やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ

鬼火へ

耳嚢 卷之三  根岸鎭衞

 

注記及び現代語訳 copyright 2010 Yabtyan

 

[やぶちゃん注:底本は三一書房1970年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。

 以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。

 底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃に始まり、没する前年、文化111814)年迄の実に30年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクがあるものは私の翻刻訳注の完成版)、

卷之一」の下限は天明2(1782)年春まで

「卷之二」の下限は天明6(1786)年まで

「卷之三」は前2巻の補完(日付を附した記事がない)

(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)

「卷之四」の下限は寛政8(1796)年夏まで(寛政7年の記事の方が多い)

「卷之五」の下限は寛政9(1797)年夏まで(寛政9年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)

「卷之六」の下限は文化元(1804)年7月まで(但し、「卷之三」のように前2巻の補完的性格が強い)

「卷之七」の下限は文化3(1806)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)

「卷之八」の下限は文化5(1808)年夏まで

「卷之九」の下限は文化6(1809)年夏まで

(ここで900話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、4~5年の空白期を置いて最終巻「卷之十」が書かれたものと推定されている)

「卷之十」の下限は死の前年文化111814)年6月まで

といった凡その区分を推定されておられる。【卷之三終了 2010年11月23日】]

 

 

目  次

 

  卷之三

 

聊の事より奇怪を談じ初る事

人の詞によりて佛像流行出す事

神尾若狹守經濟手法の事

水野和泉守經濟奇談の事

丹波國高卒都婆村の事

貒といへる妖獸の事

窮借手段の事

不計の幸にて身を立し事

奇物を得て富し事

下賤の者は心ありて可召仕事

鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事

名によつて威嚴ありし事

高利を借すもの殘忍なる事

その國風謂れある事

目あかしといへる者の事

老僕盜賊を殺す事

強盜德にかたざる事

狂歌流行の事

無賴の者も自然と其首領に伏する事

人の貧富人作に及ざる事

佐州團三郎狸の事

天作其理を極し事

靈氣殘れるといふ事

精心にて家業盛なる事

前表なしとも難極事

神明淳直を基とし給ふ事

三峯山にて犬をかりる事

明德の祈禱其依る所ある事調事[やぶちゃん注:「調事」はママ。]

一旦盜賊の仲間に入りし者の咄の事

博徒の妻其氣性の事

深切の祈誓其しるしある事

上野清水の觀音額の事

御門主明德の事

生れ得て惡業なす者の事

玉石の事

樹木物によつて光耀ある事

利を量りて損をなせし事

守財の人手段別趣の事

本庄宿鳥居谷三右衞門が事

道灌歌の事

擬物志を失ひし事

音物に心得あるべき事

米良山奧人民の事

矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事

秋葉の魔火の事

其業其法にあらざれば事不調事

海上にいくじといふものゝ事

鴻巣をおろし危く害に逢し事

鳥類共物合ひを考る事

行脚の者異人の許に泊し事

熊野浦鯨突の事

任俠人心取別段の事

信心に寄りて危難を免し由の事

狐附奇異をかたりし事

大人の食味不尋常の事

其分限に應じ其言葉も尤なる事

阿倍川餠の事

安藤家踊りの事

天威自然の事

大坂殿守廻祿番頭格言の事

惡業その手段も一工夫ある事

金銀二論の事

風土氣性等一概に難極事

人の禁ずる事なすべからざる事

言語可愼事

戲れ事にも了簡あるべき事

時節ありて物事的中なす事

稽古堪能人心を感動せし事

老耄奇談の事

橘氏狂歌の事

賴母敷き家來の事

盲人吉兆を感通する事

夢兆なしとも難申事

未熟の射藝に狐の落し事

楓茸喰ふべからざる事

孝童自然に禍を免れし事

雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事

精心にて出世をなせし事

年ふけても其業成就せずといふ事なき事

蛇を祭りし長持の事

明君儉素忘れ給はざる事

其職の上手心取格別成事

吉瑞の事に付示談の事

長崎諏訪明神の事

一向宗信者の事

門蹟衣鉢の事

太平の代に處して勤を苦む誤りの事

梶左兵衞が事

御中陰中人を殺害なせし者の事

武士道平日の事にも御吟味の事

狐獵師を歎し事

僞も實と思ひ實も僞と思わるゝ事

先格を守り給ふ御愼の事

酒宴の興も程有べき事

酒に命を捨し事

飢渇に望みて一飯を乞ひし事

先祖傳來の封筐の事

鈴森八幡烏石の事

町家の者其利を求る工夫の事

古へは武邊別段の事

吉兆前證の事

 

 

耳嚢 卷之三

 

 

 聊の事より奇怪を談じ初る事

 

 安永の初、本郷三念寺門前町に輕き御家人の宅の持佛堂の彌陀、自然と讀經なし給ふとて、信心の老若男女佛壇を拜し尊みけるが、段々其譯を糺(ただし)ぬれば、右持佛の後は糀(かうじ)屋の家境なるに、右境に蜂の巣を喰(くひ)て、子蜂ども爾々(じじ)と朝夕鳴(なり)しを聞て、與風(ふと)佛像の誦經(ずきやう)し給ふと言(いひ)罵りにして有りし由。皆々笑ひて三十日餘の夢を覺(さま)しけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「卷之二」の最後「福を授る福を植るといふ事」が自力作善を戒める真宗坊主染みたぶっとびの稲荷神の説法であった。ここでは仏像が読経をするが、それは蜂の羽音であったという江戸の都市伝説(アーバン・レジェンド)で、トンデモ宗教絡みで連関すると言えなくはない。

・「初める」は「そめる」。
・「安永の初」安永年間は西暦
1772年から1781年。「安永三年」西暦1774年。

・「本郷三念寺」三念寺という寺は文京区本郷二丁目に現存する。真言宗豊山派の寺院で御府内八十八箇所第三十四番札所である。本尊は薬師如来。油坂を登った水道歴史館及び水道局本郷給水所公苑の北の道を隔てた反対側にある(現在はコンクリート2階建)。但し、本文でお分かりの通り、これはこの寺の門前町での話で、直接関係はない。――更に全く関係ないが――遂に漱石の「心」の同日公開を終えたばかり私には――「こゝろ」フリークの私には――ここは驚愕の場所なのだ! ここはあの先生の下宿のすぐ近く、私が0座標と呼ぶ富坂下柳町交差点、その第4象限の、先生がKを出し抜いて御嬢さんを呉れろと奥さんにプロポーズした後の、あの――「いびつな圓」の――ど真中にあるのである!

・「持仏堂」「輕き御家人」とあるからには、これは住居内にあるただの仏間・仏壇の謂いである。

・「糀屋」糀(こうじ:米・麦・豆・糠などを蒸し、これに麹(こうじ)菌を繁殖させたもので酒・醤油・味噌などを製するのに用いる。)を製造する商人の店。それを卸売りしたり、またそれで自家で甘酒屋や味噌等を製造した商店もあった。

・「蜂」私はこれは膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属ニホンミツバチ Apis cerana japonica であろうと踏んでいる。因みに訳で用いた「…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………」という音は、勿論、私の好きな夢野久作の怪作「ドグラ・マグラ」冒頭から採った。自分が何者かも分からぬ主人公「私」は、直後にこの音を「蜜蜂の唸るやうな」と表現している。……今の私の左耳はずっとこの音がしている……。……そうか! 私の左耳には……阿弥陀さまが入洞なさって……御念仏を称えておられるので御座ったか?!

・「與風(ふと)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 ちょいとしたことから奇々怪々の噂話が始まるという事

 

 安永の初め、本郷三念寺の門前町の軽き身分の御家人の家でのこと、何と――その家(や)の仏壇の阿弥陀仏が、自ずと念仏をお唱えになる――という専らの噂で、近隣の信心深い老若男女、これまた群れを成して、かの家の仏壇を拝みに押し寄せてきたのであった。

 ところが、ある者が、これをよく調べてみたところが、この持仏の置かれた背後の壁の、丁度、裏側が隣り合った糀(こうじ)商いのお店(たな)との境になっていたのだが、その狭い隙間に、糀の甘みを嗅ぎつけてきたものか、蜂が群れて大きな巣を巣食うておったのであった。その巣の子蜂どもが、これまた朝な夕な、

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………

…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………

と絶えず羽音を立てて御座ったを聞いて、

――すわ! 仏像が読経なさって御座る!――

と早合点、愚かにも言い騒いでおったのじゃった、との由。

 皆々して大笑い致いての、三十日許りの儚き夢をば、蜂の羽音にぱっと醒ました、ということで御座った。

 

 

 人の詞によりて佛像流行出す事

 

 寶暦の此(ころ)也し、是も本郷にての事成よし。加賀の大部屋中間とやらん、本郷六丁目の古鐵(ふるがね)店にて釋迦の古鐵佛を調ひ歸りて、部屋の内に餝(かざ)り水など手向(たむけ)て置しを傍輩の者見て、是は忌はしき佛なぶり成とて笑ひ叱りなどせしに、部屋頭なる著聞(ききつけ)て、是迄無之事也、早々辞し仕廻べしと言し故、彼中間詮方なく、捨んもいかゞと元の古鐵店へ持來りて、此佛を歸し候と申ければ、一旦商ひて其日か翌日にて候はゞ請取もしなん、日數過(すぎ)て返し候ては自餘(じよ)の例にも成候間難成由答ければ、彼中間聞て、あたへを戻し候樣にと申ならば其斷も尤也、價ひにも不及歸し候間、請取可申といひし故、何ゆへに左の給ふと尋ければ、彼中間時の拍子にやよりけん、此佛を調へ歸りて禮拜尊敬するに、兎角元の所へ返し候樣夢幻となくの給ふのうるさゝに歸す也と語りければ、左あらば置(おき)ぬべしとて請取しが、扨は作佛にてもあるべし、(俗家に置きて恐れあり)とて近所の菩提所へ納て始終を語りけるにぞ、寺僧も奇異の思ひをなし、一犬吠ゆればの譬(たとへ)に違ふ事なく、近隣是のみの沙汰と成て、暫しは右佛像への參詣群集をなしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:出鱈目に乗せられる凡夫の哀しい信心と、同じ本郷(本郷の人はこの手の話に乗りやすかった?)連関。私はこの話、読み終えた後――この話が実は前半のような経緯ででっち上げに過ぎないということがバレて、この都市伝説が出来るわけだから、そのバレるのは如何なるシーンであったか――が気になるのである。言わば、それがこの都市伝説の「事実」であり、この話柄全体を更に真実らしく強化するものだからでもある。例えば、最後に登場する寺僧が、でっち上げに更に尾鰭鯱鉾がついたみたような金仏への縁起話をさも有り難そうに語っているのを、例の中間の朋輩が参衆に混じって聴いているが、その金仏をよく見ると例の大部屋にあった奴と気付き、大笑いしながら大衆の面前で金仏を指差して事実を暴露するといったシーンを……いや……と、その朋輩中間を、黙った周囲の皆んながよってたかって嚢叩きにし、神田川に簀巻きにして投げ入れる、という落ちであっても、構わないのであるが……。

・「寶暦の此」宝暦年間は西暦1751年から1764年。

・「加賀の大部屋中間」加賀金沢藩前田家上屋敷は現在の本郷七丁目の東京大学本郷キャンパスの殆んどの部分を占めていた(北の現在の農学部のある場所は水戸藩中屋敷)。「大部屋中間」の「大部屋」は大名屋敷で格の低い中間や小者(こもの)、火消し人足などが集団で寝起きした部屋を言う。足軽と小者の間に位置する中間は多くの場合、渡り中間(屋敷を渡り歩く専門の奉公人)が多く、脇差一本が許され、大名行列の奴のイメージが知られるのだが、年季契約で、百姓の次男坊以下が口入れ屋を通じて臨時雇いされたりし、事実上の下男と変わらない連中も多くいた。ここはそうした最下級の中間である。

・「本郷六丁目」現在の6丁目は加賀金沢藩前田家上屋敷の前の本郷通りを隔てた北西の地域を言うが、江戸切絵図を見るとここ一帯は御先手組及び阿部伊予守屋敷となっている。沿道に小さな出店でもあったものか。

・「古鐵店」金属製の古物や使い古し・破損器物を買い入れる商人。金物の古物商。

・「佛なぶり」この「なぶり」は「嬲(なぶ)る」で、弄ぶ、いじめるの意。恐らく『仏像なんぞ辛気臭せえ!』という意味合いで軽く言っているものと思われるが、自己卑下のように、凡夫にして救い難い下賤の我等大部屋中間の部屋(ここは所謂、博奕の賭場として、何処かの今の世界と同じく違法な賭博の温床ともなっていた)に『御釈迦様ったあ、罰当たりも甚だしい! 勝機が逃げる!』というニュアンスも含んでいよう。

・「自餘」その他。この外。

・「時の拍子にやよりけん」ちょっとした言葉の弾みで、ぐらいの意味であるが、それでは面白くないので、現代語訳では標題にも合わせて「叱責された不快もあったか、口から出任せ」と意訳してみた。

・「一犬吠ゆれば」「一犬虚に吠ゆれば萬犬(ばんけん)實を傳ふ」。 たった一人のいい加減な発言であっても、時に世間の多くの人がそれを本当のことと安易に信じて広めてしまうことがある、という譬え。「一犬形に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」とも。後漢の王符の政治批判論「潜夫論」にある「賢難」の「諺曰、一犬吠形、百犬吠聲。世之疾、此固久矣哉。」(諺に曰く、一犬形に吠ゆれば、百犬聲に吠ゆ、と。世の疾(しつ)、此れ固より久しきかな。)による。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人の口から出任せでさる仏像の大流行りする事

 

 宝暦の頃の話で、これも先話を同じ本郷にてのことであった由。

 加賀藩の大部屋中間が、本郷六丁目の古鉄(ふるがね)を扱う古物商から、鉄製の古びた釈迦如来の仏像を買って帰って大部屋の隅に飾り、閼伽(あか)を手向けるなんどして置いておいたところが、朋輩の一人がこれを見つけ、

「我等下賤の大部屋に仏を飾るたあ、笑止千万!」

と苦笑いしながら、

「辛気臭え!」

と怒鳴りつけた。それを聞きつけた部屋頭も、これを見つけて、

「こともあろうに我等が下衆(げす)の大部屋に仏像を置いた例(ためし)は、これ、御座らぬ! 早々に片付け、何処ぞへ処分致すべし!」

と叱責された。かと言うて捨てる訳にも参らぬによって、この中間、詮方なく、買(こ)うた古物商の元へ持ち参り、

「……この仏像、お返し致す。」

と申した。ところが店主(あるじ)曰く、

「一旦商(あきの)うて、気に入らぬと、その日か、その翌日にてもあれば、引き請けもしようが、かく日数(ひかず)も過ぎてお返しになられ、それを請けて返金致いたとなれば、他(ほか)の商売の悪しき例(ためし)ともなります故、なりませぬ!」

と答えたので、中間は、

「……いや……価(あたい)を戻して呉れとは申すならば、尤もなること……。そうではない。金を返すには及ばぬ故、引き請けて呉れと申すのじゃ……。」

と答えたから、店主も不審に思い、

「……さて?……何ゆえに、そのように仰る?」

と訊ねるので、この中間、叱責された不快もあったか、口から出任せ、

「……何、実はの……この仏を買(こ)う帰って、日々礼拝尊崇致いて御座ったのだが……とかく『……元の所へ戻されよ!……』と……この仏が、あ、夢となく、現の幻しとなく……お立ちになられ……うるそうて堪らぬ。……さればこそ、只で、返すのじゃて……」

と語ったところ、店主も、

「……ほう?! されば置いておかれるがよい。」

と請け取った。

 ――――――

 さても中間が帰って後(のち)、店主は、かの金仏(かなぼとけ)を厳かに礼拝致いて、

「……さては……謂われある作仏(さくぶつ)で御座った、か! さればこそ……俗家(ぞっか)に置いておくは、これ、畏れ多いことじゃて……」

と、その古仏を近所にあった店主の家の菩提寺に納めに参り、中間が口から出任せの一部始終を洩らさず寺僧に語る。

 これを聴いた寺僧も全く以って奇異なることと存じ――いや、ほれ、「一犬虚に吠ゆれば万犬(ばんけん)実を伝う」の譬えに違(たご)うことなく――近隣にては、最早、この話で持ち切りとなって、もちきりとなり、暫しの間は、この仏像(ほとけ)への参詣の者、雲霞の如く群れを成した、ということで御座った。

 

 

 神尾若狹守經濟手法の事

 

 若狹守いまだ五郎三郎たりし時、御納戸頭を勤けるが、其頃は御納戸向も御取入り等唯今の樣には無之御納戸にありし御有高(ありだか)等もつゞまやかならず、金銀其外毛類端物(たんもの)の類も、御番衆(ごばんしゆう)は勿論御用達(ごようたし)町人抔の宅々へ下げ置、御有高等も猥(みだり)成趣聞及びければ、五郎三郎御納戸頭被仰付御引渡し相濟て、支配の面々へ一統申談(まうしだんじ)けるは、御納戸御有物(ありもの)の諸帳面へ御有高引合改置可申(ひきあはせあらためまうすべき)間、來(きた)る幾日に其通心得可取計(とりはからふべき)旨申渡ぬ。かゝりしかば御番衆其外諸御用達も大きに騷ぎて、俄に取調べ紛失の品は夫々に償ひ、幾日といへる日限に至りければ、逸々(いち/\)帳面に引合改可被申(あらためまうさるべし)、自身改候にも及ばずとて、御有物の分へは封印をなして、其以來引續改けるゆへみだりなる事もなかりしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ちょいとした一言が引き起こす大きな変化で連関。但し、こちらはぐうたら官僚への「喝!」を入れる確信犯である。

・「神尾若狹守」神尾春央(かんおはるひで 貞享4(1687)年~宝暦3(1753)年)のこと。ウィキの「神尾春央」から引用する。『勘定奉行。苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』。『下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子となる。元禄14年(1701年)仕官。賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み、元文元年(1736年)勘定吟味役に就任。さらに翌年には勘定奉行となる』。『時に8代将軍徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に延享元年(1744年)には自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約260年を通じて収税石高が最高となった』。『しかし、翌年松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなり、担当していた金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行などの諸任務が、春央の専管から勝手方の共同管理となったため、影響力は大きく低下した』。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして、また江戸時代の百姓の生活苦の形容として人口に膾炙している(ただし、逆に貧農史観のイメージを定着させてしまったともいえる)』とある(本文中の「松平乗邑」の名は「のりさと」と読む)。御納戸頭となったのが享保181733)年、47歳の時。

・「御納戸頭」将軍の手許の金銀や衣類調度の出納、献上品及び下賜品全般を扱う納戸方の長。定員2名。

・「御番衆」これは特定役職を限定して指す固有名詞ではなく、御小性(小姓)衆や御小納戸衆を始めとした将軍側近として近侍する諸役のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 神尾若狭守春央殿御納戸頭就任時経済改革のために行った奇策についての事

 

 後に勘定奉行となられた神尾若狭守春央(はるひで)殿が、未だ神尾五郎三郎殿と名乗っておられた頃のことにて御座る。

 さても目出度く御納戸頭に就任されたが、その頃は、御納戸方の種々の物品納入等も、現在のようにはしっかりとしておらず、御納戸に実際に保管してある種々物品の在庫数は、とても適切な分量と言うには程遠く――そもそも出納自体がいい加減なものであったわけで――更には、金銀その他毛皮類及び反物の類いでさえ、御番衆が当然の如くに銘々で分けて勝手に保管したり、あまつさえ、御用達(ごようたし)町人どもの私邸に下げ降ろして保管して御座るという体(てい)たらく――いや、実際には御番衆や御用達町らが私物化し、中には流用してしまったために、物が手元にない者さえ御座るという噂――いや、これ、今だから申し上げるが、事実で御座った――。

 さても、そうした高価な金品の在庫数などまでも杜撰の極みである旨聞き及ぶや、神尾五郎三郎殿、御納戸頭着任早々、前任者からの諸業務引継ぎを万事終えるや、御自身支配の納戸方関係者全員を招集の上、以下の如く、申し渡しをした。

「――御納戸内所有物品に係る諸台帳に記載されている御納戸内物品在庫数に付き、台帳と実際の在庫数について一々引き合せて改め、確認するによって、来たる○月○日にそれを実施せんとする心積りにて用意致いておくように――。」

 かかればこそ、御番衆その他(ほか)諸御用達町人に至るまでも大いにうち騒いで、一人残らず俄かに己れが分の台帳やら、不当所有に係わる物品やらを取り調べ、紛失せる品は急遽、各々慌てて買い償う――瞬く間に御納戸内は鼠一匹入り込む隙がないほど在庫でギュウ詰めになって御座った。

 さても○日と言い渡したかの日限に至った――と、神尾五郎三郎殿、

「――あ――拙者が信頼しておる――諸君がそれぞれ担当の台帳にある一つ一つの物品と引き合わせて改めてくれたのであれば、それでよい――何も拙者自身が改むるにも及ばぬことじゃ――。」

と告げるや、御納戸内在庫分へはシッかと封印をなされ、それ以降は、神尾五郎三郎殿御自身が定期的に封印確認・台帳管理をされて厳重にお改めになったため、かつてのような杜撰なことは、もう二度と起こらなくなった、とのことで御座った。

 

 

 水野和泉守經濟奇談の事

 

 享保の初、御老職たりし水野和泉守、小身より出し人にて才力も勝れ、下々の事も能く辯(わきま)へたる人也し由。寶永元禄の文筆盛にして聊(いささか)驕奢の世の中たりし故、淺草御藏(おくら)等の御圍ひ米も思はしからず、其奉行共役人も勤かたゆるく、奸吏小身の輕き者抔の取計に任せ、納米(なふまい)なども町人へ預けて御藏に無之樣成事也しに、或日和泉守御勘定奉行を伴て、近日淺草の御藏へ罷越、御藏々不殘改め可申間、其心得有べしと申渡ける故、御勘定奉行より御藏奉行へ申渡けるにぞ、御藏奉行は勿論、御藏に拘はりし者共大きに肝を潰し、俄に藏前の米屋共へ申渡、有合(ありあひ)の米を御藏々へ積置て、猶不足の分は堀江町伊勢町其外の町々米屋共より米を借り受て俄に晝夜御藏へ積入ける。右騷動の樣子人を附て聞屆、此筋靜(しづま)りしと聞て、和泉守自身御勘定奉行抔同道にて御藏々を改め、戸前(とまへ)を開かせ逸々(いちいち)見屆て、扨々世上にては跡かたなき評判をいたすもの哉、御藏には御用米少く候由聞及びしに、今日見屆候へば其沙汰に事變りたる事にて恐悦是に過ず。然らば後來の爲なれば御用米の分は由自分封申べきとて懷中より印形(いんぎやう)せし封印紙を渡しける故、無處(よんどころなく)封印をなしけるが、米を貸しける米屋共よりは其返濟を願ひ、有體(ありてい)に沙汰なしては其役々の者身の上にかゝりぬれば、彼是取賄ひて事なく濟けるが、和泉守一時の計策にて御藏の御用米は調ひけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:ぐうたら官僚への「喝!」を入れる確信犯で連関、というより全く以ってほぼ相同の類話である。

・「水野和泉守」卷之一「水野家士岩崎彦右衞門が事」で既出。水野忠之(ただゆき寛文9(1669)年~享保161731)年)江戸幕府老中。三河国岡崎藩第4代藩主であった譜代大名。元禄101697)年に御使番に列し、元禄111698)年4月に日光目付、同年9月には日光普請奉行、元禄121699)年、実兄岡崎藩主水野忠盈(ただみつ)養子となって家督を相続した(忠之は四男)。同年10月、従五位下、大監物に叙任している。以下、主に元禄赤穂事件絡みの部分は、参照したウィキの「水野忠之」からそのまま引用する。『元禄141701)年3月14日に赤穂藩主浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。』『また翌年1215日、赤穂義士47士が吉良の首をあげて幕府に出頭した後には、そのうち間十次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・間瀬孫九郎・茅野和助・横川勘平・三村次郎左衛門・神崎与五郎9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。』『大石良雄をあずかった細川綱利(熊本藩主54万石)に倣って水野も義士達をよくもてなした。しかし細川は義士達が細川邸に入った後、すぐさま自ら出てきて大石達と会見したのに対して、水野は幕府をはばかってか、21日になってようやく義士達と会見している。決して水野家の義士達へのもてなしが細川家に劣ったわけではないが、水野は細川と比べるとやや熱狂ぶりが少なく、比較的冷静な人物だったのかもしれない。もちろん会見では水野も義士達に賞賛の言葉を送っている。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って』9人の義士を切腹させている。その後は、奏者番・若年寄・京都所司代を歴任、京都所司代就任とともに従四位下侍従和泉守に昇進、享保2(1717)年『に財政をあずかる勝手掛老中となり、将軍徳川吉宗の享保の改革を支え』、享保151730)年に老中を辞している。

・「老職」老中。将軍直属で幕政を統轄し、大目付・町奉行・遠国奉行・駿府城代などの指揮監督、朝廷・公家・大名・寺社に関する事柄全般を直轄した。常時4~5名が月番で交替で勤務し、通常、3万石以上の譜代大名から補任されていた。

・「小身より出し人にて」ウィキの「水野忠之」によれば、彼は『三河国岡崎藩主水野忠春(5万石)の四男として水野家江戸屋敷で』生まれたが、延宝2(1674)年5歳の時に『親族の旗本水野忠近(2300石)の養子となって家督を継いだ』とあり、この事実に基づく誤解と思われる(卷之一「水野家士岩崎彦右衞門が事」でも同じミスを根岸は冒している。たかだか50年後の都市伝説の中でありながら、出自がこれほど誤伝されるという事実が興味深い)。前注に示した通り、その後、30歳で実兄岡崎藩主水野忠盈養子となり、元の家督に戻って相続している。

・「享保の初」前の注で示した通り、水野忠之の老中在任は享保2(1717)年から享保151730)年であり、奇略の内容から考えて、就任直後のことと思われる。

・「淺草御藏」浅草にあった幕府最大の米蔵。大坂及び京都二条の米蔵と合わせて三御蔵と言った。元和6(1620)年に隅田川西岸の湾入部分を埋め立てて創設され、最大時は米蔵67棟、年間30万から40万石の米穀を出納した。

・「御勘定奉行」勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。

・「御藏奉行」蔵奉行。ィキの「蔵奉行」によれば、『江戸浅草(浅草御蔵)をはじめとする主要都市にあった幕府の御米蔵の管理を司った奉行。勘定奉行の支配下にあり、役料200俵、焼火の間席。属僚として組頭、手代、門番同心、小揚者などがあった』。『蔵奉行という言葉の初出は慶長15年(1610年)とされ、江戸の浅草御蔵の成立は元和6年(1620年)成立と言われている。ただし、蔵奉行の組織の成立は経済的先進地であった上方の方が先んじており、大坂では元和7年(1621年)、京都では寛永2年(1625年、ただし寛政2年(1790年)までは京都町奉行支配下)、江戸では寛永13年(1636年)の事であった。また一時期は駿河国清水・近江国大津・摂津国高槻にも設置されたが、幕末まで存続したのは江戸・京都・大坂の3ヶ所のみである』。『何百石取りというように知行地のある地方知行の旗本とは別に、三十俵二人扶持というように御蔵米から3季に分けて切米を俸禄として貰う御家人(一部の旗本も含む)たちを蔵米知行・蔵米取りというが、彼らに渡す米穀を取り扱った。蔵米取りの御家人は自家消費分以外の切米(米穀)を、御米蔵の前に店を構える札差を通じて現金化した。浅草・蔵前の地名はこれが由来である』。また、底本の鈴木棠三氏の注によれば、『定員ははじめ三名であったが、後に増員された。部下に組頭、手代、同心、小揚之者頭、小揚之者などがいる。』とある。「小揚之者」は荷を実際に運搬する者の呼称。

・「御圍ひ米」幕府の兵糧米・災害対策用備蓄米のこと。上記の通り、そこから俸禄米も供出した。囲籾(かこいもみ)・囲穀(いこく)・置き米などとも呼んだ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 水野和泉守忠之殿老中職在任時経済改革のために行った奇略についての事

 

 享保の初めのことである。

 当時、御老職を勤めた水野和泉守忠之殿は小身から出て出世なされた方で、才力も優れ、下々の民草のことまでも、よく弁えておられた方であった。

 この頃は未だ前代元禄・宝永の頃の瀰漫した文化の、悪しき余禄が盛んであって、聊か驕奢なる風潮が残る世の中であったため、実は天下の浅草御蔵などの御囲い米の備蓄管理でさえも、全く以って心許ない状態で御座った。御蔵奉行やその支配の役人らもお勤めに熱心でなく、御蔵の現状は、不届きなる下級の汚職官吏や、そうした奸吏と手を組んだ一部の身分の賤しい悪しき町人らの取り計らいに任せっ切りとなっており、何と定期に御蔵に納めねばならないはずの納米(のうまい)が一介の町人に預けられたままになって――それをまた町人が不当に転用して――御蔵にはない、というとんでもないことになっていたので御座った。

 ある日のこと、突然、老中和泉守忠之殿は勘定奉行を呼び出し、

「――近日――そなたと同道の上――浅草の御蔵へ参り、残らず御蔵、御改め致すによって、そのように心得よ――。」

と申し渡した。

 勘定奉行がそれを御蔵奉行へ申し渡したから、さあ、大変!

 御蔵奉行は勿論のこと、御蔵に関わる者ありとある者どもが、悉く肝を潰した。

 俄に蔵前に居並ぶ米屋どもへ命じて、ありとある米を一粒残らず御蔵に積み置かせて、それでも猶、不足する分は――事実それでは足りなんだ訳じゃ。それほど横領やら流用やらが進んで御座った訳じゃな――堀江町・伊勢町その他の米町の米倉から借り受け、昼夜兼行で御蔵にうず高く積み入れた――。

 ――さて、既に放って御座った密偵からてんやわんやの一部始終を聞き届け、更にその騒擾が一先ず落ち着いたという知らせを受けた和泉守殿は、やおら、勘定奉行などと同道の上、御蔵を改め、一つ一つ扉を開けさせて、内部をシッかと改めて御座った。そして如何にも満足げに言うよう、

「――さてもさても、世間にては、つまらぬ輩の、不届き千万なる噂を致すものじゃ、のう! その噂によれば――御蔵には御用米が殆んどない――なんどと聞き及んで御座ったれど――今日、こうして見届けに参れば――いや! もう、矢張り、その噂の根も葉もない流言蜚語でしかなかったこと、これ必定! さればこそ拙者は誠(まつこと)、恐悦至極! 然らばこそ拙者の向後のため――あのような流言蜚語に拙者が踊らされぬようにするために、一つ、これら総ての御用米の分の蔵には、拙者自らが封印を致すに若くは、ない、のう――」

と言うや、和泉守殿、予め、用意して御座った印形(いんぎょう)鮮やかに押せし封印紙を蔵の数分、懐中よりざっと取り出だして係り役人に渡した。役人どもは致し方なく総ての蔵に封印を施した――。

 ――が――

……後日、当然のこととして、米を貸した米屋どもからは御蔵奉行に矢のような返済の催促――。

……そのままにして無視し続けていたのでは目安箱にでも訴えらるれば……

……この事実が露見するは必定さすれば……

……不逞町人不良下吏不肖役人背任奉行……

……御蔵管理に係わる者ども不行届に付き、一味同塵一蓮托生一網打尽と相成ればこそ、と……

――御蔵奉行以下諸々の者どもは身銭を切って何とか賄い、やっとの思いで事を済ませた訳じゃったが――かくして和泉守殿は、一時の奇計奇策によって、

『目出度く御蔵の御用米を調えました!』

という訳じゃて!

