やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

耳嚢 卷之五  根岸鎭衞



注記及び現代語訳 copyright 2012 藪野直史

[やぶちゃん注:底本は三一書房一九七〇年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。
 以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。
 底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明五(一七八五)年頃に始まり、没する前年、文化十一(一八一四)年迄の実に三十年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクがあるものは私の翻刻訳注の完成版)、
「卷之一」の下限は天明二(一七八二)年春まで
「卷之二」の下限は天明六(一七八六)年まで
「卷之三」は前二巻の補完(日付を附した記事がない)
(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)
「卷之四」の下限は寛政八(一七九六)年夏まで(寛政七年の記事の方が多い)[やぶちゃん注:この区分への私の疑義は「卷之四」の冒頭注参照のこと。]
本「卷之五」の下限は寛政九(一七九七)年夏まで(寛政九年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)
「卷之六」の下限は文化元(一八〇四)年七月まで(但し、「卷之三」のように前二巻の補完的性格が強い)
「卷之七」の下限は文化三(一八〇六)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)
「卷之八」の下限は文化五(一八〇八)年夏まで
「卷之九」の下限は文化六(一八〇九)年夏まで
(ここで九〇〇話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、四~五年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)
「卷之十」の下限は死の前年文化十一(一八一四)年六月まで
といった凡その区分を推定されておられる。【作業終了:二〇一二年十二月二十日】]

  
卷之五
目  次

  卷之五

鳥獸讎を報ずる怪異の事
怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事
水戸の醫師異人に逢ふ事
貮拾年を經て歸りし者の事
痔疾のたで藥妙法の事
商人盜難を遁し事
麩踏萬引を見出す事
地藏の利益の事
鄙賤の者倭歌の念願を懸し事
狐痛所を外科に頼み其恩を報せし事
毒蝶の事
三嶋の旅籠屋和歌の事
神隱しといふ類ひある事
菊蟲の事
怪異の事
板橋邊緣切榎の事
櫃中得金奇談の事
菊蟲再談の事
奇藥ある事
探幽畫巧の事
死に增る恥可憐事
ぜんそく灸にて癒し事
和歌によつて蹴鞠の本意を得し事
雷嫌ひを諫て止し事
出家のかたり田舍人を欺し事
痔の藥傳法せし者の事
疝氣胸を責る藥の事
英氣萬事に通じ面白事
腹病の藥の事
頓智にて危難を救し事
黑燒屋の事
在方の者心得違に人の害を引出さんとせし事
ぜんそく奇藥の事
女力量の事
怪竃の事
修驗忿恚執着の事
閣魔頓死狂言の事
不思議に人の情を得し事
おた福櫻の歌の事
日野資枝卿歌の事
小がらす丸の事
天野勘左衞門方古鏡の事
傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事
幽靈奉公の事
幽靈なきとも難申事
怪尼奇談の事
陰凝て衰へるといふ事
鼻血を止る妙藥の事
鼠恩死の事 
鼠毒妙藥の事
相學的中の事
奸婦其惡を不遂事
戲歌にて狸妖を退し由の事
壯年の血氣に可笑しき事もある事
守護の歌の事
太田持資童歌の事
太田持資始て上京の時詠歌の事
怪病の沙汰にて果福を得し事
道三神脈の事
奇物浪による事
藝州引馬山妖怪の事
あすは川龜怪の事
老病記念目出度皈し候事
永平寺道龍權現の事
梶金平辭世の事
怪尼詠歌の事
死相を見るは心法の事
其職に隨ひ奇夢を見し事
濟松寺門前島馬の首といふ地名の事
相人木面を得て幸ひありし事
水神を夢て幸ひを得し事
杉山檢校精心の事
痲病妙藥の事
古人英氣一徹の事
增上寺僧正和歌の事
貴賤子を思ふ深情の事
かたり事にも色々手段ある事
關羽の像奇談の事
疱瘡神といふ僞説の事
蜻蛉をとらゆるに不動呪の事
蜂にさゝれざる呪の事
疱瘡病人まどのおりざる呪の事
同眼のとぢ付きて明ざるを開く奇法の事
疱瘡呪水の事
手段を以かたりを顯せし事
強氣にて思わざる福ひを得し者の事
火難を除けし奇物の事
才能補不埒の事
春日市右衞門家筋の事
藝は身の損をなす事
狐福を疑つて得ざる事
堪忍其德ある事
堪忍工夫の事
意念殘る説の事
遊魂をまのあたり見し事
狐婚媒をなす事
狐茶碗の事
狐の附し女一時の奇怪の蘇生の人の事
狐を助け鯉を得し事
こもりくの翁の事
齒牙の奇藥の事



 鳥獸讎を報ずる怪異の事

 寛政八辰の六月の頃、武州板橋より川越へ道中に白子村といへるあり。白子觀音の靈湯に、つきとやらん又はえのきとも聞しが、大木ありしに數多あまたいたちあつまりて、右大木のもとすへよりうろの内へ入りて數刻群れけるが、程なく右うろの内より、長さ三間計りにて太さ六七寸廻りのうはばみのたり出て死しける故、土地の者共ふしぎに思ひてかけ集りしに、鼬はいづち行けんみな行衞なし。さるにてもいか成語なるやとかのうろをも改めしに、鼬の死したる一ツありしとや。月頃彼うはばみの爲に其類をとられしを恨みて、同物をかりあつめ其仇あたを報ひけるやと、彼村程近き人の咄しける也。

□やぶちゃん注
○前項連関:「卷之四」末との連関は認められない。似たような動物執念譚を巻頭に掲げるものに「卷之十」の「蛇の遺念可恐の事」がある。但し、こちらは燕の子を狙った蛇が下僕に打ち殺されるた後、その以外に群れた無数の蟻が蛇の遺恨を持って燕の巣を襲ったという変形の異類怨念譚である。ヘビという共通性では「卷之二」巻頭の「蛇を養ひし人の事」が挙げられ、「卷之三」巻頭の「聊の事より奇怪を談じ初る事」がハチ、「卷之四」巻頭の「耳へ虫の入りし事」及び二番目の「耳中へ蚿入りし奇法の事」でコメツキムシとムカデ、「卷之六」の二番目には「市中へ出し奇獣の事」ではリスに似た雷獣と噂される未確認生物(図入り)の記事、「巻之八」の二番目「座頭の頓才にて狼災を遁し事」三番目「雜穀の鷄全卵不産事」はオオカミにニワトリと、有意な頻度で動物が現れ、根岸の動物奇談好きが見てとれる。
・「讎」「仇」「讐」「敵」などは古語では「あた」と清音で読む。空疎・虚構・不信実の意を元とする「あだなり」(儚い・不誠実だ・無駄だ・いいかげんだ・無関係だ)の意の「あだ」とは全くの別語である。
・「寛政八辰の六月」寛政八(一七九六)は丙辰きのえたつ。旧暦寛政八年六月一日はグレゴリオ暦の七月 五日。
・「白子觀音」埼玉県和光市白子にある臨済宗建長寺派福田山東明寺とうみょうじ。康暦二 (一三八〇) 年開山。第七世常西和尚が伝行基作赤池堂観世音を境内に安置、旧地名をとって「吹上観音」として知られる。
・「槻」欅。バラ目ニレ科ケヤキ Zelkova serrata
・「榎」バラ目アサ科エノキ Celtis sinensis。東明寺HP外、いろいろ検索を掛けてみたが、いずれかは不詳。
・「数刻」二、三時間から五、六時間。中を採って四時間ぐらいが話柄としても飽きないであろう。「程なく」という謂いからもそれを越えるとは思われない。
・「長さ三間計りにて太さ六七寸廻り」体長約五・四五メートル、胴回り約二〇センチメートル前後。本邦産の蛇としては信じ難い大きさである。
・「のたり出て」うねるように這って出て来て。

■やぶちゃん現代語訳

 寛政八年丙辰きのえたつの六月の頃、武蔵国板橋より川越へ抜ける街道筋に白子村という所が御座って、そこに祀られておる白子観音の霊場東明寺に――けやきとも、又はえのきとも聞いて御座るが――ともかくも、一本の巨木が御座った。
 ある日のこと、数多のいたちが寄りつどって、その大木の根本から、するすると登ったかと思うと、幹に出来たうろの内への陸続と入ってゆく。……
 数刻、これ、五月蠅く群れておったが、程無う、その洞の内より――何と、長さ三間ばかり、胴回りは、これ、六、七寸になんなんとする蟒蛇うわばみが這い出して――死んだ――。
 そこで、村人ども、不思議に思うて駈けつどって参ったところが、鼬は、何処いずこへ行ったものやら、影も形も見えずなっておった。
「……それにしても……これは如何なることで御座ろうか?……」
と、かの洞の内をあらめ見たところ――そこは死んだ蟒蛇の棲家と思しく――その底の方に――鼬の骸骨が一つ――転がっておったとか申す。……
「……先頃、かの蟒蛇のために、その一族の者を奪い捕られたを恨んで、同族を駆り集め、そのあだを討ったものでも御座ろうか?……」
とは、かの白子村に程近き人の、話したことで御座る。



 怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事

 或人の云、蟇はいかやう成る箱の内に入れおきても形を失ふとかたりしを、若き者集りて、一疋の蟇を箱の内へ入て夜咄よばなしの席の床上に置て、酒など飮みて折々彼箱に心を付居たりしが、酒も長じて心付こころづかざる内に拔出ぬけいでしや、二間程隔し所に下女の聲しておどろける樣子故、いづれも彼所へ至りみれば、最所さいしよの蟇ありける故、これは別なる蟇なるべしとて最初の箱を見しに、いつ拔出しや箱のむなしかりければ、又々右の箱の内へ入て、此度は代るがはる眼も放さず守り居しに、夜も深更に及び何れもねぶりを催す頃、箱の緣より何かあは出けるが、次第に淡も多く成ける故、いかなるゆへならんと見る内、一團の淡みる内に動きてきえける儘、何れも目ざめしもの共たちより箱の蓋を取て見しに、蟇はいづち行けん見へず。さては淡と化して立去りしならんと、何れも驚しと予が許へ來る者のかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:動物奇談直連関。ヒキガエルが泡と変じて姿を消すというのはしばしば耳にする動物奇譚で、私はこの伝承が遙かに息継ぎ、特撮映画やウルトラ・シリーズで妖怪や怪獣が泡となって消失・死滅するルーツとしてあるように思われる。ヒキガエルの話は既に「耳嚢 巻之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事」で語られているが、根岸はどうもヒキガエルの怪異妖力に関しては信じていたらしい節がある。まあ、当時の多くの人々が信じていたのだから無理もない(以下の「蟇」の注を参照)。
・「蟲類」古くは昆虫だけではなく、人や獣や鳥類及び水族の魚介類以外の節足動物などの動物全般(想像上の動物や妖怪をも含む)かなり広範囲に総称する言葉であった。
・「蟇」は「ひき」と読む。一般にはこの語は大きな蛙を全般に指す語であるが、その実態はやはり、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と考えてよいと思われる。ヒキガエルは洋の東西を問わず、怪をなすものとして認識されているが(キリスト教ではしばしば悪魔や魔女の化身として現れる)、これは多分にヒキガエル科 Bufonidae の多くが持つ有毒物質が誇張拡大したものと考えてよい。知られるように、彼等は後頭部にある耳腺(ここから分泌する際には激しい噴出を示す場合があり、これが例えば「卷之四」の「三尺程先の」対象を「吸ひ引」くと言ったような口から怪しい「白い」気を吐く→白い泡の中に消える妖蟇のイメージと結びついたと私は推測している)及び背面部に散在する疣から牛乳様の粘液を分泌するが、これは強心ステロイドであるブフォトキシンなどの複数の成分や発痛作用を持つセロトニン様の神経伝達物質等を含み(漢方では本成分の強心作用があるため、漢方では耳腺から採取したこれを乾燥したものを「蟾酥せんそ」と呼んで生薬とする)、ブフォトキシンの主成分であるアミン系のブフォニンは粘膜から吸収されて神経系に作用し幻覚症状を起こし(これも蝦蟇の伝説の有力な原因であろう)、ステロイド系のブフォタリンは強い心機能亢進を起こす。誤って人が口経摂取した場合は口腔内の激痛・嘔吐・下痢・腹痛・頻拍に襲われ、犬などの小動物等では心臓麻痺を起して死亡する。眼に入った場合は、処置が遅れると失明の危険性もある。こうした複数の要素が「マガマガ」しい「ガマ」の妖異を生み出す元となったように思われるのである。因みに、筑波のガマの油売りで知られる「四六のガマ」は、前足が四本指で後足が六本指のニホンヒキガエルで、ここにあるような超常能力を持ったものとしてよく引き合いに出されるが、これは奇形種ではない。ニホンヒキガエルは前足後足ともに普通に五本指であるが、前足の第一指(親指)が痕跡的な骨だけで見た目が四本に見え、後足では、逆に第一指の近くに内部に骨を持った瘤(実際に番外指と呼ばれる)が六本指に見えることに由来する。
 付け加えて言うならば、私はヒキガエル→「泡を吹く」→ヒキガエルに咬みついて毒成分にやられ「泡を吹く」犬を容易に連想する。当時の人々はたかが蟇とじゃれただけの犬が苦悶して泡を吹けば、驚き泡、基、慌てる。どうしたどうしたと犬に気をとられているうちに蟇は逃げおおせ、ふと気が付けば――蟇は、いない。そこには――泡を吹いて苦しむ犬がいるばかりである。――これは咬みつかれた蟇が、この「泡」に化けたのだ――と考えたとしても、私はおかしくないと思うのである。「泡」のまがまがしさは、案外、こうした異様なシーンから引き出されたものなのかも知れない。
 博物学的には、葛洪の「枹朴子」(三一七年頃成立)の「第十一」に「蟾蜍せんじょ」として現われるのが古く(原文は中文サイトの簡体字のものを正字に加工した)、
〇原文
肉芝者、謂萬歲蟾蜍、頭上有角、頷下有丹書八字再重、以五月五日日中時取之、陰乾百日、以其左足畫地、即爲流水、帶其左手於身、辟五兵、若敵人射己者、弓弩矢皆反還自向也。
〇やぶちゃんの書き下し文
肉芝とは、萬歳の蟾蜍を謂ふ。頭上に角有り、頷下に八の字を再重せるを丹書せる有り。五月五日の日の中時を以て之を取り、陰乾かげぼしにすること百日、其の左足を以て地に畫すれば、即ち流水を爲し、其の左手を身に帶ぶれば、五兵を辟け、若し敵人の己れを射る者あれば、弓弩きうどの矢は皆、かへつて自らに還り向ふなり。
とその仙薬としての強大なパワーを叙述する(「再重」は、「八」の字を更に重ねて「八」と記したような真っ赤な模様がある、という意味であろう)。
 李時珍の「本草綱目」の「蟾蜍」の項には、正に本書に現れる現象が記されている(原文は中文サイトの簡体字のものを正字に加工した)。
〇原文
縛着密室中閉之、明旦視自解者、取爲術用、能使人縛亦自解。
〇やぶちゃんの書き下し文
密室中に縛り着けて之れを閉づに、明旦、自から解くを視るは、術用を取り爲して、能く人の縛を亦、自から解かしむるなり。
とある。本話のルーツと見てよい。更に正徳二(一七一二)年頃版行された(本話が記載される九十年近く前である)寺島良安の「和漢三才図会 巻五十四 湿生類」の冒頭を飾る「蟾蜍」の最後に注して(原文は原本画像から私が起こした)、
〇原文
△按蟾蜍實靈物也予試取之在地覆桶於上壓用磐石明旦開視唯空桶耳又蟾蜍入海成眼張魚多見半變
〇書き下し文(良安の訓点に基づきつつ、私が適宜補ったもの)
△按ずるに蟾蜍は實に靈物なり。予、試みに之を取りて地にき、上に桶を覆ひて、をもしに磐石を用ゆる。明旦、開き視れば、唯だ空桶のみ。又、この蟾蜍、海に入りて眼張めはる魚に成る。多く半變を見る。
とある。彼はヒキガエルが海産魚であるカサゴ目メバル科メバル Sebastes inermis に変ずるという化生説を本気で信じていた。実際、「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「眼張魚」の項には以下のようにある(〔 〕は私の注)。
めばる 正字、未だ詳らかならず。
眼張魚【俗に米波留と云ふ。】
△按ずるに、眼張魚、状、赤魚に類して、眼、大いに瞋張みはる。故に之を名づく。惟だ口、濶大ならず。味、【甘、平。】。赤く、緋魚に似たり。春月、五~六寸、夏秋、一尺ばかり。播州〔=播磨〕赤石〔=明石〕の赤眼張は、江戸の緋魚と共に名を得。
黑眼張魚 形、同じくして、色、赤からず、微に黑し。其の大なる者、一尺余。赤・黑二種共に蟾蜍の化する所なり。
この良安の叙述は実に実に頗る面白いのである。特に「蟾蜍」の叙述の最後の下り、『多く半變を見る』というのは、これ、条鰭綱アンコウ目カエルアンコウ科 Antennariidae のカエルアンコウ(旧名イザリウオは差別和名として亜目以下のタクソンを含めて二〇〇七年二月一日に日本魚類学会によって変更された。)を良安はそれと見間違ったのではあるまいか?(スズキ目イソギンポ科の Istiblennius enosimae でもいいが、私はメバルの手前の異形の変異体としては断然、カエルアンコウ(何てったって「カエル」だからね!)
   *
★やぶちゃんの脱線
「イザリウオ」が「カエルアンコウ」に変わったお蔭で――この、私が主張することは利を得たと言える……が……私は一言言いたい。
――では、二枚貝綱異歯亜綱バカガイ上科バカガイ科バカガイ Mactra chinensis 当然の如く、変えねばなるまい!
――「~モドキ」例えば甲殻綱十脚目異尾下目タラバガニ科イバラガニ属イバラガニモドキ Lithodes aequispinus もとんでもない差別命名だろ?! スズキモドキ君という名前を人間は附けるか! 「マグマ大使」の人間モドキじゃあるまいし!
――スズキ目イボダイ亜目イボダイ科のボウズコンニャク Cubiceps squamiceps なんて余りに可哀そうじゃねえか! 頭は坊主みたいに丸いが、そんな魚はごまんといるぞ! だいたいそんなに不細工でなし、癖はあるが、私は食うにとても好きな魚だ! 蒟蒻だってイボダイ亜目のハナビラウオなどと合わせて総称する「コンニャクウオ」という同族総称を安易にくっ付けただけだろうが! 本人(本魚)が日本語を解する能力があったらゼッタイ、アムネスティ・インターナショナルに提訴すると思うがね! いや……この私の発言は、植物差別和名撤廃論者から言わせれば、本物の単子葉植物オモダカ目サトイモ科コンニャク Amorphophallus konjac に対する謂われなき差別に繋がると批判されるであろう。
――それに、これで最初に附けた和名が絶対優先権を持つというルールも反故になったということが分かったから(名前を永遠に変えないことが学名が学名である最も大事な部分である。私はそれが和名にも準じられねばならないと思う。いつか日本や日本語が滅びかけた時、イザリウオとカエルアンコウは多くの日本人が別な魚だと思わないと保証出来るのか?)、生きた化石腹足綱古腹足目オキナエビス超科オキナエビスガイ科オキナエビスガイ属オキナエビスガイ Mikadotrochus beyrichii に特定宗教の神「戎」を名前に持たすたあ、とんでもないことだから(一神教の他宗教の信者のことを考え給え!)、別名として差別された、本種の生貝を捕獲した、私の尊敬する明治の三崎の漁師で三崎臨海実験所採集人であった青木熊吉さん所縁の「チョウジャガイ」にしよう!――明治九(一八七七)年、以前からドイツからの依頼で探索を命じられていた新種とピンときた熊さんが捕獲後、東大に即座に持ち込み、四〇円(三〇円とも。年代も明治一〇年とも)を報奨金として貰って、「長者になったようじゃ!」と答えたことから標準和名としようとしたが、天保一五(一八四三)年の武蔵石壽「目八譜」に絵入り記載があり、和名異名となった経緯がある。「エビス」なんか目じゃねえ! やっぱ「チョウジャガイ」だべ!――いや、やっぱりダメか?! 長者は貧者を連想させるからだめだろ!
――ええい! いっそ、生物和名をぜえんぶ、『差別のない』『正しい』お名前にお変えになったら如何どす?……★
   *
 閑話休題。「差別和名撤廃物言」脱線支線から「蟾蜍博物史」本線に戻す。
 他にも後の、根岸を超える奇談蒐集癖を持った肥前国平戸藩第九代藩主の松浦まつら清(号静山)の随筆集「甲子夜話」(起筆の文政四(一八二一)年一一月一七日甲子の夜から静山没の天保一二(一八四一)年までの記録)にも、彼が寺島と同様にメバルへの化生を信じていた記載(七六・一一項)、江戸下谷御徒町に住む御茶坊主の屋敷の庭の手水鉢の下から白い気が三日に亙って立ち上ったため、堀り起こしたところ大蟇が現れたから、誠に蟇は気を吐くものである(続篇二九・三項)という話、夏の夜に人魂と称して光り物が飛ぶのは実は蟾蜍が飛行しているのであり、江戸本郷丸山の福山侯の別荘で光り物を竹竿で打ち落としたところ蟾蜍であった(五・一〇項)という話が所載する(以上、「甲子夜話」を私は現物を持っているが、時間的な節約のために一九九四年柏美術出版刊の笹間良彦「図説・日本未確認生物事典」の「蟾蜍」の項にある「甲子夜話」の訳を参照して纏め、原文の確認は行っていない。暇を見つけて現認し、書き直そうと考えている。)。
・「怪蟲淡と變じて」底本では標題の「淡」の右に『(泡)』と傍注する。
・「最所」底本では右に『(最初)』と傍注する。
・「何か淡出けるが」底本では「淡」の右に『(泡)』と傍注する。

■やぶちゃん現代語訳

 怪しき虫類の泡と変じて身を遁れた事

 ある人の曰く、
「……ひきというものは如何に頑丈なる箱の内に入れおいても、きっと姿を消してしまうもので、御座る……」
と語り出した。……

……若き同輩どもが集まり、一匹の蟇を箱の内へ入れて夜咄しの席のゆかに置き、酒なんど呑みながらも、折々かの箱には気をつけておりましたが……酒杯も重なり、酔うて気づかぬうちに……これ、隙間からでも逃げ出したものか……二間ほど離れた所で、下女の声がし、何やらん、驚いている様子故、皆してそこへ駆け寄ってみると……あの……蟇が――居りました。
 ある者は、
「……これは庭からでも這い上がった、別の蟇ででも御座ろう。……」
と言うので最初の箱を開けて見ました。……ところが……何時、抜け出したものやら……箱の中は――
もぬけの空。――
 そこで、またしても元の箱の内へその蟇を入れて、この度は、代わる代わる目を離さずに、見守ってることに致しました。……
……夜も深更に及び、いずれの者も眠気を催す頃のこと……
……箱の縁より……
……何か、この、泡のようなものが……出始めました。……
……泡は……蠢き、膨れ上がって、一団の塊りのごとなったかと思うと……
……これ、みるみるうちに……消えました。……
 その時、その場で起きておりました者どもは皆、奔り寄り、即座に、かの箱の蓋を取って、中を見ました……ところが……蟇は何処いずこへ行ったものやら……またしても――
もぬけの空。――
「……さては……泡と化して立ち去ったものかッ?!……」
……と……誰もが……心底、驚きまして御座いました……。

――とは、私の元へよく訪ねて来る者が語った話で御座る。



 水戸の醫師異人に逢ふ事

 水戸城下にて原玄養と一同いつとう、當時おこなはれ流行なせる醫師の、名は聞違ききたがひけるが、彼醫者の悴にて、是又療治を出精して在町ざいまち駈歩行かけありきて療治をなしけるが、或日途中にて老たる山伏に逢しが、其許そこもとは醫業に精を入給ふ事なれば、明後日彼町の裏川原へ何時に罷越待まかりこしまち給ふべし、我等傳授いたし候事ありと言ける故、承知の旨挨拶して立別れけるが、一向知る人にも無之、名所などころも聞ざれば如何せんと宿元へ歸り咄しけるに、夫は怪敷事也、いか成失なるしつあらんも難計はかりがたしとて親妻子も止めける故、期に至りても行ざりしが、又明けの日途中にて彼山伏に逢し故、何故約束を違ひしやと申ける故しかじかの事故と斷りしに、又明け夜は必川原へ來り給へと期を約し立別れし故、宿元へ歸りてしかじかの事と語りて今宵は是非罷るべきと言ひしを、兩親其外親族など打寄、夫は俗にいふ天狗などゝいふものならん、かまへて無用也といさめ止めしかど、彼醫師何分不得心の趣故、其夜は兩親及び親族打寄て不寢ふしん抔して止めけるが、深更にも及び頻にねぶりを催す頃、彼醫師密に眼合まあひを忍び出て約束の河原に至りければ、山伏待居て五寸ばかりの桐の新らしき小箱を與へける故持歸りければ、家内にては所々尋て立騷ぎ居し事故、大に悦びて如何成事也と尋れど、彼山伏人にかたる事なかれと切に諫ける事故くわしき譯も語らず。扨又箱の内に藥法をしたためし小さき書物あり。其奇效尤きかうもつともと思はざるもあれど、右の内丸藥の一方を試に調合なしけるに、不思議なるかな、右丸藥を求めんとて近國近在より夥しく尋來りて、右藥を買求ける事誠に門前に市をなし、僅の間に數萬の德付けるが、其外の藥法ども見しが格別の奇法とも思われねば、絶て信仰の心もなくすぎしが、右は正二月の比の事也しに、三月とやらん近所へ療治に出しが、湯を立ける故入り給へと彼亭主の馳走に任せ、懷中物と一同彼箱入の書物も座敷に殘し置しに、勝手より火事出來て早くも彼懷中物差置し場所へ火移り、一毫いちがう不殘のこらず焦土と成し故、彼醫師右の奇物を惜しみ火災の場所を搜しけるに、不思議に右桐の箱土瓦の間に殘り居し故、嬉しくも早々取上見しに、箱はふたみ共に別條なけれど、合口あひくちすきより火氣入り候樣子にて、箱の内の奇書は燒失けると也。右箱を頃日けいじつ江戸表水府すいふの屋敷へ持參して、見し者ありけると人の語りける。寛政八年の春夏の事なるべし。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。著名な医師のその同僚のその倅という設定は、如何にもな古典的都市伝説のパターンである。なお、私には風呂を勧められる場面が今一つリアルでないと感じられたので、翻案した箇所があることをお断りしておく。
・「原玄養」原南陽(宝暦三(一七五三)年~文政三(一八二〇)年)の誤り。彼は名を昌克、通称玄与と称したので、この「玄与げんよ」を「南陽なんよう」の音と混同して勝手に漢字を当てたものであろう。水戸藩医昌術の子として水戸に生まれ、父について学んだ後、京都へ赴いて古医方や産術等を修得、安永四(一七七五)年、帰郷して江戸南町(小石川)に居住した。医書の字句や常則に拘泥せず、臨機応変の治療をすることで知られた。御側医から、享和二(一八〇二)年には表医師肝煎となった。著作に「叢桂偶記」「叢桂亭医事小言」「経穴彙解」、軍陣医書(軍医の戦場医術心得)の嚆矢として知られる「戦陣奇方砦草せんじんきほうとりでぐさ」「瘈狗傷考けいくしょうこう」など多数(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。但し、お分かり頂いているとは思うが、本話の主人公は、この原南陽では、ない。あくまで『原南陽の同僚医師某の倅某』が主人公の医師である。お間違えのなきように。
・「裏川原」村の周縁に位置し、民俗社会に於ける異界や異人(被差別民を含む。だからホカイビトたる流浪の旅芸人は河原や橋の下に停留して河原乞食と呼ばれた)との通路でもあった。
・「絶て信仰の心もなく過しが」とあるが、彼は箱ごと本書を常に携帯していたことが最後のシチュエーションから分かる。それは恐らく、「肌身離さず持って他言するなかれ」といった山伏の禁止の呪言があったからと推測される。本書を霊験の書とは認識していなかったものの、例の当たった丸薬一つの処方で、どこかで『いい金蔓』と考えて、惜しんででもいたのではなかったか? それこそが本書の喪失と関係があるように私には思われる。さらに問題は、恐らく次の本書喪失のシーンで彼が箱入りの本書を座敷に置き、有意に離れた場所の風呂へ入ったことも問題ではなかったか? 彼はこの桐の箱に入れたまま、湯殿へ持ってゆくべきであった(恐らく自宅ではそうしていた)。つい、いい加減に放置したことが、『いい金蔓』という邪悪な意識とともに(そう考えると風呂を勧められるこの患者の屋敷は相当な金持ちに読める。この頃、主人公の医師は丸薬のヒットで初心を忘れ、貧者の医療なんどをおろそかにしていたようにも私には読めるのである)本奇書の所持者としての資格を彼が失う原因になったものと考えられる。即ち、私は、この如何にも唐突な出火と屋敷の全焼も、偶然ではなく、不思議な奇書喪失とひっ包めて、かの山伏、若しくは奇書そのものが持っている意志によって引き起こされた確信犯の必然であったととるのである。
・「江戸表水府の屋敷」小石川門外にあった水戸藩江戸上屋敷。現在の後楽園が跡地。
・「寛政八年」西暦一七九六年。底本の鈴木棠三氏の解説によれば本巻の執筆内容の下限は寛政九(一七九七)年春である。一年余り前の比較的新しい都市伝説であった。

■やぶちゃん現代語訳

 水戸の医師異人に逢う事

 水戸城下の知られた医師原南陽の同僚で、同じように当代に名が知れ渡るほど、名医の誉れが御座った医師の――『名医』と申しおいて失礼乍ら、姓名を聞き漏らして御座るが――まあよろし、また、その人本人ではなくて――その医師の、倅、の話で御座る。
 彼もまた、医術修業に精出して、在野を駆け巡っては、貧富を問わず、病める者の治療に勤しんで御座った。
 ある日、そうした往診の途中、一人の老いたる山伏に出うたが、その者が彼に面と向かうと、
「――其処許そこもとが日頃より医業に精進されておらるること、これ、重畳ちょうじょう――明後日、この町の裏の河原へ、×どきに参られ、お待ち頂きたい。――我ら、伝授致したき儀、これ、御座る――」
と申す故、承知の旨、挨拶して立ち別れたものの、一向に知らぬ御仁にて、名も住所も聞かずに過ぎた故、自邸へ帰ってから、
「……という妙なことが御座ったのですが……これ、如何致いたらよろしいもので御座いましょう……。」
と家人に相談致いた。
「いや! それは怪しきことじゃ! 如何なる難儀にうとも限らぬ! 捨て置くに若くはない!」
と、親はもとより妻子まで、口を極めてとどめた故、その期日となっても出向かずに過ぎた。
 すると、その翌日、往診の途次、またしても、かの山伏に出うた。
「――何故なにゆえに約束をたがえたのじゃ?――」
ときつく質された。後ろめたくも御座った故、正直に訳を述べて、破約の許しを乞うた。すると、
「――そのような気遣いは無用のことじゃ。安心なさるるがよい。――ともかくも――明日の夜には、必ず、先の河原へ参られよ。――」
と、またしても期を約して立ち別れた。
 さればこそ、用心して自宅へ戻っても平生と変わらぬ風を装って家人には何も告げず、翌朝になってから、
「……という次第なれば、今宵は如何にしても参ろうと存ずる。」
と告げた。
 すると、またしても両親その他、近在に住まう親族までもがうち寄って参り、
「……いや! それは俗に言う天狗なんどという『あやかし』の類いに違いない! 決してうては、ならぬ!」
と一同口を酸っぱくして頻りに諫めたけれども、この度は、かの医師、いっかな、納得致いたようには見えずあったればこそ、両親その他親族一同うち寄って談合の上、寝ずの番なんどまで致いて、かの者の外出をとどめんと致いた。
 ところが、深更にも及び、見張りの者の頻りに眠気を催した頃合い、かの医師は隙を見てを忍び出でて、約束の河原へと至った。
 そこにはかの山伏が待っており、携えて御座った五寸ばかりの桐の新しき小箱を彼に与えて別れた。
 屋敷に戻ってみれば、家内は彼の失踪に上へ下への大騒ぎで御座った故、彼の無事な姿を見ると、皆、大喜び。而して、
「……して、一体、何が御座った?」
と質いたが、彼は、
「……かの山伏に……『一切語ることなかれ』とせちに諫められて御座いますれば……」
と、口を濁し、詳しいことは――何が語られたかも、桐の箱のことも、はたまた、その箱の中に何があったかも――一切を語ろうとはしなかった。……

 さて、実は、この箱の内には薬の処方――しかし悉く聴いたこともない奇妙なる処方――をしたためた小さき書物が入っていたのである。
 その奇体な調合と薬効についての叙述は、彼の既存の知識から推しても、とても効果がありそうにも思えぬ『まやかし』としか思えぬものが多かったが、その中に書かれていたある丸薬の処方を、試みに調合なして、とある患者に処方してみたところ――いや、これ、不思議なるかな!――即効完治の絶妙の丸薬で――あれよあれよと言う間に――この丸薬を求めんがため、かの医師の元へは、近在近国より夥しい者どもが列を成して尋ね来ることとなり、これ、門前に市をなすが如し――という有様――ほんの一時のに、数万金の利を手に入れた。
 但し、その奇書に書かれた他の処方なども見てはみたものの、やはり、格別の奇法とも思われず、効験も如何にも怪しいもの故、彼の触手は動かず、かの丸薬一つを、瓢箪から駒のっけもんと心得て、全く以て、霊験によって得た医書なんどといった崇敬の念は、これっぽちも持たずに日はうち過ぎた。……

 さても以上の出来事は、その年の――寛政八年の正月から二月頃へかけてのことであったが、その三月とやらのこと、近所に往診に出でた折り、療治を終えると、患者であった主人より、
「拙宅にて丁度、風呂を沸かしました故、不浄なる病める我らにお触れになったればこそ、どうぞ、お入りになって清められたがよろしゅう御座る。」
と誘われるまま、懐中の物と一緒に、かの箱入の書物も表座敷に残しておいて入湯致いたところが、突如、勝手より出火、瞬く間に、かの懐中の物をさしおいてあった座敷へと燃え広がり、その屋敷は、あっという間に毫毛ごうもうも残らぬ焦土と化してしまったのであった。
 裸同然で逃げ出したものの、医師は幸いにして怪我一つしなかったのだが、翌日、かの奇書を惜しみ、火事場の、かの座敷辺りと思しい場所を捜してみたところ、不思議なことに、かの桐の箱は土瓦の間に無傷で残っていた。歓喜して即座に取り上げてみたところ、箱は確かに蓋・身ともに別条なくあったものの、その蓋と身のごく僅かな隙間からか、火がったものかと思われ、箱の中の奇書は、完全に焼失して灰となっていた――との由に御座る。……
……また、何でも、かの医師、この箱を、最近になって江戸表の水戸藩上屋敷へ持参致いたとか……また、その箱の実物を実際に実見致いた者がおるとか……

 以上は、知れる人々が語って御座った話を纏めたもので御座る。この事件は寛政八年の春から初夏にかけての出来事であったようである。



 貮拾年を經て歸りし者の事

 江州八幡がうしうやはたは彼國にては繁花成る町場の由。寛延寶暦の頃、右町に松前屋市兵衞といへる有德成うとくなる者、妻をむかへて暫く過しがいづちへ行けん其行方なし。家内上下大きに歎き悲しみ、金銀を惜まず所々尋けれども曾て其行方知れざりし故、外に相續の者もなく、彼妻も元々一族の内よりよびむかへたる者なれば、外より入夫して跡をたて、行衞なく失ひし日を命日としてとむらひしける。かの失ひし初めは、夜に入用場いりようばへ至り候とて下女を召連、廚の外に下女は燈し火を持待居もちまちをりしに、いつ迄待てども不出いでず。妻は右下女に夫の心ありやと疑ひて彼かわやに至りしに、下女は戸の外に居し故、何故用場の永き事と表より尋問しに一向答なければ、戸を明け見しにいづち行けん行方なし。かゝる事故其砌は右の下女など難儀せしと也。然るに貮拾年程過て、或日彼かわやにて人を呼び候聲聞へし故至りて見れば、右市兵衞、行方なく成し時の衣服に少しも違ひなく坐し居し故、人々大に驚きしかじかの事也と申ければ、しかと答へもなく、空腹の由にて食をこのむ。早速食事など進けるに、暫くありて着し居候をりさふらふ衣類もほこりの如く成て散り失て裸に成し故、早速衣類を與へ藥杯あたへしかど、何かいにしへの事覺へたる樣子にも無之、病氣或は痛所抔のまじなひなどなしける由。予が許へ來る眼科の、まのあたり八幡の者にて見及みおよび候由咄しけるが、妻も後夫うはをもおかしき突合つきあひならんと一笑なしぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:俗にこうした現象を天狗の神隠しと言った。天狗連関。彼の記憶喪失は逆向性健忘でも、発症――失踪時――以前の記憶の全喪失+失踪の間の記憶喪失にあるようだ。一過性のものであることを祈る。――服がみるみる埃りのように裸になるところが、いいね! 最後の附言などからは、私は根岸は本話を信じていない、という気がする。
・「江州八幡」近江商人と水郷で有名な現在の滋賀県近江八幡市。
・「寛延寶暦」西暦一七四八年~一七六四年。その二十年後となると単純に示すなら明和四年(一七六八)年~天明四(一七八四)年となり、記事下限の寛政九(一七九七)年からは凡そ三十年から十三年程前のやや古い都市伝説となる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の長谷川強氏の附注に『夫失跡、妻再婚、前夫帰還の話は西鶴ほか先行例があり、これに神隠しを結びつけた』話柄と解説されている。インスパイアされた都市伝説の一種である。
・「松前屋市兵衛」不詳。何に基づくのか分からないが、ネット上のある梗概抄訳では反物商とする。
・「厠」底本では「廚」で右に『(厠カ)』と傍注する。直前に「用場」(便所)ともあり、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも「厠」であるから、明らかな誤りと見て訂した。
・「予が許へ來る眼科」根岸の友人には医師が頗る多い。
・「後夫うはを」「ごふ」とも読む。
・「突合」底本では右に『(附合)』と傍注。

■やぶちゃん現代語訳

 二十年を経て帰って来た者の事

 江州八幡は――近江商人発祥の地として知られるだけに――彼の国ではとりわけ繁華な町場の由。
 寛延・宝暦の頃とか、この町の松前屋市兵衛と申す豪商、妻を迎えてそれほど立たぬうちに、一体、何処へ行ったものやら、突如、失踪致いた。
 家内は上へ下への大騒ぎ、悲嘆に暮れ、金銀を惜しまず、あらゆる所を捜し歩いたものの、その行方はようとして知れなんだという。
 されば――未だ子もおらず――他に家を相続する者とてなく――かの妻も、元々一族の内より迎え入れた者で御座ったによって――そとよりむこを入れて跡目を立て――行方知れずとなった、その日を命日とし、懇ろにとむろうて御座った。

 さても、その失踪の様子は、以下のような奇怪なもので御座った。
 彼は、その
「便所へ参る。」
と、下女を召し連れて行き、厠の外にて下女は燈し火を持って待って御座った。
 ところが何時まで待っても――主人は、出てこない。
 一方、妻の方は――当時、日頃より、夫が常に傍に置いて用立てさせるところの――この年若い下女と夫の仲を疑って御座った故、長く厠から戻らぬ二人に、悋気りんきを起こし、厠へと駈けつけてみた――ところが――下女は、厠の戸の前に、一人ぽつんと立って御座る。
 されば妻は、厠に向かい、
「……もし! あまりに長き用場なれば……何ぞ御気分でも、悪うなされましたか?……」
と声をかけた。
……が……
……一向、返事がない……
……思い余って、戸を開けてみたところ……
……何処へ行ったものか……
……市兵衛の姿は……
……忽然と消えていた。……

――時に……こういった次第で御座ったれば……その失踪当時、この下女なんどは、種々と穿鑿され、疑いをも掛けられ、いやもう、ひどく難儀致いた、とのことで御座った。……これはさて。閑話休題。

 ところが、それから二十年程経った、ある日のことで御座る。
――かの厠にて、誰ぞが人を呼んでおる声が致いた。……
……家人が行って戸を開けて見ると……
……そこには……
……かの市兵衛が……
……行方知れずなった折りの衣服と寸分たがわぬものを、これ、ちゃくし……
……座り込んで――御座った――
 人々、吃驚仰天、口々にあれこれと話しかけてみたものの……市兵衛は、これ、ほうけた顏で一向に要領を得ぬ。そうして唯、
「……は、ハラ……へった……」
と、蚊の鳴くような声で食い物を求めるばかり。
 早速に食事なんどを出だしやり、一心に飯を掻き込んでおるその姿を見守っておると……
……暫くして……
……豚のように食うておるそのそばから……
……着ている衣類が……
……細かな細かな……
……埃の如くになって……
……崩れ落ち……
……市兵衛は、これ……
……素っ裸かに……なっていた。
――素っ裸かの市兵衛は――それでも一心に飯を掻っ込んでいる――
 そこで、早速に衣類を着せ、在り合せた薬なんどをも与えてはみたけれども……
……市兵衛、これ、いろいろ訊ねてみても……
……出生以後のことは総て……
……妻のことも、失踪の前後の出来事も勿論、失踪していた間の記憶も一切合財……
……どうも全く……
……これ、覚えて御座らぬような様子であったそうな。……
……今は……そうした物忘れの病いに効くと申す薬やら……或いは、頻りに体の随所を痛がる風なれば……鎮痛のまじないやらを施してやったる由に御座る。……

 以上は、しばしば私の家に参る眼科医――まさに八幡生まれの者にて御座る――が、この市兵衛を見、また、その家人より聞いた話なる由。
 我ら聞き終えて、
「……いや、何より、その妻も、その後から入った聟殿も……何ともはや、おかしくも困った付き合いを……その後に致さねばならぬ仕儀と相いなったものじゃの。」
と、彼とともに一笑致いて御座った。



 痔疾のたで藥妙法の事

 石見川いしみかはといへる草に、白芷しろひぐさを當分に煎じ用ゆれば奇妙のよし。吉原町の妓女常にもちゆる由、吉原町などの療治をせる眼科長兵衞物語也。

□やぶちゃん注
○前項連関:恐らくこの「眼科長兵衞」、前話の話者「眼科」の医師と同一人物で話者連関としてよい。また前の「卷之四」の掉尾から二つ前の「痔疾まじなひの事」でカミング・アウトしたように、根岸は寛政八(一七九六)年、満五十九歳でかなり重い痔を発症していた。その一連の痔療治シリーズでもある。根岸にしてはしかし、実証部分がない。あれば彼の性格から推して、間違いなく記載する。あまり効かなかったか。根岸の痔が切れ痔などではなく、内痔核などの、それも難性のものででもあったからも知れない。
・「たで藥」岩波の長谷川氏の注に、『患部を湯で蒸し温めるのに使う薬』とあり、ネット上でも双子葉植物綱タデ目タデ科 Polygonaceae の生薬を用いた調剤物について、患部を湿らせ温めるとあり、他にも皮膚の抵抗力を向上させる、スキンケアに効果があるとある。
・「石見川いしみかは」は底本のルビ。タデ科イヌタデ属イシミカワ Persicaria perfoliata。蔓性一年草。和名には「石見川」「石実皮」「石膠」の字が当てられるが、何れが本来の語源かは不明(鈴木氏注には、「和漢三才図会」の折傷金瘡の要薬で骨を接ぐこと膠の如くであることから「石膠」と言ったものが「ニカワ」→「ミカワ」と訛ったとする説、「和訓栞」の河内国石見川村〔現・大阪府河内長野市内〕の産とする説を載せる)。漢名は杠板帰コウバンキ。東アジアに広く分布し、日本では北海道から沖縄まで全国で見られる一年草。林縁・河原・道端・休耕田などの日当たりがよくやや湿り気のある土地に生える。茎の長さは一~二メートルに達し、蔓状、葉は互生し葉柄は長く葉の裏側に附く。葉の形は三角形で淡い緑色、表面は白い粉を吹いたようになっている。さらに丸い托葉が完全に茎を囲んでおり、あたかも皿の真ん中を茎が突き抜けたようになっているのが特徴である。他の種にも類似した托葉はあるが、本種は特に大きいためによく目立つ。茎と葉柄には多数の下向きの鋭いとげ(逆刺)が生ずる。七月から十月にかけて薄緑色の花が短穂状に咲き、花後の五ミリメートルほどの果実は熟して鮮やかな藍色となり、丸い皿状の苞葉に盛られたような外観となる。この藍色に見えるものは、実は厚みを増して多肉化した萼で、それに包まれて、中に光沢のある黒色の固い実際の痩果がある。つまり、真の果実は痩果なのだが、付属する器官も含めた散布体全体としては、鳥などに啄まれて種子散布が起こる漿果のような形態をとっている。漢方では全草を乾かして解熱・止瀉・利尿などに効く生薬として利用する。蔓状の茎に生えた逆刺を引っ掛けながら、他の植物を乗り越えて葉を茂らせる雑草で、特に東アジアから移入されて近年その分布が広がりつつある北アメリカでは、その生育旺盛な様子から“Mile-a-minute weed”(一分で一マイル草)、あるいは葉の形の連想から“Devil's tail tearthumb”(悪魔の尻尾のティアトゥーム:“tearthumb” はタデ属 Polygonum thunbergii に近縁なタデ科の草)などと呼ばれ、危険な外来植物として警戒されている(以上は、非常に優れた記載であるウィキの「イシミカワ」を大々的に参照させて頂いた)。
・「白芷しろひぐさ」は底本のルビ。音は「ビャクシ」。双子葉植物綱セリ目セリ科シシウド属ヨロイグサ(鎧草)Angelica dahurica の根の生薬名。消炎・鎮痛・排膿・肉芽形成作用及び皮膚の掻痒感を鎮める。日本薬局方にも記載されている。血管拡張と消炎の作用から、肌を潤し、浮腫むくみを取るとして、古来、中国の宮廷の女性達により美容にも用いられてきた。ヨロイグサは高さ一~二メートル、茎は太く中空で、上部で枝分かれする。葉は羽状複葉。夏、白色の小花を散形に附け、外見はセリ科シシウド Angelica pubescens に似る。分布は東シベリア・中国北東部・朝鮮半島・本州西部・九州(以上はウィキの「ビャクシ」に拠った)。
・「吉原町の妓女常に用る由」この叙述から、吉原には優位に痔に悩んでいる妓女が多かったことを示す。売春行為と痔疾、頻繁な性行為と痔との間に有意な因果関係があるとは考えられまいか(何となく、ありそうな気はするのだが)? それとも、もっと別な原因に基づく妓女の職業病であろうか? 識者の御教授を乞うものである。

■やぶちゃん現代語訳

 痔疾のタデ薬妙薬の事

 石見川いしみかわという草に、鎧草よろいぐさの根からとった白芷ビャクシを等量加え、それを煎じたものを痔に用いると、驚くほど、効くという話である。吉原町の妓女なども愛用しておるとのこと、吉原町などを中心に療治をして御座る眼科医の長兵衛の話である。



 商人盜難を遁れし事

 築土つくど邊に旅宿いたし候上州桐生きりふより出し絹商人の物語りけるは、さる冬とや、江戸表にて七八拾兩の商を成して、右金子に殘る反物たんものなど持て上州へ歸るとて、鴻巣とやらんの定宿ぢやうやどに止宿して、例の通金子荷物共宿の亭主に預けて、湯など遣ひ夜食などしたゝめてふせらんとせしに、是も旅商人の由にて大き成柳骨折なるやなぎごり背負菅笠せおひすげがさをかぶり、脇指一腰を帶したる者旅籠屋はたごやへ來りて、上州邊の商人の由にて一宿を乞ひし故、ひとり旅人ながら先に來る人も商人の事なれば、一所に泊り給はゞ、同國の人なれば則相宿すなはちあひやどなりと亭主答へければ、幸ひの事也とて是も右柳こりを亭主に預け、湯抔遣ひて彼絹商人の座敷へ通り彼是咄しなどなしけるが、何とやらん疑敷うたがはしき事もありし故、上州は何方と尋ければ、館林とやらん相應の事をまうす故、彼是と尋けるに彌々いよいよ怪敷思ひければ、江戸の旅宿を尋しに、馬喰丁ばくらうちやうにて何屋とか相應の事を申す故、年々幾度となく江戸へ出、馬喰町の事も委しく覺へける事故、旅宿何屋の向ふには何屋あり、こちら隣は誰なりさだめて知り給ふらんと委しく尋問けるに、甚困り候てい故全く紛れ者と察しければ、そなたにはいまだ度々江戸商ひにも出られずと見へたり、道中は用心第一なり、荷物は宿へ預け給ふや、此宿には岡引をかつぴきの何と申者も知人にて、隣宿の何宿には惡業などを搜しおぼえし何某と申者あり、是等へ賴まねば度々往來いたし候商人は難成なんなる事なりと咄しけるに、右にや恐れけん、暫くありて一寸ちよつと用事あれば宿はづれ迄參り歸るべし、甚だ忘れたりとて二階を下りて出行しが、あけ迄不歸かへらざる故、扨こそと朝起き出て亭主へ、相宿の旅人はかくかくの次第なりき、柳こりを改見給へとて、則立合すなはちたちあひ右柳こりをひらきければ、草飼葉かひばなどばかりありて外には何もなし。怖しき目に合しと人に語りけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。絹商人必死の、概ねハッタリの作話(と私は読む)の雰囲気を出すために一部に翻案施してある。例えば、怪しい男の泊まったという馬喰町「××屋」という言葉への返し、「旅宿×△屋にては御座らぬか?」は彼の引っ掛けで、実際には「旅宿×△屋」などという旅籠はない、という部分などは私の創作部である。こうすれば、早くもこの瞬間に絹商人は、この相手が真正の騙り者と確信出来るという寸法にしてあるのである。
・「築土つくど」現在の東京都新宿区筑土八幡町にある産土神及び江戸鎮護の神とされる筑土八幡神社周辺をいう。神楽坂の北、現在の飯田橋駅北西直近。
・「上州桐生」現在の群馬県東部に位置する桐生市。古えより絹織物の産地として繁栄、開幕とともに天領とされた。
・「鴻巣」現在の埼玉県北東部に位置する鴻巣市中心街。中山道の宿場町として発達した。
・「柳骨折」底本には右に『(柳行李)』と傍注。柳行李やなぎごうりは正しい歴史的仮名遣では「やなぎがうり」。双子葉植物綱ビワモドキ亜綱ヤナギ目ヤナギ科コリヤナギ(行李柳) Salix koriyanagi の枝の皮を除去して乾燥させたものを、麻糸で編んで作った行李。「やなぎごり」「やなぎこり」とも呼んだ。
・「紛れ者」事につけこんで、また、事の勢いで何かを謀らんとする不埒者。
・「岡引」町奉行所や火付盗賊改方等の警察機能の末端を担った非公認の協力者。全くの無給、若しくは同心からの私的な駄賃を得るに過ぎない存在であった。正式には江戸では「御用聞ごようきき」、関八州では「目明かし」、関西では「手先てさき」あるいは「口問くちとい」と呼んだりした。本来、この「岡引おかっぴき」という呼称は彼らの蔑称であって、公の場所では呼ばれたり名乗ったりすることはなかったとされる。平安期に軽犯罪者の罪を許して検非違使庁が手先として使った放免を起源とする(以上はウィキの「岡っ引」に拠った)。
・「惡業などを搜しおぼえし」この「覺ゆ」は「学んで知る・習得する」の意で、所謂、そこから名詞化したものと思われる「腕に覚えがある」という「自信がある」の意で、犯罪者の捕縛では腕に覚えがあるもの、辣腕の捕り手の岡っ引きという意味で用いていると考えられる。
・「飼葉」牛馬などに与える餌の牧草。干草・藁・ふすま(小麦を挽いて粉にする際に残る皮の屑)など。馬草。

■やぶちゃん現代語訳

 商人の盗難を免れた事

 築土つくど辺りに旅宿しておった、上州桐生きりゅうから江戸へ上っておった、さる絹商人の物語った話である。

 去年の冬のこととか、江戸表にて七、八十両の商いを致いて、その売上げの大枚と残った反物なんどを携えて上州へ帰る途次、鴻巣辺りの定宿に止宿、何時もの通り、金子・荷物ともに宿の亭主に預け、湯など遣い、夕飯ゆうめしなんども済ませ、さて、横にならんと致いた頃合い――これも旅商人とのことにて、大きなる柳行李を背負い、菅笠を被り、脇差し一振りを佩いた者が――その旅籠屋はたごやの暖簾を潜り、上州辺の商人と名乗って、一宿を乞うた。亭主は、
「お独りの旅にて御座いまするか? いや、丁度、今、泊まっておられる御仁も――ご同様の旅商人の――同じ上州のお方なればこそ――これはもう、相宿あいやどでよろしゅう御座いましょう。」
と答えたところ、二つ返事で、
「それは、もっけの幸いじゃ。」
とて、この男も、その荷った柳行李を亭主に預け、湯など遣った上、先に絹商人の座敷へと上がって、かれこれ、世間話なんどを始めた。
 ところが……この男――同じ上州産の、同じ江戸廻りの旅商人と申すにしては――これ、どうも、話が合わず、如何にも、怪しい。
 そこで、
「――上州は何処どちらで?」
と問えば、
「……館林、辺りで御座る……」
と、如何にも尤もらしく答えたのであるが、なおも、
「――館林の何処で?」
と訊ねると、口籠って、はっきりした村里も答えねば、いよいよ、これ、怪しい。
 そこで、話を変え、江戸での旅宿を訊ねてみたところ、
「……ああ、馬喰町の……××屋が定宿じょうやどで……」
と、また如何にも尤もなる答えを申した。
 ところが、この絹商人は毎年江戸へ上って、商人宿の多かった馬喰町は、これ、己れの庭のようなもので御座ったが故、
「――そうで御座るか! いや、我らも、あの辺りは定宿とする旅籠が多く御座っての。――××屋――はて? おかしいな、そんな旅籠が御座ったか、の? もしや、旅宿×△屋にては御座らぬか?――おぉ、やはり、の!――そうで御座ったか。いや、あそこも我らの定宿の一つで御座っての。――あの辺りでは、そうさ、◎屋、◎屋の向かいには□屋が御座って、また、その隣には、博労町では名の知られた○○殿が住もうて御座る。――定めて――ご存知のことで、御座ろうの?」
と話を向けると、男は見るからに、困惑閉口致いておるていなれば、
『――この者――全くのやさぐれ者に、これ、相違ない!――』
と察した。
 そこで、
「――はて。そちらさまには――江戸商いに出でて――これ、未だ日があそう御座る、とお見受け致いた。では、一つ、心得を御伝授致そうかの。まずは――何より、商人一人旅の道中は――これ、用心が第一、で御座る。荷物は宿へ預けなされたか?――おう! それは、重畳!――実はこの宿場には――岡っ引きの●●――という知人が御座っての――それから、隣の宿場の■■宿には、これ、悪党なんどを捜してはからめ捕るを、三度の飯より好きじゃと豪語致す、手練てだれの捕り手――岡っ引きの▲▲――と申す、これまた我らが悪友も御座るじゃ――いや、もう、こうした者どもを、今日のような道中の日々の頼りと致さねば――我らの如き、頻繁に往来致いて御座る旅商人と申すものは、これ、とてものことに――難儀なることにて、御座る。――」
と話したところ、流石、このはったりに恐れをなしたものか、男は暫く黙って膝を見つめておったが、急に、
「……あっ……ち、ちいと、用を思い出だいたわ。……済まぬが……宿場の外れまで……いや、忘れものを致いたによって……その、それを取りに参って、いやいや、すぐに帰りますれば……へい、ちょいとばっかり失礼致しやす……」
などと妙にへり下って言うと、あたふたと部屋を出でて、
「……いや、いや……ああ、あれは……そうさ、あそこ辺りに忘れた、の。……」
などと、如何にも聞こえよがしの独り言を呟きつつ、二階を降りて行く。
――ところが、男はそのまんま――明け方になっても帰って来なかった。
「さても――当たり、じゃ!」
 かの絹商人、翌朝、はように起き出でて、階下にあった亭主に、
「……かの相宿の旅人じゃがの。昨夜、しかじかの次第にて御座った。手ぶらにて出でたように察すればこそ、一つ、預けある柳行李、これ、あらためて見なされ。……」
と告げ、すぐさま、亭主立ち会いのもと、かの男の柳行李を開いてみれば、
――これ、中身は――
――雑草やら飼葉やらが――
――ただただ――ぎゅう詰めになっておるばかり――
――外には何も――入っておらなんだ。……

「……はい。……いやあ、もう、まっこと、怖ろしき目にうて御座いました。……」
とは、その絹商人が私の知れる者に語った、とのことで御座る。



 麩踏萬引を見出す事

 麩踏ふふみは桶にたちて兩手を腰に置て、眼は心の儘に配るもの也。或日夫婦あら世帶にて淺草諏訪町とやらんに、太物ふともの小見世こみせをひらきて手拭など軒に懸けて、商ひ第一と夫婦共買人かひてに飽迄愛想のへつらひ言などなしけるに、或日相應の裝束にて彼見世に立寄、我等は絹木綿の中買をなし、御屋敷方へも出入でいる者也、新見世と見へぬれば致世話可遣せわいたしつかはすべしと、いかにも念頃に申ける故、女房は茶をはこび、夫は爲にも成べき客人と思ひて、彼是と愛想を述けるが、彼客人のいへるは、今日屋敷方へ參るに、商人は女中抔への手土産もいたし度間、面白き手拭を調ひ度とて反物なども出させ見候上にて、手拭地二筋づゝを三包のつもりにわけて、糊入紙のりいれがみ上水引うえみづひきなどを乞ひて、直段ねだんをも極めすなはち代銀を拂ひける故、夫婦して勝手より紙水引など取出し候間に、木綿反物四五反を密に懷にして、かさねて來るべしと禮をのべて立出しを、夫婦右反物をぬすまれしをかつて知らざりしが、彼麩踏向うより始終見居たりし故、早速夫婦へ聲を懸、今の買人へは反物を賣りしや、まつたく萬引ならんと言ひし故、夫婦驚きて始て反物盜まれしをさとり、追缺けて貮町程もへだて、追付きて不屆の由を申ければ、彼者以の外怒りて、何ゆへ跡なき事を申懸るやとて、風呂敷包を解きて見せけるに、最前の木綿反物もありければ、是をぬすみながらたけだけしきといひければ、いつの間にや符帳を取捨て、是は我等取りうり仲買ひ等いたし候故、外より持來る品也と、却て逆さまに咎めける處へ、醉狂なる男にや、かの麩踏つけ、始終我等見屆たり、盜人たけだけしとてむなぐらを取引居とりひきすへける。天命遁れがたくて、彼符牒を取り袂へ入れしと見へて袖より落ければ、あらごう事もならず。しかる所へ外呉服所よりも追欠來おひかけきたる人ありて、彼風呂敷の内にあるは我等がみせにてぬすみ取りし也とて、散々に打擲ちやうちやくしておひはなしけると也。此頃の事也と幸十郎といへるおのこの語りける也。

□やぶちゃん注
○前項連関:詐術の詐欺師で直連関。
・「麩踏」生麩なまふを作るに際して、小麦粉を水でねるために、大桶の中で足で踏むこと。
・「淺草諏訪町」現在の台東区駒形の、諏訪神社を含む隅田川沿いの町。旧駒形町の南側(隅田川下流)。
・「太物」狭義には、絹織物を呉服というのに対して綿織物・麻織物などの太い糸の織物を言った、但し、広義に絹織物も含めた衣服用布地、反物の謂いでも使った。ここは原義でよいであろう。
・「今の買人へは反物を賣りしや」底本ではここの「買人」に「かひて」とルビを振るが、先行する「商ひ第一と夫婦共買人かひてに」の位置に移した。
・「つもり」は底本のルビ。
・「糊入紙」色を白く見せるために米糊を加えて漉いた杉原紙すぎはらがみ。杉原紙(椙原紙。「すいばらがみ」とも読む)は元来は、古えより播磨国多可郡杉原谷(現在の兵庫県多可町)で漉かれた和紙を言う。奉書紙や檀紙よりも厚さが薄く、贈答品の包装や武家の公文書にも用いられた。京都は杉原谷に近く、大量に製品が流入したことから、比較的低廉であったために高級紙の代用品として盛んに用いられた(以上の杉原紙については、ウィキの「杉原紙」を参照した)。
・「二町程」凡そ二一八メートル。
・「符帳を取捨て」「符帳」は正札のこと。岩波版の長谷川氏注に、都の錦(延宝三(一六七五)年~?)作のピカレスク・ロマン、浮世草子「沖津白波」の巻三の四『以後、繰返される話共通の手口』とある。
・「醉狂なる男にや」「醉狂」は「酔興」とも書き、言わずもがな、好奇心から人と異なる行動をとること、物好きなことを言うが、岩波版で長谷川氏は『犯罪の証人になると面倒な掛り合いを生ずるが、それをいとわぬのを酔狂とするか』と注する。そうした訴訟の面倒を知っていればこそ、本話のエンディングでは物が戻ったからではなく、人々は「散々に打擲して追はな」したのだと納得出来る。私はこういう注こそが一級品の価値ある注であると思う。
・「幸十郎」底本鈴木氏の注では、「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある人物と同一人物であろうとされる。彼はこの後も何度か登場する。

■やぶちゃん現代語訳

 麩踏み万引きを見出す事

「……麩踏みと申すものは……桶の中に立って両手を腰に置きて……あれで……その眼は無心の心眼となって……これ、自在に四方を見通すものにて御座る。……」

 ある日、若夫婦で――浅草諏訪町辺りに――綿やら麻の織物のおたなを出だいて、看板代わりの手拭いなんどを軒に掛け、夫婦ともに『商い第一』を信条に、如何なる客なりとも、愛想笑いを欠かしたことなく、飽く迄、へつろうたもの謂いにて、堅実な商いを致いて御座った。
 ある日、相応のなりを致いた御仁が、そのお店に立ち寄って、
「――我らは絹・木綿の仲買人を致いて、御屋敷方へもお出入りさせて戴いて御座る者じゃ。新店しんみせと見たればこそ、一つ、一肌脱いで遣わそうと存ずる。――」
 如何にも勿体ぶったもの謂いなれば、女房は茶を運び、また、夫は『……これは! 向後のためにも、大事なお客人じゃ!……』と思い、あれこれと愛想を述べて御座った。
 すると、この仲買と称する男が、
「……そうさな……今日もこれより、御屋敷方へと参ることとなって御座るが……今日は取り敢えず……女中なんどへの手土産をも、致しとう存ずるによって……一つ、何ぞ面白い手拭いなんどをm取り揃えとう存ずる。……」
と言いつつ、他にも扱いの反物なんどの品定めと称して、出させて見並べ始め、加えて、
「……そうさな……手拭い地は、二筋ずつを三つの山に分けておくんなさい。……それと包みは糊入紙のりいれがみの上、水引みづひきを頼んだよ。……」
との注文、而して夫はその値段を決めて、男は即決、その代金を払った。
 ところがその後――夫婦して勝手奥より紙やら水引やらを取り出いて包装を致いておる間に――男は――さり気なく重ねて並べて広げあった木綿の反物――その四、五反を――下からすっ――すっと――実に巧妙に――懐へと隠した。
 男は手拭いの包みを受け取ると、
「また、寄せて貰うよ。」
と礼を述べて店を出て行った。
 夫婦は、かの反物四、五反を盗まれたとは――夢にも知らぬ。
 ところが――ここに若夫婦の店の向かいで、丁度、麩踏ふふみをしておった男が、この一部始終を見て御座った故、直ぐに若夫婦に声を掛け、
「おう! 今の買い手には、反物を売ったけぇい? 売ってねえだ?!――なら! ありゃ、全くの、万引きだゼィ!!」
と教えた故、夫婦も驚いて、広げたものをあらためて初めて、反物を盗まれたことに気づいた。
 夫は韋駄天の如く後を追って、二町程も追いかけ追いつき、昼日中の路上にて、
「……ま、万引きの、ふ、不届き者めがッ!」
と呼ばわって御座った。
 すると、かの男は、以ての外に怒り出し、
「――何故に!――証拠もなきに! 理不尽なる言い掛かりを附くるかッ!!」
と言うや、持った風呂敷を自ずと解いて見せる。
 ところが――そこには外の絹の反物に交じって――紛うかたなき、最前のおのが店の木綿やら麻やらの反物が――確かに御座った。
「……こ、これが証拠じゃろがッ! こ、こうして盗んでおきながら……ぬけぬけぬけぬけ!……ええぃ! ぬ、盗人ぬすっと猛々しいッ!!」
と夫は真っ赤になって叫んだ。
 ところが、男は、
「――これは、の――我ら絹木綿の仲買を致いておればこそ――売らんがために、余所から仕入れた、品、じゃ!」
と、平然と言い放った。
 そう言われて、よく見てみると――いつの間にやら――反物に附けて御座った正札しょうふだが取り捨てられてしもうて御座った。
 俄然、男は逆切れ致いて、
「――天下の大道にて――謂われなき万引き呼ばわりッ! どうして呉れるッ!!」
と咎め立て始める始末……
――と――
――そこへ――
――余程の酔狂なる男ででも御座ったか――せんの麩踏みが、これ、駆けつけ、
「この野郎ッ! 一部始終は、この俺さまがくと見届けてるんでィ!! 盗人ぬすっと猛々しいたぁ、オ、マ、エ、のこのことでえッ!!!」
と啖呵を切るや、胸ぐらを摑んで地べたへ引き据えると――さても天命逃れがたくして――かの正札を引き千切っておのが袂へ入れておった――それが――ぽろぽろっつと――袖から――落ちた。
 ここに至って男は、最早、抵抗することも出来ず、ただ、項垂れておる。……
――と――
――そこへ――
――今度は、外の呉服屋よりも追い駆けて参った者も、これ、ここに出食わして御座った。
「……ハッ……ハッ……そ、その風呂敷の中の、き、絹の反物は……わ、わ、我らが店にて、ぬ、盗み、と、取ったもの、にて、御座る……」
ときた。
 かくして――皆して、この男を――散々にぼこぼこに致いて――追い放した、とのことで御座る。……

「……ごく、最近の出来事で御座る。……」
と、幸十郎と申す男が、私に語って聞かせて呉れた話で御座る。



 地藏の利益の事

 田付たつけ筑後守とて近き頃迄御持頭など勤し人の親は、田付安房守といひしが、彼安房守奧方浮腫の病ひにて、諸醫手を盡しぬれど快からず。或夜奧方の夢に地藏菩薩忽然と顯れて、汝が病ひにはひきの革をさり黑燒にして用ひば妙なるべしと示現じげんすと見て覺ぬ。不思議に思ひて安房守にも語りければ、奧久しき病ひなれば用ひ見べきやと、長崎奉行勤ける家なれば醫書抔にも富ける故を尋るに、浮腫の病ひに蟇の黑燒きを用る事ありければ、則黑燒にして用ひけるに、宿病たちまち癒ける故、地藏の利益りやくを歡びて、あたり近き地藏へ參詣をなしけるに、爰に不思議なるは、其道におゐて何かかたまりたる物を足に障る儘に取上てみれば、土に汚れてわかり兼しが古き板彫はんぼりに有ける故、拾ひ歸りて洗ひ淸めければ地藏尊の板行はんかう也。彌々信心をおこして右板行を以帋もつてかみにおし、田付家は不及申まうすにおよばず、知る邊へは施し與へしに、利益大かたならざれば、俗家に置んも如何いかがとて、本所中の郷遽の寺へ納しに、田付地藏とて參詣の者も多かりしと人の咄ける也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。ヒキガエルで六つ前の「怪蟲淡と變じて身を遁るゝ事」と、医事関連で五つ前の「水戸の醫師異人に逢ふ事」及び三つ前の「痔疾のたで藥妙法の事」と繋がる。
・「田付筑後守」田付景林たつけかげたか(宝永六(一七〇九)年~安永七(一七七八)年)。宝暦五(一七五五)年、父の死に伴い田付家を継ぎ、同六年御小性組頭より禁裏附に転じて従五位下筑後守となる。明和六(一七六九)年御持弓頭、安永五(一七七六)年御鎗奉行(底本の鈴木氏注に拠る)。
・「田付安房守」田付景厖たつけかげあつ(天和三(一六八三)年~宝暦五(一七五五)年)。但し、阿波守の誤り(訳は訂した)。享保一七(一七三二)年に御書院番組頭、元文四(一七三九)年には佐渡奉行となり、従五位下阿波守(佐渡奉行は寛保二(一七四二)年三月迄)。次いで本文にあるように長崎奉行に転任(長崎奉行は延享三(一七四六)年迄)、寛延元(一七四八)年西城御留守居。妻は長谷川長貴の娘(主に底本の鈴木氏注に拠る)。本話柄は「長崎奉行勤ける家なれば」とあるから、長崎奉行を終える延享三(一七四六)年前後以降の出来事と考えられる(彼以前に彼の先祖が長崎奉行であったとは思われず、それ以前の長崎奉行に田付姓はない)。なお、田付流の祖である田付兵庫助源景澄かげすみ長男景治は鉄砲方として江戸幕府に仕え、景治以降は代々「田付四郎兵衛」を名乗った。その次男正景は大垣藩に砲術を伝授している。
・「浮腫」むくみ。一過性のものもあるが、心臓・腎臓・肝臓・甲状腺異常・循環障害・悪性腫瘍などの重篤な病気の症状の一つとしてもしばしば現れる。
・「示現」神仏が霊験を示し現す、顕現すること以外に、その霊験や神仏のお告げ自体をも指す。
・「奧久しき」底本では、右に『(尊經閣本「かく久しき」)』と傍注。
・「醫書抔にも富ける故を尋るに」脱文を感じさせる違和感がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『医書抔にも富ける故、是を尋るに』である。これが正しい。
・「腫の病ひに蟇の黑燒きを用る事あり」ネット上の漢方記載に「蝦蟇がま」を解毒・腫れ物・腹部腫瘤・浮腫などに用いるとある(抗癌作用も期待されている)。但し中医での「ガマ」は無尾(カエル)目アカガエル科ヌマガエル亜科ヌマガエル Fejervarya limnocharis であって、耳腺に有毒成分を持つ無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicas などのヒキガエルとは異なるので要注意。
・「板行」版木。恐らくは一体一版の地蔵菩薩印仏の版木であろう。御札として大量生産するための木版原版である。
・「本所中の郷」武蔵国の古くからの村名。後に隣接する小梅とともに北本所とも総称された。東京府南葛飾郡中ノ郷村、東京市本所区を経て、現在は東京都墨田区の吾妻橋・東駒形・業平一帯(ウィキの「中ノ郷信用組合」の備考記載に拠った)。
・「田付地藏」現存しない。但し、この話は、一読、巣鴨の高岩寺にある、知られた「とげぬき地蔵尊」縁起との酷似を感じさせる。ウィキの「高岩寺」によれば、『江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた』紙一万枚(これが本話の最後に出る版木とその流行と完全に一致する)『を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する』とある。「田付の妻が病」「夢枕」「地蔵」「地蔵の版木」の一致は最早、明白である。また、この現在も配布されている「御影」の版木を献納した田付又四郎とは、正に田付家の分家子孫とされるのである。但し、この高岩寺は慶長元(一五九六)年、江戸神田湯島に創建後、上野下谷屏風坂に移り、明治二四(一八九一)年の巣鴨移転であって、「本所中の郷」にあったことは一度もない。また、この縁起は享保一三(一七二八)年の小石川に住む田付又四郎自筆とされ、そこでは、妻の一件は正徳三(一七一三)年で原因は怨霊とあり、今一つの毛利家の一件の方は正徳五(一七一五)年と記すのである。先に示した本話の年代推定である田付景厖が長崎奉行を終える延享三(一七四六)年前後以降とは、これでは大きく食い違う。嫡流と考えられる田付景厖と、この分家田付又四郎は、親族ではあったが、別人であると考えてよく、これは恐らく「とげぬき地蔵尊縁起」が伝聞される中で、より知られた田付家の嫡流(と思われる)景厖を主人公に代え、場所も別に設定した変形都市伝説ではなかろうか? 実はこの田付地蔵なるもの元々存在しないのではないか、というのが私の見解である。そもそも事実譚ならば、参詣ひっきりなしのはずなのだから、納めた寺の名を伏せる必要が、全くない、根岸も知っていて当然だからである。

■やぶちゃん現代語訳

 地蔵の利益の事

 田付筑前守景林たつけちくぜんのかみかげたか殿と申される、最近まで御持弓頭などを勤められた御方の――その父君は田付阿波守景厖かげあつ殿であられた。
 その景厖殿の奥方は永らく浮腫の病いを患って御座って、何人もの医師が手を尽くしたけれども、一向によくならなんだという。
 そんなある夜、奥方の夢に地蔵菩薩が忽然と現われ、
「――汝の病は――ひきの皮を取り去って、身を黒焼きに致いたものを用いるならば――これ、ぴたりと――治る――」
示現じげん致いたと見るや、ふと、目が覚めた。
 奥方は不思議に思って、夫景厖殿にもこれを話したところ、
「……もう、えらく永い病い故のぅ……これ、一つ、試してみる……というのも、あり、かのぅ……」
と、景厖殿、以前に長崎奉行を勤めらておられた経歴もお持ちなれば、御屋敷の書庫には蘭書・中医を始めとした和漢の医書なども充実しておられた故、このことにつき、調べて御覧になられたところが、確かに――浮腫の病いに蟇の黒焼きを用いること、これあり――と御座った。
 そこで早速に皮を剥いた蟇蛙を黒焼きに致いて服用させてみたところが――あれほど苦しんで御座った、宿痾と思うた、あの浮腫が――さっと引いたかと思うと――忽ちのうちに癒えた。――
 されば、御夫婦は、この地蔵の利益りやくに心より喜悦なされ、お住まい近くの地蔵堂へと参詣なされた。
……と……
……ここに不思議なるは……その帰り道、奥方のおみ足先に……何やらん、固い物が触れた。……
……取り上げてみれば……これ、土に汚れて何ものやら、よう分からぬながらも……どうも、これ、ひどく古い、版木のように思われた。……
……景厖殿も気になって、そのまま持ち帰り、あろうてみた、ところが……これ、何と! まさに地蔵尊を彫った版木で、御座った。……
……そこで、いよいよ堅固なる信心をお起し遊ばされて――この地蔵尊御影みかげ版木を以て、紙に押し、何枚も何枚も押し摺らせて――田付家は言うに及ばず――知れる人々へも多く施しお与えになられたところが――いや! その地蔵の御利益りやくたるや、尋常のものならず!――多くの病者が瞬く間に平癒致いて御座ったという。……
 景厖殿は、しかし、
「……いや、かくも霊験あらたかなる御影を、我ら如き俗家に置きおくというは……これ、如何なものか……。」
との御叡慮によって、その御影版木は、何でも本所中之郷辺りのさる寺へ、これ、納められたとか申す。
 今に田付地蔵とて、参詣致す者も、これ、多う御座る。……

 以上は、私の知れる人の話で御座る。



 鄙賤の者倭歌の念願を懸し事

 東海道三嶋の大工の倅にて、いとけなきより職業よりは和歌をよむ事を好みて絶へず腰折こしをれをつらね心をたのしましむ事、年ありしとかや。近頃の事とや、歌を詠ながら未堂上いまだたうしやうの點を顧はざる事を頻りに歎きて、何とぞ上京せんと企けれど、もとより貧賤の者なれば、其志しのみにて朽んも殘念也とて、按摩をとり覺へて止宿の旅人の肩をもみ、夫より道中筋は按摩をとりて少しの賃錢を求めて、終に上京なして日野資枝すけき卿の亭に至り、しかじかの事をあからさまに申して切に歎きしかば、流石に雲上風雅の心より、深く其誠心を感じ給ひて、是迄よめる歌あらば可入御覧ごらんにいるべしとありし故、詠み置し歌又は道中すがらの歌を差出しければ、直しなどありし内、浦の月といへる題にて詠る和歌を深く賞翫ありしとかや。
  名にも似ず床の浦人秋くれば月に寢ぬ夜の數や增さ覧

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。久々の和歌技芸譚。
・「鄙賤の者倭歌の念願を懸し事」「鄙賤」は読みも含めて「卑賤」に同じい。「倭歌」は「和歌」。「懸し事」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「とげし事」とする。話柄から「遂げし事」を採る。
・「腰折」「腰折れ歌」のこと。上の句と下の句とがうまく繋がっていない下手な歌。通常は自作の歌の卑称。
・「樂ましむ事」ママ。カリフォルニア大学バークレー校版では正しく「楽しましむる事」とする。
・「堂上」公家。古訓で読んだ。後には「どうしょう」「どうじょう」とも読むようになった。
・「點」和歌の批評・添削。
・「日野資枝」(元文二(一七三七)年~享和元(一八〇一)年)は公家。日野家第三十六代当主。烏丸光栄の末子で日野資時の跡を継ぐ。後桜町天皇に子である資矩とともに和歌をもって仕えた。優れた歌人であり、同族の藤原貞幹さだもと・番頭土肥経平・塙保己一らに和歌を伝授した(著書に「和歌秘説」)。画才にも優れ、本居宣長へ資金援助をするなど、当代一の文化人として知られた(以上はウィキの「日野資枝」に拠った)。先に「近頃」とあり、本巻の記事下限の寛政九(一七九七)年直近とすれば、彼は六十歳代となる。
・「名にも似ず床の浦人秋くれば月に寢ぬ夜の數や增さ覧」書き直すと、
 名にも似ず床の浦人秋來れば月に寢ぬ夜の數や增さらむ
で、「床の浦」は鳥籠とこの浦。近江国鳥籠(現在の滋賀県彦根市の北東に位置する鳥居本)に近い琵琶湖の湖岸。「日本国語大辞典」によれば『鳥居本の古名を鳥籠といい、古駅が置かれ、付近まで琵琶湖が入江をつくっていたという』とあり、例文に「文明本節用集の『床浦 トコノウラ 江』を引く。「万葉集」の時代からの歌枕。以下、注釈を試みる。
――床の浦という名にも似ず……そこの浦に旅する人は……秋がくると……あまりのその美しい名月がため……床に就けぬ夜が、いや増しに増すことであろう……

■やぶちゃん現代語訳

 卑賤の者の和歌の念願を遂げし事

 東海道三島の大工の倅で、幼き頃より、稼業の大工仕事よりは和歌を詠むことを殊の外好んで、絶えず腰折れを連ねては、心を楽しましむるという塩梅、そんなていたらくで年月としつきを過ごして御座った。
 極、最近のこととか――この男――かくも和歌を詠みながらよわいを重ねながら――未だ堂上とうしょうの点を仰ぐこと、これ、叶えられぬを――日々頻りに、歎くようになって御座った。
 何としても上京せんものと企てたものの、もとより貧賤の身なれば――これ、まず路銀からして――御座ない――
 しかし、
「……心に願うばかりにて……このまま老いさらばえ、朽ち果ててしまうは……これ、残念無念じゃ!」
と、一念発起!
 男は、それから直ぐに按摩の手業てわざを習得致いて――そうして、やおら、上洛の旅に出た。
 それより――宿場宿場の旅人の肩を揉んで――道中の途次――按摩を商売と致いて僅かな日錢を稼いぎつつ――遂にめでたく、上京を果たして御座った。……
……男は――真っ直ぐに――当代の歌人として知られた日野資枝すけき卿の御屋敷門前へと至った。……
……そして、門番の者に、己れの身の上より始めて、和歌執心のこと……資枝卿御覧発願ぎょらんほつがんのこと……按摩習得と上洛のこと……等々、これ、包み隠さず述べては歎き、空を仰いで腰折れの点を仰がんことを、これ、切に願って御座った。
 門前を梃子てこでも動かぬていの男に困り果てた門番は、その訴えの仔細を含め、資枝卿へと申し上げた。すると――
――流石に、雲上風雅のみ心じゃ――卿は、その男の誠心に、そのみ心をうたれなさって、御傍の衆より、
「……これまで詠んだ歌があれば、これ、特別の御計らいにてご覧にならるる、とのことじゃ。」
と、ありがたいお言葉が伝えられて御座った。
 そこで男は、これまでの生涯で詠みおいたこれはと思う歌や上洛の道中すがら羈旅の詠歌をもしたためたものを卿に奉って御座った。
 卿は――それを手ずから点じた上――その中にても――『浦の月』――という題にて詠める和歌を――これ、殊の外、賞美なされたということで御座る。――
 その歌――
  名にも似ず床の浦人秋くれば月に寝ぬ夜の数や増さ覧



 狐痛所を外科に賴み其恩を謝せし事

 田安の御外科ぐわいれうに横尾道益といへる、親道益は長崎の産なりしが、何卒東武へ出て家業をも立んと兼て願ひしが、大願故其事遲々せしが、或る時壹人の男來りて療治を乞ひし故、其病を見しに肩に打庇ありければ、則藥を與へけるに日數過て癒ければ、厚く禮を述て金子二百疋持參せしを、道益斷りて、御身は旅の者にて難儀の由最初咄し給へば、我等施藥になしたればとて悔る事なし、旅用の費となし給へと返しければ、厚く禮を述て達て留め置給へといひしが、去にても御身はいづくの人なるやと尋ければ、彼男申けるは、今は何をかつゝみ侍らん、某は狐也、江戸市ケ谷茶の木稻荷の邊より、遙々此所へ使に來る者なるが、途中にて石瓦を打付うちつくる者有て思わぬ怪我をなしたり、御影にて快氣いたし明日は歸り侍る也、御身は江戸表へ出府の心願あれど今迄事調はざりしが、來年來り給ふ長崎奉行の因縁にて江戸へ出給ふべし、江戸へ出給はゞ市ケ谷の何屋の裏に何某といへる者、是はたのもしき者なれば、是へ便りて安危を極め給へといひて立去りぬ。不思議の事に思ひ居たりしに、翌年在勤の奉行、腫物の愁ひありて道益が療治をうけ快氣を得、江戸出を進めて翌年交替の節同伴なしける故、彼道益は馬喰町邊に落つき店など借りけるに、早速より療治も相應にありて暮しけるが、或夜の夢に彼男來りて、此所は萬全の地にあらず、一兩日の内市ケ谷へ引移り給へといひし故、げにも長崎にて彼男の言ひし事ありと、早速市ケ谷に至り彼裏店の何某尋ければ、亭主大きに驚、此程茶の木稻荷御身の事を度々の夢想也、御世話申べしとて右最寄所々承りて、龍慶橋邊へ地面を借りて道益を差置しに、程なく暫く住し馬喰町邊は火災ありて燒失しぬ。彌々彼稻荷を信じけるに、無程ほどなく田安へ被召出めしいだされ、今は心安く醫業なして有りしが、彼妻まのあたり狐と物言かわせし事を、予が知る望月氏に語りしと咄ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。定番で類話の多いポジティヴな狐狸返礼の妖異譚。
・「田安」第八代将軍吉宗次男宗武を家祖とする、将軍後嗣を出す資格を有した御三卿の一つ。田安邸は江戸城田安門内(現在の北の丸公園及び日本武道館付近)にあり、同地が田安明神(現在の築土つくど神社)の旧地であったことに由来する。共時的記述(記事下限の寛政九(一七九七)年)であるから、当時の当主は一橋徳川家二代当主徳川治済五男、第三代徳川斉匡なりまさ(安永八(一七七九)年~嘉永元(一八四八)年)。天明七(一七八七)年に田安徳川家の屋敷と領地を相続している。田安邸は彼の相続まで長く当主空席で空屋敷となっていた。
・「横尾道益」不詳。田安家侍医クラスならば名が残って当然であるが、実在の現役医師ならば仮名とし、周辺の固有名詞も誤魔化すであろう。そこをフル・ネームで出し、しかも御三卿田安家侍医と明かし、その妻の一人称的論拠まで最後に附す辺り逆に老望月氏の悪戯っぽい作り話ででもあったのかも知れない。また、ここで田安家が実名で出るのも、もしかすると、故なしとしないかも知れない。実は、永く条件を満たさなかった故に空席であった田安家に、突如、徳川斉匡の相続がなされたことには、御三家である徳川(尾張)宗睦(むねちか/むねよし)や徳川(水戸)治保の強い反発(御三卿一橋徳川家庶子の斉匡の田安家相続は御三卿を創始した吉宗の意向であった将軍庶子による相続という条件に背いていた)があった。老中松平定信は養母宝蓮院(吉宗次男で御三卿田安家初代当主徳川宗武の正室)の遺志であるなどとして説得したとされるが、こうした批判的な事実を踏まえた上での、実名配置であった可能性もないとは言えまい。とすれば、横尾道益なる医師は存在しなかった可能性が高く、寧ろ、この話は、偏えに江戸で人気の茶の木稲荷の宣伝効果を持つ話として、俄然、稲荷神社とそれを管理した八幡宮の一種の商業戦略として見直すべきであろう。
・「道益斷りて」ここで彼が「二百疋」(二千文で現在の二万円相当)の施療代を固辞した理由が本文では今一つ、明白でない。現代語訳では、そこを論理的に納得出来るよう翻案してあるので注意されたい。
・「茶の木稻荷」新宿区市谷八幡町にある太田道灌公御勧請になる江戸城西の鎮護とされる市谷亀岡八幡宮境内、石段左方中段に鎮座する茶木稲荷神社。同八幡宮公式HPの記載によれば、弘法大師の創建になり、ここ稲荷山の地主神である保食神うけもちのかみ(稲荷大神)を祀ったもので、『御祭神は、古来病気平癒に特別の信仰があります。古くから伝わるところによれば、昔この山に稲荷大神の御神使の白狐が居ましたが、ある時あやまって茶の木で目をつき、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の三ヶ日は茶を呑まない習俗がありました。特に眼病の人は一七日、或は三七日二十一日の間茶をたって願えば霊験があらたかであったと言われており、その他様々な願いが成就したということです』とある。また、『旧幕時代には、大名旗本並に遠近の士民の崇敬が篤く、御本殿・拝殿をはじめ、鳥居・石水舍・石段・玉垣・燈籠・こまいぬ等、境内の諸設備に至るまで次第に完備。境内に現存する数百年前からの金石の奉納物に刻まれた文字を見ても、武芸者・文人墨客より諸商諸工に至るまで、あらゆる方面にわたり、その地域は江戸の市内は勿論、遠方の人々も含んでおり、今にいたるご利益に対する評判の大きさが感じられます』ともある。
・「長崎奉行」先の考証から、天明七(一七八七)年着任の末吉利隆から永井直廉・平賀貞愛・高尾信福、寛政九(一七九七)年離任の中川忠英の何れかである。当時の長崎奉行は基本二人制で一年交代で江戸と長崎に詰め、毎年八月から九月頃に交替した。
・「げに」は底本のルビ。
・「龍慶橋」諸注より何より、雑司が谷散人氏の「歩いて完乗 あの頃の都電41路線散策記」の「系統番号15番 その10」を引くに若くはない。『首都高速の飯田橋入口脇を過ぎると、目白通りから後楽園方面への通りが分岐する新隆慶橋があり、そのすぐ先に隆慶橋が続きます。新隆慶橋は、数年前に架けられたばかりの新しい橋ですが、隆慶橋の方は神田川の中でも比較的古い橋といわれ、創架年代は定かではありませんが、古くは立慶橋、龍慶橋などの表記も使われました。流蛍橋と書かれた文献もあるといわれます。かつて大奥側近の右筆大橋隆慶の居宅が近かったことに因む橋名で、そもそもはこの人物の名が立慶、龍慶など様々に表記されたと伝えられます。歌舞伎や講談で隆慶橋といえば、旗本水野十郎左衛門に殺害された幡随院長兵衛の死体が流れ着いた場所としても知られます。隆慶橋の対岸側は、ここ数年の再開発ですっかり街の様相が変わり、それまで見られた小さな民家や商店の密集した都電時代からの景観は、一掃されました』とある。文句なしの完璧な「龍慶橋」解説である。
・「望月氏」根岸のニュース・ソースの一人で、特に詩歌に一家言持った人物である。「卷之四」の「聖孫其のしるしある事」「螺鈿の事」「老人へ教訓の哥の事」に登場する老儒学者と同一人物と考えてよい。この後の「卷之五」の「傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事」でも、和歌の薀蓄を述べている(「瑾」は「きず」と読ませていると思われるが、これはしばしば見られる慣用誤用で「瑾」は美しい玉の意である)。

■やぶちゃん現代語訳

 狐が打撲傷の療治を外科医に頼みその恩に深く報いた事

 田安斉匡なりまさ殿の御屋敷の、外科侍医に、横尾道益という御仁がおられる。
 同名の父道益は長崎生まれであったが――息子であった彼は、何としても天下の江戸へ出でて、外科医として華々しく開業したいもの、とかねてより願って御座ったが、資金・力量ともに大願なること故、なかなか実行に移す機会も訪れず、時はただ無為に打ち過ぎてゆくばかりで御座った。
 ある時、一人の男が来診して、彼に療治を乞うた。
 診察してみると、肩に激しい打撲傷が認められ、男も非常に痛がって御座った故、とりあえず術薬を施したところ、数日のうちに無事全快致いたによって、男は厚く礼を述べ、金子二百疋を持参した。が、道益はこれを固辞し、
「――御身は旅のお人にて、甚だ難儀なされし由、最初にお話しになられた。――故に我ら、それを聴いて――医師としての生業なりわいとして、ではなく――全くの好意によって――報酬のことなど一切考えずに、で御座る――この必ずしも至当とは思われぬ施術処方を致いて御座った。――それが思いの外、美事に快癒なされたは――これ、貴殿御自身の持っておられる、類まれなる壮健によるものと申してよろしい。――我らが施術の仕儀の故にては、これ、御座らぬ。――されば、我らが施術施薬の出費は、快癒とは必ずしも関わるものにては、これ御座らる。――さればこそ、療治のしろを頂かざることは、これ、何の悔いも――御座いませぬ。――それは、まず、旅の大事なる費用として、とって置かるるが、よろしゅう御座る。」
と答えたが、男はいっかな肯んぜず、重ねて礼を述べては、
「――いえ、たって、この金子はお受け取り下されよ――」
と引かない。
 そこで、道益は、この男、施術の初めより、ただ者とも思えずあったれば、
「……それにしても……御身は何処いずこの――ひと――にて御座るか?……あの打身も、見たことも御座らぬ、ひどいものにて……ただの打身とは、これ、思えぬもので御座ったのだが……」
とそれとなく話を向けると、かの男は、
「……先生は命の恩人なればこそ、最早、隠すべくも御座らぬ。……それがし実は――狐――にて御座る。……江戸市ヶ谷の茶の木稲荷の辺より、はるばるこの長崎まで、さる稲荷神の御使みつかいとして長崎へと参った者にて御座るが……途次、獣の姿なる我らに、無体に石瓦を打ち付ける者が御座いまして……いや、不覚にも思わぬ大怪我を致しまして御座いまする。……しかし、先生の御蔭を以て、こうして傷も癒え、快気致しました故、明日には江戸へ戻らんと存じまする。……
……時に先生……先生は江戸表へ出府なさるという心願、これ、お持ちで御座いますな……しかし乍らそれは、今まで遂に叶わずにおられた――いえ、我ら狐なれば、人の御心内を察することは、これ、容易なことにて、これ、御座る。……
……なれど――来年、こちらに来らるる新しき長崎奉行の御方との御縁に拠って――江戸へ出ずること、これ、叶いましょうぞ。……
……而して――江戸へお出での折りには――必ず、市ヶ谷の■屋の裏店うらだなの●▲という男――これは、まっこと頼もしき男なれば――この者を頼みとして、先生の――『安全と危機』を――これ、究めらるるが、よろしゅう御座いまする。……」
と徹頭徹尾、謎めいたことを独りごちて去って行った。
 道益は、
「……我らが江戸出府の心願を言い当てたことといい、……奇体なる予言の数々……最後の意味ありげなる言葉……いや、まっこと、不思議なることじゃ……。」
と思った。
 ところが――翌年のこと、着任早々の長崎奉行が腫物を病み、諸医の療治を受くるも、これ、一向思わしからず、たまたま道益の療治を受けたところが――あっと言う間に全快致いた。
 すると気をよくした奉行は――道益に江戸へ出ずることを勧める。――翌年の奉行交代の折りに――目出度く、かの奉行に伴って、念願であった江戸出府を果たすことが出来た。
 江戸に着いた道益は、まず、馬喰町辺りに落ち着いて、施療所を兼ねたおたななどを借りて早速に開業致いたところ、患者も相応にあって何とか開業医としての生業なりわいも立たんと覚えた。
――と――
――そんなある夜の夢に、かの男が来たって、
「――ここは『万全』の地にては、これ、御座らぬ。――一両日の内、市ヶ谷へ引き移られよ!――」
と告げたところで目が覚めた。
 そうして、考えた。
 すると、かの長崎での男の最後の言葉が蘇って来る。
『……江戸へお出での折りには――必ず、市ヶ谷の■屋の裏店の●▲という男――これは、まっこと頼もしき男なれば――この者を頼みとして、先生の――『安全と危機』を――これ、究めらるるが、よろしゅう御座いまする……』
「……そうじゃ!……長崎にて、かの男の言ったことを、忘れておった!……『市ヶ谷の男』……私の『安全と危機』を見究める……!……」
と、その日、早速に市ヶ谷へと赴き、件の裏店の●▲を訪ねたところが、初対面ながらも、思い切って奇体なる一部始終を語ったところが――当の亭主は、目ん玉をひん剥いて驚き、
「……いや! 実は、ここんとこ、シっきりなしに、あっしの夢に、信心しておりやす茶の木稲荷の、そのお狐さまが出て来やして! へえ、あんさんのなあの、『道益』てえなあを、これまた何度も何度も、繰りけえしてお告げになるんでござんすよ!……いや! これで、合点が参りやしたぜ! ここは一つ! あっしにお世話させておくんなせえ!」
と――その日の内に、この亭主が近隣を駆け回り、竜慶橋辺りに土地を借りると、即日、道益をそこへ引っ越させたのであった。
 ところが……移り住んで幾日も立たぬ内に……暫く住んで御座った先の馬喰町周辺は……火事が御座って丸焼け……すっかり焼け野原となって御座った。……
 道益は、いよいよ、かの茶の木稲荷への信心を厚く致いて御座ったところが、今度は、又してもほどなく――天下の御三卿田安斉匡殿の御目に留まって召し出され――
――さても今は、安泰にして、江戸にても、よう知られた名医となって御座るよ。……

