やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


耳嚢 卷之六  根岸鎭衞

[やぶちゃん注:底本は三一書房一九七〇年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。
 以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。
 底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明五(一七八五)年頃に始まり、没する前年、文化十一(一八一四)年迄の実に三十年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクがあるものは私の翻刻訳注の完成版)、
「卷之一」の下限は天明二(一七八二)年春まで
「卷之二」の下限は天明六(一七八六)年まで
「卷之三」は前二巻の補完(日付を附した記事がない)
(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)
「卷之四」の下限は寛政八(一七九六)年夏まで(寛政七年の記事の方が多い)[やぶちゃん注:この区分への私の疑義は「卷之四」の冒頭注参照のこと。]
「卷之五」の下限は寛政九(一七九七)年夏まで(寛政九年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)
「卷之六」の下限は文化元(一八〇四)年七月まで(但し、「卷之三」のように前二巻の補完的性格が強い)[やぶちゃん注:これについては私は同年八月とすべきと考えている。詳しくは本巻「賤商其器量ある事」の私の注を参照されたい。]
「卷之七」の下限は文化三(一八〇六)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)
「卷之八」の下限は文化五(一八〇八)年夏まで
「卷之九」の下限は文化六(一八〇九)年夏まで
(ここで九〇〇話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、四~五年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)
「卷之十」の下限は死の前年文化十一(一八一四)年六月まで
といった凡その区分を推定されておられる。藪野直史【作業終了:二〇一三年四月二十六日】]

 
 卷之六

 目次

十千散起立の事
市中へ出し奇獸の事
奇石鳴動の事
意念奇談の事
遁世の夫婦笑談の事
孝行八百屋の事
石山殿狂歌の事
大日坂大日起立の事
山吹の茶關東にて賞翫又製する事
心ざしある農家の事
英雄の入神威ある事(二カ條)
御製發句の革
采女塚の事
不仁の仁害ある事
麁末にして免禍事
老農達者の事
至誠神の如しといへる事
感夢歌の事
守財輪𢌞の事
夜發佳名の事
夢想にて石佛を得し事
女妖の事
窮兒も福分有事
幼兒實心人の情を得る事
狐義死の事
物の師其心底格別なる事
妖は實に勝ざる事
いぼを取る呪の事(二カ條)
あら釜新鍋の鐡氣を拔事
病犬に喰れし時呪の事
びいどろ茶碗の割れを繼奇法の事
長壽壯健奇談の事
魚の眼といへる腫物を取呪の事
奇藥を傳授せし人の事
梅田枇杷麥といふ鄙言の事
守財翁嘆笑事
火事用心の事
野州樺崎鶉の事
肥後國蟒の事
長壽の人格言の事
祝歌興の過たる趣向の事
桶屋の老父歌の事
名句の事
寄雷る狂歌の事
孝傑女の事
其才に誇るを誠の歌の事
精心感通の事
威徳繼嗣を設る事
吝嗇翁迷心の事(二カ條)
人魂の事
産後髮の不拔呪の事
河骨蕣生花の事
酒量を鰹によりて增事
商家豪智の事
譯有と言しもその土俗の仕癖となる事
幻僧奇藥を教る事
武勇實談の事
有馬家畜犬奇説の事
疵を直す奇油の事
犬の堂の事
陰德子孫に及びしやの事
作佛祟の事
執心の説間違と思ふ事
未熟の狸被切事
二尾檢校針術名著の事
古佛畫の事
尖拔奇藥の事
大蟲も小蟲に身を失ふ事(二カ條)
鼬も蛇を制する事
領主と姓名を同ふする者の事
尾引城の事
在郷は古風を守るに可笑き事ある事
物を尋るに心を盡すぺき事
しやくり奇藥の事
吐藥奇法の事
鍛冶屋淸八が事
猫の怪異の事
賤商其器量ある事
黑鯉の事
丹後國成相山裂の事
賊術識貯金事
豺狼又義氣有事
長壽は食に不飽事
好所によつて其藝も成就する事
猥に奇藥を用間數事
生得ならずして啞となる事
きむらこう紋所の事
大す流しといふ紋所の事
奸婦不顧恩愛事
其調子揃時弱きは破るゝ事
妖狐道理に服從の事
鄙僧に道德ある事
蜘蛛怪の事
得奇匁事
鳥類助を求るの智惠の事
陰德危難を遁し事

  
卷之六

 十千散起立の事

 東都濱町に、小兒科の醫をなして數代世にきこゆ印牧いんまき玄順といへるあり。其先そのせんは戰國にて御おんてき敵たる者の子孫にて、其主人沒落後、浪遊してかかへる人なければ、或る醫師のもとに立寄たちよりてたつきせしが、かの醫師、家傳に萬病散とかいへるを賣藥せしが、其奇效きかういちじるしく、戰場にても多く需之これをもとむる故、右醫師に隨身ずいじんして其法を傳へけるが、其後印牧別になりて、師家の祕藥ゆゑ同銘を遠慮して、ウと千あわすれば萬なるといふ心にて、十千散と名附なづけし由。今もかの家より出之これをいだす。予が子孫も右藥を用ひ、奇效ありしなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:前の「卷之五」掉尾は歯痛歯肉炎の民間薬で、医薬直連関。話の後半部、根岸にしてはかなりはっきりとした宣伝を狙っている感がある。巻頭で目立つ位置にあり、根岸の記録魔を聴きつけた印牧本人が伝家の秘薬を売り込んだという感じが、これ、なくもない。兎も角、根岸は医師の知人が妙に多い人物である。
・「東都濱町」両国橋下流の隅田川西岸の、現在の東京都中央区日本橋浜町の吸収された旧日本橋久松町の一部を除く一帯。
・「萬病散」底本の鈴木氏注に、『万病円に類する散薬か。万病円は解毒薬。』とある。江戸時代にあった、万病に効果があるという丸薬。宝暦五(一七五五)年刊「口合恵宝袋」に載る落語「万病円」などでも知られる。しかし、戦場で需要が高かったということは内服薬ではなく、金瘡などへの塗り薬のように思われるが、如何?

■やぶちゃん現代語訳

  十千散起立きりゅうの事

 江戸浜町に、小児科の医師を生業なりわいとなし、数代に亙って世評も高き、印牧いんまき玄順と申すものが御座る。
 印牧家と申すは、これ、そのせん、戦国の世にあっては徳川様の御敵おんてきたる者の子孫では御座ったが、先祖主人の没落の後、浪人となって抱えて呉れる御仁もなければ、とある醫師の元に雇われ、何とか糊口を凌いで御座ったと申す。彼の主人医師なる者は、これ、家伝の「万病散まんびょうさん」とか申すものをも売薬致いて御座ったが、その薬の神妙なる効能、これ、著しきものにてあれば、戦国も末の戦さ場にても数多あまた需要の御座った由。されば、かの主人医師につきしたごうて、また、その製法をも伝授されて御座ったれど、その後、印牧祖、この医師とは別れて独り立ち致いて御座ったと申す。されど、例の薬は元の師の家伝の秘薬なればこそ、同じめいにて伝授の同薬を用うるは、これ、畏れ多いと遠慮致いて――「十」と「千」――これ合わすれば――元の秘薬の「万」となる――といふ謂いにて、「十千散じっせんさん」と名づけた由。
 今も、かの印牧家より、これ、売って御座る。いや、私の子や孫もこの薬を普段よりよう用いており、まっこと、何にでも良う効くものにて御座る。



 市中へ出し奇獸の事

 寛政十一年六月十八日の夜子の刻すぎ、馬喰町壹丁目庄左衞門だな安兵衞といへる鄙商ひなあきないの方へ、異獸いでて燈火の油をなむるをとらへし由にて南役所へ𢌞りの者申付まうしつけ持出もちいでるを見しに、近きころ下總國八幡村といへる社頭へこの獸出しを捕へ、御鳥見おんとりみより公城こうじやうへも奉りしとききしが、同物なり。下説げせつに雷獸の由唱へけるが、識人しれるひといへるは不詳と云々。圖左にあり。


(長凡一尺程似栗鼠面長腮下黄也)

□やぶちゃん注
○前項連関:奇獣の出現場所が前話の浜町から北西四百メートル程の直近で連関。UMA物。ただ、この奇獣、絵図もあるものの、私には同定が出来ない。リスに似る体長三〇センチメートル、下顎の下の部分が黄色とあるが、近年、害獣としてしばしば話題になる食肉(ネコ)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン Paguma larvata ならば、額から鼻にかけて白い線があり、頬も白いから当たらない。そもそもハクンビシンはリスには似て居ない(但し、頭部にの白線が汚れて目立たなくなると、何となくこの絵図と似るようにも思われる)。齧歯(ネズミ)目リス科モモンガ亜科モモンガ Pteromys momonga では大き過ぎ、モモンガ亜科ムササビ Petaurista leucogenys がそれらしく感じられはするが、モモンガもムササビも下顎の部分は黄色くはない(これも汚れと解すことは可能)。ただ、モモンガやムササビは古くからムササビと一緒くたにされて知られていた動物であり、動物類の専門家である鳥見や博物学的識者が見ても分からなかったというのは如何にもおかしい。さて、これは一体、何だろう? 動物学者やUMAフリークの方の御教授を俟つ(因みに、UMAという略語は実際の英語の未確認飛行物体「UFO(Unidentified Flying Object)」をもじって、英語で「未確認不可思議動物」の意味になる“Unidentified Mysterious Animal”の頭文字をとった和製英語で本邦以外では通用しない。ウィキの「未確認動物」によれば、昭和五一(一九七六)年に動物研究家で作家の實吉達郎さねよしたつおに依頼された当時の雑誌『SFマガジン』編集長森優(後の超常現象研究家南山宏の本名)が、UFOを参考に考案したもので、初出は實吉達郎の「UMA―謎の未確認動物」(同年スポーツニッポン新聞社出版局刊)である、とある(但し、森本人はこれを和製英語として用いなかったとある)。なお、「ユーマ」とこれを読むこと自体が実は和製英語的であると思う。日本人はこの手の略号を簡単に単語のように発音するのを好むが、欧米人はそうしたことは容易にはしないらしい。私はかつてUFOの研究を「真面目に」していたが、その時にも、また、同僚の複数のアメリカ在住経験のある英語教師に訊いてみても、ネイティヴは決して“UFO”を「ユーフォー」とは発音しないのである(そのように聴こえることがあっても実際には「ユーエフオー」と発音している)。だから今も昔も私は「ユーフォー」とは言わないことにしている。なお英語で「未確認動物」は“Cryptid”(クリプティッド)と呼ばれ、これを研究する学問は“Cryptozoology”と呼ばれる、ともある。“Cryptid”は一般に「幻獣」と訳され、これはラテン語の「洞穴」の意“crypta”から、隠れた、覆われたの意となったものに、「~の化け物」と言う英語の接尾語“-ide”が附いて変化したものであろう。~~~♪こいつぁ春から♪~~~UMA脱線♪~~~で御座った。
・「寛政十一年」西暦一七九九年。
・「馬喰町」東京都中央区北部、現在の日本橋馬喰町一~二丁目。町名は家康が関ヶ原の戦いの折りにこの地に厩をつくり、博労(馬工労)を多く住まわせたことによるとする説が有力。
・「南役所」底本は『兩役所』であるが、月番制によって交互に業務を行っていた南北の役所に同時に訴え出るというのはおかしいので、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の「南」を採った。問題があれば(両奉行所へ回る必然性や事実があったのであれば)御教授を願いたい。
・「下總國八幡村」現在の市川市八幡であるが、ここは古くから足を踏み入れると二度と出てこられなくなるという神隠しの伝承の禁足地として知られる。「八幡の藪知らず」(「不知八幡森しらずやわたのもり」「不知森しらずもり」「不知藪しらずやぶ」とも呼ぶ)で有名な場所である。
・「社頭」これは社名を示していないことから、私は高い確率で前掲の「八幡の藪知らず」に江戸時代から設けられていた社殿を指すのではないかと思う。ウィキの「八幡の藪知らず」によれば、この『伝承は江戸時代に記された書籍にすでに見ることができるが、江戸時代以前から伝承が存在したか否かは定かではない』としつつも、『少なくとも江戸時代から当地で語り継がれており、藪の周りは柵で囲まれ人が入れないようになっている。街道に面して小さな社殿が設けられており、その横には「八幡不知森やわたしらずのもり」と記された』安政四(一八五七)年に茨城県稲敷郡江戸崎出身で、関東に百余りの石橋を自費で架橋した江戸商人として知られる『伊勢屋宇兵衛建立の石碑がある。この社殿は凹状となった藪囲いの外側にあり、社殿の敷地に立ち入って参拝をしたのち無事に出て来ることができる』とある。そして、『なぜこの地が禁足地になったかの理由についても、唯一の明確な根拠があるわけではない。しかし諸説いずれにせよ、近隣の人たちはこの地に対して畏敬の念を抱いており、現在も立ち入る事は』現在もタブーである、とする(但し、現在の藪の広さは奥行き・幅ともに十八メートル程しかなく、江戸時代の広さもそれほど変わらなかったとある)。この伝承の由来に関する有名な説としては(ここからは暁印書館平成九(一九九八)年刊荒川法勝編「千葉県妖怪奇異史談」の記載も併用した)、日本武東征尊陣屋説・将門の父で鎮守府将軍であった平下総守良将墓所跡説(将門の乱とその二十九年後の康保三(九六六)年に発生した大地震や大津波によって破壊され、小石祠を建てたが朝敵将門を憚って埋葬者は秘されたとする)・平将門墓所説(彼の事蹟や怨霊説から考えると、寧ろこれは偽説と言うべきであろう)・平将門家臣墓所説(当地まで平将門の首を求めてやって来た六人の近臣がここで土偶と化した。後に雷で破壊されたが祟りを残したとする。この説が最も知られる)・平貞盛陣屋禁足地説(これは逆に将門討伐軍の平貞盛の陣屋の不吉な方位であったことによるとする)・水戸黄門(徳川光圀)がここに立ち入って迷ってようよう出たのちに日本武尊の東征の陣屋跡であることが分かったことから禁足地としたという説(後に錦絵に描かれ広まったが、それ以前からここは禁足地であった可能性が高い)・藪の中央部の窪地から有毒なガスが出でいるという説(中央部が窪んでいることにも関連しているが科学的な根拠は乏しい)・藪に底なし沼がある(あった)という説・近くにある葛飾八幡宮旧跡地説(本話の「社頭」というのをこの神社ととることも可能ではある)・同八幡宮の動物供養の池跡説(この地には死んだ動物を供養するための八幡宮の池があり、周囲の人々から「むやみに池に入ってはいけない」と言われていたものが、この行事が廃れたために「入ってはならない」という話だけ今に残ったのではないかという仮説)・近隣の行徳村の飛び地(入会地)説(そのために地元である八幡の住民は当地に入れない)などがある、とある。特に動物供養説と本話は強く連関する気がする(その動物霊たちの「藪知らずの守護獣としてである)。何れにしても、本奇獣と「八幡の藪知らず」は、如何にも結び附きそうではないか。
・「鳥見」職名。若年寄支配で鳥見組頭の指揮を受けて、特に狩猟用鳥類の棲息状態等、将軍遊猟地の巡検に当たった。
・「公城」岩波版長谷川強氏注に『江戸城』とあるが、あまり聴き慣れない語である。一応、音で読んでおいた。
・「下説」は底本では『下諺』であるが、聴き慣れない語である。「下諺」を「ゲゲン」と読んで下々の言い伝えの意ととれなくもないが、ここは「説」に書写の誤りと考えて、下々の者が唱える噂の意の「下説」を採る。
・「雷獸」落雷とともに現れるとされる妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、一説に「平家物語」で源三位頼政が退治したぬえは雷獣とも言われる。参照したウィキの「雷獣」その他によれば、その形状は体長約六〇センチメートル前後の仔犬、またはタヌキに似て、尾は約二一~二四センチメートル、鋭い爪を有するとあるが、その他にも、後脚が四本・尻尾は二股(馬琴「玄同放言」)とか、全体はモグラかムジナで鼻先はイノシシに似て腹はイタチに似ている(国学者山岡浚明「類聚名物考」。そこには江戸鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者がそうした形状の雷獣を鉄網の籠で飼っていたとある)とか、鋭い牙と水かきのある四足獣である(享和元(一八〇一)年七月二十一日に奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣で図がある)とか、と記されて実に多様な形状を示す。中でも強烈なのは、採話数の少ない西日本のそれで、享和元(一八〇一)年に芸州五日市村(現在の広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニかクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のものによって覆われており、その先端が大きな鋏状となったもので、体長も巨大で約九五センチメートル、体重約三〇キログラムとある(これは弘化年中(一八四四年~一八四七年)に書かれた「奇怪集」に同享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの同一の情報と見なされている。同じ類として同享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあって、それもやはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つものであり、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」(面、蟹額のごとく、旋毛有り、四足有り、鳥のごとき翼、鱗生え、鉄のごとき釣爪有り)いうおどろおどろしい解説文まで添えられている、とある。これは伴嵩蹊の「閑田次筆」にも絵入りで所載する)。また因州(現在の鳥取県)に寛政三(一七九一)年五月の明け方に城下に落下してきたという獣は、体長約二・四メートルの巨体で、鋭い牙と爪を持つタツノオトシゴのような体型であった由、「雷龍」と名づけられた絵が残る。リンク先にそれらの画像があるので参照されたい。近代になっても出現し、明治四二(一九〇九)年に富山県東礪波郡蓑谷村(現在の南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五〇間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという。昭和二(一九二七)年には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれた、とある。以上から、ウィキの筆者はその正体として、『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシンと共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある』とし、『江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する』 と記す。また『落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれ』、『イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』 と記す。私の同定も満更ではないか。
・「識人しれるひと」の読みは私の推定。「しきじん」と音読みしているのかも知れない。「しれびと」では「痴人」の訓の方が知れているので、いやな感じがするし、「しりびと」ではただの知人の意の方が一般的。識者。
・「(長凡一尺程似栗鼠面長腮下黄也)」という( )内キャプションは、底本では右に岩波のカリフォルニア大学バークレー校版『(尊經閣本)』からの引用である注記がある。一応、訓読しておく。なお本図は、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、本文最後に割注で『図略之(図之を略す)』と始めて、このキャプションと同文を載せる。
  長さ凡そ一尺程、栗鼠に似、面長、腮の下、黄なり。

■やぶちゃん現代語訳(図は訳では省略した)

 江戸市中へ出来しゅったい致いた奇獣の事

 寛政十一年六月十八日のの刻過ぎのこと、馬喰町ばくろうちょう一丁目庄左衞門だなの安兵衞と申す田舎廻りの行商を生業なりわいと致いておる者の方へ、妖しき獣が出来しゅったい、燈火の油を嘗めておるを捕えたる由、南町奉行所係りの者、訴え申し付け、その異獣、持ち込みたるを見たところが、これ、実に、最近のこと、下総国八幡村と申すところに御座るやしろの前へ、この獣が出でたを捕え、御鳥見役おんとりみやく方より江戸城内へも、その奇体なるものを奉ったと聞き及んで御座ったが、どうも、これ、全く同じき生き物で御座った。下世話の話によれば――何でも「雷獣」なんどと風聞しておるようでは御座れど――まあ、その筋の識者の見ても、これ、全く以って不詳なる獣である、とか。図は左に示して御座る。

〇長さは凡そ一尺程度、栗鼠に似て、面長で、腮の下が黄色を示す。



 奇石鳴動の事

 享和二年夏、或人きたりて語りけるは、此頃田村家の庭に石あり其あたりは人も立よらざる事と云々。其所謂いはれを尋しに、往昔わうせき元錄の頃、淺野内匠頭營中狼籍の罪にて、田村家へ御預けとなり、右庭上にて切腹の跡へ、大石をおきて印とせし由。其頃本家仙臺より、諸侯を庭上に切腹、其禮失へりと、暫勘發しばらくかんほつありし由。當年いかなる譯故、右石鳴動せしや、其意は不分わからずと。奇談故、爰にしるしぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。大石は洒落かい?
・「享和二年」西暦一八〇二年。本「卷之六」の執筆下限は文化元(一八〇四)年七月までであるから、凡そ二年前の新しい都市伝説である。
・「田村家」この当時は陸奥一関藩第六代藩主田村宗顕むねあき(天明四(一七八四)年~文政一〇(一八二七)年)が当主。江戸藩邸は芝愛宕町(現在の港区新橋四丁目)にあった。同藩初代藩主田村建顕たつあき(明暦二年(一六五六)年~宝永五(一七〇八)年)が奏者番であった元禄一四(一七〇一)年三月十三日に播磨赤穂藩主の浅野長矩が刃傷事件を起こした(巳の下刻・現在の午前十一時四十分頃)、が、この際、その日のうちに(不浄門平川口門を出たのは午後三時五十分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、より江戸城を出ると芝愛宕下(老中の土屋政直の命で長矩の身柄を芝のこの屋敷で預かり、大目付庄田安利の指示によって邸内の庭で翌三月十四日夕刻に切腹を務めさせた。この扱いをめぐって長矩の本家広島藩主浅野綱長及び建顕の本家仙台藩主伊達綱村(建顕は元禄八(一六九五)年に宮床伊達氏の当主伊達村房(後の伊達吉村)を養子に迎えるが、幕府に届け出る前に彼は当時の仙台藩主伊達綱村の養子に変更された)から抗議を受けている(因みに、この抗議や浅野びいきによって八月二十一日、大目付庄田安利は吉良上野介義央よしひさに近い旗本達とともに勤務不行届として罷免され小普請入、その後も役職復帰出来ずに宝永二(一七〇五)年、失意のうちに享年五十六で死去している。以上はウィキのそれぞれの人物の記載を参照した)。本記載時は、既に事件から実に一〇一年が経過している。
・「勘發」「かんぼつ」とも読む。過失を責めること。譴責。

■やぶちゃん現代語訳

 奇石鳴動の事

 享和二年夏、ある人が来たって語ったことには、この頃、田村宗顕むねあき殿御屋敷の庭にある石の辺りにては、たれ一人、立ち寄らざるとのこと、巷で頻りに噂となって御座る由。
 その謂われを尋ねたところが、いんぬる元禄の頃、淺野内匠頭殿、殿中狼籍の罪にて、田村家へ御預けとなり、その御庭にて切腹、その跡へ、大石を置き、かのしるしと致いて御座った由。
 また、その頃、本家の仙台伊達綱村殿より、
「大名を庭上にてみすみす切腹させおわんぬること、これ、甚だ礼を失せり。」
と、暫くは強う、その仕儀への譴責の御座ったとも申す。
 さても、百年を過ぎたる当年、いかなる訳かは存ぜねど、かの印の石の、俄かに鳴動したるは、これ、その真意、不分明なり、との由で御座る。
 奇談なれば、ここに記しおくことと致す。



 意念奇談の事

 小日向水道端こひなたすいだうばたに、婦人の療治、産の取扱功者とりあつかいこうしやと人の沙汰せし山田齊叔といへる醫師、兩三代右の所にすみけるが、享和二年正月、齊叔長病ながわずらひにて起居も難成なりがたき程にて、同月十六日、少々こころよき間、近隣の寺へまふで閻王えんわうを拜すべしといひしを、妻や子なる者、かゝる大病にてかごにても詣で給ふ事かたかるべしなど諭しけるが、其日の夕方みまかりける由。しかるに、程近き所に住ける御賄方おんまかなひかたつとめかねて齊叔と懇意なる者、子共をつれ閻魔へ詣でけるが、途中にて齊叔に行き逢しゆゑ、久々病氣の樣子尋ねて立わかれ、日數すぎて齊叔死去をきき尋訪たづねとひしに、其妻子に、正月六日閣魔へ參詣の事を尋しに、中々參詣などなるべき事にあらねど、しかじかの事ありしと、語りけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:ポルター・ガイストから死の直前の幽体離脱と、いずれも享和二年の都市伝説で連関する。実は「耳嚢」では珍しい本格怪談連発でもある。――ただ、生霊の実体となってまで閻魔に参っておりながら、――その実、その日に亡くなったというのなら、これ、婦人科・産科医として名を馳せたという先代齊叔なる医師のやっていたことも、案外、怪しげな裏でもあったものか? と勘繰りたくはなりませぬか?――いや――そんなことはどうでも私には、いいんだ。――ここはロケーションがいいのだよ……
・「小日向水道端」文京区の旧小日向水道端一丁目及び小日向水道端二丁目(現在の水道及び小日向)。底本の鈴木氏注に『明治期に水道管を地中に埋没するまでは、地上を流れていた。目白崖下の大洗堰で揚水された常水が水戸邸に向かって東南へ流れていた。その水道の右岸に沿った地域で、反対側は寺院が多かった』とある。近代の水道埋設後の地図であるが、「国際日本文化研究センター」の「所蔵地図データベース」内の明治一六(一八八三)年参謀本部陸軍部測量局五千分一東京図測量原図「東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍」(現所蔵番号:YG/1/GC67/To 、002275675)で、
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2275675-15.html
地図の西にある「金剛寺」から南へ下る道の中央を点線が走り、それが坂下の「砲兵工廠」(旧水戸藩邸・現在の後楽園)の南端で実線下して橋脚が掛かっているのが見える。これが「水道」の名残である。齊叔の家は恐らくは、この「金剛寺」前旧水道両側直近で、水道に沿った地図の東外六〇〇メートル上流程、現在の有楽町線江戸川橋駅辺りまでが同定地となると考えられる。……なお――この地図の――中央やや南の「小石川中富坂町」をご覧頂きたい。……この丘陵の住宅地こそ――後の「こゝろ」の、あの若き日の「先生」のいた家があった場所である。……既に「心 先生の遺書(五十五)~(百十) 附♡やぶちゃんの摑み」「八十七」で詳細な考証をしたが、具体に言えばこの「小石川中富坂町」の「中」の字の位置に――あの下宿家は「在った」と考えている……
・「同月十六日」正月十六日は初閻魔、閻魔王の賽日さいにち(地獄で閻魔大王が亡者を責め苛むことをやめる日)とされるようになり、縁日となった。この日は小正月の翌日で、七月十六日の盆と並ぶ奉公人も仕事を休んで実家に帰れる藪入りとなった。
・「近隣の寺へまふで閻王を拜すべし」岩波版長谷川氏注には、この近くの閻魔を祀る寺として『日輪寺(曹洞宗)・げん国寺(浄土宗)』を挙げおられる。この内、日輪寺は同じ水道端(文京区小日向一丁目)でまさに現在の水道端図書館の道(水道)を隔てた真向いにある。また還国寺も小日向二丁目で、本話柄からはどちらも数百メートル圏内に収まってしまい、寧ろ齊叔の家に直近に過ぎる気がする(但し、本文は確かに「近隣」と言っており、特に現在でも後者の閻魔像はかなり有名である)。が、私はどうしても、東京都文京区小石川二丁目にある、浄土宗源覚寺を同定候補として掲げたいのである。先の地図で、「小石川中富坂町」の「小」の字の東に「善雄寺」というのがあるが、その北位置に「源覚寺」の文字が見えよう。ここである。ここなら一キロメートル圏内で、齊叔の妻子が、敢えて「駕にても」(前の二寺なら私は無理して息子が背負ってでも行けそうな気がするのである)と述べた、感じが出る。ここの閻魔像は片目が濁った独特のもので、「こんにゃく閻魔」として江戸でも知られた閻魔を祀る寺である。……はい……おっしゃる通り……私がこれを候補にせずんばあらずなのは……先に掲げた通り……「こゝろ」の「先生の遺書」の、かの先生がKと御嬢さんの二人連れに出逢ってしまう、あの章の冒頭に登場するからで御座る……。
「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を拔けて細い坂路を上つて宅へ歸りました。Kの室は空虚がらんどうでしたけれども、火鉢には繼ぎたての火が暖かさうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳さうと思つて、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く殘つてゐる丈で、火種さへ盡きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。(以下略)
・「御賄方」江戸城内の台所への食材や食器の手配を管理する賄頭まかないがしらの属官。

■やぶちゃん現代語訳

 意念の幽魂の実体と化した奇談の事

 小日向水道端に、婦人の療治や出産の取り扱いの名人と専らの噂なる、山田齊叔せいしゅくと申す医師――もう三代に亙ってかの場所に住んでおる由なるが――享和二年正月のこと、先代の齊叔、長が患いにて、起居きもなり難きほどとなって御座ったれど、その月の十六日のこと、譫言うわごとめいて、
「……少々快ければ……近隣の寺へ詣でて……閻魔さまを……拝まんとぞ……思う……」
なんどと申す故、妻や子なる者、
「……かかる大病にては、駕籠にても、これ、詣でなさることは難しゅう御座る……」
なんどと諭しすかして御座ったが――とうとう、その日の夕刻――身罷ったる由。
 ところが……
 程近き所に住んで御座った――この者、御賄方おんまかないがたを勤め、かねてより、この齊叔とは懇意にして御座った――者が、子供を連れ、初閻魔へ詣でたところが、途中にて齊叔に行き逢うて、久々にうたによって、挨拶がてら、齊叔の病気の具合なんども訊ね、そのまま立わかれて御座った――と。
 日數も過ぎて、齊叔死去の報を聞き、弔問致いて御座った折り、かの者、故齊叔が妻子に、
「……実は、その、亡くなられた正月六日のことじゃが……我ら、閣魔参詣の砌り、確かに齊叔殿に行きうて、お話まで致いたのじゃが……」
と訊ねたところが、妻子は、
「……なかなか参詣など出来ようさまにはありませなんだし、一日、臥所ふしどにあったまま、息を引き取りまして御座った……が……なれど……たしか……そういえば……その日、未だ少し意識のある時分、『……少々快ければ……近隣の寺へ詣でて……閻魔さまを……拝まんとぞ……思う……』……と……譫言のように呟いておりましたが……」
と、語ったとのことで御座る。



 遁世の夫婦笑談の事

 ある富家ふうかの町人、五十にちかきが、せがれへ跡をゆづりて其身隱宅へひき移り法體ほつたいせしに、妻なるもの、是もともに法心して比丘尼となりくらせしが、妻は三十四五歳にもなりしか、予がしれる醫者のもとへよびに人こしけるゆゑまかりし處、比丘尼出産して、産籠にかゝりて麻苧まをなど襟へかけ、かたへにうぶ子のなく聲など、いと似氣にげなきていにて可笑しかりしと、語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:この「予が知れる醫者」とは、前話の「婦人の療治、産の取扱功者と人の沙汰せし山田齊叔といへる醫師」と妙に合致する印象がある。兎も角も産科医ニュース・ソースで関連する。まあしかし何だか冒頭、やっとほっとする笑話ではある。法体ほったいの夫を描写していたら、もっと面白かったろうに、とは欲張りな話か。
・「産籠」これについては、底本の鈴木氏注が詳細を極める。本語について解説した諸本を他に見ないので、例外的に以下に全文を引用したい。
   《引用開始》
川柳の句に「産籠で子供の遊ぶ軽いこと」というのがあり、『川柳大辞典』に、怪我の心配など無しと釈し、「産籠の大間違ひは姑なり」の句に、余所の子と聞違ひしか、と釈し、産籠とは、産児を入れて置く籠のことで、子守を置かぬ家はみなこれを用いたと説明し、他の辞典にも同説が見られるが、疑問である。句の「軽いこと」とは、産が軽いことで、赤子が怪我をせぬ意味ではない。また「産籠の大間違」とは、産婦が逆上などして大事にいたることを意味していよう。姑の仕打から産婦がかっとして赤子を圧殺するとか、俗に血が上がる病症になったというので、産籠は出産のための道具で、育児用でないことがわかる。ところが『柳多留』初篇に「産ン籠の内で亭主をはゞに呼び」とある句は、産婦がこの中に入ることを示して居り、古典文学大系の頭注には、出産をする時はいる籠と注してある。これを安産後にさっそく嬰児用に転用したことになる。昔は坐産が多かったから、横長の寝床のような形を想像するのは誤りで、だから籠で事足りたのであろうが、実物を見たことはない。坐産の時力縄を天井から下げて摑み、分娩後は布団を積み重ねてよりかかり、肥立つに従って低くして行くという方法もとられた。
   《引用終了》
私の一読、子守駕籠をイメージしていたので、この坐産用の妊婦が入る籠状の用具という注は驚きであった(岩波版長谷川氏注も同様に注する)。
――しかし、これだけはっきりと鈴木氏が出産用具として述べているのに、氏自身がそうした坐具を見たことがないというのは、如何にも不審である。
――出産儀礼を研究されておられる民俗学研究者の方の御教授を乞うものである。
――如何なる形状で、どのように用いたのか?
――残っていないというのは血の穢れ故か?
――しかし、だとすれば産後転用というのも解せないではないか?
――きっと、何処かに、違った名前で残っているはず、と信じたいのである。
   ……〈インターミッション〉
――本注を書いてから、一晩、考えた。
――実はこれは、
×「産籠(サンカゴ)」
と読むのではなく
〇「産籠(ウブコモリ・ウミコモリ)」「産籠(ウブコ・ウミコ)」「産籠(サンコ)」
と読むのではなかろうか?
――即ち、
〇「産屋(ウブヤ)」「産小屋(ウブゴヤ)」
の変化したものとしてである。
昭和二六(一九四九)年東京堂出版刊柳田國男監修「民俗學辭典」(これ、国学院大学に入学した四月に所持必須と言われて半強制的に買わされた辞書であるが、実に三十八年後に初めて私の手によってまともに引かれたという気がする。定価二八〇〇円……貧乏学生だった当時の私にはほぼ五日分の食費に相当した。……底本通り、旧字(!)のままに引用する)の「産屋」の項に、古くは『産婦が産の忌』のために一定期間『別火生活をする所』として建てられた小屋を指し、『轉じて産の忌の期間をウブヤ・オビヤ・オブヤなどと呼ぶところがある』と記し、『佐渡ではコヤタッタというと家の納戸にお産をしに入ることをさす』とし、『現在では一つの家でウブヤという建物を持っている例は少ないが、神職の家などにはまだ見ることとができる。共同の小屋に別居するか、あるいは各家の納戸、ニハの隅などをウブヤ宛てている例なら所々に見られ』、『これらの大部分は、婦人の月事の間を籠る所も同じであったようだが、例へば八丈島にはコウミヤ、三宅島には子持カドと稱する産屋が、月事の小屋とは別に設けられていた』とある。本話の主人公夫婦は遁世僧と比丘尼という変わったカップルである。正式なものであったどうかは別として(浄土真宗ならば当時でも合法的に可能である)、恐らくは得度の真似事のようなことは金に任せてしていると考えてよい。そうした「現世のあらゆる煩悩」特に「欲を離れて」「後世を念ずる」「自らを不断に潔斎しせんとする」夫が、「日々愛しみ抱いているところの」妻の月々の血の穢れたる生理や「二人の子」の出産のために、遁世の庵の一角にそうした「不浄禁忌」を目的とした装置を附置していたとしても、「全くおかしくない」。――いやいや! 可笑しくないよ!――この庵全体は閉じられた系であり、そこは彼ら夫婦にとっては全く無矛盾な世界であったのであるからして――これはゲーデルの不完全性定理に則って――彼らには「真」として認識されていたのである。
やはり、識者の御教授を俟つ。現代語訳では敢えて「うぶこ」と訓じて差別化しておいた。
・「麻苧」「あさを(あさお)」とも。麻やからむし(イラクサ目イラクサ科カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea。南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古来から植物繊維を採取するために栽培された。苧麻ちょま。)の繊維で作った糸。このカラムシの繊維で織った布に晒し加工をした奈良さらしは、武家のかみしもを始め、帷子などに用いられ、古くは鎌倉時代に南都寺院の僧尼の衣や袈裟用に法華寺の尼衆や西大寺周辺の女性たちが織りだしたと伝えられている。ここでは何やらん、そうした古義めいた尼の装束を言っているように思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 遁世の夫婦の笑話の事

 とある裕福なる町人にて、五十にも近き者、これ、せがれへ跡を譲ると決め、その身は隠居所へと引き移っては、遁世の覚悟もしっかりと、法体ほったいまで致いて御座ったと申す。
 その妻なる者、これも夫とともに法心を起こして薙染の真似事を致いては比丘尼びくにの姿となって、法体の夫と並んでともに暮らすことと相い成って御座ったと申す。
 ところが――この妻、三十四、五歳にもなって御座ったか――ある日のこと、私の知れる医者の元へ、人を使つこうて往診を呼びに来たった故、罷り越したところが……
――この比丘尼、出産の直後にて……
――尼削ぎのままに……
――産籠うぶこの中へとちんまりと坐って……
――それがまた……苧麻ちょまで出来た尼めいたえりなんどをも掛け……
――そうしてまた、その傍らには……
――フンギャア! フンギャア!
――と、まあ、これ、元気なるこおの、産声うぶごえ…………

「……いや……なんとも、まあ……如何にも場違いなるていにて……可笑しゅう御座った……」
と、その医師の話にて御座ったよ。



  孝行八百屋の事

 飯田町とか聞しが、その所はつまびらかならねど、かの八百屋はもと相應にもくらしけるや、身持放埓にてはなはだ人がらあしく、父母も見限りて舊離きうりせしが、火消やしきの役場中間やくばちゆうげんになりていよいよ身持よろしからず。火災の節は、裸身へ役看板やくかんばんをひつかけ、階子はしご或は水籠みづかごなどもちて駈歩行かけあるきぬ。父は相果あひはて、母は店請人たなうけにんの方へ被引取ひきとられけるが、さながら恩愛すてがたきや、かのもの役場などへ出る時は、母は表へたち出で、彼が樣子を見送りけるとや。然るに、右のもの與風ふと小川町邊の長屋窓下にたちしに、心學の講釋ありしを聞て、父母には物事そむかず、何にても父母のこのむ所をなしよろこばしむる事、孝の第一にてと、その枝葉をならべ講ずるをききて、頻りに面白おもしろく思ひ、兩三日聞て、われ孝心をおこすべきと、緡草履さしざうりを拵へ、商ひし代錢を母のもとへ持參もちまゐり、何にてもこのみ候ものを調へ給候樣申たべさうらふやうまうす。其言葉ざま以前に替りし故、母もよろこびて心よくとり合せける故、大部おほべやへ立歸りても母のよろこびしを思ひて、日々に錢をて母のかたへ至り衣食を助けゝるが、或時部屋頭へ願ひて鳥目てうもく壹貫文をかりうけ、いさいのわけを咄し、母のもとへ至り、何にてものぞみあらばかなへたしといひしが、年おいて何もねがひなし、かのもの身持みもちよろしからず、母も寄宿の事故、父の石碑も不建たてず、供養法事も心にまかせず參詣さへおろそかなれば、寺參り致度いたしたしとのねがひ故、すなはち母をともなひ菩提寺へ至り、壹貫文の内五百文を寺へをさめ、心ばかりの供養をたのみ、父の石碑もなきを歎きける。歸りには母をともなひ淺草觀音其外見せ物ある處へ至り、終日慰さめて歸りしが、さるにても父の石碑も建立致度いたしかしとて、明暮手業あけくれてわざなど精出し、朝夕ひまあれば母をとぶらひける故、さすがにや内にて無賴不道の役場中間ながら、孝心を感じ世話いたしける故、部屋頭を始め少々づつ合力かふりよく等なしければ、右の金錢をもつて、石碑をたて、店請人へも厚く母の介抱の禮を伸べ謝禮致し、怠りなく孝心を盡しけるゆゑ、店請人家主抔も聞き及び、其外知音ちいんの者どもゝ、かく心底を改むるうへは何方いづかたへもみせをもたせ、相應のかせぎいたし可然しかるべしと、とりより世話をなして八百屋を始めさせけるが、かれが孝心を稱して店もはやりて、今孝行八百屋と專ら沙汰ある由、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、前話に続いて、巷間のいい話で巻頭を言祝ぐ。私は、この話、何だかとっても好きなんである。
・「飯田町」概ね現在の千代田区飯田橋付近一帯の旧町名。
・「舊離」久離。既出。不身持ちのために別居又は失踪した子弟に対し、親や目上の親族が連帯責任を免れるために親族関係を断絶すること。「欠け落ち久離」とも。ここでは法的には異なった概念である勘当(親子関係の公的断絶処理)と同義で用いられている。
・「役場中間」既出。ここでの「役場」は特殊な用法で、火事場の意である。火消し役が役する火事場の謂いであろう。専ら消防作業に従事した中間のこと。
・「役看板」既出。一般には武家の中間や小者こものなどがお仕着せにした短い衣類で、背に主家の紋所などを染め出したものを言うが、ここは火消しの火事場袢纏、半被はっぴ
・「店請人」居住していた借家の保証人。
・「與風ふと」は底本のルビ。
・「小川町」現在の千代田区神田小川町付近。駿河台南側で武家屋敷が多く、根岸の屋敷は駿河台で小川町の直近にある。
・「心學の講釋有し」「心學」石門心学せきもんしんがく。江戸中期の思想家石田梅岩いしだばいがん(貞享二(一六八五)年~延享元(一七四四)年:丹波国桑田郡東懸村(現在の京都府亀岡市)生まれの百姓の次男で呉服屋の丁稚奉公などを務めていたが、享保一二(一七二七)年に出逢った在家仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始め、四十五歳で借家の自宅に無料講座を開き、後に「石門心学」と呼ばれるようになる思想を説いた。)を開祖とする倫理学の一派。当初は都市部を中心に広まり、次第に農村部や武士階級にも普及するようになった。江戸時代後期に大流行して全国的に広まったが明治期に入って急速に衰退した。主に参照したウィキの「石門心学」「石田梅岩」によれば、『「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序を』形成するところの「性理の学」であり、『その思想は、神道・儒教・仏教の三教合一説を基盤としている。その実践道徳の根本は、天地の心に帰することによって、その心を獲得し、私心をなくして無心となり、仁義を行うというものである。その最も尊重するところは、正直の徳であるとされる』とある。また、岩波版長谷川氏注には、『当時江戸には中沢道二が来ており、小川町近藤家邸中に住み、講席を設けていた時期がある。その講釈を聞いたのであろう』と推定しておられる。中沢道二なかざわどうに(享保一〇(一七二五)年~享和三(一八〇三)年)は石門心学の門人の一人で、名は義道。京都西陣で織職の家の出身で、亀屋久兵衛と称した。一度家業を継いだ後、四十歳頃より梅岩の直弟子手島堵庵てしまとあんに師事、後に江戸に下って安永八(一七七九)年に日本橋塩町に心学講舎「参前舎」(心学講舎とは一般民衆への道話の講釈と心学者たちの会輔(修業)を目的として創られた学舎で、最盛期には全国に百八十ヶ所以上を数えた)を設け、石門心学の普及に努めた。道二の石門心学は庶民だけでなく、江戸幕府の老中松平定信を始め、大名などにも広がり、江戸の人足寄場における教諭方も務めた(ウィキの「中沢道二」に拠る)。本「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月で、冒頭、根岸が「其所は詳ならねど」と不確かな語り口をしているところからも、話柄自体は、確かに二十年ほど前の話という感じではある。
・「緡」銭緡ぜにさし。穴空き銭を纏めておくための、藁や麻の紐。岩波版長谷川氏注に、火消人夫が副業といていた旨、記載がある。底本の鈴木氏は「緡草履」で一語として捉え、『緡は当字で差縄。布や麻をより合せた縄。その縄で編んだ草履』とする。原材料は同じであるから、長谷川氏の方が自然な気がする。
・「一貫文」鐚銭であろうが、多く見積もっても現在の十数万円というところか。半分を供養に用いているから六万円程では墓石は無理という感じはする。

■やぶちゃん現代語訳

  「孝行八百屋」の事

 この通称、
――「孝行八百屋」――
と申すは、飯田町とかにあると聞いて御座るが……その謂われは詳しくは存ぜねど……何でも、かの八百屋主人あるじは、これ、元は相応に暮して御座った町人の息子ではあったが、若き日に身持悪しく放埓にして、甚だ人柄も粗暴なればこそ、父母も見限りて、勘当久離きゅうりと相い成ったと申す。……
 その後は火消屋敷の役場中間やくばちゅうげんとなって、これまた、いよいよ身を持ち崩した。……
 火災の折りには、裸形へ一張羅の役看板やくかんばんを引っ掛けたなり、梯子やら水桶なんどを持って、狂ったように駈け抜ける体たらく。……
 かくするうちに、父は相い果て、一人息子以外には身寄りもなき母者ははじゃは、これ、店請人たなうけにんの方へと引き取られておったれど、流石に――恩愛は、これ、捨てがたきものと申すか――かの息子が火事場なんどへ出るという時は、かの母者は、身を寄せて御座った町屋の表へ立ち出でて、かの息子が立ち回るさまを心配し、こっそりとその姿を認めては、蔭にて見送って御座ったとか申す。……
 然るに、ある日のこと、右の者、非番の折りから、ふと、小川町辺りの長屋の窓下そうかに、何するともの、佇んで御座った。
 すると、近くの家内いえうちにて心学の講釈が催されてあった、その洩れ出で来る話が、何心のう、耳に入った。
「……父母には何事も背かず、如何なる場合にあっても、父母の好む所の所行を成し、父母を悦ばしむること、これ、孝の第一なり……」
と、その仔細を一つ一つを挙げては、分かり易い例を並べて講ずるを聞き、何故か、頻りに、
『……これは……何やらん……よう分かる……面白きものじゃ……』
と思うて、立て続けに三日の間、立ち聞き致いて、
「……我ら、一つ、孝心を起すべき――時じゃ!――」
と、一念発起致いて、火事場中間の大部屋へととって返すと、普段は見向きもせなんださし作りやら、草履ぞうり作りに精を出だし始めた。……
 一切の遊びを断って、せっせとっては売り、売っては綯うして、瞬く間に小金を貯め込み、その商いの代銭をごっそり母者が元へと持ち参って、
「……おっ母あ……そのぅ……何でも、おっ母あの、お好みなさるものを、これで、うて、お食べ下されい。……」
と申した。
 その言葉遣いや神妙なる立ち居振る舞い、これ、以前とは天地ほども変わって御座ったゆえ、母も悦んで、久々に気持ちよぅ、心開いて、息子と言葉を交わすことが出来たと申す。……
 その日、かの息子、大部屋へたち歸ってからも、母の悦んだ姿を思い浮かべては……何やらん、すがしい思いに打たれたとも申す。……
 それより、日々に、貯えた銭を以って母者が元へと参っては、母者の衣食を何くれとのう、助けて御座った。――しかし、緡縄さしなわやら草履にては――これ――貯まる金も知れたものじゃ。……
 そんなある日のこと、かの男、部屋頭へやがしらへと願い出て、
「……鳥目ちょうもく……一貫文を……借り請けとう、存ずる。……」
と申したによって、頭も気色ばんで委細の訳を質した。
 男がかくも哀れなる己が母の話を致いたところが、頭は黙って、男に一貫文の緡を渡いた、と申す。……
男は母のもとへと至り、
今日きょうびは、おっ母あ! ほんに、何でも、望みのものあらば、叶えましょうぞ!……」
と、満面の笑みを以って言うた、と申す。
ところが母者は、
「……もう、年老いて、の、なにも願いは、なし……されば……そう……そなたが身持ちのよろしゅうのうなって、このかた……わらわも、かく、人の家の世話になって御座いましたゆえ……御父上の墓石ぼせきも建てず、供養も法事も心にまかせず……実は、御骨を預けおいた菩提寺の参詣さえ、疎そかにしておりますれば……一つ、寺参りにお連れでないかえ……」
とのねごうたと申す。
 されば、直ちに母を伴い、菩提寺へと参り、一貫文の内、五百文を寺へと納め、心ばかりの供養を頼み、
「……父の墓石もなき……慚愧の念に堪えませねど……宜しゅうに菩提をとむろうて下さりませ……」
と、かの息子、母者とともに、住持の前にて涙を流しては歎いた、とのことで御座った。……
 その日の帰りには母を連れ、浅草觀音やその外、華やかな見せ物のある所を巡っては、終日ひねもす、母者を慰さめて大部屋へと帰ったと申す。……
「……何としても、父の墓石をも建立致したい!……」
と、またしても、それより一念を起こし、寝る間もなき程に、明け暮れとのう、かの緡や草履の手業てわざその他に精を出だし、朝夕には、いとまある毎に必ず、母を訪ぬるゆえ、流石に、それをそばで見知って御座った部屋内の――かの無頼非道のむくつけき役場中間どもなれど――やはり人の子――かの男の孝心を、誰もが感じ入って――火事場の出の代わりを申し出るやら――出来た緡や草履をこっそりと男の分に投げ入れてやるやら――何くれとのう、男の世話なんどを致いて御座ったとも申す。……
 かくも、部屋頭を始めとして皆々の者が、少しずつ、かの男に合力こうりょくを成したれば、何とか、相応の金も貯まって御座った。……
 かくて男は、その金銭を以つて亡き父の墓石を立て、店請人へも厚く、母者の保護と介助の礼を述べて謝礼も致し、万事、怠りのう、孝心を尽くして御座ったと申す。……
 その礼を受けた母者の店請人や家主なんども、この類い稀なる男の孝心を聞き及び、その噂がまた、その外の彼らが知音ちいんの者どもへも、あっという間に広がって、
「――かく、心底を改めた上は何方いづかたなりともみせを持たせ、相応の商売を致して然るべき男じゃ!」
と、心ある御仁たちが寄りつどって相談の上、世話を致いて、八百屋を始めさせたと申す。……
かの孝心が知られて店も流行り、今に、
――孝行八百屋――
と称せられ、専らの評判にて繁昌致いておる由、さる御仁から聴いた話で御座る。



 石山殿狂歌の事

 石山大納言殿へ立入たちいりせし番匠ばんしやうの年おいけるが、身まかりしとききたまひて、うばは殘りし由を狂じよめる由、
 ちゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々はかはいやなにとせんたく

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。狂歌滑稽譚シリーズ。
・「石山大納言」石山師香 いしやまもろか(寛文九(一六六九)年~享保一九(一七三四)年)は公卿。藤原氏持明院支流葉川(園)基起もとおき次男。元禄一六(一七〇三)年従三位となって葉川(後に壬生みぶ)家から分かれて石山家を興す。享保一九(一七三四)年従二位権中納言。狩野永納かのうえいのうに学んで戯画に優れ、書・和歌・彫金でも知られた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。岩波版長谷川氏は他に、師香の養子(姉小路実武次男)であるやはり画才のあった石山基名もとな(享保五(一七二〇)年~寛政四(一七九二)年)の名を挙げておられる。彼は没時、正二位権大納言であった。
・「番匠」「ばんじょう」とも読む。大工職のこと。
・「ちゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々はかはいやなにとせんたく」底本には「なにと」の右に『(尊經閣本「何の」)』と傍注、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 ぢゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々ばばはかはいやなにとせんたく
とある(「ゝ」はママ)。「父」は「爺」で通用し、そもそも和歌では濁音は表記しないのが通例であるから問題はない。長谷川氏は『桃太郎の話の発端を利用。ぢゝは病いと山へを掛け、草かりは草刈と仮の代を掛ける。なにとせんたくはなにとせん(どうしようか)と洗濯を掛ける』と注されておられる。天寿を全うする年齢であったのであろう、弔問の挨拶句というより、往生と残った老媼への労りを込めた洒落た戯れ歌である。私の敷衍自在訳を以下に示す。
――じいさん、病(「やま」)いで「山」へ草「刈り」、ああ、行かしゃった、行かしゃった、「仮り」の宿りのこの世の中を、ああ、「鎌」振り捨てて、逝しゃった、ああ、逝かしゃった、それはそれ、天寿全う、芝刈り鎌(「かま」)、いや、じゃから「かま」わん、目出度とぅおじゃる……なれど――残れるばあさんは、いや、可愛(「かわ」)いや、可愛いや、「川」へ洗濯、ああ、行かしゃった、行かしゃった、一体今頃、どうしておじゃるか、おじゃるかいのぅ、麿でもちょいとは、心配じゃ、ああ、心配じゃわいのぅ――
私は、こう弔問歌、好きで、おじゃる。

■やぶちゃん現代語訳

 石山殿の狂歌の事

 石山大納言殿の御屋敷へ、永く出入りさせてもろうて御座った年老いた大工、これ、身罷ったと聞き、また、配偶つれあいの老婦は未だ健在なる由も聞き及び遊ばされ、狂じて――基い!――興じて、お詠みなされた由の狂歌、

 ちゝはやまひ草かりの代をふりすてゝ婆々はかはいやなにとせんたく



 大日坂大日起立の事

 いにしへは八幡坂と唱へける由。右は同所久世家抱屋舖かかへやしきの地尻ぢじりに櫻木町の八幡あるゆゑにや。□□の頃、久世家にて右抱屋敷起發きほつの頃、右屋敷脇にあやしげなる庵室あんじつありて尼壹人住居せしが、其頃はいたつて物淋しき土地故、博徒の輩あつまりて其邊にて博奕をなし、茶或は酒肴しゆかう等の煮たきを右尼に賴みけるが、日々世話になりさふらふ禮を何かむくひんと、彼博徒等申合まうしあひけるが、其内一人、尼が信仰する本尊は大日なる由、此大日に利益ある由申觸まうしふらし流行出はやりだし候はゞ、一廉ひとかどのたすけとならんと、所々より集りし博徒等申觸まうしふれける故、流行出し、一旦殊の外繁昌せし故、右大日を今の所へ堂をたて、當時は別當もありて地名も大日をもつて、唱ふるなりと、かの所の古老の物語なり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。起立譚で冒頭と連関。また、「意念奇談の事」の現場、小日向水道端とも非常に近い。但し、話柄自体は、全くの都市伝説の域を出ない怪しげなものである。
・「大日坂」現在の文京区小日向二丁目にある坂。江戸時代は小日向の名所であった。
・「大日」底本鈴木氏注に『三村翁注に「大日坂大日堂、小日向水道町に在り、覚王山長谷寺といひ、天台宗寛永寺末なり、開山を新編江戸志には、渋谷禅尼とし、寺の縁起には浩善尼とせる由、毎月八の日縁日にて賑へり」とある。長善寺が正しい。江戸名所図会には法善尼とあり、この人は紀州頼宜に仕えた。大日坂は同寺と知願寺の間で、水道端へ下る坂道に面する』とある。岩波版長谷川氏注には、『坂の東側の覚王山長善寺妙足院に大日如来をまつった大日堂があった』とする。この妙足院は天台宗の寺院として小日向二丁目に現存する。HP「天台宗東京教区」の「妙足院」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を追加変更、改行を省略した)、『国立国会図書館所蔵の当院の大日如来略縁起に依れば、往昔慈覚大師が入唐帰国のおり、 この大日如来像(像高三寸五分)を将来されたと伝えられています。 元亀元年 (注:正しくは二年。)織田信長の叡山焼打ちの際、尊像自ら厨子より飛び出し琵琶湖を越え、江州蒲生郡の森に難を逃れ、夜な夜な光を放っていたところを、藤氏某その光を尋ねて、この尊像を我家に安置して一心に供養され、我に一子を授け給えと祈願した処、願いがかない、一女を授けられました。 この女子は成長するに従い、 才色優れて前大納言源頼宣に召され、宮仕えする身となりました。 かかる折いかなる罪業のなす故か、緑の黒髪が突然絡み合って全くくしけずることもできない姿にもだえ悲しみ、父より譲り受けた尊像に対し一途に祈るさなか、 この本尊夢の中に告げ申すには、 汝過去の悪行によりこの怪しき病を得たり、この業転じ難し、早く尼となりて解脱すべしと。夢覚めた女子は随喜の涙にむせび即座に剃髪し、法名を浩禅尼と称し、 当院開基の尼上人となりました。 なお、 尼上人の法名は墓石には浩善尼となっています。 開祖は生前中に当院の本寺、 上野の護国院の開祖風山生順の弟子、空山玄順に跡を譲り、玄順は堂宇を整え、山号寺号を定め漸く寺らしくしたとのことです。当院は当初より祈願寺として信仰を集め、信者も多く毎月八の日のご縁日に、近くの商店の揃った水道町通り』 『へ多くの露店が列り大層賑わいました。現在では露天は出ませんが、ご縁日の八の日には多くの信者の方が参詣しています』とある。「江戸名所図会」巻之四によれば、
 大日堂 同西の方、大日坂にあり。天台宗にして覺玉山妙足院と號す。相傳ふ、本尊大日如來は、慈覺大師唐より携へ來るところの靈像なり。往古は叡山のうちに安置ありしを、元龜年間織田信長總門を襲はるる頃、堂宇ことごとく兵火ひやうくわに罹りて灰燼となる。されどこの本尊は火焰を遁れ出で、近江國兵主ひやうず明神の社頭、深林のうちに移りたまひ、その後夜々瑞光を放ちたまふ。よつて藤原氏それがし感得してその家に移しまゐらせ、旦暮あけくれ供養すること怠りなし。しかるにこの人嗣子なきを憂へとし、この尊に祈求きぐふしてつひに一女子によしをまうく。長ずるに及んで紀伊亞相賴宣卿に仕へ奉り、後落飾して法善尼と號す。この尼靈夢を感ずるの後、當寺を開き、ここに安置し奉りしといへり。
とあり、挿絵でも大日坂とその繁盛の様子が描かれている。徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)は徳川家康十男で、紀州徳川家の祖。
・「久世家」岩波版長谷川氏注に、『大日堂西に久世家下屋敷あり』とある。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、少なくとも執筆当時の当主は下総関宿藩第五代藩主久世広誉く ぜ ひろやす(寛延四(一七五一)年~文政四(一八二一)年)。
・「抱屋舖」武家・寺社・町人などが百姓地を買得して所持するものを抱地と呼び、そこを囲って家屋を建てたものを抱屋敷と言った。武家でも江戸近郊に抱屋敷を所持する者は多かった。一種の別邸。
・「地尻」ある土地の、奥又は端の方。裏の地続き。
・「櫻木町の八幡」現在の小日向神社(八幡神社)。氷川神社と八幡神社の合祀神社で明治になって小日向神社と改称したが、その八幡神社は以前、「田中八幡宮」と呼称し、文京区音羽九丁目にあった。江戸切絵図を見ると、久世家下屋敷があるとする辺りに「櫻木町」とある。
・「□□」この年号(恐らく)は伝本は総て伏字のようである。
・「其邊にて博奕をなし」野天か、蓆掛けの掘立小屋のような賭場であろう。

■やぶちゃん現代語訳

 大日坂の大日堂起立の事

 大日坂は、古くは八幡坂と称していた由。
 これは同所、久世家別邸の裏の地続きに、知られた桜木町の八幡宮がある故の呼称であろうか。
 さても、この堂の起こりには面白き奇談が御座る。
 □□の頃、久世家にて、かの別邸をお建てになられた頃のこと、その御屋敷の脇に、如何にも粗末なる庵室あんじつが御座って、尼御前ごぜが一人、住もうて御座ったが、その頃は、あの辺り、いたって人気なき土地柄であったが故、博徒のやからが、これ、集まっては、その辺りにて賭博をなし、その口淋しさに、茶や酒、肴なんどの煮炊きを、この尼に頼んでおったと申す。
 ある日のこと、その賭場で、賭けものをしておった博徒の一人が、
「……毎日のように何かと世話になって御座る、あの尼御前じゃが……何ぞ、わしらで、その、礼の一つもして報わんと、これ、ゲンも悪うなる、というもんじゃあねえか?」
てなことをほざいた故、かの博徒どもも、膝を乗り出して、申し合いを始めて御座った。
 さて、何がよかろうか、と悪知恵を突き合わす内、ある一人が、
「……あの尼御前が信心しておる本尊、これ、如何にもしょぼくさい大日如来の像と聴いたんよ。……そこで、よ……『この大日如来に、あらたかなる霊験のこれある』っち、みんなしてよ、あっちゃこっちゃで触れ廻ってよ、そんでもってよ、そのけったいな小仏がよ、これ、世間で大流行りし出したとしたとしたら、よ……こりゃあよ、尼御前の経済の、相応の助けとは、なるんでないかい?」
と、とんでもない不遜なることをぶち上げて御座った。
「そりゃ、名案じゃ!」
てな訳で、そこら中からつどった江戸の手練れの博徒ども、一人残らず、そこたら中で、嘘の霊験を盛んに噂し、触れ回った。
 すると、美事、あっという間に思惑が大当たり、みるみるうちに流行り出して、一旦は門前市を成すが如く、殊の外、繁昌致いた。
 されば後には、かの大日如来を今の所へ堂を立てて鎮座させ、その当初は専業の別当までも常住して御座ったとも申す。
 されば、地名や坂も、これ、「大日」を以って称するようになった由、かの在所の古老の物語で御座る。



 山吹の茶關東にて賞翫又製する事

 元文の頃にもありけるか、所は忘れたり、ある社頭の別當せる僧、上方へ至り、宇治山吹と云へる茶を求めて下りける時、旅泊にても、茶を好みけるままに、彼茶をとり出して紙の上に置て水など調じける處へ、宿やの飯もり女子出て彼茶を見て、是は山吹にて候、茶を好み給ふと見へぬれば、我等調じまいらせむといひしに、彼僧いとふしんなして、賤しきうかれ女の、山吹と名指、又調ぜんと云も心得ずとていなみければ、我等はいとけなきより茶は能く煎じ覺へしとて、やがて煎じ出しけるを風味するに、甚だその氣味すぐれしかば、かれが身の上を尋ねしに、暫し落涙に及びていとはづるていなりしを、せつに尋ねしかば、渠は宇治の一二を爭ふ茶師ちやしの娘なりしが、與風ふと男に被誘さそはれて親元を立出で、其後男も身まかりしかば、心あしき人の手に渡りて今はかゝる身過みすぎをなんなしぬると、涙とゝもに語りければ僧も不便に思ひ、我等は是より江戸表にいづれど、又不遠とほからずして上方へも登り候間、其節可尋たづぬべき間、ふみ書きおかるべし、親元へ屆けて能きに取計とりはからはんと約し立分たちわかれしが、程なく又上京するとて彼旅籠屋はたごやに泊りて、右の女より文請取ふみうけとりて宇治へ至り尋ねしに、かの茶師、棟高き富饒ふねうなる家故、其主を尋ねしに留守なる由故、其妻にあひて夫の歸りをまち、しかじかの事語りければ、夫婦は大きに驚き、行衞不知しれざる娘を尋倦たづねあぐみけるに、かく爲知しらせ給ふ嬉しさよと、早速迎ひの人を仕立したて、彼僧よりの書狀をもらひ、身代金みのしろきんなどあつく持せてその手代など下しければ、恰も、渠がきたる迄逗留なし給へとせちに賴みける故、無據よんどころなく逗留しけるが、無程ほどなく彼娘上京して兩親一族へ對面なし、死せし者の生出いきいでしやうに歡びけるが、何にてもお僧の願ひかなへ給へと、かずかずのこがねなど出しけるを、彼僧かたくしいなみてうけざりしを、いろいろ歎きて漸く少しの路銀のみもらひけるが、餘りの嬉しさにや、家に傳へる山吹の製し方を、祕傳ながらといひて彼僧に傳授しけるを、僧は一世の事故、彼社頭の神主につたえしを又傳ふる者ありて、山吹の茶の製法は、あづまにも今多くしれるものあるとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:一種の起立譚で連関。
・「山吹の茶」宇治茶の銘柄の一つ。山吹色は淹れた茶の色であろう。
・「社頭の別當」とあるから、この僧の勤めていたのは神宮寺であることが分かる。
・「元文」西暦一七三六年~一七四〇年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、六十年以上遡る、かなり古い都市伝説である。
・「不遠とほからずして」は底本のルビ。
・「爲知しらせ」は底本のルビ。
・「僧は一世の事故」僧は別当職であったから、その別当職を次の僧に譲ることを言うか。示寂ととってもよいとは思う。何れにせよ、次代の別当僧は恐らく彼の弟子といった親しい者ではなかったのであろう(そうであったとしても例えば茶の嗜み方は「師」として認めていなかった)。だからこそ、恐らく同僚として親しかった神宮寺の神主にその茶の製法を伝授したものと思われる。
・「尋倦けるに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『尋侘たずねわびけるに』とある。本書の方がよい。

■やぶちゃん現代語訳

 宇治「山吹」の茶が関東でも賞翫され又製しもする事

 遙か元文の頃のことで御座ったか――確かな在所は忘れた――ある神宮寺の別当をして御座った僧が、所用にて上方へ参った折り、茶の名所である宇治にて「山吹」という茶を買い求め、江戸へ下向せんとした。
 とある旅籠屋はたごやにても、茶を好むが故に、買ったその「山吹」を早速にとり出だいて、茶を紙の上に置いて湯を頼んで持ち来たるを待って御座ったところへ、その宿の飯盛女めしもりおんなが湯を提げて出て参った。すると、僧が手元の茶の葉を見、
「……これは山吹の茶どすな。茶をお好みとお見受け致しますによって、一つ、あてがお淹れ致しまひょ。」
と申す。かの僧、大層、不審に思い、
「賤しき浮かれの、何故なにゆえに茶葉を見ただけで「山吹」という銘茶と名指し当てたばかりか――それを淹るる――その最も美味き淹れ方をも――知っておると申すは、これ、合点のいかぬことじゃ。」
と断ろうとしたところが、
「……あては小さい時より……茶は……よう……煎じておりましたさかい、淹れ方もあんじょう、覚えております。」
と言うからに、さても淹れさせて見た。
 そうして、女の煎じ出だいたを翫味したところが……
――これ、まっこと!
優れた風味にて御座った。
 されば、僧、かの女にその身の上を尋ねたが、始めのうちは、しばし涙を流いたまま、大層恥じ入った様子にて黙って御座った。しかし、切に尋ねてみたところが、
「……あては宇治で一、二を争う茶師ちゃしの娘で御座いましたが……ふと、ある男に誘われて親元を出奔致いたので御座いまする。……その後、じきにその男も身罷ってしもうたため……我が身も心悪しき人の手に渡って……今は……かくもお恥ずかしき身過ぎを致いておるで御座りまする。……」
と涙ながらに語ったによって、これを聴いた僧も如何にも哀れに思い、
「……拙僧はこれより江戸表へ帰るのじゃが……遠からずしてまた、これ、上方へも上る故、一つ、その節、そなたの両親を尋ね申そうほどに、その折りがため、手紙を書きおくがよいぞ。そなたの親元へそれを届けて、なるべく、そなたの良きように計って進ぜよう。」
と約して、その場は別れた。
 僧は江戸へ戻ったが、言葉通り、ほどのう、上京となったその途次、再び、かの旅籠屋に泊って、かの女より、命じおいた手紙を受け取ると、宇治へと向かった。
 宇治に辿り着いて、女より聴いて御座った家を尋ねてみたところが、言う通りの、これ、棟高き裕福なる家なれば、その主を訪ねたところ、主人は留守、ということなれば、僧はその妻なる者に逢って、大事なることのありせば、とて、夫なる主人の帰りを待ち、帰った夫と、かの妻に向かい、しかじかの顛末を語ったところが、夫婦は大層驚き、
「……行方知れずになった娘のことは、これ、訊ねあぐんでおりましたが、かくお知らせ下すったことの嬉しさよ!」
と、早速、使いの者を仕立て、かの僧よりの書状を貰い受け――そこにしたためられた文字もんじの娘のものなることを確かめた上――身代金みのしろきんなんども十二分に持たせて、家の手代なんどを、かの旅籠屋へと送り出だいた。
 主人は僧へも、
「どうか一つ、娘が帰って参りますまで、御逗留下さりませ。」
せちに頼んだ故――おのが申したことの嘘か誠か、これ、半信半疑なる様も窺えたれば――僧もよんどころのう、この茶師が館に逗留致いて御座った。
 ほどのう、かの娘も無事、宇治へと帰り着いて、両親や一族へ対面した。
 特に両親は、死んだ者が生き返った如、大いに歓んで、
「かくなった上は何にても、お坊さまの願い、これ、叶えて差上げとう存じまする!」
と、数多あまたの謝金を差し出だいたが、かの僧は、これを固く辞し、受け取りを拒んで御座った。それでも、
「何としても、これ、御礼おんれい致さねば、人の道が立ち申しませぬ!」
なんどと、いろいろ嘆願致いたによって、仕方のう、宇治へと回った少しばかりの路銀をのみ受け取ったと申す。
 かくも、謙虚なる仕儀にも打たれ、茶師、余りの嬉しさによるものか、家に伝わるところの「山吹茶」の製する法を、
「――秘伝ながら。……」
と申しつつも、かの僧に伝授致いた。
 その僧、別当職の終りに当たって、かの神宮寺の親しくして御座った神主にその秘伝を伝え、そののちまた、それを伝える者が御座って、宇治「山吹」の茶の製法は、これ、坂東の地にて、広く知られておる、とか申すことで御座った。



 心ざしある農家の事

 濃州大垣家の家士、交替せるとて東海道を下りけるに、日坂懸川につさかかけがはの間にて、駕の跡棒あとぼうをかつぎける男、もちつけ不申まうさざるのりにくゝ可有之これあるべしと、再三度まうしけれど、かつてさる事なしといひてすぎにしが、其樣いやしからざる者故、仔細こそあらんと何となく尋ねしに、我らが住居は、あいの宿より少しざいいり候までにつき、御休あらば立寄たちより給へかしといひけるに、いと不審なれども其樣こそあらんと、いづれに休まんも同じ事なればと、其おのこのまうすにまかせてたち寄りしに、むね高き宿やどにて門などもひらき門にて、長屋などもゆゝしくたてつゞけ、めし仕ふものと見へし者ども兩三人も出で、檀那歸り給ひしやと尊崇する有さま、いとあやしく不審なりしが、茶抔出していと丁寧に馳走せし故、いかなればかゝる身がらにて、いやしき道中の荷持などなし給ふやとせちに尋ければ、是には譯有ある事なれば不審なし給ふもことわりなり、我等が親共はこの所の人ながら、若き時は世の衰へや、貧しかりしが、一生艱難苦勞して此所家々にもまされる程の百姓になりて、かく有德うとくに跡式をゆづり給ひて、七年以前見まかりぬ。今年七囘忌になりて、其跡をとむらひ法事するに、かく暮しぬればいかやうの供養法事も可成なるべけれど、我等つらつらかんがへ見るに、百金をかけて法事するとも、みな親の殘し置れたる財貨なれば、何とぞ此身より稼出かせぎいだしたる所をもつて追善なさんは、一つの孝心にも有べけれと思ひとりて、日々往還のかせぎをなして、此身の骨を折しあたひをとりて追善せんと思ひそめ、かくは存ぜしなり、しかはあれど、夜中など荷持かせぎなどなして盜賊其外のわざはいを恐れ、當分は召仕めしつかふ男をつれて荷持稼にもつかせぎに出ぬるとかたりしが、めづらしき小揚取こあげとりと笑ひけるが、面白き心ざしのものなりと、語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、舞台が同じ東海道中のロケーションで並んでいて全く違和感がない。
・「濃州大垣家」美濃国大垣藩(現在の岐阜県大垣市)。戸田家氏十万石(戸田家初代は戸田氏鉄で寛永一二(一六三五)年より)。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、当時は大垣中興の名主と謳われた第七代藩主戸田氏教とだうじのりの治世であろう。
・「日坂」東海道日坂宿。現在の静岡県掛川市日坂。東海道の三大難所の一つとされる小夜の中山(掛川市佐夜鹿さよしかの峠。最高点の標高は二五二メートル)の西麓。
・「懸川」東海道懸川宿。現在の静岡県掛川市の中心部。
・「あいの宿」「間の宿」で正しくは「あひの」である。宿場と宿場との中間に設けられた休憩のための宿で宿泊は禁じられていた。この日坂懸川宿間の中間点となると、現在の掛川市の原子・本所・伊達方・八坂辺りか。
・「小揚取」荷物の運搬に従事する人夫。ここは駕籠掻きのこと。
・「かくは存ぜしなり、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『かくはなせし也。』で、句読点も意味もその方が通りがよい。それで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 志しのある農家主人の事

 美濃国大垣家の家士が、江戸藩邸での役務を仰せつかり、交替致すによって東海道を下って御座った。
 日坂にっさか懸川かけがわの間にて、乗った駕籠かご後棒あとぼうを担いでいた男が、
「――未だ――持ち慣れて――御座いませぬゆえ――乗りにくいことが――これ――御座いましょう?――」
と再三、申したのであったが、
「いや、全く以ってそのようなことは御座らぬ。」
とただ答えておったのだが、その風体ふうていや言葉遣い、これ、駕籠掻きにしてはあまりに賤しからざる者で御座ったゆえ、何か格別な仔細のあるに違いないと思い、途次の休憩の折りに何とのう、尋ねねみたところが、
「……我らが住居すまいは、このあい宿しゅくより少しざいの方へ入ったところに御座いますゆえ、御休みにとあらば、一つ、今からお立ち寄り下さいまし。」
と言うたによって、駕籠掻き風情が、武家の者を家に招くというも、如何にも不審では御座ったが、何かそこに、まさに仔細があろうというもの、何処いずこにて休まんも、これ同じことなればと思い、その男の申すにまかせて、男の在所に立ち寄ったところが、……これ、なんと!
……かの男の家、これ、棟高き屋敷にて、門なども両開きの豪華なる門で、おまけに両側には長屋などもどっしりしたものが、これまた、長ぁく立て続けたる立派な長屋門、召しつこうておる者と見える者ども、三人ばかりも門外へと走り出で来たって、
「檀那さま、お歸りなされませ!」
と尊崇する有様――これまた逆に、大層、怪しく不審にても御座った。
 茶など出だいて、大層、丁寧なる馳走など致いて呉れたゆえ、
「……一体、如何なる訳が御座って、このような御身分ながら……かくも賤しき、道中の荷持ちなんどを、なさっておらるるのか?」
せちに尋ねた。すると主人あるじは以下のように語り出して御座った。
「……はい、これにはちょっとした訳が御座いますれば。……御武家様が、御不審を抱かれたであろうことも、これ、尤もなることに御座いまする。……
……我らが親どもはこの在所の地の者にて御座いましたが、若き時はこの世で定められた衰退の応報ででも御座ったものか、大層、貧しゅう御座いました。ところが、一生、艱難辛苦の苦労に苦労を重ねた末、この在所の家々のうちにてもたれにも負けぬほどの裕福なる百姓となりまして、かくも、ご覧になられたような富み栄えた状態で跡を我らにお譲りになって、七年以前、見罷りました。……
……さても今年は七回忌になりまして、その跡を弔い、法事致すことと相い成って御座います。……
……かくも暮しておりますれば、いかようにも、供養・法事も致さば致すことが出来まするが……我ら、そこでつらつら考えてみまするに……百金をかけて法事を成したとしても……これは皆……親の残しおいて下すった財貨によるもの。……なれば、
『――何としても、この肉身にくみより稼ぎ出だいたるところを以って、追善なさんこと、これこそ、我らが出来る一つの孝心にてもあろうほどに!――』
と思い至り、日々、往還の稼ぎをなして、この一つ身の骨を折って稼いだ価いのみを以って、追善致そうと思ひ始めまして、かくなる仕儀を致いておるので御座いまする。……
……されども、夜中などに駕籠搔きなんど致しますと、これ、盜賊その外の災いを蒙ることもあるを恐れまして、当座の間は、昼の間だけ、召しつこうておる男を連れ、駕籠掻きに出でてはおるので御座いまする。……
……いやはや、これは珍しき駕籠掻きにては御座いまするな……はははは……」
と笑って御座った。……

「……それにしても、まっこと、面白き志しの者にて御座る。」
と、その家士自身が私に語って御座った話である。



 英雄の人神威ある事

 石川左近將監しやうげん大御番おほごばんにて大坂御城に在番たりし頃、毎夏蟲干有之むしぼしこれあり、品々の武器兵具等取出し、其懸りの御武具奉行等取扱ひ、御藏より持運び候は、加番かばん大名の人足共の由。數多あまたの鐡砲の内、群にすぐれて重くもちなやみ、かの人足にあたりしものはなはだ持なやみ、多くの内かく重きはいかなる人かもちたりし抔口ずさみけるが、是を改め見るに、南無妙法蓮華經とぞうがんにて彫入ほりいれありしかば、知れる者、これ加藤淸正の持筒もちづつおさめたるなり、淸正の武器には、題目を多く書記かきしるせしと云けるにぞ、剛勇の淸正所持の上は左もあるべしと、皆々感稱せしを、彼かつぎ來りし初めの人夫、淸正は異國までも其名をひびかせし人ながら、人を可殺ころすべき鐡砲に題目も不都合なり、殊に此鐵砲故、大いに肩を痛めける、大馬鹿ものやと、品々淸正を惡口せしが、俄かに身心惱亂なうらんして倒れけるが、無程起上ほどなくおきあがり、雜人ざふにんの身分として我を惡口なしぬるこそ奇怪なれと、憤怒の勢ひ、はじめの人夫口上とは事替り、其すさましさいわんかたなし。其あたりのもの、色々侘事わびごとしてなだめぬれど曾て承知せず。無據よんどころなく其節の加番松平日向守なりし故、其小屋へ申達しければ、家老なるもの驚きて俄に上下抔をちやくし、彼場所へはせ付け、扨々不屆至極なる人足かな、事にもよるべき、ゆゑある武器へ對しての雜言ざふごん、憤りの段尤恐入候得もつともおそれいるさふらえども、雜人の儀何分宥恕いうじよを相願ふ旨、丁寧深切に述べければ、彼人足威儀を改め、ゆるしがたきものなれども、雜人の儀、其主人のことわりも丁寧なればゆるしぬると云て倒れけるが、二三日は右人足は無性むしやうにて、人ごゝちなかりけると、左近將監かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。加藤清正の御霊ごりょうの憑依譚であるが、このシークエンスを実写化すると、私などは吹き出してしまいそうになるのは、それこそこの「雜人」の如き「神威」を恐れぬ不届き者であるからであろう。
・「石川左近將監」石川忠房。石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)は遠山景晋・中川忠英と共に文政年間の能吏として称えられた旗本。安永二(一七七三)年大番、天明八(一七八八)年大番組頭、寛政三(一七九一)年に目付に就任、寛政五(一七九三)年には通商を求めて来たロシア使節ラクスマンとの交渉役となり、幕府は彼に対して同じく目付の村上義礼とともに「宣諭使」という役職を与え、根室で滞在していたラクスマンを松前に呼び寄せて会談を行い、忠房は鎖国の国是の為、長崎以外では交易しないことを穏便に話して長崎入港の信牌しんぱい(長崎への入港許可証)を渡し、ロシアに漂流していた大黒屋光太夫と磯吉の身柄を引き受けている。寛政七(一七九五)年作事奉行となり、同年十二月に従五位下左近将監に叙任された。その後も勘定奉行・道中奉行・蝦夷地御用掛・西丸留守居役・小普請支配・勘定奉行・本丸御留守居役を歴任した辣腕である(以上はウィキの「石川忠房」を参照したが、一部の漢字の誤りを正した)。「將監」はもと、近衛府の判官じょうの職名。フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、「勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見!
・「大番」常備兵力として旗本を編制した警護部隊で、江戸城以外に二条城及び、この大坂城が勤務地としてあり、それぞれに二組(一組は番頭一名・組頭四名・番士五〇名、与力一〇名、同心二〇名の計八五名編成)が一年交代で在番した(以上はウィキの「大番」に拠る)。
・「由比」静岡県の中部の旧庵原郡にあった東海道由比宿の宿場町。現在は静岡市清水区。『東海道の親不知』と呼ばれた断崖に位置する。付近には複数の河川があり、同定不能。
・「加番大名」これは職名で、城番を加勢して城の警備に任じたものを言う。大坂加番と駿府加番があり、ともに老中支配。
・「松平日向守」松平直紹なおつぐ(宝暦九(一七五九)年~文化一一(一八一四)年)、越後糸魚川藩第四代藩主。福井藩越前松平家分家六代。日光祭礼奉行・田安御門番・半蔵門番・大坂加番などを歴任した。石川の大番勤務は安永二(一七七三)年から寛政三(一七九一)年までであるから、当時の松平の年齢は恐らく二十代後半から三十二歳ほどか。
・「家老」裃附けて清正の霊の憑りついた雜人の前にひれ伏して許しを請うこの家老は、こうした対応を即座にとったところから見ると、信心深い相応な年の者であろう。映像はしかし、何とも滑稽ではある。
・「無性」分別のないこと、理性のないことの謂いであるが、気が抜けたように茫然自失としていたことを謂うのであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 英雄の人には神威のある事

