やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
耳 嚢 卷之七 根岸鎭衞
[やぶちゃん注:底本は三一書房一九七〇年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものであるが、この本巻の底本は甚だ質が悪く、しばしば岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を部分援用しなければ読解そのものが困難な箇所がしばしば見れれた(援用部は逐一注記してある)。
以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。
底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明五(一七八五)年頃に始まり、没する前年、文化十一(一八一四)年迄の実に三十年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクがあるものは私の翻刻訳注の完成版)、
「卷之一」の下限は天明二(一七八二)年春まで
「卷之二」の下限は天明六(一七八六)年まで
「卷之三」は前二巻の補完(日付を附した記事がない)
(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)
「卷之四」の下限は寛政八(一七九六)年夏まで(寛政七年の記事の方が多い)[やぶちゃん注:この区分への私の疑義は「卷之四」の冒頭注参照のこと。]
「卷之五」の下限は寛政九(一七九七)年夏まで(寛政九年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)
「卷之六」の下限は文化元(一八〇四)年七月まで(但し、「卷之三」のように前二巻の補完的性格が強い)[やぶちゃん注:これについては私は同年八月とすべきと考えている。詳しくは本巻「賤商其器量ある事」の私の注を参照されたい。]
「卷之七」の下限は文化三(一八〇六)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)
「卷之八」の下限は文化五(一八〇八)年夏まで
「卷之九」の下限は文化六(一八〇九)年夏まで
(ここで九〇〇話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、四~五年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)
「卷之十」の下限は死の前年文化十一(一八一四)年六月まで
といった凡その区分を推定されておられる。藪野直史【作業終了:2013年11月26日】]
卷之七
目次
名人の藝其練氣別段の事
鐵棒大學頭の事
伎藝も堪能不朽に傳ふ事
市陰の外科の事
夢に亡友の連歌を得し事
戲場役者も其氣性有事
唐人醫大原五雲子の事
漬物に聊手法有事
咳の藥の事
又同法の事
俠女の事
疝痛を治する妙藥の事
稻荷宮奇異の事
疱瘡の神なきとも難申事
同病重躰を不思議に扱ふ事
婦人に執着して怪我をせし事
植替植木に時日有事
鱣は眼氣の良藥なる事
老僕奇談の事
打身くじきの妙藥の事
病犬に被喰し奇藥の事
瀕死の者を助る奇藥の事
狸欺僕天命を失ふ事
放屁にて鬪諍に及びし事
銕物の疵妙藥の事
商家義氣幷憤勤の事
蕎麥は冷物といふ事
鳥の餌に虫を作る事
其素性自然に玉光ある事
商家義氣の事
不思議に金子を得し事
修驗道奇怪の事
嘉例いわれあるべき事
眞木野久兵衞町人へ劍術師範の事
又、久平其術に巧なる事
※を取奇法の事[やぶちゃん字注:「※」=「疒+「黑」。]
蟲さし奇藥の事(二カ條)
※いつの妙藥の事[やぶちゃん注:「※」=「疒」+「各」。]
幽靈恩謝する事(二カ條)
婦人強勇の事
久野家の妾死怪の事
即興狂歌の事
屋鋪内在奇崖の事
強勇の者自然と其德有事
不義業報ある事
鳥類智義有事
國栖の甲の事
肴の骨たゝざる呪事
諸物制藥有事(三カ條)
俠女凌男子事
地中奇物の事
假初にも異風の形致間敷事
淸潔の婦人の事
河怪の事
古狸をしたがへし強男の事
幽靈を煮て喰し事
備前家へ出入挑灯屋の事
先細川慈仁思慮の事
川狩の難を遁るゝ歌の事
疝氣妙藥の事
恩愛奇怪の事
退氣の法尤の事
長壽の人狂歌の事
志賀隨翁奇言の事
養生戒歌の事
中庸の歌の事
郭公狂歌の事
其角惠比須の事
近藤石州英氣の事
旋風怪の事
正路の德自然の事
仁義獸を制する事
名器は知る者に依て價ひを增事
人の齒にて被喰しは毒深き事
黐を落す奇法の事[やぶちゃん注:底本の標題の字は(へん)の部分が「禾」(のぎへん)で、あるが当該字は表示出来ないことと(「廣漢和辭典」にも載らない)、本文が正しく「黐」となっていることから訂した。]
古錢を愛する事
老人頓智謀略の事
齒の痛口中のくづれたる奇法の事
加茂長明賴朝の廟歌の事
仁にして禍ひを遁し事
蚊遣香奇法の事
武者小路實蔭狂歌の事
加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事
内山傳曹座頭に代詠る歌の事
大盜人にともなひ歩行し者の事
變生男子又女子の事
猫忠臣の事
古猫奇有事
金銀を賤き者に見せまじき事
諸物傳術の事
狐即座に仇を報ずる事
夢中鼠を呑事
天理に其罪不遁事
女の一心羣を出し事
了簡を以惡名を除幸ひ有事
彦坂家椽下怪物の事
名人の藝其練氣別段の事
小野流一刀の始祖にて
□やぶちゃん注
○前項連関:「卷之六」掉尾との連関性はない。本格武辺物で巻頭を飾るには相応しい。
・「小野次郎右衞門」小野忠明(永禄一二(一五六九)年又は永禄八(一五六五)年~寛永五(一六二八)年)のこと。将軍家指南役。安房国生。仕えていた里見家から出奔して剣術修行の諸国行脚途中、伊藤一刀斎に出会い弟子入り、後に兄弟子善鬼を打ち破って一刀斎から一刀流の継承者と認められたとされる。以下、ウィキの「小野忠明」によれば、二文禄二(一五九三)年に徳川家に仕官、徳川秀忠付となり、柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となったが、この時、それまでの神子上典膳吉明という名を小野次郎右衛門に改名した。慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いでは秀忠の上田城攻めで活躍、「上田の七本槍」と称せられたが、忠明は『生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の陣の後、閉門処分に処せられた』とある。「耳嚢」では「卷之一」の冒頭から三番目に配された、「小野次郎右衞門出世の事 附伊藤一刀齋の事」のことに既出する。ここで彼に纏わる剣豪譚をここに記したことに私は、改めて「耳嚢」の初心に帰ろうとする根岸の心意気を感じるものである。
・「小野典膳忠也」前の小野忠明の弟小野忠也。一刀流流派
・「間宮五郎兵衞」間宮
・「其比の國守但馬守」安芸国広島藩浅野家初代藩主浅野
・「武劔」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『舞剣』。
・「ばつぐん」底本では左に『(拔群)』と傍注する。
・「
・「其修行
・「右の誘引」岩波版で長谷川氏は『五郎兵衛の指導』と注されておられる。
・「緩怠」①いいかげんに考えてなまけること。②失敗すること。過失。手落ち。③無礼・無作法なこと。ここでは無論、③の意。
・「夫を不宜と申は主人え對し
・「御疑ひも侯はゞ」底本は「御競ひも侯はゞ」であるが、意味が通じない。ここ部分のみ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を採った。
・「右十人は不及とて」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『右十人は
・「但馬守殊の外惜しと也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『但馬守殊之外愎しみ被申しとや』とあり、長谷川氏は「愎」の右に補正注『〔惜〕』を配しておられる。現代語訳はバークレー校版に従った。
■やぶちゃん現代語訳
名人の芸というものはその修練に対する気合覚悟が如何にも格別である事
小野一刀流の始祖にして
その弟は小野典膳
これによって安芸国にては
十人衆と申し――これは忠也流を修行する達者で、その宗主の日々の大切なる祭祀のことなどにも従事致す者で御座る――その十人の内でも間宮五郎兵衛と申す者は、
然るに五郎兵衛殿は不幸にして中年にて早々に卒去せられた。
されば、子息市左衛門が十六歳にて跡式を相続致いたが、長晟公におかせられては、御自身も五郎兵衛免許の御弟子であられたゆえ、この市左衛門へ、その技の仔細をお教えになられ、だんだんに奥義も伝授なされた上、その手技も抜群で御座ったればこそ、市左衛門を親しくお召しになられ、間宮五郎兵衛直伝の忠也流の正統なる免状をも渡さんとなされた。
すると、市左衛門は身を引き、それを固辞致す旨、申し上げた。
されば、不審なる
「――一体、如何なる所存にて、かく辞退致すものか?」
とのお訊ねに対し、市左衛門は、
「……一体、親の義にては御座いまするが――忠也流流義の心得をば、かの父五郎兵衛は、これ、甚だ未熟なままに誤って受け継ぎ――その具体な
と答えたから堪らない。
但馬守様は、これ、以ての外に憤られ、
「……な、汝が父の教え方が宜しからずと申すも……こ、これ、ぶ、無礼千万じゃ!……こ、ことに、その方へは、この予が、直々に教えた太刀筋であるぞッ!……そ、それを宜しからずと申すは……こ、これ、父に対して
と劇しく糺された。
すると、市左衛門、これ、平然と、
「――武芸の儀は全く『
と答えた。
されば但馬守様、怒髪天を衝き、
「あ、青侍の、こ、
と、その場にて即座に、かの忠也十人衆直系のうちでも、特に技量の勝れたる同流の手練れを選び、急遽召し出だいて御前試合を申し付けられた。
ところが……
……その十人は言うに及ばず
……御家中にても他流の心得ある者どもまで、悉く立ち合い致いたのだが
……誰一人として
……市右衛門に勝てる者は、これ、御座らなんだ。……
遂には、立ち合いの相手が誰もおらずなったによって、但馬守様御自身が、立ち合いなされた。……
……が
……これもまた
……お負けになられた。……
されば、但馬守様、一転、はなはだ賞美なされ、
「……親を
と申し付けられ、
「――いや! 殊の外、家中に名誉の者が
とご満悦であられたと申す。
惜しいかな、この市左衛門殿は三十歳にならずして卒去なされ、その時はまた、その子息が
但馬守様は、この市左衛門殿の夭折を、殊の外、惜しまれた、とのことで御座る。
*
鐡棒大學頭の事
松平大學頭、貮三代以前大學頭、常々杖に鐵棒を
□やぶちゃん注
○前項連関:本格武辺物で連関。
・「銀棒大學頭」は「かなぼうだいがくのかみ」と読む。
・「松平大學頭」松平
・「貮三代以前大學頭」松平頼慎の曽祖父であった、同じく従四位下大学頭で侍従・少将の守山藩初代藩主松平
・「剛器」底本には右に『(剛毅)』と補正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『剛気』。
・「松平安藝守」安芸広島藩第五代藩主で浅野家宗家第六代浅野
・「子息但馬守」安芸広島藩の第六代藩主で浅野家宗家七代浅野
・「□え」判読不能か。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『亭』とある。これで採る。
・「
・「着服の術」の「術」には底本では右にママ注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『
■やぶちゃん現代語訳
松平大学頭
松平安芸守浅野
「何分、
と、
即座に承知の旨、御座ったによって、安芸守殿は『鉄棒大学』様を直ちに御屋敷に招かれ、子息但馬守殿にお引き逢わし申し上げなされた。
『鉄棒大学』様、但馬守殿を御一見なさるるや、
「――
と、殊の外、賞賛なされた。
父安芸守殿、
「先般、お頼み申した通り、いよいよ、よろしゅうに、お頼み申し上ぐる。」
と申されたところが、『鉄棒大学』様、
「――それにつき、わざわざの御招きまで頂戴致いたゆえ、取り急ぎ、心に掛かって御座る所を申さぬは、これ、よろしゅう御座るまい。――まず、貴殿の着服の
とお答えになったかと思うと、御自身の小刀を以って、目の前の、但馬守殿の振袖の袖口を
――シャッ! シャッ!
と、いとも簡単に二、三寸、切り縮められた上、
「――さても――大小のその拵え、これも、はなはだ、宜しゅうない。――」
と、予め用意持参なされて御座った大小を取り出だされ、但馬守殿へ直々にお渡しになられた。
その太刀は――これ、如何にも長いもので、対する脇差と言えば、これ如何にも短く太うて、ごつごつとした逞しい拵えのもので御座ったと申す。
……但馬守殿は、このいかもの造りの大小を、生涯、帯刀なされた。
この大小は、如何にも『鉄棒大学』頭殿が、宜しい、と申さるるに相応しき、
*
伎藝も堪能不朽に傳ふ事
京橋邊に、
□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、何か、鉄棒と尺八、裄を切るのと竹を切る仕草、「貮三代以前」と「貮三代も以前」の言葉遣いなど、不思議にしっくりと繋がる。「耳嚢」に多い技芸譚である。
・「堪能不朽」「堪能」は「かんのう」(「たんのう」とも読む)で、深くその道に通じていることをいう。
・「ひらく」岩波版で長谷川氏は、『初めて使うこと。後文のように竹を見立てて尺八に仕立てることをいうか』と注されておられる。これを現代語訳では頂戴した。
・「
・「音整」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『音声』であるが、この字面であると音色とその調べ(調性)などの意へと膨らんでいる感じがする。
・「元祖琴古」初代黒沢琴古(宝永七(一七一〇)年~明和八(一七七一)年)。本名黒沢幸八。黒田美濃守家臣であったとされる。若くして普化宗に入り、一月寺、・鈴法寺の指南役を務め、曲の収集整理を行って、琴古流として三十余りの曲を制定、普化宗尺八の基礎を築いた。実子が二代目琴古、弟子には一閑流の宮地一閑がいる(以上はウィキの「黒沢琴古」に拠る。二代三代はリンク先を参照されたい。ただ、そこにはこの尺八家元の名跡琴古流は四『代目が没して以降途絶えているがその後も何人か継いだが何代続いたか不明』とあって、「堪能不朽」の語がやや淋しく感じられはする)。
・「扁歷」底本には「扁」の右に『(遍)』と傍注する。
・「
・「是を竹に拵へ吹ければ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『是を竹に拵へけれど』で、文脈上はこちらがよい。ここはそれで訳した。
・「唄口」この当時、尺八の唄口(歌口)に何を挟んでいたかは分からない(文脈上はもとは尺八には歌口に何かを挟まねばならなかったようにしか読めない)。しかし、「泉州尺八工房」の「歌口研究 1」には、本来、尺八は元々自然の形状を利用して作られており、歌口近辺が二〇ミリメートル程度の内径を持った竹の節を抜いただけの単純な楽器で、『歌口開口部も竹の自然な形状によって様々な形になっていた。近年大量生産をするようになり内部に施した「地」と呼ばれるパテ状の漆を一回で削り取る器具を使うようになると、開口部は円である必要が出てきた』とあるから、尺八の原型では実は歌口には何も挟まなかったように読める(ケーナの古形のものを見てもそれを私も支持する)。同記載にはさらにまた、歌口は現代では『竹まかせの時代から形状の統一の時代にはなったが、いずれにしても演奏上の人間の立場に立った変化ではなく、あくまで制作上の都合である』とある。ウィキの「尺八」によると、『歌口は、外側に向かって傾斜がついている。現行の尺八には、歌口に、水牛の角・象牙・エボナイトなどの素材を埋め込んである』そうである。
■やぶちゃん現代語訳
技芸も
京橋辺に、『
尺八で
元祖琴古は尺八を吹いて諸国を遍歴致いて御座ったが、ある在郷の藪の
具体な尺八の吹奏術の技芸に於いても、この琴古に匹敵する者は御座らなんだ。
長崎にて
今にその尺八は、当琴古が宗家に
元租琴古と申すは、これ、現在の琴古よりも二、三代も以前の御仁なる由。
元祖が製したところの、この自然な竹をそのままに用いた尺八――歌口に何も挟まぬ尺八も、これ、今の世に流布して残っておるとのことで御座る。この形の、宗家にて製する尺八の裏穴の
*
市陰の外科の事
或諸侯
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。根岸の好きな医事医薬関連に夢告譚を交えた都市伝説である。
・「市陰」は「しいん」と読み、「市隠」に同じ。官職に就かず、またはれっきとした生業を営まずに市井に隠れ住むこと、また、その人。
・「外科」は「耳嚢」にはしばしば出るが、
・「痙瘡」岩波版長谷川氏注には『痙は筋がひきつること。何病か未詳』とあるのである。確かに「廣漢和辭典」にも、「痙」にはそれ以外の意味は示されていない。さて、ところが、この「痙瘡」という熟語でネット検索をかけるとかなりのヒットがある。ところが、それらを個々に見てゆくと、これはどうも、その多くは「痤瘡」(顔面に出来る点のような腫物)即ち、“acne”(アクネ:痤瘡。にきび(pimples)などの皮膚病。)、
①
②
③
④
この中で、本話の諸侯が罹患している病気の有力な候補として着目されるのは寧ろ、②以下なのである。
まず、②では過角化型疥癬(ノルウェー疥癬)と呼ばれる疥癬の重症感染例が疑われる。何らかの原因で免疫力が低下している人にヒゼンダニが感染したときに発症し、通常の疥癬ならばせいぜい一患者当たりの保虫数は千個体程度であるものが、この症例では一〇〇万~二〇〇万個体に達し、患者の皮膚の摩擦を受けやすい部位には、汚く盛り上がり、牡蠣の殻のようになった角質が厚く付着するに至るのである。
次の③は、大腿部や臀部などの脂肪の多い部分に出来る化膿性の痛みを伴う腫れ物を指す。私のように体質上、粉瘤(アテローム)が出来やすいタイプの人は、そこに細菌感染が起こって化膿し、しばしば熱と痛みを伴う粉瘤腫に悪化する(二十代の私の右腹部に出来たそれは化膿が真皮にまで達し、外科手術で摘出せねばならなかった)。
最後の④は必ずしも癌とは限らない。所謂、性感染症の多くはリンパ節の腫脹を伴うのだが、私は本話のこの「痙瘡」という字を見た際、寧ろ、「頸」の「もがさ」(腫れと瘡蓋)を連想したため、実は最初にこれをイメージしたのであった。
どれと断定は出来ないが、実は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では最後に『
③アテロームが化膿して大きくなったもの(これは実体験からいうと結構痛む)
か、
④の性病類の一症状としての慢性的リンパ節腫脹の大きなもの
であろうと推定出来る。④の場合は大きくても必ずしも痛みを伴わないが、大きければ場所によっては外分も悪く、日常生活にも支障が出、「愁ひて」という描写も不自然ではない。
・「是より東北の方」で後に吉永正庵を発見するのが「兩國」、彼の住まいが「本所」となれば、この「東北」は当たっていなくては記載の意味がないから、この大名の上屋敷は、日本橋北・内神田・八丁堀・京橋・築地・鉄炮洲辺りにあったと考えられる。
・「友なひて」底本では「友」の右に『(伴)』と注する。
・「彼者陰もつを見て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『
■やぶちゃん現代語訳
市井に隠れた外科医の事
ある大名、腫脹を伴う「
そんなある夜のこと、患者御当人が、
~~~……吉永正庵と申す者を以って……療治致さば……これ……快癒するであろう……~~~
と何者かののたまう夢を見られた。
夢の内の朧げのことながらも、翌朝、目覚められた後も、その
……吉永正庵……
と申す名をも正しく覚えておられた。しかも、
~~~……この者……これより東北の方に……あり……~~~
と、お告げのうちに妙に具体な事柄のあったことも、ここで思い出されたによって、
「……もしや……このような不可思議なること……これ……全くあり得ぬということも……これ、あるまい……」
と、命令一下、家来の者どもは手分けして
それからほどなくした、ある日のことで御座った。
家中の、身分のいたって低きさる者、非番なればとて両国辺りを
――吉永正庵――
と書かれてあったによって吃驚仰天、ともかくもと、住居なんど訊ねたところ、本所辺りの
かの者、しかし、
『……あそこは貧乏長屋で知られた辺りじゃ……それに、このあまりに賤しき田舎回りと思しい、薬売りの
と、その場は別れて、屋敷へととって返し、かくかくしかじかと語って御座った。
されば、家人、このことをすぐに
「……やはりそうであったかッ!……両国本所は……これ! 確かに、東北じゃ!……何か、苦しきことのあろう! 今直ぐに、呼べッ!」
と命ぜられたによって、直ちに招いたところが、かの者、その腫れ物を見るや、
「――思い当る種々の施法、これ、御座いますれば、早速に療治を始めましょうぞ。」
と申し、その調合致いた薬の処方を受けたところが、不思議に、みるみるうちに軽快なされ、この吉永なる人物の施術によって全快をみた、とのことで御座った。
*
夢に亡友の連歌を得し事
一橋公の御醫師に、町野正庵といへるあり。常に連歌を好みて同友も多かりしが、悴は洞益とて是は連哥抔は心掛ざりしが、或夜洞益夢に、親の連哥の友長空と言て三年以前身まかりしに
花の山むれつゝ歸る夕がらす
□やぶちゃん注
○前項連関:夢告霊異譚で直連関。一つ前の「伎藝も堪能不朽に傳ふ事」とも、尺八と連歌の技芸譚として繋がる。
・「町野正庵」不詳。幕末から明治にかけての華道家に同姓同号の人物がいるが、全くの偶然か。
・「洞益」不詳。号からして医師を継いでいるようである。
・「請取見て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『
・「横手を打て」感心したり、思い当たったりした際、思わず両方の掌を打ち合わすことをいう。
・「封して」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『歎じて』。そちらで採る。
・「百員」百韻。連歌・俳諧で百句を連ねて一巻きとする形式。懐紙四枚を用いて
■やぶちゃん現代語訳
夢に亡き友の連歌を得た事
一橋公の
ある夜のこと、その倅洞益殿、夢の中にて、親の連歌の友であった長空と申し、三年以前に身罷った御仁に、ふと出会った。
夢の中の長空が言うことには、
「……我れら、この
とのことで御座った。
[根岸注:既に示した通り、この洞益は連歌に関わったことは一切ない。]
そこで洞益殿、
「
と応じたところ、長空はやおら
花の山むれつゝ帰る夕がらす
と、認めて渡いたによって、それを受け取った――
――と見て、夢が醒めた。
不思議なことには、目覚めた
すると、正庵殿、
――ぱん!
と
「……まことに! 今年は長空が三年忌じゃった! そなたが写したこの
と殊の外、感嘆致いて……その日うちに旧知の同好の士をも集め、この「夕からす」の句を発句として百韻を綴り、長空の追善供養を成した……とのことで御座る。
*
戲場役者も其氣性有事
元祖坂田藤十郎
□やぶちゃん注
○前項連関:技芸譚直連関。
・「戲場」岩波版では「しばい」とルビが振られている。
・「元祖坂田藤十郎」歌舞伎役者初代坂田藤十郎(正保四(一六四七)年~宝永六(一七〇九)年)。俳号は冬貞、車漣。定紋は丸に外丸。元禄を代表する名優で上方歌舞伎の始祖の一人に数えられる。「役者道の開山」「希代の名人」などと呼ばれた。以下、参照した ウィキの「坂田藤十郎(初代)」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『京の座元だった坂田市左衛門(藤右衛門とも)の子。延宝四年(一六七六)一一月京都万太夫座で初舞台。延宝六年(一六七八)「夕霧名残の正月」で伊左衛門を演じ、人気を得た。この役は生涯に十八回演じるほどの当たり役となり「夕霧に芸たちのぼる坂田かな」と謳われ、「廓文章」など、その後の歌舞伎狂言に大きな影響を与えた。その後、京、大阪で活躍近松門左衛門と提携し「傾城仏の原」「けいせい壬生大念仏」「仏母摩耶山開帳」などの近松の作品を多く上演し、遊里を舞台とし恋愛をテーマとする傾城買い狂言を確立。やつし事、濡れ事、口説事などの役によって地位を固め、当時の評判記には「難波津のさくや此花の都とにて傾城買の名人」「舞台にによつと出給ふより、やあ太夫さまお出じゃったと、見物のぐんじゅどよめく有さま、一世や二世ではござるまい」とその人気振りが書かれている』。『和事芸の創始者で、同時期に荒事芸を創始した初代市川團十郎と比較される。金子吉左衛門著の芸談集「耳塵集」によれば、藤十郎の芸は写実性さを追究したもので「誉められむと思はば、見物を忘れ、狂言は真のやうに満足に致したるがよし」という藤十郎自身の言葉がある。ただし、徹底的な写実性を求めるものでなく、見た目重視のところもあった。「夕霧」の伊左衛門が舞台で履物を脱ぐとき、「もし伊左衛門の足が不恰好に大きかったら客が失望する」と言って裏方に小さめの履物を用意させた』。『時代物や踊りは不得手であった。「松風村雨束帯鑑」の中納言行平を演じたが不評で、行平が髪結いにやつしている場面だけが好評だった。また、怨霊物では、踊らずにひたすら手を合わせて逃げ回る演技がよかったという。そのかわり話術が巧みで女性を口説くときの場面は抜群であった』。『「傾城仏の原」で、梅永文蔵を演じた藤十郎が恋人逢州の心底をたしかめるべく、わざと世間話をする場面で、あまりの冗長さに客席から苦情が出た。台詞を短くしようという忠告に、藤十郎はもう一日だけ同じやり方にしてくれをと頼み込み、昨日よりもゆっくりと世間話をすると好評だった。「昨日は、見物を笑わせる所だと思って演じた。それでいけなかった。あの場面は、逢州の心地を聞こうとしてわざと暇取らせているわけだから、そのつもりですればいいのだ。今日は長くやっても、こっちの気持ちが昨日とちがっていたから、よかったのだ」と藤十郎は成功の秘訣を語っている』。『芸に対しても真摯な姿勢を崩さず、後輩の役者が、「先日あなたの通りに演じたら好評でした」と礼を述べたが、藤十郎は誉めずに、「私のままに演じたら、生涯わたしを越えられませんよ、しっかりおやりなさい」と忠告した』という。これは如何にも凄い人物である。
・「和事師」歌舞伎で和事を得意とする役者。「和事」は柔弱な色男の恋愛描写を中心とした演技及びそうした演出様式をいう。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に発生して主に上方の芸系に伝わった。江戸歌舞伎の特色で、武士や鬼神などの荒々しさを誇張して演じる演出様式(初世団十郎を創始と伝える)「荒事」、また役柄の分類上の、判断力を備えた人格的に優れた人物の精神や行動を写実的に表現する「実事」の対義語である。
・「中村七三郎」(寛文二(一六六二)年~宝永五(一七〇八)年)元禄期に活躍した江戸和事の祖と称された歌舞伎役者。俳号は少長。父は延宝期の初期中村座を支えた歌舞伎役者天津七郎右衛門、妻は座元の家柄である二代目中村勘三郎娘はつ。初舞台の役柄の記録は「女形・若衆形・子共」の三種で、後に若女形となった。貞享三(一六八六)年以後は没するまで立役を全うし、小柄で、「好色第一のつや男」、また、当代随一の美男の意で「わたもちの今業平」と評判され、ぞくっとするような魅力を発散したという。諸芸に通じ、ことに濡れ事・やつし事などの和事芸を得意とし、荒事の名人初代市川団十郎と並び称された名優であった。江戸下りの女形の相手役をすることにより、上方歌舞伎の柔らかい芸を取り込んで独自の芸風を確立した。この芸風を決定的なものにしたのが元禄元(一六八八)年に市村座で上演された「初恋曾我」(四番続)の十郎役で、曾我兄弟はこれまで荒事式で演じられていたが、この時、十郎を和事の演出で見せ、大評判を取り、以後は江戸の曾我狂言では十郎は和事の風で演じる決まりとなった。元禄一一(一六九八)年に京にのぼり、「傾城浅間岳」の小笹巴之丞役を演じて一二〇日のロングランの大当たりを取り、上方和事の祖坂田藤十郎を呻らせたという。この役を七三郎は一代の当たり役とした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。以下、底本では鈴木棠三氏が本話に即した絶妙な注を附しておられ、これは引用せずんばならず! 長いが、例外的に全文引用をさせて頂く。
《引用開始》
俳名少長。江戸劇壇における随一の和事師として、初代市川団十郎の荒事と対照せられた名優。宝永五年没、四十七。七三郎が元禄十年上京、四条山下半左衛門座に出演したとき、藤十郎の評判は圧倒的で、江戸でやつしの名人と好評だった七三郎も、馬の後足とまで酷評された。上方役者たちの間では、江戸からわざわざ京に上ってやつし事をする七三郎はそもそも了簡違い、そこが下手のしるしであるなどとそしった。それを聞いた藤十郎は、いや七三郎は上手である、これが刺激になって自分の芸も進歩しよう、顔見世ではこちらが勝ったが、二の替りとなると負けるかも知れぬといった。その昔の通り七三郎は『傾城浅間嶽』の巴之丞の役で、割れるような大評判を取った。その後、替り日ごとに藤十郎は七三郎の舞台を見物して、両人は親密な間柄となった。十二年の暮七三郎は江戸山村座に出演ときまって東下した。七三郎が藤十郎に置土産を贈ったのに対し、折返し餞別を贈ってはしっぺ返しで面白くないと、藤十郎からはわざと何も贈らず、極月廿九日に加茂川の水を送った。以上は『賢外集』にあり、本書の一条もこの書物から採ったものであろう。なお藤十郎が大坂出演のとき、京から水を樽詰にして取寄せて使用したという話も、同書に載っている。それほど養生に留意したという逸話である。
《引用終了》
彼は坂田藤十郎より十五年下であった。
・「客座」歌舞伎俳優の順位の一つ。一座の俳優のうち、座頭・書き出し・立女形などの俳優と同等同位の客員待遇を受ける者をいう。七三郎は江戸からの初上りの新鋭人気歌舞伎役者ということで優待された。
・「顏見せ」顔見世。一座の役者が総出演する芝居。顔触れ。面見世。
・「春狂言には果して評判宜しからんと、上方の評判なりしと也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、ここが、
春狂言には果してよろしからん」といひしが、其通り二ノ替り狂言より、和事師の名人なりと、上方の評判なりしと也。
となっている。「二ノ替り」について、長谷川氏は、『顔見世狂言をとり替えてそれに次いで正月に上演する狂言』と注されておられる。このバークレー校版の方が分かりがよい。現代語訳では、その雰囲気を敷衍した。
・「大ぶく」大服茶・大福茶のこと。元日の若水で点てた煎茶。小梅・昆布・黒豆・山椒などを入れて飲み、一年の邪気を払うとする。福茶。
■やぶちゃん現代語訳
歌舞伎役者もそれなりの心立てがある事
元祖坂田藤十郎は
かたや、
ある年、七三郎が上京致いて芝居を打った。
京の役者ども、楽屋内にてうち寄っては噂致すに、
「……七三郎も高が知れた役者でおますな。……
とさんざんな申しよう。
ところが、そこにたまたま、当の藤十郎がおって、これを小耳に挟んだと申す。
すると藤十郎、
「……それは大きな見当違いでおます。……我ら、先年、江戸へ下向致いて、かの七三郎はんとも
と、かばっておった申す。
さても、その暮れになって、藤十郎の言う通り、すこぶるよき評判をも得、七三郎は江戸へと戻り下ることと相い成り、藤十郎も厚く、別れの挨拶を交わして立ち別れたと申す。
さても……当初は、あれほど辛辣な陰口をたたいておった京役者どもさえ、大層なる餞別を渡し、また、江戸表へも七三郎気付で、それぞれに贈り物なんどまで致いては、七三郎と昵懇になることを望んだ者も多くあったとのこと。……そうして、偏えに――七三郎は和事の美事な上手なり――と、頻りに評判致いたとも聴いて御座る。
さて、藤十郎は、といえば、その折り、ろくな餞別なども贈らずに御座った。
しかし、七三郎が江戸表へ着き、暫く致いたある日のこと、藤十郎の書状をともに添え、
七三郎、その消息の封を切って読んでみたところが――過日の京にての七三郎が芝居のよき仕草を褒め綴った上、
……江戸へお下り以来、さぞ、御繁昌のことと存じ、お悦び申上げ奉りまする……
……さて、この
……一つ、来春元旦の
との文なれば、七三郎、殊の外、心うたれ、
「……賤しき我らが身分なれど……和事をともに精進致す身の上なればこそ……志すところの魂の響き合い……かくも高貴にして富貴なる贈り物……何とも、はや!……これ以上の……至福の感は……まずは御座らぬ!……」
と、藤十郎の芸人の気構え、これ、
*
唐人醫大原五雲子の事
三田大乘寺といへる寺に、大原五雲子が墓あり。森雲禎など其流れを
[やぶちゃん注:「三田大乘寺」底本の鈴木氏注に、『誤りであろう。三田には同名寺院はなく、大の字のつく寺名は大松寺、大聖院(伊皿子寺町)、大増寺(三田台町)、大信寺(北代地町)など』とされる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、本文が『三田小山大乗寺』となっており、長谷川氏はこの寺について、現在の港区三田の『小山にある大松寺(黄鴿山、浄土宗)であろう』と注されておられる。但し、ネット上ではここに大原五雲子の墓が現存するかどうかは確認出来なかった。当時の亡命皇族の近臣で、本邦で大々的に医術を広めた(次注参照)事蹟墓碑まで明らかなのに、鈴木氏が寺も墓所を同定出来なかったというのはやや不審である。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。
「大原五雲子」底本の鈴木氏注に、『明の福建出身。初名は珪、字は寧字、姓は王氏。帰化して大原と称し、紫竹道人と号す。明国から朝鮮を経て長崎に来り、明人の名医一庵について医学を学んだ。後、諸国を旅行し、寛永万治年間医名が高かった。その学は、襲延賢、皇甫中を主とした。その門下の森雲竹(正徳二年没、八十二)は、さらに昔に遡って研讃し、名医であったが、世間に出ることを好まず、塾生を教育し、その数は首百を以て算えた』とある(「研讃」はママ)。「寛永万治年間」西暦一六二四年~一六六一年。
・「森雲禎」前注の鈴木氏注にある直弟子であった森雲竹本人か(叙述では生前の直弟子の門下生の医名と読める)、その門下の、当代(「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年夏頃)の襲名医師であろう。
・「明松の亂」一六三一年に勃発した李自成の乱以下の明王朝の滅亡に至った内乱。
・「漕流」底本には右に『』と注する。
「祥雲寺」岩波版で長谷川氏は、『瑞鳳山祥雲寺(曹洞宗、小石川)、瑞泉山祥雲寺(臨済宗、渋谷)どあり』と注されておられるが、「DEEP AZABU.com 麻布の歴史・地域情報」の「むかし、むかし8」の「奇妙な癖のある人」(これは「耳嚢」巻之八の「奇成癖有人の事」の紹介記事である。こちらの記事群には「耳嚢」の話が多く掲載されており、考証も充実している。必見である)で、当該話の文中に登場する、長谷川氏注の後者の「麻布祥雲寺」ついて、これは『現在渋谷区広尾(広尾商店街突き当たり)にある祥雲寺だと思われるが、この寺は鼠塚(明治三三年~三四年、東京に伝染病が流行し、その感染源として多くのネズミが殺された。その慰霊碑)、曲直瀬流一門医師の墓などがある。由来は、豊臣秀吉の天下統一に貢献し、後に福岡藩祖となる黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたので、元和九年(一六二三)に長政が没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立した。寛文六年(一六六六)には麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め、寛文八年(一六六八)の江戸大火により現在の地に移った』とし、この記事が書かれた頃(これは「卷之八」の謂いであるが、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから同じである)『にはすでに広尾にあった』とされておられる(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。しかし、明から亡命した皇族が住持となっているのに、それが現在確認出来ないというのは(寺伝に載ることは勿論のこと、その住持していた寺に当然の如く墓があるはずであるのに)、私には不審である。識者の御教授を乞うものである。
・「喜多座」能の喜多流。
・「樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成り、雲子牌名に、」この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(恣意的に正字化した)、
樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成る。今も勘兵衞とて弓町に町屋敷など
となっていて、文脈上でも内容でもこの方が質がよい。ここの部分の現代語訳は、このバークレー校版で行った。「弓町」は現在の本郷三丁目附近。それにしても、この楽人も五雲子と同じく日本名で「大原」姓を名乗っているのは気になる。「大原」は大本という原義もいいが、それ以外に現在の山西省省都で古都の太原や、周代の宣王の御料地であった山西省大原市陽曲などの地名と彼らの主君たる王子若しくは彼等自身の出自や領地と関係があるのかも知れない。
・「万治三子」万治三(一六六〇)年
■やぶちゃん現代語訳
唐人医師
三田小山の大乗寺と申す寺に大原五雲子の墓が御座る。
当代の医師
五雲子は雲南とも号したによって、雲禎に医師の名跡を嗣がせた隠居後は、專ら、雲南と名乗って御座ったとも申す。
この五雲子と申すは、明末の乱の際、かの地の王子の内の一人、
なお、王子は出家して、禅宗なる祥雲寺という寺の住職を成し、そのまま身罷った由。
今一人の楽人は大原勘兵衛と名乗り、能楽の喜多座の役者と相い成った。――今もその子孫が「勘兵衛」と称して、弓町に町屋敷など賜わっておる大層な家柄として残っておる由。
因みに、かの五雲の碑銘には、
――東嶺院晴雲日輝居士 万治三
と記し、大乗寺に今もある由、人の語って御座った。
*
漬物に聊手法有事
奈良漬を
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。食には秘かに一家言あったと思しい根岸の食味譚の一つ。
・「奈良漬」白瓜・胡瓜・西瓜・生姜などの野菜を塩漬けにし、何度も新しい酒粕に漬け替えながら製する漬物。以下、参照したウィキの「奈良漬け」によれば、奈良漬けは西暦七百年代から『「かす漬け」という名で存在しており、平城京の跡地で発掘された長屋王木簡にも「粕漬瓜」と記された納品伝票らしきものがある。なお、当時の酒といえばどぶろくを指していたため、粕とは搾り粕ではなくその容器の底に溜まる沈殿物のことであったようである。また、当時は上流階級の保存食・香の物として珍重されていたようで、高級食として扱われていたという記録がある』。『その後、奈良漬けは江戸時代に入ると幕府への献上や奈良を訪れる旅人によって普及し、庶民に愛されるようになる。「奈良漬け」へ変わったのは、奈良の漢方医糸屋宗仙が、慶長年間』(一五九六年 ~一六一五年)『に名付けたからである。現在では一般名詞化し、奈良県以外で製造したものも奈良漬けと呼ばれる。奈良県以外では、灘五郷(兵庫県神戸市灘区)などの酒粕を用いた甲南漬、名古屋市周辺で収穫される守口大根を用いた守口漬などもある』。『鰻の蒲焼きに奈良漬けの組み合わせは定番となっている。鰻を食べた後に口に残る脂っこさを奈良漬けが拭い去り、口をさっぱりとさせる効果があ』り、他にも『胃の働きを活発にし胸焼けを抑えたり、脂肪の分解、ビタミンやミネラルの吸収を助けるなどの効果があるとされている』とある。
・「鹽を詰を下とし、上に酒糟を厚く塗詰て」この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『塩を
■やぶちゃん現代語訳
漬物にも聊かの手法がこれあるという事
奈良漬けを漬ける際には、瓜を二つに割り、中の種を抜き、塩を詰めた上、その上に酒糟を厚く塗り重ねて、樽の底に糟をまんべんなく敷き詰め、その上へ、瓜を――切った方を下に――
それを知らぬある者が、その糟塩を詰めた瓜を――切った方を上にして――
笑った訳を訊ねたところが、
「酒糟の気は上へ上へと抜けるもので御座るのじゃ。さればこそ、俯けにして詰めるがよろしいのじゃて。但し、味噌漬けの場合は、この逆じゃが、の。」――
これは、さる人の語って御座った話である。
*
咳の藥の事
多喜安長の家に、咳の妙藥とて人にも施せしに、ある人諸人の爲なれば傳法を乞ひしに、用あらばいつにても
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。〔 〕は「耳嚢」では珍しい割注であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では本文に含まれている。民間療法シリーズの一つ。
・「多喜安長」不詳。戦国時代の甲賀武士に多喜氏がいる。
・「胡桝」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『胡椒』である。これを採る。但し、この時代には唐辛子の葉のことを指す。
・「半□」□は判読不能を示す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『
■やぶちゃん現代語訳
咳の薬の事
多喜安長殿の家に、咳の妙薬と称するものが伝えられてあり、人にも施して御座ったところ、ある人が、
「
と乞うたところが、安長殿、
「必要とあらば、何時にてもお求めに参られるがよかろうと存ずる。製法を伝うるは、これを否む訳では御座らねど、拙者の思うに、具体な原料や製法を、これ、聴き知らば、薬の効験への期待もこれ薄まってしまうように存ずれば……。」
と一度は断られたとのことであったが、先方が
その製法は
――黑砂糖に唐辛子の葉
を配剤して処方するとの由。
[根岸注:この話、別な人から同じ話訊いた際には、半夏を少し加えると、なお効き目がよくなるとの由。]
*
又同法の事
水飴の中へ大根を薄く切りて一切れ
□やぶちゃん注
○前項連関:民間治療薬
■やぶちゃん現代語訳
また同じく咳を止める薬法の事
水飴の中へ大根を薄く切って一切れ入れ置き、その大根の水が残らず飴の方へ吸い出された頃、その大根は取り出し、かの水飴を服用すれば、咳を止めること、これ、絶妙の効果がある由、人の語って御座った。
*
俠女の事
去る御旗本の次男にて
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。義理に厚いしっかりものの粋な姐さんと旗本惰弱男の物語である。
・「部屋住」次男以下で分家独立をせず、親または兄の家に留まっている者をいう。但し、この語自体は家督相続前の嫡男のことを指す場合もある。
・「某容儀」底本には「某」の右に『(其カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『其容儀』。「其」で採る。
・「
・「外分」底本には「某」の右に『(外聞)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『外見』。
・「樂弱」底本には「某」の右に『(惰弱カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『柔弱』。「惰弱」「柔弱」ともに、気持ちに張りがなく、だらけていること、意気地のないことをいう。
・「
・「彼女が不憤」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『彼女
・「我知れる人も知る人も一座なし」底本には「知る人」の右に『(ママ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『我知れる人も知る人にて一坐もなし』。ここもバークレー校版に準じて訳す。
・「面流し」底本には右に『(汚カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『面泥し』で右に『(汚)』と傍注する。「
■やぶちゃん現代語訳
さる御旗本の次男にて部屋住みの
しかしその容儀は、これ、お世辞にも美しくもあらなんだ。
ただ、浄瑠璃や三味線等なんどは、これ、なかなか巧みにこなす才を持って御座った。
ところがこの女、何か子細があったものか、
そこでかの女は、お
――三味線浄瑠璃指南――
の看板を掲げて才覚なし、たちまち、その技の評判となったればこそ、お武家の屋敷方へもしばしば出入りをなすに至り、かの女一人で母と夫を養い、まっこと、しっかと、ちゃあんとちゃちゃんと暮しなして御座ったと申す。
ところが、かの次男坊の親元より、
「……なんとも……町方にかくなしておったのでは……噂や外聞、これ、宜しからざれば……」
と、屋敷内の長屋へ、三人ともに引き取ったと申す。
女はこれまで通り、通い弟子や出張稽古及び座敷勤めを致いて御座った。
そのうちに子供が二人生まれた。されど――部屋住みの次男に賤婢の母の三人の経済――なればこそ、また、かの女一人の才覚にて、二人とも相応の方へと養子に出してやり、片付けて御座ったと申す。
ところが……かの次男坊……この男、生得、惰弱なる
ところが、かの女は、これをいささかも憤ることなく、今まで通りの座敷勤めに三味線師匠の所得を、これ、こつこつこつこつと貯めに溜めたものでもあったものか――何と――金五十両を揃え、その飯盛女の身受をさせた上、夫へその女を与えて、
「――御身は最早、我らに飽きて遊興なされしこと、これ、我らへの心も変じたものなれば、この女を召し仕われて、我らには緣を切るとの仰せを給え!――」
と、何度も申したによって――男も内心、己れの不甲斐なさに恥じ入りながらも、そのおいしい申し出の儘に任せて――離縁して御座った。
されば彼女は、今は町屋に暮して、専ら、かの三味線浄瑠璃の師範をなし、その技の上手なは勿論のこと、酒席宴席にては、これ、すこぶる座持ち上手にても御座ったればこそ、ますます諸家へ出入り致いては、実母を養い、町方にても随分、立派に暮して御座ると申す。……
私の知っている御方の話しによれば、その我らが知人の知人と申す御方の実談として、
「……この女とは、確かに、その女の招かれたる座興の席にて
とのことで御座った。
その次男坊なる駄目男についても、名並びに親元も、実はその知人の知人なる人物は、これ、訊いて御座ったようであるが、今現在、その武家、まさにその男の兄の代となって御座ればこそ……実名、これ、口に出ださば……『ええッツ?! あの○×様の!?』……ということになりかねるような、すこぶる附きに知られたる、さろ名家で御座るによって……あからさまに名を語らんも、これ、先様への面汚しとなればこそ……と、あからさまには私の知人には明かさなんだ、とのことで御座ったよ。
*
疝痛を治する妙藥の事
またゝびの粉を酒又砂糖湯にて用ゆれば、其いたみ去る事妙のよし。營中にて
□やぶちゃん注
○前項連関:一つ前とその前の咳に続く民間療法シリーズ。根岸が疝気持ちであったことは既に「耳嚢 巻之四 疝氣呪の事」で明らかになっている。「疝気」については、リンク先の私の注を参照されたい。
・「またゝび」双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ Actinidia polygama 。ウィキの「マタタビ」によれば、『蕾にタマバエ科の昆虫が寄生して虫こぶになったものは、
「一匁」現在は三・七五グラムに定量されているが、江戸時代はやや少なく、近世を通じた平均値は三・七三六グラムであったとウィキの「匁」にはある。
■やぶちゃん現代語訳
疝痛を癒す妙薬の事
またたびの粉を酒または砂糖湯にて服用すれば、その痛みがすっと引くこと絶妙の由。
御城内にて、私が疝痛に悩まされているというのを聞いた、さる御御仁が伝授して下されたことである。
その後、私の元へ来たる薬屋を本職としつつ、眼科をも兼ねておる者も、疝気にて腰を痛ぬることが、これ、度々御座ったが、その都度、またたびを一匁、酒を茶碗に一杯用いて即効を得る由、聞いた。
ただ、この者、平素より酒が呑めぬ
最近では年もとったことと相俟って、すこぶる酒での服用が困難になって御座ったゆえ、今は茶湯または砂糖湯を用いて服用しておるとのこと。
「……但し、酒で服用した場合に比べますると、その効果は、これ、劣りますな。……」
と、本人が語って御座った。
*
稻荷宮奇異の事
久保田何某は、久しく小日向江戸川端に借地して
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。この一条、表現が無駄に繰り返され、誤字としか思えぬものが散見されて、ひどく読みにくい。実は底本でも鈴木氏が例外的な注を附しておられる。以下に全文であるが本条読解には必須と思われるので引用させて頂く。
《引用開始》
この一条、悪文の見本のような感がある。写本も悪いせいであろうが分りにくい文章である。要するに久保田某が江戸川端の借地を地主と相談の上で、拝領屋敷と交換して居宅とした。そこにもとからあった稲荷の祠と洞穴は、もともと地主も大切にはしていなかったが、祠は旧地主の所有として取払い、地主の住居である本所へ移した。しかるにまた元の所にその祠が戻っていたので、久保田某は驚いて祭った。内実は地主の下男が横着をして、祠を片付ける振りをしてそのままにして置いたのを、稲荷が舞戻ったと早合点したのが真相らしいというのである。
《引用終了》
但し、稲荷が岩の洞穴のようなものの中にあったのなら、最後のような屋根覆いの必然性が減じるように思われので、私は「洞」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『祠』の誤字と採った(以下の注を参照)。
・「小日向江戸川端」岩波版長谷川氏注には『小日向水道橋の南、江戸川沿いの地をいうか』と注されておられる。
・「拜領の屋敷」幕臣が江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷と称し、大名が個人的に民間の所有する屋敷や土地を購入して建築したものは
・「相對替」当事者双方の合意に基づいて田畑・屋敷等を交換すること。田畑の永代売買が禁止されていたために行われた事実上の土地所有権移動の一形態である。幕臣も幕府の許可を得て、拝領屋敷の相対替をすることが出来た。当初は新規に拝領した屋敷の場合は、相対替えには三年経過することが条件であり、また一度相対替した屋敷は替えて十年が経過している必要があったが、文化元(一八〇四)年には前者は年限の規制が廃止され、後者は五年に短縮された。さらに文久元(一八六一)年には五ヶ月経過後ならば再度の相対替が許可されるようになった、と参照した小学館「日本大百科全書」にはある。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、この規制緩和によって、久保田何某は恐らく新規拝領の屋敷を相対替えしたものと判断される。なお、この言葉が用いらているからには相手も幕臣であるのは言うまでもなく、この久保田の住まう借家もその幕臣が貸していた自身の拝領屋敷でなくてはならない。
・「小さき洞」「右洞」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はいずれも『小さき祠』『右祠』。岩を穿った祠ともとれなくなくはないが、ここではその移転が問題になっているので、ここは孰れもバークレー校版で採る。
・「地にては」底本では右に『(主脱カ)』と傍注し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では正しく『地主にては』とあるので、「地主」で訳す。
・「唯持來るや」一読、前後の意味がよく分からない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『唯』は『誰』とあるので合点出来る。バークレー校版で採る。
・「陰陽家」ここでは単なる市井の祈禱師であろう。
・「
手輕く
とあって、さらに長谷川氏の注で「上は覆補理して」は『上部におおいを設けて』とあり、目から鱗。最早、このバークレー校版で採る以外に本条を読み解くことは出来ないほどである。
・「又は稻荷には狐をつかはしめと被申せば」底本には右にママ注記を附す。訓読不能である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、『又は稲荷には狐を使はしめとか申せば』とある。バークレー校版がよい。なお、我々は稲荷を狐を祀るものと思い込んでいるが、本来は京都一帯の豪族秦氏の氏神であり、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神を主神とする食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。その後の神仏習合思想においては仏教の荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られるに至った。現行の神仏分離の中にあっては神道系の稲荷神社にあっては「古事記」「日本書紀」などの
■やぶちゃん現代語訳
稲荷の宮の奇異の事
久保田何
さて、その小日向江戸川端の屋敷内には、借地であった頃よりずっと、稲荷と称した小さな
この祠――しかし元の地主方にては、はなはだ疎かに扱って御座ったやに見えた――と久保田殿の談。
久保田殿、この度の地主との相対替えを期に、この祠も地主方へと返し、本所にあるその地主の屋敷へと引き移させて御座ったと申す。
ところが、二、三日過ぎて見てみると、取り払って先方へ送ったはずのその祠が、またしても元の場所へ――引き渡したにも拘わらず、その祠を誰かが再び持ち来たったものか――以前の通りにあった。
久保田殿、流石に大いに驚き、祈禱を
その際、祈祷師が言うことに、
「この稲荷はあまり立派に祀りなしてはよろしゅう御座らぬ。まあ、質素なものでよろしゅう御座るによって、まずは綺麗に祀っておけば、よろしいという代物にて御座る。」
との見立てを成したればこそ、言うがままに、そのありがちな小さな祠の、その上に、雨風を除け得る程度の小ざっぱりとした覆いなんどを
さてもこれ、按ずるに、祠の引き渡しの際、取りに参った地主方の下僕なんどが、一度は運び出す振りを致いたものの、面倒になってすぐに元あった場所へこっそりと戻し置いた、と申すが事の真相ででもあろうかと思わるるが、噂では、稲荷神に於いては狐を使者として使役致すと申すによって、狐は霊獣なればこそ、あるべき元の場所へと彼らが戻したのじゃ、と、まことしやかに申すものもおるやに聴いておる。
*
痘瘡の神なきとも難申事
予がしれる人の方にて柴田玄養語りけるは、いづれ疱瘡には鬼神のよる所もあるにや。名も
□やぶちゃん注
○前項連関:狐妖から疱瘡神の奇譚で軽く連関。疱瘡及び疱瘡神の話は、流石に死亡率も高い流行病であった故に「耳嚢」には多く出る。
・「柴田玄養」不詳。
・「さら湯」新湯・更湯で沸かしたばかりのまだ誰も用いていない風呂のことをであるが、後文から考えるとこれは酒湯で、「ささ湯」か「さか湯」の誤写の可能性が強いように思われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『さゝ湯』とある。「酒湯」(後注参照)で訳す。
・「かせ」「かさかゝり」は「痂」(かせ/かさ)。天然痘は発症である発熱の後、七~九日目に四〇度を越える高熱(発疹が化膿して膿疱となることによる)が発するが、それが収まって二~三週目に、発疹部の膿疱が瘢痕を残して治癒に向かう。その
・「詰痂」「つめかさ」と読んでいるか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『結※』(「※」=「扌」+「加」)とある右に『〔痂〕』とする。この
・「道利」底本には右に『(道理)』と補正注がある。
・「酒湯」底本の鈴木氏注に、『サカユ。疱瘡が治癒した後、温湯に酒をまぜて沿びさせること』とある。潔斎と寿ぎの禊ぎの意味があるのであろう。私は個人的な趣味から「ささゆ」と読むことにした。
・「答ひ」底本には右にママ注記がある。
■やぶちゃん現代語訳
痘瘡の神なんどというものは存在しないとは言い切れぬという事
私の知人の所でたまたま逢った、柴田玄養殿と申す医師の語ったことで御座る。
「……結局のところ……疱瘡の病いに於いては、これ……鬼神が憑くことによって発するという病因も、また一つ、あるのでしょうか……。」
と語り出した(その際、その患者の姓も聴いたが、失念致いた)。
「……主治医として担当して御座る〇〇家の小児が疱瘡に罹患致し、我らが往診療治致いて御座った。
高熱を発して数日の後、病児が突如、看病して御座った家人に向かって、
「……ああっ!
