やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ

鬼火へ

耳嚢 卷之二  根岸鎭衞

 

注記及び現代語訳 copyright 2010 Yabtyan

 

[やぶちゃん注:底本は三一書房1970年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。

 以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。

 底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃に始まり、没する前年、文化11(1814)年迄の実に30年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクがあるものは私の翻刻訳注の完成版)、

「卷之一」の下限は天明2(1782)年春まで

「卷之二」の下限は天明6(1786)年まで

「卷之三」は前2巻の補完(日付を附した記事がない)

(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)

「卷之四」の下限は寛政8(1796)年夏まで(寛政7年の記事の方が多い)

「卷之五」の下限は寛政9(1797)年夏まで(寛政9年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)

「卷之六」の下限は文化元(1804)年7月まで(但し、「卷之三」のように前2巻の補完的性格が強い)

「卷之七」の下限は文化3(1806)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)

「卷之八」の下限は文化5(1808)年夏まで

「卷之九」の下限は文化6(1809)年夏まで

(ここで900話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、4~5年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)

「卷之十」の下限は死の前年文化11(1814)年6月まで

といった凡その区分を推定されておられる。【卷之二終了 2010年5月30日】【目次追加 2010年6月4日】]

 

目  次

 

  耳嚢 卷之二

蛇を養ひし人の事

小兒に異物ある事

蟲歯痛を去る奇法の事

蕎麥を解す奇法の事

解毒の法可承置事

堀部彌兵衞養子の事

幽靈なしとも難極事

執心殘りし事

吉比津宮釜鳴の事

日の御崎神事の事

無思掛悟道の沙汰有し事

信心に奇特ある事

古物不思議に出る事

藝道上手心取の事

正直に加護ある事 豪家其氣性の事

賤妓發明加護ある事

賤妓家福を得し事

怪我をせぬ呪札の事

非人に賢者ある事

浪華任俠の事

品川にてかたり致せし出家の事(二ヵ條)

實心可感事

兵庫屋彌兵衞松屋四郎兵衞起立の事

戲藝侮るべからざる事

人の不思議を語るも信ずべからざる事

淺草觀音にて鷄を盜し者の事

百姓その心得尤成事

孝子そのしるしを顯す事(二ヵ條)

鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事

小堀家稻荷の事

鄙姥冥途へ至り立歸りし事

人の命を救ひし物語の事

人の血油藥となる事

仁慈輙くなせし事

神道不思議の事

妖術勇氣に不勝事

臨死不死運の事

賤者又氣性ある事

藝道手段の事(二ヵ條)

異變に臨み熟計の事

猫の人に化し事

猫人に付し事

村政の刀御當家にて禁じ給ふ事

利欲應報の事

公家衆其賢德ある事

位階に付さも有べき事ながら可笑しき噺の事

好色者京都にて欺れし事

畜類又恩愛深き事

外科不具を治せし事

人の心取にて其行衞も押はからるゝ事

賣僧を恥しめ母の愁を解し事

強氣の者召仕へ物を申付し事

本妙寺火防札の事

いわれざる事なして禍を招く事

村井何某祖母武勇の事

小兒手討手段の事

事に望みてはいかにも靜に考べき事

瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事

聊の心がけにて立身をなせし事

手段にて權家へ取入りし事

狂歌にて咎をまぬがれし事

火災に感通占ひの事

藝道其心志を用る事

佛道に猫を禁じ給ふといふ事

會下村次助が事

其家業に身命を失ひし事

才女手段發明の事

覺悟過て恥を得し事

兩頭蟲の事

供押の足輕袴を着す古實の事

茶事物語の事

明君其情惡を咎給ふ事

強勇の者御仕置を遁れし事

強氣勇猛自然の事

猥に人命を斷し業報の事

水に清濁輕重ある事

奇病の事

忠死歸するが如き事

公家衆狂歌の事

畜類仇をなせし事

非情の者恩を報ずる事

思はず幸を得し人の事

奸智永續にあらざる事

池尻村の女召仕ふ間敷事

妙鏡庵起立の事

貧窮神の事

國によりて其風俗かわる事

上州池村石文の事

其法に精心をゆだねしるしある事

不受不施宗門の事

好む所左も有べき事

志す所不思議に届し事

義は命より重き事

寺をかたり金をとりし者の事

鼬の呪の事

一休和尚道歌の事

福を授る頑を植るといふ事

 

 

耳嚢 卷之二

 

 蛇を養ひし人の事

 

 江戸山王永田馬場邊の事也、或は赤坂芝ともいひて共所定かならず。御三卿(さんきやう)方を勤る人の由、苗字は不知、清左衞門と名乘る人なりし由。いか成事にか小蛇を養ひ、夫婦とも寵愛して、箱に入れ椽の下に置て食事などあたへ、天明二年迄十一ケ年養ひけるが、段々と長じて殊の外大きくなりて見るもすさまじけれど、愛する心よりは夫婦とも、朝夕の食事の節も床(ゆか)をたゝき候へば、椽の上に頭を上げけるに、其身の箸を以食事など與へける由。家僕男女も始は恐れおのゝきしが、馴るに隨ひて恐れもせず、縁遠き女子抔は右蛇に願ひ候へなど夫婦のいふに任せ、食事など與へて所念なせば、利益等ありて其願ひ叶ひし事もありし由。然るに天明二年三月大嵐のせし事有しが、其朝も例の通呼侯て食事など與へしが、椽の上へ上り何か甚苦痛せる趣故、如何致しけるやと夫婦も他事なく介抱せしに、雲起り頻に雨降出しければ、右の蛇椽頰(えんばな)に始はうなだれ居たりしが、頭を上げ空を詠(ながめ)、やがて庭上迄雲下りしと見れば、椽より庭へ一身を延すと見へしに、雨強くやがて上天をなしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:わたしの翻刻版の「卷之一」末の「怪僧墨蹟の事」とは連関を感じさせない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、わたしの翻刻版の「卷之一」の途中に現れる「羽蟻を止る呪の事」「燒尿まじないの事」[やぶちゃん字注:「尿」は「床」の誤り。「い」はママ。]「蠟燭の流れを留る事」の三本が最後であるが、この後ろから二番目の「燒床まじないの事」の中に、「大澤に大蛇(をろち)がやけておはします其水を付けるといたまずうまずひりつかず」という呪文が示され、そこに蛇が登場してはいる。また、昇龍譚は開口としては相応しく、根岸の縁起担ぎが感じられる配置とも言えそうだ。

・「山王永田馬場」「山王」は現在の千代田区永田町二丁目にある日枝神社の別名。江戸三大祭の一つ、山王祭で知られる。ウィキの「日枝神社」によれば、明暦31657)年、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治二年(1659年)、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する』とある。その門前辺りは江戸初期、永田姓の屋敷が並んでいたため、一帯が永田馬場と呼称された。現在の国会議事堂の西の一帯。

・「赤坂芝」「赤坂」は現在の港区の北端、前記日枝神社の更に西の一帯を指し、「芝」は同港区東北部分から南の東京湾岸にかけての一帯を言う。

・「御三卿」徳川将軍家一族の内、江戸中期に分立した田安・一橋・清水の三家。田安家は八代将軍吉宗次男で宗武、一橋家は同吉宗四男宗尹(むねただ)、清水家は九代将軍家重の次男重好を始祖とする。将軍家に後嗣がない場合、その候補者を提供することを目的として起立された。格式は徳川御三家(徳川家康九男徳川義直を始祖とする尾張徳川家・同家康十男徳川頼宣を始祖とする紀州徳川家・徳川家康十一男徳川頼房を始祖とする水戸徳川家)に次ぐ。

・「天明二年迄十一ケ年養ひける」天明2年は西暦1782年であるから、その11年前は明和8(1771)年である。一般的な飼育下のヘビの寿命は数年から20年程度とされており、この蛇が如何なる種であるかは分からないが、描写印象から相当に大きな個体と思われ、11年というのは決して不自然な数値ではないと思われる。

・「椽頰(えんばな)」は底本のルビ。「椽」は通常は垂木のことを言うが、芥川龍之介なども、「縁」の代わりに、しばしばこの「椽」を用いている。

「天明二年三月」この年は、日本史上に於いては天明の大飢饉の初年とされる(さすれば、この昇龍は実は、その凶兆でもあったのか?)。

・「詠(ながめ)」は底本のルビ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛇を飼う人の事

 

 江戸山王永田馬場辺りか、若しくは赤坂・芝辺りに住もうて御座ったとも言われ、正確な住所は定かではない方で――御三卿のどちらかの御家に勤めて御座って――名字は存ぜねど――名を清左衛門と言うた御人の話の由。

 如何なる謂われが御座ったものかは知らぬが、この御仁、小さな蛇を飼(こ)うて御座った。

 これがまた、夫婦(めおと)ともども右蛇を寵愛致いて、箱に入れ、縁の下に飼い置き、餌なんどを与え、天明二年に至る迄、実に十一年もの間、飼(こ)う御座った。

 これが、だんだんと――年を経るに従い――殊の外、大きくなり、見るもすざまじき大蛇(おろち)となって御座ったれど――こうなっても、依然として――夫婦の蛇を愛ずるの心、これ、一層深うなって――朝夕、庭近き床(ゆか)を叩けば、縁側の上へと鎌首を擡げる――すると、二人してそのぺろぺろと赤き下を出だいて御座る口に夫婦箸にて餌を与える――といった塩梅。

 下男下女らも、勿論、始めは恐れ戦いて御座ったが――それがまた日々のことと慣れるに従い、何時の間にやら気にもならぬようになった、ということで御座る。それどころか、

「……良縁に恵まれぬ娘さんがおられれば、この蛇に願掛けなされるがよい。」

なんどと夫婦に言われるまま、そうした娘子がやって来ては、手づから初穂のごと、餌なんど与えて祈念致せば……これまた、不思議に御利益めいたこともあった、ということで御座った。

 然るに、天明二年三月のこと、大嵐(おおあらし)が江戸を襲った日のことである。

 その日の朝も、例の通り、床を叩いて蛇を呼び、縁側で餌など与えて御座ったところが、右蛇、何時になく、するすると縁側に上がり込んで参って、何やらん、如何にも苦しそうな風情。

「……如何致いた!?……」

と夫婦打ち揃うて、赤子を看病致すが如く懸命に介抱して御座った折りから、一天俄かに掻き曇って、雨、滂沱(ぼうだ)と降り注ぐ……

……すると……

……この蛇、始めは縁側にて何やら、項(うなじ)を垂れたようにして御座ったが――

……ふいに鎌首を擡げると、空をキッと睨む――

……時同じうして、天空より一群れの怪しき白雲(しらくも)、音もなく庭先に降り来たる――

……と……見る見るうちに……

……蛇は、庭へ……その白雲の中へ……しゅるしゅると……その一身を延ばすかと見える――

……と……

……雨の一頻り激しくなる中(うち)……

――ずいっと!――彼方へ昇天して御座った――と――

 

 

*   *   *

 

 

 小兒に異物ある事

 

 予が許へ常に來れる大木金助といへる者有しが、繪抔書て醫業を官務の間になして、予が家の小兒など不快の折からは其業(わざ)をも賴けるが、或日來りて語りけるは、世には不思議の生質(せいしつ)も有もの哉、去年堺町歌舞妓芝居へ行しに、右茶屋の倅(せがれ)十三才に成ぬるが、何卒繪を習ひ度由を申ける故、繪本など認(みとめ)遣しけるが、右倅近き頃金助方へ來りて專ら繪を習ひ或は素讀などいたし侍る。其起(おこり)を承(うけたまはる)に、其倅直(ぢき)に芝居の向ふに住けるに、狂言抔見る事甚嫌ひにて、明暮學問抔いたしける故、其父母家業に相應せずとて不斷叱り憤りて、辨當など芝居へはこびけるをも厭ひ嫌ひて、聊場所柄の浮氣繁花(うはきはんくわ)の有樣を心に留ざれば、迚も渠(かれ)は相續いたすまじとて、金助を賴み同人方へ寄宿爲致(いたさせ)ける。金助も其親々へかけ合けれど、當人願の上は宜相賴旨故、此程まで差置侍る由。歌舞妓茶屋ながら人も相應に召仕ひける者の倅、金助方へ來りては茶を運び、或は朝夕の給仕等をなしていくばくか苦しき事ならんと、物好成者もある也といひし。或日右の親共來りて、右倅の儀は迚も相續いたし役に立べき者にあらず、かゝる不了簡の者は侍にでも致さずば相成間敷(あひなるまじき)と申けると、大笑ひしける也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:小蛇の異物が龍となり、小児の異物が大器とならんか。いやいや、これは夫婦して蛇飼う親、夫婦して学問好きの子を貶す親とは、今流行りのモンスター・ペアレンツで、ズバリ、連関じゃ!

・「大木金助」底本の鈴木氏注によれば、大木真則(まさのり)なる人物で、西丸台所番(西丸は引退した将軍或いは御世継の居所)であった大木真親の子とする。宝暦7(1759)年に親から『遺跡を継ぎ、二丸・本丸の火番などを経て、寛政五年台所頭の見習。時に五十八歳。九年賄頭、兼表御台所頭』とある。寛政五年は西暦1793年であるから、この記事記載(「卷之二」の下限は天明6(1786)年まで)よりも少し後で、この話柄は二丸・本丸火番であった頃の話であろう。

・「堺町歌舞妓芝居」現在の日本橋人形町3丁目にあった歌舞伎劇場、江戸三座の一つであった中村座のこと。ウィキの「中村座」によれば、『1624年(寛永元年)、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が江戸の中橋南地(現在の京橋の辺り)に創設したもので、これが江戸歌舞伎の始まりである。当初猿若座と称し、その後、中村座と改称された。1632年(寛永9年)、江戸城に近いという理由で中橋から禰宜町(現・日本橋堀留町2丁目あたり)へ移転、1651年(慶安4年)には堺町(現・日本橋人形町3丁目)へ移転した』とある。更に後、『1841年(天保12年)12月、中村座からの出火により葺屋町の市村座ともに焼失、天保の改革によって浅草聖天町(現・台東区浅草6丁目)へ移転させられた。この地には歌舞伎3座を含む5つの芝居小屋が建てられ、町名は初代勘三郎に因んで猿若町と命名され』、『884年(明治17年)11月、浅草西鳥越町(現・台東区鳥越1丁目)へ移転し、猿若座と改称されたが、1893年(明治26年)1月の火災で焼失した後は再建されずに廃座となった』とある。

・「浮氣繁花」歌舞伎界(梨園)及びそれに付属する茶屋遊興の場、当然、そこに更に関わる花柳界の浮ついた、華やかな、婀娜にして徒なる世界を総体的に言う語であろう。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 子供にも変わり者がおる事

 

 私の元によく訪ねて来る大木金助という者が御座る。絵など描くことを趣味と致し、また、公務の合間には、医術を学んで患者の診断や治療なども致し、私の家の子供なども体調を崩した折りなんどには診て貰(もろ)うたりしたもので御座ったが、その金助が、ある日、訪ねて来た折り、語った話である――。

 

「……世の中には、これまた、不思議な性質(たち)を持った者が御座るもので……去年のこと、堺町の中村座へ歌舞伎芝居を見に参りました折り、中村座向かいの茶屋の、十三歳に相なる小倅(こせがれ)が、何卒、絵を習いたき由申します故、何冊か絵の手本などを渡したことが御座ったが……実は、最近、この小倅……拙者の家に寄宿致し、絵を習い或いは漢文の素読なんどを致いて御座る。……」

とのこと――。私が、これまた、芝居茶屋の子倅が、何故にかく一念発起致いたのか、と訊ねた――

 

……いや、その子、芝居小屋の真向かいの茶屋に生れたにも拘わらず、……歌舞伎狂言なんどは、見るも忌まわしく、甚だ以って大嫌い、……ひがな一日、書を開き、学問なんどを致いて御座る故、その父母、甚だ以って家業に相応しからずと、日頃から、しっきりなしに意見致し、叱っては憤って御座った……。

……何でも、芝居ばかりか、客に売る弁当なんどを芝居小屋へ運ぶことすら嫌い、梨園・御茶屋の、あの浮かれ陽気に包まれた、豪華絢爛愛憎絵巻の世界には、聊かも心留める気配もなければ、……両親、口を揃えて、

「――とてものこと! こ奴は我が家業を相続致さずと存知まして――」

と、……拙者のところに頼みに御座って、かく、拙宅に寄宿致させて御座る次第……。

……勿論、拙者もこの両親にはあれこれと意見致し、まずは様子見の上と、掛け合(お)うてはみましたれども、……

「――いえ! もう、当人が強く望んでおりますること故――どうか一つ! そこのところ、よろしぅお願い申し上げ奉りまする――」

と、……いや、もう、けんもほろろにて……仕方のう、今に至る迄、拙者の書生の見習いのように致いて、さし置いて御座る……。

……一口に芝居小屋とは申しましてもな、沢山の下男下女をも相応に召し使うて御座る者の倅にて……拙者の茅屋(ぼうおく)に参って、しぶ茶を運び、毎日の食事・洗濯・掃除・留守番なんど……どれほど苦しかろうに、と察するのでは御座るが……それがまた、本人、至って平気の平左、学ぶことに嬉々として御座る……いや! もう……この世には想像も出来ぬよな、物好きな者が御座ることじゃ……。

……そうそう!……先だっては、こ奴の両親、うち揃うて参って御座っての。

「――矢張り、この倅にはとても家業を相続致すこと叶わず――全く以って役立たずの者――かかる了見違いの不届き者は――最早、侍にでもするより他は、どうしようもない、と二人して相談致いて御座る程にて……」

と言いよりました……。

 

……と金助殿が語り終えた。

 私と二人、大笑いしたことは――言うまでもない。

 

 

*   *   *

 

 

 蟲齒痛を去る奇法の事

 

 韮の實を火に焚て、右煙を以て痛(いたみ)侯所を管(くだ)などにて通し、いぶし候へば即效有りと人の語りしに、又或人のいへるは筆を燒て半盥(はんどう)やうの物へ入、韮の實を龜湯をかけ候へば煙り立ち候を、右煙にて耳を蒸し候へば、耳より白き物出候。右白き物は蟲齒の蟲也といへるが、まのあたり樣(ため)し見しと人の語りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。蛇を愛玩する奇癖→御茶屋倅の奇物→虫歯の虫を押し出す奇術と、「奇」繋がりではあるが、「耳嚢」の総体は「奇」であればこそコジツケ。

・「蟲齒痛を去る奇法」これについて、2008年4月10日発行の『日本歯科医史学会会誌』に『「耳嚢」にみられる歯痛の治療法について』という鶴見大学歯学部の佐藤恭道・戸出一郎・雨宮義弘各氏による共著論文があることが、国立情報学研究所の論文情報ナビゲータによって確認出来る(出来るが、有料論文で、興味はあるものの、流石に金を払ってまで見る気は、私はしない。興味のあられる方はどうぞ)。

・「韮の實」単子葉植物綱クサスギカズラ目ネギ科ネギ属ニラAllium tuberosumの実は、漢方で日干しにして乾燥させたものを「韮子」(キュウシ)と称して生薬として用いる。但し、現在知られる効能は強壮・強精・止瀉で、インポテンツ・遺精・頻尿・腰気(こしけ)・下痢を適応症としており、歯痛鎮痛の記載はない。但し、富山県氷見市村上養生堂漢方薬局(懐かしい! 私は高校時代、氷見の同級生の女性と付き合っていた。この店の前もデートの折りに――交換日記のノートを買うために歩いた、その街角にあったのを確かに覚えているのだ――通ったことがある!)のHP中の「歯痛あれこれ」に『虫食い齲歯にも古人は沢山の簡便法を持っている。例えば王海藏は梧桐泪で火毒風疳の齲歯を治しているし、林元礼は蟾酥で虫歯を治し、朱丹渓は韮子を艾葉と共に燻じて煙で虫を追い出している。呉崑は新しい石灰を蜜丸にして虫食いの所へ入れて手で抑えて治している。これらは我々もつとに試みている事で確かに効果がある。歯科のない農村にあっては大変活用されている』とあり(コピー・ペーストであるが改行を省略した。下線はやぶちゃん)、古くはその効用が認められていたものと思われる。因みに引用文下線部の朱丹渓(12811358)は元代の名医。艾葉は双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科ヨモギ属の変種ヨモギArtemisia indica var. maximowicziiの葉を乾燥させた生薬で、単独では胆汁分泌促進・食欲増進・止血作用を持ち、高血圧・神経痛・下痢・便秘・胸焼け・鼻血・痔・血尿・冷えによる腹痛などを適応症とする。

・「筆」底本ではこの右に『(尊經閣本「瓦」)』とある。「筆」を採った。

・「半盥(はんどう)」は底本のルビ。諸注は「耳盥」とか「飯銅」と記すが、これは「半桶」「盤切」等とも書く「半切り」(はんぎり)のことであろう。盥(たらい)状の浅くて広い桶。「半切り桶」「はんぎれ」等とも呼称し、「半盥」は音読みするなら「ハンクワン(カン)」で、「はんどう」とは読めない。「盥」の「どう」という音訓はないのである。これは「半桶」の音読み「ハントウ(ハンドウ)」と、その盥のような形状から造語してしまったものではなかろうかと私は考える。現在の医療用の膿盆のようなものを想起すればよいように思われるが、如何?

・「實を龜湯を」:底本ではこの右に『(尊經閣本「實を置」)』とあるが、これは「韮の實を置かけ候」なのか「韮の實を置候」なのか、判然としない。注位置からは「韮の實を置かけ候」の謂いと見える。

・「龜湯」岩波版ではただ「湯」とする。亀湯では銭湯の名前みたようで訳しようがない。岩波版を採った。

・「樣(ため)し」は底本のルビ。「試す」の意で訳した。

○補足:平塚市にある平野歯科医院(院長・平野美治氏)のHPにある「院内新聞バックナンバー【第05号】」(発行:医療法人社団慈篤会 平野歯科医院 発刊日1999年6月4日)に院長平野氏御本人の記事で「古老のつぶやき-第3話-虫歯の話(お呪い)」というのがあり、氏の40年来の御友人で愛知県岡崎市生のN氏の知る、奇妙な歯痛の呪(まじな)いについての詳細な施術記載と、驚くなかれ、この「耳嚢」の記載がそのまま『明治大正時代の歯の文献』に記載されていること等が示されている。以下に引用しておく(非常に失礼乍ら、印刷物をOCRによる読み込みのままにアップされたものらしく、誤りが非常に多い。そこで、読みやすくするために一部に改行・句読点を施し、示されていない図指示部分をカット、誤りと思われる部分その他に注を附してある。平野先生、御容赦の程)。

   《引用開始》

1. 火鉢に鉄板を起き加熱する。

2. その上にゴマの油を数滴たらす。

3. その上にお椀のそこに穴を開け女竹を差し込んで、椀をかぶせる禅に置く。[やぶちゃん注:「椀をかぶせる。膳に置く。」の誤りか?]

4. 女竹の先から煙が出る。その煙を痛む側の耳の穴に入れ、しばらくそのままして…[やぶちゃん注:「…」はママ。]

5. 椀を採ると、鉄板の上に白いカスが出る。これが通稻虫歯の虫で、これが出れば痛みは治る[やぶちゃん注:「通稻」は「通稱(称)」の誤りであろう。]。

とのことであった。当然歯科医師の私には信じられるものではなく一笑に付した。ところが最近明治大正時代の歯の文献を読んでいると偶然にもN氏の話と同様なことが記されていた。

(よはい草 第1輌)

韮の実を火に焚いて、右煙を以て、痛むところへ管を以て通じいぶしければ、即効なり。亦瓦を焼いて半盥やうの物に入れ、韮の実をおいて湯を掛け喉へば煙り立つを、その煙にて耳をむせば、耳の中より白きもの出れば虫歯の虫なり。

これを見て今更の様に当時の庶民生活の一端を彷彿させられた。そこで「お呪い」について調べると、

・茄子の帯を黒焼きにして寝る前につける[やぶちゃん注:「黒焼きにし七」とあるが、独断で「て」に改めた。]。

・半紙へ自分の顔を描き、口を大きく描き、歯の数を書いて、その痛む歯に灸をすえて、紙を焼きぬくと治る。

・白紙を十六カ所折り、痛む歯のうえから押さえる。

・桃の枝を折って噛む。

・蛸の絵を紙に書き、逆にして下に貼り、終始水をかけると治る。

・ざくろの皮を噛みしめる。

・腹蛇の骨を痛む歯で噛む[やぶちゃん注:「腹蛇」は「蝮」「蝮蛇」でマムシの誤りではあるまいか?]。

等に多数あるが特に神奈川県におけるお呪いでは[やぶちゃん注:「等に」はママ。]、

真言宗大師堂の両側に八視大師の像がある。この画像に「死ぬる前に一年を差上げる故癒して下さい。」と祈念する[やぶちゃん注:「八視大師」は不詳。所在する寺院も分からない。]。

落雷がした杉の木の一片を噛む。

相模国愛甲郡小鮎川上流の河畔に繭歯地蔵というのがある。画歯になやむ者、己の常用する箸を持ち小鮎川にかけた小橋を渡れば治る。ただし大橋を渡れば一旦治っても亦痛む。大橋より小橋の方が人通りが多いのはこれ故なり[やぶちゃん注:「繭歯」「画歯」は何れも「蟲(虫)歯」の誤りであろう。]。

   《引用終了》

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 虫歯の痛みを除去する変わった療法の事

 

 韮の実を火にて焚(た)き、その煙を竹・木管などを用いて痛むところの虫歯の部分に導いてやり、燻(いぶ)してやると即効ありとある人が語ったのであるが、また、ある人は、長く用いた筆を焼き、膿盆様のものに入れ、その上に韮の実を撒き散らし、湯をかける。すると、煙が立つ。立ち始めるたら、袋等を用いて即座に、その煙を以って耳を蒸してやると、耳から白いものが滲出してくる。その白いものは虫歯の虫である――と、言うのであるが、如何(いかん)?――「目の当たりに試して見て、事実であった。」とは、これまた、人の話では御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 蕎麥を解す奇法の事

 

 ある人荒和布(あらめ)をうでし鍋を一通りに洗ひ蕎蓼をうでけるに、兎角水になりて用立ざりしといへるを其席の人聞て、あらめはすべて蕎麥を解し侯妙藥の由語りしに思ひ當りぬると人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:薬餌全般に関わる奇なる法連関。次毒キノコ解毒法とで三連発。

・「荒和布」真核生物クロムアルベオラータChromalveolata界ストラメノパイル Stramenopiles亜界不等毛植物門褐藻綱コンブ目コンブ科アラメEisenia bicyclis。但し、アラメに豊富に含まれれるアルギン酸等には、蕎麦の蛋白質を溶解する効果はない。アラメを茹でた際に出る渋(シブ)に何らかの溶解酵素が含まれている可能性がないとは言えないが、そのような記載を見出すことは出来なかった(それどころかアラメを混ぜた蕎麦まで存在する。更に、これは偶然なのか、蕎麦粉のことを「アラメ」と呼ぶのである)。江戸期のアラメEisenia bicyclisに対する認識については、私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「海帶(あらめ)」の項を是非、参照されたい。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蕎麥を溶かす奇法の事

 

 ある人が、

「海藻の荒布(アラメ)を茹でた鍋をさっと洗ったもので蕎麦を茹でたのだが、蕎麦がすっかり水に融けてしまい、蕎麦を食い損なった。」

と言ったのを、同席して御座った物知りが聞いて、

「いや、荒布は、全く以って、蕎麦を消化致すによい妙薬なので、御座る。」

との由、答えて御座った――という話を私の知人が、また聞き致いて、これもまた、さもありなん、と思い当たって御座った――と私に語って御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 解毒の法可承置事

 

 予白山に有し比(ころ)同隣の人語りけるは、大前古孫兵衞の屋鋪の中間(ちゆうげん)、或日庭のうちに出來し菌(きのこ)を調味して給(たべ)けるが、頻に笑ひ出しいかに叱り尋ても答へはなく只答ひ苦しみけるが、全く狐狸のなす所と山伏など加持なしけれど其印なし。其頃御藥園(おやくゑん)肝煎(きもいり)いたしける小川隆好(りゆうかう)といへる醫師是を見て、食毒なるべしとて尋ければ、傍輩(はうばい)なるもの、今朝庭の内楓の根にできたる茸を給し由語りければ、さればこそ楓に出來たる茸は笑ひ茸とて毒氣ありて笑ひ止(やま)ず、終には死せる事なりとて、兩便不淨などいたせる所の最寄に土色黑くなりし所をとりて、湯にほだて呑せけるに、吐却して毒氣を解(げ)しけるが早速快復せしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:薬餌全般に関わる奇なる法連関。蕎麦溶解術・歯痛除去術とこれで三連発。

・「白山」現在の文京区の中央域にある地名。江戸時代までは武蔵国豊島郡小石川村及び駒込村のそれぞれの一部であった。ウィキの「白山」によれば、地名の由来は、『徳川綱吉の信仰を受けた』『白山神社から。縁起によれば、948年(天暦2年)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀しこの地に祭った』とある。また、同解説には、『なお、小石川植物園は、隣接の小石川ではなく白山三丁目にある。これは、もともと白山地区の大部分が小石川の一部だったことによるもの』とあり、これは直後に出てくる小石川御薬園のことで、本記載に関わる地理的解説として注目される。

・「大前古孫兵衞」大前孫兵衞。「古」は「故」人で「故人」の謂いかと思われる。底本の鈴木氏注では、大前房明(ふさあきら)に同定し、寛保元(1741)年『養父重職の遺跡を相続、時に九歳。』宝暦8(1758)年に右筆、明和元(1764)年に奥御右筆に転じ、同3(1766)年組頭、『布衣を着することをゆるさるる』。同7(1770)年には西丸裏門番頭、と記す。但し、岩波版長谷川氏注では、この「古」=「故」に着目し、先代の表御右筆であった房次(ふさつぐ)か、とされている。大前房明の没年が分からないので如何とも言い難いが、以下の小川隆好の事蹟からは大前房次の可能性が極めて高いように思われる。

・「中間」仲間。本来は公家や寺院などに召し使われた男性を言い、身分が侍と小者との間にあったことからの謂い。中間男。江戸期に入ってから、武士に仕え、雑務に従った者を言うようになった。

・「御藥園」小石川御薬園、現在の通称・小石川植物園の前身。現在、正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園と言う。以下、ウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」によれば、『幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である』。『その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが小石川養生所で』、山本周五郎の連作短編小説「赤ひげ診療譚」や同作の映画化である黒澤明監督作品「赤ひげ」で知られる。『なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として甘藷(サツマイモ)の試験栽培をおこなった所としても有名である』。小石川養生所についても、ウィキの「小石川養生所」から引用しておく。『江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。享保7年(1722年)正月21日には麹町(東京都新宿区)小石川伝通院(または三郎兵衛店)の町医師である小川笙船が将軍への訴願を目的に設置された目安箱に貧民対策を投書する。笙船は翌月に評定所へ呼び出され、吉宗は忠相に養生所設立の検討を命じた』(小川笙船については後注参照)。『設立計画書によれば、建築費は金210両と銀12匁、経常費は金289両と銀12匁1分8厘。人員は与力2名、同心10名、中間8名が配された。与力は入出病人の改めや総賄入用費の吟味を行い、同心のうち年寄同心は賄所総取締や諸物受払の吟味を行い、平同心は部屋の見回りや薬膳の立ち会い、錠前預かりなどを行った。中間は朝夕の病人食や看病、洗濯や門番などの雑用を担当し、女性患者は女性の中間が担当した』とある。養生所は小川の投書を受けて早くも同享保7(1722)年1221日に小石川薬園内に開設され、『建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置された。収容人数は40名で、医師ははじめ本道(内科)のみで小川ら7名が担当した。はじめは町奉行所の配下で、寄合医師・小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていたが、天保14年(1843年)からは、町医者に切り替えられた。これらの町医者のなかには、養生所勤務の年功により幕府医師に取り立てられるものもあった』とする。『当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、利用が滞った。そのため、翌、享保8年2月には入院の基準を緩和し、身寄りのない貧人だけでなく看病人があっても貧民であれば収容されることとし、10月には行倒人や寺社奉行支配地の貧民も収容した。また、同年7月には町名主に養生所の見学を行い風評の払拭に務めたため入院患者は増加し、以後は定数や医師の増員を随時行っている』とある。

・「肝煎」支配役・世話役。今風に言えば小石川養生所院長である。幕府職制の中で新規制度であったために(江戸幕府の職制にはそれ以前から肝煎という職名が存在し、同じ職掌中で支配役または世話役に相当する者を指したが、一般に知られているのは高家肝煎・寄合肝煎等である)、このように呼ばれているものと思われる。

・「小川隆好」諸本は注を施さないが、この人物の父は小川笙船(おがわしょうせん)と言い、小石川養生所の創立者として時代劇などで知られる有名な人物である。小川笙船(寛文121672)年~宝暦101760)年)は市井の医師であったが、ルーツは戦国時代の武将小川祐忠。以下、ウィキの「小川笙船」によれば(一部の改行を省略した)、『享保7年(1722年)1月21日、目安箱に江戸の貧困者や身寄りのない者のための施薬院を設置することを求める意見書を投書した。それを見た徳川吉宗は、南町奉行・大岡忠相に養生所設立の検討を命じた。翌月、忠相から評定所への呼び出しを受け、構想を聞かれたため、

身寄りのない病人を保護するため、江戸市中に施薬院を設置すること

幕府医師が交代で養生所での治療にあたること

看護人は、身寄りのない老人を収容して務めさせること

維持費は、欲の強い江戸町名主を廃止し、その費用から出すこと

と答えたが、町名主廃止の案に対して忠相は反対した。しかし、施薬院の案は早期から実行し、吉宗の了解を得た。同年1221日、小石川御薬園内に養生所が設立され、笙船は肝煎に就任した。しかし、養生所が幕府の薬園であった土地にできたこともあり、庶民たちは薬草などの実験台にされると思い、あまり養生所へ来る者はいなかった。その状況を打開するため、忠相は全ての江戸町名主を養生所へ呼び出し、施設や業務の見学を行わせた。そのため、患者は増えていったが、その内入所希望者を全て収容できない状況に陥ってしまった。享保11年(1726年)、子の隆好に肝煎職を譲って隠居し、金沢へ移り住んだ。以後、養生所肝煎職は笙船の子孫が世襲した。その後、病に罹って江戸へ戻った。宝暦10年(1760年)6月14日、病死。享年89』、とある(下線部やぶちゃん)。これによって、本話柄は、享保111726)年以降、天明6(1786)年以前であることが分かる。この幅から考えると、大前孫兵衞は大前房次であると考える方が自然である。

・「笑ひ茸」菌界子嚢菌門同担子菌綱ハラタケ目ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属ワライタケPanaeolus papilionaceusウィキの「ワライタケ」によれば、『傘径24cm、柄の長さ510cm 。春~秋、牧草地、芝生、牛馬の糞などに発生。しばしば亀甲状にひび割れる。長らくヒカゲタケ(Panaeolus sphinctrinus)と区別されてきたが、最近では同種と考えられている』もので、『中枢神経に作用する神経毒シロシビンを持つキノコとして有名だが、発生量が少なく、決して食欲をそそらない地味な姿ゆえ誤食の例は極めてまれ。食してしまうと中枢が犯されて正常な思考が出来なくなり、意味もなく大笑いをしたり、いきなり衣服を脱いで裸踊りをしたりと逸脱した行為をするようになってしまう。毒性はさほど強くないので誤食しても体内で毒が分解されるにつれ症状は消失する』とあり、『摂取後30分から一時間ほどで色彩豊かな強い幻覚症状が現れるが、マジックマッシュルームとして知られる一連のキノコよりは毒成分は少ないため重篤な状態に陥ることはない』と記載する。シロシビンはサイロシビン(Psilocybin 4-ホスホリルオキシ-N,N-ジメチルトリプタミン)とも言い、『シビレタケ属やヒカゲタケ属といったハラタケ目のキノコに含まれるインドールアルカロイドの一種。強い催幻覚性作用を有』し、これを『多く含む幻覚性キノコは、かなり古くからバリ島やメキシコなどではシャーマニズムに利用されてきた。1957年にアメリカの幻覚性キノコ研究者、ロバート・ゴードン・ワッソン R. Gordon Wasson)と、フランスのキノコ分類学者、ロジェ・エイム(Roger Heim)によるメキシコ実地調査の記録がアメリカのLIFE誌で発表されてからその存在が広く知られるようになり、LSDを合成したことでも著名なスイスの化学者、アルバート・ホフマン(Albert Hofmann)が、動物実験で変化が見られないので自分で摂取し幻覚作用を発見、成分の化学構造を特定しシロシビンとシロシンと名づけた』ものである。『シロシビン、シロシンを含むのはハラタケ目のキノコで、同じ種でも採取場所や時期によっても含有量は異なってくるが、特に多量にシロシビンを含む属として、前述のシビレタケ属、ヒカゲタケ属と、日本では小笠原諸島などに分布する熱帯性のアオゾメヒカゲタケ属が挙げられる。僅かでも含むものも数えれば、その数は180種以上にも及ぶ。その中には、シロシビン以外の毒が共存するキノコも少なからず存在』し、摂取後、速やかに加水分解されてシロシンに変性、腎臓・肝臓・脳・血液に広く行き渡る。ヒトの標準的中毒量は510㎎程度で、15㎎以上『摂取すると、LSD並の強烈な幻覚性が発現する。成長したヒカゲシビレタケ、オオシビレタケで2、3本、アイゾメシバフタケだと5、6本で中毒する。分離したシロシビンを直接静脈注射すると、数分で効果が現れ』、『症状は、摂取してから30分ほどで悪寒や吐気を伴う腹部不快感があり、1時間も過ぎると瞳孔が拡大して視覚異常が現れ始め、末梢細動脈は収縮して血圧が上がる。言わば、交感神経系が興奮した時と似た状態である。2時間ほど後には幻覚、幻聴、手足の痺れ、脱力感などが顕著に現れて時間・空間の認識さえ困難となる。その後は徐々に症状が落ち着き始め、4~8時間でほとんど正常に戻る。痙攣や昏睡などの重症例は極めて稀で、死亡するようなことはまずないが、幼児や老人が大量に摂取すると重篤な症状に陥ることもある』とし、シビレタケ属の一種であるシロシビン含有量の多いオオシビレダケPsilocybeの仲間を子供が誤食した死亡例があるとする。『ベニテングタケやテングタケに代表されるイボテン酸の中毒症状は、最終的に意識が消失していく傾向にあるのに対し、シロシビン中毒では過覚醒が発現することが多』く、『長期間常用しても蓄積効果はなく、肉体的な依存性もないが、大麻程度の精神依存があるとされる。また、摂取した後も3ヵ月以内くらいは、深酒や睡眠不足などの疲労によって幻覚や妄想が再燃するフラッシュバックが起こる可能性が指摘されている』とある(以上、後半はウィキの「シロシビン」から引用)。また、「カラー版 きのこ図鑑」(本郷次雄監修・幼菌の会編・家の光協会)110p「ワライタケ」には以下の記載がある(抜粋)とのこと(ブログ「大日本山岳部」の「ワライタケ入門」より孫引き)このエピソードは、ブログの筆者もおっしゃっている如く、必読である。正規の図鑑としては白眉ならぬ金眉である(学名のフォントを変更した)。

   《当該ブログからの引用開始》

ワライタケ

Panaeolus papilionaceus

ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属

春~夏、牛馬の糞や推肥上に群生~単生。小型。(略)肉は淡褐色。柄は褐色で、白色の微粉に覆われ中空。幻覚性の中毒をおこす。

エピソード:

大正6年、石川県樋川村のA夫さん(35歳)は、近所のBさん(40歳)が採ってきたきのこをBさんが「中毒したら大変」と注意するのも聞かず、「その場所なら今年の3月に同じようなきのこを採ったことがあるから大丈夫」と言い張って、無理やり分けてもらった。

その晩、A夫さんは妻のC子さん(31歳)、母のD枝さん(70歳)、兄のE助さん(41歳)と一緒にきのこの汁物にして、食べた。しばらくしてC子さんがおかしくなり、さすがのA夫さんもあわて、医者に助けを求めた。そしてA夫さんが助けに戻ってくると、C子さんは丸裸になって踊り、飛び跳ね、三味線をもって引くまねをしたり、笑い出したりの大騒ぎ。そのうちA夫さんとE助さんも同じように狂いだし、D枝さんはきのこ3個しか食べなかったため症状が軽く意識を失わなかったものの、自分の料理でみんなに迷惑をかけたと謝り、一晩中同じ言葉をくりかえした。翌日全員快復したという。

本種は、この中毒事件がきっかけとなってワライタケの名がついた。

   《当該ブログからの引用終了》

最後に注しておくと、小川は「楓に出來たる茸は笑ひ茸とて」と述べているが、上記引用にも『牧草地、芝生、牛馬の糞』『牛馬の糞や推肥上』とあり、そのようなムクロジ目カエデ科カエデ属 Acer への特異的植生性質はない。

・「ほだて」は「攪(ほだ)つ」で、掻き回す、掻き回すの意。

・「解しけるが」岩波版は「解しけるか」。そちらを採る。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 種々の実際的解毒法はそれなりに知っておくべきである事

 

 私が白山に住んで御座った頃、隣人から聞いた話。

 ある日のこと、故大前孫兵衛殿の屋敷の中間が、屋敷の庭内に生えた茸を料理して食ったところが、頻りに笑い出し、傍(そば)の者が、

「うるさい! 止めんか!」

とどんなに叱ろうとも、

「何が可笑しい!?」

と声高に訊ねても一向に答えず、ただもう、笑い苦しんでおるばかり。

「……これはもう、てっきり、狐狸の成す業(わざ)じゃ!」

と、山伏なんどを呼んで加持祈禱致たれど、一向に験(しるし)がない。

 その頃、近くの小石川の御薬園の支配方を命ぜられて御座った小川隆好(りゅうこう)という医師を呼び、診て貰ろうたところ、一見して、

「恐らく食中毒で御座ろう。」

と見立て、傍輩の者に、当人のここ数日の食事について尋ねたところ、

「……そう言えば……今朝方、庭内の楓の根元に生えた茸を食って御座ったの……」

と語る。すると即座に、

「さればこそ――楓に生えたる茸はワライダケと申しての、毒気が御座って笑いが止まらぬようになるもの。この症状、放置せば、遂には死に至るものにて御座る――」

というや、隆好は屋敷の大小便致すところの厠近辺、その汚物の染み渡ってどす黒くなった場所の土を採取致いて、湯に入れて素早く掻き混ぜ、中間に一気に飲ませた――すると、たちどころに吐瀉し――間に合(お)うて解毒出来たものか、即座に恢復致いたとのことで御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 堀部彌兵衞養子の事

 

 堀部彌兵衞養子は元來浪人にて安兵衞と號し、牛込邊何某といへる劍術の師の内弟子也しが、伯父の仇討の事にて高田馬場において拔群の働せし事を彌兵衞聞及て、實子なければ哀れかゝる武勇のものを養ひ子とせんと思ひしかども手寄(たより)なければ、直に彼師匠の許へ立越へ、安兵衞と言る門弟かゝる働有りと承る、四五萬石の大名の家中にて食祿三百石を領するもの養子を好候間可遣哉(つかはすべきや)、存寄承度(たき)と申談ければ、隨分承知に可有之。併(しかしながら)留守に候間歸り次第可承と右の師匠挨拶に付、彌兵衞は歸りける。扱も右師匠安兵衞へかく/\の養子口有、可參哉(や)、淺野内匠頭家來堀部彌兵衞といふ人の世話也と申ければ、安兵衞事も江戸表に於て親族も無之貧窮の者故、至極望はあれども如何と申ければ、先何れにも彌兵衞方へ罷越可談との事故、彌兵衞方へ罷越案内を申入、則安兵衞の由を申ければ、彌兵衞大に悦び座敷へ請じ對面し、彌々(いよいよ)養子承知に候哉(かな)、養父母は老人にて、主人の高(たか)并宛行(あてがひ)の處先達て師へ咄し候に少しも相違なしと申けるゆへ、困窮の浪人何も支度無之段申ければ、大小さへ所持いたし候へば何も入り不申(まうさざる)段申候上、承知の段安兵衞申ければ、則勝手へ入れ衣類大小を携へ出、則養子致し候者は某(それがし)也、主人の高も五萬石自分食祿も三百石也、今日より拙者悴(せがれ)也、左樣に心得可申段申達(まうしたつし)、さらば勝手へ通るべしと案内しける故、餘りの事に安兵衞も大に驚けるが、やがて父子の約をなしぬ。大石良雄報仇の節も、父子とも四十七人の内隨一の働せし者也と人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、ワライタケのブラックな中間の笑い声が、陽気で鮮やかな弥兵衛の喜悦の笑いに変じて快い。

・「堀部彌兵衞」堀部金丸(かなまる 又は あきざね 寛永4(1627)年~元禄161703)年)は赤穂藩家臣。食禄はここで言う通り、300石であるが、後に隠居料20石が加わっている。以下、ウィキの「堀部金丸」より引用する(相当量の引用となったが、この記事を読むに当ってはどれも省略することが出来ないと私には思われた。お許しあれ)。『浅野長重の家臣堀部弥兵衛綱勝の子として常陸国笠間に生まれる。堀部家は祖父助左衛門以来、浅野家に仕える譜代の臣下の家である。幼少の時に父が死に若年より浅野長直、長友、長矩(内匠頭)の三代に仕え、祐筆を経て江戸留守居となる。妻に山田氏の女、さらに後妻として忠見氏の女わかを迎えており、先妻の山田氏の女との間には弥一兵衛とほりの一男一女をもうけたが、元禄5年(1692年)12月に長男弥一兵衛が男色関係のもつれから妻の縁戚の本多喜平次に殺された(本多は弥兵衛が討ち取ったという)。嫡男を失った弥兵衛は後妻わかの実家忠見氏から堀部文五郎言真を養子に迎えたが、藩主浅野長矩から却下されたため、赤穂藩の家禄を相続させる養子とすることはできなかった』。『元禄7年(1694年)、高田馬場の決闘で活躍した浪人中山安兵衛を見込み、娘ほりと娶わせ婿養子に迎える。この養子縁組は長矩も許可し、弥兵衛は隠居して、代わりに安兵衛が家督を継いで長矩に仕えることになった』。ところが7年後の『元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は改易となった。弥兵衛は藩邸を引き払い、馬淵一郎右衛門と変名して江戸に隠れ住む(堀部氏は近江源氏佐々木氏の馬淵氏支族であったので、先祖も称した本家の名字を使用したものと思われる)』。『弥兵衛は婿養子の安兵衛とともに仇討ちを主張する急進派の中心となった。元禄15年(1702年)大石内蔵助は仇討ちを決定して江戸に下り、弥兵衛は「浅野内匠家来口上書」の草案を書いた。討ち入りの前夜、吉田忠左衛門らを招き酒宴を催した』。『1215日未明、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士は吉良上野介の屋敷に討ち入る。弥兵衛は表門隊に属し、槍を持って門の警戒にあたった。2時間あまりの激闘の末に浪士たちは吉良上野介を討ち果たして本懐を遂げ』、『討ち入り後は細川越中守屋敷にお預けとなり、元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により、切腹した。享年77。戒名は、刃毛知劔信士。同志のうち最年長者だった』とある。実際には弥兵衛にはもう一人養子がおり、堀部文五郎と言った。勿論、彼も『討ち入りへの参加を望んだが、浅野家臣ではなかったので弥兵衛から拒否され、討ち入り直前に連座を避けるため忠見姓に戻して忠見家へもどされた(弥兵衛の日記によると文五郎がどうしてもと望むので吉良邸前までは弥兵衛のお供をすることを許したという)。忠見家に帰されたあとも文五郎は堀部姓を名乗り、弥兵衛と安兵衛の切腹後はかわって堀部家を継』いだ。『元禄16年(1703年)赤穂義士に深く感銘していた熊本藩主細川綱利に召抱えられ、その子孫は熊本藩士として存続する』こととなったと記す。

・「安兵衞」堀部武庸(たけつね 寛文101670)年~元禄161703)年)、旧姓は中山。通称の安兵衛の名で知られる赤穂浪士四十七士中一番の剣客。忠臣蔵では大石内蔵助と人気を二分する。浪士の中で江戸急進派と呼ばれる勢力の首魁であった。以下、非常に優れたウィキの「堀部武庸」の記載より引用する(相当量の引用を行ったが、それほど、この記事は素晴らしい。お許しあれ)。『越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。母は新発田藩初代藩主溝口秀勝の五女溝口秋香と新発田藩士溝口四郎兵衛の間にできた六女。したがって安兵衛は溝口秀勝の曾孫の一人にあたる。姉が三人おり、長女ちよは夭折、次女きんは、中蒲群牛崎村の豪農の長井弥五左衛門に嫁ぎ、三女は溝口家家臣町田新五左衛門に嫁いでいる』。『母は、安兵衛を出産した直後の寛文10年(1670年)5月に死去したため、しばらくは母方の祖母・溝口秋香のところへ送られて、秋香を母代わりにして三歳まで育てられたが、秋香が死去したのち、再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる』。『しかし安兵衛が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる。この弥次右衛門の浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという『世臣譜』にある説が有力』。『浪人後、ほどなくして父・弥次右衛門が死去。孤児となった安兵衛は、はじめ母方の祖父・溝口四郎兵衛に引き取られたが、盛政もその後二年ほどで死去したため、姉きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られていった。元禄元年(1688年)19歳になった安兵衛は、長井家の親戚佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内源太左衛門の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持った』。『そんななか、元禄7年2月11日(1694年3月6日) 、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。安兵衛と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、安兵衛は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)』。『この決闘での安兵衛の活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣堀部弥兵衛が安兵衛との養子縁組を望んだ。はじめ安兵衛は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、弥兵衛の思い入れは強く、ついには主君の浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。内匠頭も噂の剣客中山安兵衛に少なからず興味があったようで、閏5月26日(1694年7月18日) 、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した』。『これを聞いてさすがの安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日(827日)、弥兵衛の娘ほりと結婚して、堀部弥兵衛の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。しかし安兵衛は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類されている。堀部家は譜代の臣下であるはずなので「堀部家の養子」としてはおかしい分類である。やはり異例の養子入りであるから安兵衛は弥兵衛の堀部家とは事実上別家扱いだったことがわかる』。『赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役(馬廻りは役職というより武士の階級。騎乗できる武士のこと。騎乗できない武士中小姓の上位。)となった。元禄11年(1698年)末には尾張藩主徳川光友正室千代姫(将軍徳川家光長女)が死去し、諸藩大名が弔問の使者を尾張藩へ送ったが、浅野内匠頭からの弔問の使者には、この安兵衛が選ばれ、尾張名古屋城へ赴いた』。『しかし元禄14年(1701年)3月14日(1701年4月21日)、主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で高家吉良上野介に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。安兵衛は江戸詰の藩士奥田孫太夫(武具奉行・馬廻150石)、高田郡兵衛(馬廻200石)とともに赤穂へ赴き、国許の筆頭家老大石内蔵助と面会。篭城、さもなくば吉良への仇討を主張したが、内蔵助からは「吉良への仇討はするが、大学様による浅野家再興が優先だ。時期を見よ」と諭されて、赤穂城明け渡しを見届けた後、安兵衛らは江戸に戻ることとなった』。『しかしそれ以降も強硬に吉良への敵討を主張。江戸急進派のリーダー格となり、京都山科に隠棲した大石内蔵助に対して江戸下向するよう書状を送り続けた。差出日8月19日(9月21日) の書状では「亡君が命をかけた相手を見逃しては武士道は立たない。たとえ大学様に100万石が下されても兄君があのようなことになっていては(浅野大学も)人前に出られないだろう」とまで主張』、『大石内蔵助は、安兵衛ら江戸急進派を鎮撫すべく、9月下旬に原惣右衛門(300石足軽頭)、潮田又之丞(200石絵図奉行)、中村勘助(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤源四郎(400石足軽頭)と大高源五(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは全員安兵衛に論破されて急進派に加わってしまう。このため、大石内蔵助自らが江戸へ下り、安兵衛たちを説得しなければならなかった』。『元禄141110日(170112月9日)、大石内蔵助と堀部安兵衛は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談に及んだ。内蔵助は、一周忌となる元禄15年3月14日(1702年4月10日)の決行を安兵衛に約束して京都へと戻っていった』。『しかし帰京した内蔵助は主君浅野内匠頭の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び大石と面会するために安兵衛は、元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都に入った。事と次第によっては大石を切り捨てるつもりだったともいう。実際、安兵衛は大坂にもよって原惣右衛門を旗頭に仇討ちを決行しようと図っている。しかし7月18日(8月11日)、浅野大学の浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となった。ここにきて大石内蔵助も覚悟を決めた。京都円山に安兵衛も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した。安兵衛はこの決定を江戸の同志たちに伝えるべく、京都を出て、8月10日(9月1日)に江戸へ帰着し、12日(9月3日)には隅田川の舟上に同志たちを集めて会議し、京での決定を伝えた』。『そして元禄151214日(1703年1月30日)、大石内蔵助・堀部安兵衛ら赤穂浪士47士は本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入った。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は吉良上野介を討ち取り、その本懐を遂げた』。『松平久松隠岐守定直三田中屋敷跡討ち入り後、赤穂浪士たちは四つの大名家の屋敷にお預けとなり、安兵衛は大石内蔵助の嫡男大石主税らとともに松平隠岐守の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、松平隠岐守屋敷にて同家家臣荒川十大夫の介錯により切腹した。享年34。主君浅野内匠頭と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。法名は刃雲輝剣信士。堀部家の名跡は親族の堀部文五郎が継ぎ、堀部家は熊本藩士として存続する。 そもそも堀部氏は近江源氏佐々木氏族で、佐々木定綱の子馬淵広定より始まる馬淵氏の支族である。堀部家は代々佐々木氏の本家である六角氏に仕えていたが、主家が織豊時代に滅びたため、浅野氏に仕えることとなったといわれている。家紋の目結紋は、佐々木氏族の証しである』。「参考」欄には『安兵衛は赤穂義士研究の重要資料である「堀部武庸日記」を残した人物でもある。安兵衛が討ち入りに関する重要書類をまとめて編集してあったもので、討ち入り直前に堀内道場同門の親友である儒学者細井広沢に編纂をゆだね、今日に伝えている』とあり、また『剣豪でありながら、養父弥兵衛との微笑ましい関係があったりするせいか、堀部安兵衛は、四十七士のなかでも特に人気が高い』とする。『養父弥兵衛とは血統上の関係は一切ないが、二人の仕草や物腰は大変よく似ていたという(堀内伝右衛門覚書より)。二人の間には、愛し愛される実の親子以上の親交があったのだろう』という部分は、この記事のシーンを髣髴とさせるものである。

・「牛込邊何某といへる劍術の師」これは前注堀部武庸の事蹟にも現われた堀内正春(寛永181641)年~正徳3(1713)年)である。直心影流の剣術家で、通称、源左衛門。ウィキの「堀内正春」によれば、下野国に出身といい、『直心影流に堀内流という一派を立てて、江戸の小石川牛天神下に道場を持った。この堀内道場は江戸においては有数の道場として名を馳せるようになる。赤穂四十七士の堀部安兵衛や奥田孫太夫らも門弟である。特に堀部安兵衛は堀内道場一の高弟』として知られた、とある。

・「牛込」現在の新宿区東北部の地名。当時は大名や旗本の住む武家屋敷が集中していた(後に尾崎紅葉・夏目漱石らの近代文化人の居所としても知られる)。

・「伯父の仇討の事にて高田馬場において拔群の働せし事」御存知「高田馬場の決闘」のこと。元禄7(1694)年2月11日に高田馬場で起きた伊予国西条藩松平頼純の家臣たちによる決闘。中山安兵衛(後の堀部安兵衛)は、助太刀として参加したが、結局、これによって安兵衛は名を挙げることとなった。ウィキの「高田馬場の決闘」より引用する(話柄上の直接の関係はないが、私自身、この決闘の本来の原因を今回始めて知ったので、相当量の引用をお許し頂きたい)。『元禄7年2月7日、伊予西条藩の組頭の下で同藩藩士の菅野六郎左衛門と村上庄左衛門が相番していたときのこと、年始振舞に村上が菅野を疎言したことについて二人は口論になった。このときは他の藩士たちがすぐに止めに入ったため、二人は盃を交わして仲直りしたのだが、その後また口論となってしまう。ついに二人は高田馬場で決闘をすることと決める。『しかし菅野は菅野家で若党と草履取りをしていた2人しか集められなかった。一方村上家は三兄弟であり、しかも家来も含めてすでに6・7人は集めたと聞き及ぶ。そこで菅野は同じ堀内道場の門弟で叔父・甥の関係を結んでいた剣客堀部安兵衛のもとへ行き、「草履取りと若党しかおらず、決闘で役に立つ連中とも思えない。万が一自分が討たれた時は自分の妻子を引き受け、また代わりに村上を討ってほしい」と申し出てきた。これに対して安兵衛は「事情は承知した。しかし後の仇討は受けがたい。今こそお供させていただきたい。貴公よりは手足も達者ですから、敵が何人いても駆け回りひとりで討ち倒し、貴公には手を煩わせません」と応え、菅野はこれを聞いて同道を許可したので一緒に決闘場高田馬場へいくこととなった』。『元禄7年2月11日、四つ半頃(午前11時過ぎ頃)、菅野・安兵衛・若党・草履取りは高田馬場へ入った。安兵衛が馬場を見回すと、南之方馬場末から村上庄左衛門がやってきた。しかし一人だけとは思えぬと若党に見回りさせると木の蔭に村上の弟中津川祐見(文書の中に「此れは針医者にて御座候」とある)と村上三郎右衛門(「此れは浪人。庄左衛門にかかり罷在候」とある。すなわち村上庄左衛門の家にいる居候の弟のようである)がいた。挟み打つ手だてとみて菅野は安兵衛らに護衛されながら村上に歩み寄った。村上も近づいてきて十間まで迫ったところで二人は言葉を交わした。菅野が「これは珍しいところにて見参致し候」と皮肉を言うと、村上も「まことに珍しいと存じ候」と応じた』。『そこへ村上の弟村上三郎右衛門が兄庄左衛門の後ろから回って斬りかかろうとしたので安兵衛が三郎右衛門の眉間を切り上げた。三郎右衛門はひるんで左の手を刀から離したが、なおも右の手で刀を振り下ろし安兵衛はこれを鍔で受けた。三郎右衛門は一度離れ、再度斬りかかったが、また鍔で受けとめられ、三郎右衛門の刀が引かれたところを踏み込んで三郎右衛門を正面から真っ二つにした』。『十間ばかり向こうでは菅野と村上が切りあっていた。しかし村上の剣で菅野が眉間を切られたので、安兵衛がはっとして駆け付けようとしたが、菅野も村上の左右の手を討ち落とした。村上は「ならぬ、ならぬ」と悲鳴をあげて引き下がったが、ならぬと言いながらもなおも眉間に打ち込もうとしてきた(手が落ちていては刀を握れないようにも思えるが原文はこうなっている。骨で止まり完全には落ちなかったか)ので安兵衛が西の方の上手で村上を斬り伏せた。さらに今一人(中津川祐見)が切りかかってきたのでこれも打ち倒した』。『この決闘で堀部安兵衛が斬った数は諸説あるが、この文書が安兵衛の書いた本物であるとすれば、少なくとも安兵衛が自認しているのは3人(村上庄左衛門と村上三郎右衛門と中津川祐見)ということになる』とある。『こののち江戸市中の瓦版では「18人斬り」と数を増して紹介され、さらに講談や芝居とするため劇化がなされた結果、この決闘にはさまざまな逸話が誕生することにな』り、『その代表的なものが「菅野が安兵衛の家に別れを告げに行ったとき、安兵衛は前夜他所で飲んで酔いつぶれていた為留守だった。菅野はやむなく文を書き残して高田馬場へ行く。昼近く、酔いから醒め家に戻った安兵衛は、菅野の文を読むや「すわ一大事」と慌てて高田馬場へと駆け出す。」という安兵衛が後から走って駆け付けて来たという逸話と「堀部ほりがこの決闘を見ていて安兵衛にしごきを貸す」という将来の結婚相手と運命的な出会いが決闘の時にあったという逸話』で、「高田馬場の決闘」と言えば、昭和3(1928)年伊藤大輔監督のサイレントの作品「血煙高田馬場」での私の大好きな大河内伝次郎が、たったと速駆けするシーンばかりが私には残っているのである。なお、『決闘の舞台となった高田馬場は、現在の住所表記である新宿区高田馬場ではなく新宿区西早稲田にある』そうである。

・「手寄」岩波版ではこれに「てより」という特殊なルビを振るが、私は「たより」でよかろうと思う。

・「淺野内匠頭」浅野長矩(寛文7(1667)年~元禄141701)年)御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩主。

・「宛行」武家で主君から与えられる扶持(ふち)。禄。

・「支度」通常ならば男子養子縁組では養子側がそれなりの金品を払って養子を買うということなのだろうが、この場合は、逆に被養子側が没落した武士であるから、相応の持参金が必要というニュアンスなのか。それとも、単に養子縁組の儀式の為の支度金さえもない、という意味なのか。ひたすら「困窮」を言うのであるなら後者であろうが、先のウィキの「堀部武庸」には、当時の実際の安兵衛は『堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現新宿区新戸町)に一戸建ての自宅を持った』とあるから、かなり裕福で、前者のようにも思える。但し、そもそも見た通り、実際には安兵衛は養子縁組に難色を示しており、この話のように即決ではなかったものと思われるから、こうした現実の細部を考えるのは無意味か。困窮で後者としておこう。

・「大石良雄報仇」「大石良雄」は御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄(よしお 又は よしたか 万治2(1659)年~元禄161703)年)。「報仇」討ち入りは元禄151214日(グレゴリオ暦では1703年1月30日)。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 堀部弥兵衛養子の事

 

 堀部弥兵衛の養子は元々浪人で、安兵衛と言うた。牛込辺に道場を構えていた、さる剣術の師匠の内弟子で御座ったが、この安兵衛が伯父の仇討ちに関わって高田馬場に於いて抜群の大働(おおばたら)きを致いたという話を、堀部弥兵衛が聞き及び、彼には男子がなかった故、

「なんと! かかる武勇の者を養子とせん!」

と思い到ったものの、全く縁も所縁もない人物であったがため、直ちにその剣術の師匠のもとを訪ねて、

「安兵衛殿と申す御門弟、大したお働き、と承って御座る。――実は、拙者の知り合いに四、五万石の大名に仕えて御座る、食禄三百石を領する者、良き養子を捜して御座れば――その安兵衛殿を、如何(いかが)? と存知、只今、お答えを戴きたく――」

と切り出したところ、師も、

「それは思いもよらぬ良縁で御座る。本人も必ずや承知仕るものと存ずる……しかし乍ら、只今、丁度、留守にて御座れば、帰り次第、件(くだん)の話を致いて、如何致すか訊き質いておきましょうぞ。」

との右師匠の挨拶なれば、良き感触を得て、弥兵衛は安堵して屋敷へと帰った。

 その日、しばらくして安兵衛が道場に戻ったので、師が、

「……といった養子縁組の話があるのじゃが、如何か? 浅野匠頭家来堀部弥兵衛殿という方の御紹介じゃ。」

と話すと、当の安兵衛も、

「……拙者、江戸表には親族もこれなき上……恥ずかしながら、生活、いたって不如意……願ってもない養子話なればこそ、何ら、異存御座らねど……余りに過褒にして急な話なれば……」

と躊躇する風情。そこで師匠は、

「……そうじゃな……されば、先ずはともあれ、その弥兵衛殿を訪ね申し上げ、少しく詳しい話を伺(うかご)うてから、ゆるりと決めるがよかろう。」

とのこと。

 そこで、その夜、安兵衛は堀部弥兵衛の屋敷を訪ねた。

 案内(あない)を乞うて、

「拙者は、昼つ方、お訪ね戴いた安兵衞にて御座る。」

と名乗ったところ、弥兵衛、甚だ悦んで、挨拶もそこそこに座敷内に引き込み、対座するや、

「いよいよ、養子縁組の話、御承知戴けたのじゃな! さても養父母は老人にて、主君石高並びに先方の禄高なんども、先にお話し致いたものと、全く違(たが)はぬものにて御座る!」

と一気にまくし立てる。

 安兵衛は余りの性急さに、

「……いえ、今日はまず、お話だけは伺わんものと参りまして御座ったもので……何せ、拙者、困窮致したる浪人にて御座れば……養子に入るための僅かの支度金なんども……一銭も御座らねばこそ……」

と言う言葉を弥兵衛、遮り、

「なに! 腰の大小さえ所持致し候らえば、他には何も! いり申さん!」

ときっぱりと告げる。

 余りに自信に満ちた弥兵衛の言葉に、安兵衛はとりあえず、

「……分かり申した。先方の御方へ、養子縁組承った旨、お伝え下され。」

と述べて、別れの挨拶を致そうとしたところが、

「さればこそ!」

と弥兵衛、安兵衛を残して勝手に走り込むや、衣類に新しき大小を抱えてとって返し、

「すなわち! そなたを養子に致したく存ずる者とは、拙者で御座る! 主君浅野匠頭様石高五万石、某(それがし)食禄も三百石! 今日只今より、お主は拙者の悴! 左様心得い!」

と言うが早いか、安兵衛の手をむんずと摑み、

「されば! 勝手へ通るがよいぞ!」

と慌しく家中案内(あない)に連れ回したれば――余りのことに、安兵衛も、吃驚り――やがて、その夜、そのまま堀部弥兵衛屋敷居間にて父子の約(ちぎり)を致いたということで御座る――。

 ――後、大石良雄内蔵助殿仇討の節、父子共々四十七士に加わり、その内、随一の大働きを成した、とある人の語ったことで御座る。

  

 

*   *   *

 

 

 幽靈なしとも難極事

 

 天明二年の夏の初め、淺草新シ橋外の町家娘、武家に哉(や)又は町家に候哉、借老のかたらひなして、圍ひ者といへる樣に其親元へ預け置しが、一子を生て産後より血勞のやうに煩ひしゆへ、右小兒は最寄の輕き町家へ里子に遣し置けるが、右女養生叶はずしてみまかりけるが、其夜彼里子の許へいたりて門口より會釋せしまゝ、里親は右小兒を寢せ付居たりしが、能こそ來給へりと右里子を抱て見せければ、扨々よく肥り生人いたしたりとて抱取て色々介抱し、扨々愛らしく成たる者を捨て別れんも殘念なりといひしに、里親夫婦心付て、右女子は大病のよし聞しに、いかゞ不審成事と存けれ共、最早火もともす時分人影もさだかならざる折から故、火などとぼしければ、右女子を歸し、挨拶などして立歸りけるが、其翌日親元より右娘夜前病死せる由知らせ越しけるにぞ、母子の情難捨心の殘りしも恩愛の哀れなる事と、同町の醫師田原子(し)來りて語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。「卷之一」より続く「~難極事」怪談奇談シリーズ。

・「天明二年」西暦1782年。底本解題で鈴木棠三氏は「卷之一」の下限を天明2(1782)年春まで、「卷之二」の下限を天明6(1786)年までと推定されており、「卷之二」の書き出しに近いこの話は、アップ・トゥ・デイトな都市伝説の一つであったものと推測される。

・「新シ橋外」「江戸名所図会」巻之一の筋違橋(すじかいばし)の条に昌平橋について叙述し、昌平橋はこの筋違橋『より西の方に並ぶ。湯島の地に聖堂御造営ありしより、魯の昌平郷(しやうへいきやう)に比して号(なづ)けられしとなり。初めは相生橋、あたらし橋、また、芋洗橋とも号したるよしいへり。太田姫稲荷の祠(ほこら)は、この地淡路坂にあり。旧名を一口(いもあらひ)稲荷と称す』とあり、これに同定するのが正しいか。神田川に架かる橋で、現在の秋葉原電気街南東端に位置する。橋の北が現在の千代田区外神田1丁目、南が千代田区神田須田町1丁目及び神田淡路町2丁目。上流に聖橋、下流に万世橋がある。但し、岩波版長谷川氏の「卷之一」にある注では、『神田川の浅草見附と和泉橋の間にかかっていた橋。台東区・中央区。』と記す。確かに嘉永年間(1849~1854)に出た江戸切絵図等を見ると、現在の美倉橋(現在の呼称で言うと神田川上流から昌平橋→万世橋→和泉橋→美倉橋)に「新シ橋」「新橋」と記す。しかし、美倉橋のネット上記載を見るとここが「新し橋」と呼称されたのは幕末から明治の頃とある。江戸切絵図が出た嘉永年間というのは正に幕末で、本話柄より60年以上後のことである。一応、併記しておく。「外」は江戸城を内とした外側(この橋の北)か。「近く」で訳した。

・「血勞」漢方では、「気血虚労」で気が衰退し、血が消耗して全身が疲労虚脱した状態にあることをいうが、ここは産後の肥立ちが悪い、と言うより、妊娠中毒症や出産時の異常出血等によって母体がダメージを受けたことを言っていると思われる。

・「生人」底本では右に『(成人)』と注する。

・「右女子を歸し」底本では右に『尊經閣本「右小兒をかゑし」』と注する。

・「田原子」田原氏のことであろう(「田原子」(たわらご)という姓でなかったとは言い切れぬものの)。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 幽霊は存在しないとも極められぬ事

 

 天明二年の夏の始めのこと、浅草あたらし橋近くに住んでおった町屋の娘――この娘、本来は武家の出身であったものか、元々町家の者であったものかは、実は定かでないが――ある男と婚姻の約束をしながら、実際には妾同然に扱われて、親元――とりあえず、その町屋が親元とということにしておく――に預けられたままになって御座った。

 やがて、一子を出産致いたものの、産後の肥立ちが殊の外悪うして、その子は近所の低い身分の町屋の家に里子出して御座った。

 この女、その後、養生叶わずして、身罷って御座った……。

 

 その亡くなった日の夕暮れのことで御座った。

 女が、かの子を里子に出して御座った家を訪ねて参って、門口で会釈をして御座るのを、丁度、その子を寝かしつけて御座った里親の母ごが見かけ、

「ああ、よく来なすったの。」

とこの子をかき抱いて女に見せてやったところ、

「……なんと、まあ、よう肥えて、大きゅうなりました……」

と己が子を抱き取って、懇ろに愛でて御座ったが、ふと、

「……なんと、まあ、愛らしゅうなったものを……捨てて、別れねばならぬも……残念なこと……」

と呟くのを聴いた里親の夫婦、はっと気付く――。

『……そう言えば、この母ご……病い重きこと甚だしと聞いて御座ったに……このような夜ふけに、また……何やらんおかしい……』

と思いながらも、暫くそうして御座った――。

 気づけば、既に日も暮れ、最早、家内には火を灯す時分になって、人の姿・面貌もはっきりとは見えぬようになって御座った折柄、家内に灯をとぼしたところ、女は子を養母の手に返し、行灯の火の及ばぬところにすーっと下がると、

「……どうか……よろしゅう……お願い致します……」

と挨拶致いて、かの親元の家の方へと帰って行ったので御座った――。

 

 その翌日のこと、その親元より、かの娘、昨夜病死致いた由、知らせを寄越した、と――。

 

「……母の子を思う情、捨て難(がと)う……魂魄の心残り致いた業(わざ)か……慈愛、哀れなること……」

と、その亡き娘と同じ町内に住まうておった医師、田原氏が私の家を訪ねた折りの、語りで御座った。

 

 

*   *   *

 

 

  執心殘りし事

 

 是も右最寄の事也。其日稼にて時のものなど商ひてかつがつの暮しする男有しが、隨分律義者にて稼けるが金子十兩程も稼ため、同町の者方へ來り、金貳兩と錢拾四五貫文持參し、其志を見請て預け置しとなり。然るに右男近頃病氣にて有しかば、預りし金錢を持參いたし病氣を尋ね、預りし品を歸可申段申しければ、彼男申けるは、我等死にも可致哉(や)とて 返し被申哉(や)、持參にも及ざると申にぞ、いやとよ左には非ず、病氣なれば入用も有るべしと持來りし也。先差置て入用にも無之ば、快氣の上又々預るべしと言て差置歸りけるが、無程身まかりける故、子供親類もなく獨り者の事故、など集りて、輕く寺へ送り家財改けるに、金錢十兩程も有しを、家主店請など配分して相濟しけるに、其日より兎角右老人元店のまへに立居たり、又は其邊にて彷彿と見へし沙汰頻(しきり)にあれば、大屋店請も大きに恐れ、右金子を以て厚く吊(とむら)ひて法事を十分にいたしけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:冒頭で「是も」前項「幽靈なしとも難極事」「最寄の事也」と、幽霊譚で連関する。この「最寄の事」は場所ではなく、前項が本巻執筆時に近い天明2(1782)年の事で(底本解題で鈴木棠三氏は「卷之一」の下限を天明2(1782)年春まで、「卷之二」の下限を天明6(1786)年までと推定されており、「卷之二」の書き出しであるここは正に天明2(1782)年春直後の記載メモに基づくものと考えられ、美事に一致するのである)、それと同じように最近の出来事、という意味で用いているのであろう。

・「同町の者方」この人物は本話柄の後半部には直接は登場しない人物で、とりあえず主人公の老人の守銭奴ぶりや生への執着の深さを強調するエピソードとして機能している。但し、後半のシークエンスにこの同町内の、数少ない老人が信頼していた人物が関わらないというのは妙な話である。実は、粗末な葬送で済ました大屋たちが老人の金を猫糞していることを、この人物が察知し、このような幽霊譚をしくんでちょいと懲らしめた、という真相なんどを私は想像したくなってしまうのであるが、如何?

・「錢拾四五貫文」当時は実質的変動相場制であったから、正確には言えないが、通常、金1両=銀5060匁=銭4貫文=銭4000文とされるので、銭1415貫文は4両弱に相当するか。預けた金の総金額は6両程度となる。

・「大屋」貸家の持主。貸主。⇔店子(たなこ:借家人。)

・「店請」借家人の身元保証人。

・「五人組」幕府が町村の町人・百姓に強制的に組織させた隣保制度(第二次世界大戦中の隣組組織と相似)。近隣の5戸を一組として、連帯責任制を適用して防火・防犯・キリシタン等宗門及び浪人の取締・年貢の貢納管理等を行わせ、合わせて相互扶助(厚生事業)にも当たらせた。町村の条例相当の遵守事項・五人組毎の人別・各戸当主・村役人連判を記した五人組帳という帳簿が作成されていた。

・「兎角右老人元店のまへに立居たり」底本には右に『尊經閣本「兎角に右店請の前又は家主の所へ右老人立居たり」』と注する。シチュエーションとしての面白さから、両方を贅沢に採った。

・「吊(とむら)ひて」「吊」には「弔」の俗字としての用法がある。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 執念の世に残れる事

 

 これも同じく最近聞いた心霊譚にて御座る。

 日雇い稼ぎを主とし、或いはその季節の物なんどを少し仕入れては行商致いて、かつかつの生計(たつき)を立てておった年寄りの男が御座った。

 ところが実は、随分な律義者にてあったれば、酒色好事に耽るでなし、だんだんに稼ぎ貯め、金子十両ほども貯まったため、ある日、同じ町内にて日頃、幾分、親しくして御座った者――と言ってもこの老人、偏屈寡黙にして知り合いも少のう御座ったが――の方を訪れ、彼に金二両と銭十四~五貫分を持ち参り、

「少しばかり、金子溜まり候えばこそ、御身を見込んで――。」

と預け置いたそうな。

 しかし、この老人、最近になって病に倒れたとのことを、金を預けられた男、聞き及び、予ねて預かった金を持参の上、見舞いに訪れ、病とのことなればこそ金預かっておった金をお返し致すがよかろうとて参った、と言ったところが、かの老人、以ての外に不快の形相にて、

「……儂が今にも死ぬんじゃなかろかと、様子を見に返しに来よったふりをしたか?!……ふん! 勝手に殺されるか!……儂は死なんぞ! 預けた儂の金は儂のもんじゃ! 必ず取りに返らでおくべきか! 持参にも、ペッ! 及ばぬわ!……」

と意想外の剣幕。かの男は困って、

「いや、そうではない。落ち着きなさい!……病気ということなればこそ、医薬滋養と、いろいろ物入りにて御座ろうほどにと持参致いたものじゃ。……まあまあ、とりあえず、手元に置いておき、使う必要もこれといってなかったならば……それはそれで、また、よしじゃ……首尾よく快気致いた上は、また私が預かろうほどに……。」

と言って、金を置くと、ほうほうの体で帰って行った――。

 程なく、老人は死んだ。

 この老人、子供も親類もない、天涯孤独の独り者であったがため、老人の借家の大屋や、呼び出されたところの、老人の借家保証人となっていた店請の者、更に老人の住んで御座った町内の五人組などが集まり、形ばかりの粗末な葬式を出して同町の知れるところの寺に送った。

 さて葬送も終えて、老人の家財を改めてみたところが、何と金銭が総額十両程も御座ったれば、大屋・店請・五人組ら、語らってこっそり山分けにし、そ知らぬ風をして済まそうということになった。

 ところが――

……その、山分けにしたその日以来……

……亡くなった老人が、昔の自分の店(たな)の前に……ぼんやりと立っているのを見た……

……昨日は、大屋の玄関先に……亡くなった老人が、恨めしそうに立ち竦んでおるのをはっきりと見た……

……いやいや、店請の男の家(うち)の真ん前に……憤怒の相で立って御座ったのを確かに見た……

……先日は、見通せる五人組の各々の家の前に、独りずつ、同じ老人が五人立って奥を見ておったと!……

……といった噂が頻りに広(ひろ)ごり、当の大屋や店請らも――実際に見たのか、見なかったのか知らねども――何やらん、大いに恐れ戦いて、結局、山分けに致いた右金子を総て回収の上、その金を以って老人を、再度、手厚く弔ったということで御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 吉比津宮釜鳴の事

 

 桑原豫州長崎往來に吉比津の宮へ參詣せしに、右社内に差渡四尺餘の釜、則釜壇にすへ有し。御供(ごくう)を獻じ候ときは、神人(じにん)米壹合程右の釜の内へ入、磨鹽水などにて淸め、松ばを少し釜の下にて焚候へば、最初は鈴の(音の響く程に鳴りて段々嶋音高く、後にはあたりへも)響きて移しく聞へける。やがて神人鹽水を打ぬれば鳴音も又止ぬと語りぬ。戸田因州も其席におはしけるが、先領は右最寄故度々右社頭へも至りしが、不思議の事と語り給ひし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に強い連関を感じさせないが、幽霊譚から神仏霊験譚の流れとして自然。

・「吉比津宮」岡山市北区吉備津(備中国と備前国の境にある吉備中山の北西)にある吉備津神社。吉備津彦命(きびつひこのみこと:孝霊天皇の第三皇子で、四道将軍(崇神天皇10B.C.88?)年に天皇より北陸・東海・西道・丹波に、まつろわぬ民あらば平定せよ、との命を受けて派遣された、大彦命(おおびこのみこと)・武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)・吉備津彦命(きびつひこのみこと)・丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す)の一人として山陽道に派遣され吉備を平定したとされ、吉備臣のルーツ。)を主祭神とする山陽道屈指の大社。社殿は本邦唯一の比翼入母屋造り(吉備津造り)。以下の釜鳴神事(上田秋成の「雨月物語」のズバリ「吉備津の釜」で広く知られる)、主神と釜に纏わる桃太郎伝説の地としても知られる。

・「釜鳴」吉備津神社の縁起及び岡山県で伝承されている神話によれば、吉備津彦命は『鬼ノ城(きのじょう)に住んで地域を荒らした温羅(うら)という鬼を、犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来と共に倒し、その祟りを鎮めるために温羅を吉備津神社の釜の下に封じたとされ』、更に一説には『命の家来である犬飼健を犬、楽々森彦を猿、留玉臣を雉と見て、この温羅伝説がお伽話「桃太郎」になったとも言われ』る(以上の引用はウィキの「吉備津彦命」によるが、この神話には別に細部に関わる因縁譚があり、それは次で示す)。この釜鳴神事は、釜を用いて米を蒸す際、釜が奇妙な音を出し、その音の強弱・長短などを以って吉凶を占う(一般には強く高く長く鳴れば吉、無音なれば凶とする)神事で、各地に見られるが、ここ吉備津神社をルーツとすると言われる。熱湯による真偽の判断を占う盟神探湯(くがだち)やその流れを汲む湯立(ゆだて)・湯起請(ゆぎしょう)と等の呪術と同じい。以下、科学的考察も絡めてコンパクトに纏めている、ウィキの「鳴釜神事」の吉備津神社のパート部分を引用する。吉備津『神社には御釜殿があり、古くは鋳物師の村である阿曽郷(現在の岡山県総社市阿曽地域。住所では同市東阿曽および西阿曽の地域に相当する)から阿曽女(あそめ、あぞめ。伝承では「阿曽の祝(ほふり)の娘」とされ、いわゆる阿曽地域に在する神社における神官の娘、即ち巫女とされる)を呼んで、神官と共に神事を執り行った。現在も神官と共に女性が奉祀しており、その女性を阿曽女と呼ぶ』。神事は『まず、釜で水を沸かし、神官が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠(せいろ)の上に入れ、混ぜると、大きな炊飯器やボイラーがうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれる。神官が祝詞を読み終える頃には音はしなくなる。絶妙なバランスが不思議さをかもし出すが、音は、米と蒸気等の温度差により生じる振動によると考えられている。100ヘルツぐらいの低い周波数の振動が高い音圧を伴って1㎜ぐらいの穴を通るとこの現象が起きるとされ、家庭用のガスコンロでも鉄鍋と蒸篭を使って生米を蒸すと再現できる』。『吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。 吉備国に、温羅(うら)という名の百済の王子が来訪、土地の豪族となったが、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという』とある。被征服民族の神を邪神に引き下ろして滅ぼしながら、その御霊(ごりょう)を畏れてそれを祀り、祀りながらそれを自国防衛の宗教的システムに取り入れてゆくという、狡猾な国策である。公平を期すために、「吉備津神社」の公式サイト「釜鳴神事」解説からも引用しておく(記号の一部を変更した)。『当社には鳴釜神事という特殊神事があります。この神事は吉備津彦命に祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で占う神事です。多聞院日記にみられるのが文献的には一番古いとされる。永禄十一年(1568)五月十六日に「備中の吉備津宮に鳴釜あり、神楽料廿疋を納めて奏すれば釜が鳴り、志が叶うほど高く鳴るという、稀代のことで天下無比である」ということが記されており、少なくとも室町時代末期には都の人々にも聞こえるほど有名であったと思われます』。『釜鳴という神事は王朝以来宮中をはじめ諸社にもあったことが文献にもみられています。釜を焼き湯を沸かすにあたって時として音が鳴るという現象が起こると、そこに神秘や怪異を覚え、それを不吉な前兆とみなし祈祷や卜占を行ったらし』く、それに『陰陽道的解釈が加えられていったと考えられます』。『この神事の起源は御祭神の温羅退治のお話に由来します。命は捕らえた温羅の首をはねて曝しましたが、不思議なことに温羅は大声をあげ唸り響いて止むことがありませんでした。そこで困った命は家来に命じて犬に喰わせて髑髏にしても唸り声は止まず、ついには当社のお釜殿の釜の下に埋めてしまいましたが、それでも唸り声は止むことなく近郊の村々に鳴り響きました。命は困り果てていた時、夢枕に温羅の霊が現れて、「吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をしてミコトの釜殿の御饌を炊がめよ。もし世の中に事あれば竃の前に参り給はば幸有れば裕に鳴り禍有れば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現れ給え。われは一の使者となって四民に賞罰を加えん」とお告げになりました。命はそのお告げの通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れました。これが鳴釜神事の起源であり現在も随時ご奉仕しております』。『お釜殿にてこの神事に仕えているお婆さんを阿曽女(あぞめ)といい、温羅が寵愛した女性と云われています。鬼の城の麓に阿曽の郷があり代々この阿曽の郷 の娘がご奉仕しております。またこの阿曽の郷は昔より鋳物の盛んな村であり、お釜殿に据えてある大きな釜が壊れたり古くなると交換しますが、それに奉仕するのはこの阿曽の郷の鋳物師の役目であり特権でもありました』。『この神事は神官と阿曽女と二人にて奉仕しています。阿曽女が釜に水をはり湯を沸かし釜の上にはセイロがのせてあり、常にそのセイロからは湯気があがっています。神事の奉仕になると祈願した神札を竈の前に祀り、阿曽女は神官と竈を挟んで向かい合って座り、神官が祝詞を奏上するころ、セイロの中で器にいれた玄米を振ります。そうすると鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞奏上し終わるころには音が止みます。この釜からでる音の大小長短により吉凶禍福を判断しますが、そのお答えについては奉仕した神官も阿曽女も何も言いません。ご自分の心でその音を感じ判断していただきます』(以上の引用部分の著作権表示(C)2008.Kibitsu Jinja All rights reserved.)。

・「桑原豫州」桑原伊予守盛員(もりかず 生没年探索不首尾)。西ノ丸御書院番・目付・長崎奉行(安永2(1773)年~安永4(1775)年)・勘定奉行(安永5(1776)年~天明8(1788)年・大目付(天明8(1788)年~寛政101798)年)・西ノ丸御留守居役(寛政101798)年補任)等を歴任している。「卷之一」の「戲書鄙言の事」の鈴木氏注によれば、『桑原の一族桑原盛利の女は根岸鎮衛の妻』で根岸の親戚であった。事蹟から見ると根岸の大先輩・上司でもある。

・「右社内に差渡四尺餘の釜、則釜壇にすへ有し」「すへ」はママ(据えるの意味の古語は「据う」でワ行下二段活用又は「据ゆ」でヤ行下二段活用であるから「すゑ」又は「すえ」でなくてはならない)。私は吉備津神社に行ったことがないので、吉備津神社公式サイトの境内図等で確認したところ、少なくとも現在、釜は本殿にあるのではなく、本殿の左手から回廊を本宮社のある山手へ向かった中間点を右に下った神池畔に釜殿という特別な社殿が設えられており、釜はここにあって、釜鳴神事もそこで執り行われている。

・「御供(ごくう)」は底本のルビ。岩波版は普通に「お供(そなえ)」と振るが、古語としては底本がいい。神仏に供える物、お供物。ここでの「米」は神事・卜占に用いる以上、立派なお供物である。

・「神人」「じんにん」とも読む。室町以降、神社に隷属し雑役などを行った下級の神職。但し、ここでは単に神職(神主)を指しているように思われる。

・「戸田因州」戸田因幡守忠寛(ただとお 元文4(1739)年~寛政131801)年)。肥前国島原藩第2代藩主・下野国宇都宮藩(77850石)初代藩主。ウィキの「戸田忠寛」によれば、宝暦4(1754)年に『肥前国島原藩主となり、従五位下因幡守に叙せられ』、『明和7年(1770年)、奏者番となる。安永3年(1774年)、領地を転じて下野国宇都宮藩主となり、宇都宮城を居城とする。幕府より5,000両を借りて城を造営し、同5年(1776年)、寺社奉行を兼ねて、天明2年(1782年)9月、大坂城代となる。同年、旧領改め、河内国、播磨国に所領を移封され、同4年(1784年)5月、京都所司代に補任し侍従に任官する。同年9月、所領を河内国、摂津国に移され、同7年(1787年)12月、所司代を辞し、旧領宇都宮に転封となる。この年に、京都伏見にて市人争訟の儀あったが、その計らいが不十分であったとされ、出仕が停められた』。『間もなく免ぜられ、寛政10年(1798年)6月21日に致仕・隠居した。同13年(1801年)正月晦日に没する。享年63』とある。さて、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるが、天明4(1784)年には佐渡奉行として赴任しているから、この三者の同席の下限は天明4(1784)年より以前ということになる。しかし、戸田は「先領は右最寄故度々右社頭へも至りしが」と言う以上、これは天明2(1782)年に岡山に近い播磨国に戸田が移封された折のことを指すとしか考えられない。すると、「先領」と言って過去形を用いていることから、自動的に、これは天明4(1784)年9月以降、所領を河内国・摂津国に移封されて以降のことになる。天明4(1784)年ならば桑原は勘定奉行で江戸在住である。ところが、ここに疑問が生ずる。それは、この時期の戸田は京都所司代であるから、江戸にいて桑原・戸田・根岸の三者がゆるりと談話するというシチュエーションは考えにくいと私は思うのである。そうすると、推定し得る可能性は、根岸が佐渡奉行から勘定奉行に栄転して帰府した天明7(1787)年以降、同7年12月に戸田が所司代を辞し、旧領宇都宮に転封となってからであると考えるのが自然ではないかと思われる(桑原は勘定奉行・大目付であるから問題なく江戸に在住する)。更に言えば、その下限は桑原と戸田二人がほぼ同時に致仕・隠居したと考えられる寛政101798)年以降まで含まれるもののように思われる。いや、この話柄そのものが隠居した大先輩を相手にして根岸が聞き書きしたものと考える方が分かりがよいように私は思うのである。鈴木氏の執筆年代推定は各巻の年代が特定出来るものを用いたものであって、厳格な区分とは言えない(もし私の推測が正しく、執筆区分が厳密なものであるとすれば、この話柄は下限を文化元(1804)年7月までとする「卷之六」になくてはならない)。100話に揃え、整序する作業は当然、全巻の執筆後にも行われたものと思われるから、以上から、私は本話の成立は天明7(1787)年よりもずっと後、寛政101798)年前後ではなかったかと推定するものである。

・「先領は右最寄故度々右社頭へも至りし」底本注で鈴木氏は『他領の神社へ度々参ったというのは解しがたい』とされているが、当時の備中国一宮(現・岡山県岡山市)に所在する吉備津神社と戸田の旧領である播磨国(現在の兵庫県南西部)は姫路と吉備間でも直線距離で100㎞を超える。これを「右最寄」と言うかどうかも、やや疑問ではある。それに、縁も所縁もないこの播磨国に、たかだか2年間の移封中、「度々」国入りし、更に100㎞も先の吉備津神社「へも至りし」というのは、やや解せぬどころではない気がするのは、私だけであろうか。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 吉備津の宮釜鳴り神事の事

 

 長崎奉行をされたことのある桑原伊予守盛員殿の話。

「拙者が長崎へと赴く道中、吉備津の宮に参詣致いた折り、この神社の中には、直径四尺余りの大釜が、曰く、釜壇という場所に据えられて、鎮座致いて御座った。御供物を献じて御座れば、神主が米一合ほど、この釜の中に入れ、塩を含んだ水などを以って、清めたつつ、釜中に注ぎ入れて、松の葉を少しばかり釜の下にて焚いて御座れば、最初、鈴の響きほどの音(ね)が鳴り始め、だんだんと鳴る音が高うなり、遂には辺りへも大きに響くほど、びっくりするような音(おと)が聞えてくるので御座る。やがて神主が、釜の中にぱっと塩水を打つと、鳴る音(おと)も止んで御座った。」

 この話を聞いた折りには、戸田因幡守忠寛(ただとお)公もその場に同席しておられたが、

「拙者の前の領地、その近辺にて御座ったれば、度々その宮を参詣致いたが、誠(まっこと)、不思議なる釜鳴りであったよのう――。」

と仰せられた。

 

 

*   *   *

 

 

 日の御崎神事の事

 

 日の御崎神事の節は神人(じにん)海邊に出、波打際に立居ける事なるが、毎年日時を違へず沖の方より藻の上に小蛇とぐろして流れより侯を、神人兩手を以て受て、直(ぢき)に神前へ相備侯恆例也。右蛇は或は一日又は兩日程其儘にて動かずありて死しけると也。夫を直に干かため年々の蛇形を納め置て、信仰し乞候ものあれば附屬しける由。戸田因州公も去年右神主より差越し受納ありしと、寺社奉行勤の節物語也。尤白蛇とは唱候得共、全く白に無之、黑ずみ候蛇の由也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:大先輩、戸田因幡守忠寛(ただとお)絡みで、更に摩訶不思議なる神事でも連関。

・「日の御崎神事」島根県出雲市大社町日御碕、島根半島最西端にある、「出雲国風土記」「延喜式」に載る日御崎神社(祭神は天照大神と素戔嗚尊)の神事。旧暦1011日の神迎祭に始まり、14日の龍神祭、17日の神等去出祭を以って終る。これは所謂「神在祭」で、全国から集まる八百万神招来の確認を意味している。そして、この時期に浜にやってくるウミヘビを、その神々の先導役とされる大国主の使者、竜蛇神として迎えた。このウミヘビは爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科セグロウミヘビPelamis platura である。以下、ウィキの「セグロウミヘビ」によれば、『全長は60-90㎝。体形は側偏する。斜めに列になった胴体背面の鱗の数(体列鱗数)は46-68。名前の由来は、背が黒いことから。腹面は黄色や淡褐色。これは、主に沖合の海面付近に生息するために、外敵に見つかりにくい色になったためであり、サバやマグロなどの回遊魚と同様の進化である。本種は他のウミヘビ亜科の種と同様、卵胎生を獲得して産卵のための上陸が不必要となった完全な海洋生活者であり、その遊泳生活に応じて、他のヘビでは地上を進むのに使用されている腹面の鱗(腹板)は完全に退化し』、『頭部は小型で細長い』。『牙に毒を持つが、本種は肉にも毒があるので、食用にはならない。黄色と黒というその非常に特徴的な体色は肉が毒を持つことの警戒色の意味もあるのではないかと考えられている。ウミヘビの中では比較的性質が荒い種であり、動物園で飼育されていた本種は給水器に何度も噛み付くほど凶暴だったという』。『外洋に生息する。暖流に乗って北海道辺りまで北上することもある。完全水棲種で、腹板が退化しているため陸地に打ち上げられると全く身動きがとれずにそのまま死んでしまうことがある。反面遊泳力は強い』。『食性は動物食で、主に魚類を食べる』。『繁殖形態は卵胎生で、11月頃に海岸に近づき、海中で2-6頭の幼蛇を産む』。とあり、更にズバリ、本日御崎神社の神事の記載が以下のように現われる。『本種は日本の出雲地方では「龍蛇様」と呼ばれて敬われており、出雲大社や佐太神社、日御碕神社では旧暦10月に、海辺に打ち上げられた本種を神の使いとして奉納する神在祭という儀式がある。これは暖流に乗って回遊してきた本種が、ちょうど同時期に出雲地方の沖合に達することに由来する』。但し、近年、海洋汚染や護岸工事による潮流変化により、セグロウミヘビが浜に来ることは稀となり、祭事は龍蛇が奉納されたものとして行われるのみで、悲しいことに、根岸の綴るような神異を目の当たりにすることは最早、出来ない。日御崎神社の狩野・土佐両派の手になる天井画を持つ現社殿は、寛永211644)年に三代将軍家光の命を受けた松江藩により造営されたもので、国指定重要文化財に指定されている。旧暦1月5日にワカメを刈る和布刈神事(わかめかりしんじ)が行われるとある。この神事、私にとっては中学時代に読んだ松本清張の「時間の習俗」に登場する懐かしいものだ(但し、あれは福岡県北九州市門司区門司にある和布刈神社の同じ神事。あの小説も今の連中にはトリックが廃れた神事みたようなもんで訳が分からんだろうなあ)。「直に神前へ相備侯」という根岸の叙述が正確ならば、本文冒頭の神事は旧暦1014日のことと考えられる。

・「神人」「じんにん」とも読む。室町以降、神社に隷属し雑役などを行った下級の神職。但し、ここでは単に神職(神主)を指しているように思われる。

・「附屬」古語の「付属」には、付き従こと、またはそのものという現代語と同様の意味の他に、宗教用語として、教義経文を信者や弟子に伝授する、という意がある。

・「戸田因州」戸田因幡守忠寛。前項注参照。彼が寺社奉行であったのは安永5(1776)年から天明2(1782)年9月の間であるから、この話は前話と異なり、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までという期間に綺麗に入る。こうなると、前の話もこの話と同じ時期に採取されたとも考えられないではないが、そうなると、前の話の戸田の言「先領は右最寄故度々右社頭へも至りし」が理解出来なくなるという大きな問題点が発生するのである。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 日御崎神社神事の事

 

  日御碕神社神事の節は、神主が海辺に出、波打ち際に立つ――すると、毎年、その必ず日時を違えず、藻の上にとぐろを巻いた小蛇が、沖つ方より流れ寄って御座ったものを、神主が両手にて掬い受け、直ちに神前に供え申し上げることを恒例としておる。

 この蛇、一日若しくは二日ほど凝っとして御座って、そのまま動くことなく死ぬという。それを干し固め、年々、とぐろの蛇形(じゃけい)の木乃伊(ミイラ)を拵え納め置いて御座れば、参詣する者の中で、信心深く神体を乞う者があれば授けるのだとのこと。 

 戸田因幡守忠寛(ただとお)公も、

「……そうそう、去年、その日御碕神社の神主より、かく製せられた奇品を受納致いたことが御座ったわ……」と物語られたのを、公が寺社奉行を勤めておられた折りに、お聞きしたのを覚えて御座る。

 公のお話によれば、それは、

「……う~む、霊蛇にして白蛇(はくじゃ)と聞き及んで御座ったが……白いものにては御座なく、黒ずんで御座った蛇であったのう……。」との由。

 

 

*   *   *

 

 

 無思掛悟道の沙汰有し事

 

 予が知音の元へ來る禪僧の咄けるは、禪家に入座禪を致し習ふ始には甚だ苦しき故足をゆはへて仕習ひける事也。夫に付おかしき咄の有とて語りけるは、彼僧初學の節檀家の病死人ありて棺中へ納、側に彼の出家を賴み附置、親族なども代るがはる居たりしが、例の通り結伽趺座して足を結ひ座禪修行の心にて心を靜め居たりしに、右亡者浮腫の煩ひ故哉(や)、棺中にて水気洩れ候と見へて怪しき音小高く聞へければ、側に居たりし親族の男女はわつといふて右一間を互に逃出ける故、僧も恐しく逃んと思ひけるが、足を結ひ置しゆへ立事叶わず、無據心を靜め居たりしが、全(まつたく)浮腫の死骸故水の溢れ候と心付て怖敷事去りぬれば其優に有しを、家内親族追々立戻り、流石は禪氣の勝れし出家なりと感心して寄依しけるもおかしけれと語りしとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:神仏に纏わる奇譚(但し、こちらは霊異譚ではなく、事実談として解析も美事)で連関。

・「結伽趺座」通常は「結跏趺坐」と書く。「跏」は足の裏、「趺」は足の甲の意で、坐法の一つ。両足の甲を、それぞれ反対の大腿部の上に乗せて押さえる。先に右足を曲げ、左足を乗せるのを降魔坐(ごうまざ)と言い(修行の体)、その逆を吉祥坐という(悟達の体。蓮華座とも)。仏の坐法であり、禅宗の座禅行で用いられる。

・「浮腫」通常は主に顔や手足の末端に近い部分が、体内の水分の増加によって多くは痛みを伴わずに腫れる(むくんでくる)症状。医学的には細胞外液量の増加により発生する症状で、生化学的には体内の総ナトリウム量の増加によって、浸透圧が上昇、細胞間質(液細胞組織内の液体部分)と血液・リンパ液との圧力バランスが崩れて、それにより水分の貯留が惹起される現象である。ただの疲労によるむくみもあるが、典型的な浮腫が顕著に見られるものとして心不全・ネフローゼ症候群・肝硬変の他、甲状腺異常・血管及びリンパ系循環障害・悪性腫瘍・深部静脈血栓症等の重篤な疾患も疑われる。

・「寄依」底本では、「寄」の右に『(歸)』と注する。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 思いがけず悟達の名僧たる評判を得た事

 

 私の親しくして御座る友のもとへ、しばしば訪れる禅僧の話したことにて御座る。

「……禅家の門叩いて、座禅を致し、それを習う始めの頃……これが、まあ、直(じき)に足が痺れ、甚だ苦しい思いを致しまする故に、両の足、これを紐にてきゅっと結わえて修行致すので御座るが……それに附、いや、もう何ともお笑いの話が御座っての……」

と前置きの上、かの禅僧が語り出した話は――

「……さても拙僧入門初学の折りのこと、檀家に病死致いた者が御座って、その葬いに参ったのじゃが……家の者、死人(しびと)を棺に納めて後、拙僧に、棺の側にあって回向せんことを頼まれ、親族なんども代わる代わる、同じく棺の傍らにて勤行など致して御座った……拙僧は例の通り、結跏趺坐致いて、足を細き紐にて結わえ、常の座禅修行の心を以って気を静めて御座ったのじゃが――後で思えば、この死人、生前、浮腫を患って御座った故か――棺の中から――水気(すいき)が死体より弾け出でて御座ったと見えて――何やらん……グリュグリュ、ブリブリ、ブオン!……と……いや、もう、聴くもおぞましい奇怪な音が……はっきりと聞こえて来たので御座った……傍に御座った親族の男女は……ワッ! と叫ぶが早いか、先を争うように一目散に部屋から逃げ出す……勿論、拙僧も恐ろしゅう御座ればこそ逃げんと思うた……ところが、じゃ……ほれ、脚を結わえて御座ったれば……立ち上がることも叶わず……青くなって震えながらも……『最早、万事休す』……『ここは一つ、肚(きも)を据えて落ち着く外なし』……と思うての……いや、そこでよくよく考えて見たところが――先程、申し上げた通り、この仏は確か生前、浮腫を患って亡くなった、ということに改めて思い至ったのじゃ――いや、これはもう、単に、その水気が死骸から漏れ出でたに過ぎぬと気づいて御座ったれば……そうと決れば、こっちのものじゃ……これと言って、恐ろしいと思う気持ちも去っての、実際、その後は、何事も起こらなんだ……拙僧は、かくしてそのまま、穏やかな座禅の三昧境に入って御座った……と、相応に時が過ぎて……追々、恐る恐る家内親族の者どもが立ち帰って参った……すると拙僧の姿を見るや……「流石は禅の境地を極めた御出家にて御座る!」……と残らず感心、讃嘆の極み……その後、ただの青同心の拙僧に……いや、もう、夥しい者どもが熱心に帰依して御座った……ハッハ! いや、なんともはや、可笑しなことで、御座ったのぅ……」

と語ったとか。

 

 

*   *   *

 

 

 信心に奇特ある事

 

 予が許へ來る山中某とて、御抱席(おかかへせき)の與力より後は御代官に昇進せしが、最初大願の始め彼是上に立人の心どり六ケ敷、思やうに事調はざりしが、深く辨天を信じ成願の法などを修し貰ひしが、相州江の嶋の辨天は靈驗いちじるしきと聞て、三日斷食をなして代拜の者を差遣しけるが、彼代拜の者江の嶋にて不思議の靈夢を蒙りし由。誰ともなく、山中が願望當時世話有し川井何某の手にては出來ざれども、跡役の人并に權門家の何某心得候間、始終は成就すべきとの事也。右代拜の者は其世話いたし候人の名前などは委敷(くはしく)知るべきものならねば不思議におもひけれ共、いまだ川井も盛んに勤の事故強ひて心にも留めざりしが、無程川井身まかりて跡役の時節にいたり願の叶ひけるよし。最初より少しも能(よく)と存(ぞんず)る事を聞しは多分辰巳の日也と語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:神仏に纏わる霊験譚で連関。

・「奇特」ここでは宗教用語として、神仏の摩訶不思議な験(しるし)、効験(こうげん)の意。

・「御抱席」その一代限りで召抱えられる地位を言う。これに対して世襲で受けられる役職を譜代席、その中間を二半場(にはんば)と呼んだ。ウィキの「御家人」によれば、『譜代は江戸幕府草創の初代家康から四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で、特に由緒ある者は、譜代席と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた』。給与や世襲が保証された『譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は、次第に崩れていき、町奉行所の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら、馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず、抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに、相場が生まれるほどであった』とある。この山中殿、筆頭与力になれたのであろうか。人事ながら、ここまで運気の強かった彼、気になるところではある。

・「與力」諸奉行等に属し、治安維持と司法に関わった、現在の警察署長に相当する職名。

・「御代官」幕府及び諸藩の直轄地の行政・治安を司った地方官。勘定奉行配下。但し、武士としての格式は低く、幕府代官の身分は旗本としては最下層に属した。

・「深く辨天を信じ」何故、この山中某が弁才天を信仰していたのか、その辺が見えてくると、もっと面白くなるという気がするのだが。

・「相州江の嶋の辨天」神奈川県藤沢市江の島の島内にある江島神社のこと。日本三大弁天(異説はあり)の一つ。現在の祭神は宗像(むなかた)三女神(海人族の女神。島の西最奥の奥津宮に多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)・中央の中津宮に市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)・北の入り口にある辺津宮(へつみや)に田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をそれぞれ祀る)。江戸末期までは金亀山与願寺という寺院で、弁才天が主神として祀られており、江島弁天と呼ばれ、岩本院等、多くの宿坊を備えていた。廃仏毀釈によってかくなったが、現在も辺津宮境内にある奉安殿に八臂(はっぴん)弁才天と妙音弁才天を安置する(この妙音弁才天は女性生殖器をリアルに彫りこんであることで有名)。欽明天皇13552)年、神宣による勅命を受けて、江の島の南側海食洞(御岩屋と称する)に宮を建てたのを嚆矢とすると伝える。「吾妻鏡」寿永元(1182)年の記載には、源頼朝の命によって文覚上人が岩屋に弁才天を勧請したとあり、北条時政絡みの霊異譚にもこの弁天の祠が登場する(北条氏の紋所の三つ鱗はこのエピソードの龍神の鱗に由来するとも言われる)。江戸期には豊穣神・芸能神である弁天信仰で栄え、商人や芸者衆の厚い信仰を受けた。……さて、私にとっても……江の島は青春と秘やかな思い出の地である――尾崎放哉にとってそうであったのと同じように――34年前、弁天橋から、富士の夕景――

・「川井何某」はまさに筆頭与力であったか。

・「辰巳」は日時ではなく南東の方位しか言わないから、これは干支の誤り。弁才天の縁日は己巳(つちのとみ)であるから、それを書き誤ったものと考えられる。また弁才天と龍神、龍神は宇賀神(蛇神)とそれぞれ密接に関連(というか一体に習合)するので、その思い込みから辰と巳を組み合わせてしまったものとも思われる。いや! もしかするとこれは洒落かも? 山中殿、この日は丁度、江戸の辰巳の深川遊廓にくり出した日だったのかも!?(辰巳芸者でお分かりの通り、「辰巳」は深川遊廓を指す隠語でもある)……いや、遊里――芸者――弁天――江の島弁天たぁ、こりゃ、美事にすっぽり、ずっぽりと繋がる、じゃあ、ござんせんか?!……

・「最初より少しも能と存る事」聞いた初めから、完全によく成就するという内容の予言、という意味であろう。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 信心に奇特がある事

 

 私のもとによく訪ねて参る山中某という者は、御抱席の与力から、後には代官にまで昇進した人物であるが、未だ与力であった昇進大願の発願始めの頃には、あれこれ、上司の思惑を測りかね、上手く立ち回ることも出来申さず、どうにもこうにも思うように行かずにおったという。

 さても、彼は日頃から弁才天を深く信仰して御座って、これまでも昇進祈願のために、弁才天の請願成就の修法(ずほう)なんどを特別にとり行って貰ったりなんど致いておったのだが、ある時、相模国江の島の弁才天、霊験著しき由聞き、早速三日断食致いて精進潔斎の上、代拝の者を江の島に遣わした。

 この代拝の者、島に泊ったその晩、摩訶不思議なる霊夢を見た。

――夢の中で、何者か分からぬ誰かが、

「……山中が願望……今の上司たる川井××殿の手にては叶わぬ……されど……その川井殿後任の者並びに関係有力者の○○○○殿がこのことについて理解を示してくれることになっており……畢竟、成就致すこと間違いなし……」

と言うのが聞こえた――というのである。

 この代拝に遣わした男は、川井××の名は勿論、山中が少しばかり知って御座った権勢家○○○○殿の姓名なんど、詳しく知るはずもない者で御座ったれば、川井は如何にも不思議なことと思ったけれども、当時の上司川井某は如何にも健やかに勤めて御座ったれば、強いて夢のことは、心に留めずにおいた。

 ところが、ほどなく川井某は急逝、後役が就任するや、直ぐに川井の昇進が叶ったとのこと――。

「……その代拝の者に全き祈願成就のお告げの御座ったは……多分……弁才天の縁日の己巳(つちのとみ)の日で御座った……」

と語った。

 

 

*   *   *

 

 

 古物不思議に出る事

 

 黒田豐前守老職たりし時、上野へ參詣の折から古き道具見世にありし琴を輿中(よちう)より見給ひて、殊に古物と目利(めきき)ありて、歸宅のうへ早々人を遣し買調ひ改め被申しに、何れより拂ひに出しものや、琴の澤に赤銅(しやくどう)の蟹をひしと彫付ありし故、その細工は凡ならざるを以、彫物師を呼て目利有しに、後藤家の古彫にて、甲を放し見られければ、琴の海に山下水の流るべらなりと筆太に貫之の手にて書有し。依之、有德院樣へ獻上ありければ、則山下水と召れ、御重寶に被成ける由。其折から、御前伺候の面々、貫之の歌ながら、べら也とはおかしきてにおはと申しければ、其節御小姓を勤仕(ごんし)ありし田沼主殿頭(とのものかみ)【此主殿頭は當時老職勤仕ある主殿意次公の父也】申けるは、べらなりといへるてにおは數多有と、古き歌數十首を證歌として言上有ければ、上にも其堪能を感じ思召けると也。安藤霜臺の物語なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:音楽神弁財天から琴で連関。

・「黒田豐前守」黒田直邦(寛文61667)年~享保201735)年)。常陸下館藩主・上野沼田藩初代藩主。延宝81680)年、徳川徳松(五代将軍綱吉長男であったが5歳で夭折)の側近として仕え、後、小納戸役や小姓を経て、元禄131700)年、1万石の大名に列した。元禄161703)年に常陸下館に封ぜられて、享保81723)年に奏者番、寺社奉行兼任。享保171732)年、沼田へ移封、老中となった。名君として賞賛され、享保201735)年現職のまま没した(主にウィキの「黒田直邦」を参照した)。

・「老職」老中。

・「上野」寛永寺。徳川家菩提寺として、将軍家はもとより、諸大名の帰依も厚かった。

・「琴の澤」私の妻は四十数年琴を弾いてきたが、このような呼称はない、という。「磯」ならば琴の側面の部分(弾く際の手前の側面や向こう側の呼称)を言う。飾りとして蟹が配されるには「磯」ならば、確かに相応しい。「向うの磯」で訳した。

・「赤銅」銅に金及び銀を少量加えた銅合金。熱処理によって美しい黒紫色を発する。

・「後藤家」岩波版の長谷川氏の注によれば、『室町時代の後藤祐乗を祖とする、刀剣金物の装飾を彫る業の家』系という。ウィキの「後藤祐乗」によれば、後藤祐乗(ゆうじょう 永享121440)年~永正9(1512)年)は美濃国生、装剣金工の後藤家の祖。『室町幕府8代将軍足利義政の側近として仕えたが、それを辞して装剣金工に転じたと伝えられる。義政の御用をつとめ、近江国坂本に領地300町を与えられた』。『作品は、小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)の三所物(みところもの)が主で、金や赤銅の地金(じがね)に龍・獅子などの文様を絵師狩野元信の下絵により高肉彫で表したものが多い。祐乗の彫刻は刀装具という一定の規格のなかで、細緻な文様を施し装飾効果をあげるというもので、以後17代にわたる後藤家だけでなく、江戸時代における金工にも大きな影響を与えた』とある。

・「甲」琴木部本体の上面を言う。龍甲(琴自体が龍を象ることから)。

・「琴の海」やはり、このような呼び方を妻は聞いたことがないという。ただ、側面を「磯」とすれば、甲を外した本体内部をそのように呼んだとして、自然ではある。和歌が記されていたのが甲の裏側でないとは言えないが、「海」という表現から「内底」と訳しておいた。

 