 石川左近将監しやうげん忠房殿、大番おおばん役にて大坂御城ごじょうに在番されておられた頃のこと、毎夏、虫干しがこれ御座って、品々の武器・兵具等を取り出だいては、その係りに当たって御座る御武具奉行らが丁寧に取り扱っては虫干し致す。お蔵より持ち運び出だす役は、これ、加番かばん大名の人足どもが当てらるる由。
 さても、そのある夏の虫干しの折り、運び出だいた數多あまたの鉄砲の内に、群を抜いて優れて持つに重そうな――いや、その担当した人足、実際に甚だ持ち悩むほどの重い鉄砲が一挺、これ、御座った。
「……沢山ある鉄砲のうち、かくも重きものは、これ、如何なる人が持っておったもので御座ろう?」
などと、人足らが口々に噂致いて御座ったが、中の一人が、その鉄砲を仔細に改めて見た。すると、
「……おい! この鉄砲には……ここに……ほれ、『南無妙法蓮華經』の文字もんじが、象嵌ぞうがんにて彫り入れて御座る……。」
と言うた。
 それを聴いて御座ったさる知れる者が、
「……さては! これ、朝鮮出兵の虎退治で知られた、あの、加藤清正公の持筒もちづつを納めたるものじゃ! 清正公の武器には、これ、題目を多く書き記してあると聴いておるが……この異様なる重さといい……剛勇の清正公所持の上は、さもあるべきものじゃ!」
と、皆々感心致いておったのじゃが、かの、先程、お蔵より担ぎ出だいた初めの当の人夫が、
「……清正という御人おひとは異国までもその名を轟かせた人ながら、人を殺すための道具たる鉄砲に、こともあろうに、『南無妙法蓮華經』の御題目と彫るというも、こりゃ、不都合極まりないわ! 殊にわしは、このクソ重い、たった一挺の鉄砲のお蔭で、すっかり肩を痛めてしもうたわい! こんなもんも、こんなもん持つ奴も、こりゃ、大馬鹿もののコノコンチキや!……」
と、これ、あらん限りの清正公への悪口あっこうを、これ、致いて御座った。
――と!
この男、俄かに身心悩乱しさまにて昏倒致いたが、ほどなく、
――ムングリッ!
と、起き直ると、
「――グワァ、ツッ!――雑人ぞうにんノ分際デ――我ラニ惡口ナスコトコソ――奇怪きっかいナリ!――」
と、その憤怒の勢いたるや! これ、もとの人夫の話し振りや質とは、すっかり様変わって! その凄まじきこと、謂わんかたなき、もの凄さ!
 その辺りにあった者ども、色々と詫び事致いて、清正公の霊をなだめんとしたものの、清正が霊、これ、いっかな、承知致さぬ!
 よんどころのう、その節の加番大名は松平日向守直紹なおつぐ殿であられたゆえ、その控えておられた部屋へ申し達したところが、そこでその話を聴いた松平家家老なる者、吃驚仰天致いて、俄かに上下かみしもなどを着帯の上、かのお蔵前の現場へと駈せ参じ、
「……さてさて、不届き至極なる人足じゃ! 軽口は、よう、場と物を弁えねばならぬのじゃて!……
……ああ! さても、相応の御由来ある御手持ちの御武具へ対しまして、忌わしき雑言そうごんの数々、これ、御憤りの段、尤も至極にして、恐れ入って御座いまする!……なれども、無知蒙昧の雑人の儀なれば、何分、御宥恕ごゆうじょの程、相い願い奉りまする!……」
といった調子で、かの威儀を以って立ちはだかった――松平家の若い雑人の前に――うやうやしく丁寧親切に謝罪と寛恕を求め述べる松平家の初老の家老……
……すると
かの清正の霊の憑りついた人足、威儀を改め、
「――許シ難キ者ナレドモ――雜人ノ儀ナレバ――マタ、ソノ主人タル貴殿ノ、詫ビノ言葉モ、コレ、丁寧ナレバコソ、ユルシテツカワス!……」
と言い放ったかと思うと、
――コテン!
と倒れた。……

「……その後、二、三日の間は、かの人足の者、ぶらぶら病のようになって、全く以って正気ではない様子にて御座ったとのことじゃ。……」
とは、左近將監忠房殿のお話で御座った。



     又

 肥後の熊本には、加藤淸正の廟ありて、像も有之これある由。當領主細川家にても厚く尊崇ありて、供僧抔、げん附置つけおき、時々享膳香華きやうぜんかうげ備へける由。かの供僧なる出家、ある時膳をすへて亭坊ていばうへ下り候と思ひしに、淸正の像の覆ひにや、鼠のそんさし候處ありしを、彼供僧言葉に不出いださず、心に思ひけるは、淸正は無双の勇剛にて異國までも其名とどろきし人なれば、鼠抔の害をなす事はあるまじき事と思ひながら、下山し暫くすぎて、膳具とり仕𢌞しまはんと彼山に上りけるに、拜膳の邊り血にそみ、膳の上に大きなる鼠を五寸釘にてさし貫きありし故、彼供僧は氣絶するまでに驚きほうぼう下山しける故、外々の僧登りて彼處を淸め膳を下げけると、肥後のもの語りける。

□やぶちゃん注
○前項連関:題も同じ「英雄の人神威ある事」、主人公も加藤清正の霊の神霊譚。加藤清正は肥後国熊本藩初代藩主である。
・「當領主細川家」熊本藩加藤家第二代藩主忠広は寛永九(一六三二)年に改易され(駿河大納言事件(徳川忠長の蟄居部分)に連座したともされるが、この改易理由は不明瞭で異説が多い)て出羽国庄内丸岡に一代限り一万石の所領を与えられて体よく流され、加藤家は断絶、代わって同年、豊前国小倉藩より細川忠利が五十四万石で入封、以後、廃藩置県まで細川家が藩主として存続した。参照したウィキの「熊本藩」の記載によれば、『国人の一揆が多く難治の国と言われていた熊本入封に際しては、人気のあった加藤清正の治世を尊重し清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国し、加藤家家臣や肥後国人を多く召抱えたという』と記す。
・「亭坊」本来は住職だが、ここは単に僧坊の謂いである。内容から清正の廟は山上にあり、専属の供僧たちの詰所である僧坊はその山麓にある。
・「下り候」底本では、右に『(尊經閣本「下り可申」)』とある。これならば、「くだりまふすべし」と読む。
・「異國までも其名轟し人」清正は朝鮮の出兵の折り、朝鮮の民衆からも「鬼上官」(幽霊長官)と呼ばれて恐れられたという。
・「ほうぼう」底本のママ。但し、「ぼう」は底本では踊り字「〲」。

■やぶちゃん現代語訳

 英雄の人には神威のある事 その二

 肥後の熊本には、この加藤清正公の廟が御座って、公の像も、これある由。
 御当家領主細川家にても代々手厚く尊崇あって、供僧なども、しっかりと専属の者を申しつけて配し、時々に膳や香華を供えておらるる由。
 その清正公廟所でのこと。
 かの供僧なる出家、ある時、山頂の廟所の前に膳を据えて麓の僧坊へと下ろうと思うた、その折り――清正公の尊像の前をでも覆って御座った格子の隅ででも御座ったか――鼠の齧ってこぼちたところがこれ御座ったを見つけたゆえ、この供僧、言葉に出ださずに飽く迄、何とのう、心内に思うたことには、
『……清正公は、これ、勇剛無双の御方にて、異国にまでもその名の轟き渡った人なれば……鼠なんどの害をなすなんどということは、これ、およそあるまじきこと、じゃが、の……』
なんど軽々なることを思いながらほくそ笑みつつ下山致いた。
 さても暫く過ぎて、膳具をとり下げて仕舞しもうたろうと、再び、かの山へと上ったところが――
……膳を配した辺り……
……これ一面、真っ赤に血に染まって御座って……
……膳の上には……
……これまた、猫のような大きなる鼠を……
……五寸釘にて刺し貫いて……
……載せてあった!……
「……かの供僧は、氣絶せんほどに吃驚仰天、きびすを返して走り出しますと、ほうほうのていにて下山致しました。……周りの者が訳を聴けども、膳も持っておらず、泡吹くばかりで、これ、一向に埒が開きませぬゆえ……とりあえずは膳を、と、その外の僧どもが代わりに急ぎ登って見れば、これもう、廟前は血だらけの修羅場と化して御座ったそうな。……その者どもがおっかなびっくり、綺麗に清めまして、贄の如くほうられた大鼠の遺骸の、ぶつ刺された膳を、これ、うやうやしゅう僧坊まで下げて、御座ったとのことで御座います。……」
とは、私の知れる肥後の者の語ったことで御座る。



 御製發句の事

 後水尾院は、近代帝王の歌仙とも申ける由。名は忘れたればもらしぬ、俳諧に名有なあるもの御前にめされ、下ざまにて俳諧といえるはいかなる姿のものなるやと、御尋おたづねありければ、かゝるものに侍るとて一句を御覧にいれければ、(つらつら御覧の上)、
  干瓜や汐の干潟の捨小舟
  うじなくて味噌こしに乘る嫁菜哉
右兩句をあそばされて、かく有べしやとみことのりありけるにぞ、彼諧老かのかいらう恐入おそれいり退しりぞきしとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。畏れ多くもかしこくも、連歌ならまだしも御製ぎょせいの発句とは、これ、珍しや!――しかし、眉唾物で、都市伝説の類いである。残念(以下、注を参照)。
・「後水尾院」後水尾天皇(慶長元(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年)は第一〇八代天皇(在位は慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)。諱は政仁ことひと。家康の意向によって立太子された。元和六(一六二〇)年には徳川秀忠五女和子まさこが女御として入内したが、寛永四(一六二七)年に紫衣事件(以下、ウィキの「紫衣事件」によれば、幕府が朝廷の紫衣授与を規制したにも拘わらず後水尾天皇が従来通り、幕府に諮らずに十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与え、これを知った将軍家光が法度違反と見做して多くの勅許状の無効を宣言、京都所司代板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じ、朝廷が既与の紫衣着用勅許を無効にすることに強く反対、大徳寺住職沢庵宗彭や妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も挙って朝廷に同調、幕府に抗弁書を提出したのに対して、寛永六(一六二九)年、幕府が沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国へ流罪に処した事件。この事件により江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示、征夷大将軍とその幕府が天皇よりも上に立ったということを知らしめた大事件)徳川家光の乳母である春日局が朝廷に参内するなど、天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行いに堪えかねて、同年十一月八日に二女の興子内親王(女帝である明正天皇)に譲位している。勅撰和歌集である「類題和歌集」の編纂を臣下に命じており、学問を好み、「伊勢物語御抄」の著作がある(以上はウィキの「後水尾天皇」に拠る)。
・「俳諧に名有もの」時代背景から、貞門・談林の何れもが含まれるが、後掲するように、一句は確実に談林後期の松永貞徳(元亀二(一五七一)年~承応二(一六五四)年)のものであり、貞徳は京都出身で九条稙通・細川幽斎に和歌・歌学を学んでおり、朝廷方とのパイプもあった。
・「(つらつら御覧の上)」底本では右に『(尊經閣本)』とあって、それによって( )部分を補った旨の補注がある。
・「干瓜や汐の干潟の捨小舟」岩波版の読みを参考にすると、
 干瓜ほしうりしほ干潟ひがた捨小舟すておぶね
となる。岩波版長谷川氏注には『二つ割した干瓜を捨小舟に見立てた句。』とある。無論、汐の干潟は実景でなくては句にはならない。少なくともこの句は後水尾の句ではない。宝井其角「句兄弟 上」に載る句である。個人ブログ「八半亭」の、「其角の『句兄弟・上』(その十一)」に、
十番
   兄 (不詳)
 干瓜や汐のひか(が)たの捨小舟
   弟 (其角)
 ほし瓜やうつふけて干す蜑小舟
とあって、句意として『汐の干潟に捨て小舟があり、その捨て小舟に「捨て小舟」の異称のある白瓜の漬け物が干してある。』とある。また、『兄句の作者のところは空白で、其角の作とも思われるが』ある注釈書では、『判詞の「棹頭の秀作にして」の「棹頭」を「チョウズ」と読んで、松永貞徳の号の「長頭丸」の宛字に解して』そこでは、『貞徳の作と解』している旨の記載がある。
・「うじなくて味噌こしに乘る嫁菜哉」岩波版の読みを参考にすると、
 うじなくて味噌みそこしに嫁菜哉よめなかな
となる。岩波版長谷川氏注には『氏なくて玉の輿に乗る嫁に対して、嫁菜は味噌こし(味噌を漉してかすを除くざる)に乗せられる。』とする。「女は氏無くて玉の輿に乗る」、女は生まれがよくなくても富貴の人に見初められて嫁になれば富や地位を得ることが出来るとという俚諺が元々あるのを踏まえた。こうした言語遊戯は貞門の特徴である。

■やぶちゃん現代語訳

  御製の発句の事

 後水尾院は、近代の帝の中にても、これ、歌仙と称せらるる帝にてあらせらるる由。
 さて――その名は忘れて御座れば、ここに記さずにおくしかないので御座るが――とある、俳諧の名ある者、後水尾院御前に召され、
「……下々の者の間にて、俳諧と称しておるもの、これ、如何なる姿のものなるや?」
との御下問があらせられたによって、
「……お畏れながら……かくなるものにて、御座いまする。……」
とて、お恥ずかし乍らと、自作の一句を御覧ぎょらんに入れ奉ったところ、暫くの間、黙られたまま、凝っとご覧になられた上、
  干瓜や汐の干潟の捨小舟
  うじなくて味噌こしに乘る嫁菜哉
という二句を御製ぎょうせい遊ばされて、
「……かくあれば、よろしいか?」
と、みことのりあらせられたによって、かの老俳諧師も全く以って恐れ入り奉って、そのまま退出致いた、とのことでおじゃる。



 采女塚の事

 橋場宗泉寺はしばそうせんじの邊に采女塚うねめづかといへるありと傳へぬれど、いまはをぼろにたれしる人もなし。ある老人の語りけるは、いにしヘ吉原町の遊女に采女といへるありしが、あたり近き寺の所化しよけ、右の采女をふと見初めてせつに思ひ慕ひしが、元より貧敷まづしき僧なれば、かゝる全盛の遊女に馴染逢なじみあはん事もかたかりけるを、愁ひしのびかねてや、かのくつわやの格子に來りて采女をしたひ自殺してうせぬるを、いかなる者にやと懷中抔見しに、采女をこふるわけなどかき置けるを、采女きゝて、かく命を捨てこふるとなん、いかにせん方もあるべきと、深く歎きてふし沈みしが、或夜うかれ出て、かの僧は橋場あたりに葬りしとききて、其頃までは鏡ケ池なども廣く深くもありしや、一首の歌を、かたえなる松に殘して入水しておわりぬと、人の語りしが、其歌は
  なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば

□やぶちゃん注
○前項連関:天皇の発句から吉原妓女の辞世和歌で、雲上から急転直下、苦界へと続く詩歌譚として連関。
・「采女塚」底本の鈴木氏注に、『三村翁注に「宗泉寺は総泉寺なり、同所同寺末明星山寺の門前に、采女塚の碑蜀山人筆にて建ちてありしが、文字漫漶して読み難かりし、今はや癸亥の震災ありて、其碑も如何なりしやと、大正七年写したる全文を録す。―采女塚。寛文の頃、新吉原の里、雁かね屋の遊女、采女かもとに、ひそかにかよふ(剝落)かたくいましめて、近つけざりしかは、その客、思ひの切なるに堪す、采女か格子(下剝落)采女その志を哀み、ある夜家を忍ひ出て、浅茅か原のわたり、鏡か池に身(剝落)此里の美人なりしとそ、かたへの松に小袖をかけて短冊をつけたり、名をそれとしらすともしれさる沢のあとをかゝみか池にしつ(剝落)そのなきからを埋しところ、采女塚とてありしに、寛政八のとし、わか兄牛門(剝落)それさへ失ぬれは、こたひ兄の志を継て、石ふみにゑり置ものならし。文化元年甲子六月駿州加島郡石川正寿建。金之竟合(鏡)水也相比(池)綵之無絲(采)嬉而不喜(女)士可以□(塚)言可以己(記)車之所指(南)毎田即是(畝)一人十日(大田)潭辺無水(覃)此外に歌二首、碑陰にも仮名文彫りたれど、よみ難かりし、傍に老松ありて、掛衣松碑建ちてありき。」「名をそれと」の歌の第五は「池にしづめば」である。漢文の部分は、孝女曹蛾の死をとぶらって建てた黄絹幼婦の碑文にならった謎語である。』と記しておられる。なお、引用部の『毎田即是(畝)』の『是』の右には(引用元か鈴木氏のものかは判然としないが)『(久カ)』という傍注が附されている。
 さても実は、この碑文は、加藤好夫氏の「浮世絵文献資料館」のここの資料によって全貌が知れる。即ち、万延元(一八六〇)年序になる石塚豊芥子編「街談文々集要」の文化元(一八〇四)年の記事中の「倡妓采女墳」である。以下に恣意的に正字化して示す。
文化元甲子六月、淺茅ヶ原鏡ヶ池ニ、傾城采女碑建
  采女塚
寛文の比、新吉原雁がね屋の遊女采女がもとに、ひそかにかよふ客ありけるを、其家の長、かたくいましめて近づけざりしかば、その客思ひの切なるに堪ず、采女が格子窓のもとに來りて自害せり、采女その志を哀ミ、ある夜家をしのび出て、淺茅ヶ原のわたり鏡ヶ池に身を沈めぬ、時に年十七にして、此里の美人なりしとぞ、かたへの松に小袖をかけて短册を付けたり。
  名をそれとしらずともしれさる澤のあとをかゞみが池にしづめば
そのなきがらを埋しところ、采女塚とてありしに、寛政八のとし、わが兄牛門の如水子、札に書しるして建置しが、それさへ失ぬれば、こたび兄の志を繼て、石ぶみにゑり置ものならし。
  文化元年甲子六月   駿河加島郡 石川正壽建
(以下、碑陰の文あり、略)
以上の記載と複数のネット上の情報から整理したい。まず、当該の采女塚の碑は現存していることが分かった。以下、三村氏の注その他について、幾つかの語注(●がそれ)を附しつつ、以下に解説をすると、
●現在の碑の在所は、台東区清川にある曹洞宗明星山出山寺しゅっさんじで、三村氏の『明星山寺』が脱字であることが分かった。ここの辺りが元の采女塚であったと考えてよいと思われる(何故なら、以下に示す如く「鏡ヶ池」の跡地が直近にあるからである)。なお、本文の「宗泉寺」=総泉寺はウィキの「総泉寺」に現在、『東京都板橋区にある曹洞宗系の単立寺院。山号は妙亀山』で、『この寺は当初浅草橋場(現在の台東区橋場)にあり、京都の吉田惟房の子梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため庵を結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得、弘治年間(一五五五年~一五五八年)千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣によって再興され、江戸時代には青松寺・泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった。一九二三年(大正一二年)の関東大震災で罹災したため、昭和三年に現在地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至る』とし、『大善寺は十五世紀末の開山にして「江戸名所図会」にも載るほどの有名な寺であり、現在境内に残る薬師三尊(清水薬師。伝・聖徳太子作)こそが、元の大善寺の本尊である』とあってどうも何だか妖しげな背景が複雑な移動の背後には感じられる気はする。現代語訳では正しい「総泉寺」で採った(因みに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は正しく「総泉寺」とする)。
●「漫漶」は「まんくわん(まんかん)」と読み、文字などが時を経て、擦れてはっきりしないこと。
●「癸亥の震災」は大正一二(一九二三)癸亥年九月一日の関東大震災を指す。
●「其碑も如何なりしや」この碑の受難は続き、その後、第二次世界大戦でも戦火を浴びて、現在は更に輪をかけて判読が難しくなっている模様である。
●「寛文の頃」西暦一六六一年~一六七三年。「耳嚢」の本文には時代特定がないから、これは重要である。
●「雁かね屋の遊女、采女」同じく加藤好夫氏の「浮世絵文献資料館」の「辞世集 その他」からの孫引きであるが、明治二十七(一八九四)年刊の関根只誠著「名人忌辰録」下巻の二頁に、
采女 遊女
新吉原京町雁金屋徳右衞門抱散茶。柴又村に生る。淺茅が腹鏡が池に身を投じて死す。寛文九酉年八月十六日なり。歳廿一。同所出山寺に葬る。
辭世 名をそれといはずともしれ猿澤のあとを鏡が池にうつして
と載る旨の記載がある(恣意的に正字化した)。私は都合、采女の辞世の六ヴァージョンが手元にはある。以下に並べて見よう。まず、一つは後掲する「江戸名所図会」(天保七(一八三六)年刊)所収の歌。
   名をそれとしらずともしれ猿澤のあとをかがみが池にしづめば
それと全く変らない底本の三村注の歌(鈴木氏の補正を加える)。
   名をそれとしらすともしれさる澤のあとをかゝみか池にしづめば
そして、本「耳嚢」所収の歌。
   なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば
さらに、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の歌。
   なをそれと問はずともしれさる澤の影をかゞみが池に沈めば
最後に、現存する碑の写真もある「東京寺院ガイド・台東区・出山寺」によれば、投身の翌朝、草刈り人達が見つけたという短冊には、
   名をそれとしらずともしれさる澤のあとをかがみが池にしずめば
とあるから、少なくとも碑面に彫られた歌は、表記ともにこの最後に示したものが実歌と考えてよいであろう。加えて附すなら、岩波版長谷川氏注では「江戸砂子 二」に基づき、『吉原堺町』という吉原内の詳細町名が記されており、更にそこでは投身当時の年齢が十七歳となっており、碑文でもそうである。采女の享年は十七、満十六歳のこの入水は如何にも哀れを誘うが、実没年齢は「名人忌辰録」の方が本話の筋から見るならリアルな気はしないではない。なお、関根氏の記載にある散茶さんちゃとは吉原の遊女の階層の一つである散茶女郎のことで、揚屋入りはせずにその家の二階で直接客を取った遊女を言う。ウィキの「散茶女郎」より引用しておくと、『太夫、格子の下であり、梅茶の上。 昼のみ揚げ代、太夫三七匁(三・七両)、格子二六匁(二・六両)についで散茶は金一歩(〇・二五両)であった。「洞房語園」には、「格子は太夫の次、京都の天神に同じ、大格子の内を部屋にかまへ局女郎より一ときは勿体をつける局に対して、紛れぬやうに格子といふ名をつけたり。局女郎一日の揚銭二十匁(二両)なり、但し、寛文年中散茶といふものが出来て、揚銭も同じく百匁(一〇両)になる。局の構へやうは表に長押をつけ、内に三尺の小庭あり。局の広さは九尺に奥行二間、或は六尺なり」とあり、貞享の「江戸土産咄」には、「近頃より散茶といひて、太夫格子より下つ方なる女中あり、大尽なるは揚屋にて参会し、それより及ばざるは散茶の二階座敷にて楽しむ」とある。「傾城色三味線」は「散茶とはふらぬといふ心なり」と注する。「籠耳」によれば、ふるといふは茶を立てることというから、茶を散じるとはふらないことになる。 「洞房語園」にはまた、「寛文五年、岡より来りし遊女は、未だはりもなく、客をふるなどいふことなし、されば意気張りもなく、ふらずといふ意にて散茶女郎といひけり」とある。 散茶はこうして遊女の階級となった。宝暦ころから散茶は昼夜揚代三分(〇・七五両)となり、「昼三」とよばれるようになり、のちに、散茶の名は廃れ、昼三がこれに代わった』。本件よりも後のことになるが、明和五(一七六八)『年「古今吉原大全」には「散茶いはゆる今の昼三のことなり」とある。ただし、吉原細見には天明、寛政のころまで散茶の名が見える』とあって、最後に安永(一七七二年~一七八一年)の頃には『太夫、格子が絶えて、散茶が最上になった』とある。采女の揚銭の高さが見て取れる。
●「わが兄牛門の如水子」牛門は荻生徂徠のこと。徂徠は牛込御門近くの牛込若宮町に住んでいた頃、「牛門先生」と呼ばれており、この采女塚顕彰碑を建てた狂歌師大田南畝は個人的に先哲徂徠を深く尊敬していた。これによって、徂徠の弟子の如水なる人物(不詳)の手になる「采女塚」伝承を顕彰する標札が、この出山寺若しくはその近くに寛政八(一七九六)年頃までは確かに立っていたということが分かる。
●「浅茅ヶ原」は現在の橋場一、二丁目と清川一、二丁目の辺りを指す(「東京寺院ガイド・台東区・出山寺」に拠る)。
●「鏡ケ池」この池については、底本の鈴木氏は謡曲「隅田川」の古伝承を以下のように示しておられる。『梅若丸の母はわが子の跡をしたって京からさまよい来たが、すでに梅君は身まかったと聞き、この池に身を投げて死んだという。母の名を妙亀尼といい、総泉寺にその墓という妙亀塚があり、また池の傍に袈裟懸松とも衣かけ松ともいう松があった。』と記される。一見、唐突な注に見えるが、これは「耳嚢」本文が、「其頃までは鏡ケ池なども廣く深くもありしや」と記している点に鈴木氏は敏感に反応されたためである。即ち、この部分の叙述は、
――その寛文の頃までは、この(かの「隅田川」で子の死を知って母が入水した)鏡ヶ池なども(今のように涸れた沼沢の名残りのようなものではなく、)ずっと広く深くもあったものであったか――(飛び込めば確実に死ぬるほどの深さであったらしい)
という謂いなのである。「東京寺院ガイド・台東区・出山寺」によれば、「江戸名所図会」によると、鏡が池の面積は文政 (一八一八〜一八二九)期でも約五百平方メートル、橋場一丁目の北部辺りにあった、と記している(この出山寺に親族の墓所をお持ちの目高拙痴无氏のブログ「瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り」の「1日遅れのブログ」の記事によると、『この出山寺の北側に隣り合わせにあったという鏡が池は埋め立てられ、見ることは出来ない』と記されておられ、池は既に消失してしまったことが分かる)。さても――孫引きばかりでは面目御座らぬ。「江戸名所図会」の総泉寺から采女塚までを引用しておきたいと思う(底本は市古・鈴木校注のちくま学芸文庫版を用いたが、恣意的に正字化し、ルビは一部を省略して正仮名化して示し、割注は〔 〕に、割注内の割注は《 》に変更、編者注は除去した)。
   《引用開始》
妙龜山總泉寺 曹洞派の禪林にして、江戸三箇寺の一員たり。開山は噩叟がくそう宗俊和尚と號す。當寺は千葉家の香花かうげ院なり〔永祿二年小田原北條家の『分限帳』 に、「武州石濱の會下寺」とあるは、當寺のことをいふなるべし〕。
 千葉氏の墓〔境内卵塔のうちにあり。長さ三尺ばかりの靑石に、梵字のみをちりばめて、號・法名等を註せず。當寺に大檀那千葉介守胤の靈牌と稱するものあり。「總泉寺殿長山昌轍しようとん大居士」とあり。寺僧云く、「守胤は、弘治三年丁巳十一月八日卒去す」と。されど、守胤卒去の時世すこぶるたがひあるに似たり。また『江戸惣鹿子そうかのこ』に、千葉介常胤の墓碑には、春淨院殿點心居士、同千葉介貞胤の墓碑には、即心自風流とあるよし記せども、いま所在をしらず。なは他日考ふべきのみ〕。
 宇津宮彌三郎入道の墓〔同卵塔のうちにあり。青石の碑二枚、その一は「正安元年十一月二十一日」、その一は「徳治二年丁未七日」とあり〕。
[やぶちゃん注:以下は底本では「少なからず。」までの全体が二字下げ。]
按ずるに、當寺にいひつたふるところの宇津宮彌三郎は、賴綱入道實信坊がことなるべし。またのを蓮生と唱ふ。源空上人の法を聽いて後、善惠上人に就いて出家す。正元元年己未十一月京師に寂し、遺言により、はかを師の石塔の傍らに設くるよし、西山上人の傳に見えたり。その地は、すなはち京師西山三鈷寺の東の坂なり。よつて考ふるに、當寺にあるところのものは、むかしその支族などこの邊にありて寫し建つるところの墓碑ならんか。されど正安・德治いづれも、正元におくるること四十有餘年なり。もつとも不審少なからず。
 そもそも當寺は、正法眼藏の妙理をしめし、實相無相の心印をひらく。向上の一路には、着相實有じつうの草を拂ひ、言下ごんかの一喝には、異學執解しうげの塵を飛ばす。公案のゆかの前には、一千七百の則を重ねて、以心傳心を傳へ、坐禪のふすまのもとには、朝三暮四の助けを得て、文字言句もんじごんくの話頭を離れたり。

 淺茅原あさぢがはら 總泉寺大門のあたりをいふ。
『囘國雜記』
  淺茅がはらといへるところにて、
  人めさへかれて淋しき夕まぐれ淺茅がはらの霜をわけつつ   道興准后どうこうじゆごう

妙龜塚 〔同所にあり。梅若丸の母公ぼこう妙龜尼の墳墓なりといひつたふ。小高きところに、草堂を建てて、妙龜大明神と稱せり〕。
 古墳一基〔妙龜堂の下にあり。靑き一片の石にして、たけ二尺あまり、碑面蓮花の上、圓相のうちに、「法阿」といふをちりばめ、下に「弘安十一年正月二十二日」と彫り付けてあり《この年四月、正應と改元あり》。『圓光大師行狀翼贊』卷第四十二に云く、嘉祿三年六月二十二日《この年十二月、安貞と改元あり》山門の衆徒奏聞を經て、大谷源空の墳墓を破却せんとす。その夜法蓮坊・覺阿坊、潛かに上人の柩を掘り出だし、蓮生坊《宇津宮彌三郎》・信生坊しんしやうばう《鹽屋入道》・法阿坊《千葉六郎太夫入道、この人は東氏の祖、從五位下》・道遍坊《澁谷七郎入道》・西佛坊(頓宮兵衞入道)のともがら出家の身なりといへども、法衣ほうえ兵杖ひやうぢやうを帶し、これを供奉し、廣隆寺の來迎坊圓空が許にうつすよしを記せり。按ずるに、この法阿は、千葉六郎太夫胤賴がことなるべし。胤賴は常胤が子にして、國府こふの六郎胤通の弟なり。この古墳、おそらくはこの法阿の墓碑ならんか〕。

 鏡が池 同所西南の方にあり。傳へいふ、妙龜尼、梅若丸の跡をしたひ京よりさまよひ來りしが、梅若丸身まかりしことを聞きて、この池に身を投げてむなしくなりぬとぞ〔元祿開板の『江戸鹿子かのこ』といへる草紙に、「むかしはこの池をなみだの池と名づけし」とあり〕。傍らに鏡池庵となづくる小菴あり。辨財天を安ず。これも妙龜尼をまつるところなりといへり。

 袈裟懸け松 〔池の傍らにあり。一名いちみやうきぬかけ松ともいへり。妙龜尼この松の枝に衣をかけ置きて、むなしくなりしといへり。舊樹枯れて、いまは若木を栽ゑたり〕。

 采女塚 〔同所にあり。寛文の頃、吉原町にうねめといへる遊女はべりしが、ゆゑありて夜にまぎれてここに來り、池中に身をなげてむなしく燈りぬ。夜明けてのち、あたりの人ここに來りけるに、かたはらの松に小袖をかけて、一首の歌をそへたり。
  名をそれとしらずともしれ猿澤のあとをかがみが他にしづめば
 かくありしにより采女なることをしりければ、人あはれみて塚をきづきけるといへり〕。
   《引用終了》
采女に纏わる伝承は古くから全国にある。ウィキの「采女」によれば、采女とは、『日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと。平安時代以降は廃れ、特別な行事の時のみの官職となった』が、『采女は地方豪族という比較的低い身分の出身ながら容姿端麗で高い教養を持っていると認識されており、天皇のみ手が触れる事が許される存在と言う事もあり、古来より男性の憧れの対象となっていた。 古くは『日本書紀』の雄略紀に「采女の面貌端麗、形容温雅」と表現され、『百寮訓要集』には「采女は国々よりしかるべき美女を撰びて、天子に参らする女房なり。『古今集』などにも歌よみなどやさしきことども多し」と記載され、また『和漢官職秘抄』には「ある記にいはく、あるいは美人の名を得、あるいは詩歌の誉れあり、琴瑟にたへたる女侍らば、その国々の受領奏聞して、とり参らすこともあり」との記述がある。 また『万葉集』には、藤原鎌足が天智天皇から采女の安見児を与えられた事を大喜びした有名な歌「われはもや安見児得たり 皆人の得難にすとふ安見児得たり」が収められている他、「采女の袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く」という志貴皇子の歌もあり、美しい采女を憧れの対象とした男性心理が伺える』として、「采女」というイメージが男の憧れの対象としてシンボライズされてきた経緯があり、それが最も新しい形で都市伝説化したものが、この吉原堺町の梅茶女郎「采女」であった――そんな何か琴線に触れるものを、遊女采女は我々に奏でてくれているように思えるのである。
●「文化元年甲子六月」西暦一八〇四年。まさに、この「耳嚢 卷之六」の執筆推定下限は文化元年七月である!
●「金之竟合(鏡)水也相比(池)綵之無絲(采)嬉而不喜(女)士可以□(塚)言可以己(記)車之所指(南)毎田即是(畝)一人十日(大田)潭辺無水(覃)」これは要するに、以下の注で示す「黄絹幼婦」=「絶妙」のアナグラムと同様に、賦のように文意を持たせつつ、そこに碑文の標題「鏡池采女塚」――と執筆者である自分「記 南畝大田覃」を巧みに暗号化したものなのである。因みに「ふかし」とは大田南畝の本名である。
●「曹娥」(一三〇年~一四三年)は後漢の孝女とされる人物。舞の得意な一人の男が船上で酔って舞い、落ちて溺れ死んだ。彼の娘であった曹娥は七晩泣き明かした挙句、その川に身を投げ、後に父の遺体を背負ったままに川岸に打ち上げられたという。後にこの川は曹娥江と呼ばれて廟が建てられたが、曹操の家臣で曹植の四友の一人であった博覧強記の書家邯鄲淳かんたんじゅん(一三二年~二二〇年)が、わずか十三歳で、この碑文をものし、評判となったということが「三国志演義」に載るという(「My三国志―百科事典」の「邯鄲淳」に拠る)。
●「黄絹幼婦」この言葉、実はこれ、中国では知られた一種のスラングでもある。即ち、「絶妙」の隠語で、「黄絹」は「色(ある)糸」で「絶」の字となり、「幼婦」は「少女」で「妙」となる。

・「所化」師の教えを受けている修行中の僧、弟子。また、広く寺に勤める役僧を言う。
・「くつわや」「轡屋」で女郎屋のこと。「轡」は馬具の名称で馬の口に嚙ませて手綱に結び、それで馬を捌いた。その形状は十文字で、そこから遊女を操り稼がせるとの意味から、遊女屋或いはその抱主である主人の異名となったものと考えられる。これについてはネット上に複数の語源説がある。例えば、京都柳町の遊女屋を開設した原三郎左衛門は、秀吉の馬の口取りをしていた者だったから、傾城屋を轡屋と呼んだという。庄司甚内らが吉原遊廓を作ったとき、廓の内に十文字の道を通したので、これを「くつわ」と称したという説であり、その他にも女郎屋の形状が縦横に道を作った十文字であったことに由来するという説は多いようだ。
・「なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば」岩波の長谷川氏注に、『天皇の寵が衰えてなら猿沢池に身を投げた采女を真似て鏡が池に身を投げるからは私の名は問わずとも知れよう』と訳されておられる。これはやはり、謡曲「采女」を基にした和歌で、ウィキの「采女」には、現在の続くところの、奈良市の春日大社の末社で猿沢池の北西に鎮座する采女神社の例祭で、毎年仲秋の名月の日(旧暦八月十五日)に行われる采女祭につき、『奈良市の猿沢池畔にある采女神社の毎年中秋の名月の時期に行われる例祭。奈良時代のさる天皇の寵愛を失った采女が猿沢池に投身自殺したとされ、その霊を慰める祭り』との解説がある。夭折の妓女「采女」の恐るべき博覧強記が、この和歌から滲み出ている。

■やぶちゃん現代語訳

 采女塚の事

 橋場の総泉寺の邊りに、采女塚うねめづかというものが御座ると伝えては御座れど、今はもう在所も定かではなく、たれ一人として知る者も御座らぬ。
 ある老人の語ったことには、昔、吉原町の遊女に――「采女」――と申す妓女が御座った。
 ところが、かの吉原に近きさる寺の修行僧、この「采女」をふと見初みそめてしもうて、これもう、思いしとうて、どうにもならずなった。
 されど、もとより貧しき僧なれば、かかる当代一流の人気の遊女に馴染み逢はんなんどということは、これ、如何ともし難きことなるを……これ、あまりに恋い焦がれたる果てに、愁い、かくも、忍びかねて御座ったものか、かの「采女」のおる女郎屋の、格子のもとに来たって、「采女」をしとうたままに、これ――自死致いて――果てた。
 さても、吉原の係りの者どもが如何なる者ならんと、この男の懐中なんどを探って見たところが、これ、「采女」を恋いしとう思いを、切々と書き置き致いたものが、出来しゅったい致いた。
 噂は千里を走るとも申そうず、じきに「采女」自身も、このことを小耳に挟み、
「……かくも命を捨て恋さっしゃったとは……かくの如くなってしもうた上は……一体、わらわは……如何にせん方、これ、ありんすえッ?!……」
と、これ、如何にもふこう、歎き伏し沈んでおったと申す。
 そんなある夜のこと、「采女」の君……こっそり……ふらふらと……吉原を出でて……禿かむろなんどから伝え聞いてか、かの僧の、橋場辺りに葬られたことを聞きつけ――まだ、その頃までは、かの鏡ヶ池なんども、今とは様変って、広く深くも御座ったものか……
……一首の歌を
……傍らに御座った松の枝に殘し
……入水し
……果てた……
――とは人の語ったことで御座ったが――さても――その歌はといえば、

  なをそれと問はずともしれさる澤の影を鏡の池に沈めば



 不仁の仁害ある事

 ある武家の若侍、御厩河岸おうまやがしを渡りて本所の儒生へ通ひしに、或冬雪ふりてわたりもすこしくいとさむさつよきに、船長揖取ふなをさかぢとりおしわたりしを深く哀れに思ひて、酒にても求めのみて寒氣を防げよと、懷の鳥目百文あたへ通りて、かくかくとかの儒生へ咄しければ、それ不宜取計よろしからざるとりはからひなり、大きにわざわいを引出ひきいださんと嗟嘆さたんなしければ、何とてさる事あらんと思ひながら、歸りにも彼わたりにかゝりしに、まへの船長、大に喧嘩して往來の者に痕付きずつけられ、其あたりさわがしければ、立寄りて尋ねしに、彼船長わたりのものへ船渡ふなわたしの無心をいひしに、聊かもあたへざりし故、さきに心ある人は百文をあたへしもあるに、わづかの錢をおしむと、惡口なして口論におよび疵付けられしとききて、誠に老儒生の格言なりと、ふかく感じけるとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、前話の舞台である橋場・吉原と、この厩河岸は距離が近い。老婆心ながら、訳で用いた「酒手さかて」とは、人夫や車夫などに対して決められた賃金の外に与える金銭、心附けのことを言う。まあ実際、酒を買う駄賃となったのであろうが。更に言えば、それで一杯やっちまって酔って仕事をし、武士に絡んだとなれば、この若侍の「施し」は二重に罪が重くなろうというものではある。そのようなシークエンスで訳した。
・「御厩河岸」御厩の渡し。「御厩河岸の渡し」とも称され、現在の厩橋(台東区蔵前と墨田区本所間に架橋)付近にあった。ここから下流方向の台東区側川岸に幕府の「浅草御米蔵」があり、その北側のこの付近にそれに付随する厩があったのでこの名がついた。元禄三(一六九〇)年に渡しとして定められ、渡し船八艘・船頭十四名・番人が四名がいたという記録が残る。渡賃は一人二文で武士は無料であった(これが本話のネックである)。明治七(一八七四)年の厩橋架橋に伴って廃止された(以上はウィキの「隅田川の渡し」に拠った)。

■やぶちゃん現代語訳

 仁ならざる仁に害のある事

 ある武家の若侍、御厩河岸おうまやがしを渡って本所の儒者の元へ通って御座ったが、ある冬、雪が降って、かの渡し辺り、尋常でなく、たいそう寒さも強う御座ったれば、若侍、船長ふなおさ取って寒き隅田川を押し渡して呉れたを、これ、ふこう哀れに思って、
「酒などにても求め、呑みて寒気を防ぐがよい。――」
と、懐より鳥目百文を取り出だいて与え、本所へと抜け、かくかくのことを、かの儒学の師へと話いたところ、
「……それは宜しからざる取り計らいじゃ。……きっと大きなわざわいを引き出すこととならん。……」
と、しきりに嘆いて御座れば、
『……どうしてそのようなことがあろうものか。我らは仁を施したに。……』
と思いながら、講義の終わって帰りにも、かの渡りを抜けんと致いたところ、何やらん、渡しの辺りが騒々しい。
 行きうた町人に訊ねたところ――どうも、先の銭を呉れてやった船長ふなおさが、何でも、ひどい喧嘩をして往来のお武家さまに傷つけられたとのことゆえ、渡しの番小屋に立り寄って、詳しく訊ねてみたところが……
……かの船長、こともあろうに、渡したさるお武家に、船渡ふなわたし賃を無心致いたところ、このお武家は、聊かの酒手さかでをも与えず、取り合わずに御座ったれば、
「……ヒック……ちぇ! さっきはよぅ、心ある御仁がよぅ……ヒック……ちゃあんとょ、 百文をもょ……呉れたによぅ!……ヒック……僅かの銭を惜しむ……貧乏侍じゃ!」
と悪口なしたによって、それを耳敏う聴きつけたお武家と口論に及び、抜き打ちに切られて御座った由聞き、
『……まっこと! 老儒者の言葉は金言で御座った!』
と、ふこう感じ入ったとのことで御座る。



 麁末にして免禍事

 四つ谷邊輕き御家人、御切米玉落おきりまいたまおちとて、札差が許へ兩三人連れにて參り、酒食などして、うけとるべき金子二三十兩懷中なして淺草觀音へまふで、同所の奧山にて見物などし徘徊しけるを、すりといふ賊、付けるにや、人立ひとだちにてかの者懷中の鼻紙入を拔しゆゑ、心附こころづきて殘念成る事せしといひしを、連れの男、右の内には先の金子も入り可有之與これあるべしと、長嘆しけるを、彼男依然として袖をさぐりて金包を出し、彼金子は是に殘りしといひしとかや。はじめ心を用ひて深く鼻紙入れへいれなばぬすみ取られんを、麁末そまつなる取計とりはからひゆゑ禍をまぬがれしとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、やはり前話・前々話の舞台である厩河岸・橋場・吉原と浅草観音は同一圏内と言える。
・「麁末にして免禍事」は「麁末そまつにしてわざわひまぬがれし事」と読む。
・「御切米玉落」既出であるが再注しておくと、」幕府の大多数の旗本・御家人は『蔵前取り』『切米取り』といって幕府の天領から収穫した米を浅草蔵前から春夏冬の年三回(二月・五月・十月)に分けて支給された。多くの場合、『蔵前取り』した米は札差という商人に手数料を支払って現金化していた。「御切米玉落にて、札差が許へ兩三人連れにて參り」とあるのは、この切米の支給を受ける旗本・御家人には支給期日が来ると『御切米請取手形』というふだが支給され、その札を受け取り代行業者であった札差に届け出、札差は預かった札を書替役所に持参の上、そこで改めて交換札を受け取り、書替奉行の裏印を貰う。その後、札差が札旦那(切米取り)の札を八百俵単位に纏め、半紙四つ切に高・渡高わたしだか・石代金・札旦那名・札差屋号を記して丸めて玉にし、御蔵役所の通称『玉場』に持参した。この玉場には蓋のついた玉柄杓という曲げ物があって、役人は札差が持ち寄った玉を纏めて曲げ物の中に入れる。この曲げ物の蓋には玉が一つずつ出る穴があって、役人が柄杓を振ると、玉が落ちて出てくる仕組みになっていた。玉が落ちると、札差は玉(半紙)に書かれている名前の札旦那に代わって米や金を受け取る。そうして同時に札旦那に使いの者を走らせ、玉が落ちた旨を報知、知らせを受けた札旦那は、札差に出かけて現金化した金や現物の米を受け取るというシステムであった。これを待つ間に茶屋にて「酒食など」する習慣もあったものであろう。
・「奥山」浅草寺西側一帯の通称。大道芸や見せ物小屋が立ち並び、盛り場としての浅草発祥の地でもあった。
・「鼻紙入」革又は絹布などで製の財布。鼻紙は勿論、小遣銭・印判・懐中薬・耳かきなどの小物や携帯品を入れ、懐中にした。
・「」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 疎漏なるがゆえに禍いを免れた事

 四ッ谷辺の軽い身分の御家人、御切米玉落おきりまいたまおちに当たって、札差の元へ三人連れで参り、酒食などを致いて、受け取るべき金子二、三十両を、これ、ふところへ入れたまま、そのまま皆して浅草観音へと詣で、同所の奧山にて、大道芸やら見世物やらを見物なんど致いて物見遊山と洒落込んで御座った。
 すると、掏摸すりと申すところの賊――これ、切米玉落帰りの者ならんとでも――目星を付けておったものか、雑踏にてかの御家人、懐中した鼻紙入れを抜き取られた。
 暫くして、御家人、掏られたことに心づきて、
「……いい鼻紙入れで御座ったにて残念なことを致いた……」
と頻りにぼやいで御座るによって、連れの男、目をくと、
「……そ、その内には……さっきの金子も、これ!……入れておったろうがあッ!……」
と、長嘆息して御座ったところ、かの御家人、ぼやいて御座った先程と、何ら変わらぬ様子のままに、袖の内をくるんと探って、裸のままの金包かねづつみを、ごろんと摑み出だいて、
「……いやぁ……かの金子は、ほうれ、ここに全部残っておるよ……」
と申したとか。
 当初、深慮用心致いて、しっかりと鼻紙入れの中へこれらを入れて御座ったとしたら、まんまと盜み取られて御座ったろうに――まあ、実に疎漏な取り計らいを致いたがゆえ、禍いを免れた、という訳で御座る。



 老農達者の事

 享和二戌年の秋、關東筋出水して、川々普請目論見もくろみとて鈴木門三郎𢌞村せしに、武州八甫はつぽう村與次右衞門儀、年百歳の由、極老の者に候處至て健かにて、諸人足に先立さきだち、公儀より御憐愍にて莫大の御入用をもつて、御普請被仰付おほせつけられ候處、右は百姓銘々めいめいの圍ひに候間、不被仰付おほせつけられず候とも精入可申せいいれまうすべき旨にて、御普請にいで候人足共を叱りはげまあくまで精をいれ候儀、歸府の上、かかりより申上まうしあげ、御褒美錢拾貫文、うかがひの上とらせ候由。
 此圖は、川方御用に出し輩のうち御普請役など、戲れにかきたる由にてみえしが、老農の有樣、かくあらんと其儀を爰に寫しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。図入りだが……もっと他に図が欲しいものは、これ、あるように思うのだが……。
・「享和二戌年」西暦一八〇二年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから直近の出来事。
・「鈴木門三郎」底本の鈴木氏注は『鈴木正恒(後出)の子。寛政六年(二十二歳)小十人、七年御小性組』とするが、岩波版の長谷川氏注はその父鈴木正勝とする。正勝は『御勘定・評定所留役・御勘定組頭。寛政三年(一七九一)代官、七年美濃郡代、十一年勘定吟味役』で、直近の勘定吟味役は仕事柄、川方御用を兼ねたことは勘定吟味役経験のある根岸の事蹟からも明らかで、長谷川氏説を採る。但し、根岸は勘定奉行から寛政一〇(一七九八)年には累進して南町奉行となっていた。
・「武州八甫村」現在の埼玉県久喜市鷲宮八甫はっぽう。利根川の右岸域にある。

■やぶちゃん現代語訳

 老いた農夫の達者なる者の事

 享和二年戌の秋、関東近縁方々出水でみず致いて、河川普請改修の見積もりのため、鈴木門三郎正勝殿が回村致いて御座った。
 その折り、武蔵国八甫はっぽう村の與次右衞門と申す百姓、これ、年百歳の由なるが、極めて長寿なる者にて御座ったれど、至って健かにて、村から連れ参った諸人足の先頭に立って、
「……御公儀よりの御憐憫にて、莫大なる御入用金を以って御普請を仰せ付け下さり給うたところ、恭悦至極に存じまする。……実は、我らを始めと致しまして、この連れ参りました者どもは、それぞれの百姓が内輪にやしのうております者どもにて……普請賦役には仰せつけられずなった者どもなれど……我らを始めと致します、この者どもも、ともに、精入れて働き申しまするによって……どうか、宜しゅう、お願い申し上げ奉りまする。……」
との申し出にて、その後も、御普請に出でて御座った人足どもを叱咤激励、飽くまで普請に精出だいたによって、鈴木殿は帰府致すと直ぐに、係りの者より申し上げて、御褒美として銭十貫文、上様伺いの上、取らせた由。
〇附記。以下の図は、川方御用に出でた諸輩の内の、御普請役なんどの誰彼が、戯れに描いた由のものと見ゆるが、矍鑠かくしゃくとした老農の有様、かくもあったとのことなれば、ここに写しおいた。



 至誠神のごとしといへる事

 元文の頃、久留米の家士に深井甚右衞門とて、鑓術さうじゆつの名人と人も稱しける。門弟多くありしが、同家中に、至て不器用にて殊外ことのほか鑓術熱心にて、三ケ年のいとまをねがひ深井に隨身ずいじんして日々出精しけるが、年限滿みちて故郷へ歸候暇乞いとまごひに、右師範のもとへ來りて申けるは、是まで格別の丹精に預りしが、御存ごぞんじの通り不器用にて、三年修業致候得いたしさふらえども、いまだ表裏のかたさへ覺へかね候、在所へ歸り候ても、鑓もたせ候身分故、自分一己いつこのたしなみになり候程の修業仕度つかまつりたく如何致可然哉いかにいたししかるべきやとひけるに、甚右衞門もあきれてこたへに當惑なしけるが、流石さすが甚右衞門ゆへ答へけるは、歸國の上、何になりとも目當をいたし竹刀しなひにて日夜朝暮、無懈怠けだいなく突被申つきまうされ候より外の事はあるまじと、教諭してたがひに分れけるが、三年程過ぎて、無程ほどなく在番にて江戸へ出、師匠の許へ參りけるに、折節稽古日にて弟子も大勢集り居て、かの不器用人なりとみなみな嘲り笑ひしに、師匠對面の上、如何執行しゆぎやういたされしやとたづねければ、在所へ歸り候日より、をしへにまかせ、屋敷内に三尺𢌞りの杉の木を、日夜懈怠なくつき候て、向ふまで穴を突明け候と申けるゆゑ、能くも執行し給ふと稱美にて、幸ひ今日稽古なればこころみられ候へと申けるゆゑ、しからば迚、鑓を取たちむかひしに、鑓先やりさきするどにて、名にあふ弟子どもたちあひけるに、思ふ所へ鑓先とゞきて、つけどもはれども一向にたはまず、ことごとく勝鑓かちやりにて皆つきふせられ、いづれもがををり、師範も感心の上、おのおの方はおぼえ不被申候得まうされずさふらえども、其術すでに神妙に到りける也、則印可すなはちいんか可致いたすべしとて、傳授なしける。誠に中庸に、至誠しんいるとは、此事ならんか。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。本巻最初の本格武辺物。
・「元文」西暦一七三六年~一七四〇年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、六十年以上遡る。
・「如何執行いたされしや」底本には「執行」の右に『(修行)』と傍注する。
・「たはまず」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『たわまず』で、これならば、「たわむ」で、①他から力を加えられて弓なりに曲がる。しなう。②飽きて疲れる。心が挫ける、の意となり、意味が通る。これを採用した。
・「印可」 武道・芸道等で極意を得た者に与える許し。免許。
・「至誠神に入」本当の誠の心を以ってすれば、神の如く、総てを見切ることが可能となる、の謂い。正確には「至誠は神のごとし」で、「中庸」第二十四章に以下のように載る。
至誠之道、可以前知。國家將興、必有禎祥。國家將亡、必有妖孼。見乎蓍龜、動乎四體。禍福將至、善必先知之、不善必先知之。故至誠如神。
至誠の道、以つて前知すべし。國家、將に興らんとするときは、必ず禎祥有り。國家、將に亡びんとするときは、必ず妖孼ようげつ有り。蓍龜しきあらはれ、四體に動く。禍福、將に至らんとするときは、善も必ず先す之を知り、不善も必ず先す之を知る。故に至誠は神のごとし。
●「禎祥」福の兆し。
●「妖孼」禍いの兆し。
●「蓍見」の「蓍」ぜいによって占い、「龜」は亀卜すること。
●「四體」は動作威儀。

■やぶちゃん現代語訳

 至誠神の如しと言うに相応しき事

 元文の頃、久留米藩の家士に深井甚右衞門と申し、槍術そうじゅつの名人と、人も稱した御仁が御座って、門弟も多くあられた。
 さても、同家中に、至って不器用ながらも、これ、殊の外、槍術に熱心なる者が御座って、国許へは三年のいとまを願い出、深井殿に隨身ずいじんして、日々精を出して修行精進致いたが、年限滿ちて故郷へと帰ることと相い成り、暇乞いとまごいとて、かの師範甚右衞門殿の元へ来たって申したことには、
「……これまで、師匠におかせられましては、拙者、格別の丹精を頂戴仕って御座いましたが……御存知の通り、拙者、如何にも不器用にて……三年、修業致しましたものの……未だ槍の表裏おもてうらの型さえ、これ、覚えかねて御座る次第……在所へ帰参致しましても、槍持ちを供に連れおる身分なればこそ……兎も角も……自分一己いつこの嗜みとして、相応に、納得致すことの出来る、修業だけは、仕りたとう存じ……さても!……如何が致すが、宜しゅうございまするかッ……」
と問うたによって、甚右衞門殿も――かの者の不器用の極み、知れる者なれば――聊か、呆れて、一時、如何に答えんかと、内心、当惑致いて御座ったが――流石さすがに名人と謳われた甚右衞門なれば、
「――帰国の上は――如何なるものにてもよし、一つの目標を打ち立てて――竹槍にて、日夜、朝暮れ、一時たりとも怠らず――突いて突いて突きまくる――これより外の事は――あるまじい!――」
と教え諭して、その場は互いに師弟の礼を成して分れたと申す。……
 さても三年ほど過ぎて、かの不器用なる男、江戸勤番と相い成って江戸へ出、師匠の許へと再び挨拶に参ったが、その日は折節、深井道場の稽古日に当たって御座ったゆえ、古くからの弟子も大勢集まり居ったによって、
「ほぅれ! あの、かの不器用なる御仁の御再来じゃ!」
と、みなみな、これ見よがしに嘲り笑うておった。
 ところが、かの男と師匠、久々の対面の上、師匠より、
「……その後は、如何に修行なされたか?」
とお尋ねがあった。するとかの男は、
「――在所へ帰りましたその日より、お教え下さった通り、屋敷内に御座る、三尺廻りもあろいうという杉の木を、日夜怠りのう、竹槍にて――突いて突いて突きまくりまして――遂には――向う側まで、穴を突き空けて、これ、御座いました。――」
と申けるゆえ、それを聴いた深井殿、
「それは! してやったり! よくも修行なされた!」
と賞美され、
「――されば幸い、本日は稽古なれば、一つ、修行の成果を、これ、試みらるるがよい。」
と申されたゆえ、男は素直に、
「――しからば。」
と、道場に向かい、槍を取って立ち合いと相い成った。
 門弟ども、これ、内心、馬鹿にし、ともするとほくそ笑みの零れんとするを、辛うじて押し隠しながら、かの「不器用人」と立ち合って御座った。
……ところが……
……かの「不器用人」の……
――その繰り出す槍!
――その槍先!
――これ、見たこともなき!
――鋭さ!
……嘲って御座った門弟どもは、これ、ばったばったと突き倒され……
……遂には……
……門弟の内にても名にし負う者どもまでも、立ちうことと相い成った……
……が……
『――ここぞ! 勘所!――』
――と思う所へは!
――かの「不器用人」の槍先が!
――先に!
――スッツ! と!
――届く!
……深井道場の四天王と呼ばれた者どもまで、これ……突けども張れども……「不器用人」の槍先は一向にたわんでしなることものう、
――ズン!
――と突いて!
――動かず!
……しかも、何人もの門弟と対したにも拘わらず、「不器用人」、これ、一向に疲れた様子も、
――御座いない!
……結局、かの「不器用人」、悉く勝ち槍にて……皆々突き伏せられ、門弟、一人残らず閉口致いて、
「……ま、参ったッ!……」
と床に這い蹲って御座った。……
 これには師範も感心致いた上、
「――その方らには――とてものことに分からぬことながら――かの男の槍術――これ、既に神妙の域に至っておる!――直ちに、我ら、印可いんかを致さねばならぬ!」
と、即座に極意相伝の伝授が行われたと申す。……
 まっこと、かの「中庸」に言う『至誠、しんに入る』とは、このことで御座ろうか。



 感夢歌の事

 唐衣橘州からころもきつしうとて、狂歌よみて名高きおのこは、俗名小島源之助といひて、和歌をまなび詠じけるが、其子源藏は性質儒を好み、和學は一向に心にもかけざりしに、享和二年源之助は身まかりしが、享和の春、人の勸めにしたがひ、父のこのみし事とて和歌を詠じみんと、家藏の和書取出し詠入よみいり候て、歌など讀しに、或夜の夢に父源之助來りて、汝が和歌をはじめ候心ならば、師を定て學べし、自己の流義にては歌に不成ならざる事と、永々と前書して、一首の歌を書きしるし與ふると見て、夢さめぬ。夢心に前書は覺へざりしが、歌はよく覺しと、源藏儀、予がしれる人に語りしとなり。
  海士人の見るめなぎさの捨小舟よるべ定めよ和歌のうら波
源藏は儒にこりて、年頃歌抔といふはよみもせざれば、かくまでにもよみ得まじければ、空言そらごとにもあらじと、語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関;特に感じさせない。夢告譚で、そこで得た書かれた文字としての和歌や言葉を記憶するという話柄は、「耳嚢」には存外、多い。そういう夢告譚の中でも特殊な話柄に、特異的に反応する根岸自身が興味深いと私は思う。
・「感夢歌」岩波版で長谷川氏は『ゆめにかんずる』歌と訓じておられるが、音で「かんむのうた」で私はよいと思う。
・「唐衣橘洲」(寛保三(一七四四)年~享和二(一八〇二)年)は大田南畝・朱楽菅江あけらかんこうとともに天明狂歌の社会現象を起こして狂歌三大家といわれた狂歌師の号。田安徳川家家臣で、本名は小島恭従たかつぐ、後に名を謙之かねゆきと改めている。通称は源之助。儒者内山椿軒のもとで、和学・漢学を修めた。明和六(一七六九)年に四谷の屋敷で初めて狂歌会を催した。これ以後、多くの狂歌連が生まれ、狂歌が一つの社会現象として幕末に至るまで混乱と退廃の社会を描出していった。橘洲を中心とした狂歌連は「四谷連」といった。号は、「伊勢物語」の古歌「唐衣着つつ馴れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」に由来する(以上はウィキの「唐衣橘洲」に拠る)。
・「其子源藏」 小島源蔵は昌平坂学問所の各種編纂物に名を残す、同学問所及第者に彼の名が見出せることが、北海学園学術情報リポジトリの石井耕氏の論文「御家人と昌平坂学問所・学問吟味」(二〇〇九年六月発行「北海学園大学学園論集」一四〇: 一五七-一七六)で分かる。以下、その記載によれば、寛政一二(一八〇〇)年、乙科及第、小普請組戸田中務支配、源之丞右衛門督。右筆。号は小島蕉園(源一)。親は小島源之助で別名、唐衣橘洲(著名な狂歌作者)、とあり、更に、森銑三の著作(一九七一年)に「小島蕉園」の稿があり、それによれば、寛政一二(一八〇〇)年三十歳、文化二(一八〇二)年七月(三十五歳)から文化四年十二月まで、甲州田中の代官(御目見以上)。文化六年五月小普請として、その後は町医者。文政六(一八二三)年五十三歳から四年の間、一橋領遠州波津の代官となったが、任地において文政九年正月十九日に没、享年五十六歳、と記されている由である。即ち、同論文の別な箇所に示されるように彼は御家人から旗本に昇進した人物であり、学問所内でも相当の努力家であったことが窺われる。根岸と同時代人である。
・「享和の春」橘洲は享和二年七月十八日に亡くなっているから、翌享和三(一八〇三)年の春であろう。源蔵は前年に甲州田中の代官に就任している。
・「海士人の見るめなぎさの捨小舟よるべ定めよ和歌のうら波」読み易く書き直すと、
 海士人あまびとの見るめなぎさ捨小舟寄邊すておぶねよるべ定めよ和歌の浦波
で、「見るめ」は、「見る目」――師匠の眼の届くこと。ここは単に師がいないことだけではなく、狂歌宗匠たる自分が既に鬼籍に入って目を掛けてやる(指導する)ことが出来ないことを含ませていよう――と、海藻の「海松布みるめ」――古典ではお馴染みの緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル Codium fragile ――を掛け、「なぎさ」は、「渚」と、「みるめなぎ」から「見る目無し」の意を掛ける。
――漁師さえ振り返ることのない渚の捨て小舟(であるお前)は、和歌の浦(の和歌に慧眼を持った誰ぞ師匠の元に)その寄りどころを求めるがよい――

■やぶちゃん現代語訳

  感夢の歌の事

 唐衣橘州からごろもきっしゅうとて、狂歌師として世に名高い男は、俗名を小島源之助と申し、その初めにしっかりと和歌を学び詠じて御座った者なるが、その子源藏は、その性質たち、儒学を好み、歌学は一向に心懸けず御座ったところ、享和二年、父源之助は身罷った。
 その翌享和三年の春のこと、人の勧めに従い、父の好んだことなればとて、源蔵、和歌を詠まんと志し、家蔵の歌学書などを取り出だいては、古人の和歌を読み、実際に自身、三十一文字を詠むなど致いて御座った。
 そんなある夜の夢に――父源之助が来たって、
「……汝が、和歌を始めんと致す心掛けならば、これ、師を定めて学ばねばならぬ。自己流にては、そなたの場合、とてものこと、歌には成らざるゆえ、の……」
と、永々と前書きして、一首の狂歌を書き記して与えた――
――と見て、夢が醒めた。
「……夢心地なれば、前書きは、これ、全く覚えては御座らなんだが――その歌だけは、は、目覚めても、よう、覚えておりました。……」
と源蔵自身が、私の知れる者に語ったということである。
 その狂歌に、

  海士人の見るめなぎさの捨小舟よるべ定めよ和歌のうら波

「……この源蔵は殊の外、儒学に凝りに凝って御座って、普段、和歌なんどというものは、これ到底、一切読みも致さぬ者なればこそ……かくまで巧みにも、狂歌を詠み得るということ、これ、まず、出來まじいことなれば、以上の話は空言そらごとにても、これ、御座らぬと存ずる。……」
と、私の知人は語って御座った。



 守財輪𢌞の事

 元文の頃の由、羽州うしう山形に、予が知音ちいん秋山なにがし逗留せし頃ききとて咄しける。天童町といふ所に、炭薪を商ふ富家有しが、平生心やすくゆき通ふなるもの、金三十兩時がりにる事ありしが、ある夜右富家の翁かりける方え來りて、金子請取べき旨申けるゆゑ、明日返し可申持置まうすべくもちおき候と申答へけるに、只今致しくれやうにと申儘まうすまま、直に右金子を渡しけるに、右老人いづちへ行けん見へざるゆゑ、夜中老人三里もある處をかへり候も心もとなしと、あとを追ひ、無難に帰り給ふやと尋ければ、かの老人は昨夜頓死いたし、翌日葬禮いとなむとて、殊の外取込とりこむの由答へける故、大に驚ろき、不思議なる事もあるなり、只今借用の金子請取うけとり被參まゐられ、渡しぬれど、夜中獨り被歸かえられ候を氣遣ひ、跡より見屆みとどけに參りしと申ければ、亭主はなはだ憤り、返濟なくば其通そのとほりの儀、いささかなる金子に付、老父へ疵を付候申方まうしかた、恥辱を與へしとて摑み合けるを、葬禮に差懸さしかかりよからぬ事と、有合ありあひ候者取支とりさ押鎭おししづめけるが、死人ををさむるとて夜具などふるひとり片付けしに、封じたる金子、寢床より出るに付見改つきみあらためしに、上書はすなはちかの自筆故、あきれて互に和睦せしとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:夢告譚から心霊譚ではあるが、寧ろ、冒頭から四つめの「意念奇談」との親和性を強く感じさせる心霊譚である。但し、「意念奇談」は明確な離魂であるが、こちらの老人は訪れと死んだ時期が微妙ではある。
・「守財の輪𢌞」この「輪𢌞」は執着心の強いことを謂う。
・「元文」西暦一七三六年~一七四〇年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、六十年以上遡る、かなり古い都市伝説である。
・「時がり」は「時借り」で、一時的に金などを借りること。当座の借り。

■やぶちゃん現代語訳

 守財への執心の事

 元文の頃のことの由。
 出羽国山形に私の親友で御座る秋山ぼうが、逗留致いた折りに聞いたとのことで、話し呉れたもので御座る。
 天童町というところに、炭薪すみたきぎあきのうておる、裕福なる商家が御座った。
 そのと平生、親しく付きうて御座ったある者、金三十両を当座の間、かの家主いえぬしより借り受けたことがあった。
 ある夜のこと、かの富家ふけの老主人、ふらっと、その三十両を借りておった男の方へと来たって、
「……かの金子……返し呉りょう……」
と申すゆえ、
「……へえ、明日みょうにちお返しに参らんと存じ、用意致いては御座いましたが……」
と申し開き致いたところが、老主人の答うるに、
「……只今……直ぐに渡し呉るるよう……おたの、申す……」
と丁寧な答えながら、何やらん、かすような気味も、これあればこそ、直ちに、かの用意致いて御座った金子を渡いた。
――と
……はっと気が付くと、老人の姿は、目の前から掻き消えて御座った。
「……今、金子を渡した、とばかり……一体、どこへ行かれたものか……」
と後架なんども覗いても見えぬゆえ、
「……それにしても……この夜中、老人が三里もある道のり、これ、帰らるるは心もとなきことじゃ……」
と、一本道の山道、後を追った。
 結局、追い付くことのう、老人が家へと辿り着いてしもうたによって、不審に思いつつも、
「ご亭主は、ご無事でお帰りか?」
と門口を訪ねたところは、主人惣領が出て参り、
「……我らが父、昨夜頓死致し……今日、葬礼を営むことと相い成って御座る……家内いえうちもご覧の通り、殊の外、取り込んで御座るによって……」
と応じたゆえ、大いに驚ろき、
「……いや……不思議なることも、これ、あることじゃ!……実は……つい今さっき、ご亭主自ら……我らが借用致いて御座った金子を受け取りに参られ、請わるるがままにお渡し致いたが、この夜中に独りお帰りにならるる危うさを気遣い、無事、お帰りになったかどうか心配なれば、後を追って見届に参った次第……」
と申したところ、若亭主、甚だ以って憤り、
「……おのれ!……返済せずに、そのまま踏み倒さんという魂胆かッ!……たかが三十両ぽっちの金子につき、我らが老父の執着とかたるとはッ!……父の面子めんつに疵をつけ呉りょうた! そのにっくき申し様! よくも! 我らが家に、おぞましき恥辱を掛けよったなッ!」
と叫ぶや、取っ組み合いの喧嘩を始めた。
 されば、すぐに、
「葬礼に差し障り、以ての外の狼藉じゃ!」
と、その場に居合わせて御座った者どもが二人を分けて取り押さえ、それぞれに諭しを入れて鎮めさせ、ともかくも葬儀をとり行う仕儀と相い成った。
 ところが、さても桶に死人しびとを納めんと、夜具なんど振るってとり片付けたところが――
――封じた金子、これ、三十両
――寝床の間より出でたによって
――見改めたところが……
……その上書は、則ち、かの借り受けた者の自筆の封であったがゆえ、その場の者ども、一残らず、これ、呆れて、暫くものも言えずなった、と申す。
 無論、冨家の若主人と借り受けた男は、これ、互いに和睦致いた、とのことで御座る。



 夜發佳名の事

 いまだ元文の頃は、いやしき者にも風流なる事ありしやと、秋山翁かたりしは、柳原へ出候夜發やほつ、大晦日の夜、三百六拾人の客をとりし女ありて、其抱主かかへぬし承りて、今夜に限り、ひと年の日數なさけ商ひし事珍しとて、ひと年おかんと名乘候へかしと云し由。其頃毎夜夥敷おびただしき見物なりし由。秋山も小兒の頃故、おわれて見に行しが、美惡は覺へずと、語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:元文年間の出来事で連関。
・「夜發」既出。「やほつ」「やほち」と読み、夜間に路傍で客を引いた最下級の売春婦のこと。底本鈴木氏注に、『三村注「守貞漫稿に云、夜鷹は土妓也、古の夜発と云者是歟、或書云、本所夜鷹の始りは、元禄十一年九月六日、数寄屋橋より出火し、風雨にて千住迄焼亡す、其焼跡へ小屋掛し折節、本所より夜々女来りて小屋に泊る、世のよき時節故、若い者徒然の慰みに、互に争ひ買ひけるより始る云々、本所より出る夜たかに名を一年と云あり、ひとゝせと訓ず、此土妓の詠歌に、身の秋はいかにわびしくよひよひは顔さらしなの運の月かげ、何人の果なるを詳にせず、由ある女の零落なるべし」』とある。岩波版長谷川氏注によって、これは「守貞漫稿」の二十二(活字本の二十)であることが分かり、長谷川氏は更に、講釈師馬場文耕の「当世武野ぶや俗談」(宝暦七(一七五七)年板行)に『同様の夜鷹の話あり、「一とせのおしゆん」という』ともある。
・「佳名」「嘉名」とも書く。いい名・縁起のよい名、又は、いい評判・名声、の意で、ここでは洒落た源氏名という謂いの他に、売れっ子の意も含んでいる。
・「ひと年の日數」本邦の旧暦は太陰太陽暦によるが、旧暦の一ヶ月の日数は月に固定されず、年毎に各月が三十日の大の月か、二十九日の小の月となり、その近似値として十二ヶ月×三十日で三百六十日とした謂いである。実際の太陰太陽暦における一年の日数は、平年で三百五十四日程度、補正のための閏月のある閏年の場合は三百八十四日程度で、年によって大きく異なる。
・「秋山」「卷之四」の「痔の神と人の信仰可笑事」に登場した根岸の知音で、脇坂家に仕え、「脚気辨惑論」などの医書を表わしている江戸の著名な医師秋山宜修かくしゅう(生没年未詳。号玄瑞)であろう。
・「おわれて」ママ。

■やぶちゃん現代語訳

 夜發の佳名の事

 「……未だ元文の頃には、賤しき身分の者にも……これ、相応に風流なる仕儀が御座ったことじゃ……」
と、秋山玄瑞翁の語ったことには――

……柳原へ夜な夜な出でて御座った一人の夜発やほちのうちに、ある年の大晦日の、丁度、三百六十人の客をとった女が御座っての、その抱え主がそのことを聴き、
「……今夜こよいと限って、以って一年ひととせ日数ひかずと同じ、なさけと同じ数、商いおおせたということは、これ、珍らしきことじゃ。……」
とて、
「……向後は、そなた、『ひと年とせおかん』と名のりなさるがよい。……」
と云うたそうな。……
 いや、その頃は、毎夜の如、一目、その「ひと年おかん」の顔を拝まんと、まあ、夥しき見物人で御座った。……
 我らも、未だも小児の頃で御座ったゆえ、乳母に負われて見に参りましたが……さて……流石に、幼な子の折りの、遠き昔のことなれば……「ひと年おかん」のその美醜は、これ、覺へては御座らぬが、の……」

と語って御座ったよ。



 夢想にて石佛を得し事

 信州坂本宿に角兵衞といえる百姓ありしが、十一年程以前、村境の樫の木のもとにわがうま候間、取出し候樣、一人の出家覺しき者枕にたちてつげしを、夢幻となくききて、あたりのものへ咄しければ、取しまらざる事故打捨置ことゆへうちすておきしに、享和元年ある夜の夢に同じく見えし故、村役人抔へかたりしに、かゝる事有べき樣なしとて打過うちすぎぬるを、又享和二年にも夢見しとて、何卒ほりたきといひしを、度々の事故、村役人もいづれ掘て見可然しかるべしと相談決しおよそ四五尺もほりしに、五寸ばかりの石像掘出ほりいだしぬ。右角兵衞いたつて正直ものにて、目論見事などいたす者にもあらず。支配の御代官蓑みの笠之介え訴へ、同人より御勘定奉行へも申立まうしたて、一旦江府かうふへも取寄とりよせになりしが、角兵衞は日蓮宗の由にありしが、右像は彌陀釋迦等其外多寶たほう勢至などの類にも無之これなく、出家の石像にて、圓光大師の像なりといふ人もありし。もつとも角兵衞へ石像は返したまはり、右に付人集つきひとあつめ不致いたさず、異説等申觸まうしふれまじきと、御代官よりまうし渡させけるなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。三つ前の「感夢歌の事」と夢告霊異譚で直連関。
・「信州坂本宿」中山道六十九次の内、江戸から数えて十七番目の宿場。現在の群馬県安中市松井田町坂本。中山道の難所であった碓氷峠の東の入口に当り、本陣と脇本陣合わせて四軒、旅籠は最盛期には四十軒あった比較的大きな宿場であった(以上はウィキの「坂本宿」に拠った)。「信州」とあるが、上野国の誤りである。訳では訂した。
・「享和元年」西暦一八〇一年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、これで逆算すると「十一年程以前」は寛政五(一七九三)年になってしまう。ということは享和元年起算で「十一年」後は、文化九(一八一二)年となり、これは「卷之十」の下限である、死の前年文化十一(一八一四)年六月までに一致する。もしかすると、根岸は「卷之十」の完成に合わせて、過去の記録の数字を時計に合わせて補正したのかも知れないなどと考えた。無論、この記載を「享和元年」から「十一年程以前」と言っているとも取れぬことはない。その場合は、初回の夢告は寛政二(一七九〇)年の出来事となり、本巻の時系列には合致する。しかし、十一年のブランクは話柄としてはおかしい感じがする。この間、法然上人の御魂、どこぞで教化でもして御座って、忙しかったのかしらん? などと馬鹿なことを考えているうちに、私の大きな愚かさに気づいた。以下に注するように、ここに登場する蓑笠之介が代官であったのは元文四(一七三九)年から延享二(一七四五)年の間であった。しかし、そうすると、更に時間軸に大きなパラドックスが生じる。延享二(一七四五)年起算の十一年後は宝暦六(一七五六)年となり、享和二年とは四十六年も隔たってしまい、そもそもこの時、蓑笠之介は既に代官ではないどころか、後注でご覧の通り、勘定奉行支配下から職務不行届から罷免されて小普請入り、まさにこの年に隠居しているのである。どうも、この話柄、眉唾物という感じがする。
・「蓑笠之介」蓑正高みのまさたか(貞享四(一六八七)年~明和八(一七七一)年)幕府代官。農政家。「耳嚢 巻之三」の「本庄宿鳥居谷三右衞門が事」で既出であるが、再注しておく。以下、「朝日日本歴史人物事典」の記載(数字・記号の一部を変更した)。『松平光長の家臣小沢庄兵衛の長男。江戸生まれ。享保一(一七一六)年猿楽師で宝生座配下の蓑(巳野)兼正の養子となり、同三年に家督を相続。農政・治水に通じ、田中丘隅の娘を妻とする。同一四年幕府に召し出され、大岡忠相の支配下に入り、相模国足柄上・下郡の内七十三カ村を支配、酒匂川の普請なども行う。元文四(一七三九)年代官となり扶持米一六〇俵。支配地はのちさらに加増され、計七万石となった。延享二(一七四五)年勘定奉行の支配下に移るが、寛延二(一七四九)年手代の不正のため罷免され、小普請入り。宝暦六(一七五六)年隠居。剃髪して相山と号した』。著作に「農家貫行」がある、と記す。
・「多寶」多宝如来。東方の宝浄世界の教主。「法華経」の「見宝塔品」に載る如来。法華の説法のある場所に宝塔を出現させて説法の真実を証明して讚嘆、半座を譲って釈迦を請じ入れたという。
・「圓光大師」法然の大師号の一つ。

■やぶちゃん現代語訳

 夢想にて石仏を得た事

 上州坂本宿に角兵衛と申す百姓が御座った。
 十一年程以前、
「――村境の樫の木の根元に――我が像、埋まりおるにつき――取り出だいて、くるるよう――」
と、一人の出家と思しい者が枕上に立って告げたを、夢現ゆめうつつとのう、聞いたによって、住まう辺りの者へも話してはみたが、
益体やくたいもない話じゃ。」
と一笑に付されたゆえ、うち捨てて御座った。……
 ところが、享和元年のある夜の夢に、全く同じきものを見たゆえ、村役人などへも申し上げたところ、
「そのようなこと、これ、あろうはずも、なし!」
と一笑に附され、またしても無為にうち過ぎたと申す。
 ところがまた、翌享和二年、
「……全く同じ夢を見申したれば……何卒、そこを、掘りとう御座いまする……」
と再三申し出でたによって、度々のことなればと、村役人も、
「……まあ、しょうがない。いずれにしても、掘って見るに若くはあるまい。」
と、談議が決した。
 ところが……およそ四、五尺も掘ったところで……
……これ、五寸ばかりの
――小さな石像が
これ、掘り出されて御座った。
 この角兵衞と申す百姓、近在でも至って正直者として知られており、悪しき謀りごとなんどを致す者にもあらざれば、当時の支配の御代官みの笠之介殿へ訴え出でて、同人より御勘定奉行へも申し立てが御座って、一旦、かの石仏、江戸表勘定方へも取り寄せとなって仔細が調べられた。
 その資料によれば――角兵衞の宗旨は日蓮宗の由で御座ったが、右像は弥陀・釈迦など、また、その他の多宝如来や勢至菩薩などの類いにてはこれなく、出家の僧を彫ったる石像にて、ある者は、
「これは円光大師法然の像である。」
と申す者も御座った。
 もつとも、結果としては、角兵衞へ石像はお返しとなり、
「――右石像に附き――くれぐれも、当像をもって夢告の像なんどと称し、人集めなんどは致さぬように。――また、夢告にて掘り出だいた、なんど申す、不届き千万なる異説や噂なんどをも、ゆめゆめ、申し触れまじいこと――」
と、御代官簑殿より申し渡させた、とのことで御座る。