 

 

 丹波國高卒都婆村の事

 

 或人かたりけるは、丹波國高卒都婆(たかそとば)村といへるに大造(たいさう)の大卒都婆のあり。右は西園寺時宗菩提の爲成由。時宗は北條九代執權の其一人にて、入道の後卒都婆の愁苦を搜し理政安民の爲國々を廻られしが、右高卒都婆村の老夫婦の許に宿を乞はれしに承知して一夜を明しけるに、邊鄙の事故旅僧に饗應すべき物なしとて、粟飯など炊き菜園の瓜茄子を取りて、一つは神前に供し一つは外へ除き殘りを調味しけるに、西園寺其譯を尋給ひければ、初穗はいつも神前にさゝげて、時の天子時の執權へ獻ずる也、其上にて御身饗應すると答へければ、西園寺甚感じて、愚僧は鎌倉の者也、自然鎌倉に出給はゞ尋られよ、その時は此割判を持參して尋られば知るべしとて渡しぬ。其後彼夫婦鎌倉にて彼僧を尋て割判を出しけるが知る者なし。秋田城之介出仕の折から右割判を差出し承りけるにぞ、城之助我屋に伴ひて西園寺に申達けるにぞ、彼夫婦に西園寺對面有て、何ぞ望有やと尋給ひしに、素より老の身子供迚もなければ何か願ひ有べき、居村は高少きにて困窮の村なれば、村方の助になるべき事をと願ひし故、諸役免除の定を給ひけるゆへ、今に右高卒都婆村は無役の村方にて、高は纔に百石餘の土地也。依之右老夫婦は一社の神に崇め、時宗の慈政を報ずるため右の大塔婆を建立して今に不絶ありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:突如、鎌倉時代に逆戻り、連関は感じさせない。こじつけるなら御蔵の米から、米の拠出をせずともよい異例の無役の村で連関か。

・「丹波國高卒都婆村」諸注未詳。似たような地名も捜し得なかった。以下のように登場人物も無茶苦茶なら地名も如何にも不審異様な名である。

・「西園寺時宗」底本には右に『(ママ)』表記がある。鈴木氏ほどの鎌倉通ならずとも『ママ』表記をしたくなる。これは北条時宗(建長3(1251)年6~弘安7(1284)年:第八代執権。北条時頼嫡男。文永111274)年及び弘安(1281)年の二度の元寇をよく防衛した。円覚寺を建立して宋より無学祖元を招聘して開山とした。)であろうが、この話柄自体が能「鉢木」の類話であり、明らかに時宗の父で廻国伝承で知られる最明寺入道時頼の誤伝である(時宗の戒名はこの如何にも「最明寺」のもじりのような「西園寺」ではなく「宝光寺」であるし、そもそも時宗の廻国伝承というのは聞いたことがない)。北条時頼(嘉禄3(1227)年~弘長3(1263)年)鎌倉幕府第五代執権。第八代執権北条時宗の父。以下、ウィキの「北条時頼」より引用する。『幼い頃から聡明で、祖父泰時にもその才能を高く評価されていた。12歳の時、三浦一族と小山一族が乱闘を起こし、兄経時は三浦氏を擁護したが、時頼はどちらに荷担することもなく静観し、経時は祖父泰時から行動の軽率さ、不公平を叱責され、逆に静観した時頼は思慮深さを称賛されて、泰時から褒美を貰ったというエピソードが吾妻鏡に収録されている。しかし、吾妻鏡の成立年代を鑑み、この逸話は時頼を正当化する為に作られた挿話の可能性があることが指摘されている』。『兄経時の病により執権職を譲られて間もなく、経時は病死した。このため、前将軍藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、寛元4年(1246年)5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反北条勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである』。『翌年、宝治元年(1247年)には安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。これにより、幕府内において北条氏を脅かす御家人は完全に排除され、北条氏の独裁政治が強まる事になった。一方で六波羅探題北条重時を空位になっていた連署に迎え、後に重時の娘・葛西殿と結婚、時宗、宗政を儲けている』。『建長4年(1252年)には第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが、親王将軍の始まりである』。『しかし時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、建長元年(1249年)には評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年に短縮したりするなどの融和政策も採用している。さらに、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護している。家柄が低く、血統だけでは自らの権力を保障する正統性を欠く北条氏は、撫民・善政を強調し標榜することでしか、支配の正統性を得ることができなかったのである』。『康元元年(1256年)、時頼は病に倒れたため、執権職を一族(義兄)の北条長時に譲って出家し、最明寺入道と号した。しかし執権職から引退したとはいえ、実際の政治は時頼が取り仕切っていたという。嫡男の時宗は建長3年(1251年)に誕生していたが、この時はまだ6歳という幼児だった為に執権職を継がせる訳にもいかず、長時を代行として執権職に据えて、時宗が成人した暁には長時から時宗へ執権を継がせるつもりであったと言われている。だが、引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった』。この最明寺は現在の北鎌倉明月院の近くにあったもので、墓所は現在の明月院内に現存する。『時頼は質素かつ堅実で、宗教心にも厚い人物であった。さらに執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた事は、今でも名君として高く評価されている。直接の交流こそなかったが、無学祖元、一山一寧などの禅僧も、その人徳、為政を高く評価している。このような経緯から、能の『鉢の木』に登場する人物として有名な「廻国伝説」で、時頼が諸国を旅して民情視察を行なったというエピソードが物語られているのである』。『一方で、本居宣長などは国学者の観点から忌避し、新井白石も著作の『読史余論』の中で、「後世の人々が名君と称賛するのが理解できない」と否定的な評価を下している』。『時頼は南宋の僧侶・蘭渓道隆を鎌倉に招いて、建長寺を建立し、その後兀庵普寧を第二世にし兀庵普寧より嗣法している。宝治2-3年(1248-1249年)にかけて、道元を鎌倉に招いている』。更に、ウィキの「鉢木」からも引用しておく。『能の一曲。鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしている。観阿弥・世阿弥作ともいわれるが不詳。武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれた。また「質素だが精一杯のもてなし」ということでこの名を冠した飲食店などもある』。『佐野(現在の群馬県高崎市上佐野町)に住む貧しい老武士、佐野源左衛門尉常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。常世は僧を相手に、一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらばいち早く鎌倉に駆け付け命懸けで戦う所存であると語る』。『その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けるが、あの僧は実は前執権・北条時頼だったことを知る。時頼は常世に礼を言い、言葉に偽りがなかったのを誉めて恩賞を与える』。そもそもこの最明寺入道時頼の廻国伝説そのものがでっち上げで、享年37歳で、その晩年には諸国漫遊しているような暇はなかった。私自身、鎌倉の郷土史研究の中で親しくこの時期の「吾妻鏡」を閲したことがあるが、執権を辞任後は病のためもあって、殆んど鎌倉御府内を出ていないことが、その記載からも検証出来る。それにしても根岸ともあろう御方が、これほど杜撰な話(私如きにても嘘臭いということが分かる話柄)をそのまま載せるとは、少々、残念ではある。

・「北條九代執權」時頼は五代、時宗は八代で、第九代執権は時宗の嫡男貞時である。無茶苦茶も甚だしい。この数字ぐらいは直さないと話にならないと思い、現代語訳では「時宗殿は北条氏として鎌倉幕府第八代執権を勤められたその人にして」とした。時頼と改めることも考えたが、それもまた随所に破綻を生ずるのでやめた。

・「卒都婆の愁苦を搜し」岩波版に「都鄙の愁苦を搜し」とあるのでこちらを採って現代語訳とした。

・「理政安民」政治が正しく行なわれて、民衆の暮らしが平和で豊かであること。

・「秋田城之介」時宗の代なら霜月騒動で滅ぼされる安達泰盛(寛喜3(1231)年~弘安8(1285)年)、時頼の代ならその父安達義景(承元4(1210)年~建長5(1253)年)である。義景の父であった安達景盛(?~宝治2(1248)年)が初めて官位として右衛門尉出羽守に加えて秋田城介(本来は秋田城を保守する武将という職名)従五位下を受けて以来、代々この官位名を称しているためであるが、景盛で時頼の執権在任中に既に死んでおり、設定が全く合わなくなるので除外した(ただ時頼とは三浦一族が滅ぼされた宝治合戦で密接な関係を持っている)。いずれにしても、このシーンは評定衆(鎌倉幕府の職名で評定所に出仕し、執権・連署とともに裁判・政務などを合議裁決した重役)。としての幕府出仕という場面設定か。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 丹波国高卒塔婆村の事

 

 ある人が語った話である。

 丹波国高卒塔婆村というところに大造りの大卒塔婆がある。

 これは何でも西園寺時宗殿の菩提を弔うとともにその報恩を記念するものの由。

 時宗殿は北条氏として鎌倉幕府第八代執権を勤められたその人にして、入道の後、鎌倉・京はもとより、遠国の地の民草の憂愁や困窮を窺っては、理政安民を図らんがために身分を隠して諸国を行脚なさった。

 そんな行脚の折りのこと、今、高卒塔婆村と呼ばれるこの山村を過(よ)ぎられ、日も暮れぬればとて、ある老夫婦のもとに一夜の宿を乞うた。老夫婦は快く承知致いて、一夜を明かして御座った。老爺は、

「辺鄙のことゆえ、旅のお坊さまを供応するものとて、これ、御座らぬ……」

と詫びつつも、媼に粟飯を炊かせ、家前(やぜん)の菜園に成った瓜と茄子(なすび)を取って参った。

 するとその幾つかずつ捥(も)いだ瓜と茄子の、一つを神前に供え、一つを他に取り置いて、残ったもの調理した。西園寺はその訳を尋ねた。すると老爺は、

「良き初穂は神前に捧げ、またその次に良きものを時の天子さまと時の執権さまへ献じまして、その上で――味はその次のものとなりますれど――御坊さまへ差し上げんと存ずる。」

と答えたので、西園寺殿は甚だ心打たれ、

「……愚僧は鎌倉の者なる……向後、鎌倉に来らるることあらば、必ずや、お訪ねあれ。……その折りは、一つ、この割り判を持ちて参らるるがよい……さすれば、拙僧の居場所も知られようぞ。」

と頭陀袋より取り出だいた割り判を手渡し、翌日、老夫婦のもとを発った。

 後日(ごにち)のこと、縁あってこの老夫婦、鎌倉を訪るること、これあり、かの旅僧を探して、寺々にて、かの渡された割り判を出だいて見たものの、一向に心当たる者がおらぬ。

 されば、畏れ多いこと乍らと、老爺は割判を手に幕府の寺社方を尋ねたところ、ちょうどその日に出仕して御座った秋田城之介殿の眼に止まった。城之介殿は即座にその割り判を受け取り、しかと見るや、慌ててこの夫婦を自邸に伴(ともの)うて留めおくと、とって返して割り判を持って西園寺殿に申し上げる。

 程なく、城之介殿に連れられた老夫婦に西園寺殿が対面(たいめ)致いた。

 ひたすら畏まって平身低頭して御座る老夫婦に、西園寺殿は優しく、

「何ぞ望みはあるか?」

とお尋ねになられたところ、老爺は、

「もとより老いぼれの身にして、子供とても御座らねば、何の願いが、これ、がありましょうぞ。……なれど、畏れ多くも敢えて申し上げますれば……我らが居りまする村、これは、穀物の稔りも、これ少のう御座って至って貧しい村にて御座いますれば……不遜ながら、村の衆の助けになることを、一つ……」

と願い出た故、西園寺殿は当村の賦役を免除するという定めを即座に発せられたのであった。

 ――これより今に至るまで――現在の石高は僅か百石余りの土地乍ら――この高卒塔婆村は賦役を命ぜられたことが一度としてない無役の村なので御座る――

 ……この恩により、かの老夫婦は村の衆によって村社の一柱(はしら)として崇めらるるに至り、また、時宗の慈政を代々の子孫に伝えんがため、かの――村名の由来ともなった――大きなる卒塔婆を建立致いて今に伝えて御座る、ということである。

 

 貒といへる妖獸の事

 

 暫く御使番を勤(つとめ)病氣にて退役せし松野八郎兵衞といへるは、屋敷番町にてありしが、天明六午年の春、右屋敷へ妖怪出しと專らの沙汰有しに、八郎兵衞方に勤し吉田某、其後予が許へ來り勤けるに眞僞を尋しに、彼者も松野方を退(しりぞき)し後なるが、古傍輩成し者に聞しが相違なし。或夜屋敷内を廻りし中間へ飛付くものあり。右中間棒にて打拂ひけるに、棒へ喰付などしける故、驚きて給人(きふじん)勤たる中村作兵衞といへる者の長屋へ缺入ぬ。作兵衞も早速駈出て見るに、犬よりは餘程大く、眼は日月のごとくその色鼠の如くにて、杖などにて打候ば蟇の背を敲く樣に有しが、追々人出て追散らしけるが、境成る大藪の内へ入り、闇夜にはあり行衞を失ひし由。其後は絶て出ざりしが、如何成ものなるや、マミと言る者也と或人いひしが、さることもあるやと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:連関を感じさせない。

・「貒」「まみ」と読む。猯。「魔魅」で妖獣の意。アナグマ。「狸穴」で「まみあな」と読ませることからも分かる通り、通常の哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ科タヌキNyctereutes procyonoides を指すこともあるが、当時の江戸市中や近郊でタヌキが稀であったとは思われないので、 食肉(ネコ)目イタチ科アナグマ亜科アナグマ属ニホンアナグマ Meles meles anakuma に同定しておく。日本穴熊。まずは幼獣としての記載をウィキの「(「貒」と同義。「まみ」と読む)から引用(記号の一部を変更した)し、その後に「ニホンアナグマ」について同じくウィキから引用する。『民俗学者・日野巌による「本妖怪変化語彙」によれば、マミはタヌキの一種とある』。『東京都の麻布狸穴町の「狸」を「まみ」と読むことからも、猯が狸と同一視されていたことがわかる』。『一方で江戸時代の百科事典「和漢三才図会」では、「猯」は「狸」とは別種の動物として別々に掲載されている』。『同書では中国の本草学研究書「本草綱目」からの引用として、山中の穴に住んでいる肥えた獣で、褐色の短い毛に体を覆われ、耳が聞こえず、人の姿を見ると逃げようとするが行動は鈍いとある。またその肉は野獣の中でも最も甘美で、これを人が食べると死に瀕した状態から治ることができるともある』。『江戸時代にはこの猯、狸、そしてムジナが非常に混同されていたが、これはアナグマがムジナと呼ばれていたところが、アナグマの外見がタヌキに似ており、さらに「貉(むじな)」の名が日本古来から存在したところへ、中国で山猫が「狸」の名で総称されていることが知れ渡ったことから混乱が生じたものとされる』。『またムササビ、モモンガも「猯」と呼ばれたことがある』。『西日本に伝わる化け狸・豆狸は、この猯のことだともいう』。『また江戸時代の奇談集「絵本百物語」によれば、猯が老いて妖怪化したものが同書にある妖怪・野鉄砲とされる』。『同じく江戸時代の随筆「耳嚢」3巻では、江戸の番町に猯が現れたとあり、大食は鼠色、目は太陽か月のようで、杖でたたくとガマガエルの背のような感触だったという』。これは勿論、本記載のこと。『「まみ」の発音が似ていることから、人をたぶらかす妖魔、魔物の総称を意味する「魔魅」の字があてられることもある』。以上、「貒」。以下、ウィキの「ニホンアナグマ」から引用する。『アナグマ Meles meles の日本産亜種。独立種とする説もある』。分布域は『本州、四国、九州』。『体長40-50cm。尾長6-12cm(地域や個体差により、かなり異なる)。体重4-12kg 。指は前肢、後肢ともに5本あり、親指はほかの4本の指から離れていて、爪は鋭い。体型はずんぐりしている。里山に棲息する。11月下旬から4月中旬まで冬眠するが、地域によっては冬眠しないこともある。食性はタヌキとほとんど同じであるが』、『木の根やミミズなども掘り出して食べる。巣穴は自分で掘る。ため糞』『をする習性があるが、タヌキのような大規模なものではなく、規模は小さい。本種は擬死(狸寝入り)をし、薄目を開けて動かずにいる』。『1日の平均気温が10℃を超える頃になると冬眠から目覚める。春から夏にかけては子育ての時期であり、夏になると子どもを巣穴の外に出すようになる。秋になると子どもは親と同じくらいの大きさまで成長し、冬眠に備えて食欲が増進し、体重が増加する。秋は子別れの時期でもある。冬季は約5ヶ月間冬眠するが、睡眠は浅い』。『秋は子別れの時期であるが、母親はメスの子ども(娘)を1頭だけ残して一緒に生活し、翌年に子どもを出産したときに娘に出産した子どもの世話をさせることがある。娘は母親が出産した子どもの世話をするだけでなく、母親用の食物を用意することもある。これらの行為は娘が出産して母親になったときのための子育ての訓練になっていると考えられる』。『巣穴は地下で複雑につながっており、出入口が複数あり、出入口は掘られた土で盛り上がっている。巣穴の規模が大きいため巣穴全体をセットと呼び、セットの出入口は多いものでは50個を超えると推測される。セットは1頭の個体のみによって作られたのではなく、その家族により何世代にもわたって作られている。春先になると新しい出入口の穴が数個増え、セット全体の出入口が増えていく。巣穴の出入口の形態は、横に広がる楕円形をしていて、出入口は倒木や樹木の根、草むらなどで隠されている。巣穴の掘削方法は、穴の中から前足で土を押し出し、押し出したあとにはアクセストレンチと呼ばれる溝ができる。 セットには崖の途中などに突然開いている裏口のような穴が存在することもある』。『巣材として草を根から引き抜いて使用していると推測される。巣材が大雨などで濡れると、昼に穴の外に出して乾燥させて夜に穴に戻す、という話もある』。記載がないが、成獣はかなり凶暴である。猶、山犬の類も含むようであるが、番町という町中でもあり、描写の生態からはアナグマでよいと思われる。現代なら食肉(ネコ)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン Paguma larvata も挙げられようが、ウィキの「ハクビシン」によれば、ハクビシンの国内棲息の最初の確実な報告は1945年(静岡県)で、『明治時代に毛皮用として中国などから持ち込まれた一部が野生化したとの説が有力であり、それ以前の古文書における生息の記載』『や、化石記録が存在しないことから、外来種と』する考え方を支持し、同定候補には挙げない。

・「御使番」使番。ウィキの「使番」から一部引用する。『古くは使役(つかいやく)とも称した。 その由来は戦国時代において、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職である。これがそのまま江戸幕府』『においても継承された』。『若年寄の支配に属し、役料500石・役高は1,000石・布衣格・菊之間南際襖際詰であった』。『元和3年(1617年)に定制化されたが、皮肉にもその後島原の乱以外に大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する事とな』り、『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行った』。

・「松野八郎兵衞」岩波版長谷川強氏注に、『助喜(すけよし)。天明四年(一七八四)御使番。同五年寄合。』とある。

・「天明六午年」西暦1786年。干支は丙午(ひのえうま)。根岸は佐渡奉行として佐渡に赴任中のことであったが、直接体験過去の助動詞「き」が用いられている。これは本文にあるように「八郎兵衞方に勤し吉田某、其後予が許へ來り勤ける」ということから納得出来る。因みに、この吉田某は所謂、渡り中間であったものと思われる。

・「給人」ウィキの「給人」によると、『江戸時代、諸藩における藩士の家格・家柄の一つ』及び『江戸時代、徴税吏の総称として、給人という語を使用することがあった』とある。ここで根岸は松野八郎兵衞屋敷の給人格であった中村作兵衞の前者の謂いで用いているように思われる。一応、以下にウィキの記載を引用しておく。『武士は、土地に対する執着が強く、わずか数十石であっても、自分の領地を持つことを望む傾向があった。戦国時代には、己の知行する土地を持たずに、俸禄を受けている武士は、下級武士と考えられていた。しかし、小領主の場合は、収穫が安定せずに、イナゴ・穀象虫などの害虫・風害・水害・冷害などの天変地異で困窮することが珍しくなかった。また、給人は知行地へ自由に行くことや水干損の立見、知行地の農民を使役する権限を有しており、村方にとって迷惑であると訴願される藩もあった』。『江戸時代になると、諸藩の藩主は、強大な統治権を得るために、家臣の知行を、土地を直接給付して独自に徴税を行わせる地方知行制から、藩が一括して徴税した米を中心とした農産物を家臣に給付して、その一部を商人を通じて換金させる蔵米知行制に転換することを目指した』。『この改革は、また基本的に江戸時代は武士が城下町に居住するようになると、城下から見て知行地が遠隔地になっている場合は藩士にとってもわざわざ知行地に赴くのは手間で、災害の時でも安定して収入を得られるのでこれに従う藩士もいるが、反面に、特に弱体化されることを恐れた上級家臣を中心に反感が強く、実質減封となる場合もあったので、中堅以下の家臣であってもこれを嫌う藩が存在し、この転換を断行・あるいは企図したために、藩政が混乱して、お家騒動の背景の一つとなることもよくあった。代表例としては高田藩の越後騒動や、仙台藩の伊達騒動がある』。『他方で同じ越後国でも転封以降、分散地方知行制度や相給を採っていた越後長岡藩や新発田藩では蔵米知行化が比較的スムーズに進行した』。以下、「藩内の位置づけ」の項。『蔵米知行制に転換した諸藩にあって、本来であれば、知行を与えられる格式を持つ武士に対して、給人という呼称や、給人という格式の家格を、栄誉的に与えたのである。江戸時代に、給人を名乗る格式の藩士は、一般に「上の下」とされる家柄の者である。給人より格上の呼称を持つ藩士は、その格式を家格として称したので、通常は、給人という呼称は用いなかった。幕府が諸藩を指導して給人という呼称を用いさせたり定着させようとした事実はないにも関わらず、多くの諸藩には、給人または給人席という身分・家格が存在した。なお米沢藩では給人のことを「地頭」と呼称していた』。

・「長屋へ缺入ぬ」底本では「缺」の右に『(駈)』と注記する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 マミという妖獣の事

 

 暫く御使番を勤めたが、病気により退役致いた松野八郎兵衛という御人は、その屋敷が番町に御座ったが、天明六年午年の春のこと、この屋敷に妖怪が出たと専らの噂であった。

 以前、八郎兵衛のもとに勤めて御座った吉田某なる者、後に私のもとに仕えることとなった折り、その真偽を尋ねたところ、

「……実はその事件が起きた時には、私も既に松野殿を退いて他家へ移っておりましたが、古い傍輩であった者から詳しく聞きましたが、これ、違い御座いません。……

 ……ある夜のことにて御座る。

 ……屋敷内を見回っておった中間に、突如、何やらん、飛び着いてきたので御座る。その中間、吃驚して、持っていた棒で払いのける――と、そ奴、その棒へ食いつきますから――また吃驚、中間は屋敷内の給人であった中村作兵衛という御人の長屋に駆け込みました……。

 ……作兵衛も早速に表へ駆け出して、そ奴を見れば――これがまあ、犬よりは余程大きく――目は日月の如、爛々と輝き――その全体の色は鼠のようでありました……。

 作兵衛が杖などでもって打ち据えてみますると――ぼんぼんと蟇蛙(ひき)の背を叩くような感じで御座いました――そのうちに屋敷内の者どもが集まって来て追い散らしたところが……隣の屋敷との境に御座った大藪の内へと逃げ込みました。……

 ……闇夜なれば……行方も知れず……またその後は二度と現れなかったそうですが……果たして、一体如何なるものであったものか……『それは「マミ」というものだ』とある人が申しておりましたが、そういう物の怪もあるものでしょうか……」

と語って御座った。

 

 

 窮借手段之事

 

 當時青雲を得て相勤る今江何某は放蕩不羈にして、冬は夏衣夏の道具を貯へず其時臨で新調をなして、甚貧賤なれど表を餝(かざ)り、世に立交るに金錢を不厭、專ら交易に遣ひ捨ぬれば、七月十二月の二季の凌ぎも誠に手段の上にて有しが、或年術計盡て、大晦日に裏屋住の修驗を鳥目(てうもく)二百錢にて一晝夜の約束して相招き、臺所の脇にて終日終夜錫杖をふり鑰を敲き讀經いたさせ、其身は一間なる所にて屏風を建(たて)※(よぎ)打かむりて臥し、妻なる者土瓶ひちりんのあてがひ、藥又は白湯を洗(せんじ)煎させて、賣掛を乞ひに來り又は借金をはたりに來る者へは女房立出で、夫しかじかの病氣今日も無心元、祈禱をなし醫藥を盡し候抔僞り語りて、大晦日を凌、翌日元日は俄に髮月代などして、年禮に飛び歩行けると也。可笑しき手段も有るもの也。

[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、先行する困窮した幕府経済を立て直した重役の経済改革の奇策と、個人の経済困窮の奇計で連関する。

・「今江何某」不詳。「當時青雲を得て相勤る」とくる以上、相応に知られた人物とは思われるが、内容が内容だけに、偽名にしてある可能性が強いように思われる。

・「放蕩不羈」酒色に耽って品行不良、放埒にして道楽好き、勝手気儘で自由奔放といった三拍子そろった筋金入りの遊び人ということ。

・「七月十二月の二季」当時の借金の支払い方法は、盆(旧暦七月十五日)と暮れ(旧暦十二月三十一日大晦日)の二季払いが通例で、回収出来ずにその季を過ぎると、次の季までが回収期限となると考えるのが不文律の慣習であった。

・「鳥目」穴明き銭。古銭は円形方孔で鳥の目に似ていたことから。

・「二百文」宝暦・明和年間(17511771)で米一升100文程度であった。1文20円として4000円、一昼夜兼行で時給170円弱になる。

・「鑰」この字は音「ヤク」で、①鍵。錠前。出入り口の戸締り。②要(かなめ)。大事な核心部。枢要。③悟り。といった意味で、文意が通らない。岩波版長谷川氏注に日本芸林叢書所収本(通称三村本)には「鈴」とあるとある。「鈴」=「リン」=「鉦」で採った。

・「※(よぎ)」[「※」=「衤」+「廣」。]夜着。寝るときに上に掛ける夜具で、着物の形をした大形の掛け布団。かいまき。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 借金窮余の一策の事

 

 今でこそ高い地位を得て御勤めに励んでおる今江某であるが、彼、元来、放蕩不羈にして、冬に入る前には夏の衣類や夏の家財道具を悉く売り払い、また季が廻りたれば、その季節のものを総て新調致すという――さすれば経済も甚だ貧窮なれど、ともかく着るものには兎角うるさくていつも派手に着飾っており、世の朋輩(ほうばい)との交際にも湯水の如(ごと)金を遣うを厭わず、給金のほぼ総てを社交の費用に遣い捨てる有様なれば、七月及び十二月の二季の掛け取りの時期の借金取りへの凌ぎ方も、実に手練手管千両役者の限りを尽くして御座ったが、ある年の暮れ、遂に術策尽きた――。

 ――すると今江某、大晦日、やおら裏長屋に住んでおった、怪しげなにわか修験者を鳥目二百文一昼夜兼行の約束で招き寄せ、台所の脇にて終日終夜、錫杖を振り鳴らさせ、鉦を叩かせ、読経をさせて、自身はその直ぐ脇の一間に屏風を立て廻し、薄い夜着を頭まで引っ被って横になり、その妻には七輪に土瓶を載せさせて薬を煎じさせるやら、白湯(さゆ)を沸かさせるやら――。

 ――そうしておいて、今日こそはと押し寄せて居並んだ売掛取りやら借金を叩き取りに来た輩へは、やおら今江の妻が立ち出でて、

「……夫はこれこれの病いにて……今日明日にても儚くならんとする程に……心もとなき有様にて……今はただただ最後の祈禱を致し、最後の医薬施療を尽くしておりますれば……」

なんどという嘘八百をしんみりと語る――。

 さても辛くも、かくして大晦日を凌いで御座った――。

 ――うって変わって翌日正月元旦――今江、俄かに飛び起きたかと思うと、月代(さかやき)なんども綺麗に剃り整え、元気溌剌、年始の礼に飛び歩いたという。

 いや、全く以って奇計なる術策を用いたものではある。

 

 

 不計の幸にて身を立し事

 

 或江州の産にて上方堂上(たうしやう)などに奉公して有しが、身持も宜しからず度々浪人などしけるが、京都にては迚も身を立候事も成がたしと、聊の貯(たくはへ)にて東都へ下りけるが、路用も遣ひきりてすべきやうなく、湯元などに暫く逗留し鍼(はり)按摩(あんま)抔施して稼ぎ暮しけるが、大坂町人の後家(ごけ)彼(かの)温泉に來りて入湯し、不快の折からは按摩等を施しけるに、追々心安くなりて右後家淫婦也しや、彼者と密に通じ雲雨の交りをなして、或時彼後家申けるは、御身は年若き人いづくの人なるやと尋ける故、しかじかの事かたりければ、さあらば我等江戸表親類の方へ此度出(いで)候間(あひだ)伴はんとて、日數(ひかず)程過(すぎ)て同道して江戸へ出ぬ。人目有(あれ)ばとて彼後家を養母分にして、其身養子の心どりにて夜は夫婦の交りをなしぬ。彼後家は富豪の後家たるによりて、金銀を以御徒(おかち)の明(あ)きを讓り得て彼者を御徒に出しけるに、京家の縁などにたよりて奧の手弦(てづる)等を拵へ、頭(かしら)なる者へ願ひける故無程組頭に成、後は又御譜代の席へ轉じけるが、今は右の老婦も果し由。爰におかしき事の有るは、右老女の有りし内は、歳(とし)中年に及ぶ某なれども妻を呼候事は成がたく、遊女其外のたはれをも、彼養母殊の外制して禁じけるとや。左も有ぬべき事也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:かつて奇策で放蕩不羈を尽くした男の物語から、色仕掛けの手練手管で世をうまく渡った放蕩不羈の男の物語で直連関。

・「堂上」堂上家。昇殿を許された四位以上の、公卿に列することの出来る家柄を言う。

・「人目有ばとて彼後家を養母分にして、其身養子の心どりにて夜は夫婦の交りをなしぬ」とあるからには、この若者(二十代か)と後家(三十以上四十前後迄か)は十歳以上は離れていた感じである。

・「金銀を以御徒の明きを讓り得て」「御徒」とは「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。公的には違法ながら、当時、御徒の株は密かに売買されていた。一般に「与力千両、御徒五百両、同心二百両」と言われた。この後家、そんじょそこらの金持ちではない。

・「御譜代の席へ轉じ」通常、御徒はその代一代限りの御勤めであったが、ここではこの男が例外的な譜代(世襲)の御徒の身分を与えられたことを指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 思いも寄らぬ幸いにより身を立てた事

 

