耳嚢 卷之二 根岸鎭衞
注記及び現代語訳 copyright 2010 Yabtyan
[やぶちゃん注:底本は三一書房1970年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。
以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。
底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃に始まり、没する前年、文化11(1814)年迄の実に30年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクがあるものは私の翻刻訳注の完成版)、
「卷之一」の下限は天明2(1782)年春まで
「卷之二」の下限は天明6(1786)年まで
「卷之三」は前2巻の補完(日付を附した記事がない)
(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)
「卷之四」の下限は寛政8(1796)年夏まで(寛政7年の記事の方が多い)
「卷之五」の下限は寛政9(1797)年夏まで(寛政9年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)
「卷之六」の下限は文化元(1804)年7月まで(但し、「卷之三」のように前2巻の補完的性格が強い)
「卷之七」の下限は文化3(1806)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)
「卷之八」の下限は文化5(1808)年夏まで
「卷之九」の下限は文化6(1809)年夏まで
(ここで900話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、4~5年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)
「卷之十」の下限は死の前年文化11(1814)年6月まで
といった凡その区分を推定されておられる。【卷之二終了 2010年5月30日】【目次追加 2010年6月4日】]
目 次
耳嚢 卷之二
蛇を養ひし人の事
小兒に異物ある事
蟲歯痛を去る奇法の事
蕎麥を解す奇法の事
解毒の法可承置事
堀部彌兵衞養子の事
幽靈なしとも難極事
執心殘りし事
吉比津宮釜鳴の事
日の御崎神事の事
無思掛悟道の沙汰有し事
信心に奇特ある事
古物不思議に出る事
藝道上手心取の事
正直に加護ある事 附豪家其氣性の事
賤妓發明加護ある事
賤妓家福を得し事
怪我をせぬ呪札の事
非人に賢者ある事
浪華任俠の事
品川にてかたり致せし出家の事(二ヵ條)
實心可感事
兵庫屋彌兵衞松屋四郎兵衞起立の事
戲藝侮るべからざる事
人の不思議を語るも信ずべからざる事
淺草觀音にて鷄を盜し者の事
百姓その心得尤成事
孝子そのしるしを顯す事(二ヵ條)
鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事
小堀家稻荷の事
鄙姥冥途へ至り立歸りし事
人の命を救ひし物語の事
人の血油藥となる事
仁慈輙くなせし事
神道不思議の事
妖術勇氣に不勝事
臨死不死運の事
賤者又氣性ある事
藝道手段の事(二ヵ條)
異變に臨み熟計の事
猫の人に化し事
猫人に付し事
村政の刀御當家にて禁じ給ふ事
利欲應報の事
公家衆其賢德ある事
位階に付さも有べき事ながら可笑しき噺の事
好色者京都にて欺れし事
畜類又恩愛深き事
外科不具を治せし事
人の心取にて其行衞も押はからるゝ事
賣僧を恥しめ母の愁を解し事
強氣の者召仕へ物を申付し事
本妙寺火防札の事
いわれざる事なして禍を招く事
村井何某祖母武勇の事
小兒手討手段の事
事に望みてはいかにも靜に考べき事
瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事
聊の心がけにて立身をなせし事
手段にて權家へ取入りし事
狂歌にて咎をまぬがれし事
火災に感通占ひの事
藝道其心志を用る事
佛道に猫を禁じ給ふといふ事
會下村次助が事
其家業に身命を失ひし事
才女手段發明の事
覺悟過て恥を得し事
兩頭蟲の事
供押の足輕袴を着す古實の事
茶事物語の事
明君其情惡を咎給ふ事
強勇の者御仕置を遁れし事
強氣勇猛自然の事
猥に人命を斷し業報の事
水に清濁輕重ある事
奇病の事
忠死歸するが如き事
公家衆狂歌の事
畜類仇をなせし事
非情の者恩を報ずる事
思はず幸を得し人の事
奸智永續にあらざる事
池尻村の女召仕ふ間敷事
妙鏡庵起立の事
貧窮神の事
國によりて其風俗かわる事
上州池村石文の事
其法に精心をゆだねしるしある事
不受不施宗門の事
好む所左も有べき事
志す所不思議に届し事
義は命より重き事
寺をかたり金をとりし者の事
鼬の呪の事
一休和尚道歌の事
福を授る頑を植るといふ事
耳嚢 卷之二
蛇を養ひし人の事
江戸山王永田馬場邊の事也、或は赤坂芝ともいひて共所定かならず。御三卿(さんきやう)方を勤る人の由、苗字は不知、清左衞門と名乘る人なりし由。いか成事にか小蛇を養ひ、夫婦とも寵愛して、箱に入れ椽の下に置て食事などあたへ、天明二年迄十一ケ年養ひけるが、段々と長じて殊の外大きくなりて見るもすさまじけれど、愛する心よりは夫婦とも、朝夕の食事の節も床(ゆか)をたゝき候へば、椽の上に頭を上げけるに、其身の箸を以食事など與へける由。家僕男女も始は恐れおのゝきしが、馴るに隨ひて恐れもせず、縁遠き女子抔は右蛇に願ひ候へなど夫婦のいふに任せ、食事など與へて所念なせば、利益等ありて其願ひ叶ひし事もありし由。然るに天明二年三月大嵐のせし事有しが、其朝も例の通呼侯て食事など與へしが、椽の上へ上り何か甚苦痛せる趣故、如何致しけるやと夫婦も他事なく介抱せしに、雲起り頻に雨降出しければ、右の蛇椽頰(えんばな)に始はうなだれ居たりしが、頭を上げ空を詠(ながめ)、やがて庭上迄雲下りしと見れば、椽より庭へ一身を延すと見へしに、雨強くやがて上天をなしけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:わたしの翻刻版の「卷之一」末の「怪僧墨蹟の事」とは連関を感じさせない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、わたしの翻刻版の「卷之一」の途中に現れる「羽蟻を止る呪の事」「燒尿まじないの事」[やぶちゃん字注:「尿」は「床」の誤り。「い」はママ。]「蠟燭の流れを留る事」の三本が最後であるが、この後ろから二番目の「燒床まじないの事」の中に、「大澤に大蛇(をろち)がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず」という呪文が示され、そこに蛇が登場してはいる。また、昇龍譚は開口としては相応しく、根岸の縁起担ぎが感じられる配置とも言えそうだ。
・「山王永田馬場」「山王」は現在の千代田区永田町二丁目にある日枝神社の別名。江戸三大祭の一つ、山王祭で知られる。ウィキの「日枝神社」によれば、明暦3(1657)年、『明暦の大火により社殿を焼失したため、万治二年(1659年)、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する』とある。その門前辺りは江戸初期、永田姓の屋敷が並んでいたため、一帯が永田馬場と呼称された。現在の国会議事堂の西の一帯。
・「赤坂芝」「赤坂」は現在の港区の北端、前記日枝神社の更に西の一帯を指し、「芝」は同港区東北部分から南の東京湾岸にかけての一帯を言う。
・「御三卿」徳川将軍家一族の内、江戸中期に分立した田安・一橋・清水の三家。田安家は八代将軍吉宗次男で宗武、一橋家は同吉宗四男宗尹(むねただ)、清水家は九代将軍家重の次男重好を始祖とする。将軍家に後嗣がない場合、その候補者を提供することを目的として起立された。格式は徳川御三家(徳川家康九男徳川義直を始祖とする尾張徳川家・同家康十男徳川頼宣を始祖とする紀州徳川家・徳川家康十一男徳川頼房を始祖とする水戸徳川家)に次ぐ。
・「天明二年迄十一ケ年養ひける」天明2年は西暦1782年であるから、その11年前は明和8(1771)年である。一般的な飼育下のヘビの寿命は数年から20年程度とされており、この蛇が如何なる種であるかは分からないが、描写印象から相当に大きな個体と思われ、11年というのは決して不自然な数値ではないと思われる。
・「椽頰(えんばな)」は底本のルビ。「椽」は通常は垂木のことを言うが、芥川龍之介なども、「縁」の代わりに、しばしばこの「椽」を用いている。
・「天明二年三月」この年は、日本史上に於いては天明の大飢饉の初年とされる(さすれば、この昇龍は実は、その凶兆でもあったのか?)。
・「詠(ながめ)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
蛇を飼う人の事
江戸山王永田馬場辺りか、若しくは赤坂・芝辺りに住もうて御座ったとも言われ、正確な住所は定かではない方で――御三卿のどちらかの御家に勤めて御座って――名字は存ぜねど――名を清左衛門と言うた御人の話の由。
如何なる謂われが御座ったものかは知らぬが、この御仁、小さな蛇を飼(こ)うて御座った。
これがまた、夫婦(めおと)ともども右蛇を寵愛致いて、箱に入れ、縁の下に飼い置き、餌なんどを与え、天明二年に至る迄、実に十一年もの間、飼(こ)う御座った。
これが、だんだんと――年を経るに従い――殊の外、大きくなり、見るもすざまじき大蛇(おろち)となって御座ったれど――こうなっても、依然として――夫婦の蛇を愛ずるの心、これ、一層深うなって――朝夕、庭近き床(ゆか)を叩けば、縁側の上へと鎌首を擡げる――すると、二人してそのぺろぺろと赤き下を出だいて御座る口に夫婦箸にて餌を与える――といった塩梅。
下男下女らも、勿論、始めは恐れ戦いて御座ったが――それがまた日々のことと慣れるに従い、何時の間にやら気にもならぬようになった、ということで御座る。それどころか、
「……良縁に恵まれぬ娘さんがおられれば、この蛇に願掛けなされるがよい。」
なんどと夫婦に言われるまま、そうした娘子がやって来ては、手づから初穂のごと、餌なんど与えて祈念致せば……これまた、不思議に御利益めいたこともあった、ということで御座った。
然るに、天明二年三月のこと、大嵐(おおあらし)が江戸を襲った日のことである。
その日の朝も、例の通り、床を叩いて蛇を呼び、縁側で餌など与えて御座ったところが、右蛇、何時になく、するすると縁側に上がり込んで参って、何やらん、如何にも苦しそうな風情。
「……如何致いた!?……」
と夫婦打ち揃うて、赤子を看病致すが如く懸命に介抱して御座った折りから、一天俄かに掻き曇って、雨、滂沱(ぼうだ)と降り注ぐ……
……すると……
……この蛇、始めは縁側にて何やら、項(うなじ)を垂れたようにして御座ったが――
……ふいに鎌首を擡げると、空をキッと睨む――
……時同じうして、天空より一群れの怪しき白雲(しらくも)、音もなく庭先に降り来たる――
……と……見る見るうちに……
……蛇は、庭へ……その白雲の中へ……しゅるしゅると……その一身を延ばすかと見える――
……と……
……雨の一頻り激しくなる中(うち)……
――ずいっと!――彼方へ昇天して御座った――と――
* * *
小兒に異物ある事
予が許へ常に來れる大木金助といへる者有しが、繪抔書て醫業を官務の間になして、予が家の小兒など不快の折からは其業(わざ)をも賴けるが、或日來りて語りけるは、世には不思議の生質(せいしつ)も有もの哉、去年堺町歌舞妓芝居へ行しに、右茶屋の倅(せがれ)十三才に成ぬるが、何卒繪を習ひ度由を申ける故、繪本など認(みとめ)遣しけるが、右倅近き頃金助方へ來りて專ら繪を習ひ或は素讀などいたし侍る。其起(おこり)を承(うけたまはる)に、其倅直(ぢき)に芝居の向ふに住けるに、狂言抔見る事甚嫌ひにて、明暮學問抔いたしける故、其父母家業に相應せずとて不斷叱り憤りて、辨當など芝居へはこびけるをも厭ひ嫌ひて、聊場所柄の浮氣繁花(うはきはんくわ)の有樣を心に留ざれば、迚も渠(かれ)は相續いたすまじとて、金助を賴み同人方へ寄宿爲致(いたさせ)ける。金助も其親々へかけ合けれど、當人願の上は宜相賴旨故、此程まで差置侍る由。歌舞妓茶屋ながら人も相應に召仕ひける者の倅、金助方へ來りては茶を運び、或は朝夕の給仕等をなしていくばくか苦しき事ならんと、物好成者もある也といひし。或日右の親共來りて、右倅の儀は迚も相續いたし役に立べき者にあらず、かゝる不了簡の者は侍にでも致さずば相成間敷(あひなるまじき)と申けると、大笑ひしける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:小蛇の異物が龍となり、小児の異物が大器とならんか。いやいや、これは夫婦して蛇飼う親、夫婦して学問好きの子を貶す親とは、今流行りのモンスター・ペアレンツで、ズバリ、連関じゃ!
・「大木金助」底本の鈴木氏注によれば、大木真則(まさのり)なる人物で、西丸台所番(西丸は引退した将軍或いは御世継の居所)であった大木真親の子とする。宝暦7(1759)年に親から『遺跡を継ぎ、二丸・本丸の火番などを経て、寛政五年台所頭の見習。時に五十八歳。九年賄頭、兼表御台所頭』とある。寛政五年は西暦1793年であるから、この記事記載(「卷之二」の下限は天明6(1786)年まで)よりも少し後で、この話柄は二丸・本丸火番であった頃の話であろう。
・「堺町歌舞妓芝居」現在の日本橋人形町3丁目にあった歌舞伎劇場、江戸三座の一つであった中村座のこと。ウィキの「中村座」によれば、『1624年(寛永元年)、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が江戸の中橋南地(現在の京橋の辺り)に創設したもので、これが江戸歌舞伎の始まりである。当初猿若座と称し、その後、中村座と改称された。1632年(寛永9年)、江戸城に近いという理由で中橋から禰宜町(現・日本橋堀留町2丁目あたり)へ移転、1651年(慶安4年)には堺町(現・日本橋人形町3丁目)へ移転した』とある。更に後、『1841年(天保12年)12月、中村座からの出火により葺屋町の市村座ともに焼失、天保の改革によって浅草聖天町(現・台東区浅草6丁目)へ移転させられた。この地には歌舞伎3座を含む5つの芝居小屋が建てられ、町名は初代勘三郎に因んで猿若町と命名され』、『884年(明治17年)11月、浅草西鳥越町(現・台東区鳥越1丁目)へ移転し、猿若座と改称されたが、1893年(明治26年)1月の火災で焼失した後は再建されずに廃座となった』とある。
・「浮氣繁花」歌舞伎界(梨園)及びそれに付属する茶屋遊興の場、当然、そこに更に関わる花柳界の浮ついた、華やかな、婀娜にして徒なる世界を総体的に言う語であろう。
■やぶちゃん現代語訳
子供にも変わり者がおる事
私の元によく訪ねて来る大木金助という者が御座る。絵など描くことを趣味と致し、また、公務の合間には、医術を学んで患者の診断や治療なども致し、私の家の子供なども体調を崩した折りなんどには診て貰(もろ)うたりしたもので御座ったが、その金助が、ある日、訪ねて来た折り、語った話である――。
「……世の中には、これまた、不思議な性質(たち)を持った者が御座るもので……去年のこと、堺町の中村座へ歌舞伎芝居を見に参りました折り、中村座向かいの茶屋の、十三歳に相なる小倅(こせがれ)が、何卒、絵を習いたき由申します故、何冊か絵の手本などを渡したことが御座ったが……実は、最近、この小倅……拙者の家に寄宿致し、絵を習い或いは漢文の素読なんどを致いて御座る。……」
とのこと――。私が、これまた、芝居茶屋の子倅が、何故にかく一念発起致いたのか、と訊ねた――
……いや、その子、芝居小屋の真向かいの茶屋に生れたにも拘わらず、……歌舞伎狂言なんどは、見るも忌まわしく、甚だ以って大嫌い、……ひがな一日、書を開き、学問なんどを致いて御座る故、その父母、甚だ以って家業に相応しからずと、日頃から、しっきりなしに意見致し、叱っては憤って御座った……。
……何でも、芝居ばかりか、客に売る弁当なんどを芝居小屋へ運ぶことすら嫌い、梨園・御茶屋の、あの浮かれ陽気に包まれた、豪華絢爛愛憎絵巻の世界には、聊かも心留める気配もなければ、……両親、口を揃えて、
「――とてものこと! こ奴は我が家業を相続致さずと存知まして――」
と、……拙者のところに頼みに御座って、かく、拙宅に寄宿致させて御座る次第……。
……勿論、拙者もこの両親にはあれこれと意見致し、まずは様子見の上と、掛け合(お)うてはみましたれども、……
「――いえ! もう、当人が強く望んでおりますること故――どうか一つ! そこのところ、よろしぅお願い申し上げ奉りまする――」
と、……いや、もう、けんもほろろにて……仕方のう、今に至る迄、拙者の書生の見習いのように致いて、さし置いて御座る……。
……一口に芝居小屋とは申しましてもな、沢山の下男下女をも相応に召し使うて御座る者の倅にて……拙者の茅屋(ぼうおく)に参って、しぶ茶を運び、毎日の食事・洗濯・掃除・留守番なんど……どれほど苦しかろうに、と察するのでは御座るが……それがまた、本人、至って平気の平左、学ぶことに嬉々として御座る……いや! もう……この世には想像も出来ぬよな、物好きな者が御座ることじゃ……。
……そうそう!……先だっては、こ奴の両親、うち揃うて参って御座っての。
「――矢張り、この倅にはとても家業を相続致すこと叶わず――全く以って役立たずの者――かかる了見違いの不届き者は――最早、侍にでもするより他は、どうしようもない、と二人して相談致いて御座る程にて……」
と言いよりました……。
……と金助殿が語り終えた。
私と二人、大笑いしたことは――言うまでもない。
* * *
蟲齒痛を去る奇法の事
韮の實を火に焚て、右煙を以て痛(いたみ)侯所を管(くだ)などにて通し、いぶし候へば即效有りと人の語りしに、又或人のいへるは筆を燒て半盥(はんどう)やうの物へ入、韮の實を龜湯をかけ候へば煙り立ち候を、右煙にて耳を蒸し候へば、耳より白き物出候。右白き物は蟲齒の蟲也といへるが、まのあたり樣(ため)し見しと人の語りける。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。蛇を愛玩する奇癖→御茶屋倅の奇物→虫歯の虫を押し出す奇術と、「奇」繋がりではあるが、「耳嚢」の総体は「奇」であればこそコジツケ。
・「蟲齒痛を去る奇法」これについて、2008年4月10日発行の『日本歯科医史学会会誌』に『「耳嚢」にみられる歯痛の治療法について』という鶴見大学歯学部の佐藤恭道・戸出一郎・雨宮義弘各氏による共著論文があることが、国立情報学研究所の論文情報ナビゲータによって確認出来る(出来るが、有料論文で、興味はあるものの、流石に金を払ってまで見る気は、私はしない。興味のあられる方はどうぞ)。
・「韮の實」単子葉植物綱クサスギカズラ目ネギ科ネギ属ニラAllium tuberosumの実は、漢方で日干しにして乾燥させたものを「韮子」(キュウシ)と称して生薬として用いる。但し、現在知られる効能は強壮・強精・止瀉で、インポテンツ・遺精・頻尿・腰気(こしけ)・下痢を適応症としており、歯痛鎮痛の記載はない。但し、富山県氷見市村上養生堂漢方薬局(懐かしい! 私は高校時代、氷見の同級生の女性と付き合っていた。この店の前もデートの折りに――交換日記のノートを買うために歩いた、その街角にあったのを確かに覚えているのだ――通ったことがある!)のHP中の「歯痛あれこれ」に『虫食い齲歯にも古人は沢山の簡便法を持っている。例えば王海藏は梧桐泪で火毒風疳の齲歯を治しているし、林元礼は蟾酥で虫歯を治し、朱丹渓は韮子を艾葉と共に燻じて煙で虫を追い出している。呉崑は新しい石灰を蜜丸にして虫食いの所へ入れて手で抑えて治している。これらは我々もつとに試みている事で確かに効果がある。歯科のない農村にあっては大変活用されている』とあり(コピー・ペーストであるが改行を省略した。下線はやぶちゃん)、古くはその効用が認められていたものと思われる。因みに引用文下線部の朱丹渓(1281~1358)は元代の名医。艾葉は双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科ヨモギ属の変種ヨモギArtemisia indica var. maximowicziiの葉を乾燥させた生薬で、単独では胆汁分泌促進・食欲増進・止血作用を持ち、高血圧・神経痛・下痢・便秘・胸焼け・鼻血・痔・血尿・冷えによる腹痛などを適応症とする。
・「筆」底本ではこの右に『(尊經閣本「瓦」)』とある。「筆」を採った。
・「半盥(はんどう)」は底本のルビ。諸注は「耳盥」とか「飯銅」と記すが、これは「半桶」「盤切」等とも書く「半切り」(はんぎり)のことであろう。盥(たらい)状の浅くて広い桶。「半切り桶」「はんぎれ」等とも呼称し、「半盥」は音読みするなら「ハンクワン(カン)」で、「はんどう」とは読めない。「盥」の「どう」という音訓はないのである。これは「半桶」の音読み「ハントウ(ハンドウ)」と、その盥のような形状から造語してしまったものではなかろうかと私は考える。現在の医療用の膿盆のようなものを想起すればよいように思われるが、如何?
・「實を龜湯を」:底本ではこの右に『(尊經閣本「實を置」)』とあるが、これは「韮の實を置かけ候」なのか「韮の實を置候」なのか、判然としない。注位置からは「韮の實を置かけ候」の謂いと見える。
・「龜湯」岩波版ではただ「湯」とする。亀湯では銭湯の名前みたようで訳しようがない。岩波版を採った。
・「樣(ため)し」は底本のルビ。「試す」の意で訳した。
○補足:平塚市にある平野歯科医院(院長・平野美治氏)のHPにある「院内新聞バックナンバー【第05号】」(発行:医療法人社団慈篤会 平野歯科医院 発刊日1999年6月4日)に院長平野氏御本人の記事で「古老のつぶやき-第3話-虫歯の話(お呪い)」というのがあり、氏の40年来の御友人で愛知県岡崎市生のN氏の知る、奇妙な歯痛の呪(まじな)いについての詳細な施術記載と、驚くなかれ、この「耳嚢」の記載がそのまま『明治大正時代の歯の文献』に記載されていること等が示されている。以下に引用しておく(非常に失礼乍ら、印刷物をOCRによる読み込みのままにアップされたものらしく、誤りが非常に多い。そこで、読みやすくするために一部に改行・句読点を施し、示されていない図指示部分をカット、誤りと思われる部分その他に注を附してある。平野先生、御容赦の程)。
《引用開始》
1. 火鉢に鉄板を起き加熱する。
2. その上にゴマの油を数滴たらす。
3. その上にお椀のそこに穴を開け女竹を差し込んで、椀をかぶせる禅に置く。[やぶちゃん注:「椀をかぶせる。膳に置く。」の誤りか?]
4. 女竹の先から煙が出る。その煙を痛む側の耳の穴に入れ、しばらくそのままして…[やぶちゃん注:「…」はママ。]
5. 椀を採ると、鉄板の上に白いカスが出る。これが通稻虫歯の虫で、これが出れば痛みは治る[やぶちゃん注:「通稻」は「通稱(称)」の誤りであろう。]。
とのことであった。当然歯科医師の私には信じられるものではなく一笑に付した。ところが最近明治大正時代の歯の文献を読んでいると偶然にもN氏の話と同様なことが記されていた。
(よはい草 第1輌)
韮の実を火に焚いて、右煙を以て、痛むところへ管を以て通じいぶしければ、即効なり。亦瓦を焼いて半盥やうの物に入れ、韮の実をおいて湯を掛け喉へば煙り立つを、その煙にて耳をむせば、耳の中より白きもの出れば虫歯の虫なり。
これを見て今更の様に当時の庶民生活の一端を彷彿させられた。そこで「お呪い」について調べると、
・茄子の帯を黒焼きにして寝る前につける[やぶちゃん注:「黒焼きにし七」とあるが、独断で「て」に改めた。]。
・半紙へ自分の顔を描き、口を大きく描き、歯の数を書いて、その痛む歯に灸をすえて、紙を焼きぬくと治る。
・白紙を十六カ所折り、痛む歯のうえから押さえる。
・桃の枝を折って噛む。
・蛸の絵を紙に書き、逆にして下に貼り、終始水をかけると治る。
・ざくろの皮を噛みしめる。
・腹蛇の骨を痛む歯で噛む[やぶちゃん注:「腹蛇」は「蝮」「蝮蛇」でマムシの誤りではあるまいか?]。
等に多数あるが特に神奈川県におけるお呪いでは[やぶちゃん注:「等に」はママ。]、
真言宗大師堂の両側に八視大師の像がある。この画像に「死ぬる前に一年を差上げる故癒して下さい。」と祈念する[やぶちゃん注:「八視大師」は不詳。所在する寺院も分からない。]。
落雷がした杉の木の一片を噛む。
相模国愛甲郡小鮎川上流の河畔に繭歯地蔵というのがある。画歯になやむ者、己の常用する箸を持ち小鮎川にかけた小橋を渡れば治る。ただし大橋を渡れば一旦治っても亦痛む。大橋より小橋の方が人通りが多いのはこれ故なり[やぶちゃん注:「繭歯」「画歯」は何れも「蟲(虫)歯」の誤りであろう。]。
《引用終了》
■やぶちゃん現代語訳
虫歯の痛みを除去する変わった療法の事
韮の実を火にて焚(た)き、その煙を竹・木管などを用いて痛むところの虫歯の部分に導いてやり、燻(いぶ)してやると即効ありとある人が語ったのであるが、また、ある人は、長く用いた筆を焼き、膿盆様のものに入れ、その上に韮の実を撒き散らし、湯をかける。すると、煙が立つ。立ち始めるたら、袋等を用いて即座に、その煙を以って耳を蒸してやると、耳から白いものが滲出してくる。その白いものは虫歯の虫である――と、言うのであるが、如何(いかん)?――「目の当たりに試して見て、事実であった。」とは、これまた、人の話では御座る。
* * *
蕎麥を解す奇法の事
ある人荒和布(あらめ)をうでし鍋を一通りに洗ひ蕎蓼をうでけるに、兎角水になりて用立ざりしといへるを其席の人聞て、あらめはすべて蕎麥を解し侯妙藥の由語りしに思ひ當りぬると人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:薬餌全般に関わる奇なる法連関。次毒キノコ解毒法とで三連発。
・「荒和布」真核生物クロムアルベオラータChromalveolata界ストラメノパイル Stramenopiles亜界不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科アラメEisenia bicyclis。但し、アラメに豊富に含まれれるアルギン酸等には、蕎麦の蛋白質を溶解する効果はない。アラメを茹でた際に出る渋(シブ)に何らかの溶解酵素が含まれている可能性がないとは言えないが、そのような記載を見出すことは出来なかった(それどころかアラメを混ぜた蕎麦まで存在する。更に、これは偶然なのか、蕎麦粉のことを「アラメ」と呼ぶのである)。江戸期のアラメEisenia bicyclisに対する認識については、私の電子テクスト寺島良安著「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「海帶(あらめ)」の項を是非、参照されたい。
■やぶちゃん現代語訳
蕎麥を溶かす奇法の事
ある人が、
「海藻の荒布(アラメ)を茹でた鍋をさっと洗ったもので蕎麦を茹でたのだが、蕎麦がすっかり水に融けてしまい、蕎麦を食い損なった。」
と言ったのを、同席して御座った物知りが聞いて、
「いや、荒布は、全く以って、蕎麦を消化致すによい妙薬なので、御座る。」
との由、答えて御座った――という話を私の知人が、また聞き致いて、これもまた、さもありなん、と思い当たって御座った――と私に語って御座った。
* * *
解毒の法可承置事
予白山に有し比(ころ)同隣の人語りけるは、大前古孫兵衞の屋鋪の中間(ちゆうげん)、或日庭のうちに出來し菌(きのこ)を調味して給(たべ)けるが、頻に笑ひ出しいかに叱り尋ても答へはなく只答ひ苦しみけるが、全く狐狸のなす所と山伏など加持なしけれど其印なし。其頃御藥園(おやくゑん)肝煎(きもいり)いたしける小川隆好(りゆうかう)といへる醫師是を見て、食毒なるべしとて尋ければ、傍輩(はうばい)なるもの、今朝庭の内楓の根にできたる茸を給し由語りければ、さればこそ楓に出來たる茸は笑ひ茸とて毒氣ありて笑ひ止(やま)ず、終には死せる事なりとて、兩便不淨などいたせる所の最寄に土色黑くなりし所をとりて、湯にほだて呑せけるに、吐却して毒氣を解(げ)しけるが早速快復せしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:薬餌全般に関わる奇なる法連関。蕎麦溶解術・歯痛除去術とこれで三連発。
・「白山」現在の文京区の中央域にある地名。江戸時代までは武蔵国豊島郡小石川村及び駒込村のそれぞれの一部であった。ウィキの「白山」によれば、地名の由来は、『徳川綱吉の信仰を受けた』『白山神社から。縁起によれば、948年(天暦2年)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀しこの地に祭った』とある。また、同解説には、『なお、小石川植物園は、隣接の小石川ではなく白山三丁目にある。これは、もともと白山地区の大部分が小石川の一部だったことによるもの』とあり、これは直後に出てくる小石川御薬園のことで、本記載に関わる地理的解説として注目される。
・「大前古孫兵衞」大前孫兵衞。「古」は「故」人で「故人」の謂いかと思われる。底本の鈴木氏注では、大前房明(ふさあきら)に同定し、寛保元(1741)年『養父重職の遺跡を相続、時に九歳。』宝暦8(1758)年に右筆、明和元(1764)年に奥御右筆に転じ、同3(1766)年組頭、『布衣を着することをゆるさるる』。同7(1770)年には西丸裏門番頭、と記す。但し、岩波版長谷川氏注では、この「古」=「故」に着目し、先代の表御右筆であった房次(ふさつぐ)か、とされている。大前房明の没年が分からないので如何とも言い難いが、以下の小川隆好の事蹟からは大前房次の可能性が極めて高いように思われる。
・「中間」仲間。本来は公家や寺院などに召し使われた男性を言い、身分が侍と小者との間にあったことからの謂い。中間男。江戸期に入ってから、武士に仕え、雑務に従った者を言うようになった。
・「御藥園」小石川御薬園、現在の通称・小石川植物園の前身。現在、正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園と言う。以下、ウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」によれば、『幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である』。『その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが小石川養生所で』、山本周五郎の連作短編小説「赤ひげ診療譚」や同作の映画化である黒澤明監督作品「赤ひげ」で知られる。『なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として甘藷(サツマイモ)の試験栽培をおこなった所としても有名である』。小石川養生所についても、ウィキの「小石川養生所」から引用しておく。『江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。享保7年(1722年)正月21日には麹町(東京都新宿区)小石川伝通院(または三郎兵衛店)の町医師である小川笙船が将軍への訴願を目的に設置された目安箱に貧民対策を投書する。笙船は翌月に評定所へ呼び出され、吉宗は忠相に養生所設立の検討を命じた』(小川笙船については後注参照)。『設立計画書によれば、建築費は金210両と銀12匁、経常費は金289両と銀12匁1分8厘。人員は与力2名、同心10名、中間8名が配された。与力は入出病人の改めや総賄入用費の吟味を行い、同心のうち年寄同心は賄所総取締や諸物受払の吟味を行い、平同心は部屋の見回りや薬膳の立ち会い、錠前預かりなどを行った。中間は朝夕の病人食や看病、洗濯や門番などの雑用を担当し、女性患者は女性の中間が担当した』とある。養生所は小川の投書を受けて早くも同享保7(1722)年12月21日に小石川薬園内に開設され、『建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置された。収容人数は40名で、医師ははじめ本道(内科)のみで小川ら7名が担当した。はじめは町奉行所の配下で、寄合医師・小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていたが、天保14年(1843年)からは、町医者に切り替えられた。これらの町医者のなかには、養生所勤務の年功により幕府医師に取り立てられるものもあった』とする。『当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、利用が滞った。そのため、翌、享保8年2月には入院の基準を緩和し、身寄りのない貧人だけでなく看病人があっても貧民であれば収容されることとし、10月には行倒人や寺社奉行支配地の貧民も収容した。また、同年7月には町名主に養生所の見学を行い風評の払拭に務めたため入院患者は増加し、以後は定数や医師の増員を随時行っている』とある。
・「肝煎」支配役・世話役。今風に言えば小石川養生所院長である。幕府職制の中で新規制度であったために(江戸幕府の職制にはそれ以前から肝煎という職名が存在し、同じ職掌中で支配役または世話役に相当する者を指したが、一般に知られているのは高家肝煎・寄合肝煎等である)、このように呼ばれているものと思われる。
・「小川隆好」諸本は注を施さないが、この人物の父は小川笙船(おがわしょうせん)と言い、小石川養生所の創立者として時代劇などで知られる有名な人物である。小川笙船(寛文12(1672)年~宝暦10(1760)年)は市井の医師であったが、ルーツは戦国時代の武将小川祐忠。以下、ウィキの「小川笙船」によれば(一部の改行を省略した)、『享保7年(1722年)1月21日、目安箱に江戸の貧困者や身寄りのない者のための施薬院を設置することを求める意見書を投書した。それを見た徳川吉宗は、南町奉行・大岡忠相に養生所設立の検討を命じた。翌月、忠相から評定所への呼び出しを受け、構想を聞かれたため、
身寄りのない病人を保護するため、江戸市中に施薬院を設置すること
幕府医師が交代で養生所での治療にあたること
看護人は、身寄りのない老人を収容して務めさせること
維持費は、欲の強い江戸町名主を廃止し、その費用から出すこと
と答えたが、町名主廃止の案に対して忠相は反対した。しかし、施薬院の案は早期から実行し、吉宗の了解を得た。同年12月21日、小石川御薬園内に養生所が設立され、笙船は肝煎に就任した。しかし、養生所が幕府の薬園であった土地にできたこともあり、庶民たちは薬草などの実験台にされると思い、あまり養生所へ来る者はいなかった。その状況を打開するため、忠相は全ての江戸町名主を養生所へ呼び出し、施設や業務の見学を行わせた。そのため、患者は増えていったが、その内入所希望者を全て収容できない状況に陥ってしまった。享保11年(1726年)、子の隆好に肝煎職を譲って隠居し、金沢へ移り住んだ。以後、養生所肝煎職は笙船の子孫が世襲した。その後、病に罹って江戸へ戻った。宝暦10年(1760年)6月14日、病死。享年89』、とある(下線部やぶちゃん)。これによって、本話柄は、享保11(1726)年以降、天明6(1786)年以前であることが分かる。この幅から考えると、大前孫兵衞は大前房次であると考える方が自然である。
・「笑ひ茸」菌界子嚢菌門同担子菌綱ハラタケ目ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属ワライタケPanaeolus papilionaceus。ウィキの「ワライタケ」によれば、『傘径2~4cm、柄の長さ5~10cm 。春~秋、牧草地、芝生、牛馬の糞などに発生。しばしば亀甲状にひび割れる。長らくヒカゲタケ(Panaeolus sphinctrinus)と区別されてきたが、最近では同種と考えられている』もので、『中枢神経に作用する神経毒シロシビンを持つキノコとして有名だが、発生量が少なく、決して食欲をそそらない地味な姿ゆえ誤食の例は極めてまれ。食してしまうと中枢が犯されて正常な思考が出来なくなり、意味もなく大笑いをしたり、いきなり衣服を脱いで裸踊りをしたりと逸脱した行為をするようになってしまう。毒性はさほど強くないので誤食しても体内で毒が分解されるにつれ症状は消失する』とあり、『摂取後30分から一時間ほどで色彩豊かな強い幻覚症状が現れるが、マジックマッシュルームとして知られる一連のキノコよりは毒成分は少ないため重篤な状態に陥ることはない』と記載する。シロシビンはサイロシビン(Psilocybin 4-ホスホリルオキシ-N,N-ジメチルトリプタミン)とも言い、『シビレタケ属やヒカゲタケ属といったハラタケ目のキノコに含まれるインドールアルカロイドの一種。強い催幻覚性作用を有』し、これを『多く含む幻覚性キノコは、かなり古くからバリ島やメキシコなどではシャーマニズムに利用されてきた。1957年にアメリカの幻覚性キノコ研究者、ロバート・ゴードン・ワッソン (R. Gordon Wasson)と、フランスのキノコ分類学者、ロジェ・エイム(Roger Heim)によるメキシコ実地調査の記録がアメリカのLIFE誌で発表されてからその存在が広く知られるようになり、LSDを合成したことでも著名なスイスの化学者、アルバート・ホフマン(Albert Hofmann)が、動物実験で変化が見られないので自分で摂取し幻覚作用を発見、成分の化学構造を特定しシロシビンとシロシンと名づけた』ものである。『シロシビン、シロシンを含むのはハラタケ目のキノコで、同じ種でも採取場所や時期によっても含有量は異なってくるが、特に多量にシロシビンを含む属として、前述のシビレタケ属、ヒカゲタケ属と、日本では小笠原諸島などに分布する熱帯性のアオゾメヒカゲタケ属が挙げられる。僅かでも含むものも数えれば、その数は180種以上にも及ぶ。その中には、シロシビン以外の毒が共存するキノコも少なからず存在』し、摂取後、速やかに加水分解されてシロシンに変性、腎臓・肝臓・脳・血液に広く行き渡る。ヒトの標準的中毒量は5~10㎎程度で、15㎎以上『摂取すると、LSD並の強烈な幻覚性が発現する。成長したヒカゲシビレタケ、オオシビレタケで2、3本、アイゾメシバフタケだと5、6本で中毒する。分離したシロシビンを直接静脈注射すると、数分で効果が現れ』、『症状は、摂取してから30分ほどで悪寒や吐気を伴う腹部不快感があり、1時間も過ぎると瞳孔が拡大して視覚異常が現れ始め、末梢細動脈は収縮して血圧が上がる。言わば、交感神経系が興奮した時と似た状態である。2時間ほど後には幻覚、幻聴、手足の痺れ、脱力感などが顕著に現れて時間・空間の認識さえ困難となる。その後は徐々に症状が落ち着き始め、4~8時間でほとんど正常に戻る。痙攣や昏睡などの重症例は極めて稀で、死亡するようなことはまずないが、幼児や老人が大量に摂取すると重篤な症状に陥ることもある』とし、シビレタケ属の一種であるシロシビン含有量の多いオオシビレダケPsilocybeの仲間を子供が誤食した死亡例があるとする。『ベニテングタケやテングタケに代表されるイボテン酸の中毒症状は、最終的に意識が消失していく傾向にあるのに対し、シロシビン中毒では過覚醒が発現することが多』く、『長期間常用しても蓄積効果はなく、肉体的な依存性もないが、大麻程度の精神依存があるとされる。また、摂取した後も3ヵ月以内くらいは、深酒や睡眠不足などの疲労によって幻覚や妄想が再燃するフラッシュバックが起こる可能性が指摘されている』とある(以上、後半はウィキの「シロシビン」から引用)。また、「カラー版 きのこ図鑑」(本郷次雄監修・幼菌の会編・家の光協会)110p「ワライタケ」には以下の記載がある(抜粋)とのこと(ブログ「大日本山岳部」の「ワライタケ入門」より孫引き)このエピソードは、ブログの筆者もおっしゃっている如く、必読である。正規の図鑑としては白眉ならぬ金眉である(学名のフォントを変更した)。
《当該ブログからの引用開始》
ワライタケ
Panaeolus papilionaceus
ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属
春~夏、牛馬の糞や推肥上に群生~単生。小型。(略)肉は淡褐色。柄は褐色で、白色の微粉に覆われ中空。幻覚性の中毒をおこす。
エピソード:
大正6年、石川県樋川村のA夫さん(35歳)は、近所のBさん(40歳)が採ってきたきのこをBさんが「中毒したら大変」と注意するのも聞かず、「その場所なら今年の3月に同じようなきのこを採ったことがあるから大丈夫」と言い張って、無理やり分けてもらった。
その晩、A夫さんは妻のC子さん(31歳)、母のD枝さん(70歳)、兄のE助さん(41歳)と一緒にきのこの汁物にして、食べた。しばらくしてC子さんがおかしくなり、さすがのA夫さんもあわて、医者に助けを求めた。そしてA夫さんが助けに戻ってくると、C子さんは丸裸になって踊り、飛び跳ね、三味線をもって引くまねをしたり、笑い出したりの大騒ぎ。そのうちA夫さんとE助さんも同じように狂いだし、D枝さんはきのこ3個しか食べなかったため症状が軽く意識を失わなかったものの、自分の料理でみんなに迷惑をかけたと謝り、一晩中同じ言葉をくりかえした。翌日全員快復したという。
本種は、この中毒事件がきっかけとなってワライタケの名がついた。
《当該ブログからの引用終了》
最後に注しておくと、小川は「楓に出來たる茸は笑ひ茸とて」と述べているが、上記引用にも『牧草地、芝生、牛馬の糞』『牛馬の糞や推肥上』とあり、そのようなムクロジ目カエデ科カエデ属 Acer への特異的植生性質はない。
・「ほだて」は「攪(ほだ)つ」で、掻き回す、掻き回すの意。
・「解しけるが」岩波版は「解しけるか」。そちらを採る。
■やぶちゃん現代語訳
種々の実際的解毒法はそれなりに知っておくべきである事
私が白山に住んで御座った頃、隣人から聞いた話。
ある日のこと、故大前孫兵衛殿の屋敷の中間が、屋敷の庭内に生えた茸を料理して食ったところが、頻りに笑い出し、傍(そば)の者が、
「うるさい! 止めんか!」
とどんなに叱ろうとも、
「何が可笑しい!?」
と声高に訊ねても一向に答えず、ただもう、笑い苦しんでおるばかり。
「……これはもう、てっきり、狐狸の成す業(わざ)じゃ!」
と、山伏なんどを呼んで加持祈禱致たれど、一向に験(しるし)がない。
その頃、近くの小石川の御薬園の支配方を命ぜられて御座った小川隆好(りゅうこう)という医師を呼び、診て貰ろうたところ、一見して、
「恐らく食中毒で御座ろう。」
と見立て、傍輩の者に、当人のここ数日の食事について尋ねたところ、
「……そう言えば……今朝方、庭内の楓の根元に生えた茸を食って御座ったの……」
と語る。すると即座に、
「さればこそ――楓に生えたる茸はワライダケと申しての、毒気が御座って笑いが止まらぬようになるもの。この症状、放置せば、遂には死に至るものにて御座る――」
というや、隆好は屋敷の大小便致すところの厠近辺、その汚物の染み渡ってどす黒くなった場所の土を採取致いて、湯に入れて素早く掻き混ぜ、中間に一気に飲ませた――すると、たちどころに吐瀉し――間に合(お)うて解毒出来たものか、即座に恢復致いたとのことで御座った。
* * *
堀部彌兵衞養子の事
堀部彌兵衞養子は元來浪人にて安兵衞と號し、牛込邊何某といへる劍術の師の内弟子也しが、伯父の仇討の事にて高田馬場において拔群の働せし事を彌兵衞聞及て、實子なければ哀れかゝる武勇のものを養ひ子とせんと思ひしかども手寄(たより)なければ、直に彼師匠の許へ立越へ、安兵衞と言る門弟かゝる働有りと承る、四五萬石の大名の家中にて食祿三百石を領するもの養子を好候間可遣哉(つかはすべきや)、存寄承度(たき)と申談ければ、隨分承知に可有之。併(しかしながら)留守に候間歸り次第可承と右の師匠挨拶に付、彌兵衞は歸りける。扱も右師匠安兵衞へかく/\の養子口有、可參哉(や)、淺野内匠頭家來堀部彌兵衞といふ人の世話也と申ければ、安兵衞事も江戸表に於て親族も無之貧窮の者故、至極望はあれども如何と申ければ、先何れにも彌兵衞方へ罷越可談との事故、彌兵衞方へ罷越案内を申入、則安兵衞の由を申ければ、彌兵衞大に悦び座敷へ請じ對面し、彌々(いよいよ)養子承知に候哉(かな)、養父母は老人にて、主人の高(たか)并宛行(あてがひ)の處先達て師へ咄し候に少しも相違なしと申けるゆへ、困窮の浪人何も支度無之段申ければ、大小さへ所持いたし候へば何も入り不申(まうさざる)段申候上、承知の段安兵衞申ければ、則勝手へ入れ衣類大小を携へ出、則養子致し候者は某(それがし)也、主人の高も五萬石自分食祿も三百石也、今日より拙者悴(せがれ)也、左樣に心得可申段申達(まうしたつし)、さらば勝手へ通るべしと案内しける故、餘りの事に安兵衞も大に驚けるが、やがて父子の約をなしぬ。大石良雄報仇の節も、父子とも四十七人の内隨一の働せし者也と人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせないが、ワライタケのブラックな中間の笑い声が、陽気で鮮やかな弥兵衛の喜悦の笑いに変じて快い。
・「堀部彌兵衞」堀部金丸(かなまる 又は あきざね 寛永4(1627)年~元禄16(1703)年)は赤穂藩家臣。食禄はここで言う通り、300石であるが、後に隠居料20石が加わっている。以下、ウィキの「堀部金丸」より引用する(相当量の引用となったが、この記事を読むに当ってはどれも省略することが出来ないと私には思われた。お許しあれ)。『浅野長重の家臣堀部弥兵衛綱勝の子として常陸国笠間に生まれる。堀部家は祖父助左衛門以来、浅野家に仕える譜代の臣下の家である。幼少の時に父が死に若年より浅野長直、長友、長矩(内匠頭)の三代に仕え、祐筆を経て江戸留守居となる。妻に山田氏の女、さらに後妻として忠見氏の女わかを迎えており、先妻の山田氏の女との間には弥一兵衛とほりの一男一女をもうけたが、元禄5年(1692年)12月に長男弥一兵衛が男色関係のもつれから妻の縁戚の本多喜平次に殺された(本多は弥兵衛が討ち取ったという)。嫡男を失った弥兵衛は後妻わかの実家忠見氏から堀部文五郎言真を養子に迎えたが、藩主浅野長矩から却下されたため、赤穂藩の家禄を相続させる養子とすることはできなかった』。『元禄7年(1694年)、高田馬場の決闘で活躍した浪人中山安兵衛を見込み、娘ほりと娶わせ婿養子に迎える。この養子縁組は長矩も許可し、弥兵衛は隠居して、代わりに安兵衛が家督を継いで長矩に仕えることになった』。ところが7年後の『元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は改易となった。弥兵衛は藩邸を引き払い、馬淵一郎右衛門と変名して江戸に隠れ住む(堀部氏は近江源氏佐々木氏の馬淵氏支族であったので、先祖も称した本家の名字を使用したものと思われる)』。『弥兵衛は婿養子の安兵衛とともに仇討ちを主張する急進派の中心となった。元禄15年(1702年)大石内蔵助は仇討ちを決定して江戸に下り、弥兵衛は「浅野内匠家来口上書」の草案を書いた。討ち入りの前夜、吉田忠左衛門らを招き酒宴を催した』。『12月15日未明、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士は吉良上野介の屋敷に討ち入る。弥兵衛は表門隊に属し、槍を持って門の警戒にあたった。2時間あまりの激闘の末に浪士たちは吉良上野介を討ち果たして本懐を遂げ』、『討ち入り後は細川越中守屋敷にお預けとなり、元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により、切腹した。享年77。戒名は、刃毛知劔信士。同志のうち最年長者だった』とある。実際には弥兵衛にはもう一人養子がおり、堀部文五郎と言った。勿論、彼も『討ち入りへの参加を望んだが、浅野家臣ではなかったので弥兵衛から拒否され、討ち入り直前に連座を避けるため忠見姓に戻して忠見家へもどされた(弥兵衛の日記によると文五郎がどうしてもと望むので吉良邸前までは弥兵衛のお供をすることを許したという)。忠見家に帰されたあとも文五郎は堀部姓を名乗り、弥兵衛と安兵衛の切腹後はかわって堀部家を継』いだ。『元禄16年(1703年)赤穂義士に深く感銘していた熊本藩主細川綱利に召抱えられ、その子孫は熊本藩士として存続する』こととなったと記す。