 女妖の事

 萩原彌五兵衞御代官所下總國豐田郡川尻村名主新右衞門家來、百姓喜右衞門後家さきといふ者、享和三亥年、八拾三歳になり、新右衞門方にて召仕めしつかひ同樣いたしおきけるに、同村吉右衞門とて五十六歳になりける者と、一兩年此方心易このかたこころやすく、夫婦になりたき由さきより新右衞門の内に願ひけれども、年寄の事あるべき事にもあらずと、差押取合さしおさへとりあはざりけるが、吉右衞門と申合まうしあひ駈落かけおちもいたすべき風聞ありければ、新右衞門もやむ事を得ず、さきが願ひにまかせ吉右衞門を入夫にふふになしける由。鈴木門三郎𢌞村の節、新右衞門墓所に右さき居合ゐあひ候を見をよびしが、齒は落不申おちまうさず鐡漿かね黑くつきて、頭は白髮にて、立𢌞りは五十歳位にも見へしと、門三郎かたりぬ。所にては、吉右衞門も夫婦になりて、夜の契りにはをくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたりまじはりをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:享和年間の出来事で連関。ハッスルさきおばあちゃんのお話で、都市伝説というより、記述の仕方が、地下文書風で、最後の一文の興味本位の叙述を除き、事実譚として捉えてよい。
・「萩原彌五兵衞」「萩原」ではなく荻原が正しい(訳では訂した)。荻原友標ともすえ(寛保元・元文六(一七四一)年~?)。底本の鈴木氏注に、『明和二年(二十五歳)家督』(明和二年は西暦一七六五年)、『六年御勘定、八年御代官に転ず。享和三年武鑑に、常陸下総の代官と出ている』とあるから、享和三(一八〇三)年とぴったり一致し、「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、極めてホットな噂話でもあることが分かる。
・「さきといふ者、享和三亥年、八拾三歳」さきちゃんの生年は享保六(一七二一)年になる。
・「下總國豐田郡川尻村」現在の茨城県結城郡八千代町川尻。底本の鈴木氏注に、『豊田郡は旧名岡田郡。延喜式には豊田郡で出ている。その後郡名を失ったが、徳川幕府の初め、鬼怒川の東を豊田、西を岡田郡とした』とある。
・「吉右衞門迚五十六歳」さきちゃんより二十七歳も若いきっちゃんの生年は寛延元・延享五(一七四八)年となる。
・「鈴木門三郎」既出。勘定吟味役として主に治水のために廻村していたことが、本巻の先行する「老農達者の事」に出る。リンク先を参照されたい。
・「所にては、吉右衞門も夫婦になりて、夜の契りにはをくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。」この部分底本では尊経閣本で( )部分を補った形で、
所にては、吉右衞門も夫婦になりて、(夜の□りには)をくれのみとりていと迷惑すと語り、まのあたり交りをも見て驚ろきしとかたるものありしが、是は流言や、誠しからずとかたりぬ。
であるが、如何にもな伏字といい、気に入らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
所にては、「吉右衛門も夫婦になりて、夜の契りにはをくれのみとりていと迷惑す」と語り、「まのあたり交りをも見て驚ろきし」と語るものありしが、これは流言や、誠しからずとかたりぬ。
であり、後者を主に前者と混淆させて表記した。例えば、底本「語る」と「かたる」の違いは、後者が猥雑なる流言を「騙る」の謂いをも利かせてくるので、そちらを採っておいた。
・「をくれのみとりて」あっちの方では、常に八十三のさきちゃんにリードされて。

■やぶちゃん現代語訳

 女妖の事

 荻原弥五兵衛殿が勤めて御座った御代官所、下総国豊田郡川尻村名主、新右衛門が家來、故百姓喜右衛門の後家に、『さきじょ』と申す者、享和三年の亥の年で八十三歳になり、新右衛門方にては亡き喜右衛門の縁者なればとて、召使い同様にやしのう御座ったが、同村の吉右衞門とて五十六歳になったばかりの者と、この二年ほど心易うして御座ったが、突如、
「……吉衛門さまと、夫婦めおとになりとう存じます。……」
と、かの、さき女より主人新右衛門へ願い出て参った。
 されども、
「……何を血迷うておるのじゃ?!……棺桶に片足突っ込んだ八十三の年寄りのことなれば、……そ、そんなことは、あるびょうことも、ハッ! あらざる仕儀じゃ!」
とて、許さず、
「年よりの世迷言よまいごとじゃ! けたかのぅ、あの婆あも……」
と、全く以ってとり合わずに御座ったところが……
……さき女、何と!
「……御主人さま……そ、その……さき……で御座いますが……村にては……何でも……吉右衛門と申し合わせ……か、駈け落ちをも辞さぬらしい……と……専らの噂にて……へえ……」
という風聞を下男の者より小耳に挟んだゆえ、新右衛門も止むを得ず、さき女が願いにまかせ、吉右衛門を入りむこに成して御座った由。
 例の勘定吟味役鈴木門三郎殿が廻村の節、新右衛門が先祖の墓所に参じた際、この、さき女が居合わせて御座ったを実見に及んだとのことで、
「……いや、もう、……歯なんどは、これ、一本たりとも欠いておらず、お歯黒もきりりと粋に黒うつけて……流石に、頭は白髪はくはつにては御座ったれど……その立ち居振る舞いなんどは、これ、五十歳位にしか見えず御座った。……オッホン……その……それから附言致しますると……川尻村在所にては――吉右衛門自身が『夫婦めおとになって、その……よるの契りの方にては……常に遅れのみとって、大層、迷惑致いておる……』由、申したとか――またまた、忌まわしくも――『目の当たり、二人の交わりをも見たが、その、さき女の、いや、凄いこと! これには!驚ろいた!』――なんどと語る者も御座いましたが、これはまず、……騙り流言の類いかと思われ、誠にては御座りませぬ。……」
と、門三郎殿の語って御座った。



 窮兒も福分有事

 石川左近將監しやうげんかたりけるは、十八九年以前大御番おほごばんつとめ、在番とて上方へ登りしに、由比ゆひ河原かはらに拾貮ばかりの坊主、肌薄はだうすにて泣入居なきいりをり候を頻りに不便ふびんに思ひ、立寄りて樣子を尋問たづねとひしに、八王子のものにて京都智積院ちしやくゐんへ學問に登るとて同志の出家に伴はれけるに、連れの出家は途中にて離れ、ひとりさまよひしに、わるものゝために衣類荷物等を奪れ、すべき樣なしと申けるを頻りに不便に思ひ、何卒其行方ゆくかたへ送り可遣つかはすべき處、八王子へ送るべき樣も無之これなく、上方へ伴ひ遣さんと尋ねければ、さもあらば誠にありがたしと答へける所へ、江戸新川しんかはの酒屋手代通り懸り、是も上方へ登り、江州に在所有之これあり、是より立寄候間、江州までは可召連れめしつれべしといひし故、左近將監が供連ともつれの内へ入れて、次の泊りに旅宿はたごの者を賴み古着など調へ着せ、右新川の手代に渡し、跡へなり先へなり大津まで至りしに、約束なれば、新川の手代は江州より分れ、大津にて人を賴み智積院へをくるべきや如何いかがせんと思ひしに、眞言宗の出家兩人、大津の馬宿うまやど差懸さしかかり、右小僧の樣子を左近將監が從者にききて、さてさて仕合成しあはせなる者なり、同宗の僧侶すておくべきにあらず、我らより智積院へをくるべきと言ひし。さひはひなる事と、いさいに右出家の樣子を聞しに、是も智積院へ學問修行に登るよし。右出家へ引渡しけるが、京都智積院よりも大阪在番先へ、右小僧とどき趣申來おもむきまうしきたり、其後は音信いんしんもなかりしが、今は八王子在大畠村寶生寺といへる御朱印地の寺に住職して、左近將監方へは、其恩儀を思ひ絶へず尋問して、懇意に致候となり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。私は何故か、この善意の人々の群像実話が好きで堪らぬ。映画に撮ってみたいぐらい、好きである。
・「石川左近將監」前の「英雄の人神威ある事」に既出の石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)彼は安永二(一七七三)年に大番、天明八(一七八八)年には大番組頭となって寛政三(一七九一)年に目付に就任するまで続けている。「左近將監」は、ここで注しておくと、左近衛府の判官じょうのことを指す。フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、「勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見!
・「十八九年以前大御番を勤」「大御番」は同じく「英雄の人神威ある事」の注を参照のこと。ここは大阪城警護である。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、ここから逆算すると「十八九年以前」は、天明五(一七八五)年か六年辺りを下限とするから、どんぴしゃり! 石川が大番組頭になる前の大番であった頃の出来事であることが分かる。
・「由比」静岡県の中部の旧庵原郡にあった東海道由比宿の宿場町。現在は静岡市清水区。『東海道の親不知』と呼ばれた断崖に位置する。付近には複数の河川があり、同定不能。
・「智積院」現在の京都府京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町にある真言宗智山派総本山五百佛山智積院いおぶさんちしゃくいん。寺号を根来寺ねごろじという。開基は玄宥げんゆう
・「新川」東京都中央区新川の霊岸島付近。霊岸島とは元、日本橋川下流の新堀と亀島川に挟まれた島で古くは江戸の中島と呼ばれたが,改名は寛永元(一六二四)年に霊巌雄誉が霊巌寺を建立したことに由来する。しかし明暦の大火後に寺が深川に移転、その後は町屋が増加し、後に河村瑞賢が日本橋川に並行して中央に運河である新川を掘削、これが現称地名の「新川」となった。以後この付近は永代橋まで畿内からの廻船が入り込むことが可能であっために、江戸の港として栄え、下り物の問屋として霊岸島町には瀬戸物問屋が多く,またしろがね町や四日市町には酒問屋が多かった(以上は平凡社「世界大百科事典」の「霊岸島」に拠った)。
・「可召連れ」「れ」の送りはママ。
・「馬宿」一般名詞。駅馬・伝馬に用いる馬を用意しておく場所。
・「をくるべきと言ひし」の「べき」はママ。
・「大畠村寶生寺」底本の鈴木氏注に、『大幡が正。宝生寺は山号大幡山。八王子市西寺方町。真言宗智山派。中興開山頼紹僧正は小田原北条氏時代、八王子城主から信仰され、天正十八年落城のとき、城内で怨敵退散の護摩をたき、そのまま焼死をとげた。のち家康が寺領十石を寄進した』とある。開山は明鑁めいばん上人で応永三十二(一四二五)年と伝えられるが、没年が延文五(一三六〇)年と合わず、開山は儀海とする説もある。
・「御朱印地」幕府が寺社などに御朱印状を下付し、年貢諸役を免除した土地を指す。質入は厳禁され、国役金が課され、御朱印状は将軍代替わりごとに下付された。

■やぶちゃん現代語訳

 窮したる子にも神仏の御加護があるという事

 石川左近将監さこんのしょうげん忠房殿のお話。

……十八、九年以前のこと、大御番おおごばんを勤め、在番方として上方へ登って御座ったが、その途中、駿河の由比の河原かわらにて、十二歳ばかりの青坊主、如何にもな薄着のままに、泣きながら蹲って御座った。……
……その泣き声、これ、頻りに不憫を誘いましてのぅ……立ち寄って、仔細を尋ね問うてみましたところ……これ、八王子の者にて、京都智積院ちしゃくいんへ学問修行に登るとて、同志の出家に伴はれて発ったものの、連れの出家とは途中にてはぐれ、独り彷徨さまようて御座ったところが、悪者がために衣類荷物、悉くを奪れ……
「……どうしたらよいか……分かりませぬ……」
と今にも消え入りそうな声で申しけるによって、頻りに不憫に思うて、
「……まあ、何とか御坊の、行くかたへと送って遣わそうとは存ずるが……八王子へ送り帰すは、これ、なかなかのことじゃ……いっそ、上方へとものうて遣わそうと存ずるが、如何いかが致す?」
と訊ねたところ、
「……そうして戴けるならば……これ、誠に、ありがたきことに御座いまするぅ!……」
と切羽詰ってすがって参った。……
 たまたま、そこへ江戸新川の酒屋の手代が通りかかりましての。聴けば、これ、
「……へえ、あっしは上方へと登りやす。……ただ、近江に在所がありやすんで、そこへちょいと立ち寄ろうかと思うておりやすんで……しかし、不憫なこおや――かりやした! 近江まではあっしが連れて参りやしょう!」
がえんじたゆえ、拙者の供連ともづれの内へ、この手代と小坊主を入れての、道中と相い成って御座った。……
 次の宿場にて、旅籠はたごの者に頼み、古着なんどを買わせて着せ、かの新川の手代に引き渡し、そののちも、拙者の後へなり先へなりして、大津まで参って御座った。
 約束なれば、新川の手代は、ここより近江の在所へと別れて御座った。
 拙者は、
『さて……大津にて人に頼んで智積院へ送るがよいか……いや……にしても……悪しき者どもに襲われたるこのこおの心持ちを思えば……これ……頼むべき人物も……相応に考えずばなるまい……さても……如何いかがせんとするが、よきか……』
と思案致いて御座った。……
 そう考え込んで御座った丁度その折り、大津の馬宿うまやどへさしかかって御座ったのじゃが、これまた、たまたま、真言宗の出家が二人、拙者の供連れと歩む少年僧が眼に入って、そっと我らが従者に仔細を訊ねて御座ったと申す。
 従者の話を聴いた二人の僧は、早速に拙者に言上致いて、
「いや! さてさて、この男児も幸せなる者で御座る! 同宗の僧侶なればこそ、捨て置く訳には、これ、参りませぬ。我ら方より、確かに智積院へお送り申し上げましょうぞ!」
と、先方より願い出て御座った。
 幸いなることじゃと、委細に、かの二人の出家に問うて素性を確かめたところが、実はこの二人も、かの智積院へ学問修行に登る途中の由に御座ったゆえ、これならばと心得、その出家たちへ少年僧を引き渡して、くれぐれも確かに届け呉るるように頼み、その場は別れて御座った。……
 その後、京都智積院からも拙者の勤むる大阪在番先へ、かの二人の僧に預けた小僧が辿り着いた旨の申し状が届いて御座った。……
 その後は……暫くは消息も御座らなんだが……修学よろしく、かの青坊主……今は八王子在の大畠村、かの知られた宝生寺ほうしょうじという御朱印地の寺にて、住職と相い成って御座ってのぅ!……拙者が方へは、かの折りの恩儀を思うて、これ、絶えず訪ねて参りましてのぅ……大層、懇意に致して御座るのじゃ。……」

と、忠房殿、如何にも嬉しそうに目を細めて語られて御座った。



 幼兒實心人の情を得る事

 享和三年の春、中川飛州ひしふ、支配どころ𢌞村に出しに、野州芳賀都眞岡町邊通行の處、同所にて年頃十一二歳の小兒、願ひ有之これある由にて飛州駕籠の前にうずくまりし故、いかなる事にやとたづねしに、かれは代々醫師に候處、四歳のせつ親子離れ、祖母の養育にて生育せしが、何卒家の醫業致度候得共いたしたくさふらえども、在所にては修行も出來かね候間、江戸表へ出申度まうしたき由の願ひの由故、隨分江戸表へ召連れ行可遣ゆきつかはすべきなれど、幼年ものゝ儀、仔細もわからざる故、所のものへたづね問ひしに、渠が親は篠崎玄徹とまうし、小兒の申通まうすとほり逸々無相違旨申いちいちさういなきむねまうしけるゆゑ、かの小兒の心より出し事とも思われず、祖母其外親類のまうし勸めける事ならんとせちにただしけれど、さる事にもあらざれど、なほためし見んと、江戸へめし連れ候には、坊主にいたさずしては難成なりがたき由を申聞まうしきかさせけるに、坊主とききて少しいなみし故、左もあらんと思ひしに、小兒心をさなごころに坊主といえる、衣體いたいちやくす出家の事なりと思ひいなみしよし。けさごろも不用もちゐざる坊主は隨分いなみ候事なしと即座に髮をそり、飛州に附添ひ江戸へ召連れ、多喜安長方へ遺はしけるが、よほどかしこき性質たちの由、飛州物語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:少年綺譚連関。私好み。されば、訳の一部を映像的に敷衍して拡張してある。
・「実心」「じつしん」と読み、真心・実意・まことの心・偽りなき真実の心の意。
・「享和三年」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな話題である。
・「中川飛州」中川飛騨守忠英ただてる(宝暦三(一七五三)年~文政一三(一八三〇)年)。明和四(一七六七)年に十五歳で家督(石高千石)を継ぐ。小普請支配組頭・目付を経て、寛政七(一七九五)年に長崎奉行となり、従五位下飛騨守となる。長崎奉行は寛政九(一七九七)年二月までこれを務めたが、長崎在勤中には手附出役の近藤重蔵らに命じて、唐通事(中国語通訳官)を動員、清の江南や福建などから来朝した商人たちより風俗などを聞き書きさせ、これを図説した名著「清俗紀聞」を編纂監修している。寛政九年、勘定奉行となり、関東郡代を兼帯した。本話柄の享和三年のまさに廻村の際、武蔵国栗橋宿(現在の埼玉県久喜市栗橋)に静御前の墓碑がないことを哀れんで、「静女之墳」の碑を建立している。文化三(一八〇六)年、関東郡代兼帯のまま大目付、文化四(一八〇七)年には蝦夷地に派遣され、文化八(一八一一)年には朝鮮通信使の応接を務めている。その後は文政三(一八二〇)年、留守居役(旗奉行を歴任)。旗奉行現職のまま、没。享和三年当時は満五十歳。因みに聴き手の根岸は南町奉行現職で六十六歳である。
・「野州芳賀都眞岡町」現在の栃木県真岡市。
・「坊主にいたさずしては難成」当時の医師は剃髪(坊主)している者が多かった。
・「坊主と聞て少しいなみし故、左もあらんと思ひしに、小兒心に坊主といえる、衣體を着す出家の事なりと思ひいなみしよし」少年は、坊主を出家して僧になることと考え、家名を継ぐことが出来ず、家名が途絶えると考えて難色を示したのであるが、忠英は子供心で坊主頭になるのが嫌なのだろうと一人合点したのである。
・「多喜安長」多喜元簡もとやす(宝暦五(一七五五)年~年文化七(一八一〇)年)。寛政二(一七九〇)年侍医、同一一年には父元悳もとのりの致仕に伴い、その後を襲って医学館督事(幕府の医学校校長)となった。享和元(一八〇〇)年には医官の詮衡(=選考)について直言、上旨(将軍への進言)にまで及んだため屏居(=隠退・隠居)を命ぜられた。後、文化七(一八一〇)年に再び召し出されたが、その年の十二月に急死した。屏居中には著述に没頭、著書が頗る多い。「多喜安長方へ遺はしける」とは、当時、彼が督事であった医学館の学生として貰うように依頼したことを言う(以上は底本の鈴木棠三氏の注を参照した)。享和三年当時は医学館督事で満五十歳。

■やぶちゃん現代語訳

  幼な心の偽りなき誠が人の情けを得た事

 享和三年の春、中川飛騨守忠英ただてる殿が、御支配地を廻村なさておられた折りの話で御座る。

 上野国芳賀郡真岡町辺を通って御座ったところ、同所にて十一、二歳の少年が、
「――お願いが御座いまする!」
と、拙者の駕籠の前にうずくまって御座ったゆえ、
「如何なることか?」
と尋ねたところ、
「……私の家は代々医師で御座いましたが、四歳の時、親と死に別れまして、祖母の養育にて育ちました。……しかし何としても、家業の医業を継ぎたく存じます。なれど、この田舎にあっては、医の修業も出来申さざれば、何とかして、江戸表へ出とう存じます!」
との願い出にて御座った。
「……それは……まあ、出来ることならば……江戸表へ召し連れて参ることは、これ、出来ぬ訳でも、ないが……」
と答えつつも、未だ頑是ない子どもこと、加えて仔細の事情も分からざれば、ところの者に訊ねてみたところ、
「……へえ、この者の親は篠崎玄徹と申す医者でござんした。子どもの申し上げましたことは、これ、一つ残らず、間違い御座いません。」
といった答えで御座ったが、
「いや……それにしても……この、もの謂い……坊主! うぬが本心から出たものとも、これ、思われぬ。……実はそなたのお祖母ばば殿や、その外の親族なんどが、言い含めて勧めたことであろう? どうじゃ?」
執拗しつこく問い糺いてみて御座ったれど……どうも、そういうことにても、これ、御座らぬ様子なれば、
「では……」

『さらに試してみると致そう。』
と存じ、
「……江戸へ召し連れて参るには――坊主に致さずんば――これ、叶え難いが……それでも、よいか?……」
と、その少年に申し聞かせたところが、「坊主」と聞いて、少し躊躇致いたゆえ、拙者、内心ほくそ笑んで、
『やはり、な。』
と思うて御座ったのじゃが、
「……坊主……とは……出家して僧侶となる……ということにて御座いまするか?」
と訊き返したゆえ、
「いやいや、そうではない。近頃の医者は法体ほったいと相場が決まっておる。」
と答えたところ。
「法体とは?」
と即座に訊き返すゆえ、
「法体とは、頭を丸めることじゃ。」
と答えたところ――少年は、ぱっと笑顔になって御座ったゆえ、よく訊き質いてみたところ、子供心にも、
「先ほど、お侍さまの仰せられた『坊主』、これ、坊主になるとは、かの袈裟などの衣帯をちゃくして出家となること、すなわち、家名を捨てて、出家遁世致さずんばならずということ、と存じたによって、少し躊躇致いて御座いました!」
と――あたかも拙者の心内こころうちの、ほくそ笑みを覗かれた如――いなていを示した理由まで、はっきりと申して御座った。
 そうして、その笑顔のままに、
「――袈裟衣を用いざる『坊主』なれば――全く以って否むものにては御座いませぬ!」
と言うが早いか、近くの百姓屋に飛び込んだかと思うと、借りて参ったらしい剃刀を以って、拙者の前にて、
――すっつすっつ
と即座に髪を剃ってしもうたので御座る。……
……されば拙者、もう、何も申さず、伴の者に命じて連れ添わせ、江戸表へ召し連れ帰って、医学館督事の多紀安長殿に頼んで、医学館の学生がくしょうにして貰うたので御座る。
 先日、安長殿に逢いましたが、安長殿も、
「かの少年は、これ、よほど賢き性質たちにて、随分、頑張って御座います。」
と申して御座った。……

 以上、飛騨守殿の直談にて御座る。



 狐義死の事

 享和三年の春なりし、四ッ谷邊の由、鼠夥敷おびただしく出て渡世の品を喰損くひそんさしけるを、其あるじいとひて、石見銀山の砒藥ひやくを調ひて食に交へ置しに、鼠四五疋其邊にたふれしを、よき事せしと塵塚へ取捨しに、翌日朝、狐の子右鼠をくらひけるや、其邊に是又斃ける由。しかるに或日かのものゝ妻外へ至り、肌に負ける子、いつの間にやいづちへ行けんかいくれ見へず。妻は歎き悲しみけるを、其夫おほいに憤り、さだめて狐の仕業なるべし、いかに畜類なれば迚、狐をとるべきとて藥に當りし鼠をすてしにあらず、子狐食を貪りて死せしに、我に仇して最愛の子をとりし事の無道なりと、其邊の稻荷社へ至りて、理を解委ときくはしく憤りけるが、翌朝彼者の庭先へ、過し頃の子狐の死骸、我子のなきがらとも捨置すておき、井戸の内に雌雄の狐入水してありしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:享和三年西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな出来事で連関。但し、こちらは都市伝説の類い。
・「渡世の品を喰損さしける」この屋の主人は、次の「食に交へ置し」というところからも何らかの食料品を商う町人であったものと思われる。
・「石見銀山の砒藥」『石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石(自然砒素、硫砒鉄鉱など)と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物を大量に含んでおり、これを焼成した上で細かく砕いたものは亜ヒ酸を主成分とし、殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた』(以上はウィキの「石見銀山」より引用)。笹ヶ谷鉱山『は、戦国時代から銀を産出していた石見銀山(同県大田市大森町)と共に戦略上から幕府直轄領(いわゆる天領)とされ、大森奉行所(のち代官所に格下げ)の支配下とされたので無関係ではないが、砒素の産地が何処であるか(正しくは前者)については混乱も見られる。元禄期には銀山の産出が減る一方で、その後も笹ヶ谷からの殺鼠剤販売が続き名前が一人歩きするようになった為、と考えられている』。『砒素化合物は一般に猛毒であり、毒物及び劇物取締法により厳しく取り締まられ、幼児・愛玩動物・家畜などが誤食すると危険なため現在では殺鼠剤としては使われていない。また笹ヶ谷鉱山は既に廃鉱とな』った(以上はウィキの「石見銀山ねずみ捕り」より引用)。さらに岩波版長谷川氏注には、『馬喰町三丁目吉田屋小吉製のものを売り歩いた』とある。古川柳にも「馬喰町いたづらものの元祖なり」とあり(個人HP「モルセラの独り言」より)、合巻「夜嵐於絹花仇夢よあらしおきぬはなのあだゆめ」(明治一一(一八七八)年)の孟斎芳虎もうさいよしとら(別名永島辰五郎。江戸時代末期の浮世絵師)などの絵によると、『「石見銀山鼠取受合」の字を青地に白く染め出した、木綿巾で縦五尺ほどののぼりを担いで』、『皿に盛られた薬入りの食物を食べている鼠を画模様に染めだした半纏を着て、鼠取薬の入った小箱を脇にかけ』、『大体貧乏そうな扮装で』、『いたずらものはいないかな、いないかな、いないかな」の大きな呼び声でやって来』た、と言う(以上は、中公文庫版一九九五年刊三谷一馬「江戸商売図絵」の「鼠取薬売り」の項より引用)。なお、吉田屋小吉なる人物は幕末に大量の唄本(流行歌)を発行した版元としても知られる。「改訂増補近世書林板元総覧』(一九九八年刊日本書誌学大系七十六所収)には次のようにある。
◎吉田屋小吉 吉田氏 江戸馬喰町三町目☆三四郎店
 商売往来千秋楽 文政二合
 一枚摺番付・関東市町定日案内
  尾張の源内くどき(上下八枚物)明治十七
  *瓦版多し。嘉永五年閏二月の月行事(地本草紙問屋名前帳)。
  *石見銀山鼠取り薬で有名。守貞漫稿に看板あり。
   満類吉、丸喜知とも書き、商標が丸に吉ノ字。
   同じ町に和泉屋栄吉がいて、小吉との合板多し。
   明治に栄吉は吉田氏を称している。
とある(以上は、板垣俊一氏の「幕末江戸の唄本屋―吉田屋小吉が発行した唄本について―」(『県立新潟女子短期大学研究紀要(38)』二〇〇一年三月発行)より孫引き。但し、(アラビア数字を漢数字に代えた)。
・「塵塚」ごみ捨て場。
・「かいくれ見えず」「かいくる」は「掻い繰る」(「かきくる」の音変化。「かいぐる」とも)で、両手を交互に動かして、手元に引き寄せる、手繰り寄せる、の謂いだが、意味が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『かつて見えず』とあり、これなら自然である。こちらを訳では用いた。

■やぶちゃん現代語訳

 狐が義を以って死んだ事

 享和三年の春のこと、四谷辺での出来事の由。
 鼠が夥しく出でて、売り物の食品を食い荒らされて御座ったゆえ、その家の主人、これ、甚だ厭うて、猛毒の石見銀山の砒素薬ひそぐすりを買い求め、食い物に混ぜて置いておいたところ、翌日には鼠が四、五匹、その辺りに倒れ、頓死して御座ったによって、
「しめしめ! 上手くいったわ!」
と、その鼠のむくろを何とものう、塵塚ちりづかへそのまま取り捨てておいた。
 すると、また、その翌朝のこと、子狐が――かの毒に当たった鼠の死骸を食うたものか――その辺りに頓死して御座ったと申す。
 しかるに――それから数日を経、かの主人の妻、外出した折り、背負うて御座ったこおの姿が――これ、不思議なことに――何時いつの間にやら――何処いずくへ行ったものやら――皆目分からぬうちに――全く、姿が見ずなって御座ったと申す。
 妻は嘆き悲しみ、それを知った主人も大いに憤って、
「……これは、もう、狐の仕業に相違ない! 如何に畜生とは申せ……我は、狐を駆除らんとて、毒に当たって死んだ鼠を、塵塚に捨て置いたのでは、これ、ない!……子狐が、不注意にも、ひもじさのあまり、貪り食うて死んだに!……我を逆恨み致いて、最愛の我が子をかどわかしたこと! これ、非道の極みじゃ!……」
と、近くの稲荷のやしろへと赴き、稲荷神に向かって道理を説いて、ひどく憤って御座ったと申す。
……すると――また、その翌朝のこと――かの町人の家の庭先へ――かの以前、塵塚に死んでおった子狐のむくろと――町人のこお亡骸なきがらとが――並べて捨て置かれてあり……
……さらに――庭内の井戸の内には――雌雄の狐が……
……これ、入水して死んでおった、とのことで御座る。



 物の師其心底格別なる事

 享保の末、元文寛保の頃なりし。鑓劍さうけんの師範せし吉田彌五右衞門龍翁齋といへるありしが、弟子もあまたありて師範も手廣くなしけるが、又其頃、是も素鑓すやりの師範せし浪人山本雪窓と云ふもの、同じく牛込にありて、年も七十餘にて門弟も少々はありしが、いたつて貧窮にて渡世なしけるを、彌五右衞門弟子石岡千八といへる剛氣もの、雪窓方へ至り、龍翁齋の門弟にて印可も申請候得まうしうけさふらえども、他流の立會も不致間いたさざるあいだ、兼て承り及び候間、立合呉くれ候樣いたしたしと申ければ、雪窓も打笑ひて、兼て彌五右衞門は師範も廣くいたされ、流儀の樣子も粗承及ほぼうけたまはりおよび候處、面白き事にて上手の由承りをよび候、我等は老年に及び殊に藝も未熟故、なかなかおのおのと立合候やうなる事には無之これなく未鍊比興みれんひきやうにも可被存候得ぞんぜられべく候得ども、浪人のすぎわい外に無之これなき故、執心の人には師範いたしすぎわひにいたし候間、仕合等の儀御免のやういたしたき旨、和らかに述ければ、千八もせん方なく立歸り、彌五右衞門稽古場へいで、雪窓はさてさて役にたゝざる師匠にて、かくかくの事なりとあざけり語りけるを、彌五右衞門ききおほいに憤り、武藝は其身の爲に修行なして、なんぞ他の批判勝劣を爭ふべきや、其方そのはうは雪窓にかち候心得にあるべけれど左にあらず、雪窓に慰さまれたるなり、是より雪窓方へ參り、先刻の不調法後悔いたし候由を申、幾重にも侘いたし可然しかるべし、其儀難成なりがたく候はゞ以來破門のおもむき急度きつと申ける故、千八も實に後悔の樣子なれど、なほすまざるや、三男なりける鑓次郎差添さしそへて雪窓方へ千八を遣はし佗させけるに、かゝる勇剛の心あれば、さこそ藝も被勵候畢はげまれさふらはん、能き御弟子なり、いさゝか雪窓心にかけざると、よくよく彌五右衞門へも達したまひ候樣申けると也。雪窓は一生浪人にておわりけるが、せがれは當時大家へ被抱かかへられ鑓術さうじゆつの師範致しけると、彌五右衞門三男鑓之助、當時吉田一帆齋とて鑓術の師をなしけるが、右一帆齋かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関;感じさせない。本格武辺物。
・「享保の末、元文寛保の頃」享保は二十一(一七三六)年に元文に改元しているから、享保十八(一七三三)年頃から延享元・寛保四(一七四四)年までの間となる。
・「吉田彌五右衞門龍翁齋」作家隆慶一郎氏の公式サイト「隆慶一郎わーるど」の資料にある、清水礫洲れきしゅう(寛政一一(一七九九)年~安政六(一八五九)年):儒者であるが、槍術剣術などの武術に優れ、沼田逸平次について伊勢流武家故実を修めた。天保一二 (一八四一) 年より伊勢長島藩藩儒として仕えた。)の「ありやなしや」に、礫洲が指南を受けた槍術として、酒井要人なる人物を掲げ(引用はリンク先のものを恣意的に正字化した)、
酒井要人(此頃は牛が淵櫻井藏之介地面に住す。顯祖。名正徳。字俊藏。號赤城山人。又淡菴。上毛人。謙山先生第二子。嘉永三年五月歿。齡八十三。葬小石川小日向日輪寺。配安平氏生四男一女。長即先人。次曰正則。次曰正順。出冐大橋氏。李曰正春。本編跋文其所撰也。女適村田氏。文久中。幕府建武場。養子要人。與淸水正熾等同徴。爲槍術教授)これはもと濱松水野家(遠江濱松水野越前守)の浪人吉田彌五右衞門といへるの高弟にて、小野派一刀流劍術、高田派寶藏院流槍術を指南す。御旗本に數百人の門弟あり。先人の門人なれば、余も若年には二術ともにその人に學べり。後に小川町今川小路に轉宅せり。今の要人は養子なり。
とあり、この「吉田彌五右衞門龍翁齋」なる人物が浜松水野家の浪人であったこと、高田派宝蔵院流槍術の師範であったこと、その高弟が「御旗本に數百人の門弟あり」とあるのだから、その師が相当な遣い手であったことが偲ばれる。
・「未鍊比興」未練卑怯に同じい。「卑怯」は元来は「比興」と書くのが正しいともされる。
・「三男なりける鑓次郎」「彌五右衞門三男鑓之助」底本では、それぞれの通称部分の右に『(ママ)』表記あり。武士の名はしばしば改名されたし、必ずしも次男が次郎という訳でもないので、そのまま用いた。なお、この「吉田一帆齋」なる人物については、「広島県史 近世2」に、
一帆斎流
 天明~寛政期に吉田一帆斎という浪人が広島城下で剣・槍・長刀を教え、時の藩主、浅野重晟もその業前を見たという。
とある(個人ブログ「無双神伝英信流 渋川一流…道標」の「広島の剣術流派 3」から孫引き)。浅野重晟しげあきら(寛保三(一七四三)年~文化一〇(一八一四)年)は安芸広島藩第七代藩主。事蹟的にも時間的にも齟齬はない。この自ら新流を起こした人物と同一人であろう。

■やぶちゃん現代語訳

 如何なるものにてもその師なる御仁のその心底は格別である事

 享保の末、元文・寛保の頃のことと申す。
 鑓剣そうけんの師範たる吉田弥五右衛門龍翁斎と申す御仁が御座った。弟子もあまたあって、師範として指導も手広く勤めて御座った。
 またその頃、これも素鑓すやりの師範を致いておった浪人山本雪窓と申す御仁が、同じく牛込にあった。雪窓殿は、これもう、よわい、七十余りにて、門弟も少しはあったものの、こちらは、至って貧窮にて、渡世して御座ったと申す。
 さて、ここに、弥五右衛門殿の弟子石岡千八と申す剛毅の者が御座ったが、或る日、雪窓方へ至り、
「――龍翁斎の門弟にて印可も申し請けておりまする者なれど、他流との立ち合い、これ、かつて致さざるゆえ、兼ねてより、雪窓殿が御名声、承り及んで御座るによって、お立ち合い下さるよう、お願いに参上致いた!」
と申したところ、雪窓、うちわろうて言うことに、
「……兼ねて弥五右衛門殿は師範も手広く致され、その高田派宝蔵院流槍術流儀も、ほぼ承り及んで御座る。……それはもう、心惹かるるほどの上手の由、承って御座る。……我らは、これ、老年に及び、しかも、ことに鑓の芸なんども未熟なればこそ……なかなか、他流の御方々とも立ち合い致すようなる分際にてはこれなく……未練にして卑怯なる者ともお思いにならるるものかとは存ずるが……我らの素鑓の指南は、これ、貧乏浪人の生業なりわい以外のなにものにても御座なく、鑓術好きで、たってと言わるる御仁に形ばかりの師範を致すという程度の……まあ、食い扶持を得んがための生業として、ぼんくら鑓を振り回しておるやからに過ぎざる者なれば……試合の儀は、これ、何卒、ひらに御免下さるよう、お願い申し上ぐる……」
といったことを、実になごやかに述べて辞したによって、千八も、詮方なく、立ち歸って御座ったと申す。
 さて、千八儀、そのまま弥五右衛門方の稽古場へ出でて、
「――かの噂に聴いた雪窓なる御仁、これ、さてさて、役にたたぬ老い耄れお師匠っしょうさまにて、他流試合を申し込んだら、かくかくのていたらくじゃったわ! ハハハ!」
と同門の仲間に嘲り語って御座ったを、弥五右衞門が耳にし、大いに憤り、
「――武芸はその身のために修行をなすものじゃ! これ、他流他者を批判致し、その技の勝劣を爭うことが目指すにては、これ、ない!――その方は、今、雪窓に勝った――と心得ておるようなれど――さにあらず! その方は、雪窓に、その根本の誤りを、これ、ていよく、なだめられたに過ぎぬ!――さても! これより雪窓方へ参り、『先刻の不調法後悔致し候』由を申し、幾重にも詫び致いて然るべし!――もし――その儀なり難しと申さば――以後、破門の儀、急度きっと申しつくるものなり!!」
と、激しく叱咤された。
 この師匠の言葉に突かれて、千八も心より後悔致いた様子にて、即座に雪窓方へと参らんとしたが、弥五右衞門はなお、それでも気が済まざるものが御座ったものか、自身の懐刀三男鑓次郎を千八にさし添えさせ、同道の上、雪窓方へ千八を遣わし。詫びを入れさせたと申す。
 しかし、迎えた雪窓は、
「……かかる勇猛剛毅なる心を持っておらるるとならば、さぞ、鑓の芸も大いに励んで、相応の技を体得なさっておらるることと拝察致いた。まっこと、貴殿はよき御弟子にて御座る。……聊かも、雪窓、気にはして御座らぬ由、よくよく、彌五右衛門殿へもお達し給はるるように。……」
と申されたとのことで御座った。
 この雪窓殿は、遂に生涯、浪人にて終わられたが、そのせがれと申すは、当時の大家へ抱えられ、鑓術の師範役となった。
――弥五右衛門三男鑓之助、号して当時、吉田一帆齋――
比類なき鑓術の師範にて御座った。
 以上は、その一帆斎殿御自身が語られた話で御座る。



 妖は實に勝ざる事

 ある僧、祈禱・まじないなんどをなして、藝州の家中へも立入りけるが、信仰の者も多く、人々の手を出させ惡血あくちをとり候由にて、小刀をこぶしの上へ釣りてもち、勿論拳へ小刀はつかざれど、手の甲より血ながれ出る事奇妙なりと、いづれも不思議がりしを、物頭ものがしらつとめける、名は聞落ききおとせし由、大に憤り、妖僧の爲に武家の身としてたぶらかされ、其身より血の出るを不思議なりと稱する事歎しき事にて、藝州一家中に、右體の妖僧を屈伏させざる事、外聞ともに不宜よろしからず、我も右僧に對面せんとて面會いたし、我等も惡血有べき間、とりてたまはり候へかしと手を出しけるに、かの僧いへるは、御身に惡血なし、とるに及ばざる由を答へければ、彼物頭申けるは、惡血あるなしは如何してわかり候や、惡血在者あるもの、血をとりて見せ給へとせめけるに、彼僧甚だこまりて、今日は不快の由斷りければ、彼物頭氣色を替、不快にたくしことわりなれども、我等ものぞみかゝりし事なれば是非見申度まうしたく、其業難成わざなりがたき上は全く人を欺く賣僧まいすの所業なりと、きつて捨てべき勢ひゆゑ、彼僧大いに恐れ、あやまり入る旨申ければ、然る上は當家江戸在所共、急度立入申間敷きつとたちいりまうすまじく、武士の手へやいばあてず血を取る抔と妖法をなす段、不屆の至りなりと大きにはぢしめければ、彼僧も(一トちゞみに成り)鼠の如くにげ歸りしとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:妖しげな僧のマジックを気骨ある武士が喝破する変形ではあるが、武辺譚連関。しかし、この話、既出の「耳嚢 巻之二」「妖術勇気に不勝事」にコンセプトが完全に酷似している。しかし、これだけ似ていると、これを記しながら、根岸がその酷似に気づかなかったことは考え難く、やはり、「妖術勇気に不勝事」で注したように、根岸は都市伝説として再三蘇えってくるものをも、煩を厭わず(というより、プラグマティックに言えば、百話、ひいては既にターゲットとして意識し始めていたであろう千話の数を稼ぐためと言ってもよいであろう)洩れなく記そうとしたものとも思われる。しかし、こういう話柄が複数存在するということは、こうした下らないマジックを以って取り入った連中が実際に多くいたこと、それ以上に騙される連中たちが多かった事実を示すものでもあろう。因みに、この血は勿論、被験者の血ではなく、僧によって用意された血糊であると思われる(疵が少しでも残れば、これはいっかな腰抜け侍でも気色ばむ)。甲を凝視させていれば、上から(例えば袖に隠し持った)血糊を降り掛けても、恰も甲から噴き出したように錯覚する。いや、もしかすると、何らかの薬物二薬の化学反応を用いているのかも知れない。事前に透明な甲薬を秘かに手の甲の上に塗っておき、呪いの途中で透明な乙薬を秘かに降り掛けて発色させているのかも知れない。物頭は恐らく自分の目の位置まで拳を挙げ、僧の裾の内や、僧が手の甲に触れようとする瞬間を凝っと観察していたものと思われ、僧のトリックがどうやっても見破られる見方であったのであろう。そういうシチュエーションで訳してみた。
・「物頭」武頭ぶがしらとも。弓組・鉄砲組などを統率する長。
・「惡血在者あるもの」実は底本では、ここは『惡血在者あらば』(「あらば」は底本のルビ)となっている。しかし、これでは如何にも文意が通り難い。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に『悪血あるもの血を取て見せ給へ』とあるのを参考に読みを変えた。
・「(一トちゞみに成り)」底本には『(尊經閣本)』によって補正した旨の傍注がある。

■やぶちゃん現代語訳

 妖術は誠心に勝てぬという事

 ある僧、祈禱・まじないなどをなして、安芸国の御家中へも大手を振って立ち入って御座ったが、この妖しげな僧を信仰する者も、これ多く、何でも、人々に手を出ださせ、
「t……我ら――悪血あくちをとり申そうず。――」
との由にて、小刀さすがこぶしの上へ釣り下げて持ち――勿論、一切、拳へ小刀の刃先も刃も接することは、これ、無きにも拘わらず――見る見るうちに、
……じんわりと
……手の甲より
……一筋の血が流れ出でて参る――
「……いや! まっこと、奇妙なことじゃ!……」
と、誰もが不思議がっておったを、たまたま物頭ものがしらを勤めて御座った――姓名は聞きそびれたとの由――大いに憤り、
「――妖僧がために、武家の身でありながら、たぶらかされたばかりか――その御主君がための、一箇の大事なる肉身にくみより――あろうことか、血の吹き出ずるを、これ、不思議なり、なんどと称すること、これ、甚だ歎かわしきことじゃ! 安芸国一家中にあって、右ていの妖僧を屈伏させずにおると申すは――これ、武士の一分に於いても――また御当家の外聞に於いても、宜しからず!――我らも、その僧とやらに対面たいめせん!」
と、即刻、呼びつけて面会致いた。
 しかして、
「――我らも悪血あるによって、お取り願おうではないか。」
と、
――グッ!
と、握った手を僧の眼前へ、
――ヌッツ!
と、己れの目の高さに突き出だいて、
――キッ!
と、眼を据えて、僧の挙措動作を凝っと睨んで御座った。
 すると、かの僧の言うことに、
「……い、いや……御身には、これ……悪血は御座らぬ……取るには、及びませぬて……」
と答えたによって、かの物頭、畳み掛けて、
「――悪血の有る無しは、これ、如何して分かって御座るものか!――我らにない、となれば――では――悪血有る者を、ここに呼ぶによって、その悪血を、取って見せ給え!」
と責めたてたところ、かの僧、甚だ困惑致し、
「……いや、そのぅ、今日は……拙僧、聊か気分が、すぐれざれば……」
とか何とか申し、断って御座ったゆえ、かの物頭、痛く気色ばんで、
「不快を口実の断りなれども、我らも、たっての望み――相応の覚悟を掛けてのことなればこそ――是非とも見申したく存ずる!……もしも……そのわざ、成しがたしと申す上は――これ、全く以って、人を欺く売僧まいすの所業じゃッ!!」
と、太刀の柄に手を添え、今にも斬って捨てんとの勢いで御座ったゆえ、かの僧、大いに恐れ、
「……お、お許し下されぃ!……へっ! どうか、ご勘弁のほど!……」
と這い廻る如、ひらに謝ったによって、物頭曰く、
「――然る上は、向後、当家江戸・在所ともに、急度きっと、立ち入らざること!――そもそも、武士が手へ、やいばを当てずに血を取るなんどと申す、いかがわしき法をなす段! これ、不届き至極! 淫猥なる僧形の悪人めが! とっとと、国境くにざかいを越えて消え失せるがよい! 二度とその腐った面を!――見せるでない!!」
と大いに辱め、罵倒致いたによって、蟇蛙の如、這い蹲って御座ったかの僧は、
――ギュウッ
さらにひと縮み致いて、今度は鼠の如、逃げるように退出致いた、とのことで御座る。



 いぼをとる呪の事

 雷の鳴る時、みごはうきにて、いぼの上を二三遍はき候得さふらえば、奇妙にいぼとれ候由。ためし見しに違はざるよし、人のかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。定番の民間伝承のまじない療法シリーズ。雷の鳴る時という、限定性が面白い。恐らく、雷神と稲霊いなだまの霊力がみご箒のアース線を通じてそこに集中するのであろう。
・「みご箒」「みご」とは「稭」「稈心」などと表記し、「わらみご」、稲穂の芯のこと。藁の外側の葉や葉鞘をむき去った上部の茎。藁しべのことを言う。それを集めて作った箒のこと。

■やぶちゃん現代語訳

 疣を取る呪いの事

 雷の鳴る時に、稈心みごほうきを用いて、いぼの上を二、三遍、掃いて御座れば、奇妙に、疣は取れて御座る由。試して見たところが、間違いないと、人が語って御座った。



   又

 黑胡麻を、いぼの數程かぞへて、土中へ深く埋めおき、右ごまくされ候得ば、いぼも失せ候なり。深くうむるは、芽を不出いださず、くさらするためなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:疣取りまじない二連発。典型的類感呪術ながら、必ず腐らせるという解説部分が呪いの圏外にいる冷静な観察者の妙に論理的な視点で面白いではないか。ここはもしかすると、根岸の附言なのかも知れない。
・「黑胡麻」双子葉植物綱ゴマノハグサ目ゴマ科ゴマ Sesamum indicum の種子。黒ゴマ・白ゴマ・金ゴマという区別は種皮の色の違いであり、それぞれに改良品種がある(参照したウィキの「ゴマ」によれば、ヨーロッパでは白ゴマしか流通していないとある)。底本鈴木氏注には、『和漢三才図会に、胡麻の花をよくすりこむと、いぼがとれるとある。茄子の液がよいというのは一般的であろう』(底本の刊行は一九七〇年であるが、現在のネット上にもウィルス性イボをナスのヘタで擦過したり、茄子を腐らせた液を塗付することで治癒したとする記載が実際にある)。『中国では塩を塗って牛になめさせると、すす落ちるという説もあるが、和漢とも灸がよくきくといっている。しかし決定的な療法がない故か、まじないや、いぼ神信仰が栄えた』と注されておられる。

■やぶちゃん現代語訳

 疣を取る呪いの事 その二

 黒胡麻を、疣の數だけ数えて、土中へ深く埋め置き、その胡麻が腐って御座ったならば、同時期に疣も失せて御座る。深く埋めるのは、芽を出させずに、確実に腐らせるためである。



 あら釜新鍋の鐡氣を拔事

 鍋にても釜にても、其尻へ左のごとく墨にて十字をひき、其墨の四方とまりへ、西といふ文字を三字づゝ書て用ゆれば、鐡氣出ざる事奇々妙々の由、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:まじないシリーズ連関。疣取りから、新品の釜や鍋の鉄気=金気かなっけ、金属臭を取り除く方法である。底本には上記のような釜の絵が載るのであるが、これ、訳が分からない。なんじゃこりゃ? である。察するに、鍋の尻、此処の部分に、という意味で鍋を描きながら、その後を描き忘れたという感じか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の、如何にも分かり易い当該の呪いの挿絵を現代語訳の後に載せた。但し、本文には「其墨の四方とまりへ」とあるから、本来なら図の上方(北位置)の「墨の」「とまりへ」も「西」「三字」が恐らくは南位置のそれと真逆で描かれていないとおかしい。
・「出ざる」ママ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も同じであるが、ここは「出づる」でなくてはおかしい。

■やぶちゃん現代語訳

 新釜・新鍋の金気を抜く事

 新品の鍋でも釜でも、その尻へ左の如く、墨で十字を引き、その墨の四方の留めの位置へ、西という文字を三字ずつ書いて使用すれば、鉄気かなっけが抜け出ること、これ、信じ難いほどにて、妖しくも奇妙なる事実の由、人が語って御座った。



 病犬に喰れし時呪の事

 病犬やまいぬに喰はれし時、なま大豆を喰ふに、なまぐさき事さらになし。升の角より、右喰れし所へ、たえず水をかくる事なり。なま大豆、なまぐさくおぼゆるをとしてやむる事、奇法の由、人のかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:まじないシリーズ連関。
・「病犬」「病い犬」。噛み癖のある悪しき性質たちの犬、または、狂犬病などの病気にに罹患している犬を言う語である。ここでは狂犬病は含まれないと考えてよい。何故なら、当時も現在も、狂犬病に罹患した犬に嚙まれ、狂犬病に罹患して発症した場合は、治療法はなく、確実に死に至るからである(但し、例えば狂犬病発生地域に行く前に感染前(暴露前)接種=予防接種を行うか、感染動物に噛まれた後(暴露後)、なるべく早く、発症前にワクチンを接種するならば発病を免れる)。即ち、本話では、犬に嚙まれ、狂犬病を除く感染症(重いものでは死亡率五〇%の破傷風から、ブドウ球菌・パスツレラ菌などによる細菌感染症など)に罹患するもの(勿論、単なる咬傷のみも含む)対象となる。
・「升の角より、右喰れし所へ、たえず水をかくる」一見、咬傷部位の洗浄効果があるようには見えるが、どうも升の角というところに、呪術的意味があるようである。丁泰丹氏のブログ「足の裏から宇宙が見える」の「大麦小豆二升五銭」の記事に、清水榮一著「一回限りの人生」(PHP出版一九九五年刊)に、昔、四国の丸亀に一人の老婆がおり、この老婆の呪いが病気に良く効くということで大評判になった。それは、「大麦小豆二升五銭おおむぎしょうずにしょうごせん」と三度唱えて病人の患部を擦ると、如何なる病気もたちまち治るというものであった。しかしある時、その施術に立ち会った一人の僧がその呪いが、「金鋼経」の「応無所住而生其心おうむしょじゅうにしょうごしん」(応に住する所無くして、而も其の心を生ずべし)に基づくものと分かったという記載があった(訓読は私のもの)。大豆に升、万病に効く――何らかの関連がある、かも知れない。

■やぶちゃん現代語訳

  怪しき犬に噛まれた際の呪いの事

 「……怪しき犬に噛まれた際、生の大豆を食べましても、全く生臭く感じなくなりまする。……そこで、たっぷりと水を入れた升の、その角の部分から、その噛まれた傷へ、絶えず水を注ぎかける続けまする。……すると……そのうちに、生大豆を食べると普段のように如何にも生臭く感じるようになりまする。……そうしましたら、水をかけるのを止めて、よう御座る。――それで以って悪うなることは、全く御座らぬ。――これ、奇法にて御座る。――」
と、さる御仁の語って御座った。



 びいどろ茶碗の割を繼奇法の事

 紫蘭の根をすりて、糊となしつぐに、はなれざる事奇妙の由、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:これでまじないシリーズの五連発。これだけ纏まった記載は特異で、表現の統一も図られており、一気に記したものと思われる。
・「びいどろ茶碗」「AGC旭硝子」公式HPの「ガラスの起源と歴史」によれば、本邦では紀元二〇〇年代の『弥生時代の遺跡から、まが玉、くだ玉といった装飾品が多数発見されていて、これらが日本で最古のガラスといわれている。古代から中世にかけては、仏教の隆盛にともなって、仏像や仏具、七宝にガラスが使われ、徐々に普及していった』。天文一八年(一五四九)年、『ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にやってきたが、このとき持ってきたガラスの鏡や遠めがねが、日本で最初の西欧ガラスとされている。鎖国時代はポルトガルやオランダ、イギリスからさまざまなガラス器が渡来し、「ビードロ」「ギヤマン」と呼ばれて人々に大いに珍重され』、一五七〇年代(元亀元・永禄十三年から天正七年頃)『にはガラス製造法も伝えられ、徳利や風鈴、彩色ガラスの灯ろうなどガラス細工づくりも盛んになったらしい。独特のカットをもつガラス器「切子きりこ」も生まれ、なかでも薩摩切子の皿、丼、コップ、茶碗、江戸切子の鉢やくしが人気を集めた』とある。
・「紫蘭の根」単子葉植物綱ラン目ラン科シラン Bletilla striata は日本・台湾・中国原産の地生蘭で、日向の草原などに自生する。地下にある偽球茎は丸くて平らで、前年以前の古い偽球茎が幾つも繋がっている。花期は四月から五月、花は紫紅色。ラン科植物には珍しく、日向の畑土でも栽培可能で乾燥にも過湿にもよく耐え、観賞用として庭に植えられることが多い。ラン科植物の種子は一般的に特別な条件が無いと発芽しないものが多いが、本種の種子はラン科としては異例に発芽し易く、普通に鉢に播くだけで苗を得られる場合がある。無菌播種であれば水に糖類を添加しただけの単純な培養液上でもほぼ一〇〇%近い発芽率を示し、苗の育成も容易。偽球茎は白及びゃくきゅうと呼ばれ、漢方薬として止血や痛み止め、ひび・あかぎれ、慢性胃炎に用いられる(おや?……このまじないって……もしかして、類感呪術?)。しばしば英語圏では「死人の指」と呼ばれると言及される記載が見受けられるが、それは英語の“long purple” のことで、実際には全くの別種である双子葉植物綱バラ亜綱フトモモ目ミソハギ科ミソハギ属エゾミソハギ Lythrum salicaria を指している。この誤りはシェイクスピアの「ハムレット」に登場する台詞を、明治期に翻訳した際の誤訳に基づくものと考えられている(以上はウィキの「シラン」及び「ミソハギ」を参照した)。

■やぶちゃん現代語訳

 びいどろ茶碗の割れを継ぐ奇法の事

 紫蘭しらんの根をって、糊として継ぐと、ぴったりくっ付くこと、これ、絶妙の由、さる御仁の語って御座った。



 長壽壯健奇談の事

 細川越中守留守居をつとめ、九十三にて致仕なしける中川軍兵衞といへるは、明和九年か、其翌年にか死したる由。予が許へ來れる秋山玄瑞、年若きより知人にて、死しける頃は壽算百廿二歳の由。玄瑞懇意の儘、いかにしてかく長壽壯健なるや、養生の道もあらば、教へ給へと問ひしに、何も養生の道ありとも不覺おぼへず、人は大酒大食を禁じ、淫事を除き候得さふらえば、隨分長生なるべしとかたりし故、御身は淫事はいつの頃より禁じ給ふやとたづねければ、六十四五より淫事をとどまりしといひけるに、玄瑞も大きにあきれ、かゝる壯健の生れもありしと、語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:まじないではないが、びいどろ接ぎの奇法から長寿の奇法(読めば、それは万人には通用しない話で、要はバッキンバッキンの精力絶倫な上に、とんだ長大なテロメア爺さんであったというオチであるのだが)で軽く連関しているようには見える(リンク先は生物学用語としてのウィキの「テロメア」)。
・「細川越中守」岩波版の注で長谷川氏は、当時は肥後熊本藩第八代藩主細川斉茲なりしげ(宝暦五(一七五五)年~天保六(一八三五)年)とされておられるが、これは本「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年七月の当時の謂いである。彼が藩主になったのは天明七(一七八七)年であり、後文に「明和九年か、其翌年にか死したる」とあり、明和九年は西暦一七七二年であるから、本話中に於ける当代は、その先代である第七代藩主細川治年はるとし(宝暦八(一七五八)年~天明七(一七八七)年)となる。二人とも官位は越中守であった。
・「留守居」諸藩に於いて藩主不在の際に居城又は江戸藩邸を預かる職を留守居と称したが、ここは江戸藩邸にあって幕府と藩との間の連絡交渉に当たり、他藩の動向を探ることを職掌とした大名留守居であろう。
・「中川軍兵衞」津々堂氏のHP「肥後細川藩拾遺」の「新・肥後細川藩侍帳【な】の部」の「中川吟之助」という家臣の項に、
 中川休翁 名は元藝、郡兵衛と称す。知行高百五十石藩に仕へ留守居役を勤む。
                     明和九年十月二十七日没、年百七。
とある人物と見て間違いない。これだと明和九年は西暦一七七二年であるから、生年は寛文六(一六六六)年となる。
・「秋山玄瑞」既出。根岸の知音で脇坂家に仕え、「脚気辨惑論」などの医書を表わしている江戸の著名な医師秋山宜修かくしゅう(生没年未詳)。

■やぶちゃん現代語訳

 長寿にして壮健なる御仁の奇談の事

 熊本藩細川越中守治年殿の江戸留守居役を勤め、九十三歳にて致仕なされた中川軍兵衛と申す御仁は、明和九年か、その翌年辺りに亡くなられた由。
 私の元へしばしば来たる秋山玄瑞殿は、若き頃よりのこの軍兵衛殿と知人であった由なるが、軍兵衛殿、亡くなられた頃は、これ既に、百七歳で御座った由。
 生前のこと、玄瑞殿、懇意なれば、軍兵衛殿に、
「……如何に致さば、かくも長寿壮健であらせられるるものか? その養生の秘訣など御座らば、是非ともお教へ下され。」
と乞うたところ、軍兵衛殿は、
「……いや、これと申し、何も、養生の秘訣なんどというものが御座ったとも、これ、覚えませぬな。……ただ、そうさ、世間にも申すが如、人は大酒大食おおざけおおぐいを禁じ、淫事を避け候えば、随分と長い生き致すものにて、これ、御座る。……」
と語られたゆえ、玄瑞殿、
「……因みに、御身は、その、淫事は、これ……何時の頃より、自らに禁じなされたものか?」
と訊ねたところが、
「……そうさの……六十四、五よりは、淫事は止め申した。」
と申したによって、玄瑞殿も、これ、大きに呆れ果てて言葉も出ず御座ったとの由。

「……いやはや、かかる、とんだ壮健の生まれも、これ、あったものにて御座いまする。……」
とは、玄瑞殿の直談。――



 魚の眼といえる腫物を取呪の事

 うほの目なほらざるに、なめくじをとりて、魚の目の腫物の上へ乘せおくに、なをる事奇々妙々の由。ためし見しが無相違さうゐなきと、同僚の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前までのまじないシリーズで連関。なお、不思議なことに、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版(中巻)では、長谷川氏の附した巻頭の目録(同版の巻六には目録がないので長谷川氏が新たに起こしたものである)には、確かに「魚の眼といへる腫物をとる呪の事」とちゃんとあるにも拘わらず、本文がない。それについての注記もなく、更に、岩波文庫同下巻末に長谷川氏が附した総目録には、これまた、載らない。
 さて、この療法、眉唾かと思いきや……例えば、こちらのブログ記事では、実際に今、行って効果があると記しておられる!……そのブログ主の細君の行ったという施術内容を見ると……何匹か捕獲してきたナメクジを割り箸で一匹取り出して魚の眼にこすりつける――ナメクジは箸に摘まれてこすり付けられ、透明の粘液を一生懸命出し続ける――暫くそれを続けていると、次第にナメクジは小さくなって死ぬ――こうした行為を二~三匹分(恐らく連続して)行うと、魚の眼は粘液でてかてかに光るようになる――数日経つと硬かった魚の眼は正常な皮膚と同じように柔らかくなってきて――遂には魚の目は無くなっていた――その後、再発したとは細君は言わないので完治したものと思われる――このことに気を良くした細君は魚の眼に悩んでいる人に逢うと必ず、このナメクジ療法を薦めるのだそうだが、一〇〇%嫌がってやる人がいない――『ほんとに良く効くのですが残念なことです』とあるのである。……私も永年、指に出来たそれを抱えているのであるが……しかし……やはり私は躊躇するのである。気持ちが悪いから――では、ない。実は少なくとも、現代のナメクジやカタツムリからは、海外から侵入したと考えられている広東住血線虫などの寄生虫感染のリスクがあるからである。御存じない方のために言っておくと、今の幼稚園や小学校ではカタツムリを直には触らせないのである。これは教師時代の脱線でよく話したことであるが、ウィキの「カタツムリ」から引用しておこう。『種類にもよるがカタツムリやナメクジ、ヤマタニシやキセルガイなどの陸生貝及びタニシ類などの淡水生の巻貝は広東住血線虫などの寄生虫を持っていることがままあり、触れた後にしっかり石鹸や洗剤で手や触れた部分を洗わなければ、直接及び間接的に口・眼・鼻・陰部などの各粘膜及び傷口から感染する恐れがある。また、体内に上記の寄生虫が迷入・感染すると、中枢神経系で生育しようとするために眼球や脳などの主要器官が迷入先である場合が多いので、罹患者は死亡または重い障害が残るに至る可能性が大きい。これら線虫類をはじめ寄生虫の多くは乾燥にも脆弱なので、洗浄後は手や触れた部位の皮膚をしっかりと乾燥させることも確実な罹患予防に繋がる』。……如何かな? 本邦では実際の死亡例はないようであるが、激しい突発性頭痛といった症例の濃厚な真犯人として同定されているケースは既にあるのである。……しかし一方で私は……でんでんむしにも触れない/触らない世界というのも……何だか、殺伐としてる、という気も、これ、しないでは、ないのでは、あるが……。
・「魚の眼といえる腫物を取呪の事」「取呪」は「とるまじなひ」と読む。「いえる」はママ。

■やぶちゃん現代語訳

 魚の眼という腫れ物を取る呪いの事

 執拗しつこい魚の目で治らぬ場合、蛞蝓なめくじを採って、その魚の目の腫れた上へ乗せておくと、治ること、これ、奇々妙々である由。
「試してみ申したが、これ、まっこと、相違御座らぬ。」
とは、同僚の話で御座った。



 奇藥を傳授せし人の事

 そう對馬守家來に仙石主税ちからといへる人、朝鮮の勤番に渡海してかの國に在番せし頃、虎狩ありとききて見ん事を好みしに、或る日虎を狩る由、案内にまかせ高き所に錢炮を携居たづさへゐたりしに、虎狩出かりいだされ勢ひまうはせ來りしに、鐡炮を放す間なく飛びかゝりしを、玉を放ちなほ筒にてうちて虎は殺しけるが、虎のつめ目へ當りしや、兩眼ともに腫れ上りまこと盲目ならんとせしを、朝鮮にても、對州の役人右の始末ゆゑ大に驚ろき、色々醫師を求め療治せしに、或貧醫來りて藥を與へけるに、早速こころよく眼氣がんき元へ服しければ大ひに悦び、厚く禮謝して若干の金銀をあたへて、眼藥がんやくにかゝる奇法ある事、何卒本國へ土産にしたき間、右法傳授を乞ひけるが、かならず外へもらしなと堅く誓ひて傳授せし故、本國へ歸りて、何の眼にても右藥一法を與へしに、快氣する事しんのごとくなり。主税が武術の師に、伊東寸朴とて眞刀しんたう流の術をなしけるが、子共とてもなく、主税はしばしば世話になりし故、一生のたつきにもせよかしと右眼藥の法を傳授せしが、寸朴年おいて武州秩父にて身まかりし由。彼寸朴命終めいしゆうのころ、厚く世話をなして介抱せし佛師ありけるが、此法寸朴にてたえん事を歎き、彼佛師が深切しんせつにめでゝ、かたく他傳を禁じ傳法なしけるが、佛師彼法を受持し、佛師細工のため上總の濱方へ至りし時、大勢眼の藥をあたへしにいへざるはなし。皆々驚き稱しけるが、或漁父眼を損じ年ごろ歎きけるを、彼藥を與へ快氣しける。殊外ことのほか悦びて、何も謝禮なすべきのよすがなしとて、家に傳はる脚氣かつけの奇法を佛師へ禮傳なしけるにぞ、又彼脚氣の藥を拵へ、右やまふの人へ與へけるに、是も又奇々妙々なりければ、さる醫家にて、俗體にては醫者とも見へずとて佐脇朝運と名乘せ、專ら右兩藥にて所々療治なしける由。當時北組の町與力、島左次右衞門方に寄宿して、とし頃五十歳ばかりの由。左次右衞門えいまだ尋ね候事はなけれども、面白きゆくたて故、人の語るまゝを享和三年の春、記し置ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:魚の眼取りの民間療法から、多分に民間薬っぽい朝鮮伝来の眼病薬と上総漁師の脚気薬の伝来譚で連関。序でにひょんなことから門外不出の霊薬二品を伝授された仏師が、遂には頭を丸めて医師となったという綺譚であるが、これは古くは神霊神仏を自在に掘り上げる聖が神妙な療治を成した訳で、当たり前と言えば当たり前ではある。恐らく、朝鮮の虎から上総の浜辺へのロケーションの面白さや、それぞれの伝来経路の過程の妙が話柄の主体であろうが(題名が伝授した人であって、された人ではない点で)、明らかに最後、根岸は仏師が医師になったそれをも面白がっている。仏師のテクノクラート化が進んでしまった江戸期にあっては、このような感覚が一般的であったのかも知れない。
・「宗對馬守」宗氏そうしは対馬府中藩藩主の家系。府中藩は対馬国(現在の長崎県対馬市)全土と肥前国田代(現在の佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(現在の佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名を対馬の地名を取って厳原いづはら藩とも呼んだ。ウィキの「宗氏」によれば惟宗これむね氏の支族であったが、室町中期頃より平知盛を祖とする桓武平氏を名乗るようになったという。十二世紀頃、『対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留氏を滅ぼし、対馬国全土を手中に収める。惟宗氏の在庁官人が武士化するさいに苗字として宗を名乗りだしたことが古文書からうかがえる。元寇の際には、元及び高麗の侵攻から日本の国境を防衛する任に当たり、当主宗助国が討ち死にするが、その後も対馬国内に影響力を保った』。『南北朝時代、宗盛国が少弐氏の守護代として室町幕府から対馬国の支配を承認される。やがて少弐氏が守護を解任されると、鎮西探題成立とともに今川氏が対馬守護となるが、今川氏の解任後、宗澄茂が守護代から守護に昇格した』。『対馬は山地が多く耕地が少ないため、宗氏は朝鮮との貿易による利益に依存していた。室町時代初期は、西国の大名、商人、それに対馬の諸勢力が独自に貿易を行っていた。しかし、宗氏本宗家が朝鮮の倭寇対策などを利用して、次第に独占的地位を固めていった』。『戦国時代は幾度も九州本土進出を図ったが、毛利氏・島津氏・大友氏・龍造寺氏に阻まれて進出は難航した。九州征伐では豊臣秀吉に臣従して本領を安堵された。文禄・慶長の役では、宗義智が小西行長の軍に従って釜山城・漢城・平壌城を攻略するなど、日本軍の先頭に立って朝鮮及び明を相手に戦い活躍した。また戦闘だけでなく行長と共に日本側の外交を担当する役割も担い折衝に当たっている』。『関ヶ原の戦いで西軍に属したが、宗氏が持つ朝鮮との取引を重視され、本領を安堵された。後年、朝鮮との国交回復に尽力した功績が認められ、国主格・十万石格の家格を得、朝鮮と独占的に交易することも認められた。江戸時代は対馬府中藩の藩主とな』った、とある。最終記載の享和三(一八〇三)年以前の有意な時間が経過しており、主人公の仏師は五十歳としても最長三十年まで遡っても、それよりも更に前に最初の話柄は設定されているので、この藩主の特定は不能である。
・「朝鮮の勤番」倭館わかん(中世から近世にかけて李氏朝鮮王朝時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)以前は複数箇所に存在したが、江戸期には釜山にのみ置かれて日本側は対馬府中藩がここで外交通商を行った)に対馬藩から出向した役人。ウィキの「倭館」によれば、この当時の倭館は草梁倭館又は新倭館と呼ばれ、延宝六(一六七八)年に現在の釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一帯に新築された日本人居留区で、総面積は十万坪もあった(同時期の長崎出島は約四千坪であるから、その二十五倍に相当する大きなものであった)。竜頭山を取り込んだ広大な敷地には館主屋・開市大庁(交易場)・裁判庁・浜番所、弁天神社のような神社や東向寺、日本人(対馬人)の住居があった。『倭館に居住することを許された日本人は、対馬藩から派遣された館主以下、代官(貿易担当官)、横目、書記官、通詞などの役職者やその使用人だけでなく、小間物屋、仕立屋、酒屋などの商人もいた。医学及び朝鮮語稽古の留学生も数人滞在していた。当時の朝鮮は伝統中国医学が進んでおり、内科・外科・鍼・灸などを習得するために倭館に来る者が藩医、町医を問わず多かった』。また、享保一二(一七二七)年に雨森芳洲あめのもりほうしゅう(近江国出身の儒者。中国語・朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通商実務に携わり、朝鮮名を雨森東と言った)が対馬府中に朝鮮語学校を設置すると、その優秀者が倭館留学を認められた。住民は常時四〇〇人から五〇〇人程度は滞在していたと推定されている、とある。同記載には、慶長一四(一六〇九)年に『締結された己酉条約によって、朝鮮は対馬藩主らに官職を与え、日本国王使としての特権を認めた。しかし日本使節のソウル上京は一度の例外を除き認められなくなった。また日本人が倭館から外出することも禁じられた』とあるが、本話から見ても、この頃にはそうした禁足は緩んでいたものと思われる。しかし、この本来は外出禁止であるところが、虎狩りに出た事故とあっては、これ、やはり、相当にまずいのであろう。だからこそ、「朝鮮にても、對州の役人右の始末故大に驚ろき、色々醫師を求め療治せしに」なのである。わざわざ「朝鮮にても」としたのは、役人があわよくば、藩に知らせずに現地での内々の処理をしようと慌てふためいた印象がある。
・「服しければ」底本は「服」の右に『(復)』と正字を傍注する。
・「眞刀流」神道流(下総国香取の飯篠家直いいざさいえなお長威斎の創始とされる室町時代に起こった流派で分派が多い。天真正伝神道流)や新当流(近世に常陸鹿島の塚原卜伝が創始した鹿島新当流。卜伝流)の流れを汲む一派か。「寸朴」という名からは新当流の一派であろう。
・「ゆくたて」「行立」で、事のなりゆき。いきさつ、の意。
・「左次右衞門え未尋ね候事はなけれども」当時、根岸は南町奉行であった。直接の支配ではないものの、町奉行組織の部下である。
・「享和三年の春」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、凡そ一年前のホットな記録である。

■やぶちゃん現代語訳

 奇薬を伝授した人の事

 そうの対馬守殿の御家来衆に、仙石主税ちからと申す御仁が御座って、朝鮮倭館勤番に当たって、渡海して、かの朝鮮国に在番致いて御座った折り、虎狩りがあると聴いて、是非とも狩りの実際を見たいものじゃと思い、ある日のこと、また、虎を狩るとのことなれば、案内あないにまかせて同道致し、高き所に鉄砲を携えて潜んで御座った。ところが、虎が狩り出だされて、勢い、猛ったままに、主税殿のあった所へ、これ、まっしぐらに走り込んで参った。有意の距離にて鉄砲を撃ついとまも、これなく、あっという間に、虎は主税殿に飛びかかった。されば主税殿、殆んど虎の腹に筒先を突き刺したが如くにして――ズバン!――と一発放ち、なおも、鉄砲の筒をもって何度も何度も打擲ちょうちゃく致いたれば、何とか虎を殺して御座ったが、虎の両の手の爪が主税殿の両眼を抉らんとしたものか、両眼ともに腫れ上がり、まっこと、全盲になろうかという由々しきことと相い成って御座ったと申す。
 現地の対馬の役人どもも、この由々しき事態の出来しゅったいに、これ、大いに驚き慌てふためき、いろいろと現地の医師なんどを探し求めては療治させたが、これ、一向に効き目がない。――在番の家士が禁足の倭館の外へ出で、しかも、虎に襲われて鉄砲を発砲なし、しかも、両眼を失明するとなっては、これ、藩にも累が及ぶこととも成りかねぬと、これ皆々、途方に暮れて御座ったと申す。
 そんな折り、とある、みすぼらしい朝鮮人の医師が、この噂を聴いて倭館へと訪ねて参り、自ずと調合した薬を主税殿の眼に用いたところ、即座に軽快致し、素人が見ても、眼の充血や曇りも失せて、元通りに復して御座ったゆえ、本人はもとより、倭館の者一同、大いに悦んだと申す。
 さても、主税殿、この医者に厚く礼謝をなして、若干の金銀をも与えた上、徐ろに、
「……眼薬がんやくに、このような奇法のある事、これ、本邦にては聴いたことが御座いませぬ。……何卒、本国帰参の土産と致したく存じますればこそ……どうか、この調法、これ、御伝授下さらぬか?」
と切に乞うたところが、
「――必ず――他へ洩らしてはなりませぬぞ。――」
とのことなれば、堅く誓って伝授を受けたと申す。
 さて、主税殿、対馬へと帰って後、誰彼たれかれとなく、また、如何なる眼の病いにても、この伝授された薬一包を与えたところが、たれにても、何にても、これ快気致すこと、不可思議なる神霊の力の如くで御座ったと申す。
 さても、主税殿の武術の師に、伊東寸朴すんぼくと申し、真刀しんとう流の剣術の師範が御座ったが、師には老いて後に養い呉るる子供とてもなく、また、主税殿も、何かとこれ、寸朴殿に、しばしば世話になって御座ったゆえ、
「……お師匠さま。……憚りながら、向後の生計たつきの一助となさって下され。」
と、かの眼薬の調剤法を伝授致いたと申す。
……そうして、また、時が経って、その後のことじゃ。
 この寸朴、流浪致いて、年老い、武蔵国は秩父にて身罷たと申す。
 ところが、かの寸朴、命終の砌り、厚く世話をなして介抱し呉れた懇意の仏師が御座ったが、
「……この神妙の眼薬の秘法……この身一代にて絶ゆること……まっこと、惜しきことじゃ……」
と歎き呟いたを、その仏師も心より、
「……ほんに、その通りで御座りますのぅ。……」
と、請けごうて御座ったゆえ、
「――固く、他伝は、これ、ならぬぞ。――」
と、仏師へ伝法をなしたと申す。
 かくして、この仏師、かの奇妙の眼薬の調合法を受持致いて後、仏像細工の請いを受け、上総国の海岸地方へ参った折り、漁師町なれば陽の照り返しに、大勢の眼病を訴うる者が御座ったれば、かの眼の薬を施して御座った。すると――これ、治らぬ者は一人としておらぬ。されば、皆々驚き、褒め称えざる者は、これ一人として御座らなんだと申す。
 しかして、ここに、ある漁夫、甚だ眼を悪う致いて、漁にも支障を来たすほどになっておったれば、永年歎いて御座った。そこで仏師が、かの薬を与えたところが、瞬時に快気致いたと申す。
 漁夫はこれを殊の外、悦び、
「……何にも、謝礼致しますに相応しきもの……これ、御座いませぬが……」
と申しつつ、かの漁夫の家に代々伝わると申す脚気かっけ快癒の奇法を、この、仏師への礼として伝授致いたと申す。
 さてもまた、この仏師、その脚気の薬を拵えては、また、脚気を病んでおる人へ施して御座った。すると――これもまた、奇々妙々に脚気を全快させたと申す。
 さればこそ、その神妙の眼薬と、神妙の脚気の薬の噂を聴きつけた、さる本物の医師と懇意となり、
「……そのような仏師の俗体にては、これ、医者には見えねば……一つ、法体ほったい致すがよろしかろうぞ。……さればこそ、医師らしい号も必要じゃ、の。……うん――佐脇朝運さわきちょううん――と申すは、これ、どうじゃ?」
ということと相い成って、
――佐脇朝運
として、専ら、かの二つの薬を以って所々しょしょにて療治をなしておると申す。
 当時の北町奉行所支配の町与力で御座った島左次右衞門方に寄宿しており、見た感じは五十歳ばかりの男と申す。
 左次右衞門は知れる者では御座るが、未だ尋ねみる機会は、これ、御座らねども、何とも、そこに至るまでの経緯いきさつが、如何にも面白う御座ればこそ、以上は、人の語ったままを、享和三年の春に、記し置いたものにて御座る。



 梅田枇杷麥といふ鄙言の事

 八十に及ぶ老翁の語りけるは、しれる老農、梅田枇杷麥うめたびはむぎといふ事をまうしける故、何の事やとたづねければ、梅實能實うめのみよくみのる時は田作たつくりよろしく、豐饒ぶねうなり。枇杷の實よく結べば麥作よく出來るといひしが、數年其言にあてて考ふるに違はざる由、右老翁の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:「鄙言」は「ひげん」で、ここでは世俗の言い伝えであるからまじないの同族で、二つ前の呪いシリーズと連関する。「梅田枇杷麦」は「日本国語大辞典」にもしっかり載る俗諺で(ただ、同辞典の引用例もこの話)、ここに示されたように、梅の実が良く稔る時は米が良く出来、枇杷の実が良く稔る時は麦が良く出来る、という農村の俚諺である。底本の鈴木氏注に、『梅米枇杷麦という所もある。中国でも、梅実少なければ秣亦少なしとか、樹に梅無く、手に杯無しなど、同様のことわざがある』と記しておられる。「秣」は「まぐさ」と読む。
・「豐饒」は「ふねう(ふにょう)」「ほうぜう(ほうじょう)」と読んでもよい。

■やぶちゃん現代語訳

 「梅田枇杷麦」という俚諺の事

 八十になんなんとする老翁が語ったことには、その者の知音ちいんの老農、
梅田枇杷麦うめたびわむぎ――」
ということをしばしば申すゆえ、
「何のことじゃ?」
と訊いたところ、
「――梅の実のよう稔る時は、これ、田の出来が宜しく、豊饒ぶにょう――枇杷の実のよう結ぶ時は、これ、麦がよう出来る――ということじゃ。」
と答えた。

「……ここ数年の様子、その謂いに当てはめて、よう考えて見申したが、これ、その通りにて、間違い御座らんだわ。」
とは、これを語って御座った老翁の語りで御座る。



 守財翁可嘆笑事

 神田邊に、さまで富饒ふねうにもあらざれども、吝しよくなる老人有。子といふ者もなく、おいなるものを養ひしが放蕩にして、若年の常としてかの老父の心に叶はず、勘氣して追出しけるが、幼年より召仕めしつかひし下人、深切になしけるが、或夜盜賊入り、彼老人を捕へ、金錢可差出さしだすべしとて胸に刀をぬきつけせめはたりけれど、金錢は無之これなきよしをこたへれど、彼賊不聞入ききいれずせめけるを、二階にふせりし下人、階子はしごり口より見て、これを救わんとしけれど、主人にあやまちあらんと見合みあはせしが、密かに屋根傳へに下へおりて、銅盤かなたらひを叩きけるゆゑ、あたりよりもかけあつまり、盜賊も驚ろきてにげ去りしが、彼老人大きに喜び、彼下人が働きにより金も無恙つつがなく、財寶も不被奪うばはれず、誠に禮の申べきやうなしと賞しけるが、右下人をせがれにもいたすか、又は別に身上しんしやうにても爲持もたせ候やと人も思ひ、下人も心に思ひしが、何の沙汰もなくしばらく過ぎて、彼下人を呼び一包をあたへ、誠に盜人ぬすびと入りし時、汝がはたらきにて活命かつめいせし段、うれしくも忝しとて、聊のよしにて與へける故、少くも十金廿金も呉候やと思ひしが、つつみをひらき見しに、鳥目貮百文にてありし由。彼下人も、あまりにあきれて、かたじけなき由禮謝して、いとまをとりいづちへか行ぬ。彼老人も無程ほどなく、年積りて病死なしけるに、子供とてもなければ、家藏も所持のもの故、せ話するものありて、彼勘當せし姪立歸り、跡相續なせし由。まこと守財の愚翁とは、かゝるものをやいふらんと、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。敢えて言うなら、使用単語の「豐饒」と「富饒」とで連関する。
・「守財翁可嘆笑事」は「しゆをうたんしやうすべきこと(しゅをうたんしょうすべきこと)」と読む。
・「吝しよく」吝嗇りんしょく
・「姪」本字には兄弟姉妹の娘の意の「めひ(めい)」以外に、兄弟姉妹の男子、「をひ(おい)」=甥の意もあり、後文の内容から見ても、ここは「甥」である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも「おい」とルビする。
・「銅盤かなたらひ」の内、「たら」の部分は底本のルビ。「かな」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に拠った。
・「鳥目貮百文」江戸中期の相場で仮に一両(四分)を現在の貨幣価値で八万円とすると、一分は二万円、一貫文は一分で、一貫文は一〇〇〇文であるから一文は二十円となる。但し、ビタ銭である「鳥目」は価値が下がるので、凡そ四分の一の五円。従って鳥目の二百文は現在の千円ほどの価値しかない。しかも本話柄は江戸後期であるから、一両の価値はさらに下がって五万円程になるから、もっと下がって六二五円にしかならない。これではもう、子どもの小遣銭である。