 近江国生まれのある男、上方の複数の堂上家(とうしょうけ)なんどにも奉公した経歴があったが、何分、身持ちが宜しくなかったがため、たびたび浪人なんどに落ちておった。

 ある時、流石に京(みやこ)ではとても立身なんども成り難しと思い、僅かな蓄えを持って東都へ下ることにしたのだが、途中で路銀を遣い切ってしまい、如何とも仕難く、箱根湯本に暫くの間(あいだ)逗留致し、その間(ま)に昔、少し覚えのあった鍼やら按摩やらを湯治客に施してその日稼ぎの暮らしておった。

 ある日のこと、大坂町人の後家が一人、かの温泉に来たって入湯致いたが、体調不快にて、かの按摩が施療を施した。何度か施術を頼む内に、二人は親密な仲となり――この後家、希代の淫婦であったものか――この男と密かに通じて男女の交わりをもなすに至った。

 ある時、寝物語に、この後家が男に訊ねた。

「……見ればあんた……まだ若こう程に……何処の生まれやねん?」

そこで、若者はこれまでのこっ恥かしい軽薄な半生を語ったところ、

「……ほなら……私(わて)はこれから江戸表の親類の宅(うち)を訪ねるところやよって……一つ、一緒に行きまひょ。」

ということになり、暫く湯本に逗留した後(のち)、若者はこの後家に同道して江戸へ出たのであった。

 年齢差が激しために人目を忍んで、かの後家は養母、かの若者はその養子との触れ込みで、夜は夜で密かにしっぽりと夫婦の交わりをなしておった。

 この後家の実家は、大阪でも有数な豪商であったために、後家は金銀に物を言わせて御徒の空きを譲り受け、若者をまんまと御徒役に就かせることに成功、更にその後(のち)も京家の縁なんどを頼って、奥の手蔓を巧妙に駆使して、若者の上司に働きかけたりなどした故、ほどなく組頭と相成り、やがて後にはまた、何と御譜代の席へまで出世致いたのであった。

 さても今は、その後家――その老婦もすでに亡くなったとの由である。

 ――最後に。ちょいと、この話で面白いのは――その後家――その老婦が存命中は、若者――いや、最早――中年になりかかって御座ったその男では御座ったが――妻を娶(めと)ることは許されず――また、遊廓へ参っての遊女なんどと戯れるといったことさえも――かの『養母』から殊の外、厳しゅう禁じられて御座ったとか。……いやいや、それは当然のことにては御座るのう。

 

 

 奇物を得て富し事

 

 予が知れる與力に角田(すみた)何某といへる人あり。加賀屋敷邊に有て身上(しんしやう)もよろしく暮しけるが、右角田と親しき山中某語りけるは、右の角田の家には不思議の事あり。彼親は至て放蕩にて金錢を遣ひ捨て不如意也しが、或日小日向櫻木町といへる古道具屋にて小さき長持を調しが、其作りも丈夫にて格好よりは遙に重き長持也しを、纔に金子百疋にて調へ、家來を差越(さしこし)て我家へ引とりぬ。然るに内の紙はりなども破れ損じ候處もありし故、引放し取繕んとせしが、餘りに底の厚き故鐵鎚などにてたゝき抔せしに、二重底の樣にも見へし故こじ放して板をとりけるに、底を二重にして右板の間に古金(こきん)をひしと並べ置たり。驚き悦て改めけるに數百兩を得し故、彼者も夫より節を改め日増に富貴に成しとかや。今に彼長持は角田の家寶として有りし由也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:後家に取り付いて大出世、古物の長持から百両の瓢箪から駒連関。放蕩不羈でも連関する。岩波版の長谷川氏注には『宝永(一七〇四―)以後の小説・講談などに類話多し。』とある。

・「與力」諸奉行等に属し、治安維持と司法に関わった、現在の警察署長に相当する職名。

・「角田何某」「山中某」ともに不詳。前者は「つのだ」か「すみだ」かも分からぬ。

・「加賀屋敷」加賀金沢藩前田家上屋敷は現在の本郷七丁目の東京大学本郷キャンパスの殆んどの部分を占めていた(北の現在の農学部のある場所は水戸藩中屋敷)。

・「小日向櫻木町」江戸切絵図で確認すると、護国寺門前から南東に延びる音羽通りが江戸橋にぶつかる手前の左右の音羽町九町目の外側の地域をそれぞれ同名の「櫻木町」と呼んでいる。一種の飛び地か、若しくは江戸橋の手前の細い敷地で繋がっていたものか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇物を得て富貴になった事

 

 私が知っている与力に角田某という御人がおる。加賀屋敷辺に屋敷を持ち、相応に裕福に暮らして御座るが、この角田と親しい山中某が、この角田家に纏わる話を聞かせて呉れた。

「……この角田の家には不思議なことが御座いましてな。……彼の親は、失礼乍ら至って放蕩不羈にして、金銭を湯水のように遣い果たして……遂には痛く困窮するように成り果てたと言います。……

 ……さてもある日のこと――彼――彼の父親が、金もないのに道楽で小日向桜木町辺りにあったという古道具屋にて小さな長持を買(こ)うたので御座いましたが、これまた、造作も頗る頑丈、見た目よりも、これがまた遙かに重い。……それを、まあ、何と僅か金子十疋にて買い入れ、家来に命じて我が家へと引き取ったので御座います。……

 ところが、いざ、品を改めてみますると、内張りの紙なんども無惨に破れて御座ったれば、もう、みな引き剥がして張り直し繕わんと致しましたところが、……ふと見ると、これ、余りにも底が厚い。……不審に思うて、鉄槌なんどでがんがん叩いてみましたところが、……これが……どうも二重底のように見える……更に、がんがんやらかして、遂に内側の底の部分をこじ開けてみましたところが、……底板を取る……と、案の定、二重底にて……そこに……何と古びた金貨が、これまたびっしり! と並んで御座ったので御座います……驚きもし、悦びもし……改めてみましたところが、金数百両!……これを得てより――彼――彼の父は節を改め、日増しに富貴に成った、とかいうことにて……今に至るまで、この長持は角田家の御家宝として御座る、とのことで御座いまする……。」

 

 

 下賤の者は心ありて可召仕事

 

 或人年久敷召使ひける中間有。あくまで實躰にて心も又直(ちよく)成(なる)者也しが、或年主人御藏前取(まへとり)にて御切米玉落(たまおち)ける故、金子請取に右札差の許へ可行處しつらひありて不行、彼者に手紙相添て金受取に遣しけるが、其日も暮夜に入ても歸らず翌朝にも歸らざれば、偖(さて)は金子受取出奔なしけるか、數年召仕ひて彼が志を知りたるに出奔抔すべき者にあらず、しかしとて人を遣し見けれ共見えざれば、出奔いたす成べし、扨々人はしれざるものと大に後悔なしけるに、晝過にも成りて彼者歸りて懷中より金子并札差の寄附ども取揃へ主人へ渡しける故、如何いたし遲かりしやと尋ければ彼下人申けるは、私には暇を給べしといゝける故、彌々驚き、いか成事也とて委く尋れば、此後も有べき事也、いかほど律儀にて年久敷召仕ひ給ふ共、中間抔に金子百兩程持すべきものにあらず。我等事數年御懇意に召仕ひ給ひて、我等も奉公せん内は此屋敷不出と存るが、昨日札差にて金子百兩程我等受取て歸る道すがらつくづく存けるは、我等賤しく生れて是迄か程の金子懷中なしたる事なし。此末か程の金子手に入事あるべきやも難計。今盜取て立退ば生涯は暮し方可成とて、江戸表を立退候心にて千住(せんじゆ)筋迄至り大橋を越て段々行しが、熟々考れば主人も我身實躰者と見極給へばこそ大金の使にも申付給へ、然るを是迄の實躰に背き盜せんは天命主命恐るべし愼むべしとて、又箕輪迄立歸りしが又惡心出て、兎角は世をわたる事百金あれば其身の分限には相應なりとて亦々立戻り、或ひは思ひ直してたゝずみなどして、昨夜は今朝迄も心決せず迷しが、幾重にも冥加の恐しさに善心に決定して今立歸りぬ。かゝる惡心の一旦出し者召使ひ給はんもよしなければ暇を給るべしといひしに、主人も誠感心して厚く止め召仕ひけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:金銭への人の執着の根深さで連関。

・「御藏前取」幕府の旗本・御家人の場合、凡そ一割の者が知行地を与えられ、そこから取れる米の四割を税として徴収して生活をしていた。これらを『知行地取り』と言った。それに対して、残りの大多数の旗本・御家人は『蔵前取り』『切米取り』で、幕府の天領から収穫した米を浅草蔵前から春夏冬の年三回(2月・5月・10月)に分けて支給された。多くの場合、『蔵前取り』した米は札差という商人に手数料を支払って現金化していた。

・「御切米玉落ける」前注で示したように『蔵前取り』『切米取り』を受ける旗本・御家人は支給期日が来ると『御切米請取手形』という札(ふだ)が支給され、その札を受け取り代行業者であった札差に届け出る。札差は預かった札を書替役所に持参の上、そこで改めて交換札を受け取り、書替奉行の裏印を貰う。その後、札差が札旦那(切米取り)の札を八百俵単位に纏め、半紙四つ切に高・渡高(わたしだか)・石代金・札旦那名・札差屋号を記して丸めて玉にし、御蔵役所の通称『玉場』に持参した。この玉場には蓋のついた玉柄杓という曲げ物があって、役人は札差が持ち寄った玉を纏めて曲げ物の中に入れる。この曲げ物の蓋には玉が一つずつ出る穴があって、役人が柄杓を振ると、玉が落ちて出てくる仕組みになっていた。玉が落ちると、札差は玉(半紙)に書かれている名前の札旦那に代わって米や金を受け取る。そうして同時に札旦那に使いの者を走らせ、玉が落ちた旨を報知、知らせを受けた札旦那は、札差に出かけて現金化した金や現物の米を受け取るというシステムであった。岩波版長谷川氏の注によると、この支給米は『二月・五月は四分の一ずつ、これを借米(かりまい)といい、十月に二分の一、これを切米とい』ったとあるから、この話柄のシチュエーションは秋10月のことと思われる。

・「しつらひ」これは「差しつかへ」の誤記と思われる。

・「千住筋迄至り大橋を越て段々行し」「千住」は日光(奥州)街道の宿場として発展した。江戸から最初の宿場町に当たり、東海道の品川宿・甲州街道の内藤新宿・中山道の板橋宿と並ぶ江戸四宿の一つ。「大橋」は隅田川に架かる橋で日光街道(現在の国道4号)を通す千住大橋のこと。南千住と北千住を繋ぐ。以下、ウィキの「千住大橋」より一部引用する。『最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と思われる』。

・「箕輪」三ノ輪とも書く。江戸から見て千住の手前、現在の台東区中央部分の北の端に位置する地名。当時の江戸湾に突き出た武蔵野台地の先端部に相当することから水の鼻(みのはな)と言われ、これが転訛して「みのわ」になったといわれる。三ノ輪村原宿として宿場町として形成されたが、延亨2(1745)年には隅田川の宿場として原宿町が独立している。

・「冥加」には一つ、『人知にては感知できない、気がつかないうちに授かっている神仏の加護や恩恵。また、思いがけない幸せ。冥助。冥利。』という意味があり、更に『神仏の加護・恩恵に対するお礼。』の意味があるが、ここでのように「冥加の恐しさに」といったネガティヴな意味での使用法はない。この「恐しさ」というのをとりあえず「畏れ多き神仏の冥加に」と読み替えて現代語訳してみた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 下賤の者は心して召し使わねばならぬという事

 

 ある人が久しく召し使って御座った一人の中間があった。

 如何にも実直にして心映えも真っ直ぐなる者であったが、ある時、御切米が玉落ちしたとのことで、本来は主(あるじ)自らがその金子を受け取りに札差を訪れるはずであったが、よんどころない所用があったがため行けず、かの中間に手紙を添えて金子受け取りに遣わした。

 ところが、この中間、その日も暮れて夜になっても帰って来ず、翌朝になっても戻らなかった。主は、

「……さては金子を受け取ってそのまま出奔致いたか?……それにしても長年召使い、あの男の正直なる志も、よう分かっておる……とてもそのように横領出奔致すような男には見えなんだが……」

と人を遣って捜させてみたけれども、やはり行方知れずであった。

「……やはり出奔致いたので御座ろう。……さてさて、人品は分からぬものじゃ……」

とひどく後悔致いておったところ、その日の昼過ぎ頃にもなって、かの中間、戻って参り、懐(ふところ)から定額の金子并びに札差書付なんどをしっかり取り揃えて、黙ったまま、主人に渡した故、

「……如何なることにて、かく遅うなったか?……」

と糾したところ、中間は、

「……我にはお暇を下されよ……」

と一言だけ言う。

 主はいよいよ驚き、

「……それはまた、一体、どういうことじゃ?」

と詳しく訊ねたところが、

「……この後(のち)も、このような同じことを仕出かすに違い御座らぬ……どれ程、律儀に年久しく召し使(つこ)うて御座ったとて……私のような中間風情に、金子を百両も持たすものにては御座らぬ……我らこと、これまで御懇意に召し使(つこ)うて頂き、我らも中間奉公致す内は、もう、この屋敷からは出でまいという所存にて御座いましたが……昨日……札差にて金子百両を受け取って帰る道すがら、つくづく考えましたことには……

『……我ら、賤しい身分に生まれてこの方……かほどの大枚の金子……懐中になしたること、これ、ない……この先、かほどの金子を手に入れること、これもあろうとも思われぬ……今、これを盗み取りてどこぞへ立ち退いたならば……これだけでも生涯の暮し、これ、成り立つであろう……』

と……それより、江戸表から出奔致す所存にて千住辺りまで至り……大橋を越えて……ひた走りに走りましたが……その間(かん)、つくづく考えてもみたので御座います……

『……ご主人さまに於かせられては……この我身を、真面目な男と見込んでおらるればこそ、この大金の使いにも申し付け下すったに……然るに、これまでの真率に背きてこの金子を盗んだとなれば……天命、主命如何なる咎が下るやも知れぬ……恐るべし! 慎むべし!』

という思いが募り、足をまた、箕輪まで返しましたが……再び悪心の出できて……

『……百両……百両じゃ……とかく百両あらば……渡世の路、この身にとっては十分過ぎる程に十分じゃて……』

と、またしても足を返し……いや、何度も何度もまた、思い直して呆然と立ち尽くしなんど致いて……昨夜来、今朝に至るまで、卑しき心なればこそ決することもならず、街道を行ったり来たり……迷って御座いました。……されど、重ね重ね、今までの畏れ多い神仏の冥加を思うた末……ようやっと善心と決定致いて……恥ずかし乍ら帰って参りました。……かかる悪心を一度(ひとたび)心に生じた者を、向後も召し使うは、由なきことなれば、どうか、お暇(いとま)頂きとう御座る……」

と申した。

 主人が、誠(まっこと)心より感心致いて、中間の申し出を慰留の上、後、永く彼を召し使ったことは、言うまでもない。

 

 

 鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事

 

 眞言宗日蓮宗の僧侶、專ら祈禱をなして人の病勞を治せん事を受合ひ、甚しきに至りては藥を呑ては佛神の加護なし、祈禱の内は藥を禁じ、護符神水抔用ひ可申と教示する族あり。愚民鬼女子の信仰渇仰する者に至りては、其教を守り既に死んとするの病父母子弟にも藥を與へざるあり。かゝる愚成事や有べき。旦(かつ)僧山伏の類ひも、己が法力の靈驗いちじるきを知らせんが爲か、又は物は一途になくては成就なさゞるとの心哉、又は其身釋門に入て書籍をも覗きながら愚昧なるゆへや、人の命をかく輙(たやす)く心得取あつかひける存念こそ不審なれ。かゝる輩いかで天誅をまぬがれんや。實におかしき事のありしは、予が知れる富家に山本某といへる者、中年過て大病也しが、四ツ谷邊の祈禱僧の功驗いちじるきと聞て相招きければ、其病躰を見て隨分快氣疑ひなし、我等一七日(ひとなぬか)祈なば結願の日には枕もあがらんといと安々と請合し故、家族の喜び大かたならず、大造(たいそう)の祈禱料に日々の初尾(はつを)散物(さんもつ)其外音信(いんしん)數を盡しぬるに、日毎に快驗疑ひなしと申けるに、七日に當りける日、俄に急症出て彼病人はかなく成ければ、妻子の歎き大かたならず、かゝる所へ彼僧來りて、いかゞ快哉と尋ければ、家内の者も腹の立餘り、御祈禱のしるしもなく身まかりし抔等閑(なほざり)に答へければ、彼僧更に不審成躰にて、さあるべき事にあらずとて、病床に至り得(とく)と樣子を見て、曾てかゝる事有べきにあらずと、猶讀經などして妻子に向ひ申けるは、猶暫く差置給へ、決(けつし)て蘇生あるべきなり、もし定業遁がれがたく病死にもあらば、未來往生極樂善處に至らん事は疑なしと言しとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。ゴリ押しで示すなら、「冥加の恐しさ」(こちらは神仏に冥加はないのであるが)で関連か。神道好き仏道嫌い(特に日蓮宗は不倶戴天)の根岸流宗教批判譚シリーズの一。

・「四ツ谷」現在の新宿区南東部(凡そ市ヶ谷・四谷・信濃町等のJRの駅に囲まれた一帯)に位置する地名。時代によっては江戸城外堀以西の郊外をも含む内藤新宿・大久保・柏木・中野辺りまで拡充した地名でもあった。

・「輙(たやす)く」は底本のルビ。

・「大造(たいそう)」は底本のルビ。

・「初尾」初穂(はつほ)。通常は、その年最初に収穫して神仏や朝廷に差し出す穀物等の農作物及びその代わりとする金銭を言う。ここでは所謂、日々の診断料相当の費用を言うのであろう。室町期以降は「はつお」とも発音し、「初尾」の字も当てた。

・「散物」賽銭や供物。散銭。

・「音信」音信物。進物のこと。

・「得(とく)と」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鬼神を信じ薬剤を捨てるなんどという迷妄の事

 

 真言宗や日蓮宗の僧侶は、専ら祈禱をなして人の病苦を癒さんことを公然と請け合い、甚だしきに至っては、

――薬なんどを飲んでおっては神仏の冥加は到底得られぬ。祈禱を受けて療治するからには、薬を禁じ、護符・神水などを用いねばならぬ――

なんどと教示する輩までおる。愚かな民草や婦女子のうちでも、特に信心篤く渇仰(かつごう)して御座る者に至っては、そうした理不尽なる教えを頑なに守り、今にも死にそうな病んだ父母子弟にさえ薬を与えない者がおる。このような愚かなることがあって良いものか?! 全く以って誤りである!

 尚且つ、僧侶や山伏の類いも――はたまた、己の法力の霊験が著しくあること知らしめんがためか――はたまた、願(がん)というものは一途な心なしには成就致さぬという真理を悟らせんがためか――はたまた、その身は仏門に入り、書籍をも相応に覗き見乍らも、結局、智として身に附かずして愚昧のままなるためか、人の命を、かく軽んじて取り扱うという存念は、これ、甚だしく不審である! かかる輩が、どうして天誅を免れんということがあろうか!

 ここにとんでもない――話としては不敬乍ら――面白い話が御座る。

 私の知る人がりの富豪に山本某という者、中年過ぎてから大病を患い、四谷辺の祈禱僧で、功験著しいという噂の、怪しげなる輩を招いてその病状を見て貰ったところ、

「いや! かかる程のものなれば、快気間違いなし! 我ら、一週日、七日間祈らば、結願の日には、床上げ、これ間違いなし!」

と如何にもた易きことの如、安請け合い致いた故、家族の喜び方も並大抵のものではなく、さすればこそ大層な額の祈禱料に加えて、日々の初穂や賽銭その他進物にも手を尽くした。

――ところが――

「日に日に快気致すこと疑いなし」との祈禱僧の言葉とは裏腹に、祈禱を始めて丁度七日目に当たる日、俄かに病状が急変、山本某はこの世を去って仕舞(しも)うた。

 妻子の嘆きも、これ、並大抵のものではない。

 そこへまた、かの僧がやって来た。

「如何で御座る? 快気致いたか?」

と訊いてきたので、家内の者ども、腸が煮えくり返る思いのあまり、

「……御祈禱の効験、これなく……たった今身罷ったばかり……」

と恨みを含んで、吐き捨てるように答えた。

 すると僧は、あろうことか未だに解せぬという表情をして、

「さても? そのようなこと、あろうはずがない。」

と、既に逝去した山本の遺骸の枕頭に赴き、一目瞭然の死骸を見つつ、なおも、

「かつてかくなるためしもなく、かかるためしがあるべきものにても、これ、御座らぬ!」

などと平然と言い放ち、読経なんどをした上、嘆き悲しんで御座った妻子の方へ向き直ると、次のように告げた。

「今暫くこのままにして置かれるよい! いや、必ずや蘇生致す! しかしもし、万が一にも定業(じょうごう)遁れがたく、このまま蘇生叶わず病死致いた、ということになったとしてもじゃ、未来往生極楽善処に至らんことは、これ、間違いなし、じゃて!」

と。

 

 

 名によつて威嚴ありし事

 

 小石川白山御殿に千ノ都(いち)と言る座頭(ざとう)有しが、予が許などへも來りし事あり。此者白山下を通りしに、折節何檢校とかいへるに行逢しに、手引もなければ知らざりしを、彼檢校の手引に聲を掛けるに、會釋等閑(なほざり)なりければ、檢校大に怒りて千ノ都を引居(ひきすゑ)させ、座法の無禮捨置きがたき由にて罵り怒りける故、千ノ都も恐入て品々詫言などしけれど何分承知せざりしに、白山御殿最寄にて神職なしける鈴木美濃といへる有りて通りかゝり、兼てしれる千ノ都故、氣の毒に思ひ立寄て詫いたしけるに、檢校申けるは、御立入の儀御尤には候得共、座法の儀は他の人の御構ひ有べきにあらず、御名前は何と申ける人やと尋ければ、鈴木美濃守と答へけるにぞ、扨は歴々の事也と思ひて、御身の御挨拶に候はゞ免し遣わぬとて許容なしける故、千ノ都を召連美濃は立別れぬ。跡にて手引に向ひ、美濃守樣の御同勢は脇にひらき居候やと尋し故、大名旗本の類ひとおもひけるならんと、傍に聞居たりし人の語りて大に笑ひぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。いや、神道好きの根岸には、人でなしの祈禱僧の冥加より、神主の御加護の方が信じられるという連関か。

・「千ノ都」この「ノ都」(のいち)という呼称は「一名(市名・都名)」と呼ばれるもので、古くは琵琶法師などがつけたもので名前の最後に「一」「市」「都」などの字が付く。特に、鎌倉時代末期に如一(にょいち)という琵琶法師を祖とする平曲の流派が特にこの名をつけたので、一方(いちかた)流と呼ばれたが、その後は琵琶法師に限らず広く一般の視覚障害者も用いるようになったものである。

・「小石川白山御殿」底本鈴木氏の先行注に『いまの文京区白山御殿町から、同区原町にまたがる地域にあった。五代将軍綱吉が館林宰相時代の住居。綱吉没後は麻布から薬園を移し、一部は旗本屋敷となった』とある。本来は白山神社の跡地であった。注にある「館林宰相」について、ウィキの「徳川綱吉」より引用しておく。綱吉は三代将軍家光の四男として生まれ、『慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。同月には将軍・徳川家光が死去し、8月に兄の徳川家綱が将軍宣下を受け綱吉は将軍弟となる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任』、『明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失したために9月に神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となる(館林徳川家)が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される』ようになった。その後、『延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に継嗣がなかったことからその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け内大臣とな』ったのであった。なお、根岸もこの白山に居住していた時期があった(次章参照)。

・「座頭」以下、ィキの「座頭」より引用する。『江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられた』。『元々は平曲を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」に由来する』。『古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『平家物語』を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの座(組合)として機能した。その中で定められていた集団規則によれば、彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた』。『江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。また座頭相撲など見せ物に就く者たちもいたり、元禄頃から官位昇格費用の取得を容易にするために高利の金貸しが公認されたので、悪辣な金融業者となる者もいた』。『当道に対する保護は、明治元年(1868年)に廃止されたという』(以下の「検校」注も参照のこと)。

・「撿挍」「検校」に同じ。検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには73の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて719両が必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある(文中の「勾当」(こうとう)とはやはり盲官の一つで検校・別当の下位、座頭の上位を言う)。この話柄の検校は相応に実力者であるやに見受けられるが、供の者を引き連れ、なお一人歩きの座頭千ノ都に難癖をつけるところをみると、ただ羽振りのよい金貸しの検校のようにも見えぬことはない。

・「會釋等閑」岩波版長谷川氏注によれば、寛政101798)年作山東京伝「四時交加」(しじのゆきかい)に『検校の前で路上で座頭が下駄をぬいで土下座の様を描く。こうするのが法なのであろう。』と記されている。

・「引居(ひきすゑ)させ」は底本のルビ。

・「美濃守樣の御同勢は脇にひらき居候や」という検校の台詞は恐らく、自分ではそのような感じ(周囲に大勢の供の者がいるような)がしなかったことを、やや不審としての発言ででもあったかも知れない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 名によって威厳の効果のある事

 

 小石川の白山御殿に住む千ノ都(せんのいち)という座頭が御座って、私の家などにもかつて施療に出入りして御座った。

 ある時のこと、この者が白山を歩いていたところが、折りから某(なにがし)検校とすれ違(ちご)うた。その折り、千ノ都には手引きしている者がいなかったため、彼は相手が検校だと気付かなかった。ところが、検校の手引きに対して声をかけた千ノ都が、先様が検校であることが分かってその後からの、検校への挨拶が等閑(なおざり)であったということで、検校が大いに怒った。

 手引きの者に命ずるや、千ノ都を地べたに引き据えさせると、

「座法の無礼、捨て置き難し!」

と大いに罵り、怒り心頭に発している。

 野次馬も増えてきた。

 千ノ都も恐れ入って、いろいろと詫び言なんども致いたのだが、何分、検校自身が承知しない。

 と、そこへ白山御殿近くで神主をして御座った鈴木美濃という者がおり、偶々そこを通りかかった。かねてより知り合いで御座った千ノ都のこと故、気の毒に思って、立ち寄って一緒になって詫びを入れたところが、検校曰く、

「仲介の義は尤もなことなれども、当道座座法の儀は、他(ほか)のお人の、お立ち入りあるべからざることにて。……時に、貴殿、お名前を何と申されるお人か?」

と訊くので、

「……鈴木美濃守。」

と神主が名乗ったところ、検校、『さてはこれ、幕臣御歴々のお方にてあったか』と思い、

「……あー、御身の御挨拶にて候なれば……免じて遣わすことと、致しましょうぞ……」

と許された故、神主の美濃は千ノ都を召し連れてその場を去った。

 その後(のち)、検校、手引きの者に向かって、

「……美濃守様なれば、御家来衆はさぞ、左右に大勢控えて御座ったろうのう?……」

などと訊ねた、とのことである。

 ――――――

「……およそ、この検校、鈴木美濃のことを、大名か旗本と勘違致いて御座ったのでしょう。……」

と、野次馬として傍らで見物していたという人が、大笑いしながら私に語った。

 

 

 高利を借すもの殘忍なる事

 

 世の中に高利の金銀を借し或ひは日なし拜借し渡世する者程殘忍なるはなし。日なしの錢抔貸す者は、釜に入し米をも釜共に奪ひ歸りて借錢につぐなふ事成由。予白山に居たりし時、其最寄に無賴の少年有りて、放蕩の者故後は我許へも來りざりしが、彼者ある高利借の老姥(らうぼ)に便り催促役抔いたしけるが、或時裏屋の借錢乞に參り候樣、老姥の差圖に任せ至りけるに、夫は留守にて女房計(ばかり)居たりしが、一子疱瘡(はうさう)を愁ひて二枚折の小屏風に風を凌ぎ寒天に薄き※(よぎ)など打かけて介抱なし、借錢の事を申出しければ、かくの通一子疱瘡にて返すべきあてもなし。暫く春迄待給はるやう涙ながら申けるにぞ、尤の事に思ひて立歸りて老婆に其事申ければ、老婆大きに憤り、かゝる不埒の使やある、師走の催促其通りにて可相成哉(あひなるべきや)、病人へ着せし※にても引剥(ひはぎ)來るべき事也と罵りけるぞ、又々彼病家へ至りて老姥が申條しかじかの事也と語りて、工面なし給へ、我等不來(きたらず)ば彼老姥來りていか成事かなすべしといひければ、彼女房涙ながら立出で、其身の着せし布子(ぬのこ)やうの物を賣りて金子壹分持て彼者に渡しけるが、極寒にひとへを着し寒さを凌ぎても、我子の※をとるに忍ざる恩愛の哀れ思ひやられ、無賴の少年ながら請取し壹分の金は拳に踊る心地して老婆に渡しければ、能(よく)こそ取來りたりとて笑ひ請取りけるが、餘りの恐しさに夫よりは彼少年も老姥と交をたちて寄宿せざりしと也。

[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:根岸が一時住んでいた白山町での出来事として連関。人でなしという点では、先行した死に至らしめても平然としていた「鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事」の祈禱僧の輩への根岸の怒りとしても連関するようにも思われる。これをもっと意地悪く考えるなら、もっと先行する「窮借手段之事」の借金取り回避の同工異曲のやり口のイカサマではないと否定は出来ないが、そこまで深読みするには余りに根岸の口調は真摯であるから、採らない。

・「借す」当時は「貸」「借」どちらでも同義で相互に用いた。

・「日なし」これは「日濟(済)し」と書いて「ひなし」と読む。日済し金のことで、毎日少しずつ返す約束で貸す金を言う。

・「白山」前章注「白山御殿」参照のこと。

・「疱瘡」天然痘。以下、ウィキの「天然痘」より引用する。天然痘は『天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ、治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症』。『その恐るべき感染力、死亡率(諸説あるが40%前後とみられる)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となった事すらある。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた』。『天然痘ウイルス(Variola virus)は、ポックスウイルス科オルソポックスウイルス属に属するDNAウイルスである。直径200ナノメートルほどで、数あるウイルス中でも最も大型の部類に入る。ヒトのみに感染・発病させるが、膿疱内容をウサギの角膜に移植するとパッシェン小体と呼ばれる封入体が形成される。これは天然痘ウイルス本体と考えられる。天然痘は独特の症状と経過をたどり、古い時代の文献からもある程度その存在を確認し得る。大まかな症状と経過は次のとおりである』(学名のフォントを変更した)。以下、「臨床像」パート(前段の一部を省略するが、それ以降は改行が多いので、そのまま引用する)。

   《引用開始》

飛沫感染や接触感染により感染し、7~16日の潜伏期間を経て発症する。

40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。

発熱後3~4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。

7~9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。

2~3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。

治癒後は免疫抗体ができるため、二度と罹ることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。

天然痘ウイルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたでも1年以上も感染させる力を持続する。天然痘の予防は種痘が唯一の方法であるが、種痘の有効期間は5年から10年程度である。何度も種痘を受けた者が天然痘に罹患した場合、仮痘(仮性天然痘)と言って、症状がごく軽く瘢痕も残らないものになるが、その場合でも他者に感染させる恐れがある。

