞伝授に入り用とすることも、これまた、訳のあることと、申そうぞ。――その訳は、と謂うに――元来、乱舞なんどは所詮、遊戯の芸なればこそ「たがが乱舞」と軽んじられ易う御座る。――たかが乱舞、されど乱舞で御座る。――「金銀不足となれば伝授することも成り難し」――ということにして御座ったならば、これ――「その芸を重んずる気持ちも自然、生ずるところ」――という道理にて御座る――』
とのことで御座った。……」
 この説、謂われなきこととも言い難きことなれば、ここに書き留めておくことと致す。


 藝には自然の奇效ある事

 文昭院樣御代みよ、桐の間を勤し祐山いうざんは亂舞の名人にて、今も諷本うたひぼん抔にも祐山の章とて彼道に志す者は重寶ちようほうとなしぬ。祐山の能を見し人の語りけるは、いづれ上手とも名人とも見へしが、或時夜討曾我を舞ひけるに、右能は端能はのうにて初心童蒙どうもうの舞ふ事なるに、祐山のシテにて、右切の太刀かい込んで立たりけりといへる所のあるよし、さしたる仕打しうちもなき所ながら、見物の輩思はずもこれを感賞して一同聲を上し由。老人の語りけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:喜多流第九代古能ひさよしから第七代宗能むねよし祐山へ、乱舞名人芸譚、また、そのドゥエンデで直連関。
・「文昭院」第六代将軍徳川家宣(寛文二(一六六二)年~正徳二(一七一二)年)。
・「桐の間を勤し」江戸城桐之間に詰めた新番と呼ばれた警護衆。実際には、楽人や舞方を中心に、大名・旗本・公家の美童どころを集めたものであった。
・「祐山」喜多七大夫宗能(慶安四(一六五一)年~享保一六(一七三一)年)の号。従五位下丹波守。江戸生。喜多流第二代宗家喜多十大夫当能まさよしの養子で寛文(一六六五)五年に三代目を継いだ。当初、第四代徳川家綱(寛永一八(一六四一)年~延宝八(一六八〇)年)に仕えたが勘気を蒙り、鎌倉に蟄居、次いで第五代将軍徳川綱吉(正保三(一六四六)年~宝永六(一七〇九)年)の指南役となるも、再び貞享三(一六八六)年に改易される。翌年に許され、中条嘉兵衛直景と改名して出仕、御廊下番・桐之間番から宝永六(一七〇九)年桐之間番頭となった(綱吉の没年である)。加増相次ぎ、正徳元(一七一一)年には九百石となり、同五(一七一六)年致仕とあるから(家継の没年である)、次代の家宣、夭折した少年将軍第七代家継まで出仕は続いた。享年八十二歳、実に四代の将軍に仕えた舞人であった。なお、養子十大夫長寛が七大夫となって喜多流第四代を継いでいる(以上は底本鈴木氏注及び講談社「デジタル版日本人名大辞典」等を参考にした)。
・「諷本うたひぼん」は底本のルビ。
・「章」謡本に書き入れた音譜のこと。
・「夜討曾我」宮増作か。曾我十郎裕成(ツレ)・五郎時致ときむね(シテ)兄弟は頼朝の催した富士の巻狩に紛れて、父の仇工藤祐経を討とうと富士の裾野に赴く。兄弟は従者の鬼王(ツレ)と団三郎(ツレ)兄弟を呼び寄せて真意を打ち明け、自分達の母への形見を彼らに託すが、彼らは主君と最後をともにしたい、それが許されないとならばとて、二人は刺し違えて死のうとする。十郎が驚いてこれを押し止めて、説き伏せた上、兄弟して母に文を認め、形見を託して、団三郎・鬼王兄弟を故郷へと送り出す(ここまでが前段)。後、二人は祐経の寝所に忍び込んで本懐を遂げる。中入り後は、その後の場面で、既に十郎は討たれており、五郎(シテ)は剛勇古屋五郎(ツレ)を真二つに斬って奮戦するも、女装した五郎丸(ツレ)に捕らえられて、頼朝の御前に引き立てられていくまでを描く。
・「端能」軽い能。謡曲としての「夜討曾我」は曽我物語を題材とした中でも最も劇的で大掛かりな曲で(観世流小書「十番斬」では間狂言と後場の間に時致と新開忠氏及び祐成と仁田忠綱の斬り合いの場面が挿入される)、アクロバティックであるが故にかく言ったものか。――関係ないが、現代では「端能」と書くと、物質が放射線を出す能力を言う。何と、無粋で哀しいことか。――
・「初心童蒙」能の初心の、それも青少年の演じるものという意。家宣が将軍となった時点でも、祐山喜多七大夫宗能は既に六十歳であった。
・「切」能の終曲部分。以下に「夜討曾我」の中入り後の後段総てを示す(キューブアキ氏の「夜討曽我」から引用させて頂いたが、読みをルビ化し、一部の漢字を正字化、それに伴って注を省略した部分がある)。
   《引用開始》
一セイ
後ツレ「寄せかけて、打つ白波の音高く、閧を作って、騷ぎけり
後シテ「あら夥しの軍兵ぐんびょうやな
   「我等兄弟討たんとて、多くの勢は騷ぎあひて、此處を先途と見えたるぞや。十郎殿、十郎殿。何とてお返事はなきぞ、十郎殿。宵に仁田にったの四郎と戰ひ給ひしが、さてははや討たれ給ひたるよな。口惜しや、死なばかばねを一所とこそ、思ひしに
   「物思ふ春の花盛り、散り々々になって此處彼処に、屍を曝さん無念やな
 地 「味方の勢はこれを見て、味方の勢はこれを見て、打物の、鍔元つばもとくつろげ時致を目がけて懸りけり
シテ 「あらものものしやおのれ等よ
 地 「あらものものしやおのれ等よ。さき手練てなみは、知るらんものをと太刀取り直し、立ったる氣色譽めぬ人こそなかりけれ。かヽりける處に、御内方みうちがたの古屋五郎、樊噲が、怒りをなし張良が祕術を(と)盡しつヽ、五郎が面に斬って懸る。時致も、古屋五郎が抜いたる太刀の、しのぎを削り、暫しが程は戰ひしが、何とか斬りけん古屋五郎は二つになってぞ見えたりける
   「かヽりける處に、かヽりける處に、御所の五郎丸御前に入れたて叶はじものをと、肌には鎧乃袖を解き、草摺かろげに、ざっくと投げ掛け上には薄衣うすぎぬ引きかづき、唐戸からとの脇にぞ待ちかけたる
シテ 「今は時致も、運槻弓の
 地 「今は時致も、運槻弓の、力も落ちて、まことじょぞと油斷して通るを、やり過し押しならべむんずと組めば
シテ 「おのれは何者ぞ
五郎丸「御所の五郎丸
 地 「あら物々しと綿嚙摑わだがみつかんで、えいやえいやと組みころんで、時致上になりける處を、下よりえいやと又押し返し、その時大勢おり重なって、千筋ちすじ)の繩を、かけまくも、かたじけなくも、君のおん前に、追っ立て行くこそ、めでたけれ
   《引用開始》
「運槻弓」は「運、つきゆみの」と「運尽きる」に掛ける。「綿噛」は鎧の胴を肩から吊す革。本文の引用は前の方の地歌の『あらものものしやおのれ等よ。前に手練は、知るらんものをと太刀取り直し、立ったる氣色譽めぬ人こそなかりけれ』の部分に相当する。確かにここは見せ場であるが、えらく前の部分ではある。「切」という言葉は、狭義の最後のシーンを指すものではなく、謡曲の後半シークエンス全体を漠然と指すものなのであろうか。私は寧ろ、この話者の老人が、続く台詞の『譽めぬ人こそなかりけれ』に引っ掛けて、『見物の輩思はずもこれを感賞して一同聲を上し』と語るための、確信犯の引用ではなかろうかという気がしている。訳ではそのように訳した。
・「仕打」俳優が舞台でする演技。仕草・こなしの意。

☆追記補注
二〇一二年七月二十六日にブログで本話を公開したが、私は能に暗い。されば、私に能の素晴らしさを教えて呉れた教え子に、この注の不確かさを検証してもらうように当日、メールを送ったところ、即日、返信を呉れた。以下に示して強力な補注としたい。

 先生、もう能の稽古から遠ざかって二十五年経ちますので、どうかあくまで根拠のない個人の感想としてお読みください。
 能で「キリ」といえば、習い始めの初日から必ず接する言葉です。曲の中から切り取られた文字通り「キリの良い」最後の一部分であり、そこだけを仕舞として習います。同様に「クセ」というのもあり、これは曲の中間のクセ舞の部分です。例えば、金春流の仕舞を習い始めた際に私が始めて教わったのは、「紅葉狩のクセ」でした。その後、師匠のご判断で「羽衣のクセ」「羽衣のキリ」「葛城のキリ」それから「蝉丸の道行」など、多くの仕舞を学ぶことができました。例えば「羽衣のキリ」は「東遊びの数々に~」とシテが謡い、同じ文句を地謡が引き取ってから最後までの部分を指します。「葛城のキリ」は「高間の原の岩戸の舞」とシテが謡い、同じ文句を地謡が引き取ってから最後までの部分を指します。私は「夜討曽我」を学んだことはないのですが、シテがまず謡い、そこを地謡が復唱して引き継ぐということから見ると、シテの「あらものものしやおのれ等よ」から最後までが「キリ」であっても、不思議でないような気がします。
 それから、「端能」という言葉、私は初めて接しました。第一印象では、比較的初心者でも学ぶことが許される軽い曲という意味ではないかなと思いました。学習者にとっての曲の軽重については、以下のHPが参考になるかもしれません。私が初めて学んだ「紅葉狩のクセ」は学習という観点から言えば、軽い曲だったのかもしれません。
HP「鎌倉能舞台」の「謡」の等級について
 ただし、HPにも出ているように、これは所作が簡単であるなどという意味ではないようです。初学者が学ぶ曲を、仮に名人が舞うと、同じ動作なのに全く異なる芸事のように感じられ、芸能の深淵を見る思いがするものです。そうですね、グールド演奏のBWV828のサラバンドを初めて聴いたときに覚える衝撃と、何か似たようなものかもしれません。
 確信犯の引用であるとの先生の推定、素晴らしい! その通りですね。これで文章にウィットが付加されます。仮にもし著者がそれに気づいていなかったとしても(その可能性もありだと思います)、文章はそうすることによって生命力を増すと思います。

■やぶちゃん現代語訳

 芸には自然神妙の技ある事

 文昭院様の御世、桐之間番を勤めた祐山喜多七大夫宗能殿は、これ、乱舞らっぷ名人で御座った。
 今に通行つうぎょうせる謠本うたいぼんなどにもても、『祐山の章』と呼ばれる祐山殿直筆の書き入れが残っており、これらを、かの道を志す者は重宝じゅうほうと致いておる。
 祐山の能を見たことがある、さる御仁の話によれば――確かに世間で言うところの『上手』とも『名人』とも言われん舞人であったとのことで御座るが――これ、ただの『上手』『名人』では御座らなんだ、という……

……ある時のことじゃ、祐山殿が「夜討曾我」を舞って御座ったが……まあ、この能、端能(はのう)で御座って、の……謂わば、そのシテ曾我五郎時致ときむねは、まず、初心者、少年の舞うものと相場が決まって御座る……それを既によわい六十を越えた御大祐山がうたのじゃ……かの切りにはの、
「――太刀取り直し、立ったる気色――」
というシテ五郎の、とびきりの見得を切る見せ場が御座るのじゃが……祐山殿のそれは、さしたるこなしとも見えなんだにも拘わらず……見物の輩、皆……思わず知らず心打たれての、
――『これを譽めぬ人こそなかりけれ』と――
一同、感嘆の声を、挙げてござったじゃ……

……と、その老人の語って御座った由。



 大名其識量ある事

 伊達遠江守村候むらときは至て面白おもしろき人にて、坊主に成度といへど叶はず、鏡に向ひ坊主と見へれば心持よしとて鬢口びんくちを深くそり大奴おほやつこにてありしが、小鼓をうちて能など催されけるが、或時同席の諸侯の許に能ありて見物に參られしが、三番目の脇は寶生ほうしやう新之丞にて、老人にてありしが、中入にあひなど出て暫くのかたり抔ありし。脇はいかにも退屈らしきものなれば、右の處を思ひやりしや、饗應に出し銚子と大盃おほさかづきを遠江守持てすつと立、舞臺に至り新之丞が前にすはり、さぞ退屈なるべし一盃呑ぱいのみ候へとて、大盃に一杯を新之丞に呑ませしと也。武家のなぐさみに見る能なれば、さも有べき事と人のかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:能楽面白エピソードで直連関。私は何とも言えず、本話が好きである。
・「識量」見識と度量。伊達遠江守村候は執筆時には既に鬼籍に入っていた可能性が高い。根岸のこの標題は、もしかすると村候という稀代の「見識と度量」を持った名大名は今やなく、「見識と度量」を持たぬ凡愚の大名がそここに跋扈していることを、どこかで皮肉っているのやも知れぬ。本話者は最後に『武家の慰に見る能なれば、さも有べき事』と如何にも侮蔑的な評を附しており、そこまで根岸はしっかりと採話している。しかし、もしこれに話者(根岸ではない)の本意から見出しをつけるなら、『大名其識量ある事』とは間違ってもなるまいと思われるのである。根岸は、この話をして呉れた点に於いては、この話者に敬意を表しながらも、実はその侮蔑的な評を最後に附した話者の心底に対しては、断固「否!」と断じている、と私は思うのである。いや、寧ろ、本話は最初から評言まで総てが話者の言のように見えても、実は同時代人であった根岸の好意的な直接観察の視点が、冒頭の大奴の映像としてあるように私には思われてならないのである。さればこそ、根岸はこのかぶいた伊達村候を、まっこと『至て面白人』と実感したのであり、能舞台でのそのぶっとんだ仕儀をもってして、標題の『大名其識量ある事』としたのである、と読むのである。この私の見解については、大方の読者のご意見を俟つものである。
・「伊達遠江守村候」伊達村候(だてむらとき 享保八(一七二三)年又は享保一〇年~寛政六(一七九四)年)は伊予国宇和島藩第五代藩主。以下、ウィキの「伊達村候」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『享保二〇年(一七三五年)、父の死去により跡を継ぐ。寛延二年(一七四九年)、仙台藩主伊達宗村が、本家をないがしろにする行為が不快であるとして、村候を老中堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりしたのである。堀田正亮・堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。表面的には、同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残ったようである』。『藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団二十五か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出した。宝暦四年(一七五四年)からは民政三か条を出して民政に尽力し、延享二年(一七四五年)からは専売制を実施する。宝暦七年(一七五七年)一二月には紙の専売制を実施し、寛延元年(一七四八年)には藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建した』。『しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞する。その煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次いだ。そのような中で失意のうちに、寛政六年(一七九四年)九月一四日(異説として一〇月二〇日)に七〇歳で死去し、跡を四男・村寿が継いだ。法号は大隆寺殿羽林中山紹興大居士』。『教養人としても優れた人物で、「楽山文集」、「白痴篇」、「伊達村候公歌集」などの著書を残した。また、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は「耳袋」と「甲子夜話」で賞賛されている』。最後の部分、これ以降に藩政改革の手腕を讃えた記事があるのかどうか(私の記憶では全話の中では今のところ思い出せぬ)、それとも本話を指すのか、調べるのに今少しお時間を頂きたい。
・「鬢口」月代さかやきの左右側面の鬢の辺り。
・「大奴」中間の奴などが結った髪形。月代を広く深く剃り込み、極端に狭く残した両方の鬢と後ろの頂に残した髪とで、髷を極短く結んだもの。奴頭。
・「寶生新之丞」宝生英蕃(ほうしょうひでしげ 宝永七(一七一〇)年~寛政四(一七九二)年)宝生流能役者ワキ方。四世新之丞。享年八十三歳であるから、アップ・トゥ・デイトな話柄とするなら寛政期、伊達村候は寛政六年の逝去であるから、寛政初年頃なら、英蕃八十前後、村候は六十五前後となる。
・「間」間狂言あいきょうげん

■やぶちゃん現代語訳

 それなりの大名にはまっこと見識と度量のある事

 伊達遠江守村候むらとき殿は、まっこと、面白き御仁にて御座る。

 坊主になりたいと思うたが叶うべくもなく、
「――鏡に向こうてみたならば、坊主に見えれば、これ、心地よし!」
とて、鬢口びんくちを深く剃り込み、美事なる大奴おおやっこであられた。

 その異形の村侯殿はまた、小鼓を打ち、能など催さるるがお好みでも御座った。

 ある日のこと、同席諸侯の屋敷にて、能が催され、遠江守殿も見物に参られた。
 その三番目のワキは宝生新之丞が演じて御座ったが、この時、新之丞は相当な老人で御座った。
 中入りに長い間狂言なんどが御座って、更に、暫く語りなどが続く。
 客として御座った遠江守殿、舞台を見るに……その出番をひたすら待つ御座る老ワキ方新之丞……何やらん、如何にも手持ち無沙汰ならんと……見えた。
……されば、その面には出ださぬ新之丞の心持ちを思いやられてでも御座ったものか……
 饗応に出されて御座った銚子と大盃おおさかずき、これ、異形の遠江守殿、両の手に
ぐっ!
と持つ。――
――と――
すっくと立ち――
そのまま
すすっ!
と舞台へと登る。――
――して――
新之丞が前に
ずん!
と座るや、
「――さぞ、退屈で御座ろう。一献、参られるがよろしい――」
――と――
大盃になみなみといだ酒を、新之丞に呑ませた。――

「……とのことで御座る。まあ所詮、武家の慰みに見る能なれば、そんなこともあってもおかしくは御座るまいて……」
とは、それを語った御仁の附言にては御座る。



 戲場者爲怪死の事

 寛政八辰年春より夏へ移る事なりしが、傳馬てんま町に住居せる、旅芝居の座元などして國々をあるきける者、行德ぎやうとくにて芝居興行なし、殊の外當り繁昌して餘程金設かねまうけせしとて同志の者も歡びて、芝居も濟て四人連にて海上を船にて行德河岸を心懸渡海なしけるが、彼座元の者此度は仕合しあはせもよしとて酒肴しゆかうなどを調ひ、四人にて醉を催しけるに、如何なしけん右座元海中へおち、わづかの船中にて行衞なく成し故、殘る三人の者船頭共に大に驚き、又々行德へ乘戻し海士あまを懸け網を入て隈なく搜しけれども死骸も見へず、詮方なければ同船の内跡うちあとに殘して尚尋搜し、三人の者は彼座元が家内へも知らせんと江戸表へ便船にて立歸り、其日の晝過に先彼まづかの座元の住居せる傳馬町の裏店うらだなへいらんとせしが、三人共しきりに物凄く恐ろしきに互に讓り合て、先づ誰入り候へとて爭ひしが、所詮よき事を告るにもあらざれば迷惑もありうち也、さらば酒呑て行んとて程近き酒店へ立寄、一盃を傾け又々立向ひしが同じく三人共尻込みなしけるを、中に年嵩成としかさなるおのこ先に立て入りし故、跡に付て殘る者も立入しが、彼の座元の女房は門口に洗濯をなし居たりしが、三人を見て何故遲く歸り給ふや、内にては今朝戻られたりと言ふに驚きて、無滯とどこほりなく歸り給ふや懸御目度間おめにかかりたきあひだ案内なし給へといひしに、先刻歸りて酒食をなし二階にふせり給ふ間、直に二階へ上り給へといひし故、彌々不審にてまづ行て起し給へといへど、兼て芝居者の仲間突合つきあひ、案内にも不及事およばざること故女房一圓いちゑん承知せず、火杯焚附居ひなどたきつけをりけるを無理に勸めて二階へ女房を遣しけるに、わつといふて倒れ臥しける樣子故、近所の者も驚て缺附かけつけ、右三人もあきれてしかじかの事をかたり、家主をも呼びて一同二階へ上りしに、いづれ歸りて臥りをりしとみへて調度など取散らし、其脇に女房は絶死ぜつしして有りける故、水抔顏へかけて漸く正氣附しゆへいか成事と尋ければ、今朝歸りて後何も常に替る事なかりしが、今更不思議とぞんずるは、人間は老少不定といへば先立者も有るならひ、我もし死しなば相應に跡とむらひに何方へも再緣すべしといひしが、戲れ事と思ひしが其外にも不思議の咄しせしが、是は外へはもらしがたき由言けるゆへ、夫婦間の事には咄し難き事もあるべけれど、苦しからぬ事ならば語り給へと切に問しに、夫婦あひの事にてもなし、かたるにおもテぶせなる事ならねど、此事は堅く外へ洩すまじき由口留せし故とて咄ざりしを、取込とりこみて無理に尋ければ、然らばとて二言三言かたり出しける頃、二階の上にて大石を落せし如き音のしければ、女房はわつといふて倒れ、何れもそら恐ろしくて聞果ずおのが家々へ歸りし由。彼三人の者の内宇田川何某の方へ出入せし故かの咄を成しけるが、彼座元の妻が二言三言申出せしはいか成事とせちに責問せめとひければ、無據よんどころなく咄さんとせしに、次の間にて磐石ばんじやくを落しけるごとき音なしける故、驚きやめしと人の語りけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:能と旅役者では雲泥の差ではあるものの、同じく芸人譚としての連関はある。但し、寧ろ六つ前の「女の幽靈主家へ來りし事」の真正幽霊譚と、死者がその志しを述べるところで強い連関がある。
 なお、底本の鈴木氏注は三村竹清氏の注『此の話、こはだ小平次の話と附会するか』を引いて「こはだ小平次」の梗概と周辺事象を記し、最後に『この事件と、耳嚢の話との間には関連がありそうであるが、具体的には分からない』と記されておられる。
 「こはだ小平次」は私も特に好きな怪談伝承で、詳しくはウィキの「小幡小平次」などを参照されたいが、少し不審なのは三村氏の『附会』という謂いである。
 本話は寛政八(一七九六)年の採録であるが、ウィキの記載にもある通り、役者小幡小平次の不倫謀殺怨霊出現という幽霊譚は享和三(一八〇三)年に江戸で出版された山東京伝作・北尾重政画の伝奇小説「復讐奇談安積沼ふくしゅうきだんあさかのぬま」をその嚆矢とし、次いでそれを舞台化した文化五(一八〇八)年の江戸市村座での四代目鶴屋南北作「彩入御伽艸いろえいりおとぎぞうし」の初演によって爆発的に流布するようになる幽霊譚である。本話はそれらから六年から十年以上前の都市伝説採録なのである。ウィキによれば、本伝承は、後に山崎美成が随筆「海録」(文政三(一八二〇)年から天保八(一八三七)年に彼が見聞したさまざまな事象の考証物)で『この小幡小平次にはモデルとなった実在の旅芝居役者がおり、その名もこはだ小平次だったという。彼は芝居が不振だったことを苦に自殺するが、妻を悲しませたくないあまり友人に頼んでその死を隠してもらっていた。やがて不審に思った妻に懇願されて友人が真実を明かそうとしたところ、怪異が起きたという』とあり、『またこれとは別に、実在した小平次の妻も実は市川家三郎という男と密通しており、やはりこの男の手によって下総国(現・千葉県)で印旛沼に沈められて殺されたという説もある。山東京伝はこの説に基いて小平次が沼に突き落とされて水死するという筋書きを考えたのかもしれないと考えられている』とある。
 以上から、旅役者・水死・亡霊、更に『真実を明かそうとしたところ、怪異が起き』る点など、確かに共通してはいる。また、「耳嚢」の本話が事実であったと仮定した場合、これらは総てが周到に計画された完全犯罪であり、その犯行は座長の妻及び三人の俳優仲間が仕組んだ壮大な狂言ということになる。船上の失踪など、俄かには信じ難い。小便に舳辺りへ立った座長のふらふらするを、後ろからすうっと寄ってとんと突き落す、宴席の残りの二人がそのざんぶという音に合わせて大声で歌を歌う(芝居の見得でもよい)、船尾の船頭は気づかぬ――などというのはどうか? 例えば、この仲間の年嵩の男などが座長の妻との不倫関係にあり、二人は共犯で本殺人計画のあらましを企画し、仲間内の二人を引き込んだというのは如何であろう? そもそもが、本話は如何にも安っぽい怪談芝居染みた構成を持っているから、その年嵩の俳優が主導して全体の筋書きを書いたと考えるのはすこぶる自然である。即ち、座長の妻と年嵩の男優は共同正犯、二人の仲間は従犯という私の一つの見立てである。……閑話休題。そうすると不倫という「小幡小平次」の大事な要素が見えてこないこともない。
 しかし、かくなる本話が、後に本格形成される「小幡小平次」怪異譚の一つのモデル、もしくは複数あった「小幡小平次」怪異譚構成因子としての原話であった可能性は強いと言えても、『附会』というのは如何なものか? 本話はまた「小幡小平次」譚の持つ淫靡で陰惨な雰囲気を(少なくとも表面上は)持っていない。その超常現象の眼目は、死者の帰還と愛妻への別離の告解、そうして最後の二連発の大音(これは知られた「天狗の石礫て」、ポルターガイストの一種である)の奇怪ではあるものの、寧ろ、話柄の(というよりも読者の)興味は『語られない・語ることが出来ない夫婦だけの最後の秘密』への強い好奇心に収斂する。怪談ではあるが、ある意味で陽気で健康的な色気に満ちた落語向きの話柄である、というのが私の感想なのである。
 こうした私の感懐から、本話の現代語訳は事件の調書風に趣向を凝らしてみた。
・「爲怪死」は「怪死を爲す」。
・「春より夏へ移る事なり」旧暦三月下旬から四月上旬の頃。暦算ページで調べると寛政八年の三月三〇日は西暦一七九六年五月七日である。現在の五月上旬の陽気をイメージしよう。
・「傳馬町」ここは四谷伝馬町。現在の新宿区・四谷一丁目付近。四谷御門(現在の中央線四谷駅付近)の西方の地域。
・「行德」下総国行徳。現在の千葉県市川市南部、江戸川放水路以南の地域で、広大な塩田が広がる製塩地帯であった。
・「行德河岸」これは行徳にある河岸ではなく、江戸の小網町三丁目南端の箱崎川に沿った河岸の名である。江戸から大正にかけてここと下総国行徳を行徳船が往復した。行徳船は寛永九(一六三二)年頃から行徳の塩を江戸へ運ぶために運行が始まり、やがて人や物資の回送にも使われるようになった。本話の船はチャーターらしいが、ウィキの「行徳船」によれば、定期の行徳船は毎日午前六時から午後六時まで江戸と行徳の間を往復、通常は船頭一人が漕ぎ手で、二十四人乗りの客船で、旅客や野菜や魚介類のほか日用品などの輸送を行った、とある。本話では海に落ちた座長を漕手の船頭も現認していない。それが不自然でないとすれば、この船はまさに『二十四人乗り』の大船であることが分かる。せめて本話の水上の景にこれらの船を点じてみるのも、また一興ではないか。
・「金設」底本には右に『(金儲)』と注する。
・「詮方なければ同船の内跡に殘して尚尋搜し」ここは「詮方なければ同船の内、跡に殘して尚尋搜し」で、『失踪した船の漕ぎ手である船頭に後を頼んで、なお、海上の捜索を行って貰い』の意。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『詮方なければ同船の内を跡に殘して尋捜たずねさがし』となっている。
・「ありうち」有り内。「ありがち」に同じ。世間によくあること。
・「仲間突合」底本では「突合」の右に『(附合)』と傍注する。
・「面テぶせなる」不面目なこと。死者の名誉が傷つくような破廉恥なこと。
・「取込て」うまく取り入って。相手を丸め込んで。
・「宇田川何某」底本の鈴木氏注に『幕臣に宇田川姓は二家ある』とある。文脈上は特に同定候補を挙げるまでもあるまい。