 以上は、道益の妻なる者が、
「――夫道益は、まっこと、目の当たりに、その『狐』と、ものを言い交わしたので御座います。――」
と、私の知人である望月氏に直接語ったと、これはその望月氏の直談で御座る。



 毒蝶の事

 (寛政八辰年夏の頃、世上に專ら毒蝶ありて害をなすと巷説)紛々たりしが、御納戸を勤る人の由、召仕ふ者夜中座敷へ一ツの蟲出し故、取捨んと手にてえんへ投出せしに、右の手はれ痛みける故、かの巷説の毒蝶ならんと早々打殺しけるが、兼て近鄰にて右毒蝶にさゝれてなやむ者有ける故呼て見せければ、彼人のさゝれしも右蟲なるに違なしといひし故、右蟲二ツを小き箱に入て、御納戸頭を勤し大久保内膳取寄とりよせ見せける故、爰に記しぬ。もつとも御用部屋へも懸御目おめにかけ候由。
 如斯かくのごとき蟲なり。

飛ぶ時蝶にも似たるや、蝶には遠く、玉蟲に少し細く長きもの也。予が許へ來る醫師にかたりければ、斑猫はんめうの種類にて少し大きなる物ならん。萌黄もえぎ色なるを莞菁あをはんめうといひ、葛の葉に住むを葛上亭長かつじやうていちやうといひ、地中へちつしては地膽にはつゝといひ、背斑らなるを斑猫といふと醫書にもありて、いづれも毒あるとかたりける故爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:医師を主たる話者とする点で軽く連関。この本文中の改行は異例中の異例。詩歌や根岸による後の補注と思しいものでも、このような有意な量で、しかも現代の正式な完全改行冒頭行一字下げの段落構成をなしたケースは、ここまでではないものと思う。現物を見た根岸の強い好奇心の現われであり、一種の博物学者の視線とも言える。
・「(寛政八辰年夏の頃、世上に專ら毒蝶ありて害をなすと巷説)」底本の冒頭右に『(三村本)』による補訂であることが示されている。なおここで示されるのは所謂、チョウとしての「毒蝶」ではないが、ちょっと脱線すると、実際に「毒蝶」なるチョウは実在し、「ドクチョウ」はちゃんと亜科の和名タクソンである。昆虫綱鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科ドクチョウ亜科 Heliconiinae に属するチョウを総称して「ドクチョウ」と呼ぶ。新大陸特産で、南アメリカのアマゾンを中心に六〇から七〇種現生する。主にチョウを主な餌とする鳥類が嫌がる有毒物質を体内に持っており、捕食された際には体表から毒液を出し、啄まれた後でも逃走に成功することも可能である。広義にはドクチョウ亜科でなくても鳥に対して有毒な物質を持っていたり、捕食者が忌避する成分を持つチョウを「ドクチョウ」と呼ぶ。毒成分の起源は、一説には彼らの食草である双子葉植物綱キントラノオ目トケイソウ科 Passifloraceae の一種から取り込まれたものとも言われるが、未だ証明されておらず、成虫が自己の体内で合成している可能性もあると言われている。ドクチョウ亜科は現在、以下の四族に分かれる。
 ホソチョウ族 Tribe Acraeini
 ドクチョウ族 Tribe Heliconiini
 ヒョウモンチョウ族 Tribe Argynnini
 オナガタテハ族 Tribe Vagrantini
本邦にはヒョウモンチョウ族ヒョウモンチョウ属 Brenthisの数種が棲息する(以上は、主に「ぷてろんワールド ~蝶の百科事典・図鑑~」「ドクチョウ亜科(Heliconiinae)のページ」を参照させて頂いた)。但し、ドクチョウと言っても、ネット上の記載を見る限りでは、鱗翅(チョウ)目ヤガ上科ドクガ科 ドクガ Artaxa subflava の如く、人が手で触れてかぶれるといったような対人毒性はないようである。――私の好きな「ウルトラQ」の中でも特に好きな一篇である「変身」に登場したような、毒鱗粉で人を狂乱させ、巨人化させてしまう素敵な巨大毒蝶は――残念ながら実在しない。更に、鱗粉に毒を持つ種も存在せず――モスラのように華々しく羽ばたいて鱗粉が舞うということも、これ、実は、ない、のである。……実年齢を遙かに超えて生き延びた、僕らの少年の日の夢想は……梶井のように、無惨にも、こうして打ち砕かれてしまう……のである……。
・「御納戸」納戸方。将軍の衣類調度を管理し、諸侯・旗本からの献上品及び逆に彼らに賜与される金銀諸品に関する事務を司った。御納戸役。
・「大久保内膳」大久保忠寅(生没年不詳)。役職については寛政二(一七九〇)年勘定吟味役、同六年御小納戸頭を兼ね、同九年に兼役を解く、と鈴木氏の注にある。寛政九(一七九七)年当時、勘定奉行であった根岸との接点が見える。「卷之四」の「怪病の事」「氣性の者末期不思議の事」に既出。
・「御用部屋」江戸城本丸御殿にあり、大老・老中・若年寄の執務室。
・「莞菁あをはんめう」は底本のルビ。
・「地膽にはつゝ」は底本のルビ。
・「玉蟲」タマムシ類は鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Elateriformia 下目タマムシ上科タマムシ科 Buprestidae に属する。
・「斑猫」鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科 Cicindelidae に属する肉食性甲虫の総称。以下、まことしやかにこの「ハンミョウ」の毒性が医師によって語られるが、実はこれは誤りである。以下、ウィキの「ハンミョウ科」の「毒性について」から引用しておく。『漢方の生薬にある「斑猫」は、名前は同じでもかなり縁遠いツチハンミョウ科のマメハンミョウやミドリゲンセイなどを指す。これらは非常に強いカンタリジンという毒性成分を含み、国外では実際に暗殺に利用された例がある。しかし、日本では江戸時代の初期に渡来した『本草綱目』を訳した際の間違いで、ハンミョウ科のものがそれだとされてしまった。そのため、実際にハンミョウ科の昆虫の粉が忍者などが暗殺用の毒薬に使われたとも言われる。特に種としてのハンミョウはその鮮やかな色彩も相まって、いかにも毒がありそうに見えるのも、このような誤解の一因でもあろう。そのため、ハンミョウに毒があるとの誤解は長く残り、今も結構な知識人にもこの誤解を持つ人がいるという』『ハンミョウ科の昆虫には実際には毒はない。ただし大顎で噛まれるとかなり痛いので、注意しなければならないことに変わりはない』とある。この誤解は多くの本邦の本草書や寺島良安の「和漢三才図会」を初めとする博物誌(良安は「巻第五十二」の「斑猫」の項の附言で、斑猫の毒性が移っている可能性があるので食用の豆の葉はよく選び取って洗浄せねばならないとした後、夏秋になるとこの虫は田圃から街路へ飛んで来て、五、六尺飛んではとまり、とまるときはは必ず振り返ると記す。これは『無毒のハンミョウ科の別名ミチオシエ』の由来であるから大きな誤りである。その直後にも良安は本邦産の斑猫の毒は外国産の種ほどには甚だしくないなどと記しているのである)・好事家の随筆で繰り返し語られている。随筆類では、例えば座敷浪人氏の怪談現代語訳サイト「座敷浪人の壺蔵人」の『人見蕉雨「黒甜瑣語」三編巻之二「掛田の鳥」より』の「紅い鳥」が、尾ひれが鯨のそれになっている様子が見て取れる。未だに謂われなきハンミョウの冤罪――これは是が非でも雪がねばなるまい。
・「莞菁あをはんめう」鞘翅(コウチュウ)目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科アオハンミョウ(青斑猫)Litta vesicatoria。「莞菁」(芫青)は「ゲンセイ」と読み、英名 spanish fly と称する毒物カンタリス(cantharis 英名:cantharide)である。以下に示す日本産マメハンミョウ(豆斑猫)Epicauta gorhami や中国産のオビゲンセイ属 Mylabris の体内に一%程度含まれ、乾燥したものはカンタリジンを〇・六%以上含む。不快な刺激臭を持ち、味は僅かに辛い。本品の粉末は皮膚の柔らかい部分又は粘膜に付着すると激しい掻痒感を引き起こし、赤く腫れて水疱を生ずる。発疱薬(皮膚刺激薬)として外用されるが、毒性が強いために通常は内用しない(利尿剤として内服された例もあるが腎障害の副作用がある)。なお、カンタリジンは以前、一種の媚薬(催淫剤)として使われてきた歴史がある(以上は信頼出来る医薬関連サイトを参考にした)。以下、ウィキの「スパニッシュ・フライ」の記載から引用する。このスパニッシュ・フライの類を『間が摂取するとカンタリジンが尿中に排泄される過程で尿道の血管を拡張させて充血を起こす。この症状が性的興奮に似るため、西洋では催淫剤として用いられてきた。歴史は深く、ヒポクラテスまで遡ることができる。「サド侯爵」マルキ・ド・サドは売春婦たちにこのスパニッシュフライを摂取させたとして毒殺の疑いで法廷に立った事がある』と記す(なお、サドはそれで死刑宣告を受け投獄、フランス革命によって一時釈放されたが、ナポレオンによって狂人の烙印を押されてシャラントン精神病院に収監、そこで没している)。
 さて――冤罪の弁護をしっかりしよう。――これを含めた以下三種のタクソンをしっかりと覚えて戴きたい。
先の冤罪である毒のない――「真正ハンミョウ」類――は、
〇オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科 Cicindelidae に属する「ハンミョウ」類
であるのに対し、
これら三種のカンタリジンを含有する――「毒虫ハンミョウ」類――は、
×ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae に属する「ハンミョウ」類
であって、二つの種群は生物学的には縁遠い種群であることが分かる。なお、これらの医師の解説はすべて李時珍の「本草綱目」に拠るもので、「芫靑虫」については二月から三月、芫花いわふじ(双子葉植物綱マメ目マメ科コマツナギ(インディゴフェラ)属ニワフジ Indigofera decora。イワフジとも。「和漢三才図会」では毒草部に入れるが、ネット上では有毒の記載は見当たらない。恐らくは有毒なアオハンミョウからの共感誤認と考えられる。)の上に棲息し、色は鮮やかな青緑色で、背に一筋の黄色い文様、尖った喙を持ち、毒は最も甚だしい、とある。但し、「背に黄色い文様」とは本種の特徴ではない(これを含む以下の「本草綱目」の記載は、「和漢三才図会」の「巻第五十二」の良安の引用記載に拠った。和訓部分もそれに拠る)。
・「葛上亭長かつじやうていちやう」ツチハンミョウ科ツチハンミョウ亜科マメハンミョウ Epicauta gorhami。「本草綱目」には、五月から六月葛の葉の上に棲息し、黒身赤頭、渡し場の亭長の玄衣(黒い衣服)に赤帽というスタイルに似ている、と漢名の由来を記す。これは本種の特徴をよく捉えている。勿論、有毒とする。
・「地膽にはつゝ」ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidae に属するツチハンミョウ類の総称で、代表的な本邦種としてはマルクビツチハンミョウ Meloe corvinus が知られる。「本草綱目」には、これは斑猫が冬に入蟄(穴籠り)したものと記し、大きな馬蟻(クロアリ)のようで翼を有し、色は膽(胆)のようで(動物の内臓のぬらぬらとした青黒さを言うのであろう)、黒頭赤尾、地中や垣根の石の中に潜む。その毒と薬効は斑猫のそれと似ている、とする。ヒメツチハンミョウ Meloe coarctatus は正に大型の綺麗な蟻のような甲虫との記載があり、ムラサキオオツチハンミョウ Maloe violaceus に至っては二十五センチメートルになんなんとする大型種もいる。但し、「赤尾」は本種群の共通特徴ではない。
・「如斯かくのごとき蟲なり」附図があるが、岩波版はシルエットで大きく異なるので、まず本文の方に底本の図を直後に(本文は実際には以下繋がっている)、現代語訳の方に岩波のカリフォルニア大学バークレー校版シルエット画像を示す。底本の図はどうみてもツチハンミョウ科 Meloidae の一種には見えない。杜撰な模写で、そもそも特徴的なはずの頭部と胸部の腹部に対する有意なくびれ(これが異なった類でありながらハンミョウ科 Cicindelidae とツチハンミョウ科 Meloidae に共通するお洒落なスタイルである)が全く認められない。まるで文字通り、タマムシ若しくはゴキブリかタガメのようである。おまけに顔も――思いっきり――とぼけているではないか。寧ろ、バークレー校版のシルエット画像の方が、そのくびれを有意に感じさせ、また拡大して見てみると触角らしきものが描かれており(ヒメツチハンミョウ等では独特のホンダワラのような楕円形の多節構造を呈する)、こちらの方が遙かにツチハンミョウ科の一種を感じさせるリアルな図と言えるように思われる。
・「玉蟲に少し細く長きもの也」は鋭い観察で、本種がツチハンミョウ科の、例えば金属光沢のある深い青色の美しい体色を示すヒメツチハンミョウ Meloe coarctatus などは、かく表現してしっくりくるように私には思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 毒蝶の事

 寛政八年辰年の春、世間に毒蝶が現われて害をなすとの専らの噂で、江戸市中は、まさに巷説紛々という有様であった。
 御納戸方を勤めて御座った人の由。
 かの御仁の召し使つこうていた者が、夜中、座敷に虫が一匹這い出てきたのを見つけたため、捨てようと手に取って縁側へと抛り投げたところ、取ったその右手が、即座にひどく爛れて痛みも伴って腫れあがり、
「……こ、これこそ、か、かの巷説の、ど、ど、毒蝶に、違いない!……」
と、庭先に飛び降りるやいなや、すぐさま、先に虫を踏み殺したという。
 かねてより、近隣の者で、この毒蝶に刺されて病んだことがあるという者が御座った故、早速に呼に出だし、自分の右腕の患部と踏み殺した虫の死骸を見せたところ、その男は、
「――我らが刺されたも、この虫に相違ない!――」
とのことであった。
 そこで、この下男――同時に今一つ見つけて叩き殺した一匹と合わせ――その虫の死骸二つを小さな箱に入れて、主人へ報告がてら差し上げ、そこから、当時、御納戸頭を勤めて御座った大久保内膳忠寅殿が噂を聴き、その御納戸役の御方より特にお取り寄せになられた。私も現物を見せられたので、特にここに記しおく。御用部屋へも御目通り、これ、あった由に聞き及んで御座る。

《根岸鎭衞の観察及び附図・識者附言》
〇この虫は以下の如き虫形を成している(以下に図を示す)。

〇本種は巷説では「毒蝶」と呼称されている。私は実見したわけではないので推測に過ぎないが、本種の飛翔の様態は、蝶のそれに類似してでもいるのであろうか。但し、標本を見る限りに於いては蝶というには程遠く、寧ろ、玉虫をやや細く、また、長くさせたような虫形である。
〇以下、私の元へしばしば訪れる医師に本件について助言を願ったところ、いかのような知見を得たので、その内容をも転記しておく。
・標本の二匹はともに、斑猫はんみょうと呼ばれる昆虫の一種である。
・当該個体はハンミョウ類の中でもやや大きめの種である。
・「本草綱目」に拠れば、以下の三種が斑猫類の代表種で、
 ①本体が萌黄色を呈する種  芫青げんせい
 ②葛の葉に棲息する種    葛上亭長かつじょうていちょう
 ③地中に棲息する種     地胆ちたん
に分類し、それぞれをかくの如く呼称している。
・これらとその類似種を総称するところの「斑猫」という名は『背にまだら模様のあるものを斑猫という』と医書にも記載があり、何れも有毒である。
   以上。



 三嶋の旅籠屋和歌の事

 いつの頃にやありけん、京家きやうけ雜掌ざつしやう江戸へ下るとて三嶋の驛に泊りしに、右旅泊の宿、めし湯の拵へすとて殊の外かまどの煙り籠りていぶせきを、彼雜掌叱り咎めければ、あるじかく詠ておくりし、
  賑しきためしにゆるせしばしばも眞柴の煙り絶ぬ宿りを
彼雜草奇特のよしは答へしが、和歌には疎くありけるや返歌もなかりしとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。三つ前の「鄙賤の者倭歌の念願を懸し事」の和歌譚で連関。
・「旅籠屋」は「はたごや」と読む。
・「雜掌」公家や武家に仕えて雑務従事者。
・「賑しきためしにゆるせしばしばも眞柴の煙り絶ぬ宿りを」読み易くすると、
 にぎはしきためしに許せしばしばも眞柴ましばの煙り絶えぬ宿りを
「ためし」は好個の例。「しばしば」は副詞「頻りに」の意と次に出る「柴」の掛詞で、薪などに用いる雑木である「眞柴」(「眞」は美称の接頭語)も、「増し」(益々繁盛する)を掛けていよう。
――お蔭さまにて、よき旅籠はたごとして繁盛致しておりまする例しなればこそ、どうか、お許し下されませ……かくもしばしば真柴ましば焚く、その煙りの絶えぬ、この宿りを――
・「奇特」は「きとく」「きどく」と読み、言行や心懸けなどが優れ、褒めるに値するさまを言う。

■やぶちゃん現代語訳

 三島宿の旅籠屋主人和歌の事

 いつの頃の話で御座ったろう――京の御公家の雑掌ざっしょう、主人公事くじがために江戸へ下る途次、三島の駅に泊まったところ――暖簾をくぐったのが宵前なれば――旅籠はたご内にては煮炊きやら湯屋ゆうやの支度致さんとて、殊の外、竈のけぶり、これ、籠って噎せ返るほどの煙たさであった。――それがまた、座敷内まで流れ入ってえも言われぬ有様であったが故――この雑掌、宿の者を叱り飛ばし、厳しい口調で咎め立て致いた。
 すると、それを聴いた宿の亭主が、かく歌を詠んで、雑掌の元へと詫びのふみを送った。
  賑しきためしにゆるせしばしばも眞柴の煙り絶ぬ宿りを
 これを読んだかの雑掌――流石に公家の雑掌なればこそ――
「――ようでけて、おじゃる。――」
とは答えたものの……己れ自身は和歌には疎くて御座ったものか……遂に返歌も御座らなんだとのことで『おじゃる』。



 神隱しといふ類ひある事
  
 下谷德大寺前といへる所に大工ありて、渠が倅十八九歳にも成けるが、當辰の盆十四日の事なる由、葛西邊に上手の大工拵たる寺の門あるを見んとて、宿を立出しが行衞なく歸らざりし故、兩親の驚き大かたならず、近隣の知音ちいんを催し鉦太鼓にて尋しがしれざりしに、隣町の者江の嶋へ參詣して、社壇におゐて彼者を見懸し故、いづちへ行しや、兩親の尋搜す事も大方ならずと申ければ、葛西邊の門の細工を見んとて宿を立出しが、爰はいづくなるやと尋ける故、江の嶋なる由を申けれど甚眩忘はなはだげんばうの樣子故、別當の方へ伴ひしかじかの樣子を語り、早速親元へ知らせ迎ひをさし越べき間、夫迄預り給はるべしと賴みて、彼者立歸りて兩親へ告し故、悦びて早速迎ひを立し由。不思議なるは彼者の伯父にて大工渡世せる親の爲には弟なる者、是も十八九歳にていづち行けん不知故、所々尋けれど是はつひに其行衞わからざりし間、一しほ此度も兩親愁ひなげきし由也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。九つ前の「貮拾年を經て歸りし者の事」と直連関。この手の神隠し物は以前の巻にもしばしば見られ、根岸の好きな話柄である。失踪間の記憶をごっそり欠落させている重い部分健忘であるが、最後の叙述が気になる。彼の家系には記憶障害を引き起こす遺伝的な内因性素因がある可能性があるからである。記憶障害自体が乖離障害であるが、彼の場合、内因性乖離性同一性障害若しくは器質的な先天的脳障害の疑いを持つべきであり(失踪した伯父のケースでも全く同年の同様の症状を発症している)、だとすると、彼の失踪は今後もたびたび繰り返される虞れがあるからである。
・「下谷德大寺」底本には『(尊經閤本「光德寺」)』と傍注し、更に鈴木氏は注で何れも誤りで、『広徳寺が正。』とする。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では正しく『広徳寺』であり、現代語訳でも訂した。東京都台東区東浅草二丁目(浅草寺の北方)にある天文二一(一五五二)年創建とする臨済宗寺院。鈴木氏注に広徳寺門前町は『同寺南側の道路に沿った辺』りとし、ここではたまたま、この寺ではない寺の門が話題となっているが、この『広徳寺の門は寸足らずの門として有名で、』「どういうもんだ広徳寺の門だ」という言い回しが用いられるほどであったが、『関東大震災で焼失した』とある。
・「當辰」寛政八(一七九六)年。共時的現在時制的叙述である。
・「葛西邊に上手の大工拵たる寺の門ある」広義の「葛西」は武蔵国葛飾郡を指し、現在の東京都墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区の地域を含む。現在の葛西は、もっと限定され、東京都江戸川区南部の旧東京府南葛飾郡葛西村を中心とする地を示す。岩波版の長谷川氏はこれを現在の葛飾区と採っておられる(鈴木氏は江戸川区葛西一~三丁目とする)。ならば、と人によっては寅さんで印象的な柴又帝釈天、日蓮宗経栄山題経寺だいきょうじの山門を俄然思い出されるかたもあろう(私もそうであった)。しかし残念ながら、あの屋根に唐破風と千鳥破風を付し柱上のぬきなどに浮き彫りの装飾彫刻を施した名門は明治二九(一八九六)年の建立で、江戸当時はなかったのであった。
・「眩忘」「日本国語大辞典」に、目がくらみ、正気を失うこと、とあり、例文に正に本話が引かれている。
・「別當の方」江島神社の総別当で宿坊であった岩本院。詳しくは私の「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「江島總説」及び「別當岩本院」の項を参照されたい。
・「鉦太鼓にて尋しが」ドラマなどでしばしば見られる光景であるが、これは神隠しや行方不明が発生した際の一種の捜索を兼ねた呪術的な儀礼であり――鉦や太鼓の音が遠くまで届いて失踪者の耳に入るという、プラグマティックな期待をも当然孕みながらも――私は失踪者を一種の離魂現象として捉え、幽体離脱という異界(失踪・神隠し)から、正常な世界に戻す(帰還させる)ための魂呼びの効果を、この音や行為は持っていたのではないかと考えるものである。私がそう考えるのはネット上の記載の中に、鉦太鼓を叩いて回るのはある特定のルートとする記載があり、それだと捜索の実用性が著しく減ずるからである。寧ろ、神主などの呪術者の占いによって示された、結界としての正当な神によって守られた道(捜索者自身のミイラ取りがミイラになるのを防ぐ役割)をイニシエーションとして通過することで、その後の捜索のための霊力を捜索者たち自身が身に着ける行為ででもあったのかも知れない。――ともかくも私はあの鉦太鼓の道中が妙に好きなのである。他の見解などあれば、識者の御教授を乞いたいものである。

■やぶちゃん現代語訳

 神隠しという類いが実際にあるという事

 下谷広徳寺前とかに大工が住んでおり、彼の倅は十八、九歳になる。
 今年、寛政八年の盆十四日のことであるらしい。
「葛西辺に、腕のいい大工が拵えた寺の門があるというんで、一つ、見に行ってくるわ。」と言って、家を出て行ったきり、その儘、行方知れずとなった。
 両親の驚嘆、これ、一方ひとかたならず、近隣の知れる人々に声を掛け、鉦太鼓を打ち鳴らしては探し回ったものの、行方はようとして知れぬ。

 ところが、それから暫くして、隣町の、失踪した倅の知人が、たまたま江ノ島へ参詣した。
 すると――なんと、その江の島の弁天様の社壇に――ぼぅーと立ち竦んでいる――かの子倅を見出だした。
「……て、てめえ! 一体、何処をほっつき歩いてたんでえ?! てめえの両親うちは、あっちこっち捜し回って、そりゃもう、てえへんな騒ぎだったんだぜい!」
と質いたところ、
「……葛西……辺りにある……寺の門の……細工を……見ようと思うて……うちを出た…………ここは…………何処どこ、じゃ?……」
と逆に訊ねる始末。思わず、
「……江の島に決まってんだろが!……」
と怒鳴り散らした。
 ところが彼は……
……とろんとした目……
……呆けた口元は正気をうしのうた、というばかりでなく……
……失踪しておった間の記憶も……
……どうも、これ……
……全く、ない……
といった風情故、とりあえず、神社の下にある別当岩本院方へと伴い、別当の僧には、しかじかの訳を語った上、
「……という次第で御座んす。……早速、親元へ知らせ、迎えを寄越すよう手筈致しやすんで……そのぅ、一つ、このボンクラ、それまで預かりおいて下さりやせんか?」
と頼みおいた。
 男は急遽、広徳寺門前の親元へと馳せ参じ、倅発見の報を告げた。
 両親は喜んで早速、迎えを立て、倅は無事、帰参を果たしたのであった。

 最後に。
 ここに、今一つの、不思議が御座る。
 ――その神隠しに遇った倅の伯父で、大工を生業なりわいと致いておる彼の父親てておやの弟に当たる者、これも以前――全く同じ十八、九歳の折り――同じく、何処いずこへ参ったものやら、これ、分からずになった――というのである。
 本件同様、方々探し尋ねたものの……但し、これは……遂に行方が知れぬまま……今に至っておるとのことで御座る。

 さればこそ、この度の倅失踪の間も、両親は内心、
「……この度も……また……」
と半ば望みをうしのうて、殊の外、愁い歎いておった由に御座る。



 菊蟲の事

 攝州岸和田の侍屋敷の井戸より、寛政七年の比夥しく靈蟲出て飛馳とびはせりしを捕へ見れば、玉蟲こがね蟲の樣成やうなる形にて、巨細こさいに蟲眼鏡にて是を見れば、女の形にて手を後ろ手にしてありし由。素外そがいと云る俳諧の宗匠行脚の時、一ツニツ懷にして江府かうふへ來り知音の者に見せけるを、予が許へ來る者も顯然と見たる由かたりぬ。信當といへる宗匠も一ツ貰ひて仕廻置しまはしおき、翌とらの春人に見せるとて取出しけるに、蝶と化して飛行しと也。右は元祿の比靑山家尼ケ崎在城の時、右家士に喜多玄蕃きたげんばといひて家藏少からず給りし者の妻、甚妬毒はなはだとどくふかく、菊といへる女を玄蕃心を懸て召仕ひしを憤りて、食椀めしわんの中にひそかに針を入て右菊に配膳させしを、玄蕃しかゝりて大に怒りければ、菊が仕業なる由彼妻讒言せし故、玄事情なくも菊を縛りて古井戸へ逆さまに打込み殺しけるより、下女の母も聞て倶に右井戸の内へ入て死せし由。其後右玄蕃が家は絶しとかや。今は領主もかわりて年經けるが、去年は百年忌にあたりしが、怨念の殘りて靈蟲と變じけるや。播州皿屋敷といへる淨瑠璃などありしが、右の事にもとづき作りけるやと、彼物語せし人の申き。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。三つ前の「毒蝶の事」の昆虫譚で連関。播州姫路を舞台とする「播州皿屋敷」、江戸番町を舞台とする「番町皿屋敷」及びそれを素材とする浄瑠璃・歌舞伎などで人口に膾炙する、お菊という女の亡霊が皿を数える皿屋敷怪談の類話で、亡魂化生の後日譚。特定原話は確認されていないが、皿屋敷譚の基本形及びそのヴァリエーションはウィキの「皿屋敷」に詳しい。よく知られた話でもあり、本話はまた、四つ後の「菊蟲再談の事」でも分かるように、同怪異譚の本筋ではなく、霊虫としてのお菊虫が専らターゲットになった面白い採録である。なお、カッチンカチャリコズンバラリン氏のブログ「怪談をゆく」の「怪道vol.54 播州お菊めぐり(下)」の堤邦彦講演の記録によれば、『お菊虫の伝承は関西圏を中心とした西日本に分布が見られるが、関東圏では全くな』く、それらが「桃山人夜話」『のような関西系の画家が描くものと、江戸の北斎や月岡芳年が描くものとの差になっているのだろう』という見解が示されていて、興味深い。
・「菊蟲」は一般にチョウ目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科キシタアゲハ族ジャコウアゲハ Byasa alcinous の蛹を指す。本文にもある通り、その形状が後ろ手に縛られた女性のような姿をしていることに由来する。従って「飛馳りし」や「玉蟲こがね蟲の樣成形という冒頭の記載は不審である。勿論、飛ばないし、タマムシやコガネムシにその色や形状は全く似ていない。後の「菊蟲再談の事」の記載(『前に聞し形とは少し違ひて』とある)で分かるように、こちら記載時には、根岸は現物を見ておらず、ここは伝聞による誤記載と考えてよい(再談は実見による補正記事である)。
・「攝州岸和田」現在の大阪府岸和田市であるが、岸和田は摂津国ではなく、和泉国であるから泉州でなくてはおかしい。訳では訂した。
・「寛政七年」西暦一七九五年。この年にお菊虫が大発生した記載は多く、岩波版長谷川氏注には「譚海」の十をまず挙げ、底本の鈴木氏注では、太田南畝の「石楠堂せきなんどう随筆」(寛政一二(一八〇〇)年~享和元(一八〇一)年筆)に、その虫を『尼ヶ崎藩家老木田玄蕃が殺した下婢菊の亡魂』の化生とし、『約百年後の寛政七年夏に、お菊が投身した』(「投身」とあるのは「番町皿屋敷」系の自殺説を採っている)『廃井から、女が裸体で縛られた形の小虫がおびただしく出て、木の葉や細枝について死んだとあ』り(蛹化から羽化を死んだと誤認したか若しくは大発生による餌不足や病気などによるか)、『本書に岸和田とあるのと異なる』とし、更に幕末の大坂の人気戯作者暁鐘成あかつきかねなりの随筆自画集「雲錦随筆」(文久二(一八六二)年刊)の二を以下のように引用されている。『寛政七年卯どしお菊虫といひてもてはやせり。世俗にお菊の年忌毎に出づると言へり。是れ妄誕の甚しきなり。漢名を蛹といふて、毛虫などの蝶にならんとする前に、先づかくの形に変れり。蚕もこれに同じ、何処にも多き物なり。必ず迷ふべからず』これは完全変態まで説明して素晴らしい。最後に氏は、『もともとお菊という名が、下級の信仰宣布に携わる女性名である点に問題の所在があるとする説もある』と記されている。これは恐らく折口信夫の仮説で、本邦に於いて虐殺される女性の名には「おきく」という名が多いとし、御霊信仰や白山信仰、井戸―水―おきくの関連を示唆している。なお、長谷川氏の注には「譚海」と「石楠堂随筆」の発生現場を尼ヶ崎の源正院境内の廃井とするとあり、「譚海」を確認したが、確かに「源正院」とある。しかし、現在、尼ヶ崎に源正院という寺はない。ところが、これについては、私の小学生の時からの愛読書である今野圓輔氏の「日本怪談集―幽霊編―」の「第六章 浮かばれざる霊」に、には、三田村鳶魚「江戸ばなし」(昭和四一(一九六六)年青蛙房刊)から引用してお菊を死に追いやった『木田は改易になった。その屋敷は妖怪の崇りを恐れて誰も住む者もない』。『やがて青山家は国替えになって松平遠州侯が来られ、新しい尼ヶ崎侯は木田の廃宅へ源正院という菩提所を建てられたので、怨霊も仏化を蒙ったとみえて、その後は怪しい事もなかったが、源正院の地中へは菊を植えても花が咲かない』。『寛政七年の夏に至り、木田の旧邸の廃井から、女が裸体で縛られた様をした小虫がおびただしく出て、木の葉や細い柄について死んでいる。それを寺僧が不思議がって城主に獻上した』という叙述を発見した。問題はこの『松平遠州侯が来られ、新しい尼ヶ崎侯は木田の廃宅へ源正院という菩提所を建てられた』という部分である。松平遠州侯とは松平忠喬ただたか(天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のことで、正徳元(一七一一)年尼崎に入封し、先代忠倶の菩提を弔うために尼ヶ崎大物町に「深正院じんしょういん」という浄土宗の寺を建立している。そこで調べると、ドンピシャリ、山神一子氏の「尼の散歩道」によって、これが因縁の井戸のある寺の正しい名であることが判明した。リンク先をご覧あれ。
・「靈蟲」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『異虫』とする。総てを数え上げることはしないが、本話はバークレー校版とでは文字の異同が多い。
・「素外」谷素外たにそがい(享保二(一七一七)年~文化六(一八〇九)年)。俳人。談林派七世。一陽井と号す。本姓は池田で大阪鰻谷の商家出身。建部綾足の門下で俳諧を学び、後に江戸に出て談林派に転じて七世宗家を継いだ。摂津尼崎藩第三代藩主松平忠告ただつぐなど、多くの門人を育てて寛政期の文化に大きな影響を与えた。日本浮世絵博物館旧館長酒井藤吉氏は東洲斎写楽の正体の一人とする説を唱えておられる(以上はウィキの「谷素外」に拠る)。
・「翌とらの春」寛政八(一七九六)年の春ということになるが、寛政八年の干支は丙辰きのとたつで、寛政の寅年は前年である。こうした話柄で干支を誤るのは偽説の謗りを免れなくなるので、根岸のために訳では「辰」に訂した。
・「信當」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『津富』とする。不詳。
・「仕廻置」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『仕舞置』とするのを採る。
・「元祿の比」岩波版長谷川氏注に、先に掲げた「譚海」「石楠花堂随筆」『に元禄九年』(西暦一六九四年)『とする。以下の話は玄蕃妻の妬心以外は右二書にほぼ同じ。喜多を木田とする』とある。
・「靑山家」当時の藩主は第三代青山幸督よしまさ(寛文五(一六六五)年~宝永七年(一七一〇)年)。青山家は幸督長男で第四代藩主幸秀よしひでの時、宝永八(一七一一)年、信濃飯山藩に移封となっている。
・「播州皿屋敷」まず、ウィキの「皿屋敷」より原話について引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。
『播州における皿屋敷伝説を代表するものとして『播州皿屋敷実録』が挙げられる。この筆者は明らかではない』。『永正年間(つまり現在の姫路城が出来る前)、姫路城第九代城主小寺則職の家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る。乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四朗に調査するように命令した。程なく弾四朗は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四朗は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四朗は、お菊が管理を委任されていた十枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後三百年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる』(「永正年間」は西暦一五〇四年から一五二一年で、その「三百年後」となると、本話柄より少し後の文化元・享和四(一八〇四)年から文政四(一八二一)年に相当)。『バリエーションとして以下のような物もある。
お菊は衣笠元信なる忠臣の妾で、鉄山を討ったのは衣笠であったというもの。
お菊は船瀬三平なる忠臣の妻で、お菊の呪いが鉄山を滅ぼしたというもの。
お菊の最後の姿に似た「お菊虫」なる怪物によって鉄山が殺されたというもの。
これは小寺・青山の対立という史実を元に脚色された物と考えられている。しかし登場人物の没年や続柄などにおいて史実との矛盾が多く、『姫路城史』では好事家の戯作であると指摘している』。『他にも、播州佐用郡の春名忠成による『西播怪談実記』(一七五四年(宝暦四年))や姫路同心町の福本勇次(村翁)編纂の『村翁夜話集』(天明年間)などに同様の話が記されている』。『姫路城の本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する』(そして以下に本話柄と関連する記事が現われる)。『お菊虫の元になったのは一七九五年に大量発生したジャコウアゲハのサナギではないかと考えられている。サナギの外見が女性が後ろ手に縛り上げられた姿を連想させることによる』(一七九五年は正に寛政七年)。『このことと、最初の姫路藩主池田氏の家紋が平家由来の揚羽蝶であることとにちなんで、姫路市では一九八九年にジャコウアゲハを市蝶として定めた』。『また十二所神社では戦前に「お菊虫」と称してジャコウアゲハのサナギを箱に収めて土産物として売っていたことがあり』、志賀直哉の「暗夜行路」『にも主人公がお菊虫を買い求めるくだりがある』とある。
 因みに、この「暗夜行路」の下りというのは前篇の「第二」の「九」で、京都へ出向く時任謙作が急行待ちで降りた姫路で、休息のために停車場前の宿屋を借り、俥を飛ばして白鷺城を見物した後のシーンに現れる。帰り道、車夫は彼を十二所前町の十二所神社、通称お菊神社へ連れて行く(引用は岩波版新書版全集に拠った)。
彼はお菊神社といふのに連れて行かれた。もう夜だつた。彼は歩いて暗い境内を只一ト𢌞りして、其處を出た。お菊蟲きくむしといふ、お菊の怨霊をんりやうの蟲になつたものが、毎年まいねん秋の末になると境内の木の枝に下るといふやうな話をした。
 明珍みやうちんの火箸は宿で賣ると聞いて、彼は其儘俥を宿の方へ引き返さした。彼は宿屋で何本かの火箸と、お菊蟲とを買つた。その蟲に就いては口紅をつけたお菊が後手うしろでに縛られて、釣下つるさげられた所だと番頭が説明した。
「明珍の火箸」(姫路藩十九世紀頃の姫路藩主酒井家などに仕えていた明珍家(知られた甲冑師一族)が作り始めた火箸。姫路の名産であったが、火箸の需要がなくなった現在ではこれを利用した風鈴が新名産となっている)は出がけにお榮(謙作の実父である祖父の愛人で、祖父の死後、謙作と同居して家事の世話をしている女性)から頼まれたもの。この叙述で面白いのは謙作が自発的にお菊虫を買っていること、謙作の見るお菊虫には本作の描く女性観が反映されていると思われること、更に、当時は姫路市内のいろいろな場所で名産として「お菊虫」が販売されていた事実である。
 浄瑠璃の「播州皿屋敷」為永太郎兵衛・浅田一鳥作で、寛保元(一七四一)年に大坂豊竹座で初演され、大当たりとなった。定番怪談として人口に膾炙する皿屋敷物の嚆矢と言える。内容は皿屋敷の怪異譚に細川家の御家騒動を絡ませて潤色したもの。岩波版長谷川氏は更に、菊岡沾凉せんりようの江戸地誌「江戸砂子」(享保一七(一七三二)年)の一に『牛込御門内の皿屋敷の伝えをのせ、番町皿屋敷の早期の所出』とする、番町皿屋敷の梗概は……これ以上、注していると何時まで経っても現代語訳が出来ない。各自でウィキの「皿屋敷」などを参照されたい。

■やぶちゃん現代語訳

 菊虫の事

 寛政七年の頃、和泉国岸和田の武家屋敷の井戸より、妖しき虫が夥しく発生、辺りを飛び回るのを捕らえてみると、玉虫か黄金虫のようなる形の虫にして、虫眼鏡を用いて細部を観察してみると、それは女の姿形にそっくりで、しかも手を後ろ手に縛られた格好に酷似しているとの由。
 素外そがいという俳諧の宗匠が、行脚の途次、当地岸和田にて見つけ、一つ二つ、懐にして江戸へ持ち来たったものを、知れる者に見せたのであるが、その連中の中に私の許へ来たる者も御座って、
「……確かに文字通り、そうした形のものにて……我ら、はっきりと見申した。……」
と語って御座った。
 他に、その場にあった津当しんとうと申す宗匠は、この中の一つを素外より貰い受けて仕舞って置いたところが、翌寛政八年の春、人に見せんとて取り出して蓋を開けたところが、中で蝶と化して御座って、そのまま飛び去ったとのこと。

「――時に、この虫に就いては、ある因縁話が御座る。……」
と、以上の話を伝えた者が付け加えた。

……元禄の頃、青山家が尼ヶ崎御在城の折り、かの家臣に喜多玄蕃きたげんばと申して、相応の家禄を賜っておった者が御座いましたが、その妻、これ、甚だ嫉妬深く、菊と申す小女を玄蕃が目を懸けて御座ったを、殊の外憤り、この菊を陥れんがため、主人の飯椀めしわんの内に密かに針を忍ばせ、これを菊に配膳させたので御座います。
 危うく食べかけた玄蕃は、怒髪天を衝く勢い。すかさず、妻が、
「……かくかくのことにて……これはもう、菊の仕業に相違御座いませぬ!」
と、玄蕃の気違い染みた怒りを逆なでするような、巧妙なる讒言を致しました故、
……玄蕃は非情にも、菊を荒縄にて縛りつけた上……
……古井戸へ逆さに打ち込んで……
……これを、殺して、しもうたので御座います……。
 また、これを伝え聞いた、屋敷内の長屋に御座った、菊の母ごぜも……
……後を追って……
……同じ古井戸へ……
……身を投げて、死んで、しもうたので御座います……。
 その後、かの玄蕃が家は――立て続けに妖しき怪事と不可解なる不幸が、これ、たび重なり――遂には――絶えたとか。……
 さても今は、御領主様もお代わりになられ、年も経て御座いますが……
……去年は……
……その菊の……
……丁度、百年忌に当たって御座いまして、の……
……菊の……
……怨念……
……これ、百年経った今となっても……
……未だ残って御座って……
……この妖しき虫と変じた……
……とでも……申すので、御座いましょうか……
 「播州皿屋敷」と申す浄瑠璃が御座いますが、あれも、この話を元と致いて創ったものででも御座いましょうかのぅ……



 怪異の事

 下總國關宿せきやどに大木の松杉ありしが、享保の頃とかや、一夜のうちに二本の木を梢へに結び合せ置しと也。俗にいふ天狗などいへる者のなしけるにや。今に殘りあると彼城主に勤し者の物語り也。

□やぶちゃん注
○前項連関:虫から松杉へ異類怪異譚で連関。所謂、白居易の「長恨歌」で知られる、連理の枝、連理木である。二本の樹木の枝若しくは一本の樹木の分かれた枝が再び癒着結合したものも言う。自然界においては少なからず見られる現象で、比翼の鳥のようにあり得ない現象ではない。特に一つの枝が他の枝と連なって癒着し、綺麗な木目が生じたものが祥瑞として縁結び・夫婦和合の信仰対象となってきた。同木及び近接した同種間ではしばしば起こり、単に支え合う形で繋がって見えるケースも含め、各地で霊木とされる。異なった品種間でも起こるが、このケースのようにマツ目マツ科マツ Pinus の類とマツ目とは言うもののヒノキ科スギ亜科スギ属である Cryptomeria japonica とが、しかも一夜のうちに連理化するというのはあり得ない。天狗ではないことを好む何者かが、人為的に柔らかな小枝を正に「結び合せ置」いた、それが枯れ腐らずに、両木ともに成長し、互いの枝の間の間隙が枯葉や砂埃によって充塡されて、連理状に見えて残ったものと考えられる。勿論、そうした現象が自然的に発生することもあり得ないとは言えない(しばしば伝わる石割松の方が、石から松が生えたようで現象的に見れば、昔の人にはもっと奇異であったろう)。ただの悪戯というより、それが客寄せとなれば、当時の経済効果は計り知れない。土地の人々が一様にグルとなって行った企略であった――などと考えると、想像される前後のシチュエーションも楽しめるではないか。なお、本話はまじない系の記載を除くと、「耳嚢」の中でも極めてあっさりと書き成したところの、奇譚の最短話と言ってよいであろう。
・「下總國關宿」関宿町せきやどまち。千葉県の最北に位置し、旧東葛飾郡に属していた。町の北端は利根川と江戸川の分流点に近く(利根川水系の治水と水運を目的に江戸初期に行われた利根川東遷事業によるもの)、水運の要衝として栄えた。平成一五(二〇〇三)年に野田市に編入。
・「城主」関宿藩の城主は話柄の享保当時から幕末まで久世氏。根岸のニュース・ソースで旗本の勘定奉行・関東郡代の久世広民は名前から見て(久世家当主は歴代「広」の字を名に含む)、この久世家一族と考えてよく、本話の採録もそのルートである可能性が高いように思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 怪異の事

 下総国関宿せきやどに、大木の松と杉が並んで生えて御座った。
 享保の頃とか――一夜のうちに両木の宙天高くあった二本の梢が――これ、結び合わされて御座った由。
 これ、俗に言うところの天狗なんどと申す者の、その仕業ででも御座ったものか。……
「今もそのままに残って御座る。」
とは、かの関宿藩城主久世殿へ仕えた者の、語った話にて御座る。



 板橋邊緣切榎の事

 本郷邊に名も聞しが一人の醫師あり。療治も流行はやりて相應に暮しけるが、殘忍なる生れじちにてありし由。妻貞實なる者成りしが、彼醫師下女を愛して偕老かいらうちぎりあれどあながちにねたみもせざりしが、日にまして下女はおごり強く、醫師も彼下女を愛する儘に家業も愚かに成て、今は病家への音信も間遠まどほなれば、日に增て家風も衰へければ妻は是を歎き、幼年より世話をなして置し弟子に右の譯かたりければ、かの弟子も正直成ものにて兼て此事を歎きければ共に心をくるしめ、彼下女の宿の者へ内々了簡もあるべしと申けれど、是もしかじかの取計とりはからひもなく打過ける故彌々心をくるしめしが、彼弟子風與ふと町方へ出し時、板橋のあたりに緣切榎えんきりえのきといへるあり、是をあたふればいか程のなかたちまち呉越の思ひをしやうずると聞て、醫師の妻に語りければ、何卒その榎をとり來るべしと弟子に申付、彼弟子も忍びて板橋へ至り、兎角して右榎の皮をはなし持歸りて粉になし、彼醫師並下女にすすめんと相談して、翌朝飯の折から彼醫師の好み食する羹物あつものの内へ入しを、板元いたもと立働きて久敷ひさしく仕へし男是を見て大に不審し、もしや毒殺の手段ならんと或ひは疑ひ或は驚き如何いかがせんとおもひ、手水てうずの水を入るゝとて庭へ廻り、ひそかに主人の醫師へ語りければ大きに驚きて、さて膳にすはりてあつものには手をもふれざりしを、兼て好所すくところいかなればいとゐ給ふと女房頻りにすゝむれば、彌々いなみ食せざれば、女房の言へるは、かくすゝめ申羹まうすあつものを忌み給ふは毒にてもあるやと疑ひ給ふらん、左ありては我身も立がたしと猶すゝめけれど、醫師は言葉あらにふせぎける故妻も彌々腹立はらたて、しからば毒ありと思ひ給ふならん、さあらば我等たべなんと右羹物をしけりと也。緣切榎の不思議さは彼事より彌々事破れて、彼妻は不緣事ふえんごとしけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:植物妖魅譚連関。展開の面白さを狙った落語の話柄という感じであるが、だったら私なら最後に、下女の方は知らずに榎の樹皮粉の入った朝餉を食って、あっという間に「殘忍なる」医師に愛想が尽きて宿下がり、その後、「殘忍なる」夫と離縁した妻は医師の元を出奔した弟子の青年医師と結ばれて医業は繁盛、本郷の屋敷に「殘忍なる」医師は孤独をかこって御座った、というオチを附けたくなるが、如何? その可能性は文中の「彼醫師並下女に進んと相談して」という箇所に現れている。まじないの効果を確実にするために彼らは、双方に反媚薬の樹皮の粉を飲ませようとしているからである。「板元」が「手水の水を入るゝとて庭へ廻り、密に主人の醫師へ」御注進に及ぶシーンと共時的に厨房くりやでは妻が下女の腕にまんべんなく樹皮の粉を摺り附けている――とすれば、自然、容易に話は私の思った通りに展開すると思うのであるが、如何?
 また、ようく考えて見ると……縁切榎はどう使用すればどういう効果が出るのであろう? 「縁切り」が目的なら、使用者は「縁切り」したい、若しくは「縁切り」させたいと望む訳で、本人が飲んでも効果はない。すると、
①「縁切り」したいのに、相手が自分を愛していて、離縁を承諾しないから困っているシチュエーションでは相手に飲ませることで有効となる。
②本件のように、自分が当事者でなく、他社間の相思相愛関係を破壊することを目的とするなら、一方でもよいが、やはり完全を期するためには、両者に飲ませることが有効である。
ところが、ここに「縁」の多層性が問題化してくる。この場合の「縁」は封建社会に於いてのそれである以上、実は実際の恋愛感情ではなく、公的な婚姻関係による「縁」をこそ断ち切るという意味合いが強いと考えられる。さすれば、その実、「縁切榎」を使用する人間は、
③事実は夫婦間に双方向で愛情がなく、配偶者以外への恋愛感情の形成や、性格不一致・DV等によって一方が正しく合法的に離縁したいと望む場合、その相手に飲ませることで有効となる
という①と似て非なる使用例が多かったのではないか、と考えられる訳である。――すると実は本件の場合、全体のシチュエーションを考えてみると、夫の医師は妻を離縁する意志が実は殆んど認められないのである(恐らく世間体と実質的な二人妻の状態が彼にとっては個人的に都合がよいから)。さすれば、この場合、仮に夫にのみ飲ませた状態では③の条件が発動することとなり、夫はやはり形式上の「縁」を切るために、正妻を離縁することになろう。則ち、この話の妻の側の要求から考えた際には、実は最低、反媚薬の樹皮粉を小女に飲ませさえすれば、②の条件が当て嵌って、それで妻の希望は成就したはずなのである。……実は……この貞淑な妻も、医師の弟子も、残念ながら思慮が浅かった、と言わざるを得ないのでは、あるまいか。……
・「偕老の契」一般に言われる、生きてはともに老いて死んでは同じ墓に葬られるの意の「偕老同穴」の契り、夫婦が仲むつまじく、契りの固いこと、夫婦約束をすることを言う語であるが、これはもう不倫に用いる以上、将来の夫婦約束などという生ぬるいものではなく、ズバリ、肉体関係を結んだことを言っている。私のようなイヤラシイ思考の持主はわざと「同穴」を言わずに「穴」の契りを結んだな、なんどと読んでしまうのであるが、実はこれは下世話な戯言で、実は「偕老」と「同穴」は、それぞれ「詩経」の異なった詩を語源とするものではある。
・「風與ふと」は底本のルビ。
・「緣切榎」中山道板橋宿旧上宿(現在の東京都板橋区本町)に現存する(但し、三代目の若木で場所も旧地からやや移動している)。底本の鈴木氏注には『この辺は旗本近藤登之助の下屋敷だった処で、二股になった大』榎であったが、『将軍の御台所になった宮様が、この傍を通って下向したが、二人までも間もなく若死にされたところから、縁切榎の異名が起』ったと記される。以下、ウィキの「板橋宿」の「縁切榎」より引用すると(アラビア数字を漢数字に代えた)、この榎は中山道の『目印として植えられていた樹齢数百年という榎』(バラ目アサ科エノキ Celtis sinensis。江戸期には街道を示す目印として一里塚などに普通に植えられた)『の大木で、枝が街道を覆うように張っていたという。その下を嫁入り・婿入りの行列が通ると必ず不縁となると信じられた不吉の名所であったがしかし、自らは離縁することも許されなかった封建時代の女性にとっては頼るべきよすがであり、陰に陽に信仰を集めた。木肌に触れたり、樹皮を茶や酒に混ぜて飲んだりすると、願いが叶えられる信じられたのである』。徳川家に降嫁した『五十宮(いそのみや)、楽宮(ささのみや)、および、和宮(かずのみや、親子内親王)の一行は、いずれもここを避けて通り、板橋本陣に入ったという。 和宮の場合、文久元年(一八六一年)四月、幕府の公武合体政策の一環として将軍家茂に輿入れすることとなり、関東下向路として中山道を通過。盛大な行列の東下に賑わいを見せるのであるが、板橋本陣(飯田家)に入る際は不吉とされる縁切榎を嫌い、前もって普請されていた迂回路を使って通過したとのことである』。『現在の榎は三代目の若木で、場所も若干移動しているが、この木に祈って男女の縁切りを願う信仰は活きている』とある。更に底本注で鈴木氏は『果ては酒飲みを下戸にする利きめまであるといわれ、また願果しに絵馬をかけるようになった』と記されるが、この下戸のまじないというのは、恐らく当初はこっそり縁切り祈願で参った妻が、夫にばれ、言い訳で言った弁解が瓢箪から駒、という感じがしないでもない。旧木・現木の画像や詳しい解説が、「日本史史料研究会」の西光三氏の手になる「縁切霊木譚―中山道板橋宿縁切榎について」で読める。是非、お読み戴きたい。
・「是をあたふればいか程のなかたちまち呉越の思ひをしやうず」の部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 是を与ふればい膠漆こうしつの中も忽ち胡越こえつの思ひをしょう
とある。「膠漆の中」はニカワとウルシで強力な接着効果を持つことから、非常親密な仲を言い、「胡越の思ひ」は中国古代国家である北方の胡と南方の越が互いに遠く離れて疎遠であったことに譬えた語。「膠漆」の方がいいが、後者は極めて仲が悪い意の「呉越」の方がよい。
・「羹物」「羹」「羹もの」「熱物あつもの」で、魚・鳥・野菜などを入れた熱い吸い物。
・「板元」は料理場(板場)または料理人(板前)のこと。
・「すはりて」は底本のルビ。
・「いとゐ給ふ」はママ。「いとふ」であるから、正しくは「いとひ給ふ」。
・「たべなん」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 板橋辺りにある縁切榎の事

 本郷辺りに――名も聞いておるが、あえて記さぬ――一人の医師がおる。今もおる。
 療治も上手く、繁盛致して相応に暮らして御座ったらしいが、根は残忍非道なる気質たちの者であったらしい。
 妻なる者は、これ、まっこと、貞淑な女であった。

 ところが、この医師、家内にあって下女を愛し、秘かに関係さえ持つようになっておった。
 妻は、その事実を、実はよく知っておったのだが、決してねたそねみを露わにすることは、これ御座らなんだ。
 ところが、この下女、それをよいことに、日増しに驕り昂ぶり、医師は医師で、下女に溺るるあまり、家業も疎かとなって、もうその頃には、自身では病者のうちへ往診することも、これ、とんとのうなってしもうたによって、日に日に家は傾いてゆくばかりで御座った。

 流石に妻もこれをうち嘆き、ここにあった、幼年より何かと世話致いて成人させた弟子の青年を秘かに呼び、秘めて御座った夫の所行の一切をうち明けたところが、この青年も至って真っ正直なる者にて――実は兼ねてより彼自身、師の御乱行を見て見ぬ振りを致いて参ったのであったればこそ――恩ある女主人と、手に手をとって、かくなる有様にとみに心痛めることと、相い成って御座った。

 とりあえず、彼の発案にて、下女の宿方の親族へ、内々、
「……何やらん、娘ごのことに付きて家内にてよからぬ噂のこれある由……若き身空なればこそ、分別、というものが大切に御座ろう。……」
と、弟子自らが注進に参ったのだが……これもまた、これといった効果の現わるることなく……ただただ、そのままに打ち過ぎて御座った。

 そうこうしておる内、ある、かの弟子、町方の往診先にて、ふと、
「……板橋辺りに『縁切榎えんきりえのき』というものがあり、剥ぎ取ったその樹皮を相手に飲ませれば――これ、どれ程親密で離れ難く愛しうておる仲の者にても――忽ちのうちに激しく憎み、たち別れたき思いを生ずる……」
という話を聴きつけた。

 帰って師の妻に話したところ、
「……どうか一つ、その榎を、採ってきてお呉れ!」
と青年に申し付けた。

 彼はその夜のうちに、忍んで板橋へと馳せ至り、何とか、かの榎の皮を引き剥がすと、それを持ち帰ることに成功した。

 その深夜――青年は、これを薬研で緻密な粉に加工する。……

 翌未明――青年と女主人は、これを如何にして医師並びにかの下女にこっそり飲ませることが可能かについて相談する。……

翌朝――女主人は、朝餉の羮物あつものに、かの粉を秘かに仕込む。……

……ところが……ここに、当家に永く仕えておった板場の男が、これを見て御座った。
『……奇妙な粉……奥方の怪しげなお振る舞い……これ、若しや……毒殺?!……そ、その仕儀にては、これ、あ、あるまいかッ?!……』
と疑って内心、吃驚仰天!
『……ど、どうしたら、よかろうかッ?!……』
と思い悩んだ末に、
「……そうじゃった、……御庭の手水鉢ちょうずばちに、水を入れておかねばならん、な。」
と平気を装って独りごちつつ、厨房くりやから庭へと回ると、秘かに縁側へと御主人おんあるじにお声掛け申し上げた上、今朝見た一部始終を語った。
 無論、夫も、
「な、な、何とッ!!……」
と吃驚仰天じゃ……

 さても――朝餉の段と相いなる。
 夫は膳に向って座ったが、羮物には手をつけようとせぬ。
 妻は、
「……かねてよりお好きな羮物……今日は如何いかがしてお嫌いにならるる?」
と訝しんで、頻りに椀を進める。
 進められれば進めらるるほど――いよいよ夫は――否んで椀を取りも、せぬ。
 されば、妻は思わず、
「……かくもお進め申し上げております御好物の羹物を、これ、忌み嫌いなさるるは……まさか……毒にても入れ込んでおるやに、お疑いになっておられまするかッ?! そうと致しますれば――これ、我らが身も立ち難く存じまするッ!――」
と言葉もきつく詰め寄って、またしても強いて、進める。
 なれど――いっかな――返事も荒らかに――夫はまた、それを、拒む。
 されば、遂に妻の怒りが爆発する。
「――しからば、毒入りとお思いかッ?!――しかれば、我らが食うてみしょうッツ!――」
と言い放つや――
かの夫の羹物の椀をぐいッと摑み――
呷るが如く――
一息に飲み干してしもうた……とのことじゃった…………

……はい……
……縁切榎の摩訶不思議なる効験こうげんは……
……これ絶大で御座る……
……この一件によって……
……いよいよ二人の仲は致命的な破局を迎えまして……
……かの夫婦は、これ、離縁致いた、とのことで御座る……。



 櫃中得金奇談の事

 予が召仕ふ者、母は四ツ谷とやらん榎町えのきちやうとかやの與力に親族ありしが、かの者來りて彼老姥かのろうばに語りし由。寛政七八の頃の事とや、同組の同心、隣町の同心の許より古きひつを金壹とやらんの價にて買ふ約束をなし、彼賣主は用事ありて他へ出し留守へ、同心來りて娘に價ひを渡して、翌日取に遣しける故、娘に申付て右櫃を取出し渡させけるに、使に行し者も同心のゆかりの者なれば、よく改めて渡し給へと念比に斷けれど、彼櫃は年古く藏のすみ打込うちこみて、用にも不立たたざる故拂ひ候事なれば、中には何もなしとて、猶蓋を取り塵など拂ひて使に渡しけるに、買得し者右櫃を引取り、或ひは洗ひ又は拂ひ掃除抔し引出しをも引出しけるに、内に隱し引出あれば是を取出さんとせしが、いかゞしけるや出兼いでかねけるを、兎角して引出しけるに、古き紙に包し金廿五兩ありし故大に驚き、一旦價を以調たる櫃の内の金なれば我物也、打捨置うちすておくべきと思ひしが、さるにても我は櫃をこそ買ひたるに、思わずも此金あるを沙汰なく取らん事天道の恐れありとて、すなはち賣主へしかじかの事を語りて右金子を遣しければ、賣主も大にあきれて、右櫃は先祖より持傳へたるが、父祖なる者貯置たくはへおきしや、子孫にかたらざるゆへ是迄右の金ある事を知らざりし、さるにても他へ賣拂ひなば一錢も手に入間敷いるまじきに、正道なる御身へ賣りし故父祖の惠みを得しと悦びて、其禮謝を與へけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:愛人を離縁させるつもりで夫に飲ませようとしたまじないの薬を自分が飲んで仕舞い……から、古くてしょぼい櫃からごっそり大金が……というどんでん返しで何となく連関する感じがある。「縁切榎」と冒頭の「榎町」も、根岸の意識に中では、連関なしとも言えぬかもしれぬ。但し、岩波版の補注に「役者芸相撲」(享保四(一七一九)年刊)『大坂之巻に古仏壇を買い大金を得る話あり。類話多く、講談にもなる』とある通り、話柄としては如何にもなステロタイプで、私などは実はあまり面白いと思うておらぬ。
・「櫃中得金奇談の事」は「櫃中ひつちうかねを得る奇談の事」と読む。
・「櫃」被せ蓋がついた箱のこと。古くから収納容器として多用されている。底面外部に脚が付いていないものを倭櫃わびつ、四本または六本の脚のついたものを唐櫃(からびつ/からうと)と呼ぶ。宝物・衣服・文書・武具等を納め、運搬の便宜や内容物を湿気や鼠・食害虫から守るために用いられた。また、唐櫃は遺体を収容する棺にも用いられたことから墓石下の遺骨を納める空間(納骨棺)を、「からうと」から「カロート」と称するようになった(ウィキの「櫃」を参照した)。
・「榎町」現在の新宿区北東部に位置する町。
・「金壹歩」「歩」は「分」に同じ。江戸時代の平均的な金貨で換算すると、現在の一万六千五百円程度。
・「すみ」は底本のルビ。
・「金廿五兩」江戸時代の平均的な金貨で換算すると、櫃の買値の実に百倍の百六十五万円に相当する。

■やぶちゃん現代語訳

 櫃中より金子を得る奇談の事

 私が召し使つこうておる者――その者に、四谷だったか榎町だったかで、与力をしておる親族が御座って――その与力が、彼の老母に語ったという話の由。

 ……寛政七、八年の頃のこととか申す。
 我らが同組の同心が、隣町の同心より古びたひつを金一歩とやらの値で買い取る約束を成して御座った。
 櫃を買った同心が売主の同心方へと代金を届けに参ったところ、売り主は所用あって外出して御座った故、留守の同心の娘に代金を渡し、明日、使いの者を受け取りに遣わす故、櫃を渡しおくよう命じておいた。
 翌日、使いの者が参ったによって、売主の同心は娘に櫃をとり出ださせて渡したところ、たまたま、その使いの者も、この売り主の同心の知れる者で御座った故、
「ようく、中なんど、改めてお渡し下されよ。」
と念を押して口添え致いたが、売り主は、
「……何の。この櫃は、遙か昔から我らが屋敷の蔵の隅に、投げ込まれたままとなって御座った、我ら方にては何の役にも立たぬ代物にて御座ればこそ、売り払うことと致いたものにて御座る。中には、なあんにも、御座らぬて。」
と言いつつ、如何にも気のない風にて、一応は蓋を取って中を検ため、被った塵埃なんどを払って、使いの者に渡して御座った。
 かくして櫃を買った側の同心は、手元に着いたこの櫃を、或いは洗い、又は汚れを拭うなんど致し、中に作り込まれて御座った引き出しを引き抜くなど致いては、念入りに掃除して御座った。
 ところが――ふと見ると――その引き出しの奥に――更なる隠し引き出しがあるのに、これ、気がついた。
 それを更に取り出だそう致いたが、これが、どうしたものか、なかなか出て来ぬ。
 四苦八苦して、漸っと引き出だいてみたところが――これ――中に――何やらん、古い紙に包んだものがある。
……それを開いてみれば、
――何と!
――金二十五両!
これ、転がり出でた!
 同心は吃驚仰天、
『……我らが一旦、あたいを以って買い入れた櫃の……その内なる金子なればこそ……これも――我らがもの――じゃ。……まんず、このまま黙っておれば、よい、て……』
と思うたものの、
『……いやいや! 我らは「櫃」をこそうたのではないか! それだのに、思い掛けずもこの大枚のあるを見出だいたのじゃ。その金子を黙って己れの物と致すは、これ、天道に背くというものじゃて!』
と思い返し、その日の内に自ら、売り主の同心宅を訪れ、しかじかの事情を語った上、持参した金二十五両の包みをそのままに返して御座った。
 これを聴いた売り主も、大いに呆れたていにて、
「……いや……この櫃は先祖代々、持ち伝えて御座ったものじゃったが……この大枚の金子は、これ、かつての父祖なる者が、貯え置いた金子なのでも御座ろうか……子孫には一切語られて来ずなれば……全く以って、これまで、この大枚がそこにあったとは、これ、知らず御座った。……それにしても……他の誰彼たれかれへこれを売り払っておったならば……一銭も、これ、我が手元には戻らなんだに違いない。……正直なる御身へ売ったればこそ……父祖伝来の恵みを、これ、得ること、出来申した!……」
と悦んで、その謝礼にと、かの二十五両から相当の金子を割いて渡いた、とのことで御座る。



 菊蟲再談の事

 前に記すお菊蟲の事、尼ケ崎の當主は松平遠江守にて、御奏者番勤仕ある土井大炊頭實方どゐおほひのかみじつかた兄にて、土井家へ見せられし右蟲を營中へ持參にて予も見しが、前に聞し形とは少し違ひて、後より見れば女の形に似たり。後ろ手に縛りてはなく、こほろぎの鬚の樣成ものにて小枝のやうなる物につなぎあり。圖大概を左に記す。委曲の書記も土井家より借りて見しが別に記ぬ。


□やぶちゃん注
○前項連関:四つ前の「菊蟲の事」の実見後の根岸の観察追記。図がやはり岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と異なる。全体の配置や指示キャプションは非常によく似ているものの、「菊蟲の事」同様、バークレー校版は虫がシルエットである。そこで、前回同様、原文の後に底本の図を、現代語訳の後にバークレー校版図を配した。但し、バークレー校版のキャプションが活字に変えられており、岩波書店の編集権を侵害する可能性が高いので、指示線とともに加工処理して消してある(バークレー校版には、蛹化初期の蛹の上部右空間の上方に、支え糸の向こう側の線(のような)途切れた線描写がある。それでもバークレー校版の「此の糸蛼髭などの如し」のキャプションの指示線は底本図と同じく手前の糸に繋がっている(少しだけその指示線の跡を残しておいた)。キャプションを如何に活字化しておく(キャプションは二書とも同じ)。
〇右下部――「此の糸蛼髭などの如し」
(この部分の糸はコオロギの触角などと非常によく似ている)
〇左中央より下へ――「後より見れば此所女の櫛を刺したるが如し」
(この後背部より観察するとこの虫体の頭頂部は女が櫛を挿しているようには見える)
グーグルの画像検索の「ジャコウアゲハ 蛹」を見よう。蛹を支持する糸は写真によって濃い色に着色しているのが見える。私は昆虫少年ではなかったのでよく分からないが、これは、種による違いか、それとも蛹化後の外的な現象(土埃等の付着)によるものか、糸の素材の経時変性等によるものかは定かではないが、着色体は確かにコオロギの触角に似ているという表現が正しいことが分かる。また、背部正面からの複数画像を見ると頭部の幼虫期の吻部と思われる箇所、蛹の頭頂部には正しく「櫛を刺した」ように見えるではないか。根岸の観察は素晴らしい。
 更に、この図から察するに、脚部や頭部がはっきりと本体と区別出来、どうも根岸が実見したチョウ目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科アゲハチョウ亜科キシタアゲハ族ジャコウアゲハ Byasa alcinous のこの幼虫は、完全な蛹化が始まる前の前蛹と呼ばれる状態(体が動かなくなるものの、刺激を与えると嫌がっているような動きを見せることがある)から少しだけ蛹化へ進んだ状態ののように思われる(虫体が小枝からこちら正面へ傾いて体側の向こう側の眼や脚部が見えるように描いているのは、蛹が支持糸を切られているのではなく、観察描画上の分かり易さを狙った図法と思われる)。なお、バークレー校版では表題が「於菊虫再談の事」と我々に親しい接頭語の「お」が附されている。
・「松平遠江守」摂津尼崎藩第三代藩主松平忠告ただつぐ(寛保三(一七四三)年~文化二(一八〇六)年)。明和四(一七六七)年家督を継ぎ、死去まで藩主の座にあった。「菊蟲の事」の本文にも出、注でも記した谷素外に俳諧を学び、俳号を一桜井亀文いちおうせいきぶんと称した。
・「土井大炊頭實方」土井利厚としあつ(宝暦九(一七五九)年~文政五(一八二二)年)のこと。老中、下総古河藩第三代藩主。摂津尼崎藩主松平忠名四男で忠告の実弟。古河藩主土井利見の養嗣子となり、はじめ利和としかずと名乗った(底本や岩波の長谷川氏注はこの名で注する)。利見が相続後の一箇月足らずで没した後襲封、その後は四十五年の長きに亙って古河藩主を勤めた。この間、寺社奉行・京都所司代・老中などの重職を歴任している。本話柄当時、奏者番兼寺社奉行であった(奏者番の内四名は寺社奉行を兼任した。以上は主にウィキの「土井利厚」に拠った)。なお、官職の「大炊頭」は本来は大炊寮おおいりょう(宮中の厨房担当)長官のこと。従五位下相当)。
・「後より見れば女の形に似たり」こうした、デジタル化して誰でも簡単に造れるようになった昨今ではめっきり流行らなくなった心霊写真のような錯覚をシミュラクラ(Simulacra 類像現象)と呼ぶ。本来のシミュラクラとは、ヒトが三点が一定の間隔で逆三角形に集合しているように見える図形を見た際、それを動物やヒトの顔と判断するようにプログラミングされている脳の働きに対してつけられた語(学術用語ではない)である。ほぼ同義的な学術用語としては、一九五八年にドイツ人心理学者クラウス・コンラッドが定義した「無作為或いは無意味な情報の中から規則性や関連性を見出す知覚作用」を言うアポフェニア(apophenia)や、精神医学用語のパレイドリア(pareidolia:後に注する。)が相当する。なお、パレイドリア(pareidolia)とは平凡社の「世界大百科事典」の小見山実氏の記載によれば、空の雲が大入道の顔にみえたり、古壁の染みが動物に見えたりするように、対象が実際とは違って知覚されることを言う語であるが、意識が明瞭ないしは殆んど障害されていない状態で起き、批判力は保たれていて、それが本当は雲なり染みでしかないということは分かっている場合を言う、という趣旨で説明されてある。ところが引用元では更に――熱性疾患のときにしばしば体験されるが、ほかに譫妄せんもう・LSDなどの薬物酩酊時にも出現する――と記してある。これはどう読んでも叙述上の矛盾という他はない。これらは意識障害が生じている状態で見る飽く迄『譫妄』であり『幻視』であって、批判力は保たれておらず、実態への見当識など、全くない状態である。これをパレイドリアと呼ぶのはおかしい。熱戦譫妄や薬物幻覚の初期段階に於いてはパレイドリア様の認識作用が容易自動的に発生し、重篤な幻視症状へと移行する場合がある、と記述するのならば、まだ許せるという気がする。これらも総て「パレイドリア」と呼ぶ、というのであれば、定義部分の但し書き以下の内容を総て削除し、シンプルに『パレイドリアとは病的非病的を問わず、対象が実際とは違って知覚されること』とすべきであろう。
・「後ろ手に縛りてはなく」恐らく多くの人々は蛹の枝に支持される糸や体表面をそのように見たのであろうが(蛹化では普通、付属肢が総て折りたたまれて体に密着するから「縛」られているという見立ては不自然ではない)、根岸にはこの糸や枝側の体表面の形態はアポフェニア(パレイドリア)を起こさせず、「後ろ手に縛」られた女のようには(女には見えた点では根岸は虫体自身の形態にはアポフェニアを起こしている訳である)見えなかったということである。

■やぶちゃん現代語訳

 菊虫再談の事

◎前に記載せる『お菊虫』についての実見及び観察を含む追記(文責・根岸鎭衞)

〇後半の伝承部への補足
・尼ヶ崎藩当代当主は松平遠江守忠告ただつぐ殿である事。
・忠告殿は御奏者番おんそうじゃばんとして勤仕ごんしせる土井大炊頭利厚どいおおいのかみとしあつ殿の実兄に当たられる事。

〇実見の経緯
・その兄松平忠告殿が国許より弟君利厚殿の土井家へ、見聞のためにとの思し召しによって、この『お菊虫』が送られて参った。
・それを利厚殿が珍奇物の公開として城中へとお持ち込みになられ、披露なされため、私も実見することが叶った。

〇実見観察による前記載の補正
・実見したところ、先に聞いて記載した形とは少し違っていた。
①本体の後方(虫体の背部と思われる部分)より観察すると、確かに『女の姿形』に似ている。
(*特に、その頭頂部分は、女が結った頭に櫛を挿したように確かに見えた。)
②但し、伝聞していたように『女が荒繩で後ろ手に縛られている』という様な印象には全く見えなかった。
③本体はコオロギの触角に似た糸状の物質によって小枝と連繋していた。
(*厳密に言うと、図のように体側上部は斜めに小枝からやや離れており、下部が枝の下部で支点となって傾斜した形である。体の中央よりやや上部の辺りで糸を本体に一巻して形で小枝にその両端が付着し、本体を支持している。)

〇概略図(以下に示す)

追記:この虫に就いての詳細資料も土井家より借りうけて実見した上、書写したものがあるが、それとは別に、ここにも記しおくこととした。



 奇藥ある事

 予が許へ多年來れる醫師に與住玄卓よずみげんたくといへるありしが、或る病家重病の癒しを歡び、家法のの藥を教けるが、唐艸たうさうにも無之これなく、和に多くある草一味いちみ也。此比このごろ一兩輩の病人に與ふるにしんの如しと咄しぬ。藥名は醫者故聞ん事も如何と其儘に過ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。五番目の「痔疾のたで藥妙法の事」から薬事連関。原料や処方の詳細が記されず、効能もただ「痢」とあるのみで、医事記録としても価値が認められない。
・「與住玄卓」「卷之一」の「人の精力しるしある事」の「親友與住」、「卷之三」の「信心に寄りて危難を免し由の事」の「與住某」と同一人物であろう。「卷之九」の「浮腫妙藥の事」等にも登場する、根岸の医事関連の強力なニュース・ソースである。底本の鈴木氏の先行注に『根岸家の親類筋で出入りの町医師』とある。
・「藥名は醫者故聞ん事も如何」というのは、恐らくこの原料の植物が、中国の本草書に不載であるだけでなく、本邦の本草書にも記載されていないか、記載されていても効能や処方が異なるかし(純粋な毒草として、薬効なく毒性のみが語られている可能性も含む)、また、與住自身がその薬について詳細を話したくない素振りを見せたのでもあろう(玄卓がその後に死んだのでもなければ(そんな様子は感じられない)、ここで「其儘に過ぬ」と言ったのには、そうした主に玄卓側の無言の要請が感じられるのである。さすれば、それほど神妙なる効能があり、若しかすると誰にでも採取・調合出来てしまうようなシンプルなものであった可能性も高い。
・「唐艸にも無之、和に多くある草一味也」とはその生薬の原料植物が日本固有種であることを示していると考えてよい。

■やぶちゃん現代語訳

 奇薬のある事

 私の元へ永年通うておる医師に与住玄卓という者がおる。
 とある大家たいかの重病人を療治平癒致いたところ、大いに歓ばれ、謝金とは別して礼と称し、家伝の止瀉薬の製法を伝授されたという。
 大陸の本草書にはその植物の記載がこれなく、本邦にのみ、それも数多く自生する草の一種であるという。
「近頃、数人の痢病患者に処方致しましたが、その即効はまっこと、神妙で御座った。――」
とは本人の話。
 医師に、その独自に使用しておる薬名や原材料・処方の仔細を訊ねるというのも――しかも諸々の本草書などにも載らぬ秘薬となれば――これ、如何かと思うた故、そのままにうち過ごし、今もって、その『草』とは何か、残念ながら、分からず仕舞いのままにて御座る。



 探幽畫巧の事

 朽木くつき家となん、探幽がかける松に鶴とやらんの重器あるよし。右時代に素人しろうとにて久住くすみ六郎左衞門といへる名人の畫書ゑかき有りしが、朽木におゐて探幽が書る松に鶴の繪を見て不面白おもしろからざる由あざけりし故、探幽來りし時主人その咄しをなしければ、久住が言へる尤也もつともなり認直したためなほさんとて書直して置しを又久住に見せければ、よろしき由にて強て賞美もせざりし故、又探幽を招きてしかじかの事と語りければ、又書直すべしとて認直しけるを、重て久住に見せければ、大に感賞して、探幽は誠に奇妙の畫才なり、同じ畫を三度迄我意なくして書直し、形樣何もかわらで自然に其妙ありと悉く賞翫したる由。依之これによりて今朽木家の重寶となりけるよし。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。技芸奇譚シリーズ。
・「朽木家」丹波国天田郡(現在の京都府福知山市内記)の福知山藩藩主主家。本話柄を事実と仮定し、以下の注で示すように「久住六郎左衞門」が絵師久隅守景の誤りあったとするならば、これは寛文一二(一六七二)年以後延宝二(一六七四)年の出来事(後注で検証試算の理由を述べる)となるが、その当時の藩主は初代朽木稙昌たねまさ(寛永二〇(一六四三)年~正徳四(一七一四)年)となる。彼は万治三(一六六〇)年に父(朽木元綱の死去によって翌年、家督を継いで土浦藩第二代藩主となったが、寛文九(一六六九)年には丹波福知山藩に加増移封されている。文化の発展にも尽力したとあるから、彼が探幽や守景と親交があったとしても(あったことを確認したわけではない)、おかしくはない(以上の朽木稙昌の事蹟はウィキの「朽木稙昌」に拠った)。なお、本記載記事下限の寛政九(一七九七)年頃の当主は第八代藩主朽木昌綱で、朽木家は明治まで福知山藩主であった。
・「探幽」狩野探幽(慶長七(一六〇二)年~延宝二(一六七四)年)狩野派を代表する早熟の天才絵師で、狩野孝信の子で狩野永徳の孫に当たる。『慶長一七年(一六一二年)、駿府で徳川家康に謁見し、元和三年(一六一七年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和七年(一六二一年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移した。江戸城、二条城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作した。山水、人物、花鳥など作域は幅広い』。二二歳の『元和九年(一六二三年)、狩野宗家を嫡流・貞信の養子として末弟・安信に継がせて、自身は鍛冶橋狩野家を興した。探幽には嗣子となる男子がなかったため、刀剣金工家・後藤立乗の息子・益信(洞雲)を養子にしていた。その後、五十歳を過ぎてから実子・守政が生まれたため、守政が鍛冶橋家を継いだ。しかし、探幽の直系である鍛冶橋狩野家から有能な絵師が輩出されることは、六代後の子孫である狩野探信守道とその弟子沖一峨を僅かな例外として殆どなかった』。『若年時は永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、墨線の肥痩を使い分け、枠を意識し余白をたっぷりと取った瀟洒淡泊、端麗で詩情豊かな画風を生み出した。この画法は掛け軸等の小作品でも生かされ、その中に彼の芸術的真骨頂を見いだすのも可能である。その一方、大和絵の学習も努め、初期の作品は漢画の雄渾な作画精神が抜け切れていないが、次第に大和絵の柔和さを身に付け、樹木や建物はやや漢画風を残し、人物や土波は大和絵風に徹した「新やまと絵」と言える作品も残している。江戸時代の絵画批評では、探幽を漢画ではなく「和画」に分類しているのは、こうした探幽の画法を反映していると云えよう。粉本主義と言われる狩野派にあって探幽は写生も多く残し、尾形光琳がそれを模写しており、また後の博物画の先駆と言える』。『探幽の画風は後の狩野派の絵師たちに大きな影響を与えたが、彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちが模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となった。すでに晩年の探幽自身の絵にその兆候が見られる。近代に入ると、封建的画壇の弊害を作った張本人とされ、不当に低い評価を与えられていた。しかし近年、その真価が再評価されている』。(ウィキの「狩野探幽」から引用、アラビア数字を漢数字に代えた)。
・「松に鶴」は「松鶴図」は定番の画題で、探幽の描いたものも多く残るが、この話柄の二度書き直して完成させたという曰くつきの代物が現存するかどうかは不詳。
・「久住六郎左衞門」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『久須美くすみ六郎左衛門』とし、その長谷川氏注には、『不詳。あるいは久隅守景の通称を誤り伝えるか』とある。私は不学にして知らない絵師であるので、以下、ウィキの「久隅守景」からほぼ総てを引用させていただく(アラビア数字を漢数字に代えた)。『久隅守景(くすみもりかげ、生没年不詳)は江戸時代前期の狩野派の絵師。通称は半兵衛、号は無下斎、無礙斎、一陳斎。狩野探幽の弟子で、最も優秀な後継者。娘に閨秀画家として謳われた清原雪信がいる。その画力や寛永から元禄のおよそ六十年にも及ぶ活動期間、現存する作品数(約二〇〇点)に比べて、人生の足跡をたどれる資料や手がかりが少なく謎が多い画家である』。『通称を半兵衛といい、無下斎、無礙斎、一陳翁、棒印などと号した。若くして狩野探幽守信の門に入り、神足常庵守周、桃田柳栄守光、尾形幽元守義と共に四天王と謳われた。後の『画乗要略』(天保八年(一八三一年)では、「山水・人物を得意とし、その妙は雪舟と伯仲、探幽門下で右に出る者なし」と評されている。前半生は狩野派一門内の逸材として重きをなした。その現れに、探幽の妹・鍋と結婚していた神足常庵の娘で、探幽の姪にあたる国と結婚し、師の一字を拝領して「守信」と名乗っている。この時期の作品で最も早いのは、寛永一一年(一六三四年)の大徳寺の江月宗玩の賛をもつ『劉伯倫図』(富山市佐藤記念美術館蔵)である。他に寛永一八年(一六四一年)、狩野尚信、信政と共に参加した知恩院小方丈下段之間の『四季山水図』や、瑞龍寺の「四季山水図襖」八面(高岡市指定文化財)が挙げられる。この時期は探幽画風を忠実に習い、習作期間に位置づけられる』。『守景には一男一女がおり、二人とも父を継いで絵師になったが、寛文一二年前後に息子の彦十郎が、悪所通いの不行跡などが原因で狩野家から破門され、さらに罪を得て佐渡へ流される。また、娘の雪信も同じ狩野門下の塾生と駆け落ちをするといった不祥事が続く。これが切っ掛けとなって狩野派から距離を置き、後に金沢に向かい、そこで充実した制作活動を送った。彼の代表作である『夕顔棚納涼図屏風』(東京国立博物館蔵)や『四季耕作図屏風』(石川県立美術館蔵 重要文化財)はこの時期の作品と推定され、農民の何げない日常の一コマや生業のさまなどを朴訥な作風で描き、守景独自の世界を切り開いた。晩年は京都に住み、古筆了仲の『扶桑画人伝』(明治二一年(一八八八年)刊)では、藤村庸軒らの茶人と交わり茶三昧の生活を送ったと記されている。しかし、制作活動は最晩年に至るまで衰えず、『加茂競馬・宇治茶摘図屏風』(大倉集古館蔵 重文)など老いを感じさせない瑞々しい作品を残している。元禄一一年(一六九八年)に庸軒の肖像画を描いたとされ、この後に亡くなったと推定される』。『師・探幽とは異なり、味わいある訥々な墨線が特徴で、耕作図などの農民の生活を描いた風俗画を数多く描いた。探幽以後の狩野派がその画風を絶対視し、次第に形式化・形骸化が進むなかで、守景は彼独自の画風を確立したことは高く評価される。彼の少し後の同じ狩野派の絵師で、やはり個性的な画風を発揮した英一蝶と並び評されることが多い』とある。
 さて、もしもこの「久住六郎左衞門」が彼だとすれば(その可能性は強いと私は思う)、この叙述と本話柄を並べた時、若い時(寛永一八(一六四一)年以降直近)の『探幽画風を忠実に習』っていた頃のエピソードとは当然思われず、後に『狩野派から距離を置』いた時期と考えてよい。その時期を一先ず解説文に即して寛文一二(一六七二)年『前後に息子の彦十郎が、悪所通いの不行跡などが原因で狩野家から破門され、さらに罪を得て佐渡へ流される。また、娘の雪信も同じ狩野門下の塾生と駆け落ちをするといった不祥事』を契機としたとするならば、
 寛文一二(一六七二)年以後の直近を最上限
と置ける。ところが、狩野探幽は、
 延宝二(一六七四)年に死去
しているから、本話が事実とするなら、探幽の最晩年のたった二年間のこととなる。当時、七十歳を越えたていた探幽を考えると現実性は低いが、一応、試算の結果として示しておく。しかし、彼らの経歴と、その複雑な画工としての交差を考えると、確かにこの話は、面白くなる。久住六郎左衛門の名はママとしつつ、その実、彼を久隅守景とし、そういう確信犯の中で現代語訳してある。

■やぶちゃん現代語訳

 探幽の画力の巧みなる事

 福知山藩藩主であらせらるる朽木家のことで御座ったか――狩野探幽の描いた『松に鶴』の名画が御座る由。
 探幽と同時代の者にて久住くすみ六郎左衛門と申す、素人ながら、名人の絵描きが御座った。
 たまたま訪れた朽木殿の御屋敷にて、この――曾ては久住の師であったことも御座る――探幽の描いた『松に鶴』を見た。すると、
「……面白うない、の――」
と一言吐いて、嘲った。
 後日ごにち、探幽が朽木家へと参った折り、当代御当主であらせられた稙昌たねまさ殿が、その久住の話をなさったところ、
「……久住で御座るか……かの者がそう申すも……これ、尤もなることに御座る。――一つ、したため直しましょうぞ――」
と、探幽は、その場にて再筆を加えた。
 さてまたの後日、再参致いた久住にかの絵を見せたところが、
「……まあ宜しゅうは御座るが、の――」
と一言申したのみで、強いて賞美のことばも、これ、御座らなんだ。
 またまたの後日に、稙昌殿が再び探幽を招いた折りに、この度の話をまたしても、仔細にお話になられた。
 すると探幽、
「……それはそれは。……ふむ。……今一度、これ、したため直さずんば、なりますまい――。」
と申すや、またしても即座に再々の筆を加えた。
 さてもまたその後日、稙昌殿が重ねて久住を呼んで再々の加筆を施したところの絵を見せたところが――この度は――久住、痛く感じ入ったさまにて――
「……探幽殿は、まっこと、奇体にして神妙を持った絵の才人じゃ!……同じ絵を三度まで……しかも……我が意にあらず、描き直しながら……その形容――実は一部たりとも、何も変わっておらぬではないかッ! にも拘わらず――それでいて――自ずと――その神霊の妙味が絵から立ち上っておるではないかッ!……」
とあらん限りの賛辞を惜しまずに御座ったと申す。
 これより、今に至る迄、この探幽の『松に鶴』は、朽木家の重宝となった由に御座る。



 死に增る恥可憐事

 寛政八年の秋、墮落女犯によぼんの僧を大勢被召捕めしとらへられ、或は遠流又は日本橋にて三日さらしの上にて本寺觸頭ほんじふれがしらへ引渡しに成りしが、右の内に元安針町あんぢんちやうの名主にて、遊興に長じて名主役勤難つとめがたく、養子とらんへ跡をとらせ、其身は向ふ嶋とやらんに蟄居して暮しけるが、彌々遊所へ入り込み金錢を失ひ、知音ちいん親族も合力かふりよくだにせねば、世のはかなきを見限りて、旦那寺に至りてとどまるを不用もちゐず、強て受戒を乞ひて得度剃髮をなし、芝邊の寺に納所なつしよなどし、或は雲水行脚等も致しけるが、夏の暑さ凌難しのぎがたく、水邊の茶屋に至りて一杯の酒にうつをはらしけるが、風與ふと遊所近き故賑しきに踏迷ひ、初めは酒呑んと妓女樓へ登り、半ばには酒の相手のみとて妓女を呼びたるが、終りには遂に雲雨うんうの交りをなし、去るにてもかくいぎたなき所業、佛租師匠へ對してもあるまじき事と思ひ切りしが、又煩惱心起りて一度墮落なすも二度も同じと、或日又彼妓女樓に至りしに捕られける。彼僧の吟味の折から申立候由。日本橋晒の場所は安針町と隣れる所なれば、古への同名主又は知音近付ちかづきも多からんに、右の者に見られんは死罪になるよりは遙に苦しからんと人の語りける。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。以下の注で明らかなように、本件は相当に有名な大量破戒僧検挙事件であることが分かる。……煩悩即菩提……とは参らぬものじゃて、いつの世も……
・「死に增る恥可憐事」は「死にまさはぢ憐れむべき事」と読む。
・「墮落女犯の僧」ウィキの「女犯」より、まず概要を引用する(引用ではアラビア数字を漢数字に代えた)。『仏教の修行は煩悩や執着を断つためのもの』であることから、古来『戒律では僧侶に対して女性との性的関係を一切認めていなかった。この為、寺法のみならず国法によっても僧侶の女犯は犯罪とされ、厳重に処罰されることになっていた』(これを不邪淫戒と言う)。但し、これは時代によって差があり、『破戒僧は奈良時代や江戸時代には比較的厳しく取り締まられたのに対し、鎌倉時代や室町時代には公然と法体で俗人と変わらない生活を送る者も少なくなかった』という注が附されている。なお、『一方で戒律には男色を直接規制する条項が無かったため、寺で雑用や僧侶の世話をする寺小姓や稚児を対象とする性行為が行われる場合もあった』。その後、『日本では、一八七二年(明治五年)に太政官布告一三三号が発布された。僧侶の肉食妻帯が個人の自由であるとするこの布告は、文明開化の一環として一般社会および仏教界によって積極的に受容された。現在では僧侶の妻帯は当然のこととみなされ、住職たる僧侶が実の子息に自らの地位を継がせることを檀家から期待されることも多い』、とある。以下、正に本件を含む大量破戒僧捕縛事件のケースを掲げた「女犯に対する刑」を引用する。『女犯が発覚した僧は寺持ちの僧は遠島、その他の僧は晒された上で所属する寺に預けられた。その多くが寺法にしたがって、破門・追放になった模様である。 例えば、江戸市中であれば、ふつう日本橋に三日間にわたって晒されることになっていた。寛政八年八月十六日には六十七人(六十九人とも)の女犯僧が、天保十二年三月には四十八人の女犯僧が晒し場に並ばされたという。また文政七年八月には、新宿へ女郎を買いに行ったことが発覚した僧侶六人が、日本橋に晒されたと記録されている。さらに、他人の妻妾と姦通した女犯僧は、身分の上下にかかわらず、死罪のうえ獄門の刑に処された』。なお、ここには記されていないが、浄土真宗の僧は教祖親鸞が肉食妻帯を許し、自らも妻帯したことから、正に恋愛妻帯から過ぎた「墮落女犯」と看做されない限りに於いてはこの処罰対象から外れていたということは余り知られているようには思われないので、ここに記しておく。また、間歇的に僧の多量検挙が行われたという事実を見ても、当時の潜在的な女犯僧は逆に猖獗を極めていたと考えた方がよいであろう。ただ、この「堕落女犯の僧」の中には、幕府が執拗に弾圧し続けた、国家を認めない日蓮宗のファンダメンタリズムである不受不施派の僧などの非合法・反社会的『淫祠邪教』(と幕閣が判断する宗教集団)・反幕的宗教集団などの宗教的被弾圧者も含まれるので注意されたい。なお、本件を含む事例については永井義男氏の「江戸の醜聞愚行 第三十九話 無軌道な僧侶」も一読をお薦めする。
・「日本橋にて三日晒」罪人の晒し場は日本橋南詰東側にあった。著名な歌川広重作「東海道五十三次」の冒頭「日本橋朝之景」で、右手板塀の蔭になって、橋のこちら側の袂に犬二匹おり、尻だけを見せているが、この隠れた犬の覗いている河岸に晒し場があったのである。
・「本寺觸頭」単に「触頭」とも。幕府や藩の寺社奉行支配で各宗派ごとに任命された特定の寺院を指す。寺社奉行と本山及びその他末寺などの関連寺院との間の上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。室町幕府に僧録が設置され、諸国においても大名が類似の組織をおいて支配下の寺院の統制を行ったのが由来とされる。寛永十三(一六三五)年の寺社奉行設置に伴い、各宗派が江戸若しくはその周辺に触頭寺院を設置した。浄土宗では増上寺、浄土真宗では浅草本願寺・築地本願寺、曹洞宗では関三刹(かんさんさつ:関東の曹洞宗宗政を司った大中寺(下野)・總寧寺(下総)龍穏寺(武蔵)の三箇院。)が触頭寺院に相当し、幕藩体制における寺院・僧侶統制の一端を担った(以上は主にウィキの「触頭」に拠った)。
・「安針町」現在の中央区日本橋室町一丁目内。町名は慶長五(一六〇〇)年に豊後国佐志生さしう(現在の大分県杵市大字佐志生)に漂着した、オランダ東印度会社所属のリーフデ号のイギリス人航海士ウイリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六(一六二〇)年)の日本名である三浦按針みうらあんじんに由来する。後に幕府の通商顧問として日英貿易に貢献した彼は、この日本橋近くに邸宅を構えていた。なお、彼の立場は秀忠の代に至って本格的な鎖国政策で不遇となり、名目上の天文官として平戸に軟禁、失意のうちに五十六歳で没している。
・「納所」納所坊主。寺院の会計や庶務を取り扱う下級僧。
・「雲水行脚」という言辞を用いていることから、彼は禅宗の僧であったと考えられる。「雲水」は現在、禅宗の修行僧の意であるが、元来は「行雲流水」の略で、禅僧が雲や水のように一所に留まることなく、各所を経巡って修行をすることを言う。「行脚」も禅僧が修行のための諸国修行の旅をすることを指す。
・「雲雨の交り」「雲雨の情」とも。男女の交情、特に肉体関係を言う。宋玉「高唐賦」の楚の懐王が高唐に遊んだとき、朝には雲となり、夕べには雨となるという巫山ふざんの神女を夢みて、これと契ったという故事に由る。
・「彼僧の吟味の折から申立候由」当時、根岸は公事方勘定奉行であったが、破戒僧の管轄は寺社奉行であったから伝聞となっている。
・「日本橋晒の場所は安針町と隣れる所」「安針町」は日本橋北詰近くで、「日本橋晒の場」のからは橋を隔てて直近二百メートル圏内にある。