と突如申したによって、
「……いやいや、未だ
と諭せども、
「……この程度の
と、しきりに訴え、その様子は、これ、この小児の謂いとも思われなんだと申しました。
この奇体なる愁訴には、両親ともにはなはだ困って御座って、遂には我らが屋敷へ使いを寄越して御座ったによって往診致いた。
かくかくしかじかの旨、聞き及んだによって、我ら、
「――軽い疱瘡にてはあれども、未だ、熱が下がって
と直々に、噛んで含むように道理を説いて言い聞かせました。
ところが、
「……いや――このような
と、これまた、妙なことを口走って御座ったゆえ、
「――一体、
と、我ら、すかざす糺いた。
と――
「――四谷××町〇△□△申す町家へ参るじゃ――」
と答えたので御座る。
我ら、怪しきこととは思えども、病児の父母とも相談の上、それから、一両日の内に
一方、我ら、その酒湯を成した日、帰宅致いてより、
「……それにしても……如何にも不思議なることを口走って御座ったのぅ……」
と、つい、気になって、
「四谷××町〇△屋□△と申す商家のあるやなしやを聴き、あったれば、今日只今、急患などのなきかと訊ねよ。」
と、使いの者を走らせて調べさせたところが、帰ったその者の曰く、
「――二日ほど前より、当家の小児が相当な熱を発し、まずは疱瘡に罹ったものと思わるるの由にて御座いました。」
との答えで御座った。……
……さればこそ、かの疱瘡にては……これ――鬼神がとり憑いたるによって発するものもある――と俚諺に申しまするも、強ち偽りにては御座らぬと存ずる。……」
と物語って御座った。
*
同病重躰を不思議に扱ふ事
是も柴田玄養の物語の由。或家の小兒、
□やぶちゃん注
○前項連関:小児痘瘡奇譚柴田玄養発信二連発。この祖母はおばあちゃんではない。ラスト・シーン、乳が出る程度の、今なら相当に若い女性である。私はこの話が、しみじみ好きである。
・「同病重躰を不思議に扱ふ事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『疱瘡の重体を不思義に救ふ事』とある。
・「□といふ」底本では「□」の右に『(諾カ)』と傍注する。それで採る。
・「十死一生」殆んど助かる見込みがないこと。九死一生をさらに強めた語で、「漢書」の「外戚伝」に基づく。
・「迚も不治ものにあらず」底本では「不」の右に『(可カ)』と傍注する。それならば「治るべきものにあらず」で意味が通る。それで採る。因みに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『迚も
・「一向に」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『一面に』。
・「
■やぶちゃん現代語訳
同じく痘瘡の重体の児童を不思議に扱って命を救った事
これも柴田玄養殿の物語の由。
……とある家の小児、至って重い疱瘡にて、面部・口ともに一面に膿疱が重なった瘡蓋となって、酷くくっ付き、固まってしまい、いまだ二歳のことなれば乳を呑むこともならずなって御座った。僅かに口の辺り、瘡蓋の山の間に、少しだけ穴のようなものがあったによって、その穴より絞った乳を流し入れては、辛うじて授乳させておる始末で御座った。
諸医、療治なしたれど、あまりにひどい
かの小児の祖母なる者、その家に逗留して看病して御座ったが、ある日――両親のたっての望みなれば、我ら仕方なく、この小児の療治をなして御座ったが――その我らの傍らへと出でて参り、我に向こうて、
「……この小児……お薬も戴いておりまするが……全快致すもので御座いましょうか?……他のお医者さまは、皆……残らず療治をお断りになられたとのこと……先生は、かくも、お薬を処方致いて下さいます上は……これ、見込みのあると……お思いにて御座いましょうか?……」
と訊ねて参りましたゆえ、
「……我とても――見込み――といふことは、これ、残念ながら御座らぬ。……強いてご両親が薬だけでもと
と語ったところ、
「……しかる上は……それは……実は快癒のご賢察も、これ、御座なく……
とのことなれば、酷いとは存じたれど、
「……正直……とてものこと、助かりよう、これ、御座ない病態と、存ずる。……」
と率直に答えました。
すると、その祖母、急に
「……これまでの医者衆も、これ、残らず匙を投げた!……今、この玄養さまにもお伺いを立てたところ、『この通りなれば、とてものことに癒ゆることも、生き残ろうはずも、まず、これ、ない』とのことじゃ!……かくなる上は、この子を我らに任せて、我らの思うがままにさせて、お呉れ!……玄養さまにおかせられては、もし、我らが療治をなして、口の辺りの、乳なんども吸わるるようになるようなことが御座いましたならば、また、その後の療治方について、ご処方なんどお受け致したく、その折りにはまた、改めてお願いに上がりまする。……さればこそ、今日までのご療治は有り難く存じまして御座った。……」
と、我らへも療治の終わりを一方的に告ぐるが早いか、かの小児を大きな風呂敷に包むと、
「――我らに任せよ!――」
と両親に言うと、小児を背負って実家へとさっさと帰ってしもうたので御座る。
我らも、鳩が鉄砲玉を喰らったようなもので、暫く手持無沙汰のまま、向かっ腹も立って参りましてな、
『……如何にも失礼千万な老女じゃ!……』
と不快に思うて、困って平身低頭して御座った若夫婦を尻目に、そそくさと自邸へ帰って御座った。
ところが、その翌日、かの若夫婦の所より使いの参って、
「――かの小児、やっと乳も飲みつけるようになりましたによって
申し越して参りましたから、これには、我らも吃驚仰天、とり急ぎ、かの若夫婦の元へと往診致しましたところが、
……これ……
……かの小児……
――元気に若妻の乳を含んで、美味そうに吸うて御座いましたのじゃ。
傍に御座った老婆は、
「……昨日のまことに失礼なる仕儀、これ幾重にもお詫び申し上げまする。……ただ、まっこと、玄養さまのお見立ての通り、とてものことに治らぬ者と存じましたによって、我が実家へと連れ帰りまして、湯を熱く沸かし、その小児をその湯へ入れ、衣類なんどもたんと着せ、さらに
と深々と礼をなして語って御座いました。……
……いや、実にこのような、医の常識の及びもつかぬ奇妙なことも、これ、時には御座いまする。……
*
婦人に執着して怪我をせし事
下谷邊の醫師の由、色情深き
□やぶちゃん注
○前項連関:医師関連譚で軽く連関。久々の好色譚である。
・「洗湯」銭湯。
・「二階」底本の鈴木氏注に、当時の湯屋の『男湯には二階があって、菓子や茶などを売り、湯女が客の世話をした。(酒は禁制で出せない)』とあり、ウィキの「銭湯」にも、『社交の場として機能しており、落語が行われたこともある。特に男湯の二階には座敷が設けられ、休息所として使われた』とある。当時の『営業時間としては朝から宵のうち』、現在の夜八時頃まで開店していたらしい。また、これも知られたことであるが、こうした男女の湯が分かれているのは必ずしも一般的ではなく、『実際には男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した』。寛政三(一七九一)年には『「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた』とある。
・「引窓」屋根の勾配に沿って作った明かり取りの窓。下から綱を引いて戸を開閉する天窓のこと。
・「糸」「引糸」前の引窓の紐のこと。
・「何分わからばこそ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『何分わからず。』となっている。次の注との絡みで、この部分はバークレー校版で訳した。
・「粂の仙痛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『久米野仙庵』で、長谷川氏は久米の仙人の逸話に『医師であるので医師に多い名に似せて仙庵とした』とあるが、こちらではそれに加えて明らかに当時、根岸も患っていた流行病の疝気の「疝痛」をも掛けてあり、しかもこの文脈では「其譯を尋ければ、其答も一向わからず。強て尋ければ」と前にあって、これは「どうして女湯へ落ちたんじゃ? 覗いていたんじゃなかったんかい?!」と問い詰められた医師が、苦し紛れに「……いや、その急に持病の疝痛が起こりまして、二階より、足を踏み外しましたので……」という、如何にもな弁解を聴いて、その場の者が「――ほほう? そりゃまた久米の仙痛さんという訳かい?!」と皮肉って笑い飛ばしたという形になって、より面白い。
■やぶちゃん現代語訳
婦人を出歯亀することに
下谷辺の医師の由。
この男、どうにも色好みの度が過ぎた気質ででも御座ったものか、ある時、銭湯から上がって――未だ昼前のことであったと申す――二階に上がり、素っ
ところが、どうにもよく見えざれば、思わず、両手でもって引き紐を懸けた竹枠へ倚りかかったところが、
――バキン!
と、美事、竹の折れて、かの医者、
――グヮラグヮラ! ドッシャン!
と、真っ逆さまに女湯の
――ギャアッ! ウン!
と、かの女は驚きて気を失のう、
――ウ! ムムッツ! グッフ!
と、医者も、これ、高い所より落ちたばかりか、運悪く、かの
尋常ならざる物音なればこそ、
「な、何じゃッ!」
と、
――一人は素っ裸の女
――一人は素っ裸の男
――これ、それぞれ両人、雁首揃えて、気絶して御座る
……一瞬、これ、何が起こったものやら分からず、気付薬などを与えて、二人ともようように正気には返った。
一体、何がどうしたものかと訊いてみても、
男の方に訊ねてみても、これまた、もごもごと訳の分からぬことを呟くばかりで、一向に埒が明かぬ。
如何にも怪しきは、この男なれば、亭主、さらに責めて糺いたところ、
「……い、痛たたたッ!……わ、我ら、医師で御座る……と、隣の二階にて涼んで御座ったれど……そ、その、じ、持病の、その、そうじゃ、疝痛が、これ、に、にわかに起って御座って、その……」
と、しどろもどろの言い訳をなした。
されば亭主、横手を打って、
「……ははぁん! さればそれは――
と皮肉ったによって、この医師、そこら辺りにては永いこと、もの笑いの種となって御座った由。
さる御仁の語って御座った話である。
*
植替指木に時日有事
櫻は十月十日にさし木すれば、
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「五月十三日」「大辞泉」によれば、中国の俗説で竹を植えるのに適する日といわれているとあり、転じて陰暦五月十三日を指す言葉として夏の季語となった。竹迷日。個人ブログ「今日のことあれこれと…」の「竹酔日(ちくすいじつ)」の記載が詳しい。部分的に引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂き、記号やリンクを変更、末尾の一部を省略して引用させて戴いた)。
《引用開始》
この日は、竹が酒に酔った状態になる日で、移植されたことにいっこうに気づかないので、よく活着するという意味から出たもの。中国の徐石麒(しゅしち)によって著わされた「花庸月令(かようげつれい)」には著者が永年にわたって口伝などを集めて実験観察した結果が記録されているそうで、この日に竹を植えられない場合でも、「五月十三日」と書いた紙を植えた竹の枝につるせばよく活着するのだとか……。
こんなことは信じられないが、江戸時代の俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の句に以下のようなものがある。
「降らずとも竹植うる日は蓑と笠」(真蹟自画賛一、画賛二・笈日記)
以下参考に記載の「芭蕉DB」の説明によると、『貞亨元年(四十一歳)頃から死の元禄七年(五十一歳)までの間の作品。『笈日記』では、貞亨五年木因亭としているが不明。竹はそのまま植えてもなかなかつかない。この国では新緑の頃に植えないと他の季節ではむずかしい。中国では古来、旧暦五月十三日を「竹酔日<チクスイジツ>」といって竹を植える日とされた。意味は、たとえ雨が降っていない日であろうとも、竹を植える日には蓑笠(以下参考に記載の「蓑笠」参照)を着てやってほしいといった意味で、芭蕉の美意識の現れだ』という。「竹植うる日」は、俳句の夏の季題ともなっており、『去来抄』には「先師の句にて始(はじめ)て見侍(みはべ)る」とあるから、芭蕉がその使い始めであろう。
《引用終了》
・「於營中に」はママ。「營中に於いて」と読む。
■やぶちゃん現代語訳
植え替えや挿し木には最適の時日がある事
桜は十月十日にさし木すれば、根付くこと、これ、絶妙なる由。
竹を植え替るには五月十三日を最適の期日とする。これもまた、根付くこと、摩訶不思議なる由、御城内に於いてさる御大名の語って御座られたが、その他の植え替えや挿し木をする場合でも、これと同様、それぞれの樹種によって最適の時日があるもの、と語っておられた。
*
鱣魚は眼氣の良藥なる事
宝曆の
□やぶちゃん注
○前項連関:民間習俗ながら天下の大盗賊の首魁日本左衛門の実録物とカップリングされた話柄は、なかなかに面白い。
・「鱣魚」鰻。目によいとされるビタミンAを多量に持っていることは事実である。但し、老婆心ながら申し上げておくと、ビタミンAは過剰摂取すると下痢などの食中毒様症状から倦怠感や全身の皮膚剥離などの重篤な皮膚障害などを引き起こし、また多量の体内蓄積は催奇形性リスクが非常に高くなるとされる。ビタミンというとまさに「鱣の社」に仕立て上げてしまう向きはご注意あれ。
・「宝曆」西暦一七五一年から一七六三年。「初」とあるから、日本左衛門が本格的に大盗賊として知れ渡ったのは三十代前半であったことが知れる。
・「日本左衞門」(にっぽんざえもん 享保四(一七一九)年~延享四(一七四七)年)は本名浜島庄兵衛といった大盗賊。以下、ウィキの「日本左衞門」を引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『尾張藩の下級武士の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道諸国を荒らしまわった。その後、被害にあった地元の豪農の訴えによって江戸から火付盗賊改方の長官徳山秀栄が派遣される(長官としているのは池波正太郎著作の「おとこの秘図」であり、史実本来の職位は不明)。日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっている(本所築地奉行は代々の徳山五兵衛でも重政のみ)。逃亡した日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)』、『一七四七年一月七日に京都で自首し、同年三月十一日(十四日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。上記の碑には向島で捕縛されたとある。処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。罪状は確認されているだけで十四件、二千六百二十二両。実際はその数倍と言われる。その容貌については、一八〇センチメートル近い長身の精悍な美丈夫で、顔に五センチメートルほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている』。『後に義賊「日本駄右衛門」として脚色され、歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている』とある。「耳嚢 巻之一」の「武邊手段の事」には、その子分の捕縛時の逸話が記されてある。
・「盜賊改」
・「德山五兵衞」底本鈴木氏注に、『
・「若手の頭人の教けるは」の「若手」には底本には右に『(ママ)』表記する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『若年の頃人の
・「
・「五分」約一センチ五ミリメートル。
■やぶちゃん現代語訳
鰻は視力の良薬であるという事
宝暦の初め、
その吟味の折り、同組与力の
――日本左衛門は闇夜にてもはっきりと物を見ることが出来る
由を聞き、その日、夜間の訊問の折りから、
しかし、その与力、
「……うむ。しかしこれは……昼になした吟味の際、たまたま見覚えておったものでないとも限らぬ――」
と申した。
すると日本左衛門は、
「――ではお近くにあるやに見えまするところの、その、訴状と思しい類いのもの――これ、どれでも一つ、お渡し下されい。――この場にてお読み申そうず……」
と言うたによって、与力は、訴状の
すると、彼は――
されば、与力、
「……お主は、何ぞ、目に良き薬などを以って、その視力を養って参ったものか?」
と訊ねたところ、日本左衛門曰はく、
「……我ら、若き頃、さる人の教え呉れたことには、鰻をさわに食すれば、
と申した由。
その与力、これを聴いて――謂わば、日本左衛門の遺言のしきたりに倣って、鰻を絶えず食しては断ち、食しては断ちを繰り返してみたところが、人よりは眼が遙かにようなった――とは、その与力の子孫の者の語って御座った由。
我らが知れる谷
*
老僕奇談の事
本郷信光寺
□やぶちゃん注
○前項連関:孰れも火付盗賊改方が実名で登場する話で連関する。この文、何だか、無駄な繰り返しが多く読みづらい(錯文のようにも思われる)が、すっきりしたカリフォルニア大学バークレー校版を参考にしながら、くどくならぬように意訳を添えながらなるべく底本全文を訳すように心掛けた。
・「信光寺」真光寺の誤り(訳では訂した)。この寺は戦後に世田谷に退転して同地にはないが、桜木神社や本郷薬師を境内に持っていた大きな古寺で、現在の真砂町の「真」はこの寺の名をとったもの、とウィキの「ノート:本郷(文京区)」の記載にはある。底本の鈴木氏注には、『天台宗。薬師堂があり、本郷の薬師と呼ばれて有名だった。同寺と小笠原佐渡守中屋敷との間に、古庵屋敷と呼ばれた所があった。幕府の御寄合医師余語古庵拝領の地で、その一部が町屋となったもの。文京区真砂町に属する』とある。
・「古庵長屋」菊坂の与太郎氏の「本郷の回覧板 『昔空間散歩の薦め』」というサイトの『「小笠原佐渡守屋敷跡Ⅲ」補完編』に、「東京名所図会」の「余語古庵屋敷」に、これは寄合医師余語古庵の先祖が宝永元(一七〇七)年に幕府から賜った物で総面積約四二六坪の内、半ばを住地、残りを町屋敷として、同年中に町奉行の支配に属してより「本郷古庵屋敷」と唱えるようになった、と記す。リンク先には詳しい旧古庵拝領屋敷の同定・現在地の画像、更には古庵の墓の写真までも拝める。必見。なお、そこにも記されているが、彼の名は森鷗外の「伊沢蘭軒」の「その六十三」に『
・「片□町」底本には右に『(側カ)』と傍注、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にも『
・「文化貮年」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、比較的新しい都市伝説である。
・「間もなく火も靜まりて、三河やより
・「戸川大學」底本の鈴木氏注に、『寛政当時の戸川大学は
・「そこつに」は軽はずみなにも、軽率なことに、また、失礼にも、の謂いであるが、ここは簡単には、といった意味であろう。失礼なことに、ではきつ過ぎる。
・「もだしぬ」「默しぬ」で、口をつぐむ、黙る、又は、黙って見逃す、そのままに捨ておく、の意。
・「右客仁に名聞しては難成」の「不聞」は底本では「名聞」だが、これでは読めない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『不聞』を採った。しかも、ここも文章の繋ぎが頗る悪い。バークレー校版では、
「右客仁に
と至って問題がない。
■やぶちゃん現代語訳
老僕の奇談の事
本郷真光寺
文化二年の春のことであった。
その町屋に三河屋と申す相応の商売をなしておった質屋が御座った。
その店の使用人に、永年仕えた、年の頃、五十余歳にもなろうかという
さて――この辺りが記憶があやふやなのじゃが――その前年の文化元年の暮れのことであったか――それとも直近の同二年の、その直前の春のことであったか失念致いたのじゃが――その辺りにて、いささか、出火のことあって、左右二軒ほどが全焼致いたことが御座った。
その折り、かの老僕――まずは火事騒ぎの起こる、それより前のある日のこと、
「……この近くにて近々、火事が、これ、ありそうじゃ。……我らのご主人さまのお
と呟いて御座ったのを、傍輩が小耳に挟んで、
「何ぃ? 火事じゃ? 阿呆か! 縁起でもない!」
と嘲り
暫く致いて、はたして向こう三軒先の
「……へえ! この三河屋へは延焼の気遣い、これ、御
と、慌てふためく家内の者どもを、逆に制して御座った。
が、はたして間もなく火も鎮まり、三河屋へは火の粉も降り懸からずに無難に済んで御座った。
この言動が如何にも怪しいと誰彼が噂致いて、ほどのう、火付盗賊改方をお勤めになられて御座った戸川大学殿のお耳へも、これ、届き、かの老僕、一応、召し捕えられて御取調べの儀、これ、御座ったれど、もとより、その二つの言動以外には、何の不審なることも、これ、御座なく、だいたいからして、火付けの嫌疑もなし、何か、この火事に乗じて他の悪事をなそうした形跡も御座らなんだによって、じき、許されて三河屋へと無事に戻ったと申す。
この下僕、常に三河屋の二階の一室を寝所と致いて御座ったが、夜も更けて後、その部屋の辺りより、何やらん、誰かと物語りなどするような声や気配が、これ、たびたび御座ったによって、また、三河屋
「……夜更けの二階のことなれば、寝言か何かなら、これは、どうということもないが……どうもそうは聴こえぬ。……どういうことじゃ?」
と質いたが、なかなかはっきりとは申さぬ。
よほど、何か隠しているものとみた
「……その……
『……そなたが年若であれば、召し連れて諸国の面白きことなんども大いに見せること、これ、出来るのじゃが。まあ、そなたも大分な老人なれば、の。……そんな無理を言うも憚られる。……されば仕方のぅ、ちょいと面白き話をするばかりじゃ。……』
と、昵懇に色々と話しなど致しやすんで。……先般の火事のことも……これより、いつ頃、何処其処で火事が起きそうじゃ、とか……その火事は何処其処まで焼け広ごれども、誰それの屋敷までは類焼に及ばぬ、とか……その山伏の語って御
と申したによって、傍らで聴いて御座った店の手代の若い衆などが、
「――そんなら、また、その客人が来たならば、どうぞ、我らも是非に、引き合わせておくんない!」
と、面白半分、我も我もと懇望致いた。
すると老僕は、
「……いや、それは……かの客人に伺ってみないことには、難しゅう御座る。」
とのことであった。
暫く致いて、老僕が若い衆に言うたことには、
「……実は昨晩、かの山伏の参って
と切り出してみたところが、
『……決して下々の者どもと
ときつう言われたによって……だめや。――」
とのことで御座った由。
*
その後、この老人がどうなったかは、とんと、聴いては御座らぬ――とは、私の知れる者の語って御座った話。
その者の付け加えた一説に――かの古庵長屋近辺の別な屋敷内には、何でも以前から、狸の怪が、これ、噂されたことがあるとのこと――されば、その山伏とやらも――実は――その狸の悪戯にては御座るまいか――とのことで御座った。
*
打身くじきの妙藥の事
櫻の葉を摺りて燒酎にてねり
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。本文には「櫻の葉」が出、後に「皮」でもよいとあるが、皮は古来、「
・「又乾けば又ぬるに」病態と効果から考えて、重ね塗りではなく、乾燥して剥離したら、の謂いであろう。
・「栗原翁」このところ御用達の「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクティヴな情報屋で、既に何度も登場している。
■やぶちゃん現代語訳
打身・挫きの妙薬の事
桜の葉を
例の栗原翁――彼の知人の者、荷を担いだままに積み置かれた薪の山の中へ倒れ込んで、全身をしたたか打ったとかで、殊の外、痛みを訴えて御座ったところ、さる田舍より出でて御座った老人が、
「それは、桜の葉を以ってかくなさば、よろしゅう御座る。」
と申したによって、言われた通りになしたところが、即座にその効果が現われた――と語って御座った。
時節柄、桜の葉が散ってなき時には、桜の樹皮を剝して粉とし、処方致いてもよい、とのことで御座る。
*
病犬に被喰し奇藥の事
金魚をすり潰し、其所えぬれば直に快驗なす由。其證は金魚を犬猫も一切
□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法シリーズ直連関。犬による咬傷の民間療法は既に「耳嚢 巻之六 病犬に喰れし時呪の事」に既出。類感呪術的な如何にもな意味づけである。試みに金魚を漢方薬とするかどうか(してもおかしくはないが)ネット検索を掛けてみたが、どうも見つからない。見つけた方は是非、御教授を乞うものである。
・「病犬に被喰し」は「やまいぬにくはれし」と読む。「病犬」は「耳嚢 巻之六 病犬に喰れし時呪の事」の私の注を参照されたい。
■やぶちゃん現代語訳
怪しき犬に咬みつかれた際の奇薬の事
金魚を摺り潰し、咬まれた箇所に塗れば、直ちに快癒するとのこと。
その
これは犬が金魚を嫌い、忌避して御座ることを証明するものである。従って、その咬傷の悪化をも、これ、防ぐことが出来るのであると理解出来よう、と人が語って御座った。
*
溺死の者を助る奇藥の事
栗原翁の先人旅行の筋、天流川の河端に溺死の者
□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法第三弾。二つ前から栗原翁の直談でも連関。それにしても旅先でぽんと三両出すところなど、軍書読みの栗原翁の父というこの人物、これ相応に裕福な者であったものと思われる。これを読んで思い出したのは、上野正彦「死体は語る」(一九八九年時事通信刊)にあった「耳の奥の頭蓋底の部分に、中耳や内耳をとり囲む錐体という骨があり、溺死の際にその骨の中に出血が生じていることがわかった。錐体内出血である。溺死の五~六割に見られる特有の所見」という記載である。但し、これは例えば鼻から水が入った場合に耳管の反応が間に合わず、耳管から中耳に水が入ってしまい、入った水によって中耳内圧力が急激に上がって壁が押しつぶされて内出血を起こし、その出血によって平衡を掌る三半規管が機能低下を生じて眩暈等を起こし、溺れてしまうという因果関係の中での出血である(但し、錐体内出血は必ずしも溺死体特有のものではない)。
・「天流川」天竜川で採って訳した。
・「是は追寫すよし。原本に
■やぶちゃん現代語訳
溺死の者を助くる奇薬の事
栗原翁の
「――これは助るであろう。」
と申し、何かの黒焼きを口へ突っ込んだところ、水を吐いて息を吹き返したゆえ、助かった。
これを栗原殿、見て、その老人を自身がお泊りになっておられた旅宿へと招き、その薬の製法を乞うた。
始めは断ったものの、身分賤しき者でござったゆえ、流石に金三両をその老人の前に並べたところが、伝授し呉れた、とのことで御座った。
「……この薬を用いる際には、葱を以って溺れて意識を
この薬を現在の子の栗原氏も貯えておらるる由。
そんなある日のこと、その今の栗原氏の屋敷門前を、大の男の水死せしとて、口なんども力なく大きに開けて、最早、絶命と見ゆるのを、二人して担ぎ、母親と思しい女、その後より泣きながら来たるを、栗原翁たまたま見たところが、その母らしい人に付き添って御座った者の中に、知り人の御座ったによって、
「如何致いた?」
と声をかけて尋ねたところが、
「……水泳の最中に……溺死致いて……」
との由なれば、早速に屋敷内へと呼び入れ、かの法にて療治致いたところ、ぐっと差し入れた葱の先には、確かにこれ、血の付いて御座ったゆえ、かの家伝の薬を与えて、帰した。
しばらく致いた頃、
「息を吹き返しまして御座る!」
とのこと。次第に快方に向かっておるとの度々の知らせをも受け、翌日には厚き礼を携えて、一族郎党、栗原翁の元へ参じて、拝謝致いたとのことで御座った。
その施法を私も
*
狸欺僕天命を失ふ事
駿河臺に金森何某
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。狐狸譚。言わずもがな乍ら、どうも狸は抜けていて分が悪く、何とも憎めずに何がなし哀れな気がしてくる話が多い。五十年も昔、私の幼少の頃は、この鎌倉の植木でも、傍の切通しで狸がよく轢かれて死んでいたものだった。何より、私には、緑ヶ丘高校在勤中のバスケットボール部の夏合宿の夜、巡回中、校内をうろつく狸(アナグマの可能性の方が大きいが)を逆に驚かした実体験もあるのである。以下、私の怪談奇談集成録「淵藪志異」より引用しておこう。
*
一九九九年七月我籠球部合宿にて學校に泊せり。夜十一時頃本館見囘れり。夜間も本館一階電氣は點燈せしままなるが定法也。體育館を出でて會議室横入口より本館へ入りし所間隔短きひたひたと言ふ足音のせり。左手方見るに正に校長室前を正面玄關方へ茶褐色せる不思議なる塊の左右に搖れつつ動けるを見る。黑々したる太き尾あり。目凝らしたるもそは犬でも無し猫でも無し。狸也。若しくはアナグマやも知れず。素人そが區別は難かりけりとか聞く。彼我に氣づかざれば思はず狸臆病なるを思ひ出だし「わつ!」と背後より叱咤せり。狸物の美事に右手にコテンと引つ繰り返らんか物凄き仕儀にて玄關前化學室が方へ遠く逃れ去れり。我聊か愛しくなるも面白くもあり。つとめて廊下にて出勤せる校長と擦れ違へり。我思はず振り返りて校長が尻に尻尾無きか見し事言ふまでも無し。そが狸の棲み家と思しき所テニスコウト向かひが土手ならんや。されど此處五六年宅地化進めり。我に脅されし哀れ狸とそが一族も死に絶えたらんか。これこそ誠あはれなれ。
*
なお、擬古文が苦手な御方は、同話の口語原話『文化祭「藪之屋敷」に捧げる横浜×××高校の怪談』の「3」をどうぞ――。
・「狸欺僕天命を失ふ事」は「
・「金森某」不詳。「耳嚢 巻之二 猥に人命を斷し業報の事」に金森姓は出る。
・「是悲なき」ママ。是非なき。
・「かたらひ□りて」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『かたらひ契りて』。これで採る。
・「五つ半時」不定時法の夏の夜の五ツ半は午後九時頃。
・「文化丑の年」文化二(一八〇五)年
■やぶちゃん現代語訳
狸の下僕を欺くも天命を
駿河台に住まう金森
その親類が、本所に住んで御座った。
かの者、
その主人、ある時、一人の下男が屋敷内の下女と密通致いておることに気づいたによって、その日も暮方になってから、その下男を本郷辺りまで使いに出だいて、その留守に、かの相手となった下女を呼び、
「……密通の儀――これ、露見致いた。不届き――これ、家風に合わはざる。――」
と諭して暇まを申し渡し、請け人をも呼び、実家へと引き渡し下げた。
さて、かの下男、夜も遅うなった、その帰るさの道にて、かの下女の向こうより来たるに出
「……何でこんな夜遅うに……また、こんなところまで、来たんじゃ?」
と訊ねた。
と、下女は、
「……我らがこと……ご主人さまに知られ……先程、お暇まを出されて……実家へと戻ったものの……あんさんに逢いとうて……後を追ってここまで……来ました……」
と申す。
「……そ、それは……何とも……致し方なきことじゃが……そうか……されど、これより我ら二人、どうするか……
と宥めて連れ帰った。
もとより、小身者の貧乏屋敷の長屋なれば、蚊帳もなく、うるさく襲い来たる蚊を仰山な蚊遣りで
かくするうち、五つ半時頃にもなった頃、積み置いた蚊遣りが、火種のうちに
――ゴソッ
と崩れて、
――パチパチ
と急に燃え上がったかと思うと、
意気消沈して項垂れたまま膝を見つめておった下男が、この時、ふと、顔を上げて女の顏を見た――
――と!
――その顔
――これ、かの女の顔ではない!
――いや、かの女どころか――女の顔――人の顔――でさえ
――ない!
――ごわごわと!
――
――化け物のそれであった!!
男は大きに驚いたが、腕っぷしも相応の、主人自慢の気丈な者でも御座ったゆえ、即座にその化け物に組みついて押し倒し、ぐっと捻じ伏せて、声を限りに人を呼ばわった。
それらの提灯の灯の照らし出したそれを見れば――
――これ
――大きなる古狸
で御座った。
されば、その場にて即座に打ち殺したと申す。
丁度一年前の、文化二年の夏のこと、で御座る。
*
放屁にて鬪諍に及びし事
是も
□やぶちゃん注
○前項連関:冒頭の「是も同比の事」で、前話と同時期、文化二(一八〇五)年の夏の出来事で連関。落語みたような話であるが、二人も出刃包丁によって傷害を受けており、あり得た印象の強い事実譚らしき噂話ではある。
・「相店」
・「おかしき事」近世もこの頃になると、「おかし」(正しくは「をかし」)には現代語のような、変だ、怪しい、怪しむべきことだ、というニュアンスを含意するようになり、また、本来の古語の意味でも、子どもには真の意味が分からないながら、普通と変わって何だか面白そうで興味がそそられた、という意味合いも読み取れる言葉であろう。
・「さわがしかりし」「さわがし」という形容詞には単に騒々しい、やかましい、の意以外に、混乱してごたごたが生じる、不穏だ、不安だ、などの意味がある。父親はその、何か問題のあるダークな人間関係の混乱や不穏のニュアンスを「さわがし」という言葉に感じてしまったものともとれる。
■やぶちゃん現代語訳
放屁が原因で乱闘に及んだ事
これも同じく文化二年の夏頃のことで御座る。
とある町家に独り住まいの者があったが、その隣りには、
その妻が、ある日のこと、夫の留守に、
――ブブブゥーーーッツ! ブッ!!