・「安兵衞」堀部武庸(たけつね 寛文10(1670)年~元禄16(1703)年)、旧姓は中山。通称の安兵衛の名で知られる赤穂浪士四十七士中一番の剣客。忠臣蔵では大石内蔵助と人気を二分する。浪士の中で江戸急進派と呼ばれる勢力の首魁であった。以下、非常に優れたウィキの「堀部武庸」の記載より引用する(相当量の引用を行ったが、それほど、この記事は素晴らしい。お許しあれ)。『越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。母は新発田藩初代藩主溝口秀勝の五女溝口秋香と新発田藩士溝口四郎兵衛の間にできた六女。したがって安兵衛は溝口秀勝の曾孫の一人にあたる。姉が三人おり、長女ちよは夭折、次女きんは、中蒲群牛崎村の豪農の長井弥五左衛門に嫁ぎ、三女は溝口家家臣町田新五左衛門に嫁いでいる』。『母は、安兵衛を出産した直後の寛文10年(1670年)5月に死去したため、しばらくは母方の祖母・溝口秋香のところへ送られて、秋香を母代わりにして三歳まで育てられたが、秋香が死去したのち、再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる』。『しかし安兵衛が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる。この弥次右衛門の浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという『世臣譜』にある説が有力』。『浪人後、ほどなくして父・弥次右衛門が死去。孤児となった安兵衛は、はじめ母方の祖父・溝口四郎兵衛に引き取られたが、盛政もその後二年ほどで死去したため、姉きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られていった。元禄元年(1688年)19歳になった安兵衛は、長井家の親戚佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内源太左衛門の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持った』。『そんななか、元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。安兵衛と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、安兵衛は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)』。『この決闘での安兵衛の活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を望んだ。はじめ安兵衛は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、弥兵衛の思い入れは強く、ついには主君の浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。内匠頭も噂の剣客中山安兵衛に少なからず興味があったようで、閏5月26日(1694年7月18日) 、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した』。『これを聞いてさすがの安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(8月27日)、弥兵衛の娘ほりと結婚して、堀部弥兵衛の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。しかし安兵衛は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類されている。堀部家は譜代の臣下であるはずなので「堀部家の養子」としてはおかしい分類である。やはり異例の養子入りであるから安兵衛は弥兵衛の堀部家とは事実上別家扱いだったことがわかる』。『赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役(馬廻りは役職というより武士の階級。騎乗できる武士のこと。騎乗できない武士中小姓の上位。)となった。元禄11年(1698年)末には尾張藩主徳川光友正室千代姫(将軍徳川家光長女)が死去し、諸藩大名が弔問の使者を尾張藩へ送ったが、浅野内匠頭からの弔問の使者には、この安兵衛が選ばれ、尾張名古屋城へ赴いた』。『しかし元禄14年(1701年)3月14日(1701年4月21日)、主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で高家吉良上野介に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。安兵衛は江戸詰の藩士奥田孫太夫(武具奉行・馬廻150石)、高田郡兵衛(馬廻200石)とともに赤穂へ赴き、国許の筆頭家老大石内蔵助と面会。篭城、さもなくば吉良への仇討を主張したが、内蔵助からは「吉良への仇討はするが、大学様による浅野家再興が優先だ。時期を見よ」と諭されて、赤穂城明け渡しを見届けた後、安兵衛らは江戸に戻ることとなった』。『しかしそれ以降も強硬に吉良への敵討を主張。江戸急進派のリーダー格となり、京都山科に隠棲した大石内蔵助に対して江戸下向するよう書状を送り続けた。差出日8月19日(9月21日) の書状では「亡君が命をかけた相手を見逃しては武士道は立たない。たとえ大学様に100万石が下されても兄君があのようなことになっていては(浅野大学も)人前に出られないだろう」とまで主張』、『大石内蔵助は、安兵衛ら江戸急進派を鎮撫すべく、9月下旬に原惣右衛門(300石足軽頭)、潮田又之丞(200石絵図奉行)、中村勘助(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤源四郎(400石足軽頭)と大高源五(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは全員安兵衛に論破されて急進派に加わってしまう。このため、大石内蔵助自らが江戸へ下り、安兵衛たちを説得しなければならなかった』。『元禄14年11月10日(1701年12月9日)、大石内蔵助と堀部安兵衛は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談に及んだ。内蔵助は、一周忌となる元禄15年3月14日(1702年4月10日)の決行を安兵衛に約束して京都へと戻っていった』。『しかし帰京した内蔵助は主君浅野内匠頭の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び大石と面会するために安兵衛は、元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都に入った。事と次第によっては大石を切り捨てるつもりだったともいう。実際、安兵衛は大坂にもよって原惣右衛門を旗頭に仇討ちを決行しようと図っている。しかし7月18日(8月11日)、浅野大学の浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となった。ここにきて大石内蔵助も覚悟を決めた。京都円山に安兵衛も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した。安兵衛はこの決定を江戸の同志たちに伝えるべく、京都を出て、8月10日(9月1日)に江戸へ帰着し、12日(9月3日)には隅田川の舟上に同志たちを集めて会議し、京での決定を伝えた』。『そして元禄15年12月14日(1703年1月30日)、大石内蔵助・堀部安兵衛ら赤穂浪士47士は本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入った。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は吉良上野介を討ち取り、その本懐を遂げた』。『松平久松隠岐守定直三田中屋敷跡討ち入り後、赤穂浪士たちは四つの大名家の屋敷にお預けとなり、安兵衛は大石内蔵助の嫡男大石主税らとともに松平隠岐守の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、松平隠岐守屋敷にて同家家臣荒川十大夫の介錯により切腹した。享年34。主君浅野内匠頭と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。法名は刃雲輝剣信士。堀部家の名跡は親族の堀部文五郎が継ぎ、堀部家は熊本藩士として存続する。 そもそも堀部氏は近江源氏佐々木氏族で、佐々木定綱の子馬淵広定より始まる馬淵氏の支族である。堀部家は代々佐々木氏の本家である六角氏に仕えていたが、主家が織豊時代に滅びたため、浅野氏に仕えることとなったといわれている。家紋の目結紋は、佐々木氏族の証しである』。「参考」欄には『安兵衛は赤穂義士研究の重要資料である「堀部武庸日記」を残した人物でもある。安兵衛が討ち入りに関する重要書類をまとめて編集してあったもので、討ち入り直前に堀内道場同門の親友である儒学者細井広沢に編纂をゆだね、今日に伝えている』とあり、また『剣豪でありながら、養父弥兵衛との微笑ましい関係があったりするせいか、堀部安兵衛は、四十七士のなかでも特に人気が高い』とする。『養父弥兵衛とは血統上の関係は一切ないが、二人の仕草や物腰は大変よく似ていたという(堀内伝右衛門覚書より)。二人の間には、愛し愛される実の親子以上の親交があったのだろう』という部分は、この記事のシーンを髣髴とさせるものである。
・「牛込邊何某といへる劍術の師」これは前注堀部武庸の事蹟にも現われた堀内正春(寛永18(1641)年~正徳3(1713)年)である。直心影流の剣術家で、通称、源左衛門。ウィキの「堀内正春」によれば、下野国に出身といい、『直心影流に堀内流という一派を立てて、江戸の小石川牛天神下に道場を持った。この堀内道場は江戸においては有数の道場として名を馳せるようになる。赤穂四十七士の堀部安兵衛や奥田孫太夫らも門弟である。特に堀部安兵衛は堀内道場一の高弟』として知られた、とある。
・「牛込」現在の新宿区東北部の地名。当時は大名や旗本の住む武家屋敷が集中していた(後に尾崎紅葉・夏目漱石らの近代文化人の居所としても知られる)。
・「伯父の仇討の事にて高田馬場において拔群の働せし事」御存知「高田馬場の決闘」のこと。元禄7(1694)年2月11日に高田馬場で起きた伊予国西条藩松平頼純の家臣たちによる決闘。中山安兵衛(後の堀部安兵衛)は、助太刀として参加したが、結局、これによって安兵衛は名を挙げることとなった。ウィキの「高田馬場の決闘」より引用する(話柄上の直接の関係はないが、私自身、この決闘の本来の原因を今回始めて知ったので、相当量の引用をお許し頂きたい)。『元禄7年2月7日、伊予西条藩の組頭の下で同藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が相番していたときのこと、年始振舞に村上が菅野を疎言したことについて二人は口論になった。このときは他の藩士たちがすぐに止めに入ったため、二人は盃を交わして仲直りしたのだが、その後また口論となってしまう。ついに二人は高田馬場で決闘をすることと決める。『しかし菅野は菅野家で若党と草履取りをしていた2人しか集められなかった。一方村上家は三兄弟であり、しかも家来も含めてすでに6・7人は集めたと聞き及ぶ。そこで菅野は同じ堀内道場の門弟で叔父・甥の関係を結んでいた剣客堀部安兵衛のもとへ行き、「草履取りと若党しかおらず、決闘で役に立つ連中とも思えない。万が一自分が討たれた時は自分の妻子を引き受け、また代わりに村上を討ってほしい」と申し出てきた。これに対して安兵衛は「事情は承知した。しかし後の仇討は受けがたい。今こそお供させていただきたい。貴公よりは手足も達者ですから、敵が何人いても駆け回りひとりで討ち倒し、貴公には手を煩わせません」と応え、菅野はこれを聞いて同道を許可したので一緒に決闘場高田馬場へいくこととなった』。『元禄7年2月11日、四つ半頃(午前11時過ぎ頃)、菅野・安兵衛・若党・草履取りは高田馬場へ入った。安兵衛が馬場を見回すと、南之方馬場末から村上庄左衛門がやってきた。しかし一人だけとは思えぬと若党に見回りさせると木の蔭に村上の弟中津川祐見(文書の中に「此れは針医者にて御座候」とある)と村上三郎右衛門(「此れは浪人。庄左衛門にかかり罷在候」とある。すなわち村上庄左衛門の家にいる居候の弟のようである)がいた。挟み打つ手だてとみて菅野は安兵衛らに護衛されながら村上に歩み寄った。村上も近づいてきて十間まで迫ったところで二人は言葉を交わした。菅野が「これは珍しいところにて見参致し候」と皮肉を言うと、村上も「まことに珍しいと存じ候」と応じた』。『そこへ村上の弟村上三郎右衛門が兄庄左衛門の後ろから回って斬りかかろうとしたので安兵衛が三郎右衛門の眉間を切り上げた。三郎右衛門はひるんで左の手を刀から離したが、なおも右の手で刀を振り下ろし安兵衛はこれを鍔で受けた。三郎右衛門は一度離れ、再度斬りかかったが、また鍔で受けとめられ、三郎右衛門の刀が引かれたところを踏み込んで三郎右衛門を正面から真っ二つにした』。『十間ばかり向こうでは菅野と村上が切りあっていた。しかし村上の剣で菅野が眉間を切られたので、安兵衛がはっとして駆け付けようとしたが、菅野も村上の左右の手を討ち落とした。村上は「ならぬ、ならぬ」と悲鳴をあげて引き下がったが、ならぬと言いながらもなおも眉間に打ち込もうとしてきた(手が落ちていては刀を握れないようにも思えるが原文はこうなっている。骨で止まり完全には落ちなかったか)ので安兵衛が西の方の上手で村上を斬り伏せた。さらに今一人(中津川祐見)が切りかかってきたのでこれも打ち倒した』。『この決闘で堀部安兵衛が斬った数は諸説あるが、この文書が安兵衛の書いた本物であるとすれば、少なくとも安兵衛が自認しているのは3人(村上庄左衛門と村上三郎右衛門と中津川祐見)ということになる』とある。『こののち江戸市中の瓦版では「18人斬り」と数を増して紹介され、さらに講談や芝居とするため劇化がなされた結果、この決闘にはさまざまな逸話が誕生することにな』り、『その代表的なものが「菅野が安兵衛の家に別れを告げに行ったとき、安兵衛は前夜他所で飲んで酔いつぶれていた為留守だった。菅野はやむなく文を書き残して高田馬場へ行く。昼近く、酔いから醒め家に戻った安兵衛は、菅野の文を読むや「すわ一大事」と慌てて高田馬場へと駆け出す。」という安兵衛が後から走って駆け付けて来たという逸話と「堀部ほりがこの決闘を見ていて安兵衛にしごきを貸す」という将来の結婚相手と運命的な出会いが決闘の時にあったという逸話』で、「高田馬場の決闘」と言えば、昭和3(1928)年伊藤大輔監督のサイレントの作品「血煙高田馬場」での私の大好きな大河内伝次郎が、たったと速駆けするシーンばかりが私には残っているのである。なお、『決闘の舞台となった高田馬場は、現在の住所表記である新宿区高田馬場ではなく新宿区西早稲田にある』そうである。
・「手寄」岩波版ではこれに「てより」という特殊なルビを振るが、私は「たより」でよかろうと思う。
・「淺野内匠頭」浅野長矩(寛文7(1667)年~元禄14(1701)年)御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩主。
・「宛行」武家で主君から与えられる扶持(ふち)。禄。
・「支度」通常ならば男子養子縁組では養子側がそれなりの金品を払って養子を買うということなのだろうが、この場合は、逆に被養子側が没落した武士であるから、相応の持参金が必要というニュアンスなのか。それとも、単に養子縁組の儀式の為の支度金さえもない、という意味なのか。ひたすら「困窮」を言うのであるなら後者であろうが、先のウィキの「堀部武庸」には、当時の実際の安兵衛は『堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持った』とあるから、かなり裕福で、前者のようにも思える。但し、そもそも見た通り、実際には安兵衛は養子縁組に難色を示しており、この話のように即決ではなかったものと思われるから、こうした現実の細部を考えるのは無意味か。困窮で後者としておこう。
・「大石良雄報仇」「大石良雄」は御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄(よしお 又は よしたか 万治2(1659)年~元禄16(1703)年)。「報仇」討ち入りは元禄15年12月14日(グレゴリオ暦では1703年1月30日)。
■やぶちゃん現代語訳
堀部弥兵衛養子の事
堀部弥兵衛の養子は元々浪人で、安兵衛と言うた。牛込辺に道場を構えていた、さる剣術の師匠の内弟子で御座ったが、この安兵衛が伯父の仇討ちに関わって高田馬場に於いて抜群の大働(おおばたら)きを致いたという話を、堀部弥兵衛が聞き及び、彼には男子がなかった故、
「なんと! かかる武勇の者を養子とせん!」
と思い到ったものの、全く縁も所縁もない人物であったがため、直ちにその剣術の師匠のもとを訪ねて、
「安兵衛殿と申す御門弟、大したお働き、と承って御座る。――実は、拙者の知り合いに四、五万石の大名に仕えて御座る、食禄三百石を領する者、良き養子を捜して御座れば――その安兵衛殿を、如何(いかが)? と存知、只今、お答えを戴きたく――」
と切り出したところ、師も、
「それは思いもよらぬ良縁で御座る。本人も必ずや承知仕るものと存ずる……しかし乍ら、只今、丁度、留守にて御座れば、帰り次第、件(くだん)の話を致いて、如何致すか訊き質いておきましょうぞ。」
との右師匠の挨拶なれば、良き感触を得て、弥兵衛は安堵して屋敷へと帰った。
その日、しばらくして安兵衛が道場に戻ったので、師が、
「……といった養子縁組の話があるのじゃが、如何か? 浅野匠頭家来堀部弥兵衛殿という方の御紹介じゃ。」
と話すと、当の安兵衛も、
「……拙者、江戸表には親族もこれなき上……恥ずかしながら、生活、いたって不如意……願ってもない養子話なればこそ、何ら、異存御座らねど……余りに過褒にして急な話なれば……」
と躊躇する風情。そこで師匠は、
「……そうじゃな……されば、先ずはともあれ、その弥兵衛殿を訪ね申し上げ、少しく詳しい話を伺(うかご)うてから、ゆるりと決めるがよかろう。」
とのこと。
そこで、その夜、安兵衛は堀部弥兵衛の屋敷を訪ねた。
案内(あない)を乞うて、
「拙者は、昼つ方、お訪ね戴いた安兵衞にて御座る。」
と名乗ったところ、弥兵衛、甚だ悦んで、挨拶もそこそこに座敷内に引き込み、対座するや、
「いよいよ、養子縁組の話、御承知戴けたのじゃな! さても養父母は老人にて、主君石高並びに先方の禄高なんども、先にお話し致いたものと、全く違(たが)はぬものにて御座る!」
と一気にまくし立てる。
安兵衛は余りの性急さに、
「……いえ、今日はまず、お話だけは伺わんものと参りまして御座ったもので……何せ、拙者、困窮致したる浪人にて御座れば……養子に入るための僅かの支度金なんども……一銭も御座らねばこそ……」
と言う言葉を弥兵衛、遮り、
「なに! 腰の大小さえ所持致し候らえば、他には何も! いり申さん!」
ときっぱりと告げる。
余りに自信に満ちた弥兵衛の言葉に、安兵衛はとりあえず、
「……分かり申した。先方の御方へ、養子縁組承った旨、お伝え下され。」
と述べて、別れの挨拶を致そうとしたところが、
「さればこそ!」
と弥兵衛、安兵衛を残して勝手に走り込むや、衣類に新しき大小を抱えてとって返し、
「すなわち! そなたを養子に致したく存ずる者とは、拙者で御座る! 主君浅野匠頭様石高五万石、某(それがし)食禄も三百石! 今日只今より、お主は拙者の悴! 左様心得い!」
と言うが早いか、安兵衛の手をむんずと摑み、
「されば! 勝手へ通るがよいぞ!」
と慌しく家中案内(あない)に連れ回したれば――余りのことに、安兵衛も、吃驚り――やがて、その夜、そのまま堀部弥兵衛屋敷居間にて父子の約(ちぎり)を致いたということで御座る――。
――後、大石良雄内蔵助殿仇討の節、父子共々四十七士に加わり、その内、随一の大働きを成した、とある人の語ったことで御座る。
* * *
幽靈なしとも難極事
天明二年の夏の初め、淺草新シ橋外の町家娘、武家に哉(や)又は町家に候哉、借老のかたらひなして、圍ひ者といへる樣に其親元へ預け置しが、一子を生て産後より血勞のやうに煩ひしゆへ、右小兒は最寄の輕き町家へ里子に遣し置けるが、右女養生叶はずしてみまかりけるが、其夜彼里子の許へいたりて門口より會釋せしまゝ、里親は右小兒を寢せ付居たりしが、能こそ來給へりと右里子を抱て見せければ、扨々よく肥り生人いたしたりとて抱取て色々介抱し、扨々愛らしく成たる者を捨て別れんも殘念なりといひしに、里親夫婦心付て、右女子は大病のよし聞しに、いかゞ不審成事と存けれ共、最早火もともす時分人影もさだかならざる折から故、火などとぼしければ、右女子を歸し、挨拶などして立歸りけるが、其翌日親元より右娘夜前病死せる由知らせ越しけるにぞ、母子の情難捨心の殘りしも恩愛の哀れなる事と、同町の醫師田原子(し)來りて語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。「卷之一」より続く「~難極事」怪談奇談シリーズ。
・「天明二年」西暦1782年。底本解題で鈴木棠三氏は「卷之一」の下限を天明2(1782)年春まで、「卷之二」の下限を天明6(1786)年までと推定されており、「卷之二」の書き出しに近いこの話は、アップ・トゥ・デイトな都市伝説の一つであったものと推測される。
・「新シ橋外」「江戸名所図会」巻之一の筋違橋(すじかいばし)の条に昌平橋について叙述し、昌平橋はこの筋違橋『より西の方に並ぶ。湯島の地に聖堂御造営ありしより、魯の昌平郷(しやうへいきやう)に比して号(なづ)けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、また、芋洗橋とも号したるよしいへり。太田姫稲荷の祠(ほこら)は、この地淡路坂にあり。旧名を一口(いもあらひ)稲荷と称す』とあり、これに同定するのが正しいか。神田川に架かる橋で、現在の秋葉原電気街南東端に位置する。橋の北が現在の千代田区外神田1丁目、南が千代田区神田須田町1丁目及び神田淡路町2丁目。上流に聖橋、下流に万世橋がある。但し、岩波版長谷川氏の「卷之一」にある注では、『神田川の浅草見附と和泉橋の間にかかっていた橋。台東区・中央区。』と記す。確かに嘉永年間(1849~1854)に出た江戸切絵図等を見ると、現在の美倉橋(現在の呼称で言うと神田川上流から昌平橋→万世橋→和泉橋→美倉橋)に「新シ橋」「新橋」と記す。しかし、美倉橋のネット上記載を見るとここが「新し橋」と呼称されたのは幕末から明治の頃とある。江戸切絵図が出た嘉永年間というのは正に幕末で、本話柄より60年以上後のことである。一応、併記しておく。「外」は江戸城を内とした外側(この橋の北)か。「近く」で訳した。
・「血勞」漢方では、「気血虚労」で気が衰退し、血が消耗して全身が疲労虚脱した状態にあることをいうが、ここは産後の肥立ちが悪い、と言うより、妊娠中毒症や出産時の異常出血等によって母体がダメージを受けたことを言っていると思われる。
・「生人」底本では右に『(成人)』と注する。
・「右女子を歸し」底本では右に『尊經閣本「右小兒をかゑし」』と注する。
・「田原子」田原氏のことであろう(「田原子」(たわらご)という姓でなかったとは言い切れぬものの)。
■やぶちゃん現代語訳
幽霊は存在しないとも極められぬ事
天明二年の夏の始めのこと、浅草あたらし橋近くに住んでおった町屋の娘――この娘、本来は武家の出身であったものか、元々町家の者であったものかは、実は定かでないが――ある男と婚姻の約束をしながら、実際には妾同然に扱われて、親元――とりあえず、その町屋が親元とということにしておく――に預けられたままになって御座った。
やがて、一子を出産致いたものの、産後の肥立ちが殊の外悪うして、その子は近所の低い身分の町屋の家に里子出して御座った。
この女、その後、養生叶わずして、身罷って御座った……。
その亡くなった日の夕暮れのことで御座った。
女が、かの子を里子に出して御座った家を訪ねて参って、門口で会釈をして御座るのを、丁度、その子を寝かしつけて御座った里親の母ごが見かけ、
「ああ、よく来なすったの。」
とこの子をかき抱いて女に見せてやったところ、
「……なんと、まあ、よう肥えて、大きゅうなりました……」
と己が子を抱き取って、懇ろに愛でて御座ったが、ふと、
「……なんと、まあ、愛らしゅうなったものを……捨てて、別れねばならぬも……残念なこと……」
と呟くのを聴いた里親の夫婦、はっと気付く――。
『……そう言えば、この母ご……病い重きこと甚だしと聞いて御座ったに……このような夜ふけに、また……何やらんおかしい……』
と思いながらも、暫くそうして御座った――。
気づけば、既に日も暮れ、最早、家内には火を灯す時分になって、人の姿・面貌もはっきりとは見えぬようになって御座った折柄、家内に灯をとぼしたところ、女は子を養母の手に返し、行灯の火の及ばぬところにすーっと下がると、
「……どうか……よろしゅう……お願い致します……」
と挨拶致いて、かの親元の家の方へと帰って行ったので御座った――。
その翌日のこと、その親元より、かの娘、昨夜病死致いた由、知らせを寄越した、と――。
「……母の子を思う情、捨て難(がと)う……魂魄の心残り致いた業(わざ)か……慈愛、哀れなること……」
と、その亡き娘と同じ町内に住まうておった医師、田原氏が私の家を訪ねた折りの、語りで御座った。
* * *
執心殘りし事
是も右最寄の事也。其日稼にて時のものなど商ひてかつがつの暮しする男有しが、隨分律義者にて稼けるが金子十兩程も稼ため、同町の者方へ來り、金貳兩と錢拾四五貫文持參し、其志を見請て預け置しとなり。然るに右男近頃病氣にて有しかば、預りし金錢を持參いたし病氣を尋ね、預りし品を歸可申段申しければ、彼男申けるは、我等死にも可致哉(や)とて 返し被申哉(や)、持參にも及ざると申にぞ、いやとよ左には非ず、病氣なれば入用も有るべしと持來りし也。先差置て入用にも無之ば、快氣の上又々預るべしと言て差置歸りけるが、無程身まかりける故、子供親類もなく獨り者の事故、など集りて、輕く寺へ送り家財改けるに、金錢十兩程も有しを、家主店請など配分して相濟しけるに、其日より兎角右老人元店のまへに立居たり、又は其邊にて彷彿と見へし沙汰頻(しきり)にあれば、大屋店請も大きに恐れ、右金子を以て厚く吊(とむら)ひて法事を十分にいたしけるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:冒頭で「是も」前項「幽靈なしとも難極事」「最寄の事也」と、幽霊譚で連関する。この「最寄の事」は場所ではなく、前項が本巻執筆時に近い天明2(1782)年の事で(底本解題で鈴木棠三氏は「卷之一」の下限を天明2(1782)年春まで、「卷之二」の下限を天明6(1786)年までと推定されており、「卷之二」の書き出しであるここは正に天明2(1782)年春直後の記載メモに基づくものと考えられ、美事に一致するのである)、それと同じように最近の出来事、という意味で用いているのであろう。
・「同町の者方」この人物は本話柄の後半部には直接は登場しない人物で、とりあえず主人公の老人の守銭奴ぶりや生への執着の深さを強調するエピソードとして機能している。但し、後半のシークエンスにこの同町内の、数少ない老人が信頼していた人物が関わらないというのは妙な話である。実は、粗末な葬送で済ました大屋たちが老人の金を猫糞していることを、この人物が察知し、このような幽霊譚をしくんでちょいと懲らしめた、という真相なんどを私は想像したくなってしまうのであるが、如何?
・「錢拾四五貫文」当時は実質的変動相場制であったから、正確には言えないが、通常、金1両=銀50~60匁=銭4貫文=銭4000文とされるので、銭14~15貫文は4両弱に相当するか。預けた金の総金額は6両程度となる。
・「大屋」貸家の持主。貸主。⇔店子(たなこ:借家人。)
・「店請」借家人の身元保証人。
・「五人組」幕府が町村の町人・百姓に強制的に組織させた隣保制度(第二次世界大戦中の隣組組織と相似)。近隣の5戸を一組として、連帯責任制を適用して防火・防犯・キリシタン等宗門及び浪人の取締・年貢の貢納管理等を行わせ、合わせて相互扶助(厚生事業)にも当たらせた。町村の条例相当の遵守事項・五人組毎の人別・各戸当主・村役人連判を記した五人組帳という帳簿が作成されていた。
・「兎角右老人元店のまへに立居たり」底本には右に『尊經閣本「兎角に右店請の前又は家主の所へ右老人立居たり」』と注する。シチュエーションとしての面白さから、両方を贅沢に採った。
・「吊(とむら)ひて」「吊」には「弔」の俗字としての用法がある。
■やぶちゃん現代語訳
執念の世に残れる事
これも同じく最近聞いた心霊譚にて御座る。
日雇い稼ぎを主とし、或いはその季節の物なんどを少し仕入れては行商致いて、かつかつの生計(たつき)を立てておった年寄りの男が御座った。
ところが実は、随分な律義者にてあったれば、酒色好事に耽るでなし、だんだんに稼ぎ貯め、金子十両ほども貯まったため、ある日、同じ町内にて日頃、幾分、親しくして御座った者――と言ってもこの老人、偏屈寡黙にして知り合いも少のう御座ったが――の方を訪れ、彼に金二両と銭十四~五貫分を持ち参り、
「少しばかり、金子溜まり候えばこそ、御身を見込んで――。」
と預け置いたそうな。
しかし、この老人、最近になって病に倒れたとのことを、金を預けられた男、聞き及び、予ねて預かった金を持参の上、見舞いに訪れ、病とのことなればこそ金預かっておった金をお返し致すがよかろうとて参った、と言ったところが、かの老人、以ての外に不快の形相にて、
「……儂が今にも死ぬんじゃなかろかと、様子を見に返しに来よったふりをしたか?!……ふん! 勝手に殺されるか!……儂は死なんぞ! 預けた儂の金は儂のもんじゃ! 必ず取りに返らでおくべきか! 持参にも、ペッ! 及ばぬわ!……」
と意想外の剣幕。かの男は困って、
「いや、そうではない。落ち着きなさい!……病気ということなればこそ、医薬滋養と、いろいろ物入りにて御座ろうほどにと持参致いたものじゃ。……まあまあ、とりあえず、手元に置いておき、使う必要もこれといってなかったならば……それはそれで、また、よしじゃ……首尾よく快気致いた上は、また私が預かろうほどに……。」
と言って、金を置くと、ほうほうの体で帰って行った――。
程なく、老人は死んだ。
この老人、子供も親類もない、天涯孤独の独り者であったがため、老人の借家の大屋や、呼び出されたところの、老人の借家保証人となっていた店請の者、更に老人の住んで御座った町内の五人組などが集まり、形ばかりの粗末な葬式を出して同町の知れるところの寺に送った。
さて葬送も終えて、老人の家財を改めてみたところが、何と金銭が総額十両程も御座ったれば、大屋・店請・五人組ら、語らってこっそり山分けにし、そ知らぬ風をして済まそうということになった。
ところが――
……その、山分けにしたその日以来……
……亡くなった老人が、昔の自分の店(たな)の前に……ぼんやりと立っているのを見た……
……昨日は、大屋の玄関先に……亡くなった老人が、恨めしそうに立ち竦んでおるのをはっきりと見た……
……いやいや、店請の男の家(うち)の真ん前に……憤怒の相で立って御座ったのを確かに見た……
……先日は、見通せる五人組の各々の家の前に、独りずつ、同じ老人が五人立って奥を見ておったと!……
……といった噂が頻りに広(ひろ)ごり、当の大屋や店請らも――実際に見たのか、見なかったのか知らねども――何やらん、大いに恐れ戦いて、結局、山分けに致いた右金子を総て回収の上、その金を以って老人を、再度、手厚く弔ったということで御座った。
* * *
吉比津宮釜鳴の事
桑原豫州長崎往來に吉比津の宮へ參詣せしに、右社内に差渡四尺餘の釜、則釜壇にすへ有し。御供(ごくう)を獻じ候ときは、神人(じにん)米壹合程右の釜の内へ入、磨鹽水などにて淸め、松ばを少し釜の下にて焚候へば、最初は鈴の(音の響く程に鳴りて段々嶋音高く、後にはあたりへも)響きて移しく聞へける。やがて神人鹽水を打ぬれば鳴音も又止ぬと語りぬ。戸田因州も其席におはしけるが、先領は右最寄故度々右社頭へも至りしが、不思議の事と語り給ひし。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に強い連関を感じさせないが、幽霊譚から神仏霊験譚の流れとして自然。
・「吉比津宮」岡山市北区吉備津(備中国と備前国の境にある吉備中山の北西)にある吉備津神社。吉備津彦命(きびつひこのみこと:孝霊天皇の第三皇子で、四道将軍(崇神天皇10(B.C.88?)年に天皇より北陸・東海・西道・丹波に、まつろわぬ民あらば平定せよ、との命を受けて派遣された、大彦命(おおびこのみこと)・武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)・吉備津彦命(きびつひこのみこと)・丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す)の一人として山陽道に派遣され吉備を平定したとされ、吉備臣のルーツ。)を主祭神とする山陽道屈指の大社。社殿は本邦唯一の比翼入母屋造り(吉備津造り)。以下の釜鳴神事(上田秋成の「雨月物語」のズバリ「吉備津の釜」で広く知られる)、主神と釜に纏わる桃太郎伝説の地としても知られる。
・「釜鳴」吉備津神社の縁起及び岡山県で伝承されている神話によれば、吉備津彦命は『鬼ノ城(きのじょう)に住んで地域を荒らした温羅(うら)という鬼を、犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来と共に倒し、その祟りを鎮めるために温羅を吉備津神社の釜の下に封じたとされ』、更に一説には『命の家来である犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見て、この温羅伝説がお伽話「桃太郎」になったとも言われ』る(以上の引用はウィキの「吉備津彦命」によるが、この神話には別に細部に関わる因縁譚があり、それは次で示す)。この釜鳴神事は、釜を用いて米を蒸す際、釜が奇妙な音を出し、その音の強弱・長短などを以って吉凶を占う(一般には強く高く長く鳴れば吉、無音なれば凶とする)神事で、各地に見られるが、ここ吉備津神社をルーツとすると言われる。熱湯による真偽の判断を占う盟神探湯(くがだち)やその流れを汲む湯立(ゆだて)・湯起請(ゆぎしょう)と等の呪術と同じい。以下、科学的考察も絡めてコンパクトに纏めている、ウィキの「鳴釜神事」の吉備津神社のパート部分を引用する。吉備津『神社には御釜殿があり、古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽地域。住所では同市東阿曽および西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神官の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神官と共に神事を執り行った。現在も神官と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ』。神事は『まず、釜で水を沸かし、神官が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠(せいろ)の上に入れ、混ぜると、大きな炊飯器やボイラーがうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれる。神官が祝詞を読み終える頃には音はしなくなる。絶妙なバランスが不思議さをかもし出すが、音は、米と蒸気等の温度差により生じる振動によると考えられている。100ヘルツぐらいの低い周波数の振動が高い音圧を伴って1㎜ぐらいの穴を通るとこの現象が起きるとされ、家庭用のガスコンロでも鉄鍋と蒸篭を使って生米を蒸すと再現できる』。『吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。 吉備国に、温羅(うら)という名の百済の王子が来訪、土地の豪族となったが、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという』とある。被征服民族の神を邪神に引き下ろして滅ぼしながら、その御霊(ごりょう)を畏れてそれを祀り、祀りながらそれを自国防衛の宗教的システムに取り入れてゆくという、狡猾な国策である。公平を期すために、「吉備津神社」の公式サイトの「釜鳴神事」解説からも引用しておく(記号の一部を変更した)。『当社には鳴釜神事という特殊神事があります。この神事は吉備津彦命に祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で占う神事です。多聞院日記にみられるのが文献的には一番古いとされる。永禄十一年(1568)五月十六日に「備中の吉備津宮に鳴釜あり、神楽料廿疋を納めて奏すれば釜が鳴り、志が叶うほど高く鳴るという、稀代のことで天下無比である」ということが記されており、少なくとも室町時代末期には都の人々にも聞こえるほど有名であったと思われます』。『釜鳴という神事は王朝以来宮中をはじめ諸社にもあったことが文献にもみられています。釜を焼き湯を沸かすにあたって時として音が鳴るという現象が起こると、そこに神秘や怪異を覚え、それを不吉な前兆とみなし祈祷や卜占を行ったらし』く、それに『陰陽道的解釈が加えられていったと考えられます』。『この神事の起源は御祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むことがありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それでも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて、「吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております』。『お釜殿にてこの神事に仕えているお婆さんを阿曽女(あぞめ)といい、温羅が寵愛した女性と云われています。鬼の城の麓に阿曽の郷があり代々この阿曽の郷 の娘がご奉仕しております。またこの阿曽の郷は昔より鋳物の盛んな村であり、お釜殿に据えてある大きな釜が壊れたり古くなると交換しますが、それに奉仕するのはこの阿曽の郷の鋳物師の役目であり特権でもありました』。『この神事は神官と阿曽女と二人にて奉仕しています。阿曽女が釜に水をはり湯を沸かし釜の上にはセイロがのせてあり、常にそのセイロからは湯気があがっています。神事の奉仕になると祈願した神札を竈の前に祀り、阿曽女は神官と竈を挟んで向かい合って座り、神官が祝詞を奏上するころ、セイロの中で器にいれた玄米を振ります。そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断しますが、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます』(以上の引用部分の著作権表示(C)2008.Kibitsu Jinja All rights reserved.)。
・「桑原豫州」桑原伊予守盛員(もりかず 生没年探索不首尾)。西ノ丸御書院番・目付・長崎奉行(安永2(1773)年~安永4(1775)年)・勘定奉行(安永5(1776)年~天明8(1788)年・大目付(天明8(1788)年~寛政10(1798)年)・西ノ丸御留守居役(寛政10(1798)年補任)等を歴任している。「卷之一」の「戲書鄙言の事」の鈴木氏注によれば、『桑原の一族桑原盛利の女は根岸鎮衛の妻』で根岸の親戚であった。事蹟から見ると根岸の大先輩・上司でもある。
・「右社内に差渡四尺餘の釜、則釜壇にすへ有し」「すへ」はママ(据えるの意味の古語は「据う」でワ行下二段活用又は「据ゆ」でヤ行下二段活用であるから「すゑ」又は「すえ」でなくてはならない)。私は吉備津神社に行ったことがないので、吉備津神社公式サイトの境内図等で確認したところ、少なくとも現在、釜は本殿にあるのではなく、本殿の左手から回廊を本宮社のある山手へ向かった中間点を右に下った神池畔に釜殿という特別な社殿が設えられており、釜はここにあって、釜鳴神事もそこで執り行われている。
・「御供(ごくう)」は底本のルビ。岩波版は普通に「お供(そなえ)」と振るが、古語としては底本がいい。神仏に供える物、お供物。ここでの「米」は神事・卜占に用いる以上、立派なお供物である。
・「神人」「じんにん」とも読む。室町以降、神社に隷属し雑役などを行った下級の神職。但し、ここでは単に神職(神主)を指しているように思われる。
・「戸田因州」戸田因幡守忠寛(ただとお 元文4(1739)年~寛政13(1801)年)。肥前国島原藩第2代藩主・下野国宇都宮藩(77850石)初代藩主。ウィキの「戸田忠寛」によれば、宝暦4(1754)年に『肥前国島原藩主となり、従五位下因幡守に叙せられ』、『明和7年(1770年)、奏者番となる。安永3年(1774年)、領地を転じて下野国宇都宮藩主となり、宇都宮城を居城とする。幕府より5,000両を借りて城を造営し、同5年(1776年)、寺社奉行を兼ねて、天明2年(1782年)9月、大坂城代となる。同年、旧領改め、河内国、播磨国に所領を移封され、同4年(1784年)5月、京都所司代に補任し侍従に任官する。同年9月、所領を河内国、摂津国に移され、同7年(1787年)12月、所司代を辞し、旧領宇都宮に転封となる。この年に、京都伏見にて市人争訟の儀あったが、その計らいが不十分であったとされ、出仕が停められた』。『間もなく免ぜられ、寛政10年(1798年)6月21日に致仕・隠居した。同13年(1801年)正月晦日に没する。享年63』とある。さて、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるが、天明4(1784)年には佐渡奉行として赴任しているから、この三者の同席の下限は天明4(1784)年より以前ということになる。しかし、戸田は「先領は右最寄故度々右社頭へも至りしが」と言う以上、これは天明2(1782)年に岡山に近い播磨国に戸田が移封された折のことを指すとしか考えられない。すると、「先領」と言って過去形を用いていることから、自動的に、これは天明4(1784)年9月以降、所領を河内国・摂津国に移封されて以降のことになる。天明4(1784)年ならば桑原は勘定奉行で江戸在住である。ところが、ここに疑問が生ずる。それは、この時期の戸田は京都所司代であるから、江戸にいて桑原・戸田・根岸の三者がゆるりと談話するというシチュエーションは考えにくいと私は思うのである。そうすると、推定し得る可能性は、根岸が佐渡奉行から勘定奉行に栄転して帰府した天明7(1787)年以降、同7年12月に戸田が所司代を辞し、旧領宇都宮に転封となってからであると考えるのが自然ではないかと思われる(桑原は勘定奉行・大目付であるから問題なく江戸に在住する)。更に言えば、その下限は桑原と戸田二人がほぼ同時に致仕・隠居したと考えられる寛政10(1798)年以降まで含まれるもののように思われる。いや、この話柄そのものが隠居した大先輩を相手にして根岸が聞き書きしたものと考える方が分かりがよいように私は思うのである。鈴木氏の執筆年代推定は各巻の年代が特定出来るものを用いたものであって、厳格な区分とは言えない(もし私の推測が正しく、執筆区分が厳密なものであるとすれば、この話柄は下限を文化元(1804)年7月までとする「卷之六」になくてはならない)。100話に揃え、整序する作業は当然、全巻の執筆後にも行われたものと思われるから、以上から、私は本話の成立は天明7(1787)年よりもずっと後、寛政10(1798)年前後ではなかったかと推定するものである。
・「先領は右最寄故度々右社頭へも至りし」底本注で鈴木氏は『他領の神社へ度々参ったというのは解しがたい』とされているが、当時の備中国一宮(現・岡山県岡山市)に所在する吉備津神社と戸田の旧領である播磨国(現在の兵庫県南西部)は姫路と吉備間でも直線距離で100㎞を超える。これを「右最寄」と言うかどうかも、やや疑問ではある。それに、縁も所縁もないこの播磨国に、たかだか2年間の移封中、「度々」国入りし、更に100㎞も先の吉備津神社「へも至りし」というのは、やや解せぬどころではない気がするのは、私だけであろうか。
■やぶちゃん現代語訳
吉備津の宮釜鳴り神事の事
長崎奉行をされたことのある桑原伊予守盛員殿の話。
「拙者が長崎へと赴く道中、吉備津の宮に参詣致いた折り、この神社の中には、直径四尺余りの大釜が、曰く、釜壇という場所に据えられて、鎮座致いて御座った。御供物を献じて御座れば、神主が米一合ほど、この釜の中に入れ、塩を含んだ水などを以って、清めたつつ、釜中に注ぎ入れて、松の葉を少しばかり釜の下にて焚いて御座れば、最初、鈴の響きほどの音(ね)が鳴り始め、だんだんと鳴る音が高うなり、遂には辺りへも大きに響くほど、びっくりするような音(おと)が聞えてくるので御座る。やがて神主が、釜の中にぱっと塩水を打つと、鳴る音(おと)も止んで御座った。」
この話を聞いた折りには、戸田因幡守忠寛(ただとお)公もその場に同席しておられたが、
「拙者の前の領地、その近辺にて御座ったれば、度々その宮を参詣致いたが、誠(まっこと)、不思議なる釜鳴りであったよのう――。」
と仰せられた。
* * *
日の御崎神事の事
日の御崎神事の節は神人(じにん)海邊に出、波打際に立居ける事なるが、毎年日時を違へず沖の方より藻の上に小蛇とぐろして流れより侯を、神人兩手を以て受て、直(ぢき)に神前へ相備侯恆例也。右蛇は或は一日又は兩日程其儘にて動かずありて死しけると也。夫を直に干かため年々の蛇形を納め置て、信仰し乞候ものあれば附屬しける由。戸田因州公も去年右神主より差越し受納ありしと、寺社奉行勤の節物語也。尤白蛇とは唱候得共、全く白に無之、黑ずみ候蛇の由也。
□やぶちゃん注
○前項連関:大先輩、戸田因幡守忠寛(ただとお)絡みで、更に摩訶不思議なる神事でも連関。
・「日の御崎神事」島根県出雲市大社町日御碕、島根半島最西端にある、「出雲国風土記」「延喜式」に載る日御崎神社(祭神は天照大神と素戔嗚尊)の神事。旧暦10月11日の神迎祭に始まり、14日の龍神祭、17日の神等去出祭を以って終る。これは所謂「神在祭」で、全国から集まる八百万神招来の確認を意味している。そして、この時期に浜にやってくるウミヘビを、その神々の先導役とされる大国主の使者、竜蛇神として迎えた。このウミヘビは爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科セグロウミヘビPelamis platura である。以下、ウィキの「セグロウミヘビ」によれば、『全長は60-90㎝。体形は側偏する。斜めに列になった胴体背面の鱗の数(体列鱗数)は46-68。名前の由来は、背が黒いことから。腹面は黄色や淡褐色。これは、主に沖合の海面付近に生息するために、外敵に見つかりにくい色になったためであり、サバやマグロなどの回遊魚と同様の進化である。本種は他のウミヘビ亜科の種と同様、卵胎生を獲得して産卵のための上陸が不必要となった完全な海洋生活者であり、その遊泳生活に応じて、他のヘビでは地上を進むのに使用されている腹面の鱗(腹板)は完全に退化し』、『頭部は小型で細長い』。『牙に毒を持つが、本種は肉にも毒があるので、食用にはならない。黄色と黒というその非常に特徴的な体色は肉が毒を持つことの警戒色の意味もあるのではないかと考えられている。ウミヘビの中では比較的性質が荒い種であり、動物園で飼育されていた本種は給水器に何度も噛み付くほど凶暴だったという』。『外洋に生息する。暖流に乗って北海道辺りまで北上することもある。完全水棲種で、腹板が退化しているため陸地に打ち上げられると全く身動きがとれずにそのまま死んでしまうことがある。反面遊泳力は強い』。『食性は動物食で、主に魚類を食べる』。『繁殖形態は卵胎生で、11月頃に海岸に近づき、海中で2-6頭の幼蛇を産む』。とあり、更にズバリ、本日御崎神社の神事の記載が以下のように現われる。『本種は日本の出雲地方では「龍蛇様」と呼ばれて敬われており、出雲大社や佐太神社、日御碕神社では旧暦10月に、海辺に打ち上げられた本種を神の使いとして奉納する神在祭という儀式がある。これは暖流に乗って回遊してきた本種が、ちょうど同時期に出雲地方の沖合に達することに由来する』。但し、近年、海洋汚染や護岸工事による潮流変化により、セグロウミヘビが浜に来ることは稀となり、祭事は龍蛇が奉納されたものとして行われるのみで、悲しいことに、根岸の綴るような神異を目の当たりにすることは最早、出来ない。日御崎神社の狩野・土佐両派の手になる天井画を持つ現社殿は、寛永21(1644)年に三代将軍家光の命を受けた松江藩により造営されたもので、国指定重要文化財に指定されている。旧暦1月5日にワカメを刈る和布刈神事(わかめかりしんじ)が行われるとある。この神事、私にとっては中学時代に読んだ松本清張の「時間の習俗」に登場する懐かしいものだ(但し、あれは福岡県北九州市門司区門司にある和布刈神社の同じ神事。あの小説も今の連中にはトリックが廃れた神事みたようなもんで訳が分からんだろうなあ)。「直に神前へ相備侯」という根岸の叙述が正確ならば、本文冒頭の神事は旧暦10月14日のことと考えられる。
・「神人」「じんにん」とも読む。室町以降、神社に隷属し雑役などを行った下級の神職。但し、ここでは単に神職(神主)を指しているように思われる。
・「附屬」古語の「付属」には、付き従こと、またはそのものという現代語と同様の意味の他に、宗教用語として、教義経文を信者や弟子に伝授する、という意がある。
・「戸田因州」戸田因幡守忠寛。前項注参照。彼が寺社奉行であったのは安永5(1776)年から天明2(1782)年9月の間であるから、この話は前話と異なり、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までという期間に綺麗に入る。こうなると、前の話もこの話と同じ時期に採取されたとも考えられないではないが、そうなると、前の話の戸田の言「先領は右最寄故度々右社頭へも至りし」が理解出来なくなるという大きな問題点が発生するのである。
■やぶちゃん現代語訳
日御崎神社神事の事
日御碕神社神事の節は、神主が海辺に出、波打ち際に立つ――すると、毎年、その必ず日時を違えず、藻の上にとぐろを巻いた小蛇が、沖つ方より流れ寄って御座ったものを、神主が両手にて掬い受け、直ちに神前に供え申し上げることを恒例としておる。
この蛇、一日若しくは二日ほど凝っとして御座って、そのまま動くことなく死ぬという。それを干し固め、年々、とぐろの蛇形(じゃけい)の木乃伊(ミイラ)を拵え納め置いて御座れば、参詣する者の中で、信心深く神体を乞う者があれば授けるのだとのこと。
戸田因幡守忠寛(ただとお)公も、
「……そうそう、去年、その日御碕神社の神主より、かく製せられた奇品を受納致いたことが御座ったわ……」と物語られたのを、公が寺社奉行を勤めておられた折りに、お聞きしたのを覚えて御座る。
公のお話によれば、それは、
「……う~む、霊蛇にして白蛇(はくじゃ)と聞き及んで御座ったが……白いものにては御座なく、黒ずんで御座った蛇であったのう……。」との由。
* * *
無思掛悟道の沙汰有し事
予が知音の元へ來る禪僧の咄けるは、禪家に入座禪を致し習ふ始には甚だ苦しき故足をゆはへて仕習ひける事也。夫に付おかしき咄の有とて語りけるは、彼僧初學の節檀家の病死人ありて棺中へ納、側に彼の出家を賴み附置、親族なども代るがはる居たりしが、例の通り結伽趺座して足を結ひ座禪修行の心にて心を靜め居たりしに、右亡者浮腫の煩ひ故哉(や)、棺中にて水気洩れ候と見へて怪しき音小高く聞へければ、側に居たりし親族の男女はわつといふて右一間を互に逃出ける故、僧も恐しく逃んと思ひけるが、足を結ひ置しゆへ立事叶わず、無據心を靜め居たりしが、全(まつたく)浮腫の死骸故水の溢れ候と心付て怖敷事去りぬれば其優に有しを、家内親族追々立戻り、流石は禪氣の勝れし出家なりと感心して寄依しけるもおかしけれと語りしとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:神仏に纏わる奇譚(但し、こちらは霊異譚ではなく、事実談として解析も美事)で連関。
・「結伽趺座」通常は「結跏趺坐」と書く。「跏」は足の裏、「趺」は足の甲の意で、坐法の一つ。両足の甲を、それぞれ反対の大腿部の上に乗せて押さえる。先に右足を曲げ、左足を乗せるのを降魔坐(ごうまざ)と言い(修行の体)、その逆を吉祥坐という(悟達の体。蓮華座とも)。仏の坐法であり、禅宗の座禅行で用いられる。