■やぶちゃん現代語訳

 死に勝る恥の憐れむべき事

 寛政八年の秋、堕落女犯にょぼんの僧を大勢召し捕え、或いは遠流、或いは日本橋にて三日の間晒された上、本寺触頭ふれがしらへ引き渡されて各個処分と相い成った。

 その晒しとなった内の一人に、元は安針町あんじんちょうの名主で――しかし、遊興が昂じて名主役を満足に勤められずなって役を退き……家も養子迎えなんど致いて跡をとらせた上……己れは向島辺りに蟄居して暮らしておったが……その後は、これ、いよいよ遊所に入れ込み……果ては当家の家産をも食い潰し……昔馴染みや親族も、最早、一切の援助を致さずなったによって――世の儚さを見限って旦那寺へと参ると、親しい住持の止めるのも聞かず、強引に受戒を乞いて得度剃髪をなし、芝辺りの寺にて納所なっしょなんどを致いて、時には行雲流水諸国行脚の修行なんどにも出でて御座ったという。……
 ところが、この夏のこと、あまりの暑さの凌ぎ難く、行脚の途次、とある水辺の茶屋に憩うた。
……そこで……つい……一杯の酒に手を出して憂さを晴らいてしもうた。……
……と……
……その茶屋近くに……遊所が御座って……その賑やかな三味やら小唄やら女たちの笑い声やらが聴こえて来る。……
……と……
……そこで――思わず仏道の道を、これ、踏み迷うてしもうた。……
……初めは、
「――酒を呑むだけじゃ……」
と胆に銘じ――妓楼へ登った。……
……が……
……半ばには、
「――酒の相手ををさすだけじゃ……」
と胆に銘じ――妓女を呼んだ。……
……が……
……果ては――遂に雲雨の交わり――これ、成すに至って……しもうた。……
「……あはぁッ! 何たる、寝穢いぎたなき所業!……仏祖師匠に会わせる顔とて、これ、ないッ!……」
と殊勝に心内こころうちに懺悔致いた。……
……致いたが……それも一時――
……直きに、またぞろ、煩悩心が鬱勃として湧き起って、
「――一度、堕落すも、二度も……これ、同じことじゃ……」
と……とある日、またしても妓楼へ登った。……
……ところが、そこで運悪く、召し捕えらるるに至った、とのことで御座った。
 以上はこの僧の吟味の折り、自身の申し立てに拠った事実なる由。

「……さても……日本橋の晒しの場所は、橋を挟んで安針町のすぐ隣りに御座れば……昔の同輩で御座った名主、又は昔馴染みやら近付きの者やらも多う御座ろうに……かの者どもに、晒された我が身を見らるるは、これ――死罪になるよりは――遙かに苦しくも辛いことにて、御座いましょうほどに……」
と、ある人が語って御座った。



 ぜんそく灸にて癒し事

 駒込邊にて一橋御屋敷を勤し人、名は聞しが忘れたり。背中五のゐに茶碗を伏せし程の燒尿やけどとみへる灸の跡ありしを、予が知人尋ければ、此跡を見る人はいづれも不審なせるが、十歳頃よりぜんそくにて次第に募りて、十八九の頃は年中よき日は數へるばかりにて、寢臥ねふしも自由ならず甚苦しみけるを、彼元に仕へける奧州出生の若黨、或日右主人に向ひて、扨々さてさて難儀の事見るに忍びがたし、我國元にて右ぜんそくを直す灸を人々に教る醫師ありしが、中々一通りの者は右療治も難成なりがたしと語りけるを、主人聞て我壯年の頃より如斯かくのごとくなれば、生涯つとめなりがたかるべし、いきて詮なき事なれば死しても宜間よろしきあいだ、右療治を請度うけたしといひしかば、六ケ敷むつかしき事にもなし、もつとも長き事にてもなし、只一時の事にて、其者の手にてもぐさを握りかため、いかにもかたくいたして五のゐへ灸にすゆる事也と言し故、則右をしへの如くしてすへけるに、誠に熱さたえがたく氣絶せしを、又水などそゝぎ或は呑せなどしてとふとふ火のきえる迄すへしが、跡は腫上はれあがりうみ崩れ、其砌そのみぎりは骨も見ゆる程也しが、其後はぜんそく絶ておこらざりし由。七十歳餘にて寛政七年の頃身まかりしと或る醫師の語りしが、ぜんそくを愁たり共、かゝる灸をすへん人も多くはあるまじと一笑しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。三つ前の「奇藥ある事」の療治と繋がり、医事シリーズ。その手のギャクで出てくるような巨大な灸という感じの映像で、思わず、読む方も笑ってしまう。
・「予が知人」最後の「或る醫師」と同一人物であろう。
・「一橋御屋敷を勤し人」御三卿の一つ、第八代将軍吉宗四男宗尹むねただを家祖とする一橋家の屋敷勤めの武士。一橋邸は江戸城一橋門内(現在の千代田区大手町一丁目の気象庁付近)にあった。
・「背中五のゐ」脊椎骨の最上部の頸椎の上から五つ目の第五頸椎(C5と略称)。鍼灸サイトを見ると対応する内臓諸器官として声帯・頸部の腺・咽頭が挙げられている。
・「燒尿やけど」は底本のルビ。「卷之一」の「燒床呪の事」の「燒床」と同じく、火傷のこと。「やけど」とは「焼け処」(やけどころ)の略であるから、それが訛って「やけどこ」「焼床」となったというのは分かるが、この「燒尿」は不詳。尿をかけると単なる「床」と「尿」の烏焉馬うえんまの誤りのようにも見える。
・「一時」凡そ二時間。
・「艾」底本では「芥」で右に『(艾)』と傍注する。誤字と見て、傍注の字を採った。

■やぶちゃん現代語訳

 喘息が灸によりて癒えし事

 駒込辺りに住んで、一橋家の御屋敷務めを致いて御座った御仁の話――名は聞いたが忘れてしまった。
 その御仁の背中の、頸の骨の五番目のところに、茶碗を伏せたほども御座る火傷と見ゆる大きなる灸の跡が御座ったを、私の知人が、
「……失礼乍ら……何時も気になって御座るが……そのお背中の、灸にも似た、大きなる火傷の跡は……これ、如何なされたものか、の?……」
と訊ねたところ、かの御仁曰く、
「……何の。この跡を見るお方は、何れも不審がらるる。……さても、拙者は十歳の頃より喘息を患い、歳をるにしたごうてひどうなって、十八、九の頃には一年の内に調子のよう御座る日は数うるばかりにて、日々、おちおち普通に眠ることすら、これ、満足に出来申さず、塗炭の苦しみを味おうて御座ったじゃ。……
 そんなある日のこと、拙者の元に仕えて御座った奥州出の若党の一人が、我らに向かい、
『……さてもさて……御主人様の難儀のこと、これ、見るに忍びのうものが御座いまする……実は我らが国元にて、かくの如き重き喘息を癒す灸を、これ、人々に教えて御座る医師が御座いますれば……ただ……その……なかなかその療治というは……常人にては、これ……いや、これ……なかなか堪え得るていのものにては……御座らぬものにてはは、これ、ありまするのですが……』
と、何やらん、最後の方が煮え切らぬ物謂いにて語って御座った故、我ら、これを受けて、
『……我らは壮年の頃よりかくの如き境涯にて御座ったれば……この分にては……とてものことに、生涯の満足なお勤めを申すことも……これ、かのうまい。……かかれば……生きておっても詮無きことと心得ておる。……さればこそ――死んでもよろしい――とも思うておる。……よって……そちの申す、その療治……これ、受けてみしょうぞ!……』
と申しまして御座る。
 すると若党は、
『……へえ。……いえ、その……そう難しき仕儀にては御座いませず……また……少しも、なごうかかる、というものにても、これ、御座いませぬものにて……ただもう、そうさ、一時ほどにて……済みまする。……その仕儀は――その療治を受けんとする者――その己が手にて――もぐさを――あらん限り! ムンズ! と握って――而して――如何にも! ギュウッ! と固く致しまして――それを、やおら、頸の骨の、上から五つ目の頂きへと、キュウッツ! と――灸として据えるというものにて、御座る。……』
と申しました故、即座に、かの者の申した如く致いて、灸を据え申した。……
……が……
――……?……!!?!!??!!××!!~゜・_・゜~!!!
……まっこと! その熱さたるや! 尋常にては! これなく!――
――お恥ずかしながら……
――我らは一時、これ、気絶致いて御座った。…………
……その後も、若党らは――朦朧として御座った我らに――灸にかからぬよう、頭に水を灌ぐやら、水を飲ませるやら致しまして……とうとう……その艾の山の火の消ゆるまで……これ、据え続けて御座った。……
……しかし……
――その後、灸の跡は真っ赤になって腫れ上がり、膿み崩れ――いや! もう、一時は、骨までも見ゆるほど、悪化致いて御座ったのですが……
……したが……
……なんと……
……それっきり……
――その後は――喘息の発作、これ、絶えて起らずなって、御座ったのじゃ。……」
との由。……

「……かの御仁、その後、七十歳余りまで矍鑠としてあられ、寛政七年頃、身罷られたと申す。」
とは、この一部始終を語って呉れた私の知人医師の言に御座る。
 その談話の最後に、かの医師、
「……喘息を憂うるとは申せ……かかる『ぼうぼう山』の如き、恐ろしき灸を据えんとする御仁は……これ……そう多くは、御座いますまいのぅ……」
と言って、我らともども一笑して御座ったよ。



 和歌によつて蹴鞠の本意を得し事

 京地の町人にて、名も聞しが忘れたり。飛鳥井家の門弟にて蹴鞠の妙足めうそく也し故、惣紫そうむらさきを免許あるべけれど、町人の事故裾紫を發し給ひけるを、彼者欺きて、
  紫の數には入れど染殘す葛の袴のうらみてぞ着る
かく詠じければ、別儀を以、惣紫をゆるされけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。三つ前の「探幽畫巧の事」と技芸譚で連関。
・「蹴鞠」私の守備範囲にないので(私は皆さんが熱中するサッカーも一切興味がない)、大々的にウィキの「蹴鞠」を大々的に引用して勉強する。『平安時代に流行した競技のひとつ。鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技』。中国起源で紀元前三〇〇年以上前の戦国時代のせいで行われた軍事訓練の一種に遡るとされる。漢代になって、十二人のチームが対抗して鞠を争奪し、「球門」と呼ばれるゴールに入れた数を競う遊戯として確立、『宮廷内で大規模な競技が行われた。唐代にはルールは多様化し、球門は両チームの間の網の上に設けられたり競技場の真ん中に一個設けられるなどの形になった。この時期、鞠は羽根を詰めたものから動物の膀胱に空気を入れたよく弾むものへと変わっている。またモンゴル帝国の遠征にともなって東欧や東南アジアにも伝来したと言われている。東南アジアでは現在でも蹴鞠が起源といわれているセパタクロー(蹴る鞠という意味)が盛んである』。『蹴鞠競技はその後、中国本土では次第に廃れていき、宋代にはチーム対抗の競技としての側面が薄れて一人または集団で地面に落とさないようにボールを蹴る技を披露する遊びとなった。やがて貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事をおろそかにしたり、娼妓が男たちの好きな蹴鞠をおぼえて客たちを店に誘う口実にしたりすることが目立ったため、明初期には蹴鞠の禁止令が出され、さらに清における禁止令で中国からはほぼ完全に姿を消した』。以下、本邦での歴史(アラビア数字を漢数字に代えた)。『蹴鞠は六〇〇年代、仏教などと共に中国より日本へ渡来したとされる。中大兄皇子が法興寺で「鞠を打った」際に皇子が落とした履を中臣鎌足が拾ったことをきっかけに親しくなり(『日本書紀』)、これがきっかけで六四五年に大化の改新が興ったことは広く知られている。ただし、「鞠を打つ」=蹴鞠と解釈されたのは、『今昔物語集』・『蹴鞠口伝集』などの後世の著作であり、「鞠を打つ」=打鞠(打毬)すなわち今日のポロのような競技であった可能性も否定出来ない。『本朝月令』や『古今著聞集』には、大化の改新の五十六年後にあたる文武天皇の大宝元年五月五日(七〇一年六月十五日)に日本で最初の蹴鞠の会が開かれたと記しており、この頃に蹴鞠が伝来したという説も存在する』。『蹴鞠は日本で独自の発達を遂げ、数多の蹴鞠の達人を輩出し』た(そうした名足の中でも有名なのが、平安後期の希代の名人と称され、後世の蹴鞠書で「蹴聖」と呼ばれる公卿藤原成通しげみち(承徳元(一〇九七)年~応保二(一一六二)年)で、伝承によれば『成通が蹴鞠の上達のために千日にわたって毎日蹴鞠の練習を行うという誓いを立てた。その誓いを成就した日の夜のこと、彼の夢に三匹の猿の姿をした鞠の精霊が現れ、その名前(夏安林(アリ)、春陽花(ヤウ)、桃園(オウ))が鞠を蹴る際の掛声になったと言われている。この三匹の猿は蹴鞠の守護神として現在、大津の平野神社と京都市の白峯神宮内に祭られている。また、その名前から猿田彦を守護神とする伝承もあった事が『節用集』に書かれている』)。『平安時代には蹴鞠は宮廷競技として貴族の間で広く親しまれるようになり、延喜年間以後急激にその記録が増加することになる。貴族達は自身の屋敷に鞠場と呼ばれる専用の練習場を設け、日々練習に明け暮れたという。辛口の評論で知られる清少納言でさえ、著書『枕草子』のなかで「蹴鞠は上品ではないが面白い」と謳っているほどであった』。『蹴鞠は貴族だけに止まらず、天皇、公家、将軍、武士、神官はては一般民衆に至るまで老若男女の差別無く親しまれた。特に後白河院に仕えた藤原頼輔の名声は高く、子孫がこれを良く伝えたために難波・飛鳥井両家は蹴鞠の家として知られるようになった。蹴鞠に関する種々の制度が完成したのは鎌倉時代で、以降近代に至るまでその流行は衰えることは無かった』。『室町時代には、足利義満や義政が蹴鞠を盛んに行ったこともあり、武家のたしなみとして蹴鞠が行われていた。土佐の戦国大名・長宗我部元親が天正二年(一五七四年)に定めた「天正式目」では、武士がたしなむべき技芸として、和歌や茶の湯、舞や笛などとともに蹴鞠が挙げられている』。『しかし室町時代の末期に織田信長が相撲を奨励したことで、蹴鞠の人気は次第に収束していったといわれる。しかし蹴鞠の文化が消失した中国とは異なり、現代でも伝統行事として各地で蹴鞠が行われている』。以下、「ルール」。『蹴鞠は、懸(かかり)または鞠壺(まりつぼ)と呼ばれる、四隅を元木(鞠を蹴り上げる高さの基準となる木。)で囲まれた三間程の広場の中で実施される。一チーム四人、六人または八人で構成され、その中で径七~八寸の鞠をいくたび「くつ」をはいた足で蹴り続けられるかを競った団体戦と、鞠を落とした人が負けという個人戦があった』。競技する『場所には砂を敷き、四隅、艮にサクラ、巽にヤナギ、坤にカエデ、乾にマツを植える。周囲の鞠垣は本式では七間半四方、広狭で三間四方までにする。東に堂上(どうじょう)の入り口、南に地下(じげ)の入り口、西に掃除口がある。懸の樹木はウメ、ツバキなど季節のものを用いることもあり、その樹と鞠垣との間を野という。禁裏、仙洞、皇族、将軍家ならびに家元はマツばかり四本、また臨時には枝またはタケを用い、切立(きりたち)という』。『開始には、まず下﨟の者が第四の樹の下からななめに進み、中央から三歩ほどの所で跪き、爪先で進み、鞠を中央に置く』。『一座の中に師範家がいると第一の上座、すなわち一の座、または軒というのを、その人に譲り、第二、第三と身分に従って懸にはいり、樹の下に立つ。ただし高貴な人がいると軒を譲り、師範家は第二となる。禁裏、仙洞などで御前ならばみなが蹲踞し、他の家ならば堂上は立ち、地下は蹲踞する。人数がそろったら第一から立ち、立ちおわると、第八の者が進み、中央に置かれた鞠から三歩ほど手前で蹲い、蹲いながら進み、右手拇指と人差指とで執皮を摘み、鞠を右に向け、左手を添え、腰皮を横に、ふくろを上下にし、蹲ったまま三歩退いて立つ。第七の者が進み出て、中央から三歩ほどの所に立って第八に向かうと、第八から第七に鞠を蹴渡す。第七から第一、第二、第三、第四、第五、第六、第七、第八と一巡、蹴渡しおわると、第八からまた第一すなわち軒に渡す。軒は受けて上鞠(あげまり)といって高く蹴る。それから随意に蹴る。一人三足が普通で、一は受け鞠、二は自分の鞠、三は渡す鞠である。八人立ちのときは、八境といって中央から八個に区分し、一区を一人の区域とし、その域外に蹴出すとその区域の者が受けて蹴る』。使用された『鞠は革製で、中空である。シカの滑革(ぬめかわ)二枚をつなぎあわせ、そのかさなる部分を、腰革、また「くくり」という。また取革といって、べつに紫革の細いのをさしとおす』。『種類は、白鞠、生地鞠、燻鞠、唐鞠がある。白鞠は鞠を白粉で塗ったもの。生地鞠は生地のままのもので、白鞠に対する。燻鞠は燻革で製したもの。唐鞠は五色の革を縫いあわせて製し、中国から伝来したときの鞠のかたちであるという』。『『今川大草紙』によれば、「鞠皮は、春二毛の大女鹿の中にも、皮の色白で、爪にて押せば、しわのよる皮を上品とする也」』とある、とする。『なお、日本語でサッカーのことを「蹴球(>しゅうきゅう)」と呼ぶのは、明治時代にヨーロッパから来た外国人が居留地でその競技に興ずる姿を見て、日本人が「異人さんの蹴鞠」と呼んだこと』に由来するのだそうである。
・「京地」は「けいぢ(けいじ)」と読んでいるか。帝都を言う「京師けいし」の濁音化した「けいじ」に「地」の字を当てたものか。
・「飛鳥井家」藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流。ウィキの「蹴鞠」によれば、蹴鞠の公家の流派の内、『難波流・御子左流は近世までに衰退したが、飛鳥井流だけはその後まで受け継がれていった。飛鳥井家屋敷の跡にあたる白峯神宮の精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーを中心とした球技・スポーツの神とされて』毎年四月十四日と七月七日には蹴鞠奉納が行われているそうである。
・「惣紫」総紫とも。蹴鞠が上達した者に対して飛鳥井・難波家から特に下賜されて着用が許された紫の袴のこと。武家には総紫、町人には紫裾濃むらさきすそご(紫色を、上方は薄く、下方になるにつれて濃くなるように染めたもの。)の袴が許された。画像は「風俗博物館」の「蹴鞠装束と蹴鞠」を参照されたい。
・「免許」これは師から弟子にその道の奥義を伝授すること、また、その認可を認めた印を言う。
・「裾紫」前注の「紫裾濃」に同じい。
・「紫の數には入れど染殘す葛の袴のうらみてぞ着る」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
紫の數には入れど染殘そめのこくずの袴のうらみこそしる
の異形で出る。因みに私は、このバークレー校版の和歌の方が響きがいいように思う。
「葛の袴」葛布の袴。葛布くずふとは、クズの繊維を紡いだ糸で織った布。古くはフジ・コウゾ・麻などとともに庶民の衣料として用いられ、また高貴の人の喪服として用いられることもあったらしい。但し、その後の葛布と称するものは、経糸に絹・麻などを用い、緯糸をクズ糸で織ったものが多く、これは中世以降の正式でない場合の袴などに用いられ、水干葛袴すいかんくずばかまという決まった服装名もあった(以上は「世界大百科事典」に拠る)。岩波版長谷川氏注に、『葛の葉を掛ける。葛の葉が風に吹かれ白い裏を見せることから、「葛の葉の」は「うらみ」にかかる枕詞』ともなっている、とある。所謂、安倍晴明の母とされる妖狐葛の葉、信太妻しのだづま伝承の、
 恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
に基づく。以下、私なりの通釈を示す。
――願いに願った名誉の蹴鞠の免許の紫袴――これを下される一人とはなったものの……ああっ、葛の裏葉のように、染め残した如、だんだんに白うなっておる情けなき紫裾濃むらさきすそごの袴であって……かの、正しき惣紫の袴でないことが、如何にも、恨めしいこと……その恨めしさを、私は心に纏うていることよ……
なお、長谷川氏は、医師で俳諧師でもあった加藤曳尾庵えいびあん(宝暦一三(一七六三)年~?)著「我衣わがころも」(寛永より宝暦までの世態風俗を記した書の抄出と化政期の同種の風聞などを編年体で配した随筆。)の五に、戦国大名で歌人で蹴鞠も得意とした『細川幽斎の事として小異ある歌を出す』と記されておられる。

■やぶちゃん現代語訳

 和歌によって蹴鞠惣紫下賜という本意を得た事

 京師けいしの町人で、名も聞い御座ったが失念致いた。
 この者、蹴鞠の名家飛鳥井家の門弟にて、蹴鞠の達人にて御座った故、惣紫そうむらさきの袴を免許さるるべきところ、かの者、町人であったが故に裾紫すそむらさきの袴を以って下賜認可となさった。
 ところが、かの者、このことをひどう嘆いて、
  紫の数には入れど染残す葛の袴のうらみてぞ着る
と詠んだによって、このこと、飛鳥井家にても伝え聴くことと相い成り――殊勝なる蹴鞠執心なり――とて――別儀を以って、特に惣紫をお許しになられた、とのことで御座る。



 雷嫌ひを諫て止めし事

 或人のかたりしは、誠に實儀の事なる由。至て雷を嫌ふ親友の有りしが、或日倶に酒汲て遊びし時、御身雷を嫌ひ給ふ事人にまされたるが、我等の異見を用ひ給はゞしかと止べしといひければ、彼人聞て、假初かりそめの事ながら雷を恐るゝ事言甲斐いふかひなしと思へども、雷のせん日は朝より心持惡敷あしく、雷鳴頻りなれば誠に心魂を失ふに似たり、武家に生れかゝる事何とも殘念なれば、いかやうの事にても異見に隨ふべしと言ひし故、左あらば御身の好給ふ酒を止め給ふべし、長く止るにも及ぶまじ、雷のなり候迄止めて、雷いたし候時は用られよと教ければ、右教を堅く守り、しよの強き夕べ酒呑んと思ふ時もねんじて思ひ止まりしが、雲立くもだちなどして少し雷氣を催す空には早々雷もしよかし、一盃をたのしまんと雷氣を待つ心になりて、後は果して雷嫌ひ止事雷好やみことかみなりずきなりしと人の語りぬ。可笑しき事故爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:滑稽の和歌による瓢箪から駒から、滑稽の掟による瓢箪から駒の滑稽譚連関。私はこの雷嫌いの主人公、フォビアとしての心理的側面よりも(泉鏡花の雷嫌いは富に有名で、番町の家の天井には雷よけのまじないに玉蜀黍を吊るしていた)、「雷のせん日は朝より心持惡敷」という予兆感覚の方に興味がある。恐らく大気の気圧や電気的な変化に敏感であったに違いない。犬の雷恐怖症は実際に雷の鳴る以前から症状が見られるし、ネット上には鳴る前に髪の毛が痒くなる人がいるという記事があり、雷ではないが、私の昔の同僚の一人に、台風が近づいて来ると同時に(予報などを見ないで)不定愁訴を訴え、実際に襲来を予見出来る男がいたのを思い出す。私はこういうことは科学的にも有り得ることと思っているのである。彼には生理的な変調によって雷が予見出来た。その変調は恐らく、何とも言えない(明確に嫌悪を催すというのではないが)中程度の不快を持った生理的変異であったのであろう。序でに言えば、遙か幼少の砌に、近くで落雷を経験してそれが一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を引き起こし、永くトラウマになったのかも知れない。ところが、この友人の心理的な条件拘束によって、彼は雷を予見する時、その時感ずる生理的感覚的不快感が、今度は新たに飲酒が出来るという大きな心理的快感を引き起こすに至った。その結果として、軽い前者は打ち消され、後者が快感の経験則として残り、速やかに認識されるオペラント条件付けが行われたのである。私が言いたいのは、この場合、その『予見性』にこそオペラント条件付けの淵源があり、強化のポイントがあった点なのである。また、この忠言は一種のプラシーボ効果を齎しているとも言える。
・「早々雷もしよかし」底本は「しよ」の右に『(せよ)』と傍注する。
・「後は果して雷嫌ひ止事雷好やみことかみなりずきなりし」は、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『後には果して雷嫌ひ止て雷ずきに成りし』とある。私は底本を、
 後には果して雷嫌いが止み、こと、雷好きになった
の意で採る。即ち、「こと」は「殊」で、格別に、の意の形容動詞語幹の用法による、強調表現と採るものである。

■やぶちゃん現代語訳

 雷嫌いを忠告によって療治した事

 ある人の語り。
「これはまっこと、事実で御座る。……
……拙者に、大の雷嫌いの親友が御座ったのじゃが……ある日のこと、共に酒を酌み交わしながら、
「……御身の雷嫌い、これ、人後に落ちぬ嫌いようじゃが……我らの忠告を用いんとならば……これ、むこと間違い御座らぬ。……」
と話を向け申した。すると、
「……雷なんどは、これ、一時の、つまらぬものとは、分かってはおり乍ら……いや、勿論、雷なんど恐るるは、児戯に類し、これ、如何にも不甲斐なきこととは思えども……いっかな、雷の鳴りそうな日は……これ、もう、朝より気持ちが悪うなって御座って、の……かの雷鳴が盛んに鳴り出したら、これ、もう、いかん……まっこと、心魂吹き消えてしもうような心持ちと相い成る。……武家に生まれ、かかること、これ、何とも残念無念。――なればこそ! 如何なることにても、貴殿の忠告に従わんとぞ思う!……」
と申しました故、
「されば。……御身の、頗る好み給うところの、これ。……酒。……この酒を――お止めなされい。……いやいや、永久とわに止めよと申すにては、これ、御座ない。
――雷が鳴る直前までは――これ、禁酒――
……なれど、
――雷が鳴り響き、すっかり雷が鳴りむまでは――これ、禁を解く――
……呑んでよう御座る。……」
と教えを垂れて御座った。
 かの友はそののち、この拙者の教えを、これ、律儀に堅く守りましての……
……そうさ、今日のように、かくも暑さ厳しき夕暮れなんどに、
『……あっ、はァ……酒が……呑みたい……』
なんどという思いがよぎった折りにても――これ、ぐっと堪えては――思い止まる――といったことを繰り返して御座った……
……すると……そのうち……
……入道雲がむくむくと立ち登って、いささか雷の来そうな気配が空に満ちて参りますれば、これ、
『――!――はよう早う、雷も鳴れ――一杯、楽しまんとぞ思うに!――』
と――雷の気配致すを、これ、待ち望む心持ちと相い成るようになって……後には、果たして……雷嫌い――どころか――殊の外の雷好き――と相い成って、御座った。……」
と、その御仁が語った。
 実に面白いこと故、ここに記しおくことと致す。



 出家のかたり田舍人を欺し事

 寛政八年九月上旬の事也しが、我許へ常に來る鍼治しんぢの、只今湯嶋裏門前にて盜賊を押へて、人大勢立留り居し故其樣子を聞しに、近在の農人と覺しき者、小田原邊へ參りて歸の節、出家商人道連に成しが、相宿に泊りて心安くいたし、外に道連もなければ翌日も一所に泊りしが、彼出家路用を遣ひ切、宿拂の手當もなければ今夜の宿拂ひは、江戸表へ罷越候得まかりこしさふらへば、親類共も多き間早速返濟なすべしとて欺きける故、出家の事といひ前夜より心安くいたしける事故、其日は彼田舍人より拂遣しけるが、品川に至りて一人の出家申けるは、何をか隱し可申、一人は出家成り、それがしは醫師にて江戸表いづかたには兄も有之、同人方より上方へ修業に登りけるに、途中にて不慮に煩ひて、手當せし品身の廻り大小迄も沽却なし、兄の方へ至らんも誠にをもてぶせなれば、何卒大小を才覺いたし罷越度まかりこしたき由を彼田舍人に欺き賴ける故、慈愛深き者にや、或る古道具屋にて麁末そまつの大小を調へ、其代物も江戸に至り歸し候約束にて相渡しければ、殊の外悦び同道して江戸へ入、芝邊にてはづすべき心や、此邊に知る人ありとて兩人の僧裏道へ立入しを、彼田舍人少しもはなれず附歩行つきありきければ、知る人は店替たながへせしなど僞りて、兎角して湯嶋迄來りて、裏門前の佐野何某といへる御旗本の門へ至り、門番に何か斷りて内へ通り、表に彼田舍人を殘し置て暫く過て立出で、漸々尋當りたり、水引をすこし調へ度由にて、調呉ととのへくれ候樣田舍人へ賴ける故、僞もあらじと水引を調に立出しが、さるにても疑敷うたがはしきとて跡へ心を付ければ、右出家も未だ未練のかたりなるや、貮人ながら旅人の風呂敷包を持逃出しけるを、彼田舍人聲を掛て追欠おひかけ、大根畑にて捕へて風呂敷包も、調へ遣しける大小をも取戻し、扨々憎き盜賊かな、所へ預け官へうつたふべけれども、我も在所に急ぎ候事あれば其通そのとほりに成し置也とて、一人の出家は逃去りしが、殘る一人を突倒し惡口して右の田舍人は立去りける由。突倒されし出家はやうやく起きて側の石に腰を掛居しを、恨まぬ者もなかりしが、怡然いぜんとして居たるを見てきたる由。扨々不屈者もあるかなと右はり醫師友益いうえき語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。現代語訳はト書を入れて、演出してみた。――それにしても――現代もそうだが――こういう騙りの輩、どうも最後にこんな風に居直るケースが多いじゃねえか! あっしが江戸っ子なら、こういう態度はムショウに腹が立つゼ! 半殺しにしたくなるゼエ! エエィ! 皆して、ヒチまおうゼイ!
・「我許」根岸の居宅は現在の千代田区神田駿河台(明治大学の向かいの日大法科大学院のある場所)にあった。湯島天神からは凡そ一・五キロメートルほど。
・「某は醫師にて」当時の医師は僧体。
・「門前の佐野何某」尾張屋版江戸切絵図の「湯島天神裏門坂通」の途中に「佐野」姓有り。
・「大根畑」既出。湯島大根畠。現在の文京区湯島にある霊雲寺(真言宗)の南の辺り一帯の通称。私娼窟が多くあった。底本の鈴木氏の先行注に『ここに上野宮の隠居屋敷があったが、正徳年間に取払となり、その跡に大根などを植えたので俗称となった。御花畠とも呼んだ』とある。この「上野宮」というのは上野東叡山寛永寺貫主の江戸庶民の呼び名。「東叡山寛永寺におられる親王殿下」の意で東叡大王とも呼ばれた。寛永寺貫主は日光日光山輪王寺門跡をも兼務しており、更には比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあった上に、全てが宮家出身者又は皇子が就任したため、三山管領宮とも称された。
・「怡然」原義は、喜ぶさま、楽しむさま、の意。ケツを捲くって居直り、不敵に笑っていたのであろう。
・「友益」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『友兼』という名になっている。

■やぶちゃん現代語訳

 出家の騙りの田舎者を欺きし事

 寛政八年九月上旬のことであった。
 我が元へ常に来たる鍼師はりしが参って、
「……丁度今、湯島裏門前にて盗賊ぬすっとを捕り押さえやして、もう、雲霞の如(鍼をそれぞれ摑んだ両手を左右に大きく円を描いてぶん回す)、人が大勢集まっておりました。」(根岸、振り回した鍼を避けるように、頭を後ろへ仰け反りつつ)
と申す故、
「……如何いかが致いた?」
と訊いてみたところが、以下のような次第で御座った。

(針師、右手の針をズンと根岸の方へ向ける。根岸、また身を仰け反る。話中、何度もこれを繰り返す)
……近在の農民と思しい者、小田原辺へ参った、その帰るさに、二人の出家と道連れと相いなって御座ったそうな。
 相宿致いて、すっかり心安うなって、他に道連れも御座らねば、翌日も彼らと同宿致いたれど、その夜のこと、出家の一人が、
「……まっこと、申し上げにくきこと乍ら……実は、拙僧、路用を、これ、すっかり使い切って仕舞しもうて……今日の、ここな、宿払いのしろも(右手の親指と人差し指を丸く結んで面前に掲げ、ゆっくりと胸の前へと下して左手を合わせて合掌する)……実は、御座らぬ。……なればこそ……一つ、今夜こよいの宿払いは、これ……いや、江戸表へ罷り越しますれば、親類縁者も数多く御座るによって、直き、返済致しましょうほどに……どうか……(また合掌)」
と如何にも心もとなき様にて嘆き申せばこそ、何よりも出家の身なれば、また昨夜来、心安う致いておることでもあり、その日は、かの田舎者が宿賃を払ってやったと申す。
 さて、その日、品川に着くと、今度は今一人の出家が、
「……さても、拙者とのお話なんどの折りから……薄々はお気づきのことにても御座ろうが……何を隠そう……かの者は正真正銘の僧なれど……拙者は(両の袖を内に握って左右下方に突っ張って)……医師にて御座る。江戸表の××には兄が住んで御座って、同人方より上方へ医師修業に上って御座った。……ところが……修業も果てて、この帰りの砌り、旅の途次にて不慮の災難にうて……医師の不養生とはよく申すことで御座るが……病み臥せっては療治がため……御覧の通り……身の回りのもの、佩刀致いて御座った大小までも……一切合財、これ、売りはろうて仕舞う仕儀と相い成って御座った。……このまま、兄が元へ帰っては……いっかな……合わせる、これ、顔が、ない。……何としても、武士の魂たる大小を手に入れまして……兄が元へ、帰参の礼を致いたき所存……」
と、嘆息の上、かの田舎者に縋らんとする風情。
 かの農民、これ、余程の人を疑えぬ慈愛深き者にても御座ったか、途次の古道具屋にて粗末ながら大小の刀を調え――勿論、そのしろをも、かの田舎者が立て替えた上、江戸着到の後、直きに返す旨の約束を致いて――相い渡して御座った。
 医師と明かした男も、これ殊の外の喜びよう、そのまま三者同道にて江戸へった。……
……(鍼師、右手の鍼を放り投げ上げると、下向きになったそれギュッと握り、畳へ真っ直ぐ、半ばまで、ズン! と刺し)この騙り者ども――江戸へ入るなり、芝辺りで逃げようという魂胆ででもあったものか――僧と申した者が、
「……ええっと……この辺りに知れる者が……おったはずじゃ……」
と言いつつ、急に医師と二人して裏道へと入ってゆくを、かの田舎者も遅れるまいと、ぴたりとくっ附いて、いっかな、離れず歩く。
 すると僧は、
「……おんや?……どうも、引っ越したようじゃ、のぅ……」
なんどと……(鍼師、左手の鍼を同じく放り投げ上げると、下向きになったそれギュッと握り、畳へ真っ直ぐ、半ばまで、ズン! と刺す。二本の鍼の垂直に立った鍼師正面方向からのアップ。カメラ、ティルト・アップして鍼師の顔のアップ)偽り……兎角致いて、湯島まで参った。……
……湯島天神裏門前の佐野何某という御旗本の門へ至り、二人は門番の者に何やらん、断りを入れ、かの田舎者を表に残しおいたまま、中へと入った。暫く致いて立ち戻ると、僧の方が、
「……いや! ようやっと尋ね当てて御座った。……実は、その、貴殿にお返しする代の用立て申し出に際し、これ、水引が少々、必要で御座る。……まっこと、申し訳なきこと乍ら、一つ、買い調えて参ってはま下さるまいか。……我らは、ここにて、貴殿の荷を守って、待って御座るによって。」
との由にて、かの田舎者へ頻りに頼む故、
『……何ぼ何でも、ここまで来て、嘘偽りというは、これ、あるまい。』
と、近場の店へと水引を買い求めに別れてはみたものの、
「……いんや?……どうも話がおかしい。やはり怪しいぞ!」
と、やっと心づき、横町を入って直ぐ、こっそりと彼らのかたを覗き見たところが――!(鍼師、やおら、右手逆手に突き刺さった二本の鍼を抜き、根岸の面前へ突き出す。根岸、右手を後ろについて、仰け反る)……
……かの出家ら……未だ未熟の騙り者で御座ったか……田舎者が風呂敷包みを、やおら、持ち逃げせんとするところで御座った。
「――ド、泥棒ッツ!――」
――と(鍼師、二本の鍼を、逆手にして畳に、ブスッ! と突き刺す。以下、大袈裟な乱闘の手振り身振り、よろしく)――かの田舎者、大声を――吐き掛け、吐き掛け――ずんずんずんずん、追っ駈け、追っ駈け――遂に、大根畑だいこんばたにてひっ捕らえ――風呂敷包みと、かの医師と称した者へ買い与えた大小をも取り戻いて御座った……。
 二人の首根っこを両の手で、普段の大根を引き抜く要領にて、グィッツ! と抑え、
「……さてもさても! 憎っくき盗賊ぬすっとじゃ! しかるべき所へ預け、奉行所へも訴え出るところじゃが……我らも在所に急がずんばならぬ訳もあらばこそッ!……ええェイ!! これで、仕舞じャ! 糞どもガ!!」
と二つ三つ、ぽかぽかと頭を殴る。
 隙を見て、一人の賊は逃げ去ってしもうたが、残った方は小突き倒し、散々に打擲ちょうちゃくの上、
「ド外道ガッ!!!」
と、渾身の悪口あっこう言い放ち――かの田舎者は、立ち去って御座った。
 突き倒されて禿げ頭から血を滴らせた出家ていの賊は、暫くして起き上がると、傍らに御座った石に腰を掛けておった。
 この騒ぎにつどって御座った野次馬で、これを憎んで、唾を吐きかけぬ者とて御座らんだ。
――が――
……この悪党、根っからのワルで御座ったらしく……ケツを捲くって居直った面構えにて、不敵な笑いをさえ(鍼師、ダークな笑いを浮かべて、根岸をねめつける)……浮かべて御座ったを……正に今、見て参って御座る。……(鍼師、急に居住まいを正し)
……さてもさても! かくもおぞましき不届者、これ、おるものにて、御座いまするなぁ……」

 以上は、鍼医師友益ゆうえきの語ったことで御座る。



 痔の藥傳法せし者の事

 酒井左衞門尉家來にて萱場かやば町に住居せる前田長庵といへる醫師、予が痔疾故腹合はらあひを愁ひける時藥を貰ひける時語りけるは、痔疾の療治をなせる中橋の老婆有、日々に門前へ市をなし、近隣遠所より日々に痔をわづらへる者來りしが、かの老婆煩ふ事ありて長庵が療治にて全快なしけるゆへ、長庵右老婆に向ひ、御身子とても無く弟子も不見みえず、痔の妙法は人を救ふの一法なれば我等に傳授せん事はなるまじきやと切に乞しかば、かの老婆がいはく、成程我等子供もなく誠に生涯の内のたつきのみにて、風與ふと此藥法の四五を習ひ覺へ聞及びて種々の痔疾を見けれど、外の藥は知らざれども、數多く見候へば自然と工夫もつきて、是はに用ひ彼はこれに與へけるに、自然ときき候と見へて繁昌せるなり、長庵が其需そのもとめ深切しんせつ成るに任せ、是迄醫師も追々おひおひうはの空の需あれどいなみたれ共、此度病氣本復の禮かたがたとて傳授しけるが、内痔などを表へ引出ひきいでし候は一草いつさうの葉を用ひ、外へいで候て直し候にも一草の葉を用ひ、付藥つけぐすり練藥ねりぐすりにて龍腦りゆうなう等を加へ香氣至て強き藥にて、其教へ主は委細の事もしらざれど、醫家にて工夫すれば其道理至極面白き法の由。同家中の男右傳法の譯を聞及び、多年痔疾を愁ひしとてたのみけれど、本科の藥ならねば他の邪魔とことわりけれど、切にのぞみし故無據よんどころなく右法をもつて藥を與へしに、立所に癒へけると語りける故、爰にしるす

□やぶちゃん注
○前項連関:偽医者譚から今度は正真正銘の医師談話へ。四つ前の「ぜんそく灸にて癒し事」に民間療法シリーズでも連関。既に見てきた通り、根岸は重い痔の持病を抱えていた。彼に前田はこのシンプルな『一草の葉』の妙薬を処方して呉れたのであろうか? 恐らく、処方されたものと思われる。効果は? なければ、記載をするはずがない。それなりの効果があったものと考えてよかろう。その効果の程度も含めて、根岸は、痔の専門医ではない前田から、堅く口止めされているのでもあろう。
・「酒井左衞門尉」出羽鶴岡の庄内藩第七代藩主酒井忠徳ただあり(宝暦五(一七五五)年~文化九(一八一二)年)。藩主在位は明和四(一七六七)年から文化二(一八〇五)年。官位は従四位下、左衛門尉。
・「萱場町」現在の東京都中央区日本橋茅場町。江戸城拡張工事の際、神田橋付近に住んだ茅商人をここに移して市街を開いたことに由来し、酒問屋の町として知られた。
・「前田長庵」当時、知られた蘭方医らしい。文化元(一八〇四)年に張路玉著前田長庵再訂とある「傷寒大成(傷寒纉論・傷寒緒論)」漢方医書を板行している。ネット検索では松平定信との関係も窺える。
・「予が痔疾故」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「痔疾後」とする。
・「腹合」腹具合。
・「中橋」中橋広小路。現在の東京駅南口正面の八重洲通り。古くは堀が有って橋があったが江戸中期に埋め立てられ、中橋の名だけが残った。
・「龍腦」樟脳に似た芳香をもつ無色の昇華性結晶。双子葉植物綱アオイ目フタバガキ科リュウノウジュ Dryobalanops aromatic を蒸留して得られるが、人工的には樟脳・テレビン油から合成、香料などに用いられる。ボルネオ樟脳。ボルネオール。

■やぶちゃん現代語訳

 痔の薬を伝法した者の事

 酒井左衛門尉忠徳ただあり殿の御家来衆で、茅場町に住居致す前田長庵殿と申される医師が御座る。
 私が性質たちの悪い痔疾のため、腹具合まで悪うなった折り、名医の由、我ら聞き及んで御座って、特に彼に処方を頼み、薬を貰い受けたことが御座って、その際、長庵殿が語った話を以下に記しおく。

 痔疾療治を専門と成す、八重洲中橋の老婆が御座った。
 痔を患う者、これ、日々門前市を成し、近隣はもとより、遠方からも毎日のように痔をわずろうておる者どもが来たった。
 ある時、この老婆自身が、病みわずろうたことが御座って、我らの治療にて、幸いにも全快致いた。そこで拙者、かの老婆に向かって、
「……そなたは子とてもなく、弟子も見たところ居らぬ。……そなたの、かの痔の妙法じゃが……これは、多くの患者を救う確かな一法なればこそ……どうじゃ? 一つ、我らに伝授致すというは、これなるまじい、ことかのぅ?……」
と切に乞うて、み申した。
 すると、かの老婆、
「……なるほど。……我ら、子供もなく……我らはかのうなれば、これ、我らが一代のみの処方として――絶える、じゃろ。……我ら……ふとしたことから、この妙方効能のいろはを習い覚え……更に、あちこちより施術や処方も聞き及ぶに至り……いや、もう、いろいろな痔疾を療治して参ったれど……痔以外の病いに就きては、これ、薬も効能も、これ、とんと知らねども……数多くの痔に苦しんで御座る人々を診て参ったれば……我ら自ずからの工夫も致すように相い成り……この処方は、この病いへ用い……これはまた、あの病いの折りに……と、あれこれ試して御座るうち……自然と、よう効くようになったと見えて……かくも、繁盛致すことと相い成って御座った。……長庵先生……先生の今のお言葉は、これ、まっこと、心より、痔に苦しんで御座る人々を救わんとするに、切望なされてのことと、承って御座った。なればこそ……それに任せ……いえ、実はの……これまでにも、何人ものお医者が……これ、浮ついた金目当てやら、浅墓なる興味本位にて……教えてくれ、教えてくれのと、これ、五月蠅うるそう言うて参ったことが、何度も御座ったじゃ。……なれど、総て……我ら、断っておりました。……じゃが……この度は我らが病気本復の、その御礼も兼ねて――これ、あなた様にご伝授致すことと、この婆、決め申した。――」
と、遂に伝授してもろうたので御座る。
 それは、以下のようなもので御座る。
――鬱血した内痔核などを肛門から外側へ引き出す必要がある場合、ある一草の葉を処方として用いまする。
――反して外痔核として肛門から明白に突出し、視認可能な様態のものに対しても、実は先と全く同じある一草の葉を用いるので御座る。
――患部へ外用するところの塗布剤は、一種の練薬で、竜脳などを加えてあり、至って香気の強い薬剤にて……といった塩梅で御座る。
……いえ、教授者の老婆自身は、これ、その薬効や処方の機能や現象について、分かっていてやっている訳では、これ全く御座らぬ。……
……されど、その成分・調合法・服用法・外用法・症状別処方等々につき、我らが持っておりまする医学的な知見に照らし合わせてみたところが……
……これ、何と! 実に興味深い、有効にして適正確実なる配剤・処方で御座ることが分かり申した!……
……我らが同じ家中の男にて――我らが、この評判の老婆の痔の妙法を伝授致いたということを聴き及んで――この者、長年、重い痔疾に悩まされて御座ったよしにて――どうか療治を、と頼みに参ったことが御座る。が、我らは痔を専門とする医師にては、これ、御座らねばこそ、他の痔の専門医の生業なりわいを邪魔致するは本意にあらざれば、とて一旦は断ったので御座る。……ところが、いや、もうシっきりなしに、望まれまして、の……よんどころのう、かの伝授の薬を以って処方致しましたが……もう、たちどころに平癒致いて、御座った。……

――痔疾に悩む我らとしては、まずはここに記し置かずんばなるまいと、筆を執った次第である。



 疝氣胸を責る藥の事
 予が許へ來る庄内領主の醫師の語りけるは、同家中とやらん、疝癪せんしやく胸をせめさしこみて時々苦しみけるが、或日強く起りて苦しみけるを、在所より來りし足輕これを見て、我も疝氣を愁ひけるに、奇妙の藥にてこころよし、用ひ可給哉たまふべきやと言ひし故、其藥法傳授を乞ひしが祕して不傳つたへず、翌日一藥を調合して煎じ候て與へける故、參り合せし醫師是を味ひて、隨分氣味面白おもしろしとて用ひけるに、即時に難儀を忘れ一夜用ひて翌日は快驗くわいげんせし故、右醫師ねんごろに尋ね問ひしに、ぶなといへる木の皮の由。然れども本草にも不見みえず、此頃阿蘭陀おらんだ藥法の書を飜譯するものありて其説をきくに、符を合するが如しとかや。此頃は彼醫師、右の一藥に工夫の加減をなして度々功を得しとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:効果絶妙の民間医薬二連発で、話者も恐らく同一人物である。疝気も根岸の持病であるから、この最後に現れる改良薬も当然、根岸は処方して貰ったものと思われるが、それにしては書き方がやや距離をおいたものとなっている。根岸の疝気が恐らく下腹部のもので(もしかすると痔を主因とする消化器系の疾患、憩室炎や私の持病であるIBS(過敏性腸症候群)等が疑われる)、胸部痛に特化した効果を持つ(と思われる)本薬は効かなかったのかも知れない。
・「予が許へ來る庄内領主の醫師」前条の話者前田長庵は庄内藩お抱え医師とあるから、まず彼と考えて間違いあるまい。
・「疝氣」「疝癪」は近代以前の日本の病名。当時の医学水準でははっきり診別出来ないままに、疼痛を伴う内科疾患が、一つの症候群のように一括されて呼ばれていたものの俗称の一つ。「卷之四」の「疝氣呪の事」で既出であるが、そこで明らかになったように根岸自身の持病でもあるので再注しておく。単に「疝」とも、また「あたはら」とも言い、平安期に成立した医書「医心方」には,『疝ハ痛ナリ、或ハ小腹痛ミテ大小便ヲ得ズ、或ハ手足厥冷シテ臍ヲめぐリテ痛ミテ白汗出デ、或ハ冷氣逆上シテ心腹ヲ槍つキ、心痛又ハ撃急シテ腸痛セシム』とある。一方、津村淙庵そうあんの「譚海」(寛政七(一七九五)年)には大便をする際に出てくる白く細長い虫が「せんきの虫」であると述べられており、これによるならば疝気には寄生虫病が含まれることになる(但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、そうした顫動する虫を体内にあるのを見た当時の人はそれをある種の病態の主因と考えたのは自然である。中には「逆虫さかむし」と称して虫を嘔吐するケースもあった)。また、「せんき腰いたみ」という表現もよくあり、腰痛を示す内臓諸器官の多様な疾患も含まれていたことが分かる。従って疝気には今日の医学でいうところの疝痛を主症とする疾患、例えば腹部・下腹部の内臓諸器官の潰瘍や胆石症・ヘルニア・睾丸炎などの泌尿性器系疾患及び婦人病や先に掲げた寄生虫病などが含まれ、特にその疼痛は寒冷によって症状が悪化すると考えられていた(以上は平凡社「世界大百科事典」の立川昭二氏の記載に拠ったが、( )内の寄生虫の注は私のオリジナルである。私は寄生虫が大好きなアブナイ男なのである)。但し、本記載では「疝癪胸を責さし込て時々苦しみける」とあり、位置がおかしい。これは所謂、狭心症や肺や肋膜由来の胸部痛の症状(更に広げれば呼吸困難を伴う喘息)を示しているように思われる。
・「隨分氣味面白」これは一味を試した医師が、そこに複数の、彼の知れる幾つかの生薬、若しくはそれに似た味を見出したことを暗示している。
・「ぶな」双子葉植物綱ブナ目ブナ科ブナ Fagus crenata。但し、ブナの樹皮が生薬となるという記載は、見当たらない。ただ、管見した漢方販売サイトのこちらのページに没食子もっしょくしという生薬を記載し、『ブナ科の若芽や稚枝に、インクフシバチ(没食子蜂)が寄生し、産卵し、幼虫の腺分泌物により植物組織に成長刺激が起こり、それによって生じた虫嬰を乾燥したもので』、『トルコ、イラン、シリア、アラブ共和国に産する』とあるのを見つけた。このページは「本草拾遺」に収載されている知られた生薬五倍子の解説頁で、五倍子はウルシ科のヌルデの若芽や葉上にヌルデシロアブラムシが寄生し、その刺激によって葉上に生成した嚢状虫嬰ちゅえいを言う。日本では木附子きぶしともいう。鉄漿おはぐろの主原料として知られるが、タンニンを主成分として没食子酸・脂肪・ワックス・樹脂などを含み、抗菌・収斂・止血・解毒・止汗・鎮咳・止瀉の効能を載せる。その同類生薬として「没食子」が挙げられている。胸部痛への記載はないが鎮咳があり、中国原産でない点では本草書に見当たらないという本記載と一致するようにも思える。これか? 但し、現在では専ら顔料としてしか用いられていないようである。識者の御教授を乞う。なお、調べるうち、私の知らない興味深い事実を知ったので最後に記しておく。ウィキの「ブナ」の記載である、『ブナは生長するにしたがって、根から毒素を出していく。そのため、一定の範囲に一番元気なブナだけが残り、残りのブナは衰弱して枯れてしまう。ところが、一定の範囲に2本のブナが双子のように生えている場合がある。これは、一つの実の中に2つある同一の遺伝子を持った種から生長したブナである』。
・「此頃阿蘭陀藥法の書を飜譯するものありて其説を聞に」この話者が先の前田長庵なら、彼は蘭方医であるから、知り合いにこういう人物が居てもおかしくない。

■やぶちゃん現代語訳

 疝気でも胸を責める型の症状に効く妙薬の事

 これも私の元へよく参る庄内領主お抱えの医師が語った話で御座る。

……拙者の家中の者に、疝癪せんしゃくが胸部にきては痛み、時にそのために激しく苦しむという症状を持っておる者が御座った。
 ある日のこと、強烈な発作が起こって苦しんでいるのを、たまたま在所の庄内から参っておった足軽が見、
「……我らも、永らく、疝気をわずろうておりましたが、奇妙なる薬を用いましたところが、これ、全快致いて御座る。……一つ、お試しになっては如何で御座ろうか?」
と申す故、是非に、とその薬方やくほうの伝授を乞うたが、これは、秘して教えては呉れず、その代わり翌日になって、かの足軽自身が一薬調合の上、煎じて、かの者に与えて御座った。
 たまたまその場に居合わせておりました拙者は、その煎じ薬の味見を致すことが出来申したが……うーむ……これが……なかなかに……興味深い味が、これ、して御座った。……
 早速に、かの者、服用致いたところ……これが! まあ! 即効にして苦艱くげんこれ、収まり、その夜一晩、定期的に服用致いたところが……翌朝には、これ、すっかり平癒して御座った。
 拙者、かの足軽に懇ろに処方の内訳を訊ねましたところが、やっとのことで――「ぶな」と申す木の皮――の由、聴き出だいて御座った。
……然れども、相当する生薬は、これ、拙者の持つ唐の本草書には、一切、記載が御座らぬ。……
……丁度、その頃、オランダの医薬書を翻訳した知れる者が御座った故、この話を致して意見を求めましたところが、これ、完全に合致する同じ処方が、オランダにもある、との由にて御座った。……
……近頃にては、我ら、この一薬に更に我らの工夫と改良を加えさせてもろうて、種々の疝気の患者にたびたび有効な効果を得て御座る。……

とのことで御座った。



 英氣萬事に通じ面白事

 赤坂とや糀町かうぢまちとやらん、火消與力にて名も聞しが忘れたり。身上甚しんしやうはなはだ不勝手にて借金多く誠に難儀也しが、夫婦色々相談して、とてもかくの如くにては立行まじ。先祖よりの家を絶さんも無暫むざんなれば誠に了簡決斷すべしとて、妻は大名衆へ奉公に出し、子共兩人は少しの手當を附て厚く親類へ賴み、宿元やどもとは其身と下僕壹人馬一匹ばかりにて、誠に不飢不寒うえずこごえざるのみにて三年くらし、つひに大借を片付て猶一年同樣に暮しければ、前々の通難儀なく暮し候程に成りぬ。最早人に世話賴むべきにあらずとて、子共をも取戻し妻のいとまをも取ける時、彼妻、立歸るは嬉しけれど、今一年も此通このとほりになしなば、子共の片付の手當も出來ぬべしと言ければ、彼男申けるは、尤なるやうながら、夫は是迄の志と違ひ欲心なり、天の恨みをうけ、親族もなんぞ心よくうけがはんや、かゝる事はせぬ事なりとて妻が言を不用もちゐざりしが、夫よりは相應に榮へて子共も片付かたづき、今は心よくくらしけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。
・「英氣」には、生き生きと働こうとする気力・元気の意と、優れた気性・才気の意があるが、ここは両者の意が混然一体となった、全的なニュアンスである。
・「火消與力」幕府直轄の火消である定火消(江戸中定火之番えどじゅうじょうびけしのばん:四千石以上の旗本で最終的に江戸市中に十組。各与力六騎・同心三〇名・臥煙がえん(火消人足)百~二百名を有した現在の消防署の原型。)配下の与力。八十俵高で譜代席。譜代席とは世襲で家督相続が許され(隠居出来る)、江戸城中に自分の席を持つことが出来たが、将軍への目通りは許されなかった。
・「無暫」底本には右に『無慙』と傍注する。恥知らずなこと。
・「不寒」底本には右に『(こごえ)』とルビを振る。「凍ゆ」。
・「天の恨みを受、親族もなんぞ心よくうけがはんや、かゝる事はせぬ事也」並列事項のバランスが悪い上に、妻の不審を解くには今一つ、言葉足らずに思われた。屋上屋とも感じらるる向きもあろうが、敷衍訳を施した。
・「子共の片付」「片付」は相応の職を得る(何れかが女子ならば相応の家に嫁す)との謂いであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 英気たるもの万事に通じて全きことの面白き事

 赤坂だか麹町だかに住んでおるとか申す、火消与力が御座った――名も聞いておったが失念致いた――が、この者の暮らし向き、これ、至って不勝手にして、借金も多く抱え、まっこと、難儀なる日々を送って御座った。
 ある時のこと、夫婦してつくづく相談致いて、
「……とてものこと、このままにては向後、暮らしも立ち行くまい。……先祖代々の家を断絶致すは、これ、人で無しの恥知らずなれば……ここは一つ、そなたも、一心決定けつじょう、覚悟致いて欲しい。」
とて、妻は大名衆へ奉公に出だし、二人御座ったこおは僅かばかりの謝金を添えて、親類の者へ、その養育を手厚く頼みおいた。
 屋敷の方には、彼自身と下僕一人に馬一匹ばかりを残して、辛うじて飢えず凍えずというだけの、ぎりぎりの三年を過ぐした頃――遂に大枚たいまいの借金も返済致いて――なおも一年、現在の、この、ぎりぎりの暮らしを続けて御座ったならば――以前と同様の、ささやかながらも難儀なき暮らしに戻るるほどにまでは――これ、相い成って御座った。
 すると、かの男、
「――最早、人に世話を頼むべきにては、これ、御座ない。」
と、二人の子らを親類より引きあげ、妻も奉公先に暇をとらせて、皆して、懐かしの我が家へと、たち帰って御座った。
 その宿下がりを命じた折り、かの妻は、
「……皆してたち帰ること、これ、何より嬉しきことなれど……今、僅かに一年ばかりも、皆して、かくの通りに暮らしおらば……あのいとしい子らへも、相応のことをしてやれるだけの……これ、金子、お出来にならるるのでは、御座いませぬか?……」
と申した。
 すると、かの男が答えた。
「――尤もなるように聴こえる話では、ある……じゃがの、それは……『これまでの皆の志し』とはちごうて、『これからの更なる皆のる心』に基づくもの。……その『欲る心』は、これ、天からの憎しみを受くるものにして……今まで、何の蟠りものう、子らを預かって呉れて御座った親族らも……この我らが『欲る心』の一端をも感じたらば、どうして今までと同じ如、子らの養育を引き受けて呉れようか――いや、それは望めぬ。……不満は猜疑を、猜疑は嫌悪を生み……子らは、結果として、その標的ともなろう……それは必ず、子らの心に、これ、取り返しのつかぬ傷をも作ろうことと相い成ろう。……さればこそ……そなたが今申したようなことは、これ、せぬがためなのじゃ。」
と、妻の申し出を頑として受けず御座った。
 しかし――それよりは、暮らし向きも順調に上向きと相い成り、相応に栄えて、直き、子らもそれなりのところへと片付いて、今は一同息災に暮らしておるとのことで御座る。



 腹病の藥の事

 腹を下し候藥を知行より來りし者すすめけるゆへ、如何なる品と尋ければ、鰹をこくしやうにしてべれば立所にいゆる由。田舍人の丈夫成るもの抔の事にや。いぶかしながら爰に記し置ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:二項前の「疝氣胸を責る藥の事」の民間薬方譚と連関。
・「知行」根岸鎭衞の知行地は底本解題によれば、上野国緑野(現在の群馬県多野郡の一部)・安房国朝夷あさい二郡(現在の南房総市の一部及び鴨川市)の内で采地五百石とある(天明七(一七八七)年)。これはもう房総半島先端外房の後者と考えて間違いない。
・「こくしやう」「濃漿こくしょう」で、味噌味で濃く仕立てた汁物。特に鯉こくなど、魚類を素材としたものを言うようである。なお、「濃漿」を「こんづ(こんず)」と読む場合があるが(「濃水こみづ」の転訛)、これは、①米を煮た重湯おもゆ。②粟や糯米もちごめ等で醸造した酢。早酢はやず。③酒の異称。④ 濃い汗。大粒の汗の謂いとなり、異なるので注意。非常に塩分がきつくなり、逆に腹に優しくない感じはする。根岸もそこで引いた(訝しんだ)のであろう。
・「鰹」カツオに多量に含まれるニコチン酸とニコチン酸アミドから成るナイアシン (Niacin:ビタミンB複合体でB3とも称する。熱に強く水溶性。)は糖質・脂質・タンパク質の代謝に不可欠で、循環系・消化系・神経系の働きを促進する働きがあり、胃腸病の薬剤として使用されている。
・「べ」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 腹下しの薬の事

 私が腹を下したことが御座った折り、たまたま知行所安房朝夷あさいから参っておった者が聴きつけ、
「……よう効きまするもの、これ、我らが里に、御座いまする。」
と勧める故、
「如何なる薬じゃ?」
と訊いたところ、
「ただ鰹を濃漿こくしょうにしてお召し上がりになられれば、これ、たちどころに癒えまするぞ。」……

 田舎びとにて、元来が胃の丈夫なる者なんどならばこそ、それで効く、とでも、言うのであろうか? 訝しきことながら、一応、ここに記しおくことと致す。



 頓智にて危難を救し事

 或日若き者兩人連にて、ゆずの多くなりしを見て、取て家土産いへづとにせんと、餘程の大木なれば右柚を盜取るべき工夫をして、壹人は樹の下に立、壹人は右の樹に登りけるが、登る時は右柚を取べきに心奪れて兎角して登り、取ては下へ落し木の元に立て男拾ひて懷へ入しが、最早程よきあひだ下り候樣下より申ければ、心得候とて彼木を下りんとせしが、柚はとげある木故足手を痛め、中々下りがたきとて殊外難儀せしを、下に立たる男とぶべき由を教へけれ共、高き木なれば中々眼くるめきてとばれざる由を答へければ、下の男もこまりて如何いかがせんと思ひしが風與ふと思付きて、盜人々々と聲を立ければ、上なる男大きに驚き木の上より飛下りける故、手をとりて早々彼場を立去りけるとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。洋の東西を問わずある、寓話ではあるが、全体は能狂言を意識しているように思われる。「柚子盗人ゆずぬすびと」ととでも名付けたくなる。台詞をそのように意識して訳してみた。
・「柚は尖ある木」双子葉植物綱ミカン目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos の幹には、恐ろしく鋭く大きな棘が多く突出している。例えばこちらの栽培業者の方のページの写真で確認されたい。なお、学名の命名者は御覧の通り、かのシーボルトである。
・「込りて」底本には右に『(困)』と傍注する。

■やぶちゃん現代語訳

 頓智にて窮地を救った事

 ある若者の二人連れ、柚子のたわわに実って御座る木を見つけた。
 一人が、
「このゆずを取って、家土産いえずとと致そう。」
と持ちかけて御座った。
 かなりの大木であったによって、この柚子を盗み取る算段と致いて、ゆず、基い、まず、一人は木の下に立って、今一人は、この木へ攀じ登って御座った。
 登る時は、かの柚子を取ることばかりに気がいて御座った故、難儀をものとも致さず、登りおおせ、取っては下へ落とし、千切っては投げ落といて、木のもとに御座る今ひとりの男は、それらを拾うてはポン、受けてはポンと、懐へと入れて御座った。……
「最早、程よい数なれば、降りて参らるるがよかろう。」
と、木の下に御座った男が申す。
「心得て御座る。」
と、かの木の上の男、木を降りんと致いたが、柚子はこれ、恐ろしき棘の多き木で御座るによって、手足を、したたかに痛めたによって、
「……なかなかに、降り難くてある……」
と、殊の外、難儀致いて御座った故、木の元へ御座った男は、
「飛び降るるがよかろう。」
と教えて御座った。ところが、
「……高き木なれば……なかなかに、目のくらめきて、飛べざる……」
とて、答えたによって、木の元の男も困り果て、
如何いかがはせん。」
と思うて御座ったが、ここに咄嗟の思いつきにて、
「――盗人ぬすっとう!――盗人じゃあぁ!」
と大きに声を立てて御座ったによって、木の上なる男は、これ、
「すはッ!」
と、吃驚仰天――気が付けば天狗の如、宙を舞って――飛び降りて御座った。
 されば二人……手に手を取って早々に……かの地をば……あっ……去りにけり……去りに、けり……



 黑燒屋の事

 江戸表繁花はんくわ何にても用の足らざる事はなし。色々の商賣もある中に、或る人何か藥にするとて蟇の黑燒を求めけるが、寒氣の時節にて蟲も皆ちつして求めかねしに、兩國米澤ちやう松本横町にボウトロ丹といへる看板有之。家に何にても黒燒のなき事はなし、草木鳥獸藥になるべき品、其形の儘黑燒にして商ふよし。人の爲なれば爰に記す。

□やぶちゃん注
○前項連関:二項前の「腹病の藥の事」の民間薬方譚と連関。
・「黒燒」まず、「世界大百科事典」の「くろやき【黒焼き】」のアカデミックな記載(カンマを読点に代えた)。
   《引用開始》
民間薬の一種。爬虫類、昆虫類など、おもに動物を蒸焼きにして炭化させたもので、薬研(やげん)などで粉末にして用いる。中国の本草学に起源をもつとする説もあるが、《神農本草》などにはカワウソの肝やウナギの頭の焼灰を使うことは見えているものの、黒焼きは見当たらない。おそらく南方熊楠(みなかたくまぐす)の未発表稿〈守宮もて女の貞を試む〉のいうごとく、〈日本に限った俗信〉の所産かと思われる。《日葡辞書》にCuroyaqi,Vno curoyaqiが見られることから室町末期には一般化していたと思われ、後者の〈鵜の黒焼〉はのどにささった魚の骨などをとるのに用いると説明されている。漢方では黒焼きのことを霜(そう)といっている。
   《引用終了》
文中に現れる南方熊楠の未発表稿「守宮もて女の貞を試む」は、幸い、私が作成・注釈したした電子テクストがある、参照されたい。所詮、怪しげな民間薬として、漢方でも正しく解析されたものではない。しかし、だからこそ、ジャーナリスティックな興味が湧く。そこで、幾つかのネット上の記載を見よう。まずは、販売サイト「びんちょうたんコム」の「黒焼きについて」の「黒焼きの可能性」の記事記載の中に『健康ファミリー』一九九八年十月号より引用された「さまざまな黒焼き」という見出しの文章のイモリの黒焼きの製造法を疑似体験しよう(改行部を総て繫げ、アラビア数字を漢数字に代えた)。
   《引用開始》
昔からイモリの黒焼きを女の子に降りかけると自分に惚れてくれると言い伝えられている。イモリとはトカゲやヤモリのような爬虫類ではない。蛙と同じ仲間の両生類らしい。皮膚の表面はぬれていて水に入ったり地上にいたりする。このイモリを捕まえて黒焼きにする。黒焼きというのは串にさして炭火の上で焼き鳥を作るようにやればいいのかというと、そんな簡単にはいかない。先ず、素焼きの土器を用意する。直径一五~二〇センチの大きさがいい。上蓋、下蓋と重ね合わせられねばならない。下の土器に二〇匹位のイモリを入れる。もちろん、殺したものを用意する。上蓋をするが、上蓋のてっぺんに直径一センチ位の穴を開ける。そして、穴を塞がないようにしてあらかじめ作って用意しておいた壁土を重ね塗りする。上に穴だけの開いた丸い素焼きの甕を作る。この素焼きの甕を周りに塗った壁土が乾くまで一~二日置いておく。上に穴の開いた素焼きの甕ができたら、これを炭火の上で焼く。炭はバーベキューができるほど用意し真っ赤になるようにおこす。素焼きの壷は直接、火の上に置かず鉄の棒を竈に渡してそのうえに置く。さあ、これからが本番だ。黒焼きを作るには中の漢方・生薬を炭にしてしまっては何にもならない。蒸し焼きにすることが肝心である。そうしなければ、黒焼きの本来の薬効は期待できない。最初、二〇分位経過した頃、上の穴から真っ白な煙が出てくる。炭火の火力を調節しながら、しばらく、様子をみる。煙の色が殆どなくなりかけた頃(最初から五〇~六〇分経過)、頃合を見計らって下ろす。上にでてくる煙に火がつくとオシャカになって炭化する、炭になってしまう。竈から下ろした素焼きの壷は穴を塞ぎ、さましてから上蓋をあける。なかの黒焼きはある程度は原形を留めている。できあがつた漢方・生薬の黒焼きの粉末は黒いが炭ではない。
   《引用終了》
 今度は、生薬・漢方薬・精力剤の「中屋彦十郎薬局」の公式HPの「黒焼きの研究・販売」より(改行部を総て繫げた)。
   《引用開始》
玄米の黒焼きは玄神として知られ昔からガンに効くといわれていた。玄米以外にもさまざまな穀物や動植物が、黒焼きにすることで、もとの物質とは異なった薬効を発揮しているからおもしろい。有名なところでは、梅干を黒焼きにすると下痢止めになるというし、昆布の黒焼きは気管支ゼンソクに効果があるといわれる。その他、髪の毛の黒焼きは止血作用、ナスの黒焼きは利尿、ノビルの黒焼きは扁桃腺炎、ウナギの黒焼きは肺結核、梅の核の黒焼きは腫れ物、といった具合である。黒焼きは、焼かれる物質によってこのように効果が違ってくる。ではなぜ違うのかとなると、どうもよくわからない。これまで、黒焼きの研究は薬学畑ではダブー視されてきた分野である。なぜなら、薬効々果の証明が困難だからである。しかし、その効果は、うまく使えばなかなかすばらしいものがある。どの病気にどの黒焼きを用いるかは、まさに長年の経験からくる統計に基づくものであったろうと思われる。なぜ効くのか、という理屈は後でついてくることになる。要は、効けばいいのだから。黒焼きをしていくと、元の物質から脂肪とタンパク質のかなりの量が失われ、多く残るのは炭水化物である。黒焼きとは、その成分のほとんどが炭水化物であり、加えて非常に少量のミネラル、ビタミンが残されたものである。こうした成分のわずかな差が、薬効々果を著しく変えるというのも、不思議といえば不思議である。だが長年の経験というのは大したもので、それぞれの疾患に対応して、これでなければという黒焼きが確かにあるようなのだ。
   《引用終了》
 最後に各種黒焼きの効能について、「温心堂薬局」の公式HPの「民間薬」の中の「動物薬・黒焼き・その他」をご紹介しておこう。素敵に完全なあいうえお順リスト形式にして一目瞭然。本話に登場する「蟇」、それに相当する薬草名「がま(蛙)」の項には、
生薬・薬用部位 黒焼き・乾燥品
適応      強精・強壮・癲癇・淋病・喘息・心臓病・胎毒・痔・犬や蛇の咬傷
使用量・方法  適量・煎剤・粉末
とある。これによって本話の人物の言う「病」がある程度限定出来る(「胎毒」とは漢方で幼児や子供が生得的に内在させている体毒のこと)。「適量」という表現については、常識的なところで一回に附き一~二グラムとして一日一~三回く程度の服用という流石に薬局のページだけはあって至れり尽くせりの記述。但し、そこはちゃんとした薬局のHP、以下のような「ほう!」と思われる前書きがある。その考え方には大変感心もし、共感もしたので引用しておきたい(ダブった句読点やリンク注記記号の一部を変更・除去した)。
   《引用開始》
プラシーボという言葉を初めて聞いたのは、高校生の頃読んでいた心理学の本からでしたそこには偽薬と表現してあり、小麦粉や乳糖などで薬を装い投与し、人の期待効果を煽り一定の薬効をもたらすという、ヒトの心理メカニズムの考察でした。小麦粉や乳糖に騙されるなど、なんと愚かなんだ、などと考えたものです。
しかし医療の現場を転々とするうち、
  薬効とプラシーボの境界が一体どこにあるのか?
  またそれをどんな方法で検定するのか?
  さらにきちんと検定され、認定された薬や医療技術が果たしてあるのか?
こんな疑問が沸き起こって、これは今も未解決のまま、プラシーボ程度しかないのかもしれない漢方の仕事を続けている訳です。
プラシーボという心理的治癒のメカニズムがあるなら、これは案外、天からの賜物かも知れない、ウソかホントか考えるより(それも大切な事ではありますが、)有効な利用ができれば、多くの苦痛や多くの人の悩みを、被害の少ない方法で手助けできるのではないかと思います。
これからまとめる動物薬や黒焼きなどは怪しい漢方薬のなかでも、一層怪しい隘路かも知れません。プラシーボを巡る用語に、活性プラシーボというのがあります。これはプラシーボの種類で、明らかな薬効は期待できないけど苦味のある物質など、感覚に訴える性質を持つもののほうが、小麦粉、乳糖、デンプンなどに比べ、プラシーボの発現率が高くなるという、それらの物質をいいます。良薬は口に苦し、という有名な言葉があります白い錠剤より水色や赤色の錠剤が、あるいは妙な味の顆粒が、効きそうな気がしてくるのです。
手を変え、品を変え、誇大な講釈を垂れる怪しく、危険な療法や、健康食品も、あるいは極普通にみられる医療機関での診療も、活性プラシーボの程度の差以上のものがあるのか? 疑い始めれば限がありません。
動物薬は活性プラシーボの条件を如何なくそなえています。姿、形、臭い、味、治療家の間では「奇方」として、難病の患者や、治療の方策が行き詰まった時利用されてきました。奇想天外で奇妙なほど、そこに治癒への希望とエネルギーが湧出するのです。
動物薬には、植物薬で得られない有効成分があるのかも知れません。動物の力や奇妙な生態になぞらえた、効能という気を頂くことが療法の要なのですが、気と表現できるものが、曖昧模糊とした未確認の有効成分であったり、現在の科学常識で、はかることの出来ないsomething?なのかも知れません。
これが、黒焼となるとさらにその度合いが高まります。主成分は炭素(C)、その他の成分は燃焼し尽くしている訳で、なにか残っていると仮定するなら有効成分があったという記憶、ニューサイエンスで呼ぶところの、得体の知れぬ仮説である、波動みたいなものになります。日本版ホメオパシーといわれるように、なにも有効成分がない状態なのに、その記憶という空疎な観念で治癒を促す療法です。
副作用は全くない筈です。問題は、治らない時、または通常医療ですぐに治るものにまで、副作用がナイという理由だけで利用すると、有効な治療から遠ざかり、あるいは有効な治療の機会を失い、取り返しのつかない事態を招く事もあります。それが大きな副作用であると言えなくもありません。
   《引用終了》
どうです、このリストで、一つ、いろいろお試しになってみては? 病いは勿論、その方面も、これ、バッキンバッキン、間違いなし――かも知れません、ぞ……
・「米澤町」日本橋米沢町は現在の中央区東日本橋二丁目。両国橋の西の両国広小路の西南側にあり、裏手は薬研堀(埋立地)。正保(一六四四年~一六四七年)の頃には幕府の米蔵が建っていたが、元禄一一(一六九八)年の火災で焼失、その後、米蔵は築地に移り、その跡地を米沢町と称した。
・「ボウトロ丹」不詳。如何にもオランダかポルトガル語臭いが、これ、低温で焼き焦がすための炒鍋(上記引用のイモリの製法を見よ)「焙烙」(ホウラク・ホウロク)の転訛のようにも思われるが、識者の御教授を乞うものである。

■やぶちゃん現代語訳

 黒焼屋の事

 江戸表の繁華――花のお江戸にては、これ、何なりと、手にらぬ物は、これ、御座らぬという話。
 色々の商売の御座る中にもかくも奇体な商売のある由。
 ある人、何かの薬にせんがため、必死に蟇蛙ひきがえるの黒焼きを捜し求めて御座ったが、丁度、寒い時期でもあり、蟇の類いは、これ皆、土中に冬籠り致いた後にして、なかなか売っておる所が御座らなんだ。
 ところが――それでも、これ、ちゃんとあきのうておる店が御座った。
 両国米沢町松本横町に『ボウトロ丹』という看板を掲げておる店が、それじゃ。
 この店には、黒焼きと名の附くもので、ないものは――これ、ない。
 草木・鳥獣その他諸々、薬になろうかと思わるるものは、これ、一つ残らず――まさに、その形のまんまに黒焼きにして――商うておる由。
 人のためにもなろうほどに、ここに記しおく。



 在方の者心得違に人の害を引出さんとせし事

 予が許へ來る栗原何某と言る浪人語りけるは、急用有て下總邊へ至るべしと、江戸を立て越ケ谷の先迄至りしに、右道筋秋の頃にて出水でみづして、本海道は左もなけれど、右横道は田畑溝河みぞかは往還共に一面に水出て、中々通るべきやうなければ、右泊宿とまりやどにて亭主ならびに所の者を招きて、急ぎの用事にて下總のしかじかの所迄參るなれば、何卒船にてなりとも右出水の所を通るべき便あらば渡し給へと賴ければ、承知して右船賃のきはめをせしが、金壹兩壹歩の由申ける故、餘り高直成かうぢきなる儀、もつとも難儀を見掛かけ高料かうりやうに申事と思ひけれども、詮方なく右金子持出し、請取の書付を所役人一同差出可申さしいだしまうすべき旨申ければ、書付の儀ゆる呉候くれさふらふ樣申けれども、右書付なくては難成なりがたし、内々の事に候とも、我等歸り候ての勘定もあれば、(是迄の通道中)書付は是非書呉かきくるるのぞみしに、右の者共何か相談ありとて、其座を暫く退のきて壹人いで、大にお見それ申候、代金には及び不申まうさず、御船を申付候由丁寧に申候間、夫は心得違なるべし、我等は御用抔にて通る者にあらず、私用にて罷越す者成りとことわりけれども、何分不取用なにぶんとりもちひず。隱密役人の𢌞村くわいそんとも見けるや、何分見損じ候由にて合點せざれば、彼者も大きに困りて、右ていにいたし若し公儀役人など來りなば、似せ役人などゝ疑ひを受んも難計はかりがたき故、色々其譯斷けれ共不取用とりもちひざる故、然上しかるうへはとて所の役人をよびて、しかじかの事に難儀の由委敷くはしく語りければ、是迄應對せし者を叱りて、渠等は事を不辨わきまへざる故難儀を懸けし事、高瀨たかせ其外は御用の程も難計間難手放はかりがたきあひだてばなしがたし、されどそれがし所持の田舟たぶねあれば是にて送らんとて、所の船頭に申付事故まうしつけじこなくかの心ざす所迄返りて、船賃を尋しに鳥目てうもく百文給申たまはりまうすべしといひし故、骨折なりとて貮百文與へけるが、暫し右の事にて難儀せしと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「桑原何某」不詳。ここまでの「耳嚢」には登場しない。
・「在方の者心得違に人の害を引出さんとせし事」は「ざいかたのものこころえちがひにひとのがいをひきいださんとせしこと」と読む。
・「越ケ谷」現在の埼玉県越谷市。当時の「下総」は現在の千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県の東辺・東京都の東辺(隅田川の東岸)に当たり、実は越谷自体が戦国期まで下総国葛飾郡下河辺荘のうち新方庄に属する地域で、古く南北朝期までは藤原秀郷の子孫下野国小山氏の一門下河辺氏によって開発された八条院領の寄進系荘園でもあった(但し、江戸初期に太日川より西の地域を武蔵国に編入したのに伴い、元荒川より北の地域が武蔵国に編入されている)。当時の越ヶ谷宿は日光街道の宿場として栄えた(以上はウィキの「越谷市」を参照した)。
・「壹兩壹歩」一両の価値は算定しにくいが、後の鐚銭の私の推定値から逆算すると、大凡、一両は二万四〇〇〇円から高く見積もっても五万円程度、「歩」は「分」で一両の1/4として、三万円~六万三〇〇〇円辺りを考えてよいか。これでも、十分、とんでもないぼったくりの金額である。
・「(是迄の通道中)」底本には右に『(尊經閣本)』で補った旨の傍注がある。
・「右書付なくては難成、内々の事に候とも、我等歸り候ての勘定もあれば、(是迄の通道中)書付は是非書呉かきくるる樣」これは私の推測であるが、在方の者どもは、彼の書付への拘り、「内々の事」「勘定」「是迄の通道中」という意味有りげな言葉に反応したように見える。そもそもこの時、彼は浪人であったのか、なかったのか、また、この前の役所に提出するというのが、何を目的としたものなのか。私事と言っているから、旅費が公的に支出されるとも思われない。関所を越える訳でもないから、実際の旅行証明が必要であった訳でもあるまい。にも拘らず、何故、そうした提出を必要としたのであろう? それとも、実はこの浪人のこの意味深長な彼の言いや、「勘定」「書付」というのも、高額を吹っ掛けてきた彼らへの、意識的な機略ででもあったたのであろうか?……識者の御教授を乞うものである。
・「何分見損じ候」の「見損じ」は見誤る、認識を誤るの意で、これは相手の直接話法で、「何ともはや、お見それ致しました」という卑小の謙譲表現である。
・「高瀨」高瀬舟。河川や浅海を航行するための船底を平らにした木造船。
・「田舟」稲刈りの際でも水を落とすことが出来ない田(沼田)での稲刈りに用いた農耕用の木造船。底の浅い箱のような形をしおり、稲を乗せて畦まで運ぶ便を考えて、底は箱の長手方向に少し湾曲させて造船されている。
・「鳥目百文」びた銭一文は凡そ現在の三円六〇銭から五円程度で、三六〇~五〇〇円、二百文では七二〇~一〇〇〇円となる。この謂いからは、田舟タクシーの通常料金(なんてものがあったとすればだが)は恐らくは、距離にはあまり関係がなく、五〇〇円以下が相場であったのだと私は考える。


■やぶちゃん現代語訳

 田舎の者が心得違いを起こして旅人に害を働かんとした事

 私の元へしばしば参る、桑原何某と申す浪人の話で御座る。
「……かつて拙者、急用の御座って、下総辺りへ参らんと、江戸を立って越ヶ谷の先まで辿り着きましたが、この先の道中筋、秋の頃にて、出水でみず致いて御座って――日光本街道沿いは、そうひどうは御座らんだが――我らが向かわんとする所へ通ずる、これ、横道なんどはもう、田畑も溝も川も道も、見分けのつかざるほどの、一面水浸しにて、とてものことに、徒歩かちにては行かれようものにては、これ、御座らなんだ。
 そこで、かの足止めされた旅籠にて、その亭主や所の村人なんどを呼び招き、
「拙者、これ、火急の用向きにて、下総の××まで参る途中で御座る。何卒、舟なんどにても、かの出水致いておる場所を通り抜けることの出来る方途、これあらば、お渡し下されい!」
と頼みましたところ、彼ら、承知致いた故、早速に船賃を決めてくれ、と申しましたところが、何と、一両一分、と平然とほざいて御座った故、我らも、
『……あまりと言えばあまりの高値こうじき……我らが困窮困憊と知っての吹っ掛け、理不尽なる高料こうりょうに申すことじゃ!……』
と思うと、向かっ腹も立ち申したが、危急の折りなればこそ、仕方なく、黙って金子きんすを差し出だし、
「なお――受取の書付を。――しかるべき我らが住まうところの役所役人へ、本旅程の経費一式、これ、提出致さねばならぬ故、の。」
と申しましたところが、
「……い、いえ、……書付の儀は、こ、これ、ご、ご勘弁の程……」
と申します故、
「何を申す。拙者方、書付なくては、どうもこうも、ならぬわ! この度のことは、これ、内々の旅にては御座れど、我ら帰って御座った後の勘定の事も、これ、御座れば――いや、ここに至るまでの道中にても、同様の仕儀を致いて参った故――書付だけは――これ、是非とも、書いて貰わねば、ならぬ!」
と気色ばんだところ、彼ら、何やらん、急にそわそわしだし、
「……ち、ちょいと、相談ごとが、御座いますんで、へぇ……」
とて、その場を立って御座った。
 暫く致いて、中の一人だけがやって参り、
「……大変にお見それ致しやしてごぜえやす……へぇ、お代金には、これ、及びやせん……お武家さまのお船、これ、すぐに申し付けて、ご用意致しやすで……」
と、掌を返した如く、妙に慇懃なる様子なれば、
「……そなたたち――何か誤解して御座らぬか? 我らはただ、書付さえ貰えばよい、と申して、おる。――我らは、御用で通ろうという者にては、これ、御座ない。――あくまで、私用にて、先方へ参らねばならぬという者じゃぞ?!」
と諭しまして御座るが、これもう、我らが話には、いっかな、とりおおうとは、致しませぬ。……これ、どう見ても……我らを、隠密役人の極秘裏の廻村かいそんか何かとも勘違い致いたものか、
「……へへぇ、っ!……いやもう……大きに、お見それ致しやして御座りまするぅ……」
と平身低頭するばかり、我らが言いを聴く耳持たざるてい……。
 いや、これには拙者こそ、大いに困って御座った。
……もし、このまま知らぬ振りを致いて船に忠度、基い、ただ乗り致し、その後に、もし、御公儀の御役人などが来たってでもせば、今度は、我らが逆に、にせ役人と、疑いを掛けられんとも限りませぬ。
 さればこそ、そうした事実を縷々述べて、彼らの誤解を解かんと致しましたが、もう、彼らの思い込みは、これ、化石したようなもので御座る。いっかな、馬の耳に念仏、で御座った。
 我らも時間が御座らぬ。
「然る上は!――」
とて、我ら、かの地の下級官吏を、これ、有無を言わさず、宿へと呼び出ださせ、
「――かくかくしかじかのことにて、大層、難儀致して御座る!」
と委細を語ったところが、これを聴いた役人、これまで応対して御座った者どもを全員その場に呼び出だし、一喝した上、
「――この者ども、事を弁えざるによって、貴殿には難儀をお掛け申した。――高瀬舟などは、御用にて用いらるることが御座る故、当役所方より舟を御用立て致すことは、これ、出来兼ね申すが――それがしわたくしに所持して御座る田舟たぶねが、これ、あり申す。――これにて、先方へと送らせましょうぞ。」
とて、地元の船頭に申し付け、無事我らは、目指す下総の在所へと送って貰うことが出来申した。
 田舟を返す折り、船賃を尋ねましたところが、
「……へえ……多分ながら、この出水の折りなれば……鳥目百文頂きとう、存じます……」
と申して御座った。
「骨折りじゃったの。」
と、倍の二百文を渡しまして御座います。……
……いやはや、随分、あれやこれや、難儀致しました……」
と語って御座った。



 ぜんそく奇藥の事

 予が許へ來る伊丹祐庵いたみゆうあんといへる醫師は、壯年の時痰強たんつよくぜんそくにて殊の外難儀せし由を語りしに、六旬餘の翁なるが今痰症とも不見みえざる故尋ければ、不思議の奇藥にて今は誠に快全せし由語りし故、切に其奇藥を尋ければ、右の快驗に付可笑をかしき咄し有とて、右藥劑を傳授かたがた物語りけるは、友庵は信州の産にて、壯年に江戸表へ出、町宅をなして知音もなければ瘦身にて暮しけるが、かのぜんそく起りて度々難儀せしに、或人忍肉にんにく外三味を煉詰ねりつめて用ゆれば妙の由語りし故、右四味を買調かひととのひ、病のいとまに煉詰て、傳授せる人の申せしは、壺にいれて三日程土中に埋置うめおく事の由故、なさんとせしが、ぜんそく強く起りし時は梁へ繩を懸て體をふせり候程の事故、半ば壺へ入れて殘り少々なめて味ひしに、其甘き事甚しければ、彼是して茶碗に壹つ餘もなめけるに、右藥にゑひしや、心身朦朧として前後もしらず其儘倒れ居たりしを、近所の者大屋など立集りて、本性を失ひしとて水を顏へ懸け又は呼活よびいけなどせし樣子にて、漸心付やうやうこころづき見れば何か大勢集りて尋し故、しかじかの事と語りければ、左にはあるまじ氣の違ひたるならんと殊の外いぶかりしを漸々申諭まうしさとしてければ、立集りし内に醫師抔もありて、埒もなき藥法を聞て危ふき事など笑ひて歸りけるが、右藥法の品々は委敷くはしくも語らざれば左もあるべし。友庵が醫案には、にんにく玉子の類は脾胃ひいをあたゝめ、一向よる所なき藥とも思われず。既に友庵は右以來ぜんそくの愁ひを知らず。其後右藥を拵置こしらへおきて人にも與へけるに、度々巧驗かうげんもいちじるく、勞症に似たる痰病人をも快驗せし事有と語りける故、其藥法を切に求めければ、
  にんにく  砂糖  三年味噌  右三味二百目宛
  かしは鳥の玉子二十  味りん酒三升
右をねりつめ、壺に入て土中に埋むる事三日にして貯へ置事也とかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。二つ前の「黑燒屋の事」の民間薬方譚と連関。この薬、かなりの効果が実際にあったのに違いない。本話での若き日の祐庵は医者ではない。とすれば、この喘息薬が大当たりを得て、そこから彼は医術を学んだものと考えられるからである。しかし、根岸の喘息にはどうだっのか。私は効かなかったのではないかと推測している。それは、本薬が偽物であったというより、以前に考察したように、根岸の喘息が真正の喘息ではなく、何らかの他の病因によるものであったと考えられるからである。
・「伊丹祐庵」不詳。本文中には後文で「友庵」と二箇所で出るが(訳では最初の「祐庵」で通した)、何れもここまでの「耳嚢」には登場したことがない、新しいニュース・ソースである。それにしても根岸の知人には医師が頗る多い。勿論、彼自身の持病(ここまでの「耳嚢」の記載から根岸には痔と疝気せんき及びその疝気に由来すると考えられる喘息様の症状があったことが窺われる)に関係することとは思わるが、そのプラグマティックな動機以外に、本質的に医術への強い興味を持っていたことが窺われる。
・「六旬餘」六十余歳。
・「友庵は信州の産にて」ママ。底本ではこのずっと後の「友庵が醫案には」の部分にママ傍注が附くが、ここに附すべきもの。
・「思われず」ママ。
・「かしは鳥の玉子二十」「かしは鳥」は羽色が茶褐色又は褐色の日本在来種のキジ目キジ科ヤケイ属セキショクヤケイ属亜種 Gallus gallus domesticus のニワトリ。黄鶏。または、その肉を言うが、転じて一般の鶏肉をも言う。この薬の効能を期待するならば、ちゃんとかしわ羽色のニワトリの卵を用いるがよかろう。これは単なる想像なのであるが、この薬、もしかすると、卵に対するアレルギー性喘息の、毒を以って毒を制すタイプの薬物ではあるまいか? そもそもこれらの調合品で雑菌が混入して腐敗しない限り、「茶碗に壹つ餘もなめけるに、右藥に醉しや、心身朦朧として前後もしらず其儘倒れ居たりし」というような意識障害を惹起するような代物には見えないからである。識者の御教授を乞うものである。
・「呼活よびいけ」これはプラグマティックな効果以外に、魂呼たまよび・魂呼たまよばいの効果を求めるものである。即ち、意識喪失や瀕死の者若しくは死亡直後の者の名を呼ぶことで、離れてゆこうとする魂を呼び戻す再生儀礼の一種である。枕頭や屋根の上、井戸の底に向かって(黄泉の国に通じると考えられた)大声で呼ばうのである。最も素敵なこれを見るなら黒澤明の「赤ひげ」を見るに若くはない。私はあのシーンを二十歳の時に映画館で見て、図らずも落涙してしまった。これについては既に、「耳嚢 卷之二 鄙姥冥途へ至り立歸りし事 又は 僕が俳優木之元亮が好きな理由」で述べている。是非、参照されたい。
・「脾胃」脾臓と胃腸。漢方で消化器系の内臓器の総称。
・「二百目」二〇〇もんめ。一匁は 三・七五六五二グラムであるから、七五一・三〇四グラム。これこの三品だけでニキロを超え、それに鶏卵二〇個と味醂三升となると、これはもう薬壺ではなく、大甕の類でなくては収まらない。

■やぶちゃん現代語訳

 喘息の奇薬の事

 私の元へしばしば参る伊丹祐庵と申す医師が、
「……我ら、若き日は痰咳たんせき激しく、重き喘息の症状に、殊の外、難儀致いて御座った。……」
と語ったが、六十余歳の翁乍ら、今は、これ、痰咳の症状、一切見受けられぬ故、
「……今は、少しもそのような様子、お見受け致さぬが?……」
と訊ねたところ、
「……そうさ、これ、不思議の奇薬によって、今は、まっこと、全快致て御座る。……」
と申した故、私も疝気の折りの、喘息には苦しめられておった故、
「……どうか、その奇薬なるもの、お教え下さらぬか?……」
せちに願ったところ、
「……この快方全治に至った経緯に就きましては……可笑しな話が、これ、御座いまして、のぅ……」
と、かの薬剤を伝授方々、次のような話を物語って御座った。……

……我らは信州の産にて、壮年の頃、江戸表へと出で、町屋住まいをなして、親しい者も御座らねば、独り身にて暮らしおりましが、かの喘息、これ、度々起りまして、の、しょっちゅう難儀致いて御座ったじゃ。……
……そんなある日、とお人より、
「――大蒜にんにくの他、三を練り詰めて用いれば、絶妙に効いて御座る。」
と、聞きましたれば、その都合四種のものを買い調え、病いの軽き折り、練り詰めてみました。その伝授して呉れた御仁の申すには、
「――それを壺に入れて三日ほど、土中に埋めておくことが肝心じゃ。――」
とのことで御座った故、そう致さんつもりで御座ったが、ここに、また発作が参りまして、の……
……いやもう、我らのその喘息の発作たるや、ひどい折りには――屋内の梁へ繩を掛け渡いて、体をきつーく結んで、やっと横にはなれる――という有様で御座った……その、むごい発作が、練り詰めた直後に参りまして、の……
……そこで、調剤した半ばを壺に入れ、残りの半分を、少し嘗めてみました……ところが……これ、想像だに致さぬほどの、甘さ! 指で一すくい致いては、ペロリ……また、掬うては、ペロリ……今少し、ペロペロリ……またまた今少し、ペロペロペロリ……と、嘗めて御座ったところが……結局、茶碗に一杯余りも嘗めて仕舞しもうたので御座る。……
……ところが……
……これ暫く致すと……かの薬に酔うて仕舞しもうたものか……心身朦朧と致いて参って……前後も分かたず相い成って……そのまま……昏倒致いて、仕舞しもうたので御座る。……
……そこへ偶々、近所の者が参って、大家なんども寄り集まり、
「――こりゃ大変てえへんだ! すっかり気、失っちまってるぜえ!」
と大騒ぎと相い成り、顔へ水を掛けらるるやら、大声で呼びかけるらるるやら……ようよう正気づいて……周りを見渡して見れば……これ、長屋の者は申すに及ばず、雲霞の如き人だかりとなって御座った故……ともかくも、かくかくしかじかのこと、と言い訳致いたので御座るが、
「……ンなもん、嘗めて気を失っちまうなんて法は、ねえぜ! 大方、気が違っちまったんじゃねえかッ?!……」
と、もう、いっかな、収まらずに御座った。……
……我らも幾分、気分がよくなって参りました故、冷静に繰り返し訳を話しまして、かの残った半分の壺の薬なんども、ちらりと、これ、見せまして、縷々理を正して説きましたところが……たち集まっておったうちに一人、医師なんどが居り、碌に薬も見ず、
「……そんな、らちもなき薬に手を出して……危ない、危ない……」
なんどとわろうて御座った故、それをしおに皆の衆も帰って行きまして御座る。……
……我ら、実はその折りにても……これ、その調合に用いましたところの、品々に就きましては……これ、委細語らずにおりました故、かくもあっさりと皆の衆の散って参ったも、これ道理で御座る。……