と、これまた大きな
折しも在宅であった隣りの独り住みの男、これを安長屋の薄き壁越しに聞きつけ、
「女のくせに、何とも、これ――人のものとも思えぬ――ぶっ
と、これもまた壁越しに、さんざんに嘲り誹って大笑い致いた。
かの女房、それを耳にするや、以ての外に憤り、その独り住みの男の方へと尻をはしょって走り込むと、
「我が
とこれまた、金切り声を挙げて罵ったから、たまらぬ。
売り言葉に買い言葉、二人、
ともかくも摑みかからんばかりの二人を引き離して鎮め、何とか、そこはことなきを得て御座ったと申す。
さて、その暮方
すると、七、八歳になる娘が、
「……父ちゃん、留守に……そのぅ……変なことがあって……何だか……さわがしいことに……なったん……」
と如何にも、言いたいのか、言いたくないのか、妙なしなを作って言うたによって、
「あん? どんなことじゃ?」
と訊いたところが、
「……そのぅ……隣りの、ね……おじさんと、ね……かかさんが、ね……なんだか、ね……よう分からんけど、なんか……けんかみたいに、二人でうなり声を挙げてたの……だけど……このこと、ゼッタイ、父ちゃんには言っちゃダメだ! って……かかさんが、言うてたから…………」
と、それ以上、口籠ったまま黙ってしもうた。
それを聞いた夫は、
『さては……隣りの男と……あの
と心中憤り、銭湯より女房が帰ってからも、一言も口を利かず、あれこれ、妄想と憤怒が先走った、訳の分からぬことを言っては女房に嚙みつき、果ては大喧嘩と相い成った。
夫は思わず、水屋に飛び下りて握りしめた出刃包丁でもって、妻の頭を、
――シャッツ!
と傷つけた!
女房は頭から血を吹き出し、
「ぎえぇぇぇっっっつッ!!!」
と叫ぶや、半狂乱となった!
その騒ぎに向こう三軒両隣り、長屋連中、皆、駆け込んで参り、なんぞ浄瑠璃みたような修羅場を、皆して何とか、引き分けて御座った。
と、そこへ、かの隣の独り者の男も来合せ、血みどろの顔に泡を吹き、手足をばたつかせて門口に倒れ込んで御座った女房を静めんと、肩を抱だくように押さえて御座った。
それを部屋内から、血走った眼ですかさず垣間見た夫は、押さえつけて御座った男衆を跳ね除けるや、脱兎の如く路地へと飛び出いで、またしても出刃振り上げ、
――シャシャッツ!
と、かの男にも切りつけたから、もう、たまらぬ!!
「ぐえぇぇぇっっっつッ!!!」
……一瞬にして平和な長屋は
……ザンバラ
……
……阿鼻叫喚
……まさに地獄絵と化して御座ったと申す。
さても、当然、刃傷なればこそ、表沙汰にもなるが必定、で御座った。
……ところが……これ……不幸中の幸いと申すものか、妻も、隣りの男も、傷は思ったほどには
「……それは如何にもアホらしいゼ。……お
と、異見する者が御座ったによって、これ、内々に済まして、結局、表沙汰にはならずに済んだとか、申すことで御座った。
*
銕物の疵妙藥の事
針釘の類
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。所謂、破傷風などを重篤な症状を視野に入れたものであろうが、カマキリでは……。なお、本話は短いながら、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版とちょっと叙述が異なる。以下に全文を正字化、読みを歴史的仮名遣に代えてして示しておく。「なまなれば猶奇功有よし」などは文脈上はこちらよりしっくりくるのである。
針または釘を
・「銕物」は「かなもの」と読む。金物。
・「同寮」底本では右に『(同僚)』と傍注する。
■やぶちゃん現代語訳
針・釘の類を踏み抜いて怪我を致いた場合の妙薬は、これ、さまざまにあるということを、同僚らと話し合って御座った折り、その際の藥としては、生きた
*
商家義氣幷憤勤の事
近き比の事也とや。伊勢より一所に江戸え出しとや、又同じ親[やぶちゃん注:ここまで錯文。注を参照されたい。]
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「近き比の事也とや。伊勢より一所に江戸え出しとや、又同じ親」底本には、『(「同じ親」マデハ後出ノ「商家義氣の事」ノ冐頭部分ヲ誤リ寫シタモノカ)』とある。「商家義氣の事」は四つ後に出、確かに冒頭は「近き比の事也とや、伊勢より一所に江戸表に出しとや、また同じ親方に仕へ……」と酷似する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここにはその後の「商家義氣幷憤勤之事」が掲げられており、その直後に、
鄙婦貞烈の事
という条が入っており、その内容はまさにこの冒頭部を除いて、鈴木氏が錯文とした直後の、「素より放蕩者にて親しき智音も無……」以下と内容がほぼ一致する。その「鄙婦貞烈の事」の冒頭は以下の通り(恣意的に正字化し、読みも歴史的仮名遣とした)。
*
文化二年の秋成りいしが、山本豫州の
*
これが元の正しい文章であったと推測出来るので、題名と冒頭の部分のこちらの「素より」(バークレー校版の「元より」)までは、このバークレー校版によって現代語訳した。
・「文化二年秋」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、ホットな世話物である。
・「山本豫州」(バークレー校版の内容)岩波版長谷川氏注に『伊予守
・「四六鄽」四六店・四六見世とも書く。これは夜は「四」百文で昼は「六」百文で遊ばせた謂いで、天明(一七八一年~一七八九年)頃から江戸の吉原や諸所の岡場所(吉原に対しての「
・「隱賣女」前注に示した通り、私娼のこと。
・「右彼」底本には右に『(右故カ)』とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にはない。直下の「右女」の衍字ともとれる。
・「極る年を切增して」岩波の長谷川氏注に、『きめていた年季を延長する契約をして。』とある。
・「玄榮」不詳。
■やぶちゃん現代語訳
田舎の卑賤なる女のすこぶる貞女たりし事
文化二年の秋のことで御座る。
山本伊予守
ところが、夫が重う患っておると聴きつけたかの女房、伊予守殿の御屋敷中間部屋を訪ね参り、その病勢の重きを見るや、暫くの間、手ずから薬なんどを買い調えて与えたり、かの男の看病をして呉るる傍輩へも、厚く礼を述べては帰ったと申す。
暫く致いてまた来たっては、介抱などなして御座ったが、かの男の病い、これ、如何にも重篤にてあれば、伊予守殿も最早これまでと、男の請け人の方へと通じ、屋敷よりお下げになられたところが、なおも、かの女は請け人の方へも参って、けなげに介抱致いて御座ったと申す。
そのうち、その請け人に、
「……何とぞ、
と乞うたによって、
「……引き取ると申すが……今の、その、そなたの勤めの身にては……これ、如何にして引き取ると……申すのじゃ?」
と、流石に請け人も、
「……とてものことじゃて……おやめなされ。」
と諭し
ところが、
「……妾が店の親方へも訳を話しまして、
「……まあ、そこまで、言うのなら、の……」
とて、駕籠にて乗せて、請け人の家より
それからというもの、あさましき身売りの稼業の傍ら、暇まをやり繰り致いては、男の元へと足繁く通って、手厚う看病致いて御座ったと申す。
されど、その看病の甲斐ものう、男は遂に、儚くなって御座ったと申す。
さても、かの男の遺体は、請け人方へと引き取るとの話しにて御座ったによって、女もそれに従ったと申す。
ところが、その後、かの女、その男の遺体が、投げ込みとか申す、所謂、取り捨て同然に扱われたという申すを耳に致いた。
されば女は、かねてより自分の元へと
「……妾の去り難き縁ある者なれば……どうか……どうぞ……」
と涙ながらに相応の布施なんどまで施し渡いて、その坊主になんとか頼み込み、弔い、回向致いて、葬って御座ったと申す。
そうした次第なればこそ、かの女、決められて御座った年季は、これ、もうとっくに済んで御座ったにも拘わらず、それを自ら延ばし、それで得た金子を以って、男の葬儀と滅後の供養諸事全般を取り賄って御座ったと、申す。
「……さても……己れを浮かれ
と、山本殿も仰せられ、また、そのことをたまたまよう知って御座った、私のもとへしばしば来たるところの、玄栄と申す医師も、かく語って御座った。
*
蕎麥は冷物といふ事
蕎麥は
□やぶちゃん注
○前項連関:話者が医師で、前話の話者の一人も医師であるから、軽く連関する。
・「蕎麥は冷物」「冷物」は「ひえもの」。よく蕎麦は体を冷やす、とは言うが、ここでの謂いは「冷病」(冷え症の類か)ともあって穏やかでない。底本の鈴木氏の注には、もっと過激なことが記されているので、例外的に全文を引く。『蕎麦を食べると死ぬとか、タニシを肥料にした蕎麦は大毒とかいう巷説が流布して、奉行所から取締りの触れが出たのは文化十年のこと(我衣)であるから、本巻の執筆より後である。十年のときは、「手打ちぞと聞いたらそばへ立寄るな命二つの盛り替へはなし」という落首まで出たり、七月中村座上演の芝居には、わざわざ夜鷹蕎麦屋に、そんな噂がございますが、みんな嘘でござりますといわせる場面も入れている程である。漢方の医書にも蕎麦の毒についてはっきり記したものはなく、『延寿類要』には「旡毒、実腸胃益力」とある。』「我衣」は医師で俳諧宗匠でもあった加藤曳尾庵(かとうえびあん 宝暦一三(一七六三)年~?)の随筆。「延寿類要」は室町から戦国期にかけての朝廷侍医竹田
・「其風味冷成る共□□物なれども」底本には「□□」の右に『(難極カ)』と傍注する。これだと、「その風味冷えなるとも極め難き物なれども」となる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『
・「鼻物」底本には右に『(花カ、端カ)』と傍注するが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『畠物』とあって、この誤記であることが分かる。バークレー校版で訳した。
・「境の鼻へ」底本には「鼻」の右にママ注記がある。ここも以下の「境鼻」「そば鼻」も総て「畠」で採る。
■やぶちゃん現代語訳
蕎麦は体を冷すものであるという事
巷で、蕎麦は
「……蕎麦の
……拙者の知れる小金持ちの農家に、屋敷も広く、畑物なんどを耕しておる者がお御座いまするが、その隣りなる農家も、これ夥しき
この隣りの養鶏致す者も、これまた、相応の小金持ちにて、やはり屋敷も広う御座ったが、まあ、
されば我らが知れる当主も甚だ困って、その主人に苦情を述べてはみたものの、言われた隣家の側も、こまい鶏と、手広き屋敷内のことなれば、囲いなんどを漏れなくなして防ぐといった手立ても十分には出来申さず、隣家の迷惑は無論、承知のこととは申せども、鶏の畑地荒らしを断つべき妙案も、これなく、時々、気がつては、隣地に入った鶏を呼び戻すほどのことしか出來なんだと申す。
するとある日のこと、畑地を荒されて御座った農家の知人の者が、この話しを聴いて、
「――それはまんず、隣家との境いの畑へ蕎麦をお蒔きなさるがよろしい。――蕎麦を喰うた鶏は、これもう、玉子を産まずなるによって、の。――」
と教えくれたによって、その通りに境いの畑へ蕎麦を蒔いてみたと申す。
暫く致いて、蕎麦の実の生ったれば、隣家の鶏は挙ってこの蕎麦の実を突っつき喰ろう。
盛んに喰うてはそこで満腹して、鶏ども、もう知人の地所内の畑地へは、それより入り込むことも少のうなったと申す。
ところが、それからほどのう、隣りの鶏、一切、これ、玉子を産むことが、のうなったと申す。
卵商い致す主人は驚天動地、不思議なことじゃと、困り果てて、たまたま知れる者の訪ね来たった折りに、隣家とのごたごたなんども含めて相談致いたところ、その者、隣家との境に御座った蕎麦畑を見たとたん、
「……あのように蕎麦が植えられては、のぅ。……蕎麦を喰うた鶏の、玉子を産まずなるは、これ、必定じゃて。……」
と申したそうな。
養鶏の主人、これを聞いても、鶏が勝手によそさまの蕎麦を食うたる所業の末のことなればこそ、文句の言いようも、これ御座なく、そのままにうち過ぎ、結局、養鶏はやめたとか聞き及んで御座いまする。……
……さすればこそやはり――蕎麦は冷え物ゆえ、鶏も玉子を産まずなった――という、まあ、その証しとも言えば、これ、言えましょうかのぅ。……」
と語って御座ったよ。
*
鳥の餌に虫を作る事
□やぶちゃん注
○前項連関:何となく繋がっては読める。トンデモ化生説を信じていた(少なくとも否定していない)根岸がちょっとだけ意外。
・「冷粥」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「ひえがゆ」と平仮名表記で、長谷川氏は注して、『稗の粥』とされる。この方が自然。たかが鳥の餌である。米の粥では勿体ないし、稗は救荒作物として栽培され、実を食用やそのままでも鳥の飼料などに現在もするから、ここは敢えて長谷川氏の注を採って訳した。
・「はさみ虫」知られた昆虫綱ハサミムシ目 Dermaptera の類、またはクギヌキハサミムシ亜目ハサミムシ科ハサミムシ Anisolabis maritime。
■やぶちゃん現代語訳
鳥の餌に虫を作る事
稲籾を一、二合炊いて、地面の上に置き、その上へ濡らした
穀物の気が化生して別種のものに変じ、またその気の集合致いて生き物と化す、これ、全く以って事実に相違なきことなる由、さる人の語って御座った。
*
其素性自然に玉光ある事
此咄
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。根岸自身が冒頭で述べている通り、巻二の「賤妓發明加護ある事」と同話であるが、他にも同巻の「正直に加護ある事 附豪家其氣性の事」等、類話の枚挙には暇がない。当時の江戸庶民が如何にこうした人情話を好んだかがよく分かる。底本注で鈴木氏も、『人情咄として、主人公の親方のきっぷのよさ、ヒロインの泥中の蓮的なけなげさが強調される方向へ発展するのは当然である』と評しておられる。類話を見ずに、一から全く新たに現代語訳した。
・「病をふのみ也」底本には「病をふ」の右に『(病まふ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『酒を好むのみなり』とあり、私はこれを、
酒を好むてふ病ひ負ふのみなり
の謂いで採りたい。
・「明和」西暦一七六四年から一七七二年。
・「芝口貮丁目」旧芝口二丁目は現在の新橋二丁目に含まれ、現在のJR新橋駅の西直近。
・「芝切通し」底本鈴木氏注に、『切通し坂。長さ七十六間余、幅は坂口約四間一尺、中程で約十四間。青竜寺の南。港区芝西久保広町』とするが、岩波版長谷川注では、『増上寺西北裏に当る。港区虎の門三丁目内』とある。しかしGoogle
マップの「東京・港区の坂 (坂プロフィール)」では、切通坂として港区芝公園三丁目を挙げている。
・「鮫ケ橋」底本の鈴木氏注に、『鮫河橋谷町。麹町十三丁目の南。岡場所があったが、最も低級で、風儀も悪く情緒などない土地とされ、値段にも定りがなかった。新宿若葉二・三丁目』とあり、岩波版長谷川氏注には、『赤坂離宮の北、新宿区若葉二丁目辺。夜鷹の巣窟であった』とある。現在のJR市ヶ谷駅の東直近。ここは現在からは想像出来ないが、近代まで貧民(スラム街)であったらしい。月刊『記録』の「実在した貧民窟・四ッ谷鮫河橋を歩く」に詳しい。
・「義正」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『義心』。「心」の誤字と見る。
■やぶちゃん現代語訳
本来の素性が自然に玉のような誠実なる光を発するという事
これによく似た話は、既に初めの巻の二にも掲げて御座るが、主だった部分はすこぶる似て御座れど、細部に違いもあれば、再度、記しおくことと致いた。
明和の頃とか申す。
芝口二丁目に、伊勢屋
その下人の勘七と申す者、常より
ただ、この勘七、一つだけ悪い癖があって、業病とも申すほどの、無類の酒好きで御座った。
ある日のこと、久兵衛、この勘七に出入りの屋敷へ商い致いた品の代金を取りに遣した。
かの屋敷にて金七十両ばかりを受け取って財布に入れ、しっかと懐中致いて御座ったが、たまたま、かの屋敷内にて祝儀事の御座ったによって、御家中の家来なんどが面白がって勘七に酒を勧め、もとより三度の飯より好ける酒なればこそ、仰山に呑みに呑み、流石の勘七もいささか酩酊の
さて、その途中――芝切通しの辺りにても御座ったか――
勤めの途中にて、しかも七十両もの大金を所持致いておればこそ、常ならば振り切るところが、余りに酩酊の心地よさに、ついその誘いに乗って、手短に雲雨の交りをなし、遅くなるまえに立ち出でて、主人が方へと帰ったと申す。
ところがかの財布、何処かへ落してしもうたらしく、これ、どこにも――ない。
大きに驚き、急いでさっきの夜発と皮つるみ致いた辺りへ立ち戻ってはみたものの、最早、かの夜発も店仕舞い、人気も、これ、全く御座らなんだ。
「……こ、これは……さても……どうした……ものか……」
と途方に暮るるままに、とりあえずとって返し、
「……ご主人さま!……受け取りました金子を……これ、お、落しまして御座いまする!……申し訳御座いませぬ!……何としても捜し出だし、また必ずや、戻りまするッ!」
と、
『……もしや……金子を捜し得ずんば、これ……命を断つやも知れん!』
と思い、そうそうに押し留めんと致いたが、
「――いえ!――こればかりはッ!――」
と、いっかな承知せず、皆の制止するも振り切って、飛び出だし、一晩中ここかしこ、捜し求めて御座ったと申す。
しかし……どこにも……これ、ない。
さて、翌日の夕刻まで、かくなして御座ったが、また昨日の夜発のたむろする掘っ立て小屋に、灯の点っておるを見出したによって、再びたち寄ってみた。
すると、昨夜、勘七の相手を致いた夜発が中におって、女の
「――
「如何にも!」
と答えたところ、
「――御身――何か――お落しなさった物は、これ、御座いませぬか?」
と返したゆえ、勘七、
「……かくかくの体たらくにて!……実に昨日より今に至るまでものも食わいで……捜して御座るッ!……」
と答えたところが、
「その
と訊き返したによって、
「……これこれの生地の財布に――七十両の金子――これこれの仕様にて――かく入れて御座るものにて……」
などと、勘七が委しく申したところが、それを聞くや、かの夜発、
「嬉しくも、尋ね来たって下すった!」
と、辺りの同業の者に気づかれぬよう、わざわざ少し離れたところの土の中へ埋めおいて御座ったを掘り起して参り、かの財布に入った、一両も欠けざる大枚七十両の金子を、これ、勘七に渡いたと申す。
さればこそ、勘七は、驚くと同時に歓喜致いて、
「――まっこと、命の恩人じゃ!――御身は一体、
と訊いたところ、
「――はい――鮫ヶ橋にて
と申したによって、
「……また――必ず参る! それまで!――」
と、まずは暫しの暇まを乞うて、早々にお
「――かくかくしかじかことにて――無事、一両も欠くることのう、取り戻すことが出来まして御座いまする!……」
と、事実を有体に語って、久兵衛に許しを請うた。
それを聴いた久兵衞も、これ、はなはだ感じ入って、
「――かくなる貞婦に、賤しき勤めをさせおくは、不憫極まりなきことじゃ!」
と、金子二十両を懐中の上、かの抱主たる九兵衛方を尋ねたと申す。
たまたまその日、勤めに出でざる同人抱えの夜発が二人、そこに御座ったが、九兵衛が、
「何用にて御座いまするか?」
と訊ねたゆえ、久兵衛は勘七の一件を語り、
「この御女中は、今、どこに御座います?」
と質いたところ、
「――ふむ。丁度、その本人より、今と同じ話を、聴いたところで御座った。――それは、それ、この女で御座る。」
と、そこに御座った女を指したによって、久兵衛は、
「――何卒、その娘の残る年季を、手前どもにて支払わせて戴き、請け出しとう存ずる!」
と乞うて、金二十両を揃えて九兵衛の前にさし出だいた。
すると、九兵衛が答えたことには、
「この女は、訳あって――まあ、このような賤しい勤めをするような者にては御座らぬ身分の者でのう。――されど、いろいろ御座って、育てて呉るる方もなく――我らが方へと流れて参って――このような身に堕ちては御座った。……そうさ、給金六両も御座れば――暇まを出だすには、これ、よろしゅう御座る。――さても――このような大金は――結構で御座る。」
と申した。
せちに残りの十四両もお納めあれと勧めたものの、九兵衛は、
「いや――それは過褒!」
と、いっかな承知せなんだと申す。
かの
そうして、さても勘七の年季も丁度極まり、この度の貞実なる振舞いにも感じ入って御座った久兵衛は、最寄りの場所へ勘七にお
その元夜発なる妻とは――これ実は、麻布辺でも知られた名家荒井
流石にそれなりの正しき素性の
かの夜発親方九兵衛と申す者も、今はかくなる者なれど――これ、如何なる素性の、いかなる者の果てでも御座ったか――その爽やかなる
*
商家義氣の事
近き
□やぶちゃん注
○前項連関:町屋商家の人情咄で連関。既に示した通り、四つ前の話の冒頭か本話の標題と冒頭とが錯文している。そちらの標題「商家義氣幷憤勤の事」こそがこれに相応しい(四つ前の話は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にある「鄙婦貞烈の事」で、それで訳した)ので、現代語訳はそれを用いた。
・「右德」底本では、右に『(有德)』(「うとく」と読む)と訂する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「有徳」。
・「斷琴の交り」最も心の通い合う友情のこと。春秋時代の琴の名手であった
・「年若故、遊興等に得□身上六ケ敷、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
年若(わか)故遊興等に染み段々身上
とある。ここはバークレー校版で訳す。なお、この「染み」は「そみ」とも「なじみ」と訓じ得る。
・「建ん」底本では、「建」の右に『(閉)』(「うとく」と読む)と訂する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『たてん』と平仮名書き。
・「去にても親の代わけて懇意の事故、今壹人の老人の方へ至りて相談なさば元手金も合力なさんもと思ひて、彼老人申けるは」底本には、「思ひて」の後の読点の右に『(ママ)』注記がある。そこで岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは(本文と合わせるために恣意的に正字化し、踊り字「〱」は「々」に代え、読みも歴史的仮名遣に直した)、
「さるにても親の代かけて懇意の
となっていて、脱文であることが判明する。ここもバークレー校版で訳した。
・「其事をも申出しけるが、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
其事をも申出しけるか。
となっている。この方が訳し易い。バークレー校版で採る。
・「かく恥し事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
斯く恥しめし事
となっている。バークレー校版で採る。
・「身を□て稼けるが、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
身命を
となっている。バークレー校版で訳した。
・「
・「
・「目に立福分也」岩波版で長谷川氏は(但し、バークレー校版ではここは『目に見ゆる福分也』となっている)、『以前のように無駄に費消することなく、有効に利益をあげられる。』と注しておられる。
・「當時入用も辨じ候迚相歸しぬ」この部分、私にはすこぶる難解であった。私は取り敢えず百両を受け取ったと解した。大方の御批判を俟つものである。
・「彼百金を不受、親の代の事もあれば助力の事も不申入、欝々とくらしけるを、彼若者是を聞て」この冒頭の「彼百金を不受」は不審。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここが(本文と合わせるために踊り字「〱」は正字に代え、読みも歴史的仮名遣に直した)、
となっており、すこぶる分かり易い。やはり、これで訳した。
■やぶちゃん現代語訳
商家の仁義并びに発憤して勤めて
近き頃のことであるとか。
何でも、伊勢より一緒に江戸表へ出て参ったとか申し、また、同じ親方に仕え、同時にまた、暖簾分けを許され、それぞれのお
二人とも、同じく両替屋の看板を出し、商いも右肩上がり、両人ともに殊の外、富裕なる身と相い成って、相応に蓄財の運用もうまく致し、いやさかに栄えて御座ったと申す。
が、もとより、二人、昔馴染みなれば、懇意に致いて、はなはだ心安う、謂わば、まさに「
ところが、このうちの一人が相い果て、そちらは子の代となったれど、年若のことゆえ、遊興なんどにも、つい深く染まって、瞬く間に
ところがそこで、
『……あっ……そういえば……お父っあんの代に、別っして懇意にして下すった、あの同業のお方が御座った!……今の、この折り……あのご老人が方へ参って相談致さば……きっと
と合点致いて、かの両替商の老人が方へと参り、
「……実は……お恥ずかしき話しながら……かくかくの仕儀にて……」
と己れの放蕩の懺悔もし、しおらしゅう、助力懇請を願い出たところが、かの老人の曰く、
「……親仁さまの代より、まっこと、懇意に致いて参ったゆえ、そうしたことをも、申し
出て御座られたかいのぅ。……
とけんもほろろに喝破されて断られた。
かの若者、返答の仕様も、これ、御座なく、ただただ、恥じ入って無言のまま、詮方なく、家へとたち帰ったと申す。
その晩のことで御座る。
若者は独り、己が家の奥座敷にて、まんじりともせず立ち竦んで御座った。そうしてやおら、
「……それにしても!……我が身を心より後悔致いて、これ、助力をお頼み申したに!……かくも恥かしめを受けたること!……如何にしても!……無念なることじゃッ!……こうなったら……何としても……我ら独りの
と、独り大いに怒り叫んで御座ったと申す。
それより、かの亡父の知音老人とは一切、これ、交わりを断ち、もう、
その覚悟の志しのまっことなる証しにや、三年ほどのうちに、元の如くの身上を取り戻いて御座った。
さて、このことを風の便りに聴いた、かの亡き父の盟友が老人、ある日のこと、金百両を懐中致いて、かの亡友の子の、若き商人の方を訪ねて参ったと申す。
若者は、ここは一つ、かの
「……三年以前、そなたを恥かしめて以来、お憤りになられたと見えて、一切の交わりも、これ、御座らなんだのぅ。――我ら――あの折り、金二百両もお貸し致いてたとて――御身は
と語ると、懐中より百両を差し出だいた。
かの若者は、それを聞くや、大いに感服致いて、
「……あなたさまのお心、これ、よう分かり申しました。……さても既に、その百両……これ、とうの昔に……御借用致いたも同様のことと御座まする……されど……いや……確かに今、私どもにとって――大事の入用のもの――と――取り計ろうて、確かに頂戴仕りまする……」
と答え、百両を受け取ると、老人に深く謝した上、お見送り致いたと申す。
さて、それからまた暫く経ってのことで御座る。
かの亡父知音の老人も、これまた遂に身罷って、今度は、そちらの方の二代目の代となったと申す。
こちらの二代目の若者は、これ、かの先の若者とは異なり、遊興なんども致さざる実体の者にて御座った。
が、巡り逢わせの悪しき因縁の者にても御座ったものか、不幸にも、身上、これ、すっかり左前と相い成り、父の代に引き変え、すこぶる貧しき暮しをして御座ったと申す。
されど、この若者、親が、かの父の知音の息子に対する、厳しき拒絶のことだけを家伝としては聞き知って御座ったばかりなれば、かの亡父知音の若者への助力嘆願なんどということも、これ、決して申し入るることも御座なく、そのまま不如意に鬱々と暮して御座ったと申す。
ところが、かの起死回生の復帰を遂げた若者、その故老爺の子息の、すこぶる貧窮なるを風の便りに聴くや、その老翁が二代目方へと早速に訪ね参って、
「――どうか、志しをしっかりとお立てになり、身上を取り戻されなさるがよい。我らも、そなたの親仁どのが諌めに恥じ、辛くも身上を取り戻して御座った。……さても一つ――これを――
と、懐より二百両の金を出すと黙って貸したと申す。
この二代目も、その志しと、その諌めとに励まされたものか、程無う、元の如、身上、これ、やはり父と同じように――また――かの若者と同じように――取り戻いた――と――申す。
*
不思議に金子を得し事
安永の
□やぶちゃん注
○前項連関:特にこれといったものがある訳ではないが、意外な結末の市井譚としては自然に読み継げる。
・「安永」西暦一七七二年~一七八一年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから四半世紀前のやや古い噂話である。
・「梅若七郎兵衞」岩波版長谷川氏注に、『観世座地謡に名あり。安永年代は三十歳台』とある。
・「三百疋」一疋 は一〇文で、一〇〇疋は一〇〇〇文。これが一貫文で四貫(四〇〇〇文)が一両になる。江戸後期の一両は凡そ現在の五~六万円相当であるから、三百疋は三七五〇〇~四五〇〇〇円前後に相当する。しかし最終的に三両+二両=五両となれば、三〇万円から三五万円相当で、とんでもない高額である。
・「目錄」進物として贈る金の包み。
・「土腐堀」埼玉県行田市及び羽生市を流れる農業用排水路に「
・「尋止る妻」底本には右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「止る妻」とある。それで採る。
・「多搜しけるを」底本には右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「搜しけるを」とある(正字に代えた)。それで採る。
・「燈灯をさげ抔して」「燈灯」はママ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「灯び
・「故ちきに□ひ、」底本には「ちき」の右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「大いに喜び」(読点はない)とある。それで採る。
■やぶちゃん現代語訳
不思議に金子を得たる事
安永の頃のことで御座る。
梅若七郎兵衛と申す能役者が御座って、小笠原何某殿と申すお方へ、心安う出入り致いて御座って、いたく目を掛られておったものらしい。
ところが、その頃、舞台稼ぎも思うにまかせず、はなはだ貧窮致いて御座った上に、一年ばかし、
さて十二月も押し迫った廿六日に至り、主人七郎兵衛、
「……最早、春も来たると申すに、かくも貧窮の極みのままにおらんも、これ、あまりに情けないことじゃ。……小笠原様御屋敷へ参らば……そうさ――かつては年々、歳暮には三百疋
と、恥ずかしくもぼろぼろのものながらも小袖を着し、
「能の梅若七郎兵衛が参りました――」
と、下役が奥へと伝えたところ、
「おお。これは久しいのぅ。通すがよいぞ。」
とて酒なんどを出ださせ、一くさり、下座にて謡いなんども披露させた上、病み上がりなれば、じきに酩酊に及んで御座った頃、かねての目録をも賜わられたによって、七郎兵衛は酔いも
「……一年、病みほうけ……困窮難儀致いた上……この年末は、これ、餅をも搗くこと、出来ず仕舞い……なれど……この頂戴致いた目録によって、やっと人並みに年を越すこと、これ、出来ますれば……何とも、ありがたきこと……」
と、つい、目録を下しおいた下役に
「――これ、七郎兵衛、近う参れ。」
とご
「……さてさて、それは気の毒なること。如何にも難儀にてあろうのぅ。……」
と、別して金三両を賜わって御座ったと申す。
されば七郎兵衛、まっこと、生き返った心地にて、その嬉しきことたるや、言いようもないほどで御座ったと申す。
七郎兵衛は百拝して御礼申し上げ、それこそ酒も手伝って、浮き足立って御屋敷を後に致いた。
それから――さても
己が小便の湯気の立ち上る中、七郎兵衛。
「――さても!――妻をも喜ばせん!――」
とて、にやついて、一物の
「――女房!――喜べ!」
と、まずは目録に包まれた三百疋を渡いた上、またしても妙に、にやつきながら、今度はやおら、懐に手を入れて三両の金子を
……が
――ない!――
……酔うた
……これ
――ない!――
「……い、一体……どこへいったんじゃ!……どこへ落したんじゃ?……そうじゃ!……最前の、た、立小便のとこかッ!?……外には覚えはない!……あそこから真っ直ぐ帰ったじゃて!……そうじゃ!……ど、ど、
と狂気の如き雄叫びを挙ぐると、何やらん、訳も分からぬながら、留めんとする妻をもかえりみず、飛ぶが如く、かの立小便致いたところへひた走り、おぞましきドブ泥の不浄をもなんのその、膨れ上がって浮きおる犬猫の死骸をも素手にて掻き分け、腰まで、ぎらついた糞尿の臭さき悪水溜まりを、手足
物音と掻き広げた臭さに辺りの町屋の者どもも、何だ何だと、立ち出でて参ったが――
見れば……
――裃を着した鼻筋の通ったやさ男が
――ドブ泥の中で
――何やらん喚きながら格闘して御座る。
さればこそ、恐る恐る、
「……い、一体……な、何をなさっておらるるんで?……」
と恐っかな吃驚り訊いて参った。
まあ、なんぞの草双紙の怪談にでも出そうな情景なれば、これ、無理も御座るまい。
されば、ここはと、七郎兵衛も気を落ち着け、しかじかのことにて御座って、この
「――そりゃあ、
ってえんで、熊公も八っつぁんも長屋から繰り出して参り、大勢にて提灯を掲げては、竹竿なんどを持って、しきりにドブ泥を引っ掻き回し、手応えを求めて御座ったと申す。
すると暫く致いて、七郎兵衛自身、ドブ泥の中より――金二両を――摑み出だいて御座った。
さればこそ、町人どもへも厚く礼をなしたが、ある者は、
「ここまで皆してやったんじゃ! 今一両、捜さねぇて、手はありゃせんゼ! その掘り抱いた辺りの、きっと近くに、まだありやしょう!」
としきりに申したれど、七郎兵衛曰く、
「いやいや、二両さえも求め得難き所を得たればこそ、この上、夜を徹して捜すと申すは、これ、労多くして、町方衆へも不憫なこと。――ここは一つ、これにて――」
と、平に町方衆へ謝して帰ったと申す。
帰り着いて、
「――それは
と大いに悦んだ。そうして、
「……ご主人さま……ともかくも少々お臭いに御座いますれば、まんず、
と申したによって、桶にて手足を清め、さても、ドブ泥にすっかり汚れてしもうた裃の帯をも解き、
「……かの金子にて――まずは、明日にでも裃の新たなるを買い求め、借り主にお返し申そうず。」
と妻に語りつつ、それらを脱いで、また、汚れを垂らさぬように裏へと返したところが、
……ふと
……かの脱ぎ置いた着衣の合わせの
……その目の
――チャリン!
……と……
――金三両
――最初、小笠原家にて
……さればこそ、実は、かの三両はもともと落とした訳ではのうて――落としたと大騒ぎ致いてドブ堀にて捜し得たところの――あの――二両は――これ――全く別の――金子で御座った……
……ということにて御座った、と申す。
*
修驗道奇怪の事
いつの比にや、神田
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。久々の怪異系都市伝説である。
・「神田富山町」千代田区の町名として現存。JR神田駅北口直近。
・「藥王院」富士信仰や修験道のメッカである、東京都八王子市高尾町にある高尾山薬王院有喜寺と関係した寺院かとも思われるが、所在不詳。識者の御教授を乞うものである。
・「及ばずと」底本では「ずと」の右に『(ママ)』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、この部分の威力院の台詞は(正字化して歴史的仮名遣に直した)、
『
とある。
・「六郷の渡し場」現在の東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町との境の多摩川に架橋されている六郷橋のやや下流にあった渡し場。六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長五(一六〇〇)年に徳川家康が六郷大橋を架けさせ、その後数度の架け替えが行われたが、貞享五(一六八八)年の洪水で流失して以後は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられていた(以上は岩波版長谷川氏注とウィキの「六郷橋」に拠った)。
・「六郷川」多摩川の下流部、現在の六郷橋付近から河口までの呼称。
■やぶちゃん現代語訳
修験道の奇怪なる事
何時の頃のことであったか、神田
「――御身、富士へ登山なされるとならば、裾野の薬王院へ立ち寄り、拙者の頼みおいて御座る、ある箱を帰りに持参致いては下さるまいか。勿論、荷になるような物にては、これ、御座らぬ。どうか一つ、頼まれては呉れぬか?」
と申すによって、与七は、
「それでは一つ、頼み状でも頂戴致しましょうか。」
と答えたところ、
「――いや。それには及ばぬ。『威力院より頼まれたゆえ、取りに来た』とのみ、お伝え下さるれば、間違いなく先方、渡して呉るる手筈となって御座る。」
と請けがったゆえ、与七も気軽に承知した。
さてもすぐに富士登山参詣をなして、その帰るさ、薬王院へと立ち寄って、しかじかの由、先方へ告げたところ、
「――心得て御座る。」
と応じて、頼みもせぬに一泊させて呉れ、翌日の
「確かに。これよりたち帰って、威力院殿へお渡し申しまする。」
と、薬王院を辞した。
与七、その日は、川崎か神奈川宿辺りにて日も暮れたによって泊って御座ったと申す。
さて、その
どこかと探れば、枕元に置きおいた、荷の中からとしか思えぬ。
開いて見ると、何と――かの預かった小匣が――人語を発しているのであった。
その声の曰く、
「――今晩ハ大キナル金モウケノコトアリ――コノ宿ノ奧座敷ニテ博奕ガコレ有ル――御身モ行キテ勝負ニ加ワリ――ワレラガ申ス通リニナサルルガヨイ――金モフケデキマスルゾ――」
と呟いて御座った。
この与七なる男も、これでなかなかに不敵なる者で御座ったゆえ、この妖しき誘いの申すがまま、宿の奧座敷をちょいと覗いてみたところが、ほんに博奕場のあって、盛んに賽を振って御座った。されば、
「――一つ、我らも手合せさして貰おう。」
と賭場に坐った。
賽が振られた。
――と
手の内に握りしめて、耳に押し当てて御座ったかの小匣が、
「――
と微かに呟く。
その通りになしたところ、
「――四六の丁!」
果して勝ち――
「――次ハ半――」……
「――
勝ち――
「――次モ半ジャ――」……
「――
またまた勝ち……
……勝ちに勝って――実に金五十両もの一人勝ちを致いて御座った。
――と
――かの箱がまた囁いた。
「――最早――早(ハヨ)ウヤメテ――直チニ宿ヲ出立ナサルルガヨイ――」
されば言われた通りに、未だ夜も明けきっては御座らなんだが、早立ち致いたと申す。
しかし、与七、明けの街道を歩みながら、
「……どうにもこうにも……五十両からの大金……これが一夜にして転がり込んだ……この小匣の……この内の声は……これ……如何にも奇怪なものじゃて……」
と思い始め、思い始めると、これがまた、しきりに恐ろしゅうなって参った。
丁度その時、六郷の渡し場へ差し掛かって御座ったが、渡し舟に揺られながら与七は、
「……五十両……この妖しき術なれば……ただ五十両が我らのものになっただけでは済まぬのではないか?……その恐ろしき返報が……これ……な、ないとも限らぬ!……」
とぐるぐる考えるにつけ――たかが小匣、されど小匣――舟の揺れとは
されば与七、荷の内の小匣を取り出だすと、それを舟端から川中へと投げ入れてしもうた。
……そのまま、何かに後ろから襲わるるような気がしきりにしたままに、足早に富山町へと立ち帰った。
しかし、
「……さても……威力院殿へは……何と申し訳致いたらよいものか……」
と今更ながら当惑致すことしきり。
「……いや……しかし……正直に……かの奇体な話を語って……お詫び致すに若くはない。……五十両の
と、威力院を訪ね、
「……という訳にて……薬王院より受け取って参った小匣は……これ……恐ろしさのあまり……六郷川へと……流してしもうたので御座いまする……」
と平謝りに謝って御座った。
ところが、聴き終った威力院は、満面の笑顔のままに、
「――いや――富士を拝まれ、その道中も恙のう、よう、お帰り遊ばされた!」
と言祝いだ上、
「――その勝った金は――そこもとの利得となさるるがよかろうぞ!……小匣――ならば――最早――我が手へ戻って御座ればの――」
と、何と、懐から――かの六郷川に確かに投げ捨てたはずの小匣――を、これ、取り出だいて見せた。
与七は大きに驚き、
「……こ、こ、これは如何なる……ジ、
と恐れ入った、ということで御座る。
*
嘉例いわれあるべき事
本所
□やぶちゃん注
○前項連関:怪奇譚連関。この血染めの餅伝承による餅搗きの時期禁忌や、餅そのものを食わないという禁忌は、実は古くは日本各地にある。東京堂出版昭和二六(一九五一)年刊の「民俗学辞典」の「餅無し正月」によれば、『一般には餅は正月に必要な食物となっているが、正月に餅を全たく用いないところがあり、また餅を搗いても元旦から幾日かは食べないという所がある。部落全戸がそれを守っている場合と、特定の一家一族だけに守られている場合とがある。その由来として、先祖が戰に敗れて落ちのび、ここに着いた暮または正月で、正月祭の準備が整わず、餅を用いなかつたのを偲ぶためという類の話をつたえるものが多い。また先祖が旅人を殺して金を奪ったことがあり、その恨みで餅をつくと血がまじつて食べられぬからといつた説明のついている場合がある。全国的に例があつて、理由はよくわかつていないが、折口信夫は祭の忌が嚴しかつた土地で、臼杵を用いず、年越の夜を起き明かす習いであつたため、食物の調製すらはばかられて餅を用いなかつたのがもとのおこりではなかつたかと推論している』(折口「餅搗かぬ家」『旅と伝説』二ノ一)。とある。この折口の(昔、大学時代は呼び捨てにすると教授から怒られたものだったのを懐かしく思うが、やはり呼び捨てにする。私はどこか、柳田国男――これも「やなぎた」と発音しない怒る先生が国学院にはごまんといた――と彼は、民俗学を品のいい「バカデミズム」に変質させてしまった確信犯の「父母」と確かに心得ているからである。本質的な官吏であった柳田は言うに及ばず、自身が同性愛者であった折口の罪は心情的には許し難い)「餅を搗かぬ家」については、国際文化センターの「怪異・妖怪伝承データベース」で「餅を搗かぬ家」として、『家の先祖が、巡礼にきた人や、山伏を食い殺して金を奪い、そして裕福になったところでは、餅を搗かない。その一族のものが、餅を搗こうとすると、臼の中に血が入っているという』という怪異譚例を掲げている。なお、ウィキの「餅」では、『民俗学的見地からは、東国では正月行事の中で餅を忌避して食べず、サトイモやヤマイモを食べる習俗の方が重要な意味をもって分布しており、この東西の差異は、西が水田稲作に対し、東が焼畑による生産圏であり、それと結び付いた行事の為と捉えられている』。『従って、近畿圏と比べれば、餅が東国各地の正月行事で用いられ、普及するのは後になる。これはハレの食物としての餅が全国一様に普及するまでには(生産圏の差異から)地域差があったことを示す。また、普及した後も、『餅の四角い東と丸い西』(宮本常一著作集13)の考察にあるように、東西日本では餅の文化は異なる歴史を歩んできた』と一般的な餅つき文化について総括している。私は大学で坪井洋文先生の民俗学の講義を受けた際、この血染めの餅の話がすこぶる印象に残ったのを覚えている(というより、実はそれしか記憶にないのである。何故、僕はこれを鮮烈に覚えているのか? ここに精神分析の面白さが潜んでいるように思われてならないのである)。従って本話は何か、気になる、のである。さらに付け加えるならば、この餅が血染めとなるのを見るのは、どうも、当主である孫兵衛のみのように読める。呪われた嫡流にのみ起こる怪異というところが面白いではないか。
・「嘉例」
・「竹藏」東京都墨田区両国二丁目から横網町一丁目附近の旧地名。現在のJR両国駅周辺に当る。本所松坂町があったこの周辺は、かつては広大な幕府の御竹蔵(竹材保管施設)があったところで、延宝年間(一六七三年~一六八一年)にはまだそれがあったことが確認されている。元禄の初年頃(一六九〇年前後)に御竹蔵周辺は大きな改修工事が行われ、西正面の道に張り出して設置されていた小屋場(竹材の陸送に用いる大八車を配置する場所)が廃され、御竹蔵正面は西から南に変わり、大川の水運のための竪川に続く新道が敷かれ、元禄一一(一六九八)年九月六日に発声した勅額火事後、御竹蔵は廃されている。参照したウィキの「本所松坂町公園」によれば、この後の元禄一四(一七〇一)年九月に吉良義央がこの近隣(同三丁目附近)を受領、元禄赤穂事件の舞台となった。
・「曾根孫兵衞」底本鈴木氏注によれば、曾根
・「正月三日に餅舂事」底本では鈴木氏はここに注して、一般的な餅つきの時期にについて概説しておられる。貴重な記載であるので、例外的に全文を引用させて戴く。『近世にいたって朔旦正月の制が一般化し、これが古来からのもののように考えられるようになったが、もちろん新規のものであって、古式では望の日(十五日)を新しい年の初めとして祝った。両制が折衷併用されたのが大正月、小正月の別で、大小正月の中間を、
・「
■やぶちゃん現代語訳
歳末歳旦の行事にも特別の謂われのこれある事
本所
曽根家におかせられては、古来より、仕来りによって、毎年、正月三日になってから餅を搗くこととなっておらるる由。
何時頃のことで御座ったか、当主孫兵衛殿、
「……世の中は、何処も暮れに餅を搗くと申すに、我が家のみがそうせず、人並みをすこぶる外れ、正月三日になってより餅を搗くと申すは、これ、世間の者ども、何やかやと、人の噂し、穿鑿猜疑致すことじゃ! まっこと、面白うないではないか!――一つ、今年は、暮れに餅を搗かんとぞせん!」
と仰せられた。
聴き及んだ老いた家来などは、
「――代々、お家の仕来りにて御座いますれば……」
と諌めたものの、これ、全く貸す耳をお持ちになられず、遂に、その年の歳末には餅を搗かせて御座ったと申す。
餅搗き当日のことで御座る。
搗いて御座ったうちは何事も御座らなんだ。
さても搗き上がった餅を、中間どもに
孫兵衛殿、それを見に座敷内へとお入りになった――
――と――
……箕の
……餅
……これ
……すっかり
……ことごとく
――血の色に染まって
――マッ赤になって御座った!……
……それはもう、見るも妖しきと申すよりは、忌わしくおぞましきものにて御座ったによって、
「……こ、これは……い、如何なる、こ、ことじゃッ!……」
と、即座に中間どもを呼びつけ、その変事を糾さんとした――
――ところが――
……渡した瞬間
……中間の持った箕の中の餅は
……これ
……もと通りの
……まっ白な
……普通の餅にて御座ったと申す。
されば孫兵衛殿、何かの見違いでも致いたものかと思い、再び、
「……ざ、座敷内へ、も、戻せ。」
と命じたところが――
……運び入れたを見れば
……これまた
……最前の通り
――マッ赤!……
さればこそ……その後は昔日の通り、やはり正月三日に餅は搗くことと、相い成されたそうで御座る。
*
眞木野久兵衞町人へ劔術師範の事
享保の此、
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。滑稽な剣術指南で変則武辺物としてすこぶる面白い。
・「眞木野久兵衞」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「久平」とする。
・「牛天神」「耳嚢 巻之二 貧窮神の事」で既注済。現在の東京都文京区春日(後楽園の西方)にある北野神社。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「牛天神下」とあり、その場合は、北野神社の南一帯を指す。
・「享保」西暦一七一六年~一七三六年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、七、八十年も前の古い話である。
・「三年寄」江戸の町年寄を世襲した奈良屋・樽屋・喜多村三家のこと。
・「と
・「櫻の馬場」幕府の軍馬を調教繋養した馬場の一つ。底本の鈴木氏注に、湯島聖堂の西に隣りあってあり、『お茶の水馬場ともいった。桜ともみじの大木が両側にあった。文京区湯島三丁目』とある。岩波の長谷川氏注では一丁目とする。ピグ氏のブログ「東京ガードレール探索隊」の「桜の馬場」の対照地図によれば一丁目が正しい。
・「亥子の比」深夜十時から午前〇時頃。
・「身を困み候事」カリフォルニア大学バークレー校版ではここが『身を囲ひ候事』とあって、長谷川氏は『身を守り』と注されている。これは「圍(囲)」の誤字が深く疑われるが、「くるしみ」でも意味は通る。折衷して訳した。
・「不告」底本には右に『(ママ)』注記を附す。カリフォルニア大学バークレー校版では「不能」とあって「苦しからず」で意味が通る。これで採る。
■やぶちゃん現代語訳
真木野久兵衛の町人へ剣術師範する事
享保の頃、
ある時、江戸の
「謝金は惜しまず幾らでもお出し致しますによって、どうかすぐに免許の段、お許し下さいませ! 秘伝の太刀筋、御伝授下されぃ!――」
と望んだものの、久兵衛は断った。
ところが、この三人、性懲りものう、何度となく参っては、五月蠅く、入門免許を懇請致いたれば、ある時何故か、久兵衛、
「……なるほど、いや、そのようなことも、これ、ならぬということも……ないわけではないが……」
と答えてしもうたによって、両三名、その後はますます足繁く、久兵衛が元へ参っては、
あまりの日参に久兵衛も詮方のう、遂にある日のこと、
「……それでは――来たる○月×日、両三人ともども相い連れだち、△
と約して御座った。
さてもその当日と相い成った。
時刻は――そうさ、夜も
三人の町人、桜の馬場へと押っ取り刀で参ったところ、ほどのう、久兵衛も来たって、
「――約束の伝授を致そうぞ。」
と告げると、
「……我ら……これより、この馬場を走って御座る。されば、御身ら三人も、この、馬場の始めより、末の末まで、お駈けなされい!――」
と申すが早いか、突然、久兵衛、脱兎の如く、目の前より消える。
されば三名も、教えの通り、駆け出だいた。
……が……
……あっという間に……
……三人は久兵衛を追い越し……
……久兵衛はといえば……
……それを一散に追っては走るのではあったが……
……何分にも久兵衛、老体の身で御座ったれば……
……馬場の半ばにて……
……息切れし……
……これ……
……倒れてしもうた――
さても三人はそのまま、馬場の端まで駆け抜ける。
……ところが……
……振り返って見れば……
……久兵衛……
……遠くで……
……へたばって御座った……
ともかくも、また馳せ帰って、泡を吹いて転がって御座った久兵衛を介抱を致いた上、
「……さ、さあ! さ、さても! 教えの通り! 駈け抜けましたによって! どうか! 免許、御伝授下さりまっせい!」
と乞うたところが、久兵衛は、未だ苦しげな息遣いのまま、
「……ハーヒッ……ハーヒッ……はぁ、
と応じた。
されば、流石に両三人、
「……い、未だ一本の太刀筋の伝授も、これ!……」
「……そ、そうじゃ! 未だその伝授もなきに、これ!……」
「……か、かように! 伝授相い済んだとは、これ!……」
と――口を揃えて、
「合点参らぬ!!!……」+「合点参らぬ!!!……」+「合点参らぬ!!!……」
と叫んだ。
と、久兵衛、やっと息も落ち着いて参って、徐ろに、
「……すべて――我らが流儀は――人を斬るための剣術にては――これ、ない。……
――その奥義は――これ、身を守る術である。
――こちらの方より求めて相手に向かうものではこれ、ない。
――また
――これ、その危うい切っ先を避くる。
――それでも、そうした対処に相手が従わぬ場合にのみ、相手と斬り合う。
……御身らは町人なれば武家とは異なり、身の危うきを大事とお守りなさるるには――逃げるに――若くはない。
……しかし――武士と申すは、これ――戦いより逃ぐること、出来ざる身分。
……されど御身ら町人は、これ――逃げても決して恥ではない。
さても今日、
――御身ら三人ともに
――如何なる対局に於いても
――あの通り走って御座ったならば
――これ
『逃げ足の達者』
と申すもので御座る!
