やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
耳嚢 卷之四 根岸鎭衞
注記及び現代語訳 copyright 2012 藪野直史
[やぶちゃん注:底本は三一書房一九七〇年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。
以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。
底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明五(一七八五)年頃に始まり、没する前年、文化十一(一八一四)年迄の実に三十年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクのあるものは私の完成版若しくは作業中版である)、
「卷之一」の下限は天明二(一七八二)年春まで
「卷之二」の下限は天明六(一七八六)年まで
「卷之三」は前二巻の補完(日付を附した記事がない)
(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)
「卷之四」の下限は寛政八(一七九六)年夏まで(寛政七年の記事の方が多い)
「卷之五」の下限は寛政九(一七九七)年夏まで(寛政九年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)
「卷之六」の下限は文化元(一八〇四)年七月まで(但し、「卷之三」のように前二巻の補完的性格が強い)
「卷之七」の下限は文化三(一八〇六)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)
「卷之八」の下限は文化五(一八〇八)年夏まで
「卷之九」の下限は文化六(一八〇九)年夏まで
(ここで九〇〇話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、四~五年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)
「卷之十」の下限は死の前年文化十一(一八一四)年六月まで
といった凡その区分を推定されておられる。但し、失礼ながら本巻の「珍物生異論の事」は寛政九年のクレジットのはっきり出る記事で、『下限は寛政八(一七九六)年夏まで』というのはおかしい。一応、指摘しておきたい。【作業終了:二〇一二年八月二一日】二〇一二年一〇月二一日追記:附け損なていた目次を冒頭に附した。]
目 次
卷之四
耳へ蟲の入し事
耳中へ蚿入りしに奇法の事
小鬼餠を咽へ詰めし妙法の事
修柴精心の事
蝦暮の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事
陰德陽報疑ひなき事
陰惡も又天誅不遁事
狂歌滑稽の事
狐狸のために狂死せし女の事
木星月をぬけし狂歌の事
呪に奇功ある事(二カ條)
鼻血を止る妙呪の事
賤婦答歌の事
連歌師滑稽の事
大久保家士淳直の事
井上氏格言の事
猫物をいふ事
人には品々の癖有事
古風質素の事
龜戸村道心者身の上の事
實情忠臣危難をまぬがるゝ事
景淸塚の事
不時の異變心得あるべき事
油垢を落す妙法の事
戲藝にも工夫ある事
鯛屋源介危難の事
番町にて奇物に逢ふ事
小兒産湯を引く事
雷鶴を撃ちし事
靈獸も其才不足の事
化獸の衣類等不分明の事
疱瘡神狆に恐れし事
聖孫其しるしある事
螺鈿の事
人間に交狐の事
誠心可感事
しやくり呪の事
靑砥左衞門加增を斷りし事
珍物生異論の事
初午奇談の事
産物者間違の事(二カ條)
不義の幸ひ又不義に失ふ事
魔魅不思議の事
怪刀の事(二カ條)
黄櫻の事
一向宗の信者可笑事
松平慶福寛大の事
蠻國人奇術の事
奇病の事
小兒行衞を暫く失ふ事
金子かたり取し者の事
賊心の子を知る親の事
咽へ尖を立し時呪の事
美濃國彌次郎狐の事
老狐名言の事
目黑不動門番の事
助廣打物の事
古へは武器にまさかりもありし事
鯲を不動呪の事
八坂瓊の曲珠の事
澤庵漬の事
痔の神と人の信仰可笑事
神祟なきとも難申事
眼の妙法の事
齒の妙藥の事
金瘡燒尿の即藥の事
館林領にて古き石槨を掘出せし事
老姥の殘魂志を述し事
女の幽靈主家へ來りし事
淸乾隆帝大志の事
慈悲心鳥の事
亂舞傳授事の事
藝には自然の奇效ある事
大名其職量ある事
戲場者爲怪死の事
怪妊の事
剛氣の者其正義を立る事
信州往生寺石碑の事
坂和田喜六歌道の事
隱逸の氣性の事
牛の玉の事
鬼僕の事
怪病の事
氣性の者末期不思議の事
津和野領馬術の事
俄の亂心一藥即效の事
賤夫奇才の事
曲禪弓の事
田鼠を追ふ呪の事
剛氣其理ある事
女の髮を喰ふ狐の事
疝氣呪の事
老人へ教訓の哥の事
痔疾呪の事
忠信天助を獲る事
雷を嫌ふ者藥の事
耳嚢 卷之四
耳へ虫の入りし事
寛政七年卯六月下旬、池田筑州營中にて語りけるは、夜前甚難儀せし事ありし由。其事をせちに尋ければ、燈のもとに頭を傾け居しに、耳の内へ餘程の虫と覺へ飛入りて、無躰に穴中をかき分つと思ひしが、甚いたみ絶がたく偏身中に成てくるしみける故、親族家童打寄て是を出さんとするに百計なし。兼て長屋へ來れる
□やぶちゃん注
○前項連関:「卷之三」掉尾とは特に連関を感じさせないが、後注で見るように、この直後に主人公の池田筑州は大目付に就任している。さすれば、この飛んで耳に入る夏の虫の珍事は、実は「卷之三」掉尾の「吉兆前証の事」の変形とも取れなくはない。
・「寛政七年卯」西暦一七九五年。
・「池田筑州」は旗本池田長恵(いけだながしげ/ながよし 延享二(一七四五)年~寛政十二(一八〇〇)年)。通称、修理。官位は従五位下筑後守で、中奥番士・小十人頭・目付を歴任して天明七(一七八七)年に京都町奉行に抜擢(ここで官位を叙任)。寛政元(一七八九)年、江戸南町奉行、寛政七(一七九五)年六月二十八日に大目付に就任している。本件は正に大目付になる直前の出来事である(当時、根岸は勘定奉行)。参照したウィキの「池田長恵」には、『豪胆な性格であり、苛烈、強引な仕置も多く、失態を犯して将軍への拝謁を禁止されたことも幾度かあったが、陰湿さのない単純明快な人物であり、煩瑣な案件にも果敢に踏み込んで大胆な措置を下すため一定以上の人望があったという。老中首座松平定信の側近である水野為長が著した『よしの冊子』によれば長恵は感情豊かでコミカルな人物であったらしく、ミスを犯して落胆しているところを定信に激励されて立ち直ったり、その定信が老中を罷免させられた際は、大声を上げて泣き叫び、鬼の目にも涙とはまさしくこのことだと評判になるなど、一喜一憂する長恵の姿が伝わっている』と長恵の人柄を伝える。その感じを訳で出したいと思う。
・「絶がたく」底本には「絶」の右に『(耐え)』とある。
・「外科」は「がいりょう」で、外科治療及び外科医の意。
・「彼家に覺へて」一九九一年刊の岩波文庫版「耳嚢」では、『耳の中へ虫の入りしを出せし事を近頃咄しけるを彼家士覺へて』とあり、こちらの方が素直に読める。訳ではこれを採った。
・「五更」午前三時から午前五時頃(一説に午前四時から午前六時頃)。暁から曙で、この医師も、とんでもない時間に往診を頼まれたものである(但し、旧知の先輩の細君で、昔、蛾が耳に入って半狂乱となり、深夜一時を過ぎていたけれども救急車を呼ばざるを得なかったという実話を私は聞いたことがあり、それはそれは堪え難いものであるらしい)。
・「紙より」
・「米つき虫」鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridaeに属する昆虫の総称であるが、和名を「コメツキムシ」とする種は存在しない。「米搗虫」「叩頭虫」と書き、転倒して腹面が上になると頭と胸を仰け反るように下へ曲げて「へ」の字型となった後、急速に頭と胸を逆に起こし、その反動で飛び跳ねて正立する。この際、前胸部の腹面側にある棘状の突起が、中胸部にある窪んだ部分で受け止められるが、その瞬間にかなり有意に認識出来る「パチン」という音がする。和名はその動作と音が米搗きに類似することに由来する。擬死が知られるが、しっかり飛翔もする。本邦には約六百種が棲息する。
・「萬能膏」所謂、あらゆる腫物・外傷などに効くとする膏薬。それぞれの地方の医師や売薬業者が同様のものを製造していたものと思われるが、館山市教育委員会生涯学習課のHP
http://enjoy-history.boso.net/book.php?strID_Book=0017&strID_Page=013&strID_Section=02
には「八束の万能膏」として、『万能膏は何にでも効く万能薬で、とくに農家の人々にはアカギレによく効く膏薬として評判だった。八束村福沢(南房総市富浦町)の川崎林兵衛の先祖は医師であったといい、祖父の時代から膏薬を製造していた。明治になって売薬免許を得るとハマグリの貝殻に入れて販売し、農業が機械化してアカギレがなくなる戦後まで製造販売が続いていた』とある(リンクの通知を要求しているのでアドレス表示とした)。
・「油藥」は軟膏の別称であるから、先の「萬能膏」のようなものも含まれるが、ここは現在でも耳に虫が入った場合の救急法として知られる、通常の家庭用食料油若しくは粘度の低い(注入が容易で虫が溺れ易い)液状油薬を注している。因みに、耳鼻科のサイトなどを管見すると、これは外耳道に比して比較的小さな蟻などでは効果が期待出来るが、蛾やこのコメツキムシなどの大きさでは溺死するのに時間がかかり、逆に暴れて外耳や鼓膜を損傷する危険性があると注意を喚起している。
・「痛はさる」は「痛みは去る」である。
■やぶちゃん現代語訳
耳へ虫が入ってしまった事
寛政七年卯年六月の下旬のことで御座った。
池田筑州長恵殿が御城内で私に語ったことに、
「……いやぁ、昨夜の、甚だ難儀な目に
との由、私も興味本位でつい、こと細かに尋ねてみて御座ったところ……
……うとうとと致いて、燭台近くに頭を傾けておったところへ、飛んで火に入る……どころでは御座らぬ! 灯から耳の中へと
――ズッ!――
と、余程、大きな虫らしきものが、これ、飛び入って、の!……それがまた、無体なことに、奥へ奥へと、耳の穴を搔き分け搔き分け、ずずいずいずいと、これまた、性懲りもなく、掻き分け入るわい! と思うた……ところが……
「!!!――!!!――!!!」
……いや! その痛いの痛くないの!……全身、これ、
……と……
……以前から拙者の屋敷の長屋の知れる者のところに、よう参っておった外科医が近頃、「耳の中へ虫の
……五更の頃、かの医師が来て、診察と相成った……
……と……
……直きに、紙縒りの先に何やらん膏薬をつけ、耳の内へとすうっと差し入れた……
……と……
……痛うてかなわん、と思うて御座った辺りまで、その紙縒りが、届いた……
……と、感じた
……暫くあって紙縒りを引き出せば、紙縒りの先に固まってくっ付いて御座った膏薬はすっかり溶けて、かの虫がべったりと張りついたまんまに、出て参った……これを見れば……ほれ、コメツキムシと俗に呼ばはる、あの虫じゃ!……
……拙者はもとより、家中の者どもも皆、かの医師の秘薬仁術の即効を賞讃致いて、
「貴殿の施薬致いた、その御薬は?」
と尋ねたところが、
「いや、別段、これといった医薬にては御座らぬ。普通の――万能膏――で御座る。」
と、きた。
「一度の施術では取り出だせぬことも御座るが――この度はうまく参りました。耳内部の体温によって自然、膏薬がゆっくりと溶け、粘性の高い液体となって耳中全体を潤し、それに虫が附着致いたところで、引き出すので御座る。――尤も、民間療法で知られる如く、耳に粘度の低い
と、語って御座ったよ……
……とのことで御座った。
*
耳中へ蚿入りし奇法の事
右の席に柳生
□やぶちゃん注
○前項連関:外耳への虫の侵入への施術で直連関。というより、前話の池田筑州長恵外耳道米搗虫侵入事件の談話場面からの続き。但し、今度の侵入者は、恐るべし! ムカデ、である。ムカデが睡眠中の人の鼻や耳、口の中に稀に侵入することは知っていたが、数年前のネット上で、東南アジアのさる国の婦人、かなり以前から鼻の違和感を覚えており、専門医に診てもらったところが、鼻腔内に数年(!)に亙って数センチのムカデ(この場合は真正のムカデであった)のが寄生しており、生きたムカデが彼女の鼻腔から目出度く摘出されたというショッキングなニュースを読んだことがある。これ、ホントよ!
・「蚿」「むかで」のルビは底本のもの。音は「ケン・ゲン」。「むかで」と訓じているが、「廣漢和辞典」には『馬蚿は、やすで。おさむし。あまびこ。』とあり、ここに並ぶ呼称は節足動物門多足亜門ムカデ上綱唇脚(ムカデ)綱 Chilopoda に属するムカデではなく、総て、「おさむし」(筬虫)も「あまびこ」(雨彦)も多足亜門ヤスデ上綱倍脚(ヤスデ)綱Diplopoda に属するヤスデ類の異称である。「オサムシ」は形状が機織の用具である「筬」(「をさ(おさ)」:竹の薄片を櫛歯状に並べて枠をつけた織目の密度を決める道具。)に似ていることから、「アマビコ」は雨後によく出現することから、他に刺激を受けた際に丸くなり習性から「ゼニムシ」(銭虫)・「エンザムシ」(円座虫)、また形状の類似から「ババムカデ」(婆百足)などと呼ばれる。恐らく、この時代、現在のようにはムカデ類とヤスデ類を区別していない(現在でも生理的に嫌悪する方は大抵、同類と見なす)ので、ムカデの訓も、あり、であろう。但し、形状は似ているものの(実際にはヤスデ類は倍脚類と称するように前三節の体節のみ一節に一対脚で四節以降の後方節は総て一節二対脚であるのに対し、ムカデ類は総て一体節一対脚で観察すれば容易に判別出来る)、ムカデのような咬害や咬毒を持たず、生物学的にも近縁関係にはない。なお、人体に侵入する可能性は家屋内への侵犯が多いムカデの方が高いと言える。ところで、「和漢三才図会」の「巻第五十四 湿性類」では「蜈蚣」(むかで)と「百足」(をさむし)として、連続して記載し、ちゃんと別種で扱っているのだが、面白いのは、その「蜈蚣」の項に以下のようにあることである。
凡性畏蜘蛛。以溺射之即斷爛也。又畏蛞蝓。不敢過所行之路。觸其身則死。又畏蝦蟇。又雞喜食蜈蚣。故人被蜈蚣毒者、蛞蝓搗塗之、雞尿桑汁白鹽皆治之。
○やぶちゃんの書き下し
凡そ、性、蜘蛛を畏る。
クモの「尿」やニワトリの「尿」が挙がっている点、本話との共通性が認められる。しかしニワトリはいいとして、クモの「いばり」は私自身、見たことがない。さればこそ、面白い。
・「柳生主膳正」は旗本柳生久通(延享二(一七四五)年~文政十一(一八二八)年)。柳生久隆長男。歴代の勘定奉行の中で最も長い期間、二十八年強勤めている。官位は玄蕃、後に従五位下主膳正に叙任されている。天明八(一七八八)年に勘定奉行上座に異動し、勝手方を担当しており、前項の寛政七年のクレジットであれば、その任にある。参照したウィキの「柳生久通」には『松平定信の近習番を務めた水野為長が市中から集めた噂を記録した『よしの冊子』によると、町奉行に就任した当初、「三代将軍・徳川家光の剣術指南役を務めた柳生一族の家系の者が町奉行になった」』と江戸市中で専らの噂となったものの、『町奉行としての仕事ぶりは、「白洲の場においては、大した知恵も出ず、衣服を取り繕ったり、帳面に書かれていることを繰り返し穿鑿したりしている」と評され、前任者の石河政武のような知恵も出せず、久通が百年勤めても石河の一年分の仕事にも及ばないとまで言われた。また、仕事に念を入れすぎるために「怪しからずめんみつ丁寧」と評され、処理に時間がかかり経費もその分余計にかかったという』とあるが、一方、『勘定奉行上座に就任した久通は、老中の松平定信には気に入られ、当時勘定奉行だった根岸鎮衛たちが申請してもなかなか承知しなかった案件を、久通に頼んで上申してもらったら、すぐに許可が下りたという。仕事には熱心であったが、同時に江戸城からの退出時間は非常に遅かった。久通の部下である御勘定たちは、奉行が帰らないので先に退出するわけにもいかず、そのために毎日のように日没後に下城することを強いられ、非常に難儀した。同僚の勘定奉行である久世広民から「もうよかろふ」と催促されても仕事を切り上げず、寛政四年(一七九二年)に定信が久世を通して「暑い時は御勘定所も早めに仕事を終えた方がいい」と伝えたところ、久通はその日は特に遅くまで仕事をし、その後も同様に遅くまで城に残って仕事を続けたと』の逸話を記している(引用中、アラビア数字は漢数字に代えた)。ここに筆者根岸鎮衛の名が登場するのも、頗る面白いではないか。
・「損ざし」はそのまま「そんざし」と読む。「ざす」は使役の助動詞「さす」で、「傷つける」「損なう」の意味のサ行四段活用の他動詞である。
・「生姜をすりて猫の鼻の先へすり付れば極めて小便を通ずる」ショウガやニンニク、タマネギなどの香辛料相当の素材が、犬猫には有意に毒性を持つことはよく知られている。ショウガが猫の強い利尿作用を持つかどうかは知らないが、この民間療法、猫にとってはとんだ受難と言えよう。
■やぶちゃん現代語訳
耳の中へ百足が入ってしまった際の変わった対処療法の事
先の池田筑州長恵殿の米搗虫耳入りの一件を、同席して御座った柳生主膳正久通殿が聴かれ、
「――拙者も虫の耳入りでは少々変わった療法を知って御座る。――」
と、語りだされた……
――そもそも、まず――耳の中にムカデが
――実は、拙者の召し使う或る者の耳に――その、まさに正真正銘、かのムカデが入っての、甚だ苦しんで御座ったじゃ。
すると、ある者が言うに、
「猫の
とのことじゃ。
さればこそ、まずはともかくもこれを試してみようという仕儀になって御座ったところが――まっこと、瞬く間に本復致いた、ということで御座る。
……時に、猫の小便は如何にして取るか、で御座るか? それに就きては、まず――
①猫を、塗り物なんどの椀の上に、捕えて押さえ置く。
②
……これにて、万事、瞬時に猫は、
はあん……そういうもので御座ろうか……ともかくも、極めて稀なる一事への、飛び切り変わった処方、なればこそ……ここに、記し置くもので御座る。
*
小兒餅を咽へ詰めし妙法の事
小鬼の餅を喰ひて
□やぶちゃん注
○前項連関:奇なる救急法で直連関。
・「鷄のとさかの血」について、底本の鈴木棠三氏の補注では、後の浮世絵師で戯作者の暁鐘成(あかつきかねなり 寛政五(一七九三)年~万延元(一八六一)年)の書いた「雲錦随筆」には、『大根おろしのしぼり汁がきくとある』と記し、漢方系の記載を管見すると、「鶏冠血」と称して意識不明の患者の顔面にこれを万遍なく塗布すると回復するともある。鶏の血は、軽便に供給出来ることからか、原始社会の呪術ではしばしば用いられる呪具である。
・「衞肅」は底本補注で『モリヨシ。九郎左衛門。根岸鎮衛の長男』で寛政三(一七九一)年に『御小性組に入』り、その当時三十一歳とある。この親族情報から、本記載は本巻の中では最も古い部類の記載である可能性があるように思われる。
・「同寮」底本「寮」の右に『(僚)』と傍注。
・「物あたり」底本この右に『(尊本「まのあたり」)』と傍注。岩波版カリフォルニア大学バークレー校本も「まのあたり」。こちらを採る。
■やぶちゃん現代語訳
子供が餅を喉に詰まらせた際の救急法の事
子供が餅を食って、誤って喉に詰まらせて苦しむ際には、鶏の
*
修行精心の事
阿部家の家士何某、弓術に執心にて多年出精の處、ハヤケといふ癖起りて的にむかへば肩迄
□やぶちゃん注
○前項連関:救急時の妙法から弓術悪癖矯正の心理学的暗示効果に基づく妙法で連関。
・「阿部家」底本鈴木氏注には安倍能登守(忍城主十万石)の他、同定候補を四家挙げておられる。
・「ハヤケ」は「早気」と書き、弓で的を射る際、中てようと思う気持ちが早って、弓の弦を引いて的を狙い(これを「
・「卷藁」正式な的前ではなく、稽古用の的。
・「勝手」右手。武士用語で、
・「我拳にて放つ」岩波版長谷川強氏の注に「拳」は『弓に矢をつがえて引きしぼった時の握り加減』とあり、放つ右手の拳ということになる。因みに、弓道では「あたり
・「我子へ差向て暫しためらいしに」ここは岩波版カリフォルニア大学バークレー校本では「我子へ差向て暫くかためしに」と大きく異なる。後者の場合、「暫くかためし」は、的を狙って強く引き絞った「会」の状態の弓をそのまま暫く保ったことを謂い、こちらの方が明らかに文脈に即して自然である。訳ではこちらを採った。
■やぶちゃん現代語訳
弓道修業精進の事
阿部家の家士何某は、弓術修行に熱心で何年にも亙って不断に精進を重ねてきたので御座ったが、ある時から「早気」という悪癖を生じ、的に向かうと弓を肩まで十分に引き絞る前に矢が放たれてしまい、練習用の巻藁に向かってさえ、右手が耳を過ぎることが御座らなんだ。依って、弓の師からも、
「精進堅固なは認めよう――が――かくなった上は最早――弓の稽古は諦め、向後はきっぱり弓は――やめたが、よかろうぞ」
と諫められた――いや、見放されたが、
『……日々不断にこの
と、さて己が屋敷に戻ると、家に代々伝わる先祖が主人から賜った古き絵描き屏風へ、主家御紋の付いた衣服を掛けて、
『これを射たらんには最早、まっこと、武士の所為にてはあらず!』
と念じて、これに向かって弓を引き絞った……
……が……
……やはり堪え切れずに、放してしまった……されば……
「……とても……とても弓取のこと……その道の成り難きは我じゃ、ッ!……」
と我が身ながら、自身を恨んで、
「……我が愛する子を向こうに据えてこれを射んとするに、それでもこの拳を矢の放るるとなれば……我が子の命を
と独り言上げすると、即座に我が子を前に立たせ、
――きゅっ!――
と弓を引き絞った――
……差
……当たり拳に引き移る……我が子の顔……
……時が立った……
これぞ弓道求道の賜物か、はたまた子の親を愛して親の子を愛する恩愛の情は格別の力を持って御座ったものか――
かねてよりの
それより、不断に修行を重ねたところ、遂に早気の癖もすっかり止んだ、ということで御座る。
*
蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事
營中にて同寮の語りけるは、狐狸の怪は昔より今に至りて聞も見るも多し。ひきも怪をなすもの也。厩に住めば其馬心気衰へ終に枯骨となり、人間も床下に蟇住て其家の人うつうつと衰へ煩ふ事ありし。ある古き家に住る人、何となく煩ひて氣血衰へしに、或日雀など
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]
但、蟇の足手の指、前へ向たるは通例也。女の禮をなす如く指先をうしろへ向ける蟇は、必怪をなすと老人語りし由、坂部能州ものがたりなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項との連関より、寧ろ、巻頭三つの虫類・鳥類関連の奇法のエピソードと蟇の持つ超常能力の連関が認められ、注でも示した通り、その中の「耳中へ蚿入りし奇法の事」の話者である柳生主膳正が再登場して強い人的連関もある。
・「蝦蟇」は「ひき」と読む。一般にはこの語は大きな蛙を全般に指す語であるが、その実態はやはり、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよいと思われる。ヒキガエルは洋の東西を問わず、怪をなすものとして認識されているが(キリスト教ではしばしば悪魔や魔女の化身として現れる)、これは多分にヒキガエル科
Bufonidae の多くが持つ有毒物質が誇張拡大したものと考えてよい(本話柄もその典型例と考えられる)。知られるように、彼等は後頭部にある耳腺(ここから分泌する際には激しい噴出を示す場合があり、これが例えば本話の「三尺程先の」対象を「吸ひ引」くと言ったような口から怪しい「白い」気を吐く妖蟇のイメージと結びついたと私は推測している)及び背面部に散在する疣から牛乳様の粘液を分泌するが、これは強心ステロイドであるブフォトキシンなどの複数の成分や発痛作用を持つセロトニン様の神経伝達物質等を含み(漢方では本成分の強心作用があるため、漢方では耳腺から採取したこれを乾燥したものを「
・「同寮」底本「寮」の右に『(僚)』と傍注。
・「われと」「自と」で、自ずと、の意。
・「西久保」麻布の台地と愛宕山に挟まれた低地の呼称。現在の港区虎ノ門一帯。現在でも港区の一部の地名に残る。
・「牧野」老中を務めた寛政の遺老の一人、牧野備前守忠精(ただきよ 宝暦十(一七六〇)年~天保二(一八三一)年)。越後長岡藩第九代藩主。但し、岩波版の長谷川氏注に、『ただし備前守中屋敷は愛宕山東の愛宕下』で微妙に地域がずれることを指摘する。
・「柳生氏」先行する「耳中へ蚿入りし奇法の事」の情報提供者である旗本柳生久通。
・「女の禮をなす如く指先をうしろへ向ける」古式では座位で手をついて礼をする際、女性は指先を内側へ向けて指の背をついた。
・「坂部能州」坂部広高。底本鈴木氏注に天明三(一七八三)年に四十二歳で『養父広保の遺跡を継ぐ。八年御目付』、寛政四(一七九二)年に『大坂町奉行、従五位下能登守』となる。寛政七(一七九五)年に南町奉行となり、同八年には西丸御留守居とある。
■やぶちゃん現代語訳
蟇の怪の事 附 怪をなす蟇は別種である事
城中で同僚から聞いた話。
「狐狸の怪については昔より今に至るまで、実際に見聞きする話柄も多い。しかし、
例えば、こんな話がある。
さる古き屋敷に住める家人が、これといった理由もなく煩いついて、見るからに気色血色ともに激しく衰えていったと。ある日のこと、屋の
かくなることが余りに続いたが故、
さて、私も、壮年の時分、西久保にある牧野備前守忠精殿の屋敷を訪ねた折りのことである。黄昏時で、丁度、御屋敷の前庭を眺めて御座った――そうさ、春の日のことで御座る――ふと見ると、普通よりも大分大きなる毛虫が一匹、庭石の上を這って御座ったが、そこへ縁の下から一匹の蟇が這い出て御座ったのを見た……蟇は……そう、毛虫よりは三尺ほども離れた場所に這ってきては……そこに、凝っと……毛虫の方を向いたままに、
かくなる私の体験からしても――年経た蟇は人の生気を吸う――というも、強ち、空言とは思われない。
また、先の柳生
――上野のさる寺院の庭にて、蟇が鼬を捕えたことがあった。その際も、蟇は鼬に触れず、専ら口から、その妖なる気を吹きかけておったが、突如、離れたところにおった鼬は昏倒、即死の
[根岸附記:「但し、『蟇の後ろ足の指が前を向いているものは、普通の蟇であって妖気を操るような蟇ではない。女が正しく三つ指ついて礼をするように、後ろ足の指が皆、後ろを向いておるものは、これ、必ず怪をなす。』と古老が語った。」という話を、坂部能州広高殿が語って御座った。]
*
陰德陽報疑ひなき事
寛政七年夏の事なるが、靑山御先手組とか又
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせないが、冒頭二つが『寛政七年卯六月下旬』の聞き書きで、それと話者が柳生で前項にも連関し、これが同じ「寛政七年夏の事」と時系列の連続性が認められる。
・「靑山御先手組」「御先手組」
・「御持組」御持組は持筒組と持弓組に分かれ、戦時における将軍護衛の鉄砲隊と弓隊で、持筒組三組と持弓組二組で、各組には組頭一騎、与力が七騎、同心が五十五人配置された。平時は城内の西丸中仕切門(桜田門の内側の門)を警護した。
・「御切米番」「卷之一」等で既出であるが、再注しておくと、幕府の大多数の旗本・御家人は『蔵前取り』『切米取り』といって幕府の天領から収穫した米を浅草蔵前から春夏冬の年三回(二月・五月・十月)に分けて支給された。多くの場合、『蔵前取り』した米は札差という商人に手数料を支払って現金化していた。「御切米玉落に札差へ至り」とあるのは、この切米の支給を受ける旗本・御家人には支給期日が来ると『御切米請取手形』という
・「こわ」正しくは「こは」。
・「仕切書付」給与支給明細書。
・「和田倉内」外濠の最も内側にあった和田倉門。
・「松平下總守」伊勢桑名藩第四代藩主松平忠功(ただかつ 宝暦六(一七五六)年~文政十三(一八三〇)年)。
・「外々の見及び」家中の他の家士へ彼の陰徳を広く示すことをいうか。
・「宛行」禄を割り当てること。また、その禄や所領。
■やぶちゃん現代語訳
人知れず善行を積まば必ずや良き報いとなって現わるという事
寛政七年の夏のことである――が、青山御先手組だったか御持組だか、はっきりとは覚えておらぬが――その組の、さる同心が御切米番に当たって御座った。これは一年交代の――組内に支給される御切米の玉落ちを受けて、札差へ行って、組の同心連中全員の御切米金を残らず全部受け取って来る――役で御座った。
さて、その同心、仲間の御切米金を受け取って帰ったのだが――少しばかり遠方で御座ったがため――帰りには辻駕籠を雇って戻った――近くまで戻った――戻ったものの、さて、組屋敷に駕籠で乗り付けるというのは、何やらん妙に仰々しく、同心仲間に見られると何かと冷やかされるのではなかろうかと慮って――途中で降りて、駕籠搔きに別れた――が!――蔵前にて受け取って御座った金子を、財布の儘に駕籠の真向こう置いておいたのを――何としたことか、駕籠にそのまま置き忘れてしまったことに気づく――驚いて慌てて後戻り、駕籠搔きを探してみたものの、最早、何処いずちへ行ったものやら、行方知れずじゃ。
「……こ、これは……一体、どうしたら……」
と、この同心は途方に暮れて御座った――
『……進退……いや……この一つばかりの身体窮まれり……最早、死のう……』
と覚悟したものの、
『……取り敢えず……我が家へ帰り……そうじゃ、せめて、かくなった訳を人に懺悔せずに死ぬるも口惜しきことなれば……』
とて、組屋敷に戻って、仲間内でも年嵩の者を秘かに招くと、
「……という不甲斐なき次第につき……最早、死を決して……御座る……」
と語ったところが、
「……うう、む……げに尤もなる謂いではある……が、しかし……その……まずはじゃ……暫く命を永らえ全うしてじゃな……まあ、その、右金子の行方を探いてみるが……先決じゃろて……」
と諭され――万事休すの無為無策乍らも――その日は、自家へ立ち返った。――
ところがじゃ――翌日のこと、かの同心に見知らぬ侍が来訪して来て案内あないを乞うて対面を申し入れてきて御座った。妻が応対して、
「……その……只今、取り込みごとの御座いまして……お目にかかりかねますればこそ……どうか……」
と断ったところが――その侍が言う。
「……こちらの御亭主……何ぞとり落とされたる品は、これ、御座らぬかの……。ともかくも……お気遣いは御無用にて、まずは何としても御対面致したく存ずる――」
それを隣室に聞いた同心、恥も外聞もなく間髪入れず、飛び出して訪問の意を訊ねたところ、
「……昨日、帰宅の折りに辻駕籠に乗って御座ったが、その駕籠の中に、金子入と見えた財布、これ在り。どう見ても駕籠搔きの持ち物とも思われぬ故、こっそり中を改めたところが、札差の仕切書付に貴殿のお名前も御座ったればこそ、ここに持参致いた次第――」
とのこと。その侍は同心に、金子の額や財布の形状やら中身なんどについて、幾つか尋ね問うた上で、
「うむ、間違い御座らぬ。」
と、かの金子入りの財布を懐から出して、同心に渡した。
同心夫婦の悦びようは、勿論、一通りのことでは、御座ない。
「……いや!……その!……ま、まずは……ごゆるりと、なされるがよい!……」
と、動転の中にも喜色満面で侍を引き留めたが、
「――いえ――右金子を無事にお返し致いた上は……拙者もいかばかりか悦ばしく存ずる――」
と言うが早いか、侍は問うに名さえ告げず、帰ってしまった。
「それにしても――命の恩人ともいうべきお人を、ただ帰すなんどということは――これ、あってはならぬこと……されど、お名乗りもなくば詮方のう……」
そこでかの同心、取り敢えず、すぐに出て組屋敷の門番をして御座った男に頼んで、かの侍の跡をつけさせたところ、侍は和田倉門内の松平下総守殿の屋敷へと入っていった。
そこでこの門番、かの下総守屋敷の門番に、
「只今、御屋敷へお入りになったお人は、御家中の、名を何とおっしゃるお方で御座いますか?」
と尋ねた。
ところが、下総守屋敷の門番は、かくも不躾なる相手の様子を怪しんで御座ったのか、はたまた、どこの馬の骨とも分からぬ下郎が、御家中の者の名を訊ねるに安易に答えては、何やらん面倒なことにもなるとでも思うたのか、
「知らぬ。」
と、一向、取り合わず、黙って御座った。
これにては詮方なくて、命ぜられた門番はそのままたち帰って、かの同心に、かくかくで御座った由、報告してその日は終わった。
「――それにしても――いや、このままにしておくわけにては――許されぬ――」
と翌日、かの同心は自ら、かの下総守屋敷の門番の詰所へ至り、是非に是非にと思いを込め、大枚の金子を落といたことや、それを届けて貰もろうたに、どうしても名を乗っては下さらなかったことどもをあらまし説明致いて尋ねてみたものの、
「そのような人に心当たりは御座いませぬ。」
と門番は答えるばかり。これまた、致し方なく帰って御座った。
――ところが、それからかれこれ、三月ほど過ぎたある日のこと、かの恩人の侍が、同心の家にひょっこりやって来た。
同心の夫婦も殊の外喜んで、手厚く礼を述べたところが、かの侍の申すことに、
「――いや、拙者もお礼に参ったので御座る。過日、主家へ二度まで参られ、拙者のことをお尋ねになられたこと、ならびにこの度の一件のあらましを門番にお話になられたこと、このことにつき、門番より主人へ申し立てが御座っての。されば主人からも、その段につき、拙者に何度かのお尋ね、これあって――家中の外の者への模範とせんがためとて、褒美として加増を賜っての――前々よりの四十石の碌へ、その――二十石もの加増が、これ、御座った。故に、お知らせ方々、礼に参ったという次第で御座る。」
と言ったかと思うと――同心は当然、「お名前を! どうか!」と再び切望致いたので御座ったれど――またしても、名乗ることなく帰っていった、ということで御座る。
*
陰惡も又天誅不遁事
或駕舁辻駕に出歸り候砌、右駕の内に二三十金の金子財布にいれ有しを見出し二人にてわけとらんと言ひしが、乗りし人粗ほぼ所もしれたれば返し可申と相談して、壹人の棒組ばうぐみ我よく彼人の所をしれりとて、右金子を持て行きしが其夕暮棒組のもとへ來りて金子壹分とかあたへ、先方へ歸しければ悦び候て金貮分呉候間、半分分ケにせし由を言し故、棒組實事と思ひて不足なる禮なりと思ひながら其通りに過すぎせしが、程なく彼者酒見世さかみせ出して、暫くは賑やかな暮しゝけるが天罰遁れざるや、棒組を欺きかへしゝ由にて不殘右金子を
□やぶちゃん注
○前項連関:陰徳陽報と真逆の陰悪天誅で直連関。話柄も駕籠搔きの登場で類似する。
・「二三十金」三十両ならば、現在に換算すると最低でも数百万円、駕籠搔きらの労賃基準なら恐らくは一千万円強に当たる。
・「
・「二人にてわけとらんと言ひしが、乗りし人粗所もしれたれば返し可申と相談して、壹人の棒組我よく彼人の所をしれりとて、右金子を持て行きしが」訳では特定しなかったが、私はこの二人の台詞がどちらのものであるかが興味深い。悪事を働く動機と台詞の順列からは、
*
甲「二人にてわけとらん」
と言ひしが、
乙「乗りし人所もしれたれば返し可申」
と相談して、
甲「我よく彼人の所をしれり」
とて、右金子を持て行きし
*
となるが、これは如何にもつまらぬ。寧ろ、
*
甲「二人にてわけとらん」
と言ひしが、
乙「乗りし人所もしれたれば返し可申」
と相談して、
乙「我よく彼人の所をしれり」
とて、右金子を持て行きし
*
の方が話柄として生きる。則ち、この悪者は実は「山分けしよう」と言った甲ではなく、「返した方がいい」と如何にも分別ある諭しをする相方乙こそが悪者であったとするシークエンスの方が面白く、現実味もあるのである。
・「金貮分」一分金は一両の1/4だから、総額でも三万円から高く見積もっても八万円程度で、確かに拾った額からすれば不当に少ない。
・「牛込加賀屋鋪原なりける頃」これは、筆録時から更に本話柄の時間に立ち戻った状況解説で、底本の鈴木氏注と岩波版の長谷川氏の解説などを総合すると、現在の新宿区
■やぶちゃん現代語訳
人知れず悪事を働くもまた天誅を逃れられぬという事
ある駕籠搔き二人、辻駕籠の客を送り終えて早仕舞いにして帰ろうとした。その時、駕籠搔きの一人がふと覗いた駕籠の中に、何と二、三十両もの金子を財布に入れたのを見つけた。
「……二人して……わ、わ、分けちまおうぜ……」
と言ったが、相方は、
「……いや、乗ったお人も屋敷の所在も、だいたいの見当は知れておる。……返した方がよかろう……」
と話
「……幸い、儂は客人を降ろした辺りをよく知っとるから、儂が返してくるわ……」
と、かの金子を持って出かけて行ったが、夕暮れになって、相方のところへやって来て、金一分とやらを与え、
「先方へ返したところが、いや、ひどく悦んで御座っての、謝礼と言うて金二分くれたで、半分けにしょうな」
と言うたという。
片割れは、『……それにしても、あの大枚に……如何にもしょぼい礼じゃ、のぅ……』と思いつつも、相方の言うことを真に受けて、そのまま打ち過ぎて御座った。
……が……
程なくして、金を届けに行ったと言ったその相方は、急に駕籠搔き家業から足を洗うと、ちょとした呑屋なんどを開いて、如何にも派手に暮らして御座ったそうな。
……が……
……天罰は、これ、遁れられぬものなので御座ろう……相方をも欺き、返したと偽って大枚の金子を残らず掠め取って平気の平左という
……かの男……
――この話、ほれ、あの牛込加賀屋敷辺りが、未だ空き地で御座った頃のことで御座る――
「
と騙された元相方が語った、と――その頃、その話を彼から聞き、また実際に、その乞食となった男を見たという人が、私に語って御座った話である。
*
狂歌滑稽の事
安永寛政の頃、狂名もとの木阿彌と名乘て狂歌を詠る賤民ありしが、麻布の稻荷へ人の形を畫て眼へ釘をさしあるをみて、
目を
と書て札を下げければ、あけの日右の人形の耳へ釘を指しける故、
眼を耳にかへすがへすもうつ釘は
と亦々札を下げければ、此度は繪を止めて藁人形へ一面に釘をさしけるゆへ、
稻荷山きかぬ所に打釘はぬかにゆかりの藁の人形
と札を下げければ、其後は右の形も見ヘずなりぬと。
□やぶちゃん注
○前項連関:天誅と呪詛は一種のホワイトとブラックのマジックで連関するか。
・「安永寛政」間に天明を挟んで西暦一七七二年から一八〇一年までの二十九年間。
・「もとの木阿彌」元木網(享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。本姓は渡辺(金子とも)、通称、大野屋喜三郎。京橋北紺屋町で湯屋を営みながら狂歌師として売り出し、狂歌仲間の娘すめ(狂名
・「麻布稲荷」現在、東京都港区麻布十番一丁目四番六に麻布十番稲荷神社があるが、これは、戦災後の合祀で、元は末広神社と竹長稲荷神社であった。末広神社は慶長年間(一五九六年~一六一五年)の創建で、元禄四(一六九二)年までは麻布坂下町の東方の雑式に鎮座していたが、同六(一六九四)年に永井伊賀守によって現在の坂下町四一の社域に遷座された。「青柳稲荷」「末広稲荷」と呼ばれ、明治二十(一八八七)年に末広神社と改称されている。一方、竹長稲荷神社の方は、嵯峨天皇の弘仁十三(八二三)年に慈覚大師が八咫鏡を以て武蔵国豊島郡竹千代丘(現在の鳥居坂上)に稲荷大明神を勧請したものが起源とされ、寛永元(一六二四)年に現在の麻布永坂町四十三番地に遷座された。近接するのでどちらとも言い難いが、呪詛の効力から言えば、圧倒的に古い後者、「竹長稲荷神社」に同定しておきたい。
・「目を
○やぶちゃん通釈
――おぞましき呪いは、あんたも呪われる――相手と自分の墓穴二つ――きっと必ず待ってるぞ――ところが目鼻も二つ穴――同じ二つの穴ならば――この絵の耳は健やかに――ぼこっと、二つ残って御座る――耳がなければ呪詛「聞かぬ」――聴こえぬなれば、さればとよ――この釘とても「効かぬ」とよ――呪詛はさっぱり「効かぬ」とよ――
といった掛詞の洒落になっている。文字通り、鼻で陰湿な恨みを笑い飛ばしているところが、強靭な批判性を持った狂歌として上手い。
・「眼を耳にかへすがへすもうつ釘は
○やぶちゃん通釈
――何遍何度も呪詛しても――当然必然、
と前歌を受けて更に畳掛ける。「かへすがへすも」からは、呪った当人が丑の刻に再度参って目の釘を引き抜き、耳に打ち直したことを指す、と考えた方が面白いように思われる。ここでは釘が増えない方が、次のシチュエーションで読者が受ける映像的強烈さからみて、効果的であると考えるからである。
・「稻荷山きかぬ所に打釘はぬかにゆかりの藁の人形」藁人形の藁は、その原材料が稲で、糠と縁がある。更に糠と呪詛の釘が誰にも美事に「糠に釘」を連想させ、その成語を用いた、ダメ押しの狂歌となる。
○やぶちゃん通釈
――ここは竹長稲荷山――稲から取れる糠と藁――も一つ挙げれば「糠に釘」――打っても打っても「糠に釘」――やっぱりさっぱり呪詛「効かぬ」――されば、あんたのこのおぞましい――人心惑わす、とんでもない――時代遅れの呪いの呪法――結局、全然、全く以て――如何なるものにも、効きませぬ――阿呆ドアホウ馬鹿臭い――トンデモ愚劣な成しようじゃ――
と、忌まわしい呪詛者を、掛詞と縁語を重ね合わせた洒落のマシンガンで、テッテ的に笑気ガス弾で機銃掃射にしているのである。
■やぶちゃん現代語訳
狂歌滑稽の事
安永から寛政年間にかけて、狂歌の雅号を「もとの木阿弥」と称した身分賤しい狂歌師が御座った。
ある日、彼が麻布稲荷の境内に参ったところが、一本の木陰に
目を画きて祈らば鼻の穴二ツ耳でなければきく事はなし
とさらさらっと書いて、それをわざわざ御札にし、絵の傍らに下げておいた……
さても翌日のこと、木阿弥が再び参詣してみると、今度は、目からやおら引き抜かれた釘が、今度は、このその耳の辺りに打たれて御座る。そこで木阿弥、またにんまり、
眼を耳にかへすがへすもうつ釘は
とさらさらっと書いて、それをまたまた御札にし、絵の傍らに下げておいた……
さても翌日になる。木阿弥が再三参詣してみると、今度は、絵をやめて――何と、藁人形が――それもその全身に夥しい釘が打たれた藁人形が、木にぶっ刺されて御座った。それを見た木阿弥、呵々と笑ろうて、
稲荷山きかぬ所に打つ釘はぬかにゆかりの藁の人形
とさらさらっと書いて、それをまたまた御札にし、絵の傍らに下げて帰った……
さてもその日翌日、藁人形は何処かへ消え去り、その稲荷での呪詛の仕儀も絶えてなくなった、ということで御座る。
*
狐狸のために狂死せし女の事
寛政七年の冬、小笠原家の奥に勤し女、容儀も右奥にては一二と數えけるが
□やぶちゃん注
○前項連関:「稲荷」から「狐狸」、「狂歌」と狂的呪詛から「狂死」で、連関。この話柄は「耳嚢」の抜粋本等には必ずと言ってよい程引かれるもので、私も高校時代、学生雑誌の怪談特集で読んだのが最初であると記憶するのだが、私は個人的に、「耳嚢」の中で、映像として最も不気味、且つ、悲哀に満ちた一番の話として本話を挙げたいのである。……美しい女房の発狂、縁の下の愛する男との二人きりの隠れ里――幻覚を伴う重篤な統合失調症か、程無くなくなったという点からは予後の悪い何らかの器質的疾患による脳の変性か脳腫瘍等も疑われる――また例えば、心因性精神病として、その発症の原因の一つに、家内での秘やかなゴシップなどを想起してしまうと――失踪の際、真っ先に恐らく複数の者が「全缺落いたしけるならん」と考えたことがその強い可能性を示唆すると言えないか? また、彼女の『縁の下の棲家』の上は一体、誰の部屋だったのか?……なんどということまでがひどく気になってきて――猶のこと、この話は一読、私には忘れ難いものとなっているのである。
・「小笠原家」小笠原右近将監忠苗(おがさわらただみつ 延享三(一七四六)年~文化五(一八〇八)年)豊前小倉藩十万石の第五代藩主。小笠原家宗家六代。寛政三(一七九一)年、藩主となり、従四位下右近将監に叙任。
・「長局」宮中や江戸城大奥・大家に於いて、長い一棟の中を幾つもの局、女房部屋として仕切った住居。
・「缺附見れば」底本には右に『(駆附け)』と傍注する。
■やぶちゃん現代語訳
狐狸のために狂死した哀れなる女の事
寛政七年の冬のこと、小笠原家右近将監
口さがない家中の者どもは、
「……あの器量じゃて、全く以てどこぞの誰かと深うなって、駆け落ち致いたに違ない……」
などと噂致いた。人を遣って実家をも尋ねさせたが、帰った様子も、これ、御座ない。ともかくも十万石の大藩の御屋敷なれば――これ、その辺の普通の武家の話とは訳が違う――四方の守り、厳重にして鼠一匹逃げ出しようも御座ない、といった造りなればこそ、家中の者どもも、なんやかやと不審を抱いて御座った。
さて、それから二十日ほど過ぎた、ある日のこと、行方不明になった女房と同じ
――すーうっと……
――縁の下の方から……
――白い手が伸び……
――手に持った貝殻柄杓で……水を……汲んだ……
女房、
「きぇッ! エエエッツ!」
と叫び声を挙げて、その場に昏倒致いた――
――そこで、同部屋の者は言うに及ばず、家中の在の者どもも残らず駆けつけたところが、怪しき女のようなる者一人、今にも縁の下へと潜り込まんとするを見出だし、大勢にてとり押さえて御座った。
……と……
……この不審の女は……何と! かの行方知れずになって御座った女であったが故、者ども皆、吃驚仰天、ともかくも湯水なんどを与え、一体、どうしておったか、と問い
女は最初、黙ったままで、口を利くのを拒んで御座った風であったが、周りが強く詰問致すうちに、
「……
と申す。そこで、
「――そりゃまた、はて、
と聞き返せど、女の返事は一向、はっきりせぬ。そこで色々、なだめすかして尋ねてみたところが、
「……さればこそ……我が住む方へ……伴って差し上げますれば……」
……と……
――縁の下へ……
――入る……
――されば、大の大人、合わせて三人、跡について縁の下へと立ち入るという仕儀と相成った。
――庭縁から――遙かずっと先の縁の下の、ある所に――茣蓙や筵などが敷かれて御座って――そこにまた、古びた椀やら茶碗やらも並べ立ててある――女はそこまで這いずって行くと、
「……ここが……妾と夫の……住まう屋敷に……御座います……」
と平然と答える。
――従った男の一人が――顏にへばりついた
「――して! その夫の名は、何と申すのじゃ!」
……と……
「……はて……それはもう……ほれ、かねて既に……お話し申し上げて御座います通りの……あの、お方で御座いまする……」
と、ぬらりくらり、遂に名もはっきりとは申さぬ。
――さても、その
女の両親はと言えば、行方知れずの娘が戻ったと聞いて悦んだのも束の間、娘の変わり果てたうつけた
*
木星月をぬけし狂歌の事
寛政七卯の年の秋、木星月の内をぬけし事ありしを、人々品々吉凶を評して恐れ論じけるが、狂歌の名ありける橘宗仙院詠るよし。
月の内に星の一點加れば目出度文字の始なりけり
□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前の狂歌で直連関。
・「寛政七卯の年の秋、木星月の内をぬけし事ありし」これは月で木星が隠される天体現象である木星蝕を指している。中野康明氏の「こよりと木星蝕」の頁には、この「月と地球の間を木星が抜ける」などという阿呆臭い都市伝説とは違った、極めて科学的な驚くべき江戸の博物学者の姿が描かれているのである。則ち、その寛政七(一七九五)年のこと、『幕府天文方の高橋至時と間重富が夕方に道を歩いていたら、満月と木星が近接していた。二人は木星蝕が起きることを察知し、「こより」と穴あき銭で即席の振り子時計を作り、一人は木星が月に隠れる瞬間を合図し、もう一人はその時点からの振り子の振れの数を数えた』。二人は『司天台(天文台)に急いで帰り、備え付けの振り子時計で「こより振り子」の周期を校正して、蝕の開始時刻を計算』、『木星が月から現れる時刻は司天台の振り子時計で正確に測定できた』というのである。中野氏は『木星蝕を予測し、とっさに即席の振り子時計を作って観測するとは、凡庸な人間にはなかなかできることではな』く、『また、寛政時代には振り子の法則も知られており、司天台には精密な振り子時計も備え付けられていたとは、江戸時代の科学技術も大したものである』と賞讃されている。その精緻さに叫喚し共感するものである。
・「橘宗仙院」先行する「卷之三」の「橘氏狂歌の事」で、岩波版長谷川氏注に橘『元孝・
・「月の内に星の一點加れば目出度文字の始なりけり」「月」の字の最後に一画の星=「ヽ」を加えれば、左右が繋がって「目」の字となり、これは「
■やぶちゃん現代語訳
木星が月を突き抜けた狂歌の事
寛政七年の秋のこと、何でも――木星が月を突き抜けた――という専らの噂で御座った。人々は、星が星を食うた、貫いたと、その不思議の意味するところの吉凶を、口々にあげつろうて御座ったが、狂歌で名を知られた橘宗仙院殿がそれを聴いて、次のように詠んで御座ったと。
月の内に星の一点加ふれば目出度き文字の始なりけり
*
呪に奇功ある事
水に漬し餅或は草あんぴなど唱へ候品、あぶりこの上に乗せて燒くに、過半は右あぶりこへ附きて其樣見苦しく、詮方なきもの也。此春兒孫に
□やぶちゃん注
○前項連関:どうでもよいような吉凶占い話から如何にも実用的な呪いで連関。金属の場合、十分に高温にしてから焼くと焦げ付かないというのはよく言われる。これは附着したタンパク質が加熱されると、金属と反応して熱凝着を起こし、それが結果として鉄と対象物の接着効果を示すからであろう。さすれば、金属の温度を十分に上げて、中間の接着変性を起こしにくくさせるために綺麗に洗い上げることが、熱凝着を回避させる結果を生み、効果的であるようには思われる。更に私は、この話の「天窓の上」というのを、頭の上方ではなく、頭髪に「附けた」状態で「三度廻」すことで、頭髪の脂分が金属に付着し、被膜としての効果を持つからではないかと推測するのであるが、如何であろう?
