やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ


 耳 嚢 卷之七   根岸鎭衞

[やぶちゃん注:底本は三一書房一九七〇年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものであるが、この本巻の底本は甚だ質が悪く、しばしば岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を部分援用しなければ読解そのものが困難な箇所がしばしば見れれた(援用部は逐一注記してある)。
 以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。
 底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明五(一七八五)年頃に始まり、没する前年、文化十一(一八一四)年迄の実に三十年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクがあるものは私の翻刻訳注の完成版)、
「卷之一」の下限は天明二(一七八二)年春まで
「卷之二」の下限は天明六(一七八六)年まで
「卷之三」は前二巻の補完(日付を附した記事がない)
(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)
「卷之四」の下限は寛政八(一七九六)年夏まで(寛政七年の記事の方が多い)[やぶちゃん注:この区分への私の疑義は「卷之四」の冒頭注参照のこと。]
「卷之五」の下限は寛政九(一七九七)年夏まで(寛政九年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)
「卷之六」の下限は文化元(一八〇四)年七月まで(但し、「卷之三」のように前二巻の補完的性格が強い)[やぶちゃん注:これについては私は同年八月とすべきと考えている。詳しくは本巻「賤商其器量ある事」の私の注を参照されたい。]
「卷之七」の下限は文化三(一八〇六)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)
「卷之八」の下限は文化五(一八〇八)年夏まで
「卷之九」の下限は文化六(一八〇九)年夏まで
(ここで九〇〇話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、四~五年の空白期を置いて最終巻「巻之十」が書かれたものと推定されている)
「卷之十」の下限は死の前年文化十一(一八一四)年六月まで
といった凡その区分を推定されておられる。藪野直史【作業終了:2013年11月26日】]

  
卷之七

 目次

名人の藝其練氣別段の事
鐵棒大學頭の事
伎藝も堪能不朽に傳ふ事
市陰の外科の事
夢に亡友の連歌を得し事
戲場役者も其氣性有事
唐人醫大原五雲子の事
漬物に聊手法有事
咳の藥の事
又同法の事
俠女の事
疝痛を治する妙藥の事
稻荷宮奇異の事
疱瘡の神なきとも難申事
同病重躰を不思議に扱ふ事
婦人に執着して怪我をせし事
植替植木に時日有事
鱣は眼氣の良藥なる事
老僕奇談の事
打身くじきの妙藥の事
病犬に被喰し奇藥の事
瀕死の者を助る奇藥の事
狸欺僕天命を失ふ事
放屁にて鬪諍に及びし事
銕物の疵妙藥の事
商家義氣幷憤勤の事
蕎麥は冷物といふ事
鳥の餌に虫を作る事
其素性自然に玉光ある事
商家義氣の事
不思議に金子を得し事
修驗道奇怪の事
嘉例いわれあるべき事
眞木野久兵衞町人へ劍術師範の事
又、久平其術に巧なる事
※を取奇法の事[やぶちゃん字注:「※」=「疒+「黑」。]
蟲さし奇藥の事(二カ條)
※いつの妙藥の事[やぶちゃん注:「※」=「疒」+「各」。]
幽靈恩謝する事(二カ條)
婦人強勇の事
久野家の妾死怪の事
即興狂歌の事
屋鋪内在奇崖の事
強勇の者自然と其德有事
不義業報ある事
鳥類智義有事
國栖の甲の事
肴の骨たゝざる呪事
諸物制藥有事(三カ條)
俠女凌男子事
地中奇物の事
假初にも異風の形致間敷事
淸潔の婦人の事
河怪の事
古狸をしたがへし強男の事
幽靈を煮て喰し事
備前家へ出入挑灯屋の事
先細川慈仁思慮の事
川狩の難を遁るゝ歌の事
疝氣妙藥の事
恩愛奇怪の事
退氣の法尤の事
長壽の人狂歌の事
志賀隨翁奇言の事
養生戒歌の事
中庸の歌の事
郭公狂歌の事
其角惠比須の事
近藤石州英氣の事
旋風怪の事
正路の德自然の事
仁義獸を制する事
名器は知る者に依て價ひを增事
人の齒にて被喰しは毒深き事
黐を落す奇法の事[やぶちゃん注:底本の標題の字は(へん)の部分が「禾」(のぎへん)で、あるが当該字は表示出来ないことと(「廣漢和辭典」にも載らない)、本文が正しく「黐」となっていることから訂した。]
古錢を愛する事
老人頓智謀略の事
齒の痛口中のくづれたる奇法の事
加茂長明賴朝の廟歌の事
仁にして禍ひを遁し事
蚊遣香奇法の事
武者小路實蔭狂歌の事
加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事
内山傳曹座頭に代詠る歌の事
大盜人にともなひ歩行し者の事
變生男子又女子の事
猫忠臣の事
古猫奇有事
金銀を賤き者に見せまじき事
諸物傳術の事
狐即座に仇を報ずる事
夢中鼠を呑事
天理に其罪不遁事
女の一心羣を出し事
了簡を以惡名を除幸ひ有事
彦坂家椽下怪物の事



 名人の藝其練氣別段の事
 小野流一刀の始祖にて神子上みこがみ典膳と云しは、御當家へ被召出めしいだされ、小野次郎右衞門と名乘る。其弟は小野典膳忠也ただなりと名乘り、諸國遍歷して、藝州廣嶋に沒す。依之これによつて藝州にては忠也ちゆうや流といひて、右忠也の弟子おほく、國主も尊崇して今に其祭祀をたえず。十人衆とて、忠也を修行する者右の祭祀の事抔取扱ふ者、右十人の内に間宮五郎兵衞といえるは、べつして其藝に長じ、同輩家中えも師範なして、其比そのころの國守但馬守も武劔ぶけんまなび給ふ。然るに五郎兵衞不幸にして中年に卒去せしが、悴市左衞門十六歳にて跡式相續いたしける處、すなはち但馬守は五郎兵衞免許の弟子故、悴市左衞門えも傳達のおもむき段々傳授のうへ、其業ばつぐん故免狀も被渡わたされんとありし時、市左衞門退ひて其斷そのことわりのべければ、如何いかが存寄成ぞんじよりな尋有たづねありしに、一躰いつたい親の義にて候え共、流義の心得をば五郎兵衞はなはだ未熟にいたし逸々いちいち其修行たがまうし候。依之右の誘引故、國中の一刀流いづれも下手へたにて候へば、五郎兵衞師範の御家中何れも未練の稽古に御座候と申ければ、但馬守以の外憤り、汝が父の教方不宜おしへかたよろしからずまうす緩怠くわんたいなり、殊に其方へは予致し太刀筋也、それを不宜とまうすは主人え對しもしくは父をあざけるに相當り、かたがた不屆也、子細有哉あるやと尋られければ、武藝の儀惡敷あしきとぞんずるを、もし父のなし給ふ事とて不申まうさざる、不忠なりそれがしあしきと存候ぞんじさふらふ所、御疑ひも候はゞ同衆の手前にて御立合せらるべしと答ふ。但馬守、いよいよ奮怒の餘り、小悴迚無用捨とてようしやなく立合申たちあひまうすべしとて、かの十人の内に勝れたる同流のものえらみ、勝負被申付まうしつけられしに、右十人は不及およばずとて、一家中心得有る者ども立合けるが、獨りも市右衞門にかつものなし。但馬守も自身立合被申まうされしにこれまけられければ、但州はなはだ賞翫して、親をそしり候所は當座の咎め申付まうしつけ、忠也流の稽古、萬事市左衞門に差圖可致いたすべきと被申付、殊の外家中に名譽の者出來いでくと也。可惜をしむべし、市左衞門三十歳に不成ならずして卒去して、當時其子そのこ跡相續なしけると也。但馬守殊の外惜しと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:「卷之六」掉尾との連関性はない。本格武辺物で巻頭を飾るには相応しい。 ・「小野次郎右衞門」小野忠明(永禄一二(一五六九)年又は永禄八(一五六五)年~寛永五(一六二八)年)のこと。将軍家指南役。安房国生。仕えていた里見家から出奔して剣術修行の諸国行脚途中、伊藤一刀斎に出会い弟子入り、後に兄弟子善鬼を打ち破って一刀斎から一刀流の継承者と認められたとされる。以下、ウィキの「小野忠明」によれば、二文禄二(一五九三)年に徳川家に仕官、徳川秀忠付となり、柳生新陰流と並ぶ将軍家剣術指南役となったが、この時、それまでの神子上典膳吉明という名を小野次郎右衛門に改名した。慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦いでは秀忠の上田城攻めで活躍、「上田の七本槍」と称せられたが、忠明は『生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求められた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りを買って大坂の陣の後、閉門処分に処せられた』とある。「耳嚢」では「卷之一」の冒頭から三番目に配された、「小野次郎右衞門出世の事 附伊藤一刀齋の事」のことに既出する。ここで彼に纏わる剣豪譚をここに記したことに私は、改めて「耳嚢」の初心に帰ろうとする根岸の心意気を感じるものである。
・「小野典膳忠也」前の小野忠明の弟小野忠也。一刀流流派小野派忠也流おのはちゅうやりゅう開祖。
・「間宮五郎兵衞」間宮久也ひさなり(?~延宝六(一六七八)年)。幕臣間宮庄五郎次男で、一刀流の伊藤忠也に学び、間宮一刀流を立てた。安芸広島藩剣術師範となり、晩年には高津市左衛門と改名している(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
・「其比の國守但馬守」安芸国広島藩浅野家初代藩主浅野長晟ながあきら(天正一四(一五八六)年~寛永九(一六三二)年)。浅野長政次男。叔母寧子(北政所)が豊臣秀吉の正妻であった縁で早くから秀吉の近侍となり、秀吉没後は徳川家康に従って京にいた寧子の守護を命じられ、備中国蘆森(現在の岡山市足守)で二万余石を与えられた。慶長一八(一六一三)年に兄幸長が嗣子なく没したことから和歌山城に入り、紀伊国三十七万余石を領した。大坂冬・夏の陣では大功を立てる一方、この間に大坂城と通じた国内の熊野・新宮などの一揆をも平定している。元和二(一六一六)年には家康の三女振姫を妻に迎えて同五年に改易となった福島正則の跡、安芸・備後に四十二万余石を領することとなって広島城に移った。ここでも地域の慣行を重んじて諸制度を整え、藩政を確立した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。
・「武劔」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『舞剣』。
・「ばつぐん」底本では左に『(拔群)』と傍注する。
・「逸々いちいち」は底本のルビ。
・「其修行たがまうし候」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『其条行違ゆきちがもうし候』。前者の方が決定的で強烈な感じのする謂いである。
・「右の誘引」岩波版で長谷川氏は『五郎兵衛の指導』と注されておられる。
・「緩怠」①いいかげんに考えてなまけること。②失敗すること。過失。手落ち。③無礼・無作法なこと。ここでは無論、③の意。
・「夫を不宜と申は主人え對しもしくは父を嘲るに相當り」「もしくは」は底本のルビ。ここ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『夫を不宜と申は主人え對し候て主人をそしるに相当り』である。後者の方が屋上屋でなく自然である。ただ、怒った但馬守の謂いとしては、前者の方がリアルな気もしないではない。順列を恣意的に変更して、混淆して訳してみた。 ・「かたがた」は底本のルビ。
・「御疑ひも侯はゞ」底本は「御競ひも侯はゞ」であるが、意味が通じない。ここ部分のみ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を採った。
・「右十人は不及とて」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『右十人は不及申まうすにおよばず』(ルビは歴史的仮名遣に変えた)。現代語訳はバークレー校版に従った。
・「但馬守殊の外惜しと也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『但馬守殊之外愎しみ被申しとや』とあり、長谷川氏は「愎」の右に補正注『〔惜〕』を配しておられる。現代語訳はバークレー校版に従った。

■やぶちゃん現代語訳

 名人の芸というものはその修練に対する気合覚悟が如何にも格別である事

 小野一刀流の始祖にして神子上典膳みこがみてんぜんと申すは、御当家徳川家に召し出だされ、小野次郎右衛門と名乗られた。
 その弟は小野典膳忠也ただなりと名乗り、武者修行に諸国遍歴を致し、安芸国は広島にて亡くなられた。
 これによって安芸国にては忠也流ちゆうやりゅうと称し、かの忠也ただなり殿の御弟子が殊の外多く、代々の国主も尊崇して、剣術家にあっては、今に忠也ただなり殿を奉って礼を尽くす祭祀さいしの習慣が、これ、絶えずある。
 十人衆と申し――これは忠也流を修行する達者で、その宗主の日々の大切なる祭祀のことなどにも従事致す者で御座る――その十人の内でも間宮五郎兵衛と申す者は、べっしてその技に長じて御座ったゆえ、同輩の家中の者どもへも剣術の師範を成し、その頃の国守であられた但馬守浅野長晟ながあきら公も、剣術をこの間宮五郎兵衛に学ばれた。
 然るに五郎兵衛殿は不幸にして中年にて早々に卒去せられた。
 されば、子息市左衛門が十六歳にて跡式を相続致いたが、長晟公におかせられては、御自身も五郎兵衛免許の御弟子であられたゆえ、この市左衛門へ、その技の仔細をお教えになられ、だんだんに奥義も伝授なされた上、その手技も抜群で御座ったればこそ、市左衛門を親しくお召しになられ、間宮五郎兵衛直伝の忠也流の正統なる免状をも渡さんとなされた。
 すると、市左衛門は身を引き、それを固辞致す旨、申し上げた。
 されば、不審なる長晟ながあきら公の、
「――一体、如何なる所存にて、かく辞退致すものか?」
とのお訊ねに対し、市左衛門は、
「……一体、親の義にては御座いまするが――忠也流流義の心得をば、かの父五郎兵衛は、これ、甚だ未熟なままに誤って受け継ぎ――その具体な手技しゅぎから修業入魂の仕儀に至るまで――これ――悉く誤って御座る。――かくなる五郎兵衛の指南を受けて御座ればこそ――御家中の一刀流の達者と呼ばるる御仁は、これ、孰れも『下手へた』にて御座れば――五郎兵衛を師範と致いて参った御家中と申す者は、これ、孰れも、はなはだ未熟未練の者にて御座る。……」
と答えたから堪らない。
 但馬守様は、これ、以ての外に憤られ、
「……な、汝が父の教え方が宜しからずと申すも……こ、これ、ぶ、無礼千万じゃ!……こ、ことに、その方へは、この予が、直々に教えた太刀筋であるぞッ!……そ、それを宜しからずと申すは……こ、これ、父に対してあざける……いや!……これは!……その、なんじゃ?!……この我ら……し、主君をそしっておるのと、ま、全く以って同じことではないかッ! こ、悉く不届き者じゃッ!! 弁解の余地もあるまいがッ!?!」
と劇しく糺された。
 すると、市左衛門、これ、平然と、
「――武芸の儀は全く『し』と存ずるものあるに、これもし、我が父のなし給うたことなればとて、それを口に申さざるということあらば――これ――不忠で御座る。……それがしが『しきもの』と存じまするところにつき、お疑いの儀、これ、御座いまするとならば、御家中御一同の御面前にて御立合おんたちあいの儀、ご命じ下されい。――」
と答えた。
 されば但馬守様、怒髪天を衝き、
「あ、青侍の、こ、小悴こせがれとて、よ、容赦致さず、立ち合い申せえッ!!」
と、その場にて即座に、かの忠也十人衆直系のうちでも、特に技量の勝れたる同流の手練れを選び、急遽召し出だいて御前試合を申し付けられた。
 ところが……
……その十人は言うに及ばず
……御家中にても他流の心得ある者どもまで、悉く立ち合い致いたのだが
……誰一人として
……市右衛門に勝てる者は、これ、御座らなんだ。……
 遂には、立ち合いの相手が誰もおらずなったによって、但馬守様御自身が、立ち合いなされた。……
……が
……これもまた
……お負けになられた。……
 されば、但馬守様、一転、はなはだ賞美なされ、
「……親をそしったるは、これ、当座の咎め、申し付けおく。……が――忠也流の稽古は向後、万事、市左衛門に指南さするように!」
と申し付けられ、
「――いや! 殊の外、家中に名誉の者が出来しゅったい致いたわ!」
とご満悦であられたと申す。
 惜しいかな、この市左衛門殿は三十歳にならずして卒去なされ、その時はまた、その子息が名跡みょうせきを相続致いたと聞いて御座る。
 但馬守様は、この市左衛門殿の夭折を、殊の外、惜しまれた、とのことで御座る。



 鐡棒大學頭の事

 松平大學頭、貮三代以前大學頭、常々杖に鐵棒を被用もちゐられし故、俗に鐵棒大學と評判せしが、至て賢直剛器の人にて、松平安藝守懇意なりしが、子息但馬守はじめ御目見おめみえの節、何分年若の者、行末の所を御師範賴みぞんずるよし、安藝守ねんごろ被賴たのまれし故、承知の由にて、すなはち藝州□え被招まねかれて但馬守を被引合ひきあはせられしに、あつぱれ能きうま立末賴母たちすゑたのもしく、殊外ことのほか賞翫せしが、安藝守も此間申候通このあひだまうしさふらふとほり彌相賴いよいよあひたのむよし被申まうされければ、それ付御招故心掛つきおんまねきゆゑこころがけの所を不申まうさず如何也いかがなりまづ着服の術はなはだ長く武士風になしとて、小刀をもつて振袖の袖口貮三寸切縮きりちぢめさて大小のこしらへ不宜よろしからずとて、持參いたし候大小を取出とりいだ被渡わたされしが、刀は永く脇差は如何にも短く太く、たくましき拵にてありしと也。但馬守生涯帶刀、右大學頭被申候まうされさふらふ通りの刀脇差にて、今に大學頭送りし由、大小は藝州の家に殘りしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:本格武辺物で連関。
・「銀棒大學頭」は「かなぼうだいがくのかみ」と読む。
・「松平大學頭」松平頼慎よりよし(明和七(一七七〇)年~文政一三(一八三〇)年)。陸奥守山藩第四代藩主。水戸藩支流松平家五代。守山藩四代藩主松平頼亮よりあきら次男。官位は従四位下大学頭で侍従。享和元(一八〇一)年、大学頭であった父頼亮の死により家督を相続、死去後は長男頼誠よりのぶがやはり大学頭を継いでいる(ウィキの「松平頼慎」に拠る)。やや分かり難いが、本話の主人公はこの松平頼慎である。
・「貮三代以前大學頭」松平頼慎の曽祖父であった、同じく従四位下大学頭で侍従・少将の守山藩初代藩主松平頼貞よりさだ(寛文四(一六六四)年~延享元(一七四四)年)を指す。常陸額田藩初代藩主松平頼元の長男として生まれ、水戸徳川家初代徳川頼房の孫に当たる。元禄六(一六九三)年、父の死去により家督を継いで常陸額田藩の第二代藩主となったが、元禄一三(一七〇〇)年に陸奥守山に移封されて守山藩主となった。元文四(一七三九)年の尾張藩主徳川宗春に対する蟄居の申し渡しでは使者を務めている。寛保三(一七四三)年に家督を三男頼寛よりひろに譲って隠居した(ウィキの「松平頼貞」に拠る)。
・「剛器」底本には右に『(剛毅)』と補正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『剛気』。
・「松平安藝守」安芸広島藩第五代藩主で浅野家宗家第六代浅野吉長よしなが(天和元(一六八一)年~宝暦二(一七五二)年)。元禄八(一六九五)年の元服に際して将軍綱吉より偏諱を受けて吉長と改名、宝永五(一七〇八)年に家督を継いでいる。享保一〇(一七二五)年には広島藩藩校として「講学所」(現在の修道中高等学校)を創始し、元文四(一七三九)年には宮島の大鳥居を再建、各種藩政改革で成功を収めたことから「江戸七賢人」の一人に数えられ、広島藩中興の英主名君と称される。参照したウィキの「浅野吉長」のよれば、『浅野家は、豊臣秀吉正妻(北政所)高台院の妹である弥々の子孫であり、吉長は、祖母九條八代を通じて秀吉の姉日秀尼の血を受け継いでいる。つまり、秀吉と寧々の傍系の血統である。また吉長の母は尾張二代藩主徳川光友の娘貴姫であり、曾祖母の前田萬は前田利家の直系の孫でもある。吉長は、徳川家康と前田利家の直系の血統も受け継いでいる。特に家康の血は尾張藩初代徳川義直と、二代将軍徳川秀忠の二つの流れを受け継いでいる』(アラビア数字を漢数字に代えた)とあり、江戸時代のとびきりの名門の血脈であることが分かる。
・「子息但馬守」安芸広島藩の第六代藩主で浅野家宗家七代浅野宗恒むねつね(享保二(一七一七)年~天明七(一七八八)年)。吉長の長男として江戸桜田の上屋敷で生まれた。広島藩の財政は父の時代からすでに悪化していたが、宗恒の時代にも幕命による比叡山延暦寺堂塔修復による十五万両の出費に加えて、領内で凶作や大火が相次いで財政が窮乏化した。このため、宝暦三(一七五三)年には家臣団の知行を半減、宝暦四(一七五四)年には永代家禄制度の廃止、能力制による家禄の改正など、世襲制の一部廃止を断行する一方で、自ら倹約に努め、さらに役人の不正摘発や裁判制度の公正化を行うなど、様々な藩政改革に着手して、改革をほぼ成功させた名君であった(ウィキの「浅野宗恒」に拠る)。
・「□え」判読不能か。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『亭』とある。これで採る。
・「あつぱれ」は底本のルビ。
・「着服の術」の「術」には底本では右にママ注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『ゆき』とある。「裄」は和服の着物の背の縫い目から袖口及びその長さをいう。現代語訳ではこれを採った。

■やぶちゃん現代語訳

 鉄棒大学頭かなぼうだいがくのかみの事

 松平大学頭頼慎よりよし殿――二、三代以前より大学頭であられた――は、常々、愛用されておられた杖に、鉄棒かなぼうを用いられておられたゆえ、俗に『鉄棒大学』様と評判せられておられたが、至って賢直剛毅の御仁であられた。
 松平安芸守浅野吉長よしなが殿と御懇意であられたが、吉長殿御嫡男但馬守宗恒むねつね殿、初めての将軍家御目見おめみえの際には、
「何分、年若としわかの者なれば、行末の所を、これ、御師範、よろしゅう、お頼み申す。」
と、父君ちちぎみより、ねんごろに『鉄棒大学』様へ御頼みがあられたと申す。
 即座に承知の旨、御座ったによって、安芸守殿は『鉄棒大学』様を直ちに御屋敷に招かれ、子息但馬守殿にお引き逢わし申し上げなされた。
 『鉄棒大学』様、但馬守殿を御一見なさるるや、
「――あつぱれ! よきしょうにお生まれなさった御仁じゃ! 末、頼もしゅう存ずる!」
と、殊の外、賞賛なされた。
 父安芸守殿、
「先般、お頼み申した通り、いよいよ、よろしゅうに、お頼み申し上ぐる。」
と申されたところが、『鉄棒大学』様、
「――それにつき、わざわざの御招きまで頂戴致いたゆえ、取り急ぎ、心に掛かって御座る所を申さぬは、これ、よろしゅう御座るまい。――まず、貴殿の着服のゆき――これ、はなはだ――なごう御座る。まずは武士風になすがよろしい。――」
とお答えになったかと思うと、御自身の小刀を以って、目の前の、但馬守殿の振袖の袖口を
――シャッ! シャッ!
と、いとも簡単に二、三寸、切り縮められた上、
「――さても――大小のその拵え、これも、はなはだ、宜しゅうない。――」
と、予め用意持参なされて御座った大小を取り出だされ、但馬守殿へ直々にお渡しになられた。
 その太刀は――これ、如何にも長いもので、対する脇差と言えば、これ如何にも短く太うて、ごつごつとした逞しい拵えのもので御座ったと申す。
 ……但馬守殿は、このいかもの造りの大小を、生涯、帯刀なされた。
 この大小は、如何にも『鉄棒大学』頭殿が、宜しい、と申さるるに相応しき、異形いぎょうの刀脇差にて、今に、代々の浅野当家大学頭殿へ送り伝えておらるる由にて、安芸国の宗家屋敷に今も伝えられておる、とのことで御座る。



 伎藝も堪能不朽に傳ふ事

 京橋邊に、琴古きんことて尺八の指南をして、尺八をひらく事上手也。其業をなす者にたづねしに、琴古が拵へしちくは、格別音整調子共宜敷よろしきよし也。元祖琴古竹をふきて國々を扁歷へんれきし、ある在郷の藪にて與風ふと名竹と思ふを見出し、せちに乞求こひもとめて是を竹に拵へ吹ければ、在方なれば唄口へいるべき品もなく、唯切そぎて唄口を拵へ吹けるに、其音微妙にして可稱しようすべく、是を以日本國中を修行せしに、尺八の藝も琴古につづくものなく、長崎にて一圭といへる者、其藝堪能なりしに、其比そのころ是も出會であひのうへ兩曲合せけるが琴古には及ざる由。今に右の竹は當琴古が家に重物じふもつとして、執心の者には見せもするよし。元租琴古も當時の琴古より貮三代も以前のよし。元祖のひらきし竹も今に世に流布し殘ると也。裏穴際に琴古と代々名彫なぼりをなす由人の語りける。

□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、何か、鉄棒と尺八、裄を切るのと竹を切る仕草、「貮三代以前」と「貮三代も以前」の言葉遣いなど、不思議にしっくりと繋がる。「耳嚢」に多い技芸譚である。
・「堪能不朽」「堪能」は「かんのう」(「たんのう」とも読む)で、深くその道に通じていることをいう。
・「ひらく」岩波版で長谷川氏は、『初めて使うこと。後文のように竹を見立てて尺八に仕立てることをいうか』と注されておられる。これを現代語訳では頂戴した。
・「ちく」タケ製の笛。無論、「たけ」と読んでも同じ意味があるので構わないが、私の好みでは「ちく」である。
・「音整」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『音声』であるが、この字面であると音色とその調べ(調性)などの意へと膨らんでいる感じがする。
・「元祖琴古」初代黒沢琴古(宝永七(一七一〇)年~明和八(一七七一)年)。本名黒沢幸八。黒田美濃守家臣であったとされる。若くして普化宗に入り、一月寺、・鈴法寺の指南役を務め、曲の収集整理を行って、琴古流として三十余りの曲を制定、普化宗尺八の基礎を築いた。実子が二代目琴古、弟子には一閑流の宮地一閑がいる(以上はウィキの「黒沢琴古」に拠る。二代三代はリンク先を参照されたい。ただ、そこにはこの尺八家元の名跡琴古流は四『代目が没して以降途絶えているがその後も何人か継いだが何代続いたか不明』とあって、「堪能不朽」の語がやや淋しく感じられはする)。
・「扁歷」底本には「扁」の右に『(遍)』と傍注する。
・「與風ふと」は底本のルビ。
・「是を竹に拵へ吹ければ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『是を竹に拵へけれど』で、文脈上はこちらがよい。ここはそれで訳した。
・「唄口」この当時、尺八の唄口(歌口)に何を挟んでいたかは分からない(文脈上はもとは尺八には歌口に何かを挟まねばならなかったようにしか読めない)。しかし、「泉州尺八工房」の「歌口研究 1」には、本来、尺八は元々自然の形状を利用して作られており、歌口近辺が二〇ミリメートル程度の内径を持った竹の節を抜いただけの単純な楽器で、『歌口開口部も竹の自然な形状によって様々な形になっていた。近年大量生産をするようになり内部に施した「地」と呼ばれるパテ状の漆を一回で削り取る器具を使うようになると、開口部は円である必要が出てきた』とあるから、尺八の原型では実は歌口には何も挟まなかったように読める(ケーナの古形のものを見てもそれを私も支持する)。同記載にはさらにまた、歌口は現代では『竹まかせの時代から形状の統一の時代にはなったが、いずれにしても演奏上の人間の立場に立った変化ではなく、あくまで制作上の都合である』とある。ウィキの「尺八」によると、『歌口は、外側に向かって傾斜がついている。現行の尺八には、歌口に、水牛の角・象牙・エボナイトなどの素材を埋め込んである』そうである。

■やぶちゃん現代語訳

 技芸も堪能かんのう不朽に伝えるものであるという事

 京橋辺に、『琴古きんこ』と称する、尺八の指南を致いて、尺八を「ひらく」こと――原木の竹を見立てて、尺八に仕立てる上手が御座る。
 尺八で生業なりわいをなす者に尋ねたところ、『琴古』が拵えた尺八は、音色やその調べ、吹き具合ともに、格別によろしい由、聞いて御座る。
 元祖琴古は尺八を吹いて諸国を遍歴致いて御座ったが、ある在郷の藪のうちにて、ふと、名竹と思わるる一本を見出し、せちに乞い求めて、これを尺八に拵えてみたが、出先の田舎でのことなれば、歌口へ入るることの出来る品も、これ、御座なく、ただ切り削いで歌口を拵え、そのままに吹いたところ、その、微妙にして、美事なるもので御座ったゆえ、これを持って日本国中を修行して巡ったと申す。
 具体な尺八の吹奏術の技芸に於いても、この琴古に匹敵する者は御座らなんだ。
 長崎にて一圭いっけいと申す者が、深く尺八の芸に通じておると評判で御座ったが、その頃、この者とも出会でおうたによって、二人それぞれに曲を奏して競うてはみたものの、一圭も流石、この琴古には及ばなんだ由にて御座る。
 今にその尺八は、当琴古が宗家に重物じゅうもつとしており、尺八に精進する者には見せもする、とのことで御座る。
 元租琴古と申すは、これ、現在の琴古よりも二、三代も以前の御仁なる由。
 元祖が製したところの、この自然な竹をそのままに用いた尺八――歌口に何も挟まぬ尺八も、これ、今の世に流布して残っておるとのことで御座る。この形の、宗家にて製する尺八の裏穴のきわには、代々、必ず『琴古』と名彫なぼりをなす由、人の語って御座った。



 市陰の外科の事

 或諸侯痙瘡けいさうを愁ひて、衆醫師其法を施せどもしるしなし。或時夢に、吉永正庵といふをもつて療治せば快驗くわいげんあるべしと夢見ぬ。おぼろげの事ながら、其名をも正しくおぼえ、是より東北の方とつげある事なれば、若しやかゝる事あるまじきにもあらずと、家來手わけして所々聞合ききあはたづねしに、吉永正庵といふ者なし。或時、輕き者兩國邊を𢌞り、見せ物辻賣つじうり抔一見して歩行ありきしが、楊弓店やうきゆうば近所にむしろしき、賣藥致候いたしさふらふ者、其看板を見るに吉永正庵とありし故、住居等尋しに本所邊の裏住うらずみのよし。然れども餘り賣藥ていの者ともなひてゆかん如何いかがと、屋しきへ戻りかくかくと語りしゆへ主人えもつげけるに、素より夢を信んじての事なれば、左もあるべしと、何くるしからんと、よべとありしより招きしに、かのいんもつを見て品々早速療治すべしと、其藥を施しけるに、不思議にかれ吉永にて快驗を得たると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。根岸の好きな医事医薬関連に夢告譚を交えた都市伝説である。
・「市陰」は「しいん」と読み、「市隠」に同じ。官職に就かず、またはれっきとした生業を営まずに市井に隠れ住むこと、また、その人。
・「外科」は「耳嚢」にはしばしば出るが、外科げかのこと乍ら、読みは「ぐわいれう(がいりょう)」であるので注意。
・「痙瘡」岩波版長谷川氏注には『痙は筋がひきつること。何病か未詳』とあるのである。確かに「廣漢和辭典」にも、「痙」にはそれ以外の意味は示されていない。さて、ところが、この「痙瘡」という熟語でネット検索をかけるとかなりのヒットがある。ところが、それらを個々に見てゆくと、これはどうも、その多くは「痤瘡」(顔面に出来る点のような腫物)即ち、“
acne”(アクネ:痤瘡。にきび(pimples)などの皮膚病。)、面皰にきびの意で用いていることが判明した。しかし、「痙を愁ひて」「衆醫師其法を施せども驗なし」という部分を読むに、多発性のにきびの悪化したものという雰囲気よりも、遙かに重い感じを受ける。そこで今度はその「痤」の字義を見てみると、以下のような興味深い多様な意味持っていることが分かる(意味の一部は当該辞書以外に別に私が調べて補填してある)。
腫物はれもの。小さな腫瘍。
疥癬ひぜん。ひぜんがさ。
根太ねぶと固根かたねせつ(但しこれは、血管内に生じた腫瘤をいう場合もある)。
よう。背中やうなじなどに発生する悪性の腫瘍。
この中で、本話の諸侯が罹患している病気の有力な候補として着目されるのは寧ろ、②以下なのである。
 まず、②では過角化型疥癬(ノルウェー疥癬)と呼ばれる疥癬の重症感染例が疑われる。何らかの原因で免疫力が低下している人にヒゼンダニが感染したときに発症し、通常の疥癬ならばせいぜい一患者当たりの保虫数は千個体程度であるものが、この症例では一〇〇万~二〇〇万個体に達し、患者の皮膚の摩擦を受けやすい部位には、汚く盛り上がり、牡蠣の殻のようになった角質が厚く付着するに至るのである。
 次の③は、大腿部や臀部などの脂肪の多い部分に出来る化膿性の痛みを伴う腫れ物を指す。私のように体質上、粉瘤(アテローム)が出来やすいタイプの人は、そこに細菌感染が起こって化膿し、しばしば熱と痛みを伴う粉瘤腫に悪化する(二十代の私の右腹部に出来たそれは化膿が真皮にまで達し、外科手術で摘出せねばならなかった)。
 最後の④は必ずしも癌とは限らない。所謂、性感染症の多くはリンパ節の腫脹を伴うのだが、私は本話のこの「痙瘡」という字を見た際、寧ろ、「頸」の「もがさ」(腫れと瘡蓋)を連想したため、実は最初にこれをイメージしたのであった。
 どれと断定は出来ないが、実は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では最後に『かのもの腫もつを見て』とあること(後述する)、②の過角化型疥癬は感染力(ヒゼンダニの接触感染による)が強いので、別に、お傍の者や家内の者への感染拡大の描写が付随するであろうと考えられるから除外するとして、
③アテロームが化膿して大きくなったもの(これは実体験からいうと結構痛む)
か、
④の性病類の一症状としての慢性的リンパ節腫脹の大きなもの
であろうと推定出来る。④の場合は大きくても必ずしも痛みを伴わないが、大きければ場所によっては外分も悪く、日常生活にも支障が出、「愁ひて」という描写も不自然ではない。
・「是より東北の方」で後に吉永正庵を発見するのが「兩國」、彼の住まいが「本所」となれば、この「東北」は当たっていなくては記載の意味がないから、この大名の上屋敷は、日本橋北・内神田・八丁堀・京橋・築地・鉄炮洲辺りにあったと考えられる。
・「友なひて」底本では「友」の右に『(伴)』と注する。
・「彼者陰もつを見て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『かのもの腫もつを見て』。こちらの方が意味が腑に落ちる。これで採る。

■やぶちゃん現代語訳

 市井に隠れた外科医の事

 ある大名、腫脹を伴う「痙瘡けいそう」と呼ばれる厄介な病いを患って困憊なされ、何人もの医師がそれぞれのよしとする療法を施術致いたけれども、これ、効果が全く御座らなんだ。
 そんなある夜のこと、患者御当人が、
~~~……吉永正庵と申す者を以って……療治致さば……これ……快癒するであろう……~~~
と何者かののたまう夢を見られた。
 夢の内の朧げのことながらも、翌朝、目覚められた後も、その
……吉永正庵……
と申す名をも正しく覚えておられた。しかも、
~~~……この者……これより東北の方に……あり……~~~
と、お告げのうちに妙に具体な事柄のあったことも、ここで思い出されたによって、
「……もしや……このような不可思議なること……これ……全くあり得ぬということも……これ、あるまい……」
と、命令一下、家来の者どもは手分けして方々ほうぼう聴き込みに回ったものの、これ、吉永正庵と申す者、どこにも、御座らんだ。……
 それからほどなくした、ある日のことで御座った。
 家中の、身分のいたって低きさる者、非番なればとて両国辺りをめぐって、見せ物や辻売りなんどを冷やかしてそぞろ歩き致いて御座ったが、ふと、とある行きつけの矢場やばの近所で、むしろを敷いて、売薬なんどを致しておる者を見かけたによって、その看板を見てみたところが、そこには
――吉永正庵――
と書かれてあったによって吃驚仰天、ともかくもと、住居なんど訊ねたところ、本所辺りの裏店住うらだなずまいの由。
 かの者、しかし、
『……あそこは貧乏長屋で知られた辺りじゃ……それに、このあまりに賤しき田舎回りと思しい、薬売りの風体ふうていにては……これ、直ちにとものうて連れ帰るというも……如何なものか……』
と、その場は別れて、屋敷へととって返し、かくかくしかじかと語って御座った。
 されば、家人、このことをすぐに主人あるじへ告げたところ、もとより、先の探索も己れの夢のお告げを信じて命じたことで御座ったればこそ、
「……やはりそうであったかッ!……両国本所は……これ! 確かに、東北じゃ!……何か、苦しきことのあろう! 今直ぐに、呼べッ!」
と命ぜられたによって、直ちに招いたところが、かの者、その腫れ物を見るや、
「――思い当る種々の施法、これ、御座いますれば、早速に療治を始めましょうぞ。」
と申し、その調合致いた薬の処方を受けたところが、不思議に、みるみるうちに軽快なされ、この吉永なる人物の施術によって全快をみた、とのことで御座った。



 夢に亡友の連歌を得し事

 一橋公の御醫師に、町野正庵といへるあり。常に連歌を好みて同友も多かりしが、悴は洞益とて是は連哥抔は心掛ざりしが、或夜洞益夢に、親の連哥の友長空と言て三年以前身まかりしに與風ふと出會し、長空申けるは、我この程連歌一句案じ出せしが、餘程よきと思ふなり、親人おやびと正庵え咄し相談給はれと言ける故、しらるゝ通り洞益は連歌にたづさはりの事なし、したため給はれと答へければ、矢たて取出し、
  花の山むれつゝ歸る夕がらす
 かく認め渡しけるを、請取うけとり見て夢覺ぬ。不思議にも其句を覺へ、殊に文字のかきやふ迄おぼえけると、起出おきいでて紙のはしに夢みし通りをかきて、親正庵に見せければ正庵横手よこでうちて、誠に長空今年三年季也、汝が寫せし文字の樣子の内、花といふ字は常に長空が人にたがひて書しさまなりと封して、同士を集め右の夕からすの句を發句として百員ひやくゐんを綴り、長空が追福ついぶくをなしけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:夢告霊異譚で直連関。一つ前の「伎藝も堪能不朽に傳ふ事」とも、尺八と連歌の技芸譚として繋がる。
・「町野正庵」不詳。幕末から明治にかけての華道家に同姓同号の人物がいるが、全くの偶然か。
・「洞益」不詳。号からして医師を継いでいるようである。
・「請取見て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『請取うけとると見て』。
・「横手を打て」感心したり、思い当たったりした際、思わず両方の掌を打ち合わすことをいう。
・「封して」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『歎じて』。そちらで採る。
・「百員」百韻。連歌・俳諧で百句を連ねて一巻きとする形式。懐紙四枚を用いて初折しょおりは表八句に裏十四句、二の折と三の折は表裏とも各十四句、名残の折は表十四句に裏八句を記す。

■やぶちゃん現代語訳

 夢に亡き友の連歌を得た事

 一橋公の御医師おんいしに町野正庵殿と申される御仁があられる。  常に連歌を好み、同好の知音ちいんも多かったが、そのせがれは洞益と号したが、こちらは連歌なんどは全く嗜まず御座ったと申す。
 ある夜のこと、その倅洞益殿、夢の中にて、親の連歌の友であった長空と申し、三年以前に身罷った御仁に、ふと出会った。
 夢の中の長空が言うことには、
「……我れら、このたび、連歌を一句、案じ出だいて御座るが、よほどよきものと存ずるによって、親人おやびとの正庵殿へお咄し頂き、よろしゅうにご相談の儀、これ、給わらんことを……」
とのことで御座った。
[根岸注:既に示した通り、この洞益は連歌に関わったことは一切ない。]
 そこで洞益殿、
したためたものをお下し下さいませ。」
と応じたところ、長空はやおら矢立やたてを取り出だし、
  花の山むれつゝ帰る夕がらす
と、認めて渡いたによって、それを受け取った――
――と見て、夢が醒めた。
 不思議なことには、目覚めたのちもその句をしっかりと覚えており、殊に文字の書きようまでもちゃんと記憶していたによって、即座に起きなおって、近くに御座った紙の端に、夢に見た通りのものを書いて、それを親の正庵に見せたと申す。
 すると、正庵殿、
――ぱん!
横手よこでを打って、
「……まことに! 今年は長空が三年忌じゃった! そなたが写したこの文字もんじの様子のうち……ほれ! この「花」といふ崩し方を見ぃ! これは常に長空が人と殊更にたがえて書いて御座ったのと、これ、全く! 同じ、じゃ!」
と殊の外、感嘆致いて……その日うちに旧知の同好の士をも集め、この「夕からす」の句を発句として百韻を綴り、長空の追善供養を成した……とのことで御座る。



 戲場役者も其氣性有事

 元祖坂田藤十郎和事師わごとしの名人にて、若者殿役旦那役或は堂上たうしやう方の眞似なす、誠に眞をなして、京地に其名高し。中村七三郎も是又和事師にて、上手の江戸に賑ふ。或年、七三郎上京せしに、京地の役者ども打寄り、七三郎もたけのしれたる役者なり、新上しんのぼりの事故、客座の上座につき年比としごろは功者に見ゆれど、京地には坂田藤十郎といへる和事師の名人あり。大坂へ共先ともまづ登らばよかるべし。京地え來りし所は大概其樣子も知れたりと取々申ければ、藤十郎是をききて、それは大きる推量違ひ、われ先年江戸に七三郎とも出合であはせしに、中々我など始終可及およぶべき者にはあらず、顏見せは、馴染もなければ格別の評判もあるまじ。春狂言には果して評判宜しからんと、上方の評判なりしと也。其暮そのくれ七三郎は江戸へ下りけるに、藤十郎も厚暇乞あつくいとまごひし立別れぬ。京地の役者共も、餞別又は江戸表えも夫々贈り物抔して、七三郎とちなみのよし。是にても七三郎が上手なる事評判せしが、藤十郎は餞別抔も贈らざりしが、江戸表え着せし後、或時藤十郎の狀相添あひそへて、こもかぶりの樽を七三郎方え贈りしに、右狀を切解きりときて見ければ京地にての事どもかき綴り、江戸下り以來嘸榮さぞさかえならん、此一そんは加茂川の水也、來春の大ぶくに用ひ給へといへる事故、七三郎殊の外感心して、賤しき我々の身分なれど、和事を相連あひづれつとむる身故、志す處高貴富貴の贈り物感ずるに絶たりと、藤十郎が意氣地をふかく稱しけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:技芸譚直連関。
・「戲場」岩波版では「しばい」とルビが振られている。
・「元祖坂田藤十郎」歌舞伎役者初代坂田藤十郎(正保四(一六四七)年~宝永六(一七〇九)年)。俳号は冬貞、車漣。定紋は丸に外丸。元禄を代表する名優で上方歌舞伎の始祖の一人に数えられる。「役者道の開山」「希代の名人」などと呼ばれた。以下、参照した ウィキの「坂田藤十郎(初代)」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『京の座元だった坂田市左衛門(藤右衛門とも)の子。延宝四年(一六七六)一一月京都万太夫座で初舞台。延宝六年(一六七八)「夕霧名残の正月」で伊左衛門を演じ、人気を得た。この役は生涯に十八回演じるほどの当たり役となり「夕霧に芸たちのぼる坂田かな」と謳われ、「廓文章」など、その後の歌舞伎狂言に大きな影響を与えた。その後、京、大阪で活躍近松門左衛門と提携し「傾城仏の原」「けいせい壬生大念仏」「仏母摩耶山開帳」などの近松の作品を多く上演し、遊里を舞台とし恋愛をテーマとする傾城買い狂言を確立。やつし事、濡れ事、口説事などの役によって地位を固め、当時の評判記には「難波津のさくや此花の都とにて傾城買の名人」「舞台にによつと出給ふより、やあ太夫さまお出じゃったと、見物のぐんじゅどよめく有さま、一世や二世ではござるまい」とその人気振りが書かれている』。『和事芸の創始者で、同時期に荒事芸を創始した初代市川團十郎と比較される。金子吉左衛門著の芸談集「耳塵集」によれば、藤十郎の芸は写実性さを追究したもので「誉められむと思はば、見物を忘れ、狂言は真のやうに満足に致したるがよし」という藤十郎自身の言葉がある。ただし、徹底的な写実性を求めるものでなく、見た目重視のところもあった。「夕霧」の伊左衛門が舞台で履物を脱ぐとき、「もし伊左衛門の足が不恰好に大きかったら客が失望する」と言って裏方に小さめの履物を用意させた』。『時代物や踊りは不得手であった。「松風村雨束帯鑑」の中納言行平を演じたが不評で、行平が髪結いにやつしている場面だけが好評だった。また、怨霊物では、踊らずにひたすら手を合わせて逃げ回る演技がよかったという。そのかわり話術が巧みで女性を口説くときの場面は抜群であった』。『「傾城仏の原」で、梅永文蔵を演じた藤十郎が恋人逢州の心底をたしかめるべく、わざと世間話をする場面で、あまりの冗長さに客席から苦情が出た。台詞を短くしようという忠告に、藤十郎はもう一日だけ同じやり方にしてくれをと頼み込み、昨日よりもゆっくりと世間話をすると好評だった。「昨日は、見物を笑わせる所だと思って演じた。それでいけなかった。あの場面は、逢州の心地を聞こうとしてわざと暇取らせているわけだから、そのつもりですればいいのだ。今日は長くやっても、こっちの気持ちが昨日とちがっていたから、よかったのだ」と藤十郎は成功の秘訣を語っている』。『芸に対しても真摯な姿勢を崩さず、後輩の役者が、「先日あなたの通りに演じたら好評でした」と礼を述べたが、藤十郎は誉めずに、「私のままに演じたら、生涯わたしを越えられませんよ、しっかりおやりなさい」と忠告した』という。これは如何にも凄い人物である。
・「和事師」歌舞伎で和事を得意とする役者。「和事」は柔弱な色男の恋愛描写を中心とした演技及びそうした演出様式をいう。元禄期(一六八八年~一七〇四年)に発生して主に上方の芸系に伝わった。江戸歌舞伎の特色で、武士や鬼神などの荒々しさを誇張して演じる演出様式(初世団十郎を創始と伝える)「荒事」、また役柄の分類上の、判断力を備えた人格的に優れた人物の精神や行動を写実的に表現する「実事」の対義語である。
・「中村七三郎」(寛文二(一六六二)年~宝永五(一七〇八)年)元禄期に活躍した江戸和事の祖と称された歌舞伎役者。俳号は少長。父は延宝期の初期中村座を支えた歌舞伎役者天津七郎右衛門、妻は座元の家柄である二代目中村勘三郎娘はつ。初舞台の役柄の記録は「女形・若衆形・子共」の三種で、後に若女形となった。貞享三(一六八六)年以後は没するまで立役を全うし、小柄で、「好色第一のつや男」、また、当代随一の美男の意で「わたもちの今業平」と評判され、ぞくっとするような魅力を発散したという。諸芸に通じ、ことに濡れ事・やつし事などの和事芸を得意とし、荒事の名人初代市川団十郎と並び称された名優であった。江戸下りの女形の相手役をすることにより、上方歌舞伎の柔らかい芸を取り込んで独自の芸風を確立した。この芸風を決定的なものにしたのが元禄元(一六八八)年に市村座で上演された「初恋曾我」(四番続)の十郎役で、曾我兄弟はこれまで荒事式で演じられていたが、この時、十郎を和事の演出で見せ、大評判を取り、以後は江戸の曾我狂言では十郎は和事の風で演じる決まりとなった。元禄一一(一六九八)年に京にのぼり、「傾城浅間岳」の小笹巴之丞役を演じて一二〇日のロングランの大当たりを取り、上方和事の祖坂田藤十郎を呻らせたという。この役を七三郎は一代の当たり役とした(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。以下、底本では鈴木棠三氏が本話に即した絶妙な注を附しておられ、これは引用せずんばならず! 長いが、例外的に全文引用をさせて頂く。
   《引用開始》
 俳名少長。江戸劇壇における随一の和事師として、初代市川団十郎の荒事と対照せられた名優。宝永五年没、四十七。七三郎が元禄十年上京、四条山下半左衛門座に出演したとき、藤十郎の評判は圧倒的で、江戸でやつしの名人と好評だった七三郎も、馬の後足とまで酷評された。上方役者たちの間では、江戸からわざわざ京に上ってやつし事をする七三郎はそもそも了簡違い、そこが下手のしるしであるなどとそしった。それを聞いた藤十郎は、いや七三郎は上手である、これが刺激になって自分の芸も進歩しよう、顔見世ではこちらが勝ったが、二の替りとなると負けるかも知れぬといった。その昔の通り七三郎は『傾城浅間嶽』の巴之丞の役で、割れるような大評判を取った。その後、替り日ごとに藤十郎は七三郎の舞台を見物して、両人は親密な間柄となった。十二年の暮七三郎は江戸山村座に出演ときまって東下した。七三郎が藤十郎に置土産を贈ったのに対し、折返し餞別を贈ってはしっぺ返しで面白くないと、藤十郎からはわざと何も贈らず、極月廿九日に加茂川の水を送った。以上は『賢外集』にあり、本書の一条もこの書物から採ったものであろう。なお藤十郎が大坂出演のとき、京から水を樽詰にして取寄せて使用したという話も、同書に載っている。それほど養生に留意したという逸話である。
   《引用終了》
彼は坂田藤十郎より十五年下であった。
・「客座」歌舞伎俳優の順位の一つ。一座の俳優のうち、座頭・書き出し・立女形などの俳優と同等同位の客員待遇を受ける者をいう。七三郎は江戸からの初上りの新鋭人気歌舞伎役者ということで優待された。
・「顏見せ」顔見世。一座の役者が総出演する芝居。顔触れ。面見世。
・「春狂言には果して評判宜しからんと、上方の評判なりしと也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、ここが、
 春狂言には果してよろしからん」といひしが、其通り二ノ替り狂言より、和事師の名人なりと、上方の評判なりしと也。
となっている。「二ノ替り」について、長谷川氏は、『顔見世狂言をとり替えてそれに次いで正月に上演する狂言』と注されておられる。このバークレー校版の方が分かりがよい。現代語訳では、その雰囲気を敷衍した。
・「大ぶく」大服茶・大福茶のこと。元日の若水で点てた煎茶。小梅・昆布・黒豆・山椒などを入れて飲み、一年の邪気を払うとする。福茶。

■やぶちゃん現代語訳

 歌舞伎役者もそれなりの心立てがある事

 元祖坂田藤十郎は和事師わごとしの名人にて、若者・殿役・旦那役、或いは堂上とうしょう方をらいたならば、まっこと、本物より本物らしゅう演じなして、京にてはすこぶる高名なる役者で御座った。
 かたや、中村七三郎なかむらしちさぶろうも、これまた、和事師として、名手の名、江戸に知れ渡っておったもので御座った。
 ある年、七三郎が上京致いて芝居を打った。
 京の役者ども、楽屋内にてうち寄っては噂致すに、
「……七三郎も高が知れた役者でおますな。……新上しんのぼりのことやさかい、客座の上座を張って、今日きょうびは達者のように見えますけど、京には坂田藤十郎という和事師の名人が、これ、あらっしゃいます。……江戸の新進の和事師と言わはるんなら……これ、まあ、大坂なんどへなりと……まずは登らるるがよろしゅうおますやろ……。それを、あろうことか、名手の藤十郎はんのおらるる京へ来なはるとは……これ、ほんまに――あほ――や。おおよそ、そのお人の、『技』といわはるも……これ、知れたもんやおまへんか。……」
とさんざんな申しよう。
 ところが、そこにたまたま、当の藤十郎がおって、これを小耳に挟んだと申す。
 すると藤十郎、
「……それは大きな見当違いでおます。……我ら、先年、江戸へ下向致いて、かの七三郎はんともうておりますれど……いや! なかなか!……我らなんど、そう、始終はためをはるもんにてはこれ、あらしまへん。……今度の顔見世にては、七三郎はんの馴染みの方も、これ、当然のことながら、あらしまへんによって、格別の評判も、これ、ないに等しいものではありましたが……春狂言には、きっと、評判よろしゅうあろうとは、これ、上方の、専らの、評判でおます、え。……」
と、かばっておった申す。
 さても、その暮れになって、藤十郎の言う通り、すこぶるよき評判をも得、七三郎は江戸へと戻り下ることと相い成り、藤十郎も厚く、別れの挨拶を交わして立ち別れたと申す。
 さても……当初は、あれほど辛辣な陰口をたたいておった京役者どもさえ、大層なる餞別を渡し、また、江戸表へも七三郎気付で、それぞれに贈り物なんどまで致いては、七三郎と昵懇になることを望んだ者も多くあったとのこと。……そうして、偏えに――七三郎は和事の美事な上手なり――と、頻りに評判致いたとも聴いて御座る。
 さて、藤十郎は、といえば、その折り、ろくな餞別なども贈らずに御座った。
 しかし、七三郎が江戸表へ着き、暫く致いたある日のこと、藤十郎の書状をともに添え、こも被りの大きなる樽が一つ、七三郎宛に贈られて参った。
 七三郎、その消息の封を切って読んでみたところが――過日の京にての七三郎が芝居のよき仕草を褒め綴った上、

……江戸へお下り以来、さぞ、御繁昌のことと存じ、お悦び申上げ奉りまする……
……さて、この一樽いっそんは加茂川の水にて御座る……
……一つ、来春元旦の大福茶だいぶくちゃにでもお遣い下さるれば、これ、幸い……

との文なれば、七三郎、殊の外、心うたれ、
「……賤しき我らが身分なれど……和事をともに精進致す身の上なればこそ……志すところの魂の響き合い……かくも高貴にして富貴なる贈り物……何とも、はや!……これ以上の……至福の感は……まずは御座らぬ!……」
と、藤十郎の芸人の気構え、これ、ふこう感じ入って、賞賛畏敬致いたとのことにて御座った。



 唐人醫大原五雲子の事

 三田大乘寺といへる寺に、大原五雲子が墓あり。森雲禎など其流れをくみて、今もつて右流下の者訪ひ弔ひも致候よし。すなはち、五雲子は雲南と言し故、雲禎が跡當時雲南と名乘なのり候。右五雲子は、明末の亂にかの地の王子の内壹人、樂官がくくわんのもの壹人、都合三人漕流なし來て、五雲子は醫をもつて業とし高名をなし、彼王子は出家して、禪宗にて祥雲寺といふに住職し、みまかりしよし。樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成り、雲子牌名に、東嶺院晴雲日輝居士、萬治三年四月廿六日と記し、大乘寺に有之これある由人の語りぬ。

[やぶちゃん注:「三田大乘寺」底本の鈴木氏注に、『誤りであろう。三田には同名寺院はなく、大の字のつく寺名は大松寺、大聖院(伊皿子寺町)、大増寺(三田台町)、大信寺(北代地町)など』とされる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、本文が『三田小山大乗寺』となっており、長谷川氏はこの寺について、現在の港区三田の『小山にある大松寺(黄鴿山、浄土宗)であろう』と注されておられる。但し、ネット上ではここに大原五雲子の墓が現存するかどうかは確認出来なかった。当時の亡命皇族の近臣で、本邦で大々的に医術を広めた(次注参照)事蹟墓碑まで明らかなのに、鈴木氏が寺も墓所を同定出来なかったというのはやや不審である。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。 「大原五雲子」底本の鈴木氏注に、『明の福建出身。初名は珪、字は寧字、姓は王氏。帰化して大原と称し、紫竹道人と号す。明国から朝鮮を経て長崎に来り、明人の名医一庵について医学を学んだ。後、諸国を旅行し、寛永万治年間医名が高かった。その学は、襲延賢、皇甫中を主とした。その門下の森雲竹(正徳二年没、八十二)は、さらに昔に遡って研讃し、名医であったが、世間に出ることを好まず、塾生を教育し、その数は首百を以て算えた』とある(「研讃」はママ)。「寛永万治年間」西暦一六二四年~一六六一年。
・「森雲禎」前注の鈴木氏注にある直弟子であった森雲竹本人か(叙述では生前の直弟子の門下生の医名と読める)、その門下の、当代(「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年夏頃)の襲名医師であろう。
・「明松の亂」一六三一年に勃発した李自成の乱以下の明王朝の滅亡に至った内乱。
・「漕流」底本には右に『漂カ』と注する。
「祥雲寺」岩波版で長谷川氏は、『瑞鳳山祥雲寺(曹洞宗、小石川)、瑞泉山祥雲寺(臨済宗、渋谷)どあり』と注されておられるが、「DEEP AZABU.com 麻布の歴史・地域情報」の「むかし、むかし8」の「奇妙な癖のある人」(これは「耳嚢」巻之八の「奇成癖有人の事」の紹介記事である。こちらの記事群には「耳嚢」の話が多く掲載されており、考証も充実している。必見である)で、当該話の文中に登場する、長谷川氏注の後者の「麻布祥雲寺」ついて、これは『現在渋谷区広尾(広尾商店街突き当たり)にある祥雲寺だと思われるが、この寺は鼠塚(明治三三年~三四年、東京に伝染病が流行し、その感染源として多くのネズミが殺された。その慰霊碑)、曲直瀬流一門医師の墓などがある。由来は、豊臣秀吉の天下統一に貢献し、後に福岡藩祖となる黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたので、元和九年(一六二三)に長政が没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立した。寛文六年(一六六六)には麻布台に移り、瑞泉山祥雲寺と号を改め、寛文八年(一六六八)の江戸大火により現在の地に移った』とし、この記事が書かれた頃(これは「卷之八」の謂いであるが、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから同じである)『にはすでに広尾にあった』とされておられる(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。しかし、明から亡命した皇族が住持となっているのに、それが現在確認出来ないというのは(寺伝に載ることは勿論のこと、その住持していた寺に当然の如く墓があるはずであるのに)、私には不審である。識者の御教授を乞うものである。
・「喜多座」能の喜多流。
・「樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成り、雲子牌名に、」この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(恣意的に正字化した)、
樂人は大原勘兵衞と名乘、喜多座の役者と成る。今も勘兵衞とて弓町に町屋敷などのぞみしと也。五雲子碑銘に、
となっていて、文脈上でも内容でもこの方が質がよい。ここの部分の現代語訳は、このバークレー校版で行った。「弓町」は現在の本郷三丁目附近。それにしても、この楽人も五雲子と同じく日本名で「大原」姓を名乗っているのは気になる。「大原」は大本という原義もいいが、それ以外に現在の山西省省都で古都の太原や、周代の宣王の御料地であった山西省大原市陽曲などの地名と彼らの主君たる王子若しくは彼等自身の出自や領地と関係があるのかも知れない。
・「万治三子」万治三(一六六〇)年庚子かのえね

■やぶちゃん現代語訳

 唐人医師大原五雲子おおはらごうんしの事

 三田小山の大乗寺と申す寺に大原五雲子の墓が御座る。
 当代の医師森雲禎もりうんていなど、その五雲の流れを汲む者も多く、今以って森流医術門下の者が参拝供養致いておる由。
 五雲子は雲南とも号したによって、雲禎に医師の名跡を嗣がせた隠居後は、專ら、雲南と名乗って御座ったとも申す。
 この五雲子と申すは、明末の乱の際、かの地の王子の内の一人、楽官がっかんの者一人と、都合、三人して大陸より漂流致いて御座った者らにて、この五雲子は、医を以って本邦での生業なりわいと成し、高名を博して御座った。
 なお、王子は出家して、禅宗なる祥雲寺という寺の住職を成し、そのまま身罷った由。  今一人の楽人は大原勘兵衛と名乗り、能楽の喜多座の役者と相い成った。――今もその子孫が「勘兵衛」と称して、弓町に町屋敷など賜わっておる大層な家柄として残っておる由。
 因みに、かの五雲の碑銘には、
――東嶺院晴雲日輝居士 万治三四月二十六日――
と記し、大乗寺に今もある由、人の語って御座った。



 漬物に聊手法有事

 奈良漬をつけるに、瓜を貮つにわり、中に種をぬき、鹽をつめを下とし、上に酒糟を厚く塗詰ぬりつめて、糟を下におき、右上へ瓜をうつむけに伏せ、又糟を詰て順々に詰る事也。心得ぬ人、右糟鹽を詰し瓜を仰向あふむけ漬掛つけかけ、功者なる者見ておほひわらひぬ。其譯をたづねしに、糟の氣は上へ上へとぬけるもの故、うつむけにして可也かなり。又味噌漬は是に反する事と也と人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。食には秘かに一家言あったと思しい根岸の食味譚の一つ。
・「奈良漬」白瓜・胡瓜・西瓜・生姜などの野菜を塩漬けにし、何度も新しい酒粕に漬け替えながら製する漬物。以下、参照したウィキの「奈良漬け」によれば、奈良漬けは西暦七百年代から『「かす漬け」という名で存在しており、平城京の跡地で発掘された長屋王木簡にも「粕漬瓜」と記された納品伝票らしきものがある。なお、当時の酒といえばどぶろくを指していたため、粕とは搾り粕ではなくその容器の底に溜まる沈殿物のことであったようである。また、当時は上流階級の保存食・香の物として珍重されていたようで、高級食として扱われていたという記録がある』。『その後、奈良漬けは江戸時代に入ると幕府への献上や奈良を訪れる旅人によって普及し、庶民に愛されるようになる。「奈良漬け」へ変わったのは、奈良の漢方医糸屋宗仙が、慶長年間』(一五九六年 ~一六一五年)『に名付けたからである。現在では一般名詞化し、奈良県以外で製造したものも奈良漬けと呼ばれる。奈良県以外では、灘五郷(兵庫県神戸市灘区)などの酒粕を用いた甲南漬、名古屋市周辺で収穫される守口大根を用いた守口漬などもある』。『鰻の蒲焼きに奈良漬けの組み合わせは定番となっている。鰻を食べた後に口に残る脂っこさを奈良漬けが拭い去り、口をさっぱりとさせる効果があ』り、他にも『胃の働きを活発にし胸焼けを抑えたり、脂肪の分解、ビタミンやミネラルの吸収を助けるなどの効果があるとされている』とある。
・「鹽を詰を下とし、上に酒糟を厚く塗詰て」この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『塩をつめ候上酒糟さけかす厚塗あつくぬりつめて』となっている。こうでないと文意が摑めない。これで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 漬物にも聊かの手法がこれあるという事

 奈良漬けを漬ける際には、瓜を二つに割り、中の種を抜き、塩を詰めた上、その上に酒糟を厚く塗り重ねて、樽の底に糟をまんべんなく敷き詰め、その上へ、瓜を――切った方を下に――うつぶせに伏し、またその上から糟を詰めて、これを繰り返して、順々に詰めるのだそうである。
 それを知らぬある者が、その糟塩を詰めた瓜を――切った方を上にして――仰向あおむけに漬けかけたところ、奈良漬の名人なる者がそれを見て、大いに笑った。
 笑った訳を訊ねたところが、
「酒糟の気は上へ上へと抜けるもので御座るのじゃ。さればこそ、俯けにして詰めるがよろしいのじゃて。但し、味噌漬けの場合は、この逆じゃが、の。」――
 これは、さる人の語って御座った話である。



 咳の藥の事

 多喜安長の家に、咳の妙藥とて人にも施せしに、ある人諸人の爲なれば傳法を乞ひしに、用あらばいつにても可被申越まうしこさるべし、法をつたへん事をいなむにあらずといへ共、其法をききては信仰も薄きと斷りしに、切にこひ求めければ、無據よんどころなく傳達せしに、黑砂糖に胡桝を配劑して與ふるよし。〔或人曰、半□を少加猶すこしくはへてなほよし。〕

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。〔 〕は「耳嚢」では珍しい割注であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では本文に含まれている。民間療法シリーズの一つ。
・「多喜安長」不詳。戦国時代の甲賀武士に多喜氏がいる。
・「胡桝」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『胡椒』である。これを採る。但し、この時代には唐辛子の葉のことを指す。
・「半□」□は判読不能を示す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『はんげ』とし、長谷川氏が注して『半夏。漢方でからすびしゃくの根を乾燥させたものらしい』とある。これを採る。「からすびしゃく」とは単子葉植物綱ヤシ亜綱サトイモ目サトイモ科ハンゲ属カラスビシャク
Pinellia ternata 。参照したウィキの「カラスビシャク」によれば、北海道から九州まで広く分布するが人為的なものと考えられえおり、中国から古くに帰化した史前帰化植物と考えられている。『コルク層を除いた塊茎は、半夏はんげという生薬であり、日本薬局方に収録されている。鎮吐作用のあるアラバンを主体とする多糖体を多く含んでおり、半夏湯はんげとう半夏瀉心湯はんげしゃしんとうなどの漢方方剤に配合される。他に、サポニンを多量に含んでいるため、痰きりやコレステロールの吸収抑制効果がある。なお、乾燥させず生の状態では、シュウ酸カルシウムを含んでおり食用は不可能』とある。「半夏」とはカラスビシャクが生える七月二日頃が「半夏生」という雑節になっていることに由来するか、とも書かれている。

■やぶちゃん現代語訳

 咳の薬の事

 多喜安長殿の家に、咳の妙薬と称するものが伝えられてあり、人にも施して御座ったところ、ある人が、
諸人もろびとのためなれば一つ製法の伝授を。」
と乞うたところが、安長殿、
「必要とあらば、何時にてもお求めに参られるがよかろうと存ずる。製法を伝うるは、これを否む訳では御座らねど、拙者の思うに、具体な原料や製法を、これ、聴き知らば、薬の効験への期待もこれ薄まってしまうように存ずれば……。」
と一度は断られたとのことであったが、先方がせちにと乞い求めたによって、よんどころなく伝授致いたと申す。
 その製法は
――黑砂糖に唐辛子の葉
を配剤して処方するとの由。
[根岸注:この話、別な人から同じ話訊いた際には、半夏を少し加えると、なお効き目がよくなるとの由。]



 又同法の事

 水飴の中へ大根を薄く切りて一切れいれ置き、右大根の水不殘のこらず飴えすいころ、大根を取出し、右水飴用ひて咳をとむる奇妙の由、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:民間治療薬鎮咳ちんがい薬の二連発。この大根あめは私も聴いたことがある。現在でもその効用は謳われている。美麗なる個人サイト「母の手仕事・台所の知恵」の「大根あめの作り方~咳やのどの痛みにおすすめのレシピ」などを参照されたい。

■やぶちゃん現代語訳

 また同じく咳を止める薬法の事

 水飴の中へ大根を薄く切って一切れ入れ置き、その大根の水が残らず飴の方へ吸い出された頃、その大根は取り出し、かの水飴を服用すれば、咳を止めること、これ、絶妙の効果がある由、人の語って御座った。



 俠女の事

 去る御旗本の次男にて部屋住へやずみ徒然つれづれ召仕めしつかふ女に通じけるが、某容儀美成びなるにはあらず、淨瑠璃三味線抔わよくなしける。然るに彼女、子細や有けん、暇出いとまいだして宿へ下りしに、かの次男も其跡をしたひて家出せしが、彼女、たなをかりて母ならびに右の男三人にて暮し、三味せん淨瑠璃指南をなし、屋敷方へも立入たちいり、右女壹人にて母夫を養ひ、あつぱれにくらしけるが、彼男の親元より、何共なんとも町方におきては他の批判外分も不宜敷よろしからずとて、長や内へ三人とも引取ひきとり女は是迄の通り通ひ弟子、出張稽古、座敷勤ざしきづとめなしけるが、子供兩人出生なしけるを、右女の働にて相應に夫々え片付かたづけける。然るに彼男、生德しやうとく樂弱なる性質なれども、他へ遊興等はかの女防ぎける樣、其養育にや恥けん愼居つつしみゐたりし。親元へ立歸りし後、例のだじやくの病再發やまひさいほつして、内藤宿成喰賣女なるめしうりをんな馴染なじみ、度々通ひて歸らざりしを、かの女が不憤いきどほらずかの座しきづとめ、三味せん師匠の所德や金五十兩才覺して、右喰賣の身受をさせてかの男へ與へ、御身最早我にあきて遊興なし給ふ事、心も變じたれば、此女を召仕ひて、我には緣を切給へとて再應申ければ、男も恥入ながら其旨にまかせ、今は町宅まちたくして專ら右の師範をなし、いたつての座持ざもちにて諸家へ立入たちいり、母を養ひ立派にくらしをりける。すなはち、我知れる人も知る人も一座なし、委細譯もしりけると語りぬ。かの男は名幷親元も當時は兄の代にて、名も知りければあからさまにかたらんも面流しと、あからさまにあかさざりける。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。義理に厚いしっかりものの粋な姐さんと旗本惰弱男の物語である。
・「部屋住」次男以下で分家独立をせず、親または兄の家に留まっている者をいう。但し、この語自体は家督相続前の嫡男のことを指す場合もある。
・「某容儀」底本には「某」の右に『(其カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『其容儀』。「其」で採る。
・「あつぱれ」は底本のルビ。
・「外分」底本には「某」の右に『(外聞)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『外見』。
・「樂弱」底本には「某」の右に『(惰弱カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『柔弱』。「惰弱」「柔弱」ともに、気持ちに張りがなく、だらけていること、意気地のないことをいう。
・「喰賣女めしうりをんな」若しくは単にこれで「女」を読まずに「めしうり」とも呼んだ。飯盛女めしもりおんな旅籠はたごで客に飯を盛る給仕女の謂いながら実態は売春婦であった。幕府が各宿場に遊女を置くことを禁じたため、非合法に発生した私娼である。幕府公文書では本文同様、殆んどがこの「食売女めしうり」で表現されている。
・「彼女が不憤」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『彼女聊不憤いささかいきどおらず』。ここは後者を採る。
・「我知れる人も知る人も一座なし」底本には「知る人」の右に『(ママ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『我知れる人も知る人にて一坐もなし』。ここもバークレー校版に準じて訳す。
・「面流し」底本には右に『(汚カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『面泥し』で右に『(汚)』と傍注する。「面汚つらよごし」で採る。

■やぶちゃん現代語訳

 侠女きょうじょの事

 さる御旗本の次男にて部屋住みの徒然つれづれに、召しつこうておった下女に馴染んで御座った。
 しかしその容儀は、これ、お世辞にも美しくもあらなんだ。
 ただ、浄瑠璃や三味線等なんどは、これ、なかなか巧みにこなす才を持って御座った。  ところがこの女、何か子細があったものか、いとまを申し出て、町方の実家へと下がったところが、あろうことか、かの次男坊もその後を慕って、これ、家を出でてしもうたと申す。
 そこでかの女は、おたなを借り、実の母とその次男坊の三人にて暮らし、
――三味線浄瑠璃指南――
の看板を掲げて才覚なし、たちまち、その技の評判となったればこそ、お武家の屋敷方へもしばしば出入りをなすに至り、かの女一人で母と夫を養い、まっこと、しっかと、ちゃあんとちゃちゃんと暮しなして御座ったと申す。
 ところが、かの次男坊の親元より、
「……なんとも……町方にかくなしておったのでは……噂や外聞、これ、宜しからざれば……」
と、屋敷内の長屋へ、三人ともに引き取ったと申す。
 女はこれまで通り、通い弟子や出張稽古及び座敷勤めを致いて御座った。
 そのうちに子供が二人生まれた。されど――部屋住みの次男に賤婢の母の三人の経済――なればこそ、また、かの女一人の才覚にて、二人とも相応の方へと養子に出してやり、片付けて御座ったと申す。
 ところが……かの次男坊……この男、生得、惰弱なる性質たちなれども、町方にあった折りまでは、他所よそへ遊興なんど致すこと、かの女がなんとか防いで御座って、その骨身を惜しまぬ働きやら心配りやらに、これ、男も恥じる思いがあったものか……おのずから慎んで静かにしては御座ったようであった。……ところが、じゃ……親元へと立ち帰った後は……またしても例の惰弱の病いが再発致いて……今度は内藤新宿とか申すところの……なんとまあ、飯盛女めしもりおんなに馴染み……度々通って……遂にはとんと家にも帰らずなったと申す。
 ところが、かの女は、これをいささかも憤ることなく、今まで通りの座敷勤めに三味線師匠の所得を、これ、こつこつこつこつと貯めに溜めたものでもあったものか――何と――金五十両を揃え、その飯盛女の身受をさせた上、夫へその女を与えて、
「――御身は最早、我らに飽きて遊興なされしこと、これ、我らへの心も変じたものなれば、この女を召し仕われて、我らには緣を切るとの仰せを給え!――」
と、何度も申したによって――男も内心、己れの不甲斐なさに恥じ入りながらも、そのおいしい申し出の儘に任せて――離縁して御座った。
 されば彼女は、今は町屋に暮して、専ら、かの三味線浄瑠璃の師範をなし、その技の上手なは勿論のこと、酒席宴席にては、これ、すこぶる座持ち上手にても御座ったればこそ、ますます諸家へ出入り致いては、実母を養い、町方にても随分、立派に暮して御座ると申す。……

 私の知っている御方の話しによれば、その我らが知人の知人と申す御方の実談として、
「……この女とは、確かに、その女の招かれたる座興の席にてうて、その愚かなる次男坊や養子に出だいた二人のこおのその後、内藤新宿の飯盛女身受けの顛末なんど……これ、その委細の訳も皆、訊いて御座いました。……」
とのことで御座った。
 その次男坊なる駄目男についても、名並びに親元も、実はその知人の知人なる人物は、これ、訊いて御座ったようであるが、今現在、その武家、まさにその男の兄の代となって御座ればこそ……実名、これ、口に出ださば……『ええッツ?! あの○×様の!?』……ということになりかねるような、すこぶる附きに知られたる、さろ名家で御座るによって……あからさまに名を語らんも、これ、先様への面汚しとなればこそ……と、あからさまには私の知人には明かさなんだ、とのことで御座ったよ。



 疝痛を治する妙藥の事

 またゝびの粉を酒又砂糖湯にて用ゆれば、其いたみ去る事妙のよし。營中にてわれ症を愁ふるをききて傳授なしけるが、よの元へ來る藥店くすりみせを職として眼科をなしける者、疝氣にて腰を痛め候事度々成しが、またゝびを壹もんめ、酒を茶碗に一盃用ひて即效を得しが、素より酒量なき故、さけ茶碗に一盃のむ事甚だ苦しきゆへ、年もおいぬれば茶湯又砂糖湯にてもちゐ見るに、酒にて用ゆるより、其功はおとりぬと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:一つ前とその前の咳に続く民間療法シリーズ。根岸が疝気持ちであったことは既に「耳嚢 巻之四 疝氣呪の事」で明らかになっている。「疝気」については、リンク先の私の注を参照されたい。
・「またゝび」双子葉植物綱ツバキ目マタタビ科マタタビ
Actinidia polygama ウィキの「マタタビ」によれば、『蕾にタマバエ科の昆虫が寄生して虫こぶになったものは、木天蓼もくてんりょうという生薬である。冷え性、神経痛、リューマチなどに効果があるとされる』とあり、ここで「粉」と称するのもこれであろう。「木天蓼」と書き、「もくてんりょう」とも読む。夏梅という別名もある。他にもこのウィキの記載は短いながら興味深い箇所が多い。脱線であるが幾つか引用すると、六月から七月にかけて開花するが、『花をつける蔓の先端部の葉は、花期に白化し、送粉昆虫を誘引するサインとなっていると考えられる。近縁のミヤママタタビでは、桃色に着色する』とあり、所謂、ネコとの関係については、『ネコ科の動物はマタタビ特有の臭気(中性のマタタビラクトンおよび塩基性のアクチニジン)に恍惚を感じ、強い反応を示すため「ネコにマタタビ」という言葉が生まれた』。『同じくネコ科であるライオンやトラなどもマタタビの臭気に特有の反応を示す。なおマタタビ以外にも、同様にネコ科の動物に恍惚感を与える植物としてイヌハッカがある』とし、和名の由来については、『アイヌ語の「マタタムブ」からきたというのが、現在最も有力な説のようである。『牧野新日本植物図鑑』(ページ不明)によるとアイヌ語で、「マタ」は「冬」、「タムブ」は「亀の甲」の意味で、おそらく果実を表した呼び名だろうとされる。一方で、『植物和名の研究』(深津正、八坂書房)や『分類アイヌ語辞典』(知里真志保、平凡社)によると「タムブ」は苞(つと、手土産)の意味であるとする』。『一説に、「疲れた旅人がマタタビの実を食べたところ、再び旅を続けることが出来るようになった」ことから「復(また)旅」と名づけられたというが、マタタビがとりわけ旅人に好まれたという周知の事実があるでもなく、また「副詞+名詞」といった命名法は一般に例がない。むしろ「またたび」という字面から「復旅」を連想するのは容易であるから、典型的な民間語源であると見るのが自然であろう』とある。博物学が復権した素晴らしい記載である。
「一匁」現在は三・七五グラムに定量されているが、江戸時代はやや少なく、近世を通じた平均値は三・七三六グラムであったとウィキの「匁」にはある。