・「山下水の流るべらなり」これは「後撰和歌集」巻第四・夏の部に載る紀貫之の和歌のことを指している。但し歌句が異なる。

      夏の夜、深養父が琴を弾くを聞きて

   短か夜の更けゆくまゝに高砂の峰の松風吹くかとぞ聞く

                       藤原兼輔朝臣

に続いて、

      おなじ心を

   あしひきの山下水は行きかよひ琴の音にさへながるべらなり

                          紀貫之

とあるもの。友人の清原深養父(清少納言の祖父)の元に遊んだ友人藤原兼輔と貫之が深養父の琴の音(ね)に唱和した和歌である。

○やぶちゃん通釈:

山から滴るわずかな流れのような目立たぬ私――そんな私でも――あなたの琴の音に心の琴線が共鳴致し、山下水が自然に流れるように、自然、泣かれてくるようで御座います……。

・「べらなり」は特殊な助動詞(形容動詞ナリ活用型)。推量の助動詞「べし」の語幹「べ」に接尾語「ら」と「に」が付いた「べらにあり」の短縮形である(従ってこの活用自体がラ変型であることに注意)。活用は、

 ○   未然形

べらに  連用形

べらなり 終止形

べらなる 連体形

べらなれ 已然形

 ○   命令形

で、接続は「べし」と同じであるから、活用語の終止形接続。但し、ラ変型には連体形接続。意味は、推量の意味だけで、「確かに……のようだ、……の様子である。」の意であるが、平安時代、特に古今集成立前後に男性の間で、主に歌語として流行したが、その後は擬古的な和歌で稀に用いられた程度で、忘れられた語法と言える。以下に用例を示す。

「古歌(ふるうた)に、『数は足でぞ帰るべらなる』といふことをおもひ出でて」(「土佐日記」一月十一日の条)

 :昔の歌に、「雁は連れ合いを失って数足りぬまま、北へと帰っていくようだ」とある文句を思い出して。

[補注:新潮日本古典集成頭注に、『「北へ行く雁ぞ鳴くなる連れて来し数は足でぞ帰るべらなる」(『古今集』覉旅、よみびと知らず)。左注「この歌は、ある人、男女もろともに人の国へまかりけり、男女もろともに人の国へまかりけり、男、まかりいたりてすなはちみまかりにければ、女ひとり京へ帰る道に、雁の鳴きけるを聞きてよめる、となむいふ」。』とある。]

「桂川わが心にもかよはねどおなじ深さにながるべらなり」(「土佐日記」二月十六日の条)

 :とうとうたる、かの桂川――あの川が私の心に流れてきて通じ合うというわけでは、勿論、ないのだが――でも、この私が深く都を懐かしく思う気持ちと同じように――あの桂川も深く水を湛え、流れているのであろう……。

「春のきる霞の衣ぬきを薄み山風にこそ乱るべらなれ 在原行平朝臣」(「古今和歌集」春歌上)

 :春という季節――それが着ている軽やかな霞の衣――その衣は横糸が薄い――だから、山風が吹くと、たちまちのうちに乱れてしまいそう……。

「秋の夜の月の光し明かければくらふの山も越えぬべら也 在原元方」(「古今和歌集」秋歌上)

 :秋の夜――月の光が殊の外、明るい――だからきっと、その名にし負う暗部山でさえも、楽々と超えて行けるであろう……。

[補注:「くらふの山」は実在地名と思われるが不詳。一説に鞍馬山の古名とも。]

「不知(しら)ヌ茸(たけ)ト思スベラニ、独リ迷ヒ給フ也ケリ。」(「今昔物語集」二八巻「比叡山横河僧酔茸誦経語第十九」)

 :(比叡の峰にお住まい乍ら、)おそらくは(その峰も茸も)知らない嶽(茸)と思いになられたようで、独り、お迷いなさったので御座った。

[補注:これは毒茸を食した比叡山の僧坊の主僧が激しい中毒に罹り、さる導師が祈禱をしたが、その祈禱の末尾にいやしく多量の毒茸を食った僧への滑稽な教化の言葉を添えた笑話で、これはその中毒僧を慇懃無礼に揶揄した核心部分。「茸」(たけ)に比叡山の「嶽」(たけ)を掛けてある。]

「天地の清きなかより生れ来てもとのすみかに帰るべらなり 北条氏照」

 :清き天地の中より生まれ来て――汚濁の満ちた世の穢れ、そいつをさっぱり拭い去り――元の住処に帰るらんとする――。

[補注:これは比較的新しい用例の例となる。北条氏照(天文9(1540)年~天正181590)年)は戦国・安土桃山時代の武将。後北条氏。武蔵滝山(現・八王子)城主。小田原の陣で小田原城に籠城して徹底抗戦、降伏後、豊臣秀吉から切腹を命じられて自刃した。これは、その際の辞世である。]

 

・「貫之」紀貫之(貞観8(866)年又は貞観14872)年頃~天慶8(945)年?)。三十六歌仙の一で、「古今和歌集」の編者の一人。それにしても、この古物、如何にも嘘臭い、臭過ぎると言ってよい。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「てにおは」はママ。

・「御小姓」武家の職名。扈従に由来する。江戸幕府にあっては若年寄配下で将軍身辺の雑用・警護を務めた。藩主付の者もこう称した。

・「田沼主殿頭」田沼意行(おきゆき 又は もとゆき 貞享3(1686)年~享保191735)年)以下、ウィキの「田沼意行」より引用する。『紀州藩の足軽の子。父義房(意房とも)は病にかかり、紀州藩の禄を離れて和歌山城下で静養することになったため、子の意行は田代七右衛門高近(紀州藩家臣)に養われることとなり、その娘婿となった。紀州藩に仕官したが、享保1年(1716年)に徳川吉宗が将軍に就任した際に、吉宗に小姓として召されて、幕府旗本に列した。6月、将軍の小姓となり、300俵を受けた。享保4年(1719年)7月27日にのちに幕府老中となる田沼意次を生む。享保9年(1724年)11月に従五位下主殿頭に叙任し、享保18年(1733年)9月には300石を与えられて、これまで支給されていた切米も石高に改められて、相模国高座大住郡に600石を賜った』。「主殿頭」は本来は律令制の宮内省に属した主殿寮(とのもりょう)の長官で、宮中の清掃・灯燭・薪炭管理、行幸の際に用いる牛車・輿、調度を司った役所であるが、勿論、ここでは単なる名目位官名。

・「主殿意次」享保4(1719)年~天明8(1788)年)遠江相良(さがら)城主。第十代将軍徳川家治の側用人から老中となり、後に田沼時代と呼ばれる権勢を握った。赤字に陥った幕府財政を改善するために重商主義による急激な改革を行ったが、保守勢力の反撥に加えて賄賂が横行、批判が高まり、天明6(1786)年8月に家治の死去と同時に完全に失脚した。「耳嚢」の執筆の着手は根岸の佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃に始まり、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、本話は正に田沼時代の終焉が誰の目にも明らかであった頃のもので、そうした凋落への一種のオマージュとして挙げられたものなのかも知れない(それが皮肉なものか素直なものかは定かではない)。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。「卷之一」にもしばしば登場した、「耳嚢」の重要な情報源の一人。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 骨董に不思議な発見のある事

 

 黒田豊前守直邦殿が老中職にあった頃の話。

 黒田殿が上野寛永寺に参詣の折り、沿道の古道具屋の店先に置かれて御座った琴を、御輿の中よりご覧になられ、これはいわくある時代物の琴、と目利きなさり、御帰宅早々、人を遣わして買い求めさせなさった。

 運ばれてきた琴を仔細にご覧になられたところ、如何なる名家より払い出されたものか、琴の向うの磯に、赤銅にて彫せられた美事な蟹が一匹、しっかりと据えつけられて御座った。その細工たるや、並の者の手になるものとは思われる故、知れる彫物師を呼び目利きさせたところ、金物細工の名匠で知られる後藤家の手になる、古い彫物に間違いなしとのことであった。

 更に甲を外してみたところ、琴の内底には、

   山下水の流るべらなり

と、墨痕鮮やかに、何と、かの紀貫之の手跡で記されて御座った。

 余りの逸品で御座ったれば、黒田殿、有徳院吉宗様にこれを献上致いたが、上様は即座に「山下水」という銘をお付けになられ、御重宝(じゅうほう)にされたということである。 

 また、その折りのこと、御前に連なった面々が、

「……いや、それにしても、貫之の歌とは申せ……『べらなり』と云うは、如何にも聞いたこともない、可笑しなもの謂い――。」

と難癖をつけたところ、丁度、その当時御小姓として勤仕致いて御座った田沼主殿頭意行(とのものか(おきゆき)殿[根岸注:この主殿頭殿とは現在老中職にある田沼意次公の御父上であられる。]が、

「いえ、『べらなり』と云うは、多く用例が御座います。――」

と、古歌数十首を立板に水する如、証歌として言上申し上げたので、上様もその堪能振りには、殊の外、御満悦であられた、ということである。

 安藤霜台惟要(これとし)殿の物語である。

 

 

*   *   *

 

 

 藝道上手心取の事

 

 土佐節の上手と世に申傳へたる何某とやらん有しが、其門弟の由にて御小人目付勤たるおのこ、所々屋敷方へ出入て土佐淨璃理をかたりけるが、實は門弟には無之處、或日出入の屋敷へ至りしに、彼上手を招き座敷にてその藝を施し居ける故、兼て弟子と僞りし言葉の顯れんも如何と座敷へ出かね居たりしを、主人頻りに呼れしゆへ無是非座敷へいで、彼太夫(たいふ)へ對し、久々にて懸御目候杯と挨拶に及びければ、相應の答いたしけるに、主人申けるは、此人は我等方へ他事なく出入者也、御門弟の由と有ければ、前々は殊の外出精いたされ、近頃は無精に候。尤淨璃理は我等弟子に候へども、師弟迚も音曲のほどは大きにかたり候も違ふものに候とて、和合の挨拶にて其日は事濟けるが、翌日彼者思ひけるは、扨々忝取合哉、ひとへに彼が取合にて我等の僞も知れず外聞もよかりしと、銀貳枚持參して、實は門弟にも無之處、かく/\の譯ゆへ相應の挨拶いたし候處、存の外美しき取合忝段述ければ、右の者答へけるは、夫は大きなる御了簡違也。凡土佐節の淨璃理をかたり給ふ人なれば、誰が弟子なりともそのみなもとの某なれば、我等が弟子に違なき事故、右の通挨拶いたし候也。何か禮式を受申さん迚、右の銀子をも返しけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:名工の細工に名筆の和歌を記した楽器の琴の話から、音曲土佐節名人で美事に連関。また、「卷之一」の「鬼谷子心取物語の事」の事に次ぐ、「心取」第二弾。

・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、この場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取り、それに最も最適の行動をいち早くとれることを言っているように思われる。

・「土佐節」古浄瑠璃(後の「土佐淨璃理」注参照)の一派。土佐少掾(とさのしょうじょう)橘正勝を祖とする。延宝から宝永年間(16731711)に江戸で流行した。初代土佐少掾橘正勝(生没年未詳)は江戸の薩摩浄雲座の人形遣であった内匠(たくみ)市之丞の子で、浄瑠璃の一派浄雲の門下として江戸虎之助・内匠虎之助を称したが、寛文111671)年に土佐座を起立、延宝21674)年頃に土佐少掾の称を授けられ、土佐太夫とも呼ばれた。硬派の浄雲系浄瑠璃の中にあって、上品でしとやかな芸風であったと言われる。通称、内匠土佐。二代目の土佐少掾橘正勝(?~寛保元(1742)年)は初代の長男で内匠(たくみ)太夫と称し、父のワキをつとめていたが、後に二代目を継ぎ、江戸で操座(あやつりざ)を興行した。(以上、二人の橘正勝については「デジタル版日本人名大辞典+Plus」のそれぞれの該当項を参照した)。

・「御小人目付」監察糾弾を職務とする御目附(おめつけ)の支配下で御徒士目附(おかちめつけ)と共に目附の式を受けてお目見(めみえ)以下の者を直接、監察糾弾する警務職種。

・「土佐淨璃理」土佐浄瑠璃。以下、浄瑠璃について、「大辞泉」から引用する。『語り物の一。室町中期から、琵琶や扇拍子の伴奏で座頭が語っていた牛若丸と浄瑠璃姫の恋物語に始まるとされる。のちに伴奏に三味線を使うようになり、題材・曲節両面で多様に展開、江戸初期には人形操りと結んで人形浄瑠璃芝居を成立させた。初めは金平(きんぴら)・播磨(はりま)・嘉太夫(かだゆう)節などの古浄瑠璃が盛行。貞享元年(1684)竹本義太夫が大坂に竹本座を設けて義太夫節を語り始め、近松門左衛門と組んで人気を博し、ここに浄瑠璃は義太夫節の異称ともなった。のち、河東・一中・宮薗(みやぞの)・常磐津(ときわず)・富本・清元・新内節などの各流派が派生した。浄瑠璃節』。

・「太夫」は本来は芸能を以って神事に奉仕する者の称号であった。そこから中世の猿楽座の座長、江戸以降は、観世・金春・宝生・金剛の四座の家元をさして、観世太夫などと呼称するようになり(古くは能のシテ役のみを指した)、その後、説経節および義太夫節などの浄瑠璃系統の音曲の語り手に対しても汎用するようになった。

・「師弟迚も音曲のほどは大きにかたり候も違ふものに候」これは男が謡う土佐節が正統なものでないと見抜き、屋敷主人が太夫との音調の異なる点に聊か疑問を持ったのを感じ取った太夫の巧みな謂いである。その辺りが分かるように、現代語訳では敷衍的に意訳してある。

・「銀貳枚」基準値の重量単位で換算すると銀1枚=43匁、1匁=3.75gであるから銀2枚=86匁≒322g。慶長141609)年の金1両=銀50匁の公定相場から推測すれば、金2両弱である。今の数万円から十数万円相当か。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芸の名人たる者の読心心得の事

 

 土佐節の名人と世に評判の何某とやらいう者が御座ったが、その門弟と自ら喧伝致いておった御小人目付を勤めて御座った男がおった。この男、あちこちの屋敷へ出入りしては、土佐浄瑠璃を語っておったれど、実は――何某名人門弟というは、真っ赤な嘘で御座った。

 ある日のこと、予ねて出入りの屋敷へ訪れてみたところが――何と、かの名人を招いて座敷にてその土佐節を披露致いておるところに出くわしてしもうた。

 男は勿論、予てより弟子と偽って御座ったことが露見するのを恐れ、座敷内に入りかねておった。

 されど主人は頻りに呼び入れんとする。

 ええい、ままよ、と止むを得ず座敷に入り、その土佐節何某太夫(たゆう)に向かい合(お)うて、

「……久方ぶりに、お目にかかり、申し上げまする……お師匠さま……」

なんどと、苦し紛れの挨拶を致いて御座ったが、不思議に太夫はそれを受け、当たり障りのない挨拶を返してよこした。

 主人が太夫に言う。

「このお人は、日頃、我らが方へ、親しく出入り致いて御座る者にて、太夫の御門弟だそうで御座いますな?」

すると、太夫が答えて言った。

「はい。この者、大部前までは、よく稽古にも励んでおったれど、そうさな、近頃は聊か、怠けておりますな――尤も、これはこの者の謡いがまずうなったという謂いにては、これなく――浄瑠璃は我らが弟子にて御座っても、師弟と雖も音曲に於きましては、大きく語り口も違(ちご)うて御座いますればこそ――この者には、この者の良さが、御座る。」

と、意外にも如何にも和気藹々たる談笑の内にその日は何事もなく済んで御座った。

 翌日になって、かの男、

『……ああっ! なんとかたじけないお心遣いであったことか! 偏えにあのお方が話を合わせて下さったればこそ……我らの偽りも露見致さず……それどころか外聞もまたよろしきこととなった……』

と思い、銀二枚を持参の上、太夫の家を訪れると、

「……実は門弟にては、これ、御座らぬところ……かくなる訳にて……話を合わせた不遜なる御挨拶を致しましたところが……存外の美事なられるお取り合わせをなさって戴け、誠(まっこと)、かなじけなき御心(みこころ)、有難く存じ申し上げ奉りまする……」

と素直に事実を述べて謝ると、礼金をさし出だいた。すると太夫は、

「それは大いなる御料簡違いで御座る。――凡そ土佐節の浄瑠璃を語る者なれば、誰(たれ)の弟子であろうとも、その祖は拙者なれば――さればこそ、我らが弟子に違い御座らぬ――故、あのように挨拶致いた。――なればこそ、何の謝礼なんど――受け取るいわれは御座らぬ――。」

と右金子をも男へ返した、ということである。

 

 

*   *   *

 

 

 正直に加護ある事 附豪家其氣性の事

 

 淺草藏前札さしの内とやらん、一説には伊勢屋四郎左衞門共いひしが其名は慥(たしか)ならず。下谷邊へまかりし折から、いづれの町にや茶屋の女子み目よきありて、右のおのこふと懸想して二階へあがり、高龍雲雨の交りをなして歸る時【此茶屋の女を俗にけころといひて賣情の婦なり。】鼻紙袋を落して歸りし故、右女子鼻紙入を持て門口迄追缺(かけ)しが、最早行方を失ひし故、其内を改めみれば、印形の手形などありて捨置がたきと思ひけれ共、深く隱し置て思ひなやみ居たりしに、折節此邊へ來る車力有し故、藏前邊に伊勢屋といへる札差の人ありやとよそながら尋ければ、車力答て伊勢屋といへるは藏前に何軒もあるを、何しに尋給ふといへる故、此程藏前伊勢屋なる人來りて忘れ置し品有とひそかに語りければ、右車力大きに驚き、我等も其事に付賴れてけふも爰に來りぬ。其品を見せ給へといひしかば、いや/\知り給はぬ事ならば見せまじ、彌賴まれ給ふ人は何と言たる人にて、年頃は幾つ計也と念頃に聞て、此文を屆け給はれ迚則文を渡しける故、右車力は親方の事なれば、早速藏宿へ至りてかく/\と語りければ、右帋入(かみいれ)の内には御切米手形裏判濟も有て、無據奉行所へも可訴出、もとよりいづちへ落したるやもしれざれば、所々へ手分して何となく手掛りを搜し、神佛へ祈誓し、誠に家内は上下なげき沈居たる折からゆへ大に悦び、親子同道も先方いかゞと、彼車力に倅を召連させ、親仁は跡に下りて右茶屋へ至り二階へ上り、彼女に逢ふてしかじかの禮を申述ければ、日々情を商ふ賤敷勤の身、數多き客ながら、其日と存る頃御越の人に相違はなけれども、右鼻紙袋の樣子并に内の品逸々(いちいち)申し給へ迚尋るに、相違なければ則右鼻紙入を渡しける故、數々禮を述べて子息と親仁入かわり、何卒親方に逢度由申ければ、彼女答て、親方は心よからぬ者なれば未咄も致さず、いかなる巧(たくみ)を可致もしれねば、逢給ふもよしなからんと答へければ、聊左樣の事にあらずといふて、親方を無理に呼出し、此女子我等方へ申受たし、如何と申ければ、隨分遣し可申旨故、かゝる勤の身なれ ば女衒(ぜげん)へも懸合可申といひしに、いや/\此女は女衒にかゝり合なし、在方より拾四兩程の給金にて年季を限り抱たる者なれば、右金子さへ給はれば可渡由故、以來親元其外無構の證文を認、金子三百兩を渡しければ親方も大きに驚き、かゝる大金には不及由を述けれども、右女子の儀に付、身の上にも抱り候事何事なく納(をさま)りし儀なればとて三百兩を渡し、已來手切の趣重々證文取極め、則娘にいたしけると也。かゝるよからぬ親方故、金子を惜み候はゞ跡々迄も何か立入いかゞあるべけれど、其所を思ひて大金を以て手をきりし、流石豪家の氣性と人の語りける也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。ただ、ここから、娼婦を主人公とした極めて類似したハッピー・エンドが三連発となる。

・「附」は「つけたり」と読み、合わせてとか追加しての意。

・「札さし」旗本及び御家人の俸禄の内、蔵米(現品支給された米)の受領から換金までの手続一切を請負うことを業務とした、浅草蔵前在住の商人に対する特別な呼称。但し、実際には本業よりも、その米を抵当に、旗本・御家人を対象とした高利貸が主で、それによって巨万の富を築いた。米の受取人の名を記した札を蔵役所の蒿苞(わらずと)に差したことからこう呼ばれる。

・「一説に伊勢屋四郎左衞門」浅草蔵前の有力な札差の一人。名字は青地氏。初代が江戸で始めた米問屋と金貸業を継いだ3代目が札差業に進出、享保91724)年に札差株仲間の起立人となっている。4代目以降も堅実な経営を続け、本話が根岸によって綴られた直後、寛政元(1789)年頃には札差業者の最有力者の地位を得ていた(屋号は世襲)。本話柄の少し後の文化年間(180418)に最盛を誇ったという。天保9(1838)年の江戸城西丸火災の際には幕府上納金10万両余の世話方を勤め、その功により町方御用達に列せられ、青地姓を許された。参照した「朝日日本歴史人物事典」の「伊勢屋四郎左衛門〈3代〉」には、エピソードとして、零落していた昔馴染みの吉原の遊女を引き取って妾とし、通人たちの評判となった、とあるので、その変形譚かとも思われる。何れにせよ、この書き出しからして、執筆当時にあった話柄という雰囲気ではない。但し、不明と言いつつ、伊勢屋を本文中で出してしまうというのは、逆に今の伊勢屋の話であることを、確信犯的にばらしているようにも読めないわけではない。

・「下谷」現在の台東区の一部。ウィキの「下谷」によれば、この『地名は上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である』とし、江戸初期に『寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄え』、『江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展する。江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担った』。現在のアメ横も下谷の一部である。

・「高龍雲雨の交り」「雲雨の交り」は、楚の懐王が朝は雲となり夕には雨となると称した女に夢の中で出逢って契りを結んだという宋玉「高唐賦」の故事から生じた性交を示す有名な雅語であるが、また「雲雨」には、龍が雲や雨に乗じて昇天するという伝承から(「呉志」周瑜伝を故事とする)大事業・大変革を起こす好機の意を持つ。されば、この主人公の女の吉兆をも暗示する語であるかもしれぬ。また、「高龍」は勃起した男根をも、龍の交尾の様としての「交龍」をもイメージさせもする。現代語訳は『雲雨の交わりを成して帰って行った』としたが、実際には、この場面は実際のこの後の展開を考えるなら、あっさり『一発やってすっきりして帰って行った。』ぐらいな訳の方が、本当はいいように思われる。

・「けころ」は「蹴転」で、けころばし、蹴倒しとも言った江戸中期の下級娼婦の称。特に上野山下から広小路・下谷・浅草辺りを根城とした私娼で、代金二百文と格安、短時間で客をこなし、その由来は、断って蹴り転がしても客を引きずり込むほどの荒商売であったからとも言う。

・「鼻紙袋」財布。

・「印形の手形」印を押した手形。

・「車力」荷馬車を用いた運送業者。

・「藏宿」底本では右に『尊經閣本「藏前」』とある。それで採る。

・「御切米手形裏判濟」ウィキの「蔵米」によれば、中・下級の旗本・御家人の『俸禄は年3回に分けて支給されるのが常で、2月と5月に各1/410月に1/2が支給された。それぞれ「春借米」「夏借米」「冬切米」と呼んだ(「借米」は「かしまい」と読む)。ただし、俸禄は全量米だけで支給されるわけではなく、米の一部はその時季の米価に応じて金銭で支払われるのが通例であった。浅草の札差がそれらの米を百俵に付き金1分の手数料で御米蔵から受取り、運搬・売却を金2分の手数料で請け負った』とあり、岩波版長谷川氏の注によれば、ここに言う「手形裏判濟」とはその札差が役所から受取る際の『給付の米受領に必要な証文』のことで、『頭・支配に属する者は、本人が表判を押し、頭・支配が裏判をする必要があった』とあるので、この紛失は依頼された本人以外に、その上司にも迷惑がかかる可能性があるということであろう。

・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。

・「女衒」女性を買い付けて遊郭などへ売る仲介業者。人身売買に際して彼等が保証人になっている場合があった。

・「抱り」底本ではこの右に『(拘)』と注する。誤字であろう。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 正直者に加護のある事  豪商の豪気の事

 

 浅草蔵前の、ある札差にまつわる話である――一説には伊勢屋四郎左衛門ともいわれるが定かではない。しかし、とりあえず「伊勢屋」として話を進めよう――。

 

 伊勢屋の若旦那が所用で下谷へ出かけた。その帰り、どの辺りの町やらん、通りかかった茶屋で、小股の切れ上がったちょいといい女が御座って、若旦那、相談一決、ととん、と二階へ上がって、雲雨の交わりを成して帰って行った[根岸注:この茶屋の女は俗に「けころ」と呼ばれる娼婦である。]。

 ところがこの時、若旦那、財布を忘れて行ってしまった。

 女がそれと気づいて、財布を手に門口まで追いかけたのであったが、もう既に男の姿はなかった。

 そこで女は、財布の中を改めてみた。と、見たこともない御大層な印形(いんぎやう)を黒々と押した手形なんどが入っており、これはいい加減にしておれるものにてはない、と思ったけれども、いろいろと考えるところもあって、こっそりと隠し置いて悩んでおった。

 

 それから二日も経たぬ頃おい、時折、この辺りに姿を見せる荷車引きの男が、この女を買った。

 一つるみ終えると、女は、隣りに横たわっている男に、

「……ね……蔵前辺りに……伊勢屋っていう札差のお方はある?……」

と、それとなく訊ねた。

 男は、ちょいと女の方に顔を向けると、

「……あん?……いや、伊勢屋っう札差は蔵前には何軒もあらあな……ただ、それがどうしたい?……」

と、妙に怪訝そうに反問した。すると、

「……あのね……実はね、ついこないだ……蔵前の伊勢屋っていうお客さんが来てね……忘れ物、したんさ……」

とこっそりと女が男の耳元で呟き終わるのと同時に、男は素っ頓狂な声を挙げた。

「――あんだって! 実はよ! 俺もよ! そ、そのことで伊勢屋さんに頼まれて、この辺に来たんだって!――さっ、さ! そ、そいつを見せておくんない!」

と早口で捲くし立てる。

 しかし、女は、手を左右に振って、

「だめ、だめ!……だって、あんたは……その財布、どんなもんか……知ってる?――知らないでしょ! だから見せるわけには、い・か・な・い、の!……まずさ、頼んだ人は何というお人? 年の頃は幾つぐらい?……」

と、女の謂いは、これまた、なかなか用心深い。

 車引きも悪い男にては、これなく、有り体に知れることを語り、女も馴染みなれば、男の正直さも知っておった。

 女は部屋の隅へ行って何やらん、ごそごそと書いておったが、しばらくして向き直ると、

「とりあえず、この文を先方へお届けになって。」

と手紙を渡した――。

 

 この車引き――といっても、れっきとした親方で、今度のことも御用達の伊勢屋大旦那から直に呼ばれて頼まれた内密の探索事であった――早速に蔵前へとって返し、女の手紙を伊勢屋の大旦那に、かくかくしかじかと――まあ、女と一発やった下りはごまかして御座ったが――今日のその一件を語った。

 

 ……そもそも、この若旦那が忘れた財布の内には、伊勢屋御用の旗本・御家人衆の裏判も済んだ切米手形数冊も入って御座って、もし、このまま出でずとならば、最早、奉行所へもお届け申し上げるほかなし――されば、栄華を誇るこの伊勢屋の、身代に関わる重罰を受けること、必定――さりとも、もとより何処(いずこ)へ落としたのやら、皆目、検討もつかぬ体たらく――ありとあらゆる所へ、ありとあらゆる手がかりを求めて、探しに探して四方八方――言うに及ばぬかしこみ南無阿弥法蓮華経の神仏祈誓――誠(まっこと)、家内は上から下まで嘆きのどん底、釜底地獄の阿鼻叫喚――最早、これ以上の沈みようはないという程の気鬱憂鬱沈鬱鬱鬱――

 

――が!――この手紙に!

――いや、もう、鯛は上へ、鮃は下への、大喜び!

 

 親子同道の上で曖昧茶屋に出向いてのでは、これまた、先方で不審に思うであろう、ということで、とりあえず、あの車引きに倅を同道させ、大旦那はその後から遅れて出、かの茶屋に向かった。

 まずは倅が二階へ上がり、女と二人になってから、面と向かうと、この度のことにつき、深く礼を述べた。すると女は、

「……私は日頃、春をひさいでおりまする卑しき勤めの身……数多(あまた)のお客さまの相手を致いて御座います……されど確かに覚えて御座いますよ……あの日あの刻限に、いらした方に相違御座いません……ですが、万が一つの私の思い違いということも御座いましょう……念のため、御財布の色や形ならびにその中の品々を一つずつ、仰ってみて下さいませ。」

と、訊いてきた。

 若旦那が、一つ一つ、それらを暗誦した。一つとして違(たが)うものはなかった。

 女は財布を渡す。

 と――若旦那が重ねて礼を述べているそこに、大旦那が上がって参り、前後、息子と席を入れ代わる。と大旦那は開口一番、

「――お女中、何卒、この屋の親方にお逢い致しとう御座る――。」

と言う。女は少し声を潜め、

「……親方は……心悪しき者なれば……この度のこと、一切何の話も致いて御座いません。……だって……こんなことを知ったら……どんな悪だくみをするか知れたもんじゃない、そんな人なんです……だから……会っても、決していいことは、御座いませんことよ……」

と答えたのだが、大旦那は右の掌を掲げつつ、にっこりと笑うと、

「いえいえ。――そのようなことにては御座らぬ――また――決してかくの如くは、成り申さぬ。」

と意味深長なことを言うて、落ち着き払って御座った。

 結局、大旦那のたっての願いということで、無理に親方を呼び出だして二階に上げる。

 大旦那曰く、

「――さても、この女子(おなご)、我らが方に申し受けたく存ずるが、如何(いかが)?――」

親方は、大旦那の形(なり)から、相当な身請けの金は搾れそうと、あらかじめせり上げを胸算用しながらも、にこやかに、

「いや、そりゃもう、御大尽様なればこそ、結構で御座んすよ。」

と言う。口元には、早、涎が滴りかからんばかり。

 大旦那は即座に、

「――されば、かくなる境遇なればこそ、世話致いた女衒(ぜげん)なんどとも、直接直ぐにかけ合いましょう――。」

と畳み掛けたところ、親方は、

「いやいや、この女は女衒を通して手に入れた者(もん)じゃ御座んせんでの。田舎の親元の在から……そうさ、十四両ほどの給金で、年季を限って抱えた者(もん)で。まあ、その分だけは払(は)ろう貰(もろ)うたなら……へへ、お渡し出来るってえ、もんで……」

――ツツッ――

と親方、実際に涎をすする。

 すると大旦那、矢立と紙を出だすと、

――以来、親元其の外一切お構い無し――

という証文をその場にて認(したた)めたかと思うと、連れて来た手代を呼び上げ、受け取った金子(きんす)三百両、むんずと摑み出すと目の前に置く――。

 親方、驚くまいことか、

「……ヒ! ヒ、ヒェッ!……こ、こんな大金には……お、及ばねえで、ご、御座んすが……」

と震える声で、及び腰となる。

 大旦那曰く、

「いえいえ、この女子(おなご)の身の上に関わることにて御座れば、向後、何事もなきように――納まるように仕儀致すことなればこそ――まあ、この程度はお納め戴かねばなりますまい。」

と、その三百両をすっと親方に渡し、以後、一切手切れの趣きを認(したた)めた先の証文に双方署名の上、即座にこの場にて、この女子(おなご)を自身の娘と致いたので御座った。

 

「――かかるよからぬ親方であったからには……金子を惜しんだならば、後々までも何かと付き纏うて不都合が御座ろうほどに……と、その辺り、深慮の上、大金を以って綺麗さっぱり、はい、さようならと、手切れ致いた……いや、流石、豪商の豪気――」

と、世間では専らの噂であったそうな。

 

 

*   *   *

 

 

 賤妓發明加護ある事

 

 濱町河岸箱崎近邊の河岸へ、船まんぢうとて船にて賣女(ばいぢよ)する者あり。至て下賤の娼婦也。餘程むかしの事と也。下町邊の町家の若者、大晦日に主人の申付に任せ、賣掛とり集めて右河岸邊を通りしに、舟饅頭舟へ醉狂の儘立寄り、聊雲雨の交りして立別れけるに、折角取集し賣掛を入し財布を、いづちへ忘れけん懷中になければ、始て大きに驚き、爰かしことその日走り廻りし所々を尋けれど行方知れねば、川へ身を投て死んや、又首をしめて死んと、爰かしこ明る元日にも尋廻り、三日も過て四日に至り、若彼舟饅頭の舟に落しける事もやと、河岸の邊に立て、あれ是と船まんぢうの船を尋けるに、晦日に乘りし舟に彼女子も見へける故、心悦てさらぬ躰(てい)にてかの舟に移りければ、彼女聲をひそめ、御身はさりし晦日に來り給へる人なりや、忘れ給ふ品有べしと尋。いかにもかくかくの品を忘れたりとて、我身の命もけふ翌(あす)と限りの由歎きかたりければ、左あらんと思ひて其後夜々此所へ出て待しとて、右財布を渡しけるにぞ、嬉しさいわん方なく、金子を出しければ、いさゝか金子を受取て跡は返し、何の禮に及んと也。是によりて女子の名、親方の町所など聞て立歸りけるに、親方にても兩三日も立不歸事なれば、懸けを取集缺落(かけおち)致しける迚、請人(うけにん)など呼て吟味いたしける折から歸り來る故大きに驚き、いかゞして日數立歸らずや、數年實躰に勤めし故よもやとは思へども、全缺落したると思ひしに、色もあしきはいかゞせしと受人ともども尋ねければ、今更何か包ん、かく/\の譯にて既に死を決し侍れども、不思議の事にて命全ふして立歸りぬとて、財布帳面を渡しけるに、聊帳面勘定も違はざれば、親方も受人も大に驚き、いやしき勤の身にかゝる正直の心ありけるこそ不思議なれ、汝も最早家持にいたし可然事なればとて、則相應に別家して右船夜發(ふなやほつ)を受出し妻にいたさせけるに、夫婦まめやかに暮して今は相應の町人となりしが、彼妻後に語りけるは、右金子我等正直計(ばかり)にて返し候にはなし。舟まんぢうの親方抔はいかにも貪欲無道の者にて、船饅頭など金子の少しも持しと見ば、その儘打殺しなどいたすべけれとおもひ、彼是を考へぬれば、御身は此金子ゆへ命にも及ばん、さあれは我も右金子故かへつて一命をはたしけんと思ひし故、夜々相待て親方へも深く隱しけると語りし。才發なる女子也と、濱町邊萬年何某の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:あっちはすっきり、ふところうっかりの若者と、賤しき身分ながら利発の娼婦のハッピー・エンド類話第二弾。

・「濱町河岸」現在の中央区日本橋浜町周辺。現在の両国橋から新大橋辺り。浜町は武家屋敷と町人の入り合った町で、町屋には刀剣類を商う店が多かった。

・「箱崎」現在の中央区日本橋箱崎町。古くは隅田川の永代橋の上手に西側にあった人工島であったが、南方部分が埋め立てられたとする。大部分が武家屋敷で占められ、延享3(1746)年には田安家が拝領、庭園を楼閣を備えた大邸宅を拵えている。

・「船まんぢう」隅田川に小舟を浮かべ、その中で春を鬻いだ下級の私娼。「舟君」ふなぎみ)・「河童」等とも呼んだ。「達磨船」というのもあるが(達磨は娼婦のこと)、これはやや新しい呼称か。現代語訳では、私の数少ない大好きな日本映画、宮本輝原作・小栗康平の名画「泥の河」に敬意を表して哀しく美しい響きを持った「廓舟(くるわぶね)」を用いた。言うまでもないが、「まんぢう」は饅頭で、女性性器の隠語である。

・「翌(あす)」は底本のルビ。

・「請人」保証人。

・「受人」請人に同じ。

・「船夜發」船饅頭のこと。「夜發」は「やはつ」「やほち」等とも読み、夜、路傍で客を引いた下級の私娼の通称。「夜鷹」「辻君」「総嫁(そうか)」なども同じ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 卑賤ながら利発な娼婦に神仏の加護のある事

 

 浜松河岸は箱崎近辺の河岸に出没する、「舟饅頭」という、廓舟(くるわぶね)で身を売る女たちがおった――外娼の中でも至って下賤の売女(ばいた)である。

 余程、昔のことで御座るが――下町辺の町家に奉公する若者、大晦日に主人の言いつけで売掛の金を方々から取り立て集め、その帰り、この河岸の辺りを通りかかった。溜まっておったは、主人の売掛ばかりにてはこれなく、少しばっかり彼も溜まって御座ったれば、一人のちょいと可愛い舟饅頭に酔狂を起こし――ひょいと乗り、聊かゆらりゆらゆら、二人が揺れると――一遊びして、元気百倍、金を払って舟を上った――。

 暫くして、ふと気がついてみると、一日かけて取り集めた大枚の売掛を入れた財布が――何処へ忘れたのか――懷に、ない――。

『ない! ない! 財布が! ない!……』

 今更ながら、大いに驚き、ここかしこ、その日借金取りに走り回って行った先々を、あちこちと探し回ったれど……ない……ないものは、ない……。

 ……最早、川へ身を投げて死ぬるか……はたまた、首を括って死のう……なんどと、一晩中思いつめつつ、そのまま翌元日にも探し歩った……が……ない……二日も過ぎ……三日も過ぎ……四日になっても、ものも食わずに、右往左往……が……ない……ないものは、ない……と……その時、若者は一つ思い出だいた――。

「……もしかすると……あの舟饅頭んとこで、落としたのかも知れん!……」

と、箱崎にとって返し、近辺の河岸に立っては、あれこれと舟饅頭の舟を探した。

 すると、すぐに大晦日に乗った廓舟が見つかった。

 そればかりか、あの晩に抱いた当の女が乗って御座った。

 心は浮き立ち、藁にもすがる思い……なれど、落とした財布の中身は大枚なればこそ……その中身を知っておれば、この売女、如何なる手練手管で包み隠さんとも限らず……もし、知らぬとなれば、何食わぬ顔して鼻紙袋を返してくんなとさりげなく言うが得策……いいや、あの持ち重りで大金と分からぬ者は馬鹿じゃて……なんどと考え考え、とりあえずは何気ない素振りで舟に、とん、と乗り移った。

 口で覗いていた女が、にっこりと笑うと奈落へ手招きをする。

 中へ入るなり、女は若者の耳に口を寄せると、甘い言葉をかけるように、こう囁いた。

「……大晦日の日にいらっしったお客さんだね。……お忘れになった物が、あるんでしょ……。」

若者は、最早、下手な芝居を打っている暇はない。吃りながら、

「……い、いや!……そ、その通り!……ほ、ほれ、こうした、こんな!……財布じゃあ!……」

と言うや、この数日の思いがどっと襲って、涙洟で顔をくしゃくしゃにしながら、

「……財布が、見つからねば……我が身の命も今日明日限りと……」

と、思い嘆きの限りを語った。

「よかったね! あんたの忘れもんだと思ってさ、あれからずっと、毎晩、あの晩と同(おんな)じ処(とこ)に舟をもやって、待ってて上げたんよ。」

と満面の笑みを浮かべて、懐から大事に出した財布を男に渡した。

 財布は暖かく、ほんのりと女の匂いがした。

 若者は勿論、嬉しさ言わん方なく、財布の中の己れの金を底まで叩(はた)いて、女に謝礼として渡した。

 すると女は、その中から、あの晩、やらせてもらったのに支払ったのと同じだけの金子を数えると、残りは――ざらぁっと――すべて若者の手に返し、

「何にもお礼はいらないわ。」

と言って――早う、お帰り――と若者を促した。

 そこで若者は、浮き足立つ気持ちを抑えながら、とりあえず女の名と彼女の親方の住所などを訊いて、飛ぶように主家に帰ったのであった――。

 

 店では親方が、彼が数日もの間、一向立ち帰らぬということなれば、最早、取り集めた売掛を懐に、出奔致いたに違い御座らぬ、と若者の請人をも呼び出し、お上へ訴え出る手続きなんどを相談致いて御座った――そこに、げっそりと痩せ細った若者が走りこんで来たから――親方達、驚くまいことか……

「一体、手前(てめえ)は何処をほっつき歩いていたんでェ! この数年、実直に勤め上げておったから、まさかとは思ったんだが――いや、こりゃもう、売掛ぽっぽに入れたまんまトンヅラしやがったな! とばかり思っていたぜ!……おい! 何やら、顔色も悪いぞ!?……一体、何があった?」

と請人共々、若者に詰め寄った。若者は、

「今更、何を包み隠し致しましょう……」

と一部始終を素直に話し、

「……という次第……既に最早、死を覚悟致いておりましたが……かく、不思議なる巡り合わせによりまして、幸いにして命全うして、こちらへ立ち帰ること、出来申した。」

と、財布と帳面を親方に渡す。

 その売掛金とその帳簿を突き合わせてみたが、勘定に聊かの違いもない。

 さて、落ち着いてみて、親方も請人も、この女に今更ながら、大いに驚き、

「……卑賤の勤めの身にありながら、かく正直なる心を持ったること、不思議なことじゃ……そうじゃ! お前もそろそろ、一軒お店(たな)持たせてもよいころじゃのぅ!……あん?……」

と言うや、親方はすぐに、この若者にお店の暖簾分けを致して独立させると同時に、相応の金を払って、この舟まんじゅうの娼婦を請け出し、若者と娶(めあ)わせた。

 後、二人はまめやかに暮らし、今はそれなりの町人夫婦として生活して御座る。

 

 かの妻は後日、夫に、こう語ったという。

「……あんたに、あの時、金子を返したんは……私が正直だったからばかりでは、実は、ないの……舟饅頭の親方なんてえのはね……みんな、貪欲無道の極悪人なんよ……支配の舟饅頭が少しばっかり身分不相応な金子を持っているなんてこと、知ればさ……あの親方なんか、もう絶対、有無を言わさず、あたいを打ち殺してこの大枚を手に入れようとするんだろうなぁ、って思った……そんなこと、いろいろ、考えてたら……気がついたの……あの町人さんも、もしや、この金子のために、己が身をはかなんで、命を落とすやも知れぬ……そうだとしたら、私も、この金子のために、親方か誰ぞに命を奪われるやも知れぬ……そう思ったの……だからね……毎晩あなたを待って……親方へも、この金子のことは深く隠していたんよ……。」

 

「……と、まあ、どうです?……誠(まっこと)利発な女で御座いましょう……。」

と浜町辺りに住む万年何某という者が私に語った話で御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 賤妓家福を得し事

 

 是は近此の事也。下谷廣小路邊に茶屋を出し情を商ふ彼けころ家(や)へ、加賀の足輕體の男來てけころを買ひあげて遊び歸りけるが、鼻紙さしを落し置ぬ。追かけて見しに最早影見へねば、又こそ來り給はん迚中を改め見れば何事もなく、谷中感應寺の富札壹枚ありければ親方へ預け置けるが、其後右足輕來らず、尋べきにも名を知らねば詮方なく、右富札は捨置んも如何也とて、富定日(ぢやうび)には感應寺へ至り見んとて、其日彼富札を持て谷中へ至りけるに、不思議にも右札一の富に當りて金子百兩程受取ぬ。去(さる)にても右足輕を尋みんと、加賀の屋敷分家の出雲守備後守屋敷抔をもより/\聞き侍れど、元より雲をつかむの事なれば知るべきやうもなし。誠に感應寺の佛の加護ならんと、右門前へ彼金子を元手として酒鄽(さかみせ)を出し、いまだ妻やなかりけん、右のけころを妻として今は相應に暮しけると、感應寺の院代を勤ぬる谷中大念寺といへる僧の語りぬ。

 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:賤しき身分ながら正直な娼婦のハッピー・エンド第三弾。類話ながら、差異を際立たせて、前項が「餘程むかしの事」に対し、これは「近此の事」。

・「下谷廣小路」上野の山の南にある、現在の上野広小路。広小路は火除け地で、上野広小路は明暦5(1657)年の明暦の大火後に設置された。但し、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸期には下谷広小路と呼ばれていたのである。

・「けころ」は「蹴転」で、けころばし、蹴倒しとも言った江戸中期の下級娼婦の称。特に上野山下から広小路・下谷・浅草辺りを根城とした私娼で、代金二百文と格安、短時間で客をこなし、その由来は、断って蹴り転がしても客を引きずり込むほどの荒商売であったからとも言う。

・「家(や)」は底本のルビ。

・「加賀」加賀藩102万5千石を有した御三家に準ずる大藩。加賀・能登・越中の三国の大半を領地としていた。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)は第10代藩主前田治脩(はるなが 延享21745)年~文化7(1810)年)の代である。

・「谷中感應寺」現在の台東区谷中にある天台宗護国山尊重院天王寺。以下、ウィキの「天王寺」より引用しながら、補足する。『日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来する。関小次郎長耀が日蓮に帰依して草庵を結んだ。日蓮の弟子の日源が法華曼荼羅を勧請して開山』、『開創時から日蓮宗であり早くから不受不施派に属していた』。不受不施派とは日蓮宗の中の一種のファンダメンタリズムの一派で、不受は法華経の信者以外からの施しを受ぬこと、不施は法華経以外の教えを広める僧侶には施しをしないという戒律を意味する。安土桃山時代頃から弾圧を受けていたが、江戸幕府も禁圧を加え、『日蓮宗第15世日遼の時、1698年(元禄11年)に強制的に改宗となり、14世日饒、15世日遼が共に八丈島に遠島』にされ、廃寺の危機を迎えたが、天台座主で日光山や寛永寺頭首・東叡山輪王寺門跡などを兼任して将軍綱吉の帰依厚かった『公弁法親王が寺の存続を望み、慶運大僧正を天台宗第1世として迎え』て、とりあえず事なきを得た。その後も、『1833年(天保4年)、法華経寺の子院知泉院の日啓や、その娘で大奥女中であったお美代の方などが林肥後守・美濃部筑前守・中野領翁らを動かし、感応寺を再び日蓮宗に改宗する運動が起きる。しかし、輪王寺宮舜仁法親王の働きにより日蓮宗帰宗は中止となり「長耀山感応寺」から』現在の『「護国山天王寺」へ改号』するという経緯を辿った寺である。更にウィキは本話に関わる富籤についても記している。この感応寺では元禄131700)年『から徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった。1728年(享保13年)に幕府により富突禁止令がだされるも、興行が許可され続け、1842年(天保13年)に禁令が出されるまで続けられた』とのことである。底本の鈴木氏の注には、この寺の改名についてはもっと生臭い話が所載されているので、引用しておく。『その原因は、感応寺の僧と称する贋の比丘尼が江戸城や諸侯の屋敷の奥向にみだりに出入りして女中方と心安くしたため、比丘尼は礫刑、感応寺住職は三宅島へ遠島となった事件』が元、とあるのである。

・「富札」ギャンブルは私の最も苦手とする分野であるので、以下、ウィキの「富籤」から、引用させて頂く(一部改行を省略した)。富籤(とみくじ)は、富突きとも言い、『普請の為の資金収集の方法であり、宝くじの起源といわれるくじ引の一種であり、賭博でもある』。主に寺社普請が中心で、江戸期の典型的なやり方は『富札を売り出し、木札を錐で突いて当たりを決め、当たった者に褒美金すなわち当額を給する。富札の売上額から褒美金と興業入費とを差し引いた残高が興業主の収入となる仕組みであ』った。『享保時代以後、富籤興行を許されたのは主に社寺で、収入の他にも当金額の多い者から冥加(みょうが)として若干を奉納させた』。抽選や配当法を詳しく見ると、『始めに、大きな箱に、札の数と同数の、番号を記入した木札を入れる。続いて箱を回転し、側面の穴から錐を入れて木札を突き刺し、当せん番号を決める。そして当せんした富札の所有者に、あらかじめ定めた金額を交付する』。『当には、本当(ほんあたり)が1から100まである。つまり100たび錐で札を突くのであり、たとえば第1番に突き刺したのが300両、以下5回目ごとに10両、10回目ごとに20両、50回目は200両、100回目(突留(つきとめ))には1000両、という様に褒美金がもらえる。これらの21回数を節(ふし)という。節を除いた残り(平(ひら)という)に、何回目ということをあらかじめ定め、間々(あいあい)といって、少額金を与えることがあった。節の番号数の前後の番号にいくばくかの金額を与えたが、これを両袖といった。袖といって、両袖のかたわらの番号に、少額のものをくれることがあった。札数が大多数に上る時は、番号には松竹梅、春夏秋冬、花鳥風月、または一富士、二鷹、三茄子、五節句、七福神、十二支という様に大分類を行い、そのそれぞれに番号を付け、たとえば松の2353番が当せんした時は竹、梅の同番号の札にもいくぶんかの金額を与えることがあった。これを印違合番(しるしちがいあいばん)といった。この場合、両袖が付けてあると、各印ごとに300枚ずつ金額の多少にかかわらず当たるわけで、本当の他は花といった。元返(もとがえし)といって、札代だけを返すものもあった。たとえば、頭合番999人に渡すとあれば、当たった3300という番号だけを除き、3000代の番号どれにも元金だけを返してくれる。突留の頭合番に渡すという方法もあった。当せんした者は褒美金全部を入手したのではなく、突留1000両を得たものはその100両を修理料として興行主に贈り、100両を札屋に礼として与え、その他諸費と称して450両取られたから、実際に得るところはおよそ700余両であった。これは平(ひら)の当(あたり)まで同じである』とある。これによって、この主人公たちは百両を丸々もらったのではないことが分かる。以下、販売・購入方法が続く。『興行主において数千または数万のくじ札(富札)を作り、それに番号を付ける。日を定めて抽せんされる。仮に興行主から富札店(札屋)が富札1枚を銀12匁で買い入れたとすると、札屋はこれに手数料を取って1314 匁で売り出す。売り出す時は当局に申告するため定価があったが、札屋から庶民に売るものは、その時の人気で上下した。1人で数枚を買うこともできたし、1枚を数人で買うこともできた。後者は割札といい、本札は取次人の手に留めて仮札をもらう。半割札を買った場合、褒美金はもちろん2分の1になる。4つに分けたものを4人割といった』。次に歴史(記号の一部を変更した)。『起源はすでに寛永ころ京都でおこなわれていたらしく、元禄5年5月の町触にはその禁止がある(「正宝事録」八には、『元禄五壬申年(改行)覚(改行)一 比日町中にてとみつき講と名付 或ハ百人講と申 大勢人集をいたし 博奕がましき儀仕由相聞 不届に候 向後左様之儀一切仕間敷候 若相背博奕の似寄たる儀仕者於レ有レ之ハ 本人ハ不レ及レ申 名主家主迄曲事ニ可二申付一者也(改行)申五月(改行)右は五月十日御触 町中連判』とある。)から当時流行していたらしい』(ここは執筆者以外から出典の明示を要求されている)。『流行の頂点は文化、文政ころであった』とするが、ここで更に遡り、『最も古い記述としては鎌倉時代の夫木集にある藤原兼隆の歌に、現在の大阪府箕面市にある瀧安寺の箕面富に関する記述があり、これが起源ではないかとされている』(ここでも執筆者以外から出典の明示を要求されている)。『そこからすると約950年前にはその実があったと言える。当初は金銭の当たる籤ではなく、弁財天の御守「本尊弁財天御守」が当たるものだったようである。富籤は頼母子(無尽)、とくに取退無尽(とりのきむじん)が変じたもので、頼母子は出資者数が少なく獲得額に限度があり、射幸心を充分には満足させられないなどの理由があった。そのため、債権債務関係が1回限りで、配分額の多い富籤という方法が案出された。富会といわれ新年の縁起物としての行事であった。自身の名前を書いた木札を納めその中から「きり」で突いて抽せんしたのが始まりと言われる。当せん者はお守りが貰えただけであったが、次第に金銭が副賞となり賭博としての資金収集の手段となった』とする。以下は「幕府の対応」という項。『この方法が時勢にあったのか大いに流行し、幕府はしばしば禁令を発した。1692年5月に出された江戸の町触には、富籤を禁止しする旨の条文があったという。しかし1730年(享保15年)、幕府公認の下、仁和寺門跡の宅館修復の名目による富突を護国寺で3年間行った以降、富籤は主に寺社の修理費用に充てるために興行された。このため、許可は寺社奉行に出願することとなり、抽籤の際には与力が立ち会った。谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神は江戸の三富と呼ばれるほど盛んであったという』。『寛政の改革期は、松平定信によって江戸・京都・大阪の3箇所に限られ、あるいは毎月興行の分を1年3回とするなど抑制されたが、文政、天保年間に入ると再び活発化し、手広く興行を許され、幕府は9年、三府以外にもこれを許可し、1年4回の興行とし、口数を増やし、1ヶ月15口、総口数45口までは許可する方針をとった。これは、1842年(天保13年)3月8日に水野忠邦が突富興行を一切差止するまで続いた』とある(最後にこのウィキの執筆者に感謝して終わりとする)。

・「右富札は捨置んも如何也とて……」以下は主語が誰であるか、判然としない。読みようによってはこの「親方」が富籤を得るまでの行動の主体であるようにも読めるが、それではこの「賤妓家福を得し事」という標題が生きてこないし、第一、面白くない。私は、けころを主人公とし、想像した仮想シーンも織り込んで訳してみた。そもそも、曖昧茶屋の主人=けころを支配していた若い親方、という等式も私の勝手な判断である。

・「富定日」富籤の抽選日。

・「出雲守」加賀藩支藩富山藩のこと。越中の中央部(現在の富山県神通川流域)を所領とした藩で、石高10万石。藩主は前田氏。家格は従四位下。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)は第7代藩主前田出雲守利久(宝暦121762)年~天明7(1787)年)であろう。彼の藩主就任は安永6(1777)年8月である。

・「備後守」加賀藩支藩大聖寺藩のこと。加賀国江沼郡(現在の石川県南西端)にあり、江沼郡及び能美郡の一部を領した。石高7万石(後に10万石)。本話柄の頃(「卷之二」の下限である天明6(1786)年以前の遠からぬ年を想定するなら)で、備後守だったのは第6代藩主前田利精(としあき 宝暦8(1758)年~寛政31791)年)であるが、この人物、ウィキの「前田利精」によれば、安永7(1778)年に藩主となるものの、安永101781)年に前藩主の父前田利通が死去すると、頻りに遊郭に通って『女狂いとなり、無頼と交じって好き放題をやらかしたりするなど、無法を繰り返すようになる。これら一連の行動に関して、家臣団は無論、本家の藩主・前田治脩も諫言したが、利精は聞く耳を持たなかった』とある(前田治脩(はるなが)は加賀藩第10代藩主。前の「加賀」の注を参照のこと)。問題はここからで、『このため天明2年(1782年)8月21日、前田治脩は利精を「心疾」として監禁し、家督は利精の弟である前田利物に継がせた』とある点である。これによって、本話は最近とは言うものの、前田出雲守利久が藩主に就任した安永6(1777)年8月から前田備後守利精が藩主であった天明2年(1782年)8月の5年間の限定された時期に同定出来る可能性がきわめて高いことが分かるのである。

・「酒鄽」「鄽」は店の意。男の前の商売柄から考えて酒屋ではなく、相応な居酒屋であろう。

・「院代」には(1)院家(いんげ:皇族や貴族が出家して居住した特定寺院である門跡寺院のこと。)の寺格を持つ寺の住持の職務を代行する者。(2)寺の住職の代理者。(3) 普化宗(ふけしゅう)の寺の住職の三つの意味があるが、ここは(2)。

・「谷中大念寺」岩波版長谷川氏注には『鶴林山泰然寺か』とある。しかし現在、このような山号及び寺名の江戸(東京)の寺院は検索にかかってこず、「江戸名所図会」の索引にもない。廃寺となったものか。現存するもので「大」がつく幾つかの寺があるが、高光山大円寺は感応寺の旧宗旨の日蓮宗で発音も近い。他には同じ日蓮宗の円妙山大行寺、長昌山大雄寺というのもある。識者の御教授を乞うものである。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 卑賤の娼婦が思わぬ家福を得た事

 

 これは最近の出来事である。

 下谷広小路辺りに、あの辺りを徘徊する例の下賤の売女(ばいた)であるけころが、専ら二階を御用達としている、通称「けころ茶屋」と申す一群の曖昧宿が御座った。

 ある日、加賀藩の足軽らしい男が、通りすがりのけころを買って上がると、一時、遊んで帰って行ったのだが、その折り、財布を落としていったので、直ぐにそのけころが茶屋から出て追い駆けた。しかし、沿道からは最早、男の姿はかき消すようになくなっていた。

 女は、広小路の真ん中で、財布をぽんと掌で打ち上げて、また摑むと、

「……まあ……これで、また……来て下さる、わ、ね……」

と見えぬ足軽の影に向かって、色っぽく声かけたのだった――。

 茶屋へ戻って中を改めてみると、谷中感応寺の富札が一枚入っているだけ――。

 とりあえず、その財布は茶屋主人――実は、そのけころの、若い親方――に預け置いた。

 ところがその後、この足軽、一向にやってこない。

 尋ねようにも、名も分からねば、探しようもない。

 親方は、この富札、捨ておいてしまうのも如何にも勿体なかろう、ということで、かのけころ女に、

「お富の日には感応寺さんへ行って見といで。お前さんには、よう当る有難いお『的』があるで……『一発』、当たらんとも、限らんぜ……。」

と軽口を言って渡した。

 女は富籤当日、その富札を袂に入れて、序でにいいカモの一人も見つかればいいわ、ぐらいな気持ちで感応寺を訪れた。

――ドン!――

と一発、太鼓が打ち鳴らされる――一等の符丁が読み上げられる――。

「……!!!……」

女は――声が出ぬ――。開いた口が塞がらぬばかりか、外れんばかり――。

「……ヒ、ヒ、ヒエ~ッ!!!……」

握った札が震え出す――。富籤の口上が高らかに叫ぶ!――

「――大当たり~ぃ!――金、百両!――」

 

 大枚を懐に巻き入れ、腰も抜けんばかりになって、女は下谷広小路茶屋へ戻った。

 

 親方も驚くまいことか、目にしたこともない大金に、思わず、小心者故の正直な性質(たち)故に、

「……それにしてもさ……ともかくも、何だよ、そら……この富籤は儂らのもんでは、ないんだから……その何とか、この足軽を捜して出してだな……ま、その、この金を渡そう、な……少しは礼も貰える……それで儂らには十分だろ?……」

と、何やらん、もじもじとして独りごちた。そんな若い親方を見ながら、このけころの女は内心、

――可愛い!――

と思った……。

 

 翌日より、この親方、加賀藩藩邸は勿論のこと、加賀藩御分家にて御座る出雲守殿、備後守殿御屋敷その他関わりのありそうなところを、総て残る隈なく尋ね歩いたのであったが、もとより、名も分からぬ相手なれば、雲を摑むような話、結局、その足軽は見つからず仕舞いであった――。

 

 その夜のこと、親方の若い男は、籤を拾うたけころと差し向かいで、

「……これはまあ、誠に感応寺の仏の御加護であろうて……」

と、二人して大枚の金子に手を添えて、感応寺さんに感謝致いたという――。

 暫くして、感応寺門前にそれを元手に相応にしっかりした居酒屋を開業致し――いまだ独り身だったその男、例のけころを妻に迎えて――今も豊かに暮らしているということで御座る――。

 とは、感応寺院代を勤めて御座る谷中大念寺という寺の僧が語ったことにて御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 怪我をせぬ呪札の事

 

 天明二寅年の春、御小性を勤仕(ごんし)の新見(しんみ)愛之助といへる人登城の折から、九段坂の上にて乘物に驚きけるや、數十丈の探き御堀の内へ馬と一所に轉び落けるが、怪我もせず着服等改め直に登城ありしと也。其後右の咄出て、何ぞ格別の守護等も有しや、數十丈の所轉び落んに、如何にしても少しは怪我も有べきに、ふしぎの事也といひしに、外に守やうの物もなかりしが、一年不思議の事ありしとて、知行の者より差越たる守護札ありしとて、書付けて愛之助より有尋し者へ見せける由。右同人知行の者、或日野に出て雉子を射けるに、其矢雉子に當りしと思へども雉子は恙もなく、敢て立んともせざりし。弓術上手といわるゝ者共爭ひいたりしが、外の雉子は弦(つる)に應じて斃るゝといへども右雉子に矢當らず。何れも驚きて追廻し捕へけるに、羽がひに左の文字認有由。

 右の文字を書たる札百姓の與へけるを、其儘に懷中せしと物語の由。何の譯に候哉(や)。文字も作り文字と相見へわかりがたけれど、其頃貴賤となく小兒などにも懷中させしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:神の御加護のこもった冨札から、霊験の呪力を持った守護札で連関。

・「呪札」「まじなひふだ」と読むものと思われる。

・「天明二寅年」西暦1782年。壬寅(みずのえとら)。

・「御小性」御小姓とも。武家の職名。扈従に由来する。江戸幕府にあっては若年寄配下で将軍身辺の雑用・警護を務めた。藩主付の者もこう称した。

・「新見愛之助」岩波版長谷川氏注によれば新見正登(まささだ)のこととする。『天明元年(一七八七)七月より御小性。六年家を継ぎ八百十石』とある。寛政5(1793)年に小十人頭、同7(1795)年から121800)年まで目付を勤めた。この人、息子の方が有名。「朝日日本歴史人物事典」によれば、新見正路(寛政3(1791)年~嘉永1(1848)年)は幕臣。『伊賀守。文政121829)年大坂西町奉行となり,淀川の大浚い工事の土砂で築かせた天保山は、長く市民の娯楽の場となった。天保121841)年に天保の改革が始まると、将軍徳川家慶の側近である御側御用取次となる。水戸藩士藤田東湖が、「誠によき人物、誠実顔色にあらわれ」と評した人柄を見込まれ、将軍と老中の間に立って両者の円滑な意思疎通と機密の保持を求められる御側御用取次に登用されたのである。また、古典の教養も深く、蔵書家で邸内に賜蘆文庫を設けた』(引用に際して記号の一部を変更した)とある。

・「九段坂」九段は現在の九段南・九段北1~4丁目に相当する町名。町名及び九段坂の名は、この丘陵地の傾斜部分に9層の石段と「九段屋敷」という幕府の御用屋敷が造られたことに由来する(ウィキの「九段」を参照した)。

・「乘物に驚きけるや」岩波版では「乘馬物に驚きけるや」とある。こちらを採る。

・「數十丈」現在でもこの九段下や竹橋辺りの堀はかなり深く見えるが、1丈=10尺≒3.03mであるから、流石に「数十」では最低でも90mを超え(江戸城自体の高さが約60m)、堀は深いものでもせいぜい十数m内外と思われ、誇張表現である。

・「知行」新見正登の細かい事蹟が分からないので、この知行地は不詳。幾つかの資料から、一つの可能性として新見氏の領地としては、現在の神奈川県内の何処かが候補としては挙げられそうには思われる。郷土史研究家の御教授を乞う。

○呪(まじな)いの文字は原文・訳文共に底本からの該当文字列の縦書画像で示したが、字解しておくと、

「※1抬※1※2」

「※1」=「扌」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「辛」}

「※2」=「扌」+{(つくり上部)「己」+(つくり下部)「力」}

底本注で鈴木氏は山崎美成(寛政8(1796)年~安政3(1856)年):作家。江戸下谷長者町薬種商長崎屋の子で家業を継ぐも趣味の文芸に入れ込んで破産、江戸派の国学者小山田与清に従った。滝沢馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢との交流もあった。)の「提醒紀談」(嘉永3(1850)年刊三から引用して『「世に※1抬※1※3の四字を書して、怪我除の護符とす。その験あること人のしるところなり。さて此符字の伝へ一条ならず。或記に、寛永二年三月晦日に将軍家狩したまふに、御鷹大なる※4を捕りけり。その※4の胸に四の字あり。その文字は袷※5※6※7と、かくの如くなり。実に不思議なることなりと見えたり。次にまた寛文八年に紀州に住める鉄砲師吉川源五兵衛といふ人、江戸に居ける日、大宮鷹場の中、青野村といふところにて白き雉子を覘すまして打たれども中らず。さればやうやう機檻にて捕へ得たり。その雉子の背に※1抬※1※3の文字あり。思ふに此文字こそ、定めて怪我除けの符ならんかとて、角(マト)にこの字をしるして、打試みるに幾度打ども中らず。【大久保酉山筆記】といへることあり」として、次に耳袋の新見某の話柄を記し、「何れも正しき記録なれば信ずるに足れり」といっている。』と注する[やぶちゃん字注:「※3」=「扌」+{(つくり上部)「巳」+(つくり下部)「口」}。「※4」=「鳫」の「鳥」の右に(にんべん)。「雁」。]「※5」=「衤」+「盒」。「※6」=「衤」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「冋」}。「※7」=「衤」+{(つくり上部)「合」+(つくり下部)「幸」}。以下に以上の二つの呪文の底本の該当文字列の画像も配しておく。]。

◇「※1抬※1※3」の縦書画像

◇「袷※5※6※7」の縦書画像

更に東洋文庫版「耳袋」では同じ鈴木氏が、
この「※1抬※1※2」の文字は「サンバラサンバラ」と読む
とも記している(岩波長谷川氏注の孫引き。恐らく類型字である「提醒紀談」所収の二つも同じように発音すると考えてよいだろう)。この発音からは、これは梵語(サンスクリット語)をそのまま音で漢訳した真言と考えてよい(「根本真言(大陀羅尼)」や「一切如来随心真言」等に現われる)。従って、本漢字の語義を調べることは意味がないと思われる――つーか、根岸も「文字も作り文字と相見へわかりがた」しと言ってるんだし、多分、調べてみても出て来そうもないし、納得出来るように分かるわけはないんだと踏んだ――有体に言えば、実は調べるのがメンドクサイの。だって、少なくとも「※1」「※2」は「廣漢和辭典」には所収しないし、「抬」は「うつ・あげる・かつぐ・になう」の意の「擡」の俗字で、音は「チ」若しくは「タイ・ダイ」であって「バラ」とは程遠く、現代中国音でも“
tái”なんだもん――序でに暴露してしまうとさ、「提醒紀談」も持ってるんだけど、引き出すと本の崖が崩れて生き埋めになるので原本との照合も諦めちゃったというのが本音なの。

○岩波版カリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館蔵の完本(旧三井文庫本)では、この末尾に以下のような三淵正繁による追記がある(ルビを一部排除し、歴史的仮名遣に直した。「わ」はママ))。

 

   きしひこそまつがみぎわにことのねの

       とこにわきみがつまぞこひしき

  右呪の文字に附添居(そひゐ)候歌の由、予が承り及候に付書添置ぬ。

   文政五年九月十七日                   三淵正繁

 

同岩波版長谷川氏の注によれば、この三淵正繁については、『寛政三年(一七九一)二十歳で小性組番士。西丸新番頭・鎗奉行等歴任。天保十四年(一八四三)没。』とある。根岸より35歳年下になるが、事蹟から見ると、根岸が南町奉行となった頃(寛政101798)年)には年下の友人として親交があったものと推測される。この歌、「きし」は「岸」と「雉」、「まつ」は「松」と「待つ」、「みぎわ」は「水際」と「右羽」、「こと」は「異」と「琴」、「とこ」は「常」と「床」、「「わきみ」は「分き身」と「脇身」、「つま」は「妻」と「褄」などが掛けられたものと思われるが、元々和歌の嫌いな私には通釈すべき意欲も起こらぬ、どうも分かったような分からぬ和歌である。「きしひ」が先ず分からん。「岸庇」で、川沿いの岸の高みのことか。識者の御教授を乞うが、そもそも呪(まじな)いであるのだから、通釈出来なくていいんじゃないか、と勝手に決め込んだ。悪しからず。「文政五年」は西暦1823年で、根岸の死後8年後のことである。以下、とりあえず訳しておく。

 

   きしひこそまつがみぎわにことのねの

       とこにわきみがつまぞこひしき

右の呪文の文字に添え付けて御座った歌の由、私三淵正繁が

  生前の根岸殿とのお話の折りに承ったによって、書き添えて

  おく。

   文政五年九月十七日            三淵正繁

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 怪我をせぬ御札の事

 

 天明二年寅年の春、御小姓を勤めて御座った新見愛之助正登という御仁、登城の折りから、九段坂の上にて、騎して御座った馬が何物かに驚いたのであろうか、突然、暴れだして、数十丈はあろうかという堀の底へ馬と一緒に真っ逆様に転がり落ちて御座ったが、怪我一つせず、衣服を改めた上、直ぐに登城致いたという。

 そのことがあって暫くして、このことが談話に上り、ある人が新見殿に訊ねた。

「……貴殿、何ぞ、特別な神仏の守護なんどを受けておられるのかのう。数十丈の落差を転げ落ちたれば、どうあっても多少は怪我も受くるであろうほどに、全くの無傷というは。誠(まっこと)不思議ぞ!?……」

すると、新見殿は、

「……これといってちゃんとした御守なんどという物も御座らねど……いや、そういえば……実は、一年前に……不思議な一件、これあり……」

と言いながら、新見殿、懐紙を取り出して、筆を所望の上、

「……実は拙者の知行地の者から……送り寄越した守護札が御座って……」

と不思議な字を書き付けてその場の者どもに見せつつ、いわれを語ったとのこと。

 

――この新見愛之助殿知行地の者、ある日、仲間内と野に出て、雉子を狩った。

 一羽の雉子を見つけ、即座にその者が射たのであったが、確かに矢は当たっているはずであるのに、その雉子、一向に平気の平左、飛び立とうとさえせぬ。

 弓の上手と誇る手だれの者数人が中に御座って、争うように雉子の群れを狙って射ては、悉く美事射抜いて御座った――が――同じ時、同じ場所に何匹もの他の雉子が御座って、それらは、その者どもが次々と弦を弾いては繰り出す矢の餌食となってゆくというのに――この雉子一匹だけは――やはり平然としておる――一向に彼らの矢も当たらぬのである。

 誰もが驚きあきれ、遂には、その一匹を皆で追い回し、素手で捕まえたところが、羽と羽の間、その背に次のような呪文の字が書かれていたそうな――。

「……この文字を書き写した札を、その近所の百姓が拙者に送って寄越したれば、何となく、それ以来、懐中にしては、おりました……」

と物語って御座ったとの由。

 さても、如何なるいわれがある呪言で御座ろうか? 文字というも、如何にも作った嘘字らしく見えるし、意味は勿論、何と読むやらも皆目分からぬが、何でも当時は、貴賤を問わず、子供などにも懐中させた流行の呪(まじな)いで御座ったとのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 非人に賢者ある事

 

 天明二年の事なりしが、人の語りけるは、あらめ橋のたもとに出居たる雪踏(せつた)直しあり。往來の侍雪駄をふみ切、懷中貯錢の心付なく、右雪駄を直させける上にて懷中を見るに一錢も無之、家來は外へ使に遣しける故甚當惑いたし、其譯を雪駄直しの非人に斷りて明日にも可差越段申ければ、右非人以の外憤りて彼是申、後には惡口(あくこう)など致しけれども、彼侍無念を怺(こら)へ色々申宥(なだめ)けるを、側に居たりし同職の非人、中へ入りて右侍へ對し、同職の非人甚の不屆なり、誠に御難儀可申樣も無之、彼へはいか樣にも私申宥め可相濟(あひすますべし)、人立ちも如何に候間早々御歸可然段申ければ、彼侍甚過分に思ひて、其方の住所小屋は何れにて名前は何と申哉と尋けれ共、御謝禮等申請べき存寄なし。少しも早く歸り可然とて達(たつ)てすゝめける故、右侍もその意に任せ歸りけると也。其側に町人居たりしが、始終の樣子を見請、其方の小屋は何方(いづかた)やと尋ければ、鎌倉河岸邊の由申しければ、左あらば我等歸り道也、ちと賴度用事ある間、一所に可歸とて同道して、途中にて申けるは、其方は生れながらの非人にも見へずとありければ、成程生れながらの非人に侍らず、若氣の心得違よりかゝる身の上也と答ふ。さあらば我等事汝がけふの取計ひ感ずるに餘りあり、用に立べきもの成間、引出し可召抱と有ければ、近頃思召忝(かたじけな)けれども望なし。都て橋爪に出て雪駄直し等いたし候非人は、御武家方其外急成差支の節は、隨分代錢に不拘働き可申事、非人の役にて珍らしからず、右惡口いたし候非人は何も不存(ぞんぜざる)者故也。且又武家方の難儀を見受候故、非人の我等ながら無據(よんどころなく)中へ立、事を納めたる也、然し御侍の身分にては左こそ無念に思召なん、御身始終樣子見給はゞ、何として立入御侍の難儀をすくひ取計給はざるや、かゝる御心得の人に引出され隨身(ずいじん)せん事、望む所にあらずと答へければ、彼町人も赤面して歸りしとなり。非人ながら怖敷者也と人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:天明二年の話で連関。この話、私は「卷之二」随一の巧みな名話と感じている。

・「天明二年」西暦1782年。

・「あらめ橋」荒布橋。日本橋川の江戸橋から北に流れていた西堀留川の河口に架かっていた橋。現在は西堀留川自体が埋め立てられており、橋は存在しない。この頃は、この辺りは海岸線に近かったから、干満と海底地形の特質から、褐藻綱コンブ目コンブ科アラメEisenia bicyclisの脱落個体が橋脚に掛かったりしたことから命名されたのではなかろうか。アラメは水深2~3mの岩礁上に有意に密な海中林を形成し、主に本州の太平洋沿岸北中部に分布している。アラメに関しては、私の電子テクスト「和漢三才図会 巻97 藻類 苔類」の「海帶」等を参照されたい。

・「雪踏」雪駄。草履の一種で竹皮で丁寧に編んだ草履の裏面に獣皮を貼って防水機能を与えたもので、皮底の踵(かかと)部分には後金を打って保護強化されている。特に湿気を通し難い構造になっている。以下、参考にしたウィキの「雪駄」によれば、その由来は『諸説あるが、千利休が水を打った露地で履くため、あるいは積雪時、下駄では歯の間に雪が詰まるため考案したとも、利休と交流のあった茶人丿貫の意匠によるものともいわれて』おり、『主に茶人や風流人が用いるものとされたが』、『江戸時代には江戸町奉行所の同心がかならずばら緒の雪駄を履いており、「雪駄ちゃらちゃら」(後金の鳴る音)は彼らのトレードマークであった』と記す。この「ばら緒」というのは鼻緒の一種の呼称で、竹皮縄のこと。麻緒の芯に竹の皮を丁寧に綯(な)い、太い縄にしたものを言う。

・「雪駄直しの非人」江戸の非人は、全国の被差別部落に号令する権限を幕府から与えられていた穢多頭(えたがしら)であった浅草矢野弾左衛門(歴代この名を襲名した)の統轄下に置かれていた。町外れや河原の非人村の小屋を居住地とし、大道芸・罪人市中引廻しや処刑場手伝い・町村の番人や本話のような各種の卑賤な露天業・雑役、物乞いを生業(なりわい)としていた。ウィキの「非人」には更に、『死牛馬解体処理や皮革処理は、時代や地域により穢多』『との分業が行われていたこともあるが、概ね独占もしくは排他的に従事していたといえる。ただしそれらの権利は穢多に帰属した』と記す。

・「小屋」非人小屋のこと。通常の非人は非人頭が支配する非人小屋(幕府や諸藩が設置)に属しており、更に小屋主(非人小頭・非人小屋頭)の配下に編成されていた。非人は小屋に属して人別把握がなされ上で正式な非人となり、身分保障されたのである。

・「成程生れながらの非人に侍らず、若氣の心得違よりかゝる身の上也」処罰としての非人手下(てか)によって非人の身分に落とされた者であることを言う。以下、ウィキの「刑罰の一覧」に所載する「非人手下」から引用する。『被刑者を非人という身分に落とす刑。(1)姉妹伯母姪と密通した者、(2)男女心中(相対死)で、女が生き残った時はその女、また両人存命の場合は両人とも、(3)主人と下女の心中で、主人が生き残った場合の主人、(4)三笠附句拾い(博奕の一種)をした者、(5)取退無尽(とりのきむじん)札売の者、(6)15歳以下の無宿(子供)で小盗をした者などが科せられた。この非人という身分は、江戸時代、病気・困窮などにより年貢未納となった者が村の人別帳を離れて都市部に流入・流浪することにより発生したものと(野非人)、幕藩権力がこれを取り締まるために一定の区域に居住させ、野非人の排除や下級警察役等を担わせたもの(抱非人)に大別される。地域によってその役や他の賤民身分との関係には違いがあるが、特に江戸においては非常に賤しい身分とされ、穢多頭弾左衛門の支配をうけ、病死した牛馬の処理や、死刑執行の際の警護役を担わされた。市中引き回しの際に刺股(さすまた)や袖絡(そでがらみ)といった武器を持って囚人の周りを固めるのが彼ら非人の役割であった。当時の斬首刑を描いた図には、非人が斬首刑を受ける囚人を押さえつけ、首切り役の同心が腕まくりをして刀を振りかぶっているような図が見える』。『なお、従来の研究では、非人は「士農工商えたひにん」の最下位に位置づけられることから、非常に賤しい存在とされ、非人手下という刑の酷さが強調されてきたが、非人と平人とは人別帳の区分の違いであること、非人は平人に復することができたことなどから、極刑を軽減するためにとられた措置であるという見方もある』と記す。「取退無尽」の「無尽」は講(こう:町人の私的な互助組織。)を作っている者達が月々決められた金額を積み立てておき、その講中で時々に金が入用な者に対して、競り落とす形でその金を貸与するシステムで、「取退無尽」というのは当たり籤を引いたものが順々に抜けていく無尽を言う。割り戻し率が高いために賭博性が問題とされ、富籤同様、幕府から禁じられていた。この男の罪は何だったのか。話柄としては、(2)で両人共に生き残ったか(女が死んだ場合は生き残った男は死罪。これには同情する)、(3)のあだなる縁(えにし)であったか(個人的には余りこれには同情し得ない)、いや、矢張り、武士や町人の幸せな子であった者が、疫病天災や騒動によって天涯孤独になって、ひもじさからわずかな食い物を掠め取って、捕らえられ、投擲され、果てに非人小屋へ連れて行かれ……といった(6)辺りを想定してみて――この実在した男には勝手な想像で失礼ながら――ちょっとしんみりした感じになってくる方がいい。

・「鎌倉河岸」以下、「千代田区総合ホームページ」の「町名由来板ガイド:神田鎌倉町・鎌倉河岸」より引用する(改行及び一部の読みを省略、記号の一部を変更した)。『天正十八年(1590 )、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏が整備しただけの粗末なものでした。慶長八年(1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請に乗り出します。家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦三年(1657)の「新添江戸之図(しんてんえどのず)」には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。 江戸城築城に際して、家康が近江から連れてきた甲良家(こうらけ)も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方の大棟梁として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺、日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋(おじま)公園のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠(ほこら)が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。昔、潮入りの葦原だったこのあたりで、漁業を営む人々が篤い信仰を寄せていた「浦安稲荷神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保十四年(1843)に遷座され、現在は神田明神の境内にあります。「出世不動尊」は、一橋徳川家の表鬼門除けとして祀られていたといわれています。本尊は、平安時代の僧智証大師の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に縁日が開かれ、たいへんな盛況だったようです』。

・「御侍の身分にては左こそ無念に思召なん」この侍の内心は、勿論、非人に理不尽な悪口を浴びせられたことを核心とするが、この男の話の流れから言えば、それに加えて、同じく賤しい非人である私(=主人公の男)如きに救われたということも加えて「無念」にお思いになられたことであろう、という意を含めるものと解釈すべきであり、そこまで他者を慮っているからこそ、賢者と言えるのである。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 非人にも賢者のある事

 

 天明二年のことであった、とある人が語ったという話。

 荒布橋のたもとに出て雪駄直しを商売に致いておった者どもがあった。

 ある時、往来の侍が雪駄を踏み切った。――この侍、迂闊にも懐中に持ち合わせが全くないことに気付かぬまま――この雪駄直しの一人の若者に直させた上、さて駄賃を渡そうと懐中を探ったところが――一銭もない――持ち合わせがまるでないということに今更、気がついた。家来は他に使いに出したばかりで、生憎、そのまま屋敷に戻るよう命じて御座った――甚だ困った侍は、とりあえず、その雪駄直しの若い非人にその訳を述べ、金子は明日にも必ず持参致すべき旨、これを告げたのだが、これを聞いた非人は、異常なほどに憤って、この侍に対して、かれこれ難癖をつけ、遂には無礼な悪口(あっこう)まで吐き始める始末であった。

 この侍、逆立ち致いても一銭も出ぬ事実に加え、人柄も穏やかであったがために、ひたすら無念を堪(こら)え、色々と非人を宥(なだ)めて御座ったところ、傍にいた同じ雪駄直しの非人仲間の一人が、二人の中に割って入(はい)って、

「同業のこの非人の振舞い、甚だ不届きにて御座いまする。先程よりの御武家様の御難儀、申し様もこれなき程にて、仰せられしことも、これ悉く、道理に叶(かの)うて御座ればこそ、かの者には、如何様(よう)にも言い聞かせ、宥めますればこそ。さても、次第に人だかりも致いて御座れば、ここは一つ、お引き取り下され。」

と言う。かの侍も甚だ感謝に堪えず、

「……いや、有難い……その方の住所及び小屋は何処(いづこ)にて、名は何と申す?」

と訊ねたけれども、

「いえ、御礼なんどを頂戴するいわれは御座らぬ。さ、さ、どうか一刻も早う、お引き取りなされるがよろしゅう御座る。」

と頻りに急かすように勧める――実際、彼等の周りには次第に野次馬の人だかりが出来始めて御座ったれば――かの侍も、その非人の言うにまかせて、礼を言うと、帰って行った。

 

 さて、その野次馬の中に、一人の町人がおった。

 この町人、この一部始終を凝っと見ていたのだったが――野次馬どもが、何事か面白いことが起こるものという秘かな期待を裏切られて何事も起こらぬことに大いにあからさまな失望の声を挙げながら三々五々立ち去ってしまった後(のち)も――ずっとそこに残ったまま、割って入った男が先の非人を宥め落ち着かせるまで待ち、そうして男が雪駄直しの道具類を片付け始めるのを見てとると、そっと近づき、

「その方、小屋は何処だ?」

と尋ねた。

「へえ? 鎌倉河岸辺りで御座えやすが――何か?」

「それなら私の帰り道だ。……実は、ちょいと頼みたい用事があるでの……ま、一緒に参ろうや。」

と同道する。

 その道すがら、町人が男に話しかける。

 

町人「……その方……失礼ながら……生まれながらの非人には見えぬが……」

男 「――へえ、仰る通り、生まれながらの非人では御座らぬ。若気の至り、ちょいとした心得違いより、かくなる身となり申した。」

町人「……されば……私はお主の、今日の一件の一部始終、見て御座った……その取り計らい方、大いに感ずるに余りあったれば……お主のような人物、実に役に立ちそうな者なればこそ……非人小屋から請け出し、そなたを召し抱えとう思うのじゃが……どうじゃ?」

男 「――めったにない、大層有難い思し召しに御座りまするが、お断り致しましょう。――そもそも、橋詰めに出でて雪駄直しなんど致しておる非人というものは――御武家方その他の方々の急な差し障りの折り折りには――およそ、代銭の有る無しに拘らず、お手伝い致すべきこと、非人の当然の役目――決して珍しいことにては御座らぬ。――あの悪口致いた非人は、未だその辺りの道理を存ぜぬ若輩者にて――かつ、また、かの御武家様の難儀を見申し上ぐればこそ――我ら、非人の分際ながら、よんどころなく、出しゃばり致いて中に割って入り、まあ、かく事を納め申したに過ぎませぬ。――しかし――御侍の身分にては、かく非人に口汚く罵らるれば、さぞ、御無念に思われたことで御座ろう。――貴方――貴方はその一部始終を見て御座った――なれば、何ゆえに割って入(い)り、御侍の難儀をお救いし、お取り計らいなさらなんだ?――かかる御心得の持ち主に、請け出され、御付き申し上げんこと――これ、望むところにては、御座らぬ。――」

 

 これを聞いた町人、路上にありながら、思わず赤面、そそくさと別れた、という。

 

「……誠(まっこと)、非人とは申せ、恐ろしき切れ者で御座る。」

とある人が語った。

 

 

*   *   *

 

 

 浪華任俠の事

 

 大坂は昔より俗にいふ男立といふ者流行しけるに、近き頃の事也、朝比奈何某といへる者あり。彼者の方にて若者など集め振舞抔せるに、同人十歳の時武家より請取りし誤り證文を懸物にせし由。不屆なる事ながら其由來を尋るに、右朝比奈十歳のとき、立衆(たてしゆ)の中間(ちうげん)と一同堤に涼み居たりしが、年頃三十四五歳とも見へし侍、いかにもたくましく丈夫なる大小貫拔(かんぬき)に指て右堤を通り過けるに、右涼み居候中にて、遖(あつぱれ)の男振かな、中々あの位の人へ出入しては勝ちにくからんといひければ、彼朝此比奈聞て、我等あの侍にあやまらせ見せんといふ。いらざる事といひけるが、いつの間にか其場所を拔(ぬけ)て彼侍に組付ければ、小兒の事故拂のけて通りしに、又立寄ては組付、幾遍(いくへん)となくなしければ右侍、面倒なる倅哉(かな)と、取て投て行過ければ、投られ踏れては最早堪忍成がたし。いざ殺し給へとて何分放さず、侍ももてあつかひ、小兒を殺んもおとなげなしとて詞を和らげ、汝憤る事あらば了簡可致と申ければ、さあらば書付給はれとて頻に望し故、いなみけれ共、何分書付不給は殺し給へといひける故、無據書付遣しけるを、懸物として生涯任俠の棟梁をなしけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:非人の賢者から、姦計に優れた任俠の話で連関。

・「浪華」「なには」。大阪のこと。

・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。

・「男立」任俠に同じ。

・「朝比奈何某」底本の鈴木氏の注に『朝比奈三郎兵衛。侠客。大阪つぼ町住』で、天和2(1682)年に50歳ほどであったと「久夢日記」に書かれているとする。更に『その親の三郎兵衛も侠客で、二代続いて男伊達随一の名をとった。五尺ばかりの小男で、さして力もなかったが、義気が強く、正直で貧しかった』と記す。岩波版長谷川氏も同じくこの結構有名な町奴に同定されて問題を感じておられぬようであるが、如何? 「近き頃の事也」と根岸は言っているのである。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までで、その朝比奈三郎兵衛が80歳まで生きたとしても、百年から七十年も前のことを、私なら「近き頃の事也」とは、決して言わない。三代目を襲名した町奴朝比奈三郎兵衛は居なかったのであろうか?

・「立衆」底本ではここは「立花」となっている。これでは私には読み・意味共に分からない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「立衆」となっており、「たてしゆ」の読み、及び長谷川氏により「任俠」と同義である旨の注が附されている。これで採る。本来、「立衆」と言えば、「たてしゅう」「たちしゅ」と読み、能の軍勢や従者、狂言の町衆や小鬼といった、端役で数人が同じ役として一団となって登場する役者を言うが、ここは「男立の町衆」といった謂いであろう。底本の「立花」も「男立ての花」「浪花の男立て」と言った意味とも取れぬことはないが、調べた限りでは男立てを「立花」とする例は見ない。

・「大小貫拔に指て」刀の大小を、通常の左腰ではなく、閂(かんぬき)のように水平に指すことを言う。

・「遖(あつぱれ)」は底本のルビ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 難波の任俠の事

 

 大阪は昔より俗に言う「男立て」というものを殊更にもて囃して御座るが、これはその「男立て」に纏わる最近の大阪での話。

 

 男立てで知られた朝比奈某という者が御座った。

 彼がある時、己が屋敷に若い衆なんどを集め、酒食を振る舞ったりした折りのこと、彼が十歳の時、さる武家より請い受けたという詫び証文を掛け軸にしたものを披露した由。――如何にも不届きなることながら――知れる者にその由来を訊ねたところ、以下のような次第で御座った。

 

――朝比奈某十歳の砌、夏のある日、男立てを誇る若い中間(ちゅうげん)ども一緒になって、とある堤で涼んでいたところ、年の頃三十四、五歳に見える侍で、如何にも逞しい大丈夫が、大小をこれまた、かぶいて閂(かんぬき)に差したのがその堤を通りかかった。

 それを見た中間の一人、

「格好(かっこ)ええなあ。ああした侍にゃ喧嘩吹っ掛けても、なかなか勝てんて。」

と呟いた。

 すると、それを聴いたかの朝比奈少年、

「儂(わい)が、あの侍、謝らせて見せたるわ!」

と言う。中間どもは口々に、

「阿呆(あほ)なこと言うな!」「このド阿呆(あほ)!」

と制した。

――ところが――

――暫くして気づいてみると、何時の間にやら、朝比奈少年、その場を抜け出でて、かの侍に組み付いて御座る!

――子供のこと故、侍、難なく、ぱっと払い退けると、そのまま通り抜ける。

――少年、再び組み付く。

――侍、再びさっと払い退けた。

――少年、またまた組み付く。

――侍、再びぱらりと払い退けた。

――少年、性懲りもなくまたしても組み付く。……

この繰り返し。少年が何度となくがむしゃらに組み付いてくるので、この侍、遂に、

「うるせえ餓鬼が!!――」

と喚くや、片手でひょいと少年の後ろ帯を摑むと、堤の上の叢にぽーんと抛り投げ、歩む序でにその背中をぎゅっと一踏みすると、そのまま行き過ぎようとした。

 すると、少年、

「待たんかい!! 投げられて! 踏まれてからに! もう勘弁ならん! さあ! 殺しとくんなはれ!!!」

と叫んだかと思うと、またしても侍の腰にしがみ付いて、一向に放そうとしない。

 侍もすっかりもて余してしまい、子どものことなれば、無礼打ちに致すも大人げないと考えたので御座ろう、言葉を和らげて、

「……おまはん……何や知らん、気障ることあったんなら、どうか、勘弁してくれへんか?……」

と言ったところ、

「そんなら、書き付け、お呉れ! お呉れ!! お呉れ!!!」

と頻りに望む。

 侍は勿論、この馬鹿馬鹿しく理不尽な詫び状乞(ご)いに、

「あかん! 話にならん!」

と突っぱねたが、少年は、

「呉れんのやったら、早よ、殺しとくんなはれ! さあ、殺せ!! さあさあさあさあ、さあ、殺せ!!!」

と捲くし立ててくる。

 よんどころなく、この侍、訳の分からぬ詫び状文の書き付けを記して、朝比奈少年に渡したという。

 

 朝比奈はこれを掛け軸と成し、「生涯任俠の形見」と致いて、生涯、任俠の棟梁を勤めたという話で御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 品川にてかたり致せし出家の事

 

 いつの頃にやありけん。品川宿旅籠屋にて食盛(めしもり)抔買ひあげて專ら日を重ねなどして遊びける出家あり。其人躰(じんてい)もいやしからず。或日旅籠屋の亭主を呼て、内々にて咄度(たき)事あり、今日我等當所へ參る道すがら、不思議に金子百兩拾ひ得たり、然る所通途(つうと)の金にもあらず、封じ金にて封の上に何村の御年貢金とあり、當宿と同支配村と見へたれば、若(もし)心當りはなきや、御年貢金の事なれば、我等拾ひて其儘にも成がたしといひければ、亭主も驚きけるが、我等は承り及たる事も侍らず、得(とく)糺し申てといひてかの亭主、所の者の内心安き者と談じけるが、いづれ落し手を拵へ相應の禮金を出家へ遣し殘りを配分せばよからんと、惡心發りて得としめし合、いかにも在の百姓躰(てい)の男を拵へ、兩三日過て、此間金子落しける者を内々にて搜し侍ればかく/\の者に有之、能(よき)御方の御手に入て多くの人の難儀も助り難有と殊の外悦び申など申ければ、出家も悦たる躰にて、夫は嬉敷事なり。然らば渡し申さん迚、其樣子承り、財布共に亭主へ渡しければ、亭主改て彼百姓躰の者へ渡しける。其時出家申けるは、我等拾ひけるとはいひながら、大金を事なく返し侍れば少しは禮も可致事と申ければ、亭主も右百姓も御禮はいか程もいたし可申儀、早速ながら御菓子代として金三拾兩可差出旨申ければ、三拾兩ならば承知せりと答ふ。彼百姓、然らば右金子差上申さんと彼金子の封を切りにかゝりければ、彼出家大きに憤り、右金子財布ともに取戻し、亭主并百姓をもはたとにらみ、不屆なる己等がかたり事哉(かな)、全く汝等が落せし金にはあらず、其證據は封印有て村名役印等もある此封金故、我等も其ぬしを穿鑿しぬるに、其身二人にて右封をきり我等へ金子三拾兩右の内より差越(さしこし)なば、外百姓共へ何と言べき、其時如何樣三拾兩の申譯あらんや、全く自分拾ひし金子を可奪取爲の拵へ事ならん、よし/\御代官所へ訴へぬれば我等が拾ひし筋も立、何分皆々の世話を賴(たのま)ん、早々歸り侯へとて、夫より酒抔呑て一向取合申さねば、亭主其外一同の者共大に込(こま)り、相應の人を入て色々詫言いたし、八重九重に證文を入て金三拾兩出家へ別段に渡し、右封金請取相濟ける。然るに跡にて彼封金を開て見れば、一向の子供遊びの土瓦なれば大きに憤り、憎き出家の所行と思へ(ば引とらへせんぎせんと思へ)共、八重九重に證文にて封の内はしらぬ姿の出家の取計、申出せば亭主并一列の者の僞りも顯るゝ故、かたりの古頂とはまのあたり見へながら咎る事もならず、彼出家は其後も聊憚る色もなく右はたご屋へ遊びに來りしとや。怖敷ものも有と人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:朝比奈少年が奇計を用いて武士から美事詫び証文を奪い取った話から、奇略を以って悪党を騙し、何重もの証文によって批難・告発を免れた出家の話で連関。

・「食盛(めしもり)」は底本のルビ。飯盛女のこと(但し、これは当時の通称で、幕府の関連法令にあっては「食賣女」(めしうりおんな)と表記されている)。奉公人という名目で宿場の旅籠屋にいた、半ば黙認されていた私娼のこと(但し、現在の仲居と同じ業務にのみ従事していた者もおり、総ての飯盛女が売春行為を強いられていた訳ではない)。岩波の長谷川氏注によれば、当時、品川宿では500人の飯盛女を雇うことが幕府から許可されていた、とある。

・「年貢金」ウィキの「年貢」に、『年貢徴収は田を視察してその年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する検見(けみ)法を採用していたが、年によって収入が大きく変動するリスクを負っていたことから、江戸中期ごろになると、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による定免(じょうめん)法がとられるようになった。だが、例外も存在し』、『米が取れない地域の一部では商品作物等の売却代金をもって他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという買納制が例外的に認められていた。だが、江戸時代中期以後商品作物の生産が広まってくると都市周辺部の農村など本来は米の生産が可能な地域においてもなし崩しに買納制が行われていき、江戸幕府さえもが事実上の黙認政策を採らざるを得なくなった』とある(ルビ位置を変更し、記号の一部を省略した)。

・「得(とく)」は底本のルビ。

・「能(よき)」は底本のルビ。

・「御菓子代」御礼の代替語。

・「役印」村役人、地方三役(村方三役とも)の印。名主(庄屋・肝煎)・組頭(年寄)・百姓代などの頭・支配の者の確認印である。

・「御代官所へ訴へぬれば我等が拾ひし筋も立」猫糞しようとしなかったことを立証出来る、という意であろう。

・「込(こま)り」は底本のルビ。

・「(ば引とらへせんぎせんと思へ)」は底本では右に『(尊經閣本)』とある。これを訳でも採る。

・「古頂」底本ではこの右に『(骨頂)』とある。「最たるもの」と訳しておいた。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 品川に於いて詐欺を働いた僧の事

 

 いつ頃のことであろうか、品川の旅籠屋にて、飯盛女なんどを買い上げては、日々遊び暮らしてばかりいる僧がおった。女を平気で買う割には、見た目、人品、卑しからざる者ではあった。

 ある日のこと、この僧が、その馴染みの旅籠屋にやって来ると、亭主を呼び、

「……実は、内々に話致いたきことが御座る。……さても今日、我ら、ここへ参る道すがら……何とも、その……金子百両を拾ったので御座る。……いや、それもただの金子では、これ、ない。……ちゃんとした封じ金にて、封の上にな『○○村之御年貢金』とあるのじゃ。……この宿場のある村と同じ支配の村にて御座ろう。……もしや、このことに付、何ぞ聞いては御座らぬか?……御年貢金、ともなれば、我ら拾うて、そのまま預かっておく訳にも参らねばのぅ……」

と言うので、亭主、吃驚りして、

「いや! そりゃ、我らも初耳のことにて御座りまする。……いやいや、そうした話なればこそ、とりあえず……いろいろと、ですな、訊ね質してみましょうぞ!」

と答えた。

 亭主はその夜、近隣の親しくして御座った者どもを内密に集め、相談に及んだ。

「どうよ?……落とし主をでっち上げて、よ……相応の礼金を坊主に遣って……残りを儂らで分配するっうのは?」

と悪心を起こして、合議一決、如何にも土地の百姓らしい風体に男を一人仕立て上げると、探し回った風を装うために、三日たってから僧の来店しているのを見計らい、旅籠屋を訪ねさせ、亭主同席の上、

「この間、御坊の拾われた金子、それを落とした者を内々探して御座いましたところ、○○村××と申すこの男の由にて御座います。」

百姓体(てい)の男もしおらしく、

「いや! 誠(まっこと)よい御方の御手に拾われまして……村内の多くの者の難儀も助かり……有難く存知おりまする……」

なんどと、殊の外の喜色満面、平身低頭、礼言数多に及べば、僧も如何にも喜ぶ体(てい)にて、

「いや! それは嬉しきこと! なれば……さ、これをお渡し申す。」

と、僧はまんまと拵え話を鵜呑みにした様子で、財布と一緒に金子を亭主に渡し、亭主はそれを百姓に手渡した。その時、僧が付け加えて申すことには、

「……拾った金にては御座ったが、大金の大事な年貢金を無事にお渡しできたは幸い。……なればこそ多少なりとも謝礼、これ、御座ってもよいと思わるるがの……」

との趣き。すると亭主も百姓体の者も、二人して、

「いえ、なあ? 勿論、相応の御礼儀、これはもう、如何様にも致させて頂こうと存知、御菓子代と致しましては、金三十両を差し上げようと存じまするが……如何?」

との答え。僧は、

「いや、もう三十両ならば十分にて御座る。」

と答える。

 そこで百姓が、

「さすれば、御礼を差し上げ申し上げましょう……」

と言いつつ、財布から封じ金を取り出だして封を切りにかかった――その時、出家が突然、怒号と共に怒り出し、百姓から財布とその上に置いていた封じ金を取り返して罵る、その言葉――

「この不届者なるお前ら! これはみな、騙りごとであったな! 全く以って汝らが落とした金子にてはこれなきものじゃ! 何となれば――封印があって村名・役印等もあるこの封金故に、我らもその落し主を捜しておったに、己れ独りにて、その封を切り、我らへ金子三十両、その中より、寄越したとなれば、他の百姓どもに何と言うつもりか! その時、如何したら三十両足りぬことの申し訳、立つるか! 全く以って自分が拾った金子を奪い取るための拵え事に違いない。――よしよし! かくなる上は御代官所へ訴え出れば、我らが拾って持って御座ったことの筋も立つ――こうなれば最早、お前らの世話なんど頼まん! 早々に立ち去られるがよかろうぞ!……」

と言い放ち、それより独り、酒なんど、呑み始め、一向に取り合う景色もない。

 亭主その他一同の者――客のなりしてその場に来ておった謀り事の仲間内も――大いに困り果てた。

 それからというものが大変。

 僧の勘気を解くに相応の身分の人を立てるわ、はたまた、手を変え品を代えていろいろと詫びを入れるわ、遂には、僧に促されるまま、僧に今後一切のお構いなき旨の、何枚にも及ぶ起請文を入れた上、別に金三十両を拵えて僧に渡し、ようやっと、かの封じ金百両受け取り方、相済んだので御座った。

 ――ところが――

 ……いざ、かの封じ金を開いて見たら……中身は……子供が遊ぶための瓦(かわらけ)で御座った。

 一同、大いに憤り、

「憎(にっく)き坊主の所行!」

と、ひっ捕えて詮議し、痛めつけてその計略も何もかも吐せよう、と思うたものの――これまた、何重にも入れた起証文――おまけに、その起請文の一通には、元来、この出家、封じの中身は知らぬということの一条さえ記して御座った――また、この一件を訴え出れば、当然、亭主並びに一同の者の偽り事も露見致すが故に――明らかに『騙りの最たるもの』――と知りつつも、手も足も出ないので御座った。

 この出家、その後も、聊かも憚る気色もなく、この旅籠屋へ平然と遊びに訪れたということで御座った。

 

――いや、恐ろしい者、いやさ、僧もあったもんだ――

と、さる人が語って御座る。

 

 

*   *   *

 

 

   又

 

 是も同じ咄なるが、濱町河岸に大黑屋といへる鰻の名物有。みせには不斷酒食の輩不絶入込けるが、或時道心者樣の者來りて酒うなぎなど喰ひ、誠のなまぐさ坊主也とその身の口よりも申けるが、四五度も來りて後は鄽(みせ)の者もこゝろ安くなりけるが、或日亭主に逢て、我ら此程來りし時、此門口にてケ樣の品拾ひたりとて、封じ金五拾両包を出し、肴を食ひ候出家ながら、此金落したる人はさこそ難儀もなしなん、我是に忍びず、又かゝる貧僧の五拾兩持たらんには我身の爲にもあしかるべし、何卒主知れば返し申さんといひけるを、若き手代聞て、遖(あつぱ)れよき手段ありと心中に惡心を生じ、町内の惡者をかたらひ亭主とも示合、落し人を拵へて右出家の來りし時かく/\の譯を語りければ、然らば右五拾兩は包の儘可渡、しかし禮金は何程差越候やと尋ね、かれこれわたり付て金五兩出家へ渡しければ、猶又酒うなぎなど打食ひ右五十兩を包の儘手代へ渡し、日も幕候、さらば歸るべし迚小唄うたひて右出家は歸りぬ。仕濟したりと申合候者共、片陰に集りて封を解しに、一向の似せ金なれば何れも憤り、憎きかたりめと大勢にて追缺(かけ)しに、日本橋邊にて召捕、かたり坊主とて若き者など頭をたゝき背をたゝきなどしけれは、右出家何故に右の通いたし候やと申ければ、何故とは大膽也と引摺りて、彼鰻屋の門へ召連來りけるに、彼出家ひらき直りて、我等は何を隱すべき、かたり事などを渡世にするわる者也。ケ樣に打掛にあふては不相濟、御仕置を願ふべし、是より直に奉行所へ駈込べし、しかし此町内にて落しもせざる金子を落し候とて、其人を拵へ人の金子を奪取る巧の者有、是もわれらに同じき罪人なれば、當町の内の者共を伴ひ罷出、三途を渡らんと言ける故、はじめて何れも心付、事露顯に及(および)て町内も立難しと、何れも相談して都て右出家へ色々詫言しけれども、何分合點せざる故、又療治代とて五兩金子を遣し、都合拾兩かたりとられしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:同技巧を用いた詐欺師の出家のエピソード連関。鈴木氏は底本の前項の注で、この二本の話について、安永6(1777)年頃成立したと思われる正長軒橘宗雪の「吾妻みやげ」の「深川うなぎ屋かたりの事」も同話である、と記されている。幸い、この「吾妻みやげ」は底本を含む『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』に所収されている。以下に、それをテクスト化し、本ページに準じて語釈・現代語訳を附しておく(本文読みは私が附した)。こちらの祖形は実際に町奉行所へ訴え出るところが出色の出来である。底本の熊倉功夫氏の注によれば、底本である国立国会図書館蔵本(これ一本のみが伝わり直筆本その他は存在しない)には、『「耳袋ニ似タルカタリノコトアリ、同シカ」と書き込みがあるように、耳袋に同様の話があり、この条は耳袋の原話といえる』とある。

 

 深川うなき屋かたりの事

 

一、深川八幡前うなき屋へ八月半頃の事、出家壹人四十歳斗と相見え候、百文分うなき燒せ候、亭主申候おまへ是を上り候哉(や)と申候へは、久々病氣にてつかれ候ゆへたべ申候と及挨拶、うなき斗にては食べにくゝ候間食(めし)もたべ申度(たし)と申、しはらく有之(これありて)亭主を呼出家申候は扨々不思議成事在之候、牛込山の手邊今朝用事在之通候處金子貳百兩ほと有之財布拾ひ候、定て主人の用向歟(か)又は娘なとうり拂候金か餘ほと澤山成金子にてさそ持主は首にてもくゝり可申哉(や)、川へにてもはまり可申哉大切の金にて可在之候、出家の心にてはさそ/\きのとく成事と其邊何となく尋候得とも金子落候樣子の者も無之候由亭主にはなし候得は、亭主夫はきのとく成事に御座候、唯て貴僧御所持被成候哉(や)と申候得は此通り首にかけ參り候と見せ候處、郡内嶋財布に入むらさきの打紐付有之候いか樣貳百兩斗も有之封付候て在之候。亭主見候て惡心起りしはらく出家休足致候中近所へ參り友達をかたらひ候由にて暫有之と、臭をつき若き男參り先(まづ)茶にても呉候樣申候へは、亭主存ぬふりにて喧嘩にても被成(なされし)儀哉(や)何方の御人にて候哉(や)、けはしく御出被成侯處いかゝと尋候處、右の男申候は今朝牛込邊にて旦那より爲替金の入用(いりよう)去る御大名納に罷越候處、少々御酒に給醉途中にて落し候故早速參り吟味致候得共人取候と相見へ無之、此金子無之候ては自滅にても致不申候ては不相濟と狂氣のことく申候、亭主何そ御入被成御落し被成候哉と尋候處、郡内嶋財布に入むらさきの紐付置候と咄しからかみ越に出家承り、是は拙僧今朝拾ひ候と聲をかけ候得は、右の男殊の外悦誠にありかたき御義金子無之候ては命を失候程の儀私所持の金子郡内嶋財布に入むらさきの打紐付封を付置申候、御僧樣御拾ひ被成候を御見せ可被下と申候故、出家差出候處注文少も不違候故左候はゝ御手前へ可返候得共何國の人とも不相知御親類か又は所の役人證文有之候は返し可申候と申候へは、安き御事に御座候誠に御影にて命をひろひ命の親と申は御僧樣に御座候と申近所若きものをかたらひ證文を認うなき屋の亭主に加判爲致證文差出候處金子相渡し事濟し、扱右の男申候は御影にて命ひろひ候事ゆへ金子を差上可申と申候へは、いや出家の義金子入用無之と再三斷候得共とかく御受納被下候樣にと金子七兩出し達てと申、亭主言葉を添彼是申候付然らは可申請候如來の金箔もはけ候故勸化にても可致と存侯處故可申受と受納いたし出家は間もなく歸り候。

 跡にて扨々うまき事致侯とて酒肴なとおこり、扱亭主もろ共分け口可致と封を切見候處、しんちうにて拵候小判貳百兩斗有之内にさいも在之候故、扨々にくき出家かたられ候とて近所を尋候處、もはや行方知れす侯故、申合せ心を付へくと何れも存候處、翌日晝頃彼出家參り、又うなき百文分あつらへ候ゆへ何れも亭主初不屆の出家め似せ金をかたり其分には差置かたし、急度吟味を請御町へ可引と申候へは、出家申候は左いふ其方共かかたりにて候其方共の金にて無之哉(や)、夫故封のまゝ渡し遣候、勿論無相違受取候段證文在之候、自分をかたりの盜人のと申候は不屆至極、町の役人江參り此趣を申し御番所へ罷出吟味を請もらい可申候、惡名取候ては自分も不相立と申候處へ連(つれ)の出家參り、何事成哉と尋候得は前の出家昨日吟味の事共委敷(くはしく)はなし、今日の惡言等迄も申候へは、不屆成事早速町の役人江可參候と、夫より同道いたし町役人江參り前日よりの事を申、今日のしだいの處を申候處、町の役人至極御尤何卒御内分に被差置可被下僕、うなきやはしめ若き者共相應に家も在之候者、只今彼是と仰候ては、不相濟事に候と段々わび言申、金子十五兩通しやう/\内分にて相濟候由。一文字や道夕參り其近所の町家にて直に承り實正の由物語候まゝ爰に認。

 

◇「吾妻みやげ」の「深川うなぎ屋かたりの事」やぶちゃん語注

・「深川八幡」は現在の江東区富岡にある富岡八幡宮。源頼朝が勧請した富岡八幡宮(現・横浜市金沢区富岡)の直系分社で、源氏の氏神である八幡神を崇敬した徳川将軍家から代々手厚い保護を受けた。その祭礼である深川八幡祭は沢山の神輿が繰り出す勇壮なもので、赤坂の日枝神社山王祭・神田明神神田祭と並ぶ江戸三大祭の一つである。

・「百文分うなき燒せ」後の文化年間で高級鰻一串二百文、辻売りで一串十二文から十六文程度というネット上のデータがあるので、この頃の普通の店屋で百文というのは、一文30円程度と考えても、3,000円分、一人で注文するには鰻屋も吃驚するような相当な量と考えられる。勿論、亭主はまずは出家が鰻を食うことの殺生戒を犯していることを踏まえての言ではある(故に僧は「久々病氣にてつかれ候ゆへ」と弁解しているのだが)。

・「うなき斗にては食べにくゝ候間食もたべ申度」現在のような鰻重・鰻丼のような飯と合わせるのが一般化したのは、この話柄の時代より少し後の文化年間(18041818)頃とされる。

・「郡内嶋」郡内地方(現在の山梨県都留郡)特産の絹織物の一種。元禄頃には江戸で大流行した。地を厚く作った縦横の縞模様であったらしい。

・「唯て」読み不詳。「唯(ただひとり)て」「唯(ただ)で」「唯(ただに)て」か。

・「封付」底本の熊倉氏の注に『金の包みを両替屋で封印したもの』を言うとある。

・「臭をつき」底本には「臭」の右に『(息カ)』と注する。それで採る。

・「御大名江」の「江」はポイント落ちで底本では右寄り。

・「給醉」読み不詳。完全な音読みとは思われない。「給(たまひ)醉(よひ)」「給(たまはれ)醉(よひ)」か。

・「からかみ」は「唐紙」であるが、ここは襖ではなく、衝立であろう。

・「御義」恩義。

・「さい」骸子のことか。これが賭博に関わるような騙り者のイメージを惹起させ、かの法戒坊の所行であることを暗示させるとでも言うのであろうか。よく意味が分からない。識者の御教授を乞う。

・「連の出家」言うまでもないが、僧形をした巧妙な騙りのグルである。即ち、この翌日の出来事自体が総てこの二人の僧によって仕組まれた騙りであるわけである。

・「御番所」町奉行所と同じ。

・「一文字や道夕參り」この話を採取した町屋の住所を仔細に表現したものと思われるが不詳。如何にもお洒落な通りの名ではある。

 

 

◇「吾妻みやげ」の「深川うなぎ屋かたりの事」やぶちゃん現代語訳

 

 深川鰻屋で起こった騙りの一件の事

 