・「水に漬し餅」餅に黴が生えないようにするために水に入れておく保存法。私が小さな頃は母が普通にそうしていたのを思い出す。それでも、黴は生えるし、腐りもする。――小学校二年生の記憶に――母が水の中で青くなった餅を、裏庭に穴を掘って埋めているのを見ていた――「あんた、こんなこと、御祖母ちゃんにだけは絶対言っちゃだめよ。」と言った――何故か、私は今も忘れない。
・「草あんぴ」草餅。「あんぴ」は「
・「あぶりこ」は「焙り籠」「炙り子」で、火鉢や囲炉裏の端で餅などを焼くための鉄製の網状のもの。必ずしも四角とは限らない。
・「はたきもの」「叩き物」身代を使い果たすことを言うので身分の低い下女などをかく呼んだ可能性もあるが、寧ろ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の「はしたもの」(召使の下女)の誤記と考えた方が自然か。
・「
・「鐵きう」「鉄灸」若しくは「鉄弓」と書き、火の上に掛け渡して魚などを炙るのに用いる、細い鉄のや串のこと。細い鉄線を格子状に編んだものも。鉄橋・鉄架などとも言う。
■やぶちゃん現代語訳
水に漬けた餅、あるいは柔らかい草餅なんどといったものを
この春も、子や孫たちのために焼こうと、召し使うておる若い下女などが、焙り籠に乗せて焼いたところ、例の如く、べっちゃりと網に焼きつき、それがまた焦げて、いかにも見た目も悪い、何とも無様な焼き餅と相成って御座った。
すると、それを見ておった、召し
「こういう時は、ちゃんと
と言うと、焙り籠の焦げを綺麗に削ぎ落いて清めると、片手にその炙り籠を持ち、自分の頭の天辺でするすると三度回し、さて、これを以って再び火に掛け、餅を焼いた。
――と――
一向、焦げ付くこと、これ御座らず、上手いこと、焼けた。
端で見て御座った私も不思議に思うたによって、試しに別の焙り籠を持って来させ、最初はそのまま普通に火に掛けて餅を焼いたところが――これ、やはり焦げついて見苦しいものとなったが故、さて、これをまた、老女のした如くに掃除して、頭の上で三度回して焼いたところ――いささかも、これ、焦げつかず、形も崩れず、相い成った。
さすれば、後に、
「いや、かくかくのことにて、まっこと、不思議なることで御座った。」
と、さる老人に語ったところ、
「それは先刻承知のことじゃ。焙り籠に限らず、
――人の頭の上で回すと、人の気を
*
又
鱈或は
□やぶちゃん注
○前項連関:食品調理の
・「鹽引」塩漬けの鮭のこと。
■やぶちゃん現代語訳
鱈或いは塩漬け鮭、その他塩蔵処理した海産物、その他の陸産食品の塩蔵加工食品の塩抜きのを致す際には、紙を四角に切って、それぞれに「おのへ」「おのへ」「おのへ」「おのへ」と書いた上で、塩出しにそれらを入れた容器の水に浮かべると、これ、たちどころに塩出しが終わる。このことも、知人独りのみならず、私の知人二人までもが、語ったことで御座る。
*
鼻血を止る妙呪の事
鼻血出る人左より出れば己が左りの
□やぶちゃん注
○前項連関:
■やぶちゃん現代語訳
鼻血を止める優れた
鼻血が出た人は、左の鼻腔からの出血であれば左の睾丸を握り、右の鼻腔からの出血であれば右の睾丸を握り、両鼻腔からの出血であれば両方の睾丸を握らば、たちどころに効き目の御座って止血するとのこと。因みに――
*
賤婦答歌の事
寛政四年の頃、靑山下野守家士在所より往來の折から、木曾路寢覺の里に足を休、名におふ蕎麥抔を食しけるに、給仕の女其
名にめでゝ木曾路の
かく詠て書付あたへければ、彼女憤りける氣色して勝手へ入しが、程なくかへしとおぼしく書付たるもの持來りし故、これを見るに、
蕎麥かすはしづが
とありければ、人の代りて詠たるか、當意即妙のところ感じ取はべりしと、右家士のゆかりある人咄しければ書留ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:四つ前の狂歌で連関。実話というより、太田道灌の山吹の狂歌版パロディという感じである。
・「寛政四年」西暦一七九二年。
・「靑山下野守」青山忠裕(あおやまただひろ/ただやす 明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)。丹波篠山藩第四代藩主。本話柄とは関係ないが、彼は天明五(一七八五)年に家督を継いだ後、寺社奉行・若年寄・大坂城代・京都所司代といった幕閣要職を総浚いして文化元(一八〇四)年に老中に着任後、実に三十年強勤め上げた、文化文政期の幕閣の要人である。天保六(一八三五)年、隠居。
・「木曾路寢覺の里に足を休、名におふ蕎麥抔を食しける」木曽川の水流で花崗岩が侵食されて出来た木曽八景の一つ、寝覚ノ床の名物蕎麦屋として越前屋がある(蕎麦屋として現存)。そのHPの「越前屋の歴史」によれば、寛永元(一六二四)年創業、日本で三番目に古い蕎麦屋とされる。宿場の立場茶屋として栄え、訪れた北川歌麿・十返舎一九・岡本一平・前田青邨などの書画が残されており、島崎藤村の「夜明け前」にも登場する老舗である(現代語訳では私の嫌いな藤村をパロった)。
・「蕎麥かす」雀斑(そばかす/じゃくはん)。米粒の半分の薄茶・黒茶色の色素斑が、おもに目の周りや頰等の顔面部に多数できる色素沈着症の一種。
・「名にめでゝ木曾路の妹がそばかすは寢覺の床のあかにやありなん」は、在原業平の「名にしおはばいざ言問はむみやこ鳥我が思ふ人はありやなしやと」や、三条右大臣藤原定方の「名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」をベースとした狂歌で、名勝寝覚の床と女中の蕎麦かすがくっついた女中部屋の寝床を掛け、恐らくは暗にびっくりするような雀斑に「寝覚め」も掛けている。「妹」は「芋」で「蕎麦」を引き出し(流石に「芋姉ちゃん」の意まであるまい)、「あか」は木曽川の水流の
――「寝覚ノ床」の名にし負うた――木曽路の娘の、その雀斑は――独り寝の淋しい寝床でついた、垢ででもあろうか……
・「蕎麥かすはしづが寢㒵に留置てよい子を君に奉りぬる」の「しづが寢㒵」は「賤が寢㒵」で卑称。文字通り、雀斑を実際の蕎麦かす(蕎麦を挽いた滓)に掛け、「よい子」を「よい
――蕎麦かすははした
■やぶちゃん現代語訳
賤婦の返歌の事
寛政四年の頃、青山下野守の家士が、丹波篠山の在所から江戸へ往来した折りの出来事で御座るという。
――木曾路はすべて山の中である。
……拙者、そこで足休めを致いて、名にし負う名代の越後屋の蕎麦をたぐって御座ったところ、その折りに給仕致いた娘、その顔が、これが、まあ、驚くべき美事に仰山なる――そばかすじゃ! そこで一首、
名にめでて木曽路の妹の蕎麦かすは寝覚の床のあかにやありなん
と詠んで書きつけたものを渡いた。
――と――
この田舎娘、何やらん、非道う憤った気色で店の奥へ入ったかと思う
――と――
程
そばかすは賤が寝顔に留め置きてよい子を君に奉りぬる
と御座った……
「……誰か、好き者が代わって詠んだものかとも思わせる……いや、その当意即妙に、すっかり感じ入り……軽き戯れに
と本人が語ったということを、この家士に
*
連歌師滑稽の事
向秀といへる連歌師、人の夢賀の句を乞ひけるに、忘れて過ぬれば、いかにも面白く目出度事をとせちに乞ければ、歌をよみて贈りけるとぞ。
龜に櫛鶴かうがひの愁あり用に立ざる君は千代まで
□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌で直連関。
・「向秀」不詳。この号は竹林の七賢に因むか。ならば「しょうしゅう」と読む。これは江戸時代の話ではなく、もっと古い話かも知れない。
・「夢賀」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「壽賀」で、長寿の言祝ぎの謂いである。こちらを採る。
・「龜に櫛鶴かうがひの愁あり用に立ざる君は千代まで」以下、通釈しておく。
……亀は甲羅を鼈甲の櫛にされる……鶴は脛骨を髪飾りの
■やぶちゃん現代語訳
連歌師の滑稽の和歌の事
向秀とかいう連歌師、ある時、人に長寿を
亀に櫛鶴かうがいの愁あり用に立たざる君は千代まで
*
大久保家士惇直の事
寛政五丑年三月、執政松平越中守殿浦々見分の事有て、相州
[やぶちゃん注:以下、「書取」は底本では全体が二字下げ。なお、一部の訓読が難しいが、「書取」の原型を味わって貰うため、ここでは読みを示さず、注の方で全文再掲の上、難読語を訓じておいた。]
今日根布川御關所通行の節、風與心得違にて笠脱不申候處、番士大木多次馬笠之儀心付け候。自分心得違の儀は江戸表同列迄申達にて可有之候。勿論加賀守殿より御達筋には不及候。扨多次馬年若に相見候得共、嚴重精勤の段一段の事、加賀守殿御申付宜故之事と存候。多次馬儀心得方宜段は、御褒被掛御目ヲ可然哉に存候、此段も無急度申達候事。
右は多攻馬が其職を守る、越中不明公惇直
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。巻頭より本格的な武辺物がなかっただけに、意識的に配したものとも思われる。
・「惇直」は武士としての根岸の最も好む語で「じゆんちよく(じゅんちょく)」と読み、純粋で正直なこと。一途で正しいことを言う。
●書取訓読
今日、根布川御關所通行の節、
・「執政松平越中守」陸奥白河藩第三代藩主松平定信(宝暦八(一七五九)年~文政十二(一八二九)年)。彼は松平家の養子であって、実父は御三卿田安徳川家初代当主徳川宗武、則ち、徳川吉宗の孫に当たる。天明七(一七八七)年より寛政五(一七九三)年まで老中首座並びに将軍輔佐となって寛政の改革を実行した。寛政五(一七九三)年三月に伊豆・相模・安房・上総・下総の海防巡見を行っており、本話はその折りのものである。但し、この四ヶ月後の七月二十三日、やはり海防巡見中に突如将軍より辞職を命ぜられ、失脚している。「執政」は幕政全般を取り仕切った将軍に次ぐ老中職を指す。
・「根府川の御關所」現在の小田原市根府川のJR根府川駅を降り、急坂を少し下ったところに小田原藩の根府川関所跡がある(実際の跡は関東大震災で埋没、新幹線工事によって川床となった)。箱根の脇関所として、熱海・伊東への海辺街道の監視を行う重要な関所であった。
・「大久保加賀守」大久保忠顕(宝暦十(一七六〇)年~享和三(一八〇三)年)。小田原藩第六代藩主。参照したウィキの「大久保忠顕」には、藩財政の窮乏を懸命の引締政策で乗り切ろうとするも上手く行かず、『おまけに幕府から海防を命じられ、さらに財政は逼迫した。このため、藩の改革は長男・忠真と二宮尊徳によって受け継がれることとなる』とある。
・「同列」同輩の老中。老中の定員は四人から五人で、寛政五(一七九三)年の時点では老中首座の定信以下、松平信明・松平
・「
・「不明公」松平定信を指しているが、不詳。彼の別号には楽翁・花月翁・風月翁・白河楽翁があり、諡号は守国公であるが、「不明公」というのは見当たらない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、ここは「
■やぶちゃん現代語訳
大久保家の惇直なる家士の事
寛政五年丑年の三月、老中松平越中守定信殿が海辺を巡見なさった。相模国根府川の御関所をお通りになられた際――この時偶々、定信殿は駕籠を用いられておらず、徒歩でかの御関所へとお入りになり、尚且つ、笠を用いられたままで御座った。すると、関所番士であった大久保加賀守忠顕殿の家士、大木多次馬がすっと立ち出で、越中守殿近習の者に向かって、
「御関所にて御座れば――笠をお取り下さいまするように――」
と断りを入れて御座った故、越中守殿、
「……これは……うむ、うっかりして御座った。」
と笠をお取りになられた――。
――後日のこと、越中守殿にはかの大木多次馬の惇直なる精勤を殊の外お褒めになられ、加賀守殿へもこのことのお達し、これ、あり――また、この話、江戸表にも伝わって御座ったればこそ――その越中守殿お達しの写しを、ここに記す。
本日、根府川御関所を通行した折り、ふとした心得違いにて笠を脱ぎ申さずに御座ったところ、貴殿番士大木多次馬、
以上は、大木多次馬がその職分を美事に守った忠と誠と、また、越中守相公定信殿の惇直を讃えるため、ここに記しおいたもので御座る。
*
井上氏格言の事
明和安永の頃、井上
□やぶちゃん注
○前項連関:平時の武辺物で連関。岩波版の長谷川氏の注には、『図書は礼をすれば番頭も駕籠・馬から下り返礼せねばならぬ。その煩わしさを厭わぬというのなら以後会釈をするよう申合せようといった』と解説されている。実は私の頭が鈍いのか、『番頭も駕籠・馬から下り返礼せねばならぬ』と読める部分が、何処であるかはしかと分からぬのであるが、この謂いは正に安房守がビビる核心を補強するものであることは確実だから、井上の台詞の最後に出させて貰った。
・「明和安永」西暦一七六四年から一七八一年。次が天明で寛政と続く。本執筆時と推定される寛政八(一七九六)年より十五年から三十年ほど前となる。
・「井上圖書」井上図書頭正在(いのうえまさあり 享保十六(一七三一)年~天明七(一七八七)年)。明和四(一七六七)年御小性組頭、安永二(一七七三)年大目付、安永八(一七七九)年従五位下図書頭、天明五(一七八五)年普請奉行。ネット情報では杉本苑子の小説「冬の蝉」では硬骨漢として描かれているらしい(未読)。
・「御書院の組頭」「御書院」は書院番で将軍直属の親衛隊。六組(当初は四組)で一組の内訳は番士五十名・与力十騎・同心二十名の構成からなる。番頭は各組の指揮官で、その番頭の補佐役が組頭。
・「北條阿房守」北条安房守氏興(ほうじょううじおき 享保十五(一七三〇)年~寛政九(一七九七)年)宝暦三(一七五三)年従五位下安房守。新番頭から明和二(一七六五)年御小性組番頭、安永七(一七七八)年大番頭、天明五(一七八五)年には駿府城代となった。以上の事蹟から、本話は井上が御小性組頭となった明和四(一七六七)年から暫く経った頃で(話柄から直後とは考えられない)、井上が大目付に昇進する安永二(一七七三)年以前ということになる。一つ違いだからどちらも、三十代後半から四十歳前後である。
・「乘輿」とあるが、「輿」は駕籠のことを意味している。
■やぶちゃん現代語訳
井上氏の格言の事
明和・安永の頃、井上図書頭正在殿という御書院番組頭が御座った。
ある日、他の組の番頭であった北条安房守氏興殿と擦れ違った。この時、安房守は駕籠に乗り、図書の方は徒歩で馬を引かせての通行で御座った故、会釈せずに駕籠の脇を通った。
ところが、後日のこと、安房守より井上殿の番頭へ、
「貴殿支配の組頭井上殿じゃが……我ら番頭が乗る駕籠の脇を正面から擦れ違うに、一向、会釈も御座らぬとは、これ、如何なものか、の。」
と小言の御座ったを井上殿聞きて、
「――はて。五十人から御座る御番衆の内には、大概は徒歩立ちにて往来する者も多く、これに依って、
と申し上げた。
流石の安房守も、これには困り果てて、
「……い、いや、……その、あれは、の……ちょっとした冗談じゃ、て。……」
と言い紛らかいた、とかいうことで御座る。
*
猫物をいふ事
寛政七年の春、牛込山伏町の何とかいへる寺院、祕藏して猫を飼ひけるが、庭に下りし鳩の心よく遊ぶを
□やぶちゃん注
○前項連関:武辺物二本の後のティー・タイムという感じでもある。但し、連関というわけではないが、井上の立て板に水を流すような理詰めの口調と、猫の猫による猫のための猫族の語り口が何だか似ている気がして面白い。本話は妖猫譚としてよく単独でも引かれ、「耳嚢」の怪談でも一番人口に膾炙するものと思われるが、私はこの和尚との問答と、その結末が、何かしみじみとして、忘れ難く好きなのである。
・「牛込山伏町の何とかいへる寺院」牛込山伏町は現在の新宿区市谷山伏町で、非常に狭い町である。ここには現在、真宗大谷派の常敬寺という寺があるが、ここか。この寺には海老一染太郎の墓があるが、この偶然が何だか面白い。――私は小学校二年生頃、父の会社の慰安会に母と一緒に行って、司会をしていた海老一染之助・染太郎の「何かおやりになりたい方は御座いませんか?」という言葉に、真っ先に手を挙げて舞台に上がり、ハモニカで文部省唱歌の「故郷」を吹いた。――吹き終ったら、染太郎師匠が、あの金ツボまなこをぎょろつかせてにっこり笑うと、「坊ちゃん、上手いねえ! おじちゃんのお弟子になるか?」と言った(その時、染之助師匠がいつもより多く傘を回してくれたかどうかは――定かではない)。――「私はずっと、はらはらし通しだったわ」――がその思い出の、母の語り草だった。――僕の「耳嚢」である。
・「祕藏して猫を飼ひける」この「祕藏して」は、こっそりと隠しての意ではなく、大切に可愛がり育てることの意である。但し、寺社で動物を飼うことを禁ずる習慣は古くからあった。例えば密教の高野山や比叡山に行われた、女人禁制・魚肉の持込の禁止・動物の飼育の禁止(但し、一種類の動物だけは山の神の使いとして飼うことが許可され、高野山では犬が飼われた)・大きな音を立てることの禁止という四つの禁忌の中に含まれている。但し、これは殺生戒等に基づく仏教戒律とは関係がないようである。
・「
・「小束」は「小柄」が正しい。日本刀の鞘の鍔の部分に付属する小刀。平時は普通のナイフのように用いるが、武器として棒状手裏剣などにもなる。
・「
■やぶちゃん現代語訳
猫がものを言う事
寛政七年の春、牛込山伏町の何とかという寺院で、一匹の猫が大切に飼われて御座った。
ある日のこと、和尚が
「喝!」
と声をかけて鳩を追いはらって
……猫が……
……「残念なり。」……
……と……
……言うた……
――和尚、大いに驚き、この猫の庫裡裏へ逃げたを取り押さえ、小柄突きつけ、
「――汝、畜類の身にありながら、物を言うとは
と憤った。
……と……
……かの猫が……
……答える……
「……猫のものを言うは、我らに限ったことでは、ない……十年余も生きて御座れば……どんな猫も……ものは申すものにて……それより十四、五年も過ぎて御座れば……どんな猫も……神通力を得て御座るものじゃ……しかしながら……まず、その齢いを保てる猫は……御座らぬのぅ……」
と申す故、
「――ウム! 然らば、汝がものを言うも、尤もなることと合点致いた。が――汝、未だ十年の齢いにも届かざるは如何!――」
と一喝致いた。
……と……
「……狐と交わって生まれた猫は……これ、その年の甲を経ずとも……ものを言うものじゃ……」
との答え。
されば、和尚、
「――然らば今日、汝のものを言うたを外に聞く者は、ない。我も暫く飼いおいて参ったものなればこそ――何の不都合があろうぞ?――さても、これまで通り――この寺で――もの言わぬただの猫として――暮らすがよいぞ。」
と申したところ、
……猫は……
和尚に
それから……
かの寺の最寄りに住む人が語った話に御座る。
*
人には品々の癖ある事
寛政六年冬の事也し。御用を承る御具足師妙珍何某が方へ、綺羅人品とも格別ならざる武士參りて、具足一領
□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。武辺物へ流れを戻した。本話はその末尾の洒落が笑話や落語にありそうな感じであるが、根岸の実際の聞書きであること、登場人物の一方が完全に特定された実在する具足製造の商業行為を行っている人間であること(これが作り話であれば営業妨害に相当する内容である)、もう一方の匿名の武士も、本話中の情報を用いれば数人に若しくはある一人の特定実在人物に同定することは必ずしも難しくないこと(こういう堅物で偏屈な武士は必ずしも珍しくないと思われる)、などを考えると実話であったと考えてもよいようにも思われる。私の好きな話柄である。
・「寛政六年」西暦一七九四年。
・「具足師妙珍」幕府御用達の甲冑製造師妙珍。底本の鈴木氏の注に、『明珍が正しい。遠祖宗徳が甲冑と鍔の名工で、子孫業をつぎ、名工多く、この一門で甲冑の製造を独占するにいたった。明珍は第三十二代宗介が近衛天皇から賜わった号であるが、一門これを称した』とある。保元の乱絡みでいわくつきの、十六歳で夭折した近衛天皇の在位は永治元(一一四二)年から久寿二(一一五五)年。武家の台頭と軌を一にして賜号を受けたというのが興味深い。
・「綺羅」「綺」は綾織りの絹布、「羅」は薄い絹布の意で、本来は美しい衣服を言う。ここでは実際のみすぼらしさを憚っての単に服装の意。
・「職分の者」この頃になると甲冑製造は工房システムでの分業であったのであろう。それぞれの部位の細工を担当する者を言う。
・「小石川三百坂」現在の文京区小石川三丁目と四丁目の境、伝通院の西にある坂。元は
・「類燒」本話は寛政六(一七九四)年の出来事とするが、まさに江戸の花、寛政年間には四(一七九二)年・五年・六年と立て続けに江戸は大火に見舞われている。
・「内貸」代金の一部前払い。
・「當時金子貮十兩は有合候得共、跡三十兩は明日可相渡由」この文脈から考えると、既に内金五十両が支払われている百五十両という金額に対し、「今少し」という売手の言葉を受けて、買手が自律的に「では明日までには、総額百両耳を揃えて支払おう」と言っていることが分かる。これは恐らく当時の不文律で、通常は支払総額の2/3を内金とするのが相場だったことを示すものではあるまいか? 但し、百五十といった高額の場合はその限りではなかった、最初の五十両若しくはプラス二十の七十両で既に十分であった可能性が高い。でなければ、後日、七十プラスの三十両を主が持参した際、妙珍が「驚入」とは思えないからである。識者の御教授を乞うものである。
・「拂買懸」支払いと買い掛かり(代金後払い)。
・「下鐵」具足本体に用いるための原材料の鉄板であろう。
・「妙珍も殊の外込り」底本では「込り」の右に『(困り)』とある。
・「翌卯」翌寛政七(一七九五)年
・「妙珍父子」ここで主役を演じているのは父か子か。子では役不足なので先代の父、大旦那と採りたい。子は既に店の実務を担当していた若旦那と判断した。頑是無い小さな子でも謝罪効果はあろうが、本話柄の父妙珍はどうみても老獪で若くない。
・「名前は差合あれば不語」江戸切絵図を見るとこの三百人坂には左右に二十四軒ほどの屋敷が並んでいる。こいつかな? こいつかも? なんどと夢想しつつ、切絵図を見るのも、私には楽しみの一つである。
■やぶちゃん現代語訳
人にはそれぞれに多様な
寛政六年冬のことであったという。
幕府御用を承る御具足師妙珍何某が方へ、服装人品ともに、如何にも見栄えのせぬ武士が来店致いた。
「……具足一領、拵えたい。仕様は、かくに通りで。」
と書き付けを見せ、
「……さても、凡そ、如何程にて、仕立てられようか、の。」
と訊ねた故、妙珍も――その、かくもみすぼらしい
「……さても、凡そ、百両ほどなれば……出来ましょうか、の。」
と答えた。するとその侍、
「相い分かった。では、直ぐにとり掛って貰いたい。」
と申す。
妙珍は、そこで、
『……近頃、世間では思いもよらぬ手練手管で、とんでもない
と思い直し、
「……ああ、いや……さてもご正式にご注文なさるので御座れば、各々の細工職人が方へも、ご要望の仕様につき、仔細打ち合わせ聞き
と受注の儀はまずは留保致いて、侍には帰って
男が帰った後、妙珍は手代どもを集めて頭を突き合わせ、いろいろ相談評議致いた上、
「……いや……あの侍、とてもかくなる精緻な仕様の高価なる武具など、とても注文致すべき人品にては、ない。注文通りのものならば、まあ、百両余りにては出来も致そうが……百五十両、とふっかけてみても、まんざら法外な値とも言えまいtえどうじゃ?……その話方々、先方の居宅の様子なんども……それとのう探って参る、というのも、よかろうが。」
と決した。
ところが翌日、またしてもかの侍がやって参り、
「さても、見積もりは出来て御座るか?」
と訊ねるので、明珍、慇懃に、
「はい。――昨日は『百両余り』と、凡その見積もりを申し上げましたが、とくとお好みの仕様を仔細検討させて戴きましたところ、百五十両で御座いますれば、当方、請け負い申し上げ、必ずや、精魂込めてお仕立て申し上げようと存じまする。」
と申したところ、男は、
「……なれば……よし! そのように頼んだ。早速にとり掛って貰いたい。」
と、手付金五十両を支払い、当該前金領収の證文を受け取って帰って行った。
しかし――その一部始終を見て御座っても、妙珍は、未だ不審が晴れない。
「……儂が明日直かにお屋敷へ参って……なお、また……いろいろと……様子を窺ってみよう。」
と店の者に言うた。
翌日、注文書の所書きの通り、小石川三百坂へ参って、かの侍の屋敷を訪ねて見たところが、門や塀――いや、その家作全体の在り様は――これ、損壊甚だしく、文字通り、廃屋の如くにして究極の貧家――といった体たらくで御座った。
一たびはそのおぞましいばかりの棄景に驚き呆れて、一たびは『こんなところに、かくも五十両を出した武士の、住んでおろうはずもない』と深く疑念を持ちながらも、案内を乞うた。
確かに――前日参った侍で御座った。
妙珍は、早速に作具の用意にとり掛った旨の嘘を申し述べた上で、
「……実は拙者儀も、……先般の大火類焼以来、……そのぅ、金繰りに困って御座いましてのぅ……その、……今少し、内金を相い願いたく存じ、参上致いた次第にて御座いまする。……」
という話を持ち出してみた。すると、
「……うむ……それなりに追加の金子を差し遣わすに異存はない。ただ……ただ今は、手元のあり合わせ、これ、二十両ほどしか御座らねば……あとの三十両は、明日渡そうぞ。」
と言うたか思うと、即座にその二十両を渡いた。
店に戻った妙珍は、直ぐに手代どもに作具の準備に入ることを命じならも、
「……いや、それにしても不思議なことじゃ、……行きしなと帰りがけにも、かの屋敷の近所にてそれとのう、話を聴いてみたところでも、かの侍、至って勝手不如意にして、諸々の支払い売掛けなんども、殆んどがこれ、滞っておるとの専らの噂……それで、百両、基、百五十両の具足に、かの五十両と、この二十両をぽんと出すとは……何とも不審なることじゃ……」
と独りごちで御座った。
そのような晴れぬ思いの中で仕事をして御座った妙珍のもとへ、間もなく――侍の申した通り、正確に、その翌日のこと――かの御仁が来店致いた。
「いよいよ本格的な作具にとり掛って呉れて御座ろうかの?」
との問いであった故、幸い、届いて御座った発注した鉄素材や、その外、注文書にあったのと同じ
「先般、約束の金子じゃ。」
と言って、三十両出だいた。
疑いばかりかけて御座った妙珍も――まさか、自ずと後ろめたい不要の三十両を、あの貧窮貧相なる男がちゃんと耳を揃えて持ってくるとは思いもよらねばこそ――流石に驚いて、
「……あっ……さてもさても、この天下太平の折りから、新調の具足一式を、それも美事なるご自身のお好みによる、細部仕様書まで添えてのご注文というは、これ、とんと御座らぬことにて御座いまする。――さても武士としての、そのお心懸け、憚りながら、感服仕って御座いますれば、私めも具足師、この命にかけて、お好み通りに相い仕立て申し上げますれば、――この上のお代は、負けさせて戴きますればこそ……」
と言い掛けたところが――
――かの武士、以ての外に憤って――
「……何?! 最早、頼まん! 定めて拙者が屋敷の様子、我らが人品を垣間見て、かくなるほどの大金を差し出せるような者にては――ない――と踏んだのに違いがなかろうが! 拙者、若年より不断に武具
と、戦場の名乗り宜しく、大音声にて呼ばわる。
妙珍はすっかり心を見透かされたによって殊の外に困り果て、土間に飛び降りると、地に
「……誠に、恐れ入って御座りまする!……あれは、その、……ふと、申しようを
と詫び言を言うた。
――ところが――
「……何と、なッ?! 武具に、言うに言欠いて……『
と喚くや、男は、殊の外憤ったまま、ぶるぶると全身を武者震いさせて、帰って御座った。
それ故、困惑した妙珍は、後継ぎとして既に店に出て御座った子を連れ、更にはそれなりの御武家方に知れる方の御座る親類なんどまで繰り出して、お百度ならぬ三百坂の、お屋敷へと日参致いては、手を擦っては詫びを致いたものの――翌七年卯年の正月になっても――未だ、かのお武家さまのお怒りは解けず、妙珍のお
「……このお武家の名は……いや……差し障りがあれば名は申しますまい……。」
との由、私自身、三人もの違った者より聞き及んだ話で御座る。
*
古風質素の事
板倉二代目周防守、年始登城可
□やぶちゃん注
○前項連関:鎧新調が店主の何気ない一言から「仕立て無用!!!」となったシーンから、小袖新調がうるさ型の爺の一言で沙汰やみとなる類感的連関がまずあり、加えて、あばら家で借金に首の回らない冴えない武家が、高価な鎧一式に拘って百五十両を倹約(というより別腹の力技で)貯めたという変な話から、殿様に衣一枚でも倹約を諫言するド吝嗇家老と変な「家記」(主家先祖の記録・家伝)でも連関する。
・「板倉二代目周防守」板倉重冬(寛文十二(一六七二)年~宝永六(一七〇九)年)。伊勢亀山藩第二代藩主。板倉家宗家第五代。板倉家では先々代の第二代当主重宗が周防守を叙任しているので、板倉家での周防守拝命二代目ということ。享年三十八で亡くなっている。この内容は本書記載時より、彼の没年で計算しても九十年近く前となる。
・「白無垢」この場合は、礼服の下に着る以下の小袖の絹仕立ての白衣。
・「小袖」ここでは大宝の衣服令で定められた、礼服の大袖の下に着る筒袖・
・「當周防守」板倉勝政(宝暦九(一七五九)年~文政四(一八二一)年)。備中松山藩弟四代藩主。板倉家宗家第十代。板倉家直系で重冬の曾孫。重冬の孫初代備中松山藩藩主板倉勝澄の七男。
■やぶちゃん現代語訳
古風なる質素の事
ある年の暮、板倉周防守二代目板倉重冬殿は、年始めの登城には、白無垢が如何にも古びえおると、新調をお申し付けになられたところ、家老何某はこのご指示を承るや、
「白無垢新調せよと仰せ付けになられたによって、拙者、直々に検分致いて御座ったところ、これまでの御小袖、多少の古びも見えぬでは御座らねど、年始に用いらるるためにだけ、新調をお仰せ付けらるるというは、これ――如何なものかと――存じまする――。」
とお諫め申し上げたによって、重冬殿の小袖一枚新調のお話、お沙汰やみとなさった…………と……
「……いや、まこと、そう、家伝の書にも
と、今の周防守、重冬殿ご子孫であらせられる、当の板倉勝政殿、直々の物語りの内にて承った話で御座る。
当節、諸侯大名にのうても、白無垢ひとつ新調するぐらいのことは、我らの身分の者でも、家来どもへいちいち断って、その考えに耳を傾けるほどのことは、御座らぬ。時世の変化というものは、これ、さまざまなるものじゃなあと感じ入ったによって、ここに記し置いた。
*
龜戸村道心者身の上の事
好事の人、
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。この話、今まで私とお付き合いして下さった方は、前に同じような話を読んだ記憶がおありになるであろう。実はこれ、底本注で鈴木氏も指摘しているように、「卷之一」の「山事の手段は人の非に乘ずる事」のコンセプトと酷似する。違いは主人公の急場を助け、後に詐術を弄する人物が先の者では実は悪玉、本話では実は善玉というオチの違いが、確かにそれは読後の対照的な印象の違いを生み出している。本話の方が遙かに気持ちがいいのだが、デーテイルのあまりの酷似は聊か興を殺ぐものがあり、更に捻くれて言えば、宿命的人間悪の存在を認める私なんぞは、先の救われない話柄の方が、嫌だけど、リアルだな、とは思うのである。
・「龜戸天神梅屋敷」通称亀戸梅屋敷は浅草の呉服商伊勢屋彦右衛門の別荘清香庵で、往時は三百余本の梅の木が植えられ、将軍吉宗や水戸光圀も訪れた名園であった。底本注や岩波版長谷川氏注には清香庵を『百姓喜右衛門の庵号』とするが、喜右衛門は彦右衛門の何代か後の後裔で、この喜右衛門の代辺りから呉服商を廃業、ここで梅の栽培に専心したものらしい。ここは、かの傑作、歌川広重の安政四(一八五七)年作「江戸名所百景表題」「
・「東禪寺」甲府市桜井町に鳳皇山東禅寺という同名の寺が現存する。武田家家臣桜井信忠を開基として寛永二(一六二五)年開山、曹洞宗。
・「公事」現在で言う民事訴訟。その審理や裁判をも含めて言う語。
・「風與」の「ふと」は底本のルビ。
・「品川なる三星屋むめ」品川宿の三星屋という女郎屋の女郎であった梅という女。
・「店」の「たな」は底本のルビ。
・「公事不利運」民事訴訟敗訴。
・「缺落」一般に「駆落・駈落」などと書いて、現在では専ら、婚姻を許されない相愛の男女が、秘かに他所へ逃れることの意で用いるが、古くは単に、秘かに逃げること、逐電や出奔の意で用いた。
・「芝」現在の東京都港区に、現在も残る町名。但し、当時の芝は遙かに広域を示すもので、東海道の発展に伴って急速に発展繁栄し、村の周辺域も含めて「芝」と呼ばれるようになった。
・「足手を空に」手足が地に着かないほど慌てふためいてあちこち走り回ること。「足を空に」「足も空に」などとも使う。
・「駒形堂」駒形堂は現在の駒形橋のたもと南側(ここは浅草の観音像が顕現し上陸した地とされる)にあった浅草寺に属する御堂。天慶五(九四二)年、円仁作馬頭観音を祀るために建てられたのが起りと伝える。関東大震災後、雷門二丁目駒形公園内に移築された。
・「本所横あみ」は、現在の東京都墨田区両国周辺。
・「食」の「めし」は底本のルビ。
・「麻布市兵衞町」現在の港区六本木。この旧市兵衛町のど真ん中に六本木ヒルズは立つ。
・「煮賣酒屋」一膳飯と酒を供する店。
・「そもじ」「其文字」と書く。「そなた」の「そ」に「もじ(文字)」を添えたもので、二人称代名詞。もと、中世には女性から目上の男性に対して用いる語であったが、近世以降になると、女性から対等か目下の男性、または男性から女性に対して用いるようになった。
・「そゝなかす」
・「内の事也」底本には右に『尊本コノ四字ナシ』とある。盗んだ金を返す、それは分かり切った当然のことで、という意であろう。
・「首代」首を切られる、則ち死罪の代わりに出す金の意。「
・「いりわけ」は「入り訳」で、込み入った事情・いきさつ・子細の意。
・「辛方」底本には「方」の右に『(抱)』の傍注を附す。
・「何程」は、意識的伏字として用いているように思われる。
・「吊ひ」既出であるが、「弔」の俗字。
■やぶちゃん現代語訳
亀戸村の道心者のその身の上の事
風雅をこととする人、ある春の
――フウっ――
と大きく溜息をつくや……
「……されば……拙者の身の上、これ、お話致しましょう。……我らは若き日は、れっきとした出家で御座った。甲州山梨郡の生まれにて、東禅寺の住職をして御座ったが、寺絡みの
ある日、我ら、外へ出でておった、その留守に……かの受けだした女房の梅が……ありったけの金子を持ち出して……行方も知れず、相いなって御座った。……この我が身は……実にこの女故に……最早、
……と……
そこに、本所横網辺りに住みなして御座った『向こう見ずの
「どうしたい?
と尋ねられ、ありのままに、答えました。すると、
「……まあ、やりようは、あろうというもんだぜぃ。……俺んとこへ、来いや――」
と、私を連れ帰り……
……それからというもの……
……その五郎八親分のところに寄宿致すことと相い成って……
……私は……炊事やら……飴売りやらを命ぜられ……
……日を暮らすよすがと致いて御座いました。
そうして、親分の言うことに、
「何としてもお前さんの女房を見つけ出そうじゃねえか。但し、見つけて御座っても――絶対に手を出すな。――いいか? すぐに帰って、俺に知らせるんだ、ぜ。」
と言って、飴売りとして、方々売り歩かされました。……
……さて……
……飴売り稼業を始めて、丁度、三年目のこと……
……とうとう、かの梅を……麻布市兵衛町の煙草屋の隣の煮売酒屋の……そこの女房に、なっておりましたを……
……見つけました…………
……言われた通り、何もせず、姿も見せずに、とって返し、五郎八親分に知らせましたところ……
……それから一両日過ぎて、親分は私を連れて、麹町の、同じように町を仕切って御座った別の親分さんの元へ参りますと、
「……俺は今日、市兵衛町で喧嘩をやらかそうと思う――が――その節は――どうか――仲に割って入って、お
と何やら意味深に談合致いて、それから私を連れて市兵衛町へと赴くと、私を梅のいる店から見えないところに隠させておいて、
「――いいか――俺がお前さんを呼び招くまでは――絶対、ここを出ちゃあ、いけねえぜ――」
と言い含めると、親分、さっさと例の煮売茶屋へと入って行く――
――親分は酒肴を頼んで、暫く酒を呑んでは肴を食いなどしているうち――
――煮売茶屋の女房梅も店の奥から出てくる――
――と――
――親分、ぱっ! と、その手を捕らえ――
「――お前さんに、引き会わせたい男が――いるんだがね――」
――と言うや――表へ向かって私の名を叫んだ――
……私は……早速、店に飛び込むと、梅を捕まえて、
「……大枚の金子を
と……私は……梅の髪をむんず握み……めちゃくちゃに……ぶちのめしました……
されば夫なる者、訳も分からず奥より走り出で、大いに驚き、
「……これは何事じゃ! 理不尽なる乱暴ではないか!」
と憤った。
――と――
五郎八親分は亭主に組み付き、土間に引き倒して押し伏せ、
「――お前さん! 人の女房をそそのかして――金子を盗ませ――手に手をとって、逃げた――この上は――あんた、盗賊の張本だぜぃ!!」
と、これもまた、ぼこぼこの目に遇わせる――。
さればこそ、隣り近所の者が、すわ何事と群がっては、騒ぎは波のように広がって参りました――
――と――
そこへ、件の麹町の親分さんが偶然の如くに通りかかった風をして、表から五郎八親分を見かけ、
「おぅおぅおぅおう! 何やってるんでぃ!」
と割って入る――この親分、馴染みの煮売酒屋の夫婦に加勢しよう集まって御座った近隣の者どもをも押し止め、五郎八親分の語る訳を、これまた、如何にも初めて聴くかの如くにして聴き終ると、徐ろに亭主に向かって、
「……お前さん、これがこのまま公けになったとならば……金品横領、不義密通、その反省の色としもなし……こりゃあ、死罪、ということになろう、のぅ。……まずは、女に盗ませた金を返すはもとより……ほかに、首代を出すのが……当然じゃろう、な……」
といった感じで諭した上、かくなった
五郎八親分は私を連れ帰ると、
「――
ところが……それから半年たち、一年経っても……煮売屋の、例の取り戻した金子を呉れるような素振りも御座らねば……いえ、何事にも誰にも負けぬ意気地強固な五郎八親分なればこそ、嫉み疑うというた訳では御座らねど……まあ、その、『あの金子、一体どうして呉れるおつもりなので御座ろうか』というほどには、怪しんではおりました。
暫くたったある日のこと、五郎八親分が私を呼び、
「――これまで、飴売り商い、よう、辛抱した。――なれど、この数年、一緒に釜の飯を喰って分かったが、お前さんの人品は、こんな賤しい日銭を稼ぐ商いなんどを世過ぎと致す者にては、これ、御座ない。――さても、一度は死を決したる身なれば、本懐を遂げた上は、最早、この世には未練は、御座るまい。儂が煮売酒屋から取り戻いたあの金子は、××に、貸し付けておいたれば、今、×××両になったによって――その金で亀井戸に土地を買ってある。――長屋や屋敷もあれば、その地代と
と……此処へ住まわせて下すったので御座る。……
「……その
と、語ったとのことで御座る。
*
實情忠臣危難をまぬがる一事
明和天明の此とかや。下総國
□やぶちゃん注
○前項連関:論理的な連関は感じないが、読み終えた際の爽やかさは妙に共通している。この話、濡れ場もあり、また、主役が実は好男子次郎吉ではなく、一回の元使用人長八であって、その長八の手に汗握る波乱万丈の最終展開が眼目という、まるで浄瑠璃の五段構成にそっくりであるが、以下の注で検証したように、これは作り事ではなく、その主要なコンセプトは事実に基づいているらしい。実に面白い。善玉長兵衛と長八、悪玉笠原某と高田久之丞、絡む美形の長八女房、無名ながら愛すべきピカレスクの火つけ盗賊と、役者は十二分に揃っている。長八の奉行所での拷問責めという、観客垂涎の眼目もあればこそ、まこと、文楽の舞台にしたいというのが、実は私の正直な感想なのである。――さればこそ、
・「明和天明」安永を中に挟んで西暦一七六四年から一七八九年まで。明和の前が宝暦、天明の後が寛政。
・「勞症」辞書では労咳、則ち、肺結核としか記載しないが、近世物ではしばしば神経症や精神病の様態に対してもこの語を用いており(この次郎吉の話柄時制での状態と、『次郎吉儀
・「橘町」日本橋橘町。江戸時代初期にここに京都西本願寺別院があったが、その門前に立花を売る家が多かったことから立花町、後に橘町に改めた。現在の東日本橋の南西部分、両国と道を隔てた反対側の一画を言う。次郎右衞門の「出店」は具体的に如何なる商売かは示されていないが、次郎右衞門が豪農であることから、何らかの農作物の販売に関わる商店か問屋であった可能性が高いように思われる。
・「俵屋」天明八(一七八八)年作の山東京伝の黄表紙「
・「
・「惡敷にさそはれ」底本には「惡敷」の右に『(惡友カ)』と傍注する。「惡しき(者)」と読んでも問題はないと思われるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「悪友」となっており、それで採る。
・「舊離勘當」「舊離」は、不行跡の子弟が失踪などした際、その者が残した負債の連帯責任から免れるため、親族が奉行所に届け出て、失踪者を人別帳から除名し、絶縁することを言う。現在の失踪宣告に近いか。対する「勘當」は、親が子との縁を絶つことを言い、これは正式に奉行所への届出が必要であった(この法的措置は主従・師弟関係でも有効であった)。但し、前者は、しばしば勘当と混同され、ここでも勘当の接頭語のように附帯しているものと考えてよいであろう。
・「衣紋坂」日本橋土手通り(日光街道)から吉原大門の間にあった坂でS字型を成していた。遊客がここで身なりを整えたことに由来するとされ、湾曲しているのは将軍家日光参拝など際、街道から遊廓を見通せないようにしたためという。
・「
・「身薄」金がないこと。貧乏。
・「身のむし成」隠喩で「身の虫なり」(御身に附く
・「いなせ」「否諾」「せ」は肯定の意で、①不承知か承知か。諾否。②安否。ここは②の意。
・「さ程に思ひ曲輪など缺落いたし候はゞ、大雨か大雪の日など宜かるべしと教へければ」この台詞が幇間の台詞であることを考えると、私は辛気臭い真剣な話し合いでは、逆に興が殺がれる気がする。これは幇間の洒落のめした戯れ唄や踊りのイメージで語られてこそ臨場感があると思う。例えば「思ひ曲輪」は「思ひ狂は」の掛詞のようにである。これは私の勝手な解釈である。でも面白いと自分では思っている。そもそも遊廓の中で幇間が遊女相手に、あろうことか、遊廓足抜けの指南をするという驚天動地のシークエンス、どうして凡百の映像や演出で我慢出来ようか?! 私の現代語訳では思い切った翻案訳を施してある。――御笑覧♪ 御笑覧♪
・「承知有之成」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の「承知
・「水口」本来は、台所の水を汲み入れるための口を言うが、そこから台所の意。
・「朝氣」底本では「氣」の右に『(餉)』と傍注する。
・「御先手組」「卷之二」の「明君其情惡を咎給ふ事」の注参照。若年寄支配、江戸の治安維持を職掌とした。泣く子も黙る火付盗賊改方長官は、御先手組の頭が加役として兼務した。
・「細井金右衞門」細井正利(ほそいまさとし 享保二(一七一七)年~安永九(一七八九)年)。底本の鈴木氏注に、明和四(一七六七)年、彼が正に本話の事件処理に関して、役目落度のため処罰されたことが「寛政重修諸家譜」に載るとあって、原文が示されてある。以下、該当箇所を正字に変えて示す。
「明和三年六月十八日より盜賊追捕の事を役す。四年六月二十日これをゆるされ、閏九月十六日さきに放火せしものをとらへて獄に下し、罪科に處すべきむね言上にをよぶにより、なを穿鑿あるのところまさしく寃罪なるに決せり。總じて囚人を糾明することは、その情をつくし、ことにかゝりあへるものをもあまねくとひたゞすべきに、たゞに與力高田久之丞にのみまかせをきしよし、よりて久之丞を推間あるのところ、かれも罪にあたらざるとは心得ながら、もとめて放火の科にをとせしむね白状にをよぶ。しかるうへは正利がはからひ疎なるに論なし。しかのみならずこの事により、ひそかに久之丞がもとに文通し、其餘配下の同心等市店にをいて不束なる所行多かりし條、みな正利が職務にこゝろを用ふることゆるがせにして、配下の制導の等閑なるによれりとて職をうばひ、小普請に貶して逼塞せしめられ、五年正月二十七日ゆるさる。」
記述から読み取れる事件、高田久之丞という名の一致といった本記載によって、本話の信憑性は各段に上がるといってよい。それにしても――正にいつの世にも、こういった輩は絶えないものと見える。……これまさに、どこかの検察庁の不祥事そのものと同じではないか。
・「佐内坂」現在の新宿区市谷左内町の西南にある。現在は町名と同じく「左内坂」と表記される。
・「かの盜賊にある事ならば」の右には『(專經關本「彼賊さ有事ならば」)』という傍注がある。傍注の方でないと意味が通じない。
・「加役方」ある役職にある者がさらに別の職を兼務することを言う。先の「御先手組」注を参照。
・「單物へ新しく切レを
・「責呵」は「呵責」の意。
・「依田豐前守」依田政次(よだまさつぐ 元禄十六(一七〇三)年~天明三(一七八三)年)。「卷之一」の「石谷淡州狂歌の事」に既出。旗本。ここではウィキの「依田政次」から引用しておく(数字を漢数字に変えた)。『享保元年(一七一六年)、十四歳の時に八代将軍徳川吉宗に拝謁、享保十年(一七二五年)に小姓組に入り、小納戸、徒士頭と昇進し、目付になる。そこから作事奉行を経て、能勢頼一の後任として宝暦三年(一七五三年)に北町奉行に就任し、明和六年(一七六九年)まで務めた後、さらに大目付へと栄進し、同時に加増されて千百石の知行を得た。晩年は留守居役となり、大奥の監督に尽力したが、大奥の女中達と反目し、天明二年(一七八二年)に老齢を理由に致仕、翌年に死去』した。『北町奉行在任中には』尊王論者の弾圧事件と知られる『明和事件の解決に手腕を振るい、彼らに死罪、獄門、遠島などの処分を下した。他にも、札差と旗本の間で対立が生じてエスカレートした際に仲介を務め、一方で踏み倒しや不正な取立てを行う者に対しては徹底した調査を行って厳罰に処し、不正の横行を抑止することに尽力した』とある。彼の北町奉行勤務と本事件時は一致している(但し、ウィキには豊前守ではなく、『官位は和泉守』とある)。
・「改易」武士の身分を剥奪、領地・家屋敷などを没収する刑で、切腹に次ぐ重刑である。
・「
・「作大將」農家の作男の頭。冒頭にあるように次郎右衛門は下総国古河(現在の茨城県古河市)の豪農である。
・「沈淪」ひどく落魄れること。零落。
・「
■やぶちゃん現代語訳
忠厚によって危難を免れた事
「……
《古河屋敷座敷牢の段》
明和から天明頃の話、と聞いて御座る。
下総国
ところが、その次郎吉、成年になろうという砌り、世間で言うところの労症の如き病いを患い、日々鬱々として暮らして御座ったを、両親を始め、一族郎党、大いに嘆いて御座った。
さてもそこで、次郎右衛門、江戸橘町にちょいとした商いを致す
ところが、次郎吉、知り
が、恩愛の情、忍びがたく、母ごは、この我が子の狂人の如き扱われようを嘆くこと、詮方なく、一族の者も仲に入って、次郎右衛門に懇請したによって、次郎右衛門も己が所行を幾分か後ろめたく思うて御座ったのでもあろう、直きに次郎吉を座敷牢から出だいた。
ところが次郎吉はと言えば、吉原町にて深く馴染んで御座った俵屋の
しかし、暫くすると、この
が、次郎右衛門、これ、なかなか得心致さぬ。されど、
「――一子を見殺しにせんとするは、無惨の所行じゃ!」
と頻りに申す者が御座って、次郎右衛門もしぶしぶ許諾致いて、再び次郎吉を橘町の出店へ遣わすことと、相い成って御座った。
さて、出店へ舞い戻った次郎吉、前とはうって変わって、自分から升や秤を手にし、実直に商売に勤めて御座った故、次郎右衛門一類の悦びようは、これ、尋常では御座らなんだ。
《橘町出店勘当の段》
しかるに、その年の夏のことで御座った。
不図、またしても悪友に誘われ、またしても吉原町を訪れ、またしても半蔀に馴染み、またしても大枚の金銀を使い捨ててしまった故、次郎右衛門、またしても大いに怒ったかと思うと、この度は即座に、自ずから江戸表の店に駆け込むと、次郎吉に向かって有無を言わさず、
「――かくなる出来損ないを倅れと持つは――家産を
と一喝致いたかと思うと、その場に御座った親類やら手代どもの止めるも聞かず、
「――旧離勘当じゃ!――」
と吐き捨てて、次郎吉を店から追い出してしもうた。――
《吉原大門衣紋坂の段》
……さて、次郎吉、かくなっては最早致し方なく、こんな時に頼りとする方もなければ、吉原町にて殊の外目をかけて御座った茶屋や船宿なんどを訪ねる――が、こうした世界の常で、次郎吉が勘当を受けたことは、先刻承知の助、既にすっかり知れ渡って御座って――かつてに引きかえ、すってんてんの馬鹿息子に、親しげないつもの挨拶すら掛けて呉れる者も御座なく、かくなる上はなかなかに、愛しい半蔀を垣間見ん、なんどという話ですら、ない。――
そんなかんなで、悄然として
――さてもこの男、
「……ご当座、お住まいもご座らぬとなれば、
と、自分の家へ伴い、食事を与えると、徐ろに、
「……次郎吉の檀那……実はね、
と、義兵衛、言う――
《俵屋の段》
義兵衛は次郎吉を連れて、貸衣装屋にて衣裳を拵えさせ、手ずから金子一両を与えて、俵屋へと同道する。
半蔀の、悦んだの悦ばないの――
「……次郎吉の檀那のこと、どうか義兵衛殿、お前さんの方で、暫く匿っていておくんなまし。入り用の金子は、これ、あちきが出だしやんす。」
とは半蔀の言葉で御座った。
《麻布市兵衛長屋の段》
それからというもの、半蔀は俵屋の主人に隠れ、秘かに次郎吉へ真心のこもった世話を致し、義兵衛ともども次郎吉の面倒を見て御座ったが、ある時、次郎吉が、
「……いつまでも、こうして、世話になっておるというのも……如何なれば……何処ぞに……奉公にでも出ようと思う……」
と申す。
しかし――義兵衛の見たところ、如何にも弱々しく頼りなげで、「奉公」の「ほ」の字は、半蔀に「ほれた」の「ほ」しか知らぬといった様子なればこそ――次郎吉の行く末につき、更に義兵衛と委細相談の上、ともかくも、と、昔、次郎吉が召し使って御座った長八という者を、麻布市兵衛町に訪ねて御座った。
この長八なる者、
また、義兵衛より知らされたのであろう、半蔀よりは、度々長八へ文が寄越されて御座ったが、それを長八は、
『――吉原からの届け文と聞きては――若旦那の
と受け取るそばから、破り捨てて御座る様子故、蔭でこれを知った次郎吉は内心、深い嘆きを抱いてはおったが、匿われた居候の身なれば、詮方なく、凝っと黙って御座ったのであった。
《雪景色吉原俵屋の段》
それはさて置き、半蔀はと言えば、次郎吉に何度も文を書いておるに、一度として、
思い余った半蔀は、義兵衛を呼び、思いの丈をありのまま、ぶつけて御座った。
すると義兵衛――すっきりとした不思議に優しげな笑みを浮かべると――
「……♪チャカポコ♪チャカポコ♪チャチャチャ♪……♪さほどに思い曲輪など♪……♪思い狂わば♪……♪曲輪なぞ♪……♪駈け落ち致すが相場に
と幇間の洒落節を
それから程のう、大雪が、降った。
半蔀、妹女郎の巻篠へ向かい、
「……お前さん、この数年、お互い、二つとない姉妹の
と訊ぬる。巻篠、
「……幼き日より
と答える。
されば――と、半蔀は次郎吉とのことを巻篠に語る。
「……この雪に紛れ……曲輪を抜け出で……次郎吉さんの元へ、参ろうと存ずれば……裏の
と頼む。
「……アイ。……なれど、姐さん、そのお姿にては……遁れ出づること……難しゅう御座んせんかのし?……」
すると、半蔀、かねてより、この時のために用意しておいたものか、木綿の
「この通りにて……曲輪を――出、ま、す――」
ときっぱりと、言うた。……
……巻篠、出て来て、かの厨の戸口の、締めて御座った鍵を開け、そのままにしておく……
……暫く致いて、道心者の
……夜明け前で御座る……
……半蔀、かの厨の潜り戸を抜け……
……大門をも、難なく抜け出で……
……真っ白なる雪の中……
……寒々とした薄き白無垢の姿にて……
……咎むる者とて一人もなく……
……人気のない衣紋坂……
……これ、半蔀の、下って参る……
《謠 道行》
……半蔀の……
……かくて……
……麻布の市兵衛町……
……市兵衛町へと……
……訊ね尋ね……
……遙々……
……尋ね行き行きて……
……漸く……
……市兵衛長屋の長八の……
……
……附き当たりけり……
……アア、当たりけり……
《長屋雪中の段》
半蔀は次郎吉と
《市ヶ谷屋敷端の段》
されど、兼ねてよりの赤貧の長八、殊に、かの二人の厄介、言わずもがな、
そこで長八夫婦は相談の上、長八の女房を奉公に出ださんことと決したが、齢いも最早過ぎぬれば、遊女奉公にも出だし難しと、女房、
「……何とか、給金よろしゅう……少しは、愛する長八さんと勝手になれるお仕事は、ないかいな……」
と捜して御座ったところ、市ヶ谷辺に御先手細井金右衛門組の与力にて笠原何某という者、妻を病いにて亡くし、家事の世話致すに相応しい
散々に心を苦しめ、途方に暮れた長八、
「……主人のためとなれば……盗みを致し候うも……また、ようある事じゃ……」
と、かの長八に不図、悪心の起こって――盗みでもするしか御座らぬ――と、次郎吉、半蔀へは、
「……用の向きがご座いまして、山の手まで行って参りますによって、よくよくお留守を、お
とさり気なく言いて、市ヶ谷左内坂、牛込辺を夜通し歩いて御座ったが、なかなかど素人が盗みなんどの出来るような屋敷など、これ、あろうはずもなく、ぼんやりと、もと来た道を引き返し、市ヶ谷辺まで立ち戻ったところが、ある与力のと思しい屋敷の塀に、梯子が一つ掛かって御座った。さればこそ、
『――これぞ! 天の恵みじゃ!――』
とここに押し入らんと思うたが――しかし、これは玄人の盗賊の仕儀にて、既にそれらしき者、先に押し入って御座って――丁度まさに、その折り、その男、大きなる風呂敷包みを、ぽん! と表へ投げ出す――それがまた、長八の立って御座った足元へと転がる――やがて、梯子を降りて参る盗賊――
長八、すっと梯子を降りかけた盗賊の背後に忍び寄り、梯子諸共押し倒し、驚いて逃げんとするとする盗賊を取り押さえ、
「……我らは、主人の為、金子、これ、御座らねば、如何ともし難き儀の御座れば……命を捨てて盗みに入らんと思って御座ったところ……今、かくもお前さまに、ここで廻り
と、持ち前の真正直さから、奇妙に誠意を尽くいて嘆願致いたところが、流石に盗賊とは申せ、その心根とまっとうなるに感じたものか、
「……まずは……こちらへ来たり給え……」
と、盗賊は市ヶ谷の土手へと長八を
「……さてさて……お前さんの思いにゃ、これ、すっかり心、打たれわい。……今晩、盗み取って御座った金子……これ、いか程あるやも知れぬが……これ総て……お前さんに――やろう。」
と言うた。長八、
「
と地べたに附して平服に及び、
「――何れ、右金子、主人の勘当許さるる時には、倍にしてお返し申す! どうかご住所お名前など、お教え下されぃ!……」
と申す。盗賊、
「……ちゃんちゃら、可笑しいわい! 盗賊なんどにどうして住所の御座ろうか。かかる非道の
と取り合わず。長八、
「……そうは申さりょうが、我ら、たとえ御身の盗賊にて御座ろうとも、恩を請けて、その恩に報わずば……これ、なりませぬ!……」
と
「……そうたって申さるるのであれば……そうさ、我ら、ほど
と、盗人は長八の
残された長八も詮方なく、まずは、と貰った風呂敷の内なる金子を改め見れば、三十五両も御座った。
長八、いや高々と、夜空にこれを押し戴いて御座った。
――と――
……最前の盗人……これ、盗みばかりでなく、屋敷内に火をかけでも致いたので御座ったか、かの屋敷のあった辺り、
――火事じゃ!