■やぶちゃん現代語訳

 守銭奴愚昧翁の失笑せざるを得ぬ事

 神田辺に、さして裕福にてもあらねど、吝嗇りんしょくなる老人があった。
 子という者とてもおらず、甥なるものを養ってはおったが、これがまた放蕩者にて、若気の至りの常として、かの老人の心にも叶わず、遂には、その怒りに触れ、その甥なる者は追い出されてしもうた。
 さても老人には、幼年より召し使つこうておった下人、これ、如何にも誠心を以って仕えておる者が、あった。
 ある夜、老人宅に盜賊が押し入り、かの老人をとりひして、
「金――出さんかい!」
と、抜き身の小刀さすがを胸に突きつけて責めたてたが、
「金は――ない!」
執拗しゅうねく否みたれど、かの賊、聞き入れず、さらに痛く責めたてたところを、二階に伏せっておった下人が、この様子を階子はしご段の降り口より偸み見、
『これは一大事! お救いせねば!』
と思うたものの、
『下手に出て、ご主人さまに万一のことがあっては、なるまい!』
と、助太刀は見合わせ、密かに屋根伝いに外へ降りて、庭先にあった金盥かなだらいを、
――ガン! ガン! ガン! ガン! ガガンガ! ガン!
と叩いたによって、近隣の衆も駈けつどって参ったゆえ、盜賊も驚いて、これ、すたこらさっさと、逃げ去ったと申す。
 されば、かの老人、大いに喜び、下人に、
「……そなたの働きにより、金も恙なく、財宝も奪われず、誠に礼の申べきようもない!」
と口を極めて褒め讃えたによって、近隣の衆も、
「……これはもう、あの下男をせがれにでも致すか、または、別に相応の金子を分けて一軒を持たするか……」
と噂致し、また、下男自身も口に出さねど、同様の思いを致いておったれど……
……それ以後、老人より、これ、何の沙汰もなく……
……大分、時も過ぎた忘れた頃になって、老翁、かの下人を呼びつけた。
 老人、徐ろに、
「――いや――誠に盜人ぬすびとが押し入った折りには――汝が働きにて、これ、命拾い致いた段――まっこと! 嬉しくも忝いことであった!」
という、ご大層な言いとともに、
「――これは些少にてはあるが……」
とて、一包を恭しう授けたによって、下人は、
『少くとも、十両や二十両は、これ、包んで下すって御座ろうかのぅ!』
と思いつつ、その場で拝むように包みを開いて見たところが、
――中にあったは……ビタ銭二百文……
「…………」
かの下男も、あまりにことに呆れ果て、
「……忝のう……御座る……さても……我ら……思うところあれば……これにて……お暇ま仕ることと……致しやす……ナガ、ナガと……ありがとう……ご、ぜ、え、や、し、た!」
と、恨みを込めた慇懃無礼で型通りの礼謝を致いたかと思うと、ぷいと出でて、何処いずこともなく、立ち去った、と申す。……
 その老人も程のう、老々にて病死致いたによって、子どもとてもなきに、家産も幾分かは所持致いておったがゆえ、仲にはいって世話する者のあって、かの勘当致いておった甥を立ち帰らせ、跡目相続を致させた由。

「……いや、まっこと――『守銭奴愚昧翁』とは――かかる輩のことを、申すので御座ろう……」
とは、さる御仁の語って御座った話。



 火事用心の事

 寛政丁巳ひのとみ梓行しかうせし畸人傳きじんでんといふは、格別用に足る事もなし、閑田庵かんでんあん主人の作にて、色々奇と思ふ事をかきて、ただ耳目の慰めなれど、又教へになるべき事もひとつふたつあり。それが中に、京都大火の節、藏ども多分やかせ古物財賓を失ひしに、火事の心得を書し所に、すべて火災後、藏へは早く立戻り、あたりの火を片付て水をうち戸前とまへへも水打うちてはやくひらくべし、さなければ、火氣籠りてやくる事あり、かつ柳ごりの大ぶりなるを、其身の上に應じたくはへ連尺れんじやくつけておけば、其内へ入るものをつめて、壹人にてかつぐ程なれば、もち除くに便びんなり、慾に任せ、番袋ばんぶくろ等へ入れてかつぎ出しても、持なやみつかれて、はてはすつるもの多しとかけり。是等は心得にもなるべき事なり。又或るもの、野遊のあそび旅行の用とて、兩懸りやうがけをこしらへ、火口附木ほくちつけぎやうの品、京の事なればまきやうのものも少しいれて貯へしが、彼大火の節、大いに用をなして、家内兩三日はうへざりしといふなどは、面白き故、此所に記す。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。それにしても根岸、かの「続近世畸人伝」を「格別用に足る事もなし、閑田庵主人の作にて、色々奇と思ふ事を書て、唯耳目の慰めなれ」なんどと評するは、これ、本「耳嚢」へこそ鏡にて返し申さうず――と私なら反論するであろう。根岸君、「予のものはただの私的な覚書で、板行などしておらん」とのたもうかも知れんが――いや、やはり、ちょいと思い上がって御座るようにしか見えんわい――
・「寛政丁巳」寛政九(一七九七)年。
・「梓行」板木を彫って書物を板行すること。出版。刊行。昔、中国ではあずさの木材を板木に使ったことに由来する。
・「畸人傳」「近世畸人伝」伝記。正続二編。正編は伴蒿蹊ばんこうけい著・三熊花顚みくまかてん画で、続編は三熊花顚原著・蒿蹊加筆訂正したものである。正編は寛政二(一七九〇)年の、続編は寛政一〇(一七九八)年の板行。正続ともに五巻で、近世初頭から執筆の寛政期に至るまでの故人となった有名無名の畸人約二〇〇人を撰した伝記集。武士・商人・職人・農民・僧侶・神職・文学者・学者から下僕・婢女・遊女・乞食などに及ぶ多彩な人物を所載する。中江藤樹や貝原益軒など有名人は言うに及ばず、この書によって後世に名を残すこととなった人物も多い(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。ここには「寛政丁巳」九年とあるが、後者の続編のことを指している。
・「閑田庵主人」は歌人で作家であった伴蒿蹊(享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)。名は資芳すけよし、別号は閑田蘆。近江八幡の商家の出で、八歳で本家の豪商伴庄右衛門資之の養子となった。十八歳で家督を継いで家業に専念したが、三十六歳で隠居剃髪して著述に専念した。著書に「閑田耕筆」「閑田次筆」。「近世畸人伝』は彼の代表作で十七~十八世紀の江戸期を知るに有益な伝記集である(以上はウィキの「伴蒿蹊」に拠った)。前注に示した通り、正確には「続近世畸人伝」は彼の著作とは言い難く、誤りである。
・「すべて」は底本のルビ。
・「京都大火の節」は天明八(一七八八)年正月晦日の京の大火のこと。以下は「続近世畸人伝」の巻四「雇人要助」に載る。以下、「国際日本文化研究センター」のデータベースから当該部全文を引く(但し、恣意的に正字化し、漢文訓読をしたと思われるカタカナ漢字交じり部分の一部は順列を正して読み易くした)。
   《引用開始》
下京に治良兵衞といへる者、人ト爲リ正直にして、假初にもいつはりをいはず。子一人持たりしが、十三歳の比、隣リの錢をいさゝか取て來ることありければ、勘當せんことを催せども、十五未滿のものは廳にも取上給はぬならひなれば、せんかたなく思ひ煩ふ間ダに、大坂の人來りたりしに、かくと語りければ、さらばわれにえさせよといひて引つれかへりぬ。其あくる年、妻もうせければ、つらつらおもへらく、まづしくてなまじひに小家をもつ故に、時有リて人の物をも借事あり。人の物をかりては一日も心安からずと、家具殘らず賣拂て、わづかの借財をそれぞれにかへし、名をも要介と改て、上京のある寺へやとひ人となりて行しが、かく正直なるものなれば、寺のまかなひとしけり。やうやう年老六十になりしかば、いつまで人につかへて有べき。家をもち手脚をのばしてこゝろよく臥たるこそよからめと、勸る人あるにより、其事をはかる間、ふと思ひよりて、此年までいまだ江戸を見ず、一目見てかへり、其後ともかくもたのみ參らせん、といひて、少しの路費などたくはへもちて旅立。草津の驛まで行キて宿り、朝とく出て、目川といふ里にて、京に大なる火有と噂とりどりなれば、引かへし京に歸りてみれば、一面の紅火世界也。是天明八年申正月晦日の大火也。 おのがありし寺も早跡なく燒うせたれば、いかにともせんすべなく、丸太町の河原に暫彳てありしに、もとより相識人の疊、戸、障子などこゝに運ぶにあひて、其雜具をまもる事をたのまれて居たるに、頓て若き男走り來て、えもいはずきらびやかなる箱の大なるに、眞紅の綱かけて結びたるを携へ、しばしたのみ參らすよしいひて走り去ル。其男何か懷より小サきもの落せしを見し故、行てみれば金也。拾ひ上て夫レをもあづかりける。其日もあけの日もそこにくらして、火もやうやう靜ぬれば、戸、障子の主より人をおこせて運びぬるが、其箱も金もとりにきたらず、誰ともしらねば、さだめて煙にかこまれて死やしけん、とせんかたなく覺えて、先金の包をときて所書もや、とみれどそれはなし。されどすこし心當の名見えしかば、もしやと尋ね行しに、其所の金にてありしかば、さは此箱も其家の物にてあらんといへれど、それはしらぬよしにて、彼金の謝禮に金五兩參らせんと出しけれど、かつてうけず。其代りには此箱のぬししるゝまでは宿かし給へとて、そこに有ながら、人の行來多き所にかたげてありきしに、三日といふに、黑谷門前にてある侍見とがめて、其箱はいづくよりいづくへ持行ぞといふ。さてこそとうれしく、われ河原にて此箱をたのまれて預りしが、其人誰ともしらず。返し所なきにわびて、かく持ありき尋給ふ人をまちし也。内のものをさし給へ、あはゞかへし申さんといふ。中のものはえしらず、まづはわが殿へ來り給へとて伴ひしが、やごとなき御方也。此殿の稱號、又男のありし寺、かの金をかへせし家の名など、憚りて記さず。さて奧より小折紙にて、其品々を書出し給へるが、金銀をのべたる葛屋の香爐、銀の茶碗、一角の獅々の形したる墨臺、大小刀の七所拵の金物二タ通、古鏡三つ、壇道齋が持たる硯など、これかれの品物、凡五十餘品也。誠にたがふ所なしとて返し奉れば、御褒美の品、御衣など迄かづけ給りしかど、固く辭してうけ奉らず。所はいづこの者ぞ、と尋給へば、しかじかのよし申シ、此御箱さへ返し奉れば、明日にも江戸へ罷立候はんよしを申す。さらば某ノ侯のもとへ着ケよとて御消息をたまふ。其御文をもちて下り、其邸に尋よりけるに、かのよしをもこまごまと仰ありしかば、やがて休息所を賜ひぬ。其日、靑侍一人つくづくと要介が顏を見るもの有しが、夜に及びて、ひそかに其休息所に來り、若シ以前は下京におはして治良兵衞殿とは申さゞりしか、といふ。要介、いかにもしかり、いかにしておのれがむかしの名所をしらせ給ふやととふ。其事にて侍ふ、おのれは幼名七之助にて、十三の時浪花へやり給ふ後も、かしこの若者と心を合せ、さまざまあしきことをのみせしかば、かの所にも住佗たる比、堺の邊に東雪といへる僧、此地に下りたまふ供にやとはれて下りけるが、道すがらのやどりやどりにて、さまざまの物語に、身の上をも明し侍りしかば、心を盡して御教訓にあづかり、其後、心を改め、此御家へ參りても十七年に及び、今は不肖ながら侍になり、御おぼえも大かたならず候に付ても、唯明暮二タ親の御事のみ心に掛り、神佛に祈りしが、四年のさき主の御用にて京へのぼり侍し時、下京の住給ひしあたりを尋ねしかども、御ゆくへしられず。殘多キながら、日數限有て罷下りしが、はからずもふたゝびめぐり逢奉ることのうれしさよとて、涙せきあへず、明の日は侯にもかくとしらせ奉りしかば、親子ともめしつかふべきよし仰ありて、父は厨の長になど仰有しを、京にも約クせしことあれば、かへりのぼり度よしを申して、とかくせしほどに疝を病みて醫療殘る所なく、もとよりあたゝかに着、口にかなふ食を喰ひなど、孝養せられて、つひにこゝにて終れり。彼子が立身故に家名もたしかに殘れり。此家名も憚りてこゝにもらしぬ。 爲リ人ト正直淳朴にて、彼箱を返し奉り、其報ひをも辭し申せしにより、はからぬ邸に參り、捨たる子にめぐりあひ、殘る所なく介抱せられて身まかれり。もし京にて病たらば、災後の家もさだかならぬ時にて、親族もなく、いか斗の侘しさならんに、正直の德忽チあらはれたりといふべし。
(追記)
花顚因にいふ、此天明壬申歳の大火、正月晦日朔日、兩日、洛中洛外あまねく燒亡せるは、ためしまれなることなり。これは予雨月庵の記といふものに錄し、又諸家の記錄も多ければこゝにはもらしぬ。閑田子も亦、かぐつちのあらびといふ筆記せしを、何ものかかすめとりて、他の語をもまじへて俗文にうつし、花紅葉都噺とかいへるものを印行せり。其ころ諸家、和漢の文章此災をしるせるもの多し。 されども平日心得置べき火災の備へを記して、人のためにす。
○柳骨折の比よきに、れんじゃくをかけて、笈のごとく仕立るものを用意し置べし。大家には數あるべし。小家にても一つはあるべし。急火といふ時、物をいれて背に負べきため也。或人、蚊帳を袋にして衾夜着の類を入て持しが、門につかへてくるしむうち、火近くなりしかば、捨てにげたり。又車長持といふもの便なるに似たれども、寶永大火の時に辻々にせきあひ、老人女子などそれに隔られあやまちするもの、死たるものも多かりしとぞ。凡大きなる器はかへりて益なく障り多し。
○予がしたしき人、銅にて作りし三つ套の鍋、木碗、磁器、酒器、箸などを片荷とし、味噌、鹽、醤油、米、酒などを又片荷にしたるものを作り、擔厨と名づけて、春秋、山野遊行に携へ興ぜしが、此大火に東山に遁れてあるときゝて行訪ひしが、此たびは此擔厨にて十七人心よく凌たりと話せり。是は不意に用をなせるものなれども、變は計るべからぬものなれば、乏からぬ人はかうようの備へも有たきものなり。
○火にあひては倉より外にたのむものなし。然るに倉に火の入ルは大やう下の石垣燒て、其氣、内の柱につたふ故なり。石垣はひきくし、ぬりごめにするがよしと見ゆ。又倉を閉る時釣瓶車繩などを口に入て閉べし。若開きて火ある時、速に水を汲べきため也。凡ソ火さへ鎭まらば頓に戸を開べし。久しき時は火氣こもりて内より燒出す也。閑田子云、此大火に二三日、四五日をへて倉燒出し所多し。是京師の人、火事にうとければなり。江戸にては居宅燒はつればそのまゝ倉にかゝり、先、戸をすこし開き水をうちこみ、漸々にひらくよし也。江戸は火早き所ゆゑ、人々馴て倉をやくこと稀也。足駄一足持て遁るべし。足駄なれば少しの火をも踏べく、釘のたぐひにあしを損ることもなし。閑田子またついでにいふ。急火に倉の窓の目ぬりする土なくば、塀をくづして其土をもてぬるべし。又倉なき人は雜具の携べからざるものは、地に置て、其上へ塀を覆ひ置て遁べし。大かた燒ず。時にあたりて此働をせし人ありしと、昔相識ル老人かたられし。手近きことも變にあたりては心づかぬもの也。治に居て亂をわすれずといふごとく、つねに心がけあるべきものなり。
   《引用終了》
「草津の驛」は草津宿は東海道五十三次の五十二番目の宿場。現在の滋賀県草津市。「目川の里」は現在の滋賀県栗東市目川。「柳骨折の比よきに」柳行李の程よい大きさのものに、の意。――これを読んだだけでも、「耳嚢」よりは、遙かにプラグマティクで、有益な書でありますぞ、根岸殿!――
・「連尺」「連索」とも書く。物を背負うのに用いる道具。肩に当たる部分を麻繩などで幅広く編んだ荷繩や、それを木の枠に取り付けた背負子しょいこなどを指す。
・「番袋」雑物を入れる大きな袋。武家では武士が宿直とのいの際に衣類などを入れた袋を指す。
・「兩掛」旅行用の行李こうりの一種。挟箱はさみばこや小形の葛籠つづらを棒の両端に掛けて肩に担いだものを言う。
・「火口」火打ち石で発火させた火を移し取るもの。麻などの茎を焼いた炭、また茅花つばななどに焔硝えんしょう(硝酸カリウム)を加えたものが用いられた。火糞ほくそとも言った。
・「附木」火附け木。檜・松・杉などの薄い木片の先に硫黄を塗りつけたもの。火を他へ移したり、火口に移した火をこれに点けて燃え立たせたりする。
・「京の事なれば薪やうのものも少し入て貯へしが」この部分、何故、特異的に「京の事なれば」薪が非常用に必要なのか、意味不明である。識者の御教授を乞うものである。

■やぶちゃん現代語訳

 火事の用心の事

 寛政丁巳ひのとみの年に板行はんぎょうした「近世畸人伝」とか申すものは――格別、実用に足ることも御座ない――何でも、閑田庵かんでんあん主人とか申す者の作にて――まあ、いろいろと奇なり、と思うことを書きて――そうさ、ただ、耳目の慰めと致すような雑文集なれど――されどまた、日常の教えになるようなことも、これ、一つ二つは、御座った。
 そのうちの一つに、天明壬申みずのえさるの京都大火の折り、洛中の蔵なんど、大方焼けて、古物こぶつやら財宝やら、数多あまた、焼失致いたが、その火事の際の心得を書き記した条に、

◎一般に火災後は、土蔵へは速やかに立ち戻り、辺りの火を早急に消火し、燃え残った燃焼性の瓦礫などを撤去、十分に水を打って、土蔵の戸の前へも十二分に水を打ってから、素早く戸を開かねばならない。さもないと、火気が土蔵内に充満して、自然発火を起こすことがあるからである。
◎且つ、軽量である柳行李やなぎごおりの大振りなものを、その所持している財物の実際量に応じて事前に準備しておき、連尺――背負うための荷繩や背負子しょいこの類い――を、やはり事前に、その柳行李に装着しておけば、その行李の内へ入るだけのものを詰めおけば、これは、一人でも担ぐことが可能なので、火事の際に持ち出だすのには、極めて便利である。欲を出して、大型の番袋ばんぶくろなどへ、入るだけ入れてぱんぱんに膨れ上がったそれを担ぎ出そうとしても、持ち悩んで疲れ、果ては諦めて火事場に捨てざるを得なくなる場合が多い。

と書いて御座った。これらの事実は、火災及びその予防の際の心得になりそうな事柄ではある。また、

◎ある者は、遊山・旅行用として専用の両懸けを拵えておき、その中に常時、火口ほくち附木つけぎといった品々や――京のことであるから――まきのようなものも、少し入れて常備しておいたが、かの大火の折りには大いに役に立って、家作を焼かれなどして避難致いた者でも、家内の者どもとともに、火災後三日間ほどの間は野外にて煮炊きなんど致し、餓えずに済んだ。

という部分などは、実に面白い記載であるによって、ここに記しおくものである。



 野州樺崎鶉の事

 野州樺崎郷かばさきがううづらなく事なし。其隣郷そのりんがうを立てる事の由、土老のいへる。いつの頃にや、樺崎何某なにがしといへる人、其地を領し、鶉を好みて數多飼置あまたかひおき、金銀紅糸こうしをちりばめる籠に入れて寵愛せしが、或時かの鶉にむかひて、鳥類にても汝は仕合せなるものなり、かく金銀をちりばめし器に入て心を盡して飼置かひおかば、嬉しかるべき事也と戲れしに、其夜の夢に鶉來りて、いかなればかく心得給ふや、金銀をちりばめし牢を作りて御身を入置いれおかば、心よき事なるべきやといふと見て、夢覺めぬ。樺崎何某感心改節かいせつして、鶉を愛する事を思ひ止り、飼置ける鳥を不殘のこらず籠を出し、再必音をたつる事あるべからず、音をたてば又られんと教化して放しけるが、夫れより此の一郷の鶉は、音をたてざると、かたりし。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。ウィキの「ウズラ」によれば、本邦では室町期には既に籠を用いて鶉を飼育していたとされ、江戸に入ると、武士の間で鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われて慶長期から寛永にかけてをピークに大正時代まで行われた、とある。一方また、聞きなし(鳴き声を日本語に置き換えた表現)が「御吉兆ごきっちょう」と聞こえることから珍重され、古くから鳴き声を楽しむ愛玩鳥として大名や商人達の間で飼われていたらしい(後半はaikoukai2氏の「鶉の鳴き声 – YouTube」から。声も聴ける)。なお、鳴かない鶉というのはいないはずである。♀は鳴かないという記載がネット上には支配的だが、♀も♂ほどはっきりとはしないが鳴くようである。個体差があるようだが、呟くように「ほよほよ……」、たまに興奮すると「ピピッ、ピピッ、ピピッ、ピピッ!」とクレッシェンドで鳴くことがあるという飼育者の方と思われる投稿記事があった。
・「野州樺崎郷」底本の鈴木氏注は、『不詳。栃木県(下野国)足利市樺崎町の辺か。』とされ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『野州糀崎郷』とあるのを長谷川氏注では、『糀崎は樺崎か。栃木県足利市樺崎。』と同じ場所を同定されておられる。因みに樺崎は足利市所縁の地であったが、戦国時代になって足利氏の衰退とともに忘れられた。
・「鶉」キジ目キジ科ウズラ Coturnix japonica。中華人民共和国北東部・日本(主に本州中部以北)・モンゴル東部・朝鮮半島・シベリア南部などに繁殖し、冬季になると中華人民共和国南部・日本(本州中部以南)・東南アジアなどへ南下し越冬する。全長二〇センチメートル、翼長九~一〇センチメートル強。上面の羽衣は淡褐色であるが、繁殖期の♂は顔や喉・体側面の羽衣が赤褐色。草原・農耕地などに生息し、秋季から冬季にかけて五~五〇羽の小中規模の群れを形成することもある。和名「うづら(うずら)」は「蹲る(うずくまる)」「埋る(うづまる)」の「ウズ・ウヅ」に接尾語「ら」を付け加えたものとする説がある。食性は雑食で、種子・昆虫などを採餌する。卵生で一夫一妻。五~十月に植物の根元や地面の窪みの枯れ草を敷いた巣に七~十二個の卵を産む。♀のみが抱卵し、抱卵期間は十六~二十一日、雛は孵化してから二十日で飛翔できるようになり、一、二ヶ月で自立生活を始め、生後一年以内に性成熟する。古歌に詠まれ、「古事記」「万葉集」などにも詠んだ歌があり、狩猟された物や家禽として飼育された物は主に食用とされてきた。日本では平安時代に既に本種の調理法を記した書物がある(以上は主にウィキの「ウズラ」に拠ったが、和名由来の一部は個人的に補正した)。
・「樺崎何某」姓氏としては不詳。
・「改節」自身の言動のけじめたるせつを改めること。
・「再必」「さいひつ」と音読みしているか、「ふたたびかならず」と訓じているか。呼応の副詞のように下に否定を伴って「二度とは~しない/するな」の意味になりそうな語ではあるが、一般的ではない。更に岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは『なんじ必ず』となっており、これは「爾必なんぢかならず」の書写ミスと読んだ方がしっくりくる。それで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 野州樺崎鶉の事

 下野国樺崎郷かばさきごううずらは鳴かぬ。
 その近隣のさとの鶉は、普通に鳴き声を立てるのに、ここ樺崎の鶉だけは、これ、一向に総て鳴かぬ。
 その謂われを土老が物語って御座った由。

……いつの頃であったか、この地は樺崎何某なにがしと申す御仁が領して御座ったが、殊の外、鶉を好み、数多あまた飼いおき、金銀紅糸こうしちりばめた、それはもう、美麗なる竹籠に入れて、寵愛致いて御座った申す。……
……さても、ある日のこと、樺崎何某、
――ゴキッチョウ――ゴキッチョウ――
と鳴いておる籠内の鶉に向かって、
「……鳥の類いにても、汝は幸せものじゃて。……このように金銀を鏤めたる美しき入れ物の中にって……我らが心を尽くして飼いおくのであるからの。……こんなに嬉しきことは、これ、世に二つとはないことじゃ。……」
と戯れに語りかけて御座った。……
――ゴキッチョウ――ゴキッチョウ――
……ところが、その夜の夢に、鶉の来たって、
「御吉兆! 御吉兆!……一体……どのような御料簡にて……お一人で……かくも合点なさっておらるるのでしょうか?……さても……金銀紅糸を鏤めし牢屋をお作りになって……その中へ殿御自身の身を……これ入れおいたと致さば……殿は……心持ちよきとお感じになられまするか……御吉兆? 御吉兆?……」
と言うたかと見えて、夢が醒めたと申す。……
――ゴキッチョウ――ゴキッチョウ――
……翌朝のこと、樺崎何某、この霊夢に感心も致し、また、己れの誤った節をもここに改め、鶉を愛玩することを思いとどめ、飼いおいた鳥は、これ、残らず籠から出だいた上、
「――汝ら、向後、決してその鳴き声を立てること、これ、あってはならんぞ。『御吉兆』の声を立てたれば、また、かつての我らの如き心ない好事のやからに捕まることとなれば、の――」
と、含めるように鶉に教え諭して、徐ろに、解き放ったと申す。……
……鶉らは……これ如何にものびのびと嬉しそうに……叢の方へと……一声のも挙げず……埋もれて行って御座ったと、申す。……
……さても、それより、この樺崎のさとの鶉は、これ、を立てぬと……語り伝え御座るじゃ。……



 肥後國蟒の事

 享和元酉年初夏九日の事なりし。肥後國天草郡井手村に熊藏といへる百姓、廿四歳になりけるが、其身大兵たいひやうにて小ぢからもあり、近郷にて角力すまふ取けるが、俗説ににがとかいふものならん、蛇などをとらへ慰し事もありける由。卯月九日、井手村と鬼の池さかひ、谷間の田地へこやいれんとしける折節、山間よりおよそ三四げんもあるべき蟒出うはばみいでて熊藏をのまん氣色なれど、深田なれば急ににげん事もかなわず。詮方なくになひし桶の棒にて五六度力を入れたゝきけるに、鐡か石をうつ如く音して、かの棒をもとり落しけるに、かの蟒熊藏が肩へ來懸り候を、だかへけるが、凡三四拾貫めもあるべき盤石ばんじやくの如くなるを、角力をとりし覺へあれば、其度々に三四度もうけてはゝづし、請てはつき落しければ、渠も少し猶豫いうよしけるゆゑ、蟒にむかひ、我等親兄弟もあれば、村方へ歸りいとま乞ひなして勝負せん間、必此所かならずここまち居べしと、高聲こわだかにのゝしりければ、蟒も心得してい故、急ぎ宿へ歸り、しかじかと咄し脇差を帶し、右場所へ行けば、村方のものも銘々鎌棒やうのものをもち、五六十人も追々まかり越し、山影に隱れ、蟒いでば打殺さんとひしめきける故、熊藏も聲をあげ、約束の如く勝負に來りしと、罵り呼ばりけれど、熊藏が、親兄弟に對面して來らんと云ひし孝義かうぎに伏しけるか、又は同志をかり催しきたらんとの事を察し恐れて出ざるや、かいくれ行方ゆくへしれず。彼が最初に出しあたりは草木も押たをし、土石も崩れ損じける由。天草郡富岡町の旅宿荒木市郎左衞門といへるもの、御普請役松本左七え語りしとて、其有さまを繪にかきて、御勘定所にて取ざたせしを見しまゝに、記し置ぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:可愛い鶉からおぞましき蟒ではあるが、人獣の心が一時通じる動物奇譚として連関する。
・「享和元酉年初夏九日」享和元・寛政十三年辛酉かのととりの年の四月九日。新暦に直すと西暦一八〇一年五月二十一日。この年は、二月五日に改元している。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから凡そ三年前の比較的ホットな怪異譚である。
・「肥後國天草郡井手村」現在の熊本県天草郡五和町いつわまち大字井手。天草下島の北部の山村。
・「にが身」これは、ある対象や生物が「苦手」とする、常人とは異なった優位な不思議な力を持つ人の意。小学館の「日本国語大辞典」には、「苦手」の項に、『その手で押えると人は腹痛が治まり、ヘビは動けずに捕えられるなどという』力であることを例示し、「苦身にがみ」の項には、以上の苦手の能力を持っている人として、この「耳嚢」の本文を例示してある。
・「鬼の池」現在の天草郡五和町鬼池。井手の東北で、下島の北端部早崎瀬戸に面した近海地帯である。
・「三四間」約五・四五~七・二七メートル。
・「深田」水気の多い低級な沼の如き泥田・汁田の類い。
・「三四十貫目」約一一二・五~一五〇キログラム。
・「富岡町」現在の天草郡苓北町れいほくまち富岡。井手の西方、下島北西端の天草灘に面する苓北町は数百年にわたって天草の中心地であった。天草全土が「苓州」と呼ばれていたことから、苓北と名付けられた。「苓」は「あまくさ(甘草)」を意味し、苓州の北部にある町ということからその名がついた。鎌倉時代初期の元久二(一二〇五)年に志岐光弘氏が志岐六ヶ浦の地頭となり、坂瀬川・志岐・都呂々とろろ・富岡を含む天草下島の北部一帯を約四百年の間、統治し続けた。戦国末期には全盛期を迎え、キリシタン大名志岐麟泉がイエズス会の宣教師を招いて布教を許し、キリシタンを受け入れた(これを通じて麟泉は南蛮貿易を行おうとしたが実現はしていない)。江戸期にはこの富岡に代官所が置かれて、約二七〇年間、天草全土の郡政を治め、天草の政治・経済・文化の中心地として繁栄した(以上はウィキの「苓北町」に拠った)。
・「御普請役」底本の鈴木氏注に、『普請奉行の下役にもあるが、ここは御勘定の下役であろう。支配勘定の次で、不審役元締が班長格』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 肥後国のうわばみの事

 享和元年酉年の初夏、四月九日のことであった。
 肥後国天草郡井手村に熊藏と申す百姓、当年とって二十四歳になる者、その身、大兵たいひょう肥満にて、人並み以上に腕力もあって、近郷にては相撲すもうなんども取っては右に出る者は、これ、ない、と申す力自慢で御座った。
 また――俗に申すところの――にが――とか言うところの、不可思議なる者ででもあったものか――邪悪なる蛇なんどでも、平気で素手にて捕えては猫でもあやすが如く玩ぶを常として御座ったと申す。
 さて、卯月九日のこと、井手村と鬼の池のさかいにあった谷間の田地へ、熊蔵、肥やしを施さんとした折から、山間より凡そ三、四げんもあろうかといううわばみが、これ、
――ズゥワワアアァーーーッツ!
と現われ出で、今にも熊蔵を一と呑みに致さんとする勢いであったと申す。
 その時、熊蔵の立っておったは、これ、深田の中であったがゆえ、咄嗟に逃れ出づることも叶わず、仕方のう、担って御座った肥え桶の天秤棒を摑んで、五、六度、力を込め、蟒の太い体を、これ、打ち叩いてみたが、
――カーン! カカーン!
と、これ、まるで鉄か石を打つが如き音のみ致いて、そのあまりに硬きによって、
――ビーーン! ビビィーーーン!
と手に響き伝わって参るその震えに、つい、かの天秤棒をも取り落してしもうたと申す。
 するとすかさず、かの蟒、熊蔵の肩の辺りへ、
――ズルル! ドッスン!
と、襲い掛かって御座ったによって、熊蔵、
――グワッ!
と抱きかかえたところが、これまた、凡そ三、四十貫目もあろかという盤石ばんじゃくの如き重さであったと申す。
 熊蔵、相撲の覚えもあったれば、その襲い掛かって来るたび毎に、これ、三度も四度も――しやに受け止めては脇へと外し、正面よりがっぷりと受けては前方へと突き落したによって――かの蟒も一時、身を引いて間合いを取って御座るように見えたがゆえ、熊蔵、蟒に向かって、
「――我ら、親兄弟もあれば、村方へとたち帰り、暇ま乞いをなした上にて、改めて勝負せんとぞ思う! 必ず、ここにて待ちおるがよい!」
と、声高こわだかに叫んだところ、蟒も心得たていに見えたがゆえ、急ぎ、村へとたち帰ると、しかじかのことありと話し、脇差を帯びて、かの元の深田へとたち戻ったと申す。
 ただ、この時、村方の者どもも、話を聴いて、めいめいに鎌や棒のようなる物を握って、五、六十人も熊蔵のあとから加勢として従い、深田近くの山陰に隠れては、蟒が出でたれば打ち殺さんものと、犇めいて待ち構えて御座った。
 熊蔵、声を上げ、
「――約束の如く勝負に来たったり!」
と、大声で呼ばわったれど、
……熊藏が、親兄弟に対面たいめして立ち戻ると言うた、その孝行と礼儀に伏したものか……
……または、熊蔵が同志を駆り立てて立ち戻ったことを察し、うち負くるを恐れて出でずなったものか……
……ともかくも、蟒は、これより、とんと姿を消してしまい、遂にその後も現わるることなく、正体も行方ゆくえも、これ、とんと知れずなった、と申す。
 その蟒が最初に出た深田辺りは、これもう、一面に草木が押し倒され、棚田の周囲の土石も、これ、悉く崩れくわえて御座ったと申す。
   *
 以上は、天草郡富岡町にて旅宿を営むところの荒木市郎左衛門と申す者が、当時の御勘定下役の御普請役にあった松本左七へ語った記録ということで、その有り様を絵にえがいたものも添えた文書が、江戸の御勘定所所内にても、所内の役方の者どもが取沙汰致いて御座ったを、私が披見したままに、ここに記し置いたものである。




 いぼをとる呪の事

 いぼ多く出來て、愁ふる人あり。多少にかぎらず、雷の鳴る時、右光り音を相圖に、みごはうきにてはけば、必ずなをる事奇々妙々なりと、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。まじないシリーズであるが、これ、実は十三話前の「いぼをとる呪の事」
 いぼをとる呪の事
 雷の鳴る時、みごはうきにて、いぼの上を二三遍はき候得さふらえば、奇妙にいぼとれ候由。ためし見しに違はざるよし、人のかたりぬ。
の話柄のほぼ同内容の重出である。……百話の致命的な残念な瑕疵で御座る、根岸先生……どうなさってしまわれた?……
・「いぼ多く出來て」これは、所謂、魚の眼とは異なり、一般的に手足や顔にできる疣で、削ったりしても増殖し、放置してもどんどん増えるタイプの疣を指している。これは尋常性疣贅ゆうぜいと呼ばれる、ヒトパピローマ・ウイルス二型・二十七型・五十七型の感染で生じるウィルス性皮膚疾患である。
・「みご箒」「みご」とは「稭」「稈心」などと表記し、「わらみご」、稲穂の芯のこと。藁の外側の葉や葉鞘をむき去った上部の茎。藁しべのことを言う。それを集めて作った箒のこと。

■やぶちゃん現代語訳

 いぼを取る呪いの事

 疣が多く出来て、非常に悩む人がままあるが――さても、その疣の発生の多少に限らぬのであるが――雷の鳴る時、その雷電がピカリ!――一閃し――ドッシャン! ガラガラッツ!――と音がしたのを合図に――すかさず!――稈心箒みごほうきを以って掃けば――必ず治ること、これ、奇々妙々で御座る――と、さる人の語って御座った。



 長壽の人格言の事

 松平上野介の家士に山川文左衞門といへる男、百歳餘になりて近頃みまかりしが、老病の床中へ、予がしれる醫をまねきて、我も最早此度このたび限りなるべき、壽算殘る事なければ、藥も用ひべき心なけれど、孫など彼是かれこれすゝめて事六ケ敷むつかしければ、是も又尤なる故、なじみの甲斐に藥を調じ給はるべしといひしゆゑ、藥を與へけるに、かの老翁申けるは、さて人も長壽をねがひしは常なれど、長壽も程有あるべし、素より人の禍福にはよれど、我身は子をも先立さきだて、いま孫に養はれて不足もなけれども、いにしへの知音ちいんはみな泉下せんかの人となり、中年の知る人も殘るものなく、何をかたり何を咄さんとしても、我のみしりて人しらず、誠やしらぬ國にあぶれぬるも同じ事にて、心にも身にも樂しと思ふ事はなし、しかれば死したるも同じ事なりと語りしと、彼老醫の語りけるなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。九つ前の「長壽莊健奇談の事」の中川軍兵衛(享年一二一歳)からこの山川文左衛門(享年一〇〇余歳)へ長寿譚で連関するが、軍兵衛のそれが精力絶倫でポジティヴであったのに対し、この文左衛門の述懐は痛くネガティヴである。個人の持って生まれた性格の相違ででもあろうが、私は断然、文左衛門派である。
・「松平上野介」出雲国松江藩の支藩である広瀬藩。藩庁として、かつての出雲の中心地であった現在の安来市広瀬町に広瀬陣屋が置かれていた。寛文六(一六六六)年に松江藩初代藩主松平直政次男近栄ちかよしが三万石を分与され立藩した藩。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、当時の藩主は第七代直義(ただよし 宝暦四(一七五四)年~享和三(一八〇三)年)か、第六代藩主近貞の長男で第八代藩主となった直寛なおひろ(天明三(一七八三)年~嘉永三(一八五〇)年)の何れかである。
・「誠や」「誠」は感動詞、「や」は間投助詞。

■やぶちゃん現代語訳

 長寿の人の格言の事

 松平上野介の家士に山川文左衛門と申す御仁、百歳余になって、近頃身罷って御座ったが、老衰の病いが進んだそのとこに、たまたま私の知っておる医師を招き、
「……我らも最早……このたびは……遂に限りとなったと知れる……寿命……これ……残りなければこそ……薬なんど用いんと欲する気持ちは……これ……全く以って無い……じゃが……孫なんどの……かれこれと療治を勧むること……これ……如何にも難儀なことじゃ……じゃが……孫の身になって考えてみれば……これもまた……尤もなることゆえ……馴染みの甲斐に……一つ……お茶濁しにて……よう御座るによって……調じては下さる……まいか……」
と申すによって、当座の痛みや覚醒の対症なる薬を調じて与えたと申す。
 されば少し、落ち着いたによって、意識もやや聡明となった、かの老翁、
「……さて、人が長寿を願うは、これ、常のことなれど、長壽も『程』というものが、これ、あるべきことにて御座る。……
……もとより、各人の生涯に受くるところの、禍福の度合いにはよれど、……我が身は実子にも先き立たれて、今はその孫に養われて御座る。……そのことに不足なんどは、これ、あろうはずも御座ない。……
……じゃが、古えの知音ちいんは、これ、皆、泉下せんかの人となり、……中年の知れる人もこれ最早、没して残る者もおらずなって、……
……何を語り、何を話さんとしても、……
……これ、我らのみ知りて、他人には丸で一向に分からぬことばかり、……
……他人にとってはこれ、……遠い遠い、昔々の、……そのまた昔の話としか、映らぬ。……
……ほんに!……
……これ……我ら……見知らぬ異国に流浪して御座るも……同じ事にて……
……心にも身にも……楽しいと思ふことは……
……これ……全く……御座ない……
……しかれば……我らは……
……死したるも同じことにて……御座るのじゃて…………」
と語ったと、かの老医の語って御座った。



 祝歌興の過たる趣向の事

 或人、狂歌なども一通りの趣向は面白からず、一ふしあるこそ嬉しけれと、祝歌いはひうたを望みしかば、る滑稽の人よみておくりしと、
  土左衞門に君はなるべし千代よろず萬代すぎて泥の海にて

□やぶちゃん注
○前項連関:長寿の言祝ぎで連関。但し、この言祝がれる人物が実際に長寿であったかどうかは判然とせぬ。
・「土左衞門に君はなるべし千代よろず萬代すぎて泥の海にて」正字表現で分かり易く書き直すと、
 土左衞門どざゑもんに君は成るべし千代ちよよろづ萬代ばんだい過ぎて泥の海にて
「土左衞門」は無論、「泥の海」の溺死体であるが、「泥の海」の「泥」で「土」=泥まみれの遺体を掛ける。因みに、水に浮いた水死体を土左衛門と呼ぶのは江戸期からのことで、呼称の由来について、山東京伝の「近世奇跡考」巻一には「案ずるに江戸の方言に溺死の者を土左衞門と云ふは成瀨川肥大の者ゆゑに水死して渾身暴皮こんしんぼうひふとりたるを土左衞門の如しと戲れゐひしがつひに方言となりしと云」とある。水死の場合、死体は一旦は水底に沈むが、腐敗が始まると体内ガスが発生、更に組織が水を吸ってぶよぶよになり、体が膨満して真っ白になった様態で浮かび上がることがある。この様子が享保年間に色白で典型的なあんこ型体形(締まりのない肥満体)で有名だった大相撲力士成瀬川土左衛門に良く似ていたことからこの名がついたというものである。力士の四股名には伝統名として繰り返し襲名されるものが多いが、この土左衛門はこの成瀬川の後、一度も襲名されることがなかったという(以上の水死体の土左衛門についてはウィキの「水死」の「土左衛門」の項に拠った)。
――泥まみれの土左衛門に――貴殿はきっとなるであろう――しかしそれは――千年万年もの――永い永い時が過ぎた――この豊葦原の国が――そのかみの「くらげなすただよへる」泥の海へと戻る時――遠い遠い世になってからのこと……
というぶっとびの長寿の言祝ぎである。しかし、私はこの程度のものでは、凡そ「祝歌興の過たる趣向」とは思わぬ。だいたいが狂歌とはこういうものである。私なら喜んで押し頂き、成瀬川と河童が相撲を取る戯画を添えて床の間に飾るであろう。

■やぶちゃん現代語訳

 祝い歌とは言えども興が過ぎたるおぞましき趣向の狂歌の事

 ある人、
「――狂歌などにても、そんじょそこらに御座る一通りの趣向にては――これ、最早、面白うない。――つ、巧みにヒネリの御座る一首こそ、嬉しいものじゃ。――どうか一つ、かような長寿の祝いの狂歌を――」
と望んだによって、さる滑稽の人、詠みて贈れる、その歌、
  土左衞門に君はなるべし千代よろず萬代すぎて泥の海にて



 桶屋の老父歌の事

 ある桶や老父、その子に、世の中の人のまじはりを教訓してよめる由。
  木に竹の無理はいふともそこがおやいはせて桶やたが笑ふとも

□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌シリーズ。標題は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「桶屋の老商歌の事」とある。
・「木に竹の無理はいふともそこがおやいはせて桶やたが笑ふとも」「木に竹の無理はいふ」は、性質・内容の異った対象を無理矢理繫ぎ合わせるの意の「木 に竹をぐ」の諺の、筋が通らないことを言う、の意であり、また木は桶の本体、竹は箍の素材であるから「桶」の縁語ともなる。「そこがおや」の「そこ」は桶の「底」に掛けてあり、「おや」は親とその職業の「桶屋おけや」の意味にも響き合う。「いはせて桶や」は「言はせて置けや」に、「たが笑ふとも」の「たが」は「が」と桶の「たが」を掛け、また、「たが笑ふ」は「箍が笑ふ」で、桶が朽ちて箍が緩んで水漏れする(「箍が笑う」)の意を掛ける。因みに「箍が笑う」の先には、さらに腐食が進んで、箍を締め直したぐらいでは水漏れが止まらず、腐った一部を補修してもまた、別の箇所から水漏れすることを言うところの「桶が笑ふ」を響かせていよう。カラオケ風に訳そう。
――儂は桶屋なればこそ桶尽くしにて候――
♪木に竹を ♪接ぐよな無理を ♪言うとても ♪桶は大事なそこが親 ♪言わせておけや ♪箍笑たがわろうても
市井の無名人の狂歌ながら、和歌嫌いの私でも、技巧も歌意も非常に優れた狂歌であると思う。

■やぶちゃん現代語訳

 桶屋の老父の狂歌の事

 ある桶屋の老父、その子に、世の中での人との交わりの教訓として詠んだ由。その歌、
  木に竹の無理はいふともそこがおやいはせて桶やたが笑ふとも



 名句の事

 いつの頃にやありけむ、八月の良夜、諒闇にて洛中いと淋しかりしに、攝家宮方の内ときこえしが、御名はもらしぬ、
  普天の下そつと月見るこよひかな

□やぶちゃん注
○前項連関:地下の狂歌から堂上の俳諧で連関。
・「諒闇」天皇・太皇太后・皇太后の崩御に当たって喪に服する期間。「諒」は「まこと」、「闇」は謹慎の意、「闇」は「陰」と同意で「もだす」と訓じ、沈黙を守るの意。
・「しもらぬ」底本「しもらぬ」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で訂した。
・「普天の下そつと月見るこよひかな」書き直すと、
 普天ふてんもとそつと月見る今宵かな
「普天」は天下。「そつと」は副詞の「そっと」に全国土を意味する「率土浜そっとのひん」(元来は陸地と海との接する果てで、「詩経」の「小雅 北山」に基づく語)を掛けた崩御の追悼吟。
――天子さまのものであらっしゃいます……この大八洲おおやしまにある民草は……これ、皆、今宵、黙したままに……そっと……天子さまの率土そっとはまから……淋しく中秋の名月を見上げるばかり――

■やぶちゃん現代語訳

 名句の事

 いつの頃のことで御座ったものか……八月の中秋の名月の宵のこと、丁度、諒闇にて、洛中、大層淋しく御座った折りのこと、摂関家か宮方のやしきでの吟詠とも聞き及んで御座るが、御名おんなは聴き漏らして御座るが、その御詠の発句とのこと、
  普天の下そつと月見るこよひかな



 寄雷狂歌の事

 いろいろ狂歌を興じよみしに、寄雷戀といえる題にて或人詠ぜしが、秀逸なりと、人の語りぬ。
  日頃からねんころねんころと鳴かけて落そうにして落ぬかみさま

□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌から俳諧、また狂歌で連関。掛詞と縁語を駆使した超絶技巧的艶笑歌である。
・「寄雷狂歌」は「雷に寄する狂歌」と読む。
・「寄雷戀」は「雷に寄するこい」と訓じているか。それとも「キライレン」と音で読んでいるか。前者で採った。
・「日頃からねんころねんころと鳴かけて落そうにして落ぬかみさま」分かり易く、仮名遣いを正して書き直す。
 日頃ひごろからねんごろねんごろと鳴りかけて落ちさうにして落ちぬ神樣
「ねんごろねんごろ」は「懇ろ懇ろ」と雷鳴の「ごろごろ」を掛けて、前の「日頃」の「ごろ」を引きつつ擬音を響かせている。更に「ねんごろと鳴り」は「懇ろと成る」(親しい関係になる)の意を掛ける。「ごろ」「(ねん)ごろ(ねん)ごろ」「鳴る」「落ちる」「落ちぬ」「神」(雷神)は縁語。最後の「かみさま」は実は雷「神樣」と人妻の意の「おかみさん」(この語は自分以外の妻をも言う)の意の「上樣」を掛けてあり、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の長谷川氏の注には、『意に従いそうに見えて従わない人妻の意』とする。即ち、「落ちる」も雷が「落ちる」に、所謂、「貞淑な彼女も手練手管に遂に落ちた」の「落ちる」、強く迫られて遂に相手の思い通りの状態になる、説得などに負けて相手に従う、の「落ちる」が掛けられている。
――日ごろから……ねんねんごろごろ……と、雷さまの鳴るように、如何にもねんねんごろ、懇ろになり掛けておりながら……これ、落ちそで、落ちぬが……かみさまと……恋しい、人の、おかみさん――

■やぶちゃん現代語訳

 雷に寄する狂歌の事

 いろいろな狂歌が興じて詠まれているようであるが、その中でも「雷に寄する恋」と申す題にてある人詠じたものが、これ、甚だ秀逸であると、さる御仁の語って御座った。その歌、
  日頃からねんころねんころと鳴かけて落そうにして落ぬかみさま



  孝傑女の事

 享和三年の頃、御代官なる鹽谷何某しほのやなにがしの手代に、苗字は聞洩ききもらしぬ、林左衞門といえるありて、年頃廉直に勤めて、御勘定奉行の手附てつきとやらん、勢ひよく勤めしに、一人の娘ありしを、同じ手代仲ケ間の世話にて、是も同じ手代類役るいやくの内へなかだちせしが、いまだ事極りしにもあらず、いはんやたのみなどとりいれしにもあらず。しかるに熊ケ谷邊の知音、かの林左衞門と懇意なりしが、右の媒にかゝりし手代を以て、かの娘を越後の國の豪家の百姓へ世話いたしたしと、頻りにいひこしける故、彼越後る百姓は音に聞へし富家ふけなれば、手代のかたへせんよりは、はるかにまさるべしと、林左衞門夫婦へも咄しければ、夫婦も大きに悦び早速承知の趣にて、娘へもかたりければ、彼娘、何分越後へ嫁せん事はゆるし給へとて、ことわりに及びし故、父母は勿論、かの媒せし男も、いろいろうちよりいさめけれど、父母の命に背くは恐れあれど、幾重にも免し給へと斷るゆへ、媒もあぐみて考へぬれど、かの媒せんと始めかたりし手代は、年も四十にて年頃も相應にも無之これなく、容貌は大疱瘡だいばうさうにて醜といふの類ひ、いまだよき手代といふ程の人物にもあらざれば、戀慕執着のたぐひにもあらず。富貴ふうきを好むは人情の事故、ひそかにかの娘が内心を尋ねしに、素より右の手代の方へ嫁せんと好むにもあらず、しかれども、最初に物語り媒ありしは右の手代にて、おつて越後の豪家の農家よりもとむるとて媒あれば、全く富貴に目のくれて子を賣る罪、父母に蒙るべし、父は醇直じゆんちよくを以て今元締もとじめ等も致し、人も稱するに、此事にて慾にふけるの名をなさん、これ子の身としてしのびざるの事なりとて、何分合點せざるゆゑ、始はきちにして終り不宜よろしからざるもあり、縁談の値遇は人の憶智おくちにも及ばざればと、兼て心安やすくせし、相學に名ある栗原某を呼びて、いづれか吉ならんと相を賴みけるに、其の血色いかにも徹女てつぢよにて、容色美わしきといふにはあらねど、十人には增るべき人相なり。しかれど、農家に嫁し或は田舍の事とり扱ふの手代などに嫁しては、いづれも不宜よろしからず、武家などへ嫁して可然しかるべしと判斷して歸りしと、右の栗原語り稱しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。深慮ある孝行者の麗しき娘の物語り。あとのことしりたや……
・「享和三年」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな出来事。
・「鹽谷何某」塩谷惟寅しおのやこれのぶ(明和六(一七六九)年~天保七(一八三六)年。大四郎。江戸後期土木事業などに大きな業績を残した西国筋郡代。名は正義。幕臣粟津家に生まれ、のち塩谷家に入る。寛政一二(一八〇〇)年に勘定吟味改役から代官に昇進、文化一三(一八一六)年には九州の幕領十万石支配の代官に任命され、翌年、豊後国日田陣屋(大分県日田市)へ着任した。その後支配地は十六万石余にまで増え、文政四(一八二一)年には西国筋郡代に昇任。日田在任中は小ケ瀬井路の開削・筑後川舟運の整備・救済施設陰徳倉の設置・道路の改修などを行った。また、豊前宇佐郡や豊後国東郡などの海岸干拓新田を築造している。但し、こうした積極的行政政策は町村の豪農商の出金によって賄われたため、その負担が有意に増し、「塩鯛(塩谷大四郎)は元のブエン(無塩)に立返れ塩が辛うて舌(下)がたまらん」との狂歌も残されている。天保六(一八三五)年まで同職にあった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。底本の鈴木氏注には『享和三年の武鑑に、塩谷大四郎は単語但馬美作の代官』とある。
・「手代」郡代・代官・奉行等に属して雑務を扱った下級役人のことを指すが、狭義にはその内で非武士階級の者を指す。底本の鈴木氏の「手代」の注に、『町人百姓から適任の者を採用するのを手代という。手代は役にある間は侍待遇で両刀羽織袴であるが、退職すれば士分の待遇を失う』とある。次の「手附」の注も参照のこと。
・「手附」辞書には「手代」と同じ記載があるが、底本の鈴木氏の「手代」の注には、『小普請の御家人から採用する』事務担当者を特に『手附とい』うとある。また、岩波版長谷川氏の注には、『幕臣で譜代の者と一代のみ抱えの者あり。小普請組より採用の者と手代より抜擢の者がある』ともある。但し、本文ではこれ以降の「手代」を、この「手附」と厳密に区別して用いているようには思われない。
・「たのみ」「頼み」「恃み」などと書き、契約(結)を受けて(納)下さいの意で、婚儀の結納を指す。
・「いはんや」は底本のルビ。
・「栗原某」「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクテイヴな情報屋で、既に何度も登場している。
・「徹女」一徹の女子の意であろう。思い込んだことは一筋に押し通すと見える筋の通った女丈夫ということ。

■やぶちゃん現代語訳

  孝行の女傑の事

 享和三年の頃、御代官として知らるる塩谷何某しおのやなにがし殿の手代にて――苗字は聞き洩らしてしもうたが――林左衛門りんざえもんと申す者が御座って、年頃、実直にお勤め致いて、御勘定奉行の手附てつきとやらを、精心に勤め上げて御座った。
 さて、林左衛門には一人の娘があったが、同じ手代仲間の世話によって、これも同じ手代の役務を致いておる者の家へと、媒酌致いて御座った。
 ところが、未だ、その手代方との正式なる受諾や婚儀手筈なんども決まっておらず、況んや、結納ゆいのうの儀なんどは、これ、まだ取り交わしてもおらなんだ。
 ところが、そんな折りも折り、武蔵国は熊谷辺りの、林左衛門とは懇意なる知人が、かの、先の媒酌に関わった同じ手代――彼もこの知人と知り合いで御座った――を通して、
「――かの娘子の婚儀のことじゃが、実は、かの貴殿もご存知の、かの熊谷の御仁より、いい話しが別に降って湧いて御座った。場所は越後の国、相手は土地の豪農じゃ! そちらの家へ、是非とも世話致したく存ずるのじゃ!……」
と、頻りに慫慂しょうように参っては、
「――その越後の百姓と申すは、これ、我らも存ずるほどの、かの地でも音に聞えた富家ふけなればこそ、先だっての、あの、手代の方へよめせんよりは――遙かに娘子へも良きことで御座るて!」
と、林左衛門夫婦へも熱心に勧める。
 夫婦も、これを聴き、大いに悦び、早速に承知した旨、その媒酌の男に新たな取り持ちの許諾を与え、娘を呼んでは、そのことを語った。
 ところが、娘は、
「……何分……その越後へよめ入り致すということ……これ……おゆるし下さいませ!……」
と、堅く断りを入るる。
 されば、父母は勿論、かの媒酌致いた男も、意外な娘の言葉に慌て、一緒になって、いろいろとなだめたりすかしたり、何とか説得致さんと、したが、これ、全く聞き入るること、御座ない。
 娘はただ、
「……父上さま母上さまの御命おんめいに背くことは、これ、畏れ多いことと存じます……が……それでも……幾重にも……はい……お免し下さいませ!……」
と頑なに拒む。
 されば、媒酌人も考えあぐみ、
「……かの、初めになかだち致さんとした手代は――これ、年も既に四十にて、年頃も娘子に相応の者にては、これ、ない!――失礼ながらかの手代が容貌も、これまた、ひどい疱瘡の痘痕面あばたづらにして、まんず、言うたら、「醜」の部類!――また、未だ手代としても、これといった業績を積んでおるというほどの人物にも、これ、御座ない!……されば、娘子が、かの手代へのせつない恋慕執着の類いによるものにても、これ、御座ないこと、明白じゃ!……それに富貴ふうきを好むは、これも人情のことなればこそ……さても!?……」
と合点の行かぬゆえ、媒酌人、こっそりと、かの娘一人とうて、その忌憚なきところの内心を糺いたところ、
「……はい……もとより……かの初めの手代の御方へ、嫁入り致すことを心より望んでおるわけにては、これ、御座いませぬ。……されど……最初に、お話があり、なかだちの御座いましたは……かの手代の御方……あとより追って、越後の豪家の農家より、嫁を求めておらるるとのお話、これ、貴方さまよりなかだち御座いました。……が……これ、お受け致さば――『全く富貴に目の眩んで子を売った』――と申す謂われなきとがを、これ、父母の蒙りますこと、明白……父は、これまで淳直を以って、今は手附役の元締めなども致いて、人も讃える一廉ひとかどの人物……されど……この我らが婚儀の経緯によって――『欲に耽るがりがり亡者』――と申す忌わしき風聞を成さんは……これ、子の身として、忍び難きことにて御座いますれば、かく、お畏れながら、お断り申すので……御座いまする!……」
とて、如何に懐柔致さんとしても、これ、いっかな、合点せぬ。
 されば――始めはきちに見えても、終わりには、これ、よろしからざる結末の出来しゅったい致すこともあり――また、縁談に限っては、殊にその男女の出逢いと申す――これ、憶測や人智の及ばぬ摩訶不思議なるものの力とも言わるるものなれば……かねて心安うして御座った相学に名のある栗原某を呼びて、
「……さても、この二つの縁談……何れが吉で……御座ろう?……」
と人相見を依頼致いたそうな。
 さても――この栗原某――そう、最早、読者諸君もご存知の、かの栗原幸十郎で御座った。……

「……そうさ、その娘は、血色、これ、如何にも一徹の女傑にて……まあ、容貌麗しい、と明言するほどにては、これ、御座らなんだが……それでも、十人並、と申してよい美顔、、基! 人相で御座った。……然れども……
――農家にし、また或いは田舍の些事雑事を取りあつこうが如き手代なんどへ嫁しては、これ、何れもよろしからず――しっかりと致いた武家などが方へ嫁してこそ然るべし――
と断じて、帰りまして御座る。……」
とは、かの栗原殿の開陳致いてくれた話にて御座る。



 其才に誇るを誡の歌の事

 才力ある人は、人も尊崇し、公私の用にもたちてよろしけれど、自分おのづと其の才器に任せるゆゑ人も慴み、またさまでなきは、智才ある人、かへつて人の用ひもをとる事あり、世にあらん人は心得あるべき事と、或る老人に咄しあひけるに、かの老人の云へるは、さればとよ、それにつき思ひ出る事あり、後水尾院樣の御誡歌ごかいかの由、人の語りしとて噺しぬ、
  たれも見よをのがえならぬ花の香におりたやさるゝ野路の梅が枝
げにも尊き御教おんおしへ御歌ぎよかと、爰に記しおきぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前の艶笑狂歌から、また、堂上狂歌へ連関。この後水尾院、本巻で先行する「御製發句の事」では発句さえものしており、なかなかの通人であらっしゃたようどすなあ……但し、恐残念ながら、この歌も先の発句同様、彼の御製ではない可能性が高い。
・「其才に誇るを誡の歌の事」「誡」は「いましむる」と訓じているか。岩波版では「いましむ」とルビを振る。
・「慴み」「慴」は「おそれる」「おびやかす」としか訓ずることが出来ず、意味もおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「憎み」とあり、こちらならすんなり通ずる。現代語訳では「憎み」を採った。
・「後水尾院」「御製發句の事」に既注。
・「たれも見よをのがえならぬ花の香におりたやさるゝ野路の梅が枝」底本の鈴木氏注に以下の三村竹清氏の以下の注を引く。『この歌徹書記かと被存、右集外へかし置、穿鑿に間合兼申候、才智は人の仇なりといふ事を、『見よや人(おもへ人)をのがえならぬ花の香に折やつさるゝ野路梅が枝』このやうにそら覺申候、初五文字別して覚束なく、作者は猶さらにて候』とあるとするが、岩波版長谷川氏注には『正徹諸集に見えず』ともある。正徹しょうてつ(永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)は室町中期の臨済僧で歌人。
――誰も誰も、よう、見とうみ……己れの枝にはない……香しい野辺の梅がの花は……これ……必ず折り採られて……絶やさるるもので……おます――

■やぶちゃん現代語訳

 己れの才に誇るを誡む歌の事

……才智ある人は、他人からも尊崇され、公私の用にも、何かと役立つゆえ、一見、如何にもよろしゅうに見ゆるけれども――これ、自ずと勢い、その己れの才器に誇りがちとなるゆえに――結局は他人も内心にては憎み、また――憎まるるとまでは至らずとも――才智ある人という者、その、人より優れた才智のゆえにこそ――かえって人も物怖じ致いて、逆に採用致すに二の足を踏む――ということも御座る。こうした事実を世を渡らんとする才智ある御仁は、よう、心得ておかねばならぬ。……
といったことを、とある老人と談話致いて御座った折り、その老人の言うに、
「……そう言えば……それに就いて思い当ることが御座る。後水尾院さまの御誡おんいましめの歌の由、人の語って御座った、ありがたき御製にて……」
とて、示された御詠歌、
  たれも見よをのがえならぬ花の香におりたやさるゝ野路の梅が枝
「……実に尊き御教おんおしえの御歌ぎょかで御座ろう。」
と申して御座ったによって、ここに記し置くことと致す。



 精心感通の事

 藤堂和泉守家士何某なにがしといへるもの、享和の末に、在所より大阪藏屋敷へ勤向つとめむきにて在勤せしが、かの地の女子をんなごなづみ、限りの月になりぬれど、彼ものゝ愛情にて歸府をのばし、留守なる妻子の事も思はで滯留なしけるが、其妻深く歎き、男子なれば思ひそめし女に愛情もさる事ならんが、我身のみか一子の事も思ひ給わざるはうたてき事と、度々ふみして諫めぬれど取用とりもちゐざるやうにてすぎしが、或夜彼男の夢に、留守なる妻來りて、家の事、子の事を思ひたまはざるや、彼女子をもともないて歸り給へと異見なせしを、腹たつまゝ枕にてひたひうちて疵付けしと見て、驚ろき覺めけるが、心にもとめで、彼かこおける女子の元へ或夜まかりしに、彼圍女かこひをんないへるは、我身願ひあり、ながいとま給はるべしといひしに、いかなる事やと尋問たづねとひしに、別の事にもあらず、すぎにし夜、夢に奧方來り給ひ、御身の事、永く此地にとどまり給ひては、おんためもあしきと段々を盡して異見し給ひしが、逸々尤いちいちもつともの事に赤面に及ぶと見てさめぬ、何分永く此地に居給はゞ御ためにもあしく、御暇給わるべしとせちに願ひければ、彼男も其ことわりにやふくしけん、願ひに任せ暇を出し、其身も其筋へ歸りの事をつげて在所へたち歸り、妻子にも久々にて對面なせしが、其妻の額に疵の跡ありし故、いかなる疵やと尋問しが、初めはいなみ答へざりしが、夜にいりて、此疵につき不思議の事侍りし、御身難波なにはにてめで給ふ女になづみ歸るのばし給ふとききて、御爲にもよろしからず、妻子の事も思ひ給はざるやと、旅宿に至り異見なせしを、御身憤りて枕をもて打給ふと夢みしが、さめて後、かくのごとく疵付つきしとかたりけるに、男も大に驚きて、精心は其切なるに隨ひては萬里ばんりとほるものと感じ、恐れけるとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、まさについ先日の生霊譚、謂う所のテレパシー“mental telepathy”精神遠隔感応譚である。単身赴任男の難波妻というメロ・ドラマとしても面白い。
「藤堂和泉守」伊勢国津藩城主。「享和の末」を文化元年に改元される享和四(一八〇四)年とすれば、当時の藩主は第十代藤堂高兌とうどうたかさわ(天明元(一七八一)年~文政七(一八二五)年)である。参照したウィキの「藤堂高兌」によれば、高兌は江戸後期の名君の一人に数えられ、財政再建や行政機構改善、藩校有造館の創設といった善政を施して領民からも深く慕われた。そうした語られぬ徳政の藩主の、その家士の火遊び、という背景をも読解の射程に入れると、本話のドラマ性がより高まるように思われる。
・「大阪藏屋敷」各藩が年貢米や領内の特産物を売り捌くために設けた倉庫兼邸宅のこと。大坂にあったものが最も多く著名であるが、江戸・敦賀・大津・堺・長崎などの交通の要衝の商業都市に設置されたケースもある。また、大名だけでなく有力な旗本・公家・寺社の中には自前の蔵屋敷を持つものもいた(以上はウィキの「蔵屋敷」を参照した)。

■やぶちゃん現代語訳

 精心が遠き地の夫に感通した事

 藤堂和泉守高兌たかさわ殿の家士ぼうに纏わる話。
 この男、享和の末に、在所より大阪蔵屋敷へ出向しゅっこうとなり、在勤致いて御座ったが、かの難波の地の女子おなごとわりなき仲と相い成って、出向も終わりの月となったにも拘わらず、その女子おなごへの深き愛着ゆえに帰府を延ばし、留守を守って御座った妻子の事をも思いかけることものう、だらだらと滞留致いて御座ったと申す。
 されば男の妻、深く歎き、
『……男子なればこそ思い染めた女に愛情の執着をかけらるるは、これ、あろうことにては御座いましょう……なれど……我れらが身のみか、一子の事もお思いかけなさらざるは……これ、あまりに、情けなき御事おんこと……』
と、たびたびふみを遣わしては諌めて御座ったが、男は難波の女子おなごにすっかり目が眩んで、妻の思いの一つだに、これ、気にかけることものう、うち捨てて御座ったと申す。
 ところが、ある夜、この男の夢に、
……留守を守る妻が来たって、
「……家のこと……子のことを……お思いにはなられませぬのか?……その女子おなごをも伴のうて……どうか……お帰り下されませ!……」
とまで異見をなしたによって、男は腹の立つまま、おのが枕をむんずと摑むと、それを以って――妻のひたいを――したたかに――打った――妻の額は――ぱっくりと裂け――その傷より――血の流れ出でた……
……と見て、驚ろいて目を醒ましたと申す。
 されど、たかが夢と、これまた、心にかくることもなく、その数日後のある夜、囲い置いてあった女子の元へと通った、すると、かの囲い女、
「……わて、お願ひが御座います。……どうか、ながのおいとまを、いただきとう存じますのや……」
と寝耳に水の懇願を致いたによって、
「一体、如何なる謂いか!?」
ときつく訊き質いたところが、
「……へえ……何か、これといったことがあった訳にては御座いませぬ。……ただ、先だっての夜のことでおます。わての夢に、奧方さまが参られて、
……『……我らが夫……そなたの思い人は……このまま永く、この地にお止まりになっておられては……藩士としての御身分にも……これ……甚だ悪しきことの及びまする……』
と、だんだんに理を尽くされて、異見なさっしゃいました。……が、これ、いちいち、どれもこれも、ほんにもっともなることなれば……わてはもう、黙っておるばかり……もう、わては、顔がすっかりあこうなって……
と見て、目が醒めまして御座いました。何分、なごう、この難波の地にあらっしゃっては、夢内とはいいながら、確かに、奥方さまのおっしゃった通り、おんためにもしゅう御座ります。どうか、曲げて、おいとまを下さいますように!……」
と切に願うたによって――かの男も、流石にその理に屈したものか――女子の願いに任せ、いとまを与え、自身も、その筋へ、
「――遅まきながら、公私諸般の事情により――遅延致いて御座ったが、これより、帰藩致しまする。――」
旨を告げて、在所へと立ち帰ったと申す。
 さても、久方振りの妻子対面と相い成る。
……と……
……何事もなかったように、しとやかに挨拶致すその妻の手
……額に……
……これ……
……大きな傷が……
……ある――
「……そ、その大きなる……ひ、額の傷は……一体、如何なる傷か?」
と訊き質いたが、子も横におればこそ、そこでは、
「……いえ、これは申し上げるような大層なことにては御座いませぬ……」
と口を濁して御座った。
 さても夜に入っての妻の寝物語によれば、
「……この傷につきましては、不思議なことが、これ、御座いました。……お前さまが難波なにわにてでなさった女と深い仲と相い成られ、御帰藩の期日をさえ、お延ばしなさっておらるる由、風の便りに聴きましたが、……ある夜のことで御座います。
……『……これはおんためにも宜しからず……妻子の事をも思いかけなさること……これ、微塵もあられませぬか?!』
と、難波の旅宿へと至って、わらわが意見致しました。……ところが、お前さまは、大いにお憤りになられ、枕をお摑みになって、妾の額を打ちなさる……
……と夢見たところで、目を覚ましましたが、醒めて後……このように額に傷が一つ……ついて御座いました。……」
と語ったによって、男も大いに驚き、
「……まっこと、精心は、これ、その切なるに随う折りには――万里ばんりをも一瞬に走るもの――なのじゃのう!……」
と感じ入って、畏れ入ったと申す。



 威德繼嗣を設る事

 野州鹿沼在石橋村かぬまざいいしばしむらに、富農四郎兵衞といふものありて、質朴なるもの故、奇特の取計ひもありて、領主戸田家より名字みやうじゆるして鈴木四郎兵衞と名乘なのり、耕作の外、商ひなどして豐饒ふねうにくらしけるが、中年までも子といふものなく、めかけもとめて千計なせど其望を得ざれば、四郎兵衞つくづく思ふに、かくとみ、また心にかかる事なけれど、百年の後、他人に金銀財寶讓らんも心ゆかざる事なり、とても他人え讓る事ならば、一人へ讓らんよりは多人數たにんずへわけ讓らんこそ、天道てんだうにもかなひなんと思ひたちて、野州の賤民よろしからぬ風俗ありて、妻懷胎なせば、出産の子惣領は育て、其餘は間引まびくとか、またもどすなどとなへ産家うぶやにて殺す事をなしぬ。これを救ひて生育なさんと、寛政の子年ねどしまでに、四百人程をたづね搜して救ひしと也。其頃子なければ、少しのゆかりより養子なして、右養子は醫師をなりはひとせしが、不計はからざるに四郎兵衞も實子出産して、文化元年に十一歳になりける。子を生育せざるの賤民を救ふ事は、懷胎をきかば手當なし、出生すれば又手當なすといふ事、その雜費も夥しきを不厭いとはずして、思ひたつどをりなしけるが、耕作に利を得、商賣に德ありて彌々富饒に暮し、當時其養子の住居とも三ケ所にて、何れも榮へける由。しやうを好むの天意にもかなひけるや、書物抔を好み、聖堂へもいではやし祭主もしれるものゝ由。予が許へ來る元卓生げんたくせいのかたりける。

□やぶちゃん注
○前項連関:清心の感応譚から誠心の人徳譚で連関。
・「威德繼嗣を設る事」は「いとくけいしをまうくること」と読む。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「陰德繼嗣」となっており、こちらの方が主人公の施した慈善事業の内容を考える時には、より自然ではある。
・「野州鹿沼在石橋村」現在の栃木県鹿沼市石橋町。日光例幣使れいへいし街道(家康没後に東照宮に幣帛を奉献するための勅使である日光例幣使が通った道)沿いの村。
・「領主戸田家」宇都宮藩城主戸田家。安永三(一七七四)年からの初代藩主戸田忠寛ただとおに始まる。前半部の記載はこの忠寛の代のことと考えられ、「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、本話執筆当時(本文後半部の時)は忠寛の長男で文化六(一八〇九)年から就任した第二代藩主戸田忠翰ただなかの代であったと思われる。但し、主人公が亡くなった文化十二(一八一五)年(次注参照)当時は忠翰次男の第三代藩主忠延の時であった。
・「鈴木四郎兵衞」儒者鈴木石橋せっきょう(宝暦四(一七五四)年~文化十二(一八一五)年)として知られた人物。下野国鹿沼の人で昌平黌に学び、帰郷して私塾麗沢之舎れいたくのやを開き、後、宇都宮藩儒生となった(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。岩波版長谷川氏注に『鹿沼宿本陣の家に生まれ』とあり、また底本の鈴木氏注に三村竹清氏の以下の注を引く(恣意的に正字化し、幾つかの語に読みを振った上、句読点も追加変更、後に簡単な注を附した)。『名は之德、字は澤民、号は石橋、おいて閑翁といふ。天明の凶歉きようけんあたり、おほいに救濟につくす。最も三禮に精通し、深夜圖説の著あり、晩年、心を易理に潛め、周易象儀しやうぎ二十卷を著す。藩主、禮を厚うして城中にまねき、講筵かうえんを開く。文化十二年二月六十二歳を以て沒す。蒲生君平がまふくんぺいは實に其門より出たり。』
●「凶歉」凶作。「歉」は穀物が実らない意。
●「三禮」天神・地祇・人鬼を祭る三つの儀式。
●「深夜圖説」不詳。
●「周易象儀」講談社「日本人名大辞典」には「周易象義」と表記。
●「蒲生君平」(明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年は、同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられる儒学者・尊王論者・海防論者。下野国宇都宮新石町(現在の栃木県宇都宮市小幡)生。父は町人で油屋と農業を営んでいた。参照したウィキの「蒲生君平」には、昌平黌で学んだ鹿沼の儒学者鈴木石橋(二十九歳)の麗澤舎に入塾(十五歳)、『毎日鹿沼まで三里の道を往復する。黒川の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄を頭の上に乗せて褌ひとつで鹿沼宿の中を塾まで歩いて狂人と笑われるなど生来の奇行ぶりを発揮したが、師・石橋は君平の人柄をこよなく愛した』と、本話の主人公石橋の愛弟子であったことが窺える。
・「産家」産屋であろう。出産の穢れを避けるために特別に設えた出産用の小屋や装置。先の「遁世の夫婦笑談の事」の「産籠」の私の注を参照されたい。
・「寛政の子年」寛政四(一七九二)年壬子みずのえね
・「林祭主」林大学頭。「祭主」は学制の長官のこと。「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年の頃は林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。
・「元卓」与住元卓。「卷之一 人の精力しるしある事」に初出する人物。根岸家の親類筋で出入りの町医師。根岸一番のニュース・ソースの一人である。

■やぶちゃん現代語訳


 厳かなる人徳のあったによって嗣子ししを設けた事

 上野国鹿沼在石橋村に、富農の四郎兵衛と申す者があったが、せい、至って質朴なる者であったゆえ、実にありがたきお取り計ひも御座って、領主戸田様より特に名字を許され、鈴木四郎兵衛と名乗って、田畑耕作の外、商いなんども致いて、豊かに暮して御座った。
 が、四郎兵衛、中年になってもこおというものが、これ、ない。めかけを求むるなど、いろいろと試みてはみたものの、遂に、これまで、望みを遂ぐることが出来ず御座った。
 されば、四郎兵衛、つくづく思うたには、
「……かくも富み、また、これと申し、心に掛かる心配事なんども、これ、なけれど、このままにては百年の後まで、血の繋がらぬ赤の他人の誰かに、これらの金銀財宝、皆、譲ってしまうという結果ともなると申すも……これ、何とのう、得心出来ぬことじゃ。……いや……所詮、誰ぞ一人の赤の他人へ譲ることとなるのであれば……ただ一人へ譲る結果とならんよりは、これ、多くの人々へ分け与えて譲るこそ、これ、天道てんどうにも適うことにて御座ろうぞ!」
と思い立ったと申す。
 さて、上野国の賤民の間には――これ、その困窮ゆえとは申せ――実によろしからざる忌わしき風俗が御座った。――例えば――妻が懐妊致いた折りには、出産したこおの惣領は、これ、育てるものの――その余は――「間引き」とか――また――「もどす」――なんど唱え――その産家うぶやの内にて――こっそりと殺して――御座った。
 四郎兵衛。俄然、
「何としてもこれらのこおを救うて生育なさん!」
と、寛政の子年ねどしまでに――周辺の民草の生計たつきは勿論のこと――妊娠出産の噂や何やかやを――予め十二分に収集致し、また探索方も出だし探らして――実に四百人ほどのこおをも――これ、尋ね捜し出だいては、救って御座ったと申す。
 なお、先にも述べた通り、四郎兵衛にはその頃、子がおらざれば、別に多少の由縁ゆかりの者より養子を成して御座った。その養子は医師を生業なりわいと致いて御座った由。
 ところが、何と――今まで如何にしても出来なんだ四郎兵衛に――如何なることか――実子が産まれて御座った[根岸注:因みに本記載時の文化元年にあっては、この子は当年とって十一歳になるという。後出元卓談。]。
 附言致しておくならば――かの養育致さざる賤民のこおを救う際には、懐妊の噂を聴くや、走って行って懇ろに世話致し、出生すればまた、手厚く手当致すという仕儀にて、これ、その雑費も夥しくかかるをも厭わず、思う存分、湯水の如く用いては手厚く施して御座ったと申す。
 されども、自分持ちの耕作にても潤沢な利を得、また、別に営んで御座った商売にても、これまた順調な利益のあったによって、いよいよ富饒ふにょうに暮し、当時、自宅やその養子の住居など合わせて、三箇所も邸宅を所持致いて、そのどの屋敷も如何にも裕福なる様子にて御座った由。

「……生命いのちを好むところの天意にもかのうておったからででも御座いましょうか。……この鈴木四郎兵衛なる御仁、書物を好み、何でも……かの湯島の聖堂へも出入り致いて……あの、林大学頭様御自身もご存知の方と承って御座る。……」
とは、私の元へ参る、例の医師元卓の語った話で御座る。



 吝嗇翁迷心の事

 文化の元年四月の頃、赤城下あかぎしたに翁ありしが、子もなく獨住ひとりずまひにて、いささかの商ひをなして、聊の利を以てたつきを送りしが、あくまで嗇心しよくしんにて、朝夕の食事をも思ふ儘にせず、明暮稼あけくれかせぎて商ひせしが、聊風の心ちとて商ひにも不出いでず、あたりのもの尋問たづねとへば、心あしきと而已のみこたへしに、或日朝近所の者尋しに、かまどの前に臥して死したりしを見出し、店内たなうちのものよび集めて立入たちいり見しに、誠に天命を終りしや、疵痛きずいたみとふもあらず、病死しけるに相違なきが、兩手にてひとつの財布を握りゐるを見れば、金銀を入置いれおきしと見えたり。かねてしわきものなれば、死にがねとて貯へけるやと、是をとり改めんとするに、中々放れざれば、あたりの寺僧をまねきて、これを放さんと經などよんでとらんとすれども放さず。所役人ところやくにんも、かれが精心の凝り候ところ、聊の金に心殘りしならん、おそろしとて、其儘にはうむりけると也。きんならば、拾兩にも不及およばざる程のやうに見へしと、其あたりの人かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:自らの財産を惜しげもなく民草に分け与えた鈴木石橋に対し、真逆の守銭奴老人の「死ンデモ財布ヲ放シマセンデシタ」譚で連関。
・「文化の元年四月」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、三か月前の極めてホットなニュースである。
・「吝嗇翁」「りんしよくをう(りんしょくおう)」と読んで居よう。
・「赤城下」東京都新宿区赤城下町として名が残り、新宿区の北東部に位置する。
・「とふもみえず」「とふ」は「等」であろう。正しい表記は「とう」である。
・「死に金」は自分が死んだときの費用として蓄えておく金の謂いであるが、結局、本話の最後では、死体がその全額を握ったまま手放さないから、握らせたままに葬っってしまう訳であるから、死に金の本来の謂いである、蓄えるばかりで活用されない金の意も響かせてくる。

■やぶちゃん現代語訳

 守銭院吝嗇翁居士の死しても金への迷妄の消えざりし事

 文化の元年は四月の頃のことである。
 内藤新宿の先、赤城下町あかぎしたまちに一人の老人があった。
 子もおらず、独り暮らしにて、聊かの行商をなしては、聊かの利を得て生計たつきと致いて御座ったが、この老人、あくまで吝嗇りんしょくにて、朝夕の食事をもろくに致さず、日がな一日、商いに歩いては稼ぐことのみを、これ、生き甲斐に致いておるようで御座った。
 ところが、先だっての四月の、とある日のこと、
「……聊か……風邪の気味でのぅ……」
とて、商いにも出でずなったと申す。
 老人にしては珍しきことなれば、よほど調子の悪いことならんと、辺りの者二、三人も、尋ね問うてはみたものの、
「……気持ちが……悪い……」
とのみ答えるばかりにて御座ったと申す。
 さても数日後の朝方、やはり近所の者が覗いてみたところが、入口の脇のかまどの前に、突っ伏して死んで御座るのを見出だしによって、長屋うちの者を呼び集めて、中へと入って見たところ――これ、正真正銘、天寿を全うしたものか――取り立てて不審な外傷や圧迫痕なども、これ、なく――病死致いたに相違なく見えたと申す。
 ところが、その遺体、両手で一つの財布をしっかりと握り絞めておった。
 その握っておるものをようく、見てみると、金銀を入れ置いたものと見えた。
 かねてより、非常なけちと知られた老人で御座ったれば、その場にあった一人が、
「……己れの葬儀の死金しにがねとしてでも、貯えて御座ったものかのう?……」
と、それを取って改めんとした。
――ところが……
……老人……
……遺体となっておりながら……
……これ……
……なかなか……
……財布を……
……放さぬ――
 さればこそ、と、何とのう、気味悪うなった長屋の衆が、近所の寺の僧を呼んで参り、これを放させようと、経なんどを誦してもろうたりしたものの……
……いっかな……
……放さぬ――
 さればとよ、と、不審なる死体の仕儀にて御座ったればこそ、かくかくの不思議これあり、とかの地の係りのお役人へも申し上げたところが、お役人も、
「……かの守銭奴の老人の……その執心の霊魂の……これ……凝り固まって御座ったところの成す技にてもあろう……聊かの金にさえ……心残りが生じたものか……に怖ろしき……執念じゃのぅ!……」
とのことなればこそ、もう、金銀を握らせたそのままに、葬ったと申す。……