一、深川八幡前にある鰻屋へ、八月半ば頃の事、四十歳ばかりに見える僧が一人やって来て、

「鰻、百文分、焼いて貰おうか。」

という注文。亭主が蒲焼を持って出しながら、

「御主家、お前さんがこれをお召し上がりに、なられるんで?」

と怪訝な面持ちで訊ねたところが、僧は悪びれた様子もなく、

「御意。永々の病気にて疲弊致して御座ったればこそ滋養強壮が為に、頂戴致そうと存ずる……」

と言訳致し、加えて、

「いやさ、鰻ばかりでは食べにくう御座ればこそ、飯も戴こうか。」

と言う始末。

 亭主は半ば呆れて奥へ引っ込んだ。

 すると、暫くして、

「御亭主。御亭主。」

と僧が呼ぶ。

「へえ。まだ、お食べになるんで?」

と出てゆくと、

「いやいや、美味、美味、満腹致いた。……お呼び致いたは他でもない……今日、如何にも不思議なことが御座っての、そのお話を致いたく思うての……今朝のことじゃ、牛込山の手辺りに所用が御座って参ったのじゃが、その道すがら、何と、金子二百両ばかりが入っ御座る財布を拾うたで……定めて主人の用向きか、はたまた、娘なんどを売り払(はろ)うて御座った金か……見るからに余程の金子にて御座ればこそ……さぞ、持主は首でもくくらんか、はたまた、川にで飛び込まんか……これ、どう見ても大事なる金にて御座候らえばこそ……出家遁世致いた無情の心にても……いや、無情は建前にて……拙者も人の子なればこそ……さぞかし気の毒なことならんと思うてのぅ……その近辺をそれとなく尋ね回っては見たが……そのような金子を落した様子の者も……これ、御座ない……」

としんみりと話す。

 聞いた亭主は、

「それはそれは……気の毒なことにて御座る話にて……あの……その金子、財布は……今も御坊様が御所持なられて御座いまするか?」

と訊ねたところ、

「御意。この通り、もしや落し主の見つけんかと、首に懸けて御座る。」

と手に取って見せたそれは、郡内縞の財布、紫色の染入れが入った特徴のある打紐附きで、内には実に二百両ばかりと見える金子が封附きのままに入って御座った。

 亭主はそれを見るや、内心、忽ち悪心が生じ、

「御坊様には暫くこちらにて、食後のお休みもあれ――病み上がりの大食なれば、大事々々。――これより暫し、友達のもとへと参り、その落し主に心当たりがないか、とりあえず訊ねてみましょうぞ。」

と言うが速いか、鱈腹鰻を食い終え、最早、牛になって御座った坊主を暫く店に残し、近所の知れる者の家へと走る――と、この美味しい話を語って、奇計を騙ろうた――。

 亭主、直に店に戻ると、

「……残念ながらそのような話は御座らなんだ。……」

と僧に告げておるその矢先、一人の若い男が店に飛び込んでくるなり、

「おい! 亭主!……まずは、茶でも、くんな!」

と乱暴な物言い。

 亭主はこの若者を見知らぬ体にて、宥めるように、

「……お若いの……喧嘩なさったかね……何方のお方かは存ぜねど……如何にも、気が立って御座る程に……どうなされたのじゃ?」

と尋ねた。するとこの男の言うことには、

「……今朝牛込辺りにて……御主人様から為替にしておいた現金が急遽入用となったと言われ……さるお大名に為替を納めに罷り越し、金子に換えて御座ったのだが……そのお屋敷にて、中間どもから少々酒を振る舞われて……つい、それに酔ってしまい……途中で金子を落して仕舞うたんじゃ!……気がついて、直ぐに道を戻って探して見たのじゃったが……もう既に誰かが拾い取って仕舞うたらしく……これ、なく……。……この金子が、ない、となれば……自死自滅致さずには相済まざればこそ!……!……」

と狂ったように喚きたてた。

 そこで亭主が、徐ろに、

「その金子、何にお入れになってお落しになれられたのじゃ?」

と尋ねて御座ったところ、男曰く、

「……郡内縞の財布にて紫色の染め入れが入った紐を付け置いて御座るが……」

と話した、その真後ろ、衝立越しに聞いて御座った例の坊主が、ひょいと曝し首の如、頭を出すと、

「それは拙僧が今朝拾うて御座る。」

と声をかけたので、この男、殊の外に悦び、

「誠にありがたき恩義! この金子、これなきにては、命を失はんとせし程の儀にて! 私の所持致いておりました金子は、郡内縞の財布に、紫色の染め入れが入った打紐付で御座いまして、金子には封が付置かれて御座る……御坊様の御拾ひになられて御座ったという、それをお見せ下さいませ!」

と言うので、坊主は首に懸けていた財布を差し出す。その仕様、寸分、違わぬ。

 故に坊主は、

「されば、御手前へお返し致そうぞ。……なれど……拙僧、貴殿が何処(いずく)の国の方とも相知らず……御親類か、または所の御役人の証文なんど、これ有り候えば、お返し申すこと、出来ましょうぞ。」

申すので、尤もなことにて、

「それは安きことにて御座る……誠に御坊様御蔭にて命拾い致し……命の親と申すは御僧様のことにて御座いますれば……」

なんどと調子のいい事を言いながら、直ぐに近所の、また若い者を親族にでっち上げて坊主を騙し、証文なんども認め、鰻屋の亭主も加判の上――拾い主の坊主には向後一切御構無しといった趣きの――起請文を差し出して、金子の受け渡しも事もなく済んだのであった。

 さて、その時、この落とし主と称する男、

「……御坊の御蔭にて命拾い致しました故、御礼の金子を差し上げとう存知まするが……」

と申したところ、坊主は、

「いや。出家の義なれば、金子の入用、これ無し。」

と再三断わったが――男は後々のことを考えると、どうあっても、ここで幾許かの手切れを渡しておきたいから――しつこく、

「命の親なれば、一つ、御受納下さいませ!」

と言いつつ、急遽、二百両入ればこそとて、騙りの仲間皆で事前に出し合った御座った金子七両をぽんと出す。

「――たってのお願いに、御座る!」

と言いつつ、何のかんのとそれに言い添えたは、亭主自身。僧は暫く黙っていたが、

「然らば申し請けましょうかのぅ……寺の如来の金箔も剥げて御座ったれば……これも勧化の一助と致そうと存ずればこそ……申し受けて御座る。」

と受納致し、坊主は間もなく帰っていった。

 さて、後に残った者ども、大笑いして、

「さてもさても! うまいこと、やったぜえ!」

と亭主は、酒肴なんどは、おごり放題、上へ下へのどんちゃん騒ぎ。

 暫くして、亭主諸共、分け前と致そうと、財布を取り出し、封じ金の封を切って見たところが――

……真鍮にて拵らえて御座った玩具のような贋小判が二百両ばかり……と……

……後は……財布の中に如何にも博徒が使い古したような骸子が、一つ……あるっきり……

「糞ったれの糞坊主め! 謀(たばか)られた!!」

と、それから急いで、かの坊主を近隣中、探し回ってはみたものの、後の祭り、最早、行方知れずとなって御座ったれば、互いに申し合せ、心して、急度、探し出してやるといきりたって御座ったところ、なんと、その翌日昼頃、再びあの坊主が参って、また、

「鰻、百文分、誂えて貰おうか。」

と悪びれた様子も、これ、ない体(てい)にて注文する。

 昨日から収まりがつかない亭主初め騙りの仲間、三々五々集まってきた同じ町内の者どもも、

「不届きな糞坊主めが! 似せ金で騙したな! このまま捨て置くわけにはいかねえ! 手前(めえ)、痛え目に逢わせて一切吐かせ、町奉行へ引っ立ててやろうじゃねえか!」

と罵ったところ、その坊主、

「そういうその方どもこそ騙りで御座ろうが! あの金、その方どもの金ではなかったのか? あん? それ故に封のままに渡し遣わしたで御座るぞ? 勿論、その際に何らの手違いやらその方どもからの疑義も一切なく、滞りなく受け渡したことに就いては、証文も、ほれ! ここに御座るぞ! 拙僧を騙りの盜人(ぬすっと)のと申候儀は、これ不届き至極! 町方の役人のもとへ参り、この趣き、縷々一切申し上げようぞ! 御番所へ罷り出でて御吟味を受くることは願ってもないことじゃ! 参ろうぞ! さ、参ろうぞ! 冤罪の悪名を負ったままに御座っては、己未生以前本来の面目も相立たねばこそ!」

と逆に切れて、がなり立てる始末。

 と、そんな所にこの坊主の連れと申す、これまた生臭いが切れそうな坊主が一人やって参り、

「何をそのように瞋恚して御座るか。」

と訊ね、先の坊主が昨日の一件につき、一部始終を委細詳しく語った上、今日の者どもの悪口なんどまでも言い添えたところが、この僧も烈火の如き憤怒の僧、いやさ、相となり、

「何と言う、不届きなる者どもじゃ!! 早速、町方の役人のもとへ参るに若くはなし!!」

と即決、それより亭主諸共相引(ひっ)立て坊主二人同道致いて町役人へ参ると、僧どもは前日よりの事をそのまま総て立て板に水にして申し立てた上、今日受けた理不尽なる次第を、やはりそのままに申し上げたところ、町方の役人は話を聴き終えると、慇懃無礼に、

「……ふむ……いや、御坊様らの申さるること、至極御尤もなる申し立てにて御座る。何卒、御内分に差し置かれ下さるよう取り計らい願いましょうぞ。……何せ、これら町方の下々の者やら、鰻屋亭主始め若き者どもにても、相應に家も身内もこれある者にて御座れば、……ここでまた、いろいろと御坊様らが仰せられ訴え出る、ということにでもなれば……これ、ちょっとしたお裁きにては、相済まざる仕儀となり申せばこそ……。」

との謂いに、亭主始め騙りの者やら、町内の野次馬諸共、形勢逆転致いて、だんだんに、また一人また二人と、弱気になって、坊主に対し、詫び言を呟きはじめ、遂には皆で出し合(お)うた金子大枚十五両で示談と致し、漸く内分にて決着致いたとのことである。

 一文字屋道の、通称「夕参り」小路近辺の町家にて直(じか)に承わり、実際にあった出来事の由、その人の物語して御座ったそのままに、ここに認める。

 

・「大黑屋」「鰻割烹大和田」のHPの「鰻の薀蓄3」に『今でも見ることの出来る深川辺りを描いた錦絵や黄表紙の挿絵には「江戸前大かばやき、附めし」と幟を立てた鰻屋を見ることが出来ます。この「附めし」とは、「当店では蒲焼だけでなく御飯の用意があります。」と言う意味で、天明の時代に霊岸橋の大黒屋がはじめ、すぐに江戸中の鰻屋がまねをしたとされています。これが鰻丼の起源とする説もありますが、これは蒲焼に御飯をセットした物と考えるのが適当なようです』という記載があり、岩波版長谷川氏の注にも、この霊岸橋の大黒屋を引き、この霊岸橋は『浜町河岸に比較的近いが、浜町河岸の大黒屋』というのは未詳と記す。こんな不名誉な話、実際に店があったら、江戸っ子なら入(へえ)らねえぜ。

・「濱町河岸」現在の中央区日本橋浜町周辺。現在の両国橋から新大橋辺り。浜町は武家屋敷と町人の入り合った町で、町屋には刀剣類を商う店が多かった。

 

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 詐欺を働いた出家の事 その二

 

 これも同じ騙りの僧の話である。

 浜町河岸に大黒屋という美味い鰻を食わせる店があった。店には普段昼間から酒食を楽しむ輩で賑わって御座った。

 ある日のこと、道心の風体(ふうてい)をした者がやって来て、酒や鰻なんどを喰らって、自ら、

「――いや、拙僧、誠の生臭坊主にて御座る――。」

なんどと嘯いて御座った。

 その後も四、五回訪れ、店の者とも顔馴染みになった。

 ある日のこと、この道心、店にやってくるなり、亭主をこっそりと呼んで、店の隅で二人きりになると、

「……実はここへ来た丁度、先程、この店の門口にて……かようなものを拾うて御座った……。」

と、亭主に封じ金五十両の包みを差し出して見せる。

「拙僧、酒肴を喰ろう破戒僧なれど……この金を落とした人はさぞ難儀を致いておられることで御座ろうぞ……我ら、それを思うと忍びない……また……かくばかり哀れな貧僧なればこそ五十両の大金を何時までも預かって御座るは、我が身の為にも悪かろうというもの……落ちて御座ったも店先のこと……ご亭主……落とし主を知って御座らば、お返し申し上げたいのであるが……。」

と話して、再び、大枚を懐にしまう。――と、それを店内から、こっそり盗み見、盗み聴きして御座った若い手代、

『……こりゃ! 一つ、面白れえ手立てが、あるってもんでぇ!……』

と悪心を起こした。

 その日の内に町内の悪友と謀りごと致いて、勿論、当の亭主も引き込んで示し合わせ、まんまと架空の落とし主を拵え上げる。

 数日後、道心が店にやって来るや、亭主、満面の笑みを浮かべ、

「いやあ! 先だっての大枚、落とし主が見つかり申したぞ!」

てな嘘っぱちを、委細美事にでっち上げた。

 すると道心は、

「……それは上々! この五十両、確かに拾うたまま、包みのままにお渡し致しましょうぞ……されど……礼金の方は……如何程、頂戴出来まするか、のう……。」

亭主は道心と交渉の果て、五両で手打ちとなり――店裏で待っていた手代や悪友どもは、泡食って、手持ちの金やら、なけなしの箪笥の隠し金やらを駆け回って集め――その五両を道心に渡した。道心は、亭主の振る舞いの、いつものように酒・鰻をしっかり食らい、五十両は包みのままに手代に手渡した。

「日も暮れかけた。では一つ、帰ると致そう。」

と、小唄なんどを口ずさみながら、店を出て行った。――

「やったぜ!」

と、一同、店の片隅に集って封を開けたところ――

――なんと、中身は見るからに子供の玩具見たような贋金――

「憎(にっ)くき騙りがッ!」

と、大勢で追い駆けると、日本橋近くでかの道心をひっ捕まえることが出来た。

「騙りも騙りの、この、糞坊主がッ!」

と、路上ながら若い衆なんどは拳固で頭を殴り、背中をどやしつけなどして袋叩きにした。

 すると、この坊主、

「一体、何故にかく投擲なされるか!?」

と嘯くので、

「あんだと! 『何故に』『なされるか』だあ!? なめてんじゃねえぞ! この野郎!」

と、またしても、皆してぼこぼこにした上、かの鰻屋の店先まで引きずって帰って来た。

 ところが、この道心、殴られたために晴れ上がった化け物見たような顔で――ペッ!――と血の唾を吐き捨てると、ここで開き直った。

「バレちゃあ、仕方あるメエ!……そうよ! 俺は専ら騙りで人を騙しちゃあよ、渡世してる悪党でエ!……うぬらに袋叩きにされて……ペッ!……もう、勘弁ならん…………

「……いや、勘弁ならんは、俺、よ、の……いやさ、この程度のケチな袋叩きで済むような……俺の罪じゃあ、ネエ! てぇんだ……だからよ、俺はこれからよ……お仕置きを願おうってえ、殊勝な気持ちでいらあな! さあて! だからよ、これからよ、直ぐによ、奉行所へよ、駆け込んでよ、己れの首を己れで出そうってえ、覚悟なわけよ!…………

「……ただし、だ……この町内にも、だ……落としてもいねえ金子を『落としました』と言うて、だ……落とし主をでっち上げ……人の金を奪い取ろうと企(たくら)んだ者が、おる! 確かに、おる!……そうじゃろ? 違うか? そうじゃろう!?……さればとよ、こ奴も俺と同罪じゃ!……その、この町内の悪党どもを供に、お奉行さまの御前(おんまえ)に罷り出で……いざ、うれ! ともに三途の川をば、渡ろうぞ!」

とやらかした。

 その場にいた一同は、この時初めて、男の言っていることの重大さに思い到って、青くなった。――

 騙りの面子は言うに及ばず、よくも知らずに今日の探索に加わって、男に殴る蹴るの乱暴を働いた若い衆も含めれば、これ、数知れず――いや、この一件が露見すれば、この町内そのものが成り行かなくなりそうな気配――。

 一転、皆々相談の上、その場の全員が贋道心の男に詫びを入れることと相成った。

 ところが、見るだにお岩みたような顔になった男の視線は、これまた心底、恨みに満ちていて、なかなか承知しそうにない。

 遂には、その投擲の治療費と称して、金五両をやって、何とか事なきを得た。

 実に、都合十両騙り取られた、というわけである。

 

 

*   *   *

 

 

 實心可感事

 

 本目隼人といへる佐渡奉行は、佐州におゐて病死せし故、右の墳墓も佐州相川の寺院にありぬ。海上百里の隔(へだて)なれば、家督の者よりも其墳墓への音信もおもはしからず。然るに石野平藏佐渡奉行と成て二在勤の頃にも有りしや、隼人三囘忌の年の由。平藏雇足輕をいたしける者彼墳墓寺へ來りて、麻上下(かみしも)など着替、金子百疋(ぴき)寺納して隼人靈牌へ參拜しける故、住僧こなたへと請じて掛合など振舞樣子を承りぬれば、彼者答て申けるは、われらは隼人幼年より一所に育て、隼人在世の内は厚く召仕ひけるが、二代目に成て小身にもあれば今は外に罷在。隼人大病の由來りて、何卒罷越んと千度百度願ぬれ共、許容なければ詮方なく、殘後何とぞ佛參せんと隼人家督へ願ひぬれど不如意の事故許容なし。餘りの事に絶兼し故、佐渡奉行の往來日雇入口(いれくち)へ賴み、此度足輕に成て來り本懷を達し侍る也、いか程にも寺納もいたしたけれ共、隼人跡式にては我思ふ程の心得にあらず、我等子供兩人當時外(ほか)屋敷に勤て、彼(かの)家などの賜り物にて聊の香典をも納ぬる由語りしに、住僧も涙を流し厚く挨拶に及びしと。右僧侶、組頭岸本彌三郎方へ來て語ぬと、予佐渡奉行勤し頃岸本物語也。奇特の深切も有もの也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:巧妙な騙りの逆の真正の真心で逆連関。

・「本目隼人」本目親英(ほんめちかふさ 宝永2(1705)年~天明元(1781)年)。六百石。目付から佐渡奉行(安永7(1778)年4月~天明元(1781)年2月)となり、在任のまま死亡した。岩波版長谷川氏注によれば、佐渡国雑太(さわだ)郡にある蓮光寺に埋葬され、『家督の者は子の親豊(ちかとよ)』とある。

・「佐渡奉行」老中配下の遠国奉行の一。正徳2(1712)年以降は基本定員2名で、島内民政を管轄する町奉行及び佐渡金山他の金銀の鉱物資源の管理・経営を専門とする山奉行の二職に分かれ、海上警衛・年貢・外国船監視を職務とした。現在、佐渡市に含まれる相川町(あいかわまち)にある佐渡金山と共に佐渡奉行所が置かれていた。

・「おゐて」はママ。

・「海上百里」誇張表現。佐渡島~本州の直線距離は約60㎞(最短距離は30㎞強)であるが、国道350号では新潟港~両津港間の海上区間を67km(9里程度)と計算している。当時の和船の操舵や海路距離の測定がどのようなものであったかは知らないが、どう航海しても390kmは大袈裟。根岸も勤めたことのある当時の流罪の地でもあった佐渡の、とんでもない辺境性を示したかったのであろう。その誇張が逆に本話柄の誠心を強調する。勿論、訳ではそのまま用いた。

・「石野平藏」石野広通(享保3(1718)年~寛政121800)年)本姓は中原。大沢・蹄渓と号した歌人でもあった。御納戸番・御膳奉行・御納戸頭・佐渡奉行・普請奉行を経て西城御留守居を歴任。佐渡奉行は本目親英の現職死去の代任で、天明元(1781)年2月~天明6(1786)年12月まで勤めた。三百俵。この時に纏めた佐渡地誌「佐渡事略」及び普請奉行時代に御府内上水道調査報告書「上水記」等を記した。歌人としても宝暦年間(175164)の江戸冷泉門下の主力歌人の一人として、また続く明和年間(176472)には江戸武家歌人六歌仙一として数えられた。編著に江戸堂上派私撰集「霞関集」、家集に「五百四十首」等がある(主に「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。因みに、次にもう一人の佐渡奉行であった宇田川平七定円が天明元(1781)年閏5月に転任後、同年6月、戸田主膳氏盈(うじみつ)が着任、その戸田氏盈が天明4(1784)年3月に転任後、慶長6(1601)年初代から数えて六十番目の佐渡奉行として天明7(1784)年7月まで根岸九郎左衛門鎮衛が勤めることになるのである。石野広通は三年弱根岸と同じ佐渡奉行を職掌したことになる(但し、現地勤務は一年毎の交代制)。根岸より19歳年上の大先輩である。

・「隼人三囘忌の年」御承知の通り、年忌は三回忌以上は数え年となるので、天明元(1781)年2月に亡くなった本目親英の三回忌の年は2年後の天明3(1783)年ということになる。

・「雇足輕」「足輕」平常は雑役に従い、戦時は歩卒となる者。江戸時代は武士の最下層に位置付けられていたが、実際には多くの場面で武士階級とは区別されていたらしい。以下、ウィキの「足軽」 の「江戸時代」のパートより引用する。『戦乱の収束により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった』。『江戸幕府は、直属の足軽を幕府の末端行政・警備警察要員等として「徒士(かち)」や「同心」に採用した。諸藩においては、大名家直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用それに「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた』。『一代限りの身分ではあるが、実際には引退に際し子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であり、また薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。加えて、有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等の、ステップとしての一面もあり、中世の無頼の輩は、近世では下級公務員的性格へと変化していった』。『江戸時代においては、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役目の足軽もおり、「江戸学の祖」と云われた三田村鳶魚は、「足軽は兵卒だが、まず今日の下士か上等兵ぐらいな位置にいる。役目としても、軍曹あたりの勤務をも担当していた」と述べているように、準武士としての位置づけがなされた例もあるが、基本的に足軽は、武家奉公人として中間・小者と同列に見られる例も多かった。諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の記入はなくて、ただ人数だけが記入されているものが多い。或いはそれさえないものがある。足軽は中間と区別されないで、苗字を名乗ることも許されず、百姓や町人と同じ扱いをされた藩もあった。長州藩においては死罪相当の罪を犯した際に切腹が許されず、磔にされると定められており、犯罪行為の処罰についても武士とは区別されていた』とある。原義は足が軽くてよく走る者の意から。「雇足輕」はそうした原則一代限りの常勤の足軽ではなく、何らかの急な欠員や急務増員にのために臨時に雇用された者を言うと思われる。ここでは、石野平蔵が佐渡奉行就任に合わせて一緒に派遣された「雇足輕」ではなく、着任の翌年である天明2(1782)年か、同3(1783)年の年初に臨時雇用した者と考えたい(先に示したように本目親英の三回忌は天明3(1783)年2月であり、この話柄のシークエンスは間違いなくその祥月命日と考えられるからである)。但し、この後の「此度足輕に成て來り」という男の叙述からは、彼の本来の身分は足軽よりも遙かに上であったと考えられる、いや、考えてこそ、この話柄は生きる。

・「上下」裃。江戸時代の武士の礼装・正装。肩衣(かたぎぬ)と、同じ地質と染め色の脇が広く開いた袴とからなる。紋付きの熨斗目(のしめ)または小袖の上に着る。麻製の上下を正式とする。

・「金子百疋」100疋=1貫文で、1両=4貫文であるから、とりあえず、1両を現在の10万円相当と考えるなら、2万5000円程か。

・「掛合」あり合わせのもので作った軽い食事のこと。

・「不如意の事故許容なし」嗣子親豊は経済的にかなり厳しかったのであろう。父の家来が父の看病や墓参に向かうと言えば、ただ許諾するだけにては体裁がつかぬ。同道出来ざれば、相応の品や旅費の手配をもするのは常識であろう。そうしたことさえ、手元不如意なれば、出来ぬ、というわけである。

・「われらは隼人幼年より一所に育て」本目隼人親英は享年77歳であったから、この足軽は有に75歳を越えていると考えねばならない。

・「佐渡奉行の往來日雇入口」佐渡奉行と江戸(或いは新潟)との間を往復し、必要な臨時雇いの人員を確保する口入屋(職業斡旋業)のことを言うものと思われる。

・「奇特」は、言行や心がけなどが優れ、褒めるに値するさまの意の他、非常に珍しく、不思議なさまの意もある。ここは両義を掛けている。

・「組頭岸本彌三郎」岸本一成(かずしげ)。岩波版長谷川氏注に、安永7(1778)年に御勘定、同9(1780)年に佐渡奉行支配の組頭、寛政元(1789)年には代官となったとあるから、根岸が佐渡奉行であった3年間(天明4(1784)年3月~天明7(1784)年7月)の間もずっと佐渡奉行支配組頭であった。

・「予佐渡奉行勤し頃」この表現と過去の助動詞「き」に着目するなら、本話柄は天明7(1784)年7月よりも後でなくてはならぬ(「卷之二」の下限を天明6(1786)年とする鈴木氏に執筆年代推定は年の明記された話柄からの線引き)。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠心感ずるに相応しいものがあるという事

 

 本目隼人親英(ちかふさ)殿という佐渡奉行は、佐州で在任のまま病死なさったので、その墳墓も佐渡の国相川(あいかわ)という地の蓮光寺に埋葬されて御座る。

 本土から隔つこと、遙か海上百里、家督を継いだ子の親豊(ちかとよ)殿さえも、その実父の墳墓に参ること、ままならざるもので御座った。

 

 ところが――先輩の石野平蔵広通殿が佐渡奉行となって、確か佐渡在任二年目のことであったとか――その年は、丁度、本目隼人殿三回忌に当たる年で御座った――。

 

 雇い入れたばかりの、平三殿の足軽を致しておる、ひどく老いた男が、独り、その蓮光寺にある本目隼人殿の墳墓を訪れ、その墓前にて、麻上下などに着替えると、金百疋寺納の上、隼人位牌を参拝致いた。

 それを不思議に思うた住職は、この足軽を寺内に招き入れ、あり合わせの軽い食べ物なんど振舞い、徐ろにいわれを訊ねてみた。

 その老人が語り出す――

 

「……拙者、主(あるじ)本目隼人様とは、幼き頃より御屋敷内にて一緒に育ちまして御座る。隼人様が御在世の間は厚く召し使われておりましが、二代目親豊様の代となってからは、御小身の御身分にて、旧来の家来等にも暇(いとま)これ申し付けられ、拙者も他家に勤仕(ごんし)して御座る。……されど、過ぐる年、隼人様が大病を患っていらっしゃると噂にて承り、何としてもその御病床に参上致さんものと、当時嗣子で御座った親豊様に何度も何度も願い出ましたものの、遂にお許しを頂くこと、叶いませなんだ。……没後も、何としても御仏にお参りせんものと、再応、親豊様に願い出ましたが、……手元不如意によって、これもお許しになられませなんだ。……余りのことに堪えかねまして御座ればこそ……佐渡と江戸とを往来している佐渡奉行付日雇業の口入れを致いておる者に、老人ながら達ての願いあればとて、強引に頼み込み、……晴れて、この度、足軽となって佐渡に来たり、本懐を遂げること、出来申した……相応なる寺納を致したく存ずれども、隼人殿跡目にては……拙者が思うほどの――子なればこそ当然の思い、成すべき仕儀というもの、これあるはず、と存ずれども―御心得はこれなく……実は、拙者には二人の子供が御座って、只今、他家に勤仕して御座いまして、その倅どもから凡父の佐渡行の話をお聴きになられた、その、それぞれの主家より、有難き賜り物をば頂戴致いて御座れば、それを、聊かの香典として納めまして御座る……」

 

 住職も涙を流し、厚い挨拶を成したと――。

 この僧侶が、組頭岸本弥三郎の家を訪れた際、直接本人から聞いたと、私が佐渡奉行を勤めていた頃、私の部下であった岸本本人から聞いた物語である。

 誠(まっこと)、かく奇特なる深き誠心の持主も、あるものなのである。

 

 

*   *   *

 

 

 兵庫屋彌兵衞松屋四郎兵衞起立の事

 

 兵庫や彌兵衞松屋四郎兵衞とて、當時淺草花川戸にて相應に米商賣いたし、伊勢町小網町にも屋敷を持て有德の町人あり。右の者成立を聞に、借屋住居して始は舂米(つきまい)を買出して桶に入、荷ひて町方裏々へ商ひけるが、裏々にて其日過しの者は一升二升調ひ候事もならざる者あり、五合三合の米を米屋へ買ひに行兼るにより、壹合貳合づゝせり賣せしは右兩人より賣初めしと也。右兩人後には有德の米屋となりぬれ共、今以せり賣の者を右兩家よりは出しける。其譯は米商の儀は、相場をおもにいたし候者なれば、日々裏々を廻りて下賤租母婦女の事を耳に留め、或は上りを得んと思ふ時は、米を買入などする事米商ひの專一也。右手段には裏々の商ひなどよきはなしと或人の語り侍る。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:武士の誠意から商人の誠意へ連関。但し、商人の誠意は、相応に儲けるための戦略でもあること。

・「淺草花川戸」現在の東京都台東区東部、浅草寺の東の隅田川西岸に位置する町の名。南部が雷門通りに、西部が馬道通りに、北部が言問通りに接する。町を東西に二天門通りが、南北に江戸通りが通る。古くは履物問屋街であった。

・「伊勢町」現在の中央区日本橋室町の一部及び本町の一部にあった町名。江戸橋北方で、堀留川から主に乾物穀類が荷揚げされる江戸商業の中心地。米問屋が多くあった。

・「小網町」同じく中央区日本橋小網町。日本橋川の江戸橋下流東岸の町名。奥州船積問屋・鍋釜問屋、商人宿が多くあった。

・「舂米」正しくは「しょうまい」と読む。米を臼で搗いて白く精米した米。つきよね。

・「せり賣」「競売」と書くが、所謂、競売・せりの意味ではなく、別義の、商品を持ち歩いて売ること、行商の謂い。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 兵庫屋弥兵衛及び松屋四郎兵衛事始めの事

 

 兵庫屋彌兵衞及び松屋四郎兵衞という、現在、浅草花川戸にて手広く米商いを致し、伊勢町や小網町にも屋敷を持っておる豪商がある。

 この者どもの仕事事始に付き、聞いた話。

 ――昔、彼らは借家住まいを致いており、当初は搗き米を仕入れ、それを桶に入れて担いでは、専ら裏町長屋を巡って売り歩いておった――今も変わらぬことなれど、裏長屋にあって、その日暮らしをする者どもの中には、一升・二升の米すら、買うもままならぬ者どもが大勢おる――また、かと言って、五合・三合のわずかな米を米屋に求めに参るも、これ、恥ずかしうて出来かねればこそ――そのような者どものために、一合・二合ずつ、量り売りを始めたは、この二人の米商人を嚆矢とする。

 後、今のように両人とも大店(おおだな)を構える豪商となったれど、実は、今以って、この量り売り行商を、両家は毎日、出だして御座るとのこと。

 その訳――米商いというもの、巷の相場を読むことが何より大事のことにて、日々裏町を廻っては、貧しい家計の婦女子の交わす世間話にも耳を留め、いろいろ聞き及んだことを合わせ鑑み、時には、この先、直ぐにでも物価が上らんとする気配やら、米相場で利益が得られるものと判断し得た折りには、即座に米の買い入れなんどをする――というのが米商いの摑みどころなので御座る。

「……このように、米相場の先行きを占うには、裏町にて商いをするに、若(し)くは御座らぬのじゃ。」

と、ある人が語って御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 戲藝侮るべからざる事

 

 寶暦の頃迄存命せし歌舞妓役者市川柏莚海老藏、澤村訥子長十郎、市村河郷羽左衞門は、右類の上手名人といひし者也。或る時去(さる)屋敷にて右の者共を呼て、河東(かとう)山彦(やまびこ)など謠曲を藝して後、何ぞ三人の者共へも其業なす事も出來んやと有けるに、色々咄しはなしけれ共藝を施す事はなかりしが、海老藏長十郎申けるは、羽左衞門家に四ツ竹八ツ拍子といへる事あり、御好有れかしと申故、強て好しかば右藝を施しけるが、三味線三挺にて、羽左衞門は麻上下を着し扇を二本乞ふて立上り、右藝をなしけるに殊の外面白き事の由。勿論けやけき事にてはなく、仕舞を舞ひ候やうなる趣にて其拍子ゑもいわれざる事也。まのあたり見しと松本豆州かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一合二合の米行商とても侮るべからず、たかが戯れの芸とても侮るべからざるにて連関。

・「市川柏莚海老藏」二代目市川團十郎(元禄元年(1688)年~宝暦8(1758)年 享年71歳)。柏莚(はくえん)は俳号(以下、三人の俳号は表記の通りポイント落ちで底本では右寄り)。父であった初代が元禄171704)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺されて横死(享年45歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。

・「澤村訥子長十郎」初世沢村宗十郎(貞享2(1685)年~宝暦6(1756)年 享年72歳)京都の武家の出。初世「沢村長十郎」の門人で、江戸に下り写実的演技力で評判をとり、名優とされた。誤りやすいが後に「三世長十郎」を名乗っている。ただ、この「訥子」(とつし)というは俳号は通常、三代目澤村宗十郎(宝暦3(1753)年~享和元(1801)年)のことを指すので、誤りと思われる。それとも俳号も共有したか。

・「市村河郷羽左衞門」八代目市村羽左衛門(元禄111698)年~宝暦121762)年 享年65歳)のこと。俳号「河郷」は「可江」が正しい(「かこう」と読むか)。元文2(1737)年に八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748)年に羽左衛門と改めた(以後代々「羽」を名乗るようになった)。座元を60年間務める傍ら、舞台でも若衆・女形・実事・敵役など幅広い役柄をこなした。なお、市村座は延宝初年頃(1670年代)には幕府によって歌舞伎興行権が認められ、中村座・市村座・森田座・山村座の江戸四座の一つとなった後、正徳4(1714)年 に山村座が取り潰されて江戸三座となっている。三人の没年と、「寶暦の頃迄存命せし」という語り出しからも、本話柄は宝暦元(1751)年から宝暦6(1756)年以前に限定出来るように思われる(以上の八代目市村宇左衛門の事蹟は、主にウィキの「市村宇左衛門(8代目)」を参照した。底本注で鈴木氏が「三代目市村羽左衛門」とするは誤り)。

・「河東」河東節(かとうぶし)四代目十寸見河東(ますみかとう ?~明和8(1771)年)のこと。河東節は浄瑠璃の一種で豪気にしていなせであったが、江戸中期以降、廃れ、歌舞伎の伴奏からも排除されて、お座敷での素浄瑠璃として生き残った関係上、吉原との縁が深い。現在の歌舞伎で河東節が用いられているのは「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)一本のみである。

・「山彦」初代山彦源四郎(?~宝暦6(1756)年)か。河東節の三味線方。本名村上源四郎。享保2(1717)年の江戸市村座興行で初代が初めて河東を名乗って以後、初代から四代目十寸見河東に至るまで、一貫してその三味線方を勤めた名人。河東節三味線は細棹で、その語り口は現在の山田流箏曲に影響を与えているとされる(以上は主に朝日日本歴史人物事典を参考にした)。岩波版長谷川氏は他に初代山彦源四郎の門弟であった山彦河良(かりょう ?~安永8(1779)年)の名も挙げる。河良は宝暦111761)年に四代目十寸見河東の立三味線で、先に掲げた名曲「助六所縁江戸桜」を作曲した人物であるから遜色ない。

・「四ツ竹八ツ拍子」「四ツ竹」は4045㎝の竹を裂いたものをそれぞれの手に二枚ずつ持って、カチカチ打ち鳴らして拍子を取る、現在のカスタネットのようなものを言う。「八ツ拍子」は、その四ッ竹で打つリズムのことを言うものと思われるが、不詳。但し、ネット上には、「豊年おどり」の一種である岡山市重要無形文化財指定及び岡山市伝統郷土芸能指定の「津島八朔おどり」(つしまはっさくおどり)の紹介ページ(私企業のページ)に、ズバリ「四っ竹八つ拍子」が現れる。この踊りは、『江戸時代(備前藩主池田家)から約250270年の歴史をもち、いい伝えによると、備前藩主池田家が代々御後園(後楽園)内の井田で「お田植」をする時、津島の娘たちもたびたび奉仕していてお田植が終了した後で、稲がよくできるようにと娘たちがおどり、殿さまの上覧に供したといわれています。これがもとになり、津島地方では毎年八朔(旧8月1日)に村の老若男女がそれぞれ夕涼みをかねて庭先などでおどるようになりました』。『備前藩ではたびたび盆踊りの禁止令をだしていましたが、津島八朔おどりは「盆踊り」ではなく、豊年祈願のための踊りであり、しかも質素であることから黙認されてきました』。『現在では「津島八朔おどり保存会」によって毎年8月1日に津島西坂の公園で盆踊りとしておどられております。おどりは「四つ拍子」「八つ拍子」等9種からなり、大太鼓と四っ竹で拍子をとる音頭とりの掛け声により変わっていきます。音頭は浄瑠璃(じょうるり)から引用した語句をそのまま歌詞としています』。『「津島八朔おどり」は古来から伝えられた、流れるようななめらかな踊りと音頭、四つ竹、太鼓が織り成す美しい踊りです』とある(下線部やぶちゃん)。う~む、八朔祭りではないか! これは、エクスタシーを感じぬわけが、ないのじゃ!……

・「仕舞」能楽の一部分を素で舞うこと。

・「ゑもいわれざる」の「ゑ」はママ。

・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任中の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。「卷之一」の「河童の事」にも登場した「耳嚢」の一次資料的語部の一人。先の私の年代推測(宝暦元(1751)年から宝暦6(1756)年以前)が正しければ、その当時は松本秀持2126歳、「卷之二」の執筆下限天明6(1786)年頃は56歳……と、如何にも……青春は遠い花火では、ない……いい設定じゃないの!

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 戯れの芸も侮れぬ事

 

 宝暦の頃まで存命していた市川柏筵海老蔵、澤村訥子長十郎、市村何江羽左衛門は、歌舞伎界の上手・名人の呼び声も高い役者であった。

 ある時、さる御屋敷に、この三人の者どもを招いた上、主人より所望されて、同じく参って御座った十寸見河東や山彦源四郎らによって河東節が披露された後のこと、

「――何ぞ、主ら三人の内にも、何ぞ戯れに致すべき斯くなる芸はなきか――」

と、彼等三人にも主人からお声が掛かる。

 三人は暫く話し合(お)うて御座ったが、流石に浄瑠璃を一節唸るという仕儀には及ばずに御座ったものの、申し合わせたように海老蔵と長十郎の二人、揃うて口上致いたは、

「――羽左衛門家に四ッ竹八ッ拍子と言えるもの――これあり――御好みに合いますものやら――」

と申し上げる故、主人、

「是非に所望。」

とあれば、その場に御座った羽左衛門三味線方三名が三味を受け取ると、麻上下に着替えた羽左衛門、徐ろに扇を二本、主人に乞いて手に取って、すっくと立ち、その三味に合わせて

……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

……ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃん!

――と、その四ッ竹八ッ拍子なる芸をなした――そのまあ、面白いこと!……

 

「……いや、勿論、奇を衒うた踊りにては、これなく……そうさ、能の舞にも似て御座ったれど、違(ちご)うな……その拍子、これ、えも言われぬ絶妙なるもので御座ったのぅ……」

と、その場にあって目の当たりに見た松本豆州殿の語ったことにて、御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 人の不思議を語るも信ずべからざる事

 

 小湊誕生寺は、日蓮出生(しゆつしやう)の舊跡にて大地也。其最寄に日蓮矢疵養生の窟あり。今日は日蓮の像を安置して庵室あり。誕生寺は海邊なるが、夫より海邊に付少し山へ登りたる所也。予川々御普請の御用に付誕生寺へも詣で、右の岩窟へも古老の案内に任せ村移りの序立寄しに、右岩窟の内、其邊には白く鹽の付て居しを、所の者并召連れし者抔申けるは、此鹽は山上にて此通り生じ侯事、偏に宗租の悲願なれ。諸國より來る道者旅人等、此鹽を貯、眼を洗ひ或は疵抔を治するに至て妙也と語りぬ。げにも岩窟の内に鹽の生じぬる事も不思議と、召連れし宗旨の者など、紙に包み信心渇仰(かつぎやう)し懷中しける。夫より段々山を越へ村をうつりし侍るに、海上遠からぬ所の岩或は石古木には、風の吹荒候節自然と潮氣運び候ゆへや、右日蓮の窟の通り鹽を付てあり。道端の石地藏又は踏石にも有なれば、是も高租上人の悲願なるやと笑ひけるが、聊の事も神佛もたくしぬれば自然と靈驗もある也。可笑しき事也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。鎭衞の実家安生家の宗旨は曹洞宗であることが分かった。また、この注釈作業の中で、根岸鎭衞の墓が東京都港区港区六本木の善学寺という寺院にあることを知ったが、これによって取り敢えず根岸の(というより根岸家の)宗旨は浄土宗であることも判明した。少なくとも、本話柄によって東国武士に比較的多く見られる日蓮宗はお嫌いであったことは、明らか。

・「小湊誕生寺」現在の千葉県鴨川市小湊にある日蓮宗の大本山である小湊山誕生寺。日蓮は貞応元(1222)年に小湊片海に生れ、12歳までこの地に暮らした。建治2(1276)年に日蓮の直弟子日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立したが、明応7(1498)年及び元禄161703)年の大地震や津波によって損壊、現在地に移転した。その後、26代日孝が水戸光圀の庇護を受けて七堂伽藍を再興、小湊山誕生寺と改称したが、宝暦8(1758)年の大火により仁王門を残して焼失、天保131842)年になって49代日闡(にっせん)により現在の祖師堂が再建された。私は少年の頃、ここを訪れた記憶がある。鯛の浦で鱗を煌めかせて舞い上ってくる鯛の鮮やかな映像と、海岸動物が大好きな私のために父が岩場でいろいろ採って呉れているうちに、役所の係員が密漁者と勘違いしてこっぴどく叱られているのを目の当たりにして、父がひどく可哀想になった思い出が妙に脳裏にこびりついている。そして、次は、「あのシーン」で再び私は「そこに」出逢った――。

 

 斯んな風にして歩いてゐると、暑さと疲勞とで自然身體の調子が狂つて來るものです。尤も病氣とは違ひます。急に他の身體の中へ、自分の靈魂が宿替をしたやうな氣分になるのです。私は平生の通りKと口を利きながら、何處かで平生の心持と離れるやうになりました。彼に對する親しみも憎しみも、旅中限りといふ特別な性質を帶びる風になつたのです。つまり二人は暑さのため、潮のため、又歩行のため、在來と異なつた新らしい關係に入る事が出來たのでせう。其時の我々は恰も道づれになつた行商のやうなものでした。いくら話をしても何時もと違つて、頭を使ふ込み入つた問題には觸れませんでした。

 我々は此調子でとう/\銚子迄行つたのですが、道中たつた一つの例外があつたのを今に忘れる事が出來ないのです。まだ房州を離れない前、二人は小湊といふ所で、鯛の浦を見物しました。もう年數も餘程經つてゐますし、それに私には夫程興味のない事ですから、判然とは覺えてゐませんが、何でも其所は日蓮の生れた村だとか云ふ話でした。日蓮の生れた日に、鯛が二尾磯に打ち上げられてゐたとかいふ言傳へになつてゐるのです。それ以來村の漁師が鯛をとる事を遠慮して今に至つたのだから、浦には鯛が澤山ゐるのです。我々は小舟を傭つて、其鯛をわざ/\見に出掛けたのです。

 其時私はたゞ一圖に波を見てゐました。さうして其波の中に動く少し紫がかつた鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。然しKは私程それに興味を有ち得なかつたものと見えます。彼は鯛よりも却つて日蓮の方を頭の中で想像してゐたらしいのです。丁度其所に誕生寺といふ寺がありました。日蓮の生れた村だから誕生寺とでも名を付けたものでせう、立派な伽藍でした。Kは其寺に行つて住持に會つて見るといひ出しました。實をいふと、我々は隨分變な服裝をしてゐたのです。ことにKは風のために帽子を海に吹き飛ばされた結果、菅笠を買つて被つてゐました。着物は固より双方とも垢じみた上に汗で臭くなつてゐました。私は坊さんなどに會ふのは止さうと云ひました。Kは強情だから聞きません。厭なら私丈外に待つてゐろといふのです。私は仕方がないから一所に玄關にかゝりましたが、心のうちでは屹度斷られるに違ないと思つてゐました。所が坊さんといふものは案外丁寧なもので、廣い立派な座敷へ私達を通して、すぐ會つて呉れました。其時分の私はKと大分考が違つてゐましたから、坊さんとKの談話にそれ程耳を傾ける氣も起りませんでしたが、Kはしきりに日蓮の事を聞いてゐたやうです。日蓮は草日蓮と云はれる位で、草書が大變上手であつたと坊さんが云つた時、字の拙いKは、何だ下らないといふ顏をしたのを私はまだ覺えてゐます。Kはそんな事よりも、もつと深い意味の日蓮が知りたかつたのでせう。坊さんが其點でKを滿足させたか何うかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向つて日蓮の事を云々し出しました。私は暑くて草臥れて、それ所ではありませんでしたから、唯口の先で好い加減な挨拶をしてゐました。夫も面倒になつてしまひには全く默つてしまつたのです。

 たしかその翌る晩の事だと思ひますが、二人は宿へ着いて飯を食つて、もう寐やうといふ少し前になつてから、急に六づかしい問題を論じ合ひ出しました。Kは昨日自分の方から話しかけた日蓮の事に就いて、私が取り合はなかつたのを、快よく思つてゐなかつたのです。精神的に向上心がないものは馬鹿だと云つて、何だか私をさも輕薄ものゝやうに遣り込めるのです。ところが私の胸には御孃さんの事が蟠まつてゐますから、彼の侮蔑に近い言葉をたゞ笑つて受け取る譯に行きません。私は私で辯解を始めたのです。

 其時私はしきりに人間らしいといふ言葉を使ひました。Kは此人間らしいといふ言葉のうちに、私が自分の弱點の凡てを隱してゐると云ふのです。成程後から考へれば、Kのいふ通りでした。然し人間らしくない意味をKに納得させるために其言葉を使ひ出した私には、出立點が既に反抗的でしたから、それを反省するやうな餘裕はありません。私は猶の事自説を主張しました。するとKが彼の何處をつらまえて人間らしくないと云ふのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。或は人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先丈では人間らしくないやうな事を云ふのだ。又人間らしくないやうに振舞はうとするのだ。

 私が斯う云つた時、彼はたゞ自分の修養が足りないから、他にはさう見えるかも知れないと答へた丈で、一向私を反駁しやうとしませんでした。私は張合が拔けたといふよりも、却つて氣の毒になりました。私はすぐ議論を其所で切り上げました。彼の調子もだん/\沈んで來ました。もし私が彼の知つてゐる通り昔の人を知るならば、そんな攻撃はしないだらうと云つて悵然としてゐました。Kの口にした昔の人とは、無論英雄でもなければ豪傑でもないのです。靈のために肉を虐げたり、道のために體を鞭つたりした所謂難行苦行の人を指すのです。Kは私に、彼がどの位そのために苦しんでゐるか解らないのが、如何にも殘念だと明言しました。

 Kと私とはそれぎり寐てしまいました。さうして其翌る日から又普通の行商の態度に返つて、うん/\汗を流しながら歩き出したのです。然し私は路々其晩の事をひよい/\と思ひ出しました。私には此上もない好い機會が與へられたのに、知らない振をして何故それを遣り過ごしたのだらうといふ悔恨の念が燃えたのです。私は人間らしいといふ抽象的な言葉を用ひる代りに、もつと直截で簡單な話をKに打ち明けてしまへば好かつたと思ひ出したのです。實を云ふと、私がそんな言葉を創造したのも、御孃さんに對する私の感情が土臺になつてゐたのですから、事實を蒸溜して拵らえた理論などをKの耳に吹き込むよりも、原の形そのまゝを彼の眼の前に露出した方が、私にはたしかに利益だつたでせう。私にそれが出來なかつたのは、學問の交際が基調を構成してゐる二人の親しみに、自から一種の惰性があつたため、思ひ切つてそれを突き破る丈の勇氣が私に缺けてゐたのだといふ事をこゝに自白します。氣取り過ぎたと云つても、虚榮心が崇つたと云つても同じでせうが、私のいふ氣取るとか虚榮とかいふ意味は、普通のとは少し違ひます。それがあなたに通じさへすれば、私は滿足なのです。

 我々は眞黑になつて東京へ歸りました。歸つた時は私の氣分が又變つてゐました。人間らしいとか、人間らしくないとかいふ小理窟は殆んど頭の中に殘つてゐませんでした。Kにも宗教家らしい樣子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも靈がどうの肉がどうのといふ問題は、其時宿つてゐなかつたでせう。二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐる/\眺めました。それから兩國へ來て、暑いのに軍鶏を食ひました。Kは其勢で小石川迄歩いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ應じました。

 宅へ着いた時、奥さんは二人の姿を見て驚ろきました。二人はたゞ色が黒くなつたばかりでなく、無暗に歩いてゐたうちに大變瘠せてしまつたのです。奥さんはそれでも丈夫さうになつたと云つて賞めて呉れるのです。御孃さんは奥さんの矛盾が可笑しいと云つて又笑ひ出しました。旅行前時々腹の立つた私も、其時丈は愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久し振に聞いた所爲でせう。

 

勿論、「こゝろ」である(「先生と遺書」三十と三十一の章を繋げて記した。各章の鉤括弧は意識的に外した。因みに、この鉤括弧が曲者であることを皆さんはご存知か? 「先生と遺書」の鉤括弧は各章の頭にはついていながら、終わりにはついていないのだ)。この場面の直前には例の強烈な一場面「ある時私は突然彼の襟頸を後からぐいと攫みました。斯うして海の中へ突き落したら何うすると云つてKに聞きました。Kは動きませんでした。後向の儘、丁度好い、遣つて呉れと答へました。私はすぐ首筋を抑えた手を放しました。」がある(二十八)。この誕生寺の先生とKの訪問は極めて重要なシークエンスである。生家が浄土真宗の寺であったKは、肉食妻帯のその思想を頗る嫌っていたと考えてよい。Kの思想を探るには日蓮の思想が不可欠だ。

――そうして――

Kとは賢治のKでもある。浄土真宗の徒であった父宮澤政次郎との確執、「雨ニモマケズ」には最後に以下の経文が記されていることを誰もが知っているとは私は思わない。否、「雨ニモマケズ」を紹介するに際して、何故にそれを排除してきたのかを、考えるべきである。私はそのことが、賢治の解読を賢治のイメージを不当に歪曲しているとさえ、私は思うのである。私は信仰もなく、日蓮を尊敬もしない(寧ろ人間としての親鸞の方が頗るつきに好きである)。しないが、このことに対しては大いに「不当」であると感じるのである――。

   南無無邊行菩薩

  南無上行菩薩

 南無多寳如来

南 無 妙 法 蓮 華 経

 南無釈迦牟尼佛

  南無浄行菩薩

   南無安立行菩薩

――以上、やぶちゃんの授業的な大脱線でした。御粗末。

 

・「日蓮矢疵養生の窟」現在の鴨川市内浦の岩高山日蓮寺にある。誕生寺の北東約1㎞の山上にあり、小松原の法難(現千葉県鴨川市小松原で予てより恨みを持っていた念仏信者で地頭の東条景信が日蓮を襲い、弟子日暁と信者工藤吉隆が斬殺され、日蓮も額を斬られて左手を骨折して重傷を負った)の際、この岩高山の窟の岩砂を削り、血止めに用いたという伝承が残る。剣難厄除けに効ありとされる。

・「大地」底本では右に『(大寺カ)』と注する。それで採る。但し、前掲した通り、宝暦8(1758)年の大火で誕生寺は仁王門以外既に焼失しており、根岸の言うのは規模(敷地)のことと思われ、なればこそ正しく「大地」ではある(そこまで皮肉に訳すことはやめた)。

・「川々御普請」幕府の基本政策の一つである用水普請(河川・治水・用水等の水利の利用事業)の一つで、堰普請や土手普請を含む河川改修事業。岩波版の長谷川氏の「卷之一」の「妖怪なしとも極難申事」の注には根岸が『御勘定吟味役の時、天明元年(一七八一)四月、関東川々普請を監督の功により黄金十枚を受けている』と記す(底本の同項の鈴木氏注にも同様の記載があり、そこには「寛政譜」からと出典が記されている)。根岸は安永5(1776)年、42歳で勘定吟味役に就任しており、天明3(1784)年まで同役に就いている。

・「悲願」これは、仏や菩薩が、この世の生きとし生ける総ての衆生を済度するために立てた誓願と同義の使用法。

・「信心渇仰」喉が渇けば水を欲し、山を慕えばそれを仰ぐように、仏を信じて慕い求めること。

・「越へ」の「へ」はママ。

・「たくし」は「託し」。

・「聊の事も神佛もたくしぬれば自然と靈驗もある也」ここで根岸は、必ずしも全否定している訳ではない。所謂、プラシーボ効果があることをも認めた上での、現実的考察として読むべきであろう。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 が摩訶不思議なことだと言うても容易には信ずべきでない事

 

 安房小湊の誕生寺は日蓮出生の地と伝えられる大寺(おおでら)である。そのすぐ近くに日蓮矢傷養生の窟(いわや)がというのがある。現在では日蓮の像を安置し、庵室も備える。誕生寺は海辺である。こちらの窟はそこから海伝いに行ったところを、少し山を登ったところにある。

 私は川々御普請御用のため、安房へも足を延ばしたことが御座って、この誕生寺へも詣で、また、件の窟へも土地の古老の案内(あない)するに任せて、次の村への職務上の移動の序でに立ち寄った。

 この窟の内壁には、所々白く塩が付着していたのだが、土地の者や召し連れて御座った者どもが申すことには、

「この塩、山上でありながら、この通り、生じて御座ること、偏えに宗祖日蓮御上人樣御慈悲の本願の顕現にて、これ、御座る。諸国から参る信者は言うに及ばず、旅人らも、この塩を貯え、目を洗い、あるいは傷なんどの癒すに用いれば、絶妙なる効験これあり!」

と語って御座った。

「如何にも。山上の窟の内に塩の生じるということ、これは確かに不思議のこと!」

と、召し連れて御座った日蓮宗を宗旨とせる部下なんどは、この塩を丁重にこそぎ落とし、紙に包み、如何にも大慈大悲日蓮上人への信心渇仰して、大事そうに懐中に収める。

 さて、その地を発し、更に山を越え、村を移って御座ったところが、道々の、海からさほど遠からぬ所の岩或いは石及び古木の表面には――風が吹き荒れたりした折り、自然、潮気が運ばれて来たからでもあろうか――かの日蓮の窟と全く同様に、塩が附着しているのである。

 道端の石地蔵から、踏みしだいておる敷石にまで附着致いておるので、

「この塩も高祖御上人様御慈悲本願ならんか? 本願大盤振舞じゃのう?」

と皮肉を言うて、皆で大笑い致いたので御座ったが、世の中、何でもないことであっても、神仏にかこつければ、自然、「霊験」とか申すものも「ある」ということになるのである。如何にも可笑しなことではある。

 

 

*   *   *

 

 

 淺草觀音にて鷄を盜し者の事

 

 淺草觀音堂前には、所々より納鷄(をさめどり)鳩(はと)など移しく、參詣の貴賤米大豆等を調へ蒔て右鷄にあたへけるなり。天明五年師走の事なりしに、大部屋中間の類ひ成しや、脇差をさし看板一つ着したる者、右鷄を二ツ捕へしめ殺して持歸らんとせしを、境内の楊枝みせ其外の若きもの共大勢集りて、憎き者の仕業也とて、衣類下帶迄を剥取棒しばりといふものにして、右衣類を背に結付脇差も同じやうにして、殺せし鷄を棒の左右に付て、大勢集りてはやしたて花川戸の方迄送りしよし。いかゞなりしやと、予が許へ來る人の昨日見しとて語りぬ。佛場の事なれば結縁(けちえん)法施(ほふせ)等はなさずとも、納鷄を〆殺しなどせし志、極重惡心といふべけれ。萬人に恥辱をさらしけるは則佛罰ともいふべけれ。然し右境内の者ども、かゝる狼籍自刑を行ふ事いかなる心ぞや。若(もし)右の者舌を喰ひ身を水中に沈めなば、公の御吟味にもなりたらんは、かく計らひし者も罪なしともいわれじ。却て佛慮にも叶ふ間數不慈(ふじ)の取計ひと爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:神仏にかこつけた「霊験」なるものに盲目な庶民への批判から、仏罰にかこつけた「自刑(私刑・リンチ)」に及ぶ残忍なる庶民への批判で連関。後に名町奉行となる根岸の熱い思いが伝わってくる。

・「淺草觀音堂」金龍山浅草寺。本尊は聖観音菩薩で当時は天台宗(第二次世界大戦後、聖観音宗の総本山に改宗)。

・「納鷄鳩」寄進に境内に放つ訳であるが、これは所謂、江戸時代に流行った放ち泥鰌や放ち鰻・放ち鳥の習慣と同じで、殺生戒の御利益を狙ったもので、更に派生的にそうした鳥に餌を買って与えることが施しと見なされ、更なる利益(りやく)を呼ぶというわけである。私が小さな頃は、よく夜店で雄のヒヨコが売られており、大きくなって鳴き声殊の外五月蠅く、体よく神社に持っていって捨てたという話をよく聴いた。私の義父なんども、妻が小さな時に可愛がっていた雄鶏の「ピピちゃん」を納め鶏と称して熱田神宮に捨てちゃったの、と未だに恨み節を言っておる。嘗て訪れたタイの寺院では、蝶や亀、蛇、雀を始めとする多種の鳥の類等、多様な「放ちもの」を見たが、鳥の類は放った後、必ず売主の元に戻って来るので最も安上がりです、と現地ガイドが言っていたのも思い出す。

・「天明五年」西暦1785年。

・「大部屋中間」「大部屋」は大名屋敷で格の低い中間や小者(こもの)、火消し人足などが集団で寝起きした部屋を言う。足軽と小者の間に位置する中間は多くの場合、渡り中間(屋敷を渡り歩く専門の奉公人)が多く、脇差一本が許され、大名行列の奴のイメージが知られるのだが、年季契約で、百姓の次男坊以下が口入れ屋を通じて臨時雇いされたりし、事実上の下男と変わらない連中も多くいた。ここはそうした格下の質の悪い中間の謂いであろう。

・「看板」武家で、主家の紋所を染め出して、中間や出入りの者に与えた衣服。

・「楊枝みせ」楊枝店は浅草寺境内にあった床店(とこみせ:商品販売のみで人の住まない店のこと。)で、楊枝やお歯黒の材料などを売った店のことを言う。女を置いて、密かに売春の場ともなった。「楊枝屋」とも。

・「棒しばり」民間で行われた私刑の一種。公刑の晒(さらし)を真似たもので、ここに示されたように裸にして、背に十文字に棒を縛り付け、その棒の先に制裁を受けた内容を示す証拠の品をぶら下げ、市中を引き回すもの。花川戸ならば、それほどの距離ではない。

・「花川戸」現在の東京都台東区東部、浅草寺の東の隅田川西岸に位置する町の名。南部が雷門通りに、西部が馬道通りに、北部が言問通りに接する。町を東西に二天門通りが、南北に江戸通りが通る。古くは履物問屋街であった。確かに、それほどの距離ではない。しかし、ここは隅田川岸である。簀巻き同様、この中間、隅田川に突き入れられた可能性、私は極めて高いと思うのである。

・「結縁」仏に帰依して後日の悟達のために因縁を結ぶ祈願祈誓や参拝。

・「法施」仏に向かって経を読んだり、法文を唱えたりすること。「ほっせ」とも読む。

・「自刑」私刑。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 浅草観音にて鶏を盗んだ男の事

 

 浅草観音堂前にはあちこちからの納め鶏・納め鳩が夥しく棲みついて御座って、参詣の者は、貴賤を問わず、米や大豆を買うて蒔き、これらに施すのが習わしとなって御座る。

 天明五年師走のことであったが、大部屋中間の類いであろうか、脇差一本差し、看板一枚を着た如何にもやくざな男が、境内にいた鶏二羽をとっ捕まえて絞め殺し、持ち帰らんとした。

 それを見咎めた境内の楊枝店その他の若い衆が大勢集まって、

「ふてえ野郎だ!」

「何たる仕業!!」

と、捕えられた男は衣類・下帯まですっかり剥ぎ取られて、あそこも丸出し、素っ裸の上に――これを巷間に棒縛りという――その引き剥がした衣類を丸めて脇差と一緒に結わい付けて、左右の腕を張り渡した横棒の先に、彼が殺した鶏の死骸をぶら下げたままに、大勢でどやしつけ、囃し立てながら、花川戸辺りまで引き回して行ったとの由。

「……その後、どうなりましたやら……」

と、拙宅を訪れた人が、昨日見た話、と前置きの上、私に語った。

 

 そもそも仏を祭った神聖なる場のことなれば、結縁・法施(ほっせ)は致さずとも、納め鶏を絞め殺すなんどという所行、これ、極めて重き悪心に満ちた、悪(わる)と言うにふさわしい者ではあろう。巷の万人の民に、その恥辱を晒すこととなったは、則ち、仏罰ともいうべきものではある。

 しかし――この境内の者ども、かかる乱暴狼藉の私刑を行うというは、如何なる心積りにてあるか!

 もし、この男、かかる私刑の弾みに舌を嚙んで死ぬる、或いは、冗談半分、川に身を投じられて、そのまま溺れ死ぬるとなれば、これは逆に公(おおやけ)の御吟味ともなることなれば――そうなったとしたら、かくこの男を罰するを計らった者にも罪がないとは、到底、言えぬ。却って仏の広大無辺大慈大悲の深奥深慮にも叶うとはとても思われぬ惨忍至極の無慈悲なる取り計らい、とここに記しおくものである。

 

 

*   *   *

 

 

 百姓その心得尤成事

 

 淺間山燒にて、上州武州數ケ村砂降泥押の難儀大方ならず。右御普請の奉行として予廻村せし折から、厩橋(まやばし)領大久保村の者どもは、三分川七分川といへる利根川押切り候處の堀割、并に天狗岩堰の用水路埋り候所を掘候ため人足抔出しけるが、右兩所共大造(たいさう)の浚(さらひ)故、近郷數ケ村の老少男女數萬人出て其業をなしけるに、年頃十計の小兒に笊(ざる)を持せ土をはこばせ、乳母やうの者小僧など召連たれば、いかなる者と尋しに、大久保村の内富民の子供の由也。依之右場所の懸り橋爪某、子供故望みて出しやと尋ければ、彼古老答て、小鬼故望みもいたし候へども、かれが親はきびしきおのこにて、此度淺間燒にて國民困窮し、其家督たる田畑を失ひ、或は養ひの基たる用水路を潰し、誠に天災の遁れざる時節、公より國民志にて莫大の御普請被仰付、諸役人も寒凍を侵して日々出役なるに、兎もかふもいたし暮せばとて安居せんは勿躰(もつたい)なし。小兒抔はかゝる時節もありし、かゝるおゝやけの御惠みもありしと覺へ候へば、末々に至る迄難有と申所も辨へ候者也とて、此頃日々右倅を出し候と語りしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:都会人の極悪・独善性・無慈悲に対し、地方の百姓の希有の慈悲心で連関。一連の浅間山大噴火復興事業での実見記の一篇。

・「淺間山燒」以下、ウィキの「浅間山」の「記録に残る主な噴火」から当該箇所を引用する。天明3(1783)年4月9日『に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1ヶ月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた、6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになり、日を追うごとに間隔は短くなっていき、その激しさも増していった。7月6日から7月8日の噴火で3日間で大災害を引き起こしたのである。北西方向に溶岩流(鬼押し出し溶岩流)と北東方向に吾妻火砕流が発生、いずれも群馬県側に流下した。その後、約3ヶ月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石なだれとなって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。嬬恋村鎌原地域と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込み、一旦川を堰き止めた。天然にできたダムはすぐに決壊し、泥流となり大洪水を引き起こして吾妻川沿いの村々を飲み込んだ。本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運んでいく。このとき利根川の支流である江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられたのである。このとき被災した死者は、約1,500人に達した(浅間焼泥押)』(この天明の大噴火の死者総数は資料によって極端な差があり、一部には20,000人とも記される)。『長らく溶岩流や火砕流と考えられてきたが、最も被害が大きかった鎌原村(嬬恋村大字鎌原地区)の地質調査をしたところ、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、昭和54年から嬬恋村によって行われた発掘調査では、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている』。根岸はこの浅間大噴火後の天明3(1783)年、47歳の時に浅間復興の巡検役となった。そして、その功績が認められて翌天明4(1784)年に佐渡奉行に抜擢された。「卷之一」の「人の運は測り得ぬものである事 又」に浅間大噴火関連話柄が既出する。

・「上州」上野国。現在の群馬県。

・「武州」武蔵国。現在の東京都・埼玉県及び神奈川県東部を含む。

・「厩橋領大久保村」「厩橋」は現在の群馬県前橋市のことで、古くは「まやばし」と呼称し「厩橋」と書いた(前橋となったのは慶安年中(16481651)の酒井忠清が城主であった頃という)。但し、この大久保村は現在、北群馬郡吉岡町に編入されている。群馬県県のほぼ中央に位置し、榛名山南東山麓と利根川流域を占める。西半分が榛名山裾野の一部、東半分が洪積台地。町内には特徴的な古墳群を有する。大久保村はこの榛名山東麓の利根川沿岸にあった。

・「三分川七分川」岩波版長谷川氏注は、火山灰や泥流の土砂によって『川の埋まった程度を表わす語か。』とあるが、どうも解せない。これは文脈からは『大久保村の村の衆が、「三分川」とか「七分川」と部分的に呼んでいる利根川本流』という意味と推測され、足して一割になるのもその総体が「利根川本流」であるからではないかと思われた。加えて後文の「右兩所共」というのは正にこの「三分川」と「七分川」の二箇所を指しているとしか読めないのも気になったのである。そこで検索を掛けてみると、「利根川上流河川事務所」HPの「利根川の碑」の群馬県伊勢崎市戸谷塚410に所在する戸谷塚観音の利根川碑についての記載中に、ズバリ、「三分川七分川」という『河川名』が出現するのに出逢った(改行を省略し、下線部はやぶちゃん)。

   《引用開始》

沼の上から流下した利根川は南に八丁河原を衝いて左に折れ、島村の河原で烏川と合流していた。その後この流れは埋まり、新たに北方に流路ができた。それから後ここを掘り下げて利根の水を三割ここに流し、北の流路に七割を流下させた。ところが天明3年の浅間噴火で北の流れはすっかり埋まり、三割分流れていた流路が利根川の幹流となり今日におよんでいるので、この川を三分川といい、埋まった北流を七分川というのである。今の沼の上から東へ歩いてみたが、現在は柴町、戸谷塚、福島あたりに利根の水は一滴も流れていない。すなわち七分川の痕跡は見出せない。本庄から坂東大橋を渡り、すこし先の戸谷塚に子安観音堂がある。ここは浅間山の噴火の際押し流されて来た多くの水死人を葬ったところである。萩原進氏の「上州路」に「天保3年7月8日の浅間山大爆発は少なくとも千数百人の人命を失った・・・。急に泥流に押し流された吾妻川ぞいの人々は、家もろとも利根川に押し出された高熱の泥流に加えて酷暑の夏のことであったからその死骸はほとんどふらんして下流のあちこちに打ち上げられたものが少なくなかった。土地の人々は、気の毒なこれらの無縁仏を厚く葬り、その上供養塔をたてた。流は川巾が広く浅瀬があるので、なお多くの死骸が打ち上げられた。佐波郡の五料、柴、戸谷塚もそうだ・・・。子安観音境内に一基の座り地蔵尊がある。・・・これは半けっかの座像で、台石の上の竿石の表に「供養塔」、右に「天明4年辰年11月4日」左に「施主、戸谷塚村」と刻してある。・・・」ここには今は利根川の流れはないが、昔の七分川の流路がここにあったことが証拠立てられる。

   《引用終了》

前橋より下流の話柄であるが、これによって「三分川七分川」とは、大河である利根川主流の部分的に分岐した流路に対する名称であることが証明されたと言ってよい。これぞネット時代の、目から鱗の検索の醍醐味と言うべきである。

・「天狗岩堰の用水路」大久保村と漆原村の境界付近から利根川の水を引き入れた人工の用水路の名。何故、天狗と呼称するかについては、財団法人地域活性化センターが作る「伝えたいふるさとの100話」の前橋市の項に「天狗岩用水をつくり農民から敬慕された総社(そうじゃ領主」に以下の記載がある(読みの多くと語釈の一部を省略した)。

   《引用開始》

 慶長六年(一六〇一年)関ヶ原の戦いの翌年、総社領主となった秋元長朝(あきもとながとも)は、灌がい用の水が得られれば、水不足とたび重なる戦いで荒れ果てた領地を実り豊かな土地にできると考え、用水をつくることを計画しました。

 長朝は総社領(現在の前橋市総社町あたり)の東の端を流れる利根川から水を取ろうと考えました。しかし、土地が川の水位より高い位置にあったので、上流の白井領に水の取り入れ口をつくらなければ、水を引くことができませんでした。

 そこで、白井領主の本多(ほんだ)氏の許しを得るために、高崎領主の井伊氏に協力を求めて相談しましたが、「雲にはしごを架けるようなもので無理であろう」といわれました。

 しかし、長朝の決意は固く、井伊氏に仲だちを頼み、本多氏と何度も話し合いました。その結果、水の取り入れ口を白井領につくることが許されて、用水工事の測量を始めることができました。

 知行高が六千石の長朝にとって用水づくりは経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成しない大変な事業でした。長朝は領民に協力してもらうために、三年間年貢を取り立てないことにして、慶長七年(一六〇二年)の春に用水工事に取りかかりました。

 工事は最初のうちは順調に進みましたが、取り入れ口付近になると大小の岩が多くなり、工事を中断することもありました。そして最後には、大きな岩が立ちはだかって、とうとう工事は行き詰まってしまいました。

 長朝や工事関係者、領民たちは困り果てるばかりでした。思いあまった長朝は、領内の総社神社にこもって願をかけました。その願明けの日、工事現場に突然一人の山伏が現れて、困り果てている人々にいいました。

 「薪になる木と大量の水を用意しなさい。用意ができたら、岩の周りに薪を積み重ねて火を付けなさい。火が消えたらすぐに用意した水を岩が熱いうちにかけなさい。そうすれば岩が割れるでしょう」

 人々は半信半疑でしたが、教えられたとおりにしたところ、見事に岩が割れました。人々がお礼をいおうとしたら、すでに山伏の姿がありませんでした。そんなことから、誰とはなくこの山伏を天狗の生まれ変わりではないかと語り合うようになりました。

 この話が、天狗が現れて大きな岩を取り除いたといわれている「天狗来助(てんぐらいすけ)」の伝説です。その後、人々は取り除かれた岩を天狗岩、用水を天狗岩用水と呼ぶようになりました。

 総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に祠(ほこら)を建ててまつることにしました。これが「羽階権現(はがいごんげん)」です。今も、総社町にある元景寺の境内にまつられています。

 長朝が計画し領民たちの協力によって進められた天狗岩用水は、三年の年月をかけて慶長九年(一六〇四年)にようやく完成しました。この用水のおかげで領内の水田が広がり、総社領は六千石から一万石の豊かな土地になりました。

 秋元氏は長朝の子である泰朝(やすとも)のときに、甲州谷村(こうしゅうやむら)(現在の山梨県都留市)に領地を移されて総社の土地を離れますが、総社領の農民は用水をつくった恩人である長朝に感謝を込めて、慶長九年より一七二年後の安永五年(一七七六年)、秋元氏の菩提寺である光巌寺(こうがんじ)に「力田遺愛碑(りょくでんいあいのひ)」(田に力(つと)めて愛を遺(のこ)せし碑)を建てました。力田遺愛碑を建てるにあたって、村々では農家一軒につき一にぎりの米を出し合ったと伝えられています。

 このことは、農民が領主であった長朝をどんなに慕っていたかを示すものといえましょう。

 封建時代、領民が領主の業績をたたえて建てた碑はめずらしいものです。碑文の最後には領民らが碑を建てたことがはっきりと書かれています。刻まれた言葉には、年代を超えた領主と領民の温かい人間関係も見てとることができます。

   《引用終了》

・「大造の浚(さらひ)」の「さらひ」は底本のルビ。大規模な河川の浚渫作業。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 さる百姓の心懸け殊勝なる事

 

 浅間山噴火の際は、上州・武州数百箇村、砂降り、泥流押し寄せ、その被害は尋常ではなかった。

 この噴火災害復興の普請奉行として、私はこれらの地域の村々を廻村致いたのだが、厩橋領大久保村の村の衆は――現地で「三分川」及び「七分川」と呼んでいる利根川本流の二箇所の川筋の、泥流が押し切ってずたずたに致した堀割並びに天狗岩堰の用水路など――すっかり埋まってしまった場所を掘り返すため、人足を出して御座ったが、この「三分川」及び「七分川」二箇所は大規模な浚渫作業となった故、近郷の数箇村の老若男女数万人が出て、辛い川浚いの作業に従事して御座った。

 その巡検中、ふと見ると、年の頃十歳ばかりの子に笊を持たせ、土を運ばせておる。ところが、その子の傍らには、その子の乳母らしき者、また、その他、如何にも幼年の小僧としか思えぬような者をも召し連れており、その誰もが笊を持って働いておるので、

「あれらは、如何なる者どもか?」

と尋ねたところ、大久保村の富農の倅との由。

 そこでその現場の監督をして御座った橋爪某が、

「子供のこと故……自ずから望んで出ておるのか?」

と土地の古老に質してみたところ、

「へえ、子供のこと故、何とのう様変わって御座れば、好奇心からも自ずから望んでやっておりますことながら……あの子らの父親は、これが実に厳しい男にて、『この度の浅間山噴火により、上野・武蔵の国々の民百姓、甚だ困窮致し、皆、その財産たる田畑を失い、また、その源と言うべき用水路を潰され、誠に天の災い、逃るべからざる折柄、公(おおやけ)より諸国民への御恵みこれあり、莫大な労金を以って災害復興の御普請、仰せ付けられ、諸役人方も寒気を冒して、日々現場に出役なさっておられるのに、ともかくも聊かの蓄えあるによって暮らしの成り、安居して無為ならんは、勿体なくも理不尽なること! 子供心には――このような危難の折りもあった、また、その折りにも、かの公の御恵みもあった――ということを覚えておくことが出来れば、後々、年寄るまでも――有り難きこと――と、申す思いを弁えておることが、出来るというものである。』と言うて、かく、日々に、己が倅を出役させて御座いまする。」

と語ったのであった。

 

 

*   *   *

 

 

 孝子そのしるしを顯す事

 

 享保の頃、廻船の荷物を内々にて賣渡し、其外罪ありて大坂町奉行にて吟味の上、其科極りさらしの上死刑にも申付侯積の治定(ぢぢやう)なりしが、右の者子供三人あり、惣領は娘にて十三四、夫より九ツ七ツ計の小兒ども、日々牢屋門前に至りて親の助命の事歎き悲しみ、叱り追のけなどすれどもかつて聞入れず、命を不惜晝夜寢食を忘れて歎きければ、其譯奉行へ申立、江戸表へ伺可通由にて御仕置を延し、御城代より伺の上死刑を御赦し追放被仰付し。誠に孝心の天に通ずるといへるも僞りならぬ事也。右は予評定所留役を勤ける頃、右の者赦願の事に付書留取調て、餘り哀れなる事なれば此事も別に書留ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:地方の百姓の希有の慈悲心から、都会の町人の孝心で、少年少女の無垢なる孝心孝行で連関。本件は森鷗外の「最後の一句」(大正4(1915)年10月『中央公論』)のモデルとなった話とされるが、岩波版長谷川氏注によれば、鷗外が典拠としたものは、大田南畝(寛延2(1749)年~文政6(1823)年)が安永4(1775)年頃から文政5(1822)年頃まで見聞したものを書きとめた「一日一言」所収のものであるという。更に、同様に江戸初期から享保年間(171636)までの松崎堯臣(たかおみ 正徳六・享保元(1682)年~宝暦3(1753)年)との見聞録「窓の須佐美」の続編である「窓の須佐美追加」下にある話柄も同様で、『元文三年(一七三八)、大坂の勝浦屋太郎兵衛の事とし、子や奉行の名もしるす。』とある。

 森鷗外の「最後の一句」では、冒頭、咎人は大阪の『船乘業桂屋太郎兵衞』とし、『木津川口で三日間曝した上、斬罪に處する』旨の高札が出たのが『元文三年十一月二十三日の事』とする。

 私は「一日一言」も「窓の須佐美追加」も所持していないので、とりあえず鷗外の設定を少しく示しておく。

 桂屋太郎兵衛の罪状は以下の通り(引用は青空文庫正字正仮名版「最後の一句」を用いたが、誤読の恐れのないルビの一部を省略、ユニコード表示可能な字は正字に変更した)で、現在で言う業務上横領罪か背任罪に相当するものと思われる。

『主人太郎兵衞は船乘とは云つても、自分が船に乘るのではない。北國通ひの船を持つてゐて、それに新七と云ふ男を乘せて、運送の業を營んでゐる。大阪では此太郎兵衞のやうな男を居船頭と云つてゐた。居船頭の太郎兵衞が沖船頭の新七を使つてゐるのである。

 元文元年の秋、新七の船は、出羽國秋田から米を積んで出帆した。其船が不幸にも航海中に風波の難に逢つて、半難船の姿になつて、積荷の半分以上を流出した。新七は殘つた米を賣つて金にして、大阪へ持つて歸つた。

 さて新七が太郎兵衞に言ふには、難船をしたことは港々で知つてゐる。殘つた積荷を賣つた此金は、もう米主に返すには及ぶまい。これは跡の船をしたてる費用に當てようぢやないかと云つた。

 太郎兵衞はそれまで正直に營業してゐたのだが、營業上に大きい損失を見た直後に、現金を目の前に並べられたので、ふと良心の鏡が曇つて、其金を受け取つてしまつた。

 すると、秋田の米主の方では、難船の知らせを得た後に、殘り荷のあつたことやら、それを買つた人のあつたことやらを、人傳(ひとづて)に聞いて、わざ/\人を調べに出した。そして新七の手から太郎兵衞に渡つた金高までを探り出してしまつた。

 米主は大阪へ出て訴へた。新七は逃走した。そこで太郎兵衞が入牢してとう/\死罪に行はれることになつたのである。』

 それを裁いたのが大坂西町奉行佐佐又四郎成意(なりむね)。実在した町奉行であることが確認されている(以下のリンク先参照)。なお、この審理、実に2年余りかかっている。これについては大阪高等裁判所第2刑事部伊藤寿氏のエッセイ「森鴎外と裁判員制度」に『当時の司法制度は効率性を重視していなかった上に、大阪や京都などの幕府直轄地である天領を治める遠国奉行は、死罪といった重罰を科する場合にはわざわざ江戸の老中に伺いを立てた』からである旨、記載がある。

『西町奉行の佐佐は、兩奉行の中の新參で、大阪に來てから、まだ一年立つてゐない。役向の事は總て同役の稻垣に相談して、城代に伺つて處置するのであつた。それであるから、桂屋太郎兵衞の公事に就いて、前役の申繼を受けてから、それを重要事件として氣に掛けてゐて、やうやう處刑の手續が濟んだのを重荷を卸したやうに思つてゐた。』

 桂屋太郎兵衛には、五人の子供がいることになっている。

『長女いちが十六歳、二女まつが十四歳になる。其次に、太郎兵衞が娘をよめに出す覺悟で、平野町の女房の里方から、赤子のうちに貰ひ受けた、長太郎と云ふ十二歳の男子がある。其次に又生れた太郎兵衞の娘は、とくと云つて八歳になる。最後に太郎兵衞の始て設けた男子の初五郎がゐて、これが六歳になる。』

この内、直訴に出向くのは、いちとまつ、長太郎の三人であるが、いちが示した請願の書状の内には、実子四人を身代わりにとしている。それと別に、後半の西町奉行所御白洲の場面では、いちが、実子でない長太郎から「自分も命が差し上げたいと申して、とうとうわたくしに自分だけのお願書を書かせて、持つてまゐりました」(いちの奉行所への直接話法部分)と言って、長太郎も正式に別に身代わりを書面で申し出ている。

 御白洲の場面で描写されるいちの様子は以下の通り。「祖母の話」とはとうとう高札が出たということを太郎兵衞の女房の母「平野町のおばあ樣」が太郎兵衞の女房に知らせに来た冒頭場面を指す(鷗外はこの小説で――いちの自律的行為に関与しないからと思われる――この祖母にも女房にも名を与えていない。こういう器械的な切り捨ての仕儀こそ、私が鷗外という作家に何とも言えぬ生理的嫌悪感を感じる部分なのである)。

『當年十六歳にしては、少し穉(をさな)く見える、痩肉(やせじし)の小娘である。しかしこれは些(ちと)の臆する氣色もなしに、一部始終の陳述をした。祖母の話を物蔭から聞いた事、夜になつて床に入つてから、出願を思ひ立つた事、妹まつに打明けて勸誘した事、自分で願書を書いた事、長太郎が目を醒したので同行を許し、奉行所の町名を聞いてから、案内をさせた事、奉行所に來て門番と應對し、次いで詰衆の與力に願書の取次を賴んだ事、與力等に強要せられて歸つた事、凡そ前日來經歴した事を問はれる儘に、はつきり答へた。』

以下、映像的に魅力的な場面となる。

『長太郎の願書には、自分も姊や弟妹と一しよに、父の身代りになつて死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあつた。

 取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに氣が附かなかつた。いちが「お呼になつたのだよ」と云つた時、まつは始めておそるおそる項垂れてゐた頭を擧げて、縁側の上の役人を見た。

「お前は姊と一しよに死にたいのだな」と、取調役が問うた。

 まつは「はい」と云つて頷いた。

 次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。

 長太郎はすぐに「はい」と云つた。

「お前は書附に書いてある通りに、兄弟一しよに死にたいのぢやな。」

「みんな死にますのに、わたしが一人生きてゐたくはありません」と、長太郎ははつきり答へた。

「とく」と取調役が呼んだ。とくは姊や兄が順序に呼ばれたので、こんどは自分が呼ばれたのだと氣が附いた。そして只目をつて役人の顏を仰ぎ見た。

「お前も死んでも好いのか。」

 とくは默つて顏を見てゐるうちに、唇に血色が亡くなつて、目に涙が一ぱい溜まつて來た。

「初五郎」と取調役が呼んだ。

 やう/\六歳になる末子の初五郎は、これも默つて役人の顏を見たが、「お前はどうぢや、死ぬるのか」と問はれて、活潑にかぶりを振つた。書院の人々は覺えず、それを見て微笑んだ。

 此時佐佐が書院の敷居際まで進み出て、「いち」と呼んだ。

「はい。」

「お前の申立には譃はあるまいな。若し少しでも申した事に間違があつて、人に教へられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。

 いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたはずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言ひ放つた。其目は冷かで、其詞は徐かであつた。

「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」

「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。

 佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。

 次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡した。

 白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先の恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の德川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗の鋒は、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。』

「マルチリウム」ドイツ語“Martyrium”(発音は「マルテューリウム」が表記上近い)で「殉教・受難」の意。但し、本邦ではポルトガル語“martirio”から、切支丹宗門の間での「まるちり」=「殉教」の意としては、古くから認識されていた。

 以下、コーダは次のように淡々としている。

『城代も兩奉行もいちを「變な小娘だ」と感じて、その感じには物でも憑いてゐるのではないかと云ふ迷信さへ加はつたので、孝女に對する同情は薄かつたが、當時の行政司法の、元始的な機關が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中(うかゞひちゆう)日延(ひのべ)」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會御執行相成候てより日限も不相立儀に付、太郎兵衞事、死罪御赦免被仰出、大阪北、南組、天滿の三口御構の上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。大嘗會と云ふのは、貞享四年に東山天皇の盛儀があつてから、桂屋太郎兵衞の事を書いた高札の立つた元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、櫻町天皇が擧行し給ふまで、中絶してゐたのである。』

ここで分かることは、大嘗会がなければ、御赦免はなかったということであろう。赦免するに相応な権威の側のタテマエの論理が必要であったということである。それが「最後の一句」に対する――というよりもあくまでいちという娘など眼中にないことを演じる――「お上の事には間違は」ないという権威という機関の、唯一絶対の答えなのである。
 しかし最後に申し上げておこう。この森鷗外の「最後の一句」、私は高校時代に現代国語の教科書で読んだ。私の嫌いな森鷗外(翻訳や「高瀬舟」は除く)、しかし私はこの「いち」を目の当たりに見ている自分がいて(勿論、御白洲の彼女の隣りの庶民目線で)、この心のスクリーンに映った「いち」に、僕は一目惚れしていたことを、告白しておく。

 

・「享保」西暦1716年から1735年。

・「廻船」国内沿岸の物資輸送に従事する荷船で、主に商船を言う。江戸・大阪の二大中央市場と諸国を結ぶ全国的な航路を形成していた。

・「御城代」幕府が大坂・駿府・伏見・京(二条城)の四城に設置した役名。(元和5(1619)年に伏見城代は廃止された)ここで言う大坂城代は将軍の直接支配の役職で譜代大名が任命された(駿府・二条城代は老中支配・大身旗本が任命された)。各城守護管理及び城下の政務を司った。

・「評定所留役」「評定所」は基本的には将軍の直臣である大名・旗本・御家人への訴訟を扱った司法機関の一つであるが、原告被告を管轄する司法機関が同一でない場合(武士と庶民・原告と被告の領主が異なる場合等)、判例相当の事件がなく幕府各司法機関の独断では裁けない刑事事件や暗殺・一揆謀議等の重大事件も評定所の取り扱いにとされた。本件は原告若しくは被告の連座する者の中に武士階級が居たか、廻船絡みであるから、原告被告の領主が異なるのかも知れない。「評定所留役」とは評定所で実際に裁判を進める予審判事相当格。この職は勘定所出向扱いであるため、留役御勘定とも呼称する。根岸が評定所留役であったのは、宝暦131763)年から明和5(1768)年であるから、本件出来時より3350年以上も後のことである。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 孝行な子がその効験を顕わす事

 

 享保の頃、廻船の積荷を密かに抜き取って、内々に売り捌き、その他にも附帯する罪を以って捕縛され、大坂町奉行所にて吟味の上――その咎、晒しの上、死罪――と申し附くること、ほぼ決定して御座った。

 この男には子供が三人おり、娘十三四を頭に、九つ七つばかりの小児が続く。

 その子らが――過去の判例から、残酷にもこの子らに誰ぞが教えしものか、はたまた、巷間の死罪らしいという噂を聴きつけたものか――日々、評定所牢屋門前にやって来ては、地べたに座り、親の助命を求めて歎き悲しみ、号泣する――門番が叱って追い立てようとするのであるが、頑として聞き入れず、一寸たりとも動こうとせぬ。

 不惜身命――昼夜寝食を忘れ、ひたすら門前に泣き続けて御座った――。

 評定所では、致し方なく――というより、不憫に思い――この子弟嘆願の趣の一件につき、大阪町奉行に申し上げたところ――奉行も、

「とりあえず江戸表に御伺いの儀、これ、通すべし。つきては御仕置きのこと、延期と致す。」

とのこと。

 大阪御城代から幕府に御伺いが立てられた結果、死罪をお減じになられ、大阪追放に処するべし、と仰せ付けられたのであった。

 誠(まっこと)「孝心、天に通ずる」と言うのも、決して偽りではないのである。

 以上は、私が評定所留役として勤仕して御座った頃、ある必要があって過去記録の閲覧をした際、この当時、この者に対する特赦請願についての一件に関わって書留められた書類を親しく読んだ。誠にしみじみとした気分にて読み終わった記憶も新しい故、ここに書き留めておく。

 

 

*   *   *

 

 

   

 

 是も予留役の筋まのあたり見聞ける事也。安藤霜臺掛にて三笠附其外惡黨をなしたる者とて、遺恨にてもありしや、名は忘れぬ、雜司ケ谷在しやくじ村の者を箱訴の事有。名ざしける箱訴故呼出しけるに、年此七十計の病身に見へし老人なり。中々三笠附抔は勿論、惡業抔可致者ならねど、定法故難捨置、入牢の事霜臺申渡けるに、右老人の倅三人、跡に付添出けるが、惣領は廿才餘の者也しが進み出て、親儀は御覽の通年も寄、殊に病氣にて罷在候へば、入牢抔被仰付なば一命をも損じ可申、しかし御定法の御事に候へば、私を入牢奉願候。親儀は御免粕相願旨申けるに、其弟十三四才にも可成が進み出て、兄は當時家業專らにて、老親いとけなき者を養育仕候事故、我が身を入牢願ふ由相願ければ、末子は漸く九ツ十ウ計なるが、何の言葉もなく私入牢を願ひ候とて、兄弟互に泣爭ひけるにぞ、霜臺も落涙して暫し有無の事もなく、其席に居し留役又は霜臺の家來迄暫し袖をしぼりしが、其夜は入牢申付て翌日、跡方もなきに決して老人も出牢あり、無程無事に落着しぬ。誠に孝心の至る所忍ぶに漏るゝ涙は、實に天道も感じ給ふべきと思はるゝ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:少年の孝心その二。

・「評定所留役」は前項同注参照。そこでも記したが、根岸が評定所留役であったのは、宝暦131763)年から明和5(1768)年。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。「卷之一」にもしばしば登場した、「耳嚢」の重要な情報源の一人。安藤惟要が就任していた職務の中で、このような訴訟に関わるとすれば勘定奉行と考えられる。勘定奉行は勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれているので、安藤は公事方勘定奉行と考えてよいであろう。そうして安藤が勘定奉行として勤めたのは宝暦111761)年から天明2(1782)年であるから、根岸が評定所留役であった期間を完全に内包する。

・「三笠附」雑俳・川柳の変形したもので賭博の一種。本来は冠附(かむりづけ:上五に中七・下五を付けて一句に仕立てるもの。元禄(16881704)頃に始まる。江戸での呼称で、上方では笠付けといった。烏帽子付(えぼしづけ)とも。)の一つで、俳諧の宗匠・選者を名乗る点者が冠の五文字を三題出して、それぞれに七・五を付けさせて、三句一組で高点を競うもので、宝永年間(17041711)から行われていた。ところが、これが賭博化し、個人のHP「江戸と座敷鷹」――少々長くなるが説明すると、「座敷鷹」は「はえとりぐも」と読み、クモ綱クモ目ハエトリグモ科 Salticidaeのハエトリグモ類のことを指す。寛文から享保頃(16611736)、このハエトリグモを飼って蠅を捕らせて楽しんでいた好事家がいたが、彼等は翅を少し切って動き難くさせた蠅を獲物として、各自の秘蔵のハエトリグモを同時に放し、誰のものがいち早く蠅を捕捉するかを競わせた。当時、そうした遊びを室内版の「鷹狩り」に譬えて、「座敷鷹」と呼んだのである。これが流行して座敷鷹が大人の娯楽として定着、ハエトリグモ販売業や飼育するための蒔絵を施した高価な印籠型容器まで出現したという。強い蜘蛛は極めて高価で、当時の江戸町人の平均的月収に相当したとある。後には廃れたが、これは既に博打の対象と化していた座敷鷹が賭博禁止令に抵触したからであるとも言われる――の以下のページに冠附に先行する前句附から説明して、『宗匠が出題した前句(七・七の短句)に、一句あたりの応募料を取って付句(五・七・五の長句)を募集、宗匠が選んだ高点句を前句とともに発表し、上位の句には品物か金銀を与えると言うもの。昔は連句の付け合いの稽古という大義名分があり、まともな前句を出題していたが、徐々に適当となり、「ならぬことかな、ならぬことかな」「やすいことかな、やすいことかな」「ちらりちらりと、ちらりちらりと」「ばらりばらりと、ばらりばらりと」などどうでもいいような七・七の14文字となった。看板とあるのは、「前句附」の看板を出して商売をしていることを指し、庶民の間に人気の高かった証拠と言える。しかし、この適当な下の句(前句)に対してさえ上の句(付句)をつけるのは難しいとなり、おそらくもっと人を集めたい宗匠が多かったのであろう、下の句を出題するのは取り止め、上の句の五・七・五の内の初めの五字を宗匠が出題し、残りの七・五をつけさせるようになる。ところが、これも面倒だと、残りの七・五も宗匠が出題することになる。初めの五字の出題を三題に増やし、これに対して21種類の「七・五」を出題し、三つの優れた「五+(五・七)」の組み合わせをあてさせることになった。まったくのクイズ形式である。 21の数字はサイコロの目からきていると言う。1の裏が62の裏が53の裏が4、裏表を足すといずれも77×321。このクイズ形式の付け合わせを、「三笠附」(みかさつき)と呼んだ。参加料十文(約300円)で三題とも秀句をあてた者には一両(約20万円)の賞金が与えられたと言う。三笠附の名が町触に記されるのは、正徳5年(1715)。クイズ形式とはいえ、ここまでは文字のある句合わせであった。しかし、享保の時代に入ると、文字はなく完全に数字の組み合わせをあてる博打となったのである。競馬も数字だが、馬が実際に競争する。享保期の三笠附はサイコロ博打同然となったわけだ』とある(改行を省略した)。そこで幕府は享保111726)年に「三笠附博奕廃止者免罪高札」を出して禁止したが、跡を絶たなかったらしい。特に田沼時代となると綱紀弛緩し、安永から天明頃(17621789)には再び爆発的流行を見たのであった。正にこの話、この頃のことであったわけ。さてもそこで、やぶちゃん一句――

   世も末は骸子ころり五七五

御粗末様でした――

・「雜司ケ谷在しやくじ村」「しやくじ村」は岩波版長谷川氏注に『雑司谷の在の石神井村。練馬区』とある。但し、現在の雑司ヶ谷は豊島区南池袋である。

・「箱訴」享保6(1721)年に八代将軍吉宗が庶民からの直訴を合法的に受け入れるために設けた制度。江戸城竜ノ口評定所門前に置かれた目安箱に訴状を投げ入れるだけで庶民から訴追が出来た。

・「名ざしける箱訴故」これは勿論、その被疑者を実名で告発している訳であるが、一言言っておくと、目安箱への投書は投げ入れた者(告発者)の住所氏名があるもののみが採り上げられ、ない訴状は破棄されたそうである。

・「跡方もなきに決して」とあるが、因みに三笠附に対しては、どのような刑罰があったのか。大越義久「刑罰論序説」によれば、身分を非人に落とされる「非人手下」の例の中に「三笠附の句拾い〔賭博の一種〕、取抜無尽〔富くじに似たもの〕の札売り、下女と相対死して生き残った主人などに対して」とある。但しこれは属刑であるから、本刑としては追放なり敲きなりがあって、それに付属された刑ということであって……これ結構、キビシイ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 孝行な子がその効験を顕わす事 その二

 

 これも私が留役の際、目の当たりに見聞きしたことである。当時、勘定奉行で御座った安藤霜台殿が担当された一件であった。

 三笠附その他諸々悪事を働いたる者とて――誰かの遺恨を受けたものか――名は失念したが、雑司ヶ谷の在は石神井村のある者を箱訴するという事件があった。

 名指しの箱訴であったため告発された当人を呼び出して見ると、これが年の頃七十ばかり、加えて病身と思われる老人であって――凡そ三笠附は勿論のこと、『その他諸々悪事を働』くことなんぞなど到底出来そうも、ない、爺さんであった――が、御定法故、捨て置くこともならず――真偽を糺してみたところが、何やらん、もぐもぐ言うばかりで埒が明かぬ――罪状をこれ認むるか否かもはっきりせぬ故、霜台は致し方なく、まずは入牢申し渡した。

 申し渡すに際し、老人に付き添って来ていた倅が三人、従っていたが、入牢申し付けた後、即座に長男は二十歳余りの者が進み出て、

「親父はご覧のと通り、年寄り、殊に病気も患っておりますれば、入牢など致すとなれば、その儘、一命をも落とすことにもなりかねませぬ。されど御定法を枉げられぬこと、これもまた、お上にあらせられましては尤もなることにて御座いますればこそ、どうぞ、私めを代わりに入牢致すようお申しつけ下さいますよう、相願い上げ奉ります――親父入牢の儀は、何卒、御赦免下さいまするよう相願い上げ奉りまする……。」

と言うたかと思うたら、つっとその弟の十三、四にもなるかと思しい者が進み出、

「兄は只今当方の家業を唯一身にて負うておりますれば、老いし親、幼き弟妹どもを養育致いておりまする。されば――我が身を入牢願い上げ申し上げまする……。」

由、願う。

 その横に控えて滑り込むようにくっ付いて座った末の子は――漸っと九つか十ばかりと見えるは――ただただ、如何にも幼き口つきであったれど、

「私、入牢、願い申し上げます……。」

とばかり何度も繰り返し言上するので御座った。

 兄弟互いに他の者を制し、また泣きながら争う――その様を見るに、評定役であった霜台も思わず落涙して、暫くは声も出なかった。

 いや、その場にいた留役――で御座った私も――そして、霜台の家来衆までも、暫しの間、袖を絞って御座った……。

 結局、最早刻限も遅くで御座ったれば、とりあえず、その夜のみの入牢――老人の身体に特別の配慮を十分に致いた上での入牢を申し付けて、翌日早朝、箱訴の一件、事実にあらざるものにして、その罪、これ本来、存在せざるものなり、として老人も出牢と決し、一件落着と相成って御座った。

 いや! あの時は本当に!