■やぶちゃん現代語訳

 旅芸人一座座元変死事件の事

 寛政八年辰年の、晩春から初夏へと移る頃合いの事件であった。
 伝馬町に居住する、旅芝居等の座元なんどを生業なりわいとし、全国を巡回興行しておる者が、下総国行徳にて興行、これが殊の外当たって連日の満員御礼、予想外の木戸銭大儲けと一座の者皆大喜びし、舞台がねたのち、仲間内の役者三名と四人連れで行徳から乗船、行徳河岸を指して江戸湾海上を渡っていた。――

   *

   ――同船せる役者甲の証言――

……座長は、
「この度の興行は至って大成功じゃ! 一つ、景気良う、やってくんない!」
と、乗船する前に買い調えた酒肴を船中に並べ、我らもご相伴にあずかり、四人とも、すっかり酔うておりました。
……ところが、三人とも……ふと気づいてみると……座長の姿が見えんようになっとったんです。
「……何があったんや!……我らが座長どのが、おらぬ!」
「……まさか海へ……落ちたのではなかろうのぅ?」
などと口々に申したのを覚えております。
……客は……いえ、我らたった四人にて……その船中にて、行方知れずとなればこそ……我ら三人は勿論のこと、船頭もいとう驚いて、舳を返してまた行徳へと戻り、地元の海士あまを雇って、心当たりの海へ潜らせるやら、漁師には網を入れて引いてもらうやらして、隈無く捜してみたつもりではありますが……はい……死体は上がりませなんだ。……

   ――同船せる役者乙の証言――

……そのぅ、どうにも仕様が御座いませんでしたので……我らが乗船しておりました船の船頭を残し、その後の海の捜索方を頼みおきまして……そのぅ、とりあえず、我ら三名の者、
「……ともかくも……座長の奥方へ……このこと、知らせずんばなるまい……」
ということになって、江戸表へ向かう早船に乗って、戻りました。
……はい、もう、その日の昼過ぎには、あの、座長の住んでおられた伝馬町てんまちょう裏店うらだなに着きましたが……着きはしましたものの……そのぅ、何ですな……我らが親しき人の死を、また、その愛する奥方に告げんとするは……これ、三人とも、しきりに物凄う、恐ろしさを感じておりました次第でして……そのぅ、戸の前にて……互いに譲りうてばかりで、
「……先ずそなたが……」
「……いや、ここはそちが……」
「……とてものこと、どうか貴殿が……」
……と争うばかりで、そのぅ、なかなか戸が、いや、らち)が開きません。
……その内、
「……所詮、良い知らせを告げるのではないからなぁ……」
「……決して聞きとうない……哀しい嫌な話じゃ……」
「……心傷つく迷惑事じゃわい……」
「……迷惑事は……我らも言うとうない……」
「……言うとうないが、言わずばなるまい……世間にありがちな不幸せというもんじゃて……」
「……さればじゃ!……ここは一つ、迷惑序でに……」
「……おう! 気付けに、一つ引っ掛けて!……」
「……されば! 酒を呑んで勢いつけて! 参らんとしょう!……」
……へえ……そのぅ、お恥ずかしい……かくなる仕儀と相い成り申した。……

   ――同船せる役者丙の証言――

……近所の一杯飲み屋にて一献傾けまして、再び座長の家の前に立ったのですが、同じ体たらくで、三人とも尻込み致すばかりで御座った。
……こうして御座っても埒も開きませぬ故、拙者が――あ、拙者は三人の中では年嵩としかさで御座って、座長やその奥方との付き合いも、これ、なごう御座る――先に立って、門を潜りました。
……座長の奥方は、丁度、庭で洗濯をしておりましたが、我ら三人を視止めると、
「ああら、遅いお帰りでござんすねぇ。たくはもう今朝方にはお戻りでござんしたよ。」
……我ら三人……はい、そりゃもう顔を見合わせて吃驚仰天致しまして、
「……ご無事で……お帰りに……なったと?……」
と問いかけると、奥方はきょとんとした顔をして、
「はい。」
と平然としておりました故――我らは、何やらん、訳の分からぬ、不吉な思いが致し、
「……そ、そうでござんしたか……あの、その……ちょいとお目にかかりたき儀が御座いまして……ここは一つ、その……御家内おんいえうち案内あないして貰えませぬか、の?……」
奥方は奇妙な顔をして、
「……今朝方戻って、酒を呑んで、食事を終え、今は二階で横になっておりますが……『御家内おんいえうち案内あないして貰えませぬか』とはお笑いじゃ……いつものように勝手に上がっておくんない。」
と申します故――我ら、いよいよ不審と恐懼がい交ぜと相い成りまして、
「……まことに……済みませぬが、のっぴきならぬことにて……奥さまにまず、お声掛けして戴き、お起こし申し上げて……出来れば、こちらへお出で下さいますように、と……どうか、お願い、申します……」
と申しましたが、確かにかねてからの芝居小屋での、ざっくばらんな付き合いなれば、 「何が『案内あない』よ! さっさとお入りな!」
と奥方は見得を切って一向に我らをものともせず……洗濯を終えると、今度はくりやへ入って、炊事の支度に火なんど焚きつけようと致しますので、我ら三人して、無理強いを致しまして、やっとのことで二階へ奥方に行ってもろうたので御座います。
……と……突然、
「アアーーッ!!」
という激しい悲鳴とともに、
――ドスン!!
と、何やらん、人の倒れ伏すような物音が致しました。
……これには、流石に近所の者どもも、何事かと駈けつけて参りましたによって……我ら三人、一連の出来事につき、しかじかの事情を話しまして、ともかくもと、御店おたなの家主を呼んで貰い、また縷々説明の上、皆して二階へと上がったので御座います。……

   ――伝馬町裏店家主の証言――

……二階の部屋には……見た感じでは……かの座長は帰宅したあと、ついさっきまでは横になっておったと見えて……敷かれた布団や枕などが、幾分、寝乱れた感じになっておりました。
……へえ、女房は、その布団のすぐ脇に、気絶して倒れておりましたんで……まずは店子たなこに命じて一階の真下の居間へと運び、横たわらせて、すぐに水を運ばせると、顔にざっとかけました。
……それで漸っと。正気付きましたんで、少し落ち着いたところで、
「一体、何があったのじゃ?」
と訊ねましたところ、
「……あの人は今朝、帰ってから後、これといって何も常に変わったところは御座いませんでした。……でも今、思い返すと……不思議に思えることが、これ、御座いました。あの人は、
『……儂が……もし死んだら……我らに分相応の葬いさえあげてもろうたら……それでよい……お前は……何方いづかたへなりと再縁致すがよいぞ……』
なんと申しておりました。……あの時は、冗談と思うて気にも止めずにおりましたが。……そう言えば、そのほかにも……あの人、不思議な話を、致しました。……でも、これはちょっと……人へは……申せませぬ……」
と申しました。そこで私は――本件の謎を解く鍵はここにあらんとも思いまして、
夫婦めおとの間のことじゃて、他人には、なかなかに話し辛きことも御座ろうが――これ、怪しきことの一件なればこそ――そなたが耐え切れぬような話にては御座らぬのであれば、一つ、話して下されよ。」
と頻りに諭しました。すると、
「……別段――夫婦だけの隠し事――というわけでも御座いませぬし――語るに恥ずかしい秘め事――というわけでも、これ、御座いませぬが……このことは……その折りに……あの人から、
『――このこと、決して他人に漏らしては、ならぬ――』
と、堅く口止めされましたことにて座いますれば……」
と、なおも話し渋っておりました。……ええ、はいそりゃもう、あれやこれやと、宥めすかし、ねじ込む如くにきつく糺いて……へえ、したら、
「……そうまで仰いますのなら……」
と、二言三言、語り始めました。
……と……その瞬間!
――ズッドーン!!――
と、真上の、誰もおらぬはずの、先程の二階の部屋にて、何やらん、大石を落といたような音が致しましたので御座います!
……いや、もう
……女房は、
「ヒェーッ!!」
と叫ぶが早いか、またしても昏倒致し……その場におりました他の者どもも皆、たれもが、そら恐ろしき心地ちのままに――私めも、奥方の下女に介抱を命じて――情けなきことに、私も含めましたたれもが……かの『禁忌の秘事』を……これ聴かず仕舞いに……それぞれの家へと退散致しました次第にて御座いまする。はい……

   〇附記:後日聞き込みによって分かった同船せる役者の間接証言
    (注:甲乙丙の何れか不詳であるが、丙であった可能性が高い。)

……この事件に関わった三人の役者の内の一人が、たまたま宇田川某殿の屋敷方へ出入りしていたため、ある時、その宇田川家家内の知人居室にて、本事件について、その知人に仔細を語ったことがあった。
 その知人も、この話を聴くにつけ、かの妻の言う『禁忌の秘事』が大いに気になったのであったが、
「……有体に言って……その女房は確かに『二言三言』は喋った、わけだ。……では、その『二言三言』とは、どんな言葉だったのか?」
と、これまた執拗しつこく問い質したため、拠無よんどころく、その役者はその時、自分の耳にった、その『二言三言』の『禁忌の秘事』の『触りの言葉』を、口にしかけた……
「それは、の……」
……と……その瞬間!
――グワッシャ!! ズッドーン!!!――
と、隣の誰もいない部屋で、巨大な岩石でも落したかの如き轟音が鳴り響いた。
……それを聴いた役者は――恐懼して――口を噤んだ。……
   *
 以上は、私がさる御仁から聴取致いた、ごく最近の出来事にて御座る。



 怪妊の事

 松平姓にて麻布邊の寄合の家來、娘ありしが、いつの此よりか懷妊して只ならぬ樣子也しが、其性質たち隱し男抔有べき人物にあらず、父母の側を朝暮たちはなれず、心をよすると思ふ男もなければ、家内大に怪みて右の娘に色々尋問たづねとひしに、いさゝか覺なしと神にかけ佛に誓ひて申けるが、寛政八年の四月は臨月に當りしが、近き此は腹中にて何か物いふ樣成やうなる樣子にて、其言語などわかたずといへども、彼娘が腹中の物音は相違なしと人の語りしが、程なく出産もなしなばいかなるものや産れけんと、人々の怪しみ語りしを爰に記ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:怪異譚連関。本話が事実(出産までが)とすれば、まず普通なら
●家内の者との密通(父親との近親相姦を含む)
を考えるであろうが(後半の叙述からは想像妊娠は考えにくい)、どうも『腹中の物音』というのが気になってくる。この箇所に限るなら、一つは所謂、
●意識的詐欺の心霊現象としての思春期の少女に多い腹話術による似非霊言
という解釈が挙げられるが、ここに彼女の妊娠が時事実であるとするならば、より厳密に言えば、
●未婚妊娠という不道徳な結果に対する呵責から生じたストレスによる神経症やノイローゼを主因とした、半意識的(若しくは非意識的)詐欺としての腹話術による詐術を伴う非社会的行動
とも言えようか。いや、一つの見方は前提に戻って実は、
★妊娠ではない
という観点に立ち戻るなら、
●難治性の便秘によって腹部が膨満、更に大腸がそのために鳴って(私はIBS(大腸症候群)であるが、時に驚くべき音を立てて腹が鳴る)それが人語の様に聴こえる
可能性が疑えるかも知れない(便秘の場合に腹が鳴るかどうかは私自身が便秘の経験がないために分からぬが、便秘で妊娠したように以上に腹部の膨満は起こる。法医学書で、重度の便秘のために腸閉塞を起こして密室の自室で亡くなった死亡直後の、若い女性の検死資料を実際に見たことがあるが、腹部が妊娠したように膨れていた)。
そもそもが叙述の最後は、出産した子供が、死産だったのか、普通に生まれて成長したのかが明記されていない。いや、出産自体がなかった可能性もある。故に、
×全くの流言飛語
でしかなかった、とも勿論、言えるわけであるが、地域と主家の姓名まで明らかにしている噂話というのは、全くのモデルなしとは思われない。そこでまた考えられるのは、出産(若しくはと目された現象)によって、娘からひりだされたものが、今言ったような実は子供ではなく、
・多量のカチカチになった固形便
であったという(前述のように死に至る場合もあるから)不謹慎ではあるが、一種の筒井康隆的オチであったという顛末、いや、全くネガティヴに採るなら、
・悲惨な奇形児であったために処置された
可能性などが考えられる。
 ただ私はやはり気になるのである。『腹中の物音』である。私はそこに最後の、もう一つの可能性、
●一卵性双胎の両児が癒合した非対称性二重体(寄生性二重体)――畸形嚢腫
であった可能性をも挙げておきたいのである。彼女の体の中に、彼女の姉か妹がいたのである。これは医学的にも実際にあることはご存じだろう。そう解釈すると、貞節な箱入り娘で性交や性的虐待(実際の性行為を行なっていなくても、擬似的性行為が続けられた結果、妹に妊娠させてしまったという海外での近親相姦ケースを披見したことがある)の事実が認められない本話の細部の不可解さが、払拭されるように思われる。――そうして、私が本話からそれを連想した動機が何かを、もう、分かっている方もおられるであろう。そう、その通り、
☆ピノコ
である。手塚治虫先生の名作「ブラック・ジャック」の、あのピノコである(私はアトムで育った人間である。アトムに育てられた人間である。生涯に「先生」と心から呼べる人が私にいるとすれば、それは間違いなくこの方を嚆矢とするのである)。第十二話「畸形嚢腫」で、その姉の体内からテレパシーでブラック・ジャックに語り掛け、生存を要求するピノコである。……『腹中の物音』……これこそ実は
●異形のものとして闇に葬られた『江戸の薄幸のピノコ』
だったのでは、あったのではあるまいか?……
・「寄合」原則的には三千石以上一万石以下の上級旗本で無役者の家格。但し、それ以下であっても六位以上役職にあって何事もなく勤め上げた者も含まれた。旗本寄合席とも言うが「寄合」が正式名称である。

■やぶちゃん現代語訳

 奇怪な懐妊の事

 松平姓を名乗って麻布辺りに住んで御座った寄合の方の、その家来に娘が一人あった。
 この娘が、こともあろうに、誰も知らぬうちに忽ち懐妊、その腹の膨れゆくを見れば、これ、誰もが紛うことなき……とはたにても噂致いておったのじゃが……
……この娘、これまた、その人柄から言うても、秘かに関係するような男がおるといった人品の者にては、これなく……
……また、父母のそばから一時たりとも離れたことも、これ御座なく……
……いや、そもそもがじゃ、妊娠の最も疑われるような――心時めかしておると言うた――身をも許さんとするような真犯人の男がある――とも、これ、とんとまあ、思われぬていの娘なれば……
……家内いえうちにも大いに怪しみ、嘆き、憤り、父親てておやは娘を面前に引き据え、殊の外、厳しく強うに、問い質いて御座ったのじゃが、
「――神かけて! 仏にちこうて! 聊かも、これ、覚え――御座りませぬ!――」
と、娘もまた、気丈にきっぱりと、身の潔白を訴えて御座った。……

……寛政八年の四月には臨月を迎えるとの噂で御座ったが……その、臨月もちこうなったこの頃の噂では、
「……いや、何と、腹の中から……何かが、奇体に……ものを言うような様子で御座って、の……尤も、それが何を言うておるかは、これ、判然とは致さぬ。とは言え……これ、確かに、その娘の……その腹中から……響ききたる物音に、これ、相違御座らぬのじゃて!……」
とは、私の知れる人の直談で御座る。
 この娘、指折り数えてみても、もう、程のう、出産を迎えんものと存ずるが……さて、一体、如何なる『もの』が生まれ来るものか……とは、頻りに人々の怪しみ噂致すことにて御座る故、とり敢えず、ここに記しおくことと致いた。



 剛氣の者其正義を立る事

 近此迄老人にて御側おそば被勤つとめられし松平肥前守といへる人、中奧御小姓を勤し時、同勤の面々に被勸すすめられ、遊所へ可行ゆくべき由、品々斷けれども古役の少年一圓に承引なきゆへ、行べき事に成ぬ。黄昏吉原町へ至りしに、肥前守申付にて、中のちやうの茶屋へ丸に梶の葉付たる定紋の幕を打せ、先番の用人給人きふにん麻上下を着し、近習の侍紫服紗むらさきぶくさにて刀揃持そろへもちけるを、連の少年達是を見及び大きに驚きて、品々斷を述てやうやく歸しけると也。此趣内々より、有德院樣への御聽に入て、表より直に御側衆被仰付おほせつけられしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。
・「御側」「御側衆」征夷大将軍の側近。将軍の就寝中の宿直とのい(三日に一度の交代制で、将軍の就寝中の老中からの政務取次などの業務も含まれた)・昼間の平常時警護等を務めた。当初は強い政治力をも有したが、徳川綱吉以降、側用人に権力が移譲集中し、御家人の出世の最後を飾る一種の名誉職となった(以上はウィキの「側衆」に拠った)。
・「松平肥前守」松平忠根ただね(元禄六(一六九三)年~安永三(一七七四)年)。吉宗・家治の御側衆。享保十八(一七三三)年に数え四十一歳で小性組番頭、元文四(一七三九)年には四十七歳で御側衆となっている。享年八十二歳(以上は平凡社東洋文庫版の鈴木氏の注に拠った岩波版の長谷川氏注のデータに拠る。執筆時の寛政九(一七九七)年からは二十三年も前になるが、これがまた、当時の「近頃」という当時の時間把握が現在とは相当に異なることが分かる(私は結婚したのが二十二年前だが、それを「近頃」とは私も他人も、言わない)。底本の同鈴木氏の先行注では松平康兼(享保十六(一七三一)年~明和八(一七七一)年)とするが、その注を見る限り、彼は御側衆になったことがないし、第一、吉宗は延享二(一七四五)年に将軍職を家重に譲っており、その時点でも康兼は未だ十四歳、「老人」では、これ、ない)。
・「肥前守申付にて……漸歸しける」の部分は全文が使役形で叙述されているが、末文など「(執拗な慫慂を)漸くのことで逆に固辞させて帰した」という風に、現代語訳では如何にも回りくどくなるので、通常文で意訳した。
・「中奧御小姓」「中奧」は「なかおく」で、江戸城本丸の中の将軍が起居し、政務をとる区域を言い(「ちゅうおく」とも読む)、「中奧御小姓」はそこで将軍の所諸用に当たった側近職。
・「中の町の茶屋」吉原大門から廓の中央を貫く道が「中の町」で、その左右に引手茶屋が並んでいた。
・「丸に梶の葉付たる定紋」「梶」は双子葉植物綱イラクサ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyriferaウィキの「梶の葉」にあるMukai氏の描いた「Mukai's file」の梶紋「立ち梶の葉」を以下に示す。これに〇を附せばその定紋となる。正式な梶家の家紋はサイト「家紋WORLD」の「徳川旗本八万騎の紋」に「梶家」の家紋として示されており、そこにはズバリ「丸に梶の葉」がある。その解説には『能見松平の一族が、外家の号を冒して梶氏となったというが、定かではない。梶正道は幼時から家康に仕えて、のちに二千五百石を知行した』とあり、恐らくこの紋と考えてよいであろう。

・「用人」幕府・大名・旗本家にあって、金銭の出納や雑事などの家政の主業務を司った家臣(将軍家の側用人に該当)。
・「給人」幕府・大名から知行地若しくはその格式を与えられた旗本及びその家臣を言う。
・「服紗」主君に従う小姓は袱紗で太刀の柄を握って鞘を上にして持つ。
・「刀揃持けるを」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『刀抔持けるを』。
・「有德院」第八代将軍徳川吉宗。

■やぶちゃん現代語訳

 剛気の者その正義を立てる事

 近頃まで――老人の身となっても――永く御側を勤めらておられた松平肥前守康兼殿と申されるお方が中奥御小姓を勤めておられた時、同僚の者どもに勧められ、遊所へ行こうではないかということとなり、康兼殿、これ、いろいろと理由を附けては、何度も断って御座ったのだが、先任の少年どもが、これ、揃って、いっかな、承知致さぬ故、仕方なく、行かざるを得なくなって御座った。
 さて、その日の黄昏時、一行が吉原へ到着致いたところ、そこには――肥前守申付けによって――中の町の茶屋へは、松平家の丸に梶の葉の付いた定紋の幕が打たれて御座って、松平家の用人や給人が揃って待ち構えて御座って、彼らは悉く麻上下を着用、近習の侍に至っては、紫袱紗にて太刀持ちまで致いて御座った。
 連れの少年達は、この噴飯物の仰々しさに吃驚仰天、あれやこれやと如何にもな言い訳を致いて、ほうほうのていで帰参致いた、とのこと。
 この一件が有徳院吉宗様のお耳に入り、即座に直々、御側衆を仰せつかった、ということで御座る。



 信州往生寺石碑の事

 信州善光寺より拾八町程山の方に、刈萱山かるかやさん往生寺と言る寺あり。眺望よき寺成る由。彼寺に俳譜師芭蕉翁石碑あり。發句に、
  月影や四宗四門も只ひとつ
右一句何か難分わかりがたきゆへ土老に尋しに、月影は姥捨更科の最寄なれば其意わかれり。四宗四文の事は、善光寺は天台眞言禪一向宗とやらんの四宗兼學の寺院なれば、桃靑翁此句を吐けるや。かく聞ば面白さもましぬと、彼地行脚の老翁物がたりけるなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせないが、実は、以下に述べる、この寺に纏わる刈萱上人の伝承は能の「刈萱」として知られる。さすれば、少し前の能の技芸譚との連関が認められる。また、どうも根岸はこの手の石碑探勝が好きならしい。
・「往生寺」長野県長野市往生地一三三四番地にある浄土宗の寺院。山号刈萱山で分かる通り、善光寺の門前の中央通り沿いにある刈萱山西光寺とともに、謡曲・説教節などで広まった刈萱上人伝説所縁の寺(但し、正式な山号は安楽山菩薩心院刈萱堂で、通称、刈萱堂往生寺と呼ばれることから、根岸の伝聞記載はこの「刈萱堂」を「刈萱山」という山号と誤認した可能性が強いように思われる)。その伝承によれば、苅萱道心(寂照坊等阿とも呼ばれる)は、元九州博多刈萱の関一帯の領主で、俗名を加藤左衛門尉重氏と言った。世の無常を感じた重氏は世の無常を感じて比叡山を経て、京都黒谷の法然上人の下で出家した。しかし、妻子が尋ね来ることを厭い、高野山に向かう。やがてその子、石堂丸は母とともに父を求めて旅に出るが、高野山の麓で母は病に倒れ、亡くなってしまう。独りとなった石堂丸は父である刈萱上人とそれと知らず邂逅したが、父は父と名乗らず「探す方はすでに世にない」と教える。世を儚んだ石堂丸は上人に弟子入りを迫って許され、信照坊道念と名乗った(この時点で石堂丸は苅萱上人を父と確信していたものと思われる)。後、上人は修行の邪魔になるとして、再び一人旅立ち、信州善光寺に籠り、八十三歳で、この往生寺の地で亡くなった。後、後を慕って来た石堂丸は父上人の残した地蔵菩薩像を真似て、もう一体の像を刻んだとされ、この往生寺及び西光寺には、その二体の親子地蔵尊が現存(西光寺では本尊とする)する。また、西光寺にはこの伝承の一つ「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」他の「絵解き」が伝承されている。(以上は「浄土宗」公式HPの「安楽山往生寺」及び西光寺公式HPの『「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」のあらすじ』を主に参考にしたが、複数の伝承の細部には当然、違いがある)。私は三十六年前の夏、大学の弁論部の同輩たちと一緒に、この西光寺の方を訪ね、この絵解きを聴いたことがある。懐かしい。
・「拾八町」約二キロメートル弱。現在の地図で善光寺大門からは直線距離で八三九メートル、同じく大門から現在の最短ルートで計測すると、凡そ一・二キロメートルある。記載はそれより長いが、最後は急坂の山道に入るのでおかしくはない。
・「月影や四宗四門も只ひとつ」「更級紀行」所収。但し、
  月影や四門四宗もただ一つ
が正しい。訳では正しい句形に訂した。「更級紀行」は芭蕉が貞享五(一六八八)年(九月に改元して元禄元年)に更級の八月十五夜の月を掬すべく旅立った紀行俳文であるが、本句はまさにその直後、恐らくは二十日以前と思われる善光寺参詣での嘱目吟である。「新潮日本古典集成」の「芭蕉句集」で今栄蔵氏は、『善光寺は、境内の東西南北に各一門を備え、それぞれに「定額山善光寺」「不捨山浄土寺」「南命山無量寿寺」「北空山雲上寺」の扁額を掲げる。「四門」とはこれをいい、また寺内は』当時、『天台宗・浄土宗・時宗の三宗が同居する特殊な組織。そのさまを、「四門」の語呂に合わせて「四宗」と言ったのであろう』と注されておられる。本文にあるように、天台は密教系で真言とも密接に関わり、そこに超派的な禅宗も含まれたと考えることはやぶさかではなく、鎌倉時代以降、「四宗兼學」の修学道場としての寺院は珍しくはなかった。但し、この解釈には現在でも異説が多く、根岸の不審は故なしとしない。今氏の訳などを参考に私なりに解釈すると、
……遍照せる隈なき月影――それは真如の明鏡――四門四宗と物化しても、善光寺は仏のまことの教えの遍き明光によって――この聖なる結界を、いや、この世すべてを、隈なく照らしているではないか……
といった意味であろう。なお、この往生寺の碑は「ムーミンパパ」氏の「温泉ドライブのページ」の「芭蕉の句」に画像がある。確認されたい。
・「姥捨」現在の長野県千曲市と東筑摩郡筑北村に跨る姨捨山。正式名は冠着山かむりきやま。標高一二五二メートル。「古今和歌集」以来の名月の歌枕の地。
・「更科」姨捨山を含む旧更級郡周辺を指す。姨捨山は更級山の別名を持つ。
・「四宗四文の事は」の「文」はママ。訳では訂し、順序も変えた。
・「桃靑」芭蕉の芭蕉を名乗る以前の俳号。