 以上が祐庵の話で御座った。
 祐庵が私に伝授して呉れた処方効能に拠れば、その材料の内に「大蒜」「鶏卵」が含まれており、これらは寛保調剤の生薬として脾胃ひいを温める効能が認められており、全く根拠のない怪しい薬とも思われない。事実、既に祐庵は、この時以来、喘息に悩まされることがなくなったのである。
 その後、この薬を拵えて常備し、同じような喘息持ちの他人にも与えたところ、度々著しい効果を見せ、肺結核に類似した、痰を多く吐出するような病人をも全快させたことがあると祐庵は語って御座った故、以上の談話を聴き及んだ折りに、その薬法をせちに求めたという訳である。
〔処方〕
  大蒜
  砂糖
  三年熟成の味噌
    ――以上三種を二百目宛
  かしわ鶏の卵二十個
  味醂酒三升
 これらを総て合わせて練り詰め、壺に入れて、土中に埋めること三日を経て後、貯えおくことが可能とる薬剤が完成する、とのことで御座った。



 女力量の事

 阿部家の家來何某の妻、ちいさき女なるが、容貌又善きにあらず醜にもあらず。至て力強く、或時夫は番留守ばんるす成るに、右留守といへる夜には下女の方へ忍びおのこありしを、風與ふと聞付て憎きやつかなと、かの忍び入る所を捕へて膝の下にしきて、何故なにゆゑ夫の留守に忍び入しや、不屆成る仕方なりと、片手に女を捕へ引居置ひきすゑおきければ、大の男手を合せわびける故、以來右ていみだら成る事あらばいきては置かじと折檻なして放しけるとぞ。又或日同長屋へよばれて行しに、玄關は普請ふしん有て勝手口より入らんとせしに、右勝手口に米を三俵積置つみおきて通りふさがりし故、あるじの妻出て下男を呼て片付けさせんとせしに、取片付て通りませんと、右米を兩手に引提ひつさげて中を通りしとなり。怪力もあるものなりと人の語り侍る。

□やぶちゃん注
○前項連関:話柄自体に特に連関を感じさせないが、シークエンスの周縁の人々が驚き呆れる気配は妙に繋がる。
・「阿部家」「卷之四」の「修行精心の事」の底本鈴木氏注で「阿部家」を安倍能登守(忍城主十万石)の他、同定候補として四家を挙げておられる。
・「奴」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「ヤツ」とルビを振る。
・「引居置ひきすゑおきければ」の「すゑ」は底本にもルビがある。
・「通りません」(近世語。丁寧の意を表わす助動詞「ます」未然形+推量の助動詞「む」の音変化「ん」の連語)現代語にも残る話し手の意志を丁寧に表わす「ませう(ましょう)」と同じ。なお、「ます」は、「参らす」(「まゐる」+使役の助動詞「す」)が室町期に変化して生じた謙譲・丁寧語の「参らする」が、発音上で「まらする」「まいする」「まっする」などと変化、更に活用・意味の上で「申す」の影響も受けて「ます」となったものであるが、その「ます」の活用も近世初期にあっては初期変化形の「まらする」の影響から「ませ・まし・ます(る)・まする・ますれ・ませ(い)」というサ変型であったものの、近世中期以後は終止形・連体形が「ます」に代わるようになった(以上は主に小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

■やぶちゃん現代語訳

 女強力の事

 阿部家の家来何某なにがしの妻と申す者……容貌は……ふむ……これ、美しくもないが、また醜くも……御座らぬ。ただ……途轍もない――怪力――で御座る。――
 ある時――その日は夫が勤番に当たって留守で御座った――夜更け、下女が自分の部屋へ好いた男を忍ばせんとしておったを、妻女、ふと、怪しき物音にて聞きつけ、
にっくききゃつかな!」
と、その男――まさに下女の手引きにて、まさに部屋へ忍び入らんとする――そのところで捕え、忽ち、
――ギュッツ!
と、男をば、片膝の下に敷き据え、
何故なにゆえ夫の留守に忍び入ったかッ! 不届きなる所業なりッ!」
と高き大音声だいおんじょうにて叫ぶ、その時、
――グイッツ!
と、間髪を入れず、その片手には、
――ベッタ!
と、傍らの下女を捕えて床に引き据えつけて御座った。
 大の男、手をすり合わせて詫びた故、
「……以後、斯くの如き猥らなる所業あらば――そなた――生かしては、おかぬ!」
と低きにて告げるや、
――ビッシッ! バッシッ!
と、さんざんに手刀平手に打擲ちょうちゃく折檻の上、やっと放免致いた……とのことじゃ……
 また、とある日のことで御座る。……
 かの妻、同じ長屋の夫同僚宅へと呼ばれて参った。
 すると、先方宅の玄関が、これ、修理中で御座ったによって、その脇の勝手口より入らんと致いたところが、その勝手口には、これまた、たまたま米俵が、これ、三俵も積み置かれて行く手を塞いで御座った。主の妻は大急ぎで奥方より走り出でて、俵越しに下男を呼びつけ、片付けさせんと致いたところ、
わらわが片付けて通りましょう。」
と軽くいなすや、その俵三俵たわらさんびょう……片手には……何と、二俵!……両手にヒョイ! ヒョヒョイ! と、子猫をそっ首で摘まむかのごと、引っ下げて、路地の肩へ子供の積み木のていにて重ねて隙を作る……と……後は……しとやかに家内へと通った……とか。……

「……いやはや! これぞ、怪力、いやさ、女強力ごうりきというものにて御座るじゃ!」
とは、さる御仁の語った話で御座る。



 怪竈の事

 餘程以前の事なる由、改代町かいたいちやうすみける日雇取ひようとり一ツのへつついを買ふて、我がはしもとに直し置て煮焚にたきせしに、二日目の夜右竈のもとを見やれば、きたなげなる法師の右竈の下より手を出しけるに驚、又の夜もためしけるに猶同じ事也。右下には箱をしつらひ割薪わりき抔入れおけば、人の這入はいいべきやうなし。心憂き事に思ひて彼賣かのうりける方へ至り、右竈はおもはしからず取替へくれ候樣に相賴あひたのみ、最初の價ひに增して外の竈を取入とりいれければ其後怪もなし。しかるに右竈を仲間の日雇取調ひける故、其買得し所など尋しに違ひなければ、一兩日すぎて右仲間の元へ尋行たづねゆきしに、不思議なる事は彼竈の下より夜毎に怪しみありと語りける故、さらば我も語らん、彼竈一たん調へしが怪敷あやしき事有し故返し取替とりかへたり、御身も取替可然しかるべしと教へける故、是も少々の添銀そへぎんして他の竈と引替ひきかへけるが、かの男あまりに不思議に思ひて、かの商ひし古道具屋へ至り、右竈は如何成いかがなりしやと尋けるに、ほかうりしが又歸りてありと語りけるあひだ、委細の譯を咄しければ、かゝる事の有べきやうなし、裔ひ妙に疵付きづつけ候抔少し憤りける故、然らば御身の臺所におきためし給へと言ひて別れしが、彼古道具一ケ所ならずニケ所より歸りしは譯もあらんと、勝手の引入ひきいれて茶抔煎じけるに、其夜心をつけて見しに、果してきたなき坊主の手を出しはね𢌞る樣子ゆへ、夜明けて早々右竈をうちこわしけるに、片隅より金子五兩掘出しぬ。扨は道心者抔いささかの金子を爰にたくはへて死せしが、かの念殘りしやと人語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。本巻最初の本格幽霊物で、所謂、落語の「竃幽霊へっついゆうれい」のオーソドックスな原型である。ウィキの「竃幽霊」によれば、原話は記事下限の寛政九(一七九七)年春から遡ること、二四年前の安永二(一七七三)年に出版された笑話本「俗談今歳花時ぞくだんことしばなし」の一遍である「幽霊」である、とする。岩波版長谷川氏注は竈から出る幽霊の濫觴として、これより早い都賀庭鐘つがていしょうの「英草紙はなぶさそうし」(寛延二(一七四九)年刊であるから、これだと五十年前となる)の第五巻にある「白水翁はくすいおう売卜直言奇ばいぼくちょくげんきを示すこと」を挙げる(但し、これは姦婦と間男に殺された和泉国堺の郡代支配の武士の霊で、その出現を契機に真相が暴露されていく裁判物であり、私は読むに、それほど本話との類似性を感じさせないように思われる。なお、この話は上智大学木越研究室の木越治氏の手になる「英草紙」全電子テクストで読むことが出来る)。また、元は「かまど幽霊」という上方落語で、大正初期に三代目三遊亭圓馬が東京に持ち込んだ、とあるが、本話は既に新宿改代町を舞台とする江戸の話となっている。原話自体の流入とインスパイアは早かったことが本話によって分かる。私の現代語訳の後にウィキに載る「竈幽霊」の梗概を参考として転載させて頂いた。
・「怪竈」標題は「かいさう(かいそう)」と音で読んでいよう。竈は訓では「かまど」「へつひ(へつい)」「へつつひ(へっつい)」と読む。「へっつい」は「竈」の意である「へ」+「の」の意の古形の格助詞「へ」+霊威を意味する「ひ(い)」の原型「へつい」んび促音添加が起きたもの。本来は火を神格化した竈神かまどがみを指す。関西では「へっつい」の呼び名が一般的であるが、京都では「おくどさん」と呼ぶ。
・「改代町」現在の東京都新宿区改代町。町名の由来はウィキの「改代町」によれば、元は牛込村の一部で沼地であったが、慶長期(一五九六年から一六一五年)の江戸城整備に伴い、雉子橋付近の住人が牛込徒町(現在の北町・中町・南町)に移転し、承応三(一六五四)年に改めて当地を代地として与えられ、芥を埋め立てて段階的に宅地化、当初、牛込築地替代町と書かれたことに基づく。江戸時代には古着屋が軒を連ねたとある。
・「日雇取」の「日雇」は「日傭」「日用」とも書き、現在の「日雇い」と同じく、一日契約の日雇い労働者のこと。
・「竈」底本には『(尊經閣本「へつつい」)』と傍注するが、私はこの「竈」自体をそう読ませることにする。
・「走り元」台所の流し。単に「走り」とも言う。
・「ためし」は底本のルビ。
・「しかるに右竈を仲間の日雇取調ひける故」の「右」はあるとおかしい。現代語訳では省略した。
・「はね𢌞る」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『這廻はいまわる』。跳ね廻るでは失笑を買いそうだ。「はひ𢌞る」の原本筆記者の誤字ではあるまいか? 訳では「這ひ回る」と採って訳した。
・「打こわしける」ママ。

■やぶちゃん現代語訳

 怪竈の事

 余程、前の話で御座る由。
 新宿改代町かいたいちょうに住んでおった、日雇いを生業なりわいと致す者が、一つの中古のへっついうて、おのが長屋へ持ち帰り、軽く修繕なんど致いた上、流しの脇に据え置いた。

 二日目の夜、男は、何となく妙な気配を感じて、部屋から、かの竈の方をちらと見やった……
……すると……
……如何にも汚らしい僧形をした男が一人……
……かの竈の下の火口ほぐちの中に顏を見せ……
……こっちを……
……うらめしそうに……
……見……
……火口から……
……右手を出すと……
……ゆっくら……
……ゆっくら……
……オイデ……
……オイデ……
……をして御座った……
……吃驚仰天した男がへっついのところへ駆け寄ったところが……
……坊主は、消えておった。…………

 翌日の夜も、同じく試して見たところが……
……やはり……
……坊主が一人……
……かの竈の下の火口に顏を見せ……
……こっちを……
……うらめしそうに……
……見ては……
……火口から……
……右手を出し……
……ゆっくら……
……ゆっくら……
……オイデ……
……オイデ……
……をして御座った……
……駆け寄ったところが……
……坊主はやっぱり、消えて御座らぬ。…………

 へっついの下には箱を据え置いて、割ったたきぎなどを入れて御座った故、そこはとてものこと、人の潜り込めるような余地なんど、あろうはずも、これ御座ない。

 訳も分からず、余りにおどろおどろしきことなれば、男は、へっついうた店に、かのへっついを持ち込み、
「……あのよ、このへっつい……どうも、いけねえ!……取りえて呉んねえか?……」
と頼み込んで、最初に払った金子に更に色を附けた上、別のへっついうて、長屋に運び込んで同じ場所に同じ如、据え付けてみたところが、その後、何の怪しいことも起こらなんだ、と申す。

 ところが、ある日のこと、同じ日雇いの仲間が、
わしへっついうた。」
と話しかけて来た故、即座に、
「……おい! そのへっつい何処どこうた?」
ただいたところが、先般、男が例の妖しきへっついうて取り換えた店に、これ、違い御座らぬ。

 二、三日して、その仲間の長屋を尋ねてみると――何やらん、顔色が悪く、塞ぎ込んでおる様子。そうして、話の初っ端から、
「……じ、実はのぅ……不思議なことが……あるじゃ。……あれ、あそこにある……ほうれ……あ、あのへっつい、の……あのへっついの下より……夜毎夜毎……怪しいことが……これ、起こる、じゃぁ……」
と呟いた故、
「そうじゃろ! それよ! それ! 俺も話したろうじゃねえか! 実は、よ……あのへっつい、一旦は俺がうたもんなんじゃ!……ところが、その……そのぅ、やっぱしよ、怪しいことが起こりよったのでよ、元の店に持ちけえって別のへっついに換えてもろうたじゃ。……おめえも、何より、取りえるが、これ、一番だぜ!」
と諭した故、この男も、同じように元の代金に少々色を添え、ほかへっついと取り換えてことなきを得た、と申す。

 さて、ところが、この最初の男、どうにも、あの妖しきへっついのことが気になって気になって、しょうがない。
 ある日のこと、例の古道具屋へぶらりと立ち寄ると、
「……俺が取りえた例のへっつい、な……あれ、どうなったい?」
と水を向けた。
「ああ、あれか? ほかへ売ったんじゃが、何故か知らん、またおんなじように、戻って来よって、ほうれ、そこにあろうが。」
と語った故、男は、かのへっついを気味悪そうに横目で見ながら、
「……実は、の……」
と、彼の体験したことと、かの仲間の話の委細を話したところが、
「――んな、話があるけえッ! あるはずネエッ!――手前てめえ! おいらの商品にケチつけようって、かッ?!」
と、気色ばんで御座った故、
「……んならよッ! おめえさんとこの、台所でえどころに置いてよ! 一つ、試してご覧ないッ!」
と売り言葉に買い言葉で、立ち別れて仕舞しもうた。
 古道具屋は、しかし、その日、
「……一度ならず、二度までも出戻ったってえことは、だ……これやっぱし何ぞの訳も、これ、あるに違いないわのぅ……」
と思い直し、男が最後に言った如、かのへっついを、店の裏の勝手の土間へと引き入れ、茶なんどを煎じてみたりした。
 その晩のことである。
 あるじ、さっきから気をつけて、居間からへっついかたを度々見やって御座った。
……と……
……果たして……
……如何にもきったねえ坊主が……
……へっついの下から両のてえを出し……
……そこから……
……ズル……
……ズル……
……ズルズル……
……と這い出て来る……
……そうして……
……くちなはののたくる如……
……へっついの廻りを……
……ズル……グル……
……グル……ズル……
……ズルグル……グルズル……
……グルグルズルズル……
……ズルズルグルグル……
……這い回る……
……恐懼しながらも、天秤棒を執って駆け寄ったところが……
……駆け寄ってみれば……
……坊主は消えていた……
……しかし……
……離れて暫くすると……
……またぞろ……
……へっついを這い出て来て……
……へっついの廻りを……
……ズル……グル……
……グル……ズル……
……ズルグル……グルズル……
……グルグルズルズル……
……ズルズルグルグル……
……這い回る……
……消える……出る……消える……出る…………
……かくして夜が明けて御座った。

 主は早速、裏庭にくだんへっついを引きずり出すと、大槌おおづちで以って徹底テッテ的に叩き潰さんとした。すると、
――ガッツ!
――ボロリ!
という一撃の後、
――チャリン!
と、へっついこぼちた片隅から、何と、金五両が、転がり出でたということで御座った。……

「……さては、僧侶の、道心者にも拘わらず、秘かに貯えて御座った聊かの金子、これ、このへっついの角に塗り込めて隠しおいたままに死んだが、そのたかが五両への尽きせぬ妄執が、今に残っておったものかのぅ……いやあ、浅ましや、浅ましや……」
とは、さる御仁の語って御座ったことで御座る。

◎参考:落語「竈幽霊へっついゆうれい」(ウィキの「竃幽霊」の「あらすじ」より。文頭一字空けや、一部改行・句読点等記号追加変更を施した)
 とある古道具屋で、いろいろと見繕っていた男の目に一つの竃(へっつい・以下平仮名で記述)が止まる。
 へっついを三円で売り、お客の頼みで家まで運んだその夜、その客が戻ってきて道具矢の戸口をドンドンとたたいた。
「夜寝ていたらなぁ、道具屋。へっついの所からチロチロと陰火が出てきてなぁ、道具屋。幽霊がバーッ! 『金出せぇ~』、道具屋。」
 仕方がないので、道具屋の規約どおりに一円五十銭で引き取り、店頭に並べるとまた売れた。そして夜中になると戻ってきて、一円五十銭で下取り。
 品物は無くならない上に、一円五十銭ずつ儲かる……。最初は大喜びしていた古道具屋だが、そのうち『幽霊の出る道具を売る店』と評判が立ち、ほかの品物もぱたりと売れなくなった。
 困って夫婦で相談の上、だれか度胸のいい人がいたら、一円付けて引き取ってもらうことにした。
  そんな話を…通りで聞いていたのが裏の長屋に住む遊び人、熊五郎。
「幽霊なんか怖くない。」
と、隣の勘当中の生薬屋の若だんな徳さんを抱き込んだ上、道具屋に掛け合って五十銭玉二枚で一円もらい、件のへっついはとりあえず徳さんの長屋に運び込むことにする。
 二人で担いで家の戸口まで来ると、徳さんがよろけてへっついの角をドブ板にゴチン。
 その拍子に転がり出たのは、なんと三百円の大金! 幽霊の原因はこれか…と思い至り、百五十円ずつ折半し、若だんなは吉原へ、熊公は博打場へ。
 翌日の夕方、熊と徳さんが帰ってみると、二人ともきれいにすってんてん。
 仕方がないから寝ることにしたが、その晩……徳さんの枕元へ青い白い奴がスーっと出て、
「金返せ~。」
 徳さん、卒倒。悲鳴を聞いて飛び込んできた熊は、徳さんから話を聞いて、
『金を返さないと、幽霊は毎晩でも出てくる。』
と思い至る。
 翌日、徳さんの親元から三百円を借りてきた熊五郎は、へっついを自分の部屋に運び込むと、お金を前に積み上げて
「出やがれ、幽霊ッ。」
と夕方から大声で。
 草木も眠る丑三ツ時、へっついから青白い陰火がボーッと出て、
「お待ちどうさま」
 幽霊の話によると、この男は生前、鳥越に住んでいた左官の長五郎という男で、左官をやる傍ら裏で博打を打っていたそうで。
 自分の名前に引っ掛けて、『チョウ(丁)』よりほかに張ったことはないこの男が、ある晩行った博打で大もうけ。
 友達が借りに来てうるさいので、金を三百円だけ商売物のへっついに塗りこんで、その夜フグで一杯やったら……それにも当たってあえない最期。
「話はわかった。このへっついは俺がもらったんだから、この金も百五十円ずつ山分けにしようじゃねぇか。」
「親分、そんな……」
「不服か? 実は俺もだ。そこで、こうしようじゃねぇか、俺もお前も博打打ち、ここで一つ博打をやって、金をどっちかへ押しつけちまおう。」
「ようがす。じゃあ、あっしはいつも通り『チョウ(丁)』で」
「じゃあ俺は『ハン(半)』だ。やるのは二ッ粒の丁半、勝負! ……半だ。」
「ウゥーン……」
「幽霊がひっくり返るの初めて見たぜ。」
「親方、もう一勝負……」
「それは勘弁。てめえには、もう金がねえじゃねえか。」
「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません」

◎参考:落語「竈幽霊へっついゆうれい」のオチのバリエーション(ウィキの「竃幽霊」の「オチのバリエーション」より。句点を追加し、文頭一字空けを施した)
 上方では、熊五郎がいかさま博打で幽霊から百五十円巻き上げ、それを元手に賭場で奮戦していると、そこに幽霊が出現。
「まだこの金に未練があるのか。」
「いえ、テラをお願いに参じました」
 「寺」と博打の「テラ銭」を掛けたもので、熊が幽霊に「石塔くらいは立ててやるから、迷わず成仏しろ」と言い渡したのが伏線となっている。



 修驗忿恚執着の手

 是も牛込邊の町家の輕き者の母、夏に成て夜具を質入しちいれせしを、冬來りて取出し着てふせりしに、右よぎを着し一睡ひとねぶりなせば、祖母々々ばばばば暖かなるやと聲をなしける故大に驚て質屋へ至り、しかじかの事也、子細あるべきと尋ければ、右※はいまだ質に取り候儘にて藏へ入置いれおき、是迄人に貸べき樣もなければ、質屋におゐて何の子細もなし、手前をとくと詮議し見給へと言ひし故、子共又は心安き者にも語りて、色々心障りの事もありやとかんがへけれど別儀なし。かの風與ふと思ひ出しは、右質物受出うけいだしせし頃、表へ修驗しゆげん一人來りて手の内を乞ひしが、用事取込とりこみ其上乞ひやうも無禮なれば、手のひまなきと答へて等閑いたづらすぎし事あり。是等も恨むべき趣意と思はれずと語りければ、老人のいへるは、まつたくそれなるべし、かの修驗は又きたるべき、日毎に此邊を徘徊なす由答ければ、かさねて來らば少々の手の内を施し、茶など振舞ふるまひ心よく挨拶して歸し給へと教ける間、翌日果して右山伏通りけるをかの呼込よびこみて、此間は取込候事ありてあらあらしく斷りしがゆるし給へ、茶にてもべ候へと念頃にいひて手の内を施しければ、此間はあらあらしき答故手の内をも乞ざりしが、扨々一面にては人の心は知れざると、四方山よもやまの物語りして立分れぬ。其後は彼※の怪も絶てなかりしとかや。
[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]

□やぶちゃん注
○前項連関:僧の金執心由来の霊現象から、修験者遺恨由来の幻術めいた怪異で直連関。舞台も現在の同じ新宿区の中でも直近(神楽坂を中に挟んで北の方に改代町、南に牛込。だから冒頭「是も」と始まる)。この怪異はなかなか興味深く、「幻術めいた」と書いたものの、これは実は修験者が意識的に行った幻術という気が、私はしていないのである。これは一種の超能力者であったこの修験者の、無意識的な憎悪のエネルギが作用した現象であるように思われる。そうでないと、エンディングの如何にも気持ちのよい修験者の台詞にネガティヴなものが残って話柄としてはすっきりしなくなるからである(少なくともそうした見え透いた知らんぷりの修験者というコンセプトは私の趣味ではない)。なお、冒頭の布団から人語が聞こえるという怪異は頻繁に見られる。本話とはコンセプトが全く異なるが、一読忘れ難い作品は、小泉八雲の「知られざる日本の面影」に所収する「鳥取の蒲団の話」であろう。以下に、ウィキの「鳥取のふとんの話」の「物語」より、梗概を示しておく。
◎参考:小泉八雲「鳥取の蒲団の話」梗概(行頭一字空けを行い、アラビア数字を漢数字に代えた)
   《引用開始》
 鳥取の町に小さな宿屋が開業し、一人の旅商人の男が初めての客として泊まったが、深夜ふとんの中から聞こえてくる「あにさん寒かろう」「おまえこそ寒かろう」という子どもの声に目を覚まし、幽霊だと主人に訴えた。主人はそんな話を相手にしなかったが、その後も宿泊客があるたびに同じような怪異が起き、とうとう宿屋の主人もふとんがしゃべる声を聞いた。主人がその原因を調べようとふとんの購入先を当たってみると、次のような悲しい話が明らかになった。
 そのふとんは、元は鳥取の町はずれにある小さな貸屋の家主のものだった。その貸屋には、貧しい夫婦と二人の小さな男の子の家族が住んでいたが、夫婦は子どもを残して相次いで死んでしまった。二人の兄弟は家財道具や両親の残した着物を売り払いながら何とか暮らしてきたが、ついに一枚の薄いふとんを残して売るものがなくなってしまった。大寒の日、兄弟はふとんにくるまり、「あにさん寒かろう」「おまえこそ寒かろう」と寒さに震えていた。やがて冷酷な家主がやってきて家賃の代わりにふとんを奪い取り、兄弟を雪の中に追い出してしまった。かわいそうな兄弟は行くあてもなく、少しでも雪をしのごうと、追い出された家の軒先に入って二人で抱き合いながら眠ってしまった。神様は二人の体に新しい真っ白なふとんをかけておやりになった。もう寒いことも怖いことも感じなかった。しばらく後に二人は見つかり、千手観音堂の墓地に葬られた。
 この話を聞いて哀れに思った宿屋の主人は、ふとんを寺に持って行き、かわいそうな二人の兄弟を供養してもらった。それからというもの、ふとんがものをしゃべることはなくなったという。
   《引用終了》
・「修驗忿恚」「しゆげんふんい(しゅげんふんい)」と読む。「忿恚」は怒り、いきどおること。忿怒ふんぬ瞋恚しんいに同じ。
・「右よぎ」(「※」=「衤」+「廣」)は夜着。ルビは底本のもの。この時代は着物の形をした大形の掛け布団である。「かいまき」とも言う。
・「とくと」ルビは底本のもの。

■やぶちゃん現代語訳

 修験者の忿怒の執心恐るべき事

 この話も牛込辺に起った話なる由。
 町家の、軽い身分の者の母が、夏に冬の夜具を質入れ致いて御座ったが、冬に至ればこそ請け出して横になり、その夜着よぎを着て、一眠り致いたところが、その夜着が、老母の耳に、
「……婆サマ……婆サマ……アッタカイカ?……」
という声を発した。
 老母は、吃驚仰天、即座に、かの質屋へと駆け込み、
「……んなことがあったのじゃ! これ、屹度、仔細がある!」
と、如何にも質入れ致いて御座った店の管理に曰くのあるが如、申したればこそ、
「あん夜着は、の! 質に取ったが、そのまんま! 蔵へ仕舞い置いといたんじゃ! これまで人に貸すてなことも、これ、なく、それどころか、指一本、触れなんだわ! なればこそ、うちで何ぞあった、てなことは、ないわい! お前さん、お前さんの方こそ、とくと詮議なされたが、よ、ろ、し、か、ろ!」
と追い返されて御座った。
 老母はしょんぼり家へ帰ると、おのこおやら、近所の親しい者やらへも、この声の怪異を語った。彼らは、
「……何ぞ、その夜着に纏わってじゃ……昔の曰く因縁など……気になって御座ったことなんどは、これ御座らぬか?……」
と水を向けても、別段、これ、ただの何でもない、夜着でしか御座らなんだ。
 ところが、そんな話の中、老母が、ふと思い出したことが御座った。
「……この質物しちぐさを請け出だいて宅へ戻った折りのことじゃ……表へ修験者体しゅげんじゃていの者が一人来たって、銭を乞うた。……丁度、用向きの取り込んでおった上に、その験者げんざの乞いようも、これ、如何にも横柄で無礼であった故、『お前さんなんぞ、相手にしてるひまは、ないわい!』とピシャリと言うて、そのまま、追い払ったんじゃ。……じゃが……幾ら何でも……そんなことを、これ、遺恨となすとも、思われんがのぅ……」
と呟いた。ところが、これを聴いた場に御座った馴染みの老人は、
「――それじゃ! 全くそれに違い御座らぬ!……さあて、その修験、その後も来るかの?」
と訊く。老母が、
「……あ、ああ、毎日のようにこの辺りをうろついとるが……」
と答えると、老人、
「――次にまた来たらば、少しばかり布施を施し、茶なんど振るうて快く挨拶致いた上で、帰すがよいぞ!」
と教えた。
 折りも折り、その翌日のこと、果たしてその山伏が老母の家の前を通りかかった故、老人に言われた通り、家内へと呼び込み、
「……このあいだは……そのぅ、取り込んで御座いました故、はしたなくも荒々しき断わりを申しましたが、どうか一つ、お許し下さいませ。……さっさ、一つ茶でも――どうぞ――」
と、如何にも慇懃に言うて、幾たりかの布施をも施して御座ったところ、山伏は、
「……今日は――過日、荒々しきお答えにて断られた故――布施を乞わんとは致さずおりましたが……いや、ハッハッ! さてさて、人と申すものは、これ、一面にては、その心、なかなかに分からぬものにて御座るのぅ。……」
とすっかり打ち解けた様子と相い成り、老母と四方山話に花咲かせて、立ち別れて御座った。
 それからというもの、かの夜着の怪も絶えてなくなったと申すことで御座る。



 閻魔頓死狂言の事

 寛政八辰年の春の此、閣魔鬼に成て人を欺きし者を予が役所へ捕へ來れるといへる事、專ら人の尋ける故、無跡形あとかたなき妄言なり、一向知らずと答へしが、同年の冬或る人來りて、定て虛談にも有べきが、相州とやらんの村方に老夫婦ありて一人の娘を寵愛せしが、二八の比彼ころかの風與ふと煩ひ出して身まかりしを、老人夫婦殊の外愁ひ歎きて朝に慕ひゆふべこひ、誠に目もあてられぬ樣なれば、村役人五人組も手をかへ諫めけれど不用もちゐず、只明暮に歎きのみに取伏しける故、世の中には御身ばかりにもあらずと教諭をしへさとしけれど、更に其甲斐なかりしに、村内若き者共寄合よりあひて、其内に名主の次男なる者、それがしが異見の仕樣ありと若き者申合まうしあひ、其身は鎭守祭りの赤頭あかがしら又は修驗しゆげんなどの裝束を着し闇魔のていに成り、友達にも右赤頭などを着せてかの修驗の宅にて裝束なし、おもて又は墨にて塗りて、夜八ツ時頃かの夫婦が許へ至り、ほとほとと戸を音信おとづれて内へ入ければ、夫婦は大に驚きていかなる人と尋ければ、其方娘病死せしを地獄へ送り來りける故、鏡はかりもつて其罪をためし見るにいささかも罪なし、依之これによりて釋尊へ申通まうしつうじ極樂へ可遣つかはすべき處、兩親歎きのみにうちしほれて法事等もろくろくにせざる故、中宇ちゆううに迷ひていまだ極樂へ至らず、是に依て其不便見るに忍びず、爰に來りて遙々とつぐなりといへるに、老人夫婦は歡喜の涙を流して、有がたき事也、いかでそむまうすべき、さるにても遙々來り給へば物そなへんとて、法事に拵へし餅を出しければ、闇魔も鬼も悦びて分け喰ひしが、日數歷ひかずへし餅なれば堅く成しを、用捨ようしやせば作り物の事顯るべしとて、第一に闇魔一ト口に喰ひしが、のどに詰りてうごめき倒れけるを、始の程は鬼共介抱せしが、終に闇魔相果ける故、鬼は早々行衞なく迯去にげさりける故、老人夫婦聲を立て、しかじかの事と村長むらをさ抔の方へ申通まうしつうじ、一村集りて委細の樣子を聞彼ききかの死骸をあらため、彩りし墨丹すみになど洗落あらひおとし見れば名主の次男也。連立つれだちし鬼共は如何いかがいたしけるやと、手分してやうやく捕へければ、しかじかの事に右趣向なせしと語りける。人も死せし事故、鬼共も繩目にて地頭ぢとう召連めしつれ、奉行所の吟味に成しと聞しが、いかゞあるやと人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせないが、落語のような話で、二つ前の「怪竈の事」と連関する。但し、私はどうにもこの名主の次男が可哀そうでたまらぬ(私は「らくだ」のような人の死や遺骸を茶化すことをメインとした落語が実は今一つ好きになれない人間である)。落ちは、『悶絶の後、目出度く閻魔の許しをや得ん、蘇生せりとなむ』ぐらいにしてやりたいところである。なお、興味深いことは、冒頭でそうした類似事件を根岸が吟味したという噂が実際にあり、根岸自身が迷惑したという冒頭の記載である。江戸の都市伝説は現役の勘定奉行をも簡単に主人公に仕立て上げる事実が見て取れる。
・「閻魔頓死狂言」この表題の「狂言」はまずは、人を騙すために仕組んだ作り事の謂いであるが、冗談の謂いも利かせて、閻魔に化けて仕組んだ善意の冗談が人一人の頓死という洒落にならない狂言事となってしまったの苦いニュアンスをも含ませていよう。
・「五人組」幕府が町村に作らせた隣組組織。近隣の五戸を一組として互いに連帯責任で火災・盗賊・キリシタン宗門等の取締りや貢納の確保、組内での相互扶助に当たらせた。
・「異見」自分の思うところを述べて、人の過ちを諫める謂いの「意見」の別字。
・「赤頭」能や歌舞伎で使うかつらの一種。赤毛で長く、獅子・猩々しょうじょう役などに用いる。本格的なものは赤く染めた赤熊しゃぐま(ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属 Bos grunniens ヤクの尾の毛を用いるが、ここではウシのそれであろう。)を素材とする。
・「丹」ここは「朱」と同義の赤い色(若しくは赤褐色)を指しており、「に」と読んだ(岩波版では長谷川氏は「たん」と読んでおられる)。これは「丹土」「赤土」から作られる顔料で本来は水銀朱、即ち、硫黄と水銀の化合した辰砂しんしゃを粉砕、水との比重を利用して採集したものを指すが、これは高価なものであるため、一般には赤鉄鉱を粉砕した「ベンガラ」が用られた。ここでは田舎のことであるから、文字通り、赤土を水で伸ばしたものをただ塗ったものかも知れない。
・「夜八つ時」午前二時頃。
・「鏡秤」閻魔庁で罪状を斟酌する際に登場する定番アイテム。鏡の前に立った亡者の生前の善悪の行為をことごとく映し出すとされる浄玻璃じょうはりの鏡と、鬼卒の持つ棹罪の重さを量るごうの秤。
・「中宇」中有ちゅうう。中陰に同じ。人が死んでから次の生を受けるまでの期間の謂いであるが、亡者の信仰の深浅や妄執、本件のような遺族の供養の不履行によって亡者の行き先が決まらず、絶望的な闇の中にただただ留まっている状況をも言うようである(例えば、私の電子テクスト、芥川龍之介「藪の中」の「巫女の口を借りたる死靈の物語」を参照)。
・「地頭」知行取りの旗本若しくは各藩で知行地を与えられて租税徴収の権を持っていた家臣を言う。

■やぶちゃん現代語訳

 閻魔の頓死という狂言の事

 寛政八年辰年の春頃のことで御座る。
「……地獄の鬼の統率者閻魔に扮して人を欺いた輩を、根岸殿、貴殿が捕え、これ、ご吟味なさったとか?……」
とかいうことを、会う人毎に矢鱈に尋ねらるる故、その都度、
「何の根拠も、これ、なき妄言で御座る。一向、存ぜぬ。」
と答えては閉口致いたことが御座った。
 ところが、同年の冬、訪ねて参ったある者が、
「……まあ……これ、恐らくは作り話にても御座ろうが……」
と、以下のような話を致いたので、少々、驚き申した。……

……相模国とやらの村方に老夫婦が御座っての。に入れても痛くない一人娘を、これまた、いたく寵愛致いて御座ったが、この娘、十六の歳に、ふと患いだして、そのままあえなく身罷って仕舞しもうた。
 老人夫婦は、殊の外、愁い嘆き、亡き娘を朝に慕い、夕べに乞うて、まっこと、目も当てられぬ有様で御座った。
 村役人やら五人組やらも、手を替え品を替えては、いろいろ宥めすかしてみたり、時には諫めも含んでみたり致いたものの、これ、一向に聴く耳持たず、ただただもう、日々明け暮れに嘆くばかり、夫婦揃って病人の如、相い臥せってしまうという始末。
 それなりの御仁に意見致いて貰い、
「――老少不定ふじょうと申すほどに――この世の中、娘を亡くした親は、これ、御身らばかりにては、御座ない!」
ときつく教え諭いたが、これ、全く以って効果が、ない。
 そこで、村内むらうちの若い者どもが寄り合って、何としたものか、と話しうていたところ、その中に御座った当地の名主の次男坊なる者が、
あっしに、いい意見の仕様が――これ、ある。」
と言い出し、いろいろと彼ら内々のみにて相談の上、その名主の次男坊本人が、村の鎮守祭りの獅子の赤頭あかがしらかつらを被り、修験者なんどの装束を着し、閻魔大王のていに扮装致いた上、友の若衆らにも、かの赤頭なんどを装着させ、皆々、顔をや墨色にて塗りたくって御座った。
 彼ら、かく準備万端整えた上、夜八つ時頃、かの老夫婦の宅を訪れると、
――ドン! ドン!
と、威勢よく戸を叩いて、そのまま皆して、ずいっ! と内にった故、老夫婦、吃驚仰天、
「……い、い、いかなるお方で、ご、ご、ご座いまするか?……」
と、土間にひれ伏して、消え入らんばかり。
「――そのほう娘、これ、病死致いたを地獄へ送り来った故、浄玻璃じょうはりの鏡やら、ごうはかりやらを以って、その罪を計った――ところが――これ、聊かの罪も、ない。――なればこそ、釈尊へ申し伝えた上、極楽へ遣わさんとせしが――両親ども、ただただ娘の死を歎くばかりにて打ち萎れたままに――碌々法事も致さざる所業!……娘の魂は――これ――中有ちゅううに迷うたままに――未だ極楽へ至ること、これ、出来うせずに、おる!――かかればこそ! その不憫、見るに忍びず、ここへ遥々来たって――告ぐるものなり!!」
と、名主の次男坊がやらかす。
 老人夫婦、これを聴くや、歓喜の涙を流し、
「……な、な、何と! あぁ! ありがたきことじゃ!……どうして、お言葉に背くこと、これ、御座いましょうぞ! 亡き娘こと、極楽往生決定けつじょうとのことなればこそ……懇ろに手厚く供養致しますほどに!……ああっ、それに致しましても……遠路遙々のお越しなれば……何にも御座いませぬが……何ぞ一つ、お供え物でも致しとう存じますればこそ……」
と申して、法事のために拵えて御座った餅をさし上げたれば――閻魔も鬼どもも――大きに悦び、各自に分けて喰らわんとした。……
……ところが……この餅が、また…………えらく前に拵えた品に御座って……日数ひかずって、これ、
――カッチカチ
になって御座った。……
 謂わば、最早、人の食えるものにては御座らなんだという訳。
 ところがここで閻魔、いやさ、名主の次男坊、
『ここでかとうて喰えぬ、と断ったら……これ、我ら、にせ閻魔なること……バレてしまうは必定……』
と、まず、いの一番に、外見の閻魔、
――グワッブ!
と! 一口に呑み込んだ――
……が……生身の肉の名主次男坊の、その柔細やわほそのんどには……これ、聊か無理が御座った。……
……餅はそのまま……のんどに詰まって……
――閻魔
――悶絶
――卒倒
――気絶
と相い成って……
……これ、閻魔……
……元の赤黒き顔を……更に青黒く致いて……
……泡を吹き……
……満身をびくびくと痙攣させて……
……横たわっておる……
……初めの内は、周囲の鬼どもも、これ、あれこれと介抱致いておったが……
……気が付けば……遂に閻魔の息は……
……ない――
……されば……青鬼は勿論、赤鬼も……何れも真っ青と相い成って……戸外へと、蜘蛛の子を散らす如、行方も知れず逃げ去ってゆく……
 されば、横たわった閻魔を前に、老夫婦、
「ギヨエェエエッ!」
と、阿鼻叫喚の雄叫び放って、村長むらおさの家なんどを回っては、
「閻魔様の来よたッ!……閻魔様……死んでもうたッ!……」
と、方々の村人を叩き起こした。
 一村の者ども皆、訳の分からぬことを喚いて御座る老夫婦が元へと集まり、ともかくも落ち着かせた上、委細を質いた。
 話を聴いた村長一行は、まずはともかくも、と老夫婦の家を覗いてみる。
 と、確かに横たわった異形の者、これ、ある。
 しかし、しかしこれ、どうも、「人」である、らしい。
 されば、その死骸を改めてみることと相い成る。
……顔を彩っておる墨やらやらを洗い落として……ようく、見れば……これ、名主の次男坊の死に顔が、これ、現われ出でた。
「……おい! そう言えば……村の若い衆の姿が、ここには、見えんぞ!……そうじゃ!連れ立っておったと申す鬼どもは、これ、どこへ行ったッ!」
と手分けして捜す。
 すると、これまた、畑の作業小屋や森蔭、橋の下やら方々にて、ぶるぶる震えたまま隠れておるを見つけ、ようやっと皆、搦め捕って御座った。
 しかして、訳を質いたところが、かくかくしかじかのことにて、一芝居打ったとの白状で御座った、と……

「……人一人死んで御座ったこと故、『鬼ども』も繩目を掛けられた上、地頭方へ召し連れ、当地の奉行所にて吟味と相い成って御座ったと聞きましたが……さてさて、その後、如何なりましたことやら……」
との話で御座った。



 不思議に人の情を得し事

 予が許へ常に來る小川氏の同心の隱居長兵衞といへる者語りけるは、世の中には不思議の事もありけり、かの長兵衞が甥に御掃除を勤けるが、兩親永煩ひして父は相果母妹のみ成しが、わづか十五俵の御宛行あてがひの内、父の長病にてまこと危急旦夕たんせきにせまりし故、母は長兵衞世話なして再緣させけれど、兄弟の者寒暑のしのぎもなりがたく、御掃除の御奉公も成がたければ、妹を賣て今日を凌べしと進むる者あれど、遊女奉公にうらんも便びんなしと歎き悲しみしが、長兵衞儀或日用事有て兼て心安くせし大貫おほぬきの許に至りて四方山の物語のついで、此事の哀成あはれなる事を語りしが、襖をへだてて聞きける者ありて、それは哀成事なりとて其日立別たちわかれしが、翌日右襖越しに聞たる男尋來りて、右妹を賣れる相談一兩日見合可然みあはせしかるべしとて、又兩三日過て金子何程あれば勤もなるやと尋ける故、わづか四兩程の事とのべければ、すなはち懷中より右金子を出し與へて、是は我等の金子にあらず、さる町家の者のかゝる事を聞て不捨置仁すておかざるじんある故、御身の物語をせしに此金子を贈りたる也、かならず姓名を隱しぬれば名前は語らざれ共、我等のねんなれば受取りて給はるべしといひし故、志のかたじけなきを述て則其身ならびに兄の請取手形して遣し、さるにても今の危急を救ひ給ふ事忝し、向ふにて名を隱し給はゞ外へは洩すまじ、我も天道への禮儀なれば其禮を述度のべたきと言しに、然らばとて其名を教ける故、右の者案内にて呉服橋邊の格子作りにして貧しからざる家へ至りければ、亭主出て挨拶をなし、我等はむかしは大鄽おほみせを商せし身分なれど、身上しんしやうしもつれてみせをも仕廻ひけるを〔此者明和の頃迄本町筋にて(大丸越後屋といゝし呉服鄽といふ。)〕、此度御身に金子の世話せし人の情にて、一日深川邊へ蟄居せしを、諸家の貸金又は勝手の世話抔して今如此かくのごとく暮しける也、右我身幷此度の娘の難儀救ひしは右親方なれど、名前は至て隱しぬれば語らず、人の難儀を救ふ事を願望ねがひのぞむ故かく取計とりはからひしと語りし故、厚く禮謝して別れしが、右娘をもかの呉服橋の者世話して水戸の家中へ奉公すみなさしめ、長兵衞も貧家ながら衣服調度世話をなしけるが、彼施人かのほどこしびとよりや又は呉服橋の男なるや、夜具ふとんの類ひを取揃とりそろへて奉公先へ送り、不思議に世話に成しと語りぬ。右は陰德を專ら執行とりおこなふ者なるべし。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「小川氏の同心の隱居長兵衞」不詳。「小川」姓も「長兵衞」もここまでの「耳嚢」には登場しない。途中に登場する長兵衛の古馴染み「大貫」なり人物も不詳。この「大貫」という固有名詞の登場は、やや唐突である。これ、実は当時の「大丸」越後屋のアナグラムではあるまいか?
・「御掃除」掃除之者そうじのものは江戸幕府職名の一つ。江戸城内の御殿の清掃を主な任務とした役職で、使い走りや物資運搬にも従事した。目付の支配、御中間・御小人・御駕籠之者・黒鍬之者とともに五役ごやくと呼ばれる職であった。役高(本文で言う「宛行あてがひ」扶持。以下の石高よりはよい)は概ね十俵から十二、三俵で一人扶持、譜代席で白衣勤め。定員は約一八〇人前後(時代によっては二〇〇人以上だったこともある)。これを三組に分けて組頭を置き、更にこれを三人の掃除之者頭が統括した。世襲制(以上は主にウィキの「掃除之者」に拠った)。
・「念」確かなこと。事実として確認した証明のこと。
・「呉服橋」江戸城外濠の橋名。現在の千代田区と中央区八重洲一丁目(現在の呉服橋交差点)にあったが現存せず、町名もなくなって、交差点の名称のみが残る。
・「身上しもつれて」「しもつれる」は「為連れる」と書き、元は「しもぢれる」(「為捩しもじれる」)で、することがねじれて上手くいかない、事が円滑に運ばない、こじれて悪くなる、商売が左前になる、といった謂いを示す。
・「〔此者明和の頃迄本町筋にて(大丸越後屋といゝし呉服鄽と云。)〕」は珍しい割注で、更に( )の部分は、底本右に『(尊經閣本)』で補った旨の傍注がある。訳では出したくないので。ここに訳しおく。
 (この者は明和の頃まで、本町筋にて「大丸越後屋」と称した呉服店であるという。)
「大丸越後屋」現在の大丸百貨店の前身である大丸越後屋について、岩波版長谷川氏注に『大丸屋正衛門の店は一時閉店の危機があったという。これか。』と注する(但し、ここにあるような閉店が実際にあったものとは思われない。ここが本話が大丸発展史の中の、戦略的都市伝説の一種である可能性を窺わせるところである。この噂はそれが事実でなくとも、「大丸越後屋」の印象を高めることになるからである。
 大丸越後屋の創始者下村彦右衛門正啓(元禄元(一六八八)年~寛延元(一七四八)年)は伏見生。十九で古着商を継ぎ、享保二(一七一七)年に伏見に小店舗大丸屋を創業、享保一一(一七二六)年に大坂心斎橋に共同出資の呉服店を開き、その後も各地に店舗を拡充、寛保三(一七四三)年に江戸大伝馬町(現在の日本橋小伝馬町付近)に江戸店を開店した。その辺りの経営戦略とポリシーを日本経済新聞社と野村インベスター・リレーションズの共同運営のIRマガジン二〇〇五年新春号第一六八号に載る「先駆者たちの大地 株式会社大丸」の以下のページから引用しておく(アラビア数字を漢数字に代えた)。『大丸の進出計画は、開店の七年前である一七三六年(元文元年)から開始され、開店五年前の一七三八年(元文三年)に、正啓は江戸の同業者を訪ね、取引を約束して京呉服を送った。その荷物のなかに、○に大文字の商標を白く染め抜いた萌黄地の派手な風呂敷が何枚も同梱されていた。大きく便利な風呂敷だったため、取引先の使用人たちはこの風呂敷を頻繁に背負って歩き、やがて江戸の町々で大丸屋の名前が知られるようになった。こうして大丸屋江戸店開店は江戸中で大きな評判になった』。『正啓の商売のなかでPRとサービスは大きなポイントなのだが、江戸店開設の際にも新しいサービス「大丸借傘」が開始された。店の客だけでなく、にわか雨に困る通行人にも大きな商標のついた傘が貸し出された。このサービスは江戸店から全店に拡大されて継承され、明治の終わり頃まで大丸の名物となっていた』。『PR手法のアイデアだけでなく、正啓の商売は最初から革新的だった。大文字屋の創業当時、支払いは半年または一年計算の掛け売りが主流であったが、正啓は大阪出店と同時に「現銀掛け値なし」の商いを始めた。掛け値とは利子を含めて実際の売り値より高くつけた値段のこと、また大阪では通貨が銀だったため現銀とは現金のこと。つまり現金で定価販売することを意味している。店としては資金の回転が早くなり、それだけ安く売ることができるため、客にとってもメリットが大きい。また小口買いができるようになったため、顧客層は富裕層から一般大衆に広がり、マーケットはしだいに拡大していった』。『こうした正啓の先進的な経営の中核にはひとつの哲学があった。それが「先義後利」である。この言葉は、中国の儒学の祖のひとりである荀子の「栄辱篇」のなかに出てくる「義を先にし、利を後にする者は栄える」という節から引用したもので、現代の言葉で言い換えれば「顧客第一主義」ということである。すべての経営活動をこの精神を根本理念として統合する、いわばコーポレート・ガバナンスをこの時代に取り入れていたという意味で、これは革新的な経営手法であったといえる。この言葉は大丸の精神の根本となり、現在も企業理念として受け継がれている』とある。但し、時代的に見て本話の主人公は彼ではあり得ない(話柄の冒頭は現在形で語られているが、記事下限の寛政九(一七九七)年春前後では彦右衛門正啓が亡くなって四十年近くが経っているからである)。――しかし、確かにこの謎の御仁は、正しく彦右衛門正啓の法嗣であり、彼の経営哲学「先義後利」が、ここに確かに生きていると言える。
・「勝手の世話」武家や町家のマネージメントや経営相談。

■やぶちゃん現代語訳

 不思議に人の情けを得た事

 私の元にしばしば訪ねて参る――小川氏の同心を致いておる、隠居の長兵衛とか申す者が御座る。
 その者が、
「世の中には不思議なることの、これ、あるもので御座るよ……」
と語り出す。……

……我らが甥御おいごに江戸城内御掃除之者を勤めて御座った者がおりましたが……両親ともに、これ、長患い致いて……果ては、父の相い果て、病弱な母と若き妹の三人暮らしと相い成って御座った……が、僅か宛がい扶持十五俵の内、父が長患いに大枚の金を使つこうて借金だらけ……まっこと、これ、危急存亡のときに御座った。
……母は何とか、我らが世話致いて再縁させましたれど……兄妹らは、これ、寒暑の凌ぎもなしがたく、兄の御掃除役の御奉公にさえ差し支えの起る有様なれば、
「……妹を売って、糊口を凌ぐしか、あるまい……」
と勧むる者もおったが、
「……我ら二人きり……妹を遊女奉公に売らんは、これ、余りに不憫……」
と歎き哀しみ、飢え凍えて御座った。……
……さて、ある日、我らこと、とある用事の御座って兼ねてより心安うして御座った『大貫おおぬき』なる御仁の元を訪れましたが……四方山よもやまの物語の序でに、我らが甥御の哀れなることをつい愚痴りました。……その時、襖を隔てた部屋におられた、大貫氏の客人と思しいお人が、我らの話を聴いて、襖越しにて、
「……それは……如何にも哀れなることじゃ……」
と呟かれて御座った。
 その日は、その後、大貫氏との用も済んで、帰りましたが、その隣室の御客人のお顔だけは、その憐憫のお声掛けとともに、覚えて御座った。
 さても翌日のこと、まさに、その大貫氏屋敷の隣室に控えておられた御仁が、これ、我らが元へと訪ね来られ、唐突に、
「――お武家さま、昨日の甥御さまの、あの妹御いもうとごを売らんとする話で御座るが――これ、一両日、見合わせておくなさるよう、お伝えねげえやす。――」
と言うや、さっさと踵を返して帰って御座った。
 そうして三日経つと、またかの男が参った故、たまたま我が家を訪ねて、向後のことを語りうて御座った甥御も同席させ、うてみたところが、男は単刀直入、甥に、
「――お武家さま、失礼乍ら、有りていに申しやすが――金子は、これ、如何程御座らば、御役目を続くるに足りやすかな?」
と訊ねる故、甥御が、
「……は、はい……四両ほども、御座れば……」
と答えた。と、男は即座に懐中より、その四両ほどの金子をとり出だいて、我ら二人に向かい、
「――お武家さま方、これは我らが金子にては、これ、御座らぬ。――さる、町家のお人で――こうした話をお聴きになると、これ、そのまま捨て置くことのお出来になれねえ――そうさ、じんのみ心を――これ、お持ちになられた、とあるお方が御座って――そのお方に、先般のお話を致しやしたところが――そのお方より、この金子を賜って御座った。――そのお人は――これ訳あって、決して姓名を明かさざるが常のお方なれば――名前は申しませぬが……いや! これらのこと、これ、我らが確かにこの耳で聴き、この手で受けうて認め致いたことなればこそ――一つ、この金子はお受け取り、ねげえやす。」
と申しました。
「……お、お志し!……まっこと! かたじけない!!……」
と我らと甥御と連名にて受取の手形を書し、かの男に渡して御座ったが、我ら、
「……いや、それにしても、この危急を救うて下されたこと……これ、何と申しても忝きことにて……先様さきさまにて御名をお隠しになられておらるるとあらば……これ、決してほかへは漏らしませぬ故……どうか一つ、天道てんどうのっとる礼儀なればこそ! 是非、この御礼をば、述べとう御座る!」
と申しましたところ、かの男は、
「……さらば……」
とて、そのお方のなあをお教え下すった。
 そうして、その男の案内あないにて、二人してその御仁に挨拶に参ったので御座る。
 さても、その場所は……まあ、細かくは申せませぬが……呉服橋辺りの……格子窓の、貧しからざる町家へと至りまして……そこな亭主の現われて挨拶致いたところ、その御仁の曰く、
「……我らは……昔は大店おおだなを張って商いを致いておりました身分の者にて御座いました……が……その商いも左前となり、店をも畳んで仕舞しもうたので御座います……が……ほうれ、この度、お武家さまに、金子貸借の世話を致しました、この、こちらのお方の、深いお情けにて……一旦は深川辺に閑居致いておりましたものの……今は諸家への金子貸付、勝手方の世話なんどを致いてかくの如く、何とか暮らして御座います。……なればこそ……私を救うたは、このお方で御座います。……この度の娘御の難儀を救うたも、この親方に救われた我らの成したことなれば、これ……娘御を救うたもまた、この親方にて御座います。……ところが実は、このお方もまた、名前は固く秘しておらるれば……御名を語らず……されば、我らもそのお蔭に御座れば、やはり、と申す次第にて御座いまする。……ともかくも、このお人は、人の難儀を救うことをのみ願い望まれて……このようなる取り計らいを、なされておらるるので、御座いまする……」
と語って御座った。
 我らと甥御と、ともかくも、厚く礼謝致いて、そこを辞して御座った。
 その後も、かの妹、かの呉服橋の者の世話にて、目出度く、水戸の御家中へ屋敷奉公なさしめて下すって御座ったじゃ。また、その奉公の折りには――いや、勿論、我ら方も貧家ながら、姪御の衣服やら調度やら、可能な限りは、買い揃えなんど致いたので御座るが――例の……奇特なる親方の方か、それとも、かの呉服橋のお方かは分からねど、夜具・布団の類いを、これ、取り揃えて奉公先へとお贈り下された。……いや、もう、全く以って……不思議に世話になり申したじゃ……。」

と語って御座った。
 この不思議なる二人の者は、これ、所謂、陰徳を専ら執りおこのうをおのが信条と致す者なので御座ろう。



 おた福櫻の歌の事

 いつの頃にや六位の藏人くらうどよめるよし。或日右藏人二條家へまかりてけるに、何か案じ入給へる樣子故其事を伺ひしに、此頃禁中の御慰みに難題を出して歌よむ事なりしが、おたふく櫻といへる題をとりて案ずるよし、汝もよむまじきやとありければ、しばし考へて、
  谷あひに咲る櫻は色白く兩方たかし花ひきくして
かくよみければ、二條殿も殊のふ感じ給ひし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。十六項前の「和歌によつて蹴鞠の本意を得し事」以来の和歌技芸譚。
・「おた福櫻」仁和寺に咲く御室桜(ソメイヨシノの八重で、丈が低く、這うような枝振りの遅咲きである)の愛称として今に伝わり、
〽わたしゃ、お多福、御室の桜、花がひくうても、人が好く
という歌謡もで知られる。
・「六位の藏人」五位蔵人に次ぐ殿上人。位階が六位で特に蔵人に任ぜられた者を指す(通常の蔵人は五位)。本来の殿上人は五位以上であるが、メッセンジャー・ボーイとしての職務が必要であったため、特に許された。一日交代制で天皇の膳の給仕及び宮中の雑事に奉仕した。
・「二條家」五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)の一。藤原氏北家九条流。鎌倉時代の九条道家二男二条良実を祖とする。記事下限の寛政九(一七九七)年の近くの当主ならば、二条吉忠(元禄二(一六八九)年~元文二(一七三七)年)から宗熙・宗基・重良・治孝・斉通なりみち(天明元(一七八一)年~寛政一〇(一七九八)年)辺りとなる。戯れ唄の感じや話柄全体からは、そんなに古い出来事ではないように思われる。
・「谷あひに咲る櫻は色白く兩方たかし花ひきくして」「ひきく」は「ひきし」で「低し」に同じい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(一部に送り仮名を補って読み易くした)、
 谷あひに咲ける櫻は色白く兩方たかく花ひきくして
である。これは、先の戯れ唄同様、お多福の左右の頰の膨らみと間に座れる鼻という奇顔と、谷合の桜の景、更には低木で下に花を附ける御室桜を掛けたもので、私なりに通釈するなら、
……谷合いに咲く桜花……その美しい白さ……これは谷合いなればこそ、際立つもの……谷は両方(両頰)高くして――花(鼻)は低きにあればこそ……
といった感じか。
・「殊のふ」は「殊の外だ・格別だ」の意の「殊無ことなし」(形容詞ク活用連用形)のウ音便を「のふ」と表記したもの。
・「まじきや」中世以降、打消推量の助動詞「まじ」は単純な推量にも普通に使用されるようになったが、ここはやはり「難題」を受けている以上、不可能の推量で訳すべきであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 お多福桜の歌の事

 何時頃の事やらん、六位の蔵人が詠んだ歌との由で御座る。
 ある日、かの蔵人、二条家へと参って御座ったところが、御主おんあるじ、何やらん、考え込んでおらるる様子なれば、
「……何にか御懊悩おおんおうのうおはしまする……」
とお伺い申し上げたところ、
「……この頃……禁中にて難題を出だいて歌を詠むことの流行はやっておじゃる。……今度このたびの題は、これ、『おたふく桜』という題にて案ずるとのことでおじゃる。……そなたでも、とてものことに、詠めまいのぅ……」
とのお言葉が御座った故、蔵人、しばし考えて、
  谷あひに咲る桜は色白く両方高くし花ひきくして
と詠んで御座った故、二条殿も殊の外、感心なされたとのことで――おじゃる……



 日野資枝卿歌の事

 或人の許に、日野大納言資枝すけき卿の自筆の歌ありしが、
  雲霧は風にまかせて月ひとり心高くや空にすむらむ
面白き歌なれば爰に記しぬ。資枝卿の詠歌は何れも趣向面白き事と、人の語りし。一二首をも爰に記しぬ。
   五月雨 きのふけふ雲には風の添ひながら日影も洩らぬ五月雨の空
   納 涼 歸りての宿のあつさの思はれて更るもしらず遊ぶ川面

□やぶちゃん注
○前項連関:和歌技芸譚二連発。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には、最後に以下のように続く(漢字を正字化、読みを歴史仮名遣表記としたが、本文の「思われて」はママとした


或人いはく
  かきくらしふる日は風の添ながら払ふともなき五月雨の空
  歸りての宿の暑さのおもわれて夜深き程にすゞむ川面

これは前二句の別伝異型ということであろう。
・「日野大納言資枝」日野資枝ひのすけき(元文二(一七三七)年~享和元(一八〇一)年)は公家日野家第三十六代当主。烏丸光栄末子であったが日野資時の跡を継いだ。後桜町天皇に子資矩すけのりとともに和歌をもって仕えた。優れた歌人として塙保己一らに和歌伝授、「和歌秘説」を著している。また、画才にも優れて当代第一の文化人として知られ、本居宣長に金銭援助などもしている(ウィキの「日野資枝」に拠る)。
・「更る」は「ふくる」と訓じていよう(カリフォルニア大学バークレー校版も「ふくる」とルビする)。
・「川面」は「かわをも」と訓じているか。

■やぶちゃん現代語訳

 日野資枝卿の歌の事

 ある人の許に、日野大納言資枝卿の自筆の歌が御座ったが、
  雲霧は風にまかせて月ひとり心高くや空にすむらむ
とあって、これ、実に面白い歌で御座れば、ここに記しおくことと致す。資枝卿の詠歌は、何れも趣向、これ、面白しと申す。人の教えて呉れた一、二首をもここに記しおく。

   五月雨 きのふけふ雲には風の添ひながら日影も洩らぬ五月雨の空

   納 涼 歸りての宿のあつさの思はれて更るもしらず遊ぶ川面



 小がらす丸の事

 右小がらす丸の太刀は、曩祖なうそより傳りしや、伊勢萬助まんすけに寶として所持なるを、御具足師岩井播磨近頃見たりし由。播磨は古實を糺す事を常に好む癖有しが、家業の事にもくはしき由。帶とりの革を見て、是は古きものなれど忠盛淸盛などの品にあらず、足利時代の革なるべしと目利めききせしかば萬助手をうちて、よくも見たるかな添狀そへじやうに應仁の頃此太刀修復せし事ありとて書記かきしるしあれど、其後は手入の沙汰もなきが、不思議は此太刀今以いまもつてサビを生ぜずと申けるゆへ、なかごを見ればくちいりはなはだ古びしが、其刄そのははいさゝかのさびもなく、不思議は三寸程切先きつさきの方諸刄もろはなる由。伊勢の家にてはつるぎ太刀と唱へる由語りし由。予が許へ來る望月翁のいへるは、つるぎ太刀とは何とらん可笑しき言葉なり、萬葉集につるぎ太刀と詠める歌二三ケ所に見へし、然れば古き言葉也。(と語りぬ。)

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。
・「小がらす丸」平家重代の名刀とされる小烏丸。刀剣類は私の守備範囲ではないので、以下、ウィキの「小烏丸」よりその殆んどを引用させて頂く(アラビア数字や記号の一部を改変した。なお、引用元に『集古十種』よりの図がある)。『刀工「天国」作との説があり、「天国」の銘があったとの伝承もあるが、現存するものは生ぶ茎(うぶなかご)、無銘で』、『日本の刀剣が直刀から反りのある湾刀へ変化する過渡期の平安時代中期頃の作と推定され、日本刀の変遷を知る上で貴重な資料である。一般的な「日本刀」とは違い、刀身の先端から半分以上が両刃になっている独特の形状を持つ。これを鋒両刃造(きっさきもろはづくり、りょうじんづくり)と呼び、以降、鋒両刃造のことを総称して「小烏造(こがらすまるつくり)」とも呼ぶようになった』。茎(なかご:後注参照。)『と刀身は緩やかな反りを持っているが、刀身全体の長さの半分以上が両刃になっていることから、断ち切ることに適さず、刺突に適した形状となっている』。『刃長六二・七センチメートル、反り一・三センチメートル、腰元から茎にかけ強く反っているが、上半身にはほとんど反りが付かない。鎬は後世の日本刀と異なり、刀身のほぼ中央にあり、表裏の鎬上に樋(ひ)を、棟方に掻き流しの薙刀樋(なぎなたひ)を掻く。地鉄は小板目肌が流れごころとなり、刃文は直刃(すぐは)で刃中の働きが豊かなものである』(刀剣用語の解説は省略するが、引用元の図を参照されれば概ね意味は分かる)。『刀身と併せて、柄・鞘共に紺地雲龍文様の錦で包み、茶糸平巻で柄巻と渡巻を施した「錦包糸巻太刀拵」様式の外装が付属しているが、この外装は明治時代の作である。寛政十二年(西暦一八〇〇年)に編纂された「集古十種」には「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀図」(後述)より転載された蜀江錦包の刀装の絵図が収録されており、現在の外装はそれらを参考に作り直されたものとみられる』。伝承では『桓武天皇の時代、大神宮(伊勢神宮)より遣わされた八尺余りある大鴉によってもたらされたと伝えられ、「小烏丸」の名はその大鴉の羽から出てきた』ことに由来するという。『後に平貞盛が平将門、藤原純友らの反乱を鎮圧する際に天皇より拝領し、以後平家一門の重宝となる。壇ノ浦の戦い後行方不明になったとされたが、その後天明五年(一七八五年)になり、平氏一門の流れを汲む伊勢氏で保管されていることが判明し、伊勢家より刀身及び刀装と伝来を示す「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀図」の文書が幕府に提出された。この「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀」は伊勢家より徳川将軍家に献上されたものの、将軍家はそのまま伊勢家に預け、明治維新後に伊勢家より対馬国の宗氏に買い取られた後、明治一五年(一八八二年)に宗家当主の宗重正伯爵より明治天皇に献上された』。『現在はこれが皇室御物「小烏丸」として、外装共に宮内庁委託品として国立文化財機構で保管されている』。『正倉院宝物の直刀の中には鋒両刃造のものがある。御物の「小烏丸」の他にも「鋒両刃造」の太刀は幾振りか現存しており、各地各時代の刀工が研究のため写しとして製作していたようである』。戦前、『「小烏丸」は時の天皇より朝敵討伐に赴く将に与えられた、という故事に基づき、日本陸海軍で元帥号を授けられた大将に下賜される「元帥刀」の刀身にも、「鋒両刃造の太刀」の様式が用いられていた』。『現在でも「鋒両刃造の太刀」は現代刀の様式の一つとして作刀されているものがあり、上述の「元帥刀」の他にも「靖国神社遊就館」の展示刀や新潟県新発田市の「月岡カリオンパーク」内の「カリオン文化館」の展示品(人間国宝認定刀工の天田昭次の作刀)などを見ることができる。数は少ないながら、刀剣店で取り扱われる刀剣類としても時折見られる様式である』とある。
・「曩祖」先祖。祖先。「ノウ」は、先・昔・以前の意。
・「伊勢萬助」伊勢貞春(宝暦一〇(一七六〇)年~文化九(一八一三)年)は有職故実家。万助は通称。江戸生。父貞敦さだたけは現在、伊勢故実家で最も知られる伊勢貞丈の養子で、母は貞丈の娘であった。父が病身のため惣領を辞し、明和五(一七六八)年に貞春が嫡孫承祖として家督相続人となった(諸書が貞春を貞丈の子と記すのはこれによる)。天明四(一七八四)年、貞丈の死去により食禄三〇〇石を継ぎ、寛政元(一七八九)年御小姓組御番勤となる。家学を継承して門人の求めに応じて貞丈の著書を刊行した。本巻記事下限の寛政九(一七九七)年の前年寛政八年には幕命を受けて「武器図説」を編集している。国学者屋代弘賢は彼の門人である(以上は「朝日日本歴史人物事典」の白石良夫氏の記載に基づく)。伊勢氏は藤原道長全盛の時代に遡る桓武平氏の平維衡これひらの流れを汲む氏族で、室町期には政所執事を世襲、江戸期には旗本として仕えて武家の礼法「伊勢礼法」を創始、有職故実の家として知られていた(以上はウィキの「伊勢氏」に拠る)。
・「岩井播磨」岩波版長谷川氏注に『幕府御用の具足師』とある。
・「帶とり」は太刀の鞘の足金物あしかなもの(太刀の鞘上部にある、この帯取りの革緒かわおを通す一対の金具。足金あしがねとも単に足とも言う。)と、腰に巻く佩き緒とを繫ぐ紐。飾り太刀や細太刀では紫革又は藍革、野太のこと。野太刀(大型の太刀である大太刀の別称)ではふすべ革・白革などを用いる。
・「忠盛淸盛」平忠盛とその長子清盛。
・「應仁」西暦一四六七年から一四六九年。
・「中ご」なかご。刀身の柄に被われる部分。呼称は柄の中に込めるに由来。「中心」とも書く。
・「三寸程切先の方諸刄なる」「小がらす丸」の注に見たように『刀身の先端から半分以上が両刃』であり「三寸」(約九センチメートル)では如何にもおかしい。谷川士清纂「和訓栞」(安永六(一七七七)年~文化二(一八〇五)年刊)の「たち」(太刀)の項には以下のように記す(底本は早稲田大学図書館古典籍総合データベースの画像を視認した。一部に濁点と句読点を打って読み易くした)。
〇小烏のたちハ、平家の寶とする所にて、今、伊勢氏傳ふる所は、もと一尺ばかりは、よにつねの平つくりの刀にして、末は両刃モロハ也。きつさき尖れるとぞ。
とある。一尺(約三〇センチメートル)なら、先の『刃長六二・七センチメートル』の凡そ半分で一致する。「寸」は「尺」の誤りであろう。現代語訳では「三尺」とした。
・「望月翁」「卷之四」に登場した根岸のニュース・ソースの一人で儒学者。特に詩歌に一家言持った人物で、この二つ後に現れる「傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事」でも和歌の薀蓄を述べており(「瑾」は「きず」と読ませていると思われるが、これはしばしば見られる慣用誤用で「瑾」は美しい玉の意である)、ここでもエンディングに和歌絡みの薀蓄で登場している。
・「つるぎ太刀」「つるぎたち」と本来は濁らない。鋭くよく切れる刀、若しくは単に刀の意でも用いる古くからの語である。
・「萬葉集につるぎ太刀と詠める歌二三ケ所に見へし」「剣太刀」は以下の和歌の例を見れば分かる通り、そのものとして詠み込まれるのではなく、枕詞としての用法が圧倒的に多い。刀剣は身に着けるものであるから「身」「身にそふ」「み」、名刀は本小烏丸の如く命名するのが常であるから「名」「」「な」、刀は研ぐから「とぐ」などに掛かる。これらの例を「万葉集」で見る(引用底本は講談社文庫版中西進「万葉集」を用いたが、私のポリシーに則り、正字に代えてある。また、訳は私のオリジナルである)。まず、有名どころでは巻二の一九四番歌、「柿本人麿の柿本朝臣泊瀨部皇女はつせべのひめみこ忍坂部皇子をさかべのみこに獻れる歌一首」に現れる。これは川島皇子(天智天皇の第二皇子)逝去後に妃泊瀬部皇女(天武天皇皇女)へ忍坂部皇子(天武天皇皇子泊瀬部皇女は同母)が献じる歌を人麻呂が代作したものらしい。但し、和歌自体の語り掛ける主体は泊瀬部皇女である。
飛鳥とぶとりの 明日香の川の かみつ瀨に 生ふる玉藻は 下つ瀨に 流れ觸らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡かひし つまみことの たたなづく 柔膚にぎはだすらを 劒刀つるぎたち 身に副へ寢ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂の 越智の大野の 朝露に 玉藻はひづち 夕霧に 衣はれて 草枕 旅寢かもする 逢はぬ君ゆゑ
当該箇所「か寄りかく寄り 靡かひし 嬬の命の たたなづく 柔膚すらを 劒刀 身に副へ寢ねば ぬばたまの 夜床も荒るらむ」は、「……藻の如く、何度も何度も親しくく寄り添うてはともに横になった夫のあなた、その柔らかな気持ちのいい肌えさえも、亡くなった今となっては、太刀を身に添えるように寝ることも出来なくなってしまった故、漆黒の闇の夜には、二人だけのものであったあの寝間もすっかり荒れ果てております……」といた謂いであろう。また巻二の二一七番歌、入水自殺した采女への、同じく柿本人麻呂の挽歌「吉備の津の采女のみまかりし時に、柿本人麿の作れる一首」の、
秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひをれか 栲繩たくなはの 長き命を 露こそば あしたに置きて ゆふべは 消ゆと言へ 霧こそば 夕に立ちて 朝は 失すと言へ 梓弓あづさゆみ おと聞く吾も おぼに見し 事くやしきを 敷栲しきたへの 手枕たまくらまきて 劒刀 身にへ寢けむ 若草の そのつまの子は さぶしみか 思ひてらむ 悔しみか 思ひ戀ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと
当該箇所「敷栲の 手枕まきて 劒刀 身に副へ寢けむ」は、「幾重にも布を重ねた枕のような柔らかな手枕を交わし、太刀を身に添えるように寄り添って寝た、懐かしの貴女」の意である。その他、六〇四番歌、
劒大刀つるぎたち身に取り副ふといめに見つ如何なるそも君に相はせむ
――女である私が、太刀を身に添えて臥す夢を見ました。この不思議な夢は、何? 貴方さまの御覧になった夢と、夢合わせをしてみたいわ……
巻第四の六一六番歌、
劒大刀名の惜しけくもわれは無し君に逢はずて年の經ぬれば
――名刀の銘など、私は惜しくは、ない――そなたに逢わず、もう、何年の経ってしまった絶望の中では……
であるとか、巻第十一の二四九八番歌、
劒刀諸刃のきに足踏みて死なば死なむよ君に依りなむ
――二人の寝床に添えた貴方太刀の諸刃の鋭い刃を、踏んでしまって死ぬるのなら死にます、もう、貴方さまのお側に寄り添ったのだから、永久に貴方さまを頼りと致しましょう……
及びこれの相聞と思われる次の二四九九番歌、
吾妹子わぎもこに戀ひし渡れば劒刀名の惜しけくも思ひかねつも
刀のやいばを古くは「な」と呼称したことに「名」を掛けて、 ――愛しいお前に恋続けたから、太刀の――我が名を惜しむ――という男の甲斐性も忘れてしまいそうだよ……
二四九八の同工異曲男ヴァージョン(と私は思う)、同巻の二六三六番歌、
劒大刀諸刃の上に行き觸れて師にかも死なむ戀ひつつあらずは
――太刀の諸刃の上にぐいと当たって触れ、ずぶり斬! と、死ぬのなら死んでしまいたいものだ! かくも恋に苦しんでなどいないで……
巻二十の四四六七番歌の大伴家持の歌、
劒大刀いよよ研ぐべしいにしへゆ淸けく負ひて來にしその名そ
――太刀のをいや増しに磨くがよいぞ! 古えより連綿と背負うて参ったその銘刀を!
これは一見、即物的だが、実際にはこの歌は同族の者が讒言で失脚した際の義憤の歌であり、大伴一族の家名のシンボルとして詠まれている。
以上ように、望月翁の言う「二三ケ所」どころの騒ぎではなく、「万葉集」での用例は甚だ多い。
・「(と語りぬ。)」底本では右に『(一本)』と傍注する。

■やぶちゃん現代語訳

 小がらす丸の事

 かの知られた平家重代の銘刀『小がらす丸』の太刀は、これ、先祖より伝わったものか、伊勢萬助殿の家で家宝として所持されておるもので御座るが、最近、幕府御用の具足師岩井播磨が見たとの由。
 播磨は何にあれ、故実を糺すことを何より好んで、それを趣味と致いておるが、これ無論、家業の武具刀剣のことにも頗る詳しい由。
 その彼、『小がらす丸』実見に際して、その帯取りの革紐に、まず、目をつけた。
「――これは古いもので御座るが――まず、忠盛・清盛といった頃の品にては、これ、御座らぬ。――まあ、一見した限りでは、足利時代の革で御座ろう。」
と一瞬にして目利めきき致いたところが、万助、手を打って、
「――流石じゃ! この「小がらす丸」には添状があって、そこには応仁の頃、この太刀を修復致いたことが、これ、書き記してあった。……なれど……その後は手入れもなされずに参ったものと思わるるが……これ、不思議なは、この太刀、今以て錆を生ぜずにある、ということじゃ……」
と申した故、播磨がなかごを確かめて見たところ、なかごの方は流石にすっかり朽ちて甚だ古色蒼然と致いておったが、その抜き放ったやいばには――これ、聊かの錆も御座なく――不思議なは、実に三尺ほど切先の部分が諸刃であった由。
 伊勢家にては『つるぎ太刀』と呼び習わしておるとの由。
以上のことを、私の元へしばしば来たれる望月翁に話したところ、
「……『つるぎ太刀』とは、屋上屋の如くにて、何とやらんおかしい言葉のようにお感じになられましょうが……『万葉集』に、『つるぎ太刀』と詠み込んだ歌、これ、二、三箇所に見えますればこそ、これ、古きことばにて御座る。」
と語って御座った。



 天野勘左衞門方古鏡の事

 小日向こひなたに天野勘左衞門といへる御旗本の家古き丸鏡有しが、唐の玄宗皇帝の鏡なる由申傳まうしつたへけるが、予が許へ來れる人も右の鏡を見し由。いかにも古物と見へて鐡色かないろに常ならざれど、形は通途つうとの丸鏡にて革の家に入りて服紗ふくさに包、いかにも大切に祕藏するよし。右につき勘左衞門語りけるは、右鏡玄宗の所持といふも不慥たしかならず、しかれ共年古き品には無相違さうゐなく、祖父とやらん曾祖父とやらんの代に、鏡面曇りある故、ふところにして下町邊江戸表あらゆる鏡屋持行もちゆきとぎ申付まうしつけしに、是は古き鏡故金味かなあぢ不知しれず研難とぎがたしとてことわりける故、詮方なく持歸りて門前を通る鏡研かがみとぎなどを呼て研をもとむれどいづれも斷りて不研とがざしが、或年壹人の老鏡研を呼入よびいれて右の鏡を見せしに、暫くながめて先々まづまづ元の如く入置いれおき給へとて、手洗ひ口すゝぎてさて右の鏡をとくと見て、是は古き鏡なり、我等六拾年來かゝる鏡を此鏡共に見る事二度也、定て此鏡をとがんといふ者あらじ、我等は親は江戸にてみせを出し相應にくらしけるが、不仕合ふしあはせにて今は落魄らくはくせしが、いとけなき時かゝる鏡を親なる者とぎし時咄しける事あればそれがし研得とぎうべし、されども家寶を我宿に持歸らんもいかゞなり、又渡し返し給ふべき樣もなければ、一七日いちしちにち潔齋して爰に來りて研可申とぎまうすべし、朝夕の食事は與へ給へといひし故、其約を成せしに、七日過て齋濟しとて來りて、主人の古き麻上下あさがみしもをかりて、さて一室に入て鏡を都合三日にて研上とぎあげしに、にも淸明光潔にして誠に可貴樣成たふとぶべきさまなる故、主じも悦びて價ひ謝禮を成さんと言しが、曾て不求之これをもとめず。我等幸ひにかゝる古物を研得とぎえしは職分の譽れなり、謝禮を受てはかへつて恐れあれば、右細工中の古麻上下を給はるべし、子孫の光輝になさんといふ故、その乞ひに任せけると也。其時の儘にて今にとぎし事なしとかたりけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:骨董連関。
・「小日向」現在の東京都文京区小日向。茗荷谷の南。
・「天野勘左衞門」天野昌淳まさきよ。底本の鈴木氏注に、『宝暦五年(十七歳)祖父の遺跡(四五〇石)を相続。明和三年西城御小性組の番士となる』とある。これにより彼の生年は元文四(一七三九)年となり、記事下限の寛政九(一七九七)年当時生きていれば満五十八歳である。
・「革の家」底本の鈴木氏注に『革製の箱。』とある。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には『革の袋』とあって、この方が自然で、筆写の際、「嚢」の崩し字を「家」と誤読したもののように思われる。訳は袋を採った。
・「鏡面曇りある」ガラスに銀鍍金めっきを施した現在の鏡と異なり、当時の鏡は青銅の一面の上に水銀を鍍金した反射面を利用するもので、暫くすると錆が生じて直に曇ってしまった。
・「とぎ」は底本のルビ。
・「金味かなあぢ」は底本のルビ。金属の材質・性質。
・「鏡研」鏡研ぎ(鍍金のし直し)をする行商の職人。三谷一馬「江戸商売図絵」(中央公論社一九九五年刊)の「鏡研ぎ」のよれば、『この職人は殆ど加賀出身の老人で、専ら寒中に来たといいます。鏡を磨くときは柘榴の汁を使ったそうです』とある。その細かな研ぎの方法については、個人のHP「大宝天社絵馬」の中の「柄鏡と髪飾り」に(コンマを読点に代え、改行を繫げた)、『まず、表面を細かい砥石で研ぎ、朴炭で磨き上げてから、水銀とすずの合金に砥の粉、焼きみょうばん、梅酢などの有機酸をまぜたものを塗って蒿(ヨモギ)でこすりつける。最後に柔らかい美濃紙で磨き上げると、青銅の表面は新しい水銀メッキ層で覆われ、再び金属光沢の輝きを取り戻すのである』とある。「朴炭」は「ほおずみ」と読み、双子葉植物綱モクレン目モクレン科モクレン属ホオノキ Magnolia obovata を原材とした木炭、均質なため、銀・銅・漆器などの研磨に用いられる。三谷氏の柘榴はこの解説の『梅酢などの有機酸をまぜたもの』に相当しよう(こちらの個人ブログに絵本「彩画職人部類」(天明四年橘珉江画)の絵があり、また株式会社「クリナップ」の公式HPの「江戸散策」第十七回には「江戸名所図会 四谷内藤新駅」(部分)の鏡研ぎの絵がある)。
・「とく」は底本のルビ。
・「又渡し返し給ふべき樣もなければ」訳で最も困った部分である。まず「又」とあるから、前の鏡を預かることに関連するのであれば、これは研ぎのために預かった鏡を研ぎ終えて「渡し返す」の意以外にはない。しかし、「渡し返す」動作の主体は研ぎ師本人であり、尊敬の補助動詞「給ふ」はおかしい。この動作主体は旧主天野であることは動かない。さればここは本来、「渡し返させ給ふ」という使役表現であったのではなかろうか? 旅商いのどこの馬の骨とも分からぬ鏡研ぎに、お目出度くも家宝の鏡を預け置いて、仕上げて「渡し返」させるまで、何の心配もしないということはない、だから預けることはない、という意味で意訳しておいた。大方の識者の御意見を乞うものである。
・「一七日」七日間。
・「實にも淸明光潔にして……」底本は「爰にも」であるが、「ここにも」では文脈上、おかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『にも』とあって、これならおかしくない。筆写の際、「實」の崩し字を「爰」と誤読したもののように思われるので、特に本文を「實」に変えた。

■やぶちゃん現代語訳

 天野勘左衛門方にある家伝の古鏡の事

 小日向こひなたの天野勘左衛門殿と申される御旗本の家に古い丸鏡が御座る。
 唐の玄宗皇帝所持の鏡と伝えられておるが、私の元へ来る知人も、この鏡を実見致いたとのこと。
 如何にも古物こぶつと見えて金属の色は尋常ではないものの、形は普通の丸鏡で、革の袋に入れ、それを更に袱紗ふくさに包み、如何にも大切に秘蔵なされておらるる由。
 この鏡について、勘左衛門殿が話されたことには……

……この鏡、玄宗皇帝の所持しておったと申すものの、これ、確かな話にては御座らぬ。然れども、余程古き品であることは、これ、相違御座らぬ……
……祖父の、いや、曾祖父とやらの代に、鏡面に曇りが出た故、懐ろに入れて下町、江戸表の、ありとあらゆる鏡屋へと持ち込んで、ぎ呉るるよう申し付けたところ、
「……これは……古き鏡なれば、材質もようは分からず……とてものことに、研ぐこと、これ、出来がとう御座いますれば……」
何処いずこも断る故、詮方なく持ち帰って、その後は、門前を通る鏡研ぎなんどを呼び入れ、研がせんと致いたが、いずれも、同じ理由にて断わられ、研ぐこと、これ出来申さず……
……ところが、ある年、一人の老鏡研ぎを見かけて呼び入れ、この鏡を見せたところが――暫くの間――凝っと、眺めて御座ったが、
「……まずまず、元の如く、一度御仕舞下され。……」
と申すと、かの老人、手水ちょうずを借り、手を洗い、口を漱ぎ終えると、
「――さても――」
と、改めて鏡を取り出だいて、これ、じっくりと検分致いて御座った……
……そうして、やおら語り出すことには、
「……これは、まっこと、古き鏡にて御座る。……我ら、この六十年来……かかる名物を見るは、これで二度目のことにて御座る。……定めて……これを研がんと申した者は、これ、御座いますまい。……我ら……親は、江戸にて鏡研ぎの店を出いて……相応に暮らいて御座ったれど……今はお恥ずかしくも、かくの如く落魄らくはく致いておりまするが……我ら、幼き折り、かかる鏡を親なる者の研いだ時の話を、これ、訊いて記憶に残って御座ればこそ……我らこと、この鏡、研ぎ得ようと存ずる。……されども、御家宝を我が旅宿に持ち帰ると申すも如何いかがなものか、また、我ら流浪るろうの旅商いの身なれば、安心して預けおかれ、返却させるなさるというお目出度い仕儀も、これ、お考えにはなりますまい……されば、七日の間、潔斎けっさい致いて、こちらさまに参り、こちらさまにて研がせて頂きまする。研ぎにって後の朝夕の食事だけは、これ、ご用意下さいますよう、お願い申し上げまする。……」
と申した故、かくの如く約しおいた……
……七日過ぎて、
「潔斎、これ、済み申した。」
とて老人が来たり、我ら旧主の古き麻裃かみしもを借りて、さても、屋敷の一室に籠って研ぎにって御座った……
……それよりきっかり三日の後、老研ぎ師は、この鏡を研ぎ上げて御座った。
 研ぎ上がった鏡は、ほれ、この通り、実に清明光潔にして、まっこと、貴き伝家の宝鏡と呼ぶに相応しき様なればこそ、我らが旧主も大悦び致いて、
「謝礼は、これ、望むだけ、取らそうぞ!」
と申したところ、老研ぎ師は、
「……いえ、これ、戴きませぬ。」
と申す。そうして、
「……我らこと、幸いにしてかかる古物の鏡を研ぎ得たことは、研ぎ師として、これ以上の誉れ、これ、御座ない。……謝礼を戴いては、これ、却って畏れ多きことなれば……そうさ、かの細工の間、お借り致いた、この麻裃、これを、賜りとう存ずる。……これを以って我ら、これ、名宝の古鏡こきょうを研ぎ上げたる、子孫代々への光輝と致さん、と存ずる。……」
と申したそうじゃ。我ら旧主、その乞いに任せ、その麻裃を褒美として与えて御座った……

「……その時、研いだままにて、我らが当主となってからは、一度として研いだことは、これ、御座らぬ。」
と、天野殿御自身、語られたとのことで御座る。



 傳へ誤りて其人の瑾をも生ずる事

 堂上たうしやうにてありしや、又地下也ぢげなりしや、箱根にての詠歌也と見せける。
  雲を踏足がら箱根松杉も仰げば富士の雪の下草
とありし由をかたりし者ありけるに、予がしれる望月翁聞て、趣向面白けれ共語りし者あやまりて歌主の心も野鄙やひにやおちん、ゆく雲の足がら山の松杉もと上の句はよむべき也、雲をふむとは天狗めきておかしく、足がらといひ箱根といふもものうし、松杉と言はゞ箱根のとの文字もありたし。歌主のあやまりしか、傳へ語る人の聞たがへるかと望月翁の語りし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前の「小がらす丸の事」のエンディングにヒッチコックみたように登場する儒学者望月翁連関。
・「瑾」は「きず」と読ませていると思われるが、これはしばしば見られる慣用誤用で「瑾」は美しい玉の意である。「瑕疵かし」としたいところ。
・「望月翁」「卷之四」に登場した根岸のニュース・ソースの一人で儒学者。特に詩歌に一家言持った人物で、ここはその真骨頂。
・「野鄙」は野卑に同じい。対象が下品で洗練されていない、言動が下品で賤しい。また、そのさまを言う。
・「雲を踏足がら箱根松杉も仰げば富士の雪の下草」分かり易く書き直すと、
 雲を踏む足がら箱根松杉も仰げば富士の雪の下草
で、「足がら」は松材杉材の名産地として知られた地名の「足柄」に、「がら」は原因理由を示す形式名詞「から」(助詞「から」の起源とされる)で、その足ゆえに、その足で雲を踏む、の意が掛けられているように私には思われる。また「柄」には木(や草)の幹の意があるから、「柄」「松杉」「下草」は縁語としても機能していよう。
――雲を踏むように聳える足柄山や箱根山、そこに屹立する松や杉も、一たび、富士山を仰ぎ見ると、もう、ただの雪が積もった地面の下草のようなもの――
といった如何にもな富士讃歌ではある。望月翁の補正歌も全体を示しておく。
 行く雲の足柄山の松杉も仰げば富士の雪の下草
短歌嫌いの私に正直言わせて貰うならば、これ、狂歌風の野卑な面白みがスマートになった分、一回り陳腐にして一向つまらぬ和歌となり果てたと感じるのであるが、如何?