・「浮腫」通常は主に顔や手足の末端に近い部分が、体内の水分の増加によって多くは痛みを伴わずに腫れる(むくんでくる)症状。医学的には細胞外液量の増加により発生する症状で、生化学的には体内の総ナトリウム量の増加によって、浸透圧が上昇、細胞間質(液細胞組織内の液体部分)と血液・リンパ液との圧力バランスが崩れて、それにより水分の貯留が惹起される現象である。ただの疲労によるむくみもあるが、典型的な浮腫が顕著に見られるものとして心不全・ネフローゼ症候群・肝硬変の他、甲状腺異常・血管及びリンパ系循環障害・悪性腫瘍・深部静脈血栓症等の重篤な疾患も疑われる。
・「寄依」底本では、「寄」の右に『(歸)』と注する。
■やぶちゃん現代語訳
思いがけず悟達の名僧たる評判を得た事
私の親しくして御座る友のもとへ、しばしば訪れる禅僧の話したことにて御座る。
「……禅家の門叩いて、座禅を致し、それを習う始めの頃……これが、まあ、直(じき)に足が痺れ、甚だ苦しい思いを致しまする故に、両の足、これを紐にてきゅっと結わえて修行致すので御座るが……それに附、いや、もう何ともお笑いの話が御座っての……」
と前置きの上、かの禅僧が語り出した話は――
「……さても拙僧入門初学の折りのこと、檀家に病死致いた者が御座って、その葬いに参ったのじゃが……家の者、死人(しびと)を棺に納めて後、拙僧に、棺の側にあって回向せんことを頼まれ、親族なんども代わる代わる、同じく棺の傍らにて勤行など致して御座った……拙僧は例の通り、結跏趺坐致いて、足を細き紐にて結わえ、常の座禅修行の心を以って気を静めて御座ったのじゃが――後で思えば、この死人、生前、浮腫を患って御座った故か――棺の中から――水気(すいき)が死体より弾け出でて御座ったと見えて――何やらん……グリュグリュ、ブリブリ、ブオン!……と……いや、もう、聴くもおぞましい奇怪な音が……はっきりと聞こえて来たので御座った……傍に御座った親族の男女は……ワッ! と叫ぶが早いか、先を争うように一目散に部屋から逃げ出す……勿論、拙僧も恐ろしゅう御座ればこそ逃げんと思うた……ところが、じゃ……ほれ、脚を結わえて御座ったれば……立ち上がることも叶わず……青くなって震えながらも……『最早、万事休す』……『ここは一つ、肚(きも)を据えて落ち着く外なし』……と思うての……いや、そこでよくよく考えて見たところが――先程、申し上げた通り、この仏は確か生前、浮腫を患って亡くなった、ということに改めて思い至ったのじゃ――いや、これはもう、単に、その水気が死骸から漏れ出でたに過ぎぬと気づいて御座ったれば……そうと決れば、こっちのものじゃ……これと言って、恐ろしいと思う気持ちも去っての、実際、その後は、何事も起こらなんだ……拙僧は、かくしてそのまま、穏やかな座禅の三昧境に入って御座った……と、相応に時が過ぎて……追々、恐る恐る家内親族の者どもが立ち帰って参った……すると拙僧の姿を見るや……「流石は禅の境地を極めた御出家にて御座る!」……と残らず感心、讃嘆の極み……その後、ただの青同心の拙僧に……いや、もう、夥しい者どもが熱心に帰依して御座った……ハッハ! いや、なんともはや、可笑しなことで、御座ったのぅ……」
と語ったとか。
* * *
信心に奇特ある事
予が許へ來る山中某とて、御抱席(おかかへせき)の與力より後は御代官に昇進せしが、最初大願の始め彼是上に立人の心どり六ケ敷、思やうに事調はざりしが、深く辨天を信じ成願の法などを修し貰ひしが、相州江の嶋の辨天は靈驗いちじるしきと聞て、三日斷食をなして代拜の者を差遣しけるが、彼代拜の者江の嶋にて不思議の靈夢を蒙りし由。誰ともなく、山中が願望當時世話有し川井何某の手にては出來ざれども、跡役の人并に權門家の何某心得候間、始終は成就すべきとの事也。右代拜の者は其世話いたし候人の名前などは委敷(くはしく)知るべきものならねば不思議におもひけれ共、いまだ川井も盛んに勤の事故強ひて心にも留めざりしが、無程川井身まかりて跡役の時節にいたり願の叶ひけるよし。最初より少しも能(よく)と存(ぞんず)る事を聞しは多分辰巳の日也と語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:神仏に纏わる霊験譚で連関。
・「奇特」ここでは宗教用語として、神仏の摩訶不思議な験(しるし)、効験(こうげん)の意。
・「御抱席」その一代限りで召抱えられる地位を言う。これに対して世襲で受けられる役職を譜代席、その中間を二半場(にはんば)と呼んだ。ウィキの「御家人」によれば、『譜代は江戸幕府草創の初代家康から四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で、特に由緒ある者は、譜代席と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた』。給与や世襲が保証された『譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は、次第に崩れていき、町奉行所の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら、馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず、抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに、相場が生まれるほどであった』とある。この山中殿、筆頭与力になれたのであろうか。人事ながら、ここまで運気の強かった彼、気になるところではある。
・「與力」諸奉行等に属し、治安維持と司法に関わった、現在の警察署長に相当する職名。
・「御代官」幕府及び諸藩の直轄地の行政・治安を司った地方官。勘定奉行配下。但し、武士としての格式は低く、幕府代官の身分は旗本としては最下層に属した。
・「深く辨天を信じ」何故、この山中某が弁才天を信仰していたのか、その辺が見えてくると、もっと面白くなるという気がするのだが。
・「相州江の嶋の辨天」神奈川県藤沢市江の島の島内にある江島神社のこと。日本三大弁天(異説はあり)の一つ。現在の祭神は宗像(むなかた)三女神(海人族の女神。島の西最奥の奥津宮に多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)・中央の中津宮に市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)・北の入り口にある辺津宮(へつみや)に田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をそれぞれ祀る)。江戸末期までは金亀山与願寺という寺院で、弁才天が主神として祀られており、江島弁天と呼ばれ、岩本院等、多くの宿坊を備えていた。廃仏毀釈によってかくなったが、現在も辺津宮境内にある奉安殿に八臂(はっぴん)弁才天と妙音弁才天を安置する(この妙音弁才天は女性生殖器をリアルに彫りこんであることで有名)。欽明天皇13(552)年、神宣による勅命を受けて、江の島の南側海食洞(御岩屋と称する)に宮を建てたのを嚆矢とすると伝える。「吾妻鏡」寿永元(1182)年の記載には、源頼朝の命によって文覚上人が岩屋に弁才天を勧請したとあり、北条時政絡みの霊異譚にもこの弁天の祠が登場する(北条氏の紋所の三つ鱗はこのエピソードの龍神の鱗に由来するとも言われる)。江戸期には豊穣神・芸能神である弁天信仰で栄え、商人や芸者衆の厚い信仰を受けた。……さて、私にとっても……江の島は青春と秘やかな思い出の地である――尾崎放哉にとってそうであったのと同じように――34年前、弁天橋から、富士の夕景――
・「川井何某」はまさに筆頭与力であったか。
・「辰巳」は日時ではなく南東の方位しか言わないから、これは干支の誤り。弁才天の縁日は己巳(つちのとみ)であるから、それを書き誤ったものと考えられる。また弁才天と龍神、龍神は宇賀神(蛇神)とそれぞれ密接に関連(というか一体に習合)するので、その思い込みから辰と巳を組み合わせてしまったものとも思われる。いや! もしかするとこれは洒落かも? 山中殿、この日は丁度、江戸の辰巳の深川遊廓にくり出した日だったのかも!?(辰巳芸者でお分かりの通り、「辰巳」は深川遊廓を指す隠語でもある)……いや、遊里――芸者――弁天――江の島弁天たぁ、こりゃ、美事にすっぽり、ずっぽりと繋がる、じゃあ、ござんせんか?!……
・「最初より少しも能と存る事」聞いた初めから、完全によく成就するという内容の予言、という意味であろう。
■やぶちゃん現代語訳
信心に奇特がある事
私のもとによく訪ねて参る山中某という者は、御抱席の与力から、後には代官にまで昇進した人物であるが、未だ与力であった昇進大願の発願始めの頃には、あれこれ、上司の思惑を測りかね、上手く立ち回ることも出来申さず、どうにもこうにも思うように行かずにおったという。
さても、彼は日頃から弁才天を深く信仰して御座って、これまでも昇進祈願のために、弁才天の請願成就の修法(ずほう)なんどを特別にとり行って貰ったりなんど致いておったのだが、ある時、相模国江の島の弁才天、霊験著しき由聞き、早速三日断食致いて精進潔斎の上、代拝の者を江の島に遣わした。
この代拝の者、島に泊ったその晩、摩訶不思議なる霊夢を見た。
――夢の中で、何者か分からぬ誰かが、
「……山中が願望……今の上司たる川井××殿の手にては叶わぬ……されど……その川井殿後任の者並びに関係有力者の○○○○殿がこのことについて理解を示してくれることになっており……畢竟、成就致すこと間違いなし……」
と言うのが聞こえた――というのである。
この代拝に遣わした男は、川井××の名は勿論、山中が少しばかり知って御座った権勢家○○○○殿の姓名なんど、詳しく知るはずもない者で御座ったれば、川井は如何にも不思議なことと思ったけれども、当時の上司川井某は如何にも健やかに勤めて御座ったれば、強いて夢のことは、心に留めずにおいた。
ところが、ほどなく川井某は急逝、後役が就任するや、直ぐに川井の昇進が叶ったとのこと――。
「……その代拝の者に全き祈願成就のお告げの御座ったは……多分……弁才天の縁日の己巳(つちのとみ)の日で御座った……」
と語った。
* * *
古物不思議に出る事
黒田豐前守老職たりし時、上野へ參詣の折から古き道具見世にありし琴を輿中(よちう)より見給ひて、殊に古物と目利(めきき)ありて、歸宅のうへ早々人を遣し買調ひ改め被申しに、何れより拂ひに出しものや、琴の澤に赤銅(しやくどう)の蟹をひしと彫付ありし故、その細工は凡ならざるを以、彫物師を呼て目利有しに、後藤家の古彫にて、甲を放し見られければ、琴の海に山下水の流るべらなりと筆太に貫之の手にて書有し。依之、有德院樣へ獻上ありければ、則山下水と召れ、御重寶に被成ける由。其折から、御前伺候の面々、貫之の歌ながら、べら也とはおかしきてにおはと申しければ、其節御小姓を勤仕(ごんし)ありし田沼主殿頭(とのものかみ)【此主殿頭は當時老職勤仕ある主殿意次公の父也】申けるは、べらなりといへるてにおは數多有と、古き歌數十首を證歌として言上有ければ、上にも其堪能を感じ思召けると也。安藤霜臺の物語なり。
□やぶちゃん注
○前項連関:音楽神弁財天から琴で連関。
・「黒田豐前守」黒田直邦(寛文6(1667)年~享保20(1735)年)。常陸下館藩主・上野沼田藩初代藩主。延宝8(1680)年、徳川徳松(五代将軍綱吉長男であったが5歳で夭折)の側近として仕え、後、小納戸役や小姓を経て、元禄13(1700)年、1万石の大名に列した。元禄16(1703)年に常陸下館に封ぜられて、享保8(1723)年に奏者番、寺社奉行兼任。享保17(1732)年、沼田へ移封、老中となった。名君として賞賛され、享保20(1735)年現職のまま没した(主にウィキの「黒田直邦」を参照した)。
・「老職」老中。
・「上野」寛永寺。徳川家菩提寺として、将軍家はもとより、諸大名の帰依も厚かった。
・「琴の澤」私の妻は四十数年琴を弾いてきたが、このような呼称はない、という。「磯」ならば琴の側面の部分(弾く際の手前の側面や向こう側の呼称)を言う。飾りとして蟹が配されるには「磯」ならば、確かに相応しい。「向うの磯」で訳した。
・「赤銅」銅に金及び銀を少量加えた銅合金。熱処理によって美しい黒紫色を発する。
・「後藤家」岩波版の長谷川氏の注によれば、『室町時代の後藤祐乗を祖とする、刀剣金物の装飾を彫る業の家』系という。ウィキの「後藤祐乗」によれば、後藤祐乗(ゆうじょう 永享12(1440)年~永正9(1512)年)は美濃国生、装剣金工の後藤家の祖。『室町幕府8代将軍足利義政の側近として仕えたが、それを辞して装剣金工に転じたと伝えられる。義政の御用をつとめ、近江国坂本に領地300町を与えられた』。『作品は、小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)の三所物(みところもの)が主で、金や赤銅の地金(じがね)に龍・獅子などの文様を絵師狩野元信の下絵により高肉彫で表したものが多い。祐乗の彫刻は刀装具という一定の規格のなかで、細緻な文様を施し装飾効果をあげるというもので、以後17代にわたる後藤家だけでなく、江戸時代における金工にも大きな影響を与えた』とある。
・「甲」琴木部本体の上面を言う。龍甲(琴自体が龍を象ることから)。
・「琴の海」やはり、このような呼び方を妻は聞いたことがないという。ただ、側面を「磯」とすれば、甲を外した本体内部をそのように呼んだとして、自然ではある。和歌が記されていたのが甲の裏側でないとは言えないが、「海」という表現から「内底」と訳しておいた。
・「山下水の流るべらなり」これは「後撰和歌集」巻第四・夏の部に載る紀貫之の和歌のことを指している。但し歌句が異なる。
夏の夜、深養父が琴を弾くを聞きて
短か夜の更けゆくまゝに高砂の峰の松風吹くかとぞ聞く
藤原兼輔朝臣
に続いて、
おなじ心を
あしひきの山下水は行きかよひ琴の音にさへながるべらなり
紀貫之
とあるもの。友人の清原深養父(清少納言の祖父)の元に遊んだ友人藤原兼輔と貫之が深養父の琴の音(ね)に唱和した和歌である。
○やぶちゃん通釈:
山から滴るわずかな流れのような目立たぬ私――そんな私でも――あなたの琴の音に心の琴線が共鳴致し、山下水が自然に流れるように、自然、泣かれてくるようで御座います……。
・「べらなり」は特殊な助動詞(形容動詞ナリ活用型)。推量の助動詞「べし」の語幹「べ」に接尾語「ら」と「に」が付いた「べらにあり」の短縮形である(従ってこの活用自体がラ変型であることに注意)。活用は、
○ 未然形
べらに 連用形
べらなり 終止形
べらなる 連体形
べらなれ 已然形
○ 命令形
で、接続は「べし」と同じであるから、活用語の終止形接続。但し、ラ変型には連体形接続。意味は、推量の意味だけで、「確かに……のようだ、……の様子である。」の意であるが、平安時代、特に古今集成立前後に男性の間で、主に歌語として流行したが、その後は擬古的な和歌で稀に用いられた程度で、忘れられた語法と言える。以下に用例を示す。
「古歌(ふるうた)に、『数は足でぞ帰るべらなる』といふことをおもひ出でて」(「土佐日記」一月十一日の条)
:昔の歌に、「雁は連れ合いを失って数足りぬまま、北へと帰っていくようだ」とある文句を思い出して。
[補注:新潮日本古典集成頭注に、『「北へ行く雁ぞ鳴くなる連れて来し数は足でぞ帰るべらなる」(『古今集』覉旅、よみびと知らず)。左注「この歌は、ある人、男女もろともに人の国へまかりけり、男女もろともに人の国へまかりけり、男、まかりいたりてすなはちみまかりにければ、女ひとり京へ帰る道に、雁の鳴きけるを聞きてよめる、となむいふ」。』とある。]
「桂川わが心にもかよはねどおなじ深さにながるべらなり」(「土佐日記」二月十六日の条)
:とうとうたる、かの桂川――あの川が私の心に流れてきて通じ合うというわけでは、勿論、ないのだが――でも、この私が深く都を懐かしく思う気持ちと同じように――あの桂川も深く水を湛え、流れているのであろう……。
「春のきる霞の衣ぬきを薄み山風にこそ乱るべらなれ 在原行平朝臣」(「古今和歌集」春歌上)
:春という季節――それが着ている軽やかな霞の衣――その衣は横糸が薄い――だから、山風が吹くと、たちまちのうちに乱れてしまいそう……。
「秋の夜の月の光し明かければくらふの山も越えぬべら也 在原元方」(「古今和歌集」秋歌上)
:秋の夜――月の光が殊の外、明るい――だからきっと、その名にし負う暗部山でさえも、楽々と超えて行けるであろう……。
[補注:「くらふの山」は実在地名と思われるが不詳。一説に鞍馬山の古名とも。]
「不知(しら)ヌ茸(たけ)ト思スベラニ、独リ迷ヒ給フ也ケリ。」(「今昔物語集」二八巻「比叡山横河僧酔茸誦経語第十九」)
:(比叡の峰にお住まい乍ら、)おそらくは(その峰も茸も)知らない嶽(茸)と思いになられたようで、独り、お迷いなさったので御座った。
[補注:これは毒茸を食した比叡山の僧坊の主僧が激しい中毒に罹り、さる導師が祈禱をしたが、その祈禱の末尾にいやしく多量の毒茸を食った僧への滑稽な教化の言葉を添えた笑話で、これはその中毒僧を慇懃無礼に揶揄した核心部分。「茸」(たけ)に比叡山の「嶽」(たけ)を掛けてある。]
「天地の清きなかより生れ来てもとのすみかに帰るべらなり 北条氏照」
:清き天地の中より生まれ来て――汚濁の満ちた世の穢れ、そいつをさっぱり拭い去り――元の住処に帰るらんとする――。
[補注:これは比較的新しい用例の例となる。北条氏照(天文9(1540)年~天正18(1590)年)は戦国・安土桃山時代の武将。後北条氏。武蔵滝山(現・八王子)城主。小田原の陣で小田原城に籠城して徹底抗戦、降伏後、豊臣秀吉から切腹を命じられて自刃した。これは、その際の辞世である。]
・「貫之」紀貫之(貞観8(866)年又は貞観14(872)年頃~天慶8(945)年?)。三十六歌仙の一で、「古今和歌集」の編者の一人。それにしても、この古物、如何にも嘘臭い、臭過ぎると言ってよい。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「てにおは」はママ。
・「御小姓」武家の職名。扈従に由来する。江戸幕府にあっては若年寄配下で将軍身辺の雑用・警護を務めた。藩主付の者もこう称した。
・「田沼主殿頭」田沼意行(おきゆき 又は もとゆき 貞享3(1686)年~享保19(1735)年)以下、ウィキの「田沼意行」より引用する。『紀州藩の足軽の子。父義房(意房とも)は病にかかり、紀州藩の禄を離れて和歌山城下で静養することになったため、子の意行は田代七右衛門高近(紀州藩家臣)に養われることとなり、その娘婿となった。紀州藩に仕官したが、享保1年(1716年)に徳川吉宗が将軍に就任した際に、吉宗に小姓として召されて、幕府旗本に列した。6月、将軍の小姓となり、300俵を受けた。享保4年(1719年)7月27日にのちに幕府老中となる田沼意次を生む。享保9年(1724年)11月に従五位下主殿頭に叙任し、享保18年(1733年)9月には300石を与えられて、これまで支給されていた切米も石高に改められて、相模国高座大住郡に600石を賜った』。「主殿頭」は本来は律令制の宮内省に属した主殿寮(とのもりょう)の長官で、宮中の清掃・灯燭・薪炭管理、行幸の際に用いる牛車・輿、調度を司った役所であるが、勿論、ここでは単なる名目位官名。
・「主殿意次」享保4(1719)年~天明8(1788)年)遠江相良(さがら)城主。第十代将軍徳川家治の側用人から老中となり、後に田沼時代と呼ばれる権勢を握った。赤字に陥った幕府財政を改善するために重商主義による急激な改革を行ったが、保守勢力の反撥に加えて賄賂が横行、批判が高まり、天明6(1786)年8月に家治の死去と同時に完全に失脚した。「耳嚢」の執筆の着手は根岸の佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃に始まり、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、本話は正に田沼時代の終焉が誰の目にも明らかであった頃のもので、そうした凋落への一種のオマージュとして挙げられたものなのかも知れない(それが皮肉なものか素直なものかは定かではない)。
・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。「卷之一」にもしばしば登場した、「耳嚢」の重要な情報源の一人。
■やぶちゃん現代語訳
骨董に不思議な発見のある事
黒田豊前守直邦殿が老中職にあった頃の話。
黒田殿が上野寛永寺に参詣の折り、沿道の古道具屋の店先に置かれて御座った琴を、御輿の中よりご覧になられ、これはいわくある時代物の琴、と目利きなさり、御帰宅早々、人を遣わして買い求めさせなさった。
運ばれてきた琴を仔細にご覧になられたところ、如何なる名家より払い出されたものか、琴の向うの磯に、赤銅にて彫せられた美事な蟹が一匹、しっかりと据えつけられて御座った。その細工たるや、並の者の手になるものとは思われる故、知れる彫物師を呼び目利きさせたところ、金物細工の名匠で知られる後藤家の手になる、古い彫物に間違いなしとのことであった。
更に甲を外してみたところ、琴の内底には、
山下水の流るべらなり
と、墨痕鮮やかに、何と、かの紀貫之の手跡で記されて御座った。
余りの逸品で御座ったれば、黒田殿、有徳院吉宗様にこれを献上致いたが、上様は即座に「山下水」という銘をお付けになられ、御重宝(じゅうほう)にされたということである。
また、その折りのこと、御前に連なった面々が、
「……いや、それにしても、貫之の歌とは申せ……『べらなり』と云うは、如何にも聞いたこともない、可笑しなもの謂い――。」
と難癖をつけたところ、丁度、その当時御小姓として勤仕致いて御座った田沼主殿頭意行(とのものか(おきゆき)殿[根岸注:この主殿頭殿とは現在老中職にある田沼意次公の御父上であられる。]が、
「いえ、『べらなり』と云うは、多く用例が御座います。――」
と、古歌数十首を立板に水する如、証歌として言上申し上げたので、上様もその堪能振りには、殊の外、御満悦であられた、ということである。
安藤霜台惟要(これとし)殿の物語である。
* * *
藝道上手心取の事
土佐節の上手と世に申傳へたる何某とやらん有しが、其門弟の由にて御小人目付勤たるおのこ、所々屋敷方へ出入て土佐淨璃理をかたりけるが、實は門弟には無之處、或日出入の屋敷へ至りしに、彼上手を招き座敷にてその藝を施し居ける故、兼て弟子と僞りし言葉の顯れんも如何と座敷へ出かね居たりしを、主人頻りに呼れしゆへ無是非座敷へいで、彼太夫(たいふ)へ對し、久々にて懸御目候杯と挨拶に及びければ、相應の答いたしけるに、主人申けるは、此人は我等方へ他事なく出入者也、御門弟の由と有ければ、前々は殊の外出精いたされ、近頃は無精に候。尤淨璃理は我等弟子に候へども、師弟迚も音曲のほどは大きにかたり候も違ふものに候とて、和合の挨拶にて其日は事濟けるが、翌日彼者思ひけるは、扨々忝取合哉、ひとへに彼が取合にて我等の僞も知れず外聞もよかりしと、銀貳枚持參して、實は門弟にも無之處、かく/\の譯ゆへ相應の挨拶いたし候處、存の外美しき取合忝段述ければ、右の者答へけるは、夫は大きなる御了簡違也。凡土佐節の淨璃理をかたり給ふ人なれば、誰が弟子なりともそのみなもとの某なれば、我等が弟子に違なき事故、右の通挨拶いたし候也。何か禮式を受申さん迚、右の銀子をも返しけるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:名工の細工に名筆の和歌を記した楽器の琴の話から、音曲土佐節名人で美事に連関。また、「卷之一」の「鬼谷子心取物語の事」の事に次ぐ、「心取」第二弾。
・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、この場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取り、それに最も最適の行動をいち早くとれることを言っているように思われる。
・「土佐節」古浄瑠璃(後の「土佐淨璃理」注参照)の一派。土佐少掾(とさのしょうじょう)橘正勝を祖とする。延宝から宝永年間(1673~1711)に江戸で流行した。初代土佐少掾橘正勝(生没年未詳)は江戸の薩摩浄雲座の人形遣であった内匠(たくみ)市之丞の子で、浄瑠璃の一派浄雲の門下として江戸虎之助・内匠虎之助を称したが、寛文11(1671)年に土佐座を起立、延宝2(1674)年頃に土佐少掾の称を授けられ、土佐太夫とも呼ばれた。硬派の浄雲系浄瑠璃の中にあって、上品でしとやかな芸風であったと言われる。通称、内匠土佐。二代目の土佐少掾橘正勝(?~寛保元(1742)年)は初代の長男で内匠(たくみ)太夫と称し、父のワキをつとめていたが、後に二代目を継ぎ、江戸で操座(あやつりざ)を興行した。(以上、二人の橘正勝については「デジタル版日本人名大辞典+Plus」のそれぞれの該当項を参照した)。
・「御小人目付」監察糾弾を職務とする御目附(おめつけ)の支配下で御徒士目附(おかちめつけ)と共に目附の式を受けてお目見(めみえ)以下の者を直接、監察糾弾する警務職種。
・「土佐淨璃理」土佐浄瑠璃。以下、浄瑠璃について、「大辞泉」から引用する。『語り物の一。室町中期から、琵琶や扇拍子の伴奏で座頭が語っていた牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語に始まるとされる。のちに伴奏に三味線を使うようになり、題材・曲節両面で多様に展開、江戸初期には人形操りと結んで人形浄瑠璃芝居を成立させた。初めは金平(きんぴら)・播磨(はりま)・嘉太夫(かだゆう)節などの古浄瑠璃が盛行。貞享元年(1684)竹本義太夫が大坂に竹本座を設けて義太夫節を語り始め、近松門左衛門と組んで人気を博し、ここに浄瑠璃は義太夫節の異称ともなった。のち、河東・一中・宮薗(みやぞの)・常磐津(ときわず)・富本・清元・新内節などの各流派が派生した。浄瑠璃節』。
・「太夫」は本来は芸能を以って神事に奉仕する者の称号であった。そこから中世の猿楽座の座長、江戸以降は、観世・金春・宝生・金剛の四座の家元をさして、観世太夫などと呼称するようになり(古くは能のシテ役のみを指した)、その後、説経節および義太夫節などの浄瑠璃系統の音曲の語り手に対しても汎用するようになった。
・「師弟迚も音曲のほどは大きにかたり候も違ふものに候」これは男が謡う土佐節が正統なものでないと見抜き、屋敷主人が太夫との音調の異なる点に聊か疑問を持ったのを感じ取った太夫の巧みな謂いである。その辺りが分かるように、現代語訳では敷衍的に意訳してある。
・「銀貳枚」基準値の重量単位で換算すると銀1枚=43匁、1匁=3.75gであるから銀2枚=86匁≒322g。慶長14(1609)年の金1両=銀50匁の公定相場から推測すれば、金2両弱である。今の数万円から十数万円相当か。
■やぶちゃん現代語訳
芸の名人たる者の読心心得の事
土佐節の名人と世に評判の何某とやらいう者が御座ったが、その門弟と自ら喧伝致いておった御小人目付を勤めて御座った男がおった。この男、あちこちの屋敷へ出入りしては、土佐浄瑠璃を語っておったれど、実は――何某名人門弟というは、真っ赤な嘘で御座った。
ある日のこと、予ねて出入りの屋敷へ訪れてみたところが――何と、かの名人を招いて座敷にてその土佐節を披露致いておるところに出くわしてしもうた。
男は勿論、予てより弟子と偽って御座ったことが露見するのを恐れ、座敷内に入りかねておった。
されど主人は頻りに呼び入れんとする。
ええい、ままよ、と止むを得ず座敷に入り、その土佐節何某太夫(たゆう)に向かい合(お)うて、
「……久方ぶりに、お目にかかり、申し上げまする……お師匠さま……」
なんどと、苦し紛れの挨拶を致いて御座ったが、不思議に太夫はそれを受け、当たり障りのない挨拶を返してよこした。
主人が太夫に言う。
「このお人は、日頃、我らが方へ、親しく出入り致いて御座る者にて、太夫の御門弟だそうで御座いますな?」
すると、太夫が答えて言った。
「はい。この者、大部前までは、よく稽古にも励んでおったれど、そうさな、近頃は聊か、怠けておりますな――尤も、これはこの者の謡いがまずうなったという謂いにては、これなく――浄瑠璃は我らが弟子にて御座っても、師弟と雖も音曲に於きましては、大きく語り口も違(ちご)うて御座いますればこそ――この者には、この者の良さが、御座る。」
と、意外にも如何にも和気藹々たる談笑の内にその日は何事もなく済んで御座った。
翌日になって、かの男、
『……ああっ! なんとかたじけないお心遣いであったことか! 偏えにあのお方が話を合わせて下さったればこそ……我らの偽りも露見致さず……それどころか外聞もまたよろしきこととなった……』
と思い、銀二枚を持参の上、太夫の家を訪れると、
「……実は門弟にては、これ、御座らぬところ……かくなる訳にて……話を合わせた不遜なる御挨拶を致しましたところが……存外の美事なられるお取り合わせをなさって戴け、誠(まっこと)、かなじけなき御心(みこころ)、有難く存じ申し上げ奉りまする……」
と素直に事実を述べて謝ると、礼金をさし出だいた。すると太夫は、
「それは大いなる御料簡違いで御座る。――凡そ土佐節の浄瑠璃を語る者なれば、誰(たれ)の弟子であろうとも、その祖は拙者なれば――さればこそ、我らが弟子に違い御座らぬ――故、あのように挨拶致いた。――なればこそ、何の謝礼なんど――受け取るいわれは御座らぬ――。」
と右金子をも男へ返した、ということである。
* * *
正直に加護ある事 附豪家其氣性の事
淺草藏前札さしの内とやらん、一説には伊勢屋四郎左衞門共いひしが其名は慥(たしか)ならず。下谷邊へまかりし折から、いづれの町にや茶屋の女子み目よきありて、右のおのこふと懸想して二階へあがり、高龍雲雨の交りをなして歸る時【此茶屋の女を俗にけころといひて賣情の婦なり。】鼻紙袋を落して歸りし故、右女子鼻紙入を持て門口迄追缺(かけ)しが、最早行方を失ひし故、其内を改めみれば、印形の手形などありて捨置がたきと思ひけれ共、深く隱し置て思ひなやみ居たりしに、折節此邊へ來る車力有し故、藏前邊に伊勢屋といへる札差の人ありやとよそながら尋ければ、車力答て伊勢屋といへるは藏前に何軒もあるを、何しに尋給ふといへる故、此程藏前伊勢屋なる人來りて忘れ置し品有とひそかに語りければ、右車力大きに驚き、我等も其事に付賴れてけふも爰に來りぬ。其品を見せ給へといひしかば、いや/\知り給はぬ事ならば見せまじ、彌賴まれ給ふ人は何と言たる人にて、年頃は幾つ計也と念頃に聞て、此文を屆け給はれ迚則文を渡しける故、右車力は親方の事なれば、早速藏宿へ至りてかく/\と語りければ、右帋入(かみいれ)の内には御切米手形裏判濟も有て、無據奉行所へも可訴出、もとよりいづちへ落したるやもしれざれば、所々へ手分して何となく手掛りを搜し、神佛へ祈誓し、誠に家内は上下なげき沈居たる折からゆへ大に悦び、親子同道も先方いかゞと、彼車力に倅を召連させ、親仁は跡に下りて右茶屋へ至り二階へ上り、彼女に逢ふてしかじかの禮を申述ければ、日々情を商ふ賤敷勤の身、數多き客ながら、其日と存る頃御越の人に相違はなけれども、右鼻紙袋の樣子并に内の品逸々(いちいち)申し給へ迚尋るに、相違なければ則右鼻紙入を渡しける故、數々禮を述べて子息と親仁入かわり、何卒親方に逢度由申ければ、彼女答て、親方は心よからぬ者なれば未咄も致さず、いかなる巧(たくみ)を可致もしれねば、逢給ふもよしなからんと答へければ、聊左樣の事にあらずといふて、親方を無理に呼出し、此女子我等方へ申受たし、如何と申ければ、隨分遣し可申旨故、かゝる勤の身なれ ば女衒(ぜげん)へも懸合可申といひしに、いや/\此女は女衒にかゝり合なし、在方より拾四兩程の給金にて年季を限り抱たる者なれば、右金子さへ給はれば可渡由故、以來親元其外無構の證文を認、金子三百兩を渡しければ親方も大きに驚き、かゝる大金には不及由を述けれども、右女子の儀に付、身の上にも抱り候事何事なく納(をさま)りし儀なればとて三百兩を渡し、已來手切の趣重々證文取極め、則娘にいたしけると也。かゝるよからぬ親方故、金子を惜み候はゞ跡々迄も何か立入いかゞあるべけれど、其所を思ひて大金を以て手をきりし、流石豪家の氣性と人の語りける也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。ただ、ここから、娼婦を主人公とした極めて類似したハッピー・エンドが三連発となる。
・「附」は「つけたり」と読み、合わせてとか追加しての意。
・「札さし」旗本及び御家人の俸禄の内、蔵米(現品支給された米)の受領から換金までの手続一切を請負うことを業務とした、浅草蔵前在住の商人に対する特別な呼称。但し、実際には本業よりも、その米を抵当に、旗本・御家人を対象とした高利貸が主で、それによって巨万の富を築いた。米の受取人の名を記した札を蔵役所の蒿苞(わらずと)に差したことからこう呼ばれる。
・「一説に伊勢屋四郎左衞門」浅草蔵前の有力な札差の一人。名字は青地氏。初代が江戸で始めた米問屋と金貸業を継いだ3代目が札差業に進出、享保9(1724)年に札差株仲間の起立人となっている。4代目以降も堅実な経営を続け、本話が根岸によって綴られた直後、寛政元(1789)年頃には札差業者の最有力者の地位を得ていた(屋号は世襲)。本話柄の少し後の文化年間(1804~18)に最盛を誇ったという。天保9(1838)年の江戸城西丸火災の際には幕府上納金10万両余の世話方を勤め、その功により町方御用達に列せられ、青地姓を許された。参照した「朝日日本歴史人物事典」の「伊勢屋四郎左衛門〈3代〉」には、エピソードとして、零落していた昔馴染みの吉原の遊女を引き取って妾とし、通人たちの評判となった、とあるので、その変形譚かとも思われる。何れにせよ、この書き出しからして、執筆当時にあった話柄という雰囲気ではない。但し、不明と言いつつ、伊勢屋を本文中で出してしまうというのは、逆に今の伊勢屋の話であることを、確信犯的にばらしているようにも読めないわけではない。
・「下谷」現在の台東区の一部。ウィキの「下谷」によれば、この『地名は上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である』とし、江戸初期に『寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄え』、『江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展する。江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担った』。現在のアメ横も下谷の一部である。
・「高龍雲雨の交り」「雲雨の交り」は、楚の懐王が朝は雲となり夕には雨となると称した女に夢の中で出逢って契りを結んだという宋玉「高唐賦」の故事から生じた性交を示す有名な雅語であるが、また「雲雨」には、龍が雲や雨に乗じて昇天するという伝承から(「呉志」周瑜伝を故事とする)大事業・大変革を起こす好機の意を持つ。されば、この主人公の女の吉兆をも暗示する語であるかもしれぬ。また、「高龍」は勃起した男根をも、龍の交尾の様としての「交龍」をもイメージさせもする。現代語訳は『雲雨の交わりを成して帰って行った』としたが、実際には、この場面は実際のこの後の展開を考えるなら、あっさり『一発やってすっきりして帰って行った。』ぐらいな訳の方が、本当はいいように思われる。
・「けころ」は「蹴転」で、けころばし、蹴倒しとも言った江戸中期の下級娼婦の称。特に上野山下から広小路・下谷・浅草辺りを根城とした私娼で、代金二百文と格安、短時間で客をこなし、その由来は、断って蹴り転がしても客を引きずり込むほどの荒商売であったからとも言う。
・「鼻紙袋」財布。
・「印形の手形」印を押した手形。
・「車力」荷馬車を用いた運送業者。
・「藏宿」底本では右に『尊經閣本「藏前」』とある。それで採る。
・「御切米手形裏判濟」ウィキの「蔵米」によれば、中・下級の旗本・御家人の『俸禄は年3回に分けて支給されるのが常で、2月と5月に各1/4、10月に1/2が支給された。それぞれ「春借米」「夏借米」「冬切米」と呼んだ(「借米」は「かしまい」と読む)。ただし、俸禄は全量米だけで支給されるわけではなく、米の一部はその時季の米価に応じて金銭で支払われるのが通例であった。浅草の札差がそれらの米を百俵に付き金1分の手数料で御米蔵から受取り、運搬・売却を金2分の手数料で請け負った』とあり、岩波版長谷川氏の注によれば、ここに言う「手形裏判濟」とはその札差が役所から受取る際の『給付の米受領に必要な証文』のことで、『頭・支配に属する者は、本人が表判を押し、頭・支配が裏判をする必要があった』とあるので、この紛失は依頼された本人以外に、その上司にも迷惑がかかる可能性があるということであろう。
・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。
・「女衒」女性を買い付けて遊郭などへ売る仲介業者。人身売買に際して彼等が保証人になっている場合があった。
・「抱り」底本ではこの右に『(拘)』と注する。誤字であろう。
■やぶちゃん現代語訳
正直者に加護のある事 附 豪商の豪気の事
浅草蔵前の、ある札差にまつわる話である――一説には伊勢屋四郎左衛門ともいわれるが定かではない。しかし、とりあえず「伊勢屋」として話を進めよう――。
伊勢屋の若旦那が所用で下谷へ出かけた。その帰り、どの辺りの町やらん、通りかかった茶屋で、小股の切れ上がったちょいといい女が御座って、若旦那、相談一決、ととん、と二階へ上がって、雲雨の交わりを成して帰って行った[根岸注:この茶屋の女は俗に「けころ」と呼ばれる娼婦である。]。
ところがこの時、若旦那、財布を忘れて行ってしまった。
女がそれと気づいて、財布を手に門口まで追いかけたのであったが、もう既に男の姿はなかった。
そこで女は、財布の中を改めてみた。と、見たこともない御大層な印形(いんぎやう)を黒々と押した手形なんどが入っており、これはいい加減にしておれるものにてはない、と思ったけれども、いろいろと考えるところもあって、こっそりと隠し置いて悩んでおった。
それから二日も経たぬ頃おい、時折、この辺りに姿を見せる荷車引きの男が、この女を買った。
一つるみ終えると、女は、隣りに横たわっている男に、
「……ね……蔵前辺りに……伊勢屋っていう札差のお方はある?……」
と、それとなく訊ねた。
男は、ちょいと女の方に顔を向けると、
「……あん?……いや、伊勢屋っう札差は蔵前には何軒もあらあな……ただ、それがどうしたい?……」
と、妙に怪訝そうに反問した。すると、
「……あのね……実はね、ついこないだ……蔵前の伊勢屋っていうお客さんが来てね……忘れ物、したんさ……」
とこっそりと女が男の耳元で呟き終わるのと同時に、男は素っ頓狂な声を挙げた。
「――あんだって! 実はよ! 俺もよ! そ、そのことで伊勢屋さんに頼まれて、この辺に来たんだって!――さっ、さ! そ、そいつを見せておくんない!」
と早口で捲くし立てる。
しかし、女は、手を左右に振って、
「だめ、だめ!……だって、あんたは……その財布、どんなもんか……知ってる?――知らないでしょ! だから見せるわけには、い・か・な・い、の!……まずさ、頼んだ人は何というお人? 年の頃は幾つぐらい?……」
と、女の謂いは、これまた、なかなか用心深い。
車引きも悪い男にては、これなく、有り体に知れることを語り、女も馴染みなれば、男の正直さも知っておった。
女は部屋の隅へ行って何やらん、ごそごそと書いておったが、しばらくして向き直ると、
「とりあえず、この文を先方へお届けになって。」
と手紙を渡した――。
この車引き――といっても、れっきとした親方で、今度のことも御用達の伊勢屋大旦那から直に呼ばれて頼まれた内密の探索事であった――早速に蔵前へとって返し、女の手紙を伊勢屋の大旦那に、かくかくしかじかと――まあ、女と一発やった下りはごまかして御座ったが――今日のその一件を語った。
……そもそも、この若旦那が忘れた財布の内には、伊勢屋御用の旗本・御家人衆の裏判も済んだ切米手形数冊も入って御座って、もし、このまま出でずとならば、最早、奉行所へもお届け申し上げるほかなし――されば、栄華を誇るこの伊勢屋の、身代に関わる重罰を受けること、必定――さりとも、もとより何処(いずこ)へ落としたのやら、皆目、検討もつかぬ体たらく――ありとあらゆる所へ、ありとあらゆる手がかりを求めて、探しに探して四方八方――言うに及ばぬかしこみ南無阿弥法蓮華経の神仏祈誓――誠(まっこと)、家内は上から下まで嘆きのどん底、釜底地獄の阿鼻叫喚――最早、これ以上の沈みようはないという程の気鬱憂鬱沈鬱鬱鬱――
――が!――この手紙に!
――いや、もう、鯛は上へ、鮃は下への、大喜び!
親子同道の上で曖昧茶屋に出向いてのでは、これまた、先方で不審に思うであろう、ということで、とりあえず、あの車引きに倅を同道させ、大旦那はその後から遅れて出、かの茶屋に向かった。
まずは倅が二階へ上がり、女と二人になってから、面と向かうと、この度のことにつき、深く礼を述べた。すると女は、
「……私は日頃、春をひさいでおりまする卑しき勤めの身……数多(あまた)のお客さまの相手を致いて御座います……されど確かに覚えて御座いますよ……あの日あの刻限に、いらした方に相違御座いません……ですが、万が一つの私の思い違いということも御座いましょう……念のため、御財布の色や形ならびにその中の品々を一つずつ、仰ってみて下さいませ。」
と、訊いてきた。
若旦那が、一つ一つ、それらを暗誦した。一つとして違(たが)うものはなかった。
女は財布を渡す。
と――若旦那が重ねて礼を述べているそこに、大旦那が上がって参り、前後、息子と席を入れ代わる。と大旦那は開口一番、
「――お女中、何卒、この屋の親方にお逢い致しとう御座る――。」
と言う。女は少し声を潜め、
「……親方は……心悪しき者なれば……この度のこと、一切何の話も致いて御座いません。……だって……こんなことを知ったら……どんな悪だくみをするか知れたもんじゃない、そんな人なんです……だから……会っても、決していいことは、御座いませんことよ……」
と答えたのだが、大旦那は右の掌を掲げつつ、にっこりと笑うと、
「いえいえ。――そのようなことにては御座らぬ――また――決してかくの如くは、成り申さぬ。」
と意味深長なことを言うて、落ち着き払って御座った。
結局、大旦那のたっての願いということで、無理に親方を呼び出だして二階に上げる。
大旦那曰く、
「――さても、この女子(おなご)、我らが方に申し受けたく存ずるが、如何(いかが)?――」
親方は、大旦那の形(なり)から、相当な身請けの金は搾れそうと、あらかじめせり上げを胸算用しながらも、にこやかに、
「いや、そりゃもう、御大尽様なればこそ、結構で御座んすよ。」
と言う。口元には、早、涎が滴りかからんばかり。
大旦那は即座に、
「――されば、かくなる境遇なればこそ、世話致いた女衒(ぜげん)なんどとも、直接直ぐにかけ合いましょう――。」
と畳み掛けたところ、親方は、
「いやいや、この女は女衒を通して手に入れた者(もん)じゃ御座んせんでの。田舎の親元の在から……そうさ、十四両ほどの給金で、年季を限って抱えた者(もん)で。まあ、その分だけは払(は)ろう貰(もろ)うたなら……へへ、お渡し出来るってえ、もんで……」
――ツツッ――
と親方、実際に涎をすする。
すると大旦那、矢立と紙を出だすと、
――以来、親元其の外一切お構い無し――
という証文をその場にて認(したた)めたかと思うと、連れて来た手代を呼び上げ、受け取った金子(きんす)三百両、むんずと摑み出すと目の前に置く――。
親方、驚くまいことか、
「……ヒ! ヒ、ヒェッ!……こ、こんな大金には……お、及ばねえで、ご、御座んすが……」
と震える声で、及び腰となる。
大旦那曰く、
「いえいえ、この女子(おなご)の身の上に関わることにて御座れば、向後、何事もなきように――納まるように仕儀致すことなればこそ――まあ、この程度はお納め戴かねばなりますまい。」
と、その三百両をすっと親方に渡し、以後、一切手切れの趣きを認(したた)めた先の証文に双方署名の上、即座にこの場にて、この女子(おなご)を自身の娘と致いたので御座った。
「――かかるよからぬ親方であったからには……金子を惜しんだならば、後々までも何かと付き纏うて不都合が御座ろうほどに……と、その辺り、深慮の上、大金を以って綺麗さっぱり、はい、さようならと、手切れ致いた……いや、流石、豪商の豪気――」
と、世間では専らの噂であったそうな。
* * *
賤妓發明加護ある事
濱町河岸箱崎近邊の河岸へ、船まんぢうとて船にて賣女(ばいぢよ)する者あり。至て下賤の娼婦也。餘程むかしの事と也。下町邊の町家の若者、大晦日に主人の申付に任せ、賣掛とり集めて右河岸邊を通りしに、舟饅頭舟へ醉狂の儘立寄り、聊雲雨の交りして立別れけるに、折角取集し賣掛を入し財布を、いづちへ忘れけん懷中になければ、始て大きに驚き、爰かしことその日走り廻りし所々を尋けれど行方知れねば、川へ身を投て死んや、又首をしめて死んと、爰かしこ明る元日にも尋廻り、三日も過て四日に至り、若彼舟饅頭の舟に落しける事もやと、河岸の邊に立て、あれ是と船まんぢうの船を尋けるに、晦日に乘りし舟に彼女子も見へける故、心悦てさらぬ躰(てい)にてかの舟に移りければ、彼女聲をひそめ、御身はさりし晦日に來り給へる人なりや、忘れ給ふ品有べしと尋。いかにもかくかくの品を忘れたりとて、我身の命もけふ翌(あす)と限りの由歎きかたりければ、左あらんと思ひて其後夜々此所へ出て待しとて、右財布を渡しけるにぞ、嬉しさいわん方なく、金子を出しければ、いさゝか金子を受取て跡は返し、何の禮に及んと也。是によりて女子の名、親方の町所など聞て立歸りけるに、親方にても兩三日も立不歸事なれば、懸けを取集缺落(かけおち)致しける迚、請人(うけにん)など呼て吟味いたしける折から歸り來る故大きに驚き、いかゞして日數立歸らずや、數年實躰に勤めし故よもやとは思へども、全缺落したると思ひしに、色もあしきはいかゞせしと受人ともども尋ねければ、今更何か包ん、かく/\の譯にて既に死を決し侍れども、不思議の事にて命全ふして立歸りぬとて、財布帳面を渡しけるに、聊帳面勘定も違はざれば、親方も受人も大に驚き、いやしき勤の身にかゝる正直の心ありけるこそ不思議なれ、汝も最早家持にいたし可然事なればとて、則相應に別家して右船夜發(ふなやほつ)を受出し妻にいたさせけるに、夫婦まめやかに暮して今は相應の町人となりしが、彼妻後に語りけるは、右金子我等正直計(ばかり)にて返し候にはなし。舟まんぢうの親方抔はいかにも貪欲無道の者にて、船饅頭など金子の少しも持しと見ば、その儘打殺しなどいたすべけれとおもひ、彼是を考へぬれば、御身は此金子ゆへ命にも及ばん、さあれは我も右金子故かへつて一命をはたしけんと思ひし故、夜々相待て親方へも深く隱しけると語りし。才發なる女子也と、濱町邊萬年何某の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:あっちはすっきり、ふところうっかりの若者と、賤しき身分ながら利発の娼婦のハッピー・エンド類話第二弾。
・「濱町河岸」現在の中央区日本橋浜町周辺。現在の両国橋から新大橋辺り。浜町は武家屋敷と町人の入り合った町で、町屋には刀剣類を商う店が多かった。
・「箱崎」現在の中央区日本橋箱崎町。古くは隅田川の永代橋の上手に西側にあった人工島であったが、南方部分が埋め立てられたとする。大部分が武家屋敷で占められ、延享3(1746)年には田安家が拝領、庭園を楼閣を備えた大邸宅を拵えている。
・「船まんぢう」隅田川に小舟を浮かべ、その中で春を鬻いだ下級の私娼。「舟君」ふなぎみ)・「河童」等とも呼んだ。「達磨船」というのもあるが(達磨は娼婦のこと)、これはやや新しい呼称か。現代語訳では、私の数少ない大好きな日本映画、宮本輝原作・小栗康平の名画「泥の河」に敬意を表して哀しく美しい響きを持った「廓舟(くるわぶね)」を用いた。言うまでもないが、「まんぢう」は饅頭で、女性性器の隠語である。
・「翌(あす)」は底本のルビ。
・「請人」保証人。
・「受人」請人に同じ。
・「船夜發」船饅頭のこと。「夜發」は「やはつ」「やほち」等とも読み、夜、路傍で客を引いた下級の私娼の通称。「夜鷹」「辻君」「総嫁(そうか)」なども同じ。
■やぶちゃん現代語訳
卑賤ながら利発な娼婦に神仏の加護のある事
浜松河岸は箱崎近辺の河岸に出没する、「舟饅頭」という、廓舟(くるわぶね)で身を売る女たちがおった――外娼の中でも至って下賤の売女(ばいた)である。
余程、昔のことで御座るが――下町辺の町家に奉公する若者、大晦日に主人の言いつけで売掛の金を方々から取り立て集め、その帰り、この河岸の辺りを通りかかった。溜まっておったは、主人の売掛ばかりにてはこれなく、少しばっかり彼も溜まって御座ったれば、一人のちょいと可愛い舟饅頭に酔狂を起こし――ひょいと乗り、聊かゆらりゆらゆら、二人が揺れると――一遊びして、元気百倍、金を払って舟を上った――。
暫くして、ふと気がついてみると、一日かけて取り集めた大枚の売掛を入れた財布が――何処へ忘れたのか――懷に、ない――。
『ない! ない! 財布が! ない!……』
今更ながら、大いに驚き、ここかしこ、その日借金取りに走り回って行った先々を、あちこちと探し回ったれど……ない……ないものは、ない……。
……最早、川へ身を投げて死ぬるか……はたまた、首を括って死のう……なんどと、一晩中思いつめつつ、そのまま翌元日にも探し歩った……が……ない……二日も過ぎ……三日も過ぎ……四日になっても、ものも食わずに、右往左往……が……ない……ないものは、ない……と……その時、若者は一つ思い出だいた――。
「……もしかすると……あの舟饅頭んとこで、落としたのかも知れん!……」
と、箱崎にとって返し、近辺の河岸に立っては、あれこれと舟饅頭の舟を探した。
すると、すぐに大晦日に乗った廓舟が見つかった。
そればかりか、あの晩に抱いた当の女が乗って御座った。
心は浮き立ち、藁にもすがる思い……なれど、落とした財布の中身は大枚なればこそ……その中身を知っておれば、この売女、如何なる手練手管で包み隠さんとも限らず……もし、知らぬとなれば、何食わぬ顔して鼻紙袋を返してくんなとさりげなく言うが得策……いいや、あの持ち重りで大金と分からぬ者は馬鹿じゃて……なんどと考え考え、とりあえずは何気ない素振りで舟に、とん、と乗り移った。
口で覗いていた女が、にっこりと笑うと奈落へ手招きをする。
中へ入るなり、女は若者の耳に口を寄せると、甘い言葉をかけるように、こう囁いた。
「……大晦日の日にいらっしったお客さんだね。……お忘れになった物が、あるんでしょ……。」
若者は、最早、下手な芝居を打っている暇はない。吃りながら、
「……い、いや!……そ、その通り!……ほ、ほれ、こうした、こんな!……財布じゃあ!……」