   《引用終了》

次に、歴史が示される。『天然痘の発源地はインドであるとも、アフリカとも言われるが、はっきりしない。最も古い天然痘の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争の頃であり、また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世である。彼のミイラには天然痘の痘痕が認められた』(ヨーロッパ及びアメリカでの天然痘疾病史がここに入るが省略する)。『中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た』。『日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年には敏達天皇が崩御するが、天然痘によるものではないかという見方もある』。『735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死亡した。こうして政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行である』。『ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。天皇さえも例外ではなく、東山天皇は天然痘によって崩御している他、孝明天皇の死因も天然痘といわれる。明治天皇も、幼少時に天然痘にかかっている』。『北海道には江戸時代、本州から渡来した船乗りや商人たちによって、肺結核、梅毒などとともに伝播した。伝染病に対する抵抗力の無かったアイヌ民族は次々にこれらの病に感染したが、そのなかでも特に恐れられたのが天然痘だった。アイヌは、水玉模様の着物を着た疱瘡神「パコロカムイ」が村々を廻ることにより天然痘が振りまかれると信じ、患者の発生が伝えられるや、村の入り口に臭いの強いギョウジャニンニクや棘のあるタラノキの枝をかかげて病魔の退散を願った。そして自身は顔に煤を塗って変装し、数里も離れた神聖とされる山に逃げ込み、感染の終息を待ちつづける。しかしこのような行為に医学的な効果があるわけでもなく、江戸期を通じて流行は繰り返され、和人商人のアイヌ酷使も相まってアイヌ人口は大いに減少した。幕末にアイヌ対象の大規模な種痘が行われ、流行にようやく歯止めがかかった』。以下、「制圧の記録」として「種痘」の解説が掲げられている。『天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に知られていた。いつ始まったのかはわからないが、西アジア・インド・中国などでは、天然痘患者の膿を健康人に接種し、軽度の発症を起こさせて免疫を得る方法が行なわれていた。この人痘法は18世紀前半にイギリス、次いでアメリカにももたらされ、天然痘の予防に大いに役だった。しかし、軽度とはいえ実際に天然痘に感染させるため、時には治らずに命を落とす例もあった。統計では、予防接種を受けた者の内、2パーセントほどが死亡しており、安全性に問題があった』。『18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘にかかった者は天然痘に罹患しない事がわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) 1798年、天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった。なお、ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする美談もあるが、実際にはジェンナーの使用人の子に接種した』。『日本の医学会では有名な話として日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔が、ジェンナーの牛痘法成功にさかのぼること6年前に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施し成功させている。福岡県の甘木朝倉医師会病院にはその功績を讃え、緒方春朔と天野甚左衛門、そして子供たちが描かれた種痘シーンの石碑が置かれている』。以後は近代の経緯。『1958年に世界保健機関(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。中でも最も天然痘の害がひどいインドでは、天然痘に罹った人々に幸福がもたらされるという宗教上の観念が浸透していたため、根絶が困難とされた。WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1ヶ月前から患者に接触した人々を対象として種痘を行い、ウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させる事で天然痘の感染拡大を防ぐ方針をとった。これが功を奏し、根絶が困難と思われていたインドで天然痘患者が激減していった』。『この方針は他地域でも用いられ、1970年には西アフリカ全域から根絶され、翌1971年に中央アフリカと南米から根絶された。1975年、バングラデシュの3歳女児の患者がアジアで最後の記録となり、アフリカのエチオピアとソマリアが流行地域として残った』。『1977年、ソマリアの青年の患者を最後に天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日にWHOは根絶宣言を行った。天然痘は現在自然界においてウイルス自体存在しないものとされ人類が根絶した(人間に感染する)感染症として唯一のものである』。『天然痘ウイルスは現在、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)とロシア国立ウイルス学・バイオテクノロジー研究センター(VECTOR)のレベル4施設で厳重に管理されており非公開になっている。公式に保有が認められているのは上述2機関のみであるが、ソ連崩壊の混乱で一部が国外に流出しテロリスト組織などが保有しているとの説や各国の軍が防疫・研究の目的で密かに保有しているとの説もある。このため、CDCVECTORも保有株を完全に廃棄するには至っていない』。本邦では、1970年代に国外から持ち込まれた数例がある以外、『独自の発生は1955年の患者を最後に根絶された』。『WHOによる根絶運動により、1976年以降予防接種』は廃止されている。『1978年、イギリスのバーミンガム大学医学部に勤務する女性が、実験用の天然痘ウイルスに感染して死亡した事例が有る。これは1人の研究者が実験用の天然痘を漏洩させてしまい、女性が感染したものである(漏洩させてしまった研究者は罪の意識で自殺)。これがいわゆるバーミンガム事件である』。『現在では天然痘ウイルスのDNA塩基配列も解読されており解析はほぼ終了している』。以下、「予防・治療」の項、『「種痘」というワクチン接種による予防が極めて有効。感染後でも4日以内であればワクチン接種は有効であるとされている。また化学療法を中心とする対症治療が確立されている』とある。『根絶されたために根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に510年といわれているため、現在では免疫を持っている人はほとんどない。そのため、生物兵器としてテロに流用された場合に大きな被害を出す危険が指摘されて』おり、更に一部に『天然痘そのものは根絶宣言が出されたが、類似したウイルスの危険性を指摘する研究者がいる。研究によれば、複数の身近な生物が類似ウイルスの宿主になりうることが示されており、それらが変異すると人類にとって脅威になるかもしれないと警告している』。『天然痘はかつての伝染病予防法では法定伝染病に指定されていた』が、現在も1999年施行された新しい感染症法によって一類感染症7疾患(擬似症患者及び無症状病原体保有者についても患者として強制措置対象となる感染症)エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、南米出血熱、ペスト、マールブルグ熱、ラッサ熱と共に掲げられている。

・「※(よぎ)」[「※」=「衤」+「廣」。]夜着。寝るときに上に掛ける夜具で、着物の形をした大形の掛け布団。かいまき。

・「布子」木綿で出来た綿入れ。

・「壹分」岩波版では「一歩」(いちぶ)。これは、借りていた金の「一部分」という意味で用いているものと思われる。江戸の「一分」は相当な高額(1両の1/4。凡そ15,000円相当)で、布子一枚で手に入る金額ではない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 高利貸しの残忍なる事

 

 世の中で高利の金銀を貸し若しくは日済(ひな)しなど貸して渡世する者ほど残忍な輩は御座らぬ。日済しの銭なんどを貸す者には、釜に入った僅かな米さえ釜ごと奪って借銭の代わりとするともいう。

 私が白山に住んでいた頃のこと、近所に一人の無頼の少年がおった。放蕩の者であったから、後には私のもとへも姿を見せぬようになったが、この少年がかつて私に語ったことにて御座る。

 この少年、ある高利貸しの老婆を頼って、その借金の取り立て役なんどを致しておった由。

 ある時、裏屋に借金取りに行くよう老女に命ぜられ、言われるがままにその裏屋を訪ねてみたところが、夫は留守にて女房ばかりが居り、未だ幼少の一人子はといえば、疱瘡を病んで臥せって、二つ折りの形ばかりの小屏風にて隙間風を凌ぎ、寒い季節にも関わらず如何にも薄い夜着を掛けただけで、介抱している。

 少年が借金の返済を告げたところ、女房は、

「……見ての通り、子が疱瘡を病んでおりますれば……御借財を返すあてが御座いませぬ……どうか、どうか暫くの間……年明けの春までお待ち頂きますよう……」

と涙ながらに訴える。少年は、尤もなことと思い、立ち帰って老婆にその委細事情を伝えたところが、老女は大いに怒り、

「こんなとんでもない借金取りがあろうかい! ええつ?! 師走の貸した金の催促が、そんなもんで罷り通ると思ったら大間違いじゃて! その病人に被せた夜着でも何でも剥ぎ取って来るんだよう! 分かったかい?! この青二才が!」

と激しく罵られた。

 少年は仕方なく再び先の裏家を訪れ、婆さんが何のかんのと申しておる旨、語った上、

「……何とか工面したがいいゼ……俺(おい)らが金を持って帰らなけりゃ……あの婆あ本人が駆け込んで来て……一体、何をするから、分からん剣幕じゃったからな……。」

と告げたところ、かの女房、少年に留守居を頼んで、涙を拭きながら家を出た。

 暫くして帰って来た女房――さっきまで来ていた布子を売って、少しばかりの金を借金の返済の一部として拵えてきた女房――そのなけなしの銭を、かの少年に手渡した。極寒の中、薄い単衣(ひとえ)一枚を着て寒さを凌いでいる女房――自身がその寒さに震えながらも、流石に我が子の夜着まで質に入れるには忍びないというその女房の、母としての恩愛の情が哀れに思いやられ、無頼ながらも少年の心を激しく打った――。

 ――帰り道、握りしめた掌の内で、何やらん、受け取ったその金が、妙に落ち着かず、にちゃにちゃと気味悪く汗ばんでくるのが分かった。――

 さて立ち帰って老婆にその金を渡したところが、

「よい!よい! でかしたのう! よう、取ってきた!」

と如何にも不気味に笑(わろ)うて受け取ったが――流石の恐ろしさに、以後、かの少年もかの鬼女とは縁を切って、二度と寄宿することはあらなんだ、ということであった。

 

 

 その國風謂れある事

 

 佐州は慶長元和の御當家御治世に至りて金銀涌出(ゆうしゆつ)彌(いや)増(まし)、往古より金銀を掘出し候國柄、數千年の今も絶ず涌出るの地也。金銀の稼に拘(かかは)り候者は、味噌を燒けば金氣を減らし候とて、國制にあらずといへ共燒味噌を不用、又四時の鐘を撞(うつ)にも捨鐘を撞(うた)ず。是(これ)音義(をんぎ)金を拾(すつ)るといへる事を忌(いみ)ての事ならん。然れば其國々によりて或は禁じ或は愛する事其謂れある事ならん。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:金絡みで少しは連関するか。佐渡奉行として赴任した際の実録シリーズの一。

・「佐州」佐渡国。

・「慶長元和」西暦1596年から1624年。

・「御當家御治世」「慶長元和」は家康・秀忠・家光徳川家初代から三代に亙る幕藩体制の成立期である。

・「味噌を燒けば金氣を減らし候」岩波版長谷川氏注に、俗信として『「焼味噌をやくと金がにげるといへば」(孔子縞于時藍染・中)』と引用する。引用元は「こうしじまときにあいぞめ」と読み、山東京伝の黄表紙。これは推測であるが、味噌を焼くと更に塩分濃度が高まり、これが鍋釜庖丁などの金物に附着すると錆を生じやすいことからか。底本の鈴木氏注では、本記載が成されたのと同時期の天明6(1786)年『に成った『譬喩尽』に「焼味噌を好く者は金得延ばさぬ」とあり、これは箔屋のいうことで、箔打ちには焼味噌の匂を忌む。箔が延びないので嫌うと説明がある。京都のことわざだから箔屋に限るようにいうので、もとは金掘りの間に行われた俗信だったのであろう』とされる。「譬喩尽」は「たとえづくし」と読み、8巻からなる松葉軒東井編の俚諺集(別記載では1787年成立とも)。ことわざ以外にも和歌・俳句・流行語・方言等も所収する。

・「捨鐘」鐘によって時報をする場合、始まりを逸すると時刻が分からなくなるため、予め注意を促す目的で時報とは関係のない鐘を3度早く打ち、暫くしてからその時刻の数の鐘を突いた。この最初の三つを捨て鐘と言った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 それぞれの国の風習には相応の謂われがある事

 

 佐渡ヶ島に於いては慶長・元和の頃、将軍家御治世に至ってからというもの、金銀の涌出、これ、いよいよ増加致いておるが、大昔より金銀を掘り出だして参った国柄にて、数千年経った今に至っても絶えず涌き出るという地である。

 金銀の稼業に関わっておる者どもの間にては、味噌を焼くと金(きん)の気(き)を減らしてしまうと言うて、別段佐渡の国法として定めた禁制ではないものの、調味に焼味噌を用いぬ。

 また、日々時刻を知らせる鐘を打つに際しても、所謂、我ら馴染みの捨鐘を打たない。これは「捨鐘」という言葉の音とその意味が所謂、『金を捨てる』に通ずることを忌みてのことであろう。

 かくの如く、その国々によって或いは禁じたり、或いは殊更に好むこと、それぞれに謂われがあることなのであろう。

 

 

 目あかしといへる者の事

 

 古へは公(おほやけ)にも目あかしを遣ひ給ふ事あり。一名おかつ引と唱。一旦盜賊の中間に入て盜を業としける者を、其罪を免し惡黨を捕(と)る一助となす事也。然るに元來惡黨の事故、己が罪をまぬがれんため、かゝる盜賊の有所を知りたり、かく/\の惡黨を捕へ申させんなどいひて、却て罪なきの人を捕へ己が罪を免るゝ事多し。依之有德院樣御代より、おか引目あかし等の事堅く禁じ給ひぬ。然れども私儀には其後も此役をなせる者あり。尾州家に仕へし者語りけるは、いつの事にや、元來盜などなせる者其志を改しを、同心支配に申付て盜賊の防ぎをなし給ひしに、或日名護屋の町に同心與力の類ひ右の者を召連れ茶屋によりて休息せしに、年頃五十餘りの禪僧、モウスといへる頭巾やうの物をかぶりて、伴僧兩輩召連荷を持(じ)し家僕など一同六七人にて通りしを、彼目あかし見て、あれは盜賊ならん召捕へ給へと言(いひ)しが、出家の事殊に僧俗の召仕も見ゆれば麁忽(そこつ)の事ならんと申けるに、右主人の出家も外々の者上下の階級なし、伴僧兩人衣躰のぶり出家にあらずと達て進めし故、與力同心立寄りて咎(とがめ)押へけるに、案の如く伴僧僕など迯出(にげだ)せしを不殘召捕、主僧のモウスを引放し見けるにばち髮の大奴也。段々吟味なしけるに、道中所々徘徊なせる大盜賊にて有りしと也。或時彼目あかし、家中の若き人々を連立て物詣ふでなしける時、其方はいにしへは盜をなしける者、何ぞ取て見せよと若き人申ければ、今はかくの如く召仕(めしつかは)れ妻子を安樂に養ひ候事、偏(ひとへ)に天道の助け給ふ事、いさゝかにても古への業いたすべき心なし。然し慰(なぐさみ)の事に候間其眞似をいたし申さん、代錢を拂ひ候共、其品を返し候共、跡にて能々取計ひ給へとて、所々一所に歩行(ありき)けるが、暫くありて御慰の品盜取たりといひて見せけるに、大き成(なる)一番(いちばん)すり鉢を盜て見せける故、各々大きに驚き、かゝる大きなる品を如何いたし盜(ぬすみし)哉(や)と尋ければ、右瀨戸物やの鄽(みせ)へ各(おのおの)立寄給ひし時、手に持しあみ笠を摺鉢の上にかぶせ置、各(おの/\)歸り給ふ時摺鉢ともに編笠を持出たりと語(かたる)。かの代錢を僕に持せ瀨戸物屋へ遣し拂ひけるに、瀨戸物産にては右摺鉢の紛失をいまだ知らでありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。私はこの話が好きだ。出来ることなら、この目あかしを心あらん友と得てしがな、と思うほどである。

・「目あかし」「おかつ引」以下、ウィキの「岡っ引」から引用する。『岡っ引、御用聞き(ごようきき)は江戸での名称。関八州では目明かし、関西では手先、または口問いと各地方で呼びかたは異なる』。『起源は軽犯罪者の罪を許し手先として使った放免である。江戸時代、法的にはたびたび禁じられたが、武士は市中の犯罪者について不分明なため、捜査の必要上、比較的軽い犯罪者が情報収集のために使われた。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた犯罪者の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ犯罪捜査自体が困難だったのである。親分と呼ばれる町、村内の顔役に委任されることも多い。配下に手下を持つことも多く、これを下っ引と称した。必然的に博徒、テキヤの親分が目明しになることも多く、これを「二足のわらじ」と称した』。以下、「江戸の場合」という項。『時代劇においては十手を常に所持していたかのように描かれているが、実際のところ公式には十手が持てず、必要な時のみ貸与されていた。同心、火付盗賊改方の配下とはなるが、町奉行所から俸給も任命もなかった。上記に記されたように、岡っ引は町奉行所の正規の構成員ではなかった。故に、岡っ引が現在の巡査階級の警察官に相当するように表現されていることがあるが、それは妥当ではない。現在の巡査階級の警察官に当たるのは三廻などの同心と考えるのが妥当である。ただし同心は管轄の町屋からの付け届けなどでかなりの実収入があり、そこから手札(小遣い)を得ていた。また、女房に小間物屋や汁粉屋等の店をやらせている者も多かった。同心の屋敷には、使っている岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。江戸町奉行所全体で岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという』。『半七捕物帳を嚆矢とする捕物帳の探偵役としても有名であるが、実態とはかなり異なる。推理小説研究家によっては私立探偵と同種と見る人もいる(藤原宰太郎など)』。以下、「地方の場合」の項。『江戸では非公認な存在であったが、それ以外の地域では地方領主により公認されたケースも存在している。例えば奥州守山藩では、目明しに対し十手の代わりに帯刀することを公式に許可し、かつ、必要経費代わりの現物支給として食い捨て(無銭飲食)の特権を付与している。また、関東取締出役配下の目明し(道案内)は地元町村からの推薦により任命されたため、公的な性格も有していた』とあり、本話の読解に極めて有益な記載満載である。この「江戸の場合」の記載を受けて、現代語訳には「江戸表での例は無数にあるものの、御役目上、非公認のものであればこそ示さぬが」という挿入を施して、根岸が江戸の岡っ引について語らないことの不自然さを補っておいた。後に佐渡奉行から勘定奉行(天明7(1787)年)そして江戸市中の司法のトップとも言うべき南町奉行(寛政101798)年)となった彼としては、勿論、そうした記載はやはり憚られたものと思う。もしかするとここには当初、江戸で親しく実見した岡っ引の例も示されていたものかもしれない。ところが後に町奉行になって、問題を認め、削除した可能性も考えられるように思われる。尾州御家中の岡っ引の話も冒頭「いつの事にや」と曖昧にしてあるのもそうした配慮によるものではあるまいか。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「尾州」尾張国。

・「モウス」帽子(もうす)。護襟(ごきん)という頭から被ったり、襟巻きとして耐寒のために着用する襟巻き型帽子(もうす)と帽子型の帽子(もうす)とがあるが、ここでは後者。禪僧が正式な法式の際、威儀を正すために着用する帽子のこと。中国宋代の禅宗に端を発し、鎌倉時代になって臨済宗・曹洞宗の伝来と共に日本に入ったとされる。現在のものは円筒形でかなり高さがあり、金色の飾り縁や筋が入っている。天頂は平たいが、古くは全体に丸みをおびたものであったらしい。

・「麁忽の事ならん」「麁忽」は「粗忽」で、「そそっかしい、早合点の物謂いじゃて。」と言った意味であろうが、直ぐ近くでかくはっきりと発言しているところから、やや、叱責するように「滅多なことを申すでない」の感じで意訳した。

・「ばち髮の大奴」岩波版長谷川氏注に『鬢の毛を三味線のばちの先のような形にそりこんだたいへんな奴頭。』とある。「奴頭」とは月代(さかやき)を広く深くそり込んで両方の鬢と後ろの頂に残した髪とで髷(まげ)を短く結んだものを言う。

・「家中」尾張藩尾張徳川家御家中。直前で岡っ引を禁制とした徳川吉宗を出しているあたり、これを、そのライバルとして尾張藩きっての有名藩主でもあった第七代藩主徳川宗春(元禄9(1696)年~明和元(1764)年)の御代のことであったと考えると、アップ・トゥ・デイトな臨場感があって面白いように思われる。

・「一番すり鉢」瀬戸物屋などで扱う擂り鉢の最も大きなもの。

・「瀨戸物産」底本ではこの「産」が右を上にして転倒している。注釈やママ表記もないところを見ると、これは底本自体の誤植であろうと思われる。岩波版では「瀨戸物屋」とあるので、それを採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 目あかしという者の事

 

 古えに於いては公的に『目あかし』に相当する者が使われていた時代があった。

 今の世にては一名、『岡っ引き』と呼ぶ。

 元来は盗賊の仲間の一党として盗みを稼業と致いておった者を、一旦、捕らえた上で、後、その罪を赦す代りに、悪党を捕縛する際の助けとして利用することを言うのである。

 しかし、元々が悪党なのであるからして己(おのれ)の罪を免れんがために、「何々盗賊団の居所(いどころ)を知っている」であるとか、「かくかくの大悪党を捕える手立てをお教えしよう」なんどという、根も葉もない嘘を申し立てて、却って罪のない無辜(むこ)の民を捕えさせておいて、己の罪は免れるという不届きなることがあまりに多かった。

 さればこそ、有徳院吉宗様の御代より、この岡っ引きや目あかしといった探索方の類いを、公的に表立って使うことは固く禁じられたので御座る。

 しかし乍ら、江戸の同心や火付盗賊改方の方々の個人的な用人及び私領などでの同様の者の探索方間者としては、その後(のち)も、こうした役をなす者が存在している。

……江戸表での例は無数にあるものの、御役目上、非公認のものであればこそ示さぬが……

……例えば尾州家に仕えておるところのある御仁が、それに纏わる話を語って呉れたことがある。以下はその話である。――

 何時頃のことで御座ったか、元来は盗みなんどを稼業と致せし者乍ら、その志を改めて真人間になった者を藩の同心支配と致いて、火付盗賊なんどの防備警戒の役目に当らせて御座った。

 ある日のこと、名古屋の同心与力の面々が、そうした者を召し連れて、とある茶屋にて一息ついて御座ったところ、丁度、モウスという頭巾様(よう)のものを被った、年の頃五十余りの禅僧が、伴僧を二人召し連れ、他に荷を持った家僕なんど、総勢六、七人で通りかかった。

 それを見た目あかしが、

「――あれは盗賊で御座ろうほどに、召し捕らえられるがよろしかろう。」

と言う。しかし見る限り、立派なる出家にて、殊にやはりそうとしか見えぬ伴僧と思しい召使いも付き従っているのも見受けられるので、

「……シィっ! これ! 滅多なことを!……」

と言下に叱したところ、

「――あの主(あるじ)体(てい)の出家も、その他の者どもも、禪家(ぜんけ)の上下の階級に従(したご)うた振舞いにては、これ、御座らぬ――。伴僧両人の衣服の着こなしも、これ、出家のそれとは、大いに違(ちご)うて御座る――なればこそ!……」

と、如何にも確信を持った、たっての薦めとなれば、そこらの与力同心ら、二手に分かれて、一方が一斉にずいっと立って連中の傍らへと寄り、

「おい! ウヌら! 待ていぃ!!」

と、強面(こわもて)にて咎めだて致いたところが――案の定、みんな、脱兎の如く逃げだそうとする――一そこのところを、一方から回った与力同心らが、これまた道を塞いで、難なく残らず召し捕らえた。――主僧の帽子を引き剥がしてみたところが――これがまたばち髪の大奴にて――しょっ引いて取り調べてみたところが、こ奴ら、東海道を徘徊しつつ、各所で押込み強盗を働いておった大盗賊であったとのことである。――

 もう一件、この同じ目明しの話。

 ある時、この目あかし、尾張家御家中の若者たちと連れ立って、物詣でに参った。その道すがら、

「その方は昔、盗みを働いておった者と聞くが……どうじゃ? 我らに、何ぞ偸(ぬす)み取って見せよ。」

と、若者の中(うち)の一人が言い掛けた。目あかしは、

「――今は、かく召し使われまして、妻子をも安楽に養うて御座いまする――これ、ひとえにお天道さまのお助け下すったことにて、いささかにても古えの悪しき業(わざ)を再び成さんなんどとは、思うたことも、これ、御座らぬ――御座らぬが――なれど、方々のお慰みのために、となれば――その真似事、これ、致しましょうぞ。……但し、皆様の内の何方(どなた)かには、盗み取りました物の代金、これ、お支払い頂くか、さもなくば、その品をお返し頂くか……盗み取った後のことは、よくよくお取り計らい下されよ――。」

と申した。

 さて、こうして一同、一緒にあちこちとぶらぶらして御座ったが、暫くあって、突如、

「――さても、皆さま、お慰みの品――盗み取って御座る――」

と言いながら、平然と見せた――

――それは何と、見るも巨大な――

――所謂『一番すり鉢』――で御座った故、一同の者、何よりも余りのその大きさに驚いて、

「……こ、こんな……大きな物……一体、ど、どうやって盗んだ、んダ?……」

と訊ねたところが――

「――先程、あの瀬戸物屋の店先へ、皆さま、お立ち寄りなさった折り、拙者、持って御座ったこの編み笠を、擂り鉢の上に被せ置き、各々お帰りになられる折り、拙者、編み笠と一緒にひょいと持ち出だしたものにて御座る――」

とこともなげに語った――。

 ……この大擂り鉢の代金、彼らに従っていた下僕の一人に持たせ、当の瀬戸物屋へと走らせた上、支払わせたので御座ったが……瀬戸物屋にては……そもそもその擂り鉢が、紛失していたことさえ……未だに誰一人、知らずに御座ったとのことであった。……

 

 

 老僕盜賊を殺す事

 

 下谷どぶ店(だな)といへる處に華藏院と言へる寺ありしが、彼寺へ盜賊入りしを、寺に久敷仕へける老僕見附て、盜賊と呼(よば)はりしを、右盜賊むずと組で、もとより老人なれば何の事もなく取て押へ手拭を口へ押込けるが、其儘に盜賊悶絶して死し居たり。何か物音に驚きて外々の人も燈火などして見ければ、いかにも大兵(たいひやう)の男、彼老夫を押へ踏跨(ふみまたがり)て死し故、早々老夫を引起し見しに、取組で押へられし節、兩手を以盜賊の陰嚢を強く〆て始終放(はなさ)ざりし故、盜賊ついに命を失ひしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、正に「秘策中の秘策」という点では通ずるとも言えるか。

・「下谷どぶ店といへる處に華藏院と言へる寺あり」嘉永年間(18481853)に作成された尾張屋金鱗堂板江戸切絵図を見ると、下谷七軒町の「酒井大學頭」の屋敷の西隣に「華藏院」とある。南側に門前町と記してあり、小さいが相応の寺格であったことが窺われる。この寺はやや移転して台東区元浅草1丁目に現存する。天台宗東京教区の記載よれば、正式には天台宗寳光山影現寺華蔵院と呼称する(現在通称は善光寺東京別院)。創建は慶長16 (1611)年である。『華蔵院は下町浅草の永住町という所にあります。 現在は町名変更により元浅草と改称されましたがその前は七軒町にありました。 七軒町は華蔵院門前七軒町と呼ばれ、 寺の前に町家七軒があったので、 この名ができたといわれています。 関東大震災後の昭和2年の区画整理で移転され、 現在は、 白鴎高校正門前に位置しています』。『寺の歴史は古く、 慶長16年、 権大僧都傳長法印の中興開基と伝えられています。 江戸時代の民間信仰の霊場として広く知られていました。 後に東叡山寛永寺の塔頭 (末寺) に編入され、 寛永寺住職の隠居寺となったようです』とある。元の位置は現在の元浅草1丁目の春日通りと新清洲橋通りの交差点の東北の角、ヒサヤ大黒堂が所在する辺りと思しく、底本の鈴木氏注によると、現在の台東区元浅草3丁目内に位置した「下谷どぶ店」とはずれることが指摘されている。なお、鈴木氏注ではこの「どぶ店」の解説が詳しく、『意味は泥溝。山崎美成の『海録』に巻三に「今浅草に土婦店といふ所あり、此所古くは新地といへり。その比は今の和泉橋通大寒屋鋪ちいへる所を、土婦店といひし也。又南畝翁云、文政四、「旧記に、土婦店を酴醿店とかけり、此字おもしろし」といはれたりき。」酴醿は、重ねて醸した酒、また滓を取らぬ麦酒と辞書にある。溝や水溜りからブツブツとメタンガスなど出ていようという水はけの悪い低湿地の形容として似合わしいという意見であろう。』と、面白い注を施されている。「酴醿」は「とび」と読む。これぞ、あるべき注の真骨頂!