則ち――これぞ――我が流の極意である!」
と喝破されたとのことで御座る。
*
又、久兵衞其術に巧なる事
享保の
□やぶちゃん注
○前項連関:真木野久兵衛本格武辺譚で直連関。
・「あさまに」は形容動詞「浅まなり」で、浅いさま・奥深くなく、剝き出しになっているさまの謂いであるから、草木もあまり生えていないような、地肌が剝き出しになっている状態を指すのであろう。
・「□りて」底本には『(凝カ)』と右に傍注するが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「誇りて」とあり、この方がよい。これで訳した。
・「牛天神の坂」牛天神(現在の文京区春日の北野神社。切絵図を見ると『別當龍門寺』とあるが明治の廃仏毀釈で消滅した)は水門屋敷の西にあって、神社を下った南に神田上水が流れており、そこから向かって牛天神の左手(西)に安藤坂がある。その安藤坂は牛天神の背後近くで左に鉤の手に折れて伝通院前まで続くが、これを折れずに進むと牛石という大石(現在は神社境内に移されている)にぶつかって右手に折れる牛天神裏の道になる。ここが牛坂である。
・「淸眼」底本には右に『(正眼)』と訂正注がある。
■やぶちゃん現代語訳
又 久兵衛その剣術に巧みなる事
享保の頃は、
この近くに住んで御座った武士が、
さてもある日の夜中、久兵衛、所用の御座って、牛天神の坂を上って行って御座ったところ、突然、大男が一人、太刀を抜き放って、久兵衛にうち掛かって参った。
久兵衛はしかし、少しも騒がず、短刀を抜いて、右手一本に差し出だし、これを
短刀ながら――その微動だにせぬ鋭い先鋒から放たれた、尋常ならざる久兵衛の気魄に――これ、
――じりっ――じりっ――
と、後ろへしさって行く。
久兵衛は変わらぬゆっくりとした速さで、
――すすっ――すすっ――
と前へ進む。
悪徒と久兵衛が間には、まるで目に見えぬ何かが挟まっておるかの如、久兵衛の進むのと、悪徒が押されてしざるのが、同時に起こるので御座る。
と!
――ずざざざざざぁざぁッ……
と、かの悪徒は後じさりし過ぎて、天神裏の崖の上より、真っ逆さまに天神の境内の谷底へと落ちてしもうたと申す。
――カチン
久兵衛は短刀を静かに戻すと、何事もなかったかのように己が屋敷へと帰って御座った。
さて、かの悪徒はと申せば、知らずに崖を後ろ向きに落ちたため、体のあちこちに打ち身やら切り傷を致いて、暫くの間苦しんでおったが、何とか全快致いたと申す。
その快癒致いた日のこと、近くの町家へ、病み臥せっておったうちは吸えなんだ煙草を求めに参った。
店に入って、煙草の葉なんどを品定めしておった最中、かの久兵衛も同じく煙草を買いに参って、彼に気づくことものう、親しげに主人と軽い言葉を交わした後、買い調えると店を出て行った。
かの悪徒はその間、よくよく男の顔を見てからに、
『……か、かの男こそ……この間、牛天神にて出逢った老人ではないかッ?!……』
と悟った。その瞬間、もう体がぶるぶると震え出すほどに怖ろしゅう感じた。
久兵衛が去った後、男は煙草屋に、
「……い、今の御仁はどなたで御座る?」
とその名を尋ねたと申す。
すると主人は、
「あのお方こそ、この辺りにて『剣術の達人』と誉れ高い、真木野久兵衛さまで御座います。」
と答えたゆえ、それを知って今更ながら驚いたと申す。
「……まことに……そうで御座ったか……」
と、この一刹那、己れの太刀への悪しき驕りの気持ちは雲散霧消、その煙草屋主人に
「――何卒、仲介の労をおとり下さるまいか? 何としても――お弟子となりとう御座る!」
と乞うた。
されば煙草屋主人が仲立ちとなって、久兵衛殿に面会することが叶い、そこでも素直にかの夜の謝罪をなした上、入門の懇請を致いたと申す。
久兵衛はそれを聴くと、何と、その場にて即座に入門弟子入りを許した。
それより久兵衛は当流の武術奥義など、すべてを、この弟子に伝授なしたと申す。
この高弟はその後も永く、誉れ高き質実剛健の武士として名を残した、とのことで御座る。
*
※を取奇法の事
[やぶちゃん字注:「※」=「疒+「黑」。]
蛇の
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。既に「巻之六」に「いぼをとる呪の事」として二例が掲げられてある「※」(=「
・「入すするに」「すする」は「こする」の誤りか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『包みこするに』とある。これで採る。
■やぶちゃん現代語訳
疣を取奇法の事
蛇の抜け殻を
*
蟲さし奇藥の事
ある海邊の在郷に、親は
□やぶちゃん注
○前項連関:疣コロリから蛇咬傷の民間薬シリーズで直連関。イカスミは関節潤滑・皮膚損傷修復効果や保湿・美肌作用を持つムコ多糖類を多く含み、他にも最近では抗ウイルス性・代謝促進・免疫力向上・抗癌作用などの薬理効果もあるとするようである。漢方では特に補血作用を活かして粉末にしたものを狭心症の治療薬として用いているともある。但し、同じ墨でもタコスミはやめた方が無難である。毒性が認められるからである。私のブログ記事「蛸の墨またはペプタイド蛋白」を参照されたい。
・「其□□虫さしの□へはいかのすみをぬるに快驗得る事奇々妙也。」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(恣意的に正字化した)、
其一郷は虫さしの分へはいかの墨をぬるに快驗を得る事奇々妙々の由人の語りぬ。
とある。この部分、大々的にバークレー校版で採る。
■やぶちゃん現代語訳
毒虫に咬まれた際の奇薬の事
ある海辺の田舎でのこと。
親は今日、
ちょうどその折り、頑是ない
「
と泣き叫ぶ。
近所の者どもも駆けつけて見たところが、親なる者が、
「ど、どこを刺されたじゃッ!?……ここかッ?……こ、ここかッツ!? ここかッツ?!……」
としきりに聴いておるものの、
――と、突然、
「お
とけろりと致いた。
まっこと、咬まれたことも忘れたように痛みが全く消え、ほどのう、咬まれたその跡方もなく快癒致いて御座った。
これより後、その里にては、蛇に咬まれた際には烏賊の墨を塗ればたちどころに快癒を得ること、これ、奇々妙々なりと伝えておる由、さる人の語って御座った。
*
又
まむしはさら也、
□やぶちゃん注
○前項連関:蛇咬傷を含む虫刺され民間薬シリーズ連続。
・「ころ柿」転柿・枯露柿などと書く。干し柿のこと。渋柿の皮を剝き、天日で干した後に莚の上で転がして乾燥させたことから。干し柿はビタミンCとビタミンを多量に含んでおり、現在でも、二日酔い・風邪・夜尿症・高血圧・火傷・かぶれ・しもやけ・痔・虫刺され・歯痛に効く、とされている。
■やぶちゃん現代語訳
毒虫に咬まれた際の奇薬の事 その二
蝮は勿論のこと、総て虫に刺され咬まれた際には、干し柿を酢に漬けおいて、それを刺し咬まれたところへつけると、これ、奇々妙々の効果を発する、とのこと。
*
※いつの妙藥の事
[やぶちゃん注:「※」=「疒」+「各」。]
□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法シリーズ四連発。
・「※いつ」[「※」=「疒」+「各」。]「かくいつ」は膈噎。「膈」は食物が胸につかえ吐く病気。「噎」は食物が喉につかえて吐く病気をいう。現在の胃癌又は食道癌の類と推測されている。「かくやみ」「かくやまい」とも。底本の鈴木氏も岩波の長谷川氏もそう(しかも両者ともに癌と断定しておられる)注して終わりとする。では、本当にこの老婆は現在でいう胃癌か食道癌であったかと言えば、これは読む者は誰もそうは思わない。この老女、全快しており、しかもその後も有意に長生きしたことを考えると(治って直ぐに老衰で死んだというようには「読めない」。膈噎の全快後、有意に数十年は生きたのでなければ「やがて快なりて八十餘歳迄存命なせし」とは「書かない」)、これは癌ではない。これは所謂、嚥下障害としてとらえるべき病態である。しかも、一定の時期を経て完治し、再発していない点では器質的機能的な原因ではなく、心理的なものや精神疾患の一症状が疑われる(だからこそプラシーボ効果としても本療法の効果があったとも考えられる)。ウィキの「嚥下障害」によれば、神経因性食欲不振症など摂食障害、認知症や鬱病などで食欲制御が傷害されている場合に症状として現われる、とある。精神疾患を持たない人の嚥下障害有病率が六%であるのに対し、精神疾患患者の三二%が嚥下障害を持っているとし、窒息事故の割合もはるかに高く、認知症ではしばしば食事をしたことを忘れるが、食事をしたことを忘れても食欲制御が傷害されていなければ異常な量の摂食は困難である。研究は少ないが、嚥下造影検査の分析から認知症では八四%の患者が何らかの嚥下障害を持っている、という報告がある、とある。先人である鈴木氏や長谷川氏に文句を言うのではない。しかし本来、注というものが読者への一つの編著者の配慮であるのだとするならば、ここまで語らなければ私は注とは言えないと考えているのである。それが私があらゆる注を施す際に常に心懸けている「節」であるということを、この場を借りて表明させて頂く。
・「坂野の喜六郎」坂野
・「まるめろ」バラ科ナシ亜科マルメロ Cydonia oblonga。
■やぶちゃん現代語訳
ところが、ある人が
*
幽靈恩謝する事
文化貮年の八月の事成るよし。神田橋外津田何某の先代召仕ひし
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。正統なる霊異譚で、如何にもしみじみとした極上の心霊情話に仕上がっている。
・「文化貮年の八月」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、一年前の都市伝説である。
・「神田橋外津田何某」底本の鈴木氏の指示に従って、私の所持する尾張屋(金鱗堂)板江戸切絵図の「飯田橋駿河台小川町絵圖」を見ると、神田橋御門から北東へ八〇〇メートル程の位置(現在の地下鉄淡路町駅付近)に津田栄次郎という人物の屋敷がある。ここだとすれば、根岸の屋敷の直近である。鎭衞の自宅はここから真西へ六〇〇メートル程の位置にある。
・「是も無程其心を得うけしに」底本には「得うけ」の右に『(ママ)』表記。
・「段々隱症の※痲と也て」[「※」=「疒」+「却」。]不詳。しかし不詳のままでは訳せないため、
「隱症」はとりあえず性質の悪い、悪性の意
で訳しておいた。
「※痲」については、まず岩波のカリフォルニア大学バークレー校版原文では、
『*疳』[やぶちゃん字注:「*」=「疒」+(「降」-「阝」)。]
とあり、長谷川氏は注で、
『底本★[やぶちゃん字注:「★」=「疒」+「争」。]とも見える字で、次章に同字を書き瘴と訂正しているので、ここも瘴疳であろう』(下線やぶちゃん)
と推測なさって、次の「又」の章の、同
「瘴疳」の注では『傷寒。高熱を伴う疾患』 とされておられる。しかしながら、こちらの底本では、
次章のそれは『痛疽』 とある。これは文字通りならば、
背中などに出来る激痛を伴う悪性の腫れ物、
をいう。本底本を無心に見るならば、少なくとも本底本では、
この章の病いと次章の病いは異なったものとして書かれているようにしか見えない(本章の病名との相同性は立証出来ない)が、訳の理解し易さを第一としてここは暫く、長谷川氏の
なお、「傷寒」とは漢方で、広義には体外の環境変化により経絡が侵された状態を広く指す語で、狭義には重症の熱病・腸チフスの類を指すようだが、この場合は直前の病態などから見て、
感冒が重症化したもの、恐らくは肺炎が死因となるようなものを指している
ように私には思われる。
・「橘宗仙院」岩波版で長谷川氏は奥医で法印であった橘
・「宇山隆琢」不詳。
・「枕元に彼女すわれ居けるに」底本には「すわれ居ける」の右に『(ママ)』表記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『
・「せめて御禮を申なりと申けれ。」底本には「申けれ。」の右に『(ママ)』表記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『せめては御禮を
・「いかで去あらたなりし事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『いかでさる改りし事』である。バークレー校版で訳した。
・「いとけなきよりの厚恩をくり返し赦し」底本では「赦し」の右に『(謝カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は確かに『謝し』とある。]
■やぶちゃん現代語訳
幽霊の恩謝する事
文化二年の八月のことであった由。
神田橋
その御側室は
それを隠居の
「――身分の賤しき者が、音曲をもって武家などへ奉公せんとしても、なかなか一通りのことにては、その技芸を以ってして身を立てるまでには至るまい。――まずは読み書き・縫い物をこそ身にしかりとつけておれば、そなたらの身分にて、相応のお方へ縁づいたとしても、これ、十二分に役に立つことじゃて。」
と諭して、媼手ずから、それらを教えた。
もとより相応の才能の生れであったゆえ、読み書き縫い
こちらの方も、ほどのう、師匠の奥義をも体得し得て御座ったと申す。
*
ところが――哀れなるかな、この小女――ふと、風邪気味となったかと思うと――八月中、瞬く間に――儚くも身罷ってしもうた――由で御座る。
その風邪、初めのうちはさほどのものではなかったものが、だんだんに悪うなって参り、ついには
宇山さまは施方施術に深く心をお砕き下すったものの、患者には一向にその効果が現われぬゆえ、隆琢さまは、
「――これはまず、実家へお帰しになられ、じっくりと療養さするがよろしかろう。」
との見立てで御座ったが、媼は、年久しゅう召し使い、可愛がって参った小女で御座ったゆえ、ついつい、それに対して首を縦に振らずに、ずるずると引きとめ、結果、暫くは前の通り、屋敷内に留めおいて御座ったが、宇山さまも遂に、
「――いや、ともかくも、かの者の病態は尋常では御座らぬ!……」
ときつく申され、また媼の周囲の者どもも口々に宿下がりをお薦め申したによって、媼はしぶしぶ、深川の小女の親元へと、下げ帰して御座ったと申す。
*
さて、それから暫く致いた、とある夜陰のことで御座った。
隠居所の媼、夜更けにふと目覚めた。
と――枕元に、かの小女が、坐っておるさまが、これ、
「……そなたは病気で宿下がり致いたはずであったに、どうして、ここに……」
と訊ねたところ、彼の小女は、さめざめと泣きくれ、
「……まことに
と申す。
主人媼も、
「……どうしてそのようなことを……そんなに改まって申そうとするかのう。……
と諭したところ、
「……ありがたき仰せごと……身に余り……まして……御座いまするぅ…………」
と申したかと思うと、
――ふっと
姿形も消え入っておった。……
……と、そこで夢見心地にて確かに目覚めたところ、夜もすっかり明けて御座った。
されば、何やらん、気懸りなれば、人を遣わして、かの小女の親元を訪ねさせたところが、戻った下男が、
「……昨夜……身罷った……とのことで御座いました。……」
と告げたによって、主人媼も深く歎き、悲しみに沈んで御座ったと申す。
*
その明くる日のことであった。
かの小女の琴の師匠にして屋敷出入りの
「……今日は外の用事の御座いまして、こちらさま罷り越しましたが……実は少々、ご隠居さまにお目に掛りたきことの、これ、御座いますによって参上致しまして御座いまする。……」
と申すゆえ、早速に隠居所の奥座敷へと呼び入れたが、媼、はたと気づき、
「……そうじゃ。……そなたも確か、深川に住まい致いて御座ったの。……実は……我らの召し
と言いかけたところが、
「――はい。実は……そのことにて御座います。……今朝、かの親元へ罷り越しましたところ、
――――――
……娘は一昨夜の
……夜半のころ、急に我らを呼びましたによって、病床に参りますと、
「……
……と、
「体に障ることなれば、今はもう、深夜ぞ――」
……なんどと、いろいろ、いなんで落ち着かせんと致しましたが、
「――
……と申しましたによって、抱き起こしてやりました。
……すると三つ指ついて、
……誰か、目の前に人のあるかの
「――まことに
……と、それを繰り返し、繰り返し謝しては、
……その言葉を聴いた見えぬ
「――最早……心残り御座いませぬ。」
……と、はたりと臥しました。
……それから、ほどのぅして
……身罷りまして、御座いました。…………
――――――
とのお話で御座いました。……」
と申す。
主人媼は、かの
「……さては……真心の魂となってあくがれ出で……我らが元へと……通うて参ったのじゃ、のぅ……」
と、深く哀れを催し、老媼はさらなり、瞽女もお側に控えて御座った者どもも皆、袖を濡したと申すことじゃった。……
*
又
多喜安長へ
□やぶちゃん注
○前項連関:亡魂謝礼譚その二。
・「多喜安長」不詳。名前からしても医師である。
・「松浦家」肥前国平戸藩。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であり、そうすると「甲子夜話」で知られた第九代藩主松浦清(静山)がまさに隠居した年である。「耳嚢」と並ぶ画期的な随筆集「甲子夜話」(正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻)はこの十五年後の文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜に執筆が開始されている。……ここをかりて何気に申しておくと、近い将来、私はこの「甲子夜話」の全テキスト化を始めようと目論んでいる。……
・「痛疽」前章注で述べた通り、文字通りならば、背中などに出来る激痛を伴う悪性の腫れ物、
・「忘念」底本では右に『(亡念)』と訂正注記を附す。
■やぶちゃん現代語訳
幽霊の恩謝する事 その二
医師
病中も師安長殿が厚く世話致されたが、薬石効なく、相い果てて御座ったゆえ、安長殿も殊の外、不憫に思っておられたと申す。
ある夜のことで御座った。
安長の許へ出入致いておる薬種屋
するととっくに亡くなったはずの、かの医師、
「これは、藤蔵殿! さてさて久々に
と、申したによって、請けがった上、そこ場は別れたと申す。
さて――その日か、その翌日のことか――藤蔵、安長方へ参ったによって、
「○○さまに往来にて行き逢いまして――」
と先の
「……その者は……いついつ……とおに……相い果てて御座るが……」
と語ったればこそ、この薬種屋藤蔵も、安長殿も、孰れも大きに驚き、
「……死後の魂の念が、これ、残って御座ったものか。……このようなこともあるのじゃのぅ。……いや、全く以って哀れなることじゃ……」
と、二人して袖を濡らいたと、話に聴いて御座る。
*
婦人強勇の事
仙臺侯の醫師工藤平助といへる者有。
□やぶちゃん注
○前項連関:本格霊異譚三連発。
・「工藤平助」(享保一九(一七三四)年~寛政一二(一八〇一)年)は仙台藩江戸詰藩医で経世論家。四十歳代前半までは医師として周庵を名乗り、髪も剃髪していたが、安永五(一七七六)年頃、藩主伊達重村にから還俗蓄髪を命ぜられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようになった。安永六(一七七七)年には、築地の工藤邸は当時としてはめずらしい二階建ての家を増築、二階には
・「いつより來り給ふや」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「いつより」は『何れより』とある。それで訳した。
■やぶちゃん現代語訳
婦人強勇の事
仙台侯の江戸詰医師工藤平助殿と申すお方が御座る。
この御仁から
平助殿、若き時より三味線を好んで嗜んでおられたが、さる武家の娘、これが、たっての望みにつき、その娘に少しばかり、三味を教えことが御座ったと申す。
その娘が、そのうち年頃となって縁づいた。
先方は小身の旗本にて――後妻――亡き先妻の二つになろうかと申す娘も御座った。
ところがある
――年の頃
――忽然と現われ
――その寝ておる
――凝っと
――坐っておる。……
奥方、内心ひどく驚いたものの、よほど、勇気稀に見る強き婦人ででも御座ったらしく、その妖しき女に向かい、
「……何処(いずこ)より参られたのじゃ?」
と静かに訊ねた。
が、一向、答えも御座らぬ。
されば、なお、
「何のために来られたのじゃ?」
と再三、訊ねた。
が、またしても、答えは、これ、御座ない。
さればとて、仕方なく、その影薄き姿を凝っと――見詰めて御座ったと申す。
――が
――ほどのぅ
――何時の間にやら……一体どこへ消えたものやら……影も形も見えずなって御座ったと申す。
翌日、その
「……そ、それは……とうに、お亡くなりになった……さ、先の奧方さまに……相違御座いませぬ。……」
と申した。
すると、それを聴いた奥方は、
「……
と呟かれたと申す。
さてまた、その
奥方が
――前夜の女が再び
――今度はこともあろうに
――後架の窓より内へぬっと顔を突き入れて御座ったと申す。
これ、普通の婦人で御座ったれば、金切り声を張り挙げ、気絶すること間違いなきことなれど、やはりこの婦人、尋常の婦人にては御座らなんだ。
静かにかの女の霊に向き直ると、
「……御身は、先の奧方で御座ろう。……年若き男の、最愛の妻に死に別れては、またの妻をお迎えにならるるも、これ、常のことなればこそ、妾に恨みのあって、現われなすったのでは御座るまい。……あの、幼き
と申したところが、かの女の霊は忽然と姿の消え失せたと申す。
その
*
久野家の妾死怪の事
貮三代以前安永の
□やぶちゃん注
○前項連関:本格霊異譚四連発。
・「久野某」底本鈴木氏注に久野孝助(宝永七(一七一〇)年~安永五(一七七六)年)かとする。延享元(一七四四)年御勘定、宝暦八(一七五八)年御金奉行、安永三(一七七四)年御蔵奉行で、二年後に享年六十七歳で亡くなっている。根岸は元文二(一七三七)年生まれであるから二十七歳も年上であるが、根岸が二十一で宝暦八年に勘定所御勘定になっているから、そこで接点があったか。彼は久野『孝辰の女に入夫したが、死別して幸田氏の女を後妻に迎えた。この後妻と家付き娘の先妻とにまつわる話であろう』とされているが、岩波版で長谷川氏が不審とされているように、だとすると本文の「妾」「召仕ひの妾」という設定は如何にもおかしい。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから死後三十年も経っており、「召仕ひの妾」という設定からも久野自身から聴いたものとは思われない。後日に変形された都市伝説の類であろう。しかし、新妻の度胸も優しい心根もよく描けているにも拘わらず、新妻を置いてまで夜咄の茶事に出向く久野の人柄や、ひいては亡くなったという召使いの妾の死因など、如何にも変形が不全で、不満が残る。私のような者でももっとしみじみとしたものに仕上げるであろう。新妻の表情が豊かであるだけに惜しい気がする話柄である。
・「迎ひけるに」底本では右に『(ママ)』注記を附す。
・「夜咄」夜咄の
・「利に伏して」底本では「利」の右に『(理)』と訂正注を附す。
■やぶちゃん現代語訳
久野家の
二、三代も前のこと、そうさ、安永の頃まで勤めて御座って、私も存じて御座った久野
久野殿が嫁を迎えられた。
ある日の
月が隈なく障子を照らしてだしておる晩で御座った。
――ふと
障子に妖しき人の顔型の動いたによって、妻女は即座に起き直り、
「何者かッ!」
と声を掛けた。
しかし、答えがない。
されば、起き上がって障子に走り寄り、
――タン!
と素早く開けてみたところが
――一人の女が
――今にも縁を降りんとして
御座った。
されば直ぐに出でて追いかけ、
「
と咄嗟に髪を摑んで
――と
「……『ゆか』で御座います……」
と答えた――かと思うたら
――妻女の摑んだ髪をだけを残し
――かき消えてしもうた。
妻女は、暫く凝っと、その手の内に一房残った髪を見つめ御座ったが、何か思いついたように、懇ろにその
夜更くる頃になって、夫が帰って閨に入ってまいった折り、妻女はやおら起き直り、夫に
「……あなたさまには……
と訊ねた。
されど、いまだ新妻の来てほどなき頃で御座ったゆえ、久野殿は、
「……いや。――かつてそのようなことは、これ、御座らぬ。」
と否んだ。
するとしかし、
「……そのような頑なな言いはなさいまするな。……『ゆか』と申す召使い――これ――御座られたでしょう。……」
と名ざしたによって、久野殿は正直、吃驚仰天致いて、
「……な、
とおどおどして反問致いた。
されば妻女は、今宵御座った怪事をこと細かに語り、先に仕舞いおいた
「……どうか亡くなられたそのお方を――懇ろに
と申し出たによって、久野殿も理に伏し、かの亡き
*
即興狂歌の事
當時御勘定所を
入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。狂歌技芸譚。ラスト・シーンに少し翻案を加えた。
・「太田直次郎」既に複数話で既出の狂歌師大田南畝蜀山人四方赤良(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)は本名を太田
五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳
と詠んでいる。その後、享和元(一八〇一)年に大坂銅座に赴任しており、本話はその折りの逸話かと思われる。文化元(一八〇四)年に長崎奉行所へ赴任、文化五(一八〇八)年には堤防の状況などを巡検する玉川巡視の役目にも就いている。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、この当時は満五十七歳、長崎奉行所勤務であった。根岸よりも十二歳年下である。「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」の「四茂野阿加良」の私の注も参照のこと。
・「□宿」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に『旅宿』とある。
・「入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり」「入相にかねの火入」は日暮れに撞く「入相の鐘」に刀剣や鍛冶での「かね」(金物)の「
――入相の鐘――鐘は金物――火入れは縁じゃ――入相の鐘を撞きだすその折りに――火種を呉れろという旅人には――素直に火入れを突き出すものじゃ――いずこの里にても――入相とならば――必ず日は暮るるように――火は呉るるものじゃ――
■やぶちゃん現代語訳
即興の狂歌の事
当時、御勘定所を勤めて御座った太田直次郎と申さるる御仁、若き時には狂歌師として名高く、その名は
今はそのような風狂への執心も、これ、なさってはおられぬようじゃが、一年ほども前のこととか申す、御用にて上方へ参った折りのこと、公務の都合で午後も遅うになって
入相ころのこととて、
「あれは先般、寝惚先生と申し、東都にては狂歌に名高き人じゃて。」
と下僕の主人を見破ったによって、三人相談の上、
「『――火を乞わるるのであらば――狂歌の一つもなさるるが道理じゃ。――それも成さずば火は――出やしまへんで。』とお答エ。」
と手代に申しつけた。
手代がその通りに答えたところ、下僕は踵を返して駕籠の中の太田殿へ、かくと申し上げた。すると赤良
入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり
と
上方にても、殊にこの狂歌には感じ入って、大いに
*
屋鋪内在奇崖事
文化二の冬の
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。現職の南町奉行なれば治安維持者として市中の怪異の否定に力が入る。
・「屋鋪内在奇崖事」「やしきうちきがいあること」と読む。
・「文化二の冬」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、ホットな都市伝説である。
・「大久保余町丁」「丁」は錯字で余丁町。「よちやう(よちょう)まち」で現在の新宿区の東部、牛込地区に余丁町として現存する。旗本の組屋敷があった。
・「久貝忠左衞門」岩波版長谷川氏注に『正貞。当時小普請組支配。』とある。
・「渡邊吉左衞門」底本鈴木氏注に『有(タモツ)。寛政二年(二十一歳)家督』とあるから寛政二年は西暦一七九〇年)、当時は数え三十六歳。
・「右屋しきの先祖か抔」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『右屋敷の先々の主か、または今住む人の先祖など』とある。訳ではそれを採用した。
・「埋め澄し」底本では「澄し」の右に『(濟せし)』と訂正注がある。「すませし」と読む。
■やぶちゃん現代語訳
屋敷内に奇怪な崖の在った事
文化二年の冬の初め、頻りに、四ッ谷辺のさる屋敷の庭の中に、妖しき
その聴取した事実は以下の通りで御座る。
大久保
焚き火なんど何もしておらぬにも拘わらず、その辺りにて自然と煙りのようなものが立つことが、これ御座ったゆえ、気を付けて観察してみたところが、年中煙が立つわけではないが、確かに時として靄のようなものが立ち上ることが御座ったと申す。
ある時、
崩れた崖の斜面をよく見ると、そこには大きなる穴がある様子。されば周囲の土を取り退けてみたところが――六疊敷ほどの人工の小屋が――そこに
形状は、総て白壁を塗った如くに綺麗に仕上げてあり、その白壁土蔵の内部の片側には、土を用いて棚の如くに仕立てた箇所があり、同じくその内の一画には井戸とも言うべき形の穴が見出だされた。試みに桶を吊り下げて汲んでみたところが、採れたのはどろどろの水で御座った由。
以上の奇体なものは一体如何なるものかと、世間でも噂となり、人によっては「鬼や妖怪が棲み、奪い取った宝物を隠すと申す
私が思うには、この屋敷の先祖か、若しくは渡辺殿の御先祖かが、邸内の切岸部分に、大火の折りなどに物を避難させるための穴倉を丁寧に拵えておいたものを、後世――しかし、そうした事実が忘れられるしまうような相応の昔に――誰かが役に立たぬものとして、外見上では全く分からように埋め直し、崖に戻してしまったものであろうと推測致す。
妖しい煙が立ったと申すは、これ、地の内部に普通は生じないこのような有意に広い空虚なる場所が出来てしまったゆえ、自然と地下の湿気や熱気なんどがそこに時間をかけて溜って参り、それが一杯になった折りに、どこぞに出来た地表に通ずる孔を抜けて洩るることが、これ、時としてあった――それが煙か霞のよ如くに立って見えたもので御座ろう。また、土蔵の内部にあった泥水の井戸と申すは、一見不審奇怪とも見えるが、これも最初にこの土蔵を拵えた丁寧深慮の御仁が――謂わば、そこを火急の折りの避所として作ったと致さば――何か、こう、思うところのあって設けたもの――例えば数日の間はその内にて過ごせるだけの水を得る方途として掘らせたものの、良き水は出ず諦めたが、井戸は埋め戻さず、そのままにしておいた――なんどと考えても何ら、不思議で御座るまい。
*
強勇の者自然と其德有事
松平上總介家士に、
□やぶちゃん注
○前項連関:文化二(一八〇五)年のホットな話柄で軽く連関。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。軽いけれど、如何にも爽やかな武辺物で御座る。
・「松平上總介」諸注、備前国岡山藩第六代藩主池田
・「物頭」
・「輕く
・「登庸」「登用」に同じい。人をそれまでよりも高い地位に引き上げて用いること。
■やぶちゃん現代語訳
松平上総介池田
勇馬殿の
『……老年の
と案じ、父の前に進み出ると、
「……この
と申し出たところが、
「……何ゆえ斯様なことを申すのじゃ?」
質いたによって、
「いえ、ご高年の上の出生につき、外聞やら噂やら……これ何かとお気をお遣いなさるるのでは、と存じまして……」
と、暗に含みを持たせて濁したつもりが、勇馬老人、以ての外に機嫌を損じ、
「――何ッ!――凡そ武士たるものは、老年に至りても、子供の出生致すほどの勢いなくして、御主君の御用には立ち難しッ!! 埒もなき申し条じゃッツ!!!」
と青筋立てて叱咤されたによって、その倅も思わぬ逆鱗に触れて返答のしようもなく、ほうほうの
かの勇馬殿、親の代は医師の子であったものが、池田家へ下級の、ごく僅かな禄高にて召し抱えられ、親の代にては三百石までなったと申す。その後、勇馬殿の代となってからは、さらに加増されて六百石と相い成り、今は物頭を勤めておらるる。
先に登場致いた嫡子も既に二百石取りとなっており、相応の地位に就いて精勤致いておらるる由。
さて、その勇馬殿の同役のうちに、実子がなく、しかも年久しく宗家へ勤めておるにも拘わらず、聊かのご加増もこれない御仁が御座った。ある時、この御仁が勇馬殿に向かって、
「……御身はまさに果報と申すもので御座るのぅ。……二代続けてのご加増……それに加えて覚えも目出度くご登用なされておらるる。……我らなんどは宗家へ数代に亙って勤めておれど……そのようなことは全く以って、これ、御座らぬわぃ。……」
と申したところが、勇馬殿曰く、
「――貴殿は相応に
と即答して御座った。
満座の者どもは皆、大笑い致いたとのことで御座る。
*
不義業報ある事
上總國
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし(上総の出来事であるが、先の松平(池田)斉政の上総介はただの官職名であるから連関性を認めることは出来ない)。不義密通に絡む怪異譚。少々、訳のコーダに私の色をつけさせて貰った。
・「上總國久留里」上総国望陀郡(まくだのこおり/もうだぐん)久留里(現在の千葉県君津市久留里)にあった久留里藩。本話執筆当時(「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年)は第五代藩主黒田直方(安永七(一七七八)年~天保三(一八三二)年)。彼は第二代藩主黒田直亨(享保一四(一七二九)年~天明四(一七八四)年)の妾腹の三男であったが、享和元(一八〇一)年に甥に当たる黒田
・「石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある
・「後の妻なる者をうれひ」底本では「者」の右に『(之脱カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『後の妻なる妹は是を愁ひて』とある。これで訳した。
■やぶちゃん現代語訳
不義に業報ある事
上総国
同領は勿論、近郷近国の
さても、今から二十年以前の事で御座る。
平五郎妻の妹なる者、かの家に長逗留致いて御座ったと申す。
この妹、なかなかの美人にて、平五郎の妻よりも遥かに容貌が
しかしある年のこと、平五郎、大山石尊参詣連中――これには大勢の女連れも御座った――に参じ、妻は残り、妹は平五郎とともに石尊へと参詣致いた。
この道中にて、二人はうまうまと密通をなし、帰って御座ったが、それからというもの、妹は内に悪心を生じ、
「――何卒……姉を追い出し……
と思いの丈を平五郎に囁く。囁かれた平五郎もまた、
「――しかと――あらば……」
と、内々に密約致いて、その時より、平五郎の妻への仕打ちは、これ以ての外に苛烈にして過酷なるものと相い成った。
そのうち、平五郎と妹は二人して、あれやこれやと妻に難癖をつけては、わざとごたごたを起こいて、遂には――ありもせぬ妻の不義密通やら、妻の妄想狂乱なんどと申す流言蜚語を拵えては――妻をば、うまうまと離別致いて、その妹を――これまた、どうやったものか――すんなりと妻となして御座った。
しかるにそれより後、平五郎が方へ、
……
――蛇が出でる……
……あるいは……太く大きなる
……あるいはまた……小さく細き
――無数の蛇が出でる……
……屋敷内を……不気味にぬたくっては姿を消し……消しては……また出でる……といった怪異が続いた。……
――結局……後妻となった妹は半ば気がおかしゅうなって……ほどのぅ……病いを受け……これ……身罷ってしもうた。……
――一方……平五郎はと申さば……如何致いたものか……後妻の死の直後に……腰が抜けて……蛇のように畳をぬたくっては……今に存命である由……
と、かの国の在の御仁の語った話で御座る。
*
鳥類智義有事
在邊にて
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。久々の博物学系動物綺譚。
・「蛇の□」底本では「□」の右に『(害カ)』と傍注。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「蛇の害」とある。
・「羽蟲」鳥の羽毛に寄生する昆虫綱咀顎目ハジラミ Mallophage の類。宿主の羽毛や血液を食害吸血する。
・「七頭」底本では「頭」の右に『(ママ)』注記。
・「鷹のぬくめ鳥の……」「ぬくめどり」温め鳥。「大辞泉」の「ぬくめどり」に、冬の寒い夜、鷹が小鳥を捕らえてつかみ、足をあたためること。また、その小鳥、とある。さらに、『翌朝その小鳥を放し、その飛び去った方向へその日は行かないという』という伝承を載せる。波多野幾也氏の猛禽類専門サイト「放鷹道楽」の「鷹犬詞集(鷹狩り用語集および鷹狩り猟犬用語集)」に、『温め鳥 ヌクメドリ ハヤブサは寒い季節、夕方に小鳥を捕り、一晩握ったままでいて足を温めるのに用い、朝に逃がしてやると言われる。その小鳥。フィクション。』とあるから事実ではない。なお、この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(正字化し、歴史的仮名遣に変えた)、
鷹のぬくめ鳥の飛去りし方へは一兩日飛行せず、
となっている。「七頭」は「せず」の草書体の誤写か判読の誤りと思われる。ここはバークレー校版で訳した。
・「□に符合して」底本では「□」の右に『(暗カ)』と傍注。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「暗に符合して」とある。
・「人論」「人倫」の誤りであろう。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも長谷川氏は「論」とあるのを、右に『〔倫〕』と訂正注を入れておられる。
・「智儀」「儀」は「義」の意。
■やぶちゃん現代語訳
鳥類にも智や義の有る事
田舎にては雀が巣を作る際に、とかく、
これは蛇の害を免るるがゆえ――鳶が蛇を好み、雀の巣を襲いにくくさせると同時に、襲い来たる蛇を獲り殺して食って呉れるを頼みとしてのこと――の由。
しかし、これを聴いたある人が言うことに、
「……その雀、蛇の愁いは免れど、その鳶自身がまた、雀やその雛を襲い喰ろう愁いが、これ、御座ろうほどに……」
と疑問を呈したところが、さる御仁、
「――さればとよ。鳶は羽虫が多く湧く。鳶はその子を育てる際も、これに大いに悩まさるる。――ところが雀は、この羽虫を念入りに拾うては、それを自分の子の餌として与えて育てる。――その恩義を思うからのことか――かの己が巣の下の雀らを、これ、害することは御座らぬ。」
と答えた由。
『鷹は、一晩「ぬくめ鳥」と致いた鳥を翌朝解き放って後、その飛び去った方へは、一両日の間、飛び行くことをせず、そちらの方にては餌の鳥を獲ることもせぬもの』と知人が語って御座ったのにも、これ、暗に符合する話で御座る。
……いやいや寧ろ……今の世の人倫にこそ……智も義なきことを……これ、歎ずるばかりで御座る、の。……
*
國栖の甲の事
武田信玄
いかにせん國栖のうら吹秋風に下葉の露殘りなき身は
上州
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。標題は「
・「國栖」「國栖草」は葛唐草で唐草模様のこと。因みに、「
・「大御番」大番。常備兵力として旗本を編制した警護部隊で、江戸城以外に二条城及び、この大坂城が勤務地としてあり、それぞれに二組(一組は番頭一名・組頭四名・番士五〇名、与力一〇名、同心二〇名の計八五名編成)が一年交代で在番した(以上はウィキの「大番」に拠る)。
・「渡邊左次郎」底本鈴木氏注に、渡邊
・「打見」ちらっと見たところ、ちょっと見の意。
・「切金」金銀の薄板を小さく切って、蒔絵の中にはめ込む技法。箔より少し厚めのものを用いて図中の雲などにあしらう。
・「同庇」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『間庇』で、これだと、「眉庇」「
・「款」金石などに文字をくぼめて刻むこと。また、その文字。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『歌』。これも誤写かも知れないが、意味は通る。
・「いかにせん國栖のうら吹秋風に下葉の露殘りなき身は」底本には下の句の「露殘」の右に『(ママ)』注記がある(では「の」を補った)。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には(正字化した)、
いかにせんくずの裏吹く秋風に下葉の露の殘りなき身を
とある。この和歌は「新古今和歌集」の「卷第一三 戀歌三」に載る相模の(国歌大観一一六六番歌)、
人しれず忍びけることを、
いかにせん葛のうらふく秋風に下葉の露のかくれなき身は
のインスパイアである。元歌は、送った恋文をあちらこちらで面白がっては見せていると噂に聴いた男にへの恨み節で、
――いったいどうしたらよいのでしょうか……葛の葉裏を吹き返す秋風のために下葉におかれていた露がすっかりあらわになってしまうように……私の飽きがきた貴方のために今やすっかり世間の晒し者とされてしまった消え入らんばかりに恥ずかしく淋しいこの我が身を……お恨み申しますわ――
であるのを、戦場に、所詮、露の如くに儚い残り少なき身――命を散らす、この兜を被った武将の、不惜身命是非に及ばずという諦観と覚悟に鮮やかに転じたもの。
・「上州白井」現在の群馬県群馬郡
・「妙珍信家」(文明一八(一四八六)年?~永禄七(一五六四)年)室町末期から戦国期にかけての甲冑師。甲冑工を本職としてきた明珍家の第十七代。「明珍系図」によれば、前記の上野国白井に住し、初名を安家、後に剃髪して覚意と号したという。また、武田晴信から一字を賜って信家と改名、甲州(現在の山梨県)や相模小田原にも移り住んだともされるが確証はない。古来、鐔工として著名な信家と同一人物視されたこともあったが、現在では別人と見做されている(「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、「白井」の部分は底本の鈴木氏の注を援用した)。
・「下條伊豆守」底本の鈴木氏注に、『信州伊那郡下条村の富山城に拠った下条氏(甲陽軍鑑に下条百五十騎)は武田氏の勢力に屈し、信玄は一族の伊豆守信氏に下条の家名を襲わしめた』とある。ウィキの「下条信氏」によれば、
■やぶちゃん現代語訳
武田信玄
……その兜は
いかにせん国栖のうら吹秋風に下葉の露の残りなき身は
と彫られて御座る。
しかもこれ何と、上州
戦国の頃、甲州の侍であった下條伊豆守
*
肴の尖たゝざる呪事
老人小兒魚肉を喰ふ時、右魚の
ドウキセウコンバンブツイツタイ
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間救急法
蜂にさゝれたる呪の事
蜂の巣ある所に立寄れば
*やぶちゃん注
・「眞言」ここでは真言染みた呪文のこと。
・「栗原翁」このところ御用達の「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクティヴな情報屋で、既に何度も登場している。
*やぶちゃん現代語訳
蜂に刺された際の
蜂の巣がある場所に近寄ると蜂の毒を受けることがある。その際には「南無ミョウアカ」という呪文を唱えれば、蜂は動くことが出来なくなり、毒針を立てることも、これ、全く出来ずなるものである。蜂を
これを見るにどうも本条はこの時一緒に栗原翁から語られたもののように感じられる。
・「ドウキセウコンバンブツイツタイ」波のカリフォルニア大学バークレー校版には、
とうきせうこん萬物一體
(恣意的に漢字を正字化した)とある。
■やぶちゃん現代語訳
魚の骨が咽喉に刺さらぬようにする
老人や小児が魚肉を食う際、その魚の鋭い骨が咽喉に刺さらぬようにするには、左の呪文を唱えれば
ドウキセウコンバンブツイツタイ
*
諸物制藥有事
駿河其外にて何細工なすも、竹を林草を以て煮て遣ひぬれば、如何樣の細工をさすにも自在に
□やぶちゃん注
○前項連関:竹細工をする際に竹をしなかやに加工し易くするための処方が前半であるが、次に筍で中毒した際(後注)の民間療法が載り、魚の骨の除去処方と直連関する。以下「又」で二項、都合、この「諸物制藥有事」で三項目が示される。
・「何細工」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「竹細工」とし、長谷川氏の注に、竹細工は『駿河府中(静岡市)の名産』とある。「何」は「竹」の誤写であろう。これを採る。
・「竹を林草」底本にはこの右に『(竹煮草ナルべシ)』とある。この鈴木氏の注の付け位置からは、鈴木氏が「竹を林草」全体が「竹煮草」の誤写と判断されたことを意味している。するとしかし、本文は「竹」が示されず、如何にも読み難いものとなる。するともしかすると前の「何細工」は、実は「竹細工」の底本の誤植である可能性も出て来るように思われる。カリフォルニア大学バークレー校版は「甘草」とあり、後半部のマメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属
Glycyrrhiza のカンゾウ類を指している。しかし鈴木氏の注する「竹煮草」は「甘草」ではない。モクレン亜綱ケシ目ケシ科タケニグサ Macleaya cordata で、竹似草ともいい、ケシ科の多年草で荒蕪地に生え、茎は中空で高さ二メートル内外、葉は形は菊に似るが大きい。夏に白色の小花を円錐状につける。切ると黄褐色で有毒の汁液を出すがこの汁は皮膚病や田虫に利用される。「竹煮草」は竹と一緒に煮ると竹が柔らかくなって細工し易くなることに、「竹似草」の方は、茎が中空になって見え、竹に似ていることに由来するという(以上、「竹煮草」については、Atsushi
Yamamoto 氏の「季節の花300」の「竹煮草」の記載に拠った)。ネット上で調べると「竹煮草」が竹を柔らかくするのに用いられているのは事実である)。愛知県豊田市足助の「三州足助屋敷」という個人のブログ(?)の
「草の効能」に竹細工の籠屋さんの店先で『ヨモギなどの雑草を片付けていると「あー、それは抜いちゃダメー」と篭屋さんからストップが。 どう見ても雑草。それもなんかかぶれそうな草なのになんでこんなところにだけこれがあるのか。
「なんで~?」と聞くと「これはタケニグサっといって竹の加工に使うから抜かないでね。」と言われました。タケニグサ・・・・竹を煮るから? 確かに篭屋の前にこれだけが一本生えている理由がわかる。
でも、何の加工?防腐?虫よけ?何だろう。 再び聞いてみると、竹を柔らかく煮るのに草の汁を使うのだそう』という叙述が出て来るから間違いない。逆に甘草で検索しても、竹の柔軟剤として使用するという記載が見当たらない。甘草が竹をしなやかにさせ、その中毒にも効能があるという記載も頷けなくはないが、ここは寧ろ題名の、「諸物」(いろいろなもの――だからこそ以下に「又」で続き三項目も示されるのだと言える――)が、一つの対象(ここでは竹)の持つ属性(この場合は硬いそれ)や毒性に対し、物理的にも生理的にもそれを「制藥」(制する効果を持った薬)として作用する、という意味で採り、私は敢えてここは鈴木氏の注する「竹煮草」で採って訳すこととした。大方の御批判を俟つ。
・「葉の毒」底本には「葉」の右に『(ママ)』注記を附す。竹の葉に毒があるというのは解せない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はここを『
・「洗じ」底本では右に『(煎)』と訂正注を附す。
■やぶちゃん現代語訳
諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事
駿河その他に於いて竹細工をなすが、その際、まず竹煮草を以って竹を煮てから加工に入ると、どのような細工を致す場合にも、しなやかに折れず、自在に成し得るとのことである。
また
*
又
無益なる事なるが、火打石を
□やぶちゃん注
○前項連関:「諸物制藥有事」その二。草箒を用いるというのは、単に玄能や木槌で叩くと一点に力が加わるだけで、火花も散ってよろしくないのを、草箒を被せた上から叩くと力が分散し、火花も出ずに小さく砕けるといったことではなかろうか?