 誠(まっこと)、孝心の至る所、忍ぶに漏れざるを得ぬ涙は、実に天道も心をお動かし遊ばされるものなのであるなあと心打たれ申した……

 

 

*   *   *

 

 

 鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事

 

 上州吾妻郡鎌原村は淺間北裏の村方にて、山燒の節泥火石を押出し候折柄も、たとへば鐵炮の筒先といへる所故、人別三百人程の場所、纔に男女子供入九十三人殘りて、跡は不殘泥火石に押切れ流れ失せし也。依之誠に其殘れる者も十方(とほう)にくれ居たりしに、同郡大笹(おほざさ)村長左衞門、干俣(ほしまた)村小兵衝、大戸(おほど)村安左衞門といへる者奇特成にて、早速銘々へ引取はごくみ、其上少し鎭りて右大變の跡へ小屋掛を二棟しつらへ、麥粟稗等を少しつつ送りて助命いたさせける内に、公儀よりも御代官へ御沙汰有りて夫食等の御手當ありけると也。右小屋をしつらいし初め三人の者共工夫にて、百姓は家筋素性を甚吟味致し、たとい當時は富貴にても、元重立(おもだち)の者に無之侯ては座敷へも上げず、格式挨拶等格別にいたし候事なれど、かゝる大變(に逢ては生殘りし九拾三人は、誠に骨肉の一族と思ふべしとて)右小屋にて親族の約諾をなしける。追て御普請も出來上りて尚又三人の者より酒肴などおくり、九十三人の内夫を失ひし女へは女房を流されし男をとり合、子を失ひし老人へは親のなき子を養はせ、不殘一類にとり合ける。誠に變に逢ひての取計ひは面白き事也。右三人とも鎌原村に限らず、外村々をも救ひ合奇特の取計ゆへ、予松本豆州申合申上ければ、白銀を被下、三人共其身一代帶刀、名字は子孫まで名乘候樣被仰付ける。善事は其德の盛んなる事、たとへんに物なし。右三人の内、干俣村の小兵衞といへるはさまで身元厚き者にもなく、商をいたし候者の由。淺間山燒にて近郷の百姓難儀の事を聞て、小兵衞申けるは、我等の村方は同郡の内ながら隔り居候故、此度の愁をまぬがれぬ。しかし右難儀の内へ加り候と思はゞ、我が身上を捨て難儀の者を救ひ可然とて、家財をも不惜急變を救ひけると也。此故に其年は米穀百に四合五合といへる前代未聞の事也しが、小兵衞が名印(ないん)だにあれば、米金の差引近在近郷いなむ者更になく差引いたしけると也。呼出して申渡候節、右の者樣子も見たりしが、働有べき發明者とも見へず、誠に實躰(じつてい)なる老人に見へ侍りき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:庶民の誠心で連関。また根岸が担当した浅間山大噴火復興事業に於ける被災実見録シリーズの一篇。

・「(に逢ては生殘りし九拾三人は、誠に骨肉の一族と思ふべしとて)」底本では右に『(尊經閣本)』とある。これを補って訳した。

・「鎌原村」上野国吾妻郡鎌原村。浅間山火口北側約12㎞の吾妻川南岸。現在の群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原。ウィキの「鎌原観音堂」によれば、鎌原村は天明3(1783)年7月8日の浅間山の天明の大噴火による土石流に襲われて壊滅、噴火の際、村外にいた者と土石流に気付いて村内の高台にあった鎌原観音堂まで避難出来た者合計93名のみが助かった。『当時の村の人口570名のうち、477名もの人命が失われた』とあり、本文の記載とは異なる記録が示されるが、こちらの方が現在の定説数であるようだ(後掲)。『1979年(昭和54年)の観音堂周辺の発掘調査の結果、石段は50段あることが判明した(言い伝えでは150段あまりの長い石段であるとされていたが、この幅で150段もの長い石段を建設することは、現在の建設技術をもってしても物理的に不可能であること。仮に150段であったならば、およそ20メートルもの高さになるため、わざわざそれだけ高い位置に観音堂を建立する事自体が不自然であることなどが疑問視されていた)。現在の地上部分は15段であり、土石流は35段分もの高さ(約6.5メートル)に達する大規模なものであった事がわかった。また、埋没した石段の最下部で女性2名の遺体が発見された(遺体はほとんど白骨化していたが、髪の毛や一部の皮膚などが残っていて、一部はミイラ化していた)。若い女性が年配の女性を背負うような格好で見つかり、顔を復元したところ、良く似た顔立ちであることなどから、娘と母親、あるいは歳の離れた姉妹、母親と嫁など、近親者であると考えられている。浅間山の噴火に気付いて、若い女性が年長者を背負って観音堂へ避難する際に、土石流に飲み込まれてしまったものと考えられ、噴火時の状況を克明に映している』。『また、天明3年の浅間山の噴火で流出し、すべてのものを飲み込んだ土石流や火砕流は、鎌原村の北側を流れる吾妻川に流れ込み、吾妻川を一旦堰き止めてから決壊。大洪水を引き起こしながら、吾妻川沿いの村々を押し流し、被害は利根川沿いの村々にも及んだ。この一連の災害によって、1,500名の尊い命が奪われる大惨事に及んだ。また、当時鎌原村にあった「延命寺」の石標や、隣村(小宿村=現在の長野原町大字大桑字小宿)にあった「常林寺」の梵鐘が、嬬恋村から約20km下流の東吾妻町の吾妻川の河原から約120年後に発見された』。『村がまるごと飲み込まれたことから、東洋のポンペイとも呼ばれ』るとあるが、火山災害では『生き残った住民が避難した先(場所)で新しい町を再建』するのが通例であるのに、本話の中で描かれるように鎌原では『生き残った住民が同じ場所に戻って、村を再建した非常に珍しい例である』とある。『現在、火山災害から命を救った観音堂は厄除け信仰の対象となって』いるそうである。また、この鎌原村を襲った火砕流・岩屑流については、酒井康弘氏のHP「鬼押出し熔岩流のナゾにせまる」の、「鎌原村を襲った土砂について」で詳細な考察が行われている。本話の重要なプレ場面であるから、少々長い引用となるがお読み頂きたい。『七月八日四ッ半時(午前十一時)に、山頂から熔岩流、砂礫などが多量の水とともに推定千二三百度の高音で流れ出し、アッという間に上州側の北側を流れ下り、六里ヶ原の何百年という原始林を押しつぶし、傾斜を嬬恋、長野原に向けて押し出した予想もしない泥流のために鎌原村が全滅した(嬬恋村史 下巻)』。また他に『浅間山が光ったと思った瞬間、真紅の火炎が数百メートルも天に吹き上がると共に大量の火砕流が山腹を猛スピードで下った。山腹の土石は熔岩流により削りとられ土石なだれとして北へ流れ下った。鎌原村を直撃した土石なだれはその時間なんとたったの十数分の出来事だった。家屋・人々・家畜などをのみこみながら、土石なだれは吾妻川に落ちた。鎌原村の被害は前118戸が流出、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げ延びた93人のみだった。火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下った』という従来の見解を提示しつつ、『しかし、最近では、その堆積物の見られる範囲が鬼押出熔岩流の下の方だけに限られていることから、別の考え方もある』として、『7月8日午前10時ころ、中腹のくぼ地辺りで大きな爆発があった。現在の火山博物館のすぐ西には当時柳井沼とよばれる湿地があり、この強い地震でその付近の山体の一部が崩れて岩なだれが発生した。このため流下しつつあった鬼押出熔岩流の一部が巨大な岩塊となって北麓の土砂、沼地を掘り起こし土石なだれとなって北麓を流れ下った。これが鎌原火砕流と呼ばれているが、実際は岩屑なだれと呼ぶのが正しいという。その他には噴火当時、浅間火山博物館の西側にくぼ地があって、水がたたえられており、火砕流がこれに突入して大規模な水蒸気爆発を起こし、岩屑流と泥流を発生させた。あるいは、沼の中から水蒸気爆発が起こり、火砕流が起こったと考える人もいる』という見解を紹介、『浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができた。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没させたという考え方が一般的である』とする。以下、1979年に始まり、13次に及んだ鎌原村の発掘調査結果に触れ、『十日ノ窪の埋没家屋の一部に火災を思わせる部分があったものの、ほかのすべてにおいて、建築用材、生活用品に焼けたり焦げたりした形跡は認められなかった。一方、火山地質の検討からしても、鎌原村を覆う押し出しによって堆積した層の中で、天明3年の噴火の際、直接火口から飛び出した熔岩は、全体の熔岩中5パーセント前後であることが判明した。このようなことから鎌原村を襲った押し出しとされる現象は、熱泥流とされるものではなく、常温に近いく、しかも乾燥したものであることが明らかとなり、“土石なだれ”と呼ぶこととなった』。『鎌原村の被害は、江戸時代という比較的新しい時代のできごとであり、その状況を示す古文書や記録類も多く、また、言い伝えもあが、発掘調査によって得た知見は、その多くが古文書や記録類では知ることのできなかった新事実が明らかとなり、言い伝えなどとはかなり異なるものもあった』とされ、ここに酒井氏の「鎌原土砂移動に関する仮説」が示される。『大噴火の当日、それまで3ヶ月ほど断続的に続いた噴火現象が静かになり、晴れ上がった夏の午前を村人はほっとして過ごしていたという。現在の嬬恋村鎌原(旧鎌原村)は突如、火砕流・岩屑流(土石なだれ)・泥流などのいずれかに急襲され、あっというまに土砂の下になったといわれ、死者477人、死牛馬165頭、生存者は鎌原観音堂に逃げた93人のみであった。発掘調査をした人の話では家屋、家財道具などの痛み具合からは、土砂による押出した力は従来から考えられたような高速でしかも強力な圧力ではないという。そして土砂が襲ってきたとき、高い方へ逃げた人は助かり、土砂を背にして逃げた人は埋もれてしまったという。地元の人の話では、旧鎌原村から観音堂の石段までは急げば5分位で到達できると言う。そして50段の石段も健康なひとであれば5分以内には登れるであろう。土砂移動をみてから逃げる時間は少なくとも10分くらいはあったのではないか』。『大量の熔岩が雪崩を起こして柳井沼に突っ込んだとき、大轟音が聞こえた。この大轟音は火山の噴火とは違う大きな音で人々は外へ出て、浅間山の方を見上げた。しかし、残念ながら旧鎌原村からは小高い丘がじゃまして浅間山はみえない。しばらくするとざざーという泥水が小熊沢に沿って流れてきた、次いでピチピチといいながら熔岩を混じえた大量の土砂が押し寄せてきた。逃げろと言う声とともに、その時、高い方向かって逃げた人と、下へ向かった逃げた人に分かれた。逃げ出す程度の時間的な余裕はあった』。土砂は『従来からかなりの高速で鎌原村を襲ったと考えられているが、中腹から吾妻川への傾斜は緩やかで、土砂の時速30から40kmくらいではないかと推測される(私の考えでは時速100kmなどいうことはない)。しかも大量の土砂は御林(一里あまりの松林)を押し倒しながら北へ向かう時、有る程度スピードが落ちるはず』で、『土砂の流れは時速30から40kmくらいではないか(私の考えでは時速100kmなどいう岩なだれではない)。鎌原観音堂の石段の五十段付近で見つかった老若二人の遺体も流される事なく、石段のところで倒れていた。もし、時速100kmほどの高速の岩なだれであれば、二人とも流されてしまうであろう』と推論されている。シャーロック・ホームズを髣髴とさせるスリリングな論考である。鎌原村遺跡発掘をなさった元嬬恋村郷土資料館館長松島榮治氏の研究によれば、宝暦131763)年の観音堂須弥壇造立の際の奉賀連名帳によれば村の総戸数は118戸と推定され、文化121815)年の観音堂参道入口にある供養碑によれば罹災時の戸数は95とある。これより天明3年被災時は100戸前後と推定され、その人口は安政4(1860)年に山崎金兵衛という人物が記した「浅間山焼荒之日并其外家并名前帳」に、犠牲者477人、生存者93人とあることから、被災時は、『一応570人とみられる。しかし、異なった数字をあげている史料もある』とし、『農業に不向きな標高900メートル前後の浅間山北麓の地に、戸数100戸前後、人口五百数十人の大型村落が形成されたことは意外である。しかし、この地は、上州と信州を結ぶ交通の要所にあり、加えて、200頭前後の馬が飼育されていることからすると、単なる山村ではなく、宿場的機能をもった村落と推定される』とする(以上は「元嬬恋村郷土資料館館長松島榮治先生講義録」を参照した)。訳では一般的に通りがよい「土石流」を採用した。

・「鐵炮の筒先」溶岩流・火砕流・土石流の直撃した場所を指す噴火後の呼称であろう。

・「人別」人別改による村民数。人別改は一種の人口調査で、後には宗門改と合わせて行われるようになり、享保111726)年以降は6年ごとに定期的に実施された。

・「大笹村」上野国吾妻郡大笹村。現・群馬県吾妻郡嬬恋村。鎌原村の西南西約2㎞の吾妻川南岸に位置する。現在の嬬恋村を横切っている国道144号線は、江戸時代には大笹街道(仁礼街道とも)と呼ばれた北国街道の脇往還で、沼田~吾妻~上田、高崎~仁礼~善光寺を結ぶそれの通行人・草津への入湯客等を取り締まるため、寛文2(1666)年に沼田薄主真田伊賀守により大笹関所が設置されている。山村ながら大笹宿として栄えた村である。

・「干俣村」上野国吾妻郡干俣村。現・群馬県吾妻郡嬬恋村干俣。鎌原村の西北約2.5㎞の吾妻川北岸の支流である干俣川上流に位置する。吾妻鉱山や万座温泉で知られる。

・「大戸村」上野国吾妻郡大戸村。現・群馬県吾妻郡東吾妻町で、鎌原村の東約10数㎞の吾妻川支流の温川及びその支流である見城川東岸にあり、かなり鎌原村からは離れている。同町から温川(ぬるがわ)を下った吾妻川合流地点にある郷原は、縄文期の印象的なハート型土偶の出土地として知られる。

・「夫食」一般庶民への救援食糧物資。

・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任時代の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。お馴染みの「耳嚢」の一次資料的語部の一人でもある。

・「白銀」贈答用に用いた楕円形の銀貨で白紙に包んである。通用銀の三分とされるが、通用銀は天保丁銀を指し、天保8(1837)年より通用開始されたもの。丁銀は銀の含有比率が低く(20~80%)形も重さも一定でなかったが、この白銀は銀純度が高く、形も切り揃えて成形してあり、重量も43匁と決まっていた。資料によると本話柄の40年程前、元文年間(17361741)で白銀一枚=0.7両とある。

・「米穀百に四合五合」100文で米4~5合しか買えない、1合が2025文したということである。以下にしらかわただひこ氏の「コインの散歩道」「1文と1両の価値」のページにある分かり易い対照表から、米一升の小売価格の推移と相対比較するための蕎麦屋の蕎麦(もり・かけ)の値段を引用する。

【米1升(小売値)】↓      【蕎麦一枚】

慶長・元和   25文        ↓

15961623)            

寛永      30文        ↓

16241643

寛文      50文       6文

16611672

元禄      80文       8文

16881703

享保・元文   80文

17161740

宝暦・明和  100文      16文

17511771

文化・文政  120文      16文

18041829

天保     150文      16文

18301853

慶応     500文      20文

  ~1000文     ~24文

18651867

明治33年    16銭     1銭5厘

1900

昭和35年  124円      35円

1960

平成12年  700円     474円

2000

一見2~3倍弱にしか見えないが、当時は今とは考えられないくらい米食に依存しているから(一日5合程度の消費量が考えられる)、天命の大飢饉に加えて浅間大噴火のダブル・ダメージを受けた当時の被災民にとっては、とんでもない高騰であったと考えてよいであろう。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 浅間山麓鎌原村にて起こった大異変に際し稀に見る誠意に満ちた取り計らいを致いた者の事

 

 上州吾妻郡鎌原村は浅間山北側に位置している村であるが、かの天明三年の浅間山大噴火の際には、広範囲に溶岩や土石が押し寄せた折りから――この鎌原村は、特に噴火後には「鉄砲の筒先」と呼ばれたほど、直撃を受けた被災地であった――人別帳の上でも三百人ほどの村民の内、成人男子・女子・子供をも含んで九十三人だけが生き残ったばかり、後は残らず総て、流れ下る土石流に押し埋められ、皆、流失、亡くなった。

 この事態に、残されたその者たちもただただ途方に暮れていた。

 ここに同郡大笹村の長左衛門、干俣村の小兵衛、大戸村の安左衛門という者たち、稀に見る誠意を持って、即座にこれらの生き残った被災者をそれぞれに分担して引き取り、救援致いた。のみならず、浅間の噴火が少し鎮まって後には、三人の者共同で、この壊滅した鎌原村跡に仮住居として小屋を二棟掛け、それぞれの村から救援物資として麦・粟・稗なんどを少しずつ送っては彼らの生活を引き続き援助致いた。勿論、同じ頃には御公儀からも現地の代官にお指図これあり、当地の被災した一般庶民への広範な食糧援助等が行われていたことは言うまでもないので御座ったが。

 さても、右仮小屋を建てるに際し、以上の三人で協議致いて、救援の大方針として、さる秀抜なる工夫を編み出して御座った。

 ――そもそも百姓というもの、実は何やらん、誰ぞと変わらず、先祖伝来の家柄血筋やら先祖素性やらに、殊の外、拘るものにて、たとえ現在は富貴にして高雅なる家(や)の者であっても、その村にて先祖代々重んじられて御座った家系の者でない限りは、応対するに際しても己(おの)が座敷にさえ上げず、万事内外、格式やら挨拶やらに格別に五月蠅きものなれど――この三人、小屋二棟の被災者全員を招集致すと、

「さても、かくなる危難に遭(お)うて生き残りし九十三人は、これ、誠(まっこと)、骨肉相和す親族と思わねばならぬ。」

と、この小屋にて親族の約諾を致させたので御座った。

 その後、私も関わったところの御公儀による災害復興事業が成功裡に終わった頃、なおまた、この三人は、この鎌原村被災者全員に酒肴を送って祝った上――九十三人の内、夫を失した女には女房を流された男を取り合わせ――また、子を失った老人には親を亡くした子を養わせて、計九十三人、残らず、名実共に一家一族と成したので御座った。

 誠に変事に遭(お)うての味な取り計らい方、これ、見事なもので御座る。

 右の三人、実はこの鎌原村に限らず、外(ほか)の噴火罹災した村々へもやはり同じように稀に奇特なる救援を施し、同様に格別の取り計らいを致いて御座ったことなれば、私、勘定奉行であられた松本豆州秀持殿とも協議の上、お上へ上申致いたところ、三人総てに白銀を御下賜なされた上、一代限りの帯刀及び子孫代々姓を名乗ること、これ、お許しとなったので御座った。

 善行というものは、その徳、則ち、心からの誠意の表れあってこそのことと――その譬えとしてこれ以上相応しい出来事は御座らぬ。

 この三人の内、干俣村の小兵衛という者はさほど由緒ある人物にてはこれなく、ただ普通に商いを致いておる者である由。浅間山噴火により、近在の百姓の難儀を聞き及び、小兵衛思えらく、

「……我らの村は同じ郡乍ら、はるかに峰と川を隔たっておる故、この度の災厄を免れた……なれど、もし、同じように、かの被害に遭(お)うたとならば……今こそ、己(おの)が財産を捨て、難儀致いておる人々を救はんとするは、当たり前のこと――」

と、家財惜しまず投げ打って、急変を救ったのだということで御座った。

 この天変地異によって、その年の米価は高騰、百文出しても四~五合、という前代未聞の事態となったのであるが、この干俣村商人小兵衛の署名・印さえあれば、米の交換を拒む者は近在には一人としてなかったのであった。

 この小兵衛なる者には、恩賜の件に付、申し渡した際、この私も会うてその風体を実見致いたが、失礼乍ら、これと言って利発という感じの男にては、これなく、ただただ如何にも実直そうな老人とのみ見えて御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 小堀家稻荷の事

 

 京都に住宅せる上方御郡代小堀數馬租父の時とかや。或日玄關へ三千石以上ともいふべき供廻りにて來る者有り。取次下座敷へ下りければ、久々御世話に罷成數年の懇意厚情に預り候處、此度結構に出世して他國へ罷越候。依之御暇乞に參りたりと申置歸りぬ。取次の者も不思議に思ひけるは、洛中は勿論兼て數馬方へ立入人にかゝる人不覺、怪しきと思ひながら其譯を數馬へ申ければ、數馬も色々考けれど、公家武家其外家司(けいし)召仕への者にもかゝる名前の者承り及ばず、不審して打過けるが、或夜の夢に、屋敷の鎭守の白狐、年久敷屋敷の内に居たりしが、此度藤の森の差圖にて他國へ昇進せし故、疑はしくも思はんが此程暇乞に來れり、猶疑しく思はゞ明早朝座敷の椽(えん)を清め置べし、來りまみへんとなり。餘りの事の不思議なれば、翌朝座敷の椽を鹽水などうちて清め、數馬も右座敷に居たりければ、一ツの白狐來りて橡の上に上り暫くうづくまり居たりしが無程立さりけるにぞ、扨は稻荷に住白狐の立身しけるよと、神酒赤飯などして祝しけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:これといって連関を感じさせないが、順に読んできた私には、民百姓が飢えて「米穀百に四合五合といへる前代未聞の事」態に比して、稲荷とはいえ畜生たる狐が「三千石以上」、その立身に「神酒赤飯などして祝しける」武士という能天気さ加減には――単独で見れば映像もくっきりとして面白い話で、前の話しよりも百年も前の話ではある――が聊か呆れるものがないとは言えぬ。

・「上方御郡代」幕府では、比較的広域の幕府領を支配する代官のことを郡代と言った。江戸時代初期には関東郡代の他、この上方郡代、更に尼崎・三河・丹波・河内などでは、ほぼ一国単位で郡代が置かれていた(寛永191642)年の勘定頭制の施行に伴い、郡代・代官はその管轄下に置かれ、その後、関東郡代は老中支配となっている)。江戸時代中期以降は関東・美濃・西国・飛騨の4郡代となった。身分・格式は代官の上であったが、その職務内容(租税徴収監督・下級裁判訴訟)は代官とほぼ同じであった(以上は主にウィキの「郡代」を参照した)。

・「小堀數馬租父」「小堀數馬」小堀仁右衛門家第6代当主小堀邦直(享保131728)年~天明九・寛政元(1789)年)。4代惟貞の長男。その「祖父」は第3代当主であった小堀克敬(寛文十三・延宝元(1673)年~享保4(1719)年)である。小堀仁右衛門家は600石の旗本で、代々禁裏の作事を担った。武家茶道の一派小堀遠州政一(天正7(1579)年~正保4(1647)年)に始まる遠州流分家。小堀仁右衛門家初代小堀正春が遠州の異母弟に当たる(以上はウィキの「遠州流」を参考にした)。何となく感触でしかないが、これは遠州流茶道若しくは大名にして茶人、建築家・作庭家でもあった小堀遠州と何らかの関わりがある話柄なのかも知れない。

・「三千石以上」旗本で3000石以上になると正式な任官によって官職を名乗れるようになることから、後の「出世」に合わせたものであろう。

・「家司」平安中期以降、親王家・内親王家・摂関家・大臣家・三位以上の家にあって家政一般事務を司った職。いえつかさ。読みは「けし」の転。

・「藤の森」現在の京都府京都市伏見区深草鳥居崎町にある藤森(ふじのもり)神社。境内は現在の伏見稲荷大社の社地で、ウィキの「藤森神社」 によれば、『その地に稲荷神が祀られることになったため、当社は現在地に遷座した。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した』とある。底本の鈴木氏注には、「雍州府志」(浅野家儒医で歴史家の黒川道祐(?~元禄4(1691)年)が纏めた山城国地誌)によれば、『弘法大師が稲荷神社を山上から今の処へ移した時、それに伴って藤杜社を現在地へ遷したものであるといい、稲荷と関係が深く、伏見稲荷に詣れば藤森にも参詣するのが例であった』と記す。伏見稲荷は正一位稲荷大明神である狐=稲荷神の本所である。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 小堀家屋敷内稲荷の事

 

 京都に住む上方郡代小堀数馬殿の祖父の代のこととか。

 ある日、殿のお留守に、屋敷玄関へ三千石以上と思しき多勢の供廻りを引き連れて参った者が御座った。取次ぎの者が主人の留守を詫びつつ、とりあえず下座敷にお通ししたところ、

「拙者○○儀、小堀殿に長々御世話に罷りなり、また長年の御厚誼御厚情に預かって参りましたが、この度、目出度く出世致いて他国へ罷ることと、相成り申した。これに依って、御暇乞いに参上致しまして御座る――どうぞ数馬殿にはよろしゅうにお伝え下され――。」

と言い置いて帰った。

 取次の者もそれを垣間見た者も誰もが不思議に思ったのは、洛中にての往還の折りは勿論のこと、嘗て、かくなる御身分御尊顔の「○○」という御方が、この小堀家に訪ねてこられたことは、ついぞなかったからである。

 如何にも奇怪(きっかい)なることと、帰宅した殿に、その不審と共にかくなる御仁の御来訪の由申し上げところ、公家・武家・その他家司、また過去に召使(つこ)うた者なんど、殿もいろいろ挙げてはみられたものの、「○○」という名前の者は、これ、存じ上げぬ――不審なるままに数日が過ぎた――。

 そんな、ある夜、殿の夢に、屋敷内に鎮守としてある稲荷の白狐が現れ、

「――久しく御貴殿御屋敷内に居住致いて御座ったが、この度、藤の森御指図これあり、他国へ昇進と相成ったれば、不審なる者と思われたことと存ずれども、まずは御暇乞いにと参ったまで。――なおも疑しくお思いならば、明朝、座敷の縁を清めておかれるがよかろう。最後に参って、御目見え申そうぞ――」

と殿に語りかけた。

 夢とはいえ、あまりに不思議な附合にては御座ったれば、翌朝、座敷の縁側を塩水などを打って清め置き、殿もその縁の内座敷にて座って御座った。

 ――と、庭先に一匹の白狐が現れた。

 ――ぴょん――とん――

と縁の上に上って、暫くの間、うずくまって――そうして程なく――立ち去った――

 これを見て、殿は、

「さては稲荷に住む白狐の立身出世して御座ったか!」

と御神酒や赤飯などを供えて祝したということで御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 鄙姥冥途へ至り立歸りし事

 

 番町小林氏の方に年久敷召造ひし老女ありけるが、以の外煩ひて急に差重り相果けるが、呼(よび)いけなどしてほとりの者立さはぎける内に蘇生しけるが、無程快氣して語りけるは、我等事まことに夢の如く、旅にても致し候心得にて廣き野へ出けるが、何地(いづち)へ可行哉も不知、人家有方へ至らんと思へども方角しれざるに、壹人の出家の通りける故呼かけぬれど答へず。いづれ右出家の跡に付行たらんには惡しき事もあらじと、頻りに跡を追ひ行しが、右出家の足早にして中々追付事叶はず、其内に跡より聲をかけ候者ありと覺へず蘇りぬと咄しける由。小林氏の親敷(したしき)牛奧(うしおく)子(し)のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:霊験譚連関。

・「鄙姥」「ひぼ」と読み、田舎出の守女の意(老人とは限らない)であるが、老女でよかろう。

・「番町」所謂、山の手で、皇居に面した西の一帯。現在も当時と同じく名称は一番町から六番町で構成されている。北に抜けると靖国神社である。旗本の内、SPに相当する将軍警護役を大番組と呼んだが、彼等の居所がここにあった。

・「小林氏」不詳。

・「呼いけ」「魂呼(たまよばい)」のこと。私の好きな分野である。まずはウィキの「魂呼ばい」から引用する。これは『日本および沖縄の民間信仰における死者の魂を呼びかえす呪術行為である。死を不可逆的なものと見なさず復活の可能性が信じられたところからくる』もので、『現代日本では死体は火葬に付されるのが一般的で復活の観念は生じにくいが、後世火葬が完全に定着するまでには長い時間を要し、それまでは土葬が主流であった。特に古代では埋葬する前に殯(もがり)という一定期間を設け、復活への望みを託した』。現在でも『死者の出た家の屋根に登って、大声で死者の名を呼んだりする風習が』残っている。歴史的に『魂呼ばいが記録に残っている例としては、平安時代の「小右記」万寿2年8月に藤原道長の娘尚侍が死亡した夜行われた例が見える。このことからも当時の貴族の間にも儀式の慣習が残っていたことがうかがえ』(記号の一部を変更した。「小右記」は平安時代の公卿藤原実資(さねすけ 天徳元(957)年~永承元(1046)年)の日記。万寿2年は西暦1025年)、『沖縄では「魂込め(マブイグウミ)」「魂呼び(タマスアビー)」などの呼称があり、久高島では「マンブカネー(魂を囲い入れる、というような意味)」と呼ばれる。マンブカネーで興味深いのは、儀式から魂の出入り口が両肩の後ろ辺りに想定されていると思われる点である』とある。

――最も手頃にこれを見ることが出来る例は黒澤明の映画「赤ひげ」である。石見銀山を煽って危篤に陥った長坊に、療養所の女たちが井戸に向かって「ちょうぼう!」と叫び続ける印象的なシーンである(ここはカメラ・ワークも素晴らしい)。

――大学時代に私が唯一畏敬した漢文の吹野先生が講義の中で、御自身の出身地である茨城での少年期の記憶を話されて、亡くなった直後に親族の者がその人の衣服を持って屋根に上り、西(と言われたかどうかは今は定かでないが、とりあえず「西」としておく)に向かってその服をばたばたと煽った事実を話されたことを思い出す。

――また、俳優のジーパンこと松田優作が膀胱癌で亡くなった日(逝去は平成元(1989)年11月 午後6時45分)の夜のニュースを私は思い出す。松田優作の自宅門外が中継された映像で、記者がコメントをする背後に、「優作さ~ん!」と何度も連呼する男の声がかぶった。私は一聴、これは「太陽のほえろ!」で後輩刑事役に当たるロッキー刑事役木之元亮の声であると分かった。恐らく視聴者の中には、あの時、彼は目立ちたいの? なんどと思っている人が、きっといるんだろうなあと私は思った。彼は松田優作の、この世を離れんとする魂を呼んでいたのだった……私はしみじみ、あれ以来、俳優木之元亮が大好きになった。因みに、彼は北海道釧路市出身で、元漁師である。

・「出家」岩波版長谷川氏注に『冥界であう出家は地蔵』菩薩である旨、記載がある。

・「親敷」底本では右に『(尊經閣本「親友」)』とするが、採らない。

・「牛奥」旗本の中にこの姓があり、先祖は甲斐の牛奥の地を信玄から与えられてそのまま名字としたらしい。岩波版長谷川氏注には幕臣で、鎮衛の一族(但し、東洋文庫版鈴木棠三氏注の孫引きの指示有り)とする。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老女が冥土に至りながら生還致いた事

 

 番町の小林氏の御屋敷に長年召し使っていた老女があったが、俄かに重き病を発し、瞬く間に危篤と相成って息を引き取ってしまった。

 普段の臨終と同様、大声で老女の名を呼んで魂呼ばいの儀式なんどを致いて、床の周囲の者どもが立ち騒いでおったところ、何と! 蘇生致いたのであった。

 老女はほどなく快気致いて、その折りのことを思い出して、次のように語ったという。

「……我らこと……誠(まっこと)夢を見ておりますような感じで御座いましたが……旅でも致しておりまするような心地にて、ふと気がつきますと……広い、広い野原へ出でおりました……何処へ行けばよいやらも分からず……ともかくも人家のある方へ参ろうと思いましたが……一向に方角も知れませなんだ……そこへ……ひとりのお坊さまが通りかかられたので……「もし!」……と声をお掛け致いたれど……返事は御座らず……ただひたひたとお歩みになられる……されど……いずれ……お坊様なればこそ……このお坊さまの後について行くならば悪しきこともなかろうと存知まして……ただもうお坊さまの後を追いかけて行きましたが……このお坊さま……いえもう大層足が早やいお方にて……なかなか追いつくこと叶いません……ただただ御跡を慕いて参りますうち……おや? 誰ぞ……後ろから声をかけて参る者が……おる……と思うか思わざるかのうち……蘇って御座いました……」

 小林氏と親しくして御座る牛奥(うしおく)氏が私に語った話である。

 

 

*   *   *

 

 

 人の命を救ひし物語の事

 

 予留役勤たりし頃同役なしつる石黑平次太は、尾州の産にて親は尾州の御家中なりし。彼親小右衞門とやら言し由、壯年の頃任俠をもなして豪傑にてありしが、獵漁を好みて勤の間には常に漁獵などを慰みけるが、或日川漁に出て夜深(よふけ)の川邊へ出しに、年若き男女死を約せしと見へて、今はこふと思はれければ、早速立寄て引留、何故に死せるやと尋ければ、兎角に死なねばならぬ譯あり、見ゆるし給へとかこちけれども、何分我等見付ては殺し候事成がたしと、品々教諭して、ひそかに我宿へ召連れ委しく承ければ、右男女ともに名古屋の町人の子共なるが、隣づらにてひそかに偕老のかたらひをなしけるが、娘の親なる者は近年仕出し候俄分限(にはかぶんげん)ゆへ、色々媒(なかだち)して願ひけれ共親々得心なく、娘の親も容儀の艷成(ゑんなる)にほこりて、令偶を求めて是亦心なかりければ、かく死を申合せぬるとかたりぬ。夫より彼石黑聞て、何か我に任せよ、始終よきに計らんと彼町人の許へ至り、何か物騷しく忌はしき體(てい)也、いかゞせしと尋しに、壹人の倅風與(ふと)罷出行衞不相知、隣成る娘も是又行衞しれざれば、申合缺落(かけおち)にても致したるならん。若(もし)申合相果もいたし候哉(や)と兩親の歎き大方ならず、江戸上方へも追々追手を差出し、國中をもかくごとく搜し侍ると申ければ、夫は氣の毒なる事也、命だにあらば隨分穿鑿の仕方あらん、隣の兩親をも呼て來れ、我相談いたし遣はさんといひけるにぞ、露をも賴の折から故、早速隣家へも申遣しければ、彼夫婦も取敢へず來りける故、ちと我等搜し方の工夫有り。然し何故年頃似合の兩人、夫婦には致さるぞと尋ければ、さしたる事もなけれど、かくあるべしとも思はず、等閑に打過ぬるよし答ければ、内證には譯もあるべけれど、此人兩人は死しと思ひ、我等に兩人を給りなば手段付可申(つけまうすべし)といふに、いかにも差上可申と兩家の夫婦とも歎きければ、さらば語り聞せん、かく/\の譯を見候故、品々異見して我方へ召連歸りたり。我等に給はる上は我等方にて夫婦の盃婚姻の禮をなして、爰元へ送り歸すべしと申ければ、兩夫婦は誠に我子の活返りし心地して悦び、早速婚姻を調へ目出度榮へけるが、親共存命の内は申に不及、右夫婦兩家の者は、石黑方へは親同前に立入り、今以通路しぬると語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:実際の三途の川一歩手前からの生還で連関。また先行する「孝子そのしるしを顯す事」「又」等と同じく評定所留役時代(宝暦131763)年~明和5(1768)年)の話でも連関。

・「留役」評定所留役。基本的には将軍の直臣である大名・旗本・御家人への訴訟を扱った司法機関の一つであるが、原告被告を管轄する司法機関が同一でない場合(武士と庶民・原告と被告の領主が異なる場合等)、判例相当の事件がなく幕府各司法機関の独断では裁けない刑事事件や暗殺・一揆謀議等の重大事件も評定所の取り扱いにとされた。本件は原告若しくは被告の連座する者の中に武士階級が居たか、廻船絡みであるから、原告被告の領主が異なるのかも知れない。「評定所留役」とは評定所で実際に裁判を進める予審判事相当格。この職は勘定所出向扱いであるため、留役御勘定とも呼称する。

・「石黑平次太」底本鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注ともに石黒敬之(よしゆき 正徳六・享保元(1716)年~寛政3(1791)年)とする。御勘定を経て、『明和三年(一七六六)より天明元年(一七八一)まで評定所留役』(長谷川氏)であった。父は尾張藩の臣牧七太夫舜尚の四男。文中、『小右衛門とあるのは牧七太夫の子で、石黒伴政の養子となって同家を嗣いだが、子がなかったので弟平次太を迎えて養子にした』(鈴木氏)とある。何か分かったような分からんようなフクザツなことで……。ともかくも間違えてはいけないのは、この話の主人公は石黒平次太ではなく、その親=兄である石黒小右衛門で、場所も尾張名古屋である点である。この話を根岸が聞いたのは石黒平次太敬之と根岸鎭衞の共有する時間内であるから、明和3(1766)年から明和5(1768)年の2年間に絞られる。

・「尾州の御家中」の「尾州」は尾張国。「御家中」は尾張藩。ウィキの「尾張藩」より引用すると、『愛知県西部にあって尾張一国と美濃・三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格にして最大の藩であり、諸大名の中でも最高の家格を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は619500石』。

・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。

・「俄分限」急に大金持ちになること。また、その人。

・「令偶」「令」は「よい」の意、「偶」は「配偶者・連れ合い」又は「めあわせる」の意であるから、高貴な家柄との縁組を言う。

・「此人兩人」底本では右に『(尊經閣本「此子供兩人」)』とある。「子供」は死に、立派な大人の夫婦となるべき流れなればこそ、こちらを採る。

・「夜深(よふけ)」は底本のルビ。

・「風與(ふと)」は底本のルビ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人の命を救った物語の事

 

 私が評定所留役を勤めていた頃、同役で御座った石黒平次太は尾張の出身にて、親は尾張藩の御家中の者であったという。

 彼の父――実は実の兄――小右衛門(こゑもん)とやらは、壮年の頃、任俠を以って鳴らし、豪傑を誇っておったが、殊の外、狩漁を好み、勤めの合間には常に山野水辺を駆け回って、狩りを楽しみとして御座った。

 ある日のこと、川漁のために夜更けの川辺に出向いたところ、年若い男女がおり、相対死(あいたいじに)を約せしと見えて、今は最期と入水せんとすると思われたので、小右衛門、ずいと近づいて、二人をむんずと摑んで引き留め、

「何故に死なんとするカッ?!」

と雷のような声で糺した。すると、小右衛門のあまりの怒気に押されたのか、男は消え入るような声で、

「……兎も角も……死なねば成らぬ訳(わけ)が御座います……どうか……どうか何卒、お見逃し下さいませ!……」

と歎き訴えたけれども、小右衛門、

「――何分、我ら、うぬらの今わの際を見つけた以上は、見殺しに致すこと、これ成り難し!」

と一喝した。

 その後、あれこれ説教致いて、ともかくも取り敢えずはと、人目を忍んで小右衛門宅へ召し連れ、そこで詳しく訳を尋ねてみたところ――

……この男女、共に名古屋の町人の子供で、隣同士の幼馴染みにて、いつしか惹かれ合(お)うて秘かに夫婦(めおと)を誓い合う仲となった御座ったのだが、この娘の親なる者はこのところ、急に金回りが良くなって売り出してきたところの、所謂、俄分限で――男の親は内心俄分限の隣りを馬鹿に致し、俄分限の隣りは構えの割にはうだつの上がらぬ隣家を馬鹿にする――ここにきて男も女もいろいろと陰に陽に知る人がりに媒酌してもらい、夫婦(めおと)にならんことを願い出たけれども、双方親共、けんもほろろ。加えて俄分限となって勢いに乗っている娘の親は、ちょいとばっかり娘が艶っぽいのに思い上がって、名家に御縁を求めようなんどという欲を出し、およそ色好む二人の心を分かる心なんどは、これ全くない……

「……さればこそ……かくの如く、死を申し合わせまして御座います……」

と語った。

 小右衛門はそれを聞き終えるや、

「よし! 何もかも俺に任せろ! 悪いようには――しねえぜ!」

と言うが早いか、二人をそのまま屋敷に居させた上、自身はまず、男の方の町家を何食わぬ顔で訪ねた。

「――何だ! 何だ! 妙にもの騒ぎで五月蠅(うるせ)えじゃねえか! 何だってえんだッ?!」

と例のドラ声一発で質いたところが、吃驚した家の者、平身低頭、

「……これはどうも五月蠅きことにて失礼致しました……実はこの家(や)の一人息子が行方知れずと相成りまして……また、隣の家(や)の娘も、これまた行方知れずになって御座れば……これは申し合わせて駆け落ちでも致いたに違いない……いいや、もし相対死でも致いたのではあるまいかと……両親の嘆きも一方ならず……ともかくも江戸・上方へも追っ手の者を差し向け、国中をも何としても探し出さんものと……と申せ、両家とも実のところ、捜しあぐねておるので御座いまする……」

と申す。そこで小右衛門、徐ろに、

「それは気の毒なことじゃ! そうなれば、命さえ無事ならよしと致さば――うむ! ならこそ捜索の仕方もあろうぞ! されば、隣りの両親をも呼んで参れ! 儂が一つ、力になろう程に、まずは皆々相談の上――」

と提案した。これを伝え聞いた男の父は、藁にも縋りたい心持の折柄、早速、隣家にも伝えたところ、女の両親もとりあえず揃うた。そこで小右衛門、

「実はの、我らには探し方に我ら独特の伝手(つて)がある――されば大船に乗った気持ちでよいぞ。――しかしのう、仄聞致いた限り年頃似合いの両人、何故(なにゆえ)、夫婦(めおと)に致さざるか?」

と質したところが、両家共、

「……へえ……これと言って、さしたる理由は、これ、御座いませぬが……」

「……こんなこととは露知らず……等閑(なおざり)に致いて御座いましたれば……」

と如何にも歯切れが悪い。そこで小右衛門、すかさず、

「内々にはそれぞれに何ぞ訳も御座ろうがの――一つ、うぬらの子供両人は、最早死んだ、と思うて――我らに両人を呉れてやったという覚悟になれるのであれば――さすれば、探し出す手段に付、今すぐに申し上げること、出来ようぞ! 如何(いかが)?!」

と重厚な面持ちにてやらかした。すると、

「……如何にも!……」

「……へえ、差し上げ申しますればこそ……どうかよろしゅうに!」

とすっかり意気消沈している両家夫婦、訳も分からず気押されて、泣きの涙に合点した。

 それを聞いた小右衛門、すっくと背を伸ばして、

「さらば語り聞かさん! 我ら……かくかくしかじか……という訳で、実は両人相対死致さんとせしところを見咎め、いろいろ意見致し、我が屋敷に召し連れて帰ったのじゃ!――二人は我らが賜わった以上、我ら方にて夫婦(めおと)の盃、婚姻の儀を成してそこもとらへ送り帰さんと存ずる!」

と言上げ致いたところ、両家夫婦は、真(まこと)に子供らが生き返ったかのような心地して大いに悦んだのであった。

 小右衛門はそのまま屋敷に戻るなり、早速に二人の婚礼を調え、目出度く夫婦の契りを結ばせたという。

 二人はその後も末長く幸せに暮らして家も栄えた。

 二人の両親存命の間は申すに及ばず、その後もずっと、この夫婦及び両家の家人たちは、石黒家へは親元同様に立ち寄り、今以って親しく交わって御座る――と、実の弟石黒平次太が語ったことで御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 人の血油藥となる事

 

 ひゞあかぎれの類其外切疵などに、穢多の元より出る膏藥妙なる由。右穢多膏藥は專ら人油(じんゆ)を用るといふ物語の序、是も石黑かたりけるは、同人一族の由、尾州にての事成しが、至て強勇の兄弟あり。或夜盜賊大勢押入て家財を運ぶ樣子聞付て、兄弟枕にありし刀を引下げ立出けるに、盜賊共庭へ逃出しを追缺(おひかけ)、矢にはに兩人切倒しけるが、兄なる者けさに切倒したる胴の中へ、其足先を踏込(ふんごみ)しと也。跡にて兄語りけるは、右胴へ踏込侯節は、誠に熱湯へ足を入し如く、扨々人の血肉は熱する物也と語りしが、右兄從從來垢切にて難儀せしに、其年よりは右踏込し方の足はあかぎれ絶てなかりしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:石黒平次太談話にて連関。一種のプラシーボ効果かも知れず、はたまた、かくなる効果がないとも言い切れぬであろう。しかし、どうも本件には、その導入部分からして、明白な差別意識が働いている。その点を十分理解しながら、批判的に読み下されんことを望むものである。

・「油藥」読みは「ゆやく」か。「あぶらぐすり」でもよい。

・「人油」この話柄は前後が天明の大飢饉絡みであることから、高い確率で飢饉で人肉食が行われた事実が談話の中に上ったことから引き出されてきた話ではないかと私は推測するものである。

・「穢多」平凡社「世界大百科事典」より引用する(句読点及び記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって17世紀後半から18世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。1871年(明治4)8月28日,明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが,これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ,「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては,鎌倉時代中期の文永~弘安年間(126488)に成立したとみられる辞書「塵袋(ちりぶくろ)」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ 穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また,ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが,末尾の「穢多」の2字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は,鎌倉時代末期の永仁年間(129399)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では,鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取(えとり)」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』(著作権表示:横井清(c 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

・「石黑」石黒平次太敬之。前話注参照。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人の血が油薬となる事

 

 ひび・あかぎれの類、その他、切り傷などに、穢多が製薬した油薬(あぶらぐすり)が絶妙な効果を持っている由。

 偶々談話の折り、この穢太膏薬なるものは専ら人肉・人血を素材とした油を用いるらしいという話に及んだ際に、やはり石黒平次太が語った話で、以下、同人一族の、知れる者の実話なる由。

 尾張国での話、恐ろしく強腕の兄弟があった。

 ある夜のこと、彼等の屋敷に盗賊一党が押し入り家財を持ち出す様子を聞き付け、兄弟、枕元の刀を引っ下げて立ち出でたところ、盗賊どもは庭に逃げ出した。

 それを追撃して矢庭に二人切り倒したが、兄なる者――兄弟して先に袈裟懸けに切り倒した盗賊の――その残骸の胴の中に、もろに足を踏ん込(ご)んだという。

 その後、兄なる者の話に、

「あの時、斬ったばかりの遺骸の胴に足を踏ん込(ご)んだ時は、誠(まっこと)、熱湯に足を入れた如く、さてもさても人の血肉とは、熱きものじゃ!」

と語ったというのだが――この兄なる者、それまで冬になればあかぎれ致いて難儀致いておったものが――その件の御座った年の冬以来、この踏ん込(ご)んだ方の足のみ、あかぎれが絶えて生じなくなったとのことである。

*   *   *

 

 

 仁慈輙くなせし事

 

 御靈屋(おたまや)へ予拜禮せし序、東叡山の執事たる佛頂院の許へ立寄けるに、酒などいだし暫く物語せしが、咄の序に、過し天明卯の年諸國農作不熟して米穀の價ひ百文に四合五合に商ひし頃、萬民難儀なしけるが、淺間の燒砂降し村々、公儀より御救ひの御普請も被仰付、其外百姓及び御府内(ごふない)の賤民へも御救ひを給り、家々戸々よりも志のある者は夫々の施しをなしぬ。佛頂院などは釋門(しやくもん)の事なれば、朝夕此事に召仕ふ者にも申仕て心懸しかば、限あるを以はかりなきに施す事可行(ゆくべき)樣(やう)もなかりしが、佛頂院へ隨身せし小僧ありしが、日々佛前へ備へ、或は法施(ほつせ)の米食など、常は庭上に其所を極め鳥などにあたへけるを、取集め置て飢に沈む者へ給るやう致べしとて申ける故、尤の事也とて其意に任せぬれば、辰春(たつのはる)に至りては餘程の干飯(ほしいひ)にいたしぬ。よく社(こそ)致しぬるとて、辰の四月日光へ御門主の御供して罷りし頃、旅中飢渇のものへ散財して施し與へしに、御神領などよりは厚く禮に參りしも有しと語りぬ。その小僧は賴母しき出家也、今は如何致せしと尋ければ、此節は上方へ學問に遣しけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない、というか、どうも前話は、既に述べてある通り、私には不快な話(言っておくが、それは「生理的に」ではない。やはり被差別者に関わる話だからである)であって、その連関を述べたい気持ちさえ失せると言っておく。

・「仁慈」思いやりや他者への深い情け。

・「輙く」は「たやすく」=「容易く」と読む。

・「御靈屋」一般名詞としては先祖の霊や貴人の霊を祀る霊廟のことであるが、ここでは徳川将軍霊廟のこと。寛永寺と増上寺及び日光の輪王寺(徳川家康と家光)の三箇所に分納されている(最後の徳川慶喜は霊廟はなく東京谷中霊園に墓所がある)が、ここでは直後に山号「東叡山」とあるので寛永寺を指す。徳川将軍15人の内、家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定の6人を祀る霊廟があった。現在、日光以外があまり知られていないのは太平洋戦争の空襲によって殆んどが焼失したためである。

・「執事」寺院に常駐して家政及び事務一般を司る僧侶。住職代理に相当。

・「佛頂院」寛永寺塔頭(たっちゅう)の一つであるが、現存しない。

・「天明卯の年」天明3(1783)年。

・「米穀の價ひ百文に四合五合に商ひし頃」前掲「鎌原村異變の節奇特の取計致候者の事」の「米穀百に四合五合」の注を参照のこと。

・「法施」仏に向かって経を読み、法文を唱えることを言う。ここでは仏像への日々の供物としての仏飯に対して、勤行法要等の際に、それとは別に施主から施される仏飯等を言っているものかと思われる。

・「辰春」翌天明4(1784)年の春。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この謂いからは、本話柄を根岸が聞いたのは天明5(1785)年か翌6年の間に絞り込むことが出来るものと思われる。但し、鈴木氏の執筆区分を考えずに推測するならば、天明の大飢饉の終息後のこととも考えられ、だとすれば天明8(1788)年以降の話柄とも考え得るが、終盤の遊学云々の描写はここから5年以上が経過しているようには思われない。

・「御府内」江戸町奉行支配の及ぶ江戸市街区域を言う。文政元(1818)年に、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内と定められた。

・「御門主」門跡寺院(皇族・貴族が住職を務める特定の寺院)の住職を言う。寛永寺は問跡寺院で、特にその門主を「輪王寺宮」と呼称した。寛永201643)年に開山の南光坊天海没後、『弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山する。その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。法親王は承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなった。以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた』。輪王寺宮は『水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた。東国に皇族を常駐させることで、西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)』とある(以上、引用はウィキの「寛永寺」から)。

・「御神領」日光東照宮領。社殿神域に加え、経済維持のための周辺近隣に及ぶ。前記注の如く、その最高責任者も輪王宮である。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 仁慈なるものは容易に行い得る事

 

 ある時、寛永寺御霊屋を拝礼致いたついでに、その頃、同寺執事に当って御座った塔頭仏頂院に立ち寄ったところ、酒など出されて歓待されたことがあった。その際の雑談の中で聞いた話で御座る。

 過ぎし天明三年のこと、諸国農作物不作となり、米価、小売り百文で四、五合という値いまで高騰、万民難渋致いたは記憶に新しい――。

 加えて同年七月の浅間大噴火――その火山灰や土石流が降り下った村々には、御公儀より救援の御普請方も仰せつけられ――私自身、その役を仰せつかったので御座った――その他広範な地域の百姓及び御府内の賤民に至るまでも御救済方思し召しを賜わり、ありとある町屋百姓の主だった家々からも、その志ある者は、それぞれに出来得る限りの施しを致いたもので御座った――。

「……本院などは、これ、仏門のことなれば、言うに及ばず、朝夕この窮民救援の仁慈のこと、召し使(つこ)うておるあらゆる者どもに申しつけ、心懸けさせては御座ったれど……仏道の本意たるところの――「施さん」との無辺の仁慈を以って、しかも聊かも「施さん」という卑小なる作善の思い上がりを持たずに「施す」こと――これ、なかなか難しいことにて御座った。

 そんなある日のことで御座った。

 本院にて修行致いておる一人の小僧が御座ったのじゃが、この少年が、

『日々仏前へお供え致し、或いは法事の際に御布施として致します仏飯などは、今まで、それを目当てに致いて常に庭にやってくる鳥なんどに与えておりしたが、これをやめ、皆々集めた上で腐らぬように保存致し、飢餓の底に沈み苦しむ民へ給わられるよう、取り計らわれるとよろしいかと存じます。」

と申します故、

『それは誠(まっこと)よきことを思いついたの。』

とて、この小僧の思うように任せてみ申したところ、翌天明四年の春までには相当量の干飯(ほしいい)を造り成して御座った。

 同年四月初夏、この小僧は寛永寺御門主輪王寺宮様に随身して日光東照宮へ参詣致いたので御座ったが、かの干飯を、道中、沿道の飢渇せる者どもに、広く施し、分け与えたので御座った。

 後日、沿道に当って御座った御神領各所の、その施しを受けた民ぐさの中には、輪王寺宮様へ厚く礼に詣でた者も御座ったと言いまする――。」

聞き終えた私は、感嘆して言った。

「その小僧――なかなかに頼もしき沙門じゃ。さても、今はどうして御座るか?」

と尋ねたところ、

「この度は上方へ学問に遣わして御座います。」――

 

 

*   *   *

 

 

 神道不思議の事

 

 凡そ世の中に巫女神人(じにん)など神變不思議をかたり奇怪の事をなすなどあり。予其怪妄を親しき鬼女の戲れと思ふ事のみなりし。安永の酉年より同亥年迄、日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤せしに、日光山御宮の御威光奇特(きどく)は申も恐れなれど、正(まさに)外遷宮(げせんぐう)の夜は今まで打曇りし空もはれ渡り、吹風枝を鳴らさぬ有樣、申もおろかながら、是は誠に宇宙を平均なし給ひ、御武德千歳の今も津々浦々迄其澤(たく)を蒙らざるものもなく、萬人渇仰の御所德なれば申も愚かならん。其外日光は深山幽谷たり、魔魅の住所迚(とて)是迄色々の奇怪を申習しぬれど、予三年の在勤の内聊怪しき事も聞かず。或日新宮の御湯立(ゆだて)とて、本坊御留守居の寺院より案内にて、右拜殿の棧敷へ至り、松下隠州丸毛一學依田五郎左衞門など一同見物なしけるに、湯立の釜三つ鼎(かなへ)を並べ熱湯玉をほとばしる、神人白き單物(ひとえ)を着し風折(かざをり)烏帽子にて白きさしぬきをして、神樂(かぐら)に合せ舞曲を盡す。右舞曲神樂のさまいかにも古雅にして、今江戸表などにて舞はやすの類ひにあらず。さて熱湯に向ひ何か祈念して幣帛(へいはく)をとりて、右柄をもつて湯の中ヘ書き湯中を廻しぬるに、湯氣ほとばしり煮たつ煙すさまじかりしが忽に靜りぬ。扨笹の葉をとりて己が身へ浴びけるに、湯かたさしぬきもひた濡れに成ぬれど、聊かあつきと思ふ氣色もなし。傍に見物せし者へ右湯のかゝけるに、誠にたゆべくもあらぬ由。誠に神國のしるし、神道のいちじるき事を始て覺へぬる故爰にしるし置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:日光東照宮連関。それにしても前にも指摘したが根岸は神道には寛容。かなりの国学肌を感じる。

・「神人」日本史の用語では神社に隷属し雑役などを行った下級の神職・寄人(よりゅうど)を指し、正式な神主・神官とは厳然と区別されるが、ここでの根岸の謂いは神主・神官などをも広く含んでいるものと思われる。

・「安永の酉年より同亥年迄」安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。

・「日光御宮」徳川家康を神格化した東照大権現を祀る日光東照宮。

・「御靈屋」岩波版長谷川氏注では徳川家光廟があるとのみ注する。これは日光東照宮は徳川家康を神格化した東照大権現を祀るものであり、所謂、狭義の「御靈屋」家光の大猷院廟のことのみを言うと判断されての注と思われる。また、厳密に言うと大猷院廟は神仏習合であった輪王寺の中にあるので、「日光御宮」は家康の霊廟を示したものとし、これを大猷院廟とされたのでもあろう。

・「本坊向」「本坊」は日光山輪王寺のこと。天台宗。当時は神仏習合で日光東照宮・日光二荒山(ふたあらやま)神社と合わせて「日光山」を構成していた。ウィキの「輪王寺」によれば『創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた』。『「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもあり、堂塔は、広範囲に散在して』おり、先に記した『徳川家光をまつった大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い』とある。「向」は輪王寺関連付属施設の謂い。

・「御普請御用」底本注に「寛政譜」を引用する。『安永六年十一月二十九日、さきに日光山御宮御霊屋本坊等の修造を監し、それより八年十二月十二日、しば/\日光山に赴き諸堂社修復のことを奉行せしにより、黄金十五枚をたまはり、ことにその労を慰せられて二領を恩賜せらる』。

・「奇特」これは「きどく」と読んで、神仏の持つ超人間的な力や霊験のことをいう。

・「外遷宮」日光東照宮では本社を修理する際には祭神東照大権現の神霊が一時的に御仮殿(おかりでん)と呼ばれる建物に移された。この儀式を外遷宮と言う。一般的に伊勢神宮のような例外を除いて神社本殿の改築・修理では仮社殿を直前に設置し、新本殿完成後は仮社殿は取り壊すのが普通であるが、日光東照宮では古くは本社修理が頻繁に行われたために、この御仮殿は常設建物となった。寛永161639)年建立と伝えられ、本社と同様、拝殿・相の間・本殿からなる権現造りとなっており、神儀一切が本社と同様にここで行われた。この外遷宮式は過去19回行われているが、文久3(1863)年を最後として、その後は行われていない。

・「新宮」上記「本坊」で示した「日光山」を構成する日光二荒山神社のこと。日光の三山である男体山(二荒山)・女峯山・太郎山の神である大己貴命(おほなむちのみこと:大国主)・田心姫命(たごりひめのみこと:宗像三女神の一人。)・味耜高彦根命(あぢすきたかひこねのみこと)三神を二荒山大神と総称して主祭神とする。以下、ウィキの「日光二荒山神社」から引用する。『下野国の僧勝道上人(735 - 817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に766年に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建て、それに続いて神護景雲元年(767年)、二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたのが当社の始まりと伝える』。二荒山は「ふたらさん」とも読むが)これは一説に『観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、のちに弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。空海はその訪れた際に女峯山の神を祀る滝尾神社を建てたという。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った』。戦国期には一時衰退したが、『江戸時代初め、隣接して徳川家康を祀る日光東照宮が創建され、当社はその地主神として徳川幕府から厚く崇敬を受けた』。『江戸時代までは神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400ヘクタールという、伊勢神宮に次ぐ面積となっている』。

・「湯立」神前に釜を据えて湯を沸騰させ、トランス状態に入った巫女が持っている笹や御幣をこれに浸した後、即座に自身や周囲の者に振りかける儀式やそれから派生した湯立神楽などの神事を言う。これらのルーツは熱湯でも火傷をしないことを神意の現われとする卜占術の一種であった。

・「本坊御留守居の寺院」これは恐らく寛永寺門主で日光山主を兼ねる輪王寺宮が寛永寺に在って「不在」の折りの「留守居」役=執事役の塔頭寺院のことであろう。

・「松下隱州」松下隠岐守昭永(あきなが 享保6(1721)年~寛政9(1797)年)。底本の鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注に、御先手鉄炮頭から安永61777年に作事奉行、翌年に鑓(やり)奉行を歴任したとあり、鈴木氏注には『作事奉行のときしばしば日光山に赴き御宮御霊屋及び本坊修理に当たったので、八年に黄金五枚を賜う』とあるから、彼がこの場にいる以上、本話柄は安永6年の出来事である可能性が高い。「卷之一」の「人性忌嫌ふものある事」に既出。

・「丸毛一學」岩波版長谷川氏注に、丸毛政良(まさかた)とする。それによれば、安永8(1779)年に本話柄に示された日光修理の業績で賞せられ、同9(1780)年普請奉行に、天明2(1782)年には京都町奉行就任したと記す。更に底本注では安永『六年根岸と共に日光山・世良田の竣功を検し』たとあるから、やはり本話柄は俄然、安永6年の出来事である可能性が高くなる。しかし、この人物、京都東山学園教諭石橋昇三郎氏の「天明伏見町一揆越訴事件の顛末記」によれば、京都町奉行としてはとんでもない悪吏となったようである。『天明七年の洛中での「天明の飢饉」による米価高騰の折、町衆が「お千度参り」なるデモンストレーションを御所の周りで繰り広げたが、時の東町奉行丸毛政良が、町民を救済するどころか、逆に米商人近江屋忠蔵らと結託し、米を隠匿し、米価をつり上げ、暴利を貪り、町年寄をも圧迫した為、町衆が「丸毛和泉守は商人なり」、奉行は「丸屋毛兵衛だ」と棹名して嘲ったという』とある(引用元注によればこれは原田伴彦著「江戸時代の歴史」三一書房の二五二頁及び辻ミチ子著「京都こぼればな史」京都新聞社刊の九一頁を参照した由)。直前で天明の飢饉の仁慈を称揚した同じ町奉行となった根岸にしてみれば、この丸毛の悪行三昧、怒り心頭に発したであろうこと、想像に難くない。

・「依田五郎左衞門」底本鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注に依田守寿(もりかず 享保13(1790年~寛政21790年)とする。長谷川氏注に『日光修理に関係。天明三年駿府町奉行。同八年御留守居』とある。

・「三つ鼎」「鼎」は金属製の器で通常は3本の脚を持つ。中国古代に於ける王侯の祭器とされ、後には王権の象徴ともなった。ちょっと分かり難いのであるが、「三つ」は三脚を意味し、その鼎を炉として、その上に釜を置いたのであろうか。とりあえずそのように訳しておく。

・「風折烏帽子」正式な立(たて)烏帽子は機能的でないため、上部1/3程度を折って用いることがあったが、これを烏帽子の一種として実用的に改良したもので、見た目は立烏帽子の頂が風に吹き折られた形になっている。狩衣(かりぎぬ)着用の際に用いられ、細かな礼式にあっては上皇仕様右折りで組紐使用、左折りで紙捻使用は一般用であった。極めて類似した略式のものに平礼烏帽子(ひれえぼし)というものもあった。

・「さしぬき」「指貫」と書く。袴の一種。裾口に紐を刺し通して、着用の際に裾を括って足首に結ぶもの。

・「幣帛」本来は神社で神官が神前に奉献するものを総称するが、所謂、一般に良く見るところの幣(ぬさ)のことである。ここでは前出の笹の葉が幣である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 神道の不思議真実(まこと)の事

 

 凡そこの世にあっては、巫女やら神主やらと称する者の中に、やれ、神変、やれ、摩訶不思議なんどと称し、語りならぬ騙りを致し、見るからに怪しげ千万な奇術なんどをして見せては、人を惑わす輩がおるものである。私は、永年、こうした奇術妄説の類い、十把一絡げに、女子供を驚かすだけの他愛のない戯れに過ぎぬとのみ思って御座った。

 しかし乍ら神道の不思議なること、これ真実(まこと)なり、という経験を致いたことがかつて御座った――。

 私は安永六年より安永八年に至る三年の間、日光東照宮・大猷院様御霊屋・本坊日光山輪王寺及びその附属建物、並びに日光山諸寺諸堂諸社諸祠の御普請御用のため、日光山に赴任して御座った。

 日光山の御宮の御威光やそのあらたかなる御霊力御霊験の程は、今更申し上げるも畏れ多いもので御座るが――まさにかの外遷宮の夜は――それまで曇って御座った空があっという間もなく晴れ渡り、それまで吹いて御座った風もぴたりと止んで、一枝一葉さへ鳴らさぬ有様となって、一山水を打ったように静まり返って御座った。申すも愚かなること乍ら――これは、真実(まこと)に全宇宙森羅万象を一つ残らず統べなさって、その広大無辺の御武徳が千年の後の今に至るまで、本邦津々浦々に至るまで、蒙らざるものは一つとしてない、この世のありとある万民が渇仰するところの御神徳の成せる技なればこそ――やはり、申すも愚かなることなので御座ろう――。

 今一つは、それとは別のこと、日光という場所、深山幽谷多き地にて、魔性のものや魑魅魍魎の類いが住まう所と噂され、これまでもいろいろと奇怪なる出来事これ有り、なんどと世間にては噂されて御座るが、私が三年在勤して御座った内、奇怪なる一件だに見聞きしたことはなかった――ところが――

 ある一日、新宮二荒山神社の御湯立神事の儀、これ執り行うに付、是非とも御参詣あれかし、と本坊輪王寺留守居の塔頭(たっちゅう)より案内(あない)これあり、二荒山神社拝殿の桟敷へと参り――当時共に日光山御普請御用に携わって御座った松下隠州守昭永(あきなが)殿、丸毛一学政良(まさかた)殿、依田五郎左衛門守寿(もりかず)殿らと一緒に見物致いたので御座ったが――。

 ……神前には三脚の鼎、その上に湯立の釜を置いたものを並べて、釜の内には熱湯が煮え滾(たぎ)って御座る……そこに神主、白き単衣(ひとえ)を着し、風折烏帽子を冠し、白き差貫を穿いて、神楽に合わせて神楽を舞う……その舞曲、これが如何にも古雅にして、今時の江戸表なんどで流行っておるところのえげつない舞いの類いなんどとは、比べものに成らぬほど品格が御座る。

 ……その後、神主、ごほごほと沸き立つ湯気に向かいて、何やらん祝詞を捧げ、幣帛(へいはく)を手にし、その柄を以って熱湯の中にずいと差し入れたかと思うと、柄にて何やらん文字なるようなものを熱水中に書いて御座る様子……と、かっと熱湯をこき混ぜる……と……それまでぐわらぐわらと迸(ほとばし)って煮立って濛々たる白煙を噴き上げて御座った朦々たる熱湯が、忽ちのうちに静まった……さても神主、徐ろに笹の葉を執りて湯にずんと差し入れ、即座に抜き取ると……己が身へばっさばっさと浴びせかける……神主の薄き浴衣差貫、すっかりひた濡れに濡れて、身ぐるみこれ熱湯にてずぶ濡れとなる……されど……聊かも熱がって御座る気色もない……時に、傍らにて見物致いて御座った者の一人に少しばかりこの幣帛の飛沫(しぶき)がかかって御座ったところが……その者、余りの熱さに耐えようもないほどであった由……。

 誠(まっこと)、神国の御印(みしるし)、神道の著しき霊験を初めて目の当たりして感無量、故にここに永き真実(まこと)の摩訶不思議として、記しおくものである。

 

 

*   *   *

 

 

 妖術勇気に不勝事 此一條鳩巣逸話を剽竊せる也

 

 上州高崎の人、當時武陽にありて語りけるは、或時怪僧壹人高崎の城下に來りて、色々奇妙の事などいたし呪(まじなひ)をなしけるゆへ、町家の者共信仰なしけるが、家中の者共も右の出家を呼て尊崇する者あり。雨中の徒然なる儘に、若侍四五輩集りて錢又は域砲の玉などを握りて居候を、右出家差向ひて取之に、其防成がたし。彼出家申けるは、我等右の手の中の品を取候間、右の手に小刀を持て我等が取候處の手を突き申さるべしとて、幾度か其業なしけるに、出家の手を突く事はならずして、兎角に握りしものをとられぬ。然るに同家中にて年ぱい成者其席へ來りて、手の内の物を人にとらるゝといふ不埒の事やある。われらが握りし品を取可申迚、左の手にて握り、右の手に小刀を持差出しけるに、彼僧さらば取り候とて立向ひしが、何分御身の掌中の品はとり侯事成難しと答ふ。さも有べし、武士の掌中の物を人にとらるゝなどいふては濟ぬ事也。かゝる戲れはせざるものなりとて其座を立て歸りぬ。跡にて若き者ども、何故にあの者の掌中の品はとられざるやと尋ければ、出家答ていふ。各が我等がとらんとする手を小刀にて突んとし給ふ故とらるゝ事なれ。彼人は其身の握りし拳ともに突んとし給ふゆへとらるべきやうなしといひて、高崎を立さりぬと人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:神道の真実(まこと)の霊験に対して、怪僧の幻術で連関。前話の謂いを用いるならば、これこそ「神變不思議をかたり奇怪の事をなす」ものであり、根岸が「其怪妄を親しき兒女の戲れ」と断ずる類のものである。

・「妖術勇気に不勝事」の「気」はママ。

・「此一條鳩巣逸話を剽竊せる也」章題の下にポイント落ちで附されている。これは狩野本章題下に書き込まれた後人の附加文であって根岸の言葉ではない。「鳩巣逸話」は「鳩巣小説」の別名。「剽竊」は「剽窃」と同音同義。室鳩巣(むろきゅうそう 万治元(1658)年~享保191734 ) は新井白石と並び称せられる儒学者。京都で儒学者木下順庵(元和7(1621)年~元禄111699)年:金沢藩主前田利常に仕え、後に幕府儒官・徳川綱吉侍講となる。)に師事し、同門の新井白石の推挙によって幕府儒官となった。合理的な人材登用制度である足高の制を設けるなど、享保の改革のブレーンとなった。後、吉宗及び家重二代に渡って侍講となった。赤穂事件の際には「義人録」を著して、主従の義を重んじた浪士を讃えたことでも知られる。底本鈴木氏注によれば、本話柄は室鳩巣が著わした随筆「鳩巣小説」(続史籍収覧所収)の三巻の下巻に、大久保彦左衛門の逸話として記されるという。『狐つきの老婆が侍たちの手巾を握らせ、取れと声をかけさせる拍子に、目に見えぬうちに抜取って見せるので大評判となったが、彦左衛門に対してはこの老婆も最初から手が出なかった。それは手拭を取ろうとすれば腕を斬落そうという勢だったからとてもできなかったと、老婆は後で語ったとある』とする。但し、鈴木氏も「剽竊うんぬんの語は当たらない」と付言されているように、私も根岸が確信犯で剽窃したものではないと考える。このような話柄が所と人を変えて、都市伝説として蘇えったものと考えるべきものであろう。根岸が「鳩巣小説」を読んでいなかった、読んでいたが内容が同一であったことを失念していた――いや、それこそこれは「鳩巣小説」の話柄の剽窃であることを十分承知していながら、その話柄の面白さから敢えて再生都市伝説としてここに採用したのではないかとさえ私は思うのである。何故なら、「耳嚢」の「ここ」に挿入する話柄として、これは如何にももってこいのものであり、更に武人譚としても極めて魅力的な話柄――根岸好みである。「鳩巣小説」の原文を読んでいないので明確には言えないが、鈴木氏の梗概と比して、こちらの方がシチュエーションとしてはよく出来ている感触さえ受ける――だからである。私は「鳩巣小説」は所持しない。何時か、「剽窃」原話の採録をしたいとは思っている。なお、この一条は批評注であるから現代語訳からは外した。

・「高崎の城下」高崎藩。大河内長沢松平家。譜代大名8万2000石。本話柄前後の時系列から天明年間であったとすれば、藩主は第5代松平輝和(てるやす 寛延31750)年~寛政12年(1800)年)。天明元(1781)年に家督を相続している。先代ならば父輝高(享保101725)年~天明元(1781)年)。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妖術は勇気に勝てぬという事

 

 上州高崎の人が、江戸に出て来た折りに語った話で御座る。

 ある時、一人の怪僧がぶらりと高崎の御城下に現われ、色々不思議なる幻術やら呪(まじな)いを致いて見せた故、あっという間に、町屋の者ども雲霞の如く、この怪僧の足下に跪き、御家中の者の中にさえ、この出家を呼び迎えて軽率にも尊崇致す者が現われた。

 そんなある雨の日のこと、宿直(とのい)の退屈なるにまかせて、若侍四、五人が集まった上、この僧を呼び出だいて、例の幻術の仕儀を乞うた。

 その幻術なるもの――

――若侍どもが、銭又は鉄砲の弾丸(たま)等を片手にぎゅっと握り締めておるのを、差し向かいに座って御座るこの僧が、その掌中の物を奪い取るという単純な技であった――。

……ところが、誰一人として、奪い取られるのを防ぐことが出来ぬ――

……何やらん、しゅるるっと、僧の手が触れたかと思うと――一瞬にして銭や弾丸は彼らの面前に広げられた僧の掌上に――

――ちょこんと、鎮座しておる――

 更にその僧、

「……さても次は、握られた同じ手に、一緒に小刀(さすが)をお持ちになれれよ……そう、そのように……さても、では今度は、拙僧が貴殿らの右手に握って御座る銭や鉄砲の弾を掠め取らんとする際、その同じく一緒に握って御座る小刀を以って、奪わんとする拙僧の手を手加減なく突いてご覧になるがよい。」

と言うので、試してみる――

……と……

……同じように銭や弾丸は彼らの面前に広げられた僧の掌上に――

――ちょこんと、鎮座しておる――

……この若侍ども、余りのことに、武士なれば流石に、真剣になって何度も試してみたのじゃが――

……僧の手に一創の掠り傷を与えることも出来ずに、やはり――

――銭弾丸は僧の手に――

――ちょこんと、鎮座致いておる――

 しかるに、そこへ偶々家中の者の中でも相当に年輩の、一人の侍がやって来て、

「掌中の玉を人に取らるるなんどという不埒なること、あってはならぬことじゃ――御坊――一つ、拙者が握った品を取ってみらるるがよい――」

そう言うと、その侍、

――左の手に品を握り、右手に小刀を執って、左手を徐ろに差し出した――

かの僧曰く、

「……さらば、戴きまするぞ……」

と言って差し向かいに座った――

――ところが――

――僧、何時までたっても手を出さぬ――

――いや、それどころか、全身を堅くこわばらせた儘、微動だにせぬ――

……暫く致いて、

「……いや……どうも……何分、御身の掌中の物……これ、取ること、叶いませぬ……」

と俯いたまま呟いた。

 すると侍は穏やかに、

「そうで御座ろう。当然のことじゃ。武士の掌中のもの、これを他人に取られたとあっては、ただでは済まぬことじゃて。このような戯れ、やってはならぬ部類のこと、じゃの――。」

と言って、その場を立つ去った。

 後に残った若侍どもが、

「どうして……彼の掌中の品、取れなんだのじゃ?」

と訊ねたところ、僧は聊か恥じ入った様子で答えた。

「……方々は……我らが取らんとする、その拙僧が手を、小刀で突こうとせられた……故、拙僧に玉を取られて御座ったのじゃ……なれど、あの御仁は……その御自身の拳諸共に、拙者の手を串刺しにせんとの御覚悟……とても取るべき手だてなんど、ない……」

と告げて、そのまま高崎を後に致いたという――ある人の、確かに語って御座った話。

 

 

*   *   *

 

 

 臨死不死運の事

 

 俳諧の宗匠をして寶暦の頃迄ありし雲桂といへる者の俗姓を尋るに、武家の次男にて放蕩の質にて、新吉原町へ通ひ、深く申しかわせし妓女のありしが、揚代につかへ誠に二度曲輪へも立越がたき程の事なりし故、右遊女へも其譯かたり、遊女も馴染今更別れんも便なしと歎きけるが、兎角相對死をなさんと覺悟を極め、右女を差殺我も死んとせしに、人音に驚きて暫く猶豫の内、表の入口の潛り戸を明る音しければ、此所にて死なず共、一先此所を立出宿にて死せば外聞もあしからずと、支度して表へ立出、程なく大門(おほもん)を出て、堀より船にのり兩國迄來りしが、さるにても數年かたらひし女を殺し、少しも跡に殘らんはいかゞと、船端に立あがり入水せんとせしを、船頭見付て大きに驚き、其儘舟のもやひにて船ばりに結付、柳橋より小石川岸岐(がんぎ)と言る河岸迄飛がごとくに漕付て、我等が舟にて入水ありては我身の難儀也、此所よりあがりて、其後は死ぬとも活るとも勝手になし給へと、言捨て舟漕出しぬ。雲桂も詮方なく、宿へ歸り死せんとせしを、一族など取鎭め、暫くは亂心也とて人も附居たりしゆへいかんとも詮方なし。日數かさなれば其身も死ぬ氣も失て、果は俳諧の宗匠となり渡世を送りけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。死のうにも死ねない落語のような話しながら、私には死んだ遊女が哀れで、その上、こういう奴が俳諧の宗匠ときた日にゃ、不愉快極まりない。そもそも江戸幕府は心中を不義密通の罪人扱いとして男が生き残った場合は死罪とされた(幕府は「心中」が「忠」に通ずるとして嫌悪し、「心中」の語自体の使用を禁じ、「相対死」(あいたいじに)と呼称した)。前の話と反対に、数少ない「耳嚢」の中でも何やらん、好きになれない話柄の一つである。雲桂よ、アランになれや。

・「臨死不死運の事」「死に臨みて死せざる運の事」と読む。

・「寶暦」西暦1751年~1764年。

・「雲桂」諸注不詳。ネット検索でも掛からない。

・「俗姓」俳諧宗匠は僧形を装ったことからこのように言ったものであろう。

・「新吉原町」浅草寺裏手の千束村日本堤にあった吉原遊廓のこと。元の吉原遊郭は葺屋町(現在の中央区堀留2丁目附近)から明暦3(1657)年に浅草の北、に移転して来た。

・「大門」新吉原の唯一の入り口。これは「おおもん」で「だいもん」とは読まない。

・「船」猪牙舟(ちょきぶね)であろう。船首が特徴的に尖って全体にスマートな造りで、船速も驚くほど速かった。吉原通いは猪牙舟で、というのが通であった。

・「もやひ」舫(もや)い綱。舟を繋ぐ綱。

・「柳橋」神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一番目の橋。新吉原へ向かうには、ここから舟で漕ぎ出した。現在の中央区と台東区に跨る。

・「小石川岸岐」底本にはこの右に『(專經閣本「小石川市兵衞がん木」』(丸括弧の後ろが落ちている)とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「小石川市兵衞岸岐」とあり、美事折衷なればこれを採用。岩波版長谷川氏注によれば『小石川御門対岸(北岸)辺の河岸。文京区後楽園南方』と同定する(底本鈴木氏は不詳とする)。長谷川説を採る。「岸岐」とは河岸や船着場にある乗降用の階段のこと。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 死を決しながら遂に死ねなかった運命を持った男についての事

 

 俳諧の宗匠として宝暦の辺りまで存命していた雲桂という者、元を尋ぬるに、武家の次男であったものが、放蕩者にて新吉原へ入れ込み、深く契りを交わした妓女があったのだが、そのうち、揚げ代に事欠く様(ざま)となって、遂に二度と廓へ立ち入ることも出来難くなってしまうという仕儀に陥った。そこで、かの妓女へもその事実を打ち明けたところ、彼女もすっかり彼を頼りにして御座ったれば、

「……今更……お別れするは、辛うありんす……」

と泣きすがる……かくなる上は最早相対死に成さんと……覚悟を決め……女を刺し殺し……己(おのれ)も死なんせしが……深夜にも関わらず廊下を慌しく走る人の気配に驚き……息を潜めておったのだが、そのうちに夜が明け、表の潜り戸を開ける音も聞こえてきたので、

「……何も、ここで死なんでもよいじゃ……あいつももうこと切れて、冷とうなった……一先ず、儂にはもう縁のない、こんな廓なんぞは後にして……そうじゃ、自分の屋敷で死のう……されば……外聞も悪うはないわ……」

と身支度をして何食わぬ顔にて表へ抜け、大門を足早に立ち出でると、目の前の堀から猪牙舟(ちょき)に飛び乗り、一気に両国まで下って行く。

 ……その舟中にて……

『……それにしても……』

『……それにしても……数年の間、契りを交わした可愛い女を刺し殺した上は……このように! 少しでも後に生き残っておるとは! 堪えがたきこと!……』

と思いが込み上げて参り、矢庭にぬっと船端に立ち上がり、あわや入水せんと致いたところ、これを見た船頭、大いに驚き、瞬く間に舫(もや)い綱でもって彼を縛り上げると、そのまんま、柳橋から小石川市兵衛岸岐まで飛ぶように漕ぎ着け、乱暴に繩を解くや、どんと岸岐に突き倒し、

「おいらの舟から入水された日にゃあ、とんだ迷惑でぇ! ここから上がった後は、死ぬも生きるも、勝手にしろぃ!」

と言い捨てて、さっさと舟を漕ぎ去って行った。

 彼は如何ともし難く、呆(ほお)けたようなって屋敷へ立ち帰ると、今度は自室にて死なんと試みたたが――この数日、如何にも不審なる様子を見てとって御座った――一族の者どもに見咎められ、叱咤甘言で取り鎮め、暫くの間は内々に「乱心致いた」とて軟禁の上、常に傍らに人が附いて監視怠らざれば如何とも詮方なく、そうこうしているうちに日数(ひかず)も重なれば、死ぬ気のその身も――死ぬ気のやる気も――すっかりしっかり失せて御座った。

 ――それからは何だ神田と御座る内……

  ――気がつきゃ五七俳諧の……

   ――五万と御座る宗匠と……

    ――なって渡世の私(わたし)舟……

 

 

*   *   *

 

 

 賤者又氣性ある事

 

 寶暦の初迄在し戲場役者坂東薪水彦三郎といひしは、名人と人の評判せし者也。日蓮宗にて至て信心の者成しが、或時外より日蓮正筆の曼陀羅の由にて大金にかへ調ひしが、兼て歸依しぬる僧に見せて目利を賴ければ、かの僧得(とく)と見て、高金を出し姶へど是は正筆には無之、あからさまなる贋筆也。扨々費成る事し給ひぬ。然し調ひ候價にはならずとも、我等拂ひ遣すべしと有ければ、彦三郎有無の答に及ばず、傍成火鉢へ打入煙となしぬ。彼僧驚きて尋ければ、いやとよ正眞と思ひて調しに、似せ物なれば貯へて益なし。此末貯へ置ば、今御身の仰の通、價をへらしなば調る人も有なん。左ありては我贋ものに欺れ又人をも欺んやと答えへける。賤敷河原者ながら、上手名人と人のいふも理り也と、或る人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前話主人公俳諧宗匠雲桂は「寶暦の頃迄ありし」男、本話主人公歌舞伎役者坂東薪水彦三郎は「寶暦の初迄在し」男で連関。

・「寶暦の初」宝暦年間は西暦1751年~1764年。以下に見る通り、初代坂東彦三郎は寛延4年1月1日に逝去しているのであるが、寛延4年は1027日(グレゴリオ暦で17511214日)に宝暦に改元されていることから、このような謂いとなったものであろう。

・「戲場役者」歌舞伎役者。

・「坂東薪水彦三郎」初代坂東彦三郎(元禄6(1693)年~寛延4(1751)年)。薪水は俳名。ウィキの「坂東彦三郎(初代)」によれば、『大坂の立役篠塚次郎左衛門の甥とも山城国伏見の武士の子とも、また相模国足柄下郡江浦の生まれともいわれ』、『最初江戸で篠塚菊松の名で修行する。宝永311 (1706) に大坂篠塚次郎左衛門座で坂東菊松を名乗り、角前髪で拍子事を演じたのが初舞台。翌年11月坂東彦三郎と改める。宝永8年11月京都へ上り、同地に留まること2年間、この間所作事、武道、やつし事などで好評を得て京坂で活躍』、『1729年江戸に下り初代坂東又太郎の門に入る。174011 月江戸に帰り、江戸の大立物として大御所の二代目市川團十郎、初代澤村宗十郎、若手の初代大谷廣次と共に当時の四天王といわれた』とある。岩波版長谷川氏注には『実事・武道を得意とし、実悪を兼ねた』とある。「実事」は「じつごと」と読み、立役(たちやく:主人公クラスの善人の男役。)の中でも、常識を供えたスマートな役柄を言い、対する「実悪」は所謂、悪玉の敵役(かたきやく)の中でもトップ・クラスの、国盗りや主家横領を企む極悪人の役柄を言う。

・「日蓮正筆の曼陀羅」とは一般に日蓮の法華曼荼羅呼ばれる法華曼荼羅のこと。ウィキの「法華曼荼羅」によれば『法華曼荼羅とは、法華経の世界を図、梵字、漢字などで表した曼荼羅の一種』で、天台宗・真言宗の密教に於ける法華曼荼羅は『法華経前半十四品(迹門)に登場する菩薩などを表したもので』あるが、ここに示されたものは日蓮宗独特のもので、『日蓮が末法の時代に対応するべく、法華経後半十四品(本門)に登場する、如来、菩薩、明王、天などを漢字や梵字で書き表した文字曼荼羅である。中央の題目から長く延びた線を引く特徴から、髭曼荼羅とも呼ばれている。また、一部には文字でなく画像で表したものもある』。『十界の諸仏・諸神を配置していることから十界曼荼羅(日蓮奠定十界曼荼羅・宗祖奠定十界曼荼羅)などとも称され』、『1271年(文永8年)に書いたものが最初で、日蓮直筆は127幅余が現存する』とある。

・「得(とく)」は底本のルビ。

・「河原者」河原乞食。本来は日本古来の被差別民への卑称であるが、この場合は芸能者・役者の蔑称として限定的に用いられている。明白な職業差別用語である。以下、ウィキの「河原者」より引用する(一部の記号を変更し、改行を省略した)。『平安時代の「左経記」長和5年(1016年)正月2日の記述から、当時、死んだ牛の皮革を剥ぐ「河原人」のいたことが知られる。これが史料上の初出である。室町時代に入ると「河原者」の多様な活動が記録に表れるようになる。彼らの生業は屠畜や皮革加工で、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれた。それらの地域に居住した理由は、河原が無税だったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説とがある。ちなみに、当時は屠畜業者と皮革業者は未分化であった。それ以外にも、河原者は井戸掘り、芸能、運搬業、行商、造園業などにも従事していた。河原者の中には田畑を所有し、農耕を行った例もある。河原者の中で最も著名なのが、室町幕府の八代将軍足利義政に仕えた庭師の善阿弥で、銀閣寺の庭園は彼の子と孫による作品である。その他、京都の中世以降の石庭の多くは河原者(御庭者)の作である。河原者は、穢多や清目と称される事もあった。ここでいう穢多は江戸時代のそれとは異なる。近世初頭、豊臣秀吉、徳川政権によって固定的な被差別身分が編成された際に、河原者はその中に組み込まれたと言われる。近世において「河原者」「河原乞食」と呼ばれたのは主に芸能関係者である(近代以降も「河原乞食」と賤しんで呼ぶことは続いた)。中世の被差別民は一般的に非人と称されたが、河原者がその中に含まれるかどうかについて、論争が行われている。近年、中世の河原者の居住地と、近世の被差別民の居住地が重なる例が京都や奈良を中心に報告され、部落の起源論争の大きな焦点となっている。これを理由に、部落の中世起源説を支持する人々もいる』。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 賤しい者にも優れた見識ある事

 

 宝暦元年頃まで存命していた板東薪水彦三郎は名人の誉れ高い歌舞伎役者であった。

 彼の宗旨は日蓮宗で、これまた、熱心な信者であったが、ある時、日蓮真筆の曼荼羅なる代物を大金を叩いて手に入れ、かねてより懇意に致いて御座った宗僧に見せて、目利きを頼んだ。

 その僧、凝っと見つめて御座ったが、

「……大金をお出しになられたそうで御座るが……遺憾乍ら、これは真筆にては、これなく……見るもまごうように筆遣いを似せただけの贋作にて御座る。……さてさて、勿体ないことをなさったものじゃ……いや、されど、誠によく似せて御座る品にて、これ自体は、真面目で立派な曼荼羅に仕上がって御座れば……勿論、貴殿がお買い上げになられた額というわけには参らねど、相応な金額にて、一つ拙僧が買い上げて進ぜましょう程に……」

と答えた。

 彦三郎はそれに応えることなく、黙って傍らの火鉢にその曼荼羅を投げ入れた。

 曼荼羅は勢いよく白煙を上げて燃え上がると、みるみるうちに白い灰となってしまった。

 かの僧、余りの仕儀に聊か驚いて、彦三郎に訳を尋ねたところ、

「いや――真筆と思えばこそ買い求めたものにて、偽物(ぎぶつ)となれば持っておっても無益。――万一、このまま所持致いておらば、今正に御身が仰せられた通り、値を減ずれば買わんとせし人も御座ろう。――そうなっては、我ら、偽物に欺かれしのみならず、また、その御仁をも欺くことに他ならず――。」

と答えたという。

「……賤しき河原者ながら、芸道上手歌舞伎名人と人の呼ぶも、これ、理(ことわり)あることにて御座る。」

と、ある人が語って御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 藝道手段の事

 

 古人のかたりけるは、享保の初めに山中平九郎といへる戲場役者ありしが、公家惡(くげあく)の上手にて、山中隈取(くまどり)とて怨靈事其外の面隈取方あり。寶暦の頃迄座元せし市村羽左衞門が顏の塗は則平九郎が傳にてありし由。山中が公家惡の粧ひ威有て猛く、見物の小兒など泣いだし候程の事也しが、古市川柏莚、未(いまだ)若年の※(かほ)見せに山中は坊門の宰相の役、柏莚は篠塚の役にて、大福帳とやらんを引合ふ狂言ありしが、柏莚橋掛りより出て、舞臺の平九郎と立合大福帳を引合に、見物の者平九郎のみを見て其上手を稱歎し、柏莚をよきと言ふ事なく、我心にも平九郎にのまれ候樣に覺へければ、色々工夫して着せる大紋をいかにも大きく拵へ、橋懸りより出るや否、足早に出て右大紋の袖を平九郎が面へ打かぶせ、袖にて平九郎をかくし例の通り睨みければ、見物の貴餞どつと柏莚を稱美しけると也。

[やぶちゃん字注:「※」=「白」()+「ハ」(下)。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:歌舞伎役者名人譚で連関。

・「享保の初め」享保年間は西暦1716年から1736年。次注に見るように初代山中平九郎は享保9(1724)年に没している。

・「山中平九郎」初代山中平九郎(寛永191642)年~享保9(1724)年)公家悪(後注参照)・怨霊事を得意とし、「江戸実悪の開山」「役者仙人」と称された。鬼女の隈取を試みていた平九郎の顔を垣間見た妻が失神したというエピソードが伝わり、現在の歌舞伎隈取の型の一つとして「般若隈」(目と口に紅を加えて般若の面相を象徴)別名「平九郎隈」として伝わる。これは正に「山中隈取とて怨靈事其外の面隈取方あり」のことであろう。「実悪」とは所謂、悪玉の敵役(かたきやく)の中でもトップ・クラスの、国盗りや主家横領を企む極悪人の役柄を言う。

・「公家惡」は皇位を奪取せんとするような身分の高い大逆の公家の役柄を言う。

・「寶暦」宝暦年間は西暦1751年~1764年。

・「座元せし市村羽左衞門」八代目市村羽左衛門(元禄111698)年~宝暦121762)年)市村座座元。元文2(1737 年八代目を襲名後、寛延元 1748)年に芸名を羽左衛門と改めた(以後、襲名は羽左衛門となる)。座元を60年間務めながら若衆・女形・実事・敵役等の幅広い役柄をこなして名人の誉れ高かった(以上はウィキの「市村羽左衛門 8代目を参照した)。

・「古市川柏莚」二代目市川團十郎(元禄元年(1688)年~宝暦8(1758)年 享年71歳)。柏莚(はくえん)は俳号。父であった初代が元禄171704)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺されて横死(享年45歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。岩波版長谷川氏の「古市川柏莚」の注には『以下の記述に混乱がある』として、まず以下に記される狂言は享保2(1717)年に森田座で顔見世(後注参照)興行された「奉納太平記」で、そこで篠塚五郎を演じたのがこの「古市川柏莚」=二代目市川團十郎、坊門の宰相役を演じたのは山中平四郎(平九郎ではない)であると記す(以下、後注の便を考え、一部に恣意的な改行を施した)。

「篠塚五郎」は篠塚貞綱(定綱とも)なる武人であるが歌舞伎に暗い私には如何なる人物・役柄かはか不詳(因みに同様の理由により「奉納太平記」なる外題についてもここに語ることが出来ない)。

「坊門の宰相」というのは坊門清忠(?~延元3・暦応元(1338)年)は南北朝時代の公家。本名は藤原清忠。後醍醐天皇の側近。忠臣楠木正成を戦死させた人物として極めて評判の悪い人物である。この「大福帳」なる場面については吉之助氏の「歌舞伎素人講釈」の「歌舞伎とオペラ~新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」の一篇「アジタートなリズム・その13:荒事の台詞・2」の中に、正にその享保2(1717)年の「奉納太平記」のズバリ二代目市川團十郎自作の「大福帳」についての詳細な解説があるので引用させて頂く。但し、長谷川氏の注によれば、本文の「大福帳」の出来事は、この狂言ではないとするので注意されたい(後述)。

   《引用開始》 

歌舞伎十八番の「暫」の始まりは、初代団十郎が元禄10年(1697)に演じた「大福帳参会名護屋」と言われています。「暫」になくてはならないのが「つらね」です。 それは大福帳の来歴を豪快かつ流麗に言い立て・「ホホ敬って申す」で終わる様式的な長台詞で、初代・二代目団十郎ともに名調子で鳴らしたものでした。この「しゃべり」の技術は元禄歌舞伎の話し言葉の原型を残すものです。(注:その後の歌舞伎は人形浄瑠璃を取り込むことで語り言葉に傾斜していきます。)次に挙げるのは同じく「暫」の系譜である・享保2年(1717)森田座での「奉納太平記」での二代目団十郎自作による大福帳のつらねの最後の部分です。

『天下泰平の大福帳紙数有合ひ元弘元年、真は正徳文武両道紅白の、梅の咲分前髪に、かつ色見する顔見世は、渋ぬけて候栗若衆、幕の内よりゑみ出ると隠れござらぬいが栗の、神も羅漢も御存じの、十六騎の総巻軸、篠塚五郎定綱が、大福帳の縁起ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足、万々 ぜいたく言ひ次第、大福帳の顔見世と、ホホ敬つて申す。』

この台詞を口のなかでムニャムニャつぶやきながら・どうしたら荒事の台詞らしくなるか想像してみて欲しいのですが、「ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足 、万々ぜいたく言ひ次第」の部分は棒に一気にまくし立てるところで、「ぐわつ/ぽう/てん/ぽう/ ・・」という風にタンタンタン・・という機関銃のようなリズムが想像できます。これがツラネ全体のリズムの基本イメージですが、それだけでは台詞が単調になりますから、実際には前後にリズムの緩急・音の高低をつけて・それで変化をつけるのです。ですから「ぐわつぽうてんぽう」の直前の「大福帳の縁起」はテンポを持たせて・大きく張り、最後の「大福町の顔見世と」でテンポをぐっと落として・「敬って申す」で声を高く・裏に返して張り上げる形となります。これで荒事の台詞になります。最後の「敬って申す」で声を張り上げる様式的印象が鮮烈なので・忘れてしまいそうですが、タンタンタン・・のリズムを決めるところが基本的に写実であり・そこが話し言葉の原型を持つ箇所なのです。台詞の語句はしっかりと明確に噛むように発声しなければなりません。ただし、緩慢ではあるがタンタンタン・・のリズムのなかに急き立てる感覚が感じられます。この点に注意をしてください。

   《引用終了》

長谷川氏は続いて、正徳4年顔見世興行の「万民大福帳」で、この「古市川柏莚」=二代目市川團十郎が鎌倉権五郎景政を、この山中平九郎が松浦宗任を演じており、ここで根岸が書いた

『大福帳を引き合うこと、平九郎に団十郎をあなどる振舞のあったことは』、享保2(1717)年の「奉納太平記」ではなく、この正徳4年顔見世「万民大福帳」でのことであると解説されている(先と同様の理由により、私は「万民大福帳」なる外題についても、該当大福帳場面についてもここに語る能力を持たないが、登場人物から少なくとも前九年の役と後三年の役をカップリングして舞台に借りていることは確か)。

「鎌倉権五郎景政」(延久元(1069)年~?)十六歳で後三年の役に従軍、右目を射られながら、射た敵を切り、戦友が目の矢を抜こうとしたが抜けず、足下に顔を踏んで抜こうとしたところ、それを無礼と斬りかかったというエピソードで知られる勇将。御霊信仰の対象である。

「松浦宗任」は安陪宗任(長元5(1032)年~嘉承3(1108)年)のことと思われる。安陪貞任の弟。前九年の役で奮戦、捕虜となって四国伊予国、治暦3(1067)年には再度、筑前国宗像郡筑前大島に再配流された。一説に彼は肥前の水軍集団松浦(まつら)党の開祖とも伝えられていた。

なお、以上の語部である老人の(根岸のではあるまい)錯誤部分については、複雑な様相を呈しているため、現代語訳ではその錯誤のまま、訂正を加えていないので注意されたい。

・「※(かほ)見せ」歌舞伎で年に一度、役者を交代して新規の配役にて行う最初の興行を言う。 当時の役者の雇用契約は満1年で、11月から翌年10月を一期間とした。従って配役は11月に一新、その刷新された一座を観客に見せるという歌舞伎界にあって最も重要な行事であった(以上はウィキの「顔見世」を参照した)。

・「坊門の宰相の役」前掲「古市川柏莚」注中の「坊門の宰相」の箇注を参照のこと(わざと改行してある)。

・「篠塚の役」前掲「古市川柏莚」注中の「篠塚五郎」の箇所を参照のこと(わざと改行してある)。

・「大福帳とやらんを引合ふ狂言」前掲「古市川柏莚」注中の『大福帳を引き合うこと、平九郎に団十郎をあなどる振舞のあったことは』の箇所を参照のこと(わざと改行してある)。

・「大紋」元は鎧の下に着た直垂(ひたたれ)の一種。以下、ウィキの「大紋」から引用する(記号の一部を省略した)。『鎌倉時代頃から直垂に大きな文様を入れることが流行り、室町時代に入ってからは直垂と区別して大紋と呼ぶようになった。室町時代後期には紋を定位置に配し生地は麻として直垂に次ぐ礼装とされ』、『江戸時代になると江戸幕府により「五位以上の武家の礼装」と定められた。当時、一般の大名当主は五位に叙せられる慣例となっていたから、つまり大紋は大名の礼服となったのである。このころの大紋は上下同じ生地から調製されるが、袴は引きずるほど長くなり、大きめの家紋を背中と両胸、袖の後ろ側、袴の尻の部分、小さめの家紋を袴の前側に2カ所、合計10カ所に染め抜いた点が直垂や素襖との大きな違いである』とする。『現在では歌舞伎や時代劇の「勧進帳」で富樫泰家が、「忠臣蔵」松の廊下のシーンで浅野長矩が着用している姿を見ることが出来る。このように今では舞台衣装としてのみ存在している着物である』とあり、如何にも本話柄にぴったりな記載を、ウィキの執筆者の方、忝い。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芸道絶妙の演技の事

 

 ある年寄の語った話。

「……享保の初めの頃、山中平九郎という歌舞伎役者が御座ったが、公家悪の名人として知られ、今に「山中隈取」と言って、怨霊事その他に用いられておる隈取り方の考案者でも御座った。

 宝暦の頃まで市村座座元を勤めた名優市村羽左衛門の顔の塗り方は、皆、この平九郎から伝授されたもの、とも言われる。

 山中の描く公家悪の粧いは、これ、見るからに猛悪で御座って、見物の小児なんどは見るなり、泣き出した者もあった由。

 かの名人、後の市川栢莚団十郎が今だ若かりし頃、さる顔見世にて、山中は坊門の宰相清忠の役、栢莚が篠塚五郎の役にて大福帳か何かをを奪い合う芝居が御座ったが――栢莚が橋懸かりより出でて、舞台上の平九郎とはっしと向き合い、大福帳を引っぱり合う――

――と――

――見物の者、平九郎の演技ばかりに魅了され、その妙技を称嘆するばかり――

――栢莚には声をかける者ばかりか、目を向けている者とて一人として、これ御座らぬ――――栢莚自身も平九郎の演技にすっかり呑まれたかのように感じて御座ったれば……

 直ぐに演技や何やらさんざん悩んだ挙句、一つの工夫を思いついた。

 舞台で着る篠塚五郎の大紋を、とんでもなく大きく拵えた。

 次の舞台にて、栢莚、橋懸かりより出でるやいなや、足早に平九郎に駆け寄ったかと思うと――

――その大紋の巨大なる袖を以って――

……ふわん……

――と、平九郎の頭にすっぽり被せ――

――その大いなる袖にてすっかり平九郎の姿を隠しおおせた上――

――普段通りに――

――はっし!――

と睨んだ――。

見物の貴賤からは、どっと、栢莚、賞美の声起こり……やんや! やんや!……

……そんなことが御座いましたなあ……」

 

 

*   *   *

 

 

   

 

 是も右柏莚弟子に市川門之助とやらいへる女形ありしが、柏莚十郎の役にて門之助大磯の虎の役をなしけるが、何か狂言の仕組にて、嫉妬にて十郎祐成(すけなり)を恨み胸ぐらをとりての愁歎の所有しが、狂言濟て柏莚門之助に申けるは、嫉妬のやつしあの通りにては情のうつるものにてなしといふ。門之助も色々工夫してかく其事をなしぬれど、いくへにも柏莚よしといわず。餘りの事に澤村訥子(とつし)長十郎といへる、柏莚同樣其頃上手といわれし役者へ尋ければ、夫は其筈なり、嫉妬の時胸ぐらをとり膝に喰付などするまねをなすならん。翌日の狂言には膝へ誠にくひ付、胸ぐらも其本心にてとり見べきと教へければ、忝由を述て翌日其通りになしけるに、果して見物も聲をかけ、殊の外樣子よかりしが、樂屋へ入て柏莚かの門之助に向ひ、今日のは殊の外よかりし。しかし其方が工夫にては出來まじ。誰が教へたると尋ける故、始はいなみしが、後は有の儘に語りければ、訥子ならでは其傳授の仕やうは爲るまじといひしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:古市川柏莚=二代目市川團十郎絡み歌舞伎芸道譚その二。

・「柏莚」二代目市川團十郎。前話注参照。

・「市川門之助」初代市川門之助(元禄4(1691)年~享保141729)年)市川柏莚=二代目市川団十郎の弟子。市川長之助・市川弁次郎という芸名を経、初代市川門之助を名乗った。容貌口跡共に優れ、「若衆方の開山・名人」と称された(「若衆方」とは美少年役及び専らそうした役を演じることを得意とする役者を言う)。時代物・世話物にも巧みで、丹前六法の演技や濡れ場、武道、音曲などを得意としたと言う。「丹前六法」とは「丹前振り」とも言い、歌舞伎の演技様式の一つ。丹前風呂(後述)に通う遊客・粋人の風俗を様式化した演技法で、特殊な手振り・足の踏み方を特徴とする多様なメソッドであったらしいが、現在は荒事の引っ込みの芸として知られる所謂「六方」(六法とも書く)にのみ名残があるだけで、その多様な型は伝承されないという。「丹前風呂」とは江戸初期に神田佐柄木(さえぎ)町堀丹後守屋敷前で営業していた銭湯の屋号。美麗な湯女(ゆな)を置いて客を誘い、かぶいた町奴や通人に人気で、大いに繁盛したが、風俗壊乱を理由に明暦3(1657)年に禁止された。

・「大磯の虎」虎御前(安元元(1175)年~寛元3(1245)年)のこと。相模国大磯の遊女。和歌にも優れ、容姿端麗であったという。「曾我物語」では曾我十郎祐成の愛人として登場し、曾我兄弟仇討ち本懐を遂げた世を去った後、兄弟の供養のために回国の尼僧となったと伝えられる。「曾我物語」のルーツは彼女によって語られたものとも言う。これは後、踊り巫女や瞽女などの女語りとして伝承され、やがて能や浄瑠璃の素材となり、曾我物と呼称する歌舞伎の人気狂言となった。特に柏莚の父初代市川團十郎が延宝4(1676)年正月に江戸中村座で「寿曾我対面」(ことぶきそがのたいめん)を初演し、この時の曽我五郎が大当りして後、正月興行の定番となった。以下、ウィキの「寿曽我対面」から引用して、曾我物の概略を押さえておきたい。まずは梗概。『源頼朝の重臣工藤祐経は富士の巻狩りの総奉行を仰せつけられることとなり、工藤の屋敷では大名や遊女大磯の虎、化粧坂の少将が祝いに駆け付けている。そこへ朝比奈三郎(小林朝比奈)が二人の若者を連れてくる。見れば、かつて工藤が討った河津三郎の忘れ形見、曽我十郎・五郎の兄弟であった。父の敵とはやる兄弟に朝比奈がなだめ、工藤は、巻狩りの身分証明書である狩場の切手を兄弟に与え双方再会を期して別れる』という江戸っ子好みの人情武辺譚に美化されている。先に記したように『享保期に江戸歌舞伎の正月興行に曽我狂言を行うしきたりができてから、最後の幕の「切狂言」に必ず演じられるようになった。それ以降初春を寿ぐ祝祭劇として、更にさまざまな演出が行われるようになり、一千種ともいわれる派生型ができた。現行の台本は河竹黙阿弥により整理され、明治36年(1903年)3月に上演されたものが行われている』。その配役は『座頭の工藤・和事の十郎・荒事の五郎・道化役の朝比奈・立女形の虎・若女形の少将・敵役の八幡・立役の近江・実事の鬼王と、歌舞伎の役どころがほとんど勢ぞろいし、視覚的にも音楽的にも様式美にあふれた一幕である。特に五郎は典型的な荒事役として知られる』。『江戸時代には毎年さまざまな演出が行われてきた。戸板康二によれば、「釣狐の型」や工藤が鳥目になったり、障子で琴を弾いたりするのがあった。桜田門外の変をとりこんだ「雪の対面」もあったという』から、いや、流石は江戸時代! かぶいたぶっ飛びの芝居ではある。岩波版長谷川氏注によれば本話柄の「曾我物」は「若緑勢曾我」(わかみどりいきおいそが)で享保3(1718)年に『門之助虎、団十郎十郎』で演じられたものとする。因みに、これは歌舞伎十八番の一として知られる「外郎売」(ういろううり)、そう、あの演劇に関わった者ならまずは発声練習でお目にかからでおくべきかの台詞が登場する芝居の、実は正式な原題名なのである。曾我十郎が、実在する小田原の「透頂香」(とうちんこう)通称「外郎」(ういろう)の売薬に身を窶して現れ、その由来や効能を立板に水するという絶技である。私の記憶では、二代目市川團十郎自身が生薬透頂香(現在・小田原ういろう本舗)を愛用、自ら進んでこの台詞を編み出して勝手に入れたものと聞いている(透頂香側からのオファーがあったわけではない)。早口言葉としてとして知られる「外郎売」には異同が多いが、ウィキの「外郎売」から引用してそろそろ本注を〆たい。改行は総て排除した。蛇足すると、私は発声練習の早口言葉は苦手だったから、これも恐怖ものであったが、『武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具』の部分は、実は大好き!

拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする。元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。帝へ参内の折から此の薬を深く込め置き、用ゆる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。依ってその名を帝より「透頂香」と賜る。即ち文字には頂き・透く・香と書いて透頂香と申す。只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういろう」と記せしは親方圓斎ばかり。もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさるるか、又は伊勢御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。御上りなれば右の方、御下りなれば左側、八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって、系図正しき薬で御座る。イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、されば一粒食べ掛けて、その気味合いを御目に掛けましょう。先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。魚・鳥・茸・麺類の食い合わせ、その他万病即効在る事神の如し。さて此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭ごまが裸足で逃げる。ヒョッと舌が廻り出すと矢も盾も堪らぬじゃ。そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。アワヤ喉、サタラナ舌にカ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重。開合爽やかに、アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ。一つへぎへぎ、へぎ干し・はじかみ、盆豆・盆米・盆牛蒡、摘蓼・摘豆・摘山椒。書写山の社僧正、小米の生噛み、小米の生噛み、こん小米のこ生噛み。繻子・緋繻子、繻子・繻珍。親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親嘉兵衛・子嘉兵衛、子嘉兵衛・親嘉兵衛。古栗の木の古切り口。雨合羽か番合羽か。貴様が脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆。尻革袴のしっ綻びを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ。河原撫子・野石竹。野良如来、野良如来、三野良如来に六野良如来。一寸先の御小仏に御蹴躓きゃるな、細溝にどじょにょろり。京の生鱈、奈良生真名鰹、ちょと四五貫目。御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ。茶立ちょ、青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。来るは来るは何が来る、高野の山の御柿小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。麦、塵、麦塵、三麦塵、合わせて麦塵、六麦塵。あの長押の長薙刀は誰が長薙刀ぞ。向こうの胡麻殻は荏の胡麻殻か真胡麻殻か、あれこそ本の真胡麻殻。がらぴぃがらぴぃ風車。起きゃがれ子法師、起きゃがれ小法師、昨夜も溢してまた溢した。たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一丁蛸。落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。中でも東寺の羅生門には、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃる、彼の頼光の膝元去らず。鮒・金柑・椎茸・定めて後段な、蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って小掬って小寄こせ。おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、灸を擦り剥く。三里ばかりか、藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。アレあの花を見て、御心を御和らぎやと言う、産子・這子に至るまで、此の外郎の御評判、御存じ無いとは申されまいまいつぶり、角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼杵擂鉢ばちばちぐわらぐわらぐわらと、羽目を外して今日御出での何れ様にも、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っ張り、東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って外郎はいらっしゃいませぬか。

・「十郎祐成」曾我祐成(すけなり 承安2(1172)年~建久4(1193)年)。河津祐泰の長男。曾我五郎時致(ときむね)の兄。安元2(1176)年祐成5歳の折り、父河津祐泰が伊豆国伊東荘を巡る所領争いによって同族工藤祐経に闇討ちにされた後、母の再嫁先であった相模国曾我荘領主曾我祐信を養父として育ち、曾我氏を称した。建久4(1193)年、将軍頼朝の富士の巻狩りの際、弟時致と共に仇敵工藤祐経を殺害し、本懐を遂げたが、彼は頼朝家臣仁田忠常に討たれ、弟時致は頼朝を襲撃するも捕縛された。本人から仔細を聞いた頼朝は助命を考えたが、祐経遺児の懇請により斬首された。

・「澤村訥子長十郎」初代沢村宗十郎(貞享2(1685)年~宝暦6(1756)年)京都の武家の出。初代「沢村長十郎」の門人で、江戸に下り写実的演技力で評判をとり、名優とされた。誤りやすいが後に「三世長十郎」を名乗っている。ただ、この「訥子」(とつし)というは俳号は通常、三代目澤村宗十郎(宝暦3(1753)年~享和元(1801)年)のことを指すので、誤りと思われる。それとも俳号も共有したか。前出「戲藝侮るべからざる事」に既出。そこでも同じ「澤村訥子長十郎」の表記である。現代語訳では、後文で俳号で呼称しているので、そのまま用いた。

・「膝に喰付」勿論、喰らい付くかのように縋りつくことを言う。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芸道絶妙の演技の事 その二

 

 市川栢莚二世團十郎の弟子に市川門之助という女形が御座った。

 さる顔見世にて、栢莚が曾我十郎、門之助が大磯の虎役を務めたのじゃが、さて、そこに妬心に胸焦がす虎が十郎を恨んで、その胸倉を摑んで愁嘆にくれる、という濡れ場が御座った。

 ところが初日の舞台がはね、楽屋へ戻るや、栢莚が門之助に一言、

「お前さんの嫉妬の演技――あのまんまじゃあ、十郎どころか、俺の情せぇ、微動だにしねぇな」――

 翌日から門之助、いろいろと工夫を凝らしてはみたものの、何日経っても、かの場面の演技に、栢莚、頑として肯んじては呉れぬ。

 策極まって、門之助、当時栢莚と並に称せられて御座った現し身の達人、後の沢村訥子長十郎という役者のもとを訪ね、教えを乞うた。

 訥子は一言、

「……それは、当たり前というものじゃ。……そなた、その嫉妬の折り、ただ……胸倉を摑んだ真似をしい、ただ……膝にとり縋る真似をして御座っしゃろう……一つ、明日の芝居にては、その膝に……がっし! と喰らいつくが如、縋りつき……その胸倉をも、本気で、しっか! と摑んでみられい――」

と教えた。門之助、何かが落ちたかのように、

「忝(かたじけな)き仰せ!」

と清々しい面持ちで礼を述べると、早々に辞去致いた。

 翌日の舞台――門之助、自然体にて訥子の教え通りに演じたところ――

――果たして見物の者からも驚嘆讃美の声がかかり――

――その日の内に殊の外の評判となって御座った。

 その日、楽屋へ戻るや、栢莚、門之助に向かい、

「……今日のは……殊の外、良かったじゃねえか!……だがよ、こいつぁ、お前さんの工夫じゃあ、編み出せる代物(しろもん)じゃあ、ねえな?……誰ぞに教わったか? あん?」

と糺した。門之助も己が面子もあれば、最初の内は否んで御座ったれど、流石に師匠の手前、遂にありのままに白状致いたところ、栢莚、

――ぱ~ん!――

と一打ち膝を打って、何度も首を縦に振りながら、

「……訥子ならでは……そんな伝授の仕方、誰にも出来んの!……」

と一人ごちで御座ったと。

 

 

*   *   *

 

 

 異變に臨み熟計の事

 

 名は障りなれば洩しぬ。近き頃の事とや、さる小身旗本の母は家の女にて別に隱居家もなく居間續きの部屋に住居せしが、密に密通の男ありて右部屋へ通ひけるを、其子はしらざりしに、或夜母の居間にて物音高く何か爭ふ聲聞へければ、全く盜賊と思ひ刀を追取りて立向ひしに、逃出る者有りし故切倒し、同く駈出る者をも殺害に及びけるが、火を燈し見れば、最初に殺したるは實母なる故大に驚き、同じく切倒しけるものを見れば見覺へざる男也。實母を殺し、助るべきやうあらざれば自滅せんと刀を取直しけるが、此趣を我のみ知りては彌々惡名を重ねなん、幸ひ隣家に相番の者ありし故、呼寄て此樣子を語り、頭支配へ屆給はれ、我は自害いたし候と申ければ、彼相番(あひばん)聞て、自害は遲き事あるべからず、我等が歸り來る迄いくへにも待給へと制し、取あへず組頭の方へ至り、始よりの次第を用人を以て申出しければ、右組頭さるものにやありけん。尚又用人を以申出しけるは、誰殿方へ盜賊忍入て母を切害せし故、誰殿事右盜賊を打留め給ひしと申口上と相聞へぬ。家來の承り方不分明故、押附可懸御目。今日も不快にて只今療治いたし居候、暫く待給へとて、料理など出し漸二時(ふたとき)程も得せてやうくに出立で、不慮の事にて盜賊忍入御母儀を切害せし事是非もなき仕合也。然し其盜賊其席にて直に討とめ給ひしは、遖れの手柄、責てもの事と申けるにぞ、右相番も始て其趣意をさとり立歸りて當人へも申聞、其趣の屆書認め、頭へも申立、事なく濟しと也。右組頭、相番を待せ置てひそかに頭の宅へ至り、初中後の相談をなしてかく取計ひける由。右組頭あしく取計なば、其者の家を斷絶せんは是非もなけれど、御旗本の身分にて間違て親を害し候などゝいはんは、世の聞所も如何ならん。虚實はしらず、面白き取計と思し故爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。しかし、人が二人死に、母子の過失の尊属殺という一見救いのない事件に対して、関わった人物たちが誰もが皆、如何にも粋な計らいをするという話柄――何やらん、「北の国から」見たような、ほっとするいい話である。そうして、こうした感覚が後の名南町奉行根岸根岸鎭衞その人を生んだのだと言ってよい。

・「小身旗本」一般には3000石未満の家禄の低い旗本で、旗本は江戸城警備・将軍本人の警護を行う大番(番方)・役方(文官相当)の町奉行・勘定奉行・大目付・目付等に就任することが出来たが、無役の旗本の場合、3000石以上の者は寄合席、それ以下は小普請組に編入されていた。実際には旗本の9割は500石以下であったらしいから、殆んどがこの「小身旗本」であったといってよい。主に参考にしたウィキの「旗本」によれば、『100石から200石程度の小禄の旗本は、小十人の番士、納戸、勘定、代官、広敷、祐筆、同朋頭、甲府勤番支配頭、火之番組頭、学問所勤番組頭、徒(徒士)目付の組頭、数寄屋頭、賄頭、蔵奉行、金奉行、林奉行、普請方下奉行、畳奉行、材木石奉行、具足奉行、弓矢槍奉行、吹上奉行、膳奉行、書物奉行、鉄砲玉薬奉行、寺社奉行吟味物調役、勘定吟味改役、川船改役をはじめとする諸役職についた』とあるが、本話柄の「頭支配」というのは、恐らくこうした役職上の「頭支配」ではなく、彼が属していた小普請組の「頭支配」という意味であろう。また、一般に下位の御家人との違いとして『徳川将軍家直属の家臣団のうち、石高が1万石未満で儀式などで将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格をもつものの総称』とされるが、『小禄や無役の旗本は将軍に拝謁の資格があったものの、実際に拝謁できたのは家督相続・跡式相続のときのみであった』とある。

・「家の女」この母は武家の一人娘で、婿をもらい、主人公の男子をもうけ、婿の主人は既に逝去しているということである。住み馴れた自家であったから、隠居所を設けて居所を移すわけでもなく(同一敷地内に別な隠居所を建てることもなく、ということであろう)、家督及び屋敷を継いだ息子と、同じ屋敷内の同一建物内、同じ居間続きの部屋に住んでいたということである。

・「密に密通の男ありて右部屋へ通ひけるを、其子はしらざりしに」どうもここが分からない。まず、「密通」をそのままの「不義密通」の意味でとるには無理がある。彼は既に家督を継いでおり、文脈上、父は既に逝去しているとしか思われない。未亡人であれば、男性と交際することは江戸時代であっても「不義密通」とは言わないし、表立ってはいなくても許されていたし、再嫁もあった。とすれば、これは、母親が子に対して内心忸怩たるものを感じていたから内密にしていたか、或いはこの恋人が息子と変わらぬほど、もしくは息子よりも若い男性でもあったからか、もしくは身分の低い町人や凶状持ちでもあったのか、はたまた、この男に妻子でもあったのか(だとしても「不義密通」とは言わないと思われる)といった書かれていない条件を仮定する必要がある。――更に言えば実は冒頭で『何やらん、「北の国から」見たような、ほっとするいい話である』と言ったのであるが――その口が乾ぬ間に――そこには一抹の不審への皮肉もあるのである。――前注で言った通り、母と息子は同じ屋敷内の同一建物内、同じ居間続きの部屋に住んでいたとあるのであるから、この息子がそれを知らないでいたというのは、如何にも嘘臭い気がするのである。夜半のアヘアヘに気付かない程の呆けた馬鹿息子が、この晩に限って、物音に気付き、誤認で一方は女とはいえ、二人の人間を鮮やかに斬り殺して、果ては覚悟一決自害せん――というのは芥川龍之介の「藪の中」の三証言のように、私にはとても解し兼ねる事実なのである。もしかすると、この話柄には実は隠された真相があったのではないか……という展開は折角の「北の国から」見たような、ほっとするいい話を汚すことになれば……これはこれで、信ずることと致しやしょう……

・「相番の者」小普請組の中で同じ頭支配(小普請支配)下の同僚という意味であろう。

・「頭支配」小普請支配という主人公の組頭の上に、更にその組頭を支配する組頭支配がいる、という意味の注が岩波版の長谷川氏の注にある。以下の叙述から正式な文書の届け出は、小普請支配組頭→頭支配のルートを辿ったもので、頭支配の裁可を必要としたものと考えられる。

・「用人」主人の用向きを家中に伝達、庶務を司ることを職務とした上級の家臣であって、単なる使用人格ではない。この話柄のような旗本にあっては、家中に家老・年寄を置くことは通常は出来なかったため、用人は諸藩の家老と同じ職権を持つ重臣、家中最高の役職名であった。例えば500石級の旗本では用人の定数は1名が一般的であった(以上はウィキの「用人」を参照した)。

・「二時」約四時間。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 危機的状況にあっての熟慮肝要の事

 

 人物の名は差し障りがあるので、総て控えることとする。どうも最近の出来事であるらしい。

 さる小身の旗本、入り婿であった父亡き後、家督屋敷も継いで御座ったが、母が住み馴れた家内なれば、別に隠居所を設けるということもせず、母屋の居間続きの部屋に住んで御座った。

 この母には密かに関係を持っている男がおり、この母の私室に、夜毎、こっそりと通って来ておったのじゃが――息子はそれを知らないでいたのじゃった――。

 ――ある夜更け、隣の母の居室で大きな物音がして、何か争うような鋭い声が聞こえてきた。うとうととしかけていた息子は、てっきり盗賊が入ったものと思い、押っ取り刀で駆けつけると母居室の真っ向に立って迎えんとしたところ、真っ暗な中、矢庭に部屋から逃げ出して来た者がいたため、すわ、盗人、と有無を言わさず斬り捨て、続いて走り出して参った同賊と思しい者をも是非に及ばず切り倒した。

 さて、己が息の静まるを待って、

「母者、ご無事かッ!」

と灯した火を持って部屋にいれば――誰もおらぬ――廊下に出ずれば――成敗したと思って御座った最初にの一人は――何と母御前(ごぜ)で御座った……

「……!……」

今一人の者は、これ、見覚えなき男にて御座ったが――実母に斬りつけ、最早、命終の体(てい)にて御座れば、

「――自害せん!――」

と、母御前斬りしその刀を逆手に構えて切腹致さんとせしが――刃を腹に突き立てんとする間際――ふと、思い至った――。

「……かくなる事態に至った趣、これ、我のみ知る……それにては、なおのこと、我の乱心ならん、との誤解を以って、世に悪名を残すことにもならん……」

 さても幸いなことに、隣家に同じ小普請組の同僚が御座ったので、夜更けなれど内密に呼び寄せ、

「……かくかくの次第にて、我らが頭支配にお届け下されい。拙者はこれにて自害致し候えばこそ――」

と告げたところ、その同輩は慌てて、

「待たれい! 自害のこと、後にても遅きこと、これあらず!――お主の、支配への言上の願い、確かに承った――さればこそ、拙者がここ元へ帰り来る迄、重々、待たれいッ!――」

ときつく自害を制し納得させた上、取り敢えず彼らの組頭の屋敷へと走った。

 組頭の屋敷に付くと、起きて来た用人に一部始終を語った上、直ちに組頭様に御面会、御判断を仰ぎたき旨、申し上げた。

 ところが、この組頭は――なかなかに深慮ある者にて御座ったらしく――用人から話を聴くや、再び、この用人に応対させ、この同輩なる男に以下のように命じた。

「――○○殿方へ盗賊押入り、その母を殺害(せつがい)致いた故、○○殿こと、盗賊討ち果たし給う――との物謂いなる口上と相承った。事件仔細に付、家来の承り方及び言上、これ、不十分にて御座れば――追っ付け御目に掛かって委細伺はんものと存ずる。――なれど只今、体調、これ、優れざるによりて、床にて療治なんど致いて御座ればこそ、暫く待ち給え――。」

 そうしてこの男には、夜食なんどが振る舞われ、二時(ふたとき)ばかりも待たされた上、漸く暁近くなってから組頭が御出座、男に向かって、

「――不慮のことにて盗賊忍び入り、御母儀を殺害(せつがい)せしこと、如何ともし難き出来事にて、我ら言葉もない。――然れども、その仇敵盗賊を、その場にて直ちに美事討ち果たされ給いしは、これ、天晴れの手柄、せめてもの慰みなり――。」

と徐ろに告げた上、凝っと部下である、この男を見つめたまま、黙って御座った。

 その瞬間、この同輩なる男も組頭の真意を悟って御座った。

 急ぎ、立ち帰ると、約束を守って自害致さず、まんじりともせずに彼の帰りを待って御座った当人のもとへ駆けつけ、当人へもこの万事委細を語り伝えて諭した上、組頭の言葉通りの趣きを以って届書を認め、組頭より頭支配に申し立てを行ったところ、何事もなく済んだという。

 この時、この組頭は、当の同輩なる男を待たせている間に、実は密かに組頭自身の上司であった、その頭支配の屋敷へ赴いて、本件に付、善後策を協議致いて、かく取り計らったということで御座った。 本件の場合、組頭が悪く――杓子定規に――取り計らったとすれば、これはもう、法に照らしても尊属殺人にして、その者の御家断絶は免れないものである――また、誤認による過失致死や重過失致死が認定され、執行猶予やお構いなしとなったと致いたとしても、御旗本という高貴な武家にありながら、『間違って親を殺害致いた』なんどと言うは、世の噂として如何なものかは、想像に余りあるというものであろう。

 この話、本当か嘘か、定かではない――なれど、面白くも適切なる取り計らい方と思えばこそ、ここに記しおくものである。

 

 

*   *   *

 

 

 猫の人に化し事

 

 鄙賤の咄に、妖(ようびやう)猫古く成て老姥などをくらひ殺し、己れ老姥と成る事あり。昔老母を持たる者、其母猫にて有し故、甚酷虐にて人をいためし事多けれど、其子の身にとりてすべき樣なく打過しが、或時猫の姿を顯し全く妖怪に相違なし、しかれば、我母をくひし妖猫とて切殺しける。母の姿となりし故大に驚き、全く猫に紛(まがふ)なき故に殺しぬるに、母の姿と成し是非もなき次第也、いわれざる事して天地のいれざる大罪を犯しぬるとて懇意の者を招きて、切腹いたし候間此譯見屆呉候樣申しける時、かの男申けるは、死は安き事なれば先暫く待給へ、猫狐の類一旦人に化して年久しければ、縱(たとへ)其命を落しても暫くは形を顯はさぬもの也とて、くれぐれ押留ける故其意に任せぬるが、其夜に至りて段々形を顯し、母と見へしは恐ろしき古猫の死がひなりけるとぞ。性急に死せんには犬死をなしなんと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:見た目の母殺害(せつがい)という尊属殺人、その責任をとって性急に自害に及ばんとし、間一髪で大団円というモチーフで直連関。にしても、この話柄も如何にもおかしな感じがする。特に事実譚ならば、最もリアルに描写し得るはずの「或時猫の姿を顯し」の部分が余りにもあっさりし過ぎている点、事実ならば最も詳述されてよいエンディングの変容シーンがまるで描かれていないという点である。この老女は実は、本来、他虐性の強いサディスト的異常性格であったものに加えて、ある種の精神病や脳神経障害若しくは老人性痴呆やアルツハイマー等が発症し、それを持て余した息子が懇意の者と騙らって、斬殺した老女の死体を隠匿した上、猫の死骸に老女の衣服など被せて、周りの者にかくなる虚言を信じさせたものではなかろうか。昨今の事件を考えると、こんな想像も突飛とも思えぬのが、恐ろしい……。

・「全く妖怪に相違なし」この部分は前文と繋がって句読点がないことから、地の文であると鈴木氏は採っておられるようである。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも「相違なし。」として地の文としている。私としては息子の言葉として臨場感を出したいと思う。

・「いわれざる事して天地のいれざる大罪を犯しぬる」「「いわれざる」はママ。正しくは「言はれざる事」で、「言はれざる」は一般に「言はれぬ」と用いて、「言ふ」+可能の助動詞「る」+打消の助動詞「ず」の連体形から構成される連語で、「道理に外れた・無理な」又は「余計な・無用な」の意を表わす。人が猫に変じたという現象を錯覚と捉えて、そのような幻覚に惑わされた自身の意識を「道理に外れたもの」と表現したものか。動揺している男の様子を良く伝えるが、後の「いれざる大罪」にリズムとして呼応し、「犯しぬる」の慙愧の念を示す完了(強意)の助動詞の連体形の「ぬる」の活用語尾の一部である「る」との響きも小気味よい。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 猫が人に化けた事

 

 田舎の下賤の者の語った話。

 年経た妖猫が老女を喰い殺して、自身、化けて老女に成りすましていたという話である。

 昔、老いた母を持った男がいた。

 その母――実は妖猫――は老女なれど、甚だ粗暴にして冷酷、残虐にして酷薄なる性質(たち)で、誰でも彼(か)でも打擲罵倒すること甚だしかったのじゃが、息子の身にてあれば、男は如何ともし難く、苦痛の内にも、何とのう、日を過して御座った。

 そんなある日のこと、男は遂に――その母御前(ごぜ)が猫の姿を露わにしておるのを目の当りにした――。

「これは! 全く以って妖怪に間違いなかったッ! されば! 既に我が母者(ははじゃ)を喰い殺した妖獣であったっかッ!」

と、おぞましき妖猫を、その場で一刀の元に斬り殺した……

……しかし……

……しかし、その猫の死骸は……瞬く間に母御前の姿に変じてしまった――。

 男は大いに驚き、

「全く猫と紛(まご)うことなき故に殺したに!……いや! これ、紛れもなく我が母御前になった!……なった……のでは、ない……母御前、じゃ!……こうなっては……是非もない!……道理に外れた錯覚に陥って、母殺しという天神地祇の許さざる大罪を……犯してしまったッ!……」

と慙愧の念にうち震え、思い余った男は近隣の懇意にして御座った者を家内に密かに呼ぶと、母御前の遺体をありのままに見せた上、

「……かくかくの訳にて母者を斬り殺したれば……これより切腹致すによって、是非もなき以上の顛末、呑み込んで貰(もろ)うた上……どうか見届けて下されい……」

と頼んだ。それを聞いた知れる者、口を極めて、

「死は易きことなれば! 先ず、暫く! 待たらっしゃい! 猫・狐の類いの、一旦人と化して年久しく経て御座ったれば、たとえその命を失いても……暫くは、その本性を現さぬものにて御座るぞ!……」

と、何度も押し留めた。

 されば、男も半信半疑ながら思い留まり、取り敢えずは懇意の者の言に従って――待った。

 その日の夜に至り……彼らの眼前にて……母御前の遺体は……徐々に……そう、徐々に、その姿を変え……その本当の姿形を、現わし始め……遂に……母御前と見えたその「もの」は……見るも恐ろしい老猫(ろうびょう)の死骸となったという――。

 この男、性急に自害致いておれば、これ、妖猫死ぬるばかりか――男も犬死にをするところで御座った――。

 

 

*   *   *

 

 

 猫人に付し事

 

 右猫の人に化し物語に付或人の語りけるは、物事は心を靜め、百計を盡し候上にて重き事は取計ふべき事也。一般猫の付しといふもあるよし也。駒込邊の同心の母有しが、件の同心は晝寢して居たりしに、鰯を賣もの表を呼り通りしを母聞て呼込、いわしの直段(ねだん)を付て、片手に錢を持此いわし不殘可調聞直段を負候樣申けるを、かのいわし賣手に持し錢を持候を見受、それ計にて此鰯不殘賣べきや、直段も負候事も成がたしと欺笑ひければ、殘らず買べしといひざま、右老女以の外憤りしが、面は猫と成耳元迄口さけて、振上し手の有樣怖しともいわん方なければ、鰯賣はあつといふて荷物を捨て逃去りぬ。其音に倅起かへり見けるに、母の姿全くの猫にて有し故、扨は我母はかの畜生めにとられける、口惜しさよと、枕元の刀を以何の苦もなく切殺しぬ。此物音に近所よりも駈付見るに、猫にてはあらず、母に相違なし。鰯賣も荷物とりに歸りける故、右の者にも尋しに猫に相違なしといへども、顏色四肢とも母に違ひなければ、是非なく彼倅は自害せしと也。是は猫の付たといふ者の由。麁忽(そこつ)せまじきもの也と人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:化け猫から猫憑きで直連関。前掲の尊属殺人とも連関するが、こちらはどちらと比しても悲劇的結末である点で極めて対照的。しかし、これなど、見るからに病的なヒステリーを主症状とする、ある種の精神病と考えてよい。因みに、猫が人に憑いたとされた精神病様状態の最も最近の報告例としては、国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪データベース」の「猫憑き」のカード(No.0770007)に、執筆者江口重幸氏の論文「滋賀県湖東―山村における狐憑きの生成と変容」(昭和621987)年国立民族学博物館発行『国立民族学博物館研究報告』1241113p~1179p1158pに昭和541979)年の『精神医学』21巻4号に滋賀県愛知郡愛東町の事例として『嫌いな男から逃れるために週刊誌で見た呪術を用いた24歳の女性が猫憑きになり発病し、四足で歩いたりの記述がある』とあり、決して過去の馬鹿げた出来事と一蹴は出来ぬのである。

・「欺笑ひ」底本では「欺」の右には『(嘲)』とある。無論、「嘲笑」で採る。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 猫が人に憑くという事

 

 前話にて人に猫が化けた話を致いたが、それを聴いたある人が、こういう話もある、と語って呉れた話をもう一つ。

 この一件は、何事も事を処理するに当たっては心を静め、百計を尽くした上、その結果として重大な実行行為を行使するに際しては、十分過ぎるほどの深慮を図らねばならないという、よい例である。

 具体的には、猫は――化けるのではなく――人に憑依するという例もある、ということなのである。

 駒込辺りに、さる同心が母とともに住んで御座った。

 倅であるその同心、ある非番の日、居間の厨近くにて昼寝を致いておったところ、表を鰯売りが売り声を上げて通ったのを、厨にあった母親が屋敷内に呼び込んだのを、うつらうつらしている耳に聴いて御座った。

 ――鰯売りを前に、母御前(ごぜ)は鰯の値段を聴いた上、片手に僅かばかりの銭を乗せた手を差し出し、

「……この鰯……一匹残らず買い取ります故……値段を、おまけなされ……」

と言う。この鰯売り、老女の持ったそのはした金を見て、呆れ果て、

「それっぱかりでこの鰯を残らず買う、だ? 『値段をおまけなされ』たあ、ちゃんちゃら可笑しいゼ!」

と嘲笑った。

――と――

「……残らず……買うと言ったら……買うん、ダ! ヨッ!」

急に叫びながら、老女、異様な興奮と共に怒りだしたか――

――と見る見るうちに――

――その面相、猫そのものとなり!