という騒ぎの声あって、焰の燃え立つさまも見えければ、驚いて、早々にその場を遁るる。
ところが、その帰るさ……火付盗賊改方を勤めて御座った金右衛門組の――何としたことか、勿論、長八には一向に分からざれども、こは長八が女房の奉公して御座る――笠原何某、不図、通りかかり、長八を怪しんで、
長八、いろいろと言い訳なんど致いたものの――みすぼらしき
――長八、笠原を振り切って逃げ出す
――追っ驅くる笠原
――笠原、長八が
……と……袖の糸の、古び緩んででも御座ったか、
――袖、引き千切られ
――長八、ほうほうの体にて
――市兵衛町へと立ち戻った。……
《市兵衛長屋
長八、かくしてこの大枚にて、いよいよ
ある日のこと、長八、豆腐を買いに出るに、笠原に引き千切られた袖に、新しく端切れを縫いつけて御座った、かの単衣を来て歩いておったところ、かの笠原、たまたま見廻りの途次にて見咎め、笠原、かの折りより常時持ち歩いて御座った、かの片袖端切れを取り出だいて、長八の袖の繕いとためつすがめつ、
「それ! まごうかたなき同じ品、同じ破れ目なればこそ!」
と、段々に長八を問い詰めたれば、市兵衛町町内の組合方も出張って参り、笠原に、
「――長八に限って悪事を致す者にては、これ、御座りませぬ――」
と申し立てたものの――端切れの符牒、美事に一致、かかる実証あればこそとて――全く以てお取り上げにならず、そのまま入牢と相い成って御座った。
直ぐに、町内の次郎吉の一件を知れる者より、次郎右衛門方の橘町お
《橘町出店の段》
「……
と、こちらも途方に暮れて御座ったが、取り敢えず、手代衆からも、これまた、御奉行所へ、
「――長八儀、これ、悪事を致す者にては御座らぬ――」
段、毎日のように訴え出て御座った。
そうこうする内、知らせを聞いた次郎右衛門も江戸表へ参って、己れ自ら願い出でて、長八冤罪の趣きを訴え、また、市中の諸神諸仏へも日参致いては、長八の命乞いをなして御座ったという。
《奉行所拷問蔵の段》
――「仏神は正直者の
との諺、これ、まことにて、諸神の御加護にて御座ろうか、ここに稀有の不思議が
「――長八儀、日々の責めに耐えかね、最早、命も続こうとも思われず……何れ、早晩……『火を点け申した』と、落ちましょうぞ……フハフハフハフハ……」
とは、笠原何某が相役高田久之丞の、笠原への
……その高田が日ごとの
「……盗みに入りて……火を……つけ……申した……」
と嘘の自白を強要され……落ち、申した。――
《市谷笠原屋敷の段》
その間、長八が妻は、笠原何某方にずっと精勤致いて御座ったが、その容色、殊の外に美麗なればこそ、笠原こと、度々、横恋慕致いては口説いて御座ったれど、女房は、
「夫がおりまする。」
ときっぱり突き離いて、決して随わなんだ。
ある日のこと、笠原、かの女房が供した酒肴に舌鼓を打ちながら、いやらしき舌なめずりなんどして、かの女を眺め、
「……汝が夫、長八儀……今日、盗みに入って火を点けましたと……
なんどと、酔った勢いで口説いた。
《北町奉行所御白洲の段》
女房、これを聞いて大きに驚き、
『……さては笠原、妾へ横恋慕の故、夫を無実の罪に落といたに違いない――』
と、即座に、北町奉行依田豊前守様方へ駆込訴え致いた。
名奉行として名高い依田政次様直々、段々に再吟味がなされ、その結果、まさしく長八儀は、これ、盗賊にあらざる段、これ、相い分かったよって――
殊に、長八に金子を与えたかの盗賊も、丁度、その折り、別の
「――確かに、市ヶ谷の火つけ盗賊は我らの所行にて――そこにおわす長八にては、これ、御座ない――」
と申し立てたから、これ、大騒ぎとなって御座った。
かくなればこそ、依田豊前守様は、
――長八儀証言と盗賊儀自白は、これ、
と相い決し、
――笠原儀及び高田久之丞儀は、不正の吟味、これ、あれば――改易
と相い決し、
――細井金右衛門儀は、職務怠慢にして配下の支配、
申し付けられた由。
……さて、無罪放免となった長八とその女房は、次郎右衛門実家へと引き取られ、手厚く褒賞を受け、長八は次郎右衛門小作の作大将とやらになって御座った。
……半蔀儀は、次郎右衛門世話によって、俵屋より正式に請け出だされ、次郎吉が妻となった、とのこと。
……また次郎吉儀は、勘当されて御座った間、恩義のあった長兵衛や巻篠らを、一人ひとり訪ね歩いては、かの折りの礼を述べ……今も古河にて次郎右衛門二代目として、栄えて恙なし、とのこと。
「……さても、右の長き伝、これ、正しく、この次郎吉本人の、直々にての話を聞いてのもの。……」
と、私の知れる人の語ったことで、御座る。
*
景淸塚の事
御代官を勤し三代已前の池田喜八郎西國支配の時、享保八年日向國に景淸の塚ありと聞て土老へ尋しに、宮崎郡下北方村沙汰寺といへるに寺の石碑をさして、是なる由申ければ、能々其碑を見るに、年經ぬると見へて苔むせしに、水鏡居士と彫付あり。喜八郎は和歌をも詠ける故、
世々經とも曇りやはする水鏡景淸かれとすめる心は
と書付、其邊へ
心だにすめばかげ淸水かゞみくもらずすめる世こそ嬉しき
と言て書消て失ぬる故、其邊の草刈童に尋しに、何方の人にや
ます鏡世々にくもらぬ跡とめて景淸き名を聞くもかしこし
右實蔭の歌は明和六年の比、喜八郎次男諸星明之丞在番の節の事の由。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。藤原景清(生没年不詳)は俗に悪七兵衛で知られる平家の武将。治承四(一一八〇)年に安徳天皇の滝口の武士となり、源平合戦を奮戦、壇の浦の合戦後に潜伏した後には、源頼朝に降伏して建久六(一一九五)年三月の頼朝東大寺大仏供養の日に断食して自死した(長門本「平家物語」)とも、捕縛されて鎌倉へ護送され、預けられた八田知家の邸で絶食して果てた(鎌倉の扇ヶ谷には「景清の籠」と称される岩窟がある。私の「新編鎌倉志卷之四」の「景淸籠」を参照)とも、翌建久七年の京での平知忠(知盛遺子)の乱に加わった末に行方をくらました(延慶本「平家物語」)とも伝えられる。平家残党伝説の一人として数々の説話を各地に残しており、謡曲「景清」を始めとして、後々の浄瑠璃や歌舞伎、落語に至るまで、様々な創作作品に取り上げられるトリック・スターである。本編は短い話柄の中で和歌を主体に緩急緩を見せ、更に正に謡曲の複式夢幻能を意識した構成をとったものとなっている。知られる「景清」は娘とのたまさかの邂逅を描くもので、今一本の「大仏供養」も頼朝暗殺を扱った現在能である。この話柄のような能が、あってもいい。
・「池田喜八郎」池田季隆(延宝六(一六七八)年~宝暦四(一七五四)年)。第六代将軍家宣将軍就任前から勘定役、正徳三(一七一三)年上州代官、その後、不正によって小普請に落とされるも、享保三(一七一三)年に許されて、西国筋代官に復職した模様だが、ネット上の情報によれば、享保十四(一七二九)年に、再び部下の不正により処罰を受けている(如何なる処罰内容かは不明)が、底本の鈴木氏注では宝暦元(一七五〇)年に致仕、とあるから重い処罰ではなかったものと思われる。鈴木氏は更に、『三代前とあるが、寛政当時の当主は孫の但季』であったと錯誤を指摘しておられる。
・「西國支配」底本の鈴木氏注によれば、享保三年の武鑑によれば、彼は上州の代官七人の一人で、現在の九州地方を支配していた代官は室七郎左衛門とあり、記憶違いを指摘されておられる。ネット上の情報とは大きな食い違いを示すが、私はそれを確認する資料を持ち合わせていない。どちらが正しいのか、識者の御教授を乞うものである。
・「享保八年」西暦一七二三年。以下に示した景清所縁とも言われる宮崎市
かげ淸く照らす生目の鏡山末の世までも雲らざりけり
という歌を献納したのは、元禄二(一六八九)年三月三日とする(例えば「神社探訪」という個人(御夫婦)のHPのこちらのページ)。が、元禄二(一六八九)年では池田季隆満十一歳、丸で『七人の代官』ならぬ「七人の侍」の菊千代になってしまう。この齟齬についてお分かりの方は、是非とも御教授願いたい。
・「景淸の塚」宮崎市下北方町には、現在、藤原景清廟なるものがあり、景清の墓と娘人丸の墓と伝えるものが現存する。例えば、高橋春雄氏の「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」の「謡蹟めぐり 景清 かげきよ」には、『景清はこの地にきて「源氏一門の繁栄を見るに耐えず、「この拙者の健眼が敵であるぞ」と叫んで自ら両眼を抉って投げた。その地が生目であり、生目神社に祀られている』とする(ここは全国にある景清伝説の遺跡を総攬出来る、素晴らしいページである。是非、御覧あれ)。この生目神社は同市生目亀井山にあり、この神社に纏わる伝承では『頼朝は平景清の武勇を惜しんで、自分の下に重く用いたいと思った。しかし景清は、その厚意を断って、西国に流してくれるように願った。頼朝は景清』に日向国『宮崎郡北方百町、南方百町、池内村百町、計三百石を与えた。文治二年十一月、景清は家臣の大野、黒岩、高妻、
・「宮崎郡下北方村沙汰寺」現在の宮崎市下北方町。ここには真言宗の古城村今福寺末の神集山沙汰寺があったが、明治三(一八七〇)年に廃絶したと伝える(「角川日本地名大辞典」に拠る)。
・「世々經とも曇りやはする水鏡景淸かれとすめる心は」「景淸かれ」は「影淸かれ」の、「すめる」は「澄む」と「住む」の掛詞。また以下の歌も同様だが、ふんだんに縁語が用いられてもいる。私の勝手な通釈。
……永い年月を経るとも、曇ることがあろうか?――いや、決して、ない――ということを私は信ずる……水鏡よ……いついつまでも、清くあれ……そう願う、それが古人の美しき心を願う……私の正直な嘘のない澄んだ心にて……その心もて、この世に住まんと
・「心だにすめばかげ淸水かゞみくもらずすめる世こそ嬉しき」私の勝手な通釈。
……身は、宇宙のあらゆるところに、自在に住みなし……心は、あるがままに、自在に澄みきっておればこそ……水鏡に映る影も、
なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
心だにすめばかげきよ水かゞみくもらずすめるよしぞうれしき
の表記で載る。大意は変わらない。
・「書消て」底本では「書」の右に『(搔)』の傍注を附す。
・「
・「武者小路公蔭」底本には右に『(ママ)』の傍注を附す。公卿・歌人であった武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ 寛文元(一六六一)年~元文三(一七三八)年)の誤記。和歌の師でもあった当時の霊元上皇の歌壇にあって代表的歌人であった。
・「ます鏡世々にくもらぬ跡とめて景淸き名を聞くもかしこし」「ます鏡」は「真澄の鏡」の約で、和歌では「清き」「影」などの枕詞で、ややひねりを加えて用いている。私の勝手な通釈。
……年月経ても、その古えの光栄は……一抹の曇りもなく、記憶に刻まれて御座る……五百年を経た今も……忠にして誠なる景清様の御名を聞くに……畏れ多くもかしこくもまこと勿体なきことにて御座ることよ……
・「明和六年」西暦一七六九年。当時、根岸は勘定組頭であったが、直ちに江戸の根岸が聴いたというはおかしいから、これはもっとずっと後に諸星明之丞から(若しくは諸星を知れる者からの伝聞で)根岸が聴いた談話であろう。
・「諸星明之丞」諸星信豊。池田喜八郎季隆の次男で、後に諸星信方養子となった。天明四(一七六七)年に大番組頭となっている(底本鈴木氏注)。大番組頭は、江戸城警備隊隊長相当の侍大将(騎馬隊指揮官)である大番頭配下の中間管理職相当の職。
・「在番」大番衆が交替制で二条城・大坂城などの勤務に当たることをいう。
■やぶちゃん現代語訳
景清塚の事
今の池田殿の、その三代前の御代官を勤めて御座った池田喜八郎季隆殿が、西国筋支配の御代官をなさっておられた頃、享保八年のことと言う。
季隆殿、人伝てに、日向国に景清の塚ありと聞いたによって、その地へ赴き、土地の古老に尋ねてみたところ、宮崎郡下北方村沙汰寺という寺に
世に経とも曇りやはする水鏡景清かれとすめる心は
と書付けた歌を詠んで、後日、その辺りに出向くことになっておった部下の男に持たせ、かの墳墓に手向けさせんせしが、その男の眼前に、
――頬骨もすっかり枯瘦致いた、怖ろしげなる老人が一人――
忽然と現われ、
「――何事ぞ――」
との尋ね故、
「……景清の塚と聞いて、和歌を手向けておる……」
と、委細主人の趣きを申したところ、
「――それは奇特なる事――我らは無筆なるによって――そこもと――我らが代わりとして――お書き下されよ――」
と乞うによって、筆を執れば、
心だにすめばかげきよ水鏡曇らずすめる世こそ嬉しき
と詠んだかと思うと――老人は――ふっと、かき消えてしまった――
男は、近くで草を刈っておった童べに尋ねてみたものの、
「――どこの人や、よう、知らん――」
と答えた、とのことで御座る。……
このことあって後、和歌の名家武者小路
ます鏡世々に曇らぬ跡とめて景清き名を聞くもかしこし
この実蔭様の御詠のことは、明和六年の頃、喜八郎次男諸星明之丞が、二条城に在番して御座った折りのことの由で御座った。
*
不時の異變心得あるべき事
寛政七卯年予が懸りにて、野田文藏御代官所武州□郡□村萬太郎といへるもの、村長に疵付ける事に付吟味せしに、萬太郎事亂心といへるにもあらざれ共、癪氣強起りし時は差詰り亂心同樣成事もありける由。親市之丞名主役いたし
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。本格は武辺実録物。今回は、そうした実録を意識して少し現代裁判物風の訳を心掛けた。更に言うなら、本件は公的なお白洲で発生した不祥事の、事故報告書の
・「寛政七卯年予が懸りにて」当時の根岸は勘定奉行であったが、恐らくは訴訟関連を扱う公事方勘定奉行として、評定所で関八州内江戸府外の訴訟を担当していたものと思われる。
・「野田文藏」野田元清。寛政元(一七八九)年十一月御代官(底本注に拠る)。
・「癪氣強起りし時は差詰り亂心同樣成事もありける」萬太郎なる人物は、単なる癇癪持ち、短気で粗暴な性格であったととるには難しい気がする。この場合の「癪気」とは恐らく、痙攣を伴うヒステリー症状を意味し、直後に記される父親市之丞名にも同様な傾向が見られたとあり(但し、名主役を執務出来る程度には社会性が保持されていたと思われるので彼の方は単なる性格上の個人差の範囲内であったのかも知れないが、多額の借金と義務放棄による失踪という反社会性をみると、やはり異常性格の疑いは拭えない)、後半の意味不明の乱暴狼藉(何らかの関係妄想を動機としたものと私は推測する)を見ても遺伝的な性格異常若しくは萬太郎の脳の病的な器質的変性などが疑われ、少なくとも他虐傾向の強い境界性人格障害の疑いは濃厚である。
・「引負」百姓の納めた年貢を名主が着服して上納しないこと。また、その金銭のこと。(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。
・「五人組」幕府が町村に作らせた隣組組織。近隣の五戸を一組として、連帯責任で火災・盗賊・キリシタン宗門といった取り締まりや年貢の確保及び相互扶助義務を負わせた。
・「萬太郎儀例の差詰り候心底や、市之丞來りて萬太郎家内へ返納方の相談に參りしに」失踪したはずの市之丞が再登場していて、意味が通らない。一度は時制を微妙に戻して再登場させて訳してみたが、如何にも不自然で細部の齟齬が多過ぎる。そこで、取り敢えず錯文と見て、疑われるが、「市之丞來りて」の部分を、前の「引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知」の頭に移して「市之丞來りて、引負金の儀いか樣にもいたし上納いたし、悴萬太郎を賴候趣、當名主へ壹通の書置を殘し出奔して行衞不知訳した。大方の御批判をお願いしたい。
・「留役」評定所留役。勘定やその下の支配勘定から昇進してきた実務官僚。現在の最高裁判所書記官であるが、本件を見ても分かる通り、評定所での実質的な審理は彼ら留役が中心となって行っていたと思われ、現在の予審判事にも相当しよう。
・「澤左吉」
・「長き口書」「口書」は被疑者などの供述を記録したもの。供述調書。足軽以下と百姓・町人に限っていい、武士・僧侶・神官などの場合は
・「口合」口書(供述調書)の確認。
・「落椽」当時の法廷に相当する「お白洲」の建物内の「公事場」の下の二段になった縁側の下側の縁側を言う。以下に、ウィキの「お白洲」から引用する。当時のお白洲は最上段に『町奉行をはじめとする役人が座る「公事場」と呼ばれる座敷が設けられており、対して最下段には「砂利敷」が設置され、その上に敷かれた莚に原告・被告らが座った。もっとも、武士(浪人を除く)や神官・僧侶・御用達町人などの特定の身分の人々は「砂利敷」には座らず』公事場から砂利敷方向に設置された二段に分かれた『座敷の縁側に座った。武士・神官・僧侶は上縁』(二段ある縁側の上側の部分)『に座ることから上者、それ以外は下縁』(二段ある縁側の下側の部分)『に座ったために下者と呼ばれた。一方、役人のうち与力は奉行より少し下がった場所に着座したが、同心は座敷・縁側に上がることは許されず、砂利敷の砂利の上に控えていた』。『お白洲には突棒・刺股・拷問用の石などが置かれた。これらは実際の使用よりも、原告・被告に対する威嚇効果のために用いられたと考えられている。なお、奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いていたことが明らかにされており、時代劇などに見られる屋外の砂利敷のお白洲は史実とは異なる』。『お白洲とは、「砂利敷」に敷かれた砂利の色に由来している。もっとも古い時代には土間がそのまま用いられており、白い砂利敷となったのは時代が下る。白い砂利を敷いたのは、白が裁判の公平さと神聖さを象徴する色であったからと言われている』ともある。根岸が実際に勤務した佐渡奉行所が現在、復元されており、私は今年二〇一二年三月に訪れて、この謂いが正しいことを実見した。
・「
・「松平伊豆守殿」松平信明(まつだいらのぶあきら 宝暦十三(一七六三)年~文化十四(一八一七)年)。三河吉田藩第四代藩主、本件当時は老中首座。寛政の遺老の一人。
・「下役へ差圖すべきは」の「は」は、文法上は係助詞で詠嘆ぐらいにしかとれないが、文脈上は不自然である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは『下役へ指図すべき身分』とある。こちらを採る。
・「右一件翌日より巷の評判品々ありしに」さらりと流して書いているが、恐らくその殆どは根岸の天晴れな行動を褒め讃えたものであったであろうことは想像に難くない。
■やぶちゃん現代語訳
不足の事態による異変に際して相応の心得を持っているべき事
寛政七年卯年、公事方勘定奉行であった私の担当で、御代官野田文蔵元清殿御支配の武州某郡某村萬太郎という者に関わる、同村村長に対する傷害事件を審理した。
被告人萬太郎は、乱心発狂によるものという訳ではないようであったが、癇癪が昂じてくると、遂には一時的に狂人同様となることもある、という報告であった。
彼の親で名主を勤めていた市之丞は、引負金としか思われない年貢滞納が有意にあったため、御代官野田文蔵殿より、何度か支払方督促に関わる追及や出頭の指示があったが、この市之丞も被告人萬太郎と同様、所謂、一種の常軌を逸して『キレ易い人物』ででもあったものか、本件発生以前、或る日、現名主某のところへふらっとやって来ると、
『引負金の儀 如何なることあろうとも上納致すによって 倅萬太郎儀 宜しく頼み候』
という名主某宛の書き置き一通を残したまま出奔、行方知れずとなった。
尤も市之丞は、以上の引負金疑惑以前より、その他の多額の借財が嵩んでおり、甚だ困窮していたがために、この時点よりも前に名主を退役し、現名主某にそれを委譲している。
さて、右現名主某も市之丞の一族であったがため、一族の命運にも掛かかることであれば、名主役を譲られた何某を含む五人組一同で、市之丞名義の借財を中心とした残務処理を行わざるを得なくなった、というのが事件前のあらましである。
当該傷害事件はその直後に発生した。
現名主某は、市之丞の後継ぎである萬太郎へ、この借財関連の相談のために再三の呼び出しをしたが――彼は件の癇癪が昂じての、確信犯の拒否であったか――なしの礫であったがため、現名主某が直接、萬太郎の家へ行き、とりあえず萬太郎の家族に、失踪した市之丞の引負金返納義務の説明と、五人組で相談したところの、その現実的な支払方法についての内容を提示する段へと漕ぎつけたのであったが、その直後、萬太郎は奥の寝所から荒々しく飛び出して来たかと思うと、理不尽にも所持していた小刀を持って名主某に切り付け、傷を負わせた。
後に、その犯行に及んだ際の理由を訊問したところ、萬太郎は、
「……あの時は、五人組の方へ、失踪した父親の
と供述している。
本件については、名主への傷害行為が既遂されているとは言え、感情の昂ぶりによる衝動的な行動であり――本人の供述するその動機には、幾分、理解出来るところもない訳ではなく――名主の受傷も複数箇所に及ぶとはいうものの、何れも浅いもので、命に関わる程のものではない――ここは逆に言えば、供述とは異なり、故意としての殺意の認定を躊躇させるものでもある――故に萬太郎の処分については、何らかの形で助けようもあるであろうと判断し、これらの私の見解を実務担当の留役である沢左吉へ申し渡し、詳しく審理することとなった。
十一月二十四日、被告人万太郎を常規通り、お白洲に出廷させ、長い口書き――今回のそれは私もしびれを切らす程に長いものであった――を萬太郎に読み聞かせる、所謂、供述調書読み上げによる内容確認の儀である口合いであったため、常規通り、私も出席した。いつもと変わらず、私の家来や足軽も詰め、留役も四、五人の者が縁に並び居、公事場から砂利敷に至るお白州の様態も普段と同じで、特に警護警戒・威儀仕様に危機管理上の問題点があったと認め得る要素は全くと言っていい程なかった。にも関わらず、口書き読み上げが半ばを過ぎた頃、万太郎が、落縁に駆け寄り、常規通り設置してあった燭台に手を掛け、それを逆手に持って縁に躍り上がり、口書きを読み上げていた左吉へ打ち懸ったかと思うと、萬太郎は、その脇にどうっとうつ伏せに倒れた。
私も、こうした場面に於いて、不心得者を直接自身で取り押さえるべき責務を持っていると思っていた訳ではなかったが、実際には咄嗟に、奥座より前へ進み出、即刻、万太郎の背部に登って押さえ、当人が未だに摑んでいた燭台をもぎ取って、それを当人の首筋へ強く押し掛け、身動き出来ないように全身を押さえつけた。――その間、数秒のことと思う。――勿論、居合わせた他の留役らや家来どもも、ほぼ同時に萬太郎におどりかかって押さえつけたので、難なく足軽によって砂利敷へと引き下ろさせて事は済んだのであるが、左吉は額から
その際、実は自分では特に意識しなかったことなのであるが――本件決着後、暫くして、落ち着いて考えてみたところでは――私は、この騒ぎの中で、本件審理をこのまま中断して他日へと延期した場合、『さぞかし、奉行も傷を負ったに違いない』などという誤った噂にならぬとも限らぬ――との考えからであったと思われるが、直ちに本件関係者を再度出廷させた上、残っていた口書きを、乱闘のあった――既に血など拭き取り、平時に復させておいたお白州に於いて平常通り、厳粛に読み聞かせ、今度は滞りなく、口合いを終了した。――再度、弁明するが、以上のことは、行動したその時点では、私自身、自覚的に認識していたものではない。
さても、奉行はその任務に相応しい行動様式もあることであれば、一般的に考えれば、他者に命じて行い得る仕儀は須らく下役へ指図するべき身分ではある。さすれば、私自身が、狼藉を働いた萬太郎の背へと攀じ登ったなどということは、極めて軽率なことであり、万一、怪我などを負ったなどということにでもなったならば、これはただでは済まない――評定所機能の停止に関わる、ゆゆしき事態を惹起するところであった――などと批判する向きもあるであろうと思われたが、……また一方、翻って考えれば、かの一件については――翌日より世間にあっては、有象無象、いろいろな評判が立って御座ったが――あの事態にあって、背中へ攀じ登って押さえつけなかったならば、『――奉行も逃げたとよ――』なんどいう風評が立っては、これ、武士として無念なること、言うまでもない。……いや、確かに度を越した、軽率なる行動であったとは申せ、よくぞ――何ぞの講談の奉行の如く――まんまと、ぐいと萬太郎を押さえたことで御座った、と、今更以って、思い続けておること、頻りで御座る。……
なお、萬太郎については、松平伊豆守
*
油垢を落す妙法の事
いかやうに油付たる衣類にても、里芋をうで候湯にて洗へば落ちる事妙也。予が方に抱へし小女親元にて仕覺しとて、娘共のかり
□やぶちゃん注
○前項連関:冒頭に幾つか出た
・「里芋」単子葉植物綱サトイモ目サトイモ科サトイモ Colocasia esculenta。
・「かり結」髪を洗ったあと、一時的にざっと結っておくことを言う。
・「
■やぶちゃん現代語訳
油垢を落とす妙法の事
どんなに油が染み付いた衣類であっても、里芋を茹でて御座った湯にて洗えば、たちどころに落ちること、これはまっこと、不思議なる事実で御座る。私の家にて雇うておる小女が、親元にてやり方を覚えたとのことにて、私の娘どもが仮結いなどの折りに添えて用いた、油に染みた小切れを貰い受けて、試みに洗って見せたのであるが、緋縮緬や
*
戲藝にも工夫ある事
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。今までもしばしば見られた技芸譚であるが、人形浄瑠璃は始めてである。
・「藤井文次」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『藤井文治』とする。岩波版長谷川氏注によれば、藤井姓を持つ人形遣は、現在、知られる限りでは豊竹座にしかないが、『文治』を名乗る者はその中にはいない、とある。
・「寶曆明和」西暦一七五一年から一七七二年。次注から分かるように、宝暦元年なら、この芝居は出来立てほやほやの新作であったことになり、藤井文次の定之進の演技は正にオリジナルの可能性が極めて高く、更に観世太夫元章は、下世話の人形芝居のことなれば、その筋さえも知らなかった、と考えてよい。そう設定してこそ、本話は生きる。なお、この頃は既に現在のような三人遣いが行われていたので、この定之進も、その主遣が文治であったと考えてよいであろう。なお、この頃、作者根岸は満十四~三十五歳、後半の頃ならば既に評定所留役(宝暦十三(一七六三)年就任)に就いている。
・「戀女房染分手綱」は浄瑠璃、時代物。全十三段。吉田
――丹波城主
――八平次の兄官太夫は不義の詮議にかこつけて重の井に横恋慕し、重の井の不義が露顕、彼女の父定之進は辞職するが、最後の願いとして、かねてより主君由留木左衛門の所望であった「道明寺」秘伝伝授を願い出る(以上が、初段から四段目までの内容)。
――以下、本作の場面である五段目「能舞台定之進切腹の段」。「道成寺」伝授の日、前シテの白拍子を定之進が、ワキ僧を重の井が舞うが、シテ鐘入りの後、鐘が引き上げられると、後シテの鬼女(演じている定之進は既に切腹している)が現れ、演技半ばに定之進は、命と引き換えにして不義密通の娘重の井の命乞いをする。大殿は、その心根に感じ、重の井を許して娘
――以下、馬子となった与作にいろはが絡み、調姫の関東入間家への嫁入りの東下りの道中、附き添った重の井がひょんなことから子供の馬子三吉(実は与之助)と再会する(ここが「重の井子別れの段」)。
――その後、諸事万端解決へと向かって与作は帰参が叶い、舅定之進の敵として官太夫を討って後、改めて重の井を正妻、小万(元のいろは)を側室、三吉改め与之助を嫡男として大団円となる。
以上は、二〇一一年三省堂刊の「文楽ハンドブック」及び、ちはや様の「虹色空間」の『文楽「恋女房染分手綱」』の記事を参照させて頂いた。私は哀しいかな、「恋女房染分手綱」の文楽の舞台を未だ見たことがない。従って注や現代語訳にはとんでもない誤りがあるかも知れない。識者の御指摘をお願い申し上げる。また向後、実見の折りには、本注及び現代語訳を予告なく改訂する可能性があることをお断りしておく。
・「やつし事」姿を変える演出のこと。「やつし」はみすぼらしくする、姿を変えるという意味の「やつす」が名詞化した能・歌舞伎用語である。普通なら、道成寺で鐘入り後に前シテの白拍子が後シテの鬼女に変ずることが「道成寺」の「やつし」であるが、ここは「恋女房染分手綱」で能楽師定之進が前ジテ白拍子で鐘入り後、鐘が引き上げられると後シテの鬼女が現われるものの、それはすぐに演者定之進が覚悟の割腹を図って出現したのであったという真相をも「やつし」に含んでいる点に注意されたい。
・「觀世太夫」観世元章(かんぜもとあきら 享保七(一七二二)年~安永二(一七七四)年)・観世流十五世宗家。観世左近と称した。『国学を好んで考証を好み、田安宗武、賀茂真淵、加藤枝直等の協力のもと、「明和の改正」と言われる謡曲の詞章を大改訂を行い、『明和改正謡本』を刊行。しかし、詞章の大改訂は周囲には不評で、元章の没後数ヶ月で廃された。ただし、すべてが以前に戻されたのではなく、新しい演曲や舞台上の演出に関する詞章の改訂、節付記号などは後代に受け継がれて現在に至る。作品「梅」は観世流の現行曲』。『十代将軍徳川家治の若い頃から能楽の指南を務めた』功績により、宝暦二(一七五二)年に『分家を認められ、弟の観世織部清尚に別家させる。四座一流に次ぐ地位を認められ、幕府の演能にも出演する資格を得』、『宗家伝来の面や装束も分与し、これがのちに観世銕之亟家となる。現在でも、観世流において「分家」といえば銕之亟家を指す』(以上はウィキの「観世元章」から引用した)。「銕之亟」は「かんぜてつのじょう」と読む。
・「傳授」道成寺は難曲中の難曲で、特に鐘入の前後は各流派で異なり、その演技演出、鐘中の仕儀や舞台上での合図などは秘伝に属する。
・「申合」本来は相撲で力量が互角の力士同士が行う稽古、転じて能・芝居の稽古・リハーサルを言う。
・「面テを切り」能で、顔を鋭く早く一方へ動かして物を見る仕草を言う。歌舞伎でも用いる。
・「氣取」趣向・工夫。この場合、筋に合わせた演出方法を言う。
・「仕組」作品の趣向・工夫、ひいてはその筋や構成の意。
・「面テを切候所速にせざる」文次曰く――定之進は鐘入の後、腹を切っている。しかし、劇中では誰一人、それを知らない。それを受けて、腹を切った能楽師が鬼女となって演じた場合を考え、面の切り方をゆっくりさせた、切腹した状態であれば本来の演技が不可避的に遅くなるのが当然であり、その様を微妙に示す演出を施した――というのである。
■やぶちゃん現代語訳
戯芸にもそれぞれ相応の工夫のある事
操り芝居に藤井文次とか名乗った人形遣いがおったが、宝暦・明和の頃、上手と専らの評判の者で御座った。
「
「――人形芝居の者などへ、これ、伝授など、以ての外のこと――」
と断ったが、執拗に願い出る、その文治の根気執心に感じて、
「……近々道成寺の能の稽古が御座れば……まあ、参りて内輪に見るは、これ、勝手次第……」
と告げたところ、文次は喜色満面となり――
――さても、その日を迎えると、文次はこの稽古を、凝っと一心に――見つめて御座った。……
さて、その「恋女房染分手綱」の浄瑠璃芝居の興行の初日、文次より観世家方へ、
――お畏れ乍ら 我らが賤しき芝居乍ら 御見物方を乞い願い申し上ぐる――
旨、御座った故、観世太夫も何がなし、興味が持たれて、自身、芝居小屋へと出向いて芝居見物と相い成った。
「恋女房染分手綱」五段目「能舞台定之進切腹の段」には、能楽師竹村定之進が主君へ「道成寺」を伝授をする場面が御座る。その人形は無論、文次が遣って御座った――
……と……
――その人形の身のこなし……
――これ、観世が舞った「道成寺」と……
――いや、聊かの違いも御座ない……
その所作は――えにも言い難き興を抱かせるまっこと、確かなもので御座った。……
……ただ、鐘を引き上げたという砌、定之進が
舞台が恙なく終わった後、楽屋に赴いた観世太夫は、実に率直に、その文治の芸の神技ならんを称美した上で、
「――ただ、かの面の切れ方の遅れたこと――これをのみ瑕疵とせんか――」
と、批評致いた。
すると、文治、
「ご尤もなるお尋ねで御座いますが、あれは人形を
と答えた、という。
観世も、その芸の工夫には、いたく感心じた、ということで御座る。
*
鯛屋源介危難の事
駿河國に呉服商しける鯛屋源助といへる
□やぶちゃん注
○前項連関:ホカイビトと呼ばれて差別された芸人の戯芸譚から、言われなき身分制度によって穢多と呼ばれ差別された人々の話へ。こうしたおぞましい差別意識が時に今も、我々の中に容易に蘇ってくることがあることを肝に銘じて読みたい。表題では「源介」で本文は「源助」だが、訳では「源助」に統一した。
・「雪中庵蓼太」御用縫物師で俳諧師であった大島蓼太(享保三(一七一八)年~天明七(一七八七)年)。信濃国那郡大島出身。二十三歳の時に服部嵐雪門の雪中庵二世桜井吏登に入門。その後剃髪て行脚、延享四(一七四七)年、三十歳で雪中庵三世となった。江戸座宗匠連を批判、芭蕉復帰を唱えて天明の中興の大きな推進力となった。生涯に行脚すること三十余、選句編集二百余、免許した判者四十余、門人三千と言われ、豪奢な生活をしたことで知られる。以下、数句を示しておく。
たましひの入れものひとつ種ふくべ
夏瘦の我骨さぐる寢覺かな
世の中は三日見ぬ間に櫻かな
擲てば瓦もかなし秋のこゑ
更くる夜や炭もて炭をくだく音
夕暮は鯛に勝たる小鰺かな
・「賣るべき雨具も持ず、氣毒にはあれどいたしかたなし、旅の空こそ難儀成べし、是より一二町先に長屋門の家あり、是に立寄て雨具抔乞はゞ施し可申と、一人側にて語りける」というこの男に私はある疑念を持つ。笠がなくとも、止むかも知れぬ雨に一時宿らせることも出来る。また、いわくつきの屋敷を彼は何の躊躇もせず指示している。私は彼はかの穢多頭の配下の者であろうように思われるのである。彼はこうした若い男の旅人があった場合に、かの屋敷へと誘導することを命ぜられている人物ではないか、と思うのである。
・「長屋門」使用人などが住んだ長屋が左右に附属した大きな門。江戸時代、民間では郷村武士の家格をもつ家や苗字帯刀を許された富裕な農家及び庄屋などが長屋門を造った。但し、この場面でのそれは、恐らく古いもので、規模も小さく、相当に汚損したものであったのであろう。でなければ、後でわざわざ「外より見しとは格別にちがひ、ゆたかに暮したる樣子にて」とは言わない。「格別に」というところで、人気のない、ぼろぼろの幽霊屋敷染みた長屋門を想起するのがよい。
・「百韻」俳諧連歌の作品形式の一つで、百句からなる。
・「穢多」中世から近世に於ける賤民身分の一つ。江戸期には非人とよばれた人々とともに士農工商の下におかれて居住地の制限や、本話で特徴的な火の貸し借りの禁止(容易に燃え移るように穢れが移るという類感呪術であろう)など、社会的な細部に及ぶ不当な差別を受けた。殺生と結びついた職業差別に起源を持ち、主に皮革業に従事したり、犯罪者の逮捕や罪人の処刑などに使役された。明治四(一八七一)年の太政官布告によって法的には平民とされながら、世間では公然と「新平民」と呼ばれて差別が続いた。社会的差別は今も残存している(以上は主に「デジタル大辞泉」の記載に従った)。
・「目付」見張り。ここで穢多頭は、源助が自分の婿になるという情報を流して、差別を逆手にとって外濠を埋め(というより差別によるウォールを里山に張り巡らして源助に実家への帰還を諦めさせるのである)、更に見張りによって実質的に源助の下山を阻止、懐柔して再び屋敷に連れ帰って、強引に婚礼を遂げるという計略であろうと思われる。
・「
・「聲ばし立そ」品詞分解すると、
聲(名詞)ばし(取り立て・副助詞)たて(動詞・タ四・未然)そ(禁止・終助詞)
で、「ばし」は、呼応の副詞のように下に禁止の意を伴って「~などは決して」の意を示す(但し、この用法は平安末期以降)。
■やぶちゃん現代語訳
鯛屋源助危難の事
駿河国に呉服商をして御座った鯛屋源助という裕福な町人があった。
彼はかの雪中庵寥太(の門人で、俳諧風狂の道に執心し、頃は秋の半ば、紅葉美麗な鳳来寺の辺りを尋ねんものと、一僕を召し連れ、かの山里を一見の上、なおも古跡を尋ねんとて――かの下男はよんどころない用があったがために先に帰し――一人にて、ここかしこ、不案内な山道をも臆せず、踏み分けて行御座ったところ、折から俄かに雨となり、宿るべき物蔭もなく、やっとのことで一軒の民家を見出だしたによって立ち寄り、雨具を売ってもらおうとしたところが、
「……売れる雨具は御座らぬ……気の毒じゃが、諦めておくんない。…………とは言うても、この天気に、その旅の空じゃ……そうさ……ここより一、二町先に、長屋門の家が御座る。……そこに立ち寄って雨具なんど乞うたれば……きっと施してくれようぞ……」
その家に一人でおった者が、かく語った故、雨も激しくなればこそ、これ幸いと、その一、二町を袖を笠に雨を凌いで、その長屋門へと走り込むと、
「雨具をお貸し下されい!」
と声をかけた。すると、
「安きことじゃ――」
と声がして、下男の者が雨具を持って出て参ったが、すぐ後、奥より五十過ぎの男が出て参って、
「……これより先、山道にて……ことに、もう日も暮れかけて御座ったれば……今宵は、ここにお泊まりなさるが、よかろう……」
と言うたれば、源助も、天の助け、これまた幸いなることと、一夜を借りた。
案に相違して、先程来、外より見たのとはまるで
――さて、翌日も、朝より雨の降りしきって、止む気配なく、主も親切に引き留める故、その言葉に甘え、また一日、逗留致いて御座った。
――と、一間隔てた離れの座敷にて、琴の爪弾きなんどが、如何にも優雅な雰囲気で聴こえて参った。
――源助を世話して御座った女中に尋ねたところ、
「あれはこの家のご隠居所でご座いまして、あのお琴は、ご主人さまの――お嬢さまが――弾いておられるので御座いまする――」
と答えるのを聞くや、彼はもう何やらん、まだ見ぬその娘とやらに、不思議に心惹かれて御座ったという……。
――その夜のこと、宛がわれた部屋に独り御座ったところが――五十ばかりの年老いた、如何にも高貴なお方の御局然とした老女が現れ、四方山の話を致いた――その果てに、
「……ここ主は……娘ばかりにて男の子が御座らぬ……かねてより婿をお求めになられておらるるが……はあて……御身のご様子……これ、まさしく……お嬢さまにお似合い……ここで、こうして……ずっとお暮らし頂けましたならば……まっこと、行く末は……ご安泰に御座いまする……」
と突如、
『……駿河の店は、これ、弟に譲っちまって……どうよ、ここで暮らすっちゅうのは……あんな商売の道に、嫌な思いをするぐらいなら……こっちの方が、ずっとマシじゃ!……』
と思うたによって、
「……我らは……駿河にて呉服商いをしておりまする者なれど……ここは一つ、家へ帰って、親その他親類縁者へも相談の上……追って……その……有り難きお申し出に随わん……という所存にて御座ればこそ……」
と告げた。
明くれば秋晴れ、一時の暇乞いを告ぐると、
「――お帰りになるは――必ず、この家――御来駕――お待ち申して――おりまするぞ……」
と、土産なんども貰って、手厚く見送られた。
されば、立ち別れた後、のんびり山路を煙草なんど吹かしながら下ってゆく。
その道筋にて、とある村――村名は失念致いた――確か、何ぞ孝行なる行いによって御公儀から御褒美を賜ったという、ほれ、善七とかいう者の住もうておった村じゃ――を通った。
門先で煙草を呑んでおった者へ火を借りんと乞うたところが、
「貸せネエ――」
と断わる。
かの孝子善七の家のある並びに辿りついたによって、再び火を乞うたところが――燃えさしの木を――投げて与えられた……。
あまりの仕打ち故、その訳を誰彼に尋ねてみたものの、誰もが、
「……訳は……ある、で、の……」
と口を濁して取り合わぬ。かの善人善七、見かねて彼らに言うた。
「……まんず、若いお人なれば……いや、いたわしいこっちゃ……全く以て、まんまとだまされたものでござろう……みんな……ちゃんと、訳を言うて……聴かしたりや……。」
と言うたが、その外の者どもは、
「……確かに、な……確かに、可哀そうなこっちゃ……」
「哀れなれど……なあ……」
「……いや……訳を言うても……もう、遅いわ……」
「……そやなあ……仕方ないゎ……」
などと、口々に言うては立ち去ってしもうた。
残された源助、訳も分からず、呆然として暫く立ち竦んで御座ったが、徐ろに善七の
「……こりゃ……一体、如何なる訳が……あると言うんで!?」
と叫んだ。
善七が答える。
「……お前さんが一両夜泊まった、あの家は……この辺りの穢多頭なんだよ。……あそこに泊まっちまったお前さんは……これもう、火の穢れた人となっちまった、という訳さ……例えば最早、お前さんを泊めて呉れよう者、家に入れて呉れよう者は……これ、もう、この辺りじゃ、一人もおらんぜ……まあ、その……あまりのいたわしきこと故、その訳を、有体に述べたまでの、ことじゃが……」
源助、あまりのことに驚き、
「……こ、この……災難から……の、遁れるには……い、一体どうしたら……」
と歎いたところ、善七、
「……いたわしいことなれど……かの穢多頭は、もうとっくに、素人のお前さんを婿としてとる、ちゅうことを、この近辺で公然と触れ回っておる。……最早、この山里から出る道筋には見張りを置いて御座って、お前さんが、これから山道を出でんとするところを、手ぐすね引いて、窺っとるんだろうなぁ……」
源助は、万事休した己が身の上の難儀を悲しみ、涙を流して善七に縋りついた。
善七は暫く考えて、
「……されば……我らに老いた母が御座るが、これが日々、下の里の薬師へ参詣すればこそ……これもまた、仏の知遇なれば……かの我が老母に、姿形を似せてみなさるが、よかう……」
と言うと、あれやこれや、老母のさまざまな衣類をとっかえひっかえ着せてみて、一番しっくりくるものを選んでおっかぶせるように着せると、善七の使って御座った下男の背に負わせ、顔まですっかり包み隠いた仕儀で、里方へと送ってやった。
出しなに善七は、
「――よろしいか? 必ず道中、声をば出しては、これ、なりませんぞ!――」
と厳重に注意致いた。
いや――まっこと――善七の言う通り、道の各所にて、若い男どもが五、六人、たむろって御座って、
「――なんじゃあ?! 昨日の旅人はどこへ行ったじゃあ?! 不思議に、姿が見えんようになっちまったぞ!!」
と、荒々しう話し合う声なんどが耳を打つにつけ、源助には、まるで野犬や狼の吠え声かとも思われて、心底、恐ろしく、ようよう里方へと抜けられ、ほうほうの
後日、機転を利かして救って呉れた善七方へは、人をやって手厚い謝礼を致いた、ということで御座る。
*
番町にて奇物に逢ふ事
予が一族なる
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。久々の耳嚢怪談である。構成は遙かに複雑であるが、私の好きな怪談の一篇岡本綺堂の「妖婆」は場所も番町で、道端に怪しい老婆を見るという話柄の初期設定はよく似ている(リンク先は青空文庫版)。
・「牛奧氏」「卷之二」の「鄙姥冥途へ至り立歸りし事」にもこの姓の人物が登場する。その話柄も老女蘇生譚で本話と類感する。そこで注した通り、旗本の中にこの姓があり、先祖は甲斐の牛奥の地を信玄から与えられてそのまま名字としたらしい。岩波版長谷川氏注には幕臣で、鎮衛の一族(但し、東洋文庫版鈴木棠三氏注の孫引きの指示有り)とする。ここの底本の注では、鈴木氏は『寛政譜には同姓五家あり、どれか明らかでない』ともある。
・「相番」江戸時代の幾つかの職務の当番や宿直の中には二人一組で交互にその職務を務めるものが多い。
・「番町馬場」御用明地騎射馬場(三番町馬場)のこと。現在の靖国神社参道に当たる。
・「前後行來も
前後行來も絶る程の大雨にて、提灯一つを
となっている。「桐油」は長谷川氏注に『桐油をひいた紙の合羽』とある。これはあった方が場面の流れとしては自然。底本はここを脱文したと考えてよい。これを挿入して訳した。「桐油」は双子葉植物綱トウダイグサ目トウダイグサ科アブラギリ
Vernicia cordata の種子から採れる油で、塗料や油紙の材料として盛んに使われた。但し、エレオステアリン酸などの毒性を持つ不飽和脂肪酸を含むため食用にはできない。
・「合點行かず樣子故右の際を行過しに、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
合點行かざる樣子故、右の際を行過しに、
とある。こちらの方がよいが、文脈から言えば、
合點行かざるままに、右の際を行過しに、
とあるべきところであろう。そのように訳した。
・「
・「始見し所に何にても見へす」は底本では「見へす」とある。訂した。
・「四邊打はれたる道」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
四邊打はなれたる道
となっている。「晴れたる」(見通しがよい)、「離れたる」(淋しい)どちらでも通ずる。
・「歸りしが」相番の急な出務要請を受けているのに、このシチュエーション、そこへ出向く前では不自然である。冒頭で、その帰り、という設定にして訳した。
・「瘧」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫 Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカ Anopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫 Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫 Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫 Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫 Plasmodium ovale の四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。
・「瘴癘」水気を含んだ自然界に生ずる毒気によって起こると考えられていた熱病。
■やぶちゃん現代語訳
番町で奇体なるものに出逢う事
私の一族である
相番の者から急用の出務要請の使いが参って、秋の、雨風の強い夜で御座ったが、部下一名を召し連れて出で、その帰り、番町馬場の近所を通った折り、前後の往来、人も絶えるほどの大雨となって、提灯一つを大事大事に、吹き消されぬように
……すると……
……道の傍らに、誰やらん、女と見える者が蹲っておって……その者、合羽
合点のゆかぬままに、その者の側を通り過ぎたところ、召し連れて御座った侍が、
「……先程の、『あれ』は……一体、何で御座いましょう?……一つ、確かめて参りましょうか?……」
と申したが、
「……いらぬことじゃ。」
と答えたものの……丁度、提灯を持った足軽風の者が、二人連れで、すぐの脇道からやって参って、今しがた我らが来た方へと向かわんとせし故、不審なる者の由話しを致し、彼等の後について、元来た道を戻って、かの妖しき者の様子をとくと見んとしたところ……
……最初に見かけた場所には……
……何者も……
……何も見えずに、御座った……
……そこは四辺、遙かに見通しのよい、如何にも、もの寂しい道で御座った故、
「……
「……いえ、短い間のこと故、
などと、二人して不審を呟きつつ、帰ったので御座ったが、
……屋敷の門へ入らんとした、丁度、その時……
……しきりに寒気が致いて参って……
……いや、もう、その翌日には
……かの召し連れて御座った侍も……
……ほどのう、同様の寒気がし、よう似た熱病のため……
……我と同じく、二十日ほど病み伏せった――との、こと。
……さても……
*
小兒産湯を引く事
出産後小兒即時に産湯を
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。冒頭三項に出るような「小兒餅を咽へ詰めし妙法の事」などと通底する民間療法・習俗の一つのように見えるが、もうすこし民俗学的な根が深い。ここでは特に三日目の二度目の産湯(これをやはり産湯と呼ぶ)が問題とされているが、それは一義的にはここに記されるような医学的根拠に基づくものではなく、専ら宗教的儀礼的なものであったと考えられている。
・「産湯」現在は専ら分娩直後に使う湯を言うが、古くは分娩直後の湯浴みと、ここに示された三日目の湯浴みを区別した上で、両方を同じように産湯と呼称していたようである。「産湯」という呼称には出産後初めての湯浴みという意味以外に、大地母神である産土神への無事の感謝と生育の守護を祈る儀式であり、産湯の水は本来は自然界の水気に産土神を象徴したものと考えられ、この「お清め」によって神の産子=氏子となるといった意味が孕まれている。産湯に邪気を払う塩や酒を入れると風邪をひかない強い子に育つといった俗信もそうしたものの名残りと考えてよい。但し、分娩直後の産湯の水は穢れたものとされ、陽の当たらぬ産室の床下や、占いが示す当該の方角の特定の場所に捨てたようであり、捨てた場所が悪いと夜泣き癖が残るという俗信は広く信じられてもいた。三日目に使う湯は「産湯」又は「湯
・「出生より三十六時の内」当時、一
・「さつこう」「撮口」は漢方医学で「臍風」「噤風」等とも言い、新生児の破傷風のこと。ここに示されたように臍帯切り口から感染することが多かった。現在でも発展途上国では数十万から百万程度の破傷風による死亡が推定されており、その大多数は乳幼児や幼児で、特に新生児の臍の緒の不衛生な切断による新生児破傷風が大多数を占める。以下、参照したウィキの「破傷風」から引用すると、罹患は『土壌中に棲息する嫌気性の破傷風菌(Clostridium tetani)が、傷口から体内に侵入することで感染を起こす。破傷風菌は、芽胞として自然界の土壌中に遍く常在している。多くは自分で気づかない程度の小さな切り傷から感染して』おり、『芽胞は土中で数年間生きる。ワクチンによる抗体レベルが十分でない限り、誰もが感染し、発症する可能性はある。芽胞は創傷部位で発芽し増殖する。新生児の破傷風は、衛生管理が不十分な施設での出産の際に、新生児の臍帯の切断面を汚染し発症する。ヒトからヒトへは感染しない』。『破傷風菌は毒素として、神経毒であるテタノスパスミンと溶血毒であるテタノリジンを産生する。テタノスパスミンは、脳や脊髄の運動抑制ニューロンに作用し、重症の場合は全身の筋肉麻痺や強直性痙攣をひき起こす』(この薬理作用とその発症機序及び毒素と抗毒素は明治二十二(一八八九)年から翌年にかけて北里柴三郎によって発見された)。『一般的には、前駆症状として、肩が強く凝る、口が開きにくい等、舌がもつれ会話の支障をきたす、顔面の強い引き攣りなどから始まる。(「牙関緊急」と呼ばれる開口不全、lockjaw)徐々に、喉が狭まり硬直する、歩行障害や全身の痙攣』(強直性痙攣による手足・背中の筋肉の硬直が発生し全身が弓なりに反る。リンク先に一八〇九年にイギリスの著名な神経解剖生理学者サー・チャールズ・ベル(一七七四年~一八四二年)の描いた患者の画が載る)、といった『重篤な症状が現れ、最悪の場合、激烈な全身性の痙攣発作や、脊椎骨折などを伴いながら死に至る』とある。潜伏期間は三日から三週間で、『神経毒による症状が激烈である割に、作用範囲が筋肉に留まるため意識混濁は無く鮮明である場合が多い。このため患者は、絶命に至るまで症状に苦しめられ、古来より恐れられる要因となっている』。死亡率は高く、五十%。成人でも一五%から六〇%、新生児に至っては八〇%から九〇%と極めて高率を示し、幸いにして生存しても、新生児破傷風の罹患患者は難聴の後遺症が残ることがある、とある。
・「臍の穗」底本には右に『(臍の緒)』の傍注を附す。
■やぶちゃん現代語訳
小児に産湯を浴びせる事
出産後、小児にすぐ産湯を浴びせるは、これ、産婆の役目で御座る。二番湯と言って三日目に湯を浴びせることは、これまた定例のことで御座れど――出生から三十六時、三日以内に、この二番湯は浴びせること――とある人の語ったを、以前に聞き知っては御座った。――
私の孫は
「……ともかくも今宵、破傷風に罹患する虞れのなきよう、処置致いたい……」
と、その応急処置と、急変時の手当の仕方などを指示して帰って御座った。
その夜はこれと言って別状なく御座ったが――六日目より煩いついて――撮口の症状を呈し――遂に――亡くなって御座った。……
後人の心得のため、ここに記しおく。
なお、一番湯については、それを延ばしたり、有体に言わば、使わずとも、これ、害はない。その理由は、出生三日目迄は臍の締まりがよろしい故、湯浴みによる臍部からの病毒の感染の恐れはないからである。
――しかし四日目からは、臍の緒が完全に乾き切ってしまう頃合いで御座れば、その臍の尾の干乾びた隙間より湿気が入ると、果たして破傷風を発症する仕儀と相い成る――と、その木村某が語って御座ったよ――
*
雷鶴をうちし事
寛政八辰年春、雷の鳴りし事ありしが、林大學頭營中におゐて語りけるは、同人知行に奇事有りし由。武州
□やぶちゃん注
○前項連関:自然界の瘧りの毒気が人型を現じる怪談から、長寿のシンボルたる鶴が雷に打たれて焼け燻っているという奇談連関。なお、これはあり得るか、と言われればないとは言えないが、文中で問題となっているように、飛んでいた場合は極めて可能性は低いものと考えられる。飛んでいる鳥は周囲とほぼ同電位であるから、雷を誘わず、生体であるから静電気が溜まる可能性はあっても、雷が鳴る際は周囲の湿度も高く、鳥の大きさも小さいので(鶴は相対的にはかなり大きいが)、静電気もなかなか溜まらない可能性があるので飛翔中の鳥の落雷の可能性は小さいという記載がネット上にある。そもそも大型の鶴が三羽飛翔中に雷電に打たれるという可能性は更に小さい。寧ろ、地上に降りて近接していた三羽の鶴(鶴が首を伸ばしていれば広大な湿地や平地ではやや高いし、当然、地面と同電位になる)の何れか一匹、若しくはその近くにある、例えば樹木や竿、百姓の鍬などに大きな落雷があった場合、こうした集団雷撃死はあってもおかしくはない、という気がする。
・「寛政八年」は丙辰で西暦一七九六年。
・「林大學頭」儒学者林述斎(明和五(一七六八)年~天保十二(一八四一)年)。林家第八代。寛政五(一七九三)年、林錦峯の養子となって林家を継ぐ。昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化や儒学教学の刷新、「寛政重修諸家譜」「徳川実紀」「新編武蔵風土記稿」といった公刊史書の編纂事業など、寛政の改革に於ける文部行政を推進した。当時、二十八歳で根岸より三十一も若い。
・「武州
・「
・「くすぼりて」「燻ぼる」で煙によって黒くなる、すすけるの意。
■やぶちゃん現代語訳
雷が鶴を打った事
寛政八年辰年の春、頻りに雷が鳴った日が御座ったが、その折り、林大学頭述斎殿が城中にて雑談のうちに語って御座ったことで、同人の知行所にて、奇異なること、これ、御座った由。
「……武州
と語って御座った。
*
靈獸も其才不足の事
武江
月は露露は草葉に宿かりてそれからこれへ宮城のゝ原
かく認有りしを珍ら
□やぶちゃん注
○前項連関:鶴三羽雷撃死からお狐さまの動物奇談で直連関。鶴の雷撃もあればこそ、狐の人に馴れるのは、餌付けを禁ずるキタキツネを見れば、分かる。岩波版の長谷川氏の注に、津村淙庵(つむらそうあん 元文元(一七三六)年~文化三(一八〇六)年)の「譚海」の『十に同様の話をしるし、雲居禅師と宮千代の事とする』とある。参考までに、「譚海」の該当話を以下に掲げておく(底本は本底本と同じ「日本庶民生活史料集成 第八巻 見聞記」所収のものを用いたが、読みは私が適宜補った)。
〇明和の頃、江戸隅田川の北岸、眞崎明神の境内、稲荷の祠のかたはらなる茶店の老媼に、馴たる狐ありて、
月は露つゆは草葉にやどかりてそれからそれを宮城野の萩
三右衞門いとめづらかなる事におぼえ、何とぞ此たんざくもらひ度よし、しひて所望せしかば、老媼もそしなき望にをれてゆるしつ。三右衞門大によろこび、金子などあたへもてかへりて、人にも此事をかたりいで、殊にもて祕藏しおけるに、仙臺の侍醫工藏平介といふ人、或る日三右衞門かたへ來る時、主人本國の物がたりなどのついでに、此事をかたり出たるに、平助もふしぎ成事におぼえて、或時主人の間に侍せしついで、又此事を申上ければ、陸奧守殿ゆかしきことに聞かれ、何とぞそのたんざく見たきよし懇望により、平助又三右衞門をとひて、たんざくを借得て、陸奧守殿へみせまゐらせければ、
「陸奧守殿」明和の頃の仙台藩は第六代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)。陸奧守。「雲居禪師」雲居禅師(天正十二(一五八二)年~万治二(一六五九)年)伊予の土佐一條家重臣小浜左京の子。九歳で出家、東福寺内の永明院を経て妙心寺蟠桃院一宙禅師に師事。寛永十三(一六三六)年、仙台二代藩主伊達忠宗の懇請を受けて瑞巖寺九十九世となった。「石權現」現存しないか、名称が変わったものと思われ、不詳。……いや、それにしても――この短冊も扇も――茶店の奥には……同なじものが、これ、ゴマンとあるんだろうなぁ……
・「武江眞崎に稻荷の靈社あり」真先(真崎)稲荷。荒川区南千住に現存(但し、場所は異なる)。天文年間(一五三二年~一五五四年)に石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝えられる。喜多村
・「寶曆の頃より參詣群集をなし、其後明和安永の比は少しく衰へぬれど」「寶曆」は明和の前、西暦一七五一年から一七六四年で、「明和安永」は西暦一七六四年から一七八一年。次が天明(西暦一七八一年から一七八九年)で、その後に寛政が続く。本執筆時と推定される寛政八(一七九六)年を起点とすると、「天明の頃」は十五年から七年程前の近過去でる。
・「お出狐」底本の鈴木氏注に、「お出で」は「御出」で『御いでなさいの御いで。伏見稲荷の神幸行事を御出というので、この字面を用いるようになったか』と考証され、以下に書誌学者三村竹清翁の注として『十九巻本我衣巻二、安永三年の下に云、真崎神明の境内に、水茶屋の婆々油揚などを持って、おいでおいでと呼ぶ時は、狐出ると、皆人見物に行く』とある、とする。
・「濟る」底本には「濟」の右に『(住)』の傍注。「すめる」と訓じていよう。
・「茶鄽」茶店に同じ。底本で鈴木氏はここに注して、再び三村竹清翁の注を次のように『岡持がかきし、後はむかし物語に云、真崎稲荷はやり出て、田楽茶屋の出来たるは、我二十二三歳、宝暦六七年の頃なるべし、鳳岡先生の会日に、其はなしを初て聞けり、江戸町の名主は先生の門人にて、英男が別て甲子屋と申茶やの田楽はよしと申也など、先生に語りしを聞けり、其後大に繁栄し、青楼の婦人をいざなひて遊ぶ人も多かりき、向島の秋葉は、今信仰薄くなりて淋しけれど、茶やの賑ひは替らず、真崎は神威とともに茶屋も衰へたり、真崎は手前の角、若竹や(後袖すりや)又甲子や、川口屋、玉や、いねや、仙石や、きりや、道を隔てゝ八田屋など、いづれも繁昌なりき。また続飛鳥川に云、真崎稲荷、安永明和頃繁昌、祠の下辺に狐住て、お出お出と呼と出来る、油揚を遣す、大勢見物あつても、恐れず出で来たり、恭按、享和の頃、お出お出という狐出たり』と多量に引用され、最後にこの人気は『招き猫などと通ずる心理もあったろう』と推測されている。
・「宮城のゝ原」宮城野。現在の宮城県仙台市東方にあった広大な原野。ツツジの名所として知られた
・「貮百疋」一般には一貫=一〇〇疋=一〇〇〇文であるから、二〇〇〇文。平均的金貨換算なら三万三千円ほどになる。これに表装代も含めれば、結構な金額となろう(しかし、これ、このぐらいの値段はしないと、この話は話として面白くない)。齋藤所平なる男、全く以て好き者である。
・「歌の月をも全く不覺なるべし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『歌の心をも全く覺えざるなるべし』である。両義を採った。
・「
・「四更」五更の第四。現在の午前一時(或いは二時とも)頃からの二時間程の間を指す。丑の刻や
・「覺迷ひけるならん」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『覺へ違ひけるならん』である。両義を採った。
■やぶちゃん現代語訳
霊獣たらんもその才に足らんこともある事
武江真崎に稲荷の霊社がある。
宝暦の頃より、参詣の者、
天明の頃、此処に「お出で狐」という狐が棲んでいた。こ奴は、この真崎稲荷の境内にあった一穴に住みなしており、近くの茶店に訪れた婦女が、菓子やら食い物やらを穴の辺りに供えて、「お出で、お出で」と呼べば、穴中より狐が出で来て、かの供物を食べるということで、稲荷参詣の者どもの間では評判で御座った。――が――その後は、この狐、
仙台家の家士斉藤所平と申す者――彼は江戸の生まれにて、仙台のことは不案内で御座った――、とある春の
「……生憎、今は呼んでも出て来ずなってしまいました。きっと棲み家を移したのと違いますかねぇ……」
との答え故、所平、如何にも残念そうに、
「……さてもさても、今少し遅う御座った故、名にし負うた『お出で狐』を拝めなんだか……」
と呟きつつ、この茶汲み女に、『お出で狐』が姿を隠す前後のことを、詳しく尋ねてみた。するとこの女の曰く、
「……狐って、ほんに不思議なもので御座います。……ある年、うちの娘……当時は十二歳で御座いましたが……こんな賤しい茶屋の娘で御座いますから、今でも一と文字たりとも、これ、字を書くことなんぞは出来ませんのですが……この娘に……かの『お出で狐』がとり憑いて……まあ、ただごとではないこと……これ、口走ります故……不思議に感じ、いろいろと尋ねてみましたところが……
『――我ラハ此処モトニ住メル狐ナレド――官位ノ沙汰御座レバコソ最早――此処ヲ出ヅルコトト相イ成ッタ――永キ年月世話ニモナッタレバコソ――コノ娘ニ憑キテ暇乞イヲセントス――縁アラバコソ又来タランコトモアルベシ――』
と厳かに語ると……一首の歌を……その辺に置いて御座いました扇を取り上げて……さらさらと……書きおいて御座いましたので……」
と言いつつ、その扇を見せた。
その扇はと見ると――娘の無筆なるは、これ、間違いなく――書かれたその字は、これ、まあ、何というか――『拙くない』とは言い難い――といった代物では御座った――が――それでも判読出来得る程度の文字では――これ、ある――さても、その一首、
月は露露は草葉に宿かりてそれからこれへ宮城のゝ原
と認めて御座った。
――所平、物好きなる者にて、珍しきに任せ、その如何にも貧しい女に金子二百疋をも与え、その如何にも粗末なる扇を貰い請け、ご丁寧にも立派な表具なんどまで致いた上――仙台藩御家中の、同志の者どもの集える会にて、お披露目致いた。
「……それにしても……上の句は相応の謂いなれど……下の句は……何じゃら、分からんのぅ……」
とある者が呟いた。すると、友の中に、奥州生まれの者が御座って、
「……この狐は、奥州から下って来たものならんか?……これは……奥州宮城野に伝わる古き昔語りを、この狐が聴き覚えており……とは言うても、流石に畜類のことじゃ……歌のまことの『月の心』の部分……悟入の眼目を……誤って覚えておったということであろうの……」
と語った故、皆してその古き昔語りにつき、彼に訊ねた。――
「……何時の頃のことにかありけん……奥州の、とある寺に住まう稚児……大層、和歌を好いて御座ったが……ある時……かの仙台宮城野の月と萩を賞し……
月は露露は草葉に宿かりて
と詠んだ。……そうして、その下の句を……これ……いろいろと案じて御座った……御座ったれど……これ、いっかな浮かんで来ず……毎日……毎日……かの宮城野に出でて一日中……野原に立ち尽し……歌を詠み上げぬままに……
月は露露は草葉に宿かりて……
と詠ずる声のあって、すぐ……
――わっツ!――
という悲痛なる叫びとともに……
……一団の鬼火が……
……立った……という……
――さて――この稚児の師の坊は、この噂をお聴きになられ、不憫なることに思われて、一日、鉄の如意を携えると、月の清かなる夜、宮城野の原にお立ちになられた。
同宿の僧などを召し連れ、今ならんか、今ならんか、と待っておられたところ……夜も四更に至る頃で御座ったか……一団の鬼火が現れ……噂に違わず……
月は露露は草葉に宿かりて……
と詠じ……
――わっツ!――
という悲嘆の声がした――が――
――その時――
――師の坊、大喝して
「――それこそこれよ宮城野の原!――」
と言い放ち、持った鉄の如意を鬼火に投げつけた……
*
……さても、その
畜類なればこそ、この師の悟入一喝の下の句を、獣の哀しさ、迷いのあって、誤って覚えておったので御座ろうか……。」
なるほど――霊力を持ったる獣たらんも、その才にはやはり、獸故に、哀しいかな、足らんことも、これ、あるということ――ででも、あるのであろうか。
*
化獸の衣類等不分明の事
大坂に古林見意といへる醫師ありしが、彼見意が語りける由。
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐で直連関。エイリアンの着衣が見たこともないような、地球上に存在しない素材で出来ている――というのと通底する。
・「古林見意」底本の鈴木氏注に、古林見宜(桂庵)の後裔であろう、とされる。古林見宜(ふるばやしけんぎ 天正七(一五七九)年~明暦三(一六五七)年)は江戸前期の儒医で、桂庵と号した。播磨国飾磨郡の出で赤松氏則の子孫という。京で医術を修業、大坂聚楽町にて医師を開業する一方、同門の堀杏庵とともに京都嵯峨に医師養成を目的とした学舎を創設、門人三千人を数えた(以上は「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。
・「眞田山」現在の大阪市天王寺区の北東端にある真田山町。真田山は慶長十九(一六一四)年の大阪冬の陣の際、大阪城の弱点とされた南方面の防御を強化するために、大阪方の真田幸村が築いた出城であったとされる。
・「藤森」は京都市伏見区深草の地名。同地区には伏見稲荷がある。
・「藤森迄は此邊よりは里數も是ある」凡そ十里以上あったと考えられる。大阪の真田山と京都の藤森では現在の地図上の直線実測でも三十九キロ程ある。時速五キロとしてもヒトの足なら八時間は有にかかる。狐の時速は諸資料によれば、時速約四十八キロから、アカギツネで七十二キロ(瞬間最大時速であろう)とあるから、時速五十キロとすれば、文字通り、一時間かからないうちに(恐らくは夕方と思われる当話柄内時間から日没の前までに)辿り着くことが可能である。
・「
■やぶちゃん現代語訳
妖獣の衣類等は不分明で得体の知れぬものを素材としている事
大阪に古林見意という医師があったが、その見意が語ったとの由。
……真田山の辺りに、医術に特異な学才を持った老人が御座った故、拙者、この老人の元に頻繁に通っては、日頃の種々の疑問疑義を尋ねたり致いて御座った。
そんなある日の訪問の折りしも、相応なる人物と思しい男で、如何にも小ざっぱりとし、いや、それでいて何とも言えぬ不思議な美しさを感じさせる衣を纏った男が、この老人のもとを訪ねて御座った。
老人が、
「――遠方より遙々の御到来、如何致いたかな――」
と訊ねると、
「――用事の御座るによって、遠国へと参ることと相い成り――暫しの暇乞いに参りました――」
と答える。
拙者は部屋の端にて、それとのう、二人の会話を聞いて御座ったのだが――その会話の趣きから察すると――この男、今は京の藤の森辺りに住んでおるらしい。
かの老人が、召し
……人声としては如何にも奇妙な……
……知れる言語にては御座ない、何か意味のよう分からぬ詞にて、礼のようなるものを述べた……
……かと思うたら……
……その男……
……かの相応の身分と思わるる
……手も箸も使わず……
……牡丹餅を、これ……
……顔を俯けて……
……アンぐりと……
……口だけで……
……食べて御座った……。
と、
「――遠方なれば、の――早々に帰ったがよかろうぞ――」
という老人の言葉に促され、男は短い暇の詞を述べると、立ち帰って御座った。――
――さてもその後刻のこと、
「……藤の森までは、ここいらからは相当の里数が御座るが……今最早、この日暮に及んで『帰れ』とおっしゃられたが……これ……夜通し歩いて……帰る、ということになりますかな?……」
という拙者の意地の悪い質問に、老人、平然と、
「――かの者は――日も暮れぬうちに帰り着くじゃろ――実はな――あれは――人――でにては――ない――狐――じゃ――」
と答え、間髪を入れず、
「――貴殿――あの者の着ておった――服――あれは――何と見たもうた?」
と訊ぬる故、
「……何やらん、立派なものには見えました……が……如何なる素材にて出来て御座ったか……はて……よう分かりませなんだ……いや……寧ろ……何やらん……不思議なことにて御座るが……今……はっきり言うて……よう……覚えておりません……」
と申したところ、
「――さればとよ――狐狸の類い――総て妖怪なる『もの』の着れる衣服なるものは――これ――何とも訳の分からぬ――記憶も残らぬ――人の意識には不分明にして不可視不可知に等しい――妖しき『もの』なのじゃ――」
と、かの老人が語って御座った。……
以上は、見意本人が私の知人に直接語ったこと、とのことで御座った。
*
疱瘡神狆に恐れし事
軍書を讀て世の中を咄し
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐のやんごとなき男に化ける話から、疱瘡神の婆となる話で直連関。
・「狆」日本原産の愛玩犬の一品種。英語でも“Japanese Chin”と呼ぶ。以下、ウィキの「狆」より引用する。『他の小型犬に比べ、長い日本の歴史の中で独特の飼育がされてきた為、抜け毛・体臭が少なく性格は穏和で物静かな愛玩犬である。 狆の名称の由来は「ちいさいいぬ」が「ちいさいぬ」、「ちいぬ」、「ちぬ」とだんだんつまっていき「ちん」になったと云われている。
また、【狆】と云う文字は和製漢字で中国にはなく、屋内で飼う(日本では犬は屋外で飼うものと認識されていた)犬と猫の中間の獣の意味から作られたようである。
開国後に各種の洋犬が入ってくるまでは、姿・形に関係なく所謂小型犬の事を狆と呼んでいた。 庶民には「ちんころ」などと呼ばれていた』。『祖先犬は、中国から朝鮮を経て日本に渡った、チベットの小型犬と見られ』るが、現在は、シーボルトの記述に拠る『戦国時代から江戸時代にかけて、北京狆(ペキニーズ)がポルトガル人によってマカオから導入され、現在の狆に改良された』という説が定説のようである。『室町時代以降に入ってきた短吻犬や南蛮貿易でもたらされた小型犬が基礎となったと思われ』、江戸期では享保二十(一七三五)年に清国から輸入された記録が残るとする。『狆の祖先犬は、当初から日本で唯一の愛玩犬種として改良・繁殖された。つまり、狆は日本最古の改良犬でもある。とは言うものの、現在の容姿に改良・固定された個体を以て狆とされたのは明治期になってからである。
シーボルトが持ち出した狆の剥製が残っているが日本テリアに近い容貌である。 つまり小型犬であれば狆と呼ばれていた事を物語る』。犬公方第五代将軍徳川綱吉の治世下(一六八〇年~一七〇九年)にあっては、江戸城内『で座敷犬、抱き犬として飼育された。また、吉原の遊女も好んで狆を愛玩したと』され、「狆育様療治」という書によれば、『狆を多く得る為に江戸時代には今で言うブリーダーが存在し、今日の動物愛護の見地から見れば非道とも言える程、盛んに繁殖が行われていた。本書は繁殖時期についても言及しており、頻繁に交尾させた結果雄の狆が疲労したさまや、そうした狆に対して与えるスタミナ料理や薬』に関する記述がある。『近親交配の結果、奇形の子犬が産まれることがあったが、当時こうした事象の原因は「雄の狆が疲れていた為」と考えられていた』
という。本執筆は寛政八(一七九六)年であるから、この享保二十(一七三五)年の清国からの輸入を起点に、約六十年で庶民レベルまで狆の飼育が大々的に広がったと考えられる。
・「軍書を讀て世の中を咄し歩行」軍記や武辺物などを講釈する芸人。「軍記読み」「軍書読み」「軍談師」とも呼ばれた、現在の講釈師のこと。
・「疱瘡」天然痘。「卷之三」の「高利を借すもの殘忍なる事」の私の注を参照されたい。
・「五十じ」底本には右に『(五十路)』と傍注する。
・「
・「
■やぶちゃん現代語訳
疱瘡神は狆を恐れるという事
軍記や武辺物を読んで
彼の妻は五十に近かったが、未だに疱瘡にかかったことがなかったがため、疱瘡流行の折りには、なにかと恐れて御座った。
そんな小さな流行りのあったある時、近所の可愛がって御座った子供が、首尾よく疱瘡の軽くしてすんだとて、病み上がりの直ぐ後日に、幸十郎が
……何やらん、気持ちも悪うなって参り、熱も出始めておる様子なれば……夢とも
……床のそばに……
……小さな小さな……
……老婆が……座って御座った――
……その老婆のその顔……
……これがまた……
……体の小ささに輪をかけて……
……異様に更に更に……
……小さい――
……その奇態な老婆が口を開いた。
「――我は疱瘡の神じゃ――ここへ灯明を灯し――お
とのこと。
熱に朦朧とする意識の中、かの妻は召
さて、この
……彼ら狆には……
……もしや、この老婆が見えたものか……
――突如として、一斉に――
――!!!!!!!――
――狆どもが、激しく吠えたてる――
すると、かの老婆は、
「……あふぁ、ふぁあ、ふぁ!……こ、この、ち、ち、チンども!……ど、どこぞへ、と、取り除けて、お呉れ、や、ん、し!……」
と懇請する。かの妻、
「……あれらは
と熱に魘されるように答えた。
さても――頻りに、かの狆が吠え叫んだ故か――かの小さな老婆――家の門口の方へと――すうっと寄って行ったかと見えた――が――そのままあとかたものう消えてしもうた。――
さて、幸十郎、用事を済ませて外から戻ってみると――
――何やらん、辛気臭い灯明が灯され、見たこともない御神酒やら供物やらが立ち並んで御座る……
――我が家とも思えぬ様子なればこそ
――何が御座った、女房殿?