■やぶちゃん現代語訳

 疝痛を癒す妙薬の事

 またたびの粉を酒または砂糖湯にて服用すれば、その痛みがすっと引くこと絶妙の由。
 御城内にて、私が疝痛に悩まされているというのを聞いた、さる御御仁が伝授して下されたことである。
 その後、私の元へ来たる薬屋を本職としつつ、眼科をも兼ねておる者も、疝気にて腰を痛ぬることが、これ、度々御座ったが、その都度、またたびを一匁、酒を茶碗に一杯用いて即効を得る由、聞いた。
 ただ、この者、平素より酒が呑めぬ性質たちなれば、この、酒を茶碗に一杯呑みほすことがこれ、以前よりはなはだ苦しゅう御座ったと申す。
 最近では年もとったことと相俟って、すこぶる酒での服用が困難になって御座ったゆえ、今は茶湯または砂糖湯を用いて服用しておるとのこと。
「……但し、酒で服用した場合に比べますると、その効果は、これ、劣りますな。……」
と、本人が語って御座った。



 稻荷宮奇異の事

 久保田何某は、久しく小日向江戸川端に借地してすみけるが、拜領の屋敷と相對替あひたいがへして、其儘右借地をやしきとしてありしが、借地のころより稻荷とてちゐさきほらありしが、地にては甚だおろそかにせしに、地主相對替なしけるが右洞も地主へ歸し、本所へ右地主引移りけるに、二三日すぎ取拂とりはらひもとの場所え引渡しけるが、ほこらを唯持來るや、以前の通りありしゆへ、驚き陰陽家おんみやうかの者抔まねきて、地祭ぢまつりして鎭守となしけるよし。右の陰陽師、此稻荷は餘り立派になしては不宜よろしからじ、麁末そまつにても奇麗に祭り可然者しかるべきものといゝし儘、有來ありきたるちいさき祠のうへは、覆敷埋て鎭主なすよし語りぬ。引渡ひきわたしの節、地主僕抔元の所へひそかに置ける由、又は稻荷には狐をつかはしめと被申せば、狐は靈獸ゆへかくなしけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。この一条、表現が無駄に繰り返され、誤字としか思えぬものが散見されて、ひどく読みにくい。実は底本でも鈴木氏が例外的な注を附しておられる。以下に全文であるが本条読解には必須と思われるので引用させて頂く。
   《引用開始》
 この一条、悪文の見本のような感がある。写本も悪いせいであろうが分りにくい文章である。要するに久保田某が江戸川端の借地を地主と相談の上で、拝領屋敷と交換して居宅とした。そこにもとからあった稲荷の祠と洞穴は、もともと地主も大切にはしていなかったが、祠は旧地主の所有として取払い、地主の住居である本所へ移した。しかるにまた元の所にその祠が戻っていたので、久保田某は驚いて祭った。内実は地主の下男が横着をして、祠を片付ける振りをしてそのままにして置いたのを、稲荷が舞戻ったと早合点したのが真相らしいというのである。
   《引用終了》
但し、稲荷が岩の洞穴のようなものの中にあったのなら、最後のような屋根覆いの必然性が減じるように思われので、私は「洞」は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『祠』の誤字と採った(以下の注を参照)。
・「小日向江戸川端」岩波版長谷川氏注には『小日向水道橋の南、江戸川沿いの地をいうか』と注されておられる。
・「拜領の屋敷」幕臣が江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷と称し、大名が個人的に民間の所有する屋敷や土地を購入して建築したものは抱屋敷かかえやしきと呼んだ。
・「相對替」当事者双方の合意に基づいて田畑・屋敷等を交換すること。田畑の永代売買が禁止されていたために行われた事実上の土地所有権移動の一形態である。幕臣も幕府の許可を得て、拝領屋敷の相対替をすることが出来た。当初は新規に拝領した屋敷の場合は、相対替えには三年経過することが条件であり、また一度相対替した屋敷は替えて十年が経過している必要があったが、文化元(一八〇四)年には前者は年限の規制が廃止され、後者は五年に短縮された。さらに文久元(一八六一)年には五ヶ月経過後ならば再度の相対替が許可されるようになった、と参照した小学館「日本大百科全書」にはある。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、この規制緩和によって、久保田何某は恐らく新規拝領の屋敷を相対替えしたものと判断される。なお、この言葉が用いらているからには相手も幕臣であるのは言うまでもなく、この久保田の住まう借家もその幕臣が貸していた自身の拝領屋敷でなくてはならない。
・「小さき洞」「右洞」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はいずれも『小さき祠』『右祠』。岩を穿った祠ともとれなくなくはないが、ここではその移転が問題になっているので、ここは孰れもバークレー校版で採る。
・「地にては」底本では右に『(主脱カ)』と傍注し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では正しく『地主にては』とあるので、「地主」で訳す。
・「唯持來るや」一読、前後の意味がよく分からない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『唯』は『誰』とあるので合点出来る。バークレー校版で採る。
・「陰陽家」ここでは単なる市井の祈禱師であろう。
・「有來ありきたるちいさき祠のうへは、覆敷埋て鎭主なすよし語りぬ」この部分、やはりどう読むか非常に困った。「有來」はありふれているの意の「ありきたり(在り來り)」の当て字と読めるが、「覆敷埋」はお手上げであった。当初は「覆敷埋おほひしきうめて」と読んではみたものの、読んだ自分も何だか意味が分からない。結局、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは(恣意的に正字化した)、
 手輕く有來ありきたる小さき祠の上へ、覆補理おおいしつらいして鎭主となすよしかたりぬ
とあって、さらに長谷川氏の注で「上は覆補理して」は『上部におおいを設けて』とあり、目から鱗。最早、このバークレー校版で採る以外に本条を読み解くことは出来ないほどである。
・「又は稻荷には狐をつかはしめと被申せば」底本には右にママ注記を附す。訓読不能である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、『又は稲荷には狐を使はしめとか申せば』とある。バークレー校版がよい。なお、我々は稲荷を狐を祀るものと思い込んでいるが、本来は京都一帯の豪族秦氏の氏神であり、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神を主神とする食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。その後の神仏習合思想においては仏教の荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られるに至った。現行の神仏分離の中にあっては神道系の稲荷神社にあっては「古事記」「日本書紀」などの宇迦之御魂神うかのみたま豊宇気毘売命とようけびめ保食神うけもち大宣都比売神おおげつひめ若宇迦売神わかうかめ御饌津神みけつといった穀物・食物の神を主祭神としている。狐との関連は以下、参照したウィキの「稲荷神」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『狐は古来より日本人にとって神聖視されてきており、早くも和銅四年(七一一年)には最初の稲荷神が文献に登場する。宇迦之御魂神の別名に御饌津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。時代が下ると、稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と呼ばれて上下社に祀られるようにもな』り、『江戸時代に入って稲荷が商売の神と公認され、大衆の人気を集めるようになると、稲荷狐は稲荷神という誤解が一般に広がった。またこの頃から稲荷神社の数が急激に増え、流行神(はやりがみ)と呼ばれる時もあった。また仏教の荼枳尼天は、日本では狐に乗ると考えられ、稲荷神と習合されるようになった。今日稲荷神社に祀られている狐の多くは白狐(びゃっこ)である』。『稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれることが多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に稲荷寿司や稲荷寿司に使用される油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を「稲荷」とも呼ぶようになった。ただし狐は肉食であり、実際には油揚げが好物なわけではない』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 稲荷の宮の奇異の事

 久保田何なにがし殿は、永く小日向江戸川端に借地をして住んで御座ったが、この度、お上より拝領した屋敷と相対替あいたいがえを致し、そのまま、現在の借地を御自身の正式な拝領屋敷として続けて住むことと致いたと申す。
 さて、その小日向江戸川端の屋敷内には、借地であった頃よりずっと、稲荷と称した小さなほこらが、これ、御座った。
 この祠――しかし元の地主方にては、はなはだ疎かに扱って御座ったやに見えた――と久保田殿の談。
 久保田殿、この度の地主との相対替えを期に、この祠も地主方へと返し、本所にあるその地主の屋敷へと引き移させて御座ったと申す。
 ところが、二、三日過ぎて見てみると、取り払って先方へ送ったはずのその祠が、またしても元の場所へ――引き渡したにも拘わらず、その祠を誰かが再び持ち来たったものか――以前の通りにあった。
 久保田殿、流石に大いに驚き、祈禱を生業なりわいと致す者なんどを招いて、地鎮祭など執り行い、鎮守として祀ることとなさった由。
 その際、祈祷師が言うことに、
「この稲荷はあまり立派に祀りなしてはよろしゅう御座らぬ。まあ、質素なものでよろしゅう御座るによって、まずは綺麗に祀っておけば、よろしいという代物にて御座る。」 との見立てを成したればこそ、言うがままに、そのありがちな小さな祠の、その上に、雨風を除け得る程度の小ざっぱりとした覆いなんどをしつらえて、屋敷の鎮守と成した――とは、久保田殿の直談で御座った。

 さてもこれ、按ずるに、祠の引き渡しの際、取りに参った地主方の下僕なんどが、一度は運び出す振りを致いたものの、面倒になってすぐに元あった場所へこっそりと戻し置いた、と申すが事の真相ででもあろうかと思わるるが、噂では、稲荷神に於いては狐を使者として使役致すと申すによって、狐は霊獣なればこそ、あるべき元の場所へと彼らが戻したのじゃ、と、まことしやかに申すものもおるやに聴いておる。



 痘瘡の神なきとも難申事

 予がしれる人の方にて柴田玄養語りけるは、いづれ疱瘡には鬼神のよる所もあるにや。名もききしが忘れたり。玄養預りの小兒に疱瘡にて、玄養療治しけるが、或時病人のまうしけるは、早々さら湯をかけ、湯を遣ひたきよし申ける故、いまだかせに不至いたらざる時日故、難成なりがたきよし申ければ、かゝる輕き疱瘡にはかさかゝり候はゞ不宜よろしからずとて、何分早く湯を可遣つかふべきしひまうす故、兩親もはなはだこまり、玄養えよびこし候故參りけるに、しかじかの事なりと語りける故、輕き疱瘡なれ共、いまだ詰痂の定日ぢやうじつにもいたらず、玄養直々かの病人に向ひて道利だうり説聞とききかせけるに、かゝる疱瘡にながくかゝり合せては迷惑なり、我も外えゆかねばならぬ事也といふ故、いづ方え參る哉と玄養尋ければ、四ツ谷何町何某なにがしまうす町家え參る由答ける故、奇なる事と思へども、父母と申合まうしあはせ酒湯ささゆのまなびしていわゐ抔してけるに、無程肥立ほどなくだちて無程相濟あひすみぬ。玄養歸宅のうへ、さるにても怪敷あやしき事をと四ツ谷何町何やなにがしまうす者方え人を遣して承りけるに、一兩日熱氣つよく小兒疱瘡とぞんずるよし答ひける故、然ればかの疱瘡にて、鬼神のよる所ある、ことわざに又うそならずと物語りせし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:狐妖から疱瘡神の奇譚で軽く連関。疱瘡及び疱瘡神の話は、流石に死亡率も高い流行病であった故に「耳嚢」には多く出る。疱瘡天然痘については「耳嚢 巻之三 高利を借すもの殘忍なる事」の私の注を参照のこと。
・「柴田玄養」不詳。
・「さら湯」新湯・更湯で沸かしたばかりのまだ誰も用いていない風呂のことをであるが、後文から考えるとこれは酒湯で、「ささ湯」か「さか湯」の誤写の可能性が強いように思われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『さゝ湯』とある。「酒湯」(後注参照)で訳す。
・「かせ」「かさかゝり」は「痂」(かせ/かさ)。天然痘は発症である発熱の後、七~九日目に四〇度を越える高熱(発疹が化膿して膿疱となることによる)が発するが、それが収まって二~三週目に、発疹部の膿疱が瘢痕を残して治癒に向かう。その瘡蓋かさぶた状になった膿疱患部のことを指す。

・「詰痂」「つめかさ」と読んでいるか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『結※』(「※」=「扌」+「加」)とある右に『〔痂〕』とする。この結痂けっかならば、先に示した発症後二~三週目の発疹部の膿疱の瘡蓋化(「かさぶた」を「結」ぶ)の謂いで採れる。この意味で採る。
・「道利」底本には右に『(道理)』と補正注がある。
・「酒湯」底本の鈴木氏注に、『サカユ。疱瘡が治癒した後、温湯に酒をまぜて沿びさせること』とある。潔斎と寿ぎの禊ぎの意味があるのであろう。私は個人的な趣味から「ささゆ」と読むことにした。
・「答ひ」底本には右にママ注記がある。

■やぶちゃん現代語訳

 痘瘡の神なんどというものは存在しないとは言い切れぬという事

 私の知人の所でたまたま逢った、柴田玄養殿と申す医師の語ったことで御座る。
「……結局のところ……疱瘡の病いに於いては、これ……鬼神が憑くことによって発するという病因も、また一つ、あるのでしょうか……。」
と語り出した(その際、その患者の姓も聴いたが、失念致いた)。
「……主治医として担当して御座る〇〇家の小児が疱瘡に罹患致し、我らが往診療治致いて御座った。
 高熱を発して数日の後、病児が突如、看病して御座った家人に向かって、
「……ああっ! はよう、酒湯ささゆをかけてくんない……もう、湯を使いとうてならんのじゃ……」
と突如申したによって、
「……いやいや、未だかさも生じておらぬ頃合いなれば……とてものことに成し難きことなるぞ……」
と諭せども、
「……この程度の1軽かろき疱瘡の場合はの、かさがかかってからでは酒湯を用いるは、これ、逆に良ろしゅうないのじゃ!……どうか……かえって悪うなってしまう前に……はように湯をつかわするがよろしいのじゃて!……」
と、しきりに訴え、その様子は、これ、この小児の謂いとも思われなんだと申しました。
 この奇体なる愁訴には、両親ともにはなはだ困って御座って、遂には我らが屋敷へ使いを寄越して御座ったによって往診致いた。
 かくかくしかじかの旨、聞き及んだによって、我ら、
「――軽い疱瘡にてはあれども、未だ、熱が下がって瘡蓋かさぶたが出来て良うなる頃合いにも、今は至ってはおらんでの――辛抱せい!」
と直々に、噛んで含むように道理を説いて言い聞かせました。
 ところが、
「……いや――このようなかろき疱瘡なんぞのために――長々とこの坊主に関わっておったのでは、こっちが迷惑じゃ!――我らもほかへ行かねばならぬ場所があるのじゃて!」
と、これまた、妙なことを口走って御座ったゆえ、
「――一体、何処いず方へ行くと申すか?」
と、我ら、すかざす糺いた。
 と――
「――四谷××町〇△□△申す町家へ参るじゃ――」
と答えたので御座る。
 我ら、怪しきこととは思えども、病児の父母とも相談の上、それから、一両日の内に酒湯ささゆの儀の真似事を致いて、形ばかりの快癒の祝いなんどを執り行ったところが、これ、ほどのう、軽快致し、それからほどなく小児の疱瘡、これ、すっかり治って御座ったのじゃ。
 一方、我ら、その酒湯を成した日、帰宅致いてより、
「……それにしても……如何にも不思議なることを口走って御座ったのぅ……」
と、つい、気になって、
「四谷××町〇△屋□△と申す商家のあるやなしやを聴き、あったれば、今日只今、急患などのなきかと訊ねよ。」
と、使いの者を走らせて調べさせたところが、帰ったその者の曰く、
「――二日ほど前より、当家の小児が相当な熱を発し、まずは疱瘡に罹ったものと思わるるの由にて御座いました。」
との答えで御座った。……
 ……さればこそ、かの疱瘡にては……これ――鬼神がとり憑いたるによって発するものもある――と俚諺に申しまするも、強ち偽りにては御座らぬと存ずる。……」
と物語って御座った。



 同病重躰を不思議に扱ふ事

 是も柴田玄養の物語の由。或家の小兒、いたつての重き疱瘡にて面部口の𢌞り共に一圓にて、貮歳なれば乳をのむ事ならず。纔わづかに口のあたり少しの穴ある故、かの穴より乳をしぼりいれて諸醫療治なせど、たれありて□といふ者なく各斷おのおのことわりなるよし。彼小兒の祖母の由、逗留して看病なしけるが、立出て玄養に向ひ、此小兒御藥も給りけるが全快なるべき、諸醫不殘御斷のこらずおことわりやう、藥給る處は御見込といふある哉と尋ける故、我迚われとても見込といふ事はなし、しひて兩親の藥をこひ給ふによりあたへしと語りけるに、然る上は御見込もなく十死一生じつしいつしやうの者と思召おぼしめし候哉、然らば我等療治いたし候心得有間あるあいだ、此段まうし承るよしに付、じつも十死の症とぞんずる由答へければ、あるじ夫婦を呼びて、是迄醫者衆も不殘斷のこらずことわりにて、玄養とてもあの通りなれば、迚も不治ものにあらず、然る上は我に與へ、心儘こころのままになさしめよ、もしわが療治にて食事もなるべき口つきならば可申上まうしあぐべしと玄養えもことわりて、彼小兒風呂敷につつみ、我へまかせよと宿へ立歸りし故、玄養はけしからぬ老女と思ひ捨て歸しが、翌日、彼小兒乳も呑付のみつけ候間、療治給り候樣申來まうしこす故、おどろきてかのもとへ至りしに、彼老婆の語りけるは、迚も不治なほらざる者とぞんずるゆへ、宿元へ歸り湯をあつくわかし、彼小兒を右の湯へいれ、衣類澤山にきせて火のあたりおきてあたゝめしに、一向に出來いできし痘瘡ひゞわれて、口の所も少しける故、乳をつけしに給付たべつけたると語りしが、かゝる奇成きなる事もありしと語りける。

□やぶちゃん注
○前項連関:小児痘瘡奇譚柴田玄養発信二連発。この祖母はおばあちゃんではない。ラスト・シーン、乳が出る程度の、今なら相当に若い女性である。私はこの話が、しみじみ好きである。
・「同病重躰を不思議に扱ふ事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『疱瘡の重体を不思義に救ふ事』とある。
・「□といふ」底本では「□」の右に『(諾カ)』と傍注する。それで採る。
・「十死一生」殆んど助かる見込みがないこと。九死一生をさらに強めた語で、「漢書」の「外戚伝」に基づく。
・「迚も不治ものにあらず」底本では「不」の右に『(可カ)』と傍注する。それならば「治るべきものにあらず」で意味が通る。それで採る。因みに岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『迚も可活いくべきものにもあらず』とあって、こっちの方が自然ではある。
・「一向に」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『一面に』。
・「たべ」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 同じく痘瘡の重体の児童を不思議に扱って命を救った事

 これも柴田玄養殿の物語の由。

……とある家の小児、至って重い疱瘡にて、面部・口ともに一面に膿疱が重なった瘡蓋となって、酷くくっ付き、固まってしまい、いまだ二歳のことなれば乳を呑むこともならずなって御座った。僅かに口の辺り、瘡蓋の山の間に、少しだけ穴のようなものがあったによって、その穴より絞った乳を流し入れては、辛うじて授乳させておる始末で御座った。  諸医、療治なしたれど、あまりにひどいかせなれば、たれ一人として療治せんとする者とてなく、頼んだ医師、悉く皆、断ったと申す。
 かの小児の祖母なる者、その家に逗留して看病して御座ったが、ある日――両親のたっての望みなれば、我ら仕方なく、この小児の療治をなして御座ったが――その我らの傍らへと出でて参り、我に向こうて、
「……この小児……お薬も戴いておりまするが……全快致すもので御座いましょうか?……他のお医者さまは、皆……残らず療治をお断りになられたとのこと……先生は、かくも、お薬を処方致いて下さいます上は……これ、見込みのあると……お思いにて御座いましょうか?……」
と訊ねて参りましたゆえ、
「……我とても――見込み――といふことは、これ、残念ながら御座らぬ。……強いてご両親が薬だけでもとせちに願われたによって、言われるがままに、効き目もあまり御座らぬながら、せぬよりはましと薬を処方致いておる次第……正直申し、それが実情で御座る。……」
と語ったところ、
「……しかる上は……それは……実は快癒のご賢察も、これ、御座なく……十死じっし一生の者と、内心は思し召しになっておらるるので御座いましょうや?……しからば……我らに一つだけ、療治として致してみたき心得の御座いますれば……それに附き……一つ、本当のところのお見立てを、これ、申し承りとう存じまする……」
とのことなれば、酷いとは存じたれど、
「……正直……とてものこと、助かりよう、これ、御座ない病態と、存ずる。……」
と率直に答えました。
 すると、その祖母、急に主人あるじ夫婦を呼び寄せ、
「……これまでの医者衆も、これ、残らず匙を投げた!……今、この玄養さまにもお伺いを立てたところ、『この通りなれば、とてものことに癒ゆることも、生き残ろうはずも、まず、これ、ない』とのことじゃ!……かくなる上は、この子を我らに任せて、我らの思うがままにさせて、お呉れ!……玄養さまにおかせられては、もし、我らが療治をなして、口の辺りの、乳なんども吸わるるようになるようなことが御座いましたならば、また、その後の療治方について、ご処方なんどお受け致したく、その折りにはまた、改めてお願いに上がりまする。……さればこそ、今日までのご療治は有り難く存じまして御座った。……」
と、我らへも療治の終わりを一方的に告ぐるが早いか、かの小児を大きな風呂敷に包むと、
「――我らに任せよ!――」
と両親に言うと、小児を背負って実家へとさっさと帰ってしもうたので御座る。
 我らも、鳩が鉄砲玉を喰らったようなもので、暫く手持無沙汰のまま、向かっ腹も立って参りましてな、
『……如何にも失礼千万な老女じゃ!……』
と不快に思うて、困って平身低頭して御座った若夫婦を尻目に、そそくさと自邸へ帰って御座った。
 ところが、その翌日、かの若夫婦の所より使いの参って、
「――かの小児、やっと乳も飲みつけるようになりましたによってかさあと療治を給りますよう、お願い申し上げまする――」
申し越して参りましたから、これには、我らも吃驚仰天、とり急ぎ、かの若夫婦の元へと往診致しましたところが、
……これ……
……かの小児……
――元気に若妻の乳を含んで、美味そうに吸うて御座いましたのじゃ。
 傍に御座った老婆は、
「……昨日のまことに失礼なる仕儀、これ幾重にもお詫び申し上げまする。……ただ、まっこと、玄養さまのお見立ての通り、とてものことに治らぬ者と存じましたによって、我が実家へと連れ帰りまして、湯を熱く沸かし、その小児をその湯へ入れ、衣類なんどもたんと着せ、さらに囲炉裏火いろりびの近くに置いて、十分に温めてやりましたところが……さわに出て御座った痘瘡のかさが、これ、みるみる乾いてひび割れ、口の辺りにても、少しばかし、大きに開きましたゆえ、即座に我らが乳を宛がってやりましたところ、まあ、ちゅうちゅうと吸いつき、力強う、飲み始めまして御座いました。……」
と深々と礼をなして語って御座いました。……
 ……いや、実にこのような、医の常識の及びもつかぬ奇妙なことも、これ、時には御座いまする。……



 婦人に執着して怪我をせし事

 下谷邊の醫師の由、色情深き生質きしつにや、或時、洗湯濟せんたうすみて晝前の事のよし、二階にあがり、裸にて風抔いれける。隣は女湯にて、入湯の者すくなく、小奇麗成こぎれいなる女壹人湯桶をひかへ、人も見ざれば、陰門をあらはし洗ひ居たりしを、かの醫ちらと見て、二階のひさしつづきの女湯故、引窓ひきまどのふちへ手をかけ、片手は糸にかける竹に とりつき眺居ながめをりしに、みへ兼ける故兩手共引糸ひきいとを懸る竹へ取つき候と、右竹をれてまつさかさまに女湯の方へおちける故、かの女はおどろきて氣を失ひ、醫師も高き所より落ける故、湯桶にて頸をうちてこれ又氣絶せし故、湯屋ゆうやの亭主は勿論家内周章あはて出てみしに、壹人は女、壹人は男氣絶なしければ、何分わからばこそ、氣附きつけ抔あたへ其譯をたづねければ、其答も一向わからず。しひて尋ければ、くめ仙痛せんつうとゆふべき事と、其所の物わらひと成りし由、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:医師関連譚で軽く連関。久々の好色譚である。
・「洗湯」銭湯。湯屋ゆうや
・「二階」底本の鈴木氏注に、当時の湯屋の『男湯には二階があって、菓子や茶などを売り、湯女が客の世話をした。(酒は禁制で出せない)』とあり、ウィキの「銭湯」にも、『社交の場として機能しており、落語が行われたこともある。特に男湯の二階には座敷が設けられ、休息所として使われた』とある。当時の『営業時間としては朝から宵のうち』、現在の夜八時頃まで開店していたらしい。また、これも知られたことであるが、こうした男女の湯が分かれているのは必ずしも一般的ではなく、『実際には男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した』。寛政三(一七九一)年には『「男女入込禁止令」や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた』とある。
・「引窓」屋根の勾配に沿って作った明かり取りの窓。下から綱を引いて戸を開閉する天窓のこと。
・「糸」「引糸」前の引窓の紐のこと。
・「何分わからばこそ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『何分わからず。』となっている。次の注との絡みで、この部分はバークレー校版で訳した。
・「粂の仙痛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『久米野仙庵』で、長谷川氏は久米の仙人の逸話に『医師であるので医師に多い名に似せて仙庵とした』とあるが、こちらではそれに加えて明らかに当時、根岸も患っていた流行病の疝気の「疝痛」をも掛けてあり、しかもこの文脈では「其譯を尋ければ、其答も一向わからず。強て尋ければ」と前にあって、これは「どうして女湯へ落ちたんじゃ? 覗いていたんじゃなかったんかい?!」と問い詰められた医師が、苦し紛れに「……いや、その急に持病の疝痛が起こりまして、二階より、足を踏み外しましたので……」という、如何にもな弁解を聴いて、その場の者が「――ほほう? そりゃまた久米の仙痛さんという訳かい?!」と皮肉って笑い飛ばしたという形になって、より面白い。

■やぶちゃん現代語訳

 婦人を出歯亀することに執着しゅうじゃく致いたによって怪我を致いた事

 下谷辺の医師の由。
 この男、どうにも色好みの度が過ぎた気質ででも御座ったものか、ある時、銭湯から上がって――未だ昼前のことであったと申す――二階に上がり、素っぱだかのまんま、一物に風なんど入れては涼んで御座ったところが、すぐ隣りが女湯で御座って、入湯にゅうとうの者も少なく、中には小綺麗なる女が一人、湯桶を脇に置いて、人気もなきと、陰部をあからさまにおっぴろげては、大事丁寧に洗って御座ったを、かの医者、ちらと見て、二階のひさし続きの女湯であったがため、その女湯の引き窓の縁に手を掛けて、片手は紐のぶら下った竹枠に手を添えて眺めて居った。
 ところが、どうにもよく見えざれば、思わず、両手でもって引き紐を懸けた竹枠へ倚りかかったところが、
――バキン!
と、美事、竹の折れて、かの医者、
――グヮラグヮラ! ドッシャン!
と、真っ逆さまに女湯のかたへと落ちてしもうた。
――ギャアッ! ウン!
と、かの女は驚きて気を失のう、
――ウ! ムムッツ! グッフ!
と、医者も、これ、高い所より落ちたばかりか、運悪く、かの女子おなごの脇にあった湯桶にそっ首をしたたかに打ったによって、これまた、気絶。
 尋常ならざる物音なればこそ、
「な、何じゃッ!」
と、湯屋ゆうやの亭主は勿論のこと、家内の者ども皆、慌てて女湯へと飛び込んで見たところが、
――一人は素っ裸の女
――一人は素っ裸の男
――これ、それぞれ両人、雁首揃えて、気絶して御座る
……一瞬、これ、何が起こったものやら分からず、気付薬などを与えて、二人ともようように正気には返った。
 一体、何がどうしたものかと訊いてみても、女子おなご勿論、自身、訳も分からざれば、青うなって、はあはあと荒き息をするばかり。……
 男の方に訊ねてみても、これまた、もごもごと訳の分からぬことを呟くばかりで、一向に埒が明かぬ。
 如何にも怪しきは、この男なれば、亭主、さらに責めて糺いたところ、
「……い、痛たたたッ!……わ、我ら、医師で御座る……と、隣の二階にて涼んで御座ったれど……そ、その、じ、持病の、その、そうじゃ、疝痛が、これ、に、にわかに起って御座って、その……」
と、しどろもどろの言い訳をなした。
 されば亭主、横手を打って、
「……ははぁん! さればそれは――くめの仙痛――と申すようなものじゃ、のぅ!」
と皮肉ったによって、この医師、そこら辺りにては永いこと、もの笑いの種となって御座った由。
 さる御仁の語って御座った話である。



 植替指木に時日有事

 櫻は十月十日にさし木すれば、根付ねつく事妙也。竹を植替うゑかへに五月十三日を期日とす。是又根付事奇々の由、於營中に諸侯の語りしが、其外をなす事も同じと語る。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「五月十三日」「大辞泉」によれば、中国の俗説で竹を植えるのに適する日といわれているとあり、転じて陰暦五月十三日を指す言葉として夏の季語となった。竹迷日。個人ブログ「今日のことあれこれと…」の「竹酔日(ちくすいじつ)」の記載が詳しい。部分的に引用させて戴く(アラビア数字を漢数字に代えさせて頂き、記号やリンクを変更、末尾の一部を省略して引用させて戴いた)。
   《引用開始》
この日は、竹が酒に酔った状態になる日で、移植されたことにいっこうに気づかないので、よく活着するという意味から出たもの。中国の徐石麒(しゅしち)によって著わされた「花庸月令(かようげつれい)」には著者が永年にわたって口伝などを集めて実験観察した結果が記録されているそうで、この日に竹を植えられない場合でも、「五月十三日」と書いた紙を植えた竹の枝につるせばよく活着するのだとか……。
こんなことは信じられないが、江戸時代の俳聖と呼ばれた松尾芭蕉の句に以下のようなものがある。
「降らずとも竹植うる日は蓑と笠」(真蹟自画賛一、画賛二・笈日記)
以下参考に記載の「芭蕉DB」の説明によると、『貞亨元年(四十一歳)頃から死の元禄七年(五十一歳)までの間の作品。『笈日記』では、貞亨五年木因亭としているが不明。竹はそのまま植えてもなかなかつかない。この国では新緑の頃に植えないと他の季節ではむずかしい。中国では古来、旧暦五月十三日を「竹酔日<チクスイジツ>」といって竹を植える日とされた。意味は、たとえ雨が降っていない日であろうとも、竹を植える日には蓑笠(以下参考に記載の「蓑笠」参照)を着てやってほしいといった意味で、芭蕉の美意識の現れだ』という。「竹植うる日」は、俳句の夏の季題ともなっており、『去来抄』には「先師の句にて始(はじめ)て見侍(みはべ)る」とあるから、芭蕉がその使い始めであろう。
   《引用終了》
・「於營中に」はママ。「營中に於いて」と読む。

■やぶちゃん現代語訳

 植え替えや挿し木には最適の時日がある事

 桜は十月十日にさし木すれば、根付くこと、これ、絶妙なる由。
 竹を植え替るには五月十三日を最適の期日とする。これもまた、根付くこと、摩訶不思議なる由、御城内に於いてさる御大名の語って御座られたが、その他の植え替えや挿し木をする場合でも、これと同様、それぞれの樹種によって最適の時日があるもの、と語っておられた。



 鱣魚は眼氣の良藥なる事

 宝曆のはじめ、日本左衞門といへる強盜ありて、其節の盜賊改たうぞくあらため德山五兵衞方へ被召捕めしとらへられ御仕置に成りし。右吟味の節、同組與力何某、日本左衞門闇夜にも物をみる事顯然たる由をきき吟味處ぎんみどころの燈を消してくらくなし日本左衞門を引出し、右吟味所に有之これある手鎖捕繩等の數をたづねしに、いささか相違なく答へけれど、右は晝見置みおきの疑ひある故、其邊に有合訴書ありあふうつたへがきを渡しよむこのみければ、燈火にてよむ程にはなけれ共、無滯讀とどこほりなくよみける故、何ぞ藥等ありて眼精如斯哉かくのごとしやたづねしに、若手の頭人のをしへけるは、うなぎをたくさんに食すれば眼精格別とかたる。其くひしやふは、縱令たとへ朔日ついたちより八日迄日々うなぎを澤山にくひ、夫よりはたちもの同樣に一向不喰くはず、最初まづ佛神えなりとも祈誓して斷物たちものにして、さて七日程しよくするよし。もつともうなぎの首の處は不給たべず、首より五程のあひだ、肝のある所をすて、尾先は末の所迄たべ候由。鱣の肝は目の藥抔といへど、大きなるそら事にて、尾先はすべて精身せいしんあつまる所故、尾先へは隨分肉を不殘喰のこらずしよくするよしまうしけるを、かの與力ききて、右にならひうなぎを不絶たえず食しけるに、眼氣人よりはよかりしと、其子孫のかたりしと也。谷何某たになにがし物語也。

□やぶちゃん注
○前項連関:民間習俗ながら天下の大盗賊の首魁日本左衛門の実録物とカップリングされた話柄は、なかなかに面白い。
・「鱣魚」鰻。目によいとされるビタミンAを多量に持っていることは事実である。但し、老婆心ながら申し上げておくと、ビタミンAは過剰摂取すると下痢などの食中毒様症状から倦怠感や全身の皮膚剥離などの重篤な皮膚障害などを引き起こし、また多量の体内蓄積は催奇形性リスクが非常に高くなるとされる。ビタミンというとまさに「鱣の社」に仕立て上げてしまう向きはご注意あれ。
・「宝曆」西暦一七五一年から一七六三年。「初」とあるから、日本左衛門が本格的に大盗賊として知れ渡ったのは三十代前半であったことが知れる。
・「日本左衞門」(にっぽんざえもん 享保四(一七一九)年~延享四(一七四七)年)は本名浜島庄兵衛といった大盗賊。以下、ウィキの「日本左衞門」を引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『尾張藩の下級武士の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道諸国を荒らしまわった。その後、被害にあった地元の豪農の訴えによって江戸から火付盗賊改方の長官徳山秀栄が派遣される(長官としているのは池波正太郎著作の「おとこの秘図」であり、史実本来の職位は不明)。日本左衛門首洗い井戸の碑に書かれている内容では、捕縛の命を受けたのは徳ノ山五兵衛・本所築地奉行となっている(本所築地奉行は代々の徳山五兵衛でも重政のみ)。逃亡した日本左衛門は安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念(当時、手配書が出されるのは親殺しや主殺しの重罪のみであり、盗賊としては日本初の手配書だった)』、『一七四七年一月七日に京都で自首し、同年三月十一日(十四日とも)に処刑され、首は遠江国見附に晒された。上記の碑には向島で捕縛されたとある。処刑の場所は遠州鈴ヶ森刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われている。罪状は確認されているだけで十四件、二千六百二十二両。実際はその数倍と言われる。その容貌については、一八〇センチメートル近い長身の精悍な美丈夫で、顔に五センチメートルほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったと伝わっている』。『後に義賊「日本駄右衛門」として脚色され、歌舞伎(青砥稿花紅彩画)や、様々な著書などで取り上げられたため、その人物像、評価については輪郭が定かではなく、諸説入り乱れている』とある。「耳嚢 巻之一」の「武邊手段の事」には、その子分の捕縛時の逸話が記されてある。 ・「盜賊改」火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためかたは、江戸時代に主に重罪である火付け(放火)・盗賊(押し込み強盗団)・賭博を取り締まった役職。本来、臨時の役職で幕府常備軍である御先手組頭、持組頭などから選ばれた。明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を寛文五(一六六五)年に設置。その後「火付改」を天和三(一六八三)年に設けた。一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。この理由として、殊に江戸前期における盗賊が武装盗賊団であることが多く、それらが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかったこと、また、捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することの出来る現代でいうところの警察軍として設置されたものである。決められた役所はなく、先手組頭などの役宅を臨時の役所として利用した。任命された先手組の組織(与力五~一〇騎・同心三〇~五〇人)がそのまま使われたが、取り締まりに熟練した者は、火付盗賊改方頭が代わってもそのまま同職に残ることもあった。町奉行所と同じように目明しも使った。天明七(一七八七)年から寛政七(一七九五)年まで長官を務めや長谷川宣以のぶためが池波正太郎「鬼平犯科帳」で有名。但し、火付盗賊改方は窃盗・強盗・放火などにおける捜査権こそ持つものの、裁判権は殆んど認められておらず、たたき刑以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定に際しては老中の裁可を仰ぐ必要があった。火付盗賊改方は番方であるが故に取り締まりは乱暴になる傾向があり、町人に限らず、武士、僧侶であっても疑わしい者を容赦無く検挙することが認められていたことから、苛烈な取り締まりによる誤認逮捕等の冤罪も多かった。市井の人々は町奉行を「檜舞台」と呼んだのに対し、火付盗賊改方を「乞食芝居」と呼び、一方の捜査機関たる町奉行所役人からも嫌われていた記録が見られ、こうした弊害を受けて元禄一二(一六九九)年には盗賊改と火付改は一度廃止されて三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)の管轄となったが、元禄赤穂事件があった元禄一五(一七〇二)年に盗賊改が復活、博打改が新たに登場、さらに翌年には火付改も復活した。享保三(一七一八)年には盗賊改と火付改は「火付盗賊改」に一本化されて先手頭の加役となり、文久二(一八六二)年になると、先手頭兼任からも独立して加役から専任制になった(博打改は火付盗賊改ができた年に町奉行配下に移管)。以上はウィキの「火付盗賊改方」に拠った。
・「德山五兵衞」底本鈴木氏注に、『秀栄ヒデイヘ。享保九年本所火事場見廻、十八年御使番、布衣を許さる。延享元年御先鉄砲組頭、三年盗賊火付改、宝暦四年西城御持筒組頭、七年没、六十八。日本左衛門こと浜島庄兵衛が召捕となり、遠州見付で処刑されたのは延享四年三月であった』とある。
・「若手の頭人の教けるは」の「若手」には底本には右に『(ママ)』表記する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『若年の頃人のおしえしは』で、すんなり読める。この部分はこのバークレー校版で訳した。
・「不給たべず」は底本のルビ。
・「五分」約一センチ五ミリメートル。

■やぶちゃん現代語訳

 鰻は視力の良薬であるという事

 宝暦の初め、日本左衞門にっぽんざえもんという知られた強盜がおり、その当時の火付盗賊改方徳山五兵衛殿に召し捕えられて御仕置と相い成った。
 その吟味の折り、同組与力の何某なにがし
――日本左衛門は闇夜にてもはっきりと物を見ることが出来る
由を聞き、その日、夜間の訊問の折りから、吟味所ぎんみどころをわざと消して暗くしておき、日本左衛門を引き出ださせると、吟味所の壁に掛けてある手鎖てぐざり捕繩とりなわなんどの数を訊いてみたところが、いささかの相違もなく正確に答えた。
 しかし、その与力、
「……うむ。しかしこれは……昼になした吟味の際、たまたま見覚えておったものでないとも限らぬ――」
と申した。
 すると日本左衛門は、
「――ではお近くにあるやに見えまするところの、その、訴状と思しい類いのもの――これ、どれでも一つ、お渡し下されい。――この場にてお読み申そうず……」
と言うたによって、与力は、訴状のうちより、彼に読ませても問題のないものを選び出し、日本左衛門の前に差し出した。
 すると、彼は――燈火ともしびを照らして読むほどに流暢ではなかったものの――その一字一句を、これ、滞りのう、読み終えて御座った。
 されば、与力、
「……お主は、何ぞ、目に良き薬などを以って、その視力を養って参ったものか?」
と訊ねたところ、日本左衛門曰はく、
「……我ら、若き頃、さる人の教え呉れたことには、鰻をさわに食すれば、眼精がんせいは格別とのことで御座った。……我ら、それを守って御座ったとは申そうず。……その食い方と申さば、そうさ――例えば、月の朔日ついたちより八日までは、鰻をさわに食う――がしかし、その明けた九日よりは、逆に、断ち物同様、一切これを食わずにおくので御座る。少し具体に申さば――九日目の最初に、まず、何ぞ神仏へなりとも、これより鰻を断つ旨の祈誓を致いて、さても、それから七日ほどは一切、鰻を除いたものを食するので御座る。……もっとも、鰻の首の所は決して食い申さぬ。……そうさ、首より五ほどの間にあるところの――俗に「肝」と申す――あそこは捨てて、尾先のかたは末の末の部分まで、これ、綺麗に食べて御座る。……さても「鰻の肝」と申すを目の薬なんどと世間にては申しまするが……これは大いなる誤りにて――寧ろ、尾の先までは、これすべて、鰻の精気の凝り固まって御座るところなればこそ――尾先の方までは、随分、丁寧に、肉を残らず食うて御座った。……」
と申した由。
 その与力、これを聴いて――謂わば、日本左衛門の遺言のしきたりに倣って、鰻を絶えず食しては断ち、食しては断ちを繰り返してみたところが、人よりは眼が遙かにようなった――とは、その与力の子孫の者の語って御座った由。
 我らが知れる谷何某なにがし殿の物語りで御座った。



 老僕奇談の事

 本郷信光寺たな、又古庵こあん長屋抔といへる片□町有て、予親族山本某も彼側かのそばすみけるが、文化貮年の春、右町に三河屋といへる質店有しちだなありし。それが元に年久しく仕へて年比としごろ五十餘になれる僕ありしが、甚だ實體じつていにて數年わたくしなく仕へ、主人もあわれなる者に思ひけるが、文化元の暮か同貮の春か、右邊にいささか出火ありて一兩軒燒失せし。かの老僕その以前此邊火災あるべし、彼僕三河屋抔は氣遣ひといへるを、傍輩なる者嘲り笑ひし事有しが、果して火災ありしが、彼僕三河やは氣遣ひなき間、諸道具片付るに不及迚およばずとて制しゝが、間もなく火も靜まりて、三河やより無程ほどなく盜賊火付改勤ける戸川大學に、右僕被捕糺とらへられただしもありけれど、素よりなせる惡事もあらざれば無程ほどなくゆるし返されけると也。かの僕常に二階にふせりけるが、夜更よふけて人と物語り抔する事のしき度々有しをあるじもきゝ、いかなる事とたづねけるに、そこつにいわざりしが切に尋ければ、たれも名はしらず、山伏やふの人來りて物語抔する事ありわれわかく召連めしつれて諸國を見すべけれど、老人なれば其事ももだしぬと、懇意に色々咄し抔なせる。火事の事もかのやま伏の語りしとまうしける故、左あらばかさねて右の客仁きやくじん來らば我等も引合ひきあはせよと、若き手代抔懇望をなせど、右客仁に不聞きかずしては難成なりがたしとて、其元そこもとたちは如何と、其後客仁に逢しに、けつして他人は逢事難成あふことなりがたし其方そのはうは見る處ありてかくかく物語れども、人には猥りに沙汰なすなといへる也迚斷りしが、其後は如何成りしや不知しらずと語りぬ。一説に、右近邊に屋しきの内、狸の怪ありし事あり。右狸のいたづらにやあらんと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:孰れも火付盗賊改方が実名で登場する話で連関する。この文、何だか、無駄な繰り返しが多く読みづらい(錯文のようにも思われる)が、すっきりしたカリフォルニア大学バークレー校版を参考にしながら、くどくならぬように意訳を添えながらなるべく底本全文を訳すように心掛けた。
・「信光寺」真光寺の誤り(訳では訂した)。この寺は戦後に世田谷に退転して同地にはないが、桜木神社や本郷薬師を境内に持っていた大きな古寺で、現在の真砂町の「真」はこの寺の名をとったもの、とウィキの「ノート:本郷(文京区)」の記載にはある。底本の鈴木氏注には、『天台宗。薬師堂があり、本郷の薬師と呼ばれて有名だった。同寺と小笠原佐渡守中屋敷との間に、古庵屋敷と呼ばれた所があった。幕府の御寄合医師余語古庵拝領の地で、その一部が町屋となったもの。文京区真砂町に属する』とある。
・「古庵長屋」菊坂の与太郎氏の「本郷の回覧板 『昔空間散歩の薦め』」というサイトの『「小笠原佐渡守屋敷跡Ⅲ」補完編』に、「東京名所図会」の「余語古庵屋敷」に、これは寄合医師余語古庵の先祖が宝永元(一七〇七)年に幕府から賜った物で総面積約四二六坪の内、半ばを住地、残りを町屋敷として、同年中に町奉行の支配に属してより「本郷古庵屋敷」と唱えるようになった、と記す。リンク先には詳しい旧古庵拝領屋敷の同定・現在地の画像、更には古庵の墓の写真までも拝める。必見。なお、そこにも記されているが、彼の名は森鷗外の「伊沢蘭軒」の「その六十三」に『余語よご氏はよゝ古庵の號をいだものである。古庵一に觚庵にも作つたか。當時の武鑑には、「五百石、奥詰御醫師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある』と載る。なお、ちょっと吃驚したが、不動産会社「ジェイ・クオリス 東京賃貸事情」のサイトにも「古庵屋敷」の解説が載っており、『[現]文京区本郷四丁目』『本郷二丁目代地の西に位置し、本郷三丁目の北で中山道から西に折れる通りの北に沿う片側町。北は寄合医師余語古庵の屋敷、通りを挟んで南は久保長貞の屋敷と早川蔵人の屋敷、西は肥前唐津藩小笠原家の中屋敷。宝永元年(一七〇四)に余語古庵の先祖が拝領した地(四二六余)のうち、二四七坪余を町屋としたのが当町で、当初から古庵屋敷とよんで町奉行支配であった(御府内備考)。文政町方書上によれば、町内は東西の表間口が一九間余、南北は東側が二〇間余、西側が一一間余。家数九、うち家守一・地借六・店借二。公役は三人役を勤めた。本郷真光寺ほんごうしんこうじ門前と同様、俗に御弓おゆみ町ともよばれた。明治二年(一八六九)本郷真砂ほんごうまさご町となる』という堅実な考証記事が載っているのであった。侮れない! 凄い!
・「片□町」底本には右に『(側カ)』と傍注、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にも『片側町かたかわまち』とする。それで採った。「片側町」は一般名詞で、岩波の長谷川氏注に『道の片側だけ家並がある町』とある。
・「文化貮年」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、比較的新しい都市伝説である。
・「間もなく火も靜まりて、三河やより無程ほどなく盜賊火付改勤ける……」脱文が疑わられる。カリフォルニア大学バークレー校版では『まももなく火もしずまりて、三河屋は無難なりける。盜賊火付改ひつけあらためつとむる』と続く。ここはバークレー校版で採る。
・「戸川大學」底本の鈴木氏注に、『寛政当時の戸川大学は逵旨ミチヨシ。八年(四十八歳)家督、千五百石。十年、中奥番士から御徒頭に転じている』とあり、岩波の長谷川氏注には、同人として『文化元年(一八〇四)三月先手鉄砲頭、同五月当分火付改加役御免』とある。
・「そこつに」は軽はずみなにも、軽率なことに、また、失礼にも、の謂いであるが、ここは簡単には、といった意味であろう。失礼なことに、ではきつ過ぎる。
・「もだしぬ」「默しぬ」で、口をつぐむ、黙る、又は、黙って見逃す、そのままに捨ておく、の意。
・「右客仁に名聞しては難成」の「不聞」は底本では「名聞」だが、これでは読めない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の『不聞』を採った。しかも、ここも文章の繋ぎが頗る悪い。バークレー校版では、
「右客仁に不聞きかずしては難成なりがたし」とて、「其後客仁に聞しが、けつして外人は逢ふ事は難成。其方そのほうは見る所ありて斯物語かくものがたれども、人にはみだりに沙汰すべからず」と斷りしが、
と至って問題がない。

■やぶちゃん現代語訳

 老僕の奇談の事

 本郷真光寺だな、一般に古庵長屋こあんながやなどと称しておる片側町かたがわまちがあって、私の親族である山本ぼうもそのごく近くに住んでおる。
 文化二年の春のことであった。
 その町屋に三河屋と申す相応の商売をなしておった質屋が御座った。
 その店の使用人に、永年仕えた、年の頃、五十余歳にもなろうかという下僕しもべがあったが、はなはだ実直なる者にて、特にこの数年は、下僕の鏡の如、わたくしなく仕えて内外の評判もよく、三河屋主人あるじも、この下僕、初老ともなったれば、殊の外、目を掛けて御座ったと申す。
 さて――この辺りが記憶があやふやなのじゃが――その前年の文化元年の暮れのことであったか――それとも直近の同二年の、その直前の春のことであったか失念致いたのじゃが――その辺りにて、いささか、出火のことあって、左右二軒ほどが全焼致いたことが御座った。
 その折り、かの老僕――まずは火事騒ぎの起こる、それより前のある日のこと、 「……この近くにて近々、火事が、これ、ありそうじゃ。……我らのご主人さまのおたななど、何とも心配なことじゃ……」
と呟いて御座ったのを、傍輩が小耳に挟んで、
「何ぃ? 火事じゃ? 阿呆か! 縁起でもない!」
と嘲りわろうたことがあったと申す。
 暫く致いて、はたして向こう三軒先のたなより火が出でたが、その折には、今度は老僕、
「……へえ! この三河屋へは延焼の気遣い、これ、御えやせん。されば、諸道具など、片付けも及びませぬ。――」
と、慌てふためく家内の者どもを、逆に制して御座った。
 が、はたして間もなく火も鎮まり、三河屋へは火の粉も降り懸からずに無難に済んで御座った。
 この言動が如何にも怪しいと誰彼が噂致いて、ほどのう、火付盗賊改方をお勤めになられて御座った戸川大学殿のお耳へも、これ、届き、かの老僕、一応、召し捕えられて御取調べの儀、これ、御座ったれど、もとより、その二つの言動以外には、何の不審なることも、これ、御座なく、だいたいからして、火付けの嫌疑もなし、何か、この火事に乗じて他の悪事をなそうした形跡も御座らなんだによって、じき、許されて三河屋へと無事に戻ったと申す。
 この下僕、常に三河屋の二階の一室を寝所と致いて御座ったが、夜も更けて後、その部屋の辺りより、何やらん、誰かと物語りなどするような声や気配が、これ、たびたび御座ったによって、また、三河屋主人あるじも実際にその不思議なる会話をしばしば聴いて御座ったれば、
「……夜更けの二階のことなれば、寝言か何かなら、これは、どうということもないが……どうもそうは聴こえぬ。……どういうことじゃ?」
と質いたが、なかなかはっきりとは申さぬ。
 よほど、何か隠しているものとみた主人あるじが、少しきつうにしきりに糺いたところ、
「……その……たれとも名は存じませぬが……山伏の様なる御仁が、時に夜中にあっしの部屋へ参りやす。……そうして、その御仁とは……まあ、その……いろいろと物語なんど、致すことも御えやす。……その山伏の曰く、
『……そなたが年若であれば、召し連れて諸国の面白きことなんども大いに見せること、これ、出来るのじゃが。まあ、そなたも大分な老人なれば、の。……そんな無理を言うも憚られる。……されば仕方のぅ、ちょいと面白き話をするばかりじゃ。……』
と、昵懇に色々と話しなど致しやすんで。……先般の火事のことも……これより、いつ頃、何処其処で火事が起きそうじゃ、とか……その火事は何処其処まで焼け広ごれども、誰それの屋敷までは類焼に及ばぬ、とか……その山伏の語って御えやしたことで……。」
と申したによって、傍らで聴いて御座った店の手代の若い衆などが、
「――そんなら、また、その客人が来たならば、どうぞ、我らも是非に、引き合わせておくんない!」
と、面白半分、我も我もと懇望致いた。
 すると老僕は、
「……いや、それは……かの客人に伺ってみないことには、難しゅう御座る。」
とのことであった。
 暫く致いて、老僕が若い衆に言うたことには、
「……実は昨晩、かの山伏の参ってうたによって、 『其元そこもとらとおううてもろうて、法力によって自在に諸国漫遊なんどさするは、これ、如何いかん?』
と切り出してみたところが、
『……決して下々の者どもとうことは、これ、あってはならぬことなのじゃ。……その方儀は、これ、老人ながら……特に見どころのある者じゃったによって、逢いもし、またいろいろなことも教えはした。……が……向後は、我らがこと……濫りに他人に喋ったりしてはならん!……』
ときつう言われたによって……だめや。――」
とのことで御座った由。
   *
 その後、この老人がどうなったかは、とんと、聴いては御座らぬ――とは、私の知れる者の語って御座った話。
 その者の付け加えた一説に――かの古庵長屋近辺の別な屋敷内には、何でも以前から、狸の怪が、これ、噂されたことがあるとのこと――されば、その山伏とやらも――実は――その狸の悪戯にては御座るまいか――とのことで御座った。



 打身くじきの妙藥の事

 櫻の葉を摺りて燒酎にてねりいたむ所へぬりよくかはかし、又乾けば又ぬるに、たちまちに快驗をする事也。栗原翁しれる者、荷をかつぎ薪のあひだへ倒れ、惣身を打候存外なやみける也。田舍より來ぬる老人、それはかくかくなせば宜敷よろしきとて即座に其效を現はせしと語りぬ。櫻の葉なき時は皮を粉にしてもちゐる也といふ

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。本文には「櫻の葉」が出、後に「皮」でもよいとあるが、皮は古来、「桜皮おうひ」と呼ばれて漢方薬として用いられてきた。漢方系サイトの記載によれば、六~七月頃にサクラの樹皮を剝したものを乾燥したり、日干しにして生薬として市販されているとある。「桜皮」にはタンニンやサクラニン(Sakuranin:フラボノイドの一種。)が含まれており、腫れ物・蕁麻疹・水虫・二日酔・皮膚病・肩こりなどに効果があるとある。特に湿疹では患部に塗ると効果があるとあり、本記載とは異なり、多くは皮膚疾患の効能を謳っている。
・「又乾けば又ぬるに」病態と効果から考えて、重ね塗りではなく、乾燥して剥離したら、の謂いであろう。
・「栗原翁」このところ御用達の「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクティヴな情報屋で、既に何度も登場している。

■やぶちゃん現代語訳

 打身・挫きの妙薬の事

 桜の葉をって焼酎を用いて練り、痛む箇所へ塗って、よく乾燥させ、それが十分に乾いて剥離したら、再び、同じ箇所に塗る。すると、即座に快癒するということで御座る。
 例の栗原翁――彼の知人の者、荷を担いだままに積み置かれた薪の山の中へ倒れ込んで、全身をしたたか打ったとかで、殊の外、痛みを訴えて御座ったところ、さる田舍より出でて御座った老人が、
「それは、桜の葉を以ってかくなさば、よろしゅう御座る。」
と申したによって、言われた通りになしたところが、即座にその効果が現われた――と語って御座った。
 時節柄、桜の葉が散ってなき時には、桜の樹皮を剝して粉とし、処方致いてもよい、とのことで御座る。



 病犬に被喰し奇藥の事

 金魚をすり潰し、其所えぬれば直に快驗なす由。其證は金魚を犬猫も一切不喰くはざる也。これ犬の嫌ひ候所、其愁ひをさる事しるべしと人の語りける。

□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法シリーズ直連関。犬による咬傷の民間療法は既に「耳嚢 巻之六 病犬に喰れし時呪の事」に既出。類感呪術的な如何にもな意味づけである。試みに金魚を漢方薬とするかどうか(してもおかしくはないが)ネット検索を掛けてみたが、どうも見つからない。見つけた方は是非、御教授を乞うものである。
・「病犬に被喰し」は「やまいぬにくはれし」と読む。「病犬」は「耳嚢 巻之六 病犬に喰れし時呪の事」の私の注を参照されたい。

■やぶちゃん現代語訳

 怪しき犬に咬みつかれた際の奇薬の事

 金魚を摺り潰し、咬まれた箇所に塗れば、直ちに快癒するとのこと。
 その効験こうげんの証左はと言えば、犬猫は金魚を一切食わないことにある。
 これは犬が金魚を嫌い、忌避して御座ることを証明するものである。従って、その咬傷の悪化をも、これ、防ぐことが出来るのであると理解出来よう、と人が語って御座った。



 溺死の者を助る奇藥の事

 栗原翁の先人旅行の筋、天流川の河端に溺死の者ありし由にて立騷ぐ故、其所へ至りてみれば、大の男絶死の樣子故、不便の事ととりどり囁やきける所へ、所の老人來り、其邊の畑に有しねぎを以て鼻の中をつきて見けるに、是はたすかるべし迚、何歟なにか黑燒を口へつき込しに、水をはきて息出し故たすかりしとなん。是栗原子見て、右老人を其泊りの旅宿へ招き、右の藥の法をこひしに、始はいなみけるが、下﨟故流石げらうゆへさすが金三兩與へければ傳授しけると也。其藥もちゐる事、葱にて鼻の中をよく見て、其先に血付候て右藥を用ゆべし。もし血出ざれば用ひて益なしとかの老人語りしと也。右藥を今の栗原子貯へをりしに、門前を大の男水死して口抔あけ、絶命と見へしと、兩人にて荷ひ、母と見へて女跡よりなきながら來るを見て、立添ふ者に知人あるゆへ聲をかけてたづねければ、水泳して溺死せし由、早速呼入よびいれて右の法に療治ければ、葱の先に血付ければ彼藥を與へければ息出しとて追々おひおひの知らせにて、翌日は厚禮をなして、一族來り謝しけると也。右法を切にもとめければ、左のとおり別記なり。〔是は追寫すよし。原本に不見みえず。〕

□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法第三弾。二つ前から栗原翁の直談でも連関。それにしても旅先でぽんと三両出すところなど、軍書読みの栗原翁の父というこの人物、これ相応に裕福な者であったものと思われる。これを読んで思い出したのは、上野正彦「死体は語る」(一九八九年時事通信刊)にあった「耳の奥の頭蓋底の部分に、中耳や内耳をとり囲む錐体という骨があり、溺死の際にその骨の中に出血が生じていることがわかった。錐体内出血である。溺死の五~六割に見られる特有の所見」という記載である。但し、これは例えば鼻から水が入った場合に耳管の反応が間に合わず、耳管から中耳に水が入ってしまい、入った水によって中耳内圧力が急激に上がって壁が押しつぶされて内出血を起こし、その出血によって平衡を掌る三半規管が機能低下を生じて眩暈等を起こし、溺れてしまうという因果関係の中での出血である(但し、錐体内出血は必ずしも溺死体特有のものではない)。
・「天流川」天竜川で採って訳した。
・「是は追寫すよし。原本に不見みえず」以下、記載なし。岩波版長谷川氏注にも、『底本別記なし。集成本にもなし』とある。これは「耳嚢」の書写担当者の添書きであろう。根岸は後から書き写して貼付するつもりであったのをし忘れたもの、と解釈しておく。

■やぶちゃん現代語訳

 溺死の者を助くる奇薬の事

 栗原翁の父君ふくんがかつて旅行の途次、天竜川の川端にて、溺死者が出た由にて立ち騒いで御座ったゆえ、そこへ行ってみると、これ、大の男が既に息絶えた様子で横たわっておったによって、野次馬連中も三々五々、可哀そうになんどと囁やき合って御座った所へ、在の老人がやって参り、その辺りの畑に植えてあった葱を引き抜いて、それを以って鼻の中を突き、何かを調べたかと思うと、
「――これは助るであろう。」
と申し、何かの黒焼きを口へ突っ込んだところ、水を吐いて息を吹き返したゆえ、助かった。
 これを栗原殿、見て、その老人を自身がお泊りになっておられた旅宿へと招き、その薬の製法を乞うた。
 始めは断ったものの、身分賤しき者でござったゆえ、流石に金三両をその老人の前に並べたところが、伝授し呉れた、とのことで御座った。
「……この薬を用いる際には、葱を以って溺れて意識をうしのうておる者の、鼻の中へと差し入れ、それを引き出だいて、よくよく調べて見――その葱の先に血が付いて御座った時のみ――この薬を用いるのがよう御座る。もし血が出でておらねば、最早、これを用いても効果は御座らぬ。――土左衛門――で御座る。」 と、その老人は語ったとのことで御座った。
 この薬を現在の子の栗原氏も貯えておらるる由。
 そんなある日のこと、その今の栗原氏の屋敷門前を、大の男の水死せしとて、口なんども力なく大きに開けて、最早、絶命と見ゆるのを、二人して担ぎ、母親と思しい女、その後より泣きながら来たるを、栗原翁たまたま見たところが、その母らしい人に付き添って御座った者の中に、知り人の御座ったによって、
「如何致いた?」
と声をかけて尋ねたところが、
「……水泳の最中に……溺死致いて……」
との由なれば、早速に屋敷内へと呼び入れ、かの法にて療治致いたところ、ぐっと差し入れた葱の先には、確かにこれ、血の付いて御座ったゆえ、かの家伝の薬を与えて、帰した。
 しばらく致いた頃、
「息を吹き返しまして御座る!」
とのこと。次第に快方に向かっておるとの度々の知らせをも受け、翌日には厚き礼を携えて、一族郎党、栗原翁の元へ参じて、拝謝致いたとのことで御座った。
 その施法を私もせちに求めたところ、栗原翁の教えて呉れたは、左に記す通り。別に仔細の診断・施術・処方の記も御座る。〔書写担当者注:これは「追って引き写す」という意味であろう。しかしながら、筆写した「耳嚢」の原本には一切、見当らなかった。〕



 狸欺僕天命を失ふ事

 駿河臺に金森何某迚有とてあり。親類本所に住けるが、小身にて僕從も不多おほからず。壹人の下人召仕ふ下女と密通しけるを主人心付こころづきて、下男をば暮に本郷邊に使つかひつかはし、右留守に家風に不合あはずとて、下女に暇を申渡し宿へ引渡し遣しける。かの下男夜にいり歸らんとしける道にて、彼下女に行逢ゆきあふ故、今比爰いまごろここ迄來りしやとたづねければ、主人より暇いでて宿へ下りしが、御身にあはんと跡を慕ふて爰迄來りしと語りければ、それは是悲なき事也、然れ共、彼是かれこれ咄しあふ事も有之間これあるあひだ先我まづわが部屋迄内々立歸り候へ迚、ともなゐかへりしが、元より蚊屋もなければ蚊をゑぶして、越方行末こしかたゆくすへをかたらひ□りて、五つ半時ころにもなりし、蚊遣の火もえたちて部屋内にてらしけるに、彼女のおもてあらぬ化物なれば大きに驚きしが、氣丈なる者にてやがて組付て押ふせ、聲をかぎりに人をよびければ、無人なれどもある限りの男女主人迄も火をともしかけ集り、烑灯ちやうちんにて是を見れば古狸にてありし故、打殺しけると也。文化丑の年夏也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。狐狸譚。言わずもがな乍ら、どうも狸は抜けていて分が悪く、何とも憎めずに何がなし哀れな気がしてくる話が多い。五十年も昔、私の幼少の頃は、この鎌倉の植木でも、傍の切通しで狸がよく轢かれて死んでいたものだった。何より、私には、緑ヶ丘高校在勤中のバスケットボール部の夏合宿の夜、巡回中、校内をうろつく狸(アナグマの可能性の方が大きいが)を逆に驚かした実体験もあるのである。以下、私の怪談奇談集成録「淵藪志異」より引用しておこう。
   *
 一九九九年七月我籠球部合宿にて學校に泊せり。夜十一時頃本館見囘れり。夜間も本館一階電氣は點燈せしままなるが定法也。體育館を出でて會議室横入口より本館へ入りし所間隔短きひたひたと言ふ足音のせり。左手方見るに正に校長室前を正面玄關方へ茶褐色せる不思議なる塊の左右に搖れつつ動けるを見る。黑々したる太き尾あり。目凝らしたるもそは犬でも無し猫でも無し。狸也。若しくはアナグマやも知れず。素人そが區別は難かりけりとか聞く。彼我に氣づかざれば思はず狸臆病なるを思ひ出だし「わつ!」と背後より叱咤せり。狸物の美事に右手にコテンと引つ繰り返らんか物凄き仕儀にて玄關前化學室が方へ遠く逃れ去れり。我聊か愛しくなるも面白くもあり。つとめて廊下にて出勤せる校長と擦れ違へり。我思はず振り返りて校長が尻に尻尾無きか見し事言ふまでも無し。そが狸の棲み家と思しき所テニスコウト向かひが土手ならんや。されど此處五六年宅地化進めり。我に脅されし哀れ狸とそが一族も死に絶えたらんか。これこそ誠あはれなれ。
   *
なお、擬古文が苦手な御方は、同話の口語原話『文化祭「藪之屋敷」に捧げる横浜×××高校の怪談』の「3」をどうぞ――。
・「狸欺僕天命を失ふ事」は「たぬき、僕をあざむき天命を失ふ事」と読む。
・「金森某」不詳。「耳嚢 巻之二 猥に人命を斷し業報の事」に金森姓は出る。
・「是悲なき」ママ。是非なき。
・「かたらひ□りて」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『かたらひ契りて』。これで採る。
・「五つ半時」不定時法の夏の夜の五ツ半は午後九時頃。
・「文化丑の年」文化二(一八〇五)年乙丑きのとうし。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから一年前のホットな都市伝説。この頃は狸も江戸のど真ん中で頗る、意気軒昂ではあったわけだ。

■やぶちゃん現代語訳

 狸の下僕を欺くも天命をうしのうた事

 駿河台に住まう金森ぼうと申す私の知人がおる。
 その親類が、本所に住んで御座った。
 かの者、小身しょうしんの身なれば、家来下人なども多くは御座らなんだ。
 その主人、ある時、一人の下男が屋敷内の下女と密通致いておることに気づいたによって、その日も暮方になってから、その下男を本郷辺りまで使いに出だいて、その留守に、かの相手となった下女を呼び、
「……密通の儀――これ、露見致いた。不届き――これ、家風に合わはざる。――」
と諭して暇まを申し渡し、請け人をも呼び、実家へと引き渡し下げた。
 さて、かの下男、夜も遅うなった、その帰るさの道にて、かの下女の向こうより来たるに出うたによって、
「……何でこんな夜遅うに……また、こんなところまで、来たんじゃ?」
と訊ねた。
 と、下女は、
「……我らがこと……ご主人さまに知られ……先程、お暇まを出されて……実家へと戻ったものの……あんさんに逢いとうて……後を追ってここまで……来ました……」
と申す。
「……そ、それは……何とも……致し方なきことじゃが……そうか……されど、これより我ら二人、どうするか……わしにも考えのあるによって……いろいろと相談致すことも、これ、ある!……泣くな!……悪いようにはせん!……ともかくも……屋敷の、儂の部屋まで、一緒に、こっそりと帰ると致そうぞ!」
と宥めて連れ帰った。
 もとより、小身者の貧乏屋敷の長屋なれば、蚊帳もなく、うるさく襲い来たる蚊を仰山な蚊遣りでいぶしつつ、二人の越し方行く末、しんみりと話し合って御座ったと申す。
 かくするうち、五つ半時頃にもなった頃、積み置いた蚊遣りが、火種のうちに
――ゴソッ
と崩れて、
――パチパチ
と急に燃え上がったかと思うと、赫奕かくやくと部屋うちを照らし出した。
 意気消沈して項垂れたまま膝を見つめておった下男が、この時、ふと、顔を上げて女の顏を見た――
――と!
――その顔
――これ、かの女の顔ではない!
――いや、かの女どころか――女の顔――人の顔――でさえ
――ない!
――ごわごわと!
――けえの生えた!
――化け物のそれであった!!
 男は大きに驚いたが、腕っぷしも相応の、主人自慢の気丈な者でも御座ったゆえ、即座にその化け物に組みついて押し倒し、ぐっと捻じ伏せて、声を限りに人を呼ばわった。
 小人数こにんずなれども、ある限りの屋敷内の男女、果ては主人までもが、火を点して駈け集った。
 それらの提灯の灯の照らし出したそれを見れば――
――これ
――大きなる古狸
で御座った。
 されば、その場にて即座に打ち殺したと申す。
 丁度一年前の、文化二年の夏のこと、で御座る。



 放屁にて鬪諍に及びし事

 是も同比おなじころの事、或町家に獨住ひとりずみの者ありしが、其隣に夫婦幷七八歳の娘壹人都合三人ぐらしの者ありしが、かの妻、夫は留守にて大き成る放屁はうひをなしける。隣の獨り住の男ききて、女にて人もなげ成る放屁也迚、あざけそしりけるを、彼女房聞て以の外憤り、彼獨り住なる者の方え至り、我宿にて屁をひるを何の嘲り笑ふ事や、いらざる世話なりと罵りしより事起り、互に聲高こわだかに爭ふを、相店あひだなの者立集たちあつま引分ひきわけしづまりしが、彼女房は洗湯せんたうに至りし留守へ夫歸りけるに、七八歳の娘留守におかしき事にてさわがしかりしとまうしければ、如何成いかなるたづねしに、隣のおぢさんとかゝさんものいゝありし由、然れ共、おん身にはかならず沙汰致す間敷まじきとかたくいわれたりと譯いわざれば、扨は隣の男と女房姦通なしけると心中に憤り、湯より女房歸りても物いわず、彼是まうし爭ひ出刄庖丁を以て妻の頭へ疵つけ、あたり隣家よりかけ來りて引わけ、彼獨り男も來りて取おさへけるに、是も疵付、公邊こうへんに成りなんとしけるが、段々の譯よくよくきかありの儘ゆへ異見する者ありて、内々にてすましけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:冒頭の「是も同比の事」で、前話と同時期、文化二(一八〇五)年の夏の出来事で連関。落語みたような話であるが、二人も出刃包丁によって傷害を受けており、あり得た印象の強い事実譚らしき噂話ではある。
・「相店」相借家あいじゃくや。同じ棟の中にともに借家すること。また、その住人。
・「おかしき事」近世もこの頃になると、「おかし」(正しくは「をかし」)には現代語のような、変だ、怪しい、怪しむべきことだ、というニュアンスを含意するようになり、また、本来の古語の意味でも、子どもには真の意味が分からないながら、普通と変わって何だか面白そうで興味がそそられた、という意味合いも読み取れる言葉であろう。
・「さわがしかりし」「さわがし」という形容詞には単に騒々しい、やかましい、の意以外に、混乱してごたごたが生じる、不穏だ、不安だ、などの意味がある。父親はその、何か問題のあるダークな人間関係の混乱や不穏のニュアンスを「さわがし」という言葉に感じてしまったものともとれる。

■やぶちゃん現代語訳

 放屁が原因で乱闘に及んだ事

 これも同じく文化二年の夏頃のことで御座る。
 とある町家に独り住まいの者があったが、その隣りには、夫婦めおとと七、八歳になる娘が一人、都合三人暮らしの家族が住んで御座った。
 その妻が、ある日のこと、夫の留守に、
――ブブブゥーーーッツ! ブッ!!
と、これまた大きなを放ったと思し召されい。
 折しも在宅であった隣りの独り住みの男、これを安長屋の薄き壁越しに聞きつけ、 「女のくせに、何とも、これ――人のものとも思えぬ――ぶっ魂消たまげた――すげえ、屁じゃが! 屁! どぅじゃ! へへへヘッツ! どうじゃ! てへろ!」
と、これもまた壁越しに、さんざんに嘲り誹って大笑い致いた。
 かの女房、それを耳にするや、以ての外に憤り、その独り住みの男の方へと尻をはしょって走り込むと、
「我がで屁をひるを、何の、嘲り笑うかッツ! いらぬ世話じゃッツ!」
とこれまた、金切り声を挙げて罵ったから、たまらぬ。
 売り言葉に買い言葉、二人、声高こわだかなる言い争いと相い成って、隣近所の相店あいだなの者どもも、すわ、何事かと、皆々たちつどう。
 ともかくも摑みかからんばかりの二人を引き離して鎮め、何とか、そこはことなきを得て御座ったと申す。
 さて、その暮方ちこうになって、かの女房は銭湯へと参り、その留守に夫はおたなへ帰って御座った。
 すると、七、八歳になる娘が、
「……父ちゃん、留守に……そのぅ……変なことがあって……何だか……さわがしいことに……なったん……」
と如何にも、言いたいのか、言いたくないのか、妙なしなを作って言うたによって、 「あん? どんなことじゃ?」
と訊いたところが、
「……そのぅ……隣りの、ね……おじさんと、ね……かかさんが、ね……なんだか、ね……よう分からんけど、なんか……けんかみたいに、二人でうなり声を挙げてたの……だけど……このこと、ゼッタイ、父ちゃんには言っちゃダメだ! って……かかさんが、言うてたから…………」
と、それ以上、口籠ったまま黙ってしもうた。
 それを聞いた夫は、
『さては……隣りの男と……あの売女ばいため! 皮つるみしておったかッ?……』
と心中憤り、銭湯より女房が帰ってからも、一言も口を利かず、あれこれ、妄想と憤怒が先走った、訳の分からぬことを言っては女房に嚙みつき、果ては大喧嘩と相い成った。
 夫は思わず、水屋に飛び下りて握りしめた出刃包丁でもって、妻の頭を、
――シャッツ!
と傷つけた!
 女房は頭から血を吹き出し、
「ぎえぇぇぇっっっつッ!!!」
と叫ぶや、半狂乱となった!
 その騒ぎに向こう三軒両隣り、長屋連中、皆、駆け込んで参り、なんぞ浄瑠璃みたような修羅場を、皆して何とか、引き分けて御座った。
 と、そこへ、かの隣の独り者の男も来合せ、血みどろの顔に泡を吹き、手足をばたつかせて門口に倒れ込んで御座った女房を静めんと、肩を抱だくように押さえて御座った。
 それを部屋内から、血走った眼ですかさず垣間見た夫は、押さえつけて御座った男衆を跳ね除けるや、脱兎の如く路地へと飛び出いで、またしても出刃振り上げ、
――シャシャッツ!
と、かの男にも切りつけたから、もう、たまらぬ!!
「ぐえぇぇぇっっっつッ!!!」
……一瞬にして平和な長屋は
……ザンバラ
……血飛沫ちしぶき
……阿鼻叫喚
……まさに地獄絵と化して御座ったと申す。
 さても、当然、刃傷なればこそ、表沙汰にもなるが必定、で御座った。
……ところが……これ……不幸中の幸いと申すものか、妻も、隣りの男も、傷は思ったほどにはふこうもなく、じきに血も収まって、また、わけも分からず修羅場を目の前にして青うなって昏倒致いて御座った子どもも、正気付かせ、それぞれ四人の者に、これ、段々に、それぞれの言い分をよくよく聞いてみたところが……まあ、以上に述べた――まんず、繰り返すまでもなき、アホらしき顛末で御座ったことが明白となったればこそ――鯱鉾しゃっちょこばった、訴え出るが筋、と申す輩に対し、
「……それは如何にもアホらしいゼ。……おめえさんら、だいたい、お白洲に出て、この一件の証人に立つざまを想像して御覧な?! ええっ?……あっしらの長屋から――屁の争いで刃傷と相い成った呆け野郎を出す――そんな恥を、これ、晒すんが正道かっ、てえんでぇッ!?!……」
と、異見する者が御座ったによって、これ、内々に済まして、結局、表沙汰にはならずに済んだとか、申すことで御座った。



 銕物の疵妙藥の事

 針釘の類ふみたて怪我なしたる妙藥夫々ある事を、同寮にて咄しあひしに、右の藥はかまきりをおし潰しつくれば、殘れる銕氣かなけ呼出よびいだし奇々妙々こころよきよし。かま切を干置ほしおきて貯へ、付てよし。又は黑燒にいたし置、つくべしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。所謂、破傷風などを重篤な症状を視野に入れたものであろうが、カマキリでは……。なお、本話は短いながら、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版とちょっと叙述が異なる。以下に全文を正字化、読みを歴史的仮名遣に代えてして示しておく。「なまなれば猶奇功有よし」などは文脈上はこちらよりしっくりくるのである。