・「陰嚢を強く〆て始終放ざりし故、盜賊ついに命を失ひし」とある。実際に睾丸を握り潰して人を殺すことが可能かどうか、不学にして確信出来なかったが、まさかと思いきやウィキに「金玉潰し」という項が存在した。無関係な部分にかなり性的な内容を含む記載なので、特例としてリンクを避けることを御赦し頂きたい。その「機能喪失」の項に以下のようにある『睾丸の機能を潰すことを目的で行われる行為は、大部分が拷問や私刑の一環として古くから行われてきた、相手に対する暴力行為である。強靭な握力で握り潰す場合もあるが、大抵は万力などを始めとする道具を用いて物理的に睾丸を潰してしまうことが多く、そのための専用の道具も存在する。平均的な睾丸は、5060キログラムの圧力がかかると破裂してしまう。これは、成人男性の握力をもってすれば、睾丸を破裂させることはそう難しくないことを示唆する。限界を超える加圧が起こると、睾丸の表面を形作っている強靭な膜、白膜(はくまく)が裂け、睾丸内部に詰まっている精細管などの実質が、その裂け目から陰嚢(金玉袋)の中に飛び散る。白膜が裂けてしまった場合、早急な医療処置をとらなければ、最悪の場合、睾丸を摘出する必要も出てくる』。『睾丸には多くの血管が通っており、睾丸を潰した後には適切な止血措置を行わないと死亡に至ることが多い』。ナットク。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老僕盜賊を殺す事

 

 浅草六軒町にある、通称下谷どぶ店(だな)という所に華蔵院という寺があったが、この寺へ盗賊が入った。寺に永年仕えておった老僕が見つけて、

「盗っとじゃ!」 

と叫んだのじゃが、盗賊はこの老僕とむんずと組み合い、もとより老人なれば、難なく引き倒してとり押さえ、馬乗りになると、老人の口にぐいと手拭いを押し込んだ。

……ところが……

……盗賊はそのまま……老僕に跨ったままに悶絶して死んでおった……

……何やらん妙な物音に眼を醒ましたその他の者ども、おいおい灯明なんどを点して窺ってみたところが……

……如何にも大兵肥満の大男が……かの老人を押し倒して、その上に馬乗りになったままに……死んでおった……

……そこで早速、老人を引き起して見たところ、取り組んで押えられた際、彼は両手を以って盜賊の陰嚢を思いっきり、ぎゅ~うっと摑んで始終放さなかったために……盜賊、遂には金玉が潰れ、惨めなる死にを致いたので御座ったよ。……

 

 

 強盜德にかたざる事

 

 予留役勤ける時、牧野隅州(ぐうしふ)御勘定奉行の節、懸りにて眞島友之丞といへる盜賊の吟味ありしが、上州武州を徘徊せる大盜にて、所々民家へ押入強盜にてありし。其罪極りて侵せる事を聊(いささか)不隱(かくさざり)し。或日懸りの留役尋けるは、汝も所々盜なして歩行(ありく)に怖しき事にも逢しやといひければ、都(すべ)て盜賊の儀、何ほど同類を催しても其門其戸をはづし這入候迄は怖しき物なり、一旦内へ入ては聊か恐るゝ事なく、物を取得て立歸らんとする頃又怖しく覺る也、數ケ所押込強盜なしけるに、上州の在と覺へし、ある寺院へ立入りしに、住僧の居間の襖を明けんとせしが、しきりに怖しく覺へけれども忍びて襖を明たるに、住僧起直り、盜賊也やとて長押(なげし)にありし長刀へ手を掛給ふと思ひしが、誠に二つに切られし心にて、足をはかりに逃出しに、跡より迫るゝ心にて其身計(ばかり)か同類共も、命限り拾町餘(あまり)も山の内へ迯込(にげこみ)しが、よく/\思ふに跡より追ひ候氣色もなかりけり。德ある出家にや、かく恐しき事に逢し事なしといひぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:強盗撃退譚で直連関。

・「留役」評定所留役のこと。現在の最高裁判所予審判事に相当。根岸が評定所留役であったのは23歳の宝暦131763)年から明和5(1768)年迄。

・「牧野隅州」牧野大隅守成賢(まきのおおすみのかみしげかた 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)のこと。旗本。以下、ウィキの「牧野成賢から引用する。『勘定奉行・江戸南町奉行・大目付。 御旗奉行牧野成照の次男。一族牧野茂晴の娘を娶って末期養子となり、2200石を継承した。通称、大九郎、靱負、織部』。『西ノ丸小姓組から使番、目付、小普請奉行と進み、宝暦11年(1761年)勘定奉行に就任、6年半勤務し、明和5年(1768年)南町奉行へ転進する。南町奉行の職掌には5年近くあり、天明4年(1784年)3月、大目付に昇格した。しかし翌月田沼意知が佐野政言に殿中で殺害される刃傷沙汰が勃発し、この時成賢は指呼の間にいながら何ら適切な行動をとらなかったことを咎められ、処罰を受けた。寛政3年(1791年)に致仕し、翌年没した』。『牧野の業績として知られているのが無宿養育所の設立である。安永9年(1780年)に深川茂森町に設立された養育所は、生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保の頃より住居も確保できない無宿の者達が増加の一途を辿っており、彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直す為の援助をすることが、養育所設置の目的、趣旨であった。定着することなく途中で逃亡する無宿者が多かったため、約6年ほどで閉鎖となってしまったが、牧野の計画は後の長谷川宣以による人足寄場設立の先駆けとなった』とある。以上の記載から、この一件の吟味は宝暦131763)年から明和5(1768)年の5年間の間の出来事であることが分かる。牧野は根岸より23歳年上で、経歴から見ても大先輩に当る。

・「上州武州」上野国(こうずけのくに)と武蔵国。上野国は、ほぼ現在の群馬県とほぼ同じであるが、桐生市のうち桐生川以東は含まれない。武蔵国は現在の埼玉県・東京都の大部分及び神奈川県川崎市と横浜市の大部分を含む地域。21郡を有する大国であった。

・「御勘定奉行」勘定奉行のこと。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。

・「眞島友之丞」未詳。その申し状から、是非ともお仕置きの中味が知りたいものである。恐らくは斬罪であったろうが、どうにもこの眞島友之丞、気になってしようがないのだ。そういた雰囲気から現代語訳では随所に私の意訳による補足を加えた。お楽しみあれ。

・「足をはかりに」この「はかり」は「限り・際限」の意で、足の続く限り、突っ走ったことを言う。

・「拾町餘」一町は60間(けん)で約109mであるから、凡そ1㎞程。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 強盗も徳には勝てぬという事

 

 私が留役を勤めていた頃、当時、御勘定奉行であられた牧野大隅守成賢殿が真島友之丞という盗賊の吟味に当られた。

 こ奴は上州や武州を中心に荒らし回った大盗賊にて、各地の民家へ押し入っては強盗を働く常習犯であった。その罪極まれりと観念したものと思われ、吟味の間も己れの所行を洗い浚い白状致いて、聊かなりとも隠そうとせず、吟味の者たちも内心、盗人(ぬすっと)乍ら殊勝なる振舞いと親しみさえ覚えて御座った。

 そんな吟味のある日のこと、一段落ついた係の留役が、

「……お前も、あちこちで盗みを働いたことなれば……中には恐ろしいと思う目に遇(お)うたこと、これ、あったか?」

と友之丞に訊ねた。友之丞は、

「……へえ、総て盗賊という申す者どもは、たとえ何人もで徒党を組んで御座ろうとも、その門、その戸を外して、中に忍び入ります迄は……誠(まっこと)恐ろしいものにて御座る。……しかし一旦、内へ侵入致さば、もう、何の恐ろしいことも、これ、御座ない……されどまた、得物(えもの)を取り得て、さても帰らんとする頃になると……これまた、恐ろしくなるものにて、御座る……。

……今まで数限りのう押し込み働(ばたら)き致いて御座ったれど……確か上州の田舎でのことと覚えて御座る……とある寺院に忍び込み、寝込んでおった住僧の、その居間の襖を開けんとせしに……何故か分かりませぬ……が……ともかくも何やらん頻りに恐ろしゅう思われて、なりませなんだ……なりませなんだが、何とか堪(こら)えて……襖を、静かに開けたところが……臥して御座った住僧、すっくと起き直って、

『盗賊であるかッ!』

と言うが早いか、長押(なげし)にあった長刀(なぎなた)へ――

――手を、お掛けになった――

――と、その瞬間――

――儂(あっし)は、誠(まっこと)ばっさり真っ二つに斬られた心地が――

――本に、致しやした……

……後は一目散……ただただ足の続く限りに逃げ出しやした……かの僧が後から追いかけて来て、今にも背後から

――ばっさり斬(や)られる――

という心持ちにて……いえ、儂(あっし)ばかりにては御座らぬ……一緒に押し入った仲間ともども……同じ思いにて……命を限りと十町余りも山の中へと駆け込んでおりました……が、今思い起こさば……実際にはそれはいらぬ気遣いで御座ったに。

……あのお方は……よほど徳のある御出家ででも御座ったか……

――いえ、ともかくも儂(あっし)の――

――もう、じきに、首が飛ぶ儂(あっし)の、この生涯で――

――その首が飛ぶであろう時よりも――

……かほどに恐ろしき目に……遇(お)うたことは……これ、御座らぬ……」

と語った。

 

 

 狂歌流行の事

 

 天明の初めより東都に專ら狂歌流行しけるが、色々面白き俗諺(ぞくげん)を以(もつて)哥名(かめい)として、四茂野阿加良(よものあから)、阿氣羅觀江(あけらかんかう)、智惠の内侍(ちゑのないし)など名乘りて、集會などもありし由。四茂野阿賀良などは共通の宗匠といひし由。右狂歌は萬歳集などいへる板木にあれば洩(もら)しぬ。阿賀良が親友の七十の賀の歌などは面白き故爰にしるしぬ。

 七ツやを十ウあつめたる齡ひにてぶち殺しても死なぬ也けり

阿氣羅觀江よし原に遊びて居續(ゐつづけ)などして歸らざりければ、其妻詠るよし、

 飛鳥川内は野となれ山櫻ちらずば寢には歸らざらまし

吉原町に春は中の町に櫻を植て遊人を集(あつむ)る事なれ。右櫻を詠(よみ)いれて根にかへらじの心、面白き故爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「天明の初め」天明年間は西暦1781年から1789年までであるが、後掲する「万歳狂歌集」の刊行が天明3(1783)年のこと。

・「狂歌」社会風刺・皮肉・滑稽を盛り込んだ五・七・五・七・七の短歌形式の諧謔歌。以下、ウィキの「狂歌」より引用する。『狂歌の起こりは古代・中世にさかのぼり、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる』。鯛屋貞柳は「たいやていりゅう」と読み、本名永田良因(後に言因と改名)。鯛屋という屋号の菓子商人出身であった。上方の狂歌歌壇の第一人者で、「八百屋お七」で知られる浄瑠璃作者にして俳人・狂歌師であった紀海音の兄でもある。狂歌の解説に戻る。『特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人・四方赤良(よものあから))が著した狂詩集「寝惚先生文集」で、そこには平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769年)には唐衣橘洲の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連)を作って創作に励んだ。朱楽菅江、宿屋飯盛(石川雅望)らの名もよく知られている。狂歌には、「古今集」などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる』とある。天明調狂歌の特徴は歯切れの良さや洒落奔放(しゃらくほんぽう)にある。

・「俗諺」俚諺。世間で使われている諺(ことわざ)。

・「四茂野阿加良」一般には「四方赤良」と表記。にして狂歌師大田南畝(おおたなんぽ 寛延2(1749)年~文政5(1823)年)の筆名。本名大田覃(おおたふかし)。通称は直次郎・七左衛門。筆名多く、四方赤良の他、寝惚先生・杏花園・蜀山人・玉川漁翁・石楠齋など。明和4(1767)年に当時19歳で狂詩集『寝惚先生文集』を表わし、これが狂歌ブームの起爆剤となった(序文は平賀源内)。なお、四方赤良という雅号は、彼の好いた銘酒「滝水」で有名な江戸日本橋新和泉町の酒屋四方久兵衛の店で売る赤味噌や酒の略称を捩(もじ)って使ったものとされる。以下、幾つかの狂歌をウィキクォートの「大田南畝に引用されているものを示す(但し、正字に変換し、本歌の説明部分に手を加えた)。まずは四方赤良名義の狂歌。

 世の中は色と酒とが敵(かたき)なりどふぞ敵にめぐりあいたい

 わが禁酒破れ衣となりにけりさしてもらおうついでもらおう

 をやまんとすれども雨の足しげく又もふみこむ戀のぬかるみ

 ものゝふも臆病風やたちぬらん大つごもりのかけとりの聲

 世の中はいつも月夜に米のめしさてまた申し金のほしさよ

 長生をすれば苦しき責を受くめでた過ぎたる御代の靜けさ

 難や見物遊山は御法度で錢金持たず死ぬる日を待つ

 今さらに何か惜しまむ神武より二千年來暮れてゆく年

 ほととぎす鳴きつるあとにあきれたる後德大寺の有明の顏

これは後徳大寺左大臣の

   『郭公のなきつるかたをながむればただ有明の月ぞのこれる』

の本歌取りである。

 山吹のはながみばかり金いれにみのひとつだになきぞかなしき

これは兼明親王の

   『七重八重花は咲けども山吹の實のひとつだになきぞかなしき』

の本歌取りである。

次に蜀山人名義のもの。

 鎌倉の海よりいでしはつ鰹みなむさし野のはらにこそいれ

 雜巾も當て字で書けば藏と金あちらふくふくこちらふくふく

 ひとつとりふたつとりてはやいてくふ鶉(うづら)なくなる深草のさと

これは藤原俊成の

   『夕されば野邊の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里』

の本歌取りである。

 駒とめて袖うちはらふ世話もなし坊主合羽の雪の夕ぐれ

これは藤原定家の

   『駒とめて袖うちはらふかげもなしさののわたりの雪の夕暮』

の本歌取りである。

 世の中にたえて女のなかりせばをとこの心はのどけからまし

これは在原業平の

   『世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし』

の本歌取りである。

ただ、何と言っても私が直ぐに思い出すのは、決まって大学時代に吹野安先生の漢文学演習で屈原の「漁父之辞」を習った際、先生が紹介してくれた、この大田蜀山人の、

死なずともよかる汨羅(べきら)に身を投げて偏屈原の名を殘しけり

である(第五句は「と人は言ふなり」とするものが多いが、私は吹野先生の仰ったものを確かに書き取ったものの方で示す。私は先生の講義録だけは今も大事に持っているのである)。

・「阿氣羅觀江」一般には「朱楽菅江」と表記する。戯作にして狂歌師朱楽菅江(あけらかんこう 元文5(1740)年~寛政121801)年?)。ウィキの「朱楽菅江」等によれば、大田南畝や唐衣橘洲(からごろもきっしゅう 寛保3(1744)年~享和2(1802)年):田安徳川家家臣。本名小島恭従。)らと共に天明狂歌ブームを築き上げ、狂歌三大家と囃された。別号は朱楽漢江・朱楽館・准南堂・芬陀利華庵。牛込の二十騎町に住む幕臣(御先手与力)で、本名は山崎景貫。通称は郷助。字は道甫。俳号は貫立。筆名は勿論、「あっけらかん」の捩りである。ここにも登場する妻(本名まつ)も「節松嫁々」という号の女流狂歌師として著名であった。この号は「ふしまつかか」と読み、「臥し待つおっ母(かあ)」で、吉原へ居続けの夫を一人寝の床で臥して待つの意を掛けた号であり、正にこの歌の謂いそのものの雅号である。

・「智惠の内侍」一般には「智恵内子」と表記する。狂歌師元木網(もとのもくあみ)の妻で自らも女流狂歌師として活躍した元木すめ(延享2(1745)年~文化4(1807)年)。「朝日日本歴史人物事典」等によれば、明和6(1769)年初期の江戸狂歌壇に木網が参加した頃より夫とともに狂歌を詠み始め、天明1(1781)年には芝西久保土器町に隠居して落栗庵を構え、夫婦で狂歌の指導をした。門人多く、平秩東作(へづつとうさく 享保111726)年~寛政元(1789)年):戯作者にして狂歌師。)天明3(1783)年刊の「狂歌師細見」によれば『江戸中半分は西の久保の門人』といわれるほどであったという。同じ女流の節松嫁々と共に女性狂歌師を代表する作者で「狂歌若葉集」「万載狂歌集」をはじめ多くの狂歌集に入集する。勿論、宮中の内侍司(ないしのつかさ)の女官の総称である「内侍」に「知恵の無い子」を掛けたもの。

 ふる小袖人のみるめも恥かしやむかししのふのうらの破れを

 六十あまり見はてぬ夢の覺むるかとおもふもうつつあかつきの空(辞世)

・「集會」狂歌派閥の集団狂歌連による狂歌会のこと。例えば橘洲は武士を中心メンバーとした狂歌連「四谷連」を名乗って狂歌会を開いた。明和6(1769)年に橘洲の屋敷で開かれたものが狂歌会の濫觴と言われる。それに対抗した大田南畝の率いた狂歌連を「山の手連」と呼んだ。他にも町人を中心とした狂歌連も多く、歌舞伎役者五代目市川團十郎とその取り巻き連中が作った「堺町連」、蔦屋重三郎ら吉原通人グループが組織した「吉原連」などがあった。

・「萬歳集」正式書名は「萬載狂歌集」。天明3(1783)年、唐衣橘洲の編んだ狂歌集「若葉集」に対抗して大田南畝と朱楽菅江が編んだ狂歌集。

・「洩しぬ」は「抜く。省く。」の意味で、文意からすると、彼等の代表作は「萬載狂歌集」に所収するから特に記さない、という意味と思ったが、どうも以下の作品自体が「萬載狂歌集」に所収するものと思われる(私は不学にして「萬載狂歌集」を所持しないので確かには言えないが)ので、抜粋と訳しておいた。「萬載狂歌集」にお詳しい方、どうか御教授を願う。

・「七ツやを十ウあつめたる齡ひにてぶち殺しても死なぬ也けり」「七ツ屋」は質屋のことで、「ぶち殺す」というのは「質に入れる」意のスラング。

○やぶちゃんの解釈

七つ屋を十(とう)集めた齡(よわい)とは――七十軒の質屋の謂いじゃ!――こりゃ、どんだけ「ぶち殺しても」――ありとある、己(おの)が命を質入れしたとて――質屋多くて質草足らずじゃ!――いっかな、どっこい、死にもせぬわい!

・「飛鳥川内は野となれ山櫻ちらずば寢には歸らざらまし」「飛鳥川」は奈良県高市及び磯城(しき)郡を流れる川で、古来、淵や瀨の定まらぬ暴れ川であったことから、無常や変わりやすい心の譬え。「飛鳥」に「明日」、「内」には「明日うち」及び「宅」(家)をも掛かるか。「内は野となれ山櫻」は俚諺の「跡は野となれ山となれ」を引っ掛け、「内」は更に「内儀」の意を掛ける。「寢」は桜の木の「根」の掛詞。

○やぶちゃんの解釈

明日うちには宅(うち)へ帰ってくるか帰らぬかと……如何にも頼りにならにならぬ飛鳥川のような望みをかけてきましたが……所詮、桜の花というもの、散らずば根にも帰ること、これ御座らねばこそ――桜の花や何やらが、匂い立つよに乱れ咲く、かの吉原の野に行かんとなれば、『家内のことなんどはどうでもなれ、母(かか)あなんぞはいっそ野となれ山となれ』などとお思いのあなたは――その桜が散らぬ限りは、寝には帰らぬ、とおっしゃるのでしょうね……。

・「中の町に櫻を植て遊人を集る」吉原の年中行事の一つ。春三月一日から月末まで、吉原唯一の大門から中央を貫くメイン・ストリート仲の町の中央筋に、大きな桜の木を植え並べて垣根を廻らした。仲の町の桜として有名であった。通りに面した遊廓には軒と言う軒に提灯が吊られ、夜桜見物も兼ねて客が大勢集まり、勿論、花魁道中もあって、文字通りの豪華絢爛絵巻が髣髴とされる。一部の記載に寛政2(1790)年から始まったとあるが、本歌が「萬載狂歌集」所収のものであるとすれば、天明3(1783)年には既にあったか、少なくとも「卷之二」の下限である天明6(1786)年までには、既にこの風俗が創始されていたものと考えられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狂歌流行の事

 

 天明の初めより、江戸では専ら狂歌が流行したが、狂歌師は、実に多様な面白い俗諺俗語を狂歌師の雅号として名乗っており、例えば四茂野阿加良(よものあから)であるとか、阿気羅観江(あけらかんこう)、智恵の内侍(ちえのないし)なんどと奇天烈な名を名乗り、徒党を組んで集会なんども開いて御座る由。特に四茂野阿加良なんどは、その道の宗匠とさえ呼ばれているそうである。

 こういった狂歌師の狂歌は「万歳狂歌集」なんどという滑稽なる板本となって出版されたので、ここにその一部を抜き書きしておこう。

 まず最初は、阿加良が親友の七十の賀に添えた歌、

   七ツやを十あつめたる齢にてぶち殺しても死なぬなりけり

 次は、夫の阿氣羅觀江が吉原に居続けなんどをして一向に帰ってこないのに業を煮やした妻節松嫁々(ふしまつかか)の詠んだという歌、

   飛鳥川内は野となれ山桜ちらずば寝には帰らざらまし

 この歌、少し解説しておくと、吉原の町内にては春になると中の町の沿道に桜を植えて遊び人を集めるのを常としているとのことで、その桜を歌に詠み込んで――「根に帰へらじ」――「寝に帰らじ」とした心ばえ、誠に面白い故に、ここに記しおく。

 

 

 無賴の者も自然と其首領に伏する事

 

 願人とて無法の坊主有。色々當世抔の思ひ付をし、或ひは大山石尊へ奉納もの也とて異樣の物を拵(こしらへ)、町々を持あるきて錢を乞ふなどして世を渡り、寒天に水をあび又は辻々にて代參の由いふて、錫杖をふりて一錢二錢を乞ふ、乞丐(かたゐ)同樣の者也。無賴の惡少年、父親族の勘氣を受て此類と成也。然るに淺草柳原に右の者共住ひする長屋ありて、頭は鞍馬流の□□といへり。土井故大炊頭(おほいのかみ)寺社奉行の節、右願人壹人駈込て、仲間の事且町方の者に打擲(ちやうちやく)に逢ひし由訴ふ。然るに奉行所にては其頭たるものゝ添翰(てんかん)なければ不取上事故、其譯寺社の役人品々利害を述て申渡けれど、元來頑愚の凡僧一向理非の辨(わきなへ)なく、公(おほやけ)の大法をも不辨、頻に其身の申事のみ言(いひ)て承知せざりける故、彼(かの)觸頭(ふれがしら)を呼て其譯申けるに、觸頭來りて二三言申談じ叱りければ、閉口して立歸りぬるを、予留役の節まのあたり見侍りき。又火消役の役場中間といへるあり。是も寒暑看板ひとつにて博奕(ばくえき)大酒を事とし、金錢に窮する時は日々はき候草鞋或は下帶を質に入る樣成(やうなる)無賴の者共也。

  此草鞋を質に入ける間は、たとへ役場へ駈付候ても素足にて出る事

  の由。無賴なる者にも仲間の掟又嚴重もおかし。

 予が屋敷向ふに火消役の御役屋敷ありし。或日予近隣に若山某とて秋元家の家士有りしが、彼僕と右の役場中間口論のうへ打擲に逢しなど跡方なき事申懸て、右中間兩三人理不盡に若山が玄關へ上り、打擲に逢し間最早役場難勤、殺し貰(もらひ)度(たし)とて騷ぎあばれける故、若山も大きに難儀して、則火消役の家來迄其事申通じければ、右役場中間の頭の由、ちいさき親仁來りて一通り叱り、早々歸候樣申けれども、何分酒に醉候や承知いたさゞるを、彼親仁引捕へ玄關前へ投出して、外々(ほかほか)まいり候者共に引立させ屋敷へ連歸りぬ。其樣よわ/\としたる親仁なりしが、彼者の取始末(とりしまつ)せしさま、大の男を小兒のごとく取扱ひける。其首領の威は自然とあるもの也とおかしかりき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:あまり連関を感じさせないが、当世流行の狂歌話から、当世流行りの願人坊主の話ではある。既出の評定所留役時代の実見録シリーズ。本件には当時の差別的意識が微妙に反映している。そうしたものへの批判的視点及び被差別の事実を示す歴史的資料としての側面を忘れずにお読みになられるよう、お願いしたい。因みに――何故か自分でもよく分からないのだが――この古き良き侠客の話が好きだ。特に後半の小柄な老人――何だか私は、この老人に逢ったことがあるような気がするほど――それほど目の前にこの老人の姿が見えるのだ――ひどく懐かしい思いが過ぎるのである。

・「願人」願人坊主のこと。江戸時代、門付けや大道芸を演じたりしながら御札を売ったり、人に代わって参詣・祈願の修行や水垢離(みずごり)などの代行を請け合い金品をせびった乞食僧。Noriaki Ishida氏の「願人坊主って何だ?」によれば「鞍馬寺史」に「願人を以て勧進の意なりと解せば、少なくとも鎌倉時代にまで遡り得べきなり。江戸時代の願人はこの勧進の後身にして……」とあり、『このため、願人は勧進から来たとされている。すなわち、願人は毎年正月に鞍馬寺より祈祷札を請い受け諸国に持ち回り、加持祈祷を行って生活費を得るとともに鞍馬寺への参詣を勧誘した。いわば鞍馬寺の営業担当のようなものだったらしい』。『本来、鞍馬寺大蔵院に所属する人々だけを「願人」と呼んでいた。願人は、頭(かしら)を中心に組織化されており、その組織は江戸、大坂、駿府、甲府などに存在した。大蔵院は、判物を与え身分を保証するとともに祈祷札を与えその地位を証明した。すなわち、江戸時代の身分制度の中で、彼等が無宿人ではなく鞍馬寺の意を受けた存在である事を保証したのである』。『しかし、願人は祈祷などだけでは生活できなくなり、次第に乞食と変わらなくなった。なかでも、才ある者は“異形滑稽の品を持ち歩き見せ”たり、“歌浄瑠璃”を歌ったりして日銭を稼いだ。「江戸職人歌合」には、願人坊主を右図のように描いている』(リンク先に絵)。『また、こんな表現もある、“願人坊主 裸にして鉢巻し、しめ縄のようにわらを腰にさげ、手に扇を開き、錫杖を持てり”。どうやら坊主とは名ばかりであったようだ。願人坊主は、「すたすた坊主」、「チョボクレ坊主」などとも呼ばれていた。これらの言葉からも彼等の姿が見える気がする。しかし、次第にその行状が目に余るものとなり、1842年(天保1311月には、江戸の寺社奉行阿部正弘は「願人取締」を命じている。ところで、日銭を得るための彼等の口承文芸は、近代の浪曲などに直接つながっている』とされ、最後に『願人坊主の実体は、ほぼ非人と同様であったようだ』と結ばれている。この根岸の書きぶりや、頭の意識的欠字にもそうした差別意識が見て取れる。岩波版長谷川氏注に願人坊主は『神田橋本町が集住地として知られていた。』とある(後の「淺草柳原」注を参照)。――勧進(Kangin)が願人(Gannin)という語に転訛したというのは、目から鱗。

・「大山石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)のこと。私の大好きな落語の「大山詣り」でも知られるように、江戸時代は庶民の根強い信仰を集めた。以下、ウィキの「大山阿夫利神社」より引用すると、祭神は『本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)』を祀るが、江戸時代までの『神仏習合時代には、本社の祭神は、山頂で霊石が祀られていたことから「石尊大権現」と称された。摂社の祭神は、俗に大天狗・小天狗と呼ばれ、全国八天狗に数えられた相模大山伯耆坊である』。社伝によれば崇神天皇の御代の創建され、『延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している』。『天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた』。『中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。 江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した』。『明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称された』とある。

・「淺草柳原」筋違橋(現在の万世橋)から神田川が隅田川に注ぐ柳橋辺りまでの神田川南岸を言う。江戸切絵図でも柳が書き込まれており数多く植えられていたようすが分かる。ここは現在の千代田区神田須田町1及び2丁目・岩本町3丁目・東神田2丁目・日本橋馬喰町2丁目・東日本橋2丁目北端に当る。岩波版長谷川氏注によれば、先に掲げた願人坊主の集住地であった橋本町は、この浅草柳原一帯に『に接しており、橋本町居住者を指すのであろう』と記されている。この橋本町とは江戸切絵図で見ると現在の東神田1丁目付近に相当する。なお、この記載は、あくまで同和的歴史的な過去の事実としてのみ理解されたい。

・「鞍馬流」現在の京都府京都市左京区鞍馬本町にある鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)の流れを汲むという意。鞍馬寺は当時は天台宗の寺院で(1949年に独立して現在は鞍馬弘教という仏教宗派の総本山という位置付けである)、開基は伝承上は鑑真の高弟鑑禎(がんてい)とされている。往時の鞍馬寺は十院九坊より成りその中の大蔵院と円光院の二つの願人坊主の流れがあったらしく、鞍馬寺を本とすることから、ここに示されるように寺社奉行が彼等を管轄していた。

・「□□といへり」底本では「□□」の右に『(原本約二字分空白)』の注を附す。当時の被差別者集団の頭領であることから、意識的に欠字としたものか。

・「土井故大炊頭」土井利里(どいとしさと 享保7(1722)年~安永6(1777)年)のこと。肥前国唐津藩第3代藩主・下総国古河藩初代藩主・京都所司代・土井家宗家8代。ウィキの「土井利里」より引用する。『父利清は土井家の分家5000石の旗本で、本家の唐津藩主・土井利実に子がなかったため、兄の土井利延が家督を相続していたが、利延が間もなく死去したため、利延の弟の利里が家督を相続した』。『幕府では奏者番となった後、古河へ国替されて土井家は家祖利勝時代の領地古河へ復帰。さらに利里は寺社奉行を経て京都所司代にのぼり、老中の一歩前まで来たところで死去する』。『利里も子に恵まれず、はじめ旗本・久世広武の子を迎え利剛と名乗らせ養嗣子としていたが早世』、『その後、川越藩主・越前松平朝矩の子を迎え利建と名乗らせていたが安永4年(1767年)廃嫡、ついで西尾藩主・大給松平乗祐の子を利見と名乗らせ家督を相続させた』とある。同記事の「官職位階履歴」によれば利里は延享元(1744)年に従五位下大炊頭(おおいのかみ)に叙せられている。彼が寺社奉行であったのは宝暦131763)年から明和6(1769)年の間である(この間、根岸は評定所留役から御勘定組頭(明和5(1768)年)となっている)。従って本文の記載から、本話柄は宝暦131763)年から明和5(1768)年の間の出来事となる(但し、もっと限定できる可能性がある。以下の「秋元家」注を参照されたい)。単なる官職位階であるから意味はないが、「大炊頭」について一応説明しておくと、宮内省配下の大炊寮の長官である。宮中の神事・仏会その他諸宴席等に於ける食材管理から調理全般及び諸国から献納される米穀の収納と分配を司った役職である。なお、「故」が入っているのは孫(土井利見の養子)に当る根岸の同時代人土井利厚(としあつ 宝暦9(1759)年~文政5(1822)年)が安永6(1777)年1220日利見の養嗣子となって古河藩襲封した際、同じく大炊頭に叙せられており、同じ役職を勤めていたためである。因みに、本巻が執筆された下限である天明6(1786)年頃は、この土井利厚の方は寺社奉行で、享和元(1801)年には京都所司代、享和2(1802)年には老中に就任しており、根岸より22歳年下ながら、出世街道をひた走った感がある人物である。

・「添翰」訴訟手続きをする際の、委細を支配頭が認(したた)めた添え状。

・「觸頭」社寺及びそれに準ずる集団の中から選ばれた、寺社奉行が発した命令の伝達及び寺社から出る訴訟の取り次ぎに従事したその代表社寺及びその担当者を指す。

・「留役」評定所留役。現在の最高裁判所予審判事相当。

・「役場中間」ここでの「役場」は特殊な用法で、火事場の意である。火消し役が役する火事場の謂いであろう。専ら消防作業に従事した中間のこと。

・「看板」武家の中間や小者(こもの)などがお仕着せにした短い衣類。背に主家の紋所などを染め出したものを言う。

・「予が屋敷」根岸鎭衞の屋敷は駿河台にあった。現在の神田駿河台1町目の日本大学のあった位置で、その道を隔てた台形をした現在の神田小川町3丁目は、江戸切絵図では全区画が「御用屋敷」(次注参照)と表示されている。

・「火消役の御役屋敷」旗本が任ぜられた定火消(じょうびけし)の役屋敷(消防担当役となった者が待機する指定された屋敷)。定火消は明暦3(1657)年1月に起こった明暦の大火の後、四代将軍家綱が命じて作られた消防団組織である。若年寄支配で江戸市中の消防に当った。万治元(1658)年に4組が設置され、後に10組に増やされた。十人火消し、寄合火消しとも言う。

・「若山某」未詳。

・「秋元家」山形藩。譜代大名6万石。時代的に見て、この時の秋元家当主は老中、武蔵国川越藩主、後に出羽国山形藩主となる秋元凉朝(あきもとすけとも 享保2(1717)年~安永4(1775)年)であったと思われる。以下、ウィキの「秋元凉朝」から引用する。『4000石を領した大身旗本・秋元貞朝の三男。子は娘(阿部正陳正室)。官位は従四位下、摂津守、但馬守。名はすみともとも読む。隠居後は休弦と号する』。『寛保2年(1742年)、先代川越藩主・秋元喬求が29歳で早世したため、藩主の座を継ぐ。幕府では寺社奉行、若年寄、老中を歴任した。老中在職は延享4年(1747年)- 明和元年(1764年)』であったが、彼は『田沼意次の権勢が強まるのを不快に思っていた節があり、当時側衆の一人に過ぎなかった意次と殿中ですれ違ったとき、挨拶を欠いたのは老中に対する礼を失していると、その非礼をとがめたエピソードは有名である』。『明和元年(1764年)に老中を辞任するが、田沼の権勢に対する抗議の辞任とみられ、のちに川越から山形に転封させられたのは意次による報復と見る説もある』。『明和5年(1768年)隠居。養子だった先代・喬求の次男・秋元逵朝が早世していたため、家督は甥で嫡子の座を継いだ秋元永朝に譲る。安永4年(1775年)死去した。「秋元家の家士有り」として根岸が敢えて彼を老中としなかった点を考えると(するのが当然である)、少なくともこの話柄の後半の出来事は、秋元凉朝が出羽山形に転封を命ぜられた明和4(1767)年から翌明和5(1768)年の一年間に限定出来るのかも知れない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 無頼の者も自ずとその首領には服するという事