――妻は答える、しかじかと
――大いに驚き、召し使う
――男女に、委細尋ぬれば
――ようは分からぬ、奥様が
――お神酒お供物、命ぜられ
――何やら、誰かに喋るよに
――独り言をば、申されし
――それに加えて今一つ
――狆の頻りに吠えつきし
――それらのことは、相違なし……
……と、口を揃えて証言致いて御座った。
而して付け加えておくと――かの老婆が消え去ってより後は、妻の具合はようなって、熱もさめて、すっかり普通の体調に復した――とのことで御座ったよ。
*
聖孫其のしるしある事
當時も孔子々孫は連綿として諸侯たる由。淸朝の乾隆帝
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。中国物は「耳嚢」の中では珍しい。
・「乾隆帝」(一七一一年~一七九九年)は清の第六代皇帝(在位:一七三五年~一七九六年)。台湾やビルマ・ヴェトナムなどへ遠征に総て勝利し清国最大の版図を実現して清朝の最盛期を実現したが、同時に上皇になった後は賄賂政治がはびこり、白蓮教徒の乱などが多発して、清朝没落の開始期ともなった。本件執筆時と思われる寛政八(一七九六)年、その二月九日に乾隆帝は退位している。
・「巡狩」古代中国で天子の諸国巡視を言う語。「巡守」とも書く。
・「孔子庿」孔子の生地とされる魯の昌平郷陬邑(すうゆう:現在の山東省曲阜。)に孔子の死後一年目(紀元前四七八年)に魯の哀公によって孔子旧宅を廟にしたのがルーツとされ、現在、孔廟と呼ばれて儒教の総本山として厚く信奉されている。
・「孔子の裔孫」ウィキの「孔子」の「子孫」及び「系譜」の項によれば、孔子の子孫で著名な人物には子思(孔子の孫)、孔安国(十一世孫)、孔融(二十世孫)などがおり、孔子の子孫と称する者は、実は予想外に非常に多く、直系でなければ現在四〇〇万人を超すと言われている。本話でも感じられる通り、永い間、その子孫にも厚遇が与えられた経緯があり、『前漢の皇帝の中でも特に儒教に傾倒した元帝が、子孫に当たる孔覇に「褒成君」という称号を与えた。また、次の成帝の時、匡衡と梅福の建言により、宋の君主の末裔を押しのけ、孔子の子孫である孔何斉が殷王の末裔を礼遇する地位である「殷紹嘉侯」に封じられた。続いて平帝も孔均を「褒成侯」として厚遇した。その後、時代を下って宋の皇帝仁宗は一〇五五年、第四十六代孔宗願に「衍聖公」という称号を授与した。以後「衍聖公」の名は清朝まで変わることなく受け継がれた。しかも「衍聖公」の待遇は次第に良くなり、それまで三品官であったのを明代には一品官に格上げされた。これは名目的とはいえ、官僚機構の首位となったことを意味する』、とあって、更に『孔子後裔に対する厚遇とは、単に称号にとどまるものではない。たとえば「褒成君」孔覇は食邑八百戸を与えられ、「褒成侯」孔均も二千戸を下賜されている。食邑とは、簡単に言えば知行所にあたり、この財政基盤によって孔子の祭祀を絶やすことなく子孫が行うことができるようにするために与えられたのである。儒教の国教化はこのように孔子の子孫に手厚い保護を与え、繁栄を約束したといえる』とする。なお、近代の直系であった『孔徳成は中華人民共和国の成立に伴い、一九四九年に台湾へ移住している』。『孔子の子孫一族に伝承する家系図は「孔子世家譜」である。孔子以降、現在に至るまで八十三代の系譜を収めたこの家系図はギネス・ワールド・レコーズに「世界一長い家系図」として認定されて』おり、最新の「孔子世家譜」には初めて中国国外や女性の子孫も収録され、総数『二百万人以上の収録がなされた』とある(引用中の総てのアラビア数字を漢数字に代えた)。――正直言うと――何だか気持ちが悪い。
・「婦人」底本では右に『(夫人)』と傍注する。
・「夷狄」漢民族の時代の中国の周辺地域に存在した異民族の蔑称。一般に「東夷北狄南蛮西戎」呼ぶ。
■やぶちゃん現代語訳
聖孫には相応の節のある事
現在に至るまで、中国の孔子の子孫は、連綿として諸侯の地位にあるとの由。
先般、譲位された清朝の乾隆帝は、その巡察の折りに、孔子廟に詣でて――名を失念致いたが――孔子の裔孫何某なる人物にお逢いになられたところ、その容貌や挙止動作、年若であるにも拘わらず、殊の外に優れて、その人柄も温順にして至って仁徳を持ったる人物で御座ったれば、帝も、
「流石、聖孫である。」
と甚だ賞賛なされた上、
「ぜひ我が娘の婿にせん。」
とのお言葉が御座った。
ところが、かの孔孫は、甚だ恐れ入りながらも、
「勅命に
と丁寧に固辞致いたれば、帝は、その訳をお問いになられた。
すると彼は、
「――お畏れながら――清朝は、これ――漢民族ならざる夷狄の子孫にて御座います。聖孫として――お畏れながら――夷狄と縁を結んでは、これ、漢人たる先祖孔丘へ申し訳が立ち申さぬので御座いまする。」
と――まっこと、畏れ多くも――言い放ったという。
しかし、それをお聞きになられた乾隆帝は、
「――それは尤もなること。いや、流石に聖人の末裔じゃ!」
と感ぜられて、帝自ら、中華漢民族の名家の娘を媒酌して、かの聖孫の夫人とさせなさったとの由。
これは却って、乾隆帝の、その純粋にして正しき御心なればこそ、と人皆、賞嘆致いた、と最近中国から渡ってきた書物に書かれていたのを見た、と望月氏という儒学者が語って御座ったのを記しおく。
*
螺鈿の事
中国の細工に螺鈿を以器物に
□やぶちゃん注
○前項連関:儒学生望月氏談話で連関。中国関連という共通性もある。
・「螺鈿」螺鈿細工は青貝細工とも言い、ヤコウガイ・アワビ・アコヤガイ・オウムガイ・ドブガイ(淡水産)などの貝殻の表層を除去して真珠層を取り出し、これを短冊形にして磨きをかけて
・「鏤り付たる」螺鈿細工には相応しい言葉で、正に彫り刻んで、そこに青貝のチップを嵌め込むのである。
・「泥貝」はカラスガイ Gristaria Plicata 及び琵琶湖固有種メンカラスガイ Cristaria plicata clessini (カラスガイに比して殻が薄く、殻幅が膨らむ)を指していると考えてよい。但し、この話柄からは、それらとドブガイ Anodonta woodiana とは区別されていない。いや寧ろ、現在でも区別していない一般人は多いと思われる。形態上の判別は、その貝の蝶番(縫合部)で行う。カラスガイは左側の擬主歯がなく、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は、貝の縫合部分に見られる突起)が、ドブガイには左側の擬主歯も右の後側歯もない。何れもその貝殻の内層の真珠光沢は螺鈿細工に用いられる。私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 介貝部 四十七」の「蚌(ながたがひ どぶかい)」及び「馬刀(かみそりかひ からすかひ)」の項を参照されたい。
・「春田播摩」岩波版の長谷川氏注に文化六(一八〇九)年(本文の「寛政七八年」(西暦一七九五~九六年から十三、四年後である)の「武鑑」に具足師として名が出ている旨、記載がある。但し、そちらの表記は『播磨』である。
・「溜池」は固有名詞。江戸城の南西部の一部を構成していた外濠。現在の総理大臣官邸の南方にあった。元来は水の湧く沼沢地であり、その地形を活かしたまま外濠に取り込んだもので、江戸時代中期から徐々に埋め立てられ、明治後期には完全に水面を失ったとされる。現在は、細長かった溜池の長軸を貫く形で外堀通りが走っている(以上は主にウィキの「外濠(東京都)」に拠った)。
・「定浚」江戸城下の河筋・堀川の泥土・塵芥を定期的に行うこと。
・「玉」ここで言っているのは所謂、真珠である。実際に、ドブガイやカラスガイには淡水真珠が生じる(近年では十ミリを越える大型の淡水パールも技術的に可能となった)。なお、中国は紀元前二三〇〇年頃より真珠が用いられていたという記録があり、本邦に於いても「日本書紀」「古事記」「万葉集」に既に、その記述が見られる。「魏志倭人伝」にも邪馬台国の台与が曹魏に白珠(真珠)五〇〇〇を送ったことが記されており、「万葉集」には真珠を詠み込んだ歌が五十六首含まれる。当時は三重県の英虞湾や愛媛県の宇和海で天然のアコヤガイから採取されていたが、日本以外で採れる真珠に比べ、小粒であった(歴史部分はウィキの「真珠」に拠った)。真珠の博物誌は私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 介貝部 四十七」の「真珠(しんじゆ)」の項も参照されたい。
■やぶちゃん現代語訳
螺鈿の事
中国の工芸細工には螺鈿を以て器物に彫り嵌めたものが多い。鈿という工芸は日本で創出された技術ではない。後、日本でも近江の琵琶湖より採取される、俗に泥貝という類いの二枚貝を「螺」と称して、かの螺鈿細工に用いるようになった。
麹町に居住する御具足師の春田播摩は、
「……近頃。この近江の螺を具足螺鈿の細工に使ってみたところが――これ、異国渡りの
とかねてより語って御座ったが、寛政七、八年の頃のこと、
「……江戸の溜池の
……余り、大きな声では言えんが、の……
……かの大陸の螺鈿に用いる貝には、の……
――その中に、希有の『珠』がある――
……と、かの異国にては言い伝えておることなれば、の……
……日本の、その泥貝にも、の……
――希有の『珠』がある――かも知れんのじゃ!……」
などと、親友なれば、望月翁に話したという。
かの儒学者望月翁が私に語って御座った話である。
*
人間に交狐の事
丹波の國、處は忘れしが富家の百姓有りしが、數人其家にある翁の、山の
□やぶちゃん注
○前項連関:四つと五つ前の妖狐譚で連関。表題は「人間に交はる狐の事」と読む。
・「仕へし」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『仕へして』。こうでないと意味が通じない。
・「數人其家にある翁の」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『數年其家におる翁の』。ここもこうでないと意味が通じない。
・「富士の森」前出。藤の森。京都市伏見区深草の地名。同地区には伏見稲荷がある。
・「前廣に」副詞。前もって。予め。
■やぶちゃん現代語訳
人間に交わる狐の事
丹波国――在所は忘れたが――裕福な百姓があった。
その家に、数年仕えておったとある翁で、山の崖にあいた穴に住まい致し、衣服なども人間と同じで、食事もまた、少しも変わるところなかった。年久しく仕えて、幼児の世話など致し、農事・家事なんども手伝い、古く遠い御世の話を、恰も見てきたかのように語る、その語り口なんどは、更に人とは思われぬ、所謂、異人奇の類では御座った。
されども、長年の付き合いにてありければ、家内の者は老少を問わず、皆、彼を重宝して、怪しみ恐れる者は一人として、なかった。
然るに、ある日のこと、その翁、
「――我らこと、数年、ここもとにあって厚遇を受け、まことにその御好意、捨て難く存ずれども――このたび、官位拝受のことあって、上京致すことと相い成って御座る。――永のお別れを告げんとこそ――」
と語る故、主人は勿論のこと、家内一同、大いに驚き、
「……御身なくては、我が家は立ち行かなくなろうほどに……」
「……何と申しても、永い付き合いでは御座らぬか……」
と、皆々、せつに引き留めて御座ったれど、
「――いや、こればかりは、我が意にてもどうにもならぬのじゃ――」
と、その翌日には、何処へどうしたのやら、行方知れずと相い成った。
ただ、かの翁、前日に別れを告げた、その最後に、
「――もし拙者がこと、懐かしゅうお思いになられることなんぞの御座ったならば……上京の砌、藤の森をお訪ねあって、『おじい』とお呼びなさるがよい。……必ず、出でて、対面せんに……。」
と言い残して御座った故、一同の者は、これ、初めて――かの翁は狐であったを――知ったので御座った。
後日のこと、家の主人、藤の森を訪れ、その裏山へと参って、
「おじい――おじい――」
と呼ばわったところ、かの翁、忽然と出で来たって、互いに安否を訊ね、四方山話を致いたが、さあ、その別れ際に、翁は、
「……御身の知遇、これ、まこと、忘れがたい。……なればこそ……向後、主が家の吉凶、これ、拙者が前もってお告げ致そうぞ。……狐が
――コン、コン、コン――
と、三度ずつ鳴く……それは御身の吉事や凶事につき、その予告をするものじゃと心得られよ……狐が
――コン、コン、コン――
と鳴いたならば……その時は、相応に身を慎み、吉凶の到来の心構えをなさるがよろしゅう御座る……」
と告げて別れたという。
……その後、果たして……
――コン、コン、コン――
と、三度の狐鳴きが御座ると……その通りの不可思議なることが、必ず起こった、との由。
*
誠心可感事
寛政七年、清水中納言殿逝去ありし。東叡山凌雲院に葬送なし奉り、俊德院殿と
關守も暫しはゆるせ老の虫人こそしらね鳴ぬ日はなし
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。能絡みで遠く「戲藝にも工夫ある事」と連関。死亡時から「百ケ日」法要の出来事で、日付の特定まで可能な珍しい記事と言える。
・「清水中納言」徳川重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)徳川御三卿清水家の祖。第九代将軍徳川家重次男。官位は従三位左近衛権中将兼宮内卿・参議・権中納言。家名は江戸城清水門内の田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあったことに由来する。満五十歳の彼の死によって家重の血筋は断絶、子がなかったため、その後の清水家は再興と断絶を繰り返した。彼の逝去は寛政七年七月八日はグレゴリオ暦で一七九五年八月二十二日、和暦サイトの表から百ヶ日を計算したところ、この出来事は寛政七年十月十一日(西暦一七九五年十一月二十二日)のことになるはずである。季節を感じつつ、映像を想像されたい。
・「東叡山凌雲院」東叡山寛永寺三十六坊の塔頭の中では最も格式が高かったが、現存しない(上野駅公園口を出て道路を渡った現在の文化会館と西洋美術館附近にあったという)。
・「間狂言」能一曲の中で狂言方が演じる部分や役を指す。
・「黄門」中納言の透唐名。
・「御目見以下」御目見得以下。将軍直参の武士でも将軍に謁見する資格のない者。御家人。対語は「御目見得以上」で旗本が相当。
・「御庿番」の「庿」は廟に同じ。
・「龍田の間」謡曲「龍田」の間狂言の部分の意。能「龍田」は行脚僧が龍田明神参詣のため河内国へ急ぐ途中で龍田川まで来ると、一人の前シテの巫女が現われ、「龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦中や絶えなん」という古歌をひいて引き止め、僧が、それは秋のことにて今はもう薄氷の張る時節と答えると、更に「龍田川紅葉を閉づる薄氷渡らばそれも絶えなん」という歌もあると答えて社前に案内、そこには霜枯れの季節にもかかわらず、未だ紅葉している紅葉のあるを不審に思う僧にこれは神木なることを語り、更に龍田山の宮廻りをするうち、巫女は自らが龍田姫の神霊であると名乗って社殿の中に姿を消す。その夜、社前で通夜をしている僧の前に、後ジテ龍田姫の神霊が現れ、明神の縁起を語り、紅葉の美しさを舞って夜神楽を奏でて虚空へと上って行くという複式夢幻能。私は書による知識のみで舞台を見たことがないので、残念ながら、この能の舞台を知らぬが、謠本を見るにワキツレで従僧二人が登場する。老人はこの一人を黄門公生前には演じたものであろう。それを「一番口の内にて相勤候」とは、ただワキツレとしての自分のパートだけではなく、前シテとワキの始まりから後シテとワキの夜神楽までを心に描き、己れの登場の部分の台詞を口の中にて演じたことを意味しよう。因みに、私の謠をする教え子からは、江戸時代の謡曲の上演時間は現在よりももっと短かった、演技は今のようなスローさとは大分、異なっていたらしいと聞いている。
・「値遇」底本には右に『(知遇)』と傍注。
・「關守も暫しはゆるせ老の虫人こそしらね鳴ぬ日はなし」幽冥界を隔てる廟を関所に喩え、番人を関守とし、御家人でも身分の低い老いた七十に近い己れを老いの虫に喩え、数え五十一の若さで亡くなった主君との老少不定を含ませた狂歌と言えよう。私の自在勝手訳を示す。
……あの世とこの世を隔てる関の番人と雖も……暫しの間は、かくするを許せかし……人は
■やぶちゃん現代語訳
誠心感ずべき事
寛政七年のこと、清水中納言徳川重好殿の御逝去が御座った。
東叡山凌雲院に御葬送し奉り、俊徳院殿と諡り名され給うた。
名は忘れて御座るが、清水殿の御屋形にて、至って身分の低い者として召し使われておった、年はもう七十に近い者にて、己の好みに能の
御逝去後、御目見得以下の身分の者故、御廟所にては直接の拝礼を致すこと、これ、許されなんだが、かの老人は、目立たぬよう、御廟の後ろの幕張の外から、一日として欠かさずに
百ヶ日の御法要の日のその終わった後のこと、彼はかの御廟に参ったが、偶々、外には人の居合わせたなんだが故、御廟前の目立たぬ物蔭に回り込んで、ひっそりと蹲っては拝み申し上げて御座ったそうな。
御廟所の番方も、これに気づいては御座ったれど、以前からの、かの老爺の深く御主君を悼む心に打たれておった故、見て見ぬ振りを致いて、許して御座った。
ところが、老僕は突っ伏したまま――半時もの間――そのまま――微動だにせぬ。――
流石に番方も、
『まさか……死んでおるのでは……御座るまいか……』
と思い迷うほどにて御座った――
――が――
ようやっと、ゆるゆると身を起こいて、御廟所霊前より立ち出でた故、
「……如何にも永き拝礼であったのう……」
と、かの御廟番方の武士が訊ねたところ、
「……はい……御在世の砌、お好みであられたが故……「竜田」の
と述べつつ、涙を流して御座ったが、更に、
「……知遇の有り難きを思い出だいて……かくなる拙き歌一首も……詠まさせて……頂き申した……」
と語った。
その歌――まあ、狂歌とも和歌とも称せぬようのものながら――その誠心の、これ、まっこと、哀れなること……と人の語ることにて候えば、ここに記しおく。
関守も暫しはゆるせ老の虫人こそ知らね鳴かぬ日はなし
*
しやくり呪の事
しやくりを止るには、其人の口をあかせ、右口の内へ宗といふ文字を三度書けば止る事妙なりと、人の語りし故爰に
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。但し、本巻は巻頭から
・「しやくり呪」しゃっくりを止めるまじないの意。「しゃっくり」という言葉は「刳りぬく」の意味の「さくる」の変化したもので、しゃっくりの腹を抉られるような感じに由来する。医学的にはミオクローヌス(myoclonus:筋肉の素早い不随意収縮。)の一種で、横隔膜又は他の呼吸補助筋の強直性痙攣によって声帯が閉じて音が発生することが一定間隔で繰り返される現象を言う。この「宗」の字を口の中に書くと言うのは迷信染みているが、そのためには大きく口を開かねばならず、尚且つ、宗の字三回は試みにやって見ると十秒以上はかかるので、その間、通常呼吸とはことなる呼吸をすることになり、効果があるとも言える。根拠なしでも、それを信じてやるならば一種のプラシーボ(偽薬)効果も期待出来よう。
さて、私の知るものでは本件に似たものとして、
自分で掌に「森」という字を書いて飲み込む。
というのがある。これは嚥下行動が横隔膜に作用すると考えればやはり非科学的とは言えまい。現実には、しゃっくりを止める決定打は、ない。
以下、信頼出来る医薬品メーカーのサイトや複数の質問箱・しゃっくり呪いの頁(思いの外多い)などを見ると、昔からの定番である、
〇びっくりさせる
〇息を止める
〇ゆっくりと息を吸う
〇胸に手を当てる
といったシンプルなものや、
〇腰に手を当てて左右の横隔膜部分を人差し指から薬指までの指で押し込み、同時に息を吸ってそのまま止める
という一見医学的処方のような記載、やはりしばしば聞くところの、
〇コップ一杯分の水を飲む
〇お椀に水をなみなみと張ってそれを向こう側から(深いお辞儀で顔が逆になったような状態)一気に飲み干す
この応用型で、私も聞いたことがある(が、面倒なのでやったことはない)、
〇お茶をいれた茶碗の上に割箸を十字に置き、それらの割箸を両手で固定し、それらのあいだからお茶を少し飲み、茶碗を九十度回転させながらそれを繰り返す
という方法(こちらの「じゃがべぇ~(^_-)-」氏のブログでの分布域を見ると、これは関西系の止め方らしい)、
〇ご飯を丸呑みする
〇盃一杯の酢を飲む
などの他、変形ものでは
〇スプーン一杯分の砂糖を食べる
〇柿のへたの煎じ薬を飲む
などがある。中でも面白いのは、
〇「豆腐の原料は何?」という質問に答えさせる
というのがあり、これはその答えの「大豆」という発声をすることに意味があるのではなく、驚かすのと同じで、突然、虚を付く質問をすることに意味があると思われる。即ち、意識をずらさせる効果であろう。従って質問は「ナスの色は何色?」「菜の花の色は何色?」と言ったヴァリエーションがあるらしい。
かなり複雑ながら、効果があるとする記載が多いネットで見た方法をここに記しおく。
〇十二秒で止める方法
1 深く息を吸う。
2 ドアや扉の枠の下に移動する。
3 手を伸ばして上の枠をつかむ。
4 枠を押し上げる感じで腕を伸ばす。
5 背中を曲げて前に倒れるような感じで腹のストレッチをする。
6 息を止めたまま三十秒から六十秒、この姿勢を保つ。
最後にやはり面白いと思った記事を最後としよう。
〇“My father, a science teacher, always quickly offers his students a quarter if they hiccup again. Amazing and nearly foolproof! 2002 Jason-san(USA)”
因みに“a quarter”は二十五セント硬貨のことである。
■やぶちゃん現代語訳
しゃっくりに効く
しゃっくりを止めるには、その人の口を大きく開かせた上、その口の中に人差し指を入れ、その口中にて「宗」という文字を三度書けば、ぴたりと止まる、のは実に奇妙なこと乍ら、
*
靑砥左衞門加増を斷りし事
靑砥左衞門へ其此の鎌倉執權より、夢に左衞門精忠を以て加增あるべしと神示ある故加增給るべきとありしを、左衞門強て
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。定番の武辺物で、いい話ではある。
・「靑砥左衞門」多くのエピソードで知られる青砥藤綱(生没年不詳)。鎌倉後期の武士とされるが、実在は疑わしい(モデルとなった人物の存在可能性はある)。参照したウィキの「青砥藤綱」には、本記載と同ソースと思われる以下のような記載がある。
《引用開始》
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。『弘長記』では評定衆に任じた、ともある。藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。
《引用終了》
因みに、この時、藤綱は二十八歳であったとする。最も人口に膾炙するのは、以下の逸話で(アラビア数字を漢数字に変えた)、
《引用開始》
かつて夜に滑川を通って銭十文を落とし、従者に命じて銭五十文で松明を買って探させたことがあった。「十文を探すのに五十文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は応えて「十文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。五十文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて六十文の利は大であるとは言えまいか」と。
次代執権の北条時宗にも仕え、数十の所領があり家財に富んでいたが、きわめて質素に暮らし倹約を旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に困窮している人々に与えた。藤綱がその職にあるときには役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。なお、『太平記』では藤綱を北条時宗及び次代執権の北条貞時の時の人としている。
《引用終了》
更に言っておくなら、『江戸時代には公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として文学や歌舞伎などの芸術作品にしばしば登場した。同様の性格を持つものとしては大岡政談が挙げられるが、江戸幕府の奉行・大名であった大岡忠相を登場させることには政治的な問題が生じやすかったため、歴史上の人物であった藤綱を代わりに主人公とした』ケースが多く見られ、藤綱は江戸時代の武辺物の定番的ヒーローであったことを忘れてはならない。なお、彼については、私の「新編鎌倉志 卷之六」の「固瀨村」の項に詳細なオリジナル注を施してある。参照されたい。
・「鎌倉執權」「弘長記」によるならば北条時頼、「太平記」にも同様の記載があり、そこでは北条時宗とする。こうした類話がごろごろある事自体、鎌倉の青砥橋で著名な青砥藤綱であるが、実は一種の理想的武士の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても実在はしなかったと私は考えている。
■やぶちゃん現代語訳
青砥左衛門藤綱が御加増を断わった事
青砥左衛門藤綱へ、その当時の鎌倉執権より、
「夢に『左衛門はよく勤めておる故に加増あるべし』との神託が御座ったによって加増して遣わさんと思う。」
と御下知が御座ったが――
――左衛門は、あくまでこれを断って御座った。
「加増・褒美を賜るとあられるを、断るとは愚昧じゃ――いや、何より非礼であろう。」
との執権のお言葉に、左衛門、答えて曰く、
「――武道その外の手柄あっての御加増ならば、これ、有り難くお受け致すが、これ、定法ならん。――なれど――夢の告げなんどを以て御加増賜わるということになれば――『青砥左衛門を斬首と処せ』――という告げが御座ったれば――
と、答え、遂に請けあわなかったということである。
誠に面白い議論である。
*
珍物生異論の事
大前何某の娘を外へ
記桃核念珠 經進文稾 高士奇
得念珠一百八枚、以山桃核爲之、圓如小櫻桃、一枚之中、刻羅漢三四尊、或五六尊、立者、坐者、讀經者、荷杖者、入定於龕中者、蔭樹趺坐而説法者、環坐指畫論議者、祖跣曲拳、和南而前趨而後侍者、合計之、爲數百五、蒲團竹笠、茶奩荷策、缾鉢經卷畢具、又有雲龍風虎、獅象鳥獸、戲猊猿猱、錯雜其間、初視之、甚了了、明窓浮几、息心諦觀、所刻羅漢、僅如一粟、梵相奇古、或衣文織綺繡、或衣袈裟、沓絺褐、而神情風致、各蕭散於松柏巖石、可謂藝至矣。
□やぶちゃん注
○前項連関:武辺物ではないが、武士の節が関わることから、緩く連関しているように見える。
・「珍物生異論の事」は「珍物、異論を生ずるの事」と読む。
・「
・「寛政九年」西暦一七九七年。
・「
・「松平能登守」諸注は名を記さないが、美濃岩村藩第四代藩主松平乗保(寛延元(一七四八)年~文政九(一八二六)年)。当時は西丸若年寄で、後に老中となった。偶然と思われるが寛政九年は数え歳五十歳で、主人公の大前某と同世代であることが知れる。
・「山田宗周」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『山田宗固』とある。不詳。
・「東海寺地中淨惠院」は東京都品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派の万松山東海寺の塔頭浄恵院(現存)。ウィキの「東海寺」によれば、寛永十六(一六三九)年に徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建、沢庵を住職とし、沢庵禅師所縁の寺であるが、明治六(一八七四)年に寺領が新政府に接収されて衰退したとある。
・「
・「與へば」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『与へ置かば』とある。こちらの方が意味の通りがよいので、それで訳した。
・「
・「虞初新志」明末清初の張潮撰になる小説集。以下は巻十六にある(底本では全体が二字下げ)。「維基文庫」(中国語版ウィキ)の「虞初新志 巻16」から原文全文を引用しておく(一部の漢字を変え、カンマと「:」を読点に、読点を「・」に、「《 》」を鍵括弧に代え、「!」は句点に変えた)。
記桃核念珠
──高士奇(澹人)
得念珠一百八枚、以山桃核爲之、圓如小櫻桃。一枚之中、刻羅漢三四尊、或五六尊。立者、坐者、課經者、荷杖者、入定於龕中者、蔭樹趺坐而説法者、環坐指畫論議者、袒跣曲拳和南麵前趨而後侍者、合計之、爲數五百。蒲團、竹笠、茶奩、荷葉、瓶缽、經卷畢具。又有雲龍・風虎・獅象・鳥獸・狻猊・猿猱錯雜其間。初視之、不甚了了。明窗淨幾、息心諦觀、所刻羅漢、僅如一粟、梵相奇古。或衣文織綺繡、或衣袈裟水田絺褐。而神情風致、各蕭散於鬆柏岩石。可謂藝之至矣。
向見崔銑郎中有「王氏筆管記」雲、唐德州刺史王倚家、有筆一管、稍粗於常用、中刻「從軍行」一鋪、人馬毛發、亭台遠水、無不精絶。每事複刻「從軍行」詩二句、如「庭前琪樹已堪攀、塞外征人殊未還」之語。又「輟耕錄」載、宋高宗朝、巧匠詹成雕刻精妙。所造鳥籠四麵花版、皆於竹片上刻成宮室人物・山水花木禽鳥、其細若縷、而且玲瓏活動。求之二百餘年、無複此一人。今餘所見念珠、雕鏤之巧、若更勝於二物也。惜其姓名不可得而知。
長洲周汝瑚言、「呉中人業此者、研思殫精、積八九年。及其成、僅能易半歳之粟。八口之家、不可以飽。故習茲藝者亦漸少矣。」噫。世之拙者、如荷擔負鋤、輿人禦夫之流、蠢然無知、唯以其力日役於人。既足養其父母妻子、複有餘錢、夜聚徒侶、飲酒呼盧以爲笑樂。今子所雲巧者、盡其心神目力、曆寒暑歳月、猶未免於饑餒、是其巧為甚拙、而拙者似反勝於巧也。因以珊瑚木為飾、而囊諸古錦、更書答汝瑚之語、以戒後之恃其巧者。
張山來曰、末段議論、足醒巧人之夢。特恐此論一出、巧物不複可得見矣、奈何。
さて以下、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」の文政六(一八二三)年刊の画像を元に訓読を試みる(当該画像の36~38に該当)。一部の原文は先の「維基文庫」版と異なるが、特にそこは示さない(こちらの方が正しいと思われる部分ばかりである)。〔 〕は割注、〈 〉は私の補綴。訓点は分かり易い左の和訓を総て採ったため、一部の文脈がおかしい(漢文訓読と和訓の混在)のはお許し願いたい。
桃核の念珠を記す 高士奇〔澹人〕
念珠一百八枚を得、山桃の核を以て之を爲る。圓にして
向きに崔銑郎中、「王氏の
張山來〈りて〉曰〈く〉、「末叚の議論、巧人の夢を醒するに足る。特に恐る、此〈の〉論、一たび出て、巧物、複た見〈る〉ことを得べからざる、奈何せん。」〈と〉。
これは――凄い。神技に通ずることの難しさ、世の多くの拙なる、自称「業師」を退けつつ、これを語ることが、真の技芸者の滅亡をも促すという虞れを述べるこれは「小説」(下らない話)どころか――現代にも十分通用する、立派な文明批評である。
・「経進文稾」不詳。「文稾」は草稿の意であろう。識者の御教授を乞う。
・「高士奇」(一六四五年~一七〇四年)は清の文人政治家・書家。出身は浙江省平湖とされる。国学生(官僚候補生)として首都北京で科挙に臨むも合格出来ず、売文を生業とした。彼の作文揮毫した新年の春帖子(しゅんじょうし:立春の日に宮中の門に言祝ぎの春詞を書いて貼ったもの)が偶然に聖祖康煕帝の目にとまり、帝の特別の配慮によって約十日間で三度の試験を受験、それぞれ首席の成績で合格し内廷供奉(ないていきょうほう:宮中侍従)に任ぜられ、後、礼部侍郎(文部副大臣)に至る。没後、その功労をもって「文格」と諡号された。代表作に帝室書画に関する鑑賞録「江邨銷夏録」(一六九三年)がある(以上は遠藤昌弘氏の「臨書探訪31(48)」に拠った)。
・「櫻桃」このままなら文字通りなら、バラ亜綱バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属 Cerasus のサクラの実を指すが、先の左和訓の「ゆすらむめ」ならサクラ属ユスラウメ Prunus tomentosa を指す。実は「櫻」という漢字は本来はユスラウメを指し、実のなっている様を首飾りを付けた女性に見立てた象形文字であった。実は食用になり、かすかに甘さを持ち、酸味は少ない。サクランボに似た味がする(ユスラウメの記載はウィキの「ユスラウメ」に拠った)。
・「龕」仏塔。
・「祖跣」原文の「袒跣」の誤り。「たんせん」と読み、肌脱ぎして、裸足になること。
・「曲拳」体を深く屈して拳を隠すようにして礼をすること。
・「和南」先の左和訓で示されているように、合掌して礼拝すること。
・「趨り」は「はしり」(走り)と読む。
・「茶奩」は「ちやれん(ちゃれん)」と読み、茶箱。茶は仏家の霊薬である。
・「荷策」禪で用いるところの警策、策杖、大きな杖の意であろう。
・「瓶鉢」酒器。
・「畢く」「ことごとく」と訓ずる。
・「風虎」普通は前の「雲龍」とセットで四字熟語「雲龍風虎」として龍のあるところに雲の沸き起こり、虎のあるところには必ず風が吹き荒ぶという意から、同類相い呼ぶことを言うが。ここは一種の聖獣への尊称のように「雲」「風」を用いている。
・「獅象」「しぞう」か。獅子と象で大型哺乳類を後の「獸」から区別して示したものか、それとも単一の動物名か。識者の御教授を乞う。
・「戲猊」
・「猿猱」「猱」は「じゆう」と読む。岩波版の長谷川氏の注は、これをサル目真猿亜狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属 Hylobates のテナガザルを指すとするが、私は直鼻猿亜目オナガザル科コロブス亜科シシバナザル属キンシコウ hinopithecus roxellana と考える。その根拠は私の電子テクスト「和漢三才圖會 巻第四十 寓類 恠類」の「猱 むくげざる」の私の注を参照されたい。但し「猿」との熟語になっているから、猿一般を現わしているので、特に同定の問題はない。
・「梵相奇古」羅漢の図像は通常、胡人の、しかも奇怪な姿形をとるものが多く、それを「胡貌梵相」と言う。ここもそれと同じことを指していよう。
・「文織綺」「文織綺繡」の脱字。「文織」は綾織(斜文織。経糸・緯糸が三本以上から構成される織物)、「綺繡」(美しく色染めした織物)。
・「沓」「水田」の錯字。文政本は濁音と歴的仮名遣にあやまりがある。「みづあさぎ」が正しい。「水浅葱」「水浅黄」薄いあさぎ色、水色を指す。古代の羅漢の着服していた僧衣の色か。
・「絺褐」音は「ちかつ」。「絺」は葛の細い糸で織った布帷子、「褐」は布子、粗末な着物、麻衣の意。粗末な麻布の短衣を言う。
・「神情風致」「神情」は人の表情の意で、それが持つ味わいの意。
・「蕭散」静かでもの寂しいこと。禪家で尊重される境地である。
■やぶちゃん現代語訳(訓読文は誤りの少ないと思われる「近代デジタルライブラリー」の文政六(一八二三)年版の当該箇所を基準とし、我流の文字選び・再訓読を行ってある。その後ろに現代語訳を配した)
珍物が異論を生む事
大前何某が娘を他家へ嫁がせたが、その折り、その家の縁家の家僕が殊の外、骨を折って世話致いて呉れた故、大前より
ところが寛政九年の春のこと、かの家の家来が大前のもとへ参って、
「……実は……ご拝領致しました提げ物のことにつきましてで御座いますが……かの提げ物に附いて御座いましたところの……桃の実の緒締めについてで、御座います……その……拙者のところに松平能登守殿お抱えの医師山田宗周という者が訪ねて参りまして……たまたま拝領の桃の実の緒締めを見せましたところが……
『……仔細は申しかぬるが、かねてよりさる人に頼まれておったによって、どうか、一時、この緒締め、黙って貸しては下さるまいか。――』
と頻りに申します故、その乞いのままに貸しました。
ところが、その後、暫く致しまして、また、かの医師が参り……その……申し上げにくいことにては、御座いまするが……、
『……この緒締めに就きて、訳を申さば……かねてより、東海寺塔頭の浄恵院より頼まれて御座った、とあることによって、貴殿より借り受けた仕儀に御座る。……この根付……仔細を申さば……運慶が作にて……東海寺にては代々……十六羅漢を
とのことにて……殿様よりの賜わりもの故……一体……どうしたらよいものか途方に暮れまして……お伺いに参上致しました次第にて、御座いまする……。」
と申し上ぐるによって、大前殿、
「――あの桃の実の緒締めは、親の代より伝来の品にて、我、幼年の折りより五十年来、ずっと所持して参った物。東海寺から紛失したものじゃと言うによって、成程、左様か、――それは違う品なるは確かなれど、これで良ければ、なんどと安易に売り渡いたとなれば――これ、東海寺宝物の盗品を我らが買うて平然と
ときつく申し渡いて御座った。
代わりには後日、早速に、これまた高価な珊瑚珠の玉の紐締めをその者に与えて御座った故、家僕も恐縮致いて、まずは殿の名誉がためと、なんとか、かの医師に貸して御座った桃の実の緒締めを取り戻し、大前殿にお返し申し上げたとのことで御座った。
後日、大前殿は、
「……これは一体、如何なることにて御座ったろうかのう。……今以って、不思議なことにて御座るのじゃ。……」
と知れる人なんどに、この話の一部始終を語り、また、その最後には、
「……こうした提げ物は、世間に幾つもあるものなので御座ろうか?……」
と問うたもので御座った。そんな中の、さるお人が答えて言うたことには、
「――それはかの東海寺の坊主の無知によるもので御座る。こうした類いの細工、実に世には数多ある品じゃ。それを自分の寺の宝物の、十六羅漢の
とのこと故、大前も安堵に胸を撫で下ろした――とは、大前殿本人の語ったことにて御座る。
[根岸注:添付資料「虞初新志」より]
桃核の念珠を記す 経進文稾 高士奇
念珠一百八枚を得、山桃の核を以て之を
桃の
百八粒からなる念珠を得た。山桃の実によって創られたものである。一つ一つの種が全き球体であって小さな
*
初午奇談の事
寛政八年の初午は二月六日也けるが、其已前太鼓の張替抔渡世とせる
□やぶちゃん注
○前項連関:先の妖狐譚と軽く連関。……でも……これは一体誰で、何の目的だったのか……ホームズに真相の謎解きをして貰いたい欲求に駆られるのは、僕だけであろうか?……ただの愉快犯とは……どうしても思えない、というのが私の習性なんである……
・「寛政八年の初午」全国の稲荷社の本社伏見稲荷神社の神が降りた日が和銅四(七一一)年二月の初午であったことから、全国で稲荷社を祀る。和暦サイトで確認したが、寛政八年の初午は
・「穢多」平凡社「世界大百科事典」より引用する(アラビア数字を漢数字に、句読点及び記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって十七世紀後半から十八世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。一八七一年(明治四)八月二十八日、明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが,これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ,「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては,鎌倉時代中期の文永~弘安年間(一二六四~八八)に成立したとみられる辞書「
・「前田信濃守」前田長禧(まえだながとみ 明和二(一七六五)年~文化二(一八〇五)年)は、江戸時代の高家旗本(高家は幕府の儀式や典礼を司る役職で朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があることから武家としては高い官位を授けられた)。安永九(一七八〇)年に高家職に就き、従五位下侍従伊豆守、後に信濃守。
・「貮百疋」既出であるが、一般には一貫=一〇〇疋=一〇〇〇文であるから、二〇〇〇文。平均的金貨換算なら三万三千円ほどになる。因みに、現在、和太鼓の皮は牛皮を用いるが、ネット上の一頭分販売価格(張替価格ではなく太鼓の皮用の単品)で六万円を超え、張替となると、ある業者では二尺のサイズ両面張替二十八万三千五百円とある。稲荷の太鼓で、その場で渡せる大きさだから小さいものとしても、それでも一尺四寸もので十二万六千円である。
■やぶちゃん現代語訳
初午奇談の事
寛政八年の初午は二月六日で御座った。
それより少し前のこと、太鼓の張替なんどを
さても請け負うたかの者、頼まれた日限までに――聞くところによると、それは初午の前日で御座ったらしい――太鼓の皮、しっかと張り替えた上、かの前田殿が御屋敷へと参上致いた。
「――又左衛門と申されるお方より、誂えるよう承りました太鼓の皮張り替え、出来申して御座りまする――」
と門番に言上致いた。
……が……
……どうも……おかしい……
……仔細を訊ねた門番……御家中に又左衛門某なる用人は確かに御座る……御座るが……どうもかの者に皮張替を依頼した人物の、その年格好なんどを聴くに……その者の申すのとはえろう
そうこうするうちに、御家中の者どもが集まって来、皆して、
「……それにしても、よう分らんことじゃ……」
「……ともかくも、屋敷内の稲荷の太鼓じゃて……」
「……そうじゃ、まずはそれ、改め見ようと存ずる……」
ということに相い成り、屋敷内の稲荷の社を探いてみたところが……ちゃんと納めて御座ったはずの太鼓、これ……
……ない……
皆々、
「……いや、確かに長く破れ古びた太鼓にては御座った……」
「……それが、その……新しくなって戻ったとは……」
「……こりゃ、いっかな……不思議なることじゃ……」
と口々に申して御座った。
かの者の申し受けた値段は二百疋ちょっきりで御座ったが、かの者も、
「……へえ……かくなれば……不思議なることなればこそ……」
とて、言い値を引いて、えらい安うに手を打った、とのことで御座る。
――さても狐なんどの仕業か――はたまた実は、その穢多の謀ったことか――いや、或いは前田家御家中の中の悪戯好きの家士の仕儀ででも御座ったか――一向に分らず仕舞いで御座ったそうな。
*
産物者間違の事
或人三年酒を德利に入て仕廻忘れしに、七八年其餘も立て、藏の掃除などに取出せしに、德利もわれ何か底に殘りし一塊の有しを、人々よりて何ならんと疑ひし上、右一塊を奇麗にとり分て、事を好む者
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせないが、強いて言えば、ある意味、誰にも大きな損害を与えぬ怪しき騙りという繋がりはあるか。最後の「微笑」が――いいね!
・「産物者」学者。博物学者。
・「三年酒」一般に落語などで聞く「三年酒」は飲んだら三年目覚めないという都市伝説の秘酒であるが、ここは今流行りの古酒、三年寝かせた日本酒である。
・「何か底に殘りし一塊」三年酒の腐敗後の酒精滓か。有意に有形の固形物であるなら、何らかの外力によって徳利が割れて酒が流出するも、まだ幾分かが底部に残っていた折りに、破損個所から侵入した小動物(比較的大型の昆虫や節足動物・トカゲのような小型爬虫類・鼠の子のようなものが考えられる)が、そこでそのまま死亡し、乾燥したものと考えられる。最初はアルコールによる一種の液浸標本のようになり、その後にゆっくりと乾燥したと考えると文字通りの「ミイラ」で面白い(ここでの「ミイラ」は後注するように、所謂、生物体のミイラではないが)。
・「淸壽館」「躋壽館」が正しい。幕府の医学専門学校。現在の台東区浅草橋清洲橋通りにあった。明和二(一七六五)年、幕府奥医師多紀元孝(元禄八(一六九五)年~明和三(一七六六)年)が漢方医教育のために神田佐久間町に建てた私塾躋寿館を元とし(没年を見て分かるように創立の翌年に多紀は亡くなっている)、寛政三(一七九一)年に、医師養成の必要性を認めた幕府が官立の幕府医学館とした。台東区教育委員会の記載によれば、敷地約七千平方メートル、代々多紀家がその監督に当たり、天保十四(一八四三)年には寄宿舎を増設して全寮制となり、広く一般庶民からの入学を許可、江戸後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献したとある。――さすれば、この記事、その最初期の(官立になってからと考えた方が面白い)、その象牙の塔の誉れに、少しばっかり、ちゃちゃを入れるものとして、面白いではないか。そうした敷衍訳を試みた。
・「ミイラ」先にも記したが、これは所謂、「ミイラ」ではなく、ああした「ミイラ」を原料にして作られたと考えられていたフウロソウ目カンラン科コンミフォラ(ミルラノキ)属
Commiphora の樹木から分泌される樹脂を原料とした「没薬(もつやく)」を指している。ウィキの「没薬」によれば、没薬とは、ミルラ(あるいはミル、Myrrh)とも呼ばれ、『ミルラも中国で命名された没薬の没も苦味を意味するヘブライ語のmor、あるいはアラビア語のmurrを語源と』しており、『古くから香として焚いて使用されていた記録が残されている。
また殺菌作用を持つことが知られており、鎮静薬、鎮痛薬としても使用されていた。 古代エジプトにおいて日没の際に焚かれていた香であるキフィの調合には没薬が使用されていたと考えられている。
またミイラ作りに遺体の防腐処理のために使用されていた。 ミイラの語源はミルラから来ているという説がある』とする。『聖書にも没薬の記載が多く見られ』(具体はリンク先を参照)、『東洋においては線香や抹香の調合に粉砕したものが使用されていた』とある。形状は『赤褐色の涙滴状』の固まりで、『表面に細かい粉を吹いたような状態となる』とあり、リンク先の画像を見る限りでは、本件は徳利が割れた際に外部から雑菌や異物が入って腐敗が進行、その沈殿物が後にまた時間をかけて乾燥固形化したものという風に考えた方がよさそうだ。
■やぶちゃん現代語訳
博物学者誤認の事
ある人、三年酒を徳利に入れて大事大事に箱に
さて、七、八年も経って、蔵の大掃除なんど致いたところ、見つけて箱から取り出だいて見たところが、徳利は割れて仕舞うて酒はとうに一滴たりと残ってはおらず――ただ、その乾き切った、もと徳利の底と思しい辺りに――何やらん、得体の知れぬ――塊りが一つ――御座った。――
家内の人々、打ち寄って、
「……何じゃろ?……」
と、皆して矯めつ眇めつするも――分らぬ。――
さて、ここにある悪戯好きな男が御座った。
彼、この異物を、当時の天下の
……居並ぶ医師ども……
……額に皺寄せて頻りに論議致いて御座ったが――
「――よく精製されたところの、所謂、ミイラと同定される。」
と決し、定式標本として恭しく箱に収められ、
――上品 木乃伊――
と記した標札を添附の上、医学館の棚に飾られることと相い成ったそうな。――
かの三年酒の元の持ち主、これを聞いて微苦笑した――と、ある人の語った、ということで御座る。
*
又
近き頃産物者の判斷にて鐵木也とて、眞黑に至て堅き物の長さ五六寸にて四五寸廻りの物を所持せし人あり。いづれ奇品
□やぶちゃん注
○前項連関:「博物学者誤認の事」その二。
・「鐵木」「鉄刀木」と呼ばれたマメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサン Senna siamea のことと思われる。東南アジア原産で、本邦では唐木の代表的な銘木として珍重された。材質硬く、耐久性があるが加工は難。柾目として使用する際には独特の美しい木目が見られる。他にも現在、幹が鉄のように固いか、若しくは密度が高く重い樹木としてテツボク(鉄木)と和名に含むものに、最も重い木材として知られるキントラノオ目科セイロンテツボク
Mesua ferrea・クスノキ科ボルネオテツボク(ウリン) Eusideroxylon zwageri・マメ科タイヘイヨウテツボク(タシロマメ)Intsia bijuga が確認出来るが(これらは総て英語版ウィキの分類項目を視認したものだが、どれも種としては縁が遠いことが分かる)、これは英名の“Ironwood”の和訳名で、新しいものであるようだ。
・「あらめ」褐藻綱コンブ目コンブ科アラメ Eisenia bicyclis。種小名の bicyclis は「二輪の」で、本種の特徴である茎部の二叉とその先のハタキ状に広がる葉状体の形状からの命名である。かつては刀の小刀の柄として用いたほど、付着根とそこから伸びる茎部が極めて堅牢である。太平洋沿岸北中部(茨城県~紀伊半島)に分布し、低潮線から水深五メートル程度までを垂直分布とする。茎が二叉に分かれ、葉状体表面に強い皺が寄る。似たものに、カジメ Ecklonia cava とクロメ Ecklonia kurome があるが、カジメは太平洋沿岸中南部に分布し、水深二~十メートルまでを垂直分布とし、茎は一本で上部に十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るものの、葉の表面には皺が殆んどない点で区別出来、クロメは、カジメよりもやや南方に偏移する形で太平洋沿岸中南部及び日本海南部に分布し、垂直分布はカジメよりも浅く、二種が共存する海域では、カジメよりも浅い部分に住み分けする。茎は一本で上部にたはり十五枚から二十枚の帯状の葉状体が出るが、葉の表面には強い皺が寄っている。また、乾燥時にはカジメよりもより黒くなる。但し、クロメの内湾性のものは葉部が著しく広くなる等の形態変異が極めて激しく、種の検討が必要な種とされてはいる(以上の分類法等は二〇〇四年平凡社刊の田中二郎解説・中村庸夫写真の「基本284 日本の海藻」に依った)。以上は、私の電子テクスト、寺島良安の「和漢三才圖會 卷九十七 藻類 苔類」で私が注したものを省略加工して示した。よろしければそちらも参照されたい。
■やぶちゃん現代語訳
博物学者誤認の事 その二
最近のことにて御座る。
学者の鑑定によって「鉄木――銘木タガヤサン――に間違いなし」とされた――漆黒・材質極めて堅牢・全長十五~十八センチメートル・周径十二~十五センチメートル――品を所持して御座ったお人があった。
何れ、世にも稀なる奇品なりと、机上に厳かに飾り置いて大事にしておったところが、ある日のこと、家に召し
「……あのぅ……だんなさん……これは……はあ、まあ、こんなもんを……どうして、こんなに大事になさって、おられるんか、のぅ?」
と訊ねる故、田舎丸出しの無知なる
「――これは、の――鉄木と言うて、の――世にも稀なる、
と言うた。
――と――
それを聞くなり、婢女、大いに
「……だんなさん!……おいらの国ににゃ、こんなもん、いくらもあるじゃ!……海ん中のアラメの根えで、食いもんにもなんねえから、いっとう先に捨てっ、ちまうじゃ!――」
と申した。……
……永きに亙って重宝なりと大切にして御座った、奇品にして稀品のはずの『鉄木』が――これ、一瞬にして愛玩の情失せしとは――これ、実におかしきことじゃ。
*
不義の幸ひ又不義に失ふ事
予が元へ來れる者語りけるは、當春
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。但し、十七話前の「鯛屋源介危難の事」の構成類型譚で、あちらの穢多に対する誤った身分差別の意識が、ここではハンセン病の誤解と偏見に満ちた病者差別となっているもので、今の我々の感覚からすると如何にも不快な設定ではある。差別批判の視点を忘れずにお読みになられたい。なお、この主人公や同業者の職業については、「鹿島の事触れ」が最も近いように私には思われる。これは、古く毎春に鹿島神宮の神官が鹿島明神の御神託を触れて回ったことに由来する商売で、ニセ神官が吉凶・天変地異などの偽神託を触れ歩き、偽物のお札やまじない・祈禱などを生業とした者たちである。――最後に。――私は現代語訳で、女と過ごした「一兩日」を思い出すに、本話の主人公である話者の男に『何やらん、幸せで、御座いました』と勝手に言わせた。――この話の後半部は脱出に成功した/してしまった「砂の女」の主人公の話としても読める。――いや、そんなことはどうでもいい……私は……この話の最後に……彼は実は……かの村の女を哀れと感じている……と読みたいのである。……いや、私は……今の彼の毎日の朝夕の「祓」さえも……実は……あの三日の間だけ、
・「(不付合せも有るものにて、去年の事なるが、いづ方の者に候や女人、富家の井戸へ入りて死せしを、内々にて取出し寺へ葬りしに、當年)」及び「(大きなる)」の括弧の右には、『(三村本)』と傍注する。これは旧三村竹清氏本(現在の日本芸林叢書本)によって補ったことを示す。「不付合せ」は「不仕合せ」の誤りで「ふしあはせ」=「不幸せ」であろう。私は、かの酒蔵の主人は、何かと面倒であるから、この女性変死事件を公にせず、「内々にて」――狂乱して入水した変死人としてではなく、恐らくは普通の路傍の行路死病人扱いとして――秘密裏に自家の檀那寺の無縁仏として葬ったものと推定する。そして、後の詐欺部分から推して、それをこの村の同業者は、極秘に情報を得ていたと考えるのである。そうでないと後の詐欺がそんなにうまく行くはずはないからである。そこで現代語訳では、私の推測する背景プロットを出してある。翻案ぽくなったが、この方が無理なくお楽しみ戴けるものと確信するものである。――それにしても――この前半の狂い入『水』した女は、実は後半の薄幸の癩病――生きながら業『火』に焼かれるとされた――筋の女と、奇しくも妖艶にしてシンボリックな額縁をなしているように感ぜられるのは、私の深読みであろうか?
・「桶川」現在の埼玉県桶川市。中山道桶川宿。
・「黄土の砥の粉」粘土(黄土)を焼いて粉にしたもの。刀剣の磨き粉・木材塗装・漆喰下地・目止め・漆器の漆下地等に用いた。ただ、これでは井戸の水は「紅」にはならないから、本来は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の当該箇所にあるように『
・「何卒右富家」底本「右」は「石」。訂した。
・「手の内」乞食や托鉢僧・大道芸人などに施す金銭や米。
・「
・「
・「設けし金子」底本では「設」の右に『(儲)』と傍注する。
・「癩病」「癩」は現在はハンセン病と呼称せねばならない。抗酸菌(マイコバクテリウム属 Mycobacterium に属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種であるらい菌(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法らい予防法が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。ハンセン病への正しい理解を以って以下の話柄を批判的に読まれることを望む。寺島良安の「和漢三才図会卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の項ではこの病について『此の疾ひは、天地肅殺の氣を感じて成る惡疾なり。』と書いている。これは「この病気は、四季の廻りの中で、秋に草木が急速に枯死する(=「粛殺」という)のと同じ原理で、何らかの天地自然の摂理たるものに深く抵触してしまい、その衰退の凡ての「気」を受けて、生きながらにしてその急激な身体の衰退枯死現象を受けることによって発病した『悪しき病』である。」という意味である。ハンセン病が西洋に於いても天刑病と呼ばれ、生きながらに地獄の業火に焼かれるといった無理解とした同一の地平である。因みに、マムシはこの病気の特効薬だと説くのであるが、さても対するところこの「蝮蛇というのは、太陽の火気だけを受けて成った牙、そこから生じた『粛殺』するところの毒、どちらも万物の天地の摂理たる陰陽の現象の、偏った双方の邪まな激しい毒『気』を受けて生じた『惡しき生物』である。」――毒を以て毒を制す、の論理なのである――これ自体、如何にも貧弱で底の浅い類感的でステロタイプな発想で、私には実は不愉快な記載でさえある。――いや――実はしかし、こうした似非「論理」似非「科学」は今現在にさえ、私は潜み、いや逆に、蔓延ってさえいる、とも思うのである……。
■やぶちゃん現代語訳
不義なる幸いで得たものを再び不義によって失のう事
私の元へよく訪ねてくる者の語ったことで御座る。
今年の春のこと、彼の人が召し使って御座った下僕は――桶川辺りの出の者にて――朝夕、神道のお祓いなんどを、如何にもつきづきしゅう、欠かさず成して御座った故、その出自を問うたところ、桶川宿にある神社の神官の次男坊であったが、不行跡にて親元を追い出され、鈴を持っては、諸国を修行なんど致いて御座ったとのこと。……その放浪の折りのことである……
……そんな当てどない旅の途中、同じような身過ぎの者と道連れになり、
「いっそ一緒に修行せんがよかろうぞ。」
と、意気投合致しまして、連れ立って各所を徘徊致いておりました。……
と、とある村にて、また
「……この辺りにゃ、祈禱なんど、頼むような奇特なお人ももはや、御座らぬかのぅ?……」
と話を向けると、その村の騙り神官の申すことにには、
「……とんと金蔓になりそうな富裕の手合いにゃ、心当たりはなけれども……そうさの、この村から半里ほど参ったところじゃが……酒造りなんど致いて、随分と、裕福な御仁が御座るぞ。……そういやぁ、気の毒なことに、よ――去年のことじゃが――どこぞの馬の骨とも分らん女が一人……気の狂うてか、その豪家の井戸へ飛び込んで死んだを……面倒なことなれば、
と、それを聴いた、かの相方、
――パーン!――
と膝を打って、
「それこそ――渡りに舟――というもんじゃい!」
と叫ぶや――かの屋の男に米の二、三升も飯に炊かせ、
「……どうか一つ、こいつらをな……その豪家の井戸へ……ぽぽぽい、ぽいっと……投げ入れて来て呉れんか、の……」
と指図致いておりました。……
さて、その翌日のこと、私とその相方、そうしてその村の同業のニセ神官と三人同道の上、かの酒造り屋形の
「――高天原にィ!――神、
「――八卦ェ!――占いィ!――」
「――お好み次第ィ!――」
なんどと、何時もの調子で呼ばはれば、かの屋形の内より老人が一人出でて参りまして、我らに施し致いた上、
「……さても……一つ……
と話しかけた途端、相方、
――ザッ!――
と老人が表の正面に右掌を差し出だし――老人が原因不明の酒の腐ったことを語り出さんとするを――食ってとどめ、
「――我ら占いは――その
と老人を黙らせる。
……と、さても、やおら算木・筮竹を取り出だし、
――タ! ターン!――
――ジャラジャラ! ジャラン!――
……と、これまた、まことしやかにあれこれ並べ替えては、数えなど致いて……暫く考えておる――振りを致いて――おる。
そうして、徐ろに、
「……さて貴殿は『
と美事な演技で言い放てば、老人、慌てふためいて、屋敷
「……ど、どうか! な、なっ、なおも、吉凶、占うて、下されぃイ!……」
と喉から声を絞り出して懇請する……
……相方はといえば……相変らず落ち着き払って、今度はさらに厳粛に、
「……『去年』の頃――『人』?――人ならば――恐らく――『女』――か――女が――『井戸へ落ちる』のが――見える……その女の『死骸』も見える……『北』――ここから北の方へ――その遺体はそこに貴殿が手厚うに葬られた――はずで御座った……が……待て!?……未だ……未だその井戸に……かの女の執心――これ、残って――見えるぞ!――見える!――『水』の――『水の色』が常ならぬ!……それじゃ! その井戸の水の変じるが如、酒も女の執念によって変じた! 腐ったのじゃッ!……」
とまたしてもまことしやかに申せば、一同、いよいよ驚愕、叫喚、一人残らず地に這って、我等ら三人を礼拝致いておりました故、すかさず相方が、
「……これは先ずは……とくと祈禱にてもお上げになられずんば……なおなお……禍根……これ、残しましょうぞ!……」
と申す故、誰ぞが――それは、今考えれば、かの村の同業者でも御座ったか――
「先ずは、井戸の方を改め見ん!」
と呼ばわるに、行って汲み上げて見れば……水の色……これ、まっこと……血の如く……赤こう……染まっておりました。……
……なればこそ、老爺は、
「……な、な、何分! どど、ど、どうか!……ね、ねっ、懇ろなる御祈禱、こ、これ、成したまえッ!!」
と頻りに願うので御座います。すると、やおら相方は、
「……然らば……お屋形
と、ちゃっかり概算の全祈祷料なんども示して契約致しますと――さてもその宛がわれた大広間に三人して――籠りました――
――供物なんどもふんだんに供えさせ、三人してふんだんに食い――
――高価な五色の木綿を四方に張って、外からは見えぬように致し――
――昼夜、三人、代わる代わる鈴を振って、残りの二人は――喰う――寝る――遊ぶ――
――それとはまた別に、この三日の間は正式の饗応も御座いました故――
――山海珍味の品々馳走――
加えて
という仕儀にて……井戸の水も即日に汲み替えを命じておきましたによって……そう、三日目の朝には、すっかり元のきれいな水に戻っておりました。……
四日目の朝、我らは、
「――これにて最早――愁い、御座らぬ――」
とかなんとか、殊勝に申しまして――
――祈祷料金十両の御礼――
――加えて褒美の、三人それぞれ木綿五反ずつ――
を申し請けて、まんまと、かの家を悠々、退去致いたので御座います。……
十両は三つに山分け致しました。
その後すぐ、他の二人は、その金子を博打場なんぞですっかり使い果たしてしまい、また私にも
「我らと同なじように――遣っちめえな。」
と、しきりに勧めましたが、私は勝負事は不調法なれば、断わりました。
「――ままよ――こうして得た銭は悪銭の泡く銭じゃて――きれいさっぱり使い果たすが、身のため、だ、ゼ――」
としつこく勧めるのですが、
「……いや……それじゃ、せっかくの金子……余りに、無益なこととなる。……」
といっかな従わずにおりましたところが……何やらん、二人はいたく気分を害した様子にて……いえ、はっきり申せば、かの二人……私の金子を
さて、私めはその三両を懐中に致いたままに、また気儘なる諸国行脚の旅に出でました。
それから、そう日も経たぬ、ある日のことで御座いました。
とある村里に辿り着いたところが、日も暮れかけておりましたに、泊まれそうな家もござらず、暗くなった中、
「――日暮れて難儀なさっておられるのであらば――よろしければ――お泊り下さりませ――」
と申しますによって、言葉のまま、
「
と申して、一泊致しました。――
翌の日も雨が降っており、女は、
「――お留まりなさいませ――」
と申しましたが、流石に、
「……女子の一人住まいなれば……如何なものかと……思うて御座れば……」
と言い澱んでおりましたところへ、女の知り合いと思しい一人の老人が訪ねて参り、
「――何んの。何の不都合が御座ろうか。留まられるがよかろうぞ――」
と、やさしゅうにこれも勧め下さる故、その親切に甘えまして……その翌日は流石に雨の上がって晴れましたが、かの村里を中心にその近辺を渡り歩いて、貰い請けた米や銭を携えて女の家へと帰ってみると――
――かの女はその米をありがたくおし戴き――
――銭も神仏に祈願致いて仕舞い置き――
――米をかいがいしく炊き――
――ともに食い――
――ともに語り――
――ともに笑うて……
……そんな……そんな私に向ける……
――その眼――
――その仕草――
――その表情……
……これ……もう……女房も同然にて……私もあたかも……夫のように……
……何やらん、幸せで、御座いました……
……思わず、丸三日も止宿致いて御座ったのです。……
ところが、その翌朝のことでした。
村方の者と思しい、十四、五人の者が、
――ザザッ!――
とこの家を取り巻き、最初に訪ねて御座った老人が私の前に進み出でて、
「……お主……若き女の一人住まいのところに……三、四日止宿致いた上は……ここの――婿――となって棲み家と定めよ!――」
と打って変わった
「……い、いえ……そ。そ、その……わ、我らには、こ、故郷に……つ、つ、継ぐべき家も、ご、御座ればこそ……い、何時かは帰らねば、なりませぬ、み、身の上にて……こ、ここには、と、とてものこと……と、留まること、で、出来にくう、ご、こ、御座いますれば、こ、こそぉ……」
と申しましたそばから、
「――何じゃとぅ!? 然らば――いたいけな
と、突如、老人は怒って、口汚く罵り、さんざんに責め立てましたが、私は遂に、承知致しませなんだ。……
「ようし! 分かった! 然らば! 皆の者! この男!