     銕物かなものきず妙藥の事

 針または釘をふみたて怪我なしたる妙藥、まゝある事を、同寮どうりやうにて咄合はなしあひし。右の藥はかまきりを押潰おしつぶしつくれば、殘れる銕氣かなけを吸出し奇妙にこころよきよし。かまきりを干置ほしおき貯へ、つけてよし。なまなればなほ奇功あるよし。或る人の語りぬ。

・「銕物」は「かなもの」と読む。金物。
・「同寮」底本では右に『(同僚)』と傍注する。

■やぶちゃん現代語訳

 金物かなものの傷の妙薬の事

 針・釘の類を踏み抜いて怪我を致いた場合の妙薬は、これ、さまざまにあるということを、同僚らと話し合って御座った折り、その際の藥としては、生きた蟷螂かまきりを押し潰して傷口に塗付すれば、創内きずうちに残った金気かなっけを自然に吸い出して外へ出だし、奇妙絶妙に快癒する由。蟷螂を干し置いて貯えたものを、塗ってもよく、また、蟷螂を黒焼きにして貯えおいたものをつけてもよいとのことであった。



 商家義氣幷憤勤の事

 近き比の事也とや。伊勢より一所に江戸え出しとや、又同じ親[やぶちゃん注:ここまで錯文。注を参照されたい。]もとより放蕩者にて親しき智音もなく、傍輩の看病にて部屋内にてありしが、かれが女房にて夫の無賴故に、本所邊の四六鄽しろくみせいへる隱賣女かくしばいたうり勤居つとめゐけるが、かの女房來り病躰を見てしばらく藥を與へ、傍輩へも厚く禮をのべて歸りしが、又來りて介抱などなしけるに、其病ひよからざりしかば請人うけにんの方へ下げければ、猶右の女請人方へ來り介抱をなしけるが、何卒右の方へ引取たきよしをこひければ、當時つとめの身にていかゞして引取ひきとるべきやと請人もいなみ止めしに、親方へも願ひて裏店うらだなをかりおきたり迚念比とてねんごろたづねければ、しからばとて駕にて乘せて右裏借家うらじやくやへ引移り、厚く看病なしけるがつひにはかなくなりぬれば、かの死骸は請人方へ取置とりおき候由なれども、投込なげこみとかいへる取捨とりすて同樣の事ときき、兼てかの女の元へ深く馴染來る回向院の塔頭の坊主ありしが、彼女の去難さりがたきある者といひて布施抔ほどこし、彼坊主をたのみ弔ひ囘向して葬りける。右彼、右女きはまる年を切增きりまして、右金子をもつて諸事をとりまかなひける由。女房をうかれうりける程の男を、死後迄かくなしける事、いやしき女には誠に貞烈たとへん方なしと山本幷我元ならびにわがもとへ來る者玄榮といへる醫師かたる

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「近き比の事也とや。伊勢より一所に江戸え出しとや、又同じ親」底本には、『(「同じ親」マデハ後出ノ「商家義氣の事」ノ冐頭部分ヲ誤リ寫シタモノカ)』とある。「商家義氣の事」は四つ後に出、確かに冒頭は「近き比の事也とや、伊勢より一所に江戸表に出しとや、また同じ親方に仕へ……」と酷似する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここにはその後の「商家義氣幷憤勤之事」が掲げられており、その直後に、
 鄙婦貞烈の事
という条が入っており、その内容はまさにこの冒頭部を除いて、鈴木氏が錯文とした直後の、「素より放蕩者にて親しき智音も無……」以下と内容がほぼ一致する。その「鄙婦貞烈の事」の冒頭は以下の通り(恣意的に正字化し、読みも歴史的仮名遣とした)。
   *
 文化二年の秋成りいしが、山本豫州の大部屋中間おほべやちゆうげん、部屋がしらにて重くわづらひけるが、元より放蕩者にて[やぶちゃん注:以下略。]
   *
これが元の正しい文章であったと推測出来るので、題名と冒頭の部分のこちらの「素より」(バークレー校版の「元より」)までは、このバークレー校版によって現代語訳した。
・「文化二年秋」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、ホットな世話物である。
・「山本豫州」(バークレー校版の内容)岩波版長谷川氏注に『伊予守茂孫もちざね。文化二年当時田安家家老』とある。
・「四六鄽」四六店・四六見世とも書く。これは夜は「四」百文で昼は「六」百文で遊ばせた謂いで、天明(一七八一年~一七八九年)頃から江戸の吉原や諸所の岡場所(吉原に対しての「おか」、「わきの場所」の意で、江戸で官許の吉原に対して非公認の深川・品川・新宿などにあった遊里のこと)にあった下等な娼家のことをいう。四六。
・「隱賣女」前注に示した通り、私娼のこと。
・「右彼」底本には右に『(右故カ)』とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にはない。直下の「右女」の衍字ともとれる。
・「極る年を切增して」岩波の長谷川氏注に、『きめていた年季を延長する契約をして。』とある。
・「玄榮」不詳。

■やぶちゃん現代語訳

 田舎の卑賤なる女のすこぶる貞女たりし事

 文化二年の秋のことで御座る。
 山本伊予守茂孫もちざね殿の大部屋中間おおべやちゅうげんで、部屋頭へやがしらを勤めておった者が重う患って御座ったが、もとより、放蕩者にして親しい知音もこれ御座なく、傍輩の看病を受けながら、部屋内に養生致いて御座ったと申す。  さても、この男の女房は、夫の無頼ゆえに、本所辺りの四六見世しろくみせとか申すところへ、夫がために隠売女かくしばいたとして売られ、勤めて御座ったと申す。
 ところが、夫が重う患っておると聴きつけたかの女房、伊予守殿の御屋敷中間部屋を訪ね参り、その病勢の重きを見るや、暫くの間、手ずから薬なんどを買い調えて与えたり、かの男の看病をして呉るる傍輩へも、厚く礼を述べては帰ったと申す。
 暫く致いてまた来たっては、介抱などなして御座ったが、かの男の病い、これ、如何にも重篤にてあれば、伊予守殿も最早これまでと、男の請け人の方へと通じ、屋敷よりお下げになられたところが、なおも、かの女は請け人の方へも参って、けなげに介抱致いて御座ったと申す。
 そのうち、その請け人に、
「……何とぞ、わらわが方へ引き取りとう存じます。」
と乞うたによって、
「……引き取ると申すが……今の、その、そなたの勤めの身にては……これ、如何にして引き取ると……申すのじゃ?」
と、流石に請け人も、
「……とてものことじゃて……おやめなされ。」
と諭しとどめて御座ったと申す。
 ところが、
「……妾が店の親方へも訳を話しまして、裏店うらだなを借り置きて御座いますれば。」とて、せちに懇請して御座ったゆえ、
「……まあ、そこまで、言うのなら、の……」
とて、駕籠にて乗せて、請け人の家より裏借家うらじゃくやへと引き移したと申す。
 それからというもの、あさましき身売りの稼業の傍ら、暇まをやり繰り致いては、男の元へと足繁く通って、手厚う看病致いて御座ったと申す。
 されど、その看病の甲斐ものう、男は遂に、儚くなって御座ったと申す。
 さても、かの男の遺体は、請け人方へと引き取るとの話しにて御座ったによって、女もそれに従ったと申す。
 ところが、その後、かの女、その男の遺体が、投げ込みとか申す、所謂、取り捨て同然に扱われたという申すを耳に致いた。
 されば女は、かねてより自分の元へとふこう馴染んで通うておった、回向院の塔頭の坊主の御座ったによって、
「……妾の去り難き縁ある者なれば……どうか……どうぞ……」
と涙ながらに相応の布施なんどまで施し渡いて、その坊主になんとか頼み込み、弔い、回向致いて、葬って御座ったと申す。
 そうした次第なればこそ、かの女、決められて御座った年季は、これ、もうとっくに済んで御座ったにも拘わらず、それを自ら延ばし、それで得た金子を以って、男の葬儀と滅後の供養諸事全般を取り賄って御座ったと、申す。

 「……さても……己れを浮かれに売りはろうたほどの男を……死んで後までも、かくなして御座ったこと……これ、賤しき女にしては……いや、まっこと、またとなき貞女の鏡……いやいや……言葉にては、これ、譬えようも御座ない……」
と、山本殿も仰せられ、また、そのことをたまたまよう知って御座った、私のもとへしばしば来たるところの、玄栄と申す医師も、かく語って御座った。



 蕎麥は冷物といふ事

 蕎麥は冷病れいびやうといへる事は、ある醫師にたづねけるに、其風味冷成ひえなる共□□物なれども、醫師の知れる富民、屋敷も廣く畑物抔作りしに、其隣成る民夥しく鷄を飼置かひおきて、玉子をとりて是を商ひけるに、かの隣家も是又不貧まづしからざるものにて屋敷も廣ければ、夥敷おびただしき鷄故右屋しき内の者草蟲くさむしたぐひは悉くくひ盡し、隣家の鼻物をあらしける故愁ひことわりをなせ共、手廣の屋敷なればかこひ等ふせぐべき手便てだてもなく、承知とはいへ共すべきやふなかりしに、或人かの家のあらされたる者さかひの鼻へ蕎麥をまき給ふべし、蕎麥をくふ鷄は玉子をうまずとをしへにまかせ、境鼻へ蕎麥を蒔しに、其後隣の鷄玉子をうむ事なし。不思議なる事とて知れる人に咄しければ、彼そば鼻を見て、右のとほり蕎麥を喰ひたる鷄は玉子を生うまぬなりといゝしが、せん方なくすぎし由。冷物ひえもの故鷄も玉子を生ざる事、其證なるべしと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:話者が医師で、前話の話者の一人も医師であるから、軽く連関する。
・「蕎麥は冷物」「冷物」は「ひえもの」。よく蕎麦は体を冷やす、とは言うが、ここでの謂いは「冷病」(冷え症の類か)ともあって穏やかでない。底本の鈴木氏の注には、もっと過激なことが記されているので、例外的に全文を引く。『蕎麦を食べると死ぬとか、タニシを肥料にした蕎麦は大毒とかいう巷説が流布して、奉行所から取締りの触れが出たのは文化十年のこと(我衣)であるから、本巻の執筆より後である。十年のときは、「手打ちぞと聞いたらそばへ立寄るな命二つの盛り替へはなし」という落首まで出たり、七月中村座上演の芝居には、わざわざ夜鷹蕎麦屋に、そんな噂がございますが、みんな嘘でござりますといわせる場面も入れている程である。漢方の医書にも蕎麦の毒についてはっきり記したものはなく、『延寿類要』には「旡毒、実腸胃益力」とある。』「我衣」は医師で俳諧宗匠でもあった加藤曳尾庵(かとうえびあん 宝暦一三(一七六三)年~?)の随筆。「延寿類要」は室町から戦国期にかけての朝廷侍医竹田定盛たけだじょうせい(応永二八(一四二一)年~永正五(一五〇八)年)の著作(彼は八代将軍足利義政の病いを治癒して法印となっている)。なお、ネット上の記載では、薬膳の観点から見ると蕎麦は陽性であり、逆に体を温める働きがあるとするが、「web R25」の『「体を冷やす」といわれる食べ物はホントに冷える!?』には、蕎麦に含まれている蛋白質消化阻害因子が蛋白質の消化を阻害し、消化によって生ずる熱が減って体温が上がらない可能性がある、という科学的仮説が示されていて面白い。
・「其風味冷成る共□□物なれども」底本には「□□」の右に『(難極カ)』と傍注する。これだと、「その風味冷えなるとも極め難き物なれども」となる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『その風味冷来るとも難思おもいがたき物ながら』とある。
・「鼻物」底本には右に『(花カ、端カ)』と傍注するが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『畠物』とあって、この誤記であることが分かる。バークレー校版で訳した。
・「境の鼻へ」底本には「鼻」の右にママ注記がある。ここも以下の「境鼻」「そば鼻」も総て「畠」で採る。

■やぶちゃん現代語訳

 蕎麦は体を冷すものであるという事

 巷で、蕎麦は冷病れいびょうの元と申すことにつき、ある医師に訊ねたところ、
「……蕎麦の性質たちが体を冷やすものであるかどうかは、これ、極め難きことなれども……そうさ、こんな話が御座った。……
……拙者の知れる小金持ちの農家に、屋敷も広く、畑物なんどを耕しておる者がお御座いまするが、その隣りなる農家も、これ夥しきにわとりを飼いおいて、その玉子を取ってはこれを商い致いておる者で御座った。
 この隣りの養鶏致す者も、これまた、相応の小金持ちにて、やはり屋敷も広う御座ったが、まあ、う御座ったは、実に仰山な数の鶏で御座ったゆえ、その者の屋敷内の、これ、ありとある、草やら虫やらの類いは、そのうちにこれ、悉く喰い尽くしてしもうて、遂には隣家の畑の物をも荒し始めて御座った。
 されば我らが知れる当主も甚だ困って、その主人に苦情を述べてはみたものの、言われた隣家の側も、こまい鶏と、手広き屋敷内のことなれば、囲いなんどを漏れなくなして防ぐといった手立ても十分には出来申さず、隣家の迷惑は無論、承知のこととは申せども、鶏の畑地荒らしを断つべき妙案も、これなく、時々、気がつては、隣地に入った鶏を呼び戻すほどのことしか出來なんだと申す。
 するとある日のこと、畑地を荒されて御座った農家の知人の者が、この話しを聴いて、
「――それはまんず、隣家との境いの畑へ蕎麦をお蒔きなさるがよろしい。――蕎麦を喰うた鶏は、これもう、玉子を産まずなるによって、の。――」
と教えくれたによって、その通りに境いの畑へ蕎麦を蒔いてみたと申す。
 暫く致いて、蕎麦の実の生ったれば、隣家の鶏は挙ってこの蕎麦の実を突っつき喰ろう。
 盛んに喰うてはそこで満腹して、鶏ども、もう知人の地所内の畑地へは、それより入り込むことも少のうなったと申す。
 ところが、それからほどのう、隣りの鶏、一切、これ、玉子を産むことが、のうなったと申す。
 卵商い致す主人は驚天動地、不思議なことじゃと、困り果てて、たまたま知れる者の訪ね来たった折りに、隣家とのごたごたなんども含めて相談致いたところ、その者、隣家との境に御座った蕎麦畑を見たとたん、
「……あのように蕎麦が植えられては、のぅ。……蕎麦を喰うた鶏の、玉子を産まずなるは、これ、必定じゃて。……」
と申したそうな。
 養鶏の主人、これを聞いても、鶏が勝手によそさまの蕎麦を食うたる所業の末のことなればこそ、文句の言いようも、これ御座なく、そのままにうち過ぎ、結局、養鶏はやめたとか聞き及んで御座いまする。……
……さすればこそやはり――蕎麦は冷え物ゆえ、鶏も玉子を産まずなった――という、まあ、その証しとも言えば、これ、言えましょうかのぅ。……」
と語って御座ったよ。



 鳥の餌に虫を作る事

 もみを壹貮合たきて地上へおき、其上へぬれごも懸置かけおけ不殘のこらず虫に成る。冷粥ひえがゆを右の通りなせば、はさみ虫といへる物になる由。穀氣の變ずるや、又集あつまるや、相違なき事のよし、人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:何となく繋がっては読める。トンデモ化生説を信じていた(少なくとも否定していない)根岸がちょっとだけ意外。
・「冷粥」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「ひえがゆ」と平仮名表記で、長谷川氏は注して、『稗の粥』とされる。この方が自然。たかが鳥の餌である。米の粥では勿体ないし、稗は救荒作物として栽培され、実を食用やそのままでも鳥の飼料などに現在もするから、ここは敢えて長谷川氏の注を採って訳した。
・「はさみ虫」知られた昆虫綱ハサミムシ目
Dermaptera の類、またはクギヌキハサミムシ亜目ハサミムシ科ハサミムシ Anisolabis maritime

■やぶちゃん現代語訳

 鳥の餌に虫を作る事

 稲籾を一、二合炊いて、地面の上に置き、その上へ濡らしたこもを懸けておけば、稲籾は残らず鳥の餌になる虫と変ずる。稗を炊いた粥を同じようにすると、鋏虫はさみむしと申す、やはり鳥の好んで啄む虫と変ずる由。
 穀物の気が化生して別種のものに変じ、またその気の集合致いて生き物と化す、これ、全く以って事実に相違なきことなる由、さる人の語って御座った。



 其素性自然に玉光ある事

 此咄はじめにも有りといへど、大同小異あれば又記しぬ。明和のころとかや、芝口貮町目に、伊勢屋久兵衞といへる者下人勘七、常に實躰じつていに主人の心にかなひ、商ひの事も精々心にいれ、久兵衞も貮人となく召仕ひしが、一つの癖は病をふのみ也。或日、出入屋敷え商ひ物の代料をとりに遣し、右屋しきにて金七拾兩斗り請取うけとり財布に入、懷中なせしが、かの屋しきにて祝儀事ありて、家來抔勘七に酒をすゝめけるが、素よりすける酒なればいさゝか酩酊して、能きげんにていとまをつげ、途中もこころよく小唄うたひて歸り、途中芝切通し邊にもあらん、夜發やほつ出て勘七が袖をひかへしが、常ならばふりきるべきに酩酊の儘其もとめだくして、雲雨の交りをなして立出で宿所へ至りしに、彼財布いづ方へか落せしやらん、行衞なければ大きに驚き立歸りて見しに、最早初の夜發も見せ仕舞て壹人もなし。いかにせんと十方に暮しが立歸り、請取うけとりし金子を落し申譯なし、いづれ立歸らんとくふ事もなさず立出るを、主人久兵衞も、彼が平日の實躰中々私なきを知りぬれば、もしや命をも失わんと早々止めけれど、曾て承引せず立出で日夜心を付てもとめしが、翌日又彼夜發の小屋ありし故たちよりしが、すぎし夜の夜發彼所に立て此男を見付みつけ、御身はきのふ來り給ひし人にあらずやと尋ける故、其人也とこたへしに、おん身落し給いし物なきやと尋ける故、右故に昨日より喰事もせで搜す由を答へければ、其品は何々と其袋幷員數いんじゆ等委しくききて、嬉しくも尋來たづねきたり給ふものかなとあたりの人の心付つかざる土中へ埋置うめおきしをほり、右財布とも金子を渡しける故、誠に命の親なり、おん身はいづれより出るやと尋ければ、鮫ヶ橋にて九兵衞かかへなりといへる故、又こそたづねんと暇をこひて早々宅へ戻り、主人へ右の金子差出し、かくの事に候よしありていに語りければ、久兵衞はなはだ感じ、貞婦に賤しきつとめさせんは便びんなしと、金子貮拾兩を懷中して、彼抱主九兵衞方え至り見しに、同人抱の夜發兩人ありて、何用なるやと尋ける故、勘七事を語りて、何れの婦人やと尋しに、右は是成これなるよしこたへければ、何卒殘る年季を請出うけいだたきと、右金貮拾兩與へければ、九兵衞答けるは、右女はわけありて賤しき勤すべき者にもあらざれ共、可育そだてべきかたなくかくなしぬるなり、給金六兩あれば暇を出し宜敷よろしき也、かく大金は入らず由答ふ。せちに餘金をすゝめけれど、九兵衞も承引せず。女子も賤しからざる生れ故、久兵衞もよろこびぢきにともなゐ歸りて、さて勘七が年季の貞實をも感じ、最寄にたなをもたせ、彼夜發を妻となし、商ひ元手等を遣し、今は榮へ暮しけると也。彼夜發は麻布邊荒井何某といへる人の娘にて、親沒後兄弟の身持宜敷よろしからず、あしき立入たちいりのものありて、九兵衞方へうり渡しけると也。流石に素性ある女なれば、かゝる事もありなん。親方の九兵衞もいかなる者の果成はてなるや、義正ぎせい感ずるにたえたりと語りける。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。根岸自身が冒頭で述べている通り、巻二の「賤妓發明加護ある事」と同話であるが、他にも同巻の「正直に加護ある事 附豪家其氣性の事」等、類話の枚挙には暇がない。当時の江戸庶民が如何にこうした人情話を好んだかがよく分かる。底本注で鈴木氏も、『人情咄として、主人公の親方のきっぷのよさ、ヒロインの泥中の蓮的なけなげさが強調される方向へ発展するのは当然である』と評しておられる。類話を見ずに、一から全く新たに現代語訳した。
・「病をふのみ也」底本には「病をふ」の右に『(病まふ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『酒を好むのみなり』とあり、私はこれを、
 酒を好むてふ病ひ負ふのみなり
の謂いで採りたい。
・「明和」西暦一七六四年から一七七二年。
・「芝口貮丁目」旧芝口二丁目は現在の新橋二丁目に含まれ、現在のJR新橋駅の西直近。
・「芝切通し」底本鈴木氏注に、『切通し坂。長さ七十六間余、幅は坂口約四間一尺、中程で約十四間。青竜寺の南。港区芝西久保広町』とするが、岩波版長谷川注では、『増上寺西北裏に当る。港区虎の門三丁目内』とある。しかしGoogle マップの「東京・港区の坂 (坂プロフィール)」では、切通坂として港区芝公園三丁目を挙げている。
・「鮫ケ橋」底本の鈴木氏注に、『鮫河橋谷町。麹町十三丁目の南。岡場所があったが、最も低級で、風儀も悪く情緒などない土地とされ、値段にも定りがなかった。新宿若葉二・三丁目』とあり、岩波版長谷川氏注には、『赤坂離宮の北、新宿区若葉二丁目辺。夜鷹の巣窟であった』とある。現在のJR市ヶ谷駅の東直近。ここは現在からは想像出来ないが、近代まで貧民(スラム街)であったらしい。月刊『記録』の「実在した貧民窟・四ッ谷鮫河橋を歩く」に詳しい。
・「義正」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『義心』。「心」の誤字と見る。

■やぶちゃん現代語訳

 本来の素性が自然に玉のような誠実なる光を発するという事

 これによく似た話は、既に初めの巻の二にも掲げて御座るが、主だった部分はすこぶる似て御座れど、細部に違いもあれば、再度、記しおくことと致いた。
 明和の頃とか申す。
 芝口二丁目に、伊勢屋久兵衛きゅうべえと申す者が店を構えて御座った。
 その下人の勘七と申す者、常より実体じっていに仕え、主人の心にもかのうて、商いのほうも精心を込めてなし、久兵衛も、またなき下男として召しつこうて御座ったと申す。
 ただ、この勘七、一つだけ悪い癖があって、業病とも申すほどの、無類の酒好きで御座った。
 ある日のこと、久兵衛、この勘七に出入りの屋敷へ商い致いた品の代金を取りに遣した。  かの屋敷にて金七十両ばかりを受け取って財布に入れ、しっかと懐中致いて御座ったが、たまたま、かの屋敷内にて祝儀事の御座ったによって、御家中の家来なんどが面白がって勘七に酒を勧め、もとより三度の飯より好ける酒なればこそ、仰山に呑みに呑み、流石の勘七もいささか酩酊のていとなり、いい加減に切り上げて暇まをつげ、帰るさも快う、小唄なんどを一節歌いつつ千鳥足にておたなへと向かって御座ったと申す。
 さて、その途中――芝切通しの辺りにても御座ったか――夜発やほつが一人、寄って参り、勘七の袖を引いた。
 勤めの途中にて、しかも七十両もの大金を所持致いておればこそ、常ならば振り切るところが、余りに酩酊の心地よさに、ついその誘いに乗って、手短に雲雨の交りをなし、遅くなるまえに立ち出でて、主人が方へと帰ったと申す。
 ところがかの財布、何処かへ落してしもうたらしく、これ、どこにも――ない。
 大きに驚き、急いでさっきの夜発と皮つるみ致いた辺りへ立ち戻ってはみたものの、最早、かの夜発も店仕舞い、人気も、これ、全く御座らなんだ。
「……こ、これは……さても……どうした……ものか……」
と途方に暮るるままに、とりあえずとって返し、
「……ご主人さま!……受け取りました金子を……これ、お、落しまして御座いまする!……申し訳御座いませぬ!……何としても捜し出だし、また必ずや、戻りまするッ!」
と、夕飯ゆうめしの茶碗をとることもせで、また出掛けようと致いたによって、主人久兵衛も、かの男の普段からの実体なる働き、それ、なかなか、わたくしなきことを存じて御座ったによって、
『……もしや……金子を捜し得ずんば、これ……命を断つやも知れん!』
と思い、そうそうに押し留めんと致いたが、
「――いえ!――こればかりはッ!――」
と、いっかな承知せず、皆の制止するも振り切って、飛び出だし、一晩中ここかしこ、捜し求めて御座ったと申す。
 しかし……どこにも……これ、ない。
 さて、翌日の夕刻まで、かくなして御座ったが、また昨日の夜発のたむろする掘っ立て小屋に、灯の点っておるを見出したによって、再びたち寄ってみた。
 すると、昨夜、勘七の相手を致いた夜発が中におって、女のかたより勘七を認めたかと思うと、
「――御身おんみは昨日いらっしゃったお人では御座いませぬか?」 と訊ねたゆえ、
「如何にも!」
と答えたところ、
「――御身――何か――お落しなさった物は、これ、御座いませぬか?」
と返したゆえ、勘七、
「……かくかくの体たらくにて!……実に昨日より今に至るまでものも食わいで……捜して御座るッ!……」
と答えたところが、
「その御品おしなはどのようなもので御座いまするか?」
と訊き返したによって、
「……これこれの生地の財布に――七十両の金子――これこれの仕様にて――かく入れて御座るものにて……」
などと、勘七が委しく申したところが、それを聞くや、かの夜発、
「嬉しくも、尋ね来たって下すった!」
と、辺りの同業の者に気づかれぬよう、わざわざ少し離れたところの土の中へ埋めおいて御座ったを掘り起して参り、かの財布に入った、一両も欠けざる大枚七十両の金子を、これ、勘七に渡いたと申す。
 さればこそ、勘七は、驚くと同時に歓喜致いて、
「――まっこと、命の恩人じゃ!――御身は一体、何方いずかたのお抱えで御座るか?」
と訊いたところ、
「――はい――鮫ヶ橋にて九兵衛くへえ殿の抱えにて御座いまする。」
と申したによって、
「……また――必ず参る! それまで!――」
と、まずは暫しの暇まを乞うて、早々におたなへと戻ると、主人久兵衛へかの金子を差し出だし、
「――かくかくしかじかことにて――無事、一両も欠くることのう、取り戻すことが出来まして御座いまする!……」
と、事実を有体に語って、久兵衛に許しを請うた。
 それを聴いた久兵衞も、これ、はなはだ感じ入って、
「――かくなる貞婦に、賤しき勤めをさせおくは、不憫極まりなきことじゃ!」
と、金子二十両を懐中の上、かの抱主たる九兵衛方を尋ねたと申す。
 たまたまその日、勤めに出でざる同人抱えの夜発が二人、そこに御座ったが、九兵衛が、
「何用にて御座いまするか?」
と訊ねたゆえ、久兵衛は勘七の一件を語り、
「この御女中は、今、どこに御座います?」
と質いたところ、
「――ふむ。丁度、その本人より、今と同じ話を、聴いたところで御座った。――それは、それ、この女で御座る。」
と、そこに御座った女を指したによって、久兵衛は、
「――何卒、その娘の残る年季を、手前どもにて支払わせて戴き、請け出しとう存ずる!」 と乞うて、金二十両を揃えて九兵衛の前にさし出だいた。
 すると、九兵衛が答えたことには、
「この女は、訳あって――まあ、このような賤しい勤めをするような者にては御座らぬ身分の者でのう。――されど、いろいろ御座って、育てて呉るる方もなく――我らが方へと流れて参って――このような身に堕ちては御座った。……そうさ、給金六両も御座れば――暇まを出だすには、これ、よろしゅう御座る。――さても――このような大金は――結構で御座る。」
と申した。
 せちに残りの十四両もお納めあれと勧めたものの、九兵衛は、
「いや――それは過褒!」
と、いっかな承知せなんだと申す。
 かの女子おんなごも見るからに、賤しからざる生れなるは明白で御座ったによって、久兵衛もはなはだ悦び、そのままこの娘を伴って店へと帰った。
 そうして、さても勘七の年季も丁度極まり、この度の貞実なる振舞いにも感じ入って御座った久兵衛は、最寄りの場所へ勘七におたなを持たせ、かの元夜発を妻と迎えさせた上、商いの元手なんどをも与えて、今は、すっかり繁昌に暮しておる、とのことで御座る。
 その元夜発なる妻とは――これ実は、麻布辺でも知られた名家荒井何某なにがしと申した御仁の娘で御座ったが、親の没後、その兄弟の身持が、これ、よろしゅうなく、悪しき輩が家内いえうちに立ち入るようになり、果ては女衒ぜげんに九兵衛方へと売り渡された者なり――と噂には聴いて御座る。
 流石にそれなりの正しき素性の女性にょしょうであったればこそ、かかる仕儀も御座ったに違いないと申すもので御座ろう。
 かの夜発親方九兵衛と申す者も、今はかくなる者なれど――これ、如何なる素性の、いかなる者の果てでも御座ったか――その爽やかなる気風きっぷのよさは、まさに義心を失わざる者なればこそ、勘に絶えぬ立派な御仁で御座った、とは久兵衛の語って御座った話しで御座る。



 商家義氣の事

 近きころの事也とや、伊勢より一所に江戸表に出しとや、また同じ親方に仕へ、一同に別家の店もちける也。貮人ながら兩替屋を出しけるに、殊の外身上を仕𢌞し相應に金銀も繰𢌞し右德にくらしけるが、素より懇意にいたし甚だ心安く、斷琴の交りなりしが、右の内壹人相果て、其子の代になりしに年若故、遊興等に得□身上六ケ敷むつかしく、最早戸をもたてんと思ふ心に成しが、さるにても親の代わけて懇意の事故、今壹人の老人の方へ至りて相談なさば元手金もとで合力こふりよくなさんもと思ひて、かの老人申けるは、親仁さまより懇意の事故、其事をも申出しけるが、當時我等迚も金子手𢌞り候間、貮三百兩の金用立遣し度候得共たくさふらえども、親に似ぬ其許そこもとにかすべき金はなし、かく恥しめを無念と思ひ給はゞ、何卒心底よりあらため稼ぎ給へとまうしけるにぞ、彼もの恥入はぢいり詮かたなく宿へ歸りしが、去にても我身を後悔して助力をたのみしに、かく恥し事無念の次第也、いかさまにもいたして身上取直し、此恥をそそぐべしと大に怒りて、夫よりは通路つうろもなさず身を□てかせぎけるが、其志のなす所にや、三年程に元の如くの身上と也し由。是を聞て彼老人、金百兩を懷中して、彼若き商人の方へ來りて、三年以前汝を恥しめし以來憤り候と見へて通路もなし、右は其砌金貮百金かし候ても、御身の心根より屈伏なき事故、害は有共あるとも長久のくはだてなし、されば我恥しめしを忿怒して、かく身の上も取直されたる段、悦ばしき事也、今百金用立は聊かながら百金は目にたつ福分也とてあたへければ、彼若者も其志しを感伏しけるが、百金は借用も同樣也、當時入用も辨じ候迚相歸しぬ。其後彼老人も身まかり貮代目になりて、此貮代目は遊興等もなさゞりしが、不仕合にて身上しもつれ、前に引替ひきかへ貧しくくらしけるを、彼百金を不受うけず、親の代の事もあれば助力の事も不申入まうしいれず、欝々とくらしけるを、彼若者是を聞て、老人の貮代目の方え來り、志をたて身上取直し給へ、我も親仁の諫行かんぎやうに恥て身上取直したり。是を元になし給へと貮百金をかしけるが、此貮代目も其志かんはげまされしや、無程ほどなく元の如くに身の上を取直しけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:町屋商家の人情咄で連関。既に示した通り、四つ前の話の冒頭か本話の標題と冒頭とが錯文している。そちらの標題「商家義氣幷憤勤の事」こそがこれに相応しい(四つ前の話は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版にある「鄙婦貞烈の事」で、それで訳した)ので、現代語訳はそれを用いた。
・「右德」底本では、右に『(有德)』(「うとく」と読む)と訂する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「有徳」。
・「斷琴の交り」最も心の通い合う友情のこと。春秋時代の琴の名手であった伯牙はくがが、自分の奏でる琴の音を心から理解してくれた友人鍾子期が死んだ後は、琴の弦を断って弾かなかったという「列子」湯問篇の故事に由る成句。
・「年若故、遊興等に得□身上六ケ敷、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
 年若(わか)故遊興等に染み段々身上六ケ敷むつかしく
とある。ここはバークレー校版で訳す。なお、この「染み」は「そみ」とも「なじみ」と訓じ得る。
・「建ん」底本では、「建」の右に『(閉)』(「うとく」と読む)と訂する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『たてん』と平仮名書き。
・「去にても親の代わけて懇意の事故、今壹人の老人の方へ至りて相談なさば元手金も合力なさんもと思ひて、彼老人申けるは」底本には、「思ひて」の後の読点の右に『(ママ)』注記がある。そこで岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここは(本文と合わせるために恣意的に正字化し、踊り字「〱」は「々」に代え、読みも歴史的仮名遣に直した)、
 「さるにても親の代かけて懇意のこと故、今壱人の老商の方へいたりて相談なさば元手もとで金も合力かふりよくなさん」と思ひて、かの老商の方へ至り、「かく々の事にて身上もたてつづきがたき」とまうしければ、彼老商申けるは
となっていて、脱文であることが判明する。ここもバークレー校版で訳した。
・「其事をも申出しけるが、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
 其事をも申出しけるか。
となっている。この方が訳し易い。バークレー校版で採る。
・「かく恥し事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
 斯く恥しめし事
となっている。バークレー校版で採る。
・「身を□て稼けるが、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
 身命をなげうちかせぎけるが、
となっている。バークレー校版で訳した。
・「そそぐ」は底本のルビ。
・「くはだて」は底本のルビ。秋 ・「此貮代目も其志諫に勵されしや」底本では、「諫に」の右に『(ママ)』注記があるが、これは不審。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も全く同じで長谷川氏は特に注しておられない。鈴木氏はこの直前の、かの男が自分の過去の経験を述べたことを「諫」めとは採れない(実際にはこちらは金を貸しているから)とお考えになったのであろうが、これは私は立派に正しい「諫」めであると、私は思う。
・「目に立福分也」岩波版で長谷川氏は(但し、バークレー校版ではここは『目に見ゆる福分也』となっている)、『以前のように無駄に費消することなく、有効に利益をあげられる。』と注しておられる。
・「當時入用も辨じ候迚相歸しぬ」この部分、私にはすこぶる難解であった。私は取り敢えず百両を受け取ったと解した。大方の御批判を俟つものである。
・「彼百金を不受、親の代の事もあれば助力の事も不申入、欝々とくらしけるを、彼若者是を聞て」この冒頭の「彼百金を不受」は不審。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を見ると、ここが(本文と合わせるために踊り字「〱」は正字に代え、読みも歴史的仮名遣に直した)、
 親代おやだいの事もあれば助力の事も不申入まうしいれず、うつうつと暮しけるを、彼百金不請うけざる若商これを聞て、
となっており、すこぶる分かり易い。やはり、これで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 商家の仁義并びに発憤して勤めて身上しんしょうを取り戻したる事

 近き頃のことであるとか。
 何でも、伊勢より一緒に江戸表へ出て参ったとか申し、また、同じ親方に仕え、同時にまた、暖簾分けを許され、それぞれのおたなを持った二人の商人が御座った。
 二人とも、同じく両替屋の看板を出し、商いも右肩上がり、両人ともに殊の外、富裕なる身と相い成って、相応に蓄財の運用もうまく致し、いやさかに栄えて御座ったと申す。
 が、もとより、二人、昔馴染みなれば、懇意に致いて、はなはだ心安う、謂わば、まさに「断琴だんきんの交り」とでも申そうず付き合いで御座ったと申す。
 ところが、このうちの一人が相い果て、そちらは子の代となったれど、年若のことゆえ、遊興なんどにも、つい深く染まって、瞬く間に身上しんしょうを潰しかけ、最早、店を畳むしかあるまい、なんどと思い込むほどになったと申す。
 ところがそこで、
 『……あっ……そういえば……お父っあんの代に、別っして懇意にして下すった、あの同業のお方が御座った!……今の、この折り……あのご老人が方へ参って相談致さば……きっと元手金もとでなりと、合力こうりょくなりと、よきように計ろうて下さるに違いない!……』
と合点致いて、かの両替商の老人が方へと参り、
「……実は……お恥ずかしき話しながら……かくかくの仕儀にて……」
と己れの放蕩の懺悔もし、しおらしゅう、助力懇請を願い出たところが、かの老人の曰く、 「……親仁さまの代より、まっこと、懇意に致いて参ったゆえ、そうしたことをも、申し
出て御座られたかいのぅ。……今日日きょうび、我等方にては……節制するところは、これ、しっかと節制致いてのぅ。……まあ、相変わらず塩梅よう、金子のめぐりも悪うは御座らぬ。……されば……我らが昔馴染みの無二の知音のこおなれば……二、三百両の金を用立てんことは、これ、出来ぬ相談ではない……が……しかし……お前さんのような……遊興にうつつを抜かし……我らと同じほどにあったはずの、かの友が血の小便して一代で気づき上げた身上を……あっという間に潰してしもうたような……凡そ……あの友たる親に似ぬ……そこもとには……これ――貸せる金は――御座ない。さても――かく、我らより恥しめを受けたを――これ、無念と思ひなさったとなれば――何卒、心底しんそこ、心を入れ替え、一から稼ぎ直しなさるるが――よいぞ。――」
とけんもほろろに喝破されて断られた。
 かの若者、返答の仕様も、これ、御座なく、ただただ、恥じ入って無言のまま、詮方なく、家へとたち帰ったと申す。
 その晩のことで御座る。
 若者は独り、己が家の奥座敷にて、まんじりともせず立ち竦んで御座った。そうしてやおら、
 「……それにしても!……我が身を心より後悔致いて、これ、助力をお頼み申したに!……かくも恥かしめを受けたること!……如何にしても!……無念なることじゃッ!……こうなったら……何としても……我ら独りのてえで、身上取り戻し……この受けたる恥をすすがずんばおくものカッ!……」
と、独り大いに怒り叫んで御座ったと申す。
 それより、かの亡父の知音老人とは一切、これ、交わりを断ち、もう、身命しんみょうなげうったる覚悟にて、商売に精出した。
 その覚悟の志しのまっことなる証しにや、三年ほどのうちに、元の如くの身上を取り戻いて御座った。
 さて、このことを風の便りに聴いた、かの亡き父の盟友が老人、ある日のこと、金百両を懐中致いて、かの亡友の子の、若き商人の方を訪ねて参ったと申す。
 若者は、ここは一つ、かの会稽かいけいの恥をすすがんものと、横柄な態度にて老人に向かったところが、老爺の曰く、
「……三年以前、そなたを恥かしめて以来、お憤りになられたと見えて、一切の交わりも、これ、御座らなんだのぅ。――我ら――あの折り、金二百両もお貸し致いてたとて――御身は心底しんていより悔い改めては、これ、御座らなんだによって――その金――そなたに害となるとも、これより先の長く久しき再建のくわだてがかてには、これ、一文の足しにはならぬ――と――見抜いた。――されば、我ら、そなたを思いっきり恥しめて御座ったじゃ。――それをそなたは――美事――心底――忿怒致いて――しかして――かくも身の上――取り戻されて御座った! この段、そなたの父の友として、これほど悦ばしきことは――ない!――さても、今や、そなたへ百両の用立てを致す――というは――これ、何の用立てにもならざるように思わるるやも知れぬ――が――この百両は――聊かながら――されど百両!――最早、以前のように無駄に消ゆることもなく――まことの利として――これ、いやさかに増えるところの……そうさ、目に見えて必ず栄える、神仏の与えて御座った『福分福田』にて御座る。――納めらるるが、よいぞ――」
と語ると、懐中より百両を差し出だいた。
 かの若者は、それを聞くや、大いに感服致いて、
「……あなたさまのお心、これ、よう分かり申しました。……さても既に、その百両……これ、とうの昔に……御借用致いたも同様のことと御座まする……されど……いや……確かに今、私どもにとって――大事の入用のもの――と――取り計ろうて、確かに頂戴仕りまする……」
と答え、百両を受け取ると、老人に深く謝した上、お見送り致いたと申す。
 さて、それからまた暫く経ってのことで御座る。
 かの亡父知音の老人も、これまた遂に身罷って、今度は、そちらの方の二代目の代となったと申す。
 こちらの二代目の若者は、これ、かの先の若者とは異なり、遊興なんども致さざる実体の者にて御座った。
 が、巡り逢わせの悪しき因縁の者にても御座ったものか、不幸にも、身上、これ、すっかり左前と相い成り、父の代に引き変え、すこぶる貧しき暮しをして御座ったと申す。
 されど、この若者、親が、かの父の知音の息子に対する、厳しき拒絶のことだけを家伝としては聞き知って御座ったばかりなれば、かの亡父知音の若者への助力嘆願なんどということも、これ、決して申し入るることも御座なく、そのまま不如意に鬱々と暮して御座ったと申す。
 ところが、かの起死回生の復帰を遂げた若者、その故老爺の子息の、すこぶる貧窮なるを風の便りに聴くや、その老翁が二代目方へと早速に訪ね参って、
「――どうか、志しをしっかりとお立てになり、身上を取り戻されなさるがよい。我らも、そなたの親仁どのが諌めに恥じ、辛くも身上を取り戻して御座った。……さても一つ――これを――元手金もとでとなし――お気張りなされよ!――」
と、懐より二百両の金を出すと黙って貸したと申す。
 この二代目も、その志しと、その諌めとに励まされたものか、程無う、元の如、身上、これ、やはり父と同じように――また――かの若者と同じように――取り戻いた――と――申す。



 不思議に金子を得し事

 安永のころ、梅若七郎兵衞といへる能役者ありて、小笠原何某といへる方え心安く立入たちいり、目を掛られしが、はなはだ貧窮のうへ壹年長煩ながわづらひして、それは誠に年の暮ながら餅つく事もならず、夫婦共にひとつの衣類をも質入しちいれして困窮なしけるが、十二月廿六日に至り、最早春も來るに、かく居らんもなさけなし。小笠原家え參りなば、年々歳暮には三百疋宛給ぴきづつたまはるなればまかりなんと、れながらも小袖を着し、上下かみしもはあたりの人にかりて小笠原へ至りければ、能こそ來りける迚、主人も逢可被申あひまうすべし迚酒抔出し、しばらく酩酊にもおよびける比、例の目錄給りし故、段々困窮難儀して餅も不舂仕合つかざるしあはせ、頂戴の目錄にて年を取可申とりまうすべく咄しけるを主人ききて對面あり、扨々氣の毒なる事難儀成るべしと、金三兩別段に給りければ、誠にいきかえる心地して嬉しさ云ふばかりなし。百拜をのべ立歸たちかへしが、何れの町にやありけん、土腐堀どぶぼりへたちて小用せいようを辨じ、扨妻にもよろこばせんと宿許やどもとへ立歸、まづ目錄の三百疋を渡し、扨三兩の金子を見しに、いづちへ行けん、最前小用せし處へ落ける、外におぼえなし。尋止る妻をも見かへりもせず、とぶが如くかの小用せし土腐の内不淨をも不顧かへりみず多搜しけるを、あたりの町人立出て、何をなし給ふやとたづねける故、しかじかの事也と語りければ、燈灯をさげ抔して其邊を搜しけるに、土腐の中より金貮兩取出しける故ちきに□ひ、町人共えも厚く禮を述ければ、今壹兩もたづねばあるべきといゝけれど、いやいや貮兩ももとめ難き所を得たれば、此上夜をふかしなんも便びんなし迚立歸り、妻にもかくかく事と語りければよろこび、まづ足をあらひ給へとて、足を淸め帶をときて衣類をぬぎかへし、不斗ふと右着類破れより金三兩最初小笠原家にて貰ひし儘にいでければ、右三兩は落さず、落せしとて土腐堀にて尋得しは別の金也けりと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特にこれといったものがある訳ではないが、意外な結末の市井譚としては自然に読み継げる。
・「安永」西暦一七七二年~一七八一年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから四半世紀前のやや古い噂話である。
・「梅若七郎兵衞」岩波版長谷川氏注に、『観世座地謡に名あり。安永年代は三十歳台』とある。
・「三百疋」一疋 は一〇文で、一〇〇疋は一〇〇〇文。これが一貫文で四貫(四〇〇〇文)が一両になる。江戸後期の一両は凡そ現在の五~六万円相当であるから、三百疋は三七五〇〇~四五〇〇〇円前後に相当する。しかし最終的に三両+二両=五両となれば、三〇万円から三五万円相当で、とんでもない高額である。
・「目錄」進物として贈る金の包み。
・「土腐堀」埼玉県行田市及び羽生市を流れる農業用排水路に「土腐落 どぶおとし」という名が残るように、江戸時代は「土腐悪水」などと称して、所謂、主に田畑や家庭からの汚水を流すどぶや下水に、かくもぐっとくる漢字を当てたものらしい。
・「尋止る妻」底本には右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「止る妻」とある。それで採る。
・「多搜しけるを」底本には右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「搜しけるを」とある(正字に代えた)。それで採る。
・「燈灯をさげ抔して」「燈灯」はママ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「灯びなど出し、提灯をさゝげて」とある。恣意的に「提燈をさげ抔して」と読むこととする。
・「故ちきに□ひ、」底本には「ちき」の右に『(ママ)』注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は、「大いに喜び」(読点はない)とある。それで採る。

■やぶちゃん現代語訳

 不思議に金子を得たる事

 安永の頃のことで御座る。
 梅若七郎兵衛と申す能役者が御座って、小笠原何某殿と申すお方へ、心安う出入り致いて御座って、いたく目を掛られておったものらしい。
 ところが、その頃、舞台稼ぎも思うにまかせず、はなはだ貧窮致いて御座った上に、一年ばかし、長煩ながわずらいもこれ加わって、それこそ、まっこと、年の暮れながらも、餅さえつくこともままならず、夫婦めおととも、たった一つの着替えの衣類さえも質入れ致すまで、困して御座ったと申す。
 さて十二月も押し迫った廿六日に至り、主人七郎兵衛、
「……最早、春も来たると申すに、かくも貧窮の極みのままにおらんも、これ、あまりに情けないことじゃ。……小笠原様御屋敷へ参らば……そうさ――かつては年々、歳暮には三百疋あても賜はって御座ったものなれば……いや、まずはともかくも……年末の御挨拶に伺ってみようとぞ、と思う……」
と、恥ずかしくもぼろぼろのものながらも小袖を着し、かみしもは近所の者に借りて、小笠原屋敷へと向こうた。
「能の梅若七郎兵衛が参りました――」
と、下役が奥へと伝えたところ、主人あるじも、
「おお。これは久しいのぅ。通すがよいぞ。」
とて酒なんどを出ださせ、一くさり、下座にて謡いなんども披露させた上、病み上がりなれば、じきに酩酊に及んで御座った頃、かねての目録をも賜わられたによって、七郎兵衛は酔いも手伝てつどうて、あまりの嬉しさゆえ、
「……一年、病みほうけ……困窮難儀致いた上……この年末は、これ、餅をも搗くこと、出来ず仕舞い……なれど……この頂戴致いた目録によって、やっと人並みに年を越すこと、これ、出来ますれば……何とも、ありがたきこと……」
と、つい、目録を下しおいた下役にむこうて、言うとはなしに口が滑ったを、主人、聞きつけ、
「――これ、七郎兵衛、近う参れ。」
とご対面たいめあって、仔細を訊き質されたによって、畏まって正直に申したところが、小河原殿、
「……さてさて、それは気の毒なること。如何にも難儀にてあろうのぅ。……」
と、別して金三両を賜わって御座ったと申す。
 されば七郎兵衛、まっこと、生き返った心地にて、その嬉しきことたるや、言いようもないほどで御座ったと申す。
 七郎兵衛は百拝して御礼申し上げ、それこそ酒も手伝って、浮き足立って御屋敷を後に致いた。
 それから――さても何処いずこの横丁で御座ったものか――ふと、尿意を催し、近くの溝堀どぶぼりの端で立小便致いた。
 己が小便の湯気の立ち上る中、七郎兵衛。
「――さても!――妻をも喜ばせん!――」
とて、にやついて、一物のしずくを切るももどかしゅう、そのまま己が屋敷へ立ち戻った。
「――女房!――喜べ!」
と、まずは目録に包まれた三百疋を渡いた上、またしても妙に、にやつきながら、今度はやおら、懐に手を入れて三両の金子をいだ――出そうした……
……が
――ない!――
……酔うためえで腹の辺りを覗いて見るも……
……これ
――ない!――
「……い、一体……どこへいったんじゃ!……どこへ落したんじゃ?……そうじゃ!……最前の、た、立小便のとこかッ!?……外には覚えはない!……あそこから真っ直ぐ帰ったじゃて!……そうじゃ!……ど、ど、どぶじゃ! ど、ドブん中じゃッ!……」
と狂気の如き雄叫びを挙ぐると、何やらん、訳も分からぬながら、留めんとする妻をもかえりみず、飛ぶが如く、かの立小便致いたところへひた走り、おぞましきドブ泥の不浄をもなんのその、膨れ上がって浮きおる犬猫の死骸をも素手にて掻き分け、腰まで、ぎらついた糞尿の臭さき悪水溜まりを、手足使つこうて探りに探る。……
 物音と掻き広げた臭さに辺りの町屋の者どもも、何だ何だと、立ち出でて参ったが――
見れば……
――裃を着した鼻筋の通ったやさ男が
――ドブ泥の中で
――何やらん喚きながら格闘して御座る。
さればこそ、恐る恐る、
「……い、一体……な、何をなさっておらるるんで?……」
と恐っかな吃驚り訊いて参った。
 まあ、なんぞの草双紙の怪談にでも出そうな情景なれば、これ、無理も御座るまい。
 されば、ここはと、七郎兵衛も気を落ち着け、しかじかのことにて御座って、このどぶ内に三両の金子を落とした由、語って御座ったところ、この年末も押し迫った中で、三両と聴き、集まった野次馬の町衆も、
「――そりゃあ、大変てえへんだ!」
ってえんで、熊公も八っつぁんも長屋から繰り出して参り、大勢にて提灯を掲げては、竹竿なんどを持って、しきりにドブ泥を引っ掻き回し、手応えを求めて御座ったと申す。
 すると暫く致いて、七郎兵衛自身、ドブ泥の中より――金二両を――摑み出だいて御座った。
 さればこそ、町人どもへも厚く礼をなしたが、ある者は、
「ここまで皆してやったんじゃ! 今一両、捜さねぇて、手はありゃせんゼ! その掘り抱いた辺りの、きっと近くに、まだありやしょう!」
としきりに申したれど、七郎兵衛曰く、
「いやいや、二両さえも求め得難き所を得たればこそ、この上、夜を徹して捜すと申すは、これ、労多くして、町方衆へも不憫なこと。――ここは一つ、これにて――」
と、平に町方衆へ謝して帰ったと申す。
 帰り着いて、くだんの仕儀を、包み隠さず妻にも語ったところ、
「――それはたれにもよきことをなされました。これで五両――つつましゅう致さば、また来年も我ら、相応に暮らせまする。――」
と大いに悦んだ。そうして、
「……ご主人さま……ともかくも少々お臭いに御座いますれば、まんず、御足おみあしをお洗い下さいませ。」
と申したによって、桶にて手足を清め、さても、ドブ泥にすっかり汚れてしもうた裃の帯をも解き、
「……かの金子にて――まずは、明日にでも裃の新たなるを買い求め、借り主にお返し申そうず。」
と妻に語りつつ、それらを脱いで、また、汚れを垂らさぬように裏へと返したところが、
……ふと
……かの脱ぎ置いた着衣の合わせの
……その目のれたところよ
――チャリン!
……と……
――金三両
――最初、小笠原家にてもろうたそのままに――転げ出でて御座ったと申す。……
……さればこそ、実は、かの三両はもともと落とした訳ではのうて――落としたと大騒ぎ致いてドブ堀にて捜し得たところの――あの――二両は――これ――全く別の――金子で御座った……
……ということにて御座った、と申す。



 修驗道奇怪の事

 いつの比にや、神田富山町とみやまちようにて與七といふ者、富士參詣をくはだてければ、同だなに威力院といえるあり立寄たちよりしに、御身富士え登山なし給はゞ裾野の藥王院え立寄、賴置たのみおき候箱を持參致可給いたしたまふべしといふ。勿論荷に成るべき程の物ならねばたのむよしまうす故、手紙にても遣し給へといゝければ、それには及ばずと威力院より被賴故取たのまれしゆへとりに來りしといひ給へば無違ちがひなく渡し候也と申に任せ、すなはち富士登山參詣なしてかへりに藥王院へ立より、しかじかのよし申ければ、心得候由を答へ、一宿なし翌日出立の節、貮寸四方に足らざる箱を包みて與へける故請取うけとり、立歸り候とて川崎か神奈川に泊りければ、其夜臥りけるにかの箱聲を出し、今晩大きなる金もふけあり、此奧座にて博奕有、御身も手合てあはせくははりわれらが申通りなし給へ、金もふけすべしといふ。此男も不敵なる者故、奧座敷へ至り見しに博奕ありければ、我もくわゝらんと手合に成りしに、何の目をはり給へと彼箱の内より申ければ其通りなす。果して勝となり、頻りに勝て金五十兩打勝うちかちければ、彼箱申けるは、最早早くやめて出立あれといふ故、其とほりにして出立なしける。かさねても此箱の内奇怪成る事也とて頻に恐ろしくなり、六郷の渡し場にて右の箱を川中へ投入なげいれ、足早に宿元へかえりしに、威力院へ何と申譯なすべきやと今更當惑なしけるが、あからさまに語りてわびせんにはしかじと、彼威力院へ至り、しかじかのよし藥王院より請取し箱は六郷川へ流したりと申ければ、威力院道中無滯とどこほりなき事を賀し、打勝し金は其身の德分とくぶんにし給へ、箱は最早わが手へ戻り居るよし、取出し見せける。大きに驚き、いかなる術成るや恐れけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。久々の怪異系都市伝説である。
・「神田富山町」千代田区の町名として現存。JR神田駅北口直近。
・「藥王院」富士信仰や修験道のメッカである、東京都八王子市高尾町にある高尾山薬王院有喜寺と関係した寺院かとも思われるが、所在不詳。識者の御教授を乞うものである。
・「及ばずと」底本では「ずと」の右に『(ママ)』注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、この部分の威力院の台詞は(正字化して歴史的仮名遣に直した)、 『それに及ばず。威力院より賴被取たのまれとりに來りしといひ給へば無相違さうゐなく渡し候』
とある。
・「六郷の渡し場」現在の東京都大田区東六郷と神奈川県川崎市川崎区本町との境の多摩川に架橋されている六郷橋のやや下流にあった渡し場。六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長五(一六〇〇)年に徳川家康が六郷大橋を架けさせ、その後数度の架け替えが行われたが、貞享五(一六八八)年の洪水で流失して以後は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられていた(以上は岩波版長谷川氏注とウィキの「六郷橋」に拠った)。
・「六郷川」多摩川の下流部、現在の六郷橋付近から河口までの呼称。

■やぶちゃん現代語訳

 修験道の奇怪なる事

 何時の頃のことであったか、神田富山町とみやまちょうの与七と申す者、富士参詣を思い立って、同じおたな威力院いりきんと申す山伏が御座った故、相談に立ち寄ったところ、
「――御身、富士へ登山なされるとならば、裾野の薬王院へ立ち寄り、拙者の頼みおいて御座る、ある箱を帰りに持参致いては下さるまいか。勿論、荷になるような物にては、これ、御座らぬ。どうか一つ、頼まれては呉れぬか?」
と申すによって、与七は、
「それでは一つ、頼み状でも頂戴致しましょうか。」
と答えたところ、
「――いや。それには及ばぬ。『威力院より頼まれたゆえ、取りに来た』とのみ、お伝え下さるれば、間違いなく先方、渡して呉るる手筈となって御座る。」
と請けがったゆえ、与七も気軽に承知した。

 さてもすぐに富士登山参詣をなして、その帰るさ、薬王院へと立ち寄って、しかじかの由、先方へ告げたところ、
「――心得て御座る。」
と応じて、頼みもせぬに一泊させて呉れ、翌日の出立しゅったつの折り、二寸四方にも足らぬ小匣こばこ箱を包んで与七に渡したゆえ、これを受け取り、
「確かに。これよりたち帰って、威力院殿へお渡し申しまする。」
と、薬王院を辞した。

 与七、その日は、川崎か神奈川宿辺りにて日も暮れたによって泊って御座ったと申す。
 さて、そののこと、疲れも出でて、早々に横になったところが、何やらん、人の声が聴こえる。
 どこかと探れば、枕元に置きおいた、荷の中からとしか思えぬ。
 開いて見ると、何と――かの預かった小匣が――人語を発しているのであった。
 その声の曰く、
「――今晩ハ大キナル金モウケノコトアリ――コノ宿ノ奧座敷ニテ博奕ガコレ有ル――御身モ行キテ勝負ニ加ワリ――ワレラガ申ス通リニナサルルガヨイ――金モフケデキマスルゾ――」
と呟いて御座った。
 この与七なる男も、これでなかなかに不敵なる者で御座ったゆえ、この妖しき誘いの申すがまま、宿の奧座敷をちょいと覗いてみたところが、ほんに博奕場のあって、盛んに賽を振って御座った。されば、
「――一つ、我らも手合せさして貰おう。」
と賭場に坐った。
 賽が振られた。
――と
手の内に握りしめて、耳に押し当てて御座ったかの小匣が、
「――ちょうノ目ヲハリナサレ――」
と微かに呟く。
 その通りになしたところ、
「――四六の丁!」
 果して勝ち――
「――次ハ半――」……
「――五二ぐにの半!」
 勝ち――
「――次モ半ジャ――」……
「――四三しそうの半!」
 またまた勝ち……
……勝ちに勝って――実に金五十両もの一人勝ちを致いて御座った。
――と
――かの箱がまた囁いた。
「――最早――早(ハヨ)ウヤメテ――直チニ宿ヲ出立ナサルルガヨイ――」
 されば言われた通りに、未だ夜も明けきっては御座らなんだが、早立ち致いたと申す。

 しかし、与七、明けの街道を歩みながら、
「……どうにもこうにも……五十両からの大金……これが一夜にして転がり込んだ……この小匣の……この内の声は……これ……如何にも奇怪なものじゃて……」
と思い始め、思い始めると、これがまた、しきりに恐ろしゅうなって参った。

 丁度その時、六郷の渡し場へ差し掛かって御座ったが、渡し舟に揺られながら与七は、
「……五十両……この妖しき術なれば……ただ五十両が我らのものになっただけでは済まぬのではないか?……その恐ろしき返報が……これ……な、ないとも限らぬ!……」
とぐるぐる考えるにつけ――たかが小匣、されど小匣――舟の揺れとはちごうた、身の内からの震えが与七を激しく襲った。
 されば与七、荷の内の小匣を取り出だすと、それを舟端から川中へと投げ入れてしもうた。

……そのまま、何かに後ろから襲わるるような気がしきりにしたままに、足早に富山町へと立ち帰った。
 しかし、
「……さても……威力院殿へは……何と申し訳致いたらよいものか……」
と今更ながら当惑致すことしきり。
「……いや……しかし……正直に……かの奇体な話を語って……お詫び致すに若くはない。……五十両の泡銭あぶくぜにも……これ……小匣を捨てた弁償としてお渡し申すがよかろう……」
と、威力院を訪ね、
「……という訳にて……薬王院より受け取って参った小匣は……これ……恐ろしさのあまり……六郷川へと……流してしもうたので御座いまする……」
と平謝りに謝って御座った。
 ところが、聴き終った威力院は、満面の笑顔のままに、
「――いや――富士を拝まれ、その道中も恙のう、よう、お帰り遊ばされた!」
と言祝いだ上、
「――その勝った金は――そこもとの利得となさるるがよかろうぞ!……小匣――ならば――最早――我が手へ戻って御座ればの――」
と、何と、懐から――かの六郷川に確かに投げ捨てたはずの小匣――を、これ、取り出だいて見せた。
 与七は大きに驚き、
「……こ、こ、これは如何なる……ジ、ジツでえ、ご、御座るかああぁ……あへ!……」
と恐れ入った、ということで御座る。



 嘉例いわれあるべき事

 本所竹藏たけぐら近所、曾根孫兵衞といへる御旗本ありかの家古來より仕來しきたりにて、年々正月三日に餅をつく事也。いつのころにや主人まうしけるは、世の中皆暮に餅を舂事に、我家のみその事なく人並ひとなみをはづれ正月三日に餅舂事、何と人の思はん所おもはしからず、今年は暮に舂とて、家來も仕來なればと諫むるをも不用もちゐず爲舂つかせける。舂時は何ともなし。に入座敷へ運ぶと右餅一圓血に染みて眞赤に成る。見るもいぶせきてい也。是はいかゞと中間共へ渡せば元の如く潔白也。又座敷へ運べば最前の通りなる故、其後は昔のとほり、正月三日餅舂事と也。

□やぶちゃん注
○前項連関:怪奇譚連関。この血染めの餅伝承による餅搗きの時期禁忌や、餅そのものを食わないという禁忌は、実は古くは日本各地にある。東京堂出版昭和二六(一九五一)年刊の「民俗学辞典」の「餅無し正月」によれば、『一般には餅は正月に必要な食物となっているが、正月に餅を全たく用いないところがあり、また餅を搗いても元旦から幾日かは食べないという所がある。部落全戸がそれを守っている場合と、特定の一家一族だけに守られている場合とがある。その由来として、先祖が戰に敗れて落ちのび、ここに着いた暮または正月で、正月祭の準備が整わず、餅を用いなかつたのを偲ぶためという類の話をつたえるものが多い。また先祖が旅人を殺して金を奪ったことがあり、その恨みで餅をつくと血がまじつて食べられぬからといつた説明のついている場合がある。全国的に例があつて、理由はよくわかつていないが、折口信夫は祭の忌が嚴しかつた土地で、臼杵を用いず、年越の夜を起き明かす習いであつたため、食物の調製すらはばかられて餅を用いなかつたのがもとのおこりではなかつたかと推論している』(折口「餅搗かぬ家」『旅と伝説』二ノ一)。とある。この折口の(昔、大学時代は呼び捨てにすると教授から怒られたものだったのを懐かしく思うが、やはり呼び捨てにする。私はどこか、柳田国男――これも「やなぎた」と発音しない怒る先生が国学院にはごまんといた――と彼は、民俗学を品のいい「バカデミズム」に変質させてしまった確信犯の「父母」と確かに心得ているからである。本質的な官吏であった柳田は言うに及ばず、自身が同性愛者であった折口の罪は心情的には許し難い)「餅を搗かぬ家」については、国際文化センターの「怪異・妖怪伝承データベース」で「餅を搗かぬ家」として、『家の先祖が、巡礼にきた人や、山伏を食い殺して金を奪い、そして裕福になったところでは、餅を搗かない。その一族のものが、餅を搗こうとすると、臼の中に血が入っているという』という怪異譚例を掲げている。なお、ウィキの「餅」では、『民俗学的見地からは、東国では正月行事の中で餅を忌避して食べず、サトイモやヤマイモを食べる習俗の方が重要な意味をもって分布しており、この東西の差異は、西が水田稲作に対し、東が焼畑による生産圏であり、それと結び付いた行事の為と捉えられている』。『従って、近畿圏と比べれば、餅が東国各地の正月行事で用いられ、普及するのは後になる。これはハレの食物としての餅が全国一様に普及するまでには(生産圏の差異から)地域差があったことを示す。また、普及した後も、『餅の四角い東と丸い西』(宮本常一著作集13)の考察にあるように、東西日本では餅の文化は異なる歴史を歩んできた』と一般的な餅つき文化について総括している。私は大学で坪井洋文先生の民俗学の講義を受けた際、この血染めの餅の話がすこぶる印象に残ったのを覚えている(というより、実はそれしか記憶にないのである。何故、僕はこれを鮮烈に覚えているのか? ここに精神分析の面白さが潜んでいるように思われてならないのである)。従って本話は何か、気になる、のである。さらに付け加えるならば、この餅が血染めとなるのを見るのは、どうも、当主である孫兵衛のみのように読める。呪われた嫡流にのみ起こる怪異というところが面白いではないか。
・「嘉例」吉例きちれい。本来は、めでたい先例の謂いであるが、ここは年末年初の行事という意。
・「竹藏」東京都墨田区両国二丁目から横網町一丁目附近の旧地名。現在のJR両国駅周辺に当る。本所松坂町があったこの周辺は、かつては広大な幕府の御竹蔵(竹材保管施設)があったところで、延宝年間(一六七三年~一六八一年)にはまだそれがあったことが確認されている。元禄の初年頃(一六九〇年前後)に御竹蔵周辺は大きな改修工事が行われ、西正面の道に張り出して設置されていた小屋場(竹材の陸送に用いる大八車を配置する場所)が廃され、御竹蔵正面は西から南に変わり、大川の水運のための竪川に続く新道が敷かれ、元禄一一(一六九八)年九月六日に発声した勅額火事後、御竹蔵は廃されている。参照したウィキの「本所松坂町公園」によれば、この後の元禄一四(一七〇一)年九月に吉良義央がこの近隣(同三丁目附近)を受領、元禄赤穂事件の舞台となった。
・「曾根孫兵衞」底本鈴木氏注によれば、曾根次彭つぐもり(寛保・元文六(一七四一)年~?)。寛政二(一七九〇)年に御書院番となり、同九年には御使番に転じている、とある。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であり、記述が現在形で書いてあるから、この年生存していれば(生年は鈴木氏の注の家督相続年齢である『安永六年(三十七歳)家督』から逆算した。没年は岩波版長谷川氏注にも示されていない)、当年とって満六五歳であったはずである。孫兵衛は何故、伝家の禁忌を「何と歟人の思はん所思はしからず」と感じねばならなかったのだろう? 私にはこの怪異もさることながら、そのことの方に興味が起こるのである。誰かに何か揶揄でもされたのだろうか? それとも忌わしい過去の異人殺し伝承に纏わる妙な噂でも立ったものか? ところが気になるのが、僕の悪い癖――(杉下右京風に)
・「正月三日に餅舂事」底本では鈴木氏はここに注して、一般的な餅つきの時期にについて概説しておられる。貴重な記載であるので、例外的に全文を引用させて戴く。『近世にいたって朔旦正月の制が一般化し、これが古来からのもののように考えられるようになったが、もちろん新規のものであって、古式では望の日(十五日)を新しい年の初めとして祝った。両制が折衷併用されたのが大正月、小正月の別で、大小正月の中間を、餅間モチアハヒなどと呼ぶ地方がまだある。古来の望の正月の仕来りを重んじた特別の家や地域では、元日以後に餅をつくことになる。武家では、戦のために餅をつくひまがなかったので、それが家例になったという説明をする例が多い』。
・「爲舂つかせける」は底本のルビ。

■やぶちゃん現代語訳

 歳末歳旦の行事にも特別の謂われのこれある事

 本所御竹蔵おたけぐら辺りに、曽根孫兵衛次彭つぐもり殿と申さるる御旗本が御座る。
 曽根家におかせられては、古来より、仕来りによって、毎年、正月三日になってから餅を搗くこととなっておらるる由。
 何時頃のことで御座ったか、当主孫兵衛殿、
「……世の中は、何処も暮れに餅を搗くと申すに、我が家のみがそうせず、人並みをすこぶる外れ、正月三日になってより餅を搗くと申すは、これ、世間の者ども、何やかやと、人の噂し、穿鑿猜疑致すことじゃ! まっこと、面白うないではないか!――一つ、今年は、暮れに餅を搗かんとぞせん!」
と仰せられた。
 聴き及んだ老いた家来などは、
「――代々、お家の仕来りにて御座いますれば……」
と諌めたものの、これ、全く貸す耳をお持ちになられず、遂に、その年の歳末には餅を搗かせて御座ったと申す。
 餅搗き当日のことで御座る。
 搗いて御座ったうちは何事も御座らなんだ。
 さても搗き上がった餅を、中間どもにに移し入れさせ、座敷へと運び込ませておいた。
 孫兵衛殿、それを見に座敷内へとお入りになった――
――と――
……箕のうち
……餅
……これ
……すっかり
……ことごとく
――血の色に染まって
――マッ赤になって御座った!……
……それはもう、見るも妖しきと申すよりは、忌わしくおぞましきものにて御座ったによって、
「……こ、これは……い、如何なる、こ、ことじゃッ!……」
と、即座に中間どもを呼びつけ、その変事を糾さんとした――
――ところが――
……渡した瞬間
……中間の持った箕の中の餅は
……これ
……もと通りの
……まっ白な
……普通の餅にて御座ったと申す。
 されば孫兵衛殿、何かの見違いでも致いたものかと思い、再び、
「……ざ、座敷内へ、も、戻せ。」
と命じたところが――
……運び入れたを見れば
……これまた
……最前の通り
――マッ赤!……

 さればこそ……その後は昔日の通り、やはり正月三日に餅は搗くことと、相い成されたそうで御座る。



 眞木野久兵衞町人へ劔術師範の事

 享保の此、牛天神うしてんじん邊にて、劔術の達人と呼れし眞木野久兵衞といふ者、一刀流の名人ありしが、三年寄さんとしよりとかや、又は豪家の町人とや、聞及ききおよびて三人打連うちつれて劔術の弟子になり候。もつとも金銀はいか程にても不惜間おしまざるあひだぢきにゆるしをこひ候樣をしへ給へとことわりしに、久兵衞答へて成程左樣にも相成べしと答へければ、其後は切に傳授をのぞみければ、久兵衞せん方無かたなくきたる幾日ともも連つれ三人は櫻の馬場へ何時なんどき被參まゐられ、我も可罷越まかりこすべしと約し、かの日に至り夜亥子よゐねころ、三人の町人櫻の馬場へ至りしに久兵衞も來りて、約束の傳授すべし、我もはせ候間、御身三人もいかにも此馬場の始より末迄かけ給ふべしと、教の儘はせければ、久兵衞も跡より一さんに駈けるが、老人の久兵衞年分にて息切倒いきいれたふれけるを、三人は馬場末迄駈すぎて、扨立歸り介抱をなして、教のとほり駈候あひだ傳授あるべしとこひけるに、老人とはいゝながら我は半途にて倒れしに、御身は息切候事もなきは、すなはち傳授の極祕に至れり、それにて宜敷よろしきといふ。三人いへるは、一本の太刀筋傳授もなく、右の樣にて傳授すむとの事合點ゆかずとこたふすべての當流、人を切る爲の劔術にあらず、身を守る術也。此方このかたよりもとめて向ふにあらず、向ふより又向ふ時は、其愁ひを避け、不從したがはざるは破るの劔術也。御身町人なれば武家とちがひ、身をくるしみ侯事にげるゝにしくはなし。武士は迯る事ならざる身分なり、町人は迯て不告、今日某追付それがしおひつかんと思ひぬれ共追付事不能おひつくことあたはず、御身三人共あの通り走り候へば迯足達者にげあしたつしやといふべし、則右が當流極祕なりといひしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。滑稽な剣術指南で変則武辺物としてすこぶる面白い。
・「眞木野久兵衞」不詳。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「久平」とする。
・「牛天神」「耳嚢 巻之二 貧窮神の事」で既注済。現在の東京都文京区春日(後楽園の西方)にある北野神社。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「牛天神下」とあり、その場合は、北野神社の南一帯を指す。
・「享保」西暦一七一六年~一七三六年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、七、八十年も前の古い話である。
・「三年寄」江戸の町年寄を世襲した奈良屋・樽屋・喜多村三家のこと。
・「とことわりしに」は底本のルビ。ここ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「と望みしに」となっている。「ことわる」は理を尽くしてという意味としては、請願に「理」はない。ここは「と望みしに、久兵衞、斷わりしに、」それでも度々入門免許を請うて参ったによって、「久兵衞答へて成程左樣にも相成べしと答へければ」と続けると如何にも自然である。かく敷衍訳をした。
・「櫻の馬場」幕府の軍馬を調教繋養した馬場の一つ。底本の鈴木氏注に、湯島聖堂の西に隣りあってあり、『お茶の水馬場ともいった。桜ともみじの大木が両側にあった。文京区湯島三丁目』とある。岩波の長谷川氏注では一丁目とする。ピグ氏のブログ「東京ガードレール探索隊」の「桜の馬場」の対照地図によれば一丁目が正しい。
・「亥子の比」深夜十時から午前〇時頃。
・「身を困み候事」カリフォルニア大学バークレー校版ではここが『身を囲ひ候事』とあって、長谷川氏は『身を守り』と注されている。これは「圍(囲)」の誤字が深く疑われるが、「くるしみ」でも意味は通る。折衷して訳した。
・「不告」底本には右に『(ママ)』注記を附す。カリフォルニア大学バークレー校版では「不能」とあって「苦しからず」で意味が通る。これで採る。

■やぶちゃん現代語訳

 真木野久兵衛の町人へ剣術師範する事

 享保の頃、牛天神うしてんじん辺りに、真木野久兵衛と申す一刀流の達人が御座った。
 ある時、江戸の三年寄さんとしよりであったか、または好事家の豪商の町人連の誰某だれそれであったか、ともかくも、その噂を聴き及んだ三人がともにうち連れて、この久兵衛に弟子入りを願い出て参ったと申す。
「謝金は惜しまず幾らでもお出し致しますによって、どうかすぐに免許の段、お許し下さいませ! 秘伝の太刀筋、御伝授下されぃ!――」
と望んだものの、久兵衛は断った。
 ところが、この三人、性懲りものう、何度となく参っては、五月蠅く、入門免許を懇請致いたれば、ある時何故か、久兵衛、
「……なるほど、いや、そのようなことも、これ、ならぬということも……ないわけではないが……」
と答えてしもうたによって、両三名、その後はますます足繁く、久兵衛が元へ参っては、せちに伝授を望むことと相い成った。
 あまりの日参に久兵衛も詮方のう、遂にある日のこと、
「……それでは――来たる○月×日、両三人ともども相い連れだち、△どき、桜の馬場へ参られい。――我らも同時刻に、罷り越す。」
と約して御座った。
 さてもその当日と相い成った。
 時刻は――そうさ、夜もの刻頃で御座ったと申す。
 三人の町人、桜の馬場へと押っ取り刀で参ったところ、ほどのう、久兵衛も来たって、
「――約束の伝授を致そうぞ。」
と告げると、
「……我ら……これより、この馬場を走って御座る。されば、御身ら三人も、この、馬場の始めより、末の末まで、お駈けなされい!――」
と申すが早いか、突然、久兵衛、脱兎の如く、目の前より消える。
 されば三名も、教えの通り、駆け出だいた。
……が……
……あっという間に……
……三人は久兵衛を追い越し……
……久兵衛はといえば……
……それを一散に追っては走るのではあったが……
……何分にも久兵衛、老体の身で御座ったれば……
……馬場の半ばにて……
……息切れし……
……これ……
……倒れてしもうた――
 さても三人はそのまま、馬場の端まで駆け抜ける。
……ところが……
……振り返って見れば……
……久兵衛……
……遠くで……
……へたばって御座った……
ともかくも、また馳せ帰って、泡を吹いて転がって御座った久兵衛を介抱を致いた上、
「……さ、さあ! さ、さても! 教えの通り! 駈け抜けましたによって! どうか! 免許、御伝授下さりまっせい!」
と乞うたところが、久兵衛は、未だ苦しげな息遣いのまま、
「……ハーヒッ……ハーヒッ……はぁ、ふわれら……老人らふじんとはまふせ……ハーヒッ……道、半ばにして……ハヒッ……たふれた、にィ……ハヒッ……御身らは、い、息切れて御座ぐぉざることも、これ、ないは……す、すなふわち……で、伝授ドウエンデゅの極意……こ、これ、とぅわ、体得とぅわいとく至れり……グオッフォ! グオッフォ! ウッグェー!……そ、それにて!……よ、よ、よろしゅう御座る、じゃぁッー!……グヲッホ! ゴホ! ギュウゥゥ……」
と応じた。
 されば、流石に両三人、
「……い、未だ一本の太刀筋の伝授も、これ!……」
「……そ、そうじゃ! 未だその伝授もなきに、これ!……」
「……か、かように! 伝授相い済んだとは、これ!……」
と――口を揃えて、
「合点参らぬ!!!……」+「合点参らぬ!!!……」+「合点参らぬ!!!……」
と叫んだ。
 と、久兵衛、やっと息も落ち着いて参って、徐ろに、
「……すべて――我らが流儀は――人を斬るための剣術にては――これ、ない。……
――その奥義は――これ、身を守る術である。
――こちらの方より求めて相手に向かうものではこれ、ない。
――また先方せんぽうより仕掛けて参った折りには
――これ、その危うい切っ先を避くる。
――それでも、そうした対処に相手が従わぬ場合にのみ、相手と斬り合う。
……御身らは町人なれば武家とは異なり、身の危うきを大事とお守りなさるるには――逃げるに――若くはない。
……しかし――武士と申すは、これ――戦いより逃ぐること、出来ざる身分。
……されど御身ら町人は、これ――逃げても決して恥ではない。
 さても今日、それがし、御身らに追いつこうと思うたれど――追いつくこと、こで出来なんだ。……
――御身ら三人ともに
――如何なる対局に於いても
――あの通り走って御座ったならば
――これ
『逃げ足の達者』
と申すもので御座る!
 則ち――これぞ――我が流の極意である!」
と喝破されたとのことで御座る。