 

 当世には願人坊主と呼ばれる無法者の乞食僧がおる。

 昨今、思いつきで手を変え品を変えしては――例えば、ある時は、『大山石尊へ奉納致す物じゃ』と言うて、凡そ神社への奉納に適う物とは思えぬ異様なむくつけき物を拵えては町々を練り歩いて銭を乞い、ある時は荒行と称して寒空(さむぞら)の下(もと)無闇に冷水を浴びては喜捨を請い、ある時は代参の御用を仕ると言うては乱暴に錫杖を振り回しつつ通りを闊歩して一銭、二銭の駄賃を乞う――といった乞食と変わらぬ者どもである。だいたいが無頼の少年――父や親族の勘気に触れて勘当された不良少年が、一体にこうした輩に堕す。

 浅草柳原に、こうした連中が住んでいる長屋があって、その頭(かしら)は鞍馬流の□□という者である。土井故大炊頭(おおいのかみ)利里殿が寺社奉行を勤めておられた頃、この願人坊主の一人が奉行所に駆け込んで来、仲間及び町方の者どもから理不尽な打擲(ちょうちゃく)を受けたと訴え出た。

 しかるに奉行所では、このような事件の場合には、必ず、その支配の頭(かしら)である者の一件に関わる添え状なしには取り上げない決まりとなって御座る故、寺社奉行配下の役人が、あれやこれや、分かり易く、そうした事情を説明した上、更に、その程度のことで、訴訟なんどを起こしたらば、いろいろと面倒なること、これ生ずるによってと、利害をも述べて申し渡したのだが、元来がとんでもない頑愚ならんか、この凡僧、一向、納得せず、御公儀の定めた大法をも弁えず、ただただその身の不満を言い募って承知する気配これなく、果てはぎゃあぎゃあ騒いで手がつけられない状態になった。

 埒が明かぬと見た下役の者が、仕方なく、かの触頭である鞍馬流の□□を呼び出し、かくかくしかじかと訳を述べると、触頭は奉行所へ赴き、かの願人坊主に二言三言何やらん、恫喝叱責した――それだけで、さっきまで気違いのように手をつけられなかった願人坊主が――叱られた子供のように急にしょぼんとして――一言もなくこそこそと立ち去って御座った。これは私が評定所留役をして御座った折りに、目の当たりに見た事実にて御座る。

 また、火消役の者に役場中間という者らがおるが、これがまた、寒かろうが暑かろうが、のべつまくなし半被看板一枚で通し、博打、大酒を常として、金銭に窮した折りには、何と普段はいている草鞋や褌までも質に入れてかぶくといった、とんでもない無頼の輩である。

[根岸注:彼らは草履を質に入れている間は、万一、火事があって火事場へ駆けつけるに際しても、素足のままにて出るという。無頼の者とはいえど、その仲間内の掟は、厳重に守られているのである。誠(まっこと)面白い。]

 私の屋敷の向いには、実は、この火消役の御役屋敷がある。ある日のこと、私の家の近隣に若山某という、秋元家御家中の者が住もうて御座ったが、彼の下僕とこの役場中間が口論の末に一悶着あったらしい。ところがこの中間の者ども、

「理不尽なる打擲に遇(お)うた!」

なんどという如何にもな言い掛かりを申し立てながら――そうさな、中間三人ばかりであったか――それこそ理不尽に若山の宅(うち)の玄関へと上がり込み、

「……おうおうおうおう! 儂(あっし)ら、天下の往来で、打擲に遇(お)うて赤っ恥、掻いた! 最早、火事場のお勤めも、こんな恥掻かされては、勤めちゃ、居らんねえ! さあ、いっそのこと、殺せ! ああん? さ、殺せや!……」

と狂うた馬の如く大騒ぎして暴れ回る故、若山も大層難儀なれば、自ら御役屋敷のへ出向き、そこの御家来衆にかくかくと告げ、対処方宜しくと申し入れたところが、彼ら役場中間の頭と称する、如何にも小柄な親爺がやって来て、一通り、かの男どもを叱りつけて、

「早々に帰りませ!」

と言い放った。ところが、この連中、何分にも既にしっかり酒が入って気が大きくなっておったからか、全く以って馬の耳に念仏の体たらく、全く言うことをきかずに玄関内でぐだぐだしている。―― 

――と――

この小さな親爺、玄関内に入り込むと、それぞれの者の襟首を軽々と引っ捕らえ――

すたん!――すとん!――すたあん!――

――と三人纏めて玄関前の地べたに放り投げた。――

――そうして、親爺が連れて来た役場中間の子分どもに引っ立たせ、御役屋敷へと連れ帰って御座ったのであった。――

 一見、その様如何にも弱々しげな親爺で御座ったれど、かの連中を捌いた、その鮮やかな手は、正に大の男を子供のように扱(あつこ)うて御座った……

……とは若山の話にて御座る。

 何ごとにあっても、あるものの頭(かしら)となる者には、やはり、自ずと不可思議なる威厳や威力があるものなのであると、興味深く聞いたことである。

 

 

 人の貧富人作に及ざる事

 

 佐州澤根湊は廻船等を以家業とする者多し。濱田屋某とて至て吝嗇(りんしよく)にて追々家富みける。外々草きりの問屋共の内にも身上相應の者あれども追々衰し者もありしが、彼濱田屋が吝嗇を土地の者も恨みて、濱田屋が船は難船にもあへかしと思ふに、外々の者の船は難船などにて大きに損失あれど、濱田屋が船はその愁もなし。土地の者共濱田屋が諸(しよ)差引(さしひき)金銀貸方等のいらひどきを恨みて、或時夜に入て若き惡者共申合、濱田屋に損分を懸候樣にと、懸置し船の帆柱を二ツ三ツに切りて心よしとて忍び歸りけるに、翌日聞しに濱田屋の帆柱と思ひ切りしに、濱田屋の持舶(もちぶね)には無之、近年衰へし外廻船持(もち)の帆檣にてありしと也と、土地の者語りける由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:人には人の固有の徳(仏教なら業とか果報とか言おうが、根岸は仏教嫌いだから言わない)で連関。お馴染み佐渡奇譚シリーズの一つ。

・「人作」人為・作為。

・「佐州澤根湊」新潟県佐渡市沢根。旧新潟県佐渡郡佐和田町(さわたまち)沢根。佐渡ヶ島の南の真野湾の北西岸に位置し、旧来は北風を避けるための海路の要衝であったが、現在は島内道路交通の要、商業地域としても発展している。

・「濱田屋某」本名笹井(旧主姓は川上)。ブログ「佐渡広場」の本間氏の「歴史スポット50:佐渡・廻船業と千石船」という記載にこの浜田屋についての極めて詳しい記載があるので、以下、引用させて頂く。

   《引用開始》

1.沢根の廻船問屋・浜田屋 笹井家

①佐渡・相川へ渡来

 1500年後期石見(島根県)浜田より川上権左衛門(浜田屋本家初代)、川上伊左衛門、久保新右衛門ら3人が佐渡・相川庄右衛門町へ渡来。1596年に笹井家の先祖 佐々井九之助が越前(福井県)より渡来。(いずれも、金銀稼ぎが目的に決まっている)

②沢根に居を移し商売

 1)1663年佐々井九之助の子が浜田屋の娘婿となり沢根へ出て浜田屋権左衛門という商人になり、小船1隻を持った。相川や沢根・鶴子の金銀稼ぎは景気変動が大きく、相川にも近くて優れた港をもち、背後には米どころ国仲平野のある沢根でお客のニーズを聞きながら商売した方が、資金を投下しても一攫(いっかく)千金の夢はあるが回収に確実性がない事業に投資するより安全で、発展が期待できる好立地と見たのであろう。

 2)1677年、佐渡の廻船業として既に名高い船渡源兵衛と鮭・筋子・粗鉄・千割鉄などの取引が始まり、その後も米・大豆・鉄などの取引を続けている。

 a.本家は鉄の産地石見の出身、分家・新屋は日本海物流の中心地で鉄などが集まる敦賀がある越前の出身。浜田屋が鉄屋といわれていたのは、そういった関係からである。

 b.沢根には鶴子銀山、隣は相川金銀山があって鉄製品の需要は高く、背後は米どころ国仲平野で農工具作りや修理など鉄の需要が高い。自然、近くに鍛冶町が形成された。現に沢根に鍛冶町があり、鍛冶とは仕事上不可分な関係にある炭屋町の町名がある。

 3)1696年、新潟で船渡源兵衛より75両借りるとある。

 当時佐渡は、人口増で米不足のため米が高騰、他国への佐渡産物資の販売は物不足・物価上昇を抑えるため禁止で米・大豆などは新潟から移入。

 浜田屋は当時、まだ小資本のため江戸初期に先行して稼いだ船渡源兵衛に金融を頼み、船は持っても島外へ乗り出す程のものでないため源兵衛船に依存した。

 4)元禄年中(16881703)に、沢根・上町から沢根・下町に移転、やがて沢根町名主となる。川上から佐々井(笹井)に名前が変わる(浜田屋新屋)。1717年三代浜田屋権左衛門没。(三代の時に、浜田屋が町を代表するまでの繁昌を次第に築き上げていった)

③本格的に廻船業に乗り出す。(中古船→新造船→大型船→複数船持ち)

 1)1750年浜田屋四代目が100石積の中古船を購入し、雇い船頭で運航。1753年羽茂・赤岩の五郎兵衛船・長久丸150石の中古船を20余両で購入。1764年赤泊・腰細の弥右衛門船(150石積・5人乗り・15反帆)を購入、大黒丸と称す。船頭は宿根木の武兵衛。

 2)1768年宿根木で2代目大黒丸(200石積)を179両で新造(前年沢根の火事で、大黒丸が類焼したため)。弁財船。船大工は小木町の徳兵衛、船頭は宿根木の権兵衛。船底材にケヤキ、重木(おもき)などはヒョウガ松[やぶちゃん注:このような松の種は不学にして知らない。日向松のことか?]といった脂ののった上物を使い修理などして1807年までの41年間使ったという。3代目大黒丸の新造には、縁起をかついで2代目の船材を使用。

④大型船の購入・廻船で商圏を瀬戸内・上方に拡大

 1)1791年、相川の覚左衛門より500石船の明神丸を購入。「佐渡路を放つより否や、風よろしければ直ぐに沖梶にて下関へ4日目あるいは5日目に着して、大坂・堺・瀬戸内を掛け回った」。

 2))1792年宿根木の200石船5人乗りの有田久四郎船を購入して改造し、大乗丸(表石131石、5人乗り)と改名。1798年他に譲り、宿根木の石塚権兵衛船を購入し200石から250石に改造し幸徳丸と改称。2年後相川の葛野六郎右衛門へ譲り、宿根木の佐藤穴口家より320石積船を買い入れ、改装して幸徳丸300石船とした。1803年、赤泊の葛野伝右衛門に譲り、翌年相川の葛野家所有の400石船を買い大徳丸と名付けた。

 3)寛政~化政(17891829)にかけ家業の隆盛期は、大乗丸・幸徳丸・大徳丸が活躍。大乗丸は1794年宿根木の弁財船を改造した200石積、1799年売却、翌年宿根木の穴口家の高砂丸320石積を購入し幸徳丸と改称。1804年本家の大徳丸を手船とした。1813年時点の浜田屋の本家・分家の船は、大黒丸(1762年中古船・諸道具付きで購入、1822年再び沢根・七場で造作し510石積・9人乗り・21反帆にした)・大徳丸(308石積・9人乗り)・明神丸の3隻。

⑤廻船の航海実績と損益勘定例

 1)1805年(文化2)幸徳丸

 2月18日新潟県寺泊より村松米・金納米・地廻米を購入、3月19日広島県竹原で村松米・金納米を販売、三田尻塩を購入、4月10日島根県安来で三田尻塩一部販売、鉄を購入、4月26日寺泊で村上米・長岡米を購入、6月27日広島で村上米・長岡米を販売、同地で7月6日三田尻塩を購入、7月24日新潟で三田尻塩を販売、10月広島で米子繰綿を購入し、新潟で販売。

  粗利74両、諸払い差引純益32貫。

 2)1808年(文化5年)大徳丸 

  2月佐渡より佐渡米・冬干しイカ・干し鰯(イワシ)を購入、3月兵庫(神戸)へ佐渡米・冬干イカ・干し鰯販売、3月25日石川県小松より小松塩を購入し、4月酒田で塩を販売、その後安来で鉄を購入、4月28日酒田で米沢米・最上米を購入し、6月12日兵庫で米を販売、?[やぶちゃん注:ママ。但し、同ブログの別記事からこれは「三田尻」であることが分かった。]で三田尻塩を購入し、6月15日酒田で多くを販売、閏(うるう)6月1日酒田で庄内上御蔵米を購入、また沢根で土用干しイカを購入し、8月兵庫で米・イカを販売、閏8月16日三田尻塩、その後香川県丸亀で備中繰綿、島根県出雲で米子繰綿を購入し、10月沢根で塩を 11月備中繰綿の約半分を販売、翌年2月寺泊で残った繰綿全てを販売。

  粗利150両、諸払い86両、差引純益63両。

 3)『海陸道順達日記』編者の佐藤利夫氏は、船の年間損益の分岐点は諸勘定記録から50両と見る。粗利74両で純益32貫、粗利49両で損失45貫の実績例などあり。享和元年幸徳丸の諸経費の実例内訳は、次のとおり。

  船主小払い:銭76904文、金17分、道具代:銭646文、水主(水夫)給銭:銭19504文、船頭給銭:金2両、船糧米代:銭32860

  合計:金48860文、錢930文。

 4)新造船の建造費は、200石積船180両として年間平均粗利100両・純益30両とした場合、6年で投下資本の完全回収ができる。投下資本利益率16.6%。なお、利足(利息)は年5厘(5%)が相場(史実の断片からみられる)であるから、金を貸した場合の3倍の利益となる。また、幕府の御用船による米運搬は、7年を超える船は出来ないことになっていた。おそらく、改造船はその時点から起算するものであろう。

⑥余裕資金は、田畑購入にあてた。

 1)1756年にはじめて畑野・大久保と河内の田を購入し、廻船による利益を土地取得向けていき、幕末までに2万刈(20ヘクタール)を所有する地主となった。

 2)大黒丸と明神丸と大徳丸が記載されているのは、1875年(明治8)能登・福浦の佐渡屋客船帳が最後で、1890年(明治23)庄屋を襲った相川暴動で船問屋をやめている。

   《引用終了》

根岸が佐渡奉行であったのは天明4(1784)年3月から天明7(1787)年7月迄であるから、まさにこの浜田屋が大型船を購入し、廻船で商圏を瀬戸内や上方まで拡大したところの、寛政~化政(17891829)の家業隆盛の直前期に当っていたわけで、これはもう、眼から鱗である。

・「草きり」草分け。物事や商売の創設者。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人の貧富というものには人為は及ばぬものであるという事

 

 佐渡ヶ島の佐和田(さわた)沢根の港は廻船業等を以って家業とする者が多い。

 濱田屋某といって、到って倹約家の廻船問屋は、その吝嗇(りんしょく)の御蔭を以って家も富み栄えて御座った。

 外にも廻船の草分け的な問屋で、以前には成功して相応な身代を築いておった者もあったが、そうした連中も次第次第に衰えて消えていったりしたので、かの濱田屋ばかりがいや栄(さか)にて栄えてあるを、土地の者どもは内心――『ど吝嗇(けち)!』『守銭奴!』と陰口を叩きながら――恨んで御座ったという。

 同じ廻船問屋の中には、

『……浜田屋の船は難破するがよいじゃ……』

なんどと不埒にも思うたりする者もあったが……そのように思う者がある時に限って……何と浜田屋の以外の者の船が難破なんど致いて、大いに損失があったりしても……当の浜田屋の船は、一向にそんな愁いもなかったという。

 ある時、土地の者共どもの中で、浜田屋から借り受けたりした諸々の貸与の金品等につき、浜田屋が貸借の日限を厳しく言い立てて取りに来たのに恨み骨髄に達し……ある深夜、闇に乗じて、不良少年どもと謀り、浜田屋に大損を仕掛けてやろうということと決し……碇泊していた浜田屋所有の船の帆柱を、こっそりと鋸(のこ)で……ごりごりごりと……二つ三つに無惨に切り、

「……ざまあ! 見ろ!……」

と、ほくそ笑んで帰ったという。……

……ところが……

……翌日聞いたところが……浜田屋の帆柱と思って切った帆柱は……これ、浜田屋の持ち船にて、これ、御座なく……最近、すっかり落ち目になってしまった別の廻船問屋の持ち船の帆柱に御座った――虫の息であったその問屋はこれにて息絶え、またまたその分、浜田屋に利が転がり込んで御座ったとのこと――と、土地の者が私に語ったことにて、御座る。

 

 

 佐州團三郎狸の事

 

 佐州相川の山にニツ岩といへる所あり。彼所に往古より住める團三郎狸といへるある由、彼地の都鄙(とひ)老少となく申唱へけるに、古老に其證を尋しに、誰見しといふ事はなけれ共古來より申傳へぬる由なり。享保元文の頃、役人の内寺崎彌三郎といへるありし。相川にて狸を見懸て拔打に迯る所を足をなぐりし由。

  此寺崎は後に不束(ふつつか)之事ありて家名斷絶せしよし。

しかるに芝町に何の元忠とかいへる外科の有しを、夜に入て急の病人ありとて駕を以て迎ひける故、何心なく元忠も駕に乘りて行しが、ニツ岩とも覺ゆる所に、門長屋其外家居等美々(びび)しき所に至り、主出てその子怪我せし由にて元忠に見せ、藥抔もらひ厚く禮を施し歸しける由。然るに其後藥を取に來る事もなく、厚く謝絶等をもなしける故又尋んと思ひけるが、曾て其所を知らず。程過て聞合せぬるに、元忠が療治なしつるは團三郎が子狸にてありしや、實(げに)も人倫の樣殊にあらずと語りし由、國中に語り傳へしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:佐渡奇譚連関。

・「佐州」佐渡国。

・「團三郎狸」このよく知られた二ッ岩の団三郎狸を始めとする佐渡のタヌキ憑き及び妖獣としてのタヌキについては、例えば佐渡在住のlllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』が素晴らしい。読み易いくだけた表現を楽しみ写真なども見つつ、リンクをクリックしていると、あっと言う間に時間が経つ。それでいて生硬な学術的解説なんどより生き生きとした生(なま)の佐渡ヶ島が浮かび上がってくる。必見である。氏の記載に依れば、佐渡には元来、タヌキもキツネも棲息しなかったが、慶長6(1601)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりとある(次の「天作其理を極し事」に登場)。因みに、私は実は熱烈な佐渡ヶ島ファンである。なお、佐渡では狸をムジナと呼称することが多いという。なお、底本の鈴木氏注によれば、『配下に、おもやの源助、東光寺の禅達、湖鏡庵の才喜坊などというのがいた』ともある。

・「相川」現在、佐渡市相川。旧新潟県佐渡郡相川町(あいかわまち)。佐渡島の北西の日本海に面した海岸にそって細長く位置していた。内陸は大佐渡山地で海岸線近くまで山が迫っている。南端部分が比較的なだらかな地形となっており、当時は佐渡金山(相川金山)と佐渡奉行所が置かれた佐渡国の中心であった。

・「ニツ岩」現在の新潟県佐渡市相川にある。二ツ岩団三郎狸と共に、二ツ岩明神が祭られた聖石遺跡の一つとしても知られる。以下、須田郡司氏の「日本石巡礼~聖なる石に出会う旅・36」に二ツ岩明神の写真や解説がある。要必読。

・「享保元文」西暦1716年から1741年。根岸が佐渡奉行であったのは天明4(1784)年3月から天明7(1787)年7月迄である。

・「寺崎彌三郎」不詳。少なくとも享保元文年間の歴代の佐渡奉行を確認したが寺崎姓はいない。

・「芝町」現在の相川町芝町。相川町の北部の海岸地区である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 佐渡の団三郎狸の事

 

 佐渡国相川の山に二ツ岩という場所があり、ここに古くから棲んでいる団三郎と称する狸がおると言い伝えられて御座る由。

 佐渡ヶ島の島中の者――老人だろうが若人であろうが、町屋の者であろうが田舎の者であろうが――これまた皆、このことをしょっちゅう口にするので、私が、

「団三郎なる狸、まことに居るのか?」

と古老に訊ねてみたところ、

「……へえ、誰が見たということはないので御座いまするが……何分、古(いにしえ)から言い伝えられておりますればこそ……」

との由。

 何でも享保元文の頃、本土より使わされた役人の一人に寺崎弥三郎なる者が御座った。この男、ある時、相川の部落で狸を見かけ、逃げるところを、一刀抜き打ちで、足を斬りつけた――確かに手ごたえがあったとのこと――ことがあった由。

[根岸注:この寺崎弥三郎なる人物、後日、不祥事に因って家名断絶となった由。]

 ところが……柴町に何とか元忠(げんちゅう)――姓は失念致いた――という外科医が御座ったが、そこに夜に入ってから急病人が出たとのことで駕籠を以って迎えが来て御座った。遅き時間なれど駕籠もあり、急患なればとて、その駕籠に乗って行くうちに、夜景ながら、どうも二ッ岩の極近くとおぼしい所で、門や長屋その他主人家居なんども如何にも絢爛豪華なる御屋敷に辿り着いた。

 早速に主(あるじ)じきじきに元忠を出迎えると、

「……私めの子倅(こせがれ)めがとんだ怪我を致しましてのぅ……」

と慇懃に告げて、元忠に診させた。――何やらん刃物の傷の様にて、深くはあったれど命には別状なしという見立てにて――療治致いて薬なんどを渡したところ、主は元忠に厚く謝礼をなした上、再び駕籠で帰した由。

 しかるにその後(ご)、薬を取りに来る事もなく、一度(ひとたび)の療治にては不相応謝礼を貰(もろ)うたこともあれば、怪我の直り具合なんど一目見んと思い、また訪ねてみようと思うたところが――かの二ッ岩の極近くとおぼしい所を――隈なく探してみたものの、一向に、あのような御殿の如、御屋敷は御座らなんだ由。

 後に元忠、他の者との話の中で、かくかくの事があった由言うたところ、座の者、

「そりゃ、お前さんが療治致いたは、寺崎殿に斬られた団三郎の子狸だったんじゃねえか?」

と言うた。それを聞いた元忠も、

「……そういえば、何とのう、ただの人……『人間』のようには感じられなんだところが、あったような……」

と語って武者震いしたとの由。

 この話は今も佐渡の国中に、語り伝えられておるとの由で御座る。

 

 

 天作其理を極し事

 

 佐渡の國は牛馬猫犬鼠の類の外獸物なし。田作を荒すべき猪鹿もなく、人を犯し害をなせる狐狼の類(たぐひ)もなければ、庶民も其愁ひをまぬがれぬ。しかるに金銀山の稼(かせぎ)有故鞴(ふいご)は夥しく遣ふ事なるに、鞴には狸の皮なくては成がたし。しかるに外獸物はなけれ共佐州に狸計(ばかり)はある也。古へおふやけより命ありて放し給ふとも言へども、左あるべき事にもあらず、自然と狸はありて其國用を辨じけるも又天の命令の然る所ならんか。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:佐渡狸(佐渡ではムジナと呼称することが多い)奇譚連関。前項でも引用した佐渡在住のlllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』は必読。氏の記載に依れば、根岸が否定しているのに対して、佐渡には元来、タヌキもキツネも棲息しなかったが、慶長6(1601)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりであるとある。

・「鞴(ふいご)」は底本のルビ。吹子。「吹革」(ふきがわ)が「ふいごう」となり、それが転訛した語。金属の精錬や加工に用いる火をおこすための送風器。古くは獣皮を縫い合わせた革袋が用いられた。足で踏む大型のものは特に踏鞴(たたら)と呼ぶ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 天工はその理を窮めてあらせられるという事

 

 佐渡国には牛・馬・猫・犬・鼠の外には獣の類いはおらぬ。田畑を荒らすところの猪や鹿もおらず、人を欺き害をなす狐や狼もおらぬから、そういう点では庶民もいらぬ心配をせずに済んでおる。

 ところが金山銀山の精錬をこととする故、鞴(ふいご)は夥しく用いねばならぬこととなっておるが、鞴は狸の皮でなくしては作ること、これ、難しい。しかるに今述べた通り、佐渡にはこれといった特殊な動物はおらぬのにも拘わらず、狸だけは、おるのである。これについては、昔、御公儀より鞴御用の向きにつき御命令があって、狸をお放ちになられた由、言われては御座るが、まさかそんなことがあったとも思えぬ。

 むしろ、古(いにしえ)より自ずから狸はここ佐渡におって、その国がゆくゆく必要とすることになるものを賄(まかの)うようになって御座ったは、既に已に天が元より、天が玄妙なる配剤をなさっておられたという証しでは御座らぬか。

 

 

 靈氣殘れるといふ事

 

 佐州外海府(そとかいふ)といへるは別(べつし)て海あれ強き所也。鳥井某其(その)湊(みなと)に番所役勤し時、同所濱邊に住居せし者、ある夜船を引上げ候聲のしける故、海端へ至り見るに聊かかゝる事なし。兩三夜も同じ聲なしける故、其濱邊に至りしに、彼聲のしけるあたりと思ふ處に覆へる船流寄りたり。驚きて大勢人夫をかけ引起し見しに、鍋釜の類は沈しと見へて見へされ共、箱桶の類は船の中に有しが、其箱に海府村の村名等有けるにぞ、扨は此程行衞知れざりしといひける船ならんとて、其村方へ知らし、人來て改めけるに相違なかりしと也。右船は相川の町へ薪を積廻し戻りの節、鷲崎の沖にて難風に逢ひ行衞知れずなりしが、自然と乘組の靈氣殘りてかく聲をなしけるものならん。海邊には時々有事の由語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:佐渡奇譚連関。久しぶりの霊異譚である。短くシンプルであるが、映像的にも音響的にも印象的で、「耳嚢」中でも私の好きな怪談の一つである。

・「佐州外海府」佐渡ケ島の外海府海岸の地名。佐渡でも私の好きな景勝地である。以下、ウィキの「外海府海岸」から引用する。『新潟県の佐渡島西岸に位置する海岸。両津地区の弾崎から相川地区の尖閣湾まで伸び、約50キロメートルにも及ぶ大規模なものである。海岸段丘が発達しており、一帯には奇岩、奇勝が連続する県下随一の景勝地として名高く、佐渡弥彦米山国定公園の代表的な景勝地の一つで、佐渡海府海岸として国の名勝にも指定されている』。『外海府海岸は非常に規模が大きく』、尖閣湾・大野亀・二ツ亀・平根崎(ひらねざき)・入崎(にゅうざき)等、『見所が非常に多い』。

・「鳥井某」不詳。

・「番所役」現在で言う港湾警察署長及び港湾管理事務所所長相当かと思われる。

・「夷港」現在の両津港のこと。古くは夷港と呼ばれたが、明治341901)年に夷町と湊町が合併して両津町が誕生、大正6(1917)年に港も両津港と改称された(lllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」:両津港』による)。

・「鷲崎」大佐渡(島の張り出した北側部分)の北端に位置する。地元では「わっさき」と呼称する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 霊気が残るという事

 

 佐渡の外海府という海岸域は特に海が荒れ易く波も荒い。

 鳥井某なる人物が夷港(えびすみなと)の番所役を勤めておった頃の話である。

 当地浜辺に住もうておった者、ある深夜のこと、

「――えい! や!――せえ! の!――」

と陸に船を引き上げる掛け声が聞こえた。こんな夜中にと不審に思うて、海っ端(ぱた)へ出て見たところが、全く以ってそのような影も形もない。……

次の晩方も……

「――えい! や!――せえ! の!――」

その次の晩方も……

「――えい! や!――せえ! の!――」

……かく同じことが三晩も続いたため、同じ村人は三日目に再びその浜辺へ出てみた。

……と……

……かの声がしたかと思われる辺りに……一艘の転覆した船が流れ着いておった。

 驚いて近隣の村の衆を呼び集め、皆して引き起こして見たところ、鍋釜の類いは既に水底に沈んでしもうたと見えて見当たらなかったものの、箱や桶の類いは船中に残っておった。その箱には海府村の村名などが書かれておった。

「……さてはこれ、先日来、行方知れずになったという船に違いない……」

と取り急ぎ、その村方へ知らせ、関わりの者が来て、船その他を確かめさせたところが、果たして、相違なきものにて御座ったという。

 ――――

「……この船は相川の町へ薪を積んで向かい、荷を降ろして戻る途中、鷲崎の沖にて強風に逢(お)うて行方知れずになったもので御座ったが……。自ずと……乗り組んで御座った船乗りの、その霊気が残り……かく声をなして、この世の者へと知らせたのでも、御座ったろう……海辺にては、時折り、このような不思議なことが御座る……」

と、鳥井某が私に語った。

 

 

 精心にて家業盛なる事

 

 江戸四ツ谷に松屋某といへる大小の拵する者あり。其成立を尋るに、至て發明成者にて、昔は武家奉公抔なしけるが、如何成仔細有りてや町人と成て、四ツ谷の往還に古包丁古小刀其外古物の顆を莚(むしろ)の上に並べ商ひける者也しが、元來器用なる者にて刀脇差の柄を卷き、又研(とぎ)など仕習ひて、四五年の内に九尺店(だな)の拵屋(こしらへや)の鄽(みせ)を出しけるが、風與(ふと)思ひ付て外々拵にて五匁(もんめ)の柄卷(つかまき)賃をば三匁に引下げ、拾匁の研賃を七匁に引下げける故、自然と賴みても多くありし故、右直段付(ねだんづけ)いたし近邊の武家其外へ引札(ひきふだ)をなしけるに、四ツ谷糀町(かうぢまち)の拵屋共大きに憤りて、商賣躰(てい)の障りと成由にて奉行所へ訴出し故、呼出有之吟味候所、彼者申けるは、商賣方直段の儀我等仕候は定てあしく可有之候得共、あしきと思ひ給はゞ武家方より誂へ可有之樣なし、我等拵へ仕(つまかつら)ば、右の直段にて隨分利分もありて、相應に取續いたし候也、いわれなく高直(かうぢき)にいたし候ては旦那場(だんなば)の難儀、譬へば只今奉行所より申付有之候共、我等拵へ立(たて)候には隨分右の直段にて出來いたし候旨申ける故、奉行所にても尤に聞濟(ききすみ)て、障りも解ぬれば彌々(いよいよ)家業相励(はげみ)けるに、翌春の年始に一度弐度用事申付有之旦那場へも、聊の年玉を持て歩行(ありき)けるに、都合四百軒に及びし由。其後尾州家中の拵などせしに、大守の御聽(おきき)に入て、大守の御用をも被仰付けるにぞ、今は尾州御用といへる札を出し、弟子の十四五人も抱へ置て富饒(ふにやう)の拵やにて有よし、右最寄の人語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「四ツ谷」現在の新宿区南東部(凡そ市ヶ谷・四谷・信濃町等のJRの駅に囲まれた一帯)に位置する地名。時代によっては江戸城外堀以西の郊外をも含む内藤新宿・大久保・柏木・中野辺りまで拡充した地名でもあった。