■やぶちゃん現代語訳

 信州往生寺石碑の事

……信州善光寺より十八町ほどの山の方に、苅萱山往生寺という寺が御座います。眺望の良き寺にて御座る。……
……この寺には俳諧師芭蕉翁の石碑が御座って、そこに彫られた発句は、
  月影や四門四宗もただ一つ
というので御座いますが……この一句、その、今一つ、意味が分り難きによって、土地の古老に訊ねてみましたところ、
「……『月影』は、歌枕の姥捨更科という月の名所が最寄りに御座いますれば、その面影をはっきりと示して御座る。……『四門四宗』と申しますは、これ、善光寺は、天台・真言・禅・一向宗といった四宗兼学の寺院にえ御座いますれば、芭蕉庵松尾桃青翁は、これを詠み込んで、遍照の不可思議光という、仏法のまことを、一句に吐露なされたのでは、ありますまいか。……」
との答えで御座いました。
……いや、そう言われて、そう読んでみるならば、また、これ、句の面白さも旅の楽しさも増す、というもので御座いますよ……
――以上は、彼の地を行脚致いた老翁が私に物語って呉れた話である。



 坂和田喜六歌道の事

 坂和田喜六は永井家の士にて、文武に長じ倭歌わかとう下野守に從ひけるが、彼の者よみ詠歌えいかに、
  よし野山花咲くころの朝な朝な心にかゝる峯のしらくも
と詠じけるよし。右は永井よどの城主の時、喜六使者として、禁裏へ參りける時、喜六は和歌の達人の由聞へしとて、上達部かんだちめの興じてこのみ給ひける時、右の歌を奉りし由。其後或日公卿嵐山へわけ入りしに、山奧に柴の庵を結びすめる者ありしを問ひ尋しに、庵主の僧色々禁中のしき和歌の面白き事など語りしに、其博識風雅かたのごとく面白きゆへ、春の事なれ風圖ふと彼公卿、喜六が芳野山の歌を吟じて、扨々面白き歌也、堂上たうしやうにてもかく詠ずる人はあらじと殊外稱美しようびせしを、彼庵主聞て、さ程感じ給ふ事にもあらじ、此歌は東下野守が歌に、
  朝な朝な雲たちそふる小倉山(おぐらやま)峯ふく風は花の香ぞする
といへる古歌によりてよめるらんといひしが、立分れ歸りて彼公卿親友にかくと語りければ、夫は外の者にはあるまじ、喜六が世を遁れすみしならんと、あけの日友だち打連うちつれて又彼山に分いりしに、庵室は崩し捨て、ぬしはいづち行けん跡なしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:旧詠の発句譚から旧詠の和歌譚へ。
・「坂和田喜六」佐川田昌俊(さがわだまさとし 天正七(一五七九)年~寛永二〇(一六四三)年)は山城淀藩家老。永井家家臣にして歌人・茶人。但し、姓は「坂和田」「佐河田」「酒和田」等と記録によって異なるが、以下に示す「近世畸人伝」の記載は同先祖が姓を元の「高階」から「高」そして「佐川田」へと変えた経緯が示されており「佐川田」が標注するには最も信頼が置ける(但し、現代語訳ではママとした)。号も喜六以外に「桃山」「壷斎」「黙々翁」「臥輪」「不二山人」など多数。下野生。幼時、上杉景勝(弘治元(一五五六)年~元和九(一六二三)年)に仕え、この時、上杉家家臣木戸玄斎の養子となっている。その後、上杉家を離れ、慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いでは大津城の戦いに参加するも、浪人となった。しかしその後、その戦さでの奮戦振りが徳川家家臣永井直勝(ながいなおかつ 永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二五)年)の目にとまり、その家臣となったとされる。後の大坂の陣(慶長一九(一六一四)年~慶長二〇(一六一五)年)では永井軍大将として参加、緻密な判断力で戦功を成した(詳細は以下の「近世畸人伝」を参照)。元和二(一六一六)年に直勝と共に江戸に移った。直勝の死後は、彼の長男で山城国淀藩初代藩主となった永井尚政(天正一五(一五八七)年~寛文八(一六六八)年)に仕え、尚政の信頼いや厚く、彼もよく藩政を主導した。寛永一五(一六三八)年に子の俊輔に家督を譲って隠居した。『智勇兼備の名士で、茶道を小堀遠州に学び、歌道にも優れた。集外三十六歌仙の一人で、その秀歌撰にも撰ばれた』。著書に「松花堂上人行状記」(後述)等。『藩政においても、藩士が財政的に困窮して苦しんでいたとき、尚政に無断で藩の金蔵を開いて救済を行なって助けた、などの逸話が存在する。昌俊の子孫は永井家の重代家老として存続した』とあり、隠棲後逝去までは五年あるものの、彼のこの如何にも複式夢幻能的な逸話自体は、多分に創作された可能性を排除出来ないように思われる(引用はウィキの「佐川田昌俊」に拠るが、このウィキの記載には全体が出典未記載・独自研究の危険性が指摘されていることを注記しておく)。養父玄斎が和歌を嗜んだため、その影響で歌道を学び、飛鳥井雅庸あすかいまさつね(永禄一二(一五六九)年~元和元(一六一六)年):公家・歌人。権大納言。古今伝授・入木道じゅぼくどう〔書道のこと〕伝授を受け、後水尾上皇・徳川秀忠・細川忠興・島津家久に蹴鞠を指導するなど諸芸に秀でた。)や近衛信尋このえのぶひろ(慶長四(一五九九)年~慶安二(一六四九)年):公家・藤氏長者とうしちょうじゃ〔藤原一族の氏長者〕。従一位関白。諸芸道に精通し、特に書道は養父信尹のぶただ三藐院さんみゃくいん流を継承、卓抜した能書家として知られた。茶道・連歌も巧みで、実兄後水尾天皇を中心とする良恕法親王ら宮廷サロンの中心的人物であった。)の教えを受けた。ここに示された「吉野山」の一首は、後陽成天皇が賞美、人口に膾炙した(以上の部分は底本の鈴木氏注に拠る)。
 なお、以下に伴蒿蹊ばんこうけい(享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)「続近世畸人伝」に載る佐川田喜六の記載を引用しておく(私は「続」の方を所持していないので「日文研データベース」の「近世畸人伝(正・続)」の当該記事を私のポリシーから正字化して示し、割注と思われる斜体部分は〔 〕に入れて示した。また、訓読が( )で続くので、その前の漢文白文に附したと思われる送り仮名は排除、読み易くするために改行で独立させた。< >の記号は何を示すか不詳だが伴蒿蹊の追記のようである)。
   *
佐川田昌俊、喜六と稱す。姓は高階。世系、高市王子六世峯緒より出。承和の比高階を省略して高と稱ふ。先人某、下野足利の莊、早河田村に食し、つひに文字を佐川田にかへて氏とす。貞治四年、義詮將軍、高掃部助師義をして信濃の賊をうたしむる時、援兵となり、足利基氏、鎌倉に居て東國の鎭たる時、手書を賜ふて累世鎌倉に仕ふ。その後、六七世を經て喜六にいたる。喜六幼くして越前長尾家の將、木戸玄齋が養子となる。いまだ弱冠ならざる頃より、三郡の訟をきゝて判ずるに、議辧よく當れば人賢者なりとあふぐ。玄齋和歌を好む故したがひて學べり。後玄齋むなしくなりて其家絶たる後、洛に赴き、慶長五年庚子大津の驛の戰に、ある人の手に屬し先登し、鎗を壁上にあはせ左の股を傷られてなほ周旋す。永井右近大夫直勝朝臣、喜六が勇名をきゝて、招てしばしば眷遇し給ふ。慶長十九年、難波の役、侯の營に九鬼某の兵すすむ時、其間いかばかりかある、又沼川の淺深いかならん、と仰ければ、喜六すゝみ出て、おのれ往て、ものみつかふまつらんといふ。侯とゞめ給へどもきかず、蘆原、沼川をわたりて九鬼の兵と言を交へ、其淺深などくはしくはかりてかへり、敵兵必いたることをえじ、とまうすに、果して明日引退く。水陸の算、喜六がことばのごとくなるを人皆奇とす。すべて弓矢の道にくはしく、孫呉の書を明らめ、經濟のことをもよくしれり。右近大夫嗣、信濃守尚政朝臣、ますます喜六に禮を厚くしたまふ故に、諸士もまた重ず。寛永十年、侯増封を得給ひ、下野より山城の淀にうつらる。一時在府の日、封地不熟にして諸士飢寒す。その比喜六執事たれば、皆、軍用の金をからんと乞ふに、喜六思惟して、是は君にまうし同僚にかたらひては成べからず。吾一人の意にてはからはんと。倉をひらき銀子千貫目を出し、返濟のことを示して分配す。後侯是を聞し召て大怒、私のはからひを責む。喜六申す、軍用金もと何の爲ぞ、諸士乏しく公の恩を思はざる時は有ても益なし、今十年を經ば、各返納して倉廩もとのごとくならん、されども此擧臣一人の所爲なれば、もし義にあたらずと思さば、死を賜はんもまた辭せざる所也と。其理當れるをもて侯も言なくやみ給ふ。同十五年、疾に嬰て致仕し、家は息俊甫に委ね、薪村酬恩庵、〔一休禪師の遺跡〕の境内に默々庵をむすびて幽居す。禪に參じ、山水を翫び、意を方外に遊ばしむ。壷齋また不二山人ともいふ。茶伎は小堀宗甫翁を友とし、連歌は昌琢法眼に從ひ、書は松花堂に學ぶ。漢學はもとより羅山子にきけりし。和歌をも好みて近衞藤公に參り、中院通勝卿、木下長嘯子にも鷗社をなす。ある時、淀川の鯉を近衞殿に奉りて、
ついであらばまうさせ給へ二つもじ牛の角もじ奉るなり〔閑田云、鯉の字、古假名はこひなれども、後世はこいとかけり。〕
御かへし、
魚の名のそれにはあらでこのごろにちと二つもじ牛の角もじ〔來いとの給ふなり。〕
又所持の博山の香爐を羅山子に贈る時、子答て、
遠寄一爐示相戀。心如螺甲沈水鍊。
(遠ク一爐ヲ寄セテ相戀ヲ示ス、心ハ螺甲沈水ノ鍊ノ如シ。)
とよろこべり。此たぐひ風流の交の書牘世に殘れるもの多し。擧にいとまあらず。昌俊若きときよめるうたに、
よしの山花まつころの朝な朝な心にかゝるみねのしら曇
これを飛鳥井雅康卿の傳奏にて後陽成院の叡覽に人ければ、ふかくめでさせおはしましけるが、後寛文の皇后、集外歌仙を撰ばせ給ふ中にいりて、忝く宸翰を染給ふとなん。連歌においてことに長じけることは、ある人、昌琢に向ひて、當時連歌に冠たる人は誰ぞととふ。昌琢、西におのれあり、東に昌俊ありと是は永井侯いまだ下野に在城の日也。答られしにてしらる。寛永二十年癸未八月三日病て終る。享年六十五なり。墓は酬恩庵境内にあり。 <後に正せれば、是什麽と小石に誌し、其後に、大石に道春の碑銘を彫るとぞ。> 蒿蹊云、墓碣に、何でもないことこと、とのみ記すとぞ。予先年此寺にりしかども、故障ありて此墓および其茶室を見殘せり。今は人の話をもて録す。
   *
●「喜六と稱す」引用元では「稱ず」。分かり易く濁点を取った。
●「高市王子」高市皇子たけちのみこは天武天皇の長男。
●「承和」西暦八三四~八四八年。
●「食し」そこを領地として生計を立て。
●「貞治四年」西暦一三六五年。
●「高掃部助師義」不詳。高師直に組した佐竹師義は掃部助であるが、時代が合わない。高姓ではないけれども義詮の家臣に山名師義がいるが、彼か。
●「足利基氏」引用元では「足利某氏」。誤植と判断し、訂した。
●「眷遇」「眷」はいつくしむの意で、目をかけてもてなすこと。
●「寛永十年、侯増封を得給ひ、下野より山城の淀にうつらる」「淀」は本文にも出るが、現在の京都府京都市伏見区淀本町に存在した淀藩。永井尚政は寛永一〇(一六三三)年三月にその藩主に就任している。
●「銀子千貫目」江戸時代の銀貨の平均価値から換算するサイトの自動計算によると、なんと約十一億円に相当する。これは普通なら「大怒」どころでは済むまい。
●「倉廩」は「さうりん(そうりん)」と読み、米穀類を蓄えておく倉。
●「嬰て」は「かかりて」(罹りて)と読む。
●「俊甫」は俊輔。
●「薪村酬恩庵」は現在の京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院、霊瑞山酬恩庵のこと。別名一休寺・薪(たきぎ)の一休寺とも称される。康正二(一四五六)年に一休宗純が草庵を結んで中興、宗祖の遺風を慕って師恩に酬いるという意味で酬恩庵と号した。一休はここで、文明一三(一四八一)年十一月に八十八歳で「死にとうない」と呟いて示寂した(ウィキの「酬恩庵」に拠る)。
●「小堀宗甫」は小堀遠州(本名は小堀政一。「遠州」は彼の官位五位下遠江守に由来)の道号。正式な道号は大有宗甫。
●「昌琢」とは里村昌琢さとむらしょうたく(天正二(一五七四)年~寛永一三(一六三六)年)連歌師・法眼。第二代将軍徳川秀忠の御朱印、後水尾天皇からの古今伝授を受け、寛永五(一六二四)年御城連歌に勤仕して宗匠となった当時の連歌界のスーパー・スターで、名俳諧師である松江重頼や西山宗因らもその門下であった。
●「松花堂」松花堂昭乗(天正一〇(一五八二)年~寛永一六(一六三九)年)のこと。真言僧。俗名は中沼式部。堺生(豊臣秀次の子息との俗説あり)。書道・絵画・茶道に堪能で、特に能書家として高名で、独自の松花堂流(滝本流とも言う)という書風を編み出し、近衛信尹・本阿弥光悦とともに『寛永の三筆』と称せられた。先に示した佐川田昌俊の師近衛信尋は、彼を始めとする文化人と後水尾天皇のサロンの橋渡し役をも務めていた。昌俊は寛永十六(一六三九)年には彼の一代記であると同時に寛永史を活写する「松花堂上人行状記」をものしている。なお、現在の松花堂弁当という名は、彼に間接に由来するとする説があるという(以上は主にウィキの「松花堂昭乗」に拠った)。
●「羅山子」林羅山。
●「近衞藤公」近衛信尋のこと。
●「中院通勝」(なかのいんみちかつ 弘治二(一五五六)年~慶長一五(一六一〇)年)は公家・歌人。正三位権中納言。和歌は細川幽斎に師事。
●「木下長嘯子」は大名木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)のこと。足守第二代藩主・歌人。従四位下。式部大夫・若狭守または若狭少将。歌人としては長嘯又は長嘯子と名乗った。一時期はキリシタンでもあって、洗礼名は「ペテロ」と伝わる。彼の作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとも言われ、その和歌は松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えている(ウィキの「木下勝俊」に拠る)。
●「鷗社」は、通常は鷗が群がるように人が集まることを言うが、ここは多くの師の下に参じたことを言うようである。
●「閑田」筆者伴蒿蹊の別号。
●「博山の香爐」博山炉はくさんろ。世界の中心に聳えると考えられた崑崙山を模した香炉。中で香を焚くと、蓋の山並の間に設けられた透かし孔から、棚引く雲のように煙が漏れ出る、恐らくは唐渡りのものであろう(奈良国立博物館「収蔵品データベース」の「博山炉」。本記載の参考にもした)。
●「螺甲沈水」「らかうぢんすい(らこうじんすい)」と読み、香料の甲香かいこう沈香木じんこうぼく。甲香はナガニシ Fusinus perplexus の蓋を擂り潰したもの、沈香木は東南アジアに植生するバラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ジンコウ属Aquilaria agallocha などが、風雨や病害虫によって木部を侵された際、その内部に樹脂を分泌するが、当該部分を切り出して乾燥させた上、木部を削り取ったものを言う。
●「飛鳥井雅康」は飛鳥井雅庸の誤り。同名の人物が飛鳥井雅庸の先祖にいるが、室町から戦国期の歌人で時代が合わない。
●「後陽成院」後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年)は安土桃山時代から江戸初期の第一〇七代天皇(在位:天正一四(一五八六)年~慶長一六(一六一一)年)。慶長一六年三月二十七日、三男政仁親王(後水尾天皇)に譲位、仙洞御所へ退いた。後水尾天皇とは終生不和であり続けたとされる。なお、彼の在位期間は豊臣政権と江戸幕府初期に跨いでいて、天皇制の実態が大きく変化した時期に相当する(以上はウィキの「後陽成天皇」に拠った)。
●「寛文の皇后」は後に「集外歌仙」を撰したとあるから、後水尾天皇(慶長元(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年)のことを指す。
●「是什麽」は、以下の蒿蹊の附言から恐らく「これいんも」と読むものと思われる。一般には「作麽生」「什麽生」と書くと、知られた「そもさん」である(唐末以降の中国語口語で、本邦では禅宗で問答の際に疑問の発語の辞として用いられる語)が、この「什麽」はやはり禅宗で用いられた指示語で、「このよう」「かくの如し」の意であろう。
●「墓碣」は「ぼけつ」と読む。墓のいしぶみ
・「東下野守」東常縁とうのつねより(応永八(一四〇一)年?~文明一六(一四八四)年?)室町中期から戦国初期の武将にして歌人で美濃篠脇城主。室町幕府奉公衆。従五位下左近将監、下野守。以下、参照したウィキの「東常縁」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『官職が下野守だったため一般には東野州と称される。東氏は千葉氏一族の武士の家柄であったが、先祖の東胤行は藤原為家の娘婿にあたり、女系ながら藤原定家の血を引く』。『室町幕府奉公衆として京都にあり、冷泉派の清巌正徹にも和歌を学ぶが、宝徳二年(一四五〇年)、正式に二条派の尭孝の門弟となる。康正元年(一四五五年)、関東で享徳の乱が発生、それに伴い下総で起きた本家千葉氏の内紛を収めるため、八代将軍足利義政の命により、嫡流の千葉実胤・自胤兄弟を支援し馬加康胤・原胤房と戦い関東を転戦した。だが、古河公方足利成氏が常縁に敵対的な介入を図ったために成果は芳しくなかった上、同行していた酒井定隆も成氏に寝返った』。『更に関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領の美濃郡上を守護土岐成頼を擁する斎藤妙椿に奪われた。しかし、これを嘆いた常縁の歌に感動した妙椿より所領の返還がかなった。その後、二人は詩の交流を続けたという。文明三年(一四七一年)、宗祇に古今伝授を行い、後年「拾遺愚草」の注釈を宗祇に送っている』。『常縁は古今伝授の祖として注目されるが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きい』。家集「常縁集」、歌論書「東野州聞書」がある、とする。生没年から見てもお分かりの如く、昌俊とは全く時代が合わないので、本文が師とするのは誤りである。
・「よみ詠」底本では右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『彼詠(かのえい)之歌』とする。本話は何故かバークレー校版との細部の表記に於ける異同が甚だしい。気になる。
・「よし野山花咲く比の朝な朝な心にかゝる峯のしらくも」歌人佐川田喜六昌俊の代表作とされるもの。渡辺憲司氏の「近世大名文芸圈研究」(八木書店一九九七年刊)の「武家歌人佐川田昌俊の出発」によれば、この歌の初出は、佐川田昌俊が三十三、四歳の頃の歌集である「高階尚俊歌集」(この頃は「尚俊」と名乗っていたか。これは彼が本格的に飛鳥井雅庸について和歌を学ぶ以前の十代の頃からの歌群を集めたものである)に載る。前書があり、
    遊行上人よりすゝめ給ひし五十首の哥の中に
 よし野やま花咲くころの朝な朝なこゝろにかゝる嶺のしら雲
とある。後に知られるものでは前書を「待花」とする。「かかる」は「心に懸かる」と「雲が掛かる」の掛詞で、意味は難しいものではないが、渡辺氏は前掲書で昌俊の事蹟を精査され、先行する類型歌(但し、それらは遙かに古い鎌倉時代の藤原知家や寂然法師らの歌であって本文に示される東常縁の当該歌は挙がっていない。以下の常縁の和歌の注を参照)などを考証された上、その波乱万丈の乱世を生きた、この歌の中の昌俊は『単純に「吉野山花咲く頃」を待っているのではないような気がする。一六〇〇(慶長初年)年代に青春をおくった青年武士がかかえた屈折した風雅への思慕を、わたくしはこの歌に見るような気がしてならない』と結んでおられる。
・「上達部」摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議及び三位以上の人の総称(参議は四位であるがこれに準ぜられた)。公卿に同じ。
・「春の事なれ風圖(ふと)」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『春の事なれば』とする。ルビは底本のもの。
・「堂上とうしょう」公家方。
・「朝な朝な雲たちそふる小倉山峯ふく風は花の香ぞする」岩波版の長谷川氏注には、「東常縁集」に載るが、
 朝な朝な雲たちそひて小倉山峯ふく風は花の香ぞする となっている、とする。底本の鈴木氏の注には、江戸後期の医師で歌人・国学者でもあった清水浜臣しみずはまおみ(安永五(一七七六)年~文政七(一八二四)年)が本歌を、西行の『山家集の「何となく春になりぬときく日より心にかゝるみよしのゝ山」、寂然家集の「よしの山花さきぬればあぢきなく心にかゝる峯の白雲」その他、為家の歌などを寄せ集めて一首にしたものだと批判している』と、記しておられる。私は残念ながら、和歌を好まないから、和歌の良し悪しはよく分からぬ。故に、この歌も佐川田の歌も名歌とは感じられずに、そろそろ注作業を終わらせたいという退屈を感じていたが、どうも――そうもこいつの批評は気に障る。この歌、うまいと思わぬが、悪いとも思わない。本歌取りの、そのまた「パッチワークだから悪い」とは私は思わぬのである。――昨今、世間で、短歌や俳句、映画やドラマを、何かというとどれそれの剽窃だパクリだ、この句は、このシーンはこれがネタ元だ、これとこれとこれのこの部分の継ぎ接ぎの盗作だ、なんどと鬼の首を取ったように自慢げに批判している、哀れな自称「評論家」や「オタク」どもを見ていると、彼ら、批評をしているつもりの、人よりものを知っているというつもりでいる、真の創造性を持たない批判力ゼロ人間の、その哀れさに、激しく絶望するのを常としているのだが――この清水浜臣という輩も――どうも、そんな先駆者の一人であるのかも、知れない……。

■やぶちゃん現代語訳

 坂和田喜六の和歌の事

 坂和田喜六昌俊殿は永井家の家士にして、文武に長じ、和歌は東下野守常縁とうのしもつけのかみつねより殿に師事して御座ったというが、彼の歌に、
  よしの山花咲ころの朝な朝な心にかゝる峯のしらくも
と詠んだもののある由。
 これは永井尚政殿が淀藩の城主となられた当時、この喜六殿を使者として禁裏へ参内させなさった折り、『喜六は和歌の達人でおじゃるそうな』と専らの評判で御座った故、上達部かんだちめらが興じて和歌を詠めと頻りにせがまれた末、詠み奉ったのが、この歌であるとのことで御座る。
   *
 その後のことで御座る。
 さる公卿が、遊山の砌り、嵐山に分け入ったところ、山奥に柴の庵を結んで住まって御座る者を見出だし、酔狂にもその庵を訪ねて御座ったそうな。
 そこで、この庵主あんじゅの僧と、禁中の礼法や和歌について、これまた面白可笑しく話を致いて御座ったが、その博識と風雅の心たるや、正道を外さぬ――それでいてつまらぬどころか、まっこと、興に乗って楽しくなって御座った故、丁度、春でもあったことから、ふと、かの公家は、
「……よしの山……花咲ころの……朝な朝な……心にかゝる……峯のしらくも……」
と喜六の吉野山の歌を吟じた上、
「……さてもさても……これはまた、まっこと、ようでけた、面白き歌でおじゃろう。堂上とうしょうにても、かくも美事に詠ずる御仁は、これ、おじゃるまい。」
と殊の外、賞美致いた。
 が、かの庵主は、これを聞くと、
「――いや。左程に感心なさるものにても御座らぬ。この歌は東下野守常縁殿の、
 ……朝な朝な……雲たちおふる……小倉山……峰吹く風は……花の香ぞする……
という古歌に拠って、詠んだるものに、過ぎませぬ。」
と答え、それをお開きとして、立ち別れた。
 かの公卿、京へ戻った後親友の者に、かくかくのことが御座った由、お話しになられたところ、
「……それは……他の者にては、御座ない! 喜六本人の、遁世し、隠れ住んでおじゃるに、相違おじゃるまいて!」
と大騒ぎとなった。
 そこで、かの公卿は明けた翌日、その公達を連れて、またかの嵐山に分け入って御座った……なれど……庵室あんじつは、既にして崩し捨てられておって、庵主は、これ、何処いづこへ参ったものやら……行方知れずとなっておった、とのことで御座る。



 隠逸の氣性の事

 坂和田喜六は、大猷院樣御代迄は世に徘徊せしが、其頃諸家に文武兩道の達人を吟味して、諸家に或ひは壹人或は貮人と調べありしが、其比おほやけにても專ら御許評議有て、文武の達人といへるは、坂和田喜六なるべしとの上意にて、永井家を召れ、其家來坂和田は文武の英才也、眼を懸け遣ひ候樣にとの御意故、永井も大に面目を施し、歸りて早速喜六を呼出し、今日かくかくの上意、誠に其方のかげにて家の光輝をなしぬと殊の外悦び被申まうされければ、喜六これを聞て、未練の者を斯く御褒揚はうやうある事難有ありがたき事なりと、厚く悦びける氣色也しが、其あくる日いづちへ行きけん妻子にも不申まうさず、家寶を捨置すておき遁世なしけると也。いか成所存有るや、一時の英名あれば又偏執のそしりありて、かへりて英名をおとす事あらんとの心なるや。

□やぶちゃん注
○前項連関:佐川田昌俊隠逸譚その二。流石に二匹目の泥鰌で、私には少々嫌味な感じがしてくる。にしてもここで「坂和田」とするのは、実はその無名の筆者が、実際の佐川田昌俊ではないよ、「坂和田」ってしてあるでしょ、という布石を打っているかも知れないな。
・「偏執の誹り」「偏執」はここでは、人を妬ましく思うこと、の意。妬み嫉みに起因する非難批判。