 又、久兵衞其術に巧なる事

 享保のころは、牛天神邊は今のとほりには無之これなく、あさまにて淋しき事也しが、右近邊の武士武術に□りて辻切つじぎり抔せしに、又はよからぬ盜賊業たうぞくわざにもあるや、天神の坂のうへよりおひおろし、人をなやます者ありし。久兵衞所用ありて夜中牛天神の坂を上りしに、大男壹人刀をぬきて久兵衞に打掛りしに、久兵衞少しもさはがず短刀拔て淸眼せいがんかまへかの惡徒に立向たちむかふ。こらえ難くやありけん、段々跡へしさりしに其儘押行おしゆくに、彼者後じさりして天神の崖上より眞さかさまに谷へ落ける故、久兵衞は我宿へ歸りぬ。彼もの所々怪我して暫くなやみしが、こころよくなりて近き町家へ多葉粉もとめに來りしに、久兵衞も同じく多葉粉調へ歸りけるを、彼惡徒能々見て、かれこそ此間このあひだ牛天神にて出合であひし老人成りと怖しく思ひ、多葉粉屋にて其名をたづねしに、あれこそ劔術の達人とよばれし久兵衞なりといふ故、はじめおどろきける。實に左あるべしとわが惡意をひるがへし、多葉粉屋にさる事語り、何卒世話して弟子と成度なりたしこひし故、其事まうす通り弟子になりそれより久兵衞武術の大事等傳授なして後、質實の武士となりしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:真木野久兵衛本格武辺譚で直連関。
・「あさまに」は形容動詞「浅まなり」で、浅いさま・奥深くなく、剝き出しになっているさまの謂いであるから、草木もあまり生えていないような、地肌が剝き出しになっている状態を指すのであろう。
・「□りて」底本には『(凝カ)』と右に傍注するが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「誇りて」とあり、この方がよい。これで訳した。
・「牛天神の坂」牛天神(現在の文京区春日の北野神社。切絵図を見ると『別當龍門寺』とあるが明治の廃仏毀釈で消滅した)は水門屋敷の西にあって、神社を下った南に神田上水が流れており、そこから向かって牛天神の左手(西)に安藤坂がある。その安藤坂は牛天神の背後近くで左に鉤の手に折れて伝通院前まで続くが、これを折れずに進むと牛石という大石(現在は神社境内に移されている)にぶつかって右手に折れる牛天神裏の道になる。ここが牛坂である。
・「淸眼」底本には右に『(正眼)』と訂正注がある。

■やぶちゃん現代語訳

 又 久兵衛その剣術に巧みなる事

 享保の頃は、牛天神うしてんじん辺りは今のようには開けたところにては、これなく、崖の地肌なんども赤土が剝き出しになった、それは荒れ果てた寂しい場所であった。
 この近くに住んで御座った武士が、おのが武術に誇り、所謂、辻切りなんどを致いて御座った。また、この辺りは普段より、よからぬ盜賊のなすわざでもあったものか、天神の坂の上より、通行人を南の天神の裏手へと追い落し、金品を奪うなんどといった不逞の輩もたびたび出没しておったと申す。
 さてもある日の夜中、久兵衛、所用の御座って、牛天神の坂を上って行って御座ったところ、突然、大男が一人、太刀を抜き放って、久兵衛にうち掛かって参った。
 久兵衛はしかし、少しも騒がず、短刀を抜いて、右手一本に差し出だし、これを正眼せいがんに構え、その悪徒にたち向かって御座った。
 短刀ながら――その微動だにせぬ鋭い先鋒から放たれた、尋常ならざる久兵衛の気魄に――これ、こらえ難くなったものか、悪徒は、
――じりっ――じりっ――
と、後ろへしさって行く。
 久兵衛は変わらぬゆっくりとした速さで、
――すすっ――すすっ――
と前へ進む。
 悪徒と久兵衛が間には、まるで目に見えぬ何かが挟まっておるかの如、久兵衛の進むのと、悪徒が押されてしざるのが、同時に起こるので御座る。
 と!
――ずざざざざざぁざぁッ……
と、かの悪徒は後じさりし過ぎて、天神裏の崖の上より、真っ逆さまに天神の境内の谷底へと落ちてしもうたと申す。
――カチン
久兵衛は短刀を静かに戻すと、何事もなかったかのように己が屋敷へと帰って御座った。

 さて、かの悪徒はと申せば、知らずに崖を後ろ向きに落ちたため、体のあちこちに打ち身やら切り傷を致いて、暫くの間苦しんでおったが、何とか全快致いたと申す。
 その快癒致いた日のこと、近くの町家へ、病み臥せっておったうちは吸えなんだ煙草を求めに参った。
 店に入って、煙草の葉なんどを品定めしておった最中、かの久兵衛も同じく煙草を買いに参って、彼に気づくことものう、親しげに主人と軽い言葉を交わした後、買い調えると店を出て行った。
 かの悪徒はその間、よくよく男の顔を見てからに、
『……か、かの男こそ……この間、牛天神にて出逢った老人ではないかッ?!……』
と悟った。その瞬間、もう体がぶるぶると震え出すほどに怖ろしゅう感じた。
 久兵衛が去った後、男は煙草屋に、
「……い、今の御仁はどなたで御座る?」
とその名を尋ねたと申す。
 すると主人は、
「あのお方こそ、この辺りにて『剣術の達人』と誉れ高い、真木野久兵衛さまで御座います。」
と答えたゆえ、それを知って今更ながら驚いたと申す。
「……まことに……そうで御座ったか……」
と、この一刹那、己れの太刀への悪しき驕りの気持ちは雲散霧消、その煙草屋主人にいんぬる日の出来事を包み隠さず語り、
「――何卒、仲介の労をおとり下さるまいか? 何としても――お弟子となりとう御座る!」
と乞うた。
 されば煙草屋主人が仲立ちとなって、久兵衛殿に面会することが叶い、そこでも素直にかの夜の謝罪をなした上、入門の懇請を致いたと申す。
 久兵衛はそれを聴くと、何と、その場にて即座に入門弟子入りを許した。
 それより久兵衛は当流の武術奥義など、すべてを、この弟子に伝授なしたと申す。
 この高弟はその後も永く、誉れ高き質実剛健の武士として名を残した、とのことで御座る。



 ※を取奇法の事
[やぶちゃん字注:「※」=「疒+「黑」。]

 蛇の拔殼ぬけがら糠袋ぬかぶくろいれすするに、いゆる事妙也と人の語りしに、折節予家内にていぼ多く、面部へ出來こまりしが、人のをしへに任せ其通りになせしに、癒ぬる事まの當りに見へしゆへ爰に記しぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。既に「巻之六」に「いぼをとる呪の事」として二例が掲げられてある「※」(=「いぼ」)取りまじないの民間療法シリーズである。静岡市葵区太田町の「平松皮膚科医院」の公式サイトの「いぼ取りのおまじない」のページを見ると(同医院の「いぼ治療に思う(2) 伝染性いぼの自然治癒のいろいろ」によれば伝染性イボは暗示療法によって取れる場合があると記されているから馬鹿にしてはいけない。根岸の妻のケースもこれであろう)、この蛇の抜け殻を用いた疣取りの呪いは採集例が多く、北海道・岩手(二件)・茨城・群馬の五ケースが示されている。知られた「いぼむしり(カマキリ)にくわせる」(福島県)や「巻之六」の類型である「初雷の鳴った時、箒でなでる」(岩手県)及び「歳の数の大豆を用意し、名前を唱えいぼとりを祈願をして、その豆をきれいな水の流れに埋める」(宮崎県)以外にも私が面白いと思ったものに、「疣を蜘蛛の糸でしばる」(北海道)・「墓石に溜まった水を疣につけて後ろを振り向かずに帰る」(岩手県)・「墓場のカッポ(花立)の水をイボに付けるととれる」(宮崎県)や、これらを総編集したような沖縄県の「疣を墓の水で洗う」「雷の日に庭に出て雷光とともに箒ではたき落とす」「疣と同じ数だけの豆を盗んで金一銭とともに紙に包み道に捨てる」があった。なお、リンク先の最後に出る「耳嚢」所載の豆腐を用いた疣取りの呪いというのは、次の未着手の「卷之八 いぼ呪の事」の記載である。
・「入すするに」「すする」は「こする」の誤りか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『包みこするに』とある。これで採る。

■やぶちゃん現代語訳

 疣を取奇法の事

 蛇の抜け殻を糠袋ぬかぶくろに入れて疣の上をこすると、忽ち疣の落ちて癒えること奇妙なる、と人が語って御座ったゆえ、折柄、私の家内には疣が多く出でて、特に顔面部分へこれ、多く出来しゅったい致いて大いに困って御座ったが、その人の教えに任せて、その通りに致いたところが、美事、癒えること、これ目の当たりに致いたによって、ここに記しおくことと致す。



 蟲さし奇藥の事

 ある海邊の在郷に、親はれふし得たる烏賊いかを料理、いかの墨手中に附居つきゐたりしが、其いとけなき子いかゞせしや、まむしにさゝれしとてなきわめく。かたへの人もたちつどひ、親なる者、いづれさゝれしやと烏賊のすみつきし手にて、其さゝれし所を撫で抔し、誠にわするゝ如く痛去いたみさり無程痛快ほどなくつうかいなりし。其□□虫さしの□へはいかのすみをぬるに快驗得る事奇々妙也。

□やぶちゃん注
○前項連関:疣コロリから蛇咬傷の民間薬シリーズで直連関。イカスミは関節潤滑・皮膚損傷修復効果や保湿・美肌作用を持つムコ多糖類を多く含み、他にも最近では抗ウイルス性・代謝促進・免疫力向上・抗癌作用などの薬理効果もあるとするようである。漢方では特に補血作用を活かして粉末にしたものを狭心症の治療薬として用いているともある。但し、同じ墨でもタコスミはやめた方が無難である。毒性が認められるからである。私のブログ記事「蛸の墨またはペプタイド蛋白」を参照されたい。
・「其□□虫さしの□へはいかのすみをぬるに快驗得る事奇々妙也。」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(恣意的に正字化した)、
 其一郷は虫さしの分へはいかの墨をぬるに快驗を得る事奇々妙々の由人の語りぬ。
とある。この部分、大々的にバークレー校版で採る。

■やぶちゃん現代語訳

 毒虫に咬まれた際の奇薬の事

 ある海辺の田舎でのこと。
 親は今日、すなどって参った烏賊いかを料理して御座って、烏賊の墨が手の中にべったりとついておったと申す。
 ちょうどその折り、頑是ないこおが、如何したものか、
まむしに刺されたぁッ!……」
と泣き叫ぶ。
 近所の者どもも駆けつけて見たところが、親なる者が、
「ど、どこを刺されたじゃッ!?……ここかッ?……こ、ここかッツ!? ここかッツ?!……」
としきりに聴いておるものの、こおは泣き叫ぶばかりにて要領を得ぬ。されば結局、烏賊の墨がついたてえにて、その噛まれた辺りを、ただしきりに撫で回して御座った。
 こおの肌えは、これ、みるみる真っ黒――
――と、突然、こおが泣きやみ、
「おっとう……ちいとも、痛う、のうなった。……」
とけろりと致いた。
 まっこと、咬まれたことも忘れたように痛みが全く消え、ほどのう、咬まれたその跡方もなく快癒致いて御座った。
 これより後、その里にては、蛇に咬まれた際には烏賊の墨を塗ればたちどころに快癒を得ること、これ、奇々妙々なりと伝えておる由、さる人の語って御座った。



   又

 まむしはさら也、すべて虫さししに、ころがき付置つけおきて、さゝれし所へつくるに、是奇々妙也。

□やぶちゃん注
○前項連関:蛇咬傷を含む虫刺され民間薬シリーズ連続。
・「ころ柿」転柿・枯露柿などと書く。干し柿のこと。渋柿の皮を剝き、天日で干した後に莚の上で転がして乾燥させたことから。干し柿はビタミンCとビタミンを多量に含んでおり、現在でも、二日酔い・風邪・夜尿症・高血圧・火傷・かぶれ・しもやけ・痔・虫刺され・歯痛に効く、とされている。

■やぶちゃん現代語訳

 毒虫に咬まれた際の奇薬の事 その二

 蝮は勿論のこと、総て虫に刺され咬まれた際には、干し柿を酢に漬けおいて、それを刺し咬まれたところへつけると、これ、奇々妙々の効果を発する、とのこと。



 ※いつの妙藥の事

[やぶちゃん注:「※」=「疒」+「各」。]

 坂野さかのの喜六郎租母、かくいつのやまひをうれゐて、諸醫師手を盡しぬれど其印なし。或人、まるめろをたくはへたえず用ゆれば、快といふにまかせ、なまはさら也、砂糖漬抔になして朝夕用ひけるに、やがてこころよくなりて八十餘歳迄存命なせしと、喜六かたりける。

□やぶちゃん注
○前項連関:民間療法シリーズ四連発。
・「※いつ」[「※」=「疒」+「各」。]「かくいつ」は膈噎。「膈」は食物が胸につかえ吐く病気。「噎」は食物が喉につかえて吐く病気をいう。現在の胃癌又は食道癌の類と推測されている。「かくやみ」「かくやまい」とも。底本の鈴木氏も岩波の長谷川氏もそう(しかも両者ともに癌と断定しておられる)注して終わりとする。では、本当にこの老婆は現在でいう胃癌か食道癌であったかと言えば、これは読む者は誰もそうは思わない。この老女、全快しており、しかもその後も有意に長生きしたことを考えると(治って直ぐに老衰で死んだというようには「読めない」。膈噎の全快後、有意に数十年は生きたのでなければ「やがて快なりて八十餘歳迄存命なせし」とは「書かない」)、これは癌ではない。これは所謂、嚥下障害としてとらえるべき病態である。しかも、一定の時期を経て完治し、再発していない点では器質的機能的な原因ではなく、心理的なものや精神疾患の一症状が疑われる(だからこそプラシーボ効果としても本療法の効果があったとも考えられる)。ウィキの「嚥下障害」によれば、神経因性食欲不振症など摂食障害、認知症や鬱病などで食欲制御が傷害されている場合に症状として現われる、とある。精神疾患を持たない人の嚥下障害有病率が六%であるのに対し、精神疾患患者の三二%が嚥下障害を持っているとし、窒息事故の割合もはるかに高く、認知症ではしばしば食事をしたことを忘れるが、食事をしたことを忘れても食欲制御が傷害されていなければ異常な量の摂食は困難である。研究は少ないが、嚥下造影検査の分析から認知症では八四%の患者が何らかの嚥下障害を持っている、という報告がある、とある。先人である鈴木氏や長谷川氏に文句を言うのではない。しかし本来、注というものが読者への一つの編著者の配慮であるのだとするならば、ここまで語らなければ私は注とは言えないと考えているのである。それが私があらゆる注を施す際に常に心懸けている「節」であるということを、この場を借りて表明させて頂く。
・「坂野の喜六郎」坂野孝典たかつね(寛延元・延享五(一七四八)年~?)。寛政二(一七九〇)年御勘定組頭。「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年に存命ならば五十八歳である。
・「まるめろ」バラ科ナシ亜科マルメロ
Cydonia oblonga榲桲まるめろは中央アジア原産のバラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ Chaenomeles speciosa や同じボケ属のカリン Chaenomeles sinensis に近縁な果樹で、栽培が盛んな長野県諏訪市など一部の地域では「カリン」と呼ばれている。リンゴや西洋ナシとも比較的、縁が近い。果実は偽果(普通の果実は子房の肥厚したものであるが、子房本体ではなく、その隣接組織に由来する部分が果実状化したものを指す。例えばイチジクはイチジク状果と呼ばれる偽果、リンゴやナシのようなナシ状果では我々が果実と思っている食している部分が偽果で、食べ捨てている芯の部分が真の果実)で、熟した果実は明るい黄橙色で洋梨形をしており、長さ七~一二センチメートル、幅六~九センチメートルのやや上部がくびれて小さい洋ナシのような形を成す。果実は緑色で灰色若しくは白色の軟毛(大部分は熟す前に脱落する)で被われている。果実は芳香があるが強い酸味があり、硬い繊維質と石細胞のため生食は出来ないが(このお祖母ちゃんは生食したとあるから凄い。お祖母ちゃんが可哀そうなので訳では薄く切って差し上げた)、カリンと同じ要領でカリン酒に似た香りの良い果実酒とする。他にも蜂蜜漬けやジャム(ポルトガル語でこれらのデザート系の加工品を“marmelada”(マルメラーダ)と呼称するが、これが今日の「マーマレード」の語源である)などが作られる)ここまでは主にウィキの「マルメロ」 「偽果」に拠った)。カリンと同じく漢方では鎮咳などに効果があるとする。因みに、「マルメロ」という和名は本種(の実?)を指すポルトガル語の“marmelo”に由来する。これは恐らくギリシア語由来で、ギリシャ語では“melimelon” と言い、“meli”(甘い)+“melon”(リンゴ)の意味であるという。属名“Cydonia”はクレタ島の古代都市 キドン(Cydon)に由来するとされ(但し、マルメロの原産地は中央アジアからイランで、ギリシア・ローマの時代から移入されて栽培されたために間違った産地名を属名に用いてしまったケースである)、種小名の“oblonga” は「長楕円形の」という意味で、実の形に由来している(以上は高橋俊一氏の「世界の植物-植物名の由来-」のこちらのページの「マルメロ」の記載を参照させて戴いた)。なお、漢名「榲桲」は音では「オツボツ」と読む。

■やぶちゃん現代語訳

 膈噎かくいつの妙薬の事

 坂野さかの喜六郎殿の租母は、永く、飲食の際の困難や嘔吐といった膈噎の病いを患って、諸医師が手を尽くして療治致いたものの、全く以って、その効果が見られなんだと申す。
 ところが、ある人が榲桲まるめろを貯えてそれを絶えず服用致さば快癒間違いなし、と申したによって、ごく薄く切っての生食は言うまでもなく、砂糖漬なんどに致いて、朝夕欠かさず用いたところが、暫くすると、すっかり快よくなり、一切の膈噎の症状は、これ、全くなくなって、その後は何と八十余歳まで矍鑠として存命であったとは、喜六殿御自身が語って御座った話で御座る。



 幽靈恩謝する事

 文化貮年の八月の事成るよし。神田橋外津田何某の先代召仕ひしせふ、隱居にてかの屋敷にすみける。彼妾年比としごろいとけなきより召仕ひし小女、音曲おんぎよくを好み琴ひかん事を願ひしに、右の隱居申けるは、かろきもの音曲にて奉公せんも、中々一通りにては其わざ申立まうしたつるには至らじ、よみものぬひはりこそ輕きものゝ片付かたづけても用にたつべしとをしへける。素より資才の生れ故、讀もの縫針の事心を用ひ勤しに、無程ほどなくあつぱれ手利手書てききてかきとなんなりぬれば、主人のうばもかれが兼てのぞみの琴彈せんとて、彼屋しきへ立入たちいり、娘子達に指南抔せし瞽者こしや賴教たのみをしへ貰ひしに、是も無程其心を得うけしに、哀なる哉、風のこゝちにて、八月ちう身まかりし由。右風邪はじめの程はまでもなかりしが、段々隱症いんしやうの※痲と也てなやみける故に[やぶちゃん字注:「※」=「疒」+「却」。]、橘宗仙院の弟子宇山隆琢をたのみ、藥用深切なれ共、當人其しるしなき故、隆琢も下宿したやど致させ可然しかるべしとて申ぬれど、年久しく召使ひ哀がりいなみいなみとゞめて、暫くは屋しきにありしが、兎角よからず迚人々のまうすにまかせ、深川の親元へ下げけるが、或夜陰居の老人の夜更寢覺よふけねざめせしに、枕元に彼女すわれ居けるにうつゝの如覺ごとくおぼえ、汝は病氣なりしにいかに成しとたづねし。かの女さめざめとなきて、誠にいとけなきよりあつき御惠みにて人並々に生立おひたちし事、海山うみやまの御恩いつか報じ奉らんと明暮思ひ侍りしに、最早今を限りの命に候へ共、思ひし甲斐もなければせめて御禮をまうすなりとまうしけれ。主人姥も、いかでさるあらたなりし事申者哉まうすものかな年比だてなく我につかへ、心にそむくことなきは、此方より禮をこそまうすべけれ、煩ふ事ありては我も朝夕不自由におぼえ侍れば、年も若き事よく養生し早く快氣せよと答へければ、あり難仰事がたきおほせごと身に餘りぬと申けるが、形もきえ夢のこゝちにて夜あけぬれば、人をして親元へたづねけるに、昨夜見まかりぬと答へぬれば、主人も深く歎きかなしみぬ。其あくる日、彼立入の瞽女ごぜ來りて、今日は外へ用事ありてまかり候へ共、少々御目に掛りたき事ありぬるといゝし故早速呼入よびいれ、彼瞽女も深川ものなれば、右の女の事たづねければ、其事にて候、今朝彼親元へまかりしに、右女夜中に相果あひはてぬ、夜半のころかゝへおこしくれ候樣せちに申ぬる故、いろいろいなみけれど、たつて願ひにまかせだきおこしければ手をつき、いとけなきよりの厚恩をくり返し赦し、何人あるていに其答へ抔いたし、最早心殘りなしと臥しけるが、程なく身まかりしと申ける。主人姥のべ夢うつゝとなく、彼女と應對なしけるとおよそ違ひなければ、扨は精心のあらわれ通ひけるにぞと、深く哀れを催し老姥はさら也、あたりの袖を濡しける。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。正統なる霊異譚で、如何にもしみじみとした極上の心霊情話に仕上がっている。
・「文化貮年の八月」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、一年前の都市伝説である。
・「神田橋外津田何某」底本の鈴木氏の指示に従って、私の所持する尾張屋(金鱗堂)板江戸切絵図の「飯田橋駿河台小川町絵圖」を見ると、神田橋御門から北東へ八〇〇メートル程の位置(現在の地下鉄淡路町駅付近)に津田栄次郎という人物の屋敷がある。ここだとすれば、根岸の屋敷の直近である。鎭衞の自宅はここから真西へ六〇〇メートル程の位置にある。
・「是も無程其心を得うけしに」底本には「得うけ」の右に『(ママ)』表記。
・「段々隱症の※痲と也て」[「※」=「疒」+「却」。]不詳。しかし不詳のままでは訳せないため、
「隱症」はとりあえず性質の悪い、悪性の意
で訳しておいた。
「※痲」については、まず岩波のカリフォルニア大学バークレー校版原文では、
『*疳』[やぶちゃん字注:「*」=「疒」+(「降」-「阝」)。]
とあり、長谷川氏は注で、
『底本★[やぶちゃん字注:「★」=「疒」+「争」。]とも見える字で、次章に同字を書き瘴と訂正しているので、ここも瘴疳であろう』(下線やぶちゃん)
と推測なさって、次の「又」の章の、同
「瘴疳」の注では『傷寒。高熱を伴う疾患』 とされておられる。しかしながら、こちらの底本では、
次章のそれは『痛疽』 とある。これは文字通りならば、
背中などに出来る激痛を伴う悪性の腫れ物、ようの類
をいう。本底本を無心に見るならば、少なくとも本底本では
この章の病いと次章の病いは異なったものとして書かれているようにしか見えない(章の病名との相同性は立証出来ない)が、訳の理解し易さを第一としてここは暫く、長谷川氏の傷寒しょうかん説をとって訳しおくこととする。
 なお、「傷寒」とは漢方で、広義には体外の環境変化により経絡が侵された状態を広く指す語で、狭義には重症の熱病・腸チフスの類を指すようだが、この場合は直前の病態などから見て、
感冒が重症化したもの、恐らくは肺炎が死因となるようなものを指している
ように私には思われる。
・「橘宗仙院」岩波版で長谷川氏は奥医で法印であった橘元周もとちか(享保一三(一七二八)年~?)かと記す。彼は寛政一〇(一七九八)年に七十一歳で致仕している。次の代ならば元春になる。それ以前の代の「橘宗仙院」「卷之三 橘氏狂歌の事」はに既注済。
・「宇山隆琢」不詳。
・「枕元に彼女すわれ居けるに」底本には「すわれ居ける」の右に『(ママ)』表記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『すはければ』(読みは歴史的仮名遣化した)である。
・「せめて御禮を申なりと申けれ。」底本には「申けれ。」の右に『(ママ)』表記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『せめては御禮をまうす也」と申けるにも、』(正字化して読みは歴史的仮名遣化した)である。
・「いかで去あらたなりし事」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『いかでさる改りし事』である。バークレー校版で訳した。
・「いとけなきよりの厚恩をくり返し赦し」底本では「赦し」の右に『(謝カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は確かに『謝し』とある。]

■やぶちゃん現代語訳

 幽霊の恩謝する事

 文化二年の八月のことであった由。
 神田橋そと、津田何某なにがし殿の御先代の召し仕っておられた御側室が、隠居して同屋敷うちに住んでおった。
 その御側室は年来としごろいとけなき折りより召しつこうておった小女こおんながあり、年頃となるに従い、音曲おんぎょくを好み、琴を弾くことを願って御座った。
 それを隠居のおうなの聴いて、
「――身分の賤しき者が、音曲をもって武家などへ奉公せんとしても、なかなか一通りのことにては、その技芸を以ってして身を立てるまでには至るまい。――まずは読み書き・縫い物をこそ身にしかりとつけておれば、そなたらの身分にて、相応のお方へ縁づいたとしても、これ、十二分に役に立つことじゃて。」
と諭して、媼手ずから、それらを教えた。
 もとより相応の才能の生れであったゆえ、読み書き縫いはりのこと、これ誠心を込めて習練に勤めたところ、ほどのう、あっ晴れの縫い物上手・上手の手書きとなって御座ったによって、主人の媼も、それではと、かの小女が兼ねてより望んで御座った琴を弾かせんものと、御屋敷へ出入り致し、主人が娘子たちに琴の指南など致いて御座った盲人めしいの者に頼んで、小女へ琴を教えて貰うことと致いた。
 こちらの方も、ほどのう、師匠の奥義をも体得し得て御座ったと申す。
   *
 ところが――哀れなるかな、この小女――ふと、風邪気味となったかと思うと――八月中、瞬く間に――儚くも身罷ってしもうた――由で御座る。
 その風邪、初めのうちはさほどのものではなかったものが、だんだんに悪うなって参り、ついには性質たちの悪い傷寒の症状と相い成って、日々の立ち居にも、如何にも苦しそうに致いて御座ったゆえ、媼は奥医橘宗仙院さまの御弟子であられた、宇山隆琢さまを頼み、直々に療治をお願い致いた。
 宇山さまは施方施術に深く心をお砕き下すったものの、患者には一向にその効果が現われぬゆえ、隆琢さまは、
「――これはまず、実家へお帰しになられ、じっくりと療養さするがよろしかろう。」
との見立てで御座ったが、媼は、年久しゅう召し使い、可愛がって参った小女で御座ったゆえ、ついつい、それに対して首を縦に振らずに、ずるずると引きとめ、結果、暫くは前の通り、屋敷内に留めおいて御座ったが、宇山さまも遂に、
「――いや、ともかくも、かの者の病態は尋常では御座らぬ!……」
ときつく申され、また媼の周囲の者どもも口々に宿下がりをお薦め申したによって、媼はしぶしぶ、深川の小女の親元へと、下げ帰して御座ったと申す。
   *
 さて、それから暫く致いた、とある夜陰のことで御座った。
 隠居所の媼、夜更けにふと目覚めた。  と――枕元に、かの小女が、坐っておるさまが、これ、うつつの如くはっきりと見えた。
「……そなたは病気で宿下がり致いたはずであったに、どうして、ここに……」
と訊ねたところ、彼の小女は、さめざめと泣きくれ、
「……まことにいとけなきより厚き御恵みを頂戴致し……賤しき我らなれど……もう人並に生い立つことも出来まして御座いました……かたじけなき海山ほどの御恩……いつか報い奉らんものと明け暮れ思おて参りましたが……最早……今を限りの命にて御座います……されど……御恩に報いんとの思いの甲斐ものうなったとなっては……これ……せめてもの御礼おんれいを申すばかりにて……御座いまするぅ……」
と申す。
 主人媼も、
「……どうしてそのようなことを……そんなに改まって申そうとするかのう。……年来としごろ、隔てのう、我らに仕えて呉れたではないか?!……我らが心に一度たりとも背くことの御座らなんだこと、これ、却って我らのかたより礼をこそ申したきほどじゃった。……そなたが患うてよりこの方、我らも朝夕、何かと不自由を覚えておるのじゃ、え。……そなたはまだ年もわこうなれば、よく養生し、 はよう快気致いて戻っておくれ。」
と諭したところ、
「……ありがたき仰せごと……身に余り……まして……御座いまするぅ…………」
と申したかと思うと、
――ふっと
姿形も消え入っておった。……
……と、そこで夢見心地にて確かに目覚めたところ、夜もすっかり明けて御座った。
 されば、何やらん、気懸りなれば、人を遣わして、かの小女の親元を訪ねさせたところが、戻った下男が、
「……昨夜……身罷った……とのことで御座いました。……」
と告げたによって、主人媼も深く歎き、悲しみに沈んで御座ったと申す。
   *
 その明くる日のことであった。
 かの小女の琴の師匠にして屋敷出入りの瞽女ごぜが屋敷に参って、
「……今日は外の用事の御座いまして、こちらさま罷り越しましたが……実は少々、ご隠居さまにお目に掛りたきことの、これ、御座いますによって参上致しまして御座いまする。……」
と申すゆえ、早速に隠居所の奥座敷へと呼び入れたが、媼、はたと気づき、
「……そうじゃ。……そなたも確か、深川に住まい致いて御座ったの。……実は……我らの召し使つこうておった、あの、そなたのお弟子のことじゃが……一昨夜……」
と言いかけたところが、
「――はい。実は……そのことにて御座います。……今朝、かの親元へ罷り越しましたところ、母御ははごぜの申されますに……
   ――――――
……娘は一昨夜のうちに、相い果て申しました。
……夜半のころ、急に我らを呼びましたによって、病床に参りますと、
「……かかさま――どうか――抱え起こして下さいまし!……」
……と、せちに請いますゆえ、
「体に障ることなれば、今はもう、深夜ぞ――」
……なんどと、いろいろ、いなんで落ち着かせんと致しましたが、
「――たつての願いにて御座いまするッ!……」
……と申しましたによって、抱き起こしてやりました。
……すると三つ指ついて、
……誰か、目の前に人のあるかのていにて、
「――まことにいとけなきより厚き御恵みを頂戴致し……」
……と、それを繰り返し、繰り返し謝しては、
……その言葉を聴いた見えぬたれかの返答に、また答え頷き、深々と礼など致いておりましたが、
「――最早……心残り御座いませぬ。」
……と、はたりと臥しました。
……それから、ほどのぅして
……身罷りまして、御座いました。…………
   ――――――
とのお話で御座いました。……」
と申す。
 主人媼は、かのべ、夢うつつとのう、かの娘と応対致いたことと、凡そ寸分もたがうことの、これ、なければこそ、
「……さては……真心の魂となってあくがれ出で……我らが元へと……通うて参ったのじゃ、のぅ……」
と、深く哀れを催し、老媼はさらなり、瞽女もお側に控えて御座った者どもも皆、袖を濡したと申すことじゃった。……



   又

 多喜安長へ隨身ずゐじんなしける醫師、安長世話致、松浦まつら家へ貮拾四歳にてかかへに成りしが、無程痛疽ほどなくつうその病にて身まかりぬ。病中も安長あつく世話いたし、療治不屆相果とどかずあひはてし不便ふびんに思ひをりしに、或夜安長が許へ出入藥種屋藤藏、かの醫師相果し事しらず、與風ふと道中にて右醫師に行合ゆきあひにける。扨々久々にて對面なしたり、我も病氣にて久々引込居ひきこみをりたり、扨安長に數年世話にも成り、松浦家へも右口入くちいれにて抱られ、病中も厚世話になり、誠に其恩可謝しやすべきかぎりなし。何卒安長へ至りなば、我斯申遣かくまうしつかはしとあつく咄し禮謝しを賴入たのみいる由まうしけるにぞ承諾して立別たちわかれ、其日にもや明日にや安長方へ至りしに、彼醫師に行逢ゆきあひしに言傳ことづて禮のおもむき語りければ、其者はいついつ相果ぬると語りければ、右藥種屋も大きに驚き、安長方にても何れも驚きしは、忘念ばうねん殘りてかゝる事もありしや、あはれなる事なり。いづれも袖をぬらしけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:亡魂謝礼譚その二。 ・「多喜安長」不詳。名前からしても医師である。
・「松浦家」肥前国平戸藩。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であり、そうすると「甲子夜話」で知られた第九代藩主松浦清(静山)がまさに隠居した年である。「耳嚢」と並ぶ画期的な随筆集「甲子夜話」(正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻)はこの十五年後の文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜に執筆が開始されている。……ここをかりて何気に申しておくと、近い将来、私はこの「甲子夜話」の全テキスト化を始めようと目論んでいる。……
・「痛疽」前章注で述べた通り、文字通りならば、背中などに出来る激痛を伴う悪性の腫れ物、ようの類を指そう。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『瘴疳』とし、前章の注で示した通り、長谷川氏によるとバークレー校版は「*」[やぶちゃん字注:「*」=「疒」+(「降」-「阝」)。](「★」[やぶちゃん字注:「★」=「疒」+「争」。]とも見える字)『を書き瘴と訂正している』とある。「瘴疳」とはやはり前章注で示した通り、「傷寒」で高熱を伴う疾患をいう。 ・「禮謝しを」底本では「しを」の右に『(ママ)』注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『厚く咄し禮謝しを賴入たのみいる」由申けるにぞ』とある(引用に際して正字化した)。
・「忘念」底本では右に『(亡念)』と訂正注記を附す。

■やぶちゃん現代語訳

 幽霊の恩謝する事 その二

 医師多喜安長たきあんちょう殿に弟子として従って御座った医師ぼうは、安長殿がお世話致されて、松浦まつら家へ二十四の歳にてお抱えの医師となったが、ほどのう、痛疽つうその病のために身罷ったと申す。
 病中も師安長殿が厚く世話致されたが、薬石効なく、相い果てて御座ったゆえ、安長殿も殊の外、不憫に思っておられたと申す。
 ある夜のことで御座った。
 安長の許へ出入致いておる薬種屋藤蔵とうぞうなるもの――彼は、かの医師が既に相い果てて御座ったことを知らなんだ――、ふと往来にて、かの医師に行き合うたと申す。
 するととっくに亡くなったはずの、かの医師、
「これは、藤蔵殿! さてさて久々に対面たいめ致いた。我らも病気にて久しく引っ込んでをりましたゆえ。……さても、安長さまには、まっこと、数年来お世話になり、松浦家へもかくの如くご紹介戴いて、目出度く抱えられもし……かの病中にも、厚きお世話を頂戴致いて――まっこと、その恩、謝すべきに限り御座らぬ。……何卒、安長さまの元へ参らるることが御座いましたら、我らがかく申して御座ったと、くれぐれも宜しゅう……礼謝のほど……きっと、お頼み致しまする……」
と、申したによって、請けがった上、そこ場は別れたと申す。
 さて――その日か、その翌日のことか――藤蔵、安長方へ参ったによって、
「○○さまに往来にて行き逢いまして――」
と先の言伝ことづての趣きを語り出だいたところが、安長殿、
「……その者は……いついつ……とおに……相い果てて御座るが……」
と語ったればこそ、この薬種屋藤蔵も、安長殿も、孰れも大きに驚き、
「……死後の魂の念が、これ、残って御座ったものか。……このようなこともあるのじゃのぅ。……いや、全く以って哀れなることじゃ……」
と、二人して袖を濡らいたと、話に聴いて御座る。



 婦人強勇の事

 仙臺侯の醫師工藤平助といへる者有。かのじきもの語りにてききしとて人の語りぬ。平助若き時より好みて三味線をひきけるが、さる武家の娘のぞみつき少斗教すこしばかりをしへし事もあり。彼娘年比としごろ緣付えんづきけるに、先方も小身の籏本はたもとにて、貮度目にて先妻の娘貮ツになんなりし由。然るに彼婦人、娘を片脇に寢付ねつかせ縫物してたりしに、年比廿ばかりの女忽然と、右寢たる子の脇に居けるにおどろきけるが、勇氣もたくましき婦人なるや、右女に向ひ、いつより來り給ふやとしづかたづねけるに、一向こたへなければ、尚又いか成語なることに來り給ふやと尋しに又答なき故、せん方なく其樣子をとく見屆みとどけしに、程なくいづち行けん見へず成りぬ。其家に老女のありける故、斯々かくかくの女來りたり、其容貌有樣くわしく語りければ、それはすぎさり給ふ先の奧方ならんとまうすゆへ、彼婦人申けるは、我にうらみあるべき事もなし、出生せし娘子に心殘りてならむ、我身今この家へ嫁し參る上は、小兒は我産わがうみし子も同じ事なれば、などおろそかになすべき、産みの子より大事ならんに、心殘りて迷ひ給ふいたわしさよといゝて、其夜用所ようしよへ彼奧方至りしに、最前の女窓より顏を出し居たりけるに、一通りの婦人なりせば聲たて氣絶もなすべきに、靜に彼女にむき、御身は先の奧方なるべし、年若き男最愛の妻にわかれては、又の妻むかふるも常なれば、我に恨みありて見へ給ふにはあるまじ、あれなるおさなき子に心殘りてならん、我身爰に嫁し來ぬれば、則我すなはちわが同前どうぜんなれば御身にまさりていつくしみそだつるなれば、安堵して迷ひ給ふなと申ければ、彼女忽然と消失きえうせしが、其後はかつてさる事なくさかへける。

□やぶちゃん注
○前項連関:本格霊異譚三連発。
・「工藤平助」(享保一九(一七三四)年~寛政一二(一八〇一)年)は仙台藩江戸詰藩医で経世論家。四十歳代前半までは医師として周庵を名乗り、髪も剃髪していたが、安永五(一七七六)年頃、藩主伊達重村にから還俗蓄髪を命ぜられ、それ以後、安永から天明にかけての時期、多方面にわたって活躍するようになった。安永六(一七七七)年には、築地の工藤邸は当時としてはめずらしい二階建ての家を増築、二階にはさわら(檜の同属で水湿に強い。)の厚板でつくった湯殿があり、湯を階下より運んで風呂として客をもてなしたといわれる。手料理なども上手く、ここに出る三味線の師匠というのも納得出来る。平助は、藩命により貨幣の鋳造や薬草調査なども行い、また、一時期は仙台藩の財政を担当し、さらに、蘭学・西洋医学・本草学・長崎文物商売・海外情報の収集・訴訟の弁護・篆刻など、幅広い学識と技芸を有した才人であった。ロシアの南下政策に対して警鐘を鳴らし、開港貿易とともに蝦夷地の経営を論じた「赤蝦夷風説考」(天明三(一七八三)年完成)の筆者で、若き日の仙台藩士林子平(平助より四歳下)に影響を与えた人物としても知られる。先駆的な海防軍事書として評価の高い、寛政三(一七九一)年に全巻刊行された林子平の「海国兵談」は、この「赤蝦夷風説考』の情報に多くを依拠している(以上はウィキの「工藤平助」に拠った)。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、平助の死後五年が経過している。
・「いつより來り給ふや」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「いつより」は『何れより』とある。それで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 婦人強勇の事

 仙台侯の江戸詰医師工藤平助殿と申すお方が御座る。
 この御仁から直話じきわとして聞いたと、人の語って御座った話。
 平助殿、若き時より三味線を好んで嗜んでおられたが、さる武家の娘、これが、たっての望みにつき、その娘に少しばかり、三味を教えことが御座ったと申す。
 その娘が、そのうち年頃となって縁づいた。
 先方は小身の旗本にて――後妻――亡き先妻の二つになろうかと申す娘も御座った。
 ところがあるのこと、この婦人が娘を片脇に寝かせつけて、縫い物なんどしておったところが、ふと、はたを見れば、
――年の頃二十はたちばかりの女が独り
――忽然と現われ
――その寝ておるこおの脇に
――凝っと
――坐っておる。……
奥方、内心ひどく驚いたものの、よほど、勇気稀に見る強き婦人ででも御座ったらしく、その妖しき女に向かい、
「……何処(いずこ)より参られたのじゃ?」
と静かに訊ねた。
 が、一向、答えも御座らぬ。
 されば、なお、
「何のために来られたのじゃ?」
と再三、訊ねた。
 が、またしても、答えは、これ、御座ない。
 さればとて、仕方なく、その影薄き姿を凝っと――見詰めて御座ったと申す。
――が
――ほどのぅ
――何時の間にやら……一体どこへ消えたものやら……影も形も見えずなって御座ったと申す。
 翌日、そのに老女中の御座ったゆえ、奥方は、二十ばかりの、かくかくの女が昨夜来たったこと、その容貌・有様なんども含め、詳しぅ語って聞かせたところが、老女は真っ蒼になって、
「……そ、それは……とうに、お亡くなりになった……さ、先の奧方さまに……相違御座いませぬ。……」
と申した。
 すると、それを聴いた奥方は、
「……わらわに恨みを持っておるようには全く見えず御座った。……されば、出生しゅっしょう致いた娘子むすめごに心が残ってのことで御座いましょう。……妾が今、このいえへ嫁して参った上は――小児は妾が産んだ子も同じこと――どうしてはごくむにおろそかになど致すもので御座ろうか――実のこおより大事大事に致いて御座いまするに。……心の残って、未だこの世に迷うておらるることの、何と、いたわしいことか。……」
と呟かれたと申す。
 さてまた、そののことで御座った。
 奥方が後架こうかへ立たれたところが、
――前夜の女が再び
――今度はこともあろうに
――後架の窓より内へぬっと顔を突き入れて御座ったと申す。
これ、普通の婦人で御座ったれば、金切り声を張り挙げ、気絶すること間違いなきことなれど、やはりこの婦人、尋常の婦人にては御座らなんだ。
 静かにかの女の霊に向き直ると、
「……御身は、先の奧方で御座ろう。……年若き男の、最愛の妻に死に別れては、またの妻をお迎えにならるるも、これ、常のことなればこそ、妾に恨みのあって、現われなすったのでは御座るまい。……あの、幼きこおのことが、これ、心に残ってのこととお察し申しまする。――我らこと、ここにし来たった上は――かのあなたさまのこおは――則ち、我が子同然なればこそ――御身に勝って慈しみはごくむ覚悟なれば――どうか、ご安堵なされ、お迷いになられ給うな。――」
と申したところが、かの女の霊は忽然と姿の消え失せたと申す。
 そののちは、かつてそのような怪事の起こることも、これなく、その御旗本も大いに栄えたと、申すことで御座った。



 久野家の妾死怪の事

 貮三代以前安永のころつとめて予も知る久野某妻を迎ひけるに、或日夫は夜咄よばなしに出て妻は閨に臥しをりしに、月もれなく障子をてらす。怪しき顏の移りければ、眼さめて何もの成哉なるやと聲かけければ、有無の答なければ起出て障子を開きしに、壹人の女緣に下りんとせしに、追て出、誰なると髮をとらへしに、ゆかにて候といゝしを、右髮はのこり、形はかき消失ぬ。彼妻右髮を仕𢌞置しまはしおきて、夜ふくる比夫歸りて閨に入りし時、御身はわらはの不參らまゐらざる以前、召仕ひの妾あるべしと尋しに、いまだ妻の來りて程なければ、曾て左樣の者なかりしといなみ答へける。なの給ひそ、ゆかといへる召仕めしつかひなんありしとたづねけるに、夫も驚きて、何故さること尋ぬるやといゝし故、ありし事共委しく語り、彼髮を取出し見せて跡を念比ねんごろに弔ひ給ひてしかるべしと申けるにぞ、夫も利に伏して佛事等なしける。

□やぶちゃん注
○前項連関:本格霊異譚四連発。
・「久野某」底本鈴木氏注に久野孝助(宝永七(一七一〇)年~安永五(一七七六)年)かとする。延享元(一七四四)年御勘定、宝暦八(一七五八)年御金奉行、安永三(一七七四)年御蔵奉行で、二年後に享年六十七歳で亡くなっている。根岸は元文二(一七三七)年生まれであるから二十七歳も年上であるが、根岸が二十一で宝暦八年に勘定所御勘定になっているから、そこで接点があったか。彼は久野『孝辰の女に入夫したが、死別して幸田氏の女を後妻に迎えた。この後妻と家付き娘の先妻とにまつわる話であろう』とされているが、岩波版で長谷川氏が不審とされているように、だとすると本文の「妾」「召仕ひの妾」という設定は如何にもおかしい。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから死後三十年も経っており、「召仕ひの妾」という設定からも久野自身から聴いたものとは思われない。後日に変形された都市伝説の類であろう。しかし、新妻の度胸も優しい心根もよく描けているにも拘わらず、新妻を置いてまで夜咄の茶事に出向く久野の人柄や、ひいては亡くなったという召使いの妾の死因など、如何にも変形が不全で、不満が残る。私のような者でももっとしみじみとしたものに仕上げるであろう。新妻の表情が豊かであるだけに惜しい気がする話柄である。
・「迎ひけるに」底本では右に『(ママ)』注記を附す。
・「夜咄」夜咄の茶事ちゃじのことか。茶事七式の一つで、炉の季節に午後六時頃から行われる茶会をいう。
・「利に伏して」底本では「利」の右に『(理)』と訂正注を附す。

■やぶちゃん現代語訳

 久野家のめかけ死霊しりょうの怪の事

 二、三代も前のこと、そうさ、安永の頃まで勤めて御座って、私も存じて御座った久野なにがし殿の話で御座る。
 久野殿が嫁を迎えられた。
 ある日の、夫は夜話の茶事に招かれ、妻は閨にて臥しておられたが、未だ目覚めてはおられたと申す。
 月が隈なく障子を照らしてだしておる晩で御座った。
――ふと
障子に妖しき人の顔型の動いたによって、妻女は即座に起き直り、
「何者かッ!」
と声を掛けた。
 しかし、答えがない。
 されば、起き上がって障子に走り寄り、
――タン!
と素早く開けてみたところが
――一人の女が
――今にも縁を降りんとして
御座った。
 されば直ぐに出でて追いかけ、
たれなるかッ!」
と咄嗟に髪を摑んで誰何すいか致いた。
――と
「……『ゆか』で御座います……」
と答えた――かと思うたら
――妻女の摑んだ髪をだけを残し
――かき消えてしもうた。
 妻女は、暫く凝っと、その手の内に一房残った髪を見つめ御座ったが、何か思いついたように、懇ろにそのたぶさを仕舞いおいた。
 夜更くる頃になって、夫が帰って閨に入ってまいった折り、妻女はやおら起き直り、夫にむこうて、静かに、
「……あなたさまには……わらわの嫁に参らざる以前……たれぞ、召しつこうておられた女で……睦まじゅうなさった者が……これ、おありになったのでは御座いませぬか?……」
と訊ねた。
 されど、いまだ新妻の来てほどなき頃で御座ったゆえ、久野殿は、
「……いや。――かつてそのようなことは、これ、御座らぬ。」
と否んだ。
 するとしかし、
「……そのような頑なな言いはなさいまするな。……『ゆか』と申す召使い――これ――御座られたでしょう。……」
と名ざしたによって、久野殿は正直、吃驚仰天致いて、
「……な、何故なにゆえ……そ、そのようなことを……た、訊ぬるか?……」
とおどおどして反問致いた。
 されば妻女は、今宵御座った怪事をこと細かに語り、先に仕舞いおいたたぶさを取り出だいて見せ、
「……どうか亡くなられたそのお方を――懇ろにとむろうてあげて下さいませ。――」
と申し出たによって、久野殿も理に伏し、かの亡きめかけのために懇ろに供養致いたとのことで御座った。



 即興狂歌の事

 當時御勘定所をつとむる太田直次郎といへる、若き時狂歌に名高く、狂名は四方よも赤良あからといへる、或は寢惚ねぼけ先生といゝしが、今はさる事もせざりしが、壹歳ひととせ御用にて上方へまかりしに、□宿移りなんとせしに、入相比駕いりあひころかごにたくわへし火きえぬれば、當りの町家へ火もらひに僕をよせけるに、かの家に兩三人あつまりて、あれは寢惚先生とて東都にて狂歌に名高き人也、火を乞はゞ狂歌にてもいたさるべき事也、火は不出いでず候とこたへよとて其通り答へければ、赤良矢立やたて取出し、
 入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり
 斯認置かくしたためおきゆきすぎしとなん。上方にても殊に此狂歌を感じ都鄙とひの口ずさみとなりにける。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。狂歌技芸譚。ラスト・シーンに少し翻案を加えた。
・「太田直次郎」既に複数話で既出の狂歌師大田南畝蜀山人四方赤良(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)は本名を太田ふかしといい、通称、直次郎(後に七左衛門と改める)。彼は著名な狂歌師であると同時に御家人で幕府官僚でもあった。「今は去事もせざりし」というのは天明七(一七八七)年に寛政の改革が始まると、改革に対する政治批判の狂歌として人口に膾炙していた「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の作者と目されたことや、田沼意次の腹心であった土山宗次郎と親しかったことなどから目を付けられ、また、戯作者山東京伝らが弾圧されるのを目の当たりにして狂歌をやめ、その後は職務に励む傍ら、専ら随筆などを執筆したことを指している(ウィキの「大田南畝」に拠る)。同ウィキの「公職」の記載によれば、寛政六(一七九四)年に幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格、寛政一一年には孝行奇特者取調御用、同一二年、御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられている。これは江戸城内の竹橋倉庫に保管されていた勘定所関係書類の整理役で、整理しても次から次に出てくる書類の山に南畝は、
 五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳
と詠んでいる。その後、享和元(一八〇一)年に大坂銅座に赴任しており、本話はその折りの逸話かと思われる。文化元(一八〇四)年に長崎奉行所へ赴任、文化五(一八〇八)年には堤防の状況などを巡検する玉川巡視の役目にも就いている。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、この当時は満五十七歳、長崎奉行所勤務であった。根岸よりも十二歳年下である。「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」の「四茂野阿加良」の私の注も参照のこと。
・「□宿」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に『旅宿』とある。
・「入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり」「入相にかねの火入」は日暮れに撞く「入相の鐘」に刀剣や鍛冶での「かね」(金物)の「火入ひいれ」を掛け、「火入をつき出せば」では、鐘を「つき出せば」に、煙草盆の中に組み込まれた火種を入れておく器である「火入ひいれ」を火を求めた人に「つき出せば」を掛け、さらに「ひはくるゝなり」で「日は暮るる」と「火は呉るる」を掛けている。
――入相の鐘――鐘は金物――火入れは縁じゃ――入相の鐘を撞きだすその折りに――火種を呉れろという旅人には――素直に火入れを突き出すものじゃ――いずこの里にても――入相とならば――必ず日は暮るるように――火は呉るるものじゃ――

■やぶちゃん現代語訳

 即興の狂歌の事

 当時、御勘定所を勤めて御座った太田直次郎と申さるる御仁、若き時には狂歌師として名高く、その名は四方赤良よものあからとも、あるいは寝惚先生ねぼけせんせいとも名乗って御座った由。
 今はそのような風狂への執心も、これ、なさってはおられぬようじゃが、一年ほども前のこととか申す、御用にて上方へ参った折りのこと、公務の都合で午後も遅うになって旅籠はたごをば、かなり離れた所へ移さねばならずなったと申す。
 入相ころのこととて、駕籠かごに吊るし灯して御座ったひいが消えてしまい、夜道も不案内のこととて、辺りの町家まちやひいを貰わんと下僕を訪ねさせたところが、かの家にてはたまたま三人ばかり、町屋の好事連が集まって御座って、またその中の一人に太田殿の噂をよう、知って御座った者があり、
「あれは先般、寝惚先生と申し、東都にては狂歌に名高き人じゃて。」
と下僕の主人を見破ったによって、三人相談の上、
「『――火を乞わるるのであらば――狂歌の一つもなさるるが道理じゃ。――それも成さずば火は――出やしまへんで。』とお答エ。」
と手代に申しつけた。
 手代がその通りに答えたところ、下僕は踵を返して駕籠の中の太田殿へ、かくと申し上げた。すると赤良うじ、やおら矢立てを取り出だいて、

 入相にかねの火入をつき出せばいづくの里もひはくるゝなり

したためたものを、下僕から町屋手代に渡いて、そのまま、暗がりの中を行き過ぎたとか申す――無論、狂歌を貰った町家主人は、慌てて火入れと提灯を持たせた手代を走らせては、太田氏の次の旅宿まで同道致させたことは、言うまでも御座らぬ。――
 上方にても、殊にこの狂歌には感じ入って、大いに都鄙とひの口ずさみとして流行って御座ったとか、申すことで御座る。



 屋鋪内在奇崖事

 文化二の冬のはじめ頻に四ツ谷のさる屋しきの庭の中煙たちし俄に崩潰くづれつぶれしに、大きなる穴ありて右下には家居抔ありし。不思議の事なりと口々の評判なりしが、知れる人にききしに大ひ成る妄説なり。大久保余町丁に小普請組久貝忠左衞門支配渡邊吉左衞門といへる人の屋しき内隅の方に畑ありしが、自然と煙立ける故心をつけ見しに、とこしなへに煙たつにもあらず。時として度々立しに、或時右場所くへこみけるが、又あけの日も煙たちくへ込崩こみくづれける。穴あるていてい故土など取退とりのけしに、六疊敷程の小屋にて白壁は塗たる如く、右内片脇にたなの如く土にて仕立したて、右の方井戸ともいふべき物ありくみて見るに泥水の由、右はいか成語なることにやあらん。鬼寶窟きほうくつ抔とりどり珍事の樣子に申觸まうしふれける。予思ふに、右屋しきの先祖か抔穴藏を丁寧に拵へけるを、後世に等閑いたづらに埋め澄しとならん。煙の立しは内に空虛の所なるゆへ、自然と地氣はらんる所あるゆへ、煙のごとくたつなるべしと。又井戸の事不審なれど、是も右の丁寧深切のひと、何か心ありてもふけたるなるべし。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。現職の南町奉行なれば治安維持者として市中の怪異の否定に力が入る。
・「屋鋪内在奇崖事」「やしきうちきがいあること」と読む。
・「文化二の冬」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、ホットな都市伝説である。
・「大久保余町丁」「丁」は錯字で余丁町。「よちやう(よちょう)まち」で現在の新宿区の東部、牛込地区に余丁町として現存する。旗本の組屋敷があった。
・「久貝忠左衞門」岩波版長谷川氏注に『正貞。当時小普請組支配。』とある。
・「渡邊吉左衞門」底本鈴木氏注に『有(タモツ)。寛政二年(二十一歳)家督』とあるから寛政二年は西暦一七九〇年)、当時は数え三十六歳。
・「右屋しきの先祖か抔」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『右屋敷の先々の主か、または今住む人の先祖など』とある。訳ではそれを採用した。
・「埋め澄し」底本では「澄し」の右に『(濟せし)』と訂正注がある。「すませし」と読む。

■やぶちゃん現代語訳

 屋敷内に奇怪な崖の在った事

 文化二年の冬の初め、頻りに、四ッ谷辺のさる屋敷の庭の中に、妖しきけぶりの立って、俄かに崩れ潰れたが、そこには大きな穴が御座って、その底に人の作った家居などがあったと申しては、「不思議なことじゃ!」なんどと口々に評判致いて御座ったが、これは私の知人に聞いてみたところが、全くの妄説であることが判明して御座る。
 その聴取した事実は以下の通りで御座る。
 大久保余丁町よちょうまちに小普請組久貝忠左衛門殿御支配の渡邊吉左衛門と申さるる御仁がおられ、その方の屋敷内の隅のかたに、崖に面して畑があった。
 焚き火なんど何もしておらぬにも拘わらず、その辺りにて自然と煙りのようなものが立つことが、これ御座ったゆえ、気を付けて観察してみたところが、年中煙が立つわけではないが、確かに時として靄のようなものが立ち上ることが御座ったと申す。
 ある時、地震ないも御座らぬに、突如、かの崖が崩れ潰れたが、その翌日も同じところでやはり煙りが立って、同じ如、深く崩落致いた。
 崩れた崖の斜面をよく見ると、そこには大きなる穴がある様子。されば周囲の土を取り退けてみたところが――六疊敷ほどの人工の小屋が――そこに出来しゅったい致いた。
 形状は、総て白壁を塗った如くに綺麗に仕上げてあり、その白壁土蔵の内部の片側には、土を用いて棚の如くに仕立てた箇所があり、同じくその内の一画には井戸とも言うべき形の穴が見出だされた。試みに桶を吊り下げて汲んでみたところが、採れたのはどろどろの水で御座った由。
 以上の奇体なものは一体如何なるものかと、世間でも噂となり、人によっては「鬼や妖怪が棲み、奪い取った宝物を隠すと申す鬼宝窟きほうくつじゃ!」なんどと、まあ、とりどりの憶測妄想を広げては、流言飛語して御座った。
 私が思うには、この屋敷の先祖か、若しくは渡辺殿の御先祖かが、邸内の切岸部分に、大火の折りなどに物を避難させるための穴倉を丁寧に拵えておいたものを、後世――しかし、そうした事実が忘れられるしまうような相応の昔に――誰かが役に立たぬものとして、外見上では全く分からように埋め直し、崖に戻してしまったものであろうと推測致す。
 妖しい煙が立ったと申すは、これ、地の内部に普通は生じないこのような有意に広い空虚なる場所が出来てしまったゆえ、自然と地下の湿気や熱気なんどがそこに時間をかけて溜って参り、それが一杯になった折りに、どこぞに出来た地表に通ずる孔を抜けて洩るることが、これ、時としてあった――それが煙か霞のよ如くに立って見えたもので御座ろう。また、土蔵の内部にあった泥水の井戸と申すは、一見不審奇怪とも見えるが、これも最初にこの土蔵を拵えた丁寧深慮の御仁が――謂わば、そこを火急の折りの避所として作ったと致さば――何か、こう、思うところのあって設けたもの――例えば数日の間はその内にて過ごせるだけの水を得る方途として掘らせたものの、良き水は出ず諦めたが、井戸は埋め戻さず、そのままにしておいた――なんどと考えても何ら、不思議で御座るまい。



 強勇の者自然と其德有事

 松平上總介家士に、物頭役勤ものがしらやくつとめける岩田勇馬といへる者あり。文化貮年のころ七拾餘歳なりし。すこやかにて貮三年以前めかけ出生有しゆつしやうありしを、其せがれ老年の出生、傍輩の批判も氣の毒にこそ思はんと父の前に出、此度の出生をば我等の子の樣にとどけなんとまうしければ、何故右の通り申哉まうすやと尋ける故、高年のうへ出生に付とかく申ければ、老人以の外氣しきを損じ、およそ士は老年に至りても子共こどもの出生せる程の勢ひなくて、君の御用には難立たちがたしらちもなきまうし條也と申けるゆへ、其悴も手持てもちなく退きしと也。かの勇馬親の代には醫師の子にて、輕く被呼出よびいだされ親の代三百石迄に成りしが、勇馬代には加增して六百石に成り、いま物頭を勤ける。悴も貮百石取り、別段に勤ける由。其同役に實子なくて、年久しく勤加恩つとめかおんもなかりし者ありしが勇馬に向て、御身は加報とやいわん、貮代つづけて加恩登庸とうようなし給ふ、我數代つとむ共去どもさる事なしと申ければ、子供さへ拵へ候事ならざる程にて加增抔もらわるべきやと言下に答へけり。座中大笑おほわらひしけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:文化二(一八〇五)年のホットな話柄で軽く連関。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。軽いけれど、如何にも爽やかな武辺物で御座る。
・「松平上總介」諸注、備前国岡山藩第六代藩主池田斉政なりまさ(安永二(一七七三)年~天保四(一八三三)年)とする。岡山藩池田家宗家八代。従四位下・上総介・左近衛権少将。岡山藩池田家宗家は播磨姫路藩第二代藩主で、宗家第二代池田利隆(天正一二(一五八四)年~元和二(一六一六)年)の時に松平姓を賜っている。
・「物頭」武頭ぶがしら。弓組・鉄砲組などの諸隊の首領。下層の組頭・足軽頭・同心頭を統率する長もこう呼んだ。
・「輕く被呼出よびいだされ」下級の小さな禄高で召し抱えられて。
・「登庸」「登用」に同じい。人をそれまでよりも高い地位に引き上げて用いること。

■やぶちゃん現代語訳

 強者つわものは自然と其の徳を有するという事

 松平上総介池田斉政なりまさ殿の家士に、物頭役ものがしらやくを勤めて御座った岩田勇馬と申さるる御仁がおる。  昨年の文化二年で、かれこれ、七十余歳であられたが、まっこと、ご健勝にて、その二、三年ほど前には、何と、おめかけが子を産んで御座った。
 勇馬殿のせがれは、
『……老年の出生しゅっしょうなれば、傍輩なんどがいろいろと揶揄致すは必定。……さすればお父上もさぞ、恥ずかしく思わるるに違いない。』
と案じ、父の前に進み出ると、
「……このたびのご出生は……一つ、我等の子としてお届けなさるがよろしゅう御座いましょう。」
と申し出たところが、
「……何ゆえ斯様なことを申すのじゃ?」
質いたによって、
「いえ、ご高年の上の出生につき、外聞やら噂やら……これ何かとお気をお遣いなさるるのでは、と存じまして……」
と、暗に含みを持たせて濁したつもりが、勇馬老人、以ての外に機嫌を損じ、
「――何ッ!――凡そ武士たるものは、老年に至りても、子供の出生致すほどの勢いなくして、御主君の御用には立ち難しッ!! 埒もなき申し条じゃッツ!!!」
と青筋立てて叱咤されたによって、その倅も思わぬ逆鱗に触れて返答のしようもなく、ほうほうのていにて退出致いたとか。
 かの勇馬殿、親の代は医師の子であったものが、池田家へ下級の、ごく僅かな禄高にて召し抱えられ、親の代にては三百石までなったと申す。その後、勇馬殿の代となってからは、さらに加増されて六百石と相い成り、今は物頭を勤めておらるる。
 先に登場致いた嫡子も既に二百石取りとなっており、相応の地位に就いて精勤致いておらるる由。
 さて、その勇馬殿の同役のうちに、実子がなく、しかも年久しく宗家へ勤めておるにも拘わらず、聊かのご加増もこれない御仁が御座った。ある時、この御仁が勇馬殿に向かって、
「……御身はまさに果報と申すもので御座るのぅ。……二代続けてのご加増……それに加えて覚えも目出度くご登用なされておらるる。……我らなんどは宗家へ数代に亙って勤めておれど……そのようなことは全く以って、これ、御座らぬわぃ。……」
と申したところが、勇馬殿曰く、
「――貴殿は相応によわいを重ねながら、未だ子供をさえも拵えることの出来ず御座る。――さようの体たらくにては、これ、ご加増なんどを賜うべきはずは――これ、御座らぬ!」
と即答して御座った。
 満座の者どもは皆、大笑い致いたとのことで御座る。



 不義業報ある事

 上總國久留里くるり城下宿に、銕物屋かなものや平五郎といふものあり。同領は勿ろん近郷近國の鍬鎌其外を拵へ賣出し、餘程の富家なる由。廿年程以前の事也に、妻の妹逗留なしけるに、妹は艷色ありて妻にははるかに容貌まさりければ、平五郎心をかけけれど、其妻はなはだ妬氣者生質ときしやきしつゆへ何となく打過うちすぎしに、或時の年、石尊參詣のれん大勢女連をんなづれもありて、妻は殘り妹は石尊へ參詣せしが、道中にて密通なし歸りけるが、妹心に惡を生じ、何卒姉をのぞきわれ妻にならんと思ひ、平五郎もしかあらばと思ひて其妻への當り以の外也ければ、彼是かれこれ六ケ敷むつかしくもつれ終に妻をば離別し、其妹を如何いかがなせしや妻となしぬ。然るに平五郎が方へ晝夜となく蛇出て、或は大きく又ちひさきもありしが、後の妻なる者をうれひ、程なく病をうけ身まかりぬ。平五郎は如何せしや腰ぬけ、今に存命なりとかの國の人語りける。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし(上総の出来事であるが、先の松平(池田)斉政の上総介はただの官職名であるから連関性を認めることは出来ない)。不義密通に絡む怪異譚。少々、訳のコーダに私の色をつけさせて貰った。
・「上總國久留里」上総国望陀郡(まくだのこおり/もうだぐん)久留里(現在の千葉県君津市久留里)にあった久留里藩。本話執筆当時(「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年)は第五代藩主黒田直方(安永七(一七七八)年~天保三(一八三二)年)。彼は第二代藩主黒田直亨(享保一四(一七二九)年~天明四(一七八四)年)の妾腹の三男であったが、享和元(一八〇一)年に甥に当たる黒田直温なおあつ(天明四(一七八四)年~享和元(一八〇一)年:天明六(一七八六)年藩主となるも夭折。享年十八歳)が嗣子なくして死去したために養子として家督を継いでいる。しかし本文には「二十年程の以前」とあるから、その、先代黒田直温、若しくは直温の父で第三代藩主黒田直英(宝暦八(一七五八)年~天明六(一七八六)年:天明四(一七八四)年藩主。二十九で急逝。)の頃か、へたをすると遡る現藩主の実父である第二代黒田直亨の時代の可能性さえも出てこよう(以上はウィキの「久留里藩」の各藩主のリンク先ウィキを用いた)。
・「石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社おおやまあふりじんじゃ「耳嚢 巻之三 無賴の者も自然と其首領に伏する事」に既注。
・「後の妻なる者をうれひ」底本では「者」の右に『(之脱カ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『後の妻なる妹は是を愁ひて』とある。これで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 不義に業報ある事

 上総国久留里くるりの御城下宿駅に金物屋平五郎と申す者が御座る。
 同領は勿論、近郷近国のくわや鎌、その外の金物を拵えては売り出し、よほどの豪家となっておる由。
 さても、今から二十年以前の事で御座る。
 平五郎妻の妹なる者、かの家に長逗留致いて御座ったと申す。
 この妹、なかなかの美人にて、平五郎の妻よりも遥かに容貌がまさっておったによって、平五郎、秘かに執心致いて御座ったが、その妻なる者は、これ、甚だ妬気とき激しい気質きしつであったがゆえ、なかなかに思いを遂げられず、無為に時が過ぎて御座った。
 しかしある年のこと、平五郎、大山石尊参詣連中――これには大勢の女連れも御座った――に参じ、妻は残り、妹は平五郎とともに石尊へと参詣致いた。
 この道中にて、二人はうまうまと密通をなし、帰って御座ったが、それからというもの、妹は内に悪心を生じ、
「――何卒……姉を追い出し……わらわが妻にならんとぞ思う……」
と思いの丈を平五郎に囁く。囁かれた平五郎もまた、
「――しかと――あらば……」
と、内々に密約致いて、その時より、平五郎の妻への仕打ちは、これ以ての外に苛烈にして過酷なるものと相い成った。
 そのうち、平五郎と妹は二人して、あれやこれやと妻に難癖をつけては、わざとごたごたを起こいて、遂には――ありもせぬ妻の不義密通やら、妻の妄想狂乱なんどと申す流言蜚語を拵えては――妻をば、うまうまと離別致いて、その妹を――これまた、どうやったものか――すんなりと妻となして御座った。
 しかるにそれより後、平五郎が方へ、
……昼夜ちゅうやとなく
――蛇が出でる……
……あるいは……太く大きなる
……あるいはまた……小さく細き
――無数の蛇が出でる……
……屋敷内を……不気味にぬたくっては姿を消し……消しては……また出でる……といった怪異が続いた。……
――結局……後妻となった妹は半ば気がおかしゅうなって……ほどのぅ……病いを受け……これ……身罷ってしもうた。……
――一方……平五郎はと申さば……如何致いたものか……後妻の死の直後に……腰が抜けて……蛇のように畳をぬたくっては……今に存命である由……
と、かの国の在の御仁の語った話で御座る。



 鳥類智義有事

 在邊にてすずめ巣を作るに、兎角鳶とかくとびの巣の下に巣を作る事也。右は蛇の□を取る故に鳶制殺を賴みての事の由。或人云るは、かのへびの愁ひはまぬがるべけれど鳶また子のうれひなすべきと難じければ、さればとよ鳶は羽蟲おおく、其子をいくするにも是を愁ひ、雀は羽蟲をひろひて子を育す。其恩義を思ふや、かの雀を害する事なし、たかのぬくめ鳥の飛さりし方へは一兩日飛行七頭獲鳥かくてうせざると故人の語りしも□に符合して、人論の智儀なき事を歎ずる已。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。久々の博物学系動物綺譚。
・「蛇の□」底本では「□」の右に『(害カ)』と傍注。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「蛇の害」とある。
・「羽蟲」鳥の羽毛に寄生する昆虫綱咀顎目ハジラミ
Mallophage の類。宿主の羽毛や血液を食害吸血する。
・「七頭」底本では「頭」の右に『(ママ)』注記。
・「鷹のぬくめ鳥の……」「ぬくめどり」温め鳥。「大辞泉」の「ぬくめどり」に、冬の寒い夜、鷹が小鳥を捕らえてつかみ、足をあたためること。また、その小鳥、とある。さらに、『翌朝その小鳥を放し、その飛び去った方向へその日は行かないという』という伝承を載せる。波多野幾也氏の猛禽類専門サイト「放鷹道楽」の「鷹犬詞集(鷹狩り用語集および鷹狩り猟犬用語集)」に、『温め鳥 ヌクメドリ ハヤブサは寒い季節、夕方に小鳥を捕り、一晩握ったままでいて足を温めるのに用い、朝に逃がしてやると言われる。その小鳥。フィクション。』とあるから事実ではない。なお、この部分、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(正字化し、歴史的仮名遣に変えた)、
 鷹のぬくめ鳥の飛去りし方へは一兩日飛行せず、獲鳥かくてうせざる
となっている。「七頭」は「せず」の草書体の誤写か判読の誤りと思われる。ここはバークレー校版で訳した。
・「□に符合して」底本では「□」の右に『(暗カ)』と傍注。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「暗に符合して」とある。
・「人論」「人倫」の誤りであろう。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも長谷川氏は「論」とあるのを、右に『〔倫〕』と訂正注を入れておられる。
・「智儀」「儀」は「義」の意。

■やぶちゃん現代語訳

 鳥類にも智や義の有る事

 田舎にては雀が巣を作る際に、とかく、とびの巣の下を選んで巣を作ると申す。
 これは蛇の害を免るるがゆえ――鳶が蛇を好み、雀の巣を襲いにくくさせると同時に、襲い来たる蛇を獲り殺して食って呉れるを頼みとしてのこと――の由。
 しかし、これを聴いたある人が言うことに、
「……その雀、蛇の愁いは免れど、その鳶自身がまた、雀やその雛を襲い喰ろう愁いが、これ、御座ろうほどに……」
と疑問を呈したところが、さる御仁、
「――さればとよ。鳶は羽虫が多く湧く。鳶はその子を育てる際も、これに大いに悩まさるる。――ところが雀は、この羽虫を念入りに拾うては、それを自分の子の餌として与えて育てる。――その恩義を思うからのことか――かの己が巣の下の雀らを、これ、害することは御座らぬ。」
と答えた由。
 『鷹は、一晩「ぬくめ鳥」と致いた鳥を翌朝解き放って後、その飛び去った方へは、一両日の間、飛び行くことをせず、そちらの方にては餌の鳥を獲ることもせぬもの』と知人が語って御座ったのにも、これ、暗に符合する話で御座る。
……いやいや寧ろ……今の世の人倫にこそ……智も義なきことを……これ、歎ずるばかりで御座る、の。……