・「松屋某」尾州様御用達となったのなら少しは記録が残っていそうなものであるが、未詳。

・「研(とぎ)」は底本のルビ。

・「九尺店」長屋にしても商店にしても最も小さなものを言う。間口9尺=1.5間≒2.7m。奥行きは通常、2間(3.6m)で3坪程の広さであった。

・「五匁の柄卷賃をば三匁に引下げ、拾匁の研賃を七匁に引下げける」銀貨の単位。データはやや下るが、あまり大きな差のないと思われる文化文政期(江戸時代、比較的物価の安定した時期でもある)で

金1両≒銀6065匁≒銭65007000

銀1匁≒銭108

のレートであった。一部の物価を参考に供す(やや異なるとしても、これよりも安い値段になろうかと思われる)。

3匁=米2升5合前後

3~5匁=大工手間賃(日当)

7匁=高級蛇の目傘

1015匁=医師初診料

参考までに歌舞伎桟敷席は何と銀35匁もした。

・「引札」商品の宣伝や開店の披露などを書いて配った広告。チラシ。

・「糀町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の長谷川氏の注を加味して作成した)。

・「旦那場」商人や職人などが御得意先を敬っていう語。得意場。

・「大守」尾張藩藩主尾張徳川家。本巻の下限を鈴木氏の推定に従って天明6(1786)年前後とし、本話柄が近過去の内容であるとすれば、尾張藩中興の祖と称された第9代藩主徳川宗睦(むねちか/むねよし享保181733)年~寛政111800)年)である。藩主としての在任期間は宝暦111761)年~寛政111799)年である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠心を尽くさばこそ家業盛んとなる事

 

 江戸の四ッ谷に松屋某という大小刀剣の拵えをする職人がおる。その起立を尋ねたところ、主人は到って発明なる者にて、その昔は武家奉公なんどをしておったが――どんな仔細があったものかは存ぜぬものの――町人となって、四ッ谷の通りに古包丁・古小刀その他古物刃物の類いを莚(むしろ)の上に並べて商いをしておったが初まりにて、生来、細工なんども器用にこなす者であったれば、太刀や脇差の柄を巻き、またその刃をも研ぐ技術なんどもそうした研ぎ職人からおいおい習い覚えて、四、五年する内に間口九尺の刀剣の拵屋(こしらへや)のお店(たな)を出店致いたとのこと。

 ある時、ふと思いついて、その外の拵え屋にては五匁(もんめ)が当たり前の柄巻き賃を三匁に、十匁が普通の刀剣類研ぎ賃を七匁と値下げした故、自ずと仕事の依頼も増えたため、この通り、

――四ッ谷 松屋

 御刀脇差拵所

  柄卷三匁 研七匁――

と値段を書き入れた引き札を作り、近辺の武家屋敷その他へ配ったところが、四ッ谷麹町辺りに営業する拵屋どもがひどく憤って、我等が商売の障りとなる由、奉行所へ訴え出た。

 そこで松屋に呼び出しがあり、吟味致いたところ、かの松屋の言い分は、

「我らの商売向きに於ける値段の付け方に就きてのことと存じます。さても我ら、この手間賃にて仕上げ候もの――安かろう悪かろうの定石に照らしますれば――定めて悪しき仕上がりならんと思しめし遊ばされましょうが、万一、お頼みになられた方々、その仕上がり悪(あ)しとお思いになられたのであれば、以後、お武家衆よりの誂え方ご依頼の件、かくまで沢山にては、これ、あろうはずが御座いませぬ。私どもにては、巻きにても研ぎにても、この値段にて随分、利潤も御座り、御覧の通り、相応に商売取引順調に相続いて御座いまする。逆に、理由もなく必要以上の高値を頂戴致しましては、却ってご贔屓のお武家衆のご難儀。――例えば、只今、お奉行所より――総てのお役人衆の御刀の柄巻きと研ぎ――申し付け、これ、御座ったと致しましても、私ども、この値段にて――十分にご満足の戴けるよう――仕上げ申すこと、これ、出来まする。」

との言上にて、奉行所にても、至極尤もなる話、と認めて訴えを退けた。

 御公儀のお墨付きも戴き、同業者の嫌がらせもなくなって何らの差し支えもなくなった故、松屋はいよいよ家業に励んだところ、翌春の年始には、それまでは一度か二度しか注文がなかった取引先をさえ御贔屓先となして、僅かばかりの粗品ながらも御祝儀を持参の上、年始の御挨拶に廻れる程に繁盛なした。その折りの年始廻りの先は、何と四百軒にも及んだということである。

 その後(のち)、尾張藩御家中の方々の御拵物御用なんど申し受けて御座ったところ、その評判を尾張藩御藩主様もお聴き遊ばされて、遂には御藩主様御拵物御用をも仰せつけられ、今に『尾州様御用達』という公認の名札(めいさつ)を出だし、弟子十四、五人も置き抱える豪商の拵え屋となったとの由、これは、その最寄に住んでおる者が語ったことである。

 

 

 前表なしとも難極事

 

 明和九辰年の江戸大火は都鄙(とひ)の知れる事也。其此日光神橋(しんきやう)の掛替御普請ありて、御作事奉行にて新庄能登守、御目付にて桑原善兵衞登山(とうさん)なしけるが、或日日光新宮に十神事(じふしんのこと)といへる神事神樂ありて、兩士も右拜殿にて見物なしけるに、一ツの烏虚空より礫(つぶて)のごとく新宮の白洲へ落て斃(たふれ)けり。兩士始め見物の者も立寄て見しに、鷲鷹に蹴(けら)れし氣色もなし、友烏等もありたりに見へず、不思議也といひけるに、修學院權(ごん)僧正も見物の席にありしが眉をひそめ、嗚呼(ああ)江府(かうふ)に何ぞ替りし事にてもなければよろしきといひしが、翌日に至りて江戸より飛脚到來、江戸大火の告あり、新庄桑原兩氏の江戸屋敷も右燒亡に洩れず有しと、桑原善兵衞後に豫州といへる時語りぬ。予日光登山の頃右十神事ありて見物に出し時も修學院出席なして、右の咄を修學院も語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。実録日光山東照宮霊異譚シリーズ。

・「明和九辰年」西暦1772年壬辰(みずのえたつ)。明和9年は1116日に安永元年に改元された。この改元、落語のような話である。火事風水害が続発した「明和九年」(めいわくねん)は「迷惑年」であると縁起を担いだ結果であった。

・「明和九辰年の江戸大火」江戸三大大火の一。明和の大火のこと。明和9(1772)年2月29日午後1時頃、目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火(放火による)、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅』、『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、死者数14700人、行方不明者数4060人(引用はウィキの「明和の大火」からであるが、最後の死者及び行方不明者数はウィキの「江戸の火事」の数値を採用した)。

・「日光神橋」日光山内の入り口にある大谷川(だいやがわ)に架かる朱塗のアーチ橋。現在の形状は寛永111634)年日光東照宮大造替(だいぞうたい)の際から変わらぬもので、記録にはこの時に将軍・勅使・行者以外の一般人の往来を禁止じたとされる。なお、この橋は山管蛇橋(やますげのじゃばし)という別名がある。これは天平神護2766)年、勝道上人が二荒山(ふたらさん=男体山)にて修行をせんと訪れた際、大谷川の急流に道を阻まれたが、神仏の加護を祈ったところ、深沙大王(じんじゃだいおう)が顕現し、赤青二匹の蛇で両岸を繋ぎ、その背に山管を生やした上、上人を対岸に渡したという伝説に基づく(「修学旅行のための日光ガイド」の「神橋」を参照した)。

・「御作事奉行」幕府関連建築物の造営修繕管理、特に木工仕事を担当、大工・細工師・畳職人・植木職人・瓦職人・庭師などを差配統括したが、この後、寛政4(1792)年に廃止されている。

・「新庄能登守」新庄直宥(しんじょうなおすみ 享保7(1722)年~安永8(1779)年)明和6(1769)年作事奉行、従五位下能登守。同8(1771)年より日光神橋造営の監督に当たる。安永3(1774)年には一橋家家老、同5(1776)年には大目付と累進した(底本鈴木氏注を参照した)。

・「御目付」旗本・御家人の監察役。若年寄支配。定員10名。

・「桑原善兵衞」桑原伊予守盛員(くわはらもりかず 生没年探索不首尾)。西ノ丸御書院番・目付・長崎奉行(安永2(1773)年~安永4(1775)年)・勘定奉行(安永5(1776)年~天明8(1788)年・大目付(天明8(1788)年~寛政101798)年)・西ノ丸御留守居役(寛政101798)年補任)等を歴任している。卷之一「戲書鄙言の事」の鈴木氏注によれば、『桑原の一族桑原盛利の女は根岸鎮衛の妻』で根岸の親戚であった。事蹟から見ると根岸の大先輩・上司でもある。「巻之二」「吉比津宮釜鳴の事」にも登場。

・「日光新宮」新宮権現。日光山二荒山(ふたらさん)神社の旧称。「日光修験道:日光の神仏」の記載より引用する。『日光三社(所)権現中男体山の神霊である。新宮の名は、開山勝道上人が、四本龍寺に堂を造り、その傍らに社を造り、山神を祀ったが、後に現新宮(二荒山神社)の地に移し、本堂(三仏堂)と社を造り、旧地を本宮と称し、新しい社地を宮と称したことによる。新宮権現は、本地千手観音、垂跡神は大巳貴命、応用の天部は大黒天』。『勝道上人は、日光開山に当たり、中禅寺に柱の立木をもって千手観自在の尊像を刻み、中禅寺大権現と崇め、男体の神霊を鎮め祀った。別名男体大権現とも日光大権現とも称するこの権現は、男体の山頂にて上人に影向し御対面になった。そのところに影向石が現在もある。今に至るまで山頂に登拝することを日光では禅頂と称する。この男体の山は、下に中禅寺湖を擁し、その周囲をとりまく山々に諸神を祀り、日光十八王子という。中世では、一々の山々を拝する夏峰の行があったが、あまりにも苛酷のため廃絶になってしまった』とある。

・「十神事」現在、この名前では残っていないものと思われる。もし、これが二荒山神社例大祭であるとするならば、現在、4月13日から17日まで行われている弥生祭であろうか。昔は旧暦3月に行われたことからこう呼称され、1200年の歴史を持つとされる。明和の大火は2月29日午後1時頃の出火で、一旦鎮火後同日午後6時頃に本郷から再出火し、駒込、根岸を焼亡、30日昼頃には再び鎮火したかに見えたものの、3月1日の午前10時頃になって馬喰町付近から再々出火、東に燃え広がって日本橋地区を全焼して完全鎮火している。これらの日付から、そう類推した。日光行事にお詳しい方の御教授を願うものである。

・「修學院權僧正」「修學院」は日光山輪王寺の中に置かれた管理運営機構の一つ。学頭修学院・東照宮別当大楽院・大猷院別当竜光院・釈迦堂別当妙道院・慈眼堂別当無量院・新宮別当安養院の以上五別当の他、新宮・滝尾・本宮・寂光・中禅寺の五上人、衆徒中・一坊中・社家といった階層組織を成していた。「權僧正」とあるから僧正に継ぐ次席。日光山輪王寺は天台宗。当時は神仏習合で日光東照宮・日光二荒山(ふたあらやま)神社と合わせて「日光山」を構成していた。ウィキの「輪王寺」によれば『創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた』。『「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもあり、堂塔は、広範囲に散在して』いるとある。

・「予日光登山の頃」根岸が「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(卷之二「神道不思議の事」より)したのは安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。本件より5年後のことであった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 未来に起こる出来事を予兆する不可思議なる前兆がないとも極め難い事

 

 明和九辰年の江戸大火は世間にてもよく知られている事実である。

 丁度、その頃、私は日光神橋の掛替御普請御用が御座って、作事奉行であられた新庄能登守殿、御目付であられた桑原善兵衞殿と共に日光山へ登山(とうさん)して御座ったが、ある日、日光新宮に『十神の事』と言う御神事及び御神楽が御座って、両人もかの拝殿にて神事を見物なさっておられたところ、一羽の鴉が虚空より礫(つぶて)の如く、新宮の御白洲の上へ落ちて死んだ。両人始め見物の者も傍に寄って見てみたが、鷲や鷹に蹴られた様子もない。空を見上げてみても、群れ飛ぶことも多い鴉ながら、外の仲間の鴉も見えぬ。両人ともに、

「……不思議なことも、あるものじゃ……」

なんどと言い合って御座ったところ、修学院の権僧正様も同じ見物の席におられたが、如何にも眉を顰められて、

「……ああっ……江戸表に何ぞ変わったことでも……なければよろしいがのう……」

と仰せられた。

 翌日になって江戸表より早飛脚が来たって、江戸にては大火なる由、報告がなされ、正に新庄・桑原両氏の江戸屋敷もこの焼亡から遁るること能わず、全焼致いた由にて御座ったと。

 桑原善兵衞殿が後に伊予守となられた時、私に語られた話で御座る。

 この一件は後、私が日光登山の頃、この十神事ありて見物に出し時も、修學院樣が御出座になられており、右の通りの御話を修学院様御本人もお話遊ばされた故、確かなことにて御座る。

 

 

 神明淳直を基とし給ふ事

 

 日光御祭禮は、予度々登山(とうさん)なしける故、難有も時々拜見なしけるに、近郷近村五里十里の外より老若男女競ひ集(つどひ)て、木の枝柵の影に迄群集して見物する事也。神輿(しんよ)渡御の時は賽錢雨露のふるごとく、暫しが間は大地も色を變ずる程に錢を敷く事也。神人(じにん)あるひは御神領より出る百姓の御輿舁(みこしかつぎ)或ひは見物の小兒など拾ひけるにぞ、大樂院に、右賽錢も夥しき事ならん、定て御別當へ納(おさま)るべしと聞けるに、大樂院答けるは、渡御の節献じける賽錢、壹錢にても御別當所へ納る事にあらず、みな拾ひ候者其日の食酒等の飮食になす事にて、夫に付咄しあり、右散物を拾ひ守護となし或は酒食となすは、神明淳直を元とし給ふ故也、其たゝりなし、若(もし)多分に拾ひし者其身の貯(たくはへ)となす心得あれば、忽(たちまち)罰を蒙りしを幾度か見たりと語りぬ。左も有べき事と爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:日光神事神霊玄妙直連関。根岸は本当に神道には無邪気なほど無防備手放しで感心している。

・「日光御祭禮」日光東照宮春期例大祭及び神輿渡御祭のこと。古くは徳川家康忌日に当たる陰暦4月17日に行われた(現在は5月1718日)。家康は現在の静岡県久能山に葬られたが、二代将軍秀忠が家康の遺言によって、日光に社殿を創建、元和3(1617)年4月に、日光山に神霊を遷座した。その際の模様を再現したものがこの例大祭である。現行では本社から三基の神輿が東照宮から西隣りにある新宮権現二荒山神社(ふたらさん)拝殿に渡御した上、宵成祭と言ってここで一夜を過ごす(これは家康の御霊が西方浄土に移ったことをシンボライズするもので、翌日向かう御旅所は静岡久能山に見立てられたものという)。同日には石鳥居前表参道の馬場で流鏑馬が奉納される。翌日、神輿は二荒山神社を発し、御旅所に渡御されるが、その際、神輿を守る行列を俗に百物揃千人行列(ひゃくものぞろえせんにんぎょうれつ)、正式には神輿渡御祭(しんよとぎょさい)と言い、本話柄は往時のその行列の様を活写し、その縁起を述べるものである。この行列は元来は駿河の久能山から日光に神霊を移す際に仕立てた行列を模したもので、旧神領の産子(うぶこ:通常の神社の氏子のこと。)が表参道から御旅所まで神輿に付き従う仕来たりとなっている。行列が到着すると、御旅所本殿に神輿を据えて、拝殿で三品立七十五膳の神饌(しんせん)が供えられ、「八乙女の舞(やおとめのまい)」及び「東遊の舞(あづまあそびのまい)」の奉納舞いが演じれた後、再び行列は東照宮に還御して、祭礼を終了する(以上は、個人のHP「閑話抄」の中の歳時記に所収する「日光祭」の記載を大々的に参照させて頂いた)。

・「予度々登山なしける」根岸が「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(卷之二「神道不思議の事」より)したのは安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。

・「神人」これは「じにん」「じんにん」と読み、正規の神主よりもずっと下級の社家に仕えた下級神職、寄人(よりうど)を指す。ウィキの「神人」 より引用する。『神人には、神社に直属する本社神人と、諸国に存在する神領などの散在神人とがある』。『神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった』。『京の五条堀川に集っていた祇園社(現八坂神社)の堀川神人は中世には材木商を営み、丹波の山間から木津川を筏流しで運んだ材木を五条堀川に貯木した。祇園社には、身分の低い「犬神人」と呼ばれる神人が隷属し、社内の清掃や山鉾巡行の警護のほか、京市内全域の清掃・葬送を行う特権を有していた』。『日吉大社の日吉神人は、延暦寺の権勢を背景として、年貢米の運搬や、京の公家や諸国の受領に貸し付けを行うなど、京の高利貸しの主力にまで成長した』。『石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権、水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)』。『上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた』とある。言わば、寺院に於ける僧兵のような役割を荷った者たちと思われる。

・「御神領より出る百姓の御輿舁」前の「日光御祭禮」注で示した旧神領の産子(うぶこ)の中から選ばれる。

・「大樂院」は前話にも登場した日光山輪王寺の中に置かれた管理運営機構の一つ。学頭修学院・東照宮別当大楽院・大猷院別当竜光院・釈迦堂別当妙道院・慈眼堂別当無量院・新宮別当安養院の以上五別当の他、新宮・滝尾・本宮・寂光・中禅寺の五上人、衆徒中・一坊中・社家といった階層組織を成していた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 神の全智はあくまで篤く直きものにてあられる事

 

 日光の御祭礼は、私も仕事柄、何度も登山致いておれば、有り難くもたびたび拝見致いて御座る。

 近郷近村、五里十里もの遠方より、老若男女、競うように集い来たって、木の枝に取り付き、また柵の蔭に首ねじ入れ、数多(あまた)鈴成り、呆れんばかりに群聚(ぐんじゅ)致いて見物するので御座る。

 御輿渡御となれば、賽銭驟雨白露(びゃくろ)の降る如くにして、暫しの間は沿道の大地、色を変ずる程に銭で敷き詰めらるるので御座る。

 それをまた、神人(じにん)や御神領から出ておる産子(うぶこ)である百姓の神輿担ぎの者若しくは見物の童(わらわべ)なんどが、これまた、先を争って拾うて御座る。されば私が、傍に御座った東照宮別当大楽院の者に、

「この賽銭だけでも、かなりの額に登って御座ろうほどに、定めし、別当殿におかせられては、潤沢なる喜捨ともなるもので御座ろうのう。」

と訊いたところが、大楽院の者が答えて申すによれば、

「いえ、渡御の際に献ぜられたこの賽銭は、一銭たりとも東照宮様御別当には納めらるること、これ、御座いませぬ。――みな、拾って参った者が、その日のうちに酒食に使(つこ)うてしまうので御座います。――それにつきて、ここに面白き噺が御座います。――この賽銭を拾うて、お守りと成し、或いはその日の祭礼の酒食の代(しろ)と致します分には――それは御神命のあくまで篤く直きものにてあられることを心得た行いにてありますれば――それに何の祟りも、これ、あろうはずも御座いませぬ。――なれど、もし、それ以外に余計に拾うて、こっそりとその身の貯えにせんとする心得あらば――忽ち罰を蒙ること、これ、必定。――拙僧も、そのような様を、何度か見たことが御座いまする。」

と語って御座った。

 いや、あくまで篤く直き御神命には如何にもありそうな尤もなることなれば、ここに記しおくものである。

 

 

 三峯山にて犬をかりる事

 

 武州秩父郡三峯權現は、火難盜難を除脱し給ふ御所にて、諸人の信仰いちじるき。右別當福有(ふくいう)にて僧俗の家從隨身(ずいじん)夥しく、無賴不當の者にても今日たつきなく欺きて寄宿すれば差置ける由。多くの内には盜賊など有て、金錢など盜取て立去らんとするに、或は亂心し或は腰膝不立、片輪などに成て出る事不叶。住僧は勿論隨身の僧俗も、右在山の内金子を貯(たくはへ)出んとするに、必祟有て表も持出る事叶はず。酒食に遣ひ捨る事は強て咎めもなき由、彼山最寄の者語りぬ。且又右三峯權現を信じ盜難火難除(よけ)の守護の札を付與する時、犬をかりるといふ事有。右犬をかりる時は盜難火難に逢ふ事なしとて、都鄙(とひ)申習はす事也。或人、犬を貸候といへど札を附(ふす)計(ばかり)也、誠の犬をかし給ふ事もなるべきや、神明の冥感(みやうかん)目にさへぎる事を賴ければ、別當得其意(そのいをえ)祈念して札を附與なしけるに、彼者下山の時ひとつの狼跡へ成り先へ成り附來(きたる)ゆへ、始て神慮の僞なきを感じ、狼ともなひ歸らんの怖さに、立歸りてしかじかの譯をかたり、疑心を悔て札計受たき願ひをなしける故、別當又其趣を祈て付屬なしければ、其後は狼も眼にさへぎらず有りしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:神事神霊玄妙直連関。

・「武州秩父郡三峯權現」現在の埼玉県秩父市三峰にある三峯神社のこと。ウィキの「三峯神社」より一部を引用する。『社伝によれば、景行天皇の時代、日本武尊の東征の際、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登り、伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。景行天皇の東国巡行の際に、天皇は社地を囲む白岩山・妙法山・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える』。『伊豆国に流罪になった役小角が三峰山で修業をし、空海が観音像を安置したと縁起には伝えられる』。『三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を雲取山と呼んでいる』。『中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。しかし、正平7年(1352年)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われ、衰退した』。『文亀年間(1501 - 1504 年)に修験者の月観道満により堂舍が再興され、以降、聖護院派天台修験の関東総本山とされ、隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、三峯大権現と呼ばれた』。『江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし、「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された』。以下、本話柄と関わる「山犬信仰(三峯講)」の項。『三峰信仰の中心をなしているものに、御眷属(山犬)信仰がある。この信仰については、「社記」に享保12913日の夜、日光法印が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼が群がり来て境内に充ちた。法印は、これを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬の神札を貸し出したところ霊験があったとされる』。『また、幸田露伴は、三峰の神使は、大神すなわち狼であり、月々19日に、小豆飯と清酒を本社から八丁ほど離れた所に備え置く、と登山の折の記録に記している』。『眷属(山犬)は1疋で50戸まで守護すると言われている。文化141214日に各地に貸し出された眷属が4000疋となり、山犬信仰の広まりを祝う式があり、また文政8122日には、5000疋となり同様の祝儀が行われている。 明治後期の文献と思われる「御眷属拝借心得書」には、御眷属を受け、家へ帰られたならば、早速仮宮へ祀られ注連縄を張り、御神酒・洗米を土器に盛り献饌し、不潔の者の立ち入らぬようにされたいとある。(仮宮へ祀るのは講で受けた場合で、個人で受けた場合神棚でよいとされる)』。

・「隨身」用心棒の類い。前話で示した僧兵同等の神人(じにん)で訳した。

・「神明の冥感目にさへぎる事」岩波版長谷川氏注に『神様の御加護を実際に目で見てみたい』とある。私は「さへぎる」である以上、「神の冥加の顕現があると言うが、実際にはこの眼には遮られて見えぬ」、即ち「神命の御加護が本当にあるというのなら、それをこの凡夫の眼にも見せてもらおうではないか」という不遜なる願いの意であろうと私は当初、思った。ただ長谷川氏の訳は本質的に私の解を含んだ簡約形とも感じられるので、「何としても神明あらたかなるところのご加護の御様(おんさま)、目の当たりに拝まさせて戴きとう、御座る」と幾分、援用させて頂いて訳してみた。ただ、訳した後、次の「明德の祈禱其依る所ある事」に出現する「さへぎる」を根岸は「眼を過(よ)ぎる」の意で誤って使っている可能性が濃厚であることがその訳作業の中で分かってきた。しかし、私のオリジナル訳の過程を現に残すものとして、このままとしたい。

・「付屬なし」依頼して。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 三峯山にて犬を借りるという事

 

 武州秩父郡の三峯権現は火難盗難を取り除く神にて、諸人の信仰、これ、著しい御社(おやしろ)である。ここの別当は到って裕福にて、僧俗の下男や怪しげなる神人(じにん)体(てい)の者どもも夥しくおり、無頼不逞の輩にても――その日の暮らしも立たず、嘆き縋りつく思いにて訪ねて寄宿を望まば――如何なる者にても拒まずに差し置くとの由。

 なればこそ、その内には盗賊なんどもおって、御社の金銭なんどを窃かに盗んでは立ち去らんとする者も稀におれど――そういう不届き者はたちどころに乱心し、或いは足腰立たず、片輪となって、山を出ずること、これ、能わぬことと相成る。住僧は勿論のこと、神人体(てい)の僧俗にても、山に在った内に貯えておった金子を持って山を下ろうとしても、やはり必ず祟りがあって、一銭だに持ち出だすことは、これ、叶わぬ。――ところが、これを山中にあって、酒食に使い捨つる分には、これと言った神罰のお咎めはない、との由。かの三峯山の近隣に住んでおる者が語ったことである。

 また、この三峯権現を信仰し、盗難火難除けの守護の御札を授ける際、『犬を借りる』と言い慣わしておる。この犬を借りる時は、決して盗難火難に遭うこと、これなし、と世間に広く言い習わしておるのである。

 ところが、ある人が、別当に、

「……犬をお貸し下さると言いながら、お授け下さるは、ただ札ばかりで御座る。……一つ、誠の犬なるもの、お貸し下さることは出来ませぬか?……ここは一つ、何としても神明あらたかなるところのご加護の御様(おんさま)、目の当たりに拝まさせて戴きとう、御座る。」

なんどと不遜なることを頼んだところ、別当、その願いの意を受け、特に祈念致いた御札を、以ってこの者に授けた。

 すると……かの者が下山の砌……一匹の狼……かの者の後になり、また、先になり……付き来(きた)ったればこそ……男、初めて神慮の偽りなきこと、これ、感じ入るとともに、神狼を伴(ともの)うて帰らんことの怖ろしさに、心底震え上がって……とって返すと、しかじかの訳を語るや、神意を疑(うたご)うたこと、心より悔い、御札ばかりを授かりたき旨、懇請致いた故に、別当、再びその趣きを祈念致いて授けたところが、その帰途には狼の姿も眼に過(よ)ぎること、これなく、無事下山致いた、との由で御座る。

 

 

 明德の祈禱其依る所ある事

 

 祐天大僧正は其德いちじるき名僧なりし由。或日富家の娘身まかりしに、彼娘折ふし一間なる座鋪(ざしき)の角(すみ)彷彿とたゝずみ居る事度々也。兩親或ひは家内の者の眼にもさへぎりけるにぞ、父母も大きに驚、狐狸のなす業や又は成佛得脱の身とならざるやと歎き悲み、誦經讀經なし或は祈念祈禱なしぬれど其印なければ、祐天まだ飯沼の弘經寺(ぐきやうじ)にありし此(ころ)、彼驗僧を聞て請じけるに、祐天申けるは、いづかたへ出候や、日日所をかへ候哉と尋しに、日日同じ所に出る由を語りければ、我等早速退散させ可申とて、右一間へ階子(はしご)をとり寄せ、火鉢に火を起して彼一室に入て誦經などなせしうへ、右亡靈の日日彳(たたず)みけるといへる處へ階子をかけ、祐天自身(おのづ)と天井を放し見しに、艷書夥しくありしを、一つかねに取りて直(ぢき)に火鉢の内へ入れ、あふぎ立て煙となし、此後必來る事有まじといひしに、果して其後かゝる怪しみなかりけると也。娘のかたらふ男ありて、艷書ども右天井に隱し置しに心掛り殘りけると、早くも心付し明智の程、かゝる智者にあらば祈禱も驗奇有べき道理也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:神霊玄妙直連関。但し、根岸は仏教には厳しい。従ってその謂いも「いちじるき名僧なりし由」であり、その「明德の祈禱」も論理的には何の不思議もない「其依る所ある事」であり、人がちょっと気づきにくい事実を「早くも心付し明智」はあると言える、「かゝる智者にあらば祈禱も驗奇有」ように見えるのは「道理也」と、智は称えるものの――根岸は殊更に「智者」と言っている。これは「論語」に言う、仁者に及ばざる「智者」の謂いであろう――先のような神道神霊の玄妙なる超自然力を認めている話柄ではないことに注意したい。そう雰囲気を全面に出した現代語訳にしてある。類話は「新選百物語」等にもあり、小泉八雲も「怪談」の“A Dead Secret”「葬られた秘密」でこの類話を英訳翻案している著名な話柄である(但し、そこでは娘は丹波国の商人稻村屋源助の娘お園、僧はその商家の檀家寺の住職である禅僧大玄和尚という設定になっている)。因みに、私はこの祐天上人絡みの怪談群が大の好みであり、従って祐天大僧正大ファンであるからして、この根岸の言い口には、普通以上に『異様に』引っ掛かるものがあるのである。そのようなバイアスのかかった私の現代語訳としてお読みになられたい。なお、「卷之二」で明らかにしたように、根岸の宗旨は実家(安生家)が禪宗の曹洞宗、養子先の根岸家は正しく「祐天大僧正」の浄土宗である。いや、だからこそ、表立っては批判していないのだとも言えそうである。

・「祐天大僧正」祐天(寛永141637)年~享保3(1718)年)江戸のゴースト・バスターとして知られる浄土宗の名僧。浄土宗大本山増上寺36世。以下、ウィキの「祐天」より引用する(一部記号を変更した)。『字は愚心。号は明蓮社顕誉。密教僧でなかったにも関わらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという』。『祐天は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、正徳元年(1711年)増上寺36世となり、大僧正に任じられた。晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した』。『祐天の奇端で名高いのは、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の亡魂を解脱させた話で、曲亭馬琴はそれをもとに「新累解脱物語」を著している。のちに三遊亭円朝の怪談「真景累ヶ淵」で有名となった』。

・「さへぎりける」先の話柄でも気になったがここまで来ると、根岸は「さへぎる」という語を誤って使っているということが確かになる。「さへぎる」(本来は「さいぎる」が正しいとする説が有力)は「間に隔てになるものを置いて、向こうを見えなくする」及び「進行・行動を邪魔してやめさせる」「妨げる」という意であるが、ここではどう見てもそう訳せない。彼は「眼を過(よ)ぎる」という意で用いているのである。ないもの(亡霊)があることで、見通せるものが遮られるの意でとるというのも、如何にも牽強付会である。