と言うや、この数日の思いがどっと襲って、涙洟で顔をくしゃくしゃにしながら、
「……財布が、見つからねば……我が身の命も今日明日限りと……」
と、思い嘆きの限りを語った。
「よかったね! あんたの忘れもんだと思ってさ、あれからずっと、毎晩、あの晩と同(おんな)じ処(とこ)に舟をもやって、待ってて上げたんよ。」
と満面の笑みを浮かべて、懐から大事に出した財布を男に渡した。
財布は暖かく、ほんのりと女の匂いがした。
若者は勿論、嬉しさ言わん方なく、財布の中の己れの金を底まで叩(はた)いて、女に謝礼として渡した。
すると女は、その中から、あの晩、やらせてもらったのに支払ったのと同じだけの金子を数えると、残りは――ざらぁっと――すべて若者の手に返し、
「何にもお礼はいらないわ。」
と言って――早う、お帰り――と若者を促した。
そこで若者は、浮き足立つ気持ちを抑えながら、とりあえず女の名と彼女の親方の住所などを訊いて、飛ぶように主家に帰ったのであった――。
店では親方が、彼が数日もの間、一向立ち帰らぬということなれば、最早、取り集めた売掛を懐に、出奔致いたに違い御座らぬ、と若者の請人をも呼び出し、お上へ訴え出る手続きなんどを相談致いて御座った――そこに、げっそりと痩せ細った若者が走りこんで来たから――親方達、驚くまいことか……
「一体、手前(てめえ)は何処をほっつき歩いていたんでェ! この数年、実直に勤め上げておったから、まさかとは思ったんだが――いや、こりゃもう、売掛ぽっぽに入れたまんまトンヅラしやがったな! とばかり思っていたぜ!……おい! 何やら、顔色も悪いぞ!?……一体、何があった?」
と請人共々、若者に詰め寄った。若者は、
「今更、何を包み隠し致しましょう……」
と一部始終を素直に話し、
「……という次第……既に最早、死を覚悟致いておりましたが……かく、不思議なる巡り合わせによりまして、幸いにして命全うして、こちらへ立ち帰ること、出来申した。」
と、財布と帳面を親方に渡す。
その売掛金とその帳簿を突き合わせてみたが、勘定に聊かの違いもない。
さて、落ち着いてみて、親方も請人も、この女に今更ながら、大いに驚き、
「……卑賤の勤めの身にありながら、かく正直なる心を持ったること、不思議なことじゃ……そうじゃ! お前もそろそろ、一軒お店(たな)持たせてもよいころじゃのぅ!……あん?……」
と言うや、親方はすぐに、この若者にお店の暖簾分けを致して独立させると同時に、相応の金を払って、この舟まんじゅうの娼婦を請け出し、若者と娶(めあ)わせた。
後、二人はまめやかに暮らし、今はそれなりの町人夫婦として生活して御座る。
かの妻は後日、夫に、こう語ったという。
「……あんたに、あの時、金子を返したんは……私が正直だったからばかりでは、実は、ないの……舟饅頭の親方なんてえのはね……みんな、貪欲無道の極悪人なんよ……支配の舟饅頭が少しばっかり身分不相応な金子を持っているなんてこと、知ればさ……あの親方なんか、もう絶対、有無を言わさず、あたいを打ち殺してこの大枚を手に入れようとするんだろうなぁ、って思った……そんなこと、いろいろ、考えてたら……気がついたの……あの町人さんも、もしや、この金子のために、己が身をはかなんで、命を落とすやも知れぬ……そうだとしたら、私も、この金子のために、親方か誰ぞに命を奪われるやも知れぬ……そう思ったの……だからね……毎晩あなたを待って……親方へも、この金子のことは深く隠していたんよ……。」
「……と、まあ、どうです?……誠(まっこと)利発な女で御座いましょう……。」
と浜町辺りに住む万年何某という者が私に語った話で御座る。
* * *
賤妓家福を得し事
是は近此の事也。下谷廣小路邊に茶屋を出し情を商ふ彼けころ家(や)へ、加賀の足輕體の男來てけころを買ひあげて遊び歸りけるが、鼻紙さしを落し置ぬ。追かけて見しに最早影見へねば、又こそ來り給はん迚中を改め見れば何事もなく、谷中感應寺の富札壹枚ありければ親方へ預け置けるが、其後右足輕來らず、尋べきにも名を知らねば詮方なく、右富札は捨置んも如何也とて、富定日(ぢやうび)には感應寺へ至り見んとて、其日彼富札を持て谷中へ至りけるに、不思議にも右札一の富に當りて金子百兩程受取ぬ。去(さる)にても右足輕を尋みんと、加賀の屋敷分家の出雲守備後守屋敷抔をもより/\聞き侍れど、元より雲をつかむの事なれば知るべきやうもなし。誠に感應寺の佛の加護ならんと、右門前へ彼金子を元手として酒鄽(さかみせ)を出し、いまだ妻やなかりけん、右のけころを妻として今は相應に暮しけると、感應寺の院代を勤ぬる谷中大念寺といへる僧の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:賤しき身分ながら正直な娼婦のハッピー・エンド第三弾。類話ながら、差異を際立たせて、前項が「餘程むかしの事」に対し、これは「近此の事」。
・「下谷廣小路」上野の山の南にある、現在の上野広小路。広小路は火除け地で、上野広小路は明暦5(1657)年の明暦の大火後に設置された。但し、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸期には下谷広小路と呼ばれていたのである。
・「けころ」は「蹴転」で、けころばし、蹴倒しとも言った江戸中期の下級娼婦の称。特に上野山下から広小路・下谷・浅草辺りを根城とした私娼で、代金二百文と格安、短時間で客をこなし、その由来は、断って蹴り転がしても客を引きずり込むほどの荒商売であったからとも言う。
・「家(や)」は底本のルビ。
・「加賀」加賀藩102万5千石を有した御三家に準ずる大藩。加賀・能登・越中の三国の大半を領地としていた。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)は第10代藩主前田治脩(はるなが 延享2(1745)年~文化7(1810)年)の代である。
・「谷中感應寺」現在の台東区谷中にある天台宗護国山尊重院天王寺。以下、ウィキの「天王寺」より引用しながら、補足する。『日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来する。関小次郎長耀が日蓮に帰依して草庵を結んだ。日蓮の弟子の日源が法華曼荼羅を勧請して開山』、『開創時から日蓮宗であり早くから不受不施派に属していた』。不受不施派とは日蓮宗の中の一種のファンダメンタリズムの一派で、不受は法華経の信者以外からの施しを受ぬこと、不施は法華経以外の教えを広める僧侶には施しをしないという戒律を意味する。安土桃山時代頃から弾圧を受けていたが、江戸幕府も禁圧を加え、『日蓮宗第15世日遼の時、1698年(元禄11年)に強制的に改宗となり、14世日饒、15世日遼が共に八丈島に遠島』にされ、廃寺の危機を迎えたが、天台座主で日光山や寛永寺頭首・東叡山輪王寺門跡などを兼任して将軍綱吉の帰依厚かった『公弁法親王が寺の存続を望み、慶運大僧正を天台宗第1世として迎え』て、とりあえず事なきを得た。その後も、『1833年(天保4年)、法華経寺の子院知泉院の日啓や、その娘で大奥女中であったお美代の方などが林肥後守・美濃部筑前守・中野領翁らを動かし、感応寺を再び日蓮宗に改宗する運動が起きる。しかし、輪王寺宮舜仁法親王の働きにより日蓮宗帰宗は中止となり「長耀山感応寺」から』現在の『「護国山天王寺」へ改号』するという経緯を辿った寺である。更にウィキは本話に関わる富籤についても記している。この感応寺では元禄13(1700)年『から徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった。1728年(享保13年)に幕府により富突禁止令がだされるも、興行が許可され続け、1842年(天保13年)に禁令が出されるまで続けられた』とのことである。底本の鈴木氏の注には、この寺の改名についてはもっと生臭い話が所載されているので、引用しておく。『その原因は、感応寺の僧と称する贋の比丘尼が江戸城や諸侯の屋敷の奥向にみだりに出入りして女中方と心安くしたため、比丘尼は礫刑、感応寺住職は三宅島へ遠島となった事件』が元、とあるのである。
・「富札」ギャンブルは私の最も苦手とする分野であるので、以下、ウィキの「富籤」から、引用させて頂く(一部改行を省略した)。富籤(とみくじ)は、富突きとも言い、『普請の為の資金収集の方法であり、宝くじの起源といわれるくじ引の一種であり、賭博でもある』。主に寺社普請が中心で、江戸期の典型的なやり方は『富札を売り出し、木札を錐で突いて当たりを決め、当たった者に褒美金すなわち当額を給する。富札の売上額から褒美金と興業入費とを差し引いた残高が興業主の収入となる仕組みであ』った。『享保時代以後、富籤興行を許されたのは主に社寺で、収入の他にも当金額の多い者から冥加(みょうが)として若干を奉納させた』。抽選や配当法を詳しく見ると、『始めに、大きな箱に、札の数と同数の、番号を記入した木札を入れる。続いて箱を回転し、側面の穴から錐を入れて木札を突き刺し、当せん番号を決める。そして当せんした富札の所有者に、あらかじめ定めた金額を交付する』。『当には、本当(ほんあたり)が1から100まである。つまり100たび錐で札を突くのであり、たとえば第1番に突き刺したのが300両、以下5回目ごとに10両、10回目ごとに20両、50回目は200両、100回目(突留(つきとめ))には1000両、という様に褒美金がもらえる。これらの21回数を節(ふし)という。節を除いた残り(平(ひら)という)に、何回目ということをあらかじめ定め、間々(あいあい)といって、少額金を与えることがあった。節の番号数の前後の番号にいくばくかの金額を与えたが、これを両袖といった。袖といって、両袖のかたわらの番号に、少額のものをくれることがあった。札数が大多数に上る時は、番号には松竹梅、春夏秋冬、花鳥風月、または一富士、二鷹、三茄子、五節句、七福神、十二支という様に大分類を行い、そのそれぞれに番号を付け、たとえば松の2353番が当せんした時は竹、梅の同番号の札にもいくぶんかの金額を与えることがあった。これを印違合番(しるしちがいあいばん)といった。この場合、両袖が付けてあると、各印ごとに300枚ずつ金額の多少にかかわらず当たるわけで、本当の他は花といった。元返(もとがえし)といって、札代だけを返すものもあった。たとえば、頭合番999人に渡すとあれば、当たった3300という番号だけを除き、3000代の番号どれにも元金だけを返してくれる。突留の頭合番に渡すという方法もあった。当せんした者は褒美金全部を入手したのではなく、突留1000両を得たものはその100両を修理料として興行主に贈り、100両を札屋に礼として与え、その他諸費と称して4、50両取られたから、実際に得るところはおよそ700余両であった。これは平(ひら)の当(あたり)まで同じである』とある。これによって、この主人公たちは百両を丸々もらったのではないことが分かる。以下、販売・購入方法が続く。『興行主において数千または数万のくじ札(富札)を作り、それに番号を付ける。日を定めて抽せんされる。仮に興行主から富札店(札屋)が富札1枚を銀12匁で買い入れたとすると、札屋はこれに手数料を取って13、14 匁で売り出す。売り出す時は当局に申告するため定価があったが、札屋から庶民に売るものは、その時の人気で上下した。1人で数枚を買うこともできたし、1枚を数人で買うこともできた。後者は割札といい、本札は取次人の手に留めて仮札をもらう。半割札を買った場合、褒美金はもちろん2分の1になる。4つに分けたものを4人割といった』。次に歴史(記号の一部を変更した)。『起源はすでに寛永ころ京都でおこなわれていたらしく、元禄5年5月の町触にはその禁止がある(「正宝事録」八には、『元禄五壬申年(改行)覚(改行)一 比日町中にてとみつき講と名付 或ハ百人講と申 大勢人集をいたし 博奕がましき儀仕由相聞 不届に候 向後左様之儀一切仕間敷候 若相背博奕の似寄たる儀仕者於レ有レ之ハ 本人ハ不レ及レ申 名主家主迄曲事ニ可二申付一者也(改行)申五月(改行)右は五月十日御触 町中連判』とある。)から当時流行していたらしい』(ここは執筆者以外から出典の明示を要求されている)。『流行の頂点は文化、文政ころであった』とするが、ここで更に遡り、『最も古い記述としては鎌倉時代の夫木集にある藤原兼隆の歌に、現在の大阪府箕面市にある瀧安寺の箕面富に関する記述があり、これが起源ではないかとされている』(ここでも執筆者以外から出典の明示を要求されている)。『そこからすると約950年前にはその実があったと言える。当初は金銭の当たる籤ではなく、弁財天の御守「本尊弁財天御守」が当たるものだったようである。富籤は頼母子(無尽)、とくに取退無尽(とりのきむじん)が変じたもので、頼母子は出資者数が少なく獲得額に限度があり、射幸心を充分には満足させられないなどの理由があった。そのため、債権債務関係が1回限りで、配分額の多い富籤という方法が案出された。富会といわれ新年の縁起物としての行事であった。自身の名前を書いた木札を納めその中から「きり」で突いて抽せんしたのが始まりと言われる。当せん者はお守りが貰えただけであったが、次第に金銭が副賞となり賭博としての資金収集の手段となった』とする。以下は「幕府の対応」という項。『この方法が時勢にあったのか大いに流行し、幕府はしばしば禁令を発した。1692年5月に出された江戸の町触には、富籤を禁止しする旨の条文があったという。しかし1730年(享保15年)、幕府公認の下、仁和寺門跡の宅館修復の名目による富突を護国寺で3年間行った以降、富籤は主に寺社の修理費用に充てるために興行された。このため、許可は寺社奉行に出願することとなり、抽籤の際には与力が立ち会った。谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神は江戸の三富と呼ばれるほど盛んであったという』。『寛政の改革期は、松平定信によって江戸・京都・大阪の3箇所に限られ、あるいは毎月興行の分を1年3回とするなど抑制されたが、文政、天保年間に入ると再び活発化し、手広く興行を許され、幕府は9年、三府以外にもこれを許可し、1年4回の興行とし、口数を増やし、1ヶ月15口、総口数45口までは許可する方針をとった。これは、1842年(天保13年)3月8日に水野忠邦が突富興行を一切差止するまで続いた』とある(最後にこのウィキの執筆者に感謝して終わりとする)。
・「右富札は捨置んも如何也とて……」以下は主語が誰であるか、判然としない。読みようによってはこの「親方」が富籤を得るまでの行動の主体であるようにも読めるが、それではこの「賤妓家福を得し事」という標題が生きてこないし、第一、面白くない。私は、けころを主人公とし、想像した仮想シーンも織り込んで訳してみた。そもそも、曖昧茶屋の主人=けころを支配していた若い親方、という等式も私の勝手な判断である。
・「富定日」富籤の抽選日。
・「出雲守」加賀藩支藩富山藩のこと。越中の中央部(現在の富山県神通川流域)を所領とした藩で、石高10万石。藩主は前田氏。家格は従四位下。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)は第7代藩主前田出雲守利久(宝暦12(1762)年~天明7(1787)年)であろう。彼の藩主就任は安永6(1777)年8月である。
・「備後守」加賀藩支藩大聖寺藩のこと。加賀国江沼郡(現在の石川県南西端)にあり、江沼郡及び能美郡の一部を領した。石高7万石(後に10万石)。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)で、備後守だったのは第6代藩主前田利精(としあき 宝暦8(1758)年~寛政3(1791)年)であるが、この人物、ウィキの「前田利精」によれば、安永7(1778)年に藩主となるものの、安永10(1781)年に前藩主の父前田利通が死去すると、頻りに遊郭に通って『女狂いとなり、無頼と交じって好き放題をやらかしたりするなど、無法を繰り返すようになる。これら一連の行動に関して、家臣団は無論、本家の藩主・前田治脩も諫言したが、利精は聞く耳を持たなかった』とある(前田治脩(はるなが)は加賀藩第10代藩主。前の「加賀」の注を参照のこと)。問題はここからで、『このため天明2年(1782年)8月21日、前田治脩は利精を「心疾」として監禁し、家督は利精の弟である前田利物に継がせた』とある点である。これによって、本話は最近とは言うものの、前田出雲守利久が藩主に就任した安永6(1777)年8月から前田備後守利精が藩主であった天明2年(1782年)8月の5年間の限定された時期に同定出来る可能性がきわめて高いことが分かるのである。
・「酒鄽」「鄽」は店の意。男の前の商売柄から考えて酒屋ではなく、相応な居酒屋であろう。
・「院代」には(1)院家(いんげ:皇族や貴族が出家して居住した特定寺院である門跡寺院のこと。)の寺格を持つ寺の住持の職務を代行する者。(2)寺の住職の代理者。(3) 普化宗(ふけしゅう)の寺の住職の三つの意味があるが、ここは(2)。
・「谷中大念寺」岩波版長谷川氏注には『鶴林山泰然寺か』とある。しかし現在、このような山号及び寺名の江戸(東京)の寺院は検索にかかってこず、「江戸名所図会」の索引にもない。廃寺となったものか。現存するもので「大」がつく幾つかの寺があるが、高光山大円寺は感応寺の旧宗旨の日蓮宗で発音も近い。他には同じ日蓮宗の円妙山大行寺、長昌山大雄寺というのもある。識者の御教授を乞うものである。
■やぶちゃん現代語訳
卑賤の娼婦が思わぬ家福を得た事
これは最近の出来事である。
下谷広小路辺りに、あの辺りを徘徊する例の下賤の売女(ばいた)であるけころが、専ら二階を御用達としている、通称「けころ茶屋」と申す一群の曖昧宿が御座った。
ある日、加賀藩の足軽らしい男が、通りすがりのけころを買って上がると、一時、遊んで帰って行ったのだが、その折り、財布を落としていったので、直ぐにそのけころが茶屋から出て追い駆けた。しかし、沿道からは最早、男の姿はかき消すようになくなっていた。
女は、広小路の真ん中で、財布をぽんと掌で打ち上げて、また摑むと、
「……まあ……これで、また……来て下さる、わ、ね……」
と見えぬ足軽の影に向かって、色っぽく声かけたのだった――。
茶屋へ戻って中を改めてみると、谷中感応寺の富札が一枚入っているだけ――。
とりあえず、その財布は茶屋主人――実は、そのけころの、若い親方――に預け置いた。
ところがその後、この足軽、一向にやってこない。
尋ねようにも、名も分からねば、探しようもない。
親方は、この富札、捨ておいてしまうのも如何にも勿体なかろう、ということで、かのけころ女に、
「お富の日には感応寺さんへ行って見といで。お前さんには、よう当る有難いお『的』があるで……『一発』、当たらんとも、限らんぜ……。」
と軽口を言って渡した。
女は富籤当日、その富札を袂に入れて、序でにいいカモの一人も見つかればいいわ、ぐらいな気持ちで感応寺を訪れた。
――ドン!――
と一発、太鼓が打ち鳴らされる――一等の符丁が読み上げられる――。
「……!!!……」
女は――声が出ぬ――。開いた口が塞がらぬばかりか、外れんばかり――。
「……ヒ、ヒ、ヒエ~ッ!!!……」
握った札が震え出す――。富籤の口上が高らかに叫ぶ!――
「――大当たり~ぃ!――金、百両!――」
大枚を懐に巻き入れ、腰も抜けんばかりになって、女は下谷広小路茶屋へ戻った。
親方も驚くまいことか、目にしたこともない大金に、思わず、小心者故の正直な性質(たち)故に、
「……それにしてもさ……ともかくも、何だよ、そら……この富籤は儂らのもんでは、ないんだから……その何とか、この足軽を捜して出してだな……ま、その、この金を渡そう、な……少しは礼も貰える……それで儂らには十分だろ?……」
と、何やらん、もじもじとして独りごちた。そんな若い親方を見ながら、このけころの女は内心、
――可愛い!――
と思った……。
翌日より、この親方、加賀藩藩邸は勿論のこと、加賀藩御分家にて御座る出雲守殿、備後守殿御屋敷その他関わりのありそうなところを、総て残る隈なく尋ね歩いたのであったが、もとより、名も分からぬ相手なれば、雲を摑むような話、結局、その足軽は見つからず仕舞いであった――。
その夜のこと、親方の若い男は、籤を拾うたけころと差し向かいで、
「……これはまあ、誠に感応寺の仏の御加護であろうて……」
と、二人して大枚の金子に手を添えて、感応寺さんに感謝致いたという――。
暫くして、感応寺門前にそれを元手に相応にしっかりした居酒屋を開業致し――いまだ独り身だったその男、例のけころを妻に迎えて――今も豊かに暮らしているということで御座る――。
とは、感応寺院代を勤めて御座る谷中大念寺という寺の僧が語ったことにて御座る。
* * *
怪我をせぬ呪札の事
天明二寅年の春、御小性を勤仕(ごんし)の新見(しんみ)愛之助といへる人登城の折から、九段坂の上にて乘物に驚きけるや、數十丈の探き御堀の内へ馬と一所に轉び落けるが、怪我もせず着服等改め直に登城ありしと也。其後右の咄出て、何ぞ格別の守護等も有しや、數十丈の所轉び落んに、如何にしても少しは怪我も有べきに、ふしぎの事也といひしに、外に守やうの物もなかりしが、一年不思議の事ありしとて、知行の者より差越たる守護札ありしとて、書付けて愛之助より有尋し者へ見せける由。右同人知行の者、或日野に出て雉子を射けるに、其矢雉子に當りしと思へども雉子は恙もなく、敢て立んともせざりし。弓術上手といわるゝ者共爭ひいたりしが、外の雉子は弦(つる)に應じて斃るゝといへども右雉子に矢當らず。何れも驚きて追廻し捕へけるに、羽がひに左の文字認有由。
右の文字を書たる札百姓の與へけるを、其儘に懷中せしと物語の由。何の譯に候哉(や)。文字も作り文字と相見へわかりがたけれど、其頃貴賤となく小兒などにも懷中させしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:神の御加護のこもった冨札から、霊験の呪力を持った守護札で連関。
・「呪札」「まじなひふだ」と読むものと思われる。
・「天明二寅年」西暦1782年。壬寅(みずのえとら)。
・「御小性」御小姓とも。武家の職名。扈従に由来する。江戸幕府にあっては若年寄配下で将軍身辺の雑用・警護を務めた。藩主付の者もこう称した。
・「新見愛之助」岩波版長谷川氏注によれば新見正登(まささだ)のこととする。『天明元年(一七八七)七月より御小性。六年家を継ぎ八百十石』とある。寛政5(1793)年に小十人頭、同7(1795)年から12(1800)年まで目付を勤めた。この人、息子の方が有名。「朝日日本歴史人物事典」によれば、新見正路(寛政3(1791)年~嘉永1(1848)年)は幕臣。『伊賀守。文政12(1829)年大坂西町奉行となり,淀川の大浚い工事の土砂で築かせた天保山は、長く市民の娯楽の場となった。天保12(1841)年に天保の改革が始まると、将軍徳川家慶の側近である御側御用取次となる。水戸藩士藤田東湖が、「誠によき人物、誠実顔色にあらわれ」と評した人柄を見込まれ、将軍と老中の間に立って両者の円滑な意思疎通と機密の保持を求められる御側御用取次に登用されたのである。また、古典の教養も深く、蔵書家で邸内に賜蘆文庫を設けた』(引用に際して記号の一部を変更した)とある。
・「九段坂」九段は現在の九段南・九段北1~4丁目に相当する町名。町名及び九段坂の名は、この丘陵地の傾斜部分に9層の石段と「九段屋敷」という幕府の御用屋敷が造られたことに由来する(ウィキの「九段」を参照した)。
・「乘物に驚きけるや」岩波版では「乘馬物に驚きけるや」とある。こちらを採る。
・「數十丈」現在でもこの九段下や竹橋辺りの堀はかなり深く見えるが、1丈=10尺≒3.03mであるから、流石に「数十」では最低でも90mを超え(江戸城自体の高さが約60m)、堀は深いものでもせいぜい十数m内外と思われ、誇張表現である。
・「知行」新見正登の細かい事蹟が分からないので、この知行地は不詳。幾つかの資料から、一つの可能性として新見氏の領地としては、現在の神奈川県内の何処かが候補としては挙げられそうには思われる。郷土史研究家の御教授を乞う。
○呪(まじな)いの文字は原文・訳文共に底本からの該当文字列の縦書画像で示したが、字解しておくと、
「※1抬※1※2」
「※1」=「扌」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「辛」}。
「※2」=「扌」+{(つくり上部)「己」+(つくり下部)「力」}。
底本注で鈴木氏は山崎美成(寛政8(1796)年~安政3(1856)年):作家。江戸下谷長者町薬種商長崎屋の子で家業を継ぐも趣味の文芸に入れ込んで破産、江戸派の国学者小山田与清に従った。滝沢馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢との交流もあった。)の「提醒紀談」(嘉永3(1850)年刊)三から引用して『「世に※1抬※1※3の四字を書して、怪我除の護符とす。その験あること人のしるところなり。さて此符字の伝へ一条ならず。或記に、寛永二年三月晦日に将軍家狩したまふに、御鷹大なる※4を捕りけり。その※4の胸に四の字あり。その文字は袷※5※6※7と、かくの如くなり。実に不思議なることなりと見えたり。次にまた寛文八年に紀州に住める鉄砲師吉川源五兵衛といふ人、江戸に居ける日、大宮鷹場の中、青野村といふところにて白き雉子を覘すまして打たれども中らず。さればやうやう機檻にて捕へ得たり。その雉子の背に※1抬※1※3の文字あり。思ふに此文字こそ、定めて怪我除けの符ならんかとて、角(マト)にこの字をしるして、打試みるに幾度打ども中らず。【大久保酉山筆記】といへることあり」として、次に耳袋の新見某の話柄を記し、「何れも正しき記録なれば信ずるに足れり」といっている。』と注する[やぶちゃん字注:「※3」=「扌」+{(つくり上部)「巳」+(つくり下部)「口」}。「※4」=「鳫」の「鳥」の右に(にんべん)。「雁」。]「※5」=「衤」+「盒」。「※6」=「衤」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「冋」}。「※7」=「衤」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「幸」}。以下に以上の二つの呪文の底本の該当文字列の画像も配しておく。]。
◇「※1抬※1※3」の縦書画像
◇「袷※5※6※7」の縦書画像
更に東洋文庫版「耳袋」では同じ鈴木氏が、
この「※1抬※1※2」の文字は「サンバラサンバラ」と読む
とも記している(岩波長谷川氏注の孫引き。恐らく類型字である「提醒紀談」所収の二つも同じように発音すると考えてよいだろう)。この発音からは、これは梵語(サンスクリット語)をそのまま音で漢訳した真言と考えてよい(「根本真言(大陀羅尼)」や「一切如来随心真言」等に現われる)。従って、本漢字の語義を調べることは意味がないと思われる――つーか、根岸も「文字も作り文字と相見へわかりがた」しと言ってるんだし、多分、調べてみても出て来そうもないし、納得出来るように分かるわけはないんだと踏んだ――有体に言えば、実は調べるのがメンドクサイの。だって、少なくとも「※1」「※2」は「廣漢和辭典」には所収しないし、「抬」は「うつ・あげる・かつぐ・になう」の意の「擡」の俗字で、音は「チ」若しくは「タイ・ダイ」であって「バラ」とは程遠く、現代中国音でも“tái”なんだもん――序でに暴露してしまうとさ、「提醒紀談」も持ってるんだけど、引き出すと本の崖が崩れて生き埋めになるので原本との照合も諦めちゃったというのが本音なの。
○岩波版カリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館蔵の完本(旧三井文庫本)では、この末尾に以下のような三淵正繁による追記がある(ルビを一部排除し、歴史的仮名遣に直した。「わ」はママ))。
きしひこそまつがみぎわにことのねの
とこにわきみがつまぞこひしき
右呪の文字に附添居(そひゐ)候歌の由、予が承り及候に付書添置ぬ。
文政五年九月十七日 三淵正繁
同岩波版長谷川氏の注によれば、この三淵正繁については、『寛政三年(一七九一)二十歳で小性組番士。西丸新番頭・鎗奉行等歴任。天保十四年(一八四三)没。』とある。根岸より35歳年下になるが、事蹟から見ると、根岸が南町奉行となった頃(寛政10(1798)年)には年下の友人として親交があったものと推測される。この歌、「きし」は「岸」と「雉」、「まつ」は「松」と「待つ」、「みぎわ」は「水際」と「右羽」、「こと」は「異」と「琴」、「とこ」は「常」と「床」、「「わきみ」は「分き身」と「脇身」、「つま」は「妻」と「褄」などが掛けられたものと思われるが、元々和歌の嫌いな私には通釈すべき意欲も起こらぬ、どうも分かったような分からぬ和歌である。「きしひ」が先ず分からん。「岸庇」で、川沿いの岸の高みのことか。識者の御教授を乞うが、そもそも呪(まじな)いであるのだから、通釈出来なくていいんじゃないか、と勝手に決め込んだ。悪しからず。「文政五年」は西暦1823年で、根岸の死後8年後のことである。以下、とりあえず訳しておく。
きしひこそまつがみぎわにことのねの
とこにわきみがつまぞこひしき
右の呪文の文字に添え付けて御座った歌の由、私三淵正繁が
生前の根岸殿とのお話の折りに承ったによって、書き添えて
おく。
文政五年九月十七日 三淵正繁
■やぶちゃん現代語訳
怪我をせぬ御札の事
天明二年寅年の春、御小姓を勤めて御座った新見愛之助正登という御仁、登城の折りから、九段坂の上にて、騎して御座った馬が何物かに驚いたのであろうか、突然、暴れだして、数十丈はあろうかという堀の底へ馬と一緒に真っ逆様に転がり落ちて御座ったが、怪我一つせず、衣服を改めた上、直ぐに登城致いたという。
そのことがあって暫くして、このことが談話に上り、ある人が新見殿に訊ねた。
「……貴殿、何ぞ、特別な神仏の守護なんどを受けておられるのかのう。数十丈の落差を転げ落ちたれば、どうあっても多少は怪我も受くるであろうほどに、全くの無傷というは。誠(まっこと)不思議ぞ!?……」
すると、新見殿は、
「……これといってちゃんとした御守なんどという物も御座らねど……いや、そういえば……実は、一年前に……不思議な一件、これあり……」
と言いながら、新見殿、懐紙を取り出して、筆を所望の上、
「……実は拙者の知行地の者から……送り寄越した守護札が御座って……」
と不思議な字を書き付けてその場の者どもに見せつつ、いわれを語ったとのこと。
――この新見愛之助殿知行地の者、ある日、仲間内と野に出て、雉子を狩った。
一羽の雉子を見つけ、即座にその者が射たのであったが、確かに矢は当たっているはずであるのに、その雉子、一向に平気の平左、飛び立とうとさえせぬ。
弓の上手と誇る手だれの者数人が中に御座って、争うように雉子の群れを狙って射ては、悉く美事射抜いて御座った――が――同じ時、同じ場所に何匹もの他の雉子が御座って、それらは、その者どもが次々と弦を弾いては繰り出す矢の餌食となってゆくというのに――この雉子一匹だけは――やはり平然としておる――一向に彼らの矢も当たらぬのである。
誰もが驚きあきれ、遂には、その一匹を皆で追い回し、素手で捕まえたところが、羽と羽の間、その背に次のような呪文の字が書かれていたそうな――。
「……この文字を書き写した札を、その近所の百姓が拙者に送って寄越したれば、何となく、それ以来、懐中にしては、おりました……」
と物語って御座ったとの由。
さても、如何なるいわれがある呪言で御座ろうか? 文字というも、如何にも作った嘘字らしく見えるし、意味は勿論、何と読むやらも皆目分からぬが、何でも当時は、貴賤を問わず、子供などにも懐中させた流行の呪(まじな)いで御座ったとのことである。
* * *
非人に賢者ある事
天明二年の事なりしが、人の語りけるは、あらめ橋のたもとに出居たる雪踏(せつた)直しあり。往來の侍雪駄をふみ切、懷中貯錢の心付なく、右雪駄を直させける上にて懷中を見るに一錢も無之、家來は外へ使に遣しける故甚當惑いたし、其譯を雪駄直しの非人に斷りて明日にも可差越段申ければ、右非人以の外憤りて彼是申、後には惡口(あくこう)など致しけれども、彼侍無念を怺(こら)へ色々申宥(なだめ)けるを、側に居たりし同職の非人、中へ入りて右侍へ對し、同職の非人甚の不屆なり、誠に御難儀可申樣も無之、彼へはいか樣にも私申宥め可相濟(あひすますべし)、人立ちも如何に候間早々御歸可然段申ければ、彼侍甚過分に思ひて、其方の住所小屋は何れにて名前は何と申哉と尋けれ共、御謝禮等申請べき存寄なし。少しも早く歸り可然とて達(たつ)てすゝめける故、右侍もその意に任せ歸りけると也。其側に町人居たりしが、始終の樣子を見請、其方の小屋は何方(いづかた)やと尋ければ、鎌倉河岸邊の由申しければ、左あらば我等歸り道也、ちと賴度用事ある間、一所に可歸とて同道して、途中にて申けるは、其方は生れながらの非人にも見へずとありければ、成程生れながらの非人に侍らず、若氣の心得違よりかゝる身の上也と答ふ。さあらば我等事汝がけふの取計ひ感ずるに餘りあり、用に立べきもの成間、引出し可召抱と有ければ、近頃思召忝(かたじけな)けれども望なし。都て橋爪に出て雪駄直し等いたし候非人は、御武家方其外急成差支の節は、隨分代錢に不拘働き可申事、非人の役にて珍らしからず、右惡口いたし候非人は何も不存(ぞんぜざる)者故也。且又武家方の難儀を見受候故、非人の我等ながら無據(よんどころなく)中へ立、事を納めたる也、然し御侍の身分にては左こそ無念に思召なん、御身始終樣子見給はゞ、何として立入御侍の難儀をすくひ取計給はざるや、かゝる御心得の人に引出され隨身(ずいじん)せん事、望む所にあらずと答へければ、彼町人も赤面して歸りしとなり。非人ながら怖敷者也と人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:天明二年の話で連関。この話、私は「卷之二」随一の巧みな名話と感じている。
・「天明二年」西暦1782年。
・「あらめ橋」荒布橋。日本橋川の江戸橋から北に流れていた西堀留川の河口に架かっていた橋。現在は西堀留川自体が埋め立てられており、橋は存在しない。この頃は、この辺りは海岸線に近かったから、干満と海底地形の特質から、褐藻綱コンブ目コンブ科アラメEisenia bicyclisの脱落個体が橋脚に掛かったりしたことから命名されたのではなかろうか。アラメは水深2~3mの岩礁上に有意に密な海中林を形成し、主に本州の太平洋沿岸北中部に分布している。アラメに関しては、私の電子テクスト「和漢三才図会 巻97 藻類 苔類」の「海帶」等を参照されたい。
・「雪踏」雪駄。草履の一種で竹皮で丁寧に編んだ草履の裏面に獣皮を貼って防水機能を与えたもので、皮底の踵(かかと)部分には後金を打って保護強化されている。特に湿気を通し難い構造になっている。以下、参考にしたウィキの「雪駄」によれば、その由来は『諸説あるが、千利休が水を打った露地で履くため、あるいは積雪時、下駄では歯の間に雪が詰まるため考案したとも、利休と交流のあった茶人丿貫の意匠によるものともいわれて』おり、『主に茶人や風流人が用いるものとされたが』、『江戸時代には江戸町奉行所の同心がかならずばら緒の雪駄を履いており、「雪駄ちゃらちゃら」(後金の鳴る音)は彼らのトレードマークであった』と記す。この「ばら緒」というのは鼻緒の一種の呼称で、竹皮縄のこと。麻緒の芯に竹の皮を丁寧に綯(な)い、太い縄にしたものを言う。
・「雪駄直しの非人」江戸の非人は、全国の被差別部落に号令する権限を幕府から与えられていた穢多頭(えたがしら)であった浅草矢野弾左衛門(歴代この名を襲名した)の統轄下に置かれていた。町外れや河原の非人村の小屋を居住地とし、大道芸・罪人市中引廻しや処刑場手伝い・町村の番人や本話のような各種の卑賤な露天業・雑役、物乞いを生業(なりわい)としていた。ウィキの「非人」には更に、『死牛馬解体処理や皮革処理は、時代や地域により穢多』『との分業が行われていたこともあるが、概ね独占もしくは排他的に従事していたといえる。ただしそれらの権利は穢多に帰属した』と記す。
・「小屋」非人小屋のこと。通常の非人は非人頭が支配する非人小屋(幕府や諸藩が設置)に属しており、更に小屋主(非人小頭・非人小屋頭)の配下に編成されていた。非人は小屋に属して人別把握がなされ上で正式な非人となり、身分保障されたのである。
・「成程生れながらの非人に侍らず、若氣の心得違よりかゝる身の上也」処罰としての非人手下(てか)によって非人の身分に落とされた者であることを言う。以下、ウィキの「刑罰の一覧」に所載する「非人手下」から引用する。『被刑者を非人という身分に落とす刑。(1)姉妹伯母姪と密通した者、(2)男女心中(相対死)で、女が生き残った時はその女、また両人存命の場合は両人とも、(3)主人と下女の心中で、主人が生き残った場合の主人、(4)三笠附句拾い(博奕の一種)をした者、(5)取退無尽(とりのきむじん)札売の者、(6)15歳以下の無宿(子供)で小盗をした者などが科せられた。この非人という身分は、江戸時代、病気・困窮などにより年貢未納となった者が村の人別帳を離れて都市部に流入・流浪することにより発生したものと(野非人)、幕藩権力がこれを取り締まるために一定の区域に居住させ、野非人の排除や下級警察役等を担わせたもの(抱非人)に大別される。地域によってその役や他の賤民身分との関係には違いがあるが、特に江戸においては非常に賤しい身分とされ、穢多頭弾左衛門の支配をうけ、病死した牛馬の処理や、死刑執行の際の警護役を担わされた。市中引き回しの際に刺股(さすまた)や袖絡(そでがらみ)といった武器を持って囚人の周りを固めるのが彼ら非人の役割であった。当時の斬首刑を描いた図には、非人が斬首刑を受ける囚人を押さえつけ、首切り役の同心が腕まくりをして刀を振りかぶっているような図が見える』。『なお、従来の研究では、非人は「士農工商えたひにん」の最下位に位置づけられることから、非常に賤しい存在とされ、非人手下という刑の酷さが強調されてきたが、非人と平人とは人別帳の区分の違いであること、非人は平人に復することができたことなどから、極刑を軽減するためにとられた措置であるという見方もある』と記す。「取退無尽」の「無尽」は講(こう:町人の私的な互助組織。)を作っている者達が月々決められた金額を積み立てておき、その講中で時々に金が入用な者に対して、競り落とす形でその金を貸与するシステムで、「取退無尽」というのは当たり籤を引いたものが順々に抜けていく無尽を言う。割り戻し率が高いために賭博性が問題とされ、富籤同様、幕府から禁じられていた。この男の罪は何だったのか。話柄としては、(2)で両人共に生き残ったか(女が死んだ場合は生き残った男は死罪。これには同情する)、(3)のあだなる縁(えにし)であったか(個人的には余りこれには同情し得ない)、いや、矢張り、武士や町人の幸せな子であった者が、疫病天災や騒動によって天涯孤独になって、ひもじさからわずかな食い物を掠め取って、捕らえられ、投擲され、果てに非人小屋へ連れて行かれ……といった(6)辺りを想定してみて――この実在した男には勝手な想像で失礼ながら――ちょっとしんみりした感じになってくる方がいい。
・「鎌倉河岸」以下、「千代田区総合ホームページ」の「町名由来板ガイド:神田鎌倉町・鎌倉河岸」より引用する(改行及び一部の読みを省略、記号の一部を変更した)。『天正十八年(1590 )、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏が整備しただけの粗末なものでした。慶長八年(1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請に乗り出します。家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦三年(1657)の「新添江戸之図(しんてんえどのず)」には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。 江戸城築城に際して、家康が近江から連れてきた甲良家(こうらけ)も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方の大棟梁として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋(おじま)公園のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠(ほこら)が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。昔、潮入りの葦原だったこのあたりで、漁業を営む人々が篤い信仰を寄せていた「浦安稲荷神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保十四年(1843)に遷座され、現在は神田明神の境内にあります。「出世不動尊」は、一橋徳川家の表鬼門除けとして祀られていたといわれています。本尊は、平安時代の僧智証大師の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に縁日が開かれ、たいへんな盛況だったようです』。
・「御侍の身分にては左こそ無念に思召なん」この侍の内心は、勿論、非人に理不尽な悪口を浴びせられたことを核心とするが、この男の話の流れから言えば、それに加えて、同じく賤しい非人である私(=主人公の男)如きに救われたということも加えて「無念」にお思いになられたことであろう、という意を含めるものと解釈すべきであり、そこまで他者を慮っているからこそ、賢者と言えるのである。
■やぶちゃん現代語訳
非人にも賢者のある事
天明二年のことであった、とある人が語ったという話。
荒布橋のたもとに出て雪駄直しを商売に致いておった者どもがあった。
ある時、往来の侍が雪駄を踏み切った。――この侍、迂闊にも懐中に持ち合わせが全くないことに気付かぬまま――この雪駄直しの一人の若者に直させた上、さて駄賃を渡そうと懐中を探ったところが――一銭もない――持ち合わせがまるでないということに今更、気がついた。家来は他に使いに出したばかりで、生憎、そのまま屋敷に戻るよう命じて御座った――甚だ困った侍は、とりあえず、その雪駄直しの若い非人にその訳を述べ、金子は明日にも必ず持参致すべき旨、これを告げたのだが、これを聞いた非人は、異常なほどに憤って、この侍に対して、かれこれ難癖をつけ、遂には無礼な悪口(あっこう)まで吐き始める始末であった。
この侍、逆立ち致いても一銭も出ぬ事実に加え、人柄も穏やかであったがために、ひたすら無念を堪(こら)え、色々と非人を宥(なだ)めて御座ったところ、傍にいた同じ雪駄直しの非人仲間の一人が、二人の中に割って入(はい)って、
「同業のこの非人の振舞い、甚だ不届きにて御座いまする。先程よりの御武家様の御難儀、申し様もこれなき程にて、仰せられしことも、これ悉く、道理に叶(かの)うて御座ればこそ、かの者には、如何様(よう)にも言い聞かせ、宥めますればこそ。さても、次第に人だかりも致いて御座れば、ここは一つ、お引き取り下され。」
と言う。かの侍も甚だ感謝に堪えず、
「……いや、有難い……その方の住所及び小屋は何処(いづこ)にて、名は何と申す?」
と訊ねたけれども、
「いえ、御礼なんどを頂戴するいわれは御座らぬ。さ、さ、どうか一刻も早う、お引き取りなされるがよろしゅう御座る。」
と頻りに急かすように勧める――実際、彼等の周りには次第に野次馬の人だかりが出来始めて御座ったれば――かの侍も、その非人の言うにまかせて、礼を言うと、帰って行った。
さて、その野次馬の中に、一人の町人がおった。
この町人、この一部始終を凝っと見ていたのだったが――野次馬どもが、何事か面白いことが起こるものという秘かな期待を裏切られて何事も起こらぬことに大いにあからさまな失望の声を挙げながら三々五々立ち去ってしまった後(のち)も――ずっとそこに残ったまま、割って入った男が先の非人を宥め落ち着かせるまで待ち、そうして男が雪駄直しの道具類を片付け始めるのを見てとると、そっと近づき、
「その方、小屋は何処だ?」
と尋ねた。
「へえ? 鎌倉河岸辺りで御座えやすが――何か?」
「それなら私の帰り道だ。……実は、ちょいと頼みたい用事があるでの……ま、一緒に参ろうや。」
と同道する。
その道すがら、町人が男に話しかける。
町人「……その方……失礼ながら……生まれながらの非人には見えぬが……」
男 「――へえ、仰る通り、生まれながらの非人では御座らぬ。若気の至り、ちょいとした心得違いより、かくなる身となり申した。」
町人「……されば……私はお主の、今日の一件の一部始終、見て御座った……その取り計らい方、大いに感ずるに余りあったれば……お主のような人物、実に役に立ちそうな者なればこそ……非人小屋から請け出し、そなたを召し抱えとう思うのじゃが……どうじゃ?」
男 「――めったにない、大層有難い思し召しに御座りまするが、お断り致しましょう。――そもそも、橋詰めに出でて雪駄直しなんど致しておる非人というものは――御武家方その他の方々の急な差し障りの折り折りには――およそ、代銭の有る無しに拘らず、お手伝い致すべきこと、非人の当然の役目――決して珍しいことにては御座らぬ。――あの悪口致いた非人は、未だその辺りの道理を存ぜぬ若輩者にて――かつ、また、かの御武家様の難儀を見申し上ぐればこそ――我ら、非人の分際ながら、よんどころなく、出しゃばり致いて中に割って入り、まあ、かく事を納め申したに過ぎませぬ。――しかし――御侍の身分にては、かく非人に口汚く罵らるれば、さぞ、御無念に思われたことで御座ろう。――貴方――貴方はその一部始終を見て御座った――なれば、何ゆえに割って入(い)り、御侍の難儀をお救いし、お取り計らいなさらなんだ?――かかる御心得の持ち主に、請け出され、御付き申し上げんこと――これ、望むところにては、御座らぬ。――」
これを聞いた町人、路上にありながら、思わず赤面、そそくさと別れた、という。
「……誠(まっこと)、非人とは申せ、恐ろしき切れ者で御座る。」
とある人が語った。
* * *
浪華任俠の事
大坂は昔より俗にいふ男立といふ者流行しけるに、近き頃の事也、朝比奈何某といへる者あり。彼者の方にて若者など集め振舞抔せるに、同人十歳の時武家より請取りし誤り證文を懸物にせし由。不屆なる事ながら其由來を尋るに、右朝比奈十歳のとき、立衆(たてしゆ)の中間(ちうげん)と一同堤に涼み居たりしが、年頃三十四五歳とも見へし侍、いかにもたくましく丈夫なる大小貫拔(かんぬき)に指て右堤を通り過けるに、右涼み居候中にて、遖(あつぱれ)の男振かな、中々あの位の人へ出入しては勝ちにくからんといひければ、彼朝此比奈聞て、我等あの侍にあやまらせ見せんといふ。いらざる事といひけるが、いつの間にか其場所を拔(ぬけ)て彼侍に組付ければ、小兒の事故拂のけて通りしに、又立寄ては組付、幾遍(いくへん)となくなしければ右侍、面倒なる倅哉(かな)と、取て投て行過ければ、投られ踏れては最早堪忍成がたし。いざ殺し給へとて何分放さず、侍ももてあつかひ、小兒を殺んもおとなげなしとて詞を和らげ、汝憤る事あらば了簡可致と申ければ、さあらば書付給はれとて頻に望し故、いなみけれ共、何分書付不給は殺し給へといひける故、無據書付遣しけるを、懸物として生涯任俠の棟梁をなしけるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:非人の賢者から、姦計に優れた任俠の話で連関。
・「浪華」「なには」。大阪のこと。
・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。
・「男立」任俠に同じ。
・「朝比奈何某」底本の鈴木氏の注に『朝比奈三郎兵衛。侠客。大阪つぼ町住』で、天和2(1682)年に50歳ほどであったと「久夢日記」に書かれているとする。更に『その親の三郎兵衛も侠客で、二代続いて男伊達随一の名をとった。五尺ばかりの小男で、さして力もなかったが、義気が強く、正直で貧しかった』と記す。岩波版長谷川氏も同じくこの結構有名な町奴に同定されて問題を感じておられぬようであるが、如何? 「近き頃の事也」と根岸は言っているのである。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までで、その朝比奈三郎兵衛が80歳まで生きたとしても、百年から七十年も前のことを、私なら「近き頃の事也」とは、決して言わない。三代目を襲名した町奴朝比奈三郎兵衛は居なかったのであろうか?
・「立衆」底本ではここは「立花」となっている。これでは私には読み・意味共に分からない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「立衆」となっており、「たてしゆ」の読み、及び長谷川氏により「任俠」と同義である旨の注が附されている。これで採る。本来、「立衆」と言えば、「たてしゅう」「たちしゅ」と読み、能の軍勢や従者、狂言の町衆や小鬼といった、端役で数人が同じ役として一団となって登場する役者を言うが、ここは「男立の町衆」といった謂いであろう。底本の「立花」も「男立ての花」「浪花の男立て」と言った意味とも取れぬことはないが、調べた限りでは男立てを「立花」とする例は見ない。
・「大小貫拔に指て」刀の大小を、通常の左腰ではなく、閂(かんぬき)のように水平に指すことを言う。
・「遖(あつぱれ)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
難波の任俠の事
大阪は昔より俗に言う「男立て」というものを殊更にもて囃して御座るが、これはその「男立て」に纏わる最近の大阪での話。
男立てで知られた朝比奈某という者が御座った。
彼がある時、己が屋敷に若い衆なんどを集め、酒食を振る舞ったりした折りのこと、彼が十歳の時、さる武家より請い受けたという詫び証文を掛け軸にしたものを披露した由。――如何にも不届きなることながら――知れる者にその由来を訊ねたところ、以下のような次第で御座った。
――朝比奈某十歳の砌、夏のある日、男立てを誇る若い中間(ちゅうげん)ども一緒になって、とある堤で涼んでいたところ、年の頃三十四、五歳に見える侍で、如何にも逞しい大丈夫が、大小をこれまた、かぶいて閂(かんぬき)に差したのがその堤を通りかかった。
それを見た中間の一人、
「格好(かっこ)ええなあ。ああした侍にゃ喧嘩吹っ掛けても、なかなか勝てんて。」
と呟いた。
すると、それを聴いたかの朝比奈少年、
「儂(わい)が、あの侍、謝らせて見せたるわ!」
と言う。中間どもは口々に、
「阿呆(あほ)なこと言うな!」「このド阿呆(あほ)!」
と制した。
――ところが――
――暫くして気づいてみると、何時の間にやら、朝比奈少年、その場を抜け出でて、かの侍に組み付いて御座る!