■やぶちゃん現代語訳

 隠逸の気性の事

 この坂和田喜六昌俊殿は、大猷院家光様の御代までは、その確かな消息が知られて御座った。
 その頃、諸家に於いては文武両道の達者なる者を探しては召し抱え、こちらの甲家には一人、あちらの乙家には二人、なんどとあげつろうて御座ったが、そのこと、これ、おおやけにても評定に上り、
「文武の達人と言えるは、これ、坂和田喜六を措いて、あるまい。」
との上意により、当代の永井家当主永井尚政殿をお召しになられ、
「その方が家来坂和田は文武の英才じゃ。目を懸け遣わずがよいぞ。」
との御意なれば、尚政殿も大いに面目を施し、城中より立ち帰られた後、早速に喜六を呼び出だし、
「今日、かくなる上意を戴いた。――誠にその方のお蔭にて永井の家の光輝は、これ、いや、増した! まっこと、上々じゃ!」 と、尚政殿、殊の外お悦びになられ、お褒めの言葉を懸けた。
 喜六もこれを聞いて、
「――未練未熟の者を、かくもお褒め揚げ戴き、有り難きことと、存じまする――」
と、丁重に礼を申し、同じく喜悦致いて御座った様子なれど――
――その明くる日――
――一体、何処いずこへ参ったものやら……妻子にも行方を告げず……家財・家宝悉く捨て置いたまま……遁世致いたとのことで、御座る。  さても、如何なる所存で御座ったものか……一時の英名あれば、また偏執の誹りもあって、却ってその英名をおとしめ――ひいては主君を始めとする他の者の失望や軽蔑を招くことと相いならん、との心にても、御座ったのであろうか。……



  牛の玉の事

 牛の玉とて開帳などの靈寶に見せる事あり。潔白ならざる玉をも、など生へて有物也。自然と動くやうするを人々恩義の物と賞するが、何の用をなさゞるの品なり。隱岐の國には野飼のがひの牛ことの外多き所にて、佐久間何某なにがし先年御用にて右の國へ至りまのあたり見し由。牛の野に寢も有りしが、耳中よりや口中よりや其所は見とめざりしが、三四寸も是有べき丸き物、右牛の廻りをかけあるくを、牛童其邊にありし茶碗やうのものにて押へとりし故、何也と尋て見し牛玉也。かけあるく事はせざりしが動く所は無相違さうゐなし。右は牛の腹中にある一活物なるや、右の品をとりし後も牛は別儀なかりしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。そのものが蠢いたり(但し、これは多分にカラクリを感じさせる。人工の張り子の「牛玉」の中にネズミの子なんどを仕込んでおけば簡単だ)、牛の体内から飛び出してグレムリンのように駆け回るなど、五つ前の「怪妊の事」と妙な生々しい雰囲気が繋がる。
・「牛の玉」底本の鈴木氏注に『嘉良喜随筆五に「世ニ牛ノ玉ト称スル物アリ。牛ニ限ラズ。鹿、野猪ニモアリ。獣ノ疣※也。玉ニアラズ」とある。
これは松岡玄達の『詹々言』の抜書である。いぼまたはこぶであるという説。』[やぶちゃん字注:「※」=「广」+「贅」。]とある。以下に少し注する。
●「嘉良喜(からき)随筆」は垂加流神道家にして国学者山口幸充こうじゅうの雑録集。引用が多い。成立年代不詳ながら、寛延期(一七四八年から一七五一年)か。
●「疣※」は「ゆうぜい」と読み、いぼこぶの意。
●「松岡玄達」(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)は博覧強記で医学にも精通した本草学者。
●「詹々言」は「せんせんげん」と読む(「詹々」は饒舌の意)。正しくは「恕庵先生詹詹言」で松岡玄達の遺稿集。寛延三(一七五〇)年版行。
 以下、私の見解を述べる。
 私はこの「耳嚢」に載せたものは多分に人工的な偽物であるように思われる、但し、「牛玉」と呼ばれるものには複数の対象が存在し、総てを紛い物と断ずるわけにはゆかない。これがキッキュな見世物でないとすれば、一つは所謂「牛黄ごおう」、実際に牛の胆石(及び他臓器の結石も含む)を陰乾にしたもので、生薬として知られるものを指すと考える。濃黄色で骰子状の塊であるのが一般的。法隆寺などで行われる年初の法要である修二会しゅにえでは法会の始めに「牛玉降ごおうおろし」が行われており、堂内にこの牛玉(牛黄)を運び入れるが、これは稀少なる聖的な超自然の呪物としてのその活力で法会の成就を祈るとともに、魔障を祓うものとして機能している。次の「鹿玉」も同様のものと考えられ、これらは主に馬・牛・鹿・犬など哺乳類の腹中に生ずる結石や毛玉様のものを言う。石糞せきふん鮓答さとう・ヘイサラバサラなどとも言う。私の電子テクスト「和漢三才圖會 卷四十」の「猨(えんこう)」の注(膨大な注なので、ずっと後にある)で引用した、同じ「和漢三才圖會 卷三十七 畜類」にある「鮓荅」テクスト及び私の注を以下に引用する(本記載が引用する「本草綱目」等を渉猟している点で、参考になる。但し、この引用は、かなりの分量であるのでご覚悟あれ。なお、引用に際してはルビ化を行い、私が校訂した煩瑣な注記記号などは省略、私の注の一部や引用にあるアラビア数字を漢数字に変更した)。


へいさらばさら
へいたらばさる 【二名共に蠻語なり。】
鮓荅
ツオ タ
「本綱」に、『鮓荅は走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有りて之をつつむ。多きは升許りに至る。大なる者は雞子けいしのごとく、小なる者は栗のごとく、はしばみのごとし。其の状、白色、石に似て石に非ず。骨に似て骨に非ず。打ち破れば層疊す。以て雨を祈るべし。「輟耕録」に載する所の「鮓荅」は、即ち此の物なり。曰く、蒙古むくりの人、雨をいのるに惟だ淨水一盆を以て石子數枚を浸し、淘漉すすぎこし、玩弄し、密かに咒語じゆごすれば、やや久しくしてすなはち雨ふる。石子を鮓荅と名づく。乃ち走獸の腹中に産する所のものなり。獨り牛馬の者、最も妙なり。蓋し牛黄・狗寶の類なり。鮓荅【甘・鹹にして、平。】は驚癇・毒瘡を治す。』と。
△按ずるに、阿蘭陀より來たる平佐羅婆佐留へいさらばさら有り。其の形、鳥ののごとく、長さ寸許り淺きくろ色、潤澤。石に似て石に非ず。重さ五六錢目ばかり。之れを研磨すれば、層層たるすぢ有りて卷き成す者のごとし。主に痘疹の危症を治し、諸毒を解す、と。俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵痕きづこぶと成りたる肉塊かたまりなりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。
[「鮓荅」やぶちゃん注:これは各種の記載を総合すると、良安の記すように日本語ではなく、ポルトガル語の“pedra”(石)+“bezoar”(結石)の転であるとする。また、古い時代から一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で“pādzahr”、“pad (=expelling) + zahr (=poison) ”(毒を駆逐する)を語源とする、という記載も見られる。本文にある通り、牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたとある。別名、馬の玉。鮓答さとうとも書いた。やはり良安もこの「鮓荅」の直前にある「狗宝」で述べているが、牛のそれを牛黄・牛の玉、鹿のそれを鹿玉(ろくぎょく/しかのたま)、犬では狗宝(こうほう/いぬのたま)、馬では馬墨ばぼく・馬の玉、その他、犀の通天たまなどと各種獣類の胎内結石を称し、漢方では薬用とする。
それにしても、この「ヘイサラバサラ」「ヘイタラバサル」という発音は「ケサランパサラン」と何だか雰囲気が似ている。私はふわふわ系UMAのイメージしかなかったから偶然かと思ったら、どっこい、これを同一物とする説があった。Nihedon & Mogu という共編と思われるケサランパサラン研究サイト「けさらんぱさらん」の「ケサパサ情報館」の『「家畜動物の腸内結石」説』に詳しい。体内異物を説明して、腸結石(糞便内の小石・釘・針金・釦等の異物に無機物が沈着して出来たもので馬の大腸、特に結腸内に見られる)や毛球(牛・羊・山羊等の反芻類が嚥下した被毛あるいは植物繊維より成るもので、第一胃及び第二胃に、稀に豚や犬の胃腸に見られることもある。表面に被毛の見えるものを粗毛球、表面が無機塩類で蔽われ硬く滑かで外部から毛髪の見えないものを平滑毛球という)を挙げ、『この説によると、「動物タイプ」はこのうち粗毛球を指し、「鉱物タイプ」は平滑毛球や腸内結石を指す事になる』とし、『「馬ん玉」や「へいさらぱさら」はまさしく「ケサランパサラン鉱物タイプ」の別名であり、「ケサランパサラン動物タイプ」の別名として「きつねの落とし物」がある』、即ち、きつねが糞と一緒に排泄した粗毛球を言ったものであろう、と考察されている。また、そうした「鉱物タイプ」の「ケサランパサラン」を、まさに本記載同様、雨乞いに用いたケースについて、以下のように記されている。長い引用になるが、本項に対して極めて示唆に富んだ内容であるため、ここに引かさせて戴く(大部分は編者へ寄せられた情報の引用という形で記?されている。漢字や記号・句読点・読み・改行等の一部を補正・省略させてもらった)。
   《引用開始》
『角川「大字源」で「鮓」という字を調べたところ、別の面白い情報が得られました。
鮓荅 さとう/ヘイサラバサラ
牛馬などの腹中から出た結石。古代,蒙古人が祈雨のために用いた。[本草(綱目)・鮓荅][輟耕録・禱雨]
日本の雨乞いの方法の一つに、牛馬の首を水の神様に供える、或いは水神が棲む滝壷などにそれらを放り込む、という方法があります。これは、不浄なものを嫌う水の神を怒らせることによって、水神=龍が暴れて雨が降るという信仰から来ているようです。以下は(この説を教えてくれた方の)私見ですが、「へいさらばさら」は、その不浄な牛馬の尻から出てくるものですから、神様が怒るのも当然という理屈で用いられたのではないでしょうか。ただし、これは日本における解釈であり、馬と共に暮らす遊牧民族であるモンゴル人が、同じ考えでそれを行ったかどうかは不明です。ちなみに輟耕録は十四 世紀の明の書ですから、古代とあるのはその頃の話です。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]※その後、この情報をいただいた方から、「輟耕録」は序文が一三六六年、モンゴル王朝であった元が一二六〇~一三六八年で、文献自体の内容も、元時代の社会・文化に関する随筆集ですから「明の書」の部分は、「元王朝末期の書」とでもして下さい。」という旨のメールをいただきました。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]さらに、「その後の調査で、輟耕録に記載されている雨乞いの方法(盥に水を入れ呪を唱えながら水中で 石を転がす)が『ケサランパサラン日記』[やぶちゃん注:西君枝と言う方が草風社から一九八〇 年に刊行した著作。未見。]のそれと酷似しており、また、このように水の中で転がして原形をとどめていられるのは硬い球形の馬玉タイプであることや、モンゴル語で雨を意味する“jada”という語に漢字を当てたものが「鮓荅」であると考えられることなどから、「へいさらばさら」の雨乞いのルーツは、中国の薬物書である「本草綱目」によって伝えられたモンゴル人の祈雨方法にあり、それに用いられたのは白い球状の鮓荅であると考えた方がよいようです。ついでに言えば「毛球」については、反芻をする動物(ウシやシカなど)に特に多いようですが、毛づくろいの際に飲み込んだ毛でできるため、犬以外のペット小動物、例えばウサギ、猫などでもメジャーな病気のようです。ペットに多いのは、野生の場合、毛が溜らないようにするための草を動物が知っていて、これを時々食べることによって防いでいるためで、ペット用に売られている「猫草」も、毛球症予防に効果があるようです。」と追加説明もいただきました。』[やぶちゃん注:原文ではここで改行、情報提供者への謝辞が入る。]『また、水神=龍から、龍の持つ玉のイメージが想起されることから、雨乞いに用いられたへいさらばさらは、主に白い球状のタイプだったのではないかと推測されます。』[やぶちゃん注:この最後の部分は、情報提供者の追伸と思われる。]
   《引用終了》
・「肉嚢」肉状の軟質に包まれていることを指す。胆嚢結石とすれば、これは胆嚢自体を指すとも考えられるが、実は馬や鹿等の大型草食類には胆嚢が存在しない種も多い。その場合は胆管結石と理解出来るが、ある種の潰瘍や体内生成された異物及び体外からの侵入物の場合、内臓の損傷リスクから、防御のための抗原抗体反応の一種として、それを何等かの組織によって覆ってしまう現象は必ずしも異例ではないものとも思われる。
・「雞子」鶏卵。
・「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミCorylus heterophylla var. thunbergiiの実。ドングリ様の大きな実のようなものを想定すればよいか。へーゼルナッツはこのハシバミの同属異種である。
・「層疊」同心円上の層状結晶を言うか。
・『「輟耕録」』明代初期の学者陶宗儀(一三二九年~一四一〇年)撰になる随筆集。先行する元代の歴史・法制から書画骨董・民間風俗といった極めて広範な内容を持ち、人肉食の事実記載等、正史では見られない興味深い稗史として見逃せない作品である。
・「蒙古むくり蒙古もうこはモンゴルの中国語による音写で、古く鎌倉時代に「もうこ」のほかに「むくり」「むこ」などと呼称した、その名残りである(因みに、鬼や恐ろしいものの喩えとして泣く子を黙らせるのに使われる「むくりこくり」とは「蒙古高句麗」で蒙古来襲の前後に「蒙古高句麗むくりこくりの鬼が来る」と言ったことに由来する)。遊牧民であるから、牛馬の結石は見慣れたものであったと思われる。
・「淘漉し、玩弄し」水で何度も洗い濯いでは、水の中で転がし、という意。
・「咒語」まじないの呪文。
・「持すれば」呪文を用いて唱えれば。
・「牛黄」牛の胆嚢や胆管に生ずる胆石で、日本薬局方でも認められている生薬で、解熱・鎮痙・強心効果を持つ。牛一〇〇〇頭に一頭の割でしか見つからないため、金の同重量の価格の凡そ五倍で取引されている非常に高価な漢方薬である。良安は同じ「卷三十七 畜類」で「牛黄」の項を設けており、そこでは「本草綱目」を引く。時珍はそこで牛黄の効能・採取法・形状・属性・真贋鑑定法を語り、そもそも牛黄は牛の病気であると正しい知見を示している。また牛黄には生黄・角中黄・心黄・肝黄の四種があり、牛黄を持った病態の牛の口に水を張った盆を当てがい、牛を嚇して吐き出せた生黄が最上品であると記す。最後に良安の記載があるが、そこで彼は世間で「牛宝」と呼ぶ外側に毛の生えた玉石様ものであるが、これは「狗寶」(次注参照)と同様、「鮓荅」の類で、牛の病変である牛黄と同類のものであるが、牛黄とは全くの別種である、と述べて贋物として注意を喚起している。この記載から、良安は「牛黄」を「鮓荅」と区別・別格とし、「牛黄」のみを真正の生薬と考えていることがはっきりと分かる。
・「狗寶」良安は「卷三十七 畜類」の「鮓荅」の直前で「狗寶」の項を設け、そこでも「本草綱目」引用しているが、この「本草綱目」の記載が、とんでもなく雑駁散漫な内容で、我々にその「狗寶」なるものの実体や属性・効能を少しも明らかにしてくれない。その引用末尾の『程氏遺書』の引用に至っては、「狗寶」から完全に脱線してしまい、荒唐無稽な石化説話の開陳になってしまっている。良安の附言は、全くない。「本草綱目」の引用のみで附言がない項目は他にもいくらもあるのだが、私にはどうもこの項、しっくりこない。
・「驚癇」漢方で言う癲癇症状のこと。
・「毒瘡」瘡毒と同じか。ならば梅毒のことである。もっと広範な重症の糜爛性皮膚炎を言うのかも知れない。
・「潤澤」ある程度の水気を帯び、光沢があることを言う。
・「五六錢目」「錢」は重量単位。一両の十分の一。時珍の明代では一両が三十七・三グラムであるから、二十グラム前後。
・「痘疹」天然痘。
・「俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕、贅と成りたる肉塊なりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。」ここの部分、東洋文庫版では、
『世間一般では猿の身体にある鮓荅をさして、これは猿が猟人のために傷つけられ、その傷のあと贅肉こぶとなったものであるという。しかしこれは間違いで、鮓荅であることは明らかであろう。』
と訳しているが、これはおかしな訳と言わざるを得ない。ここは、
『俗説に言うには、「猿が猟師に傷つけられ、その傷の痕が瘤となった、その肉の塊が鮓荅である」とする。しかし、これはとんでもない妄説である。以上、見てきたように、鮓荅というものは猿と人とのものなのではなく、牛馬に生ずるところの結石であること、最早、明白である。』
と言っているのである。
※以上、「和漢三才圖會」「卷三十七 畜類」にある「鮓荅」テクスト及び私の注の引用を終了、同時に本「牛玉」の注も終わりとする。ここまで読まれた私の熱心な読者へ――“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!
・「潔白ならざる玉をも、など生へて有物也。」底本では「玉をも、など」の右に『(尊本「玉の、毛など」)』と傍注する。明らかな脱文である。
・「三、四寸」凡そ一〇~一二センチメートル。

■やぶちゃん現代語訳

 牛の玉の事

 牛の玉と称し、社寺の開帳などの際に霊宝などと唱えては仰々しく見せるものがある。
 薄汚れた、毛なんどが生えたりしておる「玉」である。
 ものによっては、自然と、もぞもぞと動いたりするを、人々は殊の外、不思議なものとして賞美致すのであるが――これは、はっきり申して何の役にも立たぬ代物である。
 これに関わって――隠岐国というのは、野飼いの牛が大層多いところで、知人佐久間某が、先年、御用により、かの国へ参って目の当たりにしたということを――以下に記しおく。

……牛の中には牛小屋に入らず、野良に寝起きしておる牛も御座った。
……耳の中からか或いは口の中からか、何処より出でたるものか、そこのところは見極めること、これ、出来ませなんだが……三、四寸もこれ御座る丸いものが、その牛の廻りを駆け回って御座って……牛飼いのわらんべがその辺に御座った茶碗のような物でうち押さえ、捕まえました故、
「それは何じゃ?」
と尋ねましたところ、
「牛玉。」
と、申しました。
……我らが存じております「牛玉」なるものは、これ、駆け歩いたり致すことは御座らぬが……まあ、「動く」と申す点では、これ、相違御座らぬ。
……これは、牛の腹中に棲むところの、何らかの生き物なので御座ろうか?
……ああ、それから、この「もの」を摘出致いて後も、牛は別段、平気で御座る。……

とのことである。


 鬼僕の事

 芝田何某いへる御勘定勤し人、美濃の御普請御用にて先年彼地へ至りし砌、出立前一僕を抱へ召連しに、貞實に給仕なせしが、或夜旅宿にゐねしに夜半頃とおぼえ、夢ともなく彼僕枕元へ來りて、我等人間にあらず、罔兩まうりやうといへる者也、暇を無據よんどころなき事ある儘給るべしと乞し故、無據事あらば暇を可遣つかはすべきなれ共、其子細承度うけたまはりたしと申けるに、彼僕がいへるは、我輩の者順番いたし死人の死骸を取る役あり、此度このたび我等順番に當りて、此旅宿より一里ばかり下の百姓何某が母の死骸をとる事なれとて無行衞成ゆくへなくなりし故、らちなき夢を見しと心にも懸けず伏して翌朝起出しに、右の僕行衞知れざる由故大きに驚、彼壹里餘下の何某が母の事を聞しに、今日葬禮なしけるが、野邊のおくりにて黑雲立覆たちおほひしが棺中の死骸を失ひしと、所の者咄しけるを聞て、彌々いよいよ驚けると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:奇譚ではあるが、特に感じさせない。久々の本格怪談である。最後の怪異のキモであるところの在所の者の証言は、大幅に私の演出を加えてある。
・「御勘定」中級幕吏。恐らく根岸の経歴にもある勘定所御勘定であろう。
・「罔兩」魍魎。私の電子テクスト「和漢三才圖會 卷四十」より「魍魎」を引用しておく(私の注の一部に省略を加えた。原文と書き下しの文の画像が異なるのは、底本とした正徳二(一七一二)年頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)完成の大坂杏林堂の版行のもの(前者)と、明治一七(一八八四)年~明治二一(一八八八)年出版の大阪中近堂版(後者)の絵師の違いによるもの。二〇一〇年三月二日にかのテクスト化を行った際、私は注に正にこの「耳嚢」の「鬼僕の事」を用いた。そこでには引用した後に『訳注なしで十分楽しめる。それでも私の訳注を読みたい方は……そうさな、一年半は待ってもらわねばなるまい……。』と記してある。今日は一年半と五日後である。私の予言も鬼僕並に当たったことが恐ろしい気がしてきた!……)。
   《引用開始》

みつは   【罔兩 ※蜽
もうりやう  方良】
魍魎
      【和名美豆波】
ワン リヤン
[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「罔」。]

淮南子云罔兩状如三歳小兒赤黑色赤目長耳美髮
本綱云罔兩好食亡者肝故周禮【方相氏】執戈入壙以驅方
艮是矣其性畏虎與栢曰此名弗述在地下食死人腦但
以柏挿其首則死此即罔兩也
 按魍魎左傳注疏爲川澤之神日本紀亦以爲水神魑
 魅以爲山神

みづは   【罔兩 ※蜽 方良まうりやう
もうりやう
魍魎
      【和名、美豆波。】
ワン リヤン
[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「罔」。「もうりやう」の「もう」はママ。]

「淮南子」に云ふ、『罔兩は、状、三歳ばかりの小兒のごとく、赤黑色。赤き目、長き耳、美しき髮あり。「本綱」に云ふ、『罔兩は、好みて亡者の肝を食ふ。故に「周禮しゆうらい」に『【方相氏は】戈を執りくわうに入り、以て方艮をすると云ふ是れなり。其の性、虎と柏とを畏れ、曰く此れ、弗述ふつじゆつと名づく。地下に在り。死人の腦を食ふ。但し、柏を以て其の首を挿せば、則ち死す。此れ即ち罔兩なり。』と。
 按ずるに、魍魎は、「左傳」の注疏に川澤の神と爲し、「日本紀」にも亦、以て水神と爲し、魑魅を以て山神と爲す。
[やぶちゃん注:「廣漢和辭典」によれば、「魍魎」の「魍」も「魎」も、すだま・もののけとする。そもそも「魑魅魍魎」は山川の精霊すだま・物の怪オール・スターを総称する語であるが、特に「魑」が山の獣に似たモンスターという具体的形象を、「魅」が功を経た結果として怪異を成すようになったものという具体的属性を付与するに止まり、「魍魎」は専ら、単漢字ではなく「魍魎」で語られることが多い。「廣漢和辭典」によれば、「魍魎」は『山水木石の精気から出る怪物。三歳ぐらいの幼児に似て、赤黒色で、耳が長く目が赤くて、よく人の声をまねてだますといわれる』と本文と同様に記す。また、参考欄には『国語のこだま・やまびこは、もと木の精、山の精の意で魍魎と同義であったが、その声の意から、今では山谷などにおける反響の意に転じて用いる』と次の項「彭侯こだま」の補注のような解説が付いている。ウィキの「魍魎」には、「本草綱目」に記されている亡者の肝を食べるという属性から、本邦にあっては死体を奪い去る妖怪、火車かしゃと同一視されて、火車に類した話が魍魎の名で語られた事例がある由、記載がある。本文が記載する「春秋左氏伝」や「日本書紀」の引用を見ても、「魑魅」を山の、「魍魎」を水の神や鬼とする二分法が、日中何れに於いても非常に古くから行われていたことが見てとれる。「魍魎」は「罔両」と同義で、「影の外側に見える薄い影」の意、及び本義の比喩転義であろう「悪者」の意もある。別名「方良」であるが、これは「もうりょう」と発音してよい。「方」には、正にこの「魍魎」を指すための「魍」=「マウ(モウ)」との同音の、“wăng”「マウ(モウ)」という音及び中国音が存在し、「良」の方も中国音でも、「良」“liáng”と「魎」“liăng”で、近似した音である。特に「方」「良」の漢字の意味は意識されていないと思われる(というか邪悪なものを邪悪でない目出度い字に書き換える意味があったものと私は推測する)。
 『「淮南子」』は前漢の武帝の頃に淮南わいなん王であった劉安(高祖の孫)が学者達を集めて編纂させた一種の百科全書的性格を備えた道家をメインに据えた哲学書(日本では昔からの読み慣わしとして呉音で「えなんじ」と読む)。
 「周禮」中国最古の礼書の一。「周官」とも言う。五経の一「礼記らいき」に「儀礼ぎらい」と「周礼」を合わせて「三礼さんらい」と称し、その中でも「周礼」は最も重要な礼書とされる。周公旦の撰と伝えられるが、成立には諸説がある。周代の行政制度を二七〇の官名を掲げ、その職掌について記述、国政の要諦をも述べる。この引用は「夏官司馬」の「方相氏」の職務に関する項にある「大喪。先柩及墓、入壙、以戈擊四隅驅方良。」(大喪。柩に先んじて墓に及び、壙に入りて、戈を以て四隅を擊ちて方良を驅す。)という記載を言う(原文は「中國哲學書電子化計劃」の「周禮」を参考にした)。これは「帝王の死に際しては、棺よりも先んじて墳墓に参り、玄室に入って、ほこを以ってその四隅を撃ち、方良(=魍魎)を追い払う。」という意である。
 「方相氏」上記の「周礼」の「方相氏」には「方相氏。掌蒙熊皮、黄金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時難、以索室驅疫」とある。これは一種の呪術を専門とする官職で、熊の皮を頭から冠って、金色に輝く四つ目の面を装着、黒衣に朱の裳を引いて、矛と盾を振り上げて、屋敷内に巣食う諸々の悪疫邪鬼を駆逐することを仕事とした。正しく追儺・節分・ナマハゲのルーツである。なお、この部分、割注になっているが、国会図書館版「本草綱目」では平文である。これは良安が参考にした「本草綱目」がしっかりした版本であったことを示している。何故なら、「周礼」では上記の通り、「方相氏」の項の最後にこの一文が現れ、「方相氏執戈……」とはなっていないからである。即ち、これは時珍が補った割注部分であるということである。
 「壙」壙穴。つか。つかあな。死体を埋める穴のことであるが、ここでは墳墓・玄室の意。
 「柏」裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワPlatycladus orientalis(シノニムBiota orientalis 及び Thuja orientalis )現生種では一属一種。朝鮮半島から中国北部に広く分布する常緑針葉高木。枝が直立するため、それを子供が万歳をしている様に比した名称。松と共に中国では墳墓に植える。
 「弗述」ネット上には「酉陽雑俎」にこの記載があるというので、「酉陽雑俎」をめくってはみたが、時間がもったいないのでやめた。その内、見つけたら、この注にアップしよう。
 『「左傳」の注疏に』「左傳」は孔子の編と伝えられる五経の一つである歴史書「春秋」の注釈書である「春秋左氏伝」(魯の左丘明によるものとも言われるが不明)のこと。「注疏」とは古書を注釈した書物である注(ここでは「春秋左氏伝」)と、その注の文章をさらに解釈した書物である疏を総称した言い方。要するに人の注に更に別な人が注を施した(本文+注釈+注釈の注釈)から成る注釈書のことと考えればよい。この引用部は、西晉の武将にして学者であった杜預(とよ 二二二年~二八四年)のもので、恐らく「春秋経伝集解」の一節である(杜預の注であることは東洋文庫版割注による孫引きであり、原典は確認していない)。
 『「日本紀」にも亦、以て水神と爲し、魑魅を以て山神と爲す。』の「日本書紀」のこと。「以て水神と爲し」というのは女神ミヅハノメのことを指している(「古事記」では弥都波能売神(みづはのめのかみ)・「日本書紀」では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記される)。以下、ウィキの「ミヅハノメ」を参考にすると、「古事記」の神産みの段では、カクツチを生んだ際に陰部が焼け爛れて苦しんでいる(これがイサナミ死因となる)イサナミの尿から、和久産巣日神ワクムスビと共に生まれたと記し、「日本書紀」神代、第二の一書にあってはイサナミが死ぬ間際、埴山媛神ハニヤマヒメ)と「水神罔象女」を生んだと記す。『神名の「ミヅハ」は「水走」と解して灌漑のための引き水のことを指したものとも、「水つ早」と解して水の出始め(泉、井戸など)のことともされる。「古事記」には他に闇御津羽神(クラミツハ)があり、これも同じ語源と考えられる。「ミツハ」に「罔象」の字が宛てられているが、罔象は「准南子」などの中国の文献で、龍や小児などの姿をした水の精であると説明され』、『灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神得があるとされる。丹生川上神社(奈良県吉野郡)などで淤加美神とともに祀られているほか、各地の神社で配祀神として祀られている。大滝神社(福井県越前市)摂社・岡田神社では、ミヅハノメが村人に紙漉を教えたという伝説が伝わっている』とある(引用では一部の記号を変更した)。確かにこの「罔象」は「罔両」「魍魎」に近しい表記ではある……あるが、女神で、零落するでもなく、本来の猛悪な死体食をするでもない。後々まで幸せな神のままではないか! どうも私にはしっくりこない(但し、図を見ると人肉を食いそうには見えず、女性的な要素を感じさせはする。お耳がキュート! だいたい、続く「魑魅を以て山神と爲す」に到っては、私が馬鹿なのか、「日本書紀」の何処に書いてあるのかさえ、分からないのだ……。どうか、このお馬鹿な私に「魑魅を以て山神と爲す」の箇所を、識者の方、お教え下さい。]
   《引用終了》
・「暇を無據事ある儘給るべし」底本には、右に『(尊本「無扱事有りまゝ暇を給るべし」)』と傍注する。私は傍注が必要なほどに本文が不分明であるとは思わない。
・「死骸を取る役あり、此度我等順番に當りて」底本には、右に『(尊本「死骸を取事なれど無行衞參るも如何故、此度我等順番に當りて」)』と傍注する。尊経閣本には分かりきったくだくだしさがあって怪談の話柄としては、必ずしも上質とは言い難いが、底本も台詞としては唐突に切れるため、訳では台詞の最後に尊経閣本も採り入れた。