・「草ほふき」草箒。仮名遣は正しくは「くさはうき」「くさばうき」である。乾燥させたナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ(ホウキグサ)Bassia scoparia の茎や枝を束ねて作った箒のこと。小さな刷毛大のものもある。
・「以たゝくに妙也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『以たゝけば砕くる事妙なるよし』とある。その方が分かりがよいので、ここの訳はこちらを採る。
■やぶちゃん現代語訳
諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事 その二
あまり役に立つ知識ではないが、大きな火打石を小さく割ろうと思う時には、草箒を被せて叩くと、妙なくらい容易に砕けるとのこと。
*
又
梅
□やぶちゃん注
○前項連関:「諸物制藥有事」その三。対象を砕く妙法から切るそれでも連関。
・「もろこしがら」
■やぶちゃん現代語訳
諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事 その三
梅並びに梅干を種と一緒に綺麗に切るという鮮やかな手際を見せることは、これ、料理人の名技として御座るが、まず
*
俠女凌男子事
神田三河町に
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。久々の艶笑譚。米舂き男がからかった艶笑的台詞も記載されているともっと面白かったのだが。
・「俠女凌男子事」岩波版の長谷川氏の読みを参考にすると、「
・「俠女」勇み肌で粋な
・「神田三河町」ウィキの「三河町」によれば、現在の東京都千代田区内神田一丁目と神田司町二丁目付近及び神田
■やぶちゃん現代語訳
粋な姐御は男を凌ぐという事
神田三河町に、車引きを
この者、米屋に大層な借りがあって、たびたび米屋より丁稚なんどを催促に差し越させたけれども、一向に払う気配がない。
ある時、この米屋に奉公して御座った米舂きの大男、
「
と請けがって、かの又八方へと訪ねたところが、又八は留守にて、女房ばかり御座ったと申す。
されば、その米舂き、旦那のおらぬを、これ幸いと、女と見くびって、調子に乗って、ちょいと卑猥な軽口なんどを交えては、女房へ借金の催促を致いたところが、その言い合いの中で、何やらん、男が口にした言葉が、かの女房の勘に触ったものか、その女、
――グッ!
と尻捲くり致いて、
――キュッ!
と腰を捻り、米舂き男に餅のようなそれを突き出して、
「――お
――況や、て
――米の前借りは、それ、亭主のヤッたもん!
――この前の
――されば!
――それ!
――この、後ろの
――一と
と罵られ……流石の大男も……思わず赤面致いて……これ、しおしおと帰って御座ったと申す。……
……さてもこれは、その又八の隣りに住んでおる者が、これ、
*
地中奇物の事
文化貮、本所邊
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。十条前の「屋鋪内在奇崖事」は土中から奇体な家が出現する話で、遠く連関しているような印象は与える。
・「文化貮」西暦一八〇五年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三年夏であるから、比較的ホットな噂。
・「太さ貮三寸廻り、長さ又四五寸あり」金色をした円柱状物体であったらしい。円柱の周囲は約六~九センチメートル、長さは約一二~一五センチメートル。真鍮製の文鎮か?……それとも、つい、エロい私は前条に牽強付会致いて……もしや……張形だったりして!……
・「王瑛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『王渶』とする。孰れも不詳。
■やぶちゃん現代語訳
地中の奇物の事
文化二年、本所辺りのさる御仁の下屋敷にて地面を掘って御座ったところ、奇しい物が出土したと申す。
円柱状の物体であって、その胴部分の円周は凡そ二、三寸程、長さはまた四、五寸はあろうとういう代物で御座った。
更によく見ると表面に彫り附けた陰刻が御座って、
――
と記しあったと申す。
奇体なる形・色・重量にて、如何なる品物であるか、凡そ、知る者は、これ、御座らなんだ。
一説に黄金であると申す者も御座ったれど、それも確かな証言ではなく、その後の噂もとんと聴かずなった。
取り敢えずは当時聴いたままに、ここに記しおくことと致す。
*
假初にも異風の形致間敷事
予隣へ來る廣瀨何某といへる醫師、上方の産也。壯年
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「假初にも異風の形致間敷事」は「
・「予隣」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『予が
・「夜四つ時過比」午後十時過ぎ。
・「小夜着」小形の夜着。袖や襟の附いた綿入れの掛け布団の小さいもの。小さいとはいえ、冬場の夜着にこれを強引に着たわけで、もっこもこになっていたはずである。だから後文で暗い往来で見た同心が「大男にて中々手に可及躰に見え」たのではなかったか? 本文は、実は大男であったのは同心であって、それに恐れ入って広瀬が駕籠を出るというシチュエーションであるが、これではつまらぬ。ここは掟破り乍ら、恣意的に翻案改変した。悪しからず、根岸殿!
・「龜嶋町」中央区日本橋亀島町一丁目及び二丁目。
・「一さむ」底本では右に『(一散)』と注する。
・「兩組町𢌞り同心衆」これはおかしい。南町と北町の「兩組」の同心が見回りをすることはない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『南組町𢌞り同心』で、これは納得。「南町」で採る。
・「□□□□」底本は後半の「□□」は踊り字「〱」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『こわごわ』(後半は当該書では踊り字「〲」)とある。これで採る。
・「向ふる心」底本では「向」の右に『(迎)』と訂正注がある。
■やぶちゃん現代語訳
予の隣家に出入り致いて御座る広瀬
かなり壮年になってから江戸表へ来たったこともあり、未だ療治もそれ程には流行っては御座らぬ。然れども、町家の療治などは、常々誠意を以って熱心にこなして御座る由。
さて、ある夜、四つ時過ぎ頃のことで御座った。
遠方の往診などの際に普段から
「
と泣きを入れ、駕籠ごと一緒について御座った相棒と一緒になってしきりに頼み込んで御座った。
されば、夜もはや更けて御座ったに加え、二人が殊の外急かしたよって、その両人に駕を
亀島町辺りまで至ったところ、前方から誰かが泡を吹いて駆けて参った様子。
それがまさに当の駕籠舁きの者のところから参った者で御座ったが、これがまた慌てふためいて、
「と、ともかくヨ! は、早く帰ってくんない!」
と言い捨ててまた、韋駄天の如く、戻って行ってしもうた。……
駕籠舁きの男は、
「……か、嬶に何ぞ、あったもんか?……せ、
とこれまた、慌てふためくや、相棒の腕を引っ摑んで、鉄砲玉のように一散に走って行ってしまう。……
……少しのうちなればとて、駕籠は往来のど真ん中に捨て置かれた風情。
さ……ても、そこに折柄、南組町廻りの同心衆が巡邏に参った。
見れば往来の真ん中に駕籠を乗り捨ててある。
如何にも、と訝しんで、
「……内に人や在る?」
と訊ねたところが、
「……
と答える。
「然らば出ませッ!」
と命ずる。
広瀬はよんどころなく、駕籠をめくったが、
同心は暗闇の駕籠内に充満するようなその奇体な影を、いよいよ怪しい奴と思い定め、さらに近寄って見たところが……
……何かゆっくらと駕籠より這い出る
……その姿は
……これ
――異様なまでに図体の膨らんだ大男……
『……こ、こ奴……なまなかなことでは手におえそうな輩ではないぞ!……』
と、同心は、
――カチャ!
と鯉口を切った!
……と
……連れの配下の者に灯を差し向けられた瞬間、同心が、
「……おや? 御身は……広瀬殿では御座らぬか?!」
よくよく見れば、これ、かねてより懇意の庄五郎と申す同心で御座った。
広瀬はといえば、ここで初めて安堵致いて、しかじかの由を語って御座ったと申す。……
……さても……流石に同心のことなれば、庄五郎は自分の方こそ広瀬を奇体な大男と内心びびって御座ったことは……まあ……これ、言わなんだは申すまでも御座るまい。……
……さてもまた……先の駕籠屋の者はといえば、こちらはこちらで、実はたち帰ってみたところが、女房は既に半ば子をひり出して御座ったによって、外にろくな人手もなければこそ、引き連れ帰った相棒を頼みと致いて、
*
淸潔の婦人の事
上總國長者町何某の養女こと、同國岩倉村といへるは七面山の半腹の所へ嫁しけるに、聟は婚禮の席一寸出し儘にて、親類抔
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。一見、怪談仕立ての市井貞女譚。所謂、俠女、根岸好みの話という気がする。因みに、明らかに次の「河怪の事」を根岸に話した上総国夷隅郡出身の「
・「上總國長者町」現在の千葉県いすみ市
・「岩倉村」未詳。長者から西北西に約四キロメートルの同いすみ市岬町内に岩熊という地名があるが、疑問(次の七面山の注を参照)。
・「七面山」長者から南西約十五キロメートルの千葉県勝浦市杉戸にある日蓮宗長福寺の裏山の、三二〇段の石段
・「婚調」底本には右に『(婚姻カ)』と注する。
・「大怪」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では二箇所とも『夭怪』。「えうくわい(ようかい)」は「妖怪」と同義で、こちらの方が訳し易いので、ここは大いなるアヤカシではなく、妖怪と訳した。
・「身の毛よだつ斗なれば、彼女氣丈なる者にて其夜を明しけるに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『身の毛もよだつ斗なれど、彼女氣丈なる者にて其夜を過しけるに』(正字化して示した)とあって逆接の接続助詞が自然。接続部はこちらの方で訳した。
・「懷たい」底本には右に『(懷胎)』と注する。
■やぶちゃん現代語訳
清廉なる婦人の事
上総国
ところが婚礼の当日は、
かの新妻は詮方なく、奥の
『……
と思い直し、独り臥して御座った。
折から――聞き慣れぬ七面山から吹き降ろす風の音の――そのもの寂しげなるに
――そうして
「…………三日とは…………ここへ…………置かぬぞぇ…………」
と呟く声……。
『……こ、これは……全く以って……妖怪に相違ない――』
と、身の毛もよだつばかりになったれども、この
しかし翌朝になっても一向に、聟殿は姿を現わす気配も、これ、御座ない。
そのまま暫く過ぎた、ある夜のことで御座った。
かの聟殿、ぶらりと現われたかと思うと、閨へ導き、
ところが――未だ深更にも至らざるうちに――またしても、家から姿を消して御座った。
そうして、そのまんま、また、何日も姿を現さず御座ったと申す。
あまりに不思議と申すより、最初の夜のアヤカシの言葉も不審に思うたによって、近隣の者なんどに、それとのう訊いたところが……
……この独り者の亭主なる男には、唯一の近親と申す血を分けた弟が御座った。ところが、つい最近のこと、身罷ってしもうたと申す。然るにこの兄なる男、その
これによって始めて、過ぎしあの夜の女の泣声は、これ、覗きに参ったその弟の後家の恨みの声にして、妖怪にてはあらなんだことを悟り得たが、
「……それにしても……弟の身罷ったその涙の干ぬ間に、その亡き弟の嫁と密通致いたと申す――そが
と、夫の親族の誰彼の方へと赴いて小気味よき啖呵を切っては、見限って、さっさと里へと戻って御座ったと申す。
しかしながら、
本話を語った者の言によれば、今もその
*
河怪の事
[やぶちゃん字注:「※」=「扌」+「段」。]
□やぶちゃん注
○前項連関:ロケーションが上総夷隅郡で一致。前の話もこの七都なる人物が話者と考えてよかろう。この蜘蛛の怪の相同的類話は広域に見られる。国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」で「蜘蛛 糸」の検索を掛けただけでも、宮城県本吉郡旧小泉村・福島県東白川郡塙町大字川上・同伊達郡国見町・埼玉県秩父郡皆野町日野沢・長野県南佐久郡北相木村・神奈川県津久井郡・静岡県浄蓮の滝・愛知県東加茂郡下山村・岐阜県郡上郡和良村・滋賀県伊香郡余呉町・和歌山県伊都郡九度山町・徳島県美馬郡一宇村・鳥取県西伯郡西伯町・熊本県等のステロタイプなそれを確認出来る。私の地元鎌倉でも源平池の畔の話として酷似した昔話が伝わっている。因みに、この藪の中から「よし」と答えるのは、果たして、やはり蜘蛛の仲間なのだろうか? 五つ後の河童の難を語る「川狩の難を遁るゝ歌の事」との強い連関性から考えると、これは実は蜘蛛は水中で河童に操られているのであり、藪の中から見張っているのもその同類の河童であると考える方が自然であろう。
・「
・「上總國夷隅郡大野村」現在の千葉県いすみ市大野。先の話柄に出た長者町の西南西約九キロメートルに位置する。
・「幅拾間」川幅凡そ十八メートル。夷隅川の支流大野川と思われる。
・「字※の井戸」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『字樅の井戸』とする。読みその他不詳。淵らしいが「井戸」という呼称も不審。「じもみ」と読んでおく。
・「七都俗なりし時よく魚の釣れるを□し水中より蜘出て」一字分とは思われない脱落が疑われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『七都俗なりしとき、
■やぶちゃん現代語訳
河の怪の事
この者は上総国
「……その大野村の内を流るる幅二十間ほどの川が御座いましてのぅ、その川中に通称「
すると、足元の
暫く致しますと、またしても……するするっ……と水より出でては、糸を指へ……しゅっ……と掛けるので御座います。……
……するするっ……しゅっ……するするっ……しゅっ……するするっ……しゅっ……
と、これを何度も何度も繰り返しまして、これ、指どころか、我らが足首の過半まで糸を掛け、それはまあ、帯のように、きらきらと輝いて御座いましたのじゃ。……
何かこう、訳の分からぬながら不吉な感じがふっと
さても、一体、このちんまい畜生は、何をどうするつもりか、と凝っと見ておりますと、また、前の如く……
……するするっ
……と水より出でて
……しゅっ
……と、棒杭に糸を掛け、再び
……するするっ
……と水の中へと、戻りました。……
……と……その時で御座る……
――何かが
――水の
「――ヨイカ?――ヨイカ?――」
と問うたかと思うと、かの対岸の藪の内より、
「――ヨシ!――」
と答える。
――と
――その瞬間
――バキッツ!
と音を立てて、かの根太き棒杭――
――これ――ものの美事に
――ど真ん中より
――折れたので御座います。……
……いやもう! 大きに驚き、這うようにして逃げ帰って御座いました……。」
*
古狸をしたがへし強男の事
上總國勝浦に山道の觀音坂といふ所有。今は昔大き
□やぶちゃん注
○前項連関:上総国の怪奇民話譚で直連関。やはり座頭
・「上總國勝浦」現在の千葉県勝浦市。千葉県南東部の太平洋に面し、上総地方の南部に位置する。前話の夷隅郡(現在の千葉県いすみ市)とは北東で隣接する。
・「觀音坂」不詳。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。
・「者もの」底本、右に『(衍字カ)』と注する。
・「友立」底本、右に『(友達)』と注する。
・「怪にもあい」の「あい」には、底本では『(ないカ)』と注する。「逢ふ」と「無い」のダブルで訳しておいた。
・「むしけ」は「虫気」で、通常は、主に寄生虫によって引き起こされると考えられた子供の腹痛・ひきつけ・疳の虫などの症状や、広く大人の腹痛を伴う病気(陰陽道や庚申信仰では腹中に潜む
■やぶちゃん現代語訳
古狸を成敗致いた剛勇の男の事
上総国勝浦に観音坂と申す山道が御座った。
今となっては昔のこととなってしもうたが、そこには大きなる榎があったが――この榎の前を通る者の頭を――誰やらん、知らぬ間に剃って丸坊主に致す――という、
ある時、在所の腕っぷし自慢の若者が、
「儂がかの
と友達連中に誓い、所持して御座った脇差を帯びて、深夜になって独り、かの観音坂の榎へと至り、その根がたにすっく立ち、脇差を抜き放って、
「妖怪! 今にも出んかッ!!」
と勢い込んで待ち構えてみたものの、これ、いつまで経っても何も起こらなんだと申す。
「てへッ! 臆病な奴に限って、
と自画自讃、夜も明けたので村へと帰り、まんじりともせず待って御座った友達連へ、
「妖怪の仕業なんぞ、ヘッ! これ、さらに、ないわいの!」
と意気揚々と語って御座ったが、何故か皆、蒼くなったままおし黙って御座った。
「おい! なんじゃ! 儂の言うことが信じられんのかいッ?!」
と若者が気色ばんだところ、皆、口を揃えて、
「……お前……」
「……そ、それ……」
「……お前さんの……頭……」
「……触ってみぃな……」
と申したによって、かの若者、恐る恐る、
――いつの間にやら
――つんつるてんの
――丸坊主になって御座った。
丁度その時、近くに住んで御座った〇〇と申す男が、この顛末を見知って、
「さても口惜しき
と彼らに言上げ致すと、少々覚えのある
「……まずは……迎え討つ立ち位置じゃ――」
と、榎の頂には何もおらぬを見届けた後、高みにある太き枝の上に登り、今や遅しと様子を窺って御座った。
すると、ほどのうして隣に住む者が木の根がたへとやって参る。
「――〇〇どん! 榎の上たぁ、危ねえよ!……いやいや……それどころじゃあ、ねえんだわ! お前さんの
と、申す。
確かに嬶はそろそろ産み月に
「――我ら、友達らと確かな約束をなして参ったものじゃ。お前さんがこうして知らせくれたは
と
「……しゃあないなぁ……」
とぼやきながら、詮方なく、この迎えの男は帰っていった。
さてもしばらく致すと、また別の知り合いが一人やって参り、
「――お前さんの嬶の産は済んだ。……じゃけんど……ひどい難産じゃったで、の!……言っちゃあなんだが……はなはだ、ようないんじゃ! どうか一つ、帰ってやって、くんないッ!」
と、申す。
ところが、
「――たとい我らが妻――それをもって相い果つるとも……今宵ばかりは――帰るわけには参らぬ!」
と、またしても頑として取り合わぬ。
さてもそれよりまたしばらく過ぎた後のこと、今度は彼の村の名主がやって参った。
「――配下の者をたびたび迎えにさし越したにも拘わらず、戻らなんだによって、我らが直々に参ったぞ!……のぅ、〇〇よ!……御身の妻女は……これ、既にして……身罷って御座ったぞッ!……かくなっては最早、詮ないことじゃが……葬送のことも、これあればこそ……まずは! さっさと! 戻って御座るがよいッ!……」
と叱りつけた。
すると男は、
「――名主さまの申さるることにても――
と覚悟の
「……あまりに非道な……」
と、名主は涙にくれて呟くと、とぼとぼと坂を下って行った。
それからまた大分経って、榎の上から見ておると、今度は小さな
近づくそれは、何と! 棺桶のようなものを担いだ男で御座った。
その男は、榎の根がたへと辿り着くと、棺桶をそこに据え置いて、薪を組み、火をかけて、そのまま帰って行った。
――燃え上がる棺桶……
と!
――その火の中から桶の上蓋を破って!
――経帷子を着た男の死んだ女房が!
――これ! 髪を振り乱して踊り出でたかと思うと!
「…………我ラ……産ニ苦シミ……遂ニ儚クナッタニ……オ帰リニモナラデ……一目死ニ目ニモ
と、烈しき恨み事を罵りつつ、そのまま、
――ズルッ!
――ズルッ!!
と!
――榎に!
――爪から血を噴き出だしながら!
登って参ろうとする!
と!
その時、男はやおら、腰に差した脇差を抜き放つと、枝から体を捻って飛び降りざま、
――タァアッ!
の掛け声とともに、幹に齧りついて御座った亡者を、
――これ!
――背中で一刀両断!
――真っ二ッツ!
「ギャッツ!」
と叫んで落ちる榎の根がた……
されば男は、最初、木に登る前に、辺りの木の又枝の間の
……が……
……これ……
……紛れもなき……
……己が女房であった。……
……恨みの鬼の形相の儘に……
……カッと、眼を見開いて……
……とうに息絶えて御座った。……
「……こ、これは……い、一体……い、如何なることじゃ?!……」
と思うたものの……どうにも、これ――事実とは――何か、合点がいかなんだ。
さればこそ、
「――未だ正体を現さざるものに相違ない。……今少し……そうじゃ、今少し、夜の明くるを待とう!……」
と気を抜かず、凝っと、女房の血まみれの遺骸から眼を離さず御座った。
そのうちに夜も明けて、村の者どもがやって参ったゆえ、己が家内の様子を訊ねてみたところが、
「……いんやぁ、おかみさんは産気づいてなんぞ……おらんはずやでぇ?」
と申す。
用心のため、家に人を走らせて確めたところが、やはり妻には何事ものう、無事息災である由なれば、ようよう、男も安堵致いた。
と、ちょうど、その知らせを受けとった折り、男は、かの遺骸から
……ところが……
……これ、みるみるうちに……
……哀れ、断末魔の面つきの妻の姿であったその死骸は……
……形が崩れ……
……そうして……
……何か禍々しき……
……別なる何かに……
……変じて……
……ゆく――
……遂に……
……終いには……
……これ……
――血みどろの大きなる古狸となって、御座った。…………
*
幽靈を煮て食し事
文化貮年の秋の事也。四ツ谷のもの夜中用事ありて通行せし道筋に、白き
□やぶちゃん注
○前項連関:怪談(但し、こちらは誤認)話で連関。私の山の先輩は若い頃に雷鳥を焼いて食ったことがある(美味であった)と聴いたが、サギを食ったという方は知らない。味を御存知の方は、是非、ご一報を。
・「將束」底本では右に『(裝束)』と訂正注を打つ。
・「ごひ鷺」コウノトリ目サギ科サギ亜科ゴイサギ Nycticorax nycticorax。ウィキの「ゴイサギ」によると、全長五八~六五センチメートル・翼開長一〇五~一一二センチメートル・体重〇・四~〇・八キログラムで上面は青みがかった暗灰色、下面は白い羽毛で被われる。翼の色彩は灰色。虹彩は赤いく、眼先には羽毛が無く、青みがかった灰色の皮膚が露出する。嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は黄色、とある。知らずに闇の中に立って振り返られれば、これは、確かにキョワい!
■やぶちゃん現代語訳
幽靈を煮て食った事
文化二年の秋のことで御座る。
四ツ谷の在の者、夜中に用事があって外出致いた道筋に、
……白き装束をなしたる……妖しい者が……これ……先へ立って歩く……
やに、見えた。
……何やらん……その挙措……これ……人とは思えぬ……
なればこそ、おっかなびっくりさらに様子を見てみると……
……これ……
……腰より下は……見えぬ!!
『スワっ! こ、これぞ、ゆ、幽霊というものカッ?!』
と、恐怖と興味の半ばして、抜き足差し足、跡をつけて行ったところが……
……そ奴が! これ!
……すくっと止まって!
……急にふり返る!
……その顔は!
……大きなる眼(めえ)が!
……ただ一つ!
……光っておるばかり!
さればこそ、
――ヒエッ!
と叫ぶが早いか、
『取り殺されんカッ! 最早、これまでじゃッ!』
と、抜き打ちに切りつけた!
と幽霊、
――ギャッツ!
叫んで
――バッタ!
音を立てて倒れる。
さても手応えあって倒れたによって、男は勇気百倍、幽霊を、これ、捕って押さえ、
――ブスッ!