――子供のこと故、侍、難なく、ぱっと払い退けると、そのまま通り抜ける。
――少年、再び組み付く。
――侍、再びさっと払い退けた。
――少年、またまた組み付く。
――侍、再びぱらりと払い退けた。
――少年、性懲りもなくまたしても組み付く。……
この繰り返し。少年が何度となくがむしゃらに組み付いてくるので、この侍、遂に、
「うるせえ餓鬼が!!――」
と喚くや、片手でひょいと少年の後ろ帯を摑むと、堤の上の叢にぽーんと抛り投げ、歩む序でにその背中をぎゅっと一踏みすると、そのまま行き過ぎようとした。
すると、少年、
「待たんかい!! 投げられて! 踏まれてからに! もう勘弁ならん! さあ! 殺しとくんなはれ!!!」
と叫んだかと思うと、またしても侍の腰にしがみ付いて、一向に放そうとしない。
侍もすっかりもて余してしまい、子どものことなれば、無礼打ちに致すも大人げないと考えたので御座ろう、言葉を和らげて、
「……おまはん……何や知らん、気障ることあったんなら、どうか、勘弁してくれへんか?……」
と言ったところ、
「そんなら、書き付け、お呉れ! お呉れ!! お呉れ!!!」
と頻りに望む。
侍は勿論、この馬鹿馬鹿しく理不尽な詫び状乞(ご)いに、
「あかん! 話にならん!」
と突っぱねたが、少年は、
「呉れんのやったら、早よ、殺しとくんなはれ! さあ、殺せ!! さあさあさあさあ、さあ、殺せ!!!」
と捲くし立ててくる。
よんどころなく、この侍、訳の分からぬ詫び状文の書き付けを記して、朝比奈少年に渡したという。
朝比奈はこれを掛け軸と成し、「生涯任俠の形見」と致いて、生涯、任俠の棟梁を勤めたという話で御座った。
* * *
品川にてかたり致せし出家の事
いつの頃にやありけん。品川宿旅籠屋にて食盛(めしもり)抔買ひあげて專ら日を重ねなどして遊びける出家あり。其人躰(じんてい)もいやしからず。或日旅籠屋の亭主を呼て、内々にて咄度(たき)事あり、今日我等當所へ參る道すがら、不思議に金子百兩拾ひ得たり、然る所通途(つうと)の金にもあらず、封じ金にて封の上に何村の御年貢金とあり、當宿と同支配村と見へたれば、若(もし)心當りはなきや、御年貢金の事なれば、我等拾ひて其儘にも成がたしといひければ、亭主も驚きけるが、我等は承り及たる事も侍らず、得(とく)糺し申てといひてかの亭主、所の者の内心安き者と談じけるが、いづれ落し手を拵へ相應の禮金を出家へ遣し殘りを配分せばよからんと、惡心發りて得としめし合、いかにも在の百姓躰(てい)の男を拵へ、兩三日過て、此間金子落しける者を内々にて搜し侍ればかく/\の者に有之、能(よき)御方の御手に入て多くの人の難儀も助り難有と殊の外悦び申など申ければ、出家も悦たる躰にて、夫は嬉敷事なり。然らば渡し申さん迚、其樣子承り、財布共に亭主へ渡しければ、亭主改て彼百姓躰の者へ渡しける。其時出家申けるは、我等拾ひけるとはいひながら、大金を事なく返し侍れば少しは禮も可致事と申ければ、亭主も右百姓も御禮はいか程もいたし可申儀、早速ながら御菓子代として金三拾兩可差出旨申ければ、三拾兩ならば承知せりと答ふ。彼百姓、然らば右金子差上申さんと彼金子の封を切りにかゝりければ、彼出家大きに憤り、右金子財布ともに取戻し、亭主并百姓をもはたとにらみ、不屆なる己等がかたり事哉(かな)、全く汝等が落せし金にはあらず、其證據は封印有て村名役印等もある此封金故、我等も其ぬしを穿鑿しぬるに、其身二人にて右封をきり我等へ金子三拾兩右の内より差越(さしこし)なば、外百姓共へ何と言べき、其時如何樣三拾兩の申譯あらんや、全く自分拾ひし金子を可奪取爲の拵へ事ならん、よし/\御代官所へ訴へぬれば我等が拾ひし筋も立、何分皆々の世話を賴(たのま)ん、早々歸り侯へとて、夫より酒抔呑て一向取合申さねば、亭主其外一同の者共大に込(こま)り、相應の人を入て色々詫言いたし、八重九重に證文を入て金三拾兩出家へ別段に渡し、右封金請取相濟ける。然るに跡にて彼封金を開て見れば、一向の子供遊びの土瓦なれば大きに憤り、憎き出家の所行と思へ(ば引とらへせんぎせんと思へ)共、八重九重に證文にて封の内はしらぬ姿の出家の取計、申出せば亭主并一列の者の僞りも顯るゝ故、かたりの古頂とはまのあたり見へながら咎る事もならず、彼出家は其後も聊憚る色もなく右はたご屋へ遊びに來りしとや。怖敷ものも有と人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:朝比奈少年が奇計を用いて武士から美事詫び証文を奪い取った話から、奇略を以って悪党を騙し、何重もの証文によって批難・告発を免れた出家の話で連関。
・「食盛(めしもり)」は底本のルビ。飯盛女のこと(但し、これは当時の通称で、幕府の関連法令にあっては「食賣女」(めしうりおんな)と表記されている)。奉公人という名目で宿場の旅籠屋にいた、半ば黙認されていた私娼のこと(但し、現在の仲居と同じ業務にのみ従事していた者もおり、総ての飯盛女が売春行為を強いられていた訳ではない)。岩波の長谷川氏注によれば、当時、品川宿では500人の飯盛女を雇うことが幕府から許可されていた、とある。
・「年貢金」ウィキの「年貢」に、『年貢徴収は田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する検見(けみ)法を採用していたが、年によって収入が大きく変動するリスクを負っていたことから、江戸中期ごろになると、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による定免(じょうめん)法がとられるようになった。だが、例外も存在し』、『米が取れない地域の一部では商品作物等の売却代金をもって他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという買納制が例外的に認められていた。だが、江戸時代中期以後商品作物の生産が広まってくると都市周辺部の農村など本来は米の生産が可能な地域においてもなし崩しに買納制が行われていき、江戸幕府さえもが事実上の黙認政策を採らざるを得なくなった』とある(ルビ位置を変更し、記号の一部を省略した)。
・「得(とく)」は底本のルビ。
・「能(よき)」は底本のルビ。
・「御菓子代」御礼の代替語。
・「役印」村役人、地方三役(村方三役とも)の印。名主(庄屋・肝煎)・組頭(年寄)・百姓代などの頭・支配の者の確認印である。
・「御代官所へ訴へぬれば我等が拾ひし筋も立」猫糞しようとしなかったことを立証出来る、という意であろう。
・「込(こま)り」は底本のルビ。
・「(ば引とらへせんぎせんと思へ)」は底本では右に『(尊經閣本)』とある。これを訳でも採る。
・「古頂」底本ではこの右に『(骨頂)』とある。「最たるもの」と訳しておいた。
■やぶちゃん現代語訳
品川に於いて詐欺を働いた僧の事
いつ頃のことであろうか、品川の旅籠屋にて、飯盛女なんどを買い上げては、日々遊び暮らしてばかりいる僧がおった。女を平気で買う割には、見た目、人品、卑しからざる者ではあった。
ある日のこと、この僧が、その馴染みの旅籠屋にやって来ると、亭主を呼び、
「……実は、内々に話致いたきことが御座る。……さても今日、我ら、ここへ参る道すがら……何とも、その……金子百両を拾ったので御座る。……いや、それもただの金子では、これ、ない。……ちゃんとした封じ金にて、封の上にな『○○村之御年貢金』とあるのじゃ。……この宿場のある村と同じ支配の村にて御座ろう。……もしや、このことに付、何ぞ聞いては御座らぬか?……御年貢金、ともなれば、我ら拾うて、そのまま預かっておく訳にも参らねばのぅ……」
と言うので、亭主、吃驚りして、
「いや! そりゃ、我らも初耳のことにて御座りまする。……いやいや、そうした話なればこそ、とりあえず……いろいろと、ですな、訊ね質してみましょうぞ!」
と答えた。
亭主はその夜、近隣の親しくして御座った者どもを内密に集め、相談に及んだ。
「どうよ?……落とし主をでっち上げて、よ……相応の礼金を坊主に遣って……残りを儂らで分配するっうのは?」
と悪心を起こして、合議一決、如何にも土地の百姓らしい風体に男を一人仕立て上げると、探し回った風を装うために、三日たってから僧の来店しているのを見計らい、旅籠屋を訪ねさせ、亭主同席の上、
「この間、御坊の拾われた金子、それを落とした者を内々探して御座いましたところ、○○村××と申すこの男の由にて御座います。」
百姓体(てい)の男もしおらしく、
「いや! 誠(まっこと)よい御方の御手に拾われまして……村内の多くの者の難儀も助かり……有難く存知おりまする……」
なんどと、殊の外の喜色満面、平身低頭、礼言数多に及べば、僧も如何にも喜ぶ体(てい)にて、
「いや! それは嬉しきこと! なれば……さ、これをお渡し申す。」
と、僧はまんまと拵え話を鵜呑みにした様子で、財布と一緒に金子を亭主に渡し、亭主はそれを百姓に手渡した。その時、僧が付け加えて申すことには、
「……拾った金にては御座ったが、大金の大事な年貢金を無事にお渡しできたは幸い。……なればこそ多少なりとも謝礼、これ、御座ってもよいと思わるるがの……」
との趣き。すると亭主も百姓体の者も、二人して、
「いえ、なあ? 勿論、相応の御礼儀、これはもう、如何様にも致させて頂こうと存知、御菓子代と致しましては、金三十両を差し上げようと存じまするが……如何?」
との答え。僧は、
「いや、もう三十両ならば十分にて御座る。」
と答える。
そこで百姓が、
「さすれば、御礼を差し上げ申し上げましょう……」
と言いつつ、財布から封じ金を取り出だして封を切りにかかった――その時、出家が突然、怒号と共に怒り出し、百姓から財布とその上に置いていた封じ金を取り返して罵る、その言葉――
「この不届者なるお前ら! これはみな、騙りごとであったな! 全く以って汝らが落とした金子にてはこれなきものじゃ! 何となれば――封印があって村名・役印等もあるこの封金故に、我らもその落し主を捜しておったに、己れ独りにて、その封を切り、我らへ金子三十両、その中より、寄越したとなれば、他の百姓どもに何と言うつもりか! その時、如何したら三十両足りぬことの申し訳、立つるか! 全く以って自分が拾った金子を奪い取るための拵え事に違いない。――よしよし! かくなる上は御代官所へ訴え出れば、我らが拾って持って御座ったことの筋も立つ――こうなれば最早、お前らの世話なんど頼まん! 早々に立ち去られるがよかろうぞ!……」
と言い放ち、それより独り、酒なんど、呑み始め、一向に取り合う景色もない。
亭主その他一同の者――客のなりしてその場に来ておった謀り事の仲間内も――大いに困り果てた。
それからというものが大変。
僧の勘気を解くに相応の身分の人を立てるわ、はたまた、手を変え品を代えていろいろと詫びを入れるわ、遂には、僧に促されるまま、僧に今後一切のお構いなき旨の、何枚にも及ぶ起請文を入れた上、別に金三十両を拵えて僧に渡し、ようやっと、かの封じ金百両受け取り方、相済んだので御座った。
――ところが――
……いざ、かの封じ金を開いて見たら……中身は……子供が遊ぶための瓦(かわらけ)で御座った。
一同、大いに憤り、
「憎(にっく)き坊主の所行!」
と、ひっ捕えて詮議し、痛めつけてその計略も何もかも吐せよう、と思うたものの――これまた、何重にも入れた起証文――おまけに、その起請文の一通には、元来、この出家、封じの中身は知らぬということの一条さえ記して御座った――また、この一件を訴え出れば、当然、亭主並びに一同の者の偽り事も露見致すが故に――明らかに『騙りの最たるもの』――と知りつつも、手も足も出ないので御座った。
この出家、その後も、聊かも憚る気色もなく、この旅籠屋へ平然と遊びに訪れたということで御座った。
――いや、恐ろしい者、いやさ、僧もあったもんだ――
と、さる人が語って御座る。
* * *
又
是も同じ咄なるが、濱町河岸に大黑屋といへる鰻の名物有。みせには不斷酒食の輩不絶入込けるが、或時道心者樣の者來りて酒うなぎなど喰ひ、誠のなまぐさ坊主也とその身の口よりも申けるが、四五度も來りて後は鄽(みせ)の者もこゝろ安くなりけるが、或日亭主に逢て、我ら此程來りし時、此門口にてケ樣の品拾ひたりとて、封じ金五拾両包を出し、肴を食ひ候出家ながら、此金落したる人はさこそ難儀もなしなん、我是に忍びず、又かゝる貧僧の五拾兩持たらんには我身の爲にもあしかるべし、何卒主知れば返し申さんといひけるを、若き手代聞て、遖(あつぱ)れよき手段ありと心中に惡心を生じ、町内の惡者をかたらひ亭主とも示合、落し人を拵へて右出家の來りし時かく/\の譯を語りければ、然らば右五拾兩は包の儘可渡、しかし禮金は何程差越候やと尋ね、かれこれわたり付て金五兩出家へ渡しければ、猶又酒うなぎなど打食ひ右五十兩を包の儘手代へ渡し、日も幕候、さらば歸るべし迚小唄うたひて右出家は歸りぬ。仕濟したりと申合候者共、片陰に集りて封を解しに、一向の似せ金なれば何れも憤り、憎きかたりめと大勢にて追缺(かけ)しに、日本橋邊にて召捕、かたり坊主とて若き者など頭をたゝき背をたゝきなどしけれは、右出家何故に右の通いたし候やと申ければ、何故とは大膽也と引摺りて、彼鰻屋の門へ召連來りけるに、彼出家ひらき直りて、我等は何を隱すべき、かたり事などを渡世にするわる者也。ケ樣に打掛にあふては不相濟、御仕置を願ふべし、是より直に奉行所へ駈込べし、しかし此町内にて落しもせざる金子を落し候とて、其人を拵へ人の金子を奪取る巧の者有、是もわれらに同じき罪人なれば、當町の内の者共を伴ひ罷出、三途を渡らんと言ける故、はじめて何れも心付、事露顯に及(および)て町内も立難しと、何れも相談して都て右出家へ色々詫言しけれども、何分合點せざる故、又療治代とて五兩金子を遣し、都合拾兩かたりとられしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:同技巧を用いた詐欺師の出家のエピソード連関。鈴木氏は底本の前項の注で、この二本の話について、安永6(1777)年頃成立したと思われる正長軒橘宗雪の「吾妻みやげ」の「深川うなぎ屋かたりの事」も同話である、と記されている。幸い、この「吾妻みやげ」は底本を含む『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』に所収されている。以下に、それをテクスト化し、本ページに準じて語釈・現代語訳を附しておく(本文読みは私が附した)。こちらの祖形は実際に町奉行所へ訴え出るところが出色の出来である。底本の熊倉功夫氏の注によれば、底本である国立国会図書館蔵本(これ一本のみが伝わり直筆本その他は存在しない)には、『「耳袋ニ似タルカタリノコトアリ、同シカ」と書き込みがあるように、耳袋に同様の話があり、この条は耳袋の原話といえる』とある。
深川うなき屋かたりの事
一、深川八幡前うなき屋へ八月半頃の事、出家壹人四十歳斗と相見え候、百文分うなき燒せ候、亭主申候おまへ是を上り候哉(や)と申候へは、久々病氣にてつかれ候ゆへたべ申候と及挨拶、うなき斗にては食べにくゝ候間食(めし)もたべ申度(たし)と申、しはらく有之(これありて)亭主を呼出家申候は扨々不思議成事在之候、牛込山の手邊今朝用事在之通候處金子貳百兩ほと有之財布拾ひ候、定て主人の用向歟(か)又は娘なとうり拂候金か餘ほと澤山成金子にてさそ持主は首にてもくゝり可申哉(や)、川へにてもはまり可申哉大切の金にて可在之候、出家の心にてはさそ/\きのとく成事と其邊何となく尋候得とも金子落候樣子の者も無之候由亭主にはなし候得は、亭主夫はきのとく成事に御座候、唯て貴僧御所持被成候哉(や)と申候得は此通り首にかけ參り候と見せ候處、郡内嶋財布に入むらさきの打紐付有之候いか樣貳百兩斗も有之封付候て在之候。亭主見候て惡心起りしはらく出家休足致候中近所へ參り友達をかたらひ候由にて暫有之と、臭をつき若き男參り先(まづ)茶にても呉候樣申候へは、亭主存ぬふりにて喧嘩にても被成(なされし)儀哉(や)何方の御人にて候哉(や)、けはしく御出被成侯處いかゝと尋候處、右の男申候は今朝牛込邊にて旦那より爲替金の入用(いりよう)去る御大名江納に罷越候處、少々御酒に給醉途中にて落し候故早速參り吟味致候得共人取候と相見へ無之、此金子無之候ては自滅にても致不申候ては不相濟と狂氣のことく申候、亭主何そ御入被成御落し被成候哉と尋候處、郡内嶋財布に入むらさきの紐付置候と咄しからかみ越に出家承り、是は拙僧今朝拾ひ候と聲をかけ候得は、右の男殊の外悦誠にありかたき御義金子無之候ては命を失候程の儀私所持の金子郡内嶋財布に入むらさきの打紐付封を付置申候、御僧樣御拾ひ被成候を御見せ可被下と申候故、出家差出候處注文少も不違候故左候はゝ御手前へ可返候得共何國の人とも不相知御親類か又は所の役人證文有之候は返し可申候と申候へは、安き御事に御座候誠に御影にて命をひろひ命の親と申は御僧樣に御座候と申近所若きものをかたらひ證文を認うなき屋の亭主に加判爲致證文差出候處金子相渡し事濟し、扱右の男申候は御影にて命ひろひ候事ゆへ金子を差上可申と申候へは、いや出家の義金子入用無之と再三斷候得共とかく御受納被下候樣にと金子七兩出し達てと申、亭主言葉を添彼是申候付然らは可申請候如來の金箔もはけ候故勸化にても可致と存侯處故可申受と受納いたし出家は間もなく歸り候。
跡にて扨々うまき事致侯とて酒肴なとおこり、扱亭主もろ共分け口可致と封を切見候處、しんちうにて拵候小判貳百兩斗有之内にさいも在之候故、扨々にくき出家かたられ候とて近所を尋候處、もはや行方知れす侯故、申合せ心を付へくと何れも存候處、翌日晝頃彼出家參り、又うなき百文分あつらへ候ゆへ何れも亭主初不屆の出家め似せ金をかたり其分には差置かたし、急度吟味を請御町へ可引と申候へは、出家申候は左いふ其方共かかたりにて候其方共の金にて無之哉(や)、夫故封のまゝ渡し遣候、勿論無相違受取候段證文在之候、自分をかたりの盜人のと申候は不屆至極、町の役人江參り此趣を申し御番所へ罷出吟味を請もらい可申候、惡名取候ては自分も不相立と申候處へ連(つれ)の出家參り、何事成哉と尋候得は前の出家昨日吟味の事共委敷(くはしく)はなし、今日の惡言等迄も申候へは、不屆成事早速町の役人江可參候と、夫より同道いたし町役人江參り前日よりの事を申、今日のしだいの處を申候處、町の役人至極御尤何卒御内分に被差置可被下僕、うなきやはしめ若き者共相應に家も在之候者、只今彼是と仰候ては、不相濟事に候と段々わび言申、金子十五兩通しやう/\内分にて相濟候由。一文字や道夕參り其近所の町家にて直に承り實正の由物語候まゝ爰に認。
◇「吾妻みやげ」の「深川うなぎ屋かたりの事」やぶちゃん語注
・「深川八幡」は現在の江東区富岡にある富岡八幡宮。源頼朝が勧請した富岡八幡宮(現・横浜市金沢区富岡)の直系分社で、源氏の氏神である八幡神を崇敬した徳川将軍家から代々手厚い保護を受けた。その祭礼である深川八幡祭は沢山の神輿が繰り出す勇壮なもので、赤坂の日枝神社山王祭・神田明神神田祭と並ぶ江戸三大祭の一つである。
・「百文分うなき燒せ」後の文化年間で高級鰻一串二百文、辻売りで一串十二文から十六文程度というネット上のデータがあるので、この頃の普通の店屋で百文というのは、一文30円程度と考えても、3,000円分、一人で注文するには鰻屋も吃驚するような相当な量と考えられる。勿論、亭主はまずは出家が鰻を食うことの殺生戒を犯していることを踏まえての言ではある(故に僧は「久々病氣にてつかれ候ゆへ」と弁解しているのだが)。
・「うなき斗にては食べにくゝ候間食もたべ申度」現在のような鰻重・鰻丼のような飯と合わせるのが一般化したのは、この話柄の時代より少し後の文化年間(1804~1818)頃とされる。
・「郡内嶋」郡内地方(現在の山梨県都留郡)特産の絹織物の一種。元禄頃には江戸で大流行した。地を厚く作った縦横の縞模様であったらしい。
・「唯て」読み不詳。「唯(ただひとり)て」「唯(ただ)で」「唯(ただに)て」か。
・「封付」底本の熊倉氏の注に『金の包みを両替屋で封印したもの』を言うとある。
・「臭をつき」底本には「臭」の右に『(息カ)』と注する。それで採る。
・「御大名江」の「江」はポイント落ちで底本では右寄り。
・「給醉」読み不詳。完全な音読みとは思われない。「給(たまひ)醉(よひ)」「給(たまはれ)醉(よひ)」か。
・「からかみ」は「唐紙」であるが、ここは襖ではなく、衝立であろう。
・「御義」恩義。
・「さい」骸子のことか。これが賭博に関わるような騙り者のイメージを惹起させ、かの法戒坊の所行であることを暗示させるとでも言うのであろうか。よく意味が分からない。識者の御教授を乞う。
・「連の出家」言うまでもないが、僧形をした巧妙な騙りのグルである。即ち、この翌日の出来事自体が総てこの二人の僧によって仕組まれた騙りであるわけである。
・「御番所」町奉行所と同じ。
・「一文字や道夕參り」この話を採取した町屋の住所を仔細に表現したものと思われるが不詳。如何にもお洒落な通りの名ではある。
◇「吾妻みやげ」の「深川うなぎ屋かたりの事」やぶちゃん現代語訳
深川鰻屋で起こった騙りの一件の事
一、深川八幡前にある鰻屋へ、八月半ば頃の事、四十歳ばかりに見える僧が一人やって来て、
「鰻、百文分、焼いて貰おうか。」
という注文。亭主が蒲焼を持って出しながら、
「御主家、お前さんがこれをお召し上がりに、なられるんで?」
と怪訝な面持ちで訊ねたところが、僧は悪びれた様子もなく、
「御意。永々の病気にて疲弊致して御座ったればこそ滋養強壮が為に、頂戴致そうと存ずる……」
と言訳致し、加えて、
「いやさ、鰻ばかりでは食べにくう御座ればこそ、飯も戴こうか。」
と言う始末。
亭主は半ば呆れて奥へ引っ込んだ。
すると、暫くして、
「御亭主。御亭主。」
と僧が呼ぶ。
「へえ。まだ、お食べになるんで?」
と出てゆくと、
「いやいや、美味、美味、満腹致いた。……お呼び致いたは他でもない……今日、如何にも不思議なことが御座っての、そのお話を致いたく思うての……今朝のことじゃ、牛込山の手辺りに所用が御座って参ったのじゃが、その道すがら、何と、金子二百両ばかりが入っ御座る財布を拾うたで……定めて主人の用向きか、はたまた、娘なんどを売り払(はろ)うて御座った金か……見るからに余程の金子にて御座ればこそ……さぞ、持主は首でもくくらんか、はたまた、川にで飛び込まんか……これ、どう見ても大事なる金にて御座候らえばこそ……出家遁世致いた無情の心にても……いや、無情は建前にて……拙者も人の子なればこそ……さぞかし気の毒なことならんと思うてのぅ……その近辺をそれとなく尋ね回っては見たが……そのような金子を落した様子の者も……これ、御座ない……」
としんみりと話す。
聞いた亭主は、
「それはそれは……気の毒なことにて御座る話にて……あの……その金子、財布は……今も御坊様が御所持なられて御座いまするか?」
と訊ねたところ、
「御意。この通り、もしや落し主の見つけんかと、首に懸けて御座る。」
と手に取って見せたそれは、郡内縞の財布、紫色の染入れが入った特徴のある打紐附きで、内には実に二百両ばかりと見える金子が封附きのままに入って御座った。
亭主はそれを見るや、内心、忽ち悪心が生じ、
「御坊様には暫くこちらにて、食後のお休みもあれ――病み上がりの大食なれば、大事々々。――これより暫し、友達のもとへと参り、その落し主に心当たりがないか、とりあえず訊ねてみましょうぞ。」
と言うが速いか、鱈腹鰻を食い終え、最早、牛になって御座った坊主を暫く店に残し、近所の知れる者の家へと走る――と、この美味しい話を語って、奇計を騙ろうた――。
亭主、直に店に戻ると、
「……残念ながらそのような話は御座らなんだ。……」
と僧に告げておるその矢先、一人の若い男が店に飛び込んでくるなり、
「おい! 亭主!……まずは、茶でも、くんな!」
と乱暴な物言い。
亭主はこの若者を見知らぬ体にて、宥めるように、
「……お若いの……喧嘩なさったかね……何方のお方かは存ぜねど……如何にも、気が立って御座る程に……どうなされたのじゃ?」
と尋ねた。するとこの男の言うことには、
「……今朝牛込辺りにて……御主人様から為替にしておいた現金が急遽入用となったと言われ……さるお大名に為替を納めに罷り越し、金子に換えて御座ったのだが……そのお屋敷にて、中間どもから少々酒を振る舞われて……つい、それに酔ってしまい……途中で金子を落して仕舞うたんじゃ!……気がついて、直ぐに道を戻って探して見たのじゃったが……もう既に誰かが拾い取って仕舞うたらしく……これ、なく……。……この金子が、ない、となれば……自死自滅致さずには相済まざればこそ!……!……」
と狂ったように喚きたてた。
そこで亭主が、徐ろに、
「その金子、何にお入れになってお落しになれられたのじゃ?」
と尋ねて御座ったところ、男曰く、
「……郡内縞の財布にて紫色の染め入れが入った紐を付け置いて御座るが……」
と話した、その真後ろ、衝立越しに聞いて御座った例の坊主が、ひょいと曝し首の如、頭を出すと、
「それは拙僧が今朝拾うて御座る。」
と声をかけたので、この男、殊の外に悦び、
「誠にありがたき恩義! この金子、これなきにては、命を失はんとせし程の儀にて! 私の所持致いておりました金子は、郡内縞の財布に、紫色の染め入れが入った打紐付で御座いまして、金子には封が付置かれて御座る……御坊様の御拾ひになられて御座ったという、それをお見せ下さいませ!」
と言うので、坊主は首に懸けていた財布を差し出す。その仕様、寸分、違わぬ。
故に坊主は、
「されば、御手前へお返し致そうぞ。……なれど……拙僧、貴殿が何処(いずく)の国の方とも相知らず……御親類か、または所の御役人の証文なんど、これ有り候えば、お返し申すこと、出来ましょうぞ。」
申すので、尤もなことにて、
「それは安きことにて御座る……誠に御坊様御蔭にて命拾い致し……命の親と申すは御僧様のことにて御座いますれば……」
なんどと調子のいい事を言いながら、直ぐに近所の、また若い者を親族にでっち上げて坊主を騙し、証文なんども認め、鰻屋の亭主も加判の上――拾い主の坊主には向後一切御構無しといった趣きの――起請文を差し出して、金子の受け渡しも事もなく済んだのであった。
さて、その時、この落とし主と称する男、
「……御坊の御蔭にて命拾い致しました故、御礼の金子を差し上げとう存知まするが……」
と申したところ、坊主は、
「いや。出家の義なれば、金子の入用、これ無し。」
と再三断わったが――男は後々のことを考えると、どうあっても、ここで幾許かの手切れを渡しておきたいから――しつこく、
「命の親なれば、一つ、御受納下さいませ!」
と言いつつ、急遽、二百両入ればこそとて、騙りの仲間皆で事前に出し合った御座った金子七両をぽんと出す。
「――たってのお願いに、御座る!」
と言いつつ、何のかんのとそれに言い添えたは、亭主自身。僧は暫く黙っていたが、
「然らば申し請けましょうかのぅ……寺の如来の金箔も剥げて御座ったれば……これも勧化の一助と致そうと存ずればこそ……申し受けて御座る。」
と受納致し、坊主は間もなく帰っていった。
さて、後に残った者ども、大笑いして、
「さてもさても! うまいこと、やったぜえ!」
と亭主は、酒肴なんどは、おごり放題、上へ下へのどんちゃん騒ぎ。
暫くして、亭主諸共、分け前と致そうと、財布を取り出し、封じ金の封を切って見たところが――
……真鍮にて拵らえて御座った玩具のような贋小判が二百両ばかり……と……
……後は……財布の中に如何にも博徒が使い古したような骸子が、一つ……あるっきり……
「糞ったれの糞坊主め! 謀(たばか)られた!!」
と、それから急いで、かの坊主を近隣中、探し回ってはみたものの、後の祭り、最早、行方知れずとなって御座ったれば、互いに申し合せ、心して、急度、探し出してやるといきりたって御座ったところ、なんと、その翌日昼頃、再びあの坊主が参って、また、
「鰻、百文分、誂えて貰おうか。」
と悪びれた様子も、これ、ない体(てい)にて注文する。
昨日から収まりがつかない亭主初め騙りの仲間、三々五々集まってきた同じ町内の者どもも、
「不届きな糞坊主めが! 似せ金で騙したな! このまま捨て置くわけにはいかねえ! 手前(めえ)、痛え目に逢わせて一切吐かせ、町奉行へ引っ立ててやろうじゃねえか!」
と罵ったところ、その坊主、
「そういうその方どもこそ騙りで御座ろうが! あの金、その方どもの金ではなかったのか? あん? それ故に封のままに渡し遣わしたで御座るぞ? 勿論、その際に何らの手違いやらその方どもからの疑義も一切なく、滞りなく受け渡したことに就いては、証文も、ほれ! ここに御座るぞ! 拙僧を騙りの盜人(ぬすっと)のと申候儀は、これ不届き至極! 町方の役人のもとへ参り、この趣き、縷々一切申し上げようぞ! 御番所へ罷り出でて御吟味を受くることは願ってもないことじゃ! 参ろうぞ! さ、参ろうぞ! 冤罪の悪名を負ったままに御座っては、己未生以前本来の面目も相立たねばこそ!」
と逆に切れて、がなり立てる始末。
と、そんな所にこの坊主の連れと申す、これまた生臭いが切れそうな坊主が一人やって参り、
「何をそのように瞋恚して御座るか。」
と訊ね、先の坊主が昨日の一件につき、一部始終を委細詳しく語った上、今日の者どもの悪口なんどまでも言い添えたところが、この僧も烈火の如き憤怒の僧、いやさ、相となり、
「何と言う、不届きなる者どもじゃ!! 早速、町方の役人のもとへ参るに若くはなし!!」
と即決、それより亭主諸共相引(ひっ)立て坊主二人同道致いて町役人へ参ると、僧どもは前日よりの事をそのまま総て立て板に水にして申し立てた上、今日受けた理不尽なる次第を、やはりそのままに申し上げたところ、町方の役人は話を聴き終えると、慇懃無礼に、
「……ふむ……いや、御坊様らの申さるること、至極御尤もなる申し立てにて御座る。何卒、御内分に差し置かれ下さるよう取り計らい願いましょうぞ。……何せ、これら町方の下々の者やら、鰻屋亭主始め若き者どもにても、相應に家も身内もこれある者にて御座れば、……ここでまた、いろいろと御坊様らが仰せられ訴え出る、ということにでもなれば……これ、ちょっとしたお裁きにては、相済まざる仕儀となり申せばこそ……。」
との謂いに、亭主始め騙りの者やら、町内の野次馬諸共、形勢逆転致いて、だんだんに、また一人また二人と、弱気になって、坊主に対し、詫び言を呟きはじめ、遂には皆で出し合(お)うた金子大枚十五両で示談と致し、漸く内分にて決着致いたとのことである。
一文字屋道の、通称「夕参り」小路近辺の町家にて直(じか)に承わり、実際にあった出来事の由、その人の物語して御座ったそのままに、ここに認める。
・「大黑屋」「鰻割烹大和田」のHPの「鰻の薀蓄3」に『今でも見ることの出来る深川辺りを描いた錦絵や黄表紙の挿絵には「江戸前大かばやき、附めし」と幟を立てた鰻屋を見ることが出来ます。この「附めし」とは、「当店では蒲焼だけでなく御飯の用意があります。」と言う意味で、天明の時代に霊岸橋の大黒屋がはじめ、すぐに江戸中の鰻屋がまねをしたとされています。これが鰻丼の起源とする説もありますが、これは蒲焼に御飯をセットした物と考えるのが適当なようです』という記載があり、岩波版長谷川氏の注にも、この霊岸橋の大黒屋を引き、この霊岸橋は『浜町河岸に比較的近いが、浜町河岸の大黒屋』というのは未詳と記す。こんな不名誉な話、実際に店があったら、江戸っ子なら入(へえ)らねえぜ。
・「濱町河岸」現在の中央区日本橋浜町周辺。現在の両国橋から新大橋辺り。浜町は武家屋敷と町人の入り合った町で、町屋には刀剣類を商う店が多かった。
■やぶちゃん現代語訳
詐欺を働いた出家の事 その二
これも同じ騙りの僧の話である。
浜町河岸に大黒屋という美味い鰻を食わせる店があった。店には普段昼間から酒食を楽しむ輩で賑わって御座った。
ある日のこと、道心の風体(ふうてい)をした者がやって来て、酒や鰻なんどを喰らって、自ら、
「――いや、拙僧、誠の生臭坊主にて御座る――。」
なんどと嘯いて御座った。
その後も四、五回訪れ、店の者とも顔馴染みになった。
ある日のこと、この道心、店にやってくるなり、亭主をこっそりと呼んで、店の隅で二人きりになると、
「……実はここへ来た丁度、先程、この店の門口にて……かようなものを拾うて御座った……。」
と、亭主に封じ金五十両の包みを差し出して見せる。
「拙僧、酒肴を喰ろう破戒僧なれど……この金を落とした人はさぞ難儀を致いておられることで御座ろうぞ……我ら、それを思うと忍びない……また……かくばかり哀れな貧僧なればこそ五十両の大金を何時までも預かって御座るは、我が身の為にも悪かろうというもの……落ちて御座ったも店先のこと……ご亭主……落とし主を知って御座らば、お返し申し上げたいのであるが……。」
と話して、再び、大枚を懐にしまう。――と、それを店内から、こっそり盗み見、盗み聴きして御座った若い手代、
『……こりゃ! 一つ、面白れえ手立てが、あるってもんでぇ!……』
と悪心を起こした。
その日の内に町内の悪友と謀りごと致いて、勿論、当の亭主も引き込んで示し合わせ、まんまと架空の落とし主を拵え上げる。
数日後、道心が店にやって来るや、亭主、満面の笑みを浮かべ、
「いやあ! 先だっての大枚、落とし主が見つかり申したぞ!」
てな嘘っぱちを、委細美事にでっち上げた。
すると道心は、
「……それは上々! この五十両、確かに拾うたまま、包みのままにお渡し致しましょうぞ……されど……礼金の方は……如何程、頂戴出来まするか、のう……。」
亭主は道心と交渉の果て、五両で手打ちとなり――店裏で待っていた手代や悪友どもは、泡食って、手持ちの金やら、なけなしの箪笥の隠し金やらを駆け回って集め――その五両を道心に渡した。道心は、亭主の振る舞いの、いつものように酒・鰻をしっかり食らい、五十両は包みのままに手代に手渡した。
「日も暮れかけた。では一つ、帰ると致そう。」
と、小唄なんどを口ずさみながら、店を出て行った。――
「やったぜ!」
と、一同、店の片隅に集って封を開けたところ――
――なんと、中身は見るからに子供の玩具見たような贋金――
「憎(にっ)くき騙りがッ!」
と、大勢で追い駆けると、日本橋近くでかの道心をひっ捕まえることが出来た。
「騙りも騙りの、この、糞坊主がッ!」
と、路上ながら若い衆なんどは拳固で頭を殴り、背中をどやしつけなどして袋叩きにした。
すると、この坊主、
「一体、何故にかく投擲なされるか!?」
と嘯くので、
「あんだと! 『何故に』『なされるか』だあ!? なめてんじゃねえぞ! この野郎!」
と、またしても、皆してぼこぼこにした上、かの鰻屋の店先まで引きずって帰って来た。
ところが、この道心、殴られたために晴れ上がった化け物見たような顔で――ペッ!――と血の唾を吐き捨てると、ここで開き直った。
「バレちゃあ、仕方あるメエ!……そうよ! 俺は専ら騙りで人を騙しちゃあよ、渡世してる悪党でエ!……うぬらに袋叩きにされて……ペッ!……もう、勘弁ならん…………
「……いや、勘弁ならんは、俺、よ、の……いやさ、この程度のケチな袋叩きで済むような……俺の罪じゃあ、ネエ! てぇんだ……だからよ、俺はこれからよ……お仕置きを願おうってえ、殊勝な気持ちでいらあな! さあて! だからよ、これからよ、直ぐによ、奉行所へよ、駆け込んでよ、己れの首を己れで出そうってえ、覚悟なわけよ!…………
「……ただし、だ……この町内にも、だ……落としてもいねえ金子を『落としました』と言うて、だ……落とし主をでっち上げ……人の金を奪い取ろうと企(たくら)んだ者が、おる! 確かに、おる!……そうじゃろ? 違うか? そうじゃろう!?……さればとよ、こ奴も俺と同罪じゃ!……その、この町内の悪党どもを供に、お奉行さまの御前(おんまえ)に罷り出で……いざ、うれ! ともに三途の川をば、渡ろうぞ!」
とやらかした。
その場にいた一同は、この時初めて、男の言っていることの重大さに思い到って、青くなった。――
騙りの面子は言うに及ばず、よくも知らずに今日の探索に加わって、男に殴る蹴るの乱暴を働いた若い衆も含めれば、これ、数知れず――いや、この一件が露見すれば、この町内そのものが成り行かなくなりそうな気配――。
一転、皆々相談の上、その場の全員が贋道心の男に詫びを入れることと相成った。
ところが、見るだにお岩みたような顔になった男の視線は、これまた心底、恨みに満ちていて、なかなか承知しそうにない。
遂には、その投擲の治療費と称して、金五両をやって、何とか事なきを得た。
実に、都合十両騙り取られた、というわけである。
* * *
實心可感事
本目隼人といへる佐渡奉行は、佐州におゐて病死せし故、右の墳墓も佐州相川の寺院にありぬ。海上百里の隔(へだて)なれば、家督の者よりも其墳墓への音信もおもはしからず。然るに石野平藏佐渡奉行と成て二在勤の頃にも有りしや、隼人三囘忌の年の由。平藏雇足輕をいたしける者彼墳墓寺へ來りて、麻上下(かみしも)など着替、金子百疋(ぴき)寺納して隼人靈牌へ參拜しける故、住僧こなたへと請じて掛合など振舞樣子を承りぬれば、彼者答て申けるは、われらは隼人幼年より一所に育て、隼人在世の内は厚く召仕ひけるが、二代目に成て小身にもあれば今は外に罷在。隼人大病の由來りて、何卒罷越んと千度百度願ぬれ共、許容なければ詮方なく、殘後何とぞ佛參せんと隼人家督へ願ひぬれど不如意の事故許容なし。餘りの事に絶兼し故、佐渡奉行の往來日雇入口(いれくち)へ賴み、此度足輕に成て來り本懷を達し侍る也、いか程にも寺納もいたしたけれ共、隼人跡式にては我思ふ程の心得にあらず、我等子供兩人當時外(ほか)屋敷に勤て、彼(かの)家などの賜り物にて聊の香典をも納ぬる由語りしに、住僧も涙を流し厚く挨拶に及びしと。右僧侶、組頭岸本彌三郎方へ來て語ぬと、予佐渡奉行勤し頃岸本物語也。奇特の深切も有もの也。
□やぶちゃん注
○前項連関:巧妙な騙りの逆の真正の真心で逆連関。
・「本目隼人」本目親英(ほんめちかふさ 宝永2(1705)年~天明元(1781)年)。六百石。目付から佐渡奉行(安永7(1778)年4月~天明元(1781)年2月)となり、在任のまま死亡した。岩波版長谷川氏注によれば、佐渡国雑太(さわだ)郡にある蓮光寺に埋葬され、『家督の者は子の親豊(ちかとよ)』とある。
・「佐渡奉行」老中配下の遠国奉行の一。正徳2(1712)年以降は基本定員2名で、島内民政を管轄する町奉行及び佐渡金山他の金銀の鉱物資源の管理・経営を専門とする山奉行の二職に分かれ、海上警衛・年貢・外国船監視を職務とした。現在、佐渡市に含まれる相川町(あいかわまち)にある佐渡金山と共に佐渡奉行所が置かれていた。
・「おゐて」はママ。
・「海上百里」誇張表現。佐渡島~本州の直線距離は約60㎞(最短距離は30㎞強)であるが、国道350号では新潟港~両津港間の海上区間を67km(9里程度)と計算している。当時の和船の操舵や海路距離の測定がどのようなものであったかは知らないが、どう航海しても390kmは大袈裟。根岸も勤めたことのある当時の流罪の地でもあった佐渡の、とんでもない辺境性を示したかったのであろう。その誇張が逆に本話柄の誠心を強調する。勿論、訳ではそのまま用いた。
・「石野平藏」石野広通(享保3(1718)年~寛政12(1800)年)本姓は中原。大沢・蹄渓と号した歌人でもあった。御納戸番・御膳奉行・御納戸頭・佐渡奉行・普請奉行を経て西城御留守居を歴任。佐渡奉行は本目親英の現職死去の代任で、天明元(1781)年2月~天明6(1786)年12月まで勤めた。三百俵。この時に纏めた佐渡地誌「佐渡事略」及び普請奉行時代に御府内上水道調査報告書「上水記」等を記した。歌人としても宝暦年間(1751~64)の江戸冷泉門下の主力歌人の一人として、また続く明和年間(1764~72)には江戸武家歌人六歌仙一として数えられた。編著に江戸堂上派私撰集「霞関集」、家集に「五百四十首」等がある(主に「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。因みに、次にもう一人の佐渡奉行であった宇田川平七定円が天明元(1781)年閏5月に転任後、同年6月、戸田主膳氏盈(うじみつ)が着任、その戸田氏盈が天明4(1784)年3月に転任後、慶長6(1601)年初代から数えて六十番目の佐渡奉行として天明7(1784)年7月まで根岸九郎左衛門鎮衛が勤めることになるのである。石野広通は三年弱根岸と同じ佐渡奉行を職掌したことになる(但し、現地勤務は一年毎の交代制)。根岸より19歳年上の大先輩である。
・「隼人三囘忌の年」御承知の通り、年忌は三回忌以上は数え年となるので、天明元(1781)年2月に亡くなった本目親英の三回忌の年は2年後の天明3(1783)年ということになる。
・「雇足輕」「足輕」平常は雑役に従い、戦時は歩卒となる者。江戸時代は武士の最下層に位置付けられていたが、実際には多くの場面で武士階級とは区別されていたらしい。以下、ウィキの「足軽」 の「江戸時代」のパートより引用する。『戦乱の収束により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった』。『江戸幕府は、直属の足軽を幕府の末端行政・警備警察要員等として「徒士(かち)」や「同心」に採用した。諸藩においては、大名家直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用それに「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた』。『一代限りの身分ではあるが、実際には引退に際し子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であり、また薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。加えて、有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等の、ステップとしての一面もあり、中世の無頼の輩は、近世では下級公務員的性格へと変化していった』。『江戸時代においては、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役目の足軽もおり、「江戸学の祖」と云われた三田村鳶魚は、「足軽は兵卒だが、まず今日の下士か上等兵ぐらいな位置にいる。役目としても、軍曹あたりの勤務をも担当していた」と述べているように、準武士としての位置づけがなされた例もあるが、基本的に足軽は、武家奉公人として中間・小者と同列に見られる例も多かった。諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の記入はなくて、ただ人数だけが記入されているものが多い。或いはそれさえないものがある。足軽は中間と区別されないで、苗字を名乗ることも許されず、百姓や町人と同じ扱いをされた藩もあった。長州藩においては死罪相当の罪を犯した際に切腹が許されず、磔にされると定められており、犯罪行為の処罰についても武士とは区別されていた』とある。原義は足が軽くてよく走る者の意から。「雇足輕」はそうした原則一代限りの常勤の足軽ではなく、何らかの急な欠員や急務増員にのために臨時に雇用された者を言うと思われる。ここでは、石野平蔵が佐渡奉行就任に合わせて一緒に派遣された「雇足輕」ではなく、着任の翌年である天明2(1782)年か、同3(1783)年の年初に臨時雇用した者と考えたい(先に示したように本目親英の三回忌は天明3(1783)年2月であり、この話柄のシークエンスは間違いなくその祥月命日と考えられるからである)。但し、この後の「此度足輕に成て來り」という男の叙述からは、彼の本来の身分は足軽よりも遙かに上であったと考えられる、いや、考えてこそ、この話柄は生きる。
・「上下」裃。江戸時代の武士の礼装・正装。肩衣(かたぎぬ)と、同じ地質と染め色の脇が広く開いた袴とからなる。紋付きの熨斗目(のしめ)または小袖の上に着る。麻製の上下を正式とする。
・「金子百疋」100疋=1貫文で、1両=4貫文であるから、とりあえず、1両を現在の10万円相当と考えるなら、2万5000円程か。
・「掛合」あり合わせのもので作った軽い食事のこと。
・「不如意の事故許容なし」嗣子親豊は経済的にかなり厳しかったのであろう。父の家来が父の看病や墓参に向かうと言えば、ただ許諾するだけにては体裁がつかぬ。同道出来ざれば、相応の品や旅費の手配をもするのは常識であろう。そうしたことさえ、手元不如意なれば、出来ぬ、というわけである。
・「われらは隼人幼年より一所に育て」本目隼人親英は享年77歳であったから、この足軽は有に75歳を越えていると考えねばならない。
・「佐渡奉行の往來日雇入口」佐渡奉行と江戸(或いは新潟)との間を往復し、必要な臨時雇いの人員を確保する口入屋(職業斡旋業)のことを言うものと思われる。
・「奇特」は、言行や心がけなどが優れ、褒めるに値するさまの意の他、非常に珍しく、不思議なさまの意もある。ここは両義を掛けている。
・「組頭岸本彌三郎」岸本一成(かずしげ)。岩波版長谷川氏注に、安永7(1778)年に御勘定、同9(1780)年に佐渡奉行支配の組頭、寛政元(1789)年には代官となったとあるから、根岸が佐渡奉行であった3年間(天明4(1784)年3月~天明7(1784)年7月)の間もずっと佐渡奉行支配組頭であった。
・「予佐渡奉行勤し頃」この表現と過去の助動詞「き」に着目するなら、本話柄は天明7(1784)年7月よりも後でなくてはならぬ(「卷之二」の下限を天明6(1786)年とする鈴木氏に執筆年代推定は年の明記された話柄からの線引き)。
■やぶちゃん現代語訳
誠心感ずるに相応しいものがあるという事
本目隼人親英(ちかふさ)殿という佐渡奉行は、佐州で在任のまま病死なさったので、その墳墓も佐渡の国相川(あいかわ)という地の蓮光寺に埋葬されて御座る。
本土から隔つこと、遙か海上百里、家督を継いだ子の親豊(ちかとよ)殿さえも、その実父の墳墓に参ること、ままならざるもので御座った。
ところが――先輩の石野平蔵広通殿が佐渡奉行となって、確か佐渡在任二年目のことであったとか――その年は、丁度、本目隼人殿三回忌に当たる年で御座った――。
雇い入れたばかりの、平三殿の足軽を致しておる、ひどく老いた男が、独り、その蓮光寺にある本目隼人殿の墳墓を訪れ、その墓前にて、麻上下などに着替えると、金百疋寺納の上、隼人位牌を参拝致いた。
それを不思議に思うた住職は、この足軽を寺内に招き入れ、あり合わせの軽い食べ物なんど振舞い、徐ろにいわれを訊ねてみた。
その老人が語り出す――
「……拙者、主(あるじ)本目隼人様とは、幼き頃より御屋敷内にて一緒に育ちまして御座る。隼人様が御在世の間は厚く召し使われておりましが、二代目親豊様の代となってからは、御小身の御身分にて、旧来の家来等にも暇(いとま)これ申し付けられ、拙者も他家に勤仕(ごんし)して御座る。……されど、過ぐる年、隼人様が大病を患っていらっしゃると噂にて承り、何としてもその御病床に参上致さんものと、当時嗣子で御座った親豊様に何度も何度も願い出ましたものの、遂にお許しを頂くこと、叶いませなんだ。……没後も、何としても御仏にお参りせんものと、再応、親豊様に願い出ましたが、……手元不如意によって、これもお許しになられませなんだ。……余りのことに堪えかねまして御座ればこそ……佐渡と江戸とを往来している佐渡奉行付日雇業の口入れを致いておる者に、老人ながら達ての願いあればとて、強引に頼み込み、……晴れて、この度、足軽となって佐渡に来たり、本懐を遂げること、出来申した……相応なる寺納を致したく存ずれども、隼人殿跡目にては……拙者が思うほどの――子なればこそ当然の思い、成すべき仕儀というもの、これあるはず、と存ずれども―御心得はこれなく……実は、拙者には二人の子供が御座って、只今、他家に勤仕して御座いまして、その倅どもから凡父の佐渡行の話をお聴きになられた、その、それぞれの主家より、有難き賜り物をば頂戴致いて御座れば、それを、聊かの香典として納めまして御座る……」
住職も涙を流し、厚い挨拶を成したと――。
この僧侶が、組頭岸本弥三郎の家を訪れた際、直接本人から聞いたと、私が佐渡奉行を勤めていた頃、私の部下であった岸本本人から聞いた物語である。
誠(まっこと)、かく奇特なる深き誠心の持主も、あるものなのである。
* * *
兵庫屋彌兵衞松屋四郎兵衞起立の事
兵庫や彌兵衞松屋四郎兵衞とて、當時淺草花川戸にて相應に米商賣いたし、伊勢町小網町にも屋敷を持て有德の町人あり。右の者成立を聞に、借屋住居して始は舂米(つきまい)を買出して桶に入、荷ひて町方裏々へ商ひけるが、裏々にて其日過しの者は一升二升調ひ候事もならざる者あり、五合三合の米を米屋へ買ひに行兼るにより、壹合貳合づゝせり賣せしは右兩人より賣初めしと也。右兩人後には有德の米屋となりぬれ共、今以せり賣の者を右兩家よりは出しける。其譯は米商の儀は、相場をおもにいたし候者なれば、日々裏々を廻りて下賤租母婦女の事を耳に留め、或は上りを得んと思ふ時は、米を買入などする事米商ひの專一也。右手段には裏々の商ひなどよきはなしと或人の語り侍る。
□やぶちゃん注
○前項連関:武士の誠意から商人の誠意へ連関。但し、商人の誠意は、相応に儲けるための戦略でもあること。
・「淺草花川戸」現在の東京都台東区東部、浅草寺の東の隅田川西岸に位置する町の名。南部が雷門通りに、西部が馬道通りに、北部が言問通りに接する。町を東西に二天門通りが、南北に江戸通りが通る。古くは履物問屋街であった。
・「伊勢町」現在の中央区日本橋室町の一部及び本町の一部にあった町名。江戸橋北方で、堀留川から主に乾物穀類が荷揚げされる江戸商業の中心地。米問屋が多くあった。
・「小網町」同じく中央区日本橋小網町。日本橋川の江戸橋下流東岸の町名。奥州船積問屋・鍋釜問屋、商人宿が多くあった。
・「舂米」正しくは「しょうまい」と読む。米を臼で搗いて白く精米した米。つきよね。
・「せり賣」「競売」と書くが、所謂、競売・せりの意味ではなく、別義の、商品を持ち歩いて売ること、行商の謂い。
■やぶちゃん現代語訳
兵庫屋弥兵衛及び松屋四郎兵衛事始めの事
兵庫屋彌兵衞及び松屋四郎兵衞という、現在、浅草花川戸にて手広く米商いを致し、伊勢町や小網町にも屋敷を持っておる豪商がある。
この者どもの仕事事始に付き、聞いた話。
――昔、彼らは借家住まいを致いており、当初は搗き米を仕入れ、それを桶に入れて担いでは、専ら裏町長屋を巡って売り歩いておった――今も変わらぬことなれど、裏長屋にあって、その日暮らしをする者どもの中には、一升・二升の米すら、買うもままならぬ者どもが大勢おる――また、かと言って、五合・三合のわずかな米を米屋に求めに参るも、これ、恥ずかしうて出来かねればこそ――そのような者どものために、一合・二合ずつ、量り売りを始めたは、この二人の米商人を嚆矢とする。
後、今のように両人とも大店(おおだな)を構える豪商となったれど、実は、今以って、この量り売り行商を、両家は毎日、出だして御座るとのこと。
その訳――米商いというもの、巷の相場を読むことが何より大事のことにて、日々裏町を廻っては、貧しい家計の婦女子の交わす世間話にも耳を留め、いろいろ聞き及んだことを合わせ鑑み、時には、この先、直ぐにでも物価が上らんとする気配やら、米相場で利益が得られるものと判断し得た折りには、即座に米の買い入れなんどをする――というのが米商いの摑みどころなので御座る。
「……このように、米相場の先行きを占うには、裏町にて商いをするに、若(し)くは御座らぬのじゃ。」
と、ある人が語って御座った。
* * *
戲藝侮るべからざる事
寶暦の頃迄存命せし歌舞妓役者市川柏莚海老藏、澤村訥子長十郎、市村河郷羽左衞門は、右類の上手名人といひし者也。或る時去(さる)屋敷にて右の者共を呼て、河東(かとう)山彦(やまびこ)など謠曲を藝して後、何ぞ三人の者共へも其業なす事も出來んやと有けるに、色々咄しはなしけれ共藝を施す事はなかりしが、海老藏長十郎申けるは、羽左衞門家に四ツ竹八ツ拍子といへる事あり、御好有れかしと申故、強て好しかば右藝を施しけるが、三味線三挺にて、羽左衞門は麻上下を着し扇を二本乞ふて立上り、右藝をなしけるに殊の外面白き事の由。勿論けやけき事にてはなく、仕舞を舞ひ候やうなる趣にて其拍子ゑもいわれざる事也。まのあたり見しと松本豆州かたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:一合二合の米行商とても侮るべからず、たかが戯れの芸とても侮るべからざるにて連関。
・「市川柏莚海老藏」二代目市川團十郎(元禄元年(1688)年~宝暦8(1758)年 享年71歳)。柏莚(はくえん)は俳号(以下、三人の俳号は表記の通りポイント落ちで底本では右寄り)。父であった初代が元禄17(1704)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺されて横死(享年45歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。
・「澤村訥子長十郎」初世沢村宗十郎(貞享2(1685)年~宝暦6(1756)年 享年72歳)京都の武家の出。初世「沢村長十郎」の門人で、江戸に下り写実的演技力で評判をとり、名優とされた。誤りやすいが後に「三世長十郎」を名乗っている。ただ、この「訥子」(とつし)というは俳号は通常、三代目澤村宗十郎(宝暦3(1753)年~享和元(1801)年)のことを指すので、誤りと思われる。それとも俳号も共有したか。
・「市村河郷羽左衞門」八代目市村羽左衛門(元禄11(1698)年~宝暦12(1762)年 享年65歳)のこと。俳号「河郷」は「可江」が正しい(「かこう」と読むか)。元文2(1737)年に八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748)年に羽左衛門と改めた(以後代々「羽」を名乗るようになった)。座元を60年間務める傍ら、舞台でも若衆・女形・実事・敵役など幅広い役柄をこなした。なお、市村座は延宝初年頃(1670年代)には幕府によって歌舞伎興行権が認められ、中村座・市村座・森田座・山村座の江戸四座の一つとなった後、正徳4(1714)年 に山村座が取り潰されて江戸三座となっている。三人の没年と、「寶暦の頃迄存命せし」という語り出しからも、本話柄は宝暦元(1751)年から宝暦6(1756)年以前に限定出来るように思われる(以上の八代目市村宇左衛門の事蹟は、主にウィキの「市村宇左衛門(8代目)」を参照した。底本注で鈴木氏が「三代目市村羽左衛門」とするは誤り)。
・「河東」河東節(かとうぶし)四代目十寸見河東(ますみかとう ?~明和8(1771)年)のこと。河東節は浄瑠璃の一種で豪気にしていなせであったが、江戸中期以降、廃れ、歌舞伎の伴奏からも排除されて、お座敷での素浄瑠璃として生き残った関係上、吉原との縁が深い。現在の歌舞伎で河東節が用いられているのは「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)一本のみである。
・「山彦」初代山彦源四郎(?~宝暦6(1756)年)か。河東節の三味線方。本名村上源四郎。享保2(1717)年の江戸市村座興行で初代が初めて河東を名乗って以後、初代から四代目十寸見河東に至るまで、一貫してその三味線方を勤めた名人。河東節三味線は細棹で、その語り口は現在の山田流箏曲に影響を与えているとされる(以上は主に朝日日本歴史人物事典を参考にした)。岩波版長谷川氏は他に初代山彦源四郎の門弟であった山彦河良(かりょう ?~安永8(1779)年)の名も挙げる。河良は宝暦11(1761)年に四代目十寸見河東の立三味線で、先に掲げた名曲「助六所縁江戸桜」を作曲した人物であるから遜色ない。
・「四ツ竹八ツ拍子」「四ツ竹」は40~45㎝の竹を裂いたものをそれぞれの手に二枚ずつ持って、カチカチ打ち鳴らして拍子を取る、現在のカスタネットのようなものを言う。「八ツ拍子」は、その四ッ竹で打つリズムのことを言うものと思われるが、不詳。但し、ネット上には、「豊年おどり」の一種である岡山市重要無形文化財指定及び岡山市伝統郷土芸能指定の「津島八朔おどり」(つしまはっさくおどり)の紹介ページ(私企業のページ)に、ズバリ「四っ竹八つ拍子」が現れる。この踊りは、『江戸時代(備前藩主池田家)から約250~270年の歴史をもち、いい伝えによると、備前藩主池田家が代々御後園(後楽園)内の井田で「お田植」をする時、津島の娘たちもたびたび奉仕していてお田植が終了した後で、稲がよくできるようにと娘たちがおどり、殿さまの上覧に供したといわれています。これがもとになり、津島地方では毎年八朔(旧8月1日)に村の老若男女がそれぞれ夕涼みをかねて庭先などでおどるようになりました』。『備前藩ではたびたび盆踊りの禁止令をだしていましたが、津島八朔おどりは「盆踊り」ではなく、豊年祈願のための踊りであり、しかも質素であることから黙認されてきました』。『現在では「津島八朔おどり保存会」によって毎年8月1日に津島西坂の公園で盆踊りとしておどられております。おどりは「四つ拍子」「八つ拍子」等9種からなり、大太鼓と四っ竹で拍子をとる音頭とりの掛け声により変わっていきます。音頭は浄瑠璃(じょうるり)から引用した語句をそのまま歌詞としています』。『「津島八朔おどり」は古来から伝えられた、流れるようななめらかな踊りと音頭、四つ竹、太鼓が織り成す美しい踊りです』とある(下線部やぶちゃん)。う~む、八朔祭りではないか! これは、エクスタシーを感じぬわけが、ないのじゃ!……
・「仕舞」能楽の一部分を素で舞うこと。
・「ゑもいわれざる」の「ゑ」はママ。
・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保15(1730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任中の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。「卷之一」の「河童の事」にも登場した「耳嚢」の一次資料的語部の一人。先の私の年代推測(宝暦元(1751)年から宝暦6(1756)年以前)が正しければ、その当時は松本秀持21~26歳、「卷之二」の執筆下限天明6(1786)年頃は56歳……と、如何にも……青春は遠い花火では、ない……いい設定じゃないの!
■やぶちゃん現代語訳
戯れの芸も侮れぬ事
宝暦の頃まで存命していた市川柏筵海老蔵、澤村訥子長十郎、市村何江羽左衛門は、歌舞伎界の上手・名人の呼び声も高い役者であった。
ある時、さる御屋敷に、この三人の者どもを招いた上、主人より所望されて、同じく参って御座った十寸見河東や山彦源四郎らによって河東節が披露された後のこと、
「――何ぞ、主ら三人の内にも、何ぞ戯れに致すべき斯くなる芸はなきか――」
と、彼等三人にも主人からお声が掛かる。
三人は暫く話し合(お)うて御座ったが、流石に浄瑠璃を一節唸るという仕儀には及ばずに御座ったものの、申し合わせたように海老蔵と長十郎の二人、揃うて口上致いたは、
「――羽左衛門家に四ッ竹八ッ拍子と言えるもの――これあり――御好みに合いますものやら――」
と申し上げる故、主人、
「是非に所望。」
とあれば、その場に御座った羽左衛門三味線方三名が三味を受け取ると、麻上下に着替えた羽左衛門、徐ろに扇を二本、主人に乞いて手に取って、すっくと立ち、その三味に合わせて
……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!