――その口、耳元まで裂け上がり!

――銭投げつけて振り上げたその両腕、それ! 猫の手振りそのままにて!

――最早! 怖ろしいなんどと言うどころの騒ぎではない!

鰯売り、

「わああッツ!」

と叫ぶが早いか、ばーん! と棒手振(ぼてぶ)り振り捨てて逃げ去ってしまった。

 その騒ぎに目が覚めた倅、居間から、ふと庭表を見る――

――と――

――そこに母御前(ごぜ)……と思いし人の姿は――

――これ、全くの猫なればこそ!

「さては! 真実(まこと)の母者は、かの化け猫めに喰われてしもうたかッ! 口惜しやッ!!」

――と――

――枕辺の刀抜き取って、一刀両断の下に斬り殺してしまった……。

 しかし……この物音に近隣の者どもが駆けつけて見れば、

……猫にてはあらず……

……見紛う方なき、その倅の母御前の御姿、そのまま……

 暫く致いて、鰯売りも荷物を取りに戻って参った故、この者にも問い質いたところが、

「……いえ! もう、確かに猫にて! 相違なし!……」

との答えが返っては御座ったれど……

……遺体の顔も、その姿も……何時まで経っても……常の女……倅は勿論のこと、近隣の者どもも知るところの……かの常の母御前に相違なきことなれば……

……この同心、是非なく、その場にて自害致いた、ということで御座った……。

 これ、猫が人に憑いたという例に他ならぬ、という由。

「……いやもう何より、物事、早計に断ずること、これ、決して致いてはならぬものにて御座る……」

と、その人が語って御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 村政の刀御當家にて禁じ給ふ事

 

 村政の刀を御當家にて禁じ給ふ事は、後風土記・三河記等にも委しく、人の知る所也。ある日藏書にありし迚(とて)人の語りけるは、難波御陣(なんばごぢん)とや、又は其已前の事也けるか、織田有樂齋(うらくさい)手づから討留し首を持參して、御前へ出けるに、手柄いたしたりやと上意あり。老人のおとなげなく少し働き、手作りの首の由申上ければ、遖の由御賞美にて、其打物御覧可被遊由にて、有樂の鑓を上覽の處、いかゞ被遊けるや少々御怪我ありし故、此鑓は村政の作なるべしと御尋被成。御尋の通の由申上けるに、村政は不思議に御當家に相當なき由人々申けるゆへ、即座に折り捨しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖猫から妖刀(妖刃と言うべきか)で連関。

・「村政」村正が正しい。伊勢国桑名(現・三重県桑名市)の刀匠の名及びその流れを汲む刀鍛冶及びその系統の鍛えた刀剣類の呼称。別に千子(せんご)村正とも呼ぶ。以下、ウィキの「村正」には、本話柄の妖刀伝説について詳細な記述が見られるので、以下、長くなるが引用する。『村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子で、赤坂千手院鍛冶の出と伝えられている。然しながら活動拠点は伊勢であり、定かではない。他国の刀工と同様に、室町末期に流行した美濃伝を取り入れ本国美濃の刀工の作と見える刃を焼いた作もあり、技術的な交流をうかがわせる。しかし美濃だけではなく、隣国の大和伝と美濃伝、相州伝を組み合わせた、実用本位の数打ちの「脇物」刀工集団と見られている。その行動範囲は伊勢から東海道に及』び、『「村正」の銘は、桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続いた。同銘で少なくとも3代まで存在するというのが定説である。村正以外にも、藤村、村重等、「村」を名乗る刀工、正真、正重等、「正」を名乗る刀工が千子村正派に存在する。江戸時代においては「千子正重」がその問跡を幕末まで残している』。『なお、4代目以降、「千子」と改称したと言われているが、これは徳川家が忌避する「村正」の帯刀を大名や旗本が避けるようになったことが原因と考えられている』とし、その妖刀伝説を分析する。冒頭に語られるのは、正に本話柄と殆んど同じであるが、人物が織田信長の弟織田有楽齋長益(後注参照)からその長益の長男であった織田長孝(?~慶長111606 )年)は、戦国時代の武将。本姓は自称平氏。実際は忌部氏か。家系は平資盛を祖と称する越前国織田剣神社祠官の流れで尾張守護代織田氏の庶流。江戸時代前期の大名で、美濃野村藩の初代藩主。長益系織田家嫡流2代。に代わっている。また、場面も関ヶ原である。『徳川家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったという。さらに関ヶ原の戦いのおり、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。その槍を家康が見ている時に家臣が取り落とし、家康は指を切った。聞くとこの槍も村正であった。家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した』というもの。以下、「伝説の真偽」として、『実際には現在でも徳川美術館に家康が所持していたと思われる村正が所蔵されている。これは尾張徳川家に家康の形見として伝来したもので』、『徳川美術館は徳川家が村正を嫌ったのは「後世の創作」であると断言している。然しながら、この尾張家伝来の村正が』無傷の完成した刀であるにも関わらず、『「疵物で潰し物となるべき」と尾張家の刀剣保存記録(享和年間)には残されており』、『時代が下がるにつれて、徳川家でも村正が忌避されていたことは間違いないと考えられる』とする。但し、本来、『村正は徳川領の三河に近い伊勢の刀工であり、三河を始めとする東海地方には村正一派の数が多く、村正一派の刀剣を所持する者は徳川家臣団にも多かった。三河に移った村正一派を「三河文珠派」と呼ぶ。たとえば徳川四天王の一人、本多忠勝の所持する槍「蜻蛉切」には、村正の一派である藤原正真の銘が残っている。また、四天王筆頭であった酒井忠次の愛刀(号 猪切)も藤原正真の作である』と記す。最後に、伝説のルーツである家康の父広忠の死因は多くの史料が病死と記しており、『謀叛による暗殺説は岡崎領主古記等の一部の説』に過ぎない旨、注する。続いて「妖刀伝説の由来」の一つとして、『家康は村正のコレクターであり、没後、形見分けとして一族の主だった者に村正が渡された。これが徳川一門のステータスとなり、他家の者は恐れ多いとして村正の所有を遠慮するようになったが、後代になると遠慮の理由が曖昧となり、次第に「忌避」に変じていった』という説を示すが、『この説には疑問があり、家康の遺産相続の台帳である「駿府御分物帳」に村正の作は2振しか記されておらず、現在は尾張家の1振が徳川美術館に保存されている』のみと疑義を呈している。次に「妖刀伝説の流布」という見出しで、『寛政9年(1797)に初演された歌舞伎「青楼詞合鏡」で村正は「妖刀」として扱われており、この頃にはすでに妖刀としての伝説が広まっていた。1860年(万延元年)には河竹黙阿弥の八幡祭小望月賑が初演され、大評判を博し』ていた事実を示すが、本「耳嚢」の「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、本話柄から考えても、恐らく1700年代中期頃(元文から寛延、西暦で1736年から1751年)には本伝承は広範囲に一般的記録として(「藏書」とある。これは特別な人物という限定もなく、また特殊で一般人が披見できないような「藏書」とも思われない表現である)流布していた考えてよいであろう。『幕末から維新期にかけて執筆された「名将言行録」には、「真田信繁(幸村)は家康を滅ぼす念願を持っており、常に徳川家に仇なす村正を持っていたという。このように常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と徳川光圀が賞賛したという逸話が記載されており、村正は徳川家に仇なす妖刀であるという伝説は幕末頃には定着していたと見られる』。『この伝説は、徳川家と対立する立場の者には、良いゲンかつぎとして好まれた。徳川政権初期に謀反の疑いで処刑された由井正雪も村正を所持していたと』伝えられ、『幕末期の倒幕派志士らも好んで村正を求めたといわれ、西郷隆盛も村正を所持していた。このため、多数の村正の贋物が出回ることになった』とある。こうなると逆に妖刀様々、大変な金蔓となるというのが面白い。末尾に「その他の妖刀・村正のエピソード」として、幾つかの興味深い事実が示されているので抜粋する。『五郎入道正宗の弟子という俗説もあるが事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話である。そもそも正宗は、鎌倉時代末期、村正は室町時代中期以降が活動時期である』。『戦前、東北大学工学博士・本多光太郎が、試料を引き切る時の摩擦から刃物の切味を数値化する測定器を造ったところ、 皆が面白がって古今の名刀を研究室に持ち込んだのだが、妖刀と呼ばれる村正だけが、何故か測定ごとに数値が一定しなかった。科学雑誌『ニュートン』に書かれた、本多光太郎伝の一エピソードである。本多氏はこのことから、「これが本当の『むら』正だ」と言い、「あの先生が冗談を言った」としばらく研究室で話題になった』。『南総里見八犬伝には「村雨」という刀が登場するが、後世になって村正と混同され「妖刀村雨」と呼ばれることもある』。最後に研師のリアルな話。『村正の斬れ味に纏わる逸話は数多いが、刀剣研磨師にもエピソードがある。「村正を研いでいると裂手(刀身を握るための布)がザクザク斬れる」「研いでいる最中、他の刀だと斬れて血がでてから気がつくが、村正の場合、ピリッとした他にはない痛みが走る」(永山光幹著「日本刀を研ぐ」から要約)』。正しく今も妖刀であるらしい。なお、根岸が本話柄の標題や冒頭で「村政」と書くのも、正宗の弟子という伝承もさることながら、徳川家に仇なす妖刀故に別字を以って示す呪(まじな)いのようにも取れる。現代語訳では総て「村正」とした。

・「御當家」徳川家。

・「後風土記」「三河後風土記」著者不詳。全45巻。以下、ウィキの「三河後風土記」 によれば(記号の一部を変更した)、『徳川氏創業史の一つで、徳川氏の祖とされる清和源氏から徳川家康将軍就任までを、年代順に記述する。著者・成立年代については、慶長15年(1610年)5月成立の平岩親吉著と序にあるものの、正保年間以後の成立と考証され、著者も不明である。のち改編を行った成島司直は沢田源内の著作とする。 また、「三河物語」、「松平記」といった他の創業史参照は見られない。類書として「三河後風土記正説」、「三河後風土記正説大全」があり、広く流布したと目されるが、速見行道の「偽書叢」など偽書目録の多くで偽書とされ、著者・成立年代に不備があり、徳川家歴代を賛美する面が強い』。『天保3年(1832年)9月には、徳川家斉の命により、成島司直の手で「三河後風土記」の改編および「三河物語」などでの校正がなされ、序文・首巻が付けられた「改正三河後風土記」全42巻(天保8年完成)が作られている。こちらは将軍に献上もされており、偽書ではなく江戸幕府の編纂物の一つともいえる。ただし成島の完全な著作ではなく、原典に他の文献を出典として明示している形式である』という。偽書から出た正史とは、摩訶不思議な代物。

・「三河記」前掲注の中の「三河物語」のこと。「大久保彦左衛門筆記」「大久保忠教自記」とも言う。別名でお分かりの通り、徳川家康・秀忠・家光の3代に仕えた御存知、大久保彦左衛門忠教(ただたか 永禄31560)年~寛永161639)年)の家訓書。「ウィキ」の「三河物語」によれば、『元和8年(1622年)成立。3巻からなり、上巻と中巻では徳川の世になるまでの数々の戦の記録が、下巻では太平の世となってからの忠教の経験談や考え方などが記されている』。『本来門外不出とされ、公開するつもりもなく子孫だけに向けて記されたため、逆に忠教の不満や意見などの思いがそのまま残されている。しかし忠教の思惑とは裏腹に写本として出回り、人気になったと伝えられている。もっとも、下巻の巻末には読み手に対して、「この本を皆が読まれた時、(私が)我が家のことのみを考えて、依怙贔屓(えこひいき)を目的として書いたものだとは思わないで欲しい」といった趣旨の言葉が記されており、門外不出と言いながらも読み手を意識しているという忠教の人間くささがうかがえる』。『内容的には徳川びいきの記述が目立ち、また、大久保氏が関わった部分にも創作がある。しかし、同時代の一次資料とも合致する部分も多く、多くの学術書の出典となっており、良質な資料として評価されていると言える。また、珍しい仮名混じりの独特の表記・文体で記されており、この時代の口語体を現代に伝える貴重な資料としての側面もある』と記す。

・「難波御陣」大坂の陣。江戸幕府が豊臣宗家を滅ぼした大坂冬の陣及び大坂夏の陣の戦闘を総称した呼び名。慶長191614)年~慶長201615)年。この場合、人物が旧豊臣(後に離反、徳川間者説もある)の「織田有樂齋」となれば、大坂夏の陣の戦闘しか考えられない。但し、先に記したウィキの「村正」の妖刀伝説が古形であり、伝承のルーツとしては正しいとするならば、この大坂の陣ではなく関ヶ原の戦い(慶長51600)年)まで遡り、且つ、登場人物も弟織田有楽齋長益(後注参照)からその長益の長男であった長孝ということになるが、この織田長孝は関ヶ原の合戦に父有楽齋と東軍の将として従軍し戦功を挙げ、一万石の大名となっているから、本話柄の役柄として不足はない。

・「織田有樂齋」織田長益(ながます 天文161547)年~元和7(1622)年)織田信長実弟。織田信秀十一男。有樂齋如庵(うらくさいじょあん)と号し、茶人としても知られた。ウィキの「織田長益」によれば、『千利休に茶を学び、利休七哲の1人にも数えられる。のちには自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている』とある。私事ながら、この如庵、かつては大磯に移築されていた。私は小学校4年生頃だったか、まる半日、父母と共にこの国宝如庵に滞在したことがある。海遊びに行った帰り、偶々迷い込んだそこで、私たちだけに管理人のお爺さんが解放してくれ、案内してくれたのであった。嘘のような素敵な体験だった。僕はあの時、数寄屋造という哲学の中に教外別伝で貫入していたような気がする。少なくとも知識や作法ばかりが脳味噌に入った今の僕は、茶室に入っても何らのエクスタシーを感じなくなってしまったことは確かである。『1570年代頃から織田信長の長男信忠の旗下にあり、天正10年(1582 年)の本能寺の変の際は、信忠とともに二条御所にあった。この時、信忠が長益の進言に従って自害したのに対し、長益自身は城を脱出。近江安土を経て岐阜へ逃れた。この時のことを、京の民衆たちには「織田の源五は人ではないよお腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と皮肉られている。しかし、信忠が腹を切った時点では既に二条御所は明智軍に重包されており、脱出はほぼ不可能である。事実としては明智勢の来襲以前に逃亡していたと思われる』とする。『変後は甥である織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と豊臣秀吉の講和に際して折衝役を務めたという。その後、知多郡に所領を与えられて大草城に居城した。天正18年(1590年)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡味舌(現大阪府摂津市)2000石を領した』。『関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男長孝とともに総勢450の』兵を率いて参戦し、少数の乍ら『長孝が戸田重政、内記親子の首を取ると有楽斎も石田三成家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げ』たとする。この時に出来事がまず妖刀伝承のルーツであるから、一応、首を掻っ切られた人物を示しておく。この「戸田重政」とは戸田勝成(かつしげ 弘治3(1557)年~慶長5(1600)年1021日)の別称。豊臣秀吉家臣。ウィキの「戸田勝成」によれば、『慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に共鳴して西軍方につき、北国口を守備していたが、東軍が迫るとともに美濃方面へと陣を移した。本戦においては、大谷吉継隊に属して奮戦したが、松尾山に陣を張る小早川秀秋に続く脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠ら四隊の寝返りにあい壊滅、勝成も織田有楽斎長男の織田長孝の部隊に捕捉され、応戦するも槍を受けて討たれた。この時、嫡男内記も同じく討死している』とあり、知られる妖刀伝説譚とぴったり一致する。なお、『勝成は諸大名と広く親交を深め、東軍の将の中にその死を悼んで涙を流したものが多かった。優れた人物として伝わっており、「謀才俊雄の英士」と称されたという』名将でもある。本話柄では、首は語られない。せめて、本注でその遺蹟を讃えておきたい。話を織田有樂齋長益に戻す。『戦後に有楽斎は大和国内で32000石、長孝は美濃野村藩に1万石を与えられた。しかし、戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた』。『大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに豊臣家を支える中心的な役割を担った。大坂夏の陣を前にして豊臣家から離れた。豊臣家内の和平派であったためと思われる。一説には幕府の間者であったともいう』とある。案外、本話柄が大坂の夏の陣にずれているのは、間者―妖刀という邪悪な連想でも働いたものか? 『大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた』とある。……そうか、あの静謐な如庵の持主は、少年の僕がイってしまったあの空間を創り出したのは、こんな人だったのか(私は戦国時代史は全くの守備範囲外である)……今更ながら知って、感慨無量である……。

・「老人」織田有樂齋長益ならば、関ヶ原にては54歳、大坂夏の陣にては72歳である。息子の長孝より老人の有樂齋方が、話として様になる。また、伝承では家康は怒って立ち去るのだが、ここでは家康が怒らなくて(少なくとも怒っている感じはまるでない。家康がその程度で有樂齋に怒っては「鳴くまで待つ」ことは出来まいよ)、逆にいい感じがする。現代語訳は、そのようなシーンに仕立てた。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 村正の刀御当家にては御禁制である事

 

 村正の刀が御当家にては御禁制なること、「後風土記」「三河記」なんどにも詳しく記されて御座って、人も知り申し上げて御座ることであるが、ある日、自身の蔵書の中の一節に、その由来をこう書いてあったと、ある人の語った話にて御座る。

 難波の御夏の陣或いはそれよりも以前――関ヶ原の戦さ――の折りのことか、織田有楽齋殿、自ら討ち取った首を持ち参って権現様御前へ出でたところ、

「いやとよ! 良き手柄致いたの!」

と御上意あり、有楽齋、畏まって、

「……老人の、年甲斐ものう、少々働きまして、大汗をかき申しましたが、……一つ、とりあえずは誰(たれ)の手も加えて御座らぬ、手作りの首にて御座る……。」

と敵将の首級を差し出だした。

「遖(あっぱれ)じゃ!」

と上様、お褒めになられた上、槍の上手と言われし有楽齋殿の持ったるそれをちらと御覧になられ、

「一つ、その打ち物、見たいものよ!」

との仰せにて、有楽齋殿、その敵将を仕留められし槍を上覧に供し申し上げた。

「――痛(つ)ぅ!――」

何がどういう弾みで御座ったかは分からねど、その刃先にて、上様、少しばかりのことながら、御怪我なされてしまわれた。

 有楽齋殿のことを鑑みられた上様、周囲の騒ぐをお鎮めになられ、

「大事ない……掠り傷じゃて……時に、有楽齋殿……この槍、村正の作にて御座ろう?……」

とお訊ねになられた。

 己(おの)が槍にて上様御怪我なれば、すっかり恐縮して畏まって御座った有楽齋殿は、

「……ははッ!……流石は上様、仰る通りの、得物にて御座る……」

とお訊ねの通り、消え入るような声で申し上げるや否や、地べたに蟇の如く、這い蹲る。

 上様は、さもありなんとの御表情をされると、少し苦笑なさった。

 その時、お側の者ども、何人も合点し、首を縦に振りつつ、

「……村正は不思議に……御当家には相応(ふさわ)しからざるものなればこそ……やはり……」

と呟いた。

 それを聴いた有楽齋殿は、その場にて即座に、その槍を折り捨てて、上様にお詫び致いたということで御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 利欲應報の事

 

 村政は正宗の弟子にて美濃の住に有りし由。至ての上手にて切れ物なれども、其人となり亂心同樣の生質(せいしつ)にてありし故や、右打物所持いたし候へば、御當家昵近(ぢつきん)の者に限らず怪我致候由。今も村政が子孫差添(さしぞへ)にて剃刀など打しが兎角怪我いたしける故、今は其家業も止めしと也。いつの此にやありし、打物の商ひしける者、村正の短刀を才覺し、村正と銘有ては人々嫌ひ候ゆへ銘をすり潰し侯へば正宗に成侯とて、甚悦しを心安き人聞て、夫は不宜事也と意見加へしに、商賣筋に左樣の事を忌嫌候ては金のもふけはならざる物也と欺き笑ひて過しが、其妻いかゞせしや、右村政の短刀にて自殺しけるゆへ、驚きて右刀を捨てしと也。予一年佐州に在勤の折から、召仕ふもの村政の拂ひ物調ひ候積の由にて見せけるが、至て見事成ものにて好しき刀也。然し聞及びし事もあれば、此刀は調ひ申事かならず無用の旨切に申含め早々返させける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖刀村政連関。前話の注は総て参照されたい。

・「正宗」鎌倉末期から南北朝初期にかけて相模国鎌倉で活躍した刀匠正宗(生没年不詳)及びその流れを汲む刀鍛冶及びその系統の鍛えた刀剣類の呼称。刀鍛冶としての正宗は日本刀剣史上最も著名な刀工と言ってよい。但し、前の「村政」の注にウィキの「村正」からの引用で示した通り、ここにあるような村正が『五郎入道正宗の弟子という俗説もあるが事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話』に過ぎない。

・「其人となり亂心同樣の生質」というような異常性格の記載が何処にあるのか、定かでない(そもそも村正の大雑把な事蹟さえ不明である)。これは妖刀からの逆輸入現象であろう。

・「美濃の住」前話の「村政」の注にウィキの「村正」から引いた通り、『村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子で、赤坂千手院鍛冶の出と伝えられている。然しながら活動拠点は伊勢であり、定かではない』とする。「赤坂千手院鍛冶」とは大和の最も古い刀鍛冶師の集団で大和の千手院という寺に所属していた寺院鍛冶集団のこと。正宗も手本としたと言われる名刀工の誉れ高い職能集団であった。

・「差添」通常は刀に添えて腰に差す短刀・脇差のことを言う。太刀は最早鍛えず、脇差ばかりにて、それでも妖刀の噂絶えず、剃刀などを打っていたが……という意味か? 岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「美濃」とする。分かり易いが、底本で以上のように訳す。

・「予一年佐州に在勤の折」「耳嚢」の執筆の着手は根岸の天明4(1784)年の佐渡奉行着任の翌天明5(1785)年頃に始まったとされ、且つ「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この部分は5年末か天明6年初と、一応、考え得る。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「信州」となっており、これだとそれよりも前、天明の大噴火後の天明3(2783)年の勘定吟味役浅間山復興事業のための巡検役の頃ということになる。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 利を貪らんとする者に必ず相応の報いある事

 

 村正は正宗の弟子で美濃の国の人であったということである。

 至って神技に類する刀匠の上手にして、その作、業物(わざもの)として知られものの――その人となり、乱心同様の異常なる性格の持主で御座ったためか――彼の打ちし物なんどを所持致いて御座ると、御当家に所縁(ゆかり)のあられる方に限らず、きっと怪我を致すことに相成る由。

 村正の子孫というは、太刀は最早、流石に鍛えず、最近まで脇差ばかりにて鍛えて御座ったというが、それでも妖刀の噂が絶えず、剃刀なんどを打って御座ったれど、その剃刀にても、とかく怪我致す者の後を絶たざるにて、今は家全く鍛冶の家業はやめてしもうたと聞いて御座る。

 何時の頃のことか忘れたが、打ち物の商いを致いておる商人(あきんど)、物好きにも、あれこれ苦心致いた上に、この村正の短刀を手に入れた。

「……切れ味は申し分ない、いや、神技の如き斬れ味じゃて!……しかし……この『村正』の銘があるばっかりに……人に嫌われる……されば、これほどの業物……勿体ない……銘を磨り潰しさえ致さば……この切れ味じゃて! 『正宗』になる、わ、い、な!……」

と大喜びした。

 ところが、偶々それを親しい者にこっそり洩らしたところ、

「……嘘偽りのことを置くとしても……これは妖刀村正じゃ……いや……それは宜しうないぞ!……」

と切に諫めた。しかし商人、

「商売筋に、そんなこと気に掛けて忌み嫌(きろ)うて御座ったら、へぇ、金の儲けは、ハァ、ないわいナア!」

なんどと浄瑠璃みたような声色して、嘲笑ってとり合わなんだ。

……ところが、ほどなく……

……その商人の妻……何が御座ったかは知らねど……この村正の短刀を用いて……自殺致いた。

 商人も驚懼(きょうく)して、この短刀を捨てたとのことである。

 附けたり。

 私も佐渡に在勤して既に一年、ある時のこと、召使って御座るある者、

「……名刀の誉れ高い、村正の、売り払われて御座る打ち物、この通り、古物商の持ってまいりましたれば……」

と言って私の元に持って参って――この者、私がこれをきっと買い求めるであろうと見越して――私に見せた。

 見た――。

 ――確かに、流石は村正――至って美事なる出来の如何にもよい太刀で御座った――。

 ――が、しかし、かく聞き及んで御座ったこともあれば、

「――この刀、買い調い候こと、決して無用――。」

の旨、屹度申し渡し言い含め、早々に返品させたは、言うまでもなきこと。

 

 

*   *   *

 

 

 公家衆其賢德ある事

 

 明和の頃、仙洞御所の御普請ありて、松本某など上京せしに、歸り後咄しけるは、公家は何れも貧窮なるが多し。かかる中に、松本某旅宿せし向ふに輕き公家衆有しが、至て不勝手の樣に見受ぬ。或日宿の亭主に、何といへる公家衆なるやと尋ければ、何某と申御方にて、至て御不如意にあらせ姶ふ。夫に付いたはしき咄あり。年久敷召仕ひ給ふ女の童のありぬ。夫婦共に不便を加へ給ふに、最早袖をも留候年頃成故、袖留宮詣ふでを心懸け給へど、雜費の差支ありて心に任せぬと、我等に語り給ふ事のありしといひし故、何程の雜費やと尋ければ、聊の事にありける故、餘りのいたわしさに纔の事なるが、我等より進じ候筋は成難し、其方へ可遣間、其方よりよく取計ひ進じ可然と申ければ、彼亭主兩三日過て松本へ申けるは、此間の趣申つれば、志の程いか計嬉敷思召ぬ。内々ながら關東より助力ありては心も濟ず、其方より取替貰はんも其所謂なし。志は嬉しけれど、心の底に右の趣殘てはいかゞ也、斷給へとの事也、さて不都合共取賄ひ給ひて、此程袖留宮詣ふでも濟しと語りしよし也。やさしき事也と松本かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:たとえ名刀と雖も徳川家御禁制の妖刀を身に近づくることなかれという幕臣の節と、飢え渇えても公家は公家、江戸の武家の下には置かせぬという節で連関。

・「明和」西暦1764年から1772年。

・「仙洞御所の御普請」「仙洞御所」本来は一般名詞として上皇及び法皇の御所のことを言う。ここでは現在の京都御苑内御所南東にある仙洞御所を指している。『これは1627年(寛永4年)に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は桜町殿という。小堀遠州によって作事された庭園が広がっている』。『仙洞御所の建築群は1854年(安政元年)の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っている』とウィキの「仙洞御所」にある。岩波版長谷川氏注によれば、次に示す『松本秀持は明和八年(一七七一)四月、この普請の功を賞せられた』と記し、この話柄の年代を限定する。

・「松本某」「耳嚢」の一次資料的語部として既に多出する松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)のこと。最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。当時は御勘定組頭で前注に示したように底本鈴木氏注でも『御所造営の事にあずかり、明和八年四月、功を賞賜、ついで翌年には吟味役に抜擢され』たと記す。ここで根岸が「某」を用いているは松本が異例に昇進して話柄の登場人物として憚ったからか。であれば、先行話でも同様な処置がなされてしかるべきであろうし、もしかすると既に勘定奉行に一気に昇進した彼の過去の出来事ととして、公家の貧窮の報告・それへの私的な援助行動というものが微妙に問題があると考えられたからかも知れない。

・「袖をも留候年頃」袖留。留袖を着る年頃のこと。女子の成人の印として、振袖の長い袖丈を短くし、身八口(みやつぐち:着物の脇の下の部分。)を縫い留める習慣があった。現在の既婚女性の礼装と言う意味に留袖が用いられるのは、このようなイニシエーションがあったからである。

・「志の程いか計嬉敷思召ぬ」の「思召ぬ」は文脈上はこの公家自身の自敬表現であるが、それではおかしい(実際、文末では宿主人に対してさえちゃんと尊敬語を用いている)。ここは「いか計嬉敷までの思召」し=「志の程」という捩れが生んだ表現と採るべきであろう。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 落ちぶれし公家衆にもかかる聡明にして品格のある事

 

 明和の頃、仙洞御所の御普請があって、松本某が上京、職務完了致いて帰府後、私に話して呉れたこと。

……いやもう、公家は何れも経済的に困窮致いて御座っての、どうにも首の回らぬ者、これ、実に多い。……そんな中でも、の、拙者が旅宿して御座った宿の向かいに、身分の高からざる、とある公家の屋敷があったが、……これがまあ、見た目も至ってみすぼらしく、内実は誠(まっこと)不如意ならんとお見受けするばかりの趣きじゃった……。どうにも、そうじゃなあ……『悲惨』を建物にしてみたような佇まい……と申せば分かってもらえようか、のぅ……。

 遂にある日、宿の亭主に、

「向かいは何と申される公家衆かの?」

と訊ねた。

「○○家○○とおっしゃるお方で御座いまして……その、言うのも何で御座いますが……貴方さまもお気づきになられましたでしょうが……その、御家内、至って不如意にあらさっしゃいます……それにつきまして、誠(まっこと)傷ましき話が御座います……何でも、年久しく召し使ってあらっしゃる女童(めのわらわ)が一人おりますが……子なきこの公家夫婦、ともに偉(えろ)うこの子を可愛がってあらっしゃいましたが……この子が、丁度、今日び、もう、袖を留めるような年頃となり、袖留(そでとめ)の儀やら、そのお祝いの宮詣りやら、なさらねばならんようになりましたが……実は先だっても……『……何やかやと、いろいろの雑費が掛かり……思うようにならしまへん……』……と私にこぼしてあらっしゃいました……。」

と言うので、

「……いかほどの雑費なるや?」

と訊いたところ、これが、まあ――貴殿にとっても、拙者にとっても――これ、たいした額にては、これなき程なれば、余りのいたわしさ故、

「……僅かな御援助に過ぎぬものなれど、……見知らぬ拙者から直接差し上ぐるのもおかしな話じゃ。……一つ、その方へその支度金全額遣わす故に、……ま、そなたのよきように取り計らって、贈答するがよい。」

と告げて、金一封を渡しおいた。

 ところが、その亭主、三日後のこと、封したままの金子を持って参り、

「……恐れ多きこと乍ら……先日の有難いお志、○○家○○さまにお会い致し、申し上げましたところが……

『……そのお武家さまのお志……ほんに心より嬉しくお思い申し上げました……なれど、内々とはいえ……関東の、それもお武家さまより、御助力を得たとあっては……公家の手前、私どもの気(きい)が済みまへん……たとえ、その御方に「立て替えてもろうた」としても……「立て替えてもろう」ということの、人に聞かれても胸張って言える謂われも、これ立ち申しませぬ……ほんにほんに、お志は嬉しゅう御座いますれど……我らが心の底に、こうした思いを残したままにてお受け致いては、これ、如何なものかと……なればどうか、丁重に丁重を重ねて、御貴殿より御先方さまへ、お断り下しゃっされ。』

とのことで御座いました。――しかし、お武家さま、一つ、良いことが御座いましてな。

 このお公家さま、この度、手元不如意なれど、何とかうまくお取り繕いになられ、この程、女子(おんなご)の袖留と宮詣り、ともに恙なく済んだとのことにて御座いました。」

と語って御座った。

 

「……いや、誠、品格に満ちた言葉で御座ったよ……。」

と松本某が語った。

 

 

*   *   *

 

 

 位階に付さも有べき事ながら可笑しき噺の事

 

 川西某語けるは、同人ちなみある者也し由。遠江三河の邊の者也しが、娘壹人ありしを縁によりて上方へ遣はし、堂上(たうしやう)へ奉公いたさせけるが、久々對面せざりしに、右娘今は宮仕へせし主人の情を受、内室やうになりけると便りに聞侍れば、行て逢ん事を企て上京し、かの公家衆の許を尋ねしに、位たかく祿重き公家衆ならねば家居(いへゐ)のかゝりも美々(びび)しからず、いと貧しげに見へけるが、案内を乞ければ、いかにもきたなげなる親仁(おやぢ)出て尋し故、しかじかの事にて來りたる由答へければ、先夫に扣(ひか)へ候へとて玄關の隅に差置、漸く暫くありて、申上ぬる聞こなたへ來り給へと、塀重門(へいぢゆうもん)やうの口より通して、白洲へ莚やうの物を敷て其上にさし置、外に人もなかりけるや、直に右の老夫白丁(はくちやう)を著し、もみゑぼしなどして簾を卷上げぬれば、堂上なる人我が娘ともに著座にて、遙々尋來し嬉しさよとの言葉をかけ、無程翠簾(みす)を下げぬる故、よしなくも尋來しと思ひけるが、又彼老人の案内にて座敷へ通し、其後は娘にもゆる/\逢て立歸りしが、さるにても氣の毒にもおかしき事なりと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:聡明さと実に満ちた品格の「されど公家」から、公家という格に拘るばかりの愚昧なる名ばかりの「たかが公家」へ連関。本話柄、没落した公家の描写力に欠ける憾みがある。現代語訳では、これでもかと言うぐらい浅茅が宿をごてごて描写した。悪しからず、堂上様。

・「川西某」岩波版長谷川氏注によれば、川西兼郷(かねさと 享保8(1723)年~安永4(1775)年)で『評定所留役・御勘定組頭』とあるから根岸より14歳年上であるが、根岸の本話柄執筆時には根岸は佐渡奉行で、上役になる。

・「遠江三河」遠江国は現在の静岡県大井川西部(但し、当時の大井川河口は現在より東であったから、現在の焼津市の旧大井川町域も大井川の右岸であり、遠江国榛原郡(はいばらのこほり)であった。三河国は現在の愛知県東部。

・「堂上」狭義には室町以降の公家の家格の一つで、清涼殿への昇殿を許された家柄又は公卿に就任可能な家柄を言ったが、近世では広く公家方の呼称となっていた。

・「塀重門」関から表座敷に通ずる庭とを限る高塀にある中門を言う。左右に柱を立てた両開きの扉で笠木を持たない。寝殿造の中門を簡略化したもので、屏中門・壁中門・平地門などとも言う。行幸や勅使到着のための、本来は最も格式ある出入り口として公家屋敷に据えられたものという。玄関からではなく、とりあえずここを通したということは、礼儀上は、この父を相応に迎えたことを意味している。最初、私も調べずに誤読したが、裏木戸などではない。

・「白丁」 糊を強く張った白い布の狩衣ので、下級役人の雑色(ぞうしき)などが着たもの。

・「翠簾」御翠簾(おみす)のこと。一般には黄色地の簾(すだれ)に赤地・青地に彩色した縁取りを施し、白・赤・黒の三色に染め分けた房を複数垂らした簾を指す語。

・「もみゑぼし」揉烏帽子。薄布で作って漆などをかけて揉み込み柔らかくした烏帽子。 兜などの下に折り畳んで着用した実用的なもので、古くから庶民が着用した。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 位階からすればさもあらん尤もなる事乍ら実際には如何にも可笑しき話である事

 

 川西某が語ってくれた以下の話は、彼の親族の者の体験談であるとか。

 

 遠江・三河辺の者、一人娘が御座ったが、縁あってその子を上方に遣わし、あるお公家に奉公させて御座った。

 永らく娘に会うこともなかったところ、この女、そのお仕えしている御主人のお情けを受け――偶々そのお公家におかせられては妻なき故――御内室同様の扱いを受けて御座います、との便りを受け取ったれば、

「これはこれは、嬉しきことじゃ! 祝いの序でに、永らく対面(たいめ)致さざる娘なれば、会いに参ろう。」

と思い立って上京致いた。

 さて、かの公家衆の屋敷を訪ねて見る――と――位もたいして高くもなく、また禄も多くないお公家衆なれば、その家居(いえい)――とても立派と言える代物にては、これなく――いや、失礼乍ら、大層貧窮と、これ、お見受けする御屋敷――。

 案内を乞えば――これでも公家の下男かと思われるよな――如何にも汚ならしいなりの爺いが出て来て、

「何や?」

と質す故、

「――拙者、かくかくの者にして、しかじかの事ありし故、参上致いて御座る――。」

と応(いら)えたところ、その親爺、言葉を改め、

「……左様(さよ)か……なら、まずは、それにお控えなされ……」

とむさ苦しい土間の如き玄関の、その隅に差し置いたまま、永いこと、待たされる――。

 暫く致いて、

「御来駕の儀、上に申し上げまする間……どうぞ、こちらへお入りなされ……」

と言う。

 されば薄汚き下男と見たは、これ、用人であったかと又しても呆れながら――茅屋の荒れ垣根の裏木戸かと見紛(まご)う――嘗ては塀重門であったと思われるようなる門より通され、――ここそこに泥が見えて白き処の殆んどない――お白洲に、――乞食(こつじき)の敷く莚のようなるものを敷(ひ)いた、その上に、座らされる――。

……そうして……

……そうして、呆れたことに……

……実は、この屋敷には、召し仕われておる「下男」も「用人」も御座らなんだらしい……

……じきに御出座になされたお公家さまなる御主人……これ、先般より鼻も抓まんばかりに見下して御座った臭(むさ)い爺い、その人にて……着するものとてないと思しく、賤しい白丁(はくちょう)の狩衣に、――本来の烏帽子が何十年も年経て、ぼろぼろになったかと思われるよな――揉烏帽子なんどをちょこんと被って現れると、――元は確かに御翠簾(みす)であったことが、巻き上げるという、その動作によってのみ辛うじて感受し得る、向うがすっかり透けて見える――御翠簾を巻き上げて、――巻き上げた爺いが、徐ろに、内に……仕草ばかりは流石に厳かに――それが「堂上の人」と相成って……その横には懐かしい己(おの)が可愛い娘……二人して御着座の上、

「……遙々訪ね来さっしゃる嬉しさよ……」

と一言と言葉をかけたかと思うと、元の爺いに戻って慌てて立つと、するすると――いや、ばらばらと、が正しい擬音であるが――――御翠簾を下げた……。

 父なる男、呆然として、

「……なに!?……これで終わりか!?……何とまあ、馬鹿馬鹿しい! とんだ無駄足じゃったわ!」

と流石に腐り切って、その場を退(さが)らんと致いたところ、例の爺い――いえ、お公家の御主人様が、ひょこひょこと出で来ると、黙ったまま、同じその座敷へと――そこも「座敷」と言うよりは「お化け座敷」とも言うべきもので御座ったが――通して、自分は奥へと隠れた。

 そこでまあ、ようやっと、娘にもゆるりと親しゅう対面(たいめ)致し、語らった後、里と立ち帰ったということで御座る。

 

「……それにしても……公家なればとて、さもあらん尤もなること乍ら……如何にも気の毒にして……いや……可笑しきことで御座った……。」

と川西某が語って御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 好色者京都にて欺れし事

 

 年々御茶壺の御用にて上京し侍る御數寄屋の者語けるは、或年江戸表より登りしゑせもの、京女郎はいかにも誮(やさ)しくあづまなる女とは違ひぬるといふ事なれば、哀れ京都にて傾城遊女はかたらふ事も安けれど、常の女と交りをなし家土産(いへづと)にせんものと、宿のあるじに語りけるに、あるじ答へて、少し入用だに懸け給はゞ大内(だいだい)の官女にも契りなんとある故、大に悦び頻りに心こがれて、何卒して官女に枕を並べ生涯の物語りにもせんと、ひたすらに亭主に賴ければ、何か其最寄に右樣の事に馴し者を賴み、一兩日過て、祇園にて望みを叶へんと、色々手入金など請取りて、其日にも成しかば晝より祇園へ同道して、茶屋によりて酒食など申付待居たりしに、暫く有て乘物にて來るものあり。一間(ひとま)奧成る座敷へ通りぬるに、年頃廿斗にて艷成婦人、其粧も氣高く見へしに、年老いたる局(つぼね)やうの女子も附添、年頃六十計なる撫付の侍も附添ぬ。いかにも御所の女臈(ぢよらふ)の物詣ふでせると見へしが、案内いたしたる者何か右老侍へ向ひて囁て、暫く有て歌學の事に付あの老人へ御逢の事申たれば、懸御目(おめにかかる)との事也とて引合けるにぞ、相應の挨拶なしければ、彼老人申けるは、兼て歌道執心の事主人も及承奇特に存られ、今日は御所よりの御代參にて參詣の序、下々の咄し御聞有らんも御慰みなれば、御内々御逢可被成事也とて、彼婦人に引合せけるが、誠にうや/\しき有樣故、膝行頓首して漸々其容色を望む計なり。歌執心の由聞及び悦入などの挨拶の上、右老侍も立出でければ、老女申けるは、かゝる御物參の御忍びなれば何かくるしからん、禮儀を止めて御酒を下され、打くつろぎて鄙の咄など御聞あらんも御慰みのひとつと酒抔進め、我等は祇園の境内其外今一應皆々を伴ひ見物致し度候と也ければ、其意に任せ候樣にとの事にて、右上臈と彼おのこ計殘し置出ぬ。跡にて何か立よりて、高龍雲雨の交りをなして、殘多(のこりおおく)も老人老女など立戻りし故立分れぬ。かの手引せし町人へ厚く禮式をなし宿へ歸りけるに、右老人老女への取入かた、茶屋の挨拶諸雜用、召連し六尺等の手當何か算用しぬれば、金子五六十金百金にもちかくかゝりしが、よしなき望にて無益の入用懸しと思ひしが、猶程過て聞ぬれば、彼上臈と聞へしは白人(はくじん)にて、右局老侍等も皆拵へ者にてありし。白人と假の情に夥しき金子を遣ひ捨し事のおかしさよとかたりぬ。

[やぶちゃん字注:「女臈」及び「上臈」の「臈」は底本では(くさかんむり)が全体に架かる字体であるが、これに代えた。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:公家という格に拘るばかりの愚昧なる名ばかりの「たかが公家」から、とんでもない「似非公家」へ連関。これ、わざわざ上京した「御數寄屋の者」を登場させて語らせる必要を感じない。さすれば、これは嘲笑している「御數寄屋の者」自身の、実は実体験ではなかったか? 直接体験過去の助動詞「き」を後半に多用するのは、そうしたニュアンスを根岸は微妙に感じ取り、それを本話柄の中にそれとなく伝えたかったのではあるまいか、というのが私の解釈である。最後はそのような感じで現代語訳してみた。

・「御茶壺の御用」宇治採茶使のことを言う。以下、ウィキの「宇治採茶使」よれば、これは『京都府宇治市の名産品である宇治茶を徳川将軍家に献上するための茶壷を運ぶ行列のこと。俗に御茶壷道中と』呼んだもので、『起源は慶長18年(1613年)、江戸幕府が宇治茶の献上を命じる宇治採茶師を派遣したのが始まりで、元和年間、使番が使者に任命され宇治茶を運んでいた。徳川家光の時代の寛永9年に制度化され、寛永10年(1633年)から、幕末の慶応2年(1866年)まで続けられた』。『4月下旬から5月上旬に行われた。責任者たる徒歩頭(かちがしら)が輪番でその任を務め、茶道頭や茶道衆(茶坊主)のほか茶壷の警備の役人など、徳川吉宗の倹約令が出るまで膨れ上がり、多い時には1000人を超える大行列となった。道中の総責任者は、宇治の代官の上林家が代々務めた』。『100以上の将軍家伝来の茶壷に最高級の碾茶を詰めて、往路は東海道を復路は中山道・甲州街道を通った。甲州街道を通った行列は甲斐国谷村(現・都留市)の勝山城の茶壷蔵に納められ、富士山の冷気にあてて熟成してから、江戸に運んだ』。『この御茶壷道中は、将軍が飲み徳川家祖廟に献ずるものであるから自ずからたいへん権威があり、摂関家や門跡並で、御三家の行列であっても、駕籠から降りて、馬上の家臣はおりて、道を譲らねばならなかった』。『行列が通る街道は、前もって入念な道普請が命ぜられ、農繁期であっても田植えは禁止された。子供の戸口の出入り、たこ揚げ、屋根の置き石、煮炊きの煙も上げることは許されず、葬式の列さえ禁止された。権威のあるこの行列を恐れていた沿道の庶民は、茶壷の行列が来たら、戸を閉めて閉じこも』り、万一、路上で『出くわしたら、土下座で行列を遣り過すしかなかった。茶壺の行列の様子は、現代でも童歌のずいずいずっころばしに良く表現されて歌い継がれている』とある。文中の「碾茶」(てんちゃ)とは蒸した緑茶のことで抹茶の原料。

・「御數寄屋の者」数寄屋坊主のこと。江戸幕府職名。若年寄の支配で、坊主頭3名の下に坊主組頭6~7名、その支配下の坊主約40名から構成されていた。将軍家身辺の茶道一般と雑務を掌った。因みに私の好きな芥川龍之介の養家芥川家は代々徳川家に仕えた御数寄屋坊主の家系であった。

・「ゑせもの」ママ。「似非者」であるが、ならば「えせもの」である。身分の低い者・軽薄者・下らない奴・馬鹿者などの意があるが、ここは「軽薄者」としておく。

・「誮(やさ)しく」ルビは底本のもの。優しく。

・「ひたすらに亭主に賴ければ、何か其最寄に右樣の事に馴し者を賴み、一兩日過て、祇園にて望みを叶へんと」の部分、やや分かり難いので、直接話法を用いた会話体に意訳してみた。

・「撫付の侍」深く額部を剃って、後頭の髪を撫で付け(バック)にして、後ろに垂らした髪型。武士階級では医師・剣術指南役及び浪人に見られたが、若者のかぶき者の中にはしばしば見られたようであるから、この老侍も実はそうした輩――ちょいわる親爺系の者であったか。

・「女臈」奥向きに仕える女性。但し、この語には女郎の意味もあり、「上臈」とせず、「女臈」と記したのは、最後のどんでん返しを意識してのことかも知れない。

・「物詣ふでせると見へしか」底本では「しか」であるが、おかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「見へしが」とある。こちらで補正した。

・「祇園の境内」花街祇園に隣接する京都府京都市東山区祇園町の八坂神社のこと。当時は祇園社と呼んでいた。

・「高龍雲雨の交り」」「雲雨の交り」は、楚の懐王が朝は雲となり夕には雨となると称した女に夢の中で出逢って契りを結んだという宋玉「高唐賦」の故事から生じた性交を示す有名な雅語。「高龍」は勃起した男根をも、龍の交尾の様としての「交龍」をもイメージさせもする。現代語訳はすっきりあっさり――あっさりで男は不満足であったのだが――『雲雨の交わり』とした。

・「六尺」当時のの乗用物であった駕籠の中でも、高級な公家・武家が乗るものは「乗物」と呼ばれ、一般の駕籠掻きの駕籠とこれを区別し、これを担ぐ者を「駕籠者」とか「六尺」(「陸尺」とも書く)と呼んだ。因みに、これは「力者」(りきしゃ)の転訛という。

・「白人」一般名詞の「素人」=「白人」を音読みしたものであるが、ここはもっと限定された固有名詞で、京都の祇園や大坂の曾根崎などにいた一見素人風に仕立てた私娼のことをいう。「しろうと」とか「はく」とか呼んだ。今なら、その手のAVビデオで素人を扱ったとキャッチ・コピーするところのものに出演している女優と全く同様である。現代のものもそうだが(見たことがあることをここに告解しておこう)、あの手のもので素人を演じるという事自体、そもそも千両役者の大化け物の雰囲気を醸し出していると言ってよかろう。底本の鈴木氏も、ここではぶっ飛んでいて、『素人の売色という点で遊客の好奇心をひこうとするのは、現代のアルバイトサロンとか、未亡人キャバレーの類と共通性がある』と記される(底本は1970年の発行であることに注意されたい)。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 好き者が京都にて欺かれた事

 

 毎年の御茶壺御用の宇治採茶使として上京する数寄屋坊主が、次のような話をしてくれた。

 

 ある年、江戸表から上洛致いた軽薄者、

「京のお女郎衆は如何にもやさしく、東国のそれとは大分違(ちご)うと聴いておるが……傾城・遊女衆と語らう、てえのは誰にだって出来ることでな……ここは一つ、全く素人の京女と、一夜を共に致いて……江戸への土産としたいもんだ……」

なんどと、宿屋の亭主に持ちかけたところ、主(あるじ)答えて、

「少しばかりの費用をかけさえすれば……禁中の官女と契るらんも……これ、無理な話や、あらしまへんで……」

とのこと故、男、狂喜乱舞し、

「……何としても!……これ、官女と枕を並べ、生涯の語り草にも致さん!」

とひたすら亭主に頼んだところ、

「よろしゅうおます。」

と請合(お)うた。亭主曰く、

「わての近しい者のうちに、こうした禁裏の内と通じる仕儀に手慣れた者がおりますよって、頼んでみまひょ。」

と言う。

 さても一両日過ぎて、その手配師が現われ、

「わてが、祇園にてお望み叶えまひょ。」

と、当座必要という世話料を男から受け取って、男の満願の日を告げると帰って行った。

 さても、その日と相成る。

 その日は晝から、その手配師同道の上、祇園へ行き、茶屋に寄ると、酒や食事を注文して待っているうち、暫くして、当茶屋前に乗物にて来駕した者がある。彼らのいる座敷より一間奥の座敷へと通るのを覗(うかご)うて見たところが、年の頃二十歳(はたち)ばかり、匂い立つような艶なる婦人――その粧いも気高げに見ゆる美女――、それに年老いたるお局(つぼね)風の女が附き添い、加えて、年の頃六十ばかりの、髪を撫で付けに致いた侍も附き添うて御座った。見るからに御所の上臈が物詣でにお忍びにて参った、といった風情であったが、ここに手配師、すっと立つと、最後に彼らの座敷の前の廊下を通り抜けんとする、その老いた侍へ向かって近寄り、何やらん、耳打ち致いた。暫く何かやりとりして席に戻ると、やおら、男にこう言った。

「今、御先方に歌学のことにつき、お話し申し上げたき旨、あの老人を通して申し入れましたところ、御先方はお逢い下さるとのことにて御座います。」

 先方の座敷の口にて、男は如何にも歯の浮くような嘘を並べた――これも手配師が抜かりなく用意致いた台本の文句なれば――それでも相応の挨拶を致いたところ、先の老人、

「……そなた、かねてより歌の道を究めておるとのこと、御主人様もお聴き及びになられ、また大層、そなたの歌学の話に興味を覚えられてあらっしゃいますれば、今日は御所よりの御代参として祇園社御参詣の序でにてはあらっしゃいますが、下々の話、お聴きになられるも御慰みになるとのことなれば、極内々にお逢い下さしゃるとのことにてあらっしゃいます。」

と答えて、その老人に導かれて中に入る。

 男の目の前にはさっきの美麗なる婦人が御着座――誠に気高き御有様にて、男は亀か蚯蚓の如、膝行頓首して、緊張でかちかちになったまま、漸くちらちらっと御姿を仰ぎ見るばかりであった。

「……歌を御精進の由、お聞き及び申し上げまして御座る……誠に恐悦至極に存じまする……」

てな、うろ覚えの台詞でご挨拶、と、先の老いた侍が座を退出する。するとすかさず、婦人のお傍に控えた老女が、

「まあまあ、今日はこのようなお忍びの御物詣であらっしゃいますから、……何も堅苦しい挨拶は抜きになさっしゃれ。……そんな礼儀は退(の)いて……さっさ、御酒(ごしゅ)をお召しになられ……どうぞ、ゆるりとうちくつろがれて。……姫さまも鄙(ひな)の話なんどお聴き遊ばされるも、お慰みの一つなればこそ……」

と、男に酒盃を勧めた上、

「……時に、妾(わらわ)は祇園社境内その外の社寺なんどを、今一度、お供の皆々を連れ、暫く見物致いたく存知ますればこそ……」

と言う。姫さまも、

「……よきにはからうがよい……」

との仰せ。

 さても、男とこの上臈の二人きりを残して出て行ってしもうた――。

 ――その後は……姫さまに寄り添い……雲雨の交わりをなして、名残り多くもあったのだが、例の老いた侍と老女なんどが、そのうち帰って来てしまったので、致し方なく別れを惜しんで宿へと立ち返った――。

 その際、かの手引きをした町人に求むるままに厚く謝礼を成して宿に帰ったのだが、老いた侍及び老女へのそれぞれ別個の取引料・茶屋への挨拶他飲食代金雑費諸々・姫様が召し連れていた乗物の駕籠者への手当なんど――流石に、男、駕籠者への手当というは少しばかりおかしいとは思ったものの――あれやこれやひっ包めて算盤を弾いてみたところが、何とまあ、金子五、六十両は言うに及ばず、百両近くかかった計算――。

『……あっという間の契り……何だか如何にも他愛のない望みのため……無駄金をかけちまったわい……』

と少しばっかり後悔した……。

……ところが……

……かけた金の手前、癪な気持ちもあって、仲間内にて、内裏上臈との契りのこと、如何にも面白可笑しゅう吹聴致いておったところが……暫くして、そうしたことに通じた者から、あの上臈と思い込んで御座った女、実はこれ、新手の素人風私娼の巧みなる芝居にて、あのお局や老成した侍みたような者どもも皆、一切合財何もかも、仕立て上げられた役者であったことを知ったのであった――。

 

「……ど素人の立ちんぼと……仮初めの情を交わすに……夥しき金子を使い捨てたとは……は、はっは! 全く以って……可笑しなことに……御座る……な!」

と、その数寄屋坊主、妙に口元を強張らせながら語って御座ったが、何故か印象に残って御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 畜類又恩愛深き事

 

 天明五年の比(ころ)堺町にて猿を多く集め、右猿に或は立役或は女形の藝をいたさせ見物夥しき事あり。見物せし者に聞しに、能(よく)仕込しものにて、常時流行役者の意氣形(いきかた)を呑込、身振り抔をもしろき事の由かたりぬ。しかるに右猿の内子を産し有しが、其子盛長せしに、殊の外虱たかりてうるさがりし故、猿廻しの者湯を浴せ虱など取りて、毛の濡たるを干んため二階の物干に繋ぎ置けるを、鳶の見付て觜を以てつつき殺しぬるを、猿廻しも色々追ちらして介抱をせしが終に空しく成ける故、かの猿廻し親猿を呼て、さて/\汝が多年出精(しゆつせい)して我等が家業にもなりし、此程出産の小猿を愛する有樣、左こそ此度のわかれ悲しくも思ひなん、我等も鳶の來らんとは思ひもよらず、物干に置し無念さよと慰めけるに、彼猿涙に伏沈みし躰(てい)也しが、猿廻しの者其席を放れ兎角する内、彼母猿狂言道具の紐を棟にかけて縊(くびれ)て死しと也。哀れなる恩愛の情と人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:あまり連関を感じさせないが、芝居絡みではある。母猿や育てていたメスが、死んで干からびミイラと成った小猿を抱いて放さない行動を映像で見たことがある。印象的な話柄である。しかし縊死は有り得ない。そのように懐疑的に見るならば、この話柄自体が人情と同じ「猿情」を売り物にした猿回しの、人寄せのためのえげつない都市伝説であった可能性が強い気もしないでもない。

・「天明五年」西暦1785年。

・「堺町」現在の日本橋人形町3丁目。岩波版長谷川氏注によれば江戸三座の一つであった中村座の他にも、人形浄瑠璃の芝居小屋や見世物小屋があったとある。

・「立役」歌舞伎芝居で主人公クラスの善人の男役をいう。

・「意氣形」名優・流行役者の、オリジナリティのある演技・仕草を指すものと思われる。

・「盛長」底本では右に『(成長)』と注する。

・「鳶」タカ目タカ科トビ Milvus migrans は、本来は動物の死骸・蛙・蜥蜴・魚類といった小動物を捕食する肉食性であるから、小猿を襲うことは十分考えられる(但し、近年のゴミを漁る習性を見るに雑食性という説もある)。最近でも、人の食べているものを狙って飛来し、子供などが怪我をするというニュースをしばしば耳にする。

・「恩愛」には広義の慈しみ・恵み・情け以外に、親子や夫婦の深い情愛を表わす語でもある。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 畜生にもまた人と同じい深い愛情のある事

 

 天明五年頃、堺町にて小屋掛けし、沢山の猿を集めて、この猿に歌舞伎の立役或いは女形の芸をさせて大人気を博した見世物があった。見物致いた者に聞いたところでは、大層よく仕込んでおり、当時評判であった流行役者の演じる形(かた)を驚くばかりに呑み込んでいて、その真似る仕草なんどもまことに面白いもので御座ったとのことであった。

 ところが、その猿の内に子を産んだ猿がおり、その子猿もよう育っておったところが、その子猿ばかりに何故か殊の外、虱がたかり、頻りに痒がっておったれば、猿回し、子猿に湯を浴びさせ、粗方、虱を取ってやった。びしょ濡れになった小猿を干そうと、小屋の二階にあった物干しに繋ぎ留めておったところ、鳶がこれを見つけ、鋭い嘴で以って突き回した。小猿の悲鳴に気付いた猿回しは、急いで物干しに登ると竿なんどを持って振り回し、ようよう鳶を追い払って小猿を救い上げはしたものの、いろいろと介抱してやったれども、その甲斐もなく、遂に息を引き取ってしもうた。

 畜生ながら不憫でもあり、猿回しは母猿を呼んで、猿芝居を仕込む折りと変わらずに、人にするように、

「……さてさて、汝が永年、精を出して芸を磨いて呉れたお蔭によって、儂の稼業も成り立って御座る……このほど生れ出でたる小猿を可愛がって御座った汝の様子を見るにつけ……さぞかし、この度の別れ……悲しく思うておることであろ……我らも、まさか鳶が襲うてくるとは思わなんだ……物干しに繋ぎおきにしたは誠(まっこと)無念じゃ……」

と心を込めて慰めの言葉をかけた。

 ……それを聞いて、かの母猿は涙を流し、俯いたままで御座った……

 ……居た堪れなくなった猿回しは、一時、母猿をその場に残して席を離れたが……

 ……暫く致いて戻ってみると……

 ……かの母猿は……猿芝居の狂言道具の紐を棟木に掛けて……自ら縊れて、死んで御座ったという――。

 

「……猿とは言え……何と親子の、深き情で御座ろう……」

とある人が語って御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 外科不具を治せし事

 

 予が元へ來りし外科に阿部春澤といへる有。【春澤放蕩不覊にして近頃出奔せしよし也。】或時咄しけるは、此程不思議の療治いたし不思議に手がらせり。牛込赤城明神の境内に隱し賣女(ばいた)あり。【世にネコといふ。】彼元より賴こし候故其病人を尋しに、年頃十五六才の妓女也。容貌共にして煩はしきけしきなし。其愁ふる所を問ひしに右主人答て、此者近頃抱へけるに、陰道なき片輪故千金を空しくせし由故、其樣躰を見るに前陰小便道ありて陰道なきゆへ得(とく)と其樣子を考へし。肉そなはりしにもあらず、全血皮の塞る所なれば、其日は掃り翌日にいたり、一間なる所に至り彼女の足手を結ひ、せうちうをわかし且獨參湯(どくじんたう)を貯へて前陰を切破しに、氣絶せし故獨參湯を與へ、せうちうにて洗ひ膏藥を打しが、此程は大方快、無程勤も有ぬべし、親方も悦びしとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。二話前の登場人物の「白人」(素人風私娼)という設定と、「隱し賣女」はやや連関するとも言える。

・「阿部春澤」諸注注せず、不詳。

・「【春澤放蕩不覊にして近頃出奔せしよし也。】」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの割注が『【春澤放蕩不覊にて本町弐丁目に住しが、近頃出奔せしよしなり】』となっている。これだと阿部春澤のかつての住所がはっきりする。長谷川氏の注によれば、この『本町は常盤橋から浅草橋に至る東西の通りの両側の町』とある。現在の中央区。

・「牛込赤城明神」現在、新宿区赤城元町にある赤城神社のこと。神楽坂上右手にある。当時は赤城大明神又は赤城明神社と呼ばれ、底本の鈴木氏注によれば、神職はおらず別当であった天台宗等覚寺の別当坊が神務を執行していた、とある。ウィキの「赤城神社」によれば、『徳川幕府によって江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集め』、境内には宮地芝居と称する芝居を打つ小屋も建てられて、門前にはここに示されたような水茶屋(底本鈴木氏注によれば明神の敷地の内、実に277坪を占有していたとある)があって繁昌していた。

・「ネコ」底本鈴木氏注に、『三味線に猫の皮を張ることから、三味線の異名をネコといったので、転じて芸者の異名に』なったとあり、更に夜鷹のような下級私娼の蔑称化したものであろう。

・「陰道なき……」以下の叙述から、この症例は解剖学的な先天性女性性器の異常で、処女膜閉鎖症(無孔処女膜)が疑われる。処女膜切開術を以って施術する。実際の婦人科のHPを参照すると、現在の処女膜切開術では局部麻酔を用い、メスと炭酸ガス・レーザーによる切開・吸収糸(「刑事コロンボ」ですよ! 溶ける糸だ)による縫合で、術式時間は約10分で費用は31,500円とある。但し、これは完全閉塞の症例の術式ではない(術式の目的の部分に挿入時の痛みの軽減を目的とある)ので、本話のような症例では時間・費用共にもっと掛かるであろう。因みに、そのページに示されている(敢えてリンクは張らないが「処女膜切開術」で検索をおかけになれば私の記載が正しい婦人科的記載であることがお分かりになるはずである)「処女膜形成術」の術式と費用。術式は破損した処女膜を医療用の特殊糸で縫い縮めるもので、吸収糸を使用するので性行為が可能となった際には違和感を感じることはない、とある。『本物の状態とほとんどかわらない自然な処女膜再生が行え』、『性行為は術後約1ヶ月から可能』、費用は21万円で術式時間は約20分である。ちょっと微妙な注記があり、対応が無理な場合には手術を断わる場合があるが、それでも『どうしてもという場合には、別途で膣縮小術を行った後に対応する事にな』るという記載がある。勿論、この手術を受ける方の中にはレイプの被害者の方も含まれるので、軽々な好奇心で語るわけには行かない。行かないが、ふーん、と思った。こんな注を書かない限り、このような情報を私も知り得なかった。鎭衞殿に感謝する。

・「得(とく)と」は底本のルビ。

・「獨參湯(どくじんたう)」ルビは底本のもの。漢方製剤の一つで朝鮮人参(双子葉植物綱セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジンPanax ginseng )を原料とする気付薬。経口飲用する煎じ薬である。出血多量・創傷・激しい下痢及び嘔吐・発熱・感染症全般・心不全等によるショックの際に救急投与する。強心・中枢神経系統や下垂体・副腎系統の過剰興奮によるチアノーゼ・血圧降下といった一次性の急性のショック症状の緩和に即効性があるとする。但し、最善の効果を得るにはともかく大量投与が基本で、通常でも1830gを処方、普通量では全く無効とある。但し、ショックの緩和の後には対症療法から病因の根本的な治療に速やかに切り替える必要があるともあった(以上は複数の漢方記載を参考にした)。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 外科医が女子の先天的生殖器障碍を治療した事

 

 私の屋敷に出入りする外科医に安部春澤という者がいる[根岸注:ただ、この春澤なる者、放蕩無頼にして、最近、出奔して行方知れずという。]。或る時、

 

……この度、実は……世にも稀なる不思議な病いを施療致し、これがまた……不思議に成功致いて御座いました。……ほれ、牛込赤城明神の境内に、隠し売女(ばいた)がたんと御座いましょう[やぶちゃん注:世間では俗に「ネコ」と呼称している。]。先日、あそこの売女元締めの親方より、たってのことと頼まれした故、往診致いてみたところ……診て欲しいというのは、まだ年の頃十五、六才の妓女、容貌は美にして、これと言って病んで御座るような気配も、これ、御座いません。……取り敢えず、調子の悪いところは何処か、と問診致いたところが、本人ではなく、傍についた親方が苦りきって、

「……いえね! こいつぁ、近頃抱えた女なんで御座(ごぜ)えやすが……そのう、実は……あっちの大事(でえじ)な穴が、ですね……ねえんで。……いやもう、とんだ片輪者(もん)で!……全く以って千金、溝(どぶ)に捨てたようなもんでげす!……」

と答えます。

 そこで、まずは会陰部を視診して見ましたが、確かに、尿道はあるものの、その下部に開いていなくてはならない膣が見当たりません。

 そこで更に細部を観察致し、触診も試みましたところ、私の見立てでは――これは膣が完全に肉で塞がって存在しないという訳ではなく、血管を持った処女膜が肥厚し、肉芽様に盛り上がり、膣口部分を覆っているのである――という見当。いえ、それはほぼ確信に近いものにて御座いました。

 そこで取り敢えずその日は診察のみにて帰り、施術の準備を調えた上、翌日再度出向き、この度は、感染を最小限に抑える目的と施術上の利便性から、親方に密閉度の高い一間を用意して貰い、その娘の手足を四方の柱に縄にて拘束、煮沸した焼酎と気付薬である独参湯(どくじんとう)を事前に用意して術式に臨みました。

 会陰部膣口周辺の閉塞部位を一気に切開しましたところ、娘が気絶致いたため、直ちに独参湯を強制経口投与致し、切開部は先の煮沸した焼酎を以って洗浄の上、創傷に即効性のある膏薬を貼って止血処置致しました。

 近頃は術後経過も良好で、ほぼ全快致し、

「いや! ほどのう、あっちの勤めにも、出られましょうぞ!」

と、かの親方も、殊の外悦んでおりました。……

 

と語って御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 人の心取にて其行衞も押はからるゝ事

 

 予が實方(じつかた)の菩提所、禪宗にて今戸安昌寺といへるが、彼寺へ詣ふでけるに、書院の床に無邪(よこしまなし)といへる二字を書し懸物あり。誰認しや見事成墨蹟故、寄て見れば綱吉と名印あり。恐れ多くも常憲院樣御墨蹟故、住僧の心得にもあらんと其席を離れ次の席に著座なしければ、無程住僧出て、こなたへと請じける故、右の御墨蹟はいかゞいたし當寺に候やと尋ければ、旦家(だんか)より納めし由を答ふ。依之申けるは、我等抔右御掛物ありては其間へ入事に非ず、其上予昔評定所を勤、寺社奉行の取計をも凡そ覺へ侍るに、御女中方其外より御紋付の水引やうの物奉納ありても、什物(じふもつ)にいたし置き平日用ゆべからずと申渡されける事也、況や御染筆等の品抔等閑に懸置て、人の咎たらんには寺の不念にもなるべし、取納め置可然と申ければ、彼僧心得申候とは申けるが、強て心に置候やうにもあらざりしに、旦家より奉納には候へども、正筆や似せ筆や知れ不申といへる故、正筆の贋筆のといへるは、其職分せる凡下の者にて世に鳴せしものの事也、將軍家の御筆などを贋(に)せ申べき謂(いはれ)なしと諭しけるが、餘りに智のなき申條哉と思ひしに、果して右住僧寺を持得ずして深川邊へ隱居しけるが、何かおかせる事有て入牢せしが、牢内にて相果てける由と此程の住僧ものがたりせしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。下ネタの次に綱吉の遺蹟の話を持って来る根岸が、私は好きだ。また、本話によって、神道贔屓である根岸の実家安生家の宗旨が曹洞宗であることが分かった。また、この注釈作業の中で、根岸鎭衞の墓が東京都港区港区六本木の善学寺という寺院にあることを知ったが、これによって取り敢えず根岸の(というより根岸家の)宗旨は浄土宗であることも判明した。現代語訳では、「心取」を際立たせるため、「寺社奉行より『住職としての役職これ不相応』の由にて」という私の創作した一文を挿入した。

・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、この場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取ることを言っているように思われる。

・「實方」実家。根岸鎭衞は元文2(1737)年に150俵取りの下級旗本安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ 延宝7(1679)年~元文5(1740)年)の三男として生れた(この父定洪も相模国津久井県若柳村、現在の神奈川県津久井郡相模湖町若柳の旧家の出身で安生家の養子であった。御徒頭から死の前年には代官となっている)。ウィキの「根岸鎮衛」によれば、『江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが、同じく150俵取りの下級旗本根岸家の当主根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として、根岸家の家督を継がせた。鎮衛が22歳の時のことである。(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であり、そのため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある。)』とある。衛規は「もりのり」と読み、宝暦8(1758)年2月15日に病没している。

・「安昌寺」台東区今戸に現存。元、曹洞宗総泉寺末寺。亀雲山と号す。起立不詳。岩波版長谷川氏注では山号を霊亀山とするのは誤りと思われる。

・「無邪」は「論語」の「為政篇」にある

子曰。詩三百。一言以蔽之。曰思無邪。

○やぶちゃん書き下し文

 子曰く、「詩三百、一言(いちげん)以て之を蔽へば、曰く、『思ひ邪無し。』と。」と。

○やぶちゃん現代語訳

 孔子先生が言われた。

「古えの詩篇の数は、これ三百、その三百を一言を以って言わんとすれば、『思い邪なし。』!」

と。

但し、この「思無邪」は「詩経」の魯頌(ろしょう)駉(けい)篇からの引用である(「魯頌」は魯の国の祖霊を祀る際の舞楽)。孔子の言う「詩三百」とは現存の「詩経」のプロトタイプを言うものと思われる。また、「詩経」の原詩は、この「思」の字を語調を調えるための助辞として用いている。従って原詩には「思い」という意味はない。実際、「論語」の本篇を「思(こ)れ」と訓読することも可能であり、本墨蹟もその意にとって「思」を省略したものであろう。『思い邪なし。』は訳さぬが賢明であろうが、文字通りに、ただ一途にの意の「純」の哲学の表明であろう。

・「綱吉」第5代将軍徳川綱吉(正保3(1646)年~宝永6(1709)年)。常憲院は諡名(おくりな)。

・「予昔評定所を勤」根岸は宝暦131763)年27歳で勘定所御勘定から評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)となり、明和5(1768)年に御勘定組頭になるまでの5年、評定所に勤務した。

・「寺社奉行の取計をも凡そ覺へ侍る」評定所留役が何故寺社奉行の細かな職掌上の細目内容まで知っているのかという疑問が生じるが、これについては、底本のここへの鈴木氏注が極めて明快にこれに答えているので、ほぼ全文を引用したい。『寺社・町・勘定三奉行の管掌にまたがる事件の場合を三手掛といって三者が評定所に集まって合議した。また寺社奉行は大名が任じられ、その事務はその大名の家臣が当り、幕府直属の与力同心は配属されていなかったため、寺社奉行が更迭すると事務が停滞し、藩士が不慣れなため能率があがらない。そこで評定所留役を寺社奉行に配置し事務に当らせた。従って、留役は寺社奉行の事務に精通』していなければならなかったのである、とある。

・「御女中方」大奥に関係する女性の総称。

・「其職分せる凡下の者にて世に鳴せしものの事也」「職分」とは文学書画美術等、贋作が作られる可能性のある分野に従事する芸術家・作家という職業のこと。「凡下」は凡俗の意味であるが、この場合は、神聖不可侵の天皇や綱吉のような将軍家を少数の権威者として上位概念に置いた上での、その下位の漠然とした民草の中でも、の意。「世に鳴せしものの事」とは、そんな『凡俗の芸術家・作家』の中でも、特に俗世に聞えた名家名人名工と呼ばれる者の作に対して、「真贋」なんどというものは用いる語である、語に過ぎぬのだ、と言っているのである。ここの訳には「耳嚢」を訳し始めて、初めてやや自信がふらついたのだが、先輩の国語教師の方の御意見も伺い、私の訳に誤りなきという確信を得た。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 その時の人の心を読み取ることでその人の行く末もある程度は推し量り得るという事

 

 私の実家の菩提所は禅宗で、今戸にある安昌寺という寺である。

 ある時、この寺に詣でたところ、書院の床の間に「無邪」(よこしまなし)の二字を書いた掛け物が飾って御座った。

『……誰が認(したた)めしものか……いや、実に美事な墨蹟……』

と思い、近く寄って見たところが、

――綱吉――

との名印!

 これ、恐れ多くも常憲院様の御墨蹟、故に、

『……これは……一つ、かく掲げておる迂闊な住僧への心得にもなろう程に……』

とその席を離れ、次の間に着座致いた。

 程なく、住僧が出て参り、

「此方へ、どうぞ。」

と請ずる故、私は次の間に着座致いたまま、

「かの御墨蹟、如何なる謂われあって当寺に御座候や?」

と尋ねた。住僧はちらりと掛け物を眺めると、如何にもぞんざいに、

「……はあ? ああ、あれ……あれは檀家より納められたもんですが……」

なんどと答える。そこで私は、

「――拙者如き者、かの御掛け物あっては、とても、その座敷に入ること、出来申さぬ。――その昔、拙者も評定所に勤務致いて、寺社奉行の細かな職務内容につきても、凡(おおよ)そは弁えて御座るが、――大奥方その他のやんごとなき向きより、御当家葵の御紋の入った御進物などが社寺に御供物御香料御代(おんしろ)として御奉納なされた場合でも、誠(まっこと)有り難き什物と致いて、大切に収め置き、普段は決して用いてはならぬとの申し渡しがあったと記憶して御座る。――況や、御染筆の品なるものを、このように、いい加減に掛けた置きに致すなどということ、――これ、人に咎めらるれば、重き寺の咎として処分されてもおかしくは御座らぬ。――直ちに丁重に取り下し申し上げ、しっかりと納め置くにしかるべきものにて御座る。」

となるべく穏やかに述べた。と、かの僧は、

「……はぁ……分かり申した……」

と言うたものの、見るからに、私の言を気にもかけて御座らぬ風情。それどころかつけ加えて言うにことかいて、

「……まあ、その、檀家よりの奉納の物にては御座れど、真筆か贋作か、知れたもんでは御座らねばのぅ……」

と言い出す始末。これを聞いて、流石の私も口柄厳しく、

「――そもそも真筆だの贋作だのと申すこと――これ、芸術一般に従事する下々の者の内、特に世に聞えし名人と呼ばるる者の作に対して、言うものじゃ!――『将軍家の御筆になる』という神聖不可侵の『もの』を、『贋作』なんどと申してよいことなんど、あろうはずが、ない!」

と諭したのであるが内心、『一山の住職として、何とまあ、無知極まりなき申し条か。』と思うたままに、その場は過ぎた。……

 ……果たして、後日(ごにち)のこと、この住僧、寺社奉行より『住僧としての役職これ分不相応』の由にて、この寺を追放され、深川辺に隠居致いたが、その後(のち)、何やらん、罪を犯して入牢(じゅろう)、そのまま牢内にて果てた由、只今の安昌寺住職の話で御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 賣僧を辱しめ母の愁を解し事

 

 さる武家の母堂深く佛を信じ、日々寺詣して説法など閲しが、ある出家説法の席にて、罪深き者地獄へ墮し今生にて鬼の形にもなる、俗眼には見ヘずとも智識の眼には角の出しも見へると也、彼母儀をさして、此老女などにも角がみへしといひしを、かの老人深く歎き、宿へ歸りて寢食を忘れ悲しみける故、いつとなく不快にも成ければ、彼子息承之、憎き賣僧(まいす)の申方哉、仕樣こそあれと母にも深くかくし、我等も志のあれば出家を招き饗應供養なしたしとて、彼出家其外壹兩人を招き、色々和言を以饗應なし膳部出しけるに、彼出家の椀中より魚肉の出ければ、出家箸を置て、我等魚肉を禁ずる身分也、かく魚肉を態としつらひ給ひしはいかなるゆへんぞと憤りければ、亭主有無の答なく、滿座の僧俗に向ひ、此ほど老母事彼出家の説法を聞に罷りしに、右老母に角の見ゆるとて法席におゐて辱しめ給ふゆへ、母も歎悲しみ侍りぬ。しかるに俗眼に角らしき病も見へず、定て知識の眼にも見ゆるならんと實に信仰せしゆへ、今日右を招きたれども、椀中に入りし魚肉を見る事ならずして箸をとり、其上此菜何れも魚物を隱し入て彼僧に與へしを嬉しげに舌打して給(たべ)られたれば、戒行第一の魚肉有事を知らざる出家、(何)として(母の角出來しを見たるや、此通相忘れねば此座におゐて)母を辱しめ恨み晴がたしと責ければ、出家も大に迷惑して、説法を弘通(ぐづう)方便の語など種々申譯しけるが、弘通方便は出家の法にもあるべし、武士の母を恥しめて其子として捨置べきや、本山奉行所へも申立て此義理を明らめべきなど嚴敷問詰ければ、座に有合僧俗いろく詫言して、書付などいたし漸其席を立歸けるが、彼出家は其後いかゞ成しや江戸表を立去しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:愚僧と売僧で直連関。根岸はやっぱり、仏教が、お嫌い。

・「売僧」仏教用語に多い唐音で「まいす」と読む。本来は仏法を商売とするような凡愚の俗僧を指すが、後に広く、俗人が悪僧愚僧を罵って言う語として用いられる。

・「智識」善知識。人々を仏の道へ誘い導く人。特に高徳の僧を言う。浄土真宗では門弟が法主(ほっす)を、禅宗では参学の者が師家(しけ)を、それぞれ尊敬して言う一般的な語ではあるが、ちゃんとした僧がこのように自身を指して言うのを、私は聞いたことがない。この導入場面からして私は、この僧には信がおけない。

・「母にも深くかくし、我等も志のあれば出家を招き饗應供養なしたしとて、彼出家其外壹兩人を招き」この部分、母親はこの僧に対する恐怖感が尋常ではないはずであるから、母が居る家に招待するという設定は考えにくい。余程広大な屋敷で、且つ、母親が重いノイローゼに罹患して引き籠りの状態であるならばあり得ないとは言えないが、そこまで話柄の外を設定するのは、やや気が引ける。そこで現代語訳では「わざわざ誂えた貸席」という一文を挿入させてもらった。

・「給(たべ)られたれば」は底本のルビ。ここは強烈な最後の皮肉に入る部分であるから、実際の場面では、わざと敬語を遣った方が効果的であろう。もしかすると、そうした皮肉としての「給ふ」の尊敬語の意味を効かしてあるのかもしれない。そのように訳してみた。

・「戒行第一」十戒(じっかい)の第一に掲げられている不殺生戒のこと。仏教に於いて僧が守らねばならない十箇条の戒律の、その最も重要な戒である。これは在家信者が守らなければならない「五戒」(不殺生・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不飲酒(ふおんじゅ)に、更に僧職の戒として次の五つを加えたものである。不塗飾香鬘(ふずじきこうまん:肌に香料を塗ったり髪を飾ったりしてはならない。)・不歌舞観聴(賤民が生業(なりわい)とするところの歌舞音曲を楽しんではならない。)・不坐高広大牀(ふざこうこうだいしょう:高く広い豪華な寝床を用いてはならない。)・不非時食(ふひじじき:決まった時以外(僧の食事は根本理念では一度で午後には食事をしてはならないとする)に食事をしてはならない。)・不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう:金銀財宝に手を触れたり、蓄えたりしてはならない。)である。

・「(何)」「(母の角出來しを見たるや、此通相忘れねば此座におゐて)」底本では共に右に『(尊經閣本)』で補ったことを注記する。また、「此通相忘れねば」の右には更に『(一本「此道理相分らねば」)』と注す。勿論、この補綴があった方がスムースであるし、「此道理相分らねば」でないと訳せないので、総て採る。

・「明らめべき」底本では右に『(ママ)』表記。

・「説法を弘通方便の語など種々申譯しける」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「説法は」とする。これで訳す。説法は衆生に仏の教えを広めるためにいろいろな手段を用い、嘘も許されるのだといったありがちな弁解である。しかしこのシチュエーションでは最早、弁解にならぬ弁解。やはりこの僧、愚僧にして非僧である。

・「いかゞ成しや」これは勿論、正式に本山や寺社奉行への訴えがなされて処分されたということではない。そうであれば根岸はそう書くであろう。則ちこれは、本件が噂話として漏れ、同宗派のみならず仏教関係者から世間一般にも広く知られることとなり、江戸には居づらくなったものと考えるべきであろう。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 売僧を辱めて母の愁いを解いた武士の事

 

 さる武家の母御前(ごぜ)、深く仏道を信じ、日々寺に参詣して、住僧の説法なんどを聴聞致いておった。

 そんなある日の、その説法の席でのことであった。住僧、

「……罪深き者は地獄に堕ちるが、今生にありも鬼の形となることも、ある。……俗人の眼には見えずとも……善知識の眼には、角、出でておるが、はっきりと見える!」

と言うや、その僧、何をどう思ったものか、この信心篤き母御前を指弾し、

「――ほれ! この老女なんどにも――角が、見えるぞ!」

とやらかしてしもうた。

 勿論、この母御前、深く歎き悲しみ、その日、家に帰ってからも物も食えなくなり、夜(よ)も寝(い)ねられず、それからというもの、体調を崩し、すっかり鬱屈するようになってしもうた。

 それに気づいたかの倅、心配して母御前に訳を尋ねた。

 その理由を聴くや、

「憎っくき売僧(まいす)の申しようじゃ!……さても、このままにてはいっかな済ますまいぞ!!」

と、母御前にも深く隠しおいて、さる奇略を謀った。その奇略とは……

 

……「母同様我等も仏道を学ばんとする深き志しのあれば善智識たる貴僧をお招き致し非時饗応供養を成して凡愚乍らも仏法の深き御教えの一端を聴聞致したく……云々」

と消息を認(したた)めた彼は、母が不在の折りを見計らい、かの住僧を招じた。

 その日は、住僧の他同宗の相応の僧をもう一人をわざわざ誂えた貸席に招き――彼らの御付の僧に加えて、主人自身の知人らも招待して御座ったれば、なかなかの賑わい――母のことはおくびにも出さず、当たり障りのない話を以って場は和気藹々と運び、さて特別に注文致いた相応に贅沢な饗応の膳を出だいた。

 食事も半ば進んだ頃、その住僧が手にとって食べて御座った椀の、粗方啜り終わったその椀の底から――魚肉が顔を出した。出家は、タン! と箸を置くや、

「……我ら、魚肉を口に致すこと、禁じられたる僧身である! それを知り乍ら敢えて巧みに隠し込んだ魚肉料理を供せんとするは、これ、如何なる所存かッ!!」

と殊の外憤って叫んだ。

 ところが本日の亭主たる彼は、その糾問には全く答えず、口元に皮肉な笑みさえ浮かべて、満座の僧俗に向かって徐ろに語り出した。

「……先般、拙者の老母儀、かの住職の説法を聴聞せんがために参詣致いたところが、この我が老母に角が見えるとて、説法の満座の中、お辱めになられた。……故、母も嘆き悲しみ、今以ってその悲しみから抜け出づること、出来ずにおりまする。……しかるに拙者の如き俗人の眼にてはこれ、角らしきもの、影も形も見え申さず、……さこそ、定めて、有難き善知識の御炯眼にのみ『見える』ので御座ろうほどにと、……いや、これ実に、かの住職への信仰の念を強く致いたればこそ、今日び、かの僧をお招き致いた次第…………されど……椀中に入った魚肉を『見る』こと叶わずして箸をとり、それどころか、この面前の膳部、何れの料理にも残らず魚肉を隠し入れてかの僧に供したに、……嬉しげに舌打ちをしてお召しになられた……十戒第一に属すべき魚肉が、膳部総てにあったに、それに気づかざる出家に、……何として、母に角が生えておるのを見ることが出来ようか?!……拙者、この道理、相分からぬ!……故に、拙者、この座にあっても、未だ我が母者(ははじゃ)を辱めた恨み、これ、晴れ難し!!」

と痛烈に指弾し、キッと殺気を帯びた眼で住僧を睨んだ。

 睨まれた僧は周章狼狽、

「……いや、その、……説法と申すものは、その……弘通方便(ぐずうほうべん)なんどと、その、申しまして、なぁ……」

と冷や汗をかきつつ、言い訳にならぬ言い訳を始める。

 ところが彼は逆に、

「拙者が感じているこの矛盾の中にあっては、その『弘通方便』なる語、これ、その僧の、弁解にならぬ弁解の逃げに過ぎぬ!――武士の母を辱めておいて、――その子として捨ておくこと、これ相出来ぬ! 本山及び奉行所へも申し立てて、白黒を決せん!……」

と厳しく捲くし立てた。

 余りの剣幕に、その場に同席していた僧だけでなく、彼の知人らも一緒になって、いろいろ取りなしをし、住僧には詫び証文なんどを書かせて漸っと治まり、倅なる男はその席から帰って行ったという――。

 かの出家、その後――どうしたことか――江戸表から立ち去ってしもうた、とのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 強氣の者召仕へ物を申付し事

 

 巣鴨に御譜代(ごふだい)の與力を勤し猪飼五平といへるありて、我等も知る人にてありしが、彼五平親をも五平といひて享保の此迄勤ける由。あく迄強氣(がうき)者にて、常にすへもの抔切て樂みとし、諸侯其外罪人などありて賴ぬれば、悦びて其事をなしけるよし。或る時召仕の中間を召抱る迚、壹人年若く立派なる者來りて、氣に入りし故給金も乞ふ程あたへ抱けるが、小身の事故纔に壹僕なれば、或る時米を舂(つ)き可申と申付しに、彼中間答て、我等は草履取一邊の約束にて何方へも召抱られし事也。御供ならばいか樣の儀も致べけれど、米舂し事なければ此儀はゆるし給へと言ければ、五平聞て、尤の事也、約束違へんも如何なり、さらば供可致とて、其身裸に成て下帶へ脇差を差、自分と米を舂、右米をつき御供可致とて彼下男に草履を持せ、自分の米をつき候跡へ附て廻り候樣に申付ければ、彼僕も込り果て、何分我等舂き見可申とて、其後は米を舂けるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:生臭の売僧を、理路の逆手を取った奇略で窮地に追い込んだ武士から、我儘な家来を、同じく理路の逆手を取った率先行動で困惑させて従属せざるを得なくさせた武士で連関。

・「御譜代の與力」同心の上に位置する。現在の東京都の各警察署長相当と考えてよい。まずウィキの「与力」より引用する。『同心とともに配属され、上官の補佐にあたった。そのなかで有名なものは、町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。与力には、町奉行直属の個人的な家臣である内与力と、奉行所に所属する官吏としての通常の与力の2種類があった』。猪飼は「御譜代」とあるから、恐らく後者と思われる(後述)。『与力は、馬上が許され、与力組頭クラスは、二百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いだが、不浄役人とされ将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されなかった』。「不浄役人」というのは犯罪者の捕縛や拷問・断罪に直接関わる仕事であったから。但し、後に述べるように当時の同じ禄高の武士に比べると遙かに実入りが良かった。『また当時25騎の与力が南町・北町奉行所に配置されていた。なお、与力は一騎、二騎と数える』。『役宅としては300坪程度の屋敷が与えられた。また、諸大名家や商家などよりの付け届けが多く、裕福な家も多かった』。『与力は特権として、毎朝、湯屋の女風呂に入ることができ、屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。伊達男が多く与力・力士・鳶の頭を「江戸の三男」と称した』。「御譜代」とは、御抱席に対する語。御抱席とは交代寄合の地位、則ちその一代限りで召抱えられる地位を言う。これに対して世襲で受けられる役職を譜代席、その中間を二半場(にはんば)と呼んだ。ウィキの「御家人」によれば、『譜代は江戸幕府草創の初代家康から四代家綱の時代に将軍家に与力・同心として仕えた経験のある者の子孫、抱席(抱入(かかえいれ)とも)はそれ以降に新たに御家人身分に登用された者を指し、二半場はその中間の家格である。また、譜代の中で、特に由緒ある者は、譜代席と呼ばれ、江戸城中に自分の席を持つことができた』。給与や世襲が保証された『譜代と二半場に対して、抱席は一代限りの奉公で隠居や死去によって御家人身分を失うのが原則であった。しかし、この原則は、次第に崩れていき、町奉行所の与力組頭(筆頭与力)のように、一代抱席でありながら、馬上が許され、230石以上の俸禄を受け、惣領に家督を相続させて身分と俸禄を伝えることが常態化していたポストもあった。これに限らず、抱席身分も実際には、隠居や死去したときは子などの相続人に相当する近親者が、新規取り立ての名目で身分と俸禄を継承していたため、江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになった。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって定められた継承することができる役ごとに、相場が生まれるほどであった』とある。

・「猪飼五平」諸注注せず、不詳。読みは「いかい」若しくは「いがい」。

・「込り果て」底本では「込り」の右に『(困)』と注記する。

・「強氣」は「豪儀」とも書いて、威勢がよく、立派なさまという意以外に、「強情」「頑固」の意がある。但し、表現から見て、根岸は現在の「豪気」=「剛気」の意義と全く同等に用いている。則ち、強く勇ましい気性、大胆で細かいことに拘らない性質(たち)である。

・「すへもの」刀剣の試し斬りの一つである据物斬りのことを言う。人体による試し斬りの技を言う。一般に罪人の死罪執行後の遺体を用いた。ウィキの「試し斬り」に、『徳川幕府の命により刀剣を試し切りする御用を勤めて、その際に罪人の死体を用いていた山田浅右衛門家等の例がある。また大坂町奉行所などには「様者」(ためしのもの)という試し切りを任される役職があったことが知られている。その試し切りの技術は「据物」(すえもの)と呼ばれ、俗には確かに忌み嫌われていた面もあるが、武士として名誉のあることであった』とあり、さしずめ猪飼はこの様者並の立場にでもあったものと思われる。『なお、その試し切りの際には、一度に胴体をいくつ斬り落とせるかが争われたりもした。例えば三体の死体なら「三ツ胴」と称した。記録としては「七ツ胴」程度までは史実として残っている』。『据物斬は将軍の佩刀などのために特に厳粛な儀式として執り行われた』。『その方法は、地面にタケの杭を数本、打ち立て、その間に死体をはさんで動かないようにする。僧侶、婦女、賎民、廃疾者などの死体は用いない。死体を置き据えるときは、死体の右の方を上に、左の方を下にして、また、背中は斬る人のほうに向ける。刀には堅木のつかをはめ、重い鉛のつばを加える。斬る箇所は、第一に摺付(肩の辺)、第二に毛無(脇毛の上の方)、第三に脇毛の生えた箇所、第四に一の胴、第五に二の胴、第六に八枚目、第七に両車(腰部)である。以上の箇所を斬ってその利鈍を試みるのである。二つ胴、三つ胴などというのは、死体を2箇以上重ねて、タケ杭の間にはさんでおいて試みるのである』と記す。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 剛毅の者が奇略を以って我儘な家来に仕事をさせた事

 

 巣鴨に、代々与力を勤めて御座る猪飼五平という者がおる。私もよく知っておる男であるが、この五平、父親もまた同じ五平を名乗り、享保の頃まで与力を勤めて御座った。

 この父五平、途轍もなく剛毅な男にて、普段、据え物斬りなんどを楽しみと致しており、大名家その外から刀剣類鑑定の依頼があり、偶々処刑された罪人の遺体なんどがあれば、二つ返事で請け合い、喜んで試し斬りを致いたということであった。

 ある時この父五平、召使うための中間(ちゅうげん)を召し抱えるようと探しておったところへ、彼の元へ、雇ってもらいたき旨申して一人の若い丈夫が訪れた。一目見て気に入ったので、給金も望みむままの額で決し、抱えることとなった。

 五平、小身の旗本なれば、雇うて御座った中間、これ一人、二人。

 ある時のこと、五平、餅を食いたくなり、

「米を搗きな。」

と申し付けたところが、この中間、涼しい顔でこう答えた。

「私は、主人草履取りとして御供することの専従という契約にて、どちら様にもそのような中間として召し抱えられてきた者にて御座る。こちら様にても御同様の御約束で御座った。されば、御供の儀なれば致しますれど、米を搗いたついたこと、これ、御座らねば、その儀は御赦し下されい。」

 それを聴いた五平、にやっと笑うと、

「いや! それは尤もなことじゃ! 約束に違(たご)うこと、これ、我が本意(ほい)にてもあらぬ!――さればとよ、これより、我らが供致すがよい!」

と言うや、五平、上着をばっさり脱ぎ捨て褌一丁の裸になり、その褌に脇差を差し、その場でちょいと米を搗いて、

「さても! 拙者、米搗くに、うぬはその供せよ!」

とて、かの下男に草履を持たせ、

「拙者、このままにて米を搗きつつ、各所を廻らんとす。故、その後にぴったり付いて!――廻るが、よいぞ!」

と申し付けたところ、流石に下男、困(こう)じ果てて、

「……わ、分かり申した……わ、我らが、米を搗いて、みましょう、ほ、程に……」

と言うて、その後(のち)は、命ずれば黙って素直に米を搗くようになった――ということにて御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 本妙寺火防札の事

 

 白山御殿に新見(しんみ)傳左衞門といへる人あり。常時よりは三代も已前也。餘迄強勇の男也しが、本妙寺旦家(だんか)にてありしに、或時本妙寺來りけるが、なげしの上に秋葉の札ありしを見て、ぼうほう罪とて、他宗の守札など用ひ候は以の外あしき事也、當寺よりも火防の札は出し候間、早々張かへ給べしといひぬ。傳左衞門聞て、不存事迚秋葉の札を張ぬ、然し本妙寺の火防札は無用にいたし可申。夫はいかにと尋ければ、享保の比本妙寺火事とて、江戸表過半燒たる事あり。かゝる寺の守札望なしと答へければ、僧も赤面なしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「火防」「かばう(かぼう)」「ひよけ」「ひぶせ」と三様に読める。根岸がこれをどれで読んでいるかは不詳。因みに岩波版で長谷川氏は「かぼう」とルビされている。

・「本妙寺」明治431910)年に東京都豊島区巣鴨に移転した。法華宗陣門流東京別院。山号は徳栄山。ウィキの「本妙寺」によれば、『1572年(元亀2年)日慶が開山、徳川家康の家臣らのうち三河国額田郡長福寺(現在愛知県岡崎市)の檀家であった武将を開基として、遠江国曳馬(現在静岡県浜松市曳馬)に創建された寺である。1590年(天正18年)家康の関東入国の際、武蔵国豊島郡の江戸城内に移った。1603年(慶長8年)、江戸の家康に征夷大将軍宣下が有った。その後寺地を転々とし、1616年(元和2年)小石川(現在東京都文京区)へ移った。1636年(寛永13年)、小石川の伽藍が全焼し、幕府から指定された替地の本郷丸山(東京都文京区本郷5丁目)へ移った。現在も本郷五丁目付近に「本妙寺坂」なる地名が残されている。本郷時代には塔頭7院を有した(円立院、立正院、妙雲院、本蔵院、本行院、東立院、本立院)。1657年(明暦3年)の大火(いわゆる明暦の大火)ではこの寺の御施餓鬼のお焚き上げから火が出たとも伝えられる(異説有り)。現在墓地には明暦の大火で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられた供養塔がある』と記す。

・「秋葉の札」火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰される、現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家、赤石山脈南端にある秋葉山本宮秋葉神社を起源とする秋葉大権現の火除けの御札。ウィキの「秋葉山本宮秋葉神社」によれば、『戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康の隠密であった茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととな』り、『徳川綱吉の治世の頃から、三尺坊大権現は神道、仏教および修験道が混淆した「火防の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、十七坊から三十六坊の修験や禰宜(ねぎ)家が配下にあったと伝えられる。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた』とある(一部の読みを省略した)。本件御札が秋葉山本宮秋葉神社のものであるとは断定出来ないが、そうとっておく。岩波版長谷川氏でもそう注されている。

・「ぼうほう罪」底本では右に『(謗法罪)』と注記する。本来は釈迦の説く仏法の教えを謗ることであり、広義には正しい仏法を説く人を謗ることを言う。

・「白山御殿」底本鈴木氏注に『いまの文京区白山御殿町から、同区原町にまたがる地域にあった。五代将軍綱吉が館林宰相時代の住居。綱吉没後は麻布から薬園を移し、一部は旗本屋敷となった』とある。本来は白山神社の跡地であった。注にある「館林宰相」について、ウィキの「徳川綱吉」より引用しておく。綱吉は三代将軍家光の四男として生まれ、『慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。同月には将軍・徳川家光が死去し、8月に兄の徳川家綱が将軍宣下を受け綱吉は将軍弟となる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任』、『明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失したために9月に神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となる(館林徳川家)が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される』ようになった。その後、『延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に継嗣がなかったことからその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け内大臣とな』ったのであった。

・「新見傳左衞門」底本鈴木氏注に『シンミ。もとニイミといったが、先祖が家康の命によってシンミに改めたという。義正・正朝・正尹の三代、伝左衛門を称した。正尹は宝暦十年大番組頭となり、明和三年六十七歳で没した。三代前というのは義正であろう。義正は小十人頭、持筒頭を勤め、延宝七年六十で没した』とあるから、正尹の生没年は(元禄161703)年~明和3(1769)年)、義正は(宝永7(1710)年~延宝7(1679)年)となる。その「正尹」は「まさただ」と読むものと思われる。但し、岩波版長谷川氏注は当時の伝左衛門を正武とし、その三代前は伝左衛門正朝であると、異なった判断を示されている。正朝は『書院版組頭等。寛保二年(一七四二)没。九十二歳。駒込高林寺に葬。同家は牛込顕彰正寺か高林寺に葬り、本妙寺に葬のことは見えない』と重大な疑義を示されておられる。正朝の生没年は(慶安4(1651)年~寛保2(1742)年)である。

・「本妙寺火事」前注で示した通り、明暦の大火のこと。以下、ウィキの「明暦の大火」によってその概要を見る。『明暦3118日(165732日)から120日(34日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる』。『この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失した。死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。江戸城天守はこれ以後、再建されなかった』。『火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられることもあ』り、この『明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われた。御三家の屋敷が江戸城外へ転出。それに伴い武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。防備上千住大橋のみしかなかった隅田川への架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など、市街地が拡大した。吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。市区改正』や『防災への取り組みも行われた。火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、その後も江戸はしばしば大火に見舞われた』。以下はその火災状況を、主に当時の様子を記録した万治4(1661)年刊の浅井了意による仮名草子「むさしあぶみ」を用いて仔細に記す。『この火災の特記すべき点は火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはそのすべてが焼き尽くされた点にある。このことはのちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている』。『前年の11月から80日以上雨が降っておらず、非常に乾燥した状態が続いており当日は辰の刻(午前8時頃)から北西の風が強く吹き、人々の往来もまばらであった』。まず1度目の出火と延焼。『1月18日未の刻(午後2時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火 神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及ぶ。霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲とな』った。2度目の出火と延焼。『1月19日巳の刻(午前10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火。飯田橋から九段一体に延焼し、江戸城は天守閣を含む大半が焼失』した。そして3度目が来る。『1月19日申の刻(午後4時頃)、麹町5丁目の在家より出火。南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火』した。次に「災害復旧」の項。『火災後、身元不明の遺体は幕府の手により本所牛島新田へ船で運ばれ埋葬されたが、供養のために現在の回向院が設立された。 また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助、諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行って、災害復旧に力を注いだ』とある。次にこの大火の真相に纏わる三つの説が示される。中々に興味深い。まずはオーソドックスな「本妙寺失火説」で、「振袖火事」という異名の由来にもなっている因縁譚である。『ウメノは本妙寺の墓参りの帰り、上野のお山に姿を消した寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。その紋は桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に、菊。そして、恋の病に臥せったまま承応4年(明暦元年)1月18日(1655222日)、17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、不受不施の仕来りによって異教徒の振袖は供養せず、質屋へ売り払った。その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で、翌明暦2年の同じ日(1656年2月11日)に死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように明暦3年の1月18日(1657年2月28日)に17歳で亡くなった。『イクの葬儀に至って三家は相談し、異教徒の振り袖をしきたりに反して、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという』。『この伝説は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物は異なるものの、記録を残している』と記す。因みに、この小泉八雲の作品とは“Frisodé”「振袖」である。講談社学術文庫版小泉八雲名作選集「怪談・奇談」で和訳が読める(原注を含め文庫本で4ページに収まってしまう小品である)。『また、幕末以降に流布された振袖火事伝説を、江戸城火攻めの声明文として解釈すると、振袖の寺小姓は、1590年に上総の万木城を徳川軍勢に攻め落とされた土岐家の子孫が浮かび上がる。さらに、その寺小姓は、上野の寛永寺の天海の弟子の蓮海で、後に、波の伊八で有名な上総和泉浦の、火攻めの兵法に長けた飯綱権現をご本尊とする飯縄寺の住持であることが伺える。そして、不受不施派からの改宗を余儀なくされた上総の法華信徒は、その寺小姓と手を携え合い、狐に括り付けた烏の翼に火を放つ飯綱権現の兵法を吸収し、江戸城と城下の火攻めを決行したことが読み取れる。なお、この時の東叡山寛永寺の貫首は守澄法親王でありながら、川越の喜多院の末寺に過ぎず、幕府の朝廷に対する圧迫が伺え、朝廷と法親王と蓮海と不受不施派による討幕未遂だった可能性もある』と記す。滅ぼされた土岐氏の怨念――怪僧天海の弟子で蓮海―禁教ファンダメンタリスト集団不受不施派―伝奇ではお馴染み妖術飯綱の法――法親王絡みの尊王倒幕の陰謀……流石にウィキでは「要出典」の要請が示されているが……こりゃ、こたえらんねえ面白さじゃねえか! お次は『幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする』幕府確信犯の「幕府放火説」ときたもんだ! 『当時の江戸は急速な発展で都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にやれるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため、放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている』とするが……かなり、いや、激しく乱暴。三つ目は「本妙寺火元引受説」である。『実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷であった。しかし、老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまうということで幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにし、上記のような話を広めたのであった。これは火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか火事以前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家より毎年多額の供養料が納められていたことなどを論拠としている。本妙寺も江戸幕府崩壊後はこの説を主張している』とする。これはありそうな話ではある。最後のエピソード集から一つ。『この大火の際、小伝馬町の牢屋敷奉行である石出帯刀吉深は、焼死が免れない立場にある罪人達を哀れみ、大火から逃げおおせた暁には必ず戻ってくるように申し伝えた上で、罪人達を一時的に解き放つ「切り放ち」を独断で実行した。罪人達は涙を流して吉深に感謝し、結果的には約束通り全員が戻ってきた。吉深は罪人達を大変に義理深い者達であると評価し、老中に死罪も含めた罪一等を減ずるように上申して、実際に減刑が行われた。以後この緊急時の「切り放ち」が制度化される切っ掛けにもなった』とする。不謹慎乍ら「明暦の大火」が、面白い!