と刺し殺いた!……
……動かずなったによって近寄ってよう見てみたところが……これ……何のことはない……大きなる五位鷺じゃった……
……されば、そのまま担いで長屋へと帰り、近隣の若い衆を招き寄せると、捌いて煮込んで、『いうれい鍋』と洒落て、
これを『幽靈を煮て喰った』とは、近頃、専ら巷の噂となっておる、とのことで御座る。
*
備前家へ出入挑燈屋の事
備前家より五人扶持
□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、夜道のロケーションが続いて不思議に違和感なく続いて読める。
・「備前家」岡山藩池田家。岡山藩は備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩。藩庁は岡山城。殆んどの期間、美濃池田氏池田恒利を祖とする池田氏が治めた。
・「新太郎少將」池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)のこと。播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩初代藩主・岡山藩池田宗家三代。池田利隆長男。新太郎は通称で官位は従四位下左近衛権少将(贈正三位)。寛永九(一六三二)年、叔父の岡山藩主池田忠雄が死去、従弟で忠雄嫡男の光仲は未だ三歳で山陽道の要所たる岡山は治め難しとされて、幕命によって江戸に呼び出され、因幡鳥取藩主から岡山三一万五〇〇〇石へ移封された(以後「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなる)。熊沢蕃山を招いて仁政に努め、質素倹約の「備前風」を奨励、津田永忠を登用して新田開発を進め、藩校
・「由井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年〜慶安四(一六五一)年)は軍学者で討幕を計画した慶安の変(慶安四(一六五一)年四月~七月)にかけて起こった事件の首謀者。駿府出身と伝えられ(詳細は不明)、楠木正成の子孫を自称、神田に楠木流軍学塾張孔堂を開き、幕閣批判と旗本救済を掲げて浪人を集め、幕府転覆を画策したが、一味の丸橋忠也の逮捕によってクーデターが事前に露見、駿府
・「□」底本には右に『(積カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はズバリ、『拵へ候積りにて』である。
■やぶちゃん現代語訳
備前家へ出入りの
備前家より、何と――五人
この提燈屋は、これ、かの新太郎少将光政殿の御時よりの、岡山藩御用達で御座る。
かの凶悪の謀略家由井正雪、この新太郎少将がことを、これ、甚だ
提燈屋は、普段、
「……かくかくの御用を承りましたれど……その……今一度、数なんど確かめとう存じまして……」
とさりげなく申し立てたところが、家士一同に
「――いや……当家にては提灯を注文致いたと申す儀は、これ、ないが。」
と答えたところ、
「……やはり!……実はこれこれの風体を致いたる、怪しき男が……」
と訳を話したによって、
「……!……相い分かった!……よくぞ、知らせて呉れた! 礼を申すぞ!」
と役方の者は即座に奥へと参り、この何やらん、不穏なる事態を申し上げたところが、光政殿は、
「――されば――その
とお答えになられた。
その提燈屋に代々申し伝えられておる話によれば……
……何でもその頃、少将光政殿はしばしば
「……今も相応に貧しからざる暮しを、この提燈屋、致いて御座いまする。……」
とは、かの池田家御家中の内の、さる御仁の物語りで御座った。
*
先細川慈仁思慮の事
□やぶちゃん注
○前項連関:大名家逸話で連関。粋な男だねえ、この頃の細川さんは、ね。
・「先細川越中守」細川
・「慈仁」情け深いこと。
・「質人」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『賢人』とする。当然、「賢人」を採る。
・「同□の方へ」底本は『(卿カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『同席』とする。「同席」を採る。
・「難義由」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『
■やぶちゃん現代語訳
二代前の細川越中守
さる御同役の御屋敷に上客として饗応をお受けになられたところが、さても、膳が一通り出だされた砌り、その飯の蓋をお取遊ばされてみたところが――椀の中には――これ――飯どころか――何も――入って御座らんだ――と申す。
と、越中守殿、柔和なるお顔のまま、さっと蓋を戻さるると、
「――さても――まっこと、
とて、一座の方々に無礼を謝し、その座をお立ちになられ、ゆうゆうと
厠よりお出にならるると、厠の外にて
「……かくかくの次第で御座った故、の。このこと、あからさまに申さば、御当家の配膳その外の者どもの、これ、忌々しき不調法ということにもなろうほどに。……我ら、これより、また座にゆるりと参る。……戻ったならば、そなた、御当家の者に、ここは一つ、
『我が
と申し上ぐるがよかろう。」
と仰せられたによって、一切の
「はッ! あり難きお心遣いに御座いまする!」
と肯んじ、その御家来衆より、御当家の配膳の者にだけ、内々に相い通じ、一座の方々の膳の飯も総て引き替えられて御座ったと申す。
後に、このことを、その折りの重賢殿を饗応なさった御当家の内輪方々で、見き聞きして察した者どもは皆、
「――何とまあ――あり難き御
と、大層、讃仰申し上げたとのことで御座る。
*
川狩の難を遁るゝ歌の事
上總國夷隅郡岩和田村半左衞門と
ひふすべに飼置せしをわするゝな川立おとこうぢはすがわら
右のひよふすべといふは、
□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、五つ前の「河怪の事」と同じ夷隅郡、しかも川の怪奇譚で強く連関する(その前後も上総が舞台の民話・世間話)から、これも当該話の話者である
・「岩和田村」現在の千葉県夷隅郡御宿町岩和田。網代湾の東北部分の臨海地区であり。直近の河童が棲息しそうな川は、網代湾奥から御宿町を蛇行しながら縦断する清水川と考えられる。
・「夢承相」意味不明。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『
・「ひふすべに飼置せしをわするゝな川立おとこうぢはすがわら」「ひふすべ」は後に記される「ひよふすべ」で、これは河童の一種とされる妖怪の名である。他にもひょうすえ・ひょうすぼ・ひょうすんぼ・ひょうすんべ等とも呼び名する。以下、ウィキの「ひょうすべ」によれば、佐賀県や宮崎県を始めとする九州地方に伝承されるもので、佐賀県では河童やガワッパ、長崎県ではガアタロの別名ともされるものの、実際には河童よりも古くから伝わる呼称ともされる。元の起源は古代中国の水神・武神であった
「飼置せし」「かひおきせし」と読むのであろう。道真が契約によって彼らを保護使役(飼いおく)したことというニュアンスであろうか。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの歌、
ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら
で後で見るように、この句形の方が知られており、しかも分かりがよい。今回、訳ではこの句形を採用することとした。
「川立おとこ」泳ぎの上手い男。
底本で鈴木氏はこの歌に、『これとほぼ同じ歌は河童除けの呪歌として各地に伝えられている。たとえば『諸国俚人談』には肥前国諫早の例として、『中陵漫録』には豊後の例として出ている。『物類称呼』には九州で川下りをする時に、「古の約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」と唱えるとある。かつて河童が菅原氏の人に糾明せられて、助命と引換えに今後は人間にわるさをせぬと約束したという説話がこれに伴うべきであろう』と注されておられるが、まさに先の北野天満宮の、道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童が逆に道真に手を切り落とされ、普遍的な河童の詫び状伝承に見られるようにそれと引き換えや謝罪のために、万能の霊薬の製造法や言質状を差し出すというパターンである。なお、鈴木氏の挙げた和歌を含むものを仔細に見ておくと、
「諸国俚人談」(俚は里とも書く)は「卷之二 四 妖異部 河童歌 肥前」に載る以下である(底本は吉川弘文館昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成」第二期第二十四巻を用いたが、恣意的に正字化した)。
〇河童歌
肥前國諫早の邊に河童おほくありて人をとる。
ひやうせへに川にたちせしを忘れなよ川たち男我も菅原
此歌を書て海河に流せば害をんさずとなり。ひやうすへは兵揃にて所の名なり。此村に天滿宮のやしろあり。よつてすがはらといふなるべし。〇又長崎の近きに澁江文太夫といふ物、河童を避る符を出す。此符を懷中すれば、あへて害をなさずと云。或時、長崎の番士、海上に石を投て、其遠近をあらそひ
「
〇河太郎の歌
河太郎の人を害する事希にあり。怪しき川に入り水を浴し、又魚を釣るべからず。奥州には此害なけれども、西土には時々此害に逢ふ。此爲に豊後の某、河太郎を禁る事を知て靈符を出す。若し獵に行、或は怪しき水を渡りし時は、此歌三遍祝すべし。其害を防ぐ事、信にしかりと云へり。
ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原
「禁る」は「いさめる」、「信に」は「まことに」と訓じていよう。
さて、以上を綜合して考えると、この歌は、
――ひょうすべどもよ、お前らが人に悪さを致さぬと私と約束したことを忘れるな! ひょうすべなんど、物の数ではない、何層倍も泳ぎの達者なその男の
という、史上最大級の御霊のチャンピオン、道真由来の呪歌の、かなり、ステロタイプな一つであることがよく理解されるのである。
・「官神」底本では右に『(菅神)』という訂正注がある。
■やぶちゃん現代語訳
川漁の際に河童の難を遁るる歌の事
上総国
「……実はこの頃、夜の
と語ったによって、半左衞門は『
その古歌と申すは、
ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら
と申す一首なそうな。
この和歌の「ひよふすべ」と申すは、
*
疝氣妙藥の事
□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、河童の呪歌による河童被害から逃れる法はこの民間療法シリーズに当時にあっては大真面目に内包されるものと思われ、私などにはスラーのように自然に続いて読める。以前にも述べたが根岸は疝気持ちであった。なお、年記載から本話が極めてアップ・トゥ・デイトな記録であることが分かる(以下の「狩野友川」の注の終わりを参照のこと)。
・「狩野友川」絵師狩野寛信(安永六(一七七七)年~文化一二(一八一五)年)。別号、融川(友川)後に青悟齋。浜町狩野家(江戸幕府御用絵師御三家の一つで公的に認定され世襲で旗本扱いであった)五代目当主であったが将軍徳川家斉の時、朝鮮王へ贈る近江八景の屏風絵を描くよう命ぜられたが、老中(底本の鈴木氏注では『阿部豊後守』とするが、文化一二年当時の老中には該当者がいない。阿部姓だと書画をよくした阿部
・「腰痛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『服痛』とあり、長谷川氏が「服」の右に『〔腹〕』と訂しておられる。疝気であれば確かに服痛の方が自然ではある。ただ疝気は特に女性に多くみられる服痛や男性の睾丸痛を指す語であるので、部位として「腰痛」という表現は必ずしもおかしくない。
・「西國米」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『四国米』とする。実は「西国米」はある。これで「せーかくーびー」「しーくーびー」と読み、一つは沖縄宮廷料理に用いる澱粉で作った米粒状のものを茹でて砂糖水に浮かせて供するものを指し(沖縄の「料亭那覇」の公式サイトのここを参照した)、またネット検索で沖縄方言では現在そうした伝統料理に酷似したタピオカのことをかく言うことも分かった。なおタピオカは植物名ではなく、料理(デザート)名で、バラ亜綱トウダイグサ目トウダイグサ科イモノキ属キャッサバ
Manihot esculenta の根茎から製造したデンプンで、ご存知の通り、菓子の材料や料理のとろみ付けに用いられる他、つなぎとしても用いられるものである。参照したウィキの「タピオカ」に、我々がしばしば中華料理のデザートで見る球状のタピオカについて、以下のように記述がある。『糊化させたタピオカを容器に入れ、回転させながら雪だるま式に球状に加工し、乾燥させたものは「スターチボール」、「タピオカパール」などと呼ばれ、中国語で「粉圓」(フェンユアン
fěnyuán)と呼ぶ。煮戻してデザートや飲料、かき氷、コンソメスープの浮身などに用いられる。黒、白、カラフルなタイプとさまざまな色が着けられた製品がある』。『従来より、サゴヤシのでん粉で作られ、「西穀米」(中国語
シーグーミー、xīgǔmǐ)、「西米」(シーミー、xīmǐ)と呼ばれていたが、現在は安価なタピオカに切り換えられているものが多く、「西米」という呼称も避けられている。また、大きい粒には食感調整のために甘薯(さつまいも)デンプンが加えられていることが多い』。『このタピオカパール、スターチボールをミルクティーに入れたタピオカティー(珍珠奶茶)は、発祥の地である台湾はもとより、現在では日本や他の東南アジア、欧米諸国などでも広く親しまれている』。『中華点心では小粒のものを煮てココナッツミルクに入れて甘いデザートとして食べる。他に、ぜんざいのように豆類を甘く煮た汁と合わせたり、果汁と合わせたりもする。台湾や中国とつながりが深い沖縄では、「西穀米」の福建語読みが語源と思われる「シークービー」または「セーカクビー」という呼び方で、伝統的に沖縄料理のデザートとして利用してきた』。乾燥状態で直径五ミリメートル『以上の大きな粒の場合、煮戻すのに2時間程度かかる。また、水分を少なめにして煮ると粒同士が付きやすくなるので、型に入れて冷やし、粒々感のあるゼリーの様なデザートを作ることもできる。欧米では、カスタード風味のタピオカプディングがよく知られている』とあり、この記載から実はこの狩野が飲んだ「西國米」(せいかくーびー)はサゴヤシである可能性が高いことが分かる。サゴヤシはマレー語・インドネシア語の“sagu”の英語化した“sago”と椰子の合成語で、樹幹から現地で「サゴ」と呼ぶ食用デンプンが採取出来るヤシ科やソテツ目の植物の総称である。参照したウィキの「サゴヤシ」によれば、『サゴはヤシ科のサゴヤシ属(Metroxylon)など11属から採れるほか、ソテツ目のソテツ属(Cycas)など3属からも採れる。英語ではサゴが採れるソテツ属の植物も sago palm と言うことがある』とあり、『サゴヤシは東南アジア島嶼部やオセアニア島嶼部の低湿地に自生する。サゴヤシの植物学的な研究は発展途上であり、原産地は未だ解明されていない』。『東南アジアではイネの導入以前に主食の一端を占めていたと考えられている。南インドでも食べられている。パプアニューギニアでは現在でもサゴヤシのデンプンを主食とする人々がおよそ30万人いる。一方、ミクロネシアやポリネシアではほとんど食べない』。『ソテツ属のソテツから取るデンプンは琉球列島や南日本でも食用とされていた』と「分布・地域誌」を述べ、続く「歴史」の項では『文献記録上最も古い言及は、マルコ・ポーロの旅について書かれた13世紀の『東方見聞録』ではないかと言われている。文中に「スマトラには、幹に小麦粉が詰まった喬木がある。木の髄を桶に入れて大量の水を注ぎしばらく置くと、底に粉が沈殿する。この粉で作ったパンは、大麦のパンに味が似ている」との記述がある』とする。そして「利用法」の項の記述の中に『キャッサバの芋から取るデンプンのタピオカを加工して作られる球状のタピオカパールと同様に、サゴからもサゴパールが作られる。サゴから作ったパールの方がタピオカパールよりもずっと歴史が長く、東南アジアからヨーロッパ、中国、台湾、琉球王国などにも輸出され、中華圏では「沙穀米」や「西穀米」、琉球では「セーカクビー」などと称された』と出、しかも本「耳嚢」の記載より遙か昔の、天正一九(一五九一)年に明の
・「黄はく」底本には右に『(黄檗カ)』と補注する。ムクロジ目ミカン科キハダ Phellodendron amurense で、「黄檗」「黄膚」「黄柏」とも書く。この樹皮を乾燥させた黄檗(オウバク)は生薬として有名であるが、実は聞かない。ウィキの「キハダ」の「生薬」の項によれば、『樹皮の薬用名は黄檗(オウバク)であり、樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれている、また黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』と記した後に、『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』とあるから、食用が可であること、されば本邦の民間薬として用いられた可能性が高いことが窺われる。
・「名□唐藥也」底本には「□」の右に『(詮カ)』と補注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はこの部分、前文から続いて、以下のように一度切れて、続く。
……といふ人あれどたしかならず。唐薬なり。
バークレー校版で訳した。
■やぶちゃん現代語訳
疝気の妙薬の事
御用絵師
同人は私同様、疝気持ちであられ、とかく刺すような腰の痛みが常に致いて、大いに苦しんで御座ったとのことであったが、ある御仁が、
「
と語ったによって、薬種屋にて求めて、欠かさず服用致いたと申す。
すると、かの
文化三年、私の元へ参られ、絵を描いていただいた折りにお話し下された。
この西国米と申すは
*
恩愛奇怪の事
神田明神前よりお茶の水へ出る所は、
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。直近の都市伝説霊異譚で五つ前の文化二年の「幽靈を煮て食し事」と直連関(但し先のものは擬似霊異譚)。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、アップ・トゥ・デイトな噂話である。
・「神田明神前よりお茶の水へ出る所」湯島聖堂があった現在の外神田二丁目の神田川の外堀通り沿いに当たろう。
・「神田の知人共に立かわりけるに有が中」底本では「有が中」の右に『(ママ)』注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
神田の知る人共に
となっている(正字化し読みも歴史的仮名遣に変えた)。これで訳す。
・「巷あり」底本では右に『(説脱カ)』と注記を附す。カリフォルニア大学バークレー校版『巷説』とある。
■やぶちゃん現代語訳
恩愛が奇怪なる現象を引き起こした事
神田明神前よりお茶の水へ出ずる所に、
文化三年、当年とって六歳になる娘が御座った。
この子は二、三歳の時より、筆を執ってはいろいろと書写致すこと、これ、大人の者のそれの如き素晴らしき能筆にて、父母の寵愛は、それはもう、大かたならざるもので御座った。
いつしか、船宿をも移転致いて、両国辺りへ引っ越したと申す。
いよいよ、かの娘の
さても臨終の間際、母は歎きのあまり、いろいろと叫びたて、それはもう、狂気致いた者の如くにて、娘の生死につきて、訳の分からぬことを、あれやこれやと口走っては歎いて御座ったと申す。
すると、かの娘は熱にうなされながら、
「……懐かしい神田へ参りまして御座います……さればこそ……また……お逢い申すことが叶いましょう……ご案じなさいますな……」
と答えたと申す。
母は、それを聴くと、夢うつつのうちに、
「――その言葉、よもや、たがえること、ないな?!……」
と歎き叫んで御座ったとも申す。
さても、最早、息を引き取って後、野辺の送りなんども済ましたが、両親はただただ、ひれ伏し、歎き暮すばかり。
神田に住まう旧知の人どもも、入れ替わり立ち代わり、弔問に参ったが、その中に、かの娘と同い年ほどの娘を持ったる者が御座って、その娘がしきりに、
「……両国へ……参りとう御座います……」
と申すゆえ、ちょうど、弔問にもと思うて御座ったゆえ、かの亡き娘の両親のおる船宿へと訪ねて参ったところが、同道した娘は、
「……もう決して――神田へは帰りませぬ――ここに――どうか、おいて下さいませ!」
と言い出す。孰れの親も、吃驚致いて、
「……い、如何なる訳か?……」
と、質いたところが、
――不思議なことじゃ!
――今まで筆なんど執ったこともなきその娘が、
「筆を!――」
――ときっぱりと申したによって
――筆を執らしてみたところが
――そのさらさらと書き記す手跡
――死に失せし娘のそれと
――聊かの違いも
――これ
――御座いない!
両家の親もこれまた、
「……な、なんとも不思議なることじゃ!……」
と吃驚仰天、神田の実の両親が、これを無理に連れ帰らんと致いたものの、かの娘は、
「――
と、これまたきっぱりと申しは、いっかな、合点致さなんだ。
よんどころなく、両国にその娘をさしおいたまま、実の親どもは取り敢えず引き上げざるを得なんだと申す。……
……とは、専らの巷説として今も噂致いて御座る。
……とは、知れる人の語ったことにて御座る。
……これ、後のこと知りや……
*
退氣の法尤の事
文化元年
□やぶちゃん注
○前項連関:霊異譚で連関。但し、こちらは頗る現実的な解釈、後妻の前妻に対する罪障感に基づく強迫神経症的幻覚と鮮やかに断じていると私は読む。心理学者根岸鎭衞に快哉!
・「退氣」陰陽五行説及び九星学や気学に於いて、相生(吉相)の中で自分が生み出す子星(勤勉や他人を助ける星)を意味するものらしい。
・「文化元年」西暦一八〇四年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。
・「麻疹」通常の麻疹(はしか/ましん)は一週間程度で治るが、大人の場合、現在でも風邪と勘違いして治療が遅れると、肺炎や約一〇〇〇人に一人の割合で脳炎が合併症として現われ、その場合は十五%が死に至る。
・「牛込最勝寺」底本の鈴木氏注に、『済松寺の誤。前出。』とある。これは「耳嚢 卷之五 濟松寺門前馬の首といふ地名の事」に出る。以下、私の注を転載しておく。「濟松寺」東京都新宿区榎町にある臨済宗妙心寺派の寺。開山の祖心尼は義理の叔母春日局の補佐役として徳川家光に仕えた人物である。
・「置て、」底本ではこの読点の右にママ注記がある。鈴木氏は前に「古位牌へ張付」とあるのと齟齬を覚えられたためであろう。私は護符は複数枚あったものと考える。その方がプラシーボ(偽薬)効果が高まるからである。
・「退氣の手段」占いの方はよく分からんし、その深遠な哲学にも興味はないので――根岸もそうした陰陽道みたような厳密な意味でこれを用いているとも思われないので――現代語訳では半可通のまま、「退気」を使用させて貰った。謂わば、前に述べた如く、自身の側にある種の罪障感があって、それが昂じて重い強迫神経症を引き起こし、霊の幻覚を見た、そうした新妻の病的な心理状態を緩和させるための地蔵の護符というプラシーボによる心理療法を施したという意味で私は採る。
・「息才」底本には右に『(息災)』の訂正注がある。以下の部分、訳にホームズ根岸の推理を補強するような翻案部をワトソン藪野が追加しておいた。
■やぶちゃん現代語訳
文化元年、
番町辺りの御旗本の奧方、この麻疹にて身罷って御座った。
さて、その隣りの、やはり御旗本の家に
ところが、たびたび先妻の亡霊が出現致いて、新妻の後妻、これ、心神を喪失致すことがたび重なったと申す。
いろいろと療治致いたものの一向にようならず、山伏やら僧やらを頼んでは、祈禱なんども致いたものの、これ、聊かも効果が、ない。
この先妻の亡霊なるものは、しかし、他の者の目には見えず、ただ、その新妻ののみに見えるとのことで御座った。
このことをある御仁が聴き、
「……それは……なかなか、一通りの者の祈禱にては効くまいぞ。……我の知る、牛込
と申したによって、主人の命を受けた家人が、その徳林院へと至り、しかじかの由、語ったところが、その僧、使いの者にその妻を亡くした御旗本、その隣家の御旗本及びその妹子のことなど、詳しく質いた後、何か思い当ったところがあったように、徐ろに何枚かの御札を取り出だいて、
「――我が祈禱にて
と申した。
されば家人はすぐに立ち帰り、主人に申し上げて、その通りになしたところが――
――その夜より
――きっぱりと
――新妻は、かの霊の
――これ、一切なくなったと申す。
*
按ずるに、これ、絵に描いた地蔵の
この御旗本の周辺の事情や、かの徳林院の僧につき、私が少しく聴き及んだところによれば――地蔵の奇特――にては、これ、ない。
この老僧、まっことの智者にして、言わば
――
を成したものに、他ならぬ。
そもそも、かの後妻はまさに隣家の者であったによって、先妻が息災であった頃より、実は姦通致いて御座ったのではなかろうか?
憚りのあれば、具体には申さぬものの、私の調べたところによれば、そのような事実を強く疑わせるようなことがあった――
とのみ、ここに申し述べておくに留めよう。
いや、百歩譲って、たとえ、そうした密通の事実がなかったとしても――だいたい先妻の不幸のあって、ほんの間もなく致いて、早々に再縁致すと申す、これ、世間一般の通念から致いても、すこぶる芳しからざることなれば――「先妻の霊」は、これ、何とも思はぬと致いても――当の新妻自身が、
『先妻の亡魂が恨みをもお持ちではなかろうか』
と按ずる心の生ずること、これもすこぶる道理なれば、まさに
――ありもせぬ「霊気」――
をも呼び出だいては、それを「見た」ものに相違あるまい。
*
長壽の人狂歌の事
安永の比迄存在ありし增上寺方丈、
此海老の腰のなり迄いきたくば食をひかへて獨寢をせよ
と有しを、小川喜内といへる是も八十餘なりしが、右の贊へ、
此海老の腰のなりまでいきにけり食もひかへず獨り寢もせず
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。狂歌シリーズ。流石にこの歌に注釈は不要であろう。なお、底本の注で鈴木氏は第一首目の歌に注して、『この歌の異伝と見られるものが、『三味庵随筆』中に、志賀酔翁の作として出ている。酔翁は後出の随翁(瑞翁)で、長生して昔のことを語ったという人であった。実は自分も幼い時その随翁に逢ったことかあるなどと言い出す暑が何人か出て、いよいよ噂ばかり高かった人物だが、信用できるような具体的伝記事実は伝わっていない。「志賀酔翁御逢候哉と尋候へば、自分など江戸へ詰候時分は未ㇾ出人にて候哉、名も不ㇾ聞よし、其已後段々聞及候、酔翁海老を書き、「髭長く腰まがるまで生度と大食をやめ独りねをせよ」と讃書候絵、義岡殿有ㇾ之よし、大坂陣の節共は壮年の積由候ば、何事も知らぬと申候由。」とある。海老の絵にこんな狂歌を書くのは増上寺方丈や随翁に限ったことでなく、一つの型になっていたことを思わせる』とあって、この歌が次項の主人公「志賀隨翁」のものであるという伝承があったことが記されてある。
・「安永」西暦一七七二年から一七八〇年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年。
・「增上寺方丈」底本の鈴木氏注に、『増上寺の十時で安永年間に示寂したのは、二年寂の典誉智瑛(四十八代)と六年の豊誉霊応であるが、いずれも世寿伝えていない』とある。
・「筭」算に同じ。
・「小川喜内」不動産会社ジェイ・クオリスの「東京賃貸事情」(ここの情報はあなどれない!)の「美土代町二丁目」に、同地域の歴史を綴る中に元禄一〇(一六九七)年『には全域を松平甲斐守(柳沢吉保。武蔵川越藩主)が一括して拝領。享保年間(一七一六―三六)になると再び細分化され、小笠原駿河守・林百助・能勢甚四郎・本間豊後守・金田半右衛門・窪田源右衛門・堀又兵衛が拝領している。寛政一一年(一七九九)には林家跡に大前孫兵衛、金田家跡に中野監物、窪田家跡に小川喜内が入っており、文政一二年(一八二九)になると小笠原家跡に駿河田中藩本多豊前守正寛が、その他の一帯に摂津尼崎藩松平筑後守忠栄が入っている』とある。この「小川喜内」なる人物、時代的にもぴったりである。
■やぶちゃん現代語訳
安永の頃まで存命であられた増上寺の方丈は、
此海老の腰のなり迄いきたくば食をひかへて獨寢をせよ
かくあったものに、後年になって、小川喜内と申す御仁、これも八十余歳にて壮健であられたが、右の賛へ、
此海老の腰のなりまでいきにけり食もひかへず獨り寢もせず
*
志賀隨翁奇言の事
石川壹岐守組の御書院與力廣瀨大介といふ者、文化の
□やぶちゃん注
○前項連関:長寿養生譚で直連関し、前の注で鈴木氏によって実は前の「長壽の人狂歌の事」に出た歌(第一首目)を、この話の「隨翁」とする記述があるから、これは同一の情報源であることが強く疑われる。前の項の注も参照されたい。
・「志賀隨翁」底本で鈴木氏は特異的に詳細で重要な考察をなさった注を施しておられるので、例外的に全文を引用したい。
《引用開始》
『梅翁随筆』八に「生島幽軒といふ御旗本の隠居、享保十年己巳八十の賀を祝ひて、老人七人集会す。その客は榊原越中守家士志賀随翁俗名金五郎百六十七歳、医師小林勘斎百三十六歳、松平肥後守家士佐治宗見百七歳、御旗本隠居石寺宗寿俗名権右衛門九十七歳、医師谷口一雲九十三歳、御旗本下条長兵衛八十三歳、浪人岡本半之丞八十三歳、宴会せしとて、其節の書面、今片桐長兵衛かたにのこれり。」うんぬんとある。この七人の長寿者会合のことは『月堂見聞集』『翁草』にも出ているから、話の種だったことがわかる。享保十年百六十七歳というのが随翁の生存年代を確かめるための一応のめどであるわけだが、伴蒿蹊の『閑田耕筆』には正徳五年幽軒の尚歯会の際、瑞翁百八十七歳とある。蒿蹊は、「右の内志賀瑞翁は人よく知れり。おのれ三十二三の時、此翁の三十三回にあたれりとて、手向の歌を勧進する人有しが、これは彼延寿の薬方を伝へて、売人其恩を報が為なりと聞えき。此年紀をもて算ふれば、正徳五年よりは十七八年、猶ながらへて凡二百七十余歳なり。長寿とは聞しかども、二百に余れるとはいふ人なし。もし正徳の会の時の齢たがへる歟、いぶかし」と疑っている。蒿蹊の三十二、三は明和初年であるから随翁は享保十六、七年に死んだことになる。いずれにしても無責任な数字というべきだが、この随翁(随応とも瑞翁とも酔翁とも書いた)と実際に逢ったことがあると言い出した者があり、その証拠ともいうべき災難除けの守りを貰ったという人物(江戸塵拾)まで出現した。本書の広瀬大介も逢ったという一人だが、『海録』では、方壺老人(三島景雄)という人が幼時(享保の末)随翁に逢ったが、木挽町に貧しげな様で下男と二人で住んでいた。翁は幼いとき信長公の児小性で、本能寺の変には運よく死を免れたと自ら語った。随翁が死んだ時は下男もいず、あまり起きて来ないので隣家の者が見たら死んでいたという。谷川士清は、「二百歳の寿を保ちしといへるも覚束なし、若くは世を欺く老棍のわざならんか」といっている。自ら長寿を吹聴し人を欺く意図はなくても、稀世の長寿者を待望する心理が民衆の中にあり、その像を具体的に作り上げて行く動きが、いったん走り出すと停らなかった。まず心から信じるには到らなくても、語りぐさとして受け容れる層が存在したことが、このような無責任な伝聞を事実誇らしい形で発展させたことは常陸坊海尊の場合も同様であった。
《引用終了》
谷川士淸の言葉の中の「老棍」とは「ろうこん」と読み、老いたる悪漢、無頼の徒の意。
・「御書院與力」御書院番配下の与力。御書院番は若年寄に属して江戸城警護・将軍外出時の護衛・駿府在番などの他、儀式時には将軍の給仕を御小性と交替で当たった。十組程度(当初は四組)の編成で各組に番頭六人・組頭一人(千石高)・組衆五十人・与力十騎・同心二十人を置いた。同与力は玄関前御門の警備に当った。
・「石川貞通」底本の鈴木氏は、『天明五年(二十七歳)家督。四千五百二十石。寛政十年御小性組頭』とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「石川」を『石河』とし、長谷川氏は『いしこ』とルビを振ってあり、注では『文化四年(一八〇七)書院番頭、五年御留守居』とある。「新訂寛政重修諸家譜」によると、「石河」が正しいようである。天明五年は西暦一七八五年、寛政十年は一七九八年でこれが同一人物であるとすると、文化四年には五十九歳となるが、こちらの「備中伊東氏」の系図で生年を計算してみると、備中岡田藩の第六代藩主であった石河貞通の父伊東
・「文化の比」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏である。この話が直近の都市伝説であることが分かる。
■やぶちゃん現代語訳
驚異の長寿で知られた志賀随翁の奇体な評言の事
書院番番頭であらせらるる
昨今、世の中にて長寿の人と申さば、志賀隨翁のことがしばしば人の噂に登るが、この大介、幼年の砌り、京都建仁寺にて、その随翁に実際に
その折り、随翁は大介に向かい合って、凝っと彼の顔を見ておったが、そのうちやおら、
「――この小児は長寿の相、これあり。――然れども美食や女色と申す不養生を致いたならば――これ、天命を全うすることは――出来ぬ。――」
と語った、とは、これ、その大介自身の話の由。
*
養生戒歌の事
予許へも來りし横田泰翁とて、和歌を詠じて人も
朝寢どく晝寢又毒酒少し食をひかへて獨寢をせよ
□やぶちゃん注
○前項連関:長寿養生譚で直連関。正直、類話・類歌でつまらぬ。
・「横田泰翁」底本の鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』とある。
■やぶちゃん現代語訳
養生戒の歌の事
私の元へもよく参る、横田泰翁と申されて、和歌を詠じられてはよく人の歌会や行事に招き寄せらるるご老人があるが、ある時、話されたことには、さる老人が養生の戒とせよとて、詠んで贈られた戯れ歌で御座るとて、紹介して呉れた狂歌。
朝寝どく昼寝又毒酒少し食をひかへて独寝をせよ
*
中庸の歌の事
右の泰翁中庸の歌とて、人の
すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし
□やぶちゃん注
○前項連関:横田泰翁直談咄直連関。
・「すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし」歌意は、
――真っ直ぐでなくては物を
岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
すぐなると用ゆるものもまがらねば足らぬ屛風も世の中ぞかし
とある。本書の歌の方がよい。
■やぶちゃん現代語訳
中庸の歌の事
右の泰翁殿、
「……中庸の歌と申して人から需められましたによって、詠みましたとろ、まあ、少しは上手く詠めたのではないか、と思いまして。……」とて、語り聴かせてくれた狂歌。
すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし
*
郭公狂歌の事
元の木阿禰といへる、狂歌
春夏の氣違なれやきのふまでわらひし山に啼時鳥
□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌連関。
・「元の木阿禰」狂歌師
・「春夏の氣違いなれやきのふまでわらひし山に啼時鳥」「
■やぶちゃん現代語訳
元の木阿禰と申す、狂歌詠みが、「春夏の移り変わる景色を詠み得たり」とて見せたという、その狂歌。
春夏の氣違なれやきのふまでわらひし山に啼時鳥
*
其角惠比須の事
蓮雀町に淺草海苔を商ふ富貴に
惠比須講德利の掛のとれにけり
かく
□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌譚から俳諧譚へ。但し、「卷之七」の執筆推定下限である文化三(一八〇六)年より百年も遡る古い話柄である。本「其角惠比須」の「神額」なるものは現存しない模様。
・「其角」蕉門十哲の一人である宝井其角(寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年)。「晉子」は別号。当初は母方の姓榎本氏を名乗った。江戸堀江町で近江国膳所藩御殿医竹下東順の長男として生まれた。延宝年間(一六七三年~一六八一年)の初め、父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り、俳諧を学んだ。芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となった。なお、隣接して荻生徂徠が起居、私塾蘐園塾(けんえんじゅく)を開いており、因んだ句に「梅が香や隣は荻生惣右衞門」 の句がある(以上はウィキの「宝井其角」に拠った)。
・「蓮雀町」連雀町の誤り。現在の神田須田町一丁目の内にあった地名。万世橋と須田町一丁目及び淡路町二丁目に囲まれたところで、町名の由来は行商人が背負う荷籠の連尺(肩に当たる部分を麻縄などで幅広く編んだ荷縄やそれを木の枠に取り付けた背負い子のこと)などに因んでいると言われ、後に「尺」が「雀」に変わったものとされている。
・「淺草海苔」紅色植物門紅藻綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属アサクサノリPorphyra teneraの乾燥加工品である浅草海苔は(以下、参照したウィキの「アサクサノリ」より引用)、『徳川家康が江戸入りした頃の浅草寺門前で獲れたアサクサノリを浅草和紙の技法で板海苔としたのがものを『浅草海苔』と呼ぶようになった。当時は焼かずにいたが、その後に焼き海苔として使用するようになった』。『江戸時代に隅田川下流域で養殖された江戸名産のひとつで、和名は岡村金太郎による。名の由来は、江戸の浅草で採取、販売、製造されたため、など諸説ある』。『海苔の種類の中では、味、香り共に一級品であるが、養殖に非常に手間がかかり、また、傷みやすく病気にもかかりやすいため養殖が難しく、希少であり、高級品である』。『採取年代は古く「元亀天正の頃」と記す書物もあるが、永禄から天正年間には浅草は海から遠ざかっており、』天正一七(一五八九)年の徳川家康の入府後の江戸初期には早くも『干拓により海苔の採取が不可能になっている。下総国の葛西で採れた海苔などが加工されて販売されつづけ、消費地である江戸の市街地造成や隅田川の改修などにより浅草が市や門前町として発展すると評判が上がり、江戸の発展とともに「浅草」を冠せられるようになったと考えられている』。寛永一五(一六三八)年『に成立した松江頼重『毛吹草』には諸国の名産が列記されており、浅草海苔は品川海苔とともに江戸名産のひとつにあげられている。また、江戸時代には高僧により食物の名が命名される伝承があるが、浅草海苔も精進物として諸寺に献上され、これが幕府の顧問僧で上野寛永寺を創建した天海の目に留まり命名されたとする伝承がある』。『浅草は紙の産地としても知られ、享保年間には紙抄きの技術を取り入れた抄き海苔も生産されるようになった』とある。また、岩波の長谷川氏の注によれば、本話柄当時は採取と加工は『品川・大森辺で作った』とある。現在、絶滅危惧Ⅰ類に指定されており、旧来の生育地では絶滅したとされていたが、近年(といっても六年ほど前)、多摩川河口で発見された(それを自然観察中にたまたま発見する番組を私はリアル・タイム見たので印象深い)。当該関連記事は二世南陀伽紫蘭氏のブログ「[季刊里海]通信」の二〇〇六年十二月十九日附「多摩川河口で発見されたアサクサノリの鑑定論文が掲載されました」を参照されたい。依頼すれば当該鑑定論文も頂けるらしい。
・「惠比須講」夷講・恵比須講・恵美須講などとも書く。えびす神を祭る行事であるが、えびす神の信仰を受け入れるにあたって、商家においては、同業集団の組織と結び付いてえびす講中をつくり、一方農村では、地域集団の祭祀組織に結び付いたものと、年中行事的な各戸の行事として受け止めた所とがあり、それらが相互に混在して重複している。期日は旧暦十月二十日が一般で、旧暦十月は神無月、全国の神々が出雲へ集合するという伝承が広く行き渡っているが、その期間は神々が不在になるために神祭りも行われなかった。そこで古来からあった十月二十日のえびす神の祭りを正当化するため、「夷様の中通なかがよい」などと称してえびす講の前後だけ出雲から帰ってくるのだと解釈したり、えびす様と祭日を十月十日とする金毘羅様だけは留守神だから出雲へ行かないという説明をしたりしている。えびす講を十一月二十日にする例もあり、年の市と結び付いて十二月二十日にする所もある。農村では十月と一月二十日をともに祝ってえびす様が稼ぎに行く日と帰る日であるなどとする地方も多いという。えびす講の日は神棚に一升枡を上げて、中に銭や財布を入れて福運を願ったり、東北から中部にかけての広い地域では鮒などの生きた魚を水鉢に入れてえびす神に供えたり、またこの魚を井戸の中に放したりする(以上は小学館「日本大百科全書」の記載に拠った)。
・「□所より立出て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『暮前より立出て』とある。これで訳した。
・「瑞相」底本では左にママ注記があるが、「瑞相」には、第一義的には目出度いことの起こる徴し、奇瑞の様相・吉兆以外に、単なる前ぶれ、前兆、兆きざしの謂いもあるので特に誤用とは言えない。
・「惠比須講德利の掛のとれにけり」「掛」(かけ)は徳利が「欠け」るに、商家の売り「掛け」金が取れる(回収出来る)の謂いを掛けたもので、これは「德利」(利得)という名称にも掛かっており、商売にとって縁起のよい言祝ぎの句柄となっているのである。
・「説たり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『祝したり』とある。これで訳した。
■やぶちゃん現代語訳
其角恵比須きかくえびすの事
神田連雀町に浅草海苔を商あきのう富貴ふうきに暮しおる町人があった。
主人は俳諧なんどを嗜みて、かの蕉門の宝井其角とも友人であった。
毎年の恵比須講には其角も親しく招かれて御座ったが、ある年の十月二十日のこと、其角方へ一向にその招待が、これ、御座ない。
「……永年、招かれて御座ったに……今年に限ってその沙汰のなきは、これ、如何なることであろ……如何にも解せぬことじゃ……」
と、流石に鷹揚なる大兵たいひょう肥満の晉子しんし其角も、楽しみにして御座っただけに如何にも不思議に思われて、日暮れ前より立ち出でると、かの商家を訪おとのうた。
すると、これ、常とは変わって何やらん、大層、店の様子がいたく淋しゅうて、恵比須講を開かんとする気配は、これ、全く御座ない。
されば、
「……何ぞ、御座ったか?……」
と、それとのぅ、店方の者へ尋ねたところ、
「……へぇ……それがで御座います。……今日が恵比須講の日なればこそ、それに供えんための徳利とっくりを女将さんが清めて濯がんとなされたところが……うっかり取り落されてしまい、大木きに欠け損じてしまいました。……ところが、これをご主人さまは、『年久しく捧げ奉って参った品が欠け損じたは、偏えに家の衰える兆しじゃ!』と……はなはだお怒りになられまして……もう、女将さんを里へ返すの何のと、これもう、以っての外の騒ぎとなってしもうたので御座います。……されば最早、恵比須祭りも何も、これ、あったもんじゃあ、御座いませぬ。……そうじゃ!……御身おんみはご主人さまとも昵懇の間柄にて御座いますればこそ……何卒、この騒ぎ、治まるように、取り計らっては下さいませぬか!……」
と言うたによって、聴いた其角も大層驚き、
「――されば、ウム、仕様もあれば……一つ、短冊を出だし給え。……」
とて、矢立の筆を取ると、やおら、
恵比須講徳利の掛のとれにけり
と、かく書いて、ご亭主に見せた。
すると、
「……こ、これは! いや、其角先生! 面白くも言祝いで下されたものじゃ! されば! 恵比須講を致すぞ! 早よ、支度致せ!」
と、家内、俄かにぱっと明るくなってさざめきたち、妻の離縁の事なんども何処ぞへ吹き飛んでしもうて、賑やかに、目出度とう、何時もの通りの恵比須講と相い成った由。
この晉子其角が認したためた短冊は後、恵比須講中の祭祀の神額となって、今に「其角恵比須」と称し、伝えられておる、とのことで御座る。
*
近藤石州英氣の事
近藤石州は武人にて、人と違ひ候
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。映像が浮かんでくる如何にも爽快な武辺物である。
・「近藤石州」旗本遠江気賀近藤氏七代目石見守近藤
・「組子」組頭配下にある者。組下。組衆。
・「寶藏院」宝蔵院流槍術。奈良の興福寺の僧宝蔵院覚禅房胤栄(?~慶長一二(一六〇七)年)が創始した十文字槍を遣う槍術(薙刀術も合わせて伝承していた)。初代宝蔵院覚禅房胤栄は柳生とも親交があったといわれる。また、福島正則の家臣で猛将として知られた笹の才蔵こと可児才蔵が初代胤栄に教えを請うたとも伝えられる。
・「出精」技芸鍛錬に精を出すこと。励み努めること。精励。
・「定めて江戸表へ歸りても」大番の警護する要地は江戸城以外に二条城及び大坂城があり、それぞれに二組が一年交代で在番した。
・「
■やぶちゃん現代語訳
近藤石州
近藤石州用和殿はまっこと、武人にて、かなり人が吃驚するような取り計らいをたびたびなさるる御仁で御座る。
大番頭として大阪城に御在番の折りから、
「――一つ、我らもお相手仕る!」
と御所望なさったところが、何分、
「……そればかりは……幾重にも御免を願いまする。……」
由、申上げて固辞致いたものの、
「苦しゅうない! 是非に!」
と頻りにお好みになられたによって、是非に及ばず、かの者、立ち合い申上げたが、この御番衆も至って気丈なる
「――然らば! 御免あれ!」
と一切の手心を加えることなく、出精して立ち合い致いた。
――が
――これ
――何の苦もなく
――石見守殿
――一と突きに突き臥されて御座った。
されば石見守殿、爽やかなる笑顔とともに、
「――ウムヽ! 只今のは如何にも我れらが負けなり!」
と頻りに賞美なされ、さらに、
「――定めて在番を終え、江戸表へ帰って後も、我らと試合致いて勝ったると、人にも話すに、これ、証拠なくしては宜しゅうないの!」
と仰せらるると、
「――これは――我が近藤用和が首――取った証しなると――人にも盛んに
とて、かの御番衆へそれをお与えになったとのことで御座る。
[やぶちゃん補注:なお、本話については、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、後世の識者がこの相手をした御番衆の人物を特定し、かなり詳細な注を頭書で追加している。以下に、恣意的に正字化の上、読みも歴史的仮名遣に直したものを、掲げて注し、現代語訳を附しておく。本文は底本では全体が二字下げである。
下げ札
本文近藤石見守鎗術相手いたし候御番衆、姓名
□やぶちゃん注
●「下げ札」とは「下げ紙」「付け紙」で、本来は役所などに於いて上役が意見や理由などを書いて文書に貼りつける付箋をいう。この頭書が後に別紙に書かれて添付されたものであることを示すもの(本文と区別するために)であろう。
●「鈴木錠左衞門」ここの底本である岩波版長谷川氏注に『
●「種田流」江戸前期に相模甘繩藩士種田平馬正幸が大島流槍術を元に開いた素槍の有力流派の一つ。二間(約三・六メートル)から二間一尺(約四メートル)にも及ぶ長い素槍を遣い、その技は柔軟で細やかである。本流派では早期から他流試合を重んじており、江戸後期に至ると武術全般の再興の機運が高まって来、それに乗じて大いに流行して、特に幕末に素槍の使い易さが認められと、宝蔵院流に次ぐ隆盛を見たという。種田流の特徴は戦場での働きを重視する他の流派と異なり、剛健さを強調した高価な槍を用いたり、試合を重んじたり、究極的には一対一の対決を重視している点にあるという(以上は詳述を極めた「維新の嵐」の「種田流槍術」のページに拠った)。また同流には宝蔵院流の遣う十文字槍、その他、鍵槍を使う技が一部に含まれているとウィキの「槍術」にはあり、流派のポリシーや使用する槍の点からも、石見守が彼に挑もうとしたことが腑に落ちる。
●「寛政七年卯年」西暦一七九五年。
●「御小屋」岩波版長谷川氏注に『従者の住宅』とある。
●「大的」弓道に於いて歩射の正式の的であり、現在の尺二的(小的)が普及するまで一般に使用された。直径五尺二寸(約一五八センチメートル)。垂直に吊るして使用し、武家の新年の弓射儀礼である的始めなどで用られ、現在でも小笠原流の儀式で用いられている(以上は ウィキの「的(弓道)」に拠った)。
●「十之者」岩波版長谷川氏注に『十中の者。十矢とも当てた者』とある。
●「同八辰年」この槍試合の翌年、寛政八(一七九六)年。用和が駿府城代になる直前のことか。
●「天保二年」西暦一八三一年。「卷之七」の執筆推定下限文化三(一八〇六)年から二十五年後で、根岸鎭衞の(文化一二(一八一五)年)死から十六年の後の記載である。
■やぶちゃん現代語訳
下げ紙による注
本文の近藤石見守
なお、石見守殿に於かせられては種田流の遣い手であられた由。
寛政七卯年のこと、大坂在番の節、本文の通り、石見守殿と
「
と、石見守殿直々に申し渡しなされた、とのことにて御座った。
但し、弓を賜われたと申す儀は、実際には別の年のことであり、これは同寛政八年辰年のこと、御番衆が
以上は如雲殿御自身の直談にて、承って御座った。 天保二卯年記
この注記を記して呉れた御仁、何とも有り難い御仁ではないか。]
*
旋風怪の事
俗語にかまいたちと稱し、つむじ風の内に
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。本格怪異譚。しかし、以下の「かまいたち」の注で分かるように、この特徴は身体や物がすっぱりと切れることにある。本話柄では「鼠の足跡の如き物一面に付居」とあるだけで、切創の記載がない。何らかの飛散物質(植物の種や高高度からの雪や霰様の結晶物。雪の結晶は鼠の足跡のように見えぬことはないと私は思う)が黒地の衣服に付着もののしたようにも見え、鎌鼬の仕業とするには十分条件ながら必要条件のようには思われない。その点では標題の「旋風怪」は相応しいと言えよう。
・「加賀屋敷」現在の東京大学本郷キャンパスの位置にあった。
・「かまいたち」鎌鼬。突然皮膚が裂けて、鋭利な鎌で切ったような傷を生ずる現象。特に雪国地方で見られ、越後の七不思議の一つとされ、古来、妖怪の仕業と考えられた。妖怪としては
・「まかて」底本には右に『(まかれてカ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『巻かれて』とある。
■やぶちゃん現代語訳
俗語にて「かまいたち」と称し、つむじ風の内に巻き込まれて怪我をする者がある。
私の知っておる御仁にも実際に怪我をした者が、これ、おる。
そのことにつき、ある人が語ったことには、
「……弓術に名高い与力に召し抱えられた
――くるくる――くるくる――
と廻っておるを運八見て、何気に遊びをしているものとばかり思うて、呑気に声をかけたところ……
――くるくる――くるくる――
と廻るばかりで答えもなく、
――くるくる――くるくる――
と!
――ひたすらに! ひた廻る!
――それがどうも!