「……きんならば、そうさ、十両にも遙かに及ばざるほどの額のようにしか見へませなんだ。……」
とは、その辺りに住んで御座った御仁が、語った話で御座る。



 又

 或在方に、かるき百姓の、農事商ひ等に精入れ稼ぎけるが、わづかに金子五兩を貯へしが、其邊常にたち入る富家ふうかのあるじに向ひ、まことに精心を表して死金しにがねを貯へ候が、貧家におきて盜難もおそろしければ、預り給はるべしと願ひしに、彼富翁かのふをうも、かれが精心を憐みて、そのこひにまかせ預りしが、四五日すぎて又來り、此間このあひだの金を見せ給わるべしと乞ひし故、差出遣さしだしつかはし候處あらため候て、又々預りくれやうにと、いふにまかせ預りしに、又四五日過ておなじやうに來りて、金を乞ひ改め、預けぬ。かゝる事四五度におよびしかば、富翁おほいに憤りて、われなんぞ汝が金を預るにおろそかなるべしや、いささかの金子に度々來りてわづらひをかくる事、何とも迷惑なれば、最早預りがたしと差戻しければ、ほうぼうともち歸りけるが、四五日も見へざる故たづねしに、彼もの右の五兩の金を握りて死しけると也。人々あはれと思ひて、彼金にて葬式等をなし、ねんごろにとむらはんとて、握りし金をとらんとせしが何分放さゞれば、せん方なく是も其儘に葬りしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関;守銭院吝嗇翁居士「死ンデモ死ニ金ヲ放シマセンデシタ」二連発。
・「ほうぼうと」副詞「這ふ這ふ」の「はふはふ(ほうほう)」か。ならば、「あわてて」の意。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「しをしをと」で、これなら副詞「萎萎」「悄悄」の「しおしお」で、気落ちして元気がないさま。悄然と。しょんぼりと、となる。後者を訳では用いた。

■やぶちゃん現代語訳

 守銭院吝嗇翁居士の死しても金への迷妄の消えざりし事 その二

 ある田舎にてのこと。
 賤しき百姓男が、野良仕事の他に、ちょっとした行商なんどに精を出し、小金を稼いで御座ったと申す。
 僅かに金子五両ばかりが貯まったところで、男の在所の近くにて、日頃から出入りして御座った裕福なる農家へと赴き、そのあるじむこうて、
「……まことに一途に、稼いで稼いで、ここにこうして、おの死金しにがねとして貯へて参りましたが……我らが貧家に置きおいては、これ、盜まるること、恐ろしゅう感じますればこそ……どうか一つ、こちらさまにて、お預り下すっては頂けませぬかのぅ?」
ねごうたによって、かの富農の老主人も、男の一念の志しを憐れんで、その乞いに任せて預ったと申す。
 ところが、四、五日ほど過ぎて、かの男、また来たっては、
「……このあいだの金……お見せ下さいませぬか?……」
と乞うたによって、厳重に仕舞い置いたる納戸より、かの五両を取り出だいて、差し出し見せてやったところ、男は――しけじけ――一枚一枚を――舐め齧って――改めた上、またしても、
「……確かに。……さても続いて預り下さいまするように。……」
と申す。その改めように、何やらん、いやーな気がしないではなかったが、また、言うに任せて預って御座ったと申す。
 ところが、またまた、四、五日過ぎて、男、同じ如、参っては、金を乞うて出ださせ――またしても――しけじけ――舐め齧っては改め――再び預けて御座ったと申す。
 かかることが、これ、四、五度にも及んだによって、鷹揚なる老主人も流石に大いに憤り、
「我れ、なんぞ! そなたが金を預るに、いい加減に――その辺に転がしておき、誰かに盗まれたり、贋金にすり替えられたりするような――そんなおろそかなこと、これ、しようものカイ! たかが五両ばかりの金子がために、度々来たっては、しけじけ舐め齧って改め、時と手間の煩いを我らにかくること、これ、迷惑千万! 最早、預り難い!」
と啖呵を切って突っ返したところ、男は如何にもしょんぼりとして、持ち帰って御座ったと申す。
 それから四、五日経っても、男の姿を見る者がなかったゆえ、少々、きつく言い過ぎたかと思うた老主人が散歩のついでに男の家を訪ねてみたところが……
……かの者……
……あの五両の金を……
……握りしめたままに……
……薄汚れた囲炉裏端にて……
……坐ったまま……
……とうに……
……冷とうなって御座った。――
 在所の者どもも皆、哀れに思うて、
「……死金として大事大事に致いたものなれば、かの五両の金をもって葬式なんどをなし、懇ろにとむろうてやるがよろしかろう……」
ということになり、握って御座った金子を取ろうとしたところが……
……これ……
……いっかな……
……放さぬ――
……なれば、仕方なく――これも前話と同様――その金子を握ったままに、葬ったとのことで御座る。



 人魂の事

 或人葛西かさいとやらんへつりに出しに、釣竿其外へ夥敷蚋おびただしくあぶといへる蟲のたち集りしを、かたへにありし老叟らうさうのいへるは、此邊に人魂のおちしならん、それ故に此蟲の多くあつまりぬるといひしを、予がしれるもの、是も又拂曉ふつぎやうに出て釣をせしが、人魂のとび來りてあたりなる草むらの内へ落ぬ。いかなるものや落しと、其所そこへ至り草などかき分け見しに、泡だちたるものありて臭氣もありしが、間もなく蚋となりて飛散りしよし。老叟のいひしも僞ならずと、かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:死後も執心の守銭老人から、死後の人魂で軽く連関するように感じられる。
・「あぶ」は底本のルビ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「アブ」とカタカナでルビする。アブは狭義には昆虫綱双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ科 Tabanidae に属する主に吸血性の種を指す。但し、人や地方によっては、双翅目や短角亜目に属するより広い範囲の種をアブと呼称するし、和名の中に「アブ」と名打つ種は直縫短角群ちょくほうたんかくぐん(Orthorrhaphous 双翅目短角亜目に属する昆虫の中で単系統群である環縫短角群のハエを除外したものの総体(側系統群)、所謂、生物学的な広義のアブ、少し説明しておくと、ハエはアブの属する短角亜目は名の通り、触角は通常種では短いことを指す。その中でもハエ類は、羽化の際に、蛹の背中が縦に割れずに環状に開くため、蛹の縫い目が環状になっていることから「環縫短角群」と呼称し、それと対照的な蛹の縫い目を有するのが「直縫短角群」である)とは完全には一致しない(以上は主にウィキの「アブ」及び「直縫短角群」に拠った)。
・「老叟」は年とった男性、老翁であるが、何故か岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「老婆」となっている。船釣りに出たのであれば老婆は不自然であるが、「かたへにありし」という表現は、遇然に傍にいた、ともとれることから、これは河口付近で岡釣りに出たのだともとれ、それならば、この老婆の急の登場、これ、逆にホラー効果を高めるとも言える。

■やぶちゃん現代語訳

 人魂の事

 ある人が――葛西辺りで御座ったか――釣りに出たところ、釣竿や魚籠びくその外に「虻」と申す虫が夥しくたかって御座った。
 すると、それを見たる老爺が、ぽつりと、
「……これは……この辺りへ……人魂の落ちたに、違いない。……さればこうして、この虫がよう、集まって来るのじゃて。……」
と呟いたと申す。……

 今一つの話。
 私の知れる者が――この話でもまた、やはり夜明け方に出て釣りへ行った――ところが、人魂が飛び来たって、かの者の釣り致いて御座った近くのくさむらのうちへと落ちた。
「……さても……如何なるものの……落ちたものか?」
と、その落ちた辺りへ向かって、草なんどを掻き分け、掻き分けして見たところが……
……何やらん……
……じゅくじゅくと……
……白う泡立った……
……奇体な塊のあって……
……何とも言えぬ……
……生臭い……
……いやーな臭気も……
……これ……漂って御座った。――
……ところが……この泡の塊のようなるもの……間もなく……
……無数の……
……これ……虻となって……
……何処いずこへか……飛び散ってしもうたと申す。……

「……なるほど。……されば先の話で老爺の申したことも、これ、偽りにては御座らぬかのう……」
と、私と後の話をした御仁と、語りうたことで御座った。



 産後髮の不拔呪の事

 婦人出産後、夥敷おびただしく髮の拔るものあり。産濟て、枕にかゝり候節、髮の内ひよめきといえる所へ生鹽なまじほを聊かおくときは、毛不拔事ぬけざること妙の由。又一法に、出産後、いたゞきを、毛ぶるひを以て震ふまねなせば、是又毛拔候事無之これなき由。

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。定番のまじないシリーズ。
・「不拔呪」「ぬけざるまじない」と読む。
・「婦人出産後、夥敷髮の拔るものあり」分娩後脱毛症という。「女性薄毛対策室」管理になるHP内のこちらの分娩後脱毛症の原因と対策ページによれば、『分娩後脱毛症とは、その名の通り、出産後に起こる女性特有の脱毛症のことで』、出産後二~三ヶ月後に『起こることが多く、一度にかなりの量の髪が抜けるので、このまま薄毛になってしまうのではと恐怖を覚える方も少なく』ないとある。『しかし、分娩後脱毛症は一部例外を除けば、自然現象の一環なので、あまり過度に心配する必要はないと言われて』いるとする。そのの原因については以下のように解説されてある。『女性は妊娠した時から出産に至るまで、徐々に卵胞ホルモン』であるエストロゲン『の分泌量が増える傾向にあ』るが、『エストロゲンには髪の発毛を行っている毛母細胞や毛乳頭を活性化させる作用があり、いつもより髪が伸びるスピードが』加速され、『さらに、女性ホルモンの作用で、抜け毛を誘発する男性ホルモンの働きが抑制され、髪が抜けにくくなる』。この二つの作用により、実は『妊娠中は髪が抜けにくく、伸びやすい状態となり、一時的に髪のボリュームがアップ』する。ところが、『出産するとホルモン分泌量が元に戻るため、一時的に増加していた髪が抜け落ち、薄毛となってしまう』ことを主因とするとある。『一時的に乱れたホルモンバランスは時間の経過とともに正常に戻るため』、通常ならば半年から一年も経てば薄毛症状も快方に向かうのであるが、『女性ホルモンとは別の理由、たとえば授乳による栄養不足や、育児疲れによるストレスなどを原因とした薄毛は、放っておいても改善することは』なく、こうした状態に至った『場合は婦人科を受診してみる』ことを勧める、とある。妊婦の方、これから妊婦になられるかもしれない方のために注しておく。
・「枕にかゝり候節」これは坐産(坐った状態で出産する恐らく縄文時代以来の本邦の古来からの出産方法)で分娩後に初めて横臥する際のことを言っている。三重県四日市市羽津地区の公式HPの『羽津の昔「人生儀礼」』に、『出産することを「まめになる」といった。出産は、納戸などの薄暗い部屋で行なった。布団の上へ渋紙を敷き、更にその上へ藁灰を入れた「灰布団」を重ね、そこヘペタンと腰を下ろして座り、天井から吊された紐につかまって出産した。いわゆる「座産」である。現在のように寝たままの姿勢でお産をするようになったのは、大正末期から昭和の初めにかけて以降のことであり、それまでは全て座産で』、『妊婦が「ケづく」、つまり陣痛が始まると「抱き女」という予め頼んであった人がきて、天井から吊した紐につかまった妊婦を背後から抱きかかえ、腹の上部をしめつけるようにして、妊婦を励ましたり、いきませたりした。もちろん、この時には、「とりあげ婆さん」も来ていて、出産の介助に当たっていた。お産にあたっては、妊婦が陣痛に苦しんだあげく、障子の桟が見えなくなるくらいにならないと子供は生まれてこないといった』とある。リアルな貴重な記録である。
・「ひよめき」前頭部。通常はこう呼称した場合、乳児の頭頂部前方(おでこの髪の生え際辺りの中央部)にある頭蓋骨の隙間部分を言うが、ここではそれを援用して前額部分をかく呼称しているものと思われる(産婦でもあり関係も深いことからであろう)。医学的には大泉門と呼び、乳児のおでこの正中線を頭頂部に向かって触れてゆくと、頭髪の生え際より少し上の部分に菱形をした柔らかいぷよぷよした部分のことを指す。これは乳児の頭蓋骨の発達が未だ十分でないために生じている複数の頭骨(頭蓋骨は左右前頭骨・左右頭頂骨及び後頭骨の五枚から構成されている)間の縫合部にある比較的大きな隙間(ブレグマ(Bregma):矢状縫合と冠状縫合の交点のこと。)である。
・「生鹽」結晶の粗い精製したり煎ったりしていない塩。
・「毛ぶるひ」「毛篩」で、粉などをふるうために用いる目の非常に細かいふるい

■やぶちゃん現代語訳

 産後に髪の毛が抜けぬようにするまじないの事

 婦人の出産後、夥しく髮の抜くる者があるが、こうならなぬようにするためには、坐産が済んで後、初めて横に臥すという際に、額の前髮の生え際のところ――俗に幼児の「ひよめき」と呼んでおるところで御座る――へ、粗塩あらじおを少しばかり据えおくならば、これ、毛が抜けなくなること、まっこと、絶妙なる由にて御座る。
 また、今、別の一法としては、同じく出産後に、頭の頂きに於いて、毛篩けぶるいを以って、これをふるう真似を致さば、これまた、毛が抜けるようなことは、これ、一切ないとのことで御座る。



 河骨蕣生花の事

 河骨かうほねは、なげ入れ又は立花たてばなにするに、水あがりかね、暫しの内に花のぢくくぢけ、葉も又しぼみぬるものなり。或諸候のかたりけるは、河骨をいけんと思ふには、まづ軸にもつ水をしぼりて一夜水につけおけば、水あがりてたもつ由。又一法に河骨の軸へ、小刀目こがたなめを數ケ所へ入れて生花にするに、暫くたもつとや。あさがほは、活花いけばなはさらなり、垣にさけるも、日影にしぼむ事いとはかなし。晝よりさきの客には、蕣を花にいけん事、かたき事なり。爰に一術ありと、人のかたりぬ。朝顏の花、あすはひらかんとおもふつるをとりて、つぼみをぬれ紙にてつつみ、つるともに水に入て、客來らんと思ふ刻限に紙をとりいけぬれば、程よくさきて暫しはたもつ事なりとぞ。

□やぶちゃん注
○前項連関:これはまじないではない、極めてプラグマティクな科学的な生け花法であるが、当時の性質としてはまじなと変わらないものであったはずであるから、強く連関すると言ってよいであろう。コウホネのケースは、現在の花首まで水につける深水法と呼ばれる水揚げに適い、特に維管束内のバクテリア等を含んだ水を絞り出すことで効果があるように思われ、アサガオの方の手法は水を含ませた新聞紙で包んで水揚げを行う手法に等しい。水揚げには温水や熱水を使うこともあり、かなり萎れた菊などでもこの方法で回復する(以上の水揚げ法については、個人のHP「飛鳥村のヘングリッシュガーデン」内の「切り花を長持ちさせる方法」を参考にさせて頂いた)。
・「河骨」双子葉植物綱スイレン目スイレン科コウホネ Nuphar japonicum。水生多年生草本。浅い池や沼に自生する。参照したウィキの「コウホネ」によれば、『根茎は白くで肥大しており、やや横に這い、多数の葉をつける。葉は水中葉と水上葉がある。いずれも長い葉柄とスイレンの葉の形に近いが、やや細長い葉身をつける。水中葉は薄くてやや透明で、ひらひらしている。冬季には水中葉のみを残す。暖かくなるにつれ、次第に水面に浮く葉をつけ、あるいは一気に水面から抽出して葉をつける。水上葉はやや厚くて深緑、表面につやがある。花期は』六月~九月頃で、長い花茎の先端に一つだけ『黄色い花を咲かせる』。『日本、朝鮮半島に分布する。浅い池によく見かけるが、流れの緩い小川に出現することもある。根茎が骨のように見え、コウホネ(河骨、川骨)の名の由来となっている』とある。属名「ヌーファ」はアラビア語由来で同種(の花)を指す語であるらしい。
・「投入れ」「抛げ入れ」とも書く。生け花で自然のままの風姿を保つように生けること。また、その花の意。室町末期に始まる。
・「立花たてばな」は「りつか(りっか)」と読んでもよい。花や枝などを花瓶に立てて生けることであるが、狭義には生け花の型の一つとして江戸前期に二世池坊専好いけのぼうせんこうが大成した最初の生け花様式をも言う。真とよばれる役枝を中央に立て、それに七つの役枝(七つ道具。真・え・受け(請け)・正真しょうしん・見越し・流枝ながし・前置きの七つ。のちに九つ道具となった)をあしらって全体として自然の様相をかたどったもの。現在、池坊に伝承されている。
・「蕣」双子葉植物綱ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil。因みに属名はギリシャ語の“ips”(芋虫)+“homoios”(似た)で、物に絡みついて這い登る性質に由来する。種小名“nil” はアラビア語由来で藍色の意。

■やぶちゃん現代語訳

 河骨こうほねと朝顔を生花とする際の水揚げ方法の事

 河骨は、投げ入れ又は立てばなにするにしても、水がなかなか揚がらず、生けても暫くするうちに、花の軸が傷み腐って、葉もまた萎んでしまうものである。
 とある華道を嗜まるる御大名のお話によれば、河骨を生けようと思う場合には、まず、軸に含まれている水分を十分に絞り出した上、一夜ひとよ、水に漬けおいたものを用いると、これ、しっかりと水が揚がって永く保つとの由で御座った。
 また一法には、河骨の軸へ、小刀で切れ目を數箇所入れて生け花にすれば、普通より永く保つ、とも仰せられて御座った。
 更に――朝顔は、活け花はもとより、垣根に咲いておるものでも、日が昇って光が射し始めると急速に萎んでしまう、大層、はかないもので御座る。
 昼より後の客の接待の際に、朝顔を生け花に致すというは、これ、非常に難しいことであることは言を俟たぬもので御座ろう。
 ところが、ここに一つの方法がある、と、さる御仁が話して呉れて御座った。
 それは、朝顏の花で明日は開くであろうと思しいものを蔓ごと採って、そのつぼみを濡れた紙にて包み、蔓と一緒に水に入れて、客が来たらんとする刻限に合わせて紙を取り除いて活ければ、これ、来客中にほどよく咲いて、午後であっても暫くの間は開花を保つことが出来るとのことで御座った。



 酒量を鰹によりて增事

 鰹魚かつををさしみに作り、盃の内に如形置かたのごとくおきて、さかづきより舌のごとくいだし候處へ聊燒鹽いささかやきじほおきて、右鰹の一ひらを食し、酒をのむに、魚味淡味にして格別に酒量をますと、人の語りぬ。

□やぶちゃん注 ○前項連関:これもまじないではない、美味い酒の肴であるわけだが、当時の性質としてはやはりまじないと変わらないものであったはずであるから、前項同様、強く連関すると言ってよいであろう。標題の「增事」は「ますこと」と訓じている。「お酒の販売と講座 静岡 丸河屋酒店」のHP内の「カツオ(ショウガ正油)といろんな酒類の相性1」及び「カツオの刺身とお酒の相性2 醤油を使わない場合」には、多様な酒類と鰹の相性を実験されておられ、誠に面白い。ご覧あれ。因みに私は……丸ごと一尾でも平らげてしまう鰹のたたき命男である。

■やぶちゃん現代語訳

 酒量が鰹によって増す事

 かつおを刺身に作って、さかづきのうちに普通にただ置いて――但し、一方の端を盃より舌のようにぺろっと出して、そこに少量の焼き塩をつけ置いた上、まず、この鰹の一片を食した後に酒を呑むと、魚味は全く以って生臭くなく、淡い味乍ら、これ、格別にその後の酒量を増すとのこと、さる御仁が語って御座った。


 商家豪智の事

 文化元年夏のはじめ、予がしれる者王子へまうでけるが、心地よき事を見たりとて語りぬ。王子の近所何屋とかいへる料理茶屋のありしが、かの所によりて酒食などせしに、町人壹人みせに腰かけて酒食抔せしに、程なく徒士かちていにていと無骨なるおのこ、是も彼酒店かのさかみせに來りしが、酒狂にやはなはだ法外にて、かの町人の腰の上をまたぎこし、あたりの人にかまはず、己が雪駄せつたを人の膳部へかゝるも不厭打いとはずうちはたきなどしけるが、彼町人と竝びて酒飮けるが、みだりにつばきはきなどして、彼町人をもつぱら目當に無禮のみなして、町人の方へ持出もちいづさかなやうのものをも、など町人づれよりは我にこそさきへ可持來もちいきたるべきとて奪ひなどせしを、彼町人はにが笑ひして一向不取合とりあはざりしが、暫くして彼町人、我等は疝氣せんき強く腹ひえて難儀につき、豆腐を熱く煮て、からしわさび抔つよくかけて出し候やう亭主に申付まうしつけ代料だいりやうを拂ひし故、早速調味して、いかにもあつくどんぶりにいれさし出しけるを、是は至極よろしきとて、箸にて一二口食し、彼どんぶりを手にもちて、右のわる者のあたまよりうちかぶせ、さわぎのまぎれにいづちへかはづしかへりしとなり。ともたちよりし者も、彼徒士體のもの最初よりの始末を恨み居ければ、誰ありて氣の毒といふものなく、いづれもよろこびしとかや。彼徒士は、熱物あつものをあたまよりかぶり、殊更からしわさびのからみに目口を痛め、葛醬油くずじやうゆにて全身を燒床やけどして、誰相手なければ、腹たつのみにてかへりしを、人々どよみ悦びしとや。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。非常に痛快な笑い話である。少し訳では遊ばさせてもらった。
・「文化元年夏のはじめ」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、四ヶ月ばかり前のホットな話題である。本巻は鈴木氏の執筆推定年が正しいとすると、クレジットの記された非常に新しい話題が特に目につくように思われる。
・「王子」現在の東京都北区岸町にある王子稲荷神社。徳川家康が王子稲荷・王子権現・両社の別当であった金輪寺に宥養上人を招いて以降、江戸の北地域では勢力をもった稲荷社であった。毎月午の日が縁日で今も賑わうと、参照したウィキの「王子稲荷神社」にあるから、このシークエンスの賑わいから見ても、四月の午の日の出来事かも知れない。……いや……もしかすると、この町人……縁日に、人に化けて浮かれ出た……お狐さまの……無法者へのお仕置きででも……あったのかも知れないな……面白いじゃん!
・「料理茶屋」岩波版長谷川氏注に、『海老屋・扇屋が有名』とある。
・「かち」徒侍かちざむらい。主家の外出時に徒歩で身辺警護を務めたりした下級武士。騎馬を許されないの謂いで、広く下級武士を指す。
・「疝氣」既出「耳嚢 巻之四」の「疝氣呪の事」の私の注を参照のこと。
・「葛醬油」醤油味の汁を煮立てた中に葛粉を溶いたものを混ぜた、とろみのある汁。長谷川氏注にはさらに、ここではその『豆腐に掛けてあり、葛で熱を逃がさぬので熱い』と、実に勘所を得た附言をなさっておられる。これぞ、注と言うもの!

■やぶちゃん現代語訳

 商家の者の豪快な頓智の事

 文化元年の初夏のこと、私の知人が、
「……先日、王子稲荷へ詣でましたところ、これ、まっこと、爽快な一場を見て御座った。……」
と語った話。

……王子の近所に、何とか屋とか申す知られた料理茶屋が御座るが、そこに立ち寄って、軽き酒食なんどを致しましておりました。
 同じ店内にはまた、町人ていの男が一人、やはり腰かけて、同じごと、酒食なんど致いておりました。
 そこに程のう、徒士体かちていの、これ、如何にも――臭って来るような不良なる男が一人――これも、かの酒店さかみせに来たって御座ったと思し召されい。
 これが、また、すでに一杯入っておる様子――所謂、酒乱の類いででも御座ったものか――これ、甚だ傍若無人の振舞いを致します。
 かの町人の腰の上をわざと理不尽にも跨ぎ越す。
 辺りの者にはまるで気づかいも致さず、おの雪駄せったを脱いでは、
――パン! パン! パパン!
――パン! パン! パパン!
と、これ、無暗矢鱈に打ち鳴らしは、そこから飛び散る砂埃が、人の膳へ舞い掛かるも平気の平左。
 そうして、その無頼の輩がまた、かの町人と並んで酒を呑み始めたので御座るが、これがまた、
――ペッツ! ペ、ペッツ!
――ペッツ! ペ、ペッツ!
と、濫りに唾(つばき)を吐きなど致いております。
 もう、何と申しましょうか、かの町人をもっぱらイビリの標的となし、無礼の限りを尽くすので御座る。例えば、町人が注文致いた酒の肴様なんどが運ばれ来たった折りにも、
「――なんじゃア?! 町人ごときよりは我れらにこそ、先へ持って来るが、筋じゃろうがア!」
おめくや、横から無理矢理、奪い取ったりなんど致す始末。……
 ところが、この町人、苦笑いを致すばかりで、これ、一向に取り合う様子も御座らぬ。
 まあ、あの荒くれようを見ては、これ、黙っておるしかあるまいと、我らも気の毒に横目で見て御座った。
 すると暫く致いて、かの町人、
「我らは疝氣せんきが強うて、ちょいと腹が冷えて難儀で御座るによって――一つ、豆腐をあつーく煮て――辛子や山葵わさびなんどをつよーく懸けたものを――これ、出して下さらんかのぅ、ご亭主?」
と、これ、特に注文を申し付けて、気前よう、前払いで代金も支払って御座った。
 されば料理屋の亭主も、早速に言われた通りのものを存分に調味致いて、
――これ、如何にも熱(あっ)つ熱つに、丼(どんぶり)に入れたものを――
差し出いて御座った。
 町人は、それが出されると、
「これは! これは! 至極、いい塩梅で、御座るのぅ!」
と……
――箸にて一口、二口摘まむ――
 如何にも熱く辛きが、その表情からも窺えました。
と……
……町人
……如何にも満足気に
……その丼を
……徐ろにゆっくら
……ゆっくらと
……両手で持ち上げたかと思うと
……かの不良侍の
……その頭に
――これ
――ズッポリ!
と、うち被せたから――たまりませぬ!
「フンギョエ! オ! エッツ! ウ! アッツ! アッツ! アツ! アッツツ!」
……もうもうと立ち上る湯気と
……だらだらと垂れる汁と
……それにまみれて
……かの不良侍めが――
――これ、馬鹿踊りをするように飛んだり跳ねたり!
……さても
……その騒ぎに紛れて、かの町人は何処いずこともなく、場を外して、立ち去って姿が見えずなって御座った。
 拙者を含め、その折りに、ともにかの茶屋に立ち寄って御座った者、皆、かの徒士体かちていの者には、これ、当初よりのおぞましき振舞いに、悉く恨みを抱いて御座ったれば、たれ一人として、気の毒がるものも、これ、御座らなんだ。
 拙者を始めとしてたれもが――まさに心の底より――快哉を叫んで御座ったように見受けられ申した。
 さても、かの徒士は、あつものを脳天より深々とかんむりの如く被って御座ったゆえ……また、殊更に辛子やら山葵やらの、極めつけの辛味によって……目や口をさんざんに痛めるわ……また、しっかりと熱を持ったところの、ねっとりべたべたと、へばりついたるあつあつのくず醬油にて……これ、総身そうみ火傷やけどを負うわ……されど……やはり、たれ一人、これ、可哀そうに思う者も……介抱致す者も……とんと、御座らぬ。
……ただ……男の……火傷で真っ赤になって腫れあがった唇から、言葉にならぬ腹たち紛れの言葉が発せらるるばかり。……ところが、これがまた、
――ヒョエッフホフ!
とか、
――ヒェ、ヒェイトゴロヒー!
とか、
――ヒクシャフメム!
とか、どこぞの南蛮の言葉の如、訳も分からぬ物言いなれば……
……またしても一同、どっと笑って御座るうち……
……火傷の痛みに堪えかねたもので御座ろう……
……尻をからげて尾羽打ち枯らしてからに……
ほうほうのていにて、逃げるように帰って行きました。
……さればこそ! はい! それでまた、我ら、どっと、どよんで……いやぁ、もう、誰も彼もが、心底、悦に入って御座いました。はい!……



 譯有と言しも其土俗の仕癖となる事

 京都にては盆中に表毎に燈籠を三十日の間とぼす事なり。これ明智光秀、京都の地子ぢしをゆるす事ありしを、彼土かのどのもの嬉敷うれしき事に思ひて、明智滅亡の後、追善の心得にて七月中燈籠を門へつるすとや。大阪にて五月ののぼりを、市中に節句の四つ時分迄に不殘取仕𢌞のこらずとりしまふ事の由。是は大阪にて、秀賴落城城攻しろぜめの事、五月節句に當りし故、小兒など幟沙汰のぼりざたにもあらず、又おつて追善を思ふ故と、昔はいひしが、今日はかゝる譯もなく、盆燈籠、京地にて七月中家々にともし、(大坂にて)五月の幟も五日の晝は仕𢌞ふ事になりて、自然と其風土の仕癖しくせなりしと、度々上方へゆきし人のかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。民俗学的要素を持ちながら、考現学的にも鋭い知見である。但し、この習慣が現在も京都や大阪の市中で守られているかどうかは知らない(後者は守られていない可能性が強いと推測する)。また逆に、一部のネット記載には近世の京都・大阪・江戸では盆灯籠を盆月が終わっても八月三日まで灯し続ける風習があったともある(HP「盆踊りの世界」のここの記載)。もし、ここに書かれていることが守られているという地域や御仁があられれれば、これ、是非とも御教授乞いたく思う。
・「譯有と言しも其土俗の仕癖となる事」は「わけありといひしもそのどぞくのしくせとなること」と読む。岩波版長谷川氏のルビでは「わけある」と振る。
・「(大坂にて)」底本では右に、『(尊經閣本)』からの補填である旨の注記がある。
・「明智光秀」ウィキの「明智光秀」の「人物・評価」の項に『光秀は信長を討った後、朝廷や京周辺の町衆・寺社などの勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び丹波国に、地子銭(宅地税)の永代免除という政策を敷いたこれに対し、正親町天皇は、変の後のわずか』。七日の間に、三度も『勅使を派遣している。ただし、勅使として派遣されたのは吉田兼見である。兼和は、神祇官として朝廷の官位を受けてはいたが、正式な朝臣ではなかった。こうしたことから、光秀が得た権威は一時的なもので、朝廷は状況を冷静に見ていたと考えられる』とある。地子銭(「じしせん/ちしせん」)とは領主が田畠・山林・屋敷地などへ賦課した地代をいう。岩波の長谷川氏注では地子の注に『市街地の宅地税』とある。
・「四つ時分」午前十時頃。
・「秀賴落城城攻」大坂夏の陣での大阪城落城は慶長二〇(一六一五)年五月八日の朝(前日深夜より火の手が上がっているため、記載によっては五月七日陥落とする)。

■やぶちゃん現代語訳

 訳有りとは言うもののそれぞれ由来が忘れられ単なる土俗一般の仕癖しぐせとして認識されるに至る事

 京都にては、盆の間は家ごとに燈籠を三十日の間、ともすことと相い成ってなって御座る。
――これは、かの明智光秀が、本能寺の変ののち、京都の地子銭じしせんを免除致いたことがあったを、かの土地の者どもが、甚だ嬉しきことと思うたによって、明智滅亡の後も、その追善の思いを込めて、七月中は燈籠を門へ釣るすとか申すことで御座る。
 また、大阪にては五月の節句の幟りを、市中にあっては、これ、なんと、五月五日の節句の当日、早くも四つ時分までには、残らず降ろして、しまいおいてしもう、との由。
――これに就きては、大阪夏の陣の大阪城攻めに於いて、豊臣秀頼公の籠城なされた大阪城落城は、これ五月七日八日なぬかようかの、まさに五月の節句に当たって御座ったゆえ、小児なんどの幟りの沙汰どころでは御座らなんだ――また、おって秀頼公追善の意も含んで御座ったものか――と、昔は言い伝えて御座ったと申す。
 しかし、今日こんにちでは、このような意味、分かってそうした仕儀が行われておるという風にては、これなく、ただただ、仕来しきたりとして、
――盆燈籠は、京都にては七月中一杯は家々に燈すもの
――五月の幟りは、大坂にては五日の昼にはしもうてしまうこと
となっておる由。
 自然、その土地の、あたかも遙かに遠い昔からの、自然な仕方の型癖と相い成って御座る。……

 以上は、たびたび上方へと参る御仁の語って御座った話である。



 幻僧奇藥を教る事

 小石川寂圓寺の住僧の坊守の里なる、くらやみ坂の由、寺僧等の名もききしが忘れたり。※症にて言舌不分わからず[やぶちゃん字注:「※」=「疒」+「中」。]、手足やまへてなやみ、五年ほど以前なりしが、百計醫藥すれども其しるしなし。或夜ねむりさめしに、雨戸少しあきし所より、たけ六尺ばかりの僧たちいりて、汝が病ひ難儀なるべし、是をせんと思はゞ、千葉の賣藥を用ひば快氣するべしといひしが、右は小兒の藥なれば、中症ちうしやうにしるしあるべしとも思わざるに、(かの僧は元の處より出行いでゆき、心にも不止とどめず一兩夜すぎしに、又ある夜)彼僧來りて、汝わがまうす處を疑ふや、呉々くれぐれ千葉藥ちばがくすりを調へのむべしと憤り叱りしゆゑ、心得しと答へぬれば、又元の所より立出たちいでしが、跡をしたひて見ければ、庭の内に少しの石垣ありし所にてかたちを見失ひぬ。さて捨置すておくべきにあらざれば、人して千葉がみせへ至り藥をもとめ、此藥は小兒のみの藥やと尋けれは、小兒のみならず老人などは用ひて功ありと云へるゆゑ、害もあらざらんと彼藥を用ひしに、果して其功を得、物言ひも追々あひ分り、歩行も一里斗りの所は杖によりてゆき通ふ樣になりし由。文化元子年四ぶんかがんねんねの五月は、また煩付わづらひつきて、此度はとても活間敷いくまじきと、彼寂圓寺の旦緣だんえんなる人語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。天狗のような妖僧に纏わる都市伝説の類いであるが、実際に市販されている薬物を用いている点が特異で、これは一種の宣伝効果を狙ったその薬種屋がちゃっかりでっち上げた、小児薬が老人性疾患にも効果があるという噂(但し、実際に効いた可能性もプラシーボ効果を含めて否定は出来ない)なのかも知れない。各種の薬物・健康食品・サプリメントの流行る現代にあっては、我々はこの話を荒唐無稽と笑い飛ばすことは、これ、出来ぬ。
・「教る」は「をしふる」と訓ずる。
・「寂圓寺」東京都文京区白山に現存する浄土真宗東本願寺派法輪山寂圓寺(現在も「圓」と書く)。寛永一二(一六三五)年に将軍家光の代に三河の武家衆の檀信徒によって神田緒弓町組屋敷内に開基されたが、貞享五(一六八八)年に幕命により小石川原町の現在位置に移転した。万延元(一八六〇)年には町衆も合わせて檀信徒は三百人に達した(以上は「寂圓寺」公式HPに拠った)。
・「寂圓寺の住僧の坊守の里なる、くらやみ坂の由」底本には左に傍注して、『(專經關本「寂圓寺の僧くらやみ坂のよし」)』とある。「坊守」は坊主と同じであろう(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『坊主』である)。「くらやみ坂」は寂圓寺直近では文京区白山五丁目の暗闇坂であるが、「坊主の里なる」が必ずしもここに同定出来ない微妙なところではある。岩波版長谷川氏注には「江戸の坂東京の坂」『に別称を入れて十二箇所をあげる』とある。しかし、ここは文脈から寂圓寺の位置を述べたともとれないことはない。現代語訳はそう採った。
・「※」(=「疒」+「中」)は「廣漢和辭典」にも所収せず、不詳。文字面と後文にある「中症」及び言語障害や四肢の運動機能障害(但し、これは末梢神経障害と私は見る)からは中風若しくは中風様の症状を指すかと思われる。
・「千葉の賣藥」底本の鈴木氏注は、『中橋の千葉家で売った婦人血の道の実母散のこと。千葉ぐすり』とあるが、岩波版長谷川氏注は、『四谷塩町の千葉の小児丸。小児五疳の薬』とされる。どう考えても長谷川氏に軍配が挙がる。
・「痒へて」「痒」は「やむ」(病む)と訓ずることが出来る。
・「(彼僧は元の處より出行、心にも不止一兩夜過しに、又ある夜)」底本には左に『(尊經閣本)』からの補填である旨の傍注がある。
・「庭の内に少しの石垣ありし所にてかたちを見失ひぬ」の部分、その石垣をアップにして仔細を語らないのが惜しい。そこにこの妖しい僧の正体を説く鍵があったかも知れないのに。残念至極! その方が都市伝説としては面白くなること請け合いであるから、この辺りにこそ逆に、本話が単なる都市伝説なのではなく、まさに「千葉の小児丸」の販売促進策の一環であった疑いを濃厚に感じさせるのである。
・「文化元子年四ぶんかがんねんねの五月」読みは私の勝手な推測である。文化元年甲子かのえねは西暦一八〇四年で、二月十一日に享和四年から改元した。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、またしても二ヶ月前の出来たてほやほやのアーバン・レジェンドということになる。

■やぶちゃん現代語訳

 妖しい僧が奇薬を教えた事

 小石川――かの暗闇坂近くの――寂圓寺の住僧の体験したことと申す(その寺僧などの名も聞いて御座ったが、残念ながら失念致いた)。
 この僧、中風の症状が出でて、その言語も不明瞭、手足も病んで不自由となって御座った。
 その発症は五年ほど以前に遡る。あらゆる施術・療治・投薬を試みてはみたものの、その効果は全く見られなんだと申す。
 ところが、ある夜のこと、かの僧、ふと眠りより醒めたかと思うたところが、僧坊の雨戸が少し開いており、そこから身の丈け、これ、六尺ばかりもあろうかという、一人の奇怪な僧が僧内へと立ち入って参り、
「……汝が病いはこれ、難儀なることであろう――これを治癒せんと思はば――これ、千葉の売薬を用いたならば――瞬く間に快気するであろうぞ。……」
と告げて、元のせばっこい雨戸の隙から出でて行ってしもうた――と思うた――ところで本当にめえが醒めた、と申す。
[根岸補注:後に僧は、この時、内心にてはその告げられた薬が知られた小児の万能薬であってどう考えてみても中風に効こうとは思われなかった、と述懐したと言う。]
 僧は、
「……おかしな夢じゃ。」
と心にも止めず、一両日が過ぎた。
 が、またしてもある夜、かの僧が来たって、
「……汝、我が申す謂いを、これ、疑うかッ!――くれぐれも! 千葉が薬を買い調えて飲まずばならずッ!!」
と、これ、ひどく憤って叱りつけたによって、
「……こ、心得まして御座るッ!……」
と、平身低頭致いて肯んじたと申す。
 妖僧はまたしても、例の雨戸の隙まより立ち出でていんだが、かの僧、こっそりとその跡をつけて見たと申す。
 ところが、庭内――ちょっとした石垣が御座ったが、そこ――で姿を見失うしのうてしもうたと申す。
 さても、かくなっては捨て置くわけにも参らずなったによって、足も不自由なれば、人に頼んで千葉の薬種屋へと行って貰い、かの「小児丸」を買い求めたが、その際、使いの者が、
「この薬は小児にのみ薬効のあるものか?」
と訊ねたところが、番頭の曰く、
「商標と致しまして『小児丸』と名打っては御座いまするが、これ、小児のみならず、老人などが用いましても十分に効が御座います。」
と請けがったゆえ、それを又聞き致いたかの僧も、
「……まあ、小児の薬なれば、害もあるまいて。」
と、かの薬を服用致いたと申す。
 すると、果して、自分でも吃驚するほどの効果が得られ、かつては発声の不明瞭さゆえに、ようわからなんだ、その物言いも、これ、おいおい、誰にもよう解るように相い成なって参り、また、歩行の方も、これ、一里ばかりの所ならば杖を用いて行き通えるほどになったと申す。
[根岸補注:但し、文化の元年の四、五月頃からは、また患いついて、今度ばかりは、残念ながら救命は難しかろう、との話であった。]
 以上は、私根岸の補注情報も含めて、寂圓寺の檀家で御座る御仁の直談で御座る。


 武勇實談の事

 戰國をさまりて太平になり候頃迄長生ちやうせいせし老人、〔此老人の名も聞きしが思ひ忘れたり、ただしの上おつ申聞まうしきけんと川尻子言し いひぬ。〕集會雜談の節、年若き輩、戰場に出て功をなさん事を狂じ語りければ、かの老人笑ひて、それは大き成了簡違なるちがひ、我等は數度戰場いくさばにもいでけるが、中々恐ろしくて、兼ての心懸けは出來ぬものなり、我等或日軍さに、伏勢ふせぜいの中に組入くみいれられて草高き林の内に埋伏まいふくなせしが、其時の心には、哀れ敵此道をばすぎざれかし、遙かに馬煙うまけむり見ゆる頃は、彌恐敷いよいよおそろしく、此度の合戰すみ候はゞ武士をもやめ候程に思ひしが、敵兵通りすぐる頃、合圖有之候これありさふらふて打出るに至り候ては、左程怖敷おそろしくも思わず、味方の馬にふまれ打物に當りて討死の數に加はるもありしが、其に至りては何とも思はず、籠城にも數度かゝりしが、是もふたゝび武士には成間敷なるまじきと思ひつめし事もありしが、戰散いくさちりし後は、又さふらふ氣も失せぬと、語りし由。左も有べき實情の物語りと、聞しまゝ記しぬ。彼老人の物語りに、我おくしたる心底ゆゑ、かくもあるべしと思われんが、其節同輩のもの、何れも同樣なりしと、語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。久々の、まさに題名通りの強烈なリアリズムを持った武辺譚である。
・「〔此老人の名も聞きしが思ひ忘れたり、糺の上追て申聞んと川尻子言ぬ。〕」は珍しい本文の割注である。なお、「申聞ん」を「まうしきけん」と訓じたが、これはカ行下一段活用の動詞「申し聞ける」(現在使用されるサ行下一段動詞「申し聞かせる」と同義)の未然形「申し聞け」に意志の助動詞「む」がついた「申し聞けむ」である。岩波版で長谷川氏も『申聞きけん』と読んでおられる。「川尻子」は恐らく、後の「古佛畫の事」に出る川尻春之はるのであろう。当該項の注を参照されたい。
・「憶」底本では右に『(臆)』と正字注を附す。

■やぶちゃん現代語訳

 武勇実談の事

 戦国の世が治まり、太平の世になって御座る頃まで長生致いておった、さる老人〔根岸割注:「この老人の名も訊きおいたので御座るが、失念致いたによって、仔細を再度質いた上、おって御報告致す。」とは、本話の話者である川尻氏の言である。〕、とある集まりにて雜談致いた折り、中におった年若き輩が、
「戦場に出でて功をなしたいものじゃ!」
といったことを、頻りに熱く語って御座ったところが、かの老人、軽くわろうて、
「……それは、大いなる了簡違い。……我らは数度、戦場いくさばにも出でて御座ったが……なかなか。……恐ろしゅうて、かねての猛き心懸けなんどは……実際には奮い立たすこと、これ、出来ぬもので御座る。……
……例えば……我ら、ある日の戦さに、伏せぜいなかに組み入れられ、草深き林の内に埋伏まいふく致いて御座ったが、その時の心持ちにては、
『……ああっ! どうか! 敵の……この道をば過ぐること! これ、御座らぬように!……』
と深く念じ……遙かに馬煙うまけむりの見えた頃には……もう、いよいよ恐しゅうなって、
『……このたびの合戦だに済み申した上は……我ら……武士をも、やめんとぞ思う!……』
とまで決して御座った。……
……が……
……敵兵が通り過ぐる頃、合図のこれあり候うて、鬨上げて打ち出でた、その瞬時には……これ、さほど……怖しいとも感ずることのぅ……
……味方の馬に踏まれたり……
……同胞の打ち物に当たって、これ、惨めな討ち死にの……
……無益なる数に加わった朋輩も……これ、多く御座ったれど……
……そのに至っては……
……これ、恐ろしいとも哀れとも……
……何とも……
……思わず御座った、の……
……さても……おぞましく苦しき籠城をも、これ、幾度か致いたが……
……この折りも、
『二度とは武士には、これ、なるまい!』
と、その都度、思いつめたこと、これやはり、御座った。……
……が……
……戦さがさんじたのちは……これまた……武士をやめんとぞ思う気持ちも、これ、とんと、失せて御座ったよ。……」
と、語ったと申す。

 以上は、さもあらんと感ずるところの、実情の物語りと、私、川尻氏より聞きしままに記したものである。
「……かの老人のあまりにも生々しき物語りに、我ら、気後れ致いて……その心底ゆえ、かくも、もの凄きものと感じ申したのであろうかとも思われはしまするが……その折り、同座致いて御座った朋輩の者も……これ、何れも、老人の話の終わった後は……同様に押し黙ってしもうて、御座いました。……」
と、川尻氏は最後に言い添えて御座ったことも記しおくことと致す。



 有馬家畜犬奇説の事

 松平丹波守家法に、金瘡きんさうを治する奇藥あり。俗に手引ひてかずと云る油藥なり。手をひかざる内に、平癒するといふ事なり。或時有馬玄蕃頭げんばのかみ事、丹波守亭へ來り、物にあたりてぬかとか損じ候を、亭主氣の毒に思ひてかの藥を付しに、たちまちいえて跡なきが如し。これによりて、玄蕃頭、頻りに其法を懇望せしが、家に傳へる祕藥にて、當時製するにもあらず、數年貯置たくはへおきし品也といなみしが、武家は戰場などにて尤可貯もつともたくはふべき奇藥、身上しんしやうにかへても望みなりと切にこひ候故、然上しかるうへはいなむべき樣もなし、其法は、狐を藥を以飼立もつてかひたていきながら藥に和して、油をもつて煎りたつる藥の由。有馬是をききて、いと安き事なりとて、早速領分へ申付まうしつけ、狐を捕へ、法の如く藥りを仕立したて給ひしと也。彼狐の魂魄なるか又は其狐の餘類なるや、其頃より居間へ日々夜々狐出て、百計なせども不去さらず依之これによつて犬を飼置かひおきて、居間又は寢所近く差置さしおけば、狐妖さらになし。是によつて、引續ひきつづき右家にては犬を飼置、とのゐ等今もつてなす事の由。實事なりや、人の語るに任せてかきとゞめぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:実戦心得から実戦用金瘡秘薬で武辺譚連関。薬譚でその前の「幻僧奇藥を教る事」とも連関。但し、この話柄は後半の妖狐譚にこそ主眼がある。
・「松平丹波守」戸田(松平)光慈みつちか(正徳二(一七一二)年~享保一七(一七三二)年)。享保二(一七一七)年に六歳で山城淀藩主となる。志摩鳥羽藩を経て、享保一〇(一七二五)年、信濃松本藩主六万石、戸田(松平)家第六代(第二次初代)となって同年十二月十八日に従五位下丹波守に叙位任官しているが、その七年後に享年二十一歳で夭折した(以上の記載は講談社「日本人名大辞典」及びウィキの「松平光慈」を参照した)。同人同定は岩波版の長谷川氏の注によった。注意されたい。この時、彼は、
十三~二十一歳
である。
・「手引ひてかず」の読みは、岩波版の長谷川氏の読みに従った。
・「有馬玄蕃頭」有馬則維のりふさ(延宝二(一六七四)年~元文三(一七三八)年)。筑後久留米藩第六代藩主。久留米藩有馬家第七代。宝永三(一七〇六)年に久留米藩主有馬頼旨の末期養子となって遺領を継承、同年末に従四位下玄蕃頭に叙任され(後に侍従)、正徳三(一七一三)年に初めてお国入りの許可を得ている。参照したウィキの「有馬則維」によれば、『藩主となってからは改革に努めた。当時の藩は財政が悪化しており、則維は役人の整理や実力による官吏の登用や倹約によって財政を立て直そうとした。また、家老の合議体制を弱め藩主の実権を強化した』とある。戸田光慈とは孫ほどの、三十八もの年齢差がある。この時、彼はなんと、
五十一歳~五十九歳
となる。イメージする二人には気をつけなくてはなるまい。老いを迎えた往年の古武士とさわやかな青年大名のシークエンスである。さらに、「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、本話は七十年以上も前の、ひどく古い都市伝説である(だからこそ最後に最早検証不可能な「實事なりや」という附言があるのであろう)。

■やぶちゃん現代語訳

 有馬家に於いて畜犬致すことに纏わる奇説の事

 松平丹波守殿に伝わる家法に、金瘡かなきずする奇薬があり、通称「手引ひてかず」という油薬で御座る。これは、「手を引かざるうちに平癒す」という謂いで御座る。
 ある時、御大おんたい有馬玄蕃頭則維げんばのかみのりふさ殿が、若き丹波守光慈みつちか殿の御屋敷をお訪ねになられた折り、御自身の不注意にて、ちょっとした物にぶつかられ、おひたい辺りででも御座ったか、御怪我なされた。
 亭主丹波守殿、自邸での事故なればこそ、痛く気の毒にお思いになられ、即座に、かの家伝の秘薬を申し付けて出ださせ、お塗り申し上げたところ、忽ちのうちに愈えて、これ、傷跡さえも、殆んど見えぬようになったと申す。
 これを見た玄蕃頭殿、
「――是非に!」
と頻りにその製法を懇望なされたが、丹波守殿、
「……家に伝える秘薬にて御座れば……実はこれも、近年実際に製したものでさえ御座りませぬ。……先代より数年の間、貯え置いた品にて御座れば……」
と難色を示されたが、玄蕃頭殿、
「武家にては、これ、戦場などにて、もっとも常備しておかずんばならざる奇薬で御座る! この老いたる我が身上しんしょうに代えても! これ、御伝授、望みなり!」
と、口上を切ってまで乞われたによって、
「……御大より、かく願われては、否みようも、これ、御座いませぬ。……さても、この製法は――狐を――まさにこの薬を以って飼いおいて育て――相応に成長致いたところで、その狐を生きながらに――これ、やはり、この薬に和して――大鍋に入れ込み――油を以って長々――煎り続けて――出来まする薬に……御座いまする。……」
との子細な伝授をなされたと申す。
 有馬殿、これを聞くや、
「それは! いと安きことじゃ!」
とて、自邸に戻らるるや、早速、領分であられた筑後は久留米の在方へと申し付けられ、狐を捕えて、伝授された法の如、かの秘薬を調合なされたと申す。
……ところが……
……その犠牲となった狐の魂魄なるか……
……はたまた……
……その生きながらに煎られて死んだ狐の……
……身内のものなるか……
……その頃より……
……玄蕃頭御屋敷の……
……その居間へ……
……これ……
……昼日中ひるひなか夜分を分かたず……
……狐が……
……出でて……
……これ……
まじないやら供養やら祈禱やら……
……如何なる法を尽くしても……
……全く以って……
……妖狐の気の立ち去る気配……
……これ……
……御座ない。――
 さればこそと、複数の犬を飼い置いて、居間または寝所近くにさし置いたところ――狐妖、これ、一切、なくなったと申す。
 それ故、例の秘薬をやはり伝家と致いた有馬家におかせられては、引き続き犬を飼い置いておくことを家訓と致いて、宿直とのいなどの折りには、今以って、居間・寝所に犬を配されておらるる由。
 以上の話、実話であるかどうかは、これ、幾分、眉唾の気も致すが、人の語るに任せて、ここに書き留めておくことと致す。



 疵を直す奇油の事

 木挽町こびきちやうに西良忠といへる外科がいりやうあり。かのものは、予が許へも來りぬ。小兒などのいさゝかの怪我はいふにも不及およばず瑾瘡きんさう類も、まづ綿にてひたせし油藥を附るに、其功いちじるし。其事を心易こころやすきものへ良忠かたりけるは、去る諸侯の奧へ療治に至り、早速快氣の功ありし後、彼病人全快を悦び、年久しく貯へ置く油藥あり、用にもたつべくは、用ひ見らるべしとて給りぬ、依之これによつて瑾瘡其外にこころみるに即功の妙あれば、今に貯へて其功を得たり、良忠は老人なるが、悴が代までは用ひ相成るべし、其後は此藥たえもせんが、法をしらざればせんかたなしと語りぬ。良忠も今存生ぞんじやうなり、悴も年若なれば、永く療治をなすべし。彼者の家にかゝる藥ある事しらば、ひとつは益あるべき事と、爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:金瘡(刀傷、切り傷。「瑾瘡」は同義)の妙油薬二連発。時に……私は何かの古い記載の中で、人間(死罪となったものなどの遺体から採取する)の脂を用いた油薬の話を読んだことがある。この薬も狐どころか……なんどという想像を逞しくしてしまう私がいる……
・「木挽町」東京都中央区銀座にあった旧町名。木挽き職人が多く住んだことに由来する。江戸時代の劇場街でもあり、現在も歌舞伎座があり、歌舞伎座の通称を現在も木挽町と言う。木挽き職人ならば、これ、金瘡とも縁がある。
・「西良忠」不詳。ここまでは登場したことがない。気になるのは「心易ものへ良忠かたりけるは」の部分で、彼は根岸宅へのも出入りするが、以上の油薬の由縁は根岸が直接聴いたものではない点である。彼は必ずしも根岸と親密ではなかったということか。それとも、実は親密で本話も根岸が直接西から聴取し、後年の倅の代まで繁昌することを狙って根岸が意図的に伝聞として書いたものか。何となく後半部の如何にも歯の浮いたような書きざまを見ると(根岸らしくない、なんだか迂遠な言い回しであるように私は感じる)、そんな臭いがぷんぷんしてくるぞ。【二〇一三年十月十七日追記】後の「耳嚢 巻之七 人の齒にて被喰しは毒深き事」にこの西良忠は再登場していた。そこにははっきりと『予許へ來る外科西良忠語りけるは』とまた書かれてあり、しかも『文化寅の年八十七歳に成る老醫』とある。リンク先の私の注を参照されたい。
・「用ひ見らるべし」底本「用ひ見らべし」。訂した。脱字とも、「みらるべし」の書写の誤りとも考えられる。

■やぶちゃん現代語訳

 疵を治すしきあぶらの事

 銀座は木挽町に西良忠という外科がおる。彼の者は私の元へも出入りして御座った。
 実見致いた限りでは、子どものちょっとした怪我は言うに及ばず、刃物などの切り傷にも、ただ、綿に浸した伝家の油薬あぶらぐすりを貼り附けただけで、これ、効能著しいもので御座った。
 その薬に纏わる話として、気安くして御座る知音ちいんに良忠自身が話したことには、
「……ある諸侯の奥向きへ療治に参った際、たまたま、施術するや、瞬く間に全快致いたことが、これ、御座ったが、病人、この予想だにせぬ全快をいたく悦び、
『――実は、当家に於いて長年蓄え置いておる油薬が、これ、ある。貴殿の療治の役に立つと思うなら、一つ、用いてみらるるがよかろう。』
との仰せによって賜わって御座ったが、この薬で御座った。
 されば刀や刃物傷その外の外用薬として治験致いて御座ったところが、これ、即効の妙なれば、こうして現在も貯えて、かくも絶妙の治療効果を得て御座る。
 拙者良忠は老齢で御座るが、倅の代までは、これ、使用致すに足るだけの分量は未だ御座るが、さても、その後は、この薬も底を尽きましょう。
 ……はい?……いや、残念ながら製法は存ぜぬゆえ……こればかりは、致し方のう御座る。……」
と述懐致いたと申す。
 但し、文化元年七月現在、良忠は健在である。
 倅も未だ年若なれば、二世良忠を継いでも、これ、長く療治に従事致すことと存ずる。
 さても、かの西良忠が医家に、そのような特効薬があることが広く知られておれば、これ、大いなるえきともならんかと思い、ここに記しおくことと致いた。



 犬の堂の事

 烏丸からすまる光廣卿の狂歌とて、人のかたりけるは、
  はるばるといぬの堂より見渡せば霞か船の帆へかゝるなり
といへるが、犬の堂といへるは、何所なりや不知過しらずすぎにしに、予がしれる何某なにがし、大和𢌞めぐりして物語りに、丹後の成合なりあひ最寄もよりに、犬の堂といへるあり、かの所にかひ置ける犬、主人の病氣重き節、觀音へ日々參りて主人の病はいえぬ、依之これによつて彼家にて、右犬を愛養して、たふれのち右の處にうづめ、堂抔たてゝ、いつとなく犬の堂と唱へしが、年を經、今も犬の堂とて、海上を見渡し絶景の場所のよし。彼是考合かれこれかんがへあはすれば、光廣卿の歌も、此犬の堂をよめ興歌きようかなるべしと、しられたり。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせないが、二つ前の「有馬家蓄犬奇説の事」と犬譚で連関。狂歌シリーズ。根岸殿はかなり狂歌がお好きと見える。彼自身の詠んだものもきっとあったに違いないのだが。
・「犬の堂」現存しない。現在の京都府宮津市杉末すぎのすえにあった。戒岩寺(げんざいの呼称はこれであるが、岩波版長谷川氏注には『海岸寺』とあり、Kiichi Saito氏のHP「丹後の地名・資料編」の「杉末(すぎのすえ) 宮津市」に引用する「宮津府志」の引用では確かに『海岸寺』とある。)個人のHP「犬の伝説を訪ねて」の「犬の堂」に、見やすい画像があり、その宮津市教育委員会の解説プレートには(「杉末(すぎのすえ) 宮津市」に引用されてあるものを、「犬の伝説を訪ねて」の「犬の堂」の画像で視認して校訂した)、
   《引用開始》
 ここに建つ一基の碑は延宝六年(一六七八)時の宮津城主永井尚長なおながによって建てられたもので、碑文は江戸の林 春斎(羅山の子)の作である。
 昔、波路はじ村戒岩寺が九世戸文殊堂を兼管していた頃、一匹の賢い犬が毎日両寺の間を往来して寺用をたしていた。ところが年老いてその犬が死んでしまったので、僧は犬を憐れんでここに堂を建てて弔い、犬の堂と呼んだ。以来年が経って堂も壊れたので修復して、同時にこの碑を建てたという次第である。
 この小丘は虎が鼻といい、宮津から文殊などへ行く道はこの山の尾の上を通っていた。碑も丘の上にあった。かつてはここは天橋立の眺望の場所でもあった。犬の堂という呼称は近世初頭には既にあって、細川時代(一五八〇~一六〇〇)の記録類にも散見する。「細川家記」によれば細川幽斎がここに小亭をいとなみ、犬の堂と名づけて
  犬堂の 海渺々と ながむれば
    かすみは舟の 帆へかかるなり
と詠んだといい、その子忠興は慶長五年(一六〇〇)十二月九州へ移封の途次、宮津を去るに際し、ここを通る時
  立別れ まつに名残は をしけれど
    思ひきれとの 天の橋立
と詠んだという。
                宮津市教育委員会
   《引用終了》
とある。この戦国大名で歌人としても知られた細川幽斎(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)の和歌、本歌に酷似する。烏丸光広は幽斎の和歌の弟子であり、以上の教育委員会の記載から見ても、この歌は実は幽斎が真の作者であろう。
「烏丸光廣」(天正七(一五七九)年~寛永一五(一六三八)年)は安土桃山から江戸初期の公卿で歌人。権大納言。細川幽斎に和歌を学び、古今を伝授されて二条家流歌学を究めた。歌集に「黄葉和歌集」。俵屋宗達・本阿弥光悦などの文化人や徳川家康・家光と交流があった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「はるばるといぬの堂より見渡せば霞か船の帆へかゝるなり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 はるばるといぬの堂より見渡せば霞は船の帆へかゝるなり
と載る。「へかゝる」は犬が「吠えかかる」に掛ける。
・「成合」現在の宮津市成相寺。天橋立を南方直下に見下ろす成相山の中腹には西国三十三所第二十八番札所の真言宗成相山成相寺なりあいじが建つが、ここの本尊は聖観世音菩薩である。本文、直線距離では五キロメートルほどであるものの、海を挟んだ対岸であり、今の感覚では「最寄」という謂いはややおかしく感じられる。しかし、そんなことはどうでもよい。実はどうも、この犬が日参したという「觀音」とは、この成相寺の本尊聖観世音菩薩であるように読めるのがいい。日々、天橋立を一匹の犬が主人の病平癒のために往復する姿をイメージすると、何だか、涙腺が緩んでくるではないか。
・「海上を見渡し絶景の場所」犬の堂は天の橋立から南東へ約二キロメートル強離れた宮津湾湾奥の東方の海岸に位置する。

■やぶちゃん現代語訳

 犬の堂の事

 烏丸光廣からすまるみつひろ卿の狂歌とのことで、人の語って御座った歌に、
  はるばるといぬの堂より見渡せば霞か船の帆へかゝるなり
というものが御座ったが、この「犬の堂」というは一体、何処いずこにある如何なるものであろうか、訝りつつも、ついつい調べずに済まして御座ったが、この度、私の知人の何某なにがしなる者、大和めぐりを致いて、その帰府後の物語りに、
「……丹後の成合なりあいの最寄りに、『犬の堂』と申す御堂みどうが御座っての。……これは何でも、その辺りの者の家に飼いならいておった犬が、主人の病気の重き折柄、畜生の分際ながら、観音へと日参致いたと申す。……さても、主人の病、これ、愈えたによって、かの家にては、その犬をいつくしみ養のうて、そののちに、犬が亡くなったあと、かの――日々犬が渡って行った天の橋立と、参ったところの成相山なりあいやまの見ゆる所に埋葬の上、堂などをも建立致いたと申す。……そうして何時とはなく、これを『犬の堂』と唱うるようになって御座ったとのことで御座った。……年を経ても、なお今も『犬の堂』と称し、これ、海上遙かに天の橋立と成相山を見渡して、まっこと、絶景の場所にて御座った。……」
とのこと。
 以上を考え合わすると、光廣卿のこの歌も、この「犬の堂」を詠んだところの、少し軽く興に乗ってお作りになられた和歌ででもあったのであろうと、推察致すもので御座る。



 陰德子孫に及びしやの事

 泉州堺にて和泉屋喜兵衞といへる、延享の頃專ら富饒ぶねうにて、慈悲ある商人なりしが、日々鳥屋より雀一羽づゝ調へ放しけるが、其心正しきもの故、彌家富榮いよいよとみさかへけり。其子喜兵衞は親に似ず放蕩ものにして、遊興に金銀を失ひて、あまつさへ娘ばかりにて男子もなかりしに、或日表を浪人の乞食、謠ひをうたひしをきくに、其音聲おんじやうはさらなり、なかなか一通りのうたひにあらずと感心して、今一番うたふべしと望しかば、其もとめに應じて諷ひけるを、いよいよ感心して、爾は生れながらの乞食にはあるまじ、昔は相應のものなるべしと尋ければ、答へていへるは、成程親々は相應にくらしけるが、遊興に身を持崩しかゝる身分になりしとかたりし故、喜兵衞いへるは、我に男子なければ、聟にいたすべき間、親元を名乘なのり候樣申けるが、親を名乘り候事は幾重にもゆるし給へとて、せちに尋けれどかたらず。是をききて、家内手代などもつての外の事なり、穢多非人かもしれずと諫めあらそいしが、彼喜兵衞、生得滅法界者しやうとくめつぱうかいものにや曾て不用もちゐず引留ひきとめて手前に養ひしが、家事の取斗とりはからひ、商ひの道はまうす不及およばず、老親への孝行、聊か申分まうしぶんなく、或日手代召連めしつれて大阪へ下りしに、江州がうしう彦根布屋といへるものゝ手代、彼聟を見て、若旦那いづ方に居給ふや、近國其外をこの程搜し尋る也、少しも早く歸り給へ、親旦那も大病にて、日毎に戀ひ慕ひ給ふ事をとまうしける故、やがて其譯養父の喜兵衞へ願ひて江州へまかりしを、附添つきそふ手代抔、かの江州彦根にいたり見けるに、布屋といえるは彦根第一の豪家にて、中々和泉屋抔は似るべくもなし。取戻しの儀を彦根より度々申けれど、喜兵衞儀何分得心とくしんなく、しかれども布屋も外に子供なければ、是非々々とこひ願ひし故、然らば喜兵衞方より養子に遣すべしとて、漸事治やうやくをさまりしが、喜兵衞は素よりの放蕩者故、身上しんしやうもしだいにをとろへしが、いよいよ金錢は湯水と遣ひしが、彦根より年々金子等贈り、今は相應になりしと。かの喜兵衞は當時可參まゐるべしと申、七十歳餘になりて、かの養子、喜兵衞と名乘なのり、兩家をたもち、目出度めでたくさかふる由。文化元年の夏、大和𢌞めぐりして歸りけるものゝかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:根岸知音の大和廻りでの見聞譚連関。
・「和泉屋喜兵衛」不詳。高村光雲の「幕末維新懐古談」の中の「年季あけ前後のはなし」の中に江戸の知られた札差として『天王橋の和泉屋喜兵衞』という同屋号同名の人物が記されるが、全く別人であろう。
・「延享の頃」西暦一七四四年~一七四七年。
・「生得滅法界者」生まれつきの極め付きの無茶な輩。「滅法」の道理に外れるさま、常識を超えているさまに、一切の現象の本質的な姿である真如しんにょ・実相の謂いの「法界」を滅するを掛けた。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、大当たりとなった先立つ天明三(一七八四)年初演の七五三助しめすけ作の歌舞伎喜劇「隅田川続俤すみだがわごにちのおもかげ」で知られる、主人公破戒僧法界坊辺りからの流行語ででもあったのかも知れない。
・「江州彦根布屋」不詳。屋号から見て絹商人か呉服商人かと思われる。
・「可參と申」よく分からない。「參るべしと申し」の「參る」は卑語としての「死ぬ」の意で、そろそろお迎えが来そうな感じで、という謂いか? 一応、それで訳しておいたが、とんでもない誤訳かも知れぬ。識者の御教授を乞うものである。

■やぶちゃん現代語訳

 陰徳が子孫に及んだのかもしれぬとも思わする事

 かの泉州堺に和泉屋喜兵衛と申す、延享の頃、甚だ裕福にて、慈悲に富んだ商人あきんどが御座った。
 毎日、鳥屋より雀を一羽ずつ買い調へては放っては放生ほうじょうの陰徳を積んで御座ったと申す。
 その心、正しきものゆえ、いよいよ彼が代に和泉屋は大いに富み栄えて御座ったと申す。
 ところが、その子の代の喜兵衞儀は、これ親にも似ず、甚だ放蕩者にして、遊興に金銀をうしのうて、家業も瞬く間に衰え、あまつさえ、子は娘ばかりにて、一人の男子も御座らんだと申す。
 さて、ある日のこと、喜兵衛、しょぼくれてしもうた己が和泉屋の表を、浪人体ていの乞食が一人、うたいを口ずさみつつ行くを聴くに、その音声おんじょうは言うまでもなく、なかなかに一通りの謠いっぷりには、これ、あらざるものと、いたく感心致いて、
「今一番、うとうてべ。」
と請うたところ、その求めに応じて再びうとうたを聴けば、これ、いよいよ感心致す腕前なればこそ、
「……汝は生れながらの乞食にては、これ、あるまい。……昔は、そうさ、相応の身分の者であったものと存ずるがのぅ。……」
と水を向けたところ、答えて申すことには、
「……如何にも……親どもは相応に暮して御座いましたが……我ら……お定まりの通り……遊興に身を持ち崩し、かかる身分に堕ち申して御座いまする。……」
と語ったによって、喜兵衞、
「……我らには男子、これ、なきによって……一つ、そなたをむこにとりとう存ずる。……によって、まずは、親元を名乗っては下さるまいか?」
申したところが、
「……親の名を名乗りますることは……これ、どうか……幾重にも、お許し下されませ……」
と否み、切にただいたれど、決して語ろうとは致さなんだ。
 ところが、この一部始終を店内にて聴いて御座った、家内の者や手代なんどが、慌てふためいて中に割って入り、
「……も、以っての外のことにて御座います!……見たところ……これ、穢多・非人の類いやも知れず……」
と頻りに諌めたによって、果ては主人と激しき言い争いにまでなったが、かの喜兵衞――これ、当世流行の言葉を用いたならば、所謂――生得滅法界者しょうとくめっぽうほうかいもの――ででも御座ったものか、いっかな、聴こうともせず、遂にはこの男を家内に引き留め、喜兵衛の手元に侍らせて、身内としてやしのうことと相い成って御座ったと申す。
 ところが、この男――家事の取り計らい方や商いの道は、これ申すに及ばず――老いたる義父喜兵衛とその妻たる義母への孝行なんどにも、聊かの申し分もこれない――目覚ましき働きを見せて御座ったと申す。
 さて、ある日のこと、この聟、手代を召し連れて、商売のために大阪へ下ったところ、たまたま行きうた、近江彦根の布屋とか申す商人あきんどの手代とか申す者が、かの聟を一目見るなり、
「……わ、わ、若旦那さま! い、一体、どこにおられたので御座います! 近国はもとより、方々ほうぼうを、ずっとせんよりこの方、捜し尋ねあぐんでござんしたものを! 少しでも早うに! どうか! ご実家へとお戻り下さいませ!……おお旦那さまも大病を患い、日に日に若さまを恋いしとうていらっしゃいまするぞッ!……」
と、泣きすがらんばかりに申したてた。
 されば――この聟も、流石に実父の病み臥せっておると聞きては、このままに捨ておくことも出来ず――やがて、商用済んで堺へ立ち戻ると、喜兵衞へ、己が隠して御座った出自のことと、この度の出来事を語って、切に願い出でて、ともかくもと、江州へと向かって御座ったと申す。
 さても喜兵衛は和泉屋の聟なればこそ、江州行きには手代なんどをもしっかり附き添えさせて御座ったのだが――かの近江彦根に辿りついて――その手代が見たものは――
――布屋と申すは――
――これ、彦根第一の豪商にて――
……なかなかクソ和泉屋なんどとは比べものにならぬ、遙かに棟高き商家で御座った。
 聟は暫く致いて戻っては参ったものの、何やらん、やはり、実の里のことが気になる風情。
 そこへまた、実子取り戻しの儀につき、彦根よりたびたび願い上げが御座った。
 されど、頑ななる喜兵衞儀なれば、こればかりは何分にも得心致すこと、相い出来申さずと断り続けて御座った。
 されど――布屋もこの男以外には跡継ぎの子どもがあらなんだによって――是非に是非にと――これまた何度も何度も――切に切に、請い願って参ったゆえ、喜兵衛も流石に我を折らざるを得ずなって、
「……然らば! 我ら喜兵衞方より! えぇい! 養子として遣すわい!……」
とて、ようやっと、このごたごたも取り敢えず収まって御座ったとは申す。
 されど喜兵衞、これ、もとより――生得滅法界者の――放蕩者で御座ったゆえ、堅実な聟がおらんようになるや、またしても身上しんしょう、次第に衰え、にもかかわらず、喜兵衛、これまた、いよいよ金銭を湯水の如、使うに使うという体たらく。
 されど、それと察すればこそ――彦根の元の聟方、今の養子の方と相い成った布屋より――年々としどしに十分な金子なんどが贈られて参り――その堅実な恩義に感じたものか――はたまた流石に老耄なれば遊びにも疲れたもので御座ったか――喜兵衛の放蕩もややおさまって――今は、和泉屋も相応の暮らし向きと相い成ってなって御座る由。
 かの喜兵衛はもう、近時――そろそろお迎えがあってもよさそうな感じで御座ったと申すが――それでも七十余歳で存命にて――かたや、かの元聟の今の養子の男は、これ、自ら養父の名を継いで「喜兵衛」と名乗り――しかも――和泉屋と布屋の双方の家産を篤実着実に守り抜いて――今もめでたく栄えさせて御座るとの由。
 これは、文化元年の夏、大和めぐりして帰参致いた、例の、私の知音の男の旅の土産話の一つで御座った。



 作佛祟の事

 文化元年の夏、或人來りて語りけるは、御先手能勢おさきてのせ甚四郎ぐみ與力の内なる由、名も聞しが忘れぬ、庭を作らせけるとや、又井を掘らせけるとやせしに、佛像を掘出ほりいだせしとて、かの職人あるじに見せける故洗ひ淸め見れば、いかにもよき細工の地藏なり、しかるに、かの主人はかたのごとくかたまり法花宗故、甚不喜はなはだよろこばず、いかゞなすべきと、その筋心得し僧俗に見せしに、是は作人さくにんはしれねども、いづれ知識の作佛也、大切になし給へと申けるに、主人心よからず、工夫して右を日蓮の立像になさばしかるべしとて、出入の鍛冶かぢたのみ、手にもちし寶珠釋杖しやくぢやうをとりのきくれ候やう賴けれど、彼鍛冶も作物と知りて斷りいなみければ、詮方なく、やすりを借りもち歸りて、自身おのづと寶珠釋杖をすりけ、日蓮の像に似たるやうもち成し、堀の内とかやへ持參して開眼などなしけるが、右故にもあるまじけれど、當番にいでし時にはかに亂心して、色々右の事をまうし譫言うはごとのみ申ける故、早々宿へ歸し段々保養療養を加へしに、むら氣は直りしが、此程はおし同樣、もの言ふ事ならずとなり。

□やぶちゃん注 ○前項連関:陰徳の報恩というポジティヴな綺譚から、恐ろしき地蔵像(地蔵菩薩が祟ったのでは、これ、おかしかろう。これは地蔵像の中に潜む、あるまがまがしい何ものかと捉えねばならぬ。だからあくまで「地蔵ではなく「地蔵像」とせねばならぬ)の祟りというネガティヴな呪い話で軽く連関すると言えるか。久々のホラーである(しばしば言われることであるが、一部で怪談集として喧伝されている「耳嚢」には、実は本格怪談は思いの外少ない)が、どうもこれはラストの統合失調症様の妄想多語から緘黙という怪異を描くことより、根岸が大嫌いな「かたまり法花宗」――ファンダメンタル日蓮宗宗徒の、地蔵を日蓮像に勝手に作り替えるという救いようのない悪逆非道の行為を嘲笑することに力が割かれているように思われる。
・「文化元年の夏」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、直近のホットな、しかも公務員の自宅で起きた典型的な怪奇都市伝説アーバン・レジェンドである。
・「能勢甚四郎」底本の鈴木氏注で能勢頼護よりもりとし、寛政五(一七九三)年御徒頭、とある。
・「甚不喜」日蓮宗では地蔵菩薩を本尊とすることさえ多く、このように地蔵像を軽んずる傾向はない。この風変わりな頑固男自身の好き嫌いであるように思われる。
・「知識」善知識。仏法を説いて導く指導者。名僧。
・「釋杖」底本には右に『(錫杖)』の訂正傍注がある。
・「とりのきくれ候やう」長谷川強氏は岩波版で「のぞき」と訓じておられるが、私は後文に「すり除け」とあって、こちらは「のけ」としか読めず、ここも「のき」と読みを振った。
・「堀の内」東京都杉並区堀ノ内にある日蓮宗本山である日円山妙法寺のこと。ウィキの「妙法寺」に、『初めは碑文谷法華寺の末寺となったが』、元禄一一(一六九八)年、『碑文谷法華寺は不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なされ、身延久遠寺の末寺となった。このころ碑文谷法華寺にあった祖師像を譲り受ける。日蓮の祖師像が厄除けに利益りやくがあるということで、江戸時代より多くの人々から信仰を集めている』とあって、元は、かの不受不施派ではないか。私がファンダメンタルと書いた謂いが真正にズバり当たっていたという訳である。

■やぶちゃん現代語訳

 仏像の祟りの事

 先日、今年文化元年の夏のこと、ある御仁が私の元を訪ねて参って語った話。
 御先手おさきて組頭、能勢のせ甚四郎頼護よりもり殿御支配の与力のうちの一人である由。名も聞いたが、失念致いたとのこと。
 かの者、自邸にて――庭を作らせたか、はたまた、井戸を掘らせたか、その辺りは定かでは御座らぬが――職人を呼び入れて作業をさせて御座ったところ、
「……こんなものを、掘り出だいて御座る。」
と、その人夫が主人あるじに見せた。
――これ、土くれがついた、ごろんとした、こけしのようなもので御座ったと申す。
 洗い清めさせて、よう見てみれば、これ、如何にも、よき細工の地蔵菩薩の像で御座った。
 然るに、この主人あるじ、鋳型に嵌め抜いたような、ガチガチの金丸かなまり法華宗で御座ったゆえ、甚だ不興にて、
「……こんなもん……どうして呉れようか。……」
と、仏像に詳しい、その筋を心得ておる、知り人の僧俗なんどに見せたところが、
「……いやいや、これは作者は分からねど、いずれ、善知識の作仏にて御座ることは、これ、明らかじゃ! 大切になさるるがよいぞ!」
と言われて御座ったが、それでも石部金吉コンコンチキの主人あるじ、これ、心よからず思うこと頻りにて、
「……これは一つ、なんぞ工夫を加えて、このつまらぬ地蔵を、日蓮上人さまの御立像おんりつぞうになさば、これ、よいことじゃ!」
と思い至り、出入りの鍛冶屋かじやへ持ち込んで、
「――この像の、手に持ったる寶珠ほうじゅ錫杖しゃくじょうを、取りいて貰いたい。」
と頼んだと申す。
 ところが、その鍛冶屋も、一目見て、これ、ただものにては御座らぬ、崇高なる作物さくもつと見抜いたによって、店頭にて即座に断ったと申す。
 されば、石頭主人いしあたまあるじ、詮方なく、鍛冶屋よりやすりを借りて持ち帰ると、自身にて、寶珠と釋杖をすりのぞき、さらにやはり手ずから、日蓮の像に似たように、面相・衣服・持物じぶつに至るまで細部を徹底的に改造致いた上、ご丁寧に檀家で御座った堀の内の妙法寺とかへ持ち込み、開眼かいげん供養なんどまで致いたと申す。
 かようなおぞましき仕儀を致いたゆえ――と申すわけにても、御座るまいが……
 かの者、御徒組当番として出仕致いた折り――これ、俄かに乱心致いて、色々と、くだんの改造日蓮元地蔵の像につき、譫言うわごとのような、よう分からぬことを口走り始めたによって、御支配能勢様より、
「早々に宿へ帰せ。」
とのお達しを受けたと申す。……
 そのまま暫く、自邸にて保養致し、また、療治なんどをも加えて御座ったが……
……その後は……
……最初の喋くりまくる、気違い染みた発作は、これ、直ったとは申すものの……
――今は
……全く以って……
……おし同様の緘黙と、相い成り……
……一言も、これ、ものを言うことも出来ずなっておる……との由。