■やぶちゃん現代語訳

 鬼僕の事

 柴田某という御勘定を勤めた御仁の話である。

 美濃の御普請御用にて、先年、かの地へ出張致すに際し、出立前、一人の従僕を新たに召し抱えて同行させましたが、この者、頗る堅実なる者で、まことにまめに仕えて御座いました。
……ところが……
……とある夜のこと、旅宿先にて床に就いて御座ったところ、もう夜半にもなんなんとする頃おい、夢ともうつつとものう、かの従僕が拙者の枕元へ参り、
「……ご主人様……我等は実は……人にては……御座りませぬ。……罔両もうりょうと申す者にて……御座る。この度は……暇を……よんどころなき事の御座いまするが故……頂きとう存じまする……」
と乞いました故、
「――よんどころなき事ならば、これ、仕方あるまい。暇、遣わさんとは思えど……罔両……とやら、まずはその仔細を、これ、聞かせては呉れぬか――」
と申しましたところ、
「……我ら罔両というものは……順番に……死ねる人の……その死骸を……奪い取る役目が御座いまして……この度は我らが……その順番に……当たって御座います……この旅宿のより一里ばかり下った在所の……百姓何某が母の……その死骸を取ることと相い成って御座います……何事も申し上げずに行方を晦ましましては……これ如何なものかと存じ……では……永のお別れにて……御座いまする……」
と、言うたかと思うと、
……ふっと……
……消えた……
……かと思いましたところが――
そこで、ふっと、目が覚め申した。
『……何ともはや、くだらぬ夢を見たものじゃ。……』
と、特に気にも懸けず、また暫くして眠りに落ちて御座いました。
 ところが翌朝、起き出だいて、かの従僕の部屋に声をかけてましたところ――おりません。――宿の者もたれ一人知らず、拙者も大いに驚き、方々、探らせてはみましたが――その行方は、遙として知れませなんだ。――
 しかし、その日も遅く、ふと、未明に見た夢で、かの従僕が『一里ばかりしも何某が母』と言うたことを思い出だしまして、宿の者に、
「……今日……この辺りの村にて、何ぞ変わったことは、これ……御座らなんだか?」
と、それとのう訊いてみましたところ、たまたまそこにおりました土地の者が、
「……へえ。……今日、一里ばかししもの村にて……さる百姓が母の葬いが、これ、御座いましたが……我らもその弔いに参りましたのですが……その野辺の送りの最中さなか……一天俄かに掻き曇って……何やらん、くうろい雲が……その、すうーっと……葬列へと降りて参りまして……我らは列の後ろにおりましたが……その、棺桶の辺りで……その雲のようなものが……霞の如く覆って御座るな……と思うた、そう思うた時には……もう、消えてしもうておりましたんですが……親族の者どももこれに気づきまして……また、桶を担いでおりました者どもが「何やらん、軽うなったじゃ!」と申しますによって……皆して……その……棺の蓋を開けまして……その中をあらためてみました……ところが……何と……棺は虚ろ……死骸は……すっかり消えて去って、おりましたじゃ……」
と語って御座いました。
……拙者、これを聴きまして、文字通り、冷水を浴びせられた如くに、慄っと致しました……。



 怪病の事

 清水の家老を勤し永井主膳正しゆぜんのかみは、大久保内膳など近親也しが、同人妹にて、御奉公などして主膳方に寄宿してありしが、或日急病の由爲知しらせ來る故早速罷越まかりこしけるに、外に子細はなし。病氣はさして熱つよきといへるにもなけれども、夜具衣類其外座敷の邊水だらけにて、いか樣井戸へ落しや又は池などへはまりしやうなる事故、當人ヘ承しに、一向前後不覺由也。傍𢌞 そばまはり家内の者へも聞しが一向井戸は勿論池抔へ入りし事もなしといゝしが、今に不審不晴はれずと語りし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:女性の奇病で「怪妊の事」と連関。発熱による発汗で寝具がぐしょぐしょになるというのはままあることながら、根岸が書き留めるほどだから、これはもう、閨内がびしょびしょになっているとしか考えられない。全身から多量の水分が排出される奇病というのも、私の小学校の頃の少年雑誌の超常現象・奇病の読み物じゃあるまいし……そもそも兄が附き人や家中の者に聞き質した際、本当に彼女が何らかの病気であったなら、病態の遷移、室内が浸水する状況を断片的にでも語り得るはずなのに、一抹もそうした描写がないのも何かおかしくないか?……そうすると……考え得るのは一つしかない……詐病である……奇病の詐病である……こんな気味の悪い病気は、奉公人としては願い下げである。私が主人なら、ゆっくり養生するがよい、と言って体よく里へ帰す……本話ではその辺りが語られないが、私はこの大久保の妹は里に下がったと考える……さすればその真相は――彼女は永井主膳正方から何らかの理由があって下がりたかったのではなかったか?――その確実な方途としてこの『奇病水浸し』を演じたのではなかったか?……下がりたかった理由……それは高い確率で奉公の日常にある……奉公人の間のこと、かも知れない……いや、主人永井主膳正との、何かであったのかも知れぬ……いいや、もしかすると、永井主膳正が家老である清水徳川家当主との間に、何かが、あったのでは? と考えるのは無礼で御座ろうかの?……(次注参照)
・「清水」清水徳川家。御三卿の一つ。第九代将軍家重次男重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)を家祖とするが、重好には嗣子がなかったため、空席となり、領地・家屋敷は一時的に幕府に収公されている。収公は将軍吉宗の遺志に背くものであったため、一橋徳川家第二代当主治済(はるさだ/はるなり)は老中松平信明らに強く抗議している。その後、第十一代将軍家斉(治済の長男)五男の敦之助が、寛政一〇(一七九八)年にわずか数え年三歳で継承するも翌年夭折、再び清水徳川家は当主空席となり、文化二(一八〇五)年になって異母弟の斉順なりゆきが継いでいる。従って本執筆時の寛政九(一七九七)年当時は当主不在であった。本話は初代重好の晩年時の話と考えるべきであろう。……してみると、この継子のない清水重好……何となく……臭ってこないか?
・「永井主膳正」永井武氏(元禄六(一六九三)年~明和八(一七七一)年)。大番・御小納戸を経て、宝暦二(一七五二)年に西丸御広屋敷御用人、同七年には清水重好の守役に任ぜられ、後、清水家家老となった。
・「大久保内膳」大久保忠寅(生没年不詳)。役職については寛政二(一七九〇)年勘定吟味役、同六年御小納戸頭を兼ね、同九年に兼役を解く、と底本の鈴木氏の注にあり、「卷之五」の「毒蝶の事」などを見ると寛政九(一七九七)年当時、勘定奉行であった根岸との接点が見える。永井武氏との縁戚関係は不詳。
・「爲知しらせ」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 怪病の事

 清水家の家老を勤めて御座った永井主膳正武氏しゅぜんのかみたけうじ殿は、私も懇意にして御座る大久保内膳武寅ないぜんたけとら殿などとは近親に当たられる。
 この武寅殿の妹ごは、清水家に御奉公致し、永井家に寄宿して御座ったが、ある日のこと、その妹ごが急病の由、知らせが参った。武寅殿、急ぎ永井家屋敷へと罷り越したが……

……いや、妹の様子は、これ、どうという感じにても、御座らないだ。
……病気、と言うなら……確かに熱は御座ったれど……これもまあ、さして高いというわけにても御座らぬ。
……ところが……その……妹の臥して御座る夜具や衣類やその他もろもろのものが……いや、妹のおる閨の、その座敷中が……これ
――水浸し――
……で御座ったのじゃ。
……言うなら、井戸へ転落したか、池へとどっぷり浸かり込んだ者を、たった今、引き揚げたといった有様故、当人へも、
「……これは如何なことじゃ? お前は誤って井戸へ落ちたか、はたまた、池なんどへでも、はまり込んだのか?」
と訊ねて御座ったところが、
「……一向……何がどうなったやら……わらわには、これ、全く覚えが、御座りませぬ……」
と言うばかりで埒開かず……妹お附きの者やら、永井家御家中の者へも聞き質いたれど……
……一向、井戸は勿論のこと、池なんどへも落入ったなんどということ、これ、御座らぬとの由じゃった。
……いや、まっこと……今に至るまでも……不審、これ、晴れ申さぬ……。

とは、武寅殿の直談で御座る。



 氣性の者末期不思議の事

 永井家末期まつごに、起上りては布團の間抔搜し尋る樣子なれば、看病の者何をか尋給ふと問しに、首二つ三つ有筈也と言ひし故、婦女の類は恐れ、男子は病勞とかたり合しが、不幸の葬穴を掘しに、石地藏の首を三ツ掘出せし由聞及しと、何某の語りしを大久保側にありて、夫は外の永井なるべし、主膳正は末期迄附添居つきそひをりしが聞及ききおよばざる事といゝし。

□やぶちゃん注
○前項連関:永井武氏と大久保忠寅絡み怪奇譚二連発。但し、これは近親者であり、事実なら当然知っているはずの大久保忠寅が頑として否認するところから、珍しく最終否認型都市伝説という異形をとる。しかし、こうした末期の脳症による幻覚現象はしばしば見られるものであり、妄想の事実はあったのだが(地蔵の話までが事実なら、寧ろ、前話の様な話を他者に語るを好む大久保ならば、この話は事実であったと、逆に追認するものと思われる)、親族でもあり、友人でもあった彼が、それを武士の名誉のため、全否定したと考える方が自然で、話柄としても面白いと思う。また、表題で「氣性の者末期不思議の事」とした根岸は、信じたかどうかは別として、実は本話が武人永井武氏の逸話としては、よい話だ、と感じたことを示しているように思われる。
・「気性」気が強い、精神がしっかりしている、と言った意味。
・「永井家」永井武氏。前話注参照。彼の逝去は明和八(一七七一)年であるから、執筆推定の寛政九(一七九七)年からは二十六年前のことになる。
・「不幸の葬穴を掘しに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『不幸の後葬穴をほりしに』とある。これを採る。
・「大久保」大久保忠寅。前話注参照。

■やぶちゃん現代語訳

 気性のしっかりした者の末期には不思議がある事

……先の話に出た永井主膳正武氏しゅぜんのかみたけうじ殿は、その末期の砌、やおら起き上がって布団の間なんどを、頻りに捲り上げては、何やらん、探しあぐねて御座る様子なれば、看病の者が、
「……何を、お探しで御座いますか?……」
と訊ねたところ、
「……首が……これ、二つ三つ……あるはずじゃ……」
とおっしゃられた故、その場に御座った婦女なんどは大いに恐れ、男たちも、
「……これ、病いの疲れにても……御座ろうか……」
なんどと語り合って御座った。……
……ところが、
……御逝去ののち
……菩提寺にて墓穴はかあなを掘って御座ったところ、
……土の中から、
――石地蔵の
――首が
――三つ……
掘り出されて御座った。……

「……と……聞いて御座る。……」
と、さる折り、某氏が語ったので御座ったが、たまたまそこに、大久保内膳武寅ないぜんたけとら殿が居合わせており、大久保殿、矢庭に気色ばむと、
「――それは他の永井のことで御座ろう! 主膳正の末期には拙者も付き添い、葬送にも列して御座ったが――そのようなことは――これ――一切――聞き及んでおらぬ!」
と一蹴なされた。



 津和野領馬術の事

 津和野領は西國にて長崎往來の場所に候所、嶮岨けんその難所多き所、久世丹州長崎往來の節右邊にては領主より物頭ものがしらなど案内いたし候處、先乘さきのりをして右の嶮岨を鼻皮はなかはかけて乘下げ乘登のりのぼりす由。いらざる事ながら、自慢心にて右の通いたしける事と見へたり。鼻皮をかくるも子細ある事ならんと、丹州物語也。
□やぶちゃん注
○前項連関:変化球の胡散臭い武辺物で連関。
・「津和野領」石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれた。当主は亀井家。執筆推定の寛政九(一七九七)年当時は第八代藩主亀井矩賢(のりかた 明和三(一七六六)年~文政四(一八二一)年)で藩主在位は、天明三(一七八三)年から文政二(一八一九)年であるから、この領主は彼か若しくはその父で第七代藩主であった亀井矩貞(のりさだ 元文四(一七三九)年~文化十一(一八一四)年)である(叙述から見ると後者の可能性が高いように思われる)。但し、岩波版長谷川氏も指摘する通り、位置的に長崎往来との関係が分からない(どう考えても物理的には津和野藩を通らねばならない訳ではない)。識者の御教授を乞うものである。一つ気になるとすれば、ずっと後のことであるが、ウィキの「津和野町」の歴史の項に拠れば、慶応四・明治元(一八六八)年、長崎の浦上キリシタンが配流され、弾圧されたとあり、各藩の中でも津和野藩の拷問は特に陰惨を極め、外国公使の抗議や岩倉使節団などの理解によって停止するまで続いた(これを「浦上四番崩れ」と呼ぶ)、とあることが何かのヒントか?
・「久世丹州」久世丹後守広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)。浦賀奉行を経て、安永四(一七七五)年長崎奉行となった。中国貿易の拡大を図るなど、オランダ商館長チチングが感心するほどの開明的な人物で、長崎で入手した海外情報を懇意にしていた田沼意次に齎し、オランダ人の待遇改善などにも勤めた。天明二(一七八二)年には米価が高騰し、盗賊放火が増えた際には、近隣の諸侯に依頼して米を回漕させて米価を抑えるなど、天明三(一七八三)年九月、江戸に戻る際には長崎町民が、遙か遠方まで見送って報恩に謝したという。天明四(一七八四)年に勘定奉行となって寛政の改革を推進した。寛政六(一七九四)年には、ロシアの情報を得るため、江戸住みを余儀なくされた大黒屋光太夫のために新居を与えている。寛政九年当時は寛政四(一七九二)年よりの関東郡代を兼ねていた。根岸のニュース・ソースの一人。寛政九(一七九七)年六月五日致仕(以上は主にウィキの「久世広民」に拠った)。
・「物頭」弓組・鉄砲組などの足軽の頭。組頭。
・「鼻皮」馬の鼻づらに左右にかける細長い革。通常は馬銜(はみ:馬のくつわの口にくわえさせる部分)の作用の強化、装飾用などに用いる。この装飾というところが話柄のミソか?――いや、もっと単純に……「鼻をかける」(自慢をする)という皮肉な洒落のように思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 津和野領馬術の事

 津和野領は西国にて長崎往来の途中である。至って険阻の難所が多い。
 長崎奉行で御座った久世丹州広民殿が往来の折りには、かの地にては領主自ら乗馬の上、物頭ものがしらなんどの先に立って、道案内を致いたとのことで御座るが、何でも、その険阻の地を、領主が馬に鼻革はながわを懸け、騎乗のままに、上り下り致いた由。――まあ、いらざる言いではあるが――一種、馬術達者自慢のため、これ、致すものの如くに見えて御座った由。
「……馬に『鼻革を懸ける』というも……これ、何ぞ、仔細があってのことで御座ろうか、のぅ……馬術の上手さを『鼻をかける』……とか、の……」
とは、丹州広民殿の談話で御座った。



 俄の亂心一藥即效の事

 予が許へ來る木村元長が方へ數年出入せる者、元長親の印牧玄順が隱宅へ見廻みまひに、元長が方の僕と連立て行しが、夜に入り歸りて我宿へもかへり又來りけるが、眼血走り顏色殊外靑く不常つねならざる事のみいひ罵りける故、元長まつたくの亂心と思ひける故、紫雪しせつを貮三匁呑もんめのまして無理に臥らせけるが、翌朝に至りて平日の如く也しとかや。留守見廻に至りて酒をものみけるが、藥は町家の手代をいたし重立取計おもだちとりはからひし者ながら、主人の弟近比來りて同居をなして殊外不知ことのほかしらずなれば、兼て逆上の上に、酒を呑て一旦精神を失ひし故、逆上おさへるは黄金の氣に右藥を合せたる紫雪なれば、さも有べき事也と爰に記ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。これはまじないの類ではなく、当時としては立派な処方箋で、本巻冒頭の「耳に虫の入りし事」から続く(それ以前の巻にもまま見られた)、一連の医師処方譚である。なお、本話は精神医学的な観点からも面白い内容で、心理学好きの私としては、各所にリアルな解釈を付加した翻案をさせて貰った。訳で用いた「アルコール不耐症」とは、アルデヒド脱水酵素が先天的に欠損していることを指す。必ずしも、稀ではない。アルコール過敏症レベルのデータでは日本人の一〇%とある。……なお、本話を読むと私は「日本の法医学鑑定」(みすず書房)で読んだケース(しばしば授業で心神喪失無罪の例として挙げた話で覚えている生徒諸君も多いであろう)、自身がアルコール不耐症であることを知らずに酩酊、理由なく愛妻にガソリンをかけて焼殺した昭和四一(一九七六)年に東京都文京区で起こった事件を思い出した(因みに今日、この精神鑑定書を読み返してみると、判決の心神喪失による無罪は問題ないとしても、事件の細部は、教え子に話したほどには単純ではなかったことが分かった。しかし、実に不幸な事件ではあった)。
・「木村元長」小児科医。「卷之五」の「疱瘡神といふ僞説の事」に登場、『予が許へ來る木村元長といへる小兒科』とある。
・「印牧玄順」医師。馬場文耕「当代江都百化物」(宝暦八(一七五八)年序)に玄順の未亡人のゴシップ記事「鳴神比丘尼ノ弁」が載るが(リンク先はサイト「海南人文研究室」内資料。この話自体、大変面白い。剃髪した貞女は実は不倫関係の永続を求めてのことであったというとんでもない話である)、これを読むと「印牧玄順」と言う名跡は代々継がれていることが分かり、時代的にもこの中に載る『玄順病死シテ高根玄竜事、今ハ印牧玄順ト改名シケリ』という人物よりも、一~二代後の「印牧玄順」であると思われる(宝暦八年では本巻執筆推定の寛政九(一七九七)年よりも凡そ四十年も遡ってしまうからである)。「デジタル版 日本人名大辞典」に江戸後期医師で、文政元年に伊予松山藩に招かれて侍医となり、「霊医言」などの医書を残した脇田槐葊(わきたかいあん)という人物の解説中に、彼が印牧玄順に学んだとある。しかし、この槐葊の生年は天明六(一七八六)年で今度は少々若過ぎる感じで、この槐葊の師である「印牧玄順」かその先代という感じである。う~む、今少しなのだが、むず痒い。
・「眼血走り顏色殊外靑く」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「靑く」が『赤く』とある。ヒステリー症状からは赤熱した状態の方が自然であるようにも思えるが、急性アルコール中毒からのチアノーゼの症状として、蒼白でもおかしくない。
・「紫雪」紫雪丹。鉱物性多味配合薬。――多くの辞書には、加賀地方に江戸時代から伝承される家庭薬で、内服用の練り薬で熱病・傷寒・酒毒・吐血・食滞などのときに用いる、とある。アルジャーノン・ミットフォードの「英国外交官の見た幕末維新」によれば、慶応三(一八六七)年にイギリス人外交官であったミットフォードとアーネスト・サトウが立ち寄った金沢城下に別れを告げる下りで、『八月十四日の朝、再来を請う人々の声に送られて、名残を惜しみながら別れを告げ、再び旅の途についた。宿の主人は自分の義父がやっている薬屋に立ち寄って、あらゆる病気に効く万能薬で、硝石と麝香じゃこうから作った紫雪しせつという素晴らしい薬を買うように勧めた現れた』。『当時は、まだ漢方の医学が全盛の頃で、なかでも鍼療法や灸治療が痛いけれどよく効くとされていたのだが、我々としては、その治療を、あえて受ける覚悟はできていなかった。そこで我々は、謝意を表し、治療を受けない口実として健康には全く心配ないと申し立てた」(第三章「加賀から大坂への冒険旅行」より。但し、柴崎力栄氏のブログ「研究と教育」の「ミットフォード、金沢で鍼灸と紫雪丹を勧められる」からの孫引き)とある。……しかし、例えば底本の鈴木氏は「本草」を引用、『唐代には臘日に群臣に下賜された』中国伝来の漢方医薬とする(「臘日ろうじつ」とは中国の習慣で、年末に行われた祖先と神との祭祀を合同させた「臘祭」を行った日。「臘」は「猟」に通じて猟で得た獣を祭壇に生贄として供えたとされる)。――中国三千年の妙薬と加賀石川の家庭薬……何だ? この極端な差は?……そこで更に調べてみると――この中医薬としての「紫雪丹」は高熱・筋攣縮・意識障害・煩躁などに処方し、清熱鎮痙の効果を有するとするものの(本話のような突発的な癲癇性発作を含むと思われる精神障害寛解に一致している)、その調合素材に至っては――牛黄を始めとして、石膏・寒水石・滑石・磁石・甘草・芒硝・硝石・丁香・沈香・麝香・犀角・羚羊角などなどといった素材が並んでおり(漢方関連サイトの記載により異なる)、町方の医師が、緊急救命時に簡単にぽんと調合可能な素材群とはとても思えない。牛黄や沈香・麝香・犀角・羚羊角などに至っては稀品にして高価なことこの上あるまい。こんなものを下僕の発作の緊急治療薬に簡単に配合するとは――私は――思えないのである。……そこで、更に拘って検索をかけてみると――出た! 安土桃山時代の医師で吉田宗恂そうじゅん(永禄元(一五五八)年~慶長一五(一六一〇)年)という人物が挙がってくる(彼の、京都の土倉業の実家を継いだ兄は、琵琶湖疏水の設計者として、また、戦国期の京都の豪商として知られる角倉了以すみのくらりょういである)。当初は侍医として豊臣秀次に仕え、後陽成天皇の病気に献薬して奏効を示して法印に叙せられている。後に徳川家康に召されて東下、家康が好んだ本草研究をも助けた。博覧強記で、南蛮船がもたらした珊瑚枝についての御下問には、侍医の中で宗恂だけがその名称と産地及び採取法を即答し、これを賞した家康はその一枝を下賜したとされる。また、家康の命で紫雪(鉱物多味配合薬)を製薬、諸侍医もこれに習った。京都で没し、嵯峨二尊院に葬られている(以上の事蹟は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。――如何であろう? これこそが、本話の「紫雪」であると、私は確信するものである。……勿論、それは中医漢方薬や、その後に生まれたものと考えられる加賀の家庭薬と成分は重なるであろうが――私が言いたいのは――ここの「紫雪」の注として附せらるべきものは――御大層な本草書から引用や唐の皇帝の話でも――また、加賀地方の解熱剤の家庭医薬の「紫雪丹」でも――なく、この吉田宗恂が練った新薬の話でなくてはならない、ということである。――注とは、生没年や生地や出身大学などの無味乾燥な「事実」では毛頭なく――更に言えば、百科事典や常識一般や周辺や類似の教授ではなく(一般を知らぬ者に対してはそこから入らねばならぬものの)――その対象の核部分の「真実」を――簡明にして剔抉した説明でなくてはならぬという考え方を私は持っている(私の注は「簡明」とは言い難いが)。――「紫雪」の注は「吉田宗恂」を語ってこそ附して価値ある「注」であると私は思う。
・「貮三匁」約七・五~一一・二五グラム。
・「留守」外出の意。
・「黄金の氣に右藥を合せたる紫雪」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「右藥」が『石薬』とある。右では意が通らない。「石藥」として採る。但し、この「黄金の氣」は「石藥」と同義的に見えるのでやや不審ではある。「黄金の氣」とは五行の「ごん」に分類されるもので「黄色を示す素材」と言う意味か。

■やぶちゃん現代語訳

 俄かの心神異乱に対する一薬即効の事

 私のもとへしばしば出入りする小児科医木村元長げんちょう殿の方へ、数年出入り致いておる××××と申す者があった。
 ある日、元長の従僕と連れ立ち、元長の親で、やはり医師であった、今は隠居して御座る印牧玄順いんぼくげんじゅん殿の隠居宅を見舞って、その夜のこと、××××は一度、自宅へ帰った後、再び、元長の屋敷を訪れて御座ったが、昼間、送り出した際とは別人の如く――眼が血走り、顔色は殊の外に蒼白、尋常ならざることを罵り喚き始めた故――元長は、これは突発性の真正の心神異乱に相違なしと見立てて、即座に紫雪丹を調合、二、三もんめを口を強引に開かせて服用させた上、人をつけて横臥させておいたところ、翌朝に至って、××××は何時もと変わらぬ様子にで起きて参ったということである。
〔付属資料〕