――己が意志にて経巡っておるのにては、これ、ない!……
と気づき、遮二無二、二人に飛びかかって、その妖しき旋風の内より引き出だいて、すぐに屋敷内へと連れ帰って御座ったと申す。
みると、年一
――鼠の足跡の如きものが
――これ一面に
附着致いて御座った……
されば、あまりの不気味さにうち払ったと、申します。
末の子は木綿の着服で御座ったゆえ、そうした跡は附着しておらなんだとのことで御座ったが……『かまいたち』と申す妖獣……これ、風の内に潜む
とは、さる御仁の語ったことで御座った。
*
正路の德自然の事
文化三寅年三月四日芝車町邊より出火して吉原近邊迄燒亡し、數萬家
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。アップ・トゥ・デイトなちょっと粋ないい話。南町奉行(勤就任八年目)であった根岸が直に関わった大火復興処理の貴重な記録である。
・「文化三寅年」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年の夏。
・「正路」は「しやうろ(しょうろ)」と読む。正直な行為。
・「文化三寅年三月四日芝車町連邊より出火……」明暦の大火と明和の大火とともに江戸三大大火の一つとされる文化の大火。
・「御救の小屋」地震・火災・洪水・飢饉などの天災の際、被害にあった人々を救助するために幕府や藩などが立てた公的な救済施設のこと。
・「不同輩」「同じくせざる輩」と読むか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『不用輩』、「もちゐざるやから」で、すんなり従わない連中と遙かに通りがよい(「同」は「用」の誤写ともとれる)。こちらで訳した。
・「買賣なせる間、問屋中賣ありしが」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『賣買なせる問屋・中買有りしが』(正字化した)で、これもこっちが通りがよい(「間」と「問」は衍字が疑われる)。こちらで訳した。
・「深川木場」現在の深川地域内に当たる江東区木場。この木場(貯木場)は隅田川の河口に設けられ、江戸初期から江戸への建設資材の集積場として発展し、特に大火の度に紀州などから大量の木材がここに運び込まれた。
・「山出し」山で伐採し運び出したときの元値。
・「
・「値賣」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『直賣』(正字化した。「ぢきうり(じきうり)」と読み、仲買人を通さずに問屋が直接販売することをいう)。これもこっちが通りがよい(「値」と「直」は衍字がやはり疑われる)。こちらで訳した。当時、問屋の直売りが厳しく禁じられていたことが分かる。
・「利□」底本には右に『(德カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『利潤』。これで訳した。
■やぶちゃん現代語訳
正直であることの徳は自ずから然るという事
先般、文化三年
この時、お上よりも深き御恵みのあらせられ、野宿の者を憐みなさって数ヶ所の御救い小屋をお立てになられ、堺町や
然れども、おぞましき人品を持ったる
そこで両町奉行よりも
別けても材木板の類いはこれ、焼け出された者どもが取り敢えずは応急に居住せる空間を遮蔽したり、判然とせずなった土地の境を示す囲い等として、これ、早急に入用で御座ったゆえ、また殆どの人々が争ってこれを求めて御座ったところが、常ならば一両も出せば百枚、百二、三十枚をも容易に求めらるるところの良質の松板などを、たった五十枚ばかりにて
その中にあっても、甲州に本店のあって、深川木場に商い
「――非常の節なれば仲買に構わず売り出すを許す――」
べき旨の申し渡しを致いた。
この奇特なる行いは即座にお上の御耳にも達し、褒美として
この材木問屋はその十万枚に及ぶ松材の板を、出火以前の値段と全く同じにしたまま、貴賤を問わず平等に売り始め、
一枚当たりはごく少量の利潤ではあったが、その十万倍なればこそ相応に大層なる利分をも得、殊にそれとは別にお上よりの御褒美を給わって、これ、結果としては意図ともせぬ大いなる福を得て御座ったことは、これまことに――正直であることは自ずから然るべきご加護もこれある――ということというべきで御座ろうか。
*
仁義獸を制する事
或人正月の支度迚、
つゞれさす虫にも恥よよめが君
と一句なしける也。かゝる仁義の德なるゆへ
□やぶちゃん注
○前項連関:徳義心で連関。一種の発句絡みの技芸譚とも言える。
・「舛落し」鼠取りの仕掛けの一つ。枡を斜め下向きにして棒で支えておき、枡内下に餌を置いて鼠が触れると枡が落ちて捕らえられるようにした罠のこと。
・「喰ひうち」「うち」は近世俗語表現の接尾語で動詞の連用形に附いて、~しがち、~するのが当然の意を現わす(因みに他にも、~しなれていること、及び、~するのは勝手であることなどの意にも用いた)。食いがち。
・「つゞれさす虫にも恥よよめが君」「つゞれさす虫」とは
――しとやかな嫁という名を負うているのに着物を破るとは、接ぎを刺す(当てる)という名の蟋蟀にさえもお前は恥じるがよい――
といった感じか。
■やぶちゃん現代語訳
仁義が畜生をも制するという事
ある御仁、正月の支度とて、
「憎っくき鼠の仕業じゃ! 鼠狩り致しましょうぞ!」
とて、或いは枡落しじゃ、罠じゃ、と集まっては大騒ぎとなって御座ったところが、
「鼠は
とたって申しつけられ、
「ゆめゆめ、鼠狩りなんどを致いてはなるまいぞ。」
と再度、堅く申し付けられた後、
つゞれさす虫にも恥よよめが君
と一句、ものされたとのこと。
このような徳義心の徳あればこそか、ほどのぅ、この御仁、運が向いて出世昇進もよろしく、しかもまた、御家中にては不思議に鼠も、これとんと、悪さを致さず相い成ったとのことで御座った。
*
名器は知る者に依て價ひを增事
仙石某の家に蕎麥□といふ茶碗壹ツ
□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、二つ前の「正路の德自然の事」の文化の大火で強く連関する。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、アップ・トゥ・デイトな話柄。
・「蕎麥□」底本では「□」の右に『(借)カ』とあり、鈴木氏は注されて、『蕎麦は朝鮮茶碗の一種。地肌色合が蕎麦に似ているというところから命名されたとも、井戸の側という意味の秀句ともいう』とあるが、この最後の部分の秀句というのがよく分からない。後掲するようにこの茶器が井戸に似ていることを誰かが発句で譬えて表現したということか?(しかし、だったらその句が伝わっていなくては語源説としては眉唾であろう) 識者の御教授を乞うものである。また、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『蕎麦漕』とあり、これを長谷川氏は傍注で「
・「文化三年三月の大火」文化三年三月四日の文化の大火。二つ前の「正路の德自然の事」の私の注を参照。
・「金一枚」岩波版の長谷川氏注によれば、これは一両小判ではなく、七両二分相当の
・「
■やぶちゃん現代語訳
名器は知る者によって価いを増すという事
仙石
さても先だっての文化三年三月の大火の折り、この仙石殿の御屋敷、類焼は免れたものの、延焼が進むに従って、万一に備え、家財は凡そ土蔵へ片付くる必要これありとて、上へ下への騒ぎと相い成って御座ったと申す。
その際、この茶碗を入れた箱を渡いた者が、うっかり取り損なって落してしまうという沮喪がこれあった由。
火事が治まった後、主人が火事場見舞いに訪れたさる客をもてなさんと、たまたま手元近くに戻しおいてあったものが、かの蕎麦借の箱であったがため、何気に開けて見たところが、これ、七つにも八つにも、すっかり割れてしもうておったと申す。
ところがこの客人、茶器には相応の
「――惜しいことじゃ!……この茶碗、割れた箇所を綺麗に接がせ、金粉等を以って接いだ箇所を繕いなど致されたならば――そうさ、我ら、黄金一枚にてよろしいとなら直ちに買い上げましょうぞ!……いやはや!……これ、割れる以前の無傷なるものであったならば……三十、いや、四十、いやいや! 五十両払うだけの価値は御座ったにのう!……」
と長歎息致いたとか申すことで御座った。
*
人の齒にて被喰しは毒深き事
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。医事譚。思うにこれは黄色ブドウ球菌などによる、細胞間質を広範囲に融解して細胞実質を壊死分解させる進展性化膿性炎症である
・「被喰し」「くはれし」と読む。本文中の「喰われ」の「わ」はママ。
・「西良忠」「耳嚢 巻之六 疵を直す奇油の事」に登場する木挽町に住む外科医。この話柄で彼の生年が享保五(一七二〇)年であること、またやはり根岸と懇意であった事実とが確認出来た。
・「文化寅の年」文化三(一八〇六)年
■やぶちゃん現代語訳
人の歯にて嚙みつかれた場合はその毒が頗る強いという事
私の元へ来たれる外科医の西良忠が語ったことには、
「……犬に咬みつかれ、猫や鼠または牛馬に咬まれた傷なんどを療治致いたことが御座いまするが……そうした咬み傷の中にても……そうさ……甚だ毒の強いものが御座る。……
……ある時のことで御座ったが……身分の賤しい者どもが他愛もないことで喧嘩なんどをなし、弱き相手に嚙みつかれた、と申す傷を療治致いたことが御座いましたが……これ……はなはだ……毒が
とのことで御座った。
今年文化
*
黐を落す奇法の事
□やぶちゃん注
○前項連関:冒頭の書き方が全く同じで、聴取者も同じく知己の医師。民間の生活の知恵シリーズともいうべきもの。
・「黐」とりもち。実は底本の標題の字は(へん)の部分が「禾」(のぎへん)で、これは目次もそうなっている。当該字は表示出来ないことと(「廣漢和辭典」にも載らない)、本文が正しく「黐」となっていることから訂した。以下、ウィキの「鳥黐」より引用する。『鳥黐(とりもち)は、鳥や昆虫を捕まえるのに使う粘着性の物質。鳥がとまる木の枝などに塗っておいて脚がくっついて飛べなくなったところを捕まえたり、黐竿(もちざお)と呼ばれる長い竿の先に塗りつけて獲物を直接くっつけたりする。古くから洋の東西を問わず植物の樹皮や果実などを原料に作られてきた。近年では化学合成によって作られたものがねずみ捕り用などとして販売されている』。『日本においても鳥黐は古くから使われており、もともと日本語で「もち」という言葉は鳥黐のことを指していたが、派生した用法である食品の餅の方が主流になってからは鳥取黐または鳥黐と呼ばれるようになったといわれている』。『原料は地域によって異なり、モチノキ属植物(モチノキ・クロガネモチ・ソヨゴ・セイヨウヒイラギなど)やヤマグルマ、ガマズミなどの樹皮、ナンキンハゼ・ヤドリギ・パラミツなどの果実、イチジク属植物(ゴムノキなど)の乳液、ツチトリモチの根など多岐にわたる。日本においてはモチノキあるいはヤマグルマから作られることが多く、モチノキから作られたものは白いために「シロモチ」または「ホンモチ」、ヤマグルマのものは赤いために「アカモチ」と呼ばれる。鹿児島県(太白岩黐)、和歌山県(本岩黐)、八丈島などで生産されていた』。『鳥黐の製法は地域や原料とする植物によって異なるが、モチノキなどの樹皮から作る場合は、樹皮を細かく砕いて水洗いし、水に不溶性の粘着質物質をとりだすことで得られる。商品として大量に生産する場合は、まず春から夏にかけて樹皮を採取し、目の粗い袋に入れて秋まで流水につけておく。この間に不必要な木質は徐々に腐敗して除去され、水に不溶性の鳥黐成分だけが残る。水から取り出したら繊維質がなくなるまで臼で細かく砕き、軟らかい塊になったものを流水で洗って細かい残渣を取り除く。得られた鳥黐は水に入れて保存する。場合によっては油を混ぜることがある』。『主要な鳥黐であるモチノキ属植物、ヤマグルマ、ヤドリギの果実などから得られるものの主成分は高級脂肪酸と高級アルコールがエステル結合した化合物であるワックスエステル、つまり蝋である。逆に言うと化学的には、植物から得られ、常温でゴム状粘着性を示す半固体蝋が鳥黐であるともいえる』。(中略)『こうした化学的組成により、非水溶性であり、また二硫化炭素、エーテル、ベンゼン、石油エーテルといった有機溶媒には溶けるが、アルコールには溶けない』。『鳥黐は強力な粘着力があることから、職業として鳥を取る鳥刺しなどによって使用される。食用に鳥を捕獲する場合は黐竿と呼ばれる長い竿の先に鳥黐をぬりつけたものを使い、直接小鳥をくっつける。一方、メジロなど観賞用の鳥は直接くっつけると羽が抜けて外見が悪くなるため、枝などに鳥黐を塗っておいて囮や鳥笛をつかっておびき寄せ、足がくっついて飛べなくなったところを捕らえる』。『また、子供の遊びとして虫捕りにもよく使用される。この場合、黐竿をつかってトンボなどを捕獲する。ただし粘着力が強すぎ、脚や翅に欠損を生じることがあるため、標本用途には向かない』。『鳥黐は水につけると粘着性がなくなるため、保存や取扱いの際には水で湿らせておくか、少量の場合は口中で噛んでおく。枝などに塗りつけたあと乾かすと再び強い粘着性を示すようになる』。『日本においては、鳥屋や駄菓子屋などで販売されていたが、鳥獣保護法の施行によって鳥類の捕獲が難しくなってからはあまり販売されなくなっている』。『かつては鳥獣保護法において法定猟具に鳥黐は含まれており、これを利用した黐縄(もちなわ。鳥黐を塗った縄を湖面に張り巡らせることで水鳥を捕獲する。参照流し黐猟)や、はご(木の枝や竹串に鳥黐を塗布して鳥を捕獲する。おとりの鳥を入れた鳥篭を高所に配置して、近づいてきた鳥を捕獲する猟法は高はご、多数のはごを配置するものは千本はごと呼ばれた)などの猟具が存在した』。『高はごは、メジロ、カワラヒワ、マヒワなどを捕獲するのに用いる。 長い竿、高樹などの頂に竹竿を結びつけ、これにおとりの籠をつるし、これとは別に黐を付けた竿または枝をこずえに固定し、滑車と綱を利用して黐付きの竿を上下するようにしておく。竿は』『近くのこずえよりも高くし、または一本樹を利用する。はごは矢竹、クワ、柳などのやわらかな枝を用いる。おとりは小型の籠を複数、かさねておく。おとりに誘われた鳥は樹枝と誤認して黐付きの枝にとまり、黐が付着し、地上に落下する。このときいっぽうの手縄をゆるめ、他方の手縄を引き、竿をおろして捕獲する』。千本はごは、『割り竹、細ひごなどに黐をぬりつける。その太さ、長さは鳥種によって異なる。 雁鴻を捕獲するには、夜、鳥が集まる水田、池、沼に黐を塗っていない部分を』『挿し立て、ところどころに空き場をつくっておく。おとりを置き、誘致する。雁鴻はおとりに誘われて着地し、徒渉するとき黐が羽毛に付着し、これを捕獲する。千葉県手賀沼でさかんに使用された。 カケス、ヒヨドリなどを捕獲するには、あらかじめ鳥が来る樹上に小型のはごを設置し、黐が鳥に付着し、地上に落下するのを捕獲する』。『現在ではかすみ網やとらばさみ、あるいは雉笛などとともに禁止猟具に指定されており、鳥類の捕獲自体も銃猟若しくは網猟に限定されていることから、鳥黐を使用して鳥類を捕獲する行為は、禁止猟具を用いての捕獲およびわなを用いての鳥類の捕獲に該当し、鳥獣保護法違反で検挙対象となる』とある。以上、長々と引いたのは私自身が実は鳥黐を見たことも使ったこともないからである。私は私の注で何よりも私自身が十全に学びたいのである。
・「與住」与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師で、駒込に住む。「耳嚢」では「卷之一」の「人の精力しるしある事」以来の情報屋の古株で、「巻之六 執心の説間違と思ふ事」、この後の「巻之九 浮腫妙藥の事」等にも登場する。
・「辛子の粉をつゝみてあらひ□落者なりし故、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、「衣類抔」以降を直接話法とし、『辛子(からし)の粉を包み洗ひぬれば必ず落る物也」と語りぬ。』とあって「其事」に続く。これを訳では採用した。それにしても黐を知らぬ私はこの辛子による黐除去法が真実かどうかも検証出来ぬ。何だか何故かそれが淋しい。
■やぶちゃん現代語訳
鳥黐(とりもち)を落とす奇法の事
私の元へ来たれる医師の
「……世の中にはいつ何時役立つかよう分からぬ奇法も、これ御、座るものにて。
……我らの知れる御仁、蠅が盛んに飛ぶを五月蠅がって、細長き紙に鳥黐を塗って部屋の隅に置いて御座ったところが、飼い猫の未だ子猫であったもの、これまた、やんちゃで狂うたように部屋の中で転がり遊ぶうち、かの鳥黐をべったり塗った紙に
……さてそこで、家で遣って御座った洗濯など頼みおる下女に、
「……このようなことがあった折りの……そのぅ……妙薬を存ぜぬものか、のぅ?……」
と恥ずかしながら尋ねてみたところが、
「衣類なんどでは、鳥黐のついたもの、これ、千万回洗い尽くせど落ちませぬ折りは、その鳥黐のついた上へ、
と申しましたによって、その鳥黐だらけの猫の話を致いて、かの猫を連れ参り、その下女にたっぷりの辛子を溶いた水で洗わせましたところが……これ、元の如く……まあ、奇麗な子猫に戻りまして御座ったそうな。……」
とのことで御座った。
*
古錢を愛する事
古き事する色々の内、古き人の書を愛する迚、古錢を愛する者あり。さる
□やぶちゃん注
○前項連関:記載内容には特に連関を感じさせないが、前及び前の前の書き出しの「予許へ來る」というやや寸詰まりの表現特徴の共通性から、これら三つが同時期に一遍に書かれたものであることが窺われるように思われる。
・「古錢を愛する事」表題の直下には鈴木氏の『(目次ニハ「古錢を愛する人の事」トス)』という割注がある。
・「古錢多く集め」岩波版の長谷川氏注に、宝暦頃(一七五一年~一七六三年)から『古銭を愛好し珍奇の銭の収集の風が盛んで、にせの古銭作りまで行われた』とある。
・「大德通寶」大徳は中国は元の成宗(テムル)の治世で用いられた元号で西暦一二九七年~一三〇七年に相当する。岩波版の長谷川氏注には、幕臣で北方探検家であった近藤正斎明和八(一七七一)年~文政一二(一八二九)年)が著わした本格的な古銭蒐集関連書の濫觴とされる「銭録」『に「倭存唐佚銭」として大徳通宝あり』と記しておられる。まず、この近藤正斎という人物であるが、名は守重、通称近藤重蔵(正斎は号)で。寛政七(一七九五)年~寛政九(一七九七)年に長崎奉行出役として海外知識を深め、蝦夷地警衛の重要性を幕府に提言、後に目付渡辺久蔵らの蝦夷地視察の一行に加わって蝦夷地御用掛配下に属し、数回に亙って蝦夷地・千島方面を探検、特に高田屋嘉兵衛の協力を得てエトロフ航路を開き、享和二(一八〇二)年にはエトロフ島にあったロシアの標柱を廃して「大日本恵登呂府」の木標を立てるなど、ロシア南下政策に対する北辺防備及び開拓に尽力(ここまでは主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)、文化五(一八〇八)年には江戸城紅葉山文庫の書物奉行となったが、自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、文政二(一八一九)年に大坂勤番弓矢奉行に左遷、文政四(一八二一)年には小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居、悪いことに文政九(一八二六)年に長男近藤富蔵が町民を殺害して八丈島に流罪となったのに連座して近江国大溝藩にお預けとなって、そのまま死去、死後三十一年も経った万延元(一八六〇)年に赦免されるという波乱万丈の人生を送った人物である(ここはウィキの「近藤重蔵」に拠る)。彼はまさに当時でも珍しい貨幣研究家兼収集家でもあったらしいが、長谷川氏の示す「銭録」という書物は、浩泉丸氏の古銭サイト内の「新寛永通寶分類譜【泉家・収集家覚書】」によれば、古銭収集家の間では幻の名著とされているもので、日本貨幣図史ともいうべき性質の書ながら、明治三九(一九〇六)年に刊行されるまで全く無名の資料で、しかもこの書は「寛永銭録」として編集が始められた経緯があり、再発見された当時は寛文期から享保年間の項が欠落していていたため、大正年間に浅草の古書店で欠落個所が見つかり、古銭蒐集家によって売買されるまで全容すら知られておらず、しかも一般に刊行されたものでもないために現在でも稀覯本で、コレクターでさえ実見することはまずないというまさに幻の書であるらしい。因みに、当該リンク先によればこの近藤正斎、身の丈六尺を超える大男で、体力・記憶力とも抜群に優れていた超人だったとあり、他にも彼の興味深い事蹟が満載で必見である。やや前置きが長くなったが、大徳通宝はこの本話にもある通り、希少というより、その多くがかなり怪しげなもの(まさに古銭として捏造された贋金)であるようだ。中国古銭の収集家の個人サイト「謎の珍品古銭」にまさにその大徳通宝の「実物」画像があるが、サイト主御自身が『すでにオモチャの領域』『無知の人がボロ古銭を元に真似して作った残念な作品』、数枚の良品もあるが多くは『何か怪しい』『イケない複製かも知れ』ない、『拓本を元に作ったイケない品物の様な気が』する、頁末には『真贋は永遠の謎』とまで語られているからである。
■やぶちゃん現代語訳
古銭を愛する好事家の事
古きものを趣向せること、これいろいろと御座る中にても、古き人の書体を愛すると申して、その彫琢の残れる古銭を愛する者が御座る。
そうした趣味嗜好と申すものは、それなりに各人の謂われが、これ、御座ろうものなれど、そうしたものにとんと愛着の湧かぬ私のような者から見れば、これ、失礼ながら、お
……さても、私の元へ来たれる者の中の、谷
その谷殿の物語りに、
「……根岸殿などは、古銭なんどと申すもの、当今、商う者がおるとは、これとんと、聞きも及ばざることとは存じますがのぅ……実は江戸市中には、こうした古銭を商売として取引致いては、まんず、
とのことでは御座ったよ。……まあ、そんなことも、これ、あっても不思議ではない世の中では御座るのぅ……♪ふふふ♪
*
老人頓智謀略の事
何れの比にや、ある老人退隱なして、杖によりて夜明がた遊行なせしに、市ヶ谷邊人離れの場所にて、若侍兩人
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じられない。
・「御ひけ」原義は負けで、肩身が狭いことから恥、恥辱の意。
・「聞して」底本では右にママ注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『決して』。それで採る。
■やぶちゃん現代語訳
老人の頓智謀略の事
何時の頃のことであったか、ある武家の老人、隠居致いて、杖を突きつつ、夜明け方の散歩なんど致いて御座ったところが、市ヶ谷辺りの人気なき場所にて、若侍が二人、刄傷に及んで御座るのに出くわした。
『……かく老いたりとは申せ、帯刀致す者、これ、逃げて見ぬ振りを致すも、これ、道に外るること。――』
と、二人のにじり寄りつつある近くを通り、よくよく見てみたところが、その二人のうちの一人は――これ――我が子――で御座ったと申す。
驚いたれでも、老人、心を鎭めつつ、つかつかと二人の間合いへと寄り進み、
「……さても、老人のいらざる口出しなれども、若き御両人刃傷のこと、これ、子細もあらんと存ずればこそ――一つ、訳をお聴かせ下されい。――」
と、まずは我が子の方へ向き直って――しかも全く知らぬ他人に向かうようにし――にじり寄らんしたその切っ先をさし留めて下げさせた上、今度は相手方の若侍の方へ向き直って、同様のことを申し述べ、同じように切っ先を降ろさせたと申す。そうして、その見知らぬ若者の方を向いたまま、穏やかに、
「……銘々、主人もあろう、親并びに妻子もおろう。……如何なる訳にて、かくも刃傷に及ばんと致された?――
と申したところ、相手の若侍の申すことには、
「……い、いや、何も別に、子細遺恨もある訳にては、これ、御座らぬ。……たまたま暗がりにて行違った折り、ちょっとした口論となっただけのことで御座れば……」
といったようなことを申したによって、今度は我が子の方へと向き直ると――これまた、未知の武士に対する如く、腰を低う致いて――これ他の誰が見ても、聊かも子に対する親の様子には見えぬ、あたかも身分貴き武人の前に
「……さ、さしたることにても……こ、これ御座ない……ま、まあ、ただ、ふと刃傷に及んだということにて御座る……」
といったようなことを申し述べたによって、
「……しかる上は――これ――外に見る人もなし――双方ともに恥辱も相い成らざることに候えば、我らが諌めに従わるるが、よろしかろうぞ。」
と制した。されば、双方ともに得心致いて、刀を納めた。
見知らぬ若侍は、
「――かく成し下され、有り難く存知まする。……是非、御名前を承りたく……」
と乞うたが、かの老人、
「……我ら、名もなき老残の者にて。……特に御二方の御名前も、これ、決してお名乘りなさいまするな。……さればこそ、我ら名も、これ、申しますまい。……」
と、そこで双方、立ち別れ、それぞれ別の方へと帰るを見届けた上、静かにその場を立ち去った、とのことで御座った。
*
齒の痛口中のくづれたる奇法の事
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。
・「柘榴」フトモモ目ミソハギ科ザクロ Punica granatum。ウィキの「ザクロ」の「薬用の」項の「果皮」には、果皮を乾燥させた
・「せんじ□」底本には右に『(置カ)』と補注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『せんじ
・「たんてきに」形容動詞「端的なり」の連用形で、まのあたりに起こるさま、たちどころであるさま。
・「横田退翁」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『横田泰翁』とある。本巻の先行する「養生戒歌の事」に既出。そこの鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』とある。
■やぶちゃん現代語訳
歯の痛みや口中が爛れた際の奇法の事
「――
*
加茂長明賴朝の廟歌の事
鎌倉賴朝の廟にて、加茂の長明
草も木も靡きし秋の霜きへてむなしき苔を拂ふ山風
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。突如、故事の和歌譚の引用で、やや奇異な印象を受ける。後に三つ後に狂歌譚に始まる三話の和歌譚があるが、意地悪く解釈すると、巻末に至って百話にするためのやや見え透いた仕儀かとも疑われる。
・「加茂長明」鴨長明は京都の賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜鴨長継の次男として生まれたが、望んでいた
《引用開始》
頼朝の墓は、鎌倉幕府当時の館址を見下ろす山腹の一劃に、タブの老樹の下に建っている五輪塔、細工も荒削りである。堂社はない。なお「草も木も」の歌は鴨長明集には見えない。
《引用終了》
とされているが、この注は幾つかの問題点があるとわたしは思う。鈴木棠三氏は鎌倉史の碩学でもあったにも拘わらず、如何されたものか、この記載、徹頭徹尾、不完全にして不正確、しかも不親切な注と言わざるを得ないからである。
まず、この「廟」は正に堂社の謂いであって「墓」ではない。鈴木氏の言う「頼朝の墓」は現在、鎌倉市西御門の大倉山山裾にある供養塔としての多層塔を指しているが、これは後世、安永八(一七七九)年に頼朝子孫を称する(島津氏の祖で鎌倉幕府御家人であった島津忠久を頼朝の落胤とする説に拠るがこれは所謂、偽源氏説であって信ずるに足らない)薩摩藩第八代藩主島津
次に本和歌の出典に疑義して「鴨長明集には見えない」として恰も偽歌の如く一蹴する(かに見える)末尾にも問題がある。この『長明の和歌』の出典は言わずもがな(と鈴木氏も思ったものとは思われるが)、「吾妻鏡」である。注としてはそれを示さないのは鎌倉史に不案内な後学の徒には頗る不親切と言わざるを得ない。以下に当該箇所「吾妻鏡」巻十九の建暦元(一二一一)年十月十三日の条を示す。
*
○原文
十三日辛夘。鴨社氏人菊大夫長明入道。〔法名蓮胤。〕依雅經朝臣之擧。此間下向。奉謁將軍家。及度々云々。而今日當于幕下將軍御忌日。參彼法花堂。念誦讀經之間。懷舊之涙頻相催。註一首和歌於堂柱。
草モ木モ靡シ秋ノ霜消テ空キ苔ヲ拂ウ山風
*
○やぶちゃんの書き下し文(和歌は原文に拠らず正確に読み易く示した)
十三日辛夘。鴨社の
而るに今日、幕下將軍
草も木も
*
文中の「雅經」は公家で歌人の飛鳥井雅経(嘉応二(一一七〇)年~承久三(一二二一)年)。義経の強力な支援者として知られ、流罪にも遇っている
この一首は確かに長明の歌集には所収しないものの、永く彼のこのエピソードに於ける即興歌として鎌倉時代にすでに人口に膾炙されており、偽歌とするには当たらない(と私は思う)。
本「卷之七」の執筆推定下限である文化三(一八〇六)年から遡ること百二十一年前の貞亨二(一六八五)年に公刊された水戸光圀の鎌倉地誌の濫觴である「新編鎌倉志」の巻之二の「法華堂」の項も引いておく(私の同注釈テキストから、ルビを省略して読み易く加工した)。
*
○法華堂〔附賴朝並義時墓〕 法華堂は、西御門の東の岡なり。相傳ふ、賴朝の持佛堂の名也。【東鑑】に、文治四年四月廿三日、御持佛堂に於て、法華經講讀始行せらるとあり。此の所歟。同年七月十八日、賴朝、專光坊に仰て曰く、奧州征伐の爲に濳かに立願あり。汝、留守に候じ、此の亭の後ろの山に梵宇を草創すべし。年來の本尊の正觀音像を安置し、奉らん爲なり。同年八月八日、御亭の後ろの山に攀ぢ登り、梵宇營作を始む。先づ
*
最後に、やはり私の電子注釈テクスト「北條九代記」巻第四の「賀茂長明詠歌」を引用して終わりとする(これの、私のちょっとした仕組みをした諸注もリンク先でお読み戴けると幸いである)。「北條九代記」は「耳嚢 巻之七」の執筆時から更に遡ること、百三十一年前の延宝三(一六七五)年に初版が刊行されている。著者は不詳とされるが、江戸前期の真宗僧で仮名草子作家として著名な浅井了意(慶長一七(一六一二)年~元禄四(一六九一)年)が有力な候補として挙げられている。
*
○賀茂長明詠歌
加茂の
草も木も磨きし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風
將軍家御參詣の時、是を御覽じて、御感、淺からずとぞ聞えし。
*
・「草も木も靡きし秋の霜きへてむなしき苔を拂ふ山風」――草も木もなびくほどに日本国中の民が服した佐殿(頼朝公)のその秋の霜のような厳しい権勢も――今はその秋の霜のように瞬く間に融け消えて――残った空しき苔蒸した墓辺を風だけが吹き抜けていく――
■やぶちゃん現代語訳
鎌倉の頼朝公の廟所に於いて、加茂長明が詠んだと人の言う和歌。
草も木も靡きし秋の霜きへてむなしき苔を拂ふ山風
*
仁にして禍ひを遁し事
文化三丑三月四日の大火に芝邊なりしとや、赤木藤助といへる者、火災
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「文化三丑三月四日の大火」文化三(一八〇六)年は
・「目塗」合わせ目を塗って塞ぐこと。特に火災の際に火が入らないよう、土蔵の戸前(土蔵の入口の戸のある所及びその戸を指す語)を塗り塞ぐことをいう。
・「鄽藏」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『
■やぶちゃん現代語訳
仁徳あればこそ禍いを遁れた事
文化三年
芝辺りとか聴いておるが、さる
ところが、いざ、防火の仕儀を終えて、召し
「……い、家内に残っておるのではあるまいか……」
と、
「――どうして最早残っておろうはず、これ、御座いましょうやッ! 大方、臆病風に吹かれて先に立ち退きなんど成したものに違い御座いませぬッ!」
と、火急の切迫の中なればこそ、誰もが口々に申したてた。
ところが、
「――いや、さにあらず! 蔵の扉を外して中をよう、調べるがよいぞッ!」
と命じた。しかし、
「――いいえ! ご主人さまッ! 最早、これ、火は近し、風は強し!――いまさら、折角、目張りを致しました土蔵の戸を開いてしまいましたら、これ、類焼は免れませぬぞッ!」
と、誰もが否んで尻ごみ致いた。
それでも主人は、
「――焼け落ちるならば――これ、焼け落ちよッ! 是非に及ばず! ともかくも、開けなされッ!」
と厳に命じたによって、折角、びっちりと目塗りで固めおいた戸前を、総て掻き落といて、戸一枚を外した。
すると――主人の察した通り――かの者、これ、逃げ遅れて土蔵の内におったと申す。
「――何故に居残っておったものかッ!?」
と糺いたところが、
「……へぇ……も、最早、片付けも終わりましたれば、さても逃げ出でんと思いましたところが……見れば……どこもかしこも外より目塗りの、これ、終わって御座いましたによって……もう、出づべき所も、これ、御座いませなんだ。……内より入口の
と述懐致いたと申す。
ほどのう、芝一帯は、これ、殆んど、類焼に及んだによって、主人始め、
「――怪我せぬことぞ、何よりの大事ぞッ!」
と、再びその外した一枚に、そこそこの目塗りを施した上、即座に立ち退いて御座ったと申す。
さても――芝一帯の家並は――これ――一軒の残りもなく――数々の格式高き
……ところが
――何故か――この主人の「並木屋」の
――内なる財貨も――これ――一つとして焼けることのう――全く以って無事、残って御座ったと申すことで御座った。
*
蚊遣香奇法の事
雄黄 壹匁 黄綠 壹匁
是は
□やぶちゃん注
○前項連関:三つ前の「齒の痛口中のくづれたる奇法の事」に続く民間薬方シリーズ。注意したいのは、これは燃やすのではなく、袋に詰めて持ち歩く(若しくは身辺に置く)タイプの蚊遣りである点である。揮発成分に効果がある訳で、ナウいじゃん!
・「檜挽粉」檜を製材した際に出る細かな粉のこと。
・「三升」五・四リットル。
・「壹匁」。一匁は一貫の千分の一で、約三・七五グラム。
・「雄黄」天然産砒素の硫化物。化学成分As2S3の鉱物で樹脂状の光沢がある黄色の半透明の結晶。染料・火薬などに用いる。有毒。但し、「世界大百科事典」によれば、化学でいう雄黄(orpiment)という和名は、本来は同物質を一緒に産することが多い鶏冠石の別称であって、化学物質としての“orpiment”に対しては「
・「黄綠」これは岩波のカリフォルニア大学バークレー校版によって「
・「蓬□」底本では右に『(苅)カ』とするが、蓬苅という名詞はない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここ(以下に示す部分のみ)は割注になっていて、
・「合藥」一応、岩波版の長谷川氏のルビに従ったが、「かふやく(こうやく)/がふやく(ごうやく)」でもよいようには思われる。
■やぶちゃん現代語訳
これは檜以外の挽粉を用いる場合もあり、或いは
右を
*
武者小路實蔭狂歌の事
雲霞といふ題にて、
足なくて雲の行さへおかしきに何をふまえて霞たつらん
□やぶちゃん注
○前項連関:三つ前の「加茂長明賴朝の廟歌の事」に続く和歌シリーズ。
・「武者小路實蔭」「耳嚢 巻之四 景淸塚の事」に既出。公卿・歌人であった武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ 寛文元(一六六一)年~元文三(一七三八)年)の誤記。和歌の師でもあった霊元上皇の歌壇にあって代表的歌人であった。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、百年も前の古い話柄(鎌倉とでは比較にならぬものの、やはり古歌という観点では前の「加茂長明賴朝の廟歌の事」と軽く繫がるか)。
・「足なくて雲の行さへおかしきに何をふまえて霞たつらん」――足がないのに「雲の行く」というのさえ面白うてならぬのに――一体全体――何を
■やぶちゃん現代語訳
武者小路実陰殿の狂歌の事
「雲霞」という御題にて、武者小路実陰殿の詠まれた歌。
足なくて雲の行さへおかしきに何をふまえて霞たつらん
*
加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事
わするなと人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも
□やぶちゃん注
○前項連関:和歌譚二連発。本話は珍しく、本文なしの和歌のみの提示であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、以下の前書がある(正字化し、ルビも歴史的仮名遣に直した)。
*
享和・文化の頃、
*
訳では特別にこれの部分を挿入して訳した。この文中の「地下」は清涼殿殿上の間に昇殿することを許されていない官人の総称、またはその家柄を指す。メッセンジャー・ボーイとして殿上人とされた六位の蔵人を除く、六位以下総ての下級官吏総てを指す。地下人。反対語は「
・「加川陸奧介」俗称香川陸奥介を名乗ったのは香川景樹の子で公卿徳大寺家に仕え、父の創始した桂園派を嗣いだ幕末の歌人
わするなよ人にしたがふみちの
「みちの
――忘れてはいかんぞ……妻として夫へつき従うところの道を――
■やぶちゃん現代語訳
歌人
享和・文化の頃、
わするなよ人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも
*
内山傳曹座頭に代詠る歌の事
傳曹は寶曆明和の
せめて目のひとつ成り共星月夜鎌くらやみをゆきの下みち
□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌三連発。
・「代詠る」は「かはりよめる」と読む。
・「寶曆明和」西暦一七五一年から一七七二年。明和の後が安永で次が天明。
・「内山傳曹」「内山傳藏」が正しい(訳では訂した)。内山
・「せめて目のひとつ成り共星月夜鎌くらやみをゆきの下みち」「星月夜」は鎌倉
■やぶちゃん現代語訳
内山傳蔵が座頭に代わって詠んだ歌の事
傳蔵は宝暦明和の頃、国学にも詳しい儒者として世に称せられたが、詠歌もはなはだ達者で御座って、狂歌もなかなかに面白いものがある。或る時のこと、座頭に代わって詠んだという歌。
せめて目のひとつ成り共星月夜鎌くらやみをゆきの下みち
*
大盜人にともなひ歩行し者の事
田安の
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。後文から見れば男が荷を落したのも忠七の心性の「正直さ」を測ったもの、忠七を積極的に脅して従わせるような粗野な凶悪さを一回も示していないこと、明確ではないが、犯行時に殺生に及んでいない可能性があること、闇を自在に歩けるすこぶる特殊な視力その他を有すること――私はちょいと雲霧仁左衛門を思い出してしまった。
・「大盜人にともなひ歩行し者の事」「おほぬすつとにともなひありきしもののこと」と読んでおく。
・「田安の御屋形」徳川御三卿の一つ、第八代将軍吉宗次男宗武が江戸城田安門内に屋敷を与えられたのに始まる田安家の屋敷。
・「淺草日本堤の下へ出て紙漉に雇れ」江戸初期から現在の雷門一丁目(現在の田原小学校付近)は屑紙の漉き返しを業とする人々が多く住んでおり、元禄年間(一六八八年~一七〇四年)になると浅草山谷周辺で古紙・襤褸切れなどを素材として漉き返した、落とし紙や鼻紙などに用いる「浅草紙」が盛んに製造されるようになり、後にはそうした低品質の紙をも「浅草紙」と呼称するようになった。江戸中期の川柳に、
鼻をかむ紙は上田か淺草か
とある(信州上田は高級和紙紙漉産地)。また夏目漱石の「道草」の第六十九章にも、主人公健三が姉の態度に不快になって家を飛び出し、そぞろ歩きし、明治の郊外の急速な変貌ぶりに人事を絡めた深い感慨を抱くシーンにも登場する。私の好きな場面なので引用しておく(引用は岩波版新書版全集を用い、踊り字「〲」は正字化した)。
*
彼は昔あつた靑田と、その靑田の間を走る
しかし今では
「
人間の變つて行く事にのみ氣を取られてゐた健三は、それよりも一層
彼は子供の時分比田と
「
衰へる
*
・「□て居しに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『煙草など
・「登せ金」岩波版長谷川氏注に、『上方への送金』とある。
■やぶちゃん現代語訳
ひょんなことから
今、田安の御屋敷に勤めて御座る
以下は私の知り合いに、かの忠七が話したことで御座る。
……
「おい、お
と呼び懸けて教えたところが、
「おっと! こりゃあ、忝けねえ!」
と立ち帰って拾い取るなり、すっと近づいて参りやして、
「……日も暮れてきやした、な……」
と、その男も横に坐って煙草を吸いながら一息つきやした。
暫くしやすと、
「……さてもお前さんは、何処で何を
と訊ねましたから、
「……お恥ずかし乍ら……かくかくしかじかの身の上にて……」
と語ったところが、
「……そうかい。……そりゃ気の毒な……かくなる身の上ならばこそ……一つ――
と語る。さればここぞ渡りに舟、
「――へえ! 望むところで!」
と直ちに請け
それからもう――道中にて
ところが東海道へかかりまして、ある泊まった旅籠で夜半のこと、男は徐ろに、
「……何をか隠さん……
と何やらん、意味深なる笑みを浮かべて告げたんで御座いやす。……その笑みの笑ってはおらぬ眼の奥に見た冷たい
その後、上方近くの旅籠に泊りやしたが、その翌払暁のこと、その同じ旅籠より――これ、何れの町家よりの
「――さても忠七、参ろうか。……」
と、その荷の一行の後を秘かに追うようにして旅立ちまして御座えやす。……
海道が鈴鹿山辺りの方に入った頃合い……もうその時分には、つけておりやした荷の列を尾根筋を先回りして遙か前で待ち伏せしておる
「――忠七――お
と命ずると、男は自分が持っております荷物を我らに預け、真っ暗闇の往来を何の造作もなく進み出て行きやして御座えやした……まるで昼間の道を歩く如……すたすたと……
暫く致しましますと、
――ここにて突如!
――何か大騒ぎが起こった様子にて……
――その瞬間――かの提灯も――ふっと消えて――再び真っ暗闇となり……
――立ち騒ぐ声々だけが――夜陰の深山に――響き渡り!……
――何人か――先へ先へと堰切って逃げ去って行くような足音!……
……と!
……かの男が我らが傍らへ忽然と現われ出でたかと思うと
……懐中より金子五、六百両ばかりも取り出だいては、あっという間に担い荷に拵えまして御座いました。
男は法外な金子を我らへも持たせ、
「――お前さんもこれより中山道を江戸へ帰るが、いいぜ。――
と申すが早いか、瞬く間に立ち別れまして御座いました。……
我らはその後、ことものぅ江戸へ帰ることができ、かの元の紙漉きの親方の元へと立ち帰って平身低頭、ありがたい親方の温情にて、元の職へと復し、まんず、この恐るべき怪事に関わったことにまっことこりまして、紙漉きの
暫くしたある日のこと、紙漉きの親方が、
「……あの、お
と訊ねられましたによって、
「……実は……かかる者に誘われ……かくかくしかじか……いや、もう、肝も潰るる如き恐ろしきことにて御座いました……」
と正直にまことのことを告げましたところが、
「……お、お前! そ、それは、と、とんでもねえ
と、かの親方も申しましたが……
……ほどのう……かの男……江戸にて市中引き回しの上打ち首獄門と相い成り……
……いやはや……あん時はいよいよ恐ろしゅうなって……身を縮めるように……知らんふりを致いて御座いました…………
と、語ったとのことで御座った。
*
變生男子又女子の事
文化寅年の夏、肥前國天草郡大浦村に嘉左衞門娘やなといへる者、廿六歳にて男子に
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。こればかりは私好みの話で御座る。根岸の興味の持ち方、眉唾と嘲笑する人物の言を挟んで、後半に実例二例で反駁する話柄の構造も、根岸が「造化の變異かゝる事も有べき也」と腑に落ちて信じている様が窺われて興味深い。根岸って、やっぱりちょっとヘン――僕みたいに、ね!