 執心の説間違と思ふ事

 駒込邊の醫師にて、予が許へ來る與住よずみなど懇意なりしが、信州邊の者にもありけるか、輕井澤とかの食賣女めしうりをんなを妻に成してくらしけるが、容儀うるはしきにもあらず、いかなる譯にて妻とせしかと疑ひける由。しかるに、同じ在所の者、娘を壹人召連めしつれ身上しんしやうも相應にもありけん、かの醫者の許に來りて、去る大名の奧へ右の娘を部屋子へやごに遣し、おつては奉公も爲致いたさせ候積りなれども、江戸表ゆかりの者多けれど、町家よりは、醫者の宿なれば格好もよろしきとて、ひたすら賴ける故、醫者もうけがひて宿になりしに、彼娘煩ひつきて醫者の許へさがをりしに、療治に心を盡すのみならず、くわいに隨ひて彼娘と密通なしけるを、妻なる女深くねたうらみけれど、元來食賣女なしける身故ゆかりの者もなく、見捨みすてらればいかにせんと思ひけるか、或日家出してうせぬ。驚きて所々尋ければ、兩國川へ身をなげんとせし處を取押とりおさへ連れ歸りて、いかなる心得ちがひなりやと或は叱りいさめけるが、五六日過て二階へ上り、夫の脇差にてのどを貫ぬきはてぬ。せん方なく野邊送りしけるが、何となく其所にも住憂すみうくて、跡を賣居うりすゑにして他所へ移りしに、右跡の家を座頭買得て來りしが、金子二三十兩も出して普請造作して引移りぬ。ある夜、女房眼を覺し見しに、屏風の上へ色靑ざめし女兩手をかけて内を覗く故、驚ろき夫を起しけるに、夫は盲人の事故、曾て不取用とりもちひずあたらしきの處へうつりし故、心の迷ひよりかゝる事まうすなりと叱り、とりあへぬに、兩三日續きて同樣なれば、彼妻たへがたく、夫へかたり、いかになさんと歎きし故、同店おなじたなのものへかたりしに、此家はかゝる事もあらん、かくかくの事にて先の店主たなのあるじの醫師の妻、自殺せしと語りける故、座頭の坊も怖敷おそろしくやなりけん、早く其處を引拂ひて轉宅せしとや。靈魂の心殘りあるとも、彼醫者の轉宅せし先へは行べき事なるに、譯もしらぬ座頭の許へ出で其人をくるしむる事、靈鬼にも心得違なるもあるなりと、語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:珍しい本格怪奇譚の二連発である。但し――冒頭の如何にも取柄のないように見える女を妻としているのかという謎が明かされぬままに、少女との密通が生じ、妻が神経症的になって、入水未遂を起こし、遂には喉を突いて自死、不吉な家を転売して、医師は去り(密通した少女はどうしかのか書かれていない)、後半のお門違いの妻の亡魂出現譚となる(それも転居のシーンで断ち切られる)辺り――展開が下手で消化不良気味の上に、話柄が前後で折れてしまっている感じがある。作話可能性がいや高い話柄なればこそ、もっとなんとかならなかったのかなあ、という気がする。現代語訳では、このジョイントの綻びを継ぎ接ぎするため、[根岸注]という架空の訳を追加してある。悪しからず。
・「與住」本巻の「威德繼嗣を設る事」に既出。与住元卓。「卷之一 人の精力しるしある事」に初出する人物。根岸家の親類筋で出入りの町医師。根岸一番のニュース・ソースの一人である。
・「輕井澤」軽井沢宿。軽井沢は長野県佐久地方にある地域名で、現在の長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢地区や軽井沢町全体を指す。この一帯は江戸時代には中山道が通る宿場町で、中山道難所の一つとして知られた碓氷峠西側の宿場町として栄えていた(碓氷峠は江戸寄りの隣の宿場町坂本宿との間にあった)。軽井沢付近には軽井沢宿(旧軽井沢)の他に沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれており、この三宿をまとめて「浅間三宿」と呼称した。浅間山を望む景勝地として有名であった(以上はウィキの「軽井沢」に拠った)。
・「食賣女」底本では右に『(飯盛)』と傍注する。
・「部屋子」大名屋敷の御殿女中の下で私的に召し使われた少女。部屋方へやがた。身分の高い武家への奉公の場合、身元保証が第一であるため、多くの場合は形の上で旗本の養女となったり、相応に公的に認められた人物を保証人として奉公に上がった。
・「宿」この場合は奉公人の身元保証人をいう。
・「賣居」家屋を内部の造作をそのままに売ること。商店売買の際の「居抜き」に同じ。
・「驚ろき夫を起しけるに、夫は盲人の事故、曾て不取用、新きの處へうつりし故、心の迷ひよりかゝる事申なりと叱り、とりあへぬに、」この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 驚ろきて夫を起しけるに、「心の迷にてかゝる事申也」と叱り取敢とりあへぬに、
とある。私は「夫は盲人の事故、曾て不取用」の部分、如何にもな謂いであって、差別的な嫌味な笑い部分である。そこで、ここを除去した、
 驚ろき夫を起しけるに、新きの處へうつりし故、心の迷ひよりかゝる事申なりと叱り、とりあへぬに、
で訳した。但し、差別的な擽りは擽りとして後の場面に少し出して原話の「差別性」を示しておいた。そこは、当時の視覚障碍者に対する差別感情に対して批判的にお読み頂きたい。

■やぶちゃん現代語訳

 執心の思い見当違いとしか思われぬ事

 駒込辺に住んで御座った医者で、私の元に出入り致す医師与住元卓などが懇意に致いておった者なるが――出が信州辺りの者ででもあったが――何故か、軽井沢宿とかの飯盛女めしもりおんなをしておったおなごを妻として暮らして御座った。
 ところが、与住曰く、
「……それが……その妻なる者……これ、容貌も姿態も……全く以って、麗しきところ、これ、一つも御座らぬ。……こんなおなご……一体、如何なる訳にてか、妻と致いたものやら……と、疑いの湧くほどで御座った。……」
と語り出した……その話。……
[根岸補注:読者諸士に予め断っておかねばならぬが、現在はこの医師は、行方知れずと相い成って御座って、従って与住は、その疑問の真相を明かす手立てを失ったと申しておる。]
   ■
 ……然るに、ある時、その医師の信州辺りの里の者――これ、身上しんしょうも相応に豊かなる者が、娘を一人連れて、彼の元へと相談に参り、
「……さる大名の奥向きへ、この娘を部屋子へやごに遣わすことと相い成り、ゆくゆくは正規の御女中となって屋敷奉公など致さするつもりで御座れど、江戸表には親類縁者の者も多くは御座れど、これ、町家の者よりは、まずは、お医者様のうちより奉公さすれば、これ、世間体も宜しゅう御座ればこそ。どうか……」
と頻りに頼まれたによって、かの医師もがえんじて、娘の身元引受の保証人となったと申す。
 ところが、その娘、奉公に上がるやいなや、患い臥してしもうたによって、保証人たる医師の元へと宿下がり致いて、療養なすことと相い成って御座ったと申す。
 さても……かの医師は……勿論、この娘を心を尽くして療治致いた……いや……療治ばかりにては、これ、御座らなんだ……病いの快気致すに従い……この娘と……これ……密通を成して御座ったと申す。……
 医師の妻は無論、深くねたみ、恨んで御座ったれど――元来が田舎の街道筋の宿場の、一介の賤しき飯盛女で御座ったによって、また、その過去を近所にても陰口囁かれて御座ったによって――思い切って、このことを相談出来るような知り合いも、これ、おらなんだのであろう、
『……あの人に……捨てられてしもうたら……どうしよう……』
と思い悩むばかりにて日を暮して御座った。
 そうして、ある日のこと――思い余って――突如、家出を致いて姿を消した。
 医師は驚いて、方々を捜し回る。
[根岸補注:与住が言うに、この時、医師は自分の娘との密通が妻には知らておらぬと思っておったらしい。]
 やっとのことに、両国川に身を投げんとするところを辛くも見出し、取り押さえて連れ帰り、
「……い、如何なる思い違いを致いて、こ、このようなことを!……」
と、妻の……
――ボソッ――ボソッ――
――と微かに呟く……
――その思いつめた……
――密通への恨みつらみは……
これ、聴こえざる振りを致しつつ、或いは強く叱りつけ諌めて、その場は、まずは気を鎭めさせて御座ったと申す。……
 ところが、それから五、六日後のこと、
――妻なる者……
――医師宅の二階へと走りのぼったかと思うと……
――そこに置かれてあった夫の脇差を抜き放ち……
――一突きに!
――のんどを貫いて果てて御座ったと申す。……
 医師は仕方のう、妻の野辺送りを致いたが、流石に、妻が恨みを以って自死致いた、そのいえに住んでおるのも気鬱となり、家財道具一切を据え置いたままに転売、他よそへ引き移ったと申す。
[根岸補注:与住が言うに、ここら辺りまでは、その野辺送りの後の精進落としの席にて、その医師本人が告白致いたものとのことで御座る。また、医師の転居(それ以降、この医師と与住とは音信もなく、行方知れずと相い成った申す)以下の話は、後日、与住の知れる者で、かの医師の旧宅近くに住もうておる者からの聞き書きと申す。]
   * * *
 ……さて暫く致いて、その家を、さる小金持ちの、目明きの女を妻帯して御座った座頭が買い取って、引っ越して参ったと申す。
 金子きんす二三十両ほども費やして、外内の普請造作ふしんぞうさくなんども小綺麗に作り変え、ようようと引き移って御座ったと申す。
 ところが、引っ越してすぐの、ある夜のこと、座頭の女房が、ふと、目をさますと……
……枕元に立てた屏風の……
……向こうから……
……色青ざめた女が独り……
――ダラリ――
……と、両手をこちらに越しかけて……
……寝所の内を覗いて……おる!……
 座頭の妻は驚き、大声で夫を起こした。
 その時には、既に女は失せて御座った。
 ところが、夫たる座頭は、
「……まんず、新しき所に引き移ったによって……これ、枯れ薄の類いじゃ!……心の迷いにて、そのような戯けたことを申すのじゃ!……」
と叱りつけて取り合わなんだと申す。
 しかし――それから三晩も続いて――同様の怪異があったによって、妻は恐れ戦き、いっかな、堪え難く、夫に縋りつくと、
「……ほんに! 青白き女がッ!……」
と泣き叫んだによって、夫座頭、流石に困って、隣人の者へこの話を致いたこところが、
「……お前さん……ここを買うについて……聴いて居なさらぬか?……そうか……ここの先の持ち主は、お医者で御座ったが……その医師の妻……これ……この二階にて……のんどを一突き……自殺して……御座ったんじゃ……」
と、ばらしてしもうたゆえ、流石に――己には青白き恨み女の幽魂は、これ、見えざるものの――座頭も怖しくなったので御座ろう、早々にそこを引き払って、また転宅致いたとか申す。
   ■
「……幽鬼の心残りがあったとしても、これ、かの医師の転居致いた、その先へこそ化けて出るべきことで御座ろう。……何の関係もない座頭夫婦の所へ出て、彼らを恐懼きょうくさするというは、これ、霊魂にも、とんだ心得違いのあるもので御座るかのぅ。……」
とは、与住の最後の感想で御座った。



 未熟の狸被切事

 石谷なにがしの一族の下屋敷に妖怪出るときき、其主人或夜泊りけるに、丑みつの頃、月影にて、障子にうつる怪敷あやしき影ありしゆえ、ひそかたちにはかに右障子をひらきしに、白髮の老姥らうぼあり。何者也やと聲を懸しに、彼姥かのうば答へけるは、それがしは此屋敷の先主のそばめなりしが、なさけなく命を召れしゆえ、今以浮いまもつてうかむ事なし、哀れ跡ねんごろに弔ひ、此屋敷にひとつの塚堂をもきづき給はらん事をたのまんと思ひけれど、恐れて聞請ききうくる人なしといゝければ、あるじのいわく、妾ならば嬋娟せんけんと年も若くあるべきに、白髮の老姥、何とも合點ゆかずと尋しに、年久敷ひさしき事なればむかしの姿なしとこたへける故、死しても年はよるものやと、拔打ぬきうちに切り付ければ、きやつと云ふて影をうせぬ。夜明てのりをしたひたづねしに、山陰の眞の内へ血ひきて、穴ありければきり崩して見けるに、年を經し狸なり。堂塚を建させ、供物抔むさぼらんとたくみしが、未練なる趣向故、きられけるならんかと、語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:珍しくも怪談三連発だが、あんまり怖くない。
・「未熟の狸被切事」「みじゆくのたぬききらるること」と読む。
・「石谷某」底本の鈴木氏注に、『イシガヤ。四家ある。同氏で最もよく知られたのは、天草の乱に板倉重昌の副官として征討軍を率いて出陣した貞清』とある。ウィキの「石谷氏」には遠江石谷氏の知られた人物として以下の人物を挙げている。
   《引用開始》
石谷政清
遠江石谷氏の祖。通称は十郎右衛門。今川義元・氏真・徳川家康に仕える。
石谷貞清
政清の孫で徳川家旗本。島原の乱や慶安の変で活躍した。江戸北町奉行を勤める。石谷十蔵の氏神という石ヶ谷明神が掛川市にある。
石谷清昌
佐渡奉行、勘定奉行、長崎奉行などを歴任し、田沼意次の行政に深く関与したとされる。
石谷穆清
石谷貞清の末裔で幕末の徳川家旗本。江戸北町奉行を勤める。安政の大獄に関与したとされ、大老・井伊直弼の片腕的存在と言われる。
   《引用終了》
最後の穆清は「あつきよ」と読むが、本記載の「石谷某」とは、まさに石谷清昌とこの穆清の間にいた人物であった可能性が高いか。ただ、岩波版では長谷川氏は注しておらず、鈴木氏や私が、この遠江石谷氏であると思い込んでいるだけ、同定は論理的ではあるまい。そもそもこれを「いしがい」と読めば、土岐石谷氏となり、「いしや」と読めば、また異なるらしい。一応、「いしがい」と現代語訳では読んでおく。
・「妾」一応、「そばめ」と読んだが「めかけ」かも知れぬ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「妻」とあって問題がない。
・「嬋娟」容姿のあでやかで美しいさま。
・「のり」血糊。

■やぶちゃん現代語訳

 未熟の狸の切らるる事

 石谷某の一族の話であると申す。
 石谷いしがい家下屋敷に妖怪が出るとの噂が立って御座ったゆえ、ある夜のこと、かの主人石谷殿御自身、直々にお泊りになった。
 丑三つの頃、月光皓々たる中、御寝所の障子に映る、怪しき影のあったによって、石谷殿、そっと立つと、さっと! その障子を開けた――
――と
――そこに
――白髪の老婆が
――これ、佇んで御座った。
「――何者じゃッ?」
と、石谷殿が厳しく誰何すいか致すと、その老嫗ろうおう
「……それがしは……この屋敷の先主せんしゅそばめであったが……その主人……非情にも……それがしの命を召され……今……以って……浮かばれようがない……ああっ!……どうか!……それがしが……跡を……これ……懇ろに弔い……この屋敷うちに……一つの塚堂をも……これ……築いて下されんことを頼まんと……ずっとせんより……思うてまいったれど……それがしの姿を恐れて……たれ一人……聞きいれて呉るる人……これ……なし……」
と答えて御座った。しかし、石谷殿、
「……そなたの話柄を推し量るれば――そばめとならば――これ、嬋娟せんけんとして、年もわこうあるべきに――白髪の老嫗とは――これ、何とも合点がゆかぬ!」
ときつく糺いたところ、
「……いや……そ、その……年久しきことなれば……その……昔の面影は……これ、のうなったればこそ……」
と、何やらん、しどろもどろに答えたによって、石谷殿、すかさず!
「――死にても! これ! 歳は取るものやッ?!」
という一喝とともに、抜き打ちに斬りつけたところ!
――キヤッツ!
と、人ならざる声を挙げて――姿は、これ、消えて御座った。
 夜明けて、庭先から点々と続く……血糊ちのりの跡を……これ……ずうっと……辿ってみたところが……
……屋敷近くの小高き山の……その陰の……藪のなかへと……ちいは……引き垂れて御座って……
……そうして……そのちい……一つの……斜面の穴の中へと……続いておった……
 さればそこを掘り崩して見たところが――
――歳経た狸の死骸が一つ
――転がり出た……と申す……

「……堂塚なんどをも建てさせ、捧ぐるところの供物なんぞをむさぼらんとたくらんだものにても御座ろうが……如何にも未熟なる化けようなれば、他愛ものう、斬られてしもうたものででも……御座ろうかの……」
とは、この話を聴いた私の感想で御座った。



 二尾檢校針術名譽の事

 二尾檢校城榮ふたをけんげうじやうえいは針術に妙を得て、元祿の頃、紀州公へ被召出めしいだされ、五拾人扶持をたまはり、なほ役金等も給りしが、一生無妻にていささか欲を不知しらず。常に遊所へ至りて遊女を樂しみとなし、公邊に出てもいさゝか隱す事なく、其氣性剛傑ともいふべし。紀州家の愛臣、氣病にて久敷ひさしく不快なるを療治せしに、檢校針をおろす夜は何事もなし。當番其外君用そのほかくんようにてまからざる時は其病危し。是を君もきき給ひて、檢校へ夜詰の勤番不被仰付おほせつけられられざる故、夜毎にかの病人のもとに至りぬ。或日座敷に檢校ひとり休息しけるに、女の聲にてたのみたき事ありといふ。いかなる事たづねければ、このあるじにはうらむる筋ありて、取付惱とりつきなやますなり、我は野狐なり、わが願ひ御身のはり故に成就せざる間、かさねては鍼をもちふる事、容捨あるべし、もしいなみ給はば御身の爲にもなるまじといひける故、檢校答けるは、なんぢ人の命をとらんとす、我は人の命を救ふをげふとす、いはんや君命をうけて療治する上は、汝がのぞみけつして承知しがたし、我にあだなさば勝手次第、命と業とはかへがたしと申ければ、彼もの大に憤り、檢校の側へ來り、かきむしりて奧の方へ入ると覺へしに、病人もつてほかの由、奧よりまうし來りし故、早速立入たちいり、檢校も右の事をききし故、心命を加へて鍼をおろし療養なしけるに、早速ひらき快かりしが、翌朝大庭へ年古としふる斃居たふれゐたりしは、誠に檢校の心術の一鍼いつしんその妖は退治せると、其徒のもの、今にかたり傳へしとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:何と怪談四連発。妖狸譚から妖狐譚への正統なもので、また、何れも最後には退治されている点で、作話上もうまく繋がっている。
・「二尾檢校城榮」不詳。諸本に注なし。ネット検索でも掛からない。
・「紀州公」元禄の頃となると後の第八代将軍吉宗の父徳川光貞か、その嫡男徳川綱教の代となるが、ただ「紀州公」と称している点で前者であろう。
・「五拾人扶持」というのはとんでもない石高になる。ネット上の情報から江戸時代の平均的な数値で米に単純換算すると、
一人扶持=五俵=一・七五石=一七五升=一七五〇合=約二六二・五キログラム
であるから、何と、十三トン強だ! それに「役金」(幕府が幕臣に現金支給した役職手当の一種)まで! その人物の情報がまるでないというのも解せない。識者の御教授を乞うものである。
・「勤番不被仰付故」訓読したように、「勤番、仰せ付けられざる故」で問題ないが、底本では右に『(尊經閣本「勤番御免被仰付故」)』と傍注する。これだと「勤番御免、仰せ付けらる故」となり、文意としての通りはこっちの方が自然であるので、現代語訳は後者を採用した。
・「命」「業」前は「いのち」であろうが、後ろは同じく訓で「なりはひ」と読むと、朗読した際、検校の覚悟の台詞としてのおんが弛んでしまう気がする。かといって前を「めい」と音にすると、意味が採り難くなる。私は敢えて「命」を「いのち」と読み、「業」を「げふ(ぎょう)」と読んでおきたい。

■やぶちゃん現代語訳

 二尾検校の針術名誉の事

 二尾ふたお検校城栄じょうえい殿は、針術の技、絶妙の誉れを以って、元禄の頃、紀州公へ召し出だされ、五十人扶持を給はった上、更に役金やくきんなどまでも給はれて御座ったが――この御仁、一生妻帯されず、また、聊かの欲をも持たるることなく、普段は遊廓へ参り、遊女らと戯るることを、これ、唯一の楽しみとなされ、公の場に出向かれても、遊廓の遊びのことを、如何にも楽しそうに話されは、聊か隠すことものう――謂わば、その御気性、これ、剛傑と申すに相応しい御方で御座ったと申す。
 さて、ある時、紀州公御寵愛の御家臣、永の気鬱の病いにて、はなはだ宜しからざるによって、二尾殿が療治致いて御座った。
 検校殿が針を下ろいた夜は何事ものう、安泰で御座ったが、検校殿が、お城の宿直とのいに当たっておられた折りや、その外の紀州公の御用によって、往診鍼治出来ざる折りには、その病状、甚だ危ういものとなって御座ったと申す。
 されば、これを紀州公もお聞きなられて、検校へは、夜詰宿直とのいの勤番の儀、これ、免除の由、仰せつけられたによって、検校殿は毎晩、かの病人の元へと往診療治に参って御座った由。
 そんなある夜のこと、いつもの通り、御家臣方屋敷へ療治に参り、その座敷にて、検校殿お一人、療治の合間とて、少しばかり休息をなさっておられたところ……
……女の声で、
「……頼みたきこと……これ……あり……」
と、申す。
 検校殿は眼の不自由なれば、その声のしたかたへと向き直って、
「――如何なることや?」
と質いた。すると、
「……この主人あるじには……これ……恨んでおる筋が……これ……ありて……憑りつきて悩ませておる……我は……野狐……じゃが……我が願い……御身おんみはりゆえに成就致さぬ……どうか……重ねては鍼を用いること……これ……容捨あるべし……もし……否み給ふとならば……御身の身のためにも……これ……なりませぬぞえっ……」
と申したによって、検校、答えて、
「――汝、人のいのちをとらんとす。――我れは、人の命を救うをぎょうとす。――況んや、君命を請けて療治する上は、汝が望み、これ、決して承知し難し!――我に仇をなさんとせば、これ、勝手次第!――いのちぎょうとは、これ、替え難し!」
と喝破致いたところが、かのあやかしと思しき女ならんもの、大いに憤った様子にて、検校の側へと、
――ツッ!
と寄り来たった気配の致いたかと思うと、
――シャアッツ!
という、おぞましき叫び声を挙げ、
――シャカシャカシャカシャカッ!
と検校の体を、これ、無体に掻き毟った、かと思うたところが、
――サッ!
と奧の方へと入ったと覚えた――その瞬間――
「……御病人! 以ての外の有り様にて御座いまする!……」
と、奧方より伝令の者、走り出で来たったによって、検校殿、直ちに立ち入られ――既に気鬱の病いの正体も、これ、かくの通りに聞き知って御座ったゆえ――文字通り、心命を賭して鍼を下ろし、強力苛烈なる療治をなされたと申す。……
 されば、かの病人、瞬く間に快癒致いた。……
 翌朝のこと、御屋敷の大きなる庭の隅に……年経た狐が一匹……斃れ伏して御座ったと申す。……
「……まっこと、かの検校の、心魂を込めた一撃一鍼いっしんの術……これ、その妖狐を美事、退治致いたので御座る!……」
と、紀州家御家中の方々、この話を今に語り伝えておらるる、とのことで御座る。



 古佛畫の事

 川尻甚五郎、被咄はなされけるは、かの家に古畫の由、彌陀の像を一幅もち傳へしが、手足に水かきあり。不審なれば或人尋問たづねとひしに、古への佛畫には手足の指に水かきあり。群生ぐんしやうを救ふの爲、水にいりて溺るゝ者をたすけすくわんための由。大般若經とかに、三十二相揃ふといふには、右の通り手足の指に水かきありと、いひし由なり。

□やぶちゃん注
○前項連関:「水かき」のある奇怪な阿彌陀という怪談を狙ったものかも知れぬが、これは仏の三十二相の一つとして現在でも結構知られており、現存する仏像でもしばしば見出せる。怪談連関としたのならば不発であるが、神道シンパであった根岸であるから、三十二相などというものは、彼にとってこそ「不審」なのかも知れぬ(ただ、私は昔、この手足指縵網相を誇張して示した仏像を実見した際に――根岸ではないが――何故か、生理的に気味の悪い印象を持ったことをここに告白しておく)。
・「川尻」底本鈴木氏注で、河尻春之はるのの誤りとし(現代語訳では訂した)、寛政四(一七九二)年に代官に任ぜられた旨記載がある。他にも奈良県五條市公式サイトの「五條十八景、時代背景と関連年表」にも寛政七(一七九五)年に五條代官所が設置され、その初代代官に「川尻甚五郎」が就任し、その在任期間は寛政七年から享和二(一八〇二)年とあるが(引用元、享和を享保と誤っている)、調べてみると、この人物はもっと注を附すべき人物のように思われる。ウェブサイト「定有堂書店」のブック・レビューにある岩田直樹氏の「今月読んだ本」の一二〇回「近世日本における自然と異者理解-渡辺京二『逝きし世の面影』『黒船前夜』を読む-(下)」によれば、この記載の後(「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月)である文化四(一八〇七)年に幕府は蝦夷地全体を直轄地としたが、その際、函館奉行は松前奉行と改称され四人制となり、翌年に河尻春之・村垣定行・荒尾成章の三人制となったという記載と『河尻は後に転任』という補注がある。そうして文化五(一八〇八)年、本話のこのまさに河尻春之と荒尾成章が、蝦夷地警衛について老中から諮問を受けた際に、二人は次のような意見を上申したという。文化三(一八〇六)年と翌年にかけて樺太のクシュンコタンや択捉島のシャナを襲撃した『フヴォストフらの「不束」(暴行)を正式に謝罪すれば、交易を許してもよい。レザーノフを長崎で軟禁状態にして半年も待たせ、揚げ句の果て通商を拒否したのは、国家使節を迎える上で「不行届の義」であった』。『むろん交易は国法に叛くものである。しかし、ロシアの辺境と松前付属の土地との間であれば、すなわち国同士ではなく辺土同士であれば、交易をしても「軽き事」と見なすことが出来よう。ロシア極東領の食糧難を鑑みて許可すべきである』。『蝦夷地全域の警護がどれだけ非現実的か』。『今年の警護役の仙台・会津両藩は併せて』八十万石もの大藩であるのに、僅か三千人の兵を出すだけで『財政破綻の危機に瀕している。「ロシアなど恐るるに足らぬ」などと主張するのは、民の命を損なうことではないか』。『河尻と荒尾は、天命・天道に言及する。心を平静に保ち、ロシアと日本の「理非如何と糺し、…明白にその理を尽すべく候。もし、非なる処これありと存じ候ても、これを取りかざりて理を尽さず、命にかかわり候に及び候ては、国の大事を挙げ候とも、天より何と評判申すべきや」』(二七六頁)。『老中たちは、松前奉行の大胆な上申書を咎めるどころか、再来が予想されるフヴォストフに与える返書にその趣旨を取り入れた』という(以下はリンク先をお読みあれ)。河尻春之はあの幕末の動乱に向けて、自ら国の水かきたらんとした。そういう意味で、この驚くべき上申書はもっと知られてよいであろうと私は思う。
・「三十二相」で三十二相八十種好はちじっしゅこう。一見して分かる三十二相と微細な特徴としての八十種好を合わせたもの。「相好そうごう」ともいう。「三十二相」の詳細はウィキの「三十二相八十種好」を参照されたいが、その五番目に手足指縵網相しゅそくまんもうそうとして、『手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある』とある(表現や順番は経により異同がある)。例えば個人ウェブサイト「仏像紀行」の広島県福山市草戸町の「明王院・阿弥陀如来立像」の写真で手のそれが確認出来る。
・「大般若經」大般若波羅蜜多経。六百余巻に及ぶ大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な般若教典を集大成したもの。玄奘が六六三年に漢訳として完成させた。

■やぶちゃん現代語訳

 古仏画の事

 河尻甚五郎春之はるの殿のお話。
「……拙者の家には古き仏画が御座って、阿弥陀仏の像を一幅、先祖伝来のものとして持って御座る。……ところが……これには、何と、手足に水かきが御座るのじゃ。……如何にも気味悪う、不審なれば、とある御仁に尋ね問うたところ、
『古えの仏画には手足の指に水かきがある。衆生を救わんがため、即ち、水に入りて溺るる者をも、これ、掬い取らんがためにあるのものである。』
とのことで御座って、何でも「大般若経」とやらんに、
『三十二相相い揃うと申す条には、右の通り、手足の指に水かきあり、と記しある。』
との由で御座った。」



 尖拔奇藥の事

 紀州家の健士、或時魚肉を食し、與風咽※ふとのどぶえとげたち百計すれど不拔ぬけず[やぶちゃん字注:「※」は「吭」の最後の七・八画目がそのまま上の(なべぶた)に接合した字体。]。其儘に二三日すぎしが、後は湯水食事等にもいたみありてはなはだ難儀せしが、尾陽家の健士と出會であふ事ありて右難儀を物語りせしに、それがし奇藥あり、用ひ給ふべしと、懷中の黑燒を與へける故、悦びて早速もちゐしが、其翌日朝うがひ手水てうずせしに、前夜までに事替りていささか其尖のうれひ不覺おぼえず。夫より食事の節、其外にも一向憂なく、一夜の中に拔失ぬけうせしとなり。不思議の奇藥と紀州公へも申上まうしあげ、其藥ほどこせし人にたづね問ふに、尾陽公御法の由。依之御傳これによつてごでん御乞おんこひ求めありしに、芭蕉の卷葉まきばを黑燒にしてもちゐる由。もつとも外に加劑くわざいもなく、ただ一味の由。依之予も其法をもつて、黑燒を申付まうしつけし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:二つ前の「二尾檢校針術名譽の事」の紀州公連関。先に数多あった民間医薬シリーズ。製剤が簡単だったことと、副作用がなさそうに思えたからか、ここでは珍しく根岸も実際に製したと言っているのが面白い。ただ、その実際に根岸が使用した際の効果が記されていないのは惜しいところ。
・「尖拔」は「とげぬき」。
・「とげ」は底本のルビ。
・「尾陽家」尾張徳川家。
・「芭蕉」単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ Musa basjoo。田辺食品株式会社公式サイトの「健康と青汁」第二〇四号の医学博士遠藤仁郎氏の記載に以下のようにある(一部の改行部を連続させた)。
   《引用開始》
 効能は、一般の青汁と同様だろうが、皇漢名医和漢薬処方には、
「森立之曰く、邪熱、百方效無き時、芭蕉の自然汁を服し效ありと聴きて試むに、毎に奇效あり」(温知医談)。
「水腫去り難き時、芭蕉の自然汁常に奇效あり」(同)。
 また、民間薬(富士川游著)には、
「腹痛 芭蕉の葉をつき爛らし、その汁をとりて白湯にて用ふべし」(妙薬手引大成)。
「胸痛 心痛たへかぬるに芭蕉葉のしぼり汁、生酒にて用ふ」(経験千方)。
 などとあって、解熱・利尿・鎮痛の効があるわけだし、トゲや骨のささったものには黒焼がよいらしい。
「簽刺(竹木刺、針刺)芭蕉の若葉を黒焼にして、酒にて服す」(此君堂薬方)。
「咽喉に骨のたちたるに、芭蕉の巻葉を黒焼にし、白湯か濁酒にてのめば、鯛の骨なりとも、一夜の間にぬけること妙なり」(懐中妙薬集)。
 また、中山太郎著、日本民族学辞典には、
「昔は、長病の患者に床ずれが出来ると、芭蕉葉を敷き、その上に臥かすと癒るとて用ゐた。また、本願寺の法王が死ぬと、その屍体を芭蕉葉に包んだ。これは防腐の效験があるので、こうして、遠方から来る門徒に最後の対面を許したという」(中山聞書。)
   《引用終了》
と、確かに刺抜きの効能が記されてある。

■やぶちゃん現代語訳

 刺抜きの奇薬の事

 紀州家の家士が、ある時、魚肉を食し、ふとした弾みで喉笛のどぶえとげを立たせてしまい、種々の方を尽くしてみたが、これがいっかな、抜けぬ。
 そのままに二、三日ほど過ぎたが、その頃には水を飲むにも食事を致すにも、疼くような痛みがあって、甚だ難儀に陥って御座った。
 そんな折り、ちょうど、尾張徳川家の家士と面談致すことが御座ったが、その談話の中で、かの刺の難儀を物語って御座ったところ、
それがしに奇薬が、これ、御座る。一つ、用いてみらるるがよかろう。」
と、懐中より何やらん黒焼きに致いた常備薬を取り出だいて呉れた。
 悦んで、屋敷に戻るや、早速に服用致いた。
 その翌日の朝のこと、いつもの通り、嗽・洗面など致いところが――前夜までとは、こと変わって――聊かも――これ、かの刺の痛みものんどのゴロゴロも――これ――御座らぬ。……
 それより、食事其の外、これ、一向に不具合、御座らずなった。
 まさに一夜のうちに――かの執拗しゅうねき刺――これ、美事、抜け失せて御座った。
「……ともかくも、不思議なる奇薬で御座いまする。」
と紀州公へも申し上げ、その薬を施して呉れた御仁にも尋ね問うたところ、
「――これ、尾陽公の御法ごほうにて御座る。」
との由にてあれば、かの紀州家家士、
「――どうか一つ、御製法方、お教え下さらぬか?」
と乞い求めたと申す。
 されば、あっさりと製法が、これ、明かされて御座った。それは、と申すに――
――芭蕉の若き巻葉まきばを黒焼きにして用いる
とのこと。
――外に加える生薬なし
――唯だ一味
の由。

……されば、私もその法を以って――芭蕉巻葉の黒焼き――これ、申し付へて常備致いて御座る。



 大蟲も小蟲に身を失ふ事

 文化の初秋、石川氏の親族の家に池ありしが、田螺蓋を明きて水中に遊居あそびをりしを、一尺四五寸もありし蛇出て、かの田螺を喰ふ心や、蓋へ口をつけしを、田螺急に蓋をなしける故、蛇の下腮したあごをくわへられ、蛇苦しみて遁れんと色々頭をふり尾を縮め、わだかまのびて品々なしけるが、不離はなれず。日も暮んとせし頃、蛇はなはだよはりて、永くなりをりしが、つひに蛇はたふれて、田螺は終に水中へ落ち入りて、理運なりしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。動物――標題とこの時代の博物学で言うなら――「蟲類」奇譚であるが、最新の噂話(実話らしき話)として読める(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae に属するタニシ類で本来の国産種は通常は五センチメートル以下であるが、大型個体もいる。噛まれたのは「下腮」とあるが、舌を挟まれたとする方がリアルかとも思われる)点で巻之六の中では着目すべき話である(但し、田螺を採餌しようとした蛇が、何らかの急性疾患によって激しく悶え苦しみ、衰弱、遂に田螺を銜えたままに力尽きて死んだ――即ち、七転八倒の様態は田螺に噛まれた結果ではない――とする方が理には適っているかも知れない。御存じの通り、古代の「漁夫の利」から近代の大型の貝類の挟まれて溺死するという都市伝説まで、この手の話は枚挙に暇がない。しかし、だからこそ糞真面目に考察してみる価値がない、とは言えまい。科学的論理的考察とは時に人には退屈で糞にしか見えぬものである)。冒頭「文化の初秋」とあることから、「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年七月の、まさに直近に記載であることが分かる。本巻中でも最もホットな話柄である(次の第二話「又」の話柄の冒頭「右同時七月八日」というクレジットにも注目!)。
・「石川氏」表記が異なるが、恐らく高い確率で次の第二話「又」に登場する「石河(いしこ)壹岐守」(次話注参照)のことを指していると私は思う。その冒頭に「同時」とするのは、この二つの話が同時に齎されたことを意味しており、そこでたまたま「石川」氏とは異なる「石河いしこ」氏絡みの、極めて酷似した事件が起こるというのは、これ、ドラマの「相棒」みたような噴飯偶然だらけで、リアルじゃあ、ない、と思うのである。……いや……実は、この二つの話がデッチアゲの都市伝説であることを、その微細な奇妙な違い(逆に妙に似ている)部分でそれとなく示そうとする悪戯っぽい原話の創作者や伝承者たち(創作元は根岸ではないが、伝承者として無意識にその役割を担っている)の魂胆ででも、あったのかもしれない。
・「理運」「利運」とも書く。幸運。
・「一尺四五寸」約四二センチメートル強から四五センチメートル強。

■やぶちゃん現代語訳

 大なる虫も小なる虫のために身を失うことのあるという事

 文化元年の初秋のこと。
 石川氏の親族の家に池があった。
 田螺が蓋を開けて水の中にゆっくらと泳い御座ったが、そこへ一尺四、五寸もあろうかという蛇が現われ、その田螺を喰はんとするものと見えて、蓋のところへ口吻をもっていったところが、田螺が急に蓋を閉ざしたゆえ、蛇は下顎したあごを銜え込まれてしもうた。
 蛇はひどう苦しんで遁れようと、激しく頭を振ってみたり、尾をきゅっと縮めてみたり、田螺を内側にとぐろを巻いてみたり、逆にべろり延びてみたりと、いろいろなことを試みておったが、一向に離れず。
 日も暮れようとした頃には、蛇、これ、甚だ衰弱致いて、池の端にだらりと身を横たえて御座った。
 見ておると、遂に蛇は――死に絶えて動かずなった。
――と――
 田螺はやっと蓋を緩め、池の内へと落ち入って、恙のう生き延びて御座った……とのことで御座る。



  又

 右同時おなじきとき七月八日の事なりし由、石河壹岐守屋鋪いしこいきのかみやしきにて、是も小蛇なるが、草鞋蟲ざうりむしといえる小蟲をくらわんとせしが、是も其所そこをさらず、蛇の舌につきつひに死せし由。わらぢ蟲もともに死せしをまのあたり見し人の、語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:小虫大虫を殺す奇譚で、「蛇の災難」の二連発、恐らく同一(「石川」=「石河」)ソースの動物都市伝説。前話注で述べた通り、異例のクレジット入りのホット・ニュース!
・「七月八日」文化元(一八〇四)年七月八日(西暦に換算すると一八〇四年八月十三日になる)。「耳嚢」で、しかも噂話や都市伝説の類いで日付までクレジットされるというのは、これ、極めて珍しい。
・「石河壹岐守」岩波版長谷川氏注に従えば石河貞通。寛政一〇(一八〇〇)年に御小性番頭とする。これは底本の鈴木氏も同じ同定であるが、そこでは『イシコ』と本姓を訓じている(長谷川氏は本文で同じく『いしこ』とルビを振る)。石河貞通という人物、下総小見川藩の第六代藩主で小見川藩内田家九代の内田正容(まさかた)なる大名のウィキの記載中に、正容が、寛政一二(一八〇〇)年八月十三日に、『大身旗本で留守居役を務めた石河貞通(伊東長丘の五男)の三男として生まれ』たという記載があり、年代的に見ても、この伊東長丘(備中岡田藩第六代藩主)五男石河貞通と本文の「石河壹岐守」貞通とは同一人物の可能性が高いように思われるが、如何?
・「草鞋蟲」一般には甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目ワラジムシ科ワラジムシ Porcellio scaber 及びその仲間の総称。ウィキの「ワラジムシ」によれば、現生種は約一五〇〇種が知られ、その内の一〇〇種ほどが本邦に棲息するとされているが、実際には国内種は四〇〇種ほどもいる、とも言われているとある。なお、誤解されている方も多いと思われるので注しておくと、触れると球形になって防禦姿勢をとる通称ダンゴムシ、ワラジムシ亜目オカダンゴムシ科オカダンゴムシ Armadillidium vulgare と、このワラジムシ Porcellio scaber とは異なる種である。しかも、ウィキの「ダンゴムシ」の記載から、本文の「草鞋蟲」はオカダンゴムシ Armadillidium vulgare である可能性は低いように思われる。何故なら、我々がしばしば家屋の周囲で目にするところの『オカダンゴムシは、元々、日本には生息していなかったが、明治時代に船の積荷に乗ってやってきたという説が有力である。日本にはもともと、コシビロダンゴムシという土着のダンゴムシがいたが、コシビロダンゴムシはオカダンゴムシより乾燥に弱く、森林でしか生きられないため、人家周辺はオカダンゴムシが広まっていった』とあるからである(この記載中の「コシビロダンゴムシ」というのはワラジムシ亜目コシビロダンゴムシ科セグロコシビロダンゴムシ Venezillo dorsalis のことを指しているように思われる)。――以下、私のクソ考察。――但し、この石河氏の屋敷の傍に林があり、そこから虫に噛まれたまま蛇が屋敷内に侵入したとすればセグロコシビロダンゴムシの可能性が全くないとはいえない。しかし、ワラジムシやダンゴムシの類は、よく見かける種で一二センチメートル程、大型種でも二センチを超えるようなものは少ないと思われ、蛇の舌先に喰らいついて死に至らしめるような口器を腐植土などの有機物を餌としている彼らが持っているとは思われない。とすれば、先の田螺のケースと同様、何らかの蛇の内臓疾患や、猛禽類などの天敵による致命的打撲損傷(開放性の外傷が他にあったのでは、この話は成立しないと思われる)、若しくは強毒性の植物か茸などを蛇が誤って摂餌した結果、衰弱して斃死した際、たまたまそこで死んでいたワラジムシが、その口刎部に附着した、それを見た人間がワラジムシが蛇を噛み殺したと誤認した、というのが事実ではなかろうか?

■やぶちゃん現代語訳

 大なる虫も小なる虫のために身を失うことのあるという事 その二

 先とほとんど同時期の話で、日附も本文化元年の七月八日のことであったと申す。
 石河いしこ壱岐守貞通殿御屋敷にて、これも前話同様、蛇――但し、こちらは小蛇であったとのことであるが、草鞋虫ぞうりむしと我らが呼んでおるところの、あの小虫、これを、その蛇が喰らわんしたところ、これも、蛇の舌先に逆に喰らいついて、いっかな、離さぬ。
 舌に喰いつかれたたまま、蛇は、これ、遂に死んだと申す。
 草鞋虫もともに死んでおるを、目の当たりに見た人の直談で御座る。



 鼬も蛇を制する事

 雉子きじ蛇を食ふに、羽がひを蛇にまかせて羽ばたきすれば、其蛇寸々に切れるといふ事、いにしへより傳へききしが、上總かづさ出生の者來りかたりけるは、いたちも蛇にまかれて其蛇を制する事、度々上總にて見及びし由。鼬身をちゞめ十分に蛇にまかれて、惣身腹共そうみはらとも張りて身をふるふに、蛇すんずんに切れける由もの語りぬ。大きなる鼬、少しの穴より潛りいるを見れば、さる事もあるべき事なり。

□やぶちゃん注
○前項連関:標題自体が蛇を退治する動物の類話であることを表示する確信犯的連関。この本文、妙に岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と細部が異なる。以下に示す(正字化、長谷川強氏によるルビも歴史的仮名遣に変更した)。たまにはこうした比較も楽しい。

 いたちも蛇を制する事

 雉子きじ蛇を喰ふに、羽がひを蛇にま卷かせて羽たゝきすれば、其蛇ぢきに切れるといふ事、いにしへより傳へ聞しに、上總出生のもの來り語りけるは、「鼬も蛇にまかれてその蛇を制する事、度々上總にて見及びし」よし。鼬身を縮め十分に蛇にまかれて、惣身そうみ腹共張て身を振るふに、蛇直に切れける」よしもの語りぬ。大きなる鼬、少しの穴より潛り入るを見れば、さる事もあるべきなり。

・「雉子蛇を食ふ」雉子は地上にある植物の芽・葉・種子や動物では昆虫・蜘蛛類・多足類・蝸牛などの軟体動物を捕食し、また、地中の根・球根・昆虫類などを爪で地面を搔いて食べたりするが、時には蛇なども積極的に襲って食べることがある。こちらの動画でその実際が見られる。
・「はがひ」羽交い。狭義には鳥の左右の翼が重なる箇所を言うが、ここは単に、鳥の羽、翼の謂い。
・「すんずん」底本では「ずん」の部分は踊り字「〱」であるから「すん」となるが、敢えて「ずん」とした。

■やぶちゃん現代語訳

 鼬も蛇を制するという事

 雉子きじが蛇を食ふ際、羽根を蛇に巻かせて羽ばたきをすると、その蛇は一瞬にして寸々に千切れるということ、これ、古くから伝え聞いておるが、上総出生しゅっしょうの者が私の元に来たって語ったことには、鼬も蛇に巻かれても、その蛇を逆に成敗することが出来るということを、たびたび上総にては見及んだとの由。
鼬は身体をきゅっと縮めると、十二分に蛇に巻かせておいて、頃を見計らうと、瞬時に総身そうみ――特にはらの部分――をぷぅうっつ! と膨らませて身を振るう。
 すると――蛇は寸々に千切れてしまうとのこと、物語って御座った。
 大きな鼬が如何にも小さな穴より潜り入るのをしばしば見かけるから、そのようなこともあるであろうと思われる。



 領主と姓名を同ふする者の事

 上總國玉崎たまさき明神の神主を加納遠江かなふとほたふみいひて、不葺合ふきあへずみことより統等とうなど永く侍りし由。當時右村は加納遠江守領分の由、人のはなしける故、領主と姓名をおなじふすべきいはれなし、疑敷うたがはしきもの語りなりとなじりけるに、いやとよ、神主も代々右の通り名乘なのり、領主にても許容ありて其通り濟來すみきたる由まうしぬ。折あらば、加納家に尋問たづねとはんと思ひぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:前話の報告者は「上總出生の者」とあり、同一ソースの可能性が高く、連関すると言える。
・「上總國玉崎明神」現在の千葉県長生ちょうせい郡一宮町一宮にある上総一宮玉前たまさき神社。ウィキの「玉前神社」によれば、現在、祭神は玉依姫命たまよりひめのみことで、彼女は海からこの地に上がって、豊玉姫命とよたまひめのみことに託された鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみことを養育したが、後に二人は婚姻、初代の神武天皇らを産んだとされる、とあり、更に「延喜式神名帳」を始めとする文献上では『祭神は一座とされているが、古社記には鵜茅葺不合命の名が併記されている』とある。底本の鈴木氏注に、三村竹清氏の注を引いて、『三代実録に授位の事を記せば某旧社たる知るべしとなり、八月十三日大祭にて神輿渡御し、来賽者群集すといふ。』とその参詣の盛況を記す(但し、同神社の公式サイトの記載によれば、現在の例祭は九月十三日に行われている(恐らく新暦を旧暦に読み替えたものであろう)。「上総十二社祭り」または「上総裸祭り」といわれる裸祭りで千葉県の無形民俗文化財に指定されている)。
・「加納遠江」同神社の公式サイトの神職紹介には、現在、「加納」姓や「遠江」の名の方はおられない。
・「不葺合の尊」火火出見尊ひこほほひでのみこと(山幸彦)と海神の娘である豊玉姫の子。「古事記」では天津日高日子波限建鵜草葺不合命あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと、「日本書紀」では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあえずのみことと表記される。参照したウィキの「ウガヤフキアエズ」には、海神という『異類の者と結婚し、何かをするのを見るなとタブーを課し、そのタブーを破られて本来の姿を見られて別れるという話は世界各地に見られる。日本神話でも同様の説話があり(神産みの黄泉訪問説話など)、民話でも鶴の恩返しなどがある。また、この類の説話では、異類の者との間の子の子孫が王朝・氏族の始祖とされることが多い』とし、『天皇につながる神は皆「稲」に関する名を持つが、日子波限建鵜草葺不合命だけが稲穂と無関係であり、この理由には諸説がある。ウガヤフキアエズの事績の記述はほとんどないため、山と海の力が合わさったこの神により、天皇が山から海まで支配する力を表そうとの意図で、後世に作られた神であるとする説もある。ウガ(ウカ)を穀物とする説もある』とある。
・「加納遠江守」加納久周ひさのり(宝暦元(一七五一)年~文化八(一八一一)年)。天明六(一七八六)年に養父久堅が死去したため、家督を相続して伊勢八田藩第三代藩主となったが、当時の陸奥白河藩主松平定信の信任が厚く、翌年に定信が老中首座となると、側衆となって定信を補佐して寛政の改革の推進に貢献した。同天明七年、大番頭を兼務し、遠江守に転任、上総一宮藩加納家三代となった。伏見奉行などを務めた(以上は、ウィキの「加納久周」に拠る)。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月、彼の没年までは余り時間がない(根岸の逝去は文化一二(一八一五)年十二月四日)。果たして根岸はこの真否を彼に尋ね得たのであろうか?……はい?……そんなつまらないことが気になりますんでね。僕の悪い癖です……

■やぶちゃん現代語訳

 領主と姓名を同じゅうする者の事

 上総国玉崎たまさき明神の神主を、
――加納遠江かのうとおとうみ
と言うて、不葺合尊ふきあえずのみことの御代より、正当な神職名として、これ、永く名乗っておる由。
 当時、この神社の建つ村は、上総一宮藩にて、
――加納遠江守久周かのうとおとうみのかみひさのり殿
の御領分で御座った。
 さる人物が以上の話を致いたゆえ、
「……領主と、これ、姓名官位ともに同じゅうしてよいという謂われは、あるまい。……幾ら何でも、それはまた、疑わしき話しじゃが……」
と批難したところが、
「いやいや! 神主もこれ、代々、右の通り名乗り、御領主からも正式な許容の御座って、その通り、今までも、何のお咎めものう、済みおいて御座ること、これ、間違い、御座らぬ。」
と申した。
 さても、折りあらば何時か、加納家の方に尋ね問うてみようとは、思うて御座る。



 尾引城の事

 上州館林の城を、古代は尾引をびきの城といひし由、土老の語りけるが、其譯をたづねしに、いにしへいつの頃にやありけん、赤井相公しやうこうといへる武士、年始とかや、かの邊を通りしに、草苅童共、松葉もて狐の穴をいぶし、狐の子二三疋を捕へ引歩行ひきあるきしを、赤井見て、狐の子を害せば親狐もなげくらむ、あだなどなさば村方の爲にもあしかりなんとて、色々諭して代償を出し、右狐の子を買取かひとり、とある山へ放しやりしけるに、或夜赤井が許へ來りて、うつゝにつげいへるは、御身の放し給ひし狐の親なるが、莫大の厚恩報ずべき道なし、御身兼て城地じやうち見立みたてきづかんのくはだてありときき、我案内して其繩張をなし給はゞ、名城にして千歳全からんとまうすにまかせ、日を極めて其指そのさす處に至りしに、狐出て田の中谷の間とも不言いはず、尾をひきて案内せる故、其尾に隨ひて繩張せし城なれば、尾引の城と唱へし由かたりぬ。太閤小田原ぜめの頃、此城せむるに品々怪異ありて、落城六ケ敷むつかしかりしと、古戰記にも見へぬれば、いやしき土老の物語りながら、かゝる事もあるべきやと、爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。妖狐譚で六つ前の「二尾檢校針術名譽の事」と連関。
・「尾引城」現在の群馬県館林市に館林城(尾曳城)の跡が残る。ここに記された通り、この城の築城には伝説が残っており、天文元(一五三二)年、当時の大袋城おおぶくろじょう(現在の群馬県館林市羽附字富士山にあった。館林城の東約一・五キロメートルの城沼に東北に向かって突き出した半島に築かれていた)主赤井照光が子供達に虐められていた子狐を助けると一人の老人が現われ、新たに城を築く事を強くすすめ、翌日、一匹の老狐が現われて尾を引きながら城の「繩張」り(建築予定の敷地に縄を張って建物の位置を定めること。縄打ち)をして城の守護神になることを約束して姿を消したという。照光は吉兆と思い、新城を築いて、所縁に拠って尾曳城(後の館林城)と名付け、本丸から見て、鬼門の方角に尾曳稲荷神社を遷座させて鬼門鎮守社としたという。但し、歴史資料では文明三(一四七一)年に上杉軍が「立林城」(館林城)を攻略した、という記述があるので、それ以前から築城されていたと思われる。城郭は平城で城沼を外堀とする要害堅固の城で、当時では珍しい総構え、広い城域に城下町を取り込んで、外側を高い土塁と堀で囲んでいたと推定されている。永禄五(一五六二)年に上杉謙信により落城、赤井氏は武蔵忍城に退き、謙信が死去すると、上野国の上杉家の影響力が弱体化したことで武田家・小田原北条家が支配した。江戸時代になると徳川家重臣榊原康政が城主となり、以後も東国の押さえの城として幕府から重要視され、徳川綱吉を筆頭に親藩や有力譜代大名が城主を歴任している。明治維新後は廃城となり、多くの建造物が破棄されたが、市街地にあって破却された平城の中では、土塁などの遺構が比較的残っており、近年、土橋門や土塀・井戸などが復元されて館林市指定史跡に指定されている(以上は「群馬県WEB観光案内所」の「館林城」の記載に拠った)。また、この城内にあった「尾曳稲荷神社」は現存する。現在でも社殿は旧本丸のあった西側方向に向いている(同「尾曳稲荷神社」に拠る)。底本の鈴木氏の注には、上記の他に、『赤井但馬入道法蓮が築城、功成って』弘治二(一五五六)年一月に『引移った(関八州古戦録)』とあり、また、その「繩張」りをした狐は白狐で『当国無双の稲荷新左衛門と名乗っ』たともある。……それにしても……結局、落城までは百年程、四〇〇年後には露と消えている……千年はちと、無理で御座ったな、白狐殿……
・「相公」宰相の敬称、また、参議の唐名であるが、これは赤井照光の名「照光」が、誤って伝えられたものであろう。
・「太閤小田原攻」小田原征伐。天正一八(一五九〇)年に豊臣秀吉が関東最大の戦国大名後北条氏を滅ぼして全国統一を完成させた戦い。九州征伐後の秀吉は北条氏政・氏直父子にも上洛を促したが、彼らは関東制覇の実績を奢って秀吉の力を評価せず、上洛に応じなかったため、秀吉は前年の天正一八年に後北条氏の上野の名胡桃なくるみ奪取を契機として諸大名を動員、後北条氏討伐を下令した(本文の館林城(尾曳城)攻めはこの時のこと)。後北条氏は上杉謙信・武田信玄に対して成功した本拠相模小田原城での籠城策を採用したが、後北条側から離反の動きが生じ、「小田原評定」という故事成句の元となった北条一族と重臣との豊臣軍との徹底抗戦か降伏かの議論が長く紛糾、同年七月、当主氏直が徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出て開城となった。但し、氏直は家康の娘婿であったために助命となり、紀伊国高野山に追放されて生き延びた(以上は平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「小田原征伐」の記載を参照してカップリングした)。
・「古戰記」不詳。識者の御教授を乞う。

■やぶちゃん現代語訳

 上州館林の城を、古えには『尾引の城』と申した由、土地の古老が語って御座ったによって、その謂われを訊ねてみたところ、
「……昔、何時の頃やら分からねど、赤井相公しょうこうと申す武士が御座っての、……年始の頃とかに、あの辺りを歩いておったと。……
……と、草刈りに出でておったわらべどもが、これ、松葉を焚きて、狐の穴をいぶし、狐のこおを、これ、二、三疋も捕えて、引きずり回して御座ったを見かけての、……
『……狐のこおを害さば……これ、親狐も嘆くであろ。……また、それを恨みて、あだなんどをなしたり致さば……これ、村方のためにも、悪しきことじゃ……』
と、童らをいろいろに諭し、代価まで出だいて、その狐のこおらを買い取ると、その近くの山に放してやったと。……
……さても、その後の、ある夜のことじゃ。……何者かが……赤井が枕許に参っての。……夢現ゆめうつつのうちに告ぐることには、
「……我らは……御身が放ちて下された狐の親なるが……計り知れぬ厚き恩……これ……報いきることも出来ざる程なれど……御身……かねてより……良き地を見立て……城を築かんとする志しのあらるるを……これ……聞き及んで御座る……されば……我ら……案内あない致しますによって……その通りに城縄張りをなさったならば……これ……その城……千年の不落……間違い御座りませぬ……」
と申したによって、赤井、夢現のうちに、その狐妖の言うがまま、縄張りのひいを決め、場所をも示された、と申す。……
……さても、その約定やくじょうの日、その狐妖の指し示した所へ出向いたところ……
――確かに
――一疋の狐が出で来て
――田圃の中
――谷の間
――何処いずくとも委細構わず
――そのながーき尾を引きて
――ずんずんずん
――と――案内致いた、と申す。……
……さても、その狐の尾の、地曳き致いたままに、縄張り致いて築いたる城なればこそ、『尾引の城』と、唱えて御座る、じゃて。……」
とのことで御座った。
 太閤秀吉小田原攻めの頃、この城攻めをも行われて御座ったが、その折りには、これ、数多あまたの怪異が御座って落城が難しゅう御座った由、古戦記にも見えて御座れば、卑賤の古老の物語ながら、そうした『何かの因縁』も、これ、あるやも知れぬと、ここに書き記しておくことと致す。



 在郷は古風を守るに可笑き事ある事

 京都江戸抔の繁華の地と違ひ、總て在邊は古風にて、尊卑の品、家筋の事など、殊の外吟味して、誰々の家にて普請に石すへならざる格式、或は門長屋玄關は不致いたさざる筋、婚姻葬祭にも上下かみしもは着ざる家筋、彼は當時衰へぬれど上下着し上座可いたすものなり抔、悉く吟味いたし候事なり。それ付可笑つきおかしきは、川尻甚五郎御代官つとめし時、和州何郡の支配たりしか、何村とかいへる村方にて、年々神事の由、百姓集りて古への武者の眞似をなす事の由。或年家筋ならぬ百姓、渡邊綱わたなべのつなになりしを、何分なにぶん村方にて合點せず、四天王は重き事にて、かの者の家筋にて綱公時つなきんときになるべきいはれなし、定めて金銀等の取扱とりあつかひゆゑなるべし、もつての外の事なりとて、若きものは不及申まうすにおよばず、宿老なるものも合點せず、終にその結構やみにしと、笑ひ語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:古来の伝承風習譚で連関。この神事はどこのどのような祭であろう? 諸本は注しない。識者の御教授を乞うものである。
・「川尻甚五郎」川尻春之はるの。先の「古佛畫の事」の私の注を参照のこと。寛政七(一七九五)年に大和国の五條代官所が設置され、彼はその初代代官に就任している。その在任期間は寛政七年から享和二(一八〇二)年である。
・「渡邊綱」(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)は源頼光四天王の筆頭として剛勇で知られ、大江山の酒呑童子退治、京都の一条戻り橋上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で知られる。
・「公時」金太郎こと、坂田金時(長徳元・正暦六(九九五)年?~?)。公時とも書く。やはり頼光四天王の一人。
・「金銀等の取扱」岩波版長谷川氏注に、『金を出してその役を買ったという』とある。
・「宿老」「おとな」とも読み、前近代社会において集団の指導者をさす語。公家・武家・僧侶・商人・村人・町民の各組織には宿老がおり、特に中世の都市や村落において共同体組織の中心的人物をさす用語として著名である、と平凡社「世界大百科事典」にある。
・「結構」計画。企画。目論み。ここでは単にその百姓のキャスティングのみではなく、この神事に於ける複数の武者を演ずる演目(訳では行列とした)自体が取り止めになった、と解釈した。その方が読者の驚きが大きいと判断したからである。大方の御批判を俟つものである。

■やぶちゃん現代語訳

 郷村にては古風を守ることに可笑しき事実のある事

 京都や江戸などの繁華の地と異なり、おしなべて田舎の風習は古風なもので、尊卑の品格、家筋のことなどにつき、殊更にうんぬん致いて――誰某だれそれの家の格式では普請をするに際しては基礎に石を据えてはならぬ決まりであるとか――或いは、長屋門や玄関を設けてはならぬ家筋じゃとか――はたまた、婚姻葬祭に際してもかみしもを着てはならぬ家筋だの――彼の者、今は凋落致いておれど、裃を着し、上座に座らせねばならぬ格式の者であるとか――まあ、悉く、やかましく申すものにて御座る。
 それにつき、可笑しいことが御座る。
 川尻甚五郎春之はるの殿が、大和五条の御代官を勤められた折りのこと、大和国――何郡支配の何村と申したかは失念致いたが――その村方に於いては、毎年、神事が行われており、百姓どもが集って、古えの武者の真似事をなして行列を致す由なれど、ある年のこと、ある百姓、かの頼光四天王の一人、武名も猛き、かの渡邊綱の役を演ずることとなったと申す。ところが、
「――この者は渡邊綱となれる家筋にては、これ、御座ない!」
との疑義が挙がり、何としても、村内の百姓ども一同、合点せず、
「――四天王は重き役にて、かの者の家筋にては渡邊綱や坂田公時さかたのきんときになれる謂われは、これ、御座ない!」
「――これ、定めて金を積んで、渡邊綱をうたに違いない! 以ての外のことじゃ!」
とて、若き者は申すに及ばず、宿老格の者どもも、いっかな、合点せず……
……遂に……
……その年の、その武者行列は、これ、沙汰やみと相い成ったとの由。
 甚五郎殿御本人が、これ、笑いながら、私に語って御座った話である。



 物を尋るに心を盡すべき事

 二條御城内に、久敷ひさしく封を不切きらざる御藏ありて、いつの頃、何ものか申出しけん、此藏をひらくものは、亂心なすとて、いよいよ恐れおのゝきて數年打過うちすぎしが、俊明院樣御賀の時、先格せんかくの日記、御城内にあるべきとて、番頭より糺有ただしありし故、あまねく搜し求れども其舊記さらになし。せん方なければ、其譯申答まうしこたへんと評儀ありしに、石川左近將監さこんのしやうげん、大番士たりし時、かの平日不明あけざる御藏内をも不改あらためずしてはけつし無之これなしとも難申まうしがたしいひしを、誰ありてまうし傳への偶言に怖れて、あくべきといふものなし。されど右を搜し殘して、なきとも難申まうしがたければ、衆評の上、戸前とまへともしびなどいれて搜しけれど何もなし。二階を可見みるべしとて、しめりも籠りたる處故ところゆゑ提燈ちやうちんなど入れしに兩度迄消へければ、いよいよ濕氣の籠れるを悟りて、いよいよ燈火を增して、不消きえざるに至りて上りて見しに、御長持二さほ並べありし故、右御長持を開き改めしに、御代々の御賀の記、顯然ありしかば、やがて其御用を辨ぜりと、左近將監かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせないが、上方の話としては関連するか。
・「尋る」標題のそれは「たづぬる」と訓じていよう。
・「俊明院樣御賀」「俊明院」は第十代将軍徳川家治(元文二(一七三七)年~天明六(一七八六)年)。岩波版長谷川氏注に『天明六年三月七日に五十の賀』とある(但し、ウィキの「徳川家治」によれば、家治の実際の誕生日は天明六年八月二十五日とする。この齟齬の意味は私には不詳であるが、数えで行われた当時の節目の慶賀は特に誕生日を意識しなかったものではあろう)。
・「先格」前例となる格式。前からのしきたりや以前からの決まり、先例、前例の謂いであるから、家治以前の、家治の父第九代将軍家重に限定せず、それよりも前の歴代将軍家の五十の賀の儀に関わる日記・記録の謂いであろう。
・「石川左近將監」石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)。本巻の「英雄の人神威ある事」に既出であるが、再掲しておく。石川忠房は遠山景晋・中川忠英と共に文政年間の能吏として称えられた旗本。安永二(一七七三)年大番、天明八(一七八八)年大番組頭、寛政三(一七九一)年に目付に就任、寛政五(一七九三)年には通商を求めて来たロシア使節ラクスマンとの交渉役となり、幕府は彼に対して同じく目付の村上義礼とともに「宣諭使」という役職を与え、根室で滞在していたラクスマンを松前に呼び寄せて会談を行い、忠房は鎖国の国是の為、長崎以外では交易しないことを穏便に話して長崎入港の信牌しんぱい(長崎への入港許可証)を渡し、ロシアに漂流していた大黒屋光太夫と磯吉の身柄を引き受けている。寛政七(一七九五)年作事奉行となり、同年十二月に従五位下左近将監に叙任された。その後も勘定奉行・道中奉行・蝦夷地御用掛・西丸留守居役・小普請支配・勘定奉行・本丸御留守居役を歴任した辣腕である(以上はウィキの「石川忠房」を参照したが、一部の漢字の誤りを正した)。「將監」はもと、近衛府の判官じょうの職名。彼はウィキの記載によれば、明和元(一七六四)年八月に家督を継ぎ、安永二(一七七三)年十二月に大番、天明八(一七八八)年には大番組頭となっているから、天明六年当時の大番は正しい。但し、岩波版長谷川氏注に、『左近将監を称するのは寛政七』(一七九五)年から、とある。根岸より十九歳、年若である。フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、「勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見!

■やぶちゃん現代語訳

 物を尋ねる際には心を尽くすべき事

 京都二条城の内に、久しく封を致いて御座って、所謂、「入らず御蔵」なるものが御座って――
――これ、何時の頃よりか――さても、何者が言い出したものか
『――この蔵を開く者は、乱心致す――』
とて、いよいよ、人々の恐れ戦き、数年、そのままにうち過ぎて御座ったと申す。
 ところが、俊明院家治樣の五十の御賀おんがの折り、先代将軍家の儀式に関わった日記などが、御城内にあるはずと、大番番頭おおばんばんがしらより糺しが御座ったによって、あまねく搜し求めてはみたものの、これ、そうした旧記、一向、見つからず御座ったと申す。
 仕方なく、
「……不明の由、お返事するしかあるまい。」
との評儀で一決して御座ったが、当時、大番役で御座った石川左近将監忠房殿は、
「……かの、普段『開かずの間と』称して御座る御蔵の内をも改めずしては、これ、『御座らぬ』とも申し難きことで御座ろう。」
と申された。
 たれとは申さず……かねてより言い伝えて御座ったところの……たまさかの開扉……これ……乱心……との噂に怖れ……開けましょう……と申す者は、これ、一人として御座らなんだと申す。
 されど、忠房殿、
「……かの蔵を搜し残しおいて――『御座らぬ』――とは申し難きことで御座る。」
と如何にも正しき疑義を申されたによって、再度、衆議の上、かの『開かずの蔵』の戸を開いて、ともしびなんども入れて、搜して御座ったと申す。
……されど、これ、扉内の部屋には、それらしきもの、なんにも御座らなんだ。
 しかし、梯子段を見た忠房殿、
「――二階をも、これ、検分致いてみるべきで御座ろう。」
と申されたによって、蔵の二階をも探索致すこととなった。
……ところが、その二階、これ、取り分けて、ひどう、湿気の籠って御座って……提燈などを入れても……何度も――
――ふっ
と、消てしまう。……
 されど、
「――これはただ、余程に湿気が籠っておるゆえに違いない。」
と、忠房殿、これ、さらに多くの燈火なんどを、追加なさった。
「……もう、消えずなりましたが……」
と、配下の者が言うたによって、御自身、上って検分なさった……ところが――
――長持二棹おんながもちふたさお
これ、並べて御座ったによって、その長持を開き改められたところ……その内に――
――先代将軍家御代々の御賀おんがの記録
――これ
――確かに御座った由。……

「――されば、そのまま、当将軍家御用を完遂致すこと、これ、出来申した。」
とは、左近将監殿御自身、語られた話しで御座った。



 しやくり奇藥の事

 美濃の枝柿えだがきへたを水一盃いつぱいにて煎じ用ゆれば、即座にとまる事妙なり。予が許へ來る牧野雲玄病家びやうかに、老人にて久々煩ひさふらふて、しやくり出、殊外ことのほかこまり候故、加減の藥を用ひ一旦止りけれど、兎角時々その憂ひありしに、或日岩本家へ至り右の咄しをなしけるに、岩本の老人、氣逆きぎやくには、みの柿の蔕をあらひし湯を用ひて度々奇功ある事を咄し、到來獻殘けんざんの蔕を貯置たくはへおきし由にて與へける故、早速煎じ用ひしに、立所たちどころに止りぬとかたりし故、予も右柿蔕たくはへの儀申付まうしつけぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。本巻に特に多い民間医薬シリーズの一。「川口漢方薬局」の「第44話 しゃっくりと柿の蔕、漢方の話」に(改行を省略した)、『病院の紹介で、しゃっくりに柿の蔕が効くから漢方薬屋さんで買ってきてのみなさいと言われたという方が時々いらっしゃいます。通常のしゃっくりは、放置しておいても自然に治りますが、繰り返したりひどいしゃっくりが長時間続く場合は、日常の生活にも困りますのできちんと治療した方が良いです。西洋医学的には、脳、心臓、気管、食道、胃などの様々な病気が原因でしゃっくりが出るとされていて、制吐剤や抗けいれん剤などが効果があります。しかし、慢性疾患で他の薬物を使用していたりする場合、安全性の面からも良い方法ではない場合が多いのです。ですから、お医者さんも柿の蔕を勧めることが多いのです。柿の蔕だけを使用しても一定の効果がありますが、体質や症状を考慮しているわけではありませんから、根治は無理なことが多いですし、しゃっくり以外の症状が軽減されることも期待できません』とあって、何と現在でも正規の医師が公に勧めている事実が分かる。以下を読んでゆくと。調剤名は「柿蒂湯していとう」「丁香柿蒂湯ちょうこうしていとう」などと呼称していることが分かる。柿の蔕に丁香(クローブ)や生姜を配合するようである。
・「枝柿」吊るし柿。戦国の昔から美濃地方の名産品である。
・「牧野雲玄」不詳。ここまでの「耳嚢」には登場していない。名前とシチュエーションから医師に間違いないが、どうも、内科漢方系には弱そうだ。専門は外科医かも知れぬ。
・「岩本家」不詳。ここまでの「耳嚢」には岩本姓は登場していない。それにしてもかくも読者が知れることのように姓のみ出すというのは、当時のお武家としては、かなり有名な人物(「獻殘」という語を用いる以上は大名か旗本か)でなくてはなるまい。識者の御教授を乞うものである。
・「氣逆」しゃっくり。吃逆きつぎゃく
・「獻殘」底本の鈴木氏注に、『武士または町人などが大名に献上した品物を、特定の商人(献残屋という)に払下げ、商人はまた献上用の品として売る、その品物を』いう、とある。謂わば、大名が受けた贈答品の内、不用のものや使いきれないで多量に残ったものをリサイクルするシステムである。但し、鈴木氏は続けて、『鰹節のように保存のきく品物が多い。なおこの文章は柿を献残といっているが単に到来品の意味であろう』と記しておられる。確かに、蔕をとってしまっては献残品には使い回せない。痒いところに手の届く納得の注である。

■やぶちゃん現代語訳

 しゃくりの奇薬の事

 執拗しゅうねきしゃっくりの場合、美濃名産の吊るし柿のへた一枚に対し、水一杯を加え、これを煎じ用いれば、即座に止まること絶妙で御座る。
 私の元へ参る牧野雲玄と申す医師、ある主治として御座ったさる病人――老人にて永患い致いて御座った者なるが――ある折りより、しゃっくりが出始め、これ、止まらずなったによって、殊の外、困って御座ったゆえ、一般に用いるところの薬を適宜、調剤致いては処方致いたところが、これ、一旦は止ったものの、その後も、しばしばぶり返して、これ、衰えた病人には辛き煩いの種で御座った。
 ところが、ある日、牧野殿、かの岩本家を訪ねた際、このしゃっくりの難儀の話しを致いたところ、岩本の御老人曰く、
「……御医者なる貴殿に申すもなんでは御座るが……気逆きぎゃくには、これ、美濃の吊るし柿の蔕を洗ったゆうを用いて、これ、度々、奇効の御座ったぞ。……」
と話した上、
「……そのため、他よりもろうた到来品の柿の蔕、これ、貯え置いて御座れば、少しお分け致そう。……」
とて、雲玄、頂戴致いて、早速に煎じて、かの老病人へ用いたところ……

「――いや! これ、たちどころに、執拗しゅうねきしゃっくり――これ、止まって御座った!。」
と雲玄殿が語って御座った。
 なれば、私もかの柿の蔕、これ、貯えおくの儀、家の者に申し付けておるので御座る。



 吐藥奇法の事

 醫書にもあるや、藥店やくてんにも有之これある由。越前眞桑瓜まくはうりへたのますれば、早速をなす事妙の由。是又一時人を救ふの助けと、ききしまゝ爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法及び植物の蔕の薬方、直連関。症状としてのしゃっくりと嘔吐も現象的には連関して見える。
・「越前眞桑瓜」スミレ目ウリ科キュウリ属メロンの変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa の、白色系品種の石川県原産のナシウリ(梨瓜:「中奥梨瓜」「加賀梨瓜」とも呼ばれ、果皮・果肉ともに白色のもの。)か。
・「早速吐をなす」催吐剤である。実際の漢方薬として現在も存在する。株式会社JAM のウェブサイト wellba の東洋医学・内科・理学診療科の松柏堂医院院長中村篤彦の筆になる「医食同源ア・ラ・カルト」内にある「瓜(蔕)―催吐作用と瀉下作用―」(「瀉下」は「しゃげ」と読む。下剤のように医学的に下痢を起こさせるものの効能を言う)に、『マクワウリの未熟果は苦く、その苦み成分:メロトキシンがとくに多いヘタは先述のように催吐作用や瀉下作用があります。単独で一物瓜蒂湯、納豆や小豆と合わせた瓜蒂散などがあります。乾燥した納豆と小豆の粉末、それにこの瓜蔕、なんだか想像しただけで吐きそうなクスリです』とある。「一物瓜蒂湯」は「いちもつかていとう」と読む。

■やぶちゃん現代語訳

 催吐薬さいとやくの奇法の事

 医書にも記されておるものか、薬屋にも普通に置かれておる由。
 越前国特産の真桑瓜のへたを服用させると、即座に嘔吐が起こること、これ、絶妙の由。
 これもまた、危急の際に人を救う一助ともなろう存じ、聴いたままに、ここに記しおくことと致す。



 鍛冶屋淸八が事

 泉州堺のものにて、紀州家より何の譯にや二人扶持ににんぶち給りし由。其謂れを聞くに、何も御用も不勤つとめざれど、古今珍敷速足めづらしきはやあしにて、堺より江戸へ三日にきたる由。近江の彦根へ三十六里の處、一晝夜に往返わうへんせしとかや。或時彦根の城下より木綿買出しに來りし者、堺にて急病にて果けるを、はやくしらせんと評議せる處、かの淸八今夜中にしらせんと請合うけあひし故、飛脚賃として五兩渡しけるを受取うけとり暮前くれまへなりしが、夜食などたべ緩々ゆるゆる支度せるを、少しも早く出立しゆつたつせよと側のもの催促しければ、明日は歸りて左右さうなすべし、何の急ぎ候事かあらんといひて、やがて出しが、彦根へ其明そのあけの日つきて、暮時前、堺へたち歸りし由。文化元子年、五拾二歳にて今以いまもつて存在の由。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。驚異の駿足の、ちょいと鯔背な実在した男の話(以下注を参照)である。
・「鍛冶屋淸八」最後に「文化元子年、五拾二歳にて」とあることから、彼の生年は宝暦三(一七五三)年であることが分かる。眠いさんの個人ブログ「眠い人の植民地日記」の「ある韋駄天走りの肖像」に本話を紹介されながら、出典は未詳ながら、清八のかなりの詳細を記されおられる。それによれば、彼の『本業は鍛冶屋だか足袋屋だか定かではない』とあり、何より重要なのが『後に江戸へ出て来て、高尾山信仰の信者となり、清八講の先達として、後に高尾山に宝篋印塔を建立し』ている点である。眠いさんによれば、この高尾山の宝篋印塔は、元々は後北条氏の第三代氏康が元亀元・永禄一三(一五七〇)年に奉納したものであったが、享保二(一七一七)年の大嵐で崩壊し、放置されていたものを、清八が寛政八(一七九六)年より浄財を募り、文化八(一八一一)年、先代のものより若干小振りながら、青銅製の立派な五重塔を再建したという。また、以下のような事実も記されている。『清八は長屋住まいだった』『が、まじないも良くし、これが大変流行って、高貴な方面からも信頼が篤かったと言い』、『謂わば、現代で言うスピリチュアルカウンセラー』みたような人物で、『まじないを頼む人で長屋はごった返し』たものの、『暮らし向きは至って質素で、衣服も身分相応のものを着てい』たとある。また彼は、『高尾山の秘仏開帳』『に奔走する傍ら、紀州徳川家へも足繁く通って』いたと、本話の事蹟ともクロスし、高尾山と密接な関係を持っていたらしい(詳細は眠いさんのブログをお読み頂きたい)紀州家にとって各種の『連絡役として』駿足の先達清八は『うってつけだったのかも知れ』ないと推測され、さらに、『宝篋印塔を建立する際の浄財を紀州家を通じて各大名家から募った可能性もあり』、『その宝篋印塔を復活させた際には、更に浄財を募って旧甲州街道沿いに新宿から高尾山までの間に』、三本の道標をも設置、現在もこの道標は八王子市に現存している、とある。眠いさんは最後に、『この八面六臂の活躍を見ていると、清八をネタに時代小説が一本書けそう』とおっしゃっている。まっこと、その通りの魅力的な人物である。――まだ、話は終わらない――私がこの眠いさんのブログを知ったのは、私が鎌倉地誌の電子テクスト化の中で、非常にお世話になったウェブサイト s_minaga 氏の「がらくた置場」(がらくたどころか至宝の山)の中にある、「成形層塔」(鋳造で制作された層塔)の頁のリンクであったのだが、そこには何と! 清八の、今はなき(戦時中の金属供出によって消失)その武蔵高尾山銅製五重塔の写真があるのである! それによれば、先にあったように八王子宿追分には清八の道標が残っているが、そこに平成十五年五月のクレジットを持つ八王子市教育委員会の説明番があって、そこには(改行を省略した)、この道標は文化八年に『江戸の清八という職人(足袋屋)が、高野山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。その後、昭和二十年八月二日の八王子空襲にで四つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建設されました。二段目と四段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです』とあるそうである。s_minaga 氏は、この塔について、先にリンクしたのとは別な写真の傍らに写っている大人の人物から推して、塔の高さは十五~六尺(四・五~四・八メートル)、台座は七~八尺(二・一~二・四メートルの見当であろうか、と推定なさっておられ、実にこれ、巨大な物であったことも分かる(こういう邂逅こそがネット世界の醍醐味である!)。清八さんは勿論、s_minagaさんも眠いさんも、みんな、ナイス・ガイだわ!
・「二人扶持」「扶持」は戦国時代からの名残で、主君から比較的下級の家士に対して支給された俸禄(手当)の単位。一人一日玄米五合を標準(一人扶持)とする。一年三六〇日で一石八斗、約五俵(単純な現在換算だと三〇〇キログラム)になる。月割りで毎月支給された。・「三十六里」約一四〇キロメートル強。地図上の直線距離でも彦根―堺間は一一〇キロメートルを超える。知らせることが目的であるから、彦根行を最スピードで踏破したと考えてよいから、「今夜中」という言葉、出立の雰囲気から考えても、だいたい六~九時間程度とすると、時速二三~一五キロメートルになる。自転車並みの速さである。
・「左右」あれこれの知らせ。手紙。便り。
・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月。

■やぶちゃん現代語訳

 鍛冶屋清八の事

 和泉国堺の者で、紀州家よりどういう訳からか、二人扶持の俸禄を給わっておる鍛冶屋清八と申す者がおる由。
 どうしてまた、鍛冶屋なんどが……と、知れる者に、その謂われを訊ねたところ……
「……いやぁ、その……正式な職分としては、これ、何の御用も勤めては御座らぬ。……されど、この男……古今にも珍しき駿足の持主で御座っての。……
……堺を出でてより――江戸へ――何と――僅か三日にて参る――と、申す。……
……堺から近江の彦根へ三十六里の行程……これを、この男……何と正味一昼夜で往復したとか……
……ある時、彦根の御城下より木綿買い出しに来て御座った男が、これ、堺にて急な病いのため、亡くなって御座った。……
……亡くなった者を知れる者ども、評議致いて、
「ともかくも……はよう在方へ知らせずんばなるまい……」
と評議一決致し、かの駿足の噂の高い清八を呼んで頼んでみたところ、
「――合点承知。――今夜中には先方へ知らせまひょ。」
と請け合って御座ったゆえ、飛脚賃として五両、これ、渡いた。……
……ところが、清八――「今夜中」と申したにも拘わらず――もう、その時には、かれこれ、日の暮れかかろうという時分で御座ったが、
「――一つ、腹ごしらえに、軽き夜食なんど、戴けまっか。」
などと申し、ゆっくらとそれを食べては、これまた、のんびりと支度致いておるによって、
「……さっさと……少しでもはよう、出なはれ!……」
と、流石に傍の者も焦れてしもうて、催促致いたところ、
「――明日、帰って首尾をのぶればよろしかろ? 何の。急ぐことが、これある、かい。――」
と呟いて、
「――されば急かされたによって――」
と、申して、やっと出でた、と申す。……
――ところが……
――やがて彦根へは日の変わった未明に着き……
――その日の日暮れ前には……これ……平気な顔して堺へ帰って参った、と申す。……
……清八儀、文化元年子年、当年とって五十二歳……今以て、健在の由にて御座る。……」