と、知らぬ間に膨れ上がって御座った村人らが、大勢で私をとり囲んで、散々に、
――殴る
――蹴る
――
――叩く
――逃げんとするところを取り押さえられて……
――身ぐるみ剝がれ……
――懐中の金子も……ビタ一文残さず奪い取られてしまいました。……
……そうして……そうして、お恥ずかしい……お目こぼしの
……それでも……その村里を……
……半死半生の状態から、やっと生気を取り戻いて、かのお助け頂いた方に、これまでの事を、かくかくしかじか、お話申し上げましたところ……
「……お前さん……お前さんが泊まったという、その家は……この辺でも知られた、癩病筋の、家じゃ……癩がために残らず死に絶え……かの娘一人が、生き残っておる家じゃによって……村の者どもも、かの娘を哀れに思うて……婿を取ってやろうといろいろ致いたのじゃが……この近郷近村にては……かの筋は最も忌みきらわれるもので、の……かの家のことも……もうすっかり知れ渡って御座ったれば……
と……語って下さいました。……
……ええ……私も、ひどく驚きまして……それよりすぐ……逃げるように江戸へ出で……かく、奉公させて戴いておりまする次第にて……御座いまする……
★補遺――教え子からの本作及び本翻案訳への感想――
[やぶちゃん注:以下は、二〇一二年六月十九日夜七時四十二分の本作のブログ公開(ほぼ同時にフェイスブックのウォールへも投稿)の凡そ四時間後、その日の終わる十九日深夜十一時三十五分に「感想」という題名で私にメールでもたらされた、私の最初期の教え子にして秘蔵っ子であるT.S.君の文章の全文である。私にはあまりに過褒であるが、彼の文章は私の拙訳への批評という性質を遙かに超えて、彼自身のオリジナルな達意の文として美しい。私は私だけがこの美しいものを読むのが勿体ないと思うている――さればこそ、ここに勝手に公開させて貰うことにした。]
――――――
先生、感想を申し上げます。フェイスブックでなく、Eメールでのご返事、お許しください。
先生は、主人公の男が村の女を哀れと感じている、と読んでおられます。私も全く同じです。それ以外にはあり得ないと感じます。どうしても忘れることのできないその三日間の記憶。儚く哀しい夢のような面影。その男はなぜ地道に奉公しながら、けなげにも朝夕の勤めを怠らないのか。それは、心を去ることのないあの女の姿が、彼を駆り立てるからに他ならないから。その上でまたこうも感じます。捨て切れぬ現実があったからこそ逃げて来ましたが、もし袋叩きに遭ったあの時、男が決心できていたなら、その家に残り、夢のような三日間を、そのまま生身の人間が享受する現実として固定させてしまうというのも選択肢にあったはず。しかしそうすることはできなかった。なぜなら、それほどまでの自らの “投企”というのは、人間は滅多なことでできるものではないから。今、彼は自分が行った選択を悔やんではいないけれど、そして正しかったと信じているけれど、もしそういう決心をしていたら……という夢想をせずにはいられない。そして、いや自分の心にそんな隙があるからこそ、女の姿は今でも、まじめな彼の行動や生き方を縛り続けるのでしょう。少なくとも昔語りをする時点では、男は彼女を、もうほとんど生身の現実の肉を持った存在として捉えていないかもしれない。ひとつの懐かしいもの、極言すれば、永遠の女性とでもいうような、ある母なるものに昇華してしまっていたかもしれないと感じます。
先生は、冒頭数行で、早くも文章を主人公の男の独白として翻案されています。これは素敵です。文楽をご覧になった頃から、先生の文体は大きく変わりましたね。主人公の男には、やはり先生の書かれたように、是非とも伝統的な「語り」の日本語の力で、自分の人生を縛り付ける、苦しい、しかしかけがえのない甘美な過去を、物語ってもらわなくてはなりません。先生の翻案を読んでいると、私は文楽の様々な頭が瞼に浮かびます。また同時に、この話を能にしたらどんなだろうとも考えます。若い女にはどの面がふさわしいだろう……。そしてまた、こんなことも思います。あの先生の遺書のような語り口で、彼に過去を独白してもらったらどんなだろう。この怪しい発想には、自分でもちょっと背筋が寒くなりました。
主人公の男に、私は自分自身の姿が二重映しになります。井戸に落ちて死んだ女と、村の女も二重映しになります。死んだ女の記憶は無意識の水底に沈み、その水面に村の女の面影がはかなく揺らいでいます。
――――――
*
魔魅不思議の事
或る人の語りけるは、小日向に小身の御旗本の二男、いづちへ行けん其行形をしれず。其祖母深く歎きて所々心懸けしに終に
□やぶちゃん注
○前項連関:私にはある強烈な連関を感じさせる。それは……かの癩病筋の家に生き残った女人と別れて俗世へ帰還した男の眼差しと、この失踪してたまさか姿を現わした次男の眼の輝きの中に――不思議に共通したあるペーソス(哀感)を感じるからである。……
・「魔魅」人を
・「本郷兼康」現在の文京区本郷三丁目南側の東の角にあった雑貨店。現在は少し位置を動かしたが「かねやす」として現存する。以下、ウィキの「かねやす」より引用する。『「かねやす」を興したのは初代・
・「其事なく過ぎ侍る」底本「其事なく過き侍る」。訂した。
・「(老にや……老耄の沙汰は止みしとなり。)」部分は底本に三村本からの補綴を示す右注記あり。
・「
■やぶちゃん現代語訳
魔界の不思議の事
ある人の語った話で御座る。
小日向に住む小身の御旗本の次男、一体、どこへどうしたものやら、行方知れずとなった。
その祖母、深く嘆いて、いつも方々に心懸けて捜し廻って御座ったれど、遂に何の音沙汰も御座らなんだ。
ところが――
ある日のこと、その祖母自身が本郷兼康の前にて……
――ぱったり――
「……!……いったい!……どこへおいでたえ?……」
と、あるいは嘆き、あるいは𠮟り、さらに尋ねたところ、
「……されば、皆様には多大なる御心配をお掛け致しおること、これ、まっこと、恐れ入って御座いまする。……なれど、今にては、我らも難儀なることものう、身過ぎ致いて御座いますればこそ。……どうか、ご案じめさるな。……実家へも立ち帰り、皆様にもお目にかかりたく思うはやまやまなれど……かく致いては……我が身のためにも、あらゆる人々のためにも……これ、よからざることにてあれば……結果、今まで打ち過ぎて参りました。……かくして……
と立ち去らんとするを、祖母、
「お待ち!」
と、孫の袖取って引き留めた。
細きたおやかなその
「……
と言うて、雑踏の中に――姿を――消した……。
家へ立ち戻るや、かの祖母、かくかくと今日の出来事を話いたものの、
「……
と、家内には、
なれど、約束のその日になったれば、
「孫は確かに言うたによって、必ず浅草へ参ります!」
と聞かず、従僕一人をめし連れて観音境内の念仏堂へと参詣致いたところ……
――果たして――約束通り――かの次男がやって参った……
「……
と優しゅう語って聞かせた。……
……その連れにてもあったものか、奇体なる老僧なんどのそれとなく付き添うておるようなる者が一人、念仏堂の近くにて、うろついて御座った……
……が……ふと気付けば……かの孫は……かの老僧と人ごみの中へと紛れ……そのまま……
召し連れておった小者も、祖母とかの次男との最後の邂逅の様は一から十まで見申し上げ、かの
聞く者、皆、
「……かの失踪……これ、天狗、というものの、仕業にても、あろうか?……」
と噂致いた。
祖母耄碌という風評は、これにて家中にては絶えた、とのことで御座る。
*
怪刀の事
松平右京亮寺社奉行にて
□やぶちゃん注
○前項連関:天狗の魔界から妖しき魔刀へ。
・「松平右京亮」松平輝和(まつだいらてるやす 寛延三(一七五〇)年~寛政十二(一八〇〇)年)。上野国高崎藩第四代藩主。寺社奉行、大坂城代。松平輝高次男。天明元(一七八一)年、家督を継ぎ、奏者番から天明四(一七八四)年から寺社奉行を兼任。寛政十(一七九八)年、大坂城代となっている。
・「先代」文字通りの先代なら第三代藩主松平輝高であるが、これは自然に読むなら三代前で初代藩主松平輝規(まつだいらてるのり 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のことであろう。
・「家賴」底本には右に『(家來)』の傍注を附す。
・「(其後代替り有て改見しに、大原ノ安綱大同二年トアリ、彼家士海老原文八と語り)」底本には右に『(尊本)』と、尊経閣本による補綴を意味する傍注がある。因みに、唯一の全十巻完備本である岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には、この( )部分は存在しない。更に底本では最後の『語り』の右に『(ママ)』注記がある。これは内容と記載から見て、遙か後日になっての記載であり、根岸本人による書き込みでない可能性も高いものと思われる。
・「代替り」を次代とするなら第三代藩主松平輝高三男(輝和の弟)で老中ともなった高崎藩第三代藩主松平輝延(安永四(一七七六)年~文政八(一八二五)年)ということになるが、根岸以外の者による記載ならば、その後の代かも知れない。私は根岸以外の者の記載と採って訳した。
・「大原ノ安綱」(生没年未詳)は平安中期の伯耆国大原の刀工。大原安綱とも称した。以下、参照にしたウィキの「安綱」に、『安綱は伯州刀工の始祖といわれる。山城国の三条宗近などとともに、在銘現存作のある刀工としては最初期の人物の一人である。伯耆国の刀工である大原
・「大同二年」西暦八〇七年。事実なら、作中内時間なら寛政九(一七九七)年まで九九〇年で、検分された時には一〇〇〇年が有に経過している。松平家伝来とするならまだしも、こりゃ足軽の持った打ち物としては、如何にも嘘くさい。
・「海老原文八」不詳。
■やぶちゃん現代語訳
怪刀の事
寺社奉行であられる松平右京亮
同人御屋敷に三代前より箱に入れて土蔵の棟木の上に載せ上げ置いて御座る刀があると……。
右京亮輝和殿の先代初代藩主輝規殿が親しく
本人も――そもそもが就寝後のことにて、端の者どもも詐病でなきことは請け負うて御座ったれば――まっこと不思議なことと、ある時、かの足軽、常時帯刀して御座った刀――普段、就寝の折りには枕元に置いて御座ったもの――を、たまたま枕元ではのうて、外へ片づけて横になった――と――周囲の同輩の足軽どもが――気づいた。――
――かの男、全く以って――
――魘されておらぬのである……。
翌日、同輩の一人が本人に告げた。
「……これ、全く以って、かの刀の
そこで、試みに、次の晩はかの刀を枕元に置いて寝る――夜伽して御座った同輩の前で――またぞろ、かの男は前の如くに魘され始めた。……
以上の訳を皆して上方へ申し上げ、主人輝規殿へご報告申し上げた。
その後、輝規殿――代わりの刀と引き換えに、かの刀を足軽より召し上げられた上――かの妖刀を――土蔵の棟木の上へ載せ置かれ――そのままずっと据え置かるるようになった、申し伝えられて御座るそうな。
右京亮殿談――
……一体、如何なる刀かと、拙者も検分致さんとせしが、
「敢えてただならぬ変事の起こるを殊更に好むに似たり。」
と家来どもも、平にと押し止めるが故、そのまま、打ち過ぎて未だに、かの打物の影も見たことは御座らぬ。……
[後日、本書を書写せる者の附記]
後日談として、その後、高崎藩主代替わりがあって、当時の藩主が土蔵の棟木より降ろさせて検分したところ、『「大原ノ安綱大同二年」の銘があった』と、私の知人である、かの高崎藩藩士海老原文八なる者が語った、ということを参考資料として、ここに記しておきたい。
*
又
小田切土佐守は
□やぶちゃん注
○前項連関:妖しき刀剣二連発。
・「小田切土佐守」小田切直年(寛保三(一七四三)年~文化八(一八一一)年)。旗本。参照したウィキの「小田切直年」に、『田切家はもともと甲斐武田氏に仕えており、武田氏滅亡後徳川家康の家臣となって近侍したという経緯を持つ。直年の頃には』凡そ三千石の知行地を拝領していた、とある。明和二(一七六五)年、二十三歳で西ノ丸書院番となり、その後使番・小普請、駿府町奉行・大坂町奉行と遠国奉行を歴任した後、寛政四(一七九二)年に五十歳で江戸北町奉行に就任、文化八(一八一一)年に在職のまま六十九歳で没するまで十八年間奉行の任務に当たった。歴代奉行中、四番目に長い永年勤続歴で、幕府が小田切に対して篤い信頼をおいていたことの証左で、奉行としても後の模範となる多数の優れた裁きを判例として残している。駿府町奉行在任中には男同士の心中事件を裁いたり、盗賊として有名な鬼坊主清吉を裁いたのも彼である。根岸は寛政一〇(一七九八)年に勘定奉行から南町奉行へ昇進しており、その後も、十三年に亙って小田切と町奉行を勤めた(根岸の勘定奉行は公事方であったと思われるから、実際には寛政四年起算で、小田切との付き合いは十九年に及ぶと考えてよいだろう)。ウィキによれば、両人の奉行在任中の面白い(不謹慎を失礼)裁きが載っている。インクブス的少女による奉公人青年への性行為強要の結果による、今なら業務上過失致死相当と思われる事件である。主家の十歳(満九歳?)の娘かよが、十九歳(満十八歳?)の『奉公人喜八に姦通を強要し、喜八がついに折れて渋々承諾し、行為中に突如かよが意識を失いそのまま死亡するという事件が起こり、小田切は根岸鎮衛と共にこれを裁断した。根岸と寺社奉行は引き回しの上獄門を、二人の勘定奉行は死罪を主張したが、小田切は前例や状況を入念に吟味し、無理心中であると主張、広義では死刑であるものの、死刑の中でも最も穏当な処分である「下手人」を主張した。最終的に喜八は死罪を賜ったが、この事例にも小田切の寛大かつ深慮に富んだ姿勢が伺える』とある(下手人は庶民に行われた斬首死罪の中では最も軽く、首を切るだけで資産没収などを行わないもの)。その以下には、逆に不名誉な記載もあるが、ここは小田切殿を立ててここまでとしておこう。
・「武田晴信」武田信玄の諱。
・「詰る時」底本では右に『尊本(詰る侍)』と注する。これで採る。
・「跡などにし臥せば」飾られた槍の方に足を向けて寝たりすると、の意。
・「枕返し」就寝中、知らぬうちに身体の位置が逆になることで、怪奇現象として古来、妖怪の仕業などとされた。
■やぶちゃん現代語訳
怪刀の事
小田切土佐守直年殿の御先祖は甲州の出であられる。武田信玄晴信公より小田切殿御先祖へ与えられた長刀と申されるものを今に伝えて、御屋敷の玄関の槍掛けに飾るおかれておられる由。
折節、玄関番に詰める侍が、たまたま長刀に足を向けて寝たり致すと、必ず、枕返しに遇う、との由。城中にて物語なされたのをここに記しおいた。
*
黄櫻の事
櫻に黄色なきと咄合けるに、或人の言へるは、駒込追分の先に行願寺といへる寺に黄櫻あり。
□やぶちゃん注
○前項連関:物怪から木怪へ。フローラの本格記載は「耳嚢」では珍しい。
・「黄櫻」この呼称は複数の桜の栽培品種を指すようで、代表種は二種、一つはバラ目バラ科サクラ属サトザクラの品種ギョイコウ Cerasus lannesiana 'Gioiko' で、「御衣黄」と書く。今一つは、ウコン Cerasus lannesiana 'Grandiflora'で、「鬱金桜」「黄桜」「浅葱桜(浅黄桜)」などとも呼ぶもの(人口に膾炙するカレーに含まれるショウガ目ショウガ科ウコン Curcuma longa とは全くの別種)。前者ギョイコウ Cerasus lannesiana 'Gioiko'は、花期はソメイヨシノより遅く、花の大きさは場所によって異なり、本州中部で直径二~二・五センチメートル、北海道で四~四・五センチメートル。花弁数は一〇から一五枚程度の八重、花弁は肉厚で外側に反り返る。色は白色から淡緑色、中心部に紅色の条線があり、開花時には目立たないが、次第に中心部から赤みが増してきて紅変し、散る頃にはかなり赤くなる。花弁の濃緑色の部分の裏側にはウコンにはない気孔が存在する(以上のギョイコウの記載はウィキの「ギョイコウ」に拠った)。後者のウコン Cerasus lannesiana 'Grandiflora'は、ギョイコウに比して色は緑色が弱く淡黄色。数百品種あるサクラのうちで唯一、黄色の花を咲かせる桜として知られる。花弁数は一五から二〇枚程度の八重、ギョイコウのようには厚くなく、気孔もない。本種は国外でも人気が高い(以上のウコンの記載はウィキの「ウコン」に拠った)。いずれも開花時期はソメイヨシノより遅めの四月中下旬で、ともに花の緑色は葉緑体によるものであるが、ウコン Cerasus lannesiana 'Grandiflora'の方が葉緑体の含有量が少ないため、もっと薄い淡黄色で、こちらの方が以上の通り、「黄桜」の呼称としては分があるが、本文では「一重」とあり、ウコンもギョイコウも八重であが、花弁数が少ない場合、八重の印象の持たないものもある点からギョイコウ Cerasus lannesiana 'Gioiko' を同定候補から外すことは出来ない。
・「駒込追分」中山道と日光御成街道(岩槻街道)の分岐点。当時、ここは本郷ではなく旧駒込村に属した。江戸期には現在の東大農学部前本郷通りの反対側にその一里塚があった。
・「行願寺」諸注より、文京区本駒込にある既成山光明院願行寺のこととする。駒込追分の北の東側にある浄土宗の寺で、品川願行寺開山観誉祐宗の孫弟子観誉祐崇が明応三(一四九四)年に開山、慶長年中は馬喰町にあったが、明暦の大火の後に現在地へ移転した。江戸期には塔頭九院を擁した大寺院であった。但し、ネット上の検索では、現在、ここに桜があるかどうか、それがウコンかギョイコウか、はたまた全くの別種かなどは判明しなかった。本文に「一重」とあるのも非常に気になっている。御存知の方は是非、お教え頂きたい。
・「春日市右衞門」諸注によれば、能の観世流笛方である春日家七世市右衛門長賢(享保六(一七二一)年~寛政十二(一八〇〇)年)。この話柄、最後にこの事実を明かすこと、それを最後に根岸が記していることに、私は興味がある。これは本話の原作者が、この話から能の「西行桜」などの花の精の登場する話柄を暗に連想させようとする意図があり、それを根岸はホームズよろしく、鋭く嗅ぎ取っているのではあるまいか? 識者の御意見を伺いたく思う。
■やぶちゃん現代語訳
黄桜の事
桜に黄色のものはないという話題になった折り、ある人の言うたことで御座る。
「……駒込追分の先の、行願寺という寺に、黄桜が、これ、御座るじゃ。尤も、山吹や黄梅といった感じのまっ黄色では御座らぬ。然れども、白っぽい黄色をした一重の花で御座っての、かの寺の名木として近隣にては、大層、もて囃して御座るものじゃ。……さても、左様なれば、さる檀家の者、毎度の参詣の折りから、こっそり、この
なお、この『檀家』というのは、観世の笛方の春日市右衛門であるとも聴いた、とのことで御座る。
*
一向宗の信者可笑事
近き
□やぶちゃん注
○前項連関:寺絡みで軽くは連関。既巻で明らかにしたように、根岸の宗旨は実家(安生家)が曹洞宗、養家の根岸家は浄土宗である。根岸は仏教には総じて比較的冷淡な傾向を持つように私には思われる。ここでも盲信の徒に対してかなり意地の悪い根岸の視線が窺える。
・「一向宗の信者可笑事」は「一向宗の信者笑ふべき事」と読む。
・「近き比東本願寺參向」とあるから、これは(本執筆時を下限の寛政九(一七九七)年とすれば)東本願寺第二十代法主達如(たつにょ 安永九(一七八〇)年~慶応元(一八六五)年)であろうか。彼は寛政四(一七九二)年に第十九代法主であった父乗如の示寂に伴って第二十代法主を継承。弘化三(一八四六)年に次男嚴如(大谷光勝)に法主を委譲するまで実に凡そ五十四年間法主(これは門主・門跡の浄土宗での尊称である)の地位にあった。寛政九年当時で未だ十七歳であった。もし、彼の父第十九代法主乗如(延享元(一七四四)年~寛政四(一七九二)年)とすると、彼の示寂した寛政四年二月以前に遡らなくてはならず、最低でも六年ほどのスパンが空き、「近き比」というのには私は抵抗がある気がする。青年の門跡がグイと婆さんの頭を押し出す方が話柄としては面白い。
・「値遇」縁あってめぐりあうことの意で、仏縁あるものに巡り逢うこと。「ちぐう」と読んでもよい。
・「
■やぶちゃん現代語訳
一向宗の信者お笑いの事
近年の出来事で御座る。
東本願寺門跡江戸参向の際、道中にても大勢の信徒が金魚の糞の如く追従致し、貴賤を問わず、一目、門跡がお姿を拝さんが
そんなある日のこと、やはり、本願寺門跡を拝まんとて、大勢、駕籠の周りを取り巻いて御座った中に、一人の老婆が御座った。この者、門跡を拝顔せんものと、あろうことか、駕籠の戸の
――と――
「――この
と、誰かが叫ぶや……信徒どもが大勢……雲霞の如くに老婆の元へと群がって騒然となる……ある者は……婆の頭の毛を力任せに引き抜き……ある者は……摑んで捩じって毟り取る……老婆は
*
松平康福寛大の事
老職勤給ひし康福は可笑しき人也しが、一年類燒にて下屋敷燒失ありしに、飼置し鶴を其懸りの家來
□やぶちゃん注
○前項連関:一種の落とし話として連関。
・「松平康福」(享保四(一七一九)年~寛政元(一七八九)年)は石見浜田藩藩主から下総古河藩藩主・三河岡崎藩藩主を経、再度、石見浜田藩藩主となっている。幕府老中及び老中首座。官位は周防守、侍従。幕府では奏者番・寺社奉行・大坂城代を歴任、老中に抜擢された。記載通り、天明元年の老中首座松平輝高が在任のまま死去、その後を受けて老中首座となった。天明六(一七八六)年の田沼意次失脚は松平定信と対立、寛政の改革に最後まで抵抗したが、天明八(一七八八)年に免職された(ウィキの「松平康福」に拠る)。「卷之一」の「松平康福公狂歌の事」に既出。あちらでも如何にも滑稽ないい味を出している。
・「退落して」底本には右側に『(尊本「取落」)』と傍注する。
■やぶちゃん現代語訳
松平康福殿寛大の事
老中首座をお勤めになられた松平康福殿はまことに面白いお方で御座った。
ある年、類焼を被られて御自身の下屋敷が焼失致いたことが御座ったが、その折り、邸内に飼っておられた複数の鶴を、その飼育係の家来が退避させて御座ったが、如何致したものか、康福殿御寵愛の雌の鶴を、一羽だけ捕り損のうて、焼死させてしまった。かの係りの役の武士は大いに恐れ入って、
すると康福殿はうち笑って、
「――何の、あの鶴はの――丁度、寿命の千年目であったに、違いないわ。」
と、更にお咎めも、これ、御座らんなんだ由。
御寵愛の鶴を惜しまず、係の役をも咎めぬ、その寛大さは、まっこと、真の学才の仁徳じゃと、人々の讃えたことにて御座る。
*
蠻國人奇術の事
長崎奉行を勤し人の用役を勤ける福井が、主人の供して崎陽に赴しに、母の
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。超心理学でいう超感覚的知覚(ESP:Extrasensory Perception)の一種である精神遠隔感応(mental telepathy)、所謂、テレパシーを問題とした都市伝説であるが、母子の情愛を介するところで、嫌みがなく、私は好きな話である。術式自体は過心居士クラスの妖しげなもので、一種の催眠術のような感じはするものの、暗示は言語上の障壁が邪魔して無理があるし、何らかの麻薬による幻覚作用にしては丸薬は事後に飲ましているのが不審(水盤の水の中に何らかの薬物が溶かし込まれていた可能性もあるし、実際には母を見たという記憶は術後に投与された麻薬による記憶の錯誤の可能性も疑うことは出来る)なお、訳中のドクトル(医師)の台詞は、通辞の訳したものであるから、普通の日本語でよいのだろうが、どうもそれでは南蛮妖術の雰囲気が出ず、面白くない。さて、誰の何を真似たかは――ご想像にお任せしよう――
・「長崎奉行」寛政九(一七九七)年以前で直近の長崎奉行なら新しい順に松平貴強(たかます 一七九七年~一七九九年)・中川忠英(一七九五年~一七九七年)・高尾信福(のぶとみ 一七九三年~一七九五年)・平賀貞愛(さだえ 一七九二年~一七九七年)・永井直廉(一七八九年~一七九二年)で、恐らくモデルはこの辺りの誰かであろう(後掲される「亂舞傳授事の事」に、この中の平賀貞愛が登場するので、彼の可能性が一つ高くなるか)。この頃の長崎奉行は定員二名で、一年交代で江戸と長崎に詰め、毎年八月から九月頃に交替をした(以上は主にウィキの「長崎奉行」に拠った)。
・「
・「かぴたん」カピタン(甲比丹・甲必丹・加比旦などと漢字表記もした)は元はポルトガル語で「仲間の長」という意味。日本は当初、ポルトガルと南蛮貿易を行ったため、商館長をポルトガル語の“Capitão”(カピタン)と呼んだ。その後、南蛮貿易の主流はポルトガルからオランダに変わったが、この呼称維持された)は変わらなかった。先の長崎奉行の候補と合わせて考えると、このモデルとなった長崎商館長(カピタン)は第一四六代ヘイスベルト・ヘンミー(Gijsbert
Hemmij 一七九二年~一七九八年)か第一四五代ペトルス・セオドルス・キャッセ(Petrus Theodorus Chassé 一七九〇年~一七九二年)となる(以上は日本語版及び英語版ウィキの「カピタン」に拠った)。
・「紅毛屋敷」長崎出島にあったオランダ商館。オランダ東インド会社の日本に於ける出先機関。慶長十四(一六〇九)年に平戸に設置され、寛永十八(一六四一)年に長崎出島へ移転した。出島に滞在するオランダ人は商館長(カピタン)・次席(ヘトル)・荷倉役・筆者・外科医(ドクトル)・台所役・大工・鍛冶など九人から十三人程度で、長崎奉行の管轄下に置かれた。長崎町年寄配下の出島乙名と呼ばれる選ばれた町人がオランダ人と直接交渉した。乙名は島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ・積出し・代金決済・出島の出入り・オランダ人の日用品購買の監督を行った。乙名の下には組頭・筆者・小使など四十人の日本人下役がおり、更に通詞は一四〇人以上いた。出島商館への出入りは一般には禁止されていたが、長崎奉行所役人・長崎町年寄・オランダ通詞・出島乙名とその配下の組頭などは公用の場合に限り、出入りを許された(以上はウィキの「オランダ商館」に拠った)。
・「六七間」約十一メートルから十二メートル強。この距離感がかえって自然なパースペクティヴを生み、リアルな印象を与えると言える。
・「我母帷子樣の物を縫居たるやう成に顯然たり」底本には、後半部の「居たるやう成に顯然」の右に『(尊本「居たり、誠に顯然」)』とある。「帷子」生絹や麻布で仕立てた、夏に着る裏を附けていない
■やぶちゃん現代語訳
蛮国人の奇術の事
長崎奉行の用役を勤めた福井が、主人の供をして崎陽に赴任致いて御座った折り、彼の母が患いついた、という知らせを長崎で聞き、頻りに江戸のことを気に懸けるうち、福井自身も何とのう、病みついた感じで鬱々と日を暮らして御座ったが、そのうちに、とうとう朝夕の食事も喉を通らずなって、病み呆け、呆然として、見るからに尋常でない様態と相い成って御座った。
主人の長崎奉行もこれを憐れみ、種々の療治を試みてはみたものの、芳しくない。
そんな折りに、ある出島の関係者が言うに、
「……こうした病気は紅毛人に見せれば、何か、療治の奇法も御座るのでありますまいか……」
とのこと故、長崎奉行の職権にて、福井を同道の上、紅毛屋敷を訪れ、通辞を通してかくかくしかじかの事情を話したところ、カピタンが部下のドクトルを呼び出だいて、何やらん相談を致いた上で、カピタンは、
「……治療ニヨロシキ法ガアリマス。……」
と、言うたかと思うと、ドクトルはやおら、室内に大きな水盤を持ち込ませ、そこに水を汲んで、
「……ココノ内ヘ頭ヲオ入レナサイ。……」
と言う故、その通りにする。
ドクトルは福井の襟の辺りを上からそっと押さえ、暫く水中に福井の顔を押さえて御座った。
「……福井サン、福井サン、目ヲオ開ケナサイ。……」
と通訳を通して言われたので、福井は目を開けた――
――と――
『……およそ水を通して……六、七間も隔ったて御座いましたか……私の母が……
……見えた……と思うた……その途端……福井はドクトルによって水中より顔を引き上げられた上、何やらん丸薬なんどを与えられて、商館を後にした。
その後、その丸薬を服用したところが、ほどなく病いも癒え、丁度、奉行交代の時期をも迎え、滞りのう、江戸へ帰着致いた。
母も幸いにして病い癒え、健在であったは何よりであった。
その福井の母が語る。――
「……さても一年余の長崎御在勤、御苦労にて御座いました。母子の恩愛故、御身がこと、案じられてなりませなんだが……実はある日のこと、帷子を縫いつつ、これを、愛しい御身に送らんと、針を運びつつ、御身のことのみ、思い続けて御座いましたところ……窓より、隣の小笠原様御屋敷との境の塀を、ふと、見ましたところが……その、塀の上に……御身の姿が……これ、はつきりと現われ……しばしの間、互いに顔を見合わせたこと、これ、決して夢にては御座りませなんだ。……もしや……長崎にて変わったことでもあったのではあるまいか、とも案じましたが……いいえと、また、これも、心の迷いかと思いかえしたり……まっこと、さような不思議がありました……。」
とのこと故、福井、かの長崎にて紅毛人に療治を受けたを思い出だいて、母がその不思議を見たと申す日時を尋ねたところが――完全に一致致いて御座った――というのである。――
福井が語る。――
「……全く以って幻術の類なので御座いましょう。紅毛は耶蘇の宗門の魔術を、今以って専らに行のうておる由と聞いておりますが……そのような類いの妖術・奇術ででも、あったのでしょうか……」
*
奇病の事
松平
□やぶちゃん注
○前項連関:怪異譚連関だが、この話は根岸も怪異とせずに「奇病」としているように、これは一種の心因性精神病で、どちらの女も偶然に病的なヒステリーと強い関係妄想を呈した、一種の強迫神経症に相次いで罹患した(妻の病態とその恐らく名指しの自分への批難を聴いて、謂わばASD(Acute Stress Disorder 急性ストレス障害)に『感染』、病態を見るにPTSD(Posttraumatic stress disorder 心的外傷後ストレス障害)へと移行したと思われる。即ち、これは確かな事実であったと考えてよい。現代語訳では、そこを考えて、細部のリアルさを加えて翻案してある。
・「松平京兆」前の「怪刀の事」の松平輝和のこと。
・「
・「美道」底本には右に『(尊本「美色」)』と傍注する。
・「脇坂家」播州龍野脇坂藩。寛政九(一七九七)年当時ならば、当主は第八代藩主寺社奉行(後年に老中)であった脇坂安董(わきさかやすただ 明和四(一七六七)年~天保十二(一八四一)年)である。当時、松平輝和は奏者番と、脇坂安董と同じ寺社奉行を兼任していたから、ここに脇坂家側の女の情報源としての接点が窺えると言える。
・「茶道」茶坊主。彼らは剃髪していたために「坊主」と呼ばれただけで、れっきとした武士。将軍や大名の下での、茶の湯に於ける給仕や接待を担当した。因みに、芥川龍之介の養家芥川家の家系は、将軍のそれである
・「彼本妻我を憎み呪詛せる」の「憎み」は底本では「僧み」。誤植と見て、訂した。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『うらみ』とあるから、「恨」の可能性もあるとは言える。
・「幻は」奇妙な謂いである。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『折りには』とあるから、これの誤写とも思われる。「かはりては」等と訓読するのは、如何にもつらい。岩波版で採る。
■やぶちゃん現代語訳
奇病の事
松平京兆輝和殿が語る。
……このほど、何とも奇妙な事が御座っての。
……家中の侍の妻が、病気で里へ帰っておったのじゃが、この女、ある日、突然、
「……夫は、他所の女に心を寄せて
と、恨みごとを口走るわ、怒って呶鳴りまくるわで、その有様、尋常の病いとも思われぬほどじゃ、と。……
……その妻で御座るか?
……聴くところによれば、容貌も、これ、十人並の美麗なる者と聴いて御座る。……
……その夫の方はと?
……そうさの……これは好色の噂はともかくとして……これも、まあ、なかなかの偉丈夫で御座る。……
……実は、の
……かの妻女が疑っておる『女』、というも……これ、分かって御座っての……これが、その、拙者の同僚で御座る、脇坂
……実は、この娘……何でも、かの夫の侍とは、何処ぞで知り
……なれど、申しておくと――この二人の間に不埒なることがあった――なんどという噂は、これ、全く聞かぬは、拙者の家内にても脇坂殿御家中にても、これ、同じゃった……
……拙者も、実は……かの男を呼び出だいて、
……かの男は、やはり思うておった通りの
……ところがじゃ
……脇坂殿のお話によれば、かの茶坊主の娘も――
突如、高熱を発し、
「……あの、本妻が!……妾を恨んでおる!……呪詛致いておる!……」
なんどと口走りだしたと申すのじゃよ……
……まあ、近頃は、やっと熱も引いて、恢復致いたとは聞いて御座るが……未だに折に触れて、
「……本妻が!……妾を恨んでおる!……呪詛致いておる!……」
と、言い罵っておる由。……
……全く以って……狐狸なんどの仕業にてもあろうか、なんどと噂致いての……何ともはや、怪しきこともあるもんじゃて……
――と、私にお話になられた。
*
小兒行衞を暫く失ふ事
寛政六七の頃、番町に千石程もとれる何某とかや言るは、
□やぶちゃん注
○前項連関:狐狸によらんかの狂乱から天狗に攫われた如き神隠しへ。更に私はASD(Acute Stress Disorder 急性ストレス障害)直連関とも採る。異次元のパラレル・ワールドや天狗の神隠しなんどを肯定出来ず、怪しもうと思えば怪しめる隣家に門付する「乞食の男女」や当家の「乳母」も事件とは無関係――とすれば――この納戸と満七歳の少女に、その真相を解き明かす鍵を求めるしかあるまい。まず気づくのは、この手の超常現象や事件性のないとされる神隠しでは、失踪する人物に失踪動機がない場合が多いのだが、彼女は自分の望みが受け入れられないことへの激しい感情的高揚の動機がある点で、寧ろ、「神隠し」としては特異である。更に言うなら、彼女のヒステリー状態から、もしかすると彼女には脳に何らかの器質的な変性若しくは精神病質があったことも疑える(「其後は別の事もなく、當時は十五六才にも成べし」とあるが、正に婚期を迎えた千石取りの武士の娘で、例えば間歇的な意識混濁や癲癇といった症状があった場合でも、それを公にはしないであろう)。加えて、この納戸には現当主の知らない、例えば唐櫃の底が何らかのスイッチによって反転して床下へ抜けるような秘密の仕掛けがあって(時代劇ではしばしば見かけるが、ある種の武家屋敷には、そうした仕掛けが実際にある)、たまたまそうした箇所に入り込み、何らかの弾みでからくりの機能が起動し、彼女は床下に転落、その際に頭を打ったか、もしくは先にいったような体質(病質)から長時間の失神状態となったと仮定することは出来まいか。暫くして覚醒した彼女が真暗な床下を闇雲に這いまわって行ったなら、「髮には
・「千石程」ネット上の記載によれば、江戸時代に家禄千石の旗本は家数でいえば上位十六%に入るまずまずの家格で、軍役基準に照らすと、小者も含めて二十一扶持。大名の場合、相場は知行の三分の二が家臣の知行相当であったというから、家臣に千石出せるのは知行五万石以上の大名であろう、とある。因みに、根岸の場合を見ると、天明七(一七八七)年の勘定奉行抜擢後に家禄は二〇〇俵蔵米取から五〇〇石取りとなり、その後の寛政十(一七九八)年の南町奉行累進などでも加増があったと思われ、後に最終的には逝去直前の加増によって千石の旗本となっている。
・「
・「當時は十五六才にも成べし」本「卷之三」の執筆を寛政九(一八〇四)年とすると、たかだか二、三年でまだ十、十一歳となる。寛政六(一八〇一)年か七年から七、八年後は、享和元・寛政十三(一八〇一)年か享和二年となり、これは鈴木棠三氏が言う「卷之六」の下限である文化元(一八〇四)年に近い。そうして、鈴木氏はこの「卷之六」は先行する前二巻の補完的性格が強いとするから、この時期に根岸が、律儀に記載の補正を行った可能性が考えられる。
■やぶちゃん現代語訳
小児の暫くの間の行方知れずの事
寛政六、七年の頃のことで御座る。
番町に、千石ほども扶持を持った、暮らし向きも相応にして、折り目正しき家柄の何とか申す御仁が御座って、八歳になる息女があられた。
ある日、隣家へ三味線など弾いてざれ歌を唄っては物乞いする門付けの男女が来たって、その囃子なんどする音を聴き、かの息女、頻りに見たいとねだって御座った。奥方は、
「かのようなる下賤の者のなすを見るなんどというは軽々しきこと!」
とてお許しのまられず、強く𠮟って御座ったが、如何に言うても聞き分けずに、今にも庭へ駆け出さんとせば、乳母なんどが止めたれど、やはりお聞き入れになられず、その押さえた乳母の手を振り払うや、癇癪を起して部屋奥の納戸の中へと走り入ったによって、乳母はすぐ、その後を追うて、続いて納戸へと入ってみたところが――娘の姿――これ――ない。――
乳母は直ちに奥方へ報じ、家中の者も皆、驚き、雪隠から物置に至るまで、屋敷中、隈なく捜して御座ったれど――やはり
奥方は大いに嘆き、一両日、祈禱師を頼むなんど致いて、色々と手を尽くいたが――これ、万事休して御座った。――
――ところが――
……姿を消して丁度、三日目のこと、家中の者の一人が、
「……納戸の
と告げ、更に別な者からは、
「……確かに! 納戸の辺りにて、姫さまの泣く声を聞いて御座る!……」
とのこと故、納戸や、その周辺やら、捜いてみたものの、やはり――姿は見えぬ。
……なれど今度はまた……奥方自身、庭ではっきりと泣き声がするのを、聞いた!
……駆けつけて見ると……これ……
――娘――で御座った。
……慌てて抱きかかえ……粥や薬餌なんど与えて、介抱致いた。
……髪は蜘蛛の糸にまみれ、手足などは、
即座に手厚き療養を致いて、落ち着いた頃合い、父母、打ち揃うて、
「……この
と問うてみたれど……
「……なあんにも……覚えて……おらん……」
と娘は答えたと言う。
……一体……これは……どう解釈したらよいのであろうか?
……なお、この息女は、その後は別段、どうということものう、今は十五、六歳にもなっていよう、と知れる人が語ったことで御座る。
*
金子かたり取し者の事
番町邊と哉らん、須藤文左衞門とかいひし、武家などの仕送り用人をしてなま才覺の男有しが、去年とか
□やぶちゃん注
○前項連関:神隠しの少女の家は番町、本話の詐欺にひっかかる主人公も番町辺りに住まい、地所繋がり。それにしても共犯三人(もしかすると主人公の用人について調べ上げるための登場しない詐欺団の探索方もいるかも知れない)のその衣裳から筋立てに至るまで、興行二日の巧妙な劇場型詐欺である。綿密な計画なしには無理で、酒に軽い眠り薬なんども仕込まれたかも知れぬ。「オレオレ詐欺」なんぞより手が込んでいて、欺される須藤文左衛門なる主人公が如何にも成り上がりの厭らしさを感じさせ、同情も生じず、不謹慎乍ら、極めて面白いダマしなのだ。僕は差し詰め、この禪門辺りを
・「仕送り用人」財政担当の用人。武士である。
・「なま才覺」猿知恵。なまじ(中途半端で軽薄なこと)の才覚の略。
・「池の端の料理茶屋とか又は藥屋とかへ」の「藥屋」は不審。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『池の端料理茶屋とか又茶屋とかへ』で、こちらを採る。
・「不思議に御身と昨日よりの知る人なれ共」「昨日」はママ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『きのふ』。訳では「今日」とした。
・「
・「禪門」俗人のままで剃髪し仏門に入った男子を言う。「禅定門」「入道」に同じい。
■やぶちゃん現代語訳
金子を騙り取った者どもの事
番町辺りに住んでおるらしい須藤文左衛門とか申す、武家なんどの仕送り用人を務めて御座った、生半可な才覚のくせに、それに驕って御座った男があった。
去年で御座ったか――いや、一昨年で御座ったやも知れぬ――ある年の師走の二十五、六日のこと、金子二十両を
……この文左衛門、ある時、池の端の茶屋だか料理茶屋だかへ立ち寄って休んで御座った折りから、人品卑しからぬ老僧が一人、やはり、彼のそばに腰かけて休んでおった。文左衛門に、相応の僧侶らしい挨拶を致いて世間話なんど致いた上、彼が仕送り用人をしておるという話を聞くと、その老僧、徐ろに、
「……我らの知れる御仁に……まあ、大した額にては御座らねど……金子五、六百両ほどを……しっかりとした心配なきところに貸し付け致したき由にて……利率は五分程度の割安にてよきに計ろうて欲しい……とのことにて……拙僧に適当なる相手を捜いて呉れようと頼まれて御座ったれど……その御仁、特に取り引き相手の素性を……その……気に致いて御座っての……ともかくも、しっかりとした心配なきところにて御座らねば、うっかり世話も致しかぬるので御座るのじゃ……」
と話す。これを聴いた文左衛門は、大いに喜んで、
「なにとぞ!――もし、それ、拙者へ貸し出だいて下さらば――昨今の拙者の仕送りのこれこれの実績から推して頂きましても――しっかりと全く心配なきよう、お世話申し上ぐること、御約束致しましょう! どうか、一つ!」
と懇請すれば、老僧も喜べる
「そうとなれば、明日にでも早速、
と一決、酒など酌み交わし、暫く話し
「……くどいようじゃが、先方は『金子は何より、しっかりとした心配なきところを第一に』とお気遣いになっておられ、そこがツボじゃ……先方は、何ぞの信頼の証しなくしては安堵致しますまい。……そこでじゃ……不可思議なる縁にて、御身とは今日よりの知人にて御座るが……ここは一つ、二人は、もう数年の馴染みであるといった風に……金主へはそれとのう、知らせるに若くは御座らぬ。……金銀の遣り取りに就きても、今初めての様子にては、これ、御座らず……普段より、頻繁に遣り取り致いて御座るように見せ申すがよろしかろうぞ。……そこでじゃ……一つここは、御身も金子二、三十両程を
などと申す僧の言葉に、いちいち尤もなれば、文左衛門も請け合い、台詞なんどの綿密な取り決めを致し、別れた。
帰る道すがら、文左衛門、笑みを浮かべ、
「いや、何とうまい具合に、仕送りの金蔓を、手繰り寄せたわい!」
と独りごちて御座った。――
翌日、文左衛門、気が急いて早々に茶店を訪れて見たが、老僧は未だ来ておらなんだ。が、茶屋にては、
「お坊さまより申し遣って御座います。」
との由にて、精進料理を取り交ぜた、いかにも立派なる献立の下ごしらえやら準備やら致いて待っておるとの話し。
かくして文左衛門も暫く待って御座ったところ、かの老僧が、昨日に、いや勝る、立派なる僧装束を纏い、更に隠居風の禪門と、何やら如何にも勿体ぶった侍の両人同道の上、現れた。
用意した酒なんどが出だされ、料理なども丁寧に運ばれて参った。
老僧は、
「――さて、昨日お話し申した御仁にお引き合わせ申そうぞ。――こちらは、拙僧、兄弟同様に親しくして御座るところの、数年の馴染みなる、須藤文左衛門殿じゃ。――しっかりとした心配なきところは――これ、拙僧同様――と、思召さるるがよかろうぞ。」
と禪門と侍に向かって語り、四人して献杯致いた。
暫くすると、かの禅門が文左衛門に向かって、
「――老僧のお世話故、間違いも御座りますまい。――金子の儀は――そうさ、上限千両ほどまでならば即座に御用立て出来ましょう。……さりながら……いや、利率のことも格段に安く致そうとは思うて御座る……が……額も額、利分も格安なればこそ……万が一、間違いが御座っては……これ、困って御座るのじゃ……。」
と、案の定、シブりが入った。
文左衛門も昨今の彼の実績なんどを交えて弁を奮い、己れが、正にしっかりとした心配なきところなることを滔々と述べ立て、老僧もまた、これに口添えして、
「文左衛門殿とは、もう数年に亙って金子の遣り取りを致し、いかにもしっかりとした心配なきところなること、これ、神仏に誓って請け合い申そうぞ。――そうじゃ――たまたまのことなるが――文左衛門殿とは、今日も別の一件にて金子の取引を致すことと相い成って御座るのじゃった。……ちょいと失礼仕る……」
とのこと故、文左衛門も懐中より用意しておいた金子をとり出だいて、
「……我らが別件の仕事なれば、御両人には失礼仕る――老師よ、こちらは先日御用立て戴きまして御座る金子三十両――本日、耳を揃えて返上仕りまする――。」
と、老僧へ渡す。――
老僧は、金子を確かめると、懐中より手形を取り出いて、文左衛門へ渡いた。――
「……御両人には失礼仕った――なれど――御覧の通りの仕儀にて御座れば――御心配、これ、御無用で御座る!――」
と言えば、禅門も侍も、これ、大いに喜悦の
「――相い安堵致いて御座る!――安心の上は、千両にても五百両にても――明日にでも漏れなき定式の手形なんどを用意の上――拙者の屋敷は深川■■にて御座れば――お越し下されい!」
との確約――流石に慎重なる御仁と見えて、念には念を入れて――手形の書き方・日付・禪門の名の漢字の表記と言った細々したことまで打ち合わせて――そうこうする内……献杯も数十献に及び、文左衛門はすっかり酔っぱろうて、ふっと――居眠り致いて御座った。……
……ふと、気づいて回りを見渡せば――座敷には――誰も――おらぬ。
座の様子を見れば禅門も侍も、とうに立ち帰った様子。
文左衛門、思わず、非礼の不覚と思うたが……
『いや……それにしても……かの老僧は
と茶屋亭主に訊ねてみる。すると、
「今少し前にお帰りになられました。帰り際、今日の宴席仕出しの分は文左衛門さまよりお支払が御座る、と申し置かれて御座いました。」
文左衛門は、己れの泥酔の失態に加えて、宴会費用の意想外の出費に大いに驚き慌てて御座ったが、
「――かの商談、よもや、偽りなんどということは、これ、あるまいて。」
と――かの仕出し代金は予想以上の高額で御座った故――茶屋主人と交渉の上、何とか代金をも支払い終えて帰った。
さて翌日、文左衛門は揚々と、かの禪門の深川■■にあるという邸宅を訪ねてみた。
……が……
……昨日、本人の言葉によって
……
……文左衛門は真っ青になった……
……かの老僧の住まうという寺は、これ、江戸より外れた遠地に御座ったれども――三日前に話を決した折り、本人が備忘のためと『▲▲の●●寺住持××』なんどと書付けに致いたものを渡されて御座ったれば――飛脚を立て、その地の『▲▲の●●寺住持××』へ問い合わせてみた……
……ところが……
……そのような寺は、これ――ない――との返事……
文左衛門は地団駄踏み、その無念、骨髄に徹し、
「……サ、三人のうち、いずれか一人でも、つ、つ、ツカマエまえずにャ、お、おカねえッ!!!」
と、今以て、捜し廻っておるとの、ことじゃ。
*
賊心の子を知る親の事
京都三條通りと
□やぶちゃん注
○前項連関:巧妙なる詐欺団から根っからの悪党の少年へ悪事連関。今回の訳は、今までのような根岸の語りを意識した、「御座る」調のくだくだしい感じに少し飽きたので(以降ではまた戻ると思うが)、全体に禁欲的でドライな訳文にしてみた。なお会話文ではやや京都弁染みたものを用いたが、私は京都弁をよく知らないので、心内語はほぼ標準語に統一した。
・「
・「立廻る振り蹴込たる」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『立廻る振りして蹴込たる』とある。こちらを採る。
・「稻荷祭禮の節」伏見稲荷大社の稲荷祭。特にこれは一連の稲荷祭りの中でもその初日に当たる、神幸祭若しくは稲荷のお
・「今更
・「
■やぶちゃん現代語訳
生来の賊心を持った子を見抜いた親の事
京都三条通りとかに、とある商人があった。彼には一人の子があったが、この悴が五、六歳の時の、夏のことであった。その子が父に、
「瓜、
と言うので、
「後で
と言い紛らかしておいた。
その日、暫くして、たまたま瓜売りが通り掛ったのを幸い、家内に呼び入れて値を訊いたが、これが如何にも高い。さんざん値引きを求めたものの、結局、折り合いつかず、買わずに帰した。子には、
「また、直きに
と言い訳した。
ところが、かの五、六歳の子供は、
「……さっき、瓜売りが落といていかはった……」
と言いながら、縁の下より瓜を二つ、取り出だす。
父は黙って暫く考えていたが、結局、子をきつく問い糺いたところ、最後には如何にも厭そうに、見たこともない悪しき眼つきにて、それも平然と、
「……
と、
……その聊かも悪びれる様子もない
……そうして……
『……さても、この子は、我ら親の、永き愁いともなろうほどに……』
と、心底、感じる自分に気づいていた。……
翌年、三月の中の午の、伏見稲荷の祭礼の日、父は、かの悴を連れて祭り見物に出掛けた。
伏見街道には稲荷のお
父はその人混みの中へ――
――子を
――突き放した
――そうして
――素知らぬ顔をして
――そのまま家へ帰った。……
妻へは、
「……伏見からの帰るさに、はぐれてしもた……」
と悲痛な思いで――を演じて――語り――二、三日の間は、そうした折りの定石通り、人を集めては鉦・太鼓を叩いて迷子捜しに奔走した――振りをした――。しかし、不幸にして――いや、彼には幸いにして――見つかることなく、妻へは神隠しに逢ったと諦めよ――と如何にもな諭しを入れ、それで――仕舞い――となった。
それから五年か七年も過ぎた頃、
「……さても……捨てた
と――かくも非情の仕儀を講じた父も――流石に恩愛の情の忍び難かったものか――ある日のこと、所用で伏見街道へ参ったついでに、とある茶屋へ立ち寄って、店の者と四方山話をしつつ、それとなく、
「……四、五年ほど前のこと、我の知れる御仁が、この辺りで己が悴とはぐれてしもうたことがおますが……」
と水を向けると、
「……そら、向かいの煙草屋におらはる、若衆のことやおまへんか?! なかなか、かわらしい
と語る。
「……いや……その
と言い紛らして、茶屋を出でて、立ち去る振りをした。
そうして、暫く経ってから戻ると、物蔭より、そうっと煙草屋の方を覗いてみた。……すると……
……その端正な容貌といい……
……利発そうな雰囲気といい……
……最早、かの日の――邪眼の――面影は、これ、微塵も残してはおらなかった。……
『……さてもさてッ!……残念なことを、してしもうた!……』
と思ったが、今更、詮方もなかった。――
また、一年が経った。
また、かの近所にて、それとなく、かの悴の様子を訊く。――と――いよいよ評判よろしく、聴くことは皆、これ、何もかもが――褒め言葉に続く褒め言葉ばかり――であった。――
これを聴くに至って――父は、流石に深く、慙愧の念に襲われた。
『……かくなる上は……妻にも総てを打ち明け……かの煙草屋へと参って……親の名乗り、しょうか……』
と、思ったのだが、
『……五、六歳の時、親の愁いともならんと……一度は見切りをつけて沿道に棄てたものを……今更、子知らずの、かの非道の思いと行いを……都合よう、翻して……返してくれと言うは……これは……汚ない!!……』
と、またしても、何もせず、うち過ぎた。――
かくしてまた、二、三年が過ぎた。
男がまた、かの伏見街道を通った。
そこにあったはずの――煙草屋が――ない――。
四、五年前、最初に床几に腰懸けて様子を訊き出した、あの煙草屋の正面にあった、かの茶屋へ立ち寄って、あの折りと同じ店の者と、又しても四方山話をしつつ、それとなく、なくなった向かいの煙草屋の話に水を向けると、
「……あの煙草屋は、ほうれ、ずうと
と語った。――
「……矢張り……さればこそ……よくこそ……あの時……かの者、きっぱりと、見限ったわ!……よくこそ……あの時……恩愛の執心、美事、見放いたわ!……」
と父は一人ごちた、とか言うことである。
*
咽へ尖を立し時呪の事
小兒抔
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。先行する
・「尖」は「とげ」。
・「鵜の鳥の羽がひの上に觜置て骨かみ流せ伊勢の神風」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
鵜の羽の羽がいの上に嘴置きて骨かみながせ伊勢の神風
である。この和歌の意味には当然なんらかの民俗学的な故事が関与するものと思われるが、不学にして分らぬ。上の句の表現するところは、鵜が大きく喉を反らせて自分の羽交いの上に頭部(嘴)を置くことを意味することを考えると、その意を真似て大きく咽頭部を反らせる動作を伴っていた可能性がある。「かみ」は無論、「嚙み」と「神」を掛けて、「神風を」引き出し、その呪力による骨の粉砕を言上げするものであろう。更に、この岩波版の和歌を声に出してみると、明白に、上の句でハ音を、下の句でカ音を多く発音させる意図が見える。これを三度繰り返して顎を大きく緩やかに動かすことによって、咽頭内部の蠕動を促して、突き刺さったものを自然に押し出そうとするのが真の目的ではあるまいか。さすれば、効果のない迷信とも言えない気もしてくる。
■やぶちゃん現代語訳
喉に棘が突き刺さった場合の呪いの事
子供などが喉に魚の骨を突き立てて困った時、
鵜の羽の羽がいの上に嘴置きて骨かみながせ伊勢の神風
と三辺唱えて喉の辺りをやさしく撫ぜると、たちどころに抜けるのは実に不可思議なることじゃ、とある人が語って御座った。
*
美濃國彌次郎狐の事
美濃國に彌次郎狐とて年を經し老獸ある由。郡村寺號共に忘れたり。右老狐出家に化して折節古き事を語りけるが、紫野の一休和尚の事を常に咄しけるは、一休和尚道德の
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関しないが、本巻では既出の通り、既に直接的な妖狐譚が有意に多く、これもその一連の妖狐シリーズの一つ(それ以外にも、既出記事ではその超常現象を「狐狸の仕業」とするものも多かったが、これは当時の一般的な物謂いであるから、連関というほどではない)。またこの一休咄の類は、既に「巻之二」の「一休和尚道歌の事」で挙げており、且つそれは本話同様、女色絡み(本話は堅固だが、あっちは奔放)である。なお、リンク先の私の注も参照されたい。
・「紫野」京都府京都市北区紫野にある大徳寺。一休(応永元(一三九四)年~文明十三(一四八一)年)。は応永二十二(一四一五)年にここで高僧
・「古き事」本執筆時を寛政九(一七九七)年として一休の没年で計算しても、三〇六年前、この「彌次郎狐」は有に三百歳を越えている。
・「
・「臺所」禅宗ではこういう言い方はしない。厨房は
■やぶちゃん現代語訳
美濃国の弥次郎狐の事
美濃国に弥次郎狐と呼ばれた年を経た老獣がおるとの由――話柄の舞台となる郡村も寺号もともに失念致いた。――
――この老狐、出家に化けては、しばしば恐ろしく古い話を語ったりして御座ったが、殊の外、紫野の一休和尚の話を好んで話した。その中でも、弥次郎狐自身が女人に化け、一休和尚に挑んだという、とっておきの話で御座る――
……あるときのことじゃ、我ら、『一休和尚は道徳堅固なる名僧じゃ』というを聞き及び、それがまっことなるものか、一つ試したろう、と思うたのじゃった。
丁度その頃、一休の御座った小さき寺の前に、母と娘の二人が住んで御座った。その若い娘が婿をとったものの、若夫婦との仲、また、母と娘との仲が、これ、穏やかならずして、どうも丁度その日、かの
「……夫とは離縁致し……母からは勘気を
と、よよと縋ったところが、一休、
「――我とそなたは寺と門前という仏縁の一つ世に住まいする者で御座ったが故、これまでは
と否んだによって、我らは、
「……悟りを開いたご出家の……外ならぬ徳道堅固のあなたさまにて御座いますれば……一体、何処の誰が、疑いを抱きましょうや!……女の一人、この闇夜に、行くあてものう、さ迷うて――この『女』独り、この真暗な『闇世』に、さ迷うておるを……お見捨てなさるとは……あまりに……あまりに……情けなきこと…………」
と恨みを含んで歎きつつ、そのまま地に泣き伏せば、
「……されば――座敷内に上ぐることはならずとも――
と申された。
……これも思う壺に嵌まったものじゃ……
……我ら、その意に
……元来が――一休なる者が、まこと、徳道堅固ならんかを試さんとの心なれば――夜に入って……一休の
「――喝ッ!――不届者ッ!――」
と一喝すると――辺りに御座った小さな扇子のような物をもって――我が背を――
――タン!――
と――お打ちになられた――
「……いや! あの一撃! それは鉄槌よりも重う、強う御座った! いや! 正に死なんかと思う痛打で御座った!……いや! げにも……徳道を究めたお人の警策で、御座ったわいのう……」
と、かの老狐は、しみじみと語って御座ったという。……
「……その他にも、かの老僧、いやさ、老狐……やはり信じ難いほど古いことなんどを年中、語って御座ったが……さても、今も生きておるものやら、どうやら……」
と私の知れる人が語って御座った。
*
目黑不動門番の事
目黑不動の門番、眼を病みて兩眼とも痛みて苦しみける故、藥など用ひて其しるしもなければ、心安き
□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐教訓譚から仏罰教訓談へ。本話は私には――眼病の「目」――目黒の「目」――八卦の「目」――賽銭鳥目の「目」――番人と不動の目算のその相違の「目」――といった類感的側面が、まっこと、興味深いのである。
・「目黒不動」東京都目黒区下目黒にある天台宗泰叡山
・「
・「勘定筋」ものを計算すること、財政収支決算の分野、という意味であろうが、私はこの頃、根岸が罪刑を計量して処罰を下すことを日々の主要な仕事としていた公事方勘定奉行であったことを考え合わせれば、単に収支決算という意味ではなく、番人への違反相当の追徴金や当該犯罪行為への処罰の勘案といったニュアンスが含まれていると感じる。訳ではそれを出した。
■やぶちゃん現代語訳
目黒不動門の門番の事
目黒不動の門番が目を病んで、両眼とも激しく痛み、あまりに堪え難かった故、薬なんども用いてはみたものの、一向に効き目がない。そこで親しくして御座った陰陽師に八卦を
「――これは――神仏が貴殿を罰せられたもの――と出て御座る。――」
と告げたところ、門番は驚愕の
が、ほどのう、かの陰陽師、たまたま出
「如何なる『処置』を、これ、なされた?」
と訊ねた。ところが、番人はただ、
「……いやいや……まっこと
と独り言の如、呟いておったそうな。
ところが――ほどのう――またしても――片眼が悪うなった――とのことなれば、かの陰陽師、己れの八卦への自信もあればこそ、番人に詰め寄り、
「……我ら、永年、目黒のお不動さんの門番をして御座ったが……毎日、日暮れとともに境内の門を閉めるが勤めじゃ。……ところが閉めた後も参詣の者がおって、の……門外より、賽銭を投げ入れては拝む者、これ、少のうないのじゃ。……さても……かく投げ入れられた賽銭……その鳥目……これ実は永らく、我らが役得と致いて参ったものに御座って、の……それを好める酒に代えては……永の年月、暮らいて御座ったのじゃ。……なれど……過日、お主の打った八卦の目がしろしめしたところが……仏罰とのたまうたのと、これを考え合わすれば……まっこと、この役得と致いてきたことが……これ、悪因ならんと感じ入って、の……お不動さまへ深く懺悔致いて……我らが誤れる賤しき行いを総て述べ曝して……仏前に心より祈誓致いたのじゃ。……すると……不思議に両眼ともに、かの
と懺悔致いて語った、とかいうことで御座る。
――いや――目黒不動尊も金銭勘定収支決算、当該追徴処罰勘案に至るまで――まっこと、細かい仏ならん、と可笑しく思うたによって、ここに記しおいたもので御座る。
*
助廣打物の事
津田越前守助廣が打し刀劍、近年
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。暫くなかった武辺物で、しかも刀剣なれば本格物である。
・「津田越前守助廣」津田越前守助廣(寛永十四(一六三七)年~天和二(一六八二)年)は、本話記述時(寛政九(一七九七)年)から遡る百年以上前の、江戸延宝年間(一六七三年~一六八一年)に活躍した摂津国の刀工(彼は寛文新刀の最後期を飾る刀工で、彼の死後の元禄期(一六八八年~一七〇三年)は江戸時代で刀工が最も衰微した時期でもある。その後、徳川吉宗が享保六(一七二一)年に全国の名工を集め鍛刀をさせ、
・「寺社役」青山忠裕は寛政五(一七九三)年から寛政八(一七九六)年まで寺社奉行を勤めたが、藩主が寺社奉行に就任すると、その家臣から抜擢された者が実務担当として寺社奉行の事務を執り行った。
・「井上直改」底本には『(尊・三本「眞改」)』と傍注する。「三本」とはもと、三村竹清氏が所蔵していたと考えられる「日本芸林叢書本」のことを指すものと思われる(本底本には凡例がない)。「眞改」が正しい(訳では正した)。井上真改(いのうえしんかい 寛永七(一六三〇)年~天和二(一六八二)年)摂津国の名刀鍛冶。本名、井上八郎兵衛良次。以下、参照したウィキの「井上真改」より引用する。『津田越前守助広とともに大坂新刀の双璧と称される刀工。俗に「大坂正宗」などとも呼ばれ、現在重要文化財に指定されている刀と太刀がある(現在、江戸期に製作された刀に国宝指定は無い)』。『刀の銘は壮年期まで「国貞」を用い、晩年「真改」と切る(「真改」の頃は御留鍛冶といって藩主の許可がないと作刀を引き受けられなかったため、「真改」銘の刀は少ない)。真改は陽明学を学び、中江藤樹の影響を強く受けたとも言われている。書をはじめ刀剣以外の美術・工芸にも造詣が深かったらしく、その書画も高く評価されている。酒豪だったらしい』。『一説には和泉守を受領していた国貞に儒学者の熊沢蕃山に「刀鍛冶が一国の太守を名乗るとは分不相応ではないか?」と諭され、以来「真改」銘に改めたとされている』。『作品の特徴としては直刃』が主で、『津田越前守助広との合作もある。地鉄は大坂新刀屈指の美しさ』とされる。『寛永七年(一六三〇年)、刀工であった井上国貞の次男として日向国木花村木崎にて生まれる。九歳のとき、当時京都に居た父の下に赴き作刀を学び始める。十代の後半には既に一人前の刀工としての力量を示し、二十歳ごろには盛んに父の代作を行ったといわれる。作刀は、殆ど大坂で行われた』。『慶安五年(一六五二年)、二十四歳で父の死去に伴い襲名。飫肥藩伊東家から父同様百五十石を与えられる。同年中の承応元年(一六五二年)、二十五歳の時に「和泉守」を