   ●医師木村元長のカルテ

 診断の結果、本発作を起こした××××の病態の発生は、以下の経緯に基づくものと考えられた。

〇発作の外的誘因
 第一に、
・××××は生得的にアルコールに対する抵抗力を持たない体質、アルコール不耐症である
点を挙げておかねばならない。そしてその彼が、
・当日、外出して玄順宅を見舞いに行った際、振る舞いとして出された酒を勧められるままに強いて飲んで、いつになくひどく酩酊していた
ことが、従僕の証言からも明らかである。但し、自分の体質を認識していたはずの彼が、何故にそのような行為に及んだかについては後に分析する。

〇発作の主因と発症と病態
 彼は、
・町家の手代を勤め、その商家の家政一般・商取引の主要なパートを担当していた
が、近年、彼の身辺に於いて、
・主人の弟が移り住んで主家へ同居するようになった
という急激な変化が起こり、また、
・この弟がことあるごとに、今まで彼が取り仕切って順調になされていた家計や商法に口を出ようになった
その結果、
・彼と、この主人弟との人間関係が頗る悪化した
そこでは、付随的に、
・この弟の行為言動に対して、今まで彼が信頼し、彼もまた信頼されていた主人であるところの兄が、悉くそれ容認し、また、彼の主張が容れられない状況に、彼は激しい不満を募らせていた
と考えてよい。そうした状況下、その日は、
・日頃の溜まりに溜まった主人弟及びそれを許して彼の言を聴き入れようとしない主人への極度の鬱憤と絶望とが頂点に達しているところの、謂わば「逆上」寸前の状態にあった
ものと思われる。彼は自身のアルコール不耐症を認識していながら、その見舞い先で振る舞われた、
・本来なら飲めない酒を、珍しく優しく玄順から勧められて、自身の孤独感から半ば依存的に、半ば自棄的に、無謀な飲酒行為に及んだ
と推定される。その結果として、
・アルコール性抑鬱状態から速やかに急性アルコール中毒へと移行した
もので、
・重度の充血及びチアノーゼ・恐らくは幻視幻聴を伴った関係妄想による驚愕性のヒステリー発作を呈した
ものである。私の観察では、
・発作時には既に見当識が殆んどない
ように見受けられた。

〇処方
 以上のような病因と病態を勘案の上、この病態はあくまで、
・心因性の主因に、飲酒によるアルコール性精神病様症状が合併して発症したもの
と診断の上、種々の状況から××××の内因性精神病としての難治性の遺伝的要素を含む精神障害の可能性を排除出来るものと考え、突発性興奮を鎮静させるための処方を判断した。
・黄金〔五行のごんに分類される黄色を示す生薬〕の気(薬理作用)に、石薬〔鉱物性生薬〕を主として調合した
◎「紫雪」
であれば、速やかに症状を鎮静恢復させ得るものと判断し、その場で調合の上、即座に拘束した上、強制服用させた。

〇予後
 翌朝には恢復したが、問診したところ、自身の前日の病態は勿論のこと、玄順宅からの帰り以降の記憶を、殆んど喪失していた。アルコール不耐症には普通に見られることである。

   以下、余白。


 賤夫奇才の事

 火消屋敷の役場中間といへるは、無類不法の者にて、朝に食して夕べに食なきを不知しらざるの者なるが、寛政丙辰ひのえたつの春室賀兵庫役場中間に安五郎と言る者、櫻田の火事に怪我なしける時かきたりしと、其頃もてはやす儘爰にしるしぬ。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げであるが、無視し、「*」を附して区別した。]
   *
愚なる身體、國に有ては父母のもの也、武家に仕へては君のもの也。ましてや惡行の勤たるといへ共、二十年來道に入て命をつなぐ。時に丙辰の春、近火有て我あやまち惣身そうみの骨をくだきて、九牛が一毛、君恩此時に送る。殊に本道の名醫骨繼ほねつぎの良醫貮人遣され、塵芥の如き下々たる我に難有事ありがたきこと言葉に不及およばずまことこれ君に奉仕つかへたてまつりては、火に入一炎いりいちえんの烟となるも可也。難波なにはあしの折れたるも、所替ればよしともならんや。人間萬事塞翁が馬と云々。寄春火はるのしゆつかによす 棚引し霞が關のひまよりも燃出もへいづる火は花の櫻田

■やぶちゃん現代語訳
○前項連関:特に感じさせない。
・「火消屋敷」武士によって組織された武家火消の内、幕府直轄で四、五千石クラスの旗本が担当した定火消じょうびけしの役宅を言う。府内に十数か所あった。配下には与力六騎、同心三十名程が付き、火災時には彼らが「臥煙がえん」と呼ばれた渡り中間の火消人足(各定火消三百人)を指揮して消火活動に当たった。本話を読むと、誰もが時代劇「暴れん坊将軍」の町火消の「松五郎」を連想されるであろうが、この「臥煙」は消防のために武家火消の定火消に雇われた専門職であって、平常時に鳶などの本業を持っていた、あの町火消の火消人足とは異なる者たちであるので注意されたい。主に参照したウィキの「火消」によれば、本文で「無賴無法」と記されるように、真冬でも法被はっぴ一枚で過ごし、『全身に彫り物をしたものが多かった。普段は火消屋敷の大部屋で暮らしていたが、博打や喧嘩で騒動を起こすこともあった。 臥煙は必ず江戸っ子でなければ採用されず、頭は奴銀杏やっこいちょうという、特殊な粋な結い方をした。 出動の時には、白足袋に、真新しい六尺の締め込みをつけ、半纏一枚だけで刺し子すらも着ない』。『また、町に出ては商家に銭緡ぜにさし』(銭の穴に通して束ねるのに用いた紐。主に麻や藁で出来ていた)『を押し売りし、購入しなかった商家に対しては報復として、火事のときに騒動に紛れその家屋を破壊するなど、町人には評判の悪い存在であった』とある。なお、本話の安五郎は一命をとりとめたのであるが、不幸にして『火事場で死亡した臥煙は、四谷にあった臥烟寺(現存していない)に葬られた』 とある(読みはルビ化した)。
・「役場中間」この場合の「役場」とは、実務「役」として火災現「場」で消火に当たる「中間」の謂いであろう。
・「無類不法」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『無頼無法』。「無賴」の誤りと採る。
・「寛政丙辰」寛政八(一七九六)年。鈴木氏注に、『この春、特別の大火があったわけではない。』と記す。
・「室賀兵庫」室賀正繩むろがまさつぐ(宝暦三(一七五三)年~?)。天明二(一七八二)年遺跡五千五百石を継ぎ、同七(一七八七)年に定火消となっている。
・「櫻田」江戸城南端にある桜田門橋一帯の地名。現在の東京都千代田区霞が関二丁目付近。古くは桜田郷と呼称した。
・「九牛の一毛」圧倒的多数の中で、極めて少ない部分の譬え。また、比較にならないほどつまらぬことの譬え。男性生殖器を截ち斬られる屈辱的宮刑(腐刑)を受けた司馬遷が友人に宛てた悲痛なる返書「報任少卿書」(任少卿じんしょうけいに報ずる書)で、『假令僕伏法受誅若九牛亡一毛』(假令たとひ、僕、法に伏し、誅を受くるも、九牛の一毛を亡ふごとく)と、世人は私がこのような冤罪によって刑に処せられたことを意に介していないであろう、という文脈を原拠とする。この安五郎の使い方は少々おかしい感じがするが、恐らくは九死に一生というところを、わざと九牛の一毛と変えて、自己卑小化を示した味な仕儀と考えられる。
・「本道」漢方で内科をいう。
・「難波なにはあしの折れたるも、所替ればよしともならんや」「芦の折れたる」は、安五郎が臥煙としての消火作業中に足(だけではないようであるが)を骨折したことに掛ける。以下の「芦」も「葭」も同じ単子葉植物ツユクサ類のイネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ Phragmites australis を指す。標準和名「ヨシ」は「アシ」が忌み言葉としての「悪し」に通じるのを嫌って、逆の意味の「良し」と言い替えたものが定着したもの。但し、関東では「アシ」、関西では「ヨシ」の呼称が一般的で、ここでもその違いを掛詞とした。また、この「ヨシ」原は難波潟の景の名物でもあった。
・「棚引し霞が關のひまよりも燃出もへいづる火は花の櫻田」火事場であった霞が関及び桜田郷の地名を詠み込み、「關」の縁語で「ひま」(隙)を引出し、「燃出もへいづる」に、華やかな桜の花の「萌え出づる」を掛ける。ハ行音の多様によるリズムが面白い狂歌である。以下、通釈する。
……霞棚引く霞が関……ああ、その隙間より……ちろちろちろと……燃え出でた、かとみた、その火……ありゃ、火には御座いません……いやさ、お江戸は桜田の……桜の花に、御座います――

■やぶちゃん現代語訳

 匹夫奇才の事

 火消屋敷の役場中間と申すは、これ、無頼不法の者どもにて、朝に一食、食ったきり、夕べになればものをも食わず、ただただ酒に浸り切り、といった不埒なる輩ではある。
 寛政八年丙辰ひのえたつの春、定火消で御座った室賀正繩むろがまさつぐ殿御支配のその役場中間、安五郎と申す者、桜田辺の火災あって、その火消に当たっておるうちに、重傷を負ったという。その際に書き置いたと申すふみが、これ、近頃、もて囃されて御座る故、ここに引き写しておく。
   *
……愚なるはこの身体からだ、国にあっては父母のもの、武家に仕はば主君のもの。……ましてや、火消の役場中間……悪行三昧の勤めといえど……二十年来、この渡世、って一命、辛くもつなぐ。……時は丙辰ひのえのたつの頃……この春つ方、近火のあって、その火事場にて、我らこと……ちょいとしくじり、致いてもうた……総身そうみの骨をぼきぼきと……すっかりいみじう砕いてもうた。……ところがどっこい、九牛の、一毛にして九死の一生……殿の御恩を、これ、授かる。……殊に内科の名を立つるお医者一人に、骨接ぎの、これまた良医と、これ、二人、あるじ直々お遣わし下され……塵芥ちりあくたの如き、この下々の者たる我らには……重ね重ねの、ありがたきこと……これ、言うに及ばず。……まっこと、殿に、仕え奉りては――飛んで火に入り、一炎いちえんの――儚きけぶりとなるも、よし!――難波江の――折れたるあしも――ところ変われば、これまたよし――そうともならんことなれば! 人間万事、塞翁が馬!……
   ――春の出火いでびに寄せて――
棚引きし霞が關のひまよりも燃へ出づる火は花の櫻田



 曲禪弓の事

 寛政七八年の比、曲禪弓とて代にその業をなしけるが、弓法の家にも不傳つたへず古實家こじつかにも其傳なし。其形は李蔓弓りまんきゆう建弓たてゆみになし、丸き尻籠しりこの如きものへ半弓はんきゆう貮張或は一張をたて、矢をかたはらに建し物也。其起立きりふ不分明のこと故、或人穿鑿なしけるが、近き比の事なるとや、靱師ゆぎし庄左衞門といへる者工夫して、李蔓弓へ趣意模樣を附て用ひしが、此庄左衞門、甚右はなはだみぎ半弓の名人にて百發百中の術を盡せし故、其最寄の武家抔にも其術を傳へて、一兩輩も稽古せし儘、右庄左衞門はいたつて文盲なる者にやありけん、曲げものゝ如く矢をたつる所まどかなるゆへ曲の字をおき、彈は彈丸の字理も有べき故彈弓と云べきを、彈のだんをゼンとおぼえ、禪字をかき誤りて曲禪弓と唱へしと見へたりと、座中一笑をなしける。

□やぶちゃん注 ○前項連関:役場中間の滑稽なる誓文から、文盲の名工の文字誤読滑稽譚で連関。「曲彈弓」と名付けるところを、字を誤って「曲禪弓」と誤って命名したというのだが……志賀直哉の「小僧の神様」に食ってかかって、「小僧に寿司奢って、何が面白い?!」と指「弾」した太宰治じゃないが、『「彈」を「禪」と誤ったのが、そんなに面白いか?!』と言いたくなる……私はこういうことで、一座の者と笑い合う根岸が――私の好きな根岸が――どうも私が臍「曲」りなんだろうか?――ここに限って何故か、不快なんで、ある……。こんなことだから、私には友だちが少ないのかも、知れないな……。ともかくも、今回は、そうした話し手聴き手の持つ不快な悪意を抉り出すような現代語訳を心掛けた。
・「李蔓弓」「利満弓」「李万弓」とも。携帯用・非常用の弓の一種。底本の鈴木氏注では朝鮮の利満子によって伝えられたとあり、須川薫雄氏の「日本の武器兵器」の「弓の種類」の「李満弓」によれば、紀州の林李満と言う兵法家の作ともある(こちらの人物も姓名からは半島からの渡来人のように思われる)以下、そこから引用する。『小型で既に弦が掛けた 状態で保持されており、緊急の際に取り出しそのまま矢をつがえて発射出来る。籠弓ともいう。弓と矢は一つの入れ物に一体となり設置されている。材料は弓本体も入れ物も鯨の髭(実際は歯)水牛の角、などを膠(これも鯨の髭から作る)と卵白で接着したものと言われている。矢は十一本が収納されそのうち一本は矢羽四枚あり大きな鏃が付いている。完全に台が設置型のものも存在する。床の間などに置いたのであろう』とある(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた。リンク先に画像があり、根岸の謂いが分かる)。
・「建弓」本体として使用する弓のこと。
・「半弓」和弓の長さによる分類名。六尺三寸(約一九一センチメートル)が標準とされ、通常の和弓である大弓の七尺三寸(約二二一センチメートル)よりも短い。
・「尻籠」「矢籠」「矢壺」とも書く。矢(この場合は弓本体も含む)を収納するための収納用具の一種。葛藤つづらふじ(双子葉植物綱 キンポウゲ目ツヅラフジ科 Menispermaceae の蔓性植物)の蔓や竹で編んだ簡略なもので、整理収納や携帯用のもの。
・「靱師ゆぎし」「靱」は「靫」とも書き、「えびら」と同じで、矢を入れて肩や腰に掛け、携行するための用具で、それを作る職人のこと。

■やぶちゃん現代語訳

 曲禅弓の事

 寛政七、八年のことである。
 「曲禅弓」と如何にもな名を附け、代々、それを家宝と致し、特別なる弓術として伝えておる家もあるようにて御座るが、如何なる由緒正しき弓法家の家にも、これ、伝わっておらず、また博覧強記の古実家にも、そのような弓名弓術のあること、これ、伝わって御座らぬ。
 その形状を管見致すに、李蔓弓りまんきゅう建弓たてゆみと致し、まある尻籠しりこの如きものへ、半弓を二張、或いは一張建てて、矢をその傍らに建て並べた代物にて御座る。
 その濫觴が不分明である故、ある人が穿鑿致いてみたらしいのであるが……
「……まず、これ、古いものにては御座らぬ。……至って近き頃のこととか……靱師ゆぎしの庄左衛門とやら申す者の考案になるものにて、李蔓弓にちょちょいと工夫意匠を施したものに、これ、過ぎぬもので御座る……が、この、庄左衛門なる職工風情……何でも、この半弓の恐るべき達人との触れ込みにて――己れが儲けんものと改造したものなればこそ、上手は、これ、当たり前にて御座ろう程に……それこそ、射らば百発百中の術を尽いたとか――さても、これも手前味噌の眉唾めいて聴こえ申す……まあ、その風聞故、最寄りの武家なんどの者の、いらん興味を掻き立て、不遜にも庄左衛門直々に、その弓術とやらを御伝授とやら……またまたそのうちの好き者数人が、これまた、この弓を好んで、稽古と称して流行らせるという始末……それが、まあ、「曲禪弓」と申す謎めいた名にて、恰も、古秘の弓術の如、伝わって御座った……というのが、真相で御座る……
……付け加えて申すなら、この庄左衛門――どうせ賤しい出自なれば……これ、とんでもない文盲で御座ったものらしく……その矢を建てた尻籠のところが、これ、安っぽい曲わっぱの如くまあるくまがっておる故、単純に『曲』の字を配し――これはまだしもにて御座るが……次の字は、矢弾やだまの『弾』の字義にて『弾弓』とせんはずのところで御座ったに……これ、何と……『彈』の「ダン」と申す読みを……「ゼン」と誤って読んで……ご丁寧にも『禪』の字に書き誤って、これ、偶然、謎めいた『曲禪弓』と、胸張って偉そうに唱えておったものと、これ、見えまする……。」
とのことなれば、座中、大笑いとなって御座ったよ。



 田鼠を追ふ呪の事

 寛政七卯年濃州の田畑に鼠多く出て荒けると言る咄合の節、或人の曰く、田鼠を追ふまじなひには、糠にて鼠の形をこしらへ、板などに乘せて惡水堀あくみづぼりなどへ流すに、田鼠でんそども右につきて行衞なくなるとかや。虛實は知らねどもかゝる事も有べきや。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。まじないシリーズの一つ。農村での習俗として興味深い。
・「田鼠」こう書くと、アカネズミ・ハタネズミ・ヤチネズミなどの野鼠やクマネズミを指す場合があり、他にもクマネヅミの別名としても用いられるが、ここに記された習俗からは哺乳綱トガリネズミ目モグラ科 Talpidae のモグラと採っておきたい(岩波版の長谷川氏の注もモグラとする。但し、これが実際のネズミ類であると解釈出来ない根拠はない)。本邦には四属七種(更に複数の亜種を含む)が棲息する。参照したウィキの「モグラ」によれば、『古くはモグラのことを「うころもち」(宇古呂毛知:『本草和名』)と呼んでいた。また、江戸時代あたりでは「むくらもち」もしくは「もぐらもち」と呼んでいた。なお、モグラを漢字で「土龍」と記すが、これは本来ミミズのことであり(そのことは本草綱目でも確認できる)、近世以降に漢字の誤用があり、そのまま定着してしまったと考えられる』とあり、『日本各地で小正月には、「烏追い」と並んで土龍追い(もぐらおい)・土龍送り(もぐらおくり)・ 土龍打(もぐらうち)などと呼ばれる「農作物を害するモグラを追い出し、五穀豊穣を祈る神事」が行われ、その集落の子どもたちが集まり、唄を歌いながら、藁を巻きつけた竹竿などで地面を叩き練り歩くものである』と記す。これ以外にも、京都・滋賀及び東北の一部など比較的広範に見られる小正月の行事の一つとして「海鼠曳き」と称するものがあり、これはモグラが嫌うとされるナマコを引き回すというものである。実物の海鼠を藁苞わらづとに入れ、長い繩の先に結んで曳いて歩き、「もぐらもち内にか、なまこどんのお通りだ」などと唱えるものである(実物を引き回す場合もあるが、多くは棒や束ねた藁の代替物を用いるらしい)。但し、モグラによる農作物の「食害」については、『畑にモグラのトンネルが現れた際にトンネルと接触した農作物の根が食害を受けることがあり、「モグラにかじられた」と言われる事がある。だが、モグラは動物食であるためこれは誤りで、実際に食害しているのはモグラのトンネルを利用したネズミなどによるものである』とある。田の畔を壊したり、畑地の陥没や隆起による被害は勿論、甚大であったに違いないが、嘗ての分類で食虫目とされたように、彼らはミミズや昆虫の幼虫などを主な食物としているから、「食害」に関しては、少なくとも永い冤罪であった訳である。因みに、あまり知られていない事実としてはモグラが神経毒(咬毒)を持っていることである。日常的にはモグラに咬まれるケースは稀であり、注入される量も人体に比して微量であるから、人への毒性は問題がないらしいが、小動物などはイチコロである。
・「寛政七卯年」は乙卯きのとう。西暦一七九五年。
・「惡水堀」水田の不要になった滞留水を流すための河川等に繋がる側溝。

■やぶちゃん現代語訳

 田鼠を追い払う呪いの事

 寛政七年卯年のこと、美濃国では田畑に田鼠もぐらが多量に発生、農地が大いに荒されたという話を致いて御座った折り、ある人の語ることには、
「……田鼠を追い払うまじないには、米糠にて田鼠の形を拵え、板なんどにこれを乗せて、田の悪水堀あくみずぼり辺りから流し出だしまする――すると、田鼠どもは、その跡について、これ、すっかり、居なくなって、御座る。……」
とのこと。
 真偽のほどは定かならねど、そういった事実も、これ、御座るのであろうか。



 剛氣其理ある事

 備前の松平新太郎少將の時、國中銅鐡の佛具類鑄潰しの儀申付られしに、ある撞鐘つきがね名物の由にて色々すれ共不解由訴どもとけざるよしうつたへければ、山崎にてなかりしか、名は忘れたり、其此新太郎に隨身ずいじんしける家來、我等鑄潰させ可申迚、やがて彼鐘の有所へ至り、立ながら右鐘へ小便をしかけける上、さらば鑄潰せとて火をかけしに何事もなくとけしとかや。愚按ぐ あんずるに、愚民は名物と聞て佛意を怖れし心より、火をかけてもとけざるや、又は惜しみてとかざると空言そらごとを唱へけるや。右を計りて尿いばりを爲しけるは頓智英才ともいふべき歟。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。これも厭な話柄である。これ、仏具類の鋳潰しであるところから見て、実用的な目的を持ったものではなく、水戸藩などが行った、明治初年の廃仏毀釈政策と同じものである(次注参照)。宗教政策であったと同時に社寺の経営整理を目的としたものであったと思われるが、明治のそれが多くの文化財の消失と国外流出を招いたのと同様、全く以て愚かな行為であったと言わざるを得ない。我々はバーミヤンの仏像を爆破した彼らを野蛮とは言えないのだ。つい先日まで、我ら日本人とて、宗教的ファンダメンタリズムの狂気の中に生きていたではないか。いや、この阿呆さ加減は、今も以て変わらないという気がする――。根岸はこれまでの叙述からも熱心な神儒一致思想の持ち主である。こういう仕儀を手放しで褒め称えるのも、訳のないことでは、これ、ないが……根木さんよ、あんた、やっぱり一般大衆を「愚民」の輩と、思うておったんやねえ……
・「松平新太郎少將」池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)のこと。播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩初代藩主。儒教を信奉した彼は寛永九(一六三二)年に岡山藩藩主となるや、陽明学者熊沢蕃山を招聘、寛永一八(一六四一)年には全国初の藩校花畠教場はなばたけきょうじょうを開校、寛文一〇(一六七〇)年には日本最古の庶民のための学校として閑谷学校しずたにがっこうをも開いた。教育の充実と質素倹約を旨とし、「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。岡山郡代官・津田永忠を登用し、干拓などの新田開発、百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水、産業振興の奨励など、積極的な藩政改革を行った(このことから光政は水戸藩主徳川光圀、会津藩主保科正之と並ぶ江戸初期の三名君と称せられる)。光政は幕府が推奨し、国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学として、陽明学に於ける自律的思考とその実践を旨としていたが、これは藩政の宗教面に於いても発揮され、神儒一致思想から神道を中心とする神仏分離政策を採った。また寺請制度を廃止し神道請制度を導入、儒学的合理主義に基づいて淫祠・邪教を排して神社合祀及び寺院整理を行っている(本話柄はその一エピソードである)。彼は、当時、同藩金川郡において隆盛を極めていた、国家を認めない日蓮宗のファンダメンタリズムである不受不施派の弾圧も行って、備前法華宗は壊滅している。以下、参照したウィキの「池田光政」によれば、『こうした彼の施政は幕府に睨まれる結果となり、一時は「光政謀反」の噂が江戸に広まった。しかし、こういった風説があったにもかかわらず、死ぬまで岡山』藩が『安泰であったのは、嫡子・綱政が親幕的なスタンスをとったこともあるが、光政の政治力が幕府から大きな評価を得たためではないかと考えられる。光政は地元で代々続く旧家の過去帳の抹消も行った。また、庶民の奢侈を禁止した。特に神輿・だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じた。このため、備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。現在岡山名物の料理となっているばら寿司(ちらし寿司の一種)の誕生にも光政の倹約令が絡んでいるといわれる。倹約令の一つに食事は一汁一菜というのがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという』。――大した名君じゃないか……しかし私には……積み上げられ打ち捨てられる野仏の累々たる山や……小便をかけられて鋳潰される鐘の映像が、拭っても拭っても脳裏から消え去らぬのだ……
・「山崎」岩波版の長谷川氏注には『光政の下、寛文六年(一六六六)より寺の整理、僧の還俗の策を講じた熊沢蕃山を誤るか』と記す。熊沢蕃山(くまざわばんざん 元和五(一六一九年)年~元禄四(一六九一)年)は陽明学者。諱は伯継しげつぐ、字は了介(一説には良介)、通称は次郎八、後助右衛門と改め、蕃山及び息遊軒と号した。正保二(一六四五)年に岡山藩に出仕(それ以前、光政の児小姓役として出仕していた経験がある)、陽明学に傾倒していた光政は、近江聖人と称えられた中江藤樹門下の蕃山を重用、花畠教場を中心に活動し、慶安四(一六五一)年には庶民教育の場となる閑谷学校の前身である花園会の会約の起草も行っている(閑谷学校の創立は蕃山の致仕後の寛文一〇(一六七〇)年)。承応三(一六五四)年に備前平野を襲った洪水と大飢饉の際には光政を補佐し、飢民の救済に尽力、治山治水等の土木事業による土砂災害の軽減や農業政策を充実させた。しかし、大胆な藩政の改革が守旧派の家老らとの対立をもたらし、また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者であったために、保科正之や林羅山らの批判をも受け、岡山城下を離れた和気郡蕃山しげやま村(現在の岡山県備前市蕃山)に隠棲を余儀なくされ(彼の号蕃山はこの地名に由来)、明暦三(一六五七)年、幕府と藩内の反対派の圧力によって、岡山藩を去っている。(以上はウィキの「熊沢蕃山」に拠った)。「山崎」――反幕的思想家であったが故に、根岸は遠慮して、わざと「山」を入れて誤ったのであろう。――確かに、自律禎な徹底した反骨の儒者だ……しかし鐘に小便して庶民の罪なき信仰の対象を鋳潰す彼に……私は「頓智英才」の賛美を送りたいとは、これ、思わぬよ……

■やぶちゃん現代語訳

 剛気にもその理りのある事

 備前岡山藩藩主松平新太郎少将光政殿の治世、国内くにうちの銅鉄仏具類鋳潰しの命が発せられた折り――ある撞き鐘、名物の由にて、これ、如何に致いても、いっかなけざるの由、訴えが御座った。
 確か山崎とか申す姓で御座ったか――名は忘れてしもうたが――その頃新太郎殿に随身ずいじんして御座った家来が、
「――我らこと、美事、その鐘、鋳潰してご覧に入れましょう。」
と言うが早いか、かの鐘のある寺へと至り、突っ立つたまま、平然と――この鐘に小便をひらかした。――
「――されば――鋳潰せ!」
とて、火をかけたところが、鐘はあっけなく熔けた、と申す。――

――拙者の思うに、愚民は名物と聞いて、その仏罰を畏れる心がため……何と、その「ありがたい仏縁」に依りて、火をかけても熔けなかったと申すものか?……いやいや……これは又、ただ、さもしくも、名物の鐘のなくなるを惜しみて、「熔けざる」と、底の見え透いた空言を吐いて御座ったに過ぎぬのでは、これ、御座るまいか?……そうして……それと察して、山崎、鮮やかに鐘に尿いばりをひったは――これ、まっこと、美事なる頓知英才の極み、とも申すべき者にては――御座るまいか?