 猫の怪異の事

 或武家にて、番町邊の由、彼家にて猫を飼ふ事なし。鼠のあれぬるを家士共愁ひけるが、或人其主人へ其譯たづねしに、右いささか譯あれど、ひろく語らむも淺々あさあさしければかたらざれど、せちたづねまうすなり、祖父の代なりしが、久敷ひさしく愛しかへる猫あり、或時緣頰えんづらの端に雀二三羽居たりしを、かの猫ねらひて飛かゝりしに、雀はやくもとびさりしかば、彼猫小兒の言葉のごとく、殘念なりといひしに、主人驚きて飛かゝり押へて、火箸をもつて、おのれ畜類の身として物いふ事怪敷あやしきとて、既に殺さんと怒りしに、彼猫又聲を出し、もの云し事なきものをといひし故、主人驚きて手ゆるみけるを見すまし、飛あがつて行方しらずなりし故、其已後それいご猫は飼間敷かふまじき申置まうしおきて、今以いまもつて堅くいましめ飼はざる由なり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。既出(「卷之四」の「猫物をいふ事」など)に酷似した類話のある、ありがちな妖猫譚である。それにしても江戸時代、鼠除けに猫を飼う習慣は相当に一般的であった――実際には飼わない者が珍しかった――とさえ読める内容である。
・「淺々し」考えが浅い。浅墓だ。軽々しい。

■やぶちゃん現代語訳

 猫の怪異の事

 とある武家――番町辺りの者の由――にては猫を決して飼うことがない。
 ある年のこと、鼠が猖獗しょうけつを極め、屋敷内の荒れ様は――家士の者どもでさえも、あまりのことに、ひどく気に致すほどの有り様で――ともかくこれ、一方では御座らぬ――所謂、『ばたばた』――と申す呈にて御座った由。
 されば、家内の誰彼、こっそりと主人あるじの知音に頼み込んで、主人あるじに対し、
「……時に貴殿……見たところ……かくも鼠どもの大きに徘徊致すにも拘わらず……何故に猫を飼わざるや?……」
執拗しつこく訊ねさせたと申す。
 すると、
「……その儀につきては……聊か……訳が御座っての……あまりこれ、軽々に公言することの……憚らるることなれば、の……今まではたれにも語らずに御座ったのじゃが、の……貴殿がせちにと、これ、訊ぬるゆえ――では、申そうず。……
……祖父の代の、若き日のこととか申す。……
……当時、当家にては、久しく飼って御座った猫が、これ、一匹、御座った。……
……ある日のこと、縁側の端で雀が二、三羽遊んで御座ったところへ、かの猫の、狙い澄まして飛びかかったものの、雀はこれ、一瞬はよう、飛び去って御座った。
 というさまを、祖父は、家内より見て御座った。……
――すると
――かの猫
――まるで小児の発する如く、
「――残念ジャ!」
と申した!
――されば祖父、仰天致いて、即座に猫に飛び掛かって縁端えんばなに押さえ込むや、傍に御座った火鉢に刺して御座った火箸を執り、っ先を猫の喉笛に突きつけ、
「――おのれ! 畜類の身でありながら、ものを申すこと、これ、奇怪千万!!」
と叱咤致いて、今にも突き殺さんと致いた。
……ところが――永年の愛猫あいびょうなれば、一時、てえも止まって御座ったものか――
――その折り
――その猫
――またしても声を発して、
「……チッ! 今日ノ今日マデ……クソッ! モノ申シタコト……コレ、ナカッタニ、ノゥ!……」
と喋った!
――と
 祖父は、これまた、吃驚仰天、思わず、押さえつけて御座ったてえを緩めてしもうたと申す。
――と
――まさにその一瞬を狙い澄まして御座ったと見えて
――かの猫
パッ!――
と飛び上がって……そのまま……行方知れずと相い成って御座った、と申す。……
……されば、の。その怪事以後、わが家にては、これ『猫をこうてはならぬ』と申す御家訓が御座って、の。今、以て、堅く誡めて、これ、猫を飼わぬので御座るよ。……」
との由で御座った。


 賤商其器量ある事

 文化元年の頃、築土下白金町つくどしたしろがねちやうに伊勢屋三四郎といへるありし。親代おやだいより搗米つきごめを商賣いたし、男女大勢めし仕ひて、所々屋敷がたの搗入つきいれなど引請ひきうけけるが、此年七月盆前差詰さしつまり、ひしと差支さしつかへけると也。元來三四郎、其身驕るにもあらず、遊興等なす人にもあらず、手代の引負ひきおひ、又は不時のものいりにて差詰りしを、あたりにても憐みけるが、兄なる者は下町にて豪家也、其外本家親類にも有德うとくのものありしが、是迄度々の合力こうりよく助合たすけあひもあれば、今更可申入まうしいるべき事もならず色々心腑しんぷを勞しけるが、八月朔日、與風ふと家出して行衞不知しれず。親類豪家ども打寄うちよりて所々手を分尋わけたづねけれど、三日までしれざれば如何いかがせんと周章あはて騷ぎけるに三日の日、四谷邊の町家まちや軒下倒れものありて、懷中にいせや三四郎宛の仕切書付しきりかきつけあり、一向言舌不分由いつかうげんせつわからざるよし爲知しらせ來りし故、驚きて駕をもたせかの所に至りつれ戻りしに、一向物いふ事なく、狐狸の爲にたぶらかされしか、天狗につままれしかともいふべきてい故、兄はさらなり、親類共も打寄うちより、盆前の諸はらひ、搗入等の用向ようむき、金銀を出し取賄とりまかなひ、難なく盆もすみ今以いまもつて醫者を懸け療治最中にて、此程は筆談のみならず、少々はものもいふ由。我等が許へもきたる相學者栗原老人、その相を見しに、聊か病氣のおもむきもなし。醫者にも内々ききしが、聊か病氣にあらずといひしと語りぬ。親類に金銀をはたらかせ、盆前を凌げる一時の奇謀也と知りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:番町と築土下白金町は一キロメートル圏内にあり、極めて近いので、ロケーションで連関すると言える。しかし、これ本当に詐病であろうか? 伊勢屋三四郎は実直な商人であることは本文から十全に窺え、親類縁者に最終的に助力を受けるのに、こんな見え透いた芝居を打つとは私には思われない。寧ろ、盆前の炎暑の中、金作に奔走していた彼が、軽い脳卒中や脳梗塞に罹って倒れたが、処置が比較的早く、思ったよりも言語野の損傷も拡大せずに済んだことから、予後が良かった症例であったと読む方が、遙かに自然である。三四郎にはとんだ濡れ衣のようにしか私には思えず、見知らぬ御仁ながら、伊勢屋三四郎、「卷之六」の執筆推定下限文化元(一八〇四)年七月から実に二百有余年後の今日まで、詐病者の汚名を着せ続けるは、これ、如何にも哀れで御座る。――根岸先生、怪しい情報屋の栗原老人の言で満足せず、御自身で三四郎儀、検分訊問致すべきでは御座らなんだか?……伊勢屋殿、不肖、拙者藪野直史、貴殿の濡れ衣、確かにお雪ぎ申したぞ!……
・「築土下白金町」現在の新宿区の北東部に位置する新宿区白金町及びそこに接する筑土八幡町辺。地名の由来となっている筑土八幡社の下方の意。
・「伊勢屋三四郎」不詳。
・「搗米を商賣」搗米屋。江戸や大坂などにあった米穀を消費者に販売した小売商で、舂米つきごめ屋とも書いた。玄米を仕入れ、これを精白して白米を小売りした。江戸の搗米屋仲間には十八組があって各組に支配の行事がいた(吉川弘文館「国史大辞典」に拠る)。
・「引負」主家の金を奉公人が使い込むこと。
・「八月朔日」鈴木棠三先生に悪いが、この記載によって、実は巻六の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月ではなく、八月までであることが分かる(既に記載した部分を訂正することはしないが、以下では「八月」とする)。
・「仕切書付」現在の商品受渡明細書である仕切書しきりしょ。商品の明細・数量・単価合計金額などを書き込むことが出来、納品書・請求書・受領書として使う事が出来る文書のことを言う。仕切書には当該品目の買主である相手先の名・受渡日付・品名・数量・合計金額などを記す(株式会社ゴーガの「マネー事典」に拠る)。
・「つままれしかとも」岩波版では「つかまれしかとも」とルビを振るが、採らない。天狗は「摑む」より、「抓まれる」の方が一般的な謂いであると私は思う。
・「相學者栗原老人」本巻でも「孝傑女の事」に既出の、「耳嚢 巻之四 疱瘡神狆に恐れし事」に初出する根岸の情報通の軍書読み。ただ、この男、今まで読んでくると結構、針小棒大型の性格の持主のように感じられてしょうがない。

■やぶちゃん現代語訳

 賤しき商人にもとんだ企略がある事

 文化元年の頃、築土下白金町つくどしたしろがねちょうに伊勢屋三四郎と申す者が御座った。
 親の代より搗米つきごめ生業なりわいと致し、男女大勢、召し使つこうて、各所の屋敷方の米搗き入れなんどを引き請けて御座ったと申す。
 ところが、今年の七月、盆を前にして、突如、金繰りが悪うなって、二進にっち三進さっちも行かずなり、商売そのものが、これ、いっかな、行き詰って御座ったと申す。
 元来、この三四郎儀、その身は、驕る者にてもあらず、遊興なんども、これ、一切なさざる御仁にて、何でも――手代による莫大な使い込みやら――またそれに加えての、不意の多額の物入りなんどが――これ、続いたがゆえ、かくも進退窮まるほどに、差し迫って御座った、とか申す。
 されば、周囲や縁者の者らも、勿論、気の毒に思うては御座った。
 三四郎の兄なる者は、これ、下町にては、かなり知られた豪家ごうけで御座ったし、本家や親類の者の中にも、相応の資産を有して御座る者もあったが、三四郎儀、
「……彼らよりは、今までも、度々の合力こうりょくや助け合いを受けて御座ったれば……今更、借財や援助を申し入るること、これ、致し難いことじゃ……」
と、殊更に彼らの方へ足を向けることものう、いろいろと自身にて算段致いてはみたものの、心痛ばかりが重なる一方で御座ったと申す。
 さても、三四郎、八月一日のこと、ふと、家を出たっきり――これ、行方知れずとなってしもうた。
 親類・豪家ども、知らせを聴いて打ち寄り、方々、手分け致いて尋ねたれども、三日経っても、行方、これ、分からず、
「……さても……どうしたものか?……」
と、誰も慌てふためいて、騒いでおるばかりで御座った。……
 ところが、その三日目の午後のこと……
――四谷辺の町屋の軒下に一人の男が倒れており、 ――この男、懐中に伊勢屋三四郎宛の仕切書付しきりかきつけを所持しておったものの、
――介抱致いて、一応、正気に戻ったかのように見えながらも、
――これ
――一向に、
――その申すこと、よう分からぬことばかりなれば……
とて、知らせを受けたによって、一同驚き、駕籠を手配致いて、四谷へと至り、ようやっと連れ帰ったところが……
……これ
……一向にものを言う様子も
……御座ない。……
 されば、者ども、
「……これは狐狸こりのためにたぶらかされたものか?……」
「……いや……この様子は天狗につままれたに相違いない……」
なんどと噂致すような状態で御座ったゆえ、かの豪家の兄は勿論のこと、親類どもも再びうち集って、盆の前から滞って御座った伊勢屋の諸払い、諸屋敷搗き入れ等の既に契約の終わって御座る仕事なんど、皆して、金子きんすを拠出致いて、支払いやら搗き入れなど、総てとりまかなって、難なく、盆も済まして御座ったと申す。……
 今、以って医師を頼んで療治の最中とのことで御座るが、最近では筆談のみならず、少しは言葉を喋ることも出来るようになった、と申す。
 私のところへ、しばしば訪ねて参る相学者の栗原老人は、この伊勢屋三四郎に面会致す機会が御座って、その人相を実検致いたところが、
「……いや、これ聊かも病気の「び」の字も感じられませぬゆえ、内々に、かの担当の医師にも聞いてみ申したが――『これ、聊かも病気にては御座らぬ。』――と明言致いて御座った。……」
とのこと。
 親族の者に金子を出させ、危急の山で御座ったところの盆の前を、巧みに凌ぐための、これ――一時の奇謀であった――ということは、これ、拙者にも分かって御座ったよ。



 黑鯉の事

 黑鯉は流沙川りゆうさがはの産にて、文化元子年長崎より獻備けんびなし、數二つの内、一つは路中にてたふれぬ。其活魚かつぎよを見し御醫師の持來るを、爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。珍しい、外国産の珍魚の図入り奇談である。博物学的には極めて興味深いが、情報が少な過ぎるのが玉に疵。もう少し、細部の描写が欲しかった。
・「黑鯉」(「くろごひ(くろごひ)」ではなく、「こくり」と音読みしている可能性があるので読みを振らなかった。訳では大陸伝来の雰囲気を出すために「こくり」とした)まず、名称と図から言うと、体表面の背側半身が黒色を呈していることと、その全体の形状が鯉に似ているのであろうと推測する(恐らく、この「黑鯉」という名称自体が中国から提供された時点でついていた名前であろうと考えられ、恐らく新鮮な生体でしっかり黒色であったと考えてよいであろう。即ち、途中で黒く変色したものではまずないと考えてよいと思われる)正確な描写であるかどうかが疑わしいが、頭部の形状が極めて特異である。上辺が背に対してほぼ平行しており、吻部が特徴的に独立して突き出していて、これは凡そコイ科のそれには見えない。寧ろハゼの類に似ているように思われる。但し、これは長途の移動(中国から長崎を経て江戸)で弱って病的な変形が起こったものとも思われる。今一つ特徴的なのは鰭である。尾鰭の中央が貫入せず、まさにハゼ類のようにすっぱりとなっている。但し、図を良く見ると、尾鰭下方の部分は、何か不自然に千切れたように描かれており、これも運搬で疲弊し尾鰭の上下に後ろに伸びていた部分が傷んで脱落したものとも考え得る。また、背びれがかなり丸みを帯びて描かれていることや、胸鰭もやや大きいことなどを指摘出来る(但しこれも、損壊の可能性を否定は出来ない)。さらに推理するならば、この二個体、これ、非常に巨大な個体であったのではあるまいか? そもそもが普通の大きさで黒っぽい鯉に似た魚では、献上品としてのインパクトに欠ける。これが献上品であるためには、本邦の鯉を遙かに越える巨大魚である必要があるように思われるのである。諸本注せず、「黒鯉」はネット検索にも掛かって来ない。以下、同定は次の「流沙川」の注で続ける。
・「流沙川」岩波版長谷川氏注に、流沙は『中国北西部ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠をいう』とある。これではあまりに広範囲で、まず棲息河川自体の同定が不可能である。しかし、そもそもが砂漠地帯のど真ん中であるはずもなく、すると大きな両砂漠に繋がるような河川で、尚且つ、日本にそこで獲れた魚類を運び持ち来たることの出来る川となれば、これは黄河しかあるまい。
 以下、この「黑鯉」の確かな特徴を整理しよう。
 ①巨大魚である(推定)。
 ②コイに似ている。
 ③背部半身の体表が優位に黒色を呈する。  ④尾鰭がコイに似ない(損壊の可能性有り)。
 ⑤背鰭が丸みを帯びている(損壊の可能性有り)。
 ⑥頭部が特徴的である(病変による眼球や吻部突出の可能性有り)。
 ⑦本個体の採集地は黄河である可能性が高い。
この内、④を除いた(私は図のそれを欠損と採る。魚類の尾鰭はしばしばそうしたストレスによって欠損するからである)各項より導き出される有力な同定候補は――
条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科アブラミス亜科コクレン属コクレン Aristichthys nobilis(シノニム Hypophthalmichthys nobilis
であろうように私には思われる。
 コクレン(黒鰱)は参照したウィキの「コクレン」によれば、同じアブラミス亜科ハクレン属ハクレン Hypophthalmichthys molitrix と同じ鰱魚れんぎょ(ハクレンとコクレンの二種を合わせた名称。)で中国原産の四大家魚(*)の一種である。
(*)「四大家魚」とは中国で食性の異なる、
 コイ科ソウギョ亜科アオウオ属アオウオ Mylopharyngodon piceus
 コイ科ソウギョ亜科ソウギョ属ソウギョ Ctenopharyngodon idellus
 コイ科アブラミス亜科コクレン属コクレン Aristichthys nobilis
 コイ科アブラミス亜科ハクレン属ハクレン Hypophthalmichthys molitrix
の四種類の魚類を指す。この四種を同一の池で飼育することで、自然界の食物連鎖を効率よく利用出来る養魚システムを構築することが出来る。これは古来から中国で伝承されてきた養魚法であった(この部分注はウィキの「四大家魚」などに拠った)。
コクレンは『中国では華南を中心に一般的な淡水魚であり、主に珠江水系と長江水系に棲息する。黄河以北にも棲息するが、その数は少ない』(この棲息分布は私の採集地を黄河とする考えとはややマッチしないとは言える)。『ハクレンよりも養殖効率、味ともに良いとされ、台湾でレンギョというともっぱらこの本種のことを指す。東南アジアなどにも移出されて、養殖されたり、自然の河川で繁殖したりしている』。『ハクレンによく似るが、体色がハクレンは銀白色なのに対し、コクレンは体色に黒みがあり、全身に黒い雲状の斑紋が広がっている。腹の部分の隆起縁が腹鰭の位置よりも後の方に有る。ハクレンよりも成長が早く大型に成長する。体長は体高の』三・一~三・五倍、頭長の二・九~三・四倍『と相対的に頭が大きい』(記載には体長の具体が示されないが、同じウィキの、『よく似る』とする「ハクレン」に最大で一三〇センチメートル以上にもなる大型魚とあるから、やはりこの「黑鯉」大型個体と見たのは正しかったと言えまいか?)。『日本へは、アオウオと同様にハクレンとソウギョを輸入した際に混じってきたと考えられている。日本では利根川水系、江戸川水系、霞ヶ浦、北浦で自然繁殖が確認されているが、その生息数は極めて少なく、「幻の魚」とも言われる。淀川にも放流されている』とある(移入の時期が特定されていると本話を考える上で嬉しいのだが……。識者の御教授を乞う)。
 また⑥については、写真などを見ると気づかないのであるが、荒俣宏著「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「中国の四大家魚」一二六頁にある「中国鯉科魚類誌」(たたら書房一九八〇年刊)のこの四種の図を見ると、アオウオ・コクレン・ハクレンの頭部の吻部上辺は有意に平たく突き出るようになっているのが確認出来、本「耳嚢」の図(やや誇張されているが)が必ずしもおかしくないことが分かった。
 以上から私は「黑鯉」=コクレン Aristichthys nobilis に同定する。大方の御批判を俟つ。
・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月。

■やぶちゃん現代語訳

 黒鯉こくりの事

 黒鯉こくりは中国奥地の砂漠から流れ出づる河川の産にして、文化元年子年ねどしの今年初め、長崎より献上品となして江戸へ送られ、その数二の内、一尾は道中にて斃死致いたが、そのもう一匹の生きた黒鯉こくり、これを実見致いた御殿医が、それを描いた絵図を持参致いたによって、ここに移し写しておく。



 丹後國成相山裂の事

 文化元子年、松平主計頭領分丹後國宮津城下より乾方の二里程隔、成相寺觀音安置有之。去亥年十二月下旬より右境内池の坊と申畑より、鐘樓堂下迄凡百間程、大地裂陷候所、當子正月下旬より次第に所々地裂、所により候ては七八尺も陷入候場所も有之。地裂晝夜三分五分程、谷間欠候所も有之候由。境内諸堂社幷寺院住居傾候故、追々取片付の旨、在所家來共より申越候。人馬怪我は無之候。異變に付、此段御屆の旨、主計頭より御老中え申立候由。宗德養安、右屆の書面の由、携來の儘、書留ぬ。且繪圖もありしが、朱墨不端正難分故、不及模寫。

◆やぶちゃんの書き下し文

 丹後國成相山裂たんごのくになりあいやまさけの事

 文化元子年ねどし、松平主計頭かずへのかみ領分、丹後國宮津城下より乾方いぬゐのかた二里程へだて、成相寺なりあひじ、觀音安置之れ有り。去ぬる亥年ゐどし十二月下旬より右境内池の坊と申す畑より、鐘樓堂下迄、凡そ百間程、大地、裂け陷り候ふ所、當子とうね正月下旬より次第に所々、地裂ぢれつ、所により候ふては七・八尺も陷入おちいり候ふ場所も之れ有り。地裂、晝夜三・五分程に、谷間、欠け候ふ所も之れ有り候ふ由。境内諸堂社幷びに寺院住居、傾き候ふ故、追々、取り片付けの旨、在所家來共より申し越し候ふ。人馬怪我は之れ無き候ふ。異變に付き、此の段、御屆おとどけの旨、主計頭より御老中へ申し立て候ふ由。宗德養安しゆうとくやうあん、右屆の書面の由、携へ來たるの儘、書き留めぬ。且つ、繪圖もありしが、朱墨しゆずみ端正たんせいならず分かり難き故、模寫に及ばず。

□やぶちゃん注
○前項連関:不載ながら、絵図による事実報告で連関する。今回は上申書のような本文の体裁雰囲気を大事にしたいので、まず底本のそのままを示し、後に私がやや補正を加えながら書き下したものを示した。現代語訳も遊んだ(正規の古文書の形式など全く知らぬ私の、あくまで「遊び」であるので注意されたい)。根岸は流石に町奉行である。こうした天変地異の公文報告の転載には何か真摯さが感じられ、叙述も頗る厳密である。……それにしても……これは……まさか!……活断層?!……よかったねえ、寺で……因みにさ……地図で見てみたんだけどさ……この場所から真東に四十キロメートル行くと……今、何があるか知ってるかい?……大飯原子力発電所……だよ…………
追記:本話公開直後に、これを読んだ知人が兵庫県豊岡市~京都府宮津市にある山田断層帯のことを教えて呉れた。その地図を見ると……まさに……その線上に……成相山はあったのだ!……
・「丹後國成相山」先の「犬の堂の事」に既出であるが、改めて注する。山としての名は成相山なりあいさん、鼓ヶ岳ともいう。京都府宮津市と与謝郡岩滝町及び中郡大宮町の境界をなす山で標高五六九メートル。山頂は宮津湾奥にある天橋立の北側付け根の約三・五キロメートル北西に当たる。南東側中腹に真言宗成相寺がある(後注する)。特に南側山麓に近い標高一四〇メートル付近にある傘松公園からは天橋立の展望が素晴らしく、今は南麓にあるこの神社の横からケーブルカーが通じている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、半年ほど前の、リアルな、文字通り、驚天動地の、戦慄の天災報告なのである。
・「松平主計頭」松平宗允むねただ(安永九(一七八〇)年/一説に天明二(一七八二)年~文化一三(一八一六)年)。丹後宮津藩第四代藩主、本庄松平家第七代。第三代藩主松平資承すけつぐの次男として江戸で生まれたが、兄資統すけのぶが病弱だったため廃嫡され世子に指名され、寛政七(一七九五)年十一月十七日の父の隠居によって家督を継いだ。当時、藩主となって九年目、二十四か二十二歳であった(ウィキの「松平宗允」に拠った)。
・「丹後國宮津城下」天橋立で知られる京都府宮津市。因みに、この宮津市は与謝野町旧岩滝町を挟んで、南北に完全な飛び地になっている珍しい市である。
・「成相寺」京都府宮津市にある現在は真言宗単立寺院。以下、ウィキの「成相寺」によれば、山号は成相山で西国三十三所第二十八番札所である。本尊は聖観世音菩薩。寺伝によれば慶雲元(七〇四)年に真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったとするが、中世以前の寺史は判然としない、とある。寺は天橋立を一望する成相山の山腹にあるが、創建時は山のさらに上方に位置して修験の道場となっていた。現在地に移ったのは応永七(一四〇〇)年の山崩れ以降である(山崩れとは降雨その他によるものの可能性も含まれるが、その後の四〇〇年の後のこの時にも、このような現象(本件は叙述から見ても降雨などによる地盤の緩みによる地滑りや陥没とは思われない)が起こっているということは……これ、この山全体がとんでもない活断層の上にでもあるのではなかろうか?)ある山号は古くは「世野山」と称し、雪舟の「天橋立図」(京都国立博物館蔵・国宝)には「世野山成相寺」の書き込みとともに当寺が描かれている。本堂は安永三(一七七四)年の再建とあるから、本事件の三十年前といことになり、更にウィキにかく記されているということは本堂は傾いたものの、恐らく補強補修で済んだことを意味している。堂内には中央の厨子内に本尊の聖観音像、向かって左に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、右に千手観音立像を安置するが、本尊は三十三年に一度開扉の秘仏である。
・「池の坊」Kiichi Saito氏の「丹後の地名・資料編」の「成相寺(地名)の概要」に引用されている「角川日本地名大辞典」の成相寺の小字名として、「池ノ坊新畑池ノ坊」「別所池ノ坊山」の二つを見出せる。前者か。位置は不明。
・「百間」一八一・八メートル。
・「七八尺」約二メートルから二メートル四〇センチ。
・「三分五分」元の状態から十分の三から、ひどい箇所では二分の一ほどの陥没や地滑りによる段差が生じたことを言うか。
・「宗德養安」不詳。名前からすると僧のようである。成相寺の住持若しくは首座か。識者の御教授を乞うものである。
・「朱墨」朱粉をにかわで固めた墨。赤墨。

■やぶちゃん現代語訳

 丹後国成相山山裂たんごのくになりあいやまやまさけの事〔松平主計頭かずえのかみ殿上申〕

●報告年時
 文化元年子年ねどし
●事件現場
 松平主計頭宗允かずえのかみむねただ殿領分、丹後国宮津城下より北西に二里ほど隔てたところのある、天橋立を見下ろす西国三十三所第二十八番札所として知られた成相寺なりあひじ〔本堂に本尊聖観音を安置〕寺域。
●事件の発生
 昨年亥年いどしの十二月下旬より、現在に至る。
●事件の経過
 同寺境内の「池の坊」と称する畑地から、同寺鐘楼堂の下方まで、凡そ百間ほど、大地が裂け、大きな陥没が発生した。
 更に当年子年ねどしの正月下旬より、同境内に於いて次第に所々で、やはり地面に亀が発生し、場所によっては七~八尺も深い陥入が生じた場所もある。
 その後も地面の亀裂や陥穽かんせいは、昼夜分かたず断続的に起り、元の状態の三強、ひどい場所では五分ほども沈下や段差が生じ、谷間のように深く抉られて空ろになってしまった場所も認められた。
 現在は終息。
●損壊その他
 境内の諸堂社しょどうしゃ並びに寺院に附帯する住僧らの住居等は、その殆んどが傾いてしまったため、傾斜の著しい箇所及び重要な建物から順に、瓦礫の撤去・補強・片付などを行っているむね、在所の民及び当藩家来より報告を受けている。
 怪我人やその他家畜等の損害はない、との報告を受けている。
以上。
 発生した異変についての詳細と幕府へ届け出でたるの主旨おもむき
                           松平主計頭〔花押〕
御老中殿 申立候もうしたてそうろう
   *
 以上、その上申の書面を宗徳養安しゅうとくやうあんなる者が届出人として丹後より携帯して参ったものを、全くそのままに手を加えずに書き留めたものである。
 なお、実はその上申書には、土地陥没・家屋損壊等に就いて、その被害実態を示す朱墨しゅずみによる注記を施した絵図も添えられていたが――災害の発生時の混乱の中で記したためであろうか――これ、きちんとしておらぬ殴り書きのようなものであり、非常に分かり難いものであったがため、その模写は断念した。
                            以上、根岸鎭衞、記す。



 賊術識貯金事

 和州郡山に粕屋某といへる富商ありて、時々京都へ往返わうへんして商賣の道をいとなみけるに、或年大晦日おほみそかに、京都より金子四五十兩財布にいれ、懷中して、夜に入りぬれど、明日は元日なれば郡山へ歸らんと立出たちいでしが、山道人離ひとばなれなる場所故、心しづかならざれば用心して歸りしに、右途中六部ろくぶの大男道連れになりて、郡山近所迄同道せんといひしが、何とやらん空恐しく思へども、いなまばかへつて災ひあらんと思ひて任其意そのいにまかせければ、かの六部まうしけるは、御身は金子も餘程所持し給ふ、およそ何程懷中ありしと見へたりといへる故、彌怖敷いよいよおそろしく、震ふばかりをこらへて相應に答へけるに、彼六部申けるは、さのみ恐れ給ひそ、それがし元は何を隱さん、盜賊なりしが、其罪業を恐れてかく六部とはなりぬ、それつき、御身にまうすべき事あり、金子を財布にいれ、左のふところかたいれ給ふ、あるべしと尋し故、搜り見れば果してかれまうすごとくなり。すべて盜賊の、往來の懷中を察するに、其歩行振そのあるきぶり等にて何程いかほどあるべきという事は察し知るなり。依之以來これによつていらいともかならず金子懷中いたし侯はゞ、其心得あるべき事也と、教示しけるよし。扨々怖敷さてさておそろしき事なりしと、かの柏屋手代てだい、咄しけるとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:上方の事実譚として軽く連関。
・「賊術識貯金事」標題は「賊術、貯金を識る事」と読む。
・「和州郡山」現在の奈良県郡山市。
・「六部」六十六部の略。法華経を六十六回書写して、一部ずつを六十六か所の霊場に納めて歩いた巡礼者、回国聖。室町時代に始まるとされるが、江戸時代には多くが零落し、仏像を入れた厨子を背負って鉦や鈴を鳴らしては米銭を請い歩いた、一種の僧形のホカイビト(乞食)ともなった。
・「いう事は」はママ。

■やぶちゃん現代語訳

 往来の旅人の所持金を探り当てる盗賊の巧みなじゅつについての事

 大和国郡山に柏屋なにがしと申す富商ふしょうが御座った。
 しばしば京都と郡山を往復致すような、商売を営んで御座ったと申す。
 ある年の大晦日のこと、京都より金子四、五十両を財布に入れ、懐中致いて、帰りは夜にって御座ったれど、
「……明日は元日なれば、郡山へは是非とも帰りたいものじゃ。……」
と、出立しゅったつ致いたと申す。
 山道にて人気ひとけ無き街道なればこそ、心穏やかにてはおられず、用心致いて帰ったと申す。
 ところが、途中にて、六部ろくぶの大男が、これ、かの手代の道連れとなって、
「――郡山近所まで――我ら――同道致さんと存ずる。――」
と申し出た。
 何とも言えず、そら恐しゅう思うたものの、
『……これ……否まば……却って……直ちに災いのあろうような気も致さばこそ……』
と思い、その申し出のままに、同道致すことと相い成って御座った。
 さて、暫く無言で山道を辿ったところ、かの六部、手代に、
「……御身は……金子も余程、所持していなさるようじゃの。……およそ四、五十両程、懐中にしておらるると、見た。――」
と言うたによって、手代、これ、いよいよ怖しゅうなって、体がぶるぶると震えださんばかりになるを、必死でこらえつつ、適当に返事を致いて御座ったと申す。
 すると、かの六部の申すことには、
「……まあ、そんなに恐れなさるな。……それがし、確かに元は、何を隠さん、盜賊で御座った――が――今はその罪業を恐れ、かくも六十六部とは、なって御座る。――さればこそ――御身に申しておきたきことが、これ、御座るのじゃ。……
――四、五十両見当の金子……
――これを財布に入れて……
――左のふところかたへ……
――入れていなさる……
……そうで御座ろう?――」
と尋ねたゆえ――あまりの恐ろしさに、懐の中がどうなって御座ったやら、ようも分からずなっておったゆえに――掻い探って見たところが――これ……
――果してかの六部の申す通り……
――金子の入った財布は――これ――懐の左側に――移って御座った。
「……すべて――盜賊が往来を行き来する者の、その懐中を察する場合は――その歩き振り等の妙な癖や、僅かな変り様を見極め――何程いかほどの金子を――どの辺りに所持致いておるか――ということ――これ、容易に察し知るもので御座る。……さればこそ……御身、向後は……必ずや――特に大枚の金子を懐中致いておらるる際には――これ、そうした心得を、十全になさって、立ち居振る舞いを致すが、これ、肝要で、御座る。……」
と、教示し呉れたと申す。

「……さてもさても、これ、怖しき体験で御座った。……」
とは、かの柏屋の、その手代自身が語ったことと聴いて御座る。



 豺狼又義氣有事

 尾州名古屋より美濃へ肴荷さかなにを返りて生業とする者ありしが、拂曉夜へかけて山道を往返わうへんなしけるが、右道端へ狼出てありければ、與風ふと肴の内を少々わけてあたへければ、悦べる氣色にていささか害もなさゞりしゆゑ、後々は往來ごとに右狼道の端に出ける節、不絶たえず肴を與へ通りしが、誠に馴れむつぶ氣色にて、かならず其道の邊に出で肴を乞ひ跡を送りなどせる樣なり。かく月日へて或時、右の所肴荷を負ふて通り、彼狼に與ふべき分は別にもちかの邊にいたりしに、與へし肴はかつて喰はず、荷繩をくわへて山の方へいざのふ樣子故、いかゞする事ぞと、其心に任せけるに、四五町も山の方へ引きいたりしに、狼の寐臥ねふしする所なるや、すゝきかやふみしだきたる所あり。其所そこしばらくたゝずみいたりしに、何か近邊里方にて大聲をあげ、鐡砲などの音して大勢にてさわぐ樣子なりける故しばらく猶豫して、靜りける故元の道へたち出しに、里人あつまりて、御身は狼の難には不逢哉あはざるや、渡り狼兩三疋出て海邊の方へゆきしが、人をやぶらん事を恐れて、大勢聲をあげ鐡砲などうつ追拂おひはらひしといひける故、我等はかくかくの事にて常に往來の節、肴抔あたへ馴染の狼、此山の奧の方へともなひし譯かたりければ、扨はかの狼、わたり狼の難を救ひしならんと、里人もともに感じけるとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:山路奇譚で美事連関。こういう連関、とってもいい!
・「豺狼又義氣有事」は「さいらうまたぎきあること」と読む。「豺狼」は「山犬やまいぬおおかみ」の謂いであるが、ここは山犬の謂いであろう(次注参照)。
・「狼」狭義には食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax を指すが、本話の場合、主人公に非常になついている様子から、元は人に飼われていた可能性があり、すると必ずしもニホンオオカミではなく(ニホンオオカミでも勿論よい。後に引くウィキの「ニホンオオカミ」によれば、シーボルトはヤマイヌとオオカミ両方を飼育していたとある)、所謂、イヌ属 Canis の野犬の一種であったのかも知れない。以下、ウィキの「ニホンオオカミ」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『一九〇五年(明治三八年)一月二十三日に、奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存する)が確実な最後の生息情報、とされる。二〇〇三年に「一九一〇年(明治四三年)八月に福井城址にあった農業試験場(松平試農場。松平康荘参照)にて撲殺されたイヌ科動物がニホンオオカミであった」との論文が発表された。だが、この福井の個体は標本が現存していない(福井空襲により焼失。写真のみ現存。)ため、最後の例と認定するには学術的には不確実である。二〇一二年四月に、一九一〇年に群馬県高崎市でオオカミ狩猟の可能性のある雑誌記事(一九一〇年三月二十日発行狩猟雑誌『猟友』)が発見された。環境省のレッドリストでは、「過去五十年間生存の確認がなされない場合、その種は絶滅した」とされるため、ニホンオオカミは絶滅種となっている』。特徴は『体長九五~一一四センチメートル、尾長約三〇センチメートル、肩高約五五センチメートル、体重推定一五キログラムが定説となっている(剥製より)。他の地域のオオカミよりも小さく中型日本犬ほどだが、中型日本犬より脚は長く脚力も強かったと言われている。尾は背側に湾曲し、先が丸まっている。吻は短く、日本犬のような段はない。耳が短いのも特徴の一つ。周囲の環境に溶け込みやすいよう、夏と冬で毛色が変化した』。『ニホンオオカミは、同じく絶滅種である北海道に生育していたエゾオオカミとは、別亜種であるとして区別される。エゾオオカミは大陸のハイイロオオカミの別亜種とされているが、ニホンオオカミをハイイロオオカミの亜種とするか別種にするかは意見が分かれており、別亜種説が多数派であるものの定説にはなっていない』とある。本話の「やまいぬ」と「おおかみ」の違いについて独立した記載があるので引用すると、『「ニホンオオカミ」という呼び名は、明治になって現れたものである。日本では古来から、ヤマイヌ(豺、山犬)、オオカミ(狼)と呼ばれるイヌ科の野生動物がいるとされていて、説話や絵画などに登場している。これらは、同じものとされることもあったが、江戸時代ごろから、別であると明記された文献も現れた。ヤマイヌは小さくオオカミは大きい、オオカミは信仰の対象となったがヤマイヌはならなかった、などの違いがあった。このことについては、下記の通りいくつかの説がある。
 ヤマイヌとオオカミは同種(同亜種)である。
 ヤマイヌとオオカミは別種(別亜種)である。 ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは未記載である。
 ニホンオオカミはオオカミであり、未記載である。Canis lupus hodophilax はヤマイヌなので、ニホンオオカミではない。
ニホンオオカミはオオカミであり、Canis lupus hodophilax は本当はオオカミだが、誤ってヤマイヌと記録された。真のヤマイヌは未記載である。
 ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミはニホンオオカミとイエイヌの雑種である。
 ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは想像上の動物である。
シーボルトはオオカミとヤマイヌの両方を飼育していた。現在は、ヤマイヌとオオカミは同種とする説が有力である。なお、中国での漢字本来の意味では、豺はドール(アカオオカミ)、狼はタイリクオオカミで、混同されることはなかった。現代では、「ヤマイヌ」は次の意味で使われることもある。
 ヤマイヌが絶滅してしまうと、本来の意味が忘れ去られ、主に野犬を指す呼称として使用される様になった。
 英語のwild dogの訳語として使われる。wild dogは、イエイヌ以外のイヌ亜科全般を指す(オオカミ類は除外することもある)。「ヤマネコ(wild cat)」でイエネコ以外の小型ネコ科全般を指すのと類似の語法である』。次に「生態」の項。『生態は絶滅前の正確な資料がなく、ほとんど分かっていない。薄明薄暮性で、北海道に生息していたエゾオオカミと違って大規模な群れを作らず、二、三~十頭程度の群れで行動した。主にニホンジカを獲物としていたが、人里に出現し飼い犬や馬を襲うこともあった(特に馬の生産が盛んであった盛岡では被害が多かった)。遠吠えをする習性があり、近距離でなら障子などが震えるほどの声だったといわれる。山峰に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで三頭ほどの子を産んだ。自らのテリトリーに入った人間の後ろをついて来る(監視する)習性があったとされ、いわゆる「送りオオカミ」の由来となり、また hodophilax (道を守る者)という亜種名の元となった。一説にはヤマイヌの他にオオカメ(オオカミの訛り)と呼ばれる痩身で長毛のタイプもいたようである。シーボルトは両方飼育していたが、オオカメとヤマイヌの頭骨はほぼ同様であり、テミンクはオオカメはヤマイヌと家犬の雑種と判断した。オオカメが亜種であった可能性も否定出来ないが今となっては不明である。「和漢三才図会」には、「狼、人の屍を見れば、必ずその上を跳び越し、これに尿して、後にこれを食う」と記述されている』。「人間との関係」の項。『日本の狼に関する記録を集成した平岩米吉の著作によると、狼が山間のみならず家屋にも侵入して人を襲った記録が頻々と現れる。また北越地方の生活史を記した北越雪譜や、富山・飛騨地方の古文書にも狼害について具体的な記述が現れている。奥多摩の武蔵御嶽神社や秩父の三峯神社を中心とする中部・関東山間部など日本では魔除けや憑き物落とし、獣害除けなどの霊験をもつ狼信仰が存在する。各地の神社に祭られている犬神や大口の真神(おおくちのまかみ、または、おおぐちのまがみ)についてもニホンオオカミであるとされる。これは、山間部を中心とする農村では日常的な獣害が存在し、食害を引き起こす野生動物を食べるオオカミが神聖視されたことに由来する。『遠野物語』の記述には、「字山口・字本宿では、山峰様を祀り、終わると衣川へ送って行かなければならず、これを怠って送り届けなかった家は、馬が一夜の内にことごとく狼に食い殺されることがあった」と伝えられており、神に使わされて祟る役割が見られる』。最後に「絶滅の原因」の項。『ニホンオオカミ絶滅の原因については確定していないが、おおむね狂犬病やジステンパー(明治後には西洋犬の導入に伴い流行)など家畜伝染病と人為的な駆除、開発による餌資源の減少や生息地の分断などの要因が複合したものであると考えられている。江戸時代の一七三二年(享保一七年)ごろにはニホンオオカミの間で狂犬病が流行しており、オオカミによる襲撃の増加が駆除に拍車をかけていたと考えられている。また、日本では山間部を中心に狼信仰が存在し、魔除けや憑き物落としの加持祈祷にオオカミ頭骨などの遺骸が用いられている。江戸後期から明治初期には狼信仰が流行した時期にあたり、狼遺骸の需要も捕殺に拍車をかけた要因のひとつであると考えられている。なお、一八九二年の六月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが写真は残されていない。当時は、その後十年ほどで絶滅するとは考えられていなかった』とある。
・「四五町」約四三六~五四五メートルほど。
・「渡り狼」定住せず、野山を渡り歩く狼。

■やぶちゃん現代語訳

 おおかみにもまた堅気のあるという事

 尾張名古屋より美濃へさかなを運ぶことを生業なりわいと致す者があったが、品が品なれば、払暁から夜へかけて山道を往復致すが常であった。
 その通り道のへ、ある時、一匹のおおかみが出でておったれば、ふと、荷の魚の内から、少々を分け与えてやったところが、何か悦んでおる気色けしきにて、聊かの害もなさずあったによって、その後、往来のつど、その一匹狼の道の端に出でて待ちおるに、絶えず商売の魚少々を、
「――山の神への初穂じゃ。」
と与えては、通って御座ったと申す。
 この狼、狼にしては、まことに男に馴れなついた様子で、必ず、かの者の通り道の辺りに出ででは、魚を乞うて、静かに食べたのちは、男の後を暫く見送るようについて御座ったりも致いたそうな。
 かく月日が経ったある日のこと、何時もの場所を魚の荷を負うて通った。
 いつものように、かの狼に与えようと思うておった分は、別に手に持って、かの辺りに至って御座った。
 いつものように、かの狼がおった。
 ところが――その日に限って、与えた魚を、一向に喰う気配がない。
 ――と――
 ふっと荷縄を銜えて山のかたへといざなう素振りを見せる。
「……何や?……何をしようと言うんかい?……」
と、不審に思いながらも、そのなすがままにまかせて、四、五町も山の方へと引かれて入って御座った。
 連れて行かれたところはと言えば――これ、かの狼の寝臥ねふしする棲み家と思しい――薄やかやなんどを踏みしだいた一所ひとところで御座った。
 気が付けば……かの狼……知らぬ間に姿を消して御座った。……
 かの狼が戻って来るまでと、そこに暫くの間、ただぼんやりと佇んで御座ったところ……
――ホイ! ホイ! ホイーッ!
――ウッシ! ウッシ!
と、何やらん、近隣の里方さとがたより、大声を挙げるて人の来るのが聴こえだしたかと思うと、
――パン! パパンッ!
と今度は鉄砲なんどの音までして、これ、どうも、相当に大勢にて騒いでおる様子なれば、
「……これ、尋常ではないぞ!……鉄砲にても打たれては、かなわん!……」
と、少し様子を窺って後、静まったのを見計らって、元の山道へと下って立ち戻った。
 すると、曙の薄ら明りの中、松明を持った里人が仰山に集まっており、かの男を見つけるや、
「――お前さん、狼の難には遇わなんだか!?……この近くで、渡り狼が三疋ばかりも現われおっての!……ここからずっと海辺の方へと山道を走っていったようじゃて……人を襲うては、これ、一大事と……まあ、こうして大勢にて声を挙げ、鉄砲なんど撃っては、追いはろうておったんじゃ!……」
と申したによって、
「……我らはかくかくのことにて、常に往来の砌り、商売の雑魚なんどを一疋の狼に与えて御座ったが……その馴染みの狼が……今日は、この山の奧のかたへと、我らをとものうて入って御座ったれば……」
と語ったところ、
「……さては! その狼、お前さんが、渡り狼の難に遇うを、これ、救うたに違いない!……」
と、里人もともに、畜生ながら、狼の堅気に感じ入ったとのことで御座る。



 長壽は食に不飽事

 予七旬に近く、近頃三時のくひも程を不過すぎず不足たらずに喰ひぬるに、何となく心持よかりしを、同齡同志みな同じ事にいひて、食事は若きとてもみだりにあくまで貪るは、いましむべき事とまうしあひしに、御鷹匠頭おたかしやうがしら戸田五助語りけるは、すべて鳥の類料理するに、何れの鳥も餌袋ゑぶくろ充滿せり、鶴に限りては、或は六七分目、餌袋に餌あり、滿溢まんいつのことなし、鳥の内、鶴は諺にも千年の壽と申傳まうしつたへば、いづれ餘鳥よてうより長齡のものなり、その減食のいはれもありや、過食は厭ふべきと、其座の人々まうしあへりき。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。根岸自身の私的な謂いから語り出すのは、比較的、珍しい。……糖尿病の悪化の一途を辿っておる小生には至って痛い話しで御座る。……
・「予七旬に近く」根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから、「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年には数え六十八歳。
・「御鷹匠頭」御捉飼場おとらえかいば(鷹匠が鷹を調教する地)の管理の他に鷹の飼育所である御鷹部屋を管理した職名。個人サイト水喜習平氏の「江戸と座敷鷹」の「鷹場制度」の記載に、『御鷹部屋は二箇所あった。戸田家が管理する千駄木御鷹部屋と、内山家が管理する雑司ヶ谷御鷹部屋。戸田家は幕末を宇都宮藩主で迎える譜代大名戸田家の同族で秀忠・家光に鷹匠頭として仕えた戸田貞吉を祖としており、禄高は』一五〇〇石で、とあり、『鷹匠頭の下に享保元年に設置された鷹匠組頭があり、役高』二五〇俵、とある。
・「戸田五助」底本鈴木氏及び岩波版長谷川氏ともに戸田五介勝英ごすけかつてるとする。寛政三(一七九一)年に御鷹匠組頭、同八年に遺跡一五〇〇石を相続、と鈴木氏にあり、水喜氏の記載に一致する。
・「餌袋」通常は動物の胃のことを言うが、ここは鳥であるから内部に消化を助けるための砂礫が見られる砂嚢、所謂、砂肝すなぎも・砂ずりを指している可能性が高いか。

■やぶちゃん現代語訳

 長寿は飽食せざるを良しとする事

 私は七十歳に近く、近頃では三食の食にも程を過ぎぬよう、また足らぬように、と食うて御座るが、これ、何とのう心持ちもよくある由、ある折りの談話にて申したところが、同齢の同志、これ、皆、同じことを申し、
「――いや、まっこと、食事は若いからと言うて、みだりに飽くまで貪るは、これ、戒めねばならぬことで御座る。」
なんどと話しうて御座ったところ、その場にあった御鷹匠頭おたかしょうがしらの戸田五助勝英かつてる殿が語られたことに、
「――すべて鳥の類を料理致すに、いずれの鳥にても、餌袋は、これ、充満致いて御座る。……ところが、鶴に限っては、あるいは六、七分目ほどしか、餌袋に餌は御座らず、満溢まんいつしておるということは、これ、まず、御座ない。鳥のうち、鶴は諺にても『鶴は千年』と申し伝えて御座れば、いずれ、他の鳥よりも長命のものにて御座る。――さればこそ、その食を減ずることの謂われも、これ、御座るものか。……ともかくも、確かに過食はこれ、厭うに若くは御座るまい。」
と申したによって、その座の人々も、肯んじて御座った。



 好所によつて其藝も成就する事

 文化元年の頃、將棋の妙手といひて人の評判せし大橋宗光そうえいは、大橋の庶家より出しとはいへど、實は至て鄙賤の町家の悴なるよし。幼年の頃より將棋を好みて、いづれへ子守奉公年季等に出しても勤兼つとめかねける故、古宗桂こそうけいにてありしや、かれが好む所の將棋を教へしに、幼兒の節より五段三段の者、其術に及ぶ事なし。今や將棋所にてもかの者に及ぶものなしと評判なしけるが、今も、子供にても無段のものにても、外の者と違ひ、將棋さゝんといへばいなまず相手になりて、朝夕も將棋を並べ是を樂しみとなせるよし、天然の上手なるべし。當時茶事ちやじに名高き不白ふはくといへる宗匠そうしやうも、其いにしへは中間ちうげんにてありしが、茶事の家に仕へて、其主人の茶をもてあそぶを朝夕覗きて其わざを見しを、主人汝は茶を好やと一服たてさせしに、常に心を染みし故にや、其手品てしなもしほらしく可稱しやうすべき手前故、主人其以後は教へさとしけるに、其好所このむところ故や追々上達して、當子たうね八十七歳になれるが、東都において茶事の宗匠として、門弟も多く、不白といへばたれ知らぬものなく、手跡しゆせきもあまり見事ならねど、壹枚の墨蹟ぼくせき數金すきんにかえて貯ふるもの多し。其好所によりて名をなす事、心得あるべき事と、爰にしるしぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。お馴染みの技芸譚シリーズ。
・「好所」「このむところ」と訓じていよう。
・「文化元年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月。
・「將棋」私は金銀の駒の動かし方も知らぬ門外漢なれば、ウィキの「将棋」の「沿革」より大々的に引用してお茶を濁させて戴く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。
   《引用開始》
古将棋
日本への伝来  将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるという説が最も有力とされている。ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー、朝鮮半島にはチャンギ(將棋 : 장기)、タイにはマークルックがある。
 将棋がいつ頃日本に伝わったのかは、明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。伝説としては、将棋は周の武帝が作った、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えたなどといわれているが、後者に関しては、江戸時代初めに将棋の権威付けのために創作された説であると考えられている。
 日本への伝来時期はいくつかの説があるが、早いもので六世紀ごろと考えられている。最初伝来した将棋は、現在のような平型の駒形ではないという説もある。古代インドから直接日本へ伝来したとする説では、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。東南アジアのマークルックにちかいものが伝播改良されて生み出されたと考えられている。一方、六世紀ごろインドから直接ではなく、中国を経由して伝来したという説では、駒の形状は中国のシャンチー(中国象棋)と同様な平型の駒として伝来したという説もある。チェスでは古い駒ほど写実的であるとされる。アラビア等古い地域において平面の駒がみられる。また今までに立体の日本将棋駒は発見されていない。他説としては、平安時代に入ってからの伝来であったとする説がある。インド→アラビアの将棋からを経て中国のシャンチーそして朝鮮のチャンギ(朝鮮のものは中国由来)が日本に伝わったというものである。しかし平安時代には既に日本に将棋があったという説が有力である。また、駒の形の違い(アラビア、中国などは丸型、チャトランガは市立体像、日本は五角で方向が決まっている)やこれらの駒を線の交点に置くことなど将棋とどれも大きくことなる。これに対し、東南アジアのマークルックは銀と同じ動きの駒があるが、歩にあたるビアの動きがあまりに将棋とは違うことが指摘されている。また、将棋は相手側三列で駒が変化するがマークルックではクン、ルア、コーン、マー、メットとも「成る」ことはない。この点も大きく将棋とは異なる。近年はこの系統の盤戯が中国経由または直接ルートで日本に伝来したとする説がある。また、中国を舞台とした日本と東南アジアの中継貿易は行われていたことから中国経由の伝来は十分に考えられるが、中国での現代のシャンチーの成立時期は平安時代より遅くまた現代のシャンチーはルールも異なる。このため現代中国シャンチーが伝播したものではないと考えられている。いずれにしても日本での、古代の日本将棋に関する文献物証は皆無で、各説は想像の域を出ない。

平安将棋
 将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、藤原行成(ふじわらのゆきなり(こうぜい))が著した「麒麟抄」があり、この第七巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる「新猿楽記」(一〇五八年~一〇六四年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。
 考古学史料として最古のものは、奈良県の興福寺境内から発掘された駒十六点で、同時に天喜六年(一〇五八年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の「新猿楽記」の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。
 三善為康によって作られたとされる「掌中歴」「懐中歴」をもとに、一二一〇年~一二二一年に編纂されたと推定される習俗事典「二中歴」に、大小二種類の将棋がとりあげられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている。
 平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将一枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。
 これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある。さらに、チャトランガはその成立から戦争を模したゲームで駒の取り捨てであるが、平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。
 古将棋においては桂馬の動きは、チャトランガ(インド)、シャンチー(中国象棋)、チェスと同様に八方桂であったのではないかという説がある。持ち駒のルールが採用されたときに、他の駒とのバランスをとるために八方桂から二方桂に動きが制限されたといわれている。

将棋の発展
 これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。
 十三世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。十五世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。十六世紀ごろには小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられる。元禄年間の一六九六年に出版された「諸象戯図式」によると、天文年中(一五三二年~一五五五年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない。
 十六世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、一七四枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、一枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象(象)を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。一七〇七年出版の赤県敦庵著作編集の将棋書「象戯網目」に「象(醉象)」の入った詰め将棋が掲載されている。他のルールは現在の将棋とまったく同一である。
 将棋史上特筆すべきこととして、日本ではこの時期に独自に、日本将棋では相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール、すなわち持ち駒の使用が始まった。持ち駒の採用は本将棋が考案された十六世紀ごろであろうと考えられているが、平安小将棋のころから持ち駒ルールがあったとする説もある。近年有力な説としては、一三〇〇年ごろに書かれた「普通唱導集」に将棋指しへの追悼文として「桂馬を飛ばして銀に替ふ」と駒の交換を示す文句があり、この時期には持ち駒の概念があったものとされている。
 持ち駒の起源については、小将棋または本将棋において、駒の取り捨てでは双方が駒を消耗し合い駒枯れを起こしやすく、勝敗がつかなくなることが多かったために、相手の駒を取っても自分の持ち駒として使うことができるようにして、勝敗をつけやすくした、という説が一般的である。
 江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、これらの将棋はごく一部を除いて実際に遊ばれることはなかったと考えられている。 江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。
 将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の将棋の発展につながってゆく。

本将棋
御城将棋と家元
 将棋(本将棋)は、囲碁とともに、江戸時代に幕府の公認となった。一六一二年(慶長一七年)に、幕府は将棋指しの加納算砂(本因坊算砂)・大橋宗桂(大橋姓は没後)らに俸禄を支給することを決定し、やがて彼ら家元は、碁所・将棋所を自称するようになった。初代大橋宗桂は五十石五人扶持を賜わっている。寛永年間(一六三〇年頃)には将軍御前で指す「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に一度、十一月十七日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(十一月十七日)が「将棋の日」となっている。
 将棋の家元である名人らには俸禄が支払われた。江戸時代を通じて、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家の世襲のものとなっていった。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人を襲位した将棋指しは、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのがならわしとなった。
 名人を世襲しなかった将棋指しの中にも、天才が現れるようになった。伊藤看寿は江戸時代中期に伊藤家に生まれ、名人候補として期待されたが、早逝したため名人を襲位することはなかった(没後に名人を贈られている)。看寿は詰将棋の創作に優れ、作品集「将棋図巧」は現在でも最高峰の作品として知られている。江戸末期には天野宗歩が現れ、在野の棋客であったため名人位には縁がなかったが、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。宗歩を史上最強の将棋指しの一人に数える者は少なくない。なお、江戸時代の棋譜は「日本将棋大系」にまとめられている。
   《引用終了》
・「大橋宗光」(宝暦六(一七五六)年~文化六(一八〇九)年)底本の鈴木氏注に、『寛政十一年九代目将棋所名人となる。文化六年没。鬼宗英といわれた名手で、近代定跡を始めて統一した』とある(生年は岩波版長谷川氏の記載の享年五十四歳から逆算した)。なお、サイト「DEEP AZABU.com 麻布の歴史・地域情報」の「むかし、むかし8」の「宮村町の宗英屋敷」に、文化元年頃、『麻布宮村町、増上寺隠居所わきに宗英屋敷と呼ばれる屋敷があった。これは将棋所(幕府の官制で、将棋衆を統括する役。厳密には「名人」と違うが、実際はほぼ同義)の拝領屋敷で主人は織田信長、豊臣秀吉の御前でたびたび将棋を披露し信長から宗桂の名を与えられ』、慶長十七(一六一二)年『に徳川家康から五十石五人扶持を賜った宗桂から数えて大橋家六代目の当主大橋宗英』(ここに西暦の生没年が記されるが私の計算と一致している)『であった。宗英は、現在も江戸期を通して最強の棋士と言われ当時、「鬼宗英」の異名をとった。宗英は大橋分家の五代宗順の庶子で幼少のころ里子へ出されていたが、将棋の才能を認められ、家に呼び戻されたという』。十八歳『で宗英を名乗るが、将棋家の者との対戦は無く、民間棋客との対戦が続き、御城将棋への初勤は』二十三歳『で、将棋家の者としては遅い。しかしその後大成し、その将棋は相掛り戦法や鳥刺し戦法を試みるなど現代の棋士にも通じる将棋感覚で新しい将棋体系の創造に力を尽くしたため、近代将棋の祖といわれる』とある。当該記載は「耳嚢」の本記事も紹介されてあり、宗英について詳述を極める。
・「古宗桂」「古」は「故」の意。底本の鈴木氏注に、『大橋宗桂は明治末年まで十二代続いた。そのうち、初代の宗桂、二代の宗古、五代の宗桂(大橋家中興)、八代宗桂などが名実共に名人といわれる。ここは執筆当時(文化初年)の宗桂が十代目であるから、その先代の九代目であろう。寛政三年五十六歳で将棋所名人位についた。』とある(岩波版長谷川氏の推定同定も同じ)。九代大橋宗桂(寛保四(一七四四)年~寛政一一(一七九九)年)は、ウィキの「大橋宗桂(9代)」によれば、五世名人二代伊藤宗印の孫とし、伊藤家に生まれながら大橋家を継いでいた父の八代宗桂の嫡男として生まれ、十二歳で御城将棋に初出勤する。対戦相手は叔父の初代看寿であったが、飛車香落とされの手合いで勝利している(宝暦一〇(一七六〇)年に初代看寿、翌年に三代宗看が相次いで没して名人位は空位となった)。宝暦一三(一七六三)年には父の八代宗桂との御城将棋初の親子対戦が認められている(右香落とされで敗北)。明和元・宝暦十四(一七六四)年に五段に昇段、同年に七段に昇段した伊藤家の五代伊藤宗印や、翌年の初出勤であった大橋分家五代大橋宗順とは好敵手であり、当時の将軍が将棋好きの徳川家治であったこともあって、名人空位時代でありながら「御好」と呼ばれる対局が盛んに行われるなど将棋界は活気づいた。安永三(一七七四)年に父の八代宗桂が没して家督を継ぎ、この時に宗桂の名も襲名したと思われているが、御城将棋には「印寿」の名のままで出勤している。「浚明院殿御実紀」にも、家治の将棋の相手の一人として「大橋印寿」の名が挙がっている(この頃、大橋分家では安永七(一七七八)年に六代大橋宗英が、伊藤家では天明四(一七八四)年に六代伊藤宗看が御城将棋に初出勤するなど、他家でも世代交代が進んだ)。天明五(一七八五)年に八段に昇段、この頃から「宗桂」の名で御城将棋に出勤している。寛政元(一七八九)年に二十七年間に亙って空位になっていた名人位を継ぎ、当時では比較的高齢な四十六歳で八世を襲位した。この年に宗銀(後の十代宗桂)を養子に迎えた。寛政二(一七九〇)年には六代大橋宗英と平香交じりで対戦し、平手戦で敗れ、この対局は御城将棋では「稀世の名局」と評されるという。寛政九(一七九七)年に最後の御城将棋に出勤二年後に没した、とある。また、「将棋営中日記」には『代々名人の甲乙』として、六代宗英・三代宗看・六代宗看に次ぐ第四位に名が挙げられている、ともある。以上の記述を見ると、疑問を附しながら宗桂が宗英に将棋を教えたという叙述はやや疑問が残るが、本話を読み解く上で非常に貴重なデータであるとは言える。
・「五段三段」将棋の段位は享保二(一七一七)年に「将棊図彙考鑑」に段位の記載がされてからであるとする(ウィキの「将棋の段級」に拠る)。
・「不白」茶人川上不白(享保元・正徳六(一七一六)年~文化四(一八〇七)年)は不白流及び江戸千家流開祖。表千家七代如心斎の命により、江戸へ下って表千家流茶道を「江戸千家」として広めた(ウィキ・トークの「川上不白」に拠る)。
・「當子」文化元(享和四年)の干支は甲子きのえね

■やぶちゃん現代語訳

 好む所によってその芸も成就するという事

 文化元年の頃、「将棋の妙手」と、専ら、人々の評判致いて御座る大橋宗光そうえいという御仁は、これ、大橋家の分家の出身と称しては御座れど、実は至ってて身分の賤しい町家の悴れであると申す。
 幼年の頃より将棋を好み、何処へ子守奉公や年季奉公なんどに出しても、これ、全くろくに勤めることが出来ずに御座ったところが、かの名人故宗桂殿ででも御座ったか、この少年の好むところの将棋を、本格的に教えたところが、幼少より将棋の修行を積んで五段や三段に認定されて御座った者でも、かの少年の手には及びようがなく、一人残らず、完敗致いたと申す。
 今や将棋所にてもかの者に及ぶ者は、まず、ないと、専ら評判致いて御座る。
 今も、子供であっても無段の者であっても、外の将棋所の気位の高い者たちとは異なり、将棋を指したし、と乞えば、否まず、相手となって、朝な夕な、将棋を並べて、これのみを楽しみと致いて御座る由。
 全く以って、これ、天然自然の上手という者なので御座ろう。
 また今日きょうび茶事ちやじで名高き川上不白と申さるる宗匠そうじょうも、その昔は、賤しき中間ちゅうげんで御座ったが、さる茶道の家筋の屋敷に仕えて、その主人の茶をもてあそぶを、これ、朝な夕な、覗き見ては、その手業てわざを見習い、かの主人が、ある時、
「……そなたは、これ、ちゃあをお好みか?」
と、水を向け、
「……なら、一服、てておじゃれ。」
お点てさせたところが、賤しき身ながらも、常に秘かに茶の道に心を傾け、これ、じんわりと染まってでもおったものか、その御点前おてまえ、殊の外、雅びにて、文字通り、賞美するに値する御手前で御座ったによって、主人、それ以後は、熱心に茶の奥義を教え諭したと申す。
 されば、その好むところ、よほどの執心の御座ったものか、おいおい上達致いて、当文化元年で八十七歳になって御座るが、江戸に於いて茶事の宗匠として、門弟も多く、不白と申せばたれ一人知らぬ者とてなき御仁と相い成って御座る。
 その手跡しゅせきなんども――私も管見したことが、これ、御座るが、言ってはなんであるが――あまり、その、美事、というほどのものでも御座らぬが、その、不白筆の一枚の墨蹟ぼくせきを、何両も出して買い求めては、秘蔵しておる者も、これ、多い。
 いや、その好むところによって、名を成すこと、これ、方々、心得あるべきことと、ここに記しおくことと致す。



 猥に奇藥を用間敷事

 肩のつよくはりて難儀する時、白なたまめを粉にして、かたへ張る時は、たちどころにいゆるといふ事あり。人のしやうにも可寄哉よるべきや、川尻甚五郎、右藥を用ひて大いになやみしとなり。かた斗りにも無之これなく、面部惣身そうみまで脹れて、ぶつぶつと出來できものなど出來でき、後は惣身の皮むけてはなはだ難儀せしと語りぬ。みだりに奇藥ときゝても、用るに用捨あるべき事なり。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。本巻に多い民間療法シリーズであるが、これは例外的に副作用を注意喚起した記事である。
・「猥に奇藥を用間敷事」は「みだりにきやくをもちゐまじきこと」と読む。
・「白なたまめ」バラ亜綱マメ目マメ科ナタマメ Canavalia gladiate の品種シロナタマメCanavalia gladiate forma alba。鉈豆・刀豆・帯刀などとも書く。食用であるシロナタマメの種子には毒性はないが、農林水産省等によれば、ナタマメの完熟した種子はものによって溶血作用のあるサポニンや青酸配糖体、有毒性アミノ酸のカナバリンやコンカナバリンAなどに由来する有毒な物質が含まれるとする一方、漢方では古くから腎臓機能改善(東洋医学では臓器に似た形ものが臓器を補うとする考え方があり、ナタマメが腎臓の形に似ていることに由来する)・認知症防止・尿素浄化作用があるとし、コンカナバリンAは免疫力を高める作用もあり、ナタマメ・エキスを歯周病に効果的として用いている歯科医の記載もある。その他、漢方系記載には蓄膿症・痔等の化膿性疾患、口内炎・扁桃腺や咽頭部の炎症、冷え症・肩こり・生理痛など冷えの症状、便秘・下痢から皮膚湿疹・アトピーまでの効用を記すが、川尻氏の例もあればこそ、注意が必要であろう。この川尻氏のケースはシロナタマメではない比較的毒性の強い他のナタマメであった可能性、若しくは川尻氏が特異的にシロナタマメに含まれる何らかの成分に対して、非常に強いアレルギー体質であった可能性も疑われる。
・「川尻甚五郎」川尻春之はるの。先の「古佛畫の事」の私の注を参照のこと。寛政七(一七九五)年に大和国の五條代官所が設置され、彼はその初代代官に就任している。その在任期間は寛政七年から享和二(一八〇二)年である。

■やぶちゃん現代語訳

 濫りに奇薬を用いてはならぬ事

 肩が強く張って難儀する折りには、白鉈豆しろなたまめを粉に致いて、肩へ貼れば、たちどころに軽癒すると聞いては御座る。
 しかしながら、これは人のしょうにもよるものであるものか、川尻甚五郎春之はるの殿、この白鉈豆を調剤して用いたところが、これ、腫れが生じて、ひどい目に遇われた由。
「……いや、もう、貼付とふ致いたところの肩だけでは、これなく、顔面から全身に至るまで、腫れが広がって御座って。……尚お且つ、そこたらじゅうに、これ、ぶつぶつ、ぶつぶつと、気味きび悪きできものまで出来しゅったい致いての。……さて、やっと腫れが収まったか、と思うたところが、……今度は、全身、これ、皮が剥けて。……いやぁ! どうもこうも、御座らんだて。……」
と話されて御座った。
 さても、奇薬と聴いても、これ濫りに用いるは、よくよく用心あるべきことにては御座る。



 生得ならずして啞となる事

 大御番おほごばんを勤仕せる餘語よご彈正といへる人あり。かの一子いたつて聰明なりしが、年頃になりて、與風啞ふとおしとなりし由。耳も不聞きこえず、物言ふ事曾て難成なりがたし。されども、年頃になりての事故、物書ものかく事はなりぬれば、廢人たる事を歎き、惣領除きを父に願ひて今に存在の由。啞などは自然の不具にて、出生より其病あるは不珍めづらしからずといへども、中途右樣の儀有べき事とも思はれず。其父酒癖ありて不經濟にて、はなはだ貧家なるよしなれば、それを見限りて、其身をわざと廢人にいつはりなしたるにはあらずやと、いえる人もありしが、右ばかりにも無之これなく、小日向邊の人の奧方も、ふと啞となりて今も存在の由。名はかたりがたきが、三橋飛州みつはしひしふしれる人の由にて、かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:奇態な薬物副作用の疾患から奇病で連関。ここでは後天的に生じた失語様疾患の男女二例を挙げ、男子のケースでは佯狂の可能性を指摘する巷間の噂を載せるが、普通に物書きは普通に出来るというこの男子例は、物心ついてから急に言葉を発しなくなっている点、耳が聞こえないらしい(聴覚器官若しくはそれに相当する脳の部位に重い疾患があると考えるよりも、聴こえてはいるが聴覚上の意味言語の理解が完全に不能になっている可能性もある)点、その後も普通に生活出来、また正常な「書く」能力は失われておらず、日常的行動及び意思伝達は可能である点、更には自身で「惣領除きを父に願ひ」出るという極めて高次の判断力を持っていると思われる点などから、重度の言語症を呈する脳梗塞による運動性失語の全失語様の可能性が疑われる(左大脳半球のシルビウス裂周囲の広範に渡る損傷がもたらす真性全失語であるならば「聞く」「話す」「読む」「書く」全ての言語機能が重度に障害されるので本例とは齟齬する)。症例が仔細に語られない(本当に全く失語しているのか、その他の機能はどうかが語られていない)後者の女子例では寧ろ、重い統合失調症や強い心的外傷後のPTSDや強迫神経症などに起因する緘黙のようにも見える。
・「餘語彈正」底本の鈴木氏注に、『寛政譜に余語氏で弾正を称した者を見ない。大番を勤めたのは勝美で、寛政七年番を辞している。家譜提出当時その子の勝強(カツカタ)は役についていないが、この人がのちに弾正といったのであろう』と推定されておられる。因みに余語氏は近江国伊香郡余語庄をルーツとする姓のようである。
・「三橋飛州」岩波版長谷川氏注に三橋『飛騨守成方なりみち。勘定吟味役・日光奉行・小普請奉行。』と注しておられる。彼について「耳嚢 巻之四 痔疾呪の事」の中に出る「三橋何某」の底本注で、鈴木氏は寛政八(一七九六)年当時に勘定吟味役であった彼をその人物に比定しておられた。

■やぶちゃん現代語訳

 生まれつきではないのにおしとなってしまう事

 大御番おおごばんを勤仕致いておらるる餘語弾正殿と申さるる方が御座る。
 かの御仁の一子、これ、至って聡明であられたが、年頃になって、突然、おしになられた由。
 何でも、耳も聞えぬようにて、物を申すことも、これ、全く出来ずなったとのこと。
 然しながら、年頃になっての急変なれば、物を書くことは、これ、普通にしおおせるとのことにて、ある時、自身、書面を以って、
――廃人同様ニ成ツタル事是レ深ク歎カバコソ我等廃嫡ノ儀願上申候――
と父に願い出て、今に存命の由。
「……唖なんどと申すは普通、先天的な障碍であって、出生しゅっしょうのその砌りより既に、その病いを発しておるが普通のことじゃ。……成長の中途、それも――元服を過ぎての後に、このような症状を、これ、急に呈すると申すは、ありそうなことととも思われぬ。……かの父弾正……実は大酒飲みにて、飲酒遊興に湯水の如、家産を使つこうて、の……何でも、餘語家、これ、甚だ貧家なる噂なればこそ……それを息子の見限って……自身の身を、わざと廃人のように成し……謂わば、偽りに唖を演じておるのでは、これ、あるまいか?……」
なんどと、口さがないことを申す者も、これ、おるようじゃ。
 しかし、こうした例はこの一件だけではない。
 小日向辺に住もうさる御仁の奧方も、かなり以前に、突如として唖となり、今も全く緘黙せるままに存命致いておる由。
 こちらは仔細あって、姓名を明かすことは出来ぬが、三橋飛騨守成方なりみち殿の知れる人の由にて御座る。
 以上の二件の話は、これ、直接に成方殿より聴いた話しで御座る。



 きむらこう紋所の事

 三浦一等の内、當時佐原名乘候なのりさふらふ人は、丸にやはり三つ引を附候得共つけさふらえども、右三つ引を系譜抔にきむらこうと記し候よし。其子細は、いにしへは右三つ引の一筋黄、二筋目は紫、三筋目は紅にそめし故、むらさきの下略にて、きむら紅と唱へ候由。佐原氏の人、ものがたりの由、人のかたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。武辺有職故実。
・「きむらこう」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『木村こう』と表記し、長谷川氏は注されて、『三引両の三筋を黄・紫・紅に染めたもの』と記す。サイト「風雲戦国史――戦国武将の家紋」の「引両紋の悲喜こもごも」には、この通りに着色したカラーの三浦氏の幟が、同「三浦氏」のページに家紋の図像がある。後者によれば、三浦三つ引両のルーツは桓武平氏良文流とする(今、自宅の書斎にいる私の背後の山の頂上に彼の墓がある)。以下、引用させて頂く(西暦を漢数字に代えさせて頂いた)。
   《引用開始》
 横に、あるいは竪に一本、二本あるいは三本などと線を引いた紋がある。これらの紋は総称して「引両」紋と呼ばれる。非常にシンプルでかつ斬新な武家ならではの家紋である。  引両紋は、龍を象ったものといわれている。すなわち一龍が「一つ引両」であり、二龍が「二つ引両」というのである。龍は古来、中国では天子の象徴として、我が国では雨の神として尊敬されてきた。家紋となったのも、そのような霊力にあやかろうとしたものと考えられるが、「両」が「龍」に通じることから、そのような説が成立したのであろう。
 鎌倉時代初期、源氏の一門である足利氏・新田氏は将軍家の白幕に遠慮して、自らの陣幕に二本の線、あるいは一本の線を引いた。それが足利氏の「二つ引両」となり、新田氏の「一つ引両」の紋に変化していったのである。こちらの方が、「引両紋」の成立としてはうなづけるものがある。
■幕紋[やぶちゃん注:ここにモノクロームの「三つ引き(黄紫紅)」「二つ引き」「一つ引き(大中黒)」の幟紋が掲げられている。]
 三浦氏も「引両紋」を用いたが、三浦氏のものは「三つ引両」として有名である。三浦氏は源頼朝の創業を援け、鎌倉幕府初期の重鎮であった。この三浦氏の幕は、黄紫紅(きむらご)の三色に染め分けられたもので、三浦の「三」の文字を表現したものといわれる。それがのちに「三つ引両」の紋に転じたのである。このように、引両紋は陣幕から転じたものとみて間違いない。
 三浦氏の嫡流は「宝治合戦」で滅亡したが、一族は各地に分散し「三つ引両」の紋を伝えた。会津の葦名氏、越後の三浦和田氏一族、越後・周防の平子氏、織田信長に仕えた佐久間一族も三浦氏の分かれであった。さらに、美作の三浦氏、肥前の深堀氏など各地に広がった三浦一族は、いずれも三つ引両の紋を用いている。
 三浦氏の家紋の記録としては、永享七年(一四三五)に鎌倉公方が、常陸長倉城主の長倉遠江守を追罰した戦記物『羽継原合戦記』に「三つ引両は三浦介」とあり、『見聞諸家紋』にも、三浦介として「竪三つ引両」が記されている。また、北条早雲と戦って滅亡した三浦義意の肖像画の鎧の胴には、「丸に三つ引両」が描かれている。
 とはいえ、長い歴史の流れのなかで三つ引両から他の紋に転じた例もある。たとえば、越後の三浦和田氏一族の場合、惣領家である中条氏は鎌倉時代に三つ引両を用いていたことが知られる。それが、南北朝のとき足利尊氏に属して功があり、戦功の証として酢漿草(かたばみ)を賜った。これをきっかけとして、以後、三つ引両に代えて酢漿草紋を用いるようになったと『中条家記』にみえている。
   《引用終了》
・「一等」底本は右に『(一統)』と補正注を附す。岩波版長谷川氏は「一党」と補正。後者の方がよい。
・「佐原」ウィキの「佐原氏」のほぼ全文を引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『佐原氏(さわらし)は相模三浦氏の一族。三浦大介義明の末子・十郎義連を祖とする。宝治合戦で本家三浦氏が滅んだ際には盛連系を除く佐原氏の一族はこれに殉じて族滅した。僅かに盛連一族のみが生き残ったが、その出身である盛時は三浦氏を再興した。また、盛時の兄弟達の子孫は会津の豪族として活躍している。他にも越後山吉氏は男系では佐原氏の子孫である』。『三浦大介義明の末子である義連は相模国衣笠城の東南・佐原(現・神奈川県横須賀市佐原)に因んで佐原十郎と号した。これが佐原氏の始まりである。佐原義連は平家追討、奥州合戦等で功を立てた。特に後者では陸奥国会津を報償として与えられ、後に佐原氏が会津の豪族として発展する土台を築いた。 建仁三年(一二〇三年)に義連は死去するが、その後の佐原氏の家督がどのようになったかは定かではない。ただ、義連の息子のうち、盛連の遺児達が会津地方に因んで姓を名乗り、後に当地の豪族として発展していったことからすると盛連は会津地方を相続したと考えられる(実際に会津蘆名氏は盛連を初代とする系図が見受けられる)。盛連は本家である三浦義村の娘である矢部禅尼と結婚しているが、彼女は最初は執権北条泰時と結婚して時氏を儲けたものの夫と離別して盛連と再婚したのである。これにより盛連は得宗北条氏と縁繋がりとなった』。『宝治元年(一二四七年)に三浦氏追討の辞が下されて宝治合戦が勃発する。この戦いでは佐原氏の殆どが三浦側に加わったが、北条氏の縁繋がりのある盛連の遺児達は北条側に加わった。戦いの結果、三浦氏の本宗は族滅亡したが、佐原氏も同時に盛連系を除いて族滅したのである。宝治合戦後に盛連の五男・盛時は三浦介を継承して三浦氏を再興することが許された。これが相模三浦氏である。また、盛時の兄弟の子孫は会津の豪族として発展した。その中で有名なのは会津守護と呼ばれた蘆名氏である。盛時の孫である明連は越後国の池保清の娘と結婚した。二人の息子である成明は母方の池氏の名跡を継ぎ、その子孫は山吉氏として発展した』。底本の鈴木氏注に、『この系統の佐原姓が寛政譜に二家ある』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 「きむらこう」の紋所の事

 三浦一党の内、現在、佐原姓を名乗っておらるる御武家は、その昔の三浦氏御一党と同じく、
――丸に、やはり、三つ引き
の紋を附けておらるるが、この三つ引きの紋のことを、これ系譜等では、
「きむらこう」
と記して御座る由。
 その子細によれば、古えは、この三つ引きの一筋をに、二筋目はむさらきに、三筋目はこうにそれぞれ染めて御座ったゆえ、「むらさき」の下の「らさき」を略し、
黄紫紅きむらこう
とは唱へて御座る由。
 佐原氏御当家の方が直接に物語られた由、知人から聴いた話で御座る。



 大す流しという紋所の事

 大洲流しといへる事、紋盡もんづくしなどのものがたりにあれど、いかなる紋とまうす事を不知しらずある人のいへるは、丹羽の紋所なる拍子木等の如きを、打違うちたがへ候を二つ並べてつけたるを、大洲おほすながしといへると、古實者こじつしやのかたりといひしが、按ずるに、川除かはよけなどに追牛おひうしといへるものあり、川瀨の片々は附洲となり、片々かたかた欠所けつしよなど出來る所、追牛の二組三組もたてれば、右川先かはさきの洲を流し拂ふて川瀨の形よくなりし事あり。右拍子木の打違ひは、川除の具を略しもちゐたる成るべし。依之これによつて大洲流しといふなるべし。