・「大坂より江戸へ歸る餞別に」私が不学にして馬鹿なのか、意味が分からない。この先祖が、何の目的で江戸から大阪に行ったのか(江戸の下屋敷詰め? 「大坂」は自藩の丹波のこととはちょっと思われない)、大阪で何をしたのか(これだけの名物の餞別を貰うということは、相応の働きがなくてはおかしい)、誰がそれを餞別として下したのか――助広の名物を持つ以上、これはもう青山の前の藩主としか思われないが、彼は「大坂」にいたということになる。すると、一つの可能性は見えてくる。実は初代藩主青山忠朝(あおやまただとも 宝永五(一七〇八)年~宝暦十(一七六〇)年)は宝暦八(一七五八)年十一月二十八日に大坂城代となっており、恐らくは現職のまま、宝暦十(一七六〇)年七月十五日に享年五十三歳で亡くなっているのである。即ち、この「浦山與右衞門が先祖」なる人物は丹波篠山藩江戸下屋敷詰めの藩士であり、当主忠朝の大阪城代就任に伴い、抜擢されて実務役を仰せ付かり、その職務を終えて、再び江戸屋敷へと帰ったことを言うのではなかろうか? 私の推理に何か不自然な点があれば、御指摘を願いたい。訳ではそのような解釈のもとに訳を敷衍した。
■やぶちゃん現代語訳
助廣打物の事
津田越前守助廣が打った刀剣は、近年専ら、世に名刀としてもてはやされておる。
この助広という刀工は、青山家(現当主・青山下野守忠裕殿)召し抱えの鍛冶師であった由にて、また、青山家には多く、助広の銘の刀剣を所持する家来がおる、とも聞く。
青山忠裕殿が寺社奉行をお勤めになっておられた当時、その寺社役方を勤めていた浦山与右衛門殿の御先祖が――何でも、初代御藩主であらせられた青山
「――このような銘を切った、かくなる名刀は――二つと、ない。」
と下野守忠裕殿御自身が、私に物語られた話で御座る。
*
古へは武器にまさかりもありし事
□やぶちゃん注
○前項連関:名工津田越前守助廣話で青山下野守忠裕直談で本格武辺二連発。
・「まさかり」は通常の木を切り倒す斧の中でも大きい斧或いは丸太の側面を削って角材を作るための刃渡りの広い斧を特に
赤松彈正少弼氏範は、いつもうちごみの
『名も無き敵どもをば、何百人切つてもよしなし。あつぱれ、よからんずる敵に逢はばや。』
と願ひて、北白河を
「洗革の鎧は長山殿と見るは
と、言葉を懸けて恥ぢしめければ、長山きつとふり返つて、からからとうち笑ひ、
「問ふはたそとよ。」
「赤松彈正少弼氏範よ。」
「さてはよい敵。ただしただ一打ちに失はんずるこそかはゆけれ。念佛申て西に向かへ。」
とて、くだんの鉞を以て開き、甲の鉢を破れよ碎けよと思ふさまに打けるところを、氏範、太刀を平めて打ちそむけ、鉞の柄を左の小脇に挾みて、片手にて、えい、や、とぞ引たりける。引かれて二匹の馬あひ
「詮無き
とて、奪ひ取りたる鉞にて、逃ぐる敵を追つ攻め追つ攻め切りけるに、甲の鉢を眞向まで破り付けられずといふ者無し。流るる血には斧の柄も朽つるばかりに成りにけり。
簡単な語釈を附しておく。
●「うちごみの軍」敵味方多数の軍勢が乱闘する集団戦。
●「今路」底本の山下宏明氏頭注に京都市左京区修学院から音羽川に沿い四明岳を経て延暦寺に至る』
●「洗革」薄紅色に染めた鹿のなめし革。揉んで柔らかくした白いなめし革とも。
●「僻目」見誤り。見間違い。
●「かはゆけれ」可哀そうだ。哀れなものよ。
●「鉞を以て開き」鉞を持って少し下がり。一騎打ちで打ち込むための助走のため。
●「太刀を平めて打ちそむけ」太刀を横に払って、鉞を振り下ろそうとする長山の機先を制し、自分の左体側にうち外させた、ということを言うものと思われる。
●「蛭卷」滑り止め・補強や装飾の目的で刀の柄や鞘、槍・薙刀・斧などの柄を、鉄や鍍金・鍍銀の延べ板で間をあけて巻いたもの。蛭が巻きついた形に似ることからの呼称。
●「詮無き力態ゆゑに」つまらぬ力較べなんどをしているうちに、の意。
●「一人も亡ぼすにしかじ」一人でも多くうち亡ぼすに若くはあるまい、の意。
「流るる血には斧の柄も朽つるばかりに成りにけり」が慄っとするほど素敵だ!――但し、戦斧の使用は兵站の建設や城門破壊が主目的であったと考えられている(以上の鉞の解説部分は主にウィキの「斧」及び「戦斧」を参考にした)。本文ではこの鉞の柄の長さを「七尺」(約二メートル)とするのは、斧としては勿論、戦斧としても、とんでもなく長い。更にそれを更に一回り大振りにしたということは、斧部も柄もより大きく長くなるということになって、恐ろしく重く巨大で長い鉞――ガンダムが振りましてもおかしくない鉞ということになろうことは、これ、認識しておく必要があるであろう。
・「土井酒井」老中土井利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二十一(一六四四)年)と酒井忠世(元亀三(一五七二)年~寛永十三(一六三六)年)。同じく老中青山忠俊(天正六(一五七八)年~寛永二十(一六四三)年)と三名で家光の傅役(ふやく・もりやく)となった。因みに各人のついて簡単に解説しておく(複数の資料を参考とした)。
●土井利勝は、系図上では徳川家康の家臣利昌の子とするも、家康の落胤とも伝えられる。幼少時より家康に近侍し、次いで秀忠側近となった。家康の死後は朝鮮通信使来聘などを務めて幕府年寄中随一の実力者として死ぬまで幕閣重鎮として君臨した。
●酒井忠世は名門雅楽頭系の重忠と山田重辰の娘の嫡男として生まれ、秀忠の家老となる。元和元(一六一五)年より土井・青山とともに徳川家光の傅役となったが、家光は平素口数少なく(吃音があったともある)、この厳正な忠世を最も畏れたとされる。但し、秀忠の没後は家光から次第に疎まれるようになり、寛永十一(一六三四)年六月に家光が三十万の軍勢を率いて上洛中(彼はそれ以前に中風で倒れているためもあってか江戸城留守居を命ぜられていた)の七月、江戸城西の丸が火災で焼失、報を受けた家光の命によって寛永寺に蟄居、老中を解任された。死の前年には西の丸番に復職したが、もはや、幕政からは遠ざけられた。
●青山忠俊は常陸国江戸崎藩第二代藩主・武蔵国岩槻藩・上総国大多喜藩主。青山家宗家二代。江戸崎藩初代藩主青山忠成次男。遠江国浜松(静岡県浜松市)生。小田原征伐で初陣を飾り、兄青山忠次の早世により嫡子となった。父忠成が徳川家康に仕えていたため、当初は同じく家康に仕え、後に秀忠に仕えた。大坂の陣で勇戦し、元和二(一六一六)年に本丸老職(後の老中)となった。忠俊は男色や女装を好んだりした家光に対して諫言を繰り返したことから次第に疎まれ、元和九(一六二三)年十月には老中を免職、減転封、最後は相模国高座郡溝郷に蟄居した。秀忠の死後、家光より再出仕の要請があったが断っている。
・「靑山忠親子息因幡守」底本鈴木氏注には、「靑山忠親」は、遠江浜松藩第二代藩主青山忠雄(あおやまただお 慶安四年(一六五一)年~貞享二(一六八五)年)の旧名とする。彼は初代藩主青山宗俊(先の注の青山忠俊長男。以下に示す)の次男である。もうお分かりのように、ここには錯誤があって、「靑山忠親子息因幡守」は「靑山忠俊子息因幡守」で、青山宗俊(慶長九(一六〇四)年~延宝七(一六七九)年)を指す。即ち、
〇青山忠俊――青山宗俊――青山忠雄(忠親・青山宗家四代)……青山忠裕(青山宗家十代)
が正しい青山家系図であるが、これを
×忠俊孫・青山忠雄(忠親)――忠俊子・忠雄(忠親)父・青山宗俊
としてしまったためにタイム・パラドックスのようになってしまっているのである(訳では事実に合わせて訂した)。因みに、前掲の青山忠俊を除く、その子と孫について簡単に解説しておく。
●青山宗俊は、元和九(一六二三)年、父忠俊が家光の勘気を受けて蟄居になった際、父とともに相模高座郡溝郷に蟄居した(当時満十九歳)が、寛永十一(一六三四)年に家光に許され再出仕。書院番頭に就任して旗本となり、次いで大番頭、加増により大名となって、後には大坂城代を勤めた。延宝六(一六七八)年に遠江浜松藩五万石藩主青山家初代となった。彼は、「耳嚢卷之三」の「大坂殿守廻祿番頭格言の事」に記されている天守閣炎上の際の、実際の(リンク先の根岸の話には錯誤がある)当時の城代であった彼の沈着冷静な判断と処理方法をもって、賞讃された。底本の鈴木氏注には、この『大坂城代の時助広を家の刀匠とする』とある。しかし、そうすると、この本文にあるような鉞を奮うべき「戰場」が、ない。もしかすると、これは彼の父で、大坂の陣の勇士とされる青山忠俊の逸話ではあるまいか? 但し、その場合は助廣はもとより、その父ソボロ助廣であっても、この鉞の作者とするには無理が生ずる。取り敢えず、ここは本文通りに訳しておいた。
●青山忠雄は遠江浜松藩の第二代藩主。青山宗俊次男として信濃小諸にて出生、延宝七(一六七九)年、父の逝去により満二十八歳で家督を継いで第二代藩主となるも、六年後に三十四歳の若さで逝去、跡を弟で養子であった忠重が継いでいる。以下、青山忠裕に繋がる青山宗家系図(「……」部分の省略した五人)は多くが養子による縁組による嗣子である。
■やぶちゃん現代語訳
古えは武器に鉞もあったという事
大猷院家光様の御
ところが、宗俊殿のその華々しい奮戦を見、それを真似て、同様の鉞を遣うて戦う勇士が現れた故、宗俊殿、
「――面白う――ない!」
と、なおも一回りも大振りなる鉞を助広に鍛えさせ、それを用いられた、とのことで御座る。
これもまた、青山宗俊殿の御子孫に当たられる下野守忠裕殿御自身が、私に物語られた話で御座る。
*
鯲を不動呪の事
鯲を買ふ時、升に入りても踊り狂ふ故、一升調ひて
□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。先行する
・「鯲」は「泥鰌」「鰌」で条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus。因みに、私がよく授業で言った薀蓄は、ドジョウは鰓呼吸以外に腸呼吸をすることである。水面に浮き上がって再び潜る時、彼らは口から酸素を吸い、その圧を利用して肛門から二酸化炭素を排出している。彼等は水面に出られるような環境でないと――溺死――するのである。なお、「どぜう」という表記は歴史的仮名遣いとしては明白な誤りである。由来としては「どじやう」が四文字で縁起を気にした江戸商人が同音の三文字に変えたものとも言うが、不詳である。更に関心のあられる向きは、ドジョウの博物誌として、私の「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の「泥鰌」の項及び私の注を参照されたい。
・「不動呪」は「うごかさざざるまじなひ」と読む。
・「升に入りても」江戸の泥鰌売りは一升桝の量り売りであった。これを知らないと本話の意味が分からない。tachibana2007氏のブログ「食べ物歳時記」の「江戸っ子と泥鰌と川柳」に、
こはさうに泥鰌の枡を持つ女 (「柳多留」)
と桝にぎゅつと一杯よ、泥鰌売りを睨みつけて買い求めても(これは新潮社日本古典集成の「俳風柳多留」の宮田正信氏の注によれば、跳ね回る泥鰌を気味悪く感じている女の情で描いたものとする。付句は「こぼれたりけりこぼれたりけり」。)
おちつくとどじやう五合ほどになり (「万句合」安永三(一七七四)年
という始末で、泥鰌売りは踊り暴れる泥鰌を巧みに計り売りし、泥鰌が桝の中で落ち着いてみれば、半分ほどしか入っていなかった、とある(川柳の一部の表記を正しい仮名遣に直させて頂き、解釈も私の独断を交えた)。この五合が、更に本話柄の最後と繋がるのである。即ち、「一倍」、桝正一合強は買える、というのである。
・「末の蓋」岩波版長谷川氏注に『椀のふたの一番小さいもの。』とある。
・「
■やぶちゃん現代語訳
泥鰌を動かないようにさせる
泥鰌を買う時、桝に入れても大暴れするゆえ、一桝
そこで妙法を御伝授致そう。
その一 椀の蓋の一とう小さなを用意致いて、
その二 その蓋を泥鰌の腹の辺りにふと当て、
その三 その泥鰌をぐぃっと睨みつけた上で、
泥鰌売りにそう仕掛けた泥鰌を計らせれば――これ、まさに桝一杯に取れるので御座る……とは、さる知人の語った話で御座った。
*
八尺瓊の曲珠の事
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。根岸の信心惇直なる神道物。
・「八尺瓊の曲珠」「
・「神璽」古くは清音「しんし」であった。通常、狭義には本八尺瓊勾玉や天子の印のことを言うが、三種の神器の総称としても用いる。
・「雨下る」底本には右に『(天さかる)』と傍注する。「天離る」で、空の彼方遠く離れてあるの意から、「ひな」「向かふ」の枕詞。
・「あらめ」底本には右に『(ママ)』注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「あらず」。だが、私は文脈からは「雨下る鄙の論ずべき事にあら」ず、と言っておきながら、その実(批判的視点ではあっても、事実として)、語り出してしまう以上、ここは実は根岸、「雨下る鄙の論ずべき事にこそあらめ、往古は日本も……」と「こそ」已然形の逆接用法のニュアンスであったと考える。そのように訳した。
・「璧」標題の「珠」と同義で、元来は丸い形をした美しい宝石を言うが、ここでは中国古代の玉器の一つを指す。扁平な環状で中央に円孔を持つ。身分の標識・祭器とされ、後には高級装飾品として用いられた。
・「□□□□□□□」底本には右に『(約七字分空白)』と傍注。神器に関わる禁忌を期した意識的欠字。
■やぶちゃん現代語訳
八坂瓊曲玉の事
『
□□□□□□□という人の元に、先祖より大切に伝えて御座るものがあるということで――それは、青色の光輝を持った石製の宝玉に紐を付け、
「――これ、当家にては――古来より――オッツホン!――『八坂にのまがたま』と唱えて御座るものにて御座る……」
と主人が勿体ぶって――否、不敬にも――語って御座った――と、私のところにしばしば訪れるさる人の、語った話で御座る。
*
澤庵漬の事
公事によりて品川東海寺へ至り、老僧の案内にて澤庵禪師の墳墓を徘徊せしに、彼老僧、禪師の事物語の
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、古事由来談として、断絶的とは言えない。
・「澤庵漬」ウィキの「沢庵漬け」によれば、『東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼ぶ』とし、『沢庵和尚の墓の形状が漬物石の形状に似ていたことに由来するという説』、『元々は「じゃくあん漬け」と呼ばれており「混じり気のないもの」、あるいは、「貯え漬け(たくわえづけ)」が転じたものであり、後に沢庵宗彭の存在が出てきたことにより、「じゃくあん」「たくわえ」→「たくあん」→「沢庵和尚の考案したもの」という語源俗解が生まれたとも』ある。何れにせよ、本話が記されたであろう寛政九(一七九七)年頃、十八世紀には『江戸だけではなく京都や九州にも広がり食べられていた』とある。『日本における伝統的な製法では、手で曲げられる程度に大根を数日間日干しして、このしなびた大根を、容器に入れて米糠と塩で』一ヶ月から『数か月漬ける。風味付けの昆布や唐辛子、柿の皮などを加えることもあ』り、『大根を日干し、塩を加えて漬けて水分を減らす事によって大根本来の味が濃縮され、塩味が加わり、米糠の中に存在する麹がデンプンを分解して生ずる糖分によって甘味が増すとともに』、『米糠の中に含まれる枯草菌の産出物によって、ダイコンは徐々に芯まで黄色から褐色に染まる』っていく(現在のものは多くが着色料・甘味料を用いている)。
・「東海寺」「澤庵禪師」などについては「耳嚢卷之一 萬年石の事」の私の注を参照。
■やぶちゃん現代語訳
沢庵漬の事
公事によりて品川東海寺に参ることが、これあり、事務方も
……世に『沢庵漬』と申すもの、これ、東海寺にては『
……大猷院家光様が品川にお成りの砌り、東海寺にて御昼食の御膳をお召し上がりになられましたが、
「何ぞ、これ、珍しきものを、献ずるよう。」
とのお好みにて、沢庵禪師は、
「――禅刹なれば、何も珍しきものはこれ、御座らぬ――お口に合いますものかどうか――当寺伝来の貯え漬けの、香の物なればこれ、御座る。」
と、その香の物を沢庵より直々に献じ申し上げたところ、
……ポリ……ポリリ……ポリポリポリ……
「……これは、何と! 美味ではないか!……沢庵!……これは、『貯え漬け』では、なかろう! 『沢庵漬』、じゃ!」
と、殊の外、御賞美遊ばされた故――只今、東海寺代官役を致いておられる橋本安左衛門殿の御先祖が――翌日より毎日、御城御台所方へ――寺に御座った青貝細工の、献上には聊か粗末なる塗りの重箱にこの、『沢庵漬』、を入れて持ち参り、お納め申し上げて御座った由にて御座るとのこと。……
……今に、安左衛門殿の橋本家には、家伝の重宝と致いて、この重箱が、御座る由に御座る。……
……と、かの老僧が語って御座った。
*
痔の神と人の信仰可笑事
今戸穢多町の後ろに、痔の神とて石碑を尊崇して香華抔備へ、祈るに隨ひて利益平癒を得て、今は
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。神仏関連の滑稽譚(少なくとも根岸にとって)として軽くは連関するか。
・「可笑」は「わらふべき」と読む。
・「今戸穢多町」昭和七(一九三二)年に浅草今戸町に一部編入された浅草亀岡町の江戸時代の旧地名。穢多頭として知られる浅草弾左衛門は、この付近に住んだ。町名でもこのような公然の差別が行われていた現実を我々は真摯・深刻に受け止めねばならぬ。それが先日迄、たかだか一五〇年の昨日の自分達であったことを批判的な意味に於いて忘れてはならぬ。この根岸の話の主部が、私にとって「可笑」しくないのと同様、こういう事実を知ることは「可笑」しくも嬉しくもない。だが、そこで目を瞑ってなにも語らぬ、何も注せぬ、諸本や現代語訳は、いや増しに、不快、であると言っておく。
・「痔の神」底本の鈴木氏注には藝林叢書本の三村竹清氏の注を引いて、『痔の神は、浅草玉姫町日蓮宗本性寺にある秋山自雲功雄尊霊の事にて、今も祀堂もあり、新川の酒問屋岡田孫右衛門手代善兵衛とて、小浜の生なり。痔疾に苦しむ事七年、延享元年甲子九月二十一日没せるなりと云』とある。この本性寺は現在の東京都台東区清川にあり、医療法人社団康喜会の運営するポータル・サイト「痔プロ.com」の「痔の散歩道 東京編」に、奥沢康正氏の「京の民間医療」からの引用として、『秋山自雲尊者、秋山自雲功雄尊霊とも呼ばれる秋山自雲は、延享元年(一七四四)痔病に苦しんで亡くなったという岡田孫右衛門の法名です。岡田孫右衛門は、摂津国川辺郡小浜村(一説に安倉村)の造り酒屋に生まれ、姓は狭間といい、通称を善兵衛といいました。長じて江戸へ出て、酒問屋、岡田孫左衛門の所に奉公しましたが、見込まれて岡田家を継ぎ、岡田孫右衛門と改めました。三十八歳の時に痔病を患い、治療につとめましたが全治せず、ついに浅草山谷本性寺の題目堂に参籠して、法華経を唱え、病気の祈願につとめました。しかしその甲斐もなく、七年間痔病に苦しみ、延享元年(一七四四)九月二十一日四十五歳で亡くなりました。臨終に際して、「願わくば後世痔疾痛苦の者来って題目を信仰せば、われこれを救護し利益を垂れん」との誓願を発して瞑目したと伝えられます。その後、痔を患う友人が、墓前に願を垂れたところ、完治したといい、その噂はたちまち広がって、痔疾平癒の信仰が生れました。はじめは浅草の本性寺に祀られ、後に摂津国小浜村本妙寺と京都東漸寺に分祀され、更に後には、全国の日蓮宗寺院に分祀されていきました』とある(アラビア数字を漢数字に、二重鍵括弧を鍵括弧に代えた。リンク先では門柱の「ぢの神」や自雲の墓、祭祀する題目堂の写真を見ることが出来る)。なお、岡田孫右衛門が罹患していたのは痔ではなく、直腸癌であったものと思われる。
・「脇坂家」播磨龍野藩脇坂家。寛政九(一七九七)年当時の当主は、第七代藩主脇坂安親。
・「秋山玄瑞」脇坂家に仕えた秋山宜修(かくしゅう 生没年未詳)。「脚気辨惑論」などの医書が残る、江戸の著名な医師。
・「秀山智想居士」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『秋山自雲居士』とある。これでないと先に示した本性寺の事蹟とも一致しないし、また――「可笑事」――にもなるまい。但し、附言するなら、これは孫右衛門にとっては真剣な思いであったことを、その遺志は素直に真摯に受け取るべきものであり、「可笑」は私には極めて不快であることを言い添えておきたい。根岸の頻繁に現れる日蓮宗嫌いが悪い形で出た一篇と言えよう。
■やぶちゃん現代語訳
痔の神と痔を患う人との
今戸穢多町の後ろに痔の神と称して、石碑を尊崇、香花なんどを供え、これを祈るにしたがって痔の病状が好転快癒を得る、なんどという噂が忽ちのうちに広まって御座って、今ではちょいとしたお堂なんどまで建てられ、参詣する者も多いと聞く。
私の元にしばしば来られる脇坂家の医師秋山
……拙者、壮年の折り、療治致いて御座った患者に、霊岸島の酒屋手代が御座っての。
……この男、長年、痔疾を患っておって、拙者も種々の療法を試みては見たので御座ったが……いや、これがまっこと、真正の……甚だ重い難治性の痔疾で御座っての。
……この手代、不断に、この病いがため……その激しい痔の痛みはもとより……あれこれと思い悩んで、その、心の痛みにも苦しんで御座った。……
……また、彼は、
「……我ら、(痛)!……我らが死にましたならば……世の中の……痔病の
と、我と我が身の、見るも無残なる堪えがたき激痛がために……七転八倒する
……なれど……結局……薬石効なく……亡くなって、御座った。……
……その戒名は『秋山
……それが、これ……かの痔の神の謂われで、御座る……
……と、いった事実が御座った、と、かの玄瑞が私に語ったそのままを、ここに記しおいて御座る。
*
神祟なきとも難申し事
是も玄瑞ものがたりけるは、同人壯年の頃、同職の者四五輩打連れて採草に出しが、新田大明神と號する
□やぶちゃん注
○前項連関:医師秋山玄瑞談二連発。
・「神崇なきとも」「かみ、たたりなきとも」と読む。
・「新田大明神と號する義興の墳墓」「新田大明神」は現在の東京都大田区矢口にある新田義興所縁の新田神社。新田義興(元徳三・元弘元(一三三一)年~正平十三・延文三(一三五八)年十月十日)新田義貞次男。奥州の北畠顕家に呼応して上野で挙兵、北畠の奥州軍に加わわった後、吉野で後醍醐天皇に謁見、元服。父義貞の戦死後は越後に潜伏したと考えられている。観応の擾乱とともに鎌倉奪還を目論見、上野国に於いて北条時行を旗頭として挙兵、正平の一統の破綻後は正平七・観応三(一三五二)年、宗良親王を奉じて弟義宗・従兄弟脇屋義治と再挙兵し、一時、鎌倉を占拠するも尊氏の反攻にあって追われる。尊氏没後の半年の後、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と、関東管領畠山国清によって送り込まれた刺客竹沢右京亮及び江戸遠江守高良によって、主従十三人とともに多摩川矢口渡で自刃して果てた。享年二十八歳。「太平記」巻之三十三に拠れば、義興の死後、謀殺の下手人であった江戸高良が矢口渡で義興の怨霊に逢い、惑乱狂死したため、現地の住民が義興の霊を慰めるために「新田大明神」として祀ったと記す(以上は主にウィキの「新田義興」を参考にした)。社殿の背後に円墳があるが、これは「御塚」と呼ばれ、新田義興の墓とされる。古くより「荒山」「迷い塚」などとも呼ばれ、ここに入ると必ず祟りがあるとされる。(現在は立入禁止。この部分は「古今宗教研究所」の「新田神社」の記載に拠った)これらは明和七(一七七〇)年江戸外記座で初演された江戸浄瑠璃の傑作平賀源内(福内鬼外名義)作の「神霊矢口渡」で頓に知られるものであるが、底本の鈴木氏注には『ただし、義興が憤死した矢口の渡はここではなく、もとの鎌倉街道筋の南多摩郡稲城町矢野口であるという説もある』とも記されている。
・「英雄の怒氣凝然たる事なれば、後世神を殘す理もあらんか」前段の如何にも意地の悪い書き方に比してこの素直さ、そして前段の悪意に満ちた表題「痔の神と人の信仰可笑事」と、この「神崇なきとも難申し事」という共感性を比較して見ても、根岸が神道系には(+)のバイアスが、仏教でも日蓮宗系に有意な(-)のバイアスがかかるという私の説を納得戴けるものと存ずる。
■やぶちゃん現代語訳
神の祟りが無いとも言えぬ事
これも私の知人、医師秋山玄瑞殿が物語って御座った話である。――
……拙者壮年の折り、同じく医業に携わる者四、五人をうち連れて、薬草の採取に出かけたことが御座った。
……矢口の渡しの近く、新田明神と号す社の後ろに……ほれ、新田義興の墳墓と伝えるものが御座ろう……さても今となっては、すっかり深き竹藪の植わって御座るところなれど……あの周辺で、採草致いて御座ったのじゃが……たまたま、拙者が召し連れて御座った小僧が……拙者からは大分、離れておった故……他の仲間が止めるのもよう聞かずに……かの古墳の内へと入り込んで、薬草を採ってしもうたのじゃ。……
……その日、小僧を連れて屋敷に戻ったのじゃが……夜になると……かの小僧、俄かに大声にて、何やらん、口走り始めた。それを聴くに、
「……我が棲家の草を取るとはッ!……そのことの、アアアッ、憎さよッ!……ウワアアアッ!!!」
と……これまた、子供の声とは思えぬ、野太き韋丈夫の、そりゃ、恐ろしき声にて御座っての……罵り呼ばわって走り回る……
……もう、家内の者も大いに驚き……
……ともかくも、かの言に従わんに若くはなしと一同決して、かの神域より採取した草を、元通り、戻いたところが……
……これ、何事もなかったかのように、小僧は元の通りに戻って御座ったのじゃ……。
――さても按ずるに――かく、英雄豪傑の類いの怒気というもの――これ、死して後も、そこに凝っと動かず、消えず、しっかと残るものなればこそ――死して後の世に、祟りなす、恐ろしき、神ともなって残る、という道理も――これ、決して――妄説とは言えぬのでは、御座るまいか?――
*
眼の妙法の事
柳生が元へ來れる八十の翁、眼鏡なくして今に物を見し故、其
□やぶちゃん注
○前項連関:医師の薬草採取から民間治療の薬草で連関。しかしこのふらりとやって来た老人というのは、彼の眼の良さの話の盛り上がりの最中、緡から数枚の銭を掠め取って御座ったものではなかろうか? 人が信じられぬ拙者は、どうも意地悪く読み取ってしまうので御座る……。更に意地悪く言うと……根岸は箒草のあえものを果たして食べてみただろうか? 私はどうも食べなかった気がするのである。そもそもこれが妙法と根岸が信じたなら、彼なら即座に実行に移したはずであり、「柳生も切合などにして食するに、給惡き物にもなしとかたりぬ」で話を切るはずがない。根岸はこの話を、実は胡散臭いものとして記している気さえ、してくるのである……。
・「柳生」呼び捨てにしており、不詳。諸本も注しない。先行する該当人物もいない。もし、著名な剣術指南役の家系の大和柳生藩柳生氏ならば、当時の当主は徳川家斉の剣術指南役であった第八代藩主柳生俊則(享保十五(一七三〇)年~文化十三(一八一六)年)であるが、官位従五位下、采女正・能登守・但馬守であった彼であれば、流石に根岸も呼び捨てにはするまいとも思われる。しかし剣の達人が箒草の和え物をせっせと食っている図というは、これ、面白う御座るな。
・「眼生」眼性。眼の
・「箒草」ナデシコ目アカザ科ホウキギ Kochia scoparia。中国原産。茎が箒のような細く固い。秋に茎ともに赤く紅葉する。古くは茎を乾燥して草箒に用いられた。秋田では、近年は畑のキャビアというキャッチ・コピーで知られる「とんぶり」として食用にする(因みに、「とんぶり」の語源は、ハタハタの卵の呼称である「ぶりこ」(こちらは、江戸初期に水戸藩主佐竹
・「切合」「切り和え」「切り韲え」で、茹でて細かく切り、味噌などを混ぜてあえたもの。
・「
■やぶちゃん現代語訳
眼の妙薬の事
柳生殿のもとへしばしばやって参る八十にもなろうという老人、眼鏡もかけぬのに、よう眼が利く故、その眼の
「……我ら、四十の頃、商家に寄宿致いて御座いましたが、店の者は毎夜集まって、その日の売り上げの銭勘定を致します。銭の穴に紐を通し、
「……細っけえ仕事じゃの……どうら、我らも
と、百文の銭を刺しながら勘定致いて御座るのを見るに、これ、我ら壮年の者と変らぬ手際なれば、場に御座った者ども皆して、褒めそやいて御座いましたところが、
「……特にこれと言うて、特効の薬なんどを用いておるという訳にても御座らぬ……生まれも育ちも田舎のことなれば、眼なんどのため、わざわざ薬を
と老人が答えました。……
……はい、それからで御座います、我らも四十の頃より、この箒草を日々、必ず一度は食すように致いて御座いますのです。……」
これを聴いた柳生殿も、この箒草をきりあえなどに致いて食しておられる由。
柳生殿曰く、
「そう食べにくいものにても、これ、御座らぬ。」
とのことで御座る。
*
齒の妙藥の事
是も柳生氏かたりけるは、同人の
□やぶちゃん注
○前項連関:話者柳生氏及び民間療法で直連関。本話の話の運び、そしてエンディング――これ、やっぱり根岸の視線は、これ、かなり眇めな気がしてならないのである。
・「冬瓜」双子葉植物綱スミレ目ウリ科トウガン Benincasa hispida。インド及び東南アジア原産。本邦では平安時代から栽培されてきた。漢方では、体を冷し、熱をさます効果があるとされるので、歯周病による歯肉の腫れを鎮める効果が期待出来なくもない。
・「五十に成て」もしこの「柳生氏」が前項で示した柳生俊則であるとするなら、彼は享保十五(一七三〇)年生まれであるから、本巻執筆当時(寛政九(一七九七)年)では、数え七十歳で、計算が合わない。やはり彼ではあるまい。寧ろ、この謂いから、この「柳生氏」は根岸(当時、数え六十四歳)よりも若い可能性が高いということが分かる。
・「
・「
・「チサ」キク目キク科アキノノゲシ属チシャ Lactuca sativa。聞きなれないかも知れないがレタス(“Lettuce”英名)の和名である。地中海沿岸原産で本邦には既に奈良時代に伝来している。但し、現在、我々が馴染んでいる結球型のレタスはアメリカから近年持ち込まれたもので、家庭の食卓に普及したのは一九五〇年代と新しい。それまでのチシャは巻かない(結球しない)タイプであった。キク科に属すことから分かるように本来の旬は秋である。従って、本話柄の後半のシークエンスは恐らく厳冬から春夏にかけてと推定出来る。なお、学名もレタスもチシャも語源は同根で、英名の語源となった属名の“Lacutuca”の Lac はラテン語で「乳」を意味し、チシャは
・「棠」底本には右に『(薹)』と傍注。たまたま歴史的仮名遣でも一致して「たう」であるが、ここは「薹」が正しい。「
■やぶちゃん現代語訳
歯の妙薬の事
これも柳生氏の語られた話で御座る。
「……拙者、生来、歯の
「……残念なことにて御座るが……四十までには、これらの歯……無事にては、これ、御座らぬと推測致しまする……。」
と宣告されて御座ったものじゃ。……
……ところが、ある人の教授にて、
――冬瓜を糠味噌漬けに致いたものを更に干し上げ、これを今度は黒焼きに致いて、毎日一度宛て、口に含むと効果がある――
との由にて……その後は欠かさず、その通りに致いて参った。……
……されば、ほれ、この通り、五十になった今にても、未だ歯の愁いなし!
……と申したいところで御座るが……
……実は一、二年ほど前より、またぞろ、歯がぐらつき始めて御座って、の……
……そこで、先の療治を教えて呉れた者に、再び相談致いたところ、また、教授を受けた。それによれば、
――まず、冬瓜の黒焼きに、胡桃を渋皮のままに黒焼きに致いたものを混ぜ合わせたものを用意致し、更にまた、
との由にて御座ったのじゃ。
……ところがじゃ……苣の薹が立ったものと言われても、の……その折りは、これ、とんだ時期外れで御座って、とてものことに手に入らなんだによって……とりあえずは、冬瓜・胡桃両種の黒焼きを合わせたもの、これ、去年以来、ずうっと服用致いて御座ったところ……
「……いや、根岸殿、聊か軽快致いたかの如き気が、致いて御座るのじゃ。……」
と、柳生氏は語って御座った。
*
金瘡燒尿の即藥の事
途中或は差懸り候て、
□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法三連発。火傷の
・「金瘡燒尿の即藥の事」底本には「燒尿」の部分に鈴木氏による『やけど』のルビがある。標題にはルビを振らないことを原則としてきたので、ここに記す。鈴木氏は「燒床」の誤字と考えておられるようである。「卷之一」の「燒床呪の事」に既出であるが、「
・「
・「
・「靑菜」は一般には緑色の葉菜類、カブ・コマツナ・ホウレンソウなどを指すが、狭義にはカブの古名ではある。但し、叙述から緊急時に常にカブがあろうとも思われぬから、広範な食用の緑色葉菜類を指しているように思われる。ネット上では、アオキ・ツワブキ・ビワ・アロエ等の生葉が民間薬として挙げられている。
・「坂部能州」坂部能登守広高。本巻の先行する「蝦蟇の怪の事」に既出。寛政七(一七九五)年に南町奉行となり、同八年には西丸御留守居とある。
■やぶちゃん現代語訳
切り傷・火傷の妙薬の事
外出した際や、何らかの差し障りが御座って、血止め等の薬を所持しておらぬ時には、大きな外傷は問題外であるが、ちょっとした傷や、また
*
館林領にて古き石槨を掘出せし事
寛政八年の春、館林松平久五郎領内の寺院、三四日續て夢見しに、誰ともしらず來りて境内の畑地を掘りて見ば靈佛あらんと告し故、此僧律義篤實のものにて、其村長へ
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。四つ前の新田義興から藤原秀郷で古武士武辺物奇譚連関。
・「石槨」古墳時代の石製の、棺を入れる外棺。
・「松平久五郎」これは上野館林藩主松平(越智)家第四代松平武寛(宝暦四(一七五四)年~天明四(一七八四)年)、通称久五郎のことであるが、彼はご覧の通り、寛政八(一七九六)年前に亡くなっているからおかしい。これは武寛の長男で第五代当主であった松平斉厚(なりあつ 初名・
・「差添」名詞。刀岩波のに添えて腰に差す短刀。脇差。
・「祠」カリフォルニア大学バークレー校版では『銅』であるが、銅製の埋葬碑文で磨滅というのは私にはしっくりこないので、採らない。
・「藤原の田原藤太秀郷」平将門追討や百足退治で知られる藤原秀郷(生没年未詳)は、下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜十六(九一六)年に隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族とともに流罪とされている(但し、彼は王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない)。将門天慶の乱では天慶三(九四〇)年にこれを平定、複数の歴史学者は平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している。この功により同年中に従四位下、下野守に任ぜられ、後には武蔵守及び鎮守府将軍も兼任した(以上の事蹟はウィキの「藤原秀郷」に拠った)。彼の墓と称せられるものは現在、かつて居城とした栃木県佐野市新吉水や群馬県伊勢崎市赤堀今井町(こちらは秀郷の死後、三男田原千国による供養塔と伝えられる)にあるが、館林藩内に相当する旧群馬県
・「月番の寺社奉行」寺社奉行定員は四名前後で自邸をそのまま役宅とし、月番制の勤務であった。勘定奉行・町奉行と並んで評定所を構成、各種訴訟処理を行った。寛政八年当時は土井利厚・板倉勝政・脇坂安董・青山忠裕。
・「間滅」底本「間」の右に『(磨)』と傍注。
・「久世家」岩波版長谷川氏注には後掲される「津和野領馬術の事」に出る「久世丹州」久世広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)か、とされる。天明四(一七八四)年に勘定奉行となって寛政の改革を推進、寛政八年当時は寛政四(一七九二)年よりの関東郡代をも兼ねていたので、本記述に合致する。これで採る。
■やぶちゃん現代語訳
館林領内にて古き石槨が掘り出された事
寛政八年の春、館林藩松平斉厚殿御領内の寺院の住僧、三、四日続けて同じ夢を見た、その夢――
……誰とも分らぬ者が立ち現れ、
「――境内の、どこそこの畑地を掘りなば――霊仏、有らん――」
と告げては消える……
――という
「……そのようなこと……これ何やらん、奇体なる趣きの話なればのぅ……」
と、当初は取り合わずに御座ったれど、この僧、何度も村長に面会に及び、
「――何としても、この疑念を晴らしたく存ずればこそ……。」
と執拗に掛け合って参る故、遂に村長も折れ、
「……然らば……
と許諾致いた。
そこで、寺では檀家衆を集め、かの夢告の指し示した場所を、深さ一丈、幅二間四方程も掘ったところが――
――一つの
――且つまた、石槨中にはそれとは別に、石碑様のものに文字を彫り付けた一尺四方程のものも入って御座って、その文字は、これやはり、摩滅して読み難くう御座ったれど、読もうなら、
『――藤原の田原の藤太秀郷を葬れり――』
といった文言で、御座ったという。
以上の事実を領主及び役人へも申告致いたが、
「……発掘の経緯も出土の品々も……いや、これ、あまりに
と、議論百出、なれどもまた、
「……このまま
ということになって、結局、月番の寺社奉行へ正式に申告致すことと相い成って御座った――ということを、かの館林藩家士伊藤郡兵衛殿が関東郡代久世広民殿方へ参上の上、物語って御座った由。
御公儀への正式な調査報告書が提出されれば、もっと細かな事実も判明致すものと思われるが、先ずは伝え聞いたままを、ここに記しおくことにする。
*
老姥の殘魂志を述し事
御普請役元締を勤ける早川富三郎が祖母死しけるが、隣家の心安くせし同位の者方へ至りて安否を尋ける故、右の妻不快の事を尋、快よくて目出度抔述ければ、病中尋給りて
□やぶちゃん注
○前項連関:霊異で軽く連関。実は「耳嚢」にはそれほど多くない、文字通り、本格の怪談物である。
・「老姥」は「らうぼ(ろうぼ)」と読んで、祖母の意。
・「御普請役元締」勘定奉行勘定所組頭の下役であった支配勘定(財政・領地調査担当)の、その下役の一職名。底本の鈴木氏注に『御役高百俵、御役金十両』とある。
・「早川富三郎が祖母死しけるが」怪談として「死しけるが」は意図的に外して訳した。
・「同位」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『同信』。後に「同輩」と出るので、主人が御普請役元締と同位の役方の意であろう。
・「御普請役の家内なれば、旅などへ赴候や」当時の慣習からは、職務上の外地への出張に於いては家族の同行は原則許されず、単身赴任であることが普通であると思われるので、訳では少し辻褄合わせを行った。
■やぶちゃん現代語訳
御普請役元締を勤めて御座った早川富三郎の祖母、隣家で親しくして御座った富三郎同輩方の屋敷へ参って、この同輩が妻へ
「すっかり快ようなられ、これはこれは、おめでとう御座りまする。」
と言祝いだ。すると、かの祖母、
「病中は、お見舞いを賜わって忝のう御座いました。今日は、暇乞いに、参りまして御座います。」
とのこと。御普請役の
主婦が、その帰るさを見送って御座ると、かの祖母は向かいの、やはり心安うして御座った町家の者のところへ寄って行き、同じ様に礼を述べておる様子で御座った。
そこで、かの祖母の帰るを見計らって、かの同輩の妻、向かいの町家を訪ね、
「久しゅう煩はれておられた老姥の快気なされたは、これ、めでたいことにて御座いまする。旅立ちの暇乞いなんども賜わったことなれば。」
とて、同輩の妻も町屋の妻も、富三郎方へご快気祝いに旅立ちのお餞別のご挨拶を兼ね、二人してお訪ね申しましょう、ということ致し、すぐに一緒に立ち出でると、富三郎方へ参った。
すると何やらん、富三郎方にては葬礼の支度なんどを致いておるようなればこそ、驚いて、
「……何方か、御不幸でも?……」
と尋ねたところが……
……かの祖母は今朝……儚くなられた由……
かの両人、
「そんな! 先程、我らが宅へ元気に参られ……」
「そうで御座います、我らが宅へも! そうして何やらん、『暇乞いの挨拶』とか……」
と、驚き叫んだところで……声も出でずになった、とか申すことで御座る……
*
女の幽靈主家へ來りし事
□やぶちゃん注
○前項連関:女の死霊の挨拶連作。
・「鵜殿式部」岩波の長谷川氏注に鵜殿『
・「一重」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『二重』とする。主人と家内の同僚の分も含むものであろうから、二重の方が自然か。
■やぶちゃん現代語訳
女の幽霊の主家へ挨拶に参った事
鵜殿式部
そんな暫く経った、ある日のこと、かの女、式部の母の隠居致いて御座った邸宅へと訪ねて参り、
「数々の厚き御恩を蒙り、永の養生をさせて戴きまして、まことに有難たく存じました。」
と挨拶致いた。
老母も、
「そなたの病気、快方へ向こうたか?」
と悦んで、慶賀致いたが、
「……なれど……未だ、顔色も良うないのう。……さても、今少し、よう養生致いて、またすっかりようなったら、また帰参して勤めよや。」
と諭したところが、
「いえ、もうしっかりとご奉公致すこと、これ出来まする。」
と述べた上、土産と称し、
「これは手前が拵えました不束なる品にて御座いますが……」
と、団子を一重、すうっと差し出だいて御座った。
「そう申すのであれば……先ずは、養生の続きと心得て……無理せず、勤めるがよいぞ。」
と挨拶なしたところ、かの女、深々と礼を致いて、その座を立って、次の間へと引き下がって御座った。
老母もほどなく勝手方へ回り、場に御座った者どもへ、次のように声を掛けた。
「××が病気快癒とて帰って参りました。なれど、未だ顔色も
と言うたところが、勝手方はもとより、家内の者ども皆、
「……大奥さま……その……お言葉ながら……手前ども
と答える故、
「そんな馬鹿なこと!」
と、家内のあらゆるところを捜させて御座ったれど……
……女は、忽然と消え失せて、これ、御座らなんだ。……
老母は、それでも、
「……そんな!……それ! 何と言うても、ここに、土産の重箱がある!……」
と、老母の、居間を指すを見れば、確かに、かく仰せの重箱が御座った。
そこでその重を開けて見たところ、内にはこれまた確かに、団子の白きが、綺麗に詰めおかれて御座った。
さればこそ、かの女の里方へ人を遣はして訊ねさせたところ――
「――娘××儀は、二、三日ほど前……薬石効なく、相い果てまして御座いました……が……急な事とて、先様へのお知らせ、これ、延引致す結果と相いなり……まことに申し訳の程も御座いませぬ……」
と、かの里方の者、直々に言上の上、謝罪に参って御座った。
「……いや……全く以って……不可思議なることで御座った……」
とは、鵜殿殿の一族の者が、私に語って御座った直談にて御座る。
*
淸乾隆帝大志の事
□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。先行する「聖孫其のしるしある事」の珍しい中国物で連関。同じく儒学者からの話柄でもある。なお、不学にして本話が何を典拠とするものかは不明。識者の御教授を乞うものである。
・「乾隆帝」(一七一一年~一七九九年)は清第六代皇帝。在位は一七三五年~一七九六年。諱は弘暦、廟号は高宗。康熙帝・雍正帝に続く清朝絶頂期の賢帝。外征によって西域を押さえ、チベットにまで版図を広げた。学術を奨励、「明史」「四庫全書」といった多くの欽定書の編纂を命じており、中国の文物をこよなく愛し、自ら多くの漢詩ものしている(参照したウィキの「乾隆帝」によれば、現在の故宮博物院に残る多くのコレクションは彼の収集になるものと言う。本話の執筆時下限は寛政九(一七九七)年であるから、実にアップ・トウ・デイトな国外の未だホットな噂話と言える(但し、乾隆帝は祖父康煕帝の在位期間を超えることを遠慮して嘉慶帝に譲位したので、実際には院政をひいているから、実はこの話は現在進行形であるとも言えるのである)。
・「彼主人」底本に『尊本「反人」』と右に注する。訳は誤字と見て「反人」で採る。
・「
■やぶちゃん現代語訳
清乾隆帝の大志の事
つい先日終わった清国は乾隆帝治世の出来事である。
反逆者があって、この者を召し捕って、その罪科を糺した。
するとその反逆者は以下の如くに主張した。
「私は中華歴代の正統なる漢人の子孫である。今の天子は満州人にして夷狄の類いであるから、これを亡ぼして中華の連綿たる正しき流れに復さんと思うこと――どうしてこの天道に適う志を――非道にも非とせんとするか!」
と答えた。
それを聴いた乾隆帝は、
「一介の人間より見れば――或いは華人、或いは夷狄人とも言うのであろう。――しかし、天より見給うたならば、華人と夷人とに何の差があると言うのか?――たとえ中華伝承の聖王たる尭・舜の末裔にして中華伝統の連綿たる正しき流れを受け継いだ天子であろうとも――人民を虐げ、桀・紂の如き悪逆非道の中華伝説の暴君であったならば――天はどうしてこれを助けるはずはあろうか? いや、金輪際、ない。――この
かの反逆者も、流石にこれは屈服致いた、という話。……
「……近頃、唐伝来の書にて管見致いた話にて御座る。」
と、出入りの儒者黒澤殿が語ったものであるが、流石は五十有余年に亙る治世を、我が国と同じく、四海全き平らかにして波静か――搖るぎなき泰平安国を成し遂げられた皇帝なればこその、その志しを受けた出来事と言えるものにて、異国のことながら、想像を絶した度量の広さを持った英才ならんと感ずること頻りなれば、ここに記しおいて御座る。
*
慈悲心鳥の事
日光山に慈悲心鳥といへるあり。じひしんと鳴候由兼て聞しが、予御用に付三ケ年彼御山に登山せしが其聲聞ざりし故、大樂院龍光院外一山の輩に尋しに、中禪寺の奧などにては常に鳴く由。
□やぶちゃん注
○前項連関:乾隆帝の高邁なる志から畏れ多き権現様家康公の霊威瑞兆で連関。
・「慈悲心鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax。成鳥は全長凡そ三二センチメートル。頭部から背面にかけては濃灰色の羽毛で覆われ、胸部から腹面にかけての羽毛は赤みを帯びる。胸部には鱗模様を持つ。幼鳥は胸部から腹面にかけて縦縞が入っている。脚は黄色で脚指は前二本後二本の対し足。托卵する。日光では初夏(五月中旬)に渡って来て囀るが、和名も異名ジヒシンチョウもその鳴き声のオノマトペイアである。サイト「日光野鳥研究会」の「ジュウイチ」のページには、江戸時代に書かれた日光ガイドブック「日光山志」に日光はジュウイチの産地とあり、また『この鳥は「神山に住む霊鳥で、自らの名を呼ぶ」』などとされ、『「仏法僧」と鳴くと思われていたブッポウソウ、「法、法華経」と鳴くウグイスを加えて、日本三霊鳥として』崇められたとする。同族類では『ウグイス以外は、身近な鳥ではないだけに色々想像され、神格化された部分があったと思』われ、特に江戸時代有数の霊場であった日光に棲むことから格別な霊鳥と意識されたと考えられるとあり、また、「日光山志」『には、ジュウイチのいるところとして「荒沢、寂光、栗山辺にも多く(中略)人家のあるところでは声を聞くことは希なり」と書かれてい』るとも記す。リンク先では慈悲心鳥の鳴き声も聴ける。神霊の声を耳を澄ませてお聴きあれ。但し、他の音源を聴くに、私には「ヒュイチィ! ヒュイチィイ!」と聴こえ、また、連続して囀ると、本文でも触れているようにテンポと音程が徐々に早く高くなるように思われる。
・「予御用に付三ケ年彼御山に登山せし」既出であるが、根岸は勘定吟味役として、安永六(一七七七)年から安永八(一七七九)年までの三年間、日光東照宮・大猷院(家光)霊屋・本坊日光山輪王寺及びその附属建物並びに日光山諸寺諸堂諸社諸祠の御普請御用のために日光山に在勤している(「卷之一」の「神道不思議の事」参照)。
・「大樂院」当時の東照宮祭祀を司っていた日光山輪王寺の東照宮別当。廃仏毀釈で消失したが、現在の社務所の位置にあった。
・「龍光院」日光山輪王寺塔頭。大猷院霊屋の別当。非公開ながら建物としては残っている模様である。
・「中禪寺」中禅寺湖畔歌ヶ浜にある天台宗寺院。日光山輪王寺別院。
・「邂逅(たまさか)」は底本のルビ。
・「日光の御宮」東照宮。
・「太田志州」太田
・「新宮祭禮湯立」「新宮」日光山を構成する一つ、日光
■やぶちゃん現代語訳
慈悲心鳥の事
日光山に慈悲心鳥というものが棲んで御座る。
「ジヒシン」と鳴く、とかねてより聞き及んで御座ったが、私はかつて普請御用に附き、かの畏き霊山に三年の間登り詰めて御座ったれど、惜しいかな、一度としてその声を聞き及ぶことは、御座らなんだ。
在勤中、大楽院・竜光院の他、一山の別当坊供僧や、その関係者なんどにも訊ねてみたところが、湖畔に御座る中禅寺の奥なんどにては常に鳴いておるとのこと。ある者は、
「……ごく稀には日光の御宮近辺へも来たることが御座る。鳩ほどの大きさの鳥にて羽根翼の美しいものにて御座れど、あまり里近くには現れざるものなれば、見ることの出来る者は稀にて御座る。」
との由、語って御座ったのを覚えておる。
つい先年の寛政の頃に日光奉行を勤めておられた太田志摩守
「……『ジヒシーンー』と、『心』の字の部分の
*
亂舞傳授事の事
□やぶちゃん注
○前項連関:技芸譚で、先行する「戲藝にも工夫ある事」に遠く連関。この理屈、何やらん、ピンとくる。芸事に限らず、我らが如何なる行為にも、「執心」のないところ、神懸った超絶の舞い――ドゥエンデは宿らぬのである。
・「亂舞」本来は中世の猿楽法師の演じた舞のことだが、近世では能の演技の間に行われる仕舞などをいった。「らんぶ」とも読む。
・「平賀式部少輔」平賀
・「金帛」
・「輕しめやすく」「かろんじめやすく」と読んでいるか。持って回った言い方で、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『
■やぶちゃん現代語訳
乱舞の伝授事に纏わる事
「なんともはや、とんでもない仕儀じゃ……」
などと話しして御座ったところ、その場に御座った平賀式部少輔殿――高名な喜多流宗家七太夫
「されば、そのことで御座る。
拙者、ある時、七太夫殿に向かい、
『……伝授の儀の謝礼など、これ、あまりに高過ぎるは……お畏れながら、聊か不都合にして不当では御座いますまいか? その芸に如何に熱心に精進致いて御座っても――貧乏なる者は――これ、その誠意なる志しを遂ぐる能わざること……これ、拙者、無念のことならんと存ずるので御座います……』
と申し上げた。すると、かの七太夫殿の答えは、
『――能楽を
とのことで御座った。……」
この説、謂われなきこととも言い難きことなれば、ここに書き留めておくことと致す。
*
藝には自然の奇效ある事
文昭院樣
□やぶちゃん注
○前項連関:喜多流第九代
・「文昭院」第六代将軍徳川家宣(寛文二(一六六二)年~正徳二(一七一二)年)。
・「桐の間を勤し」江戸城桐之間に詰めた新番と呼ばれた警護衆。実際には、楽人や舞方を中心に、大名・旗本・公家の美童どころを集めたものであった。
・「祐山」喜多七大夫宗能(慶安四(一六五一)年~享保一六(一七三一)年)の号。従五位下丹波守。江戸生。喜多流第二代宗家喜多十大夫
・「
・「章」謡本に書き入れた音譜のこと。
・「夜討曾我」宮増作か。曾我十郎裕成(ツレ)・五郎
・「端能」軽い能。謡曲としての「夜討曾我」は曽我物語を題材とした中でも最も劇的で大掛かりな曲で(観世流小書「十番斬」では間狂言と後場の間に時致と新開忠氏及び祐成と仁田忠綱の斬り合いの場面が挿入される)、アクロバティックであるが故にかく言ったものか。――関係ないが、現代では「端能」と書くと、物質が放射線を出す能力を言う。何と、無粋で哀しいことか。――
・「初心童蒙」能の初心の、それも青少年の演じるものという意。家宣が将軍となった時点でも、祐山喜多七大夫宗能は既に六十歳であった。
・「切」能の終曲部分。以下に「夜討曾我」の中入り後の後段総てを示す(キューブアキ氏の「夜討曽我」から引用させて頂いたが、読みをルビ化し、一部の漢字を正字化、それに伴って注を省略した部分がある)。
《引用開始》
一セイ
後ツレ「寄せかけて、打つ白波の音高く、閧を作って、騷ぎけり
後シテ「あら夥しの
「我等兄弟討たんとて、多くの勢は騷ぎあひて、此處を先途と見えたるぞや。十郎殿、十郎殿。何とてお返事はなきぞ、十郎殿。宵に
「物思ふ春の花盛り、散り々々になって此處彼処に、屍を曝さん無念やな
地 「味方の勢はこれを見て、味方の勢はこれを見て、打物の、
シテ 「あらものものしやおのれ等よ
地 「あらものものしやおのれ等よ。
「かヽりける處に、かヽりける處に、御所の五郎丸御前に入れたて叶はじものをと、肌には鎧乃袖を解き、草摺
シテ 「今は時致も、運槻弓の
地 「今は時致も、運槻弓の、力も落ちて、
シテ 「おのれは何者ぞ
五郎丸「御所の五郎丸
地 「あら物々しと
《引用開始》
「運槻弓」は「運、つきゆみの」と「運尽きる」に掛ける。「綿噛」は鎧の胴を肩から吊す革。本文の引用は前の方の地歌の『あらものものしやおのれ等よ。前に手練は、知るらんものをと太刀取り直し、立ったる氣色譽めぬ人こそなかりけれ』の部分に相当する。確かにここは見せ場であるが、えらく前の部分ではある。「切」という言葉は、狭義の最後のシーンを指すものではなく、謡曲の後半シークエンス全体を漠然と指すものなのであろうか。私は寧ろ、この話者の老人が、続く台詞の『譽めぬ人こそなかりけれ』に引っ掛けて、『見物の輩思はずもこれを感賞して一同聲を上し』と語るための、確信犯の引用ではなかろうかという気がしている。訳ではそのように訳した。
・「仕打」俳優が舞台でする演技。仕草・こなしの意。
☆追記補注
二〇一二年七月二十六日にブログで本話を公開したが、私は能に暗い。されば、私に能の素晴らしさを教えて呉れた教え子に、この注の不確かさを検証してもらうように当日、メールを送ったところ、即日、返信を呉れた。以下に示して強力な補注としたい。
*
先生、もう能の稽古から遠ざかって二十五年経ちますので、どうかあくまで根拠のない個人の感想としてお読みください。
能で「キリ」といえば、習い始めの初日から必ず接する言葉です。曲の中から切り取られた文字通り「キリの良い」最後の一部分であり、そこだけを仕舞として習います。同様に「クセ」というのもあり、これは曲の中間のクセ舞の部分です。例えば、金春流の仕舞を習い始めた際に私が始めて教わったのは、「紅葉狩のクセ」でした。その後、師匠のご判断で「羽衣のクセ」「羽衣のキリ」「葛城のキリ」それから「蝉丸の道行」など、多くの仕舞を学ぶことができました。例えば「羽衣のキリ」は「東遊びの数々に~」とシテが謡い、同じ文句を地謡が引き取ってから最後までの部分を指します。「葛城のキリ」は「高間の原の岩戸の舞」とシテが謡い、同じ文句を地謡が引き取ってから最後までの部分を指します。私は「夜討曽我」を学んだことはないのですが、シテがまず謡い、そこを地謡が復唱して引き継ぐということから見ると、シテの「あらものものしやおのれ等よ」から最後までが「キリ」であっても、不思議でないような気がします。
それから、「端能」という言葉、私は初めて接しました。第一印象では、比較的初心者でも学ぶことが許される軽い曲という意味ではないかなと思いました。学習者にとっての曲の軽重については、以下のHPが参考になるかもしれません。私が初めて学んだ「紅葉狩のクセ」は学習という観点から言えば、軽い曲だったのかもしれません。
HP「鎌倉能舞台」の「謡」の等級について
ただし、HPにも出ているように、これは所作が簡単であるなどという意味ではないようです。初学者が学ぶ曲を、仮に名人が舞うと、同じ動作なのに全く異なる芸事のように感じられ、芸能の深淵を見る思いがするものです。そうですね、グールド演奏のBWV828のサラバンドを初めて聴いたときに覚える衝撃と、何か似たようなものかもしれません。
確信犯の引用であるとの先生の推定、素晴らしい! その通りですね。これで文章にウィットが付加されます。仮にもし著者がそれに気づいていなかったとしても(その可能性もありだと思います)、文章はそうすることによって生命力を増すと思います。
■やぶちゃん現代語訳
芸には自然神妙の技ある事
文昭院様の御世、桐之間番を勤めた祐山喜多七大夫宗能殿は、これ、
今に
祐山の能を見たことがある、さる御仁の話によれば――確かに世間で言うところの『上手』とも『名人』とも言われん舞人であったとのことで御座るが――これ、ただの『上手』『名人』では御座らなんだ、という……
……ある時のことじゃ、祐山殿が「夜討曾我」を舞って御座ったが……まあ、この能、端能(はのう)で御座って、の……謂わば、そのシテ曾我五郎
「――太刀取り直し、立ったる気色――」
というシテ五郎の、とびきりの見得を切る見せ場が御座るのじゃが……祐山殿のそれは、さしたるこなしとも見えなんだにも拘わらず……見物の輩、皆……思わず知らず心打たれての、
――『これを譽めぬ人こそなかりけれ』と――
一同、感嘆の声を、挙げてござったじゃ……
……と、その老人の語って御座った由。
*
大名其識量ある事
伊達遠江守
□やぶちゃん注
○前項連関:能楽面白エピソードで直連関。私は何とも言えず、本話が好きである。
・「識量」見識と度量。伊達遠江守村候は執筆時には既に鬼籍に入っていた可能性が高い。根岸のこの標題は、もしかすると村候という稀代の「見識と度量」を持った名大名は今やなく、「見識と度量」を持たぬ凡愚の大名がそここに跋扈していることを、どこかで皮肉っているのやも知れぬ。本話者は最後に『武家の慰に見る能なれば、さも有べき事』と如何にも侮蔑的な評を附しており、そこまで根岸はしっかりと採話している。しかし、もしこれに話者(根岸ではない)の本意から見出しをつけるなら、『大名其識量ある事』とは間違ってもなるまいと思われるのである。根岸は、この話をして呉れた点に於いては、この話者に敬意を表しながらも、実はその侮蔑的な評を最後に附した話者の心底に対しては、断固「否!」と断じている、と私は思うのである。いや、寧ろ、本話は最初から評言まで総てが話者の言のように見えても、実は同時代人であった根岸の好意的な直接観察の視点が、冒頭の大奴の映像としてあるように私には思われてならないのである。さればこそ、根岸はこのかぶいた伊達村候を、まっこと『至て面白人』と実感したのであり、能舞台でのそのぶっとんだ仕儀をもってして、標題の『大名其識量ある事』としたのである、と読むのである。この私の見解については、大方の読者のご意見を俟つものである。
・「伊達遠江守村候」伊達村候(だてむらとき 享保八(一七二三)年又は享保一〇年~寛政六(一七九四)年)は伊予国宇和島藩第五代藩主。以下、ウィキの「伊達村候」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『享保二〇年(一七三五年)、父の死去により跡を継ぐ。寛延二年(一七四九年)、仙台藩主伊達宗村が、本家をないがしろにする行為が不快であるとして、村候を老中堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりしたのである。堀田正亮・堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。表面的には、同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残ったようである』。『藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団二十五か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出した。宝暦四年(一七五四年)からは民政三か条を出して民政に尽力し、延享二年(一七四五年)からは専売制を実施する。宝暦七年(一七五七年)一二月には紙の専売制を実施し、寛延元年(一七四八年)には藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建した』。『しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞する。その煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次いだ。そのような中で失意のうちに、寛政六年(一七九四年)九月一四日(異説として一〇月二〇日)に七〇歳で死去し、跡を四男・村寿が継いだ。法号は大隆寺殿羽林中山紹興大居士』。『教養人としても優れた人物で、「楽山文集」、「白痴篇」、「伊達村候公歌集」などの著書を残した。また、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は「耳袋」と「甲子夜話」で賞賛されている』。最後の部分、これ以降に藩政改革の手腕を讃えた記事があるのかどうか(私の記憶では全話の中では今のところ思い出せぬ)、それとも本話を指すのか、調べるのに今少しお時間を頂きたい。
・「鬢口」
・「大奴」中間の奴などが結った髪形。月代を広く深く剃り込み、極端に狭く残した両方の鬢と後ろの頂に残した髪とで、髷を極短く結んだもの。奴頭。
・「寶生新之丞」宝生英蕃(ほうしょうひでしげ 宝永七(一七一〇)年~寛政四(一七九二)年)宝生流能役者ワキ方。四世新之丞。享年八十三歳であるから、アップ・トゥ・デイトな話柄とするなら寛政期、伊達村候は寛政六年の逝去であるから、寛政初年頃なら、英蕃八十前後、村候は六十五前後となる。
・「間」
■やぶちゃん現代語訳
それなりの大名にはまっこと見識と度量のある事
伊達遠江守村候むらとき殿は、まっこと、面白き御仁にて御座る。
坊主になりたいと思うたが叶うべくもなく、
「――鏡に向こうてみたならば、坊主に見えれば、これ、心地よし!」
とて、
その異形の村侯殿はまた、小鼓を打ち、能など催さるるがお好みでも御座った。
ある日のこと、同席諸侯の屋敷にて、能が催され、遠江守殿も見物に参られた。
その三番目のワキは宝生新之丞が演じて御座ったが、この時、新之丞は相当な老人で御座った。
中入りに長い間狂言なんどが御座って、更に、暫く語りなどが続く。
客として御座った遠江守殿、舞台を見るに……その出番をひたすら待つ御座る老ワキ方新之丞……何やらん、如何にも手持ち無沙汰ならんと……見えた。
……されば、その面には出ださぬ新之丞の心持ちを思いやられてでも御座ったものか……
饗応に出されて御座った銚子と
ぐっ!