■やぶちゃん現代語訳

 伝え誤りて作者の思わぬ瑕疵をも生じてしまう事

 知れる者、さる御仁より、
「……公家方のものか、はたまた、庶民のものかは分からねど、箱根にての詠歌なる由に御座る。」
とて見せられた歌に、
  雲を踏足がら箱根松杉も仰げば富士の雪の下草
とあった由、私に語って御座ったが、このことを、私の知り合いの――既に何話にも登場致いて御座るところの、くだんの、和歌に薀蓄を持ったる老儒で御座る――望月翁に話したところ、
「……趣向は面白う御座れども、その最初に語ったと申す者が誤りて伝えたによって、本来の詠歌された歌主の心も、これ、すっかり野鄙やひに墜ちて仕舞しもうたように思われまするな。これは、
――行く雲の足がら山の松杉も
と上の句は詠みしものと存ずる。
――雲を踏む
とは、これ、天狗めいて可笑しゅう御座るし、
――足柄

――箱根
と重ねて続くるも、重うなって、これ、如何にもつまらぬもので、
――松杉
と言はば、これはもう、
――箱根の
と申す文字もんじが、これ、ありとう御座る。……さても……これ、本来の歌主の誤りて詠めるものか……いやいや、大方は伝え語った、その御仁の聴き違えによる致命的な瑕疵にて御座いましょうのぅ……」
と、望月翁の語って御座った。



 幽靈奉公の事

 紀州高野山は淸淨不怠しやうじやうふたいの靈場とて、女人堂によにんだうよりは女を禁じ、虵柳じややなぎの靈は人口に會炙くわいしやせる事なれど、後世無慙むざんの惡僧ありて始組の教戒を犯しけるもあるや、寛政八年の頃、營士えいし花村何某の許にかかへし女、至て色靑く關東の者ならざれば、傍輩の女子抔出生を尋しに、高野にて幽靈奉公といへるを勤し由。幽靈に成て凡俗を欺き、惡僧の渡世となしけると也。虛談もあるべけれど、又あるまじき事とも思われず、爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。落語めいた話ではあるが、短過ぎるのも手伝ってか、消化不良な上に、私なんどはどうも妙な憶測(この幽霊奉公の顛末について)をしてしまい、後味が良くない。根岸は神道尊崇で仏教系には辛いことは周知の通り。
・「淸淨不怠」六根清浄と同義的意味の祝詞である百体清浄太祓ふとばらいと、真言宗の祈禱不怠法味若しくは単に日夜(日夕)不怠の意を添えたものであろう。要は不断に身の清浄を怠らざるの結界の意である。
・「女人堂」高野山には高野七口と呼ばれる七つの登り口があったが、明治五(一八七二)年の女人禁制解除までは女性の立ち入りが厳しく制限され、それぞれの各登り口に女性のための参籠所が設けられた。現在は不動坂を登ったところにある一堂のみが遺跡として現存する。
・「虵柳の靈」「虵」は「蛇」。蛇柳は高野山の山上にある大橋(一の橋)より奥の院に至る右側の路傍の奥にあった(現在は枯死して存在せず、ガイドや地図にも所収しない)。一説に弘法大師の得度によって蛇の変じた(若しくは法力によって蛇に変じさせた)松と言われた。高野山の古い案内記によれば、この柳は、低く匍匐して蛇が臥せたのに似ていることから名づけられた、とある。調べてみると、どうもここが諸案内に載らないのは、松が枯れた以外にも、高野山の「暗部」に相当する不浄の地であるからのように推察される。「高野山霊宝館」の公式HPには、高野山で犯罪を犯した者への処刑方法として「万丈転の刑」(手足を紐で縛った上に簀巻にして谷底へ突き転がされる刑)を説明するページがあるが、罪状が軽い場合はびんを片方だけそり落とし、そこに朱で入れ墨された上で寺領外への追放で、万丈転でも万一命拾いした者はそのまま放免となったが、逆に重罪の場合は奥之院の蛇柳付近の地中に生きたまま埋められる極刑となる、とあるのである。本記載では大いに参考になった個人のHP、上村登氏の「土佐の植物」(昭和一九(一九四四)年共立出版刊か)を電子化されたものと思われるサイト内にある「紀州高野山の蛇柳」によれば、『以前高野山で植物採集会が催された時、その指導者として私も行ったのだが、その折私は同山幹部の或る僧に向ってこの蛇柳の由来をたずねてみたら、その答えに「昔高野山の寺の内に一人の僧があって陰謀を廻らし、寺主の僧の位置を奪い自らその位に据らんと企てたことが発覚して捕えられ、後来の見せしめのためにその僧を生埋にした処があの場所で、そこへあの通り柳を植え、そして右のような事情ゆえその罪悪を示すためその柳の名も蛇柳と名づけたようだ」と語られた』とあるのも興味深い。なお、同記載によれば植物学者白井光太郎氏がここでこの柳を採取した上、ヤナギ科ヤナギ属ジャヤナギ(別名オオシロヤナギ)Salix eriocarpa に同定、和名もここで決まった。
・「無慙」特にこれや「無慚」と書いた場合、仏教用語として仏教の戒律を破りながら心に少しも恥じるところがないことを言う。
・「寛政八年」西暦一七九六年。本巻の記事下限は寛政九(一七九七)年春であるから極めてホットな『オルレアンの噂』の寛政版ということになる。
・「營士」岩波版長谷川氏注に柳営(将軍・幕府)の武士の謂いかとする。但し、根岸が今までの巻で用いたことのない単語である。なお、長谷川氏がかく推定する理由は次注参照。
・「花村何某」岩波版長谷川氏注に花村『正利まさとし。書院番組頭・御先鉄砲頭より寛政八年家慶付き』とある。家慶(寛政五(一七九三)年~嘉永六(一八五三)年)は江戸幕府第十二代将軍。
・「幽靈奉公」これは、悪僧がユウタ(幽太:幽霊の役を演じる者。)役をこの「靑白い」もってこいの女にやらせ、まず幽霊騒ぎを引き起させては、そこにやおら「高野聖」として自らが現われ、祈禱をやらかし、霊は往生致いたと称して金を巻き上げるというものであろう。本文では「高野にて」とあるが考えようによれば「高野聖」と称していただけで、おそらくは僧形の乞食僧(若しくは実際の高野聖から身を落とした者)であり、その親族ででもあったものか、女は幼き日より高野の結界外で、その者に体よく幽霊役として使役されていた、というストーリーであろう。ただ幽霊役だけで、済んでいたのなら、まだ、いいが……彼女のこれからの幸いを心より祈念するものである……。

■やぶちゃん現代語訳

 幽霊奉公の事

 紀州高野山は清浄不怠しょうじょうふたいの霊場として、女人堂より先は女人を禁じ――邪悪なる大蛇さえも弘法大師の霊力によって柳と化して往生致いたと申す――かの蛇柳じゃやなぎの霊なんどの霊験譚も、これ、人口に膾炙かいしゃして御座れど……後世には無慙の悪僧があって、これ、始祖弘法大師の教戒を犯しながら、平気の平左にて「高野聖」を名乗り、思いも寄らぬ悪事を働いておる輩も、これ、あるのであろうか?……
……寛政八年の頃、将軍附きの花村なにがし殿の元で雇うて御座った女、これ、異様に顔色が青白うして、言葉も関東の者にては、これ、御座らねば、朋輩ほうばいの女たちが郷里なんどを尋ねてみたところが、
「……高野山にて、幽霊奉公と申すものを、これ、勤めておりました。……」
と申す。
――幽霊奉公とは……
……幽霊に化けては凡俗の民を欺き、悪僧の渡世のおぞましき手伝いを致いておったとか申す。……
 これ、作り話にてもあろうかとは思うものの……いや……また、あり得ぬこととも思われず……ここに記しおくことと致す。



 幽靈なきとも難申事

 予が許へ來る栗原何某といへる者、小日向こひなたに住居して近隣の御旗本へ常に立入たちいりしが、分て懇意に奧迄ゆきしが、壹人の子息ありて其年五歳に成しが、至て愛らしき生れ故、栗原甚だ寵して行通ゆきかよふ時は土産など携へ至りしが、暫く音信おとづれざりし所、右屋敷今晩は是非にきたるべしと申越まうしこしける故、玄關よりあがりて勝手の方廊下へ行しに、彼小兒例の通り出て栗原が袖を引勝手の方へ行しに、勝手の方に何かしめやかに屏風などたてありし故、病人にてもありしやと何心なく通りしに、主人出て兼て不便がりしせがれ五歳に成りしが、疱瘡はうさうにて相果しと語られければ、おどろきしのみにもあらずこわけ立しと、直に右栗原語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:似非幽霊から真正幽霊へ幽霊繋がりで、三つ前の「天野勘左衞門方古鏡の事」が「小日向」で舞台が連関。先の「幽霊」話柄は私には今一つ後味の悪いものであったが、逆にこの子供の霊は(話者が怖がってはいるが)何か哀しくも、しみじみとする。私は子どもの霊が好きだ。
・「幸十郎」「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』と初出する根岸のニュース・ソースと同一人物であろう。しかも語りの話柄が疱瘡(天然痘)でも連関している。本巻でも既に「麩踏萬引を見出す事」「在方の者心得違に人の害を引出さんとせし事」に登場している。
・「疱瘡」「卷之三」の「高利を借すもの殘忍なる事」の「疱瘡」の私の注を参照。
・「こわけ立し」「こわげ立ちし」で、慄っとして立ち竦むこと。

■やぶちゃん現代語訳

 幽霊など実在しないとも申し難き事

 私の元へしばしば参る栗原何某という者、これ、小日向こひなたに住まいがあり、近隣の御旗本の屋敷へも出入り致し、分けても殊に奥向きへも立ち入って、御当主の御家族とも懇意に致いて御座った。……

……その御当主には御子息があられ、当年とって五歳になって御座ったが、至って愛らしき姿なれば、我らも、よう、可愛がりましての、行き通う折り折りには、きっと、このこおがために、土産なんど携えて参りました。……
……我ら、こちら様とはここ暫くの間、御無沙汰致いておりましたところが、ある日のこと、かの御屋敷より、
「今晩は是非来られたし。」
との仰せが寄越されました故、お訪ね申して、玄関よりお声掛け致いた上、勝手知ったる御屋敷で御座いましたから、そのまま御勝手方への廊下を歩いておりました。
……と……
……かのこおが何処からとものう、走り出でて参り、我らの袖を引きながら、頻りに御勝手方へと引き連れて参ります。引かれるままに勝手方の入口まで参りましたところ――こおは、そのままそこへ走り入って姿が見えずなりましたが――御勝手方は、何やらん、しめやかに屏風などが引き廻して御座って、しーんと静まっておりました故、
『……これは、誰ぞ、病人にても御座るものか……』
と思うておりました、その折り、奥方より御主人が出でて参られ、
「……栗原殿……かねてより貴殿の可愛がって下された、かの倅……五歳にて御座ったが……疱瘡ほうそうにて……これ……相い果て申した……」
と語られましたればこそ……

「……我ら……驚きしのみならず……正直、怖気立おぞけだつて御座いました……」
とは、じかに、かの栗原の語った話で御座る。



 怪尼奇談の事

 或人語りけるは、藤田元壽とて駒込邊に住居せる醫者ありしが、或日早稻田にすめる由の尼たく鉢に來りて、雨をしのぎて元壽がえんに腰をかけ雨やみをまちけるが、色々の咄しなどせしが、懸物を見て和歌など口ずさみ、其外物語のさま凡ならざるゆへ、元壽も感心して詠歌など聞しに、此程よめる由にて、
  さほ姫の年を越なでいとけなくういたつ霞春をしれとや
  けふはなを長閑き春の鄙までも霞にきゆる雪の山里
二首を見せて、雨晴れて立別れし故、兼て聞し早稻田の彼尼が庵を尋ければ、近き頃箕輪みのわへ引移りしと聞し故、元壽も事を好む癖ありて、箕輪を所々搜して彼尼がいほりに尋當りて、暫く色々の物語りして、御身のむかしいかなる人にと尋ければ、わらははむかし吉原町の遊女をなしけるが、富家ふけの商家へ請出うけだされしが、右夫死せし後は世の中のうきを感じて、かゝる身となりしと語りし由。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。しっとりとしてしみじみとした和歌を嗜んだ芸妓後日譚で、次と二十一項後で同聞き書きとして続篇が二つある。同一人の聞き書きはあっても、話柄の主人公が一貫して同一の尼であり、強い連続性を有し、たこうした形式は「耳嚢」では珍しい。
・「さほ姫の年を越なでいとけなくういたつ霞春をしれとや」読み易く書き直す。
 佐保姫さほひめの年をえなでいとけない立つ霞春を知れとや
佐保姫は元は佐保山の神霊で春の女神。五行説で春は東の方角に当たることから平城京の東の現在の奈良県法華寺町法華町にある佐保山が同定されたもの。白く柔らかな春霞の衣を纏う若々しい女性とイメージされた。竜田山の神霊で秋の女神竜田姫と対を成す。参照したウィキの「佐保姫」によれば、『竜田姫が裁縫や染めものを得意とする神であるため、対となる佐保姫も染めものや機織を司る女神と位置づけられ古くから信仰を集めている。古来その絶景で名高い竜田山の紅葉は竜田姫が染め、佐保山を取り巻く薄衣のような春霞は佐保姫が織り出すものと和歌に歌われる』とある。一首は、春霞の棚引く佐保山を佐保姫になぞらえた優美なもので、「初い立つ」と「立つ霞」の掛詞で、
佐保山の佐保姫は、未だに年頃を迎えておられぬ幼く初々しいお姿じゃ――なれど、その初々しきお姿にも、幽かに初めて自然、女人の香気が、山に靡きかかる春霞のように、浮き立って――そこに春の、恋の、あの予感を、知っておらるるようじゃ……
といった歌意を含ませていよう。
・「けふはなを長閑き春の鄙までも霞にきゆる雪の山里」読み易く書き直す。
 今日はなほ長閑のどけき春のひなまでも霞に消ゆる雪の山里
「霞に消ゆる」と「消ゆる雪」の掛詞で、
――今日はなお一層、この長閑かな春の田舎にまで春霞が棚引き掛かって――雪に埋もれていた山々の雪はすっかり消え――かわりに暖かな雪のようにふっくらとした白き霞が――この里を包み込んで、山里はまた、消えておりまする……
といった新春の景物を言祝ぐ美しい佳品である。私は和歌が好きではないが、二首ともに技巧を感じさせず、素直な迎春歌として好感が持てる。
・「箕輪」浅草の北西、現在のJR常磐線南千住駅西方にある日比谷線三ノ輪駅周辺の地名。江戸切絵図を見ると田地の多い田舎で、新吉原総霊塔のある有名な浄閑寺が直近で、新吉原からも五百メートル程しか離れていない。

■やぶちゃん現代語訳

 曰くありげなる妖しき尼僧の奇談の事

 ある人の語ったことで御座る。
 駒込辺に藤田元寿と申す医者が御座った。
 ある春の日のこと、俄かに雨となったが、丁度そこに、早稲田邊に住めると申す尼が托鉢たくはつに参って、雨を凌いで、元寿が家の縁に腰を掛け、雨止あまやみを待って御座った。
 その折り、色々と話なんど致いたが、縁から見える元寿の家内の掛軸を見、何やらん、和歌なんど口ずさんでみたり、また、その四方山の話柄の風雅なること、これ凡そ、並の尼とも思われぬ故、元寿も感心致いて、
「……一つ、そなたの詠歌など、これ、お聴かせあれかし。」
と乞うたところ、
「……お恥ずかしながら……近頃、詠みましたものにて……」
とて、
  さほ姫の年を越なでいとけなくういたつ霞春をしれとや
  けふはなを長閑き春の鄙までも霞にきゆる雪の山里
という二首を書き記して見せた。
 丁度、その折り、雨も晴れたによって、その尼ごぜとは、そこで相い別れて御座った。
 元寿はこの尼のことが気になり、後日、かねて尼の申して御座った早稲田のいおりを訪ねてみたところが、
「近頃、箕輪辺へ引っ越したぜ。」
とのこと故――まあ、元寿も物好きなたちで御座ったれば――わざわざ、そのまま箕輪まで足を延ばいて、あちこちと捜し廻って、漸っとのことに尼の庵を訊ね当てて御座った。
 また、その庵の縁にて、暫く二人して物語なんど致いたが、
「……ところで……御身、昔は如何なるお人にて御座ったものか、の?」
とさり気なく水を向けたところ、尼ごぜは、
「……わらわは昔、吉原町の遊女を生業なりわいと致いておりました……富家ふけの商家の檀那に請け出してもろうたものの……そのひとうなってからのちは、これ、世の中の憂きことを感じまして……かかる身となって御座います……」
と語ったと申す。(続く)



 陰凝て衰へるといふ事

 右藤田元壽へ右尼の語りけるは、近年吉原まち次第に衰へて不繁昌に成し事、譯こそあるべき也、吉原町は江戸の北方に當りて陰地也、陰地陰を集めて渡世なせる事故、古へ庄司勘左衞門右曲輪取建くるわとりたてける頃より、廓中に井戸を掘る事を禁じ、廓外より日々汲事くむことにてありしが、いつの頃にや、江戸町にすめ丁子屋ちやうじやといへる遊女屋、右の事にも心付ざりしや、當時の便理べんりを思ひて掘拔井ほりぬきゐこしらへけるを、追々見及みおよびて今は廓中に數多あまたの井戸を掘りしが、陰に陰をかさねければ、土地の衰へしもことわり也と言しと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:前話の藤田元寿聴取になる数奇な運命の尼ごぜの語りの続話。
・「吉原ちやうは江戸の北方に當り」吉原では「京町きょうまち」以外は「町」は「ちょう」と呼ぶ(本注で参照したウィキの「吉原遊廓」にそうある)。この話は当時の江戸庶民が読んでも「おや?」っと思う疑問がある。何故なら、吉原は当初、当時の海岸に近い日本橋葦屋町(現在の日本橋人形町付近)とよばれる(葦=よしの茂る原であったことから「吉原」と呼称)にあり、ここだと江戸城の真東に当たるからである。明暦三(一六五七)年一月の明暦の大火の後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ(但し、幕府による移転命令自体は前の年の明暦二年十月に出されていた)。以下は元吉原創建当時の話から始まっており、北で陰地というのは当て嵌まらないからである。なお、新吉原も細かく言うと真北ではなく東北に当たる。おや? 正に鬼門だ。そうか! 江戸の鬼門は実に数多の遊女たちによって鉄壁の守りがひかれていたのか!
・「北方に當りて陰地也、陰地陰を集めて渡世なせる」陰陽五行説では「北」は陰、「女」も陰であるから、新吉原は重陽ならぬ重陰の劣性の地と生業なりわいだと言うのである。
・「庄司勘左衞門」底本には『(尊經閣本「甚左衞門」)』という傍注が附される。ウィキの「吉原遊廓」には元誓願寺(豊島区南長崎にある寺か)前で遊女屋を営んでいた『庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)』とある(但し、底本の鈴木氏注には、『北条氏に仕えたが、小田原没落後江戸柳原に住んだ』とあってやや齟齬がある。因みに鈴木氏の注にある没年と享年から彼の生没年は天正四(一五七六)年~正保元(一六四四)年である。名前は現代語訳では正しいものに変えた)。以下、ウィキの記載で略史を辿る。天正一八(一五九〇)年八月一日の家康の江戸に入府後、『江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる』(江戸中期のデータでは人口の三分の二が男性という記録があると記す)。『そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようにな』ったが、『江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初は幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後』、慶長一七(一六一二)年に、この庄司甚右衛門を代表として、陳情が行われ、そこでは、
 一、客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。
 二、偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。
 三、犯罪者などは届け出る。
という三つの条件を示して受理され、元和三(一六一七)年になって『甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある』。明暦の大火後の六月には『大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転し』、新吉原が開業する。その後、寛文八(一六六八)年に行われた江戸市中の私娼窟取締りで娼家主五十一人、遊女五百十二人が検挙されて新吉原に移されたが、『これらの遊女に伏見の墨染遊郭や堺の乳守遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。またこの時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」と定め、遊郭での格付けに大きな影響を与えた』とある。『明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされていった。一方で、次第に主に東北地方から身売りされた少女達が遊女になるようになり、昭和年間には大半が東北地方出身者で占められるようになっていった。彼女達は年季奉公という形で働かされていたが、一定の年限を働いても郷里に帰ることはほとんど無く、年季を明ける率は極度に低いものであった。まして、彼女達は貧農出身者が多かったがために遊女を購った金額を実家が返却できる様な事は非常に稀であった。結果、大半の遊女が生涯を遊廓で終えることとなった。この背景には農民層の貧困が存在していた』。『戦後、純潔主義を掲げるキリスト教女性団体である婦人矯風会の運動などによ』る、昭和三二(一九五七)年四月一日に売春防止法の施行によって『吉原遊廓はその歴史に幕を下ろし、一部は「トルコ風呂」(ソープランド)に転身』した、とある。
・「廓中に井戸を掘る事を禁じ」陰陽五行説では「水」も陰である。
・「江戸町に住る丁子屋といへる遊女屋」岩波版長谷川氏注に『新吉原江戸町二丁目に丁字屋があった』と記す。幾つかの記録を見ても、この丁字屋は新吉原からのものと思われ、ここから尼の話は場所が新吉原に移っていることになる。

■やぶちゃん現代語訳

 陰が凝りて衰えるという事

(前話の続き)
 藤田元寿へ、この尼は、次のような話も致いた。
「……近年、吉原町よしわらちょうは次第にさびれて、往時の繁昌は見る影も御座いませぬが、これには、訳が御座います。……
……吉原町は江戸の北方きたかたに当たって、これ、陰地で御座います。その陰の地に陰なる女性にょしょうらを集め、生業なりわいと致いたこと故、その昔、庄司甚右衛門なるお方が、かのくるわ葭原よしはらとして創建致しました頃より、廓内くるわうちにては井戸を掘ることを禁じ、廓の外より水は汲むことと定めて御座いましたが……それがいつの頃で御座いましょう、江戸ちょうに店を構える丁子屋とか申す遊女屋が、こうした訳も心得ず御座ったものか、当座の便利をのみ思うて、掘り抜きの井戸を拵えましたのを周囲も見及び、これを真似て、どこもかしも、廓中に数多あまたの井戸を掘りまして御座います。……陰に陰、更に今一つ陰を重ねたことなれば、土地の衰えたも、これ、ことわりに御座います。……」
と申した、とのことで御座る。
(後日に続く)



 鼻血を止る妙藥の事

 靑じといへる鳥の腹をさきて、人參を一匁入て黑燒になし、鼻血出る時呑み又は付て妙也。鼻血のしたゝりて下へおちしへ、右黑燒をふりかけてもすみやかに止るとかや。誠に奇法と言べし。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。民間療法(しかもかなり怪しい系の)シリーズの一。本条は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では巻之五の掉尾にある。
・「鼻血を止る妙藥」底本の鈴木氏注に『黒焼とか灰がよいというののが一つのセオリーだったらし』いとして、「和漢三才図会」の例を訳して揚げる。ここでは「和漢三才図会」の巻十二の「鼻」の項の掉尾にあるそれの原文と私の書き下したものを示す。
〇原文
衂〔音忸〕 鼻出血也 不止者亂髮燒灰吹之立止永不發男用女髮婦用男髮也
 凡鼻痛者是陽明經風熱也
〇やぶちゃんの書き下し出し文
はなぢ〔音忸〕 鼻より血を出だすなり。止まざれば、亂髮、灰に燒きて之を吹けば、立処に止みて永く發せず。男は女髮を用ゐ、婦には男髮を用ふるなり。
  凡そ鼻痛は、是れ、陽明經の風熱なり。
「忸」の音は「ジク・ニク」。「処」は訓点にある。この場合はもっと怪しく異性の髪を焼いてただ吹けば(患部である鼻に塗布したりするのでもなんでもない)たちどころにに止まるとある。この不思議な療法を、少なくとも筆者の寺島良安は最後の「風熱」であることに求めているような書き方になっている。「風熱」とは体内の熱が過剰に籠っている状態を言うらしい。分かったような分からないような……。
・「靑じ」スズメ目スズメ亜目ホオジロ科ホオジロ属アオジ Emberiza spodocephala。漢字表記は「青鵐・蒿鵐・蒿雀」。下面が黄色い羽毛で覆われ、喉も黄色い。オスの成鳥は頭部が緑がかった暗灰色で覆われ、目と嘴の周りが黒い。和名にある「アオ」は、緑も含めた古い意味での青(「鵐」は「巫鳥」で「しとと」「しとど」と読み、このアオジやホオジロなどの小鳥を総称する古名であった。その「し」が残って濁音化したものか)色の意で、オスの色彩に由来する。画像は参考にしたウィキの「アオジ」で。
・「一匁」三・七五六五二グラム。

■やぶちゃん現代語訳

 鼻血を止める妙薬の事

 青鵐あおじという小鳥の腹を裂いて、人参を一匁入れて黒焼きに致いたものを、鼻血が出た折り、飲むか、鼻孔につけるかすれば、これ、ぴたりと止まること、妙なり――鼻血の滴って下へ落ちた血溜まりへ、この黒焼きを振りかけるだけにても、これ、たちどころに止まる――とか。……さても、そこまでいくと、これはもう、まっこと、奇法――しき法と申すより、奇っ怪なる妖しき法――と言うべきではあろう。



 鼠恩死の事 
鼠毒妙藥の事

 西郷市左衞門といへる人の母儀、鼠を飼ひて寵愛せしが、如何しけるや彼鼠、右母儀の指へ喰附くひつきしが、殊の外いたみはれければ市左衞門立寄て、憎き事かな、畜類なればとて日比ひごろの寵愛をもかへりみず、かゝるうれひをなせる事こそ不屆なれとて、打擲ちやうちやくなしければ迯失にげうせぬ。其夜母儀の夢にかの鼠來りて、右指へ白躑躅しろつつじの花を干たるを付れば、立所に鼠毒を去て癒る由を述て、右白躑躅の花を枕元におくと見て夢覺ぬ。驚きさめて枕元をみれば、有し鼠は死して白つゝじの花をくわへをりける故、右花を指のいたみに附しに、立所にはれ引て快也しと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:民間伝承薬で連関。動物霊異譚シリーズの一つでもある。
・「西郷市左衞門」底本の鈴木氏注に『西郷員寿(カズヒサ)』(元文四(一七三九)年~?)とする。宝暦四(一七五四)年に十六歳で『遺跡(三百俵)を継ぐ。七年西城後書院番』、寛政二(一七九一)年『本丸勤め、八年若君(家慶)付きとなり西城に勤務』とあるから、執筆推定下限の寛政九(一七九七)年には満五十八歳で、その母であるから七十五は有に越えている。
・「彼鼠、右母儀の指へ喰附しが、殊の外痛はれければ」鼠咬症である。ネズミに咬まれることで、モニリホルム連鎖桿菌又は鼠咬症スピリルムという細菌に感染することで発症する。モニリホルム連鎖桿菌による鼠咬症は、ラット以外にもマウスやリスあるいはこれらの齧歯類を補食するイヌやネコに咬まれて発症する場合があるが、鼠咬症スピリルムの場合は、殆んどはネズミ(ラット)が原因である。モニリホルム連鎖桿菌の感染の場合は通常三~五日の潜伏期の後、突然の悪寒・回帰性を示す発熱・頭痛・嘔吐・筋肉痛などのインフルエンザ様症状で呈する。九〇%以上の罹患者に暗黒色の麻疹はしかに似た発疹が四肢の内側や関節の部位に現れるが、数日で消え、痛みを伴う多発性関節炎の症状が現われ、心内膜炎・膿瘍形成・肺炎・肝炎・腎炎・髄膜炎等を合併症として発症することがある。鼠咬症スピリルムの感染ではほぼ同じであるが、関節炎を伴うことは殆どない。ペニシリンを第一選択薬とするが、テトラサイクリン・ドキシサイクリンも有効である。ラットなどの齧歯類に咬まれた場合は、速やかに傷口を消毒し、医療機関を受診することが肝要である(以上は「goo ヘルスケア」の「鼠咬症」の国立感染症研究所獣医科学部部長山田章雄氏の記載に基づく)。

■やぶちゃん現代語訳

 鼠の恩死の事 附 鼠毒の妙薬の事

 西郷市左衛門と申される御方の御母堂、鼠を飼ってご寵愛になられて御座ったが、どうした弾みか、ある時、この鼠、こともあろうに、かの母者人ははじゃびとの指に喰いついて御座った。その後、そこが殊の外痛んで腫れ上がって御座った故、市左衛門殿は母者の部屋へ見舞った折り、
「憎っくきことじゃ! 畜類とは申せ、日頃の御寵愛をも顧みず、かかる憂いをば母者にもたらすとは、これ、不届き千万!」
と、持った扇子で籠を打ち叩いたところ、こぼれた隙より、何処ぞへ逃げ失せて御座った。……
……その夜のこと、母者が夢に、かの鼠が来たって、
「……そのお指へ白躑躅しろつつじの花を干したものを、おけにならるれば、たちどころに我らが毒を去って、癒えまする……」
かく述べて……鼠が……その白躑躅の花を……枕元に……置く……と見えて……夢から覚める――すっかり覚めためえで、ふと枕元を見れば――在りし日の、かの鼠が白躑躅の花をくわえて死して御座った――
――されば、この花を痛む指にお貼けになったところ、たちどころに腫れが引いて、快癒なされたとのことで御座る。




 相學的中の事

 予が許へ來る栗原某は相術さうじゆつを心掛しが、誠に的中といへる事も未熟ながらある事也と退讓たいじやうして語りけるは、近頃夏の事成しが、築地邊へ行て歸りける時、護持院原の茶店に腰懸て暫く暑を凌けるに、町人躰の者兩人、是も茶店に寄て汗などいれて、何か用事ありて是より戸塚とやら川崎とやらんへ出立する由咄し合しを、栗原つくづくと彼者のおもてを見るに、誠に相法にあはすれば劍難のさう顯然たる故、見るに忍びず立寄たちよて、御身は旅の用事いかやう成事也なることやと尋ければ、我等不遁者のがれざるものの娘を被誘引出さそひいだされ、川崎の宿しゆく食盛めしもりに賣りし由、依之これよりかしこへ至り取戻す手段をなす事なりと語りけるにぞ、左あらば人を賴みてつかはし候共、又は知る人もあらば書通しよつうにて、能々よくよく糺して其後ゆき給ふべし、我等相術を少々心掛けるが、御身のさう劍難の愁ひ歴然に顯れたれば、見るに忍びず語り申也まうすなりといひしに、かの者大きに驚き厚く禮謝して住所抔尋ければ、禮をうけんとの事にはあらずとて立別れしが、彼栗原は施藥をもなしける故、右町人にも不限かぎらず同じくすずみし者へ施藥などいたしけるが、右包帋つつみがみに宅をも記しおきける故にや、五七日すぎて右町人、さかなを籠にいれて栗原が許へ來り、誠に御影おかげにて危難をまぬがれしなり、其日の事也しが、彼旅籠屋かのはたごやにては右むすめの事につき大きに物言ひありて、怪我などせし者ありしと跡にてききけるが、我等かの所に至りなば果して變死をもなさん、ひとへに御影也と厚く禮をのべて歸りし。是等近頃の的中といふべしと自讚して咄しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。恐らくはニュース・ソース栗原幸十郎話の一つ。本話は本巻(底本東北大学図書館蔵狩野文庫本)の折り返し点、丁度、五十話目に当たる。
・「相術」相学。人相学。
・「幸十郎」「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある人物と同一人物であろう。本巻でも既に何度も登場しているが、本話では彼は医者まがいの熱中症患者への無料の施薬なんぞもしており(今のTVでもよくある手では御座らぬか!)、その薬包にはちゃっかり名前と住所が書いてあったり、話柄の最初では根岸、「退讓」としながら、掉尾では鋭く「自讚」と表現している辺り(語るうちに栗原が饒舌自慢となってゆくさま見て取れる優れた額縁である)……「栗原、お主も、なかなかじゃのう……♪フフフ♪……」……
・「護持院原」元禄元(一六八八)年に第五代将軍徳川綱吉が湯島にあった知足院を神田橋外(現在の千代田区神田錦町)へ移して、隆光を開山として新たに護持院としたが、この寺は享保二(一七一七)年に火災で焼失して火除け地となり、護持院ヶ原と呼ばれた(護持院は音羽護国寺の境内に移されている)。底本の鈴木氏の注によれば、当時、御寺院ヶ原自体は閉鎖されていたらしく、『夏と春は一般人に開放し、各春は将軍の遊猟に使用した』とある。
・「汗を入て」ひと休みして汗の出るのを抑える、また、ひと休みして汗を拭くの意。
・「不遁者のがれざるもの」は底本のルビ。
・「食盛めしもり」は底本のルビ。飯盛女。ウィキの「飯盛り女」の記載が、ここでの刃傷沙汰を自然に納得させて目から鱗であるから引用しておく(アラビア数字は漢数字に代え、注記号は省略した)。『盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場にいた、奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼である』。『その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に(売春婦)のみを指すわけではない』。『また「飯盛女」の名は俗称であり、一七一八年以降の幕府法令(触書)では「食売女」と表記されている』。『十七世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。もともと遊女を置いていたのを幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したとも、給仕をする下女が宿駅間の競争の激化とともに売春を行うようになったとも言われる』。『当時、無償の公役や競争激化により宿駅は財政難であり、客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府も、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限の無い拡大は未然に防いだ。一七七二年には千住宿、板橋宿に一五〇人、品川宿に五〇〇人、内藤新宿に二五〇人の制限をかけている』。『また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒などアウトロー集団が出入り、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすく、一方で目明かしなども料理屋に出入りし、公権力とも関わりをもっており、料理屋における飯盛女雇用は公権力への協力の見返りに黙認されるケースであったと考えられている』(但し、末尾の一文には要出典要請が掛かっている)。
・「書通」書面を以って相手に意を通じること。
・「帋」は「紙」に同じい。

■やぶちゃん現代語訳

 相学的中の事

 私の許をしばしば訪れる栗原某は相術をも独学致いておるが、
「……まっこと――ズバリ的中――と申すことも……これ、未熟ながら、御座いましてのぅ……」
と謙遜しつつ、語ったことには……

……近頃の夏のことで御座った。築地辺へ出かけての帰るさ、護持院原の茶店に腰掛けて暫く暑さを凌いで御座ったところ、町人ていの者二人、これも茶店に寄って、我らが近くに座り、汗を静め、何やらん用事のあって、これより戸塚とやら川崎とやらへと出立する由、話しうて御座いましたが……我ら、その出で立たんと申した男の顔をよう見るに……これ、相術相法に照らし合わせますると――まっこと、剣難の相――歴然たる故、見るに忍びず近くへと参り、
「……失礼乍ら、伺い申す。……貴殿、これより旅をなさるようじゃが……その用向きは、これ、如何なることにて御座るかの?」
と訊ねたところ、我らがこと、さまで不審にも思うさまもなく、
「……へえ、旅と言やぁ、旅でござんすが……あっしの身内の者の娘が、これ、ていよく、甘い話に乗せられてかどわかされ、川崎の宿の飯盛り女に売られたって聴きやして、そいつは一大事と、これから、おっつけそこへ行って、この娘を取り戻そうってえ、算段でごぜえやすが。……」
と答えて御座った故、我ら、
「……さあらば、仲に人を頼み、相手方へ遣わしなさるるか……或いはまた、仲介に立って下さる御仁のあらば、貴殿のしたためし書状を以って、よくよく、かく至った経緯を糾いた上、そののち、先方へ出向かるるが、これ、よろしゅう御座る。……何とならば……我ら、相学を少々心得て御座るが……御身の相には、これ――剣難の相――歴然と出でて御座る。……見るに忍びず、かくお声掛け致いた次第。……」
と真摯に申したところが、当の男、これ、大いに驚き、厚く礼を申して、我らが住所なんどを訊ねました故、
「我ら、謝礼を請わんとて、今の事実をお話致いたわけにては、これ、御座らぬ。」
と固辞致いて、我ら、そこを立ち去って御座った。……
……ところが、それ、我ら、片手間に諸人もろびとに施薬なんども致いておりますのはご存知のことで……この折りも実は、この男らと話を致す前に、その当の町人に限らず、そこな茶屋に涼んでおった町人どもへ、例の我ら秘伝の暑気払いの薬、これ、ただで配って御座いまして、の――まあ、さればこそ、この町人も話しかけた我らがことも胡散臭くも思わずに御座ったものでしょう――ところが、その折りに配った薬包やくほうに、我らが住所を記してあったがためか……五日七日いつかなぬほど経って、かの町人が、鮮魚を籠に入れたものを手土産にして、我らが元を訪ねて御座った。
「――いやぁ! まっこと、おさむれえさまのお蔭を以て、危難を、これ、まぬがれやして、ごぜえやす! あの日のことでごぜえやすが――何でも、かの旅籠屋にては、かの娘のことにつき――売り飛ばしに関わった不逞の輩との間の悶着ででもごぜえやしたものか――大きに、ひと騒動御座って、怪我なんど致いた者もおったとの由、後になって聞きやしてごぜえやす。あっしも、もし、その場に居合わせてごぜえやしたら……これ、果たして巻き添えを食って、哀れ、変死の憂き目にうておったところでごぜえやした。……これは偏えに、お武家さまのお蔭に、ごぜえやす!」
と厚く礼を述べて帰って行きまして御座る。……

「……と、まあ、これなんどは、近頃の的中致いた一つとは申せましょう。……」
と、栗原、最後は自画自賛となって語って御座った。



 奸婦其惡を不遂事

 淺草藏前邊の小間物屋とやらん、日々觀音へ參詣をなす事多年也しに、是も下谷邊の木藥屋きぐすりやにて同じく觀音を信仰して年頃歩行あゆみを運び、相互あひたがひに日々の事故ことゆへ或は道連に成、又は日參茶やといへる水茶屋にて落合、後々は他事なき知音ちいんと成しが、或日かの小間物屋觀音へ參詣して、歸り道にも右の木藥屋には不逢あはざる故、いかゞなしけるや尋見んと下谷の方へ立向ひしに、向ふより右木藥屋來りし故、いかなる譯にて今日は遲きや、尋んため爰迄來りしと申ければ、かの木藥や殊の外色もあしく愁ひたる氣色にて、甚だの難儀有て今日は遲く成し由故、其譯を尋しに、我等商賣ていにて砒霜斑猫ひさうはんみやうの毒藥類は、たとへば求めに來る者ありても外科ぐわいれう其外其用ひ方を聞て、證文をも取窮め商ひ候事なり、然るに昨日きのふ雨の降けるに、一人の男格子じまの羽織を着し大嶋の單物ひとへものを着たるが、右砒霜を求めたりしを、みせにありし者うかと證文もなく其身分取計ひも聞かで賣りし由、跡にて承り大に驚き、其買人かひてを詮議なせどいづくの人なるや知れず、すれば人の害を成さん事の悲しさに、昨夜より食事も通らず愁ひにしづみしが、せめて兼て信心せし觀音薩陀さつた佛力ぶつりきにて此愁ひをまぬがれんと、只今立出しといへるに、扨々氣の毒なるなりと、其衣類の樣子等委敷尋問くはしくたづねとひて、小間物屋は我宿に歸しに、片脇に棹に懸けて干有ほしありし羽織を見れば、木藥屋が咄したる羽織に違ひなければ、是はたれが羽織なれば鄽に干置ほしおくやと尋ければ、伴頭成ばんとうなる者出て、それは昨日外へ出て雨に濡れ候故干しおきとて、棹をはづし片付していを見れば、大嶋おほしまの單物を着しをりたる故いよいよ怪みしが、其日女房は里へ用事ありて參りけるとて支度して牡丹餅ぼたもちぢゆうに入れ、是は好物故今朝けさ拵へたれば、たまへとて夫へ差出しければ、是社疑敷これこそうたがはしきなりと今は不好このまざる由をいへば、伴頭なる男もすすめける樣子彌々難心得いよいよここえがたく、留守の淋しきに至り後程給のちほどたべなんとて女房は里へ遣しぬ。さて近きに住居すみける兄弟を呼寄せ、まづかくの次第なり、定て女房と伴頭かねて密通しての仕業ならんと相談して、伴頭を呼て其方そのはう事、心におぼえ有べし、汝が不屆の仕末おほやけうつたへなば重き刑にもおこなはれんが、町人の事なれば右ていの事好むべきにもあらず、いとまを遣すあひだ早々其身の儘にて立去たちさるべし、かさねて町内へも立入らば其分そのぶんになしがたしと怒りければ、何故のとがにやとはじめはいなみしが、左あらば今朝我等に女房とも一同すすめし此牡丹餅を目前にてすべしとせめければ、伴頭も色靑くなりて一言の返答におよばず、すごすごとして立出たちいでければ、女房へは去狀さりじやうしたため、右重箱を持せて弟なる者、直々じきじき里へ罷越まかりこし女房へ離別狀を渡し、右離別狀に不審ありていなむ心あらば、此ぢゆうの内をし候て立歸り給へ、左もなくば離別狀を取收とりをさめよとの事也といひければ、彼女も赤面して離別狀を受取、事なく濟しと也。まこと町家の取計には左も有べき事にて、觀音の利益りやく、知音の信切しんせつ、面白事ゆへ爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:相学の超現実的予言から観音利益による超常的真相露見で連関するとも言えようが、寧ろ私は、偶然の一致の瓢箪から駒、とどちらも意地悪く皮肉りたくなる話柄である。かくも私が酷評を下すのは、御一緒にここまで私と「耳嚢」を読んで来られた方は触りの一読でお分かりになったように、これは「巻之三 深切の祈誓其しるしある事」と全くと言ってよい程の同話であって、千話のキリを誇る「耳嚢」の甚だしい瑕疵と私には映るからである。
・登場人物の設定
 前話では薬種屋主人と未遂ながら被害者である夫はその日初めて逢っているが本話では以前からの知己である。
・話者の変換
 前話は前半のシークエンスの主体が薬種屋主人で後半で害者の夫に転換する二部構成が際立っているのに対して、こちらはほぼ一貫して害者夫の一人称映像に近い。
・犯行の着手
 犯行に用いられた薬物を購入するのは前者は主犯と思しい妻であるのに対し、こちらは間男の番頭。
・クライマックスのシチュエーションの相違
 夫による真相部での対決相手が前話では単独犯――但し、男は間違いなく居そう――の妻のみであるのに対して、こちらはその間男である番頭が新たに登場し、彼が主に糾問されるという捻りを加えてある。
といった細部の変化はあるとしても、だ!……
「……誰がどう読んだって、これは焼き直しで、げしょウ! 根岸の檀那! なんでそれに旦那はお気づきになられなかったんで、ごぜえやすか? ちょいと、あっしは残念でなんねえスよ!……」
・「薩陀」「薩埵さった」に同じい。「菩提薩埵」の略。菩薩。
・「伴頭」底本には『(番頭)』と傍注する。
・「是社疑敷これこそうたがはしきなり」のうち、「是社これこそ」は底本のルビ。「社」は国訓で、確術の度合いを深める係助詞の「こそ」を当てる。
・「誠町家の取計には左も有べき事にて、觀音の利益、知音の信切、面白事ゆへ爰に記しぬ。」前話にはない、根岸の好意的感想である。ここには公事方勘定奉行としてウンザリする刑事・民事訴訟を扱ってきた根岸の本音がポロリという感じである。法の番人として、この殺人未遂の共犯二人の逃走を見逃すというのは、当時としても許されるべきことではないように思われる。二人は当時、訴えられれば確実にともに死罪と考えてよい。現刑法下でも主犯と思われる妻は殺人未遂罪が成立し、番頭は犯行のための薬物の入手及び薬物摂取の際の積極的な助勢・慫慂を行っている点で共同正犯であり、夫からの刑軽減の嘆願書でも出ない限り、実刑は免れない。
・なお、「砒霜」「斑猫」の注は「巻之三 深切の祈誓其しるしある事」を参照されたい。
「――私、マジ一寸、怒ってるんです、しづさん!――」

■やぶちゃん現代語訳

 奸婦がその悪を遂げ得なかった事

 浅草蔵前辺の小間物屋を商うておるとか申す男、これ、毎日欠かさず浅草の観音へ参詣、これがまた実に長い歳月に亙る習慣でも御座った。
 また、下谷辺の生薬屋きぐすりやあるじにて、同じく観音を信仰して、永年、日々足を運んでおる者があ御座った。  相いみ互い、日々参詣のことなれば、或いは道連れとなり、また、文字通り、「日参茶屋」と申す浅草寺近くの水茶屋にて落ちうては、四方山話に暮れるうち、後々にては頗る仲のよい知音ちいんとも言える仲に相いなって御座った。
   ――――――
 そんなある日のこと、かの小間物屋が何時も通り、観音に参詣致し、その帰るさになりても、今日は一向、かの生薬屋に逢わなんだ。
 こんなことは今までにない、初めてのことに御座ったれば、
「……何ぞあったものか……一つ、訪ねてみることと致そう。」
と、下谷の方へ向かって歩くうち、向こうよりくだんの生薬屋が、これ、参った。
「……如何なる訳のあって、今日はかくも遅くなられた?……心配になって、ここまで参ったところじゃった……」
と申したが、見ると、かの生薬屋、殊の外顔色もしく、何ぞ、ふこう愁いに沈んでおる気色けしきにて黙って御座ったが、暫く致いて、その重い口を開いた。
「……いや……甚だ難儀なことの御座って、今日はかくも遅くなり申した……」
と申す故、小間物屋の主は、
「……そは、また如何なることにて……」
と訊ねたところ、
「……我ら、商売柄、砒霜ひそう斑猫はんみょうといった毒薬の類いもあつこうて御座るが……具体に申せば――それらを求めんとして来たる者のあっても、容易には、これ売り申さぬ。外科の施術その他諸々の顔料・薬物などへの調合調剤等、その用いる目的をしっかりと確認致いて――売主たる我らと買主たる人物を明らかに致いた証文をも取り交わした上で――商い致して御座る。……然るに……昨日きのう――確か、雨の降って御座った時分のこと……一人の男――後で糺しましたとこでは、格子の縞の羽織を着、大島つむぎ単衣ひとえを着て御座ったと申す――が、かの砒霜を求め参ったを、我ら留守にて、店におった者が、これ、うっかり……証文も取らず、その身分・住まいはおろか、何に用いんとするかをも聞かずに売ってしもうた、と申すので御座る。……出先より帰った遙か後になってからこれを聞かされた我ら、大いに驚き、とにもかくにも、その買い手が誰であるかを調べんと致いたので御座るが……これ、店の者は誰も見知り顔の者にては御座らず、これといった面相風体ふうていの特徴もなければ、どこの御仁なるやも皆目分からず……さすれば……つい、悪うも考えて……もしや……誰かに、その薬がこっそりと盛られて……害をなすようなことに……これ、なりはすまいか、と思う悲しさに……昨夜より食事も喉を通らず、愁いに沈んで御座る……せめて、兼ねてより信心致いておりまする観音薩埵さったさまの法力にて……この愁いを免れんものと……只今、ようやっと家を這いずるように出でて参ったところで御座いまする……」
と申すによって、
「……さてさて、それはまた……気の毒なことじゃ。……」
と、何ぞの手助けにもならんかと、買い手の着衣の様など、改めて委細聴き訊ねて、生薬屋は浅草の観音へ、小間物屋は我が家へと帰って御座った。
   ――――――
 さて、その小間物屋、自分の店へと戻ってみると、店の入り口のすぐ脇のいたところに、棹に掛けて干してある羽織を見かけて御座った。
 そうして、その柄を、ようく、見れば――「格子縞」……ついさっき、生薬屋が話して御座った羽織に……これ、相違御座ない。されば、入り口にて、
「……おい……これは誰の羽織なれば、ここな、店の脇に干し置いとるんじゃ?」
と訊ねたところが、
「相い済みませぬ!」
と番頭が小走りに走り出で来て、
「……相い済みません。昨日きのう、所用にて外回りを致しました折り、雨に降られ、濡れました故、不調法にも、風通しの良き、店脇に干しておりまして御座います。……」
と、急いで棹を外し、片付けておる、その番頭の、着ておる――単衣ひとえは――これ、ついさっき、生薬屋が話して御座った――大島紬……これ、相違御座ない。……あるじの疑いは、これ、深まるばかり……
   ――――――
 さてもその日、女房は里方へ用事あって参ります、と申して御座ったのだが、丁度、その時、出かける支度もし終えたところで御座った。
 すると女房、牡丹餅をお重に入れたを、
「……これは、お前さんの好物の牡丹餅……今朝、拵えたものなれば……出来たてを、今、どうぞ、お食べなさいませ。……」
と、差し出だいた。
 主は、
『……これこそ――まさに疑わしきこと、だ、ら、け、じゃ!……』
と思い、
「……今は、食べとう――ない……」
と素気なく答えたところ、
「――そう仰らずに。……お作りになられるところ拝見致しましたが、これ、まっこと、旨そうな、牡丹餅にて御座いました。……」
と何時の間にか――側に侍って御座った例の番頭までもが――これ、頻りに勧める……
『――!……これは……いよいよ以って、妖しき上にも怪しきことじゃわッ!……』
と思うにつけ、
「……そうサ、後ほど……留守の間、お前が居らぬ淋しさを紛らかすために……食べることと。致そう……」
と紛らかいて、ともかくも女房を里へと発たせて御座った。
   ――――――
 すると、主、すぐに近所に住んでおる兄弟を呼び寄せ、
「……かくかくしかじか……っとまあ、先ず、このような次第じゃ。――間違いなく、女房とその番頭は、兼ねてより密通致いており、これもそのついの所行に間違いない。」
と相談致いた上、一同の前に番頭を呼び据え、
「……お前さん……身に覚えがあろうのぅ……お前の不届きなる、この仕儀……おおやけへ訴え出るとならば……これ、重き刑に処せられようが……我ら町人同士なれば、そうしたおぞましくも無惨なる表沙汰には……これ、しとうは――ない。――いとまを遣わすによって――早々に――着のみ着の儘――立ち去れぃ。――向後、一度でも浅草蔵前一円の町内に立ち入ったならば――お前のみいは――ただにては――済まぬと――心得るがよいッ!」
と怒気を含んでしっしたところ、当初、番頭は、
「……い、一体、……何のとがを以って、そのような御無体なことを申されますか……」
と、あくまでしらを切て御座った。そこで主は、
「……そうかイ!……そんなら……今朝、お前が女房と一緒になって、頻りに我らに勧めた……ほうれ! この牡丹餅じゃ!――この牡丹餅を――一つ、このめえの前で――食べて見せて――呉りょう!……」
と責め立てたところが、流石の千両役者の番頭も、みるみる顔色が真っ青になって、一言の返答にも及ばず、文字通りの着のみ着の儘、執る物も取り敢えず、転げまろぶ如くに店から逃げ出して御座った。
   ――――――
 そこで主、今度は、女房へ、三行半みくだりはんしたため、かの牡丹餅の入った重箱とともに、自分の弟なるものに、その場で直接、女房の里へと持って行かせ、その三行半を妻に手渡させた。しかしてその弟に、
「――この三行半に不審あって受け取るを拒絶致す心ならば――ともに持参致いたる、この重の内なるものを食うて立ち帰り、己れに不義なきを訴えらるるがよい!――もし、それが出来ぬとなれば――この三行半、取り収むるに、若かず!」
と口上を切らせたところ、女は、その場に赤面致いて離縁状を受け取り、しかして一事が万事、誰にも何事もう、済んで御座ったと申す。

 誠に、町方の取り計らいは、出来得れば、かくあって欲しいものにて御座る。……いや、観音の利益りやく・知音の親切、本話は何もかも、これ、面白きことにて御座れば、ここに記しおくことと致す。



 戲歌にて狸妖を退し由の事

 京都にて隱逸を事とせる縫庵といへる者、隱宅の庭に狸ならん折々腹鼓はらつづみなどうつ音しければ、縫庵琴を引寄ひきよせて右鼓に合せて彈じける、一首のざれ歌をよめる、
  やよやたぬまし鼓うて琴ひかん我琴ひかばまし鼓うて
其程近きにすめる加茂の社司しやしに信賴といへるありしが、
  ほうしよくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん
かく詠吟なしければ、其後は狸の鼓うつ事止みけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。妖狸譚を絡ませた和歌技芸譚。狸は人を驚かすことを目的として奇態なおとの腹鼓を打つ。ところが、かくも人がそれを良きと喜んで、逆に催促されてしまえば、狸公、これ、腹鼓を打つ気も失せる、というオチである。面白い掌品である。
・「やよやたぬまし鼓うて琴ひかん我琴ひかばまし鼓うて」分かり易く書き直すと、
 やよや狸汝たぬまし鼓打て琴弾かん我われ琴弾かばまし鼓打て
で、「やよや」は感動詞で、対人の呼びかけを意味する感動詞「やよ」(囃子はやしの掛け声「やれ!」の意とも本歌では重複する)の強調形、「まし」は同等かそれ以下の対人・対称に対して言う二人称で、「いまし」「みまし」などとも言い、古語の中でもかなり古い形である。
――♪ヤンヤレヤ♪ やあ! たぬ公! お前は鼓打て! 我れら、琴弾こう! 我れら琴弾かば、お前は鼓打て! ♪ヤンヤレヤ♪――
・「加茂」上賀茂・下賀茂神社。なお、後注を参照のこと。
・「社司」神主。
・「ほうしよくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん」一見、初句の意味が不明であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、
 拍子よくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん
とあって意味が分かる。「拍子」は歴史的仮名遣では一般には「ひやうし」であるが、それ以外に「はうし」(発音は「ほうし」となる)とも表記する。更に分かり易く書き直すと、  拍子良くたぬ鼓打て海神わたつみおきな琴弾け我笛吹かん
となる。「海神の翁」とは海老えびのこと。それを「海の老人」「海の翁」(古歌に用例あり)更に「海」を「わたつみ」と風雅に言い換えたもので、ここでは隠棲の縫庵翁を福神エビスに譬えて言祝いだものであろう(後文参照)。
――♪ヤンヤレヤ♪ たぬ公! お前は拍子良く! 鼓を打てや! 海神わたつみおきなは、やれ! 琴弾け! 我、笛吹かん! ♪ヤンヤレヤ♪――
ここでこの歌を詠んだのは賀茂神社の神主となっているが、ウィキの「事代主」(「ことしろぬし」と読む)によれば、全国の鴨(賀茂・加茂など)と名の付く神社の名前の由来は、この事代主を祀る鴨都波神社(奈良県御所市)にルーツがあるとされ、更に同解説に事代主『託宣神のほか、国譲り神話において釣りをしていたことから釣り好きとされ、海と関係の深いえびすと同一視され、海の神、商業の神としても信仰されている。七福神の中のえびすが大鯛を小脇に抱え釣竿を持っているのは、国譲り神話におけるこのエピソードによるものである』とあり、そうした意味での連関が、この歌には隠されているようにも見える。

■やぶちゃん現代語訳

 戯れ歌で狸妖を退けたという話の事

 京都にて隠逸をこととする縫庵とか申す者、その隠棲致いておるいおりの庭に、どうも狸の仕業ならんか、折り折り、奇態なる腹鼓はらつづみなんどを打てるおとの致いたれば、縫庵、ある夜、琴を引き寄せて、またぞろ聴こえて参った腹鼓に合わせて弾じつつ、一首の歌を詠んだ。
  やよやたぬまし鼓うて琴ひかん我琴ひかばまし鼓うて
――それにまた――近所に住まう加茂神社の神主に信賴といか申す者が御座ったが――彼が応じ、
  ほうしよくたぬ鼓うてわたつみのおきな琴ひけ我笛ふかん
と詠吟致いたところが、その後は狸が腹鼓を打つこと、これ、止んだ、とのことにて御座る。



 壯年の血氣に可笑しき事もある事

 予が同寮どうりやう其の側にて召仕めしつかひたる若者、申合まうしあはせて錢湯へ至りて風呂へ入、あがり湯を取りて手足を洗ひ居しが、隣は女湯にて上の方は羽目にて境ひせしが、下は格子也しが、右女湯へ入りし女子をなご、隣より見へん事はしらず、陰門をかの格子の方へむけて微細みさいに洗濯するを風與ふと見付て、壯年の勢ひ男根突起して中々忍び難く、さながら人の見んも恥かしく、早々風呂の内へ飛入て暫くして立出たちいでみれば、やはり最初の通り故、見まじと思へ共いよいよ男根踊起をどりおきる故、詮方なく又々風呂の内へ入りしが、餘りに長く風呂に有し故、湯氣ゆきにあがり暫く忘然ばうぜんとして氣絶もなさん樣子故、つれ傍輩はうばい兎角して介抱なし漸々やうやうともなひ歸りし。老來我黨浦山らうらいのわがたううらやましき元氣也と一笑しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。「耳嚢」では比較的珍しい下ネタである。湯屋ゆうや艶笑譚であるが、一つ気づくことは、当時の男湯と女湯の仕切の造作はそれぞれの湯屋によって相当に異なっていたことが窺える。そうでなければ、かくその構造を巨細に描く必要はないからである。なお、現代語訳では、主話のコーダに私の山椒を利かせておいた。
・「同寮」底本には右に『(同僚)』と傍注する。
・「銭湯」銭湯ではまず、江戸前期の男女混浴の事実を挙げねばなるまい。ウィキの「銭湯」の相当箇所には以下のようにある。『男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した』ため、寛政三(一七九一)年に男女入込いれこみ禁止令『や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた』とある。また、風呂の世界史から日本史まで絵図も添えて書かれた優れた「風呂の話」(個人HP「シルバー回顧録」内)では、この辺りからの記述が詳細を極めてまことに面白いので引用させて頂くと(アラビア数字を漢数字に代えた)、『ざくろ口のために浴室内は湯気がもうもうと立ちこめ、窓が無いので暗く、男女が混浴のために現代風にいえば痴漢・痴女が横行し、商売女がなじみ客と顔を会わせると人目もはばからず風紀を乱すこともありました。そこで風呂屋の営業日を男女別に定めて、今日は男性専用日に、翌日は女性専用日にすることにしましたが、この制度はやがて崩れてしまい、元の「男女混浴の入れ込み風呂」になりました』。寛政の混浴禁止令以降も『男女混浴(入れ込み)は何度も禁止されましたが、必ずしも守られずに継続し、天保一三年(一八四二年)には、幕府が 一つしかない浴槽に仕切りを作り、男湯、女湯の分離を設けさせましたが、仕切りは表面に近い部分だけで底の方は共通していたので、潜水して隣の浴槽に移る不心得者がいたそうです』。『日本では昔から男女混浴についてはおおらかであり明治になってからも何度も混浴禁止令が出されましたが、実際に都市部の公衆浴場での男女混浴が減少したのは、明治二三年(一八九〇年)からで、七歳以上の男女の混浴は禁止という内務省令が出されて以降のことで』、『これでも長年の混浴習慣はなかなか変えられずにいたので、明治三三年(一九〇〇年)にも混浴禁止令が出されましたが、昭和三四年(一九五九年)に私が北海道を旅行した当時は、脱衣所は別でも中では混浴の温泉風呂が数多くありました。その習慣は現在も各地のひなびた温泉宿に残り、混浴風呂があります』と美事に銭湯考現学が語られてある。以下、銭湯のアカデミックな歴史について平凡社「世界大百科事典」より、晴山一穂の記載の相当箇所を一部表記を改変して引用する(それにしても何故、この記述は男女混浴の事実を語っていないのであろう。これがアカデミズムというものなのであろうか?)
   《引用開始》
銭湯には蒸気浴と温湯浴の二種類があり、古くは前者が風呂屋で、後者が湯屋とはっきり区別されていた。室町末の上杉家本《洛中洛外図》には風呂屋が描かれている。土塀に囲まれた板屋根の粗末な建物で、入った左手が脱衣場、右手が洗い場らしく、垢(あか)取女が客の背中を流している。奥には、板で囲い出入口に垂壁(たれかべ)のついた蒸気室のようなものが描かれている。この形式の風呂屋は江戸初期まで盛んだったらしく、慶長~寛永(一五九六-一六四四)ころの風俗画にはしばしば描かれている。外観については特別に銭湯らしい装置というものもなかったようで、大衆向けの風呂屋はごく粗末な板屋根の小屋のようなものである。ぜいたくな風呂屋では蒸気室の入口に唐破風(からはふ)をつけたり、洗い場を広くとり、休憩室を設けたりしているが、外観は一般の町屋と変りはない。蒸気室の出入口を引戸に改良したのが戸棚風呂であるが、これが湯屋にとり入れられるようになった。すなわち、引戸の中の小室に湯槽を据えて、膝ぐらいまで湯を入れ、湯と蒸気により熱効率をよくしようとするもので、〈風呂六分湯四分〉といわれる。このあたりで風呂屋と湯屋の区別があいまいになった。これがさらに改良されたのが柘榴口(ざくろぐち)である。柘榴口は出入口の引戸をまた垂壁式に変え、湯槽の湯を深くしたもので、〈風呂四分湯六分〉といわれる。柘榴口の場合も唐破風がつけられたが、なかには垂壁の部分に牡丹(ぼたん)と唐獅子などの極彩色浮彫をつけたものもあった。こうした形式になるのは幕末ころと思われるが、このころには外観も二階建てで、男湯、女湯と分かれた湯屋らしい特徴のある建物となり、二階は男湯の休み場となっていた。柘榴口は、内部が狭くて暗く、不衛生であったため、明治に入ると禁止されるようになり、ほぼ明治三十年(一八九七)ころにはなくなった。柘榴口が撤去されたかわりに出てきたのがペンキによる風景などの壁画で、一九一二年が最初という。[やぶちゃん注:中略。]
[江戸の銭湯]近世初期、江戸では丹前(たんぜん)風呂の名が喧伝され、〈丹前風〉と呼ぶ風俗を生み出した。この銭湯は、現在の神田須田町付近、堀丹後守の邸前にあった何軒かの湯女(ゆな)風呂で、丹後殿前を略して〈丹前〉と呼んだ容色のすぐれた湯女をかかえて、浴客の垢をかき、髪を洗い、酒席にはべるなどさせて人気を集め、一六二九年(寛永六)吉原の夜間営業が禁止されたこともあって繁昌した。とくに、津の国屋の勝山という湯女が男装したことにはじまり、町奴、旗本奴などの〈かぶき者〉の間に伊達(だて)で異様な服装や動作が流行した。これがいうところの〈丹前風〉で、厚く綿を入れた広袖のどてら(丹前)や歌舞伎の六法の演技などにいまもその面影をとどめている。湯女風呂は風紀上の理由で一六五七年(明暦三)に禁止され、以後江戸の銭湯はそれぞれの町内の共同入浴施設といった性格をもつようになった。そして、狭い地域内の人々がたえず顔を合わせるところから、銭湯は町の住人たちの社交場としての役割を果たすようになった。式亭三馬の《浮世風呂》など銭湯を舞台とする小説が書かれたゆえんである。五月五日の菖蒲湯(しようぶゆ)、冬至の柚子湯(ゆずゆ)などはいまも行われているが、明治以前は盆と正月の藪入り(やぶいり)の日にはその日の売上げを三助の収入とする〈貰湯(もらいゆ)〉も行われていた。なお、これは江戸にかぎらず船の出入りの多い港ではどこでも見られたものだが、一種の移動式銭湯とでもいうべき〈江戸湯船(えどゆぶね)〉、あるいは単に 〈湯船〉と呼ぶものがあった。小舟の中に浴室を設け、停泊中の船の間を漕ぎまわり、湯銭をとって船員たちに入浴させたものである。西鶴の《日本永代蔵》にも書かれているように、それ以前にまず〈行水船〉というのがあり、それを改良して据風呂(すえふろ)を置いた〈据風呂船〉ができ、さらにそれが〈湯船〉になったものであろう、と山東京伝はいっている。[やぶちゃん注:後略。]
   《引用終了》
如何であろう? これら三つの記述の内、リアルに銭湯の歴史を正しく面白く伝えて呉れているものは非アカデミックなジャーナリスト「シルバー回顧録」氏であると、私は思うのであるが。……
・「あがり湯」風呂から上がる際に浴びたりするために湯舟の湯とは別の湯桶に入れてある湯、またはその槽。陸湯おかゆ。かかり湯。
・「忘然」底本には右に『(茫然)』と傍注する。
・「老來我黨」「老來」は年をとること、「我黨」は、ここでは話者であるところの、この若者の主人である根岸同僚の言であるから、その主人自身を示す一人称代名詞である。但し、これを記す根岸もその「黨」(同類)というニュアンスも感じられて面白い。

■やぶちゃん現代語訳

 壮年の血の気が多い者には如何にも可笑しなこともあるという事

 私の同僚の側にて、召し仕えられておる一人の若者、朋輩らが声を掛け合って銭湯へ参り、風呂へって御座った。
 さて、まずはとて、かかり湯を取って手足なんどを洗っておったところが、隣りは女湯にて、上の方は羽目板にて仕切られておったものの、下の方はと申せば、これ、申し訳程度の格子ばかり。
……ところが……
……この隣りの女湯に入って御座った女子おなご、これ、隣りより丸見えなること、丸で気づかずにおって……
……その火登ほとを……
……これ、その格子が方へ
――バッ!
……と向け……
……これまた……
……微に入り、細を極て……
……洗い濯いで……御座った――
……それが、かの若者のめえに……
……ふと……
……飛び込む――
……そこは壮年のことじゃ……
……勢い
――ニョッキ!
……と一物いちもつ突き出で……
……どうにもこれ、納まらずになって御座った――
……そのままにては、これ、人の見んも恥ずかしく、かの者、早々に
――ドンブリ!
と、風呂内へと飛び入って御座った。……
 暫く致いて、湯舟をたち出でて見るも……
……これ……やはり……
……女子おなごの様……
……最初の通りなればこそ……
……見るまいと思えども……
……いよいよ一物いちもつは、これ
――ニョッキニョキ!
……と踊り上がるていなればこそ……
……仕方のう……
……またまた、風呂内へと
――ドンブリ!
る…………
……そのまま……
……納まりのつかざるままに……
……ずーっと……
……ずーーうっと……
……まんじりともせず、風呂に身を沈めて御座った……
……あまりになごう風呂につこうておった故、湯気ゆうきに当たって、これ、朦朧と致いて御座って、今にも気絶致さんまでに相い成って御座った。
 されば、ここでやっと、連れの朋輩らも若者の様子のおかしきことに気づき、湯槽ゆおけより引き揚げて――水を掛けるやら、呑ませるやら――手拭で煽るやら、平手打ちを致すやら――と、あれこれ介抱致いて、ようよう、連れ帰って御座って御座った。……
……話によれば……その介抱の最中さなかにても……かの若者の一物……これ……荘厳に……そそり立って御座った……とか……

「――いや! 全く以って――老いの我が身には――これ――羨ましき――血気で御座るわい!……」
と、我が同僚の一言に、我らも一笑致いて御座った。



 守護の歌の事

 加茂の長明、禁理きんりへ守護を奉りける時、守護はいかなるわけにて其奇特きどくありやと御尋ありし時、
  守りせは己もしらじおやまだに弓もてたてるかゝし也けり

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。二つ前の「戲歌にて狸妖を退し由の事」と滑稽和歌技芸譚で直連関し、同話のに登場する神主である賀茂神社でも繋がる。にしても都市伝説(噂話)が多い中、珍しい六〇〇年前の鎌裏時代の話柄である。
・「守護」神社のお守り・護符・守り札のこと。
・「鴨長明」(久寿二(一一五五)年~建保四(一二一六)年)は賀茂御祖神社(下賀茂神社)の神事を統率する鴨長継の次男として京都で生まれたが、望んでいた同神社内にある河合社(ただすのやしろ)の禰宜につくことが叶わず、神職としての出世の道を閉ざされたため、後に出家して蓮胤とを名乗った(出家遁世の動機は琵琶の師の亡くなった後、禁曲を演奏したことが告発されたためとも言われる)。位階は従五位下(以上はウィキの「鴨長明」による)。
・「禁理」底本には右に『(禁裏)』と傍注する。
・「奇特」神仏の持っている超自然の霊力。霊験。この意の場合は「きどく」と読んで「きとく」(優れている、珍しいの意)とは読まないのが通例。
・「守りせは己もしらじおやまだに弓もてたてるかゝし也けり」分かり易く書き直すと、
  守りせばおのれも知らじ小山田に弓て立てる案山子かかしなりけり
で、「己も知らじ」は掛詞で、護符が何から守ってくれるかは私もよう分からぬの意と、山田の案山子は何を自分が守っているかは分からぬの意を掛ける。
……何を守るかとおしゃるか? これは、我らも存ぜぬ――それは――丁度、山田の只中に弓矢を持って立つ案山子そのものであったのじゃったのぅ――何を守るかは存ぜぬ故にこそ――何もかも堅固に守って御座るのじゃ……
これは長明より百年後代の鎌倉後期の臨済僧、仏国禅師高峰顕日こうほうけんにち(仁治二(一二四一)年- 正和五(一三一六)年)の以下の歌によく似ている。
  心ありてるとなけれど小山田にいたずらならぬ案山子なりけり
この歌は恐らく、
――心があって守るという訳ではない――その山田の只中の案山子でも――その威厳を以て鳥獣を去らせる――これは無為に見えながら妙法を致いておる――心の面に現わるることなくして――無念無想の境地に案山子は――「在る」のであったのぅ――
といった公案みたようなものであろう。長明に本歌の記録がなければ、本話柄はこの仏国禅師の和歌に基づく後の創作と思われる(長明の和歌を精査したわけではないので確かなことは言えない)。高峰顕日は後嵯峨天皇第二皇子。康元元(一二五六)年に出家後、兀庵普寧ごったんふねい・無学祖元に師事、下野国那須雲巌寺開山。南浦紹明とともに天下の二甘露門と称され、幕府執権北条貞時・高時父子の帰依を受けて鎌倉の万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺住持を歴任、門下に夢窓疎石などの俊才を輩出、関東における禅林の主流を形成した(以上の事蹟はウィキの「高峰顕日」に拠った)。
 なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
  守りとはおのれも知らじ山田に弓もて立てる案山子也かがしなりけり
の形で載る。

■やぶちゃん現代語訳

 守り札の歌の事

 鴨長明が宮中へ御守護の札を奉った際、
「『守護』とは如何な意味にておじゃる?――何から守り――何の奇特きどくがあると――申すのじゃ?」
とお尋ねがあった。それに長明が応えた歌、
  守りせは己もしらじおやまだに弓もてたてるかゝし也けり



 太田持資童歌の事

 太田持資もちすけの十三歳なる時、初陣に武州小机の城を攻めし時詠める由。
 小机はまづ手習の初めにていろはにほへとちりぢりにせん
□やぶちゃん注 ○前項連関:滑稽の和歌技芸譚。滑稽と言っても、この場合、殺戮の予感を交えるから、「童歌」(童子の戯れ唄の謂いであるが、後注するように主人公太田道灌の史実には反する)と言っても「マザー・グース」のようなブラック・ユーモアである。
・「太田持資」太田道灌(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)のこと(元服後は資長を名乗ったが、その初名は持資であったとも言われる)。以下の文明一〇(一四七八)年の小机攻めの時は数え四十七歳で、勿論、これは初陣なんどではなく、この歌も自軍の兵士達を鼓舞するための戯れ歌である。なお、彼の初陣はよく分からないが、「十三歳」直近ならば、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発する永享一〇(一四三八)年に起った永享の乱がある。但し、この時、道灌は未だ数え七歳である。訳では名武将にして名歌人であった道灌の伝説としてそのまま訳した。
・「武州小机の城を攻めし時」「小机の城」は武蔵国橘樹郡小机郷(現在の神奈川県横浜市港北区小机町)にあった上部の平坦な低い山城。山内上杉家家宰長尾景春が父の死後に家宰職を相続出来なかったことを遺恨として主家へ反乱を起こしたが、この際、景春の味方をした豊嶋氏がこの小机城に立て籠ったため、太田道灌がこの城を攻撃した。以下、参照したウィキの「小机城」に以下のようにある(アラビア数字を漢数字に代えた)。『この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞した。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約二ヶ月をかけて落城させたとされる。道灌が歌を詠んだ松は、以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存(羽沢町)する』。
・「小机はまづ手習の初めにていろはにほへとちりぢりにせん」書き直すと、
  小机は先づ手習てならひの初めにて「いろはにほへとちり」りにせん
で、恐らく、この山の形状からついた「小机」城を、実際の(たかが)小机に掛けて、更に「小机」「手習(の初め)」「いろはにほへとちり」という縁語を配し、引き出した「いろは歌」の途中の「ちり」の部分を、敵を散々に殲滅するの意の「散り散りにす」に掛けた。 ――小机と言うたら――我らが幼き日、初手の手習いを致いたちっぽけな机じゃ――そのいっとう最初の文句は――ほうれ、「いろはにほへと ちり」……「ちりぢり」……散りり! きゃつら! 散り散りにして呉れるわ!

■やぶちゃん現代語訳

 太田持資童歌の事

 太田持資もちすけの、十三歳の折りの、初陣に武州小机の城を攻めた際、詠んだ和歌の由。
  小机はまづ手習の初めにていろはにほへとちりぢりにせん



 太田持資始て上京の時詠歌の事

 持資上京せし時、歌道を好む由雲卿よしうんぎやうの好み給ひしに、關東の田舍にすまひて堂上たうしやうなどの可掛御目おめにかくべき歌などあるべくもなし、田舍にてよみし歌也とて奉りければ、
  武藏のの折べは草は多けれど露すぼこくて折られないもさ
皆々どよみ笑ひける時、一首かくもよみ侍るとて奉りぬ。
  露をかぬかたもありけり夕立の空よりひろきむさしのゝ原
一同感心ありしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:太田道灌和歌技芸譚二連発。
・「雲卿」月卿雲客のこと。公卿や殿上人。「月卿」は中国では天子を日に臣下を月に擬えて大臣を言う語であるが、本邦では公卿(「公」は太政大臣・内大臣・左大臣・右大臣を指し、「卿」は大納言・中納言・参議及び三位以上の朝官と四位の参議を指す)、「雲客」は殿上人(雲上人)。
・「武藏のの折べは草は多けれど露すぼこくて折られないもさ」分かり易く書き直すと、
  武藏野のるべは草は多けれど露すぼこくて折られないも
岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に載るものの方が分かり易い(ルビ「おる」は「をる」に代えた)。
  武蔵野のをるべい草は多けれど露すぼこくて折られないもさ
この歌は関東方言に似せて詠まれたもので、「折るべは草」「折るべい草」は「折るべき草」で推量の助動詞「べし」の連体形のイ音便、「すぼこくて」は恐らく「すべつこくて」等を疑似転訛(方言っぽく似せた)したものかとも思われ「滑っこくて」(滑り易くて)の意で、「折られないも」「折られないもさ」は「折られないものさ」である(「も」には別に「万葉集」等に上代東国方言での推量の助動詞「む」に相当する用法がある)。但し、本文の「折るべは」の「は」は、「い」の書写の誤記の可能性が高いと思われる。敢えて当時の標準語表現に直すならば、
  武藏野の折るべき草は多けれど露に滑りて折られざるまじ
という感じか。原歌を敢えて雰囲気を出して訳すなら、
――武蔵野はヨ、そりゃ、広れえ広れえ、八重葎の原また原だんベ――だからヨ、折らずばなんねエ草は多いんだけんど、ヨ――そいつはヨ、露にヨ、えれえ、滑っこくって、ナ――そう簡単にゃヨ、折れねえもんサ――
となろう。
 バークレー校版の「べい」は、表記の通り、助動詞「べし」の連体形「べき」のイ音便であるが、厳密には関東に限らず、平安時代の会話文等には普通に使用された形であるが、中世以降、東国で文末終止の用法が次第に多くなった結果、「べいべい言葉」等と呼称されて、東国方言を特徴づける一要素となった。近世の上方の歌舞伎作品等でも専ら、関東訛の奴言葉(江戸時代、伊達男や侠客が使った言葉。「涙」を「なだ」、「冷たい」を「ひゃっこい」、「事だ」を「こんだ」という類)、田舎言葉として用いられている。「もさ」は「申さん」の変化したものとも言われ、やはり、近世関東方言を特徴づける間投助詞。文節末に配して親愛の情を込めるが、「もさ言葉」などと称して上方で関東人を蔑称する言葉、転じて広く田舎者や野暮な人間を嘲る語ともなった(以上は主に「日本国語大辞典」に拠った)。
 以上から、実はこの如何にもな関東(東国)方言(若しくはそれに似せた)の和歌は、名歌人でもあった道灌が詠んだ歌とはおよそ思われない代物であり、底本の鈴木氏の注でも、『この種の田舎ことばによって和歌を綴ることは、伊勢物語にも例があって歴史が古い』が、『都人士や文字ある階級が鄙の下﨟ならばこうもあろうかと、愚弄するためにわざと作った戯歌であろう』と切り捨てておられる。
・「露をかぬかたもありけり夕立の空よりひろきむさしのゝ原」分かり易く書き直すと、
  露置かぬ方も有りけり夕立ちの空より廣き武藏野の原
――夕立ちが降ったが――その雨露を微塵も葉末に置かぬ場所さえあるものだ――天空の夕立ちを降らせた、その空よりも広い――この天然自然の広大なる武蔵野の原野……
と言った意味であろう(詠想の割にスケールの広がらない技巧的な和歌であると私は思う)。但し、底本の鈴木氏の注には、『この歌の古い出典を見ない』とされ、「塩尻」(十三)に「太田持資入道道灌上京の時勅答のうた」として出ているのが最古のものらしいと記され、この時、この和歌を聴いた後花園天皇は『叡感あって、「むさし野は高かやのみと思ひしにかゝることばの花やさくらむ」と勅答のうた一首を下されたとある』とある(この勅詠もまた、如何にもなつまらぬ歌である)。また、岩波版の長谷川氏注には、「神代余波」(上)及び「三省録」(八)にも見える、と記されておられる。「塩尻」は尾張藩士国学者天野信景さだかげが元禄一〇(一六九七)年頃に起筆し没年(享保一八(一七三三)年)まで書き続けた随筆(長谷川氏の挙げる二随筆は「耳嚢」よりも遙か後代のもの)であるから、根岸の本巻執筆推定下限の寛政九(一七九七)年からきっちり一〇〇年以上は遡らないことになる。道灌上京の時期は私には分からないが、仮に文明年間(一四六九年~一四八六年)とするなら、「塩尻」との間はやはり凡そ一〇〇年。残念ながら、少なくとも、本話全体の史実性は疑わしいと言わざるを得まい。

■やぶちゃん現代語訳

 太田持資道灌初上洛の際の詠歌の事

 太田持資道灌が初めて上洛した際、彼が歌道を嗜むということを聴きつけた公卿や殿上人が頻りに詠歌をお促しになられたところ、
「……関東の田舎に住まい致いておりまする野鄙の輩にて御座いますれば、堂上とうしょうの御方々などの御目に掛くる如き歌など、これ、あるびょうも御座らぬ。……なれど、強いてとの仰せなればこそ……」
とて、
  武蔵のの折べは草は多けれど露すぼこくて折られないもさ
と高らかに詠じた。
 これを聴いた場の公卿・殿上人、これ、こぞって、その文字通り野鄙なる歌柄に、声高く笑ひ合った。
 すると、道灌は臆することなく、
「……今、一首、こうも詠んで御座る。」
と、今一首を詠じ奉った。
  露をかぬかたもありけり夕立の空よりひろきむさしのゝ原
 一転、場が静まり返った。
……そうして次に
――ホウ!
と、場にあった公卿・殿上人、こぞって感心致いた、と申す。



 怪病の沙汰にて果福を得し事

 寶曆の頃、神田佐柄木さえき町の裏店うらだなに、細元手ほそもとでに貸本をなして世渡りせし者ありける、不思議の幸ひを得し事ありしと也。其頃遠州氣賀けが最寄に有德うとくなる百姓ありしが、田地も六十石餘所持して男女の僕も不少すくなからず、壹人の娘ありしが容顏又類ひなく、二八の頃も程過て所々へ聟の相談をなしけるに、年を重ねて不調ととのはざる故父母も大きになげき、格祿薄き家より成共なりとも聟を取らんと種々辛勞しんらうすれど、彼娘は轆轤首ろくろくび也といふ説近郷近村に風聞して、たれ有てうけがふ者なし。彼娘の飛頭蠻ひとうばんなる事父母もしらず、其身へ尋れどいさゝか覺なけれど、たまさかに山川を見𢌞る夢を見し事あれば、かゝる時我首の拔出けるやといひて、誰見たる者はなけれども一犬影に吠るの類ひにて、其村はさら也、近郷近村迄も此評判故聟に成る者なく、富饒ふねうの家の斷絶を父母も歎き悲しみが、伯父成る者江戸表へ年々商ひに出しが、かゝる養子は江戸をこそ尋て見んとて、或年江戸表へ出て、旅宿にて色々人にも咄し養子を心懸しに、誰あつて養子に成べきといふ者なし。旅宿の徒然に呼し貸本屋を見るに、年の頃取𢌞し等も氣に入たれば、かゝる事あり承知ならば直に同道して聟にせんとすすめければ、彼若者聞て、我等はかく貧しきくらしを成し、親族迚も貧なれば支度も出來ずといひければ、支度は我等よきに取賄とりまかなは間可參まゐるべしと進ける故、祿も相應にて娘の容儀もよく、支度もいらざるといへるには、外に譯こそ有べしと切に尋けれど、何にても外に子細なし、ただ轆轤首と人の評判なせる也との事故、轆轤首といふ者あるべき事にもあらず、縱令たとへ轆轤首也とて恐るべき事にもあらず、我等聟に成べしと言ひければ、伯父なるもの大きに悦びて、左あらば早々同道なすべしと申けれど、貧しけれども親族もあれば、一通り咄しての上挨拶なすべしとて、彼貸本屋は我家に歸りしが、いろいろ考みれば流石に若き者の事故、末々いかゞあらんと迷ひを生じ、兼て心安くせし森いせやといへる古着屋の番頭へ語りければ、それは何の了簡か有るべき、轆轤首といふ事あるべき事にもあらず、たとひ其病ありとも何か恐るゝに足らん、今わづかの貸本屋をなして生涯を送らん事のはかなきよといろいろ進ければ、かの若者も心決して彌々行んと挨拶に及ければ、彼伯父成る者大きに悦びて、衣類脇差駄荷だに其外大造たいさうに支度をなして、彼若者を伴ひけるが、養父母も殊外悦び、娘の身の上を語りて歎きける故、かゝる事有べきにあらず、由左よしさありとて我等聟に成上なるうへは何か苦しかるべきと答へける故、兩親も殊外欣びて、誠にまろふどの如くとゞろめけるよし。もとより右娘轆轤首らしき怪敷いさゝかなく、夫婦目出度榮へしかど、またも疑ひやありけん、何分江戸表へは差越さず是而已これのみに難儀する由、森伊勢屋の番頭が許へ申越まうしこしけるが、年も十とせ程過て江戸表へ下りて、今は男女の子共も出來ける故にや、江戸出をもゆるし侍る故罷越まかりこしたりと、かの森伊勢屋へも來りて昔の事をも語りしと、右番頭予が許へ來る森本翁へ咄しける。森本翁も其頃佐柄木町に住居して、右の貸本屋も覺居おぼえをりたりと物がたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。富農美形故の風評被害とも思しいが、もしかすると、この娘には睡眠時遊行症、所謂、夢遊病の傾向があったのかも知れない。しかも、それも実は根も葉もない風評から来る精神的ストレスによって後付けで起こった小児性で一過性のものであった可能性も否定出来ない。何れにせよ、仮にそうであったとしても婚姻後は治癒している模様である。なお、ウィキの「ろくろ首」には『実際に首が伸びるのではなく、「本人が首が伸びたように感じる」、あるいは「他の人がその人の首が飛んでいるような幻覚を見る」という状況であったと考えると、いくつかの疾患の可能性が考えられる』として、神経内科疾患の例が述べられており、『例えば片頭痛発作には稀に体感幻覚という症状を合併することがあるが、これは自分の体やその一部が延びたり縮んだりするように感じるもので、例として良くルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」があげられる(不思議の国のアリス症候群)。この本の初版には、片頭痛持ちでもあったキャロル自らの挿絵で、首だけが異様に伸びたアリスの姿が描かれている』とあり、また。日中に於いて場所や状況を選ばず起きる強い眠気の発作を主な症状とする脳疾患由来の睡眠障害であるナルコレプシー『に良く合併する入眠時幻覚では、患者は突然眠りに落ちると同時に鮮明な夢を見るが、このときに知人の首が浮遊しているような幻覚をみた人の例の報告がある。片頭痛発作は女性に多く、首の伸びるろくろ首の記録のほとんどが女性であることを考えると、これは片頭痛発作に伴う体感幻覚の患者だったのかもしれない。また、首の浮遊するろくろ首の例の報告はそのほとんどが睡眠中に認められていることから、通常の人が体験した入眠時幻覚であったのかもしれない』と記す。
・「寶曆」西暦一七五一年から一七六三年。執筆推定下限の寛政九(一七九七)年からは凡そ四十八年から三十四年前の話柄となる。
・「神田佐柄木町」現在の千代田区の昌平橋・万世橋の南にあった町。幕府御用御研師(おとぎし:刀剣の研磨師。)佐柄木弥太郎(駿河国有渡うど佐伯木さえきの出身で徳川家康から研師頭を命じられた二代弥太郎が江戸に移住した)の拝領町屋だったことに因む。
・「遠州氣賀」旧静岡県引佐いなさ郡(現在は浜松市)細江町内にあった村。
・「轆轤首」「飛頭蠻」も妖怪ろくろ首のことを言う漢語(但し、飛頭蛮は本来は特定の実在する異民族を指す言葉であったともされる)。ろくろ首の文化誌について語りたいところであるが、語り出せば私の場合、収拾がつかなくなる大脱線へと発展することは必定で、そもそも本件の「轆轤首」娘は全くの風評被害者であることからも、ここはよく書かれているウィキの「ろくろ首」をリンクするに留める(そこでは本話も語られ、陰惨で不幸な結末を迎える話が殆んどの轆轤首伝承の中でも稀有のハッピー・エンドの例として揚げられている)。
・「たまさか」ここは勿論、副詞で「まれに・たまに」の謂い乍ら、読者には「魂離たまさかか」のニュアンスも与えて、話のホラー性をわざと完全払拭しないようにしているように私には思われる。
・「一犬影に吠るの類ひ」は「一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」という故事成語。一匹の犬が何でもない物影に向かって吠え出すと、その声に釣られて百匹の犬が盛んに吠え出すように、一人がいい加減な事を言い出すと世間の人がそれを本当だと思い込み、尾ひれが附いて次々に言い広められてしまうことの譬え。「影」は「形」とも、「百犬」は「千犬」「万犬」とも。後漢の二世紀中頃に王符の書いた「潜夫論」に基づく。「一犬虚を吠ゆれば万犬実を伝ふ」とも言う。
・「富饒」富んで豊かなこと。また、そのさま。「ふぜう(ふじょう)」と読んでもよい。 ・「取廻」身のこなし、立ち居振舞いのことで、彼の挙措動作の如才ないさまを言っている。 ・「はかなきよ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『はかなさよ』とあり、筆者の際の誤字であろう。
・「駄荷」駄馬で運ぶ荷物。
・「大造たいさう」「大層」の当て字であるが、「大層」は歴史的仮名遣では「たいそう」となる。
・「由左よしさありとて」と一応訓じておいたが、意味が通じないので、脱落が疑われる。底本では「由」の右に『(縱)』と傍注する。これならば「たとひ」でよろしい。これで採る。
・「まろふど」漢字では「客人・賓人」と書き、「まらひと」の音変化(古くは「まろうと」)。訪ねて来た客人の謂い。彼の出現によって「轆轤首」の少女が救済される本話から見ると、後に民俗学で折口信夫が用いた、異郷から来訪する神を指す「まれびと」をも連想させて面白い。
・「とゞろめけるよし」底本には右に『(尊經閣本「とり卷ける由」)』とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『なしけるよし。』で、これで採る。
・「右娘轆轤首らしき怪敷いさゝかなく」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『右娘轆轤首らしき怪事いささかなく』とある。これから察するに本文は「右娘轆轤首らしき怪敷あやしき事いさゝかなく」であったと捉え、「事」を脱字として補って訳した。
・「またも疑ひやありけん」それでも、両親は聟を江戸に出すと、ろくろ首の風評を嫌ってそのまま戻って来なくなるのではないかという疑いがあったからであろうか、の意。
・「森本翁」不詳。本巻までには登場していない。

■やぶちゃん現代語訳

 怪しき病いの風評を恐れず果福を得た事

 宝暦の頃、神田佐柄木さえき町の裏店うらだなにて、細々と貸本を致いて渡世して御座った若者があったが、その者、不思議なる幸いを得たという話で御座る。……

……その頃、遠州気賀けがの近くに裕福なる百姓が暮らしており、田地も六十石余りも所持致し、男女の下僕も少なからず雇うて御座った。
 この百姓には一人娘があったが、その容貌がこれがまた、類いなき美しさにて、十六をも過ぎたによって、あちこちに入りむこの相談をなしたところが、年を重ねても一向にうまく纏まらぬ故、父母も大いに嘆き、
「……かくなる上は格式の低き家でにてもよい故、ともかくも聟をとらずばなるまい。……」
と、いろいろ算段した上、大変な苦労を致いた……が……にも拘わらず……
『……かの娘は……これ……轆轤首ろくろっくびじゃて……』
……という奇体な噂が、これ、近郷近在に秘かに流布して御座ったが故――たれ一人として聟にならんと請けがう者、これ、御座らなんだ。
 『あそこの娘は飛頭蛮じゃ』という益体やくたいもない噂があること、これ、遅まきながら知った父母は、吃驚仰天、ともかくもと娘自身を質いたところ、
「……聊かも覚えは御座いませぬ。……なれど……たまに――魂が抜け出でたような感じになって、山川を上から見廻めぐる――といった夢を、これ、見ることが御座います。……もしや……そのような折りには……わらわが首……これ……抜け出でてでも……おりますのでしょうか?……」
と、恐ろしきことを申す。
 実際には――その娘の首が抜け出て飛びゆくのを見た――なんどと申す者は、これ、誰一人として御座ない。
 しかし、『一犬影に吠ゆれば万犬吠ゆ』の類いにて、その村は申すに及ばず、近郷近在の諸村までも、この奇怪なる流言の蔓延はびこったが故、聟にならんと申し出る者、これ、やはり全く以って御座らなんだ。
 父母は、豊饒ほうじょうなる家系もこれにて断絶致さんとするを、ただただ嘆き悲しんでおるばかりで御座った。
 そんな折り、娘の伯父なる者、毎年一度は江戸表への商いに出向いて御座ったが、
「……かかる聟養子は、これ、江戸表にてこそ尋ね求むるに、若くはない――」
と思い定めて、その年、江戸へ出た序で、旅宿はたごにては、いろいろな人にも姪の入り聟の話を致し、上手く養子縁組の話にまで誘ったり致いたのだが――これ、養子もさることながら――あまりに上手過ぎる話なればこそ――やはり、たれ一人として養子になってもよいと申す者に出逢わずにおった。
 そんな江戸商いの一日いちじつ、仕事も一段落致いたによって、旅宿はたごにての退屈しのぎに何ぞ読まんと思うた彼は、宿へ貸本屋を呼んだ。
 と――その貸本屋の男――年の頃風体ふうていと申し、その挙措動作と申し――これ、大いに気に入って御座った故、
「……しかじかの訳にて、もし、承知ならばこそ、今直ぐにでも同道の上、聟に成さん心づもりじゃが?!」
と慫慂致いたところ、その若者も話を受けて、
「……我らは、この通り……貧しき暮しを致いて御座いますれば……その親族と申す者どもとて……これ、揃いも揃って貧なれば……聟入りはおろか……旅の支度さえも、これ出来申しませぬが……」
と、やや話に惹かれた風情なればこそ、
「何の! 支度なんど! これ、我らがよきに取り計ろうて存ずる故! どうじゃ? ご決心の上は、今すぐにでも参ろうぞ!」
と頻りに勧めた。ところが逆に若者はその性急さを不審にも感じ、
「……先様の御家禄も相応に御座って、その娘御むすめごの器量も良く、しかも入り婿の支度もいらざると申さるるは……これ、何ぞ、他に……訳が、御座いましょうな?……」
と、逆に、せちにその訳を伯父なる男に質いてきた。  当初は、
「……いや! これといって外に……仔細なんどは……御座ない……」
と口を濁しておったものの、流石に隠し切れずなって、
「……その……実は……益体もない話じゃが――『ろくろ首の娘』――と……まあ、その、近在にて、人の噂が立って御座ってのぅ……」
と白状致いた。すると若者は、
「ろくろ首なんどと申すものは、これ、あろうはずも御座らぬ! なればこそ、たとえ『轆轤首じゃ』と申す風聞、これ御座ろうとも、我らこと、一向に恐るること、御座らぬ。――我らが――聟になりましょうぞ!」
と請けがった故、伯父なる男は、これ、大悦びにて、
「されば!! 早々に同道致そう!!」
と申したが、若者は、
「……我ら、貧しくて御座るが、親族もあれば、まずは一通り、かくかくなればこそ、かくなったると、その者どもへも話しおかねばなりませぬ。」
と、約を違えぬことを請け合って、かの貸本屋の若者は取り敢えず我が家へと帰った。
 しかし、この貸本屋の青年――流石に未だ経験も浅い若者なればこそ――いろいろ考えるうち、
『……ここで約束致いてしまってから……行く末の我が身が如何になるやらも、これ、分からぬ……』
と思い始め、大いに迷いを抱く仕儀と相い成った。
 そこで、兼ねてより心安くして御座った、町内にある森伊勢屋と申す古着屋の、その番頭へ、この度の一件を相談致いたところ、
「それはそれは! 何の迷うことがあろうか! 轆轤首なんどと申すあやかしのおろうはずは、これ、御座ない! たとえそれが、少しばっかり首が延びると申すが如き、ただの珍奇なる――病いとも言えぬ病い――であったとしてもじゃ、これ、何ぞ、恐るるに足らんや、じゃ!……第一、お前さん……今時、こんな、しがない貸本屋をなして、一生を棒に振る……ああっ、それこそこれ、哀れじゃ!!」
と、逆に背中をど突かれるて御座った。
 かの若者も、かく言われた上は、はっきりと心を決め、直ちに旅宿はたごへと赴き、
「さても――参りましょうぞ!」
と挨拶に及べば、かの――首の天にも昇らん程に――待って御座った伯父なる男は――首の宙に翔ばんが如く――大悦び致いて、衣類・脇差・その他諸々の品々を、ご大層に買い調えて駄馬ににない附けるや、若者を遠州気賀の里へと連れ帰って御座った。
 養父母――娘の父母――も殊の外に悦び迎え、哀れなる娘の身の上を語っては嘆き悲しむ故、若者は、
「……そのようなことのあろうはずも御座いませぬ。御父上、御母上、たとえそのような――病いとも申せぬ病いのようなることの――事実として御座ったとしても――我ら、聟となること、これ、何の差し障り、これ、御座いましょうや!!」
と鮮やかに答えた。
 娘は勿論のこと、両親も殊の外悦んで、まっこと、歓待の遠来の貴人の客人――いやさ、妖怪轆轤首も惚れ込むが如き――異界の貴公子を迎えたが如く、これ、歓待致いて御座った。
 もとより、この娘には轆轤首と噂さるる如き怪しい出来事なんどは、これ、微塵も御座らず、夫婦仲も頗る良く、百姓一家も大いに栄えた。
 それでも、妻やかの両親は、聟を江戸に出すと、やはり、ろくろ首ならんとした昔の風評を、もしや思い出しては嫌ってしまい、そのまま戻って来ずなるのではなかろうか、という疑いが御座ったものか、暫く致いて、若者は、
『……何分にも如何に申したれど、江戸表へ参る儀は、これ、父母妻女の許し、これ御座無く、これのみは甚だ難儀致し候……』
と記した消息を例の森伊勢屋の番頭に送ってよこしたとかいうことで御座った。
 が、それから十年ほども過ぎた頃、今は富農の跡取りとなった――かの若者、江戸表へと下って参り、
「……今は、既に男女のこおも出来ました故に御座いましょうか、このように江戸出をも許しが出ました故、罷り越しまして御座います。……」
と、かの森伊勢屋の番頭を訪ねて、昔話に花を咲かせて御座ったという。……

……これは、その森伊勢屋番頭本人が、私の元へ参らるる森本翁へ直接、話した話、とのことで御座る。
 森本翁も、その当時は同じ佐柄木町に住まいしておられた故、
「……いや、確かに、その貸本屋の若者と申す者も、よう、覚えて御座いまする。」
と語っておられた。



 道三神脈の事

 或醫の語りけるは、道三だうさん諸國遍歷の時ある浦方を廻りしが、一人の漁家の男其血色はなはだ衰へたるある故、其家に立寄家内の者を見るに何れも血色枯衰せし故、脈をとり見るにいづれも死脈なれば、其身の脈をとりて見るに是も又死脈也。大きに驚きかく數人死脈のあるべき樣なし。浦方なれば津浪などの愁ひあらん。早々此所を立去りて山方へ成共なりとも引越すべしと、右漁夫が家内を進めて連れ退のきしが、果して其夜津浪つなみにて右浦の家々は流れうせ、多く溺死せるもありしとや。病だに知れがたきに、かゝる神脈は誠に神仙ともいふべきやと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。動物予知で、「卷之一」の「人の運不可計事」などの話柄の場合は、何か無惨ながらもしみじみと読めるのであるが、東日本大震災以降、このような人の予知手柄の話柄には私は、何か、激しい嫌悪を感じるとだけ言っておく。
・「道三」曲直瀬道三まなせどうさん(永正四(一五〇七)年~文禄三(一五九四)年)は戦国時代の医師。道三は号。諱は正盛しょうせい。父は近江佐々木氏庶流堀部親真であったが幼少の頃に両親を亡くし、永正一三(一五一六)年、五山文学の中心である京都相国寺に入って喝食かっしきとなり、詩文や書を学んだ(この頃、姓を曲直瀬とした)。享禄元(一五二八)年、関東へ下って足利学校に学び、ここで医学に興味を抱いたとされる。名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修めた。天文一五(一五四六)年に上洛すると還俗して医業に専念、将軍足利義藤(義輝)を診察し、その後も京都政界を左右した細川晴元・三好長慶・松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院けいてきいんと称する医学校を創建した。永禄九(一五六六)年、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際、これを診療しており、天正二(一五七四)年には正親町天皇を、織田信長の上洛後は、彼の診察も行って、名香蘭奢待を下賜されている。「啓迪集」「薬性能毒」「百腹図説」等の著作も数多く、数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。天正一二(一五八四)年には豊後府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察、それを契機としてキリスト教に入信して洗礼を受け、洗礼名ベルショールを授かっている(以上はウィキの「曲直瀬道三」に拠る)。なお、底本の鈴木氏の注には子の正紹(玄朔 天文九(一五四〇)年~元和八(一六二二)年)が後を継いでおり、『彼も勅命にによって道三と号し、法印にのぼった』とあり、『父子ともに教養人で一級の医家であった。ここは父子どちらともいえないが、諸国遍歴の話は仮託であろう』と唾を附けておられる。その方が、彼らの名誉のためにもよいと私は思う。
・「神脈」神懸かったような脈診。