……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!
……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!
……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!
――と、その四ッ竹八ッ拍子なる芸をなした――そのまあ、面白いこと!……
「……いや、勿論、奇を衒うた踊りにては、これなく……そうさ、能の舞にも似て御座ったれど、違(ちご)うな……その拍子、これ、えも言われぬ絶妙なるもので御座ったのぅ……」
と、その場にあって目の当たりに見た松本豆州殿の語ったことにて、御座る。
* * *
人の不思議を語るも信ずべからざる事
小湊誕生寺は、日蓮出生(しゆつしやう)の舊跡にて大地也。其最寄に日蓮矢疵養生の窟あり。今日は日蓮の像を安置して庵室あり。誕生寺は海邊なるが、夫より海邊に付少し山へ登りたる所也。予川々御普請の御用に付誕生寺へも詣で、右の岩窟へも古老の案内に任せ村移りの序立寄しに、右岩窟の内、其邊には白く鹽の付て居しを、所の者并召連れし者抔申けるは、此鹽は山上にて此通り生じ侯事、偏に宗租の悲願なれ。諸國より來る道者旅人等、此鹽を貯、眼を洗ひ或は疵抔を治するに至て妙也と語りぬ。げにも岩窟の内に鹽の生じぬる事も不思議と、召連れし宗旨の者など、紙に包み信心渇仰(かつぎやう)し懷中しける。夫より段々山を越へ村をうつりし侍るに、海上遠からぬ所の岩或は石古木には、風の吹荒候節自然と潮氣運び候ゆへや、右日蓮の窟の通り鹽を付てあり。道端の石地藏又は踏石にも有なれば、是も高租上人の悲願なるやと笑ひけるが、聊の事も神佛もたくしぬれば自然と靈驗もある也。可笑しき事也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。鎭衞の実家安生家の宗旨は曹洞宗であることが分かった。また、この注釈作業の中で、根岸鎭衞の墓が東京都港区港区六本木の善学寺という寺院にあることを知ったが、これによって取り敢えず根岸の(というより根岸家の)宗旨は浄土宗であることも判明した。少なくとも、本話柄によって東国武士に比較的多く見られる日蓮宗はお嫌いであったことは、明らか。
・「小湊誕生寺」現在の千葉県鴨川市小湊にある日蓮宗の大本山である小湊山誕生寺。日蓮は貞応元(1222)年に小湊片海に生れ、12歳までこの地に暮らした。建治2(1276)年に日蓮の直弟子日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立したが、明応7(1498)年及び元禄16(1703)年の大地震や津波によって損壊、現在地に移転した。その後、26代日孝が水戸光圀の庇護を受けて七堂伽藍を再興、小湊山誕生寺と改称したが、宝暦8(1758)年の大火により仁王門を残して焼失、天保13(1842)年になって49代日闡(にっせん)により現在の祖師堂が再建された。私は少年の頃、ここを訪れた記憶がある。鯛の浦で鱗を煌めかせて舞い上ってくる鯛の鮮やかな映像と、海岸動物が大好きな私のために父が岩場でいろいろ採って呉れているうちに、役所の係員が密漁者と勘違いしてこっぴどく叱られているのを目の当たりにして、父がひどく可哀想になった思い出が妙に脳裏にこびりついている。そして、次は、「あのシーン」で再び私は「そこに」出逢った――。
斯んな風にして歩いてゐると、暑さと疲勞とで自然身體の調子が狂つて來るものです。尤も病氣とは違ひます。急に他の身體の中へ、自分の靈魂が宿替をしたやうな氣分になるのです。私は平生の通りKと口を利きながら、何處かで平生の心持と離れるやうになりました。彼に對する親しみも憎しみも、旅中限りといふ特別な性質を帶びる風になつたのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、又歩行のため、在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來たのでせう。其時の我々は恰も道づれになつた行商のやうなものでした。いくら話をしても何時もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題には觸れませんでした。
我々は此調子でとう/\銚子迄行つたのですが、道中たつた一つの例外があつたのを今に忘れる事が出來ないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊といふ所で、鯛の浦を見物しました。もう年數も餘程經つてゐますし、それに私には夫程興味のない事ですから、判然とは覺えてゐませんが、何でも其所は日蓮の生れた村だとか云ふ話でした。日蓮の生れた日に、鯛が二尾磯に打ち上げられてゐたとかいふ言傳へになつてゐるのです。それ以來村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至つたのだから、浦には鯛が澤山ゐるのです。我々は小舟を傭つて、其鯛をわざ/\見に出掛けたのです。
其時私はたゞ一圖に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫がかつた鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。然しKは私程それに興味を有ち得なかつたものと見えます。彼は鯛よりも却つて日蓮の方を頭の中で想像してゐたらしいのです。丁度其所に誕生寺といふ寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでせう、立派な伽藍でした。Kは其寺に行つて住持に會つて見るといひ出しました。實をいふと、我々は隨分變な服裝をしてゐたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠を買つて被つてゐました。着物は固より双方とも垢じみた上に汗で臭くなつてゐました。私は坊さんなどに會ふのは止さうと云ひました。Kは強情だから聞きません。厭なら私丈外に待つてゐろといふのです。私は仕方がないから一所に玄關にかゝりましたが、心のうちでは屹度斷られるに違ないと思つてゐました。所が坊さんといふものは案外丁寧なもので、廣い立派な座敷へ私達を通して、すぐ會つて呉れました。其時分の私はKと大分考が違つてゐましたから、坊さんとKの談話にそれ程耳を傾ける氣も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いてゐたやうです。日蓮は草日蓮と云はれる位で、草書が大變上手であつたと坊さんが云つた時、字の拙いKは、何だ下らないといふ顏をしたのを私はまだ覺えてゐます。Kはそんな事よりも、もつと深い意味の日蓮が知りたかつたのでせう。坊さんが其點でKを滿足させたか何うかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向つて日蓮の事を云々し出しました。私は暑くて草臥れて、それ所ではありませんでしたから、唯口の先で好い加減な挨拶をしてゐました。夫も面倒になつてしまひには全く默つてしまつたのです。
たしかその翌る晩の事だと思ひますが、二人は宿へ着いて飯を食つて、もう寐やうといふ少し前になつてから、急に六づかしい問題を論じ合ひ出しました。Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事に就いて、私が取り合はなかつたのを、快よく思つてゐなかつたのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だと云つて、何だか私をさも輕薄ものゝやうに遣り込めるのです。ところが私の胸には御孃さんの事が蟠まつてゐますから、彼の侮蔑に近い言葉をたゞ笑つて受け取る譯に行きません。私は私で辯解を始めたのです。
其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自説を主張しました。するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。
私が斯う云つた時、彼はたゞ自分の修養が足りないから、他にはさう見えるかも知れないと答へた丈で、一向私を反駁しやうとしませんでした。私は張合が拔けたといふよりも、却つて氣の毒になりました。私はすぐ議論を其所で切り上げました。彼の調子もだん/\沈んで來ました。もし私が彼の知つてゐる通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだらうと云つて悵然としてゐました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。靈のために肉を虐げたり、道のために體を鞭つたりした所謂難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどの位そのために苦しんでゐるか解らないのが、如何にも殘念だと明言しました。
Kと私とはそれぎり寐てしまいました。さうして其翌る日から又普通の行商の態度に返つて、うん/\汗を流しながら歩き出したのです。然し私は路々其晩の事をひよい/\と思ひ出しました。私には此上もない好い機會が與へられたのに、知らない振をして何故それを遣り過ごしたのだらうといふ悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいといふ抽象的な言葉を用ひる代りに、もつと直截で簡單な話をKに打ち明けてしまへば好かつたと思ひ出したのです。實を云ふと、私がそんな言葉を創造したのも、御孃さんに對する私の感情が土臺になつてゐたのですから、事實を蒸溜して拵らえた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原の形そのまゝを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だつたでせう。私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ事をこゝに自白します。氣取り過ぎたと云つても、虚榮心が崇つたと云つても同じでせうが、私のいふ氣取るとか虚榮とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです。
我々は眞黑になつて東京へ歸りました。歸つた時は私の氣分が又變つてゐました。人間らしいとか、人間らしくないとかいふ小理窟は殆んど頭の中に殘つてゐませんでした。Kにも宗教家らしい樣子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも靈がどうの肉がどうのといふ問題は、其時宿つてゐなかつたでせう。二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました。それから兩國へ來て、暑いのに軍鶏を食ひました。Kは其勢で小石川迄歩いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ應じました。
宅へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚ろきました。二人はたゞ色が黒くなつたばかりでなく、無暗に歩いてゐたうちに大變瘠せてしまつたのです。奥さんはそれでも丈夫さうになつたと云つて賞めて呉れるのです。御孃さんは奥さんの矛盾が可笑しいと云つて又笑ひ出しました。旅行前時々腹の立つた私も、其時丈は愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久し振に聞いた所爲でせう。
勿論、「こゝろ」である(「先生と遺書」三十と三十一の章を繋げて記した。各章の鉤括弧は意識的に外した。因みに、この鉤括弧が曲者であることを皆さんはご存知か? 「先生と遺書」の鉤括弧は各章の頭にはついていながら、終わりにはついていないのだ)。この場面の直前には例の強烈な一場面「ある時私は突然彼の襟頸を後からぐいと攫みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向の儘、丁度好い、遣つて呉れと答へました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。」がある(二十八)。この誕生寺の先生とKの訪問は極めて重要なシークエンスである。生家が浄土真宗の寺であったKは、肉食妻帯のその思想を頗る嫌っていたと考えてよい。Kの思想を探るには日蓮の思想が不可欠だ。
――そうして――
Kとは賢治のKでもある。浄土真宗の徒であった父宮澤政次郎との確執、「雨ニモマケズ」には最後に以下の経文が記されていることを誰もが知っているとは私は思わない。否、「雨ニモマケズ」を紹介するに際して、何故にそれを排除してきたのかを、考えるべきである。私はそのことが、賢治の解読を賢治のイメージを不当に歪曲しているとさえ、私は思うのである。私は信仰もなく、日蓮を尊敬もしない(寧ろ人間としての親鸞の方が頗るつきに好きである)。しないが、このことに対しては大いに「不当」であると感じるのである――。
南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多寳如来
南 無 妙 法 蓮 華 経
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
――以上、やぶちゃんの授業的な大脱線でした。御粗末。
・「日蓮矢疵養生の窟」現在の鴨川市内浦の岩高山日蓮寺にある。誕生寺の北東約1㎞の山上にあり、小松原の法難(現千葉県鴨川市小松原で予てより恨みを持っていた念仏信者で地頭の東条景信が日蓮を襲い、弟子日暁と信者工藤吉隆が斬殺され、日蓮も額を斬られて左手を骨折して重傷を負った)の際、この岩高山の窟の岩砂を削り、血止めに用いたという伝承が残る。剣難厄除けに効ありとされる。
・「大地」底本では右に『(大寺カ)』と注する。それで採る。但し、前掲した通り、宝暦8(1758)年の大火で誕生寺は仁王門以外既に焼失しており、根岸の言うのは規模(敷地)のことと思われ、なればこそ正しく「大地」ではある(そこまで皮肉に訳すことはやめた)。
・「川々御普請」幕府の基本政策の一つである用水普請(河川・治水・用水等の水利の利用事業)の一つで、堰普請や土手普請を含む河川改修事業。岩波版の長谷川氏の「卷之一」の「妖怪なしとも極難申事」の注には根岸が『御勘定吟味役の時、天明元年(一七八一)四月、関東川々普請を監督の功により黄金十枚を受けている』と記す(底本の同項の鈴木氏注にも同様の記載があり、そこには「寛政譜」からと出典が記されている)。根岸は安永5(1776)年、42歳で勘定吟味役に就任しており、天明3(1784)年まで同役に就いている。
・「悲願」これは、仏や菩薩が、この世の生きとし生ける総ての衆生を済度するために立てた誓願と同義の使用法。
・「信心渇仰」喉が渇けば水を欲し、山を慕えばそれを仰ぐように、仏を信じて慕い求めること。
・「越へ」の「へ」はママ。
・「たくし」は「託し」。
・「聊の事も神佛もたくしぬれば自然と靈驗もある也」ここで根岸は、必ずしも全否定している訳ではない。所謂、プラシーボ効果があることをも認めた上での、現実的考察として読むべきであろう。
■やぶちゃん現代語訳
人が摩訶不思議なことだと言うても容易には信ずべきでない事
安房小湊の誕生寺は日蓮出生の地と伝えられる大寺(おおでら)である。そのすぐ近くに日蓮矢傷養生の窟(いわや)がというのがある。現在では日蓮の像を安置し、庵室も備える。誕生寺は海辺である。こちらの窟はそこから海伝いに行ったところを、少し山を登ったところにある。
私は川々御普請御用のため、安房へも足を延ばしたことが御座って、この誕生寺へも詣で、また、件の窟へも土地の古老の案内(あない)するに任せて、次の村への職務上の移動の序でに立ち寄った。
この窟の内壁には、所々白く塩が付着していたのだが、土地の者や召し連れて御座った者どもが申すことには、
「この塩、山上でありながら、この通り、生じて御座ること、偏えに宗祖日蓮御上人樣御慈悲の本願の顕現にて、これ、御座る。諸国から参る信者は言うに及ばず、旅人らも、この塩を貯え、目を洗い、あるいは傷なんどの癒すに用いれば、絶妙なる効験これあり!」
と語って御座った。
「如何にも。山上の窟の内に塩の生じるということ、これは確かに不思議のこと!」
と、召し連れて御座った日蓮宗を宗旨とせる部下なんどは、この塩を丁重にこそぎ落とし、紙に包み、如何にも大慈大悲日蓮上人への信心渇仰して、大事そうに懐中に収める。
さて、その地を発し、更に山を越え、村を移って御座ったところが、道々の、海からさほど遠からぬ所の岩或いは石及び古木の表面には――風が吹き荒れたりした折り、自然、潮気が運ばれて来たからでもあろうか――かの日蓮の窟と全く同様に、塩が附着しているのである。
道端の石地蔵から、踏みしだいておる敷石にまで附着致いておるので、
「この塩も高祖御上人様御慈悲本願ならんか? 本願大盤振舞じゃのう?」
と皮肉を言うて、皆で大笑い致いたので御座ったが、世の中、何でもないことであっても、神仏にかこつければ、自然、「霊験」とか申すものも「ある」ということになるのである。如何にも可笑しなことではある。
* * *
淺草觀音にて鷄を盜し者の事
淺草觀音堂前には、所々より納鷄(をさめどり)鳩(はと)など移しく、參詣の貴賤米大豆等を調へ蒔て右鷄にあたへけるなり。天明五年師走の事なりしに、大部屋中間の類ひ成しや、脇差をさし看板一つ着したる者、右鷄を二ツ捕へしめ殺して持歸らんとせしを、境内の楊枝みせ其外の若きもの共大勢集りて、憎き者の仕業也とて、衣類下帶迄を剥取棒しばりといふものにして、右衣類を背に結付脇差も同じやうにして、殺せし鷄を棒の左右に付て、大勢集りてはやしたて花川戸の方迄送りしよし。いかゞなりしやと、予が許へ來る人の昨日見しとて語りぬ。佛場の事なれば結縁(けちえん)法施(ほふせ)等はなさずとも、納鷄を〆殺しなどせし志、極重惡心といふべけれ。萬人に恥辱をさらしけるは則佛罰ともいふべけれ。然し右境内の者ども、かゝる狼籍自刑を行ふ事いかなる心ぞや。若(もし)右の者舌を喰ひ身を水中に沈めなば、公の御吟味にもなりたらんは、かく計らひし者も罪なしともいわれじ。却て佛慮にも叶ふ間數不慈(ふじ)の取計ひと爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:神仏にかこつけた「霊験」なるものに盲目な庶民への批判から、仏罰にかこつけた「自刑(私刑・リンチ)」に及ぶ残忍なる庶民への批判で連関。後に名町奉行となる根岸の熱い思いが伝わってくる。
・「淺草觀音堂」金龍山浅草寺。本尊は聖観音菩薩で当時は天台宗(第二次世界大戦後、聖観音宗の総本山に改宗)。
・「納鷄鳩」寄進に境内に放つ訳であるが、これは所謂、江戸時代に流行った放ち泥鰌や放ち鰻・放ち鳥の習慣と同じで、殺生戒の御利益を狙ったもので、更に派生的にそうした鳥に餌を買って与えることが施しと見なされ、更なる利益(りやく)を呼ぶというわけである。私が小さな頃は、よく夜店で雄のヒヨコが売られており、大きくなって鳴き声殊の外五月蠅く、体よく神社に持っていって捨てたという話をよく聴いた。私の義父なんども、妻が小さな時に可愛がっていた雄鶏の「ピピちゃん」を納め鶏と称して熱田神宮に捨てちゃったの、と未だに恨み節を言っておる。嘗て訪れたタイの寺院では、蝶や亀、蛇、雀を始めとする多種の鳥の類等、多様な「放ちもの」を見たが、鳥の類は放った後、必ず売主の元に戻って来るので最も安上がりです、と現地ガイドが言っていたのも思い出す。
・「天明五年」西暦1785年。
・「大部屋中間」「大部屋」は大名屋敷で格の低い中間や小者(こもの)、火消し人足などが集団で寝起きした部屋を言う。足軽と小者の間に位置する中間は多くの場合、渡り中間(屋敷を渡り歩く専門の奉公人)が多く、脇差一本が許され、大名行列の奴のイメージが知られるのだが、年季契約で、百姓の次男坊以下が口入れ屋を通じて臨時雇いされたりし、事実上の下男と変わらない連中も多くいた。ここはそうした格下の質の悪い中間の謂いであろう。
・「看板」武家で、主家の紋所を染め出して、中間や出入りの者に与えた衣服。
・「楊枝みせ」楊枝店は浅草寺境内にあった床店(とこみせ:商品販売のみで人の住まない店のこと。)で、楊枝やお歯黒の材料などを売った店のことを言う。女を置いて、密かに売春の場ともなった。「楊枝屋」とも。
・「棒しばり」民間で行われた私刑の一種。公刑の晒(さらし)を真似たもので、ここに示されたように裸にして、背に十文字に棒を縛り付け、その棒の先に制裁を受けた内容を示す証拠の品をぶら下げ、市中を引き回すもの。花川戸ならば、それほどの距離ではない。
・「花川戸」現在の東京都台東区東部、浅草寺の東の隅田川西岸に位置する町の名。南部が雷門通りに、西部が馬道通りに、北部が言問通りに接する。町を東西に二天門通りが、南北に江戸通りが通る。古くは履物問屋街であった。確かに、それほどの距離ではない。しかし、ここは隅田川岸である。簀巻き同様、この中間、隅田川に突き入れられた可能性、私は極めて高いと思うのである。
・「結縁」仏に帰依して後日の悟達のために因縁を結ぶ祈願祈誓や参拝。
・「法施」仏に向かって経を読んだり、法文を唱えたりすること。「ほっせ」とも読む。
・「自刑」私刑。
■やぶちゃん現代語訳
浅草観音にて鶏を盗んだ男の事
浅草観音堂前にはあちこちからの納め鶏・納め鳩が夥しく棲みついて御座って、参詣の者は、貴賤を問わず、米や大豆を買うて蒔き、これらに施すのが習わしとなって御座る。
天明五年師走のことであったが、大部屋中間の類いであろうか、脇差一本差し、看板一枚を着た如何にもやくざな男が、境内にいた鶏二羽をとっ捕まえて絞め殺し、持ち帰らんとした。
それを見咎めた境内の楊枝店その他の若い衆が大勢集まって、
「ふてえ野郎だ!」
「何たる仕業!!」
と、捕えられた男は衣類・下帯まですっかり剥ぎ取られて、あそこも丸出し、素っ裸の上に――これを巷間に棒縛りという――その引き剥がした衣類を丸めて脇差と一緒に結わい付けて、左右の腕を張り渡した横棒の先に、彼が殺した鶏の死骸をぶら下げたままに、大勢でどやしつけ、囃し立てながら、花川戸辺りまで引き回して行ったとの由。
「……その後、どうなりましたやら……」
と、拙宅を訪れた人が、昨日見た話、と前置きの上、私に語った。
そもそも仏を祭った神聖なる場のことなれば、結縁・法施(ほっせ)は致さずとも、納め鶏を絞め殺すなんどという所行、これ、極めて重き悪心に満ちた、悪(わる)と言うにふさわしい者ではあろう。巷の万人の民に、その恥辱を晒すこととなったは、則ち、仏罰ともいうべきものではある。
しかし――この境内の者ども、かかる乱暴狼藉の私刑を行うというは、如何なる心積りにてあるか!
もし、この男、かかる私刑の弾みに舌を嚙んで死ぬる、或いは、冗談半分、川に身を投じられて、そのまま溺れ死ぬるとなれば、これは逆に公(おおやけ)の御吟味ともなることなれば――そうなったとしたら、かくこの男を罰するを計らった者にも罪がないとは、到底、言えぬ。却って仏の広大無辺大慈大悲の深奥深慮にも叶うとはとても思われぬ惨忍至極の無慈悲なる取り計らい、とここに記しおくものである。
* * *
百姓その心得尤成事
淺間山燒にて、上州武州數ケ村砂降泥押の難儀大方ならず。右御普請の奉行として予廻村せし折から、厩橋(まやばし)領大久保村の者どもは、三分川七分川といへる利根川押切り候處の堀割、并に天狗岩堰の用水路埋り候所を掘候ため人足抔出しけるが、右兩所共大造(たいさう)の浚(さらひ)故、近郷數ケ村の老少男女數萬人出て其業をなしけるに、年頃十計の小兒に笊(ざる)を持せ土をはこばせ、乳母やうの者小僧など召連たれば、いかなる者と尋しに、大久保村の内富民の子供の由也。依之右場所の懸り橋爪某、子供故望みて出しやと尋ければ、彼古老答て、小鬼故望みもいたし候へども、かれが親はきびしきおのこにて、此度淺間燒にて國民困窮し、其家督たる田畑を失ひ、或は養ひの基たる用水路を潰し、誠に天災の遁れざる時節、公より國民志にて莫大の御普請被仰付、諸役人も寒凍を侵して日々出役なるに、兎もかふもいたし暮せばとて安居せんは勿躰(もつたい)なし。小兒抔はかゝる時節もありし、かゝるおゝやけの御惠みもありしと覺へ候へば、末々に至る迄難有と申所も辨へ候者也とて、此頃日々右倅を出し候と語りしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:都会人の極悪・独善性・無慈悲に対し、地方の百姓の希有の慈悲心で連関。一連の浅間山大噴火復興事業での実見記の一篇。
・「淺間山燒」以下、ウィキの「浅間山」の「記録に残る主な噴火」から当該箇所を引用する。天明3(1783)年4月9日『に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1ヶ月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた、6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになり、日を追うごとに間隔は短くなっていき、その激しさも増していった。7月6日から7月8日の噴火で3日間で大災害を引き起こしたのである。北西方向に溶岩流(鬼押し出し溶岩流)と北東方向に吾妻火砕流が発生、いずれも群馬県側に流下した。その後、約3ヶ月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石なだれとなって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。嬬恋村鎌原地域と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込み、一旦川を堰き止めた。天然にできたダムはすぐに決壊し、泥流となり大洪水を引き起こして吾妻川沿いの村々を飲み込んだ。本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運んでいく。このとき利根川の支流である江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられたのである。このとき被災した死者は、約1,500人に達した(浅間焼泥押)』(この天明の大噴火の死者総数は資料によって極端な差があり、一部には20,000人とも記される)。『長らく溶岩流や火砕流と考えられてきたが、最も被害が大きかった鎌原村(嬬恋村大字鎌原地区)の地質調査をしたところ、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、昭和54年から嬬恋村によって行われた発掘調査では、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている』。根岸はこの浅間大噴火後の天明3(1783)年、47歳の時に浅間復興の巡検役となった。そして、その功績が認められて翌天明4(1784)年に佐渡奉行に抜擢された。「卷之一」の「人の運は測り得ぬものである事 又」に浅間大噴火関連話柄が既出する。
・「上州」上野国。現在の群馬県。
・「武州」武蔵国。現在の東京都・埼玉県及び神奈川県東部を含む。
・「厩橋領大久保村」「厩橋」は現在の群馬県前橋市のことで、古くは「まやばし」と呼称し「厩橋」と書いた(前橋となったのは慶安年中(1648~1651)の酒井忠清が城主であった頃という)。但し、この大久保村は現在、北群馬郡吉岡町に編入されている。群馬県県のほぼ中央に位置し、榛名山南東山麓と利根川流域を占める。西半分が榛名山裾野の一部、東半分が洪積台地。町内には特徴的な古墳群を有する。大久保村はこの榛名山東麓の利根川沿岸にあった。
・「三分川七分川」岩波版長谷川氏注は、火山灰や泥流の土砂によって『川の埋まった程度を表わす語か。』とあるが、どうも解せない。これは文脈からは『大久保村の村の衆が、「三分川」とか「七分川」と部分的に呼んでいる利根川本流』という意味と推測され、足して一割になるのもその総体が「利根川本流」であるからではないかと思われた。加えて後文の「右兩所共」というのは正にこの「三分川」と「七分川」の二箇所を指しているとしか読めないのも気になったのである。そこで検索を掛けてみると、「利根川上流河川事務所」HPの「利根川の碑」の群馬県伊勢崎市戸谷塚410に所在する「戸谷塚観音」の利根川碑についての記載中に、ズバリ、「三分川七分川」という『河川名』が出現するのに出逢った(改行を省略し、下線部はやぶちゃん)。
《引用開始》
沼の上から流下した利根川は南に八丁河原を衝いて左に折れ、島村の河原で烏川と合流していた。その後この流れは埋まり、新たに北方に流路ができた。それから後ここを掘り下げて利根の水を三割ここに流し、北の流路に七割を流下させた。ところが天明3年の浅間噴火で北の流れはすっかり埋まり、三割分流れていた流路が利根川の幹流となり今日におよんでいるので、この川を三分川といい、埋まった北流を七分川というのである。今の沼の上から東へ歩いてみたが、現在は柴町、戸谷塚、福島あたりに利根の水は一滴も流れていない。すなわち七分川の痕跡は見出せない。本庄から坂東大橋を渡り、すこし先の戸谷塚に子安観音堂がある。ここは浅間山の噴火の際押し流されて来た多くの水死人を葬ったところである。萩原進氏の「上州路」に「天保3年7月8日の浅間山大爆発は少なくとも千数百人の人命を失った・・・。急に泥流に押し流された吾妻川ぞいの人々は、家もろとも利根川に押し出された高熱の泥流に加えて酷暑の夏のことであったからその死骸はほとんどふらんして下流のあちこちに打ち上げられたものが少なくなかった。土地の人々は、気の毒なこれらの無縁仏を厚く葬り、その上供養塔をたてた。流は川巾が広く浅瀬があるので、なお多くの死骸が打ち上げられた。佐波郡の五料、柴、戸谷塚もそうだ・・・。子安観音境内に一基の座り地蔵尊がある。・・・これは半けっかの座像で、台石の上の竿石の表に「供養塔」、右に「天明4年辰年11月4日」左に「施主、戸谷塚村」と刻してある。・・・」ここには今は利根川の流れはないが、昔の七分川の流路がここにあったことが証拠立てられる。
《引用終了》
前橋より下流の話柄であるが、これによって「三分川七分川」とは、大河である利根川主流の部分的に分岐した流路に対する名称であることが証明されたと言ってよい。これぞネット時代の、目から鱗の検索の醍醐味と言うべきである。
・「天狗岩堰の用水路」大久保村と漆原村の境界付近から利根川の水を引き入れた人工の用水路の名。何故、天狗と呼称するかについては、財団法人地域活性化センターが作る「伝えたいふるさとの100話」の前橋市の項に「天狗岩用水をつくり農民から敬慕された総社(そうじゃ)領主」に以下の記載がある(読みの多くと語釈の一部を省略した)。
《引用開始》
慶長六年(一六〇一年)関ヶ原の戦いの翌年、総社領主となった秋元長朝(あきもとながとも)は、灌がい用の水が得られれば、水不足とたび重なる戦いで荒れ果てた領地を実り豊かな土地にできると考え、用水をつくることを計画しました。
長朝は総社領(現在の前橋市総社町あたり)の東の端を流れる利根川から水を取ろうと考えました。しかし、土地が川の水位より高い位置にあったので、上流の白井領に水の取り入れ口をつくらなければ、水を引くことができませんでした。
そこで、白井領主の本多(ほんだ)氏の許しを得るために、高崎領主の井伊氏に協力を求めて相談しましたが、「雲にはしごを架けるようなもので無理であろう」といわれました。
しかし、長朝の決意は固く、井伊氏に仲だちを頼み、本多氏と何度も話し合いました。その結果、水の取り入れ口を白井領につくることが許されて、用水工事の測量を始めることができました。
知行高が六千石の長朝にとって用水づくりは経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成しない大変な事業でした。長朝は領民に協力してもらうために、三年間年貢を取り立てないことにして、慶長七年(一六〇二年)の春に用水工事に取りかかりました。
工事は最初のうちは順調に進みましたが、取り入れ口付近になると大小の岩が多くなり、工事を中断することもありました。そして最後には、大きな岩が立ちはだかって、とうとう工事は行き詰まってしまいました。
長朝や工事関係者、領民たちは困り果てるばかりでした。思いあまった長朝は、領内の総社神社にこもって願をかけました。その願明けの日、工事現場に突然一人の山伏が現れて、困り果てている人々にいいました。
「薪になる木と大量の水を用意しなさい。用意ができたら、岩の周りに薪を積み重ねて火を付けなさい。火が消えたらすぐに用意した水を岩が熱いうちにかけなさい。そうすれば岩が割れるでしょう」
人々は半信半疑でしたが、教えられたとおりにしたところ、見事に岩が割れました。人々がお礼をいおうとしたら、すでに山伏の姿がありませんでした。そんなことから、誰とはなくこの山伏を天狗の生まれ変わりではないかと語り合うようになりました。
この話が、天狗が現れて大きな岩を取り除いたといわれている「天狗来助(てんぐらいすけ)」の伝説です。その後、人々は取り除かれた岩を天狗岩、用水を天狗岩用水と呼ぶようになりました。
総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に祠(ほこら)を建ててまつることにしました。これが「羽階権現(はがいごんげん)」です。今も、総社町にある元景寺の境内にまつられています。
長朝が計画し領民たちの協力によって進められた天狗岩用水は、三年の年月をかけて慶長九年(一六〇四年)にようやく完成しました。この用水のおかげで領内の水田が広がり、総社領は六千石から一万石の豊かな土地になりました。
秋元氏は長朝の子である泰朝(やすとも)のときに、甲州谷村(こうしゅうやむら)(現在の山梨県都留市)に領地を移されて総社の土地を離れますが、総社領の農民は用水をつくった恩人である長朝に感謝を込めて、慶長九年より一七二年後の安永五年(一七七六年)、秋元氏の菩提寺である光巌寺(こうがんじ)に「力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ)」(田に力(つと)めて愛を遺(のこ)せし碑)を建てました。力田遺愛碑を建てるにあたって、村々では農家一軒につき一にぎりの米を出し合ったと伝えられています。
このことは、農民が領主であった長朝をどんなに慕っていたかを示すものといえましょう。
封建時代、領民が領主の業績をたたえて建てた碑はめずらしいものです。碑文の最後には領民らが碑を建てたことがはっきりと書かれています。刻まれた言葉には、年代を超えた領主と領民の温かい人間関係も見てとることができます。
《引用終了》
・「大造の浚(さらひ)」の「さらひ」は底本のルビ。大規模な河川の浚渫作業。
■やぶちゃん現代語訳
さる百姓の心懸け殊勝なる事
浅間山噴火の際は、上州・武州数百箇村、砂降り、泥流押し寄せ、その被害は尋常ではなかった。
この噴火災害復興の普請奉行として、私はこれらの地域の村々を廻村致いたのだが、厩橋領大久保村の村の衆は――現地で「三分川」及び「七分川」と呼んでいる利根川本流の二箇所の川筋の、泥流が押し切ってずたずたに致した堀割並びに天狗岩堰の用水路など――すっかり埋まってしまった場所を掘り返すため、人足を出して御座ったが、この「三分川」及び「七分川」二箇所は大規模な浚渫作業となった故、近郷の数箇村の老若男女数万人が出て、辛い川浚いの作業に従事して御座った。
その巡検中、ふと見ると、年の頃十歳ばかりの子に笊を持たせ、土を運ばせておる。ところが、その子の傍らには、その子の乳母らしき者、また、その他、如何にも幼年の小僧としか思えぬような者をも召し連れており、その誰もが笊を持って働いておるので、
「あれらは、如何なる者どもか?」
と尋ねたところ、大久保村の富農の倅との由。
そこでその現場の監督をして御座った橋爪某が、
「子供のこと故……自ずから望んで出ておるのか?」
と土地の古老に質してみたところ、
「へえ、子供のこと故、何とのう様変わって御座れば、好奇心からも自ずから望んでやっておりますことながら……あの子らの父親は、これが実に厳しい男にて、『この度の浅間山噴火により、上野・武蔵の国々の民百姓、甚だ困窮致し、皆、その財産たる田畑を失い、また、その源と言うべき用水路を潰され、誠に天の災い、逃るべからざる折柄、公(おおやけ)より諸国民への御恵みこれあり、莫大な労金を以って災害復興の御普請、仰せ付けられ、諸役人方も寒気を冒して、日々現場に出役なさっておられるのに、ともかくも聊かの蓄えあるによって暮らしの成り、安居して無為ならんは、勿体なくも理不尽なること! 子供心には――このような危難の折りもあった、また、その折りにも、かの公の御恵みもあった――ということを覚えておくことが出来れば、後々、年寄るまでも――有り難きこと――と、申す思いを弁えておることが、出来るというものである。』と言うて、かく、日々に、己が倅を出役させて御座いまする。」
と語ったのであった。
* * *
孝子そのしるしを顯す事
享保の頃、廻船の荷物を内々にて賣渡し、其外罪ありて大坂町奉行にて吟味の上、其科極りさらしの上死刑にも申付侯積の治定(ぢぢやう)なりしが、右の者子供三人あり、惣領は娘にて十三四、夫より九ツ七ツ計の小兒ども、日々牢屋門前に至りて親の助命の事歎き悲しみ、叱り追のけなどすれどもかつて聞入れず、命を不惜晝夜寢食を忘れて歎きければ、其譯奉行へ申立、江戸表へ伺可通由にて御仕置を延し、御城代より伺の上死刑を御赦し追放被仰付し。誠に孝心の天に通ずるといへるも僞りならぬ事也。右は予評定所留役を勤ける頃、右の者赦願の事に付書留取調て、餘り哀れなる事なれば此事も別に書留ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:地方の百姓の希有の慈悲心から、都会の町人の孝心で、少年少女の無垢なる孝心孝行で連関。本件は森鷗外の「最後の一句」(大正4(1915)年10月『中央公論』)のモデルとなった話とされるが、岩波版長谷川氏注によれば、鷗外が典拠としたものは、大田南畝(寛延2(1749)年~文政6(1823)年)が安永4(1775)年頃から文政5(1822)年頃まで見聞したものを書きとめた「一日一言」所収のものであるという。更に、同様に江戸初期から享保年間(1716~36)までの松崎堯臣(たかおみ 正徳六・享保元(1682)年~宝暦3(1753)年)との見聞録「窓の須佐美」の続編である「窓の須佐美追加」下にある話柄も同様で、『元文三年(一七三八)、大坂の勝浦屋太郎兵衛の事とし、子や奉行の名もしるす。』とある。
森鷗外の「最後の一句」では、冒頭、咎人は大阪の『船乘業桂屋太郎兵衞』とし、『木津川口で三日間曝した上、斬罪に處する』旨の高札が出たのが『元文三年十一月二十三日の事』とする。
私は「一日一言」も「窓の須佐美追加」も所持していないので、とりあえず鷗外の設定を少しく示しておく。
桂屋太郎兵衛の罪状は以下の通り(引用は青空文庫正字正仮名版「最後の一句」を用いたが、誤読の恐れのないルビの一部を省略、ユニコード表示可能な字は正字に変更した)で、現在で言う業務上横領罪か背任罪に相当するものと思われる。
『主人太郎兵衞は船乘とは云つても、自分が船に乘るのではない。北國通ひの船を持つてゐて、それに新七と云ふ男を乘せて、運送の業を營んでゐる。大阪では此太郎兵衞のやうな男を居船頭と云つてゐた。居船頭の太郎兵衞が沖船頭の新七を使つてゐるのである。
元文元年の秋、新七の船は、出羽國秋田から米を積んで出帆した。其船が不幸にも航海中に風波の難に逢つて、半難船の姿になつて、積荷の半分以上を流出した。新七は殘つた米を賣つて金にして、大阪へ持つて歸つた。
さて新七が太郎兵衞に言ふには、難船をしたことは港々で知つてゐる。殘つた積荷を賣つた此金は、もう米主に返すには及ぶまい。これは跡の船をしたてる費用に當てようぢやないかと云つた。
太郎兵衞はそれまで正直に營業してゐたのだが、營業上に大きい損失を見た直後に、現金を目の前に並べられたので、ふと良心の鏡が曇つて、其金を受け取つてしまつた。
すると、秋田の米主の方では、難船の知らせを得た後に、殘り荷のあつたことやら、それを買つた人のあつたことやらを、人傳(ひとづて)に聞いて、わざ/\人を調べに出した。そして新七の手から太郎兵衞に渡つた金高までを探り出してしまつた。
米主は大阪へ出て訴へた。新七は逃走した。そこで太郎兵衞が入牢してとう/\死罪に行はれることになつたのである。』
それを裁いたのが大坂西町奉行佐佐又四郎成意(なりむね)。実在した町奉行であることが確認されている(以下のリンク先参照)。なお、この審理、実に2年余りかかっている。これについては大阪高等裁判所第2刑事部伊藤寿氏のエッセイ「森鴎外と裁判員制度」に『当時の司法制度は効率性を重視していなかった上に、大阪や京都などの幕府直轄地である天領を治める遠国奉行は、死罪といった重罰を科する場合にはわざわざ江戸の老中に伺いを立てた』からである旨、記載がある。
『西町奉行の佐佐は、兩奉行の中の新參で、大阪に來てから、まだ一年立つてゐない。役向の事は總て同役の稻垣に相談して、城代に伺つて處置するのであつた。それであるから、桂屋太郎兵衞の公事に就いて、前役の申繼を受けてから、それを重要事件として氣に掛けてゐて、やうやう處刑の手續が濟んだのを重荷を卸したやうに思つてゐた。』
桂屋太郎兵衛には、五人の子供がいることになっている。
『長女いちが十六歳、二女まつが十四歳になる。其次に、太郎兵衞が娘をよめに出す覺悟で、平野町の女房の里方から、赤子のうちに貰ひ受けた、長太郎と云ふ十二歳の男子がある。其次に又生れた太郎兵衞の娘は、とくと云つて八歳になる。最後に太郎兵衞の始て設けた男子の初五郎がゐて、これが六歳になる。』
この内、直訴に出向くのは、いちとまつ、長太郎の三人であるが、いちが示した請願の書状の内には、実子四人を身代わりにとしている。それと別に、後半の西町奉行所御白洲の場面では、いちが、実子でない長太郎から「自分も命が差し上げたいと申して、とうとうわたくしに自分だけのお願書を書かせて、持つてまゐりました」(いちの奉行所への直接話法部分)と言って、長太郎も正式に別に身代わりを書面で申し出ている。
御白洲の場面で描写されるいちの様子は以下の通り。「祖母の話」とはとうとう高札が出たということを太郎兵衞の女房の母「平野町のおばあ樣」が太郎兵衞の女房に知らせに来た冒頭場面を指す(鷗外はこの小説で――いちの自律的行為に関与しないからと思われる――この祖母にも女房にも名を与えていない。こういう器械的な切り捨ての仕儀こそ、私が鷗外という作家に何とも言えぬ生理的嫌悪感を感じる部分なのである)。
『當年十六歳にしては、少し穉(をさな)く見える、痩肉(やせじし)の小娘である。しかしこれは些(ちと)の臆する氣色もなしに、一部始終の陳述をした。祖母の話を物蔭から聞いた事、夜になつて床に入つてから、出願を思ひ立つた事、妹まつに打明けて勸誘した事、自分で願書を書いた事、長太郎が目を醒したので同行を許し、奉行所の町名を聞いてから、案内をさせた事、奉行所に來て門番と應對し、次いで詰衆の與力に願書の取次を賴んだ事、與力等に強要せられて歸つた事、凡そ前日來經歴した事を問はれる儘に、はつきり答へた。』
以下、映像的に魅力的な場面となる。
『長太郎の願書には、自分も姊や弟妹と一しよに、父の身代りになつて死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあつた。
取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに氣が附かなかつた。いちが「お呼になつたのだよ」と云つた時、まつは始めておそるおそる項垂れてゐた頭を擧げて、縁側の上の役人を見た。
「お前は姊と一しよに死にたいのだな」と、取調役が問うた。
まつは「はい」と云つて頷いた。
次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。
長太郎はすぐに「はい」と云つた。
「お前は書附に書いてある通りに、兄弟一しよに死にたいのぢやな。」
「みんな死にますのに、わたしが一人生きてゐたくはありません」と、長太郎ははつきり答へた。
「とく」と取調役が呼んだ。とくは姊や兄が順序に呼ばれたので、こんどは自分が呼ばれたのだと氣が附いた。そして只目をつて役人の顏を仰ぎ見た。
「お前も死んでも好いのか。」
とくは默つて顏を見てゐるうちに、唇に血色が亡くなつて、目に涙が一ぱい溜まつて來た。
「初五郎」と取調役が呼んだ。
やう/\六歳になる末子の初五郎は、これも默つて役人の顏を見たが、「お前はどうぢや、死ぬるのか」と問はれて、活潑にかぶりを振つた。書院の人々は覺えず、それを見て微笑んだ。
此時佐佐が書院の敷居際まで進み出て、「いち」と呼んだ。
「はい。」
「お前の申立には譃はあるまいな。若し少しでも申した事に間違があつて、人に教へられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。
いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたはずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言ひ放つた。其目は冷かで、其詞は徐かであつた。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」
「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。
佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。
次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡した。
白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先の恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の德川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗の鋒は、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。』
「マルチリウム」ドイツ語“Martyrium”(発音は「マルテューリウム」が表記上近い)で「殉教・受難」の意。但し、本邦ではポルトガル語“martirio”から、切支丹宗門の間での「まるちり」=「殉教」の意としては、古くから認識されていた。
以下、コーダは次のように淡々としている。
『城代も兩奉行もいちを「變な小娘だ」と感じて、その感じには物でも憑いてゐるのではないかと云ふ迷信さへ加はつたので、孝女に對する同情は薄かつたが、當時の行政司法の、元始的な機關が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中(うかゞひちゆう)日延(ひのべ)」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會御執行相成候てより日限も不相立儀に付、太郎兵衞事、死罪御赦免被仰出、大阪北、南組、天滿の三口御構の上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。大嘗會と云ふのは、貞享四年に東山天皇の盛儀があつてから、桂屋太郎兵衞の事を書いた高札の立つた元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、櫻町天皇が擧行し給ふまで、中絶してゐたのである。』
ここで分かることは、大嘗会がなければ、御赦免はなかったということであろう。赦免するに相応な権威の側のタテマエの論理が必要であったということである。それが「最後の一句」に対する――というよりもあくまでいちという娘など眼中にないことを演じる――「お上の事には間違は」ないという権威という機関の、唯一絶対の答えなのである。
しかし最後に申し上げておこう。この森鷗外の「最後の一句」、私は高校時代に現代国語の教科書で読んだ。私の嫌いな森鷗外(翻訳や「高瀬舟」は除く)、しかし私はこの「いち」を目の当たりに見ている自分がいて(勿論、御白洲の彼女の隣りの庶民目線で)、この心のスクリーンに映った「いち」に、僕は一目惚れしていたことを、告白しておく。
・「享保」西暦1716年から1735年。
・「廻船」国内沿岸の物資輸送に従事する荷船で、主に商船を言う。江戸・大阪の二大中央市場と諸国を結ぶ全国的な航路を形成していた。
・「御城代」幕府が大坂・駿府・伏見・京(二条城)の四城に設置した役名。(元和5(1619)年に伏見城代は廃止された)ここで言う大坂城代は将軍の直接支配の役職で譜代大名が任命された(駿府・二条城代は老中支配・大身旗本が任命された)。各城守護管理及び城下の政務を司った。
・「評定所留役」「評定所」は基本的には将軍の直臣である大名・旗本・御家人への訴訟を扱った司法機関の一つであるが、原告被告を管轄する司法機関が同一でない場合(武士と庶民・原告と被告の領主が異なる場合等)、判例相当の事件がなく幕府各司法機関の独断では裁けない刑事事件や暗殺・一揆謀議等の重大事件も評定所の取り扱いにとされた。本件は原告若しくは被告の連座する者の中に武士階級が居たか、廻船絡みであるから、原告被告の領主が異なるのかも知れない。「評定所留役」とは評定所で実際に裁判を進める予審判事相当格。この職は勘定所出向扱いであるため、留役御勘定とも呼称する。根岸が評定所留役であったのは、宝暦13(1763)年から明和5(1768)年であるから、本件出来時より33~50年以上も後のことである。
■やぶちゃん現代語訳
孝行な子がその効験を顕わす事
享保の頃、廻船の積荷を密かに抜き取って、内々に売り捌き、その他にも附帯する罪を以って捕縛され、大坂町奉行所にて吟味の上――その咎、晒しの上、死罪――と申し附くること、ほぼ決定して御座った。
この男には子供が三人おり、娘十三四を頭に、九つ七つばかりの小児が続く。
その子らが――過去の判例から、残酷にもこの子らに誰ぞが教えしものか、はたまた、巷間の死罪らしいという噂を聴きつけたものか――日々、評定所牢屋門前にやって来ては、地べたに座り、親の助命を求めて歎き悲しみ、号泣する――門番が叱って追い立てようとするのであるが、頑として聞き入れず、一寸たりとも動こうとせぬ。
不惜身命――昼夜寝食を忘れ、ひたすら門前に泣き続けて御座った――。
評定所では、致し方なく――というより、不憫に思い――この子弟嘆願の趣の一件につき、大阪町奉行に申し上げたところ――奉行も、
「とりあえず江戸表に御伺いの儀、これ、通すべし。つきては御仕置きのこと、延期と致す。」
とのこと。
大阪御城代から幕府に御伺いが立てられた結果、死罪をお減じになられ、大阪追放に処するべし、と仰せ付けられたのであった。
誠(まっこと)「孝心、天に通ずる」と言うのも、決して偽りではないのである。
以上は、私が評定所留役として勤仕して御座った頃、ある必要があって過去記録の閲覧をした際、この当時、この者に対する特赦請願についての一件に関わって書留められた書類を親しく読んだ。誠にしみじみとした気分にて読み終わった記憶も新しい故、ここに書き留めておく。
* * *
又
是も予留役の筋まのあたり見聞ける事也。安藤霜臺掛にて三笠附其外惡黨をなしたる者とて、遺恨にてもありしや、名は忘れぬ、雜司ケ谷在しやくじ村の者を箱訴の事有。名ざしける箱訴故呼出しけるに、年此七十計の病身に見へし老人なり。中々三笠附抔は勿論、惡業抔可致者ならねど、定法故難捨置、入牢の事霜臺申渡けるに、右老人の倅三人、跡に付添出けるが、惣領は廿才餘の者也しが進み出て、親儀は御覽の通年も寄、殊に病氣にて罷在候へば、入牢抔被仰付なば一命をも損じ可申、しかし御定法の御事に候へば、私を入牢奉願候。親儀は御免粕相願旨申けるに、其弟十三四才にも可成が進み出て、兄は當時家業專らにて、老親いとけなき者を養育仕候事故、我が身を入牢願ふ由相願ければ、末子は漸く九ツ十ウ計なるが、何の言葉もなく私入牢を願ひ候とて、兄弟互に泣爭ひけるにぞ、霜臺も落涙して暫し有無の事もなく、其席に居し留役又は霜臺の家來迄暫し袖をしぼりしが、其夜は入牢申付て翌日、跡方もなきに決して老人も出牢あり、無程無事に落着しぬ。誠に孝心の至る所忍ぶに漏るゝ涙は、實に天道も感じ給ふべきと思はるゝ。
□やぶちゃん注
○前項連関:少年の孝心その二。
・「評定所留役」は前項同注参照。そこでも記したが、根岸が評定所留役であったのは、宝暦13(1763)年から明和5(1768)年。
・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。「卷之一」にもしばしば登場した、「耳嚢」の重要な情報源の一人。安藤惟要が就任していた職務の中で、このような訴訟に関わるとすれば勘定奉行と考えられる。勘定奉行は勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれているので、安藤は公事方勘定奉行と考えてよいであろう。そうして安藤が勘定奉行として勤めたのは宝暦11(1761)年から天明2(1782)年であるから、根岸が評定所留役であった期間を完全に内包する。
・「三笠附」雑俳・川柳の変形したもので賭博の一種。本来は冠附(かむりづけ:上五に中七・下五を付けて一句に仕立てるもの。元禄(1688~1704)頃に始まる。江戸での呼称で、上方では笠付けといった。烏帽子付(えぼしづけ)とも。)の一つで、俳諧の宗匠・選者を名乗る点者が冠の五文字を三題出して、それぞれに七・五を付けさせて、三句一組で高点を競うもので、宝永年間(1704~1711)から行われていた。ところが、これが賭博化し、個人のHP「江戸と座敷鷹」――少々長くなるが説明すると、「座敷鷹」は「はえとりぐも」と読み、クモ綱クモ目ハエトリグモ科 Salticidaeのハエトリグモ類のことを指す。寛文から享保頃(1661~1736)、このハエトリグモを飼って蠅を捕らせて楽しんでいた好事家がいたが、彼等は翅を少し切って動き難くさせた蠅を獲物として、各自の秘蔵のハエトリグモを同時に放し、誰のものがいち早く蠅を捕捉するかを競わせた。当時、そうした遊びを室内版の「鷹狩り」に譬えて、「座敷鷹」と呼んだのである。これが流行して座敷鷹が大人の娯楽として定着、ハエトリグモ販売業や飼育するための蒔絵を施した高価な印籠型容器まで出現したという。強い蜘蛛は極めて高価で、当時の江戸町人の平均的月収に相当したとある。後には廃れたが、これは既に博打の対象と化していた座敷鷹が賭博禁止令に抵触したからであるとも言われる――の以下のページに冠附に先行する前句附から説明して、『宗匠が出題した前句(七・七の短句)に、一句あたりの応募料を取って付句(五・七・五の長句)を募集、宗匠が選んだ高点句を前句とともに発表し、上位の句には品物か金銀を与えると言うもの。昔は連句の付け合いの稽古という大義名分があり、まともな前句を出題していたが、徐々に適当となり、「ならぬことかな、ならぬことかな」「やすいことかな、やすいことかな」「ちらりちらりと、ちらりちらりと」「ばらりばらりと、ばらりばらりと」などどうでもいいような七・七の14文字となった。看板とあるのは、「前句附」の看板を出して商売をしていることを指し、庶民の間に人気の高かった証拠と言える。しかし、この適当な下の句(前句)に対してさえ上の句(付句)をつけるのは難しいとなり、おそらくもっと人を集めたい宗匠が多かったのであろう、下の句を出題するのは取り止め、上の句の五・七・五の内の初めの五字を宗匠が出題し、残りの七・五をつけさせるようになる。ところが、これも面倒だと、残りの七・五も宗匠が出題することになる。初めの五字の出題を三題に増やし、これに対して21種類の「七・五」を出題し、三つの優れた「五+(五・七)」の組み合わせをあてさせることになった。まったくのクイズ形式である。 21の数字はサイコロの目からきていると言う。1の裏が6、2の裏が5、3の裏が4、裏表を足すといずれも7、7×3=21。このクイズ形式の付け合わせを、「三笠附」(みかさつき)と呼んだ。参加料十文(約300円)で三題とも秀句をあてた者には一両(約20万円)の賞金が与えられたと言う。三笠附の名が町触に記されるのは、正徳5年(1715)。クイズ形式とはいえ、ここまでは文字のある句合わせであった。しかし、享保の時代に入ると、文字はなく完全に数字の組み合わせをあてる博打となったのである。競馬も数字だが、馬が実際に競争する。享保期の三笠附はサイコロ博打同然となったわけだ』とある(改行を省略した)。そこで幕府は享保11(1726)年に「三笠附博奕廃止者免罪高札」を出して禁止したが、跡を絶たなかったらしい。特に田沼時代となると綱紀弛緩し、安永から天明頃(1762~1789)には再び爆発的流行を見たのであった。正にこの話、この頃のことであったわけ。さてもそこで、やぶちゃん一句――
世も末は骸子ころり五七五
御粗末様でした――
・「雜司ケ谷在しやくじ村」「しやくじ村」は岩波版長谷川氏注に『雑司谷の在の石神井村。練馬区』とある。但し、現在の雑司ヶ谷は豊島区南池袋である。
・「箱訴」享保6(1721)年に八代将軍吉宗が庶民からの直訴を合法的に受け入れるために設けた制度。江戸城竜ノ口評定所門前に置かれた目安箱に訴状を投げ入れるだけで庶民から訴追が出来た。
・「名ざしける箱訴故」これは勿論、その被疑者を実名で告発している訳であるが、一言言っておくと、目安箱への投書は投げ入れた者(告発者)の住所氏名があるもののみが採り上げられ、ない訴状は破棄されたそうである。
・「跡方もなきに決して」とあるが、因みに三笠附に対しては、どのような刑罰があったのか。大越義久「刑罰論序説」によれば、身分を非人に落とされる「非人手下」の例の中に「三笠附の句拾い〔賭博の一種〕、取抜無尽〔富くじに似たもの〕の札売り、下女と相対死して生き残った主人などに対して」とある。但しこれは属刑であるから、本刑としては追放なり敲きなりがあって、それに付属された刑ということであって……これ結構、キビシイ。
■やぶちゃん現代語訳
孝行な子がその効験を顕わす事 その二
これも私が留役の際、目の当たりに見聞きしたことである。当時、勘定奉行で御座った安藤霜台殿が担当された一件であった。
三笠附その他諸々悪事を働いたる者とて――誰かの遺恨を受けたものか――名は失念したが、雑司ヶ谷の在は石神井村のある者を箱訴するという事件があった。
名指しの箱訴であったため告発された当人を呼び出して見ると、これが年の頃七十ばかり、加えて病身と思われる老人であって――凡そ三笠附は勿論のこと、『その他諸々悪事を働』くことなんぞなど到底出来そうも、ない、爺さんであった――が、御定法故、捨て置くこともならず――真偽を糺してみたところが、何やらん、もぐもぐ言うばかりで埒が明かぬ――罪状をこれ認むるか否かもはっきりせぬ故、霜台は致し方なく、まずは入牢申し渡した。
申し渡すに際し、老人に付き添って来ていた倅が三人、従っていたが、入牢申し付けた後、即座に長男は二十歳余りの者が進み出て、
「親父はご覧のと通り、年寄り、殊に病気も患っておりますれば、入牢など致すとなれば、その儘、一命をも落とすことにもなりかねませぬ。されど御定法を枉げられぬこと、これもまた、お上にあらせられましては尤もなることにて御座いますればこそ、どうぞ、私めを代わりに入牢致すようお申しつけ下さいますよう、相願い上げ奉ります――親父入牢の儀は、何卒、御赦免下さいまするよう相願い上げ奉りまする……。」
と言うたかと思うたら、つっとその弟の十三、四にもなるかと思しい者が進み出、
「兄は只今当方の家業を唯一身にて負うておりますれば、老いし親、幼き弟妹どもを養育致いておりまする。されば――我が身を入牢願い上げ申し上げまする……。」
由、願う。
その横に控えて滑り込むようにくっ付いて座った末の子は――漸っと九つか十ばかりと見えるは――ただただ、如何にも幼き口つきであったれど、
「私、入牢、願い申し上げます……。」
とばかり何度も繰り返し言上するので御座った。
兄弟互いに他の者を制し、また泣きながら争う――その様を見るに、評定役であった霜台も思わず落涙して、暫くは声も出なかった。
いや、その場にいた留役――で御座った私も――そして、霜台の家来衆までも、暫しの間、袖を絞って御座った……。
結局、最早刻限も遅くで御座ったれば、とりあえず、その夜のみの入牢――老人の身体に特別の配慮を十分に致いた上での入牢を申し付けて、翌日早朝、箱訴の一件、事実にあらざるものにして、その罪、これ本来、存在せざるものなり、として老人も出牢と決し、一件落着と相成って御座った。
いや! あの時は本当に!