 國栖の甲の事

 武田信玄國栖くずかぶとは、高貮百石にて大御番おほごばんつとめし渡邊左次郎家に傳はりしを、見し人の語りしは、頭形づなり三枚しころにて打見うちみ麁末そまつに見ゆれど、右錣の裏に切金入きりかねいり候、國栖草くづくさ蒔繪まきゑにて、同ひさしに信玄自筆にてくわんしたためたり、
  いかにせん國栖のうら吹秋風に下葉の露殘りなき身は
 上州白井しろゐにて妙珍信家めうちんのぶいへの作也。甲州侍下條伊豆守戰國に浪々して、其せがれ渡邊家へやしなはれける故、今かの家にもち傳へしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。標題は「國栖くずかぶとこと」と読む。
・「國栖」「國栖草」は葛唐草で唐草模様のこと。因みに、「くず」の元は古えの大和吉野川上流の山地にあったという村落「国栖くず」で、ここの民が葛粉を作っていたことに由来するという。この「くず」という読みは「くにす」の音変化で、この村人「くずびと」は特に選ばれて宮中の節会に参じ、にえを献じ、笛を吹き、口鼓くちつづみを打って風俗歌を奏したという。なお岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『国栖唐草』となっている。
・「大御番」大番。常備兵力として旗本を編制した警護部隊で、江戸城以外に二条城及び、この大坂城が勤務地としてあり、それぞれに二組(一組は番頭一名・組頭四名・番士五〇名、与力一〇名、同心二〇名の計八五名編成)が一年交代で在番した(以上はウィキの「大番」に拠る)。
・「渡邊左次郎」底本鈴木氏注に、渡邊さかえとし、安永五(一七七六)年に三十六歳で大番とあるから、生年は寛保元・元文六(一七四一)年で、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年当時も存命であれば、六十六歳。 ・「頭形」頭形兜ずなりかぶと。平安末期に発生したと考えられている兜の一形式。三~五枚と少ない鉄板から成り、制作の手間もコストも比較的低かったことから戦国以降に広く使用された。名前の通り、兜鉢の形は人間の頭に似ているのが最大の特徴である。参照したウィキの「頭形兜」に錣(兜の鉢の左右・後方に附けて垂らし、首から襟の防御とするもの)についての詳しい形状のほか、写真もあるので参照されたい。
・「打見」ちらっと見たところ、ちょっと見の意。
・「切金」金銀の薄板を小さく切って、蒔絵の中にはめ込む技法。箔より少し厚めのものを用いて図中の雲などにあしらう。
・「同庇」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『間庇』で、これだと、「眉庇」「目庇まびさし」で、兜の鉢の前方に庇のように出て額を蔽う部分の意。「同」は誤写かも知れないが、意味は通る。
・「款」金石などに文字をくぼめて刻むこと。また、その文字。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『歌』。これも誤写かも知れないが、意味は通る。
・「いかにせん國栖のうら吹秋風に下葉の露殘りなき身は」底本には下の句の「露殘」の右に『(ママ)』注記がある(では「の」を補った)。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には(正字化した)、
 いかにせんくずの裏吹く秋風に下葉の露の殘りなき身を
とある。この和歌は「新古今和歌集」の「卷第一三 戀歌三」に載る相模の(国歌大観一一六六番歌)、
   人しれず忍びけることを、ふみなどちらすと聞きける人につかはしける
 いかにせん葛のうらふく秋風に下葉の露のかくれなき身は
のインスパイアである。元歌は、送った恋文をあちらこちらで面白がっては見せていると噂に聴いた男にへの恨み節で、
――いったいどうしたらよいのでしょうか……葛の葉裏を吹き返す秋風のために下葉におかれていた露がすっかりあらわになってしまうように……私の飽きがきた貴方のために今やすっかり世間の晒し者とされてしまった消え入らんばかりに恥ずかしく淋しいこの我が身を……お恨み申しますわ――
であるのを、戦場に、所詮、露の如くに儚い残り少なき身――命を散らす、この兜を被った武将の、不惜身命是非に及ばずという諦観と覚悟に鮮やかに転じたもの。 ・「上州白井」現在の群馬県群馬郡子持こもち白井しろい
・「妙珍信家」(文明一八(一四八六)年?~永禄七(一五六四)年)室町末期から戦国期にかけての甲冑師。甲冑工を本職としてきた明珍家の第十七代。「明珍系図」によれば、前記の上野国白井に住し、初名を安家、後に剃髪して覚意と号したという。また、武田晴信から一字を賜って信家と改名、甲州(現在の山梨県)や相模小田原にも移り住んだともされるが確証はない。古来、鐔工として著名な信家と同一人物視されたこともあったが、現在では別人と見做されている(「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、「白井」の部分は底本の鈴木氏の注を援用した)。
・「下條伊豆守」底本の鈴木氏注に、『信州伊那郡下条村の富山城に拠った下条氏(甲陽軍鑑に下条百五十騎)は武田氏の勢力に屈し、信玄は一族の伊豆守信氏に下条の家名を襲わしめた』とある。ウィキの「下条信氏」によれば、下条信氏しもじょうのぶうじ(享禄二(一五二九)年~天正一〇(一五八二)年)は戦国時代の武将で父は下条時氏。信濃小笠原氏、後の甲斐武田氏の家臣で、武田晴信(信玄)の義兄弟、信濃吉岡城(伊那城)城主。兵庫助、伊豆守。正室は武田信虎の娘。下条氏は甲斐国巨摩郡下条(現在の韮崎市下条西割)から興った武田氏の一族とも言われているが、室町時代中期に小笠原氏から養子が入り、信濃下伊那郡へ入国したという。信濃国守護である小笠原氏に仕え、天文年間に本格化した武田氏の信濃侵攻においても反武田勢に加わっているが、天文二三(一五五四)年八月の鈴岡城攻略前後に武田方に服従、信濃国上伊那郡知久氏ちくし(知久沢。現在の長野県上伊那郡箕輪町)を与えられている。弘治元(一五五五)年には時氏の死去により家督を継承、信氏は武田氏家臣で譜代家老衆であった秋山虎繁(信友)の配下となり、「甲陽軍鑑」では信濃先方衆に含まれている。武田信玄からは重用されて、その妹を正室に与えられ、晴信の「信」を与えられて信氏と改名(「武田氏系図」による)、「下条記」では信氏ら下伊那衆は武田四天王の一人山県昌景まさかげの相備衆(あいぞなえしゅう:与力。本来は戦さに於いて味方の他の備えと協力し、互いに応援したり、応援されることが可能の備えの軍備をいう。)に任じられた。以後は史料に名が見られないが、弘治三(一五五七)年の三河国武節ぶせつ城攻め、永禄四(一五六一)年の川中島の戦いに参戦している。「下条記」によれば、元亀二(一五七一)年四月には秋山に従って三河攻めに参加、足助あすけ城(真弓山まゆみやま城)番を務め、元亀三(一五七二)年から天正三(一五七五)年八月まで美濃岩村城番を務めている。天正一〇(一五八二)年二月、織田信長による甲州征伐が始まると吉岡城は織田の武将・河尻秀隆や森長可らに攻められることになるが、弟の氏長が織田軍に内応したため落城し、信氏は長男の信正と共に三河黒瀬に落ち延びた。武田氏の滅亡と本能寺の変を経た六月二十五日に遠江宮脇で死去。享年五十四、とある。

■やぶちゃん現代語訳

 国栖唐草くずからくさかぶとの事

 武田信玄國栖くずかぶとと申すもの、高二百石にて大御番おおごばんをもと勤めておられた渡邊左次郎殿の家に伝わっており、それを実見致いた人の語ったことには――
……その兜は頭形三枚錣ずなりさんまいしころにて、一見、粗末な造りに見えるけれども、その錣の裏には切金きりかね細工が施されて御座って、それが国栖唐草くずからくさ蒔絵まきえという趣向、またそのひさし部分には、これ何と、信玄自筆にてかんしたため、
  いかにせん国栖のうら吹秋風に下葉の露の残りなき身は
と彫られて御座る。
 しかもこれ何と、上州白井しろいの、かの名甲冑師妙珍信家みょうちんのぶいえの作にて御座る。
 戦国の頃、甲州の侍であった下條伊豆守信氏のぶうじは、浪人となって諸国を彷徨さすらって御座ったが、その間、信氏のせがれが、かの渡邊家へ預けられ、養われたという因縁より、今に、かの渡邊家に伝えられておる、とのことで御座る。……



 肴の尖たゝざる呪事

 老人小兒魚肉を喰ふ時、右魚の尖不立とげたたざるには、左の眞言をとのふれば尖たつことなし。
  ドウキセウコンバンブツイツタイ

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間救急法まじないシリーズ。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの前に同様の呪いで「蜂にさゝれたる呪の事」がある。参考までにここに引いて注と現代語訳を附しておく(恣意的に正字化し、ルビは当該書を参考にしながらも私が必要と思った部分に附した)。

     蜂にさゝれたる呪の事

 蜂の巣ある所に立寄れば蟲毒ちゆうどくうくる事あり。南無ミヨウアカと云ふ眞言を唱ふれば、蜂動く事能はず、くちばしを施す事もならざるなり。蜂を手にして捕へても、右真言を唱ふればいささか害なし。予が許へ來る栗原翁、自身ためし見しと語りぬ。

 *やぶちゃん注
・「眞言」ここでは真言染みた呪文のこと。
・「栗原翁」このところ御用達の「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクティヴな情報屋で、既に何度も登場している。

 *やぶちゃん現代語訳

     蜂に刺された際のまじないの事

 蜂の巣がある場所に近寄ると蜂の毒を受けることがある。その際には「南無ミョウアカ」という呪文を唱えれば、蜂は動くことが出来なくなり、毒針を立てることも、これ、全く出来ずなるものである。蜂をじかに手にて捕えた際にも、この呪文を唱えたならば、聊かも害を受けることがない。これは私の元へ参る例の栗原翁が、自身で試して見て確かなことである、と語って御座った。

これを見るにどうも本条はこの時一緒に栗原翁から語られたもののように感じられる。
・「ドウキセウコンバンブツイツタイ」波のカリフォルニア大学バークレー校版には、
 とうきせうこん萬物一體
(恣意的に漢字を正字化した)とある。

■やぶちゃん現代語訳

 魚の骨が咽喉に刺さらぬようにするまじないの事

 老人や小児が魚肉を食う際、その魚の鋭い骨が咽喉に刺さらぬようにするには、左の呪文を唱えればとげは、これ、立つことがない。
  ドウキセウコンバンブツイツタイ



 諸物制藥有事

 駿河其外にて何細工なすも、竹を林草を以て煮て遣ひぬれば、如何樣の細工をさすにも自在になるといへり。葉の毒に當りたるには、甘草を洗じのませしに、奇に其毒をしぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:竹細工をする際に竹をしなかやに加工し易くするための処方が前半であるが、次に筍で中毒した際(後注)の民間療法が載り、魚の骨の除去処方と直連関する。以下「又」で二項、都合、この「諸物制藥有事」で三項目が示される。
・「何細工」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「竹細工」とし、長谷川氏の注に、竹細工は『駿河府中(静岡市)の名産』とある。「何」は「竹」の誤写であろう。これを採る。
・「竹を林草」底本にはこの右に『(竹煮草ナルべシ)』とある。この鈴木氏の注の付け位置からは、鈴木氏が「竹を林草」全体が「竹煮草」の誤写と判断されたことを意味している。するとしかし、本文は「竹」が示されず、如何にも読み難いものとなる。するともしかすると前の「何細工」は、実は「竹細工」の底本の誤植である可能性も出て来るように思われる。カリフォルニア大学バークレー校版は「甘草」とあり、後半部のマメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属
Glycyrrhiza のカンゾウ類を指している。しかし鈴木氏の注する「竹煮草」は「甘草」ではない。モクレン亜綱ケシ目ケシ科タケニグサ Macleaya cordata で、竹似草ともいい、ケシ科の多年草で荒蕪地に生え、茎は中空で高さ二メートル内外、葉は形は菊に似るが大きい。夏に白色の小花を円錐状につける。切ると黄褐色で有毒の汁液を出すがこの汁は皮膚病や田虫に利用される。「竹煮草」は竹と一緒に煮ると竹が柔らかくなって細工し易くなることに、「竹似草」の方は、茎が中空になって見え、竹に似ていることに由来するという(以上、「竹煮草」については、Atsushi Yamamoto 氏の「季節の花300」の「竹煮草」の記載に拠った)。ネット上で調べると「竹煮草」が竹を柔らかくするのに用いられているのは事実である)。愛知県豊田市足助の「三州足助屋敷」という個人のブログ(?)の 「草の効能」に竹細工の籠屋さんの店先で『ヨモギなどの雑草を片付けていると「あー、それは抜いちゃダメー」と篭屋さんからストップが。 どう見ても雑草。それもなんかかぶれそうな草なのになんでこんなところにだけこれがあるのか。 「なんで~?」と聞くと「これはタケニグサっといって竹の加工に使うから抜かないでね。」と言われました。タケニグサ・・・・竹を煮るから? 確かに篭屋の前にこれだけが一本生えている理由がわかる。 でも、何の加工?防腐?虫よけ?何だろう。 再び聞いてみると、竹を柔らかく煮るのに草の汁を使うのだそう』という叙述が出て来るから間違いない。逆に甘草で検索しても、竹の柔軟剤として使用するという記載が見当たらない。甘草が竹をしなやかにさせ、その中毒にも効能があるという記載も頷けなくはないが、ここは寧ろ題名の、「諸物」(いろいろなもの――だからこそ以下に「又」で続き三項目も示されるのだと言える――)が、一つの対象(ここでは竹)の持つ属性(この場合は硬いそれ)や毒性に対し、物理的にも生理的にもそれを「制藥」(制する効果を持った薬)として作用する、という意味で採り、私は敢えてここは鈴木氏の注する「竹煮草」で採って訳すこととした。大方の御批判を俟つ。
・「葉の毒」底本には「葉」の右に『(ママ)』注記を附す。竹の葉に毒があるというのは解せない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はここを『たけのこの毒』とする。筍に毒はないが所謂、アク(シュウ酸やホモゲンチジン酸とその配糖体などを主成分とする)が強く、除去が十分でないと口の中や咽喉がヒリヒリする症状を引き起こす。漢方薬としてお馴染みの甘草には、咳や喉の痛み喘息・アレルギーに有効であるとされるからこの処方はしっくりくる。
・「洗じ」底本では右に『(煎)』と訂正注を附す。

■やぶちゃん現代語訳

 諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事

 駿河その他に於いて竹細工をなすが、その際、まず竹煮草を以って竹を煮てから加工に入ると、どのような細工を致す場合にも、しなやかに折れず、自在に成し得るとのことである。
 またたけのこの毒に当たって咽喉がひりひり致す際には、甘草かんぞうを煎じて服用さすれば、たちどころにその毒を消す、とのことである。



 又

 無益なる事なるが、火打石をちいさくなすには、草ほふきをもつてたゝくに妙也。

□やぶちゃん注
○前項連関:「諸物制藥有事」その二。草箒を用いるというのは、単に玄能や木槌で叩くと一点に力が加わるだけで、火花も散ってよろしくないのを、草箒を被せた上から叩くと力が分散し、火花も出ずに小さく砕けるといったことではなかろうか?
・「草ほふき」草箒。仮名遣は正しくは「くさはうき」「くさばうき」である。乾燥させたナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ(ホウキグサ)
Bassia scoparia の茎や枝を束ねて作った箒のこと。小さな刷毛大のものもある。
・「以たゝくに妙也」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『以たゝけば砕くる事妙なるよし』とある。その方が分かりがよいので、ここの訳はこちらを採る。

■やぶちゃん現代語訳

 諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事 その二

 あまり役に立つ知識ではないが、大きな火打石を小さく割ろうと思う時には、草箒を被せて叩くと、妙なくらい容易に砕けるとのこと。



   又

 梅ならびに梅干を種共たねともきりて手際を見するは廚僕ちゆうぼくの名技とて、もろこしがらを庖丁にて切、右もろこしがらの氣を庖丁に請取切うけとりきるに、梅干のたね肉とも奇麗に切れる事妙也。

□やぶちゃん注
○前項連関:「諸物制藥有事」その三。対象を砕く妙法から切るそれでも連関。
・「もろこしがら」高粱コーリャンこと、単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ(蜀黍・唐黍)
Sorghum bicolor の実。アフリカ原産の一年草。高さ約二メートル。茎は円柱形で節があり、葉は長大で互生する。夏に茎の頂きに大きな穂を出し、赤褐色の小さな実が多数出来る。古くから作物として栽培され、実を食用として酒・菓子などの原料や飼料にも用いる。「とうきび」ともいう。

■やぶちゃん現代語訳

 諸物には相応に対象の属性を制する薬効があるという事 その三

 梅並びに梅干を種と一緒に綺麗に切るという鮮やかな手際を見せることは、これ、料理人の名技として御座るが、まず唐黍もろこしの実をその庖丁にて切り刻み、その唐黍の実が持って御座るところの気を庖丁に移し取ってから、やおら、梅の実や梅干を切ると、これ、種・梅肉ともに、美事――スッパ!――と奇麗に切れること、これ、まっこと、不思議なことにて御座る。



 俠女凌男子事

 神田三河町に車引くるまひきに又八といへる者、米屋に借り有しに度々米やより丁稚でつち抔催促に差越共さしこせども不相濟あひすまず。右米やに仕ふる米舂こめつきの大男、我なんなく請取うけとり見すべし迚かの又八方へ至りしに、又八は留守にて女房而已のみありしが、右米舂勢いに乘じ少し戲れをまぢへて、女房へ催促なしけるに、右言葉あらそひ女の心に障りしや、右女房ぐつと尻まくり、汝らごときの野郎に非をうたるゝべきや、いわんや汝らに慰まるゝ者にあらず、前借まへがりは亭主のもの也、けつでもしてみよと罵られ、流石の大男赤面してしほしほ戻りしと、其となりの者語りける。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。久々の艶笑譚。米舂き男がからかった艶笑的台詞も記載されているともっと面白かったのだが。
・「俠女凌男子事」岩波版の長谷川氏の読みを参考にすると、「俠女けふぢよ男子なんししのこと」と読む。
・「俠女」勇み肌で粋な姐御あねご。「俠」には「御俠」で「おきゃん」(「きゃん」は唐音)、若い女性でも活発で慎みのない者のことやその様をいう用法が、今も生きているのは御存知の通り。俠客滅びて御俠残る、である。
・「神田三河町」ウィキの「三河町」によれば、現在の東京都千代田区内神田一丁目と神田司町二丁目付近及び神田美土代町みとしろちょうの一部に当る。町名は徳川家康が入府した際に帯同した三河の下級武士がこの地に移り住んだことに由来する。江戸で最も古い町の一つであり、一丁目から四丁目まであった。後、この一帯は明治に入ってから都市スラム化し、大正一〇(一九二一)年に刊行された「東京市内の細民に関する調査」によると約二千人の細民人口が計上されている。因みに岡本綺堂の「半七捕物帳」では、主人公半七親分は神田の三河町に居を構えているという設定となっている、とある。 ・「前借は亭主のもの也、けつでもしてみよ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『前陰は亭主の物也、けつにてもて見よ』で、あからさまに分かりよく書かれている。即ち、「前の方の陰門は亭主又八(名前も「ハマ」っている)のもんだから、後ろのけつの穴の方でも、いてみな!」で、借金取りの催促に来た大男の仕事が米舂きというのを連想させて、まっこと、エロい(と感じるのは私がエロいからか)。しかし、如何にもストレート過ぎる嫌いがないでもない。折衷して訳してみた。

■やぶちゃん現代語訳

 粋な姐御は男を凌ぐという事

 神田三河町に、車引きを生業なりわいと致いておる、又八と申す者が御座った。
 この者、米屋に大層な借りがあって、たびたび米屋より丁稚なんどを催促に差し越させたけれども、一向に払う気配がない。
 ある時、この米屋に奉公して御座った米舂きの大男、
あっしが、難なく、しっかと請け取って参りやしょう!」
と請けがって、かの又八方へと訪ねたところが、又八は留守にて、女房ばかり御座ったと申す。
 されば、その米舂き、旦那のおらぬを、これ幸いと、女と見くびって、調子に乗って、ちょいと卑猥な軽口なんどを交えては、女房へ借金の催促を致いたところが、その言い合いの中で、何やらん、男が口にした言葉が、かの女房の勘に触ったものか、その女、
――グッ!
と尻捲くり致いて、御居処おいどを露わに致すと、
――キュッ!
と腰を捻り、米舂き男に餅のようなそれを突き出して、
「――おめえさん如きやからに非難される筋合いは、これ、あちきには、ねえワ!
――況や、てめえらなんぞの粗チンにて、慰まるるような、あちきでもネエ!
――米の前借りは、それ、亭主のヤッたもん!
――この前のぼぼは亭主のもんじゃて! おめえも米舂き男なら
――されば!
――それ!
――この、後ろのかたけつあなにでも!
――一ときしてみいなッツ!」
と罵られ……流石の大男も……思わず赤面致いて……これ、しおしおと帰って御座ったと申す。……
……さてもこれは、その又八の隣りに住んでおる者が、これ、じかに見聴き致いた、という話で御座った。



 地中奇物の事

 文化貮、本所邊る何某の下屋しきにて、地をほりて奇物を得たり。其太さ貮三寸𢌞まはり、長さ又四五寸あり。彫附有ほりつけあり王瑛わうえいと記す。いかなる、更に知る者なし。一説には黄金也といへ共、其證不慥成たしかならずきく儘爰にしるす

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。十条前の「屋鋪内在奇崖事」は土中から奇体な家が出現する話で、遠く連関しているような印象は与える。
・「文化貮」西暦一八〇五年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三年夏であるから、比較的ホットな噂。
・「太さ貮三寸廻り、長さ又四五寸あり」金色をした円柱状物体であったらしい。円柱の周囲は約六~九センチメートル、長さは約一二~一五センチメートル。真鍮製の文鎮か?……それとも、つい、エロい私は前条に牽強付会致いて……もしや……張形だったりして!……
・「王瑛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『王渶』とする。孰れも不詳。

■やぶちゃん現代語訳

 地中の奇物の事

 文化二年、本所辺りのさる御仁の下屋敷にて地面を掘って御座ったところ、奇しい物が出土したと申す。
 円柱状の物体であって、その胴部分の円周は凡そ二、三寸程、長さはまた四、五寸はあろうとういう代物で御座った。
 更によく見ると表面に彫り附けた陰刻が御座って、
――王瑛おうえい――
と記しあったと申す。
 奇体なる形・色・重量にて、如何なる品物であるか、凡そ、知る者は、これ、御座らなんだ。
 一説に黄金であると申す者も御座ったれど、それも確かな証言ではなく、その後の噂もとんと聴かずなった。
 取り敢えずは当時聴いたままに、ここに記しおくことと致す。



 假初にも異風の形致間敷事

 予隣へ來る廣瀨何某といへる醫師、上方の産也。壯年年比としごろ御當地へ來り、いまだ療治も流行なさず。然れ共町家の療治抔は專らなしける。或夜四つ時過比すぎごろ、日々立入駕たちいるかごの者妻産氣付さんけづき候て不生間うまれざるのあひだ、來り見くれ候樣たつあひ歎き、棒組も來りて一同相賴あひたのむに付、夜も早更はやふけぬれば兩人駕をかかせ、其身着替も六ケ敷むつかしく、寒き比なれば小夜着こよぎを着たる上へ帶をしめ、用心に枕元におきし長脇ざしを帶し、龜嶋町邊其所迄至りしに、右駕のものの宿より何歟不知かしらず、早く歸り給へと言捨歸いひすてかへりれば、右駕の者一寸參りて樣子見候迚、少しの内爰にまたせ給へと、棒組を連一つれいつさむに走りゆきし。少しの内なれば駕は往來に捨置すておきぬ。折節兩組町𢌞り同心衆、往來に駕を捨有すてありし故怪敷あやしく思ひ、内に人やあるたづねしにありと答ふ。然らば出よといふ。無據よんどころなく駕を出しに詰らぬなり也。いよいよ怪敷思ひて立寄たちより見るに、大男にて中々手に可及躰およぶべきていに見えで□□□□駕を出しに、かの大男御身は廣瀨にあらずやと尋しに、能々見れば兼て知れる庄五郎と言る同心也。はじめて安堵して、しかじかのよし語りしと也。駕の者立歸り出産あり、外に人手なし。棒組をたのみ湯をわかし、又は腰だきてさわぎて、廣瀨を向ふる心もつかざる由也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「假初にも異風の形致間敷事」は「假初かりそめにも異風いふうなりいたすまじきこと」と読む。
・「予隣」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『予がもと』とある。
・「夜四つ時過比」午後十時過ぎ。
・「小夜着」小形の夜着。袖や襟の附いた綿入れの掛け布団の小さいもの。小さいとはいえ、冬場の夜着にこれを強引に着たわけで、もっこもこになっていたはずである。だから後文で暗い往来で見た同心が「大男にて中々手に可及躰に見え」たのではなかったか? 本文は、実は大男であったのは同心であって、それに恐れ入って広瀬が駕籠を出るというシチュエーションであるが、これではつまらぬ。ここは掟破り乍ら、恣意的に翻案改変した。悪しからず、根岸殿!
・「龜嶋町」中央区日本橋亀島町一丁目及び二丁目。
・「一さむ」底本では右に『(一散)』と注する。
・「兩組町𢌞り同心衆」これはおかしい。南町と北町の「兩組」の同心が見回りをすることはない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『南組町𢌞り同心』で、これは納得。「南町」で採る。
・「□□□□」底本は後半の「□□」は踊り字「〱」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『こわごわ』(後半は当該書では踊り字「〲」)とある。これで採る。
・「向ふる心」底本では「向」の右に『(迎)』と訂正注がある。

■やぶちゃん現代語訳

 仮初かりそめにも異風の風体ふうていは致すまじき事

 予の隣家に出入り致いて御座る広瀬なにがしと申す医師が御座るが、彼は上方の生まれである。
 かなり壮年になってから江戸表へ来たったこともあり、未だ療治もそれ程には流行っては御座らぬ。然れども、町家の療治などは、常々誠意を以って熱心にこなして御座る由。
 さて、ある夜、四つ時過ぎ頃のことで御座った。
遠方の往診などの際に普段から使つこうて御座った駕籠きの者が駆け込んで参り、
先生せんせえ! かかが急に産気づきやしたが、いっこう、ひり出る様子も、これ、ねえ。そんでもって、まあ、いひどく苦しんでおりやす! どうか一つ、来てておくんなせえやし! たってのおねげえだ!」
と泣きを入れ、駕籠ごと一緒について御座った相棒と一緒になってしきりに頼み込んで御座った。
 されば、夜もはや更けて御座ったに加え、二人が殊の外急かしたよって、その両人に駕をかせ、その身は――最早、着替えする余裕も御座らねば――寒き頃のことなれば、被って御座った床の小夜着こよぎをそのまま着た上へ帯を締め、夜陰なればとて、用心に枕元に置いて御座った長脇差しを挿して出かけたと申す。
 亀島町辺りまで至ったところ、前方から誰かが泡を吹いて駆けて参った様子。
 それがまさに当の駕籠舁きの者のところから参った者で御座ったが、これがまた慌てふためいて、
「と、ともかくヨ! は、早く帰ってくんない!」
と言い捨ててまた、韋駄天の如く、戻って行ってしもうた。……
 駕籠舁きの男は、
「……か、嬶に何ぞ、あったもんか?……せ、先生せんせえ、ち、一寸くら、先に参って……様子を見てめえりやすんで!……と、ともかくも! ええですかい! ここで! 少しのうち、ここで! お待ち下せえやしよッ!」
とこれまた、慌てふためくや、相棒の腕を引っ摑んで、鉄砲玉のように一散に走って行ってしまう。……
 ……少しのうちなればとて、駕籠は往来のど真ん中に捨て置かれた風情。
 さ……ても、そこに折柄、南組町廻りの同心衆が巡邏に参った。
 見れば往来の真ん中に駕籠を乗り捨ててある。
 如何にも、と訝しんで、
「……内に人や在る?」
と訊ねたところが、
「……ます――」
と答える。
「然らば出ませッ!」
と命ずる。
 広瀬はよんどころなく、駕籠をめくったが、せんに申したようなとんでもないなりなれば、すぐには身動きもとれぬ。
 同心は暗闇の駕籠内に充満するようなその奇体な影を、いよいよ怪しい奴と思い定め、さらに近寄って見たところが……
……何かゆっくらと駕籠より這い出る
……その姿は
……これ
――異様なまでに図体の膨らんだ大男……
『……こ、こ奴……なまなかなことでは手におえそうな輩ではないぞ!……』
と、同心は、
――カチャ!
と鯉口を切った!
……と
……連れの配下の者に灯を差し向けられた瞬間、同心が、
「……おや? 御身は……広瀬殿では御座らぬか?!」
 よくよく見れば、これ、かねてより懇意の庄五郎と申す同心で御座った。
 広瀬はといえば、ここで初めて安堵致いて、しかじかの由を語って御座ったと申す。……
 ……さても……流石に同心のことなれば、庄五郎は自分の方こそ広瀬を奇体な大男と内心びびって御座ったことは……まあ……これ、言わなんだは申すまでも御座るまい。……
 ……さてもまた……先の駕籠屋の者はといえば、こちらはこちらで、実はたち帰ってみたところが、女房は既に半ば子をひり出して御座ったによって、外にろくな人手もなければこそ、引き連れ帰った相棒を頼みと致いて、ゆうなんど沸かさせるやら、また、己れは女房の腰なんどを後ろより抱だいて力ませるやら……広瀬を迎えに行かねばならぬということさえ最早、頭からぶっ飛んで御座ったと申す。……



 淸潔の婦人の事

 上總國長者町何某の養女こと、同國岩倉村といへるは七面山の半腹の所へ嫁しけるに、聟は婚禮の席一寸出し儘にて、親類抔打寄うちよりけれ共婚儀も不調ととのはず、打寄候親類も皆々立歸り、右娘はせんかたなく一間に いりて、いづいはくもあらんと、今宵婚調不調とも又しかたやあらんと獨りふせしに、折ふし七面山の嵐も物さびしくねられぬまゝに枕をかたむけきけば泣聲にて、三日はおかぬといふをきけば、全く大怪たいくわいならんと身の毛よだつばかりなれば、かの女氣丈なる者にて其夜をあかしけるに、兎角聟も來らず。暫くすぎて或夜來りて夫婦の交りをなせしが、其後は又きたらず。不思議に思ひ段々ききつたへしに、右亭主は弟ありて近比ちかごろみまかりしに、後家ごけなる弟嫁と密通なせし故、かの弟嫁亭主を防ぎて夫婦寢をさせざるよし聞しより、始てすごし夜の女の泣聲を大怪にあらざるをさとりしが、さるにても、弟みまかりて間もなく其弟嫁と密通せし夫の心底人倫にあらず、恨むべき事也と見限りて里へ戻りしに、一夜の交りにくわいたいなしけるぞ是非なき。其後安産してうみし子は夫の方へ遣し、其身は江戸表へ奉公に出しが、今に其女は存在のよし。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。一見、怪談仕立ての市井貞女譚。所謂、俠女、根岸好みの話という気がする。因みに、明らかに次の「河怪の事」を根岸に話した上総国夷隅郡出身の「七都なないち」という座頭がニュース・ソースと考えられる。
・「上總國長者町」現在の千葉県いすみ市岬町みさきまち長者。
・「岩倉村」未詳。長者から西北西に約四キロメートルの同いすみ市岬町内に岩熊という地名があるが、疑問(次の七面山の注を参照)。
・「七面山」長者から南西約十五キロメートルの千葉県勝浦市杉戸にある日蓮宗長福寺の裏山の、三二〇段の石段神力坂じんりきざかを登った山頂に日蓮の高弟日朗作と伝えられる七面大明神像を祀る七面堂があり、ここを七面山と呼称している。この杉戸地区の直近の西には「中倉」という地区が存在するから、先の「岩倉」はもしかすると「中倉」の誤りかも知れない。
・「婚調」底本には右に『(婚姻カ)』と注する。
・「大怪」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では二箇所とも『夭怪』。「えうくわい(ようかい)」は「妖怪」と同義で、こちらの方が訳し易いので、ここは大いなるアヤカシではなく、妖怪と訳した。
・「身の毛よだつ斗なれば、彼女氣丈なる者にて其夜を明しけるに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『身の毛もよだつ斗なれど、彼女氣丈なる者にて其夜を過しけるに』(正字化して示した)とあって逆接の接続助詞が自然。接続部はこちらの方で訳した。
・「懷たい」底本には右に『(懷胎)』と注する。

■やぶちゃん現代語訳

 清廉なる婦人の事

 上総国長者ちょうじゃ町に住まう何某なにがしは己が養女を、同国岩倉村と申す、七面山しちめんさんの中腹辺りの在所の独り者の元へ、嫁入させて御座ったと申す。
 ところが婚礼の当日は、むこ殿は席にちょいと顔を出したきりにて、親類などもすっかり打ち寄って面子めんつも揃ったれど、肝心の聟がおらざれば婚儀も成し得ず、親類の者どもも夜も更け、遂に痺れを切らし、三々五々、皆々、立ち帰ってしもうた。
 かの新妻は詮方なく、奥のねやに独り入りて、
『……いづれ、ご主人さまには……何か深い訳のおありになることであろう。……今宵は婚礼の儀、これ調わずとも……それなりのご対処をお考えになれておらるるのであろうほどに……』
と思い直し、独り臥して御座った。
 折から――聞き慣れぬ七面山から吹き降ろす風の音の――そのもの寂しげなるにねられぬまま――馴染まぬ新しき枕を少し傾ぶて耳を澄ましておると――何やらん――人の泣き声が戸外に致いた。
――そうして
「…………三日とは…………ここへ…………置かぬぞぇ…………」
と呟く声……。
『……こ、これは……全く以って……妖怪に相違ない――』
と、身の毛もよだつばかりになったれども、この女子おんなご、すこぶる気丈なる者にて御座ったれば、そのまま凝っと我慢致いて、一夜いちやを明かいたと申す。
 しかし翌朝になっても一向に、聟殿は姿を現わす気配も、これ、御座ない。
 そのまま暫く過ぎた、ある夜のことで御座った。
 かの聟殿、ぶらりと現われたかと思うと、閨へ導き、夫婦めおとの交わりをなした。
 ところが――未だ深更にも至らざるうちに――またしても、家から姿を消して御座った。
 そうして、そのまんま、また、何日も姿を現さず御座ったと申す。
 あまりに不思議と申すより、最初の夜のアヤカシの言葉も不審に思うたによって、近隣の者なんどに、それとのう訊いたところが……
……この独り者の亭主なる男には、唯一の近親と申す血を分けた弟が御座った。ところが、つい最近のこと、身罷ってしもうたと申す。然るにこの兄なる男、その後家ごけとなった弟の嫁と、葬儀のその夜に早くも密通をなし、懇ろになった。されば、この度の婚儀が持ち上がってからと申すもの、かの弟の嫁、妬心としん甚だしく、かの男をなんやかやと亡き弟の家に押し留めては、男を新所帯あらじょたいへと行かさぬように致いて、夫婦めおとの契りもなし得ぬように、日々見張っておる由、聞き出だいて御座った。
 これによって始めて、過ぎしあの夜の女の泣声は、これ、覗きに参ったその弟の後家の恨みの声にして、妖怪にてはあらなんだことを悟り得たが、
「……それにしても……弟の身罷ったその涙の干ぬ間に、その亡き弟の嫁と密通致いたと申す――そがわらわが夫の心底――これ、男として、いやさ、人倫にあらざる振舞いじゃ。当たり前の人の情けを持った御方ならば、誰もが、これ、恨むべきことにて御座いまする!――」
と、夫の親族の誰彼の方へと赴いて小気味よき啖呵を切っては、見限って、さっさと里へと戻って御座ったと申す。
 しかしながら、一夜ひとよのみの交わりでは御座ったが、これもまあ、天命か、懐胎なして御座ったと申すは、是非もなきことで御座った。  のちに安産致いて、産んだこおはこれ、かの元夫の方へと遣わし、かの女子おんなごは江戸表へ奉公に出でた。
 本話を語った者の言によれば、今もその女子おんなごはその者の近所にて、元気に奉公なしおるとのことで御座る。



 河怪の事

 七都なないちといえる座頭の咄しけるは、右の者は上總國夷隅郡いすみのこほり大野村出生しゆつしやうにて廿四歳にて盲人となりしが、廿貮歳の時、右村の内に幅拾間程の川あり。右内に字※の井戸迚いたつて深き所有。向ふは竹藪生茂おひしげり、晝も日陰くらくうす淋しき場所なるが、七都俗なりし時よく魚の釣れるを□し水中より蜘出て、足の指へ糸をかけては水中にいり、又出ては糸を指へかくる事あり。あまたゝびに足首過半糸を掛るゆへ、ひそかに其際にあるくひ木へ右をうつし、如何いかがなすやと見置みおきしに、又前の如く糸をかけ、何か水中にてよしかよしかといふと思へば、彼藪の内にてよしと答ふ。のちかのくひ半分よりをれぬる故、大きに驚き迯歸にげかへりける。
[やぶちゃん字注:「※」=「扌」+「段」。]

□やぶちゃん注
○前項連関:ロケーションが上総夷隅郡で一致。前の話もこの七都なる人物が話者と考えてよかろう。この蜘蛛の怪の相同的類話は広域に見られる。国際日本文化研究センターの「怪異・妖怪伝承データベース」で「蜘蛛 糸」の検索を掛けただけでも、宮城県本吉郡旧小泉村・福島県東白川郡塙町大字川上・同伊達郡国見町・埼玉県秩父郡皆野町日野沢・長野県南佐久郡北相木村・神奈川県津久井郡・静岡県浄蓮の滝・愛知県東加茂郡下山村・岐阜県郡上郡和良村・滋賀県伊香郡余呉町・和歌山県伊都郡九度山町・徳島県美馬郡一宇村・鳥取県西伯郡西伯町・熊本県等のステロタイプなそれを確認出来る。私の地元鎌倉でも源平池の畔の話として酷似した昔話が伝わっている。因みに、この藪の中から「よし」と答えるのは、果たして、やはり蜘蛛の仲間なのだろうか? 五つ後の河童の難を語る「川狩の難を遁るゝ歌の事」との強い連関性から考えると、これは実は蜘蛛は水中で河童に操られているのであり、藪の中から見張っているのもその同類の河童であると考える方が自然であろう。
・「七都なないち」という読みは岩波版長谷川氏のルビに拠った。
・「上總國夷隅郡大野村」現在の千葉県いすみ市大野。先の話柄に出た長者町の西南西約九キロメートルに位置する。
・「幅拾間」川幅凡そ十八メートル。夷隅川の支流大野川と思われる。
・「字※の井戸」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『字樅の井戸』とする。読みその他不詳。淵らしいが「井戸」という呼称も不審。「じもみ」と読んでおく。
・「七都俗なりし時よく魚の釣れるを□し水中より蜘出て」一字分とは思われない脱落が疑われる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『七都俗なりしとき、よく魚の釣れるとききて釣を垂れしに、水中よりくも出て』とある。これを訳では採用した。

■やぶちゃん現代語訳

 河の怪の事

 七都なないちと申す、馴染みの座頭の語って御座った話。
 この者は上総国夷隅郡いすみのこおり大野村の生まれにて、二十四歳にて盲人となった者で御座るが、この者が二十二歳の折り、未だ目の見えた頃の話と申す。
「……その大野村の内を流るる幅二十間ほどの川が御座いましてのぅ、その川中に通称「字樅じもみの井戸」と呼ぶ、これ、いたって深き淵が御座いました。川向こうは竹藪が鬱蒼と生い茂げり、昼も日陰にて、すこぶる暗く、何ともこれ、もの淋しい場所では御座いましたが――我ら、その頃は未だ目開きの俗にて御座いましたので――よう、さかなが釣れるところと聴き及んでおりましたゆえ、訪ねて行って、一日、釣り糸を垂れておりました。……
 すると、足元の水際みぎわより、一匹の小さな蜘蛛が……するするっ……と這い出て参り、我らが草鞋履きの足の指へと……しゅっ……と糸を掛けまして、これまた……するするっ……と水の中へと戻る。……
 暫く致しますと、またしても……するするっ……と水より出でては、糸を指へ……しゅっ……と掛けるので御座います。……
 ……するするっ……しゅっ……するするっ……しゅっ……するするっ……しゅっ…… と、これを何度も何度も繰り返しまして、これ、指どころか、我らが足首の過半まで糸を掛け、それはまあ、帯のように、きらきらと輝いて御座いましたのじゃ。……
 何かこう、訳の分からぬながら不吉な感じがふっときざしましたによって、我ら、何気ない振りを致いて、そっと、近くに突き出ておりました棒杭へ、べったりと巻かれた糸の束を剝し移しました。……
 さても、一体、このちんまい畜生は、何をどうするつもりか、と凝っと見ておりますと、また、前の如く……
……するするっ
……と水より出でて
……しゅっ
……と、棒杭に糸を掛け、再び
……するするっ
……と水の中へと、戻りました。……
……と……その時で御座る……
――何かが ――水のうちより
「――ヨイカ?――ヨイカ?――」
と問うたかと思うと、かの対岸の藪の内より、
「――ヨシ!――」
と答える。
――と
――その瞬間
――バキッツ!
と音を立てて、かの根太き棒杭――
――これ――ものの美事に
――ど真ん中より
――折れたので御座います。……
……いやもう! 大きに驚き、這うようにして逃げ帰って御座いました……。」



 古狸をしたがへし強男の事

 上總國勝浦に山道の觀音坂といふ所有。今は昔大き成榎木なるえのきありて、榎木の前を通る者もの兎角して坊主にせし怪ありかの地の強勇がうゆうの若もの、我彼怪を退治せんと友立ともだちにちかゐて、所持の脇差を帶し、深夜をかけて彼榎の本に至り、脇差を拔放ぬきはなし、妖怪今や出ると勢ひこんでまちしに何の沙汰もなし。さればこそ臆病ざまにこそ、怪にもあい抔自讚して、夜あけぬれば宿へかへり、扨友達に妖怪の沙汰さらになき事と語りしに、御身の天窓あたまを見たまへと人々の言に、手をやり見ればいつの間にや法師になりぬ。其邊に居けるおの子是を見て、扨も口おしき事也、我ゆきためさんと、おぼえの一腰をおび、夜にいり彼所に至り、榎の枝の上に登り今や今やと樣子を見しに、其隣なる者來り、榎のうへはあぶなし、其上御身の妻むしけづきたれば歸り給へといゝければ、我友達と約束して來りぬ、御身今宵はいか樣成事有さまなることありても返り難しと、一向にうけがはねば、せん方無かたなく彼迎かのむかへの者も返りしが、又暫くありて壹人きて、御身の妻産はすみぬれど難産にて甚だ危し、ひらに歸り給へといゝし。假令たとひ相果あいはつとも今宵は難歸かへりがたし取合とりあはず。是も詮方なく歸りぬ。暫くもすぎて名主來り、組下の者度々迎ひに差越共さしこせどもかへらず、既に妻はみまかりたり、取置とりおきの事もあればひらに歸り候へと叱りければ、名主の申さるゝ事にても夜あけざる内はかへりがたしとて、更にうけつけぬゆゑ名主も歸りぬ。又暫くありてかげ見えて、棺郭樣かんかくやうのものを榎の元へ荷ひ來り、火をかけしてい也しが、火の中よりわが女房髮を亂し現れいで、我等産にくるしみ殊にはかなくなりしを歸り見ざる恨めしさよと、色々恨み罵り、やがて榎へ登る氣色なれば、帶せる脇差をぬきはなし、一刀兩だんにつきはなししかば、きやつといふて下へおちしゆへ、あたりの木の枝抔へ兼て貯へし火をうつし見れば女房なれば、いかなる事にやと思ひしが、いまだ本性をあらはさず、暫く心をつけてをりしに、其内に夜もあけて村の者來し故、宿の事をききしに、女房産せし事もなし。人を走らせてたづねしに無事なれば安堵して、彼死骸を改めしに、やがて本性をあらはし大きなる古狸なりしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:上総国の怪奇民話譚で直連関。やはり座頭七都なないちの語ったものではなかったろうか。
・「上總國勝浦」現在の千葉県勝浦市。千葉県南東部の太平洋に面し、上総地方の南部に位置する。前話の夷隅郡(現在の千葉県いすみ市)とは北東で隣接する。
・「觀音坂」不詳。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。
・「者もの」底本、右に『(衍字カ)』と注する。
・「友立」底本、右に『(友達)』と注する。
・「怪にもあい」の「あい」には、底本では『(ないカ)』と注する。「逢ふ」と「無い」のダブルで訳しておいた。
・「むしけ」は「虫気」で、通常は、主に寄生虫によって引き起こされると考えられた子供の腹痛・ひきつけ・疳の虫などの症状や、広く大人の腹痛を伴う病気(陰陽道や庚申信仰では腹中に潜む三尸さんしの虫によって発症すると考えられたもの)を指すが、ここは後文を見てお分かりの通り、産気・陣痛の謂いである。

■やぶちゃん現代語訳

 古狸を成敗致いた剛勇の男の事

 上総国勝浦に観音坂と申す山道が御座った。
 今となっては昔のこととなってしもうたが、そこには大きなる榎があったが――この榎の前を通る者の頭を――誰やらん、知らぬ間に剃って丸坊主に致す――という、あやかしが御座った。

 ある時、在所の腕っぷし自慢の若者が、
「儂がかのあやかしを退治したる!」
と友達連中に誓い、所持して御座った脇差を帯びて、深夜になって独り、かの観音坂の榎へと至り、その根がたにすっく立ち、脇差を抜き放って、
「妖怪! 今にも出んかッ!!」
と勢い込んで待ち構えてみたものの、これ、いつまで経っても何も起こらなんだと申す。 「てへッ! 臆病な奴に限って、あやかしにも逢うというもんじゃわい。あやかしなど、もともと、ないもんじゃい!」
と自画自讃、夜も明けたので村へと帰り、まんじりともせず待って御座った友達連へ、
「妖怪の仕業なんぞ、ヘッ! これ、さらに、ないわいの!」
と意気揚々と語って御座ったが、何故か皆、蒼くなったままおし黙って御座った。
「おい! なんじゃ! 儂の言うことが信じられんのかいッ?!」
と若者が気色ばんだところ、皆、口を揃えて、
「……お前……」
「……そ、それ……」
「……お前さんの……頭……」
「……触ってみぃな……」
と申したによって、かの若者、恐る恐る、てえを当ててみる……と……
――いつの間にやら
――つんつるてんの
――丸坊主になって御座った。

 丁度その時、近くに住んで御座った〇〇と申す男が、この顛末を見知って、
「さても口惜しきあやかしではないか!……かくなる上は――我らが行って試してやるッ!」
と彼らに言上げ致すと、少々覚えのある一腰いちようを佩び、その日の夜になって、かの榎の元へと至り、はたと考え、
「……まずは……迎え討つ立ち位置じゃ――」
と、榎の頂には何もおらぬを見届けた後、高みにある太き枝の上に登り、今や遅しと様子を窺って御座った。

 すると、ほどのうして隣に住む者が木の根がたへとやって参る。
「――〇〇どん! 榎の上たぁ、危ねえよ!……いやいや……それどころじゃあ、ねえんだわ! お前さんのかかがよ! 産気づいたんじゃ! はようお帰り!」
と、申す。
 確かに嬶はそろそろ産み月にちこうは御座ったが、男は、
「――我ら、友達らと確かな約束をなして参ったものじゃ。お前さんがこうして知らせくれたはかたじけない――忝いが、今宵は如何なること、これ、あっても、帰ることは、出来ん!」
いらえ、一向に請けがわぬ。
「……しゃあないなぁ……」
とぼやきながら、詮方なく、この迎えの男は帰っていった。

 さてもしばらく致すと、また別の知り合いが一人やって参り、
「――お前さんの嬶の産は済んだ。……じゃけんど……ひどい難産じゃったで、の!……言っちゃあなんだが……はなはだ、ようないんじゃ! どうか一つ、帰ってやって、くんないッ!」
と、申す。
 ところが、
「――たとい我らが妻――それをもって相い果つるとも……今宵ばかりは――帰るわけには参らぬ!」
と、またしても頑として取り合わぬ。
 執拗しつこく説いたものの、この者も遂には呆れ果てて、帰って行ってしもうた。

 さてもそれよりまたしばらく過ぎた後のこと、今度は彼の村の名主がやって参った。
「――配下の者をたびたび迎えにさし越したにも拘わらず、戻らなんだによって、我らが直々に参ったぞ!……のぅ、〇〇よ!……御身の妻女は……これ、既にして……身罷って御座ったぞッ!……かくなっては最早、詮ないことじゃが……葬送のことも、これあればこそ……まずは! さっさと! 戻って御座るがよいッ!……」
と叱りつけた。
 すると男は、
「――名主さまの申さるることにても――の明けざるうちは――これ――決して帰り申さぬ!――」
と覚悟のうち、またしても一向に請けがう素振り、これ、微塵も、ない。
「……あまりに非道な……」
と、名主は涙にくれて呟くと、とぼとぼと坂を下って行った。

 それからまた大分経って、榎の上から見ておると、今度は小さな火影ほかげが一つ、闇の中に浮んだ。
 近づくそれは、何と! 棺桶のようなものを担いだ男で御座った。
 その男は、榎の根がたへと辿り着くと、棺桶をそこに据え置いて、薪を組み、火をかけて、そのまま帰って行った。

――燃え上がる棺桶……
と!
――その火の中から桶の上蓋を破って!
――経帷子を着た男の死んだ女房が!
――これ! 髪を振り乱して踊り出でたかと思うと!
「…………我ラ……産ニ苦シミ……遂ニ儚クナッタニ……オ帰リニモナラデ……一目死ニ目ニモウテ下サラナンダ……ソノ恨メシサヨ!…………」
と、烈しき恨み事を罵りつつ、そのまま、
――ズルッ!
――ズルッ!!
と!
――榎に!
――爪から血を噴き出だしながら!
登って参ろうとする!
と!
 その時、男はやおら、腰に差した脇差を抜き放つと、枝から体を捻って飛び降りざま、
――タァアッ!
の掛け声とともに、幹に齧りついて御座った亡者を、
――これ!
――背中で一刀両断!
――真っ二ッツ!
「ギャッツ!」
と叫んで落ちる榎の根がた……
 されば男は、最初、木に登る前に、辺りの木の又枝の間のうろに貯えおいた火種を、枯れ枝に移して死体を検分致いた。
……が……
……これ……
……紛れもなき……
……己が女房であった。……
……恨みの鬼の形相の儘に……
……カッと、眼を見開いて……
……とうに息絶えて御座った。……
「……こ、これは……い、一体……い、如何なることじゃ?!……」
と思うたものの……どうにも、これ――事実とは――何か、合点がいかなんだ。
 さればこそ、
「――未だ正体を現さざるものに相違ない。……今少し……そうじゃ、今少し、夜の明くるを待とう!……」
と気を抜かず、凝っと、女房の血まみれの遺骸から眼を離さず御座った。

 そのうちに夜も明けて、村の者どもがやって参ったゆえ、己が家内の様子を訊ねてみたところが、
「……いんやぁ、おかみさんは産気づいてなんぞ……おらんはずやでぇ?」
と申す。
 用心のため、家に人を走らせて確めたところが、やはり妻には何事ものう、無事息災である由なれば、ようよう、男も安堵致いた。
 と、ちょうど、その知らせを受けとった折り、男は、かの遺骸からめえを離して御座ったによって、おもむろに振り返って改めて見た。……
……ところが……
……これ、みるみるうちに……
……哀れ、断末魔の面つきの妻の姿であったその死骸は……
……形が崩れ……
……そうして……
……何か禍々しき……
……別なる何かに……
……変じて……
……ゆく――
……遂に……
……終いには……
……これ……
――血みどろの大きなる古狸となって、御座った。…………



 幽靈を煮て食し事

 文化貮年の秋の事也。四ツ谷のもの夜中用事ありて通行せし道筋に、白き將束しやうぞくなせし者先へたちて行ゆへ樣子を見しに、腰より下は見へず。幽靈といふ者にやと跡をつけて行しが、ふりかへりたりしかほ大いなる眼ひとつ光りぬれば、拔打ぬきうちに切りつけしに、きやつといふて倒れし。取つておさへさし殺し見しに、大なるごひ鷺なればやがてかつぎ返り、若き友達内寄うちよりて調味してける。是を、幽靈を煮てくらひしと專ら巷説なりしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:怪談(但し、こちらは誤認)話で連関。私の山の先輩は若い頃に雷鳥を焼いて食ったことがある(美味であった)と聴いたが、サギを食ったという方は知らない。味を御存知の方は、是非、ご一報を。
・「將束」底本では右に『(裝束)』と訂正注を打つ。
・「ごひ鷺」コウノトリ目サギ科サギ亜科ゴイサギ
Nycticorax nycticoraxウィキの「ゴイサギ」によると、全長五八~六五センチメートル・翼開長一〇五~一一二センチメートル・体重〇・四~〇・八キログラムで上面は青みがかった暗灰色、下面は白い羽毛で被われる。翼の色彩は灰色。虹彩は赤いく、眼先には羽毛が無く、青みがかった灰色の皮膚が露出する。嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は黄色、とある。知らずに闇の中に立って振り返られれば、これは、確かにキョワい!

■やぶちゃん現代語訳

 幽靈を煮て食った事

 文化二年の秋のことで御座る。
 四ツ谷の在の者、夜中に用事があって外出致いた道筋に、
……白き装束をなしたる……妖しい者が……これ……先へ立って歩く……
やに、見えた。
……何やらん……その挙措……これ……人とは思えぬ……
なればこそ、おっかなびっくりさらに様子を見てみると……
……これ……
……腰より下は……見えぬ!!
『スワっ! こ、これぞ、ゆ、幽霊というものカッ?!』
と、恐怖と興味の半ばして、抜き足差し足、跡をつけて行ったところが……
……そ奴が! これ!
……すくっと止まって!
……急にふり返る!
……その顔は!
……大きなる眼(めえ)が!
……ただ一つ!
……光っておるばかり!
 さればこそ、
――ヒエッ!
と叫ぶが早いか、
『取り殺されんカッ! 最早、これまでじゃッ!』
と、抜き打ちに切りつけた!
と幽霊、
――ギャッツ!
叫んで
――バッタ!
音を立てて倒れる。
 さても手応えあって倒れたによって、男は勇気百倍、幽霊を、これ、捕って押さえ、 ――ブスッ!
と刺し殺いた!……
……動かずなったによって近寄ってよう見てみたところが……これ……何のことはない……大きなる五位鷺じゃった…… ……されば、そのまま担いで長屋へと帰り、近隣の若い衆を招き寄せると、捌いて煮込んで、『いうれい鍋』と洒落て、くろうたそうじゃ。
 これを『幽靈を煮て喰った』とは、近頃、専ら巷の噂となっておる、とのことで御座る。



 備前家へ出入挑燈屋の事

 備前家より五人扶持たまはる挑燈や藤右衞門といふ町人あり。右はかの新太郎少將の節よりの事にて、由井正雪彼新太郎少將うるさく思ひて、是を除く心向こころむきに有し、又は新太郎名前を借りて惡徒をあつむるの手段や、右挑燈やへ備前家印の挑燈數多あまたあつらへけるを、疑敷うたがはしく思ひ彼家へ申立まうしたてければ、一向覺無之おぼえこれなき事故、其趣を以斗もつてはかりける由。彼家の申傳へには、其ころ少將夜咄しに外へ被參まゐられ、いつも夜に入て歸り給ふを、正雪備前家のともに似せてむかへを拵へ候□りにて右の通りたくみしを、挑燈やのうつたへにて其用心あり、供侍等迎申付有むかへまうしつけありて危をのがれ給ふゆへ、今に五口ごくちの扶持を與へ、備前家の挑燈を一式に引請ひきうけ、當時も不貧まづしからず暮しけると、彼家士の内物語也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、夜道のロケーションが続いて不思議に違和感なく続いて読める。
・「備前家」岡山藩池田家。岡山藩は備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩。藩庁は岡山城。殆んどの期間、美濃池田氏池田恒利を祖とする池田氏が治めた。
・「新太郎少將」池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)のこと。播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩初代藩主・岡山藩池田宗家三代。池田利隆長男。新太郎は通称で官位は従四位下左近衛権少将(贈正三位)。寛永九(一六三二)年、叔父の岡山藩主池田忠雄が死去、従弟で忠雄嫡男の光仲は未だ三歳で山陽道の要所たる岡山は治め難しとされて、幕命によって江戸に呼び出され、因幡鳥取藩主から岡山三一万五〇〇〇石へ移封された(以後「西国将軍」と呼ばれた池田輝政の嫡孫である光政の家系が明治まで岡山藩を治めることとなる)。熊沢蕃山を招いて仁政に努め、質素倹約の「備前風」を奨励、津田永忠を登用して新田開発を進め、藩校花畠教場はなばたけきょうじょうや日本最古の庶民の学校である閑谷しずたに学校を開設している。光政は幕府が推奨し国学としていた朱子学を嫌い、陽明学・心学を藩学として徹底したかなり厳格な儒学的合理主義を藩政に於いて実践施行し、水戸藩主徳川光圀及び会津藩主保科正之と並んで江戸初期の三名君の一人と称せれている。一部参考にしたウィキの「池田光政」には、『光政は幕府・武士からは名君として高く評価されていた。慶安の変の首謀者である由井正雪などは謀反を起こす際には光政への手当を巧妙にしておかねば心もとないと語ってい』たと記し、『また由井の腹心である丸橋忠弥は光政は文武の名将で味方にすることは無理』と考え、『竹橋御門で』『射殺すべき策を立てたという』とあり、本話柄の信憑性を高める記事が見出せる。
・「由井正雪」(慶長一〇(一六〇五)年〜慶安四(一六五一)年)は軍学者で討幕を計画した慶安の変(慶安四(一六五一)年四月~七月)にかけて起こった事件の首謀者。駿府出身と伝えられ(詳細は不明)、楠木正成の子孫を自称、神田に楠木流軍学塾張孔堂を開き、幕閣批判と旗本救済を掲げて浪人を集め、幕府転覆を画策したが、一味の丸橋忠也の逮捕によってクーデターが事前に露見、駿府茶町ちゃまちに宿泊していた正雪は幕府の捕手に囲まれて自刃した。後の黙阿弥作「花菖蒲慶安実記」など、歌舞伎や浄瑠璃の登場人物として広く知られるようになった。また、この事件は、直後、将に四代将軍となった家綱が武断政策を文治政策に転換する契機の一つになったとも言われている(以上は財団法人まちみらい千代田の「江戸・東京人物辞典」の記載に拠った)。慶安事件直近と考えると、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、本話柄の主なシーンは一五五年も前の出来事である。
・「□」底本には右に『(積カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はズバリ、『拵へ候積りにて』である。

■やぶちゃん現代語訳

 備前家へ出入りの挑燈ちょうちん屋の事

 備前家より、何と――五人扶持ぶちを給はって御座る――挑燈屋の藤右衛門――と申す町人が御座る。
 この提燈屋は、これ、かの新太郎少将光政殿の御時よりの、岡山藩御用達で御座る。
 かの凶悪の謀略家由井正雪、この新太郎少将がことを、これ、甚だ五月蠅うるそう思い、幕府転覆がためには、何としても光政殿を除かずんば成らず、と思うたものであろうか――または新太郎殿の名を騙り、悪徒を集めんとする手段てだてにでも用いんとしたものか、この挑燈屋へ――いや、未だその頃は、池田家の御用達にては御座らなんだ――備前家の家紋のった挑燈を、これ、数多あまた誂えるようにと、注文に参ったと申す。
 提燈屋は、普段、市中いちなかにてお見かけするところの礼儀正しい池田家御家中の者とは何かちごうた、その注文に参った男の風体ふうていや言葉遣いを、これ何となく疑わしく感じたによって、御当家へと参り、
「……かくかくの御用を承りましたれど……その……今一度、数なんど確かめとう存じまして……」
とさりげなく申し立てたところが、家士一同にただいても、一向にそんな注文を致いた覚えのある者は、これ、御座ない。されば、
「――いや……当家にては提灯を注文致いたと申す儀は、これ、ないが。」
と答えたところ、
「……やはり!……実はこれこれの風体を致いたる、怪しき男が……」
と訳を話したによって、
「……!……相い分かった!……よくぞ、知らせて呉れた! 礼を申すぞ!」
と役方の者は即座に奥へと参り、この何やらん、不穏なる事態を申し上げたところが、光政殿は、
「――されば――そのかたらんとする意を推し量り、その背後の真意を測って対処致さん。――」
とお答えになられた。
 その提燈屋に代々申し伝えられておる話によれば……

……何でもその頃、少将光政殿はしばしば知音ちいんの元を、夜、お訪ねになられ、清談なさるることが殊の外多く、いつもも遅うなってお帰りになられた。……かの兇悪なる正雪は、備前家の御供おともの者に似せて、これ、大層な似非えせの迎えを拵え上げ……光政殿が油断なされたところを……一気にしいせんとする積りにて……先のようなる提燈の注文を企んだところが……御先祖主人の訴えがあったによって……その夜半の御用心、これ、十全に施され、しっかりとした供侍ともざむらいなどの迎えを、必ず予め申し付けられて御座ったによって、かくなり危難をばお逃れ遊ばされた……によって……今に至るまで、五口ごくち扶持ふちをお下しになられ、また、備前家の挑燈一式を我ら、一手に引き請けておる由……

「……今も相応に貧しからざる暮しを、この提燈屋、致いて御座いまする。……」
とは、かの池田家御家中の内の、さる御仁の物語りで御座った。



 先細川慈仁思慮の事

 せん細川越中守は慈仁にて、世に質人と唱しが、同□の方へ上客に饗應に被參まゐられしに、膳いで候節に至り、右飯の蓋を取被見とられみ候處、飯無間直なきあひだただちにふたをいたし、扨尾籠びろうながら小用に罷立度まかりたちたき旨を一座にことわり、其座を被立たたれ小用所へ被相越あひまかりこされ手水ちやうづもち候家來に耳へより斯々かくかくの事也、あらはに言はゞ配膳其外の者に不調法にあらん。座に戻らば飯の加減もひえし候迚、引替へ可然しかるべし被申まうされ候故、難義由にて其家來より内々相通じ、一座の膳も引替ひきかはりしが、其事を見聞みきく者ども難有ありがたき仁慈なりと、いと賞しける。

□やぶちゃん注
○前項連関:大名家逸話で連関。粋な男だねえ、この頃の細川さんは、ね。
・「先細川越中守」細川重賢しげかた(享保五(一七二〇)年~天明五(一七八五)年)は熊本第六代藩主・細川家第八代。第四代藩主宣紀のぶのり五男。兄宗孝の仮養子であったが、延享四(一七四七)年に宗孝が江戸城で旗本板倉勝該かつかねに斬られて不慮の死を遂げ(勝該は日頃から狂疾の傾向があり、今でいう禁治産者と見做され、板倉家本家の板倉勝清が勝該を致仕させて勝清の庶子に後を継がせようとしていた。勝該はそれを恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたのだが、板倉家の九曜巴紋と細川家の九曜星紋が似ていたため、背中の家紋を見間違え、細川宗孝に斬りつけてしまった誤認謀殺事件であったとされる)、俄かに封を継いで藩主となった。当時の熊本藩は連年の財政難にあり、参勤交代や江戸藩邸の費用にも事欠くありさまであったが、重賢は藩主に就任後、宝暦二(一七五二)年には堀勝名を大奉行に抜擢して藩政改革を行い(宝暦の改革)、綱紀粛正・行政機構整備・刑法草書制定・財政再建に向けての地引合じびきあわせ(検地の一種)による隠田摘発・はぜこうぞの専売・蠟生産の藩直営化と製蠟施設の設立などを敢行し、宝暦年間末頃(宝暦は一四(一六七四)年まで)には藩財政の好転が始まった。また、同宝暦年間より飢饉に備えてての穀物備蓄を行い、天明の大飢饉の際には更に私財も加えて領民救済に当たっている。一方で、藩校時習館を建てて人材の育成を図り、今で言う奨学金に相当する制度も制定、農商人の子弟でも俊秀の者には門戸を開放した日本最初の学校とも言うべきものに成し上げた。紀州藩第九代藩主徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった(平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「細川重賢」や同「板倉勝該」を参照した)。なお、「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年の藩主は第八代藩主細川斉茲なりしげである。重賢嫡男(次男)で第七代藩主となった細川治年は三十で夭折、同人実子長男の細川年和も早世していたため、支藩の宇土藩主細川立礼たつひろ(改め斉茲)が養子に入って跡を継いでいる。因みに、これによって細川玉(ガラシャ)の血統は細川本家では絶えることとなった(ここはウィキの「細川治年」に拠った)。なお、重賢は根岸より十七歳年上なだけであるから、この話柄自体は根岸が重賢の生前にアップ・トウ・デイトに聴いた話であったとしてもおかしくはない。
・「慈仁」情け深いこと。
・「質人」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『賢人』とする。当然、「賢人」を採る。
・「同□の方へ」底本は『(卿カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『同席』とする。「同席」を採る。
・「難義由」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『難有ありがあき由』とする。「難有」で採る。

■やぶちゃん現代語訳

 さきの細川家御当主慈仁じんじ思慮の事

 二代前の細川越中守重賢しげかた殿は、情け深きお人柄であられ、世に賢人と称せられた御方であられた。
 さる御同役の御屋敷に上客として饗応をお受けになられたところが、さても、膳が一通り出だされた砌り、その飯の蓋をお取遊ばされてみたところが――椀の中には――これ――飯どころか――何も――入って御座らんだ――と申す。
 と、越中守殿、柔和なるお顔のまま、さっと蓋を戻さるると、
「――さても――まっこと、尾籠びろうなること乍ら――ちと、小用に罷り立ちたく存ずればこそ――」
とて、一座の方々に無礼を謝し、その座をお立ちになられ、ゆうゆうとかわやへと参られ、これまた、ゆるりと尿すばり遊ばされたと申す。
 厠よりお出にならるると、厠の外にて手水ちょうずを持って控えて御座った御自身の御家来衆を物蔭に手招きなされて、やおら、耳打ちなされたことには、
「……かくかくの次第で御座った故、の。このこと、あからさまに申さば、御当家の配膳その外の者どもの、これ、忌々しき不調法ということにもなろうほどに。……我ら、これより、また座にゆるりと参る。……戻ったならば、そなた、御当家の者に、ここは一つ、
『我があるじの不調法によって、時も暫く経って御座いましたにゆえ、皆様の御前に、折角、お出し下された温かき飯の加減も、これ、大層冷えてしもうて御座いましょうほどに。相済みませぬが、ここは一つ、ために飯の椀をお取り替え下さるるが、これ、よろしいかと存ずる。』
と申し上ぐるがよかろう。」
と仰せられたによって、一切の御意ぎょいを察した御家来衆は、
「はッ! あり難きお心遣いに御座いまする!」
と肯んじ、その御家来衆より、御当家の配膳の者にだけ、内々に相い通じ、一座の方々の膳の飯も総て引き替えられて御座ったと申す。
 後に、このことを、その折りの重賢殿を饗応なさった御当家の内輪方々で、見き聞きして察した者どもは皆、
「――何とまあ――あり難き御仁慈じんじで御座ろうか……」
と、大層、讃仰申し上げたとのことで御座る。



 川狩の難を遁るゝ歌の事

 上總國夷隅郡岩和田村半左衞門といへる方へ、其村の船頭の來り、此程よるよる河童來り怖しき由語りければ、半左衞門家に夢承相の歌とてもち傳へしをかきてあたへければ、其後は河童來りても其儘逃去にげさりしとや。其古歌は、
  ひふすべに飼置せしをわするゝな川立おとこうぢはすがわら
 右のひよふすべといふは、川童かはわろの由、官神の緣のよしといふもうたがはし。土人の物語也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、五つ前の「河怪の事」と同じ夷隅郡、しかも川の怪奇譚で強く連関する(その前後も上総が舞台の民話・世間話)から、これも当該話の話者である七都なないちがニュース・ソースであったか。
・「岩和田村」現在の千葉県夷隅郡御宿町岩和田。網代湾の東北部分の臨海地区であり。直近の河童が棲息しそうな川は、網代湾奥から御宿町を蛇行しながら縦断する清水川と考えられる。
・「夢承相」意味不明。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『菅丞相かんしょうじょう』(歴史的仮名遣では「くわんしようじやう」)とあり、これなら菅原道真の異称で後に出る呪歌の伝承ともうまく一致する。これで採る。
・「ひふすべに飼置せしをわするゝな川立おとこうぢはすがわら」「ひふすべ」は後に記される「ひよふすべ」で、これは河童の一種とされる妖怪の名である。他にもひょうすえ・ひょうすぼ・ひょうすんぼ・ひょうすんべ等とも呼び名する。以下、ウィキの「ひょうすべ」によれば、佐賀県や宮崎県を始めとする九州地方に伝承されるもので、佐賀県では河童やガワッパ、長崎県ではガアタロの別名ともされるものの、実際には河童よりも古くから伝わる呼称ともされる。元の起源は古代中国の水神・武神であった兵主神ひょうしゅしんが秦氏ら帰化人と共に伝わったともされ(「ひょうしゅ」が「ひょうず」「ひょうす」「ひょうすべ」と転訛したということであろう)、それが本邦では専ら食料の神として習合して信仰され、現在でも滋賀県野洲市・兵庫県丹波市黒井などの土地では兵主ひょうず神社の祭神として祀られているという。『名称の由来は後述の「兵部大輔」のほかにも諸説あり、彼岸の時期に渓流沿いを行き来しながら「ヒョウヒョウ」と鳴いたことから名がついたとも言われる』。中でも尤もらしい起源説を含む伝承は、例えば佐賀県武雄市のもので、嘉禎三(一二三七)年に武将橘公業きみなりが『伊予国(現・愛媛県)からこの地に移り、潮見神社の背後の山頂に城を築いたが、その際に橘氏の眷属であった兵主部(ひょうすべ)も共に潮見川へ移住したといわれ、そのために現在でも潮見神社に祀られる祭神・渋谷氏の眷属は兵主部とされている』というものや、『かつて春日神社の建築時には、当時の内匠工が人形に秘法で命を与えて神社建築の労働力としたが、神社完成後に不要となった人形を川に捨てたところ、人形が河童に化けて人々に害をなし、工匠の奉行・兵部大輔(ひょうぶたいふ)島田丸がそれを鎮めたので、それに由来して河童を兵主部(ひょうすべ)と呼ぶようになったともいう』とある。前者は本話の呪歌とも関係が深いもので、『潮見神社の宮司・毛利家には、水難・河童除けのために「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがわら」という言葉がある。九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承に由来しており、「兵主部たちよ、約束を忘れてはいないな。水泳の上手な男は菅原道真公の子孫であるぞ」という意味の言葉なのだという』とある。他にも道真絡みの伝承が福岡県の北野天満宮に伝わり、実際に「河伯の手」と呼ばれる河童ひょうすべの手のミイラが残るが、これは九〇一年に大宰府に左遷させられた道真が筑後川で暗殺されそうになった際、河童の大将が彼を救おうとして手を切り落とされた、若しくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童の手を道真が切り落としたものとされる(この部分はウィキの「河童」に拠った)。因みに、ひょうすべの特徴を纏めておくと、河童の好物が胡瓜といわれることが多いのに対し、ひょうすべの場合は茄子を好物とするという。人間に病気を流行させる妖怪との説もあって、ひょうすべの姿を見た者は原因不明の熱病に侵され、その熱病は周囲の者にまで伝染するともいい、茄子畑を荒すひょうすべを目撃した女性が全身が紫色(茄子の色であると同時にひょうすべの体色ででもあるのかも知れない)になって死んだという話もあるとする。ひょうすべは一般に毛深いことが外観上の特徴とされ、その体毛や浴びた湯水には毒性があり、触れた馬が死んだ、ひょうすべ自体が馬を殺すという伝承もあるようである(河童駒引きと同話である)。
 「飼置せし」「かひおきせし」と読むのであろう。道真が契約によって彼らを保護使役(飼いおく)したことというニュアンスであろうか。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこの歌、
  ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら
で後で見るように、この句形の方が知られており、しかも分かりがよい。今回、訳ではこの句形を採用することとした。
 「川立おとこ」泳ぎの上手い男。
 底本で鈴木氏はこの歌に、『これとほぼ同じ歌は河童除けの呪歌として各地に伝えられている。たとえば『諸国俚人談』には肥前国諫早の例として、『中陵漫録』には豊後の例として出ている。『物類称呼』には九州で川下りをする時に、「古の約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」と唱えるとある。かつて河童が菅原氏の人に糾明せられて、助命と引換えに今後は人間にわるさをせぬと約束したという説話がこれに伴うべきであろう』と注されておられるが、まさに先の北野天満宮の、道真の馬を川へ引きずり込もうとした河童が逆に道真に手を切り落とされ、普遍的な河童の詫び状伝承に見られるようにそれと引き換えや謝罪のために、万能の霊薬の製造法や言質状を差し出すというパターンである。なお、鈴木氏の挙げた和歌を含むものを仔細に見ておくと、
「諸国俚人談」(俚は里とも書く)は「卷之二 四 妖異部 河童歌 肥前」に載る以下である(底本は吉川弘文館昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成」第二期第二十四巻を用いたが、恣意的に正字化した)。
   〇河童歌
肥前國諫早の邊に河童おほくありて人をとる。
    ひやうせへに川にたちせしを忘れなよ川たち男我も菅原
此歌を書て海河に流せば害をんさずとなり。ひやうすへは兵揃にて所の名なり。此村に天滿宮のやしろあり。よつてすがはらといふなるべし。〇又長崎の近きに澁江文太夫といふ物、河童を避る符を出す。此符を懷中すれば、あへて害をなさずと云。或時、長崎の番士、海上に石を投て、其遠近をあらそひうけものして遊ぶ事はやる。一夜澁江が軒に來りて曰、此ほど我栖に日毎石を投けおどろかす。是事とゞまらずんば災をなすべしとなり。澁江驚きこれを示す。人皆奇なりとす。
うけもの」とは賭けのことであろう。「投け」はママ。この話柄はもしかすると本来は、石投げをやめさせて呉れる交換条件に、河童自身が害を避ける霊符を澁江なる侍に伝授したという原型をも連想させるように思われる叙述である。そうすると霊符の出所も由縁もすっきりして納得出来る伝承となるように私には思われるが、如何であろう。さらに「中陵漫録」は「卷之六」に載る以下である(底本は吉川弘文館昭和五一(一九七六)年刊「日本随筆大成」第三期第三巻を用いたが、恣意的に正字化した)。
   〇河太郎の歌
河太郎の人を害する事希にあり。怪しき川に入り水を浴し、又魚を釣るべからず。奥州には此害なけれども、西土には時々此害に逢ふ。此爲に豊後の某、河太郎を禁る事を知て靈符を出す。若し獵に行、或は怪しき水を渡りし時は、此歌三遍祝すべし。其害を防ぐ事、信にしかりと云へり。
    ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原
「禁る」は「いさめる」、「信に」は「まことに」と訓じていよう。
 さて、以上を綜合して考えると、この歌は、
――ひょうすべどもよ、お前らが人に悪さを致さぬと私と約束したことを忘れるな! ひょうすべなんど、物の数ではない、何層倍も泳ぎの達者なその男のうじは「菅原」だってことを、な!――
という、史上最大級の御霊のチャンピオン、道真由来の呪歌の、かなり、ステロタイプな一つであることがよく理解されるのである。
・「官神」底本では右に『(菅神)』という訂正注がある。

■やぶちゃん現代語訳

 川漁の際に河童の難を遁るる歌の事

 上総国夷隅郡いすみのこおり岩和田村の半左衛門と申す者の元へ、その村の船頭が来たって、
「……実はこの頃、夜のすなどりに出ずるに、夜な夜な、河童らしき妖怪あやかしが現われては、脅かすによって、怖しゅうてなりませぬ。……」
と語ったによって、半左衞門は『菅丞相かんしょうじょうの歌』とて、代々家に伝わって御座るまじないの和歌を書いて与えたところが、その後は河童が舟近くに現われても、何もせず、そのまま逃げ去るようになったとか申すことで御座った。
 その古歌と申すは、
  ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら
と申す一首なそうな。
 この和歌の「ひよふすべ」と申すは、川童かわわろ、河童のことを言う由にて、その呪文は菅公天神さまのえにしによるもののなりと申すも――これは、まあ、疑わしきものでは御座る。
 の者の物語った話で御座る。