と持つ。――
――と――
すっくと立ち――
そのまま
すすっ!
と舞台へと登る。――
――して――
新之丞が前に
ずん!
と座るや、
「――さぞ、退屈で御座ろう。一献、参られるがよろしい――」
――と――
大盃になみなみと
「……とのことで御座る。まあ所詮、武家の慰みに見る能なれば、そんなこともあってもおかしくは御座るまいて……」
とは、それを語った御仁の附言にては御座る。
*
戲場者爲怪死の事
寛政八辰年春より夏へ移る事なりしが、
□やぶちゃん注
○前項連関:能と旅役者では雲泥の差ではあるものの、同じく芸人譚としての連関はある。但し、寧ろ六つ前の「女の幽靈主家へ來りし事」の真正幽霊譚と、死者がその志しを述べるところで強い連関がある。
なお、底本の鈴木氏注は三村竹清氏の注『此の話、こはだ小平次の話と附会するか』を引いて「こはだ小平次」の梗概と周辺事象を記し、最後に『この事件と、耳嚢の話との間には関連がありそうであるが、具体的には分からない』と記されておられる。
「こはだ小平次」は私も特に好きな怪談伝承で、詳しくはウィキの「小幡小平次」などを参照されたいが、少し不審なのは三村氏の『附会』という謂いである。
本話は寛政八(一七九六)年の採録であるが、ウィキの記載にもある通り、役者小幡小平次の不倫謀殺怨霊出現という幽霊譚は享和三(一八〇三)年に江戸で出版された山東京伝作・北尾重政画の伝奇小説「
以上から、旅役者・水死・亡霊、更に『真実を明かそうとしたところ、怪異が起き』る点など、確かに共通してはいる。また、「耳嚢」の本話が事実であったと仮定した場合、これらは総てが周到に計画された完全犯罪であり、その犯行は座長の妻及び三人の俳優仲間が仕組んだ壮大な狂言ということになる。船上の失踪など、俄かには信じ難い。小便に舳辺りへ立った座長のふらふらするを、後ろからすうっと寄ってとんと突き落す、宴席の残りの二人がそのざんぶという音に合わせて大声で歌を歌う(芝居の見得でもよい)、船尾の船頭は気づかぬ――などというのはどうか? 例えば、この仲間の年嵩の男などが座長の妻との不倫関係にあり、二人は共犯で本殺人計画のあらましを企画し、仲間内の二人を引き込んだというのは如何であろう? そもそもが、本話は如何にも安っぽい怪談芝居染みた構成を持っているから、その年嵩の俳優が主導して全体の筋書きを書いたと考えるのはすこぶる自然である。即ち、座長の妻と年嵩の男優は共同正犯、二人の仲間は従犯という私の一つの見立てである。……閑話休題。そうすると不倫という「小幡小平次」の大事な要素が見えてこないこともない。
しかし、かくなる本話が、後に本格形成される「小幡小平次」怪異譚の一つのモデル、もしくは複数あった「小幡小平次」怪異譚構成因子としての原話であった可能性は強いと言えても、『附会』というのは如何なものか? 本話はまた「小幡小平次」譚の持つ淫靡で陰惨な雰囲気を(少なくとも表面上は)持っていない。その超常現象の眼目は、死者の帰還と愛妻への別離の告解、そうして最後の二連発の大音(これは知られた「天狗の石礫て」、ポルターガイストの一種である)の奇怪ではあるものの、寧ろ、話柄の(というよりも読者の)興味は『語られない・語ることが出来ない夫婦だけの最後の秘密』への強い好奇心に収斂する。怪談ではあるが、ある意味で陽気で健康的な色気に満ちた落語向きの話柄である、というのが私の感想なのである。
こうした私の感懐から、本話の現代語訳は事件の調書風に趣向を凝らしてみた。
・「爲怪死」は「怪死を爲す」。
・「春より夏へ移る事なり」旧暦三月下旬から四月上旬の頃。暦算ページで調べると寛政八年の三月三〇日は西暦一七九六年五月七日である。現在の五月上旬の陽気をイメージしよう。
・「傳馬町」ここは四谷伝馬町。現在の新宿区・四谷一丁目付近。四谷御門(現在の中央線四谷駅付近)の西方の地域。
・「行德」下総国行徳。現在の千葉県市川市南部、江戸川放水路以南の地域で、広大な塩田が広がる製塩地帯であった。
・「行德河岸」これは行徳にある河岸ではなく、江戸の小網町三丁目南端の箱崎川に沿った河岸の名である。江戸から大正にかけてここと下総国行徳を行徳船が往復した。行徳船は寛永九(一六三二)年頃から行徳の塩を江戸へ運ぶために運行が始まり、やがて人や物資の回送にも使われるようになった。本話の船はチャーターらしいが、ウィキの「行徳船」によれば、定期の行徳船は毎日午前六時から午後六時まで江戸と行徳の間を往復、通常は船頭一人が漕ぎ手で、二十四人乗りの客船で、旅客や野菜や魚介類のほか日用品などの輸送を行った、とある。本話では海に落ちた座長を漕手の船頭も現認していない。それが不自然でないとすれば、この船はまさに『二十四人乗り』の大船であることが分かる。せめて本話の水上の景にこれらの船を点じてみるのも、また一興ではないか。
・「金設」底本には右に『(金儲)』と注する。
・「詮方なければ同船の内跡に殘して尚尋搜し」ここは「詮方なければ同船の内、跡に殘して尚尋搜し」で、『失踪した船の漕ぎ手である船頭に後を頼んで、なお、海上の捜索を行って貰い』の意。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『詮方なければ同船の内を跡に殘して
・「ありうち」有り内。「ありがち」に同じ。世間によくあること。
・「仲間突合」底本では「突合」の右に『(附合)』と傍注する。
・「面テぶせなる」不面目なこと。死者の名誉が傷つくような破廉恥なこと。
・「取込て」うまく取り入って。相手を丸め込んで。
・「宇田川何某」底本の鈴木氏注に『幕臣に宇田川姓は二家ある』とある。文脈上は特に同定候補を挙げるまでもあるまい。
■やぶちゃん現代語訳
旅芸人一座座元変死事件の事
寛政八年辰年の、晩春から初夏へと移る頃合いの事件であった。
伝馬町に居住する、旅芝居等の座元なんどを
*
――同船せる役者甲の証言――
……座長は、
「この度の興行は至って大成功じゃ! 一つ、景気良う、やってくんない!」
と、乗船する前に買い調えた酒肴を船中に並べ、我らもご相伴に
……ところが、三人とも……ふと気づいてみると……座長の姿が見えんようになっとったんです。
「……何があったんや!……我らが座長どのが、おらぬ!」
「……まさか海へ……落ちたのではなかろうのぅ?」
などと口々に申したのを覚えております。
……客は……いえ、我らたった四人にて……その船中にて、行方知れずとなればこそ……我ら三人は勿論のこと、船頭も
――同船せる役者乙の証言――
……そのぅ、どうにも仕様が御座いませんでしたので……我らが乗船しておりました船の船頭を残し、その後の海の捜索方を頼みおきまして……そのぅ、とりあえず、我ら三名の者、
「……ともかくも……座長の奥方へ……このこと、知らせずんばなるまい……」
ということになって、江戸表へ向かう早船に乗って、戻りました。
……はい、もう、その日の昼過ぎには、あの、座長の住んでおられた
「……先ずそなたが……」
「……いや、ここはそちが……」
「……とてものこと、どうか貴殿が……」
……と争うばかりで、そのぅ、なかなか戸が、いや、
……その内、
「……所詮、良い知らせを告げるのではないからなぁ……」
「……決して聞きとうない……哀しい嫌な話じゃ……」
「……心傷つく迷惑事じゃわい……」
「……迷惑事は……我らも言うとうない……」
「……言うとうないが、言わずばなるまい……世間にありがちな不幸せというもんじゃて……」
「……さればじゃ!……ここは一つ、迷惑序でに……」
「……おう! 気付けに、一つ引っ掛けて!……」
「……されば! 酒を呑んで勢いつけて! 参らんとしょう!……」
……へえ……そのぅ、お恥ずかしい……かくなる仕儀と相い成り申した。……
――同船せる役者丙の証言――
……近所の一杯飲み屋にて一献傾けまして、再び座長の家の前に立ったのですが、同じ体たらくで、三人とも尻込み致すばかりで御座った。
……こうして御座っても埒も開きませぬ故、拙者が――あ、拙者は三人の中では
……座長の奥方は、丁度、庭で洗濯をしておりましたが、我ら三人を視止めると、
「ああら、遅いお帰りでござんすねぇ。
……我ら三人……はい、そりゃもう顔を見合わせて吃驚仰天致しまして、
「……ご無事で……お帰りに……なったと?……」
と問いかけると、奥方はきょとんとした顔をして、
「はい。」
と平然としておりました故――我らは、何やらん、訳の分からぬ、不吉な思いが致し、
「……そ、そうでござんしたか……あの、その……ちょいとお目にかかりたき儀が御座いまして……ここは一つ、その……
奥方は奇妙な顔をして、
「……今朝方戻って、酒を呑んで、食事を終え、今は二階で横になっておりますが……『
と申します故――我ら、いよいよ不審と恐懼が
「……まことに……済みませぬが、のっぴきならぬことにて……奥さまにまず、お声掛けして戴き、お起こし申し上げて……出来れば、こちらへお出で下さいますように、と……どうか、お願い、申します……」
と申しましたが、確かにかねてからの芝居小屋での、ざっくばらんな付き合いなれば、
「何が『
と奥方は見得を切って一向に我らをものともせず……洗濯を終えると、今度は
……と……突然、
「アアーーッ!!」
という激しい悲鳴とともに、
――ドスン!!
と、何やらん、人の倒れ伏すような物音が致しました。
……これには、流石に近所の者どもも、何事かと駈けつけて参りましたによって……我ら三人、一連の出来事につき、しかじかの事情を話しまして、ともかくもと、
――伝馬町裏店家主の証言――
……二階の部屋には……見た感じでは……かの座長は帰宅した
……へえ、女房は、その布団のすぐ脇に、気絶して倒れておりましたんで……まずは
……それで漸っと。正気付きましたんで、少し落ち着いたところで、
「一体、何があったのじゃ?」
と訊ねましたところ、
「……あの人は今朝、帰ってから後、これといって何も常に変わったところは御座いませんでした。……でも今、思い返すと……不思議に思えることが、これ、御座いました。あの人は、
『……儂が……もし死んだら……我らに分相応の葬いさえあげてもろうたら……それでよい……お前は……
なんと申しておりました。……あの時は、冗談と思うて気にも止めずにおりましたが。……そう言えば、そのほかにも……あの人、不思議な話を、致しました。……でも、これはちょっと……人へは……申せませぬ……」
と申しました。そこで私は――本件の謎を解く鍵はここにあらんとも思いまして、
「
と頻りに諭しました。すると、
「……別段――夫婦だけの隠し事――というわけでも御座いませぬし――語るに恥ずかしい秘め事――というわけでも、これ、御座いませぬが……このことは……その折りに……あの人から、
『――このこと、決して他人に漏らしては、ならぬ――』
と、堅く口止めされましたことにて座いますれば……」
と、なおも話し渋っておりました。……ええ、はいそりゃもう、あれやこれやと、宥めすかし、ねじ込む如くにきつく糺いて……へえ、したら、
「……そうまで仰いますのなら……」
と、二言三言、語り始めました。
……と……その瞬間!
――ズッドーン!!――
と、真上の、誰もおらぬはずの、先程の二階の部屋にて、何やらん、大石を落といたような音が致しましたので御座います!
……いや、もう
……女房は、
「ヒェーッ!!」
と叫ぶが早いか、またしても昏倒致し……その場におりました他の者どもも皆、
〇附記:後日聞き込みによって分かった同船せる役者の間接証言
(注:甲乙丙の何れか不詳であるが、丙であった可能性が高い。)
……この事件に関わった三人の役者の内の一人が、たまたま宇田川某殿の屋敷方へ出入りしていたため、ある時、その宇田川家家内の知人居室にて、本事件について、その知人に仔細を語ったことがあった。
その知人も、この話を聴くにつけ、かの妻の言う『禁忌の秘事』が大いに気になったのであったが、
「……有体に言って……その女房は確かに『二言三言』は喋った、わけだ。……では、その『二言三言』とは、どんな言葉だったのか?」
と、これまた
「それは、の……」
……と……その瞬間!
――グワッシャ!! ズッドーン!!!――
と、隣の誰もいない部屋で、巨大な岩石でも落したかの如き轟音が鳴り響いた。
……それを聴いた役者は――恐懼して――口を噤んだ。……
*
以上は、私がさる御仁から聴取致いた、ごく最近の出来事にて御座る。
*
怪妊の事
松平姓にて麻布邊の寄合の家來、娘ありしが、いつの此よりか懷妊して只ならぬ樣子也しが、其
□やぶちゃん注
○前項連関:怪異譚連関。本話が事実(出産までが)とすれば、まず普通なら
●家内の者との密通(父親との近親相姦を含む)
を考えるであろうが(後半の叙述からは想像妊娠は考えにくい)、どうも『腹中の物音』というのが気になってくる。この箇所に限るなら、一つは所謂、
●意識的詐欺の心霊現象としての思春期の少女に多い腹話術による似非霊言
という解釈が挙げられるが、ここに彼女の妊娠が時事実であるとするならば、より厳密に言えば、
●未婚妊娠という不道徳な結果に対する呵責から生じたストレスによる神経症やノイローゼを主因とした、半意識的(若しくは非意識的)詐欺としての腹話術による詐術を伴う非社会的行動
とも言えようか。いや、一つの見方は前提に戻って実は、
★妊娠ではない
という観点に立ち戻るなら、
●難治性の便秘によって腹部が膨満、更に大腸がそのために鳴って(私はIBS(大腸症候群)であるが、時に驚くべき音を立てて腹が鳴る)それが人語の様に聴こえる
可能性が疑えるかも知れない(便秘の場合に腹が鳴るかどうかは私自身が便秘の経験がないために分からぬが、便秘で妊娠したように以上に腹部の膨満は起こる。法医学書で、重度の便秘のために腸閉塞を起こして密室の自室で亡くなった死亡直後の、若い女性の検死資料を実際に見たことがあるが、腹部が妊娠したように膨れていた)。
そもそもが叙述の最後は、出産した子供が、死産だったのか、普通に生まれて成長したのかが明記されていない。いや、出産自体がなかった可能性もある。故に、
×全くの流言飛語
でしかなかった、とも勿論、言えるわけであるが、地域と主家の姓名まで明らかにしている噂話というのは、全くのモデルなしとは思われない。そこでまた考えられるのは、出産(若しくはと目された現象)によって、娘からひりだされたものが、今言ったような実は子供ではなく、
・多量のカチカチになった固形便
であったという(前述のように死に至る場合もあるから)不謹慎ではあるが、一種の筒井康隆的オチであったという顛末、いや、全くネガティヴに採るなら、
・悲惨な奇形児であったために処置された
可能性などが考えられる。
ただ私はやはり気になるのである。『腹中の物音』である。私はそこに最後の、もう一つの可能性、
●一卵性双胎の両児が癒合した非対称性二重体(寄生性二重体)――畸形嚢腫
であった可能性をも挙げておきたいのである。彼女の体の中に、彼女の姉か妹がいたのである。これは医学的にも実際にあることはご存じだろう。そう解釈すると、貞節な箱入り娘で性交や性的虐待(実際の性行為を行なっていなくても、擬似的性行為が続けられた結果、妹に妊娠させてしまったという海外での近親相姦ケースを披見したことがある)の事実が認められない本話の細部の不可解さが、払拭されるように思われる。――そうして、私が本話からそれを連想した動機が何かを、もう、分かっている方もおられるであろう。そう、その通り、
☆ピノコ
である。手塚治虫先生の名作「ブラック・ジャック」の、あのピノコである(私はアトムで育った人間である。アトムに育てられた人間である。生涯に「先生」と心から呼べる人が私にいるとすれば、それは間違いなくこの方を嚆矢とするのである)。第十二話「畸形嚢腫」で、その姉の体内からテレパシーでブラック・ジャックに語り掛け、生存を要求するピノコである。……『腹中の物音』……これこそ実は
●異形のものとして闇に葬られた『江戸の薄幸のピノコ』
だったのでは、あったのではあるまいか?……
・「寄合」原則的には三千石以上一万石以下の上級旗本で無役者の家格。但し、それ以下であっても六位以上役職にあって何事もなく勤め上げた者も含まれた。旗本寄合席とも言うが「寄合」が正式名称である。
■やぶちゃん現代語訳
奇怪な懐妊の事
松平姓を名乗って麻布辺りに住んで御座った寄合の方の、その家来に娘が一人あった。
この娘が、こともあろうに、誰も知らぬうちに忽ち懐妊、その腹の膨れゆくを見れば、これ、誰もが紛うことなき……と
……この娘、これまた、その人柄から言うても、秘かに関係するような男がおるといった人品の者にては、これなく……
……また、父母の
……いや、そもそもがじゃ、妊娠の最も疑われるような――心時めかしておると言うた――身をも許さんとするような真犯人の男がある――とも、これ、とんとまあ、思われぬ
……
「――神かけて! 仏に
と、娘もまた、気丈にきっぱりと、身の潔白を訴えて御座った。……
……寛政八年の四月には臨月を迎えるとの噂で御座ったが……その、臨月も
「……いや、何と、腹の中から……何かが、奇体に……ものを言うような様子で御座って、の……尤も、それが何を言うておるかは、これ、判然とは致さぬ。とは言え……これ、確かに、その娘の……その腹中から……響ききたる物音に、これ、相違御座らぬのじゃて!……」
とは、私の知れる人の直談で御座る。
この娘、指折り数えてみても、もう、程のう、出産を迎えんものと存ずるが……さて、一体、如何なる『もの』が生まれ来るものか……とは、頻りに人々の怪しみ噂致すことにて御座る故、とり敢えず、ここに記しおくことと致いた。
*
剛氣の者其正義を立る事
近此迄老人にて
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。
・「御側」「御側衆」征夷大将軍の側近。将軍の就寝中の
・「松平肥前守」松平
・「肥前守申付にて……漸歸しける」の部分は全文が使役形で叙述されているが、末文など「(執拗な慫慂を)漸くのことで逆に固辞させて帰した」という風に、現代語訳では如何にも回りくどくなるので、通常文で意訳した。
・「中奧御小姓」「中奧」は「なかおく」で、江戸城本丸の中の将軍が起居し、政務をとる区域を言い(「ちゅうおく」とも読む)、「中奧御小姓」はそこで将軍の所諸用に当たった側近職。
・「中の町の茶屋」吉原大門から廓の中央を貫く道が「中の町」で、その左右に引手茶屋が並んでいた。
・「丸に梶の葉付たる定紋」「梶」は双子葉植物綱イラクサ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera。ウィキの「梶の葉」にあるMukai氏の描いた「Mukai's file」の梶紋「立ち梶の葉」を以下に示す。これに〇を附せばその定紋となる。正式な梶家の家紋はサイト「家紋WORLD」の「徳川旗本八万騎の紋」に「梶家」の家紋として示されており、そこにはズバリ「丸に梶の葉」がある。その解説には『能見松平の一族が、外家の号を冒して梶氏となったというが、定かではない。梶正道は幼時から家康に仕えて、のちに二千五百石を知行した』とあり、恐らくこの紋と考えてよいであろう。
・「用人」幕府・大名・旗本家にあって、金銭の出納や雑事などの家政の主業務を司った家臣(将軍家の側用人に該当)。
・「給人」幕府・大名から知行地若しくはその格式を与えられた旗本及びその家臣を言う。
・「服紗」主君に従う小姓は袱紗で太刀の柄を握って鞘を上にして持つ。
・「刀揃持けるを」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『刀抔持けるを』。
・「有德院」第八代将軍徳川吉宗。
■やぶちゃん現代語訳
剛気の者その正義を立てる事
近頃まで――老人の身となっても――永く御側を勤めらておられた松平肥前守康兼殿と申されるお方が中奥御小姓を勤めておられた時、同僚の者どもに勧められ、遊所へ行こうではないかということとなり、康兼殿、これ、いろいろと理由を附けては、何度も断って御座ったのだが、先任の少年どもが、これ、揃って、いっかな、承知致さぬ故、仕方なく、行かざるを得なくなって御座った。
さて、その日の黄昏時、一行が吉原へ到着致いたところ、そこには――肥前守申付けによって――中の町の茶屋へは、松平家の丸に梶の葉の付いた定紋の幕が打たれて御座って、松平家の用人や給人が揃って待ち構えて御座って、彼らは悉く麻上下を着用、近習の侍に至っては、紫袱紗にて太刀持ちまで致いて御座った。
連れの少年達は、この噴飯物の仰々しさに吃驚仰天、あれやこれやと如何にもな言い訳を致いて、ほうほうの
この一件が有徳院吉宗様のお耳に入り、即座に直々、御側衆を仰せつかった、ということで御座る。
*
信州往生寺石碑の事
信州善光寺より拾八町程山の方に、
月影や四宗四門も只ひとつ
右一句何か
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせないが、実は、以下に述べる、この寺に纏わる刈萱上人の伝承は能の「刈萱」として知られる。さすれば、少し前の能の技芸譚との連関が認められる。また、どうも根岸はこの手の石碑探勝が好きならしい。
・「往生寺」長野県長野市往生地一三三四番地にある浄土宗の寺院。山号刈萱山で分かる通り、善光寺の門前の中央通り沿いにある刈萱山西光寺とともに、謡曲・説教節などで広まった刈萱上人伝説所縁の寺(但し、正式な山号は安楽山菩薩心院刈萱堂で、通称、刈萱堂往生寺と呼ばれることから、根岸の伝聞記載はこの「刈萱堂」を「刈萱山」という山号と誤認した可能性が強いように思われる)。その伝承によれば、苅萱道心(寂照坊等阿とも呼ばれる)は、元九州博多刈萱の関一帯の領主で、俗名を加藤左衛門尉重氏と言った。世の無常を感じた重氏は世の無常を感じて比叡山を経て、京都黒谷の法然上人の下で出家した。しかし、妻子が尋ね来ることを厭い、高野山に向かう。やがてその子、石堂丸は母とともに父を求めて旅に出るが、高野山の麓で母は病に倒れ、亡くなってしまう。独りとなった石堂丸は父である刈萱上人とそれと知らず邂逅したが、父は父と名乗らず「探す方はすでに世にない」と教える。世を儚んだ石堂丸は上人に弟子入りを迫って許され、信照坊道念と名乗った(この時点で石堂丸は苅萱上人を父と確信していたものと思われる)。後、上人は修行の邪魔になるとして、再び一人旅立ち、信州善光寺に籠り、八十三歳で、この往生寺の地で亡くなった。後、後を慕って来た石堂丸は父上人の残した地蔵菩薩像を真似て、もう一体の像を刻んだとされ、この往生寺及び西光寺には、その二体の親子地蔵尊が現存(西光寺では本尊とする)する。また、西光寺にはこの伝承の一つ「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」他の「絵解き」が伝承されている。(以上は「浄土宗」公式HPの「安楽山往生寺」及び西光寺公式HPの『「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」のあらすじ』を主に参考にしたが、複数の伝承の細部には当然、違いがある)。私は三十六年前の夏、大学の弁論部の同輩たちと一緒に、この西光寺の方を訪ね、この絵解きを聴いたことがある。懐かしい。
・「拾八町」約二キロメートル弱。現在の地図で善光寺大門からは直線距離で八三九メートル、同じく大門から現在の最短ルートで計測すると、凡そ一・二キロメートルある。記載はそれより長いが、最後は急坂の山道に入るのでおかしくはない。
・「月影や四宗四門も只ひとつ」「更級紀行」所収。但し、
月影や四門四宗もただ一つ
が正しい。訳では正しい句形に訂した。「更級紀行」は芭蕉が貞享五(一六八八)年(九月に改元して元禄元年)に更級の八月十五夜の月を掬すべく旅立った紀行俳文であるが、本句はまさにその直後、恐らくは二十日以前と思われる善光寺参詣での嘱目吟である。「新潮日本古典集成」の「芭蕉句集」で今栄蔵氏は、『善光寺は、境内の東西南北に各一門を備え、それぞれに「定額山善光寺」「不捨山浄土寺」「南命山無量寿寺」「北空山雲上寺」の扁額を掲げる。「四門」とはこれをいい、また寺内は』当時、『天台宗・浄土宗・時宗の三宗が同居する特殊な組織。そのさまを、「四門」の語呂に合わせて「四宗」と言ったのであろう』と注されておられる。本文にあるように、天台は密教系で真言とも密接に関わり、そこに超派的な禅宗も含まれたと考えることはやぶさかではなく、鎌倉時代以降、「四宗兼學」の修学道場としての寺院は珍しくはなかった。但し、この解釈には現在でも異説が多く、根岸の不審は故なしとしない。今氏の訳などを参考に私なりに解釈すると、
……遍照せる隈なき月影――それは真如の明鏡――四門四宗と物化しても、善光寺は仏のまことの教えの遍き明光によって――この聖なる結界を、いや、この世すべてを、隈なく照らしているではないか……
といった意味であろう。なお、この往生寺の碑は「ムーミンパパ」氏の「温泉ドライブのページ」の「芭蕉の句」に画像がある。確認されたい。
・「姥捨」現在の長野県千曲市と東筑摩郡筑北村に跨る姨捨山。正式名は
・「更科」姨捨山を含む旧更級郡周辺を指す。姨捨山は更級山の別名を持つ。
・「四宗四文の事は」の「文」はママ。訳では訂し、順序も変えた。
・「桃靑」芭蕉の芭蕉を名乗る以前の俳号。
■やぶちゃん現代語訳
信州往生寺石碑の事
……信州善光寺より十八町ほどの山の方に、苅萱山往生寺という寺が御座います。眺望の良き寺にて御座る。……
……この寺には俳諧師芭蕉翁の石碑が御座って、そこに彫られた発句は、
月影や四門四宗もただ一つ
というので御座いますが……この一句、その、今一つ、意味が分り難きによって、土地の古老に訊ねてみましたところ、
「……『月影』は、歌枕の姥捨更科という月の名所が最寄りに御座いますれば、その面影をはっきりと示して御座る。……『四門四宗』と申しますは、これ、善光寺は、天台・真言・禅・一向宗といった四宗兼学の寺院にえ御座いますれば、芭蕉庵松尾桃青翁は、これを詠み込んで、遍照の不可思議光という、仏法のまことを、一句に吐露なされたのでは、ありますまいか。……」
との答えで御座いました。
……いや、そう言われて、そう読んでみるならば、また、これ、句の面白さも旅の楽しさも増す、というもので御座いますよ……
――以上は、彼の地を行脚致いた老翁が私に物語って呉れた話である。
*
坂和田喜六歌道の事
坂和田喜六は永井家の士にて、文武に長じ
よし野山花咲く
と詠じけるよし。右は永井
朝な朝な雲たちそふる小倉山(おぐらやま)峯ふく風は花の香ぞする
といへる古歌によりて
□やぶちゃん注
○前項連関:旧詠の発句譚から旧詠の和歌譚へ。
・「坂和田喜六」佐川田昌俊(さがわだまさとし 天正七(一五七九)年~寛永二〇(一六四三)年)は山城淀藩家老。永井家家臣にして歌人・茶人。但し、姓は「坂和田」「佐河田」「酒和田」等と記録によって異なるが、以下に示す「近世畸人伝」の記載は同先祖が姓を元の「高階」から「高」そして「佐川田」へと変えた経緯が示されており「佐川田」が標注するには最も信頼が置ける(但し、現代語訳ではママとした)。号も喜六以外に「桃山」「壷斎」「黙々翁」「臥輪」「不二山人」など多数。下野生。幼時、上杉景勝(弘治元(一五五六)年~元和九(一六二三)年)に仕え、この時、上杉家家臣木戸玄斎の養子となっている。その後、上杉家を離れ、慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いでは大津城の戦いに参加するも、浪人となった。しかしその後、その戦さでの奮戦振りが徳川家家臣永井直勝(ながいなおかつ 永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二五)年)の目にとまり、その家臣となったとされる。後の大坂の陣(慶長一九(一六一四)年~慶長二〇(一六一五)年)では永井軍大将として参加、緻密な判断力で戦功を成した(詳細は以下の「近世畸人伝」を参照)。元和二(一六一六)年に直勝と共に江戸に移った。直勝の死後は、彼の長男で山城国淀藩初代藩主となった永井尚政(天正一五(一五八七)年~寛文八(一六六八)年)に仕え、尚政の信頼いや厚く、彼もよく藩政を主導した。寛永一五(一六三八)年に子の俊輔に家督を譲って隠居した。『智勇兼備の名士で、茶道を小堀遠州に学び、歌道にも優れた。集外三十六歌仙の一人で、その秀歌撰にも撰ばれた』。著書に「松花堂上人行状記」(後述)等。『藩政においても、藩士が財政的に困窮して苦しんでいたとき、尚政に無断で藩の金蔵を開いて救済を行なって助けた、などの逸話が存在する。昌俊の子孫は永井家の重代家老として存続した』とあり、隠棲後逝去までは五年あるものの、彼のこの如何にも複式夢幻能的な逸話自体は、多分に創作された可能性を排除出来ないように思われる(引用はウィキの「佐川田昌俊」に拠るが、このウィキの記載には全体が出典未記載・独自研究の危険性が指摘されていることを注記しておく)。養父玄斎が和歌を嗜んだため、その影響で歌道を学び、
なお、以下に
*
佐川田昌俊、喜六と稱す。姓は高階。世系、高市王子六世峯緒より出。承和の比高階を省略して高と稱ふ。先人某、下野足利の莊、早河田村に食し、つひに文字を佐川田にかへて氏とす。貞治四年、義詮將軍、高掃部助師義をして信濃の賊をうたしむる時、援兵となり、足利基氏、鎌倉に居て東國の鎭たる時、手書を賜ふて累世鎌倉に仕ふ。その後、六七世を經て喜六にいたる。喜六幼くして越前長尾家の將、木戸玄齋が養子となる。いまだ弱冠ならざる頃より、三郡の訟をきゝて判ずるに、議辧よく當れば人賢者なりとあふぐ。玄齋和歌を好む故したがひて學べり。後玄齋むなしくなりて其家絶たる後、洛に赴き、慶長五年庚子大津の驛の戰に、ある人の手に屬し先登し、鎗を壁上にあはせ左の股を傷られてなほ周旋す。永井右近大夫直勝朝臣、喜六が勇名をきゝて、招てしばしば眷遇し給ふ。慶長十九年、難波の役、侯の營に九鬼某の兵すすむ時、其間いかばかりかある、又沼川の淺深いかならん、と仰ければ、喜六すゝみ出て、おのれ往て、ものみつかふまつらんといふ。侯とゞめ給へどもきかず、蘆原、沼川をわたりて九鬼の兵と言を交へ、其淺深などくはしくはかりてかへり、敵兵必いたることをえじ、とまうすに、果して明日引退く。水陸の算、喜六がことばのごとくなるを人皆奇とす。すべて弓矢の道にくはしく、孫呉の書を明らめ、經濟のことをもよくしれり。右近大夫嗣、信濃守尚政朝臣、ますます喜六に禮を厚くしたまふ故に、諸士もまた重ず。寛永十年、侯増封を得給ひ、下野より山城の淀にうつらる。一時在府の日、封地不熟にして諸士飢寒す。その比喜六執事たれば、皆、軍用の金をからんと乞ふに、喜六思惟して、是は君にまうし同僚にかたらひては成べからず。吾一人の意にてはからはんと。倉をひらき銀子千貫目を出し、返濟のことを示して分配す。後侯是を聞し召て大怒、私のはからひを責む。喜六申す、軍用金もと何の爲ぞ、諸士乏しく公の恩を思はざる時は有ても益なし、今十年を經ば、各返納して倉廩もとのごとくならん、されども此擧臣一人の所爲なれば、もし義にあたらずと思さば、死を賜はんもまた辭せざる所也と。其理當れるをもて侯も言なくやみ給ふ。同十五年、疾に嬰て致仕し、家は息俊甫に委ね、薪村酬恩庵、〔一休禪師の遺跡〕の境内に默々庵をむすびて幽居す。禪に參じ、山水を翫び、意を方外に遊ばしむ。壷齋また不二山人ともいふ。茶伎は小堀宗甫翁を友とし、連歌は昌琢法眼に從ひ、書は松花堂に學ぶ。漢學はもとより羅山子にきけりし。和歌をも好みて近衞藤公に參り、中院通勝卿、木下長嘯子にも鷗社をなす。ある時、淀川の鯉を近衞殿に奉りて、
ついであらばまうさせ給へ二つもじ牛の角もじ奉るなり〔閑田云、鯉の字、古假名はこひなれども、後世はこいとかけり。〕
御かへし、
魚の名のそれにはあらでこのごろにちと二つもじ牛の角もじ〔來いとの給ふなり。〕
又所持の博山の香爐を羅山子に贈る時、子答て、
遠寄一爐示相戀。心如螺甲沈水鍊。
(遠ク一爐ヲ寄セテ相戀ヲ示ス、心ハ螺甲沈水ノ鍊ノ如シ。)
とよろこべり。此たぐひ風流の交の書牘世に殘れるもの多し。擧にいとまあらず。昌俊若きときよめるうたに、
よしの山花まつころの朝な朝な心にかゝるみねのしら曇
これを飛鳥井雅康卿の傳奏にて後陽成院の叡覽に人ければ、ふかくめでさせおはしましけるが、後寛文の皇后、集外歌仙を撰ばせ給ふ中にいりて、忝く宸翰を染給ふとなん。連歌においてことに長じけることは、ある人、昌琢に向ひて、當時連歌に冠たる人は誰ぞととふ。昌琢、西におのれあり、東に昌俊ありと是は永井侯いまだ下野に在城の日也。答られしにてしらる。寛永二十年癸未八月三日病て終る。享年六十五なり。墓は酬恩庵境内にあり。 <後に正せれば、是什麽と小石に誌し、其後に、大石に道春の碑銘を彫るとぞ。> 蒿蹊云、墓碣に、何でもないことこと、とのみ記すとぞ。予先年此寺にりしかども、故障ありて此墓および其茶室を見殘せり。今は人の話をもて録す。
*
●「喜六と稱す」引用元では「稱ず」。分かり易く濁点を取った。
●「高市王子」
●「承和」西暦八三四~八四八年。
●「食し」そこを領地として生計を立て。
●「貞治四年」西暦一三六五年。
●「高掃部助師義」不詳。高師直に組した佐竹師義は掃部助であるが、時代が合わない。高姓ではないけれども義詮の家臣に山名師義がいるが、彼か。
●「足利基氏」引用元では「足利某氏」。誤植と判断し、訂した。
●「眷遇」「眷」はいつくしむの意で、目をかけてもてなすこと。
●「寛永十年、侯増封を得給ひ、下野より山城の淀にうつらる」「淀」は本文にも出るが、現在の京都府京都市伏見区淀本町に存在した淀藩。永井尚政は寛永一〇(一六三三)年三月にその藩主に就任している。
●「銀子千貫目」江戸時代の銀貨の平均価値から換算するサイトの自動計算によると、なんと約十一億円に相当する。これは普通なら「大怒」どころでは済むまい。
●「倉廩」は「さうりん(そうりん)」と読み、米穀類を蓄えておく倉。
●「嬰て」は「かかりて」(罹りて)と読む。
●「俊甫」は俊輔。
●「薪村酬恩庵」は現在の京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院、霊瑞山酬恩庵のこと。別名一休寺・薪(たきぎ)の一休寺とも称される。康正二(一四五六)年に一休宗純が草庵を結んで中興、宗祖の遺風を慕って師恩に酬いるという意味で酬恩庵と号した。一休はここで、文明一三(一四八一)年十一月に八十八歳で「死にとうない」と呟いて示寂した(ウィキの「酬恩庵」に拠る)。
●「小堀宗甫」は小堀遠州(本名は小堀政一。「遠州」は彼の官位五位下遠江守に由来)の道号。正式な道号は大有宗甫。
●「昌琢」とは
●「松花堂」松花堂昭乗(天正一〇(一五八二)年~寛永一六(一六三九)年)のこと。真言僧。俗名は中沼式部。堺生(豊臣秀次の子息との俗説あり)。書道・絵画・茶道に堪能で、特に能書家として高名で、独自の松花堂流(滝本流とも言う)という書風を編み出し、近衛信尹・本阿弥光悦とともに『寛永の三筆』と称せられた。先に示した佐川田昌俊の師近衛信尋は、彼を始めとする文化人と後水尾天皇のサロンの橋渡し役をも務めていた。昌俊は寛永十六(一六三九)年には彼の一代記であると同時に寛永史を活写する「松花堂上人行状記」をものしている。なお、現在の松花堂弁当という名は、彼に間接に由来するとする説があるという(以上は主にウィキの「松花堂昭乗」に拠った)。
●「羅山子」林羅山。
●「近衞藤公」近衛信尋のこと。
●「中院通勝」(なかのいんみちかつ 弘治二(一五五六)年~慶長一五(一六一〇)年)は公家・歌人。正三位権中納言。和歌は細川幽斎に師事。
●「木下長嘯子」は大名木下勝俊(永禄一二(一五六九)年~慶安二(一六四九)年)のこと。足守第二代藩主・歌人。従四位下。式部大夫・若狭守または若狭少将。歌人としては長嘯又は長嘯子と名乗った。一時期はキリシタンでもあって、洗礼名は「ペテロ」と伝わる。彼の作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとも言われ、その和歌は松尾芭蕉にも少なからぬ影響を与えている(ウィキの「木下勝俊」に拠る)。
●「鷗社」は、通常は鷗が群がるように人が集まることを言うが、ここは多くの師の下に参じたことを言うようである。
●「閑田」筆者伴蒿蹊の別号。
●「博山の香爐」
●「螺甲沈水」「らかうぢんすい(らこうじんすい)」と読み、香料の
●「飛鳥井雅康」は飛鳥井雅庸の誤り。同名の人物が飛鳥井雅庸の先祖にいるが、室町から戦国期の歌人で時代が合わない。
●「後陽成院」後陽成天皇(元亀二(一五七一)年~元和三(一六一七)年)は安土桃山時代から江戸初期の第一〇七代天皇(在位:天正一四(一五八六)年~慶長一六(一六一一)年)。慶長一六年三月二十七日、三男政仁親王(後水尾天皇)に譲位、仙洞御所へ退いた。後水尾天皇とは終生不和であり続けたとされる。なお、彼の在位期間は豊臣政権と江戸幕府初期に跨いでいて、天皇制の実態が大きく変化した時期に相当する(以上はウィキの「後陽成天皇」に拠った)。
●「寛文の皇后」は後に「集外歌仙」を撰したとあるから、後水尾天皇(慶長元(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年)のことを指す。
●「是什麽」は、以下の蒿蹊の附言から恐らく「これいんも」と読むものと思われる。一般には「作麽生」「什麽生」と書くと、知られた「そもさん」である(唐末以降の中国語口語で、本邦では禅宗で問答の際に疑問の発語の辞として用いられる語)が、この「什麽」はやはり禅宗で用いられた指示語で、「このよう」「かくの如し」の意であろう。
●「墓碣」は「ぼけつ」と読む。墓の
・「東下野守」
・「よみ詠」底本では右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『彼詠(かのえい)之歌』とする。本話は何故かバークレー校版との細部の表記に於ける異同が甚だしい。気になる。
・「よし野山花咲く比の朝な朝な心にかゝる峯のしらくも」歌人佐川田喜六昌俊の代表作とされるもの。渡辺憲司氏の「近世大名文芸圈研究」(八木書店一九九七年刊)の「武家歌人佐川田昌俊の出発」によれば、この歌の初出は、佐川田昌俊が三十三、四歳の頃の歌集である「高階尚俊歌集」(この頃は「尚俊」と名乗っていたか。これは彼が本格的に飛鳥井雅庸について和歌を学ぶ以前の十代の頃からの歌群を集めたものである)に載る。前書があり、
遊行上人よりすゝめ給ひし五十首の哥の中に
よし野やま花咲くころの朝な朝なこゝろにかゝる嶺のしら雲
とある。後に知られるものでは前書を「待花」とする。「かかる」は「心に懸かる」と「雲が掛かる」の掛詞で、意味は難しいものではないが、渡辺氏は前掲書で昌俊の事蹟を精査され、先行する類型歌(但し、それらは遙かに古い鎌倉時代の藤原知家や寂然法師らの歌であって本文に示される東常縁の当該歌は挙がっていない。以下の常縁の和歌の注を参照)などを考証された上、その波乱万丈の乱世を生きた、この歌の中の昌俊は『単純に「吉野山花咲く頃」を待っているのではないような気がする。一六〇〇(慶長初年)年代に青春をおくった青年武士がかかえた屈折した風雅への思慕を、わたくしはこの歌に見るような気がしてならない』と結んでおられる。
・「上達部」摂政・関白・太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議及び三位以上の人の総称(参議は四位であるがこれに準ぜられた)。公卿に同じ。
・「春の事なれ風圖(ふと)」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『春の事なれば』とする。ルビは底本のもの。
・「
・「朝な朝な雲たちそふる小倉山峯ふく風は花の香ぞする」岩波版の長谷川氏注には、「東常縁集」に載るが、
朝な朝な雲たちそひて小倉山峯ふく風は花の香ぞする
となっている、とする。底本の鈴木氏の注には、江戸後期の医師で歌人・国学者でもあった
■やぶちゃん現代語訳
坂和田喜六の和歌の事
坂和田喜六昌俊殿は永井家の家士にして、文武に長じ、和歌は
よしの山花咲ころの朝な朝な心にかゝる峯のしらくも
と詠んだもののある由。
これは永井尚政殿が淀藩の城主となられた当時、この喜六殿を使者として禁裏へ参内させなさった折り、『喜六は和歌の達人でおじゃるそうな』と専らの評判で御座った故、
*
その後のことで御座る。
さる公卿が、遊山の砌り、嵐山に分け入ったところ、山奥に柴の庵を結んで住まって御座る者を見出だし、酔狂にもその庵を訪ねて御座ったそうな。
そこで、この
「……よしの山……花咲ころの……朝な朝な……心にかゝる……峯のしらくも……」
と喜六の吉野山の歌を吟じた上、
「……さてもさても……これはまた、まっこと、ようでけた、面白き歌でおじゃろう。
と殊の外、賞美致いた。
が、かの庵主は、これを聞くと、
「――いや。左程に感心なさるものにても御座らぬ。この歌は東下野守常縁殿の、
……朝な朝な……雲たちおふる……小倉山……峰吹く風は……花の香ぞする……
という古歌に拠って、詠んだるものに、過ぎませぬ。」
と答え、それをお開きとして、立ち別れた。
かの公卿、京へ戻った後親友の者に、かくかくのことが御座った由、お話しになられたところ、
「……それは……他の者にては、御座ない! 喜六本人の、遁世し、隠れ住んでおじゃるに、相違おじゃるまいて!」
と大騒ぎとなった。
そこで、かの公卿は明けた翌日、その公達を連れて、またかの嵐山に分け入って御座った……なれど……
*
隠逸の氣性の事
坂和田喜六は、大猷院樣御代迄は世に徘徊せしが、其頃諸家に文武兩道の達人を吟味して、諸家に或ひは壹人或は貮人と調べありしが、其比
□やぶちゃん注
○前項連関:佐川田昌俊隠逸譚その二。流石に二匹目の泥鰌で、私には少々嫌味な感じがしてくる。にしてもここで「坂和田」とするのは、実はその無名の筆者が、実際の佐川田昌俊ではないよ、「坂和田」ってしてあるでしょ、という布石を打っているかも知れないな。
・「偏執の誹り」「偏執」はここでは、人を妬ましく思うこと、の意。妬み嫉みに起因する非難批判。
■やぶちゃん現代語訳
隠逸の気性の事
この坂和田喜六昌俊殿は、大猷院家光様の御代までは、その確かな消息が知られて御座った。
その頃、諸家に於いては文武両道の達者なる者を探しては召し抱え、こちらの甲家には一人、あちらの乙家には二人、なんどとあげつろうて御座ったが、そのこと、これ、
「文武の達人と言えるは、これ、坂和田喜六を措いて、あるまい。」
との上意により、当代の永井家当主永井尚政殿をお召しになられ、
「その方が家来坂和田は文武の英才じゃ。目を懸け遣わずがよいぞ。」
との御意なれば、尚政殿も大いに面目を施し、城中より立ち帰られた後、早速に喜六を呼び出だし、
「今日、かくなる上意を戴いた。――誠にその方のお蔭にて永井の家の光輝は、これ、
喜六もこれを聞いて、
「――未練未熟の者を、かくもお褒め揚げ戴き、有り難きことと、存じまする――」
と、丁重に礼を申し、同じく喜悦致いて御座った様子なれど――
――その明くる日――
――一体、
*
牛の玉の事
牛の玉とて開帳などの靈寶に見せる事あり。潔白ならざる玉をも、など生へて有物也。自然と動くやうするを人々恩義の物と賞するが、何の用をなさゞるの品なり。隱岐の國には
□やぶちゃん注
○前項連関:連関なし。そのものが蠢いたり(但し、これは多分にカラクリを感じさせる。人工の張り子の「牛玉」の中にネズミの子なんどを仕込んでおけば簡単だ)、牛の体内から飛び出してグレムリンのように駆け回るなど、五つ前の「怪妊の事」と妙な生々しい雰囲気が繋がる。
・「牛の玉」底本の鈴木氏注に『嘉良喜随筆五に「世ニ牛ノ玉ト称スル物アリ。牛ニ限ラズ。鹿、野猪ニモアリ。獣ノ疣※也。玉ニアラズ」とある。
これは松岡玄達の『詹々言』の抜書である。いぼまたはこぶであるという説。』[やぶちゃん字注:「※」=「广」+「贅」。]とある。以下に少し注する。
●「嘉良喜(からき)随筆」は垂加流神道家にして国学者山口
●「疣※」は「ゆうぜい」と読み、
●「松岡玄達」(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)は博覧強記で医学にも精通した本草学者。
●「詹々言」は「せんせんげん」と読む(「詹々」は饒舌の意)。正しくは「恕庵先生詹詹言」で松岡玄達の遺稿集。寛延三(一七五〇)年版行。
以下、私の見解を述べる。
私はこの「耳嚢」に載せたものは多分に人工的な偽物であるように思われる、但し、「牛玉」と呼ばれるものには複数の対象が存在し、総てを紛い物と断ずるわけにはゆかない。これがキッキュな見世物でないとすれば、一つは所謂「
へいさらばさら
へいたらばさる 【二名共に蠻語なり。】
鮓荅
ツオ タ
「本綱」に、『鮓荅は走獸及び牛馬諸畜の肝膽の間に生ず。肉嚢有りて之を
△按ずるに、阿蘭陀より來たる
[「鮓荅」やぶちゃん注:これは各種の記載を総合すると、良安の記すように日本語ではなく、ポルトガル語の“pedra”(石)+“bezoar”(結石)の転であるとする。また、古い時代から一種の解毒剤として用いられており、ペルシア語で“pādzahr”、“pad (=expelling) + zahr (=poison) ”(毒を駆逐する)を語源とする、という記載も見られる。本文にある通り、牛馬類から出る赤黒色を呈した塊状の結石で、古くは解毒剤として用いたとある。別名、馬の玉。
それにしても、この「ヘイサラバサラ」「ヘイタラバサル」という発音は「ケサランパサラン」と何だか雰囲気が似ている。私はふわふわ系UMAのイメージしかなかったから偶然かと思ったら、どっこい、これを同一物とする説があった。Nihedon
& Mogu という共編と思われるケサランパサラン研究サイト「けさらんぱさらん」の「ケサパサ情報館」の『「家畜動物の腸内結石」説』に詳しい。体内異物を説明して、腸結石(糞便内の小石・釘・針金・釦等の異物に無機物が沈着して出来たもので馬の大腸、特に結腸内に見られる)や毛球(牛・羊・山羊等の反芻類が嚥下した被毛あるいは植物繊維より成るもので、第一胃及び第二胃に、稀に豚や犬の胃腸に見られることもある。表面に被毛の見えるものを粗毛球、表面が無機塩類で蔽われ硬く滑かで外部から毛髪の見えないものを平滑毛球という)を挙げ、『この説によると、「動物タイプ」はこのうち粗毛球を指し、「鉱物タイプ」は平滑毛球や腸内結石を指す事になる』とし、『「馬ん玉」や「へいさらぱさら」はまさしく「ケサランパサラン鉱物タイプ」の別名であり、「ケサランパサラン動物タイプ」の別名として「きつねの落とし物」がある』、即ち、きつねが糞と一緒に排泄した粗毛球を言ったものであろう、と考察されている。また、そうした「鉱物タイプ」の「ケサランパサラン」を、まさに本記載同様、雨乞いに用いたケースについて、以下のように記されている。長い引用になるが、本項に対して極めて示唆に富んだ内容であるため、ここに引かさせて戴く(大部分は編者へ寄せられた情報の引用という形で記?されている。漢字や記号・句読点・読み・改行等の一部を補正・省略させてもらった)。
《引用開始》
『角川「大字源」で「鮓」という字を調べたところ、別の面白い情報が得られました。
鮓荅 さとう/ヘイサラバサラ
牛馬などの腹中から出た結石。古代,蒙古人が祈雨のために用いた。[本草(綱目)・鮓荅][輟耕録・禱雨]
日本の雨乞いの方法の一つに、牛馬の首を水の神様に供える、或いは水神が棲む滝壷などにそれらを放り込む、という方法があります。これは、不浄なものを嫌う水の神を怒らせることによって、水神=龍が暴れて雨が降るという信仰から来ているようです。以下は(この説を教えてくれた方の)私見ですが、「へいさらばさら」は、その不浄な牛馬の尻から出てくるものですから、神様が怒るのも当然という理屈で用いられたのではないでしょうか。ただし、これは日本における解釈であり、馬と共に暮らす遊牧民族であるモンゴル人が、同じ考えでそれを行ったかどうかは不明です。ちなみに輟耕録は十四 世紀の明の書ですから、古代とあるのはその頃の話です。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]※その後、この情報をいただいた方から、「輟耕録」は序文が一三六六年、モンゴル王朝であった元が一二六〇~一三六八年で、文献自体の内容も、元時代の社会・文化に関する随筆集ですから「明の書」の部分は、「元王朝末期の書」とでもして下さい。」という旨のメールをいただきました。[やぶちゃん注:原文はここで改行。]さらに、「その後の調査で、輟耕録に記載されている雨乞いの方法(盥に水を入れ呪を唱えながら水中で 石を転がす)が『ケサランパサラン日記』[やぶちゃん注:西君枝と言う方が草風社から一九八〇 年に刊行した著作。未見。]のそれと酷似しており、また、このように水の中で転がして原形をとどめていられるのは硬い球形の馬玉タイプであることや、モンゴル語で雨を意味する“jada”という語に漢字を当てたものが「鮓荅」であると考えられることなどから、「へいさらばさら」の雨乞いのルーツは、中国の薬物書である「本草綱目」によって伝えられたモンゴル人の祈雨方法にあり、それに用いられたのは白い球状の鮓荅であると考えた方がよいようです。ついでに言えば「毛球」については、反芻をする動物(ウシやシカなど)に特に多いようですが、毛づくろいの際に飲み込んだ毛でできるため、犬以外のペット小動物、例えばウサギ、猫などでもメジャーな病気のようです。ペットに多いのは、野生の場合、毛が溜らないようにするための草を動物が知っていて、これを時々食べることによって防いでいるためで、ペット用に売られている「猫草」も、毛球症予防に効果があるようです。」と追加説明もいただきました。』[やぶちゃん注:原文ではここで改行、情報提供者への謝辞が入る。]『また、水神=龍から、龍の持つ玉のイメージが想起されることから、雨乞いに用いられたへいさらばさらは、主に白い球状のタイプだったのではないかと推測されます。』[やぶちゃん注:この最後の部分は、情報提供者の追伸と思われる。]
《引用終了》
・「肉嚢」肉状の軟質に包まれていることを指す。胆嚢結石とすれば、これは胆嚢自体を指すとも考えられるが、実は馬や鹿等の大型草食類には胆嚢が存在しない種も多い。その場合は胆管結石と理解出来るが、ある種の潰瘍や体内生成された異物及び体外からの侵入物の場合、内臓の損傷リスクから、防御のための抗原抗体反応の一種として、それを何等かの組織によって覆ってしまう現象は必ずしも異例ではないものとも思われる。
・「雞子」鶏卵。
・「榛」ブナ目カバノキ科ハシバミCorylus heterophylla var. thunbergiiの実。ドングリ様の大きな実のようなものを想定すればよいか。へーゼルナッツはこのハシバミの同属異種である。
・「層疊」同心円上の層状結晶を言うか。
・『「輟耕録」』明代初期の学者陶宗儀(一三二九年~一四一〇年)撰になる随筆集。先行する元代の歴史・法制から書画骨董・民間風俗といった極めて広範な内容を持ち、人肉食の事実記載等、正史では見られない興味深い稗史として見逃せない作品である。
・「
・「淘漉し、玩弄し」水で何度も洗い濯いでは、水の中で転がし、という意。
・「咒語」まじないの呪文。
・「持すれば」呪文を用いて唱えれば。
・「牛黄」牛の胆嚢や胆管に生ずる胆石で、日本薬局方でも認められている生薬で、解熱・鎮痙・強心効果を持つ。牛一〇〇〇頭に一頭の割でしか見つからないため、金の同重量の価格の凡そ五倍で取引されている非常に高価な漢方薬である。良安は同じ「卷三十七 畜類」で「牛黄」の項を設けており、そこでは「本草綱目」を引く。時珍はそこで牛黄の効能・採取法・形状・属性・真贋鑑定法を語り、そもそも牛黄は牛の病気であると正しい知見を示している。また牛黄には生黄・角中黄・心黄・肝黄の四種があり、牛黄を持った病態の牛の口に水を張った盆を当てがい、牛を嚇して吐き出せた生黄が最上品であると記す。最後に良安の記載があるが、そこで彼は世間で「牛宝」と呼ぶ外側に毛の生えた玉石様ものであるが、これは「狗寶」(次注参照)と同様、「鮓荅」の類で、牛の病変である牛黄と同類のものであるが、牛黄とは全くの別種である、と述べて贋物として注意を喚起している。この記載から、良安は「牛黄」を「鮓荅」と区別・別格とし、「牛黄」のみを真正の生薬と考えていることがはっきりと分かる。
・「狗寶」良安は「卷三十七 畜類」の「鮓荅」の直前で「狗寶」の項を設け、そこでも「本草綱目」引用しているが、この「本草綱目」の記載が、とんでもなく雑駁散漫な内容で、我々にその「狗寶」なるものの実体や属性・効能を少しも明らかにしてくれない。その引用末尾の『程氏遺書』の引用に至っては、「狗寶」から完全に脱線してしまい、荒唐無稽な石化説話の開陳になってしまっている。良安の附言は、全くない。「本草綱目」の引用のみで附言がない項目は他にもいくらもあるのだが、私にはどうもこの項、しっくりこない。
・「驚癇」漢方で言う癲癇症状のこと。
・「毒瘡」瘡毒と同じか。ならば梅毒のことである。もっと広範な重症の糜爛性皮膚炎を言うのかも知れない。
・「潤澤」ある程度の水気を帯び、光沢があることを言う。
・「五六錢目」「錢」は重量単位。一両の十分の一。時珍の明代では一両が三十七・三グラムであるから、二十グラム前後。
・「痘疹」天然痘。
・「俗傳に云く、猨、獵人の爲に傷せられ、其の疵-痕、贅と成りたる肉塊なりと。蓋し此れ惑説なり。乃ち鮓荅なること、明らけし。」ここの部分、東洋文庫版では、
『世間一般では猿の身体にある鮓荅をさして、これは猿が猟人のために傷つけられ、その傷の
と訳しているが、これはおかしな訳と言わざるを得ない。ここは、
『俗説に言うには、「猿が猟師に傷つけられ、その傷の痕が瘤となった、その肉の塊が鮓荅である」とする。しかし、これはとんでもない妄説である。以上、見てきたように、鮓荅というものは猿と人とのものなのではなく、牛馬に生ずるところの結石であること、最早、明白である。』
と言っているのである。
※以上、「和漢三才圖會」「卷三十七 畜類」にある「鮓荅」テクスト及び私の注の引用を終了、同時に本「牛玉」の注も終わりとする。ここまで読まれた私の熱心な読者へ――“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!