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 本妙寺火除けの御札の事

 

 白山御殿辺に住む新見(しんみ)伝左衛門という御仁がある。

 今よりは三代前程も前のことにて御座るらしいが、その頃の伝左衛門――当家は代々当主は伝左衛門を名乗って御座る――これ、全く以って剛勇そのもの御人であった。

 ある日のこと、本妙寺の檀家で御座った彼の屋敷に本妙寺の住僧が訪問した。

 通された座敷の上長押の上に秋葉神社の札があるのを目にするや、

「――かくするを謗法(ぼうほう)の罪と申す! 他宗の守り札なんど用い候は、以っての外に悪しきことにて御座るぞ!――当寺より火除けの御札、出して御座いますれば、早々にお貼り替えなさるがよろしかろう。」

と言った。すると伝左衛門、

「成程、存ぜぬことなれば秋葉の札を貼って御座ったの。……なれど……本妙寺の火除け札拝受は、これ、御無用と――致したたく存ずる。」――

「――そ、それは、なに故かッ!」

住僧、気色ばんで問い質す――と伝左衛門徐ろに、

「――享保の頃、本妙寺火事と言うて、かの寺から出火致いて江戸表半ば過ぐる程に焼け尽くしたことあり――かかる寺の――火除けの札、なんど――何の御利益も、ない!」

と答えたれば、僧は赤面したまま、言葉もなかった――ということにて御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 いわれざる事なして禍を招く事

 

 享保の比(ころ)とかや。上野塔中(たつちう)にて格祿鄙(いやし)からぬ僧のありしに、最愛の美童有しに、段々年も積て廿三四才になりぬれば、近き内には相應の方へ養子に遣し候とて、念頃に支度など取賄ひなど遣しけるが、大小も一通り立派に拵へけるを、ある日下谷御徒(おかち)を勤ける其頃の任俠小野寺何某といへる者來りける時、かく/\の譯にて右若き者に大小持遣しぬ、切べきものなるや、釋門の事なればしる事あたはず、一覧給はれとありしゆへ、小野寺是を見て、遖(あつぱれ)の出來物哉(かな)、隨分見事の道具たり、しかしためし見申さず候ては丈夫には難申、我等に預給へ、ためし見んといひしに、彼出家に似合ず愛著(あいぢやく)の心より、とてもの事によろしく賴ぬと挨拶して、かの大小を渡しければ受取りて歸りぬ。享保の後まで、吉原の堤抔には折々辻切抔有しが、彼小野寺もかゝる事を慰になしけるにや、彼一刀を帶し夜更て日本堤へ至り、往來の若者へ喧譁をしかけ拔打に切けるが、遖(あつぱれ)名作の印や、水もたまらず二ツに成ぬ。夫より心靜に持參り此血などぬぐひ洗ひなどして、其後日數兩三日過て彼寺へ持參り、此程此刀ためし見しに扨々きれもの也。隨分調寶のやう其人に申給へとありければ、彼僧涙を流し、此刀を遣すべしと存ぜし若者、兩三日跡に吉原町へ行候事にや、日本堤にて切害されてありしが、何者の仕業とも不知、衣類懷中の物紛失もなければ、定て盜人の所爲とも思われずと涙と共にか たりけるに、其日どりを考へ合すれば、小野寺が切し若者は則右出家の刀を可讓とせし者也。因果は是非なきものと古き人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:仏教嫌いの根岸の僧侶批判で連関。ここでは同性愛の相手である美童=御稚児への僧の異常な愛着を煩悩として認識しない、それどころか殺生の道具である刀剣の切れ味に拘る愚僧非僧への痛烈な軽蔑感が示されいる。

・「いわれざる」の「いわれ」はママ。

・「享保」西暦1716年から1736年。

・「上野塔中」寛永寺の塔頭のこと。江戸後期の寛永寺は寺域305,000余坪、寺領11,790石、塔頭(子院)は36ヶ院(現存は19院)に及んだ(以上はウィキの「寛永寺」を参照した)。

・「下谷」現在の台東区の一部。ウィキの「下谷」によれば、この『地名は上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である』とし、江戸初期に『寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄え』、『江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展する。江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担った』。現在のアメ横も下谷の一部である。

・「御徒」「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。

・「小野寺何某」諸注小野寺秀明(ひであきら)を同定候補としている。底本の鈴木氏注では、『寛政譜によれば、小野寺は一家あるのみで、第一代の作右衛門秀隆が、御徒頭になり、その子秀盛が万治三年十二月に遺跡を相続している。享保ごろの当主は秀盛の孫英明で、勘定から評定所留役になったが、享保元年事務の手落があったのと、平素のつとめも宜しからざる聞えあるによって小普請におとされ、逼塞を命ぜられ、翌二年四十一歳で没した。英明は御徒ではないが、この人ではなかろうか。御徒から支配勘定、さらに勘定に移る例も少なくないし、英明の子は小十人頭などになっているので、誤ったのであろう』と記されている。岩波版長谷川氏注では若干の留保をして秀明の名を挙げ、『三代前の秀隆は御徒より組頭』という点に注意を喚起している。これらによれば秀明の生没年は(延宝5(1677)年~享保2(1717)年となる。「平素のつとめも宜しからざる聞えある」という部分に本話柄との強い連関を感じさせる。逆に決定的な同定を避けたい意識が根岸に働いた変形か。

・「遖(あつぱれ)」は底本のルビ。

・「彼出家に似合ず愛著(あいぢやく)の心より」ここにこの言葉は言わずもがなという感が強い。そもそも冒頭から稚児に溺れている僧をこう形容すべきところである。それを敢えて刀刀剣の切れ味を依頼するところまで持ち越したのは、稚児に対する同性愛感情の昇華や合理化であると同時に、そこに伏線として「出家に似合ず」殺生の道具たる刀から、後半への血の匂いを漂わせておくためでもあろう。

・「吉原の堤」今戸橋待乳山聖天付近から箕輪浄閑寺辺りにかけて隅田川から引き込んだ水路に沿ってあった土手通り。

・「日本堤」吉原堤の本来の名称。この水路の下流、山谷堀近辺では水路の両岸に土手が築かれており、「二本堤」と呼ばれていたことからの名称という。新吉原移転後「吉原土手」「吉原堤」とも呼ばれるようになった、吉原への徒歩の道筋ではあるが、通人は専ら舟で通った。

・「水もたまらず」刀剣の斬れ味の鋭さを特異的に言う慣用句。斬り落としたさまが鮮やかなこと。

・「兩三日跡」の「跡」とは過ぎ去った方の意であるから、三日前でよい。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 余計なことを致いて災いを招くという事

 

 享保の頃とか。

 上野寛永寺塔頭に格式も禄高も相応なる僧が御座ったが、この僧、最愛の美しき稚児を抱えておった。その美童も、だんだんに齢を重ねてしまい、最早二十三、四とも相成って、僧も名残惜しいものにては御座ったが、

「……近いうちには……相応の家に、養子に、遣らねばなるまいのぅ……」

と、おいおい念を入れて、その支度なんどを始め、本人へも下々の者にもいろいろとその関わり事を命じたりも致いて御座ったが、特に、相応の武士の格に相応しい大小を立派に拵えさせた。

 ある日、下谷に住む御徒組の、その頃、世間でも任俠で鳴らした小野寺某という知り合いの男が寺を訪ねて参った折り、

「……かくかくしかじか……の訳と相成り、右の者に大小を拵え、さし遣わさんと思うて御座る。なれど……この刀、切るるものや否や……沙門の身なれば、細かいことは存じませぬ。……とりあえず御一見下されんかのぅ……」

と言う。そこで小野寺、この刀を見たところ、

「これは天晴れの技物(わざもの)――頗る美事なる道具……。――しかし乍ら、やはり試し斬り致さざれば、確かなことは、これ、申せませぬ。……一つ、拙者にお預けなされては如何(いかが)か? 試して見ましょうぞ……」

僧は僧職にも似合わず、刀の切れ味に異様な関心を示して、

「いや! それは願ってもない! 是非とも宜しくお頼み申す!」

と依願、僧は大小を恭しく渡し、小野寺は刀を受け取って帰って行った。

 ――享保の始めまで、吉原の堤などには折々辻斬りなんどがあったが……

 ――小野寺某なる人物も、そうしたことを気晴らしの楽しみとしている輩であったものか……

……その夜、かの一刀を佩いて日本堤へ至ると、外に人気のないのを見計らって、通りすがりの一人の若者に因縁を付けるや……抜き打ちに一気に斬りつけた……天晴れ、名刀の所以か、若者の胴は鮮やかに真っ二つになって御座った――。

 その日から数えて丁度三日後のこと、小野寺、かの寺へ刀を持ち参り、

「この程、この刀、試してみたところ――さてさて、やはりこれ、美事なる斬れの技物にて御座った。どうか永く大切にされるよう、そのお人にお伝え下されよ。」

と口上致いたところが……

……かの僧、突然、ぽろぽろと涙を流し、

「……この刀を遣わさんと思って御座った若者……三日程前に吉原へでも行くつもりで御座ったか、……日本堤にて斬り殺されてしもうた、……何者の仕業とも分からぬ。……衣類・懐中の品なんども何も無くなっているものはないからに、盗人の仕業とも思われず……」

と、涙と鼻汁で顔中をぐしゃぐしゃにしながら語ったのであった……。

……日時及び場所を考え合わせるなら……

……小野寺がかの刀で斬った若者とは……

……則ち、その僧が刀を譲らんとした可愛い男……

……その人であったのだ……。

 

「……因果というもの……これ、如何(どう)にも逃れ得ぬものにて御座る……」

とさる年寄りが語った話で御座る。

 

 

 

*   *   *

 

 

 村井何某祖母武勇の事

 

 村井某とて御徒士(おかち)を勤め、寶藏院流の鎗術(さうじゆつ)などせしあり。予も知る人にてありし。右の租父孫太夫の妻にて有し由、勝れたる婦人にて、或時孫太夫御城の供にて朝とく出し時、未だ明け六ツ前なれば一間なる所にて髮など梳りて居しに、盜賊右一間の窓より杖やうの物の先へ頭巾をかけ窓より内へさし入、引取ては又入れける故、彼女房得(ふと)と見て、全く盜賊ならんと夫の差添を拔て窓の邊りに息を詰待居しが、無程彼盜賊人のいざると心得、窓へ手をかけ首をずつと差入れける處を、横ざまに彼盜賊の首へ刀を突通し、夫の歸る迄沙汰もせで、夫歸りて其譯を語り見せし由。かゝる不敵の女性也しが、後家に成て物見に表を見居たりしに、其物見下にて双方武家方なるが、いか成事にや、互に立向ひ鑓追取て戰ひしに、壹人難なく相手の胴中を突通しけるに、彼相手鑓を捨て、突拔れながら鎗をしごき腰刀を拔て、やがて手元へ來らん氣色を、彼女房見て、其鑓をふつて拾給へと、流石に鑓遣ひの母程ありて聲かけぬれば、其通せし故相手倒れけるを止めをさして、折節人もなく雙方の家來逃去りければ彼侍立退んと右婦人の方へ目禮して五六軒も行過しを、彼女房(ふと)聲をかけて鑓印を取給へといひける故、始て心付き鑓印を取りて立去りし故、相手はいづれやら跡も詮議もわからで濟しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:刀剣を巡る因果譚から、同じ刀剣類である槍連関。それにしても、その辺の男では足元にも及べぬ勇猛果敢な烈女である。しかし、如何にも何やらん、魅力的だ――こういう女性と私は恋してみたい。

・「御徒士」「徒組」「徒士組」(かちぐみ)と同じ。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。

・「寶藏院流」奈良興福寺の僧であった宝蔵院覚禅房胤栄(大永元(1521)年~慶長121607)年)が創始した十文字槍を用いる槍術の一派。薙刀術も伝承していたとされる。

・「租父孫太夫」岩波版長谷川氏注に『村井正邦(明和七年没)の祖父正伊(まさこれ)か。儀太夫と称する。ただし御勘定。正徳四年(一七一四)没、五十七歳』とある。主人公と目される村井正伊は(明暦四・万治元(1658)年~正徳4(1714)年)となる。但し底本の鈴木氏注では、『寛政譜には村井氏は一家のみ』として、長谷川氏の示した村井氏を挙げるものの『代々御勘定で、御徒ではない。また孫太夫という通称も歴代の中に見えない』と、否定的である。これも前話同様、決定的な同定を避けたい意識が根岸に働いた変形かも知れない。

・「明け六ツ前」通常は「明け六ツ」は午前6時頃と記すが、不定時法であるから季節が特定出来ないと時間を指定出来ない。話柄の雰囲気から見て(窓を開けて寒気が入るような秋や冬とは思われない)、実際には「明け六ツ」もっと早い4時半頃から5時半前位を想定した方がよいように思われる。「前」とあるから、その前で4時から5時を想定したい。

・「盜賊右一間の窓より」の「盗人」は。文脈上の面白さから、わざと排除して訳した。訳し忘れではない。

・「差添」太刀の脇差のこと。

・「物見」物見窓。外を見るために設けた窓で、連子になっていて、外からは見え難くしてある。

・「鑓印」戦陣や外出時、槍の印付鐶(しるしつけかん:身(刃)の柄への接合部である口金部分と、柄の中央よりやや身に寄ったところにある血留めの環との、中間部に回されている環。)につける家紋を入れた皮製の印。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 村井何某の祖母武勇の事

 

 村井何某といって御徒を勤め、宝蔵院流の槍術などを修めた男がある。私も直接の知人としてよく知っている御人である。この人の祖父孫太夫の女房という方は、実に優れた女人で御座った由。

 

 ある時、孫太夫、上様御供のため、大層、早朝に家を出た。

 まだ明け六前で、奥方は一間で髪などを梳いて御座った。

 すると、表に面したその部屋の窓より、

……すうーっと……

……杖のようなる物の先に頭巾をかけたものを、窓より部屋の中へと差し入れたかと思うと、また……

……すうーっと……

……外に引き戻す……又、差し入れる……

……そのように何度も出したり、入れたりを繰り返す……

故にかの女房、

『……これは、全く以って盗賊に違いなし!――』

と、そっと立つと、家にある夫の脇差を引き抜き、窓の脇にて息を潜め、凝っと待って御座った――。

 程なく、その盗賊、誰もいないと思い込んで、窓へ手を掛け、首をすっとさし入れたところを、女房、真横からぶっす! と一気に、その盗賊の首へ刀を突き通して御座った――。

 後、夫の帰るまで賊の侵入と成敗を通報することなく、家内の者にもきつくその一室への入室を禁じて現場保存をし、夫が帰って以上の経緯を縷々説明致し、襖を静かに開けて現状を見せたとのこと。

 

 若き日も、かくなる大胆不敵の女人で御座ったが、その後(のち)、後家となってからの話も、まだ御座る。

 ある日のこと、外に面した物見窓の方を、見るともなく見ておったところが、何やらん、気配がする――されば、窓近くへ寄ってそっと覗いて見ると――その窓下の通りにて二人の武士が、何としたことか、互いに槍を手にして果し合いを致いて御座った。

――震える両の槍穂……男たちの荒い息――。

……と……一瞬の間合い――

……一人が、難なく――ぶすっと――相手の胴の真ん中を美事貫き通した――。

……が――

……刺された当の相手は、持っていた自分の槍をかなぐり捨てると、どてっ腹に突き刺さって御座る、その槍を摑むと……ぐいっ! ぐいっ!……と扱(しご)きながら……腰の刀をやおら抜いて、そのまま槍を持った男の手元へと寄り来らん勢いと見た――

「その槍! 振って捨てなされ!」

と、思わず物見窓の中(うち)から叫んだ――流石に槍遣い母なればこその声かけにて御座ったれば――男、はっとして言われた通り、握った槍を強く振って捨てる――どうと、相手が倒れたところに、太刀を抜いて止めを刺した――。

 辺りに人気はない――双方の家来も早々に逃げ去っておったれば――勝った方の侍も早(はよ)うに立ちかんと思い……物見窓の奥に幽かに見える、かの女の影に向かって目礼して、足早に五、六間も行ったところ、背後より、

「槍印を! お取りなされよ!」

とのまたしても女の声。

 またしても始めて気づかされた侍、早急に立ち戻ると、槍印を取り去って速やかに立ち去って行った――。

 勿論、これ、事件として詮議はなされたものの、殺した相手は誰だったのか不明のまま、結局、迷宮入りと相成った、とのことで御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 小兒手討手段の事

 

 阿久澤何某は至て強勇にて、享保の頃迄任俠を專ら成し歩行けるが、其子孫今に御勘定を勤て予も知る人也き。右阿久澤幼年にて未十才前後の頃、表にて遊びかへりけるに、其母一僕の不束(ふつつか)ありしを叱り居るに、彼一僕女と侮りしや以の外に惡口なし、主人を主人と思はざる氣色なるを見し故、臺所を上りながら我草履を椽(えん)の下へ蹴込て、彼僕に草履を椽の下へ入れし間取呉候樣申けるが、彼僕彼是と母を罵りながら、土間にうづくまり椽の下へ手を入しを、短刀を拔はなし背中より差貫きけると也。小兒の身分さし當(あたり)ての工夫感ずるに餘り有し事也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:烈女から烈児で強烈に連関。

・「阿久澤何某」底本鈴木氏注に、『善蔵行正か。御徒をつとめた。その子義守は御徒を御徒をつとめ、支配勘定を経て、寛政九年御勘定。時に三十九歳』とするが、岩波版長谷川氏注は『吉右衛門行梢(ゆきすえ)、あるいはその兄広保(ひろやす)か。御勘定勤めの子孫は後出の弥左衛門広高か』とする。この「後出の弥左衛門広高」というのは、十七項ごの「剛強勇の者御仕置を遁れし事」に登場する根岸の知人と思しい「彌左衞門」なる人物で、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(本底本では名前のみ)「阿久沢弥衛門」姓が示されている。そちらの阿久沢弥衛門の注で長谷川氏は『広高。安永七(一七七八)御勘定。ただし広高は行光の養子で、行光は行梢の長男で行保の後を継いだ』とある。どうも、こういう注を読んでいると、妙にかえって何が何だか分からなくなってしまうのは、私が馬鹿だからであろうか。鬱憤晴らしにネット上で管見出来た高柳光壽の「新訂寛政重修諸家譜」の「阿久澤」の項を視認出来る限り、テクスト化してみる(《 》は私の示した人物関係。判読不能の字は■で示し、割注は【 】で示した)。

 

  阿久澤

家伝にいはく、先祖は桃井の底流にして加賀國津々井里愛久澤の邑に住せしより、地名をもつて家號とし、のち文字を阿久澤にあらたむ。

 

●行次(ゆきつぐ)長右衞門

寛永十年御徒にめし加へられ、のち組頭と

なる。

行佐(ゆきすけ)《行次子・行廣兄》

父が遺跡を繼、子孫御家人あり。

●行廣(ゆきひろ)彌太夫《行次子・行佐弟》

萬治元年二月六日御徒にめし加へられ、のち組頭をつとむ。

廣保(ひろやす)長右衞門《行廣子》

正德元年七月二十三日遺跡を繼、のち支配勘定をつとむ。

行梢(ゆくすゑ)吉右衞門【行廣子・廣保弟】

阿久澤彌平次義守が祖。

●行保(ゆきやす)長次郎

享保十六年九月五日遺跡を繼。《廣保子》

●行光(ゆきみつ)彌五郎《系譜上は行保子》

實は阿久澤吉右衞門行梢が長男。行保が養子となる。

享保二十年十二月二日遺跡を繼、のち御徒目付をつとむ。

●廣高(ひろたか) 龜吉 藤助 彌左衞門《系譜上は行光子》

實は垣■彌太郎行篤が長男。母は玄蕃頭家臣西川小左衞門正補が女。行光が養子となる。

寶暦三年六月六日遺跡を繼、のち富士見御寶藏番をつとめ、安永七年四月六日班をすゝめられて御勘定となる。【割注:時に四十歳高米百五十俵】天明元年四月二十六日さきに關東の川々普請の事をうけたまはりしより、時服二領、黄金二枚をたまふ。

 家紋 二引兩 須山 五七桐

 

   阿久澤

阿久澤彌太夫行廣が男吉右衞門行梢、寶永五年五月御徒にめし加へられ、のち組頭つとめ三代連綿して行正にいたる。

 

●行正(ゆきまさ) 善藏

御徒をつとむ。

●義守(よしもり) 初成富(しげよし) 平次郎 彌平次 実は藤田忠左衞門成保が男。母は織田左近將監家臣中村三郎左衞門氏喜が女。行正が養子となる。

御徒をつとめのち支配勘定に轉じ、寛政九年十二月二十八日班をすゝめられて御勘定となる。【時に三十九歳】十年六月二十二日さきに仰をうけたまはりて、日光山におもむき、御宮をよび御靈屋修復の事をつとめしにより黄金一枚をたまふ。妻は橋本金右衞門秀温が女。

 家紋 二引兩 須山

 

「班」は地位のこと。この事蹟を見ると、根岸との接点はどちらにもあり、いい加減な私は……どっちもどっちみたような気になってしまうのである……。

 

・「任俠」弱い者を助けて強い者を挫(くじ)き、義のためならば命も惜しまないといった気性に富むこと。男気。男立(おとこだて)。

・「御勘定」勘定所の中級官吏。役高150俵御目見え。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 子供が無礼なる下男を手打ちに致いたその手段の事

 

 阿久澤何某なる者、至って剛勇を誇った御仁にて、享保の頃まで、世間でも男立てで鳴らした男で御座った。その子孫、今は勘定を勤めて御座って、私もよく存じておる人である。

 その任俠阿久澤が未だ少年の十歳前後の頃、表で遊んで家に帰ってみると、家内の台所にて、ちょうど母が、一人の下僕が不始末をしでかしたのを咎めて叱りつけたところで御座った。

 ところが、その下僕、夫は不在、相手を女と侮ったか、以ての外の罵詈雑言、主人を主人とも思わぬ不埒なる振舞いなるを外よりまじまじと見た。

 阿久沢少年は、そ知らぬ振りにて内に入り、台所に上がりながら、自分の草履をわざと縁の奥にに蹴り込んだ。

「ねぇ! 草履を縁の下に、蹴り込んじゃったぁ! ねえ! ねえ! 取っとくれ、取っとくれよ!」

と、がんぜない甘え声で言ったところ、下僕はなおも母を罵りながらも、土間に蹲って縁の下を覗き込んで手を入れた。――と、間髪を入れず、阿久沢少年、普段から懐に忍ばせている短刀を抜き放つと、目の前の、その下僕の背中に――ぶすりと――突き立てた――という。

 子供の分際乍ら、身の丈に合った手打ちの工夫、その美事なること、感ずるに余りあることにて御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 事に望みてはいかにも靜に考べき事

 

 安藤霜臺のかたりけるは、紀州にての事の由。少しはゆかりありし人にもありしや。其親朝椽端出て讀經なしけるに、家來の内亂心をなして、右親の後ろに刀をふり上げ立居たり。其子見て南無三寶と思ひしが、まて暫し若(もし)後より抱留(かかへとめ)ば、いづれ振上し刀ゆへ父に疵を付可申と、つか/\と寄りて向ふへ突倒しけるに、父の上を越して向ふへ延ける故に父には無恙、親子して彼亂心者を取押へける。頓智成事と語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:子の母の恥辱を雪ぐ事から子の父の命を救う事で連関。

・「事に望みては」の「望」の横に底本では『(臨)』とある。勿論、それで採る。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。「耳嚢」お馴染みの情報源の一人。紀州藩出身。

・「事に望みては」底本では「望」の右に『(臨)』と注する。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 急なる一大事に臨んでは却って心静かに熟考すべき事

 

  安藤霜台殿の語ったところによると、紀州での出来事との由。はっきりとはおしゃられなかったものの、どうも霜台殿所縁(ゆかり)の方の話であったか。

 

 ――ある人の親、朝方、いつもの如く縁端にて読経なんどし勤行致いておったところ、家来のある者、俄かに乱心致いて、何も知らぬその親の背後に立ち、ずい! と刀を振り上げ立ちすくんで御座った――。

 それに気づいた息子、

『南無三!』

と思い、即座に摑みかからんとしたが――

『……待て!……暫し!……もし、ここで後ろから抱きとめたとしたら……所詮、振り上げた刀なれば……自然、振り下ろされて父に傷をつくるは必定……』

と、平時と変わらぬ落ち着きのままにつかつかとその背後に歩み寄るなり、その乱心者の背を――ぽーん!――と真っ直ぐ前へ突き飛ばした。

 すると――乱心者の体(からだ)は、刀を振り上げた姿勢のままに着座致いて御座った父の頭上を美事すうっと通り越し――向ふへ、ぺたん、と延びてしもうた――。

 されば父には恙のう――また、親子二人して、かの乱心者を取押えられたという。

 

「……これぞ正真の機知と申すもの……」

と語って御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 瀨名傳右衞門御役に成候に付咄しの事

 

 當傳右衞門親の傳右衞門は、御番(ごばん)方より御目付に被仰付、予も覺居たり。氣丈成る仁にて有りしが、御番の節町を通りしに、其頃荒ものと名に呼れし水野十兵衞は、供立等立派にて角力取などを徒(かち)に連れ候やう成奴成人なりしが、向ふより來るを見て、往來の眞中にて家來に申付、足袋をはき直居たる折から、十兵衞徒士(かち)など聲をかけれど有無の答もなく、天下の往還相互に讓合ふべし。我等足袋をはき直しける故ひらき候事成難しといゝて、聊か不動、靜に足袋をはき直しけるが、十兵衞義駕の中より振かへりく見たりしうへ、家來を差越名前を聞たる故、傳右衞門の由答へけるが、其後程なく十兵衞番頭被仰付山城守とて、殊に傳右衞門組の頭なれは、よき事はあらじと相番(あひばん)なども聞及びて評判せしゆへ、傳右衞門も不快の由にて組の引渡にも出勤なかりし。然るに山城守より度々傳右衞門事を相番へ尋し故、久敷引居(ひきをら)んもあしかるべしと申けるに、實(げに)もとて出勤致し、則頭の宅に屆に出ければ、兼て申付置し故、座敷へ通り候樣にと家來申故、其意に任せ通りければ、間もなく山城守出て手を取て、扨々御身は御用に立べき人也、番町にての事忘れ不申、隨分見立可申間、精を出され候やう申されけるが、山城守番頭被仰付初ての組の見立には、傳右衞門を申上、所々乘廻して相願ひ、御目付被仰付けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「親の傳右衞門」底本の鈴木氏注によれば、『瀬名義珍(ヨシハル)。享保十二年書院番、宝暦四年御徒組頭、七年目付。十一年没、五十六。その子義正は宝暦十一年書院番、安永元年七月没。四十五。当伝右衛門としるしてあるが、義正をさすのであるならば、耳袋巻二は安永元年以前に執筆されたことになる。しかし同巻には天明六年の火災の記事などもあるので、その子貞刻(サダトキ。安永二年書院番)とすべきであろう』とある。岩波版長谷川氏注でも「當傳右衞門」を貞刻を同定候補とし、先代の義正は『義珍の娘婿』と記し、その先代義珍の事蹟を示し、『親は義珍をいうか』とされる。この記載によれば生没年は、

瀬名義珍(宝永3(1706)年~宝暦111761)年)

となる。彼ならば56歳の逝去時、根岸は24歳で御勘定であった。

・「御番方」番衆とも言う。将軍の身辺警護・江戸城内警備を職掌とする者の総称。大番・書院番・小姓組番・新番・小十人組を合わせて五番方とも書く。

・「御目付」旗本・御家人の監察役。若年寄支配。定員10名。

・「御番の節町を通りしに」後文で水野がはっきりと『番町にての事』と言っている。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここも『番町』とある。役職名「御番」である「番」の字に引かれて、書写の際に脱落したものと思われるので補った。「番町」は江戸城の西側、外堀と内堀の間に広がっていた役職付きの旗本たちの住む武家屋敷町で、特に正に伝衛門ら大番士らの組屋敷があったために、こう呼ばれる。現在の千代田区市ヶ谷駅の南方部分に当る。

・「水野十兵衞」底本の鈴木氏注によれば、『実道。享保十二年御徒に召抱えられ、支配勘定に転じ、御勘定、評定所留役、大坂御金奉行をつとめ、寛延三年代官。部下の手代の者に収賄事件あり、小普請におとされ、ついで許されたが、安永四年没。六十五』とするが、岩波版長谷川氏注では、『忠英(ただふさ)。五千石。御持弓頭・百人組頭・御書院番頭・大番組頭歴任。宝暦六年没、六十歳』とする。それぞれの生没年を見ると、

水野実道(寛永201643)年~安永4(1707)年)

水野忠英(元禄101697)年~宝暦6(1756)年)

であるから、「親の傳右衞門」を瀬名義珍とする以上は水野忠英の方しかあり得ない。信濃国松本藩第三代藩主であった水野忠直六男(後、兄で忠直次男の直富の養子となった)。

・「成奴成人なりしが」底本右に『(尊經閣本「成奴なるが」)』とある。「連れ候やうなる奴なる人なりしが」という底本本文はくどいので、尊経閣本の方を採る。「奴」は俠客と同義。

・「徒」=「徒士」「徒士侍」(かちざむらい)のこと。主君の御供や行列の先導をする武士。

・「相番」同じ組で一緒に勤めをする同僚。

・「實(げに)もとて」は底本のルビ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 瀨名伝右衛門出世致し御目付に相成るに到った顛末の事

 

 現・瀨名伝右衛門の親の瀨名伝右衛門は、御番方より御目付に仰せつけられ、私も記憶にある方であられる。晩年にあっても大変、気丈な御仁であられた。

 その伝右衛門殿が、未だ御番方を勤めて御座った頃のことである。

 彼が丁度、番町を通って御座ったところ、その頃、勇猛果敢の呼び名高かった水野十兵衛忠英殿が――この忠英殿も、見るからに立派で派手な御供、或いは巨体を揺るがす相撲取なんどを連れにして道をのし歩くといった、男立てで鳴らした御仁で御座ったが――真っ向からやって来るのが目に入った。

 すると伝右衛門、やおら往来のど真ん中にて、

「――足袋を、直す――」

と付き添って御座った家来の者に申し付け、足袋を履き直し始めた。

 そこに来合わせた十兵衛のお徒士(かち)なんどが、口々に、

「やい! 邪魔じゃ!」

「退(の)きゃあがれ!」

とけたたましく声を掛ける。

 が……伝右衛門、一切それには答えず、駕籠の方に言うともなく、

「――天下の大道、相互いに譲り合うべきもの――我ら、足袋を履き直して、おる!――故、道譲ること、相出来申さぬ――」

と静かに、しかし、きっぱり言い放つと、聊かも動かんとする気配なく、静かに――足袋を履き直して御座った……。

 すわ一騒ぎと言う間際、駕籠中(うち)より何やらん、制する声があって、

「……ケッ!……」

とかぶいた徒士ども、めいめい唾を吐き捨て……十兵衛の一行、道の真ん中の伝右衛門を避け……脇を抜けて通って行く……その……擦れ違う駕籠の中(うち)から、水野十兵衛、何度も何度も振り返って、伝右衛門の方を見ている視線が光った……と……もう大分行過ぎたかと思うた頃……十兵衛、家来に命じて戻って来させ、

「御主、名は何と申すか!?」

と名を質して参った。

「瀨名伝右衛門――」

と、彼は高らかに、正しく応じて御座った。――

 ――その後程なく、水野十兵衛殿は番頭を仰せつけられ、官位を授けられて山城守となられた。

 殊に、その番頭、正に伝右衛門の属して御座った組の組頭の就任で御座った。

「……いいこたぁ……なさそぅじゃのぅ……」

と例の一件を聞いて御座った同僚なんども噂しておったため、伝右衛門自身も理不尽なる扱いを受くるは不本意なればとて、病いを理由に十兵衛への組頭引継の儀をも欠勤、それからもずっと勤仕(ごんし)致さなんだ。――

 ところが――これまた、伝右衛門が同輩に山城守より度々伝右衛門出仕の趣きに付、お尋ねの儀、これあり、ために同輩も伝右衛門に、

「……長いこと、こうして引きこもって御座るのも……悪かろうってもんだぜ……こんな仮病、直きにばれようし……さすれば文句なしに小普請入じゃ……」

と申すので、伝右衛門も、

「如何にも。」

と遂に意を決して出仕、御役御免覚悟の上、直ちに頭水野十兵衛殿役宅を訪れ、初出仕の旨、届け出でたれば、

「……かねてより貴殿来訪の折りは、必ず座敷へ通すよう承って御座る……」

と家来の者が申す。

 その意に従って奥座敷に通され、着座して待っていると、間もな水野山城守殿が現れ、現われるや、伝右衛門の手を取ると、

「……さてもさても!……御身は見所ある御仁にて!……ほうれ! かの番町での事、忘れも致さぬ! 向後は大いに、拙者、後ろ盾となりましょう程に、どうか、精を出して働かれんことを!……」

と申されたとのこと。――

 その後、山城守は番頭を仰せつけられて最初の支配の組の人事にては、この伝右衛門の名を一番に挙げられ、その後も様々な場に必ず伝右衛門を供として連れ廻しては、主だった方々にお見知り置き相願い、遂には伝右衛門、御目付を仰せ付けらるるに至ったとのことで御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 聊の心がけにて立身をなせし事

 

 近き頃御代官を勤し鵜飼左十郎は、元御徒組を勤て支配勘定に出て、其後猶出世して御代官に成ぬ。左十郎御徒の時、不時の用心とや思ひけん、藁草履を一足づゝ封じて懷中せしが、或日御成にて御本坊に詰し折から、去大名衆家來間違ひ草履に差支、予參の間に合間敷(まじき)と色々心くるしく思ひ給ひて、はだしにて出んやとありければ、左十郎儀懷中より用心の草履を出し、是は拙者用心の爲貯へ持し也。急の御間(おま)に合せ可申と渡しけるに、辱(かたじけなき)由厚く禮の上、名前を聞て立別れ給ふが、彼仁(じん)程なく高運にして若年寄被仰付、引續出入して他事なく懇意ありしに、殊の外世話有て、支配勘定へ願ひの通御役出いたし、其後も追々右大名衆世話ありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ちょっとした機転が運を呼び込むエピソードとして直連関。

・「近き頃」「卷之二」の執筆上限の天明2(1782)年春辺りを基準にすると、鵜飼左十郎(後注参照)の没年の安永4(1775)年は7年前。

・「代官」時代劇の影響で、悪代官=代官は大抵が民を苦しめるものという印象が強いが、実際はそうではなかった、ということがウィキの「代官」 で目から鱗となるので、少し長いが引用する。『江戸時代、幕府の代官は郡代と共に勘定奉行の支配下におかれ小禄の旗本の知行地と天領を治めていた。初期の代官職は世襲である事が多く、在地の小豪族・地侍も選ばれ、幕臣に取り込まれていった。代官の中で有名な人物として、韮山代官所の江川太郎左衛門や富士川治水の代官古郡孫大夫三代、松崎代官所の宮川智之助佐衛門、天草代官鈴木重成などがいる。寛永(1624年ー1644年)期以降は、吏僚的代官が増え、任期は不定ではあるが数年で交替することが多くなった。概ね代官所の支配地は、他の大名の支配地よりも暮らしやすかったという』。『代官の身分は150俵と旗本としては最下層に属するが、身分の割には支配地域、権限が大きかったため、時代劇で悪代官が登場することが多い。こうしたことから代官とは、百姓を虐げ、商人から賄賂を受け取り、土地の女を好きにする悪代官のイメージが広く浸透した。今日、無理難題を強いる上司や目上を指してお代官様と揶揄するのも、こうしたドラマを通じた悪代官のイメージが強いことに由来する。ジョークで物事を懇願する際に相手をお代官様と呼ぶ場合があるのも、こうした時代劇の影響によるところである』。『しかし、実際には少しでも評判の悪い代官はすぐに罷免される政治体制になっており、私利私欲に走るような悪代官が長期にわたって存在し続けることは困難な社会であった。過酷な年貢の取り立ては農民の逃散につながり、かえって年貢の収量が減少するためである。実際、飢饉の時に餓死者を出した責任で罷免・処罰された代官もいる。そもそも、代官の仕事は非常に多忙で、ほとんどの代官は上に書かれているような悪事を企んでいる暇さえもなかったのが実情らしい。ただし、それでも稀には悪代官と言える人物もいたようであり、文献によると播磨国で8割8分の年貢(正徳の治の時代の天領の年貢の平均が2割7分6厘であったことと比較すると、明らかに法外な取り立てである)を取り立てていた代官がいたそうである』。『通常、代官支配地は数万石位を単位に編成される。代官は支配所に陣屋(代官所)を設置し、統治にあたる。代官の配下には10名程度の手付(武士身分)と数名の手代(武家奉公人)が置かれ、代官を補佐した。特に関東近辺の代官は江戸定府で、支配は手付と連絡を取り行い、代官は検地、検見、巡察、重大事件発生時にのみ支配地に赴いた。遠隔地では代官の在地が原則であった』とある。

・「鵜飼左十郎」鵜飼実道(さねみち 宝永7(1710)年~安永4(1775)年)。御徒・支配勘定・御勘定・評定所留役から寛延3(1750)年に代官。石和代官から甲府代官(宝暦7(1757)年~明和元(1764)年)後、関東代官になっている。

・「御徒組」「徒士組」とも書く。将軍外出の際に徒歩で先駆を務め、沿道警備等に従事した。

・「支配勘定」勘定奉行支配で、幕府財政・領地調査に従事した。

・「御本坊」寺名なしで将軍家の御成りということであれば、これは徳川家菩提寺である寛永寺若しくは増上寺への参詣となる。「本坊」とは寺院で住職の住む僧坊を言う。 

・「予參」将軍家が寛永寺若しくは増上寺への参詣する際、先に寺へ入って警備や雑務準備に従事することを言う。

・「若年寄」老中の次席で老中の管轄以外の旗本・御家人全般に関わる指揮に従事した。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 ちょっとした心掛けによって立身出世致いた事

 

 最近まで御代官を勤めて御座った鵜飼左十郎実道殿は、元御徒組を勤め、次に支配勘定に昇進、その後、猶も出世して御代官となった方である。

 左十郎殿が御徒士で御座った頃のことである。

 彼は普段から――危急の折りの用心と考えて御座ったか――新品の藁草履一足を封じて懐中していた。

 ある日、将軍家の御成とて、寺の本坊に詰めて御座った。

 さる大名衆が、家来の手違いから、あろうことか、履いて出る草履が見当たらない。

『予参の儀は既に始まる。とてもその出仕に間に合いそうも、これ、ない!』

と、あれこれ焦って思案なさって御座ったれど、いっかな名案も草履も、これ、見つからずにあられた。そこで遂に、

「万事休す――裸足にて参上致す!――」

との御言葉であった。

 その時、偶々近くに控えて御座った御徒士左十郎、これを耳にし、懐中より例の用心のための草履を引き出し、

「これは、拙者、用心のために日頃より持ち控えておるものにて御座る。火急の折りなれば、どうぞ間に合わせとしてお使い下され。」

と大名衆の御家来の者に捧げ渡した。

 大名衆は例になく言下に、

「忝(かたじけな)い!」

と厚く礼を述べられた上、左十郎の名を聞いて、予参の儀にお向かい申し上げなさるために、左十郎とはその場にてお別れになられた。

 ところが後日、この御仁、程なく若年寄を仰せ付けられ、左十郎は予参の折りの縁から引き続いてこの大名衆の屋敷に親しく出入り致すこととなり、懇意にもなった。この大名衆、殊の外、左十郎への助力これあり、本人の希望通り、支配勘定に進み、その後も度々この大名衆の世話が御座ったとのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 手段にて權家へ取入りし事

 

 さる人にてありしが、何とぞ出世もなさんと色々考へぬれど、元より貧しきうへに心ざす手(た)よりつてもなければ、明暮空敷心を勞しけるが、風與(ふと)思ひ付て、其最寄駒込邊と言る所を當時ときめき給ふ權門の菩提所有しが、思ひ立て日々右本堂へ參詣爲して念頓に祈りけるに、雨雪はさら也、大風其外いかやうの事ありても朝々刻限を極め參詣なしけるが、庭を日々掃候中間其外もいつとなく知る人に成て、けふは早々詣で給ふ、或は寒し暑しと申合けるが、或時和尚聞て、重て來り給はゞこなたへ通し候樣申付けるゆへ、僕其由を申て方丈へ案内なしけるに、茶など振舞て、さて/\御身は日毎に本堂へ來り給ふ、いか成譯哉と尋けるが、我等は願ひ有て何卒人がましくも御奉公いたしたけれど、貧しければ其勤もならず、或夜不思議に當本尊の靈夢を蒙りし故、難有日毎に參詣いたし候と誠しやかに語りければ、住僧もさる者にて打笑ひ、當時の本尊靈夢はさる事ながら、利益ありともいわれず。某利益を取持申さん、かく/\なし給へとて、その且家(だんか)なる權家へ頻に願ひ遣し出入などさせけるが、近きに其願ひも追々成就せしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ちょっとした機転が運を呼び込むエピソード第三弾。

・「權家」「けんか」と読む。権門と同義。位の高い権力を持った家柄。諸注はこの寺を同定しないが、私は少し探ってみた。まず「當時ときめき給ふ」という表現から、「卷之二」の執筆上限の天明2(1782)年春よりも前であると考えられ、その観点から「權家」なる存在と駒込の寺院で調べてみると、ズバリの寺が見つかった。現存する駒込の勝林寺である(現在は豊島区駒込にあるが当時は同じ駒込でも駒込蓬来町にあった)。「權家」はかの田沼意次(享保4(1719)年~天明8(1788)年)である。勝林寺は臨済宗妙心寺派、江戸開府の頃の開山で、当初は別な場所にあったらしいが、明暦3(1657)年の大火で焼失、駒込蓬来町へ移転している。安永9(1780)年、勝林寺中興の開基と称される老中田沼意次が下屋敷260坪を寺に寄進、以降、勝林寺は田沼家の強い庇護を受けるようになったという。本話柄にぴったりではあるまいか? 識者の御意見を伺いたい。

・「手(た)より」は底本のルビ。

・「風與(ふと)」は底本のルビ。

・「所を」底本では右に『(尊經閣本「所に」)』と注す。こちらを採る。

・「いわれず」はママ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 ちょっとした手段を用いて権門に取り入った事

 

 さる男の話。

 この男、

――何としても出世したいものよ――

と色々と考えては御座ったが、元より貧しい上に、頼りになりそうな手蔓もなし……ただただ日々空しく心を悩ませているばかりで御座った。

 ある時、ふと思いついた手段とは……。

 彼の住まいの最寄、駒込という所に当時権勢得ておられたさる権門家の菩提所が御座ったが、男、思い立ったが吉日と、毎日毎日この寺の本堂に参詣致いては、懇ろに御本尊に祈りを捧げ出した。雨雪の日は言うまでもなく、台風が来ようが槍が降ろうが、その他何があろうとも、毎朝、刻限を決め、参詣し続けた。

 その内、朝毎に庭を掃く中間やら、その他の寺の者どもとも何時とはなしに顔見知りになり、

「今日は、また何時もよりお早いお参りで御座いますな。」

とか、

「いや、お寒う御座る。」

だの、

「何とまあ、お暑いことで。」

なんどと挨拶も交わし合うような仲になる。――

ある時、この奇特なる参詣人のことを和尚が聞き及び、

「今度来られたならば、必ず私のところにお通し致すように。」

と申し付けておいた。

 翌日の朝、何時もの通り、参詣に訪れた男に、寺の下僕が和尚の言を伝え、方丈へと案内致いた。和尚は茶なんどを振る舞いつつ、

「さてさて――御身は日々本堂へ参らるる。如何なる訳に御座る?」

と訊ねた。男は、

「……我らの如き凡夫にも宿願が御座って……何とかして人並みに御奉公を致いたいと思うて御座るが……貧しければ、それも叶いませぬ。……されど、ある夜のこと、不思議にもこちら様の御本尊様顕現の霊夢を頂戴致しました故……誠(まっこと)これ、あり難き思し召しならんと……日毎に参詣致いておりまする……」

というでっち上げた話を、実(まこと)しやかに語った。

 如何にも嘘臭い話し乍ら、この住僧も然る者にて、かんらからからとうち笑い、

「はっはっは! いや、当寺の御本尊顕現の霊夢、然ること乍ら、そのような次第にては、いっかな御利益(ごりやく)ありとも言われませぬのぅ。……さても一つ、某(それがし)が、その『御利益』とやらを取り持ち申そうぞ。……まずは、そうさな、かくかくしかじかのことをなされるがよい……」

と約した。――

 その後、住僧はこの男を檀家であるかの権門家に頻りに願い出て出入りさせるように仕向けたれば、近頃、その男の宿願も追々成就致いて御座る、とのことである。

 

 

*   *   *

 

 

 狂歌にて咎をまぬがれし事

 

 天明の比世に狂歌以の外にはやりて人々翫(もてあそ)びしが、其比の事にはあらず、明和安永の頃也しが、品川高輪の邊に何とやら名は忘れたり、狂歌俳諧などして世を渡る貧僧ありしが、或時品川宿のしれる旅籠屋へ見廻りに、捉飼(とりかひ)御用にて御鷹匠(たかじやう)大勢右の宿に有。御鷹匠はさもなけれど、其外に附て輕きものは、御鷹の御威光に任せ彼是やかましきもの也。彼はたこやの門にも架(ほこ)を置て御鷹を休め居(をり)しに、彼僧門を出る迚(とて)右の架に障りし故御鷹大に驚きければ、彼僧を御鷹匠の者召捕、いかなれば御鷹を驚かせしとて以の外憤りける故、右僧は勿論旅籠屋の家内も出て品々詫言などしけるに、御鷹も別條なければ、御鷹匠も少しは憤りをやめて、何者なるやと尋けるに、狂歌よみの由答へければ、左あらば狂歌せよとていひしに、畏(かしこま)り候とて一首を詠じけるにぞ、御鷹匠も稱歎して赦しけると也。

   富士二鷹 三  茄子

  一ふじに鷹匠さんになす麁相哀れ此事夢になれかし

[やぶちゃん字注:「富士二鷹 三  茄子」は底本ではややポイント落ちで狂歌の右に記されている。これは鈴木氏の注ではなく、底本本文に示されているものと思われる。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ちょっとした機転が運を呼び込むエピソードから、ちょっとした諧謔が効を奏したエピソードで連関。

・「狂歌」社会風刺・皮肉・滑稽を盛り込んだ五・七・五・七・七の短歌形式の諧謔歌。以下、ウィキの「狂歌」より引用する。『狂歌の起こりは古代・中世にさかのぼり、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる』。鯛屋貞柳は「たいやていりゅう」と読み、本名永田良因(後に言因と改名)。鯛屋という屋号の菓子商人出身であった。上方の狂歌歌壇の第一人者で、「八百屋お七」で知られる浄瑠璃作者にして俳人・狂歌師であった紀海音の兄でもある。狂歌の解説に戻る。『特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人・四方赤良(よものあから))が著した狂詩集「寝惚先生文集」で、そこには平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769年)には唐衣橘洲の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連)を作って創作に励んだ。朱楽菅江、宿屋飯盛(石川雅望)らの名もよく知られている。狂歌には、「古今集」などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる』とある。天明調狂歌の特徴は歯切れの良さや洒落奔放(しゃらくほんぽう)にある。因みに私は狂歌というと、決まって大学時代に吹野安先生の漢文学演習で屈原の「漁父之辞」を習った際、先生が紹介してくれた大田蜀山人の、

死なずともよかる汨羅(べきら)に身を投げて偏屈原の名を残しけり

を思い出すのである(第五句は「と人は言ふなり」とするものが多いが、私は吹野先生の仰ったものを確かに書き取ったものの方で示す。私は先生の講義録だけは今も大事に持っているのである)。

・「天明」西暦1781年から1789年。

・「明和安永」西暦1764年から1781年。天明頃より20年前頃。

・「高輪」現在の東京都港区の地名で、現在の地下鉄泉岳寺辺りから品川駅西側一帯を言う。江戸市中と郊外との遷移地域である。

・「見廻りに」底本には「り」と「に」の間の右に『(しカ)』の注を附す。それで訳す。この「見廻り」とは、単に訪れるという意味ではあるまい。所謂、俳諧・狂歌で点を取るために、生業(なりわい)として巡回しているのであろう。

・「捉飼御用」将軍家が鷹狩に用いる鷹を飼育・調教する仕事。ウィキの「鷹狩」から近世のパートを一部引用する。『戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。三代将軍家光は特に好み、将軍在位中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。五代将軍綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、八代将軍吉宗の時代に復活した。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている』。

・「御鷹匠」享保元(1716)年の吉宗の頃を例に取ると、鷹匠は若年寄支配、鷹部屋の中に鷹匠頭・鷹匠組頭2名・鷹匠16名・同見習6名・鷹匠同心50名の総員約150名弱(組が二つで鷹匠以下が2倍)で組織されていた(以上は小川治良氏のHP内「鷹狩行列の編成内容と、中原地区の取り組み方」を参照させて頂いた)。

・「先の注で示した有象無象の最下位の鷹匠同心50名や鷹匠ら個人の従僕を言うのであろう。

・「架」台架(だいぼこ)。鷹匠波多野鷹(よう)氏の「放鷹道楽」の「鷹狩り用語集」によれば、鷹狩の際、野外で用いるための止り木のことを言う。狭義には丁字形のものは含まず、四角い枠状のものを指すという。高さ五尺二寸、冠木(かぶらぎ:架の上にある枠状の横木。)四尺三寸。野架(のぼこ)。ここでは出先で用いるとある陣架(じんぼこ)の類かも知れない。

・「一ふじに鷹匠さんになす麁相哀れ此事夢になれかし」「麁相」は「そさう(そそう)」と読む。軽率な過ちや手抜かりのこと。勿論、夢に見ると縁起がよいとされる目出度いもの、「一富士二鷹三茄子」を夢にも引っ掛けながら洒落て読み込んだ謝罪と言祝ぎの狂歌である。この諺は江戸初期からあったらしい。個人のHP「野菜の語り部・チューさんの野菜ワールド」「一富士二鷹三茄子」にその由来説につき、詳細な考察が示されているので、以下に引用する。まず3説を提示している。

   《引用開始》

1.駿河国(するがのくに・今の静岡県中央部)の名物を順にあげた。

2.徳川家康が、自分の住んだ駿河国の高いものを順にあげた。鷹は鳥ではなく、富士山の近くにある愛鷹山(あしたかやま)のこと、茄子は初物(はつもの・その年の最初の収穫品)の値段の高さをいう。

3.富士山は高くて大きく、鷹はつかみ取る、茄子は「成す」に通じて縁起が良い。

 このうちでは、1の駿河国の名物説がもっとも有力で、「三茄子」のあと「四扇(おうぎ)」「五煙草(たばこ)」と続くといいます。けれどチューさんは2の説が本当ではないかと思います。その根拠は、

A.ナスは奈良時代かその前に渡って来て、早くから東北地方の北部を除く日本国内に広まり、江戸時代には全国各地に土着して広く栽培されていた。ナスは外皮が傷つきやすくて遠方へは運びにくく日持ちも悪いので、みやげ物や名物にはなりにくい。古くから駿河国の三保で早出し栽培が行なわれていたが、1説の駿河国だけの名物というわけではない。

B.ナスが「成す」との語呂合わせで縁起が良いのなら、昔からの書物に何回も登場するはず。ところが古典文学にナスはほとんど採り上げられていない。だから3説もこじつけと思う。

C.ナスは野菜のうちでもっとも高温に適した種類。その反面、寒さには大変弱い。だから、ハウスや温室のなかった江戸時代には油紙を張った障子で囲って促成(そくせい)栽培をしていたので、ナスの初物は非常に値段が高かった。それで2説がもっともだと思う。ただし、鷹は愛鷹山でも鳥の鷹でもどちらでもよいし、徳川家康が言ったかどうかも怪しい。

 こんな理由で2説の「ナスの初物価格」が本当と思いますが、あなたはどう思われますか。

 このほか異説として、一富士は曾我(そが)兄弟、二鷹は赤穂浪士、三茄子は荒木又右衛門の伊賀上野の仇討と、いわゆる日本三大仇討のことだという人もあります。でも、伊賀上野はナスの名産地とはいえませんし、このことわざが江戸時代のかなり早い時期から言われていたことから、仇討由来説は当たらないでしょう。日本三大仇討については別に

「一に富士、二に鷹の羽のぶっ違い、三に上野の花ぞ咲かせる」

という有名なフレーズがあります。この短歌調の文句は江戸時代の講釈師が言い出したものですが、三大仇討を初夢縁起のナスに結び付けようとして

「一に富士、二に鷹の羽のぶっ違い、三に名を成す伊賀の仇討」

ともいいます。これを見ても仇討由来説はあとでこじつけた説だと思います。

   《引用終了》

この歌は、即ち、

  一節に鷹匠さんに爲す麁相哀はれ此の事夢になれかし

を表の意とし、そこに

  一富士二鷹三に茄子→此の事夢になれかし

を掛けてあるという訳である。特に訳す必然性を感じないが、敢えてやるなら、

目出度やなあ――一富士二鷹三茄子(なすび)……ふとしたことからこの坊主……お上の大事な鷹匠さんに……お掛けしましたこの沮喪(そそう)……ああぁ! この事、出来るなら……夢であってちょーだいな!

といった感じだろうか。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狂歌にてお咎めを免れた事

 

 天明の頃、狂歌がとんでもない勢いで流行り誰もが狂歌を捻った時期があったが、その頃の話ではない。もっと前、明和安永の頃の話である。

 品川は高輪辺に住んでいた――何と言ったか、名は忘れた――狂歌・俳諧なんどを詠んで辛くも世を渡っておった乞食坊主がおった。

 ある時、近くの品川宿は馴染みの旅籠屋に廻ったところが、鳥飼御用の御為(おんため)、御鷹匠(たかじょう)が大勢、この宿に泊って御座った。――今も昔も、上役の御鷹匠はそれほどでもないが、その下に付き従う下級の者どもと言ったら、上様御鷹という御威光を笠に着て、なんだかんだと無理難題を吹っかけるような厄介な連中で御座る。――

 その旅籠屋の門前にも架(ほこ)を立てて御鷹を休めて御座ったのだが、この坊主、旅籠屋から出たところで、迂闊にもこの架に触れてしまい、御鷹が驚いて鳴き声を挙げながら、激しく羽ばたいて暴れ回ったため、坊主は忽ち、御鷹匠の下々の者にふん捕まってしもうた。

「いっかな訳あって御鷹を驚かせたかッ!!」

と以ての外に憤って御座れば、この僧は勿論のこと、旅籠屋の家内(いえうち)の者らも出て来て、いろいろ詫び言なんど致したところ、御鷹も別条なかったので、少し御鷹連中の憤りも緩んで、

「お前は何者(なにもん)じゃい?」

と訊いたから、

「へへっ。狂歌詠みに御座る。」

と答えたところ、

「されば――狂歌せよ。」

とのこと。

「畏まって御座る。」

とて一首詠じたところ、その歌に御鷹匠連も、やんやの称嘆、目出度く咎も赦されたという。その歌――

  一節に鷹匠さんに為す麁相哀はれ此の事夢になれかし

 

 

*   *   *

 

 

 火災に感通占ひの事

 

 天明六年の春江戸表火事多にて、白山御殿跡より出火にて昌平橋外神田邊迄燒し火事は、予が屋敷も危く、咫尺にて炎燒なしける故家内をも立退かせけるに、親しき人々大勢來りて飛火を防などし給はりしが、其内壹人申けるは、決(けつし)て此屋敷迄燒候儀無之、安心いたし候樣にとの事故、其案じを笑ひければ、さればとよ、巫女の言とて侮り給ふぺからず、古き人に聞てためしみし事あり、明和九辰年の火事は江戸過半に燒し事なるに、其折から老人の申けるは、火災の折から手水鉢(てうづばち)或ひは水溜やうの水を手に結び見て、湯のやうにぬるみたらんは其家火災を通れず、水の本性ならば免れん事疑ひなしといひし故、二三ケ所ためし見しに聊違不申とかたりぬ。今日も爰元の水をためし氣遣ひなき事を知れりといひし。實(げに)も天地自然の義、自ら水氣に火氣を含むまじき共いわれねば、爰に記し置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:たかが狂歌で不思議に窮地を救われた話から、たかが水占いなれど不思議に延焼から救われた話へ。

・「感通」は「感徹」と同義で、本来は自分(或いは相手)の心が相手(或いは自分)に十分に届くことを言う語であるが、ここでは寧ろ「感知」(直感的に感じること)又は「感得」(感じ悟ること)の意で用いている。

・「天明六年」西暦1786年。「武江年表」によれば(有田久文氏のHP「写楽の研究」のこちらのページより孫引き。一部の空欄を詰め、改行を施した)

正月二十二日昼九時、湯島天神牡丹長屋より出火、西北風烈しく、二十数町を焼失、翌二十三日暁鎮まる。この時葺屋町、「両座芝居」焼く。

同二十三日午刻、風烈しく西久保大養寺門前より出火、赤羽、飯倉町迄焼失、それより飛火して田町海岸まで焼け、甲中刻鎮まる。巾三町、長さ十五町という。

同二十四日夜、神奈川宿三百余軒焼く。

同二十七日午刻、本所四ッ目より出火、釜屋堀まで焼ける。その夜平川御門外失火あり。

二月六日午刻過ぎ、小石川蓮華寺前、指谷町一丁目より出火、乾風強く、丸山辺御弓町、本郷元町、御茶水春日町類焼、夜五時頃鎮まる。

二月二十三日、相州箱根山鳴動し、二十 四日の頃、地震甚だし。

五月の頃より、雨繁く隔日の様なりせば、七月十二日より、大雨降り続きて山水あふれ洪水となる。

十三、十四日各地洪水にて、江戸川水勢すざましく、十七、十八日頃よりやや 減じたり。山崩れ、上水樋つぶれ、水道一月の余途絶えたり。家屋、橋など多く流され往来止まる。

夏より冬にいたり、諸国飢饉、物価いよいよ高く、諸人困窮す。

以上、春だけで5件の大火が示されている。この内、本話の火事は2月6日正午過ぎに小石川蓮華寺前指谷町一丁目より出火した火事である。

・「白山御殿跡」前出「本妙寺火防札の事」の鈴木氏注に『いまの文京区白山御殿町から、同区原町にまたがる地域にあった。五代将軍綱吉が館林宰相時代の住居。綱吉没後は麻布から薬園を移し、一部は旗本屋敷となった』とある。本来は白山神社の跡地であった。注にある「館林宰相」については前記注を参照されたい)。

・「昌平橋」神田川に架かる橋の一つ。文京区。現在、橋の北が千代田区外神田一丁目、南が千代田区神田須田町一丁目・神田淡路町二丁目で秋葉原電気街の南東端に架かる。上流に聖橋、下流に万世橋。『この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624年~1644年)と伝えられており、橋の南西に一口稲荷社(現在の太田姫稲荷神社)があったことから一口橋や芋洗橋、また元禄初期の江戸図には相生橋の表記も見られる。1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで昌平橋と改名した』(引用はウィキの「昌平橋」から)。

・「外神田」湯島聖堂の東、神田川北岸の地名。現在の千代田区で北に張り出した地域に名が残っているが、一般的には現在の秋葉原一帯がほぼ外神田に相当した。江戸府内より見て神田川(外堀)の外側をであることから、この名となった。

・「咫尺」元来は中国の周時代の長さの単位で「咫」は8寸(約24㎝)、「尺」は10寸(約30㎝)で、非常に短い距離であることから、距離が非常に近いことを言う語となった(別に「貴人のすぐ前に出て拝謁すること」という意味もある)。

・「明和九辰年の火事」江戸三大大火の一。明和の大火のこと。明和9(1772)年2月29日午後1時頃、目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火(放火による)、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅』、『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、死者数14700人、行方不明者数4060人(引用はウィキの「明和の大火」からであるが、最後の死者及び行方不明者数はウィキの「江戸の火事」の数値を採用した)。

・「いわれねば」の「いわ」はママ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 火災時の延焼に関わっての触感によって感得出来る占いの事

 

 天明六年の春、江戸表にては火事多く、二月六日には白山御殿跡から出火、昌平橋外神田辺りまで焼いた火事は、私の屋敷まで危うくなり、直ぐ間近にまで炎が迫った故、家族らをも避難させたのであったが、親しい人々が大勢集まって、私の館への飛び火を防ぐなどして呉れた。

 その際、手伝いに来て呉れた近所の巫女を生業(なりわい)と致す女が申すに、

「……決してこの屋敷まで火が回ること、これ、御座いませぬ。安心致いてよろしゅう御座います。……」

とのこと故、我らを案じてのお愛想かと私が笑ったところ、その女、

「……されば、巫女の戯言(たわごと)と侮られてはなりませぬぞえ。……かねてより古老に聴いて御座って、以前にも試してみましたこと、これ御座いまする。……過ぐる明和九年辰年の、かの明和の大火……あれは江戸の過半を焼き尽くした大火で御座いましたが……その折り、ある老人が申したことには……

『……火災の折りには、手水鉢或いは水溜のようなものの水を手で掬ってみて、それがぬるま湯のように温まって御座れば――その家、延焼遁るること、これ、出来ぬ。しかし、これが普通の水の温度のままであったならば――延焼を免れること、これ、疑いなしという話を聴いた故、儂もこの度、二、三箇所で、このこと、試してみたが、聊かの違いも、これ、御座なく、正にその言葉通りじゃった。……』

と申しました。……そこで妾(わらわ)も、こちらさまの水を試してみましたが、これ、延焼の気遣い、全く御座いませぬ。」

ときっぱりと言うた。

 実際、私の家は確かに――延焼から免れたのであった。

 これ、正しく天地自然の理(ことわり)なれば――自ずから水気が火気を含むなんてことはあるまいなんどとは言い切れぬこと故――ここに参考に供して記しおくこととする。

 

 

*   *   *

 

 

 藝道其心志を用る事

 

 芝居役者にて寶暦の始迄有りし、瀨川菊之丞路考といへる女形の、上手名人と人の稱しける、一生の間女形の外聊にても男のやつしなどせし事なし。彼が平日の行状を聞に、狂言を引て宿にありし時も常に女の身持也。或時火災ありて、立退き候樣人の進めしに、仕廻所(しまひどころ)へ入て化粧髮などして居たりし故、色々人の進めけれど、たとへ燒死すればとて見苦しからんは藝道の恥也といひ、閑(しづか)に支度して立退けるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:水気が火気を含むならば、男が女となることもある。一連の歌舞伎役者譚の一。

・「寶暦」西暦1751年から1764年迄であるが、次注で分かるように、宝暦元年の二年前、寛延2(1749)年に瀨川菊之丞路考は死んでいる。ここは「寛延」とすべきところである。現代語訳ではそう訂正した。

・「瀨川菊之丞路考」初代瀬川菊之丞(元禄6(1693)年~寛延2(1749)年)。女形の名優。路考は俳名。初めは上方で瀬川竹之丞に師事、正徳2(1712)年に瀬川菊之丞に改名、享保121727)年に京都の市山座での「けいせい満蔵鏡」によって名声を博した。享保151730)年に江戸へ下って『三都随一の女方』と讃えられた。本文にある通り、日常生活でも女装を通したという。能に基づく舞踊に多くの傑作を残し、「娘道成寺」「石橋」(しゃっきょう)等を得意としたと伝える。女形の演技の基礎を確立した人物で、著作に芸談十ヶ条からなる「女方秘伝」がある(以上は主にウィキの「瀬川菊之丞(初代)」を参照した)。

・「女形」女方とも。以下、平凡社「世界大百科事典」より渡辺保氏の解説を引用しておく(記号の一部を変更した)。『歌舞伎の役柄の一つ。歌舞伎の女性の役の総称、および女性の役をつとめる俳優をいう。「おやま」ともいう。1629年(寛永6)に徳川幕府が歌舞伎に女優が出演することを禁じたため、能以来の伝統によって男性が女の役をつとめ、現在に至る。女方の演劇的基礎は初期の芳沢あやめ、瀬川菊之丞によって作られた。2人とも日常生活を女性のように暮らし、これが幕末まで女方の習慣となった。あやめには「あやめぐさ」菊之丞には「古今役者論語魁」所収の芸談があり、2人の名女方の教訓は、長く女方の規範となった。2人の没後、初世中村富十郎はじめ多くの名優が輩出。代々の瀬川菊之丞、4世から8世までの岩井半四郎は女方の名優で、瀬川家と岩井家は、江戸時代を通じて女方の二大名門であった。一座の中で最高位にある女方を「立女方(たておやま)」といったが、明治・大正期の5世中村歌右衛門に至るまでは、女方は座頭(ざがしら)にはなれなかった。女方の楽屋は劇場の2階にあり,名目上それを中二階と称したので、女方のことを「中二階」とも呼んだ。女の役しか演じない俳優を「真女方(まおんながた)」という。女方の役は多岐にわたるが、初期には「若女方(わかおんながた)」と「花車方(かしゃがた)」に大別された。若女方には、遊女(「助六由縁江戸桜」の揚巻)、芸者(「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」の美代吉)、姫(「本朝廿四孝」の八重垣姫)、娘(「神霊矢口渡」のお舟)など、花車方には、茶屋の女房の花車(「恋飛脚大和往来」のおえん)、片はずし(「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の政岡)、奥方(「菅原伝授手習鑑」の園生の前)、世話女房(「傾城反魂香(吃又)」のお徳)、奥女中(「加賀見山旧錦絵」の尾上)、女武道(「彦山権現誓助剣」のお園)などで、身分・年齢・職業などにより違いがある。原則として悪女や老女には女方は扮さないのを習慣としている。これは、老女を演じると色気が失われ、悪女を演じると観客の同情を失うためである。これを見ても、女方の芸術の基本が様式的な美しさを生命とし、貞操を堅固にするという倫理の美しさを追求するものであることがわかる。しかし江戸中期に至り,女方も悪婆(あくば)(土手のお六など)という役柄を開発し、同時に立役が女方をつとめるようになった。あくまでもこれは変則である』(引用元の著作権表示(c1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。更に吉之助という伝統芸能批評家の方の「歌舞伎素人講釈」にある『女形の哀しみ~歌舞伎の女形の「宿命論」』に、意外な興味深い記述があるので紹介しておく。「女形の哀しみ」という題である(段落間の空行は詰めた)。

   《引用開始》

寛政五年(1793)のこと、五代目団十郎を贔屓にする山東京山が兄の京伝とともに河原崎座に出演中の団十郎の楽屋を訪ねました。京山によれば、岩藤の扮装中だった団十郎は涙をボロボロと流しながらこんなことを語ったと言います。

「世間の人なら倅に家業を譲って隠居をする歳なのに、卑しい役者の家に生まれたばっかりに、この歳になって女の真似をしなければならないとは何と因果な事だ。」(「蜘の糸巻」)

京山もどう声を掛けたものか困ったことでしょう。「役者がこういう事を考え出すと芸に艶がなくなって舞台に永く立つ事ができなくなってくる」と書いています。この時、団十郎は五十三歳。果たして京山の予感の通り、この三年後の寛政八年に団十郎は引退する事となります。

この団十郎の逸話はいろんな事を考えさせます。世間から「河原乞食」などと言われのない差別を受けて蔑まれる歌舞伎役者の哀しみを見ることもできましょうか。あるいは大名・武将・傾城を演じたとしても所詮は「虚構・偽りごと」にしか過ぎないという役者の哀しみでありましょうか。そして、この団十郎の言葉から感じられるのは、「男が女の真似をする」ことの・何とも言えない団十郎の情けなさ・哀しみです。

五代目団十郎は本来が立役であって女形は加役ではあるのですが、しかし、功なり名遂げた歌舞伎役者がこういう台詞を吐いてボロボロ泣くというのは、やはり考えさせられる話ではあります。男が女の姿なりをして女を演じるなんてことは、本来的にはどう考えたって不自然でどこかに無理があるわけですが、女形が当たり前の存在のはずの・江戸時代の歌舞伎役者にも、「男が女を演じるなんてみっともなくて恥ずかしい」という感じ方がやっぱりあったのだなあと思うわけです。

江戸時代の女形と言えば、必ず引き合いに出されるのは初代芳沢あやめでありましょう。あやめは「平生(へいぜい)ををなごにて暮らさねば、上手の女形といはれがたし」と語り、「常が大事と存ずる」と言っています。あやめの芸談集「あやめ草」に見られる逸話は、まさに身も心も女性に成り切ろうとするもので、まさに「芸道」に身を捧げる人生と言った感じです。しかし、逆に見ればあやめは虚構の・人工的な生活を自分に強いることで、女形を生業(なりわい)とする自分をその世界に閉じ込めてしまった・あるいは世間一般との交渉を拒絶してしまったとも考えられます。そうしないと「女形」である自分を維持することが難しかったとも考えられます。吉之助はあやめの芸談に「女形の哀しみ」を見るような気がします。

   《引用終了》

以下、女形の成立史や近代以降の女形廃止論争等にも言及、『女形の哀しみの哲学』とも言える骨太の論である。是非、最後までお読みになられんことをお薦めする。

・「閑(しづか)に」は底本のルビ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 芸道に生きる者の節操覚悟の事

 

 芝居役者で寛延の始め頃まで存命して御座った、瀨川菊之丞路考という女形の上手・名人と称された人は、一生の間、女形で通し、演じておらぬその他の折りにあっても、聊かもでも男の格好なんどしたことは一度としてなかったという。彼女の普段の様子を聞いたところ、舞台を降り、自宅に居る時でも、常に女の格好・振舞いで通していた。

 ある時、芝居小屋の近隣で火災があって、直ちに避難するよう人が路考に声を掛けた。すると彼女、楽屋の仕度部屋に入り、徐ろに化粧をし、髪を調え始めた。

 人々は宥めたりすかしたりしていろいろ言うたけれども、

「――たとえ焼け死に致しましょうとも、見苦しき姿を方々に晒すは、これ、芸の道の、恥に、御座いまする――」

と、ゆるりと身支度調え終えると、やおら立ち退いたということで御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 佛道に猫を禁じ給ふといふ事

 

 猫は妖獸ともいはん、可愛物にもあらねど、宇宙に生を受るもの佛神の禁しめ給ふといへる事疑しく思ひけるが、佛神禁じ給はざる事明らかなる故爰に記し置ぬ。日光御宮御普請に付、彼御山に三年立交(たちまじは)りて有しに、右御宮御莊嚴(しやうごん)は世に稱するの通、結構いわん方なし。誠に日本の名巧の工(たく)みを盡しける。さるによりて和漢の鳥獸の御彫物いづれなきものはなし。支配成もの申けるは、數萬の御彫物に猫計は見へざるは妖獸ゆへ禁じけるやと申ぬるが、或日、御宮内所々見廻りて、奧の院の御坂へ登るべきと東の御廻廊を見廻しに、奧の院入口の御門脇蟇股(かへるまた)内の御彫物は猫に有けるにぞ、猫を禁ずるとの妄言疑ひをはらしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。日光御宮御普請業務に従事していた際の複数のエピソードの一。

・「佛道に猫を禁じ給ふ」脊椎動物亜門顎口上綱哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目ネコ目(食肉)目ネコ亜目ネコ科ネコ属ヤマネコ種イエネコ亜種 Felis silvestris catus が仏教や神道でタブーであるという話を私は聞いたことがない。逆に仏教伝来の際、経典を齧る鼠を退治する目的で、日本に棲息しなかった猫を一緒に連れて来たと言う説を聞いたことがある。現在、イエネコの祖先は約131,000年前の更新世末期のアレレード期に中東の砂漠地帯辺りに棲息していたリビアヤマネコ Felis silvestris lybica に同定されている。日本でも古くから益獣として寺や宮中でも猫は盛んに飼育されていた。鎌倉の寺なんどは猫だらけである。以下、ウィキの「ネコ」の記載から興味深い部分を引用する(記号の一部を変更、書名「今昔物語」に「集」を加えた)。『日本においてネコが考古学上の登場は、読売新聞(20080622日)の記事によると、長崎県壱岐市勝本町の弥生時代の遺跡カラカミ遺跡より出土された、紀元前1世紀の大腿骨など12点である。当時の壱岐にヤマネコがいた形跡が無い事や現在のイエネコの骨格と酷似しているため断定された。文献に登場するのは、「日本霊異記」に、705年(慶雲2年)に豊前国(福岡県東部)の膳臣広国(かしわでのおみひろくに)が、死後、ネコに転生し、息子に飼われたとあるのが最初である』。『愛玩動物として飼われるようになったのは、「枕草子」や「源氏物語」にも登場する平安時代からとされ、宇多天皇の日記である「寛平御記」(889年〈寛平元年〉)2月6日条には、宇多天皇が父の光孝天皇より譲られた黒猫を飼っていた、という記述がある』。『奈良時代頃に、経典などをネズミの害から守るために中国から輸入され、鎌倉時代には金沢文庫が、南宋から輸入したネコによって典籍をネズミから守っていたと伝えられている。「日本釋名」では、ネズミを好むの意でネコの名となったとされ、「本草和名」では、古名を「禰古末(ネコマ)」とすることから、「鼠子(ねこ=ネズミ)待ち」の略であるとも推定される。他の説として「ネコ」は眠りを好むことから「寝子」、また虎に似ていることから「如虎(にょこ)」が語源という解釈もある(「言海」)。このように、蓄えられた穀物や織物用の蚕を喰うネズミを駆除する益獣として古代から農家に親しまれていたとおぼしく、ヘビ、オオカミ、キツネなどとともに、豊穣や富のシンボルとして扱われていた』。『ただし日本に伝来してから長きにわたってネコは貴重な愛玩動物扱いであり、鼠害防止の益獣としての使用は限定された。貴重なネコを失わないために首輪につないで飼っている家庭が多かったため、豊臣秀吉はわざわざネコをつなぐ事を禁止したという逸話がある。ただしその禁令はかなりの効果があり、鼠害が激減したと言われる』(但し、この逸話の出典は明示されていない)。『江戸時代には、本物のネコが貴重であるため、ネズミを駆除するための呪具として、猫絵を描いて養蚕農家に売り歩く者もいた。絵に描かれたネコが古寺で大ネズミに襲われた主人の命を救う「猫寺」は、ネコの効用を説く猫絵師などが深く関わって流布した説話であると考えられている。ネコの穀物霊としての特質は時代を追って失われ、わずかに「今昔物語集」「加賀国の蛇と蜈蚣(むかで)と争ふ島にいける人 蛇を助けて島に住みし話」における「猫の島」や、ネコが人々を病から救う薬師(くすし)になったと語る「猫薬師」に、その性格が見えるのみである』。『日本の平安時代には位階を授けられたネコもいた。「枕草子」第六段「上にさぶらふ御猫」によると、一条天皇と定子は非常な愛猫家で、愛猫に「命婦のおとど」と名付け位階を与えていた。ある日このネコが翁丸というイヌに追いかけられ天皇の懐に逃げ込み、怒った天皇は翁丸に折檻を加えさせた上で島流しにするが、翁丸はボロボロになった姿で再び朝廷に舞い戻ってきて、人々はそのけなげさに涙し、天皇も深く感動した、という話である。ネコに位階を与えたのは、従五位下以上でなければ昇殿が許されないためであるとされ、「命婦のおとど」の「命婦」には「五位以上の女官」という意味がある』。ここでの猫を不吉な存在とする風聞は所謂、妖怪としての猫又や根岸が既に記した猫憑きの類からのネガティヴな連想からであろう。そうした「伝説・伝承」の部分も引用しておく。『昔から日本では、ネコが50年を経ると尾が分かれ、霊力を身につけて猫又になると言われている。それを妖怪と捉えたり、家の護り神となると考えたり、解釈はさまざまである。 この「尾が分かれる」という言い伝えがあるのは、ネコが非常な老齢に達すると背の皮がむけて尾の方へと垂れ下がり、そのように見えることが元になっている』。『猫又に代表されるように、日本において、「3年、または13年飼った古猫は化ける」、あるいは「1貫、もしくは2貫を超すと化ける」などと言われるのは、付喪神(つくもがみ)になるからと考えられている。 「鍋島の猫騒動」を始め、「有馬の猫騒動」など講談で語られる化け猫、山中で狩人の飼い猫が主人の命を狙う「猫と茶釜のふた」や、鍛治屋の飼い猫が老婆になりすまし、夜になると山中で旅人を喰い殺す「鍛治屋の婆」、歌い踊る姿を飼い主に目撃されてしまう「猫のおどり」、盗みを見つけられて殺されたネコが自分の死骸から毒カボチャを生じて怨みを果たそうとする「猫と南瓜」などは、こういった付喪神となったネコの話である』。『ほかにも日本人は「招き猫」がそうであるように、ネコには特別な力が備わっていると考え、人の側から願い事をするという習俗があるが、これらも民俗としては同根、あるいは類似したものと考えられる』。以下、「死者に猫が憑く」等といった地方別の言い伝えを挙げる。総括してウィキの筆者は、猫は古くは死と再生のシンボルでもあったと記している。なお、文中の「付喪神」とは民間信仰に於ける現象概念の一つで、無生物でも生物でも永い年月を経て古くなったり、永く生きた生き物が「依り代」となり、神や霊魂が憑依すること若しくはその対象を指す語である。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では標題を「佛道」ではなく「仏神」とする。本文もこうなっており、仏教に限定すると、話がおかしくなるので、現代語訳では神仏とした。

・「日光御宮御普請に付、彼御山に三年立交りて有し」本巻の先行する「神道不思議の事」で示した通り、安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間、「日光御宮」(徳川家康を神格化した東照大権現を祀る日光東照宮)の御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用のため、長期滞在した。詳細は「神道不思議の事」の注を参照されたい。

・「結構」これは文脈から見ると日光東照宮の総印象や全体の構造配置を言っているものと考えられる。しかし、同時に「結構」=素晴らしいの意も利かせているようにも思われる。贅沢にダブルで訳した。

・「いわん」はママ。

・「奧の院の御坂」「奧の院」は奥宮(おくみや)のこと。拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる祭神家康の墓所。ここに詣でるには、本社の東の坂下門を抜けて長い登り坂を上がらねばならない。

・「東の御廻廊」「廻廊」は本社の南の口である陽明門から左右後方へと延びている建物で、外壁には本邦最大級の花鳥彫刻が施され、その何れもが一枚板透かし彫りで鮮やかな色で彩色されている。東の回廊は坂下門の左右に延びる。

・「奧の院入口」坂下門。

・「蟇股(かへるまた)」ルビは底本のもの。社寺建築に多く見られる、二つの横材の間におく束(つか)の一種。上方の荷重を支える物理的な意味と装飾をも兼ねる。概ね上に斗(ます)を配し、下方に広がった形態であり、それが丁度、蟇蛙が脚を広げて踏ん張る形に似ているところから、こう名付けられた。

・「御彫物は猫に有ける」所謂、有名な国宝眠り猫のこと。伝左甚五郎作。日光に因んでか、牡丹の花に囲まれて日の光を浴びながら昼寝をしている猫であるが、奥社入口の守護として寝ているというのは見せかけで、いつでも飛びかかれる姿勢であるとも、また、この眠り猫の裏には翼を広げた雀が彫られていることから、雀が舞いながら猫も寝るほどに天下泰平を表しているとも言われる。左甚五郎(文禄3(1594)年~慶安4(1651)年?)は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人であるが、実在を疑う向きもある。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 仏教や神道にては猫をお禁じになられるという嘘の事

 

 猫は妖獣とも言わるる――まあ、特に愛玩すべきものとも私個人は思わぬものの――が、この宇宙に生を享けたものを、神仏がお禁じになられるということ、永らく疑わしいことと考えて御座ったが。事実、神仏はこれをお禁じになっては、これ御座らぬこと、明白である故、ここにその証拠を記しおくものである。

 ――私が御宮御靈屋本坊向並びに諸堂社御普請御用のため、かの御山に三年ほど赴任致いて御座ったことがある。 かの御宮の荘厳(しょうごん)なる様は、これ、世に讃えられる通り、その日光山全体の結構、素晴らしいと言う外はない。誠(まっこと)日本の名工らが、その持てる妙技を尽くしたものにて御座る。

 故に和漢の鳥獣類は総て御彫物として洩れなくあり、一つとして欠けている生き物は、これ、御座らぬ。御山のことに詳しい日光山管理人の者が申すことには、

「数万の御彫物の中に猫だけは見えないのは、妖獣故、禁じられたものかと思って御座ったが、ある日、御宮内の処々(しょしょ)を巡回致いて御座った折り、さても最後に奥の院の御坂を登ろうと東の御回廊を見回って御座ったら、正に御霊(みたま)を祀る奥の院入口の御門脇の蟇股(かえるまた)に彫られた生き物は猫で御座った。――これにより、拙者、神仏、猫を禁じられ給うと言うは妄言なり、と永年の疑いを晴らすこと、これ、出来申した。――」

とのことであった。

 

 

*   *   *

 

 

 會下村次助が事

 

 御勘定奉行支配にて關東樋橋切組方棟梁(とひはしきりくみかたとうりやう)と也、恐多くも御目見迄なせし岡田次助といへるは、元來會下(ゑげ)村の土民なりしが、才覺ありて色々の請負などせしが、後は右の通結構に仰付られける。其始を聞に、美濃伊勢の御普請の節初て其きざしを生じけると也。美濃伊勢の國川々の御普請有りて、大名の御手傳をも仰付られければ、次助儀江戸は勿論葛西等の人足稼(かせぎ)する者へ、此度美濃伊勢の御普請に行なば金錢は摑み取なり。かゝる時節手を空しくなさんも本意なしとて、人數五六十人もかり催し、彼地へ至りて五三日逗留なせし内、御手傳方へ取入、人足賃も外よりは引下げて請負ければ、役人も其價安きに任せて申付ければ、次助面白からざる躰(てい)にて旅宿へ戻り、五六十人の者共を集め、扨々存の外の事也、御手傳方へ取入色々承合候處、美濃伊勢の人足尾張知多の人足などにて最早大方割渡し極りし故、請負べき沙汰に及ばず、是迄の路用を費として我等は是より歸り候間、各も歸り給はるべしと有ければ、人足共大きに憤り、遙々汝が誘ひに任せ來りて空敷(むなしく)歸らん樣やある、歸りの路用なき者もあればいづれとも身分のたてやういたし呉可申と罵りければ、次助申けるは、成程尤の事なれ共我迚も同じ事なり。夫を遺恨と思ひ給はゞ、次助を殺しなり共いかやうにもして各々の氣を濟し給へといひけるにぞ、五六十人の者どもすべき樣なく十方に暮ける時、次助申けるは、爰に一つの相談有、各我等共に歸りの路用を稼候と思ひ格別に安くして働なば、御手傳方へ願ひて一働いたし見可申といひければ、隨分其通りなし候樣に答ける故、心得しと御手傳より引受し金高より猶又下直(げじき)に拂ひいだしけるに、御手傳方にても彼が手先の手ばしかきに隨ひ、追々増普請等の人足を請負せけるにぞ、下拂も夫に應じ増しを遣し、此御普請にて多分の利潤を得て追々仕出ける。御用に付予が元へも來りしが、たくましきおのこにてありし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:普請御用絡みで連関。

・「會下村」武蔵国埼玉郡にあった村。近現代に至り埼玉県北埼玉郡川里村に吸収された。現在の川里村はその凡そ7割が水田地帯である。

・「御勘定奉行」勘定奉行。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。定員約4名、役高3000石。老中支配で、勘定奉行自身は郡代・代官・蔵奉行などを支配した。享保6(1721)年、財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれており、ここで言うのは勝手方勘定奉行であろう(以上はウィキの「勘定奉行」を参照した)。

・「樋橋切組方棟梁と也」底本では「也」の右に『(成り)』と注す。勘定奉行配下で河川施設や橋の建設を独占的に差配する、所謂、幕府御用達の大工棟梁。以下のブログに次のようにある(このページそのものが孫引きであるのでページ名は示さない。記号の一部を変更、改行を省略した)。『1790年、今度は松平定信による寛政の改革が行われます。この年から定請負は廃止する事になり、再び町奉行と勘定奉行の共同管理とし、町奉行の下に川定掛り(定川懸)が南北町奉行所の江戸向、本所方担当各1名の計4名が橋の管理専門の職に就くことになります。この方式は,彼らが現場を検分し、必要となれば、勘定方の普請役が金額を見積もるものの、工事は樋橋棟梁の蔵田屋清右衛門と岡田次助が担当し、入れ札を行わないと言うものです。つまり、今まで奉行所が実権を握っていたのが、橋の架け替えについての決定権を勘定方が握ることになります』。1790年は寛政2年。鈴木氏は「卷之二」の下限を天明6(1786)年までとするが、本話柄でこの「樋橋切組方棟梁」と言う呼称を用いているのは、寛政2年以降の記載であることを示すものではないか? 識者の御意見を請うものである。

・「岡田次助」上記以外にも、ネット上で管見出来る新潟大学附属図書館の越後国出雲崎湊の廻船問屋泊屋(佐野家)の文書、佐野喜平太氏コレクションの「佐野家文書目録」なるものの「K25」に古文書「御材木送リ状写シ書 佐野新田」があり、その差出人として「樋橋切組方棟梁岡田次助」の名を見出せる。

・「葛西」武蔵国葛飾郡。現在は東京都墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区それぞれの一部によって形成されている。江戸川と荒川に挟まれた地域。「葛西等の人足稼する者」という表現は、ここに特異的にそうした連中が多く居たことを示している。ここは江戸時代には江戸の辺縁部であったから、地方から流れて来た者、逆に都市部から弾かれた人々が多かったということであろうか。識者の御教授を乞う。

・「五三日」数日の意。

・「下直(げじき)に」は底本のルビ。値段が安いこと。「高値」(かうぢき)の反対語。

・「手ばしかき」「手捷し」と書く。「てばしこし」の転訛。手早い。素早い。

・「下拂」下請けへの支払。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 会下村次助の事

 

 勘定奉行配下の正式な関東樋橋切組方棟梁(といはしきりくみかたとうりょう)となり、畏れ多くも将軍家御目見得まで致いた岡田次助という者、元来は武蔵国埼玉郡会下(えげ)村の土民に過ぎなかった。

 才覚あっていろいろな幕府関連の請負工事を成し遂げ、遂には斯くの如き栄誉をも仰せ付けられるに到ったのであったが、その起立(きりゅう)を聞けば、

「……そうですなあ……美濃・伊勢の御普請が御座った折り、初めてそうした運が回ってくる兆しが御座ったと言えば、へへ、これ御座ったな……」

と……その話。――

 

 ……美濃国及び伊勢国に於いて川普請これあり、次助は任された大名衆の普請手伝いをするよう仰せ付けられた。次助は江戸表は勿論、郊外の葛西なんどにも足を延ばして人足稼ぎをする者たちに、

「美濃・伊勢の御普請に行けば、金銭はつかみ取りじゃ! こんな時に手を拱(こまね)いて見てる法はねえぞ!」

とぶち上げ、まんまと五、六十人の人足を刈り集め、かの地へへと乗り込んだ。――

 現地に着いてから数日の後、大名衆の御手伝方にも首尾よくとり入ることに成功したのだが、ここで更に次助は、人足の労賃も他よりひどく引き下げた値いを示し、確かにこれで請け負う旨申し出たところ、大名衆の役人、その賃金の驚くべき安さに喜び、普請仕事は総てこの次助に任すことと相成った。――

――ところが――

 ……その晩のこと、次助は、如何にも面白くないといった風体で旅宿へと戻って来て、人足を皆々呼び集めると、

「……さてさて……思いもせなんだことに相成った。……御手伝方に取り入ったまでは良かったが、そこでいろいろと訊いてみたところが……美濃・伊勢の川普請人足は、尾張・知多の人足なんどで最早、大方割り振り、これ、決まっておる故、請け負うべきものがないと、きた!…………なれば、ここまで来た路次(ろし)は捨てたと思うて……儂は、帰る!……されば、各々も、勝手にお帰りになられるがよい……」

と言ったからたまらない。人足ども大いに憤り、

「手前(てめぇ)!! 手前(てめぇ)が誘うのにまかせて、遙々名古屋くんだりまで連れ来たっといて、手ぶらで帰(けえ)れたぁ、何事でぇ!!……帰(けえ)りの路銀せえねえ奴がいる! おい! 一人残らず我らの身上(しんしょう)立つように、何とかしてくんな!!」

と激しく罵る。

 ……と、次助、

「――成る程――そりゃ尤もだ――尤もだが、そりゃ儂も同じことじゃ。――お前さん、それを遺恨とお思いなさるんなら――この次助を、殺すなり焼くなり何なり、好きにして、各々の鬱憤、お晴らしなさるがいいぜ!……」

と凄んだ。

 その切れるような眼光に五、六十人の人足どもも一時しーんとなり、ただただ途方に暮れた。――

――と――

その静寂の中、徐ろに治助が語り出す。――

「……ここに一つ……相談があるんじゃがのぅ……各々、我らと、帰りの路銀ぐらいは稼がねばという気持ちにて……格別に仕事を安うに引き受けてみるちゅうのは……これ、どうじゃ? それならば、一つ、御手伝方に何とか再び願い出て、お主らのために、一働(ばたら)き致いてみようではないか?!……」

人足どもはこれを聞くや、

「おう! それよ! 何とか上手く、その通りに、してくんない!」

と応じる。治助はにっこり笑うと、

「心得た!」――

 ……もうお分かりで御座ろう。その後、次助は、人足どもには大名衆御手伝方から引き受けた際の正規の契約賃金よりも更に低い擬装労賃を示して働かせたのであった。

 しかし、これは次助が浮いた金を懐に入れるという吝嗇臭い話なのではない。

 大名衆御手伝方連中も、次助のところの人足は、誰もが如何にも仕事が素早く順調に進む――考えてみれば当たり前で、騙されたとも知らず、人足どもは早く江戸に帰りたいがために螺子を巻いていたのだ――という訳で、追々この時の川普請で追加された増普請等の請け負いをも順次、この次助方に回されることとなった。当初は騙した人足への支払もそれに応じて増してやったれば、ますます人足たちも仕事に精を出したので御座った。

 この普請によって、次助はたっぷりと――聊かは汚いやり口では御座ったが――利潤を得、それをきっかけとして、次第に頭角を表わして御座ったのであった。

 

――御用向きにて、私の元で働いたことも御座った男であるが、いや、誠(まっこと)気風のいい逞しい男にて御座ったの。

 

 

*   *   *

 

 

 其家業に身命を失ひし事

 

 いつ此の事にやありし。本因坊或日暮會に出て碁を圍みけるに、未微若(びじやく)の者に、至て碁力強き有りて、其席の者共壹人も彼に勝者なし。何卒本因坊と手合せん事を歎き、辭するに及ばず相手なしけるに、其手段中々いふべき樣なく、段々打交へみしに兎角本因坊一二目(もく)の負けと思ひぬ。本因坊も色々工夫しけれど、其身も一二目の負と思ひぬる故、暫く茶多葉粉(たばこ)抔呑て雪隱へぞ立にける。跡にて外の碁面など見て彼是評し咄しけるが、本因坊餘り雪隱長き故親しき友雪隠へ覗きしが、一心不亂に考へ居たる樣也しが、頓(やが)て席へ立歸りて碁を打しに、始一二目の負にも見へしが、打上て見れば本因坊一目の勝に成しが、扨々碁の知惠は凄じき小人哉と本因坊も稱歎せしが、よく/\心を勞しけるや、無程本因坊身まかりけるとなり。其職に心を盡し候事、かくも有べき事也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:岡田次助もこの本因坊もそれぞれのやり方で「其職に心を盡し」た人物として連関。

・「本因坊」『江戸時代、安井家・井上家・林家と並ぶ囲碁の家元四家のうちの一つ』。『織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の塔頭の一つに由来する。「本因坊」はもとは上方風に「ほんにんぼう」と読んだが、囲碁の普及に伴って「ほんいんぼう」と読まれるようになった』。『以降5人の名人を含め多くの名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった』(以上はウィキの「本因坊」から引用した)。複数の囲碁のネット記載を総合すると、室町時代には早くも町に碁会所が作られていたとあり、また、上記家元制度は家康の指示によって始まったもので、家元各家代表が年一回将軍家の前で対局する「御城碁」(おしろご)では、対局が数日に及んでも外部との行き来が禁じられていたため、「碁打ちは親の死に目に会えぬ」とまで言われたらしい。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 その家業に生命を失った事

 

 何時頃のことで御座ったか、ある日のこと、本因坊が碁会に出でて碁を囲んで御座ったところ、未だ年若い者乍ら、至って碁力強き者がおり、その席に居合わせた者ども皆、悉く彼に勝てない。この若者、

「――何卒、本因坊様と手合せ、お願い申す――」

と切に懇願致すによって、その場の雰囲気からも断わり切れず、相手致すことと相成った。

 ところが、この若者、その力量、なかなかの巧者にて、だんだんに打ち交わしているうちに、相手の若者も周囲の御仁も――申すも何ながら――本因坊一二目の負けと見受けられた。本因坊もいろいろと工夫致いたけれども、なんと、本因坊自身も、

『これは……一、二目負けておる……』

と思った。

 そこで本因坊は席を外し、暫く茶や煙草なんどを飲んで、やおら雪隠へと立った。

 後に残った人々は、その盤面を囲んで、あれやこれや評して御座ったが、本因坊の帰りが余りに遅いので、親しい者が雪隠を覗いてみると、本因坊、雪隠詰で一心不乱に考え続けている様子で御座った――。

 やがて本因坊が席へ立ち帰り、碁が再開された。

 ――その始め、一、二目の負けと見えて御座ったが――打ち終わってみれば――本因坊の一目、勝ちであった。

 本因坊、

「さてさて! 碁の知、これ、凄まじき若者!」

と称嘆致いた。――

 ――されど――この本因坊、この折りの対局に、よくよく心血を注いでしもうたので御座ろう――程なく、身罷ったという。――

 その職――その本分に心尽したればこそ――斯くなる仕儀、決して不思議なることにては、御座らぬ。

 

 

*   *   *

 

 

 才女手段發明の事

 

 予がしれる與力に    といへる者あり。其母、若き頃夫專ら遊女に打はまり、宿に居る事なく明暮に通ひけるが、彼妻申けるは、我等嫉妬にて聊申に無之、彼遊女に通ひ給へば無益の入用を費し、千金の身を深夜に通ひ給ふ事よしともいひ難し、我等金子を才覺せん、彼女を受出して宿に置給はゞ、妻妾あらんは世間になき事にもあらねば、是よりうへの謀(はかりごと)なしと進めて、其身の親元より携へ來りし衣類道具を賣代なし彼遊女の殘る年季を亡八(くつわ)なるものに乞ふて受出し、引取りて倶にくらしけるが、朝夕はしたなき事なるに月日を送りしに、流石夫も其妻の心も恥かしく、流れなる身は月日を經るに隨ひ愛執もさめるの習、一年計の内に右妾は外へ方付けると也。右妻後家に成て子成者の方に有しが、一眼にで發明なる女にてありし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸の直接体験過去の形(この母なる人物を実見して、片眼が不自由であることを言っている点)乍ら、「耳嚢」に初めて出現する異様な意識的欠字が気になる。私には何だか今までの「耳嚢」の流れが一瞬澱むような印象を受ける話柄である。

・「    といへる者あり」底本には空欄四文字の右に『(本ノママ)』と注する。原本には個人名が入っていたものと思われる。何処かの筆写時、相応な地位にこの人物が登っていたものか、根岸以外の人物が憚って行ったものと思われる意識的欠字である。

・「亡八(くつわ)」は底本のルビ。仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者、また、それらを忘れさせる程に面白い所の意で、遊女屋・置屋又はそこの主人を指す。

・「はしたなき事なるに」底本では右に『(尊經閣本「はしたなき事なく」)』と注す。ここは双方の意が効果を持つので、贅沢に両方で訳した。

・「流れなる身」遊女の身。所詮、誠意のない遊女の事故、という意である。遊女に誠心なしとは、当時の諺でもあった。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 才女の計らい方発明なる事

 

 私の知れる与力に□□□□という者がおる。

 その父なる者、妻があるにも関わらず、若い頃、専ら遊女に入れ込み、殆んど自宅に居ることなく、明け暮れ遊郭から出仕致すという始末であった。

 そんなある日のこと、珍しく家に休んで御座った夫に、その妻が言った。

「これから申し上げることは、私、嫉妬心から申し上げることでは、聊かも御座いません。……貴方、かの遊女に通ひなさるのであれば、遊廓に揚がるにお遣いなさる無益なる入用の金の費えも一方ならず、また、千金にも等しい大切なる御体なるに、日々深夜にお通ひなさることは、これ、良いとも言い難きことにて御座います。されば私、金子を算段致しましょう。そうして、彼女を受出し、この屋敷に住まわせて上げましょう。妻妾の一緒に住まうことは、これ、世間にないことでも御座いませぬ。さればこそこれ以上のよい考えは御座いませぬ。」

と夫に勧め、その妻、即座に親元より花嫁として携えて御座った衣類やら道具を売り払い、その金で遊女の残る年季分を支払い、遊女屋主人に乞うて受出し、引き取って妻妾共に暮らすことと相成った。

 こうして朝夕、妻妾が共に暮らすという、世間体からすれば何とも品のないこと乍ら、内にては、これと言って何事もなく月日を送って御座ったが、流石にこの夫も、その妻の誠心に対しても如何にも恥かしくなり、また所詮は誠心なき遊女なればこそ、月日を経るに随って、だんだんにその女への愛執もさめるという習いで、一年ばかりの内に、右の妾(めかけ)は、結局は外へ片付けたという。

 この妻なる者、後に後家となって、今は子――私の知れる与力――と共に住んで御座るが、隻眼なれど――いや、なればこそ――誠(まっこと)聡明な女人で御座ったよ。

 

 

*   *   *

 

 

 覺悟過て恥を得し事

 

 長崎へ行し人の語りけるは、同所丸山の傾城大坂より登りし者に深く言ひかわしけるが、男も身の上の品遣ひ果して、立歸り主親(しゆうおや)に申譯なければ、死を極めてかの女に語りけるに、とても死なで叶はざる事ならば我も倶に死んと、相對死を約して其日數を極めける故、とても死する命と妹女郎其外召使ふ子供或はゆかり等へ、有合ふ小袖雜具(ざうぐ)迄記念(かたみ)の心にてわかちあたへけるが、彼男も死を極めけるに、大坂より登りし知るべの者段々の樣子を聞て、以の外の不了簡と嚴敷(きびしく)異見をなし、路銀其外合力(かふりよく)して無理に長崎を出立させて大坂へ歸りける。跡にて彼傾城此事を聞てすべき樣もなく、覺悟の過たる故其日の衣類にも差支ける間、記念とて遣したる小袖など、妹女郎より其外より取戻し、二度の勤をなしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:遊女に誠心なし、いや、本当は男に誠心なし、で連関。岩波版長谷川氏注によれば、本話は井原西鶴「好色盛衰記」四の四、江島其磧「野傾旅葛籠」(やけいたびつづら)四の三などを原話とするとして、創作された話柄と断じている。私は両話とも未読であるので以下、書誌のみ示す。西鶴の「好色盛衰記」は元禄元・貞享5(1688)年刊。江島其磧(えじまきせき 寛文61666)年~享保201735)年)は京都の浮世草子作者で「野傾旅葛籠」は正徳3(1713)年刊行。

「丸山」長崎丸山町と寄合町の花街を合わせた総称。江戸吉原・京島原と合わせて日本三大遊廓の一つとされる(丸山の代わりに大坂新町を入れる場合もある)。寛永191642)年に長崎奉行所が市街地に散在していた遊女屋を一箇所に集めて公認の遊廓を創ったのを始まりとする。現在の長崎市の丸山公園辺りをL字型の角とすると、ここから東に丸山花街、南に寄合花街があった。

・「傾城」遊女のことであるが、近世では本話からも伝わってくるように(沢山の後輩・お付がいること)、広義の上級の遊女を指す語である。太夫(最上位。揚げ代の高さから宝暦年間(17511763)には自然消滅)・天神(太夫の次ぐ遊女。揚代の銀25匁を北野天満宮の縁日25日に引っ掛けた呼称)・花魁(散茶女郎が太夫の消滅と共に昇格したもの)など。

・「記念(かたみ)」は底本のルビ。

・「合力」経済的援助。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 悲劇的覚悟が過ぎて喜劇的恥を得た事

 

 長崎へ行った人から聞いた話。

 同所の丸山遊廓の傾城、大坂より遊学致いた男と心を通わせることとなり、その男への誠心を深く言い交わして御座ったが、男も揚げ代にすっかり所持金を遣い果し、このままにては大坂に立ち帰ったとて主人や親らに申し訳これ立たずと、男、自死を決し、この女にその次第を語ったところ、

「――何としても死なずには叶はぬことならば――あちきも一緒に死にやんす――」

と、二人して相対死にを約すと、その決行の日取りまで決めた。

 傾城なる女、あれ、嬉しい、いっとう好いた男と一緒に死ぬること出来る命なればとて、妹(いもと)女郎やその他の召使って御座った子供ら或いは所縁(ゆかり)の者どもへ、ありとある己が着ておる小袖やら身辺雑貨に至るまで、悉く片身の思いにて分け与えて御座った。……

 ――――――

 ところが、かの男はといえば――いや勿論、女同様、誠心より相対死にを決しては御座ったのじゃが――これまた幸か不幸か丁度その折り、矢張り大坂よりやって参った男の知人が、だんだんにこの男ののっぴきならぬ仔細を聞きつけ、

「――以ての外の不料簡じゃ!!」

と厳しく意見致いたかと思うたら――電光石火、路銀その他万事万端、無理矢理ごり押し大きな御世話、叱って脅して尻敲き、とっととっとと長崎を、出立(しゅったつ)致させ大坂へ、ああら、ほいさと歸してしもた……。

 後に残ったかの傾城、とんだ顛末、このこと聞いて、それでも何の仕様(しょう)もない――必ず死ぬると覚悟が過ぎた――その日の着物も、これ御座らぬ――ぶるぶる震える体たらく――片身と遣した小袖など、妹(いもと)女郎やその外の、女どもより取り戻し――生き恥さらして――元の黙阿弥――ア!――傾城、勤め……お後がよろしいようで……

 

 

*   *   *

 

 

 兩頭蟲の事

 

 孫叔敖(そんしゆくがう)が兩頭の蛇を殺し、其外兩頭の蟲類の事人のかたり傳ふ事なるに見し事なかりしが、河野信濃守御作事奉行の節、相州鎌倉鶴岡の八幡御修復御用にて彼地に有しに、守宮(いもり)の兩頭ありしを鹽にひたして持かへり、予も親しく見侍りき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:相対死にと双頭で何となく連関、いや、見よ! 長崎→福岡→大阪→鎌倉……このルートは、予言か!?(以下の「守宮(いもり)」の注必見!)

・「兩頭蟲」「りょうとうのむし」と読んでいるものと思われる(岩波版標題「両頭のむしの事」)。「蟲」は昆虫ではなく広く動物の意である。両頭と言うと私には体躯の正中線の前後に頭を持つ奇形をイメージする(実際にそのような奇形が見られ、最近でも正にそうしたイモリが中国で見つかったニュースを聞いた)。ここで根岸の言うのは体躯の正中線の左右に一つずつ、所謂、頭部が二つに分かれているタイプの奇形であると思われ、それを私はここの現代語訳では一貫して「双頭」で表現しておきたい。生物学的には遺伝子異常や受精卵の卵割時に何らかの物理的圧力や化学的刺激が加わることによって生ずる、まま見られる奇形である(稀と言うには微妙に疑問がある)。参考までに私の電子テクスト寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」に所収する「両頭蛇」(これは図を見ていただければ一目瞭然、体躯の正中線の前後に頭を持つ奇形である)を是非、参照されたい。但し、その私の注は双頭に、基、相当に長いのでお覚悟あれかし!