 疝氣妙藥の事

 狩野友川かのういうせん咄し。同人疝氣にて兎角腰痛致常いたしつねに苦しみけるが、或人西國米を日々五粒づゝ用ゆるは奇功あると語りしに、藥種屋にて求めて不絶たえず用ゆ。右の疝氣忘るゝ如く快くて、文化三年予許よがもとへ來りて、かきける時咄しぬ。右西國米はわうはくの也といふ人あれど、名□唐藥也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、河童の呪歌による河童被害から逃れる法はこの民間療法シリーズに当時にあっては大真面目に内包されるものと思われ、私などにはスラーのように自然に続いて読める。以前にも述べたが根岸は疝気持ちであった。なお、年記載から本話が極めてアップ・トゥ・デイトな記録であることが分かる(以下の「狩野友川」の注の終わりを参照のこと)。
・「狩野友川」絵師狩野寛信(安永六(一七七七)年~文化一二(一八一五)年)。別号、融川(友川)後に青悟齋。浜町狩野家(江戸幕府御用絵師御三家の一つで公的に認定され世襲で旗本扱いであった)五代目当主であったが将軍徳川家斉の時、朝鮮王へ贈る近江八景の屏風絵を描くよう命ぜられたが、老中(底本の鈴木氏注では『阿部豊後守』とするが、文化一二年当時の老中には該当者がいない。阿部姓だと書画をよくした阿部正精まさきよならいるが、彼は対馬守・備中守である上に彼が老中になるのは文化一四(一八一七)年であるから全く合わない)にその画の金砂子のタッチが薄く少ないと指摘された。寛信は、近景は濃くし、遠景は薄いものであり直す必要はないと主張したが、老中は補修を命じたため、寛信は憤慨、よき画家というものは俗世間の要求に屈服しかねるとして、城から下がる途中の輿の中で割腹(一説に服毒)して果てた。享年三十八歳(以上は、鈴木氏注以外に個人ブログ「夜噺骨董談義」の「忘れさられた画家ーその5 太公望 狩野融川筆」を参考にさせて戴いた)。親しかった青年絵師(「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから当時の「狩野友川」は未だ満二十九歳で、根岸は四十九歳であった)の非業の死を根岸はどう感じたであろうか。但し、根岸の死も同じ文化一二年の十一月四日のことではあった。
・「腰痛」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『服痛』とあり、長谷川氏が「服」の右に『〔腹〕』と訂しておられる。疝気であれば確かに服痛の方が自然ではある。ただ疝気は特に女性に多くみられる服痛や男性の睾丸痛を指す語であるので、部位として「腰痛」という表現は必ずしもおかしくない。
・「西國米」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『四国米』とする。実は「西国米」はある。これで「せーかくーびー」「しーくーびー」と読み、一つは沖縄宮廷料理に用いる澱粉で作った米粒状のものを茹でて砂糖水に浮かせて供するものを指し(沖縄の「料亭那覇」の公式サイトのここを参照した)、またネット検索で沖縄方言では現在そうした伝統料理に酷似したタピオカのことをかく言うことも分かった。なおタピオカは植物名ではなく、料理(デザート)名で、バラ亜綱トウダイグサ目トウダイグサ科イモノキ属キャッサバ
Manihot esculenta の根茎から製造したデンプンで、ご存知の通り、菓子の材料や料理のとろみ付けに用いられる他、つなぎとしても用いられるものである。参照したウィキの「タピオカ」に、我々がしばしば中華料理のデザートで見る球状のタピオカについて、以下のように記述がある。『糊化させたタピオカを容器に入れ、回転させながら雪だるま式に球状に加工し、乾燥させたものは「スターチボール」、「タピオカパール」などと呼ばれ、中国語で「粉圓」(フェンユアン fěnyuán)と呼ぶ。煮戻してデザートや飲料、かき氷、コンソメスープの浮身などに用いられる。黒、白、カラフルなタイプとさまざまな色が着けられた製品がある』。『従来より、サゴヤシのでん粉で作られ、「西穀米」(中国語 シーグーミー、xīgǔmǐ)、「西米」(シーミー、xīmǐ)と呼ばれていたが、現在は安価なタピオカに切り換えられているものが多く、「西米」という呼称も避けられている。また、大きい粒には食感調整のために甘薯(さつまいも)デンプンが加えられていることが多い』。『このタピオカパール、スターチボールをミルクティーに入れたタピオカティー(珍珠奶茶)は、発祥の地である台湾はもとより、現在では日本や他の東南アジア、欧米諸国などでも広く親しまれている』。『中華点心では小粒のものを煮てココナッツミルクに入れて甘いデザートとして食べる。他に、ぜんざいのように豆類を甘く煮た汁と合わせたり、果汁と合わせたりもする。台湾や中国とつながりが深い沖縄では、「西穀米」の福建語読みが語源と思われる「シークービー」または「セーカクビー」という呼び方で、伝統的に沖縄料理のデザートとして利用してきた』。乾燥状態で直径五ミリメートル『以上の大きな粒の場合、煮戻すのに2時間程度かかる。また、水分を少なめにして煮ると粒同士が付きやすくなるので、型に入れて冷やし、粒々感のあるゼリーの様なデザートを作ることもできる。欧米では、カスタード風味のタピオカプディングがよく知られている』とあり、この記載から実はこの狩野が飲んだ「西國米」(せいかくーびー)はサゴヤシである可能性が高いことが分かる。サゴヤシはマレー語・インドネシア語の“sagu”の英語化した“sago”と椰子の合成語で、樹幹から現地で「サゴ」と呼ぶ食用デンプンが採取出来るヤシ科やソテツ目の植物の総称である。参照したウィキの「サゴヤシ」によれば、『サゴはヤシ科のサゴヤシ属(Metroxylon)など11属から採れるほか、ソテツ目のソテツ属(Cycas)など3属からも採れる。英語ではサゴが採れるソテツ属の植物も sago palm と言うことがある』とあり、『サゴヤシは東南アジア島嶼部やオセアニア島嶼部の低湿地に自生する。サゴヤシの植物学的な研究は発展途上であり、原産地は未だ解明されていない』。『東南アジアではイネの導入以前に主食の一端を占めていたと考えられている。南インドでも食べられている。パプアニューギニアでは現在でもサゴヤシのデンプンを主食とする人々がおよそ30万人いる。一方、ミクロネシアやポリネシアではほとんど食べない』。『ソテツ属のソテツから取るデンプンは琉球列島や南日本でも食用とされていた』と「分布・地域誌」を述べ、続く「歴史」の項では『文献記録上最も古い言及は、マルコ・ポーロの旅について書かれた13世紀の『東方見聞録』ではないかと言われている。文中に「スマトラには、幹に小麦粉が詰まった喬木がある。木の髄を桶に入れて大量の水を注ぎしばらく置くと、底に粉が沈殿する。この粉で作ったパンは、大麦のパンに味が似ている」との記述がある』とする。そして「利用法」の項の記述の中に『キャッサバの芋から取るデンプンのタピオカを加工して作られる球状のタピオカパールと同様に、サゴからもサゴパールが作られる。サゴから作ったパールの方がタピオカパールよりもずっと歴史が長く、東南アジアからヨーロッパ、中国、台湾、琉球王国などにも輸出され、中華圏では「沙穀米」や「西穀米」、琉球では「セーカクビー」などと称された』と出、しかも本「耳嚢」の記載より遙か昔の、天正一九(一五九一)年に明の高濂こうれんによって編纂された百科全書「遵生八牋じゅんしゅはっせん」巻十一にも「沙穀米粥」の調理法について記載がある(篠田統「中国食物史」柴田書店による)と記してあるのである。
・「黄はく」底本には右に『(黄檗カ)』と補注する。ムクロジ目ミカン科キハダ
Phellodendron amurense で、「黄檗」「黄膚」「黄柏」とも書く。この樹皮を乾燥させた黄檗(オウバク)は生薬として有名であるが、実は聞かない。ウィキの「キハダ」の「生薬」の項によれば、『樹皮の薬用名は黄檗(オウバク)であり、樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれている、また黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』と記した後に、『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』とあるから、食用が可であること、されば本邦の民間薬として用いられた可能性が高いことが窺われる。 ・「名□唐藥也」底本には「□」の右に『(詮カ)』と補注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はこの部分、前文から続いて、以下のように一度切れて、続く。
 ……といふ人あれどたしかならず。唐薬なり。
バークレー校版で訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 疝気の妙薬の事

 御用絵師狩野友川かのういうせん殿の話。
 同人は私同様、疝気持ちであられ、とかく刺すような腰の痛みが常に致いて、大いに苦しんで御座ったとのことであったが、ある御仁が、
西国米せいかくーびーを日々五粒ずつ服用致さば、奇効、これ、御座る。」
と語ったによって、薬種屋にて求めて、欠かさず服用致いたと申す。
 すると、かの執拗しゅうねき疝気、これ、忘るる如く、快癒致いたと申す。
 文化三年、私の元へ参られ、絵を描いていただいた折りにお話し下された。
 この西国米と申すは黄檗おうばくのことである、と申す者もあるが、これ今一つ、分明ではないようである。ともかくも、中国渡りの薬ではある。



 恩愛奇怪の事

 神田明神前よりお茶の水へ出る所は、船宿ふなやどありしが、文化三年六歳に成りし娘有し。かれ貮三歳の時より筆とりて物をかく成身せいしんの者の如く、父母の寵愛大かたならず。いつしか船宿をも仕𢌞しまはして兩國邊へ引越しけるが、いよいよ彼娘の手跡しゆせき人も稱讚せし處、文化三年流行の疱瘡を愁ひ以の外重く、父母は晝夜心も心ならず介抱看病なしける、其甲斐なく身まかりしとかや。母は歎きの餘り色々の事にて狂氣の如く口説くどき歎きしに、彼娘こたへて神田へ參り候て又逢可申あひまうすべし、あんじ給ふなといへるを、母はうつゝの如く其言葉たがへずとかこちけるが、扨しもあらねばなきがらを野邊の送り抔して、唯ひれふし歎きくらしけるよし。神田の知人共に立かわりけるに有が中、彼娘と同年くらいの娘をもちける者ありて、彼娘兎角兩國へ參りたしまうす故、召連めしつれて右の船宿へたづねしに、召連し娘何分宿へ歸るまじ、此所に差置さしおき給へといふ故、いかなる事にてと尋しに不思議成哉なるかな、今迄筆とりたる事もなき娘、物書ものかく事死に失せし娘といささか違ひなければ、何れも不思議なりと驚き、神田なる親も召連れ歸らんといへど彼娘、我は爰許ここもとの娘なり、歸る事はいたすまじきとて合點せず。無據よんどころなく兩國に差置さしおき實親はかへりしと、專ら巷ありと人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。直近の都市伝説霊異譚で五つ前の文化二年の「幽靈を煮て食し事」と直連関(但し先のものは擬似霊異譚)。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、アップ・トゥ・デイトな噂話である。
・「神田明神前よりお茶の水へ出る所」湯島聖堂があった現在の外神田二丁目の神田川の外堀通り沿いに当たろう。
・「神田の知人共に立かわりけるに有が中」底本では「有が中」の右に『(ママ)』注記を附す。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 神田の知る人共に立代たちかはたづねけるに、あるが中
となっている(正字化し読みも歴史的仮名遣に変えた)。これで訳す。
・「巷あり」底本では右に『(説脱カ)』と注記を附す。カリフォルニア大学バークレー校版『巷説』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 恩愛が奇怪なる現象を引き起こした事

 神田明神前よりお茶の水へ出ずる所に、船宿ふなやどがあった。
 文化三年、当年とって六歳になる娘が御座った。
 この子は二、三歳の時より、筆を執ってはいろいろと書写致すこと、これ、大人の者のそれの如き素晴らしき能筆にて、父母の寵愛は、それはもう、大かたならざるもので御座った。
 いつしか、船宿をも移転致いて、両国辺りへ引っ越したと申す。
 いよいよ、かの娘の手跡しゅせきは人も神童なりと称賛致いた御座ったが、ちょうど文化三年に流行致いた疱瘡をわずろうたが、これ、以ての外の重き病いにして、父母は昼夜を分かたず、心痛致し、親身に介抱看病を致いたものの、その甲斐ものぅ、これ、身罷ったとか申す。
 さても臨終の間際、母は歎きのあまり、いろいろと叫びたて、それはもう、狂気致いた者の如くにて、娘の生死につきて、訳の分からぬことを、あれやこれやと口走っては歎いて御座ったと申す。
 すると、かの娘は熱にうなされながら、
「……懐かしい神田へ参りまして御座います……さればこそ……また……お逢い申すことが叶いましょう……ご案じなさいますな……」
と答えたと申す。
 母は、それを聴くと、夢うつつのうちに、
「――その言葉、よもや、たがえること、ないな?!……」
と歎き叫んで御座ったとも申す。
 さても、最早、息を引き取って後、野辺の送りなんども済ましたが、両親はただただ、ひれ伏し、歎き暮すばかり。
 神田に住まう旧知の人どもも、入れ替わり立ち代わり、弔問に参ったが、その中に、かの娘と同い年ほどの娘を持ったる者が御座って、その娘がしきりに、
「……両国へ……参りとう御座います……」
と申すゆえ、ちょうど、弔問にもと思うて御座ったゆえ、かの亡き娘の両親のおる船宿へと訪ねて参ったところが、同道した娘は、
「……もう決して――神田へは帰りませぬ――ここに――どうか、おいて下さいませ!」
と言い出す。孰れの親も、吃驚致いて、
「……い、如何なる訳か?……」
と、質いたところが、
――不思議なことじゃ!
――今まで筆なんど執ったこともなきその娘が、
「筆を!――」
――ときっぱりと申したによって
――筆を執らしてみたところが
――そのさらさらと書き記す手跡
――死に失せし娘のそれと
――聊かの違いも
――これ
――御座いない!
 両家の親もこれまた、
「……な、なんとも不思議なることじゃ!……」
と吃驚仰天、神田の実の両親が、これを無理に連れ帰らんと致いたものの、かの娘は、
「――わらわはもともと茲許ここもとの娘で御座いまする! 帰ることは――とてものこと、叶いませぬ!」
と、これまたきっぱりと申しは、いっかな、合点致さなんだ。
 よんどころなく、両国にその娘をさしおいたまま、実の親どもは取り敢えず引き上げざるを得なんだと申す。……
……とは、専らの巷説として今も噂致いて御座る。
……とは、知れる人の語ったことにて御座る。
……これ、後のこと知りや……



 退氣の法尤の事

 文化元年麻疹はしか流行なして、死する者も多かりしが、番町邊の御旗本の奧方麻疹にて身まかりしが、其隣御旗本の妹容色もよかりしと、無程ほどなく世話する者のありて後妻によび迎へしに、度々先妻の亡靈出て當妻本心をうしなひし。色々の療治すれど快驗なく、山伏又は僧を賴み祈禱抔なせどもいささか印なし。外の者の目には見へず、只當妻たうさいのみ見へけるとなり。此事を或人ききて、中々一通りの者祈禱してはきくまじ、牛込最勝寺の塔頭たつちゆう德林院の隱居を賴み可然しかるべしと言ける故、かの德林院へ至りしかじかの事語りければ、我が祈禱にて可利有きくべくありとも思はれねど、此地藏の御影みえい持行古もちゆきふる位牌へ張付はりつけ、佛壇へなりと枕元へなりとおきて、佛器に一盃の茶を入與いれあたへけるにぞ、すなはち立歸り其通りなしけるに、其夜よりたへて怪異なかりしと也。繪にかける地藏の奇特きどくとも思はれず、彿器の茶は何爲なんのために與へける、是の事にきくに、あらず、此老僧はさる者にて、退氣たいき手段てだてをなしけるなり。かの後妻隣家なれば、先妻息才の節より通じけるや。たとへ通ぜずとも、不幸間もなく再緣せし事故、先妻は何とも思はぬとも、當妻恨みもせんと思ふ心より靈氣よびたるべし。

□やぶちゃん注
○前項連関:霊異譚で連関。但し、こちらは頗る現実的な解釈、後妻の前妻に対する罪障感に基づく強迫神経症的幻覚と鮮やかに断じていると私は読む。心理学者根岸鎭衞に快哉!
・「退氣」陰陽五行説及び九星学や気学に於いて、相生(吉相)の中で自分が生み出す子星(勤勉や他人を助ける星)を意味するものらしい。
・「文化元年」西暦一八〇四年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。
・「麻疹」通常の麻疹(はしか/ましん)は一週間程度で治るが、大人の場合、現在でも風邪と勘違いして治療が遅れると、肺炎や約一〇〇〇人に一人の割合で脳炎が合併症として現われ、その場合は十五%が死に至る。
・「牛込最勝寺」底本の鈴木氏注に、『済松寺の誤。前出。』とある。これは「耳嚢 卷之五 濟松寺門前馬の首といふ地名の事」に出る。以下、私の注を転載しておく。「濟松寺」東京都新宿区榎町にある臨済宗妙心寺派の寺。開山の祖心尼は義理の叔母春日局の補佐役として徳川家光に仕えた人物である。
・「置て、」底本ではこの読点の右にママ注記がある。鈴木氏は前に「古位牌へ張付」とあるのと齟齬を覚えられたためであろう。私は護符は複数枚あったものと考える。その方がプラシーボ(偽薬)効果が高まるからである。
・「退氣の手段」占いの方はよく分からんし、その深遠な哲学にも興味はないので――根岸もそうした陰陽道みたような厳密な意味でこれを用いているとも思われないので――現代語訳では半可通のまま、「退気」を使用させて貰った。謂わば、前に述べた如く、自身の側にある種の罪障感があって、それが昂じて重い強迫神経症を引き起こし、霊の幻覚を見た、そうした新妻の病的な心理状態を緩和させるための地蔵の護符というプラシーボによる心理療法を施したという意味で私は採る。
・「息才」底本には右に『(息災)』の訂正注がある。以下の部分、訳にホームズ根岸の推理を補強するような翻案部をワトソン藪野が追加しておいた。

■やぶちゃん現代語訳

 退気たいきの法の尤もなる効果の事

 文化元年、麻疹はしか流行はやり、死する者も多く御座った。
 番町辺りの御旗本の奧方、この麻疹にて身罷って御座った。  さて、その隣りの、やはり御旗本の家に妹子いもうとごが御座って、容色もよいとのことにて、ほどのう世話する者のあって、隣りの御旗本の後妻に呼び迎えた。
 ところが、たびたび先妻の亡霊が出現致いて、新妻の後妻、これ、心神を喪失致すことがたび重なったと申す。
 いろいろと療治致いたものの一向にようならず、山伏やら僧やらを頼んでは、祈禱なんども致いたものの、これ、聊かも効果が、ない。
 この先妻の亡霊なるものは、しかし、他の者の目には見えず、ただ、その新妻ののみに見えるとのことで御座った。
 このことをある御仁が聴き、
「……それは……なかなか、一通りの者の祈禱にては効くまいぞ。……我の知る、牛込済松さいしょう寺の塔頭たっちゅう徳林院の御隠居を頼むが、よろしかろう。」
と申したによって、主人の命を受けた家人が、その徳林院へと至り、しかじかの由、語ったところが、その僧、使いの者にその妻を亡くした御旗本、その隣家の御旗本及びその妹子のことなど、詳しく質いた後、何か思い当ったところがあったように、徐ろに何枚かの御札を取り出だいて、
「――我が祈禱にて効験こうげんこれあるとは、思われませぬが――ここはまあ、一つ、こちらの地蔵の御影みえいを持ち行かれ、亡き妻女の位牌へと一枚を張り付け、また仏壇へなりと枕元へなりと、これを置きて、また、仏さまにお供えするうつわに、一杯のちゃあを入れて、奉ずるが、よろしかろうぞ。――」
と申した。
 されば家人はすぐに立ち帰り、主人に申し上げて、その通りになしたところが――
――その夜より
――きっぱりと
――新妻は、かの霊の出来しゅったいおののくこと
――これ、一切なくなったと申す。
   *
 按ずるに、これ、絵に描いた地蔵の奇特きどくとも思われず――また、供養の仏器に淹れし茶は何のための供えかも、これ、分明でない。
 この御旗本の周辺の事情や、かの徳林院の僧につき、私が少しく聴き及んだところによれば――地蔵の奇特――にては、これ、ない。
 この老僧、まっことの智者にして、言わば
――退気たいき手段てだて――
を成したものに、他ならぬ。
 そもそも、かの後妻はまさに隣家の者であったによって、先妻が息災であった頃より、実は姦通致いて御座ったのではなかろうか?
 憚りのあれば、具体には申さぬものの、私の調べたところによれば、そのような事実を強く疑わせるようなことがあった――
とのみ、ここに申し述べておくに留めよう。
 いや、百歩譲って、たとえ、そうした密通の事実がなかったとしても――だいたい先妻の不幸のあって、ほんの間もなく致いて、早々に再縁致すと申す、これ、世間一般の通念から致いても、すこぶる芳しからざることなれば――「先妻の霊」は、これ、何とも思はぬと致いても――当の新妻自身が、
『先妻の亡魂が恨みをもお持ちではなかろうか』
と按ずる心の生ずること、これもすこぶる道理なれば、まさに
――ありもせぬ「霊気」――
をも呼び出だいては、それを「見た」ものに相違あるまい。



 長壽の人狂歌の事

 安永の比迄存在ありし增上寺方丈、壽筭じゆさん八九十歳なりし、海老の繪に贊をなし給ふ。
  此海老の腰のなり迄いきたくば食をひかへて獨寢をせよ
 と有しを、小川喜内といへる是も八十餘なりしが、右の贊へ、
  此海老の腰のなりまでいきにけり食もひかへず獨り寢もせず

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。狂歌シリーズ。流石にこの歌に注釈は不要であろう。なお、底本の注で鈴木氏は第一首目の歌に注して、『この歌の異伝と見られるものが、『三味庵随筆』中に、志賀酔翁の作として出ている。酔翁は後出の随翁(瑞翁)で、長生して昔のことを語ったという人であった。実は自分も幼い時その随翁に逢ったことかあるなどと言い出す暑が何人か出て、いよいよ噂ばかり高かった人物だが、信用できるような具体的伝記事実は伝わっていない。「志賀酔翁御逢候哉と尋候へば、自分など江戸へ詰候時分は未ㇾ出人にて候哉、名も不ㇾ聞よし、其已後段々聞及候、酔翁海老を書き、「髭長く腰まがるまで生度と大食をやめ独りねをせよ」と讃書候絵、義岡殿有ㇾ之よし、大坂陣の節共は壮年の積由候ば、何事も知らぬと申候由。」とある。海老の絵にこんな狂歌を書くのは増上寺方丈や随翁に限ったことでなく、一つの型になっていたことを思わせる』とあって、この歌が次項の主人公「志賀隨翁」のものであるという伝承があったことが記されてある。
・「安永」西暦一七七二年から一七八〇年。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年。
・「增上寺方丈」底本の鈴木氏注に、『増上寺の十時で安永年間に示寂したのは、二年寂の典誉智瑛(四十八代)と六年の豊誉霊応であるが、いずれも世寿伝えていない』とある。
・「筭」算に同じ。
・「小川喜内」不動産会社ジェイ・クオリスの「東京賃貸事情」(ここの情報はあなどれない!)の「美土代町二丁目」に、同地域の歴史を綴る中に元禄一〇(一六九七)年『には全域を松平甲斐守(柳沢吉保。武蔵川越藩主)が一括して拝領。享保年間(一七一六―三六)になると再び細分化され、小笠原駿河守・林百助・能勢甚四郎・本間豊後守・金田半右衛門・窪田源右衛門・堀又兵衛が拝領している。寛政一一年(一七九九)には林家跡に大前孫兵衛、金田家跡に中野監物、窪田家跡に小川喜内が入っており、文政一二年(一八二九)になると小笠原家跡に駿河田中藩本多豊前守正寛が、その他の一帯に摂津尼崎藩松平筑後守忠栄が入っている』とある。この「小川喜内」なる人物、時代的にもぴったりである。

■やぶちゃん現代語訳

 安永の頃まで存命であられた増上寺の方丈は、よわい八、九十歳まで矍鑠かくしゃくとなさっておられたが、ある折り、海老の絵に賛をお書きになられた、その和歌。
  此海老の腰のなり迄いきたくば食をひかへて獨寢をせよ
 かくあったものに、後年になって、小川喜内と申す御仁、これも八十余歳にて壮健であられたが、右の賛へ、
  此海老の腰のなりまでいきにけり食もひかへず獨り寢もせず



 志賀隨翁奇言の事

 石川壹岐守組の御書院與力廣瀨大介といふ者、文化のころ八十餘なりしが、當時世の中にて長壽の人といへば、志賀隨翁事を口説くぜつなす。かの大介幼年の節、京都建仁寺にて隨翁にあひし事あり。大介に向ひて、此小兒は長壽の相あり、然共しかれども不養生にては天命を不經へずと語りしと、大介はなしし由。

□やぶちゃん注 ○前項連関:長寿養生譚で直連関し、前の注で鈴木氏によって実は前の「長壽の人狂歌の事」に出た歌(第一首目)を、この話の「隨翁」とする記述があるから、これは同一の情報源であることが強く疑われる。前の項の注も参照されたい。
・「志賀隨翁」底本で鈴木氏は特異的に詳細で重要な考察をなさった注を施しておられるので、例外的に全文を引用したい。
   《引用開始》
『梅翁随筆』八に「生島幽軒といふ御旗本の隠居、享保十年己巳八十の賀を祝ひて、老人七人集会す。その客は榊原越中守家士志賀随翁俗名金五郎百六十七歳、医師小林勘斎百三十六歳、松平肥後守家士佐治宗見百七歳、御旗本隠居石寺宗寿俗名権右衛門九十七歳、医師谷口一雲九十三歳、御旗本下条長兵衛八十三歳、浪人岡本半之丞八十三歳、宴会せしとて、其節の書面、今片桐長兵衛かたにのこれり。」うんぬんとある。この七人の長寿者会合のことは『月堂見聞集』『翁草』にも出ているから、話の種だったことがわかる。享保十年百六十七歳というのが随翁の生存年代を確かめるための一応のめどであるわけだが、伴蒿蹊の『閑田耕筆』には正徳五年幽軒の尚歯会の際、瑞翁百八十七歳とある。蒿蹊は、「右の内志賀瑞翁は人よく知れり。おのれ三十二三の時、此翁の三十三回にあたれりとて、手向の歌を勧進する人有しが、これは彼延寿の薬方を伝へて、売人其恩を報が為なりと聞えき。此年紀をもて算ふれば、正徳五年よりは十七八年、猶ながらへて凡二百七十余歳なり。長寿とは聞しかども、二百に余れるとはいふ人なし。もし正徳の会の時の齢たがへる歟、いぶかし」と疑っている。蒿蹊の三十二、三は明和初年であるから随翁は享保十六、七年に死んだことになる。いずれにしても無責任な数字というべきだが、この随翁(随応とも瑞翁とも酔翁とも書いた)と実際に逢ったことがあると言い出した者があり、その証拠ともいうべき災難除けの守りを貰ったという人物(江戸塵拾)まで出現した。本書の広瀬大介も逢ったという一人だが、『海録』では、方壺老人(三島景雄)という人が幼時(享保の末)随翁に逢ったが、木挽町に貧しげな様で下男と二人で住んでいた。翁は幼いとき信長公の児小性で、本能寺の変には運よく死を免れたと自ら語った。随翁が死んだ時は下男もいず、あまり起きて来ないので隣家の者が見たら死んでいたという。谷川士清は、「二百歳の寿を保ちしといへるも覚束なし、若くは世を欺く老棍のわざならんか」といっている。自ら長寿を吹聴し人を欺く意図はなくても、稀世の長寿者を待望する心理が民衆の中にあり、その像を具体的に作り上げて行く動きが、いったん走り出すと停らなかった。まず心から信じるには到らなくても、語りぐさとして受け容れる層が存在したことが、このような無責任な伝聞を事実誇らしい形で発展させたことは常陸坊海尊の場合も同様であった。
   《引用終了》
谷川士淸の言葉の中の「老棍」とは「ろうこん」と読み、老いたる悪漢、無頼の徒の意。
・「御書院與力」御書院番配下の与力。御書院番は若年寄に属して江戸城警護・将軍外出時の護衛・駿府在番などの他、儀式時には将軍の給仕を御小性と交替で当たった。十組程度(当初は四組)の編成で各組に番頭六人・組頭一人(千石高)・組衆五十人・与力十騎・同心二十人を置いた。同与力は玄関前御門の警備に当った。
・「石川貞通」底本の鈴木氏は、『天明五年(二十七歳)家督。四千五百二十石。寛政十年御小性組頭』とあるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「石川」を『石河』とし、長谷川氏は『いしこ』とルビを振ってあり、注では『文化四年(一八〇七)書院番頭、五年御留守居』とある。「新訂寛政重修諸家譜」によると、「石河」が正しいようである。天明五年は西暦一七八五年、寛政十年は一七九八年でこれが同一人物であるとすると、文化四年には五十九歳となるが、こちらの「備中伊東氏」の系図で生年を計算してみると、備中岡田藩の第六代藩主であった石河貞通の父伊東長丘ながおかの生年は元禄一〇(一六九七)年であるから、天明五(一七八五)年に二十七歳とすると、鈴木氏の言う「石川貞通」の方の生年は宝暦九(一七五九)年、父伊東長丘が六十二歳の時の子供ということになる。考えられないことではないが、長谷川氏の役職とも一致するものがなく、これはどう考えても同一人物ではあるまい。訳ではあり得そうな「石河貞通」を採用した。
・「文化の比」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏である。この話が直近の都市伝説であることが分かる。

■やぶちゃん現代語訳

 驚異の長寿で知られた志賀随翁の奇体な評言の事

 書院番番頭であらせらるる石河いしこ壱岐守貞通殿の組の、御書院番与力の廣瀨大介と申す者、この文化の初年頃には八十歳余りであったと存ずる。
 昨今、世の中にて長寿の人と申さば、志賀隨翁のことがしばしば人の噂に登るが、この大介、幼年の砌り、京都建仁寺にて、その随翁に実際にうたことがあると申す。
 その折り、随翁は大介に向かい合って、凝っと彼の顔を見ておったが、そのうちやおら、 「――この小児は長寿の相、これあり。――然れども美食や女色と申す不養生を致いたならば――これ、天命を全うすることは――出来ぬ。――」
と語った、とは、これ、その大介自身の話の由。



 養生戒歌の事

 予許へも來りし横田泰翁とて、和歌を詠じて人も取用叟とりもちゐるおきななりしが、或時咄しけるは、さる翁の戒にせよとてよみて贈りしざれ歌なり迚、
   朝寢どく晝寢又毒酒少し食をひかへて獨寢をせよ

□やぶちゃん注
○前項連関:長寿養生譚で直連関。正直、類話・類歌でつまらぬ。
・「横田泰翁」底本の鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 養生戒の歌の事

 私の元へもよく参る、横田泰翁と申されて、和歌を詠じられてはよく人の歌会や行事に招き寄せらるるご老人があるが、ある時、話されたことには、さる老人が養生の戒とせよとて、詠んで贈られた戯れ歌で御座るとて、紹介して呉れた狂歌。
   朝寝どく昼寝又毒酒少し食をひかへて独寝をせよ



 中庸の歌の事

 右の泰翁中庸の歌とて、人のもとめしに、詠得よみえぬるとおもひ侍るとて語りぬ。
  すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし

□やぶちゃん注
○前項連関:横田泰翁直談咄直連関。
・「すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし」歌意は、
――真っ直ぐでなくては物をつことのが出来ぬ斧のような物もあれば――曲らねばちようがない屛風のような存在もある――と申すが、これ、世の中というもの――
岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、
 すぐなると用ゆるものもまがらねば足らぬ屛風も世の中ぞかし
とある。本書の歌の方がよい。

■やぶちゃん現代語訳

 中庸の歌の事

 右の泰翁殿、
「……中庸の歌と申して人から需められましたによって、詠みましたとろ、まあ、少しは上手く詠めたのではないか、と思いまして。……」とて、語り聴かせてくれた狂歌。

  すぐなると用ゆるをのも曲らねばたゝぬ屛風も世の中ぞかし



 郭公狂歌の事

 元の木阿禰といへる、狂歌よみに春夏のうつりかはる氣色よみ得たり迚見せける。

  春夏の氣違なれやきのふまでわらひし山に啼時鳥

□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌連関。
・「元の木阿禰」狂歌師元木網もとのもくあみ(享保九(一七二四)年~文化八(一八一一)年)。姓は金子氏、通称は喜三郎、初号は網破損針金あぶりこのはそんはりがね。晩年は遊行上人に従って珠阿弥と号した。壮年の頃に江戸に出、京橋北紺屋町で湯屋を営みながら国文・和歌を学び、同好の女性すめ(狂名、智恵内子ちえのないし「耳嚢 巻之三 狂歌流行の事」に既出)と結婚後、明和七(一七七〇)年の唐衣橘洲からころもきっしゅう宅での狂歌合わせに参加して以来、本格的に狂歌に親しむようになる。天明元(一七八一)年に剃髪隠居して芝西久保土器町に落栗庵らくりつあんを構え、無報酬で狂歌指導に専念した。数寄屋連をはじめ門人が多く、「江戸中はんぶんは西の久保の門人だ」(「狂歌師細見」)と称されて唐衣橘洲・四方赤良(大田南畝)と並ぶ狂歌壇の中心的存在となった。寛政六(一七九四)年には古人から当代の門人までの狂歌を収めた「新古今狂歌集」を刊行している(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
・「春夏の氣違いなれやきのふまでわらひし山に啼時鳥」「氣違きちがひ」は「季違ひ」と狂人の意の「氣違ひ」の掛詞。岩波の注で長谷川氏は、『笑うは花の咲くことをいう。花は春でほととぎすは夏、それで季違い』となり、『春と夏と季節が変わったからか昨日まで花の咲いていた山にはほととぎすが鳴』いているように、さっきまで『泣いていた者が急に泣出すとは狂人のよう』という人事を詠じたものという風に読めるように評釈されておられる。しかしここは、「春夏のうつりかはる氣色詠得たり」という前書から考えるなら、素直に(といってもトンデモ歌語ではあるが)、自然を人事のそれに喩えたもののように思われるが、如何?

■やぶちゃん現代語訳

 郭公ほととぎすの狂歌の事

 元の木阿禰と申す、狂歌詠みが、「春夏の移り変わる景色を詠み得たり」とて見せたという、その狂歌。

  春夏の氣違なれやきのふまでわらひし山に啼時鳥



 其角惠比須の事

 蓮雀町に淺草海苔を商ふ富貴にくらしし町人有しが、俳諧抔好みて其角きかくと友たり。年毎に惠比須講には其角も招かれしが、或年の十月其角方へ一向沙汰なし。多年招きぬるに今年沙汰なきはいかなる故やと、晉子しんしも□所より立出てかの町家ヘおとなひしに、いつに替りていとさびしく、惠比須講の氣色けしきもなき故、いか成事ぞと召仕ふ者にたづねければ、さればとよ、今日が惠比須講につき備へ侍る德利とつくりを、妻なる者淸めすゝぐ迚取落し缺け損じけるが、年久しく侍る品のかけ損じ、ひとへに家のおとろへ瑞相成ずいさうなり迚一はなはだ怒り、妻を里へ歸すとの以の外のさはぎになれば、惠比須祭り沙汰もあらず、御身は心安き事なれば何卒をさまる樣はからひ給はれと言しに其角驚きて、仕樣もあれば短册たんざくを出し給へとて、やたて筆取りて、
  惠比須講德利の掛のとれにけり
かくかきて亭主に見せければ、面白くも説たり、さらば惠比須講せよと、家内さゞめきて妻の離緣も事なくすぎしよし。右晉子が短册を惠比須の神額となして、今に其角惠比須といふとなん。

□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌譚から俳諧譚へ。但し、「卷之七」の執筆推定下限である文化三(一八〇六)年より百年も遡る古い話柄である。本「其角惠比須」の「神額」なるものは現存しない模様。
・「其角」蕉門十哲の一人である宝井其角(寛文元(一六六一)年~宝永四(一七〇七)年)。「晉子」は別号。当初は母方の姓榎本氏を名乗った。江戸堀江町で近江国膳所藩御殿医竹下東順の長男として生まれた。延宝年間(一六七三年~一六八一年)の初め、父親の紹介で松尾芭蕉の門に入り、俳諧を学んだ。芭蕉の没後は日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧では一番の勢力となった。なお、隣接して荻生徂徠が起居、私塾蘐園塾(けんえんじゅく)を開いており、因んだ句に「梅が香や隣は荻生惣右衞門」 の句がある(以上はウィキの「宝井其角」に拠った)。
・「蓮雀町」連雀町の誤り。現在の神田須田町一丁目の内にあった地名。万世橋と須田町一丁目及び淡路町二丁目に囲まれたところで、町名の由来は行商人が背負う荷籠の連尺(肩に当たる部分を麻縄などで幅広く編んだ荷縄やそれを木の枠に取り付けた背負い子のこと)などに因んでいると言われ、後に「尺」が「雀」に変わったものとされている。
・「淺草海苔」紅色植物門紅藻綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属アサクサノリPorphyra teneraの乾燥加工品である浅草海苔は(以下、参照したウィキの「アサクサノリ」より引用)、『徳川家康が江戸入りした頃の浅草寺門前で獲れたアサクサノリを浅草和紙の技法で板海苔としたのがものを『浅草海苔』と呼ぶようになった。当時は焼かずにいたが、その後に焼き海苔として使用するようになった』。『江戸時代に隅田川下流域で養殖された江戸名産のひとつで、和名は岡村金太郎による。名の由来は、江戸の浅草で採取、販売、製造されたため、など諸説ある』。『海苔の種類の中では、味、香り共に一級品であるが、養殖に非常に手間がかかり、また、傷みやすく病気にもかかりやすいため養殖が難しく、希少であり、高級品である』。『採取年代は古く「元亀天正の頃」と記す書物もあるが、永禄から天正年間には浅草は海から遠ざかっており、』天正一七(一五八九)年の徳川家康の入府後の江戸初期には早くも『干拓により海苔の採取が不可能になっている。下総国の葛西で採れた海苔などが加工されて販売されつづけ、消費地である江戸の市街地造成や隅田川の改修などにより浅草が市や門前町として発展すると評判が上がり、江戸の発展とともに「浅草」を冠せられるようになったと考えられている』。寛永一五(一六三八)年『に成立した松江頼重『毛吹草』には諸国の名産が列記されており、浅草海苔は品川海苔とともに江戸名産のひとつにあげられている。また、江戸時代には高僧により食物の名が命名される伝承があるが、浅草海苔も精進物として諸寺に献上され、これが幕府の顧問僧で上野寛永寺を創建した天海の目に留まり命名されたとする伝承がある』。『浅草は紙の産地としても知られ、享保年間には紙抄きの技術を取り入れた抄き海苔も生産されるようになった』とある。また、岩波の長谷川氏の注によれば、本話柄当時は採取と加工は『品川・大森辺で作った』とある。現在、絶滅危惧Ⅰ類に指定されており、旧来の生育地では絶滅したとされていたが、近年(といっても六年ほど前)、多摩川河口で発見された(それを自然観察中にたまたま発見する番組を私はリアル・タイム見たので印象深い)。当該関連記事は二世南陀伽紫蘭氏のブログ「[季刊里海]通信」の二〇〇六年十二月十九日附「多摩川河口で発見されたアサクサノリの鑑定論文が掲載されました」を参照されたい。依頼すれば当該鑑定論文も頂けるらしい。
・「惠比須講」夷講・恵比須講・恵美須講などとも書く。えびす神を祭る行事であるが、えびす神の信仰を受け入れるにあたって、商家においては、同業集団の組織と結び付いてえびす講中をつくり、一方農村では、地域集団の祭祀組織に結び付いたものと、年中行事的な各戸の行事として受け止めた所とがあり、それらが相互に混在して重複している。期日は旧暦十月二十日が一般で、旧暦十月は神無月、全国の神々が出雲へ集合するという伝承が広く行き渡っているが、その期間は神々が不在になるために神祭りも行われなかった。そこで古来からあった十月二十日のえびす神の祭りを正当化するため、「夷様の中通なかがよい」などと称してえびす講の前後だけ出雲から帰ってくるのだと解釈したり、えびす様と祭日を十月十日とする金毘羅様だけは留守神だから出雲へ行かないという説明をしたりしている。えびす講を十一月二十日にする例もあり、年の市と結び付いて十二月二十日にする所もある。農村では十月と一月二十日をともに祝ってえびす様が稼ぎに行く日と帰る日であるなどとする地方も多いという。えびす講の日は神棚に一升枡を上げて、中に銭や財布を入れて福運を願ったり、東北から中部にかけての広い地域では鮒などの生きた魚を水鉢に入れてえびす神に供えたり、またこの魚を井戸の中に放したりする(以上は小学館「日本大百科全書」の記載に拠った)。
・「□所より立出て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『暮前より立出て』とある。これで訳した。
・「瑞相」底本では左にママ注記があるが、「瑞相」には、第一義的には目出度いことの起こる徴し、奇瑞の様相・吉兆以外に、単なる前ぶれ、前兆、兆きざしの謂いもあるので特に誤用とは言えない。
・「惠比須講德利の掛のとれにけり」「掛」(かけ)は徳利が「欠け」るに、商家の売り「掛け」金が取れる(回収出来る)の謂いを掛けたもので、これは「德利」(利得)という名称にも掛かっており、商売にとって縁起のよい言祝ぎの句柄となっているのである。
・「説たり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『祝したり』とある。これで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 其角恵比須きかくえびすの事

 神田連雀町に浅草海苔を商あきの富貴ふうきに暮しおる町人があった。
 主人は俳諧なんどを嗜みて、かの蕉門の宝井其角とも友人であった。
 毎年の恵比須講には其角も親しく招かれて御座ったが、ある年の十月二十日のこと、其角方へ一向にその招待が、これ、御座ない。
「……永年、招かれて御座ったに……今年に限ってその沙汰のなきは、これ、如何なることであろ……如何にも解せぬことじゃ……」
と、流石に鷹揚なる大兵たいひょう肥満の晉子しんし其角も、楽しみにして御座っただけに如何にも不思議に思われて、日暮れ前より立ち出でると、かの商家を訪おとのうた。
 すると、これ、常とは変わって何やらん、大層、店の様子がいたく淋しゅうて、恵比須講を開かんとする気配は、これ、全く御座ない。
 されば、
「……何ぞ、御座ったか?……」
と、それとのぅ、店方の者へ尋ねたところ、
「……へぇ……それがで御座います。……今日が恵比須講の日なればこそ、それに供えんための徳利とっくりを女将さんが清めて濯がんとなされたところが……うっかり取り落されてしまい、大木きに欠け損じてしまいました。……ところが、これをご主人さまは、『年久しく捧げ奉って参った品が欠け損じたは、偏えに家の衰える兆しじゃ!』と……はなはだお怒りになられまして……もう、女将さんを里へ返すの何のと、これもう、以っての外の騒ぎとなってしもうたので御座います。……されば最早、恵比須祭りも何も、これ、あったもんじゃあ、御座いませぬ。……そうじゃ!……御身おんみはご主人さまとも昵懇の間柄にて御座いますればこそ……何卒、この騒ぎ、治まるように、取り計らっては下さいませぬか!……」
と言うたによって、聴いた其角も大層驚き、
「――されば、ウム、仕様もあれば……一つ、短冊を出だし給え。……」
とて、矢立の筆を取ると、やおら、
  恵比須講徳利の掛のとれにけり
と、かく書いて、ご亭主に見せた。
 すると、
「……こ、これは! いや、其角先生! 面白くも言祝いで下されたものじゃ! されば! 恵比須講を致すぞ! 早よ、支度致せ!」
と、家内、俄かにぱっと明るくなってさざめきたち、妻の離縁の事なんども何処ぞへ吹き飛んでしもうて、賑やかに、目出度とう、何時もの通りの恵比須講と相い成った由。
 この晉子其角が認したためた短冊は後、恵比須講中の祭祀の神額となって、今に「其角恵比須」と称し、伝えられておる、とのことで御座る。


 近藤石州英氣の事

 近藤石州は武人にて、人と違ひ候取斗とりはからい度々ありし人也。大番頭にて在番の節、組子くみこの藝術を見けるが、何某といへる男寶藏院の鎗を出精しゆつせいして、同士と鎗合やりあはせ等なして殊に勝れしを見て、石見守見て、我も相手に可成なるべしのぞみければ、かしらの事故幾重にも御免を願ふ由を被申まうされていなみければ、不苦敷くるしからず是非にと好みて立合けるが、此御番衆も至て氣丈なる男にて、然らば御免あれと立合しが、何の苦もなく石見守を突臥つきぶしければ石見守、只今のは如何に我まけ也と賞美して、定めて江戸表へ歸りても、我と仕合して勝ちたると人にも可咄はなすべき證據なくては不宜よろしからずとて、新木あらきの弓貮ちよう出し、是はわが首をとりたるに、人にも吹聽ふいちやうなすべしとて、かの御番衆へ與へけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。映像が浮かんでくる如何にも爽快な武辺物である。
・「近藤石州」旗本遠江気賀近藤氏七代目石見守近藤用和もちかず(寛延二(一七四九)年~?)。天明八(一七八八)年大番頭、寛政八(一七九六)年駿府城代。「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年当時は満五十七歳相当であるから存命であった可能性は高い。刀工としても知られた人物である由、ヨシ坊氏のサイト「史跡夜話」の「気賀近藤陣屋」にある。この出来事は後の補注によって寛政七(一七九五)年、用和四十六歳の折りの大阪城大番役の時の出来事であることが分かる。
・「組子」組頭配下にある者。組下。組衆。
・「寶藏院」宝蔵院流槍術。奈良の興福寺の僧宝蔵院覚禅房胤栄(?~慶長一二(一六〇七)年)が創始した十文字槍を遣う槍術(薙刀術も合わせて伝承していた)。初代宝蔵院覚禅房胤栄は柳生とも親交があったといわれる。また、福島正則の家臣で猛将として知られた笹の才蔵こと可児才蔵が初代胤栄に教えを請うたとも伝えられる。
・「出精」技芸鍛錬に精を出すこと。励み努めること。精励。
・「定めて江戸表へ歸りても」大番の警護する要地は江戸城以外に二条城及び大坂城があり、それぞれに二組が一年交代で在番した。
・「新木あらき」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『荒木』とし、長谷川氏は『加工せぬままの木で作った弓』とされている。「新」も発音が同じであるから同様の意味であろう。

■やぶちゃん現代語訳

 近藤石州用和もちかず殿の才気煥発なる事

 近藤石州用和殿はまっこと、武人にて、かなり人が吃驚するような取り計らいをたびたびなさるる御仁で御座る。
 大番頭として大阪城に御在番の折りから、組子くみこの者どもの槍剣の技芸をご覧になられたが、何某なにがしと申す一人の男、これ、宝蔵院流の鎗術に精励致いて御座って、同士の者と鎗り合わせなんど成して、これ殊に勝れて御座ったを、石見守殿ご覧ぜられ、
「――一つ、我らもお相手仕る!」
と御所望なさったところが、何分、かしらの御旗本のことゆえ、
「……そればかりは……幾重にも御免を願いまする。……」
由、申上げて固辞致いたものの、
「苦しゅうない! 是非に!」
と頻りにお好みになられたによって、是非に及ばず、かの者、立ち合い申上げたが、この御番衆も至って気丈なるおのこにて、
「――然らば! 御免あれ!」
と一切の手心を加えることなく、出精して立ち合い致いた。
――が
――これ
――何の苦もなく
――石見守殿
――一と突きに突き臥されて御座った。
 されば石見守殿、爽やかなる笑顔とともに、
「――ウムヽ! 只今のは如何にも我れらが負けなり!」
と頻りに賞美なされ、さらに、
「――定めて在番を終え、江戸表へ帰って後も、我らと試合致いて勝ったると、人にも話すに、これ、証拠なくしては宜しゅうないの!」
と仰せらるると、新木あらきの弓二ちょうを家臣に持って来させ、
「――これは――我が近藤用和が首――取った証しなると――人にも盛んに吹聴ふいちょう致すがよいぞ! ハヽヽヽヽ!!」
とて、かの御番衆へそれをお与えになったとのことで御座る。

[やぶちゃん補注:なお、本話については、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、後世の識者がこの相手をした御番衆の人物を特定し、かなり詳細な注を頭書で追加している。以下に、恣意的に正字化の上、読みも歴史的仮名遣に直したものを、掲げて注し、現代語訳を附しておく。本文は底本では全体が二字下げである。

   下げ札
本文近藤石見守鎗術相手いたし候御番衆、姓名無之これなき由に付相糺つきあひただし候處、鈴木錠左衞門と申仁まうすじん右石見守組にて、當時致隱居いんきよいたし鈴木如雲と改名致し、右之者寶藏院流鎗術師範いたし、石見守には種田流にて、寛政七卯年大坂在番之節本文之とほり石見守と於御小屋仕合おこやにおいてしあひ十本致し、錠左衞門勝利を石見守殊之外ことのほか賞美いたし、「武の御備おんそなへにも可相成間あひなるべきあひだ、以來他流之無差別しやべつなく、毎月御番衆於御小屋に仕合いたしやう」、石見守被申渡まうしわたされ候よし。
ただし、弓たまひ候儀は別之年にて、同八辰年御番衆大的おほまと十本、頭見分有之けんぶんこれあり、十之者へ弓壱張づゝ頭より給候よし、如雲直咄ぢきばなしにてうけたまはり候。 天保二卯年

□やぶちゃん注
●「下げ札」とは「下げ紙」「付け紙」で、本来は役所などに於いて上役が意見や理由などを書いて文書に貼りつける付箋をいう。この頭書が後に別紙に書かれて添付されたものであることを示すもの(本文と区別するために)であろう。
●「鈴木錠左衞門」ここの底本である岩波版長谷川氏注に『義輔のりすけ。寛政六年(一七九四)大番』とある。
●「種田流」江戸前期に相模甘繩藩士種田平馬正幸が大島流槍術を元に開いた素槍の有力流派の一つ。二間(約三・六メートル)から二間一尺(約四メートル)にも及ぶ長い素槍を遣い、その技は柔軟で細やかである。本流派では早期から他流試合を重んじており、江戸後期に至ると武術全般の再興の機運が高まって来、それに乗じて大いに流行して、特に幕末に素槍の使い易さが認められと、宝蔵院流に次ぐ隆盛を見たという。種田流の特徴は戦場での働きを重視する他の流派と異なり、剛健さを強調した高価な槍を用いたり、試合を重んじたり、究極的には一対一の対決を重視している点にあるという(以上は詳述を極めた「維新の嵐」の「種田流槍術」のページに拠った)。また同流には宝蔵院流の遣う十文字槍、その他、鍵槍を使う技が一部に含まれているとウィキの「槍術」にはあり、流派のポリシーや使用する槍の点からも、石見守が彼に挑もうとしたことが腑に落ちる。
●「寛政七年卯年」西暦一七九五年。
●「御小屋」岩波版長谷川氏注に『従者の住宅』とある。
●「大的」弓道に於いて歩射の正式の的であり、現在の尺二的(小的)が普及するまで一般に使用された。直径五尺二寸(約一五八センチメートル)。垂直に吊るして使用し、武家の新年の弓射儀礼である的始めなどで用られ、現在でも小笠原流の儀式で用いられている(以上は ウィキの「的(弓道)」に拠った)。
●「十之者」岩波版長谷川氏注に『十中の者。十矢とも当てた者』とある。
●「同八辰年」この槍試合の翌年、寛政八(一七九六)年。用和が駿府城代になる直前のことか。
●「天保二年」西暦一八三一年。「卷之七」の執筆推定下限文化三(一八〇六)年から二十五年後で、根岸鎭衞の(文化一二(一八一五)年)死から十六年の後の記載である。

■やぶちゃん現代語訳

   下げ紙による注
 本文の近藤石見守用和もちかず殿の槍術の相手を致いたと申す御番衆については、姓名が記されておらぬため、このことにつき、現在知り得る関係者に事実関係を質いたところが、鈴木錠左衛門じょうざいえもんと申す御仁が、かの石見守殿の組にあって、現在は既に隠居致いて、鈴木如雲と改名致いておらるることが判明した。この御仁は宝蔵院流槍術の師範であられる。
 なお、石見守殿に於かせられては種田流の遣い手であられた由。
 寛政七卯年のこと、大坂在番の節、本文の通り、石見守殿と御小屋おこやに於いて、都合、試合十本致いて錠左衞門が勝利致いたを、石見守殿、殊の外賞美なされて、
の備えにも相い成ろうほどに――以來、他流の差別なく、毎月御番衆はこの御小屋に於いて試合致し、精々出精致すように。」
と、石見守殿直々に申し渡しなされた、とのことにて御座った。
 但し、弓を賜われたと申す儀は、実際には別の年のことであり、これは同寛政八年辰年のこと、御番衆が大的おおまと十本かしら見分がこれ御座った折りに、十射十中の者へ弓一張ずつ、頭より賜われて御座った由。
 以上は如雲殿御自身の直談にて、承って御座った。 天保二卯年記

この注記を記して呉れた御仁、何とも有り難い御仁ではないか。]



 旋風怪の事

 俗語にかまいたちと稱し、つむじ風の内にまかれて怪我する者あり。予がしれる人にも怪我なせし人あり。其事に付或人語りけるは、弓術に名高なだかく、與力へ被召抱めしかかへられし安富運八子供に源藏源之進迚ありしが、幼年のみぎり加賀屋敷原は門前なれば、右原へ遊びをりしに、今の運八外へ用事有て通りしに、かの兩人の子供、つむじ風にしたがい𢌞り居しを運八見て、聲をかけぬれど答へもなくひた𢌞りける故、飛掛とびかかりて兩人を引出ひきいだし宿元へ連歸りけるが、年かさなる小兒は黑き小袖を着しが、鼠の足跡の如き物一面に付居つきをりしと也。然れば打拂ひけると也。末の子は木綿の着服故あとはつかざりける。かまいたちといへる獸、風の内に有しや、又は鼠鼬ねづみいたち樣の物、是も風にまかてかゝる事ありしや、しらずと人の語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。本格怪異譚。しかし、以下の「かまいたち」の注で分かるように、この特徴は身体や物がすっぱりと切れることにある。本話柄では「鼠の足跡の如き物一面に付居」とあるだけで、切創の記載がない。何らかの飛散物質(植物の種や高高度からの雪や霰様の結晶物。雪の結晶は鼠の足跡のように見えぬことはないと私は思う)が黒地の衣服に付着もののしたようにも見え、鎌鼬の仕業とするには十分条件ながら必要条件のようには思われない。その点では標題の「旋風怪」は相応しいと言えよう。
・「加賀屋敷」現在の東京大学本郷キャンパスの位置にあった。
・「かまいたち」鎌鼬。突然皮膚が裂けて、鋭利な鎌で切ったような傷を生ずる現象。特に雪国地方で見られ、越後の七不思議の一つとされ、古来、妖怪の仕業と考えられた。妖怪としては旋風つむじかぜに乗じて出現し、鎌のような両手の爪で人に切りつけるとされた。鋭い傷を受けるが痛みがないのを特徴とする。以下、ウィキの「鎌鼬」にある各種の伝承を見ると、『元来は「構え太刀」の訛りであると考えられているが、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』「陰」の「窮奇」に見られるように、転じてイタチの妖怪として描かれ、今日に定着している。根岸鎮衛の著書『耳袋』にも、江戸の加賀屋という屋敷で子供がつむじ風に巻かれ、その背中に一面に獣の足跡が残されており、これを「構太刀」と証するとの記述がある』とするが、私の所持する二本には「構太刀」なる記載はない。『ハリネズミのような毛とイヌのような鳴き声を持つ獣で、翼で空を飛ぶ、鎌か剃刀のような前脚で人を襲うともいう』。『人を切る魔風は、中部・近畿地方やその他の地方にも伝えられる。特に雪国地方にこの言い伝えが多く、旋風そのものを「かまいたち」と呼ぶ地方もある。寒風の吹く折などに、転んで足に切り傷のような傷を受けるものをこの怪とする』。『信越地方では、かまいたちは悪神の仕業であるといい、暦を踏むとこの災いに会うという俗信がある。越後七不思議の一つにも数えられる』。『東北地方ではかまいたちによる傷を負った際には、古い暦を黒焼きにして傷口につけると治るともいわれた』。また、『飛騨の丹生川流域では、この悪神は』三人連れで現われ、『最初の神が人を倒し、次の神が刃物で切り、三番目の神が薬をつけていくため出血がなく、また痛まないのを特色とするのだと伝えられる。この三神は親子、兄弟のイタチであると考える地方もある』とする。『奈良県吉野郡地方でも、人の目に見えないかまいたちに噛まれると、転倒し、血も出ないのに肉が大きく口を開くとい』い、『愛知県東部では飯綱(いづな)とも呼ばれ、かつて飯綱使いが弟子に飯綱の封じ方を教えなかったため、逃げた飯綱が生き血を吸うために旋風に乗って人を襲うのだと』し、『かまいたちによる傷で出血がないのは、血を吸われたためともいう』とある。『高知県や徳島県山間部など西日本では、これらの怪異に遭うことを「野鎌(のがま)に切られる」といい、草切り鎌が野原に置き忘れられた末に妖怪化したものの仕業と』考えられて、『鎌の怨霊が変じた付喪神(器物が化けた妖怪)ともいわれる』。『徳島県祖谷地方では、葬式の穴堀などに使った鎌や鍬は墓場に』七日の間『置いてから持って帰らないと野鎌に化けるといい、野鎌に遭った際には「仏の左の下のおみあしの下の、くろたけの刈り株なり、痛うはなかれ、はやくろうたが、生え来さる」と呪文を唱えると』もいう。『東日本ではカマキリやカミキリムシの亡霊の仕業とも』称され、『新潟県三島郡片貝町では鎌切坂または蟷螂坂(かまきりざか)という場所で、かつてそこに住んでいた巨大なカマキリが大雪で圧死して以来、坂で転ぶとカマキリの祟りで鎌で切ったような傷ができ、黒い血が流れて苦しむという』。『西国ではかまいたちを風鎌(かざかま)といって人の肌を削ぐものだといい、削がれたばかりのときには痛みがないが、しばらくしてから耐え難い痛みと出血を生じ、古い暦を懐に入れるとこれを防ぐことができるという』。『また野外ではなく屋内での体験談もあり、江戸の四谷で便所で用を足そうとした女性や、牛込で下駄を履こうとしていた男性がかまいたちに遭った話もあ』り、『青梅では、ある女が恋人を別の女に奪われ、怨みをこめて自分の髪を切ったところ、その髪がかまいたちとなって恋敵の首をばっさり切り落としたという話が』残るという。『このように各地に伝承されるかまいたちは、現象自体は同じだが、その正体についての説明は一様ではない』とある。続く、「古い文献での記述」の項。『江戸時代の尾張藩士・三好想山の随筆『想山著聞奇集』によれば、かまいたちでできた傷は最初は痛みも出血もないが、後に激痛と大出血を生じ、傷口から骨が見えることもあり、死に至る危険性すらあるという。この傷は下半身に負うことが多いため、かまいたちは』一尺(約三十センチメートル)『ほどしか飛び上がれないとの記述もある。また同じく三好想山によれば、かまいたちは雨上がりの水溜りに住んでいるもので、水溜りで遊んでいる者や川を渡っているものがかまいたちに遭ったとい』い、『北陸地方の奇談集『北越奇談』では、かまいたちは鬼神の刃に触れたためにできる傷とされている』。『江戸期の『古今百物語評判』によれば「都がたの人または名字なる侍にはこの災ひなく候。」とある。鎌鼬にあったなら、これに慣れた薬師がいるので薬を求めて塗れば治り、死ぬことはない。北は陰で寒いので物を弱らす。北国は寒いので粛殺の気が集まり風は激しく気は冷たい。それを借りて山谷の魑魅がなす仕業と言われている。都の人などがこの傷を受けないのは邪気は正気に勝てぬと言う道理にかなったことだと言う』。最後に「現象の科学的解釈」の項(但し、これには記載不全が指摘されている)。『近代には、旋風の中心に出来る真空または非常な低圧により皮膚や肉が裂かれる現象と説明された。この知識は一見科学的であったために一般に広く浸透し』ているが、『しかし、実際には皮膚はかなり丈夫な組織であり、人体を損傷するほどの気圧差が旋風によって生じることは物理的にも考えられず、さらに、かまいたちの発生する状況で人間の皮膚以外の物(衣服や周囲の物品)が切られているような事象も報告されていない』。『これらの理由から、現在では機械的な要因によるものではなく、皮膚表面が気化熱によって急激に冷やされるために組織が変性して裂けてしまうといったような生理学的現象(あかぎれ)であると考えられている。かまいたちの伝承が雪国に多いことも、この説を裏付ける。また、切れるという現象に限定すれば、風が巻き上げた鋭利な小石や木の葉によるものとも考えられている』(以下、砂嵐によって巻き上げられたり、突風で飛ばされて来た砂や小石を原因とする仮説の検証詳細が載るが、最後に『諸外国の文献や記録には、日本のかまいたちに類する現象はほとんど見られない』という点からは現象の科学的説明としては私には信じ難い)。因みに私は富山県高岡市の中学校の二年当時(一九七〇年)の冬、校庭の中庭で作業実習をしていた折り、ある生徒の顔面がすっぱりと切られたのを実見したことがある。但し、この時、近くにいた別の生徒が実際に鎌を用いて除草していたこと、その彼が負傷した生徒の横に立って茫然としていたこと、切れた瞬間を私は目撃していないこと、そして作業を監督していた教師がその場で即座に「彼の鎌が当たったんやない! 鎌鼬や!」と断言したというやや奇異な印象に於いてはっきりと記憶しているのであって、私自身は鎌鼬が真空を作って切創が生ずるという考え方には現在も懐疑的である。なお、その傷を負った生徒は後、顕在的に眼球の損傷を受け、視力の有意な低下を伴う後遺症を持ったことを記憶している。最早、四十三年前の出来事である。真相は何であったのかは分からぬ。しかし、私の人生の中で鎌鼬の体験は、この一度きりである。
・「まかて」底本には右に『(まかれてカ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『巻かれて』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 旋風つむじかぜの怪異の事

 俗語にて「かまいたち」と称し、つむじ風の内に巻き込まれて怪我をする者がある。
 私の知っておる御仁にも実際に怪我をした者が、これ、おる。
 そのことにつき、ある人が語ったことには、
「……弓術に名高い与力に召し抱えられた安富やすとみ運八と申すお方を御存知でしょう。……あの御仁の子供に源蔵と源之進と申すこおが二人御座いますが、彼等が幼年の砌り、加賀屋敷の野っ原が門前で御座ったによって、かの野原にて遊んでおったところ、そこへかの運八がたまたま外へ用事のあって、野っ原の傍らを通りかかったところ、かの二人の子供が、旋風に従い、
――くるくる――くるくる――
と廻っておるを運八見て、何気に遊びをしているものとばかり思うて、呑気に声をかけたところ……
――くるくる――くるくる――
と廻るばかりで答えもなく、
――くるくる――くるくる――
と!
――ひたすらに! ひた廻る!
――それがどうも!
――己が意志にて経巡っておるのにては、これ、ない!……
と気づき、遮二無二、二人に飛びかかって、その妖しき旋風の内より引き出だいて、すぐに屋敷内へと連れ帰って御座ったと申す。
 みると、年一さの小児は黒き小袖を着して御座ったが、その表面には
――鼠の足跡の如きものが
――これ一面に
附着致いて御座った……
 されば、あまりの不気味さにうち払ったと、申します。
 末の子は木綿の着服で御座ったゆえ、そうした跡は附着しておらなんだとのことで御座ったが……『かまいたち』と申す妖獣……これ、風の内に潜む妖怪あやかしならんか……または実際の鼠やいたちのようなるものが、これ、たまたま一緒に風に巻き込まれて、このような跡をたまたま残したものに過ぎぬものか……よう分かりませぬ……」
とは、さる御仁の語ったことで御座った。



 正路の德自然の事

 文化三寅年三月四日芝車町邊より出火して吉原近邊迄燒亡し、數萬家此憂このうれひにかゝり燒死の者おほしかみよりも深き御惠ありて、野宿の者を憐み給ひ數か所の御救おすくひの小屋を立て、堺町葺屋町の芝居もの等へ被仰付おほせつけられたき出しの握り食等數日被下すじつくだされ、莫大の御慈悲難有事成ありがたきことなりりし。然れども姦商の品、右つひへに乘じ賣物の品高値かうぢきになして、ことごとく利を貪る輩少からず。因之これによつて兩町奉行よりも觸出ふれいだし、高利を制せられ、不同輩罪科にも處せられしが、わけて材木板類は圍ひ等の入用ゆへ、又人々爭ひ求めしに、常は壹兩につき百枚、百貮三拾枚もなす板を、五拾枚くらひに買賣ばいばいなせる間、問屋中賣なかうりありしが、其中に甲州に本店ありて深川木場に商ひみせある問屋の内、段々御觸の趣に承り、兼て松板拾萬枚餘所持なせしを、出火以前の値段にて、山出やまだしへ少々づゝの口錢くちせんを加へ仲買を放れ値賣致度いたしたきと、世上の爲を存じ町奉行所へ願ふ故、非常の節中賣にかまわず賣出うりだすべきむね申渡しありて、すなはち右奇どくの段公聽くわうちやうへも達し、御褒美として白銀しろがね被下くだされけるに、拾萬枚餘の松板、出火以前の値段を見合みあはせ、日數五日程に賣拂ひけるが、少々の利□にて大造成たいさうなる利分を得、殊に御褒美をたまはりし事、誠に正路しやうろは自然に加護もある事といふべき

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。アップ・トゥ・デイトなちょっと粋ないい話。南町奉行(勤就任八年目)であった根岸が直に関わった大火復興処理の貴重な記録である。
・「文化三寅年」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年の夏。 ・「正路」は「しやうろ(しょうろ)」と読む。正直な行為。
・「文化三寅年三月四日芝車町連邊より出火……」明暦の大火と明和の大火とともに江戸三大大火の一つとされる文化の大火。丙寅ひのえとらの年に出火したため丙寅の大火、車町火事、牛町火事とも呼ぶ。文化三年三月四日(新暦一八〇六年四月二十二日)に江戸で発生した。出火元は芝の車町(高輪の大木戸から東海道を南へ沿ってあった町。現在の港区高輪二丁目内で別名牛町とも言った)材木座付近で午前十時頃に発生した火は、薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼、折しも西南の強風に煽られて木挽町・数寄屋橋へと飛び火、そこから京橋・日本橋の殆どを焼失させた。更に火勢は止むことなく、神田・浅草方面まで燃え広がった。翌五日の降雨によって鎮火したが、延焼面積は下町を中心に凡そ五三〇町(約五百二十五万六千平方メートル)、長さ二里半(約三・九キロメートル)、幅七町半(凡そ九八〇メートル)、焼失家屋は十二万六千戸(内、大名屋敷八十三、寺院六十三、主要神社二十)、焼失町数五百三十四余、死者(焼死及び溺死)は一二〇〇人を超えたと言われる。このため本文にあるように町奉行所では被災者のために江戸八ヶ所(鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注では十五ヶ所とする)に御救おすくい小屋を建て炊き出しを始め、十一万人以上の貧民の被災者には御救米(米や支援現金)を与えた(以上は主にウィキの「文化の大火」と底本鈴木氏の注に拠った)。
・「御救の小屋」地震・火災・洪水・飢饉などの天災の際、被害にあった人々を救助するために幕府や藩などが立てた公的な救済施設のこと。救小屋すくいごや
・「不同輩」「同じくせざる輩」と読むか。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『不用輩』、「もちゐざるやから」で、すんなり従わない連中と遙かに通りがよい(「同」は「用」の誤写ともとれる)。こちらで訳した。
・「買賣なせる間、問屋中賣ありしが」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『賣買なせる問屋・中買有りしが』(正字化した)で、これもこっちが通りがよい(「間」と「問」は衍字が疑われる)。こちらで訳した。
・「深川木場」現在の深川地域内に当たる江東区木場。この木場(貯木場)は隅田川の河口に設けられ、江戸初期から江戸への建設資材の集積場として発展し、特に大火の度に紀州などから大量の木材がここに運び込まれた。
・「山出し」山で伐採し運び出したときの元値。
・「口錢くちせん」「こうせん」と読んでもよい。問屋が荷主や買主から徴収した仲介手数料・運送料・保管料のこと。
・「値賣」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『直賣』(正字化した。「ぢきうり(じきうり)」と読み、仲買人を通さずに問屋が直接販売することをいう)。これもこっちが通りがよい(「値」と「直」は衍字がやはり疑われる)。こちらで訳した。当時、問屋の直売りが厳しく禁じられていたことが分かる。
・「利□」底本には右に『(德カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『利潤』。これで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 正直であることの徳は自ずから然るという事

 先般、文化三年丙寅ひのえとら三月四日のこと、芝は車町くるまちょう辺りより出火、吉原近辺まで焼亡、数万の家屋が被災の憂き目を見、焼死致いた者の数もはなはだ多く御座った。
 この時、お上よりも深き御恵みのあらせられ、野宿の者を憐みなさって数ヶ所の御救い小屋をお立てになられ、堺町や葺屋ふきや町の芝居小屋の者どもへも仰せつけあって、炊き出しの握り飯なんどを数日に亙ってお下しになられ、莫大なる御慈悲をお垂れになられたことは、これ、まっこと、有り難きことで御座った。
 然れども、おぞましき人品を持ったるかだましき商人の中には、この焼亡の損失に乗じ、売り物の品を、これ、法外なる高値こうじきになして、被災民の骨の髄までしゃぶり尽くさんが勢いの、尽く利を貪る輩が少のうなかったので御座る。
 そこで両町奉行よりも御触おふれを出だし、尋常ならざる高利を貪るを制して、これに従わぬ輩は重き罪科を以って処して御座ったが、その阿漕な商売の中にも、これ取り分け見逃しに出来ぬものが御座った。
 別けても材木板の類いはこれ、焼け出された者どもが取り敢えずは応急に居住せる空間を遮蔽したり、判然とせずなった土地の境を示す囲い等として、これ、早急に入用で御座ったゆえ、また殆どの人々が争ってこれを求めて御座ったところが、常ならば一両も出せば百枚、百二、三十枚をも容易に求めらるるところの良質の松板などを、たった五十枚ばかりにて売買ばいばい致す問屋や仲買が多く御座った。
 その中にあっても、甲州に本店のあって、深川木場に商いみせを構えて御座った問屋の内に、御触れの条々の趣きを承るにつけ、兼ねてより良き松の板材を十万枚余りも所持致いて御座ったを、――出火以前の値段にて――これは山出やまだしに少々の仲買手数料を附加させただけの卸し値で御座った――仲買を通さずに卸し値で直接に販売致したき旨、世上のためと存じ、町奉行所へと願い出て御座ったゆえ、我ら、
「――非常の節なれば仲買に構わず売り出すを許す――」
べき旨の申し渡しを致いた。
 この奇特なる行いは即座にお上の御耳にも達し、褒美として白銀しろがねなんどまでお下しになられて御座った。
 この材木問屋はその十万枚に及ぶ松材の板を、出火以前の値段と全く同じにしたまま、貴賤を問わず平等に売り始め、日数ひかず五日ほどにして即座に完売致いたと申す。
 一枚当たりはごく少量の利潤ではあったが、その十万倍なればこそ相応に大層なる利分をも得、殊にそれとは別にお上よりの御褒美を給わって、これ、結果としては意図ともせぬ大いなる福を得て御座ったことは、これまことに――正直であることは自ずから然るべきご加護もこれある――ということというべきで御座ろうか。


 仁義獸を制する事

 或人正月の支度迚、麻上下あさかみしもあたら敷制置しくせいしおきけるを、鼠つきて肩を喰破くひやぶりしを、妻子抔は心にかけ、其家從抔は怒り罵り、憎き鼠の仕業かな鼠狩せんとて、或は舛落ますおとし、わななどひしめきけるを、あるじかたく制し、鼠はのりある物は喰ひうちなり、喰事しよくじをあてがわざるゆへかゝる事もなしなん、更に心にかくべき事にあらずと、今より食事あたへよと切に申付まうしつけ、夢々鼠狩抔せじと堅く申付、
  つゞれさす虫にも恥よよめが君
 と一句なしける也。かゝる仁義の德なるゆへ無程仕合ほどなくしあはせ宜敷よろしく、又鼠もかゝるわる事なさゞると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:徳義心で連関。一種の発句絡みの技芸譚とも言える。
・「舛落し」鼠取りの仕掛けの一つ。枡を斜め下向きにして棒で支えておき、枡内下に餌を置いて鼠が触れると枡が落ちて捕らえられるようにした罠のこと。
・「喰ひうち」「うち」は近世俗語表現の接尾語で動詞の連用形に附いて、~しがち、~するのが当然の意を現わす(因みに他にも、~しなれていること、及び、~するのは勝手であることなどの意にも用いた)。食いがち。
・「つゞれさす虫にも恥よよめが君」「つゞれさす虫」とは蟋蟀こおろぎのこと。古人がその鳴き声を「肩刺せ裾刺せ綴れ刺せ」と、冬へ向かう季節柄、着物の手入れを促していると聞きなしたことに由来する。「よめが君」は鼠の忌み言葉で、特にこのシークエンスのように正月三が日に用いることが多い(地方によっては現在でも日常的に「お嫁さん」と呼ぶ)。家鼠は人の生活の近くに居り、食害などで嫌われる一方、大黒様の使いとされ、親しまれてもいた。正月には「鼠の年取り」として米や餅や正月料理を少量供える地方もある。語源説としては鼠は「夜目」が利くことから「夜目が君」と呼ばれ、それが鼠に対する信仰と重なり、家に来る福の神という意味で嫁が君と呼ぶようになったと言われる(「夜目」自体が邪眼として忌詞であったこととも関係があろうか)。句意は、
――しとやかな嫁という名を負うているのに着物を破るとは、接ぎを刺す(当てる)という名の蟋蟀にさえもお前は恥じるがよい――
といった感じか。

■やぶちゃん現代語訳

 仁義が畜生をも制するという事

 ある御仁、正月の支度とて、麻裃あさかみしもを新しく調えおいたところが、鼠がついて肩を食い破ってしまっていたがために、妻子などは縁起でもないとしきりに心配致し、家中の家来下僕なんどはもう怒り罵って、
「憎っくき鼠の仕業じゃ! 鼠狩り致しましょうぞ!」
とて、或いは枡落しじゃ、罠じゃ、と集まっては大騒ぎとなって御座ったところが、主人あるじ、それを堅く制して、
「鼠は糊気のりけのある物を食らいがちなものじゃ。普段より鼠害に用心致いておればこそ、ろくな餌をも宛がってやらなんだゆえ、かくなる仕儀をもしでかしたのであろ。こと、目出度き正月も近きことなればこそ、これ以上騒ぎ立つるは、却ってもの騒ぎじゃ。嫁が君にもすぐに食事を与えてやるがよかろうぞ。」
とたって申しつけられ、
「ゆめゆめ、鼠狩りなんどを致いてはなるまいぞ。」
と再度、堅く申し付けられた後、
  つゞれさす虫にも恥よよめが君
と一句、ものされたとのこと。
 このような徳義心の徳あればこそか、ほどのぅ、この御仁、運が向いて出世昇進もよろしく、しかもまた、御家中にては不思議に鼠も、これとんと、悪さを致さず相い成ったとのことで御座った。


 名器は知る者に依て價ひを增事

 仙石某の家に蕎麥□といふ茶碗壹ツありしが、主人は茶事ちやじにも心なかりければ、珍重もなさで遣ひしに、文化三年三月の大火に仙石の家は火災は遁れけるが、家財は凡片付およそかたづくるとて右茶碗の箱をわたすとりなやむとて取落しぬる事有しが、火事しづまりて右の箱をあけてみれば七ツ八ツに割れけるを、ある目利者めきき見て、可惜をしむべし、此茶碗手をつがせ金粉抔にてつくろひなば、金壹枚には我ぢきにとゝのへべし。不割わらざる以前ならば、三五十兩の價なるべしと長歎せしとかや。

□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、二つ前の「正路の德自然の事」の文化の大火で強く連関する。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、アップ・トゥ・デイトな話柄。
・「蕎麥□」底本では「□」の右に『(借)カ』とあり、鈴木氏は注されて、『蕎麦は朝鮮茶碗の一種。地肌色合が蕎麦に似ているというところから命名されたとも、井戸の側という意味の秀句ともいう』とあるが、この最後の部分の秀句というのがよく分からない。後掲するようにこの茶器が井戸に似ていることを誰かが発句で譬えて表現したということか?(しかし、だったらその句が伝わっていなくては語源説としては眉唾であろう) 識者の御教授を乞うものである。また、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、『蕎麦漕』とあり、これを長谷川氏は傍注で「蕎麦糟そばかす」に訂した上、『朝鮮茶碗の一種に蕎麦というものがある。それに付けた名』と注されておられる。表記としては「蕎麦借」(「そばしゃく」と読むのであろう)も「蕎麦糟」もあり得よう(訳では鈴木氏に敬意を表して「蕎麦借」とさせて貰った)。茶道のサイトを見ると、高麗茶碗の一種である蕎麦茶碗そばちゃわんがあり、約して蕎麦とも言うこと、この呼称は江戸中期以降とされること、その由来は地肌や色合いが蕎麦の色に似ているからとする説、雀斑そばかすのような黒斑があるからとする説、作行き(茶道や陶磁器鑑賞の用語で、焼き物の出来映えの意。土・釉・色・模様・形などを総合的に評価して表現することをいう)が井戸(井戸側いどがわのことか?)に似ているので「井戸のそば」と呼んだとする諸説があって判然としないとする。僅かに鉄分を含んだ薄茶の砂まじりの素地に、淡い青灰色の釉が総体に薄く掛かったものが多いが、時には酸化して淡い黄褐色となったものもあるとし、全体の形は平らな傾向が強く、高台は大きく低め、高台から腰の部分が張り出して段になり、口縁にかけてゆったりと大らかに開く姿を示す。轆轤目があって口は広く、見込み(茶席で茶碗拝見の際、まず内部を覗き込むところから茶碗の内部の底の附近を指す)が大きく鏡落ちがあり(茶碗の見込が丸く凹んで落ちている形状を鏡又は鏡落ちという)、その部分が外側の腰の部分の張り出しになっている。鏡のなかに目跡が残るものもある(以上は主に「茶道入門」の「蕎麦茶碗」に拠った)。グーグル画像検索「蕎麦茶碗」はこちら
・「文化三年三月の大火」文化三年三月四日の文化の大火。二つ前の「正路の德自然の事」の私の注を参照。
・「金一枚」岩波版の長谷川氏注によれば、これは一両小判ではなく、七両二分相当の大判おおばんとある。大判は広義には十六世紀以降の日本に於いて生産された延金(のしきん/のべきん:槌やローラーで薄く広げた金塊)の内で楕円形で大型のものをいう。小判が単に「金」と呼ばれるのに対し、大判は特に「黄金」と呼ばれ、大判金おおばんきんともいう。金貨として規格化された「大判」は、天正一六(一五八八)年に豊臣秀吉の命で後藤四郎兵衛家(京金工)が製造したのが始まりとされ、以後時の権力者の命により文久二(一八六二)年まで後藤家(京都、後に江戸)が製造し続けた。量目(質量)は、万延年間(一八六〇年)以降に製造されたものを除き、京目十両(四十四匁、約一六五グラム)と一貫しているが、品位(純金含有量)は時代により変化している。幣価は「金一枚」であり、小判の通貨単位「両」とは異なり、小判との交換比率は純金量を参考に大判相場が決められた(江戸時代の一時期のみは公定価格が存在した)、と参照したウィキの「大判」にある。
・「目利者めきき」岩波版では長谷川氏は「めききしや」とルビする。