■やぶちゃん現代語訳

 曲直瀬道三の神脈の事

 ある医師が語る。

……かの曲直瀬道三まなせどうさん殿が、若き日の諸国遍歴の折りから、ある浦辺の村へと辿り着いた。
 そこの一軒の家の前に御座った一人の漁夫、その血色、尋常でのう、甚だ衰えておるように見えたによって、道三、その男の家内いえうちに立ち寄り、医師なる由、告げた上、家内の者どもの様子を診たところが、これまた、何れもその血色土気色つちけいろとなりて、すっかり憔悴致いておる故、まずは、と脈をとって見たところが……
――これ――殆ど御座ない!……
……妻なる者の手首をとるも……
――同じように、ない!……
……若きこおたちのそれを診るも……
――これも――これも――ない!……
……じいばばのそれも……
――これもまた、微かにしか御座ない!……
――これ――孰れも――「死脈」――である――
されば道三、咄嗟に我が身の脈を、とった……
……と……
――これもまた――纔かしか御座ない!!……
 道三、大いに驚き、
「かくの如く、在りと有る人々が、偶々、死脈となることなんど、これ有り得ようはずも御座ない!!……浦近きところなればこそ、津波なんどが襲来致す懼れ、これ、有らんと存ずる! 騙されたと思うて、我らもろとも、早々にここを立ち去り、山の方へなりとも引き移るが賢明じゃ!!」
と、かの漁夫一家を頻りと説得致いて、ようよう山方へと連れ退いたところ……
――その ――果たして大津波が襲来致いて、かの浦の家々は悉く流れ失せ、多くの、溺れ死に致いた者が出たと申す。……

「……この小さな身内に潜む、めえに見えぬ病いでさえ……我ら凡庸なる医師にてははっきりと診断致すこと、これ、至難の業なるに……かくも驚くべき神懸かった脈診をなさるるとは……まっこと、医聖道三翁、これ、神仙とも言うべき存在にても御座ろうほどに……」
と語って御座った。



 奇物浪による事

 何れの浦にてや、岩の間にかいつかの折たるありしを、漁人取揚て所持せしを、道具商ふ男買求めて、桂隱し抔になさば佳ならんと、松平京兆けいてう公の許へ持參せしが、最初は泥に染て何とも分らざりしを洗磨あらひみがきて見れば、檝の束には違なきが其木品はたがやさんと見へ、年を經たる故木目の樣子、木肌の鹽梅、誠に殊勝成品也。道具屋淺黄の服紗に入、銘など書て所々持歩て高價を求ると、京兆の物語なり。

□やぶちゃん注
○前項連関:浦と浪で縁語のように浦辺の舞台で軽く連関。牽強付会なら、漂着物は漂着神であり「まれびと」であるから、二つ前の「怪病の沙汰にて果福を得し事」の「まろふど」とも繋がる……が……ビーチ・コーミングで、そう容易くは、ニライカナイの贈り物を貰えるとは……限らぬぞぇ……
・「檝の束」「檝」は「かじ」とも読み、舵の他、かい等の意をも持つ。「束」は握りの部分。つか。特に読みの決め手はないが、暫く岩波版の長谷川氏の読みに従っておく。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版での漢字表記は『※』(「※」=「檝」-「木」+「舟」)である。
・「桂隱し」柱掛け。柱に掛けて装飾とするもの。竹・板・陶器・金属等で作り、多くは書画を描く。
・「松平京兆」松平右京太夫輝高(享保一〇(一七二五)年~天明元(一七八一)年)。上野国高崎藩藩主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任、宝暦八(一七五八)年に老中。官位は周防守、佐渡守、因幡守、右京亮、最終官位は従四位下の侍従で右京大夫。安永八(一七七九)年、老中首座松平武元死去に伴い老中首座及び慣例であった勝手掛も兼ねた。「京兆」は「京兆のいん」で左京大夫・右京大夫の唐名。「卷之一」に複数回既出するニュース・ソースであるが、没年から考えると、執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春からは凡そ二十年前のやや古い話である。
・「たがやさん」「卷之四」の「産物者間違の事 又」に既出。「鐵木」「鉄刀木」と呼ばれたマメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサン Senna siamea のことと思われる。東南アジア原産で、本邦では唐木の代表的な銘木として珍重された。材質硬く、耐久性があるが加工は難。柾目として使用する際には独特の美しい木目が見られる。他にも現在、幹が鉄のように固いか、若しくは密度が高く重い樹木としてテツボク(鉄木)と和名に含むものに、最も重い木材として知られるキントラノオ目科セイロンテツボク Mesua ferrea・クスノキ科ボルネオテツボク(ウリン) Eusideroxylon zwageri・マメ科タイヘイヨウテツボク(タシロマメ)Intsia bijuga が確認出来るが(これらは総て英語版ウィキの分類項目を視認したものだが、どれも種としては縁が遠いことが分かる)、これは英名の“Ironwood”の和訳名で、新しいものであるようだ。……さて……にしても……根岸はここで、なあんにも、言ってないんだけど……「産物者間違の事 又」をも一度ようく、読んでみるとだな……本話の、これ……「たがたやさん」で、のうて……「あらめのねえ」のような、気が……あっしはしてくるんじゃ……もしや……松平さま、わざとやらかされたのでは……御座いますまいのぅ?……♪ふふふ♪……

■やぶちゃん現代語訳

 奇物の波に寄って打ち上げらるる事

 何処いずくの浜なるや、岩の間にかいつかの折れたが喰い込んであったを、漁師が見つけて引き上げ、何とのう所持致いておったを、回村して出物を物色致いておった道具屋が目を留めて買い取り、
「柱隠しなんどに致しまするならば、これ、佳品にては御座いませぬか。」
と松平京兆けいちょう輝高殿の元へ持参致いたと申す。
 京兆殿の曰く、
「……見せられた当初は、泥に汚れて、これ、何ものとも分からぬ代物で御座った故、取り敢えず、その場で洗って磨いてみたところが……確かに櫂の柄には違い御座らねど……その材質は、かの銘木タガヤサンと思われての……歳月を重ねたる木目の様子と申し、木肌の塩梅と申し、これ、いや、まことに高雅にして、とりわけ勝れた逸品にて御座った。……されば、かの道具屋、慌てて我らより取り戻いての、大事大事と浅黄の袱紗ふくさに包み入れ、銘なんどまで書いては、あっちゃこっちへ持てありき致いては、高値を払わんと申す御仁を、これ、求めて御座るらしい。……♪ふふふ♪……」
とは、京兆殿御自身の物語で御座った。……♪ふふふ♪……



 藝州引馬山妖怪の事

 藝州ひくま山の内不立入たちいらざる所あり。七尺程の五輪に地水火風空と記し、三本五郎右衞門といへる妖怪ありと語り侍傳へしを、稻生武太夫といへる剛氣の武士ありしが、兼て懇意になしける角力取すまふとりと、何か今の代に怪敷あやしき事あるべき、いでや右引馬山の魔所へ行て酒呑んと、さゝへを持て終日呑暮し歸りけるが、角力取は三日程過て子細はしらず相果ぬ。武太夫方へも朔日より十六日迄毎夜怪異有て、家僕迄も暇を取退とりのきしが、右武太夫聊か心にかけず傑然としてありしが、十六日目に妖怪も退屈やしけん、扨々氣丈成男かな、我は三ン本五郎右衞門也と言ひて、其後は怪異もなかりしが、中にもたえがたかりしは、座敷内へ糞土をまきしや、甚嗅はなはだくさく不淨なるにはこまりし由。右武太夫方に寄宿なしける小林專助といふ者、今は松平豐前守家來にてありしが、右專助より聞しと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。これは知る人ぞ知る驚天動地の妖怪絵巻「稲生物怪録」の採話であるが、聴き書きという特異性と、その内容が現在知られるストーリーとはかなり異なっている点が頗る附きで興味深い(相撲取が頓死すること・怪異の期間がほぼ半分に減じていること・絵にはし難い糞土の堪え難い臭気怪異の描写があること等々)。かく申す私も、泉鏡花が「草迷宮」の種本としたのを知って以来、多様な関連本を渉猟した「稲生物怪録」フリークである。御存じない方のために、取り敢えずはウィキの「稲生物怪録」を引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『江戸時代中期の寛延二年(西暦一七四九年)に、備後三次藩(現在の広島県三次市)藩士の稲生武太夫(幼名・平太郎)が体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語』。著者は恐らくは稲生と同世代と思われる三好藩同役である『柏生甫であり、当時十六歳であった実在の三次藩士、稲生平太郎が寛延二年七月の一ヶ月間に体験したという怪異を、そのまま筆記したと伝えられている。あらすじは、肝試しにより妖怪の怒りをかった平太郎の屋敷にさまざまな化け物が三〇日間連続出没するが、平太郎はこれをことごとく退け、最後には魔王のひとり山本五郎左衛門から勇気を称えられ木槌を与えられる、というものである。平太郎の子孫は現在も広島市に在住、前述の木槌も国前寺に実在し、「稲生物怪録」の原本も当家に伝えられているとされる。現在は、三次市教育委員会が預かり、歴史民俗資料館にて管理している。稲生武太夫の墓所は広島市中区の本照寺にある』。『その内容の奇抜さから、「稲生物怪録」は多くの高名な文人・研究者の興味を惹きつけ』、『江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花や折口信夫らが作品化している』。関連サイトも多いが、手っ取り早く絵巻の一部を見るのであれば、広島県立歴史民俗資料館HP内の「稲生物怪録と妖怪の世界-みよしの妖怪絵巻-」などがある。「たたり石」(中では岩と呼称)の画像を見られる「三好実録物語」の紹介動画「稲生物怪録」があり、また『青森県立郷土館特別展「妖怪展」関連資料「稲生物怪録」』の紹介動画では平田篤胤による文化八(一八一一)年の「稲生物怪録」を安政六(一八五九)年に今村真種が写しを入手、明治三(一八七〇)年になって友人平尾魯仙に依頼して原書の意そのままに画を書き足した明治一八(一八八五)年に完成したおどろおどろしい怪談画に洗練された(洗練され過ぎた)画像もある。なお、底本「耳嚢」の「卷之九」にはやはり「稲生物怪録」を元にした「怪棒の事」があるが、そこでは主人公を『藝州の家士、名字は忘れたり、五太夫は、文化五年八拾三歳にて江戸家鋪致勤番、至てすこやか成者』とし、怪異体験を『十五歳の時』、肝試しをする人物は『同家中に何の三左衞門』、山名も『眞定山』、妖怪の親玉の名を『石川惡四郎』と記し、末尾には『文化六年、齡七十斗にて勤番に出、直に噺けると、或人語りぬ』とある(この掉尾の叙述の年齢の齟齬はよく意味が分からない)。文化五年は一八〇八年で以下の注で見るように、実在した稲生平太郎の年齢よりも長命な上に、生年も先立つ享保十一(一七二六)年となる。これらは初期の稲生平太郎伝承の変遷を考える上で実に興味深い。またそこで考証したいと考えている。
・「藝州引馬山」「藝州ひくま山」現在の広島県三次市三次町の北端にある標高三三一メートルの比熊山ひぐまやま。頂上には中世末期の山城跡があるが、三次町「国郡志下調書出帳」によれば、これは天正一九(一五九一)年に三吉広高が比熊山の東方四キロメートルの地にあった比叡尾山城を移したものとされ、この山は当初、「日隈」の字を宛てていたものを、旧山城の名の「比叡尾」の「比」を取り、更に山容が熊の寝る姿に似るところから「隈」を「熊」に改めたとされる。近世の城郭に移行する直前の山城の形態を持った城で、俗に千畳敷と呼ばれる本丸跡や井戸・土塁・堅堀の遺構を残す。以上は、社団法人広島県観光連盟広島県観光HPの「比熊山」を参照したが、このページの解説と写真の下の方を見ると、この頂上付近にある「たたり石」(千畳敷にあり、これは本来は神様が宿る「神籠石こうごいし」と呼ばれるものが、転じて触ると祟りがあると言い伝えられた結果こう呼称される。本話で稲生武太夫と相撲取が酒を呑んだのはここであろう)への登山の際の注意書きがあるが、最後に『それから「たたり石」に触れたら麓のお店で「悪霊退散・平太郎紙太鼓」を買って帰りましょう』とあり、公的機関の記載の中のこれには、ちょいと吃驚するが、悪くない、いい感じだ。訳では実在する「比熊山」に変えた。
・「七尺」二メートル強。
・「三本五郎右衞門」これは後文で「三ン本五郎右衞門」と表記されることで分かるように「やまもと」ではなく「さんもと」と読む。これは人間界とは異なる妖怪世界の異人性を際立たせるために敢えてこうした普通でない読みをなしたものであろう。
・「稻生武太夫」三好藩藩士稲生平太郎は「物怪プロジェクト三次」の『「稲生武太夫物怪録」勉強会の部屋』の記載によれば、生年を享保二〇(一七三五)年とし、没年を享和三(一八〇三)年とする(これだと享年六十九歳。三次市法務局三次支局の庭に建つ「稲生武太夫碑」には『宝暦七年二十五歳のとき諸国武者修行に出て、宝暦十三年五月三十一歳で帰藩した』とあり、これだと生年は享保一八年で二歳増す)。これが正しいとすれば、本巻の執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春には稲生平太郎は数え六十三歳で存命していたことになる。因みに根岸の生年は元文二(一七三七)年で稲生とは同世代である。
・「兼て懇意になしける角力取」前注のデータ元その他を見ると平太郎の隣人で知己の大関格の相撲取で、名を三井権八と言い、当時三十余歳とする。一つの伝本では、江戸帰りであったこの相撲取に三次武士の軟弱をなじられたことを肝試しの動機とする。
・「さゝへ」「小筒」「竹筒」と書いて「ささえ」と読む。酒を入れる携帯用の竹筒。
・「角力取は三日程過て子細はしらず相果ぬ」私の管見した複数の伝本では彼は死なない。 ・「傑然」は、他から傑出しているさま、又は、毅然としているさま、の謂い。ここは後者。 ・「中にも絶がたかりしは」「絶」底本では右に『(堪え)』と傍注する。彼はとっかえひっかえ起こる怪異には聊かも恐懼しなかったが、この糞便を撒き散らされた際の、その臭気にだけは閉口した、と語ることで超人的な豪胆さを逆に語るのである。これは知られた「稲生物怪録」の終盤で平生から嫌いな蚯蚓みみずが多量に出現するシーンに呼応していると言えよう。
・「小林專助」不詳。
・「松平豐前守」岩波版長谷川氏注によれば、松平勝全まつだいらかつたけ(寛延三(一七五〇)年~寛政八(一七九六)年)。ウィキの「松平勝全」によれば、下総多胡藩第四代藩主で、大坂加番・江戸城馬場先門番を務めたが、寛政六(一七九四)年に病気を理由に家督を次男勝升に譲って隠居したとあり、この本文の「今は」という表現に拘るならば、本話を根岸がこれを誰かから小林専助本人が語ったものとして聴いたのは、勝全の死んだ寛政八(一七九六)年二月三日よりも前のこととなる。

■やぶちゃん現代語訳

 安芸国比熊山の妖怪の事

 安芸国比熊山の山内やまうちには決して立ち入ってはならぬ場所が御座る。
 そこには七尺ほどもある五輪塔に地水火風空と記したものがあり、そこの岩根には三本さんもと五郎左衛門と称する妖怪が巣食うておる、と語り伝えられておった。
 ここに三次みよし御家中の稲生武太夫と申す剛気の武士が御座った。かねてより懇意にしておった相撲取りと語らううち、
「今の世に怪異なんどと申すことの、あるびょうもあらず! さあ! 比熊山の魔所とやらへ行きて、酒でも呑もうぞ!」
竹筒ささえを持って登り、これ、日がな一日、酒をくろうて日暮れに帰った。
 ところが、三日ほど過ぎて、如何なる訳かは知らざれど、かの相撲取り、ぽっくり逝ってしもうた。
 武太夫の方にても――その月の明けた朔日ついたちより十六日に至るまで――ぶっ通しで――毎夜毎夜――様々なる怪異が、これ、起こり――長く彼に附き従っておった家僕さえもいとまを願い出るや脱兎の如く逃げ退いたが――かの武太夫は、と言えば――度重なる驚天動地の怪異を――これ、聊かも気に掛けることのう、終始、毅然たる態度を以って動じずに御座った。
 すると――十六日目のこと――妖怪も、懼れを知らざる武太夫を、これ、すっかり持て余してしまったものか、突如、
――ヌッ!!
と、一人の偉丈夫が座敷に現われ、
「――さてもさて――気丈なる男じゃ! 我は――三ン本五郎左衛門である!――」
と名乗って、ふっと消えた。
 そののちは怪異も絶えたと申す。
 武太夫曰く、
「……この半月の間の変化へんげうちにも、そうさ、唯一つだけ堪えがきものが御座ったが、それは……座敷うちへ糞便の混じった土でも撒いたものか……いや、あの折りの、鼻の曲がるような、曰く言い難き臭さと、その場の不浄なるさまだけは、これ、大いに困って御座ったよ……」
とのことで御座った。
 以上は、私の知れる者が、武太夫方に寄宿して御座った小林専助と申す者――今は松平豊前守勝全かつたけ殿の御家来衆にて御座る由――より聞いた、と語って呉れたもので御座る。


 あすは川龜怪の事

 越前福井の家中に、名字は何とか言し、源藏といへる剛勇不敵のおのこの者ありしが、右不敵のこころざし故國詰申付ありて福井へ至りしに、右福井にあすは川といへる有、九十九つくもとて大橋有しが、右川に大きなる龜住て人を取る事もありし由。然るに源藏或日かの九十九橋を渡りしに、誠に尋常にあらざる大龜川の端に出居いでゐたりしを、かれ人をとる龜ならん、憎き事也と刀を拔持ぬきもちて、裸に成て右河中へひたり、難なく右龜をほふり殺して、其邊の民家を雇ひて引上げ、殼は領主へ差上、肉は我宿へ持歸りて酒の肴にせんと、召仕ふ主人より附人つけびとの中間へ調味の儀申付晝寢せしが、彼中間つくづく思ひけるは、かゝる大龜なれば毒も有べき間、主人へ奉らんも如何なれば、川へ捨て其譯を申さんと、則捨すなはちすてて後主人へ語りければ、源藏大に憤りて、情なくも右中間を切殺しぬ。然るに大守より附人なれば、源藏取計ひ不埒也とて、預けになりて一室に押込られ居たりしが、かゝる剛氣の者ながら大守のとがめに恐れいりて少し心も弱りしに、源藏ふせりし枕元へ深夜に來る者有て、一首の歌をよみて、
  暮毎にとひ來しものをあすは川あすの夜波のあだに寄覧
源藏が頭を敲く者あり。其いたみたへがたければ起上るに行方なし。かゝる事二夜程なれば源藏も心得て、歌を吟ずる折から頭をはづし枕をさし出せしに、右枕は微塵にくだけける故大きに驚きけるが、右の趣大守へ聞へければ、大守聞給ひて、それは不思議なる事也、源藏が殺せしは雄龜にて、雌龜の仇をなすなるべしとて、一首の返歌を詠じ給ひ、封じてあすは川へ流し給ひければ、其後は源藏へも仇をなさゞりし由。源藏も夫より節ををり實躰じつていに歸りければ、たくめる惡事にもあらずとて、大守よりも咎ゆりて無滯勤仕とどこほりなくごんししけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:本格怪奇譚で連関。この九十九橋は柴田勝家は,信長の死後,要領の良い羽柴秀吉に北ノ庄で滅ぼされた。
・「あすは川」足羽あすわ川。福井県今立郡池田町と岐阜県県境にある冠山かんむりやまを水源として北流、福井市に入って西に向きを変え、福井市中心部を通って同市大瀬町付近で九頭竜川水系日野川に合流する。
・「越前福井の家中」福井藩三十二万石。藩主は越前松平家。越前藩とも呼ばれる。
・「九十九橋」福井県福井市の足羽川下流部に架かる北国街道の橋。戦国期以来、福井城下の足羽川に唯一架かる橋であり、北半分が木造、南半分が石造りの橋として有名であった(参照したウィキの「九十九橋」にある「ゑちぜんふくゐの橋」の絵。半石半木の構造がはっきりと描かれている)。この特異な構造については、福井の城下町に近い北側を壊し易い木造にすることで、敵の侵入をしづらくするためとする防衛説の他、石造であると橋桁数が多くなって水流を妨げるため、当時の通常時の主流域部分に相当する河川敷の北半分を加工がし易く、且つ軽いために桁数を減らせる木材で架橋した、とする土木技術面での説がある。なお、長さが八十八間(約一六〇メートル)であったことから米橋とも呼ばれた。この記述から推測するに、百間に満たないことから「九十九」(「つくも」の語源は「づぐもも」=「次百」の約とも言われる)でと命名されたものであろう(一部のネット記載の中には金沢の河川には多くの橋があることからの命名というもあるが、上記の通り、足羽川では唯一架かる橋であるから呼称としてはやや不自然であるので採らない)。なお、この橋には本話とは異なる二つの怪談が伝えられている。大魔王氏の「超魔界帝国の逆襲」の「九十九橋」などによれば、この橋は戦国時代の勇将柴田勝家が天正六(一五七八)年三月に織田信長の命により築造したものであるが、その架橋の際に勝家は石工頭の勘助という男に、石材四十八本を切り出すよう命じ、もし期限までに納付出来ない場合は死罪に処すると申し渡した。ところが勘助は四十七本までは切り出せたものの、残りの一本は寸法が短く柱に適さなかった。病いに臥せっていた勘助の母はそれを知って、「私の命は残り少ないから、用意した石棺の中に生きながらに私を入れ、その石棺を台として柱を立てれば、寸法の不足を補う事が出来よう。」と自ら人柱になると申し出、勘助は泣きながら母親の意に従ったという。この人柱は、旧橋の水際から西南二本目の柱と伝えられている。また、架橋を命じた柴田勝家は信長の死後、羽柴秀吉によって北ノ庄で滅ぼされたが、その勝家の命日に当たる旧暦四月二十四日の丑三つ時になると、柴田軍の首の無い武者たちの行列がこの橋を渡るという噂が現在もあるとし、その行列を見た者は、一年以内に高熱を発して死ぬとも伝えられているそうである。この前の人柱伝承からは「九十九」は橋脚が「一本足りず」(=「九十九」)人柱を建てた、という謂いにもとれるように思われるが、如何?
・「預け」刑罰の一つ。罪人を預けて一定期間監禁謹慎させること。預かる人によって大名預け・町預け・村預け・親類預けなどの別があった。
・「暮毎にとひ來しものをあすは川あすの夜波のあだに寄覧」分かり易く書き直してみると、   暮毎くれごとしものを足羽あすは川明日の夜波よなみのあだに寄るらむ
か。「あすは川」から男(雄亀)を殺された「明日」(翌日来)を引き出し、「夜波」は「夜」と「寄(る)」を掛け、「あだ」は「あだ」(空しい)と、夫を殺された「あだ」をも掛けるか。「らむ」は婉曲である。
――昨日まで夜毎に愛しい人が通って来てくれた……しかし、あの日の、明けた次のからはもう、寄り呉るる者とてもなくなった……ただ、あだ波だけが寄せてくる……私は……あなたにあだを討つ……
・「咎ゆりて」の「ゆり」は自動詞ラ行上二段活用の動詞「る」で、許される、の意。

■やぶちゃん現代語訳

 あすわ川の亀の怪の事

 越前福井の御家中に――名字は何とか申したが、失念致いた――源蔵と申す剛勇不敵の男が御座った。その比類なき剛毅と主家忠信が買われ、特に国詰を申し付けられて福井御城下へと召されて御座った。
 さて、当地には足羽あすわ川と申す川があり、そこに九十九橋つくもばしとて大きなる橋が掛かって御座ったが、この川には、これ、大きなる亀が巣食うており、橋を渡る人を襲ってはそれを喰らう、との専らの評判で御座った。
 ところが、ある日のこと、源蔵、この九十九橋を渡ったところ、誠に尋常ならざる大亀が、これ、川端に出でて甲羅干しをしておるのを見つけた。
 源蔵、
きゃつめが、人を喰らう亀ならん! にっくききことじゃ!」
と、刀を抜き放つや、裸になってかの川中に飛び込むと、一刀のもと、亀をほふり殺してしまった。
 そうして、近所に住む町人どもを雇い入れ、川より亀の遺骸を引き上げると、
きゃつの甲羅は殿へ差し上げ、肉は我らが屋敷に持ち帰って酒の肴に致さん。」
と言上げ致いて、立ち帰って御座った。
 屋敷に着いた源蔵は、召し使って御座った附け人の中間――彼は殿より直々に附け下された附け人で御座った――に調理の儀を申し付けると、自分は昼寝をしに奥へと入った。
 しかし乍ら、この中間、つくづく思うことには、
『……かかる年りて人馬をも喰らう妖しき大亀なれば……これ、その身に毒のあらんとも限らぬ。……そのような危うきものをご主人さまへ肴として差し上ぐるも如何なれば……川へ捨てて、かくも思慮致いた故と申し上ぐるが、よかろう。』
と、そのまま亀の肉を捨てて、昼寝より目覚めた源蔵にことの次第を語ったところが、源蔵、烈火の如く憤って、非情にも、即座に、その中間を一刀のもと、斬り殺してしまった。……
 然るに、この中間、殿直々に下された附き人で御座った故、
「――源蔵が取り計らい、これ、不埒千万!」
とて、預けと処断され、源蔵は御家中の家士が屋敷の一室に押し込めらるる仕儀と相い成った。
 源蔵も――かかる剛毅の者乍ら――流石に殿のお怒りと、そのお咎めに恐れ入って、すっかり消沈して御座った。……
 ところが、そんなある夜のことで御座った。
……源蔵が寝ておる枕元へ深夜、立ち来たる者がある。
……そうして、その者
  暮毎にとひ來しものをあすは川あすの夜波のあだに寄覧
……と、一首の歌を詠むそばから……源蔵の頭を
――ゴッ! ゴッ!
……と叩く。
……その痛みたるや、とてものことに耐え難きものなればこそ
――ガバッ!
と、起き直って見るも
……そこには……誰も……御座らぬ。……
 かかる仕儀が二晩も続いたによって、三日目の、源蔵も心得て、かの妖しき者の出来しゅったい致いて、歌を吟じ始むると同時に、枕より頭を外すと、その枕を打ち下ろして参ると思しい方へと向けたところが、枕は
――バリバリッ!
と音を立てて粉微塵に砕け散って御座った。
 流石の源蔵も吃驚仰天、文字通り、胆を冷やいて、明け方まで、まんじりともせず、起き直って御座ったと申す。……
 尋常ならざることなればこそ、翌日にも、この一件は殿のお耳へも達することと相い成ったが、殿は、
「それは不思議なことじゃ……源蔵が殺いたは雄亀にて、連れあいの雌亀が仇をなしに参ったに、これ、相違ない。」
と申され、殿ご自身、一首の返歌をお詠み遊ばされ、これを書き封じた奉書を足羽川にお流しになられたところ――その後は源蔵のもとへもあだをなす如き怪事は、これ、絶えてなくなって御座った。
 源蔵も、それより、暴虎馮河非情無比のしょうを正いて、実直なるたちに自らをめたが故、
「――悪逆非道の性根より成した所行にては、これ、あらず。」
と、殿よりもかのお咎めへのお許しも御座って、その後、滞りなく、忠勤致すこと、これ、出来申した、との由にて御座る。



 老病記念目出度皈し候事

 予が許へ來る齋藤友益といへる鍼治しんぢの伯母は、紺屋町こんやちやう邊の桶屋の母にて七十六七にもなりしが、寛政七年の秋より大病にて起居自由ならず、諸醫もさじすて、其身も此度は命終みやうじゆうならんと覺悟して、家内は勿論友益などへも小袖其外記念かたみとして配分なし、其外心安き男女へも衣類調度針箱櫛箱迄わかち與へ、其身は着し候品死後の支度のみ殘して死期しごを待しに、はからずも三十日餘の絶食も食事抔少しづゝ食して、年の暮に全快なしぬ。今は丈夫にて隨分友益が許へも來りぬ。されど餘りに記念分けして甚其砌はなはだそのみぎりこまりける故、友益など貰ひし品へさかなを添て返しける。餘り可笑しき事也と語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。しかし笑話乍ら、如何にも清々しい心地良い話ではないか。
・「老病記念目出度皈し候事」は「らうびやうめでたくかたみかへしさふらふこと」と読む。「皈」は「返」に同じい。
・「齋藤友益」この鍼師は本巻の「出家のかたり田舍人を欺し事」に既出。
・「紺屋町」現在の東京都千代田区北東部に位置する神田紺屋町。この町は本話柄当時には既に隣接する神田北乗物町を挟んで南と北の二箇所に分かれて存在した(現在も同じで南部・北部と呼称する)。但し、両者の隔離距離は凡そ五〇メートル程度しかない。参照したウィキの「神田紺屋町」によれば、本来は神田北乗物町の南部地区にのみあった神田紺屋町住民に対し、享保四(一七一九)年、町の防火を目的とする火除け政策の中で幕府の命令によって一部住民が神田北乗物町の北部に強制移住させられたことに由来する、とある。 ・「匕」は「匙」に同じい。因みに、「匕」は昔の短剣の首の部分が「さじ」に似ていたことから短剣を匕首あいくちと言うようになり、「匕」は現在では専らその熟語にしか現れない。また「匕」は「かひ」とも当て読みするが、これは貝殻の意で、昔、貝殻を飯や薬を掬う杓文字しゃもじとして用いたことに由来する。言うまでもないが「匕を捨」は「匙を投げる」で、本話のシーンでは原義通り、薬の調合用の匙を投げ出す意から、医師がこれ以上は療法がないとして病人を見放すことを指す。後に転じて救済や解決の見込みが全くないと判断して中途で手を引く、の意に用いるようになった(現在、何もしないうちに最初から見切ったり、面倒だからと言って途中で放り出す、の意で用いるケースが見られるが、これはしばしば私が授業で述べた通り、明らかな誤用である。手を尽した果ての放棄にしか用いるべきではないのである。それが医というものである)。
・「寛政七年」本話の執筆推定下限は寛政九(一七九七)年春であるから、一年余前の新しい出来事である
。 ・「肴」本来は酒を飲む際に添えて食べる物、つまみ、転じて酒宴に添える歌舞音曲の意であるが、ここは後者からさらに転じた、ちょっとした日常必需品の食物や調度の品々といった意であろう。
・「三十日餘の絶食も」これは、修験道や即身成仏の修行とまでは申さぬまでも、極楽往生を願って身を潔斎する、一種の穀断ちをしたことを指すものであろう。水は勿論、木の実や草菜類は食していたものであろう(言わずもがなであるが、でなけでれば三十日に至る前に当然餓死してしまう)。

■やぶちゃん現代語訳

 老病の者の形見を目出度くも返した事

 私の元へ、しばしば参る斉藤友益と申す鍼治師の伯母なるものは、紺屋町辺の桶屋の母にして、もう七十六、七歳にもなるものなるが、寛政七年の秋より大病を患って起居も自由ならず、多くの医師に診てもろうたものの、誰もが匙を投げ、本人も、
「……この度は……最早……命終みょうじゅう尽きた……」
と覚悟致いて――家族へは勿論のこと、甥の友益などへも、小袖やらその外の物を、これ、形見として配り分け、その外、親しき男女へも、衣類一式・調度一式、針箱から櫛箱に至るまで悉く分かち与え、その身は、只今着て御座る衣服と寝具、そうして経帷子きょうかたびらなんどの死後の支度ばかりを残して臨終の時をひたすら待って御座った。……
 ところが……図らずも妄執雑念を離れ、身を軽く致いての極楽往生を願って……三十日に亙る穀断ちののち……これ――二月前は粥さえものんどを通らなんだものが――少しずつ、食事なんどをも致すように相い成り……何と、その年の暮れには――すっきりくっきり全快致いて御座った。
 今も如何にも丈夫にて、友益が元へもしっきりなしに徒歩立かちだちにて訪ね来たるほどになったと申す。
 されど――あまりに品々をすっきりあっさり形見分け致いたがため――当座の暮らしにも、これ、甚だこうじておるというていたらくと相い成って御座った故――友益なんどは、もろうた形見の品に、これ、ちょいとした色を添えて、返したとのことで御座る。

「……いやはや……あまりに可笑しきことにては、御座いまするが……」
と、これは友益自身の語った話で御座る。



 永平寺道龍權現の事

 永平寺の臺所大黑柱には、道龍權現を勸請して大造成たいさうなる宮居ありし由。或る年鐘撞かねつきの坊主後夜ごやの鐘を撞仕𢌞つきしまはししが、鐘樓の屋根にて何か物語候樣子故心を澄して聞ば、此度は此地を淸めずばなるまじといふ者あり。かたかたより何卒右の事思ひ止り給へと再應押へる者あれど、此度は思ひ止りがたしといへる故、鐘樓を立出たちいで屋根を顧れば何の事もなし。かの僧早速方丈へいたり上達じやうたつの出家を起して、方丈に對面を願ひけれど、深夜の事なれば明日可申まうすべきまづ我等に申べき事は申せと言ひけれど、急なる事にて是非方丈へ申たし、餘人へは難申まうしがたしといひける故、詮方なく方丈へつげければ、早速方丈起出て尋ける故、しかじかの事也と語りけるをきき、さる事もあべし、思ひあたりし事ありと早速寺中の者を起して、今夜より薪にて食湯めしゆ拵間敷こしらへまじく、燈火も數を極め、多葉粉たばこなど禁制すべしと其道具取上とりあげ、門前寺領へも嚴敷觸きびしくふれ渡しけるに、一兩日過て一人の行脚の僧來りて、旅に疲れたればとて食事を乞ひける故、安き事なれど湯茶もぬるく冷飯の段答へければ、苦からずとて右食を乞ひし上、多葉粉を一ふくたべべしと乞ひしが、多葉粉は譯有りて禁ずる由答へければ、是非なしと禮言て立出ぬ。又暫くありて一人の山伏來りて湯茶を乞ひし故、同樣挨拶なして茶をふるまひしに、多葉粉をのまん事を乞ふ故、是は難成なりがたき事をつげしかば、不思議成事かな、此近邊すべて多葉粉を禁ずるはいかなる事といひし故、方丈より嚴制にて寺内寺領共禁ずる由を言ひしかば、かの山伏大に怒りたるていにて、俄に一丈ばかりの形となると、これ道龍のつげたるなるべしとて、鼻をねぢりてかきけしうせぬとなり。今に永平寺の道龍權現は鼻曲りてありしと人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。言わずもがな乍ら、最初の行脚僧が道龍権現で、後の山伏は道元の事蹟や永平寺の位置から考えて修験道の聖地白山の天狗であろう。本話は取り次ぎ僧の凡庸さや、住持が心当たりがあると感じた部分など、永平寺自体の戒律の乱れや修行僧の怠惰・慢心を揶揄する雰囲気が漂っている。神道派の根岸の筆致も、そうした皮肉なニュアンスの翳を、いささか行間に落しているように私には感じられる。因みに、ウィキの「永平寺」によると、道元の後、第二世孤雲懐奘、三世徹通義介のもとで寺域の整備が進められたが、義介が三代相論(文永四(一二六七)年からおよそ五十年間に亙って起きた曹洞宗内の宗門対立。開祖道元の遺風を遵守する保守派と民衆教化を重視する改革派の対立)で下山、第四世に義演がなったからは庇護者であった波多野氏の援助も弱まり、寺勢は急速に衰え、一時は廃寺同然まで衰微したが、第五世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた、とある。ここでは火災が天狗からの天誅として暗示されるが、暦応三(一三四〇)年には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明五(一四七三)年にも焼失、その後もたびたび火災に見舞われており、現存の諸堂は全て近世以降のものである、とある。但し、本話柄が、そうした中の、どの時期のものとして語られているかは分明ではない。
・「道龍權現」「道龍」は「だうりやう(どうりょう)」と読む。岩波版長谷川氏注に『南足柄市最乗寺開山了庵慧明の弟子で同寺守護神の道了尊(鈴木氏)』とある。妙覚道了(生没年不詳)は室町前期の曹洞宗及び修験道の僧で、道了大権現・道了薩埵・道了大薩埵・道了尊などとも称される。応永元(一三九四)年に曹洞宗の僧了庵慧明りょうあんえみょうが現在の神奈川県南足柄市にある大雄山最乗寺を開創すると、弟子であった道了はその怪力を以って寺の創建に助力し、応永一八(一四一一)年の師遷化の翌日には寺門守護と衆生済度を起請して天狗となったと伝えられ、最乗寺守護神として祀られた。江戸庶民の間でも信仰を集め、講が作られて参詣夥しく、江戸両国などでは出開帳も行われた。「小田原の道了さん」と呼ばれ、現在も信仰されている。
・「後夜の鐘」「後夜」は六時の一で寅の刻、夜半から夜明け前の頃、現在の午前四時頃を指すが、これで仏家がその頃に行うところの勤行をも指す。これは、その夜明け前の勤行を告げるための鐘である。
・「心を澄して」底本では「凄」。右に『(澄)』と傍注する。「澄」の方を本文に採った。
・「上達」下の者の意見などが君主や上位の官に知られる、若しくは知らされること。取次役。
・「一丈」約三メートル。

■やぶちゃん現代語訳

 永平寺道龍権現の事

 永平寺のくりやにある大黒柱には、道龍どうりょう権現を勧請して、ご大層な神棚が据え付けられてある、との由。

 ある年、鐘撞きの僧が後夜ごやの鐘を撞き終えたところ、鐘楼の屋根の上にて何やらん、人語にて話しうておる様子故、凝っと心を澄まし、耳をそばだててみたところが、
「……今度という今度は……この穢れたる地を清めずんばならず!」
と一方が申すと、もう一方の者が、
「……何卒、そればかりは、これ、思い止まられんことを!」
と繰り返し、押し止める声のあれど、
「……いや! 今度このたびばかりは、これ、止め難しッ!!」
と癇走った声が響いた。
 そこで僧は、そっと鐘楼の外へ出でて、屋根を仰ぎ見た……が……そこには誰一人おらず、ただ夜陰に風が吹きすさんでおるばかりで御座った。……
 何か不吉なるものを感じた僧は、急遽、方丈へと走ると、上達じょうたつの僧を起こし、住持への対面たいめを願い出たが、眠りを邪魔された取り次ぎの僧は、これ、大層不機嫌で、
「……何じゃあ?! こんな夜遅うに! 未だ深夜のことじゃて……ええぃ! 明日の朝にでも、我らより申し上ぐる故、それ、まずは、我らに申し上げねばならぬこと、これ、申せぃ!」
と投げやりに申した。
 ところが、鐘撞きの僧は、
「火急のことにて御座れば――是非、直々にご住職さまへ申し上げたく存ずる!」
と、いっかな、引く様子を見せない。
 あまりの頑なさに取り次ぎの僧も折れ、眼をこすりこすり、住持へと告げに参った。
 すると、住持はすぐに起きて、鐘撞きの僧を招くと、
「何事の起こりしか。」
と、静かに訊ねた。
 鐘撞き僧の、かの鐘楼での一件を語るのを聴いた住持は、
「……なるほど……そのようなこと……これ……ないとは……申せぬ……いや……思い当たる節……これ……あり……」
と呟くと、住持は寺中の者どもを総て起こすよう命じた。
「――今夜只今より薪にて飯や湯をこしらえては、これ、ならぬ。――燈火ともしびも、これ、あらずんばならざるところのみに限りて――煙草なんども、これ禁制と致す――」
と、火器一式、仰山な松明たいまつ灯明とうみょう紙燭しそく・火打石・煙管きせるや煙草盆に至るまで取り上げ、これ、一所に封じて、また、その翌朝には、門前町や少し離れた永平寺寺領一帯に至るまで悉く、その厳しいお触れを言い渡いた。……
 その日から一日二日過ぎた日のこと、一人の行脚の僧が寺を訪れ、
「――行脚に少々、疲れ申せばこそ非時ひじを給わりとう御座る。」
と、食事を乞うた故、役僧は、
「……易きこと……なれど……生憎、湯茶もぬるく、冷や飯しかお出し出来ませぬが……」
と答えたところ、
「――それにて苦しゅう御座らぬ。」
と気持ちよく、請けがって御座った。
 かの行脚僧、冷たい飲食おんじきを済ませた後、
「――さても、煙草を一服致したいが、火を、これ、お貸下さるまいか。」
と乞うた故、
「……実は……煙草は……訳の御座って……こちらにては今、のまれぬ掟となって御座いまして……」
と、役僧は、如何にも気の毒そうに力なく答えるばかりで御座ったが、
「――いや、それでは確かに。是非に及ばず。」
と、何やらん、妙に得心した様子にて、すっくと立ち上がると、丁重に礼を申して立ち去って御座った。……
 さても、また暫くあって、今度は一人の山伏が来たって、同じごと、湯茶を乞うた。
 役僧は最前と同じき断りをなしつつ、冷め切った茶を振るうたところ、
「ふん! ならば、煙草を呑まんと欲すればこそ、火を貸して呉りょうほどに!」
と憮然として申す故、役僧、
「……実は……煙草は……訳の御座って……こちらにては今、のまれぬ掟となって御座いまして……」
と同じように返答致いたところが、山伏、声をいたく荒らげて、
「不思議なることではないかッ?! この近辺、至る所、総て、煙草を呑んでは、いかんとは、一体、如何なることじゃッ?!」
と気色ばんだによって、役僧、
「……は、はいッ……そ、そのぅ、ご、ご住職さまよりの……き、厳しきご、ご禁制が先般御座いまして……じ、寺内はもとより、寺領にても、これ、か、か、火気を禁じて御座いますれば……」
とおっかなびっくり返答致いたところが――
「――ヌゥゥ!――ウ、ウ、ウワアアアッツ!!」
と山伏、憤怒怒張の相も露わにして、まなじりも裂けんばかりに怒り猛るや――
――忽ち――一丈余りの巨体と変じ――
「――かのッ!!――道龍めが――告げよったナアアアッ!!!」
大音声だいおんじょうを挙げて、巨怪なる山伏のその右腕、通臂つうひの如、
――グワン!
と蛇のようにしゅるしゅると延びるや、厨のかたへと突き入ったかと思うと、そこに祀られて御座った道龍権現の像の鼻をねじって――
――ふっと
消え失せてしまった、と申す。

「……さればこそ、今に至るまで永平寺の道龍権現さまは、これ、鼻が曲がったままにて御座る。……」
とは、ある人の語って御座った話である。



 梶金平辭世の事

 御當家御旗本の豪傑と呼れ、神君の御代戰場にて數度武功を顯はしたる梶金平死せる時辭世の歌とて人の咄しけるが、豪氣無骨の人物忠臣の心を詠じたるには、いささか人の批判賞美をも不顧かへりみざる所面白ければ爰に記しぬ。
   死にともなあら死にともな死ともな御恩に成し君を思へば

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。
・「梶金平」梶正道(天文二〇(一五五一)年~慶長一九(一六一四)年)。底本の鈴木氏注に、『九歳の時から家康に仕え、永禄七年今川氏真との戦闘に負傷をしながら敵の首級をあげ、九年以後は本多忠勝の手に付けられ侍大小として出陣毎に先手を勤めた。天正三年長篠の役、十二年長久手の戦にも活躍、十八年の小田原の陣には大手口に突入して殊勲をあらわした』。『関ヶ原役の後、同輩たちは多く直臣に復帰することを願ったが、金平は家康の特志により本多家に止まった』とある。ウィキの「本多忠勝」の「家臣」の項には、梶勝忠とあり(正道は恐らく「しょうどう」と読み、如何にも法号っぽい)、『関ヶ原の戦いにおいて、愛馬・三国黒を失いながらも徒立ちで奮戦する忠勝に自分の馬を差し出し窮地を救った逸話が残っている』とある。彼の関連では「耳嚢 卷之四」の「剛氣の者其正義を立る事」の私の注を参照されたい。
・「御当家」徳川家。
・「辭世」底本では「辭制」であるが、右に『(辭世)』と傍注するのを採った。
・「死にともなあら死にともな死ともな御恩に成し君を思へば」一応読みを附すと、
  死にともなあら死にともなしにともな御恩になりし君を思へば
「な」は「無」で、形容詞「無し」の語幹。「あら」は感動詞。「とも」は「たくも」のウ音便「とうも」の転訛であろう。「たく」は希望の助動詞「たし」の連用形、「も」は「とも」(格助詞「と」+係助詞「も」)と同義で、「~という風にも」の意、「も」は一つを挙げて他を類推させる用法で、ここでは「生きんとも」がその対象となる。「君」は無論、神君家康公である(直接は事実上の主君は本多忠勝であるが、忠勝自身が徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる家康の功臣であるからその忠信はダイレクトに家康に向かう)。言わずもがなであるが、死ぬことを恐れているのではなく、八面六臂の活躍をしながらも忠義を尽くし切れたかどうかを死の床にあっても自問する、金平の恐ろしいまでの忠信の吐露である。
――死にとうはない……ああっ! 死にとうない、死にとうない!……無辺広大なる御恩を受けた、上さまのことを思うと、な……

■やぶちゃん現代語訳

 梶金平辞世の事

 御当家御旗本の内でも豪傑と呼ばれ、神君家康公の御代、戦場で数度に亙る武功を立てた梶金平正道殿、御逝去の砌りの辞世の歌とて、人の教え呉れたが、如何にも豪気無骨の人物、その忠臣の心にて詠じたる感懐、聊かも他者の批判や評価なんど、これ、気にすることのなきところ、まっこと、面白う御座れば、ここに書き記しおく。

   死にともなあら死にともな死ともな御恩に成し君を思へば



 怪尼詠歌の事

 前文にかきし藤田元壽と親しき、右怪尼の事を元壽へ尋ければ、右元壽が許へ立寄りしは夕立の雨宿りなりしが、其節雷のつよかりしに、
  なるはいかに浮世の夢はさめもせでわせだの里に秋風ぞ吹
よみしとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:辞世の和歌から尼の和歌で連関。既出の「怪尼奇談の事」及び「陰凝て衰へるといふ事」の続きで、医師藤田元寿による、彼の出逢った早稲田に住まう元吉原遊女であった才媛の尼の後日談。
・「なるはいかに浮世の夢はさめもせでわせだの里に秋風ぞ吹」
  鳴るは如何に浮世の夢は醒めもせで早稻田の里に秋風ぞ吹く
「なる」「早稲田」「秋」は縁語で、「なる」は雷の「鳴る」、早稲田の稲穂に実の「る」を掛けていよう。浮世の夢の果て秋風の吹き始めた景色は、そのまま尼の老いを暗示させる。
――雷神さま……夏過ぎてどうしてかくも激しく打ち鳴らしなされます?……そのような音にても……憂き世の悪しき夢なんどは、これ、一向に醒めも致しませぬに……かくも何故喧しくお鳴りになられます?……早稲田の里は、稲もとうにって……今はもう、秋風さえ、吹いておりますものを……

■やぶちゃん現代語訳

 数奇の尼詠歌の事

 本巻で既に記した藤田元寿、彼と親しい者が、かの話に現われた、あの数奇すうきなる尼のことを更に元寿に尋ねたところ――かの早稲田に庵を結んでおる尼が、初めて元寿の元に立ち寄ったは、最初の話の通り、夕立に降られての雨宿りが切っ掛けで御座ったのだが――その折り、雷が殊の外、ひどう御座ったところ、

  なるはいかに浮世の夢はさめもせでわせだの里に秋風ぞ吹

と、かの尼、詠じて御座ったと申す。



  死相を見るは心法の事

 又彼尼人相をよく見しとて、元壽も相學を心懸し故暫く右の物語をなせしに、或日老婦の相を見て、御身は心のまゝに好きこのむものを食し心に叶ふ事のみなし給へ、來年のいつ頃は命終みやうじゆうなんと言しが、果してしるしありしをきき、元壽も人の死生時日ししやうじじつを相學にて計る事は、相書さうしよにはあれど知れ難き事也、御身如何して知るやと尋ねて、その奧意あういきかんとせちに尋ければ、是は我心に思ふ事、傳授口達こうたつなしたりとも用に立難たちがたし、自然と我心に悟道なしければ、傳授もなりがたしとて分れぬ。度々かの尼が庵を尋求たづねもとめしも、右相學の奧祕あふひきかんとの事也しと、元壽物語りける由。奇尼もあるものなるかな。

□やぶちゃん注
○前項連関:数奇の、いや、実はやはり奇なる尼の物語の続。通しで四話目となる。藤田元寿が何故、この尼に興味を持ったかという、その真相がここで明らかにされる。根岸もこれには驚いた(従ってこの尼の能力を信じた)ようで、珍しく文末に詠嘆の終助詞「かな」が用いられている。
・「心法」とは本来、心を修練する法、精神修養法を言うが、ここは一種、生まれつき具わっている心の不可思議なる働き、という意で用いている。
・「相學」人相・家相・地相などを見、その人の性格や運勢などを判断する学問。ここでは主に人相学。
・「口達」「こうだつ」とも読む。口頭で伝達すること。言い渡すこと。また、その言葉。

■やぶちゃん現代語訳

 死相を見る能力は天然自然の心法である事

 また、かの尼は人相をよく見、元寿も相学を学んでおったによって、逢えばきっと、この相学についての話しとなるが常で御座った。
 そんな、ある日のこと、かの尼より、
――とある市井の老婦人の相を見、
「……おん身は心のままに、好きなものをお食べになり、心になさりたいと思われることのみ、なさいませ。……来年の、これこれの時節には、命終みょうじゅうをお迎えになられましょうほどに……」
と告げましたところ、果たして、その通りと相い成りました――
という話を聞かされた。
 元寿、これを聴くや、
「……相学にて人の生死しょうじ時日じじつを測ることの出来るとは、確かに相学書には、かくあれど……その法は、これ、如何なる書にも具さには書かれて御座らねば、容易には習得出来ざるものにて御座る。……にも拘わらず、御身は、如何にして、命終みょうじゅうの予兆を知ることが、これ、お出来になるので御座る?」
と、その奥義を承らんと、切に訊ねたところが、尼は、
「……いえ、これは自然に我が心に感ずるので御座いますれば……恐らくは、その折りの些末な心の内の閃きや、直ちに感じた面影を、これ、伝授口伝くでん致しましたところで、それは何の役にも立ちますまい。……いつの頃からやら、存じませぬが……自然、そのようなことの分かる『何か』が、我が心の……不遜ながら、我らの悟りのようなるものとして……在った、ので御座います。……されば、伝授しようにも、これ、伝授出ぬものにて、御座いますれば……」
と、その場は別れたと申す。
 その後も、度々、元寿が、かの尼の庵を訪ねたのも、これ実は、この相学の奥義を、何とかして訊かんがためで御座った、と元寿自身が語ったと申す。
 ……いや、やはり不思議なる尼も、御座ったものじゃ。



 其職に隨ひ奇夢を見し事

 軍書講釋をなして諸家の夜閑をする栗原何某、寛政三年三月三日に不思議の夢を見しは、誰とも名前顏色をも不覺おぼえざりしが、御身は軍書など講ずるなれば相應の懸物を與ふべしとて、中は櫻、右は侍、左は傾城けいせいかきし三幅對なれば、忝しと請て是を見るに、櫻の上に、
  誤つて改られし花の垣
又右の侍の讚には、
  色にかへぬ松にも花の手柄かな
又左の傾城のうへには、
  世の色にさかぬみさほや女郎花
かくありし故、是は仙臺萩の、櫻は陸奧守綱宗、侍は松前鐡之助か、傾城は高尾にもあるらんと、夢驚て枕の元を搜せど曾て一物もなし。さるにても俳諧發句等を常に心に留し事もなきに、三句共しかと覺へける故、宗匠抔に此句はいかゞと尋問たづねとふに、つたなき句ともいわざれば、早速蘭香らんかうを賴て夢のとほりの繪をしたため貰ひ、寢惚ねぼけ先生とて其頃狂歌など詠じて名高き者に、右の讚を認貰ひしと、右掛物を携へ來りて見せし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。お馴染み講釈師栗原幸十郎の語る夢中の俳諧が記憶され、それが事実と符合するという不思議夢物語。ここまで符合が一致し過ぎると夢らしくなく、創作性が見え見えという気がする。もう少し、夢らしく朧にしておいて、謎解き部分で漸層的に謎解きをして語ればよかったのに、などと私は贅沢に思ったりもするのだが……。最初に本文読解の為に、必要不可欠な本文中に現れる「仙臺萩」、伊達騒動を題材とした歌舞伎及び浄瑠璃「伽蘿先代萩めいぼくせんだいはぎ」について、私は当該作品を見たことも読んだこともないなので、ウィキの「伽蘿先代萩」から大幅に引用させて頂くことをお許し願いたい(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した。細かな事件概要は同「伊達騒動」を参照されたい)。『本作の題材となった伊達騒動は、万治・寛文年間、一六六〇年から一六七一年にかけて仙台伊達家に起こった紛争』、『巷説においては、おおむね以下のような物語が形成され』、流布した。『仙台伊達家の三代藩主・伊達綱宗は吉原の高尾太夫に魂を奪われ、廓での遊蕩にふけり、隠居させられる。これらはお家乗っ取りをたくらむ家老原田甲斐と黒幕である伊達兵部ら一味の仕掛けによるものだった。甲斐一味は綱宗の後を継いだ亀千代(四代藩主・伊達綱村)の毒殺を図るが、忠臣たちによって防がれる。忠臣の筆頭である伊達安芸は兵部・甲斐らの悪行を幕府に訴える。酒井雅楽頭邸での審理で、兵部と通じる雅楽頭は兵部・甲斐側に加担するが、清廉な板倉内膳正の裁断により安芸側が勝利。もはやこれまでと抜刀した甲斐は安芸を斬るが自らも討たれ、伊達家に平和が戻る』というもので、『本作をはじめとする伊達騒動ものは基本的にこの筋書きを踏襲している』。『伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳三年(一七一三年)正月、江戸市村座で上演された「泰平女今川」でこれ以降、数多く伊達騒動ものの狂言が上演されるが、特に重要な作品として、安永六年(一七七七年)四月、大坂中の芝居で上演された歌舞伎「伽羅先代萩」(奈河亀輔ほか作)と、翌安永七年(一七七八年)七月、江戸中村座で上演された歌舞伎『伊達競阿国戯場』(初代桜田治助・笠縫専助合作)、さらに天明五年(一七八五年)、江戸結城座で上演された人形浄瑠璃「伽羅先代萩」(松貫四ほか作)の三作が挙げられる』。『歌舞伎「伽羅先代萩」は、伊達騒動を鎌倉時代に託して描き、忠義の乳母・政岡とその子・千松を登場させた。「伊達競阿国戯場」は、騒動の舞台を細川・山名が争う応仁記の世界にとり、累伝説を脚色した累・与右衛門の物語と併せて劇化した。現在「伽羅先代萩」の外題で上演される内容は、「竹の間」「御殿」「床下」は前者、その他は後者の各場面を原型としている。『天明五年(一七八五年)の人形浄瑠璃「伽羅先代萩」は歌舞伎「伽羅先代萩」を改作・浄瑠璃化したもので、現行「御殿」に用いる浄瑠璃の詞章はこの作品から取られている』。以下、その「概要」から(歌舞伎の各論や演出部分は省略した)。『現行の脚本は大きく「花水橋」「竹の間・御殿・床下」「対決・刃傷」の三部に分けることができる。それぞれが別系統の脚本によっており、全体をとおしての一体感は薄いが、一つの演目で多様な舞台を楽しめるところは本作の魅力でもある』。
花水橋の場
『廓からお忍びで屋敷に帰る途中の足利頼兼(伊達綱宗に相当)が、仁木弾正(原田甲斐に相当)に加担する黒沢官蔵らに襲われるが、駆けつけた抱え力士の絹川谷蔵に助けられる』。『絹川は、「伊達競阿国戯場」系の脚本では、頼兼の放蕩を断つため高尾太夫を殺しており、「薫樹累物語」では高尾の妹・累との因縁が描かれる』。『頼兼による高尾殺しを描いた脚本もあ』ると記す。
竹の間の場
『頼兼の跡を継いだ鶴千代(綱宗嫡子の亀千代に相当)の乳母(めのと)・政岡(千松の生母・三沢初子に相当)は、幼君を家中の逆臣方から守るため、男体を忌む病気と称して男を近づけさせず、食事を自分で作り、鶴千代と同年代の我が子・千松とともに身辺を守っている。その御殿に、仁木弾正の妹・八汐、家臣の奥方・沖の井、松島が見舞いに訪れる。鶴千代殺害をもくろむ八汐は、女医者・小槙や忍びの嘉藤太とはからって政岡に鶴千代暗殺計画の濡れ衣を着せようとするが、沖の井の抗弁や鶴千代の拒否によって退けられる』。 御殿の場
『一連の騒動で食事ができなかった鶴千代と千松は腹をすかせ、政岡は茶道具を使って飯焚きを始める。大名でありながら食事も満足に取れない鶴千代の苦境に心を痛める政岡。主従三人のやりとりのうちに飯は炊けるが、食事のさなかに逆臣方に加担する管領・山名宗全(史実の老中・酒井雅楽頭)の奥方・栄御前が現われ、持参の菓子を鶴千代の前に差し出す。毒入りを危惧した政岡だったが、管領家の手前制止しきれず苦慮していたところ、駆け込んで来た千松が菓子を手づかみで食べ、毒にあたって苦しむ。毒害の発覚を恐れた八汐は千松ののどに懐剣を突き立てなぶり殺しにするが、政岡は表情を変えずに鶴千代を守護し、その様子を見た栄御前は鶴千代・千松が取り替え子であると思い込んで政岡に弾正一味の連判の巻物を預ける。栄御前を見送った後、母親に返った政岡は、常々教えていた毒見の役を果たした千松を褒めつつ、武士の子ゆえの不憫を嘆いてその遺骸を抱きしめる。その後、襲いかかってきた八汐を切って千松の敵を討つが、巻物は鼠がくわえて去る』。
床下の場
『讒言によって主君から遠ざけられ、御殿の床下でひそかに警護を行っていた忠臣・荒獅子男之助が、巻物をくわえた大鼠(御殿幕切れに登場)を踏まえて「ああら怪しやなア」といいつつ登場する。鉄扇で打たれた鼠は男之助から逃げ去り、煙のなか眉間に傷を付け巻物をくわえて印を結んだ仁木弾正の姿に戻る。弾正は巻物を懐にしまうと不敵な笑みを浮かべて去っていく』。
対決の場
『老臣・渡辺外記左衛門(伊達安芸に相当)、その子渡辺民部、山中鹿之介、笹野才蔵ら忠臣が問註所で仁木弾正、大江鬼貫(伊達兵部に相当)、黒沢官蔵らと対峙する。裁き手の山名宗全は弾正よりで、証拠の密書を火にくべさえする無法ぶり。外記方の敗訴が決まるかというその時に、もう一人の裁き手の細川勝元(板倉内膳正に相当)が登場し、宗全を立てながらも弾正側の不忠を責め、虎の威を借る狐のたとえで一味を皮肉る。自ら証拠の密書の断片を手に入れていた勝元は、署名に施した小細工をきっかけにさわやかな弁舌で弾正を追及し、外記方を勝利に導く』。
刃傷の場
『裁きを下された仁木弾正は、改心を装って控えの間の渡辺外記に近づき、隠し持った短刀で刺す。外記は扇子一つで弾正の刃に抗い、とどめを刺されそうになるが、駆けつけた民部らの援護を受けて弾正を倒す。一同の前に現れた細川勝元は外記らの働きをたたえ、鶴千代の家督を保証する墨付を与える。外記は主家の新たな門出をことほぎ深傷の身を押して舞い力尽きる。勝元は「おお目出度い」と悲しみを隠して扇を広げる』。
 なお、「伽羅先代萩」先代萩はマメ科センダイハギ Thermopsis lupinoides(和名漢字表記は「千台萩」)。中部地方以北から北海道、朝鮮半島・中国・シベリアの砂浜海岸や原野に群生する。高さは四〇~八〇センチメートル、葉は三つの小葉から成り、互生して葉柄の基部には大きな托葉がある。五月から八月にかけて茎の先端に極めて鮮やかな黄色の花を咲かせる。和名の由来自体が本作に因む。
・「軍書講釋をなして諸家の夜閑を慰する栗原何某」「夜閑」は「よしづ」と訓読みしているか。「夜閑を慰する」は暇な夜のすさびの謂い。お伽である。彼は「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』として初登場、本巻でも「麩踏萬引を見出す事」以降、数話の話者として現われる魅力的なニュース・ソースである。底本には「軍書講釋」の右に『(尊經閣本「軍書讀」)』、「栗原某」の右に『(尊經閣本「栗原翁」)』とある。
・「寛政三年三月三日」「寛政三年」は辛亥かのといで西暦一七九一年、同「三月三日」は丁丑ひのとうしの大安である。陰陽五行説で神聖な「一」を別格とし、「三」は初めの陽数であるから、縁起がよいとされ、それが三つ並ぶという三重の重陽という設定自体が作為的であるが、逆に言えば、意識の中にその特異な日という覚醒時の意識が無意識下に作用して、かくも特異な夢を創らせたのであると、心理学的には言えなくもない(この前後に彼が「伽羅先代萩」関連の講釈を行ったか若しくは予定していたとすればなおのこと)。我々も特別な日に特別な夢を見ることは、ままある。
・「誤つて改られし花の垣」
  誤つてあらためられし花の垣
岩波版長谷川氏注に『綱宗が誤った所行を改めたという』とある。「花の垣」は、風雅人の隠棲する庵の垣根で、綱宗の隠居所をイメージするか? 不学ながら不明、識者の御教授を乞うものである。
・「色にかへぬ松にも花の手柄かな」
  色に替へぬ松にも花の手柄かな
岩波版長谷川氏注に『松に忠臣の松前鉄之助を暗示。忠節の心を変えずはなばなしい手柄を立てた。』とある。山屋賢一氏の盛岡山車を紹介された「すてきなおまつり」HP内の「盛岡山車の演題 松前鉄之助」には、この荒獅子男之助が活躍する「床下の場」をモチーフとした山車の写真や、「伽羅先代萩」のストーリーがかなりコンパクトに纏められており、分かり易い。
・「世の色にさかぬみさほや女郎花」
  世の色に咲かぬみさを女郎花をみなへし
岩波版長谷川氏注に『高尾は情人との約束を守り、遊女通例の金力・権勢になびくようなことをしなかった。』とある。
・「櫻は陸奧守綱宗」伊達津綱宗(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)は仙台藩第三代藩主。官位は従四位下、左近衛権少将、陸奥守・美作守。万治二(一六五九)年、二十歳で藩主となったが大酒と風流数奇の性癖甚だしく、親類や老臣が意見を繰り返しても聞き入れなかった。伊達家一門衆の伊達宗勝と綱宗の縁戚大名である立花忠茂・池田光政・京極高国が合議の上、幕府老中酒井忠清に問題の解決を相談、翌万治三年七月に伊達家の一門・重臣十四名による連判状を以って綱宗の隠居と二歳になる実子亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を幕府に出願、同八月に幕府はこれを許可したが、これがその後の伊達騒動の端緒となった隠居後の綱宗は品川屋敷に住み、和歌・書画・彫刻などに優れた作品を残している(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。因みにここで何故、「桜」なのか、「伽羅先代萩」の何かのシーンと関わるのか、不学にして私には不詳。識者の御教授を乞うものである。
・「松前鐡之助」岩波版の長谷川氏注には「伽羅先代萩」伝承の『架空の忠臣』で『松ヶ枝節之助』とあるが、検索すると実在した松前鉄之助広国をモデルとするらしい。この松前広国なる人物についてはよく分からないが、宮城県白石市南町にある傑山寺の公式HPの中の「白石に魅せられた松前国広」のページに同寺に北海道松前城主慶広の五男安広とその子広国の墓があることを記し、そこに『広国は伊達騒動で抜群の働きをなし、伊達六十二万石を救った、歌舞伎でも名高い松前鉄之助である』とある。彼の伊達騒動での実際の働きについて、識者の御教授を乞うものである。
・「高尾」高尾太夫。吉原の太夫の筆頭ともいえる吉原大見世三浦屋の花魁の襲名名。「伊達騒動」伝承では二代目の万治高尾(過去帳から万治三(一六六〇)年十二月二十五日に亡くなっていることに由来。仙台高尾とも)とされ、一説に彼女に溺れた綱宗に七八〇〇両で身請け(彼女の体重と同じだけの金を積んだとも言われ、現在なら五億円から八億円相当)されたものの、夫婦約束をした島田重三郎に操を立てて応じなかったため、乱心した綱宗によって、隅田川三ツ又の船中にて裸にされ、舟の梁に両足を吊るされた上、首を刎ねられた、とされる。
・「蘭香先生」画家吉田蘭香(享保十(一七二五)年~寛政一一(一七九九)年)。
・「寢惚先生」著名な戯作者で狂歌師太田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)。明和四(一七六七)年に狂詩集「寝惚先生文集」を出版している。洒落本・評判記,・黄表紙などの戯作を多くものし、江戸の狂歌師の名をほしいままにした人物としても知られる。但し、本話の寛政三年頃の彼は、天明七(一七八七)年の田沼政権の崩壊と松平定信の享保の改革による粛正政策を機に弾圧の矛先が向いてきた狂歌界からは、距離をおいていた。彼は寛政六(一七九四)年の学問吟味(幕府の人材登用試験)では御目見得以下の首席で合格しているれっきとした幕吏であった。

■やぶちゃん現代語訳

 その生業に合わせ奇なる夢を見た事

 軍書講釈をなしては諸家の夜の徒然の慰めを生業なりわいと致いておる、例の栗原某が、寛政三年三月三日に不思議な夢を見たと申す。……

……その……たれとも、これ、名前も顔も覚えては御座らねど……夢に現われ出でたるその御仁、
「――御身は軍書などを講ずるを生業と致しておるに付き、相応の掛け物を与えようぞ――」
とて、夢中に頂戴致いたは、これ、
――中は桜――右は侍――左は傾城けいせい……
を描いた三幅対で御座ったれば、
「――かたじけなし!――」
とて受け賜わるまして……これ、仔細に見てみますると、その桜の上に、
  誤つて改られし花の垣
また、その右に描かれた侍の絵の賛には、これ、
  色かへぬ松にも花の手柄かな
また、その左の傾城姿の上には、
  世の色にさかぬみさほや女郎花
と――確かにしたためられて御座った。我ら、その折り、夢現ゆめうつつ乍ら、
『……これは……「伽羅先代萩」の……桜は陸奥守綱宗公……侍は松前鉄之助か……傾城は、かの高尾太夫にてもあるか……』
と思うたと思うたところで……夢から醒めて御座った。……
……醒めた側から、枕元を捜して見申した……が、勿論、そのようなものは、これ、一物いちもつたりと、御座りませなんだ。……
……しかし、それにしても……我ら普段より、気の利いた俳諧発句などを、これ、心に留めおくなんどという風流染みたことは、まんず、一度として御座らなんだにも拘わらず……不思議なることに……これ、三句ともしかと覚えて御座った故、知れる方の宗匠なんどに、
「――というくうは、これ、如何いかがか?」 と尋ね問うてみたところが、これ、まずき句とも申さねばこそ、早速、画家の蘭香らんこう先生を頼んで、我らが夢に見た通りのええを認めて戴きまして、丁度その頃、寝惚ねぼけ先生と称し、狂歌なんど詠じては名の知られたお方に、かの夢に見た賛を三つとも、したためてもろうて参りました。……

……と、わざわざ、まあ、その掛け軸を携えて来たって、私に見せて御座った。



 濟松寺門前馬の首といふ地名の事

 牛込濟松寺さいしようじ門前に輿力町あり。右與力の門前のみちあざなして馬の首と今に唱ふ由。右はいづれの與力にて有しや、正月元日に門の屋根より馬の髑髏を釣り置けるを、召仕の者曉に門前を掃除せんと門へ出て是を見て、いまはしき事かなと内に入て主人に語りければ、それは目出度事なり、早々取入よと申付大きに祝ひけるが、夫より日增に身上しんしやうを直し、今はかの近邊の大福人と人もいひしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。意趣返しかとも思われる禍いを起こさんとした気持ちの悪い悪意の仕儀が、転じて福となったという、文字通り、「塞翁が馬」である。但し、馬の髑髏を繁盛の吉兆とする民俗学的理由は私には不明である。識者の御教授を乞う。
・「濟松寺」東京都新宿区榎町にある臨済宗妙心寺派の寺。開山の祖心尼は義理の叔母春日局の補佐役として徳川家光に仕えた人物である。
・「馬の首」底本の鈴木氏注には違う由来が記されている。『榎町の東方にあった先手組の宅地の俗称。』寛文(一六六一年~一六七三年)頃、『橋本治郎右衛門という鉄砲巧者の与力が、常に門の扉に馬の首を掛けておき、火災後は木製の馬の首をかけた。根は小心の男だったという』とある。私の所持する切絵図には出ない地名である。

■やぶちゃん現代語訳

 済松寺門前の馬の首という地名の事

 牛込済松寺さいしょうじの門前に、与力町が御座る。この門前町の小道を通称して「馬の首」と今に呼んでおる由。
 その謂れを問うに、同所のいずれの与力の家であったか、とある年の正月元日に、何者かがその者の屋敷の門の屋根の上より――こともあろうに――馬の髑髏が吊り下げられて御座ったを、召し使いの者、暁に門前を掃除せんと門へ出でて、これを見つけ、
「……い、い、忌まわしきことじゃッ!!」
と内へと走り込むや、主人へ注進に及べば、
「……何? 馬の首の髑髏じゃと?……それは目出度い!! 早々に屋敷内に取り入るるがよいぞ!」
と申し付け、元旦を増して大いに祝って御座ったと申す。
 それより、この屋の主人、日増しに身上上げ潮と相い成り、今は、あの辺りでも知られた大金持ちじゃと人も申しておる、とのことで御座る。



 相人木面を得て幸ひありし事

 予が許へ來れる某は相學をこのみて、家業のいとま相を見る事をなせしが、寛政寅の事、初午はつうまにいつも千社參りをなしける故、駒込大觀音邊の稻荷抔を札を張りしに、右觀音境内の稻荷の椽際えんぎはに、いかにも古びたる瘦男やせをとこともいふべき面あり。子供の捨しにや、さるにても其面相も面白おもしろきと思ひしが、もし拾ひ取りてもぬしありてはいかゞと、其儘神拜をなして歸りけるが、日數暫立て某が女房、今朝可笑しき夢を見たり、能のシテともいふべきおもて忽然として物いひけるは、普請ふしんにて我等も居所差支さしつかへ候間、此邊へ移し取りて祭りをなせよかし、と云ふにおどろきて夢さめぬと語りし故、兼て女房に咄しける事もなければ、初午の事思ひいでて、早速大觀音の近所へ至りてみれば、有りし社頭は普請とみへて足代あししろなど掛渡しある故大きに驚き、ありつる椽の下を見るに、其最寄なる所に初午に見し面埃ほこりに埋れ有し故、早速拾ひ取て家へ持歸り、清めて神棚へ上げ祭禮をなせしに、それより思わずも相學の門人日を追つて多く、世渡りも安く暮しぬと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:思いもかけないものが福を呼び込むことで連関。二つ前の「其職に隨ひ奇夢を見し事」の奇夢でも連関。
・「寛政寅」寛政六(一七九四)年甲寅きのえとら
・「初午」陰暦二月の最初の午の日。また、その日に行われる各地の稲荷社の祭礼をも言う。
・「千社參り」千社詣で。一般名詞としては多くの寺社に巡拝祈願することを言うが、狭義には二月初午の日に稲荷を巡拝することを指す場合が多い。特に本話柄の含まれる天明から寛政年間(一七八一年~一八〇一年)にかけて多くの稲荷社を参る「稲荷千社参り」が流行し、そこに貼った札を「千社札」と言うようになった。これが貼られている間は当該寺社に参籠しているのと同じ功徳があるとされて(あくまで民間の伝承)、日帰りの参拝者が参籠する代わりに自分の名札を貼ったのが始まりと伝えられる。
・「駒込大觀音邊の稻荷」「駒込大觀音」は文京区向丘二丁目にある浄土宗天昌山光源寺のこと。天正一七(一五八九)年に神田に創建され、慶安元(一六四八)年に現在地に移転した。境内には元禄一〇(一六九七)年造立の身の丈約八メートルの十一面観音像があって信仰を集めた。本像は東京大空襲で焼失したが、平成五(一九九三)年に再建されている。その近くの稲荷社について、底本の鈴木氏注には『駒込富士前町には満足稲荷の外にも稲荷社が三社ある』と記されておられる。ここでは「右觀音境内の稻荷」とあるから、彼が訪れたのは光源寺境内に祀られた稲荷社、それも普請に足場を組む必要のあるような相応に大きな神殿を持ったものであることが窺われる。
・「瘦男」能面の一つ。執念と怨恨とにやつれ果てた男の亡霊を表わす。「阿漕あこぎ」「善知鳥うとう」「藤戸ふじと」の後ジテなどに用いる。
・「足代」工事用の足場。
・「ありつる椽の下を見るに」この「下」は恐らくは「もと」で、かつて面の置かれてあった縁側の、その場所の謂いであろう。但し、シチュエーションではその元の場所を主人公が見る――ない――その縁の真下を捜す――ない――いや! その近くの縁の下にあった! というシークエンスを私は採らせて戴いた。

■やぶちゃん現代語訳

 人相見を趣味とする者が面を拾い得て福を得たる事

 私の元をしばしば訪れるなにがしは相学を好み、家業のいとまに人の手相・人相見なんどを致すを、これ、趣味と致いて御座った。
 寛政六年寅年のこと、かの男、二月の初午の日には、これ毎年、千社参りを致いて御座った故、その日も駒込大観音辺りの稲荷などを廻って千社札を貼って御座ったところ、その駒込大観音境内の稲荷社の縁のきわに、如何にも古びた感じの、かの能面の「痩男やせおとこ」とでも申そうず、面が一つ、置かれて御座った。
「……玩具の面を、子供でも捨てたものか……いや……それにしては、この面相、なかなかに……面白き面相では、ある……」
なんどと、日頃の相学の興味もあってちょっと惹かれはしたものの、若し拾って持ち帰るも、万一、誰ぞ持ち主の御座ることも、これ、あらばこそ、と考え直し、ただそのままにし、稲荷へ参拝を成して帰って御座った。――
 数日過ぎたある日のこと、かの男の女房、朝餉の折り、
「……今朝は可笑しな夢を見ましたのよ。……何だか能のシテに似た面が、忽然と夢の中に現われて、ものを申しますの……それを聴けば……『――普請の始まって――我らが居所きょしょにも差支えの出来しゅったい致いて御座る間――この辺りへ移し――祭りをなせよかし――』……と、あの、何ともくろう沈んだ顏で云いますの。……もう、驚いて、そこで、夢から醒めました。……」
と語る故、
『……おかしい。……かねて、あの面のこと、これ、女房には話してはおらぬが……』
と、かの初午の日のことを思い出だいて、早速、大観音の近くを指して参ったれば……
先日まで御座った稲荷社の社頭……
これ、何やらん、普請替えと見えて……
縦横に足場なんどを掛け渡して御座った故、大いに驚き……
――かの面が置かれて御座った縁を見る……
――ない……
――その縁の下を覗く……
――ない……
――いや――あった!
……そこから程遠からぬ縁の下に、かの初午の日に見た一面、これ、ほこりに埋もれて御座った。
 早速に拾い取りて家へと持ち帰り、洗い清めて神棚へと上げ、祭礼を成した。……

「……いや! それより、思いの外、下手の横好きで御座った相学の門人が、これ、日を追う毎、増えましての!……趣味で御座ったものが、その……門弟からの謝金だけでも、これ、易く暮らせるほどに、これ、相い成って御座りまする……」
と、かの当人が語って御座った。



 水神を夢て幸ひを得し事

 寛政六七の頃、もみぬきといふ井戸流行して、下谷本所遠地水あしくて遣ひ用に難成なりがたき場所へ、底あるがわをいれて夫よりひを入てもみぬく事流行して、水不自由の場所大きに益を得し事あり。その井戸の工夫をして流行の起本きほんを思ひたちしは、本所中の郷に住居せる傳九郎といふ井戸掘也。かの者或る年の夢に、天女ともいふべき壹人の婦人枕元に立て、我は水神也、近き内汝が家に來るべしといふかとみて夢覺ぬ。其後日數經て夏の頃、涼みに川端へ出て水抔あびしに、河中に足に障る物を取上とりあげ見しに木像也。能々見ればかの夢に見し天女とも言ふべきもの也。早速持歸りて、水神ならば龍王の形にても有べきものをと怪みて、近所の修驗しゆげんに見せて尋ければ、是は水神也、水神は天女の姿なるよしを申ける故、すなはち宮殿を拵へ、右の内に勸請して朝暮祈誓をなしけるに、日增しに仕合よく見込のとほり家業も調ひ、今は下女下男も多く召仕ひ、傳九郎といへば誰しらぬ者もなき井戸掘なりとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:夢告で連関。
・「夢て」「ゆめみて」と読む。
・「もみぬき」掘り抜きと音が近いのが気になるが、諸本は不詳とするようだ。ところがこれに目から鱗の解説をして呉れているのが、本話も引いておられるseikuzi氏のブログ「不思議なことはあったほうがいい」の「揉抜井戸」である。以下に引用する(文中にアニメーションが入って凝っておられるが、単純にコピー・ペーストさせて頂いた。一行空けが二箇所で入るが詰め、アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。
  《引用開始》
掘りに掘ってもろくな水が涌かないときは、「掘抜き」という技法が行われるようになる。  江戸の地下を掘って掘って或る程度まで掘ったら、次に節を抜いた竹をズンズンと突いてゆく。すると岩盤にぶちあたるので、ゴツンときたらエイと抜く、と深いところの地下水がピューと出てくるという技法で、やがて、最後の突きのときに、先に鉄勢のノミみたいな道具をつけて丈夫にして(あるいは鉄の棒そのものを使って)、岩盤さえも砕いてさらに下のよりよい水さえ得られるようになった。キリをもみもみするようにして抜くので、「もみぬき」という。そして、今回のタイトルになったそれこそ、我等が伝九郎の発明した新技術なのであった!…という話。
 じつはホントウは、この一連の掘抜き→揉み抜きの技術というのは、大阪の職人が一八〇〇年ごろまでに発明したそうで、そもそも江戸より大阪の方が都市の歴史は古い。ところが、大阪はちょっと掘るだけでは塩水がでてきてしまう…というところから、昔から試行錯誤していたのであった。
 四国は高知の中心部、JR高知駅の近くに、土佐で飲料用として始めて掘られたられたという井戸のあったところ、として市蹟として「桜井跡」というのがあるけれども、これは藩の役人が参勤交代の途中で近江国で見たモミヌキ法をもちこんだものだそうな(まさに一八〇〇年のできごとだなんだと)。きっと江戸の伝九郎も、発明したというのではなく、その技術をいち早く江戸で実践した、といことだったのかもしれない。ほかになかったのだから、それくらいのCMはカンベンして!
  《引用終了》
これ以上の解説は不要であろう。当該記事には当時の江戸の水事情も詳細に書かれており、本話の解読には必読。
・「がわ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『ケ輪』で「がわ」とルビする。長谷川氏の注に『井戸側。井戸の側壁。桶の底のない形の物で、ひば材が良い。』とあるが、さすれば「側」ではなく、「たが」の約であろう。但し、この本文部分の工法描写はよく意味が分からない。そもそも、これでは「揉み抜く」という意が説明出来ないのである。適当に辻褄を合わせて(否、誤魔化して)訳した。
・「本所中の郷」現在のウンコビル(奇体なモニュメントに由来する私と妻の符牒)アサヒビール本社のある辺り(旧本所中の郷竹町。現在の墨田区吾妻橋一丁目)から東の北十間川左岸業平橋手前一帯の旧地名。
・「修験」これは山伏などの格好をしながら、怪しい御札や似非祈禱を生業とする者であろう。
・「水神は天女の姿なる」竜王の娘。竜宮にいるという仙女のことを言う。本来の姿は勿論、蛇身である。

■やぶちゃん現代語訳

 水神を夢に見て幸いを得た事

 寛政六、七年の頃、「もみぬき」という井戸掘りの仕方が流行し――下谷や本所辺りの、水の性質たちが悪しく、日々の生活にも甚だ支障をきたいて御座った土地にても〔根岸注:底のある「ガワ」を打ち入れた上、そこからといを突き刺して水を注入、その水流を以って揉み貫くという手法。〕流行って――水の不便な所にても大いに益をもたらす事、これ、御座った。
 さても、その井戸掘りの工夫を成して、流行の起立きりゅうを致いたは、これ、本所は中の郷に住まいせる伝九郎という井戸掘りで御座る。
 この伝九郎には、ちまたにちょいと不思議なる噂が御座る。
……かの伝九郎、とある年の夏ののこと、天女とも見紛う一人の女が夢枕に立って、
「――わらわは水神じゃ。――近いうち、なんじが家に来たらんとぞ思う。――」
のたまうたかと思うたら、そこで目が覚めた。……
 数日経って――夏場のことなれば――涼みがてら、川端に出でて水浴びなんどを致いて御座ったところ、川ん中で、何やらん、足に触れたものが御座った。
 取り上げてみたところが、これ、一体の木像――
 しかも、よくよく見てみれば、これ、先日、夢中に見た天女とも見紛うた、かの女と、瓜二つ――
 早速、持ち帰ってはみたものの、はたと考えた。
「……水神やぁ、まず、竜王の姿なんが、お定まりじゃあねえかぁ?……」
と怪しんで、近所に住もうておったにわか修験しゅげんに見せ、
「……どうじゃ?……」
と訊ねたところ、
「――いや、これ、水神さまじゃ――水神さまは、これ、天女の姿をなさって御座るものじゃ。」
と申した故、伝九郎――水絡みの生業なりわいなれば――即、神棚を拵え、その中に水神さまを勧請の上、朝暮れとのう、祈誓致いて御座った。……
 すると……日増しに仕事もうまく行き始め……今では、何と、下女下男までも数多あまた召し使つこうて、『伝九郎』と言えば、たれ一人として知らぬ者もない井戸掘りにて御座る、とか。



 杉山檢校精心の事

 杉山檢校凡下ぼんげの時、音曲おんぎよくの稽古しても無器用にして事行ことゆくべしとも思われず、其外何にても是をもつて盲人の生業なりわひを送らん事なければ、深く歎きて三七日さんしちにち斷食して、生涯の業を授け給へと丹誠をぬきんで、江の嶋の辨天の寶前に籠りしが、何のしるしもなければ、所詮死なんにはしかじと海中へ身を投しに、打來うちきたる波にはるかみぎはに打上られし故、扨は命いきん事と悟りて、辨天へ歸り申ける道にて、足にさはる物あり。取上見れば打鍼うちはり也。然らば此鍼治しんぢの業をなして名をなさんと心底を盡しけるが、自然と其妙を得て今杉山流の鍼治と一派の祖と成しとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:水神龍女が福を授けた話から、同眷属とされる弁財天(元はインドの河川神で、本邦では中世以降に蛇神宇賀神と習合、弁才天の化身は蛇や龍とされる)が同じく福を授ける同類譚で直連関。
・「精心」底本では右に『(精進)』と注するが、このままでもおかしくない。
・「杉山檢校」杉山和一すぎやまわいち(慶長一五(一六一〇)年~元禄七(一六九四)年)は伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身の検校。鍼の施術法の一つである杉山流管鍼かんしん法の創始者で、鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した人物。以下、参照したウィキの「杉山和一」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『津藩家臣、杉山重政の長男として誕生。幼名は養慶。幼い頃、伝染病で失明し家を義弟である杉山重之に譲り江戸で検校、山瀬琢一に弟子入りするも生まれつきののろさや物忘れの激しさ、不器用さによる上達の悪さが災いしてか破門される。実家に帰る際に石に躓いて倒れた際に体に刺さるものがあったため見てみると竹の筒と松葉だったため、これにより管鍼法が生まれる。(この話は江の島においては江の島で起こった出来事と伝えられ、躓いたとされる石が江島神社参道の途中に「福石」と名付けられて名所になっている。)その後、山瀬琢一の師でもある京都の入江良明を尋ねるも既に死去しており息子の入江豊明に弟子入りすることとなった。入江流を極めた和一は江戸で開業し大盛況となった。六十一歳で検校となり、七十二歳で綱吉の鍼治振興令を受けて鍼術再興のために鍼術講習所である「杉山流鍼治導引稽古所」を開設する。そこから多くの優秀な鍼師が誕生している。将軍綱吉の本所一つ目の話は有名である。和一は江戸にも鍼・按摩の教育の他、当道座(盲人の自治的相互扶助組織のひとつ)の再編にも力を入れた。それまで当道座の本部は京都の職屋敷にあり、総検校が全国を統率していたので、盲人官位の取得のためには京都に赴く必要があった。和一は元禄二年に関八州の当道盲人を統括する「惣禄検校」となり、綱吉から賜った本所一つ目の屋敷を「惣禄屋敷」と呼び、これ以後、関八州の盲人は江戸において盲人官位の取得が出来るようになった』。この「本所一つ目」の逸話については、「杉山検校遺徳顕彰会ホームページ」「杉山和一総検校ついて」のページに『老いてもなお江戸から毎月江ノ島詣でを続ける検校の身を案じて、また昼夜にわたりそばにおいておきたい綱吉自身のため、綱吉が本所一ツ目の土地を与えてここに弁財天を分社して祀らせた。これには次のような逸話がある』として記されてある。それによれば、元禄六(一六九三)年、将軍綱吉が「何か欲しいものは無いか」と尋ねたところ、杉山和一が「目が欲しい」と答えたところ、綱吉は本所一ツ目(現在の両国駅近くの墨田区千歳一丁目)に宅地を与え、その際、『「望みによって一ツ目を与える。本所一ツ目一八九〇坪、外川岸付き七九二坪を町屋(町屋を作らせ地代は私費に充てる、但し処分は官の許可要する)として与え、弁財天をこれに勧請し、老体のことゆえ江ノ島の月参りはほどほどにするがよかろう。弁天社は古跡並み(徳川氏入国以前の社寺を古跡とし種々の特典がある)にし、江ノ島への願いは朱印状(将軍の朱印を押した書付、絶対の権威がある)をあたえる」』と述べたという(引用に際し、アラビア数字を漢数字に代えた)。『この弁才天は江戸名所図会にも記載されており本所一つ目弁財天として江戸中の信仰を集め、大奥からの船での参詣も多かった』。現在の江島杉山神社がある場所一帯で『ここが惣録屋敷や鍼治講習所があったかつての弁才天跡地で本社の奥に江の島の弁天洞窟を模した洞穴があり、弁財天が祀られている。またここの弁天様は人面蛇身で、杉山検校の関係もあって鍼術の守神であり、学芸上達・除災を祈る人が多い』とある。根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから、和一の死後、四十三年後である。
 なお、江ノ島の福石や杉山検校墓などについては、私の「新編鎌倉志卷之六」の「江島」の項や私の注を参照されたい(写真附)。
・「凡下」江戸期における盲人の階級呼称の一つ。検校・別当・勾当・座頭の四つの位階(更にそれが七十三段階に分かれていたとされる)の最下層の座頭ざとうの一階級(若しくは同位階内の集団の通称)かと思われる。
・「三七日」岩波版長谷川氏注に『ぎょうの一くぎりの期間七日を三度重ね。』とある。
・「生涯の業」の「生涯」は底本では「生害」で、右に「生涯」を傍注する。改めた。
・「室前」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『宝前』。こちらで採る。
・「所詮死なんにはしかじと海中へ身を投しに、打來る波に遙の汀に打上られし故、扨は命生ん事と悟りて、」このエピソードは初見。話としては膨らんで面白くはある。

■やぶちゃん現代語訳

 杉山検校の精心の祈誓の事

 杉山検校が未だ凡下ぼんげの座頭であられた折りのこと、音曲おんぎょくの稽古を致いても、これ、全くの不器用にて御座ったがため、上達する見込みがあるようにも到底思われず、その外の目の不自由なる者の生業なりわいと致すわざにても、これ、何を以ってしてもものにならざることと深く嘆かれ、三七さんしち二十一日の間、断食をなして、「――何卒、一生のわざを授け給え――」と丹精を込めて、江ノ島の弁天の宝前に籠もられては、覚悟の祈誓をなさって御座った。
 が、行が明けても、何の験しも、これ、御座らなんだによって、
「……かくなっては……最早、死ぬしか……御座るまい……」
と、江ノ島の海中へと、その身を投じられた。
――が――
――気が付けば――打ち寄せる波に、遙かな浜へと打ち上げられて御座った故、
「……さても――未だ生きよ――とのことならん……」
と悟って、弁天のやしろへと今一度戻り、命を救うて下された御礼を申し上げんとした、その途次、
――チクリ――
と、何やらん、足に鋭く触るるものが、これ、御座った。
 取り上げて見れば、これ、はりで御座った。
「……然らば! この鍼を用いた鍼治しんじわざを成して名を成さん!」
決定けつじょうなされた、とのことじゃ。……
 そののち、心底を尽くして鍼治の修行に励まれたが、自ずと、鍼術の妙技処方を会得なされて、今に杉山流の鍼治として一派を成された、とのことで御座る。


 痳病妙藥の事

 かる石を滿願寺抔上酒じやうしゆにひたし、やき候て又酒にひたし、再遍さいへんいたし候得さふらえば粉に成碎なりくだけ候を、細末にして呑むにはなはだ奇妙なるよし。ためしたる人の物語り也。

□やぶちゃん注
○前項連関:杉山流針治始祖譚から民間医薬で医事連関。それにしても、本文中にはその肝心の有効病名が記されていない。フロイト的に考えると、いろいろ憶測されて面白いな。
・「痳病」淋病。真正細菌プロテオバクテリア門βプロテオバクテリア綱ナイセリア目ナイセリア科ナイセリア属 Neisseria 淋菌 Neisseria gonorrhoeae に感染することで発症する性感染症。ウィキの「淋病」によれば、『淋は「淋しい」という意味ではなく、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現したものである。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症のために、尿道内腔が狭くなり痛みと同時に尿の勢いが低下する。その時の排尿がポタポタとしか出ないので、この表現が病名として使用されたものと思われる』。学名の種小名は古くからのこの病気の呼称で『古代の人は淋菌性尿道炎の尿道から流れ出る膿を見て、陰茎の勃起なくして精液が漏れ出す病気(精液漏)として淋病をとらえ、gono=「精液」 、rhei=「流れる 」の意味の合成語 gonorrhoeae と命名した』とある。また、『新生児は出産時に母体から感染する。両眼が侵されることが多く、早く治療しないと失明するおそれがある』とある。高校の保健体育の老教師は、昔の風呂屋は浴槽の温度が低かったから、感染者から漏れ出た淋菌が相対温度の低い角の部分に生きて集まっており、そこに入った小児の眼に淋菌が感染、重い淋菌性結膜炎を起こして失明する、それを風眼ふうがんというんだ、と風呂屋の図入りで滔々と教授されていたのを思い出す。少し眉唾っぽいところもあるが、江戸時代の劣悪な湯屋ゆうやなら、そういうこともあったかも知れないな。
・「滿願寺」摂州の北に位置し、酒造業で栄えて交易地としても知られた池田(現在の大阪府池田市)にあった満願寺屋酒造。大阪府立中之島図書館の小展示資料集の「近世大坂の酒」には、元禄一〇(一六九七)年には酒造家数三十八『戸を数え、田舎酒群から近世的酒造業に脱して銘醸地となった。その原因は、幕藩体制の初期より「酒造御朱印」(酒造免許権)が池田に下付されたことのほか、技術的には良質な猪名川の伏流水という優れた醸造用水と、山間部の良質な酒米を容易に得られたこと、それに猪名川の舟運が利用でき、江戸積みに有利であったことによる』。『池田酒の始祖といわれる満願寺屋九郎右衛門の政治的手腕により、徳川家にくいこみ江戸幕府の保護をかちとり、徳川の天下統一とともに急速に発展をとげ、一時期は伊丹』(今の兵庫県伊丹市。その伊丹酒いたみざけは将軍の御膳酒御用達であった)『と並んで江戸を完全におさえてしまうまでにな』ったが、安永五(一七七六)年『に満願寺屋の手中にあった「御朱印」が取り上げられ、満願寺屋の没落とともに池田の酒造業も急速に衰え、「灘の酒」にその地位を譲ることになる』とある。この御朱印取り上げというのは気になるな。
・「上酒」品質の良い高級酒。

■やぶちゃん現代語訳

 淋病の妙薬の事

 軽石を満願寺なんどの良き酒にひたしおいた後に焼き、また漬しては焼く、ということを何度も繰り返せば、これ、遂には粉になって砕けて御座る。これを更に磨って粉末と致し、服用致さば、これ……「あの病」に……絶妙の効め、これ、あり!……とは……いやいや! これを試して御座った御仁の話、にて御座るよ。