 女の髮を喰ふ狐の事

 世上にて女の髮を根元より切る事あり。髮切とて代に怪談の一ツとなす。中にも男を約して父母一類の片付なんといふをいなみて、右怪談にたくしてもとどりなどを切も多し。然共實に狐狸のなすもあるとかや。松平京兆けいてうの在所にて、右髮を切られし女兩三人ありしが、野狐を其頃捕殺して其腹を斷しに、腸内に女の髻ニツ迄ありしと語り給ふ。一樣には論ずべからざる歟。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。終盤に来ると、どうも百話への数合わせの意識が働くのか、関連性のない記事並びという気がする。
・「髮切」本人が気づかぬうちに主に女性の髪を切り落とすとされた妖怪。江戸市中での噂として時期をおいて繰り返し発生しており、所謂、都市伝説アーバン・レジェンドの古形の一つとして興味深い。以下、ウィキの「髪切」によれば、菊岡沾凉の「諸国里人談」(寛保三(一七四三)年)には、『元禄時代初期には伊勢国松坂(現・三重県松阪市)で、夜中に道を歩いている人が男女かまわず髪を元結い際から切られる怪異が多発し、本人はまったく気づかず、切られた髪は結ったまま道に落ちていたと』あり、『同様の怪異は江戸でもあり、紺屋町(現・東京都千代田区)、下谷(現・東京都台東区)、小日向(現・東京都文京区)でも発生し、商店や屋敷の召使いの女性が被害に遭ったという』。近代に入ってからは明治七(一八七四)年に東京都本郷三丁目の鈴木家でやはり、ぎんという召使いの女性が被害に遭い、新聞記事でも報じられている。頃は三月一〇日、二一時過ぎで、『ぎんが屋敷の便所へ行ったところ、寒気のような気配と共に突然、結わえ髪が切れて乱れ髪となった。ぎんは驚きのあまり近所の家へ駆け込み、そのまま気絶してしまった。その家の家人がぎんを介抱して事情を聞き、便所のあたりを調べると、斬り落とされた髪が転がっていた。やがてぎんは病気となり、親元へと引き取られた。あの便所には髪切りが現れたといわれ、誰も入ろうとしなくなったという』とあるが、これが妖怪髪切の最後の光芒で、これ以降、所謂、『ザンギリ頭が珍しくなくなるにつれ、次第に人々の心から髪切りに対する恐れは消えていったといわれる』とあり、これは文字通り、茨城県古河の蒸気機関車に化けた狸が本物の汽車に轢かれて死ぬという説話同様、文明開化・自然科学による妖怪の抹殺という象徴的事実であると言ってよいだろう。以下、「髪切りの正体」という項では、『大きく分けてキツネの仕業という説と、「髪切り虫」という虫の仕業という説があ』るとし、室町時代の公卿万里小路(までのこうじ)時房の日記「建内記」(応永二一(一四一四)年~康正元(一四五五)年)では狐の仕業とされ、幕末の国学者朝川鼎による随筆「善庵随筆」では、『道士が妖狐を操って髪を切らせるものと』ある。また江戸後期の「嬉遊笑覧」では、『「髪切り虫」という虫の仕業とされており、実在の昆虫であるカミキリムシが大きな顎で木などを噛むため、転じて毛髪を噛み切る魔力を持つ妖虫とされた』 と記し、これには『実在のカミキリムシではなく想像上の虫との説』及び『剃刀の牙とはさみの手を持つ虫が屋根瓦の下に潜んでいるともいわれた』と記す(屋根瓦という部分は後述の鈴木氏の注に附した私の記載を参照)。以下、本現象を推理する面白い解説が続く。『文化年間には修験者たちが髪切りを避ける魔除けの札を売り歩いていたため、修験者たちの自作自演も疑われ、一部には実際に自作自演もあったらしい』。『さらに、現代でも女性の髪や服を刃物で切る変質者がいることから、伝承上の髪切りも妖怪ではなく、人間の変質者だったとする説もあ』って、『江戸時代の文化・風俗研究家の三田村鳶魚は著書の中で、実際に髪切り犯が捕らえられた事例』もあったと記し、他にも『何者かに髪を切られるのではなく、自然に髪が抜け落ちる病気との説もあった』とある。他にもカマイタチも考えられようし、最後の部分は、精神的なストレスからの円形脱毛症及びヒゼンダニやアタマジラミの寄生などを考えると、一つの解釈としてはあり得ようが、それならば、江戸の好事家の中に、複数の、それら(カマイタチで人体と一緒に髪が切られるケース及びダニ・シラミの特徴的病態を併記する髪切の記述)を臭わせる記載が頻出しなくてはならず、寧ろ私は、前に記載されているマッチ・ポンプ式の詐欺やフェティシスト(日本人の髪に対するフェティシズムは恐らく世界的に見ても潜在的に高いものと思われる。何を隠そう、私にもその傾向がある)などの異常性欲者及び本文にあるような目的を持った自作自演というのが案外、多くの真相であったのではなかろうかと考える。底本の鈴木氏の注では山岡元隣の俳文の濫觴と評される「宝倉」(寛文一一(一六七一)年)に『寛文十四年の頃かに、髪切虫という妖蘗』(「ようはく」と読み、「禍い」の意)『の風評がしきりで、何処の誰それが切られたというはっきりした事実はないのだが、女たちあ上下とも恐れあった。そのうち「異国より悪魔の風の吹きくるにそこ吹き戻せ伊勢の神風」という歌を門口に貼ったり、簪に巻付けたりしたが、うわさは消えず、またどこからともなく髪切虫は剃刀の牙、はさみの手足、煎かはらの下に隠れているといいふらされ、あちこちで家の前にそれらの物を投げ出し、通行人もびっくりするような事態が起こったと』記されているとある(この『煎かはら』とは火にかけてものを煎るのに用いた土鍋、焙烙ほうろくのことである。この記載から、私は先のウィキにある『屋根瓦』という伝承は、元は、この『煎瓦いりがわら』の誤りであったのではないかと推測するものである。そもそも女性をターゲットとする髪切が潜む場所は、女性がその禍いに遭いそうな場所や道具でなくてはおかしい。そうした観点に立てば、屋根瓦よりも煎瓦の方が遙かにしっくりくるではないか)。以下、鈴木氏は、上の「宝倉」の寛文十四(一六七四)年に始まる江戸期の髪切出現を、風聞の発生を記した諸書名を挙げながら、延宝五(一六七七)年の夏(於筑前福岡)、先に挙がった「諸国里人談」の元禄初期(元年は西暦一六八八年)、明和四(一七六七)年、文化七(一八一〇)年にそれぞれあったことを記しておられる。これに本話の記載(執筆推定の寛政九(一七九七)年)と、その最後と思しい東京に出現した明治七(一八七四)年を加えてみると、最古の記載に属すると考えられる「建内記」からは、
●応永二一(一四一四)年~康正元(一四五五)年
《スパン凡そ二五〇年前後》
●寛文十四(一六七四)年
《スパン三年》(この場合、周期というより江戸から福岡への、当時の流言飛語の伝播時間を示す興味深い事実と私は考える)
●延宝五(一六七七)年夏(於筑前福岡)
《スパン凡そ一〇年》
●元禄初期(元年。一六八八年)
《スパン凡そ七〇年前後》
●明和四(一七六七)年
《スパン三〇年》
●寛政九(一七九七)年
《スパン一三年》
●文化七(一八一〇)年
《スパン八四年》(ここを埋め得るデータは恐らく数多あると思われる)
●明治七(一八七四)年
となる。髪切は凡そ四五〇年以上もその種を秘かに保存してきたのであり、これは妖狐の類いと考えたのは、実に相応しい。また、これは都市伝説の特徴である周期的発生を裏付けるところの極めて興味深いデータでもあるのである。最後にウィキにあるパブリック・ドメインの佐脇嵩之(晩年の英一蝶に師事した江戸中期の江戸出身の画家)の「百怪図巻」の「かみきり」の図を示して終わりとする。

・「松平京兆」既出。松平右京亮輝和まつだいらうきょうのすけてるやす(寛延三(一七五〇)年~寛政十二(一八〇〇)年)。上野国高崎藩第四代藩主。寺社奉行、大坂城代。松平輝高次男。天明元(一七八一)年、家督を継ぎ、奏者番から天明四(一七八四)年から寺社奉行を兼任。寛政十(一七九八)年、大坂城代となっている(京兆けいちょうは左京しき・右京職の唐名)。根岸御用達の情報屋的存在である。
・「腸内」底本には右に『(尊本「腹内」)』と傍注する。

■やぶちゃん現代語訳

 女の髪を喰う狐の事

 世上にて――女の髪を、根本からすっぱり断ち切る――という珍事件の噂が、これ、後を絶ち申さぬ。
 「髪切り」と称して、世間に怪談の一種としても流布しておることは、これ、周知のことで御座ろう。
 ただ、按ずるに、そうした被害に逢った称する手合いの中には――父母や一族の者が無理矢理に嫁に行かせんとするを拒み、こうした怪談に託して、自らもとどりを、根からばっさり切った――という娘の話なんどの類いも、これ、実は多いので御座る。
 然れども、実際に狐狸の成す場合も、これ、あると申す。
 旧知の松平右京亮輝和殿におかせられては、
「……拙者の在所、上野国高崎にて、この髪切にうて髪を切られた女が、これ、都合三人も御座った……が……その当時のこと、ある者、野狐を捕殺致いて、その腹を割いてみた……ところが……そのはらわたの内には、これ、塊となった女の髻が……それも二つも……これ、御座ったのよ!……」
とお話になられたことが御座った。
 かくなればこそ、一概に、ただの狂言なんどと論断してよいものでも、これ、御座らぬものか。



 疝氣呪の事

 京極備前守殿、久世丹後守疝積せんしやくを愁ふるを尋て、けやけき事にて取用ひも有之間敷これまるまじき事ながら、松平隱岐守在所のつめの家來□□□□といへる者奇妙のまじなひをなす由、岩國紙いはくにがみ一枚へ拾貮銅をそへ遣せば、あのかたにて呪ひ、右紙を差越、勿論白紙の由、是を懷中なすに疝氣の愁ひなしといへる儘、備前殿も六ケ敷むつかしき事ならねば是を求め給ひしに、其後疝氣を不覺おぼえざる由咄されしと、丹州語りける故、予も此病あれば切に尋しに、幸ひ寛政卯の夏江戸詰なせしと聞儘、名前ならびに求めかたをただくれ候樣丹州へ賴置たのみおきぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。七つ前の「津和野領馬術の事」の話者である久世広民の話で連関。本巻お馴染みのまじないシリーズ。
・「疝氣」「疝積」は近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つである。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷けつれいシテ臍ヲめぐリテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲキ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある(「厥冷」は冷感の意)。一方、本「譚海」の「卷の十五」には、『大便の時、白き蟲うどんをのばしたるやうなる物、くだる事有。此蟲はなはだながきものなれば、氣短に引出すべからず、箸か竹などに卷付まきつけて、しづかに卷付々々、くるくるとして引出し、内よりはいけみいだすやうにすれば出る也。かならず氣をいらちて引切べからず、半時ばかりにてやうやう出切る物也。この蟲出切いできりたらば、水にてよくあらひて、黑燒にして貯置ためおくべし。せんきにもちゐて大妙藥也。此蟲せんきの蟲也。めつたにくだる事なし。ひよつとしてくだる人は、一生せんきの根をきり、二たびおこる事なし、長生のしるし也』と述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫さかむし」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は概ね平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、「譚海」の全文引用と( )内の寄生虫病の注は私の全くのオリジナルである。私は寄生虫が大好きなアブナイ男なのである)。
・「京極備前守」京極高久(享保一四(一七二九)年~文化五(一八〇八)年)は丹後国峰山藩第六代藩主。本話柄当時は若年寄。ウィキの「京極高久」には以下の記載がある。『高久の官位が備前守であることや、火付盗賊改・長谷川宣以(平蔵)の上司に当たるため、「京極備前守」の名で池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』にも登場し、鬼平こと長谷川平蔵の良き理解者として描かれている。テレビドラマ『鬼平犯科帳』では田島義文、平田昭彦、仲谷昇がそれぞれ演じた』。『池波は、長谷川平蔵の立場を理解し、なにくれとなく援助し、かばってくれる理想的な上司として京極高久を描いており、平田昭彦の演じた京極高久を非常に褒め、「江戸時代の殿様らしい、上品な味わいが演技に出ていた」と述べている』。『ただ、このような長谷川平蔵の理解者としての京極高久像は、池波の創作の可能性もある。『鬼平犯科帳』研究を行い、史実との照合を行っている西尾忠久は、「京極高久は史実では長谷川平蔵と対立した森山孝盛の側の人物であったのではないか。長谷川平蔵の庇護者は実際には水谷勝久ではないか」と論じている(西尾『鬼平を歩く』光文社知恵の森文庫)』とある。私は「鬼平犯科帳」のファンではないが、東宝特撮映画に欠かせない田島義文と平田昭彦のファンであるからここに附記しておきたい。
・「久世丹後守」前出。久世広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)。浦賀奉行を経て、安永四(一七七五)年長崎奉行。当時は勘定奉行兼関東郡代。根岸の盟友にして「耳嚢」のニュース・ソースの一人。
・「けやけき」原義は、普通とは異なっていることを意味し、ここでは、異様な、の意。
・「松平隱岐守」松平定国(宝暦七(一七五七)年~文化元(一八〇四)年)。伊予国松山藩第九代藩主。御三卿田安徳川家初代当主田安宗武六男で、将軍徳川吉宗の孫、寛政の改革を主導した松平定信の実兄であるが、兄弟仲は険悪であった。当時は侍従、左近衛権少将。
・「□□□□」底本には右に『(約四字分空白)』と傍注する。個人名の明記を避けた意識的欠字。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『何某』とする。
・「岩國紙」岩国半紙。周防国岩国(現岩国市)地方で生産される半紙。天正年間(一五七三年~一五九二年)から作られており、コウゾを原料とする。
・「拾貮銅」銭十二文。岩波の長谷川氏注にこの金額は寺社への『賽銭の定額』である旨の記載がある。従って、これは何らかの神仏の祈禱を受けた呪物であることが分かる。何らかの薬物を液体か気体で染み込ませたものである可能性もあるが、まずは、かなりシンプルなプラシーボ(偽薬)と見る。
・「求め給ひしに」これは間接話法と直接話法がない交ぜになった文章で、実際には久世の直接話法の中の松平の間接話法部分に相当している。即ち、京極の話の引用なのであるが、引用している勘定奉行の久世から見れば、京極は上役の若年寄で年長であるため、尊敬語を用いているのである。高校古典で出題するならば、敬意の関係は「丹州(久世広民)→京極備前守(京極高久)」となる。現代語訳では京極の直接話法に変えて読み易くしたため、この部分や伝聞表記の箇所が逐語訳にはなっていないので注意されたい。
・「寛政卯」寛政七(一七九五年)。乙卯きのとう
・「丹州へ賴置ぬ」とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこれに更に続けて『其後丹州も身まかり、其事を果さず。』とあって終わる。従って根岸はこのまじないの紙を実見していない。但し、久世の逝去は寛政十一年であるから、本巻執筆推定の寛政九(一七九七)年の二年後のことであるから、このバークレー校版の最後は遙か後年に根岸によって加筆されたものであることが分かる。訳すなら、
『後日追記:残念なことに、その後は連絡もなきままに丹後守殿は身まかり、この願いは果たせぬままに今日に至って御座る。』
……きっと根岸、この紙、とっても欲しかったんだなあ……。根岸の疝痛は、それだけ、強烈だったということ。新事発見!――『根岸鎭衞は頗る附きの疝気持ちであった!』――
……今一つ付け加えると……この付け加えには、根岸の、亡き盟友久世広民への感懐が感じられてほわっとするのである……

■やぶちゃん現代語訳

 疝気の呪いの事

 若年寄京極備前守高久殿は、勘定奉行久世丹後守広民殿が疝癪せんしゃくに悩んで御座るのを気に掛けて下さり、
「……いかにも奇体なることにて、まあ、とてものことに、まともに取りあう気にもならざるやも知れぬことにて御座るが……侍従松平隠岐守定国殿の在所伊予国松山に詰めて御座る家来の、何某という者、これ、奇妙なるまじないを致す由にて……何でも、岩国半紙一枚へ銭十二文を添えて、かの者に渡さば、自ずと呪いをかけ、その紙を返して寄越すとのこと……いやいや、紙はまっさらにて白紙のままじゃ……なれど……これを懐中致すに、これ――ぴたりと――疝気の治まって愁いなし、と聴き及んだ故……身共も、岩国紙に十二文とは、これ、如何にも容易いことなれば、試しに、定国殿へお願い致いて、この紙を入手、懐中致いたところが、これ、その後は――ぴたりと――疝気治まって『ツウ!』ともこずなって御座る。」
との話が御座ったという。――この話、私は当の丹後守殿から聞いたので御座るが――実は私も疝気持ちで御座る故、丹後守殿に、さらに詳しい話を切に、と願ったところ、後日、丹後守殿より、かの隠岐守殿御家来衆何某なる人物は、これ幸い、寛政七年の夏に江戸詰めとなって御座る由。そこで現在は、追ってその御家来衆の姓名並びにかの呪いの紙の求め方を調べて下さるよう、丹後守殿へ依頼しておいて御座る状態にある。



 老人へ教訓の哥の事

 望月老人予が元へ携へ來りし。面白ければ記し置ぬ。尾州御家中横井孫右衞門とて千五百石を領する人、隱居して也有やいうと號せしが、世上の老人へ教訓の爲七首の狂歌をよめり。
  皺はよるほくろは出來る背はかゞむあたまは兀げる毛は白ふなる
    是人の見ぐるしき知るべし
  手は震ふ足はよろつく齒はぬける耳は聞へず目はうとくなる
    是人の數ならぬを知るべし
  よだたらす目しるはたえず鼻たらすとりはづしては小便もする
    これ人のむさがる所を恥べし
  又しても同じ噂に孫自慢達者自慢に若きしやれ言
    是人のかたはらいたく聞きにくきを知るべし
  くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる
    これ人の嘲をしるべし
  身にそふは頭巾襟卷杖眼鏡たんぽ温石しゆびん孫の手
    かゝる身の上をも辨へずして
  聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話やきたがる
    是を常に姿見として、己が老たる程をかへり
    見たしなみてよろし。然らば何をかくるしか
    らずとしてゆるすぞと、いわく
  宵寢朝寢晝寢物ぐさ物わすれ夫こそよけれ世にたらぬ身は

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。
・「望月老人」根岸のニュース・ソースの一人で詩歌に一家言持った人物。「卷之五」の「傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事」でも和歌の薀蓄を述べている(「瑾」は「きず」と読ませていると思われるが、これはしばしば見られる慣用誤用で「瑾」は美しい玉の意である)。
・「横井孫右衞門」「也有」俳文「鶉衣うずらごろも」などで知られる著名な俳人横井也有(よこいやゆう 元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)。尾張藩士横井時衡(ときひら)長男。本名は時般(ときつら)、通称で孫右衛門(横井氏は北条時行の流れを汲むと称す)。二十六歳で家督を相続後、御用人・大番頭・寺社奉行などの藩の要職を歴任、武芸に優れた上に儒学をも深く修める一方、各務支考一門として早くから俳人としても知られ、特にその絶妙の文才から、俳文の大成者とされる。宝暦四(一七五四)年、五十三歳で病を理由に致仕、城南前津(現・名古屋市中区前津一丁目)の草庵知雨亭に隠棲、以後三十年、八十二歳で没するまで、俳諧・詩歌・狂歌・書画・謡曲・茶道等々、風雅三昧の生活を送った。彼の「鶉衣」、私はいつかテクスト化したいと思っている。
・「ゆるすぞと」底本「ゆるぞと」で、右に『(尊本「ゆるすぞと」)』と傍注がある。尊経閣本でないと意味が通じないので、そちらを本文採用した。
・「たらぬ身は」底本には右に『(尊本「立られぬ身は」)』と傍注する。私は尊経閣本の句形も捨てがたいがやはり字余りが気になり、ここはすっきりと底本で示した。
・以下の狂歌の内、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と異なる表記(後書・前書きを含むが句点の有無は無視し、中黒やルビ、最後の前書を除く岩波版の句点は除去した)を持つものについて、正字化したものを並置させておく。なお、ここに示された狂歌群については、岩波版長谷川氏注に、「身にそふは」以外の歌は小異はあるものの、也有の狂歌集「行々子ぎょうぎょうし」(但し、写本による伝来)に見える、とある(私は未見)。
   *
 皺はよるほくろは出來る背はかゞむあたまは兀げる毛は白ふなる
   是人の數ならぬを知るべし
 皺はよるほくろは出來る背はかゞむあたまは兀げる毛は白く成る(バークレー校版)
    是人の數ならぬを知るべし
   *
 よだたらす目しるはたえず鼻たらすとりはづしては小便もする
    これ人のむさがる所を恥べし
 よだたらす目しるはたらす鼻たらすとりはづしては小便ももる(バークレー校版)
    是人のむさがる所をしるべし
[やぶちゃん注:バークレー校版の方が秀逸。]
   *
  又しても同じ噂に孫自慢達者自慢に若きしやれ言
    是人のかたはらいたく聞きにくきを知るべし
  又しても同じ噂に孫自漫達者自じまんに若きしやれごと(バークレー校版)
    是人のかたはらいたく聞にくきを知るべし
[やぶちゃん注:岩波版では「漫」の右に「慢」の誤字であることを示す注を附す。]
   *
  くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる
    これ人の嘲をしるべし
  くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる(バークレー校版)
    是人の嘲を知るべし
[やぶちゃん注:歌は同じ。]
   *
    かゝる身の上をも辨へずして
  聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話やきたがる
    かゝる身の上をもわきまへずして
  聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話やきたがる(バークレー校版)
[やぶちゃん注:歌は同じ。]
   *
    是を常に姿見として、己が老たる程をかへり
    見たしなみてよろし。然らば何をかくるしか
    らずとしてゆるすぞと、いわく
  宵寢朝寢晝寢物ぐさ物わすれ夫こそよけれ世にたらぬ身は
    是をげに姿見として、己が老たる程を顧みた
    しなみてよろし。然らば何をか苦しからずと
    してゆるすぞと、いわゝ、
  宵寢朝寢晝寢物ぐさ物わすれ夫こそよけれ世にたゝぬ身は(バークレー校版)
[やぶちゃん注:岩波版では「ゝ」の右に「ば」の誤字であることを示す注を附すが、寧ろこれは「く」の誤字とすべきではないか。バークレー校版の方が秀逸だね。……何故かって? 「立たぬ」がゼツミョウだからに、決まってるじゃん! ♪ふふふ♪]
・詩歌はなるべく原文を提示することを自身のポリシーとしてきたので、以上の原文には手を加えていない(最後の一首の前書はブラウザ上の不具合を考えて字数を制限して改行した)ので、以下に、読み易く新字体化し、読み(これは歴史的仮名遣とした)を加えて整序したものを示し、語注を附す。

  しはは寄る黒子ほくろは出来る背はかがむ頭は禿げる毛は白ふなる
    是人の見苦しき知るべし
  手はふるふ足はよろつく歯は抜ける耳は聞へず目はうとくなる
    是人の数ならぬを知るべし
  よだたらす目しるは絶えず鼻垂らすとりはづしては小便もする
    これ人のむさがる所を恥づべし
[やぶちゃん注:「よだ」はよだれのこと、「とりはずしては小便もする」とはこらえ切れずに、若しくは知らぬ間に失禁してしまう、の意。]
  又しても同じ噂に孫自慢達者自慢に若き洒落言しやれごと
    是人のかたはらいたく聞きにくきを知るべし
  くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる
[やぶちゃん注:「かたはらいたく」他人から見て如何にも見苦しい、みっともないの意。]
    これ人のあざけりを知るべし
  身にそふは頭巾襟巻杖眼鏡ずきんえりまきつえめがねたんぽ 温石尿瓶をんじやくしゆびん孫の手
[やぶちゃん注:「たんぽ」湯たんぽ。「温石」冬、軽石などを焼いて布などに包み、懐に入れたりして体を温めるもの。焼き石。「尿瓶」尿瓶しびん。]
    かゝる身の上をもわきまへずして
  聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話焼きたがる
[やぶちゃん注:「ともながる」そうすることを希望しないことを意味する「たくもない」→「たうもない」→「とうもない」→「ともない」に接尾語「がる」が附いたもので、動詞の連用形に付いて「~したくないと思ってそれを言動に表わす」の意を表わす。]
    是を常に姿見として、己が老たる程を顧み嗜
    みてよろし。然らば何をか苦しからずとして
    許すぞと、曰く、
  宵寝よひね朝寝昼寝物ぐさ物忘れそれこそ良けれ世に足らぬ身は

■やぶちゃん現代語訳

 老人の教訓の狂歌の事

 馴染みの風流人、望月老人が私の元へ携えて参られ、披見させてもろうたもの。面白いので、以下に記しおく。

 尾張藩御家中、横井孫右衛門とて千五百石を領した御仁、隠居致いて也有やゆうと号して御座ったが、世の老人への教訓のため、七首の狂歌を詠んだとのこと。

  皺はよるほくろは出来る背はかゞむあたまは兀げる毛は白ふなる
    これ、人の見苦しきことなりと――知るべし!
  手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞へず目はうとくなる
    これ、既に人の数に入らぬ存在ならんことと――知るべし!
  よだたらす目しるをたえず鼻たらすとりはづしては小便もする
    これ、常に人に虫唾むしずを走らすることを――恥ずべし!
  又しても同じ噂に孫自慢達者じまんに若きしやれ言
    これ、人が如何にもみっともないとウンザリしておることと――知るべし!
  くどふなる気短に成る愚痴になる思ひ付くこと皆古ふなる
    これ、人が心底、あざけっておることと――知るべし!
  身にそふは頭巾襟巻杖眼鏡たんぽ温石しゆびん孫の手
    ……さても……かくなる身の上をも弁えずして、
  聞きたがる死にともながる淋しがる出しゃばりたがる世話やきたがる
    ……それがお主ぬしじゃ! 儂じゃ!
     *
    以上を常におのが鏡と致いて――
    己が老いの身の程を顧み――
    それをぶんとして弁えてこそ――
    よろし!――
    されば……一体、どんなことならば苦しからずとて許さるるか、とな?
    曰く――
  宵寝朝寝昼寝物ぐさ物わすれそれこそよけれ世にたらぬ身は