■やぶちゃん現代語訳

 名器は知る者によって価いを増すという事

 仙石ぼうの家に、蕎麥借そばしゃくという茶碗が一つあったが、今の主人は茶事ちゃじにもとんと興味もなければこそ、殊更に珍重するということもこれなく、普段から平気で使って御座ったと申す。
 さても先だっての文化三年三月の大火の折り、この仙石殿の御屋敷、類焼は免れたものの、延焼が進むに従って、万一に備え、家財は凡そ土蔵へ片付くる必要これありとて、上へ下への騒ぎと相い成って御座ったと申す。
 その際、この茶碗を入れた箱を渡いた者が、うっかり取り損なって落してしまうという沮喪がこれあった由。
 火事が治まった後、主人が火事場見舞いに訪れたさる客をもてなさんと、たまたま手元近くに戻しおいてあったものが、かの蕎麦借の箱であったがため、何気に開けて見たところが、これ、七つにも八つにも、すっかり割れてしもうておったと申す。  ところがこの客人、茶器には相応の目利めききなる御仁で御座って、それを一目見るなり、
「――惜しいことじゃ!……この茶碗、割れた箇所を綺麗に接がせ、金粉等を以って接いだ箇所を繕いなど致されたならば――そうさ、我ら、黄金一枚にてよろしいとなら直ちに買い上げましょうぞ!……いやはや!……これ、割れる以前の無傷なるものであったならば……三十、いや、四十、いやいや! 五十両払うだけの価値は御座ったにのう!……」
と長歎息致いたとか申すことで御座った。



 人の齒にて被喰しは毒深き事

 予許よがもときたれ外科がいりやう西良忠語りけるは、犬に喰われ、猫鼠又は牛馬に喰われし疵を療治なせしが、其中に甚だ毒ある物にて、ある時輕き者喧嘩抔なし、人に喰われし疵を療治なせしが、甚だ毒深くなほかねけると語りぬ。文化寅の年八十七歳に成る老醫なれば、しかありなんと爰に記す。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。医事譚。思うにこれは黄色ブドウ球菌などによる、細胞間質を広範囲に融解して細胞実質を壊死分解させる進展性化膿性炎症である蜂窩織炎ほうかしきえんか、グラム陰性通性嫌気性両端染色性小短桿菌であるパスツレラ(Pasteurella)菌による日和見感染症であるパスツレラ症(その場合はヒトによる咬傷部位を後から犬猫などが舐めた結果としての感染が考えられる)、匙を投げる点では破傷風が疑われるように思われる。孰れにしてもヒトによる咬傷部位を消毒せずに放置し、それらの菌が後から付着感染した結果と見るべきものであろう。……因みに、小学校一年で東京から田圃の中の大船の小学校に転校して来て(但し、生まれはもともと鎌倉である)、就学前には結核性カリエスをやり、文弱であった私は、しばしばイジめの対象になった。が、それでも堪忍袋の緒が切れることがあり、すると、よく相手に嚙みついた。しかしその結果として、ますます「男女おとこおんな」として賤しめられたものだった。ただ、小学校二年生終わり頃、ある悪ガキの頭頂部に嚙みついた途端、鮮血が激しく吹き出し、彼は救急車で運ばれていったのであった。無論、何事もなかったのだが、それ以来、私は何故か不思議にイジめられなくなったことをよく覚えている。……おとこおんな窮鼠やぶちゃんのイッチョ嚙みだった訳である……
・「被喰し」「くはれし」と読む。本文中の「喰われ」の「わ」はママ。
・「西良忠」「耳嚢 巻之六 疵を直す奇油の事」に登場する木挽町に住む外科医。この話柄で彼の生年が享保五(一七二〇)年であること、またやはり根岸と懇意であった事実とが確認出来た。
・「文化寅の年」文化三(一八〇六)年丙寅ひのえとら。「卷之七」の執筆推定下限は同年夏である。

■やぶちゃん現代語訳

 人の歯にて嚙みつかれた場合はその毒が頗る強いという事

 私の元へ来たれる外科医の西良忠が語ったことには、
「……犬に咬みつかれ、猫や鼠または牛馬に咬まれた傷なんどを療治致いたことが御座いまするが……そうした咬み傷の中にても……そうさ……甚だ毒の強いものが御座る。……
……ある時のことで御座ったが……身分の賤しい者どもが他愛もないことで喧嘩なんどをなし、弱き相手に嚙みつかれた、と申す傷を療治致いたことが御座いましたが……これ……はなはだ……毒がふこう御座っての……療治しかねて……匙を投げましたことが……これ、御座いました。……」
とのことで御座った。
 今年文化丙寅ひのえとら、当年とって八十七歳になる老医なればこそ、そのような奇怪な事実を実際、経験致いたことも御座ろうほどに、ここに記しおくことと致す。



 黐を落す奇法の事

 予許よがもときたれる醫師與住よずみ語りしは、世には奇法もあるもの也。かの知れる人、蠅をうれゐて紙にとりもちをひきおきしを、飼猫いまだ子猫なりけるが、くるひあそぶとてかの紙にくるまり、やうやう彼紙をとりしが、總身もちなる故ぬか抔ふりてもおつべき樣なく、見るもうるさきていなりける故、色々なせどもせん方なし、扨洗ひ抔なせる女房に、かゝる事有し時藥やあらんとたづねければ、衣類抔はもちのつきたるを千萬盡せどおちざる時、右とりもちのつきたる上へ、辛子からしの粉をつゝみてあらひ□おつる者なりし故、其事を傳へて、彼猫をからしときて洗ひしに、元の如くきれゐになりしと語る。

□やぶちゃん注
○前項連関:冒頭の書き方が全く同じで、聴取者も同じく知己の医師。民間の生活の知恵シリーズともいうべきもの。
・「黐」とりもち。実は底本の標題の字は(へん)の部分が「禾」(のぎへん)で、これは目次もそうなっている。当該字は表示出来ないことと(「廣漢和辭典」にも載らない)、本文が正しく「黐」となっていることから訂した。以下、ウィキの「鳥黐」より引用する。『鳥黐(とりもち)は、鳥や昆虫を捕まえるのに使う粘着性の物質。鳥がとまる木の枝などに塗っておいて脚がくっついて飛べなくなったところを捕まえたり、黐竿(もちざお)と呼ばれる長い竿の先に塗りつけて獲物を直接くっつけたりする。古くから洋の東西を問わず植物の樹皮や果実などを原料に作られてきた。近年では化学合成によって作られたものがねずみ捕り用などとして販売されている』。『日本においても鳥黐は古くから使われており、もともと日本語で「もち」という言葉は鳥黐のことを指していたが、派生した用法である食品の餅の方が主流になってからは鳥取黐または鳥黐と呼ばれるようになったといわれている』。『原料は地域によって異なり、モチノキ属植物(モチノキ・クロガネモチ・ソヨゴ・セイヨウヒイラギなど)やヤマグルマ、ガマズミなどの樹皮、ナンキンハゼ・ヤドリギ・パラミツなどの果実、イチジク属植物(ゴムノキなど)の乳液、ツチトリモチの根など多岐にわたる。日本においてはモチノキあるいはヤマグルマから作られることが多く、モチノキから作られたものは白いために「シロモチ」または「ホンモチ」、ヤマグルマのものは赤いために「アカモチ」と呼ばれる。鹿児島県(太白岩黐)、和歌山県(本岩黐)、八丈島などで生産されていた』。『鳥黐の製法は地域や原料とする植物によって異なるが、モチノキなどの樹皮から作る場合は、樹皮を細かく砕いて水洗いし、水に不溶性の粘着質物質をとりだすことで得られる。商品として大量に生産する場合は、まず春から夏にかけて樹皮を採取し、目の粗い袋に入れて秋まで流水につけておく。この間に不必要な木質は徐々に腐敗して除去され、水に不溶性の鳥黐成分だけが残る。水から取り出したら繊維質がなくなるまで臼で細かく砕き、軟らかい塊になったものを流水で洗って細かい残渣を取り除く。得られた鳥黐は水に入れて保存する。場合によっては油を混ぜることがある』。『主要な鳥黐であるモチノキ属植物、ヤマグルマ、ヤドリギの果実などから得られるものの主成分は高級脂肪酸と高級アルコールがエステル結合した化合物であるワックスエステル、つまり蝋である。逆に言うと化学的には、植物から得られ、常温でゴム状粘着性を示す半固体蝋が鳥黐であるともいえる』。(中略)『こうした化学的組成により、非水溶性であり、また二硫化炭素、エーテル、ベンゼン、石油エーテルといった有機溶媒には溶けるが、アルコールには溶けない』。『鳥黐は強力な粘着力があることから、職業として鳥を取る鳥刺しなどによって使用される。食用に鳥を捕獲する場合は黐竿と呼ばれる長い竿の先に鳥黐をぬりつけたものを使い、直接小鳥をくっつける。一方、メジロなど観賞用の鳥は直接くっつけると羽が抜けて外見が悪くなるため、枝などに鳥黐を塗っておいて囮や鳥笛をつかっておびき寄せ、足がくっついて飛べなくなったところを捕らえる』。『また、子供の遊びとして虫捕りにもよく使用される。この場合、黐竿をつかってトンボなどを捕獲する。ただし粘着力が強すぎ、脚や翅に欠損を生じることがあるため、標本用途には向かない』。『鳥黐は水につけると粘着性がなくなるため、保存や取扱いの際には水で湿らせておくか、少量の場合は口中で噛んでおく。枝などに塗りつけたあと乾かすと再び強い粘着性を示すようになる』。『日本においては、鳥屋や駄菓子屋などで販売されていたが、鳥獣保護法の施行によって鳥類の捕獲が難しくなってからはあまり販売されなくなっている』。『かつては鳥獣保護法において法定猟具に鳥黐は含まれており、これを利用した黐縄(もちなわ。鳥黐を塗った縄を湖面に張り巡らせることで水鳥を捕獲する。参照流し黐猟)や、はご(木の枝や竹串に鳥黐を塗布して鳥を捕獲する。おとりの鳥を入れた鳥篭を高所に配置して、近づいてきた鳥を捕獲する猟法は高はご、多数のはごを配置するものは千本はごと呼ばれた)などの猟具が存在した』。『高はごは、メジロ、カワラヒワ、マヒワなどを捕獲するのに用いる。 長い竿、高樹などの頂に竹竿を結びつけ、これにおとりの籠をつるし、これとは別に黐を付けた竿または枝をこずえに固定し、滑車と綱を利用して黐付きの竿を上下するようにしておく。竿は』『近くのこずえよりも高くし、または一本樹を利用する。はごは矢竹、クワ、柳などのやわらかな枝を用いる。おとりは小型の籠を複数、かさねておく。おとりに誘われた鳥は樹枝と誤認して黐付きの枝にとまり、黐が付着し、地上に落下する。このときいっぽうの手縄をゆるめ、他方の手縄を引き、竿をおろして捕獲する』。千本はごは、『割り竹、細ひごなどに黐をぬりつける。その太さ、長さは鳥種によって異なる。 雁鴻を捕獲するには、夜、鳥が集まる水田、池、沼に黐を塗っていない部分を』『挿し立て、ところどころに空き場をつくっておく。おとりを置き、誘致する。雁鴻はおとりに誘われて着地し、徒渉するとき黐が羽毛に付着し、これを捕獲する。千葉県手賀沼でさかんに使用された。 カケス、ヒヨドリなどを捕獲するには、あらかじめ鳥が来る樹上に小型のはごを設置し、黐が鳥に付着し、地上に落下するのを捕獲する』。『現在ではかすみ網やとらばさみ、あるいは雉笛などとともに禁止猟具に指定されており、鳥類の捕獲自体も銃猟若しくは網猟に限定されていることから、鳥黐を使用して鳥類を捕獲する行為は、禁止猟具を用いての捕獲およびわなを用いての鳥類の捕獲に該当し、鳥獣保護法違反で検挙対象となる』とある。以上、長々と引いたのは私自身が実は鳥黐を見たことも使ったこともないからである。私は私の注で何よりも私自身が十全に学びたいのである。 ・「與住」与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師で、駒込に住む。「耳嚢」では「卷之一」の「人の精力しるしある事」以来の情報屋の古株で、「巻之六 執心の説間違と思ふ事」、この後の「巻之九 浮腫妙藥の事」等にも登場する。
・「辛子の粉をつゝみてあらひ□落者なりし故、」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、「衣類抔」以降を直接話法とし、『辛子(からし)の粉を包み洗ひぬれば必ず落る物也」と語りぬ。』とあって「其事」に続く。これを訳では採用した。それにしても黐を知らぬ私はこの辛子による黐除去法が真実かどうかも検証出来ぬ。何だか何故かそれが淋しい。

■やぶちゃん現代語訳

 鳥黐(とりもち)を落とす奇法の事

 私の元へ来たれる医師の与住よずみが語ったことには、
「……世の中にはいつ何時役立つかよう分からぬ奇法も、これ御、座るものにて。
……我らの知れる御仁、蠅が盛んに飛ぶを五月蠅がって、細長き紙に鳥黐を塗って部屋の隅に置いて御座ったところが、飼い猫の未だ子猫であったもの、これまた、やんちゃで狂うたように部屋の中で転がり遊ぶうち、かの鳥黐をべったり塗った紙にくるまってしもうて、ようよう紙は引き剝したものの、総身そうみは鳥黐だらけ――さればぬかなんどをふりかけて、そちらに鳥黐を移さんと試みしが、これ、一向に落つる様子も御座ない。……見るも無残におぞましく、五月蠅き蠅なんぞよりもっと不快極まりなきていなればこそ、色々試みて御座ったものの、いっかな、落ちぬ。されば最早どうしようもなくなって御座ったと申す。……
……さてそこで、家で遣って御座った洗濯など頼みおる下女に、
「……このようなことがあった折りの……そのぅ……妙薬を存ぜぬものか、のぅ?……」
と恥ずかしながら尋ねてみたところが、
「衣類なんどでは、鳥黐のついたもの、これ、千万回洗い尽くせど落ちませぬ折りは、その鳥黐のついた上へ、辛子からしの粉を万遍のぅふりかけて、まあ言うたら――辛子の粉塗まぶし――といったていに致しまして洗いますれば、これ、まっこと、奇麗に落ちまする。」
と申しましたによって、その鳥黐だらけの猫の話を致いて、かの猫を連れ参り、その下女にたっぷりの辛子を溶いた水で洗わせましたところが……これ、元の如く……まあ、奇麗な子猫に戻りまして御座ったそうな。……」
とのことで御座った。



 古錢を愛する事

 古き事する色々の内、古き人の書を愛する迚、古錢を愛する者あり。さるいはれもありけるなれど、愛せざる心よりは可笑わらふべし予許よがもときたれる知れる者谷の何某、古錢多く集め、日本錢の内大德通寶といえるは當時天下に六文の錢の由、貯へて人にも見せける由。かの人の物語りに、古錢抔當時商ふものききも及ぶまじけれど、江戸町中に右古錢を商賣取遣あきなひうりとりやりしてゆたかにくらせる者ある也と語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:記載内容には特に連関を感じさせないが、前及び前の前の書き出しの「予許へ來る」というやや寸詰まりの表現特徴の共通性から、これら三つが同時期に一遍に書かれたものであることが窺われるように思われる。
・「古錢を愛する事」表題の直下には鈴木氏の『(目次ニハ「古錢を愛する人の事」トス)』という割注がある。
・「古錢多く集め」岩波版の長谷川氏注に、宝暦頃(一七五一年~一七六三年)から『古銭を愛好し珍奇の銭の収集の風が盛んで、にせの古銭作りまで行われた』とある。
・「大德通寶」大徳は中国は元の成宗(テムル)の治世で用いられた元号で西暦一二九七年~一三〇七年に相当する。岩波版の長谷川氏注には、幕臣で北方探検家であった近藤正斎明和八(一七七一)年~文政一二(一八二九)年)が著わした本格的な古銭蒐集関連書の濫觴とされる「銭録」『に「倭存唐佚銭」として大徳通宝あり』と記しておられる。まず、この近藤正斎という人物であるが、名は守重、通称近藤重蔵(正斎は号)で。寛政七(一七九五)年~寛政九(一七九七)年に長崎奉行出役として海外知識を深め、蝦夷地警衛の重要性を幕府に提言、後に目付渡辺久蔵らの蝦夷地視察の一行に加わって蝦夷地御用掛配下に属し、数回に亙って蝦夷地・千島方面を探検、特に高田屋嘉兵衛の協力を得てエトロフ航路を開き、享和二(一八〇二)年にはエトロフ島にあったロシアの標柱を廃して「大日本恵登呂府」の木標を立てるなど、ロシア南下政策に対する北辺防備及び開拓に尽力(ここまでは主に平凡社「世界大百科事典」に拠る)、文化五(一八〇八)年には江戸城紅葉山文庫の書物奉行となったが、自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、文政二(一八一九)年に大坂勤番弓矢奉行に左遷、文政四(一八二一)年には小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居、悪いことに文政九(一八二六)年に長男近藤富蔵が町民を殺害して八丈島に流罪となったのに連座して近江国大溝藩にお預けとなって、そのまま死去、死後三十一年も経った万延元(一八六〇)年に赦免されるという波乱万丈の人生を送った人物である(ここはウィキの「近藤重蔵」に拠る)。彼はまさに当時でも珍しい貨幣研究家兼収集家でもあったらしいが、長谷川氏の示す「銭録」という書物は、浩泉丸氏の古銭サイト内の「新寛永通寶分類譜【泉家・収集家覚書】」によれば、古銭収集家の間では幻の名著とされているもので、日本貨幣図史ともいうべき性質の書ながら、明治三九(一九〇六)年に刊行されるまで全く無名の資料で、しかもこの書は「寛永銭録」として編集が始められた経緯があり、再発見された当時は寛文期から享保年間の項が欠落していていたため、大正年間に浅草の古書店で欠落個所が見つかり、古銭蒐集家によって売買されるまで全容すら知られておらず、しかも一般に刊行されたものでもないために現在でも稀覯本で、コレクターでさえ実見することはまずないというまさに幻の書であるらしい。因みに、当該リンク先によればこの近藤正斎、身の丈六尺を超える大男で、体力・記憶力とも抜群に優れていた超人だったとあり、他にも彼の興味深い事蹟が満載で必見である。やや前置きが長くなったが、大徳通宝はこの本話にもある通り、希少というより、その多くがかなり怪しげなもの(まさに古銭として捏造された贋金)であるようだ。中国古銭の収集家の個人サイト「謎の珍品古銭」にまさにその大徳通宝の「実物」画像があるが、サイト主御自身が『すでにオモチャの領域』『無知の人がボロ古銭を元に真似して作った残念な作品』、数枚の良品もあるが多くは『何か怪しい』『イケない複製かも知れ』ない、『拓本を元に作ったイケない品物の様な気が』する、頁末には『真贋は永遠の謎』とまで語られているからである。

■やぶちゃん現代語訳

 古銭を愛する好事家の事

 古きものを趣向せること、これいろいろと御座る中にても、古き人の書体を愛すると申して、その彫琢の残れる古銭を愛する者が御座る。
 そうした趣味嗜好と申すものは、それなりに各人の謂われが、これ、御座ろうものなれど、そうしたものにとんと愛着の湧かぬ私のような者から見れば、これ、失礼ながら、おわらい以外の何ものでも御座るまいて。……
……さても、私の元へ来たれる者の中の、谷何某なにがしと申す御仁、これ、古銭を多くあつめて御座るが、日本国に今ある古銭の内に「大德通宝」と申すもの、これ、現今、天下にたったの六枚しかない銭の由にて、谷殿は何と、これを数枚も貯えておられ、同好好事の人々にもそれを見せて御座る由。
 その谷殿の物語りに、
「……根岸殿などは、古銭なんどと申すもの、当今、商う者がおるとは、これとんと、聞きも及ばざることとは存じますがのぅ……実は江戸市中には、こうした古銭を商売として取引致いては、まんず、大金おおがねを得て豊かに暮らしおる者も、これおるので御座る。……」
とのことでは御座ったよ。……まあ、そんなことも、これ、あっても不思議ではない世の中では御座るのぅ……♪ふふふ♪


 老人頓智謀略の事

 何れの比にや、ある老人退隱なして、杖によりて夜明がた遊行なせしに、市ヶ谷邊人離れの場所にて、若侍兩人及刄傷居にんじやうにおよびをりけるを見て、さながらおいぬれど刀帶せる者、にげはづさんも如何と、かのほとりを通りよくよく見れば、壹人は我子也。驚きぬれど心を靜めつかつかとより、さて老人のいらざる事なれ共、若き御兩人刄傷の事子細もあらんなれと、一言をききひかへ給へと、まづ我子の方へむき知らぬさまにてさしとめ、さて相手へ向ひても同じ樣申延まうしのべて、銘々主人もあるべし、親幷妻子もおわさん、いか樣なる譯にて刄傷に被及およばれ、一旦の事にて一命をすてんは不儀不幸なるべし、何ぞ子細ある事ならばしりぞき見物いたすべきと申ければ、相手の男まうすは、何も別に子細遺恨もあるにあらず、與風ふと途中にて行違ひの口論の旨申ける故、我子の方へ向ひ、是又腰かゞめいささかも子に對するの樣子にあらず、是又たづねければ、子も親としれてはあしきゆえさせる事もなく、與風及刄傷に由申述にんじやうおよべるよしまうしのべければ、然る上は外に見る人もなし、双方御ひけにも不相成あひならざる事に候得ば、我らがいさめにしたがひ給へと制しければ、双方とくしんして刀ををさめ、御名前承りたしといゝければ、彼老人我ら名もなきもの也。殊に御ふた方の御名前も聞して名乘なのり給ふまじ、我名も申まじと双方立別れ歸るを、過してしづかに歸りけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じられない。
・「御ひけ」原義は負けで、肩身が狭いことから恥、恥辱の意。
・「聞して」底本では右にママ注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『決して』。それで採る。

■やぶちゃん現代語訳

 老人の頓智謀略の事

 何時の頃のことであったか、ある武家の老人、隠居致いて、杖を突きつつ、夜明け方の散歩なんど致いて御座ったところが、市ヶ谷辺りの人気なき場所にて、若侍が二人、刄傷に及んで御座るのに出くわした。
『……かく老いたりとは申せ、帯刀致す者、これ、逃げて見ぬ振りを致すも、これ、道に外るること。――』
と、二人のにじり寄りつつある近くを通り、よくよく見てみたところが、その二人のうちの一人は――これ――我が子――で御座ったと申す。
 驚いたれでも、老人、心を鎭めつつ、つかつかと二人の間合いへと寄り進み、
「……さても、老人のいらざる口出しなれども、若き御両人刃傷のこと、これ、子細もあらんと存ずればこそ――一つ、訳をお聴かせ下されい。――」
と、まずは我が子の方へ向き直って――しかも全く知らぬ他人に向かうようにし――にじり寄らんしたその切っ先をさし留めて下げさせた上、今度は相手方の若侍の方へ向き直って、同様のことを申し述べ、同じように切っ先を降ろさせたと申す。そうして、その見知らぬ若者の方を向いたまま、穏やかに、
「……銘々、主人もあろう、親并びに妻子もおろう。……如何なる訳にて、かくも刃傷に及ばんと致された?――一時いっときのつまらぬことに一命を捨てんは――これ、武士にとって不義不幸以外の何ものにても御座らぬ。――何ぞ、子細あることとならば――一つ、我ら伺って、そのこと、腑に落ちたらば、如何様にも退き、御両人が果し合い、これ、とくと見物検分致たさんと存ずる。――」
と申したところ、相手の若侍の申すことには、
「……い、いや、何も別に、子細遺恨もある訳にては、これ、御座らぬ。……たまたま暗がりにて行違った折り、ちょっとした口論となっただけのことで御座れば……」
といったようなことを申したによって、今度は我が子の方へと向き直ると――これまた、未知の武士に対する如く、腰を低う致いて――これ他の誰が見ても、聊かも子に対する親の様子には見えぬ、あたかも身分貴き武人の前にへりくだったかの如く弐――これまた同様の問いを投げかけたによって、こおも、止めに入ったが己れの親と知れるも、これ如何にもまずかろうと思うたによって、
「……さ、さしたることにても……こ、これ御座ない……ま、まあ、ただ、ふと刃傷に及んだということにて御座る……」
といったようなことを申し述べたによって、
「……しかる上は――これ――外に見る人もなし――双方ともに恥辱も相い成らざることに候えば、我らが諌めに従わるるが、よろしかろうぞ。」
と制した。されば、双方ともに得心致いて、刀を納めた。
 見知らぬ若侍は、
「――かく成し下され、有り難く存知まする。……是非、御名前を承りたく……」
と乞うたが、かの老人、
「……我ら、名もなき老残の者にて。……特に御二方の御名前も、これ、決してお名乘りなさいまするな。……さればこそ、我ら名も、これ、申しますまい。……」
と、そこで双方、立ち別れ、それぞれ別の方へと帰るを見届けた上、静かにその場を立ち去った、とのことで御座った。



 齒の痛口中のくづれたる奇法の事

 柘榴ざくろの皮を水に付てせんじ□、さてあま皮を取ていたむ所に入置いれおけば、治する事たんてき也。即效の妙法の由、藥店へとりつかはす。ほしたる柘榴あらば、又下料げりやうなる物の由。横田退翁物語り也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。民間療法シリーズ。
・「柘榴」フトモモ目ミソハギ科ザクロ Punica granatum。ウィキの「ザクロ」の「薬用の」項の「果皮」には、果皮を乾燥させた石榴果皮せきりゅうかひはその樹皮や根皮と同様の目的で用いられることが多く、中国やヨーロッパでは駆虫薬として用いた。但し、根皮に比べると揮発性アルカロイドの含有量は低く効果も劣る、とあり。また、回虫の駆除に用いられたこともあったようであるが、犬回虫を用いた実験では強い活性はみられなかった、とした上で、『日本や中国では、下痢、下血に対して果皮の煎剤を内服し、口内炎や扁桃炎のうがい薬にも用いられた』 とあって本記載の効能を傍証する。
・「せんじ□」底本には右に『(置カ)』と補注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『せんじふくめ』とある。この場合の「含む」とは、マ行下二段活用の他動詞で、(対象に対して水や味などを)沁み込ませる、の謂いである。
・「たんてきに」形容動詞「端的なり」の連用形で、まのあたりに起こるさま、たちどころであるさま。
・「横田退翁」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『横田泰翁』とある。本巻の先行する「養生戒歌の事」に既出。そこの鈴木氏注に、『袋翁が正しいらしく、『甲子夜話』『一語一言』ともに袋翁と書いている。甲子夜話によれば、袋翁は萩原宗固に学び、塙保己一と同門であった。宗固は袋翁には和学に進むよう、保己一には和歌の勉強をすすめたのであったが、結果は逆になったという。袋翁は横田氏、孫兵衛といったことは両書ともに共通する。『一宗一言』には詠歌二首が載っている』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 歯の痛みや口中が爛れた際の奇法の事

「――柘榴ざくろの皮を水に漬けて煎じておき、後、その甘皮を取り除いて痛む所に詰めおいておけば、治すること、たちどころで御座る。即効の妙法の由なれば、拙者も直ちに薬種屋へ買いに遣わしましたところが、干したる柘榴が御座って、これまた如何にも安きものにて御座ったれば、一つお試しあれ。……」 とは、横田退翁殿の物語りで御座った。



 加茂長明賴朝の廟歌の事

 鎌倉賴朝の廟にて、加茂の長明よめると人のいふ
  草も木も靡きし秋の霜きへてむなしき苔を拂ふ山風

□やぶちゃん注
○前項連関:なし。突如、故事の和歌譚の引用で、やや奇異な印象を受ける。後に三つ後に狂歌譚に始まる三話の和歌譚があるが、意地悪く解釈すると、巻末に至って百話にするためのやや見え透いた仕儀かとも疑われる。
・「加茂長明」鴨長明は京都の賀茂御祖神社の神事を統率する禰宜鴨長継の次男として生まれたが、望んでいた河合社ただすのやしろの禰宜への就任が叶わず、神職としての出世の道を閉ざされたために出家して蓮胤と名乗った。一般には俗名を音読みした鴨長明かものちょうめいとして知られるが、本来の本名は「かものながあきら」と読む(以上はウィキの「鴨長明」に拠る)。加茂・賀茂・鴨の表記は平安期から混在して使用されており、また神社の名を「賀茂」とすることから忌んで「加茂」「鴨」と表記したとも考えられよう。 ・「鎌倉賴朝の廟」底本で鈴木氏はここに注して、
   《引用開始》
 頼朝の墓は、鎌倉幕府当時の館址を見下ろす山腹の一劃に、タブの老樹の下に建っている五輪塔、細工も荒削りである。堂社はない。なお「草も木も」の歌は鴨長明集には見えない。
   《引用終了》
とされているが、この注は幾つかの問題点があるとわたしは思う。鈴木棠三氏は鎌倉史の碩学でもあったにも拘わらず、如何されたものか、この記載、徹頭徹尾、不完全にして不正確、しかも不親切な注と言わざるを得ないからである。
 まず、この「廟」は正に堂社の謂いであって「墓」ではない。鈴木氏の言う「頼朝の墓」は現在、鎌倉市西御門の大倉山山裾にある供養塔としての多層塔を指しているが、これは後世、安永八(一七七九)年に頼朝子孫を称する(島津氏の祖で鎌倉幕府御家人であった島津忠久を頼朝の落胤とする説に拠るがこれは所謂、偽源氏説であって信ずるに足らない)薩摩藩第八代藩主島津重豪しげひでが建てたもので(室町後期には廃寺となっていたと推定される勝長寿院にあったものを移したともいうがこれも信じられない)、供物台には島津家の丸に十字の家紋が残り、墓の脇には重豪による石碑もある(島津氏の偏執的な源氏嫡統執着が見てとれる)。しかし乍ら、本当の頼朝の「廟」=墓はこの現在の「頼朝の墓」の下方の公園のある場所にかつて存在した法華堂であり、これは文治五(一一八九)年に頼朝自身によって建立されたものであった。こうした事蹟を鈴木氏が述べていないこと、しかも妙にリアルに現在の「鎌倉幕府当時の館址を見下ろす山腹の一劃に、タブの老樹の下に建っている」という郷土史家的叙述(この叙述自体は正しい)、「五輪塔、細工も荒削りである」という妙に緻密な観察の割には、如何にも不十分にして不完全な注と言わざるを得ない。
 次に本和歌の出典に疑義して「鴨長明集には見えない」として恰も偽歌の如く一蹴する(かに見える)末尾にも問題がある。この『長明の和歌』の出典は言わずもがな(と鈴木氏も思ったものとは思われるが)、「吾妻鏡」である。注としてはそれを示さないのは鎌倉史に不案内な後学の徒には頗る不親切と言わざるを得ない。以下に当該箇所「吾妻鏡」巻十九の建暦元(一二一一)年十月十三日の条を示す。
   *
○原文
十三日辛夘。鴨社氏人菊大夫長明入道。〔法名蓮胤。〕依雅經朝臣之擧。此間下向。奉謁將軍家。及度々云々。而今日當于幕下將軍御忌日。參彼法花堂。念誦讀經之間。懷舊之涙頻相催。註一首和歌於堂柱。
  草モ木モ靡シ秋ノ霜消テ空キ苔ヲ拂ウ山風
   *
○やぶちゃんの書き下し文(和歌は原文に拠らず正確に読み易く示した)
十三日辛夘。鴨社の氏人うぢびと、菊大夫長明ながあきら入道〔法名、蓮胤。〕、雅經朝臣のきよに依つて、此の間、下向す。將軍家に謁し奉ること、度々どどに及ぶと云々。
而るに今日、幕下將軍御忌日ごきにちに當り、の法花堂に參り、念誦讀經の間、懷舊の涙、頻りに相ひ催し、一首の和歌を堂の柱にしるす。
  草も木もなびきし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風
   *
文中の「雅經」は公家で歌人の飛鳥井雅経(嘉応二(一一七〇)年~承久三(一二二一)年)。義経の強力な支援者として知られ、流罪にも遇っている刑部卿難波頼経ぎょうぶきょうなんばよりつねの次男で飛鳥井家の祖。雅経も連座して鎌倉に護送されたが、頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価されて頼朝の猶子となった。建久八(一一九七)年に罪を許されて帰京する際には頼朝から様々な贈物を与えられている。その後、頼家・実朝とも深く親交を結び、政所別当大江広元の娘を妻とし、後鳥羽上皇からも近臣として重んじられた。幕府の招きによって鎌倉へ度々下向、実朝と藤原定家やここに示されるように鴨長明との仲を取り持ってもいる。「新古今和歌集」(元久二(一二〇五)年奏進)の撰者の一人として二十二首採歌、以下の勅撰和歌集に計一三二首が入集している人物である(以上の雅経の事蹟はウィキの「飛鳥井雅経」に拠った)。
 この一首は確かに長明の歌集には所収しないものの、永く彼のこのエピソードに於ける即興歌として鎌倉時代にすでに人口に膾炙されており、偽歌とするには当たらない(と私は思う)。
 本「卷之七」の執筆推定下限である文化三(一八〇六)年から遡ること百二十一年前の貞亨二(一六八五)年に公刊された水戸光圀の鎌倉地誌の濫觴である「新編鎌倉志」の巻之二の「法華堂」の項も引いておく(私の同注釈テキストから、ルビを省略して読み易く加工した)。
   *
○法華堂〔附賴朝並義時墓〕 法華堂は、西御門の東の岡なり。相傳ふ、賴朝の持佛堂の名也。【東鑑】に、文治四年四月廿三日、御持佛堂に於て、法華經講讀始行せらるとあり。此の所歟。同年七月十八日、賴朝、專光坊に仰て曰く、奧州征伐の爲に濳かに立願あり。汝、留守に候じ、此の亭の後ろの山に梵宇を草創すべし。年來の本尊の正觀音像を安置し、奉らん爲なり。同年八月八日、御亭の後ろの山に攀ぢ登り、梵宇營作を始む。先づ白地アカラサマ假柱カリハシラ四本を立て、觀音堂の號を授くとあり。今雪の下の相承院、領するなり。賴朝の守り本尊正觀音の銀像も、相承院にあり。今此には彌陀、幷如意輪觀音・地藏の像あり。地藏は、本、報恩寺の本尊〔事在報恩寺條下(事、報恩寺の條下に在り。)〕なりしを、何れの時か此に移す。如意輪は、良辨僧正の父太郎大夫時忠と云し人、由比の長にて在りし時に、息女の遺骨を、此の如意輪の腹中に納むと云ひ傳ふ。又石山寺より佛舍利五粒を納むる由の書き付も入てあり。今は分身して三合ばかりも有と云ふ。又、異相なる僧の木像あり。何人の像と云事を知人なかりしに、建長寺正統菴の住持顯應、此像を修復して自休が像也と定めたり。兒淵に云傳へたる自休は是歟。【佐竹系圖】に、明德二年六月朔日、源の基氏故右大將家の法華堂に、常陸の國那珂郡の莊の内、太田郷を寺領に付けらるゝとあり。【東鑑】に、建暦元年十月十三月、鴨長明入道蓮胤、法華堂に參り、念誦讀經の間、懷舊の涙頻りに催す。一首の和歌を堂の柱に題して云く、「草も木もなびきし秋の霜消ヘて、空しき苔を拂ふ山風」今按ずるに、昔は法華堂と云者、是のみに非ず。【東鑑】に、右大將家・右大臣家・二位家・前の右京兆等の法華堂とあり。【佐竹系圖】にも、佐竹上總の入道、比企谷の法華堂にて自害すとあり。然れば、此の法華堂には不限(限らざる)なり。其の比法華を信ずる人多き故、持佛堂を皆法華堂と名る歟。此法華堂を、右大將家の法華堂と云なり。
   *
 最後に、やはり私の電子注釈テクスト「北條九代記」巻第四の「賀茂長明詠歌」を引用して終わりとする(これの、私のちょっとした仕組みをした諸注もリンク先でお読み戴けると幸いである)。「北條九代記」は「耳嚢 巻之七」の執筆時から更に遡ること、百三十一年前の延宝三(一六七五)年に初版が刊行されている。著者は不詳とされるが、江戸前期の真宗僧で仮名草子作家として著名な浅井了意(慶長一七(一六一二)年~元禄四(一六九一)年)が有力な候補として挙げられている。
   *
      ○賀茂長明詠歌
加茂の社氏やしろうぢの菊大夫長明ながあきら入道蓮胤れんいんは、雅經まさつねの朝臣のきよし申すに付けて、關東に下向し、將軍家に對面を遂げ奉り、鎌倉に居住し、折々は御前に召されて歌の道を問ひ給ふ御徒然おんつれづれの友なりと、おぼし召されければ、新恩に浴して、心を延べ、打慰む事多しとかや。正月十三日は故右大將家の御忌月きげつなれば、法華堂に參詣す。往當そのかみの御事共思ひ續くるに、武威の輝く事、一天にあまねく、軍德のいきほひ、四海ををさめて、累祖源家の洪運こううん此所ここに開け、なびかぬ草木もあらざりしに、無常の殺鬼さつきを防ぐべきはかりごとなく、五十三歳の光陰たちまち終盡をはりつきて、靑草せいさう土饅頭どまんぢう黑字數尺くろじすせき卒都婆そとばのみ、その名のしるしに殘り給ふ御事よと、懐舊の涙、しきりに催し、一首の和歌を御堂の柱に書付けたり。
  草も木も磨きし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風
將軍家御參詣の時、是を御覽じて、御感、淺からずとぞ聞えし。
   *
・「草も木も靡きし秋の霜きへてむなしき苔を拂ふ山風」――草も木もなびくほどに日本国中の民が服した佐殿(頼朝公)のその秋の霜のような厳しい権勢も――今はその秋の霜のように瞬く間に融け消えて――残った空しき苔蒸した墓辺を風だけが吹き抜けていく――

■やぶちゃん現代語訳

 加茂長明かものちょうめいの賴朝の廟に於ける歌の事

 鎌倉の頼朝公の廟所に於いて、加茂長明が詠んだと人の言う和歌。

  草も木も靡きし秋の霜きへてむなしき苔を拂ふ山風



 仁にして禍ひを遁し事

 文化三丑三月四日の大火に芝邊なりしとや、赤木藤助といへる者、火災甚間近鄽はなはだまぢかくみせ其外戸前とまへをうちて目塗めぬりこまやかになしけるが、召仕めしつかふ者、ほかより手傳てつだひに來りし者不殘のこらず集りしに召仕壹人見へず。内に殘りてやあらんと、あるじ殊にあんじけるが、何卒最早殘り居るべき、先へ立退たちのきもなしけんと人々まうしけるを、左にあらず、戸まへはづし可見みるべしいひしを、最早火は近し、風は強し、今更開きなば類燒は目の前なり迚いづれもいなみけるを主人、燒たれば迚是非なし、明け候へ迚戸前壹枚はづしければ、察しの通退とほりのきおくれ内に居たり。何故殘りしとたづねければ、最早片付仕𢌞かたづけしまひたれば出んと思ひつれど出所でどころなし。内より戸前をあく迄たゝきけれど、外の物さはがしきにききつくる物なければ、まさに死なんと覺悟きわめしといいしが、無程ほどなくあたりも不殘のこらず類燒して、主人はじめ怪我せぬ事にぞ、そこそこ目塗して立退しに、家竝に一軒も殘りし者なく、戸前丈夫の藏も火いりたすからずなりしが、此並木やが鄽藏みせぐら無難なんなく殘りし也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「文化三丑三月四日の大火」文化三(一八〇六)年は丙寅ひのえとらであるから誤り(訳では訂した)。前年の乙丑きのとうしと誤ったか、若しくは「年」の誤字であろう。この「文化の大火」は既注済み。本巻で先行する「正路の德自然の事」の私の注を参照のこと。「卷之七」の執筆推定下限は文化三年夏であるから、火事なればこそ間近の文字通り「ホットな」噂話である。
・「目塗」合わせ目を塗って塞ぐこと。特に火災の際に火が入らないよう、土蔵の戸前(土蔵の入口の戸のある所及びその戸を指す語)を塗り塞ぐことをいう。
・「鄽藏」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『見世藏みせぐら』(正字化して示した)とあり、長谷川氏は『防火のため土蔵造りにした店』と注しておられる。

■やぶちゃん現代語訳

 仁徳あればこそ禍いを遁れた事

 文化三年丙寅ひのえとらの三月四日の大火の折りの話で御座る。
 芝辺りとか聴いておるが、さる大店おおだなの主人、赤木藤助と申す者、火災、これ、はなはだ間近となり、店その外は勿論、蔵の戸前とまえをも厳重に閉じおいて、隙間にはびっちりと泥を目塗り致いて御座ったと申す。
 ところが、いざ、防火の仕儀を終えて、召しつこうて御座った者どもや、ほかより手伝いに参って御座った者どもも残らず集まったによって、よう調べてみたところが、親しく召しつこうて御座った一人の姿が、これ、見当らぬ。
「……い、家内に残っておるのではあるまいか……」
と、主人あるじは殊の外、心配致いたれど、
「――どうして最早残っておろうはず、これ、御座いましょうやッ! 大方、臆病風に吹かれて先に立ち退きなんど成したものに違い御座いませぬッ!」
と、火急の切迫の中なればこそ、誰もが口々に申したてた。
 ところが、
「――いや、さにあらず! 蔵の扉を外して中をよう、調べるがよいぞッ!」
と命じた。しかし、
「――いいえ! ご主人さまッ! 最早、これ、火は近し、風は強し!――いまさら、折角、目張りを致しました土蔵の戸を開いてしまいましたら、これ、類焼は免れませぬぞッ!」
と、誰もが否んで尻ごみ致いた。
 それでも主人は、
「――焼け落ちるならば――これ、焼け落ちよッ! 是非に及ばず! ともかくも、開けなされッ!」
と厳に命じたによって、折角、びっちりと目塗りで固めおいた戸前を、総て掻き落といて、戸一枚を外した。
 すると――主人の察した通り――かの者、これ、逃げ遅れて土蔵の内におったと申す。
「――何故に居残っておったものかッ!?」
と糺いたところが、
「……へぇ……も、最早、片付けも終わりましたれば、さても逃げ出でんと思いましたところが……見れば……どこもかしこも外より目塗りの、これ、終わって御座いましたによって……もう、出づべき所も、これ、御座いませなんだ。……内より入口のとおを、あらん限りの力をもって……懸命に叩きに叩きましたけれども……戸外のもの騒がしさに……これ、聴きつけて呉るる者は……たれ一人として、おられませなんだ……されば……かくなる上は……最早、このまま死なんものと……覚悟を決めて……おりまして御座いましたッ……」
と述懐致いたと申す。
 ほどのう、芝一帯は、これ、殆んど、類焼に及んだによって、主人始め、
「――怪我せぬことぞ、何よりの大事ぞッ!」
と、再びその外した一枚に、そこそこの目塗りを施した上、即座に立ち退いて御座ったと申す。
 さても――芝一帯の家並は――これ――一軒の残りもなく――数々の格式高き大店おおだなの戸前丈夫を誇った大きなる蔵も――これ――その殆んどに火の入って――無事なるところは――これ――全くないに等しい惨状と……相い成って御座った。……
……ところが
――何故か――この主人の「並木屋」の店蔵みせぐらのみは――これ――全くの無傷にて――一面の焼野原となった中――忽然と立って御座った。
――内なる財貨も――これ――一つとして焼けることのう――全く以って無事、残って御座ったと申すことで御座った。



 蚊遣香奇法の事

  檜挽粉ひのきひきこ 三升  樟腦しやうなう 壹匁
  雄黄  壹匁  黄綠 壹匁
 是はほか挽粉を用ゆるもあり、或は蓬□をもちふ。右合藥あはせぐすりして袋に入用いれもちふるに、蚊をさる事妙也。

□やぶちゃん注
○前項連関:三つ前の「齒の痛口中のくづれたる奇法の事」に続く民間薬方シリーズ。注意したいのは、これは燃やすのではなく、袋に詰めて持ち歩く(若しくは身辺に置く)タイプの蚊遣りである点である。揮発成分に効果がある訳で、ナウいじゃん!
・「檜挽粉」檜を製材した際に出る細かな粉のこと。
・「三升」五・四リットル。
・「壹匁」。一匁は一貫の千分の一で、約三・七五グラム。
・「雄黄」天然産砒素の硫化物。化学成分As2S3の鉱物で樹脂状の光沢がある黄色の半透明の結晶。染料・火薬などに用いる。有毒。但し、「世界大百科事典」によれば、化学でいう雄黄(orpiment)という和名は、本来は同物質を一緒に産することが多い鶏冠石の別称であって、化学物質としての“orpiment”に対しては「雌黄しおう」又は「石黄せきおう」の名称を使用するのが望ましいとされているとある。なお、そこには蠟燭で加熱すると容易に溶解し、『強いニンニク臭を発する』ともある。
・「黄綠」これは岩波のカリフォルニア大学バークレー校版によって「薰綠くんろく」の誤りであることが判明する。薫緑とは薫陸くんろくで、一般にはインド・イランなどに産する樹脂(やに)が固まって石のように固くなったものを指し、香料・薬剤とする。薫陸石。但し、本書の場合は江戸時代であるから、たかが蚊取り線香にこれを調剤するというのは考えにくいから、これは本邦産の松や杉の樹脂が地中に埋もれて化石様に化したものを指していよう。琥珀に似ており、前者同様に香料とする。岩手県久慈市から産出し、「和の薫陸」と呼称された。
・「蓬□」底本では右に『(苅)カ』とするが、蓬苅という名詞はない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここ(以下に示す部分のみ)は割注になっていて、  これほか挽粉を用るもあり、或はよもぎを用 とのみあるから、底本本文の□は衍字かとも思われる。
・「合藥」一応、岩波版の長谷川氏のルビに従ったが、「かふやく(こうやく)/がふやく(ごうやく)」でもよいようには思われる。

■やぶちゃん現代語訳

 蚊遣香かやりこうの奇法の事

  檜挽粉ひのきひきこ 三升  樟脳 壹匁もんめ   雄黄  壹匁  黄綠 壹匁
 これは檜以外の挽粉を用いる場合もあり、或いはよもぎを用いてもよい。
 右を合薬ごうやくして、袋に入れて用いれば、蚊の忌避すること、これ、まっこと、妙で御座る。



 武者小路實蔭狂歌の事

 雲霞といふ題にて、
  足なくて雲の行さへおかしきに何をふまえて霞たつらん

□やぶちゃん注
○前項連関:三つ前の「加茂長明賴朝の廟歌の事」に続く和歌シリーズ。
・「武者小路實蔭」「耳嚢 巻之四 景淸塚の事」に既出。公卿・歌人であった武者小路実陰(むしゃのこうじさねかげ 寛文元(一六六一)年~元文三(一七三八)年)の誤記。和歌の師でもあった霊元上皇の歌壇にあって代表的歌人であった。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、百年も前の古い話柄(鎌倉とでは比較にならぬものの、やはり古歌という観点では前の「加茂長明賴朝の廟歌の事」と軽く繫がるか)。
・「足なくて雲の行さへおかしきに何をふまえて霞たつらん」――足がないのに「雲の行く」というのさえ面白うてならぬのに――一体全体――何をふんまえて――霞は「立つ」というので――おじゃる?――

■やぶちゃん現代語訳

 武者小路実陰殿の狂歌の事

 「雲霞」という御題にて、武者小路実陰殿の詠まれた歌。

  足なくて雲の行さへおかしきに何をふまえて霞たつらん



 加川陸奧介娘を嫁せし時の歌の事

  わするなと人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも

□やぶちゃん注
○前項連関:和歌譚二連発。本話は珍しく、本文なしの和歌のみの提示であるが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、以下の前書がある(正字化し、ルビも歴史的仮名遣に直した)。
   *
 享和・文化の頃、地下ぢげの歌よみと云はれ、宮方の家禮かれいなりし加川陸奥介娘を外へ嫁せし時めるよし。
   *
訳では特別にこれの部分を挿入して訳した。この文中の「地下」は清涼殿殿上の間に昇殿することを許されていない官人の総称、またはその家柄を指す。メッセンジャー・ボーイとして殿上人とされた六位の蔵人を除く、六位以下総ての下級官吏総てを指す。地下人。反対語は「堂上とうしょう」。
・「加川陸奧介」俗称香川陸奥介を名乗ったのは香川景樹の子で公卿徳大寺家に仕え、父の創始した桂園派を嗣いだ幕末の歌人香川景恒かがわかげつね(文政六(一八二三)年~慶応元(一八六六)年)であるが、御覧の通り、時代が合わない。岩波の長谷川氏注(底本では鈴木氏は何故か注しておられない)ではこれは根岸と同時代人(但し、景樹の方が三十一も年下ではある)であった景樹本人のことと推定しておられる(但し、そこには『景樹は長門介後に肥後守』で「陸奥介」であったことはないことが示されてある)。それに従う。歌人香川景樹(明和五(一七六八)年天保一四(一八四三)年)は国鳥取藩士荒井小三次次男であったが七歳の時に父を亡くして一家離散し、母の姉の夫奥村新右衛門定賢に預けられた。幼くして和歌を清水貞固に学び、儒学にも志があった。寛政五(一七九三)年に出奔して京都に出た(この時には滝川某の娘包子を伴っており、出奔にはその恋愛が絡んでいるともされる)。苦学を続けるうち、寛政八年に二条派地下歌人で徳大寺家出仕の梅月堂香川景柄に夫婦養子入りをした。この時、名を景徳、更に景樹と改め、通称を式部と称して徳大寺家の家士となり、堂上の歌会に出席するようになる。やがて「調べ」を重んじて堂上派と相容れない新しい歌風を主張し始め、しかも景樹は「大天狗」とも称されるほどの高慢で自信過剰な振舞いをしたため、京の旧派や江戸歌壇は一斉に反発、文化元(一八〇四)年には梅月堂と離縁した(但し、香川姓を名乗り続けることが許される程度の円満な独立ではあった)。後、景樹の元には門人が次第に集まり、新しい一大勢力として桂園派を形成するに至った。文化八年には賀茂真淵の「新学」を論駁する「新学異見」を脱稿して復古主義派を攻撃、さらに文政元(一八一八)年には江戸進出も企てたが失敗に終わった。画期的といわれる歌論は小沢蘆庵の「ただこと歌」の影響を受けたもので、天地自然に根ざした本来的な誠・真情を素直に表出した時、歌は自ずから「しらべ」を持つというもので、実作もまた清新である(以上は「朝日日本歴史人物事典」の解説に拠った)。この直後に「享和・文化の頃」とあり、これは西暦一八〇一年~一八一八年になるが、「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏であるから、そこを下限とすると、景樹満三十三~三十八歳の時のエピソードということになる。 ・「家禮」家令。皇族や華族の家筋の家で事務・会計を管理し、使用人の監督に当たった者。 ・「わするなと人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも」「わするなと」底本では「と」の右に『(よカ)』と傍注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「わするなよ」。訳でもそれを採用した。
  わするなよ人にしたがふみちののけふの細布ほそぬのむねあわずとも
「みちの」に地名「陸奥」と「(夫婦人倫の)道」を掛ける。「けふ」は「今日」(の婚姻)と「狹布けふ」を掛ける。「狹布」は現代音で「きょう」と読み、古代に於いて奥州から調・庸の代わりとして貢納された幅を狭く織った白色の麻布のことをいう。狭い布であるから「胸合はず」胸元へ届くことなく合わぬという意を、相手の夫との心(胸)がうまく「合は」ないという意を掛けてある。勝手な私の解釈を示しておく。
――忘れてはいかんぞ……妻として夫へつき従うところの道を――今日きょうを限りとして我が家を出でて嫁に行ったとならば――たとえ陸奥みちのく狹布きょうのように幅狭き故に胸元で合わせることが出来ぬほどに――夫の心に対して胸内に齟齬を覚えたとしても……決してそれを面に出だいてはならぬ……凝っと耐えてこらえて夫の心に従う――それが妻の道じゃ……

■やぶちゃん現代語訳

 歌人加川陸奧介かがわむつのすけ殿が娘を嫁した折りの歌の事

 享和・文化の頃、地下じげの歌詠みと言われ、宮方徳大寺家の家令となった加川陸奥介殿が、娘を外へ嫁すとなった時に、詠んだと申す和歌。

  わするなよ人にしたがふみちの奧のけふの細布むねあわずとも



 内山傳曹座頭に代詠る歌の事

 傳曹は寶曆明和のころ、和學にくはしきとて世に稱譽なせしが、詠歌も甚だ達者にて、狂哥も面白おもしろし。或時座頭に代りて、
  せめて目のひとつ成り共星月夜鎌くらやみをゆきの下みち

□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌三連発。
・「代詠る」は「かはりよめる」と読む。
・「寶曆明和」西暦一七五一年から一七七二年。明和の後が安永で次が天明。
・「内山傳曹」「内山傳藏」が正しい(訳では訂した)。内山椿軒ちんけん(享保八(一七二三)年~天明八(一七八八)年)は儒者で歌人。名は淳時なおとき、通称伝蔵(伝三とも)、別号椿軒、賀がてい。江戸生の幕臣とされるが役職等は未詳。和歌を坂静山に学び、堂上歌人の烏丸光胤・日野資枝にも指導を受けた。江戸の武家歌人として六歌仙の一人に数えられるなど、当時の評価は高かった。門人に大田南畝(蜀山人)・唐衣橘洲・朱楽菅江ら天明狂歌の名師を多数擁し、自らも萩原宗固とともに「明和十五番狂歌合」の判者を勤めるなどしたため、和歌よりも天明狂歌の祖として名高くなった(「朝日日本歴史人物事典」他に拠った)。
・「せめて目のひとつ成り共星月夜鎌くらやみをゆきの下みち」「星月夜」は鎌倉十井じっせいの一つで極楽寺坂下にある井戸の名であり、また主に謡曲などでは「鎌倉」の枕詞として用いられる。ここでは「星」に「欲し」を掛詞とし、引き出された「鎌くらやみ」(元来がこの「星月夜」は「くら」いところから同音の「倉」を連想させて「鎌倉」の枕とする)は「まくらやみ」で真っ暗闇の意を掛けてある。更に「ゆきの下みち」は鎌倉八幡宮西の地名「雪の下」を仕込んで(即ち「星月夜」「鎌倉」「雪の下」が鎌倉の縁語)、しかも「闇を行き」と「雪の下道」とが掛かるようになっている。技巧に凝ってはいるものの、歌意にひねりがある訳でもないようだし(文中にもあるように国学の造詣も深かったようであるから、上句には「目ひとつの神」辺りの民俗伝承が関わっている可能性はあるかもしれない)、特に訳すほどのものでもあるまいと思う。

■やぶちゃん現代語訳

 内山傳蔵が座頭に代わって詠んだ歌の事

 傳蔵は宝暦明和の頃、国学にも詳しい儒者として世に称せられたが、詠歌もはなはだ達者で御座って、狂歌もなかなかに面白いものがある。或る時のこと、座頭に代わって詠んだという歌。

  せめて目のひとつ成り共星月夜鎌くらやみをゆきの下みち



 大盜人にともなひ歩行し者の事

 田安の御屋形おやかたにかろき者つとめし忠七といへる者は、若き時甚だ放蕩なりし。予しれる者に咄しけるは、若き時放蕩にて父母兄弟にも見限られて、無據よんどころなく淺草日本堤にほんづつみの下へ出て紙漉かみすきやとはれけれど、元より不身持ふみもちゆへ酒食に錢を費し、或る日土手へ出て涼み思はず芝はらにふしたりしに、人通りに目さめたば粉抔□て居しに、千住の方より三度笠をかむりて、飛脚ともいふべき者荷をかつぎ來りしが、懷中もの取落とりおと行過ゆきすぎしを呼懸よびかけして教へけるを、忝しと立歸り拾ひとり、日もくれたりしがかの者も多葉粉吸付すひつけて休みて、扨御身はいづ方にて何のたつきなすやとたづねしに、しかじかの身のうへ也と語りければ、かくたよりなき身のうへならば、我にしたがひ荷を助けもちくれんや、我はいせの方へ參る者也と語る。望處のぞむところぢき請合うけあひければ、道中にひとへもの抔調へ、髮月代かみさかやきなど念比ねんごろに世話して東海道へ掛りしに、ある泊りにて、何をか隱さん、我は子細ある者也、道中にて相應の仁躰じんていつれなければ、目をつくる者もあるべしと御身を道中づれになせし也、其身そのみ町人の商人の用向にて上方へ登り候ていいたし、上方近くの宿に泊りしが、何れの町家よりののぼがねにや、又武家の登金のぼせがねにや、拂曉より荷物指運さしはこび、甚だ嚴重のていを見て、かの忠七をいざなゐ鈴鹿山邊の方にいりて、忠七はこの所暫くまつべしと、夜深よぶかに右山を出て、其身もちし荷物をば忠七にあづけて往來へ立出しが、暫くして燈灯ちやうちんをともし通る者見へけるが、何か大騷ぎの樣子にてかの燈灯もきえしが、立騷ぎて先の方へ走行躰はしりゆくていなりしが、かの男忠七がかたはらへ來り、懷中より金子五六百兩ばかり取出し荷をこしらへ、金子忠七へもあたへ、御身も是より中山道を江戸へ歸るべし、我は西國へまかる也とぢき立別たちわかれしが、忠七も無難なんなく江戸へ歸りて、かの紙すきの元へ立歸り、かゝるあやしき事にこりて家業も精を入けるが、或時紙漉の親かた、いづ方へ至りしぞと尋し故、かゝる者にいざなわれおそろしきと語りければ、それ大盜人おほぬすつとなるべしと右親方まうしけるが、無程ほどなく彼者町中引𢌞ひきまはし通りしを見て、いよいよおそろしく身をちゞめつゝしみ居たりと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。後文から見れば男が荷を落したのも忠七の心性の「正直さ」を測ったもの、忠七を積極的に脅して従わせるような粗野な凶悪さを一回も示していないこと、明確ではないが、犯行時に殺生に及んでいない可能性があること、闇を自在に歩けるすこぶる特殊な視力その他を有すること――私はちょいと雲霧仁左衛門を思い出してしまった。
・「大盜人にともなひ歩行し者の事」「おほぬすつとにともなひありきしもののこと」と読んでおく。
・「田安の御屋形」徳川御三卿の一つ、第八代将軍吉宗次男宗武が江戸城田安門内に屋敷を与えられたのに始まる田安家の屋敷。
・「淺草日本堤の下へ出て紙漉に雇れ」江戸初期から現在の雷門一丁目(現在の田原小学校付近)は屑紙の漉き返しを業とする人々が多く住んでおり、元禄年間(一六八八年~一七〇四年)になると浅草山谷周辺で古紙・襤褸切れなどを素材として漉き返した、落とし紙や鼻紙などに用いる「浅草紙」が盛んに製造されるようになり、後にはそうした低品質の紙をも「浅草紙」と呼称するようになった。江戸中期の川柳に、
 鼻をかむ紙は上田か淺草か
とある(信州上田は高級和紙紙漉産地)。また夏目漱石の「道草」の第六十九章にも、主人公健三が姉の態度に不快になって家を飛び出し、そぞろ歩きし、明治の郊外の急速な変貌ぶりに人事を絡めた深い感慨を抱くシーンにも登場する。私の好きな場面なので引用しておく(引用は岩波版新書版全集を用い、踊り字「〲」は正字化した)。
   *
 さみしい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へと歩いて行つた。さうしてついぞ見た事もない新開地のやうなきたない、町の中へはいつた。東京で生れた彼は方角の上に於て、自分の今踏んでゐる場所をわきまへてゐた。けれども其處には彼の追憶をいざなふ何物も殘つてゐなかつた。過去の記念がことごとく彼の眼から奪はれてしまるた大地の上を、彼は不思議さうに歩いた。
 彼は昔あつた靑田と、その靑田の間を走る眞直まつすぐこみちとを思ひ出した。田の盡る所には三四軒の藁葺屋根が見えた。菅笠すげがさを脱いで床几しやうぎに腰を掛けながら、心太ところてんを食つてゐる男の姿などが眼に浮んだ。前には野原のやうに広い紙漉場かみすきばがあつた。其所を折れ曲つて町つゞきへ出ると、狹い川に橋が懸つてゐた。川の左右は高い石垣で積み上げられてゐるので、上から見下みおろす水の流れには存外の距離があつた。橋の袂にある古風な錢湯の暖簾のれんや、其隣の八百屋の店先に並んでゐる唐茄子たうなすなどが、若い時の健三によく廣重ひろしげの風景画を聯想させた。
 しかし今ではすべてのものが夢のやうにことごとく消え失せてゐた。殘つてゐるのはたゞ大地ばかりであつた。
何時斯いつこんなに變つたんだらう」
 人間の變つて行く事にのみ氣を取られてゐた健三は、それよりも一層はげしい自然の變り方に驚かされた。
 彼は子供の時分比田と將棊しやうぎを差した事を偶然思ひだした。比田は盤に向ふと、是でも所澤の藤吉さんの御弟子おでしだからなといふのが癖であつた。今の比田も將棊盤を前に置けば、屹度きつと同じ事を云ひさうな男であつた。
己自身おれじしん必竟ひつきやうどうなるのだらう」
 衰へるだけで案外變らない人間のさまと、變るけれども日に榮えて行く郊外の樣子とが、健三に思ひがけない對照の材料を與へた時、彼は考へない譯に行かなかつた。
   *
・「□て居しに」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『煙草などたべて居しに』。これで訳した。
・「登せ金」岩波版長谷川氏注に、『上方への送金』とある。

■やぶちゃん現代語訳

 ひょんなことから大盜人おおぬすっとに伴って恐るべき一働きを味わった者の事

 今、田安の御屋敷に勤めて御座るかろき身分の忠七と申す者は、これ、若き時にははなはだ放蕩者で御座った。
 以下は私の知り合いに、かの忠七が話したことで御座る。

……あっしは若い頃、放蕩の限りを尽くしまして、父母兄弟にも見限られて、よんどころなく、浅草は日本堤にほんづつみの辺りへ転がり込んで、紙漉きに雇われてはおりやしたが……もとより不身持ふみもちで御座んしたから、酒食に銭を使い果たし、すっからかん……そんなある日のこと、紙漉きに嫌気がさして、仕事を早めにおっぽり出して、何気に土手へ出でて夕涼みがてら、ふと、その辺りの堤脇の芝原にごろんと寝転がっておりやした。…暫く致しやして、近くの堤の上を通る人通りに目覚めまして、すきっ腹に煙草なんど吸うて誤魔化しておりやしたところが……千住の方より、三度笠を被って、飛脚ていの者が荷を担いで通りかかりやした。……と、その男、ふと懐中のものを落として行き過ぎやしたんで、
「おい、おめえさん! 何か、落したぜ!」
と呼び懸けて教えたところが、
「おっと! こりゃあ、忝けねえ!」
と立ち帰って拾い取るなり、すっと近づいて参りやして、
「……日も暮れてきやした、な……」
と、その男も横に坐って煙草を吸いながら一息つきやした。
 暫くしやすと、
「……さてもお前さんは、何処で何を生業なりわいと致いておられるんで?……」
と訊ねましたから、
「……お恥ずかし乍ら……かくかくしかじかの身の上にて……」
と語ったところが、
「……そうかい。……そりゃ気の毒な……かくなる身の上ならばこそ……一つ――あっしについて荷持ちの助けっとをして下さらんか? 儂はこれから伊勢のかたへと参る者じゃが?……」
と語る。さればここぞ渡りに舟、
「――へえ! 望むところで!」
と直ちに請けうたんで御座います。……
 それからもう――道中にて単衣ひとへ物なんども買い調え、髪結いやら月代かみさかやき剃りなんどまで――これ一切合財、懇ろに世話して呉れました。……
 ところが東海道へかかりまして、ある泊まった旅籠で夜半のこと、男は徐ろに、
「……何をか隠さん……わしは子細ある者で、の。……この道中にて相応の人体じんていれないと……これ、いろいろと、ふふふ……目を付けて怪しむ者もあらんかと思うて、の……おめえさんを道中連れと致いた訳よ。……おめえさんを、これ――町人の商人あきんどの用向きにて上方へ登りますところにて御座い――というていに致いたは……そのためよ……ふふふ。……」
と何やらん、意味深なる笑みを浮かべて告げたんで御座いやす。……その笑みの笑ってはおらぬ眼の奥に見た冷たい一閃いっせんには……何やらん、慄っと致しましたものの……ここまで来ては、もうこの男の舟からは下りられませなんだ。……
 その後、上方近くの旅籠に泊りやしたが、その翌払暁のこと、その同じ旅籠より――これ、何れの町家よりののぼがねか、はたまたどこぞの武家の登せ金かは存じませぬが――はなはだ厳重なる警護にて、大きなる荷を指揮致いて運び出すのを、男は障子越しに眺めておりましたが、やおら、
「――さても忠七、参ろうか。……」
と、その荷の一行の後を秘かに追うようにして旅立ちまして御座えやす。……
 海道が鈴鹿山辺りの方に入った頃合い……もうその時分には、つけておりやした荷の列を尾根筋を先回りして遙か前で待ち伏せしておるていにて、
「――忠七――おめえさんは、何もせず、ここで暫く待っていな。……」
と命ずると、男は自分が持っております荷物を我らに預け、真っ暗闇の往来を何の造作もなく進み出て行きやして御座えやした……まるで昼間の道を歩く如……すたすたと……
 暫く致しましますと、提灯ちょうちんともして通る者がおるように見えましたが……
――ここにて突如!
――何か大騒ぎが起こった様子にて……
――その瞬間――かの提灯も――ふっと消えて――再び真っ暗闇となり……
――立ち騒ぐ声々だけが――夜陰の深山に――響き渡り!……
――何人か――先へ先へと堰切って逃げ去って行くような足音!……
……と!
……かの男が我らが傍らへ忽然と現われ出でたかと思うと
……懐中より金子五、六百両ばかりも取り出だいては、あっという間に担い荷に拵えまして御座いました。
 男は法外な金子を我らへも持たせ、
「――お前さんもこれより中山道を江戸へ帰るが、いいぜ。――わしは西国へ行くぜ。――あばよ、達者でな――」
と申すが早いか、瞬く間に立ち別れまして御座いました。……
 我らはその後、ことものぅ江戸へ帰ることができ、かの元の紙漉きの親方の元へと立ち帰って平身低頭、ありがたい親方の温情にて、元の職へと復し、まんず、この恐るべき怪事に関わったことにまっことこりまして、紙漉きの生業なりわいにも精を入れて励みまして御座いました。……
 暫くしたある日のこと、紙漉きの親方が、
「……あの、おめえが、ふらっとおらんようになったあん時は、一体、何処へ行っておったじゃあ?」
と訊ねられましたによって、
「……実は……かかる者に誘われ……かくかくしかじか……いや、もう、肝も潰るる如き恐ろしきことにて御座いました……」
と正直にまことのことを告げましたところが、
「……お、お前! そ、それは、と、とんでもねえ大盜人おおぬすっとに、これ、違いないぞッ!……」
と、かの親方も申しましたが……
……ほどのう……かの男……江戸にて市中引き回しの上打ち首獄門と相い成り……あっしの目前を……縛られて通って行ったを現に見申した…………
……いやはや……あん時はいよいよ恐ろしゅうなって……身を縮めるように……知らんふりを致いて御座いました…………

と、語ったとのことで御座った。



 變生男子又女子の事

 文化寅年の夏、肥前國天草郡大浦村に嘉左衞門娘やなといへる者、廿六歳にて男子になりしよし。常にかわりし陰戸の肉、幼年より常にかわりしが連年實上さねあがりして、當時はまつたく男子にかわる事なし。もつともしつ和らかにて女の樣にもありしが、髮をも生じ乳も男の通りに成りし由をききて、例の留守居𢌞狀るすゐくわいじやう京童きようわらはのたわ事ならんと嘲りしに、座中金澤ききて、かゝる事もあるまじき事にもあらず、下總の國印旛郡大和田村喜之助とまうす者、廿歳はたちの時男根變じて女根によこんなりし事を、郡代がたつとめ比聞ころききしと語る。又石川某が元大御番勤のころ森川肥後守組由田與十郎もりかはひごのかみぐみゆたよじふらう召仕への中小姓ちゆうごしやう名は不覺おぼえざりしが、廿五歳にて女子と變じ、程過ほどすぎて子をもちたる事あり。是等は最初陰所はなはだ痒く、終に男性しぼみおとし女性と成りし由。右兩人の咄しに何れも生れ付の氣分性質たちの如く、やわらかなる人物の由語る。造化の變異かゝる事も有べき也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。こればかりは私好みの話で御座る。根岸の興味の持ち方、眉唾と嘲笑する人物の言を挟んで、後半に実例二例で反駁する話柄の構造も、根岸が「造化の變異かゝる事も有べき也」と腑に落ちて信じている様が窺われて興味深い。根岸って、やっぱりちょっとヘン――僕みたいに、ね!
・「變生男子又女子の事」は「へんじやうなんしまたによしのこと」と読む。やや解説が必要で、ここで挙げられたものは、所謂、第一次性徴に於ける性別の判別が難しい状態若しくはその形状から誤認した半陰陽(Intersexuality・Hermaphroditism)、性分化疾患(DSD:Disorders of sex development )のケースである。
 前者「半陰陽」という語の生物学的な位置づけに於いては、両性の性腺を兼ね備えたものを真性半陰陽、遺伝子と外見とで性別の異なるものを仮性半陰陽と呼び、後者は性腺上の性別によって、男性仮性半陰陽、女性仮性半陰陽として区別される。身体的には、女性仮性半陰陽の場合、膣が塞がっている場合が多く、また陰核が通常よりも肥大し、これが男性器(ペニス)と間違われることがある。男性仮性半陰陽では、尿道下裂や停留睾丸を合併症状として持つこともある(この部分はウィキの「半陰陽」に拠る)。
 また現在、正式な医学的表現として使用されることが多くなった後者は、アンドロゲン不応症(性染色体はXYでアンドロゲンが分泌されるが、アンドロゲン受容体が働かないために外見・外性器ともに女性型となるが、内性器として未分化な精巣を有する状態で思春期以降の無月経などによって判明することが多い)や性別不明外性器で最も多い(七〇~八〇%)先天性副腎皮質過形成(腎皮質の機能異常によってコルチゾールやアルドステロンが低下し、アンドロゲンが過剰に分泌される内分泌系疾患。その殆んどが21水酸化酵素欠損症。男児女児合わせて約五〇〇〇~一五〇〇〇人に一人の頻度で見られる。XX女児においては内性器の構造は女性のものであるが、外性器の一部がどちらかというと男性様の外見になる場合がある。XY男児の場合は思春期早発症(二次性徴が異常に早い時期に始まる疾患)が見られることがある。男児女児ともに治療を行わないと早い時期に発育が停止して新生児期より副腎不全が発生するために適切な治療を行わないと死亡してしまう)・卵精巣性性分化疾患(卵巣・精巣両方の組織を含む性腺を持つ)・性染色体異常によるクラインフェルター症候群(X染色体が二つ若しくは三つにYで外生殖器は男性を示す)及びターナー症候群(X染色体一本又は一本のX染色体が構造異常でX短腕が欠失した核型等で外生殖器は女性を示す)などの身体的性別に関する様々なレベルでの、約六十種類以上の症候群・疾患群を包括する用語である(具体な内容はウィキの「性分化疾患」に拠った)。
 ところが、この前者の「變生男子へんじやうなんし」という読み方をした場合の語には江戸時代、仏教的な別のニュアンスが色濃く付帯しており、こうした性分化疾患の病態の変化過程に対してもその現象をこの変成男子(こうも書く)と関連付けて捉えた者も多かったのではないかとも私には思われる。これは仏教のかなり古い時代からの女性差別である点でも附記しておきたい(以下はウィキの「変成男子」を参照及び引用した。引用部では注記記号は省略した)。女子は比丘尼として如何に修行布施をしても成仏することが困難で、一度、男子に生まれ変わって初めて成仏が可能となるとする仏教思想。「法華経提婆達多品」に八歳の竜女の成仏する場面に由来する。初期の経典には見られないものの釈迦滅後に急速に広まった。本邦では奈良・平安期に神道や修験道の女人禁制・出産や生理に伴う穢れが仏教に取り込まれて、この説がある程度までは一般化したと考えられている。但し、『貴族や僧侶が記した女人不成仏に関する文書には『法華経』堤婆達多品や『転女成仏経』などを引用をしても、それらの経文に対する合理的・経論的な根拠・説明が提示されないなど、実際には内在的な理由づけのない観念以上のものではなく、九世紀を遠く下った院政期においても貴族の女性が家中の仏教祭祀において主導的な役割を果たしている姿が確認され、当の貴族社会においても女人不成仏の思想が実際の仏教信仰のあり方に影響を与えておらず、ましてや一般的ではなかったことが知ることが可能である』さらにこの変生男子の説に『批判的な人々も多く、最澄は『法華秀句』において女性が成仏できないとする考えを否認し(ただし、比叡山を女人禁制にしたのは最澄自身である)、鎌倉時代には法然・親鸞・道元・日蓮・叡尊らはそれぞれの立場で批判をしているが、彼らが女人救済論は一方において「女人の罪業」の主張を独り歩きさせてしまう側面も有していた。実際、女性の罪業の深さを説く血盆経信仰が民衆の間で高まったのは江戸時代のこととされている』。問題の事例は寧ろ近代以降の日本人の心性にこそあり、『明治維新後儒教的な家父長制が旧武士階層のみならず一般の農商家にも拡大されると文字通り「女人は成仏できない」という儒教的家父長制による女性蔑視の正当性を証明する根拠として法華系諸宗派を初めとする日本仏教全体で扱われるようになった。日蓮正宗のようにこれ以降国粋主義の高まりも加わって尼僧を廃止した例もある』。また、現在、「変成男子」という語は『一説には女性が髪をおろし出家の姿をすることといわれる。また、特に1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦後男女平等を謳う日本国憲法が発布され進駐軍の意向で儒教的な男尊女卑の考えが否定されると男子に成ることで成仏できるのではなく、成仏したことを男子の姿で表したといったように解釈が変更された』ともあって、呆れて最早、口も開かない。まさか、このウィキに歴史的解釈過程に戦後部分までも記載があるとは、およそお釈迦さまでも気がつくめえ、と私は思うのであるが、如何?
 なお、本記載の三症例は、何らかの目的を持った作為的な男女交換詐術でないとするなら、私は以下のように推測する。

①やな(女子)のケース ●満二十四歳で男性化した。この時、鬚が生えており、胸も女性乳房化が全く起らず、男性と全く変わらなかった。
☆髯の発毛も貧弱な乳房も必ずしも女性として異常とは言えない。
●幼少期より外生殖器の形状が普通の女児とは異なっていた。
☆会陰があるように見えたが、陰核様部分が非常に突出して視認出来たものと推測される。
●性格は柔和で極めて女性的ではある。
☆これは女児として養育したことに拠るものと考えてよかろう。
★髯・乳房未発達という現象が突如この年齢で起こったという風には読めず、無月経であった可能性が高いとすれば尿道下裂や停留睾丸を伴った男性仮性半陰陽と考えられ、また実は単に尿道下裂や停留睾丸の症状をもった真正男児(これらは必ずしも男性仮性半陰陽に特異的症状ではない)であったものを女児と誤認していたものとも思われる。

②喜之助(男子)のケース
●満十九歳で女性化。
●男性の外生殖器が変化して女性の外生殖器になった。
☆この「變じて」が疑問で、陰茎はあったがそれが脱落したのだとすると、これは壊疽や腫瘍による脱落と潰瘍化した外陰部が会陰に見えただけで、半陰陽ではなく梅毒などの重い性感染症の末期なども疑われる。
●生まれつき、女性的な印象を与える男性であった。
★但し、③の後に「是等は最初陰所甚痒く、終に男性しぼみ落し女性と成りし由」とあることから、これはやはり、生殖器全体に激しい掻痒感が生じた後、陰茎が著しく収縮して脱落した、ということらしい。③のように後も女性として生活したといった記載がない点では同性愛者の真正の男子で、性感染症による予後の悪い陰茎の壊死(陰茎の癌はすこぶる稀)であった可能性も高いかも知れない。