□やぶちゃん注
○前項連関:家紋譚二連発。根岸の経験に基づいたオリジナルな非常に鋭い考証であり、以下の家紋解説の記載等からも正確であると言える。ホームズ鎭衞、ナイス!
・「大す流しという紋所の事」「という」はママ。「大す流しという紋所」図像だけをまず見る。電子データ「業務に使える高品質画像データ集 家紋倶楽部4000」販売サイトの「大洲流(おうすながし)」に、全く異なった二種の家紋「保田大洲流し」と「蛇籠大洲流し」の二種、サイト「風雲戦国史――戦国武将の家紋」の「小野寺氏」の項に「大洲流(臥牛)」の家紋があり、これが前者の「保田大洲流し」に一致し、本文の解説の「拍子木等の如きを、打違へ候を二つ並べてつけたる」意匠とも一致する。底本の鈴木氏の注には、『蛇籠を固定させるために杭を打つ、その杭だけを打った形を紋どころにしたもの。初めは蛇籠の目に杭を打った形のものだったといわれる』とある。「小野寺氏」の項にはなお以下の記載がある(冒頭の一部を省略した)。
   《引用開始》
 『奥羽永慶軍記』には小野寺氏の家紋に関して、「小野寺ノ幕ノ紋ニ瓜ヲ用フル事、累代吉左右ノ故アリ。夫レヨリ先ハ牛ノ紋を用ヒシト云ヒ伝フ。近代ノ幕ノ紋ニ、墨絵ニテ牛ヲ画キタル」とある。また、一本『小野寺氏系図』には家紋「根牛」と記されている。これによれば、小野寺氏は瓜の紋とは別に、牛の紋を用いたということになる。さらに「牛ヲ画キタル」ということから哺乳動物の牛を用いていたように思われる。
しかし、小野寺氏の用いた「牛」は動物の牛ではなく、『応仁武鑑』にも記されているところの「追洲流」の杭をいったものにほかならない。
 そもそも「追洲流」とは、河川の治水用に作られた築造物で、長い籠の中に石を詰め堤防の補強を行った。堤防に沿ってえんえんと配置される光景が長蛇に似ていることから「蛇籠」とも称される。蛇籠は籠のみを積んだものと、杭を立て横木をかけて蛇籠を積み重ねたものがある。そして、蛇籠の杭を奥羽地方や相模地方などの方言では「牛」といった。これは、動物のなかで牛は重荷を負ってよく耐えることから、川除けの杭を牛にたとえてそのように呼ぶようになったのだという。「追洲流」が激流に耐え、田畑を洪水より守る力強さに意義を感じて家紋として用いられるようになったと考えられる。
 「追洲流」の文様は、すでに『一遍上人絵巻』などにも用いられており、家紋としては『太平記』に山城四郎左衛門尉が直垂に描いていたとあり、『羽継原合戦記』には「大スナガシハ泉安田」とあり、紀伊の保田氏も「追洲流」を家紋としていた。小野寺氏の家紋として永慶軍記に記された「牛」、系図の「根牛」は「追洲流=蛇籠」のことであり、動物の牛のことでは決してないのである。
   《引用終了》
因みに、この引用の直前の部分では、後世の記録であるが、「応仁武鑑」には、『小野寺備前守政道の家紋は「追洲流」とあり、さらに、「(前略)その家の紋三引両にして、織田殿より「カ(五葉木瓜)」の紋を賜りしを合せ用うる由をしれり(後略)」とある。ここに記された備前守政道は泰道に比定されるが、「三引両」はともかくとして、織田氏から「カ(五葉木瓜)」紋を賜ったというのはうなづけない』という疑義が記されるが、直前の話の三浦氏の紋所も偶然ながら「三引両」である。
・「紋盡」一般名詞では、絵や図柄として種々の紋柄を描いたもの(また別に、江戸時代に遊女の紋を描いて遊里の案内とした書物をもいう)であるが、岩波版の長谷川氏注には、『曾我兄弟の十番斬の時の紋尽しなど』とある。これは「曽我の紋づくし」と言って、講談などの曽我物で頼朝の富士の巻狩に供した諸国御家人の、幔幕に描かれた紋を「ものづくし」で読み込んだもののことを指す。直ぐ後に「ものがたりにあれど」とあるから、これは長谷川氏の仰る通り、「曽我の紋づくし」のことを指していると考えてよい。
・「丹羽の紋所なる拍子木等の如き」拍子木を図案化した拍子木紋と呼ばれるもの。引両紋と似ており、変形したものと思われ、一般的な図柄は二本若しくは複数(多いものでは十一本)の棒が描かれたもので、拍子木・丸に拍子木・紐付き拍子木などの種類があり、武田氏や伊沢氏などが使用した。森鷗外の「伊澤蘭軒」の「その三」に『伊澤氏は「幕之紋三菅笠みつすげがさ、家之紋蔦、替紋拍子木」と氏の下に註してある』と出、家紋関連の書籍で見る限りは、黒い拍子木で上部がやや左右に開き気味の、下に紐が付いた完全な拍子木である。「替紋」とは略式紋のこと。「丹羽」氏の拍子木紋については、岩波版長谷川氏注に、『二本松十万二百石丹波左京大夫の紋所違棒をいう』とある。サイト「祭りだ!山車だ!」の「二本松のちょうちん祭り」の一番下の右の神社の写真をポイントすると、その紋をあしらった提燈の画像(「×」の意匠なだけに、これだけ並ぶとなかなか凄絶である)が見られる。同頁にはこの「違棒紋」についての注があり、それによれば、直違紋・筋違紋すじかいもんともいい、丹羽五郎左衛門長秀(『戦国・安土桃山時代の武将で、信長の養女(信長の兄・織田信広の娘)を妻にした。また、嫡男の長重も信長の四女を娶うなど信長に信頼の厚い家臣であった』。『信長四天王の一人とされ、鬼五郎左・米五郎左と呼ばれ』たが、『長重は、軍律違反があったとして秀吉から領国の大半と、長秀時代の有力家臣まで召し上げられたが、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易されたが、後に江戸崎藩主・棚倉藩主・白河藩主となった。二本松藩主の丹羽光重は、長重の子、長秀の孫』とある)の家紋で、『家紋研究家の丹羽基二は、この紋を日本の三大呪符紋のマイナスの呪符紋とし、「災いが起きないよう、来るな」の禁止紋としている』。『古代では、死人が出ると直違いで住居を封じ別の住居へ移る事例があり、江戸時代には閉門・謹慎の処分を受けた武家は、門前に青竹を×型に組んで人の出入りを禁じた。現在でも、北陸・東北地方の一部には、死者の出た家で青竹を家の前に立てる風習がある』。『このように、直違いは、死者の霊を封じ、外との交流を断つ呪術性があったとされ、その呪術性から、武家が戦場の旗印に使い、やがて家紋にも使われるようになったとする説もある』とある。目から「×」の美事な解説である。
・「川除」堤防等の河川の氾濫防止施設の総称。
・「追牛」既に前の注の引用でも解説されているが、「笈牛」で、水防・護岸工事に用いられた用具。四角をした菱牛(四本の合掌木で四角錘を組み、同一の太さの丸太で桁木及び梁木を取り付け、棚を設けて重籠を積載したもの。当該装置の復元画像は個人サイト「武田家の史跡探訪」の「信玄堤(荒川)」を参照。因みにこの最後にある「牛枠」がこの「追牛」か、その原形であろう)に対し、笈牛は三角形を呈しており、山伏の担ぐ笈に似ているとことから命名された。菱牛同様の効果を持つ江戸時代の治水道具で、材木の長さ・太さは同じであるが、菱牛に比べて水流に対する効果は薄い。コンパクトであることから菱牛の設置困難な谷川や小川に用いられた(以上は「信玄堤(荒川)」及び「古河歴史博物館」の「笈牛」――こちらには江戸期のものと思われる「笈牛拵樣こしらへやうの圖」「同仕上の圖」の絵図が載るので必見!――の記載を参照させて戴いた)。根岸は勘定吟味役時代に、実地の河川普請の奉行としてこうした技術を知尽していたはずである。従って、本条の最後の考察部(「按ずるに」以下)は根岸自身のものであると私は考える。
・「附洲」岩波版は『つきす』とルビしつつ、長谷川氏は注で、『あるいは「つけす」か。洲のできることをいうのであろう』と注されておられる。この意を現代語訳でも採らさせて戴いた。

■やぶちゃん現代語訳

 大洲流しという紋所の事

 「大洲流し」と申す紋のことは、「曽我の紋づくし」などの物語にも登場致すが、如何なる紋であるかということは知らず御座った。
 ある御仁の申すよう、
「かの丹羽の五郎左衛門長秀殿の紋所にて、拍子木なんどの如きを、打ちたがえに致いたものを、これ、二つばかり並べ附けたる意匠を、これ、『大洲流し』と言うと、有職故実に通じたる者の、話しにて御座った。」
と聴いた。
   *
 しかし、私が按ずるに、川除かわよけなどの対策設備の中に、「追牛おいうし」と呼称するものが御座る。
 これは、川瀬に於いて、一方が常に洲となって延び、流れが抑えられてしもうて、その対岸にしばしば決壊が生ずるような場所に、この「追牛」の二組か三組を以って、組み立てて設置致す。さすれば、かの川下の先に延び生じておったところの洲を、綺麗に流し去って、川瀬の形が、まことに良好になる場合が御座る。
 この紋所の意匠を
「拍子木の打ちたがえ」
などと説明しておるが、実は私は、
川除かわよけに用いる道具たる追牛」――
これを意匠化して用いたものに違いないと思うので御座る。
 だからこそ、この紋所の名称をも――「大洲流し」――と言うので御座ろう。



 奸婦不顧恩愛事

 文化元子年七月盆中、ある與力を勤る人、菩提所淸障寺へ佛參して墓所に至りしに、歷々と見ゆるもつともしき武士、いまだ石塔も不立たてざる塚の前にて何あるが如く口説くどきて、殊外ことのほか愁傷のてい數行すうかうの涙の樣子故、其脇をすぎんもいかゞと咳ばらひなどしければ、かの侍涙を拂ひて、暫く石牌せきはいにむかひてをりし故、彼與力も盆拜ぼんはいをわりてたち歸る頃、殊外しよも強く候故、愛宕あたごの水茶屋に腰うちかけて休み居しが、彼侍も同じく來りて、水茶屋に腰うちかけぬる體、國家こつかの家來と見へて若黨抔兩人めし連れたるが、與力を見て、扨々先刻は淸障寺墓所にて、侍に不似合にあはざる、未錬の落涙の體を御目にかけ、はずかしくぞんじ候と申ける故、何ぞ左存可申さぞんじまうすべき御愛子ごあいし抔を失はれし故ならんとたづねしに、御察しの通り、四歳になりし娘を失ひしが、右の娘はそれがしが命に代りしもの故、其愁傷やみがたく、先刻の體なるといひて、いろいろ世の中のはかなき事抔咄し合けるが、何をか隱さん、我等は熊本家中にて、當春主人用向ようむきにて在所へ罷越まかりこし、當六月歸りしに、其日は家中知音ちいん一族も歸府を悦びて祝し、夜にいる迄酒のみて、客も散じける故やがて臥しなんと、一間へ床とらせけるに、四歳の娘、何か某をとゞめ側を不放はなれざる故、一所にふせ可申まうすべしとてともに床の内へ入れしに、かの片言かたことに、かゝとゝを切ると、ひたものいひし故、いかなる事やと不思議に思ひしに、彼娘は寢入たる故、某も枕をとりしに、何かしのぶ體の音せし故、心をつけて娘は片脇かたわきへうつし、心をしづめて見し所、蚊帳の釣手つりでを四方切落きりおとし屛風を押倒す樣子故、ひそかに寢間を拔出ぬけいで枕刀まくらがたな取居とりをりしに、やがて右屛風の上へ乘りて、刀をもつて、屛風蚊帳越しにさし通すものありし故、拔打ぬきうちに切りしに、大伽裟おほげさうちはなしけるあひだ、盜賊忍入しのびいりたり、出合であへよばはりしに、召仕めしつかひ共ども火を燈し、娘も右の物音にて目覺めざめ起出おきいでしを、妻なる女、娘を捕へ、おのれ口走りたるならんと、九寸五分くすんごぶにて娘のむなもとを突通つきとほす故、是又其席にて妻を及切害せつがいにおよび、扨又最初の死骸を改めしに、召仕ひの若黨なり、全右まつたくみぎ若黨と妻姦通して、我を盜賊の所爲しよゐの體にて殺しなんとの巧成たくみなるべし、彼娘なかりせば、某は姦婦姦人の爲に殺されんとぞんじ候故、今日娘の墓にまふで、思はず未鍊の歎きをなせしを、御身の目にかゝりしとかたりしが、名は不問とはざりしが、恐ろしき女もあると、彼與力が許へ來れるものに、語りしとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:感じさせない。この話柄、姦婦の非情無慙なることよりも、頑是ない満三才の娘の誠心と人畜生たる鬼母による惨殺の悲劇、それを傷む父の涙こそが話柄の眼目である。内容の極めてしみじみとして良質なコントであるだけに、標題が今一つ気に入らぬのである。
・「奸婦不顧恩愛事」は「かんぷおんあいをかへりみざること」と読む。
・「文化元子年七月盆中」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、一月前の出来事である。
・「淸障寺」底本には「障」の右に『(淨カ)』と注する。清浄寺というと綱吉が寵愛した側室お伝の方の父の菩提を弔うために創建した覚了山清浄寺世尊院があるが、これは駒形村(文京区千駄木)で、次に登場する「愛宕」(港区愛宕山)とは、余りにもかけ離れている。ただ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも実は『清浄寺』である。しかし乍ら、長谷川氏はこの注に、『後文に愛宕の水茶屋があるから、万年山青松寺』ではないか、と推測されておられる。青松寺せいしょうじは、ウィキの「青松寺」によれば、東京都港区愛宕二丁目にある曹洞宗の寺院で、山号は萬年山ばんねんざんと読み、江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の一つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明八(一四七六)年に創建、『当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転した。しかし移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称されていた。長州藩、津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用した』。私も長谷川氏の見解を採る。現代語訳では勝手に「青松寺」とさせてもらった。
・「愛宕」愛宕山。東京都港区愛宕にある丘陵で、標高は二五・七メートル。山上にある愛宕神社は江戸の武士が深く信仰し、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさでも有名な場所であった。参照したウィキの「愛宕山」によれば、慶長八(一六〇三)年にこれから建設される江戸市街の防火のため、徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩武士たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った、とある。
・「未鍊」底本には「鍊」の右に『(練)』と補正注がある。終わりの方にある「未鍊」も同じ。 ・「熊本家中」熊本藩。肥後藩とも呼ばれる。五十四万石。文化元(一八〇四)年当時の藩主は細川斉茲(なりしげ)。ウィキの「熊本藩」によれば、同藩『には上卿三家といわれる世襲家老がおかれていた。松井氏(まつい:歴代八代城代であり、実質上の八代支藩主であった)・米田氏(こめだ:細川別姓である長岡姓も許されていた)・有吉氏(ありよし)の三家で、いずれも藤孝[やぶちゃん注:細川藤孝ふじたか。細川家先祖で戦国大名として知られた細川幽斎のこと。]時代からの重臣である。そのほか一門家臣として細川忠隆の内膳家と、細川興孝の刑部家があった。支藩としては、のちに宇土支藩と肥後新田支藩(のち高瀬藩)ができた』とあり、「歷々と見ゆる尤ら敷武士」であるなら、もしかすると、この悲劇の武士は、ここ挙げられた中の一族の家士、いや、この一族の誰彼ででもあったのかも知れない。
・「大伽裟」底本には「伽」の右に『(袈)』と補正注がある。
・「九寸五分」は本来は鎧通しと呼ばれる刃渡り約二十九センチメートルの短刀を指すが、ここでは妻が用いているので、女性が護身用に帯にさしたもっと短い短刀、懐剣のことを指す。

■やぶちゃん現代語訳

 鬼畜の姦婦の父子の恩愛に聊かの情も恥も持たざる事
    ――若しくは父を救わんがために自らの命を落とした頑是ない三歳の少女の物語

 文化元年子年ねどし七月の盆の頃、ある与力を勤むる者、菩提所の青松寺せいしょうじへ参詣致いて墓所へと参ったところ、相当な御身分とお見受け申す御武家が、未だ石塔も建っておらぬ新仏にいぼとけの塚の前にて、訳ありにて、何事かを霊前に語っては、殊の外、愁傷のていにて御座って、果ては数行すうこうの涙をさえ流しておらるるところに出食わしてしもうたと申す。
『……あの脇を、全くそ知らぬ振りを致いて通り過ぐるも、これ、如何なものか……』
と存じた与力、わざと咳払いなんどを致いて、通り抜けようと致いた。
 すると、その声に気づいたかの侍は、涙をうち拭って御座ったと申す。
 与力は、その後、自家の墓を参り、そのところより、見るともなしに先の御武家を窺ってみると、暫らく、その仮に立てた小さき石のはいに向こうて、凝っと佇んで御座ったが、心に残って御座ったと申す。
 さて、かの与力も盆の参りを終えて寺を後に致いたが、丁度、その日は、殊の外、暑さも暑し、やりきれぬ程の炎暑にて御座ったれば、愛宕山下あたごやましたの水茶屋の縁台に腰を下ろして、一休みしておったところが、かの先の侍も、たまたま同じ道を通って、その同じ水茶屋の、近くの縁台に腰を下ろして御座った。
 見たところ、何処いずこかの地方の大藩の御家来と見えて、若党などを二人ほど召し連れておられた。
 その侍が当の与力を見掛け、
「……さてさて……先刻は青松寺墓所にて、侍に似合わざる、未練落涙のてい、お目に掛け、お恥ずかしゅう御座った。……」
と申したゆえ、
「――いや、なにを申されます。御愛子ごあいしなど、亡くされたものででも御座いましょう。……」
と返したところ、
「……お察しの通り、四歳になりました娘をうしのうて……その娘は……それがしの命に代わって……命を落といたものにて……御座ったればこそ……その愁傷止み難く……先刻のていたらくにて御座った。……」
と応えられた。
 それから暫くは、人の世の如何にも儚き無常のことなんど、形ばかりに言い交してはお茶を濁して御座ったが、ふと、その侍が語り出だいた。……

 ……何をか隠しましょうぞ……我等は熊本藩御家中にて、この春、主人用向きにて在所熊本へ罷り越し、先月の六月に帰府致いた者で御座る。……帰りついたその日は、家中はもとより、知音ちいんや親族なんども無事の帰府を悦びて祝いを致し、よるに入るまで酒宴となり申した。……やっと客どもも散じたゆえ、さても一寝入り致そうずと、一間へ床とらせましたところ……四歳になる我が娘が……これ、何やらん、それがしを頻りに寝かすまいと致いて……これ、一向に傍らを放ざれば、永の留守を致いて御座ったゆえ、どうにも淋しゅうて仕方なかったものであろうと、
「――さても――共寝ともね致そうぞ。」
と、ともに床の内へ入れて臥して御座った。……
……ところが……
……かの娘、片言かたことにて、
「――かかさまが――ととさまを――きる……」
と、頻りに訳の分からぬことを申すによって、
『……はて、これは一体、如何なる謂いか……』
と不思議に思うては御座ったが、かの娘、すうっとそのまま、我が抱いた懐にて、これ、寝入って御座ったゆえ、それがしも枕を取って眠らんと致いた。……
……暫く致いて……ふと目覚めた……何か、忍ぶていにて、部屋へ近づいて参る幽かな音が致いた……されば用心致いて、寝入っておる娘は床の片脇かたわきの方へと静かに移し、心を鎭めて、闇の中を覗って御座ったところ……何者かが部屋に忍び入って御座った……そうして……部屋の四隅の蚊帳の釣手つりでを切り落いて、その上に屛風を押し倒さんとする気配なればこそ……そっと先方に気づかれぬよう、身をひらに平に致いたまま、そっと寝床を抜け出でて、護身に置いて御座った枕刀まくらがたなを執って闇の中に凝っとして御座った。……
――と!
バサバサッ!
と蚊帳が落ち、
バン!
と、屏風がうち倒されかと思うと、
その屏風の上へ飛び乗って、太刀を以って、屛風蚊帳越しに、力任せに刺し通す人影を見た。――
即座に、我らも手にした太刀を引き抜き、抜き打ちに、その影を切った。――
 袈裟懸けの一太刀の手応えのあればこそ、
「盜賊が忍び入った! 出会え! 出会えっ!」
と呼ばわったによって、召使どもも火を燈して走り来たる。
 部屋の隅に御座った娘も、この激しき物音に目を醒まして起き出で、廊下に佇んで御座った。
――と!
我らが妻なる女――
我らが娘を捕えると――
「おのれッ! よくも! 口走ったなアッ!」
と、おぞましき叫び声を挙ぐるや!
懐剣――引き抜き――
それで――我らが娘の――
胸元を!
ズン!
――と!
突き通しおった……
されば我ら――
即座にその場にて妻をも一刀のもとに斬り殺して御座った。……
 ……さてもまた……最初に斬った死骸を明りで照らし改めてみたところが……
これ――
親しく召し使つこうて御座った若党で御座った。……
 ……全く……この若党と我が妻……以前より秘かに姦通致いており……我らを……押し込みの盜賊に襲われたていにて……これ、謀殺致さんとする悪巧みででも……これ、御座ったものらしゅう御座った。……
 ……さても、かの娘がおらなんだら……それがしは、これ、かの姦婦姦人がために殺されて御座ったろうと思わるればこそ……今日……帰らぬ愛しき娘の墓に詣で……思わず……未練の歎きをなしてしもうて御座った。……それが御身の目にとまって御座った……我らが涙の……真意で御座る…………」

「……その御武家様の御名おんなは、これ、障りもあろうかと敢えて問わずに御座いましたが……いや……それにしても、恐ろしき女もあったもので御座いまする。……」
とは、その与力自身が彼のところへ訪ねて来た者――それが、たまたま、また私の知音ちいんでもあった――に、語って御座ったと申す話である。



 其調子揃時弱きは破るゝ事

 熊本領に座頭ありて音律に妙を得て、三味線をもつて、何の調子にても合せけるが、或時小兒の障子を敲いて音しけるを、あれにも調子あふべしやと人のいひしに、あはせ申さんといひし故、かの小兒に替りて大人のその障子ほとほとうちける音に、座頭三味線とりて調子を合せけるに、其調子の氣合、言葉にものべがたし。しかるに大人の其心してうつ障子なるに、暫く程すぐれば障子の紙はことごとくさけしと、西國の人かたりしをしるしぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:話柄上の有意で密接な関係性は認められないはずだが(前者は与力の話の又聴きで、こちらは西国出身の関係者)、何故か熊本で連関している。シンクロによる共鳴効果か、特殊な倍音の物理的な衝撃波的効果か。

 名人の演奏はその調子が揃った瞬間に弱い対象を容易に破壊し得るという事

 熊本領に一人の座頭が御座って、音律に妙を得た達人にして、三味線を以って、どのようなおかしなる変拍子であっても、これ、その調子を合わせて三味線を弾くと申す。
 ある時、彼が訪ねた先にて主人あるじと語ろうて御座った折り、すぐ近くの戸の辺りにて、そのの主人のこおが、障子を敲いて遊んでおる音がして御座った。
 それを聴いた主人の曰く、
「――例えば――貴殿、あの音にも、これ、三味の調子を合わすこと――出来ると申すか?」
と質いたゆえ、
「――されば――合わせ申そうず。――」
と即座に答えたれば、主人は、かの子を奥にやって、主人自から、その障子を、
……ほとほと……
……ほとほととんと……とんととほとと……ほととん……
と如何にも乱拍子にて打って御座った。
 と、その音に、かの座頭、徐ろに三味線を執っては調子を合せた――
いや!
その調子の、これ、絶妙なる合わせ方たるや!
これ!
もう、言葉にてはとても、述べ難きものにて御座っての!――いやいや、その実を、これ、方々へお聴かせ出来ぬは、まっこと! 残念至極じゃて!――
――因みに
――ところが
――大の大人が、その座頭の神妙なる三味の合いの手を意識しつつ――この時は……もう、大方、お分かりになられて御座るとは思わるるが、実は、半ばはその三味の調子をわざと崩してやろうぐらいの思いも強う、これ、働いて御座ったが……打ったるところの――この障子――まだ張り替えたばかりの新品で御座ったそうじゃが――これ――この出来事の二、三日後――敲いたところだけにてはなく――一つ戸のその総ての障子の紙が――これ、自然――悉く――ぼそぼそになって裂け破れてしまっておったと申す……

 これは熊本所縁の、西国渡りの御仁より聴いたものを書きとめておいたもので御座る。



 妖狐道理に服從の事

 八王子千人頭せんにんがしらの山本鐡次郎は、親友川尻が親族たり。先々さきざき山本妻を呼迎よびむかへの儀、川尻の祖父世話して、荻生惣七をぎふそうしち娘を嫁しけるに、婚姻後、右妻に狐つき候樣子にて、何かはなはだ不埒の事口走り候故、其夫これ責諫せめいさめ、いかなる譯をもつて、呼迎へし妻に付候と道理を解聞とききかせければ、其理にや伏しけん、成程退可申まうすべし、しかれども、我のみに無之これなく、江戸よりつき來りし狐もありといひし故、それあれかくあれ、先づ汝のくべしと頻りにせめければ、のきしと也。然れどもいまだ正氣ならねば、尚せめさとしければ、我は此女の元方よりうらみあれば、取付來とりつききたる也、依之難退これによつてのきがたき由を答ふ。山本これをききて、何とも其意不得えざる事なり、江戸表より爰元ここもとへ嫁し來る頃より狐付たるていならば、何ぞ嫁を許しなん、しからば離緣等いたしても、此方にて狐つきたると、里方にては思ふべし、狐の付たるは、尋常に無之これなきもの故離緣せしと里方にておもはんも、武士道におひて難儀なり、いづれにも離れ候樣、きびしく責諭せめさとしければ、其理にや伏しけん、可退のくべき由答へけるが、山本尚考申なほかんがへまうしけるは、離緣後、里方へ至り、ぢきに狐の付たるといふ事にては同じ事なり、右のわけをいさい證文に可認したたむべしと申ければ、書く事はなすべし、文言出來ざる由のこたへ故、文言は可好このむべしとて、いさいに文言をこのみみとめさせけるが、書面のみにては怪談に流れ、人の疑ひあり、狐の付居つきゐたるといふしるしなくてはと、又責諭せめさとしければ、印形いんぎやうはなければ、人間につめいんといふ事あるわけ抔説聞とききかせしに、手を口元へ寄せて墨をふくみ、かの書面へ押しけるが、けものの足の先の跡のごときもの殘れり。これにてよしとて、やがて離緣狀をそへて川尻氏へ戻して、荻生家へ歸しけるとなり。惣七は徂徠が甥なるものゝ由、川尻かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。「耳嚢」に頻繁に出る妖狐憑依譚であるが、どうもこの話柄、如何にも超現実に「妖しい」のではなく、リアルに「怪しい」という気がする。この女、よっぽど夫が嫌だったか、若しくは予てより誓い合った男でもあったものか、狐憑きを佯狂して、流石に知識人の娘(後注参照)なればこそ、計算された美事な詐術の数々を弄して(もしかすると、彼女の親族か誰かの入れ知恵かも知れぬ)、これ、目出度く離縁に成功したという話柄ではあるまいか? そもそも真正妖狐譚となれば、娘に憑くところの深い「恨」みを探ってこそである。だいたいからして、この娘の出自の良さから考えれば、何故、狐憑きか? その狐の具体な恨みの真相は? という点を追求してこそ面白い、というものであろう。私がこの妻を本当に愛している夫であったなら、少なくともそこを必ずや、探ってやるであろうと思う。まさに、細君のために。――さすればこそ、この夫の妻への愛情も、これ、実は甚だ疑わしいと言わざるを得ない気もしてくる。――いや? 待てよ? これに似たよな話、最近、ドラマで見たぞぅ?! おお! あれあれっ! NHKの五味康祐原作ジェームス三木脚本の「薄桜記」(丹下典膳役・山本耕史、長尾千春役・柴本幸)だぜい! あれはまた、私の以上の邪推とは裏腹の、忌まわしくも実家の元家臣に手籠めにされた「愛する」妻を「救うために」狐に化かされたとして「彼女の世間体を守らんがためにのみ」離縁をするという筋だ! これもありか! おまけに根岸の筆も、言外に、そうした隠れ蓑の先にある意味深長な人間関係を、実名表示を駆使しながら、ポーカー・フェイスで綴っているようにも私には思われるのである(リンク先はNHKの公式サイトだが、既に終わったドラマであるから、閲覧は早めに。近いうちに消滅してしまう可能性が高い)。
「八王子千人頭」八王子千人同心の総統括者。八王子千人同心は江戸幕府の職制の一つで、武蔵国多摩郡八王子(現在の八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団で、その任務は武蔵・甲斐国境である甲州口の警備と治安維持にあった。以下、参照したウィキの「八王子千人同心」によれば、徳川家康の江戸入府に伴い、慶長五(一六〇〇)年に発足し、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などによって組織されたものであった。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためであったが、甲斐が天領に編入、太平が続いて国境警備としての役割が薄れ、承応元・慶安五(一六五二)年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となっていた。江戸中期以降は文武に励むものが多く、優秀な経済官僚や昌平坂学問所で「新編武蔵風土記稿」の執筆に携わった人々(私の電子テクスト「鎌倉攬勝考」の作者植田孟縉もその一人)、天然理心流の剣士などを輩出した。千人同心の配置された多摩郡は特に徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は、同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされ、それが幕末に、千人同心の中から新撰組に参加するものが複数名現れるに至ったとも考えられている。十組・各百名で編成、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭(本話の主人公の役職)によって統率され、槍奉行の支配を受けた。千人頭は二〇〇~五〇〇石取の旗本として、組頭は御家人として遇された。千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。この事から、無為徒食の普通の武士に比べて生業を持っているということで、太宰春台等の儒者からは武士の理想像として賞賛の対象となった(本話の妻が後述するように儒者の家系の出身であると思われることと一致する)。八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられており、現在の八王子市千人町には千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。なお、寛政一二(一八〇〇)年に集団(一部が?)で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市の基礎を作った、とある。なお、岩波版長谷川氏の注では、八王子千人同心の『その組の頭』とあって、八王子千人頭ではなく、八王子千人同心の組頭ととっておられる。識者の御教授を乞うものである。
「山本鐡次郎」wakagenoitagak氏の武田氏紹介サイト「若気の板垣」の「宗格院」(そうかくいん:東京都八王子市にある曹洞宗単立寺院で八王子千人同心所縁の寺)の紹介ページに、八王子千人同心の「山本銕次郎」なる人物の墓が写真入りで載り、その墓碑の没年は寛政九(一七九七)年三月二十四日である、とある。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、もし、この人物が本主人公であったとすると、恐らくはこの話自体は、それよりも更にかなり前、最低でも十数年前の出来事と推定され、ここのところ、直近の話柄が多かった「耳嚢 巻之六」の流れからは少し外れるのであるが、この話、内容からしても彼が既に故人であったればこそ記すことが出来たのだ、とも言えまいか? なお、幕末の長唄三味線方の名跡で長唄稀音家流家元初代の稀音家六四郎きねやろくしろう(文化八(一八一一年)~明治四(一八七一)年)なる人物は、ウィキの「稀音家六四郎」によれば、『旗本の次男で本名は山本鉄次郎』とある。同姓同名の全くの無関係な者か、それとも、この主人公の末裔か? 識者の御教授を乞うものである。
・「親友川尻」既に複数回登場している五條代官や松前奉行を歴任した川尻甚五郎春之はるのと考えられる。先の「古佛畫の事」の私の注を参照のこと。
・「川尻の祖父」岩波版長谷川氏の注で、「川尻」が川尻春之であるとすれば、その祖父は鎮喬しげたか(元禄五年(一六九二)年~宝暦四(一七五四)年)とする(生年は長谷川氏注の享年六十三歳から逆算した)。
・「荻生惣七」底本の鈴木氏注に、『荻生家は有名な儒者徂徠が出た家。幕臣としては徂徠の父景明(方庵)の跡は観(タスクル。惣七郎)が継ぎ、観の曾孫義俊が、寛政六年(二十五歳)大番になっている。娘というのは、この人の娘であろうか』と推定留保されているが、岩波版長谷川氏注では、この荻生惣七郎たすくる(寛文十(一六七〇)年~宝暦四(一七五四)年)に同定されている(生年は長谷川氏注の享年八十五歳から逆算した)。「甥」とあるが、有名人に関わるこの手の話では、しばしばわざと事実に反することを仕組んでおくものである。いざとなれば、事実と違うでしょ? と責任をわかす手段とするのは今と同じである。
・「つめ印」爪印。拇印のこと。自署や花押・印章などの代わりに、指先に墨・印肉を付けて捺印したもの。爪判つめばん爪形つめがたなどとも言う。

■やぶちゃん現代語訳

 妖狐が道理に服従する事

 八王子千人頭せんにんがしらを勤めた山本鉄次郎殿は、私の親友川尻春之はるの殿の親族である。
 大分、以前の話であるが、山本殿、妻を迎えることと相い成り、川尻殿の祖父である鎮喬しげたか御大が世話致いて、荻生惣七郎観おぎゅうそうしちろうたすくる殿の娘を嫁と致いた。
 ところが婚姻後のこと、どうも、この妻女に狐が憑いた様子にて、詳しくは存ぜねど、何やらん、はなはだ不埒なることを口走って、手がつけられなくなって御座ったによって、その夫、山本殿、この物の怪の憑いた妻女を厳しく折檻致いて、
「――如何なる訳を以ってか、我らが迎えし新妻に憑いたものかッ!?」
と理を尽くして糺いたところが、その道理に伏したものか、
「……確カニ……立チ退キ申シマショウ……然レドモ……憑依致イテオルハ……コレ……我ラノミニテハ御座ナイ……江戸ヨリ……附イテ来タ狐モ……コレ……アリ……」
と、妻の口を借りて申したによって、
「……それは!……いや!――とまれ、かくまれ! 先ずは、そなたが立ち退くが道理じゃッ!」
と、無二無三に責め立てたによって、その告解致いた狐の方は、これ、とり除くことが出来たように見えたと申す。
 ところが新妻は、それでも未だに正気に戻らざれば、なおも責め諭しを続けたところ、
「……我ハ……コノ女ノ元ノ在方ヨリノ恨ミ……コレアレバコソ……カクモ婚姻ノズット先(セン)ヨリ憑リツイテ……ココヘト参ッタモノジャテ……サレバコソ……イッカナ……退ケヌ……ワ……」
と正体を現わして不遜な謂いで答えたと申す。
 山本殿、これを聞くに、
「――何とも、その意、心得難きことではないか! 江戸表より我が元へ嫁として参ったその頃より、既に狐が憑いておったとならば――どうして妻女の親、狐憑きの女を嫁に出だすこと、これ、許そうものか、いや、許そうはずが、ない! 然らば――仮に我らが、これより妻と離縁など致すにしても――我がほうにて狐が憑いたのじゃと、里方にては思うに決まっておろう!――いや、逆に、狐が憑いたのも、当家自体が尋常ならざる家系なればこそのことであり、さればこそ、我らが『予てよりの狐憑きであった』と称し、己れに体よく、離縁を求めて参ったと、かの里方にて心ならずも邪推さるると申すも、これ、武士道に於いて、如何にも迷惑千万!――何であれ! ともかくも――まずは、我が妻より即座に離れてもろうしか、これ、御座らぬ!」
と、なおも厳しく折檻を加えた。
 されば、その山本殿の理路整然とした謂いに、この執拗しゅうねき妖狐も遂に伏したものかと思われ、
「……分カッタ……立チ退クワイナ……」
と答えた。
 すると山本殿、
「いや……暫く待てい!……」
と、なおも何か思案致いたのち
「――離縁後、里方へ帰って、ただ単に『里方よりの狐が憑いておるによって離縁致す』という説明だけでは、我らが危惧するところの不名誉を受くること、これ、全く以って、同じ結果を齎すは、明白!――されば、以上の我らに語った怨恨から憑依に至るまでの告解の委細――これ、証文にしたためずんばならず!」
と述べたところ、妖狐は、
「……書クコトハ書クルガ……武家ノ式ニ則ッタ……チャントシタ文言ヤ書式ハ……コレ知ラザレバ……我ラニハ……出来難イ……」
なんどと、ほざいたところ、山本殿、
「――文言は――内容さえ人が読んでそれと分かるものであれば――妖狐流の好みのものでよい。」
と受け流した。
 かくして委細を、見た目、そうさ――妖狐自然流――とでも申そうものか……奇妙な筆使い……奇妙な崩し字……時に、奇妙な絵文字のようなものなんどまで用いて、それでも、確かに里方よりの永き怨恨を持ったる狐の憑依であった由を、分かるように綴ったものを、これ、認めさせて御座った。
 最後に、山本殿、妖狐に向かい、
「――今一つ。書面のみにては、これ、信じ難き怪談に流るるばかりにして、見る者は、『これ、人が捏造せる贋物がんぶつならん』との疑いを抱くに相違ない。されば、『確かに狐が憑いて書き記したものである』という明々白々な証拠がなくては、これ、埒が明かぬ!」
と、またしても折檻を重ねる。
「……印章ナンドハ……流石ニコノ我レラガ如キノ位階ノ者ニテハ……持タザレバ……」
と申したによって、
「――人間には爪印つめいんと申すものが、これ、ある。……」
と、話し聞かせたところ、狐の憑いた新妻、これ、手を口元へ引き寄せ、そのまま伏せるようにして、先程来、証文を書かせるに用いさせた硯に蔽い被さると、その口に、その墨を含み、かの書面へその手を押し附けた。
 新妻が身を起こす。
 その証文のすえを見れば、
――獣の足の先の跡の如きものが――そこに残っておった。
 山本殿は、
「――これにてよし!」
と、やがてその証文に離縁状を添えて、媒酌人であった川尻氏の元へ一旦、かの女を戻し、その上で、里方の荻生家へと帰したと申す。

「……惣七郎殿とは、かの荻生徂徠殿の甥子おいごに当たる方で御座る。」
 以上は川尻春之殿の直話で御座る。



 鄙僧に遺德ある事

 新御番しんごばんつとめすぎ市右衞門といへるは、予若き時、近隣なりし故、むつびし事もありき。かの市右衞門方に月見の夜、座敷の内に瓜の種交りし糞やうのものありしを、穢らはしき事とて侍女抔に命じ拭ひすてんとせしに、段々先へ同樣にふへ、二三疊も同じく穢れける故、いかなる事にやと、いづれも奇成きなるを恐れけれど、兎角其後は格別の事はなかりしが、時々奇事きじのみありし故、山伏抔招きて祈禱せしに、釋杖をうばひとり、或は珠數じゆずすりきりなどせし故、山伏も面目を失ひて立歸りぬ。如何せんと思ひし内、或知人、本郷邊の裏店うらだなにかすかにすめる僧をつれ來りて祈禱をたのみけるに、是は年古としふる狐なり、祈禱すべしとて暫く祈りしに、その怪止みけるが、この捨置すておかば又害をやなさんとて、鎭守の稻荷の賽錢箱を取寄とりよせ、是へ封じこむべしとて、何か暫く念じ、最早氣遣ひなし、みだりに此箱のふたを、暫くは取給ふなと云て歸りし故、あるじも嬉しき事に思ひて厚く禮をのべて、目錄やうのものとりもたせて、彼裏借屋かのうらしやくやをからうじてたづね當りしに、禮謝過分のよしにて不請うけずありけるゆゑ、またまた手をかへて禮謝に至りしが、遠國へ𢌞國に出しとて其店そのたなにもあらざりし。其後たづねとへども、行衞しれずと也。無欲德行とくぎやうひじりにてありしや。かゝる德あるもの故、數年を經し妖獸も退散せしならん。年たちてかの賽錢箱の内に、狐骨ここつなどあるならんとひらき見しに、何もなく、たゞ白き毛夥敷おびただしくありしと、杉氏の一類かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:妖狐譚連関。
・「新御番」江戸城内に交替で勤め、将軍出行の際の先駆けなどの前衛の警護に当たった。近習番。新番。岩波版歯長谷川氏注には『平常は土圭とけいの間の衛所に詰める』とある「土圭の間」江戸城内の時計を置いた部屋で、坊主が勤務して時報の任に当たった。但し、平凡社「世界大百科事典」の「新番」の記載には、土圭間番とけいのまばんも別称というが、本来は別個のものといえようか、とある。
・「杉市右衞門」底本の鈴木氏注によれば、杉茸陣すぎしげのぶ(正徳三(一七一三)年~寛政元(一七八九)年)とする。元文三(一七三八)年大盤、寛延二(一七四九)年に新番に移動、明和二(一七六五)年に同番を辞し、同四年致仕。但し、根岸と年配が同じなのは、むしろ養子の鎭喬しずたかであるが、大番で終始し、新番は勤めていないので該当しない、と注されておられる。根岸の生年は元文二(一七三七)年で茸陣とは二十四歳年上であるが、鎭衞が根岸家の家督を継いで二十一歳で勘定所御勘定となったのが宝暦八(一七五八)年のことで、その時、茸陣は既に四十六歳で新番であった。近所に住む有望なる若衆として、根岸のことを特に目をかけていた、ということででもあろう。されば、非常に珍しい青年時代の根岸の姿が冒頭にちらりと登場することになる。なお、茸陣が没したのは根岸が勘定奉行の時で、その翌年、南町奉行に就任している。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、それから十五年が経過しており、しかも根岸はこの執筆時は六十四になっている青春を回想したくなるよわいである……自分を可愛がって呉れた亡き先輩への追想……自身の若き日の思い出……「稲生物怪録」張りの室内の怪異……呪法が効かず翻弄される修験者……如何にもしょぼくれた僧によって、しかし、はこに封じ込まれてしまう妖狐……一切の謝礼を断って霞の彼方へ去ってゆく、その行脚僧……匣の蓋を開いて見れば……ぎゅうっと詰まった白狐の累々たる毛……実に良質の綺談というべきであろう。私は頗る好きである。
・「瓜の種」底本は「瓜の積」。「瓜の種」でないと意味が通らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「瓜の種」であるので、補正した。
・「裏店にかすかに」この「かすかに」(幽・微かに)は、その町屋の長屋にあって、生活ぶりなどが弱々しく、細々として、具体に貧しいという謂いに加えて、人目につかず、ひっそりと暮らしている、さまをも言っているように思われる。
・「彼裏借屋をからうじて」底本では右に『(尊經閣本「彼裏店へをくりからうじて」)』と補注する。補注の文も参考にしつつ、訳した。
・「目錄」進物をする際、実物の代わりに、同時に若しくは事前に、その品目を記したものを贈るもの。

■やぶちゃん現代語訳

 貧僧にも後世に残るような人徳のある事

 新御番しんごばんを勤めておられたすぎ市右衛門茸陣しげのぶ殿と申さるる御方は、私が若き日、近隣にお住まいで御座ったゆえ、頗る昵懇にさせて頂いたことのある御仁で御座る。
 かの市右衛門方にて、その昔、月見を催された夜のことである。
 ふと見ると、座敷の内に、瓜の種が交った獣のくそのようなものが、これ、べっとりと落ちておった。
 市右衛門殿、それを見て、
『……何かは分からぬが……何ともはや、汚いものじゃ……侍女などに命じて拭ひ捨てさせねば……』
と思うた。
 ところが……そう思うた傍から……そのおぞましいねばついたものが……これ……だんだんにじわじわと……市衛門殿の現に見て御座る座敷内の……その……先へ先へと……みるみる同じように増えてゆき……瞬く間に、その泥ついて白きものを交えた粘体ねんたい……これ、畳二、三畳分にまで広がって……同じように、見るもえげつなきほどに穢れ広がってゆく。
「……こ、これは……一体?……何じゃ?……」
と、その正体不明のどろどろの気持ちの悪いそのもの自体も、また、それが見る見るうちに畳何畳分にも広がるという奇怪きっかいなる現象も、これ、いずも妖なることなればこそ、家内の者どもも皆、すこぶる恐れ戦いたと申す。
 まあ、ともかくも、そののちは格別、大きなる変事は御座らなんだものの、それでも時々、何気ないことながらも、後で考えると如何にも奇なることのみがやはりしばしば御座った。
 さればこそ、山伏なんどを招いて、悪霊退散の祈禱など、させてみた。
 ところが、いざ、山伏が祈禱を始める、その傍から、
――山伏の錫杖が、これ、目に見えぬ何者かに奪い取られ、くうを切って、庭や隣りの部屋へと落ちるわ……
――祈禱に使う数珠が突然、
パチン!
と音を立てたかと思うと、丈夫な紐が、これ、擦り切れ、部屋中に
パチ! パチ! パチ! パチ!
と数珠玉が飛び散るわ……
という始末。  山伏も面目めんぼくうしのうて、ほうほうのていで逃げ帰って御座った。
 かくなる上は、如何いかが致いたらよいものかと、市右衛門殿も思案に暮れた。
 と――ある市右衛門殿の知人が、本郷辺りの裏店うらだなに如何にも貧しく住みなしておると申す僧――
……これ、見た目、如何にもしょぼくれており、凡そ、頼りになりそうには見えなんだが……いや、これ、何でも、その手の怪異の呪法を施させれば天下一と、知人は申して御座ったが……
――を連れて参ったゆえ、藁にも縋る思いで祈禱を頼んで御座った。
 貧僧は、まず、少しばかり静かに瞑想致いて、屋敷内の何かを探っておる様子であったが、ぱっと目を開くと、
「――これは――年古る狐の仕業で御座る。――祈禱致しましょうぞ。――」
と、暫くの間、日参致いては、祈りを続けた。
 すると、その僧の参った日より、あの数多の怪異、これ、ぴたりと止んだ。
 最後の日、参った僧は、しかし、
「――この狐――捨て置くならば、これまた、害をなさぬとも言い難きものなれば……そうさ――この辺りの鎮守の稲荷の賽銭箱を、一つ、取り寄せて下さらぬか?」
と申したによって、下男の者を呼んで、即座に賽銭箱の新しきもの作らせると、近くに稲荷に御座った賽銭箱と替えて持って来させた。
 すると僧は、
「――如何にも――これでよろしゅう御座る。――この内へ、かの妖狐を封じ込んでしまいましょうぞ。」
と、何事か暫く念じたかと思うと、
「――さても、最早、気遣い御無用。――但し、濫りにこの賽銭箱の蓋を――まあ、暫くの間は――お開けなされぬように――」
と告げたかと思うと、そのまま、ふらっと帰ってしもうた。
 主人市右衛門殿も、すこぶる喜んで、
「これは、目録なんどを用意致いて、しっかと手厚き礼を述ぶるが筋じゃ。」
と、下男に目録を持たせて、知人から聴いた、かの僧の住むと申す裏店うらだなの借家を、やっとこ、捜し当てた。
 ところが、かの僧、目録を差し出だいた下男に向かって、
「――この礼謝――過分なればこそ平にご容赦――」
と固辞致いたと申す。
 その態度に心打たれた市右衛門殿は、その後も何度も、手を変え品を変えては礼謝に及ばんと致いたものの、悉く辞退された。
 とある日、またしても訪ねさせてみたところが、隣家の者が、
「……あのぼんさんなら、遠国へ廻国に出なすったで……」
と、かつてのたなには、もうおらずなって御座った。
 その後も、いろいろと手を尽くして方々尋ねさせて見たものの、遂に、行方知れずと相い成って御座ったと申す。
 いや、これ、まっこと、無欲徳行とくぎょうひじりでは御座らぬか!
 このように稀なる徳を持っておられたゆえ、数十年を経て変化へんげとなった妖獣も、僅かの間に退散致いて御座ったものであろう。

 因みに――数年経った後のこと、市右衛門殿、
「……そういえば……あの賽銭箱の中……さても……狐……骨なんどになってあるものか?……」
と、おっかなびっくり開いて見て御座ったと申す。
すると――
箱の内には――これ――何もなく――
……ただ
――夥しい量の
――白い毛ばかりが御座った……
……とのことで、御座る。

 以上は、杉氏の親族の御方が私に語って下さった話で御座る。



 蜘蛛怪の事

 文化元子年、吟味方改役あらためやく西村鐡四郎、御用有之これあり、駿州原宿はらしゆく本陣ほんぢんに止宿せしが、人すくなにて廣き家に泊り、夜中與風目覺ふとめざめて床の間の方を見やれば、鏡の小さきごとき光あるもの見へける故驚きて、次の間に臥しける若黨へ聲懸ぬれども、かれも起出おきいでしが、本間ほんま次の間とも燈火きえて、彼若徒かのわかきとも右光ものを見ておほいに驚き、燈火などつけんと周章せし。右のもの音に、亭主も燈火を持出て、かの光りものを見しに、一尺にあまれるくもにてぞありける。打寄りて打殺し、早々外へ掃出はきいだしけるに、程なく湯どの一方にて恐敷おそろしきもの音せし故、かの處に至りて見れば、戸を打倒うちたふして外へいでしようの樣子にて、貮寸四方程の蜘のからびたるありける。臥所ふしどへ出しも湯殿へ殘りしも、同物ならん、いかなる譯にやと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:本格動物怪異譚二連発。一見、「ウルトラQ」の「クモ男爵」張りの巨大グモが怪異のメインに見えるが――どっこい! 違うぜ!――本当の怪異は最後の小さな蜘蛛なのだよ。……そもそも、この蜘蛛はこんなに小さいのだ。……しかも、とっくに死んで干からびてるじゃないか。……それなのに何故、湯殿で激しく戸を破って外へ出ようとる音が生じたのか?……これは、殺された大蜘蛛の(多分、雄という設定だね)、その、とうに亡くなっていた連れ合いの雌の亡魂湯殿に籠っており、それが夫の死を察して、そこを脱して夫の魂のもとへと参ろうとした……その遺魂の断末魔の仕儀であったのだよ。……彼らは今頃、極楽のはちすの蔭で、きっと仲睦まじく生きているに違いない……いや、犍陀多かんだたに御釈迦様が降ろした蜘蛛の糸はこの夫婦の蜘蛛の一匹だったに違いないさ……だってそうだろう? ワトソン君?……彼らは何も……悪いことなどしていないんだからねえ…… ・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月。この巻は、後半になればなるほど、直近のクレジット附の記事が多いのが特徴である。
・「吟味方改役」勘定吟味役の下で勘定方の調べた公文書を再吟味する実質的な実務審理担当官。
・「西村鐡四郎」不詳。ここまでの「耳嚢」には登場していない。
・「駿州原宿」東海道五十三次十三番目の宿場で現在の静岡県沼津市にあった。宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ、歴史的には木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られる(ウィキの「原宿(東海道)」に拠る)。
・「本陣」街道の宿駅にあって大名・公家・幕府役人などが宿泊した公的な旅宿を指す。
・「一尺にあまれる」約三十センチメートルを超える、ということになり、初読者は一見、本邦産の蜘蛛では到底あり得ないと思いがちであるが、果たしてそうだろうか? このクモ、深夜に室内に出現している徘徊性の種であるから、間違いなく、普通に家庭にいる節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目アシダカグモ科アシダカグモ Heteropoda venatoria である。ウィキの「アシダカグモ」によれば、体長は♀で二~三センチメートル、♂では一~二・五センチメートルで、全長(足まで入れた長さ)は約一〇~一三センチメートルに達し、その足を広げた大きさはCD一枚分程度はあるとする(以上で分かるように♂の方が♀よりも少し小さく、しかもやや細身で、触肢の先が膨らんでいる点で容易に区別が出来る)。『日本に生息する徘徊性のクモとしてはオオハシリグモ(南西諸島固有)に匹敵する最大級のクモで』、『全体にやや扁平で、長い歩脚を左右に大きく広げる。歩脚の配置はいわゆる横行性で、前三脚が前を向き、最後の一脚もあまり後ろを向いていない。歩脚の長さにはそれほど差がない。体色は灰褐色で、多少まだらの模様がある。また、雌では頭胸部の前縁、眼列の前に白い帯があり、雄では頭胸部の後半部分に黒っぽい斑紋がある』とある。この大きさは、驚愕した直後、しかも夜で、さればこそ叩き潰した後の大きさを言っていると考える方が自然であり、ぺしゃんこの状態から差し引くなら、実際の脚全長はせいぜい一〇数センチメートルから二〇センチメートルとすれば、上限だと確かに特異的な大型個体ながら、必ずしもあり得ない大きさではない。……何故、断言出来るんだって? 引用中に出るキシダグモ科オオハシリグモ Dolomedes orion の♀の生体の脚体長は一五センチメートルを超えるという採集コレクターの記載にあるし……それに何より……しばしば百足野郎が闖入して来、守宮やもり君がトイレの窓枠に何年も棲み込む私の家は、昔からこの足高蜘蛛殿の定宿でね……三十年ほど前の秋のこと、寝室で寝ていたら、顔が……右耳の辺りから……蟀谷こめかみ……反対側の左側の頰……顎の下辺りと……それが同時に……円形に引き攣ったことがあったんだよ。……はっと……ある直感が働いて起き直り、電燈を点けた。……すると……枕元に……脚長……有に私の掌を越える大きさのアシダカグモ Heteropoda venatoria が――いた。……驚愕とそれが私の顔面にいたという鮮やかな顔面皮膚感覚を思い出した時……私は反射的に枕でもってテッテ的に叩き潰していたのだ。……潰れたその「くだらない奴」は……実に完膚亡きまでに平たく平たく熨されて……軽く三〇センチメートルはあろうかと――「見えた」――からなんだよ!(無論、後に枕は容赦なく一緒に捨てたわい!)……ああ、もう!……思い出したくなかったのにぃ!……
・「貮寸四方」六センチメートル四方。ここで「四方」としているのは、寧ろ、前の「一尺」が同じく測定単位が「四方」、即ち大きく脚を広げた時の大きさ、すでに述べた通り、若しくは叩き潰し殺したシイカ状態のそれであることを意味する、と私は読む。さすれば、普通のアシダカグモ Heteropoda venatoria の、普通の成虫(それも必ずしも大きくない♀か、それより小型の♂)ということになり、この数字は如何にも普通にリアルである。しかし、小さ過ぎて、話柄の展開とうまく合わない。
・「蜘のからびたるありける」これはとうに死んだアシダカグモの死骸、もしくは脱皮片と思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 蜘蛛の怪の事

 文化元年子年ねどしのことである。  吟味方改役あらためやく西村鉄四郎殿、御用の筋、これあって、駿河国原宿はらしゅく本陣ほんじんに止宿致いた。
 その日は本陣を用いるような他の客もなく、西村殿同道の配下の者も小人数こにんずなれば、これ、その、だだっ広い屋敷に、彼らだけで泊ることと相い成って御座った。
 その夜中、西村殿、何か妙な気配に、ふと目覚め、上半身を起こして、何気なく床の間のかたを見やったところが、これ、小さな鏡ほどの丸い光りあるものが、これ、、見えたによって、吃驚仰天、次の間に臥して御座った若党へ、
「……お、おいッ!……」
と声を掛けた。
 その声に、若党も起き出だいては参ったものの、西村殿のおる本間も、その若党のおった次の間も、これ、ともに何故か燈火がとっくに消えて御座ったゆえ、その若侍も、目の当たりに皓々たるその光り物を見てしもうた。
 されば、これまた、おっ魂消たまげて、
「……とっ、と、燈火ともしび、な、な、なんどど、つつ、つ、点けま、ましょうぞ……」
と闇の中でばたばたと慌てまわり、あちこちにぶつかっては五月蠅く物音を立てた。
 されば、その物音に、亭主も燈火をうち持って寝所より走り出で、やっと、その明りでかの光り物を照らし見た。……
――と――
それは……
一尺にも余る驚くべき大蜘蛛――
にて御座ったと申す。
 余りの異形なれば、皆して打ち寄って叩っ殺し、早々に外へと掃き出させた。
――と――
ほどのう……今度は、奥の湯殿のかたにて、
ド、ド、ドン! バン! バ、バン!
と、何やらん、恐しく大きなる物音が致いたゆえ、また皆して、その湯殿へと馳せ参じて、戸を開けて見たところが、
湯殿の内から締め切って御座った戸を打ち倒して、何とかして外へ出でんとせし様子の……
二寸四方ばかりの大きさの干からびた蜘蛛――
……その……とうに干からびて死んだむくろが……湯殿の内側に横たわって御座ったのであった。……

「……さても……この臥所ふしどへ出でた大きなる物も、この、とうに死んで湯殿へ残っておった物も、これ、同じき物の怪ででもあったものか……一体、どういう訳なのか、……今一つ、我ら、分かりませなんだ……」
とは、西村鉄四郎殿の直話で御座った。


 得奇刄事

 享保の頃の事とや、本多庚之助ほんだこうのすけ家中に、名字は聞もらしぬ、惠兵衞けいべゑいへる剛勇の男ありしが、或時夜にいり、程遠き在邊へ至り歸りの節、稻村いなむらの内より六尺有餘の男出て、酒手さかてをこひし故、持合無之もちあはせこれなき由、ことわり不聞きかず、大脇差をぬき切懸きりかかりし故、拔打ぬきうち切付きりつけしに、鹽梅あんばい能く一刀に切倒きりたふし候ゆゑ、早く刀をのごをさめたち歸りしが、右の袖手共そでてどもにのり流れける故、さては手を負ひしと思ひ、月明りにて改め見しに、疵請きずうけし事もなし。能々みれば刀のつかをこみともに一寸ばかり切り落し有之これある故、驚きて、あつぱれのきれものと、不敵にも右の處へたち戻り其邊を見しに、こみとも切れ候所も、其場所におちてありし故ひろひとり、さるにても盜賊の所持せし刀、遖れの名刀也と、なほ死骸を見しに、彼刄持居候間取納かのかたなもちをりさふらふあいだとりをさめ宿元やどもとへ立歸りしが、かゝる切もの、いよいよためし見度みたしとて、主人屋敷にてためしものありし節、持參して試し給るやうのぞみければ、すなはちためさんと、かの刀を拔拂ぬきはらひ、つくづくと見て、扨て珍敷めづらしき刀かな、久しぶりにて見候なり、是は名刀也、試すに不及およばずと、かのためしする者、殊外ことのほか賞美して、手にいれし譯たづねける故、今は何をか隱さん、かくかくの事にて手にいれしとかたりて、右刀には別にせんずわりといふ切名きりめいあるべしと、改めしに、果して其銘あり。是は切支丹きりしたん征罰せいばつの時、夥敷おびただしく切りしに、中にもすぐれて切身きれみよかりしを、右の切銘を入れしとなり。彼被殺かのころされし盜賊は、權房五左衞門とて、北國ほつこくに名ある強盜の由。久田ひさだ若年の節、父のもの語りなりと咄しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。本格武辺物の名刀譚。
・「得奇刄事」は「奇刄きじんを得し事」と読む。
・「享保の頃」西暦一七一六年~一七三六年。根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから、誕生前の珍しく古い話。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、七十年以上前の出来事である。
・「本多庚之助」底本の鈴木氏の注には、『播州山崎で一万石』とする。山崎やまさき藩は播磨国宍粟しそう郡周辺を領有した藩で藩庁として山崎(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に山崎陣屋が置かれていた。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、本文が『本多孝之助』となっており、長谷川氏は注で、『正徳元年(一七一一)没の幸之助忠次、三河挙母一万石か』と推定されておられる。『三河挙母』は三河国北西部(現在の愛知県豊田市中心部)を治めた譜代大名の小藩挙母ころも藩のこと。なお、何れの本田家も「ほんだ」と読む。
・「稻村」稲叢。刈り取った稲を乾燥させるために野外に積み上げたもの。稲塚いなづか。従ってロケは中秋である。
・「六尺有餘」二メートル八十センチを優に越える。
・「大脇差」脇差は武士が腰に差す大小二刀の小刀の方の呼称であるが、その脇差の非常に長いものをいう。
・「右の袖手共にのり流れける故」「のり」は血糊であるが、後で分かるように、これは一刀のもとに断ち切ったその際、同時に相手の盗賊權房五左衞門の太刀(後に名が出る名刀「せんずわり」)の切っ先が、恵兵衛の太刀の柄のかしらの部分を断ち切っていたのであったが、その影響から小身(後注参照)が緩み、權房五左衞門を斬った際の多量の血液が恵兵衛の太刀の鍔で止まらず、斬った直後に緩んだ部分から柄の内側にそれが流れ込み、頭の抜けた部分から右二の腕や袖の部分に流れ入ったものと推定される。
・「あつぱれ」の読みは底本のもの。
・「こみ」「小身」「込み」などと書き、刀身のつかに入った部分。中子なかごのこと。
・「ためしもの」試し物。刀の斬れ味を試すために死刑囚やその遺体などを試し斬りにすること。
・「せんずわり」千頭割か(但し、だったら「せんづわり」でないとおかしい)。刀の加工に用いる道具に「せん」(「銑」とも書く)と呼ばれる鉄を削る押切りの刃のような大振りの手押しかんながあるがそれと関係があるか。キリシタン絡みだから「せんず」は伴天連関連の何かなのかも知れぬ。いや、「センズ」とは「イエズス」の訛かも……なんどと夢想もした。銘なので、ひらがなというのも何なので、勝手ながらとり敢えず、訳では「千頭割」としておいた。正しい漢字表記をご存知の方は、是非、御教授あられたい。
・「切名」切銘。刀剣で中子に製作者の名が刻んであるもの。これは「銘の物」と称し、一般には確かな名刀の証しである。
・「切支丹御征罰」島原の乱を指すか。幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女三七〇〇〇人(二七〇〇〇とも)余りが死亡している。
・「權房五左衞門」不詳。読みも不詳。「ごんばうござえもん」と読むか。
・「久田」不詳。ここまでの「耳嚢」には久田姓の登場人物はいない。それにしても、かく呼び捨てにするというのはかなり新しい情報筋と思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 珍らしき名刀を手に入れた事

 享保の頃、とか申す。
 本多庚之助ほんだこうのすけ殿御家中にて――名字は聞き漏らいたが――恵兵衛けいべいと申す剛勇の家士が御座った。
 ある夜更け、かなり遠方の村方へ参っての帰り、田の稲叢いなむらの中より、突如、六尺を優に越ゆる大男が出て来て、
「……酒手さかて……お呉んない!……」
と乞うたによって、
「――今は持ち合わせが――これ、ない――」
と断った。
 ところが、いっかな引き下がらず、それどころか、大脇差を抜き放って斬りかかって参った。
 されば恵兵衛も抜き打ちに斬りつけた。
 幸いにも一刀のもとに、たかりの大男を斬り倒して御座った。
 直ぐ、刀を拭い納めて、その場は立ち去ったと申す。
 ところが、夜道を辿って参るうち、右の袖や二の腕辺りで、頻りに何やら血糊のようなものが流れる感じが致いたため、
「……さては、知らずに手負いを受けて御座ったか……」
と思って、立ち止まって月明かりにて改めて見ところが、肌脱ぎになってみても、これといって傷を受けたところは、これ、御座ない。
 されど、確かに、夥しい血の滴りが、右袖や右の二の腕に確かにあるゆえ、さらによくよく見てみれば、何と!
――恵兵衛の太刀のつか ――これ
――小身諸共もろとも
――一寸斗ばかりも
――斬り落ちておる
ということに、気づいた。
 驚いて、
「……うむむ! あっぱれの切れ物じゃ!」
と感心致いて――もう、夜も丑三つ時にもならんとするに――大胆不敵にも、せんの修羅場へと立ち戻り、その刃傷の辺りを捜してみたと申す。
 すると、確かに、恵兵衛の太刀の小身諸共に切れたものが、そのすっぱり切れたそのまんまに、そこに落ちて御座ったゆえ、拾い取って、その切り口の鮮やかなるを見、
「……うむむ、うむむ! それにしても……盜賊の所持せる刀ながら、遖れの名刀じゃ!」
と、さらに猶も死骸を探って見たと申す。
 すると、かの刀を握りしめたまま、とっくにこと切れて転がって御座ったによって、かの刀を、死骸の手から引き剥がし、己が屋敷へと立ち帰ったと申す。
 その後のことである。
「……かかる切れ物の脇差……いよいよその斬れ味、これ、試してみとうなったわい……」 と恵兵衛、頻りに思うたによって、ある時、主人あるじの屋敷にて、試し斬りのある由、聞きつけ、かの大脇差を持参致いて、主人あるじへ、
「――この脇差儀、どうか、試し斬り給わりますように。」
と、せちに望んだところが、主人あるじも、
「面白い。一つ、試してやるがよい。」
と、即決されたと申す。
 試し斬りの達者たっしゃが、試し斬りのためのむくろを据えた庭へと出でる。
 かの大脇差も引き出だされ、達者によって刀が抜き払われた。
――と
 達者、その大脇差をつくづくと見ると、
「……むッ! さても珍らしき刀にて御座る! 久し振りの見参じゃ! これは名刀で御座れば――最早――試すに及ず!」
と、その試し斬りの達者、殊の外、賞美致いた上、
「……かくなる名刀――如何にして手に入れられた?」 と、せちに訊ねたゆえ、
「――さても今は何をか隠そうず――かくかくの出来事の、これ御座って、かくも手に入れて御座る。」
と一切を語り明かした。
 すると、かの達者、
「――その刀には、恐らく――特に――『せんずわり』――との切銘きりめいが彫られてあろうと存ずる。――改めて見らるるがよい。」
と申したによって、主人あるじからの命もあればこそ、
――チャ!
くきを抜いて見てみたところが、果たして
――千頭割――
との銘が彫られて御座った。……

「……この大脇差は、何でも、切支丹きりしたん征伐せいばつの折り、夥しき邪教の者どもを斬り殺しましたが、その折りに使われた脇差の中にても、これ、優れて切れ味の良かったものを選び、特にこの――千頭割――と申す切銘を入れた、と伝え聞いておりまする。……それから、かの、この脇差を所持致いて御座った殺されし盜賊は、これ、権房五左衞門ごんぼうござえもんと申す、北陸にて名を轟かせた強盜の由にて御座いました。……」
 以上の話は、私昵懇の久田某ひさだぼうが、若年の折りに彼の父から聞いた話として私に語って呉れたもので御座る。



 鳥類助を求るの智惠の事

 木下何某なにがしの、領分在邑ざいいふの節、領内を一目に見晴す高樓ありて、夏日近臣を打連れて右樓にのぼり、眺望ありしに、遙の向ふに大木の松ありて、右梢に鶴の巣をなして、雄雌餌を運び養育せる有さま、雛も餘程育立そだちて首を並べて巣の内に並べるさま、遠眼鏡とほめがねにて望みしに、或時右松の根より、餘程ふと黑きもの段々右木へ登る樣、うはゞみの類ひなるべし、やがて巣へ登りて雛をとり喰ふならん、あれを刺せよと、人々申さわげども、せん方なし。しかるに、二羽の鶴の内一羽、右蛇を見付していにてありしが、虛空にとび去りぬ。哀れいかゞ、雛はとられなんと手にあせして望みながめしに、最早かの蛇も梢近く至り、あわやと思ふころ、一羽の鷲はるかに飛來り、右の蛇の首をくはへ、帶をくだしし如く空中を立歸りしに、親鶴も程なく立歸りて雌雄巣へ戻り、雛を養ひしとなり。鳥類ながら、其身の手に及ばざるをさとりて、同類の鷲をやとい來りし事、鳥類心ありける事と、かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。動物奇譚。リアルタイムの叙述で頗るヴィジュアライズされており、事実譚として十分に信じ得る筆致である。
・「鳥類助を求るの智惠の事」は「鳥類、助けを求むるの智惠の事」。
・「木下何某」岩波版長谷川氏注に、『備中足守二万五千石木下氏か(鈴木氏)。』とある。以前にも述べたが、この鈴木氏は勿論、底本編者の鈴木棠三氏であるが、ここで長谷川氏の引くものは、私の底本である「日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞」(三一書房一九七〇年刊)の「耳嚢」の鈴木氏の注ではなく、同じ鈴木氏の平凡社東洋文庫版(私は所持しない)のものである。底本には、この注はない。因みに足守あしもり藩は備中国賀陽郡(「かや」「かよう」の両様に読む)及び上房じょうぼう郡の一部を領有した藩。元和元(一六一五)年、木下利房が大坂の陣の功績により二万五千石にて入封。以後、明治まで木下家が十二代、二百五十六年間に亙って在封した(但し、江戸後期には領地の大半が陸奥国に移された)。藩庁は足守陣屋(現在の岡山県岡山市北区足守)に置かれた(以上はウィキの「足守藩」に拠る)。
 諸本の説明をしたので、この場を借りて再度断っておきたいのであるが、
 ★私は「耳袋」の現代語訳本は一冊も所持していない
 ★私のこの「耳嚢」の現代語訳は総てが私のオリジナルである
という点を――「耳嚢 巻之六」の終了を間近に控えた――折り返し点を遙かに過ぎ、本格的な復路に入った――ここで、読者に改めて宣明しておく。
・「くはへ」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 鳥類が仲間に助けを求むるという知恵を持つ事

 木下何某なにがし殿が、御領地に在られた折りのことで御座る。
 御領内を一目で見晴らすことの出来る高楼たかどのが御座って、とある夏の日のこと、近臣をうち連れて、この楼に登り、眺望なされた。
 すると、遙か向うにある大木の松の梢に、鶴が巣を成して、雄雌が餌を運んでは子を育んでおる様子にて、雛もよほど大きゅう育って、首を並べて巣の内に並んでおるさまを、木下殿、遠眼鏡とおめがねにて如何にも微笑ましゅう望まれるを、これ、楽しみになさっておられた。
 ところが、そんなある日のこと、何時ものように楼へ参られ、かの鶴の巣を覗こうとなされたところが、さる御付きの者、目敏めざとく、
――かの松の根がたより
――よほど太く真っ黒なるものが
――これ
――だんだんに
――かの木へと登る
と見えた。
「……あれ! 蟒蛇うわばみの類いじゃ! 直きに巣へと登り入って雛をとりくろうに違いない! 誰か、はよ、あれを刺せぃ!」
と、叫んだによって――御主君お気に入りの鶴の親子であればこそ――その場の人々は、これ、慌てふためいて、口々に、何やらん、申しては、騒いではみたものの、何分、高き松の梢のことなれば、如何ともしようが、これ、御座ない。
 木下殿以下、陪臣の者ども皆、ただ手を拱いて眺めておるしか御座らなんだ。
 しかるに、見ておるうち、巣に御座った二羽の鶴のうちの一羽が、これ、この蛇を見つけた様子にて御座ったものの、何と! 懼れ怖気づいたものか、畜生の哀しさ――空高く、飛び去ってしもうた。……
 木下殿、
「……哀れな!……ああっ! 雛は最早、獲らるるに違いない!……」
と、諸人、手に汗して、遙かに眺めておるばかりで御座った。……
 最早、かの蛇も梢近くへと至った。
あわや!
――と――
思うた、その時、
――虚空に一点、黒点が浮かぶ!
かと思うと、
――みるみるそれが大きくなり
――一羽の鷲と相い成る!
――急転直下!
――音もなく飛び来ると
バッ!
――と――
――かの蛇の首をくわ
――口より長きおびを垂れ下げた如く
――空中そらなか
――悠々と
――たち帰って御座った。……
 すると、先ほど消えた一羽の親鶴も、ほどのう巣へとたち帰って参り、雌雄、目出度く巣に安らいで、また、何時ものように、仲睦まじゅう、雛をやしのう様が、これ、その日も見られて御座った。……

「……鳥類ながらも、かの一羽の鶴、近づく蛇の、その身の手には及ばざる天敵なることを悟り、同類のうちにてもごうをならした、かの鷲を雇いに参ったこと……これ、たかが畜生なる鳥類なれど……巧める思慮というものが、これ、御座るものじゃのう。……」
とは、木下殿が、直かにお話し下さったもので御座る。



 陰德危難を遁し事

 或武家、兩國を朝通りしに、色衰へし女、欄干の邊をあちこち徘徊せるさま、身をなげ入水じゆすいを心懸るやと疑はしく、たちよりて其樣を尋しに、綿摘わたつみを業とせるものにて、預りの綿をぬすまれ、我身の愁ひはまうすに及ばず、親方も呉服所への申譯まうしわけなき筋なれば、入水せんと覺悟きはめし由かたりぬ。いか程の價ひあればつぐのひなりぬるやとたづねしに、我等が身の上にて急に調ひがたし、三分程あれば、償ひも出來ぬべしと云ひし故、夫はわづかの事なり、我與へんとて懷中より金三分取出とりいだし、かの女子に與へしに百拜して歡び、名所なところなどききけれど、我は隱德に施すなり、名所を云ふに不及およばずとて立別れしが、年をへだてて、川崎とか又は龜戸邊とか、其所は不聞きかざりしが、所用ありて渡し場へ懸りしに、かの女に與風出會ふとであひけるに、女はよく覺へて、すぎし兩國橋の事を語り、ひらに我元へ立寄り給へと乞し故、道をも急げばと斷りしが、切に引留ひきとどめてあたりの船宿へともない、誠に入水と一途に覺悟せしを、御身の御影にて事なく綿代をも償ひ、不思議に助命せしは誠に大恩故、平日御樣子に似候人もやと心がけ尋しなり、我身もみやづかへにて綿摘し事、過し盜難におそれ暇取いとまとりて此船宿へ片付かたづきけるに、不思議にも今日御目に懸りしも奇緣とやいふべきとて、蕎麥酒抔出し、家内打寄うちよりて饗應せしに、かの渡し場にて何か物騷ものさわがしき樣子、其譯を尋しに、にはか早手出はやていで渡船わたしぶねくつがへり、或は溺死、不思議に命助かりしも怪我抔して、大勢よりあつまりて介抱せるよし。是をききて、誠に此船宿へ彼女にあひ被引留ひきとめられずば、我も水中のうろくずとならん、天道その善にくみし、隱德陽報の先言せんげんむなしからざる事と、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。「耳嚢 巻之六」の百話の掉尾である。岩波版長谷川氏注に『落語の「佃祭」に用いられる話で、『譚海』六、『むかしばなし』五、『古今雑談思出草紙』四など類話多し』とある。落語「佃祭」はウィキの「佃祭」(落語)に詳しい。こちらはこの話の後半部のシチュエーションが前半で(主人公は神田の小間物問屋次郎兵衛、救われるのは奉公する女中で恵んだ額は五両、事故現場は佃島からの渡し)、後半はそれを聴いた与太郎が真似して失敗するオチであるが、同解説によれば、本話の原型は『中国明代の説話集『輟耕録』の中にある「飛雲渡」である。占い師より寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救ったおかげで船の転覆事故で死ぬ運命を免れる話で、落語「ちきり伊勢屋」との類似点もある』(同じウィキの「ちきり伊勢屋」を参照)とあり、更にこの「耳嚢」のことを引き、これも『飛雲渡を翻案した物』であるとし、筆者はこれが落語「佃祭」の系譜のルーツ(の一つ)と推測されているようである)。なお、舞台となった佃の渡しでは明和六(一七六九)年三月四日に藤棚見物の客を満載した渡し船が転覆沈没し、乗客三十余名が溺死しており、これが落語「佃祭」の直接の素材となっているらしい。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、この三十年ほどの間に恐らく原「佃祭」が創作され、そのヴァリエーションが、全くの実話として根岸の耳に入った――当時のネットワークの一つのパターンが垣間見られる。「譚海」の話は、主人公は江戸京橋の浪人(の子)で、救われる相手は女ではなく遊里にはまって首が回らなくなった桑名の男で施しは三両、現場は桑名の渡し、「むかしばなし」のそれは主人公は道具屋、救われるのは若夫婦で、現場は本庄の渡しである。この原典から本邦でのインスパイアの歴史については、鈴木滿「『輟耕録』から落語まで」という論文(『武蔵大学人文学会雑誌』第三十四巻第三号所収)が詳細に解き明かしている。必一読。また、鈴木氏のも同論文の中で指摘されてられるが、かなりのひねりが加わった「耳嚢 巻之一 相學奇談の事」等を始めとして、所謂「陰德陽報」譚は、この「耳嚢」では相当数数えることが出来る。
・「遁し」「のがれし」。
・「綿摘」小袖の綿入れなどに入れるために綿を摘綿(真綿を平らにひき伸ばしたもの)にする作業のこと。底本の鈴木氏の注が仔細を極めるので、例外的にほぼ全文を引く。『綿を塗桶にかぶせて延ばして薄くする作業。小袖の中に入れる綿、或いは綿帽子をつくるためにする』。但し、これを表向きの『仕事として内実は淫を売る女を、綿摘と呼ぶことも寛文のころからの流行で、宝永ごろ一時やんだが、その後も一部にはあった。文中に出てくる綿摘の女も、礼ごころとはいえ舟宿へ誘うところなど、少し怪しい感じがする』とある。とってもいい注である。
・「償ひ」実は底本は「價ひ」であるが、これでは意味が通らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で訂した。
・「金三分」一分金は四枚で一両。現在の金額にすると約五万円前後に相当するか。
・「みやづかへにて」この「みやづかへ」は所謂、「宮仕へ所」で、職場、かの綿摘作業をする作業場の謂いであろう。
・「うろくず」は魚の鱗、魚のこと(但し、仮名遣は誤り)。「うろくづの」辺りと「藻屑もくづ」との混同か。
・「隱德陽報」人知れず善行を積めば、必ずよい報いとなって現れてくるということ。
・「人の語りぬ」という末尾は、微妙に不自然で、本話がその武士の直談ではないというニュアンスを感じさせる。但し、訳ではわざと直談とて、本話をリアルなものとして示しておいた。それが有象無象の本類話の増殖蔓延を目指す戦略の要めでもあろうと判断するからである。

■やぶちゃん現代語訳

 陰徳によって危難から遁れ得た事

 ある武士、両国橋を朝方、渡りかけたところ、如何にもやつれて見ゆる一人の女、欄干の辺りをあちらへ一さし、こちらと二さしと歩んでは思案顔、これはもう、身を投げ、入水じゅすいを図らんとすると、疑わしきていなれば、傍らに寄って、
「……御女中……如何致いた?――」
と、穏やかに質いたところ、
「……わらわ綿摘わたつみを生業なりわいと致す者なれど……預りおいた、さわにあった綿を皆、盗まれて……我が身の途方に暮るるは申すに及ばず……綿摘み元締めの親方も、じきに卸さねばならぬところの呉服屋への申し訳も立たざる仕儀なれば……最早、入水せんと……覚悟を決めて、御座いまする……」
と、消え入りそうな声にて語って御座ったと申す。
 あらましを聴いたのち、かの武士、
「……それは……いかほどの値い、これ、あらば――その盗まれた綿の――償いと致すこと、これ、出来ようものじゃ?」
と訊いた。
「……我らが身の上にては……とてものこと……直ぐに調えようのできようような金高かねだかにては……これ、御座いませぬ……」
「――いや――幾らかと――と訊いておる。」
「……へえ……三分ほども、あれば……これ、償いも出来ましょうが……」
と答えたゆえ、
「――なに。それは僅かのことじゃ。我らが取らす。」
と、懐中より金三分を取り出だいて、かの女子おなごに与えた。
 女は、無論、百拝せんほどに歓び、
「……ぜひ、お名前やお住まいなど、お聞かせ下さいまし!」
と乞うたれど、 「――いや――我らはただ隠徳として、これを施すのじゃ。名所などころは言うに及ばぬ。――」
と、きびすを返して立ち去ったと申す。

 さて、それから数年の後のこと。
 かの武士が――川崎であったか、亀戸辺であったか、場所は聴き洩らいたが――所用が御座って、とある渡し場へ通りかかった。
 すると、あの入水をしかけて御座った、かの女に、そこで偶然、再び出逢うたと申す。
 女も、かの武士のことを、よう覚えて御座って、過ぎし日の両国橋での一件を語って謝した上、
「――ひらに! 我らが元へ、是非、お立寄り下さいまし!」
と乞われたによって、
「……いやぁ……道をも急いでおるによって……」
と一旦は断ったものの、しきりに引きとめられ、さればとて近くの船宿へと相い伴って参った。
「――まことに! あの時は、入水せんものと一途に覚悟致いておりましたものを、お武家さまのお蔭にて、無事、盗まれた綿のしろをも償い、不思議なる御縁によって我らごときをご助命下さいましたは、これ、まっこと、我らにとっての大恩。なればこそ、あれより毎日、ご様子の似申上げて御座らるるお人を見かけては、これは、とせちに心をかけて、貴方さまでは、と訊ね暮らして参りましたので御座います。我が身も――あの頃は世過ぎに綿摘みなど致しておりましたが――過ぎし日の、あの盜難とその難儀の一件にすっかり怖気づきまして、じきにいとまを貰い、今は、こうして、この船宿を営みまする夫のもとへと片付いて御座います。……ああっ、それにしても! ほんに、不思議にも、今日きょうび、お目にかかることが、これ、できました! これも何かの奇縁と申すものに、御座いましょうぞ!……」
と、いたく歓んで、蕎麦やら酒やら肴なんどまで持って来させ、主人あるじこおなどまで家内一同うち寄って、上へ下への大饗宴と相い成って御座った。
 そんな中、女が風を入れんと、ふと障子を開けたによって、武士は何気なく岸辺を眺めた。
 見れば、かの渡し場の辺りにて、何やらん、物騒がしき様子が見てとれる。
 女が宿の者に見に行かせたところが、
「――いやあ! 何でも、にわかに突風が吹きやしてねぇ! 渡し船が、川のど真ん中にて、これ、ひっくりえったんでごぜえやす! そんでもって、あるもんは溺れ死に、不幸中の幸いと、命の助かったもんも、これまた、ひどい怪我でごぜえやして、へえ! 大勢のもんが、寄ってたかって介抱しておりやしたが……ともかく、いや、もう、とんでもね、大騒ぎで、え!……」
とのこと。……

「……まっこと、あそこでかの女に逢い、そこであのように引き留められ、かの船宿に参るらずんば、これ、我らも、水の中のうろくずとなって御座ったに相違御座らぬ。……これぞ、まさに『天道はその善にみす』『陰徳陽報』と申す、先人らのげんが、これ、虚しき空言そらごとにては御座らなんだということ、相い分かり申した。……」
とその御仁が語って御座った。


耳嚢 卷之六  根岸鎭衞 完