・「變生男子又女子の事」は「へんじやうなんしまたによしのこと」と読む。やや解説が必要で、ここで挙げられたものは、所謂、第一次性徴に於ける性別の判別が難しい状態若しくはその形状から誤認した半陰陽(Intersexuality・Hermaphroditism)、性分化疾患(DSD:Disorders of sex development )のケースである。
前者「半陰陽」という語の生物学的な位置づけに於いては、両性の性腺を兼ね備えたものを真性半陰陽、遺伝子と外見とで性別の異なるものを仮性半陰陽と呼び、後者は性腺上の性別によって、男性仮性半陰陽、女性仮性半陰陽として区別される。身体的には、女性仮性半陰陽の場合、膣が塞がっている場合が多く、また陰核が通常よりも肥大し、これが男性器(ペニス)と間違われることがある。男性仮性半陰陽では、尿道下裂や停留睾丸を合併症状として持つこともある(この部分はウィキの「半陰陽」に拠る)。
また現在、正式な医学的表現として使用されることが多くなった後者は、アンドロゲン不応症(性染色体はXYでアンドロゲンが分泌されるが、アンドロゲン受容体が働かないために外見・外性器ともに女性型となるが、内性器として未分化な精巣を有する状態で思春期以降の無月経などによって判明することが多い)や性別不明外性器で最も多い(七〇~八〇%)先天性副腎皮質過形成(腎皮質の機能異常によってコルチゾールやアルドステロンが低下し、アンドロゲンが過剰に分泌される内分泌系疾患。その殆んどが21水酸化酵素欠損症。男児女児合わせて約五〇〇〇~一五〇〇〇人に一人の頻度で見られる。XX女児においては内性器の構造は女性のものであるが、外性器の一部がどちらかというと男性様の外見になる場合がある。XY男児の場合は思春期早発症(二次性徴が異常に早い時期に始まる疾患)が見られることがある。男児女児ともに治療を行わないと早い時期に発育が停止して新生児期より副腎不全が発生するために適切な治療を行わないと死亡してしまう)・卵精巣性性分化疾患(卵巣・精巣両方の組織を含む性腺を持つ)・性染色体異常によるクラインフェルター症候群(X染色体が二つ若しくは三つにYで外生殖器は男性を示す)及びターナー症候群(X染色体一本又は一本のX染色体が構造異常でX短腕が欠失した核型等で外生殖器は女性を示す)などの身体的性別に関する様々なレベルでの、約六十種類以上の症候群・疾患群を包括する用語である(具体な内容はウィキの「性分化疾患」に拠った)。
ところが、この前者の「
なお、本記載の三症例は、何らかの目的を持った作為的な男女交換詐術でないとするなら、私は以下のように推測する。
①やな(女子)のケース
●満二十四歳で男性化した。この時、鬚が生えており、胸も女性乳房化が全く起らず、男性と全く変わらなかった。
☆髯の発毛も貧弱な乳房も必ずしも女性として異常とは言えない。
●幼少期より外生殖器の形状が普通の女児とは異なっていた。
☆会陰があるように見えたが、陰核様部分が非常に突出して視認出来たものと推測される。
●性格は柔和で極めて女性的ではある。
☆これは女児として養育したことに拠るものと考えてよかろう。
★髯・乳房未発達という現象が突如この年齢で起こったという風には読めず、無月経であった可能性が高いとすれば尿道下裂や停留睾丸を伴った男性仮性半陰陽と考えられ、また実は単に尿道下裂や停留睾丸の症状をもった真正男児(これらは必ずしも男性仮性半陰陽に特異的症状ではない)であったものを女児と誤認していたものとも思われる。
②喜之助(男子)のケース
●満十九歳で女性化。
●男性の外生殖器が変化して女性の外生殖器になった。
☆この「變じて」が疑問で、陰茎はあったがそれが脱落したのだとすると、これは壊疽や腫瘍による脱落と潰瘍化した外陰部が会陰に見えただけで、半陰陽ではなく梅毒などの重い性感染症の末期なども疑われる。
●生まれつき、女性的な印象を与える男性であった。
★但し、③の後に「是等は最初陰所甚痒く、終に男性しぼみ落し女性と成りし由」とあることから、これはやはり、生殖器全体に激しい掻痒感が生じた後、陰茎が著しく収縮して脱落した、ということらしい。③のように後も女性として生活したといった記載がない点では同性愛者の真正の男子で、性感染症による予後の悪い陰茎の壊死(陰茎の癌はすこぶる稀)であった可能性も高いかも知れない。
③名不詳の中小姓(男子)のケース
●満二十四歳で女性化。
●②と同じく、生殖器全体に激しい掻痒感が生じた後、陰茎が著しく収縮して脱落した。
●暫くして、子を産んだ。
●③と同じく、生まれつき、女性的な印象を与える男性であった。
☆この場合は陰核が非常に肥厚した突出型であったに過ぎず、半陰陽でさえなく、男児として女児を誤認し続けていただけの可能性もないとは言えない。
・「文化寅年の夏」底本で鈴木氏が「卷之七」の執筆推定下限を文化三(一八〇六)年夏とする根拠である。
・「肥前國天草郡大浦村」「肥後國」の誤り。現在の熊本県天草郡有明
・「常にかわりし」底本は『衍カ』と右注する。事実、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこれがなく、『陰戸の肉幼年より常にかはりしが』である。訳では省略した。
・「實上りして」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『突立して』。「さねあがり」の読みは私の推測。「
・「尤其質和らかにて女の樣にも有し」これはその男根様に突出した部位の「質」(女性生殖器の陰核のように柔らかで女性のそれがただ大きくなっただけのような感じという謂い。陰核の大きさには個人差があり、非常に肥厚していたり、陰茎並みに肥大する場合もままある)というではなく(そう思わなかった方のために一言言っておくと、私は愚かにも初読時にそう誤読しかけたことを自白しておく)、後述される「性質」の謂いで、性質や立ち居振る舞いは女のようにも見えたが、の謂いである。
・「髮」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も同じであるが長谷川氏はわざわざ『底本のまま』と注記されており、私はこれは「髯」(髭・鬚)の誤字と断じ、そう訳した。
・「例の留守居𢌞狀」江戸藩邸にあるそれぞれ藩の留守居役が、本国各藩に対し、公私雑多な種々の情報を報告回覧させた文書。公的には、幕府から命じられた役や朝廷からの褒賞、各大名の参勤交代状況や慶弔の報知、自藩内で起こった各種災害などの被災状況の対処報告といった政治的社会的な重要度の高いものから、留守居役のルーチン業務の記録である日記や手紙類、果ては情報交換のために行われた宴会の案内状の転記に到るまで、様々なものが記されていたらしい。そこにはこうした卑俗の噂話に類したものも頻繁に記されていたのであろう。
・「京童のたわ事」京童、
・「金澤」呼び捨てであるが、ここまでの「耳嚢」には当該者はいないが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では実は冒頭「廿六歳にて男子に成しよし。」の後に、『營中の雜談、世人も是を口ずさみしが』(正字化して示し、ルビは省略した)とあり、関東郡代の下役を勤めたという彼、その語るデーテイルが異様に細かく正確ところからも、その城中に於ける談話者の中の相応の幕臣クラスの一人であることが分かる。
・「下總の國印旛郡大和田村」印旛郡に大和田村は発見出来ない。下総国千葉郡大和田村なら存在した(現在の千葉県八千代市南部にあった大和田町附近)。岩波版長谷川氏注には、『また香取郡にも大和田村あり、下総町大和田。千葉・香取両郡とも印旛郡に隣接』するともある。香取郡大和田村は下総高岡藩領内であるが支配者は不明で、現在は成田市大和田。
・「森川肥後守」岩波版長谷川氏注によれば、次の「由田與十郎」が大番勤務の時期の大番頭は下総生実藩第七代藩主森川俊孝(延享元(一七四四)年~天明八(一七八八)年)で、大番頭に任じられのは明和九(一七七二)年六月(ウィキの「森川俊孝」のデータも参照した)。
・「由田與十郎」前注長谷川氏のデータ以外は不詳。……しかし気にはなりますな、だって彼の中小姓でしょ? 女になったのは……。その「彼女」が産んだ子の父っていうのは?……
・「中小姓」諸藩の職名の一つ。小姓組と
・「氣分性質の如く」底本傍注は「氣分性質の女如く」の脱字かとし、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『気分・性質の女如く』とある。
■やぶちゃん現代語訳
文化三年の夏、肥前国
このやな女と申す女は幼少の砌より会陰の肉の附き方が、これ、普通の女児のそれとはかなり
尤も、女児として育てられて御座ったによって、その気質は、いたって和やかにして、まさに立ち居振る舞いだけは女のようででもあったが――何より――髯も生えるわ――乳も一向に張ることものぅ全く以って厚き洗濯板にて――男と変わること、これ、御座ない。――
………………
と申す話を、さる雑談の折りに聞いたが、ある御仁は、
「……それはさしずめ、例の
と嘲って
「……いや、このようなことは、これ、あるはずもないことと断ずること、これ、出来ざるものにて御座る。……下総国
と申したを、またそれを引き継ぐように、同座致いて御座った石川何某殿も、大御番勤めであった頃の話として、
「……森川肥後守殿の組に属する
………………
これら二人の話を今少し訊いてみたところが、この
また両人の話はやはり全く同じく、孰れも生まれつきの気性や性分は、もともと女の如く妙に和やかな人物では御座った由も附言致いた。
造化の妙変妙異の中には、これ、かかることも、あるのであろう。
*
猫忠臣の事
安永の末、大坂嶋の内に□□屋□兵衞といへる者の娘有しが、其家に年久しく
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。良き妖猫の奇譚。本話はこの後の「耳嚢 巻之九」に載る「猫忠死の事」と殆ど同話である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版「卷之七」の目次では、この「猫忠臣の事」の項が掲げられあるながら、その上に「除キ」と書かれてあって、実際に本文がない。校注者の長谷川強氏は『巻十の「猫忠死の事』と同話ゆえ除いたか』と注しておられる(カリフォルニア大学バークレー校版は底本の集成本とは九巻目と十巻目がそっくり入れ替わっている)。確かに私も筆録者なら、あまりの相同性にやはりちょっと除外したくもなる気がするほど似ている。まあ、ここまでやったら、「これでは根岸先生、千話に偽りありと謗られても仕方がないという気がしますよ。」とぼやきながらも数合わせに写すとは思いますがね、センセ。
・「安永の末」安永元年は一七七二年で安永十(一七八一)年に天明に改元している。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、四半世紀前の古びた都市伝説である。「卷之九」の「猫忠死の事」(以後、「卷九忠死」と略称する)では「安永天明」と下限が広がっている。
・「大坂嶋の内」現在の大阪府大阪市中央区の地域名および町名であるが、通称の「心斎橋」・「ミナミ」と言った方が分かりが良い。「卷九忠死」では「農人橋」とし、借りに行く猫の居所を「島の内口河内屋市兵衞方」とする。
・「□□屋□兵衞」底本には右にそれぞれ注して「卷九忠死」では「河内屋惣兵衞」である。前注も参照。
・「かいふつと」「掻きふっと」の音便。「掻き」は語調を強める接頭語。フッと。ヒョイっと。
・「不審」底本では右にママ注記がある。
・「
・「四ツ時」午後十時から十時半頃。
■やぶちゃん現代語訳
忠臣の猫の事
安永の末、大坂嶋の内に〇〇屋×兵衞と申す町人が御座った。
その者には娘があって、家には年久しく飼いおける猫もおったと申す。
家内の者も娘も、ともどもにその猫を可愛がって御座ったが、この猫、娘には特に馴れて、その起き臥しから家内でのちょっとした折りにさえも、聊かも娘の傍らを離るることこれ御座なく、食事から果ては後架にゆく後さえも、その近くを離れずにおると申す有様で御座ったゆえ、次第に、なんとはなしに、
『……猫に魅入られたんとちゃうやろか?……』
と家内にては、相応の使用人から丁稚下女に至るまで、気味悪がって騒ぎ立てては、陰で噂致すようにもなったと申す。
流石に父母の耳にもこのことが伝わり、殊の外、心痛の種と相い成って御座った。
何よりまず、嫁入り前の娘なればこそ、このような浮き名が巷に広がっては、これ、一大事と申す歎きの先立ったによって、手代なんどとも相談致いて、
「……まず……あの猫を打ち殺ますか……または、これ、帰り来たることの出来ざる、遠き地へ連れ行きまして、放ち捨てますがよろしいか……」
なんどと、うち寄っては秘かに具体な打ち合わせも致いて御座ったと申す。
ところが、かの猫――それを聴き及んで自ずと悟ったものか――フッと行方知れずとなってしもうた。……
「……一体……何処へ消え失せてしもうたもんやろ?……年経た猫は……これ……化けるとか……桑原々々……」
などと申す下世話な噂を致いては、これ、いよいよ、
「……あの化け猫が!」
なんどと家内の者ども皆、口に出しては憎み罵しって御座ったと申す。……
ところがそんなある夜のこと、親の
「……我ガ輩ハ猫デアル……斯クモ夢ニ人語ヲ以ッテ告ゲ参ラス……ナレド夢々娘子ニ執心セシニアラズ……コノ家ニハ年経タル鼠アリ……ソノ
と言うかと見て目醒め、目醒めた
かつまた、その夢中の猫の様子も語り
「……こ、このようなことはあるはずもないことじゃ!……じゃが、確かに夢は一緒やったッ!……と、ともかくもその傘屋を尋ね捜して見まひょ!」
と、人を遣わし、夢で猫の告げたところの×××辺を探させたところが、果して傘屋も、これ、ある――また、それとのぅ猫のことなんども探らせたところが、これ、永年
「――あ、あんたはんのところに……あ、
と息せき切って質いたによって、傘屋はこれ、傘も買わざる猫の名を問うた妙な親父の来たったと、
「……な、なんでそないなこと、お尋ねなさいますぅ?……」
と如何にも不審気に尋ねて御座ったゆえ、〇兵衛、
「……かくかくのことの御座いますればこそ!……」
と、まあ凡そ、『けったいな話』としか思われぬは覚悟の上、それでも誠心を以ってかの顛末を語ったところが、
「――よろしゅうおま! そんなら一つ、お貸ししまひょ!」
と、傘屋は二つ返事で承知して呉れたと申す。
さても喜んで屋敷へと戻り、妻に語っては二人して手を取って言祝いだ――その夜のことで御座る。……
かの猫、また
「……我ガ輩はハ猫デアル……来タル△△日コソ……調伏ノ
と言うて消えた。
されば、その日に合わせて、暮れ頃よりかの傘屋より
その夜の四ツ時頃で御座ったか、二階の上、殊の外、騒々しく……
――途轍もなき
――奇怪なる獣の声々の叫び交わし!
……
暫く致いて、ふっと静まったによって、主人を先頭に男どもが
――大きさはこれ
――猫より勝る大鼠を
――かの借り来たった傘屋の
――美事、喉元を喰い破って死んだる獲物を――しっかと――踏みしだいて御座った……
……さても……
……かの飼い猫はと申せば……
……かの大鼠に
……最早
……とうに……息絶えて御座った。…………
さても主人一同、大きに歓び、借りて参った
かの大鼠の死骸はと申せば……そのままに庭先にて焼き捨てた、とのことで御座る。
*
古猫奇有事
石川某親族の元に年久しく
□やぶちゃん注
○前項連関:妖猫奇譚二連発。
・「古猫奇有事」は「こびやうきあること」と読む。
・「石川某」直近二つ前(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では直前)の「變生男子又女子の事」で中小姓が女に変じた例を挙げる「石川某」と同一人物の様に読める
。
■やぶちゃん現代語訳
石川
*
……ある時、客が御座った折り、その猫が主客の座せる座敷近くをうろついて御座ったが、
「この猫は古うから
なんどと、物語の序でに亭主が申しましたは、
「……猫と申すものは、襖なんどを締め切って御座っても、これ、器用に開くるもので御座る。……この猫も襖の開け閉めを人の如く致いて御座る。……いや……この猫もやがては……化けたりも、これ、致すもので御座ろうかのぅ……」
と言うたによって聞いた客も驚いた。
……ところがその時
……うろついて御座った猫が
――ピタ
……と
……足を停めた。……
……そうして
……亭主の顔を
……そのまま
――ジッ
……と、見詰めた。……
……暫く致いたかと思うと
――プイ
……と、座敷を出でて行ったと申す。……
……が
……そのまま
……
……これは……亭主の
*
と、石川殿が語って御座った。
*
金銀を賤き者に見せまじき事
栗原
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。岩波の長谷川氏の注に『西鶴の『本朝二十不孝』二の二など、一旦難を救うが、大金を持つのに心変りして殺して金を奪うこと、それを懺悔のこと、類話が多い』とある。確かに角行灯の舞台の小道具染みた使い方や、エンディングで僧が掻き消すように消えてゆく辺り、如何にもな作為が見える。
・「栗原叟」御用達の「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクティヴな情報屋で、既に何度も登場している。
・「歩判をひしと付し折手本樣の物」「歩判」は金貨の
・「取なやみ」取り出しては、なんやかやと言う。
・「立出なしぬ」底本には右にママ注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『
・「芝伊皿子」東京都港区三田四丁目と高輪一丁目及び二丁目の旧地名。同地の坂の名として
・「四ツ時比」午後十時から十時半頃。
・「妻の臥所其外□き尋て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『其外
・「斯まひしにあらず」底本では「斯まひ」の右に『(匿まひ)』という訂正注を附す。
・「
・「右左間違だらけ」岩波の長谷川氏注に『やる事がすべて齟齬する』とある。
・「懃しぬれば」底本には右にママ注記がある。カリフォルニア大学バークレー校版では『觀じぬれば』(正字化した)とあり、これで訳した。
■やぶちゃん現代語訳
金銀を賤しい者に見せてはならない事
栗原翁の語った話。
*
……私の知れる者が鎌倉へ詣うでてその帰るさに、藤沢
「……ここは一つ、拙者が出そう。」
「いやいや、ここは拙者が。……」
「……何の! まずは我らが。」
と、三人が三人とも懐中より
「……大枚の金子を、身分の軽ろき者どもの大勢入れ込んで御座る、かくなる場所にて取り出だいて、それをあからさまに見せつけて、支払いのことなんど議論なさるは、これ、良からざる振舞いにて御座いまするぞ。……」
と忠言致いたところが、かの若侍どもは出家の諌めもどこ吹く風と、却って金に輝く歩判の折本を見せびらかすようにしは、払いを済ませ、傲然と茶屋を後に致いたと申す。
それから後、その出家は酒など呑みながら、我らが知人に語ったことには、
「……旅の道中なんどに限らず、どのような折りにもすべて、貴賤の者が入り混じっておる所にあって、あのような多額の金子をあからさまに取り出だいて、とやかうと申すべきことは、これ、厳に慎まねばならぬことで御座る。……さても、我らかく出家致いたも、これ、大枚の金子を見て
と申したによって、
「……それはまた、如何なる仕儀で御座ったものか?」
と
「……然らば……懺悔に語り申そうぞ。……但し、決して口外なさるるな。……」
と、徐ろに話し始めたと申す。
* *
……我らは嘗て、江戸
……そんな、ある夜のこと、四ツ時頃で御座った。蕎麦も売り切れ、店も
「……何卒! 追手の掛かっておる者で御座れば! ここは一つ、何も聞かずに
と申したによって、店の奥の穴蔵の板敷を外し、その内へ侍を忍ばせ、我らは何も知らぬ
「この蕎麦屋へ入ったやに見えた!」
と声のして、
――ドン! ドン! ドン! ドン!
と戸を五月蠅く叩いたによって、戸を開いて招じ入れたところが、
「誰ぞ今、参ったであろうがッ!」
と糺いたによって、
「いいえ! 一向、存知ませぬが?」
と返すと、いきり立った一人が、
「――されども
と申したによって、我ら大いに憤り、
「隠すべき筋もなきに、理不尽にも家捜しなんどということ! これ、賤しき民家なりとも理不尽極まりなきことじゃ。妻ならびに幼年の娘はあれど、妻は患いて横臥しておる。広うもない茅屋、その内をお捜しなさるるは、これ及ぶまいことじゃッ!!」
と啖呵を切ったれど、侍どもは聞き入れず、不作法この上のぅ、土足にて妻や娘の
「……疑いなくここもとへ飛び込んで隠れたと思うたのじゃが……その影も形もないと申すは……まあその……これこそ……不思議なことと申すべきか……」
と呟く、その口振りは、最初に飛び込んで参った折りの、あの猛々しい気勢には似ず、半ば謝りの
「――おい! 我ら軽き身の町人ながら、知りもせぬ
と開き直って逆に詰め寄ったゆえ、追手の侍どもも困り果て、いろいろと詫び
……暫くして、かの穴蔵より匿った侍を連れ出だし、
「少しでも早う、ここを立ち退くがよかろう。」
と申したところ、侍は懐中より、何と金子四、五百両ほども取り出だいて、
「……まことに拙者の命の恩人で御座る! この御礼はいつか必ず、屹度、報い申しましょうぞ!……今はとりあえず……これは些少で御座るが……まずは当座の御礼の印として……」
と、金五十両ほどをも、その大枚から分け出だいたが、我らは、
「――いやさ! こんな礼を取ろうと思うて
と五十両を突き戻して御座った。
……その侍も、逃げるに慌てて御座ったらしく、すぐに大枚の小判を我らが目の前にて、
――チャラチャラ……
――ズン……ズン……
と荷作り致いて、我らの店を出でて御座った。
「……無益なることに、つまらぬ骨折りをしたもんじゃ……」
と穴蔵や土足の跡片付けなど致いて、表の
……が、煎餅布団の中で、
――チャラチャラ……
――ズン……ズン……
という、あの小判の音が耳に残って……
『……あの侍は……主人の物か……若しくは同僚の金子かを……これ……盜み取ってトンずらを決め込んだに違いない……大悪党じゃねえかッ!……』
と……思い至ったので御座る。……
……我ら、やおら、蒲団を跳ね除け、蕎麦切きり庖丁をひっ摑んで駈け出そうと致いた。……
……女房は庖丁を引っ提げた鬼のような我らの姿に驚き、押し留めて御座ったものの、それをも突き倒して一散に、かの侍の跡を追っかけて御座った。……
……すると、遙かに人影の見えたによって、
「――申し! 先刻のお侍さまにては、これ、御座らぬかッ!?」
と声を掛かけたところが、まさに、かの侍で御座った。我らが方へと走り戻って参ったによって、
「――
と嘘八百を申したところ、
「――こ、これは、重々
――その油断を見すまし……
――我らは……
――隠し持った蕎麦切り庖丁にて……
――バラリ! ズン!
――と斬り倒し……
――懐中の金子総てを奪い取って……
……そのまま、そ知らぬ顔で家へ帰り……いや、勿論、妻にも一切は語らずに仕舞うたので御座る。……
……大枚の金子……一旦は豪勢な暮しも致しましたが――天誅は遁れざる所――とか申しまする。娘も間もなく、急な流行り病いのために相い果て、妻もほどのぅ宿痾にために空しぅなりまして……やることなすこと、これ、悉く裏目に出……遂にはかの大枚の金銀も……我らが手から霧か霞のように消え失せまして御座った。……その総ての出来事に、つくづくと感じ入るところの御座ったれば……
* *
……と語り終え、すっくと床机から立って茶屋を出でたかと思うと……気付いた時には、街道の右にも左にも、その僧の影も形もなく……一体、
*
諸物傳術の事
世に
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。まずプレ学習としてグーグル画像検索「三聖吸酸図」でそれらを見た後、解説が詳しい熊谷市公式サイトの真言宗妻沼聖天山の「聖天堂の彫刻3 三聖吸酸」を読んでみよう。
・「吸酸の三聖」「三聖吸酸図」のこと。略して
『世に醋吸の三聖の圖といふものありて、老子孔子釋迦のかたちを畫けり、按ずるに趙子昂が東披懿蹟の圖といふもの一卷あり、その中に云、東披黄門黄魯直とゝもに佛印をとひし時、佛印いはく、吾桃花醋を得たり、甚美なりとてともになめてその眉を顰む、時の人稱して三酸とす、然れば東坡山谷佛印をあやまりて、老子孔子釋迦といふなるべし。僧横川が京華集に、三教吸ㇾ醋圖詩云翁々乞ㇾ醋二到其隣一、顰ㇾ膞忍ㇾ酸寒迫ㇾ身、李白題ㇾ詩妙二於廟一、擧ㇾ盃邀ㇾ月影三人、しからば此項より誤來る事多し』
本文にも出る語が多いが、ここで簡単に注すると、「懿蹟」は立派な行跡の意。「黄門黄魯直」は後注する黄庭堅のこと。「桃花醋」は「とうかす」でと読み、桃の花の様に薄らと紅い色を帯びた酢の名。桃花酸。「京華集」は室町中後期の五山文学を代表する臨済僧
花間一壼酒
獨酌無相親
舉杯邀明月
對影成三人(以下略)
花間 一壺の酒
獨酌 相ひ親しむ無し
杯を擧げて 明月を
影に對して 三人と成る
の部分である。因みに私は寧ろこの「三酸図」というイメージに、淵明のそれのように現実の惨めな個としての己の肉体、それと対峙するところの内在する超俗的なものを希求する魂、そして月光に照らされた影法師との「三」であるように感じた。
閑話休題。さて鈴木氏は注の最後に『根岸氏も同書を読んだものか』と注されておられる。確かにその可能性を強く疑わせるほどに大田の言辞とこの「耳嚢」の記載には類似性が強く感じられるのであるが、しかし、そうすると不審が起こる。それは「南畝莠言」の刊行が文化一四(一八一七)年であることである。「耳嚢 卷之七」の執筆推定下限は鈴木氏によって文化三(一八〇六)年夏に推定されており、しかも根岸は同書の刊行前の文化一二(一八一五)年に亡くなっているからである。「南畝莠言」は大田の研究資料からの抜書きであるから、本記載もそれ以前に何か別な形で公刊されていたものであろうか? ここも識者の御教授を乞うものである。
・「山本宗英」底本鈴木氏注によれば、山本
・「蘇東坡」蘇軾(一〇三七年~一一〇一年)北宋の政治家で詩人・書家。東坡居士と号したので蘇東坡とも呼ばれる。唐宋八大家の一人。二十二歳で科挙の進士科に及第して官界に入り、四十代の半ばまでは主に各地の知事を務めたが、新法党の王安石らの施策に反対して左遷、一〇八五年に神宗が死去して哲宗が即位、王が失脚して旧法派が復権すると蘇軾も中央復帰する。ところが今度は新法の良い部分を存続させることを主張する彼と新法全面廃止を掲げた宰相司馬光と対立、またしても左遷・追放された。波乱万丈の人生を生きた彼は中国の儒教・仏教・道教の三つの宗教哲学を自家薬籠中のものとなし、楽観的な姿勢で人生の苦しみに臨む解脱の境地を開いて常に理想を堅持した高潔の才人であった。
・「趙子昂」
・「黄山谷」
・「佛印」
・「諺語」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『諺誤』とする。この方が分かりが良い。
・「狩野法印」画家
■やぶちゃん現代語訳
諸物伝承の際の誤謬の事
世に
知れる奥医山本宗英殿が訪ねてこられ、申されたことには、
「このほど蘇東坡の遺蹟の図と申し、元は
との由にて御座った。
いや、まさしく、その通りで御座ろう。世に伝えるところの
当今の画家の間などにてもやはり、これを孔子・老子・釈迦なんどと思い違い致いて、そのようなとんでもない絵図を平気で描く者も御座る由、かの奥絵師狩野法印殿も申しておられる、とのことで御座った。
*
狐即座に仇を報ずる事
石川阿波守とて御留守居を勤ける
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。三つ程前の二つの妖猫譚と異類奇譚と連関。
・「石川阿波守」底本鈴木氏注に石川
・「茶師」茶葉の選定と
・「切戸」潜り戸のことで、門扉などの脇に設けた、潜って出入りする小さい戸口を普通はいうが、ここは屋敷の庭に面した座敷のある位置であり、しかも総出で掃除をしているということは庭中に茶室があり、その
・「中の口」屋敷の玄関と台所口の間にある入り口。
■やぶちゃん現代語訳
狐が即座に仇を報じた事
石川阿波守
この源兵衛、ある時、同御屋敷近くの山裾にて、うとうとと致いておった狐を、
源兵衛「コラッツ!」
と、驚ろかして御座った。
狐は尾を巻いて、小山の上の方へと韋駄天走りに逃げて御座ったと申す。
さて、その数日後のことで御座る。
阿波守殿御屋敷の茶坊主や若侍どもが、座敷に面した庭、その茶室の
……と!
――そこで!
――かの源兵衞に化けた!
――そのまま山裾を屋敷表の
と……そこの御座った茶坊主から若侍らは皆、これを漏らさず見て御座った。
若侍一「あれ! 狐が源兵衛に化けたるぞッ!」
若侍二「おう! 確かに拙者の見た!」
茶坊主「私も、た、確かに見申したッ!」
若侍三「表より参ったならば、これ、捕えて
若侍四「合点! 承知ッ!」
と、皆々、棒切れやら箒やらを引っ提げ、内玄関の方へと韋駄天の如く走る!……
……と……そこに正真正銘の源兵衛が、数日前に石川殿より頼まれて
――血走った眼の若侍衆に入口のところで取り囲まれ、
若侍四「それッ! 狐よオウ!」
と声をかけられたかと思うと、もう、棒や箒でめった打ち!
源兵衞「……そ、そのような御無体……な、なさいまするな!……な、何故に!……かくも……」
と這いつくばって身を守りながら、しきりに抗議致いたものの、者ども、いっかな、聴き入れる耳なく、ただただ、地べたに丸うなるしか御座ない。
若侍三「早よ、尻尾を出せ!」
若侍一「皆、お見通しじゃッ!」
茶坊主「何を丸まって寝たふりしとる! この畜生がッ!」
若侍二「
と、全く手を附けられぬ狂乱の
幸い、そこへ騒ぎを聴きつけた老御重役の方が奥方より出でて参られ、何とか、とり鎮められて、ことなきを得た、とのことで御座った。
石川家御家来、幾右衛門殿の物語りで御座る。
*
夢中鼠を呑事
文化三年の夏の
□やぶちゃん注
○前項連関:異類奇譚(こちらは寧ろ動物ご難の珍譚であるが)で軽く関連。――「夢中」で鼠を呑む――この標題は洒落ででもあるだろう。
・「文化三年の夏」鈴木棠三氏が本「卷之七」の執筆推定下限を文化三(一八〇六)年夏とする根拠の一つ。
・「御番衆」ここは広義の武家に於いて宿直警固などに当たる武士。
・「小僧」雑用に使役するために雇った少年。
・「南きん鼠」南京鼠。哺乳綱ネズミ目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミ Mus musculus。参照したウィキの「ハツカネズミ」によれば、本邦では江戸時代から愛玩動物として『白黒まだらのハツカネズミが飼われていた。この変種は日本国内では姿を消してしまったが、ヨーロッパでは「ジャパニーズ」と呼ばれる小型のまだらマウスがペットとして飼われており、DNA調査の結果、これが日本から渡ったハツカネズミの子孫であることがわかった。現在は日本でも再び飼われるようになっている』とある。体色は変異に富み、白色・灰色・褐色・黒色とあるが、辞書で「南京鼠」を引くと、ハツカネズミの飼育用白変種で実験用・愛玩用とある。ここはやはり「こゝろ」の先生ではないが、「純白でなくっちゃ」。
・「無悲に」底本には右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『むざんにも』(無惨にも)とする。こちらで訳した。
■やぶちゃん現代語訳
夢中で鼠を呑む事
文化三年の夏の頃、番町辺りに住もう
*
御番士の一人が、
……
……と思うたら――
……と、ここで目が醒めて御座ったれど、いっかな、
――グウッフ! グワッフ! ググッ! ギョワッフ!
として、一向に治まらざるによって、人を呼んだところが、下女なんどの参って、
「如何なされましたかッ?!」
と訊ぬるも、兎も角も声も出でず、慌てうろたうるばかり。
やっと御番士の湯を乞う手真似に合点致いて、下女がすぐに
「……一体全体、如何なされた?……」
と質いたところ、
「……い、いや、もうかくかくの夢を見申し、いや、大きに苦しみまして、の……いや……それにしても……我らの傍におったはずの小僧は……これ、さて……何処にどうしておったものかッ?……」
と、どなり散らして捜いたところが、小僧はすぐ次の間にちんまりと坐って、何やらん、しくしくと泣いて御座ったゆえ、
「如何が致いたのじゃッ?!」
と糺いたところが、
「……
と申した。
かの御番士、それを聴くと茫然と致いて、
「……さ……さては
と周囲の者ども、孰れも驚き、いや、大笑い致いて御座った。
*
天理に其罪不遁事
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「天理に其罪不遁事」「てんりにそのつみのがれざること」と読む。
・「築土白銀町」旧新宿津久戸町から白銀町、現在の新宿区白銀町附近。現在は白銀町の北東が筑土八幡町で、ここには築土八幡・築土明神社地があった。
・「切子」煙草の葉を刻む職人。
・「店請」店請け人。店子(借家人)の身元保証人。
・「藤堂和泉守」明和七(一七七〇)年に第九代藩主となった藤堂高嶷(たかさと/たかさど 延享三(一七四六)年~文化三(一八〇六)年)の通称。
・「内濟」表沙汰にせずに内々で事を済ませること。
・「領分拂ひ」津藩領外への追放。
・「下死人」解死人又は下手人とも書き、「
・「望人」ママ。後を継ぐことを望む人の謂いか。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『弔ふ人』とあり、書写の際、判読を誤ったものののようにも思える。訳は
バークレー校版を採った。
■やぶちゃん現代語訳
天理から罪は遁れられぬという事
さて以下は、同町に住まう三四郎と申す――次助とは同じ在所の出で御座った――者の話である。
……かの次助は伊勢国の出で、我らも同所の生まれで御座いましたによって、よう知っておりまする。
次助は十年以前、在所にて友達と喧嘩をし、相手を傷つけて、藤堂和泉守
「……あのまま……領分払いにならなんだらな……今頃、人を
と皆、噂致いてもので御座いました。……
……しかし天理は遁れざるものなの御座いましょうか……かくも
*
女の一心群を出し事
いつの
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。連続した話を前後篇二話分で九十八、九話というのは、最後の最後、ちょっと汚いよ、鎮さん!
・「本町」岩波の長谷川氏注に、『中央区日本橋本町』とする。ウィキの「日本橋本町」によれば、この地域は徳川家康の江戸入府以前には福田村ともまた洲崎とも呼ばれていたが、天正一八(一五九〇)年に町地として開発されて以降、寛永の頃には既に京・大坂より大店が進出、商業地域として大いに発展を遂げた。本町という町名は江戸の中で最初に造られた
・「主人交代」本話柄の年代は特定出来ないが、「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年以前のそれほど遠くない時と考えるなら、長崎奉行は定員二名で、その内、一年交代で江戸と長崎に詰め、毎年八月から九月頃に交替した。
■やぶちゃん現代語訳
第一部 女の一心が群を抜いて祈願を成就させた事
何時の頃のことで御座ったか、日本橋
ところが一、二年も経たぬうちに、頻りに江戸表へ帰りとうなり、かつての放蕩無頼をも後悔致いて、兎も角も帰りたい、帰りたいと思うように相い成った。
しかし妻を連れては長崎をも出で難く、
「……さても……一体……どうしたら、ええもんか……」
と思い悩んでおったが、望郷の念、思い迫り、遂には、かの妻を独り置き去りにしたまま、夜陰に紛れて長崎を立ち出で、
「……所詮……女の身なれば……遠国の……荒木波濤を越えたる地には……とても参らるるものにては……これ……御座るまい……」
なんどと、得手勝手な納得など致いて、江戸表へと下ったと申す。
さても妻は、夫の行方は常日頃の様子より察して御座ったによって、
「――
と、走り出でた。が、
「……さりながら遙かなる道中、これ、非人にでもならいでは、とてものことに江戸へ辿りつくこと……
と、少し風体や言動、これ、狂女の
かねてより、かの夫が家は日本橋本町伊勢屋という聞いて御座ったゆえ、そこを尋ねて辿りついた、その
店先の掃除を致いて御座った伊勢屋の若き者が、
「こりゃあ! 見苦しの非人! 物貰いにでも来よったかっ! しっし!」
と見咎めたところ、ザンバラ髪で
「――こちらの若旦那さまに――お目にかかりとう存じまする!」
と申したによって、それを聴きつけた店内の手代どもまで表に出でて、以ての外に憤り、
「こら! その方のごとき賤しい穢い非人が、若旦那さまの知ろうお人であろうはずが、あるまい! 帰れ! 帰れ!」
と叱りつけた。ところが、今度は、
「――一目……一目お目にかかりさえすれば……分ることにて御座いまする!」
と懇請して、いっかな、動こうとせぬ。
「気違いもここまでくると、呆れてものが言えねえ!」
「ちょいと懲らしめてやりやしょう!」
「そうさ……ちょいと脳天に喰らわしたって、正気を戻してもらおうかの!」
と、それより、
「われ! ホンマに小突くぞッ!」
なんどと罵って寄ってたかって脅したによって、店先は騒然となって御座った。
さて、かの息子はといえば――江戸へ戻ると、かねてより好意を持って呉れて御座った親類の者に頼み込んで、本家へ丁重な詫びを入れたによって、やはり実の一人子なればこそ親も可愛いく、結局、親元へと立ち帰って、かつてとはうって変わって従順となり、その日も、店の外回りの仕事を終えてちょうど、お
と、店先でさんざんに小突き回されておった穢いなりのその非人を――よくよく見れば――これ、なんと!
――長崎にて娶ったかつての妻じゃ!
さればこそ大きに驚き、その風体の哀れに感ずればこそ、今となっては隠しようも御座いない、手代どもにはともかくも店端の軒下に休ませるように言いつけ、店へ飛び込むと、奥に御座った両親へしかじかの訳を、これ、正直に語って御座ったと申す。
すると父母は、
「……かの長崎から
と申した。
されば勝手の方へと回し、屋敷内へと導くと、女は、地べたに三つ指をつき、
「……長崎を立ち出で……
と殊勝な挨拶を致いたによって、父母は、
「……さあさ! まずは湯を遣い、髪を結い直しなど致いてから……」
と下女に命じ、湯を沸かすやら、髪結を呼び寄せるやら……
……さてもかくして落ち着いたるその
――これは!
――息子の迷うたも
――いや、もう! 絶世の美人ともいうべき
なので御座った。
かくして父母も、この
ただ、ここに一つの、難しき事態が
*
了簡を以惡名を除幸ひ有事
前に印、本町伊勢屋へ來りし
□やぶちゃん注
○前項連関:前話の後篇。形は気に喰わぬものの、この後段、なかなかええ話やなあ。――
・「了簡を以惡名を除幸ひ有事」は「れうけんをもつてあくみやうをのぞきさいはひうること」と読む。
・「印」底本には右に『(記)』と訂正注がある。
・「是を以娘せん」底本には「娘」の右に『(嫁カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『
・「無息」岩波版長谷川氏注に『無にすること』とある。
・「まかせべけれども」底本には右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『任すべけれども』。
・「駕をつらせ」岩波版長谷川氏注に『駕を従えて』とある。
・「一埓」「いちらち」とも読む。ある事柄の一部始終。ある事柄に関する一通りの事情のこと。一件。
・「聟入」婚礼後に夫が妻の実家に初めて行く儀式。
・「舅入」婚礼後に舅が婿の家を初めて訪れる儀式。
・「質才」これでも通らぬではないが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『賢才』で、こっちの方が分かりがよいので訳は「賢才」とした。
■やぶちゃん現代語訳
第二部 格別の思慮分別を以って悪名を除き幸いを齎した事
前段に記した、日本橋
「……今更、嫁を取り換えるによって破談と申すは……これ、どう考えても理の通らぬことじゃ。……如何致いたらよかろうのぅ……」
と、伊勢屋は
「……かくなった上は、正直に一切合財、あからさまに、この度のことを先方へお語りになられ、あちらの舅どのへ格別のご配慮をお頼み申し、理を曲げて、この度の縁はなかったことにして戴く外、御座るまい。……」
と決したによって、伊勢屋はかの舅の方へと参り、
「……まっこと、許されることとも思いませぬが……かくかくしかじかのことにて……かの遠国長崎より狂女の
と涙ながらに訴えて御座った。
するとかの舅は、あっ晴れ、才覚了簡のある
「……相い分かり申した。……只今、承ったる委細口上の趣き、確かに承知致いた。……さりながらこの度の婚姻の儀は
との返答で御座ったによって、伊勢屋はその時は喜んで、そのまま帰った。
ところが、帰ったはみたものの、妻にそれを話すそばから、
「……しかし……一体……如何なることを……参られて望まれんとするもの……か……」
と思うと、何やらん、慄っとし始め、手に汗を握って夫婦して待って御座ったところが、かの舅、ほどなく
「……委細、先刻お申し越しの趣き、よんどころなき一部始終、大方の事情は、これ、お聴き申した。……ここはその
と申したかと思うと、口籠って石のようになった伊勢屋を尻目に、無理無体に、かの長崎の
「承知と申されたが、かくも引き換えるとは……」
と呆然自失の伊勢屋。されど確かに、無理無体の懇請を致いたは、こちらも同じ……。
息子も思わぬ成り行きに驚いたが、一体全体、先方が何を考え、何をせんと致いて御座るものかさっぱり見当がつかぬ。
つかざれども、父も息子も孰れも、離縁を許諾してくれた先方の思いを違えてはまずかろうと、ともかくも、どうかることか分からぬながら、まずは明日の輿し入れを待とう、ということに相い成った。
翌日、日の高いうちに早々と輿し入れの儀が行われた。
新婦が輿を出ずる。
新婦の綿帽子が取らるる。
その手を伊勢屋
――と
――見れば
――それはかの長崎の
「――さても我らが娘をそちらさまの嫁御としてお通し申しまする――」
と先方の主人が声高く呼ばわり、その後もそのままことものぅ、聟入りや舅入りの儀も何事もなく行われ、めでたく婚儀はすんで御座ったと申す。…………
*
いつとなしに、この相手方の舅の粋な賢才を聞き及んだ者があったので御座ろう、かの者の実の娘は――ほどなく――なお伊勢屋に優る棟高き豪家へと貰われて参り――この度も婚儀滞りなく執り行われたとのこと。舅の彼は、
「――いや、娘を二人持てた! この今の気持ちは格別じゃて!」
と殊の外に喜んだと申す。
この舅の商家は今も、富み栄えておるとのことで、御座る。
*
私の元へ来たる、とある者の話で御座った。
*
彦坂家椽下怪物の事
文化三年小普請支配なりし彦堺九兵衞駿府御城番
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。UMA譚。何らかの蛇と推定するにはサイズ、デカ過ぎ。縁の下にまた入ちゃったって、そのまま? 後に入る人はおとろしけない!(富山弁で「恐ろしい」の意) これって、そうした後の入居者をビビらせるための、悪戯っぽい都市伝説の臭いがする。底本「耳嚢 巻之七」掉尾第百話。
・「文化三年」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。
・「彦堺九兵衞」底本鈴木氏注に彦坂
・「大さ弐尺」太さ約六十一センチメートル弱。これじゃ、丸太やがね!
・「しゆろの如き毛」蛇類の脱皮後の殻が付着したままだとこんな風には見えないことはないけど……サイズがぶっとんどるがね! だちかん!(富山弁「ダメ!」)
・「長さ三丈斗」長さ約九メートル。山ん中の蟒蛇ならまだしも、江戸でしょうが? 現生蛇類でもこんな長いのおりやせんぜ!
・「□りて」底本では右に『(蟠カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『輪になりて』。
■やぶちゃん現代語訳
彦坂家の縁の下の怪物の事
文化三年、小普請支配であった彦堺九兵衛殿、駿府御城番を仰せつけられ、かの地へ引越すということで、数日に亙って屋敷内の片付けに取り込んで御座った、ある日のこと、縁の下より奇怪なる物が出現致いた由。
頭は
縁の下より出でて、庭の内をぐるぐるととぐろを巻いて暫く這いまわったかと思うたら、また縁の下へずるずるっと入り込んだ、とのことで御座る。
何と申す生き物であるか、知る者は全くいなかった、とのことで御座る。