③名不詳の中小姓(男子)のケース
●満二十四歳で女性化。
●②と同じく、生殖器全体に激しい掻痒感が生じた後、陰茎が著しく収縮して脱落した。
●暫くして、子を産んだ。
●③と同じく、生まれつき、女性的な印象を与える男性であった。
☆この場合は陰核が非常に肥厚した突出型であったに過ぎず、半陰陽でさえなく、男児として女児を誤認し続けていただけの可能性もないとは言えない。

・「文化寅年の夏」底本で鈴木氏が「卷之七」の執筆推定下限を文化三(一八〇六)年夏とする根拠である。
・「肥前國天草郡大浦村」「肥後國」の誤り。現在の熊本県天草郡有明まち大浦。
・「常にかわりし」底本は『衍カ』と右注する。事実、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではこれがなく、『陰戸の肉幼年より常にかはりしが』である。訳では省略した。
・「實上りして」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『突立して』。「さねあがり」の読みは私の推測。「さね」は陰核の隠語である。
・「尤其質和らかにて女の樣にも有し」これはその男根様に突出した部位の「質」(女性生殖器の陰核のように柔らかで女性のそれがただ大きくなっただけのような感じという謂い。陰核の大きさには個人差があり、非常に肥厚していたり、陰茎並みに肥大する場合もままある)というではなく(そう思わなかった方のために一言言っておくと、私は愚かにも初読時にそう誤読しかけたことを自白しておく)、後述される「性質」の謂いで、性質や立ち居振る舞いは女のようにも見えたが、の謂いである。
・「髮」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も同じであるが長谷川氏はわざわざ『底本のまま』と注記されており、私はこれは「髯」(髭・鬚)の誤字と断じ、そう訳した。
・「例の留守居𢌞狀」江戸藩邸にあるそれぞれ藩の留守居役が、本国各藩に対し、公私雑多な種々の情報を報告回覧させた文書。公的には、幕府から命じられた役や朝廷からの褒賞、各大名の参勤交代状況や慶弔の報知、自藩内で起こった各種災害などの被災状況の対処報告といった政治的社会的な重要度の高いものから、留守居役のルーチン業務の記録である日記や手紙類、果ては情報交換のために行われた宴会の案内状の転記に到るまで、様々なものが記されていたらしい。そこにはこうした卑俗の噂話に類したものも頻繁に記されていたのであろう。
・「京童のたわ事」京童、京童部きょうわらわべ、京雀は京の若者たちで、京都市中の物見高くて口さがない若者どもという卑語で、その戯言、流言飛語。
・「金澤」呼び捨てであるが、ここまでの「耳嚢」には当該者はいないが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では実は冒頭「廿六歳にて男子に成しよし。」の後に、『營中の雜談、世人も是を口ずさみしが』(正字化して示し、ルビは省略した)とあり、関東郡代の下役を勤めたという彼、その語るデーテイルが異様に細かく正確ところからも、その城中に於ける談話者の中の相応の幕臣クラスの一人であることが分かる。
・「下總の國印旛郡大和田村」印旛郡に大和田村は発見出来ない。下総国千葉郡大和田村なら存在した(現在の千葉県八千代市南部にあった大和田町附近)。岩波版長谷川氏注には、『また香取郡にも大和田村あり、下総町大和田。千葉・香取両郡とも印旛郡に隣接』するともある。香取郡大和田村は下総高岡藩領内であるが支配者は不明で、現在は成田市大和田。
・「森川肥後守」岩波版長谷川氏注によれば、次の「由田與十郎」が大番勤務の時期の大番頭は下総生実藩第七代藩主森川俊孝(延享元(一七四四)年~天明八(一七八八)年)で、大番頭に任じられのは明和九(一七七二)年六月(ウィキの「森川俊孝」のデータも参照した)。
・「由田與十郎」前注長谷川氏のデータ以外は不詳。……しかし気にはなりますな、だって彼の中小姓でしょ? 女になったのは……。その「彼女」が産んだ子の父っていうのは?……
・「中小姓」諸藩の職名の一つ。小姓組と徒士かち衆の中間の身分に当たり、主君に近侍して雑務を勤めた小姓組に対し、主君外出の際の供奉や祝日に於ける配膳・酌役などを勤めた。
・「氣分性質の如く」底本傍注は「氣分性質の女如く」の脱字かとし、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も『気分・性質の女如く』とある。

■やぶちゃん現代語訳

  変生男子へんじょうなんしまた変生女子へんじょうにょしの事

 文化三年の夏、肥前国天草郡あまくさのこおり大浦村嘉左衛門娘、やなじょと申す者、二十六歳で男になった、とのこと。
 このやな女と申す女は幼少の砌より会陰の肉の附き方が、これ、普通の女児のそれとはかなりちごうていたが、年を経るごとにさねが見るからに、これ、にょきにょきと伸び上がって参り、この二十六の当時は、これ、全く男子と変わらぬ姿となっておった由。
 尤も、女児として育てられて御座ったによって、その気質は、いたって和やかにして、まさに立ち居振る舞いだけは女のようででもあったが――何より――髯も生えるわ――乳も一向に張ることものぅ全く以って厚き洗濯板にて――男と変わること、これ、御座ない。――
 ………………
と申す話を、さる雑談の折りに聞いたが、ある御仁は、
「……それはさしずめ、例の留守居廻状るすいかいじょうなんどに流言飛語として記された類いか、はたまた、口さがない京童きょうわらわごとでござろうが。……」
と嘲ってわろうたところ、座中にあった金沢なにがし殿、これらの話を聴いて、
「……いや、このようなことは、これ、あるはずもないことと断ずること、これ、出来ざるものにて御座る。……下総国印旛郡いんばのこおり大和田村の喜之助と申す者、二十歳はたちの折り、男根の変じて女根にょこんとなったるをば、それがし、関東郡代がたを勤めて御座った折り、きっと事実と、これ、聴いて御座る。」
と申したを、またそれを引き継ぐように、同座致いて御座った石川何某殿も、大御番勤めであった頃の話として、
「……森川肥後守殿の組に属する由田与十郎ゆたよじゅうろう殿の召し仕えの中小姓ちゅうごしょうで――名前は失念致いて御座るが――二十五になってから突如、女子にょしと変じ、暫く致いた後には――子さえ産んだ――という事実を拙者も存じておりまする。」
 ………………
 これら二人の話を今少し訊いてみたところが、この変生女子へんじょうにょしの二名については孰れも、最初、陰部がはなはだ痒うなったかと思うと、しまいには男根が萎んで脱落致し、そのまま跡が縦に割れ、女根にょこんを形作ったとの由で御座った。
 また両人の話はやはり全く同じく、孰れも生まれつきの気性や性分は、もともと女の如く妙に和やかな人物では御座った由も附言致いた。
 造化の妙変妙異の中には、これ、かかることも、あるのであろう。



 猫忠臣の事

 安永の末、大坂嶋の内に□□屋□兵衞といへる者の娘有しが、其家に年久しく飼置かひおける猫ありし由。家内娘共愛しけるが、かの猫娘の起臥起居おきふしおきゐ聊不放いささかもはなれず、食事使用の時も其邊を不離はなれざる故、猫の見入みいりしと上下者ぞめきいひける。父母も殊の外愁ひ、婚姻前の娘かゝる浮名たちてはと歎き、相談して猫を打殺うちころすか、又は放ちすてんと打寄うちより相談なせしに、彼猫ききしやかいふつと行衞しれず。いづくへうせしや、年經る猫はばけるとの下諺げげんと、いよいよ憎み罵りしに、其夜親夫婦の夢に彼猫來りつげけるは、我夢々娘子に執心せしにあらず、此家に年ふる鼠ありて、娘子へ執心なし害あらん事甚だ危し、是により我等多年養育の恩あれば、晝夜傍をはなれず守る也、然るに我等が惡心をとうたがひをうけ影をかくしけれど、椽下えんのしたをり又は天井の上に隱れて今もつて守る也、彼惡鼠あくそを害せんと思へど、かれも年經る鼠故、我等猫の手際に及難およびがたくたすけなしこれしたがへんは、どこどこの傘やの赤ぶちなる猫にあらでは事成り難し、何卒右の猫をかり給へ、ともに右鼠怪をしたがへんといふと見て、夫婦同じ夢なれば大きに驚き、且右の猫の樣子、うせころよりは食事も乏しきや、又は椽下等に潛みける故や、甚疲衰はなはだつかれおとろへしてい也。かゝる事あるべき事ならねば傘やをたづね見よと、人してかの所へ至りしに、果して傘やもありて猫の事尋しに、年久しくかへる赤ぶちの猫ありききて、かの□兵衞急ぎ傘やへ至り猫の事尋ければ、如何なる事にて尋給ふや不審して尋る故、かくかくの事なりとありの儘に語りければ、左あらばかし申さんと承知せし故、歡びて宿に戻り妻に語りしに、其夜彼猫又夢に告けるは、きたる幾日こそよろしけれといふにまかせ、暮ころより右猫をかりて二階の古長持の内に入置いれおきしに、夜四ツ時ころにもあらん、二階上殊の外騷敷さはがしく、中々立入たちいるさまにもあらず。しばらくしてしづまりければ、燈火をかゝげ二階へ上り見れば、大きさ猫よりまさる大鼠を、かの借來かりきたりし猫喰殺くひころし守りたり。飼置かひおきし猫は鼠に鼻柱はなばしら喰付くひつかれて死しをりたりし故、大きに歡びて、かり猫はあつく禮謝して傘やへかへしかひ猫は厚くはふり、ねづみは燒捨やきすてしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。良き妖猫の奇譚。本話はこの後の「耳嚢 巻之九」に載る「猫忠死の事」と殆ど同話である。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版「卷之七」の目次では、この「猫忠臣の事」の項が掲げられあるながら、その上に「除キ」と書かれてあって、実際に本文がない。校注者の長谷川強氏は『巻十の「猫忠死の事』と同話ゆえ除いたか』と注しておられる(カリフォルニア大学バークレー校版は底本の集成本とは九巻目と十巻目がそっくり入れ替わっている)。確かに私も筆録者なら、あまりの相同性にやはりちょっと除外したくもなる気がするほど似ている。まあ、ここまでやったら、「これでは根岸先生、千話に偽りありと謗られても仕方がないという気がしますよ。」とぼやきながらも数合わせに写すとは思いますがね、センセ。
・「安永の末」安永元年は一七七二年で安永十(一七八一)年に天明に改元している。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、四半世紀前の古びた都市伝説である。「卷之九」の「猫忠死の事」(以後、「卷九忠死」と略称する)では「安永天明」と下限が広がっている。
・「大坂嶋の内」現在の大阪府大阪市中央区の地域名および町名であるが、通称の「心斎橋」・「ミナミ」と言った方が分かりが良い。「卷九忠死」では「農人橋」とし、借りに行く猫の居所を「島の内口河内屋市兵衞方」とする。
・「□□屋□兵衞」底本には右にそれぞれ注して「卷九忠死」では「河内屋惣兵衞」である。前注も参照。
・「かいふつと」「掻きふっと」の音便。「掻き」は語調を強める接頭語。フッと。ヒョイっと。
・「不審」底本では右にママ注記がある。
・「下諺げげん」の読みは私の勝手。下々に伝わる言い伝えの謂い。
・「四ツ時」午後十時から十時半頃。

■やぶちゃん現代語訳

 忠臣の猫の事

 安永の末、大坂嶋の内に〇〇屋×兵衞と申す町人が御座った。
 その者には娘があって、家には年久しく飼いおける猫もおったと申す。
 家内の者も娘も、ともどもにその猫を可愛がって御座ったが、この猫、娘には特に馴れて、その起き臥しから家内でのちょっとした折りにさえも、聊かも娘の傍らを離るることこれ御座なく、食事から果ては後架にゆく後さえも、その近くを離れずにおると申す有様で御座ったゆえ、次第に、なんとはなしに、
『……猫に魅入られたんとちゃうやろか?……』
と家内にては、相応の使用人から丁稚下女に至るまで、気味悪がって騒ぎ立てては、陰で噂致すようにもなったと申す。
 流石に父母の耳にもこのことが伝わり、殊の外、心痛の種と相い成って御座った。
 何よりまず、嫁入り前の娘なればこそ、このような浮き名が巷に広がっては、これ、一大事と申す歎きの先立ったによって、手代なんどとも相談致いて、
「……まず……あの猫を打ち殺ますか……または、これ、帰り来たることの出来ざる、遠き地へ連れ行きまして、放ち捨てますがよろしいか……」
なんどと、うち寄っては秘かに具体な打ち合わせも致いて御座ったと申す。
 ところが、かの猫――それを聴き及んで自ずと悟ったものか――フッと行方知れずとなってしもうた。……
「……一体……何処へ消え失せてしもうたもんやろ?……年経た猫は……これ……化けるとか……桑原々々……」
などと申す下世話な噂を致いては、これ、いよいよ、
「……あの化け猫が!」
なんどと家内の者ども皆、口に出しては憎み罵しって御座ったと申す。……
 ところがそんなある夜のこと、親の夫婦めおとの夢に、かの猫が来たって告げたことには……
「……我ガ輩ハ猫デアル……斯クモ夢ニ人語ヲ以ッテ告ゲ参ラス……ナレド夢々娘子ニ執心セシニアラズ……コノ家ニハ年経タル鼠アリ……ソノ妖鼠ヨウソ娘子ヘ執心ナシ……害セントノ心アランコト……コレ明白……甚ダ危シ……サレバコソ我等多年養育ノ恩ヲ受ケタレバコソ……昼夜分カタズ……カタワラヲ離レズ守リ来タッテ御座ッタ……然ルニ……我等ガ娘ニ悪心ヲ持ッタリト申ス……諸人ノ疑イヲ受ケタニヨッテ……我等身ヲ隠シタリ……ナレド……我等ハ今モ……アル時ハ当家縁下エンシタ……又アル時ハ天井ノ裏ニモ隠レ潜ミ居リ……今以ッテ娘子ヲ守ッテ御座ル……カノ悪鼠アクソヲ誅セントハ思ヘドモ、カノ怪鼠モマタ年リタル鼠妖ソヨウ故……我等一猫イチビョウ手際テギワニハ及ビ難キモノナリ……サテモ……助ケト成シテ我等ニ相応シキ強猫ツワモノハ……コレ……×××ノ傘屋ガ方ニ飼ワレタル赤斑アカブチ成ル猫ニアラデハ……誅殺ノ首尾成リ難シ――何卒右ノ猫ヲ借リ給ハレ!――共ニカノ邪悪ナル鼠怪ソカイヲ調伏致シマショウゾ!…………」
と言うかと見て目醒め、目醒めた夫婦めおとはそれぞれの顔に同じき夢の面影を感じて、互いに今見たばかりの妙なる夢を語りうてみたところが、全く以ってこれ、同じき夢にて御座ったればこそ、大きに驚く。
 かつまた、その夢中の猫の様子も語りうて見たところが、失踪致いた頃よりは碌な食事にもありつけておらぬものか、または縁の下なんどに凝っと潜み続けて飲まず食わずのままででもあるものか、はなはだ疲れ衰えたるていであったことまでも、これ、寸分違わず同じで御座った。
「……こ、このようなことはあるはずもないことじゃ!……じゃが、確かに夢は一緒やったッ!……と、ともかくもその傘屋を尋ね捜して見まひょ!」
と、人を遣わし、夢で猫の告げたところの×××辺を探させたところが、果して傘屋も、これ、ある――また、それとのぅ猫のことなんども探らせたところが、これ、永年うて御座る赤斑あかぶちの猫もある――とのことなればこそ、〇兵衛、急ぎ傘屋へと馳せ参じ、
「――あ、あんたはんのところに……あ、赤斑あかぶちの猫の……お、おりまっしゃろッ!」
と息せき切って質いたによって、傘屋はこれ、傘も買わざる猫の名を問うた妙な親父の来たったと、
「……な、なんでそないなこと、お尋ねなさいますぅ?……」
と如何にも不審気に尋ねて御座ったゆえ、〇兵衛、
「……かくかくのことの御座いますればこそ!……」
と、まあ凡そ、『けったいな話』としか思われぬは覚悟の上、それでも誠心を以ってかの顛末を語ったところが、
「――よろしゅうおま! そんなら一つ、お貸ししまひょ!」
と、傘屋は二つ返事で承知して呉れたと申す。
 さても喜んで屋敷へと戻り、妻に語っては二人して手を取って言祝いだ――その夜のことで御座る。……
 かの猫、また夫婦めおとの夢に出で来たってかく告げた。……
「……我ガ輩はハ猫デアル……来タル△△日コソ……調伏ノ吉日キチニチトシテヨロシキヒナリ!…………」
と言うて消えた。
 されば、その日に合わせて、暮れ頃よりかの傘屋より赤斑あかぶちの猫を借り来たって、老妖の鼠に気づかれぬようにと、二階の古長持ふるながもちのうちに入れおいたと申す。
 その夜の四ツ時頃で御座ったか、二階の上、殊の外、騒々しく……
――途轍もなき大音だいおん
――奇怪なる獣の声々の叫び交わし!
……たれ一人として、なかなか立ち入って見んも恐ろしきさまで御座ったと申す。……
 暫く致いて、ふっと静まったによって、主人を先頭に男どもが燈火ともしびをかかげて二階へ上って見たところが……
――大きさはこれ
――猫より勝る大鼠を
――かの借り来たった傘屋の赤斑あかぶちの猫が
――美事、喉元を喰い破って死んだる獲物を――しっかと――踏みしだいて御座った……
……さても……
……かの飼い猫はと申せば……
……かの大鼠に鼻柱はなばしらを無惨に喰い付かれ……
……最早
……とうに……息絶えて御座った。…………
 さても主人一同、大きに歓び、借りて参った赤斑あかぶちの猫には厚うに謝礼を添えて傘屋へと返し、飼うて御座ったかの忠義一途の、壮絶なる討ち死を遂げた猫は、これを厚う葬って墓なんどをも建立致いたと申す。……
 かの大鼠の死骸はと申せば……そのままに庭先にて焼き捨てた、とのことで御座る。



 古猫奇有事

 石川某親族の元に年久しくかへる猫ありしが、或時客ありし時かの猫其邊を立𢌞りしに、彼猫は古く飼置かひおき給ふ抔物語の席にてい主申けるは、猫は襖抔建付たてつくるをあくる者なり、此猫も襖のたてあけをいたし、此猫もやがてばけもいたすべきやといふをきく客もおどろきしが、猫てい主のかほをつくづく見て立出たちいでしが、其後は何方いづかたゆきしや行衞知れず。亭主の言葉的中ゆへなるべしと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:妖猫奇譚二連発。
・「古猫奇有事」は「こびやうきあること」と読む。
・「石川某」直近二つ前(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では直前)の「變生男子又女子の事」で中小姓が女に変じた例を挙げる「石川某」と同一人物の様に読める

■やぶちゃん現代語訳

 古猫ふるねこに奇しきことある事

 石川なにがしの親族の元に、年久しぅ飼うて御座った猫があったと申す。……
   *
……ある時、客が御座った折り、その猫が主客の座せる座敷近くをうろついて御座ったが、
「この猫は古うからうております猫で御座ってのぅ……」
なんどと、物語の序でに亭主が申しましたは、
「……猫と申すものは、襖なんどを締め切って御座っても、これ、器用に開くるもので御座る。……この猫も襖の開け閉めを人の如く致いて御座る。……いや……この猫もやがては……化けたりも、これ、致すもので御座ろうかのぅ……」
と言うたによって聞いた客も驚いた。
……ところがその時
……うろついて御座った猫が
――ピタ
……と
……足を停めた。……
……そうして
……亭主の顔を
……そのまま
――ジッ
……と、見詰めた。……
……暫く致いたかと思うと
――プイ
……と、座敷を出でて行ったと申す。……
……が
……そのまま
……何方いずかたへと行ったものやら一向、行衞知れずと相い成ったと申す。
……これは……亭主のげんがまっこと、真実を射たもので御座ったがゆえ、かく姿を隠したもので御座ろう……。
   *
と、石川殿が語って御座った。



 金銀を賤き者に見せまじき事

 栗原をう語りけるは、かの知れる者鎌倉へ詣ふで歸るさに、藤澤とかの茶屋にてやすみしが、年比六十斗としのころばかりの出家荷をおひて、同じ床机しやうぎに腰かけて色々咄しける内、諸侯の家來と見へて若侍兩三人彼茶屋にいりて酒抔べ、人足又茶屋の若者に申付まうしつけ、酒肴抔調へさせけるに、價ひ拂はんとにや、かれ出さん、これ出さんと懷中より歩判ぶはんをひしとつけし折手本樣の物を出しけるを、彼出家人々目ひとめを見合て、金子を輕き者大勢入込いれこみし所にてとりなやみ給ふまじき事といゝしを、彼若侍は取用ひ候心無こころもなく仕舞しまひ、拂ひなして茶やを立出なしぬ。跡にて彼出家酒のみながら語りけるは、道中抔すべて貴賤の者立𢌞たちまはる所にて、金子多取おおくとりなやむべき事にあらず、我等既に出家せしも、金子を見て欲おこり、かゝる世捨人と成りぬと申ける故、それはいかなる事やとせち尋問たづねとひしに、然らば懺悔に語り申さん、あなもらし給ふな、我は江戸芝伊皿子しばいさらご邊にすみて蕎麥を商ひしが、富貴にもあらず、夫婦右のかせぎせし子供を養ひ、貧しくもあらずくらしけるに、或夜四ツ時ごろみせ仕舞しまひかどのあんどんを消可申けしまうすべしと思ふころ、壹人の侍あはたゞしく駈入かけいり、何卒追手のかゝるもの也、かくまひくれ候やふまうしける故、穴藏の板敷をはづし其内へ忍ばせ、何しらぬていにて居たりしに、無程ほどなく侍五六人追欠おひかけ來り、此内へいりつらんとたづねければ、一向存不申ぞんじまうさず、然れども外へ可行ゆくべきやふなし。角行燈かくあんどんあるからは、此家の内へ立入たちいりつらん、家搜しせんと申ける故、我大ひに憤り、隱すべき筋なきに理不盡に家搜し抔といふ事、民家なりとも理不盡の事也、妻ならびに幼年の娘あれど、妻は煩ひて臥居ふしゐぬ、廣からぬうちさがし給ふにおよぶまじといゝしを、妻の臥所ふしど其外□き尋て、彼侍大きにあきれ、十分爰許ここもとへ隱れしと思ひしに、不有あらざるこそ不思議なれとまうし、最初の氣性には似ず誤り口上こうじやうなりしを見て、輕き町人ながら無實の儀をもつて家搜しなし給ふは男も立難たちがたしと六ケ敷申むつかしくまうすゆへ、追手の侍も困りいり、品々侘言わびごとしてたち歸りぬ。暫くすぎて彼穴藏より侍を出し、すこしも早く立退たちのくべしとまうしければ、懷中より金子四五百兩程取出し、誠に命の親なり、此禮はいつか報申むくひまうさん、是はいさゝかなれども印ばかりと、金五十兩ばかりを與へければ、いやとよ、此禮を取らんとてかくまひしにあらず、男と見込御賴みこみおたのみゆへかくまひぬれば、早々歸り給ふべしとつき戻しける故、侍もにげ道をあわてけるや、早く荷作りて立出たちいでぬ。無益の事に骨折ほねをりしと跡片付かたづけ、表の燈火ともしび取入臥とりいれふせりけるが、彼侍は主人の者か、又は傍輩の金子か盜取ぬすみとり欠落かけおちせしならんと、蕎麥切そばきり庖丁引提欠出ひつさげてかけいでんとせしを、女房驚き押留おしとどめしをつき倒し一さんに追欠おひかけしに、はるかに人影見へしゆへ、先刻のお侍にはなきやと聲をかけしかばたち歸りし故、いづ方へにげ給ふや、品川の方へは人を𢌞し候由也と申ければ、かたじけなしと答へ由斷ゆだん見濟みすまし、右庖丁にてきり倒し、懷中の金子奪取うばひとりそらしらぬかほして宿へ歸り、妻にも語らず一旦は心よく暮せしが、天誅に不遁所のがれざるところにや、娘も間もなく相果あひはて、妻も無程ほどなく空しくなり右左間違みぎひだりまちがひだらけにて金銀も空敷むなしく、つくづくと懃しぬれば、今生こんじやう未來も恐ろしく、出家遁世なしける事も、懺悔ながら人のいましめとかたりて立出たちいでしが、いづちへゆきしかしれざりけると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。岩波の長谷川氏の注に『西鶴の『本朝二十不孝』二の二など、一旦難を救うが、大金を持つのに心変りして殺して金を奪うこと、それを懺悔のこと、類話が多い』とある。確かに角行灯の舞台の小道具染みた使い方や、エンディングで僧が掻き消すように消えてゆく辺り、如何にもな作為が見える。
・「栗原叟」御用達の「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクティヴな情報屋で、既に何度も登場している。
・「歩判をひしと付し折手本樣の物」「歩判」は金貨の一分金いちぶきんのことで、金座などで用いられた公式の名称は一分判いちぶばんであり、一歩判・一分判金・壹分判金いちぶばんきんとも言った。形状は長方形で表面上部には扇の枠に五三の桐紋、中間部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されており、裏面には鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である「光次」の署名と花押が刻印されている。額面は一分でその貨幣価値は一両の四分の一及び四朱に相当した。江戸時代を通じて常に小判とともに鋳造され、品位(金の純度)は同時代に発行された小判金と同じで、量目(重量)も小判金の四分の一で、小判とともに基軸通貨として流通した。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年に近い元文元(一七三六)年五月発行の元文一分判の場合で金の含有率は六五・七%(以上はウィキの「一分金」に拠った)。岩波の長谷川氏の注によれば、旅客は『携帯の便のため糊付けして折本にして』所持していた旨の記載がある。『折本』とは和本の装丁の一つで、横に長く繋ぎ合わせた紙を端から折り畳んで作った綴じ目のないもので習字手本や経典のタイプをイメージすればよい。
・「取なやみ」取り出しては、なんやかやと言う。
・「立出なしぬ」底本には右にママ注記がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『出立しゅったつなしぬ』とある。
・「芝伊皿子」東京都港区三田四丁目と高輪一丁目及び二丁目の旧地名。同地の坂の名として伊皿子坂いさらござかが今も残る。変わった名前の由来は明国人の伊皿子いんべいすがこの坂附近に住んでいたからとも、大仏おさらぎのなまりとも言い、はっきりしない(ウィキの「伊皿子坂」に拠った)。
・「四ツ時比」午後十時から十時半頃。
・「妻の臥所其外□き尋て」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『其外隈々くまぐまも尋て』(「々」の部分は底本では踊り字「〲」)。これで訳した。
・「斯まひしにあらず」底本では「斯まひ」の右に『(匿まひ)』という訂正注を附す。
・「かたじけなし」「由斷ゆだん」孰れも底本のルビ。
・「右左間違だらけ」岩波の長谷川氏注に『やる事がすべて齟齬する』とある。
・「懃しぬれば」底本には右にママ注記がある。カリフォルニア大学バークレー校版では『觀じぬれば』(正字化した)とあり、これで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 金銀を賤しい者に見せてはならない事

 栗原翁の語った話。
   *
……私の知れる者が鎌倉へ詣うでてその帰るさに、藤沢宿しゅくとか、茶屋にて休んで御座ったと申す。すると、年の頃、六十ほどの出家が荷を担いで、同じ床机しょうぎに腰かけて色々と咄しなどて御座ったうち、諸侯の家来衆と見えて、若侍が三人ばかり、その茶屋に入って酒なんどを呑み、従えて御座った人足から茶屋の若者に申し付け、酒の肴なんどまでも拵えさせて御座ったが、さても勘定を払おうという段となって、
「……ここは一つ、拙者が出そう。」
「いやいや、ここは拙者が。……」
「……何の! まずは我らが。」
と、三人が三人とも懐中より歩判ぶはんをひしと貼り附けた折手本ようの財布を出だいたところが、かの出家人、多くの人目ひとめのあるを見咎め、
「……大枚の金子を、身分の軽ろき者どもの大勢入れ込んで御座る、かくなる場所にて取り出だいて、それをあからさまに見せつけて、支払いのことなんど議論なさるは、これ、良からざる振舞いにて御座いまするぞ。……」
と忠言致いたところが、かの若侍どもは出家の諌めもどこ吹く風と、却って金に輝く歩判の折本を見せびらかすようにしは、払いを済ませ、傲然と茶屋を後に致いたと申す。
 それから後、その出家は酒など呑みながら、我らが知人に語ったことには、
「……旅の道中なんどに限らず、どのような折りにもすべて、貴賤の者が入り混じっておる所にあって、あのような多額の金子をあからさまに取り出だいて、とやかうと申すべきことは、これ、厳に慎まねばならぬことで御座る。……さても、我らかく出家致いたも、これ、大枚の金子を見てよこしまなる欲の起こり、かかる世捨て人となって御座ったによってのぅ。……」
と申したによって、
「……それはまた、如何なる仕儀で御座ったものか?」
せちに尋ね問うたところが、
「……然らば……懺悔に語り申そうぞ。……但し、決して口外なさるるな。……」
と、徐ろに話し始めたと申す。
   *   *
……我らは嘗て、江戸芝伊皿子しばいさらご辺りに住んで蕎麦屋をあきのう者で御座った。……富貴ふうきにてもあらず、夫婦してその蕎麦商いの稼ぎを致いて、は生まれし娘一人をやっとかっとやしのうて、まあ、貧しいと申すわけでもなく暮して御座った。……
……そんな、ある夜のこと、四ツ時頃で御座った。蕎麦も売り切れ、店も仕舞しもうて、かどの行灯の灯をさても消すかと思うて御座った折り、一人の侍が、慌ただしゅう、店へ駈け入って参り、
「……何卒! 追手の掛かっておる者で御座れば! ここは一つ、何も聞かずにかくもうて下さらぬかッ!」
と申したによって、店の奥の穴蔵の板敷を外し、その内へ侍を忍ばせ、我らは何も知らぬていにて店仕舞いに取り掛かってっ御座ったところが、ほどのぅ、侍が五、六人も追い駈けて参り、
「この蕎麦屋へ入ったやに見えた!」
と声のして、
――ドン! ドン! ドン! ドン!
と戸を五月蠅く叩いたによって、戸を開いて招じ入れたところが、
「誰ぞ今、参ったであろうがッ!」
と糺いたによって、
「いいえ! 一向、存知ませぬが?」
と返すと、いきり立った一人が、
「――されどもほかへ行こうはずもない! 角行燈かくあんどんの明かりを頼りと致いたに相違なければ、このの内へ立ち入ったに違いない! 家捜やさがし致いそうぞ!」
と申したによって、我ら大いに憤り、
「隠すべき筋もなきに、理不尽にも家捜しなんどということ! これ、賤しき民家なりとも理不尽極まりなきことじゃ。妻ならびに幼年の娘はあれど、妻は患いて横臥しておる。広うもない茅屋、その内をお捜しなさるるは、これ及ぶまいことじゃッ!!」
と啖呵を切ったれど、侍どもは聞き入れず、不作法この上のぅ、土足にて妻や娘の臥所ふしどその外、隅々に至るまで捜し回った末――我らは憮然として、かの穴蔵の板の上に立って御座った――遂に見つからず、かの侍どもも大いに呆れたていとなって、
「……疑いなくここもとへ飛び込んで隠れたと思うたのじゃが……その影も形もないと申すは……まあその……これこそ……不思議なことと申すべきか……」
と呟く、その口振りは、最初に飛び込んで参った折りの、あの猛々しい気勢には似ず、半ば謝りの口上こうじょうへと転じたを、見逃さず、
「――おい! 我ら軽き身の町人ながら、知りもせぬ咎人とがにんを匿ったとか申す無実の罪を以って言いがかりをつけたばかりか! 土足にて家捜しまでなさるると申すは! これ、儂も江戸っ子デェ! 男が立たネエ!!」
と開き直って逆に詰め寄ったゆえ、追手の侍どもも困り果て、いろいろと詫びごとなんどを申して、這う這うの体で立ち帰って御座った。……
……暫くして、かの穴蔵より匿った侍を連れ出だし、
「少しでも早う、ここを立ち退くがよかろう。」
と申したところ、侍は懐中より、何と金子四、五百両ほども取り出だいて、
「……まことに拙者の命の恩人で御座る! この御礼はいつか必ず、屹度、報い申しましょうぞ!……今はとりあえず……これは些少で御座るが……まずは当座の御礼の印として……」
と、金五十両ほどをも、その大枚から分け出だいたが、我らは、
「――いやさ! こんな礼を取ろうと思うてかくもうたのでは、これ、ない。お前さんが儂を男と見込んでお頼み下すったから、かくもうたのであればこそ――早々にお帰りなさるるがよかろう!――」
と五十両を突き戻して御座った。
……その侍も、逃げるに慌てて御座ったらしく、すぐに大枚の小判を我らが目の前にて、
――チャラチャラ……
――ズン……ズン……
と荷作り致いて、我らの店を出でて御座った。
「……無益なることに、つまらぬ骨折りをしたもんじゃ……」
と穴蔵や土足の跡片付けなど致いて、表の燈火ともしびをも取り入れて臥して御座った。……
……が、煎餅布団の中で、
――チャラチャラ……
――ズン……ズン……
という、あの小判の音が耳に残って……
『……あの侍は……主人の物か……若しくは同僚の金子かを……これ……盜み取ってトンずらを決め込んだに違いない……大悪党じゃねえかッ!……』
と……思い至ったので御座る。……
……我ら、やおら、蒲団を跳ね除け、蕎麦切きり庖丁をひっ摑んで駈け出そうと致いた。……
……女房は庖丁を引っ提げた鬼のような我らの姿に驚き、押し留めて御座ったものの、それをも突き倒して一散に、かの侍の跡を追っかけて御座った。……
……すると、遙かに人影の見えたによって、
「――申し! 先刻のお侍さまにては、これ、御座らぬかッ!?」
と声を掛かけたところが、まさに、かの侍で御座った。我らが方へと走り戻って参ったによって、
「――何方いずかたへお逃げ遊ばさるるおつもりかッ?! 先程、小耳に挟んで御座ったには、品川の方へは既に探索の人を廻しおるとの由にて御座いましたぞ!」
と嘘八百を申したところ、
「――こ、これは、重々かたじけない!」 と、我らを信じ切って笑みさえ浮かべて答へて御座った……
――その油断を見すまし……
――我らは……
――隠し持った蕎麦切り庖丁にて……
――バラリ! ズン!
――と斬り倒し……
――懐中の金子総てを奪い取って……
……そのまま、そ知らぬ顔で家へ帰り……いや、勿論、妻にも一切は語らずに仕舞うたので御座る。……
……大枚の金子……一旦は豪勢な暮しも致しましたが――天誅は遁れざる所――とか申しまする。娘も間もなく、急な流行り病いのために相い果て、妻もほどのぅ宿痾にために空しぅなりまして……やることなすこと、これ、悉く裏目に出……遂にはかの大枚の金銀も……我らが手から霧か霞のように消え失せまして御座った。……その総ての出来事に、つくづくと感じ入るところの御座ったれば……今生こんじょう未来も末恐ろしゅう覚え……かく出家遁世なして御座った。……懺悔ながら……これも人の誡めと相い成らば幸い……
   *   *
……と語り終え、すっくと床机から立って茶屋を出でたかと思うと……気付いた時には、街道の右にも左にも、その僧の影も形もなく……一体、何処いずこへ行ったものやら……雲か霞のように……消え去って御座いました。……



 諸物傳術の事

 世に吸酸きふさんの三聖とて、釋迦孔子老子をさして、三人かめをとり𢌞したてるを畫く。山本宗英來りて、此程東披懿跡いせきの圖迚、元趙子昂てうすがうが著書なせるを見しに、右甕の側に立る三人は、蘇東披黄山谷くわうさんこく佛印の三人也。何れも宋人そうひとにて子昂の哥曲の文もある由。左も有べき。世の諺語げんごを爰に記す。畫家抔にてもやはり孔老釋と心得認來したためきたりし由、狩野法印申けると也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。まずプレ学習としてグーグル画像検索「三聖吸酸図」でそれらを見た後、解説が詳しい熊谷市公式サイトの真言宗妻沼聖天山の「聖天堂の彫刻3 三聖吸酸」を読んでみよう。
・「吸酸の三聖」「三聖吸酸図」のこと。略して三酸図さんさんずとも言い、東洋画の画題である。儒教の蘇東坡・道教の黄山谷・仏教の仏印禅師の三人が、桃花酸とうかさんという極めつけの酸っぱい名酢を舐めて眉を顰めている図で、儒・道・仏の三教一致を主題としたしたものである。孔子・老子・釈迦として描かれることもあるが、これについて底本の鈴木氏注には、『互にそしり会うことを諷するもの』と注され、その後に大田南畝の「南畝莠言」上から以下を引用されておられる。「南畝莠言なんぽしゅうげん」は門人文宝亭の編になる文化一四(一八一七)年刊の世事・風俗・文学多方面に亙る有職故実の考証本(二巻)で引用部は恣意的に正字化した。
『世に醋吸の三聖の圖といふものありて、老子孔子釋迦のかたちを畫けり、按ずるに趙子昂が東披懿蹟の圖といふもの一卷あり、その中に云、東披黄門黄魯直とゝもに佛印をとひし時、佛印いはく、吾桃花醋を得たり、甚美なりとてともになめてその眉を顰む、時の人稱して三酸とす、然れば東坡山谷佛印をあやまりて、老子孔子釋迦といふなるべし。僧横川が京華集に、三教吸醋圖詩云翁々乞到其隣、顰膞忍酸寒迫身、李白題詩妙於廟、擧盃邀月影三人、しからば此項より誤來る事多し』
本文にも出る語が多いが、ここで簡単に注すると、「懿蹟」は立派な行跡の意。「黄門黄魯直」は後注する黄庭堅のこと。「桃花醋」は「とうかす」でと読み、桃の花の様に薄らと紅い色を帯びた酢の名。桃花酸。「京華集」は室町中後期の五山文学を代表する臨済僧横川景三おうせんけいさん(永享元・正長二(一四二九)年~明応二(一四九三)年の漢詩文集。別名「補菴京華集」。但し、ネット上の影印で管見したが私の調べ方が杜撰なものか、当該箇所を発見出来ない。しかもこの引用箇所の意味も今一つ不審な箇所がある(「顰膞」「妙於廟」の「妙」の部分)ので、識者の御教授を乞うものである。李白の詩は陶淵明の「影答形」「形贈影」をインスパイアした「月下獨酌」の冒頭の、
 花間一壼酒
 獨酌無相親
 舉杯邀明月
 對影成三人(以下略)
  花間 一壺の酒
  獨酌 相ひ親しむ無し
  杯を擧げて 明月をむか
  影に對して 三人と成る
の部分である。因みに私は寧ろこの「三酸図」というイメージに、淵明のそれのように現実の惨めな個としての己の肉体、それと対峙するところの内在する超俗的なものを希求する魂、そして月光に照らされた影法師との「三」であるように感じた。
 閑話休題。さて鈴木氏は注の最後に『根岸氏も同書を読んだものか』と注されておられる。確かにその可能性を強く疑わせるほどに大田の言辞とこの「耳嚢」の記載には類似性が強く感じられるのであるが、しかし、そうすると不審が起こる。それは「南畝莠言」の刊行が文化一四(一八一七)年であることである。「耳嚢 卷之七」の執筆推定下限は鈴木氏によって文化三(一八〇六)年夏に推定されており、しかも根岸は同書の刊行前の文化一二(一八一五)年に亡くなっているからである。「南畝莠言」は大田の研究資料からの抜書きであるから、本記載もそれ以前に何か別な形で公刊されていたものであろうか? ここも識者の御教授を乞うものである。
・「山本宗英」底本鈴木氏注によれば、山本惟直いちょく。『宗安とも。寛政四年奥医となる。同年法眼に叙せらる』とある。寛政四年は西暦一七九二年。彼は父山本宗洪とともに滝沢馬琴の医学の師でもあった。
・「蘇東坡」蘇軾(一〇三七年~一一〇一年)北宋の政治家で詩人・書家。東坡居士と号したので蘇東坡とも呼ばれる。唐宋八大家の一人。二十二歳で科挙の進士科に及第して官界に入り、四十代の半ばまでは主に各地の知事を務めたが、新法党の王安石らの施策に反対して左遷、一〇八五年に神宗が死去して哲宗が即位、王が失脚して旧法派が復権すると蘇軾も中央復帰する。ところが今度は新法の良い部分を存続させることを主張する彼と新法全面廃止を掲げた宰相司馬光と対立、またしても左遷・追放された。波乱万丈の人生を生きた彼は中国の儒教・仏教・道教の三つの宗教哲学を自家薬籠中のものとなし、楽観的な姿勢で人生の苦しみに臨む解脱の境地を開いて常に理想を堅持した高潔の才人であった。 ・「趙子昂」趙孟頫ちょうもうふ(一二五四年~一三二二年)。南宋から元にかけての政治家・文人画家。字は子昂すごう、宋の宗室の出自で南宋二代皇帝孝宗の弟の家系。
・「黄山谷」黄庭堅こうていけん(一〇四五年~一一〇五年)。北宋の詩人・書家。字は魯直ろちょく。号は山谷道人。師の蘇軾とともに「蘇黄」と並称される。江西詩派の祖。書は行書・草書に優れた。仏門に帰依すると同時に老荘思想にも傾倒した。
・「佛印」仏印了元ぶついんりょうげん(一〇三二年~一〇九八年)。北宋の禅宗の高僧。儒家に生まれたが仏教に転身するも世襲であった官吏をも同時に勤め、僧俗二足の草鞋の生活をした。蘇軾の友人であった。「ぶっちん」とも読む。
・「諺語」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『諺誤』とする。この方が分かりが良い。
・「狩野法印」画家狩野惟信かのうこれのぶ(宝暦三(一七五三)年~文化五(一八〇八)年)。狩野栄川長男。号は養川院・玄之斎。寛政二(一七九〇)年父の跡を受けて木挽町狩野家を継いだ。後に法印となった。江戸城障壁画や京都御所関係の絵事を多く手がけている(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

■やぶちゃん現代語訳

 諸物伝承の際の誤謬の事

 世に吸酸きゅうさんの三聖と申し、釈迦・孔子・老子を配して、両三人がかめの周りを取り囲んで立てる絵図なんどを描く。
 知れる奥医山本宗英殿が訪ねてこられ、申されたことには、
「このほど蘇東坡の遺蹟の図と申し、元は趙子昂ちょうすごうの書きあらわしたる書画を見申したが、右甕の側に立てる三人と申すは、これ、蘇東披・黄山谷こうさんこく佛印ぶっちんの三人で御座った。孰れも宋代の人にて、子昂にはそれに纏わる歌曲仕立ての文章も、これ、御座る。」
との由にて御座った。
 いや、まさしく、その通りで御座ろう。世に伝えるところの誤謬ごびゅうを正さんがため、特にここに記しおくことと致す。
 当今の画家の間などにてもやはり、これを孔子・老子・釈迦なんどと思い違い致いて、そのようなとんでもない絵図を平気で描く者も御座る由、かの奥絵師狩野法印殿も申しておられる、とのことで御座った。



 狐即座に仇を報ずる事

 石川阿波守とて御留守居を勤けるころ、右家へ立入し茶師ちやし山上源兵衞といへる者ありし。狐寢たるを驚かしける事有し由。或日阿波守坊主若侍共、座敷の切戸きりど庭抔掃除なし居たるけるが、ひとつの狐築山つきやまの陰より出て、築山の脇に露次を出て無程ほどなき山を、源兵衞にばけて表の方へ𢌞るを各見付おのおのみつけ、あれ狐が源兵衞に化たるぞ、表より來りなば捕へて正躰しやうたいあらはせとて、棒箒抔引提ひつさげ内玄關へ𢌞りしに、誠の源兵衞中の口より例の通り上りけるを、それ狐よ迚打こらしけるゆへ、源兵衞はさ爲し給ひそとことわりのべけれど、曾て不聞入ききいれず、大きに難儀なせしを、重き老役人出て漸取鎭やうやくとりしづめけるとなり。石川家の家來幾右衞門語りけり。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。三つ程前の二つの妖猫譚と異類奇譚と連関。
・「石川阿波守」底本鈴木氏注に石川総恒ふさつねとする。岩波長谷川氏注によれば、『書院番頭・大番頭を経て天明元年(一七八一)年御留守居。寛政二年(一七九〇)致仕』とある。「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年であるから、少し前の都市伝説である。
・「茶師」茶葉の選定と合組ごうぐみ(現在でいうブレンド調合のこと)を行って茶を商った商人。
・「切戸」潜り戸のことで、門扉などの脇に設けた、潜って出入りする小さい戸口を普通はいうが、ここは屋敷の庭に面した座敷のある位置であり、しかも総出で掃除をしているということは庭中に茶室があり、そのにじり口の戸をかく称していると読みたい。主人公が茶師であることからもその方が映像的にしっくりくる。
・「中の口」屋敷の玄関と台所口の間にある入り口。

■やぶちゃん現代語訳

 狐が即座に仇を報じた事

 石川阿波守総恒ふさつね殿が御留守居を勤めておられた頃、かの御屋敷へ出入り致いて御座った茶師ちゃしで山上源兵衛と申す者が御座った。
 この源兵衛、ある時、同御屋敷近くの山裾にて、うとうとと致いておった狐を、
源兵衛「コラッツ!」
と、驚ろかして御座った。
 狐は尾を巻いて、小山の上の方へと韋駄天走りに逃げて御座ったと申す。
 さて、その数日後のことで御座る。
 阿波守殿御屋敷の茶坊主や若侍どもが、座敷に面した庭、その茶室の切戸きりどやら庭なんどを念入りに掃除して御座ったところが、一匹の狐が、庭に拵えた築山つきやまの蔭より脇の細き露地を出でて、石川殿が庭の借景となさっておられる屋敷裏近くの例の小山へと走ると見た……
……と!
――そこで!
――かの源兵衞に化けた!
――そのまま山裾を屋敷表のかたへと悠然と歩いて行く源兵衛!
と……そこの御座った茶坊主から若侍らは皆、これを漏らさず見て御座った。
若侍一「あれ! 狐が源兵衛に化けたるぞッ!」
若侍二「おう! 確かに拙者の見た!」
茶坊主「私も、た、確かに見申したッ!」
若侍三「表より参ったならば、これ、捕えて正体しょうたいを暴いてやろうぞッ!」
若侍四「合点! 承知ッ!」
と、皆々、棒切れやら箒やらを引っ提げ、内玄関の方へと韋駄天の如く走る!……
 ……と……そこに正真正銘の源兵衛が、数日前に石川殿より頼まれて合組ごうぐみ致いたちゃあを持って、表の切り戸を抜け、中の口よりいつもの通り、入らんとしたところが……
――血走った眼の若侍衆に入口のところで取り囲まれ、
若侍四「それッ! 狐よオウ!」
と声をかけられたかと思うと、もう、棒や箒でめった打ち!
源兵衞「……そ、そのような御無体……な、なさいまするな!……な、何故に!……かくも……」
と這いつくばって身を守りながら、しきりに抗議致いたものの、者ども、いっかな、聴き入れる耳なく、ただただ、地べたに丸うなるしか御座ない。
若侍三「早よ、尻尾を出せ!」
若侍一「皆、お見通しじゃッ!」
茶坊主「何を丸まって寝たふりしとる! この畜生がッ!」
若侍二「くりやから焼け火箸、持ってくるかッ?!」
と、全く手を附けられぬ狂乱のていなればこそ、源兵衛、一時は死をも覚悟致いたと申す。
 幸い、そこへ騒ぎを聴きつけた老御重役の方が奥方より出でて参られ、何とか、とり鎮められて、ことなきを得た、とのことで御座った。
 石川家御家来、幾右衛門殿の物語りで御座る。



 夢中鼠を呑事

 文化三年の夏のころ、番町邊布施金藏成よし、御番衆晝寢して足腰を小僧にもませ、とろとろと眠りし夢に、たましひ口より出ると見て大きに驚き、つかみ捕へて口へ押込呑おしこみのみむと思ひしが、咽喉のどのあたりかきさばく如くはなはだ苦るしければ、人をよびしに下女抔來り、いかゞなし給ふやとさゞめきしに、湯をこひ、漸く落付し樣子ゆへ家内、如何なし給ふやとたづねければ、かくかくの夢を見て大きにくるしみしに、るにても小僧は如何なしけるやと叱り尋ければ、小僧は次の間に住居すみゐたりける故、いかなる事と尋ければ、人より南きん鼠をもらひ寵愛せしに、旦那の腰を打寢給ふ故、側にて取出し放しなぐさめし處、旦那枕元へ右鼠至りしを、無悲に旦那とらへて呑み給ひぬゆへ歎く由まうしけるにぞ。扨は魂と思ひのみしは鼠なるか、いづれもおどろき、一笑なしぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:異類奇譚(こちらは寧ろ動物ご難の珍譚であるが)で軽く関連。――「夢中」で鼠を呑む――この標題は洒落ででもあるだろう。
・「文化三年の夏」鈴木棠三氏が本「卷之七」の執筆推定下限を文化三(一八〇六)年夏とする根拠の一つ。
・「御番衆」ここは広義の武家に於いて宿直警固などに当たる武士。
・「小僧」雑用に使役するために雇った少年。
・「南きん鼠」南京鼠。哺乳綱ネズミ目ネズミ上科ネズミ科ハツカネズミ Mus musculus。参照したウィキの「ハツカネズミ」によれば、本邦では江戸時代から愛玩動物として『白黒まだらのハツカネズミが飼われていた。この変種は日本国内では姿を消してしまったが、ヨーロッパでは「ジャパニーズ」と呼ばれる小型のまだらマウスがペットとして飼われており、DNA調査の結果、これが日本から渡ったハツカネズミの子孫であることがわかった。現在は日本でも再び飼われるようになっている』とある。体色は変異に富み、白色・灰色・褐色・黒色とあるが、辞書で「南京鼠」を引くと、ハツカネズミの飼育用白変種で実験用・愛玩用とある。ここはやはり「こゝろ」の先生ではないが、「純白でなくっちゃ」。
・「無悲に」底本には右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『むざんにも』(無惨にも)とする。こちらで訳した。

■やぶちゃん現代語訳

 夢中で鼠を呑む事

 文化三年の夏の頃、番町辺りに住もう布施金蔵ふせきんぞうとか申す者の話。
   *
 御番士の一人が、当直とのい明けなればとて、昼寝をし、足腰を小僧に揉ませ、とろとろと眠りかけたその夢に……

……たましいが口より出づると見えた……されば……夢中にあって大いに驚き……無我夢中で摑み捕え……やっとのこと、口の中へと押し込んで……ゴックン!……と呑み込んだ……
……と思うたら――咽喉のんどの辺り――何やらん、内側より出でんとして掻き毟る如く!――以ての外に苦るしゅう御座った…………

……と、ここで目が醒めて御座ったれど、いっかな、咽喉のんどの、
――グウッフ! グワッフ! ググッ! ギョワッフ!
として、一向に治まらざるによって、人を呼んだところが、下女なんどの参って、
「如何なされましたかッ?!」
と訊ぬるも、兎も角も声も出でず、慌てうろたうるばかり。
 やっと御番士の湯を乞う手真似に合点致いて、下女がすぐに白湯さゆを呑ませたところ、漸く落ち付いて御座った様子なれば、家内、集まって参った他の家士ら、
「……一体全体、如何なされた?……」
と質いたところ、
「……い、いや、もうかくかくの夢を見申し、いや、大きに苦しみまして、の……いや……それにしても……我らの傍におったはずの小僧は……これ、さて……何処にどうしておったものかッ?……」
と、どなり散らして捜いたところが、小僧はすぐ次の間にちんまりと坐って、何やらん、しくしくと泣いて御座ったゆえ、
「如何が致いたのじゃッ?!」
と糺いたところが、
「……せんにさるお人より……南京鼠をもろうて可愛がっておりましたに……旦那さまのお腰をお揉み申しておりますうち、お眠りになられたゆえ……側に鼠を取り出だして放っては遊んでおました……ところが……旦那さまの枕元へ……その鼠が……ととととっと……走って参りましたところが……無惨にも……半眼になった不気味な旦那さまは……鼠をむんずと摑むと……そのまま……ぱくっと……お呑みなさってしまわれた……さればこそ…鼠の哀れで……泣き悲しんでおるの御座います……」
と申した。
 かの御番士、それを聴くと茫然と致いて、
「……さ……さてはたましいと思い込んで呑んだは……これ……ね……鼠なるかぁ?…………」
と周囲の者ども、孰れも驚き、いや、大笑い致いて御座った。



 天理に其罪不遁事

 築土白銀町つくどしろがねちやうに多葉粉や次助といへる者、年比としのころ三十歳餘にて五六年以前より追々に仕出し、近比は切子きりこの三四人も差置さしおきて夫婦暮しにてありしが、文化二年の比、次助いさゝか煩ふて身まかりしに、妻も程なく果て其みせ仕舞しまひ、家財は店請たなうけの方へ引取ひきとりし由。同町に三四郎といふ同在所の者なるが咄しける。右次助は勢州の者にて、三四郎とは同所の者也。十年以前友達と喧嘩をして相手へ疵付きずつけ、藤堂和泉守領分ゆへ、領主にて入牢じゆらうなしけるが、吟味中内濟ないさいとか事すみて、次助は領分拂ひに成りしが、其時節相手は相果たり。領分はらひ不成ならず下死人げしにんにもなるしが、仕合成しあはせなる者と人の噂せし事也。然ども理不遁哉ことわりのがれざるや、夫婦共同時同樣に相はて、其跡は望人もなきと語りぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。
・「天理に其罪不遁事」「てんりにそのつみのがれざること」と読む。
・「築土白銀町」旧新宿津久戸町から白銀町、現在の新宿区白銀町附近。現在は白銀町の北東が筑土八幡町で、ここには築土八幡・築土明神社地があった。
・「切子」煙草の葉を刻む職人。
・「店請」店請け人。店子(借家人)の身元保証人。
・「藤堂和泉守」明和七(一七七〇)年に第九代藩主となった藤堂高嶷(たかさと/たかさど 延享三(一七四六)年~文化三(一八〇六)年)の通称。
・「内濟」表沙汰にせずに内々で事を済ませること。
・「領分拂ひ」津藩領外への追放。
・「下死人」解死人又は下手人とも書き、「下手人げしゅにん」の音変化したもの。「下手」は物事に手を下す意で、原義は直接手を下して人を殺した者、殺人犯を指す。そこから、江戸時代に庶民に適用された斬首刑をも指すようになった。当時の死刑の中では軽いもので、財産の没収などは伴わなかった。
・「望人」ママ。後を継ぐことを望む人の謂いか。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『弔ふ人』とあり、書写の際、判読を誤ったものののようにも思える。訳は
バークレー校版を採った。

■やぶちゃん現代語訳

 天理から罪は遁れられぬという事

 築土白銀町つくどしろがねちょうに、煙草屋次助と申す者、年の頃、三十歳余りで、五六年以前より追々繁昌し始め、近頃では切子きりこの三、四人も雇い入れて夫婦で暮しして御座ったが、文化二年の頃、次助、聊か患ろうて身罷ったところが、妻もほどのう相い果てて、そのおたなも仕舞い、家財も店請たなうけかたが引き取った由。
 さて以下は、同町に住まう三四郎と申す――次助とは同じ在所の出で御座った――者の話である。

……かの次助は伊勢国の出で、我らも同所の生まれで御座いましたによって、よう知っておりまする。
 次助は十年以前、在所にて友達と喧嘩をし、相手を傷つけて、藤堂和泉守高嶷たかさと殿の御領分で御座いましたゆえ、領主支配の牢獄に入牢じゅろうと相い成ったので御座いますが、ご吟味の最中に、何故か内済ないさいとかでこと済み、かろき領分払いで済んで御座いましたが、丁度、次助が追放と相い成りました、その直後、喧嘩で傷つけた相手は結局、その傷が元で相い果て御座いました。在所にては、
「……あのまま……領分払いにならなんだらな……今頃、人をあやめたかどで、下死人げしにんのお裁きが下ったに違いないわ。……よおけ、幸せもんやなぁ……」
と皆、噂致いてもので御座いました。……
……しかし天理は遁れざるものなの御座いましょうか……かくも夫婦めおと揃うてて殆ど同時同様に……これ、相い果ててしまい……その跡はとむろう人とても御座いませぬ……」



 女の一心群を出し事

 いつのころにや、本町ほんちやうに伊勢やといへる相應の町人有しが、一子甚放蕩者にて親族の異見を不用もちひず、やがて親元を欠落かけおちして、長崎奉行の供をして崎陽へ至り、彼地にて持病のやみがたく、同所の藝者といふべき女子に深くなじみ、如何せし、主人交代にも暇を取、彼地にのこり、借屋をかり少しの家業なして彼藝者を妻となしけるが、一兩年も立ぬれば頻りに江戸表へ歸り度、いにしへの不屆ふとどきをも後悔なし、兎角に歸り度思へど妻をつれては長崎をも出がたく、如何なすべきやと思ひしが、思ひせまりてかの妻を置去おきざりにして夜に紛れ長崎を立出で、所詮女の身にて遠國波濤參りがたきと江戸表へ下りける。妻は跡にて我も跡追缺おひかけゆかんと、乍去さりながら道中非人にならでは所詮ゆかれじと、少し氣違きちがひの樣子になし、いろいろ道中難儀してとふとふ江戸へ來りし。彼本町いせ屋といへるを兼て聞し故たづねかどたちければ、いせ屋の若き者、見苦敷みぐるしき非人物もらひの所爲しよゐなるやと咎めしかば、若旦那に御目に懸り度たきよし申しける故、いよいよ手代ども憤り、其方如き非人に若旦那の知る人有べきやと叱りければ、おん目に掛りさへすればわかる事也とて何分不立去たちさらず。夫よりたゝけ抔罵り物騷ぎ成りし故、彼息子兼て親類の侘にて親元へ立歸り、古しへにかはりをとなしく成り、彼非人を見れば長崎にてめとりし妻たる故に大きに驚き、今は隱すべき樣なければ、兩親へしかじかの譯語りければ、かく深切の情ある女ならばまづひそかに勝手の方へ呼入よびいれよとて、勝手の方へ𢌞したづねければ、長崎を立出たちいで千辛萬苦せんしんばんくを凌ぎ慕ひ來りしと言ゆへ、まづ湯をつかひ髮とりあげさせければ、これも息子の迷ふもことわり、絶世の美人といふべき。父母も彼ㇾが樣子、かつ心底の切なるを感じ大きに悦びけるが、ここに一ツの六ケ敷むつかしき一段有しが、次のケ條にしるす

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。連続した話を前後篇二話分で九十八、九話というのは、最後の最後、ちょっと汚いよ、鎮さん!
・「本町」岩波の長谷川氏注に、『中央区日本橋本町』とする。ウィキの「日本橋本町」によれば、この地域は徳川家康の江戸入府以前には福田村ともまた洲崎とも呼ばれていたが、天正一八(一五九〇)年に町地として開発されて以降、寛永の頃には既に京・大坂より大店が進出、商業地域として大いに発展を遂げた。本町という町名は江戸の中で最初に造られた大元おおもとの町という意味。江戸時代には『薬種問屋や呉服屋をはじめとして色々な種類の商店が多く集まった。戯作者の式亭三馬は当時の本町二丁目に住んでいて本町庵と号し、戯作を書くかたわら商売を営んでいた』。幕末から明治初期にかけて活躍した歌舞伎作家三代目瀬川如皐じょこうも本町四丁目の呉服屋出身である、とある。
・「主人交代」本話柄の年代は特定出来ないが、「卷之七」の執筆推定下限の文化三(一八〇六)年以前のそれほど遠くない時と考えるなら、長崎奉行は定員二名で、その内、一年交代で江戸と長崎に詰め、毎年八月から九月頃に交替した。

■やぶちゃん現代語訳

 第一部 女の一心が群を抜いて祈願を成就させた事

 何時の頃のことで御座ったか、日本橋本町ほんちょうに伊勢屋と申す相応の町人が御座った。ところがその一子、これ、はなはだ放蕩息子にて、親族がしきりに異見するをも顧みず、勝手気儘のやりたい放題、遂には親元を出奔致いて、長崎奉行の供なんどになって崎陽へと至り、かの地にて、また放蕩の持病、これ、止み難く、同所の芸者の如き女子おなごに深く馴染んでしまい――果てはどうしたものか――附き従って御座った主人長崎奉行殿の交代となった日には、暇まを乞い請け、かの地に残って、借屋を借り、ちょっとした家業なんどをなして、かの芸者を妻と致いたと申す。
 ところが一、二年も経たぬうちに、頻りに江戸表へ帰りとうなり、かつての放蕩無頼をも後悔致いて、兎も角も帰りたい、帰りたいと思うように相い成った。
 しかし妻を連れては長崎をも出で難く、
「……さても……一体……どうしたら、ええもんか……」
と思い悩んでおったが、望郷の念、思い迫り、遂には、かの妻を独り置き去りにしたまま、夜陰に紛れて長崎を立ち出で、
「……所詮……女の身なれば……遠国の……荒木波濤を越えたる地には……とても参らるるものにては……これ……御座るまい……」
なんどと、得手勝手な納得など致いて、江戸表へと下ったと申す。
 さても妻は、夫の行方は常日頃の様子より察して御座ったによって、
「――わらわも後を追うて駈けて参ります!」
と、走り出でた。が、
「……さりながら遙かなる道中、これ、非人にでもならいでは、とてものことに江戸へ辿りつくこと……かのうまい……」
と、少し風体や言動、これ、狂女のていとなして……いや、もう、道中、難儀に難儀を重ねて……とうとう江戸へと辿りついたと申す。
 かねてより、かの夫が家は日本橋本町伊勢屋という聞いて御座ったゆえ、そこを尋ねて辿りついた、そのかど――これ、大層、立派なるおたな――に立った。
 店先の掃除を致いて御座った伊勢屋の若き者が、
「こりゃあ! 見苦しの非人! 物貰いにでも来よったかっ! しっし!」
と見咎めたところ、ザンバラ髪で襤褸ぼろを纏ったこの女乞食、あろうことか、
「――こちらの若旦那さまに――お目にかかりとう存じまする!」
と申したによって、それを聴きつけた店内の手代どもまで表に出でて、以ての外に憤り、
「こら! その方のごとき賤しい穢い非人が、若旦那さまの知ろうお人であろうはずが、あるまい! 帰れ! 帰れ!」
と叱りつけた。ところが、今度は、
「――一目……一目お目にかかりさえすれば……分ることにて御座いまする!」
と懇請して、いっかな、動こうとせぬ。
「気違いもここまでくると、呆れてものが言えねえ!」
「ちょいと懲らしめてやりやしょう!」
「そうさ……ちょいと脳天に喰らわしたって、正気を戻してもらおうかの!」
と、それより、
「われ! ホンマに小突くぞッ!」
なんどと罵って寄ってたかって脅したによって、店先は騒然となって御座った。
 さて、かの息子はといえば――江戸へ戻ると、かねてより好意を持って呉れて御座った親類の者に頼み込んで、本家へ丁重な詫びを入れたによって、やはり実の一人子なればこそ親も可愛いく、結局、親元へと立ち帰って、かつてとはうって変わって従順となり、その日も、店の外回りの仕事を終えてちょうど、おたなへと戻って参ったところで御座った。
 と、店先でさんざんに小突き回されておった穢いなりのその非人を――よくよく見れば――これ、なんと!
――長崎にて娶ったかつての妻じゃ!
さればこそ大きに驚き、その風体の哀れに感ずればこそ、今となっては隠しようも御座いない、手代どもにはともかくも店端の軒下に休ませるように言いつけ、店へ飛び込むと、奥に御座った両親へしかじかの訳を、これ、正直に語って御座ったと申す。
 すると父母は、
「……かの長崎から女子おなご独りで追って参ったとは……それほどまでに切なる情を持ったる女子おなごならば……まあ、まずは人目を避けて、勝手口のかたより呼び入るるがよい。……とくとうてみようぞ。……」
と申した。
 されば勝手の方へと回し、屋敷内へと導くと、女は、地べたに三つ指をつき、
「……長崎を立ち出で……千辛萬苦せんしんばんくを凌ぎ……お慕い致いてここまで参り越しまして……御座いまする。……」
と殊勝な挨拶を致いたによって、父母は、
「……さあさ! まずは湯を遣い、髪を結い直しなど致いてから……」
と下女に命じ、湯を沸かすやら、髪結を呼び寄せるやら……
……さてもかくして落ち着いたるその女子おなごを見たる父母は、これ、言葉も出でぬ!
――これは!
――息子の迷うたもことわりじゃ!
――いや、もう! 絶世の美人ともいうべき女性にょしょう
なので御座った。
 かくして父母も、この女性にょしょうの風情はもとより、何よりも心底しんていの切なる、我が子への愛憐あいりんの情を汲み取り、これまた大きに悦んで御座ったと申す。……
 ただ、ここに一つの、難しき事態が出来しゅったい致いた――という更なる一段が御座るが――これはまた――次の箇条に記すことと致そう。(続く)



 了簡を以惡名を除幸ひ有事

 前に印、本町伊勢屋へ來りし乞喰女こつじきをんなは、息子の馴染て一旦妻にもなせし女の由をきき、殊に容儀も其外殘る所なければ、是をもつて娘せんと思ひしに、此比有德成このころいうとくなる町家よりよめを貰ひ候積りにて相談せしに、しるしもとりぬれば今更引替ひきかえ離緣も成り難し。如何はせんとなかうどをもよびて彼是相談なせしに、一向あからさまに此事を語りて舅へ了簡をたのみ、離緣なし貰わんと申けるにぞ、右の舅の方へ至りかくかくの事にて遠國より來りし心底を、無息むそくになさんも哀れの事也、いかさまにも存寄ぞんじよりにまかせべけれども、離緣一條は承知給はれとなげきければ、かの舅はあつぱれ才覺了簡あるおの子にて、委細口上のおもむき承知せり、乍去さりながら此儀は假初かりそめの事ならねば、押付直々罷越可談おつつけぢきぢきまかりこしだんずべしありける故、むこの兩親はいかなる事を來りまうすやらんと、手に汗を握り待居まちゐたりしに、彼舅無程駕ほどなくかごをつらせ來りて、さて時の挨拶すみて、委細先刻御申越おんまうしこしの趣、無據一埓よんどころなくいちらつ故承知致度候得共いたしたくさふらふえども、一旦婚姻の上は格別只今離緣とまうす儀は、無疵きずなき娘に疵付きづつけ候事ゆへ、何分承知難成なりがたく、彼是手間とるも色々の沙汰も是あれば明日婚姻可爲致いたさせべく候、此段何分承知給はるべしと、其代りには彼長崎の女は我方へ貰度もらひたし迚、無理無躰むむりたいかの長崎女を貰ひ連歸りける故、聟の方にても驚きしが、何れも舅存寄にたがひてもあしかりなんと明日輿入こしいれまちしに、無程ほどなく時刻輿入有之これあり、輿をいで、丸わたをとりに至りて見れば彼長崎の女也。娘を通しけるとて聟入舅入むこいりしうといりも致、目出度めでたく事濟けるが、いつとなく彼舅が質才を聞およびし者あるや、實娘は猶初なほはじめまさる棟高き方へ貰われ婚儀無滯とどこほりなく、娘兩人持し心、喜びの上家富榮とみさかえけると也。我元へ來りし者咄しける。

□やぶちゃん注
○前項連関:前話の後篇。形は気に喰わぬものの、この後段、なかなかええ話やなあ。――
・「了簡を以惡名を除幸ひ有事」は「れうけんをもつてあくみやうをのぞきさいはひうること」と読む。
・「印」底本には右に『(記)』と訂正注がある。
・「是を以娘せん」底本には「娘」の右に『(嫁カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『これよめにせん』とある。
・「無息」岩波版長谷川氏注に『無にすること』とある。
・「まかせべけれども」底本には右にママ注記。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『任すべけれども』。
・「駕をつらせ」岩波版長谷川氏注に『駕を従えて』とある。
・「一埓」「いちらち」とも読む。ある事柄の一部始終。ある事柄に関する一通りの事情のこと。一件。
・「聟入」婚礼後に夫が妻の実家に初めて行く儀式。
・「舅入」婚礼後に舅が婿の家を初めて訪れる儀式。
・「質才」これでも通らぬではないが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『賢才』で、こっちの方が分かりがよいので訳は「賢才」とした。

■やぶちゃん現代語訳

 第二部 格別の思慮分別を以って悪名を除き幸いを齎した事

 前段に記した、日本橋本町ほんちょう伊勢屋の息子の元へ、はるばる長崎より来たった乞食こじきに身をやつした女性にょしょうは、息子の馴染みにして、一度は妻にも致いた女で御座った由を聞き、伊勢屋は、殊にその容姿振舞い。言うに及ばず、心映えその他、これっぽっちも不足のない女子おんなごなれば、これを以って嫁と致さん思うたが――ところが――ちょうどこの少し前、実はさる有徳ゆうとくなる町家より、息子の嫁を貰ひ受けるつもりで、すっかり話が進んで御座って、もう既に結納の儀も取り交わして御座った。
「……今更、嫁を取り換えるによって破談と申すは……これ、どう考えても理の通らぬことじゃ。……如何致いたらよかろうのぅ……」
と、伊勢屋は媒酌人なかうどをも呼び招き、あれこれ相談致いたが、結局は、
「……かくなった上は、正直に一切合財、あからさまに、この度のことを先方へお語りになられ、あちらの舅どのへ格別のご配慮をお頼み申し、理を曲げて、この度の縁はなかったことにして戴く外、御座るまい。……」
と決したによって、伊勢屋はかの舅の方へと参り、
「……まっこと、許されることとも思いませぬが……かくかくしかじかのことにて……かの遠国長崎より狂女のていに身をやつして、はるばる愚息をしとうて参りましたその心底……これ、無にするは、如何とも……あはれなことと存じまする。……無論、そちらさまのお怒りお嘆きも御座いますればこそ、如何様いかようなるご処置もご条件も、これお考えのままに任せ、なんなりと致さんずる所存。……なれども……どうか――離縁破談の一条だけは――どうか一つ、ご承諾下さりませ。……」
と涙ながらに訴えて御座った。
 するとかの舅は、あっ晴れ、才覚了簡のある男子おのこであったものか、
「……相い分かり申した。……只今、承ったる委細口上の趣き、確かに承知致いた。……さりながらこの度の婚姻の儀は仮初かりそめのことにては御座らねばこそ、我らに考えが御座る。……おっつけ、我ら直々にそちらへ罷り越し、ご相談申さんと存ずる。……」
との返答で御座ったによって、伊勢屋はその時は喜んで、そのまま帰った。
 ところが、帰ったはみたものの、妻にそれを話すそばから、
「……しかし……一体……如何なることを……参られて望まれんとするもの……か……」
と思うと、何やらん、慄っとし始め、手に汗を握って夫婦して待って御座ったところが、かの舅、ほどなく空駕籠からかごを従えて伊勢屋にやって参り、一通りの挨拶が済んだところで、
「……委細、先刻お申し越しの趣き、よんどころなき一部始終、大方の事情は、これ、お聴き申した。……ここはその女性にょしょうの確かな情愛に免じ、承知致したくは思う……思うが……一旦、婚姻への手筈を踏んだ上は、これ、格別に今日只今、ここであっさり離縁破談と申す儀は――これ、無垢純白の娘に汚点を附け――疵ものに致すに他ならぬ――さればこそ何分にもやはり承知し難きことじゃ。――かれこれ手間取るのも、色々と面倒、また何かとうるさい世間のめえもこれ、御座る。――されば、ここは一つ――明日、我ら娘と婚姻の儀をこれ、致させんと存ずる。……この段、何分、ご承知給はりたく存ずる。……それから、我らが娘を嫁に出だす代わりに……その長崎の女子おなご――これは我らが方へ貰い受けとう存ずる。……よろしいな?……伊勢屋さん、先程は確かに『如何様いかようなるご処置もご条件も、これお考えのままに任せ、なんなりと致さんずる所存』と申されたは―嘘では御座るまい、な?……」
と申したかと思うと、口籠って石のようになった伊勢屋を尻目に、無理無体に、かの長崎の女子おなごを貰い受けると、さっさと連れ帰ってしもうた。
「承知と申されたが、かくも引き換えるとは……」
と呆然自失の伊勢屋。されど確かに、無理無体の懇請を致いたは、こちらも同じ……。
 息子も思わぬ成り行きに驚いたが、一体全体、先方が何を考え、何をせんと致いて御座るものかさっぱり見当がつかぬ。
 つかざれども、父も息子も孰れも、離縁を許諾してくれた先方の思いを違えてはまずかろうと、ともかくも、どうかることか分からぬながら、まずは明日の輿し入れを待とう、ということに相い成った。
 翌日、日の高いうちに早々と輿し入れの儀が行われた。
 新婦が輿を出ずる。
 新婦の綿帽子が取らるる。
 その手を伊勢屋主人あるじがとる。
――と
――見れば
――それはかの長崎の女子おなごで御座った。…………
「――さても我らが娘をそちらさまの嫁御としてお通し申しまする――」
と先方の主人が声高く呼ばわり、その後もそのままことものぅ、聟入りや舅入りの儀も何事もなく行われ、めでたく婚儀はすんで御座ったと申す。…………
   *
 いつとなしに、この相手方の舅の粋な賢才を聞き及んだ者があったので御座ろう、かの者の実の娘は――ほどなく――なお伊勢屋に優る棟高き豪家へと貰われて参り――この度も婚儀滞りなく執り行われたとのこと。舅の彼は、
「――いや、娘を二人持てた! この今の気持ちは格別じゃて!」
と殊の外に喜んだと申す。
 この舅の商家は今も、富み栄えておるとのことで、御座る。
   *
 私の元へ来たる、とある者の話で御座った。



 彦坂家椽下怪物の事

 文化三年小普請支配なりし彦堺九兵衞駿府御城番被仰付おほせつけられかの地へ引越ひつこすとて家内取込居とりこみをりたりし折節、或日椽下えんのしたより奇怪の者出ける由、頭はいたちごとく、足手はなく惣身そうみは蛇の如く、おおいさ弐尺𢌞り程にてしゆろの如き毛惣身に生ひて長さ三丈ばかりもあるべし。椽下より出て庭の内を□りて暫くすぎ、又椽の下へいりしと也。何とまうし者にや知る者さらになしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。UMA譚。何らかの蛇と推定するにはサイズ、デカ過ぎ。縁の下にまた入ちゃったって、そのまま? 後に入る人はおとろしけない!(富山弁で「恐ろしい」の意) これって、そうした後の入居者をビビらせるための、悪戯っぽい都市伝説の臭いがする。底本「耳嚢 巻之七」掉尾第百話。
・「文化三年」「卷之七」の執筆推定下限は文化三(一八〇六)年夏。
・「彦堺九兵衞」底本鈴木氏注に彦坂忠篤ただかたとする。寛政六(一七九四)年御先弓頭、文化三年六月駿府城番、とある。
・「大さ弐尺」太さ約六十一センチメートル弱。これじゃ、丸太やがね!
・「しゆろの如き毛」蛇類の脱皮後の殻が付着したままだとこんな風には見えないことはないけど……サイズがぶっとんどるがね! だちかん!(富山弁「ダメ!」)
・「長さ三丈斗」長さ約九メートル。山ん中の蟒蛇ならまだしも、江戸でしょうが? 現生蛇類でもこんな長いのおりやせんぜ!
・「□りて」底本では右に『(蟠カ)』と注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『輪になりて』。

■やぶちゃん現代語訳

 彦坂家の縁の下の怪物の事

 文化三年、小普請支配であった彦堺九兵衛殿、駿府御城番を仰せつけられ、かの地へ引越すということで、数日に亙って屋敷内の片付けに取り込んで御座った、ある日のこと、縁の下より奇怪なる物が出現致いた由。
 頭はいたちのようで、足や手はなく、惣身そうみは蛇に似ており、その胴部の太さはたっぷり二尺ほどもあって、棕櫚しゅろの如き毛が惣身に生えており、全長は有に三丈ばかりもあろうかという奇体なシロモノで御座った。
 縁の下より出でて、庭の内をぐるぐるととぐろを巻いて暫く這いまわったかと思うたら、また縁の下へずるずるっと入り込んだ、とのことで御座る。
 何と申す生き物であるか、知る者は全くいなかった、とのことで御座る。