 古人英氣一徹の事

 恐ながら、大猷院たいいふゐん樣御幼稚の節、神君の御賢慮をもつて、仁智勇の三味を以御養育申上し事は、諸人の知る所也。右の内土井酒井仁智の役分、靑山伯耆守は勇氣の御見立にて、常御面つねにおもてを犯し身命をなげうちて強諫等申上まうしあげし由。右三傑の内、伯耆守は成惡なしにくき役分也と我も思ひ人も申ける故、或時當靑山下野守へ一座なれば尋問せしに、伯耆守所業等別段の傳書もなけれど、いささか書記の申傳まうしつたへなきにもあらず、誠聖知安行まことせいちあんかうとも申奉まうしたてまつるべき、大猷公なれど、直諫度々なれば思召おぼしめしに障りしや、百人組のかしらを勤し時御勘氣を蒙りしに、いかなる事にや一僕をも不召連めしつれず、御殿よりはだしにて退出なして、屋敷へも不立寄たちよらず舊領相州へ蟄居なしける故、貮萬石の領知りやうち被召上めしあげられしが、なほ御舊懇を被思召おぼしめされ隱居料を被下くだされしをも御ことわり申上て、終に配所にて卒去ありし由。其後御成長に隨ひ舊年の忠言共被出思召どもおぼしめしいだされ、倅へ御加恩等被下、右の趣伯耆守が墓所に申せよと難有ありがたくも御落涙に被爲及およばされしとて、子息も感涙にむせびしと今に申傳ふる由。百人組の與力は右の筋、頭のはだしにて御番所前を退出故、草履をはかせ兩三人供をして、一同に伯耆守が落着の所迄至りし也。もつとも頭の事なれば供をなせしもさる事ながら、御番所を明け候段不ふとどきとて一旦改易有しが、程なく被召歸めしかへされ、今に其子孫百人組の與力をつとむる者兩三人あり。吉例にて毎年正月年始に右與力參る時、草履一足づつ紙につつみ持參なす由、物語りありし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。「卷之一」からしばしば登場する一連の大猷院家光絡みの武辺物語の一。
・「土井酒井」老中土井利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二十一(一六四四)年)と酒井忠世(元亀三(一五七二)年~寛永十三(一六三六)年)。次に注する本話の主人公、老中青山忠俊(天正六(一五七八)年~寛永二十(一六四三)年)と三名で、家光の傅役(ふやく・もりやく)となった。土井利勝は、系図上では徳川家康の家臣利昌の子とするも、家康の落胤とも伝えられる。幼少時より家康に近侍し、次いで秀忠側近となった。家康の死後は朝鮮通信使来聘などを務めて幕府年寄中随一の実力者として死ぬまで幕閣重鎮として君臨した。酒井忠世は名門雅楽頭系の重忠と山田重辰の娘の嫡男として生まれ、秀忠の家老となる。元和元(一六一五)年より土井・青山とともに徳川家光の傅役となったが、家光は平素口数少なく(吃音があったともある)、この厳正な忠世を最も畏れたとされる。但し、秀忠の没後は家光から次第に疎まれるようになり、寛永十一(一六三四)年六月に家光が三十万の軍勢を率いて上洛中(彼はそれ以前に中風で倒れているためもあってか江戸城留守居を命ぜられていた)の七月、江戸城西の丸が火災で焼失、報を受けた家光の命によって寛永寺に蟄居、老中を解任された。死の前年には西の丸番に復職したが、もはや、幕政からは遠ざけられた。
・「靑山伯耆守」青山忠俊は常陸国江戸崎藩第二代藩主・武蔵国岩槻藩・上総国大多喜藩主。青山家宗家二代。江戸崎藩初代藩主青山忠成次男。遠江国浜松(静岡県浜松市)生。小田原征伐で初陣を飾り、兄青山忠次の早世により嫡子となった。父忠成が徳川家康に仕えていたため、当初は同じく家康に仕え、後に秀忠に仕えた。大坂の陣で勇戦し、元和二(一六一六)年に本丸老職(後の老中)となった。忠俊は男色や女装を好んだりした家光に対して諫言を繰り返したことから次第に疎まれ、元和九(一六二三)年十月には老中を免職、に岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)四万五千石より二万石の上総大多喜(おおたき:現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に減転封されたが、それも固辞して相模国高座郡溝郷に蟄居、同今泉村で死去した。秀忠の死後、家光より再出仕の要請があったが断っている。但し、百人組の頭であったのは遡る慶長八(一六〇三)年のことであり、石高なども合わず、本話は事実とはやや反する。
・「御面を犯し」主君の面目をも顧みず、忌憚なく諫める。
・「成惡なしにくき」は底本のルビ。
・「爲及およばされ」は底本のルビ。
・「當靑山下野守」ここは本文の記載時でのことを述べており、青山忠俊の七代後裔に当たる青山宗家当主である青山忠裕(明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)を指している。執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春時点では、忠裕は西丸(徳川家慶)附の若年寄であった。後、文化元(一八〇四)年、老中。
・「聖知安行」「生知安行」が正しい。生まれながらにして物事の道理に通じ、安んじてこれを実行することを言う(「礼記」中庸篇に由る)。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では極めて面白いことに、ここは『聖智闇行』となっている。岩波版長谷川氏注では、『ここに家光の所行を闇行とするに何か筆写者の意をこめるか』とある。激しく同感するところである。
・「百人組」鉄砲百人組。二十五騎組(青山組)・伊賀組・根来組・甲賀組の四組からなり、各組に百人ずつの鉄砲足軽が配された。組頭は、その鉄砲隊の頭領。平時は主に江戸城大手三之門に詰め、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際の山門前警備に当たった。参照したウィキの「百人組」によれば、『徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていた。鉄砲百人組とは、その非常時に動員される鉄砲隊のことであり、四谷に配されたという』とある。
・「倅」青山宗俊(慶長九(一六〇四)年~延宝七(一六七九)年)。青山忠俊長男。父が蟄居になった際、父とともに相模高座郡溝郷に蟄居したが、寛永一一(一六三四)年に家光から許されて再出仕、寛永一五(一六三八)年、書院番頭に任じられて武蔵・相模国内で三千石を与えられ旗本となった。寛永二一(一六四四)年に大番頭に任じられ、正保五(一六四八)年には加増されて信濃小諸藩主となった。寛文二(一六六二)年、大坂城代に任じられ各所に移封、延宝六(一六七八)年に大坂城代を辞職して浜松藩に移封となっている(以上はウィキの「青山宗俊」に拠る)。

■やぶちゃん現代語訳

 古人の英気一徹の事

 畏れながら、大猷院だいゆういん家光様が御幼少の砌り、神君家康公の御賢察を以って、「智・仁・勇」の三種の趣きに依って御養育申し上げたことは、これ、諸人の知るところではある。
 その三種の内、土井利勝殿と酒井忠世ただよ殿は、それぞれ「智」と「仁」の、青山伯耆守ほうきのかみ忠俊殿は「勇気」の御教授手本の御担当となられ、これ、主君の意に背くことを厭わず、身命しんみょうなげうって厳しき諫言など、常に申し上げなさった由。

 さても、この三人の傑物の内、伯耆守忠俊殿のお受けになられた「勇」――これ、どう考えて見ても、誠に成し難き役回りではある、と、いや、これ、私も思い、また、知れる人々も申すことの多く御座ったれば……ある時、当代青山家御当主であらせらるる青山下野守宗俊殿と、たまたま同席致いた折り、周りの者どもともに、お訊ね致いたところ、宗俊殿の仰せらるるには……

「……我が祖たる伯耆守の事蹟に就いては……特にしっかとした伝わっておる書付や家伝も、これ、御座らねど……全く、それに関わるところの文書もんじょの類いが、全く以って御座らぬ訳でも、これ、御座ない。……誠に、生知安行せいちあんこうとも申し奉るべき大猷院様ではあらせられたものの……これ、我が祖忠俊の直諫ちょっかんの度重なって御座ったれば……思し召しに、これ、障ることもあられたものか、忠俊、百人組かしらを勤めておった折り、遂に御勘気を蒙って御座った。……
……すると……
……どうしたことか分からねど……一僕をも召し連れずして……勤務しておった御殿より……裸足にて退出致いて……己が屋敷へも寄らず……旧領の相州へと徒歩かちだちのまま向かうと、そのまま、蟄居致いて仕舞しもうた。……
……そうして、二万石の領地も、これ、召し上げなされたれど……それでも大猷院様、旧懇のよしみと、隠居のための家禄を下されなさったれど……それをも、お断り申し上げ……遂に、配所にて卒去致いた……。
……そののち、大猷院様、御成長に随い、過ぎし日の我が祖伯耆守の忠言なんどを思い出され遊ばさるるに、倅たる青山宗俊に、何と、御加恩なんどまでも下賜下され、
「……以上の我らが趣意、伯耆守の墓所に、申せよ。……」
と、有り難くも……大猷院様ご自身……御落涙、遊ばされ……
……子息たる宗俊儀も、これ、感涙にむせんで御座ったと……今に、伝わって御座る。……
……さても、百人組の与力は、これ、先の我が祖の出奔の際、かしらが大手三の門御番所より、裸足のままに退出致いたが故、三人の配下の者が、その後を追うて草履を履かせ、両三人ともども、伯耆守に供をして、一同、伯耆守の落ちた相模の蟄居所まで、同道致いたと申す。……
……これに就きては、
――かしらの供を致いたは、これ、尤もなることと雖も、御番所を明けたままに致いたは、これ、不届ふとどき――
と相い成り……彼らもまた、一旦は改易となって御座った……が……ほどのう、役に召し返され、今に、その子孫、百人組の与力を勤めて御座る者、これ、その数通り、両三人、御座る。……
 吉例と致いて、毎年正月年始には、この彼ら、その三方所縁さんかたゆかりの三人は、これ、草履を一足ずつ、紙に包んで持参致すを、例となして御座ると申す。……」

 これ、その青山下野守宗俊殿自身、物語りなさったことにて御座る。



 增上寺僧正和歌の事

 寛政八年の頃、不如法ふによほふの僧侶ありて罪におこなはれしに、增上寺五拾三世嶺譽智堂僧正のよめる歌とて人の見せ侍りし。一宗の貫主かんじゆ左もあるべき事と爰に記しぬ。
  救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法の衣手

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。和歌物語。
・「不如法」仏法に反すること。戒律を守らないこと。話柄や和歌から察しても死罪相当の重罪と思われる。
・「嶺譽智堂」(享保一一(一七二六)年~寛政一二(一八〇〇)年)は増上寺五十二世。元文元(一七三六)年増上寺智瑛(第四十八背に典譽智英と名乗る人物がいるが彼か)に師事、安永四(一七七五)年に霊厳寺住持となり天明四(一七八四)年に隠居したが、寛政二(一七九〇)年、幕命により伝通院に住して紫衣を下賜され、同四年、増上寺貫主となった(以上は主に底本の鈴木氏注を参考にした)。
・「貫主」「貫首」とも書き、「かんしゅ」とも読む。本来は「貫籍(かんせき・かんじゃく:律令制の本籍地の戸籍。)の上首」の意で天台座主の異称であったが、後には各宗総本山や諸大寺の住持にも用いられるようになった(増上寺は浄土宗である)。貫長。管主。
・「救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法の衣手」読みは、
  救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬのり衣手ころもで
である。「世の塵にけがさぬ法」は、穢土の塵に穢れることのない仏法の意と、俗世の塵(欲)に煽られて、その取り決められた法の定めを犯すようなことはあってはならぬ、の意を込めるか。
――人を救うだけの力がないというのであれば――せめて俗世の法を守って、仏法の道を塵に汚すようなことはせぬが――僧衣を纏う者の、これ、守るべき定め――

■やぶちゃん現代語訳

 増上寺僧正の和歌の事

 寛政八年の頃、不如法ふにょほうの僧侶が御座って罪を問われて罰せられたが、これにつき、増上寺五十三世嶺誉智堂僧正の詠まれた歌とて、人が見せて呉れた。かの増上寺の、一宗の貫主かんじゅたるお方なればこそ、かくもあるべきことじゃ、と私も感じ入って御座った故、ここに記させて戴く。
  救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法の衣手



 貴賤子を思ふ深情の事
 老職をつとめ給ふ伊豆守信明公、寛政八年、公命をこふて日光へゆきて事を行ひ給ふを、母儀の送るとてよみ給ふよし。
  思ふぞよその黑髮の山越へて誠の道を踏迷ふなと

□やぶちゃん注
○前項連関:和歌物語二連発。
・「伊豆守信明」宝暦一三(一七六三)年)~文化一四(一八一七)年)三河吉田藩第四藩主。所謂、寛政の遺老。寛政五(一七九三)年に定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導、享和三(一八〇三)年十二月に一旦、老中を辞職するも、二年半年後の文化三(一八〇六)年五月には老中に復帰、死去するまで幕政を牛耳った。寛政八(一七九六)年は正しく未だ現役老中時代、老中という名に騙されてはいけない! この時、彼は満三十三歳である。
・「思ふぞよその黑髮の山越へて誠の道を踏迷ふなと」
  思ふぞよその黑髮の山越へて誠の道を踏み迷ふなと
「黑髮の山」日光の男体山。昔より日光山・黒髪山・二荒ふたら山などの異称を持つ。とは黒髪山は全山緑樹が覆い繁っていることから、二荒山は観音浄土の補陀洛(梵語フダラク)に基づく。「黑髮の山」は黒髪山と未だ壮年の信明を掛けていよう。歌意は、
――こころから願っておりますぞよ……その未だ黒髪の若気なればこそ、黒髪山の山中にて本道を踏み迷うな、日光山のお勤めにて、まことの御政道を踏み迷うな、と――

■やぶちゃん現代語訳

 貴賤の区別なく子を思う深情に変わりのなきこと事

 老中職を勤められた伊豆守信明殿が、寛政八年、公命を受けて日光へ赴任なさるること相い成った。
 その際、御母堂がお見送りをなさるとて、その折り、お詠になられたという歌。

  思ふぞよその黑髪の山越へて誠の道を踏迷ふなと



 かたり事にも色々手段ある事

 近頃の事也。牛込赤城の門前に名題なだいの油揚を商ふ家あり。右油揚名物の段は下町山手迄も隱れなければ誰しらざる者なし。或日壹人の侍ていの者、衣類等賤しからず、かの油揚を錢貮百文調ひて、右見世みせに腰をかけて水もたまらず喰盡くひつくし、夫より日數廿日程過て又々來りて、同じく油揚を百文分喰ひけるが、其日は時の𢌞りにや油揚うり切る程に商ひける故、聊か不審を生ぜし間、其後日敷經て來る時、御身程油揚好み給ふ人なしとて馳走なしければ、飯酒めしさけ不及申まうすにおよばず、油揚のみ喰て、我等事は江戸中は愚か、日本中の油揚喰はざる所もなし、然るに此所にまさる事なしとて、其住居もあからさまにはいわず、全く稻荷の神ならんと家内尊崇なしけるが、去年の暮の事也しが、又々來りて例のとほり油揚を喰ひ、代錢も亦例の如く拂ひて後、我々も少々官位の筋ありて、近頃には致上京じやうきやういたし候など咄して、路用も大かた調ひぬれど、いまだ少々不足故延引の由を語りければ、彼油揚屋は兼て神とぞ心得をりける故、其不足をききて調達をなしなんといへどことわりて承知せず。元日の間にあはず殘念なれなどいひて不取合とりあはざる故、家内信仰の餘り深切しんせつ尋問たづねとひければ、拾五兩程の由故、すなはち亭主も右金子取揃へつかはしければ、かたじけなき由にて預りの證文なすべきといひしに、それにも不及およばずとの事故、左あらば我等が身にもかへがたき大切の品を預けしるしとせんとて、懷中より紫の服紗ふくさにて厚包あつくつつみて封印急度きつとなしたる物を渡し、路用官金等も調ひし上は明日出立して上京なし、日數五日には立歸り又上京なすべしといひし故、彌々神速じんそくは人間にあらざる事と感賞して、右服紗包は大切に仕𢌞ひ置しが、五日過ても沙汰なし。春に成りても何の沙汰なければ、彼服紗包を解きあらためければ温石をんじやくなれば、はじめてかたりに逢ひし事を知りて憤りけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。騙り話としては何となく憎めない気がする滑稽譚ではある。ただ想像すると、油臭くて気持ちが悪くなるという欠点はあるが。先行する「世間咄見聞集」(作者不詳 元禄十一(一六九八)年)の元禄一一年の条には、やや類似した手口で饅頭屋の主人が稲荷を騙る博打打ちによって富貴になるための加持祈禱の依頼に絡んで三百両を騙し取られる話が載り、また北条団水の「昼夜用心記」(宝永四年(一七〇七)年)の「一の五」には、京都小川通りの菓子屋が同様の手口で隠居料七百料をすりかえられた話が載る(以上は岩波文庫版長谷川強校注「元禄世間咄見聞集」の本文及び注を参考にした)。
・「牛込赤城の門前」現在の東京都新宿区赤城元町にある赤城神社の東西にあった門前町。ここは明治維新までは赤城大明神・赤城明神社と呼ばれた。
・「水もたまらず」は「水も溜まらず」で、刀剣で鮮やかに切るさま。また、切れ味のよいさまを言う語であるが、ここは当人が侍(事実そうかは知らない)であることに引っ掛けてあっという間に、素早く、の謂いである。
・「時の廻り」その男が現われた、その日のその時刻が偶然、油揚げが異様に売れて売り切れるのと一致したことを言う。冷静なる話者による挿入である。
・「急度きつと」は底本のルビ。
・「温石をんじやく」は底本のルビ。言わずもがなであるが、軽石などを焼いて布などに包み、懐に入れたりしてからだをあたためるために用いる石。焼き石。しばしばこの手の騙りでは御用達の、小判や宝玉の似非物となる。
・「去年の暮の事也しが」冒頭に「近頃の事也」とあるから、これは高い確率で執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春の前年寛政八年か、七年の暮れと考えられる。

■やぶちゃん現代語訳

 騙り事にも色々手段の御座る事

 近頃のことで御座る。
 牛込赤城明神の門前に、名代の油揚げをあきのう店が御座る。ここの油揚げの評判なることは、これ、下町・山手までも隠れなく、知らぬ者とて御座らぬ。
 ある日のこと、一人の侍ていの者が来たって――これ、着衣なんども賤しからざる御仁にて御座ったが――かの油揚げを何と、銭百文分も買い求めて、そのまま店先に腰を掛けて、眼にもとまらぬ速さで喰い尽くすと、黙って帰って御座った。
 それより二十日ほど過ぎて、またまた来たって、同じく油揚げ百文分を喰い尽いて同じきに帰って御座ったが――その日は、これ、たまたま時の回りが一致したものか――その御仁の来たった折りが丁度、油揚げの売り切れる程の繁昌に当たって御座ったがため、店の主人は聊か、
『……不思議なことじゃ……』
と思うた。
 かの御仁、その後、数日を経て再び現れたによって、主人は、
「……貴方さまほどに、油揚げをお好みにならるる方は、初めてにて御座ります。」
と声をかけ、膳を進めて饗応致いた。
 しかし、かの男、飯や酒は申すに及ばず――油揚げ以外のものには一切口をつけず――油揚げだけを、これ、喰う、喰う、また喰う、その時あった、ありったけの油揚げを皆、喰い尽くして、而して曰く、
「……拙者は江戸中はおろか――日本中の油揚げ――これ、喰うたことのない油揚げは、御座ない。……然るに――ここの油揚げに優るものは、これとて、御座ない!」
と喝破した。
 丁重に男の住まいなんどを訊ねてはみたものの、これ、何故かはっきりとは言わずに、その日も帰って御座った。
「……これはもう――全く稲荷の神さまに相違ない!……」
と主人以下家内一同、すっかり尊崇致す仕儀と相い成った。……
 ところが、去年こぞの暮れのことで御座る。
 またまたかの男の来たっては、例の通り、油揚げを鱈腹平らげ、代銭もいつも通りにはろうた後、
「――実は――我らこと――この度、少々、官位昇進の筋――これ、御座っての――近いうちには――これ、上京致すことと、相い成って御座った……」
なんどという話しを始めたかと思うと、
「……いや路銀も大方は……調うて御座るのじゃが……未だ少々……不足して御座る故……出立しゅったつは延引致さざるを得まいが……これで……官位昇進の道は断たるることと相い成ろうかのぅ……」
と語って御座った故、かの油揚げ屋主人、かねてより、稲荷神と信じて御座った故、
「――その不足の分は、お幾らで御座いまするか? わたくしどもが御用達致しますに依って!」
と申し述べたところが、男は断って、一向に承知致さぬ。しかし、そのそばから、
「……官位昇進の儀なれば……元日に間に合わぬというは……これ……我らが眷属の絶対の礼式を失し……官は最早得られぬ……ああっ! これ……如何にも残念無念じゃ!……」
と独りごちながらも、やはり、借財の申し出はとり合わぬ故、家内一同、懇切丁寧に祈誓致いては不足の金子を尋ね問う。すると、男はいやいや、
「……そうさな……十五両ほどで御座るが……」
との申したによって、主人は早速に金子を取り揃え、男に差し出だいたれば、男は、
「――かたじけない!」
とて礼を述べ、懐に収むると、
「……さすれば……預かりの証文……これ、したたむるが――法――で御座ろう、のぅ……」
と申したによって、主人は、
「いえ――我らの尊崇致しますお方なればこそ――それには及びませぬ。」
と答えたところ、男は、
「――そうか。――さすれば我らが身にも、代え難き大切なる――ある品を――これ、貴殿に預けおき――れを預かりの證文の代わりのしるしと致しそう。――」
と申すと、懐中より紫の袱紗ふくさにて厚く包みて、厳重に封印された物を取り出だすと、うやうやしく主人に渡いた。
「――路銀と官位取得のための上納金なども調った上は、明日、出立致いて上京をなし――そうさ、五日の後には立ち帰って――その折りに下賜された金子を以て貴殿に返金致いて――再び上京致す所存にて御座る。」
と申す故、主人以下家内一同、聞き及んで、
「いや! いよいよお稲荷さまじゃ! その神業の脚力、これ、やはり人間にはとてものこと、出来ざる速さじゃて!」
と感嘆すること頻り。……
 その日、主人以下一同、店先にて合掌を成す中、男は深々と礼を致いて帰って御座った。……
 さても主人は、かの預かった袱紗包みを大切に仕舞いおいて御座ったが……
……五日過ぎても……音沙汰が……ない……
……春になっても……何の音沙汰も……これ……御座ない……
……痺れを切らいた主人、かの袱紗を取り出だいて、これを解き改めて見たところが……
……中にあったは……
――温石おんじゃく一つ――で御座った……
……されば、ここに初めて、かたりにうたことを知り、家内一同、憤怒致いたとのことで御座る……いやはや……後の祭り……後の祭り……



 關羽の像奇談の事

 寛政八年番頭を勤仕なしける坪内美濃守物故もつこせしが、彼家には御朱印の内へ御書加かきくはへの同苗どうめう家來、無役むやくにて知行美濃に住居せし由。美濃守物故跡式もつこあとしき等の儀に付、右の内坪内善兵衞とかいへる者江戸表へ出、親族に小石川邊の與力を勤ける者ありて、かの方へ滯留して日々番町の主人家へ通ひけるが、或る夜の夢に、壹人唐冠たうくわん着し異國人と見ゆる者來りて、我は年久敷ひさしく水難に苦しみて難儀なれば、明日御身に出合ふべき間右愁を救ひ給はるべし、厚く其恩を報んといひしとおぼえて夢さめぬ。不思議には思ひしかど可取用とりもちふべきにもあらざれば、心もとゞめず主人家へ明日も至り、夕陽に至り歸路の折柄、水道橋の川端を通りしに、定浚ぢやうさらへの者土をあげて有しが、右土埃つちぼこりの中に壹尺餘の人形やうの物有ありしを、立寄たちよりみれば唐人の像也。夜前やぜんの夢といひ心惡こころあしく思ふ故、定浚の人足に右人形は仔細あれば我等貰ひたし、酒手にても與へんといひしに、揚土あげつちの埃にて何か酒手に及ぶべきとて不取合とりあはざれば、すなはち右木像を持歸りて泥を洗ひしに、いづれ殊勝なる細工なれば、池の端錦袋園きんたいゑん隣成となりなる佛師方へ持行て、是はいかなる像ならんと尋問たづねとひしに、佛師とくと熟覧して、是は日本の細工にあらず、異國の細工也、蜀の關羽義死の後、呉國に其靈を顯しける故、べつして呉越の海濱にては海上を守る神と尊敬そんぎやうして關帝ととなへける由、此像は關羽の像也とはなはだ賞美しける故、莊嚴しやうごん厨子等を拵へ故郷へ持歸りしと、かの與力のかたりけるとや。

□やぶちゃん注
○前項連関:「時の廻り」を企略とした似非稲荷神霊事件から、「時の廻り」で見出された異国の神霊像の霊譚で連関。……しかし……私がこの話を初めて読んだ時、一番に何を想起したか……この水辺で関羽像を拾った男のもとへ、その日の夜中、関羽の霊が訪れて……礼と称してオカマをホられてしまう、という顛末であった。……そう、私の大好きな、あの落語の「骨釣り」であったのだ(リンク先はウィキ)。……♪ふふふ♪……
・「關羽」(?~二一九年)は中国後漢末の武将。河東郡解(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。三国時代の蜀(蜀漢)の創始者劉備に仕えた武将。その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。孫権(呉の初代皇帝)との攻防戦で斬首されたが、後世、神格化されて関帝(関聖帝君・関帝聖君)となった。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。算盤を発明したという伝説まである。「三国志演義」では、雲長・関雲長或いは関公・関某と呼ばれて一貫して諱を名指しされていない点や大活躍する場面が極めて壮麗に描写されている点など、関帝信仰に起因すると思われる特別な扱いを受けて描かれている。見事な鬚髯(しゅぜん:「鬚」は顎ひげ、「髯」は頬ひげ)をたくわえていたため、「三国志演義」などでは「美髯公」などとも呼ばれている(以上はウィキの「関羽」冒頭を参照した)。
・「坪内美濃守」坪内定系さだつぐ(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)。寛政五(一七九三)年、御小性版頭(岩波版長谷川氏注による)。普通、官位は名目であって、実際の知行地とは無関係であるが、ここは「知行美濃」とあって、偶然、一致していたものらしい。これも「時の廻り」か。
・「御朱印」岩波版長谷川氏注には、『知行充行状をいうか』とある。「知行充行状」(知行宛行状)は「ちぎょうあてがいじょう」と読み、石高所領の給付を保証した文書のこと。
・「錦袋園」下谷池の端にあった薬店勧学屋。正しくは「錦袋圓」で、これは屋号ではなく、勧学屋オリジナルの売薬の名。底本の鈴木氏注に『黄檗僧道覚(字は了翁)は修行を達成するため、淫慾を断つべく羅切した』(「羅切らせつ」とは摩羅(陰茎)を切断すること。「らぎり」とも読む)。『その傷口が寒暑に際して痛爛したが、霊夢によって薬方を知り、自ら調剤して治癒した。この薬を売って仏道弘布の大願を成就することを決意して、世間の非難を意とせず、六年間に三千両を貯えた。これによって文庫を設け、勧学寮を建て学徒を勉学させ、さらに池の端に薬店を開いて薬を売り、二十四か寺に大蔵経を納経した。宝暦四』(一七五四)『年寂、七十八。権大僧都法印。錦袋円の名は錦の袋に入っていたところから付けられたという』とある。かなり力の入った脱線注である。……遂にお逢いすることが叶いませんでしたが(先生は鎌倉郷土史研究の碩学としても知られ、先生御自身から鎌倉を一緒に歩いてもよい、という話が当時、私が大学時分、所属していたサークル鎌倉探訪会にあった)、棠三先生、この手のお話、大層、お好きなようですね……いや、私もそうです……夢告という点でも、決して脱線注では御座いませんね、何より、読んで楽しい注です。私も、こうした注を心掛けたいと思っています。……
・「莊嚴しやうごん」かく読む場合は、仏像や仏堂を天蓋・幢幡どうばん瓔珞ようらくといった附帯仏具によって厳かに飾ること、また、その物をいう。

■やぶちゃん現代語訳

 関羽の像奇談の事

 寛政八年のこと、番頭を勤仕ごんしなさっておられた坪内美濃守定系さだつぐ殿が物故なされたが、かの坪内家には、御朱印の内に書き加えられて御座るところの、直参の、同じ坪内と申す苗字の家来が御座って、無役むやくのまま、知行地美濃に住まいして御座った由。
 美濃守殿御逝去の跡目相続御儀式等がため、この坪内善兵衛とか申す者、江戸表へと出でて、その親族で小石川辺に与力を致いて御座る者があった故、その方へ逗留致いては、毎日、番町の主家へと通って御座った。
 その彼が、ある夜、見た夢に、

……一人の、唐冠をかむり、異国人と思しい偉丈夫、これ、来たって、
「――我は、永年、水難に苦しめられ、難儀致いておる。――明日みょうにち、御身に出逢うこととなっておるからして――どうか――この我が愁いをお救い下されたい――さすれば、厚く、その恩に報いん――」
と、語った……

と、思ったところで、めえが覚めた。
 不思議な夢じゃ、とは思ったものの、まあ、益体やくたいもない話でも御座れば、さして気にも留めず、その日の朝も主家へと至り、夕暮れに帰った。
……と……
……その帰るさの路次ろし、水道橋の川っ端を通ったところ、定浚じょうさらえの者が川床に溜まったを、掘って投げ上げた土が山のようになって御座った。
……が、その泥土のうちに……
……一尺余りの人形のような物が……
……これ、ある……
……近寄って……ようく、見るれば……
……これ
――唐人の像――
で御座った。
 昨夜の夢との符合といい、聊か気味悪うも御座ったが、逆にその一致故にこそ、これ、捨て置くわけにも参らずなって、定浚えの人足に向かい、
「……これ、人足。……この人形……その……仔細あれば、我らが貰い受けとう、存ずる。……酒手さかてと引き替えにては、これ、如何いかがか?……」
と声を掛けたところ、
「川んぞこからぶち揚げた泥んこの山ん中のガラクタでぇ! 何で、酒手に及ぶもんけぇ!」
と一向とり合わねば、これ幸いと、そのまま取り上げて持ち帰った。
 かの宿所にて泥を洗い落し、ようく見れば、これ、なかなかに美事なる細工を施した神像で御座った。
 早速、池の端は例の名代の『金袋円』の薬舗の隣に住む仏師の元へと持ち行き、
「……これは、如何なる像じゃろか?」
と訊ねたところが、仏師は暫く凝っと眺めては、手に取って仔細を調べた末、
「……これは……我が日本の細工にてはあらず、異国の細工にて御座る。……蜀の関羽が義死した後、彼を討った呉国にもその神霊が出現致いた故……別して呉越の海浜地方にては、これ、海上を守る神と尊敬そんぎょうし、「関帝」と唱え祀られて御座る由、聴いたことが御座るが……いや! この像は、まさしく、その関羽の像にて、御座る。」
と申した上、その造作ぞうさくを口を極めて賞美致いた。
 されば、かの坪内は、この関羽像のために荘厳しょうごんや厨子なんどまで拵え、かの跡目の式が終わると、故郷美濃へとそれを持ち帰って御座った。……

……とは、かの坪内の親族なる与力が語って御座ったとか申す。



 痘瘡神といふ僞説の事

 世に疱瘡をやめる小兒、未前に物を察し或はあひだへだて尋來たづねきたる人を言當いひあてる故、疱瘡に神ありといふもむべ也と、予が許へ來る木村元長といへる小兒科に尋問たづねとひしに、に問ふ通りなれど、小兒熱に犯されて譫語うはごとをなすを、兒女子のきく所には神鬼あるにひとし、然れ共一般に熱ばかりとも難申まうしがたく、狐狸妖獸の類、無心の小兒熱に精神を奪るゝに乘じぬるもあるらん。元長が療治せる靈岸嶋邊の小兒、其未前を察しなどする事神あるがことし。疱瘡の神ならんと家内の者抔尊崇なしけるが、或日このしろといへる魚と強飯こはめしを乞ひける故、醫師にもたづねその好む所を疑ひしが、心有る者右病人に對し、成程右商品は其乞ひに任すべし、さるにても御身はいづ方より來れる嚴敷きびしく尋ければ、我は狐也、食事にかつしてこの病人に附たり、右望かなひなば早速立去たちさらんと言ひし故、のぞみの品を與へければ、程なく狐さりしと見へて本性に成り、其後は順痘じゆんとう肥立ひだちけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:関羽の神霊譚から、疱瘡神を騙った妖狐譚で連関。医師元長の語りは一見、現在の医学的見地からも正しい導入ながら、あれ? そっちへ行っちゃうの? と聊か意外な展開ではある。
・「疱瘡」高い致死率(約三〇%)を持つ天然痘。複数回既出。「耳嚢 巻之三 高利を借すもの殘忍なる事」などの注を参照されたいが、本話との関わりで附言すると、小児の場合、高熱による熱譫妄ねつせんもうによる意識障害が起こり、幻聴・幻覚・錯乱が現われ、不安・苦悶・精神運動の興奮が見られる。予後も、醜い痘痕あばた以外にも、脳症や失明・難聴などの重篤な後遺症が残ったりした。
「疱瘡神」疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種。以下、非常優れた民俗学的記述となっているウィキの「疱瘡神」から、江戸時代までの部分を引用する(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記号その他を省略・変更した)。『平安時代の『続日本紀』によれば、疱瘡は天平七年(七三五年)に朝鮮半島の新羅から伝わったとある。当時は外交を司る大宰府が九州の筑前国(現・福岡県)筑紫郡に置かれたため、外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、大宰府に左遷された菅原道真や藤原広嗣らの御霊信仰とも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられた。近世には疱瘡が新羅から来たということから、三韓征伐の神として住吉大明神を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていた。寛政時代の古典『叢柱偶記』にも「本邦患痘家、必祭疱瘡神夫妻二位於堂、俗謂之裳神』(本邦にて痘を患ふ家、必ず疱瘡神夫妻二位を堂に祭り、俗に之れを裳神と謂ふ)『(我が国で疱瘡を患う家は、必ず疱瘡神夫妻二人を御堂に祭り、民間ではこれを裳神という、の意)」と記述がある』。『笠神、芋明神(いもみょうじん)などの別名でも呼ばれるが、これは疱瘡が激しい瘡蓋を生じることに由来する』。『かつて医学の発達していなかった時代には、根拠のない流言飛語も多く、疱瘡を擬人化するのみならず、実際に疱瘡神を目撃したという話も出回った。明治八年(一八七五年)には、本所で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えており、あたかも後述する疱瘡神除けのように赤い物を身に付けていたため、それが疱瘡神だったという話が、当時の錦絵新聞「日新真事誌」に掲載されている』(リンク先に同絵あり)。『疱瘡神は犬や赤色を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として張子の犬人形を飾ったり、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった。赤い物として、鯛に車を付けた「鯛車」という玩具や、猩々の人形も疱瘡神よけとして用いられた。疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている。江戸時代には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には源為朝、鍾馗、金太郎、獅子舞、達磨など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた。為朝が描かれたのは、かつて八丈島に配流された為朝が疱瘡神を抑えたことで島に疱瘡が流行しなかったという伝説にも由来する。「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」といった和歌もが赤絵に書かれることもあったが、これは前述のように疱瘡神が犬を苦手とするという伝承に由来する』。『江戸時代の読本「椿説弓張月」においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。浮世絵師・月岡芳年による「新形三十六怪撰」に「為朝の武威痘鬼神を退く図」と題し、為朝が疱瘡神を追い払っている画があるが、これは疱瘡を患った子を持つ親たちの、強い為朝に疱瘡神を倒してほしいという願望を表現したものと見られている』(リンク先に同画あり)。『貼り紙の事例としては「子供不在」と書かれた紙の例もあるが、これは子供が疱瘡を患いやすかったことから「ここには子供はいないので他の家へ行ってくれ」と疱瘡神へアピールしていたものとされる』。『疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった』。『また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として新潟県中頚城郡では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り、発病の一週間後にそれを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった』。『医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった』。『昔の沖縄では痘瘡のことをチュラガサ(清ら瘡)といい、痘瘡神のご機嫌をとることに専念した。病人には赤い着物を着せ、男たちは夜中、歌・三線を奏で痘瘡神をほめたたえ、その怒りをやわらげようと夜伽をした。地域によっては蘭の花を飾ったり、加羅を焚いたり、獅子舞をくりだした。また、琉歌の分類の中に疱瘡歌があり、これは疱瘡神を賛美し、祈願することで天然痘が軽くすむこと、治癒を歌った歌である。形式的には琉歌形式であるが、その発想は呪術的心性といえよう』。『幕末期に種痘が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、牛痘による種痘の効果のアピールが行われた』。
・「このしろ」条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ Konosirus punctatus。所謂、酢漬けの寿司種のコハダのことであるが、寿司では体長十センチメートル以下の稚魚若魚を限定して「こはだ(小鰭)」と呼ぶ。成魚は塩焼きや唐揚げ・刺身などにして食用とはなるが、小骨が多く傷みも早く、焼くと独特の臭みが出るため、成魚は町の魚屋などでは流通しない。この臭いは人を焼く臭いに似るとか、武家が「此城このしろを食ふ」として忌んだという伝承などの考証は私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰶 このしろ」の注で詳しく検証しているので、興味のある方は是非、参照されたい。
・「強飯」御強おこわ。糯米を蒸した米飯のこと。現在は強飯の一種である赤飯を指す語として定着した感があるが、これは狭義の呼称である。前の「このしろ」とともに狐の好物とされ、稲荷に供された。
・「順痘」疱瘡の軽症のものをいう。

■やぶちゃん現代語訳

 疱瘡神という偽説の事

 世間では、
――疱瘡を病んだ小児が、未然に起る出来事を察知致いたり――これから先、尋ねて来る人を言い当てるということがある――疱瘡の神と申すものがあると言うは――これ尤もなることじゃ――
なんどと流言致いておるが、これに附き、私の元へしばしば来たる木村元長と申す小児科医に訪ねてみたところ、
「……たしかに、そのように言い触らされては御座いまするな。……まあ、小児が熱に冒されて譫言うわごとをなすを、女子供が聴いたり致さば、これ、神鬼の在ると早合点致すは必定。……なれど……これ、一般に熱のせいばかりとも、言い切れませぬぞ……はい……これ、狐狸妖獣の類いが――頑是ない小児の、熱に精神を奪われて御座るに乗じ――とり憑く――といったためしも、これ、御座るようにて……」
と、以下のような体験を語って御座った。

……我らが療治致いた霊岸島辺りの、とある小児、言わるるように、未然にいろいろと、これから起こる物事を言い当てたりすることなんどが、これ、御座って、その様は、いや、まさに、何やらん神のなせるわざのようにも見えて御座いました。
 されば、
「これはもう、疱瘡の神に間違いなし!」
と、家内の者一同、真っ赤になってうなされておるこおに向かって手を合わせては、これ、崇め奉って御座ったので御座るが、とある日、そのこおが、
「……コノシロト申ス魚ト……強飯こわめしガ……欲シイ……」
と申しましたそうな。
 家内の者より、かく申しておる由、連絡が御座ったによって、我らも、
「……そのようなものを――これは疱瘡の患者の――それも子供の望むものとも、これ、思われぬ……いっかな、不審なことじゃ。……」
と答えておきましたところ、家人もまた、同様に不審に思うたので御座いましょう、何やらん、ピンときた家内のある者、これ、かの病人に向かって、
「……なるほど……その二品、乞うと申さば、これ、任せんとぞ思う……思うが……それにしても……御身はッ! 何方いずかたより来たったかッ?!!――」
と、厳しく詰問致いたところが、
「……ワレハ狐ジャ……食事ニかっシテ……コノ病人ニ憑イタジャ……我ラガ望ミ、こコレ、かのウテ呉リョウタナラバ……早速すぐニデモ……立チ去ロウゾ……」
と申した故、直ぐ、望みの二品を小児に食べさせたところ、ほどなく、この狐は去ったと見えて、小児は正気に返り、その後は疱瘡も軽快致いて、日増しにみるみる恢復致いて御座いました、はい……



 蜻蛉をとらゆるに不動呪の事

 草木にとまる蜻蛉をとらへんと思ふに、右蜻蛉に向ひてのゝ字をくうかきてさてとらゆるに、動く事なしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。なお、この捕獲法は「目を回させて」という点では生物学的に正しいとは言えない。昆虫は、その複眼の構造から比較的近距離の視界内の対象物が示す素早い動きに対しては非常に敏感に察知し、反応出来るようになっているが、逆にゆっくりとした動きは、実は殆ど察知出来ないとされているからである。但し、さればこそ、円運動を描きながらゆっくりと安定した姿勢で近づくこと自体には捕獲の科学的有効性が私には認められるように思われる。……ともかくも、この、古来から子供がずっと楽しんできた捕え方を――「迷信」の一語で切り捨てる言いをして憚らぬ輩は――これ、ただのつまらない大人でしかなく――puer eternus――プエル・エテルヌスの資格は――ない――
・「とらゆ」は誤りはない。「捕える」に同じ。他動詞ヤ行下二段活用の動詞で、ハ行下二段動詞「とらふ」から転じ、室町時代頃から用いられていた。多くの場合、終止形は「とらゆる」の形をとった)
・「不動呪」「動かざるまじなひ」と読む。

■やぶちゃん現代語訳

 蜻蛉を捕まえるに動けなくする呪いの事

 草木にとまる蜻蛉とんぼうを捕らえようと思うたら、その蜻蛉に向かって――「の」の字をくうに書きながら……書きながら……捕まえるなら、これ、逃げられずに捕えることが出来ると申す。



 蜂にさゝれざる呪の事

 蜂を捕へんと思はゞ、手に山椒の葉にても實にてもよく塗りて、とらゆるにさす事叶はず。たとへさしても聊か疵付きずつきいたむ事なし。是に仍て蜂にさされ苦しむ時、山椒をぬりて附れば立所に痛を止むる名法の由、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:珍しい昆虫関連まじない連関。民間療法談でもあるが、双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ Zanthoxylum piperitum には木の枝や根茎付近にアシナガバチやキイロスズメバチなどが普通に巣を掛ける(私の家には山椒の大木があり、両者ともに実は実見しているのだ)ので、この前半の叙述は私には到底、信じ難い。但し、蜂刺傷の効用については、現在の漢方系のネット上の記載に、民間療法と断った上で、葉を揉んでその汁をすりつけると即座に痛みが止んで腫れが消える、とはある。正式な生薬としては、果皮が「花椒」「蜀椒」と呼ばれて健胃・鎮痛・駆虫作用を持つする。日本薬局方ではサンショウ Zanthoxylum piperitum 及び同属植物の成熟した果皮で種子を出来るだけ除去したものを生薬山椒としている。日本薬局方に収載されている苦味チンキ、正月の薬用酒屠蘇の材料でもあり、果実の主な辛味成分はサンショオールとサンショアミド。他にゲラニオールなどの芳香精油・ジペンテン・シトラールなどを含んでいる(以上の薬効部分はウィキの「サンショウ」に拠った)。だいたい「さす事叶はず。たとへさしても」という論理展開自体が、如何にも怪しいのである。試されるなら自己責任で。私なら、絶対、やらない。

■やぶちゃん現代語訳

 蜂に刺されない呪いの事

 蜂を捕まえようと思うならば、手に山椒の葉でも実でもよいから、それを揉み砕いた汁をよく塗って、やおら捕まえると、これ、蜂は刺すことが出来ない。たとえ、刺したとしても、これ、全く腫れたり痛んだりすることは、ない。これによって、仮に蜂に刺されて苦しむ時にも山椒を塗付すれば、これ、たちどころに痛みを止めることが出来る妙法である――との由、人の語ったままに記しおく。



 痘瘡病人まどのおりざる呪の事

 疱瘡の小兒、數多く出來て俗にまどおりると唱へ眼あきがたき事あり。兼て數も多く、動膿にも至らば眼あきがたからんと思はゞ、其家の主人拂曉ふつげう自身おのづと井の水をくみて、右病人の枕の上へ茶碗やうの物にいれ釣置つりおかば、始終まどのおりるといふ事なし。天一水てんいつすいもつて火毒をしづむるの利にもあるらん。瘡數の多き程右器の水は格別にへり候事の由。眼前見たりと予が許へ來る醫師の物語り也。

□やぶちゃん注
○前項連関:蜂刺傷から疱瘡療治のまじない(民間療法)で直連関で、疱瘡では三つ前の似非疱瘡神譚でも連関。
・「痘瘡病人まどのおりざる」通常の高熱でも炎症によって瞼が腫脹し、眼が開かなくなることがあるが、天然痘に罹患すると、発熱後三、四日目に一旦解熱し、それから頭部及び顔面を中心に皮膚色と同じか、やや白色の豆粒状丘疹が生じ、全身に広がってゆき、七~九日目には発疹が化膿し、膿疱となることによって再度四〇度以上の高熱を発する。ここでは、この膿疱が眼の周囲に発現して瞼を開くことが著しく困難となった様態を言っている。本文ではその症状を「まどのおりる」と表現していることから、表題は「まど」が降りないようにする呪い、という意味である。
・「動膿」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『勧膿』とあり、長谷川氏は『貫膿。疱瘡の症状がさかりを過ぎること』と注されておられる。香月啓益かづきけいえきの「小児必用養育艸」(寛政十(一七九八)年刊)などの叙述を見ると、
◯貫膿の時節手にてなづるに皮軟にして皺む者は惡し
◯貫膿の時節にいたりても痘の色紅なるものは血貫熱毒の症なり必紫色に變じ後には黑色になりて死するなり
◯貫膿の時にいたりて惣身はいづれもよく膿をもつといへ共ひとり天庭天庭とは眉の上の類の眞中をいふ也の所貫膿せざるは惡症なり必變して死にいたるなり
◯貫膿の時痘瘡よくはれ起りて見ゆれ共其中水多くして膿すくなく痘の勢脹起に似たる者は極めて惡症なりこれを庸醫は大形よき勢の症と心得て油斷して多くは變して死するにいたる能々心得へき事なり
◯貫膿の時節面目の腫早くしりぞき瘡陷り膿少きものは惡し惣じて痘の病人の顏の地腫はやく減事は惡症なり痂落て後までも地腫ありて漸々に減ものを吉とす
等とあり、膿疱化が起こってやや熱が下がった状態のことを言っているようであり、これを過ぎたからと言って、その膿疱や皮膚の状態によっては死に至ることもあることが分かる(以上は奈良女子大学所蔵資料電子画像集にある当該書の長志珠絵氏の翻刻文を正字化して示した)
・「天一水」は「天、一水」と切って読むべきところである。

■やぶちゃん現代語訳

 疱瘡の病人の窓の降りぬようにする呪いの事

 疱瘡に罹った小児が、発疹の数多く発して、俗に「窓が降りる」と呼んで、眼が開きにくくなることがある。
 特に発疹の数が殊の外多く、貫膿の病相に至っても、未だ目が開きにくいようだと思わるる際には、その家の主人が、明け方、自ら井戸の水を汲んで、その病人の枕元へ茶碗のようなものに入れて上から釣っておけば、さすれば以降、窓の降りるということは、これ、御座ない。
 謂わば、『天、一水を以って火毒を鎮むる』と申す理屈でも御座ろうか。
「……発疹の数が多いほど、その器の水は、格別に減ってゆきまする。確かに眼の当たりに見て御座る。……」
とは、私の元へ参る医師の物語で御座った。



 同眼のとぢ付きて明ざるを開く奇法の事

 疱瘡の後、かぜなどに至りて眼とぢて明かぬる時は、蚫熨斗あはびのしの頭の黑き所を水に浸し、外へ障らざる睫毛を眼尻の方へなづれば、開く事立所たちどころに妙なりと、是又右醫師の傳授也。

□やぶちゃん注
○前項連関:標題の「同」は「おなじく」と訓ずる。天然痘の「窓を開ける」まじない二連発。
・「明ざる」は「あかざる」と訓ずる。
・「かぜ」風邪ではない。「かせ」「がせ」「かさ」で、貫膿(前話注参照)して膿疱の腫脹が引いた後、瘡蓋状になった状態を言っている。今風に言えば天然痘の予後。
・「蚫熨斗」熨斗鮑(のしあわび)のこと。腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis に属するアワビ類の肉を薄く削ぎ、干して琥珀色の生乾きになったところで、竹筒で押し伸ばし、更に水洗いと乾燥・伸ばしを交互に何度も繰り返すことによって調製したものを言う。以下、ウィキの「熨斗」より引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『「のし」は延寿に通じ、アワビは長寿をもたらす食べ物とされたため、古来より縁起物とされ、神饌として用いられてきた。『肥前国風土記』には熨斗鮑についての記述が記されている。また、平城宮跡の発掘では安房国より長さ四尺五寸(約一・五メートル)のアワビが献上されたことを示す木簡が出土している(安房国がアワビの産地であったことは、『延喜式』主計寮式にも記されている)。中世の武家社会においても武運長久に通じるとされ、陣中見舞などに用いられた。『吾妻鏡』には建久三年(一一九一年)に源頼朝の元に年貢として長い鮑(熨斗鮑)が届けられたという記録がある』。『また、仏事における精進料理では魚などの生臭物が禁じられているが、仏事でない贈答品においては、精進でないことを示すため、生臭物の代表として熨斗を添えるようになったともされる』。『神饌として伊勢神宮に奉納される他、縁起物として贈答品に添えられてきた。やがて簡略化され、アワビの代わりに黄色い紙が用いられるようになった(折り熨斗)』とある。現在、我々が「のし」と呼んでいるものの起源とその変容について、ここまでちゃんと認識されている(「のし」はあの「御祝」なんどと書いた――細長い紙を言うのではない――ということ――あの小さく折り畳んだ折り熨斗からちょっと出ている黄色い細い紙が熨斗のなれの果てであるということ――を)方は私は実は少ないと感じている。故に、ここに、私の好きな(これは食としてよりも海産生物愛好家としての謂いで)アワビの名誉のためにも、敢えて示し置いた。
・「頭の黑き所」これはアワビ属 Haliotis の内臓部分である。もしかすると、この効能は、そこに含まれるタンパク質分解酵素と何らかの関係があるのかも知れない(但し、そのためには太陽光を睫毛に照射する必要があるが)。以下に私が寺島良安「和漢三才圖會 介貝部 四十七」の「あはび 鰒」の注に書いたものを転載しておく。
   《引用開始》
三十年以上も前になるが、ある雑誌で、古くから東北地方において、猫にアワビの胆を食わせると耳が落ちる、と言う言い伝えがあったが、ある時、東北の某大学の生物教授が実際にアワビの胆をネコに与えて実験をしてみたところが、猫の耳が炎症を起し、ネコが激しく耳を掻くために、傷が化膿して耳が脱落するという結果を得たという記事を読んだ。現在これは、内臓に含まれているクロロフィルa(葉緑素)の部分分解物ピロフェオフォーバイドa (pyropheophorbide a) やフェオフォーバイドa (Pheophorbide a) が原因物質となって発症する光アレルギー(光過敏症)の結果であることが分かっている。サザエやアワビの摂餌した海藻類の葉緑素は分解され、これらの物質が特に中腸腺(軟体動物や節足動消化器の一部。脊椎動物の肝臓と膵臓の機能を統合したような消化酵素分泌器官)に蓄積する。特にその中腸線が黒みがかった濃緑色になる春先頃(二月から五月にかけて)、毒性が最も高まるとする(ラットの場合、五ミリグラムの投与で耳が炎症を越して腐り落ち、更に光を強くしたところ死亡したという)。なお、なぜ耳なのかと言えば、毛が薄いために太陽光に皮膚が曝されやすく、その結果、当該物質が活性化し、強烈な炎症作用を引き起すからと考えられる。なお、良安はこの毒性について、「鳥蛤」(トリガイ)の項で述べている。また別に、最後の「貝鮹」(タコブネ)の項も参照されたい。
   《引用終了》

■やぶちゃん現代語訳

 同じく疱瘡で目が閉じくっ付いて開かなくなったのを開く奇法の事

 疱瘡の貫膿後、膿疱が瘡蓋となって瞼が閉じくっ付いて開かずなった折りには、熨斗鮑のしあわびの頭の黒いところを水に浸したものを用いて、患部の他の部位には決して触れぬようにして――睫毛のみを――目尻の方へ向かって撫でてやれば、これ、たちどころに窓がくこと神妙なり、と、これも先と同じ医師から伝授致いた奇法で御座る。


 疱瘡呪水の事

 寛政八年の冬より九年の春へ懸け疱瘡流行なして、予が許の小兒も疱瘡ありしが、兼て委任なし置る小兒科木村元長來りて、此頃去る方へ至り其一家の小兒不殘のこらず疱瘡なりしが何れも輕く、重きも足抔へ多く出來て面部等は甚少き故、かく揃ひて輕きも珍らしきといひしに、外に子細もなけれど、神奈川宿の先きに本目ほんもくといへる処に、いも大明神といへるあり、かの池の水を取て小兒に浴すれば疱瘡輕しと人の教に任せし故にやと語りしが、醫の申べき事ならねど、害なき事故まじなひもなき事にもあるまじき間、試み給へかしと語りける故、召仕めしつかふ者に申付まうしつけ取に遣りしが、右召仕ふ人歸り語りけるは、誠にいささかやしろにて、廻りに少しの溜水たまりみづといふべき池ありて、嶋少しありて柳一株の外は不殘のこらず芋にて、右芋土の内より出て居、正月の事なるにいまだ莖葉のあるもあり、別當ともいふべきは、右池の邊に庵室ありて禪僧一人居たりしが、右社頭に緣起もなし、疱瘡によきとて度々水を取りに來る者は夥敷おびただしき事のよし、利益りやくありや知らずと禪氣の答へ也し、近隣の老姥らううば右召仕ふ者に語りけるは、右芋はかの姥が若かりし時より減りもせずふへもせずある由。或る人疱瘡に水よりは芋こそ然るべしと右芋を取りしに、かの小兒はなはだ惱みけると語りし由。江戸よりも水を取に來る者數多あまたの由語りける由。右召仕ふ者語りける也。

□やぶちゃん注
○前項連関:疱瘡呪い三連発。題名の「呪水」は「じゆすい(じゅすい)」と音で読んでいよう。但し、この元長の話の最初に現われる一家の子供たちの病態は、実は天然痘ではなかった可能性が疑われる。その理由は、児童全員がほぼ軽症である点(小児科の専門医が流行期に「いづれも輕く」「かく揃ひて輕きも珍らしき」と表現するのは、文字通り驚くほど、信じられないほど軽いという意味である)、やや重いように見える児童でも、その発疹(ここ、「瘡」と言っていない。前の驚くべき軽症という表現を受けるなら、これは膿疱にさえなっていないという意で採るのがよかろう)が頭部や面部に少なく足に特異的に現われているという点である。所謂、感染性の高い風疹や(風疹ではしかし発疹や瘡が頭部・面部に特異的に現われる)、もしかすると単なるアレルギー性の蕁麻疹の集団罹患(一同が摂取した飲食物若しくは着用した衣類等、または戸外の遊びの中で接触した動植物由来のアレルゲンに起因するところの)ではなかろうか? 小児科医の方の御教授を乞うものである。
・「本目」現在の横浜市中区本牧。
・「芋大明神」不詳。同定候補としては吾妻明神社、現在の横浜市中区本牧原に吾妻神社がある。しかし、「江戸名所図会」の「吾妻明神社」の項などにも芋明神の名は載らない。横浜の郷土史研究家の御教授を乞うものである。なお、この後の実景に出て来る「芋」は里芋であるが、「痘痕」と書いて「いも」と読み、痘瘡(天然痘)自体及び痘瘡後の痘痕あばたのことをも指す。私はかつて、この神社の山の上にある県立横浜緑ヶ丘高校に勤務していたが、この神社の記憶は全くない。……生徒も同僚も楽しい職場だった。私の生私生活で最も充実していて幸せだったのは、ここでの九年間であったように、今、感じている……。
・「浴すれば」浴びせると訳してもよいが、「浴す」には、現在も「恩恵に浴する」のように、よいものとして身に受ける、という意があり、ここでは明神の神霊の力に浴するの謂いで、水でもあり「飲用する」と訳すのが適当であろう。後半で「水」の対象物として「芋」を用いたとあり、これは里芋を「食わした」としか読めないからでもある。但し、医師の元長が同時に、そのまじないを「害なき事故」と言っている点では、「浴びせる」と訳すべきかも知れない。何故なら、小児の感染症を予防する観点から小児が口にするものに対しては極めて敏感でなくてはならないはずの小児科医ならば、そう簡単に「害なき事故」とは断ずることはしないとも思われるからである。しかし乍ら、実は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『のますれば』となっている。さればここでは、一応、飲用させるの意で訳しておいた。
・「呪ひもなき事にもあるまじき間」十把一絡げにしてまじないは皆迷信で効果がないと断ずることは必ずしも出来ない、それなりの効験がない訳ではない、という意である。元長は必ずしもまじないの効果を信じていた訳ではないかも知れない。所謂、鰯の頭も信心から方式のプラシーボ効果を言っているとも採れる。いや、やはり、この一家の「天然痘」の病態が余りにも尋常ならざる軽さであったことから『明神さまの効験とやらがもしかするとあるのかも知れぬ』と思わず感じたのだ、だからこそ、「試み給へかし」と命令形に念を押す終助詞を用いてまで、根岸に強く勧めたのだ、という推理の方がより自然というべきであろうか。
・「禪氣の答へ」禅機の答え。禅における無我の境地から出る働き。禅僧が修行者や他者に対して用いるところの独特の鋭い言葉や言い回しを言う。

■やぶちゃん現代語訳

 疱瘡呪水の事

 寛政八年の冬から九年の春にかけて疱瘡が流行り、我が家のこおも疱瘡に罹患致いたが、かねてより我が家の主治医を頼みおける小児科医木村元長殿が往診して療治して呉れた。
 その折り、元長殿より、
「……近頃、さるお方の元へも往診致しましたが……はい、やはり、その一家のお子たちも、残らず疱瘡に罹っておりました。……ところが……そのいずれの症状も、これ、軽う御座って……少し重いこおなんどにても……足などへ発疹が多く出来てはおりましたが、面部には殆どなく、あっても極めて少のう御座った故……『かくも、揃って軽いと申すは、これ、珍しきことじゃ。』と申しましたところ、『……これと申しまして訳があろうとも思いませぬが……実は、神奈川宿の先の、本牧ほんもくと申す所に「芋大明神」というやしろが御座いまして――そこな池の水を採って飲ますれば、疱瘡は軽うて治まる――と人の教えに任せて……聞いて飲ませておりました。』と申します。……まあ、その、医者たる拙者が……このようなことを申すは、如何かとは存じまするが……害もなきことにては御座れば……また、まじないの効果というも、これ――全くない――という訳にても御座らぬようでもあればこそ……一つ、お試しにならるることを、お勧め致しまする。」
とのこと故、直ぐに召し使つこうておる者に申し付け、取りに遣らせたところ、水を汲んで戻ったその者の申すことには、
「……へえ、まことに小さなやしろにて、小島の周りに少しばかりの――その、水溜まりと申す方が、これ、相応しいような――池が、これ、御座いまして、その真ん中の、如何にも小さな島には、柳一株の外、残らず、これ、里芋が生えて御座いました。その里芋は、これ皆、土から芋を出だいておりまして……正月のことなるに、未だ葉も茎も青々と残っておるものも、これ、何本も御座いました、へえ。……
……この明神の、別当とも申すべき者は――その池畔に庵室あんじつが御座って、禅僧が一人住もうておりましたによって、訪ね問うてみましたところが、
『――本祠やしろには縁起もなし。――疱瘡に効くとて度々水を取りに来る者は夥しきが――その利益りやく――あるやなしや、知らず――』
と、まあ、その、如何にも、禅僧らしい答えにては御座いました。……
……近隣の老婆にも話を聴いてみましたところ、これらの里芋は、その老婆が若かりし頃より、減りもせず、増えもせである、との由にて……そうそう、その老婆の話によれば……とある人が、
『……よどんだ水なんどよりも、かのねばりつきて精もつく里芋の……そうじゃ! 「痘痕いも」繋がりなればこそ! 然るべき効験もあろうほどに!』
と、かの島の里芋を掘り取って戻り、こおに食わしたところが……そのこおの疱瘡は、これ、逆にひどう重うなって、苦しんだとか申しておりました、へえ。……江戸表よりも、水を取りに来たる者も、これ、数多あまたおる、とのことで御座いました、へえ。……」
 以上、その遣わしたところの召し使つこうておる者の、直談で御座る。



 手段を以かたりを顯せし事

 いつの此にや、大坂にて有福の町人家内を召連れ花見にや、小袖幕など打せて酒宴なし居ける。最愛の小兒幕の内のみ居兼、乳母抱て其邊を立𢌞りしが、相應の武士かの小兒を見て殊に愛して拘取だきとり有合ありあひ候由にて僕に持せし菓子手遊びなど遣しければ、乳母は悦びて幕の内の主人夫婦へ語りければ、主人夫婦も悦びて幕の内へむかへ、ことわりをも聞入ききいれ酒甕さけがめの饗應などしける故、厚く禮謝して立別れぬ。しかしてより日數十日程も過て、彼侍右町人の門口を一僕つれて、あれこれと尋るを彼乳母見付て、立寄候樣申ければ、我等も此程の饗應の禮ながらそこ爰と尋し由にて、立派なる肴菓子折等持參せし趣にて居宅へ通りければ、夫婦出迎ひて、此程しる人に成し事申出して酒肴等を出し饗應なしける處、暫く過て壹人の町人手に風呂敷包をさげて彼僕をもつて申込、何某殿是に御出候はゞ對面いたし度旨申ける故、すなはち亭主の差圖にて右町人も一席へ通りしに、彼町人懷中より百兩包壹ツと右箱を出し、扨々御手附も請取候儀には候得さふらえども、右道具差合有さしあひある故、殘金給り候共難差上さふれへどもさしあげがたき間、手附金返上いたし候旨申けるに、彼侍以の外憤り、一旦直段取極ぢきだんとりきめ手附迄も渡し置、今更返替へんがへ候とありて、跡金差支あときんさしつかへ候樣にて主人迄も不相濟あひすまざる儀、まつたく外に高直かうぢき賣口出來しゆつたいし故なるべしと顏色をかへ申ければ、右手代ていの町人申けるは、町人と申者は商賣ていにては甚未練成はなはだみれんなる者にて、殊に親方は生來欲深き者故、扨々御氣毒には候得共右のとほり申候由をのべければ、いづれも金子跡渡あとわたしさへ致候得ば證文も有之事これあること故、難澁可致筋無之なんじふいたすべきことこれなしとて懷中より金子三拾兩出して、右手代に百兩とともに相渡あひわたし、殘金百兩は明朝迄に可渡わたすべしと申ければ、左樣にて承知いたし候親方に候得ば、何しに私是迄御尋申持參可仕哉たづねまうしもちまゐりつかまつるべきやと申ける故、彼侍憤り、所詮汝が親方かれ主人の外聞をも失わせ、我々が武士も不相立あひたたざる事に付、是より汝主人方へゆきて目に物見せんと顏色替りて申しける故、亭主夫婦も氣の毒に思ひ、此程彼侍の仕方貞實極眞ごくしんの樣子故、子を譽られし所にも迷ひけるや、右金子百兩を用立可申ようだてまうすべしと申ければ、いまだ馴染もなき人より多分の金子借受かりうくべきいはれなしと一旦はことわりしが、彼是考候躰かれこでれかんがへさふらふていにて、右金子借受かりうけの證文可致いたすべき由申けれど、證文にも不及およばざる由、然らば此茶碗は主人懇望につき此度相求あひもとめ候儀故、明日は右百兩返金可致いたすべき間、それ迄預り給はるべしとて、たつて斷しを無理に亭主へ相渡し、代金は彼手代に渡して立歸りぬ。しかるに翌日になりても翌々日にも右侍不罷越まかりこさず、四五日も立ける故、不審に思ひ彼茶碗を取出し改見あらためみしに、貮百三拾兩のあたひあるべき品にもあらざれば、道具屋又は目利めきき者など招きて見せけるに、是は五三もんめの品にてたふとむべき品にはあらず、まつたくかたりにあひしならん、彼侍が居所主人等は何といふやと尋ねられて大におどろき、名は聞しが主人ならびに所は聞ざる由故、是はいか成事なることにやと笑れける故彼者大に憤り、我々憎きかたりめが仕業かな、殘念なる事と憤りに絶へず、奉行所へ願ひ出しに、奉行所にても手掛り無之願これなきねがひ故、たわけ者の沙汰になり、先づ右茶碗預けに成りしが、其節の奉行、名は忘れたる由、深く工夫ありて歌舞妓の座元を呼寄よびよせ、まづかくの事あり、此趣このおもむきを新狂言に取組致とりくみいたすべき由申付有之まうしつけこれある故、難有ありがたき由にて右狂言をなせしに、殊の外評判にて繁昌せしを、彼富豪の町人も芝居見物に至りしに、其身のかたりに逢し一部始終を面白く狂言になし、かたりの侍は實惡じつあく立物たてもの中村歌右衞門などにて、かたりとられし我身は道外方だうげがたの役者、いかにも馬鹿らしき仕打共しうちどもなりしをみて彌々憤り、宿へ歸りて食事も成らざる程にて、彼茶碗を取出とりいだし、さるにても無念なりとてきせるにて打こわしけるを、家内の者共大きに驚き、奉行所より預りの品なれば其通りに難成なりがたしとて訴出うつたへいでける故、奉行所より猶又箱にくだけたる儘入て預置あづけおき、尚又歌舞妓座へ申付、彼打かのうちくだきたる所をも狂言に仕組しぐみたりしに、大きに後日狂言ごにちのきやうげんの評判よく流行はやりしが、それより日數十日ばかりたつと、彼かたりの侍右の富家へ至りて、扨思はざる事にて江戸表へ急に罷越まかりこし、代金返濟茶碗受取も延引せしと、打ちこわせしを知りて猶又ゆすりせんと來りけるを、兼て手組てぐみせしこと召捕めしとられ刑罰に行れけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。岩波版長谷川氏注には、『講談の旭堂南慶口演「面割狂言」が同話(鈴木氏)。『昼夜用心記』六の一を源とする話。』とある。旭堂南慶は明治・大正期の講談師。「昼夜用心記」は北条団水作、宝永四年(一七〇七)年刊。それにしても、この手の失礼乍ら巧妙で面白い詐欺事件は「耳嚢」には殊の外散見する。江戸は詐欺の天国だった?――いや、寧ろ、簡単に騙されるだけ、それだけあの時代の人々は、これ、情に脆く正直な人が多かった――というべきであろう、どっかの時代とは違って……
・「有福」底本では「有」の右に『(或)』と傍注するが、わざわざ注する必然性を感じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『有福』である。有福は裕福に同じい。
・「小袖幕」戸外の花見などの際、小袖を脱いで張り渡した綱に掛けて幕の代用としたもの。後、花見などで戸外に張る普通の幕をもかく呼称するようになった。
・「手遊び」玩具。そもそも、小児の好める菓子やおもちゃを下僕に持たせているこの男、変くね?
・「酒甕」底本には右に『(尊經閣本「酒宴」)』と傍注し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『酒肴』とある。意味は同じであるし、難解でもない。別にこのままで問題ないと私は判断する。寧ろ「酒甕の饗應」の方が「有福の町人」のオーギーに遙かに相応しい言葉である。
・「變替」「変改」で、変更・心変わり・破約の意。
・「所詮汝が親方かれ」私は「かれ」と読んだ。接続詞(代名詞「か」に動詞「あり」の已然形「あれ」の付いた「かあれ」の音変化。「かあれば」の意)で、前述の事柄を受けて、当然の結果としてあとの事柄が起きることを表す。「ゆえに」「だから」の意で採った。
・「三、五匁」金一両=銀六〇匁=銭四〇〇〇文とした場合、一両の価値を分かり易く一〇万円とすると銀一匁は一六六七円程度になるから、せいぜい五千円から八千円程度、高く見積もっても一万円にも届かない感じである。
・「憤りに絶へず」底本では「絶」の右に『(堪)』と傍注する。「絶へず」の「へ」はママ。
・「たわけ者の沙汰に成」「たわけ者」は「愚か者」「馬鹿者」の言いであるが、これはかの騙りの犯人のことを指しているのではなく、そのような話に乗せられて騙され、居所も主人の名も訊かず、證文もかわざず、茶器も改めずに百両貸した、そうして何の手掛かりもないのにそれを恥ずかしくもなく提訴した、この亭主に対する評言の「たわけ者」と読む。謂わば、詐欺の被害者ではあるものの、非常識な誤った自己認識に基づく自業自得とも言うべき「阿呆の提訴」扱いとなった、の意で私は採った。識者の御教授を乞うものである。
・「實惡」歌舞伎の役柄の一分類。謀反を企む首領格の悪人やお家騒動の謀略者(特に「国崩し」とも別称する)などの終始一貫して悪に徹する敵役かたきやくタイプの役柄を指す語。主役に匹敵する重要な役回りで、顔を白く塗り、独特の大柄な鬘を付けていることが多い。「祇園祭礼信仰記ぎおんさいれいしんこうき」の松永大膳や「伽羅先代萩」の仁木弾正にっきだんじょうなどに代表される役。立敵たてがたきとも言う。
・「立物」立者。一座の中で優れた役者。人気役者。立役者。
・「中村歌右衞門」初代中村歌右衛門(正徳四(一七一四)年~寛政三(一七九一)年)。上方の歌舞伎役者。三都随一の人気役者で、清水清玄・蘇我入鹿・日本黙右衛門などの眼光鋭く執念深い役柄に秀で、時代物・世話物に長じて風姿口跡ともに抜群で、実悪の名人と賞された。中村歌右衛門と改名したのは寛保元(一七四一)年頃とされ、天明二(一七八二)年 十一月に加賀屋歌七と改名、歌右衛門の名は門人の初代中村東蔵に譲っている。歌七改名後も舞台活動を続け、寛政元(一七八九)年十一月の京の都万太夫座で打たれた「刈萱桑門筑紫いえづと」の新洞左衛門役が最後の舞台となったと、ウィキの「中村歌右衛門(初代)」にある。本巻の執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春からすると、十五年以上前の話ということになる(但し、先に引用した岩波版長谷川氏注からすると、これは創作である可能性が強い)。
・「道外方」歌舞伎の役柄の一分類。滑稽な台詞や物真似を巧みに演じて人を笑わせる役。但し江戸中期以降は立役や端役の芸に道化的な要素が吸収されていき、役柄としては衰退に向かった。天明・寛政期(一七八一年~一八〇一年)の初世大谷徳次が道外方の名人と謳われたのを最後に殆んど消え去った。参照した小学館刊「日本大百科全書」によれば、『それ以後は、「半道はんどう」または「半道敵はんどうがたき」「チャリがたき」などの役柄にその名残がある。道外方を「三枚目」というのは、看板や番付に、最初に一座の花形役者、二枚目に若衆方わかしゅがた、三枚目に道外方を並べる習慣があったことに基づくというが、かならずしも明らかでない。和事わごと師を二枚目とよんだのに引かれて生まれたことばではないかと思う』とある。
・「後日狂言」先行作品の続篇や続々篇の芝居のこと。

■やぶちゃん現代語訳

 奇略を以って騙りを露見させた事

 いつ頃のことにて御座ったものか、大阪の裕福なる町人、一家の者を召し連れ、花見にても御座ったか、洒落た小袖幕なんどを打って酒宴を致いて御座った。
 あるじの溺愛致すこお、これ、幕の内に居かね、むずがる故、乳母の抱いてその辺りを散歩して御座ったところ、相応の身なりを致いた侍が一人、子供を認めて殊の外可愛がり、乳母より抱き取っては、
「在り合わせのもにて御座れど。」
と、従僕しもべに持たせて御座った菓子やらおもちゃを子に与えたによって、乳母は喜んで、もとの所へ戻って、かの幕の内の主人夫婦へも告げければ、主人夫婦も大層喜んで、頻りに辞退するその武士を、無理に幕の内へと迎え入れ、酒甕・肴の饗応をなして御座った。その日、したたかに酔うた侍は、これ、厚く礼謝致いて立ち分かれて御座った。
 しかしてより、十日程も過ぎたある日のこと、かの侍が、例の従僕を連れ、その町人の門口の辺りに立って、何やらん、行き交う近隣の者に訊ねておるを、これ、あの乳母が見つけ、
「まあ、その節は。どうか、お立ち寄り下さいませ。」
と声をかけたところ、
「……いや、我らも、過日の御饗応下された御礼をと、実はそこここと、お探し申し、尋ね回って御座った。……」
とのことにて、従僕には、これ、立派な肴やら菓子折りなんどを持たして御座る風情なればこそ、丁重に居宅へお通し申し上げて、主人夫婦出迎えて、
「この度は、かくもよきお方と、知遇を得ました。」
なんどと話し、また、酒食なんどをも出だいて、饗応致いて御座った。
 すると、暫く致いて、表に一人の町人が、手に風呂敷包みを提げて参り、外に待たせておった。かの従僕を通じ、かの侍へ取り次ぎを入れ、
「――何某殿、ここにお出で候はば、御対面致しとう存ずる――」
旨、申し入れて参った。
 されば、主人指図によって、そのまま、その町人を招じ入れ、その場にて同席させたが、その町人、やおら、懐中より百両包を一つと、風呂敷に包んで御座った箱を取り出だいて、
「……さても、かく、お手付けの金子も頂戴しては御座いまするが……実は、こちらのお道具の方、よんどころなき差し支えが、これ、生じましたによって……そのぅ、残金を給わりましても、これ、差し上ぐること、出来難うなり……お手付の金子、これ、勝手ながら、ご返納申し上げます次第にて……」
と語り出した。
 するとかの侍、以ての外に憤り、
「――一旦、値段も取り決め――手付けまでも渡しおいたに! 今更、破約とは如何なる料簡!……後日ごにち、周囲に残金不払いにて入手あたはざると思われんは、これ、我が主人へも相い済まざることとなるッ!――全く以って――実のところ――外に高値の売れ口、これ、出来しゅったい致いたに相違なかろうがッ!……」
と顔も真っ赤になり、罵って御座ったところ、
「……我ら町人と申す者……商売にかけては、これ、なんぼう、思いっきりの、悪いものにて御座います。……特に、あてらの親方は、これ、生来の欲深か者にて御座いますれば、の……さてもさても、お気の毒には存じますれど……かくの通り、申し上げまして御座います。……」
と平然と致いて御座った。
 するとかの侍、
「――相い分かった! 所詮、残りの金子さえ渡さば――証文もあることじゃ!――なんのかんのと、言わるる筋合いにては、これ、ないッ!」
と喝破するや、懐中より三十両を出だいて、かの手代と思しい男に、先に置かれた百両とともに突っ返し、
「……残金百両は……明朝までには、これ、相い渡す!――」
と言い添えた。ところが、手代は、
「……さようなことで承知致しますような親方ならば……何しに、この私めが、かくもあなたさまを探し尋ね、かくも理不尽なるお話を……これ、致しましょうや……」
と又してものっぺりと致いた顔にえ、抑揚ものう、答えた。
 されば、かの侍は、ますます激情致いて、
「……し、所詮、お、お前の親方なる悪辣なる者のことじゃて!……我が主人の外聞をも失わせ……我らが武士の面目も、これにて立たざる仕儀と相い成ったればこそ!――これよりお前の主人の方へと出向き――目に物、これ、見せてりょうゾッ!!」
と、今度は面相、悪鬼の如、蒼うなって、おめき叫んだ。
 端で黙って聴いて御座った亭主夫婦も、あまりのことに気の毒に思い、また、かの侍の語るに、貞実なる忠勤と類い稀なる至誠を感じとって御座った故――いや、過日来、溺愛致いておる我が子がことを、この侍、口を極めて褒め千切って御座ったことが、これ、主人の心を甘くさせて御座ったものか――、
「……一つ、その残りの金子百両を、私どもにて、ご用立て申し上げましょう。」
と申したによって、侍は、
「……な、何を……未だ馴染みにても御座らぬ御仁より、かくも多分の金子、借り受けてよき謂れは、これ、御座らぬ!……」
と一旦は断ったものの、それでも、何やらん、未練のある様子なれば、再度、用立ての儀を申し入れたところ、
「……では、せめて、その金子借り受けの証文は、まず、交わし申そうぞ。」
と申したれど、亭主は、
「証文なんど、これ、結構にて御座いまする。」
と返す。すると、
「……然らば……そうじゃ! この茶碗は、我らが主人の懇望なされたによって、この度、買い求めたものにて御座る故、明日みょうにち、お借り受け致いた百両を返金致すによって、それまでは当方にてお預かり下さるるよう、願い奉る!」
とて担保の申し出と相い成って御座った故、亭主はたって辞退致いたものの、たっての願いと無理矢理、亭主へ箱に入ったままの茶器を渡いて、借り受けた代金百両を手代に渡すと、そのまま、かの手代風の男と、従僕を連れて帰って御座った。
 しかるに……翌日になっても……翌々日になっても……これ、かの侍は……現われなんだ。……
 四、五日も立ったによって、流石に不審に思い、かの茶碗を取り出だいて改め見たところが――これ、とても二百三十両の値のあろうはずのものにもあらざるものなれば――道具屋や目利きの者なんどを招いて、見てもろうたところ、
「……これは……三もんめか……せいぜいいっても五匁の品にて……まず、重宝さるる茶器なんどとは無縁の、如何にも凡庸なるもので御座る。……いや、御亭主、まんまと騙されましたなあ。……そのお侍の居所や主人などは、これ、何と申された?」
と訊かれて……これ、大いに驚き、
「……いやぁ……その……なあは聞いたれど……その、その主人や居所は……訊いとりまへんのや……」
と蚊の鳴くように呟いによって、
「――さても! さても!……そりゃあ……何ということで!……」
と相手に呆れられ、大笑いさるること、これ頻りなればこそ、亭主は、これ、大いに怒り、
「――さてもさても! にっくき騙りの仕業じゃッ! 残念無念! 遺恨千万じゃッ!」
とあまりの憤りの昂ぶるに堪えず、奉行所へ咎人とがにんの探索方、願い出たものの、奉行所にても、手掛かりもない、はっきり申さば――「なんじゃあ?」といった感じの訴えなれば――これ「たわけ者のなす訴え」扱いとされ、まあ、とりあえずはと、例の証拠の安茶碗は、証拠品として亭主の元へ預け置きと相い成って御座った。
   *
 ところが、その訴訟を扱った担当の奉行――これ、残念なことに名は忘れたとの由に御ざる――この事件をつらつら考えておるうち、何とも深謀にして遠慮、迂遠にして痛快なる一計が浮かんで御座った。……
……まず、この奉行、歌舞伎の座元を呼び寄せ、
「……まんず……かくかくしかじかの面白き事件の御座った。……どうじゃ? この話柄を一つ、狂言に致しては、みんかのう?」
と申し付けた。すると、座元作家は、
「そりゃ面白うおます。有り難いこって! へえ、ほな、早速!」
と、瞬く間に書き上げられて舞台に上ったが、これがまあ、殊の外、評判と相い成り、芝居も大繁昌。……
……されば、かの騙された当の裕福なる町人も、芝居見物にと、何も知らずに、その芝居を見て御座った。……
 すると……これ……己れが騙りにうた一部始終を……面白可笑しゅう……完膚なきまでに滑稽なる狂言に作り替えられたものにて……
……騙りの侍は――これ、恰好ええ、実悪の立者たてもの中村歌右衛門
……騙りとられてた自分の役はといえば――これ、いかにも不細工で脳味噌の足りぬような道外方どうげがたの役者にて
……それが、如何にも馬鹿らしい仕打ちを、為さるるがままに、完膚なきまでに受くるという、徹頭徹尾、茶化されたその筋立てを見ておるうち
……これ、もう、はらわたが煮え繰りかえって
……暫く忘れて御座った心底の恨みが、これ、いよいよ憤激と相い成って
……宅へ戻ったのちも、怒りに食事すら喉を通らざるほどにて
――ついに、かの、遺恨の唯一の物証なる茶碗を取り出だいて、
「……ウウゥ……そ、そ、それにしても! 無念じゃッ!!」
と手にした煙管きせるにて、一撃のもとに打ち壊してしもうた。
 家内の者どもは大きに驚き、
「……奉行所よりお預かりの品なれば……こ、これ……ただにては、済みませぬぞぇ!……」
と恐る恐る、証拠損壊の旨、届け出でた。……
   *
 すると、かの奉行、奉行所よりの正式な通達としては、
「――なおも砕けたるままに箱に入れて保管致すように。」
と、損壊のお咎めもこれなく、そのまま、また預け置かれた。
 奉行は次に、またかの歌舞伎座の座元作家に申し付け、
「……かくかくしかじか……例の続きの話じゃて、面白かろうが。……のう。一つ、今度は、この茶碗を砕くところまでをも、かの狂言に仕組んでみては……どうじゃ?」
とて、また狂言に仕組まれて上演されたところが、これまた、続き狂言として評判を取って大当たり致いた。……
   *
 さて、その大当たりの噂が広まって十日ばかり過ぎた頃のことで御座る。
 例の騙りの侍、あろうことか、ぬけぬけとかの町人の家へ、再び現れた。
「……あー、さて……思いがけぬ出来事の出来しゅたい致いて、急に江戸表へ急ぎ下向致さねばならずなっての……かのお借り致いた代金百両の返済並びに――さても、かの名茶器受け取りの儀も――これ、延引いてしもうて、申し訳なきことじゃった……」
と……
……いやさ、これ、如何にも、かの芝居を見知って、
『……これはこれは……あの馬鹿面男も……かのように茶碗を壊したに、これ、相違ない……』
と踏んで、なおもまた、強請ゆすりせんとの魂胆にて、厚かましゅうも再び現われて御座ったのであろう。……
……無論、かねてより待ち伏せ致いておった奉行所配下の者の手によって、捕縛の上、速やかに刑に処せられたと申す。



 強氣にて思わざる福ひを得し者の事

 芝居役者中嶋勘左衞門が弟子に中嶋國四郎といふ者有しが、男ぶりはいかにも大きく、實惡にはうちつけの男成しが、藝は殊の外下手にて、暫く狂言にも出しかども、江戸にても誰有たれあつて看る者もなかりしが、ひと年山下金作と心安くやありけん、金作に付て大坂へ登りしが、大坂道頓堀芝居にて座附きの口上などのべしに、かの大坂の笹瀨手打ささせてうちれん連中などいへる立衆たてしゆも、江戸なまり面白なしなど色々惡口あくこうくちぐちなりしが、能々の事にもありけん、翌日も同樣にて彼棧敷かのさじきに來り居し町方掛りの者よりも、鎭り侯樣聲を懸け候ぐらい也し由。國四郎も芝居濟て宿へ歸りしが、今日の如くにては誠に芝居ラ出しもならず、大坂へ居候きよしさふらふ事は難成なりがたく、江戸へ歸りても最早役者は成らざる事と十方とはふにくれ、兼て日蓮宗にありしが一夜に水を三拾度沿びて一心に鬼子母神きしもじんを祈り、扨翌日は彼舞臺へ出る時、兼て所持せし脇差をひそかもち出端でばに至り、例のとほり舞臺へ出しに、案のごとく口々の惡たひきのふに增りし樣子也ければ、國四郎舞臺の中に立上り、此間うちよりの惡口、我等は芝居者なれば何樣いわれたり共其通りの事也、然るに江戸なまり面白なしなどと存外の惡口、最早聞濟ききずみ難し、當時町御奉行つとめ給ふ御方も皆江戸表より來り給ふ。御奉行所へ出て御吟味の節江戸なまり面白なしといわるゝや、江戸をそしりて萬人うちの惡口、我身のみならねば最早堪忍成難なりがたし、口ばかりにては如何樣いかさまにもいわるべし、惡口申せし人何人なんぴとにても相手にならん、これへ出給へと兩肌をぬぎ尻を七の迄からげてよばはりければ、始のぎせいに似ず、たれあつて答ふる者なし。芝居抔も身を捨ての勢ひ故手を附ず、此上如何取鎭とりしづまるべきと思ひしに、大坂にて重立おもだち候町人其外立衆仲間の親分立出たちいで、國四郎まうす逸々いちいち尤也、扨々氣味のよき男なり、何分我らにめんじて免し給へとわりを入て、その幕を引て、國四郎は男なりと是より贔屓ひいきの者多く、翌日より國四郎への積物進物つみものしんもつ日毎にて、迄もなき役者、右の一事故いちじゆへ評判よく大當りなりし。それつきおかしき事は、鴻の池とやらん鹿嶋やとやらんより、右國四郎を呼て、氣味よき男也、酒を呑めとて酒を振舞ひ、肴に貮百兩ばかり沽券こけん可遣つかはすべしといひしが、國四郎義沽券といふ事を不知しらず、酒の肴ならば鯛にても何にても可差出さしいださるべし、沽券とやらはいらざる由答けるを、扨々欲心のなき男也といよいよ賞翫されしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:実悪向き狂言(歌舞伎)役者(但し、先は実悪の名人、こっちはがたい葉は実悪向きながら芝居は大根)で連関する技芸譚。最後は映画の「チャンス」だね!
・「福ひ」は「さいはひ」と読む。
・「中嶋勘左衞門」三代目中島勘左衛門(元文三(一七三八)年~寛政六 (一七九四)年) の誤り。二代目の子。江戸生。三代中島勘六を経て、宝暦一二(一七六二)年に三代勘左衛門を襲名、江戸を代表する敵役かたきやくとして重きをなした。屋号は中島屋(以上は講談社「日本人名大辞典」を参照した)。
・「中嶋國四郎」底本の鈴木氏注に『後に和田右衛門と称す』とある。寛政六年五月の桐座興行「敵討乗合話」での中島和田右衛門と中村此蔵を描いた、東洲斎写楽の「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの権」の浮世絵があるが、この右手の瘦せた中島和田右衛門が本話の主人公「中嶋國四郎」か? 識者の御教授を乞うものである(リンク先は「アダチ版画研究所」のサイトの販売用当該作品ページ)。
・「山下金作」(享保一八(一七三三)年~寛政一一(一七九九)年)初代中村富十郎の門人中村半太夫として活動を始め、寛延二(一七四九)年、前年引退した初代金作の養子となって二代目を襲名した。以後、上方と江戸を往来、地芸、特に濡れ事にすぐれた色っぽい若女形として人気があり、後年は女武道や敵役もよくした。当たり役の一つに八百屋お七があるが、この役で使ったこうがいを象った「金作花笄はなこうがい」が売り出されて流行した。丸々と肥った大柄な体格に特徴があった。金作の名前は若女形として明治一〇年代まで続いた。屋号は天王寺屋(以上は「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。
・「座附きの口上」観客への一座新規参入の披露の挨拶。
・「笹瀨手打連中」「手打連中」とは歌舞伎用語で、上方に古くあった御贔屓筋の集団。所謂、いっちゃってるファン組織である。顔見世のときには一座の俳優に進物を贈り、茶屋の軒には連中の印のある箱提灯をかけた。揃いの頭巾を被っており、呼称は奇妙な拍手を打ったことに由来する。中でも享保から安永にかけて(一七一六年~一七八一年)大坂で次々に生まれた「笹瀬」「大手」「藤石」「花王さくら」という、所謂、四連中が有名である。「見連けんれん」「組」「組見くみけん」とも呼ぶ(以上は平凡社「世界大百科事典」を参照した)。
・「立衆」「伊達衆・達衆」で「たてしゅう」「だてしゅう」「だてし」とも読む。通人、粋人。但し、そうした連中と部分集合を作り易い侠客の意でも用いられる。
・「かの棧敷」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『役座敷やくざしき』とあり、長谷川氏注に『役人のために設けた桟敷』とあって、後述部分との整合性もよいので、現代語訳ではそちらを採った。
・「十方とはう」は底本のルビ。途方。
・「兼て日蓮宗にありしが一夜に水を三拾度沿びて一心に鬼子母神を祈り」日蓮は、十羅刹女じゅうらせつにょとともに、仏教の天部における十人の諸天善神の女性鬼神の中でも特に鬼子母神を法華経の守護神として大曼陀羅の中に勧請し、重視していた。
・「出端」出場。役者の登場する場やタイミング。
・「惡たひ」底本では右に『(惡態)』と傍注する。
・「いわるゝ」「いわる」はママ。
・「七の圖」「七の椎」とも書く。尻の上部。背骨の大椎(東洋医学では背骨ではっきりと視認で最上部の隆椎とも呼ばれる第七頸椎)から数えて第七椎と第八椎の間辺り。丁度、尻の上辺りに相当する。
・「ぎせい」「きせい」で気勢のこと。
・「逸々いちいち」は底本のルビ。
・「積物」歌舞伎興行の際に祝儀の酒樽や俵物などを積み重ねて飾ったもの。
・「鴻池」江戸時代の豪商として知られた大坂の両替商鴻池家(今橋鴻池)当主、鴻池善右衛門。家伝によれば摂津伊丹の酒造業者鴻池直文の子善右衛門正成が大坂で一家を立てたのを初代とし、明暦二(一六五六)年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥ともいうべきものを形成、歴代当主からは茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる(以上はウィキの「鴻池善右衛門」を参照した)。登場人物の生没年から推すと、六代目鴻池善右衛門であろう。
・「鹿嶋や」加島屋。大名貸で鴻池家と並び称された大坂の豪商。寛永の頃から大坂御堂前で米問屋を始め、両替商も兼営した。のちに十人両替(大坂で両替屋仲間の統制・幕府公金の出納・金銀相場の支配などにあたった十人の大両替屋のこと。十人組とも)に任命されている(以上はウィキの「加島屋(豪商)」を参照した)。岩波の長谷川氏注には『久右衛門諸家あり』とある。
・「沽券」「沽」は売るの意で、土地・山林・家屋等の売り渡し証文のこと。そこから転じて、人の値うち・体面・品位の意で「沽券に係わる」と使う。

■やぶちゃん現代語訳

 強気に出でて思わぬ幸いを得た者の事

 江戸の芝居役者中島勘左衛門が弟子に中島国四郎と申す者があったが、男ぶりは如何にも大きく、実悪には打ってつけの男であったが、芸は殊の外――これ、下手であった。
 暫く狂言の舞台にも出ておったものの、江戸にては、これ、たれ一人褒むる者もなき故、上方で女形として知られておった山下金作――どうも国四郎は、かの者と親しゅうしておったようじゃが――この金作について、大阪へと上った。……

 ところが、大阪道頓堀の芝居にて、座付きの口上を述べたところが、大阪の笹瀬手打連中ささせてうちれんじゅうなんどと呼ばるるところの、かの奇体な贔屓筋の立衆たてしゅどもが、
「あほんだら! なんや! それ!」
「江戸訛りは――面白う――ないわい!」
「そや! そや!」
「……さ、が、っ、て、も、ら、い、ま、ひょ、か……」
と、色々の悪口あっこう、まあ、これ、賑やかなこと!
 翌日も全く変わらず、あまりの罵声と騒動に、たまたま役桟敷やくさじきに観察に来ておった町方の役人の者からも、度を越した理不尽ならんと、
「いいかげんにせんか! ちいと、鎮まれ!」
と、注意が飛んだほどであったと申す。……

……国四郎、芝居が済んで、宿へ帰ってはみたものの、
「……今日のようなていたらくじゃぁ……そもそもが芝居にひょいとつらぁ出すも、ままなんねぇ……こんな調子じゃぁ、大阪で役者としてやってくてぇのは、とてものことに、難しい……かと言って……江戸へ帰ぇても、これ、最早……役者で食っていくってぇは……あり得ねぇ……」
と途方に暮れ、かねてより宗旨は日蓮宗にて御座ったれば、その夜、一晩に水を三十度も浴びて、一心不乱に鬼子母神きしもじんを祈請致いた。……

 さて翌日、国四郎、かの舞台へ出ずる時、かねてより所持致いて御座った脇差しを密かに懐中に刺して、出番に至って、何時もの通り、舞台に上がった。
 されど、察した通り、口々の悪態、昨日に増して、ひどい有様なれば、
――国四郎!
――舞台の真ん中に!
――隆々と立ち上がり!
「――このあいだうちよりの悪口! 我らは芝居者なれば――拙なる芝居に何様なにさま言われたりとも、これ、言わるるまま――その通りじゃ!……然るに、『江戸訛り、面白うない!』なんどとは、存外の悪口! 最早、これ、聴き捨てならん! 今時こんじ、町奉行を勤め給う御方も、これ皆、江戸表より来たり給う! さても、うぬら、御奉行所へ出でて、御吟味の最中さなか、御奉行様に向こうて、『江戸なまり、面白うない!』とのたもうかッ?! これ――我らのみならず――江戸者への罵詈雑言と心得たッツ! 最早、これ、堪忍成り難し! 口ばかりにては、如何様いかさまにも申そうず! 悪口申した御仁! 何人にても相手にならん! ここへ出で給えッツ!……」
――と
――諸肌脱いで!
――尻を七のまでからげて呼ばわった!……
「…………、…………、…………」
――と
……さっきまでの気勢はどこへやら……
……たれ一人として答ふる者……これ、ない。……
……舞台におった他の役者どもも、これ、国四郎の、身を捨てたる勢いに、すっかり呑まれてしもうて、どうにも手出し出来ずなって、ただ氷の如、立ち尽くすばかり、
『……この上……一体……如何にして場を鎮むること……出来ようかのぅ……』
と恐々と致いて御座った。……
――と
……大阪にても顔役と知らるる者やら……その他の立衆連たてしゅれんの親分さんが、静かに舞台へと立ち出でて、
「……国四郎の申すところ、これ、いちいち尤もなことじゃ!……さてさて、なんとも小気味よい男やないかい!……国四郎はん……わてらに免じて、ここは一つ、あんじょう、許しておくんない!」
と詫びを入れて、満座を収め、幕が引かれたと、申す。……

 さても、このかた、
「国四郎は――男やで!」
と贔屓する者、これ、後を絶たず、翌日よりは、国四郎への積み物・進物しんもつ、これ、日毎に山を成す盛況にて――さまで大した役者にてもなきに――かの一件を以って――大当たり致いて御座ったと、申す。……

 さて最後じゃ。
 こうなってからの国四郎につき、面白きことを添えおくことと致そう。……
……鴻池こうのいけとやらん、加島とやらん、かの大阪の豪商が、この国四郎を呼んで、
「まっこと、気風きっぷのよき男やの! まあ、酒、呑めや!」
と、宴を設けて酒を振るうた際、
「……一つ、どや?……酒の肴に――二百両ばかりの沽券こけん――これ、やりましょか?」
と申したところが――当の国四郎――「沽券」の意味を知らなんだによって、
「――酒の肴ならば、鯛にても何にても、さし出ださるれば、これ、食わしてもらう……が……あの、沽券と申すものだけは……これ、勘弁しておくない!」
と申したを、
「……さてさて! まあ、なんと欲のなき――男やのう!……」
と、これまた、いよいよ褒め称えられた、とのことで、御座る。



 火難を除けし奇物の事

 椛町かうぢまち四丁目に小西市兵衞と言る藥種屋あり。是迄糀町四丁目四度の類燒にいづれもまぬがれし由。然るに火災の節、四間に五間程の藏造の住居なるが、右へ皮の袋をかぶせ、所々こはぜかけにして家内皆々迯退にげのく由。隣家迄もやけぬれどかの市兵衞宅は一度も燒ざる由。いかなる革にてありしや、町家の事故、隣家とてもせわしく不思議なる事と人の語りしが、予が同僚の者も親しく火災の節、右家に皮袋を掛しを見候由、僞らざる事と語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。一連のまじないシリーズに位置付けられる。但し、水に浸した皮革ならば、必ずしも非科学的な迷信とは言えまい。――いやいや!……それより、この薬種屋!――とんでもなく有名な、あの、御先祖だぜぃ!
・「小西市兵衞」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『小西六兵衛』であり、麹町の薬種問屋小西屋六兵衛店は明治六(一八七三)年に写真関係商品・石版印刷材料の販売を始め、これが後に小西六写真工業株式会社へと発展、昭和六二(一九八七)年にコニカ株式会社と改称した。明治三六(一九〇三)年には国産初の印画紙を発売、昭和一五(一九四〇)年一一月三日には国産初のカラー・フィルム「さくら天然色フヰルム」(後の「サクラカラーリバーサル」)を発売、日本の写真用カメラ・フィルムのトップ・ブランドの一つとして成長した。カメラの製造販売にも力を注ぎ、明治三六(一九〇三)年の国産印画紙発売と軌を一にして国産初の商品名を持つカメラ「チェリー手提暗函」を発売。戦前から「ミニマムアイデア」、「パール」シリーズや「パーレット」シリーズ、「リリー」シリーズなどの大衆~上級者向高品質カメラを数多く作り名を馳せた。平成一五(二〇〇三)年のミノルタとの合併により、現在は複写機・プリンタ等のオフィス用品、レンズ・ガラス基板・液晶用フィルム等の電子材料などを製造販売するコニカミノルタホールディングスとなった(以上はウィキの「コニカ」及び「コニカミノルタホールディングス」に拠る)。訳では、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にもあることであるし、名商人小西六兵衛に敬意を示すために、「小西六兵衛」を採用した。
・「四間に五間」七・二七~九・〇九メートル。縦横ともとれるが、凡その住居四方の大きさの謂いで採った。
・「こはぜ掛」通常、「小鉤鞐」と書いて、足袋・手甲・脚絆・袋物・書物のちつなどの合わせ目につけた爪形の留め具を言うが、建築用語では金属板で屋根を葺く際、合わせ目となる部分の端の、少し折り曲げられた、板を留める部分をも言う。ここでは、大判の皮革を何枚もこのこはぜ掛けを用いて連結させ、蔵を覆う程のものにするのであろう。
・「不思議なる事と人の語りしが……」底本ではこの「不思議なる」の部分の右より初めて『(尊經閣本「不思議成事と人の語りしが、左にはあらず、店藏窓毎に草を下けて煙りを除、火炎の除に致事也とかや』と傍注する。即ち、本文の、
いかなる革にてありしや、町家の事故、隣家とてもせわしく不思議なる事と人の語りしが、予が同僚の者も親しく火災の節、右家に皮袋を掛しを見候由、僞らざる事と語りぬ。
が、尊経閣文庫本では(読みは私が振った)、
いかなる革にてありしや、町家の事故、隣家とてもせわしく不思議なる事と人の語りしが、にはあらず、店藏みせくら窓毎に草を下けて煙りをよけ、火炎のよけいたす事也とかや。
となっている、ということである。これは文意からは全体を広範囲に革で覆うのではなく(「左にあらず」)、草を掛けて各所細部に防火処置を施したというのである。しかしこれ、「草」では如何にもおかしい(水で濡らしても効果なく、帰って延焼を助長してしまう)。これは恐らく尊経閣文庫版の書写の誤りであって「革」であろうと思われる。すると、俄然、尊経閣本の方が細部を正確に伝えているような気がしてくるのである。本文にあるような、大きな蔵全体を火災発生を知ってからの短時間の間に、こはぜ掛けなどを駆使して完全に皮革で覆うと言うのは、梱包遮幕の芸術家クリストでも至難の技であろう。むしろ、尊経閣本のように部分部分の火の粉や火煙ひけむりの侵入し易い窓部分に皮革を下げて火除けをするというのならば、素人でも一家総出でやれば可能である。但し、訳には本文を採用した。
・「皮袋」最後の最後に新たな知見が示される。実は、これは熨された水に浸した皮革ではなく、皮で出来た袋で中に水を入れてあるのではなかろうか? これならば、焼け難く、熱せられて膨張したり、焼け弾けたり、瓦礫によって裂けても、放水される水によって防火効果がないとは言えまい。流石は小西さん! あったまイイ!