誠(まっこと)、孝心の至る所、忍ぶに漏れざるを得ぬ涙は、実に天道も心をお動かし遊ばされるものなのであるなあと心打たれ申した……
* * *
鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事
上州吾妻郡鎌原村は淺間北裏の村方にて、山燒の節泥火石を押出し候折柄も、たとへば鐵炮の筒先といへる所故、人別三百人程の場所、纔に男女子供入九十三人殘りて、跡は不殘泥火石に押切れ流れ失せし也。依之誠に其殘れる者も十方(とほう)にくれ居たりしに、同郡大笹(おほざさ)村長左衞門、干俣(ほしまた)村小兵衝、大戸(おほど)村安左衞門といへる者奇特成にて、早速銘々へ引取はごくみ、其上少し鎭りて右大變の跡へ小屋掛を二棟しつらへ、麥粟稗等を少しつつ送りて助命いたさせける内に、公儀よりも御代官へ御沙汰有りて夫食等の御手當ありけると也。右小屋をしつらいし初め三人の者共工夫にて、百姓は家筋素性を甚吟味致し、たとい當時は富貴にても、元重立(おもだち)の者に無之侯ては座敷へも上げず、格式挨拶等格別にいたし候事なれど、かゝる大變(に逢ては生殘りし九拾三人は、誠に骨肉の一族と思ふべしとて)右小屋にて親族の約諾をなしける。追て御普請も出來上りて尚又三人の者より酒肴などおくり、九十三人の内夫を失ひし女へは女房を流されし男をとり合、子を失ひし老人へは親のなき子を養はせ、不殘一類にとり合ける。誠に變に逢ひての取計ひは面白き事也。右三人とも鎌原村に限らず、外村々をも救ひ合奇特の取計ゆへ、予松本豆州申合申上ければ、白銀を被下、三人共其身一代帶刀、名字は子孫まで名乘候樣被仰付ける。善事は其德の盛んなる事、たとへんに物なし。右三人の内、干俣村の小兵衞といへるはさまで身元厚き者にもなく、商をいたし候者の由。淺間山燒にて近郷の百姓難儀の事を聞て、小兵衞申けるは、我等の村方は同郡の内ながら隔り居候故、此度の愁をまぬがれぬ。しかし右難儀の内へ加り候と思はゞ、我が身上を捨て難儀の者を救ひ可然とて、家財をも不惜急變を救ひけると也。此故に其年は米穀百に四合五合といへる前代未聞の事也しが、小兵衞が名印(ないん)だにあれば、米金の差引近在近郷いなむ者更になく差引いたしけると也。呼出して申渡候節、右の者樣子も見たりしが、働有べき發明者とも見へず、誠に實躰(じつてい)なる老人に見へ侍りき。
□やぶちゃん注
○前項連関:庶民の誠心で連関。また根岸が担当した浅間山大噴火復興事業に於ける被災実見録シリーズの一篇。
・「(に逢ては生殘りし九拾三人は、誠に骨肉の一族と思ふべしとて)」底本では右に『(尊經閣本)』とある。これを補って訳した。
・「鎌原村」上野国吾妻郡鎌原村。浅間山火口北側約12㎞の吾妻川南岸。現在の群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原。ウィキの「鎌原観音堂」によれば、鎌原村は天明3(1783)年7月8日の浅間山の天明の大噴火による土石流に襲われて壊滅、噴火の際、村外にいた者と土石流に気付いて村内の高台にあった鎌原観音堂まで避難出来た者合計93名のみが助かった。『当時の村の人口570名のうち、477名もの人命が失われた』とあり、本文の記載とは異なる記録が示されるが、こちらの方が現在の定説数であるようだ(後掲)。『1979年(昭和54年)の観音堂周辺の発掘調査の結果、石段は50段あることが判明した(言い伝えでは150段あまりの長い石段であるとされていたが、この幅で150段もの長い石段を建設することは、現在の建設技術をもってしても物理的に不可能であること。仮に150段であったならば、およそ20メートルもの高さになるため、わざわざそれだけ高い位置に観音堂を建立する事自体が不自然であることなどが疑問視されていた)。現在の地上部分は15段であり、土石流は35段分もの高さ(約6.5メートル)に達する大規模なものであった事がわかった。また、埋没した石段の最下部で女性2名の遺体が発見された(遺体はほとんど白骨化していたが、髪の毛や一部の皮膚などが残っていて、一部はミイラ化していた)。若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹、母親と嫁など、近親者であると考えられている。浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に映している』。『また、天明3年の浅間山の噴火で流出し、すべてのものを飲み込んだ土石流や火砕流は、鎌原村の北側を流れる吾妻川に流れ込み、吾妻川を一旦堰き止めてから決壊。大洪水を引き起こしながら、吾妻川沿いの村々を押し流し、被害は利根川沿いの村々にも及んだ。この一連の災害によって、1,500名の尊い命が奪われる大惨事に及んだ。また、当時鎌原村にあった「延命寺」の石標や、隣村(小宿村=現在の長野原町大字大桑字小宿)にあった「常林寺」の梵鐘が、嬬恋村から約20km下流の東吾妻町の吾妻川の河原から約120年後に発見された』。『村がまるごと飲み込まれたことから、東洋のポンペイとも呼ばれ』るとあるが、火山災害では『生き残った住民が避難した先(場所)で新しい町を再建』するのが通例であるのに、本話の中で描かれるように鎌原では『生き残った住民が同じ場所に戻って、村を再建した非常に珍しい例である』とある。『現在、火山災害から命を救った観音堂は厄除け信仰の対象となって』いるそうである。また、この鎌原村を襲った火砕流・岩屑流については、酒井康弘氏のHP「鬼押出し熔岩流のナゾにせまる」の、「鎌原村を襲った土砂について」で詳細な考察が行われている。本話の重要なプレ場面であるから、少々長い引用となるがお読み頂きたい。『七月八日四ッ半時(午前十一時)に、山頂から熔岩流、砂礫などが多量の水とともに推定千二三百度の高音で流れ出し、アッという間に上州側の北側を流れ下り、六里ヶ原の何百年という原始林を押しつぶし、傾斜を嬬恋、長野原に向けて押し出した予想もしない泥流のために鎌原村が全滅した(嬬恋村史 下巻)』。また他に『浅間山が光ったと思った瞬間、真紅の火炎が数百メートルも天に吹き上がると共に大量の火砕流が山腹を猛スピードで下った。山腹の土石は熔岩流により削りとられ土石なだれとして北へ流れ下った。鎌原村を直撃した土石なだれはその時間なんとたったの十数分の出来事だった。家屋・人々・家畜などをのみこみながら、土石なだれは吾妻川に落ちた。鎌原村の被害は前118戸が流出、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げ延びた93人のみだった。火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下った』という従来の見解を提示しつつ、『しかし、最近では、その堆積物の見られる範囲が鬼押出熔岩流の下の方だけに限られていることから、別の考え方もある』として、『7月8日午前10時ころ、中腹のくぼ地辺りで大きな爆発があった。現在の火山博物館のすぐ西には当時柳井沼とよばれる湿地があり、この強い地震でその付近の山体の一部が崩れて岩なだれが発生した。このため流下しつつあった鬼押出熔岩流の一部が巨大な岩塊となって北麓の土砂、沼地を掘り起こし土石なだれとなって北麓を流れ下った。これが鎌原火砕流と呼ばれているが、実際は岩屑なだれと呼ぶのが正しいという。その他には噴火当時、浅間火山博物館の西側にくぼ地があって、水がたたえられており、火砕流がこれに突入して大規模な水蒸気爆発を起こし、岩屑流と泥流を発生させた。あるいは、沼の中から水蒸気爆発が起こり、火砕流が起こったと考える人もいる』という見解を紹介、『浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができた。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没させたという考え方が一般的である』とする。以下、1979年に始まり、13次に及んだ鎌原村の発掘調査結果に触れ、『十日ノ窪の埋没家屋の一部に火災を思わせる部分があったものの、ほかのすべてにおいて、建築用材、生活用品に焼けたり焦げたりした形跡は認められなかった。一方、火山地質の検討からしても、鎌原村を覆う押し出しによって堆積した層の中で、天明3年の噴火の際、直接火口から飛び出した熔岩は、全体の熔岩中5パーセント前後であることが判明した。このようなことから鎌原村を襲った押し出しとされる現象は、熱泥流とされるものではなく、常温に近いく、しかも乾燥したものであることが明らかとなり、“土石なだれ”と呼ぶこととなった』。『鎌原村の被害は、江戸時代という比較的新しい時代のできごとであり、その状況を示す古文書や記録類も多く、また、言い伝えもあが、発掘調査によって得た知見は、その多くが古文書や記録類では知ることのできなかった新事実が明らかとなり、言い伝えなどとはかなり異なるものもあった』とされ、ここに酒井氏の「鎌原土砂移動に関する仮説」が示される。『大噴火の当日、それまで3ヶ月ほど断続的に続いた噴火現象が静かになり、晴れ上がった夏の午前を村人はほっとして過ごしていたという。現在の嬬恋村鎌原(旧鎌原村)は突如、火砕流・岩屑流(土石なだれ)・泥流などのいずれかに急襲され、あっというまに土砂の下になったといわれ、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げた93人のみであった。発掘調査をした人の話では家屋、家財道具などの痛み具合からは、土砂による押出した力は従来から考えられたような高速でしかも強力な圧力ではないという。そして土砂が襲ってきたとき、高い方へ逃げた人は助かり、土砂を背にして逃げた人は埋もれてしまったという。地元の人の話では、旧鎌原村から観音堂の石段までは急げば5分位で到達できると言う。そして50段の石段も健康なひとであれば5分以内には登れるであろう。土砂移動をみてから逃げる時間は少なくとも10分くらいはあったのではないか』。『大量の熔岩が雪崩を起こして柳井沼に突っ込んだとき、大轟音が聞こえた。この大轟音は火山の噴火とは違う大きな音で人々は外へ出て、浅間山の方を見上げた。しかし、残念ながら旧鎌原村からは小高い丘がじゃまして浅間山はみえない。しばらくするとざざーという泥水が小熊沢に沿って流れてきた、次いでピチピチといいながら熔岩を混じえた大量の土砂が押し寄せてきた。逃げろと言う声とともに、その時、高い方向かって逃げた人と、下へ向かった逃げた人に分かれた。逃げ出す程度の時間的な余裕はあった』。土砂は『従来からかなりの高速で鎌原村を襲ったと考えられているが、中腹から吾妻川への傾斜は緩やかで、土砂の時速30から40kmくらいではないかと推測される(私の考えでは時速100kmなどいうことはない)。しかも大量の土砂は御林(一里あまりの松林)を押し倒しながら北へ向かう時、有る程度スピードが落ちるはず』で、『土砂の流れは時速30から40kmくらいではないか(私の考えでは時速100kmなどいう岩なだれではない)。鎌原観音堂の石段の五十段付近で見つかった老若二人の遺体も流される事なく、石段のところで倒れていた。もし、時速100kmほどの高速の岩なだれであれば、二人とも流されてしまうであろう』と推論されている。シャーロック・ホームズを髣髴とさせるスリリングな論考である。鎌原村遺跡発掘をなさった元嬬恋村郷土資料館館長松島榮治氏の研究によれば、宝暦13(1763)年の観音堂須弥壇造立の際の奉賀連名帳によれば村の総戸数は118戸と推定され、文化12(1815)年の観音堂参道入口にある供養碑によれば罹災時の戸数は95とある。これより天明3年被災時は100戸前後と推定され、その人口は安政4(1860)年に山崎金兵衛という人物が記した「浅間山焼荒之日并其外家并名前帳」に、犠牲者477人、生存者93人とあることから、被災時は、『一応570人とみられる。しかし、異なった数字をあげている史料もある』とし、『農業に不向きな標高900メートル前後の浅間山北麓の地に、戸数100戸前後、人口五百数十人の大型村落が形成されたことは意外である。しかし、この地は、上州と信州を結ぶ交通の要所にあり、加えて、200頭前後の馬が飼育されていることからすると、単なる山村ではなく、宿場的機能をもった村落と推定される』とする(以上は「元嬬恋村郷土資料館館長松島榮治先生講義録」を参照した)。訳では一般的に通りがよい「土石流」を採用した。
・「鐵炮の筒先」溶岩流・火砕流・土石流の直撃した場所を指す噴火後の呼称であろう。
・「人別」人別改による村民数。人別改は一種の人口調査で、後には宗門改と合わせて行われるようになり、享保11(1726)年以降は6年ごとに定期的に実施された。
・「大笹村」上野国吾妻郡大笹村。現・群馬県吾妻郡嬬恋村。鎌原村の西南西約2㎞の吾妻川南岸に位置する。現在の嬬恋村を横切っている国道144号線は、江戸時代には大笹街道(仁礼街道とも)と呼ばれた北国街道の脇往還で、沼田~吾妻~上田、高崎~仁礼~善光寺を結ぶそれの通行人・草津への入湯客等を取り締まるため、寛文2(1666)年に沼田薄主真田伊賀守により大笹関所が設置されている。山村ながら大笹宿として栄えた村である。
・「干俣村」上野国吾妻郡干俣村。現・群馬県吾妻郡嬬恋村干俣。鎌原村の西北約2.5㎞の吾妻川北岸の支流である干俣川上流に位置する。吾妻鉱山や万座温泉で知られる。
・「大戸村」上野国吾妻郡大戸村。現・群馬県吾妻郡東吾妻町で、鎌原村の東約10数㎞の吾妻川支流の温川及びその支流である見城川東岸にあり、かなり鎌原村からは離れている。同町から温川(ぬるがわ)を下った吾妻川合流地点にある郷原は、縄文期の印象的なハート型土偶の出土地として知られる。
・「夫食」一般庶民への救援食糧物資。
・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保15(1730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任時代の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。お馴染みの「耳嚢」の一次資料的語部の一人でもある。
・「白銀」贈答用に用いた楕円形の銀貨で白紙に包んである。通用銀の三分とされるが、通用銀は天保丁銀を指し、天保8(1837)年より通用開始されたもの。丁銀は銀の含有比率が低く(20~80%)形も重さも一定でなかったが、この白銀は銀純度が高く、形も切り揃えて成形してあり、重量も43匁と決まっていた。資料によると本話柄の40年程前、元文年間(1736~1741)で白銀一枚=0.7両とある。
・「米穀百に四合五合」100文で米4~5合しか買えない、1合が20~25文したということである。以下にしらかわただひこ氏の「コインの散歩道」の「1文と1両の価値」のページにある分かり易い対照表から、米一升の小売価格の推移と相対比較するための蕎麦屋の蕎麦(もり・かけ)の値段を引用する。
【米1升(小売値)】↓ 【蕎麦一枚】
慶長・元和 25文 ↓
(1596~1623)
寛永 30文 ↓
(1624~1643)
寛文 50文 6文
(1661~1672)
元禄 80文 8文
(1688~1703)
享保・元文 80文
(1716~1740)
宝暦・明和 100文 16文
(1751~1771)
文化・文政 120文 16文
(1804~1829)
天保 150文 16文
(1830~1853)
慶応 500文 20文
~1000文 ~24文
(1865~1867)
明治33年 16銭 1銭5厘
(1900)
昭和35年 124円 35円
(1960)
平成12年 700円 474円
(2000)
一見2~3倍弱にしか見えないが、当時は今とは考えられないくらい米食に依存しているから(一日5合程度の消費量が考えられる)、天命の大飢饉に加えて浅間大噴火のダブル・ダメージを受けた当時の被災民にとっては、とんでもない高騰であったと考えてよいであろう。
■やぶちゃん現代語訳
浅間山麓鎌原村にて起こった大異変に際し稀に見る誠意に満ちた取り計らいを致いた者の事
上州吾妻郡鎌原村は浅間山北側に位置している村であるが、かの天明三年の浅間山大噴火の際には、広範囲に溶岩や土石が押し寄せた折りから――この鎌原村は、特に噴火後には「鉄砲の筒先」と呼ばれたほど、直撃を受けた被災地であった――人別帳の上でも三百人ほどの村民の内、成人男子・女子・子供をも含んで九十三人だけが生き残ったばかり、後は残らず総て、流れ下る土石流に押し埋められ、皆、流失、亡くなった。
この事態に、残されたその者たちもただただ途方に暮れていた。
ここに同郡大笹村の長左衛門、干俣村の小兵衛、大戸村の安左衛門という者たち、稀に見る誠意を持って、即座にこれらの生き残った被災者をそれぞれに分担して引き取り、救援致いた。のみならず、浅間の噴火が少し鎮まって後には、三人の者共同で、この壊滅した鎌原村跡に仮住居として小屋を二棟掛け、それぞれの村から救援物資として麦・粟・稗なんどを少しずつ送っては彼らの生活を引き続き援助致いた。勿論、同じ頃には御公儀からも現地の代官にお指図これあり、当地の被災した一般庶民への広範な食糧援助等が行われていたことは言うまでもないので御座ったが。
さても、右仮小屋を建てるに際し、以上の三人で協議致いて、救援の大方針として、さる秀抜なる工夫を編み出して御座った。
――そもそも百姓というもの、実は何やらん、誰ぞと変わらず、先祖伝来の家柄血筋やら先祖素性やらに、殊の外、拘るものにて、たとえ現在は富貴にして高雅なる家(や)の者であっても、その村にて先祖代々重んじられて御座った家系の者でない限りは、応対するに際しても己(おの)が座敷にさえ上げず、万事内外、格式やら挨拶やらに格別に五月蠅きものなれど――この三人、小屋二棟の被災者全員を招集致すと、
「さても、かくなる危難に遭(お)うて生き残りし九十三人は、これ、誠(まっこと)、骨肉相和す親族と思わねばならぬ。」
と、この小屋にて親族の約諾を致させたので御座った。
その後、私も関わったところの御公儀による災害復興事業が成功裡に終わった頃、なおまた、この三人は、この鎌原村被災者全員に酒肴を送って祝った上――九十三人の内、夫を失した女には女房を流された男を取り合わせ――また、子を失った老人には親を亡くした子を養わせて、計九十三人、残らず、名実共に一家一族と成したので御座った。
誠に変事に遭(お)うての味な取り計らい方、これ、見事なもので御座る。
右の三人、実はこの鎌原村に限らず、外(ほか)の噴火罹災した村々へもやはり同じように稀に奇特なる救援を施し、同様に格別の取り計らいを致いて御座ったことなれば、私、勘定奉行であられた松本豆州秀持殿とも協議の上、お上へ上申致いたところ、三人総てに白銀を御下賜なされた上、一代限りの帯刀及び子孫代々姓を名乗ること、これ、お許しとなったので御座った。
善行というものは、その徳、則ち、心からの誠意の表れあってこそのことと――その譬えとしてこれ以上相応しい出来事は御座らぬ。
この三人の内、干俣村の小兵衛という者はさほど由緒ある人物にてはこれなく、ただ普通に商いを致いておる者である由。浅間山噴火により、近在の百姓の難儀を聞き及び、小兵衛思えらく、
「……我らの村は同じ郡乍ら、はるかに峰と川を隔たっておる故、この度の災厄を免れた……なれど、もし、同じように、かの被害に遭(お)うたとならば……今こそ、己(おの)が財産を捨て、難儀致いておる人々を救はんとするは、当たり前のこと――」
と、家財惜しまず投げ打って、急変を救ったのだということで御座った。
この天変地異によって、その年の米価は高騰、百文出しても四~五合、という前代未聞の事態となったのであるが、この干俣村商人小兵衛の署名・印さえあれば、米の交換を拒む者は近在には一人としてなかったのであった。
この小兵衛なる者には、恩賜の件に付、申し渡した際、この私も会うてその風体を実見致いたが、失礼乍ら、これと言って利発という感じの男にては、これなく、ただただ如何にも実直そうな老人とのみ見えて御座った。
* * *
小堀家稻荷の事
京都に住宅せる上方御郡代小堀數馬租父の時とかや。或日玄關へ三千石以上ともいふべき供廻りにて來る者有り。取次下座敷へ下りければ、久々御世話に罷成數年の懇意厚情に預り候處、此度結構に出世して他國へ罷越候。依之御暇乞に參りたりと申置歸りぬ。取次の者も不思議に思ひけるは、洛中は勿論兼て數馬方へ立入人にかゝる人不覺、怪しきと思ひながら其譯を數馬へ申ければ、數馬も色々考けれど、公家武家其外家司(けいし)召仕への者にもかゝる名前の者承り及ばず、不審して打過けるが、或夜の夢に、屋敷の鎭守の白狐、年久敷屋敷の内に居たりしが、此度藤の森の差圖にて他國へ昇進せし故、疑はしくも思はんが此程暇乞に來れり、猶疑しく思はゞ明早朝座敷の椽(えん)を清め置べし、來りまみへんとなり。餘りの事の不思議なれば、翌朝座敷の椽を鹽水などうちて清め、數馬も右座敷に居たりければ、一ツの白狐來りて橡の上に上り暫くうづくまり居たりしが無程立さりけるにぞ、扨は稻荷に住白狐の立身しけるよと、神酒赤飯などして祝しけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:これといって連関を感じさせないが、順に読んできた私には、民百姓が飢えて「米穀百に四合五合といへる前代未聞の事」態に比して、稲荷とはいえ畜生たる狐が「三千石以上」、その立身に「神酒赤飯などして祝しける」武士という能天気さ加減には――単独で見れば映像もくっきりとして面白い話で、前の話しよりも百年も前の話ではある――が聊か呆れるものがないとは言えぬ。
・「上方御郡代」幕府では、比較的広域の幕府領を支配する代官のことを郡代と言った。江戸時代初期には関東郡代の他、この上方郡代、更に尼崎・三河・丹波・河内などでは、ほぼ一国単位で郡代が置かれていた(寛永19(1642)年の勘定頭制の施行に伴い、郡代・代官はその管轄下に置かれ、その後、関東郡代は老中支配となっている)。江戸時代中期以降は関東・美濃・西国・飛騨の4郡代となった。身分・格式は代官の上であったが、その職務内容(租税徴収監督・下級裁判訴訟)は代官とほぼ同じであった(以上は主にウィキの「郡代」を参照した)。
・「小堀數馬租父」「小堀數馬」小堀仁右衛門家第6代当主小堀邦直(享保13(1728)年~天明九・寛政元(1789)年)。4代惟貞の長男。その「祖父」は第3代当主であった小堀克敬(寛文十三・延宝元(1673)年~享保4(1719)年)である。小堀仁右衛門家は600石の旗本で、代々禁裏の作事を担った。武家茶道の一派小堀遠州政一(天正7(1579)年~正保4(1647)年)に始まる遠州流分家。小堀仁右衛門家初代小堀正春が遠州の異母弟に当たる(以上はウィキの「遠州流」を参考にした)。何となく感触でしかないが、これは遠州流茶道若しくは大名にして茶人、建築家・作庭家でもあった小堀遠州と何らかの関わりがある話柄なのかも知れない。
・「三千石以上」旗本で3000石以上になると正式な任官によって官職を名乗れるようになることから、後の「出世」に合わせたものであろう。
・「家司」平安中期以降、親王家・内親王家・摂関家・大臣家・三位以上の家にあって家政一般事務を司った職。いえつかさ。読みは「けし」の転。
・「藤の森」現在の京都府京都市伏見区深草鳥居崎町にある藤森(ふじのもり)神社。境内は現在の伏見稲荷大社の社地で、ウィキの「藤森神社」 によれば、『その地に稲荷神が祀られることになったため、当社は現在地に遷座した。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した』とある。底本の鈴木氏注には、「雍州府志」(浅野家儒医で歴史家の黒川道祐(?~元禄4(1691)年)が纏めた山城国地誌)によれば、『弘法大師が稲荷神社を山上から今の処へ移した時、それに伴って藤杜社を現在地へ遷したものであるといい、稲荷と関係が深く、伏見稲荷に詣れば藤森にも参詣するのが例であった』と記す。伏見稲荷は正一位稲荷大明神である狐=稲荷神の本所である。
■やぶちゃん現代語訳
小堀家屋敷内稲荷の事
京都に住む上方郡代小堀数馬殿の祖父の代のこととか。
ある日、殿のお留守に、屋敷玄関へ三千石以上と思しき多勢の供廻りを引き連れて参った者が御座った。取次ぎの者が主人の留守を詫びつつ、とりあえず下座敷にお通ししたところ、
「拙者○○儀、小堀殿に長々御世話に罷りなり、また長年の御厚誼御厚情に預かって参りましたが、この度、目出度く出世致いて他国へ罷ることと、相成り申した。これに依って、御暇乞いに参上致しまして御座る――どうぞ数馬殿にはよろしゅうにお伝え下され――。」
と言い置いて帰った。
取次の者もそれを垣間見た者も誰もが不思議に思ったのは、洛中にての往還の折りは勿論のこと、嘗て、かくなる御身分御尊顔の「○○」という御方が、この小堀家に訪ねてこられたことは、ついぞなかったからである。
如何にも奇怪(きっかい)なることと、帰宅した殿に、その不審と共にかくなる御仁の御来訪の由申し上げところ、公家・武家・その他家司、また過去に召使(つこ)うた者なんど、殿もいろいろ挙げてはみられたものの、「○○」という名前の者は、これ、存じ上げぬ――不審なるままに数日が過ぎた――。
そんな、ある夜、殿の夢に、屋敷内に鎮守としてある稲荷の白狐が現れ、
「――久しく御貴殿御屋敷内に居住致いて御座ったが、この度、藤の森御指図これあり、他国へ昇進と相成ったれば、不審なる者と思われたことと存ずれども、まずは御暇乞いにと参ったまで。――なおも疑しくお思いならば、明朝、座敷の縁を清めておかれるがよかろう。最後に参って、御目見え申そうぞ――」
と殿に語りかけた。
夢とはいえ、あまりに不思議な附合にては御座ったれば、翌朝、座敷の縁側を塩水などを打って清め置き、殿もその縁の内座敷にて座って御座った。
――と、庭先に一匹の白狐が現れた。
――ぴょん――とん――
と縁の上に上って、暫くの間、うずくまって――そうして程なく――立ち去った――
これを見て、殿は、
「さては稲荷に住む白狐の立身出世して御座ったか!」
と御神酒や赤飯などを供えて祝したということで御座る。
* * *
鄙姥冥途へ至り立歸りし事
番町小林氏の方に年久敷召造ひし老女ありけるが、以の外煩ひて急に差重り相果けるが、呼(よび)いけなどしてほとりの者立さはぎける内に蘇生しけるが、無程快氣して語りけるは、我等事まことに夢の如く、旅にても致し候心得にて廣き野へ出けるが、何地(いづち)へ可行哉も不知、人家有方へ至らんと思へども方角しれざるに、壹人の出家の通りける故呼かけぬれど答へず。いづれ右出家の跡に付行たらんには惡しき事もあらじと、頻りに跡を追ひ行しが、右出家の足早にして中々追付事叶はず、其内に跡より聲をかけ候者ありと覺へず蘇りぬと咄しける由。小林氏の親敷(したしき)牛奧(うしおく)子(し)のかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:霊験譚連関。
・「鄙姥」「ひぼ」と読み、田舎出の守女の意(老人とは限らない)であるが、老女でよかろう。
・「番町」所謂、山の手で、皇居に面した西の一帯。現在も当時と同じく名称は一番町から六番町で構成されている。北に抜けると靖国神社である。旗本の内、SPに相当する将軍警護役を大番組と呼んだが、彼等の居所がここにあった。
・「小林氏」不詳。
・「呼いけ」「魂呼(たまよばい)」のこと。私の好きな分野である。まずはウィキの「魂呼ばい」から引用する。これは『日本および沖縄の民間信仰における死者の魂を呼びかえす呪術行為である。死を不可逆的なものと見なさず復活の可能性が信じられたところからくる』もので、『現代日本では死体は火葬に付されるのが一般的で復活の観念は生じにくいが、後世火葬が完全に定着するまでには長い時間を要し、それまでは土葬が主流であった。特に古代では埋葬する前に殯(もがり)という一定期間を設け、復活への望みを託した』。現在でも『死者の出た家の屋根に登って、大声で死者の名を呼んだりする風習が』残っている。歴史的に『魂呼ばいが記録に残っている例としては、平安時代の「小右記」万寿2年8月に藤原道長の娘尚侍が死亡した夜行われた例が見える。このことからも当時の貴族の間にも儀式の慣習が残っていたことがうかがえ』(記号の一部を変更した。「小右記」は平安時代の公卿藤原実資(さねすけ 天徳元(957)年~永承元(1046)年)の日記。万寿2年は西暦1025年)、『沖縄では「魂込め(マブイグウミ)」「魂呼び(タマスアビー)」などの呼称があり、久高島では「マンブカネー(魂を囲い入れる、というような意味)」と呼ばれる。マンブカネーで興味深いのは、儀式から魂の出入り口が両肩の後ろ辺りに想定されていると思われる点である』とある。
――最も手頃にこれを見ることが出来る例は黒澤明の映画「赤ひげ」である。石見銀山を煽って危篤に陥った長坊に、療養所の女たちが井戸に向かって「ちょうぼう!」と叫び続ける印象的なシーンである(ここはカメラ・ワークも素晴らしい)。
――大学時代に私が唯一畏敬した漢文の吹野先生が講義の中で、御自身の出身地である茨城での少年期の記憶を話されて、亡くなった直後に親族の者がその人の衣服を持って屋根に上り、西(と言われたかどうかは今は定かでないが、とりあえず「西」としておく)に向かってその服をばたばたと煽った事実を話されたことを思い出す。
――また、俳優のジーパンこと松田優作が膀胱癌で亡くなった日(逝去は平成元(1989)年11月6日 午後6時45分)の夜のニュースを私は思い出す。松田優作の自宅門外が中継された映像で、記者がコメントをする背後に、「優作さ~ん!」と何度も連呼する男の声がかぶった。私は一聴、これは「太陽のほえろ!」で後輩刑事役に当たるロッキー刑事役木之元亮の声であると分かった。恐らく視聴者の中には、あの時、彼は目立ちたいの? なんどと思っている人が、きっといるんだろうなあと私は思った。彼は松田優作の、この世を離れんとする魂を呼んでいたのだった……私はしみじみ、あれ以来、俳優木之元亮が大好きになった。因みに、彼は北海道釧路市出身で、元漁師である。
・「出家」岩波版長谷川氏注に『冥界であう出家は地蔵』菩薩である旨、記載がある。
・「親敷」底本では右に『(尊經閣本「親友」)』とするが、採らない。
・「牛奥」旗本の中にこの姓があり、先祖は甲斐の牛奥の地を信玄から与えられてそのまま名字としたらしい。岩波版長谷川氏注には幕臣で、鎮衛の一族(但し、東洋文庫版鈴木棠三氏注の孫引きの指示有り)とする。
■やぶちゃん現代語訳
老女が冥土に至りながら生還致いた事
番町の小林氏の御屋敷に長年召し使っていた老女があったが、俄かに重き病を発し、瞬く間に危篤と相成って息を引き取ってしまった。
普段の臨終と同様、大声で老女の名を呼んで魂呼ばいの儀式なんどを致いて、床の周囲の者どもが立ち騒いでおったところ、何と! 蘇生致いたのであった。
老女はほどなく快気致いて、その折りのことを思い出して、次のように語ったという。
「……我らこと……誠(まっこと)夢を見ておりますような感じで御座いましたが……旅でも致しておりまするような心地にて、ふと気がつきますと……広い、広い野原へ出でおりました……何処へ行けばよいやらも分からず……ともかくも人家のある方へ参ろうと思いましたが……一向に方角も知れませなんだ……そこへ……ひとりのお坊さまが通りかかられたので……「もし!」……と声をお掛け致いたれど……返事は御座らず……ただひたひたとお歩みになられる……されど……いずれ……お坊様なればこそ……このお坊さまの後について行くならば悪しきこともなかろうと存知まして……ただもうお坊さまの後を追いかけて行きましたが……このお坊さま……いえもう大層足が早やいお方にて……なかなか追いつくこと叶いません……ただただ御跡を慕いて参りますうち……おや? 誰ぞ……後ろから声をかけて参る者が……おる……と思うか思わざるかのうち……蘇って御座いました……」
小林氏と親しくして御座る牛奥(うしおく)氏が私に語った話である。
* * *
人の命を救ひし物語の事
予留役勤たりし頃同役なしつる石黑平次太は、尾州の産にて親は尾州の御家中なりし。彼親小右衞門とやら言し由、壯年の頃任俠をもなして豪傑にてありしが、獵漁を好みて勤の間には常に漁獵などを慰みけるが、或日川漁に出て夜深(よふけ)の川邊へ出しに、年若き男女死を約せしと見へて、今はこふと思はれければ、早速立寄て引留、何故に死せるやと尋ければ、兎角に死なねばならぬ譯あり、見ゆるし給へとかこちけれども、何分我等見付ては殺し候事成がたしと、品々教諭して、ひそかに我宿へ召連れ委しく承ければ、右男女ともに名古屋の町人の子共なるが、隣づらにてひそかに偕老のかたらひをなしけるが、娘の親なる者は近年仕出し候俄分限(にはかぶんげん)ゆへ、色々媒(なかだち)して願ひけれ共親々得心なく、娘の親も容儀の艷成(ゑんなる)にほこりて、令偶を求めて是亦心なかりければ、かく死を申合せぬるとかたりぬ。夫より彼石黑聞て、何か我に任せよ、始終よきに計らんと彼町人の許へ至り、何か物騷しく忌はしき體(てい)也、いかゞせしと尋しに、壹人の倅風與(ふと)罷出行衞不相知、隣成る娘も是又行衞しれざれば、申合缺落(かけおち)にても致したるならん。若(もし)申合相果もいたし候哉(や)と兩親の歎き大方ならず、江戸上方へも追々追手を差出し、國中をもかくごとく搜し侍ると申ければ、夫は氣の毒なる事也、命だにあらば隨分穿鑿の仕方あらん、隣の兩親をも呼て來れ、我相談いたし遣はさんといひけるにぞ、露をも賴の折から故、早速隣家へも申遣しければ、彼夫婦も取敢へず來りける故、ちと我等搜し方の工夫有り。然し何故年頃似合の兩人、夫婦には致さるぞと尋ければ、さしたる事もなけれど、かくあるべしとも思はず、等閑に打過ぬるよし答ければ、内證には譯もあるべけれど、此人兩人は死しと思ひ、我等に兩人を給りなば手段付可申(つけまうすべし)といふに、いかにも差上可申と兩家の夫婦とも歎きければ、さらば語り聞せん、かく/\の譯を見候故、品々異見して我方へ召連歸りたり。我等に給はる上は我等方にて夫婦の盃婚姻の禮をなして、爰元へ送り歸すべしと申ければ、兩夫婦は誠に我子の活返りし心地して悦び、早速婚姻を調へ目出度榮へけるが、親共存命の内は申に不及、右夫婦兩家の者は、石黑方へは親同前に立入り、今以通路しぬると語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:実際の三途の川一歩手前からの生還で連関。また先行する「孝子そのしるしを顯す事」「又」等と同じく評定所留役時代(宝暦13(1763)年~明和5(1768)年)の話でも連関。
・「留役」評定所留役。基本的には将軍の直臣である大名・旗本・御家人への訴訟を扱った司法機関の一つであるが、原告被告を管轄する司法機関が同一でない場合(武士と庶民・原告と被告の領主が異なる場合等)、判例相当の事件がなく幕府各司法機関の独断では裁けない刑事事件や暗殺・一揆謀議等の重大事件も評定所の取り扱いにとされた。本件は原告若しくは被告の連座する者の中に武士階級が居たか、廻船絡みであるから、原告被告の領主が異なるのかも知れない。「評定所留役」とは評定所で実際に裁判を進める予審判事相当格。この職は勘定所出向扱いであるため、留役御勘定とも呼称する。
・「石黑平次太」底本鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注ともに石黒敬之(よしゆき 正徳六・享保元(1716)年~寛政3(1791)年)とする。御勘定を経て、『明和三年(一七六六)より天明元年(一七八一)まで評定所留役』(長谷川氏)であった。父は尾張藩の臣牧七太夫舜尚の四男。文中、『小右衛門とあるのは牧七太夫の子で、石黒伴政の養子となって同家を嗣いだが、子がなかったので弟平次太を迎えて養子にした』(鈴木氏)とある。何か分かったような分からんようなフクザツなことで……。ともかくも間違えてはいけないのは、この話の主人公は石黒平次太ではなく、その親=兄である石黒小右衛門で、場所も尾張名古屋である点である。この話を根岸が聞いたのは石黒平次太敬之と根岸鎭衞の共有する時間内であるから、明和3(1766)年から明和5(1768)年の2年間に絞られる。
・「尾州の御家中」の「尾州」は尾張国。「御家中」は尾張藩。ウィキの「尾張藩」より引用すると、『愛知県西部にあって尾張一国と美濃・三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格にして最大の藩であり、諸大名の中でも最高の家格を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石』。
・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。
・「俄分限」急に大金持ちになること。また、その人。
・「令偶」「令」は「よい」の意、「偶」は「配偶者・連れ合い」又は「めあわせる」の意であるから、高貴な家柄との縁組を言う。
・「此人兩人」底本では右に『(尊經閣本「此子供兩人」)』とある。「子供」は死に、立派な大人の夫婦となるべき流れなればこそ、こちらを採る。
・「夜深(よふけ)」は底本のルビ。
・「風與(ふと)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
人の命を救った物語の事
私が評定所留役を勤めていた頃、同役で御座った石黒平次太は尾張の出身にて、親は尾張藩の御家中の者であったという。
彼の父――実は実の兄――小右衛門(こゑもん)とやらは、壮年の頃、任俠を以って鳴らし、豪傑を誇っておったが、殊の外、狩漁を好み、勤めの合間には常に山野水辺を駆け回って、狩りを楽しみとして御座った。
ある日のこと、川漁のために夜更けの川辺に出向いたところ、年若い男女がおり、相対死(あいたいじに)を約せしと見えて、今は最期と入水せんとすると思われたので、小右衛門、ずいと近づいて、二人をむんずと摑んで引き留め、
「何故に死なんとするカッ?!」
と雷のような声で糺した。すると、小右衛門のあまりの怒気に押されたのか、男は消え入るような声で、
「……兎も角も……死なねば成らぬ訳(わけ)が御座います……どうか……どうか何卒、お見逃し下さいませ!……」
と歎き訴えたけれども、小右衛門、
「――何分、我ら、うぬらの今わの際を見つけた以上は、見殺しに致すこと、これ成り難し!」
と一喝した。
その後、あれこれ説教致いて、ともかくも取り敢えずはと、人目を忍んで小右衛門宅へ召し連れ、そこで詳しく訳を尋ねてみたところ――
……この男女、共に名古屋の町人の子供で、隣同士の幼馴染みにて、いつしか惹かれ合(お)うて秘かに夫婦(めおと)を誓い合う仲となった御座ったのだが、この娘の親なる者はこのところ、急に金回りが良くなって売り出してきたところの、所謂、俄分限で――男の親は内心俄分限の隣りを馬鹿に致し、俄分限の隣りは構えの割にはうだつの上がらぬ隣家を馬鹿にする――ここにきて男も女もいろいろと陰に陽に知る人がりに媒酌してもらい、夫婦(めおと)にならんことを願い出たけれども、双方親共、けんもほろろ。加えて俄分限となって勢いに乗っている娘の親は、ちょいとばっかり娘が艶っぽいのに思い上がって、名家に御縁を求めようなんどという欲を出し、およそ色好む二人の心を分かる心なんどは、これ全くない……
「……さればこそ……かくの如く、死を申し合わせまして御座います……」
と語った。
小右衛門はそれを聞き終えるや、
「よし! 何もかも俺に任せろ! 悪いようには――しねえぜ!」
と言うが早いか、二人をそのまま屋敷に居させた上、自身はまず、男の方の町家を何食わぬ顔で訪ねた。
「――何だ! 何だ! 妙にもの騒ぎで五月蠅(うるせ)えじゃねえか! 何だってえんだッ?!」
と例のドラ声一発で質いたところが、吃驚した家の者、平身低頭、
「……これはどうも五月蠅きことにて失礼致しました……実はこの家(や)の一人息子が行方知れずと相成りまして……また、隣の家(や)の娘も、これまた行方知れずになって御座れば……これは申し合わせて駆け落ちでも致いたに違いない……いいや、もし相対死でも致いたのではあるまいかと……両親の嘆きも一方ならず……ともかくも江戸・上方へも追っ手の者を差し向け、国中をも何としても探し出さんものと……と申せ、両家とも実のところ、捜しあぐねておるので御座いまする……」
と申す。そこで小右衛門、徐ろに、
「それは気の毒なことじゃ! そうなれば、命さえ無事ならよしと致さば――うむ! ならこそ捜索の仕方もあろうぞ! されば、隣りの両親をも呼んで参れ! 儂が一つ、力になろう程に、まずは皆々相談の上――」
と提案した。これを伝え聞いた男の父は、藁にも縋りたい心持の折柄、早速、隣家にも伝えたところ、女の両親もとりあえず揃うた。そこで小右衛門、
「実はの、我らには探し方に我ら独特の伝手(つて)がある――されば大船に乗った気持ちでよいぞ。――しかしのう、仄聞致いた限り年頃似合いの両人、何故(なにゆえ)、夫婦(めおと)に致さざるか?」
と質したところが、両家共、
「……へえ……これと言って、さしたる理由は、これ、御座いませぬが……」
「……こんなこととは露知らず……等閑(なおざり)に致いて御座いましたれば……」
と如何にも歯切れが悪い。そこで小右衛門、すかさず、
「内々にはそれぞれに何ぞ訳も御座ろうがの――一つ、うぬらの子供両人は、最早死んだ、と思うて――我らに両人を呉れてやったという覚悟になれるのであれば――さすれば、探し出す手段に付、今すぐに申し上げること、出来ようぞ! 如何(いかが)?!」
と重厚な面持ちにてやらかした。すると、
「……如何にも!……」
「……へえ、差し上げ申しますればこそ……どうかよろしゅうに!」
とすっかり意気消沈している両家夫婦、訳も分からず気押されて、泣きの涙に合点した。
それを聞いた小右衛門、すっくと背を伸ばして、
「さらば語り聞かさん! 我ら……かくかくしかじか……という訳で、実は両人相対死致さんとせしところを見咎め、いろいろ意見致し、我が屋敷に召し連れて帰ったのじゃ!――二人は我らが賜わった以上、我ら方にて夫婦(めおと)の盃、婚姻の儀を成してそこもとらへ送り帰さんと存ずる!」
と言上げ致いたところ、両家夫婦は、真(まこと)に子供らが生き返ったかのような心地して大いに悦んだのであった。
小右衛門はそのまま屋敷に戻るなり、早速に二人の婚礼を調え、目出度く夫婦の契りを結ばせたという。
二人はその後も末長く幸せに暮らして家も栄えた。
二人の両親存命の間は申すに及ばず、その後もずっと、この夫婦及び両家の家人たちは、石黒家へは親元同様に立ち寄り、今以って親しく交わって御座る――と、実の弟石黒平次太が語ったことで御座る。
* * *
人の血油藥となる事
ひゞあかぎれの類其外切疵などに、穢多の元より出る膏藥妙なる由。右穢多膏藥は專ら人油(じんゆ)を用るといふ物語の序、是も石黑かたりけるは、同人一族の由、尾州にての事成しが、至て強勇の兄弟あり。或夜盜賊大勢押入て家財を運ぶ樣子聞付て、兄弟枕にありし刀を引下げ立出けるに、盜賊共庭へ逃出しを追缺(おひかけ)、矢にはに兩人切倒しけるが、兄なる者けさに切倒したる胴の中へ、其足先を踏込(ふんごみ)しと也。跡にて兄語りけるは、右胴へ踏込侯節は、誠に熱湯へ足を入し如く、扨々人の血肉は熱する物也と語りしが、右兄從從來垢切にて難儀せしに、其年よりは右踏込し方の足はあかぎれ絶てなかりしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:石黒平次太談話にて連関。一種のプラシーボ効果かも知れず、はたまた、かくなる効果がないとも言い切れぬであろう。しかし、どうも本件には、その導入部分からして、明白な差別意識が働いている。その点を十分理解しながら、批判的に読み下されんことを望むものである。
・「油藥」読みは「ゆやく」か。「あぶらぐすり」でもよい。
・「人油」この話柄は前後が天明の大飢饉絡みであることから、高い確率で飢饉で人肉食が行われた事実が談話の中に上ったことから引き出されてきた話ではないかと私は推測するものである。
・「穢多」平凡社「世界大百科事典」より引用する(句読点及び記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって17世紀後半から18世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。1871年(明治4)8月28日,明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが,これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ,「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては,鎌倉時代中期の文永~弘安年間(1264~88)に成立したとみられる辞書「塵袋(ちりぶくろ)」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ 穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また,ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが,末尾の「穢多」の2字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は,鎌倉時代末期の永仁年間(1293~99)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では,鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取(えとり)」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』(著作権表示:横井清(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。
・「石黑」石黒平次太敬之。前話注参照。
■やぶちゃん現代語訳
人の血が油薬となる事
ひび・あかぎれの類、その他、切り傷などに、穢多が製薬した油薬(あぶらぐすり)が絶妙な効果を持っている由。
偶々談話の折り、この穢太膏薬なるものは専ら人肉・人血を素材とした油を用いるらしいという話に及んだ際に、やはり石黒平次太が語った話で、以下、同人一族の、知れる者の実話なる由。
尾張国での話、恐ろしく強腕の兄弟があった。
ある夜のこと、彼等の屋敷に盗賊一党が押し入り家財を持ち出す様子を聞き付け、兄弟、枕元の刀を引っ下げて立ち出でたところ、盗賊どもは庭に逃げ出した。
それを追撃して矢庭に二人切り倒したが、兄なる者――兄弟して先に袈裟懸けに切り倒した盗賊の――その残骸の胴の中に、もろに足を踏ん込(ご)んだという。
その後、兄なる者の話に、
「あの時、斬ったばかりの遺骸の胴に足を踏ん込(ご)んだ時は、誠(まっこと)、熱湯に足を入れた如く、さてもさても人の血肉とは、熱きものじゃ!」
と語ったというのだが――この兄なる者、それまで冬になればあかぎれ致いて難儀致いておったものが――その件の御座った年の冬以来、この踏ん込(ご)んだ方の足のみ、あかぎれが絶えて生じなくなったとのことである。
* * *
仁慈輙くなせし事
御靈屋(おたまや)へ予拜禮せし序、東叡山の執事たる佛頂院の許へ立寄けるに、酒などいだし暫く物語せしが、咄の序に、過し天明卯の年諸國農作不熟して米穀の價ひ百文に四合五合に商ひし頃、萬民難儀なしけるが、淺間の燒砂降し村々、公儀より御救ひの御普請も被仰付、其外百姓及び御府内(ごふない)の賤民へも御救ひを給り、家々戸々よりも志のある者は夫々の施しをなしぬ。佛頂院などは釋門(しやくもん)の事なれば、朝夕此事に召仕ふ者にも申仕て心懸しかば、限あるを以はかりなきに施す事可行(ゆくべき)樣(やう)もなかりしが、佛頂院へ隨身せし小僧ありしが、日々佛前へ備へ、或は法施(ほつせ)の米食など、常は庭上に其所を極め鳥などにあたへけるを、取集め置て飢に沈む者へ給るやう致べしとて申ける故、尤の事也とて其意に任せぬれば、辰春(たつのはる)に至りては餘程の干飯(ほしいひ)にいたしぬ。よく社(こそ)致しぬるとて、辰の四月日光へ御門主の御供して罷りし頃、旅中飢渇のものへ散財して施し與へしに、御神領などよりは厚く禮に參りしも有しと語りぬ。その小僧は賴母しき出家也、今は如何致せしと尋ければ、此節は上方へ學問に遣しけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない、というか、どうも前話は、既に述べてある通り、私には不快な話(言っておくが、それは「生理的に」ではない。やはり被差別者に関わる話だからである)であって、その連関を述べたい気持ちさえ失せると言っておく。
・「仁慈」思いやりや他者への深い情け。
・「輙く」は「たやすく」=「容易く」と読む。
・「御靈屋」一般名詞としては先祖の霊や貴人の霊を祀る霊廟のことであるが、ここでは徳川将軍霊廟のこと。寛永寺と増上寺及び日光の輪王寺(徳川家康と家光)の三箇所に分納されている(最後の徳川慶喜は霊廟はなく東京谷中霊園に墓所がある)が、ここでは直後に山号「東叡山」とあるので寛永寺を指す。徳川将軍15人の内、家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定の6人を祀る霊廟があった。現在、日光以外があまり知られていないのは太平洋戦争の空襲によって殆んどが焼失したためである。
・「執事」寺院に常駐して家政及び事務一般を司る僧侶。住職代理に相当。
・「佛頂院」寛永寺塔頭(たっちゅう)の一つであるが、現存しない。
・「天明卯の年」天明3(1783)年。
・「米穀の價ひ百文に四合五合に商ひし頃」前掲「鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事」の「米穀百に四合五合」の注を参照のこと。
・「法施」仏に向かって経を読み、法文を唱えることを言う。ここでは仏像への日々の供物としての仏飯に対して、勤行法要等の際に、それとは別に施主から施される仏飯等を言っているものかと思われる。