・「孫叔敖が兩頭の蛇を殺し」孫叔敖(生没年不詳)は春秋時代の楚の令尹(れいいん=宰相)。楚屈指の賢相。富国強兵策を講じ、荘王に天下覇権を成功させた。彼の「双頭の蛇」の話は孫の少年時代の逸話として前漢の劉向(りゅうきょう)の書いた「新序」に記されている。以下、参照したウィキの「孫叔敖」より引用する。『ある時、孫叔敖が遊びに出向いた時、頭を二つ持つ蛇に出会い、とっさにその蛇を殺し穴に埋めて、家に戻った。その後孫叔敖は母親に対し「双頭の蛇を見た者はすぐに死ぬとあります。私はつい先ほどその蛇を見てしまったので、もうすぐ死ぬでしょう。」と涙ながらに語り、「他の人がその蛇を見てはいけないので、殺して埋めました。」とも語った。これを聞いた母親は「そういう隠れた善行を行った者には、天は福をもって報いるのです。だから死ぬ事はありません。」と諭した。実際、孫叔敖は母が言っていた通り、死ぬ事は無かった』。

・「守宮(いもり)」は底本のルビ。注意されたい。「守宮」と書いて「いもり」と振っている。これは底本自体の誤りか校訂者鈴木氏の誤りかは不明であるが(恐らく鈴木氏の誤り)、この誤り、ままあることではある。私の愛読する“GOTO's Room”の、「ヤモリとイモリを取り違えた話。(古文献から外来種ニホンヤモリを推理する!?)」に興味深い記載があるが、該当HPは無断引用を禁じているので要約する。まず元禄101697)年刊行の人見必大「本朝食鑑」の「蝘蜓(えんてん)」の項には以下の記載があるとして引用されている(この引用は歴史的仮名遣いに誤りが見られ、恐らくGOTO氏によって手が加えられているものと思われるが、そのまま一部の読みを排除し、漢字表記可能な部分を直し、基本的には『そのまま』「本朝食鑑」の文章と見なして引用する。従って無断引用の埓外である)。

『也毛利と読む。守宮の解釈。源順は止加介と読むが、必大が案ずるところ今の也毛利なり。蜥蜴に似るが短肥、灰黒色、首は扁平、頸長、眼大きく光有り、背に細鱗紋有り、四足、身長六七寸に過ぎず、つねに屋壁、障子屏風、窓戸の間にいて、古宮、廃宅にもっとも多く、人を畏れず、人を害さず、首を反らして人をにらんで去る。よく蝎蝿を捕らえて食べる。江東(関東)諸州にこれ未だ見えず。京師(京都)、五畿(畿内)及び海西(九州)諸州にこれ有り。およそ蠑螈(えいげん)蝘蜓(えんてん)には毒有り。これを食する者有ることを聞かずなり』

ここでGOTO氏にとっても、ここで注をする私にとっても、極めて興味深い事実が判明するのである。即ち、ヤモリの棲息域に関わる記載である。元禄101697)年の時点ではヤモリは関東以東には進出していなかったのである。採集地は、鎌倉である。「耳嚢」の「卷之二」の下限は天明6(1786)年であるから、この100年で東征が果たされなかったとは言えないが、この事実によって俄然、『ヤモリでなくイモリ』である可能性が高まったと言えよう。以下、GOTO氏は如何にも学名から日本固有種に見えるニホンヤモリ Gekko japonicusが実は外来種で『貿易船に紛れ込んで筑前福岡の港から侵入。江戸時代には近畿地方まで進出を果たし』ていたとも記されている(以上、“GOTO's Room”の引用要約部分は終了)。

双頭奇形はヤモリでもイモリでも起こるが、以上から、これは守宮「ヤモリ」ではなく井守「イモリ」、現在は関東でも普通に知られる爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科ニホンヤモリ Gekko japonicus ではなく、イモリの中でも本邦で通常「イモリ」で通用する両生有尾目イモリ亜目イモリ科トウヨウイモリ属アカハライモリ Cynops pyrrhogaster と考えてよいと私は思う。なお、GOTO氏がリンク先で引用されている南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」は私が注を施した電子テクストがある。更にやはり私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」には「蠑螈(いもり)」及び「守宮(やもり)」の項がある。こちらも参照されたい。

・「河野信濃守」諸注、河野安嗣(やすつぐ 享保3(1718)年~天明5(1785)年)とする。小普請組頭・御徒組などを経て安永5(1776)年御作事奉行となり従五位下信濃守、次いで天明3(1783)年、大目付。従って、本話柄は安永5(1776)年から天明3(1783)年までの間の出来事となり、この頃根岸は御勘定吟味役であった。河野は根岸より19歳年上である。

・「御作事奉行」幕府関連建築物の造営修繕管理、特に木工仕事を担当、大工・細工師・畳職人・植木職人・瓦職人・庭師などを差配統括したが、寛政4(1792)年に廃止されている。

・「相州鎌倉鶴岡の八幡」相模国鎌倉鶴岡八幡宮寺。当時は神仏習合であったのでこう表記しておく。双頭の井守の発見場所を源平池なんどと早合点してはいけない。鎌倉は谷戸多く、清水滴る湿地も多い。私は十二所(じゅうにそ)の番場ヶ谷や反対側の旧朝比奈切通しの辺りには、今でも双頭のイモリが居てもちっともおかしくないと思っている。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 双頭の井守の事

 

 少年の孫叔敖が民のために双頭の蛇を殺したという故事を始めとして、頭部二つの頭を持った生物については、色々と人々が噂し、また古くから語り伝えていることでは御座るが、私自身はこれを実見したことが永くなかった。

 数年前のこと、河野信濃守安嗣殿が御作事奉行で御座った折、相州鎌倉鶴ヶ岡八幡宮寺御修復御用にてかの地に赴かれた折り、正に双頭の井守を発見、塩漬けになされ江戸表に持ち帰られたものを、私も親しく拝見させて戴いたことが御座った。確かに奇怪なる双頭にて御座ったよ。

 

 

*   *   *

 

 

 供押の足輕袴を着す古實の事

 

 諸大名の供足輕袴を着し、若年寄其外御旗本の足輕は袴を着せざる。寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯の足輕は何れも袴を着し、夫より若年寄に進み給ひて押足輕袴を取候事、仔細もあらん事と思ひしに、久松筑前守語りけるは、都(すべ)て諸家の足輕にて同心也。御城は圍(かこひ)御用差懸り候節は諸家へ可被仰付、其節の爲也と聞傳へし由、筑前守かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:言い伝えの双頭の生き物が実在したように、一見理解出来ない供押足軽の袴着用にも故実としてのプラグマティックな意味があるという連関。この話柄を理解するためには、幾つかの知識が前提として必要である。まず足軽の身分である。足軽は戦時の雑兵であったが、江戸の平時に至ってお払い箱になった。以下、ウィキの「足軽」 より引用する。『戦乱の収束により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うことになった』が、『江戸幕府は、直属の足軽を幕府の末端行政・警備警察要員等として「徒士(かち)」や「同心」に採用した。諸藩においては、大名家直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用それに「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。そのほか、大身の武士の家来にも足軽はいた』。『一代限りの身分ではあるが、実際には引退に際し子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であり、また薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。加えて、有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等の、ステップとしての一面もあり、中世の無頼の輩は、近世では下級公務員的性格へと変化していった』。『また、足軽を帰農させ軽格の「郷士」として苗字帯刀を許し、国境・辺境警備に当たらせることもあった。こうした例に熊本藩の「地筒・郡筒(じづつ・こうりづつ)」の鉄砲隊があり、これは無給に等しい「名誉職」であった。実際、鉄砲隊とは名ばかりで、地役人や臨時の江戸詰め藩卒として動員されたりした。逆に、好奇心旺盛な郷士の子弟は、それらの制度を利用して、見聞を広めるために江戸詰め足軽に志願することもあった』。『江戸時代においては、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役目の足軽もおり、「江戸学の祖」と云われた三田村鳶魚は、「足軽は兵卒だが、まず今日の下士か上等兵ぐらいな位置にいる。役目としても、軍曹あたりの勤務をも担当していた」と述べているように、準武士としての位置づけがなされた例もあるが、基本的に足軽は、武家奉公人として中間・小者と同列に見られる例も多かった。諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の記入はなくて、ただ人数だけが記入されているものが多い。或いはそれさえないものがある。足軽は中間と区別されないで、苗字を名乗ることも許されず、百姓や町人と同じ扱いをされた藩もあった。長州藩においては死罪相当の罪を犯した際に切腹が許されず、磔にされると定められており、犯罪行為の処罰についても武士とは区別されていた』。特に、この後半の厳然たる侍や御徒士(おかち)とは差別されていた「足軽」をここでは根岸の、と言うより当時一般の「足軽」のイメージとした方がよい。則ち、袴の着用が侍や御徒士には許されたが、足軽は通常、袴の着用はおろか、下駄や足袋を履くことも許されず、裸足で付き従ったというような軽輩の存在としての足軽の認識である。――だのに、何故、ある特定の足軽が袴を穿いているのか? 穿くことが許されているのか? 袴を穿いた足軽は何か特別上級の足軽ででもあったのだろうか? といった根岸の時代に根岸にも分からなくなっていた素朴な疑問を、この話柄は解き明かそうとするものなのだと思われる。……しかし正直言うと、どうも現代語訳をしてみても、私自身が腑に落ちない部分がある。則ち、何故、その「諸大名」「寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯の」供押えの足軽のみが袴を穿き、「若年寄其外御旗本」の足軽は袴を穿かないのかがすっきりと説明されているようには思われないからである。それらの職分と袴の足軽と非常事態宣言時の足軽江戸城警護出役義務の構造がしっかりと分からないと本話柄は完全には理解出来ないのではないか、と馬鹿な私は思うのである。「若年寄其外御旗本」は正にその命令を発する危機管理側の中枢や直接支配下にあり、幕府組織の構造上、常時、将軍と一緒に本人が警護役として存在しているから足軽出役は不要である、ということなのか? 「諸大名」及び「寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯」は緊急事態発生時に江戸城保守警備命令が下され、その際の出役義務があるから袴を穿いた足軽が必要だというのであろうか? それでもまだ疑問が残る。その際の出役方足軽が何ゆえに行列の最後の供押えの足軽でなくてはならないのか? もっと言えば、出役はそのたった1名でいいのか? そもそも「若年寄其外御旗本」と、「諸大名」及び「寺社奉行御奏者番を勤め給ふ諸侯」の間に引かれる明確な線(区別)は何なのか?……細かく考えれば考えるほど分からなくなるのである。日本史の先生にも聞いたのだが、どうも私が阿呆なために、納得できないでいる。何処かに決定的な誤解があるのかも知れないとも思う。例えば「諸家」「同心」の意味であるとか、「足軽」を総て「供押えの足軽」として解釈している点であるとか……どうか、私のこの悩みを、何方か、眼から鱗で解いては下さる方はあるまいか?……

・「供押の足輕」「供押」は「ともおさへ」と読む。本文の「供足輕」「押足輕」も同義。岩波版長谷川氏注に『行列の最後にあって、乱れを整える役の者』とある。

・「旗本」ウィキの「旗本」によれば、『歴史教科書では、江戸幕府(徳川将軍家)の旗本は1万石未満の将軍直属の家臣で、将軍との謁見資格(御目見得以上)を持つ者と定義されているが、厳密にはそう単純ではない』とし、最も広義な意味での旗本とは、大名及び大名の扱いを受ける者以外で将軍に謁見の資格を有する者を指す、とある。

・「若年寄」老中の次席で老中の管轄以外の旗本・御家人全般に関わる指揮に従事した重役。譜代大名から任命された。

・「寺社奉行」寺社領地・建物・僧侶・神官関連の業務を総て掌握した将軍直属の三奉行の最上位である。譜代大名から任命された。

・「御奏者番」江戸城城中に於ける礼式全般を職掌とした。譜代大名から任命。定員は特に定めがないが約2030名で、万治元(1658)以後はその内の4名が寺社奉行を兼任した(以上は、ウィキの「奏者番」を参照した)。

・「久松筑前守」諸注、久松定愷(さだたか 享保4(1719)年~天明6(1786)年)とする。諸注を総合すると書院番・御使番・駿府町奉行を経て、明和5(1768)年に普請奉行となり、従五位下筑前守。安永9(1780)年、大目付。根岸よりも18歳年上である。

・「同心」この同心とは幕府の役職としての同心という固有名詞ではなく、一味同心の意であろう。

・「圍御用」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『固(かため)御用』とある。緊急時の江戸城防衛のことと思われる。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 供押の足軽だけが袴を穿くことが許されている古実についての事

 

 諸大名の行列の最後を行く供押えの足軽は袴を穿いており、若年寄その他、御旗本衆の供押えの足軽は袴を穿いていない。寺社奉行や御奏者番をお勤めになられる諸大名の供押えの足軽は皆、袴を穿いており、それより上、若年寄に昇進なさると、その供押えの足軽は袴を取ってしまって御座る。

 このこと、何か仔細もあるのであろうと思っていたところ、久松筑前守定愷殿が語ったところによれば、

「総ての諸家諸大名の足軽は一味同心で御座って、これ、差は御座ない。火急の節、江戸城防衛の御用が必要となって御座った折りには、諸大名へ、その旨御命令仰せ付けらるるので御座るが、その際、将軍直属の江戸城守備正規兵として登城さすべく、かの諸大名衆供押えの足軽には特別に袴の着用が義務付けられておるので御座る、と昔から聞き伝えて御座る。」

と筑前守殿のお話であった。

 

 

*   *   *

 

 

 茶事物語の事

 

 數奇(すき)の者の作語ならんが、或日茶事の宗匠路次(ろし)を淸め、獨り茶をたてゝ樂しみける折から、表に非人躰(てい)の者暫く立て其樣子を伺ひ、庭のやうなどを稱しけるにぞ、彼宗匠立出で、汝は茶を好けるやと言ければ、我等幼少より茶を好翫(このみもてあそび)しが、今の身の上にも御身の茶事に染み樂み給ふを浦山敷(うらやましく)、思はず立留りぬと答へければ、不便にも又風雅に覺へて、ふるき茶碗に茶一服を與へければ、辱由(かたじけなきよし)をこたへ、恐れある申事なれど、來る幾日の朝そこくの並木松何本目のもとへ來り給へ、我等も茶を差上んと言て去りぬ。いか成事や不審(いぶかし)とは思ひしが、其朝かの松の元へ至りしに、其あたり塵を奇麗に拂て古き茶釜をかけ、松の古枝たるやうのものを其下に焚て、新ら敷(しき)淸水燒の茶碗茶入茶杓も、いづれも下料(げりやう)にて出來る新しき物を並べ置、彼非人は其あたりに見へ侍らず。實も風雅なる心と、茶を獨樂て歸りけるが、いかなる者の身の果なるや、誮(やさ)しき事と右宗匠の語りけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。岩波版長谷川氏注には明和7(1770)年京都で版行された永井堂亀友の浮世草子「風流茶人気質」(ふうりゅうちゃじんかたぎ)五の一の類話とし、これを元に作られた話かもしれない、とされる。早稲田大学の電子画像で当該書が読めるが、数寄の方はお読みあれ。……私は、尻をからげて退散致しまする。挿絵は如何にもな感じです……。

・「路次」は一般には路地や路上の意であるが、ここは茶室に至る庭(そこはまた戸外にも続いている)のことを言っているように思われる。岩波版長谷川氏注も『路地。茶室付属の庭園』とされている。

・「數奇」風流・風雅に心を寄せること。特に茶の湯や生け花などの風流・風雅の道に限定して用いることが多い。「好き」を語源とし、「数寄」「数奇」は当て字である。

・「非人躰の者」とあるが、かつて茶の嗜みを持っていた点、間違いなく身分刑として非人手下(てか)によって非人の身分に落とされた者であると考えられる。以下、ウィキの「刑罰の一覧」に所載する「非人手下」から引用する。『被刑者を非人という身分に落とす刑。(1)姉妹伯母姪と密通した者、(2)男女心中(相対死)で、女が生き残った時はその女、また両人存命の場合は両人とも、(3)主人と下女の心中で、主人が生き残った場合の主人、(4)三笠附句拾い(博奕の一種)をした者、(5)取退無尽(とりのきむじん)札売の者、(6)15歳以下の無宿(子供)で小盗をした者などが科せられた。この非人という身分は、江戸時代、病気・困窮などにより年貢未納となった者が村の人別帳を離れて都市部に流入・流浪することにより発生したものと(野非人)、幕藩権力がこれを取り締まるために一定の区域に居住させ、野非人の排除や下級警察役等を担わせたもの(抱非人)に大別される。地域によってその役や他の賤民身分との関係には違いがあるが、特に江戸においては非常に賤しい身分とされ、穢多頭弾左衛門の支配をうけ、病死した牛馬の処理や、死刑執行の際の警護役を担わされた。市中引き回しの際に刺股(さすまた)や袖絡(そでがらみ)といった武器を持って囚人の周りを固めるのが彼ら非人の役割であった。当時の斬首刑を描いた図には、非人が斬首刑を受ける囚人を押さえつけ、首切り役の同心が腕まくりをして刀を振りかぶっているような図が見える』。『なお、従来の研究では、非人は「士農工商えたひにん」の最下位に位置づけられることから、非常に賤しい存在とされ、非人手下という刑の酷さが強調されてきたが、非人と平人とは人別帳の区分の違いであること、非人は平人に復することができたことなどから、極刑を軽減するためにとられた措置であるという見方もある』と記す。「取退無尽」の「無尽」は講(こう:町人の私的な互助組織。)を作っている者達が月々決められた金額を積み立てておき、その講中で時々に金が入用な者に対して、競り落とす形でその金を貸与するシステムで、「取退無尽」というのは当たり籤を引いたものが順々に抜けていく無尽を言う。割り戻し率が高いために賭博性が問題とされ、富籤同様、幕府から禁じられていた。この男の罪は何だったのか。話柄としては、(2)か(3)か(4)辺りで想像するのがイメージを壊さずに済みそうである。(6)は茶道への親しみと言う点では年齢的に微妙に無理がある気がしないでもないが、わざわざ「幼少より」と述べている点で、可能性がないとは言えぬ。一種の貴種流離譚であるならば、それもあり。

・「辱由(かたじけなきよし)」は底本のルビ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 茶道物語の事

 

 数寄(すき)の者の作り語(ごと)かも知れぬ話で御座る。

 ある日、茶事の宗匠が茶室に至る小さなる路次(ろし)の庭をも綺麗に掃き清め、独り茶を点(た)てて楽しんで御座った。

 すると、路次の外(と)に、一人の非人体(てい)の者が佇んでおり、こちらの様子を如何にも優しげなる面持ちにて伺っておるのと、眼が合(お)うた。

 男は、

「……結構なる御庭にて御座る……」

と非人にも似ず、庭の様なんどを褒めたれば、宗匠、茶室より立ち出でて、

「……汝(なれ)は、茶を好まれるか……」

と声をかけた。男は、

「……はい……我ら、幼少の折りから茶道を好み親しんで御座いましたれど……今はかくなる身の上……なれども御身が茶事に馴染み且つ楽しんでおられる様、殊の外、うらやましゅう……思わず路次に佇んで御座居ました……」

と応えた。

 宗匠、この男を不憫にも、また、風雅なるお人ならんとも思い、古寂びた茶碗にて茶を一服点てて与えたところ、

「忝(かたじけな)くも有難き幸せ……」

と礼を申して、加えて、

「……畏れ多いことにては御座居まするが……来る何日の朝方、何処其処の並木通りの、何本目の松の下(もと)へ、御来駕あれかし。我らも一服、茶を差し上げとう存知まする……」

と言い添えて去って行った。――

 宗匠、

『……非人の身の上にて、一服茶を献ずるとは……如何にして茶事を致さんとするものか?……』

と如何にも不審に思っては御座った。――

 さてもその約束の日の朝、予ねての場所を訪れてみると……

――その松の辺り、数畳程が、すっかり塵が払われて、松が枝(え)の下、あたかも侘びたる茶室の如、松の根と苔の具合も、路次の庭の如……

――古侘びた茶釜をかけ、松の古枝のようなるものをその下に焚きて、湯は丁度、良き頃合いと沸いて御座る……

――新しき清水の茶碗・茶入れ・茶杓など、どれも安き値に求め得るところ乍ら、真新しくも、されど、あざとさのない愛すべき品々なんどが並べ置いて……

――されど、かの非人の姿、その辺りには見えませなんだ……。

 宗匠、心に思うらく、

『……げにも風雅な心――』

と、そこで独り茶を点てて楽しみて帰った、という。――

 

「……さても……如何なる者の、身の果てじゃった者か……哀感風情に満ちた出来事で御座った……」

と、この宗匠が語ったということで御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 明君其情惡を咎給ふ事

 

 享保の始とかや、何れの國にや百姓以の外相煩ひけるが醫師の相談しけるに、よき人參なくては難助趣申けれど、在郷の事人參の求むべき手寄(たより)なかりしを、倅に申付て江戸表へ才覺に出しけるが、彼倅途中にて人參の代を博奕(ばくえき)とやら遊女とやらんに遣ひ込、人參を可求手寄もなく、路用に手支(てづかへ)、兩國橋にて人の巾着など切りしを被召捕、御先手にて吟味の上、小盜(こぬすみ)いたし候者とて入墨敲(いれずみたゝき)とやらんに申上けるに、明君御尋ありて、右親は其病氣にて相果しや、又は快氣せるやと御尋有けるに、右病氣にて病死の由かたりければ、親を殺せし者の通り磔に被仰付けると也。親の煩ひて藥求めに出し身の、遊興の心あらんは誠に天誅のがるべからず、難有御德政也と霜臺の語り給ひぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。この辺り、全体に順列での連関は弱いような気がする。名君吉宗公エピソードの一。

・「明君」第八代将軍徳川吉宗。

・「享保」西暦1716年から1735年。

・「人參」双子葉植物綱セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジンPanax ginseng =朝鮮人参のこと。

・「手寄(たより)」は底本のルビ。

・「手支(てづかへ)」は底本のルビ。

・「兩國橋」隅田川に架かっていた旧両国橋。現在の神田川と隅田川の合流点に近い中央区東日本橋と東岸の墨田区両国を結ぶ両国橋は移転後のもの。貞享3(1686)年に国境が変更されるまでは武蔵国と下総国との国境にあったことからの呼称。以下、ウィキの「両国橋」によれば、『創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい』。『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った』。話柄からしてこの病んだ百姓は上総・下総・安房辺りの者でもあったのかも知れない。

・「御先手」先手組。若年寄支配、江戸の治安維持を職掌とした。以下、ウィキの「先手組」より引用する。『平時は江戸城に配置されている各門の警護、将軍外出時の警備、江戸城下の治安維持等を勤めた。』『時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置されていた』。『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられたという』。『火付盗賊改方の長官は、御先手組の頭が加役として兼務した』。

・「入墨敲(いれずみたゝき)」は底本のルビ。共に身体刑の一種。「入墨」は古くからある刑ではあるが、一般化したのは寛保5(1745)年に耳鼻削ぎに代えて採用されて以降のことである。入墨の種類は各奉行所や藩によっても異なり、また窃盗などの付加刑でもあった。入墨は三回で死罪となった。「敲」は笞(しもと・すわえ:木製の笞杖や竹製の箒尻という鞭)で敲く刑。庶民の成人男性にのみ適用した。寛保5(1745)年から採用され、一時期廃止されたが、この吉宗の命によって寛延2(1749)年に復活している。敲は50回、重敲は100回。刑の執行時には罪人の家主や村・町役人が立合いが義務付けられていた。肩・背・尻に分けて損傷が致命的にならないように配慮はされたという。ただそうするとややおかしなことになる、何故なら、冒頭で「享保の始」と言っているからである。そこでは「敲」はまだ復活してはいないのである。疑義があるがそのまま訳した。

・「親を殺せし者の通り磔」尊属殺は律令の昔から八虐の内の四番目の「悪逆」に挙げられており、江戸時代も市中引廻しの上、磔という重罰であった。またこれには「縁座」が加えられ、殺人者に子があれば、その子も遠島となった。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。もう御馴染みの「耳嚢」の重要な情報源の一人。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 明君一決にて非道の子を厳罰に処した事

 

 享保の初めの頃のこととか。

 何処の国であったか、相応の百姓、極めて重篤な病いに罹ったが、医師に相談してみたところ、

「効能著しき朝鮮人参、これ、なきには救い難し。」

との見立て。されど、かくなる田舎のこと故、朝鮮人参なんどという代物、求むべき手段も、これ御座ない。そこで父は倅なる男に申し付けて、金子を渡し、それ以って何とか朝鮮人参を手に入れて来るよう江戸表に出だしやって御座った。

 しかし、この倅、江戸へ来る途中、親から受け取った朝鮮人参の代金を、悉く博打やら遊廓やらに使い込んでしまい、ただの人参一本さえ買う金もなくなり、遂にはその日の金にさえ困って、両国橋にて人の巾着を掏(す)ろうとしたところを召し捕らえられてしもうた。

 御先手方にて厳しく吟味の上、判例に示し合わせても初犯の窃盗致せし者なれば入墨・敲きが相当か、と御裁可を仰いだところ、時の明君吉宗公より、

「時に、その者の親は病いで相果てたのか? それとも快気致いたのか?」

との特にお訊ねの儀、これあり、

「その病(やまい)にて病死致いたとのことで御座います。」

とお答え申し上げた。すると吉宗公、毅然として、

「親を殺せし悪逆罪に準じ、市中引き回しの上、磔と致せ!」

とびしりと仰せられた。

 

「……親の命に関わる病いのために薬を求めに出た身でありながら、父が身を思わざるのみか、己れの爛れた快楽の心のみにとらわれておった人非人……これ、誠(まっこと)天誅免るること、御座ない!……いや、誠(まっこと)有難き御徳政で御座ったのぅ……。」

と、安藤霜台殿が語って御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 強勇の者御仕置を遁れし事

 

 常憲院樣御代、生類御憐みにて殺生堅く御誡(いましめ)の折から、御家人の内阿久澤彌太夫、松本理兵衞といへる者忍びて釣をせしを、廻りの者咎聞(とがめきこえ)ければ以の外惡口抔して立別れぬ。彼廻りの者より申立ぬる故、兩人共御吟味の上入牢なしけるが、彌太夫は釣せし段無相違由をいひ、理兵衞は兩人とも釣せし事なきといひ、互に右の由爭ひ、幾度御吟味有けれども兎角落着せざれば御仕置も延びて居たりし内、常憲院薨御(こうぎよ)有りて、生類御憐の御掟(おきて)も解けるゆへ、兩人とも御咎に不及元の如く勤しと也。右兩人は伊豆守、彌左衞門が父が租父也。其頃予が實父も右兩人と親しかりしが、御吟味の始、彼兩人へ羽二重の下帶一筋あたへ、若切腹せば見苦しからず切腹せよと餞別に遣しけるとて與へける由。予幼き頃夫(その)の甥なる老人語りぬ。其頃は人の心も勇氣なる折と覚(おぼゆ)る。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「常憲院」第五代将軍徳川綱吉(正保3(1646)年~宝永6(1709)年)。常憲院は諡名(おくりな)。

・「生類御憐みにて殺生堅く御誡」一般に言われる「生類憐みの令」のことであるが、これは第五代将軍徳川綱吉が貞享4(1687)年に制定した殺生禁止に関わる法令とそれに付随した多数のお触れを総称したものであって、「生類憐みの令」という成文法令があるわけではないということは余り理解されているとは思われない。以下、ウィキの「生類憐みの令から引用する。一般にこの法令群が発布された背景として『従来、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂い、母桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで出したとされてきた。しかし最初の生類憐みの令が出された時期に、まだ隆光は江戸に入っていなかったため、現在では隆光の関与を否定する説が有力である。生類憐みの令が出された理由については、他に長寿祈祷のためという説もあるが、これも隆光僧正の勧めとされているため、事実とは考えにくい』。『当初は「殺生を慎め」という意味があっただけのいわば精神論的法令であったのだが、違反者が減らないため、ついには御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まられ、元禄9年(1696年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。そのため単なる精神論を越えて監視社会化してしまい、この結果、「悪法」として一般民衆からは幕府への不満が高まったものと見られる』。『武士階級も一部処罰されているが、武士の処罰は下級身分の者に限られ、最高位でも微禄の旗本しか処罰されていない(もっとも下記にあるように[やぶちゃん注:省略しているのでリンク先を参照のこと。]、武士の死罪は出ている)。大身旗本や大名などは基本的に処罰の対象外であった。そのため、幕府幹部達もさほど重要な法令とは受け止めていなかったよう』であるとする。『しかしこの法令に嫌悪感を抱いた徳川御三家で水戸藩主の徳川光圀は、綱吉に上質な犬の皮を20枚(一説に50枚)送りつけるという皮肉を実行したという逸話』は有名ではある。『地方では、生類憐みの令の運用は、それほど厳重ではなかったようだ。「鸚鵡籠中記」を書いた尾張藩士の朝日重章は、魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでの間だけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ、「殺生」を重ねていた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったらしい』とあり、本話柄も告発があり、現場での反省の念がなく、一方が意固地に否認したことが事態を悪化させたものと思われる。『この法令に熱心だった幕閣は側用人であり、中でも喜多見重政は、綱吉が中野・四谷・大久保に大規模な犬小屋を建てたことに追従して、自領喜多見に犬小屋を創設している。この喜多見をはじめとする側用人たちが法令のそもそもの意味を歪めて発令したと主張する者もいる』。『徳川家宣(綱吉の甥で、養子となる)は将軍後見職に就任した際、綱吉に生類憐みの令の即時廃止を要求したといわれている。継嗣がいなかったとは言え、綱吉はこの廃止要求を拒絶し、死の間際にも「生類憐みの令だけは世に残してくれ」と告げた。が、綱吉の死後、宝永6年(1709年)、新井白石が6代将軍家宣の補佐役となると綱吉の葬式も終えぬうちに真っ先にこの法令は廃止された。この時、江戸市民の中にはこれまでのお返しとばかりに犬を蹴飛ばしたりしていじめる者もいたという。以降、江戸庶民の間に猪や豚などの肉食が急速に広まり、滋養目的の「薬喰い」から、肉食そのものを楽しむ方向へと変化し、現在まで続く獣肉(じゅうにく)料理専門店もこの時期(1710年代)に現れている』とあり、本話柄の雰囲気も伝わってくる。『当時の処罰記録の調査によると、ごく少数の武家階級の生類憐みの令違反に対しては厳罰が下された事例も発見できるものの、それらの多くは生類憐みの令に違反したためというよりは、お触れに違反したためという、いわば「反逆罪」的な要素をもっての厳罰であるという解釈がある。町民階級などに至っては、生類憐みの令違反で厳罰に処された事例は少数であるとする。また、徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保の日記には、生類憐みの令に関する記述があまりなく、重要な法令とは受け止められていなかった可能性が強いのではないかと推論する。ただし、「生類憐れみの令を100年守ること」を綱吉はわざわざ遺言しており、重要でないのなら、綱吉の遺言もある筈もなく、わざわざ儒学者の白石が廃止を宣言する必要もなかったとする見解もある』。『また、生類憐れみの令が遵守されたのも江戸近辺に限られ、地方においてはほとんど無視されていたという説もある。「鸚鵡籠中記」の記述によると、尾張藩においても立て札によって公布はされたものの、実際の取り締まりは全くなされておらず、著者の朝日重章自身も魚捕りを楽しんでいた。親藩においてもこのような状態であった以上、前述の元禄の大飢饉において、飢饉の最中の東北地方において生類憐みの令が厳しく取り締まられたという事は到底考えられない。飢饉の最中に人間が禽獣に襲われる事はよくある話であり、生類憐みの令と特に関連があったとは考えにくい』ともある(文中書名の『 』を「 」に変更した)。

・「阿久澤彌太夫」底本鈴木氏注に、『行広。万治二年御徒、のち組頭。その子広保は正徳元年遺跡を相続』とある。万治2年は西暦1659年、正徳元年は1771年。高柳光壽「新訂寛政重修諸家譜」によれば、阿久澤行広は行次の子で兄に行佐がいる。広保は行広の子である。

●行廣(ゆきひろ)彌太夫

萬治元年二月六日御徒にめし加へられ、のち組頭をつとむ。

廣保(ひろやす)長右衞門

正德元年七月二十三日遺跡を繼、のち支配勘定をつとむ。

行梢(ゆくすゑ)吉右衞門【行廣子・廣保弟】

阿久澤彌平次義守が祖。

阿久澤家系譜については先行する「小兒手討手段の事」の「阿久澤何某」注を参照のこと。

・「松本理兵衞」底本鈴木氏注に、根岸の友人松本秀持(後注参照)の祖父松本重政とする。『明暦二年父正重の遺跡を継ぐ。御天守番、御徒目付を経て押太鼓役』とある。明暦2年は西暦1656年。

・「廻りの者」その土地のヤクザ者。

・「薨御」親王・女院・摂政・関白・大臣が死去すること。綱吉は右近衛大将・征夷大将軍・右大臣で、死後、贈正一位太政大臣である。一部訳でここを「薨去」とするものを見たが、厳密には「薨御」は「薨去」と同義ではない。「薨去」(「薨逝」とも)はもっと広く皇族及び三位以上の者の死去に用いるものである。

・「伊豆守」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任中の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。「卷之一」の「河童の事」に既出。

・「彌左衞門」底本鈴木氏注に、『広高。弥太夫行広の曾孫行光の養子。宝暦三年遺跡を継ぎ、安永六年御勘定』(宝暦3年は西暦1774年、安永6年は西暦1777年)とするが、この言いは事実にそぐわない点に付、鈴木氏は『要するに、松本理兵衛の祖父と阿久沢弥兵衛の曽祖父両人が話題の人物であるという意味』であるとし、岩波版長谷川氏の注では、やはり齟齬を指摘、『ただし広高は行光の養子で、行光は行梢の長男で行保の後を継いだので、祖父を行広の子行梢とも解せるが、弥太夫ではない。誤解があるようである』と記す。高柳光壽「新訂寛政重修諸家譜」によれば、阿久澤廣高は系譜上は阿久澤行光の子であるが、以下の通り(「■」はネット画像で判読できなかった部分)。

●廣高(ひろたか) 龜吉 藤助 彌左衞門

實は垣■彌太郎行篤が長男。母は玄蕃頭家臣西川小左衞門正補が女。行光が養子となる。

寶暦三年六月六日遺跡を繼、のち富士見御寶藏番をつとめ、安永七年四月六日班をすゝめられて御勘定となる。【割注:時に四十歳高米百五十俵】天明元年四月二十六日さきに關東の川々普請の事をうけたまはりしより、時服二領、黄金二枚をたまふ。

天明元年は西暦1760年。阿久澤家系譜については先行する「小兒手討手段の事」の「阿久澤何某」注を参照のこと。ちなみにこの手の系譜にまるで興味のない一読者に過ぎぬ私から見れば、注としての厳密さは別として『要するに』という鈴木氏の謂いの方が、スッキリ! である。

・「予が實父」安生(あんじょう)太左衛門定洪(さだひろ 延宝7(1679)年~元文5(1740)年)。根岸鎭衞は元文2(1737)年に150俵取りの下級旗本であった、この安生定洪の三男として生れた(この父定洪も相模国津久井県若柳村、現在の神奈川県津久井郡相模湖町若柳の旧家の出身で安生家の養子であった。御徒頭から死の前年には代官となっている)。ウィキの「根岸鎮衛」によれば、『江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが、同じく150俵取りの下級旗本根岸家の当主根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として、根岸家の家督を継がせた。鎮衛が22歳の時のことである。(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であり、そのため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある。)』とある。衛規は「もりのり」と読み、宝暦8(1758)年2月15日に病没している。

・「夫の甥」実父安生定洪の甥。

・「覚る」はママ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 剛勇なる者ら御仕置を遁れし事

 

 常憲院様の御代、生類御憐れみの御意にてあらゆる生き物殺生なんどが堅く戒められて御座った。

 ある時、御家人の内の阿久沢弥太夫及び松本理兵衛という者、こっそり釣りを楽しんで御座ったところが、市中見回りの者に咎められた。

 適当に誤魔化せばよかったものを、売り言葉に買い言葉、激しい口論となり、見回りの者に以ての外の罵詈雑言を吐き捨てて、その場を去ってしまった。

 後日、この見回りの者より本件に付、正式に告発がなされてしまったため、両人とも吟味の上、入牢と相成ったのだが、弥太夫は、

「釣りせし段、これ相違なし。」

由認めたものの、理兵衛の方は、

「両人とも、釣りせし事、これなし。」

と言い張り、飽くまで互いを譲らず、本件の立件自体を当事者二人が言い争うという事態に相成った。

 これが二人ともに頑なにて、何度も吟味致いても、いっかな、両人の証言、真っ向から対峙して譲らぬため、すっかり膠着致いて、御仕置きの方も、延び延びになって御座った。

 そんな折り、常憲院様薨御あらせられた。

 さればこそ、生類御憐れみに関わる数多の御禁令も解けて、両人とも御咎めに及ばず、元の如く勤仕に復帰致いたということで御座る。

 この両人――それぞれ、私も知れる松本伊豆守秀持殿の祖父、及び同じく私の知人である阿久沢弥左衛門殿の曾祖父であられる――その頃、私の実父もこの両人と親しくして御座ったが、両名、告発されていよいよ御吟味始まりと決した際、この両人へ羽二重の下帯をそれぞれに一本ずつ、

「もし切腹と成ったれば、見苦しきこと、これなく、切腹せよ。これ、餞(はなむえ)に遣わす。」

と言い添えて贈ったということである。

 私がごく幼かった頃のこと、父の甥である御仁から、この話を聞かされた。

 その頃は、人の心も、勇気と覚悟とに満ち満ちて御座った、そんな時代もあったので御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 強氣勇猛自然の事

 

 予幼き時古老の一族有りけるは、羽田藤左衞門といへる人有しが、其子十右衞門は予が中年迄存命也しが、右藤左衞門は實方(じつかた)にて少しゆかりもありし。年若き頃至て大膽不敵にて強氣(がうぎ)也しが、いつ頃にや有し、吉原町へ至り格子にて傾城杯と咄しけるに、大勢地廻り共も立寄り格子にかゝりて有しに、彼藤左衞門長刀(ちやうたう)をさして邪魔に成しを、地廻りの溢者(あぶれもの)共以の外罵り恥しめければ、拔打に切殺しぬ。すは人殺有とて五丁町中大騒にてありし時、血刀をば鞘共に天水桶の中へ差込、空(そら)しらぬふりにて混雜の人に紛れ大門(おおもん)を出て歸けるが、宿に歸りて彳々(つくづく)思ひけるは、去にても右の刀は親より讓り受し品也、其儘に捨んも惜しと、あけの夜またまた吉原町へ行て、人靜りて後彼天水桶の下を見しに、其儘刀のありし故とりて歸りけると也。不敵成男なりとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:お仕置き免れで連関。ただこれは切捨御免の範疇かなあと思うのだが、無礼討ちは想像するほど簡単には出来なかったらしく、さらに場所が場所、場面が場面だけに、武家の面目を言うも、ややむず痒い。

・「羽田藤左衞門」底本鈴木氏注によれば、羽田則参(のりちか 天和2(1682)年~元文4(1739)年)。支配勘定・御勘定。根岸は元文2(1737)年生まれ。

・「十右衞門」底本鈴木氏注によれば、羽田治景(はるかげ 正徳4(1704)年~明和7(1770)年)。表御右筆。明和7(1770)年当時、根岸は34歳で御勘定組頭。

・「實方(じつかた)」は底本のルビ。根岸の実家である安生(あんじょう)家。前話「予が實父」注を参照されたい。

・「地廻り」遊廓を冷やかして歩く者。または、広くその土地のヤクザ者の謂い。

・「溢者(あぶれもの)」は底本のルビ。

・「五丁町中」「五丁町」(ごちょうまち)が固有名詞で新吉原の正式な町名であって、「五町」は距離単位ではなく町の区画単位のことである。即ち、五丁町中=吉原遊廓中の意である。芝居町を二丁町といい、吉原を五丁町と呼んだ。これは元吉原が江戸町一町及び二町、京町一町及び二町、角町(すみちょう)の五町あったことに由来する。但し、新吉原になってからは揚屋町も加わり、寛文5(1665)年には更に江戸町に伏見町と堺町が加わって八町となった。実際の新吉原の敷地面積は2丁×3丁で横に広く、約20,000坪、周囲には遊女の逃亡防止の為に五間(約9m)幅の堀であるお歯黒溝(どぶ)が付随していた(以上は個人のHP「ビバ! 江戸」の「江戸の吉原(遊廓)」を参照した)。

・「天水桶」時代劇でお馴染みの雨水を貯めるための木製桶。主に江戸市中の防火用水として利用された。

・「大門」幅八尺(2.4m)黒塗りの冠木門にして吉原の唯一の出入り口。毎朝未明に開門され、引け四ツと言って夜四ツ(二更:冬で10時頃、夏で10時半過ぎ)に閉じられた。それ以後の非公式の出入りのために潜り戸が設けられていたが。実際は暁九ツ(午前0時)に夜四ツの拍子木を打って誤魔化していたという(以上は個人のHP「ビバ! 江戸」の「江戸の吉原(遊廓)」を参照した)。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 天然自然の剛毅勇猛なる男の事

 

 私が幼い頃、一族の古老の内に羽田藤左衛門という人が御座った。その子の十右衛門殿は私が中年になる頃まで存命して御座った。この藤左衛門殿の方は私の実家である安生家とも多少、所縁(ゆかり)のある御仁である。

 この羽田藤左衛門殿、若い頃は大胆不敵勇猛果敢の者にて御座った。

 いつの頃のことであったか、彼、吉原へ行って格子越しに気に入った傾城なんどと浮いた話を致いて御座ったところ、地廻りどもが大勢でやってきて、彼と同様に格子に取り付いた。その時、たまたま藤左衛門の差して御座った長い刀が彼奴(きゃつ)らの邪魔になったため、その地廻りども――この時の者ども、地廻りの中でも格段に質の悪いあぶれ外道で御座った――以ての外の罵詈雑言を致いて、藤左衛門を辱しめるに至った。

 抜刀一閃! 藤左衛門はこのサンピンを抜き打ちにばっさりと斬り殺してしまったから、さあ大変、

「……ヒィッ! 人殺し……じ、じゃあ!……」

と誰かが叫び、吉原中、上へ下への大騒ぎとなった。

 ところが藤左衛門は、血刀を鞘諸共に傍にあった天水桶の下の隙間に突っ込み、素知らぬ振りしてその騒ぎの混雑に紛れて、悠々と大門を抜け、帰って行った。

 ところが、己が屋敷に戻ってつくづく思ったことには、

「……待てよ……あの刀は父より譲り受けし品で御座った。……このままに、捨て置くは……如何にも惜しい……」

と、翌日の夜(よ)、再び吉原へ行くと、深更に至るまで待って、内の人通りも絶えた頃、かの天水桶の下を覗いて見たところ、そのまま刀が御座ったれば、執りて帰ったという話。後、

「如何にも大胆不敵な男じゃ!」

と人々も噂した、とのことで御座る。

 

 

*   *   *

 猥に人命を斷し業報の事

 

 寶暦末に、金森(かなもり)兵部少輔(せういう)家子細ありて斷滅しぬ。その家士の内何とかいへる者、主家斷絶の節死刑に仰付られけるが、右の者死に臨て囚獄石出帶刀(いしでたてはき)へ咄しける由。我等此度死刑に及ぶ事主人家の事に付ての事なれば強て悔き事にもあらず。我におかせる罪とても恥しと思ふ事なし。然れ共我等の死刑をもまぬがれ間數者也。一ト年在所へ罷りしに、道中泊りを同ふせし山伏一刀を見せけるが、正宗の由語りしが、いかにも見事にて甚ほしく思ひけるにぞ、金子の高を申て何とぞ我らに給はるべしとひたすら望しが、此刀は代々持傳へければ千金にも放さじと、いかに所望すれども承知せざる故思ひ留りしが、いかにしても懇望なる故、人放れの松原にてあへなく山伏を欺(あざむき)殺し右刀を奪取りしが、此恨此罪計にても死刑成べき者也といひしと、帶刀語りけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:やや情状酌量の余地のある無礼討ちの殺人から、救い難い強殺で連関。岩波版長谷川氏注には、本話柄は井原西鶴の「本朝二十不孝」二の二を初めとして類話が多いと記す。

・「寶暦」西暦1751年から1764年。

・「金森兵部少輔家子細ありて斷滅しぬ」金森頼錦(よりかね 正徳3(1713)年~宝暦131763)年) のこと。美濃八幡(はちまん)藩(=郡上金森藩)の第2代藩主。官位従五位下、若狭守、兵部少輔(しょう 又は しょうゆう:律令制の諸省の次官(=「すけ」)。大輔(たいふ)の次席。但し、勿論、ここでは江戸時代の名冠位である。)。父は八幡藩初代藩主金森頼時の嗣子であったが、37歳で早世、享保211736)年の祖父死去により嫡孫として家督を継いだ。延享4(1747)年に奏者番に任じられ、藩政にあっては目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなど、文化人としても優れていたが、『頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースのスタートであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため、宝暦4年(1754年)、年貢の税法を検見法に改めようとした』。検見(けみ)法とは実際にその年の作柄を調査し、収穫量を認定してから年貢額を決める方法を言う。豊凶にかかわらず一定の租率で年貢の徴収を行う定免法に対する語である。一見、こちらの方法の方が合理的でな農民には好都合に見えるが、実際には不作の際には年貢不足を補うための新たな別な負担を強いられ、豊作の際には米相場が安くなるために換算率が上昇、結局、農民にとっては増税となってしまう。そのため『これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発する。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白(いとしろ)騒動(次注参照)まで起こって藩内は大混乱し、この騒動は宝暦8年(1758年)1225日、頼錦が幕命によって改易され、盛岡藩の南部利雄に預けられるまで続いた』。これが本話柄に現われた「仔細」の真相である。その後、『嫡子出雲守頼元をはじめ男子5人は士籍を剥奪され、出雲守頼元、三男伊織頼方は改易、五男熊蔵、六男武九郎頼興、七男満吉は15歳まで縁者に預けられた。また、次男正辰は宝暦3年(1753年)に下妻藩井上家に養子に入っておりお咎めなしだった。六男の金森頼興は、明和3年(1766年)赦免され、天明8年(1788年)に1,500俵で名跡を継ぎ子孫は旗本として存続した』とある(ウィキの「金森頼錦」を参照・引用した)。

・「その家士の内何とかいへる者、主家斷絶の節死刑に仰付られける」これは感触に過ぎないが、金森御家断絶の際に死罪を申し付けられたとなると、改易の大きな主因の一つとなった石徹白(いとしろ)騒動に関わって死罪となった郡上藩の家士を見てみよう。以下、まず藩内の白山中居神社の神職の支配争いを端に発した一種の一揆である石徹白騒動について略述する(主にウィキの「石徹白騒動」と個人のHP「大名騒動録」の「宝暦郡上騒動」を参考にした)。神主上村豊前が自分の意に従わぬ神頭職(社領統治役)たる杉本家(当主杉本左近)及びその支持者や浄土真宗信徒など村民凡そ500名(当時の白川村村民の実に2/3)を宝暦5(1755)年11月の厳冬期に村外に追放、激しい吹雪の中、流浪の果てに54名が死亡した。これに際して上村豊前は郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門と結託して事を運んだであったが、杉本左近ら追放された村民は直訴状を携えて入府、宝暦6(1756)年8月に登城する老中酒井忠寄の行列に嘆願書をもって飛び込み駕籠訴を敢行、また、宝暦8(1758)年には目安箱に箱訴を4度も行った。幕府は郡上一揆の件もあり、流石に重い腰を上げざるを得なくなって、同年7月、老中酒井忠寄の命により、本格的な郡上藩詮議が開始された。その対象は老中・若年寄・三奉行など幕府役人・郡上藩主金森頼錦・藩役人・村民数百人に及んだ。裁可は10月に下された。まず幕府関係者としては、郡上藩郡代の不当な越権行為を黙認した罪や杉本左近が幕府に出した訴状を正式に受理せずに金森家に回送した特別背任行為等々により(以下のメンバーの殆んどが金森家と私的な懇意関係を持っていたらしい)、

老中本多伯耆守正珍     役儀取上げの上 逼塞

若年寄本多長門守忠央    領地召し上げの上 松平越後守へ永預け

勘定奉行大橋近江守     知行召し上げの上 陸奥中村相馬家へ永預け

大目付曲淵豊後守      役儀取上げの上 閉門

美濃郡代青木次郎九郎    役儀取上げの上 逼塞

郡上藩関係者では、

家老渡辺外記        遠島

家老粥川仁兵衛       遠島

江戸家老伊藤弥一郎     中追放

郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門 死罪

同人下僚 片重半助     死罪

同人下僚 黒崎佐市衛門   遠島

農民・社人では、直接の駕籠訴をした、

切立村 喜四郎       獄門(獄死)

前谷村 定治郎       獄門

東気良村 善右衛門     死罪(獄死)

同村 長助         死罪

那比村 藤吉        死罪

他に、箱訴を行った剣村の藤次郎ら6人も死罪となっている。勿論、

上村豊前          死罪

であったが、不思議なことに一揆側の中心人物であったはずの人物は、

杉本左近          三十日押込

で許されている。

以上から、本話の主人公は郡上藩寺社奉行根尾甚左衛門の部下であった片重半助なる人物が可能性として浮かんでくるように思われる。「主人家の事に付ての事なれば強て悔き事にもあらず。我におかせる罪とても恥しと思ふ事なし」という謂いから、主犯格の悪奉行根尾甚左衛門ではなく、その命を受けて特に大きな疑問を認識する立場になかった、忠実に事務をこなしていた下役の人物という推定からである。飽くまで、ただの想像であるが。

・「囚獄」小伝馬町牢屋敷長官のこと。牢屋奉行とも。獄舎管理・刑執行・囚人監視監督を担当した役人。

・「石出帶刀」上記小伝馬町牢屋敷長官の世襲名。以下、ウィキの「石出帯刀」から引用する(記号の一部を変更した)。『初代の石出帯刀は当初大御番を勤めていたが、徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来その職を勤めるようになった。石出左兵衛・勘介から町奉行に出された石出家の「由緒」によると、当初は本多図書常政と名乗っていた。後に在所名に因んで石出姓に改めたとされているが、現在の千葉市若葉区中野町千葉中の石出一族の出身。本来石出帯刀とは、一族の長の名である(「旧妙見寺文書」)。慶長18年9月3日(16131016日)没。法名は善慶院殿長応日久。台東区元浅草に現存する法慶山善慶寺の開基はこの初代帯刀である。石出姓は、千葉常胤のひ孫で下総国香取郡石出(千葉県東庄町石出)を領した石出次郎胤朝に由来する』。『「千葉縣海上郡誌」に三崎庄佐貫城々主・片岡常春の将として、石出帯刀五郎昌明の名が見られる。また、「天正十八年千葉家落城両総城々」という文書には『石出城 石出帯刀』という名の記録が残っている。なお、足立区千住掃部宿の開発者、石出掃部介家に伝わる「由緒」には、掃部介義胤の弟として、初代石出帯刀慶胤の名が記されているが、仔細は不明である』。『囚獄は町奉行の配下に属している。その職務内容は、牢屋敷役人である同心及び下男等の支配、牢屋敷と収監者の管理、各牢屋の見回りと収監者からの訴えの上聴、牢屋敷内における刑罰執行の立会い、赦免の立会い等となっていた』。『家禄は三百俵。格式は、譜代・役上下・御目見以下であるが旗本である。禄については、後述の石出吉深が隠居した際に隠居料として十人扶持が、師深の子・左兵衛が幼年であった当時の看抱役を務めた石出勘介に十人扶持が、また常救が幼年であった当時の看抱役を務めた守山金之丞と神谷弁之助に十人扶持が、常救の長年の精勤に対する報償として常救の一代に限って十人扶持が、明治維新まで見習役を務めた直胤に役料として十人扶持がそれぞれ下されている』以下、「著名な石出帯刀」と題し、『歴代の石出帯刀のうちで最も高名な人物が、石出吉深(よしふか 号を常軒。元和元年(1615年)~元禄2年(1689年))である。囚獄としては、明暦3年の大火(いわゆる振袖火事)に際して、収監者を火災から救うために独断で「切り放ち」(期間限定の囚人の解放)を行ったことが著名な業績である。吉深は収監者達に対し「大火から逃げおおせた暁には必ずここに戻ってくるように。さすれば死罪の者も含め、私の命に替えても必ずやその義理に報いて見せよう。もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、私自らが雲の果てまで追い詰めて、その者のみならず一族郎党全てを成敗する」と申し伝え、猛火が迫る中で死罪の者も含めて数百人余りの「切り放ち」を行った。収監者達は涙を流し手を合わせて吉深に感謝し、後日約束通り全員が牢屋敷に戻ってきたという。吉深は「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れである。このような者達をみすみす死罪とする事は長ずれば必ずや国の損失となる」と評価し、老中に死罪も含めた罪一等の減刑を嘆願、幕府も収監者全員の減刑を実際に実行する事となった』。『この処置はのちに幕閣の追認するところとなったうえ、以後江戸期を通じて『切り放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪(後に「減刑無し」に緩和された)』とする制度として慣例化されたのみならず、明治期に制定された旧監獄法を経て、現行の刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(刑事収容施設法)にまで引き継がれている』とあり、実際に『旧監獄法時代には関東大震災や大東亜戦争末期の空襲の折に、実際に刑務所の受刑者を「切り放ち」した記録が残されている』とある。『吉深は歌人・連歌師としても知られており、当時の江戸の四大連歌師の一人に挙げられている。歌集には「追善千句」「明暦二年常軒五百韻注」などがある。また著作の一つ「所歴日記」は、江戸時代初期の代表的紀行文の一つに数えられている。一方、国学者としても重要な事績を残しており、廣田坦斎や山鹿素行から伝授された忌部神道を、のちに垂加神道の創始者となる山崎闇斎に伝えている。また吉深が著した「源氏物語」の注釈書「窺原抄」について、北村季吟の「湖月抄」に匹敵すると評する国文学者もいるほどである。さらに、本邦のみならず中国の有職故実にも通じていたことも知られている』注としては大きく脱線したが、こんな凄い人もいたという興味深い話として引いておきたい。

・「我等の死刑をもまぬがれ間數者也」底本では右に『(尊經閣本「我等死刑まぬかれがたき者也」)』と注す。尊経閣本を採る。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妄りに人命を断った因業による応報の事

 

 宝暦八年のこと、美濃八幡藩藩主金森兵部少輔家は仔細あって断絶してしまった。

 その家士の内、何某なる者、主家断絶の際、死罪を仰せ付けられた。

 この者、死に臨んで、当時の小伝馬町囚獄石出帯刀殿に次のように語ったという。

「……拙者、この度、死罪に処せらるること、主人主家に関わることなれば強いて悔むこと、これ、御座らぬ。拙者が犯したとさるる『罪』なるものに就きても、恥ずかしと存ずること、これも、全く御座らぬ。

……然れども、この身、元来、死刑をも免れがたきものにて御座る。……

……ある年のこと、八幡へ帰らんとした、その道中、宿を同じうした山伏が、その所持する一振りの刀を、拙者に見せた。

『正宗じゃ!』

という。

 これが、また、如何にも美事な刀にて……拙者、一目で欲しうなって御座った。……有り金総ての高を有り体に申し、

『何卒、我に譲り給え!』

とひたすら懇望致いたが、

『この刀は、我が家に代々伝わるものにて、千金なれども手放さざる。』

とのこと。平身低頭、如何に所望すれど、承知せず……とりあえず、その場にては諦めた。……

……なれど……

――如何にしても、欲しい!――

という欲に駆られ……翌日、二人して宿を立ち出でて暫く行くうち……人気なき松原にて……あっと言う間もなく……あっけのう、この山伏を騙し殺し……その刀……奪い取り申した……

……この恨み……この罪ばかりにても……死刑に処せらるるに相応しき者なので、御座る……」

と処刑の間際、懺悔致いて御座った、と帯刀が語った、とのことで御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 水に清濁輕重ある事

 

 御膳奉行の咄しけるは、御膳水は羽二重(はぶたへ)にて數遍漉して、銀盤に入れて見しに兎角濁りの殘る物也と語りぬ。長崎へ行し岸本何某語りけるは、紅毛人持渡る水を見る目鏡(めがね)有しを以て見たる由。隨分清潔と思ふ水も右目鏡に移し見れば、中々食べられざる程に濁り有もの也とかたりぬ。明和五申年日光御社參の節、予も御用懸して御膳水の輕重等吟味せしに、御山内の御旅館の水流れ并に井戸二十ケ所ごとに輕重あり。壹升にて拾匁十五匁程違ひしも有りし。心得にもなるべきと爰に記し置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「御膳奉行」膳奉行。畏敬する現代語訳「耳袋」の本話の注に『将軍の食事に関する一切の役向を扱う。定員6人。三河出身の者が配された』とある。この注の後半部分は他の記載に見られない貴重な情報なので、良きライバルとして通常は意識して参照しないようにしているサイトであるが、今回は特に敬意を表して採用させて頂いた。

・「御膳水」将軍家が飲用したり、将軍家の料理に用いる水。

・「羽二重」縦糸・横糸に良質の撚りのない生糸を用いて平織りにした後練(あとね)りの絹織物。肌触りが良く、光沢(つや)がある。通常は礼服・羽織等に用いる高級生地。「後練り」とは生糸を織った後によく練ること。羽二重の他、縮緬などを言う。

・「紅毛人」狭義には、鎖国下、出島に居住が許されたオランダ人を指す。ポルトガル人・スペイン人は「南蛮人」と呼んで区別したようだが、後には広く西洋人の別称となった。

・「岸本何某」諸注注せず、不詳。

・「水を見る目鏡」顕微鏡。顕微鏡の歴史について、ウィキの「顕微鏡」より引用すると、『最初の顕微鏡は1590年、オランダのミデルブルフで眼鏡製造者サハリアス・ヤンセンと父のハンス・ヤンセンが作った』。『他に、同じ眼鏡製造者であるハンス・リッペルスハイ(望遠鏡を最初に作ったといわれる)が顕微鏡も最初に作ったとする説もある。ただし、彼らがこれを使って何か意味のある観察をしたという記録はない』。『ガリレオ・ガリレイは、この顕微鏡を改良し昆虫の複眼を描いている。"microscope" という名称は、ガリレオの友人だった Giovanni Faber 1625年に命名したという』。『最初に細胞の構造の詳細まで顕微鏡で観察しようとしたのはGiambattista Odierna で、1644年に L'ochio della mosca(ハエの眼)を著している』。『1660年代以前、イタリア、オランダ、イギリスでは顕微鏡は単なる珍しい器具でしかなかった。イタリアの Marcelo Malpighi は顕微鏡を使い、肺を手始めとして生物学的構造の分析を開始した。1665年、ロバート・フックが発刊した Micrographia(顕微鏡図譜)は、その印象的なイラストで大きな衝撃を与えた。光学顕微鏡に多大な進歩をもたらしたアントニ・ファン・レーウェンフックは、微生物(1674年)や精子(1677年)を発見した』。『彼は生涯を顕微鏡の改良に費やし、最終的には約300倍の倍率の顕微鏡を作っている』とある。本話柄は次注の通り、1776年から「卷之二」の下限である天明6(1786)年までと考えられるから、この時で既に顕微鏡の発明から――私は、小学生の時に読んでうきうきした大好きな、ポール・ド・クライフ「微生物の狩人」によって刷り込まれた印象から、レーウェンフックの1674年辺りを本格的な顕微鏡の始まりと捉えている――100年も経過している。生物顕微鏡専門店大野顕微鏡の「光学顕微鏡の歴史年表」等によれば、

元禄131700)年

「顕微鏡」の文字が屈大均(16301696:清朝中期の文人。)の書いた広東の地誌「広東新語」に出現する。

享保5(1720)年

未確認情報乍ら、長崎に於いて国産顕微鏡用レンズが製作された可能性あり。

明和2(1765)年頃

日本に顕微鏡伝来。明和2(1765)年刊の後藤光生(梨春 元禄9(1696)年~明和8(1771)年:本草学者。)の書いた蘭学書「紅毛談」(おらんだばなし)に「虫眼鏡」が記載される。

1780年(安永7年)

ヨーロッパでミクロトームが考案される。

天明7(1787)年

森島中良(宝暦4(1754)年~文化7(1810)年:幕府奥医師桂川甫周実弟。医師・戯作者・狂歌師。)「紅毛雑話」に顕微鏡で見たものの図が載る(リンク先は国立国会図書館の当該画像)。

正にこの根岸の「耳嚢」の顕微鏡記載は日本顕微鏡史の曙とぴったりと一致するのであった! そうして本文を見ると「右目鏡に移し見れば」は「写し」でも「映し」でもないぞ! スライドグラス(若しくは実体顕微鏡のステージ)の上に「移し」て見鏡してみると、の意味じゃないか! 何だか、こういう一致、凄く凄く、嬉しくなってくる!

・「明和五申年」は西暦1768年であるがこの年の干支は「戊子」(つちのえね)である。岩波版長谷川氏注によれば、これは次の「日光御社參」の事実から、安永5(1776)年丙申(ひのえさる)の年の誤りとする。これを採用、現代語訳でも正しい年号に訂正した。

・「日光御社參」岩波版長谷川氏注に、十代将軍家治が安永5(1776)年4月に日光東照宮に参詣した事実を言う。実は将軍家の日光社参は、莫大な費用が掛かり、特に江戸後期に実現した例は少ない。この時の社参は特に有名で、道中行列・周辺警護に諸大名が総動員された(これは幕藩体制の引締をも目的としていた)。行列の先頭が日光に着いた時、最後尾は未だ江戸にあったという伝説を持つ社参である。

・「御用懸」御膳水管理の御用を仰せつかったということ、当時、根岸は42歳で、勘定組頭(若しくは同年に昇進した勘定吟味役)であった。

・「御旅館」行在所のこと。

・「拾匁十五匁」1匁=3.75グラムであるから、38g弱から56g強。化学の教師に質問してみたところ、カルシウムが多く溶け込んでいるような硬水であれば、軟水と比較した際にその程度の重量差は発現し得るとのお答えであった。これは是非とも、現在の日光山の各所の水を採取し、計測してみる以外に若くはなし!

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 水にも清濁と軽重がある事

 

 御膳奉行の話によれば、

「将軍家御用の御膳水は、羽二重で繰り返し濾して作り申し上げるものであるが、銀盤に注ぎいれて光を通しながら観察すると、それでもともすると微かな濁りが見えるものにて御座る。」

ということであった。

 また、長崎へ行ったことがある岸本某の語った話の中に、

「オランダ人が本邦に持ち込んだところの『水を見る目鏡』なるもの、これあり、それを使用してみたことが御座った。」

由、その話の中で岸本は、

「随分、これは清潔であると思われる水も、この『水を見る目鏡』の下に移して覗いてみると、なかなか口に入れるには……ためらわるるほどに濁りがあるもので御座る。」

と語った。

 そういえば、安永五年の申年、将軍家日光御社参の際、私も御膳水係御用を仰せつけられ、御膳水の軽重などまで吟味致いたことが御座ったが、日光山御山内行在所に流れ込んで御座る清水並びに山内井戸二十箇所それぞれで採取する水の重量が、はっきりと異なって御座った。なんと、一升で十匁から十五匁程も違うことがあった。何かの参考にもなろうかと思い、ここに記し置くものである。

 

 

*   *   *

 

 

 奇病の事

 

 安藤霜臺語られけるは、同人壯年の此、或日風(ふ)と召使ふ者の面(おもて)を見しに、何れも人間ならず、ゑならぬ面に見へける故、勝手へ入りて家内の面を見しに是も又同じく彳々(つらつら)考ふるに我は是亂心やしたらん、心を靜め臥所(ふしど)に入て彌々(いよいよ)心を靜め臥しけるに、耳の内いたむ事甚し。醫師抔も集りて其樣を見て、誠に痰火(たんか)の烈敷(はげしき)なるべしとて服藥拜しけるに、左の耳より夥敷(おびただしき)黑き媒(すす)の堅(かたま)り候ともいふべきもの出ぬ。又夜に入て右の耳を下になし臥しけるに、是又同じく出ぬ。夫より程なく快氣しけるが、夫迄は五色の色も見る所違ひし也。右病氣以後始て五色を見る事外の人と同じかりけると也。

 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。これは都市伝説ではない。安藤霜台自身の実録による奇病の症例記載である。

・「安藤霜臺」(正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)安藤郷右衛門(ごうえもん)惟要(これとし)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。もう御馴染みの「耳嚢」の重要な情報源の一人。

・「痰火」通常は、熱があって痰が激しく出る病気であるが、この安藤の症状は、所謂、気管支炎を伴う感冒等とは様態が明らかに異なる。一部の漢方記載は「痰火擾心」(たんかじょうしん)と記し、「火」(熱痰)が「心」を脅かす病であるとし、またある記載では「肝鬱化火」(自律神経系の過亢進)によって「熱痰」が生じ、それによって「心」に結滞を生じたり、「熱邪侵襲」(炎症)から津液(人体内水分の総称)が濃縮されて「熱痰」が生じ、「心」を閉塞させることによって生じる症状を「痰火」と言うともある(「肝鬱化火」は一般的状況下でも発生するのに対して、「熱邪侵襲」は発熱性疾患の活発期に発生、激しい炎症症状を伴うともある)。症状としては、発熱以外に、夢を見ることが多い・口が渇く・顔面紅潮・呼吸が荒い・便秘・尿の色が濃くて言葉に錯誤が認められる・狂躁状態等が挙げられる。西洋医学では脳炎・高血圧性脳症・脳血管障害・脳膜炎・熱性痙攣・統合失調症・癲癇等に相当するとある。安宮牛黄丸・牛黄清心丸等を適応薬剤とする(主に「ハル薬局」の「痰火擾心(脳炎など) 弁証論治 中医学基礎理論」を参考にした)。安藤の症例を分析してみよう。

○発症年齢:壮年期。2540代前半。「卷之二」の下限の天明6(1786)年時点で安藤は72歳。

○予兆:これ以前には生まれつき、色が他人の見る色と異なった色に見えるという色覚上の異常が認められたが、この病気が完治後に正常な色覚になったとする。以下に記す顕著な諸症状は、即ち、突発性のものである。

○症状1:他人の顔が「人間でないもの」に見えるようになった。その際、他人が妖怪変化の化身なのだといいった民俗的解釈をせずに、自分は精神に異常をきたしているのではないか、という冷静な病識があった。

○症状2:その後、安静にし、横臥したが、突発的な耳痛が始まった。その痛みは耳の内部の激しい痛みであった。

○処置・経過・予後:医師の見立ては「痰火」で薬を服用したところ、左耳から多量の黒色の煤(スス)状物質の塊が漏出した。右の耳を下にして横臥していたところ、暫くして、同様の量と性状の異物が右耳からも漏出した。それより、数日で全快した。

以上から私はこの奇病について、主訴の主因は急性中耳炎であったのではないかと思う。以下にその理由を示す。

●安藤にはこの病気とは無関係な色覚異常があったが、それは一般に知られ色盲や色弱といった遺伝性の色覚異常ではなく、何らかの先天性の脳の器質障害、大脳性病変によって生じていたものであった。ところが、本症の恐らく高熱症状によって、その脳の器質的障害が不幸中の幸として除去され、色覚が正常になったと推測されること。

●症状1は、一見、重度の統合失調症等の精神病による妄想幻覚等を疑わせるが、同時に正常な病識を持っている点や、関連が極めて高いと推定される症状2の耳痛や耳からの正体不明の物質の漏出等の、深く器質的変異性を疑わせる点から、統合失調症・癲癇は排除されると思われる。

●症状2は重度の急性中耳炎を深く疑わせるものである。鼓膜穿孔により溶血性連鎖球菌や肺炎球菌等が侵入して激しい炎症を起こし、浸出液が充満、耳漏(耳垂れ)を起こしたものと推測出来る。

●問題は症状1に見られる幻覚作用であるが、これは急性中耳炎による高熱が、脳を一時的に刺激して生じさせた熱譫妄と私は診断する。

耳鼻咽喉科・脳神経外科・精神科の医師の方の御助言を乞うものである。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇病の事

 

 安藤霜台殿から、御自身の体験談として直接お聞きした話である。

 彼が壮年の頃のことである。

 ある日の昼、屋敷に御座った折り、ふと召し使っている者どもの顔を見たところが、誰もが人間の顔には見えず、何とも形容し難い異様な顔に見えたため、厨(くりや)に入って妻の顔を見てみた。ところが、これもまた、同じように人とは思えぬ面体であった。そこで彼は、

『……つらつら考うるに……我は、これ……気が違ってしもうたのではないか!?……』

と思うたそうで御座る。

 とりあえず心を静めて、寝所に入(い)り、ともかくも気を落ち着かせるが一番と横になって御座った。

 すると、程なく耳の中が激しく痛み始めた。

 複数の医師などが急遽呼び出され、その病態を診察致いたところ、

「これは正しく激しい痰火擾心に違いなし。」

との見立てで御座った。

 急ぎ処方された特効薬を服用致いたところ、左の耳より夥しい黒い煤(すす)のようなものが固まったものが流れ出した。また、夜に入(はい)ってからは、右耳を下にして寝ていたところ、同じようなものが出た。

 それから、程なくして快気致いた。

「……それまで拙者、実は、五色の色も人に見えるのとは違って見えて御座ったのが、この奇体な病気が治って以後、……初めて他の人と同じように色を認識することが出来るようになって御座ったのじゃ。」

とのことで御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 忠死歸するが如き事

 

 淺野家の家士大石内藏助、報讐の後御預けと成て、今日切腹被仰付といへる日は、其御預りの大名より古實の通り食事饗應あり。切腹の席よろしきとて案内ありければ、常に茶の給仕せし小坊主茶を持來りしに、常の通(とほり)茶をのみて、扨今日切腹いたし候、いたづらし候と幽靈と申すものに成て出候間、おとなしくなし給へと打笑ひて、席へ出て切腹せしが、誠に平日の通り聊替る事なかりしと、彼諸侯の老臣語りしとなり。左も可有と爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸のみならず江戸っ子の敬愛した忠臣大石内蔵助のエピソードの一つ。

・「淺野家」播磨赤穂藩藩主主家。御存知、藩主第3代藩主浅野長矩(あさの ながのり 寛文7(1667)年~元禄141701)年421日)の起こした元禄赤穂事件により改易となった。

・「大石内藏助」大石良雄。御存知「忠臣蔵」播磨国赤穂藩筆頭家老大石内蔵助良雄(よしお 又は よしたか 万治2(1659)年~元禄161703)年)。討入後、『内蔵助は、吉田忠左衛門・富森助右衛門正因の二名を大目付仙石伯耆守久尚の邸宅へ送り、口上書を提出して幕府の裁定に委ねた。午後6時頃、幕府から徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の三人が泉岳寺へ派遣されてきた。内蔵助らは彼らの指示に従って仙石の屋敷へ移動した。幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、内蔵助は肥後熊本藩主細川越中守綱利の屋敷に預けられた。長男主税は松平定直の屋敷に預けられたため、この時が息子との今生の別れとな』った。『仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした荻生徂徠などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた』。『元禄16年(1703年)24日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主吉良義周(吉良左兵衛、吉良上野介の養子)の領地没収と信州配流の処分を決めた。細川邸に派遣された使者は、内蔵助と面識がある幕府目付荒木十左衛門であった。内蔵助は細川家家臣安場一平久幸の介錯で切腹した。享年45。亡骸は主君浅野内匠頭と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は忠誠院刃空浄剣居士』。辞世の句は一般には次のものが知られるが、一部文献には2番目のものが記されている。

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

『しかしながら上記は浅野内匠頭の墓に対してのもので、実際には次が辞世の句とも言われている。

極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人』(以上、引用はウィキの「大石良雄」より引用した)。

・「御預け」内蔵助がお預けとなったのは肥後熊本藩主細川越中守綱利の屋敷であった。細川綱利(寛永201643)年~正徳41714)年)外様大名で第3代肥後国熊本藩主であった。『元禄15年(1702年)1215日早朝、吉良上野介を討ちとって吉良邸を出た赤穂46士(注:47人目の寺坂吉右衛門は討ち入り後に隊から外れた)は、大目付仙石久尚に自首しにいった吉田忠左衛門・富森助右衛門の二名と別れて、ほかは主君浅野内匠頭の眠る高輪泉岳寺へ向かった。仙石は吉田と富森の話を聞いてすぐに登城し幕閣に報告。幕府で対応が協議された』が、『細川綱利は、この日、例日のために江戸城に登城していた。この際に老中稲葉正通より大石内蔵助はじめ赤穂浪士17人のお預かりを命じられた。さっそく綱利は家臣の藤崎作右衛門を伝令として細川家上屋敷へ戻らせた。この伝令を受けた細川家家老三宅藤兵衛は、はじめ泉岳寺で受け取りと思い込み、泉岳寺に近い白金の中屋敷に家臣たちを移し、受け取りの準備をはじめた。しかしその後、46士は大目付仙石久尚の屋敷にいるという報告が入ったので急遽仙石邸に向かった。三宅率いる受け取りの軍勢の総数は847人。彼等は、午後10時過ぎ頃に仙石邸に到着し、17人の浪士を1人ずつ身体検査してから駕籠に乗せて午前2時過ぎ頃に細川家の白金下屋敷に到着した。浪士達の中にけが人がおり傷にさわらないようゆっくり輸送したため時間がかかったと「堀内伝右衛門覚書」にある(山吉新八郎に斬られた近松勘六のことであろう)』。『この間、細川綱利は義士たちを一目みたいと到着を待ちわびて寝ずに待っていた。17士の到着後、すぐに綱利自らが出てきて大石内蔵助と対面。さらに綱利はすぐに義士達に二汁五菜の料理、菓子、茶などを出すように命じる。預かり人の部屋とは思えぬ庭に面した部屋を義士達に与え、風呂は1人1人湯を入れ替え、後日には老中の許可をえて酒やたばこも振舞った。さらに毎日の料理もすべてが御馳走であり、大石らから贅沢すぎるので、普通の食事にしてほしいと嘆願されたほどであった。綱利は義士達にすっかり感銘しており、幕府に助命を嘆願し、またもしも助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召抱えたい旨の希望まで出している。また1218日と1224日の二度にわたって自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が叶うようにと綱利はお預かりの間は精進料理しかとらなかったという凄まじい義士への熱狂ぶりであった。しかし綱利の願いもむなしく、年改まって元禄16年(1703年)2月、赤穂浪士たちを切腹させるようにという幕府の命令書が届く』。『この切腹に当たっても綱利は「軽き者の介錯では義士達に対して無礼である」として大石内蔵助は重臣の安場一平に介錯をさせ、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。義士達は切腹後、泉岳寺に埋葬された。細川綱利は金30両の葬儀料と金50両のお布施を泉岳寺に送っている。幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も「彼らは細川家の守り神である」として断り、家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて客人が見えた際には屋敷の名所として紹介したともいわれている』。『このような細川家の義士たちに対する厚遇は江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と狂歌からも窺われる。これは細川家と水野家が義士を厚遇したことを称賛し、毛利家と松平家が待遇が良くなかったことを批判したものである。もっとも毛利家や松平家も江戸の庶民の評価に閉口したのか細川家にならって義士たちの待遇を改めたとも伝えられる』。『明治に入ってからも細川邸跡は、大石良雄外十六人忠烈の跡としてそのまま保存され、現在は港区と泉岳寺と中央義士会が共同で管理している』(以上、引用はウィキの「細川綱利」より)。

・「今日切腹被仰付といへる日」浪士の切腹の命令は元禄16年2月4日(グレゴリオ暦では3月20日)、即日、四大名家に於いて執行された。「卷之二」の下限の天明6(1786)年時点で既に83年も前の出来事であった。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 忠義切腹の死なるも何事もなく普通に何処ぞへ帰って行くが如き鮮やかなる死なる事

 

 浅野家の家士大石内蔵助、仇討本懐を遂げた後、肥後熊本藩主細川越中守綱利殿御屋敷へ御預けとなった。

 そうして、今日、切腹が仰せつけらるるという日は、お預かりの大名細川綱利殿より故実に則り、食事饗応が御座った。

 切腹の席、準備万端調うて御座るとの案内(あない)があったので、常より日頃茶の給仕致いて御座った小坊主が持ち来たった茶を、何時も通り、如何にも旨そうに飲んで、

「さても今日、切腹致すことと相成った。悪戯(いたずら)心にて、一つ、幽霊とか申すものと相成って出でてみようと存ずればこそ、どうぞ、大人しくお待ちあれ。」

とうち笑うて切腹の席へ出でて美事、腹を切った――その様子、まことに平時の通りにて、聊かも変わったこともなく御座ったと、かの御大名家老臣の語って御座った、ということで御座る。

 かの忠臣の御仁、さもあらんことと、ここに記しおく。

 

 

*   *   *

 

 

 公家衆狂歌の事

 

 當世專ら狂歌を翫(もてあそ)びけるに付、堂上(たうしやう)の狂歌の格別又面白きと思ひし事有。近き頃京都にて鍼治(しんち)を業として其功いちじるきものありしに、小川何某といへる町家にて、其妻の煩しきを右針醫の手際にて快氣いたしければ、厚く禮謝なしけるが、折ふし見事成鯉の二口有しを、彼醫師のもとへ送りけるに、絶て珍ら敷(しき)鯉なれば、心なく料理せんも本意(ほい)なしとて、兼て出入せし堂上の薗池(そのいけ)殿へ奉りけるに、薗池殿にても美事成鯉なれば、兼て出入して勝手取り賄ひなどしける小川へ賜りけるに、後に小川并鍼醫の、薗池殿へ落合ひて、かう/\の事也と笑興ぜしに、薗池殿一首の狂歌して兩人へ給りけると也。

  針先にかゝれる魚をその池へ放せばもとの小川へぞ行く

實に世の中にて多き事にて、おもしろき狂歌なれは爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:内蔵助の最期のユーモアから狂歌へ軽く連関。先行する「狂歌にて咎をまぬがれし事」等の狂歌・狂歌師絡みのシリーズ。

・「狂歌」「狂歌にて咎をまぬがれし事」の「狂歌」の注を参照されたい。

・「堂上」狭義は三位以上及び四位・五位の内、昇殿を許された殿上人を言うが、ここは広義の公家衆の意。

・「薗池殿」園池家。藤原北家四条流の流れを汲む公家。「耳嚢」執筆当時の園池家ならば第5代当主園池房季(そのいけふさすえ 正徳31713)年~寛政71795)年)である。権大納言正二位。「近き頃」とあるので参考までにその前代第4代当主は房季の父園池実守(貞享元(1684)年~享保121727)年)で、左近衛権中将正三位である。恐らく房季であろう(岩波版長谷川氏も房季で同定)。

・「針先にかゝれる魚をその池へ放せばもとの小川へぞ行く」釣「針」に鍼医の「鍼」を、「池」に自身の姓である園「池」を、「小川」に当該町屋の姓「小川」を掛詞とした狂歌。訳は不要な程、分かり易い。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 公家衆の狂歌の事

 

 当世では専ら狂歌が流行して御座るが、堂上(とうしょう)の方々の狂歌には、これまた格別に面白いと思わせるものが御座る。

 近き頃のこと、京都にて鍼治療を生業(なりわい)と致いて、その上手、著しきこと、世間にても評判の名医が御座った。

 さて小川何某と申す町家にて、その妻が病を煩って御座ったが、この鍼医の、美事なる神技の手際にて快気致いた。

 小川某は厚く謝礼致いたが、丁度その折りに、美事な鯉を二口飼うて御座ったれば、

「どうぞお口汚しに。」

と、その鍼医の元へ御礼の一つとして贈って御座った。

 受け取った鍼医、桶の内にて悠々と泳ぐ美事なる鯉を見る内、

「……か程に珍しき鯉、見たこと、あらしまへん。……こないに立派な鯉、ええ加減に料理してしもうたら、勿体のうおす……」

と、かねて彼が出入りして御座った堂上の御公家薗池様に奉って御座った。

 さても薗池家にても、

「これはまた、見事な鯉! 食すなんど、無粋のこと……」

と兼ねて厨御用で出入りして、御勝手方取り賄い御用達で御座った商人の小川家に賜って御座った――。

 後日(ごにち)のこと、町家の小川某と針医、この薗池様の御屋敷に落ち逢(お)う機会が御座ったが、その折になって、初めて、

「そういう訳にて、おじゃったか!」

と皆して笑い興じたところが、薗池殿、その場にて一首の狂歌を詠じ、この二人に賜ったとのことでおじゃる――

  針先にかゝれる魚をその池へ放せばもとの小川へぞ行く

 斯くなる偶然、実に世の中にては多きこと乍ら、面白き狂歌なれば、ここに記しおくものでおじゃる。

 

 

*   *   *

 

 

 畜類仇をなせし事

 

 豐田何某かたりけるは、或年御用に付大坂へ登りけるに、箱根にて駕(かご)を持し人足、右の手の指みな一ツになりて哀成有樣なれば、休みの折から如何なせしと尋ねければ、其身は笑ひ居しが傍成者語りけるは、彼者の親は百姓にて有しが、彼未だ生れて間もなき時、親成者畑へ出て狐の子を捕へて打殺し穴などふさぎ歸りしが、其夜小兒わつと一聲さけびしに起上りみれば、圍爐裏(いろり)の中に投入しが、仕合(しあはせ)に惣身(そうみ)を火の中へ入れざる故、早速に療治して命はたすかりけるが、あの如く片輪となりしと語りし由咄しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:鯉から狐で生類絡みで軽く連関。

・「豐田何某」岩波版長谷川氏注は豊田友政に同定している。それによれば徒目付・材木石奉行などを勤めたが、彼が大阪に御用で出向いたという事実については未詳とする。

・「指みな一ツになりて」「手棒」(てんぼう:これは「手棒梨」を語源とするらしい。「手棒梨」は玄圃梨(けんぽなし)のことで、双子葉植物綱クロウメモドキ目クロウメモドキ科ケンポナシ属 Hovenia dulcis。その独特の実に由来。) と侮蔑された少年期の野口英世のケースと同じである。現在の治療法では癒合してしまった部分を剥離し、曲った指を伸ばし、皮膚の欠損している箇所に自身の腹部辺りから皮膚を採って移植を行うようである。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 畜類が仇を討った事

 

 知人豊田某が語ったことで御座る。

 ……ある年、御用に付、大阪へ上(のぼ)ったことが御座ったが、その途次、箱根の山越えで拙者の駕籠を担いでおった人足、右の手の指が悉く癒着してつるんとした拳固の一塊りになって、如何にも哀れな有様で御座ったれば、一休み致いた折りから、

「……お主、その手、如何致いたのか?」

と尋ねたところ、男は笑うてばかりいて一切答えずにおったのじゃが、傍におった駕籠の共担ぎの人足が代わって答えて言うことには、

「この者の親は百姓でごぜやしたが、こやつが生まれて、未だ間もねえ或る日のこと、親なる者が畑へ出たところが、逃げ損なった狐の子がおったを、捕まえて打ち殺し、巣にぶち込んで、穴の入り口をすっかり塞(ふせ)えで帰(けえ)りやした。――と――その晩のこと、皆、寝静まった頃、赤子が――ワァー!――と一声叫んだに吃驚りして、親が起きて見ると――どうやって母御前(ははごぜ)のそばから転がり出たもんか――囲炉裏の中に投げ入れたかの如、赤ん坊が落ちてごぜえやした。不幸中の幸い、全身を火の中に入れてはおらなんだで、早急(さっきゅう)に手当致いて命は取りとめましたが――あのような不具となったんでごぜえやす――。」

と語ったとの由、豊田某より聴いて御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 非情の者恩を報ずる事

 

 駿河臺に梅やしきとて、殊の外梅の鉢植多く愛し翫(もてあそ)ぶ山中平吉と言る人有。其(その)石臺(せきだい)抔のやういと大造成(たいさうなる)事也しが、或年平吉以の外大病にて久く引込けるが、次第に重き心持にて惱煩しに、或夜の夢に壹人の童子來りて、我等毎年厚恩の養ひを受しもの也、しかるに此度御身の病は誠に定業(じやうごふ)にて死を待に近しといへども、我數年の厚恩を思ひて御身の天年に代るべし、去ながら今用ひ給ふ醫師の藥にては宜しからず、同役勤ぬる篠山吉之助方へ賴て醫師を招き、服藥し給はゞ癒ゆべしとかたりて夢覺ぬ。不思議の事には思ひしかども、誠に夢うつゝなれば取用る事なけれど、是迄の醫師の藥もしかとなければ、親しき事ゆヘ吉之助へ賴み醫者の相談もせんと手紙認ける處に、表に案内ありて吉之助來る由通じければ、大きに驚き早速に臥所(ふしど)に招き、今使して申さんと思ひし由申ければ、吉之助も御身の病氣久々の事故我等も相談の爲に來ぬ、其譯は夜前(やぜん)夢に誰(たれ)ともなく御身の病を訪ひて藥用の相談いたし候やうと思ひて、驚きぬる故尋訪(たづねと)ひしと語りければ、平吉も彌(いよいよ)驚きてしかじかの夢を夜前見し譯かたりけるにぞ、兼て篠山へ出入醫師を差越療治願けるに、段々快(こころよく)て本服なしけるに、不思議なる哉、平吉追々快(こころよき)に隨ひ、數多(あまた)ある梅の内にもわけて寵愛せし鉢植の梅、段々樣子を損じ終に枯朽(かれくち)にけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:畜生の狐の人への復讐から非情の梅の人への報恩で逆直連関。

・「非情」仏教では山川草木土石は人間のような感情を持たないとする。

・「駿河臺」現在の東京都千代田区御茶ノ水駅南方一帯。本来は北方の本郷辺りから伸びた台地の南端に当たっていたが、江戸開府後の神田川開削によって分離されて高台となった。

・「山中平吉」山中鐘俊(かねとし 享保6(1721)年~寛政7(1795)年)山中保俊の男。元文2(1737)年遺跡を継ぎ、延享2(1745)年西丸御書院番、同3年中奥番士に転じ、明和3(1766)小十人頭。安永5(1776)年には徳川家治に従って日光山詣、西丸御先弓頭となり、寛政7(1795)年7月に老齢を理由に辞す。

・「石臺」石盆。箱庭。植木鉢の一種。木や素焼で作った長方形の浅い箱状・盆状のもので、石を配し、草花を植えて山水の景を作ったり(盆景)、盆栽を植えたりする。

・「定業」前世から、現世で受けることが定まっている善悪の果報。またはその果報を受ける時期が決定(けつじょう)している業。

・「篠山吉之助」篠山光官(こうかん/みつのり 享保元(1716)年~寛政2(1790)年)幕臣。第十代将軍徳川家治に近侍、明和6(1769)年に御徒頭、安永2(1773)年に西丸目付、、安永4(1775)年に西丸御先弓頭、天明7(1787)年に新番頭を歴任した。山鹿流兵法・一刀流剣法・渋川流柔術・大島流槍術等、武術全般に通じたが、特に槍術では八百人を超える門弟を擁したという。「同役」とあるので西丸御先弓頭時代の話であろうから、本話柄は山中平吉鐘俊が御先弓頭に就任した安永5(1776)年以降、「卷之二」の下限である天明6(1786)年迄の十年以内(この「耳嚢」執筆下限時には篠山は御先弓頭)に絞ることが出来る。さればこそ冒頭「山中平吉と言る人有」という現在時制がよく生きてくると言えよう。

・「御身の病を訪ひて藥用の相談いたし候やうと思ひて」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『御身の病を訪ひて薬用の相談申(もうし)候様申(もうす)と思ひて』とある。これを採る。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 本来非情と思って御座った者が恩を報いた事

 

 駿河台に「梅屋敷」と言うて、陸続と並ぶ梅の鉢植えを、殊の外賞玩して止まぬ山中平吉と言う人がある。

 彼の用いている石台そのものが、並外れて大きく且つ豪華なもので御座った。

 ある年のこと、平吉以ての外の大病に罹り、久しく屋敷内に引込んで御座ったが、病、次第に重くなりゆく気配にて、平吉、すっかり塞ぎ込んで御座った。

 そんなある夜の夢で御座った。

――一人の見目麗しい童子が夢中に来たって言う、

「……我ら、永い間貴方様の厚い御恩を受けて養はれて参った者にて御座います。……然るに、お見受け致すに……この度の貴方様の御病いは誠に定業(じょうごう)の成す業(わざ)にて御座いますれば……実に、死を待つに近い、と言わざるを得ませぬ。……我、数年の御厚恩を思い……貴方様の天命に代わらんと思いまする。……然り乍ら、今、懸かっておられる御医者の薬にては、この病い、宜しく御座らぬ。……貴方様と同役を勤めておられまする篠山吉之助様方へ賴んで医師をお招きになられ、その医師の調合する薬を服薬なさったならば癒ゆるはずに御座います……」

と語ったかと思うと、夢から醒めた。

 不思議な事もあるものじゃと思ったけれども――いや、本来、夢現(うつつ)のことなれば殊更に気にするまでもなきことなれど――これまでの医師の処方も一向に効く気配もなければとて、ともかくも親しい間柄故、まずは吉之助へ医者の相談なりと致そうと手紙を認(したた)めて御座ったところが、屋敷表から家来の者の伝令これあり。それが何と、かの吉之助本人が来訪致いたる由にての伝言なれば、大いに驚き、早速に臥所に招き入れ、今使者をして消息申し御来駕賜わらんと思うておったところの由申したところが、吉之助も、

「御身の病い、引き込んでからかなり経つこと故、我らも養生の相談の役に立てばと思うての……いや、その訳はと言えばじゃ……昨夜の夢に、誰(たれ)とも分からぬ者の現われ、『……御身の病を訪いて薬用の御相談方なされまするように……』と申したかと思うたところで……ふっと目覚めた……さればこそ尋ね訪うたというわけじゃ……。」

と語ったので、平吉もいよいよ驚き、実は、我もしかじかの夢を昨夜見て御座ったればこそ、と語り合わす。

 早速に、かねてより篠山宅へ出入するさる医師をさし寄越させ、療治を願ったところが、徐々に心地よくなり、遂に本服致いた……。

……ところが……

……如何にも、不思議なことじゃ!……

……平吉が……だんだんに心地よくなるに随って……數多御座った梅の内にも……殊の外寵愛致いて御座った鉢植えの梅が……だんだんに容姿を損ない……遂には枯れ朽ちてしもうたということじゃ……。

 

 

*   *   *

 

 

 思はず幸を得し人の事

 

 予が知れる人に甚(はなはだ)福饒(ふくぜう)の男有り。名は障りあれば爰に記さず。祿も小祿にてありしが、彼人の屋敷のはしを撿挍(けんげう)に貸し置けるが、彼撿挍は金錢に富て、武家町家在方へ夥敷(おびただしき)高利を以貸出しけるに、老後重病を請(うけ)て惱みけるが、最早此代(よ)の便(びん)なしと思ひしにや、地主の男を呼て、扨も我等此度命有(あら)んとも思はず、然るに我等事一族知音(ちいん)もなく、妻子とてもなし、見屆(みとどけ)たる弟子もなければ、是迄貯へし金銀讓るぺき人なし、御身多年の馴染故不殘奉るべき間、跡ねんごろに吊(とむら)ひ給はるべしといひて、證文有金不殘讓りて無程身まかりぬ。夫より彼男一類分にして、右盲人を念頃に吊ひ、扨右證文をも夫々にはたりて金子受取りし故、富饒(ふぜう)ありし由也。其人位ある人にてもなかりしが、おかしき幸德(かうとく)也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:

・「撿挍」検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには73の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて719両が必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある(文中の「勾当」(こうとう)とはやはり盲官の一つで検校・別当の下位、座頭の上位を言う)。本件に登場する検校は正にこの最後のグループに属する高利貸の検校である。

・「福饒」終り近くの「富饒」と合わせて、それぞれ好運に富んだこと、後者は実際に裕福なことを言う。「饒」の読みは「にょう」とも読み、岩波版では後半の「富饒」を「ぶにょう」と訓じている。

・「吊(とむら)ひて」「吊」には「弔」の俗字としての用法がある。

・「一類分」家系の一族に準ずる扱い。親類扱い。

・「はたりて」「はたる」は「徴る」と書き、年貢や夫役を取り立てる、催促する、責めるの意。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 思わぬ幸運を得た人の事

 

 私の知人に甚だ運がいい男がいる――名は差し障りがあるのでここには記さない――この男、禄も小禄で御座ったが、自身の大きくもない屋敷の隅を、とある検校に貸しておった。

 この検校、実は多額の金銭を貯えており、武家と言わず町家と言わず農家と言わず、何処へなりと、とんでもない高利でもって貸しておったが、老いて後、重い病いに悩んで御座った。

 ある日――「最早、この世のつてもなし」とでも思うたか――この検校、地主の男を呼び、

「……さても我ら、この命そう長いものとは思わぬ。……なれど、我らこと、一族知音もなく、妻子とてもない。見届けて呉るる弟子も御座らねば……これまで貯えた数多の金銀、これ、譲るべき人も、ない。……御身は永年の馴染みにて御座れば、残らず差奉らんと思う故に……跡を懇ろにお弔らい下されよ……」

と言うや、証文から有り金から残らず出して譲り渡すと――程無く、死んだ。

 それより、男、約束通り親族の扱いで、この検校を懇ろに弔い、さても譲られた証文類も、一つ残らず正当に催促・取り立て怠らずして額面金子悉く請け取った故、勢い猛の者――大金持ちとなった。

 ――失礼乍ら、この人物、たいして人徳ある人にても御座らぬ。……いや、全く以って奇体なる幸運ではある……。

 

 

*   *   *

 

 

 奸智永續にあらざる事

 

 享保元文の比(ころ)、代官を勤し小宮山杢之進(もくのしん)といへるは、學才もあり智惠も多き男也しが、其職分に不束有て御役は被召放て小普請に入りしが、長壽にて予が中年迄存命にて、儒書の講釋などしたりしが、たくましき男にてありし。彼者小普請に入て後、出入町人と咄ける折から、彼下人申けるは、扨々町人も金子用立て返濟なき方へ、幾度も手段もかへはたりせたげども事不行、是に難儀なる事也といひて、古手形四五枚も見せければ、杢之進聞て、其古手形我に賣申間敷哉(うりまうすまじきや)と申ければ、賣迄もなし可差上と言しを、可貰請謂(いはれ)なしとて、禮式として金子五百疋差出し、かく/\の書付せよと印書を受取ければ、かの町人は大きに悦び、捨し金の古紙酒代になりしとて帰りぬ。其後彼謹文名前はさる諸侯也ける故、杢之進儀召連の家來もさはやかに出立て彼諸侯の元へ至り、役人を呼出し申けるは、我等事御代官相勤、御勘定も不相立故御咎を蒙り退役いたしたり。然るに我等は委敷(くはしく)不存候へ共、召仕候者抔の取計にて、公儀の御年貢金を出入町人へ預、町人返濟不致故、彼是金高の不納積りて我等御咎を受し事と成ぬ、此節に至り段々相改候へば、當御屋敷へ用立候由の所、御返金不濟候故勘定不致由を申候て、右手形を其方へ相返し候、元來御年貢金をかゝる町家へ渡置候事、家來の不屆とは申ながら我身の不念(ぶねん)いたし方もなし、右の通御役御免にて當時難儀いたし候我なれば御返金可被下、御承知無之ばせめて此譯をも申立、少しは上(かみ)の御憎みをも免れたしと、いかにも丁寧に申ければ、彼役人も大に驚き、同役と可申談とて家老へも申立、主人へも申ければ、右町人より一向左樣の事も申ざりしが、扱は御年貢金にて右故御旗本の難儀に成しや氣の毒成事也とて、よきに挨拶なして其後右金子調達して杢之進方へ返しける由。恐ろしき工夫也と人の語りぬ。かゝる邪智の謀計も多く、親族の難儀をもかまわぬ男成しが、其身は老衰の後事なく病死せしが、積惡は天誅ゆるさゞる所や、二代目の何某小十人組勤めたりしが、御科を蒙り其家斷絶に及びし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「徴(はた)り」で瓢箪から駒の連関。

・「奸智永續にあらざる事」という標題は適切とは思われない。ここで根岸は小宮山杢之進が悪知恵で私腹を肥やしたが、それは二代目になって因果応報、「御科を蒙り」小宮山家は断絶したというのであるが、「奸智永續にあらざる」=「悪知恵は永くは続かぬという」見本とは言い難いからである。言うなら「奸智応報の事」で十分に思われるのだが、如何?

・「享保元文の比」享保元・正徳6(1716)年から元文元・享保211736)年を経て、寛保元・元文6(1741)年迄。小宮山杢之進が実際の代官職を追われるのは享保191734)年であるから(後注参照)、ここは「享保の比」でよいところ。現代語訳では「元文」を抜いた。

・「代官」時代劇の影響で、悪代官=代官は大抵が民を苦しめるものという印象が強いが、実際はそうではなかった、ということがウィキの「代官」 で目から鱗となるので、少し長いが引用する。『江戸時代、幕府の代官は郡代と共に勘定奉行の支配下におかれ小禄の旗本の知行地と天領を治めていた。初期の代官職は世襲である事が多く、在地の小豪族・地侍も選ばれ、幕臣に取り込まれていった。代官の中で有名な人物として、韮山代官所の江川太郎左衛門や富士川治水の代官古郡孫大夫三代、松崎代官所の宮川智之助佐衛門、天草代官鈴木重成などがいる。寛永(1624年ー1644年)期以降は、吏僚的代官が増え、任期は不定ではあるが数年で交替することが多くなった。概ね代官所の支配地は、他の大名の支配地よりも暮らしやすかったという』。『代官の身分は150俵と旗本としては最下層に属するが、身分の割には支配地域、権限が大きかったため、時代劇で悪代官が登場することが多い。こうしたことから代官とは、百姓を虐げ、商人から賄賂を受け取り、土地の女を好きにする悪代官のイメージが広く浸透した。今日、無理難題を強いる上司や目上を指してお代官様と揶揄するのも、こうしたドラマを通じた悪代官のイメージが強いことに由来する。ジョークで物事を懇願する際に相手をお代官様と呼ぶ場合があるのも、こうした時代劇の影響によるところである』。『しかし、実際には少しでも評判の悪い代官はすぐに罷免される政治体制になっており、私利私欲に走るような悪代官が長期にわたって存在し続けることは困難な社会であった。過酷な年貢の取り立ては農民の逃散につながり、かえって年貢の収量が減少するためである。実際、飢饉の時に餓死者を出した責任で罷免・処罰された代官もいる。そもそも、代官の仕事は非常に多忙で、ほとんどの代官は上に書かれているような悪事を企んでいる暇さえもなかったのが実情らしい。ただし、それでも稀には悪代官と言える人物もいたようであり、文献によると播磨国で8割8分の年貢(正徳の治の時代の天領の年貢の平均が2割7分6厘であったことと比較すると、明らかに法外な取り立てである)を取り立てていた代官がいたそうである』。『通常、代官支配地は数万石位を単位に編成される。代官は支配所に陣屋(代官所)を設置し、統治にあたる。代官の配下には10名程度の手付(武士身分)と数名の手代(武家奉公人)が置かれ、代官を補佐した。特に関東近辺の代官は江戸定府で、支配は手付と連絡を取り行い、代官は検地、検見、巡察、重大事件発生時にのみ支配地に赴いた。遠隔地では代官の在地が原則であった』とある。

・「小宮山杢之進」小宮山昌世(まさよ ?~安永2(1773)年)。幕臣・儒学者。太宰春台門下。水戸の出身で江戸小石川に住した。将軍吉宗の命を受け、検地に関する書物「正生録」を上梓し、農政・経済分野で活躍、享保6(1721)年から佐倉小金・佐倉七牧(現・千葉県佐倉市)両牧の代官職に就き、翌享保7年には牧場管理と共に新田開発が任され、彼は両牧付村領主に対し新田開発を指示、享保131728)年には年貢収納良好なるによって年貢の一割を俸禄とは別に報償として与えられているように、両牧経営と新田開発への貢献は計り知れぬもので、幕府の推進した新田開発事業の鑑と言えるものであった。その後、本文にあるように職務等閑・不正の廉で享保191734)年に小普請に落とされ、同20年には在任中の不正を遡及して処断され、年賦の返金命令と共に閉門、宝暦9(1759)年に致仕している(罪状や致仕年は底本鈴木氏注等による)。「彼者小普請に入て」の頃のことあるから、この話柄は享保末年、職務怠慢の廉で享保191734)年に小普請入りした後、まだそれが人々の記憶にある1735年~1736年頃と推定してよいか。本人の言に「退役」という語があり、これを額面通り受け取るなら長谷川氏の言う致仕であるから、遙か先の宝暦9(1759)年以降のこととなるが、それではこの嘘が通用するはずがない。……それにしてもこの人物、調べれば調べるほど「學才もあり智惠も多き男」どころじゃあない。多数の儒学関連書や農政書、実践的農政者として頗る評価が高い。この話柄にあるような姦計に長けた悪(ワル)がイメージし難い。人間落ちれば落ちるもんだ……事実は小説より奇なり――。

・「予が中年迄存命」小宮山杢之進昌世が逝去した安永2(1773)年の時、根岸は36歳で御勘定組頭であった。

・「はたりせたげども」「はたり」は前項で示した通り「徴る」で、借金の催促をする、取り立てるの意。「せたげ」は「せたぐ」=「虐ぐ」というガ行下二段活用の動詞で、矢張り、急がす・急き立てる・催促する、という意味である。

・「金子五百疋」100疋=1貫文で、1両=4貫文であるから、とりあえず、1両を現在の10万円相当と考えるなら、125000円程になるが「捨し金の古紙酒代になりし」程度の喜びようでは、ちと多過ぎる。江戸中期ということで1両を3~5万円程度と見れば、37,50062,500円で小金持ちの町人の酒代と言うには穏当なところか。

・「かゝる邪智の謀計も多く、親族の難儀をもかまわぬ男成し」とあるが、どうも納得出来ない。こんな奸智にして傍若無人な男の儒教の講釈、誰が聴くんじゃい?!

・「二代目の何某小十人組勤めたりしが、御科を蒙り其豪斷絶に及びし也」底本の鈴木氏注や岩波版長谷川氏注には、小宮山杢之進昌世の子であった二代目の昌国は明和6(1679)年に西丸小十人に列したが、安永6(1777)年に致仕して逐電したとある(どちらの注も理由を記していない)。更に更に因果応報、その子太郎兵衛は不身持を極め、天明2(1782)年に遠流に処せられたとある。この「小十人組」とは若年寄支配の幕府常備軍の中核的組織。戦時には将軍馬廻役として直近の警固保守に当り、平時には小十人番所に勤番して将軍出行時の先駆として供奉することを役目とした。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 悪知恵は永くは続かぬという事

 

 享保の頃、代官を勤めたこともある小宮山杢之進という者、これ、学才もあり知恵も働く男で御座ったが、その職分に不届きなることありて御役御免とされ、小普請組にまで落されてしもうた。

 この杢之進、なかなかの長寿にて、私が中年になった頃まで存命で、時に儒家の書物の講釈なんどをしておったが、いや、これ何とも、肉も胆(きも)も共に逞しき男であった。

 この杢之進が小普請となって後のことである。

 ある日、出入りの小金持ちの町人と世間話をして御座った折柄、その町人、溜息をつきつつ、

「……やれやれ……我ら町人も様々な御武家衆よりの金子用立てにお応え致し、返済して下さらぬ御方(おんかた)へは、何遍も何遍も、手を変え品を変えては御返済取り立て急度(きっと)の催促致せども……これがまた、一向にはか行かず……いやもう、誠(まっこと)難儀なことにて、御座いまする……」

と言って、手にした不履行の古手形四、五枚も振って見せたところ、杢之進、これを聴いて、

「……その古手形……我に売って呉れはせぬかの?」

と申せば、町人、

「はあ? いや、お売りするまでも御座らぬ。差し上げましょ。」

と答える。杢之進、

「いやさ。無償にて貰い受くる謂われは、ない。」

とて、礼金として金子五百疋を町人にさし遣わして、

「向後一切御構無しといった書付せよ。」

と、手形の売渡し証文を書かせて、それら古手形類と共に請け取ったので、かの町人は大いに喜び、

「捨てた気で御座った古反故(ふるほおぐ)の、酒代になったわ!」

と囃しながら帰って行った。……

 ……その後、杢之進がかの古証文手形に書き付けられたる名前を見ると、これが相応のさる諸侯の名なればこそ――杢之進、召し連れた家来と共に、颯爽とその諸侯方屋敷へと至り、家役の者を呼び出だいて徐ろに申したこと――

「我ら事、御代官を相勤めて御座ったれど、思いの外の、御勘定方不届きなるに拠って御咎めを蒙り、退役致いて御座った。然るに、我らは詳しいことは存知上げておる訳であらねど、召使って御座った家来等が貨殖に良かれと思い、御公儀御年貢金を出入りの町人へ貸し、その町人がその返済を致さざる故、あれやこれや御用の支出の不払いが積り積もって、我ら御咎めを受くる相成り申した。……さても、この頃になって、追々このことにつきて相改め取り調べ致いたところ、……その町人、当方御屋敷へ金子用立て致いたところ、その御返金滞りたる故、我らへも御勘定合わざることと相成ったる由を申しまして、その手形……この通り……我らが方へ相返して参った。……元来、御年貢金をかかる町家の者に貸したることそれ自体、家来の以ての外の不届きとは申すものの……我が身の無念……如何にも致しようもない……。かくの通り、御役御免にて当座の生計(たつき)にも難儀致いて御座る我なればこそ……何卒、御返金下さるように……。……さても……このこと、御承知頂けぬとなれば……せめても、かくなる訳をお上に申し立て、我らが身に降りかかったお上の御(おん)憎しみを、少しは免れとう存ずる――。」

と、如何にも丁重且つ重々しく申したところ、家役の者、仰天致いて、

「……しっ、しばし!……お待ちを! ど、同役の者と、そ、相談致いた上……」

と当家家老に急報致、御当主御自身へも申し上げた上、窮余の善後策を講ずることと相成った。

「……かの町人よりは……えー、一向左様なこと、申しては御座らなんだ。……さてはー、そのー、それが御年貢金にて……かくなる故に……貴殿、えー、御旗本の、あー、難儀と、成って御座ったか……これは誠(まっこと)、あー、気の毒なことを、致いて御座った……。」

と、戻ってきた家役は腰の落ち着かぬ風ながらも、如何にも丁重に杢之進に挨拶致いて、その後、右金子を調達の上、耳を揃えて返した、由。

 

「……恐ろしき悪知恵で御座ろう。……」

と、これを語ってくれた私の知人は最後に言い添えた。

 かかる邪(よこし)まなる智を駆使した奸計頗る多く、親族の者の迷惑も顧みぬといった男であったが、その後、小宮山杢之進本人は老衰の果て、あっけなく病死致いた。

 なれど、かかる積れる悪事悪意は、天誅免るるを許さざるところであったものか、二代目の小宮山某は小十人組を勤めて御座ったものの、後にやはり御咎めを蒙り、小宮山の家、これ、断絶に相成って御座った――。

 

 

*   *   *

 

 

 池尻村の女召仕ふ間數事

 

 池尻村とて東武の南池上本門寺などより程近き一村有。彼村出生の女を召仕へば果して妖怪など有と申傳へしが、予評定所留役を勤し頃、同所の書役(かきやく)に大竹榮藏といへる者有。彼者親の代にふしぎなる事ありしが、池尻村の女の故成けると也。享保延享の頃にもあらん、榮藏方にて風(ふ)と天井の上に大石にても落けるほどの音なしけるが、是を初として燈火(あんどん)の中チへ上り、或は茶碗抔長押(なげし)を越て次の間へ至り、中にも不思議なりしは、座敷と臺所の庭垣を隔てけるが、臺所の庭にて米を舂(つ)き居たるに、米舂(こめつき)多葉粉(たばこ)抔給(たべ)て休みける内、右の臼垣を越て座敷の庭へ至りし也。其外天井物騷敷故人を入(いれ)て見しに、何も怪き事なけれども、天井へ上る者の面は煤(すす)を以て黑くぬりしと也。其外燈火抔折ふしはみづからそのあたりへ出る事有りければ、火の元を恐れ神主山伏を賴みて色々いのりけれども更にそのしるしなし。ある老人聞て、若し池袋池尻邊の女は召仕ひ給はずやと尋し故、召仕ふ女を尋しに、池尻の者の由申ければ早速暇を遺しけるに、其後は絶て怪異なかりし由。池尻村の産神(うぶがみ)は甚(はなはだ)氏子を惜み給ひて、他へ出て若(もし)其女に交りなどなす事あれば、必ず妖怪有りと聞傳へし由彼老人かたりけるが、其比(そのころ)榮藏は幼少也しが、親戚者右女を侵しける事有りしやと語りぬ。淳直正道を第一にし給へる神明(しんめい)の、氏子を惜み妖怪をなし給ふといふ事も、分らぬ事ながら爰に記ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。敢えて言うなら「積惡は天誅ゆるさゞる所」にて因果応報三代続いたに、こっちは「淳直正道を第一にし給へる神明」が、吝嗇臭く「氏子を惜み妖怪をな」すという不可解の逆ベクトルである。本話柄は「池袋の女」として著明な都市伝説で、明治期に入ってからも生き残り、私の記憶では確か井上円了であったか、実地にこうしたポルターガイスト現象の出現する屋敷を訪れて仔細に検証したものを読んだ記憶がある(手元には円了の妖怪学全集もあるのだが、その山から探し出すのが面倒なので、そのうち、見出したら正確な叙述に変えるので、悪しからず)。海外でも同様の現象が知られ、家付きの呪縛霊の霊現象というよりも、必ず居住者や近隣に思春期の少女がいるのが汎世界的特徴である。幸い、ウィキに「池袋の女」の記載があるので、とりあえず掲げておく(記号と漢字の一部を変更した)。『江戸時代末期における日本の俗信の一つ。池袋(東京都豊島区)の女性を雇った家では、怪音が起きる、家具が飛び回るなど様々な怪異が起きるといわれたもの』で、『文化時代の地誌「遊歴雑記」に、「池袋の女」の話が以下のように述べられている。文政3年(1820年)3月、小日向の高須鍋五郎という与力が、自分の雇っている池袋出身の下女につい手をつけた。ある日の夕方、勝手口に来訪者が来たので下女が応対したところ、叫び声と共に戻って来た。鍋五郎が事情を尋ねると、ほっかむりをした男が現れたと言う。鍋五郎が周囲を捜したところ、怪しい者はいなかったが、念のために厳重に戸締りをしておいた。すると屋根や雨戸に石が打ちつけられ始めた。周囲を捜したが、やはり怪しい者の姿はない。深夜になっても石の音はやまないので到底眠ることもできず、夜明けには雨戸が2箇所も破られていた。鍋五郎が修験者に祈禱を頼んだが、今度は皿、鉢、膳、椀などが飛来し、火のついた薪が飛来して座敷に火をつけたりと、修験者もお手上げだった。その後も怪異は続いたが、ある者の助言により鍋五郎が下女に暇を申し渡すと、怪異はやんだ。その下女は武州秩父郡(現・埼玉県秩父郡)三害の一つといわれるオサキ遣いの子孫であり、鍋五郎が下女と密通した祟りで怪異が起きたとのことだった』。『池袋のほかにも、池尻(東京都世田谷区)、沼袋(同・中野区)、目黒(同・目黒区)についても同様の怪異が語られており』、『天保時代の雑書「古今雑談思出草子」や根岸鎮衛の随筆「耳袋」には、池尻出身の女を雇うと妖怪に遭うとして、以下のような話がある』(以下は正しく本話柄の梗概であるので省略する)。『これらの怪異は女性の自作自演との説もあり、「石投げをしてぼろの出る池袋」「瀬戸物屋土瓶がみんな池袋」といった川柳も残されている』。『また、山間部の一部の村では近代になってもすべての娘を若者たちの共有物とみなす風潮が残っており、そのような土地では女がほかの土地へ行くことや他所の男と交わることを禁じ、その禁を破った者には若者たちの報復があったとして、これらの現象は怪異ではなく、若者たちの報復とする説もあ』り、『明治時代には井上円了がこれらの怪異の真相を、虐げられた女性たちが自由に遊べないことによる欲求不満から、抗議行動として主人に茶碗を投げつけたりしたことと結論づけている』。私も数多くこうした現象の記載を読んできたが、洋の東西を問わず、情緒不安定な思春期の少女の意識的・無意識的詐欺行為として、殆んどの事例が片付けられるもののように思われる。本件と同じ現象を扱ったものに南方熊楠「池袋の石打ち」がある。今回、このために急遽、テクスト化したのでそちらも御覧あれ。

・「池尻村」旧荏原郡池尻村は現在の世田谷区東部の池尻。世田谷地域と北沢地域に跨り、東部で目黒区東山及び上目黒に接する(因みに私は大学生活の3年間をこの東山の四畳半子供部屋二段ベッド据付の下宿で斜めに寝ながら――姉妹の子供部屋の二段ベッドは真っ直ぐではつっかえた――で過した)。

・「池上本門寺」大田区池上1丁目にある長栄山本門寺。日蓮宗。古くより池上本門寺と呼称され、日蓮上人入滅の霊場として信仰を集める。

・「予評定所留役を勤し頃」根岸が評定所留役であったのは宝暦131763)年から明和5(1768)年で26から31歳迄の間であった。後述する本話柄の出来事は遡ること、50年から15年前迄のこととなる。

・「書役」評定所で文書の書写・浄書をした書記。現在の裁判所書記官相当であるが、底本の鈴木氏の注によると、文書の草案を作成したり、記録書類の作製は書物方という別職で、その書物方の上役に書類整理の総括者として改方という上席があったとある。

・「大竹榮藏」諸本注せず不詳。ネット上に散見する殆んどはこの話柄の絡みで、詳細記載はない。

・「享保延享」享保元・正徳6(1716)年から享保21・元文元(1736)年。次に元文六・寛保(1741)元年、更に寛保4・延享元(1744)年を経て延享5・寛延元(1748)年であるから、実に32年間。少々スパンが長過ぎる。本人の幼少期の記憶に基づく直話にしては嘘臭いが、ただ単に根岸が年号を忘れたか、そもそも栄蔵本人が特に話の中で示さなかったものを、根岸が推測していると考えた方が自然である。

・「中チへ上り」意味不明であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると『中(ちゆ)うへ上り』とあるので、これは「中うへ上り」の原文の誤りか、底本の誤植かとと思われる。バークレー校版で訳した。

・「池尻村の産神」池尻村には現在の池尻2丁目に鎮座する池尻神社がある。300年前の明暦年間()に旧池尻村・池沢村の両村の産土神(うぶすながみ)として創建された稲荷神社である。古来、「火伏せの稲荷」「子育ての稲荷」として信仰を集める。池尻神社HPによれば、『当時は、大山街道(現在の旧道)のほとり常光院の片隅に勧請されたもので、村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢往還(現在の二子玉川方面道路)と津久井往来(現在の上町方面道路)の二つの街道からの人々が角屋・田中屋・信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休憩して江戸入りする道筋にあり、また、江戸から大山詣での人々が大坂(現在の旧山手通りと大橋の間の坂道)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤かったと伝えられてい』るとある。「産土神」は生まれた土地を領有し守護する土地神や祖先神の一種で、特に都市部とその周縁地域に於ける郷土意識形成と強く結びつき、多産・安産・成育ひいては村落共同体の繁栄を司るものとされた。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 池尻村出身の女は召し使ってはいけないという事

 

 池尻村と言って、江戸の南は池上本門寺なんどからほど近い所に一つの村がある。

 この村の出身の女を召し使うと、果たしていつか必ず妖しく奇怪なることが起こる、と言い伝えて御座る。

 私が評定所留役を勤めていた頃、書役に大竹栄蔵と申す者が御座った。かの者の、親の代に、誠(まっこと)不思議なことが御座ったが、何でもそれは池尻の女のせいであったという。以下、本人よりの聞き書きである。頃は、享保延享年間ででもあったか。

 ……或る日のこと、栄蔵方屋敷の天井の上に――どすーん!――と、大石でも落ちたような轟音が轟いた――。

 ……これを手始めに、行灯が宙に浮遊したり、或いは茶碗が長押を飛び越えて次の間に飛来する――中でも不思議であった出来事は――屋敷の座敷と台所の庭は垣根で隔てられていたが、その台所の庭にて米を搗いていた。米搗き役の者、煙草なんどを喫(の)んで、一服しているうち――どすーん!――と米を搗いていた重い臼が、何と垣根を越えて座敷の庭に落ちたのであった。

 ……ある時なんどは――ごそごそ! がたがた!――天井の辺りが何やらん以ての外に騒がしい故、天井裏に人を登らせて確かめさせたところ、

「……別段、何の変わったことも御座いませぬが……」

と言いつつ、天井から降りてきたその者の顔は――自身では丸で気づいておらねど、どう見ても自然そうなったとは思えぬ程に――煤で真っ黒々に塗りたくられていたのであった――。

 ……その他にも、やはり火の点った行灯などが時折、自ずとあちこちへ飛び回るという怪異が続く故、火の元ともならんかと恐れて神主やら山伏やを頼んでは、いろいろ加持祈禱なんど試みてはみたものの、何らの効験(こうげん)も現われぬ。

 ……ところが、ここに近隣のある老人がこの話を聞いて言う。

「……もしや、池袋・池尻辺りの女を召し使(つこ)うては御座らぬか?……」

 召し使(つこ)うている下女を呼び出だいて尋ねてみたところが――池尻の者の由。

 早速に暇(いとま)をとらせたところ――その後はぴたりと怪異が止んだ、とのこと――。

「……池尻村の産土神(うぶすながみ)は甚だ氏子の村外(むらそと)への流失を惜しみ、他所(よそ)へ出でて、もしその女に言い掛けし、交わったりする不届き者なんどがあると……必ずや妖しく奇怪なることが起こると聞き伝えて御座る……。」

との由、その老人が語ったというが……その頃、この栄蔵、幼少であったけれども、

「……拙者の父……もしかすると、その女に手を付けて御座ったかも、知れませぬ……。」

と語って御座った。

 ――あらゆる民草に厚く直き正道の心もて接するをこそ第一とし給うはずの神たるものが、氏子を惜しみ、怪異を成し給うというのも、聊か理解し難いことにては御座るが、まあ、ここに記しおくものである。

 

 

*   *   *

 

 

 妙鏡庵起立の事

 

 東叡山文珠樓のほとりに妙鏡庵といへるあり。一ツに奉光堂ともいふ。其起立を尋るに、何れの御代にや有し、上がたより御臺樣御下りの折から御供いたしける婦人、後法躰(ほつたい)して妙鏡尼と申、御城大奧にて精心を盡し御奉公なせしが、女中方の縁ありて松平陸奧守奧へも右妙鏡尼參りけるに、或時陸奧守奧に泊りて四方山の咄しの序(ついで)、妙鏡尼は上方出生やと陸奧守尋ける故、其儀に候、上方の生れにて江戸表にてはゆかりの者一人だに無之、年々參向(さんかう)の堂上(とうしやう)にもしるべも有之、附添來る者知れる者もあれど、女の事なれば傳奏屋敷へ參るべき事もならず、奧に罷在ては逢候事も成難し、哀れ上野の内に庵室やうのものを拵へて、衰老の樂みに故郷の者にも逢うて、物語りも承度思ひぬれど、失脚(しつきやく)もかゝる事故もだしぬと、涙と共に語りければ、陸奧守聞て、夫は尤なる事也、我等手傳(てつだい)得(え)させん、相應の庵を建立いたすべし、尼が持參のうつはあると尋に付、傍に有りし女子の、おみやとて御重(おぢゆう)の内を持參りたりとて、右の重を出しければ、日本一の事也、其うつりにとて納戸より納戸金を取寄て、右重へ小判歩判(ぶはん)を手づから入て給ければ、右金子を以て今の妙鏡庵を造立なしける也。其餘風や、今も西丸の御奧女中は時々此庵室へ立寄りし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。本話柄はこれだけの固有名詞や人物が登場しながら、諸注、誰も人物が特定されていない。また後述するように僧坊の名や別名もわざと近い発音の別字に変えてあるように思われる。将軍家正室と関係があり、大奥勤めの上臈に加えて、外様大名伊達家絡みということで、あえて憚ったものかとも思われる。

・「東叡山」寛永寺。

・「文珠樓」寛永寺山門。黒門と根本中堂の間に元禄111698)年に建てられた高さ24mもあった巨大な楼門。同年に建立された根本中堂と共に造営、楼内には文殊菩薩像が安置され、吉祥閣と書いた勅額あった。但し、この門は慶応4(1868)年の上野戦争で焼失して現存しない。

・「妙鏡庵」嘉永年間(18481853)の江戸切絵図を見ると、吉祥閣(この絵図ではその後に左右に配された阿弥陀堂と釈迦堂が中央で橋懸かりによって繋がった建築物があり、その直下に「文殊樓」と記して、あたかもこれが「文殊樓」であるかのように読めるが、これは誤りであろう。「江戸名所図会」で言う常行堂及び法華堂である)の右手に入ったところに「明曉菴」という小さな坊がある。岩波版長谷川氏注は享保201735)年建立と記す。ここは現在、上野精養軒となっている。現代語訳では実存した「明暁庵」とした。

・「奉光堂」岩波版長谷川氏注では宝光堂の誤りとする。

・「御臺樣」通常は将軍家正室を指す。三代将軍家光以降、正室は五摂家又は宮家の姫君を迎えた。妙鏡庵享保201735)年建立というのを、一つのヒントとするなら、例えば八代将軍吉宗の正室理子女王(まさこじょおう 元禄4(1691)年~宝永7(1710)年)の女房を同定候補とするのはどうか。理子女王は伏見宮貞致親王の王女。宝永3(1706)年に吉宗と結婚した。懐妊したが、宝永7(1710)年5月27日に死産、理子も同年6月4日に20歳で死去している。同年代から上で「御下りの折から御供いたしける」女房だったとすれば、享保201735)年には45歳を遙かに越えていたと思われる。当時、その年齢なら「衰老の樂みに……」と表現してもおかしくないと私は思うのであるが、如何か?