■やぶちゃん現代語訳

 火難を避けた奇物の事

 麹町四丁目に小西六兵衛と申す薬種屋が御座る。
 これまで麹町四丁目は、四度の火事類焼に見舞われておるが――この店、いずれもその被害を免れておる由。
 如何なる訳かと訊くに、火災の折りには――四、五間程の、蔵を中心と致いた造りの住居なるが――その家全体に革の袋を被せ、革を繫ぎ止める各部分は小鉤鞐こはぜがけに致いて綴り合わせた上、初めて家内皆々逃げ退く、というのである。
 今迄も何度も、隣家までも皆、焼けおるに、かの六兵衛の家だけは焼けざる由。
「……これ、一体、如何なる革にて御座ろうものか……町家のことでもあり、隣りとの間なんど、これ、如何にも、せせこましきはずなれど……不思議なることじゃ……」
と、さる御仁の語って御座ったれど、実は私の職場の同僚の者も、
「……いや、拙者も、さる火災の折り、通りかかった、かの六兵衛の家に、これ、大きなる革袋の、掛けられておるを、これ、確かに見たことが御座る。……その話、これ、偽りにては御座らぬ。」
と語って御座った。



 才能補不埒の事

 山東京傳とて、天明寛政の頃草双紙讀本よみほん抔を綴り、又は新風流しんふうりゆう多葉粉入たばこいれ抔をかみ以仕立もつてしたて世に行れしが、かれが高弟と稱し曲亭馬琴と名を記し、普く世に流布せる草双紙數多あまたありしが、其趣向てにはの有樣京傳にも劣らざりしが、渠が出生しゆつしやうたづねけるに、武家の若黨わかたう奉公などして所々勤歩行つとめありきしが、生得うまれえし無類の放蕩者にて揚梅瘡やうばいさうを愁ひ、去る醫師の方へ寄宿して、藥を刻み制法など手傳ひながらかの梅瘡を療治なしけるが、もとより才能ある者故、其主人の氣に應じ弟子に成り、瀧澤宗仙とて代脈だいみやく歩行ありき又は其身も療治などなしけるが、梅瘡もこころよく又々持病の放蕩おこりて、右醫家にも足をとゞめ難く立出たちいでしが、京傳が許に寄宿して手傳てつだひしが、京傳英才を憐みて世話なし、今は飯田町に家主をなし、伊勢屋淸右衞門とてあら物抔商ひ、其上右才氣ある故に町内の六ケ敷むつかしき事抔わけをつけ、筆をとりては達者なれば所にても用られ、今は身持もおとなしく安々と暮しけるよし人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。武芸家や役者ではままあったが、当時の当代大物流行作家ダブル実録(?)物というのは「耳嚢」では特筆に値しよう。京伝が幕府の禁制を犯しているからか、彼と彼の弟子である馬琴の叙述には、やや刑事事件の被告人の生活史を叙しているように私には思われる。そんな雰囲気を訳では試みてみた。
・「才能補不埒の事」は「才能、不埒ふらちを補ふの事」と読む。
・「山東京傳」(宝暦十一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)浮世絵師にして近世後期戯作の代表的流行作家。本名は岩瀨さむる。黄表紙・洒落本・読本・合巻ごうかんから「近世奇跡考」などの風俗考証、鈴木牧之の越後地方の地誌随筆出版の相談に乗る(その鈴木牧之の名作「北越雪譜」は京伝の死後、弟京山の協力によって天保八(一八三七)年に刊行された)など、博物学的な怪傑の文人である。代表作は読本「忠臣水滸伝」・黄表紙「江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき」等。
・「新風流の多葉粉入抔を帋を以仕立世に行れし」京伝は寛政三(一七九一)年、彼の書いた洒落本三作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖五〇日の処分を受け、執筆は思うように進まず(代作を弟子の馬琴らが行った)、寛政四年に両国柳橋で開催した書画会の収益を元手に、翌寛政五年には銀座に京屋伝蔵店(京伝店)を開店した。参照したウィキの「山東京伝」によれば、この店では『煙草入れなどの袋物や煙管・丸薬類(読書丸など)を販売。京伝は商品のデザインを考案し引札(広告ビラ)を制作し、自身の作品のなかでも店の宣伝をした。店の経営には父・伝左衛門があたり京都・大坂に取次所もできた。父の死後は京伝の後妻玉の井(百合)が経営を受け継』いだ、とある。
・「曲亭馬琴」(明和四(一七六七)年~嘉永元(一八四八)年)京伝の弟子で読本を代表する一大流行作家で、本邦に於いて最初の専業作家(原稿料のみで生計を立てられた)とされる。本名、瀧澤興邦たきざわおきくに。出生から本「耳嚢 巻之五」の執筆時辺りまでの事蹟をウィキの「曲亭馬琴」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記号を省略・変更した)。『明和四年(一七六七年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平鍋五郎信成(千石)の屋敷において、同家用人滝沢運兵衛興義・門夫妻の五男として生まれ』た。『馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、七歳で発句を詠んだという。安永四年(一七七五年)、馬琴九歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が十七歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永五年(一七七六年)に興旨は家督を十歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった』。『馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、安永九年(一七八〇年)、十四歳の時に松平家を出て母や長兄と同居した』。『天明元年(一七八一年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。俳諧に親しんでいた長兄興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた。十七歳で吾山撰の句集「東海藻」に三句を収録しており、このときはじめて馬琴の号を用いている。天明七年(一七八七年)二十一歳の時には俳文集「俳諧古文庫」を編集した。また、医師の山本宗洪・山本宗英親子に医術を、儒者黒沢右仲・亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ』。『馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」と回想している。天明五年(一七八五年)、母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた』。『寛政二年(一七九〇年)、二十四歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛永三年(一七九一年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙「尽用而二分狂言」(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本「実語教幼稚講釈」(寛政四年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった』。『寛政四年(一七九二年)三月、耕書堂蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになった。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名を捨て、通称を瑣吉に、諱を解に改めた』。『寛政五年(一七九三年)七月、二十七歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現・築土神社)下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(三十歳)の婿となるが、会田を名のらず、滝沢清右衛門を名のった。結婚は生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の家守(いわゆる大家)をして生計を立てた。加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている。寛政七年(一七九五年)に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめた』。『結婚の翌年である寛政六年(一七九四年)には長女・幸(さき)、寛政八年(一七九六年)には二女・祐(ゆう)が生まれた。のちの寛政九年(一七九七年)には長男・鎮五郎(のちの宗伯興継)が、寛政十二年(一八〇〇年)には三女・鍬(くわ)が生まれ、馬琴は合わせて一男三女の父親となった』。『寛政八年(一七九六年)、三〇歳のころより馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年耕書堂から刊行された読本「高尾船字文」は馬琴の出世作となった。より通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した』とあって、本話の執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春頃は、正に新進気鋭の流行作家馬琴の面目躍如たる時期であったことが分かる。因みに、師京伝との関係では、『文化元年(一八〇四年)に刊行された読本「月氷奇縁」は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化四年(一八〇七年)から刊行が開始された「椿説弓張月」や、文化五年(一八〇八年)の「三七全伝南柯夢」によって馬琴は名声を築き、他方京伝は読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独擅場となった。文化十一年(一八一四年)に』畢生の超大作「南総里見八犬伝」の第一輯が刊行されるが、その二年後の文化十三(一八一六)年の九月七日、恩人であり競争相手でもあった京伝は没した、とある。
・「揚梅瘡」楊梅瘡の誤り。梅毒の古名(病態の一つである薔薇疹が楊梅の実に似ていることに由来)。特に薔薇疹が顔面に出る梅毒をかく呼んだ。
・「去る醫師」前注で示したように山本宗洪。底本の鈴木氏注に、京伝の弟京山の「蜘蛛の糸巻」に『「元武家浪人にて医師の内弟子となり、滝沢宗仙と改めしかども、医の方を追出され」うんぬんとあり。』とある。
・「てには」てにをは。話の辻褄。
・「代脈」代診。
・「飯田町」岩波版長谷川氏注に、現在の『千代田区。九段坂下一帯の地。馬琴旧居は俎板橋まないたばし東方。』とある。前注に引用した元飯田町中坂、現在の千代田区九段北一丁目というのがそれであろう。
・「伊勢屋淸右衞門」前注に引用した通り、馬琴は寛政五(一七九三)年に元飯田町中坂世継稲荷(現在の築土つくど神社)下で履物商伊勢屋を営んでいた会田家の名跡を継いでいる。
・「わけを付」「分け・別けをつく」で、勝負をつける、調停する、の意。

■やぶちゃん現代語訳

 才能の不埒をおぎのうという事

 天明・寛政の頃、山東京伝という草双紙や読本などを書き散らした――また、新手の趣向を凝らした煙草入れを、紙でもって仕立てて、世に流行らせたりした――者があった。
 その京伝の高弟と稱して、曲亭馬琴と名を記す者が、またあって、世にあまねく流行っておるところの、この者の草双紙、これ、枚挙に暇がない。その作品の趣向・話柄の展開は京伝にも劣らざるものではあった。
 この男、その出生しゅっしょうを探ってみると――武家の若党奉公などをしては、あちこちを転々と勤め歩いていたようであるが、生来せいらい、無頼の放蕩者であったから、楊梅瘡を患い、さる医師の方へ寄宿しては、薬を刻み、生薬の製法などを手伝いながら、自分の療治を施して貰っていたようである。
 もとより、そのかたの才智もあったものかとも思われ、その医家の主人の気に入られて、弟子ともなって滝沢宗仙と称し、主人の代診に赴くかたわら、更に自身の療治をも、自ら行うようになっていたらしい。
 ところが、かの楊梅瘡が軽快した頃には、またしても今一つの宿痾しゅくあたる放蕩の病いが発して、かの医家にも安住して居られなくなり、出奔、かの売文士京伝が家に転がり込むと、かの妖しげなる小説の手伝いを始めたと伝え聞く。
 京伝も、彼の才能を見込んで、あれこれ、世話を焼いた。
 しかして現在は――飯田町にて借家の家主を任され、また、伊勢屋清右衛門と名乗って、荒物などの商いをしている。
 その上、かくも頭が切れる故に、町内の揉め事などの仲裁を取り持ったり、筆を執っては稀代の達者であるから、何処でも何かと頼られているという。
 今は身持ちも良くなって、安楽に暮しているとの由――さる人の談話であった。



 春日市右衞門家筋の事

 當時猿樂の内百石餘給り春日市右衞門とて笛を業とせる御役者あり。かの先祖は武功の者、難波夏御陣なんばんつのじん穢多えたが崎の一番乘を石川家と一同いたしたる者、今世俗にいふ川びたり餅はかれが家の出所に候由。右は穢多が淵の城を乘らんと石川家に屬し進みしが、川水深く船なければ渡り難し。春日前後の瀨をたづねて、破れ船を才覺してこぎ渡りて、石川ともに一番乘をなせし由。其みぎり殊の外空腹にて石川も難儀なりしに、春日鎧の引合ひきあはせより、出陣の節風與持出ふともちいだしし小豆餅ありしを、上下食ひて飢を凌ぎし由。今に石川家よりは彼春日が子孫を他事なく尋問ある由、市右衞門語りしと又人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:戯作者から猿楽者の技芸者譚で連関。
・「春日市右衞門」(天正六(一五七八)年~寛永一五(一六三八)年)の「春日」は「しゆんにち(しゅんにち)」と読む。能役者笛方。父は松永久秀(永正七(一五一〇)年?~天正五(一五七七)年:別名の松永弾正で知られる大和国の戦国大名。ウィキの「松永久秀」によれば、信長に降伏して家臣となるも、後に『信長に反逆して敗れ、文献上では日本初となる爆死という方法で自害した。一説には、永禄の変や、東大寺大仏殿焼失の首謀者などとも言われ』、『北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とも評されるが、信貴山城近郊の人々からは、連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として、現在でも知られている』とある。一説には、信長が欲しがって久秀の助命の条件にしたとされる名器平蜘蛛茶釜『に爆薬を仕込んで』立て籠もった信貴山城で自爆したと伝えられる豪勇である。)の家臣。松永氏の滅亡後は能笛を家業とした。徳川家康から「春日」の号をあたえられたとも、春日太夫道郁どうゆうに名字をもらい、笛方春日流二代をついだともいう(以上の事蹟は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
・「難波夏御陣」慶長一九(一六一四)年~慶長二〇(一六一五)年の大坂夏の陣。
・「穢多が崎」木津川口付近。現在の大阪市大正区で、この付近に穢多崎砦が大坂方出城として築かれたと言われる(但し、この砦は難波の穢多村、現在の大阪市中央区の御堂筋付近とする説もある。何れにせよ、この旧地名から謂れのない差別が行われるようなことがあってはならないことを附言しておく)。
・「石川家」伊勢亀山藩石川家第三代当主石川忠総(天正一〇(一五八二)年~慶安三(一六五一)年)は大坂冬の陣・夏の陣で戦功を挙げた。美濃大垣藩主、豊後日田藩主、下総佐倉藩主、近江膳所藩主と移封され、嫡孫の憲之(寛永一一(一六三四)年~宝永四(一七〇七)年)の時、慶安四(一六五一)年の時、膳所から伊勢亀山に移封されている。執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春前後は第九代総博ふさひろ(宝暦九(一七五九)年~文政二(一八一九)年:寛政八年隠居。)及びその長男第十代総師ふさのり(安永五(一七七六)年~享和三(一八〇三)年)の代である。
・「川びたり餅」底本の鈴木氏注に、『川渡り餅、川流れ餅という地方もあり、名称は少しずつ違うが、関東とその周辺の諸県で十二月朔日に水難除けにといってたべる餅の名。北九州でも川渡り節供などという。この餅をたべてからでないと川を渡らないという俗信があり、また川渡り朔日といって、体を川水にひたす風習もある』とするも、その理由は明確でないと記されてある。また、岩波版長谷川氏の注には、山崎美成の一大考証随筆「海録」(文政三(一八二〇)年起筆・天保八(一八三七)完成)年の十五に『石川家先祖が大坂落城時堀に漬り主従助かってより、この日餅を搗き祝うのがひろまった』と記す、と記載されておられる。
・「鎧の引合」鎧の胴の右脇で前と後ろとを引き締めて、合わせる部分。

■やぶちゃん現代語訳

 春日市右衛門の家筋の事

 当代、猿楽に関わる者のうちに、百石余りを給わる春日しゅんにち市右衛門と申す笛を生業なりわいと致す、お役者がおる。この者の先祖は武功の者にて、大阪夏の陣に穢多ヶ崎えたがさきの一番乗りを、主家石川家とともに、美事果たしたる者にて、今時きんじ、世間に広う行われておるところの「川びたり餅」と申す風習は、これ、かの石川の家を濫觴とすると、申す。
 かの春日先祖の者、穢多ヶ淵の城を攻め取らんと致いて、石川家の配下となって進軍致いたものの、城に至る要衝の川の水がふこうして、船もなければ、なかなかに渡り難きと申す場面に陥って御座った。
 この時、春日先祖、前後の浅瀬をよう調べ、破損した船を見出いては修理致いて漕ぎ渡り、美事、石川殿とともに一番乗りを果たいた由にて御座る。
 その川渡りの出陣の折り、皆々殊の外、空腹にて、石川殿もまた、これ、疲れ切って御座ったところへ、春日先祖、鎧の引き合わせより、出陣の折りに、ふと心づいて持ち出だいたところの、小豆餅の御座ったを出だし申し、これ、皆して分けうて、上も下も、ともに飢えを凌いだ由に御座る。
 今に石川家におかせられては、この笛吹きの春日の子孫にも、今以って親しくお声掛けなさっておらるる由、市右衛門本人が語って御座ったと、ある人が語って御座った。



 藝は身の損をなす事

 藝は身をたすくるといふ事あれど又一概にも言れざる故か。春日しゆんにち市右衞門が家は先租武功の者なりしが、甚だ笛をこのみ、誠に其頃の上手にて、既に和州の内とらん吹留ふきどめの瀧といふ瀧有由、右も彼春日、瀧のかしましきをいみて笛をふきければ、山神の感じ給ふにや、右瀧暫留しばらくとどまりて音なかりし故、今に春日が吹留の瀧といふとなり。かゝる上手も笛を好みけるゆへなるべし、好む所害をせしけるや、いつとなく猿樂仲間に入て、今は全くの笛吹となりぬと人の語りしを爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:春日市右衛門の逸話二連発。通言「芸は身を助くる」の、一捻り入った「芸は身を損ずる」という洒落のめした反ヴァージョン(笛が上手過ぎて、賤しき「ホカイビト」「河原乞食」たる芸人の仲間に身を落とした、ということを「所害」とする)。面白い(勿論、芸能者への当時の差別的認識は批判的に読む必要があることは、言うまでもない)。
・「和州の内と哉らん吹留の瀧といふ瀧」大和国(現在の奈良県)であるが、諸注、同定を示さない。識者の御教授を乞うものである。ただ例えば、「おたま」氏(ブログのHN)のHP「めぐり旅」「奈良県の滝」の中に恐らく含まれていると思われ、それぞれの素敵な画像で見ながら、どの瀧やらんと夢想するもまた楽しかろう。……この話柄からすると、その後も春日に笛の音を山の神が慕って、静まってしまったと考えると……例えば奈良県下北山村にある「音無し滝」なんどは如何であろう?
・「猿楽」中世以降の能・狂言の古称。

■やぶちゃん現代語訳

 芸は身の損とも成るという事

 『芸は身を助くる』ということが言わるるが、いや、これまた、一概には、そうとも申せぬかも知れぬ、という話。……
 かの春日しゅんにち市右衛門の先祖は、先に述べた通り、武功の者で御座ったが、かの市右衛門、これ、甚だ笛を好み、それこそ、当時の笛の上手と、もて囃されて御座った。
 さても、大和国とやらん、『吹留ふきどめの瀧』と申す瀧が、これ、御座る由。
 この名の謂われを問えば、かの春日、ここを訪れたところが、その瀧の音の、あまりのかしましさを嫌うまま、笛を吹いたところが――これ、山の神も感じたもうたものか――かの瀧、暫くの間は、瀧が落ちずなって音もせなんだ故に、『吹留の瀧』という、と伝えられておる。
 さても、かかる上手も、あまりに笛を好んで入れ込んだためにても御座ろうか――まさに『好むところ身を害す』とでも申そうものか――何時いつともなく、猿楽仲間に入りて、その後は全くの笛吹きとなってしもうた、とは、これ、さる人の語ったを、ここに記しおくもので御座る。



 狐福を疑つて得ざる事

 本郷富坂に松平京兆けいてうの中屋敷あり。一ト年彼としかの屋敷にすみける小人中間こびとちゆうげん、老分にて屋敷の掃除などまめやかにつとめけるが、子狐えんの下に生れしを憐みて食物抔與へけるに、或夜の夢に段々養育の恩を謝し禮をのべ、何がな此恩を報ずべきと心掛し由にて、來る幾日は谷中感應寺の富札の内何十何番の札をかひ給へとおしへしと見て夢さめぬ。さるにてもかゝる事あるべきにもあらず、夢に見しを取用とりもちふべきにもあらずとて、等閑いたづらすぎて札も調へざりしが、しばらくありて谷中近所へ至りて感鷹寺富場のあたりを見しに、彼の夢に見し何十何番の札、一の富にてありし故、殘念なる事せしと、其後はかの狐いよいよ愛して、猶又富の如き福分もあれかしと思ひしが、二度はならざる術にもありしや、其後は一向右樣の事もなかりしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。お馴染みの狐狸譚であるが、子狐故か、あとが続かず、またそれを、守株の如、下心から可愛がる小人中間の、如何にもしょぼいところが却ってコントとして面白い。訳の最後は、そうした行間を私なりに透き見て、趣向を凝らしてみた。
・「狐福」は訓読みして、「きつねふく」「きつねぶく」と読んで、思いがけない幸せ。偶然の幸い。僥倖。具体に、予想外の収入の意などを持つが、ここは真正、文字通り狐の齎した(はずの)福ということになるのが面白い。
・「本郷富坂」小石川水戸屋敷(現在の後楽園)の裏(北側)を北西から東へ斜めに下る坂。鳶が多くいたから鳶坂で、転じて富坂となった。切絵図で見ると松平京兆の屋敷は「松平右京亮」として水戸家の東北、現在の地下鉄都営三田線春日駅の東側、文京区民センターのある本郷四丁目付近にある。関係ないが、その真西の見下ろす丘陵のすぐ上に、後に「こゝろ」の「先生」と「K」が下宿する、あの家がある。
・「松平京兆」お馴染みのニュース・ソース松平右京太夫輝高。「奇物浪による事」の注参照。
・「小人中間」小者。本来は中間の下に置かれる武家奉公人の謂い。
・「何がな」「なにをがな」の略で、何か適当なものがあればなあ、の意。
・「谷中感應寺」天台宗。現在の谷中天王寺(日暮里駅南西直近)。元禄一三(一七〇〇)年に徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動・湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった。享保一三(一七二八)年には幕府により富突禁止令が出されたものの、ここでの興行が特別に許可され続け、天保一三(一八四二)年に禁令が出されるまで続けられた。なお、本話柄の頃は感応寺であったが、天保四(一八三三)年に天王寺と改称している。実はこの寺は開創時は日蓮宗で、ファンダメンタルな不受不施派に属していたために、幕府から弾圧を受け、元禄一一(一六九八)年に強制改宗されて天台宗となった。ところが、この天保四年に法華経寺知泉院の日啓や、その娘で大奥女中であった専行院などが林肥後守・美濃部筑前守・中野領翁らを動かして、感応寺を再び日蓮宗に戻そうとする運動が起き、結局、輪王寺宮舜仁法親王が動いて日蓮宗帰宗は中止、恐らくは本来の日蓮宗の山号寺号を嫌ってのことであろう、「長耀山感応寺」から「護国山天王寺」へ改めたものらしい(以上は主にウィキの「天王寺(台東区)」の記載を参照にした)。
・「一の富」「大阪商業大学商業史博物館」のHPには驚くべき詳細にして膨大な「富興行」についての記載がある。本話より十数年ほど後になろうが、そこに示された「文化年中江戸大富集」のデータによれば、感応寺のそれは毎月十八日興行、富札料は一枚金二朱と極めて高価(当時の平均的江戸庶民の一ヶ月の生活費の十五%程度)で、これが三千枚発売され、百両冨(現在の一等に相当する最高金額が百両)であったことが分かる。

■やぶちゃん現代語訳

 狐福きつねふくうたごうて福を得られなんだ事

 本郷富坂に松平京兆けいちょう殿の中屋敷が御座る。
 ある年のこと、この屋敷に奉公して御座った小人中間こびとちゅうげん――かなり年老いた者ではあったが、屋敷の掃除なんどを致いて、まめやかに働いておった――が、子狐の縁の下に生まれた――これ、親も見捨てたものか、一匹だけであった――を、憐れに思い、食い物なんどを与えて可愛がっておったそうな。
 ところが、そんな、ある夜のこと、この小者こものの老人の夢に、
――この子狐が現われ、常々の養育の恩を受けた礼を述べた上、
「……何か……この御恩に報いるに相応しいものがないものか……と、考えておりましたが……」
と呟いて、少し思い込んだ感じになって、
「……来たる×日……谷中の感応寺で売られております富札の内より……※十△番の札をお買求め下さいませ……」
と、言うた――かと思うたら、めえが覚めた。
「……それにしても……いや……そんなことのあろうはずも、これ、ない……夢に見たことを真面まともに取り合うも。これ、阿呆あほらしいことじゃ!」
と、そのまま気にもせずに日を過ごし、勿論、富札も買わず御座ったところ、暫くして、たまたま十八日、谷中を通りかかって、かの感応寺の富場とみばを歩いておったところが、丁度百両富の札が引かるるところに出食わし、
「――一の富ぃ! ※十△番!!」
と高らかに声が上がったを聴いて、老人、
「……※十△番?!……と!!……と、と、とッ、ヒエッッッ!!」
何と――夢に見た番号が――これ、一の富に――当たって御座った。
 さればこそ、
「……こ、これハ!!……い、い、如何にも残念なることを……い、致いたものじゃ……」
と独りごちて、その後は、かの子狐をいよいよ可愛がっては、
『……さてもまた……かの富籤とみくじの如き幸せも……これまたきっと……御座ろうほどに……の……』
と思っておった。……
――ところが……
――子狐なる故……二度とは出来ぬ術にても御座ったものか……
――いや……不用意に妖術を使つこうたがため、稲荷の神より、罰として術封じでも与えられたものか……
――はたまた……老人が、かの子狐の真心を本気にせなんだにも拘わらず、今度はさもしい心根より、穢れた思いにて我らを愛撫するを、これ、鋭く見抜いたものか……
……その後は一向に、それらしきことも、これ、御座らぬ、とのことじゃ。



 堪忍其德ある事

 村上何某御番ごばんを勤しに、初て在番の折柄をりから其相番たる輩、かの村上を手をかへ品を替ていぢりけるが、或時同日御番入ごばんいりの者を何某の積りに仕立向ふへ𢌞りて、其親は主人の馬を盜みて御咎おんとがめを受しおのこなれば膝を並ぶる者にあらず、其子としていきながらへるは仕合なるなりと、滿座にてかの村上をおきてのゝしり笑ふ。さるにても〔此人と親は五位の太夫にて、御家門ごかもん御傅おもりをなしけるが御拂馬おんはらいうまの事にて無調法ありけるや、一旦の御加恩を被召放めしはなされ御役御免なりし事あり、かゝる事をいひけるや。〕其身の事なくば親迄の惡名をののしる事無念至極、最早堪忍なり難く切死きりじにと思ひ決しけるが、さるにても親も呉々くれぐれ遺誡をなしけるは爰ならんと思ひ止りしを、彼惡徒さるにても腹をたてざる腰拔なりあつき茶を天窓あたまよりあびせよといひけるに、同心の者茶を持來もちきたりしを、餘りとや思ひけん、同僚の内おどけに事寄ことよせて茶碗を奪取うばひとりこぼし捨けるが、かゝる事ゆえ在番中六七人の者とは無言にてくらしけるが、御使番おつかひばん登庸とうようせる時、はじめて右の惡徒もよろこびのべける故、外よりも厚く是迄の禮謝を述ければ甚込はなはだこまり候樣子也。然るに存寄ぞんじよらず其後追々おひおひ登庸して今三奉行に連なりしが、彼人はいまだ御番を勤居つとめをる人もありと、彼村上、予が同廳のとき咄しける也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、何となく無縁な感じがしない。不思議。
・「御番」御番入り。非役の小普請や部屋住みの旗本・御家人が選ばれて小姓組・書院番・大番などの役職に任ぜられること。
・「村上何某」底本注で鈴木氏は村上義礼よしあやとする。村上義礼(延享四(一七四七)年~寛政一〇(一七九八)年)は旗本。通称は大学。天明五(一七八五)年書院番となった(彼の父義方は御三卿清水家の万次郎(後の清水重好)の守役となったが、当主の馬買い下げ(本文割注にある「拂ひ馬」のことを言う)の一件にあってその処理に不調法有りとして、お役御免、小普請に落されている。鈴木氏は『馬のことは寛政譜には書』かれておらず、彼の失態は『家老職に補せららるるも応ぜず、我儘なふるまいであるとして五百石を公収され』たとする。また、岩波版長谷川氏注には『義方は従五位下肥後守であったので五位の太夫という』と記しておられる)。寛政四(一七九二)年御使番、次いで西ノ丸目付となり、同年十一月には、遭難民の大黒屋光太夫を連れて根室に来航、通商を求めてきたロシアのラックスマンと交渉する宣諭使に目付石川忠房とともに選ばれて蝦夷松前に派遣されている(翌年六月二十七日の会見で通商交渉の為の長崎入港を許可する信牌をラックスマンに与えており、ロシアと公的に接触した最初の幕府外交官として日露関係史上では特筆すべき人物である)。寛政八年九月に江戸南町奉行に就いている(以上はウィキの「村上義礼」及び「朝日日本歴史人物事典」、及び底本と岩波版長谷川氏注を参照したが、一部の事蹟に齟齬がある)。なお、この義礼妹は、天明四(一七八四)年に江戸城中で若年寄田沼意知を刺殺した佐野政言まさことの室であるというのは、本話との深層の連関を感じさせる。この事件については、『犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借り返さなかった事』、『上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかった事、等諸説あったが、幕府は乱心とした』。『佐野家は改易のうえ切腹の処分を受け自害した。しかし、世間からあまり人気のなかった田沼を斬ったということで、世人からは「世直し大明神」として崇められた。血縁に累は及ばず、遺産も父に譲られることが認められた』とある(以上はウィキの「佐野政言」に拠る)。
・「〔此人と親は五位の太夫にて、御家門ごかもん御傅おもりをなしけるが御拂馬おんはらいうまの事にて無調法ありけるや、一旦の御加恩を被召放めしはなされ御役御免なりし事あり、かゝる事をいひけるや。〕」の割注はここで訳し、現代語訳からは外した。「御家門」は本来は徳川将軍家の親族で尾張・紀伊・水戸の三家、田安・一橋・清水の三卿を除く、越前松平家・会津松平家とその支流をいう語である。事実に反するが、実在する高位の人物であるからわざとこうしたものかも知れない(しかしどうみてもバレバレなんだが)。
――この人の親は五位の大夫と称し、御家門ごかもんの御守役を勤めて御座ったが、何やらん、主家の所有する馬の払い下げに絡む仕儀にても不正が御座ったとかと申すやら、一旦加増の御座ったを、急転直下、御役御免と相い成ったということが御座ったが、ここは、もしや、そのことを指して言うておるのであろうか?――
・「登庸」登用に同じい。
・「予が同廳のとき」根岸は、
評定所留役→勘定組頭→勘定吟味役→佐渡奉行→勘定奉行→南町奉行
という出世ルートを辿ったが、村上義礼は、
書院番→ 御使番→目付→(宣諭使)→南町奉行
とあって、狭義の「同廳のとき」とは最後の南町奉行しかない。但し、本巻は執筆推定下限が寛政九(一七九七)年春とされていることから、この時確かに村上は南町奉行ではあったが、根岸は未だ勘定奉行であった(彼が南町奉行になるのは寛政一〇(一七九八)年のことである)。そうすると、鈴木棠三氏の本巻の執筆下限推定をもっと引き上げられるのかといえば、そうとも言えない。根岸の勤めた勘定奉行は寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、ともに評定所を構成するから、根岸が勘定奉行であった寛政九(一七九七)年春、根岸と村上は「同廳」であった、と言えるのである。特に公事方勘定奉行であった彼は、町奉行の村上と接する機会が多かったものと思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 堪忍にも徳のあるなしがある事

 村上なにがし殿が初めて書院番として御番入りなさった折り、同じ番を勤めて御座ったやからが、これ、執拗しゅうねく、手を替え品を替えては、村上殿を揶揄致いた。
 ある時なんどは、その日に御番入りした新米を、村上殿に見立てて、村上殿の座る位置の向かい側にその男を同じ向きで座らせ、わざとその前へと参って――即ち、新米を中に挟んで村上と差し向かいのていにて――新米へ向かい、
「……そなたの親は、これ、主人あるじの馬を盗んでお咎めを受けたおのこなれば、のぅ!……我らとは、膝を並べらるるようなる者にては、これ、御座ない!……馬盗人うまぬすびとこおとして、よくもまぁ、おめおめおめおめ、生きながらえるとは、のぅ……いやはや、これ、幸せなる、ことじゃ!……」
と、満座にあって、かの新米を前に――実際にはその後ろの村上殿を――面罵してせせら笑って御座った。
『……ム、ムッ!……それにしても……我が身のことならばまだしもッ!……親までも悪名を罵ること、これ、無念至極! 最早、堪忍ならんッ!――かくなる上は! きゃつと切り死に!!――』
と思い定め、一瞬――小刀さすがに――手がのびかけた。
……が……
『……しかし……それにしても……我が親が、くれぐれも遺誡と致いて自重致すべく示したは……これ……まさに「ここ」……にて御座ろほどに!――』
とぐっと思い止まって、まんじりともせずに座って御座った。
 すると、かの悪辣なる輩、
「……なんじゃあ?……かくも、言われてからに腹を立てざるたぁ、これ、腰抜けじゃ!……こうりゃ! 一つ、眼覚めえさましに、熱い茶の一つも、頭より浴びせかけてやるが、これ、よいわい!」
と、近くに控えて御座った同心の者に言いつけ、茶を持って来さする。――
――と、まあ、あまりのことと思うたのでも御座ろう――他の同僚が、ふざけた振りを致いて、その茶腕を奪い取って、茶を畳にこぼさせて、これは、何事ものう、仕舞いとなって御座ったという。……
 村上殿は、かくなることなれば、書院番在番中も、そうした輩の連中であった六、七人の者どもとは、これ、殆ど全く口を利かずに勤めたとのことで御座ったが、後、村上殿が御使番に抜擢された折りには、初めて、かの悪辣非道なる男も祝いの言葉をかけて参ったによって、村上よりも、
「……これまでのこと、厚く、御礼申す。」
と答えたところが――かの男――これ、甚だ困惑致いておる様子にて御座った由。……
 然るにその後、村上殿、「思いの外」――これは、ご自身の言にて御座る――順調にご登用になられ、今は三奉行に名を連ねておらるるが……例の悪辣なる罵詈雑言を吐いて御座った男どもの中には……未だ万年御番を勤めておる御仁も、これある由、かの村上殿と、私がたまたま同じ職場となった折り、ご自身がお話になられたことで御座る。



 堪忍工夫の事

 或老巧の人、予が若かりし時教戒しけるは、男子人と交るに、大勢の内にはその身を不知しらざる愚昧も多く、跡先知らぬ血氣者も有りて、人前にて人を恥しめ不法不禮をなす者も有り、かゝる時は身命しんみやう不顧かへりみざる程憤りをも生ずるもの也、しかあれど兼て君に捧げおく身命を私の憤りに果すは不忠の第一也、又父母の遺體をなんぞ一朝のたはむれ同樣なる事にすてん事、不孝の第一也。されど憤りはげしければ其心附そのこころづきもなき者なり、其時は右惡口不法をなす者を能々考見かんがへみるべし、身を不知しらざる大馬鹿大たわけ也、かゝる馬鹿たわけと身を果さん彌々いよいよたわけなるべしとはやく決斷なせば、憤りも生ぜず堪忍もなるもの也と語りしが、げにも格言なりと今に思ひ出す也。

□やぶちゃん注
○前項連関:これはもう、前項の個別事例から帰納した原理の提示である。
・「父母の遺體」父母から受けたこの体、自分の身体のことである。

■やぶちゃん現代語訳

 堪忍の工夫の事

 私が若かりし頃、とある老練なる御仁が教えて下されたことに、
「――男子たるもの、人と交わるに、その大勢の内には、身の程も知らぬ愚か者も、これ、多く、後先あとさきどうなるかもおもんぱかることの出来ぬ血気盛んなばかりが取り柄の者もこれあって、また、人前にて他人を辱め、不法無礼をなす者どもも、これ、おるものじゃ。……
……そういう連中と、拠無よんどころのう交わってしもうた折りには、これ、身命しんみょうを顧みる余裕もなきほどに憤りを感ずるものでは、ある。……
……そうは申してもじゃ……よいか?
――かねてより主君に捧げおけるおのが身命――これを「わたくし」の憤り如きがために、果つるというは、これ、不忠の第一じゃ。……
――また、父母より受けた有り難いこの体を――なんぞ、一時いっときの戯れ同様の下らぬことに捨てんとするも、これ、不孝の第一じゃ。……
……されど……憤りが激しければ激しいほどに……そのような落ち着いた見極めや心遣いも、これ、出来んようになる。……
……そういう折りには……よいか?
――その悪口、その無法をなす者を、よーうく、見、よーうく、考えるが、よい。……
――『そういう輩は、身の程を知らぬ大馬鹿、大戯おおたわけじゃ!』
――『そうした馬鹿やたわけがために、我らが大事の身を、これ、果つることは――これ、そ奴よりも遙かに――いよいよ! 大々たわけじゃ!』
……ということ、これ、早々に知りおおせばの……憤りも生ぜず……堪忍出来ようと、いうもの、じゃて。……」
との話にて御座った。
 全く以って正しき格言であると、私は今もしばしばそれを思い出すのである。



 意念殘る説の事

 中山氏の人の小兒ありしが、出入もの吹けば音をなすびゐどろを與へけるを、殊外歡びて鳴らしなどせしに、其日奧方里へまかれる迚、小兒を伴ひて親里へ至りし故、留守の淋敷を訪ひて予が知れる者至りしに、酒抔出し汲かはしけるが、押入の内にてびゐどろをふく音しける故、驚きて戸を明て見れば、晝小兒の貰ひしびいどろは紙に包て入れ有しが、音のすべき樣なしとて元のごとくなし置て戸を引置しに、又々暫く有て音のしける故、改見れば初にかはる事なし。去にても不思議也と思ひしに、右妻の親里より急使來りて、彼小兒はやくさにも有哉らん、引付て身まかりけるとや。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。頑是ない子の霊が吹く愛玩の「びいどろ」の音(ね)――短いながら極めて印象的な上質真正の「音の怪談」である。私には「耳嚢」の中の怪談でも頗る附きで、忘れ難い一話である。されば原本の雰囲気を残したいので、一切ルビを振らなかった。今回のみ、注で読みを示しておく。
・「中山氏」不詳。先行巻には現われない。
・「出入もの」出入(でい)る者。
・「びゐどろ」鈴木氏の注は音が聴こえる。『ポンピン、またはポペン、ポコンポコンと称する玩具。ガラスの瓶の底を薄く作り、口にあてて息を出入させるとポンピンと音がするもの』。You Tube のヴィデオで聴ける(和の玩具を紹介なさるという、この画像……たまたま見つけただけなのだが……しかし……この吹いている女性……何というか、飛び気味のライティングによる妙に白い「頬」……情感に乏しい眼付きと言葉遣い……本話の怪奇とは別の……彼女には失礼乍ら……妙にどこか妖しい印象のお方では……ある……まあ、ここに配するのも……悪くはない……な……)。
・「迚」とて。
・「淋敷」さびしき。
・「予が知れる者至りしに」底本は「予が知れる者に來りしに」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の当該部を採用した。底本の「に來」は、書写した者が誤って判読した可能性が窺える上に、文意が通らない。
・「汲かはしけるが」底本では「かはし」は「かわし」であるが、カリフォルニア大学バークレー校版で訂した。「汲」は「くみ」と訓じている。
・「明て」あけて。
・「なし置て戸を引置しに」なしおきてとをひきおきしに。
・「有て」ありて。
・「改見れば」あらためみれば。
・「初」はじめ。
・「かはる」底本「かわる」。カリフォルニア大学バークレー校版で訂した。
・「去にても」さるにても。
・「也」なり。
・「彼」かの。
・「はやくさ」早草。特に頬が赤く腫れあがる症状を示す丹毒の異称。連鎖球菌(erysipelas:エリシペロス)に感染することで起こる皮膚の化膿性炎症。菌が皮膚の表皮基底層及び真皮浅層に侵入して炎症反応を起こしたもの(同菌が真皮深層及び皮下脂肪にまで入り込んで炎症を起こした場合は、現在は蜂窩織炎(ほうかしきえん)と呼んで区別する。即ち、丹毒とは皮膚の比較的浅い部分に発生した蜂窩織炎様のものと考えてよい。蜂窩織炎が下肢に多いのに比べると下肢の丹毒は少なく、また何れもリンパ球の浸潤が見られるが、丹毒は好中球が蜂窩織炎に比して著しく少ないことで識別出来る)。感染は術後の傷跡や局所的浮腫等が誘因として考えられ、年齢に関係なく罹患するが、特に児童・高齢者や免疫低下のある患者などが感染・発症し易い。症状は特異的な頬の腫れで、それに伴って高熱・悪寒・全身倦怠の症状が出現する。頬の腫脹部分は熱く、触れると痛みを伴うこともあり、水泡や出血を見る場合もある。この赤変腫脹は頬以外にも耳や眼の周囲・上肢・稀に下肢にも出現することがあり、同時に近くのリンパ節の腫脹し、痛みを伴う。現在はペニシリン系抗菌薬の内服又は注射によって凡そ一週間程度で表面の皮が剥離して治癒するが、放置した場合は敗血症・髄膜炎・腎炎などを合併し、重篤になる場合もある。なお、習慣性丹毒といって、菌を根治し切れないと同じ箇所に何度も再発するケースがあり、この場合は慢性のリンパ鬱滞が誘因となる(以上は信頼出来る複数の医療記載を勘案して作成した)。この子の場合、前駆症状の記載がなく、急性増悪から致死に至っており、もしかすると習慣性丹毒であったものを、油断していた可能性も考えられよう。
・「有哉らん」あるやらん。
・「引付て」ひきつけを起こして。「ひきつけ」は小児が起こす一時的・発作的全身性痙攣で、高熱などの際に見られる症状である。
・「身まかりけるとや」底本「身まかりけると也」であるが、カリフォルニア大学バークレー校版で最後を平仮名表記にした。底本も「や」と読んでいるのかもしれないが、通常なら、これは「なり」と断定で読んでしまうからである。これは「也」を崩した草書平仮名の「や」を、漢字の「也」として見誤った書写者の誤りと私は見る。ここは一〇〇%、格助詞「と」+疑問の係助詞「や」で「~とかいうことである」の意の物語の結びの常套句でなくてはならない。断定の「なり」では本話の印象的な「びいどろの音(ね)」の余韻は決して生まれないからである。

■やぶちゃん現代語訳

 意念が残るという如何にも哀れなる話の事

 中山氏と申される御仁に一子いっしが御座った。
 ある日の朝、中山家に出入りして御座った者が、このこおに、息を吹き入るれば涼やかなをなす、かのビイドロをやった。
 子こおは、たいそう喜んで、
――ポコン
――ポンピン
――ポペン
――ポコンポコン
と、これを鳴らいては、如何にも嬉しそうに遊んで御座った。……
――ポコンポコン
――ポンピン
――ポコン
――ポコペン……

 その日の午後、中山殿が奥方は、用あって里方へまかるとて、このこおとものうて、親里へとって御座った。……

 その留守居の淋しきを見舞わんと――これ、拙者の知れる知人で御座ったが、暮れ方、中山殿を訪ねて御座った。
 さても、気の置けぬ仲なれば、茶の間にて、二人して酒なんど酌み交わして御座ったところ、……

――ポペン

……と……
……近くの押入うちより……
……これ……
……確かに……
……ビイドロを吹く、ねえがした。……

 驚いて戸を開けてみれば、その日の昼つ方にこおもろうた――しきりに吹いては喜んで御座った――かのビイドロは、紙に包みて、入れ置かれて御座った。
 中山殿は、それを手に取って開いて、よう調べては見たが、
「……いや……音など致すはずは、これ、ない……」 と、元通りにしまい置いて、押入のとおを、閉めた。

……と……
……暫く致いて……

……また……

――ポコペン

……と……
……ビイドロが……
……鳴った。……

 今度は即座に襖引き開け、包みを解いて仔細にけみして御座ったものの、これ、やはり元通りにて、何の変わったことも、御座ない。
「……それにしても……不思議なことじゃ……」
と、二人してまた酒を汲み交わしつつも、これ、何とのう、二人ともにもだしがちとなって御座った。……

――と!

――妻の里より急使の来たって、中山殿へと告げたことには――
――かのこお――丹毒ようのものに罹患致いたものか――ひきつけを起こして――これ――身罷ったとの――ことで御座った…………

――ポペン…………



 遊魂をまのあたり見し事

 是も中山氏にて召仕めしつかひ小侍こざむらひはなはだ發明にて主人も殊の外憐愍れんびんして召仕ひしが、寛政七年の暮流行の疱瘡を愁ひて身まかりしを、主人其外殊外ことのほかに不便がりて厚くとむらひ遣しける由。然るに中山の許に常に心安かりける男昌平橋を通しに、彼小侍が死せし事も知らざりしが、はたと行合ゆきあひていかゞ主人には御替りもなきや抔尋ければ、相應の挨拶して立別れけるが、中山の許へ至りて尋しに、遙に日を隔て相果し事を語りけるに驚きて、我等壹人に候はゞ見損じもあるべしと召連めしつれし僕にも尋けるに、これもかの小侍は能々覺へて相違なきよし語り、ともに驚けると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:中山某氏御家中霊異譚二連発。
・「小侍」岩波版長谷川氏注に、『武家に奉公した少年の侍。』とある。
・「昌平橋」神田川に架かる橋。寛永年間(一六二四年~一六四五年)の架橋と伝えられており、橋の南西に一口稲荷いもあらいいなり(現在の太田姫稲荷神社。因みに根岸の屋敷はこの神社の西直近にあった)があったことから「一口橋」「芋洗橋」、また元禄初期の江戸図には「相生橋」の名もあったことが分かる。元禄四(一六九一)年に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕の地の魯の昌平郷にちなんで昌平橋と改名したものである(以上は主にウィキの「昌平橋」に拠った)。

■やぶちゃん現代語訳

 幽魂を目の当たりに見たという事

 これも同じく中山某氏の話。
 氏の元にて、これ、召し使つこうて御座った小侍こざむらい、若年ながらも甚だ利発にして、中山殿も殊の外、目を懸けて御座ったが、残念なことに、寛政七年の暮れに流行致いた疱瘡を患い、あっという間に身罷ってしもうた故、主人その外、殊の外、不憫に思うて、手厚く弔いなど致いて御座った由。……
 ところが……後日のことで御座る。
 中山殿と常々心安うして御座ったさる御仁が、たまたま昌平橋を通りかかったところが、かの小侍に――暫く無沙汰致いて御座った故、この男、とうに小侍の亡くなったことを知らなんだと申す――出逢でおうた故、男は、
「如何かの? 御主人にはお変わりものう、御達者で御座るか?」
などと尋ねたによって、それより普通に、相応の挨拶を交わいて、別れた。
 さればその日、男も久々に中山殿の元へ足を向ける気にもなって訪ね、開口一番、
「……いや、無沙汰致いて御座ったが、先程、〇〇丸殿と行き逢うて、の。」
と挨拶致いたところが、家人、妙な顔を致いて、
「……〇〇丸は……もう、かなり前に……疱瘡にて……相い果てて御座るが……」
と答えたによって、男も仰天し、
「……い、いや!……我ら一人のことならば……人違いということも、これ、あろうが……」
と、召し連れて御座った従僕にも質いたところが、これも、
「……い、いえ!……か、かの〇〇丸殿は、我らもよう見知っておりますれば……こ、これ、どう見ても、ま、間違い、御座いませなんだ……」
と消え入る如き声にて答え、ただただ――おのれとおのが主人、そうして中山家家人の――これ、誰も真っ蒼になった顔を――黙って見合わせておるばかりで御座ったと、申す。



 狐婚媒をなす事

 近頃の事成し由。武州籏羅郡はらのこほり下奈良村に、親は何とやらんいひし、長兵衞といへる者旅商ひなどして、鴻巣宿の伊勢屋といへる旅籠屋に心安くなせしが、食盛めしもり抔いへる女にてはなく、かの旗籠屋の娘と風與ふと密通なして、互ひに偕老かいらうちぎりをなし、始終夫婦になるべしと厚くかたらひしが、鴻巣宿失火にて彼いせやも類燒して假に住居なしけれど、兼て右伊勢屋旅籠商賣を面白からず思ひ、在所信州よりも在所へ引込候樣にと申越まうしこす故、すなはち鴻巣を引拂ひきはらひ、彼娘を連れて信州何村とやらへ立歸たちかへりしが、長兵衞と道をへだてぬれど娘は彼契りを思ひ忘れず、人傳ひとづてもつて頻りに長兵衞方へ申達まうしたつし、千束ちづかに餘る文の通ひじなれど、一度いなせの返事もせざれば、彼娘大に恨み、彼百姓の山に稻荷の祠ありしに、一日一夜丹誠をこらし祈りて、彼長兵衞取殺し給はるべしと肝膽かんたんを碎き祈りし由也。これは扨置さておき長兵衞は、かの女の事も信州へ引越せしと聞て打忘うちわすすごししに、或日外より歸りける川の邊にて、彼娘に行合ゆきあひて大きに驚き、如何して御關所をこし信濃より來るやと、或ひは恐れ或ひは疑ひて尋ければ、彼娘大きに恨み、兼ての約にたがひしとて胸ぐらをとり怒り歎き、何れ夫婦に成らんと申ける故、先づ我宿へ伴んと、門より内をのぞき見れば、親仁と近所の知る人咄して居たる故、ひそかに右近所の人を片影へ呼寄よびよせ、しかじかの事也、今宵は裏のあき部屋に成共なりとも彼女を差置さしおくべき間、親仁の前をあぢよく取計ひくれ候樣申て彼女を尋しに見へず、おどろきて或ひは戸口へいり又は戸口をいでなどせしが、こんといひて悶絶なせしゆへ、音に驚き家内不殘立出のこらずたちいで、湯よ水よと介抱なせしが、色々口走りあらぬ事のみ申散まうしさんじ、まつたく狐のつきたる樣子にて、殊の外空腹に候間粥を給させ候樣まうす故、粥など與へければしたゝか喰ひて、扨何故に此男に附たるぞと、家内近隣の者打寄りたづねしに、我等は信州何村の狐也、然るにいせ屋何某鴻巣宿に居たりし時、此男彼いせ屋が娘と契りて比翼連理のかたらひをなし、末々は夫婦にならんと約せしに、娘は親に從ひ信州へ引越ひつこしたれど、文を以て度々心を通ぜしに、此男一度のいなせもなき故、娘恨み怒りて我社頭へ丹精をこらし、うき男を取殺し呉べきよし祈りけれど、年若の者にあるまじき事にもあらず、依之これによつて遙々と下りて女と化して男の心を引見ひきみ、又男にのりうつりてかく語る也、似合の緣にもあるなれば、男を信州へ遣し候共、女子を引取ひきとり候共緣を取結び然るべしと、彼親仁親族へもくれぐれ語りければ、親も得心して彼長兵衞を信州へ可遣つかはすべしと約しければ、其しるし可差越さしこすべしとて、一通の承知の書面をのぞみし故、書て與へければ、かく大きくては持參成難じさんなりがたしとて、このみて細かにかかせ、耳の内へたたみこみてさせ、信濃への土産いへづととて藁づとにして首にかけさせて、さらば立歸たちかへなりとて門口迄出て絶倒せしが、たすけおこして湯茶などあたへしが、耳の内へ疊入れし書付、首に懸けし藁づとはいづち行けん見へずと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:小侍の死霊から、「耳嚢」ではしばしば現れる狐狸譚へ本格怪異譚で連関。 ・「婚媒」「なかうど(なこうど)」と訓じたい。
・「武州籏羅郡下奈良村」籏羅群は幡羅郡で武蔵国にかつて存在した郡。現在の埼玉県熊谷市の一部及び深谷市の一部に相当する。幡羅の読みは「はら」だったが、中世以後「はたら」と読まれることが多くなり、明治以後は完全に「はたら」となった(以上はウィキの「幡羅郡」に拠った)。
・「いなせ」(否+承諾の意の「」)安否。
・「のぞき」は底本のルビ。
・「あぢよく」底本では右に『(尊經閣本「あじに」)』と傍注する。江戸時代の口語の形容詞「味なり」(だから表記は正確には「あぢよく」)で、うまくやる、手際よく処理するの意。

■やぶちゃん現代語訳

 狐が仲人なこうどを成した事

 近頃のことと申す。
 武蔵国は幡羅郡はらのこおり下奈良村――親の名前は何と申したか、失念致いたが――長兵衛とか申す旅商いの男、鴻巣宿こうのすしゅくは伊勢屋という旅籠はたご定宿じょうやどとし、懇意に致いておったが、その――これも所謂、飯盛り女にてはなく――その旅籠主人伊勢屋の娘と、ふと、密かに通じ――まあ、その――互いに偕老の契りを結んで――ありがちな如何にもなことなれど――「終生の夫婦めおととなろう」――なんどと熱く語りうて御座ったと思し召されぃ。
 ところが、鴻巣の宿、これ、大火にうて、かの伊勢屋も類焼し、仮住まいとなってしもうた。
 伊勢屋主人、かねてより、かかる旅籠商売を、これ、面白うなく思っておったに加え、伊勢屋故郷の信州よりも、在所へ引き越して戻りくるよう、申し寄越して御座った故、そのまま、鴻巣は引きはろうて、娘を連れて、信州の何某なにがし村とやらんへ、たち帰って御座った。
 が、長兵衛と離れ離れとなった後も、かの娘、契りをふこう信じて忘れずに御座った。
 人づてを以って、何度も何度も、長兵衛方へと便りを出だいたものの――長兵衛、これ、一度として、安否の挨拶もせなんだによって――娘はふこう長兵衛を恨んで――かの伊勢屋在所の山に稲荷のやしろの御座ったに、これ、日夜通って、丹誠込めて祈っては、
「……かの、長兵衛!……とり殺いて下さいまし!!……」
それこそ――文字通り、肝胆を砕かんが如――心の鬼と相い成って、祈り呪って御座った由。……
 さても、それはさて置き、長兵衛はと申せば――これ、娘のことは、信濃へ引っ越したと聞いてからこの方、薄情にも、これ、すっかりあっさり、忘れて御座った。
 ところが、ある日のこと、出先から家へと帰らんとする途次の川辺にて――かの伊勢屋の娘に、突如、行きうて、これ、大きに驚き、
「……い、如何にしてか、お、御関所を一人越え、し、し信濃より、どうやって来られたのじゃ?……」
と何やらん、恐ろしくもあり、また、何やらん、怪しく疑わしきことにても御座ったればこそ……訊ねたところが……娘、おどろおどろしき恨みの形相にて、
「……カネテヨリノ約束……ヨクモたごウタナアッッツ!!……」
と長兵衛の胸ぐらを摑んで怒りおめき、泣き叫び歎いた末に、
「……キット!……ソナタト夫婦めおとトナライデ!……オ、ク、ベ、キ、カアァッツ!!……」
と鬼の如く嚙みつかんばかりの勢いなれば、
「……ま、まっ、まずは!……我らがうちへ、ま、ま、参りましょうぞ……」
となだめすかし、何とか実家へと連れ参ったものの、長兵衛、門より中を覗いてみれば、これ、短気にして口うるさき父と、父子ともに親しくして御座った近所の知人が話して御座った故、密かに、話の途切れに乗じ、この人物を物蔭へと呼び寄せて、
「……実は……しかじかの訳にて……今宵は、この先の裏手に御座る空き部屋なんどにでも、このむすめ、匿っておこうと存じますによって……どうか、そのぅ……上手いこと、父の目を少しばかり、ここらから逸らしておいて下さるまいか……」
と囁いた。
 ところがそれを聴いた男、
「……どの……むすめ、じゃ?……」
と申す。
 長兵衛、振り返ってみれば――かの娘の姿――これ、御座ない。
 驚き慌てて屋敷の門を……出たり、入ったり……出たり、入ったり……弥次郎兵衛の如、右往左往致いて、おる……とみえた……が……、
「……キャッ!……コン!!……」
と叫んだぎり、悶絶致いてしもうた。……
 騒ぎに驚き、家内残らず走り出で、
「湯じゃ!」
「いや、水じゃ!」 と介抱致いたが、気がついても、これ、訳の分からぬことを口走るばかりにて、
「……これは……全く以って狐が取り憑いたとしか思われぬ……」
と途方に暮れて御座ったが、
「……殊ノ外……空腹ニテ候エバコソ……粥……コレ食ベサセテクリョウ……」
と呟けばこそ、粥なんど与えたところが、したたかに喰ろうたによって、家内近隣の者ら、長兵衛をぐるりと取り囲み、
「……さても……何故なにゆえに、この男にとり憑いたか?……」
と質いたところ、
「……我ラハ信州何某村ノ狐ジャ。……然ルニ、何シニ参ッタカトナ?……
……伊勢屋何某ナリ者、鴻巣宿に居ッタ折リ……コノ男、カノ伊勢屋ガ娘ト契リテ、比翼連理ノ語ライヲ成シテハ、末々ハキット夫婦めおとトナラント約束致イタニ……
……娘ハ親ニしたごウテ信州ヘ引ッ越シタモノノ……ふみヲ以ッテ度々ソノ誠心ヲ、コノ男ニ通ジタニモ拘ワラズ……コノ男、一度ノ安否モ成サザル故……
……娘、恨ミ怒リテ、我ラガ社頭ニ丹誠ヲ凝ライテ……『憎ックキ男、殺シテベ!』ト祈ッタジャ。……
……シタガ……カクナル事……年若ノ者ノ間ニテハ、コレ……神ヲモ恐レヌ不実ト申スホドノ……トリ殺スニクハナキ事ニテモ……コレ、アラザルコトジャテ……
……カクナレバコソ……遙々ト、カクモ坂東ノド田舎ニマデモ下ッテ……
……マズハ、カノ女ト化シテハ、男ノ心ヲ誘ウテ見定メ……
……次ニハ又、男ニ乗リ移ッテハ……カク語ッテヲルトイウ次第ジャ。……
……サテモ……我ラノ見ルニ、コノ二人……似合イノ縁ニテモ、コレ、アルト見タ。……
……コノ男ヲバ、信州ヘ差シ向クルナリ、娘ヲ引キ取ッテ嫁ト致スナリ……夫婦めおとノ縁ヲトリ結ブコト、コレ、然ルベキコトジャテ!……」
と、かの長兵衛が親父や、その場に御座った親族へも、言葉を尽くして語り諭したによって、両親も納得の上、
「この長兵衛を、信濃へ遣わしまする。」
と長兵衛――それにとり憑いたる狐――に約したとこが、狐、
「――ソノ誤リ無キナキコトノしるし――コレ、差シ出ダスベシ――」
と、本件に附――伊勢屋方へ長兵衛を差し遣わすこと、承知致いた旨の証文一通――を望んだによって、これを書き与えたところが、
「――カクモ大キクテハ――コレ――持チ帰ルコト、叶イ難キ――」
と難色を示したによって、再度、好みの通り、ごく小さなる紙に、これまた、ごくごく小さなる字にて同文証文を書き写させ、折り畳ませた後、狐の――憑いた長兵衛――が耳のうちへ――押し入れさせた。
 最後に、
「……一ツ……何カ……信濃ヘノ家苞いえづとニセンモノハ……ナキカ……」
と申す故、家内の者がありあわせの、かろく、小さき珍味珍品なんどを藁にて包み、長兵衛が首に懸けさせたところ、
「……サラバコソ――タチ帰ラントゾ思ウ――」
と、狐の――憑いた長兵衛――屋敷の門口まで出たところにて、再び、卒倒致いた。……
 ……助け起こして、湯や茶なんどを含ませ、ようやっと正気づいて御座ったが……先程、耳の内へ畳み入れた書付かきつけも……首に懸けたはずの、あの藁苞わらづとも……これ、何処へいったものか……見えずなって御座った、と申す。



 狐茶碗の事

 松平與次右衞門よじゑもん御使番勤し頃、御代替おだいがはりの巡檢使として上方筋かみがたすぢへ至りしに、深草へ至りければ、與次右衞門より家來何某と名乘りて、土器にて坪平つぼひら迄揃へし家具を廿人前誂へしとて燒立やきた差出さしいだしけるが、與次右衞門方にては一向覺へ無之これなく、家來の内にも申付まうしつけし事なし。不思議なるなりと思へども、かの商人は誂へ物とて異約を歎ける故、詮方なく買調かひととのへて今に狐茶碗とて所持せし由。されど火事の節過半燒失しけれど未だ殘りありと、彼與次右衞門子成る人語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐譚連関。……でもさ、これって、ただの――嫌がらせ――じゃ、ね?……
・「松平與次右衞門」底本の鈴木氏注に、松平『忠洪(タダヒロ)。寛政二年後書院番。四年遺跡(千五百石)を相続。』とあるが、岩波版長谷川氏注では、『忠英ただひで。明和元年(一七六四)御使番、安永四年(一七七五)持筒頭。子なる人は孫に当たる忠洪ただひろを指す。』とある。後者が正しいものと思われる。
・「御使番」若年寄支配で目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当し、国目付や諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城などの幕府役人の監督や江戸市中火災時に於ける大名火消・定火消の監督などを行った(ウィキの「使番」に拠る)。
・「御代替の巡檢使」将軍の代替わり際に行われた御使番の業務。岩波版長谷川氏注には『国情視察を名目に五班を派遣。』とある。但し、松平忠英の御使番就任中はずっと第十代将軍徳川家治である。この叙述が正しいとするならば、これは家治の父家重が。宝暦一〇(一七六〇)年に長男家治に将軍職を譲って隠居後、宝暦一一(一七六一)年に死去してから、数年に亙って行われたものか(そんなにかかったものかどうかは不明)? 識者の御教授を乞う。
・「深草」現在の京都府京都市伏見区深草。狐に所縁の伏見稲荷(深草の南部)や藤森ふじのもり(深草地区中央西寄り)を含む。また、ここは古代末期より畿内を中心に行われていた土器作かわらけつくりの里としても知られ、当時は土器や瓦の名産地であった。特にその土器はうわぐすりを用いぬ素焼で、主として神事に用いられた。
・「坪」壺皿。本膳料理に用いる、小さくて深い食器。
・「平」平椀。底が浅くて平たい椀。

■やぶちゃん現代語訳

 狐茶碗の事

 松平与次右衛門よじえもん忠英殿が御使番を勤めておられた頃のこと、御代替りの巡検使として上方へ赴かれた折り、京の深草の方へと出向いたところ、
「与次右衛門様より遣わされた御家来何某と名乗られたお方よりの御注文により、土器にて坪皿から平椀までの一式、本膳膳具、これ、二十人前、誂えまして御座います。」
と、土地の土器師かわらけしが焼き立ての新品を差し出だいたが、与次右衛門方にては、そのような注文をした覚え、これ、一向御座らず、家来の者にも、誰かがそのようなことを申し付けたということ、やはり、これ、御座ない。いや、そもそも、「何某」と申す者も、御家来衆の内には、これ、御座ない。忠英殿も、これには困って、
『……何とも、不思議なることじゃ……』
とは思うたものの、かの商人が、
「……へぇ……特に誂えたものにて御座いますれば……のぅ……」
と、おジャンになるを頻りに歎いて御座ったのを不憫にも思い、詮方なく、一式買い取ったとのことで御座る。
 今にきつね茶碗と名付けて所持致いておらるる由。
「……されど、火事の折り、大半焼け失せてしもうたが……まあ、未だ幾らかは、これ、残って御座る。
とは、その与次右衛門の子に当たる御方の語っておられたことで御座る。



 狐の付し女一時の奇怪の事

 予が同寮の人、壯年の頃本所に相番あいばんありしが、右の下女に狐付て暫く苦しみしが、兎角して狐もはなれて本心に成し後、ちいさき祠を屋敷の隅に建置たておきしが、彼女其後は人の吉凶等を(是はいかになる品にてと)祠(に伺)ひて語る事神の如し。我同寮も多葉粉入たばこいれ抔を紙に封じ、これはいかなる品にてとかの女にあたへけるに、神前へゆきて是はたばこ入なる由を答へければ、不思議なる事と思ひしが、暫く月數もたちて同樣に尋けるにしれざる由を答へて、其後は當る事なかりしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:「不思議成事」――狐狸妖異譚直連関であるが……前項がただの嫌がらせであった可能性が極めて高かったように……これも、如何にも怪しい(提示された具体な唯一の千里眼透視が如何にもしょぼい煙草入れで、他のESP(超感覚的知覚 extrasensory perception)の事例が具体に書かれていない点、詐欺がばれてかけて嫌になったのか、すぐに能力が失われたという点など)……謂わば、思春期の女性にありがちな意識的(若しくはやや病的な無意識的)詐欺の似非霊媒と、断じてよかろうと思う。
・「同寮」底本は右に『(同僚)』と傍注する。
・「相番」当番・日直その他種々の仕事上での一緒に務めるようになった人をいう。これは本所で行われた、それなりの長期の事業・業務の同僚という謂いである。本文には「壯年」とあり、通常は四十代以降でなければ壮年とは言わないから、これは根岸が四十二歳でにはして勘定吟味役に就いた安永五(一七七六)年以降か、その直前の勘定組頭の時代の終頃と推定される。根岸は勘定吟味役在任時には河川改修や普請工事に才腕を振るったとされていることから、水運の要であると同時に水利に問題のあった本所深川の宅地・道路・上水道を司った町奉行支配の本所道役みちやくなどと連繋するために本所で勤務した可能性が挙げられる。
・「(是はいかに成品にてと)祠(に伺)」底本ではそれぞれの丸括弧の右に、『(尊經閣本)』と傍注する。ところが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、この前後はもっと整序されて自然である。以下、短いので全文を示す(正字化し、ルビは排除した)。

 予が同寮の人、壯年の頃本所に相番ありしが、右の下女に狐付てしばらく苦しみしが、兎角して狐もはなれ本心に成りし後、小き祠を屋敷の隅に建置しが、彼女其後は人の吉凶等を祠に伺ひて語る事神の如し。我同寮も多葉粉入などを紙に封じ、「是はいかに成品ぞ」と彼女にあたへけるに神前へ行て、「夫はたばこ入なる」よしを答へければ、不思議なる事とおもひしが、暫く月數も立て同樣に尋けるに、知れざる由を答へて、其後は當る事無かりしとや。

今回は、この岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で現代語訳した。
「たばこ入なる」この「なる」は断定の助動詞「なり」の連体形で、千里眼のあらたかななるを示すための連体中止法による余韻を含ませたものである。

■やぶちゃん現代語訳

 狐の憑いたと評判の女が一時だけ見せた奇怪の事

 壮年の頃、本所にて相番あいばんを勤めた同僚が御座ったが、この下女に、これ、狐が憑いて、暫くの間、いとう苦しんで御座ったと申すが、兎も角も、とり憑いた狐も離れ、正気に戻った風なれば、後のためにと、小さき稲荷のやしろを屋敷の隅に建ておいた、と申す。……以下、その相番同僚の話にて御座る。……

……ところが、この下女、その後――人の吉凶、かの祠に伺いを立つれば、これ、ズバリと当たる、それ、神の如し――と聊か評判になって御座って、の……
……我らも一つ試みにと、煙草入れなんどを、外見そとみや感触からは全く分からぬように、これ、厳重に紙に封じ入れ、
「……これは如何なる物品にてあるか?」
と、かの女に渡すと、女はそれを神前に持て行くと、何やらん拝んでおる風にして、暫く致すと、
「……ソレハ――煙草入レナル――」
の由、答えて御座ったれば、これ、
『……如何にも、不思議なることじゃ……』
と思うたものじゃ。……
……ところが、暫く――そうさ、数か月も経って御座ったか――再び同じ如、試いてみたところが、
「……とんと……へぇ、分かりませぬぅ……」
との由、答え……その後は……これ、全く以って、当たらずなり申した。……



 蘇生の人の事

 寛政六年の頃、芝邊のかるき日雇取ひやとひどりなどしてくらしける男、風與ふと煩ひて頓死同樣にてありしを、念佛講中間なかま寄合よりあひて寺へ遣しはふむりけるが、一兩日立て場の内にてうなる聲しけるが次第に高く也し故、寺僧もおどろきほりうがち見んとて、施主へ申達まうしたつし掘らせけるが、いきてあるに違ひなければ寺社奉行へも寺より訴へ、其節の町奉行小田切土佐守方へ町方より右蘇生人引取ひきとり候由相屆け、段々療養のうえつきすなはち番所へもいでし故、其始末をたづねしに、我等は死し候とは曾て不存ぞんぜず、何か京都へ登り祇園邊を歩行あるき、大阪道頓堀邊をもあるき東海道を歸りしに、大井川にて路銀無之これなき處、川越の者憐みて渡しくれ、夫より宿へ歸りしに、まつくらにて何かわからざる故聲をたて候と覺へたり。全く夢を見し心也と語りし由、土州どしふの物語り也。右夢の内に冥官にも獄卒にも不逢あはずといふ所、正直なる者と感笑しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐譚から蘇生譚の怪異連関。幽体離脱した生霊譚としては、それが「大井川にて路銀無之處、川越の者憐みて渡し呉」と、明確な実態を持っている点が面白い。主人公の病気は細部が分からないが、循環器や脳に何らかの障害があったものとするなら、意識喪失と不整脈などで、死の判定を下され、葬られ、土中で覚醒するまでその間、夢を見ていたことになるが、それにしても京は祇園に大阪道頓堀の漫遊とは、如何にも「感笑」、いやいや、私なんぞも――芸者遊びのオプションも附けて貰い――あやかりたい夢では、これ、御座る。
・「中間なかま」『なか』は底本のルビであるが、これは原本のものらしく、丸括弧がない。
・「念佛講」念仏を行なう講(本来は社寺の参詣・寄進などをする信者の団体(伊勢講・富士講等)を指したが、以下に示すように、後にはそうしたものが実利的相互扶助組織となって貯蓄や金の融通を行う団体となっていった)。元は念仏を信ずる者たちが当番となった者の家に集って念仏を行なっていたが、後にはその構成員が毎月掛金を出して、それを講中の死亡者に贈る弔慰金・講中の会食・親睦等の費用に当てるといった、頼母子講たのもしこう(一定の期日に構成員が掛け金を出し合ったものをプールし、講中で定期的に行う籤等に当った者に一定の金額を給付、これがほぼ全構成員に行き渡ったところで解散するという民間金融互助組織。古くは鎌倉時代に始まり、江戸時代に爆発的に流行した)的なものに変化していった。
・「小田切土佐守」小田切直年(寛保三(一七四三)年~文化八(一八一一)年)は旗本。小田切家は元は甲斐武田氏に仕え、武田氏滅亡後に徳川家康の家臣となって近侍したという経歴を持つ家系である。明和二(一七六五)年に二十三歳で西ノ丸書院番となった後、御使番・小普請・駿府町奉行・大坂町奉行・遠国奉行を歴任、寛政四(一七九二)年に五十歳で江戸北町奉行に就任した。その後、文化八(一八一一)年に現職のまま六十九歳で没するまで実に十八年間も奉行職にあった(これは町奉行歴代四番目に長い永年勤続である)。これによって幕府が小田切に対して篤い信頼を寄せていたことが分かる。以下、参照したウィキの「小田切直年」には、町奉行時代のエピソードが豊富に載り、中には何と根岸(小田切より四歳年下であり、根岸の南町奉行就任は寛政一〇(一七九八)年で、本話執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春は未だ勘定奉行であった。以下の小田切との裁定対立も公事方勘定奉行時代のものである)との裁定の対立が語られて実に興味深いので、以下に引用しておく。『小田切自身、奉行として優れた裁きを下しており、後の模範となる多数の判例を残している。駿府町奉行在任中には男同士の心中事件を裁いている。盗賊として有名な鬼坊主清吉を裁いたのも小田切であった』。『小田切が奉行にあった時代は、犯罪の凶悪化に拍車がかかっており、件数自体も増加していた。そのため老中達は刑法である御定書を厳格化する制定を下したのだが、小田切は長谷川宣以などと共にこの政策に反対し、刑罰を杓子定規に適用することなく出来る限りの斟酌をして寛大な措置を施す道を模索していた。例えば、大阪町奉行に在任していた最中、ある女盗賊を捕らえた。この女盗賊は最終的には評定所の採決によって死罪に処されたのだが、小田切は彼女に対して遠島の処分を申し渡していた。当時は女性の法人人格が男性より格下とみなされており、それを考慮した採決であった』。また、十歳の商家の娘かよが十九歳の奉公人喜八に姦通を強要、『喜八がついに折れて渋々承諾し、行為中に突如かよが意識を失いそのまま死亡するという事件が起こり、小田切は根岸鎮衛と共にこれを裁断した。根岸と寺社奉行は引き回しの上獄門を、二人の勘定奉行は死罪を主張したが、小田切は前例や状況を入念に吟味し、無理心中であると主張、広義では死刑であるものの、死刑の中でも最も穏当な処分である「下手人」を主張した。最終的に喜八は死罪を賜ったが、この事例にも小田切の寛大かつ深慮に富んだ姿勢が伺える』。『しかし良いことばかりではなく、「街談文々集要」や「藤岡屋日記」によると、文化七年(一八一〇年)五月二二日、年貢の納入に関するトラブルで取り調べを受けていた農民が、与力の刀を奪って北町奉行所内で暴れ、役人二名、および敷地内の役宅にいた夫人二名を斬殺し、子供も含めた多数に負傷させるも、役人たちは逃げ回るばかりで、犯人は下男が取り押さえると言う大醜態をさらした。犯人は処刑され、出身の村にも連座が適用されたが、刀を奪われた与力が改易され、その他逃げ回っていた役人多数が処分を受けた。この不祥事に「百姓に与力同心小田切られ主も家来もまごついた土佐」という落首が出て皮肉られている』(最後の引用はアラビア数字を漢数字に代えた)。この最後の不祥事は、「耳嚢 卷之四」の「不時の異變心得あるべき事」を髣髴とさせる。根岸の時代劇調の格好いい出来事は寛政七(一七九五)年であるから、小田切の一件よりはずっと前であるが、この顛末を聴いた根岸は、自身のあの時の体験をダブらせて、感慨も一入であったことは想像に難くない。

■やぶちゃん現代語訳

 蘇生した人の事

 寛政六年の頃、芝辺りで賤しい日雇いなんどを生業なりわいと致いて暮らしておった男が、ふと患って、まあ、言うところ――頓死――といった風に、死んだ。
 念仏講仲間なんどが寄り集まって、寺へと送り、形ばかりでは御座ったが、葬儀も滞りなく済んで、葬って御座った由。
 ところが……
……一日二日して……塚の内にて……これ、うなる声の、する――!――
……それが――!――
……次第にたこうなる!――
 これ、流石に寺僧も驚き、
「……掘り返して見ずんばならず!」
と、施主へ異変を申し遣わし、掘らせてみたところが――
――これ、座棺の桶の中に――ぶるぶると震えて、
「……ウーン……ウーン! アハアアッ!……」
と呻いてあればこそ、
「……お、おいッ!……こ、これ、生きて、おるに違いないぞッ!……」
と、もう、上へ下への大騒ぎと相い成って御座った。
 寺より寺社奉行へ驚天動地の事実を訴え出で、その節の町奉行小田切土佐守直年殿方へも、町方の者より、蘇生人を引き取った旨、相い届けて御座った。……
 だんだんに療養の上、本人も徐々に起き上がるほどの力もついたによって、自身も番所へと出頭した故、その顛末につき、訊問致いたところが、
「……我らは……そのぅ……死んでしもうたとは……これ……いっかな……存じませなんだじゃ。……へぇ……そんでもって……何かその……旅を……へぇ……京都へ上って、祇園辺りをぶらついて……それから……大阪は、かの道頓堀辺も歩いて……そんでもって………東海道をけえって……その途次にては……あの大井川にて、路銀がないようなっておりやしたによって……渡れずに困っておりやしたところが……川越えの人足が、これ、哀れんで……担いで渡して呉れやした。……そんでもって……宿へけえったところが……何か、この……その……家中いえじゅうが……これ、真っ暗で……なんか……こう……そのぅ……訳がわからんことになって……ともかくも! っと……声を立てた……というところまでは……よう、覚えとりやす。……へぇ……もう、全く、なげえ永え夢を……これ、見ておったとような心持ちで御座んした……へぇ……」
と語った由。――
 以上は土佐守殿の話された実話にて、
「……それにしても……その夢のうちにては、冥府の役人にも、獄卒にも、これ、逢わなんだと申すは……如何にも正直者、というべきで御座ろうか、の。」
と、二人して笑いうたもので御座った。



 狐を助け鯉を得し事

 大久保淸左衞門といへる御番衆、豐嶋川附神谷といへる所の漁師を雇ひて網を打せけるが、はなはだ不獵にて晝すぎになれど魚を不得えず、酒抔のみて居たりしに、野狐やこ一疋犬に追れけるや、一さんに駈來かけきたりて船の内へ飛入とびいりつくばひをりける故、淸左衞門をはじめ不獵にはあり、此狐を縛りて家土産いへづとつれ歸らんとひしめきしを、船頭漁師深く止めて、狐は稻を守る神のつかわしめ、何も科なきものを折檻なし給ふは無益なりにがし給へとてたつて乞ひける故、すなはち其邊へ船を寄せ、放し遣しければ悦びて立去りしが、獵師さらば日も暮なんとす、一網うちてみんと網を入れしに、三年ものとも云べき大きなる鯉を打得し由。是は彼狐の謝禮なるべし、今一網打んと望ければ、かの獵師答へて、かゝる奇獵を得し時は再遍さいへんはせざるもの也、ゆるし給へとて其後は網をうたざりしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:一つ隔てて稲荷譚の打ち止め。
・「大久保淸左衞門」大久保淸右衞門忠寄(享保一五(一七三〇)年~?)の誤り。底本鈴木氏注に寛保二(一七四二)年に十三歳で相続、岩波長谷川氏注に『宝暦五年(一七五五)大番』とあるから、そう新しい話ではない。
・「豐嶋川附神谷」旧東京都北豊島郡に神谷かにわ村があった。現在の北区神谷町、王子神谷辺り。落語「王子の狐」で知られるように、直近の南方にある王子稲荷(北区岸町)の狐は昔から人を化かすことで有名であった。「附」は「つき」と読むか。

■やぶちゃん現代語訳

 狐を助けて鯉を得た事

 大久保清左衛門と申される御番衆ごばんしゅう豊島川附神谷としまがわつきかにわと申すところで川漁師を雇って、早朝より網を打たせて御座った。
 ところが、これ、全くの不漁にて、昼過ぎになっても一匹も釣果、これ、御座ない。  自棄やけになって酒なんどをあおっておったところが、野狐のぎつねが犬にでも追われたものか、一散に走り込んで来たかと思うと、彼らの舟の内に飛び込んで、船底に這い蹲っては、震えて御座った。
 これを見た清左衛門殿を始めとする御家来衆一同、不漁にてもあればこそ、
「――丁度よいわ。この狐を縛って家苞いえづとに連れ帰り、狐鍋にでも、致そうぞ。」
と盛んに囃して御座った。
 ところが、船頭と漁師は、神妙なる顔つきとなってそれを押し留め、
「……狐は稲を守る神の使いと申しまする。……何の罪もなきものを折檻なし給うは、これ、あまりに無益なること。……どうか一つ、我らに免じて、逃がしてやって下さりませ。……」
と口を揃えてのたっての望みなれば、そのまま近くの岸辺へ舟を寄せ、うち放してやると、かの狐は、ひどく嬉しげに走り去って御座ったと申す。
 さても、漁師、
「……されば、もう日も暮れましょうほどに、最後に一網打ってみましょうぞ。」
と網を入れたところが――
――これ、三年ものとも申すべき大きなる鯉――釣り上げて御座ったと申す。
「……これはこれは! さては、かの狐の謝礼ならん!……今一網、打ってみよ!」
と大久保殿が命じたところ、かの漁師、
「……かかる奇瑞きずいの漁を得た折りは……これ、二度とは、網打ち致さぬものにて御座れば……どうか、ここは、ご勘弁のほどを……」
と切に乞うた故、そののちは、網を打たずに帰った、とのことで御座る。



 こもりくの翁の事

 享保元文の頃の人にて京都にすみける老人、郭公ほととぎすの歌よみける。
  たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公
此歌難有ありがたくも叡覽に入りて感じ思召おぼしめし、こもりくの翁といへる名を給はりしに、ねためる者にや又歌の道にねぢけたる人にや、この歌は古人のよみしにはあらぬかと沙汰しけるをききて、又よめるよし。
  一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす
かくよみければ、初めそしりし人もはぢ思ひけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。和歌技芸譚。
・「享保元文」西暦一七一六~一七四一年。
・「こもりくの翁」諸本注をしないが、これは江戸中期の歌人である柳瀬方塾やなせみちいえ(貞享二(一六八五)年~元文五(一七四〇)年)のことで、少なくとも彼をモデルとした伝承譚である。通称は小左衛門、名は美仲、隠口翁こもりくのおきなは号。遠江浜松の呉服商で、武者小路実陰さねかげ荷田春満かだのあずままろ(春満とも言った江戸中期の国学者。賀茂真淵の師で、真淵・本居宣長・平田篤胤とともに国学四大人に数えられる人物)に学び、賀茂真淵らと遠江に歌壇を形成した。最初の本歌とよく似た、
  はつせ路や初音きかまく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす
の歌碑が浜松市善正寺に残る(以上は講談社「日本人名大辞典」を参照した)。
・「叡覽」当代は烏丸光栄からすまるみつひでに古今伝授を受けた、歌道に優れた桜町天皇である。
・「たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
尋來て初音聞かまし初瀨路や又こもりくの山ほとゝぎす
で載る(正字化した)。
「こもりくの」は初瀬の枕詞。「こもり」は「隠り・籠り」で「く」は場所の意で、両側から山が迫って囲まれたような地形の謂いから、同様の地形である大和の泊瀬(初瀬)に掛かる枕詞となったとする。但し、別に「はつ」は身が果つの意を含ませて(「こもる」にも隠れる、死ぬの意がある)、死者を葬る場所の意を込めている例(「したびの国」(黄泉国)の枕詞とした例や「万葉集」で葬送の場面に用いられた例)もあるとする(後半部は「日本国語大辞典」に拠る)。「初瀨路」は「はつせじ」。古くは「泊瀬」とも書いた。初瀬街道。大和初瀬(現在は「はせ」と読むのが一般的なようである。現在の奈良県桜井市)と伊勢国(現在の三重県松阪市)の六軒を結ぶ街道。ウィキの「初瀬街道」によれば、『古代からの道で壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が通った道でもある。また江戸時代には国文学者である本居宣長も歩いており、その様子は彼の著書である菅笠日記に記されている』とある。
――わざわざこの奥深き里へと尋ね来たのだから、やはり聴かせておくれ……この古来の道なる初瀬はつせ路の、山ほととぎすよ、そのを――
 なお、底本の鈴木氏注には、江戸後期の京都梅宮大社神官で国学者の橋本経亮つねあきらの書いた随筆「橘窓自語」(天明六(一七八六)年)の巻一に、
荷田東滿遠州濱松にありし時、濱松宿に柳瀨幸右衞門味仲といふ人、
 初瀨路やはつねきかまく尋てもまたこもりくの山時鳥
といふ歌をかたりしかば、「こもりくの山時鳥といふこと、いまだきかず」といはれたりしに、かの味仲中院通躬卿の門人にて、「すなはち中院殿の點ありし歌也」といひければ、「當時の歌仙通躬卿の子細なく點せさせ給ひし上は一首譬いにしへに例なくとも、これを據に我もよむべし」、と東滿いはれて、その故よしをしるされたりしふみ、いまも濱松にありてみたりしなり
と記す旨の記載がある(原注の引用を正字化し、一部を改行、鍵括弧を補って示した)。「荷田東滿」は荷田春満の別名。「柳瀬味仲」は前出の柳瀬美仲。「中院通躬」は「なかのいんみちみ」と読み、江戸中期の公卿で歌人。但し、話柄の趣きはかなり違う。
・「この歌は古人のよみしにはあらぬか」このままであると、これは古人の盗作ではないか、という風にも読めるが、前注に引用した「橘窓自語」の話柄からは「この歌は古人のよみしにはあらぬが」で、「こもりくの山時鳥といふこと、いまだきかず」、則ち、「こもりくの山時鳥」という詞は堂上の和歌には先例がない、との謂いであろう。現代語訳では、かく訳した。
・「一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす」賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある神域であるただすもりを、人がかくもいちゃもんをつけて咎めた(糺した)ことの意に掛けてある。――京の糺の森なら、よろしゅうおすか? それじゃ、でも、あまりに、不遜で御無礼では?――というニュアンスであろうか? いや、これはもしかすると――下鴨神社の祭神賀茂建角身命の化身である八咫烏やたがらすを背後に暗示した――例えば、神域の禁忌を、畏れ多い叡感を得た歌に譬えて、「……あなたはそれでも難癖をおつけになって平気か?」といった一種の呪言歌――というか――脅迫歌なのかも知れないな。……和歌が苦手な私の乏しい知識では、この程度のことしか思い浮かばぬのでおじゃる。……識者の御教授を乞うものである。
――その聴きたかった一声……これが、如何にもはっきりと聴こえぬ……聴こえぬから怪しい?……怪しいから……その森の名さえもどうのこうのと、これ、ただいておらるる方があらっしゃるが……さても、神域の――神意の御意に――難癖を附くるとは……これ、あってよきものでありましょうや?……♪ふふふ♪……いやいや、やはり、聴きたいものなのですよ――京の市中の糺の森にては、ではのうて――奥深き、こもりくの初瀬の山の、ほととぎすの一声を、はっきりと――な――

■やぶちゃん現代語訳

  こもりくの翁の事

 享保・元文の頃の人にて、京都に住んで御座った老人の、郭公ほととぎすを詠んだ歌、
  たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公
 この歌、有り難くも帝の叡覧に入って、お詠み遊ばさるるや叡感に思し召され、
「以後、この者、『こもりくの翁』と名乗るがよい。」
と、畏れ多くも名を賜はっておじゃる。
 ところが、これを妬んだ者であったか、または、少しばかり歌の道を知れるを鼻に掛けた、これ、性根のねじけた御仁にてもあったものか、
「――こもりくの山郭公――じゃとな?……この歌、これ、古人の詠んだ和歌には、とんと、先例のなきものでおじゃる。」
と如何にも馬鹿に致いて申したを、こもりくの翁、これ、耳に挟んだれば、また、詠んだ歌、
  一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす
 かく詠んだところが、初めにそしった御仁も、これ、大いに恥入って、黙らざるを得ずなった、ということで、おじゃる。――



 齒牙の奇藥の事

 齒の動き又は齒ぐきはれてなやむ時、南天を黑燒にしてつければ快驗を得る由人のかたりし故、予が同寮の人其通りになせしに、快く不動うごかざる事神の如しと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。民間療法シリーズ。本話で百話、卷之五が終了。私がブログで本プロジェクトを始めたのが二〇〇九年九月二十二日であるから、三年と八十五日、延べ一一八五日でこの「耳嚢」駅伝の折り返し点に、遂に到達した。但し、野人となった本年は約七ヶ月で二巻分をこなしているから、あり得ないと思っていた完全テクスト化も、このまま順調に行くならば、再来年の春には完成するはずである。一点の星ではあるが、一等星の光明が見えてきた気がする。
・「南天」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン Nandina domestica Thunb.。ウィキの「ナンテン」の「薬用など」の項によれば、『葉は、南天葉(なんてんよう)という生薬で、健胃、解熱、鎮咳などの作用がある。葉に含まれるシアン化水素は猛毒であるが、含有量はわずかであるために危険性は殆どなく、逆に食品の防腐に役立つ。このため、彩りも兼ねて弁当などに入れる。もっとも、これは薬用でなく、食あたりの「難を転ずる」というまじないの意味との説もある』。『南天実に含まれる成分としては、アルカロイドであるイソコリジン、ドメスチン(domesticine)、プロトピン(英語版)、ナンテニン(nantenine:o- methyldomesticine)、ナンジニン(nandinine)、メチルドメスチン、配糖体のナンジノシド(nandinoside)などの他、リノリン酸、オレイン酸が知られている。鎮咳作用をもつドメスチンは、多量に摂取すると知覚や運動神経の麻痺を引き起こすため、素人が安易に試すのは危険である。また、近年の研究でナンテニンに気管平滑筋を弛緩させる作用があることが分かった』。『また、ナンジノシドは抗アレルギー作用を持ち、これを元にして人工的に合成されたトラニラストが抗アレルギー薬及びケロイドの治療薬として実用化されている』とあり、漢方でもナンテンの葉は胃腸の痛みや脱肛、眼病や歯痛みを抑える生薬として実際に使用されていることが各種の漢方記載からも分かり、ここに記された解熱効果やアルカロイドのドメスチン(domesticine)の持つ知覚麻痺作用は、歯槽膿漏や歯周病などによる歯茎の腫脹を伴う発熱や痛みへの効果がないとは言えまい。中国原産で東アジアに広く分布し、日本では西日本の暖地の四国や九州に自生しているが、古い時期に渡来した栽培種の野生化したものと考えられている。但し、属名の“Nandina”は和名ナンテンに基づいてつけられており、種小名の“domestica”も「家族の」「個人の」「本国の」「国内の」という意味である。安永四(一八五七)年に来日して本邦初の日本植物誌を著して日本植物学の基礎を作ったスウェーデンの植物学者で医師のカール・ツンベルク(Carl Peter Thunberg 一七四三年~一八二八年 学名には命名者略記“Thunb.”が用いられている)が本邦の民家の庭に栽培されていたナンテンを見て(彼はたった一年の在日であったが将軍家治に謁見、箱根町を中心に植物八〇〇余種を採集した)、かく命名したのものと思われる。
・「黑燒」本巻の「黑燒屋の事」の私の注を参照のこと。

■やぶちゃん現代語訳

 歯の奇薬の事

 歯が動く、または歯茎は腫れて痛む折りは、南天を黒焼きにして塗付致せば、見る間に軽快、これ、得らるる由、さる御仁が語って御座った故、私の同僚の者、歯の痛き折り、この、私の話した処方通りに致いたところが、
「――いや、もう! 大層、快う御座っての! 歯の動がざること、これ神の如し! で御座る! ほうれ!――」
と、
「イー!」
をして、わざわざ見せて御座ったことじゃ。



耳嚢 卷之五 根岸鎭衞  注記及び現代語訳 藪野直史 完