・「辰春」翌天明4(1784)年の春。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この謂いからは、本話柄を根岸が聞いたのは天明5(1785)年か翌6年の間に絞り込むことが出来るものと思われる。但し、鈴木氏の執筆区分を考えずに推測するならば、天明の大飢饉の終息後のこととも考えられ、だとすれば天明8(1788)年以降の話柄とも考え得るが、終盤の遊学云々の描写はここから5年以上が経過しているようには思われない。
・「御府内」江戸町奉行支配の及ぶ江戸市街区域を言う。文政元(1818)年に、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内と定められた。
・「御門主」門跡寺院(皇族・貴族が住職を務める特定の寺院)の住職を言う。寛永寺は問跡寺院で、特にその門主を「輪王寺宮」と呼称した。寛永20(1643)年に開山の南光坊天海没後、『弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山する。その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。法親王は承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなった。以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた』。輪王寺宮は『水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国に皇族を常駐させることで、西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)』とある(以上、引用はウィキの「寛永寺」から)。
・「御神領」日光東照宮領。社殿神域に加え、経済維持のための周辺近隣に及ぶ。前記注の如く、その最高責任者も輪王宮である。
■やぶちゃん現代語訳
仁慈なるものは容易に行い得る事
ある時、寛永寺御霊屋を拝礼致いたついでに、その頃、同寺執事に当って御座った塔頭仏頂院に立ち寄ったところ、酒など出されて歓待されたことがあった。その際の雑談の中で聞いた話で御座る。
過ぎし天明三年のこと、諸国農作物不作となり、米価、小売り百文で四、五合という値いまで高騰、万民難渋致いたは記憶に新しい――。
加えて同年七月の浅間大噴火――その火山灰や土石流が降り下った村々には、御公儀より救援の御普請方も仰せつけられ――私自身、その役を仰せつかったので御座った――その他広範な地域の百姓及び御府内の賤民に至るまでも御救済方思し召しを賜わり、ありとある町屋百姓の主だった家々からも、その志ある者は、それぞれに出来得る限りの施しを致いたもので御座った――。
「……本院などは、これ、仏門のことなれば、言うに及ばず、朝夕この窮民救援の仁慈のこと、召し使(つこ)うておるあらゆる者どもに申しつけ、心懸けさせては御座ったれど……仏道の本意たるところの――「施さん」との無辺の仁慈を以って、しかも聊かも「施さん」という卑小なる作善の思い上がりを持たずに「施す」こと――これ、なかなか難しいことにて御座った。
そんなある日のことで御座った。
本院にて修行致いておる一人の小僧が御座ったのじゃが、この少年が、
『日々仏前へお供え致し、或いは法事の際に御布施として致します仏飯などは、今まで、それを目当てに致いて常に庭にやってくる鳥なんどに与えておりしたが、これをやめ、皆々集めた上で腐らぬように保存致し、飢餓の底に沈み苦しむ民へ給わられるよう、取り計らわれるとよろしいかと存じます。」
と申します故、
『それは誠(まっこと)よきことを思いついたの。』
とて、この小僧の思うように任せてみ申したところ、翌天明四年の春までには相当量の干飯(ほしいい)を造り成して御座った。
同年四月初夏、この小僧は寛永寺御門主輪王寺宮様に随身して日光東照宮へ参詣致いたので御座ったが、かの干飯を、道中、沿道の飢渇せる者どもに、広く施し、分け与えたので御座った。
後日、沿道に当って御座った御神領各所の、その施しを受けた民ぐさの中には、輪王寺宮様へ厚く礼に詣でた者も御座ったと言いまする――。」
聞き終えた私は、感嘆して言った。
「その小僧――なかなかに頼もしき沙門じゃ。さても、今はどうして御座るか?」
と尋ねたところ、
「この度は上方へ学問に遣わして御座います。」――
* * *
神道不思議の事
凡そ世の中に巫女神人(じにん)など神變不思議をかたり奇怪の事をなすなどあり。予其怪妄を親しき鬼女の戲れと思ふ事のみなりし。安永の酉年より同亥年迄、日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤せしに、日光山御宮の御威光奇特(きどく)は申も恐れなれど、正(まさに)外遷宮(げせんぐう)の夜は今まで打曇りし空もはれ渡り、吹風枝を鳴らさぬ有樣、申もおろかながら、是は誠に宇宙を平均なし給ひ、御武德千歳の今も津々浦々迄其澤(たく)を蒙らざるものもなく、萬人渇仰の御所德なれば申も愚かならん。其外日光は深山幽谷たり、魔魅の住所迚(とて)是迄色々の奇怪を申習しぬれど、予三年の在勤の内聊怪しき事も聞かず。或日新宮の御湯立(ゆだて)とて、本坊御留守居の寺院より案内にて、右拜殿の棧敷へ至り、松下隠州丸毛一學依田五郎左衞門など一同見物なしけるに、湯立の釜三つ鼎(かなへ)を並べ熱湯玉をほとばしる、神人白き單物(ひとえ)を着し風折(かざをり)烏帽子にて白きさしぬきをして、神樂(かぐら)に合せ舞曲を盡す。右舞曲神樂のさまいかにも古雅にして、今江戸表などにて舞はやすの類ひにあらず。さて熱湯に向ひ何か祈念して幣帛(へいはく)をとりて、右柄をもつて湯の中ヘ書き湯中を廻しぬるに、湯氣ほとばしり煮たつ煙すさまじかりしが忽に靜りぬ。扨笹の葉をとりて己が身へ浴びけるに、湯かたさしぬきもひた濡れに成ぬれど、聊かあつきと思ふ氣色もなし。傍に見物せし者へ右湯のかゝけるに、誠にたゆべくもあらぬ由。誠に神國のしるし、神道のいちじるき事を始て覺へぬる故爰にしるし置ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:日光東照宮連関。それにしても前にも指摘したが根岸は神道には寛容。かなりの国学肌を感じる。
・「神人」日本史の用語では神社に隷属し雑役などを行った下級の神職・寄人(よりゅうど)を指し、正式な神主・神官とは厳然と区別されるが、ここでの根岸の謂いは神主・神官などをも広く含んでいるものと思われる。
・「安永の酉年より同亥年迄」安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。
・「日光御宮」徳川家康を神格化した東照大権現を祀る日光東照宮。
・「御靈屋」岩波版長谷川氏注では徳川家光廟があるとのみ注する。これは日光東照宮は徳川家康を神格化した東照大権現を祀るものであり、所謂、狭義の「御靈屋」家光の大猷院廟のことのみを言うと判断されての注と思われる。また、厳密に言うと大猷院廟は神仏習合であった輪王寺の中にあるので、「日光御宮」は家康の霊廟を示したものとし、これを大猷院廟とされたのでもあろう。
・「本坊向」「本坊」は日光山輪王寺のこと。天台宗。当時は神仏習合で日光東照宮・日光二荒山(ふたあらやま)神社と合わせて「日光山」を構成していた。ウィキの「輪王寺」によれば『創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた』。『「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもあり、堂塔は、広範囲に散在して』おり、先に記した『徳川家光をまつった大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い』とある。「向」は輪王寺関連付属施設の謂い。
・「御普請御用」底本注に「寛政譜」を引用する。『安永六年十一月二十九日、さきに日光山御宮御霊屋本坊等の修造を監し、それより八年十二月十二日、しば/\日光山に赴き諸堂社修復のことを奉行せしにより、黄金十五枚をたまはり、ことにその労を慰せられて二領を恩賜せらる』。
・「奇特」これは「きどく」と読んで、神仏の持つ超人間的な力や霊験のことをいう。
・「外遷宮」日光東照宮では本社を修理する際には祭神東照大権現の神霊が一時的に御仮殿(おかりでん)と呼ばれる建物に移された。この儀式を外遷宮と言う。一般的に伊勢神宮のような例外を除いて神社本殿の改築・修理では仮社殿を直前に設置し、新本殿完成後は仮社殿は取り壊すのが普通であるが、日光東照宮では古くは本社修理が頻繁に行われたために、この御仮殿は常設建物となった。寛永16(1639)年建立と伝えられ、本社と同様、拝殿・相の間・本殿からなる権現造りとなっており、神儀一切が本社と同様にここで行われた。この外遷宮式は過去19回行われているが、文久3(1863)年を最後として、その後は行われていない。
・「新宮」上記「本坊」で示した「日光山」を構成する日光二荒山神社のこと。日光の三山である男体山(二荒山)・女峯山・太郎山の神である大己貴命(おほなむちのみこと:大国主)・田心姫命(たごりひめのみこと:宗像三女神の一人。)・味耜高彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)三神を二荒山大神と総称して主祭神とする。以下、ウィキの「日光二荒山神社」から引用する。『下野国の僧勝道上人(735年 - 817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に766年に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建て、それに続いて神護景雲元年(767年)、二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたのが当社の始まりと伝える』。二荒山は「ふたらさん」とも読むが)これは一説に『観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、のちに弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。空海はその訪れた際に女峯山の神を祀る滝尾神社を建てたという。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った』。戦国期には一時衰退したが、『江戸時代初め、隣接して徳川家康を祀る日光東照宮が創建され、当社はその地主神として徳川幕府から厚く崇敬を受けた』。『江戸時代までは神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400ヘクタールという、伊勢神宮に次ぐ面積となっている』。
・「湯立」神前に釜を据えて湯を沸騰させ、トランス状態に入った巫女が持っている笹や御幣をこれに浸した後、即座に自身や周囲の者に振りかける儀式やそれから派生した湯立神楽などの神事を言う。これらのルーツは熱湯でも火傷をしないことを神意の現われとする卜占術の一種であった。
・「本坊御留守居の寺院」これは恐らく寛永寺門主で日光山主を兼ねる輪王寺宮が寛永寺に在って「不在」の折りの「留守居」役=執事役の塔頭寺院のことであろう。
・「松下隱州」松下隠岐守昭永(あきなが 享保6(1721)年~寛政9(1797)年)。底本の鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注に、御先手鉄炮頭から安永6(1777)年に作事奉行、翌年に鑓(やり)奉行を歴任したとあり、鈴木氏注には『作事奉行のときしばしば日光山に赴き御宮御霊屋及び本坊修理に当たったので、八年に黄金五枚を賜う』とあるから、彼がこの場にいる以上、本話柄は安永6年の出来事である可能性が高い。「卷之一」の「人性忌嫌ふものある事」に既出。
・「丸毛一學」岩波版長谷川氏注に、丸毛政良(まさかた)とする。それによれば、安永8(1779)年に本話柄に示された日光修理の業績で賞せられ、同9(1780)年普請奉行に、天明2(1782)年には京都町奉行就任したと記す。更に底本注では安永『六年根岸と共に日光山・世良田の竣功を検し』たとあるから、やはり本話柄は俄然、安永6年の出来事である可能性が高くなる。しかし、この人物、京都東山学園教諭石橋昇三郎氏の「天明伏見町一揆越訴事件の顛末記」によれば、京都町奉行としてはとんでもない悪吏となったようである。『天明七年の洛中での「天明の飢饉」による米価高騰の折、町衆が「お千度参り」なるデモンストレーションを御所の周りで繰り広げたが、時の東町奉行丸毛政良が、町民を救済するどころか、逆に米商人近江屋忠蔵らと結託し、米を隠匿し、米価をつり上げ、暴利を貪り、町年寄をも圧迫した為、町衆が「丸毛和泉守は商人なり」、奉行は「丸屋毛兵衛だ」と棹名して嘲ったという』とある(引用元注によればこれは原田伴彦著「江戸時代の歴史」三一書房の二五二頁及び辻ミチ子著「京都こぼればな史」京都新聞社刊の九一頁を参照した由)。直前で天明の飢饉の仁慈を称揚した同じ町奉行となった根岸にしてみれば、この丸毛の悪行三昧、怒り心頭に発したであろうこと、想像に難くない。
・「依田五郎左衞門」底本鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注に依田守寿(もりかず 享保13(1790)年~寛政2(1790)年)とする。長谷川氏注に『日光修理に関係。天明三年駿府町奉行。同八年御留守居』とある。
・「三つ鼎」「鼎」は金属製の器で通常は3本の脚を持つ。中国古代に於ける王侯の祭器とされ、後には王権の象徴ともなった。ちょっと分かり難いのであるが、「三つ」は三脚を意味し、その鼎を炉として、その上に釜を置いたのであろうか。とりあえずそのように訳しておく。
・「風折烏帽子」正式な立(たて)烏帽子は機能的でないため、上部1/3程度を折って用いることがあったが、これを烏帽子の一種として実用的に改良したもので、見た目は立烏帽子の頂が風に吹き折られた形になっている。狩衣(かりぎぬ)着用の際に用いられ、細かな礼式にあっては上皇仕様右折りで組紐使用、左折りで紙捻使用は一般用であった。極めて類似した略式のものに平礼烏帽子(ひれえぼし)というものもあった。
・「さしぬき」「指貫」と書く。袴の一種。裾口に紐を刺し通して、着用の際に裾を括って足首に結ぶもの。
・「幣帛」本来は神社で神官が神前に奉献するものを総称するが、所謂、一般に良く見るところの幣(ぬさ)のことである。ここでは前出の笹の葉が幣である。
■やぶちゃん現代語訳
神道の不思議真実(まこと)の事
凡そこの世にあっては、巫女やら神主やらと称する者の中に、やれ、神変、やれ、摩訶不思議なんどと称し、語りならぬ騙りを致し、見るからに怪しげ千万な奇術なんどをして見せては、人を惑わす輩がおるものである。私は、永年、こうした奇術妄説の類い、十把一絡げに、女子供を驚かすだけの他愛のない戯れに過ぎぬとのみ思って御座った。
しかし乍ら神道の不思議なること、これ真実(まこと)なり、という経験を致いたことがかつて御座った――。
私は安永六年より安永八年に至る三年の間、日光東照宮・大猷院様御霊屋・本坊日光山輪王寺及びその附属建物、並びに日光山諸寺諸堂諸社諸祠の御普請御用のため、日光山に赴任して御座った。
日光山の御宮の御威光やそのあらたかなる御霊力御霊験の程は、今更申し上げるも畏れ多いもので御座るが――まさにかの外遷宮の夜は――それまで曇って御座った空があっという間もなく晴れ渡り、それまで吹いて御座った風もぴたりと止んで、一枝一葉さへ鳴らさぬ有様となって、一山水を打ったように静まり返って御座った。申すも愚かなること乍ら――これは、真実(まこと)に全宇宙森羅万象を一つ残らず統べなさって、その広大無辺の御武徳が千年の後の今に至るまで、本邦津々浦々に至るまで、蒙らざるものは一つとしてない、この世のありとある万民が渇仰するところの御神徳の成せる技なればこそ――やはり、申すも愚かなることなので御座ろう――。
今一つは、それとは別のこと、日光という場所、深山幽谷多き地にて、魔性のものや魑魅魍魎の類いが住まう所と噂され、これまでもいろいろと奇怪なる出来事これ有り、なんどと世間にては噂されて御座るが、私が三年在勤して御座った内、奇怪なる一件だに見聞きしたことはなかった――ところが――
ある一日、新宮二荒山神社の御湯立神事の儀、これ執り行うに付、是非とも御参詣あれかし、と本坊輪王寺留守居の塔頭(たっちゅう)より案内(あない)これあり、二荒山神社拝殿の桟敷へと参り――当時共に日光山御普請御用に携わって御座った松下隠州守昭永(あきなが)殿、丸毛一学政良(まさかた)殿、依田五郎左衛門守寿(もりかず)殿らと一緒に見物致いたので御座ったが――。
……神前には三脚の鼎、その上に湯立の釜を置いたものを並べて、釜の内には熱湯が煮え滾(たぎ)って御座る……そこに神主、白き単衣(ひとえ)を着し、風折烏帽子を冠し、白き差貫を穿いて、神楽に合わせて神楽を舞う……その舞曲、これが如何にも古雅にして、今時の江戸表なんどで流行っておるところのえげつない舞いの類いなんどとは、比べものに成らぬほど品格が御座る。
……その後、神主、ごほごほと沸き立つ湯気に向かいて、何やらん祝詞を捧げ、幣帛(へいはく)を手にし、その柄を以って熱湯の中にずいと差し入れたかと思うと、柄にて何やらん文字なるようなものを熱水中に書いて御座る様子……と、かっと熱湯をこき混ぜる……と……それまでぐわらぐわらと迸(ほとばし)って煮立って濛々たる白煙を噴き上げて御座った朦々たる熱湯が、忽ちのうちに静まった……さても神主、徐ろに笹の葉を執りて湯にずんと差し入れ、即座に抜き取ると……己が身へばっさばっさと浴びせかける……神主の薄き浴衣差貫、すっかりひた濡れに濡れて、身ぐるみこれ熱湯にてずぶ濡れとなる……されど……聊かも熱がって御座る気色もない……時に、傍らにて見物致いて御座った者の一人に少しばかりこの幣帛の飛沫(しぶき)がかかって御座ったところが……その者、余りの熱さに耐えようもないほどであった由……。
誠(まっこと)、神国の御印(みしるし)、神道の著しき霊験を初めて目の当たりして感無量、故にここに永き真実(まこと)の摩訶不思議として、記しおくものである。
* * *
妖術勇気に不勝事 此一條鳩巣逸話を剽竊せる也
上州高崎の人、當時武陽にありて語りけるは、或時怪僧壹人高崎の城下に來りて、色々奇妙の事などいたし呪(まじなひ)をなしけるゆへ、町家の者共信仰なしけるが、家中の者共も右の出家を呼て尊崇する者あり。雨中の徒然なる儘に、若侍四五輩集りて錢又は域砲の玉などを握りて居候を、右出家差向ひて取之に、其防成がたし。彼出家申けるは、我等右の手の中の品を取候間、右の手に小刀を持て我等が取候處の手を突き申さるべしとて、幾度か其業なしけるに、出家の手を突く事はならずして、兎角に握りしものをとられぬ。然るに同家中にて年ぱい成者其席へ來りて、手の内の物を人にとらるゝといふ不埒の事やある。われらが握りし品を取可申迚、左の手にて握り、右の手に小刀を持差出しけるに、彼僧さらば取り候とて立向ひしが、何分御身の掌中の品はとり侯事成難しと答ふ。さも有べし、武士の掌中の物を人にとらるゝなどいふては濟ぬ事也。かゝる戲れはせざるものなりとて其座を立て歸りぬ。跡にて若き者ども、何故にあの者の掌中の品はとられざるやと尋ければ、出家答ていふ。各が我等がとらんとする手を小刀にて突んとし給ふ故とらるゝ事なれ。彼人は其身の握りし拳ともに突んとし給ふゆへとらるべきやうなしといひて、高崎を立さりぬと人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:神道の真実(まこと)の霊験に対して、怪僧の幻術で連関。前話の謂いを用いるならば、これこそ「神變不思議をかたり奇怪の事をなす」ものであり、根岸が「其怪妄を親しき兒女の戲れ」と断ずる類のものである。
・「妖術勇気に不勝事」の「気」はママ。
・「此一條鳩巣逸話を剽竊せる也」章題の下にポイント落ちで附されている。これは狩野本章題下に書き込まれた後人の附加文であって根岸の言葉ではない。「鳩巣逸話」は「鳩巣小説」の別名。「剽竊」は「剽窃」と同音同義。室鳩巣(むろきゅうそう 万治元(1658)年~享保19(1734) 年) は新井白石と並び称せられる儒学者。京都で儒学者木下順庵(元和7(1621)年~元禄11(1699)年:金沢藩主前田利常に仕え、後に幕府儒官・徳川綱吉侍講となる。)に師事し、同門の新井白石の推挙によって幕府儒官となった。合理的な人材登用制度である足高の制を設けるなど、享保の改革のブレーンとなった。後、吉宗及び家重二代に渡って侍講となった。赤穂事件の際には「義人録」を著して、主従の義を重んじた浪士を讃えたことでも知られる。底本鈴木氏注によれば、本話柄は室鳩巣が著わした随筆「鳩巣小説」(続史籍収覧所収)の三巻の下巻に、大久保彦左衛門の逸話として記されるという。『狐つきの老婆が侍たちの手巾を握らせ、取れと声をかけさせる拍子に、目に見えぬうちに抜取って見せるので大評判となったが、彦左衛門に対してはこの老婆も最初から手が出なかった。それは手拭を取ろうとすれば腕を斬落そうという勢だったからとてもできなかったと、老婆は後で語ったとある』とする。但し、鈴木氏も「剽竊うんぬんの語は当たらない」と付言されているように、私も根岸が確信犯で剽窃したものではないと考える。このような話柄が所と人を変えて、都市伝説として蘇えったものと考えるべきものであろう。根岸が「鳩巣小説」を読んでいなかった、読んでいたが内容が同一であったことを失念していた――いや、それこそこれは「鳩巣小説」の話柄の剽窃であることを十分承知していながら、その話柄の面白さから敢えて再生都市伝説としてここに採用したのではないかとさえ私は思うのである。何故なら、「耳嚢」の「ここ」に挿入する話柄として、これは如何にももってこいのものであり、更に武人譚としても極めて魅力的な話柄――根岸好みである。「鳩巣小説」の原文を読んでいないので明確には言えないが、鈴木氏の梗概と比して、こちらの方がシチュエーションとしてはよく出来ている感触さえ受ける――だからである。私は「鳩巣小説」は所持しない。何時か、「剽窃」原話の採録をしたいとは思っている。なお、この一条は批評注であるから現代語訳からは外した。
・「高崎の城下」高崎藩。大河内長沢松平家。譜代大名8万2000石。本話柄前後の時系列から天明年間であったとすれば、藩主は第5代松平輝和(てるやす 寛延3(1750)年~寛政12年(1800)年)。天明元(1781)年に家督を相続している。先代ならば父輝高(享保10(1725)年~天明元(1781)年)。
■やぶちゃん現代語訳
妖術は勇気に勝てぬという事
上州高崎の人が、江戸に出て来た折りに語った話で御座る。
ある時、一人の怪僧がぶらりと高崎の御城下に現われ、色々不思議なる幻術やら呪(まじな)いを致いて見せた故、あっという間に、町屋の者ども雲霞の如く、この怪僧の足下に跪き、御家中の者の中にさえ、この出家を呼び迎えて軽率にも尊崇致す者が現われた。
そんなある雨の日のこと、宿直(とのい)の退屈なるにまかせて、若侍四、五人が集まった上、この僧を呼び出だいて、例の幻術の仕儀を乞うた。
その幻術なるもの――
――若侍どもが、銭又は鉄砲の弾丸(たま)等を片手にぎゅっと握り締めておるのを、差し向かいに座って御座るこの僧が、その掌中の物を奪い取るという単純な技であった――。
……ところが、誰一人として、奪い取られるのを防ぐことが出来ぬ――
……何やらん、しゅるるっと、僧の手が触れたかと思うと――一瞬にして銭や弾丸は彼らの面前に広げられた僧の掌上に――
――ちょこんと、鎮座しておる――
更にその僧、
「……さても次は、握られた同じ手に、一緒に小刀(さすが)をお持ちになれれよ……そう、そのように……さても、では今度は、拙僧が貴殿らの右手に握って御座る銭や鉄砲の弾を掠め取らんとする際、その同じく一緒に握って御座る小刀を以って、奪わんとする拙僧の手を手加減なく突いてご覧になるがよい。」
と言うので、試してみる――
……と……
……同じように銭や弾丸は彼らの面前に広げられた僧の掌上に――
――ちょこんと、鎮座しておる――
……この若侍ども、余りのことに、武士なれば流石に、真剣になって何度も試してみたのじゃが――
……僧の手に一創の掠り傷を与えることも出来ずに、やはり――
――銭弾丸は僧の手に――
――ちょこんと、鎮座致いておる――
しかるに、そこへ偶々家中の者の中でも相当に年輩の、一人の侍がやって来て、
「掌中の玉を人に取らるるなんどという不埒なること、あってはならぬことじゃ――御坊――一つ、拙者が握った品を取ってみらるるがよい――」
そう言うと、その侍、
――左の手に品を握り、右手に小刀を執って、左手を徐ろに差し出した――
かの僧曰く、
「……さらば、戴きまするぞ……」
と言って差し向かいに座った――
――ところが――
――僧、何時までたっても手を出さぬ――
――いや、それどころか、全身を堅くこわばらせた儘、微動だにせぬ――
……暫く致いて、
「……いや……どうも……何分、御身の掌中の物……これ、取ること、叶いませぬ……」
と俯いたまま呟いた。
すると侍は穏やかに、
「そうで御座ろう。当然のことじゃ。武士の掌中のもの、これを他人に取られたとあっては、ただでは済まぬことじゃて。このような戯れ、やってはならぬ部類のこと、じゃの――。」
と言って、その場を立つ去った。
後に残った若侍どもが、
「どうして……彼の掌中の品、取れなんだのじゃ?」
と訊ねたところ、僧は聊か恥じ入った様子で答えた。
「……方々は……我らが取らんとする、その拙僧が手を、小刀で突こうとせられた……故、拙僧に玉を取られて御座ったのじゃ……なれど、あの御仁は……その御自身の拳諸共に、拙者の手を串刺しにせんとの御覚悟……とても取るべき手だてなんど、ない……」
と告げて、そのまま高崎を後に致いたという――ある人の、確かに語って御座った話。
* * *
臨死不死運の事
俳諧の宗匠をして寶暦の頃迄ありし雲桂といへる者の俗姓を尋るに、武家の次男にて放蕩の質にて、新吉原町へ通ひ、深く申しかわせし妓女のありしが、揚代につかへ誠に二度曲輪へも立越がたき程の事なりし故、右遊女へも其譯かたり、遊女も馴染今更別れんも便なしと歎きけるが、兎角相對死をなさんと覺悟を極め、右女を差殺我も死んとせしに、人音に驚きて暫く猶豫の内、表の入口の潛り戸を明る音しければ、此所にて死なず共、一先此所を立出宿にて死せば外聞もあしからずと、支度して表へ立出、程なく大門(おほもん)を出て、堀より船にのり兩國迄來りしが、さるにても數年かたらひし女を殺し、少しも跡に殘らんはいかゞと、船端に立あがり入水せんとせしを、船頭見付て大きに驚き、其儘舟のもやひにて船ばりに結付、柳橋より小石川岸岐(がんぎ)と言る河岸迄飛がごとくに漕付て、我等が舟にて入水ありては我身の難儀也、此所よりあがりて、其後は死ぬとも活るとも勝手になし給へと、言捨て舟漕出しぬ。雲桂も詮方なく、宿へ歸り死せんとせしを、一族など取鎭め、暫くは亂心也とて人も附居たりしゆへいかんとも詮方なし。日數かさなれば其身も死ぬ氣も失て、果は俳諧の宗匠となり渡世を送りけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。死のうにも死ねない落語のような話しながら、私には死んだ遊女が哀れで、その上、こういう奴が俳諧の宗匠ときた日にゃ、不愉快極まりない。そもそも江戸幕府は心中を不義密通の罪人扱いとして男が生き残った場合は死罪とされた(幕府は「心中」が「忠」に通ずるとして嫌悪し、「心中」の語自体の使用を禁じ、「相対死」(あいたいじに)と呼称した)。前の話と反対に、数少ない「耳嚢」の中でも何やらん、好きになれない話柄の一つである。雲桂よ、アランになれや。
・「臨死不死運の事」「死に臨みて死せざる運の事」と読む。
・「寶暦」西暦1751年~1764年。
・「雲桂」諸注不詳。ネット検索でも掛からない。
・「俗姓」俳諧宗匠は僧形を装ったことからこのように言ったものであろう。
・「新吉原町」浅草寺裏手の千束村日本堤にあった吉原遊廓のこと。元の吉原遊郭は葺屋町(現在の中央区堀留2丁目附近)から明暦3(1657)年に浅草の北、に移転して来た。
・「大門」新吉原の唯一の入り口。これは「おおもん」で「だいもん」とは読まない。
・「船」猪牙舟(ちょきぶね)であろう。船首が特徴的に尖って全体にスマートな造りで、船速も驚くほど速かった。吉原通いは猪牙舟で、というのが通であった。
・「もやひ」舫(もや)い綱。舟を繋ぐ綱。
・「柳橋」神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一番目の橋。新吉原へ向かうには、ここから舟で漕ぎ出した。現在の中央区と台東区に跨る。
・「小石川岸岐」底本にはこの右に『(專經閣本「小石川市兵衞がん木」』(丸括弧の後ろが落ちている)とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「小石川市兵衞岸岐」とあり、美事折衷なればこれを採用。岩波版長谷川氏注によれば『小石川御門対岸(北岸)辺の河岸。文京区後楽園南方』と同定する(底本鈴木氏は不詳とする)。長谷川説を採る。「岸岐」とは河岸や船着場にある乗降用の階段のこと。
■やぶちゃん現代語訳
死を決しながら遂に死ねなかった運命を持った男についての事
俳諧の宗匠として宝暦の辺りまで存命していた雲桂という者、元を尋ぬるに、武家の次男であったものが、放蕩者にて新吉原へ入れ込み、深く契りを交わした妓女があったのだが、そのうち、揚げ代に事欠く様(ざま)となって、遂に二度と廓へ立ち入ることも出来難くなってしまうという仕儀に陥った。そこで、かの妓女へもその事実を打ち明けたところ、彼女もすっかり彼を頼りにして御座ったれば、
「……今更……お別れするは、辛うありんす……」
と泣きすがる……かくなる上は最早相対死に成さんと……覚悟を決め……女を刺し殺し……己(おのれ)も死なんせしが……深夜にも関わらず廊下を慌しく走る人の気配に驚き……息を潜めておったのだが、そのうちに夜が明け、表の潜り戸を開ける音も聞こえてきたので、
「……何も、ここで死なんでもよいじゃ……あいつももうこと切れて、冷とうなった……一先ず、儂にはもう縁のない、こんな廓なんぞは後にして……そうじゃ、自分の屋敷で死のう……されば……外聞も悪うはないわ……」
と身支度をして何食わぬ顔にて表へ抜け、大門を足早に立ち出でると、目の前の堀から猪牙舟(ちょき)に飛び乗り、一気に両国まで下って行く。
……その舟中にて……
『……それにしても……』
『……それにしても……数年の間、契りを交わした可愛い女を刺し殺した上は……このように! 少しでも後に生き残っておるとは! 堪えがたきこと!……』
と思いが込み上げて参り、矢庭にぬっと船端に立ち上がり、あわや入水せんと致いたところ、これを見た船頭、大いに驚き、瞬く間に舫(もや)い綱でもって彼を縛り上げると、そのまんま、柳橋から小石川市兵衛岸岐まで飛ぶように漕ぎ着け、乱暴に繩を解くや、どんと岸岐に突き倒し、
「おいらの舟から入水された日にゃあ、とんだ迷惑でぇ! ここから上がった後は、死ぬも生きるも、勝手にしろぃ!」
と言い捨てて、さっさと舟を漕ぎ去って行った。
彼は如何ともし難く、呆(ほお)けたようなって屋敷へ立ち帰ると、今度は自室にて死なんと試みたたが――この数日、如何にも不審なる様子を見てとって御座った――一族の者どもに見咎められ、叱咤甘言で取り鎮め、暫くの間は内々に「乱心致いた」とて軟禁の上、常に傍らに人が附いて監視怠らざれば如何とも詮方なく、そうこうしているうちに日数(ひかず)も重なれば、死ぬ気のその身も――死ぬ気のやる気も――すっかりしっかり失せて御座った。
――それからは何だ神田と御座る内……
――気がつきゃ五七俳諧の……
――五万と御座る宗匠と……
――なって渡世の私(わたし)舟……
* * *
賤者又氣性ある事
寶暦の初迄在し戲場役者坂東薪水彦三郎といひしは、名人と人の評判せし者也。日蓮宗にて至て信心の者成しが、或時外より日蓮正筆の曼陀羅の由にて大金にかへ調ひしが、兼て歸依しぬる僧に見せて目利を賴ければ、かの僧得(とく)と見て、高金を出し姶へど是は正筆には無之、あからさまなる贋筆也。扨々費成る事し給ひぬ。然し調ひ候價にはならずとも、我等拂ひ遣すべしと有ければ、彦三郎有無の答に及ばず、傍成火鉢へ打入煙となしぬ。彼僧驚きて尋ければ、いやとよ正眞と思ひて調しに、似せ物なれば貯へて益なし。此末貯へ置ば、今御身の仰の通、價をへらしなば調る人も有なん。左ありては我贋ものに欺れ又人をも欺んやと答えへける。賤敷河原者ながら、上手名人と人のいふも理り也と、或る人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:前話主人公俳諧宗匠雲桂は「寶暦の頃迄ありし」男、本話主人公歌舞伎役者坂東薪水彦三郎は「寶暦の初迄在し」男で連関。
・「寶暦の初」宝暦年間は西暦1751年~1764年。以下に見る通り、初代坂東彦三郎は寛延4年1月1日に逝去しているのであるが、寛延4年は10月27日(グレゴリオ暦で1751年12月14日)に宝暦に改元されていることから、このような謂いとなったものであろう。
・「戲場役者」歌舞伎役者。
・「坂東薪水彦三郎」初代坂東彦三郎(元禄6(1693)年~寛延4(1751)年)。薪水は俳名。ウィキの「坂東彦三郎(初代)」によれば、『大坂の立役篠塚次郎左衛門の甥とも山城国伏見の武士の子とも、また相模国足柄下郡江浦の生まれともいわれ』、『最初江戸で篠塚菊松の名で修行する。宝永3年11月 (1706) に大坂篠塚次郎左衛門座で坂東菊松を名乗り、角前髪で拍子事を演じたのが初舞台。翌年11月坂東彦三郎と改める。宝永8年11月京都へ上り、同地に留まること2年間、この間所作事、武道、やつし事などで好評を得て京坂で活躍』、『1729年江戸に下り初代坂東又太郎の門に入る。1740年11 月江戸に帰り、江戸の大立物として大御所の二代目市川團十郎、初代澤村宗十郎、若手の初代大谷廣次と共に当時の四天王といわれた』とある。岩波版長谷川氏注には『実事・武道を得意とし、実悪を兼ねた』とある。「実事」は「じつごと」と読み、立役(たちやく:主人公クラスの善人の男役。)の中でも、常識を供えたスマートな役柄を言い、対する「実悪」は所謂、悪玉の敵役(かたきやく)の中でもトップ・クラスの、国盗りや主家横領を企む極悪人の役柄を言う。
・「日蓮正筆の曼陀羅」とは一般に日蓮の法華曼荼羅呼ばれる法華曼荼羅のこと。ウィキの「法華曼荼羅」によれば『法華曼荼羅とは、法華経の世界を図、梵字、漢字などで表した曼荼羅の一種』で、天台宗・真言宗の密教に於ける法華曼荼羅は『法華経前半十四品(迹門)に登場する菩薩などを表したもので』あるが、ここに示されたものは日蓮宗独特のもので、『日蓮が末法の時代に対応するべく、法華経後半十四品(本門)に登場する、如来、菩薩、明王、天などを漢字や梵字で書き表した文字曼荼羅である。中央の題目から長く延びた線を引く特徴から、髭曼荼羅とも呼ばれている。また、一部には文字でなく画像で表したものもある』。『十界の諸仏・諸神を配置していることから十界曼荼羅(日蓮奠定十界曼荼羅・宗祖奠定十界曼荼羅)などとも称され』、『1271年(文永8年)に書いたものが最初で、日蓮直筆は127幅余が現存する』とある。
・「得(とく)」は底本のルビ。
・「河原者」河原乞食。本来は日本古来の被差別民への卑称であるが、この場合は芸能者・役者の蔑称として限定的に用いられている。明白な職業差別用語である。以下、ウィキの「河原者」より引用する(一部の記号を変更し、改行を省略した)。『平安時代の「左経記」長和5年(1016年)正月2日の記述から、当時、死んだ牛の皮革を剥ぐ「河原人」のいたことが知られる。これが史料上の初出である。室町時代に入ると「河原者」の多様な活動が記録に表れるようになる。彼らの生業は屠畜や皮革加工で、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれた。それらの地域に居住した理由は、河原が無税だったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説とがある。ちなみに、当時は屠畜業者と皮革業者は未分化であった。それ以外にも、河原者は井戸掘り、芸能、運搬業、行商、造園業などにも従事していた。河原者の中には田畑を所有し、農耕を行った例もある。河原者の中で最も著名なのが、室町幕府の八代将軍足利義政に仕えた庭師の善阿弥で、銀閣寺の庭園は彼の子と孫による作品である。その他、京都の中世以降の石庭の多くは河原者(御庭者)の作である。河原者は、穢多や清目と称される事もあった。ここでいう穢多は江戸時代のそれとは異なる。近世初頭、豊臣秀吉、徳川政権によって固定的な被差別身分が編成された際に、河原者はその中に組み込まれたと言われる。近世において「河原者」「河原乞食」と呼ばれたのは主に芸能関係者である(近代以降も「河原乞食」と賤しんで呼ぶことは続いた)。中世の被差別民は一般的に非人と称されたが、河原者がその中に含まれるかどうかについて、論争が行われている。近年、中世の河原者の居住地と、近世の被差別民の居住地が重なる例が京都や奈良を中心に報告され、部落の起源論争の大きな焦点となっている。これを理由に、部落の中世起源説を支持する人々もいる』。
■やぶちゃん現代語訳
賤しい者にも優れた見識ある事
宝暦元年頃まで存命していた板東薪水彦三郎は名人の誉れ高い歌舞伎役者であった。
彼の宗旨は日蓮宗で、これまた、熱心な信者であったが、ある時、日蓮真筆の曼荼羅なる代物を大金を叩いて手に入れ、かねてより懇意に致いて御座った宗僧に見せて、目利きを頼んだ。
その僧、凝っと見つめて御座ったが、
「……大金をお出しになられたそうで御座るが……遺憾乍ら、これは真筆にては、これなく……見るもまごうように筆遣いを似せただけの贋作にて御座る。……さてさて、勿体ないことをなさったものじゃ……いや、されど、誠によく似せて御座る品にて、これ自体は、真面目で立派な曼荼羅に仕上がって御座れば……勿論、貴殿がお買い上げになられた額というわけには参らねど、相応な金額にて、一つ拙僧が買い上げて進ぜましょう程に……」
と答えた。
彦三郎はそれに応えることなく、黙って傍らの火鉢にその曼荼羅を投げ入れた。
曼荼羅は勢いよく白煙を上げて燃え上がると、みるみるうちに白い灰となってしまった。
かの僧、余りの仕儀に聊か驚いて、彦三郎に訳を尋ねたところ、
「いや――真筆と思えばこそ買い求めたものにて、偽物(ぎぶつ)となれば持っておっても無益。――万一、このまま所持致いておらば、今正に御身が仰せられた通り、値を減ずれば買わんとせし人も御座ろう。――そうなっては、我ら、偽物に欺かれしのみならず、また、その御仁をも欺くことに他ならず――。」
と答えたという。
「……賤しき河原者ながら、芸道上手歌舞伎名人と人の呼ぶも、これ、理(ことわり)あることにて御座る。」
と、ある人が語って御座る。
* * *
藝道手段の事
古人のかたりけるは、享保の初めに山中平九郎といへる戲場役者ありしが、公家惡(くげあく)の上手にて、山中隈取(くまどり)とて怨靈事其外の面隈取方あり。寶暦の頃迄座元せし市村羽左衞門が顏の塗は則平九郎が傳にてありし由。山中が公家惡の粧ひ威有て猛く、見物の小兒など泣いだし候程の事也しが、古市川柏莚、未(いまだ)若年の※(かほ)見せに山中は坊門の宰相の役、柏莚は篠塚の役にて、大福帳とやらんを引合ふ狂言ありしが、柏莚橋掛りより出て、舞臺の平九郎と立合大福帳を引合に、見物の者平九郎のみを見て其上手を稱歎し、柏莚をよきと言ふ事なく、我心にも平九郎にのまれ候樣に覺へければ、色々工夫して着せる大紋をいかにも大きく拵へ、橋懸りより出るや否、足早に出て右大紋の袖を平九郎が面へ打かぶせ、袖にて平九郎をかくし例の通り睨みければ、見物の貴餞どつと柏莚を稱美しけると也。
[やぶちゃん字注:「※」=「白」(上)+「ハ」(下)。]
□やぶちゃん注
○前項連関:歌舞伎役者名人譚で連関。
・「享保の初め」享保年間は西暦1716年から1736年。次注に見るように初代山中平九郎は享保9(1724)年に没している。
・「山中平九郎」初代山中平九郎(寛永19(1642)年~享保9(1724)年)公家悪(後注参照)・怨霊事を得意とし、「江戸実悪の開山」「役者仙人」と称された。鬼女の隈取を試みていた平九郎の顔を垣間見た妻が失神したというエピソードが伝わり、現在の歌舞伎隈取の型の一つとして「般若隈」(目と口に紅を加えて般若の面相を象徴)別名「平九郎隈」として伝わる。これは正に「山中隈取とて怨靈事其外の面隈取方あり」のことであろう。「実悪」とは所謂、悪玉の敵役(かたきやく)の中でもトップ・クラスの、国盗りや主家横領を企む極悪人の役柄を言う。
・「公家惡」は皇位を奪取せんとするような身分の高い大逆の公家の役柄を言う。
・「寶暦」宝暦年間は西暦1751年~1764年。
・「座元せし市村羽左衞門」八代目市村羽左衛門(元禄11(1698)年~宝暦12(1762)年)市村座座元。元文2(1737) 年八代目を襲名後、寛延元 (1748)年に芸名を羽左衛門と改めた(以後、襲名は羽左衛門となる)。座元を60年間務めながら若衆・女形・実事・敵役等の幅広い役柄をこなして名人の誉れ高かった(以上はウィキの「市村羽左衛門 (8代目)」を参照した)。
・「古市川柏莚」二代目市川團十郎(元禄元年(1688)年~宝暦8(1758)年 享年71歳)。柏莚(はくえん)は俳号。父であった初代が元禄17(1704)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺されて横死(享年45歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。岩波版長谷川氏の「古市川柏莚」の注には『以下の記述に混乱がある』として、まず以下に記される狂言は享保2(1717)年に森田座で顔見世(後注参照)興行された「奉納太平記」で、そこで篠塚五郎を演じたのがこの「古市川柏莚」=二代目市川團十郎、坊門の宰相役を演じたのは山中平四郎(平九郎ではない)であると記す(以下、後注の便を考え、一部に恣意的な改行を施した)。
「篠塚五郎」は篠塚貞綱(定綱とも)なる武人であるが歌舞伎に暗い私には如何なる人物・役柄かはか不詳(因みに同様の理由により「奉納太平記」なる外題についてもここに語ることが出来ない)。
「坊門の宰相」というのは坊門清忠(?~延元3・暦応元(1338)年)は南北朝時代の公家。本名は藤原清忠。後醍醐天皇の側近。忠臣楠木正成を戦死させた人物として極めて評判の悪い人物である。この「大福帳」なる場面については吉之助氏の「歌舞伎素人講釈」の「歌舞伎とオペラ~新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」の一篇「アジタートなリズム・その13:荒事の台詞・2」の中に、正にその享保2(1717)年の「奉納太平記」のズバリ二代目市川團十郎自作の「大福帳」についての詳細な解説があるので引用させて頂く。但し、長谷川氏の注によれば、本文の「大福帳」の出来事は、この狂言ではないとするので注意されたい(後述)。
《引用開始》
歌舞伎十八番の「暫」の始まりは、初代団十郎が元禄10年(1697)に演じた「大福帳参会名護屋」と言われています。「暫」になくてはならないのが「つらね」です。 それは大福帳の来歴を豪快かつ流麗に言い立て・「ホホ敬って申す」で終わる様式的な長台詞で、初代・二代目団十郎ともに名調子で鳴らしたものでした。この「しゃべり」の技術は元禄歌舞伎の話し言葉の原型を残すものです。(注:その後の歌舞伎は人形浄瑠璃を取り込むことで語り言葉に傾斜していきます。)次に挙げるのは同じく「暫」の系譜である・享保2年(1717)森田座での「奉納太平記」での二代目団十郎自作による大福帳のつらねの最後の部分です。
『天下泰平の大福帳紙数有合ひ元弘元年、真は正徳文武両道紅白の、梅の咲分前髪に、かつ色見する顔見世は、渋ぬけて候栗若衆、幕の内よりゑみ出ると隠れござらぬいが栗の、神も羅漢も御存じの、十六騎の総巻軸、篠塚五郎定綱が、大福帳の縁起ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足、万々 ぜいたく言ひ次第、大福帳の顔見世と、ホホ敬つて申す。』
この台詞を口のなかでムニャムニャつぶやきながら・どうしたら荒事の台詞らしくなるか想像してみて欲しいのですが、「ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足 、万々ぜいたく言ひ次第」の部分は棒に一気にまくし立てるところで、「ぐわつ/ぽう/てん/ぽう/ ・・」という風にタンタンタン・・という機関銃のようなリズムが想像できます。これがツラネ全体のリズムの基本イメージですが、それだけでは台詞が単調になりますから、実際には前後にリズムの緩急・音の高低をつけて・それで変化をつけるのです。ですから「ぐわつぽうてんぽう」の直前の「大福帳の縁起」はテンポを持たせて・大きく張り、最後の「大福町の顔見世と」でテンポをぐっと落として・「敬って申す」で声を高く・裏に返して張り上げる形となります。これで荒事の台詞になります。最後の「敬って申す」で声を張り上げる様式的印象が鮮烈なので・忘れてしまいそうですが、タンタンタン・・のリズムを決めるところが基本的に写実であり・そこが話し言葉の原型を持つ箇所なのです。台詞の語句はしっかりと明確に噛むように発声しなければなりません。ただし、緩慢ではあるがタンタンタン・・のリズムのなかに急き立てる感覚が感じられます。この点に注意をしてください。
《引用終了》
長谷川氏は続いて、正徳4年顔見世興行の「万民大福帳」で、この「古市川柏莚」=二代目市川團十郎が鎌倉権五郎景政を、この山中平九郎が松浦宗任を演じており、ここで根岸が書いた
『大福帳を引き合うこと、平九郎に団十郎をあなどる振舞のあったことは』、享保2(1717)年の「奉納太平記」ではなく、この正徳4年顔見世「万民大福帳」でのことであると解説されている(先と同様の理由により、私は「万民大福帳」なる外題についても、該当大福帳場面についてもここに語る能力を持たないが、登場人物から少なくとも前九年の役と後三年の役をカップリングして舞台に借りていることは確か)。
「鎌倉権五郎景政」(延久元(1069)年~?)十六歳で後三年の役に従軍、右目を射られながら、射た敵を切り、戦友が目の矢を抜こうとしたが抜けず、足下に顔を踏んで抜こうとしたところ、それを無礼と斬りかかったというエピソードで知られる勇将。御霊信仰の対象である。
「松浦宗任」は安陪宗任(長元5(1032)年~嘉承3(1108)年)のことと思われる。安陪貞任の弟。前九年の役で奮戦、捕虜となって四国伊予国、治暦3(1067)年には再度、筑前国宗像郡筑前大島に再配流された。一説に彼は肥前の水軍集団松浦(まつら)党の開祖とも伝えられていた。
なお、以上の語部である老人の(根岸のではあるまい)錯誤部分については、複雑な様相を呈しているため、現代語訳ではその錯誤のまま、訂正を加えていないので注意されたい。
・「※(かほ)見せ」歌舞伎で年に一度、役者を交代して新規の配役にて行う最初の興行を言う。 当時の役者の雇用契約は満1年で、11月から翌年10月を一期間とした。従って配役は11月に一新、その刷新された一座を観客に見せるという歌舞伎界にあって最も重要な行事であった(以上はウィキの「顔見世」を参照した)。
・「坊門の宰相の役」前掲「古市川柏莚」注中の「坊門の宰相」の箇注を参照のこと(わざと改行してある)。
・「篠塚の役」前掲「古市川柏莚」注中の「篠塚五郎」の箇所を参照のこと(わざと改行してある)。
・「大福帳とやらんを引合ふ狂言」前掲「古市川柏莚」注中の『大福帳を引き合うこと、平九郎に団十郎をあなどる振舞のあったことは』の箇所を参照のこと(わざと改行してある)。
・「大紋」元は鎧の下に着た直垂(ひたたれ)の一種。以下、ウィキの「大紋」から引用する(記号の一部を省略した)。『鎌倉時代頃から直垂に大きな文様を入れることが流行り、室町時代に入ってからは直垂と区別して大紋と呼ぶようになった。室町時代後期には紋を定位置に配し生地は麻として直垂に次ぐ礼装とされ』、『江戸時代になると江戸幕府により「五位以上の武家の礼装」と定められた。当時、一般の大名当主は五位に叙せられる慣例となっていたから、つまり大紋は大名の礼服となったのである。このころの大紋は上下同じ生地から調製されるが、袴は引きずるほど長くなり、大きめの家紋を背中と両胸、袖の後ろ側、袴の尻の部分、小さめの家紋を袴の前側に2カ所、合計10カ所に染め抜いた点が直垂や素襖との大きな違いである』とする。『現在では歌舞伎や時代劇の「勧進帳」で富樫泰家が、「忠臣蔵」松の廊下のシーンで浅野長矩が着用している姿を見ることが出来る。このように今では舞台衣装としてのみ存在している着物である』とあり、如何にも本話柄にぴったりな記載を、ウィキの執筆者の方、忝い。
■やぶちゃん現代語訳
芸道絶妙の演技の事
ある年寄の語った話。
「……享保の初めの頃、山中平九郎という歌舞伎役者が御座ったが、公家悪の名人として知られ、今に「山中隈取」と言って、怨霊事その他に用いられておる隈取り方の考案者でも御座った。
宝暦の頃まで市村座座元を勤めた名優市村羽左衛門の顔の塗り方は、皆、この平九郎から伝授されたもの、とも言われる。
山中の描く公家悪の粧いは、これ、見るからに猛悪で御座って、見物の小児なんどは見るなり、泣き出した者もあった由。
かの名人、後の市川栢莚団十郎が今だ若かりし頃、さる顔見世にて、山中は坊門の宰相清忠の役、栢莚が篠塚五郎の役にて大福帳か何かをを奪い合う芝居が御座ったが――栢莚が橋懸かりより出でて、舞台上の平九郎とはっしと向き合い、大福帳を引っぱり合う――
――と――
――見物の者、平九郎の演技ばかりに魅了され、その妙技を称嘆するばかり――
――栢莚には声をかける者ばかりか、目を向けている者とて一人として、これ御座らぬ――――栢莚自身も平九郎の演技にすっかり呑まれたかのように感じて御座ったれば……
直ぐに演技や何やらさんざん悩んだ挙句、一つの工夫を思いついた。
舞台で着る篠塚五郎の大紋を、とんでもなく大きく拵えた。
次の舞台にて、栢莚、橋懸かりより出でるやいなや、足早