 痔疾呪の事

 寛政八年予初めて痔疾の愁ひありて苦しみしに、勝屋何某申けるは、小兒の戲れながら胡瓜を月の數もとめて、裏白うらじろに書状をしたため姓名と書判かきはんを記し、宛所あてどころは河童大明神といへる狀を添て川へ流せば、果して快氣を得と教しが、重き御役を勤る身分姓名を、右戲れ同樣の中に記し流さんは不成呪ならざるまじなひ事也と笑ひしが、三橋何某も其席に有て、我も其事承りぬ、しかしながら大同小異にて、胡瓜ひとつへ右痔疾快全の旨願を記し、河童大明神と宛所してこれも姓名は記す事也といひ、何れも大笑ひを成しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前「疝氣呪の事」に続く呪いシリーズ。根岸が満五十九歳にしてかなり重い痔疾を発症していたことが分かる。又しても新事実発見! 根岸は結構重い痔だった!
・「寛政八年」当時(一七九六年)の根岸は公事方勘定奉行九年目。この書き方から、本巻のこの辺りは、明らかに寛政八年よりも後の執筆、私の執筆推定の翌寛政九(一七九七)年であることがはっきり分かる。
・「月の數」一年の月の数。旧暦では一年が十三箇月となる閏年が凡そ三年に一度あった。 ・「勝屋何某」底本で鈴木氏は勝屋豊造とよなり(元文二(一七三七)年~?)と推定されておられる。宝暦五(一七五五)年御勘定、同八年関東諸国河川普請で出役、安永元(一七七二)年三十六歳で遺跡相続、同六年御勘定組頭(これのみ長谷川氏注)とある。根岸と同年である。
・「裏白」本来なら裏の白い紙であるが、ここは岩波版長谷川氏の注するように、このシーンの最後の映像を先取りして、書信用の紙を二つ折りにして表書きだけを記し、裏に書信の内容などを何も書かない(白いままに残す)ことを言うか。
・「河童大明神」河童を痔の神様とする信仰は広く知られている。恐らくは河童が人の尻子玉を抜くと言われたことと関係しよう。尻子玉とは人の肛門付近に存在すると考えられた想像上の臓器で、恐らくは水死体が腐敗し、肛門部の粘膜が開き、脱肛している様から誤認されたものと考えられるが、実際の内痔核疾患をも連想させ、如何にも分かり易い伝承発祥とは言えるように思われる。陸奥国一宮、現在の宮城県に本社のある各地の塩竈(しおがま)神社などにこの河童信仰が習合している。「痔プロcom.」の「痔の散歩道」の「痔の神様 愛知県編」に名古屋市中川区の西日置商店街にある鹽竈神社に祀られている河童神の無三殿大神むさんどのおおかみについての詳細なデータと画像がある(この「痔の散歩道」は侮れない。私も何度も資料として――痔の必要からではなく歴史資料としてである――参照した必見のサイトである)。そこには例えば、「根抜きの神様」として『昔からむさんど(山王橋の西北角)の橋から、すそを端折って、お尻を川に映すと痔の悪い人は川神様が直してくれると言い伝えがあり』、『胡瓜、西瓜をお供えし、お願いすると霊現あらかたなりと言われてい』ると記されてある(昔の和服では、こうすることはそう大変なことでもなく、今どきの軽犯罪になることでもなかったであろう。痔に悩む人が橋で尻をからげて一心に祈願している姿は――私には何か懐かしいほっとするものを感じる)。同ページに引用されている昭和九(一九三四)年建立になる「無三殿神石之由來」の石碑の記載を本来の正字に直して以下に示しておく。
無三殿神石之由來
無三殿主神ト刻ス
無三殿杁江ハ往時尾張名勝ノ一ニシテ堀川ノ西日置古渡ノ境ニ在リタリ當時江川笈瀨川ノ用水路アリテ此ノ所ニ會セリ然レドモ水位高低甚ダシキヲ以テ合流スル能ハズ仍チ樋ヲ笈瀨川ノ上ニ架シテ江川ヲ南流セシメ笈瀨川ハ樋下ヲ東流シ河口ノ水門ヲ過ギテ堀川ニ通セリ今ノ松重町南端一帶ノ地ハ即チ此ノ流域ニシテ里人無三殿ト呼ビタル杁江タリシ所ナリ延寶ノ頃松平康久入道無三此ノ江北ノ地ニ住セリ江名之ヨリ起ルト江水淸澄ニシテ深カラズト雖古來靈鼈ノ潛ム所ナリト稱シ畏敬汚潰ス者ナシ樋邊一巨石アリ
痔疾ニ靈驗者シト病者頻リニ來リテ治癒ヲ祈リ捧グルニ白餠ヲ以テシ或ハ之ヲ水中ニ投ズルノ風アリ遠近相傳ヘテ其ノ名大仁著ハル
星霜變轉神石影ヲ沒スルコト多年偶江川改修工事ノ際靈夢ヲ得タル者アリ乃チ發掘シテ之ヲ水底ヨリ求メ得タリ暫ク町神トシ近隣ニ奉祀センガ神慮ヲ畏レ當鹽釜ノ社頭ニ遷祀シタルモノナリ今歳昭和甲戌當神社社殿造營ノ擧アリ規模大イナルコト前古ニ比ナシ記念トシテ碑ヲ神石ノ側ニ建テ由來ヲ記シテ不朽ニ傳ウルモノナル
昭和九年十月
「杁江」は「いりえ」と読み、入江のこと。「延寶」は西暦一六七三年から一六八一年。「松平康久」は尾張藩家臣。「靈鼈れいべつ」は巨大な霊亀のことであるが、河童と同一視された。「汚潰」は「をくわい(おかい)」と読むものと思われ、見慣れない熟語であるが、「潰」には堤防が崩れて水があふれ出る、決壊するの意があるので、河川の汚損や破壊を意味するものと思われる。「樋邊」は不詳、「靈驗者」の「者」はページ製作者の「有」の誤読と思われ、「大仁」も「おおいに」であろう。「偶」は「たまたま」。「傳ウル」は「傳フル」が正しい。
・「三橋何某」底本で鈴木氏は寛政八(一七九六)年当時、御勘定吟味役であった三橋成方なりみちと推定されておられる。

■やぶちゃん現代語訳

 痔疾の呪いの事

 寛政八年、私は初めて痔疾に罹り、筆舌では尽くせぬ苦しみを味わって御座ったが、職場の部下との談話の折り、尾籠ながら、このことを少しばかり漏らしたところ、その場に御座った勝屋某が申すことに、
「……児戯に類するものにて恐縮で御座るが……胡瓜を、その年の月の数だけ手に入れまして、書状を――裏白のままに――表には姓名と花押かおうしたため、宛名は『河童大明神』と記した状袋に入れて川へ流せば、これ、ぴたりすっきり快気致しますぞ。」
と教えて呉れたが、
「……なるほど。しかし、重い御役を勤むるところの身分姓名を、『河童大明神』への痔疾快気請願書状と申す、これ、戯れ同様のうちに認めた上に、これまた、普通の川に流すは……いや、出来ざる呪まじないじゃのぅ……」
と笑ったところが、その場に同席して御座った三橋某も、
「……拙者も、そのこと、承ったことが御座る。併しながら――大同小異にては御座るが、ちと違ちごうて――胡瓜は一本だけ。その胡瓜へ、具体に痔疾全快祈願の旨認めた文を、これまた、『河童大明神』と宛名した添え状を用いまする。なれどこれも、やはり、本人の姓名は記さずんばなりません。」
と言い添えので、三人して大笑い致いたことで御座った。



 忠信天助を獲る事

 或る御旗本の勝手不廻ふまはりにて、寛政のころ公儀の御貸附金を借りて急用を賄ひしが、同辰の年右御返納金とて知行より金三拾兩借て、其納期日迄仕廻置しまはしおきしを、盜賊入て盜取れ誠に當惑の由、所々才覺をなし知行へも申遣しけれど、兼て不勝手の事なれば可調ととのふべき樣もなく、家内愁ひもだへしに、程無ほどなく期日も來りしにいかにとも詮方なし。然るに彼許かのもとをさなきより勤めて、右主人の影をもつて、今は組付の同心とやらん輕き御家人有りしが、此事を聞て色々心を碎き相談もなしけれど詮方なく立戻りて、夫婦も恩義ある元主人の難澁なんじふ、誠に一命をかけても此難義を救はんと色々工夫して、今年十五六才になれる娘あれば、かれを賣りて此急難を救はんと、夫婦相談の上娘に語りしに、娘も誠有まことある心にや其心に隨ふ儘、心安き町人を賴てしかじかの譯かたりしが、これも其志のあはれをかんじぬれど詮方なければ、渠がしれる女衒ぜげん淺草邊にあれば、是へ連行て相談せんとて、三人打連れて女衒の元へ至りてしかじかの譯かたりしに、鬼神も哀とや思ひけん、氣の毒成事なれ、然し請人人主うけにんひとぬし其外其許々もともとを糺して、しかとしたる書付もとらざれば望に任せかたし、急ぐ事とて其職分のおきてあればとて、急に埒明らちあき候事とも見へざりしが、其席に居合せし町人躰ていの者、それは氣の毒成事也、それがし心當りあれば深川八幡前迄來り給へと言いふ故、いささか力を得て右町人に附て娘を連、八幡前一ツの住家すみかへ立寄しに、苦しからざる住居にて年頃三十ばかりの男ありて、委細の始末を聞、夫は氣の毒成事也、急に金子入用を達せんとても、何方いづかたにてもうけごふ者有べからず、我等引受て世話可致いたすべし、然し證文もなくては難成なりがたしとて、彼召連し女衒へも談じて預り候趣の書付いたし、右娘子は預り可申迚まうすべしとて簞笥たんすやうの内より金三十兩出して與へければ、いづれ才覺の調ひし事を歡びて、厚く禮謝して右の許を立出しが、さるにてもあまりたやすく出來し事の疑しさに、もし似せ金にてはなきやと右町邊の兩替屋へ立寄り、右金子を貮朱判にしゆばん 歩判ぶばんに兩替なし給はるべしと賴しかば、番頭ふうの者右の金を改めて驚きたるていにて、傍の者にも見せ何か不審の躰故、もし 如何成いかなる金にもありや、譯有事哉わけあることやと尋ければ、いささか此金に怪しき事不審なる事もなけれど、此金子は何方より御手に入りしや承りたしとて念頃ねんごろに尋し故、隱すべきにあらねばしかじかの事也と初終はじめおはりをかたりければ、右番頭手を打て左こそあるべき事、右深川の若き人は何を隱さん此家の息子なれど、放埒不束はうらつふつつかにて舊離きふりして今勘當かんだうの身なれど、折節内々よりの無心合力むしんかふりよくあまたゝびの事也、よからぬ身持なれば、御娘子も慰ものとしてはてはいかなる所へか賣渡うりわたしなん、此方より御志を感じ金子は御用立可申まうすべき間、此金子は早々御返し有て娘子を連戻り給へ、此金も昨日合力を乞ひし故與へたる金也と咄しける故、大に悦びかたじけなき由厚く禮をのべて早速深川へ立戻り彼金子を返し、いなみけれど娘を無理に請取うけとり連歸り、 あるじ用を足して娘にも愁ひをかけざるは、誠に天の加護ならんと人のかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。久々の長めの話柄である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には底本附註として『主人のために娘を売り、その金の出所詮議からめでたい結末に至ること、類話多し。』とあるが、こういう話が盛んに語られるのは、実は、身売りし、苦界へと落ちて、儚くなっていった無数の女の悲劇があったからこそである。話柄のハッピー・エンドの、その彼方の真実の闇をこそ見据えなければなるまい。
・「獲る」は「うる」と読む。
・「同辰の年」寛政八(一七九六)年丙辰ひのえたつ
・「組付の同心」常備兵力として旗本を編制した部隊である五番方(小姓・書院番・新番・大番・小十人)といった組配下の同心。
・「女衒」女性を遊廓に売る際の仲介斡旋業者。中世の「人買い」に発し、江戸時代になると「人買い」「口入れ」「桂庵けいあん」(「慶庵」とも書く)といった周旋業者がこれを兼ねてもいたが、特に関東で娼妓を周旋する者を女衒と俗称した。語源は定かでないが、女の容姿を見極めるの意の「女見じょけん」から転訛したものとも言われる。今も秘かに続く人身売買ブローカーで、誘拐同様の犯罪行為にも手を染めて暴利を極めた者も多かった。江戸幕府は誘拐や人身売買を禁止してはいたものの、本話直近の寛政五(一七九三)年には女衒渡世の禁止を発令するも直ぐに廃令とし、女衒の請判(うけはん:保証印。)の禁止と吉原内居住を義務付けたに留まった。以上は平凡社「世界大百科事典」を主に参照したが、ウィキの「女衒」には『江戸時代も中頃までは遊郭に対する取り締まりが緩慢で、悪徳女衒の検束はあまり行われなかったらしい』とあり、老中松平定信の時、寛政七(一七九五)年の吉原規定証文作成励行の以前、寛政四年五月、『女衒禁止令ともいうべき法文を発布、これを以て女衒を単に遊女奉公の口入れにとどめ、証書の加印を廃止し、廓内に居住させ名主がこれを監督するという条件で許可を得て存続させた。その一方で加印のある証書は遊女の親族にあらため、女衒の慣習上の権利を剥奪したらしい』と記し、やや記載内容にずれがある。いずれにせよ、本話柄は時期的にはそれから四年後のことで、女衒の取り締まりが表面上厳しかった時期と読め、女衒の台詞にも、その辺りの不如意な制約による処理の難しさが語られているのが、如何にもリアルである。但しウィキは以下、『しかしこのような取締令も一時しのぎに過ぎず、すでに廓内外に根を張っていた女衒は法の網をかいくぐって悪事を尽くし、天保年間には新吉原関係の女衒だけでも廓外の浅草田町や山谷付近に十四、五軒の女衒が家を構えた。その中でも山谷の近江屋三八なる者は十余人の子分を使って各地方の玉出しと結託し、婦女を誘拐。また自ら各地を奔走し、その結果身売りさせた遊女は数百人にのぼったと』され、『江戸城下の女衒は、現在の東京都の台東区と荒川区をまたにかける山谷地区に多く点在していた』とある(引用に際し、アラビア数字を漢数字に代えた)。 ・「請人」広く奉公人の保証人をいう。
・「人主」保証人である請人戸時代と並んで奉公人の身元を保証した連帯保証人。通常の奉公人の場合は父兄や親類がなった。
・「深川八幡」現在の江東区富岡にある東京都最大の八幡社富岡八幡宮の別名。建久年間(一一九〇年~一一九九年)に源頼朝が勧請した富岡八幡宮(現在の横浜市金沢区富岡に所在)の直系分社。日本最大の神輿・水かけ祭りや大相撲発祥の地として知られる。
・「置文」約款の類いをしたためた証書。
・「もし」は底本のルビ。
・「右町邊」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『石町こくちょう辺』とある。それだと現在の東京都中央区の日本橋本石町周辺を指す。
・「貮朱判」銀貨。明和南鐐なんりょう二朱判と思われる。以下、ウィキの「南鐐二朱銀」によれば、良質の銀貨で『形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は』九八%で『当時としては極めて高いものであった』とある。
・「歩判」金貨。一歩金と二歩金の総称。一歩金は『形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されて』おり、額面は一分で、一両の四分の一、四朱に相当する(以上はウィキの「一歩金」の記載)。二歩金は『形状は長方形短冊形である。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「二分」の文字、 下部に五三の桐紋が刻印されている。裏面には「光次」の署名と花押が、種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されて』おり、額面は二分で、一両の二分の一、また八朱に相当する(以上はウィキの「二歩金」の記載)。これらの記載によって、三十両をこれらで両替した時のイメージが出来よう。
・「舊離」「久離」とも書く。不身持ちのために別居又は失踪した子弟に対し、親や目上の親族が連帯責任を免れるために親族関係を断絶すること。「欠け落ち久離」とも。
・「勘當」親が子の所業を懲らすために親子の縁を絶つこと。武士は管轄の奉行所へ、町人は町奉行所へ登録した。この登録のない私的なものは「内証勘当」と言った。「追い出し久離」とも。広義には主従・師弟関係を絶つことにも用いた。
・「合力」「耳嚢」では既出でしばしば用いられるが、金銭や物品を与えて助けることをいう。

■やぶちゃん現代語訳

 忠信の天の助けを得る事

 とある御旗本、手元不如意にて――近時、寛政の頃のことで御座る――御公儀の御貸付金を借りて急場を凌いで御座ったが、寛政八年丙辰ひのえたつの年、その御返納金として所領から金三十両を借り、その返納の期日まで保管致いて御座ったところが、盗賊が押し入り、丸々盗み取られ、かの御旗本、途方に暮れて御座ったと申す。
 あちこちに借金を頼んでは、知行地へもその訳を言い遣わして窮状を訴えたが、かねてよりの窮迫なれば、びた一文調えようも、これ御座なく、家中は苦悶の只中に陥っておったが、程う、返済の期日も迫ったに、如何ともしようがない。
 ところがここに、かの御当家に幼きころより勤めて、その主人のお蔭を以て、今は組付きの同心とやらになった、身分の低い御家人が御座ったが、この主家の事態を聞くに、いろいろと心を砕き、何かと主人の相談にも乗って方途を練ってはみたものの、これ、如何ともし難き儀と相い成って御座った。
 この同心は妻子持ちで御座ったが、
「……恩義ある元主人の難渋……これ、まっこと、一命に懸けても、この難儀、救わずんばならず!……」
と、いろいろと思案工夫致したが――遂に――彼らに今年十五、六才になる娘があったれば、
「……この娘を……売って……この急場を救わんとぞ思う……」
と夫婦相談の上、娘にこのことを語って聞かせた。
 すると、娘も武家の子としての誠心故か、その父の苦渋の思いに、黙って従って御座った。
 そこで親しいとある町人を頼って、しかじかの訳を語ったところが、この者も、かの同心の覚悟と娘の哀れに感じ入った。……なれど、やはり如何ともしようがない。
 「……我らが知れる女衒ぜげんが浅草辺りに居りますれば、そこへ連れ行きて、まずは相談致いてみましょうぞ……。」
とて、かの同心と娘に町人、三人うち連れて、その女衒の元へ参り、しかじかの訳を語って御座った。
 すると、鬼神の如き生業なりわいの、その女衒にても、哀れと思うたものか、
「……気の毒なことなれど……昨今は、請人うけにん人主ひとぬしを定め、その外、相手の身元なんどを細かに調べ尽くした上、しっかとした正式な証文をも、これ、事前に準備致さねばならず……お望みを叶えること、これ、難しゅう御座る。……急がずんばならざる趣き、これ、重々分かっては御座るが……我らが、この女衒の職分にても、内々の様々な掟が御座っての……直近にては、これ……」
と、とてものことに即座に埒のあくようにも見えぬ様子。……  すると、女衒の仲間内と思しい、その場に居合わせた町人ていの者が、
「……そいつぁ、気の毒な話じゃねぇか。……おう! あっしに心当たりがある!一つ、これから深川八幡宮前まで来てくんない!」 と申した。
 そこで、聊かその言葉に力を得、今度は、その別な町人体の者について、娘を連れ、八幡前にある一つへと参った。かの女衒も一緒で御座った。
 そこは如何にも小綺麗な家で、年の頃三十ばかりの男が住んでおった。
 その男は、同心から委細顛末を聴くと、
「……それは実に気の毒なことで御座る。しかし、お話を伺うに……失礼ながら、急にかような額の金子を、これ、用立てんとさるるも……いや、何方にても……請け負うて呉れよう者は、これ、御座るまい。……分かり申した。我ら、これ、お引き受け致し、お世話致しましょうほどに……しかし、証文も、これ、なくてはまずう御座るな……。」
と、その男、かの同行して来た女衒と、何やらん相談の上、面前にて、娘を確かに預かった旨の書付をものした。
「……さても。この御娘子、確かにお預かり申しました。……」
そう言うと、男は小洒落た簞笥風の内より、金三十両を出して同心に渡した。
 一同いずれも、算段の成ったを歓んで、厚く礼を謝して、男の許を辞した。……
……が……同心は一人となってとぼとぼと行くうち、ふと、
『……それにしても……あまりに容易く仕舞わしたものじゃ……』
との、疑いが心に射した。
『……もしや!……これ……偽金にては、あるまいか?!……』
と思うや、その近場に御座った両替屋に立ち寄り、
「……この金子を、二朱判にしゅばん歩判ぶばんに両替して下されい。……」
と頼んだ。
――すると――案の定――番頭風の者が、この金子を仔細に改め――如何にも驚いて御座る様子である。……
――傍らにいる店の者にもその小判を見せては――何か不審を抱いている様子……
 同心は、てっきり、
『やはり! 贋金かッ!』
と思い、
「……もし!……何ぞ、『おかしな金子』にても御座るか?! 何ぞ『不審なるところ』の……これ、御座るかッ?!……」
と訊き質いたところ、
「……い、いえ……聊かもこの金子に、これ、怪しいところも、不審なるところも御座いませぬ。……なれど、失礼ながら……この金子は……何方より御手に入れなさったもので御座いましょうや?……よろしければ、承りたく存じますので……はい……。」
と、番頭が如何にも丁重に尋ねた故、
『……我らがことにあらず、主家の窮状を救わんがための仕儀なればこそ、隠さねばならぬことにても、これ、御座ないことじゃ……』
と決して、しかじかのことにて、と一部始終を語って御座った。
 すると、その番頭、
――ポン!――
と手を打ち、
「――やはり! そうで御座いましたか!……
……いえ、実は……その深川の若い御仁と申されますは……何を隠そう、このの息子で御座います。……なれど、放埒にして不束の極みなれば、御主人様、旧離の上……今はもう、勘当の身の上にて御座います。……が……御主人様には内緒ながら……折節、こっそりと、我らが店内みせうちへと無心に参ること、これ、数多たび、御座いまする。……いや!……そういったよからぬ身持ちの者にて御座いますればこそ……お侍様の御娘子も……これ、慰みものと致いた上……果ては如何なるところへと売り渡さぬとも限りませぬ!……一つここは……手前どもも、お侍様の御主家への厚き志しに感じ入って御座いますればこそ……そのご入用の金子、これ、手前どもでご用立て申し上げまする故……この金子は早々にお返しあって、急ぎ、御娘子を連れ戻しなさいませ!……へえ、この金も……実は昨日、金をせびりに参った故、与えましたところの金子、そのままの包みにて、御座いますればこそ……。」
と告げた。
――ここに――新たなまっとうなる三十両を手にした同心、大いに悦んで、
「――かたじけいッ!」
と厚く礼を述べるや、早速に深川へととって返し、かのドラ息子に金子をたたき返し、如何にも鼻の下をなごうして渋っておる男から、無理矢理、かの証文を取り返した上、娘を連れ帰った。
 これにて、かの主家入用にも足り、娘にも苦界の愁いをかけずに済んだは、これ、まことに天の御加護があったもので御座ろうと、人々は語り合ったと申す。



 雷を嫌ふ者藥の事

 予が一族の内に小普請組石河いしこ 壹岐いき守支配有りしが、右あひ支配に多門孫右衞門といへる人の家傳に、雷を嫌ふ者へ與ふる藥あり。もつとも呪法同樣の藥にて、雷のする時心穴しんけつあつる事の由。奇怪のやう成るが、畢竟其心を定めしづむるの藥のよし。嫌ひしものへ與ふるに驗妙ありと人もいゝける由。予が一族も彼藥貰ひしと語りしを爰にしるし置ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。二つ前の「痔疾呪の事」に続き、「卷之四」は本巻に多く見られるまじないシリーズで大団円となった。最初の「耳へ虫の入りし事」は今の我々から見れば、立派な医学的処置であるが、当時の感覚ではこうした医療処置と呪(まじな)いの類の明確な線引きはなく、医術も広義の呪術と考えてよいから、本巻は巻頭掉尾に呪術群があって綺麗な額縁を形成していると言える。なお、本話は根岸も指摘している通り、一〇〇%典型的プラシーボである。なお、当初、話柄の中間部は、その根岸の一族の者の直接話法にして訳そうと思ったのだが、ここには実はそれを聴いた後の根岸の冷静な分析が随所に含まれているため、かえっておかしな訳になってしまうことから、断念した。
・「石河壹岐守」石河貞通(宝暦九(一七五九)年~?)は底本鈴木氏注に、『天明五年(二十七歳)家を継ぐ。四千五百二十石。寛政元年小普請支配、九年西城御小性組小性番頭。』とある。ネット上には下総小見川藩第六代藩主内田正容うちだまさかた(寛政一二(一八〇〇)年生)なる人物の記載に、彼の父を『大身旗本で留守居役を務めた石河貞通(伊東長丘の五男)の三男として生まれる』とする(例えばウィキの「内田正容」)。同一人物と考えて間違いあるまい。「寛政譜」を見ると石河いしこ家は清和源氏頼親流石河冠者有光を祖とし、関ヶ原で東軍についた貞政以降は嫡流が常に「貞」を名に使用している模様である。
・「多門孫右衞門」不詳。因みに多門氏は嵯峨源氏渡辺綱を祖と称し、三河国額田郡大門に住し、大門を名乗ったが、後に多門氏に改姓したとする。二人とも姓がそれほどオーソドックスではないので、嫡流家系について示しおいた。
・「心穴」漢方で「心穴」というと、左右の掌側の中指の指先に近い方の関節中央に位置するツボをいうが、呪物を当てるには如何にもな場所である。岩波の長谷川氏の注、『心窩と同じく、みぞおちをいうか。』に従う。

■やぶちゃん現代語訳

 雷を嫌う者の妙薬の事

 私の一族の内に、小普請組石河いしこ壱岐守貞通殿御支配の者が御座るが、彼の言によれば、彼の同僚に多門孫右衛門という者がおり、その多門家に、家伝として『雷を嫌う者へ与えるに効ある薬』なるものがある由。
 尤も全く古典的な呪法同様の薬で――雷が鳴っている際、その『薬』を、鳩尾みぞおちへ当てがう――ということらしい。
 如何にも奇怪きっかいなる話では御座るが――これ、よく効くのじゃそうな――畢竟、動揺する心持を鎮静致すところの心理的な効果を狙った類いの『薬』であろう。
 雷嫌いの者へ与えると絶妙の効験ありと、専らの噂との由。
 彼――私の一族であるかの者――も、その薬を貰ったと語ったので、ここに記しおく。



耳嚢 卷之四  根岸鎭衞 やぶちゃん注訳注 完