・「潔白ならざる玉をも、など生へて有物也。」底本では「玉をも、など」の右に『(尊本「玉の、毛など」)』と傍注する。明らかな脱文である。
・「三、四寸」凡そ一〇~一二センチメートル。
■やぶちゃん現代語訳
牛の玉の事
牛の玉と称し、社寺の開帳などの際に霊宝などと唱えては仰々しく見せるものがある。
薄汚れた、毛なんどが生えたりしておる「玉」である。
ものによっては、自然と、もぞもぞと動いたりするを、人々は殊の外、不思議なものとして賞美致すのであるが――これは、はっきり申して何の役にも立たぬ代物である。
これに関わって――隠岐国というのは、野飼いの牛が大層多いところで、知人佐久間某が、先年、御用により、かの国へ参って目の当たりにしたということを――以下に記しおく。
……牛の中には牛小屋に入らず、野良に寝起きしておる牛も御座った。
……耳の中からか或いは口の中からか、何処より出でたるものか、そこのところは見極めること、これ、出来ませなんだが……三、四寸もこれ御座る丸いものが、その牛の廻りを駆け回って御座って……牛飼いの
「それは何じゃ?」
と尋ねましたところ、
「牛玉。」
と、申しました。
……我らが存じております「牛玉」なるものは、これ、駆け歩いたり致すことは御座らぬが……まあ、「動く」と申す点では、これ、相違御座らぬ。
……これは、牛の腹中に棲むところの、何らかの生き物なので御座ろうか?
……ああ、それから、この「もの」を摘出致いて後も、牛は別段、平気で御座る。……
とのことである。
*
鬼僕の事
芝田何某いへる御勘定勤し人、美濃の御普請御用にて先年彼地へ至りし砌、出立前一僕を抱へ召連しに、貞實に給仕なせしが、或夜旅宿に
□やぶちゃん注
○前項連関:奇譚ではあるが、特に感じさせない。久々の本格怪談である。最後の怪異のキモであるところの在所の者の証言は、大幅に私の演出を加えてある。
・「御勘定」中級幕吏。恐らく根岸の経歴にもある勘定所御勘定であろう。
・「罔兩」魍魎。私の電子テクスト「和漢三才圖會 卷四十」より「魍魎」を引用しておく(私の注の一部に省略を加えた。原文と書き下しの文の画像が異なるのは、底本とした正徳二(一七一二)年頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)完成の大坂杏林堂の版行のもの(前者)と、明治一七(一八八四)年~明治二一(一八八八)年出版の大阪中近堂版(後者)の絵師の違いによるもの。二〇一〇年三月二日にかのテクスト化を行った際、私は注に正にこの「耳嚢」の「鬼僕の事」を用いた。そこでには引用した後に『訳注なしで十分楽しめる。それでも私の訳注を読みたい方は……そうさな、一年半は待ってもらわねばなるまい……。』と記してある。今日は一年半と五日後である。私の予言も鬼僕並に当たったことが恐ろしい気がしてきた!……)。
《引用開始》
みつは 【罔兩 ※蜽
もうりやう 方良】
魍魎
【和名美豆波】
ワン リヤン
[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「罔」。]
淮南子云罔兩状如三歳小兒赤黑色赤目長耳美髮
本綱云罔兩好食亡者肝故周禮【方相氏】執戈入壙以驅方
艮是矣其性畏虎與栢曰此名弗述在地下食死人腦但
以柏挿其首則死此即罔兩也
按魍魎左傳注疏爲川澤之神日本紀亦以爲水神魑
魅以爲山神
*
みづは 【罔兩 ※蜽
もうりやう
魍魎
【和名、美豆波。】
ワン リヤン
[やぶちゃん字注:「※」=「虫」+「罔」。「もうりやう」の「もう」はママ。]
「淮南子」に云ふ、『罔兩は、状、三歳ばかりの小兒のごとく、赤黑色。赤き目、長き耳、美しき髮あり。「本綱」に云ふ、『罔兩は、好みて亡者の肝を食ふ。故に「
按ずるに、魍魎は、「左傳」の注疏に川澤の神と爲し、「日本紀」にも亦、以て水神と爲し、魑魅を以て山神と爲す。
[やぶちゃん注:「廣漢和辭典」によれば、「魍魎」の「魍」も「魎」も、すだま・もののけとする。そもそも「魑魅魍魎」は山川の
『「淮南子」』は前漢の武帝の頃に
「周禮」中国最古の礼書の一。「周官」とも言う。五経の一「
「方相氏」上記の「周礼」の「方相氏」には「方相氏。掌蒙熊皮、黄金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時難、以索室驅疫」とある。これは一種の呪術を専門とする官職で、熊の皮を頭から冠って、金色に輝く四つ目の面を装着、黒衣に朱の裳を引いて、矛と盾を振り上げて、屋敷内に巣食う諸々の悪疫邪鬼を駆逐することを仕事とした。正しく追儺・節分・ナマハゲのルーツである。なお、この部分、割注になっているが、国会図書館版「本草綱目」では平文である。これは良安が参考にした「本草綱目」がしっかりした版本であったことを示している。何故なら、「周礼」では上記の通り、「方相氏」の項の最後にこの一文が現れ、「方相氏執戈……」とはなっていないからである。即ち、これは時珍が補った割注部分であるということである。
「壙」壙穴。つか。つかあな。死体を埋める穴のことであるが、ここでは墳墓・玄室の意。
「柏」裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワPlatycladus orientalis(シノニムBiota orientalis 及び Thuja orientalis )現生種では一属一種。朝鮮半島から中国北部に広く分布する常緑針葉高木。枝が直立するため、それを子供が万歳をしている様に比した名称。松と共に中国では墳墓に植える。
「弗述」ネット上には「酉陽雑俎」にこの記載があるというので、「酉陽雑俎」をめくってはみたが、時間がもったいないのでやめた。その内、見つけたら、この注にアップしよう。
『「左傳」の注疏に』「左傳」は孔子の編と伝えられる五経の一つである歴史書「春秋」の注釈書である「春秋左氏伝」(魯の左丘明によるものとも言われるが不明)のこと。「注疏」とは古書を注釈した書物である注(ここでは「春秋左氏伝」)と、その注の文章をさらに解釈した書物である疏を総称した言い方。要するに人の注に更に別な人が注を施した(本文+注釈+注釈の注釈)から成る注釈書のことと考えればよい。この引用部は、西晉の武将にして学者であった杜預(とよ 二二二年~二八四年)のもので、恐らく「春秋経伝集解」の一節である(杜預の注であることは東洋文庫版割注による孫引きであり、原典は確認していない)。
『「日本紀」にも亦、以て水神と爲し、魑魅を以て山神と爲す。』の「日本書紀」のこと。「以て水神と爲し」というのは女神ミヅハノメのことを指している(「古事記」では弥都波能売神(みづはのめのかみ)・「日本書紀」では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記される)。以下、ウィキの「ミヅハノメ」を参考にすると、「古事記」の神産みの段では、カクツチを生んだ際に陰部が焼け爛れて苦しんでいる(これがイサナミ死因となる)イサナミの尿から、
《引用終了》
・「暇を無據事ある儘給るべし」底本には、右に『(尊本「無扱事有りまゝ暇を給るべし」)』と傍注する。私は傍注が必要なほどに本文が不分明であるとは思わない。
・「死骸を取る役あり、此度我等順番に當りて」底本には、右に『(尊本「死骸を取事なれど無行衞參るも如何故、此度我等順番に當りて」)』と傍注する。尊経閣本には分かりきったくだくだしさがあって怪談の話柄としては、必ずしも上質とは言い難いが、底本も台詞としては唐突に切れるため、訳では台詞の最後に尊経閣本も採り入れた。
■やぶちゃん現代語訳
鬼僕の事
柴田某という御勘定を勤めた御仁の話である。
美濃の御普請御用にて、先年、かの地へ出張致すに際し、出立前、一人の従僕を新たに召し抱えて同行させましたが、この者、頗る堅実なる者で、まことにまめに仕えて御座いました。
……ところが……
……とある夜のこと、旅宿先にて床に就いて御座ったところ、もう夜半にもなんなんとする頃おい、夢とも
「……ご主人様……我等は実は……人にては……御座りませぬ。……
と乞いました故、
「――よんどころなき事ならば、これ、仕方あるまい。暇、遣わさんとは思えど……罔両……とやら、まずはその仔細を、これ、聞かせては呉れぬか――」
と申しましたところ、
「……我ら罔両というものは……順番に……死ねる人の……その死骸を……奪い取る役目が御座いまして……この度は我らが……その順番に……当たって御座います……この旅宿のより一里ばかり下った在所の……百姓何某が母の……その死骸を取ることと相い成って御座います……何事も申し上げずに行方を晦ましましては……これ如何なものかと存じ……では……永のお別れにて……御座いまする……」
と、言うたかと思うと、
……ふっと……
……消えた……
……かと思いましたところが――
そこで、ふっと、目が覚め申した。
『……何ともはや、くだらぬ夢を見たものじゃ。……』
と、特に気にも懸けず、また暫くして眠りに落ちて御座いました。
ところが翌朝、起き出だいて、かの従僕の部屋に声をかけてましたところ――おりません。――宿の者も
しかし、その日も遅く、ふと、未明に見た夢で、かの従僕が『一里ばかり
「……今日……この辺りの村にて、何ぞ変わったことは、これ……御座らなんだか?」
と、それとのう訊いてみましたところ、たまたまそこにおりました土地の者が、
「……へえ。……今日、一里ばかし
と語って御座いました。
……拙者、これを聴きまして、文字通り、冷水を浴びせられた如くに、慄っと致しました……。
*
怪病の事
清水の家老を勤し永井
□やぶちゃん注
○前項連関:女性の奇病で「怪妊の事」と連関。発熱による発汗で寝具がぐしょぐしょになるというのはままあることながら、根岸が書き留めるほどだから、これはもう、閨内がびしょびしょになっているとしか考えられない。全身から多量の水分が排出される奇病というのも、私の小学校の頃の少年雑誌の超常現象・奇病の読み物じゃあるまいし……そもそも兄が附き人や家中の者に聞き質した際、本当に彼女が何らかの病気であったなら、病態の遷移、室内が浸水する状況を断片的にでも語り得るはずなのに、一抹もそうした描写がないのも何かおかしくないか?……そうすると……考え得るのは一つしかない……詐病である……奇病の詐病である……こんな気味の悪い病気は、奉公人としては願い下げである。私が主人なら、ゆっくり養生するがよい、と言って体よく里へ帰す……本話ではその辺りが語られないが、私はこの大久保の妹は里に下がったと考える……さすればその真相は――彼女は永井主膳正方から何らかの理由があって下がりたかったのではなかったか?――その確実な方途としてこの『奇病水浸し』を演じたのではなかったか?……下がりたかった理由……それは高い確率で奉公の日常にある……奉公人の間のこと、かも知れない……いや、主人永井主膳正との、何かであったのかも知れぬ……いいや、もしかすると、永井主膳正が家老である清水徳川家当主との間に、何かが、あったのでは? と考えるのは無礼で御座ろうかの?……(次注参照)
・「清水」清水徳川家。御三卿の一つ。第九代将軍家重次男重好(延享二(一七四五)年~寛政七(一七九五)年)を家祖とするが、重好には嗣子がなかったため、空席となり、領地・家屋敷は一時的に幕府に収公されている。収公は将軍吉宗の遺志に背くものであったため、一橋徳川家第二代当主治済(はるさだ/はるなり)は老中松平信明らに強く抗議している。その後、第十一代将軍家斉(治済の長男)五男の敦之助が、寛政一〇(一七九八)年にわずか数え年三歳で継承するも翌年夭折、再び清水徳川家は当主空席となり、文化二(一八〇五)年になって異母弟の
・「永井主膳正」永井武氏(元禄六(一六九三)年~明和八(一七七一)年)。大番・御小納戸を経て、宝暦二(一七五二)年に西丸御広屋敷御用人、同七年には清水重好の守役に任ぜられ、後、清水家家老となった。
・「大久保内膳」大久保忠寅(生没年不詳)。役職については寛政二(一七九〇)年勘定吟味役、同六年御小納戸頭を兼ね、同九年に兼役を解く、と底本の鈴木氏の注にあり、「卷之五」の「毒蝶の事」などを見ると寛政九(一七九七)年当時、勘定奉行であった根岸との接点が見える。永井武氏との縁戚関係は不詳。
・「
■やぶちゃん現代語訳
怪病の事
清水家の家老を勤めて御座った永井
この武寅殿の妹ごは、清水家に御奉公致し、永井家に寄宿して御座ったが、ある日のこと、その妹ごが急病の由、知らせが参った。武寅殿、急ぎ永井家屋敷へと罷り越したが……
……いや、妹の様子は、これ、どうという感じにても、御座らないだ。
……病気、と言うなら……確かに熱は御座ったれど……これもまあ、さして高いというわけにても御座らぬ。
……ところが……その……妹の臥して御座る夜具や衣類やその他もろもろのものが……いや、妹のおる閨の、その座敷中が……これ
――水浸し――
……で御座ったのじゃ。
……言うなら、井戸へ転落したか、池へとどっぷり浸かり込んだ者を、たった今、引き揚げたといった有様故、当人へも、
「……これは如何なことじゃ? お前は誤って井戸へ落ちたか、はたまた、池なんどへでも、はまり込んだのか?」
と訊ねて御座ったところが、
「……一向……何がどうなったやら……
と言うばかりで埒開かず……妹お附きの者やら、永井家御家中の者へも聞き質いたれど……
……一向、井戸は勿論のこと、池なんどへも落入ったなんどということ、これ、御座らぬとの由じゃった。
……いや、まっこと……今に至るまでも……不審、これ、晴れ申さぬ……。
とは、武寅殿の直談で御座る。
*
氣性の者末期不思議の事
永井家
□やぶちゃん注
○前項連関:永井武氏と大久保忠寅絡み怪奇譚二連発。但し、これは近親者であり、事実なら当然知っているはずの大久保忠寅が頑として否認するところから、珍しく最終否認型都市伝説という異形をとる。しかし、こうした末期の脳症による幻覚現象はしばしば見られるものであり、妄想の事実はあったのだが(地蔵の話までが事実なら、寧ろ、前話の様な話を他者に語るを好む大久保ならば、この話は事実であったと、逆に追認するものと思われる)、親族でもあり、友人でもあった彼が、それを武士の名誉のため、全否定したと考える方が自然で、話柄としても面白いと思う。また、表題で「氣性の者末期不思議の事」とした根岸は、信じたかどうかは別として、実は本話が武人永井武氏の逸話としては、よい話だ、と感じたことを示しているように思われる。
・「気性」気が強い、精神がしっかりしている、と言った意味。
・「永井家」永井武氏。前話注参照。彼の逝去は明和八(一七七一)年であるから、執筆推定の寛政九(一七九七)年からは二十六年前のことになる。
・「不幸の葬穴を掘しに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『不幸の後葬穴を
・「大久保」大久保忠寅。前話注参照。
■やぶちゃん現代語訳
気性のしっかりした者の末期には不思議がある事
……先の話に出た永井
「……何を、お探しで御座いますか?……」
と訊ねたところ、
「……首が……これ、二つ三つ……あるはずじゃ……」
とおっしゃられた故、その場に御座った婦女なんどは大いに恐れ、男たちも、
「……これ、病いの疲れにても……御座ろうか……」
なんどと語り合って御座った。……
……ところが、
……御逝去の
……菩提寺にて
……土の中から、
――石地蔵の
――首が
――三つ……
掘り出されて御座った。……
「……と……聞いて御座る。……」
と、さる折り、某氏が語ったので御座ったが、たまたまそこに、大久保
「――それは他の永井のことで御座ろう! 主膳正の末期には拙者も付き添い、葬送にも列して御座ったが――そのようなことは――これ――一切――聞き及んでおらぬ!」
と一蹴なされた。
*
津和野領馬術の事
津和野領は西國にて長崎往來の場所に候所、
□やぶちゃん注
○前項連関:変化球の胡散臭い武辺物で連関。
・「津和野領」石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれた。当主は亀井家。執筆推定の寛政九(一七九七)年当時は第八代藩主亀井矩賢(のりかた 明和三(一七六六)年~文政四(一八二一)年)で藩主在位は、天明三(一七八三)年から文政二(一八一九)年であるから、この領主は彼か若しくはその父で第七代藩主であった亀井矩貞(のりさだ 元文四(一七三九)年~文化十一(一八一四)年)である(叙述から見ると後者の可能性が高いように思われる)。但し、岩波版長谷川氏も指摘する通り、位置的に長崎往来との関係が分からない(どう考えても物理的には津和野藩を通らねばならない訳ではない)。識者の御教授を乞うものである。一つ気になるとすれば、ずっと後のことであるが、ウィキの「津和野町」の歴史の項に拠れば、慶応四・明治元(一八六八)年、長崎の浦上キリシタンが配流され、弾圧されたとあり、各藩の中でも津和野藩の拷問は特に陰惨を極め、外国公使の抗議や岩倉使節団などの理解によって停止するまで続いた(これを「浦上四番崩れ」と呼ぶ)、とあることが何かのヒントか?
・「久世丹州」久世丹後守広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)。浦賀奉行を経て、安永四(一七七五)年長崎奉行となった。中国貿易の拡大を図るなど、オランダ商館長チチングが感心するほどの開明的な人物で、長崎で入手した海外情報を懇意にしていた田沼意次に齎し、オランダ人の待遇改善などにも勤めた。天明二(一七八二)年には米価が高騰し、盗賊放火が増えた際には、近隣の諸侯に依頼して米を回漕させて米価を抑えるなど、天明三(一七八三)年九月、江戸に戻る際には長崎町民が、遙か遠方まで見送って報恩に謝したという。天明四(一七八四)年に勘定奉行となって寛政の改革を推進した。寛政六(一七九四)年には、ロシアの情報を得るため、江戸住みを余儀なくされた大黒屋光太夫のために新居を与えている。寛政九年当時は寛政四(一七九二)年よりの関東郡代を兼ねていた。根岸のニュース・ソースの一人。寛政九(一七九七)年六月五日致仕(以上は主にウィキの「久世広民」に拠った)。
・「物頭」弓組・鉄砲組などの足軽の頭。組頭。
・「鼻皮」馬の鼻づらに左右にかける細長い革。通常は馬銜(はみ:馬の
■やぶちゃん現代語訳
津和野領馬術の事
津和野領は西国にて長崎往来の途中である。至って険阻の難所が多い。
長崎奉行で御座った久世丹州広民殿が往来の折りには、かの地にては領主自ら乗馬の上、
「……馬に『鼻革を懸ける』というも……これ、何ぞ、仔細があってのことで御座ろうか、のぅ……馬術の上手さを『鼻をかける』……とか、の……」
とは、丹州広民殿の談話で御座った。
*
俄の亂心一藥即效の事
予が許へ來る木村元長が方へ數年出入せる者、元長親の印牧玄順が隱宅へ
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。これは
・「木村元長」小児科医。「卷之五」の「疱瘡神といふ僞説の事」に登場、『予が許へ來る木村元長といへる小兒科』とある。
・「印牧玄順」医師。馬場文耕「当代江都百化物」(宝暦八(一七五八)年序)に玄順の未亡人のゴシップ記事「鳴神比丘尼ノ弁」が載るが(リンク先はサイト「海南人文研究室」内資料。この話自体、大変面白い。剃髪した貞女は実は不倫関係の永続を求めてのことであったというとんでもない話である)、これを読むと「印牧玄順」と言う名跡は代々継がれていることが分かり、時代的にもこの中に載る『玄順病死シテ高根玄竜事、今ハ印牧玄順ト改名シケリ』という人物よりも、一~二代後の「印牧玄順」であると思われる(宝暦八年では本巻執筆推定の寛政九(一七九七)年よりも凡そ四十年も遡ってしまうからである)。「デジタル版 日本人名大辞典」に江戸後期医師で、文政元年に伊予松山藩に招かれて侍医となり、「霊医言」などの医書を残した脇田槐葊(わきたかいあん)という人物の解説中に、彼が印牧玄順に学んだとある。しかし、この槐葊の生年は天明六(一七八六)年で今度は少々若過ぎる感じで、この槐葊の師である「印牧玄順」かその先代という感じである。う~む、今少しなのだが、むず痒い。
・「眼血走り顏色殊外靑く」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「靑く」が『赤く』とある。ヒステリー症状からは赤熱した状態の方が自然であるようにも思えるが、急性アルコール中毒からのチアノーゼの症状として、蒼白でもおかしくない。
・「紫雪」紫雪丹。鉱物性多味配合薬。――多くの辞書には、加賀地方に江戸時代から伝承される家庭薬で、内服用の練り薬で熱病・傷寒・酒毒・吐血・食滞などのときに用いる、とある。アルジャーノン・ミットフォードの「英国外交官の見た幕末維新」によれば、慶応三(一八六七)年にイギリス人外交官であったミットフォードとアーネスト・サトウが立ち寄った金沢城下に別れを告げる下りで、『八月十四日の朝、再来を請う人々の声に送られて、名残を惜しみながら別れを告げ、再び旅の途についた。宿の主人は自分の義父がやっている薬屋に立ち寄って、あらゆる病気に効く万能薬で、硝石と
・「貮三匁」約七・五~一一・二五グラム。
・「留守」外出の意。
・「黄金の氣に右藥を合せたる紫雪」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「右藥」が『石薬』とある。右では意が通らない。「石藥」として採る。但し、この「黄金の氣」は「石藥」と同義的に見えるのでやや不審ではある。「黄金の氣」とは五行の「
■やぶちゃん現代語訳
俄かの心神異乱に対する一薬即効の事
私のもとへしばしば出入りする小児科医木村
ある日、元長の従僕と連れ立ち、元長の親で、やはり医師であった、今は隠居して御座る
〔付属資料〕
●医師木村元長のカルテ
診断の結果、本発作を起こした××××の病態の発生は、以下の経緯に基づくものと考えられた。
〇発作の外的誘因
第一に、
・××××は生得的にアルコールに対する抵抗力を持たない体質、アルコール不耐症である
点を挙げておかねばならない。そしてその彼が、
・当日、外出して玄順宅を見舞いに行った際、振る舞いとして出された酒を勧められるままに強いて飲んで、いつになくひどく酩酊していた
ことが、従僕の証言からも明らかである。但し、自分の体質を認識していたはずの彼が、何故にそのような行為に及んだかについては後に分析する。
〇発作の主因と発症と病態
彼は、
・町家の手代を勤め、その商家の家政一般・商取引の主要なパートを担当していた
が、近年、彼の身辺に於いて、
・主人の弟が移り住んで主家へ同居するようになった
という急激な変化が起こり、また、
・この弟がことあるごとに、今まで彼が取り仕切って順調になされていた家計や商法に口を出ようになった
その結果、
・彼と、この主人弟との人間関係が頗る悪化した
そこでは、付随的に、
・この弟の行為言動に対して、今まで彼が信頼し、彼もまた信頼されていた主人であるところの兄が、悉くそれ容認し、また、彼の主張が容れられない状況に、彼は激しい不満を募らせていた
と考えてよい。そうした状況下、その日は、
・日頃の溜まりに溜まった主人弟及びそれを許して彼の言を聴き入れようとしない主人への極度の鬱憤と絶望とが頂点に達しているところの、謂わば「逆上」寸前の状態にあった
ものと思われる。彼は自身のアルコール不耐症を認識していながら、その見舞い先で振る舞われた、
・本来なら飲めない酒を、珍しく優しく玄順から勧められて、自身の孤独感から半ば依存的に、半ば自棄的に、無謀な飲酒行為に及んだ
と推定される。その結果として、
・アルコール性抑鬱状態から速やかに急性アルコール中毒へと移行した
もので、
・重度の充血及びチアノーゼ・恐らくは幻視幻聴を伴った関係妄想による驚愕性のヒステリー発作を呈した
ものである。私の観察では、
・発作時には既に見当識が殆んどない
ように見受けられた。
〇処方
以上のような病因と病態を勘案の上、この病態はあくまで、
・心因性の主因に、飲酒によるアルコール性精神病様症状が合併して発症したもの
と診断の上、種々の状況から××××の内因性精神病としての難治性の遺伝的要素を含む精神障害の可能性を排除出来るものと考え、突発性興奮を鎮静させるための処方を判断した。
・黄金〔五行の
◎「紫雪」
であれば、速やかに症状を鎮静恢復させ得るものと判断し、その場で調合の上、即座に拘束した上、強制服用させた。
〇予後
翌朝には恢復したが、問診したところ、自身の前日の病態は勿論のこと、玄順宅からの帰り以降の記憶を、殆んど喪失していた。アルコール不耐症には普通に見られることである。
以下、余白。
*
賤夫奇才の事
火消屋敷の役場中間といへるは、無類不法の者にて、朝に食して夕べに食なきを
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げであるが、無視し、「*」を附して区別した。]
*
愚なる身體、國に有ては父母のもの也、武家に仕へては君のもの也。ましてや惡行の勤たるといへ共、二十年來道に入て命を
■やぶちゃん現代語訳
○前項連関:特に感じさせない。
・「火消屋敷」武士によって組織された武家火消の内、幕府直轄で四、五千石クラスの旗本が担当した
・「役場中間」この場合の「役場」とは、実務「役」として火災現「場」で消火に当たる「中間」の謂いであろう。
・「無類不法」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『無頼無法』。「無賴」の誤りと採る。
・「寛政丙辰」寛政八(一七九六)年。鈴木氏注に、『この春、特別の大火があったわけではない。』と記す。
・「室賀兵庫」
・「櫻田」江戸城南端にある桜田門橋一帯の地名。現在の東京都千代田区霞が関二丁目付近。古くは桜田郷と呼称した。
・「九牛の一毛」圧倒的多数の中で、極めて少ない部分の譬え。また、比較にならないほどつまらぬことの譬え。男性生殖器を截ち斬られる屈辱的宮刑(腐刑)を受けた司馬遷が友人に宛てた悲痛なる返書「報任少卿書」(
・「本道」漢方で内科をいう。
・「
・「棚引し霞が關のひまよりも
……霞棚引く霞が関……ああ、その隙間より……ちろちろちろと……燃え出でた、かとみた、その火……ありゃ、火には御座いません……いやさ、お江戸は桜田の……桜の花に、御座います――
■やぶちゃん現代語訳
匹夫奇才の事
火消屋敷の役場中間と申すは、これ、無頼不法の者どもにて、朝に一食、食ったきり、夕べになればものをも食わず、ただただ酒に浸り切り、といった不埒なる輩ではある。
寛政八年
*
……愚なるはこの
――春の
棚引きし霞が關のひまよりも燃へ出づる火は花の櫻田
*
曲禪弓の事
寛政七八年の比、曲禪弓とて代に
□やぶちゃん注
○前項連関:役場中間の滑稽なる誓文から、文盲の名工の文字誤読滑稽譚で連関。「曲彈弓」と名付けるところを、字を誤って「曲禪弓」と誤って命名したというのだが……志賀直哉の「小僧の神様」に食ってかかって、「小僧に寿司奢って、何が面白い?!」と指「弾」した太宰治じゃないが、『「彈」を「禪」と誤ったのが、そんなに面白いか?!』と言いたくなる……私はこういうことで、一座の者と笑い合う根岸が――私の好きな根岸が――どうも私が臍「曲」りなんだろうか?――ここに限って何故か、不快なんで、ある……。こんなことだから、私には友だちが少ないのかも、知れないな……。ともかくも、今回は、そうした話し手聴き手の持つ不快な悪意を抉り出すような現代語訳を心掛けた。
・「李蔓弓」「利満弓」「李万弓」とも。携帯用・非常用の弓の一種。底本の鈴木氏注では朝鮮の利満子によって伝えられたとあり、須川薫雄氏の「日本の武器兵器」の「弓の種類」の「李満弓」によれば、紀州の林李満と言う兵法家の作ともある(こちらの人物も姓名からは半島からの渡来人のように思われる)以下、そこから引用する。『小型で既に弦が掛けた 状態で保持されており、緊急の際に取り出しそのまま矢をつがえて発射出来る。籠弓ともいう。弓と矢は一つの入れ物に一体となり設置されている。材料は弓本体も入れ物も鯨の髭(実際は歯)水牛の角、などを膠(これも鯨の髭から作る)と卵白で接着したものと言われている。矢は十一本が収納されそのうち一本は矢羽四枚あり大きな鏃が付いている。完全に台が設置型のものも存在する。床の間などに置いたのであろう』とある(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた。リンク先に画像があり、根岸の謂いが分かる)。
・「建弓」本体として使用する弓のこと。
・「半弓」和弓の長さによる分類名。六尺三寸(約一九一センチメートル)が標準とされ、通常の和弓である大弓の七尺三寸(約二二一センチメートル)よりも短い。
・「尻籠」「矢籠」「矢壺」とも書く。矢(この場合は弓本体も含む)を収納するための収納用具の一種。
・「
■やぶちゃん現代語訳
曲禅弓の事
寛政七、八年のことである。
「曲禅弓」と如何にもな名を附け、代々、それを家宝と致し、特別なる弓術として伝えておる家もあるようにて御座るが、如何なる由緒正しき弓法家の家にも、これ、伝わっておらず、また博覧強記の古実家にも、そのような弓名弓術のあること、これ、伝わって御座らぬ。
その形状を管見致すに、
その濫觴が不分明である故、ある人が穿鑿致いてみたらしいのであるが……
「……まず、これ、古いものにては御座らぬ。……至って近き頃のこととか……
……付け加えて申すなら、この庄左衛門――どうせ賤しい出自なれば……これ、とんでもない文盲で御座ったものらしく……その矢を建てた尻籠のところが、これ、安っぽい曲わっぱの如く
とのことなれば、座中、大笑いとなって御座ったよ。
*
田鼠を追ふ呪の事
寛政七卯年濃州の田畑に鼠多く出て荒けると言る咄合の節、或人の曰く、田鼠を追ふ
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。
・「田鼠」こう書くと、アカネズミ・ハタネズミ・ヤチネズミなどの野鼠やクマネズミを指す場合があり、他にもクマネヅミの別名としても用いられるが、ここに記された習俗からは哺乳綱トガリネズミ目モグラ科 Talpidae のモグラと採っておきたい(岩波版の長谷川氏の注もモグラとする。但し、これが実際のネズミ類であると解釈出来ない根拠はない)。本邦には四属七種(更に複数の亜種を含む)が棲息する。参照したウィキの「モグラ」によれば、『古くはモグラのことを「うころもち」(宇古呂毛知:『本草和名』)と呼んでいた。また、江戸時代あたりでは「むくらもち」もしくは「もぐらもち」と呼んでいた。なお、モグラを漢字で「土龍」と記すが、これは本来ミミズのことであり(そのことは本草綱目でも確認できる)、近世以降に漢字の誤用があり、そのまま定着してしまったと考えられる』とあり、『日本各地で小正月には、「烏追い」と並んで土龍追い(もぐらおい)・土龍送り(もぐらおくり)・ 土龍打(もぐらうち)などと呼ばれる「農作物を害するモグラを追い出し、五穀豊穣を祈る神事」が行われ、その集落の子どもたちが集まり、唄を歌いながら、藁を巻きつけた竹竿などで地面を叩き練り歩くものである』と記す。これ以外にも、京都・滋賀及び東北の一部など比較的広範に見られる小正月の行事の一つとして「海鼠曳き」と称するものがあり、これはモグラが嫌うとされるナマコを引き回すというものである。実物の海鼠を
・「寛政七卯年」は
・「惡水堀」水田の不要になった滞留水を流すための河川等に繋がる側溝。
■やぶちゃん現代語訳
田鼠を追い払う呪いの事
寛政七年卯年のこと、美濃国では田畑に
「……田鼠を追い払う
とのこと。
真偽のほどは定かならねど、そういった事実も、これ、御座るのであろうか。
*
剛氣其理ある事
備前の松平新太郎少將の時、國中銅鐡の佛具類鑄潰しの儀申付られしに、ある
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。これも厭な話柄である。これ、仏具類の鋳潰しであるところから見て、実用的な目的を持ったものではなく、水戸藩などが行った、明治初年の廃仏毀釈政策と同じものである(次注参照)。宗教政策であったと同時に社寺の経営整理を目的としたものであったと思われるが、明治のそれが多くの文化財の消失と国外流出を招いたのと同様、全く以て愚かな行為であったと言わざるを得ない。我々はバーミヤンの仏像を爆破した彼らを野蛮とは言えないのだ。つい先日まで、我ら日本人とて、宗教的ファンダメンタリズムの狂気の中に生きていたではないか。いや、この阿呆さ加減は、今も以て変わらないという気がする――。根岸はこれまでの叙述からも熱心な神儒一致思想の持ち主である。こういう仕儀を手放しで褒め称えるのも、訳のないことでは、これ、ないが……根木さんよ、あんた、やっぱり一般大衆を「愚民」の輩と、思うておったんやねえ……
・「松平新太郎少將」池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)のこと。播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩初代藩主。儒教を信奉した彼は寛永九(一六三二)年に岡山藩藩主となるや、陽明学者熊沢蕃山を招聘、寛永一八(一六四一)年には全国初の藩校
・「山崎」岩波版の長谷川氏注には『光政の下、寛文六年(一六六六)より寺の整理、僧の還俗の策を講じた熊沢蕃山を誤るか』と記す。熊沢蕃山(くまざわばんざん 元和五(一六一九年)年~元禄四(一六九一)年)は陽明学者。諱は
■やぶちゃん現代語訳
剛気にもその理りのある事
備前岡山藩藩主松平新太郎少将光政殿の治世、
確か山崎とか申す姓で御座ったか――名は忘れてしもうたが――その頃新太郎殿に
「――我らこと、美事、その鐘、鋳潰してご覧に入れましょう。」
と言うが早いか、かの鐘のある寺へと至り、突っ立つたまま、平然と――この鐘に小便をひらかした。――
「――されば――鋳潰せ!」
とて、火をかけたところが、鐘はあっけなく熔けた、と申す。――
――拙者の思うに、愚民は名物と聞いて、その仏罰を畏れる心がため……何と、その「ありがたい仏縁」に依りて、火をかけても熔けなかったと申すものか?……いやいや……これは又、ただ、さもしくも、名物の鐘のなくなるを惜しみて、「熔けざる」と、底の見え透いた空言を吐いて御座ったに過ぎぬのでは、これ、御座るまいか?……そうして……それと察して、山崎、鮮やかに鐘に
*
女の髮を喰ふ狐の事
世上にて女の髮を根元より切る事あり。髮切とて代に怪談の一ツとなす。中にも男を約して父母一類の片付なんといふをいなみて、右怪談にたくして
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。終盤に来ると、どうも百話への数合わせの意識が働くのか、関連性のない記事並びという気がする。
・「髮切」本人が気づかぬうちに主に女性の髪を切り落とすとされた妖怪。江戸市中での噂として時期をおいて繰り返し発生しており、所謂、
●応永二一(一四一四)年~康正元(一四五五)年
《スパン凡そ二五〇年前後》
●寛文十四(一六七四)年
《スパン三年》(この場合、周期というより江戸から福岡への、当時の流言飛語の伝播時間を示す興味深い事実と私は考える)
●延宝五(一六七七)年夏(於筑前福岡)
《スパン凡そ一〇年》
●元禄初期(元年。一六八八年)
《スパン凡そ七〇年前後》
●明和四(一七六七)年
《スパン三〇年》
●寛政九(一七九七)年
《スパン一三年》
●文化七(一八一〇)年
《スパン八四年》(ここを埋め得るデータは恐らく数多あると思われる)
●明治七(一八七四)年
となる。髪切は凡そ四五〇年以上もその種を秘かに保存してきたのであり、これは妖狐の類いと考えたのは、実に相応しい。また、これは都市伝説の特徴である周期的発生を裏付けるところの極めて興味深いデータでもあるのである。最後にウィキにあるパブリック・ドメインの佐脇嵩之(晩年の英一蝶に師事した江戸中期の江戸出身の画家)の「百怪図巻」の「かみきり」の図を示して終わりとする。
・「松平京兆」既出。
・「腸内」底本には右に『(尊本「腹内」)』と傍注する。
■やぶちゃん現代語訳
女の髪を喰う狐の事
世上にて――女の髪を、根本からすっぱり断ち切る――という珍事件の噂が、これ、後を絶ち申さぬ。
「髪切り」と称して、世間に怪談の一種としても流布しておることは、これ、周知のことで御座ろう。
ただ、按ずるに、そうした被害に逢った称する手合いの中には――父母や一族の者が無理矢理に嫁に行かせんとするを拒み、こうした怪談に託して、自ら
然れども、実際に狐狸の成す場合も、これ、あると申す。
旧知の松平右京亮輝和殿におかせられては、
「……拙者の在所、上野国高崎にて、この髪切に
とお話になられたことが御座った。
かくなればこそ、一概に、ただの狂言なんどと論断してよいものでも、これ、御座らぬものか。
*
疝氣呪の事
京極備前守殿、久世丹後守
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。七つ前の「津和野領馬術の事」の話者である久世広民の話で連関。本巻お馴染みの
・「疝氣」「疝積」は近代以前の日本の病名で、当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つである。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足
・「京極備前守」京極高久(享保一四(一七二九)年~文化五(一八〇八)年)は丹後国峰山藩第六代藩主。本話柄当時は若年寄。ウィキの「京極高久」には以下の記載がある。『高久の官位が備前守であることや、火付盗賊改・長谷川宣以(平蔵)の上司に当たるため、「京極備前守」の名で池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』にも登場し、鬼平こと長谷川平蔵の良き理解者として描かれている。テレビドラマ『鬼平犯科帳』では田島義文、平田昭彦、仲谷昇がそれぞれ演じた』。『池波は、長谷川平蔵の立場を理解し、なにくれとなく援助し、かばってくれる理想的な上司として京極高久を描いており、平田昭彦の演じた京極高久を非常に褒め、「江戸時代の殿様らしい、上品な味わいが演技に出ていた」と述べている』。『ただ、このような長谷川平蔵の理解者としての京極高久像は、池波の創作の可能性もある。『鬼平犯科帳』研究を行い、史実との照合を行っている西尾忠久は、「京極高久は史実では長谷川平蔵と対立した森山孝盛の側の人物であったのではないか。長谷川平蔵の庇護者は実際には水谷勝久ではないか」と論じている(西尾『鬼平を歩く』光文社知恵の森文庫)』とある。私は「鬼平犯科帳」のファンではないが、東宝特撮映画に欠かせない田島義文と平田昭彦のファンであるからここに附記しておきたい。
・「久世丹後守」前出。久世広民(享保十七(一七三二)年又は元文二(一七三七)年~寛政十一(一八〇〇)年)。浦賀奉行を経て、安永四(一七七五)年長崎奉行。当時は勘定奉行兼関東郡代。根岸の盟友にして「耳嚢」のニュース・ソースの一人。
・「けやけき」原義は、普通とは異なっていることを意味し、ここでは、異様な、の意。
・「松平隱岐守」松平定国(宝暦七(一七五七)年~文化元(一八〇四)年)。伊予国松山藩第九代藩主。御三卿田安徳川家初代当主田安宗武六男で、将軍徳川吉宗の孫、寛政の改革を主導した松平定信の実兄であるが、兄弟仲は険悪であった。当時は侍従、左近衛権少将。
・「□□□□」底本には右に『(約四字分空白)』と傍注する。個人名の明記を避けた意識的欠字。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『何某』とする。
・「岩國紙」岩国半紙。周防国岩国(現岩国市)地方で生産される半紙。天正年間(一五七三年~一五九二年)から作られており、コウゾを原料とする。
・「拾貮銅」銭十二文。岩波の長谷川氏注にこの金額は寺社への『賽銭の定額』である旨の記載がある。従って、これは何らかの神仏の祈禱を受けた呪物であることが分かる。何らかの薬物を液体か気体で染み込ませたものである可能性もあるが、まずは、かなりシンプルなプラシーボ(偽薬)と見る。
・「求め給ひしに」これは間接話法と直接話法がない交ぜになった文章で、実際には久世の直接話法の中の松平の間接話法部分に相当している。即ち、京極の話の引用なのであるが、引用している勘定奉行の久世から見れば、京極は上役の若年寄で年長であるため、尊敬語を用いているのである。高校古典で出題するならば、敬意の関係は「丹州(久世広民)→京極備前守(京極高久)」となる。現代語訳では京極の直接話法に変えて読み易くしたため、この部分や伝聞表記の箇所が逐語訳にはなっていないので注意されたい。
・「寛政卯」寛政七(一七九五年)。
・「丹州へ賴置ぬ」とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこれに更に続けて『其後丹州も身まかり、其事を果さず。』とあって終わる。従って根岸はこの
『後日追記:残念なことに、その後は連絡もなきままに丹後守殿は身まかり、この願いは果たせぬままに今日に至って御座る。』
……きっと根岸、この紙、とっても欲しかったんだなあ……。根岸の疝痛は、それだけ、強烈だったということ。新事発見!――『根岸鎭衞は頗る附きの疝気持ちであった!』――
……今一つ付け加えると……この付け加えには、根岸の、亡き盟友久世広民への感懐が感じられてほわっとするのである……
■やぶちゃん現代語訳
疝気の呪いの事
若年寄京極備前守高久殿は、勘定奉行久世丹後守広民殿が
「……いかにも奇体なることにて、まあ、とてものことに、まともに取りあう気にもならざるやも知れぬことにて御座るが……侍従松平隠岐守定国殿の在所伊予国松山に詰めて御座る家来の、何某という者、これ、奇妙なる
との話が御座ったという。――この話、私は当の丹後守殿から聞いたので御座るが――実は私も疝気持ちで御座る故、丹後守殿に、さらに詳しい話を切に、と願ったところ、後日、丹後守殿より、かの隠岐守殿御家来衆何某なる人物は、これ幸い、寛政七年の夏に江戸詰めとなって御座る由。そこで現在は、追ってその御家来衆の姓名並びにかの呪いの紙の求め方を調べて下さるよう、丹後守殿へ依頼しておいて御座る状態にある。
*
老人へ教訓の哥の事
望月老人予が元へ携へ來りし。面白ければ記し置ぬ。尾州御家中横井孫右衞門とて千五百石を領する人、隱居して
皺はよるほくろは出來る背はかゞむあたまは兀げる毛は白ふなる
是人の見ぐるしき知るべし
手は震ふ足はよろつく齒はぬける耳は聞へず目はうとくなる
是人の數ならぬを知るべし
よだたらす目しるはたえず鼻たらすとりはづしては小便もする
これ人のむさがる所を恥べし
又しても同じ噂に孫自慢達者自慢に若きしやれ言
是人のかたはらいたく聞きにくきを知るべし
くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる
これ人の嘲をしるべし
身にそふは頭巾襟卷杖眼鏡たんぽ温石しゆびん孫の手
かゝる身の上をも辨へずして
聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話やきたがる
是を常に姿見として、己が老たる程をかへり
見たしなみてよろし。然らば何をかくるしか
らずとしてゆるすぞと、いわく
宵寢朝寢晝寢物ぐさ物わすれ夫こそよけれ世にたらぬ身は
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。
・「望月老人」根岸のニュース・ソースの一人で詩歌に一家言持った人物。「卷之五」の「傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事」でも和歌の薀蓄を述べている(「瑾」は「きず」と読ませていると思われるが、これはしばしば見られる慣用誤用で「瑾」は美しい玉の意である)。
・「横井孫右衞門」「也有」俳文「
・「ゆるすぞと」底本「ゆるぞと」で、右に『(尊本「ゆるすぞと」)』と傍注がある。尊経閣本でないと意味が通じないので、そちらを本文採用した。
・「たらぬ身は」底本には右に『(尊本「立られぬ身は」)』と傍注する。私は尊経閣本の句形も捨てがたいがやはり字余りが気になり、ここはすっきりと底本で示した。
・以下の狂歌の内、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と異なる表記(後書・前書きを含むが句点の有無は無視し、中黒やルビ、最後の前書を除く岩波版の句点は除去した)を持つものについて、正字化したものを並置させておく。なお、ここに示された狂歌群については、岩波版長谷川氏注に、「身にそふは」以外の歌は小異はあるものの、也有の狂歌集「
*
皺はよるほくろは出來る背はかゞむあたまは兀げる毛は白ふなる
是人の數ならぬを知るべし
皺はよるほくろは出來る背はかゞむあたまは兀げる毛は白く成る(バークレー校版)
是人の數ならぬを知るべし
*
よだたらす目しるはたえず鼻たらすとりはづしては小便もする
これ人のむさがる所を恥べし
よだたらす目しるはたらす鼻たらすとりはづしては小便ももる(バークレー校版)
是人のむさがる所をしるべし
[やぶちゃん注:バークレー校版の方が秀逸。]
*
又しても同じ噂に孫自慢達者自慢に若きしやれ言
是人のかたはらいたく聞きにくきを知るべし
又しても同じ噂に孫自漫達者自じまんに若きしやれごと(バークレー校版)
是人のかたはらいたく聞にくきを知るべし
[やぶちゃん注:岩波版では「漫」の右に「慢」の誤字であることを示す注を附す。]
*
くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる
これ人の嘲をしるべし
くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる(バークレー校版)
是人の嘲を知るべし
[やぶちゃん注:歌は同じ。]
*
かゝる身の上をも辨へずして
聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話やきたがる
かゝる身の上をもわきまへずして
聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話やきたがる(バークレー校版)
[やぶちゃん注:歌は同じ。]
*
是を常に姿見として、己が老たる程をかへり
見たしなみてよろし。然らば何をかくるしか
らずとしてゆるすぞと、いわく
宵寢朝寢晝寢物ぐさ物わすれ夫こそよけれ世にたらぬ身は
是をげに姿見として、己が老たる程を顧みた
しなみてよろし。然らば何をか苦しからずと
してゆるすぞと、いわゝ、
宵寢朝寢晝寢物ぐさ物わすれ夫こそよけれ世にたゝぬ身は(バークレー校版)
[やぶちゃん注:岩波版では「ゝ」の右に「ば」の誤字であることを示す注を附すが、寧ろこれは「く」の誤字とすべきではないか。バークレー校版の方が秀逸だね。……何故かって? 「立たぬ」がゼツミョウだからに、決まってるじゃん! ♪ふふふ♪]
・詩歌はなるべく原文を提示することを自身のポリシーとしてきたので、以上の原文には手を加えていない(最後の一首の前書はブラウザ上の不具合を考えて字数を制限して改行した)ので、以下に、読み易く新字体化し、読み(これは歴史的仮名遣とした)を加えて整序したものを示し、語注を附す。
是人の見苦しき知るべし
手は
是人の数ならぬを知るべし
これ人のむさがる所を恥づべし
[やぶちゃん注:「よだ」はよだれのこと、「とりはずしては小便もする」とはこらえ切れずに、若しくは知らぬ間に失禁してしまう、の意。]
又しても同じ噂に孫自慢達者自慢に若き
是人のかたはらいたく聞きにくきを知るべし
くどふなる氣短になる愚痴になる思ひ付く事皆古ふなる
[やぶちゃん注:「かたはらいたく」他人から見て如何にも見苦しい、みっともないの意。]
これ人の
身にそふは
[やぶちゃん注:「たんぽ」湯たんぽ。「温石」冬、軽石などを焼いて布などに包み、懐に入れたりして体を温めるもの。焼き石。「尿瓶」
かゝる身の上をも
聞たがる死ともながる淋しがる出しやばりたがる世話焼きたがる
[やぶちゃん注:「ともながる」そうすることを希望しないことを意味する「たくもない」→「たうもない」→「とうもない」→「ともない」に接尾語「がる」が附いたもので、動詞の連用形に付いて「~したくないと思ってそれを言動に表わす」の意を表わす。]
是を常に姿見として、己が老たる程を顧み嗜
みてよろし。然らば何をか苦しからずとして
許すぞと、曰く、
■やぶちゃん現代語訳
老人の教訓の狂歌の事
馴染みの風流人、望月老人が私の元へ携えて参られ、披見させて
尾張藩御家中、横井孫右衛門とて千五百石を領した御仁、隠居致いて
皺はよるほくろは出来る背はかゞむあたまは兀げる毛は白ふなる
これ、人の見苦しきことなりと――知るべし!
手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞へず目はうとくなる
これ、既に人の数に入らぬ存在ならんことと――知るべし!
よだたらす目しるをたえず鼻たらすとりはづしては小便もする
これ、常に人に
又しても同じ噂に孫自慢達者じまんに若きしやれ言
これ、人が如何にもみっともないとウンザリしておることと――知るべし!
くどふなる気短に成る愚痴になる思ひ付くこと皆古ふなる
これ、人が心底、
身にそふは頭巾襟巻杖眼鏡たんぽ温石しゆびん孫の手
……さても……かくなる身の上をも弁えずして、
聞きたがる死にともながる淋しがる出しゃばりたがる世話やきたがる
……それが
*
以上を常に
己が老いの身の程を顧み――
それを
よろし!――
されば……一体、どんなことならば苦しからずとて許さるるか、とな?
曰く――
宵寝朝寝昼寝物ぐさ物わすれそれこそよけれ世にたらぬ身は
*
痔疾呪の事
寛政八年予初めて痔疾の愁ひありて苦しみしに、勝屋何某申けるは、小兒の戲れながら胡瓜を月の數もとめて、
□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前「疝氣呪の事」に続く呪いシリーズ。根岸が満五十九歳にしてかなり重い痔疾を発症していたことが分かる。又しても新事実発見! 根岸は結構重い痔だった!
・「寛政八年」当時(一七九六年)の根岸は公事方勘定奉行九年目。この書き方から、本巻のこの辺りは、明らかに寛政八年よりも後の執筆、私の執筆推定の翌寛政九(一七九七)年であることがはっきり分かる。
・「月の數」一年の月の数。旧暦では一年が十三箇月となる閏年が凡そ三年に一度あった。
・「勝屋何某」底本で鈴木氏は勝屋
・「裏白」本来なら裏の白い紙であるが、ここは岩波版長谷川氏の注するように、このシーンの最後の映像を先取りして、書信用の紙を二つ折りにして表書きだけを記し、裏に書信の内容などを何も書かない(白いままに残す)ことを言うか。
・「河童大明神」河童を痔の神様とする信仰は広く知られている。恐らくは河童が人の尻子玉を抜くと言われたことと関係しよう。尻子玉とは人の肛門付近に存在すると考えられた想像上の臓器で、恐らくは水死体が腐敗し、肛門部の粘膜が開き、脱肛している様から誤認されたものと考えられるが、実際の内痔核疾患をも連想させ、如何にも分かり易い伝承発祥とは言えるように思われる。陸奥国一宮、現在の宮城県に本社のある各地の塩竈(しおがま)神社などにこの河童信仰が習合している。「痔プロcom.」の「痔の散歩道」の「痔の神様 愛知県編」に名古屋市中川区の西日置商店街にある鹽竈神社に祀られている河童神の
無三殿神石之由來
無三殿主神ト刻ス
無三殿杁江ハ往時尾張名勝ノ一ニシテ堀川ノ西日置古渡ノ境ニ在リタリ當時江川笈瀨川ノ用水路アリテ此ノ所ニ會セリ然レドモ水位高低甚ダシキヲ以テ合流スル能ハズ仍チ樋ヲ笈瀨川ノ上ニ架シテ江川ヲ南流セシメ笈瀨川ハ樋下ヲ東流シ河口ノ水門ヲ過ギテ堀川ニ通セリ今ノ松重町南端一帶ノ地ハ即チ此ノ流域ニシテ里人無三殿ト呼ビタル杁江タリシ所ナリ延寶ノ頃松平康久入道無三此ノ江北ノ地ニ住セリ江名之ヨリ起ルト江水淸澄ニシテ深カラズト雖古來靈鼈ノ潛ム所ナリト稱シ畏敬汚潰ス者ナシ樋邊一巨石アリ
痔疾ニ靈驗者シト病者頻リニ來リテ治癒ヲ祈リ捧グルニ白餠ヲ以テシ或ハ之ヲ水中ニ投ズルノ風アリ遠近相傳ヘテ其ノ名大仁著ハル
星霜變轉神石影ヲ沒スルコト多年偶江川改修工事ノ際靈夢ヲ得タル者アリ乃チ發掘シテ之ヲ水底ヨリ求メ得タリ暫ク町神トシ近隣ニ奉祀センガ神慮ヲ畏レ當鹽釜ノ社頭ニ遷祀シタルモノナリ今歳昭和甲戌當神社社殿造營ノ擧アリ規模大イナルコト前古ニ比ナシ記念トシテ碑ヲ神石ノ側ニ建テ由來ヲ記シテ不朽ニ傳ウルモノナル
昭和九年十月
「杁江」は「いりえ」と読み、入江のこと。「延寶」は西暦一六七三年から一六八一年。「松平康久」は尾張藩家臣。「
・「三橋何某」底本で鈴木氏は寛政八(一七九六)年当時、御勘定吟味役であった三橋
■やぶちゃん現代語訳
痔疾の呪いの事
寛政八年、私は初めて痔疾に罹り、筆舌では尽くせぬ苦しみを味わって御座ったが、職場の部下との談話の折り、尾籠ながら、このことを少しばかり漏らしたところ、その場に御座った勝屋某が申すことに、
「……児戯に類するものにて恐縮で御座るが……胡瓜を、その年の月の数だけ手に入れまして、書状を――裏白のままに――表には姓名と
と教えて呉れたが、
「……なるほど。しかし、重い御役を勤むるところの身分姓名を、『河童大明神』への痔疾快気請願書状と申す、これ、戯れ同様の
と笑ったところが、その場に同席して御座った三橋某も、
「……拙者も、そのこと、承ったことが御座る。併しながら――大同小異にては御座るが、ちと違ちごうて――胡瓜は一本だけ。その胡瓜へ、具体に痔疾全快祈願の旨認めた文を、これまた、『河童大明神』と宛名した添え状を用いまする。なれどこれも、やはり、本人の姓名は記さずんばなりません。」
と言い添えので、三人して大笑い致いたことで御座った。
*
忠信天助を獲る事
或る御旗本の勝手
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。久々の長めの話柄である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には底本附註として『主人のために娘を売り、その金の出所詮議からめでたい結末に至ること、類話多し。』とあるが、こういう話が盛んに語られるのは、実は、身売りし、苦界へと落ちて、儚くなっていった無数の女の悲劇があったからこそである。話柄のハッピー・エンドの、その彼方の真実の闇をこそ見据えなければなるまい。
・「獲る」は「うる」と読む。
・「同辰の年」寛政八(一七九六)年
・「組付の同心」常備兵力として旗本を編制した部隊である五番方(小姓・書院番・新番・大番・小十人)といった組配下の同心。
・「女衒」女性を遊廓に売る際の仲介斡旋業者。中世の「人買い」に発し、江戸時代になると「人買い」「口入れ」「
・「人主」保証人である請人戸時代と並んで奉公人の身元を保証した連帯保証人。通常の奉公人の場合は父兄や親類がなった。
・「深川八幡」現在の江東区富岡にある東京都最大の八幡社富岡八幡宮の別名。建久年間(一一九〇年~一一九九年)に源頼朝が勧請した富岡八幡宮(現在の横浜市金沢区富岡に所在)の直系分社。日本最大の神輿・水かけ祭りや大相撲発祥の地として知られる。
・「置文」約款の類いを
・「
・「右町邊」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『
・「貮朱判」銀貨。明和
・「歩判」金貨。一歩金と二歩金の総称。一歩金は『形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されて』おり、額面は一分で、一両の四分の一、四朱に相当する(以上はウィキの「一歩金」の記載)。二歩金は『形状は長方形短冊形である。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「二分」の文字、 下部に五三の桐紋が刻印されている。裏面には「光次」の署名と花押が、種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されて』おり、額面は二分で、一両の二分の一、また八朱に相当する(以上はウィキの「二歩金」の記載)。これらの記載によって、三十両をこれらで両替した時のイメージが出来よう。
・「舊離」「久離」とも書く。不身持ちのために別居又は失踪した子弟に対し、親や目上の親族が連帯責任を免れるために親族関係を断絶すること。「欠け落ち久離」とも。
・「勘當」親が子の所業を懲らすために親子の縁を絶つこと。武士は管轄の奉行所へ、町人は町奉行所へ登録した。この登録のない私的なものは「内証勘当」と言った。「追い出し久離」とも。広義には主従・師弟関係を絶つことにも用いた。
・「合力」「耳嚢」では既出でしばしば用いられるが、金銭や物品を与えて助けることをいう。
■やぶちゃん現代語訳
忠信の天の助けを得る事
とある御旗本、手元不如意にて――近時、寛政の頃のことで御座る――御公儀の御貸付金を借りて急場を凌いで御座ったが、寛政八年
あちこちに借金を頼んでは、知行地へもその訳を言い遣わして窮状を訴えたが、かねてよりの窮迫なれば、
ところがここに、かの御当家に幼きころより勤めて、その主人のお蔭を以て、今は組付きの同心とやらになった、身分の低い御家人が御座ったが、この主家の事態を聞くに、いろいろと心を砕き、何かと主人の相談にも乗って方途を練ってはみたものの、これ、如何ともし難き儀と相い成って御座った。
この同心は妻子持ちで御座ったが、
「……恩義ある元主人の難渋……これ、まっこと、一命に懸けても、この難儀、救わずんばならず!……」
と、いろいろと思案工夫致したが――遂に――彼らに今年十五、六才になる娘があったれば、
「……この娘を……売って……この急場を救わんとぞ思う……」
と夫婦相談の上、娘にこのことを語って聞かせた。
すると、娘も武家の子としての誠心故か、その父の苦渋の思いに、黙って従って御座った。
そこで親しいとある町人を頼って、しかじかの訳を語ったところが、この者も、かの同心の覚悟と娘の哀れに感じ入った。……なれど、やはり如何ともしようがない。
「……我らが知れる
とて、かの同心と娘に町人、三人うち連れて、その女衒の元へ参り、しかじかの訳を語って御座った。
すると、鬼神の如き
「……気の毒なことなれど……昨今は、
と、とてものことに即座に埒のあくようにも見えぬ様子。……
すると、女衒の仲間内と思しい、その場に居合わせた町人
「……そいつぁ、気の毒な話じゃねぇか。……おう!
そこで、聊かその言葉に力を得、今度は、その別な町人体の者について、娘を連れ、八幡前にある一つ
そこは如何にも小綺麗な家で、年の頃三十ばかりの男が住んでおった。
その男は、同心から委細顛末を聴くと、
「……それは実に気の毒なことで御座る。しかし、お話を伺うに……失礼ながら、急にかような額の金子を、これ、用立てんとさるるも……いや、何方にても……請け負うて呉れよう者は、これ、御座るまい。……分かり申した。我ら、これ、お引き受け致し、お世話致しましょうほどに……しかし、証文も、これ、なくてはまずう御座るな……。」
と、その男、かの同行して来た女衒と、何やらん相談の上、面前にて、娘を確かに預かった旨の書付をものした。
「……さても。この御娘子、確かにお預かり申しました。……」
そう言うと、男は小洒落た簞笥風の内より、金三十両を出して同心に渡した。
一同いずれも、算段の成ったを歓んで、厚く礼を謝して、男の許を辞した。……
……が……同心は一人となってとぼとぼと行くうち、ふと、
『……それにしても……あまりに容易く仕舞わしたものじゃ……』
との、疑いが心に射した。
『……もしや!……これ……偽金にては、あるまいか?!……』
と思うや、その近場に御座った両替屋に立ち寄り、
「……この金子を、
と頼んだ。
――すると――案の定――番頭風の者が、この金子を仔細に改め――如何にも驚いて御座る様子である。……
――傍らにいる店の者にもその小判を見せては――何か不審を抱いている様子……
同心は、てっきり、
『やはり! 贋金かッ!』
と思い、
「……もし!……何ぞ、『おかしな金子』にても御座るか?! 何ぞ『不審なるところ』の……これ、御座るかッ?!……」
と訊き質いたところ、
「……い、いえ……聊かもこの金子に、これ、怪しいところも、不審なるところも御座いませぬ。……なれど、失礼ながら……この金子は……何方より御手に入れなさったもので御座いましょうや?……よろしければ、承りたく存じますので……はい……。」
と、番頭が如何にも丁重に尋ねた故、
『……我らがことにあらず、主家の窮状を救わんがための仕儀なればこそ、隠さねばならぬことにても、これ、御座ないことじゃ……』
と決して、しかじかのことにて、と一部始終を語って御座った。
すると、その番頭、
――ポン!――
と手を打ち、
「――やはり! そうで御座いましたか!……
……いえ、実は……その深川の若い御仁と申されますは……何を隠そう、この
と告げた。
――ここに――新たなまっとうなる三十両を手にした同心、大いに悦んで、
「――
と厚く礼を述べるや、早速に深川へととって返し、かのドラ息子に金子をたたき返し、如何にも鼻の下を
これにて、かの主家入用にも足り、娘にも苦界の愁いをかけずに済んだは、これ、まことに天の御加護があったもので御座ろうと、人々は語り合ったと申す。
*
雷を嫌ふ者藥の事
予が一族の内に小普請組
□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。二つ前の「痔疾呪の事」に続き、「卷之四」は本巻に多く見られる
・「石河壹岐守」石河貞通(宝暦九(一七五九)年~?)は底本鈴木氏注に、『天明五年(二十七歳)家を継ぐ。四千五百二十石。寛政元年小普請支配、九年西城御小性組小性番頭。』とある。ネット上には下総小見川藩第六代藩主
・「多門孫右衞門」不詳。因みに多門氏は嵯峨源氏渡辺綱を祖と称し、三河国額田郡大門に住し、大門を名乗ったが、後に多門氏に改姓したとする。二人とも姓がそれほどオーソドックスではないので、嫡流家系について示しおいた。
・「心穴」漢方で「心穴」というと、左右の掌側の中指の指先に近い方の関節中央に位置するツボをいうが、呪物を当てるには如何にもな場所である。岩波の長谷川氏の注、『心窩と同じく、みぞおちをいうか。』に従う。
■やぶちゃん現代語訳
雷を嫌う者の妙薬の事
私の一族の内に、小普請組
尤も全く古典的な呪法同様の薬で――雷が鳴っている際、その『薬』を、
如何にも
雷嫌いの者へ与えると絶妙の効験ありと、専らの噂との由。
彼――私の一族であるかの者――も、その薬を貰ったと語ったので、ここに記しおく。
耳嚢 卷之四 根岸鎭衞 やぶちゃん注訳注 完