・「妙鏡尼」不詳。「明曉庵」(この僧坊名は別に「妙教院」という記載も見つけた)と言い、如何にもな発音の相同性から、尼の名も特定を避けるために改変されている可能性がある。現代語訳はそのままとした。

・「松平陸奧守」仙台藩松平伊達家当主のこと。妙鏡庵建立の享保201735)年から、これは間違いなく第5代藩主にして伊達家第21代当主松平陸奥守伊達吉村(延宝8(1680)年~宝暦元(1752)年)である。以下、ウィキの「伊達吉村」から引用する。『第4代藩主・伊達綱村の長男・扇千代丸が早世したために養嗣子となり、元禄16年(1703年)、養父・綱村の隠居にともない家督を継いだ。先代の綱村が行なった改革により、この頃になると仙台藩の財政は著しく逼迫していた。このため、吉村は財政再建のために藩政改革を行なう。まず、享保12年(1727年)に幕府の許可を得て「寛永通宝」を石巻で鋳銭し、それを領内で流通させることで利潤を得た。また、買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を強制的に供出させ、それを江戸に廻漕して利益を増大させ、藩財政を潤わせた。このため、18世紀初めから中頃にかけての江戸市中に出回った米のほとんどが、仙台藩の産物であったと言われているほどである』。『吉村自身が書、絵画、和歌などの文学面に優れており、吉村は藩内に学問所を開いて学芸を奨励した。とくに和歌には造詣が深く、京都の公家とも親交をかさねた。寛保3年(1743年)、四男の宗村に家督を譲って隠居し、宝暦元年(1751年)に72歳で死去した』。『吉村は仙台藩の財政を再建したことから、綱村と並んで「中興の名君」と呼ばれている』とある。享保20年当時は56歳であった。正室は久我通誠の養女冬姫で、京繋がりもある。50歳になんなんとする老女の孤独を聞いて、一肌脱ごうと言うて何の厭らしさもない――とするなら、この年の、この高徳なる文人名君伊達吉村はぴったりではないだろうか? 現代語訳では名を出した。

・「傳奏屋敷」武家伝奏の際、江戸に下向した勅使・院使の宿所として作られた屋敷。毎年2月下旬(又は3月上句)の伝奏勅使の滞在中は、伝奏御馳走役を命じられた大名がここに設けられた長屋に引き移り、高家の指導の下、一切の世話をした。例の浅野内匠頭長矩が命じられたものこの役である。現在の東京駅皇居側を見て右向かい角にある千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部のビルがある辺りに評定所と共にあった。

・「堂上」狭義は三位以上及び四位・五位の内、昇殿を許された殿上人を言うが、ここは広義の公家衆の意。

・「失脚もかゝる事故」底本では右に『(用脚)』と注す。「失却」で「却」は失う・尽くす意味の強意の接尾辞と解せば、大方の失費も一方ならずかかる故、の意であろう。

・「もだしぬ」「黙す」で、黙って見過ごす、そのままに捨て置くの意。

・「日本一の事也」天下一、最上、最良の謂いであるが、ここは二重の意味が掛けられているか。『妙鏡尼殿の夜話、これ最上の興趣にて御座ったれば、そのお返しに。』の意と、『これは誠に相応しい入れ物じゃ、妙鏡尼殿への相応の分量のお返しを入るるに。』の意である。

・「うつり」贈物の返礼にその空になった器などに入れて返す品を言う語。

・「納戸」御納戸方。御納戸役。将軍や大名の衣服・調度の管理及び金銀諸物品に関わる事務を管掌した者。

・「納戸金」岩波長谷川氏注に『奥向きの用につかう金』とある。

・「歩判」一分金。公称は一分判(いちぶばん)。ウィキの「一金」より引用する。『形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている』。『額面は1分。その貨幣価値は1/4両に相当し、また4朱に相当する計数貨幣である。江戸時代を通じて常に小判と伴に鋳造され、品位(金の純度)は同時代に発行された小判金と同じで、量目(重量)は、ちょうど小判金の1/4であり、小判金とともに基軸通貨として流通した』。

・「西丸」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると『兩丸』とある。これだと本丸と西の丸。西丸は文禄元(1592)年から翌文禄2年にかけて創建された。主に将軍世子の住居の他、将軍職を譲った大御所の住居としても使用された。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妙鏡庵事始めの事

 

 東叡山文殊楼の傍(そば)に明暁庵という小さな坊がある。一名には奉光堂ともいう。その事始めを尋ねたところ――

 ……いずれの御代でありましたか、あまり遠くない頃のお話にて御座います……上方より御台様がお下り遊ばされた折りから、その御台さまにお供致いて御座った女人が――後に髪をおろされて妙鏡尼と申す――お城の大奥にて誠心を尽くして御奉公致いて御座いました。

 と或る日のこと、仕えておるお女中方の縁にて、仙台藩主松平陸奥守伊達吉村様の奥向きをお訪ね致いた折りのことにて御座います。

 陸奥守様もその日は殊の外、興にお乗りになられて奥向きにお泊まりされることとなり、夜の更くるまで四方山話。その序でに陸奥守様が、

「妙鏡尼殿、そなた、上方の生まれか?」

とお訊ねになられたところ、

「はい。仰せの通りにて御座います。上方の生まれにて、江戸表には所縁(ゆかり)の者は、誰(たれ)ひとり、これ、ございませぬ。年毎に江戸へ参上致しまする堂上(とうしょう)家の中にも知り合いもおり、それに付き添うて来る者の中にも知れる者もおるのでは御座いますが、かく女の身なれば、伝奏屋敷に参ることも出来ず、大奥に罷り在っては、そうした方々と逢わせて頂きますことも叶い難(がと)う御座います。……ああっ、上野寛永寺さまお山の内に庵室(あんじつ)ようなるものを拵え、老いらくの楽しみに、故郷の者なんどにも逢(お)うて、物語りなんどもお聴き致したく思おてはおりますものの……それもまた相応の出費のかかることなればこそ、黙然と致いております次第にて御座います……。」

と、妙鏡尼は涙ながらにしんみりと語った。

 陸奥守は、それをお聞きになられて、

「……いや、それは尤もなお気持ちじゃ。一つ、我らが手伝い致さんと存ずる。相応の庵を、これ、建立致そうぞ!――尼が持参の器やある?」

とお訊ねになられたので、お傍にあった女房が、

「お土産(みや)とてお重(じゅう)に入れしものをご持参になられました。」

とて、その重箱を差し出し申し上げたところ、

「――今日は妙鏡尼殿の夜話、これ最上の興趣にて御座ったれば、相応のお返しを入れんと思うて御座ったが、うむ! これはまた誠に相応しい入れ物じゃ!――」

と陸奥守は納戸方より納戸金をお取り寄せになられると、その場にて手ずから小判や歩判を重箱にお納めになられ、妙鏡尼に賜われたという――。

 実に、この金子を以って現在の妙鏡庵を造立致いたのである。

 その経緯もあってのことか、今も江戸城西の丸の大奥の女中たちは、時にこの庵室へ立ち寄ることがあるのである、とのことであった。

 

 

*   *   *

 

 

 貧窮神の事

 

 近頃牛天神(うしてんじん)境内に社祠出來ぬるを、何の神と尋れば、貧乏神の社の由。彼宮へ詣で貧乏を免れん事を所るに其靈驗ありしとかや。其起立を尋るに、同じ小石川に住む御旗本の、代々貧乏にて家内思ふ事も叶はねば、明暮となく難儀なしけるが、彼人或年の暮に貧乏神を畫像に拵へ神酒(みき)洗米(せんまい)など捧(ささげ)て祈けるは、我等數年貧窮也、思ふ事叶はぬも是非なけれど、年月の内貧なれども又外の愁もなし、偏(ひとへ)に尊神の守り給ふなるべし、數代我等を守り給ふ御神なれば、何卒一社を建立して尊神を崇敬なすぺきの間、少しは貧窮をまぬがれ福分に移り候樣守り給へと、小さき祠を屋敷の内に立て朝夕祈りしかば、右の利益(りやく)にや、少し心の如き事も出來て幸ひもありしかば、牛天神の別當なる者は兼て心安かりければ其譯を語り、境内の隅へ成とも右ほこらを移し度(たし)と談じければ、別當も面白き事に思ひて許諾なしけるにぞ、今は天神境内に有りぬ。此事聞及びて貧しき身は右社倉に詣で祈りけると也。敬して遠(とほざ)くの類面白き事と爰に記ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:老女隠棲の僧坊造立から貧乏神のお祠造立で連関。老女には何だか有り難くない連関だが――。

・「牛天神」現在の東京都文京区春日(後楽園の西方)にある北野神社。北野神社公式サイトによれば、源頼朝が当地にあった岩に腰掛けて休息した際、夢に牛に乗った菅原道真が現われて吉事を予言、翌年、夢言通りとなったことから頼朝がこの岩を祀り牛天神を造立したという縁起を持つ(底本鈴木注では、牛天神は金杉天神とも呼ばれるとあり、頼朝を『北条氏康が夢想によって祀ったもの』という別系統の伝承を掲げる)。境内には牛形の岩があり、これを撫でると願いが叶うと伝えられている。この神社の境内に現在、太田神社及び高木神社と呼称する社があるが、これが本話の貧乏神の祠である。現在は、日本最初のストリッパーであった天鈿女命(あめのうずめのみこと)とその夫とされる荒ぶる神猿田彦命を祭祀しており、芸事上達・開運招福のご利益があるとされる。明治より前は貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ:弁財天の姉。)を祀っていたが、江戸時代にあったとされるさる出来事から、人に憑いている貧乏神を追い払い、福の神を招き入れるとの庶民信仰を集めるようになったという。HP記載の由緒は本話柄とはやや異なるので、そのまま引用する(改行を除去し、記号も変更・追加した)。

   《引用開始》

 昔々、小石川の三百坂の処に住んでいた清貧旗本の夢枕に一人の老人が立ち、「わしはこの家に住みついている貧乏神じゃが、居心地が良く長い間世話になっておる。そこで、お礼をしたいのでわしの言うことを忘れずに行うのじゃ……」と告げた。正直者の旗本はそのお告げを忘れず、催行した。すると、たちまち運が向き、清貧旗本はお金持ちになる。そのお告げとは――「毎月、1日と15日と25日に赤飯と油揚げを供え、わしを祭れば福を授けよう……」――以来、この「福の神になった貧乏神」の話は江戸中に広まり、今なお、お告げは守られ、多くの人々が参拝に訪れている。

   《引用終了》

この「三百坂」は伝通院の南西、松平讃岐守屋敷の東北にあり、牛天神から2㎞も離れていない。この坂の名はこの近くに屋敷を構える松平家に由来すると言われる。松平家では新規召抱えのお徒(かち)の者は、主君が登城の際、玄関で目見えさせた後、衣服を改めさせて、この坂で供の列に加わらせたという。万一、坂を登りきるまでに行列に追いつけなかった場合は、遅刻の罰として三百文を科したことから、という(文京区教育委員会の三百坂標識等による)。なお、根岸の口調から明らかにこの頃――「近頃」という以上は5年以上遡るとは考え難い――安永9(1780)年以降、根岸が江戸にいた佐渡奉行となる天明4(1784)年よりも前に造立されたものではないかと私は考える。

・「洗米」神仏に供えるために洗った米。饌米(せんまい)。

・「牛天神の別當」神仏習合であったことから、牛天神は龍門寺という寺が別当であったことが切絵図の記載から分かるが、当の龍門寺は近辺に見当たらぬ。現存しないらしい。牛天神東隣に接する水戸屋敷の旧地にでもあったものか。

・「敬して遠く」「論語」の「雍也第六」の「二十二」に現われる句。

樊遲問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。

○やぶちゃんの書き下し文

 樊遲(はんち)知を問ふ。子曰く、

「民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂ふべし。」

と。

 仁を問ふ。曰く、

「仁は難きを先にして獲(と)るを後にす。仁と謂ふべし。」

と。

○やぶちゃんの現代語訳

 ある時、樊遅(はんち)が、

「『知』とは?」

と訊ねた。

 先生が謂われた。

「人として、当たり前の義を務め、天神地祇神仏神霊祖霊霊鬼を、人を超越した存在の『ようなもの』として謙虚に畏敬して、而もそれを己れの思惟に於いては鮮やかに遠避ける――これが『知』じゃ。」

と。

 樊遅は続けて、

「『知』とは?」

と訊ねた。

 先生が謂われた。

「仁とは、何事も成し難きことを先ず成し遂げ、後に結果として実を摑む――これが『仁』じゃ。」

と。

樊遅とは孔子の御者にして弟子の一人。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  貧乏神の事

 

 近頃、牛天神の境内に新しいお祠(やしろ)が出来たので、何の神を祭っておるのかと訊ねてみたところ、これが何と、貧乏神の由。

 貧乏を免れんことを祈ると確かな霊験あり、とか。

 その起立をも訊ねてみた――。

 ――同じ小石川に住む御旗本、これ、代々筋金入りの貧乏にて、日々の暮らしも思う通りには叶わぬ体たらく、いやもう、文字通り、明け暮れとなく難儀致いて御座った。

 さて、ある年の暮れのこと、この御仁、貧乏神を画像に誂え、お神酒(みき)やらご饌米(せんまい)なんども捧げて祈ったことには、

「……我ら永年、貧窮にて御座る。……思うことも叶わぬのも、この体たらくなれば是非もないこととは存ずるが……永年不断の貧なれど、しかし、それ以外はこれと申して、又、数奇なる愁いのあるわけにても御座らぬ。……これは、偏(ひとえ)に御尊神が我らを守護遊ばされておらるるなればこそのことならんと存じ上げ奉りまする。……幾代にも亙って我ら一族をお守り給うて御座る御神であればこそ、……何卒! 一社を建立致いて尊神を崇敬致さんとする間、……その、も少しばかり、貧乏を免れ、ささやかなる福を受くるる身分へと遷り変わらんよう、……どうか、お守り下されええいぃ!」

と小さなお祠を屋敷内(うち)の隅に建てて、朝夕祈っところが――ああら、不思議! このご利益(りやく)ででもあろうか――少しは願(ねご)うて御座ったことも叶うて、吉事もあった。

 そこで、兼ねてより牛天神別当龍門寺役僧とは懇意に致いて御座ったれば、かくかくの霊験を語り、

「……一つ、境内の隅へなりとも、このお祠、移しとう存ずるが……」

と恐る恐る言うてみたところ、その別当も興がって移設を許諾致したによって、今は天神さま境内に安置することと相成った。

 これをまた聞き及んで、貧しき者ども雲霞の如く押寄せ、このお祠に詣で祈って御座るとのこと。

 『鬼神を敬して之を遠ざく』の類い、面白いことなれば、ここに記しおく。

 

 

*   *   *

 

 

 國によりて其風俗かわる事

 

 佐州に有し時、其土俗物さはがしくしどなき者を、むじな付のやう也といふ。いかなる事と尋しに東都其外にて狐付といへる事のよし。諺にいふ三郡に狐なしと傳へし通(とほり)、佐渡國には狐なきよし。しかし他國にてむじな狸の人に付し事を聞(きか)ざるが、佐州にてはむじなも人に付しやと尋しに、間々むじなの人に付事ありとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:貧乏神を祭祠する奇矯から、狢や狸が人に憑く奇矯へ連関。最初に狸憑きの総論としてやや長いがウィキの「狸憑き」を引用しておく(記号の一部を変更した)。タヌキが人に憑依するという民間伝承は『四国や佐渡島の他、青森県や岩手県などに伝えられている』。『タヌキに憑かれた際の症状は様々だが、よく言われるのは大食になるというもので』、『食べ物の栄養分がタヌキに奪われるのか、腹が膨れるのとは逆に本人は衰弱し、やがて命を落とす』とか、『原因不明の病気や、憂鬱状態や饒舌状態になったり、わけもなく暴力をふるったり性行動に走ったり、腐敗した物を食べるといった異常行動をとるようになるともいう』[やぶちゃん注:これらは毒キノコの中毒症状に似ているように思われる。]。『狸憑きの原因は、多くはタヌキが人間にいたずらをされたり、巣を荒らされたりしたためという。これは、山伏などの行者の祈祷よってタヌキが退治され、憑きものから逃れた者が後から語るためにわかることである』。『憑き物に特有の憑きもの筋(憑き物の憑いている家系)と呼ばれるものは狸憑きには少ないが、香川県高松市にはオヨツさん、岡山県にはトマコ狸という、家に憑くタヌキの霊もあ』り、『香川県では人が老いたタヌキに食べ物を与えて飼いならし、憎い相手に憑けて害を成すということもあるという』[やぶちゃん注:さすが四国、クダギツネ同様、いざなぎ流並みに呪詛がタヌキで行われる!]。『四国にはタヌキの祠が多いが、これはタヌキが神に昇格すると人に憑くことができなくなるため、タヌキを神として祀っているものとされる』。『幕末の書物「視聴草」には、死者にタヌキが憑いたとする話がある。文政11年(1828年)3月、やちという老婆が江戸の屋敷に仕えていたが、あるとき突然気絶した。数時間後に回復した後、四肢の自由は失われていたが、食欲が10倍ほどに増し、陽気に歌うようになった。不安がった屋敷の主が医者に見せると、やちの体には脈がなく、医者は奇病と言うしかなかった。やがて、やちの体は痩せ細り、体に穴があき、その中から毛の生えた何かが見えるようになった。秋が過ぎた頃、冬物を着せようと着物を脱がせると、着物には獣らしき体毛がおびただしく付着していた。枕元にはタヌキの姿が現れるようになり、ある夜からは枕元に柿や餅が山積みに置かれるようになった。やちが言うには、来客が持参した贈り物とのことだった。読み書きもできないはずのやちが、不自由のはずの手で和歌を紙にしたためることもあった。やちの食欲は次第に増し、毎食ごとに7膳から9膳もの飯、毎食後に団子数本ときんつば数十個を平らげた。やがて112日、やちの部屋に阿弥陀三尊の姿が現れ、やちを連れて行く姿が見えた。やちの体からは老いたタヌキが抜け出して去って行き、残されたやちの体は亡骸と化していた。やちの世話をしていた小女の夢にタヌキが現れ、世話になった礼を言い、小女が目覚めると礼の品として金杯が置かれていたという』。以下、明治きの浅草寺開拓によって住処を奪われた狸の憑依例や1979年に熊本県芦北郡芦北町で発生した狸憑きの俗信が原因の殺人事件の興味深い記載が続くが、本話柄の注としては大きく脱線するため省略する。しかし、面白い。リンク元でお読みあれ。

・「佐州に有し時」根岸の佐渡奉行在任は天明4(1784)年3月から天明7(1787)年7月迄の約3年強。この過去や完了の助動詞の用法は、鈴木棠三氏の「卷之二」の下限は天明6(1786)年までとする(確定的日付の分かる記事でという条件付ではある)説をやや疑いたくなってくる。佐渡在任中の記載ならば、このようには書かぬ。これは明らかに天明7(1787)年7月以降、勘定奉行に抜擢されて江戸に返り咲いてからの記載である。

・「しどなき」しっかりしていない、分別がないの意。

・「むじな付」「むじな」は一般に狭義には食肉目イタチ科アナグマ亜科アナグマ Meles meles を指すが、実際には本邦では古くから食肉目イヌ科タヌキ Nyctereutes procyonoides と混同して呼称していたし、佐渡ヶ島にはアナグマは生息していないと思われるため(少なくとも現在は棲息しない)、ここはタヌキと同定してよいであろう。因みに、佐渡ではタヌキはムジナとかトンチボとかとも呼称する。よく知られた二ッ岩の団三郎狸を始めとする佐渡のタヌキ憑き及び妖獣としてのタヌキについては、例えば佐渡在住のlllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』が素晴らしい。読み易いくだけた表現を楽しみ写真なども見つつ、リンクをクリックしていると、あっと言う間に時間が経つ。それでいて生硬な学術的解説なんどより生き生きとした生(なま)の佐渡ヶ島が浮かび上がってくる。必見である。氏の記載に依れば、佐渡には元来、タヌキもキツネも棲息しなかったが、慶長6(1601)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりとある。因みに、私は実は熱烈な佐渡ヶ島ファンである。

・「三郡に狐なし」佐渡国は雑太郡(さわたぐん)・羽茂郡(はもちぐん)・加茂郡(かもぐん)の三郡に分かれていた(現在は全島で佐渡市)。佐渡にキツネがいないことについては、術比べをして負けた方が島を出てゆくとし、キツネが負けたからと多くの記載に見られるのだが、その術比べの内容が記されておらず面白くない。lllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡にキツネがいないワケ』からその伝承のlllo氏の名訳を引用しよう。佐渡には伝説のタヌキ「二ツ岩の団三郎」という妖狸の大親分がいたそうな……

   《引用開始》

キツネ「佐渡へ渡ってみたいのだけど、どう?」

団三郎「うん。でもキツネの姿では歓迎されないから、なにかに化けてもらわないと…」

キツネ「化けることなら自信あるよ」

団三郎「じゃあ、化けくらべしてみる?」

キツネ「いいよ」

団三郎「ぼくは大名行列に化けるから、きみは好きなものに化けて駕籠(かご)に乗ってきて」

キツネ「オッケー!」

 翌日、ゴージャスマダムに化けたキツネが大名行列に近づいて行ったところ「ぶれい者!」とお供の侍に斬られてしまった。

キツネ「えー!これ本物じゃーん!!」

 団三郎は、この日に大名行列があることを知っていて、キツネにいっぱいくわせたのだそうな。

団三郎「おれの目の黒いうちは、佐渡へキツネなんぞ入れるもんか」

   《引用終了》

・「しかし他國にてむじな狸の人に付し事を聞ざる」冒頭注で見たように、四国・九州及び青森県・岩手県などの一部にも見られる。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 国によってその風俗に変わりがある事

 

  佐渡奉行として佐渡ヶ島に赴任して御座った折りのこと、かの地にては、騒がしく落ち着きのない者のことを『狢憑(むじなつ)きのようだ』と言う。何のことかと尋ねたところ、江戸その他で『狐憑き』と言うところのものと同じいものの由。

 俗諺(ぞくげん)に『三郡に狐なし』と伝える通り、佐渡の国には狐がおらぬ。しかし、他国にて狢や狸が人に憑いたという話を聞かぬ故、

「……佐渡にては……その……狢も、人に憑くのか?」

と訊ねたところ、

「へえ、時々、狢め、人に憑くこと、これ、御座いまする。」

と当たり前のように語って御座ったよ。

 

 

*   *   *

 

 

 上州池村石文の事

 

 淺間山燒の節關東村々を廻村せしに、長崎彌之助知行上州片岡郡(こほり)池村に石碑あり。世に陸奧の坪壺の石碑を古物(こぶつ)とて人の稱しけるに、池村の碑を稱する事を聞(きか)ず。其土俗に聞くに、和銅二年上野國(かうづけのくに)甘樂(かんら)郡緑埜(みとの)郡の内をわりて片岡の郡として、羊太夫といふ者に給りし碑の由。文を見しに其通也。則石摺として持歸りしが、碑面いかにも古物にて文字も能書也。左に其銘を書留ぬ。

 

弁官符上野國片岡郡緑野郡甘

良郡并三郡内三百戸郡成給羊

成多胡郡和銅四年三月九日甲寅

宣左中弁正五位下多治此真人

大政官二品穗積親王左大臣正二

位石上尊右大臣正二位藤原尊

 

上野多胡郡碑石高四尺濶

二尺八寸蓋方三尺

按ニ日本紀云和銅四年三月

辛亥割上野国甘良郡織

裳韓級失田大家緑野

武美片罡郡山※六郷[やぶちゃん字注:「※」=「寺」に(くさかんむり)。]

別置多胡郡ト云々始此國ニ

多胡郡ヲ置タル時始テ建

立セル碑也其文至テ讀カ

タキニヨリ土人誤テ羊太夫

ノ碑トス羊ハ半ノ字ノ誤ナ

ラン三郡ノ内三百戸ノ郡ト

ナシ給ヒ半ヲ多胡郡ト成ト讀テ其義通スヘシ

   文政十一戌子年四月十七日書以贈示于 美濃部先生 法眼栗本瑞見

 

 

●1 カリフォルニア大学バークレー校版画像
[やぶちゃん注:既に著作権の消滅した絵画や平面図像等をそのままただ平面的に撮った写真には著作権は発生しないという文化庁の見解をここに示しておく。]

●2 銘及び注整序版
[やぶちゃん字注:「※」=「寺」に(くさかんむり)。]

 

弁官符上野國片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣左中弁正五位下多治此真人大政官二品穗積親王左大臣正二位石上尊右大臣正二位藤原尊

 

上野多胡郡碑石高四尺濶二尺八寸蓋方三尺

按ニ日本紀云和銅四年三月辛亥割上野国甘良郡織裳韓級失田大家緑野武美片罡郡※六郷別置多胡郡ト云々始此國ニ多胡郡ヲ置タル時始テ建立セル碑也其文至テ讀カタキニヨリ土人誤テ羊太夫ノ碑トス羊ハ半ノ字ノ誤ナラン三郡ノ内三百戸ノ郡トナシ給ヒ半ヲ多胡郡ト成ト讀テ其義通スヘシ

   文政十一戌子年四月十七日書以贈示于 美濃部先生 法眼栗本瑞見

 

 

●3 銘及び注整序やぶちゃん訓読版
[やぶちゃん字注:誤字である「失」は「矢」に直した。「※」=「寺」に(くさかんむり)。]

 

弁官の符、上野の國片岡郡・緑野郡・甘良郡并びに三郡の内三百戸、郡を成し、羊に給ひ、多胡郡と成す。和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)、宣す。左中弁(さちうのべん)正五位下多治此(たぢひの)真人(まひと) 大政官(たいじやうかん)二品(にほん)穗積親王 左大臣正二位石上尊(いそのかのみこと) 右大臣正二位藤原尊(ふじはらのみこと)

 

上野多胡郡碑石は、高さ四尺、濶(ひろ)さ二尺。八寸の蓋(かさ)、方(はう)三尺。

按ずるに「日本紀」に云ふ、『和銅四年三月辛亥(かのとゐ)、上野の国甘良郡の織裳(をりも)・韓級(からしな)・矢田・大家(おほやけ)・緑野の武美(むみ)・片罡(かたをか)の郡の山※の六郷を割て別に多胡郡を置くと云々』。始て此の國に多胡郡を置たる時、始て建立せる碑なり。其の文、至て讀がたきにより、土人誤て、羊太夫の碑とす。「羊」は「半」の字の誤ならん。『三郡の内、三百戸の郡となし給ひ、半を多胡郡と成す。』と讀みて其の義、通ずべし。

   文政十一戌子(つちのえね)年四月十七日書して以て美濃部先生に贈り示す

                      法眼(ほうげん)栗本瑞見(ずいけん)

 

●4 やぶちゃん製図碑模式図

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。浅間大噴火後巡検エピソード・シリーズの一つであるが、特に噴火との関連はない点で、特異。この頃になって根岸も忌まわしい噴火後の悲惨以外の、その折りの個人的な関心事を思い出せるようになったものか。PTSDとは言わないまでも、その噴火直後ではないものの、その惨禍の衝撃的印象は根岸にとっても強烈なものであったであろうと私は思うのである。なお、先に「左に其銘を書留ぬ。」の注を御覧頂くようお願いする

・「上州池村」上野国多胡郡池村。旧群馬県多野郡吉井町。現在は高崎市吉井町池字御門。

・「石文」は石碑・金石文の意。実は現在は、ここに記されたような栗本瑞見の誤読説ではなく、やはり「羊」太夫人名説が真説であるという考え方が支配的であるため、やや長くなるが、ウィキの「多胡碑」から引用する。『碑身、笠石、台石からなり、材質は安山岩、碑身は高さ125センチメートル、幅60センチメートルの角柱で6行80文字の楷書が丸底彫り(薬研彫りとされてきたが、近年丸底彫りであることが判明した)で刻まれている。笠石は高さ25センチメートル、軒幅88センチメートルの方形造りである。台石には「國」の字が刻まれていると言われるが、コンクリートにより補修されているため、現在確認できない。材質は近隣で産出される牛伏砂岩であり、地元では天引石、多胡石と呼ばれている』。『その碑文は、和銅4年3月9日(711年)に多胡郡が設置された』『際の、諸国を管轄した事務局である弁官局からの命令を記述した内容となっている。多胡郡設置の記念碑とされるが、その一部解釈については、未だに意見が分かれている』。『特に「給羊」の字は古くから注目され、その「羊」の字は方角説、人名説など長い間論争されてきた。現在では人名説が有力とされている。また人名説の中でも「羊」氏を渡来人であるする見解が多く、多胡も多くの胡人を意味するものではないかとの見解もある。近隣には高麗神社も存在することから、この説を有力たらしめている』(下線部やぶちゃん)。『多胡碑は現在「御門」という地名に所在するが、この地名は政令を意味する事から「郡衙(ぐんが)」が置かれた場所だと推定されている。郡衙とは郡の役所の事である。多胡碑と性格が類似する多賀城碑が多賀城南門の傍らに建っていた事から、多胡碑も多胡郡衙正門付近、つまり建碑当初からこの地に存在した可能性が高いと考えられている』。『8世紀後半に建碑されたと考えられる多胡碑だが、9世紀後半頃からの郡衙の衰退、その後の律令制の崩壊と共に、多胡碑も時代の闇の彼方に消え去った。再び所在が明らかになるのはおよそ700年後の建久6年(1509年)に連歌師宗長によって執筆された「東路の津登」まで下る。この約700年間、多胡碑がどのような状態で存在したのかを知りえる資料は存在しない。しかしながら碑文の保存状態が良好な事から、碑文側を下にして倒れていた、土中に埋もれていた、覆堂の中で大切に保護されていた、などある程度良好な環境に存在したと推定される。その後約200年の間を空けた後、伊藤東涯により執筆された盍簪録、輶軒小録の二書を皮切りに数多くの文化人を通し、多胡碑は全国に知れ渡っていく』。(以下、近代の興味深いエピソードが続くが中略する)また『書道史の面から見ると、江戸時代に国学者高橋道斎によってその価値を全国に紹介され、その後多くの文人、墨客が多胡碑を訪れている。筆の運びはおおらかで力強く、字体は丸みを帯びた楷書体である。北魏の雄渾な六朝楷書に極めて近く、北魏時代に作成された碑の総称である北碑、特にその名手であった鄭道昭の書風に通ずると言われる。清代の中国の書家にも価値が認められ、楷書の辞典である「楷法溯源」に多胡碑から39字が手本として採用された』とある。この高橋道斎(享保3(1718)年~寛政6(1794)年)は上野国の出身で、農業と醸造業を生業(なりわい)としつつ、井上蘭台に儒学を学んで、詩文・俳諧・書道にもその才能を発揮した人物である。根岸の実見が天明3(1783)年であることを考えると、恐らくこの高橋道斎が本邦自在な多胡の碑の筆致を世に紹介したのを、根岸が聞き知って、特に立ち寄って実見を望んだもののように思われる。現在は写真撮影が許されていない。しかしその美事な筆跡をMAG氏の「くるまでルンルン」のこのページで鑑賞出来る。――のびのびとした、いい字だなあ!――

・「淺間山燒の節關東村々を廻村せし」根岸は浅間大噴火後の天明3(1783)年、47歳の時に浅間復興の巡検役となった。そして、その功績が認められて翌天明4(1784)年に佐渡奉行に抜擢されている。浅間大噴火関連話柄は幾つも既出する。

・「長崎彌之助」岩波版長谷川氏注に、『長崎元居(もとおき)。安永八年(一七七九)家を二十五歳で継ぐ。千八百石天明五年(一七八五)小性組。』とある。

・「陸奧の坪壺の石碑」飛鳥から奈良時代の8世紀前後にかけて造立されたもので、書道史上極めて重要とされている三つの碑(金石文)として栃木県大田原市の那須国造碑・宮城県多賀城市の多賀城碑及び本話柄の多胡碑を日本三古碑と呼称するが、その中の多賀城碑を言うものと思われる。ウィキの「多賀城碑」から引用する。『碑身は高さ約1.86m、幅約1m、厚さ約50cmの砂岩である。その額部には「西」の字があり、その下の長方形のなかに11140字の碑文が刻まれている』。『天平宝字6年(762年)12月1日に、多賀城の修築記念に建立されたと考えられる。内容は、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩(朝獦)によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれる』。『現在は多賀城跡内の覆堂の中に立つ。江戸時代初期の万治~寛文年間(16581672年)の発見とされ、土の中から掘り出されたとか、草むらに埋もれていたなどの説がある。発見当初から歌枕の一つである壷の碑(つぼのいしぶみ)であるとされ著名となった。俳人松尾芭蕉が元禄2年(1689年)に訪れたことが『奥の細道』で紹介されている』。この碑への偽作説江戸時代末期からあったが、『明治時代に真偽論争が活発になった。現在では真作説が有力である』。なお、岩波版長谷川氏注では、別説として『都母(つも)(青森県北郡天間林(てんまばやし)村)にあった坂上田村麻呂の建てた碑とも』と記す。因みにこの都母(つぼ/つも)の石文(いしふみ)とは桓武天皇による平安遷都の直後、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷首領アテルイを鎮圧するため東北に赴いた都母‘現在の青森県上北郡天間林村大字天間館坪。旧名を坪村という) にて、そこにあった転石に弓の筈(はず)で『日本中央』と書いたとされる伝説の石碑である。西行の歌にも歌われているものの、実体が知られなかった。ロマン性としては此方を採りたいが、近世・近代通して不明で、昭和241949)年に突如発見という現在の石は……聊か、ね……。

・「和銅二年」西暦709年。これは口承伝授の内容なので後に示す碑銘等とは若干事実とずれているか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここは『和銅三年』となっている。

・「上野國甘樂郡緑埜郡」以下の碑文の注に譲る。

・「片岡の郡」同じく以下の碑文の注に譲る。

・「左に其銘を書留ぬ。」の後に底本では『(底本、次ニ七行分空白アリ)』とあって本話は断ち切れられている。そこで、ここは底本の脱落を岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の画像から読み取ったもので補い、更にバークレー校版画像に附帯する附加文を追加した。即ち、碑文銘及び根岸のこの記載に対して、後年、幕臣栗本瑞見が注した文章である。それに際しては画像の文字列通りに復刻、その後に、

●1 カリフォルニア大学バークレー校版画像

●2 銘及び注整序版

●3 銘及び注整序やぶちゃん訓読版

●4 やぶちゃん製図碑模式図(実測値については後注を参照のこと)

を配して読みの便宜を図った。なお、碑銘の「真」及び瑞見の注記の「上野国」の「国」はどちらもママである。

・「弁官符」「弁官」は太政官と諸官司・諸国との間にあって行政指揮運営の実務を掌った事務次官級実務官。左弁官・右弁官に分かれ、それぞれ更に大・中・少の弁(べん/おおともい)があった。「弁官符」は官宣旨(かんせんじ)又は弁官下文(べんかんのくだしぶみ)のこと。太政官が弁官を通じて諸国諸司・諸社寺等に下した公文書。 

・「和銅四年」西暦711年。

・「左中弁正五位下多治此真人」多治比真人三宅麿(たじひのまひとみやけまろ 生没年不詳)。飛鳥時代の官人。父は多治比彦王。母は不明。兄弟に左大臣多治比嶋がいる。真人は姓(かばね)。宣化天皇玄孫。大宝3(703)年、東山道巡察使となって東国に下った。慶雲4年10月には文武天皇大葬御装司となり、後、催鋳銭司(さいじゅせんし:銭貨鋳造担当官。)・造雑物法用司(ぞうざつぶつほうようし:延喜式の造雑物法に記載された食品等の製造管理担当官か?)を歴任。霊亀元(715)年左大弁、養老3(719)年、河内国摂官、養老5(721)年には正四位上に叙せられたが、翌6年1月に藤原不比等を非難した謀反誣告罪により斬刑の判決が下されたが、皇太子首皇子(おびとのみこ:後の聖武天皇。)の奏により死一等減じられて伊豆配流(一説に三宅島はその名を冠したとも)となった。因みに「真人」とは天武13684)年に天武天皇が制定した八色姓(やくさのかばね)の「貴人」(うまひと)で、継体天皇以降の天皇の皇子の子孫に与えられた姓(かばね)である。

・「大政官二品穗積親王」(天武2(673)年?~霊亀元・和銅8(715)年)。天武天皇皇子(第8皇子とも第5皇子とも)。妻の一人は大伴坂上郎女であったことが知られている。万葉集には4首が載る。高市皇子妻但馬皇女との密通事件で冨に知られる人物。「品」(ほん)は品位(ほんい)で、本邦で親王及び内親王に与えられた位階で一品から四品まであり、無位の者は無品(むほん)とよばれた。

・「左大臣正二位石上尊」石上麻呂(いそのかみのまろ 舒明天皇12640)年~霊亀3(717)年)。物部氏。白鳳元(672)年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)側につき、皇子の自殺にも立ち会ったが、後、赦されて、和銅元(708)年、藤原不比等とともに正二位に叙せらて、左大臣に登りつめた。「竹取物語」のかぐや姫に求婚する五人の貴公子の一人「石上まろたり」は彼がモデルと言われる。

・「右大臣正二位藤原尊」藤原不比等(斉明天皇5(659)年~養老4(720)年)。藤原鎌足次男。息子四兄弟と共に藤原黄金時代を最初に創生した人物。草壁皇子の子軽皇子(文武天皇)擁立に功あり、その後見人として政界に勢力を拡大、文武天皇外戚となり、後の聖武天皇の外祖父ともなって、権力を恣にした。

・「上野多胡郡碑石高四尺濶二尺八寸蓋方三尺」ここを例えば岩波版では「濶(ひろ)さ二尺八寸。蓋し方(ほう)三尺」と訓読している。私も当初そう読んだのであるが、どうも「蓋し」(思うに)という推量の語がここにどうもしっくりこない気がした。更に、調べるうちに、この訓読では種々のサイトにある多胡の碑の拓本や写真を見て計測してもぴったりこない。遂に古墳研究家である吉田氏のHPにある「群馬藤岡白石古墳群」に記された同碑の詳細データに、

『群馬県吉井町池にある多胡(たご)記念館に保存された碑は、高さ125cm幅60cm4角柱上に高さ25cm幅88cm方形の笠石が乗っている。近くで採れる牛伏砂岩(天引石、多胡石)に彫られてい』

るという数値を見るに及び、はたと思い当たったのである。どこも「二尺八寸」に相当・適合しないとすれば――これは「二尺八寸」ではないのではないか? という疑義である。そこで考えたのが最初の違和感である「蓋し」であった。これは「蓋し」ではなく、「蓋」(がい)=「笠」ではないかという発見であった。即ち「八寸の蓋(かさ)、方(はう)三尺。」という訓読である。すると、「●4 やぶちゃん製図碑模式図」中の〈 〉内に示した吉田氏のデータと、美事にそれぞれの数値が近似値になるのである!――こういうの、私は何だかとっても楽しくなってしまうのです!

・「日本紀」「日本書紀」の続編「続日本紀」五の「元明天皇和銅四年三月六日」の条に、ほぼこの碑と同文の『上野國甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等の六郷を割きて別に多胡郡を置く。』とある。

・「織裳」現在の吉井町の折茂(以下「片罡郡山等」までの地域同定は川守氏のHP「多胡の碑と三宅麻呂」で推定されているものを参照させて頂いた。この多治比真人=三宅麿の同定作業は緻密で手堅い労作である)。

・「韓級」現在の辛科神社のある上神保周辺地域。

・「矢田」現在の吉井町矢田。

・「大家」多胡の碑のある現・池地区の御門周辺地域。

・「緑野武美」緑野郡の武美は、現在の入野中学校校庭付近か。

・「片罡郡山※」[「※」=「寺」に(くさかんむり)。]「片罡郡」=片岡郡の「山等」とは、片岡郡山名で、現在の馬庭から山名にかけての地域。なおネット上には「山※」を「山寺」とする一部の資料があるが、採らない。当初「等」で「など」の意かとも思ったが、これは明らかに「山※」という固有名詞である。読みは不明である。

・「羊ハ半ノ字ノ誤ナラン」先のリンク先で拓本を見て頂きたい。これはどう見ても「羊」であって「半」では、ない。「千蟲譜」の栗本瑞見先生は私の好きな博物学者であるが、これはいけません! 断ずる前に、実物を見に行くべき、せめて知る人がりに頼んで拓本をとって実地に検証すべきでしたね、瑞見先生!

・「三郡内三百戸郡成給」川守氏のHP内「多胡の碑と三宅麻呂」には、以上のそれほど広くはないと思われる三地域『に三百戸の人家があったとすると当時としてはかなりの人口密集地だった』と思われると記されている。これらの地名には、素人である私でも一見して何か異質な非日本的雰囲気が濃厚である。冒頭のウィキの記載を待つまでもなく、多胡とは「胡人(中国で北方異民族を指す語。日本語では広く渡来人を言う)が多い」という意味であろう。562年に伽耶国(かやこく)を新羅が滅ぼして、大和朝廷が新羅と親密な関係を持つようになると、本邦には百済や高句麗から多くの渡来人が移入するようになった。金属精錬等の特殊職能集団や有力な豪族となった秦氏のような帰化人勢力が着実に拡大してゆくが、天武・持統帝(673年~大宝2702)年)の頃になると、朝廷はそうした有意に増えた渡来人を意図的に遠隔地に集団移住させる方策を採った。これには大宝律令で国外の使節団が往復する主要街道周辺には外来人を居住させない決まりがあったこと以外に、鉱脈探査や関東等の辺地開拓を彼等に役することをも目的としていたものと思われる。その一つが、この新羅系渡来人を構成員とする多胡郡や未開の武蔵国への新羅郡の設置であったのである。

・「『三郡の内、三百戸の郡となし給ひ、半を多胡郡と成す。』と讀みて其の義、通ずべし」と言うのであるが、辻褄の合う現代語訳には苦労した。

『三郡の内、それぞれを三百戸の郡として再編成なさり、そこから外れた丁度半ば程の残りの戸を合わせて多胡郡とする。』

これでは意味が分かったような分からないような、まどろっこしい拙劣訳だ。そこで、

『三郡の中の三百戸を一郡として再編成なさり、そこから外れた丁度半ば三百程の残りの戸を合わせて別な一郡である多胡郡とする。』

という裏技で訳してみる。瑞見先生、そういう意味? それとももっとシンプルに、

『三郡を三百戸の一郡相当と、まずなさった上で、その丁度半分を多胡郡とする。』

ということか? でもだとすると「の内」というのは如何にもおかしい。とりあえず最後の訳を用いたが、ともかく、瑞見先生、現代語訳も苦しいですよ。やっぱり、先生、「半」じゃない「羊」でんがな(どなたか目から鱗の訳仕方があれば、御教授あれ)。

・「美濃部先生」岩波版長谷川氏注は美濃部『茂資(もちすけ)、五百石御所院番。茂嘉(しげよし)五百石同。義求(のりまさ)、百五十俵。何れに当るか未詳。』とする。

・「法眼」本来は「法眼和尚位」の略で、法印に次ぐ僧位の名称であったが、中世以後は僧に準じて医師・絵師・仏師・連歌師などに称号として与えられた。栗本の場合は医官。

・「栗本瑞見」栗本昌臧(まさよし 宝暦6(1756)年~天保5(1834)年)。通称。瑞見。日本で最初の昆虫図説として名高い彩色写生図集「千蟲譜」(リンク先は私の電子テクスト目次。「栗本丹洲」のところをご覧あれ水族パートを翻刻してある)で知られる医師・本草学者。田村藍水次男であったが幕府医官栗本昌友養子となった。寛政元年奥医師として医学館で本草学を教える傍ら、昆虫・魚介類等の研究を行い、日本の博物学史に重要な足跡を残した人物である。この時、既に何と73歳。

・「文政十一戌子年」西暦1828年。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 上州池村石碑の事

 

 浅間山大噴火の際、その巡検役として関東の村々を巡って御座ったが、その折り、長崎弥之助殿知行所上野国(こうづけのくに)片岡郡池村にとある石碑があった。

 世に陸奥の壺の石碑が古物(こぶつ)とて、世間でも話題になって御座るが、この池村の碑が噂に上ること、これ聞かぬ。

 その土地の者に訊いたところが、

「和銅二年に上野国甘楽(かんら)郡・緑埜(みとの)郡を分けて新たに片岡郡として、羊太夫と申す者にその地を給わったことを記念して御座る碑にて御座います。」

とのことで御座った。

 実見し読んでみたところ、正にその通りで御座った。

 石刷りにして持ち帰ったが、碑面、如何にも古物にして、その字も能書にて御座る。左にその銘を書き留めおく。

 

   弁官の符

上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡並びに三郡の内三百戸を新たな一郡として編成し直し、羊なる者にこれを給い、それを多胡郡と呼称する。

    和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)の日、これを宣言する。

    左中弁 正五位下 多治此真人(さちゅうのべん しょうごいげ たじひのまひと)

    大政官 二品   穂積親王(たいじょうかん にほん ほずみしんのう)

    左大臣 正二位  石上尊(さだいじん しょうにい いそのかみのみこと)

    右大臣 正二位  藤原尊(うだいじん しょうにい ふじわらのみこと)

 

[栗本瑞見注:

 上野多胡郡の碑石は碑面の高さ四尺・幅二尺。それに高さ八寸で三尺四方の蓋(かさ)を配す。

 按ずるに「続日本紀」の和銅四年三月辛亥(かのとい)の条に『上野国甘良郡の織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田・緑野武美(みとのむみ)・片岡郡の山※の六郷を分割再編し、別に新たに多胡郡を置く。云々」とある。初めてこの上野国に多胡郡を配置した際、それを記念して初めて建立した碑である。その文字は至って読み難いために、土地の者はこれを誤って「羊太夫の碑」としてしまった。この「羊」の字は「半」の字の誤りであろう。『三郡を三百戸の一郡相当と、まずなさった上で、その丁度半分を多胡郡とする。』と読んだならば、その文意が通ずるように思われる。

   文政十一戌子(つちのえね)の年四月十七日に書き記して以って美濃部先生に贈る。

                            法眼(ほうげん)栗本瑞見]

[やぶちゃん字注:「※」=「寺」に(くさかんむり)。]

 

 

*   *   *

 

 

 其法に精心をゆだねしるしある事

 

 或人の語りけるは、日蓮いまだ初學の時、建長寺の開山大覺禪師は老分にて其德も勝れたれば、日蓮も親しみて隨心なりけるが、或時日蓮へ雨乞の事命ありければ、右禪僧へ向(むかひ)て「かく/\の事也、我行力(ぎやうりき)にて雨降んやと申ければ、隨分捨身だにして一途に祈らんに、行法空しかるべき樣なしと答ふ。日蓮も姶始て覺悟して其寺に戻り、一七日斷食して一室にとぢ籠(こもり)、命をかけて祈ける。若(もし)雨を祈得ずば立所に死(しな)んと念じければ、果して感應(かんのう)の雨を得けるにぞ、都鄙(とひ)其行法を稱しける故、壇を下りて直に右禪僧へ至りて其禪師を尋しに、彼禪師は未一室に入てありし故かくかくと語りければ、彼禪師悦びて立出ぬるが、是も七日斷食をなして行法なしける故、日蓮其やうを尋ければ、御身は雨乞の命を受たれば命に代りて祈らんはさら也、我は命を不請(うけず)といへども、百姓の愁ひを救ふは宇宙に生ずるものいかで等閑(なほざり)にせん、御身の行力は雨乞得んなれども、もし乞(こひ)得ざる時の爲に我も祈りしとなり。日蓮も生涯右禪師の徳を耕稱し感嘆なしけると也。故人はかく難有心も有りし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。以前にも示したが、鎭衞の実家安生家の宗旨は禅宗の曹洞宗、根岸鎭衞の墓は東京都港区港区六本木の善学寺という寺院にあることから、根岸家の宗旨は浄土宗であることが判明している。今までの複数の記事から、根岸が日蓮宗が特にお嫌いであること、これ最早、ダメ押しで明白。

・「日蓮いまだ初學の時」「初學の時」とある以上、日蓮(貞応元(1222)年~弘安5(1282)年)が日蓮宗を開宗する以前である。日蓮は天福元(1233)年に天台宗(後に日蓮宗に改宗)清澄寺(現在の鴨川市在)の道善に入門、暦仁元(1238)年出家後、仁治元(1240)年に比叡山及び高野山に遊学、建長5(1253)年の清澄寺帰山直後の4月28日早朝、日の出に向かって「南無妙法蓮華経」を十度唱えて立教開宗、この日の正午には清澄寺持仏堂にて初説法を行ったとされている。後に鎌倉に渡り、文応元(1260)年には「立正安国論」を著して北条時頼に提出、他宗を厳しく排撃、幾多の法難を受ける。その後、文永5(1268)年蒙古の襲来によって「立正安国論」の予言的中を訴え、幕府及び建長寺蘭渓道隆、極楽寺忍性等に十一通の日蓮宗への改宗を促す書状を認めている。しかし、その修行時代に日蓮が蘭渓道隆に接心したとしてもおかしくない。寧ろ「立正安国論」の外患の予告は修行時代に接心したかも知れない渡来僧蘭渓からの情報であったと考えてもよいように思われる。但し、ここにあるような密接な関係や雨乞いの事実については私の鎌倉郷土史研究の中では出逢ったことはない。日蓮の雨乞いの法力は夙に著名で、鎌倉では文永8(1271)年の旱魃の折りに極楽寺の忍性(にんしょう)と雨乞い法力を競い勝ったとする伝承が知られ、その際、法を修したという池が七里ヶ浜近くの山上にある霊光寺内に残っている。本話柄は後世に忍性との勝負譚をベースに非日蓮系の仏教徒によって偽造された作話であろう。「老分」と言うが、仮に日蓮開宗の直前で20代後半、蘭渓道隆は未だ40歳前である。

・「建長寺」臨済宗建長寺派大本山巨福山建長寺。鎌倉五山第一位。建長5(1253)年創建。本尊地蔵菩薩、開基鎌倉幕府第5代執権北条時頼(嘉禄3(1227)年~弘長3(1263)年)、開山蘭渓道隆(次注参照)。

・「開山大覺禪師」蘭溪道隆(建保元(1213)年~弘安元(1278)年)。南宋西蜀(現在の中国四川省)から渡来した禪僧。「大覺禪師」は諡(おくりな)。蘭渓は道号、道隆は諱(いみな)である。以下、ウィキの「蘭渓道隆」から引用する。『13歳で出家し、無準師範、北礀居簡に学んだ後、松源崇岳の法嗣である無明慧性の法を嗣ぐ。1246(寛元4年)33歳で、入宋した泉涌寺僧、月翁智鏡との縁により、弟子とともに来日』し、『筑前円覚寺・京都泉涌寺の来迎院・鎌倉寿福寺などに寓居。宋風の本格的な臨済宗を広める。また執権北条時頼』が深く帰依し、招かれて北条氏の個人的な祭祀寺院として創建された建長寺開山となった。一時期、元の密偵の嫌疑を懸けられたり、讒言を受けたりして伊豆や甲斐国(現・山梨県)に身を置いた時期もあるが、京都の建仁寺や鎌倉の寿福寺等を経て、最後は建長寺に戻って没した。建長寺西来庵に現存する木造蘭渓道隆像は私の好きな鎌倉芸術(造像は室町時代)の一つである。

・「一七日」衍字、若しくは「一(ひと:一週)七日」の意か。七日で採る。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 その法に一心を委ねれば効験のある事

 

 ある人が語った話。

 日蓮がまだ学僧であった頃、建長寺にその開山であった大覚禅師とかいう出家が御座った。徳も優れて御座った老僧で御座ったれば、日蓮も日頃より親しく教えを請うておった。

 あるとき、その日蓮に雨乞いの命が下った。日蓮はこの大覚禅師に対面(たいめ)し、

「我ら、雨乞いを命じられ申した。我が法力にて、これ、雨降りましょうや!?」

と申し上げたところ、

「一途に捨身(しゃしん)致いて一心に行じたらんには、その行法、空しくして験(げん)あらざるなんどということ、これ、なし!」

と答えた。

 日蓮はこれを聞きて始めて覚悟致いて、己(おの)が寺に戻ると七日断食して一室に閉じ籠もり、命を懸けて祈ったのであった。

「――もし雨を祈り得ざれば、直ちに死なん!」

と念じて修したところ、果たして法力に感応して雨を得た――と思うた――。

 京鎌倉と言わず鄙と言わず世の人々はこぞって日蓮が法力を褒め讃えた。

 ――さて雨乞いに成功するや、日蓮は法を修して御座った壇を下りると、真っ先にかの建長寺に駆け込んで、禪師を訪ねたところ、かの禪師は一室に籠もって御座った故、日蓮が、

「禪師! 雨、これ、降り申した!」と告ぐると、かの禅師、満面の笑みを浮かべ、部屋を出て来たのであったが――聞けば、禪師もまた、七日断食致いてある行法を執り行っておったとのこと。

 日蓮が、

「何の行法をなされて御座ったのですか?」

と訊ねたところ、

「――御身は雨乞いの命を受けた。なればこそ一命に代えて祈らんは当然のことじゃ。――拙僧は命を受けては御座らねど、民百姓の愁いを救うは、これ、この宇宙に生を享けた者として、何故、等閑(なおざり)にすること、これ、出来ようか?! 御身の法力にては雨を乞い得るであろうこと必定――なれども――万が一、乞い得ざる折りのため、我も祈って御座ったのじゃ――」

とのお答であったと。

 これに日蓮も感涙に咽び、生涯、この禪師の徳を讃え感嘆致いた、ということで御座る。

 古えの人には、かく有り難いありがたい誠心、これ、あったことで御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 不受不施宗門の事

 

 日蓮宗に不受不施といふ事あり。往古御施物(せもつ)を不受事に付御科(とが)を蒙り、夫より一流停止(ちやうじ)の宗派也。理り成事也。右不受不施の派を守るものは飽迄かたましき者也。予評定所留役を勤ける頃、懸りにはあらざりしが聞及びしは、評定所或日立會の日に一人の僧駈込て、不受不施の宗派を保し者也、遠嶋を願ふ由は、遠嶋被仰付けるが、其後上總國南飯塚村にて右宗派を保し者あり。予が懸りにて追々糺(ただ)しけるが、いかにもかたましく思ひ込たるものに有りける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:日蓮絡みで連関。日蓮宗嫌いダメ押しのダメ押し。まあ、禪天魔、念仏無間と言われた日にゃ、本家禪宗(曹洞宗)で養家浄土宗、本人は神道へシンパシー旺盛の鎭衞、日蓮は、さぞ、お嫌いじゃろうて。

・「不受不施」ウィキの「日蓮宗不受不施派」から引用する。『日蓮を宗祖とし、日奥を派祖とする、日蓮門下の一派で』、『桃山時代に関白豊臣秀吉が亡き母大政所の回向のための千僧供養に日蓮宗の僧侶も出仕を命じる事件が起きた(1595年)。このとき日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派と、出仕を拒み不受不施義の宗規を守ろうとする不受不施派に分裂した。そして京都妙覚寺の日奥がただ一人出仕を拒否して妙覚寺を去った。さらに徳川家康は大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論させ(大阪城対論)、権力に屈しようとしない日奥を対馬に流罪にした(1599年)。日奥は13年後赦免されて妙覚寺に戻った』。『江戸時代に入ると身延山久遠寺(受不施派)の日暹は、武蔵国池上本門寺(不受不施派)日樹が身延山久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え(1630年)、幕府の命により両派が対論する事件が起きた(身池対論)。しかしこのとき身延山久遠寺側は本寺としての特権を与えられるなど、幕府と強いコネクションをもっていたことからそれを活用し、結局政治的に支配者側からは都合の悪い不受不施派側は敗訴し、追放の刑に処されることになった。このとき日奥は再び対馬に配流されることになったが、既になくなっており、遺骨が配流されたとされる』。『そして幕府は、寺領を将軍の寺に対する供養とし、道を歩いて水を飲むのも国主の供養であるという「土水供養論」を展開し不受不施派に対し寺請(寺請制度参照)も認めない(不受不施派寺請禁止令)など、禁制宗派とした(1665年)。このとき安房小湊の誕生寺など一部のグループは寺領を貧者への慈悲と解釈して表向き幕府と妥協する「悲田派」と称する派をたて秘かに不受不施の教義を守っていたが、これも発覚し関係者は流罪に処せられた(1691年)』。『不受不施派の信者は日蓮の地元であった上総国、下総国、安房国や室町期に日蓮宗勢力が拡大した備前国、備中国(岡山藩)に多く潜伏していた。彼らは厳しい摘発を受け、隠れキリシタンのように刑罰を受けるか、改宗の誓約書を取られるかした。不受不施派の信者は、他宗他派に寺請をしてもらうが内心では不受不施派を信仰する「内信」となる者が多く、一部の強信者は他宗他派への寺請を潔しとせず無籍になって不受不施派の「施主(法立)」となった。また不受不施派の僧侶は「法中」と呼ばれ、それを各地の「法燈」が率いた。そして不受不施派では教義上「内信」は不受不施の信者とは一線を画され直接「法中」に供養することが出来ず、「施主」がその間を仲介するという役割を果たした。この信者同士の絆が強固な地下組織を形成し、この時代を生き抜いた。またこの時期岡山の不受不施派では、法立が導師を務めることが出来るか否かをめぐり導師不導師の論争が起こり岡山だけではなく不受不施派全体の問題となった。そして、日向に配流中の日講を中心とする不導師派(講門派)と讃岐に配流中の日堯を中心とする導師派に分かれ、前者が不受不施日蓮講門宗の系統となり後者が日蓮宗不受不施派の系統となった』。近世、『相模国(神奈川県)では鎌倉の妙本寺を中心に広がりを見せ』、『1667年の「不受不施帳」によれば』鎌倉の『本興寺(大町)・妙典寺(腰越)・本竜寺(腰越)・仏行寺(笛田)・妙長寺(乱橋)・円久寺(常盤)』を始めとして相模国だけで26ヶ寺を数えた。『これは1633年の「本末帳」に照らすと末寺の68%にあたるという。(鎌倉市『鎌倉市史・近世通史編』吉川弘文館、1990年、p353参照。)』。『明治維新を迎えると、政府は釈日正を中心とした不受不施派から宗派再興、派名公許の懇願受け、信教の自由の名の下明治9年(1876年4月10日)、不受不施派の宗派再興、 派名公許を布達した。これにより同年、釈日正は岡山県岡山市に竜華教院を創建し、その後日奥の京都妙覚寺の名をとり日蓮宗不受不施派の本山とした(1882年)』。――要は純粋に祖師の教えを守らんとするのである。日蓮宗以外の者から施しを受けず、日蓮宗以外の僧侶に施しをしないという、極めて分かり易い、言わば日蓮宗のファンダメンタリズムの一派である。いや、日蓮個人の思想から言えば、彼等こそ正しく宗祖の教えを守っていると言えると私は思う(勘違いされては困るが、私は日蓮宗不受不施派にては、これ御座らぬ)。天皇を日蓮宗化することを下げちゃったり、教団を作ることが本来の信仰を危うくすると明確に考えていた親鸞の教えを語らずにとんでもない教派集団を作って大枚の金を搾取している集団に比べたら、私はずっと共感出来るね。

・「予評定所留役を勤ける頃」根岸が評定所留役であったのは宝暦131763)年から明和5(1768)年で26から31歳迄の間であった。

・「書役」評定所で文書の書写・浄書をした書記。現在の裁判所書記官相当であるが、底本の鈴木氏の注によると、文書の草案を作成したり、記録書類の作製は書物方という別職で、その書物方の上役に書類整理の総括者として改方という上席があったとある。

・「評定所或日立會の日」「評定所立合」で評定所の定期会合の一つを指す語である。毎月61425日に三奉行(寺社・町・勘定奉行)と大目付・目付が出席して評議(評定ではない)を行う。式日寄合(彼等による定例日評定)に対する語。

・「由は」底本には右に『(一本「よしにて」)』と注す。これで採る。

・「上総国南飯塚村」現在の千葉県山武(さんぶ)郡大網白里(おおあみしらさと)町南飯塚。九十九里浜から8㎞ほど内陸に入ったところにある。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 日蓮宗不受不施派の事

 

 日蓮宗に不受不施という教えがある。その昔、頑固に施物を受けようとせぬため、御公儀から厳しく罰せられ、以来、宗派としての活動は禁じられておる。

 この御禁制の儀、私は至極尤もなことと存じておる。

 何せ、この不受不施の派を守る者、心底、心がねじくれておるからで御座る。

 私が評定所留役を勤めて御座った頃――直接の担当ではなかったのであるが――以下のような話を聞いた。

 ある日の評定所立合の日、一人の僧が突如駆け込んで来ると、

「不受不施の宗派を信ずる者である。どうか、遠島を、願う!」

と不遜に吐き捨てるように申す。――評定所も、この尊大なる態度に即座に遠島仰せ付けた。

 ――かく厳しく致すに、またしてもその後、上総国南飯塚村にこの派を信ずる者あること、これ露見致し、その度は私が実際の担当となって時間をかけ、本人の棄教・反省なんどのあればこそと、それなりの思いを以って種々糺問訊問を致いたが、――いや、もう話にならぬ――如何にも幾重(いくえ)にもねじ歪んだ、異様に思い込みの激しい者にて御座った。

 

 

*   *   *

 

 

 好む所左も有べき事

 

 予が知れる人に山本左七といへるあり。飽迄酒を好みける。人の進めによりて、屋鋪(やしき)の地面藤によかるべしとて、藤を植て棚などよく拵けるが、藤は酒を根へかけて土かひぬれば格別によしと人のいひける故、酒を取寄せけるが先(まづ)一盃呑て、かゝる酒を藤に呑せんも無益也、隨分あしき酒を取て可然とて、又別段に酒壹升價ひ鐚(びた)にて五六十文の酒を取寄、藤に懸(かく)べしと思ひしが、去にても百文の内の酒も香るものやとて、則(すなはち)先少給見(たべみ)しに、百文の内には下料(げりやう)なる物なり、是にても酒は酒なりとて壱升を何の事なく呑て、迚も酒にては藤に振廻(ふるまひ)がたしとて、酒の糟を買ひて土に交(まぢへ)て、藤の根かひしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「飽迄かたましき」不受不施派は気持ち悪いが、こんな「飽迄かたましき」者はちと可愛いで連関。

・「山本左七」諸注注せず、不詳。

・「藤は酒を根へかけて土かひぬれば格別によし」岩波版長谷川氏注に『水に酒を加えて活けると長くしおれず、しおれた藤に酒を注ぐと生きかえる。また、実を煎って酒に入れると腐らぬなどという。』とあり、ネット上にも現在でも藤の肥料として酒粕を実際に用いて効果がある由、記載がある。

・「鐚」鐚銭(びたせん)。室町から江戸初期にかけての永楽銭以外の銭又は一文銭の寛永鉄銭の称。ここでは銭単位の一文。ここから本邦では「鐚」は粗悪な、最低の金の意となった。宝暦明和年間(17511771)は小売価格で米一升100文、掛蕎麦一枚が16文であった。

・「なる物なり」底本には右に『(尊經關本「成奴なるが」)』とある。これで採る。

・「藤の根かひしける」底本では「かひ」の右に『(飼)』と注す。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 好きで好きでしようがない事にはさもあらんという事

 

 私が知っている人に山本左七という者がおる。あくまで酒が好きな男である。

 人が、彼の住む屋敷の土地には藤がよい、と薦めるので、藤を植えて棚なんども上手く拵えたりして御座った。

 また、藤は酒を根へかけて土を肥やせば格別によい、と人が言うので、ある時、酒を取り寄せてはみたものの、まずはと、一杯呑んで見たところが、左七、独白(ひとりご)ちて、

「……!……このような良き酒、藤に呑ますこと、これ、無益な! もっと悪い酒を取り寄せて撒くに若くはなし!……」

と、また別に、一升当り鐚銭(びたせん)五、六十文という安酒を取り寄せて藤にかけることと致そうと思った。

 さて、その酒が来たところが、左七の独白ちて、

「……それにしても……百文もせぬ酒というものにても……これ、酒の香の、あるものにても御座ろうか?……」

とて、そこはまずは、と少しばかり呑んで見たところが左七の独白ちて、

「百文もせぬ酒とは、これ、安物なるもの……もの乍ら……これにても、酒は、酒じゃ!」

とて、その一升、何なく呑みてからに、

「……さても酒は藤に振る舞えんのう……」

と、酒糟を買(こ)うて土に混ぜ、藤の根の肥やしと致いた、という話。

 

 

*   *   *

 

 

 志す所不思議に屆し事

 

 山川下總守いまだ御小納戸勤ける時、同役の山村十郎右衞門差料の鍔(つば)の形甚(はなはだ)面白きとて、其形を以て新規に打せ度(たく)望(のぞみ)なれば、則(すなはち)十郎右衞門鍔をはづして下總守方へ送りけるに、其職せる者の方へ右の鍔を持せ遣しける路にて、右使の者いづちにや彼鍔を落しける由。其僕の無念(ぶねん)を呑めぬれども、人の祕藏の鍔を紛失せし事の氣の毒さに、色々右途中其外搜しぬれども行方なければ、詮方なくて山村へ詫けるに、山村も落し候上は是非なしとて其儘にて事過ぬ。され共下總守心には、何卒右鍔を尋、似たる品也共買得て戻しなんと常に心にかゝりしが、山村は京都町奉行に成て上京し、下總守は御目付へ出て、一と年久能御普請に御作事奉行代りを勤(つとめ)駿州(すんしう)へ參りつるが、其時御目付代りにて御使番より小長谷(こながや)喜太郎駿府へ行て同じく御普請の掛りなしけるに、喜太郎が方へ下總守至りし時、茶など運びし喜太郎家來の帯しける脇差の鍔を見るに、先達(せんだつ)て失ひし鍔にまがふかたなければ、夫(それ)となしに所望して能々見るに、聊違なかりける故大に悦びて、喜太郎家來へ相應の挨拶謝禮して申請、御用濟て歸府の上、早速山村方へ登せけるに、兩三年の事なれ共、下總守へ通し候節鍔をはづしたる儘にて有し故、仕合見(しあはせみ)しに少しも違はざりしと。信濃守後に御勘定奉行に成りて語りしが、山川も同く咄ける。今に山村信濃守にて都返(みやこがへ)りとて祕藏なしけるよし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:酒への執心、紛失した鍔への執心で連関。

・「山川下總守」(享保171732)年~寛政2(1790)年)岩波版長谷川氏注によれば、『貞幹(さだもと)。宝暦三年(一七五三)西丸御小納戸、同十年本丸御小納戸。安永三年(一七七四)御徒歩頭、同四年目付、同年久能普請に関与。』とある(下線部やぶちゃん)。

・「御小納戸」将軍側近の小姓に準じて常に将軍に伺候し、小姓の下で将軍の食事膳方・居室や御庭の管理清掃・理髪・手水・時計管理・老中及び若年寄登城報告等、極めて煩瑣な身辺雑用御用全般を担当した。

・「山村十郎右衞門」山村良旺(たかあきら:享保191734)年~寛政9(1797)年)。岩波版長谷川氏注によれば、『宝暦三年西丸御小納戸、同八年本丸御小納戸。明和五年(一七六八)目付、安永二年(一七七三)京都町奉行、同年信濃守、同七年勘定奉行。』とある。勘定奉行は天明4(1784)年までで、同年から寛政元(1789)年まで南町奉行を勤めている(根岸の4代前である)。この人物、相当に有能な人物であったことを、この大抜擢の経歴が物語っている。

・「京都町奉行」寛文81669)年、京都に設置された遠国奉行の一。老中支配ながら実務上は京都所司代の指揮下で職務を行った。東西奉行所が設置されて江戸・大坂の町奉行と同様、東西1ヶ月ごとの月番制であった(但し、奉行所名は東御役所及び西御役所と呼称された)。京都の行政・裁判に加え、周辺4ヶ国の裁判・天領の行政及び門跡寺院を除いた寺社領の支配を職掌とする多忙な重職であった(以上はウィキの「京都町奉行」を参照した)。

・「御目付」旗本・御家人の監察役。若年寄支配。定員10名。

・「一と年」後述する小長谷喜太郎の事蹟からこれは安永5(1776)年であることが分かる。

・「久能御普請」「久能」は現在の静岡県静岡市駿河区にある久能山東照宮のこと。晩年を駿府で過ごした徳川家康は元和2(1616)年死去後、その遺命によって、この地に埋葬された。元和3(1617)年、二代将軍秀忠によって社殿が造営。後、三代将軍家光が造営した日光東照宮へは、ここから御霊(みたま)の一部が移された。「久能御普請」とはこの久能山東照宮の50年に一度の社殿及び付属諸建物の漆塗り替え及び補修普請のことを言っているものと思われる。

・「御作事奉行」幕府関連建造物の土木・造営・修繕を掌った。特に木工仕事が主業務で、大工・細工・畳・植木・瓦などの部署をも統括していた。

・「駿州」駿河国。現在の静岡県の大井川左岸の中部と北東部域に相当する。

・「御使番」若年寄支配。目付に従って二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの遠国奉行や代官といった地方で職務を執行する幕府官吏を監察する業務に従事し、江戸市中火災時に於ける大名火消・定火消の監督なども行った。元来は戦国時代、戦場に於ける伝令・監察・使者を務めた役名に由来する(以上はウィキの「使番」を参照した)。

・「小長谷喜太郎」小長谷政房(元文5(1740)年~安永9(1780)年)。底本鈴木氏注によれば、明和4(1767)年御小姓、安永3(1774)年御使番、同5(1776)年『久能山御宮修補のことをつとめ黄金十枚賞賜さる』。同7(1778)年、寄合。生き急いだ感じの人物である。美少年だったのかなあ……。

・「駿府」駿河国国府。明治になって現在の静岡市に改称。

・「兩三年の事なれ共」の言葉により、本話柄の前半は安永2(1773)年の山村十郎右衞門良旺が京都町奉行になる直前の出来事であったことが分かる。

・「御勘定奉行」勘定奉行。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司る。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つで、共に評定所を構成した。定員約4名、役高3000石。老中支配で、勘定奉行自身は郡代・代官・蔵奉行などを支配した。享保6(1721)年、財政・民政を主に扱う勝手方勘定奉行と訴訟関連を扱う公事方勘定奉行とに分かれた

・「都返り」京都に江戸から齎された帰って来た鍔――京都町奉行時代の多忙な日々の思い出に勘定奉行に昇進して帰府した記念として名付けたか。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 一心の思いの不思議に届くという事

 

 山川下総守貞幹殿が、未だ御小納戸役を勤めて御座った頃、同僚の山村十郎右衛門良旺殿の差料の鍔(つば)を見て、

「その御鍔の姿、甚だ面白う御座る。それを型と致いて以って新たに打たせてみとう御座るが、如何か?」

と望んだ故、その日の内に、山村殿、快くかの鍔を外して下総守殿屋敷に送って御座った。

 そこで下総守殿も直ぐに家来の者に命じ、出入りの彫金職人の元へこの鍔を見本の型として届けさせたところが、この使いの者、一体、どこでどうしたものか、その途次、大事な鍔を紛失してしもうたのであった。

 下総守殿はこの下僕の不注意を急度(きっと)叱りつけてはみたものの、ないものは、ない――他人から借りた大事な鍔を紛失したというこの余りのなさけなさに――さんざん人を遣わしては、かの職人方への道すがらなんど、目ぼしい所を随分と探させては見たけれども、ないものは、ない――結局、見つからず仕舞いで御座った。

 詮方なく、下総守殿は山村殿に正直に事実を述べ、深く詫びて御座ったが、山村殿も、

「いや、後家来衆が落といたとなれば、これ、是非もないこと。諦めましょうぞ。」

と、惜しみ気にする風情もなく、至って温和に受け流して、その場はこともなく過ぎて御座った――。

 ――そうは言うものの、下総守殿、内心には、

「……何卒、かの鍔、必ずや尋ね求め……せめてかの面影に似た品なりとも買い求め、山村殿へお返しせずんば申し訳が立たぬ……」

と――いつまでも、その心のどこかに、この鍔が――かちり――と引っ掛かって御座ったのであった。

 しばらくして、安永二年に山村殿は京都町奉行と相成られて上洛、下総守殿は同二年に御目付へ昇進なされた。

 そんな、安永五年の年、下総守殿、久能山御普請に当たって幕府御作事奉行代行として駿州へと参上致いたのだが、その時、やはり御目付の代行として御使番を勤めて御座った小長谷喜太郎殿が駿府に行き、同じく普請監督の係りに就いて御座った。

 喜太郎殿宿所へ下総守殿が訪ねた折りのこと、茶などを運んで参った喜太郎殿御家来が腰に帯しておるところの脇差の鍔が、たまたま下総守殿の目に入った。

 すると――それは!――

 先に紛失致いた、あの鍔にまごうかたなきものにて御座った――。

 下総守殿が、落ち着きを装いつつ、それとなく所望致いて、間近によくよく見てみたところが――やはり!――聊かの違いも、これ御座ない。

 下総守はもう、芝居もばれる大喜び――喜太郎殿に礼を正して正直に訳を話し、その家来へも相応の謝礼を成して、何事もなく気持ちよく鍔を譲渡して貰った。

 下総守、普請御用が済んで江戸に帰府後、直ちに京都の山村殿の元へ右鍔を送らせたところ――山村殿方からの返し、

『もうあれから三年も経って御座ったが、下総守殿に鍔を遣わしたる節、かの差料は、鍔を外したままにして今も御座った故、送って下された鍔を、それに合わせてみたところが、いや! ぴたりと嵌まって少しも違わざるものにて御座った。』

とのことであった。

 これ、信濃守殿が、後に御勘定奉行となられた折りに私に語られた話にて御座る。

 同じく私の知り合いで御座る山川下総守殿も全く同じように話しておられた。

 いまも山村信濃守の家内(いえうち)に『都返り』と名付けられて秘蔵されておるとのことで御座る。

 

 

*   *   *

 

 

 義は命より重き事

 

 近き頃の事とや。いか成者の身の果なるや、兩國橋にて袖乞(そでごひ)しける浪人、四五才の子をつれて往來へ合力(かふりよく)を願ひけるが、或日往來の情(なさけ)もなくて一錢も貰ひ得ざりしに、其子空腹に成しや頻りに泣て不止、親も不便に思ひて辻に出し餠賣に、此者空腹とて歎けども未一錢も貰ひ得ず、後程貰ひなば可遣間、一つ商ひ呉候樣に申ければ、餠賣聞て、我等も今朝より商ひなし、難成よしつれなく申ければ、いとゞ其子は泣さけびけるに、側に居(をり)し雪踏直しの非人、有合(ありあひ)の錢を少々遣し、甚(はなはだ)の御難儀也立替進ずる由申ければ、忝(かたじけなき)由厚く禮いふて彼餠を調へ其子へあたへ、往來へ願ひ錢を乞受(こひうけ)かの非人へ戻し、其子を橋の上より川中へ投入、我身もつゞきて入水(じゆすい)して果しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。しかし余りと言えば余りの悲惨な話ではないか。これが「命」より重い「義」か? 餅売りが餅を与えていたら、この浪人も子も入水しなかったと考えた時、ますます私の憂鬱は完成するのだ。――「好死不如惡活」(好死は惡活に如かず)(清・「通俗編」巻三十八)――この話、一読、酷く哀しい。その情景が私には見てきたように眼前に浮かぶ。

・「袖乞」行く人の袖を引いて物を乞うこと。物乞い。

・「合力」経済的援助。

・「雪踏直しの非人」「雪踏」は雪駄。草履の一種で竹皮で丁寧に編んだ草履の裏面に獣皮を貼って防水機能を与えたもので、皮底の踵(かかと)部分には後金を打って保護強化されている。特に湿気を通し難い構造になっている。「雪駄直しの非人」江戸の非人は、全国の被差別部落に号令する権限を幕府から与えられていた穢多頭(えたがしら)であった浅草矢野弾左衛門(歴代この名を襲名した)の統轄下に置かれていた。町外れや河原の非人村の小屋を居住地とし、大道芸・罪人市中引廻しや処刑場手伝い・町村の番人や本話のような各種の卑賤な露天業・雑役、物乞いを生業(なりわい)としていた。ウィキの「非人」には更に、『死牛馬解体処理や皮革処理は、時代や地域により穢多』『との分業が行われていたこともあるが、概ね独占もしくは排他的に従事していたといえる。ただしそれらの権利は穢多に帰属した』と記す。この見かねた非人――先行する「卷之二」の「非人に賢者ある事」を参照されたい。このような真心を持った人々が社会の底辺にいた、いや、底辺にこそ、いるのである。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 義は命より重いという事

 

 近き頃のことである。

 如何なる武士のなれの果てか、両国橋にて、物乞いをする浪人――四、五歳の子を連れていた――、往来の者に施しを願ってその日暮しをしていた。

 ある日のこと、往来の情けに恵まるること、これなく、日がな一日経っても、一銭も貰うこと、出来なんだ。

 その子、腹がへってどうにもならずなったか、頻りに泣いて止まぬ。

 親たる浪人も不憫に思うて、傍らに辻に出張っておった餅売りに、

「……この者、空腹故、泣いて御座るが、今日は未だ一銭の施しさえも得ること、これ、御座らぬ。……後程、貰ろうたれば、必ずお返し致すによって、……餅を一つ、売って下されよ……」

と申した。しかし餅売りはそれを聞いても、

「我らも今朝から、いっちょも売れず、商売上がったり。お断りだね。」

とけんもほろろに断った。

 ――ますます、子は泣き叫ぶ――

 ――と、その時、たまたま側にいた雪駄直しの非人、あり合わせの銭を少々浪人に差し出だいて、

「……畏れながら、甚だ難儀のご様子。……賤しき者ながら、拙者が立て替えて進ぜましょうぞ。」

と申したので、浪人は、

「……!?……か、忝(かたじけな)い!…………」

と厚く礼を言うて金子を受け取ると、それで餅売りから餅を買い、子に与えた上、再び往来に立って銭を乞うた。

 ――暫くして、餅代に叶う幾足りかの施しを貰ろうた。

 ――すると浪人は、その立て替えて分の銭を非人に戻すと――

 ――橋の上より子を川に投げ入れ、我が身も後に続いて――入水し果てて御座った。――

 

 

*   *   *

 

 

 寺をかたり金をとりし者の事

 

 駒込にて越中屋とて有德の者あり。或夏の暮に門へ床机(しやうぎ)を並べ、あたりの者四五人一同涼みて咄居たりしが、菩提所出家壹人來りて門口へ見廻り、越中屋を見て大きに肝を潰し、御身は死し給ふ由故、頭剃(かうぞり)に來りたりと言ければ、越中屋大きに驚き、扨/\忌はしき坊主哉とて、其所に有し者も、仔細こそ有らんとて大に笑ひ、いづれ唯にても歸されず、酒にても呑て參るべしと、何れも祝ひ直しに一盃呑めくと、其席の者を皆々呼入て酒など呑ける上にて、彼出家を尋しに答けるは、昨日の晝過(すぎ)て一僕連し侍來りて御身の一類の由、御身病死に付家内は上下歎き沈みぬれば取しきり世話する者なし、我等ゆかりゆへに來りて寺の取置の事も談じ侍る、是より歸りには何か調物(ととのへ)もいたしける由をいひけるにぞ、人の死せしに僞りもなきものなれば、誠の事と心得、右侍に支度など出し饗應しけるに、物くひ酒呑みて硯紙など借りて、金子二三兩懷中より出し、色々勘定の躰(てい)故、何ぞ用(よう)有(あり)哉(や)と和尚尋ねければ、是々の品をも調候積りなるが、少し金子不足と思へば勘定いたし申也、何れにも今晩申付ざれば明日の葬送も調ひがたし。若(もし)手元に有合(ありあへ)ば二三兩借し給へといひし故、其樣疑ふべき人品(じんぴん)にもあらざれば、金子三兩借(かし)遣しけるが、扨は右金子はかたられ、馳走は仕損(しぞん)也とかたりけれは、一座大笑ひをなせしと、その最寄の人語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。先行する話柄にもしばしば見られた奇略の詐欺犯罪シリーズである。

・「越中屋」「有德の者」とあるからには豪商であろうが、不詳。

・「頭剃(かうぞり)」これは出家して僧となるために剃髪することを言うが、また、しばしば死者に戒をさずけると同時に髪を剃ることをも言った。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 寺を騙してまんまと金を奪取した者の事

 

 駒込に越中屋という豪商がいる。

 ある夏の夕暮れ時、門口の辺りに床机を並べ、近所の者四、五人と涼んで世間話なんど致いておったところへ、越中屋菩提寺の僧が、一人袈裟を抱えて汗だくになりながらやって来、床机に座った越中屋を見るやいなや、吃驚仰天、

「……お、御身は……ご逝去なされた由……聞き及ぶによって、今日は……頭剃(こうぞり)に参ったのじゃが?……」

と言うので、越中屋も吃驚り。

「さてさて! 縁起でもない冗談を申す坊主じゃ!」

それを受けて、その場におった者どもも、

「はっ! はっ!……こりゃまた、何やらん、仔細があろうってもんだぜ!」

と大笑い。越中屋も、

「ともかくも、非礼なる振る舞い。いずれこのまま、ただでは帰されんぞ!……まあ、酒でも呑んで行かれるがよかろうぞ。……いずれにせよ、験(げん)直しの祝い直しじゃ! 皆の衆! 宅(うち)へ入(い)って一杯呑んでっておくんな!」

とそこにおった僧や男どもを、みんな呼び入れ、酒なんど酌み交わしつつ、かの僧に謂れを訊くと――

「……昨日の丁度、昼過ぎ、下僕を一人連れた侍が当寺を訪れたんじゃ。……そうして御身の親類の由申し、

『越中屋儀、急の病いにて、これ卒(しゅ)っして御座った……越中屋家内(いえうち)は火の消えた如、すっかり嘆き沈んで御座れば、葬儀万端、これ、取り仕切り世話する者とて御座らぬ。……我ら越中屋が縁なる者なれば、取り急ぎ越中屋へ参り、とりあえず、寺への埋葬の段等も御相談致そうと存じて参った。……(独白ながら僧に聞えるように)これより帰る途中は……そうそう、何かと葬儀のために買い調えておくものも御座ったのぅ……』

とのこと。……いや! 人が死んだと言うを……まさか、偽りなんどとは思いもせねば……当然、誠のことと思うて……昼も食せず取り急ぎ参ったというこの侍に、膳などを出だいて饗応致した。……すると、この侍、早朝、遠方より徒歩(かち)立ちにて出で、いっさんに参ったればとか何とか申しての、……まあ、食うわ食うわ、呑むわ呑むわ、……鱈腹食うた後、……硯と紙を所望、金子二、三両を懷から出だいて……何やらん、いろいろ勘定し思案致いている様子なれば、

『……御仁、どうか致されたか?』

と拙僧が訊ねたところ、

『……いやさ、これこれの葬儀の物、これより買い調えて帰らんとするものなれど、……少々、金子が足らぬように思うに付、勘定致いており申した。……何れにせよ、今晩申し付けて用意致さねば、明日の葬送も間に合いそうも御座らぬ。……もし、和尚、手元にあらばの話しで御座るが……二、三両、都合して頂けると助かるので御座るが……』

と申す故……いや! もう、その立ち居振る舞いから人品、卑しからざる風体(ふうたい)にて御座ったれば、……金子三両を貸した――

――糞! さてはかの金子、騙し取られた! 出した馳走も! 糞! 食われ損じゃが!!」

と糞にされた坊主は糞踏むように地団駄踏んで、一座の者ども、大笑い致いたとのこと。

 その越中屋の近隣に住む者の話しで御座る。

 

 

*   *   *

 

 鼬の呪の事

 

 金魚船又は無據(よんどころなき)品などに鼬の懸りて難儀せんには、左のごとく書て札を建ぬれば、其邊へは鼬かゝらざるものゝ由、老人のかたりぬ。

  鼬の呪はたかんなのねぢきり也、是五大明王のしるし候らん

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸お得意の呪(まじな)いシリーズである。

・「鼬」食肉(ネコ)目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela。『』「イタチ」の語は元来、日本に広く棲息するニホンイタチ Mustela itatsi を特に指す語であり、現在も、形態や生態のよく似た近縁のチョウセンイタチ M.sibirica coreana を含みながら、この狭い意味で用いられることが多い。また、広義にはイタチ亜科(あるいはイタチ科)の動物全般を指すこともあるが(イタチ亜科の場合、テンやクズリなどの仲間も含まれる)、ここではイタチ属のイタチ類について記す。

ウィキの「イタチ」より引用する(記号やフォントの一部を変更した)。『直立したイタチイタチ属の動物は、しなやかで細長い胴体に短い四肢をもち、鼻先がとがった顔には丸く小さな耳がある。多くの種が体重2kg以下で、ネコ目(食肉類)の中でも最も小柄なグループである。中でもイイズナ Mustela nivalis はネコ目中最小の種であり、体重はアメリカイイズナ M.n.rixosa 3070g、ニホンイイズナ M.n.namiyei 25250g である』。『イタチ類は、オスに比べメスが極端に小柄であることでも知られ、この傾向は小型の種ほど顕著である。メスの体重は、たとえば前述のアメリカイイズナやチョウセンイタチ M.s.coreana ではオスの半分、ニホンイタチではオスの3分の1である』。『小柄な体格ながら、非常に凶暴な肉食獣であり、小型の齧歯類や鳥類はもとより、自分よりも大きなニワトリやウサギなども単独で捕食する。反対にイタチを捕食する天敵は鷲・鷹・フクロウと言った猛禽類とキツネである』。以下、「日本に棲息するイタチ類」の記載。『イタチ属 Mustela に属する動物は、日本には58亜種が棲息する。このうち、アメリカミンクは移入種であり、在来種に限れば47亜種となる』。『比較的大型のイタチ類(ニホンイタチ、コイタチ、チョウセンイタチ)に対して、高山部にしか分布しないイイズナ(キタイイズナ、ニホンイイズナ)とオコジョ(エゾオコジョ、ホンドオコジョ)はずっと小型であり、特に、ユーラシア北部から北米まで広く分布するイイズナは、最小の食肉類でもある』。『4種の在来種(ニホンイタチ、チョウセンイタチ(自然分布は対馬のみ)、イイズナ、オコジョ)のうち、ニホンイタチ(亜種コイタチを含む)は日本固有種であるが、前述のように、特に海外では、(チョウセンイタチと同じく)大陸に分布するシベリアイタチの亜種とされることもある。また、亜種のレベルでは、本州高山部に分布するニホンイイズナとホンドオコジョが日本固有亜種であり、これにエゾオコジョを加えた3亜種は、環境省のレッドリストで NT(準絶滅危惧)に指定されている』。以下、「日本のイタチ一覧」。

   《引用開始》

ニホンイタチ(イタチ) Mustela itatsi 【北海道・本州・四国・九州・南西諸島/日本固有種】 シベリアイタチの亜種とされることもある。北海道・南西諸島などでは国内移入種。西日本ではチョウセンイタチに圧迫され、棲息域を山間部に限られつつある一方で、移入先の三宅島などでは、在来動物を圧迫している。屋久島・種子島の個体群は、亜種コイタチ M.i.sho として区別される。

(シベリアイタチ(タイリクイタチ、チョウセンイタチ) M.sibirica ,Kolinsky

シベリアイタチ(コリンスキー レッドセーブル、コリンスキーセーブル、レッドセーブル、シベリアン ファイアセーブル)の尾毛は、画筆や書筆の高級原毛として使われる。弾力がありしなやかで、揃いが良く、高価。

チョウセンイタチ(亜種) M.s.coreana 【本州西部・四国・九州・対馬】 対馬には自然分布、それ以外では移入種。ニホンイタチより大型。西日本から分布を広げつつあり、ニホンイタチを圧迫している可能性がある。

(イイズナ M.nivalis

キタイイズナ(亜種、コエゾイタチ) M.n.nivalis 【北海道】 大陸に分布するものと同じ亜種。

ニホンイイズナ(亜種) M.n.namiyei 【青森県・岩手県・山形県?/日本固有亜種/準絶滅危惧(NT)(環境省レッドリスト)】 キタイイズナより小型であり、日本最小の食肉類である。

(オコジョ M.erminea

エゾオコジョ(亜種、エゾイタチ) M.e.orientalis 【北海道/準絶滅危惧(NT)(環境省レッドリスト)】 日本以外では、千島・サハリン・ロシア沿海地域に分布。平地では国内移入種のニホンイタチ・移入種のミンクの圧迫により姿を消す。

ホンドオコジョ(亜種、ヤマイタチ) M.e.nippon 【本州中部地方以北/日本固有亜種/準絶滅危惧(NT)(環境省レッドリスト)】

アメリカミンク(ミンク) M.vison 【北海道】 北米原産の移入種。毛皮のために飼育されていたものが、1960年代から北海道で野生化した。平地でエゾオコジョ・ニホンイタチを圧迫している。養魚場等にも被害がある。

   《引用終了》

以下、利用法。『イタチの毛を使った毛筆は高級品とされる。価格を抑えるために、中心の長い部分だけにイタチの毛を使う場合もある』。以下、妖怪としてのイタチについて。『日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた。江戸時代の百科辞典「和漢三才図会」によれば、イタチの群れは火災を引き起こすとあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている。新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を、6人で臼を搗く音に似ているとして「鼬の六人搗き」と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。人がこの音を追って行くと、音は止まるという』。『またキツネやタヌキと同様に化けるともいわれ、東北地方や中部地方に伝わる妖怪・入道坊主はイタチの化けたものとされているほか、大入道や小坊主に化けるという』。

♡「鼬の呪はたかんなのねぢきり也、是五大明王のしるし候らん」「たかんな」は筍のこと、「ねぢきり」は土から出た筍の螺子状の形状を言うのであろう。「五大明王」とは不動明王を中心とし、東に降三世(ごうざんぜ)明王、南に軍荼利(ぐんだり)明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王に配した明王群の総称で、この明王群は如来の真意を奉持し、霊的な力で悪を砕く役目を持つため、通常、激しい忿怒相を示している。以下の「是五大明王のしるし候らん」は、

――イタチのまじないは、それ、そこここに生えおる螺子切りのような筍じゃ!――筍の螺子切りのような形――それは悪を滅する忿怒の相の、かの畏るべき五大明王さまの呪印で御座るぞ!――

という言いか。例えば五大明王中、最もポピュラーな不動明王の場合、左手の薬指を右手の中指で握り、右手の薬指を左手の中指で握って、両手の親指・人差し指・小指を合わせたものが『不動明王の呪』であるという記載がネット上にあった。これは如何にも筍に似ているように思われる(『不動明王の印』の方はもっと単純で、両手を合わせ、蕾を作るように膨らませ、人差し指と小指を離した形とも、一部のネット画像ではもっとシンプルに親指を掛け合わせ人差し指のみを伸ばした形ともある。どちらも筍に似ていると言えなくもない)。また、私がずっと以前、鎌倉のとある寺で私の守護仏に相当するという不動明王の札を受けたことがあるが、そこに押された火炎をデフォルメした印(マーク)があたかも筍の如く見えたことも付け足しておこう。何れにせよ、呪いなれば、凡俗には意味は分からぬ、ということで〆にしたい。

因みに、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースに愛媛大学農学部付属農業高等学校郷土研究部フィールド・ワークの採取として、鼬が道を横切った際、

イタチが道切る 血道切る おれがさき切る アビラウンケンソワカ

と誦える、とある。これは鼬が行く道を横切ることが不吉なことであり、それを予防する呪言とも思われるが、それは恐らくそこを二度と鼬が横切らないようにするための呪法と相同と考え得る。但し、「オンアビラウンケンソワカ」は大日如来の真言である。このような妖怪としての鼬に関わる呪いとしては、チャンネル福岡に、

イタチ・ミチキリ・チミチキリ

という言葉が民話番組欄に紹介されている。福岡県東区蒲田地区に伝わるその民話の中に上記の鼬除けの呪いが用いられるとし、『イタチが人をハンミョウという虫にしてしまう』伝承があり、この呪文を誦えると、その難から逃れられるという言い伝えが民話になっているそうである。更に鼬除けのはっきりした呪物としては、個人の方のHP「かたつむりの館」の「神聖な生き物5 ◆アワビ(鮑)貝の魔よけ」のページに山口県小郡町の例として『子供の流行病(はやりやまい)やヘビ・イタチを鶏舎から追い払うまじない、牛や馬などの家畜から病魔を追い払うまじない、家庭円満の守護』としてアワビを軒下に飾るケースが紹介されている。神聖な鏡(光を反射させる光沢)や神の眼(呼吸孔)としてのアワビのアイテムを実際の写真で確認出来る。是非、御覧あれ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鼬除けのまじないの事

 

 金魚を飼って御座る槽(おけ)や、又は、殊の外、そのようなことから如何にしても守らねばならぬような品なんどに、鼬が侵入して悪さを致いて何かと難儀をする折りには、そこに左の如く書いた札を立てれば、その辺りへは鼬は入らなくなるとの由、古老の話で御座った。

  鼬の呪はたかんなのねぢきり也、是五大明王のしるし候らん

 

 

*   *   *

 

 

 一休和尚道歌の事

 

 山村信濃守物がたりに、此ほど一休の墨蹟とて持參の者ありしが、面白きものとて見せ給ひぬ。

  老の身の賴べきもの撞木杖鉦をたゝかば後の世の爲

   おつや殿へ

 此如あり。老女へ一休の贈りし物ならん。面白き文なれば爰に記ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:何やらん効果があるかなきか分からぬ意味不明のまじない歌から何やらん有難い意味があるのやらないのやらよく分からぬ道歌と、四項前の「志す所不思議に屆し事」の登場人物山村十郎右衞門良旺(たかあきら)でも連関する。

・「一休」一休宗純(応永元(1394)年~文明131481)年)。室町時代の臨済宗の禅僧。宗純は諱。他に狂雲子とも号した。出自は後小松天皇の落胤という。6歳で臨済五山派の名刹京都安国寺に入って周建と名乗った。以下、平凡社「世界大百科事典」より引用する(一部の記号や文字表記を変更、ルビを省略した)。『周建は才気鋭く、その詩才は15歳のときすでに都で評判をえた。だが、その翌年、周建は権勢におもねる五山派の禅にあきたらず、安国寺を去り、同じ臨済でも在野の立場に立つ林下(りんか)の禅を求めて謙翁宗為(けんのうそうい)、ついで近江堅田の華叟宗曇(けそうそうどん)の門に走った。宗為も宗曇も、林下の禅の主流である大徳寺の開山大灯国師宗峰妙超』の禅をついでいた。一休はこうして大灯の禅門に入った。五山の禅とちがって、権勢に近づかず、清貧と孤高のなかで厳しく座禅工夫し、厳峻枯淡の禅がそこにあった。宗為から宗純なる諱を、宗曇から一休という道号を与えられた。一休なる道号は、煩悩と悟りとのはざまに〈ひとやすみ〉するという意味とされ、自由奔放になにか居直ったような生き方をしたその後の彼の生涯を象徴するようである』。『一休青年期の堅田での修行は、衣食にもことかき、香袋を作り雛人形の絵つけをして糧をえながら弁道に励んだという。そして、27歳のある夜、湖上を渡るカラスの声を聞いたとき、忽然と大悟した。この大悟の内容はいまとなってはだれにもわからない。やがて一休は堅田をはなれ、丹波の山中の庵に、あるいは京都や堺の市中で、真の禅を求め、あるいはその禅を説いた。つねに清貧枯淡、権勢と栄達を嫌い、五山禅はもとより同じ大徳寺派の禅僧らに対しても、名利を求め安逸に流れるその生き方を攻撃した。堺の町では、つねにぼろ衣をまとい、腰に大きな木刀を差し、尺八を吹いて歩いた。木刀も外観は真剣と変わらない。真の禅家は少なく、木刀のごとき偽坊主が世人をあざむいているという一休一流の警鐘である。一休は純粋で潔癖で、虚飾と偽善を嫌いとおした。かわって天衣無縫と反骨で終始した。きわめて人間的で、貴賤貧富や職業身分に差別なき四民平等の禅を説いた。これが彼の禅が庶民禅として、のちに国民的人気を得る理由となった。壮年以後の一休は、公然と酒をのみ、女犯(にょぼん)を行った。戒律きびしい当時の禅宗界では破天荒のことである。いく人かの女性を遍歴し、70歳をすぎた晩年でさえ、彼は森侍者(しんじしゃ)と呼ばれた盲目の美女を愛した。彼の詩集「狂雲集」のなかには、この森侍者への愛情詩が多く見いだされる。1456年(康正2)、一休は山城南部の薪村(たきぎむら)に妙勝寺(のちの酬恩庵)を復興し、以後この庵を拠点に活躍した。この間、74年(文明6)勅命によって大徳寺住持となり、堺の豪商尾和宗臨(おわそうりん)らの援助で、応仁の乱で焼失した大徳寺の復興をなしとげた。酬恩庵の一休のもとへは、その人柄と独特の禅風に傾倒して連歌師の宗長や宗鑑、水墨画の曾我蛇足(そがじゃそく)、猿楽の金春禅竹や音阿弥(おんあみ)、わび茶の村田珠光(むらたじゅこう)らが参禅し、彼の禅は東山文化の形成に大きな影響を与えた。彼自身も詩歌や書画をよくし、とくに洒脱で人間味あふれた墨跡は当時から世人に愛好された』(本文中の「弁道」とは、仏道修行に精進することの謂い)。『「昨日は俗人、今日は僧」「朝(あした)には山中にあり、暮(ゆうべ)には市中にあり」と彼みずからがうそぶくように、一休の行動は自由奔放、外からみると奇行に富み、〈風狂〉と評され、みずからも〈狂雲〉と号した。だが、反骨で洒脱で陽気できわめて庶民的な彼の人間禅は、やがて江戸時代になると、虚像と実像をおりまぜて、とんちに富みつねに庶民の味方である一休像を国民のなかに生みだした。彼自身の著とされるものには「狂雲集」「自戒集」「一休法語」「仏鬼軍(ぶつきぐん)」などがある』(冒頭省略、以上藤井学氏記載部分。)。以下、「一休像の形成」という記載。『一休の洒脱な性格とユーモラスな行状に関する伝承が近世に入ってから多くの逸話を作りあげた。その話は、実話もあろうが創作もあり、他の人の奇行やとんちに関する話を一休の行跡に仮託したものが多い。万人周知の多彩な一休像が世に伝えられる基本になったものは、1668年(寛文8)に刊行された編著者不明の「一休咄」4巻である。この本は刊行後たちまち評判となり、翌年に再版となった。1700年(元禄13)には5冊本があらわれ、さらに版を重ねた。「一休咄」では、高僧としての一休禅師よりも頓智頓才の持主としての一休の〈おどけばなし〉が主体となっている。小僧時代の一休さんのとんち話は巻一の「一休和尚いとけなき時旦那と戯れ問答の事」に記され、有名な一休和尚の奇行譚は各巻に見える。軽口問答や狂歌咄もある。地蔵開眼のときに小便をかけたり、魚に引導をわたしたりする話などは、近世以降広く人々に知られた。かくして一休は問答を得意とする風狂的な禅僧としてのイメージを強くし、江戸時代における人気は絶大なものとなった。「一休咄」以後、「一休関東咄」「二休咄」「続一休咄」「一休諸国ばなし」などが生まれ、ついに60余点にものぼる一休の逸話に関する本が出版されるに至った』(後略。以上関山和夫記載部分。全体の著作権表示(c 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

・「道歌」短詩形文学としての短歌ではなく、仏道の教えや禅僧の悟達・修業の摑みを分かり易く詠み込んだ和歌を言う。岩波版では「返歌」とあるが、これはカリフォルニア大学バークレー校版の書写時の誤りか、誤りでないとしたら、以下に注するように根岸が「返歌」として勝手に読んだ内容を筆写者が汲んで変更したものとも思われるが、私は単純な書写時の誤りと見る。

・「山村信濃守」山村十郎右衞門良旺(たかあきら:享保191734)年~寛政9(1797)年)。前出「志す所不思議に屆し事」の岩波版長谷川氏注によれば、『宝暦三年西丸御小納戸、同八年本丸御小納戸。明和五年(一七六八)目付、安永二年(一七七三)京都町奉行、同年信濃守、同七年勘定奉行。』とある。勘定奉行は天明4(1784)年までで、同年から寛政元(1789)年まで南町奉行を勤めている(根岸の4代前である)。

・「見せ給ひぬ」底本ではここに注して、『尊経閣本「見せぬ」とあり、次行に』(ここに二段階で折れ曲がる稲妻状の小さな図が入る)『とある。』とする。この図は適切なものと思われない。幸い、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版のものがあるので、当該個所にその図像(一休墨跡)を補った。因みに、既に著作権の消滅した絵画図像等を平面的に撮った写真には著作権は発生しないという文化庁の見解をここに示しておく。

・「老の身の賴べきもの撞木杖鉦をたゝかば後の世の爲」「撞木杖」とは頭部が一休の先の図のように握り手の付いた杖を言う。撞木はT字型をした鉦を叩くための仏具であることから、後生祈願の鐘叩きを引き出すのである。

○やぶちゃんの通釈:とりあえず道歌として解釈しておく。

 老いの身の――頼むべきもの――撞木杖……その杖先に何(な)して撞木が付いとるか?……撞木の御座るは鐘叩くため――鐘を叩くは後生のため――

これは撞木杖をその「おつや」なる女に請うているものであろう。根岸は勝手に「老女」としているが、私は老女とは限らぬという気がする。根岸が「老女」としたのは、この歌が撞木杖と一緒に贈られた歌と考えているからかも知れない。但し、それはあくまで解釈の可能性の一つであって、私は採らない。それは先に示した撞木杖のデフォルメと思しい一筆書きがあるからである。これは正に『こんな杖が欲しい』という図示であろうと思われる。

……さらに言えば……私はこの歌や墨痕にはもっと何かセクシャルな意味合いが隠されているように思う……撞木がファルスの象徴で、鐘叩きの音はチンチンで、「鉦をたゝかば」という動作自体がコイッスを言いかけているような……『修行』が足りないために見抜けない。識者の御教授を是非とも願うものである。思い過ごしだって? そう思われる方は……一休のこの手の露骨な一休の表現の凄さをご存じないと言わざるを得ぬ……一休は、「セックス」という語を授業で三回は連呼するといういわれなき伝説の猥褻教師の私でも、お手上げの猛者なんである……一つだけ、ご紹介しておこう……「狂雲集」所収の七絶……

 

美人陰有水仙花香

楚臺應望更應攀

半夜玉床愁夢顏

花綻一莖梅樹下

凌波仙子繞腰間

 

○やぶちゃんの書き下し文

美人が陰(ほと)に水仙花の香有り

楚臺應に望むべし さらに應に攀(よ)ずべし

半夜の玉床 愁夢の顏

花は綻(ほころ)ぶ 一莖の梅樹の下(もと)

凌波(りようは)仙子 腰間を繞(めぐ)る

 

○やぶちゃんの現代語訳

[やぶちゃん注:不許可! 映倫カット! とっても訳せません!]

 

……題からしてスゴいな。楚は古来、美人の多い国で勿論、「楚臺」は征服すべき女体山…「一莖の梅樹」とは一休禪師、バッキンバッキン怒張の図…「凌波仙子」は水仙の別名で、曹植の「洛神賦」に現れる波上を軽やかに歩む洛水の神女に因む名とされるが、「凌波」は激しく波立つ様を言うから、『その』場面の相応なビジュアル的暗示としても掛詞的に激効果的……そうね、水仙の香り、なんだ……

・「おつや」不詳。前注で示した通り、老女とは限らぬ。山村や根岸が老女としたのは、この撞木杖を一休がおつやなる「老女」にこの杖を授けたという理解からの言であろうが、これはどう見ても一休の杖を呉れろという手紙である。更に、一休の女犯は確信犯で厳然たる事実、老いてなお「一莖の梅樹」としてそそり立っていたであろうことは、40歳の森侍者が一休に近侍した文明31471)年頃、彼は既に78歳であったことからも分かる(森侍者の実在と年齢の正当性は大徳寺真珠庵に残る一休の十三回忌及び三十三回忌の奉加帳に森侍者慈栢の名が載ることで証明されている)。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 一休和尚の道歌の事

 

 山村信濃守と話す内、

「……この程、一休禪師の墨蹟とか申し、持参致いた者が御座った。面白い代物じゃ。……」

と見せて下さった。

  老いの身の頼むべきもの撞木杖鉦をたたかば後の世の為

 おつや殿へ

 かく如くある。知れる老女へ一休が贈った歌らしい。面白い手紙なれば、ここに記しおく。

 

 

*   *   *

 

 

 福を授る福を植るといふ事

 

 勢州高田門跡(もんぜき)の狐、京都藤の森へ官に登るとて、或村の者にとり何て、口ばしりて一宿を乞ける故、安き事也迚赤の飯油揚やうのもの馳走して、扨狐は稻荷のつかはしめ、福を祈れば福をあとふると聞及びし故、何卒福を與へ給へと願ければ、右狐付答て言し。我々福を與へるといふ事知らず、人の申事也。都(すべ)て頑を植るといふ事有、是を傳授すべし、都て人の爲世の爲に成る事心懸け致すべし、しかしかゝる事したりと聊も心に思ひよりては福を植るにあらず、無心に善事をなすを福を植るといふ也、且我々福分を授る事成難しといへども、善事有人へは、或は盜難あるべきは我等來りて枕元の物を落し、又強き音などさせて眠を覺し其難を免れしめ、或は火災あらん節も遠方の親族知音(ちいん)へも知らせて人を駈付させて、家財等を取退などする事あり、則福を與ふるといふものならんと語りしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ぶっとんだ禪僧の道歌から自力作善を戒める真宗坊主染みたぶっとびの稲荷神の説法で面白連関。根岸は余り、他の巻や諸本を見ても、根岸は特に最終話ということを考えて配しているようには思われない。

・「福を植る」読みは「植(うゑ)る」。この語は特定の宗教に限定されない形で、現在も用いられている。心の田圃に福を植える、といった感じである。幸田露伴のエッセイに「努力論」というのがあり、そこで彼は惜福・分福・植福という三つの福を説き、その実現によって世界の幸福が到来するとも述べている。どっかのポールとか、どっかの国のこっぱずかしい政党の名みたような話だな。

・「勢州」伊勢国。

・「高田門跡」現在の三重県津市一身田町(いっしんでんちょう)にある、現在の真宗教団連合を構成する浄土真宗十派の一つである真宗高田派の高田山専修寺(せんじゅじ)。「門跡」は門跡寺院のことで、皇族や摂家が出家出来る位の高い特定寺院の称。浄土真宗には五門跡あり、本専修寺の他、東本願寺・西本願寺・佛光寺・興正寺である。これらは「五門徒」とも称せられる。以下、ウィキの「専修寺」より引用する。『浄土真宗の開祖親鸞が、関東各地の教化に入って十余年、真岡城主大内氏の懇願により建てられた寺院と伝えられる。1225年(嘉禄元年)、親鸞53歳のとき明星天子より「高田の本寺を建立せよ」「ご本尊として信濃の善光寺から一光三尊仏をお迎えせよ」との夢のお告げを得て、現在の栃木県真岡市高田の地に専修念仏の根本道場(如来堂)を建立したのが起源とする。その際、善光寺の本尊である秘仏を模造した一光三尊仏を本尊に迎え安置、親鸞門弟の中のリーダーであった真仏が管理に当たっていたものと推定されている』。『建立の翌年には、朝廷から「専修阿弥陀寺」という勅願寺の綸旨を受け、親鸞の教化活動は遊行から本寺中心に変わり、建立後約7年間この寺で過ごしたとしている。このように、本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たした寺である』。『真仏を中心とした門徒衆は、関東各地の門徒が作る教団の中で最も有力な教団(高田門徒)となり、京都へ帰った親鸞からしばしば指導の手紙や本人が書き写した書物などが送られている』。『その後、この教団は次第に発展し、「高田の本寺」と呼ばれて崇敬を集めるようになっていた。そんな中で、同じ浄土真宗である仏光寺派教団が京都を中心に発展する。親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を覚如が寺格化した「本願寺」も、一旦は衰退するものの15世紀半ばごろに蓮如によって本願寺教団として次第に勢力を拡大していく。それに対して高田派教団はむしろ沈滞化の傾向にあったが、それを再び飛躍させたのが、東海・北陸方面に教化を広めた十代真慧(しんね)であった』。『本寺専修寺は戦国時代に兵火によって炎上し一時荒廃したが、江戸時代に入って再建されており本尊の一光三尊仏は今もここに安置されている』。『現在の三重県津市一身田町にある専修寺は、14691487年に真慧(しんね)が伊勢国の中心寺院として建立した。当時この寺は「無量寿院」と呼ばれており、文明10年(1478年)には真慧は朝廷の尊崇を得て、「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨(専修寺文書第29号)を得ることに成功した。高田の本寺が戦国時代に兵火によって炎上したことや教団の内部事情から、歴代上人がここへ居住するようになり、しだいにここが「本山専修寺」として定着した。数多い親鸞聖人の真筆類もここへ移され、親鸞の肖像をはじめ、直弟子などの書写聖教など貴重な収蔵品を多数保持している。阿弥陀如来立像を本尊とする。本山専修寺の伽藍は二度の火災に遭ったが再建されている。浄土真宗最大宗派の東西本願寺に匹敵する広大な境内を持ち、周囲は寺内町を形成している。その集落は現在もはっきり見分けることができる。地元では「高田本山」と呼ばれている』。底本注によれば下野国芳賀郡高田にあったものを伊勢国奄芸郡(あんげ・あんき)郡津一身田に真慧が移した年を寛正(かんしょう)6(1465)年とする。この時、真慧が乞うて『後柏原天皇皇子常磐井宮が入室、その後も伏見宮貞致親王の王子が入室して法燈を継い』(底本注)で門跡寺院となっている。最後に以下、ウィキの補足事項の内容が「歎異抄」フリークの私には興味深いので、引用しておきたい。『真宗高田派専修寺(およびその末寺)では歎異抄を聖典として用いていない(否定しているわけではないことに要注意)。これは「専修寺には親鸞聖人の真筆文書が多数伝来しており、弟子の聞き書きである歎異抄をあえて用いる必要性が薄い」との考えによるものである。なお、専修寺は現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、これは東西本願寺よりも多い数である』。なーむ、じゃない、なーるほど、ね。

・「京都藤の森」先行する「小堀家稻荷の事」の注をそのまま引く。現在の京都府京都市伏見区深草鳥居崎町にある藤森(ふじのもり)神社。境内は現在の伏見稲荷大社の社地で、ウィキの「藤森神社」 によれば、『その地に稲荷神が祀られることになったため、当社は現在地に遷座した。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した』とある。底本の鈴木氏注には、「雍州府志」(浅野家儒医で歴史家の黒川道祐(?~元禄4(1691)年)が纏めた山城国地誌)によれば、『弘法大師が稲荷神社を山上から今の処へ移した時、それに伴って藤杜社を現在地へ遷したものであるといい、稲荷と関係が深く、伏見稲荷に詣れば藤森にも参詣するのが例であった』と記す。伏見稲荷は正一位稲荷大明神である狐=稲荷神の本所である。

・「官に登る」狐に関わる説話にしばしば現われる狐の官位なるものは、伏見から授けられるという広範な民間伝承があったことが分かる。

・「都(すべ)て」は底本のルビ。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「福を授かる」と「福を植える」の謂いの違いについての事

 

 伊勢国は高田門跡の狐が、ある村人に取り憑いて、

「――!――官位を得て昇進致いたによって京都の藤の森に登る! ついてはここに一夜を乞う!――」

と威丈高に家人に口走った。

 家人は驚きながら、

「……?!……へえ、それはた易きこと……」

と、とりあえずは奉っておくに若くはなしとて、赤飯や油揚げといったお狐さまの好物を馳走致いた上、ことは序でと、

「お狐さまはお稲荷さまのお使い、福を祈れば福を与えると聞き及んでおりますれば、何卒、福をお与え下さいませ。」

願い出てみる。

 すると、その狐が憑いた村人が答えて言うことには、

「……我々が『福を与える』ということは、無知な人間どもが勝手に申しておることじゃ。……我らにあるは『福を植える』ということのみじゃ。一宿一飯の恩義もある。一つ、これを授けて遣わそうぞ。……さてもじゃ……何より万事、人のため世のためになることを心がけて致すが、よい。……しかしじゃ、己(おのれ)はかくかくの良きことを致いた、なんどと、些かもでも鼻にかけることあらば、それは最早、『福を植えた』ことには、ならぬ……何事も、無心に、善事を善事と思わず善事を為すこと、これ、『福を植える』と、いうのじゃて。……且つまた、その方どもの請うところの、そのほうどもの考える『福分』なるものを授くることは、我らには出来ぬ……出来ぬ、が……今、言うた通りに善事善行を積むことの出来た人間へは……或いは、盗人ある時には、我ら来たりて、その方らの枕元に物を落とし、また大きな物音なんどをさせてその方らの眠りを覚ませてその危難を免れしめ、……或いは火災なんどがあらん折りには、遠方の親族・知音(ちいん)へも我らが虫の知らせで伝えては、人を駆けつけさせて家財なんどを運び出させたりなんど、することがある。……まあ、言うなら、これ即ち、その方らが言うところの、『福を与える』ということになろうか、の……」

と語った、とか。

 

 

 

耳嚢 卷之二 注記及び現代語訳 copyright 2010 Yabtyan 完