・「飯沼の弘経寺」現在の茨城県常総市豊岡町に所在する寿亀山天樹院弘経寺のこと。茨城県には「弘経寺(ぐぎょうじ)」と名のつく寺院が3つあるが、その中でも『飯沼の弘経寺』というのは、かつての「関東十八檀林」(江戸時代の浄土宗僧侶の養成機関)の一つとして多くの学僧を世に送り出し、関東の中心寺院として栄えた本寺を指す。開山は応永211414)年良肇(りょうちょう)が横曽根城主の帰依を得て建立した。良肇は弘経寺を浄土宗の学堂として優れた布教僧を輩出させた。天正3(1575)年に戦禍により諸堂宇を焼失して荒廃したが、17世紀初頭に了学なる僧を招いて復興、再び学問所として発展した。了学は徳川家康・秀忠・家光に厚遇された高僧で、秀忠の長女千姫(天樹院)もこの了学より五重相伝(浄土宗の教義の真髄や奥義を檀信徒に対して五つの順序に従って伝授する法会で、当時はめったに行われなかった秘中の儀式)を授けられ、弘経寺の再興に力を尽くしたという。現存する本堂は千姫の寄進による寛永101633)年建立のもので、堂内には伝千姫筆の寺号扁額が掲げられている。本堂左手には千姫廟所もある。落飾後の千姫の姿を描いた「千姫姿絵」を始めとした千姫関連の寺宝が多い。現在、弘経寺は東京芝大本山増上寺別院となっている(以上は、浄土宗HPの寺院紹介の「弘経寺 (浄土宗)茨城県常総市」等を参照しつつ、内容を整理したものである)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 明徳と称せられる人物の祈禱力にはものによっては論理的にちゃんと説明可能な理由があるという事

 

 祐天大僧正は、その徳のあらたかなことでは、よく知られた名僧なのだそうである。

 ある時、富貴なる町家の娘が病のために身罷って後、かの死にし娘子が、折りにつけ、ある一間の座敷の隅に佇んでおる姿がぼんやりと見えること、これ、たびたび御座った。

 両親だけではなく、家内の者の眼にさえもその姿が実際に過(よ)ぎるということで、父母も大いに驚き――最早、親族の気の病いとは言い難きによって、

「……狐狸のなす業(わざ)にてもあろうか……または……もしや何らかの思いの残り、成仏解脱の身に、これ、成ること出来ず、浮ばれずにおるのであろうか……」

と嘆き悲しみ、相応の僧を招いて誦経読経なんど致いたり、あるいは種々の祈念やら祈禱やらも施してみたものの、一向に効験(しるし)なく、娘の亡霊は出現は跡を絶たなんだ。

 そこで――その頃は未だ飯沼の弘経寺(ぐきょうじ)にあったが、しかしもう既に霊験あらたかな法力の持ち主として名を馳せていたところの験僧――祐天を請じることと相成った。

 来る早々、祐天は、

「さても、その亡霊、何方(いづかた)へ出ますかの? 日によって出ずるところを変えるといったことは御座らぬかの?」

と、父親に訊ねる。父は、

「……はあ、必ず何時も同じ所に、これ、出でまする……」

と語ったところ、祐天、即座に合点、

「なるほど!――では我ら、早速、怨霊退散させ申そうぞ!」

と、かの亡霊の出づるところの座敷内に梯子を持って来させて隅に寝かせ、火鉢に火を起こさせると、その一間に入り、総ての襖を閉じて、厳かに読経致し、それをし終えるや、すっくと立って、かの亡霊が日々佇んでおると聞いた場所へ自ずと梯子を掛け、天井を開け放った。

 ――そこには夥しい数の恋文の山が御座った。

 祐天は一通残らず一摑みにそれを取り上げ、一気に火鉢に投げ込むと、扇をもって煽ぎ立てて、忽ちのうちに煙と成し果たした。

 祐天、さわやかなる笑顔にて座敷を出づると、

「向後、決して娘子の幻、これ、現るること、御座るまい。」

と受けがって言った。――

 果たして、その後あのような怪異は、これ、全くなくなったのだということであった。――

 種を明かせば、亡き娘には密かに語り合(お)うた好いた男がおって、その男から貰(もろ)うた沢山の恋文や己れの文反古(ふみほうご)やらを、天井に隠していたのが、如何にも恥かしゅうて心にひっ掛かかり、心残りとなって御座ったのだ――という事実に、すぐさま気付いた祐天の明智の程は、大したもんである。こうした理を尽くして透徹した智者にてあってみれば、その祈禱の結果に、現実離れしたような玄妙奇瑞にさえ見える効験、これ――『あって見えて』――当然、というべき道理ではある。

 

 

 一旦盜賊の仲間に入りし者咄の事

 

 予が方に仕へし太田某、元勤たる屋鋪(やしき)に中間奉公して、實躰(じつてい)に勝手抔立働し者ありしが、彼者一旦身持不埒にて晝盗(すり)の仲間入なせしに、其業淺間(あさましき)敷を見限りて右仲間を立去りしに、なか/\急には遁れがたきものゝ由。右の者咄けるは、神田邊の町家の悴(せがれ)母と兩人暮(ぐらし)し也しが、終に晝盜の仲間へ入て、母は勿論親類も勘當なしけるが、其母深く歎(なげき)、何卒彼が心を改め人間に立歸る樣、日毎に淺草觀音へ參詣なしけるぞ哀れ也き。身寄なる者淺觀音へ參詣の折から彼晝盜に途中にて逢し故、母もかく/\の事にて歎き悲み給ふ、何卒心を取直し人間に立歸候樣申ければ、彼(かの)すりも涙を流し、いかにも我等も立歸るべしといひけるにぞ、さあらば我と同道して今日心を改て母の許(もと)へ立歸るべしと申けるにぞ、觀世音に向ひて誓ひをなし連(つれ)て戻(もどり)、母へ勘當の詫(わび)をなしけるに母も大きに悦び、豆腐商ひをなしける故右の商賣方精を出し、右商ひの外は他へ一向出し不申、其身も他へ出ずして一兩年ありしが、或時觀音へ參詣しけるに、元の晝盗仲間に行合ひ、久しく不逢如何致(いたし)たるやと尋る故、母の歎もだしがたくしかじかの由語りぬれば、夫は尤成事也とて暫くありし昔を語り、久々の對面也酒一つ汲(くま)んとて、酒鄽(さかみせ)に寄て互に汲かわし、今日は珍らしく逢し也、是より吉原町へ行て今宵は遊んと誘ひけれど、母の氣遣ひ待(まち)なんと辭しけれど、邂逅(たまさか)の事也苦しかるまじとてすゝめて吉原町へ行ぬ。彼等志(こころざし)身上(しんしやう)に過て金銀を遣ひ捨るものなれば、かたの如くに酒食を奢(おご)りて、朝かへらんとせし時金錢不足なりける故、少々はたらきして補はんと例の惡心を生じて、人の紙入等を奪ひて不足を償ひしが、夫より又古(いにしへ)の惡業に染(しみ)、亦々晝盜の仲間に入、終に公(おほやけ)の刑罰を請(うけ)し也。かゝる事を見聞せし故、彼中間(ちうげん)は一旦在所相州へ引込、八年過て江戸表へ出しに、最早知れる仲ケ間の者も或ひは死し或は刑罰を蒙りてりて知れる顏なく、誠の人間の數入(かずいり)せしといひしを、右吉田語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせないが、浅草寺観音の霊験もなく悪道へと立ち戻って破滅する若者という設定は、仏道への根岸の猜疑不信感というところで通底しているといえば言えなくもない気がする。

・「予が方に仕へし太田某」本話柄最後は「右吉田語りぬ」で終っている。この人物、本巻で先行する「貒(まみ)といへる妖獸の事」に登場する根岸家の中間と同一人物と思しく(勿論、確定は出来ない)、ここは「吉田」の誤りと思われる。現代語訳では「吉田某」とした。

・「一兩年」一年又は二年の意。私は丸々二年の意で採った。

・「相州」相模国。現在の神奈川県の北東部(川崎市と横浜市の一部)を除く大部分に相当。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 一旦盗賊の仲間に入って後に足抜け致いた者が私に語った話についての事

 

 私のもとに仕えておった吉田某という者――ずっと以前に勤めておった屋敷にても、中間奉公致いて、実直なればこそ勝手勘定方なんどをも勤めておったよし――ところが、この吉田某、その後一旦、身を持ち崩してしまい、掏摸(すり)なんぞの仲間に入って仕舞(しも)うたものの、その悪行の浅ましさに嫌気が差し、その賊から足を洗(あろ)うたとのこと――とは申せ、一度、道を踏み外した者は、なかなか、直ぐにはその道から足抜け致すこと、これ、難しいものであるという。

 以下、その吉田某自身が話したことである――。

 

……儂(あっし)の、その頃の掏摸仲間の内に、神田辺の町家の小倅(こせがれ)にて、父はとうに亡くなって、母と二人暮ししておる者がおりました。……

 ……その若造も遂には掏摸の仲間へ入ったため、母は勿論、親類一同もそ奴を勘当したんで御座んすが、その母者(ははじゃ)はこれ、深(ふこ)う嘆いて、

――何卒、倅が心改め、真人間に立ち返りまするように――

と、毎日、浅草観音に参詣しておる様は、これ、誠(まっこと)哀れなことで。……

 ……そんな折り、身寄りの者がやはり浅草観音に参詣致いた折り、偶然、仲見世の途中で掏摸となって獲物を物色しておる、その若者に出逢(でお)うた故、

「お前のおっ母さん、どうしとるか知っとるんか! お前の仲間が毎日のように餌食にしとる、罪のねえ、この浅草寺の、この参詣の人々、その一人として、毎日毎日、ただただ、――何卒、倅が心改め、真人間に立ち返りまするように――と歎き悲しんでおらるるんじゃ!……お前! どうじゃ?! 何とかして、誠心取り直し、真人間に戻らんとは、思わんか?!」

と諭しましたところ、彼も涙を流しながら、ふと、

「……い、如何にも……我ら……足を洗(あろ)うて……たち帰りとう御座います……」

とこぼしたそうで御座る――掏摸仲間の冷酷無惨なる一面に、儂(あっし)同様、何処かで嫌気が差してでもおったものでも御座いましょうか――身寄りの者は早速、

「その気なら! さあ! 我らと同道の上、今日只今、心を改めておっ母さんの元へ一緒に立ち戻ると致そう!」

と、彼を浅草寺御本尊の観世音菩薩さまに向かわせると、二言(にごん)なきこと、誓い致させ、実家に連れ戻し、母へ勘当悔悟の詫びを入れさせましたところが、母も大いに悦び――この者の実家の家業は豆腐屋にて御座った故――それからというもの、誠心に豆腐商いに精を出して御座いました。

 母は商いのための拠所ない用事の折り以外には、倅の外出を一切許そうとは致さず、彼自身もまた、殊更に家に籠もって外出をせずにおりました。

 ――さても、彼が足を洗(あろ)うて、丁度、丸二年が経った頃のこと。――

 ある日のこと、彼一人、かく真人間に戻して下すった御礼と、浅草観音まで久し振りに参詣致いたところが、ばったり、昔の掏摸仲間に行き逢(お)うて仕舞(しも)うたので御座る。

「おぅ! 久し振りじゃあねえか! どうしてるぃ?」

と訊かれ、

「……いや、その……母の嘆くのを……黙って見ぬ振りして御座る訳にはいかなんだによって……今は、母と二人、実家の豆腐屋を継いで……まあ、ほそぼそと、やって御座る……」

と語ったところ、

「おぅ! そりゃあ! 尤もなことじゃ!」

と相手も如何にも得心したように頷くと、受け合(お)うたようなことを言って御座ったれば、彼も気を許して仕舞(しも)うて、暫くの間は昔の掏摸仲間であった頃の話なんどに花を咲かせて御座ったが、

「おぅ! 久々のご対面じゃ! どうよ? その辺で、一杯(いっぺえ)やろうぜ!」

と誘われ、優柔不断な男なれば、断わろうにも断わり切れず、つい飲み屋に立ち寄って酌み交わして語り合(お)うておる、そのうちに、

「おぅ! どうよ? 今日(きょうび)、珍しくも逢(お)うたんじゃ! これから一つ、吉原へ繰り出して、今宵は存分に、お遊びといこうじゃねえか?!」

と更に誘わるることと相成って御座った。

「……いや……その……母が心配して……待っておれば……」

と否まんとはせしものの、

「おぅ! おぅ! こうして久し振りに、偶々逢えたんだぜい?! ちっとばかりの息抜きぐれえしたって、どうってことはねえだろ? 観音さまの罰(ばち)でも当るちゅうんかい?!」

と切に勧めた。彼も、

――久し振りの廓(くるわ)じゃ……一晩ぐらいなら、おっ母さんも許して呉れようほどに――

なんどと気を許して仕舞(しも)うて、結局、吉原へと連れ立って行って仕舞(しも)うたので御座る。

 ところが彼等、例によって身の程過ぎての遊興三昧、有り金総てを使い果たし、言わんこっちゃない豪奢の限りを尽くし……さても翌朝、帰らんとせし砌……支払おうにも持ち合わせが足りぬことに、今更ながら気付いて御座った。

「おぅ! ここは一緒に、よ! 昔取った杵柄で、よ! お互い、いっちょ、ちょこっと、よ? 働いて、よ? ケリをつけるちゅうのは、よ? 簡単なことじゃねえか? クイッと、一発! 一度こっきりのこと、だって!」

と連れに誘わるるがままに……またぞろ、件(くだん)の悪心、心に生じ……つい、吉原中の町の沿道に出でて……二人して人の財布を掏摸(す)り……勘定の不足を補(おぎの)うて仕舞(しもう)たので御座った。……

 ……かくて元の木阿弥、かつての悪行に再び染まり帰ってもうて、またしても掏摸仲間に逆戻り……そうして遂には……ご公儀からのお仕置きを請けることと、相成って仕舞(しも)うたので御座いました……。

 ……儂(あっし)は、こういったことを見聞きして御座ったれば……掏摸から足を洗(あろ)うて直ぐ、在所の相模の奥へ引っ込み、八年の月日が過ぎてから、やおら江戸表に出て参ったので御座いまする……。

 ……出てみると、流石に八年も経てばこそ、最早、知れるところの掏摸仲間も――或いは死に、或いはお仕置きを蒙り、斬罪やら江戸払いとなって――一人として知れる顔なんどものうて、かく、ようやっと真人間の仲間入りを致すこと、これ、出来申したので御座いまする……。

 

と、かの吉田某、しみじみと語って御座ったよ。

 

 

 博徒の妻其氣性の事

 

 下谷に住(すみ)し竈〆(かまじめ)をなせる法印、予が知れる者の方へ來り咄しけるは、湯島大根畠(だいこんばた)の賣女屋とやらん、所の親分共いへる者の方へ、去暮(こぞくれ)竈〆祓ひに罷りし處、彼妻申けるは、此間は甚仕合(しあはせ)あしく甚難儀也。何卒念を入て仕合直り候樣にはらひの祈禱なし給へと賴ける故、心得しと答へ荒神店(だな)に向ひ祈禱なしけるに、彼女房、宿には右の法印計(ばかり)を置て、いづちへやら出けるが、それ迄は布子に布子羽織抔着して小兒を肌に負ひけるに、暫く過て盆の上に白米弐三升をのせ、其上に鳥目五百文のせて、法印の前に施物(せもつ)初尾(はつを)のせ差置けるを見るに、彼女房始と違ひ羽織も布子もなく、寒氣難絶(たへがたき)時節袷(あはせ)計(ばかり)を着し、小兒をばやはり肌に追來りぬ。法印も驚きて、全く其身の着服を質入して施物に調達なしぬると思ひぬれば、彼女房に向ひ、我等も今日始ての知人にもなし、數年の馴染也、祈禱の事は念頃に祈候得共、此謝禮には及ばず、追て仕合(しあはせ)能(よき)時施し給へ。小兒もあるなれば、ひらに身も薄からず着給へといゝけるに、女房更に合點せず是非々々と強ひけるにぞ、無據其意に任せ、それより番町小川町牛込邊所々旦那場(だんなば)を歩行(ありき)て、歸り候節も大根畠を通りしに、彼者の内ことの外賑はしく、燈火いくつとなく燈し、鯛ひらめを料理、何かさわがしき故、いかなる事にと門口を覗き、只今我等も歸候、御亭主も歸り給ひしやといひて尋ければ、女房早くも見付て、能(よく)こそ寄給ひたり、ひらに上り給へといひし故、最早暮に及びたれば宿へも急ぐと斷(ことわり)しに、御祈禱の印も有、ひらにより給へと無理に引入れしに、女房も晝の姿とは引(ひき)かへ、其外晝見し氣色は引かへて富貴のあり樣にて、酒食を振廻(ふるまは)れ歸りしが、博徒のすぎわひはおかしき物也、鬼の女房の鬼神と俗諺(ぞくげん)の通り、其妻の氣性も又凄じきものと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:掏摸から博徒の悪道直連関。シーンの後半は、夫の博徒の親分が博打で大枚が転がり込んだ様を描写しているのであろう。現代語訳は竈〆の法印の直接話法に意訳し、臨場感を出した。しかし、私は昔からボーイッシュな女性が好きだからか、「其妻の氣性も又凄じきもの」と言うより、何だか、この姐(あね)さんにマジ惹かれるのである。

・「下谷」現在の台東区の北部。以下、ウィキの「下谷によると、『上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である』とする。天正181590)年に『領地替えで江戸に移った徳川家康により姫ヶ池、千束池が埋め立てられ』、『寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄え』、『江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展』した。『江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担』い、明暦3(1657)年の明暦の大火の後、火除地として下谷広小路(現在の上野広小路)が整備されるに至り、正徳3(1713)年には『下谷町として江戸に編入され』たとある。

・「竈〆」竈神(かまどがみ)である荒神(こうじん)を祀ること。「釜占」「竈注連」等とも書き、荒神祓(こうじんはらい)とも言った。昔は釜の火は神聖なものとして絶やさぬよう大切にしたが、火は同時に災厄とも繋がっており、文字通り、荒らぶる神として畏敬される存在であった。後には年末や正月の行事となったが、当時は、毎月晦日、巫女や修験者が民家を廻っては竈神である荒神さまを祀って、家内安全商売繁昌をも祈願した。このシーンは歳末ながら、女房が「此間は甚仕合あしく甚難儀也」と言っており、貧窮の転変いちじるきさまからはこれが一年前のこととは思われず、十一月の月末の竈〆めが上手くなかった、その結果としてこの一月の実入り悪かったことを愚痴っているのである。

・「法印」ここでは山伏や祈禱師の異称。岩波版長谷川氏注では、「竈〆」を行なうのを巫女と限定し、『竈〆をする巫女は山伏の妻であることが多い』と記す。長谷川氏は竈〆の祭祀者は巫女と拘っておられるのだが、この本文で竈〆をしているのは間違いなく法印である。私には、何故そこに拘られるのかが解せない。底本の鈴木氏注でも「竈〆」の注の最後で『神楽鈴と扇子を持って舞う。山伏の妻などが行ない、中には淫をひさぐ者もあった。』と記すが、何で? と、やっぱり私には解せないのである。

・「湯島大根畠」現在の文京区湯島にある霊雲寺(真言宗)の南の辺り一帯の通称。私娼窟が多くあった。底本の鈴木氏注に『ここに上野宮の隠居屋敷があったが、正徳年間に取払となり、その跡に大根などを植えたので俗称となった。御花畠とも呼んだ』とあり、私娼の取り締まりで『天明七年に手入れがあったこともある』と記されている。この「上野宮」というのは上野東叡山寛永寺貫主の江戸庶民の呼び名。「東叡山寛永寺におられる親王殿下」の意で東叡大王とも呼ばれた。寛永寺貫主は日光日光山輪王寺門跡をも兼務しており、更には比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあった上に、全てが宮家出身者又は皇子が就任したため、三山管領宮とも称された(ウィキの「東叡大王」による)。正徳年は西暦1711年から1716年、天明7年は1787年。鈴木氏は「卷之二」の下限を天明6(1786)年までとし、「卷之三」は前二巻の補巻とされているから、本話柄は正にその直前ということになる。

・「賣女屋」私娼窟。

・「仕合」巡り合せ。運。

・「荒神店」底本では「店」の右に『(棚)』の注記がある。竈神である荒神を祀るための神棚。

・「布子」木綿の綿入れ。

・「布子羽織」木綿で出来た綿入りの羽織。羽織は着物の上に着る襟を折った短い衣服。

・「鳥目五百文」「鳥目」とは、穴開きの銅銭が鳥の目に似ていたことからの銭(ぜに)の異称。この頃の500文ならば米4升は買えたはずである。この女房は、ここでこの謝金以外に米を2~3升添えている。都合全部で6~7升分、単純に銅銭に換算すると軽く800文を超える額になる。やや時代が下った文化文政期で銀1匁≒銭108文のレートで、3~5匁が当時の大工手間賃の日当であったことを考えると、これは当時の大工手間賃の日当より遥かに高額にして法外な「施物初尾」料に相当するということに気づく必要がある。法印が吃驚しているのは、叙述では女房が着衣の質草にしてまで施物初尾を施したことだけに集中しているように書かれているが、実際にはこの「施物初尾」が甚だ多いためでもあると私は思うのである。

・「初尾」初穂(はつほ)。通常は、その年最初に収穫して神仏や朝廷に差し出す穀物等の農作物及びその代わりとする金銭を言う。室町期以降は「はつお」とも発音し、「初尾」の字も当てた。

・「袷」裏地のついた上着一般を指すが、近世以降は初夏に用いる薄手のものを指し、夏の季語ともなっている。

・「肌に追來りぬ」底本では「追」の右に『(負ひ)』の注記がある。

・「旦那場」御得意先。

・「鬼の女房の鬼神」諺(ことわざ)。一般には「鬼の女房に鬼神(きしん/きじん)」と言い、『鬼のような冷酷無惨な男には、情け容赦もない鬼のような女が妻になるものである』の意。しかし、本話柄の女房は必ずしもそうは読めないと私は思う。情け容赦もない鬼のような女なら、もっとこの法印に対しても、冷たいであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 博徒の妻のその気性の事

 

 下谷に住んでおった竈〆めを生業(なりわい)とする僧が、私の知人方に参った折りに語った話である。

 

……湯島大根畠にあった――実は怪しげな売春宿でもあったらしゅう御座るが――その辺りの博徒の親分とも噂される者の方へ、去年暮れ、何時もの通り、竈〆めお祓いに訪れた折りのことで御座る。

 かの親分の女房が申しますことには、

「文句は言いたかないんだけどさ……どうもさ、こないだのあんたの御祓いが気が入ってなかったんか、それとも儂(わし)らのツキがようなかったんだか知らん……この一月、どうにもうまくなくってさ、ひどく難儀なんよ! だからさ、今日は一つ、念には念を入れてさ、按配よくツキが廻ってように、お祓いの祈禱、びしっと! よろしく頼んだよ!」

と、如何にもむっとした表情ながら懇請して参りました故、

「そりゃ、悪いことを致いた。手を抜いたりはせなんだつもりじゃが……いや、なればこそ心得た!」

と応じて、我ら、荒神棚に向かって祈禱を始めて御座った。

 すると、かの女房、宅(うち)に我ら独りを残して、何処ぞへ出かけた気配がしたかと思ううち、直(じき)に戻って参ったので御座ったが――かの女房、さっきまでは木綿の綿入れにやはり綿入りの羽織なんどを重ね着し、その中に赤子をぬくとく背負うて御座ったに――今やすっかり様変わりして、この寒気堪え難き時節にも拘わらず、最前の羽織も布子も何処へやら――如何にもぺらぺら、肌に吸い付かんばかりの袷(あわせ)一枚きりにて――その鳥肌立ったる素肌に、これまたぶるぶる震えておる頑是無い赤子を同じように背負うて御座った――その女房が、盆に施物の白米二、三升、その上に更に初穂料の鳥目五百文を載せたを、ぶっきらぼうに、ずんと、我らが前に差し出いだいたので御座った。

 流石の我らも驚き申した。

 全く以って己(おの)が着れる着衣までも質に入れ、わざわざこの施物初穂を調達してきたものと思えばこそ、女房に向かい、

「我ら、今日初めて逢(お)うた仲にても、これ、御座ない。もうかれこれ数年の馴染みじゃ。望みの通り、竈〆御祈禱のこと、如何にも懇ろに祈り申したれども……かくなる謝礼には、これ、及ばぬ。追って我らが祈請の通じて、仕廻し方、これ、良うなった折にでも施し下されよ。赤子もあることなれば……さ、薄きものにてはなく、しっかりとお召しになられよ、身をぬくとくなさるるが何より大事……」

と言うたのじゃが、この女房、頑として譲らず、

「さ! さ! 是非に! 是非! 持っていきな! あたいの志を無にすんのかい!!」

と盆を押し付けて強いるばかりで御座ったれば、よんどころなく、そのまま施物初穂を受けとって、その場を後にして御座った。

 それから番町・小川町・牛込辺りの所々(ところどころ)のお得意先を経巡り、さて帰らんと、再びかの大根畠を通ったところ――かの女房の家内――何やらん殊の外賑やかで、軒に灯火(ともしび)が幾つともなく点され、厨(くりや)では鯛や鮃の舞い踊り――ならぬ鯛の活き造りやら、鮃の薄造りに余念がない様子――余りの騒がしきに、何があったのかと、厨の戸口から覗いて、

「……我らも今、帰らんとするところなれど……ご亭主も無事お帰りか?……」

と声をかけたところ、早速にかの女房、我らを見つけ、

「あんれ、まあ! よくぞ寄って下すった!! さあ、さ! ずいっと上がっておくんない!!」

と申すので、拙僧、

「……いや、最早、日も暮れに及ぶれば……我が宿へも急いでおるに……」

と断わったれども、

「何、言ってのよ! お前さんのご祈禱のお験(しるし)が、さ! 早速、現われたんだから、さ! ずいっと上がっておくんないって言ってるんさ!!」

と、我が袖を強引に引いて無理矢理引き入れられ申した。

 と見れば――その女房の姿は――これ、昼間とはうって変わって、豪華絢爛たる衣装に身を包んで――その気色もまた――昼間とはうって変わって、富貴爛漫にして喜色満面の有様――我ら、贅沢な酒食を振る舞わるるがままに、帰って御座った。

 ……さても、極悪道の博徒の生業(なりわい)とは、全く以って奇妙なものにて御座る。……また、俚諺にも『鬼の女房の鬼神(きしん)』なんどと申しまするが……誠(まっこと)そうした者の妻の気性というものも、これまた、いや、凄まじいものにては御座るよ……。

 

 深切の祈誓其しるしある事

 

 近き頃の事也しか、淺草並木邊とやらんの事成由。木藥商ひする者ありしが、藥種屋には砒霜(ひさう)斑猫(はんみやう)などいへる毒藥も、腫物其外其病症によりて施(ほどこす)事あれば、貯へ置事も有し由。然れど賣買も容易(たやす)くいたさゞる事也。其外ウズやうの小毒の藥も、人の害をなす故猥(みだり)に賣買はせざる事成が、或日其身近所へ出し留守に女壹人來りて、砒霜斑猫の類ひにはあるまじ、輕きうずやうの毒藥を望(のぞみ)しに、鄽(みせ)に居し小悴(こせがれ)何心なく商ひて、主人歸りて其事を語りけるに大きに驚き、いか成樣の者に賣りしや名所(などころ)も聞しやと尋しに、名所聞し事もなく勿論知れる人にもあらず、年頃三十計(ばかり)の女の、小丁稚(こでつち)壹人連れて調へ行しといひし故甚歎きて、兼て信ずる淺草觀音へ詣ふで、一心不亂に右藥(くすり)人の害をなさず人の爲に成やう肝膽(かんたん)をくだき祈りけるに、年頃四十計り成男、是も信者と見へて讀經などして一心に祈り、歸りの節ふと道連(みちづれ)に成しに、彼男申けるは、御身も信心渇仰(かつがう)の人也、當寺觀音の靈驗いちじるく我等數年日參の事など語りて心願の筋抔語りて尋ける故、彼木藥屋答へけるは、我等事はさしかゝる大難ありて一心に祈念なすと言しに、夫はいか成事哉、ともに力を添んとありし故、あたりに人もなければかく/\の事故と語りければ、彼男聞て其女の年頃着服格好の樣子等を聞て、御身事人の難儀をいとひかく信心なし給ふ、いかで感應なからん、我宿はいづく也、尋候へ迚(とて)立わかれぬ。さても彼男は藥種屋にわかれ、己(おの)が住居する花川戸へ歸りけるに、鄽に湯かたを干して置たり。其湯衣(ゆかた)を見たりしに、淺草におゐて藥種屋が噺せし模樣に少しも違ひなく、夫より心づきて見れば、我妻の年恰好も似寄ければ、心に不審を生じけるに、其妻茶抔運び餠菓子やうの物をやきて茶菓子とて差出しぬ。彌々(いよいよ)心に不審を生じ、よき茶菓子なれど後にこそ給(たべ)なん。某(それがし)は入湯なし來るとて浴衣手拭を持せて風呂屋へ行、彼丁稚を人なき所へ招き、今朝妻の供していづちへ行しや、道にて妻の調へものなしける事有りやと尋ければ、丁稚も隱すべき事としらねば、有の儘に淺草へ詣ふで藥種屋にて物を調へし事抔語りける故、彌々無相違と淺草を遙拜し、湯などへ常のごとく入りて立歸りければ、又々妻は茶菓子ども持ち出しけるを、彼男右菓子を女房に先づ給候樣申けるに、其身好(このま)ざる由を云ひければ、今日は存(ぞんず)る旨あれば親里へ參り可申迚、彼菓子を重に入れて人を附、離別の状を認(したた)め、右離別の譯は此重箱の菓子なりとて送り返しけるとや。夫より右之者藥種屋と兄弟のむつみなして、彌觀音薩埵(さつた)の利益(りやく)を感じ、信心他念なかりしとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:凄まじい博徒の妻から未遂なれど夫殺し鬼妻で直連関。

・「淺草並木」浅草並木町は現在の雷門2丁目。雷門の雷門通りを挟んだ正面の通りが浅草並木町であった。底本の鈴木氏の注に『もと浅草境内からこの辺まで道の両側に松・桜・榎の並木があった』ことからの町名、とお書きになっておられる。

・「木藥商ひ」生薬屋。植物・動物・鉱物等を素材としてそのまま若しくは簡単な処理をして医薬品あるいは医薬原料に加工する商売。一般人が容易に買えるところから薬種問屋ではなく、現在の一般薬局と等しい薬種屋である。

・「砒霜」砒石(ひせき)。猛毒の砒素を含有する鉱物。砒素について、以下、ウィキの「ヒ素」から一部を引用する。『ヒ素(砒素、ひそ、英名:arsenic)は、原子番号 33 の元素。元素記号は As。第15族(窒素族)の一つ』。『最も安定で金属光沢のあるため金属ヒ素とも呼ばれる「灰色ヒ素」、ニンニク臭があり透明なロウ状の柔らかい「黄色ヒ素」、黒リンと同じ構造を持つ「黒色ヒ素」の3つの同素体が存在する。灰色ヒ素は1気圧下において 615℃で昇華する』。『物に対する毒性が強いことを利用して、農薬、木材防腐に使用される』。『III-V族半導体であるガリウムヒ素 (GaAs) は、発光ダイオードや通信用の高速トランジスタなどに用いられている』。ヒ素化合物サルバルサン (C12H12As2N2O2) 『は、抗生物質のペニシリンが発見される以前は梅毒の治療薬であった』。『中国医学では、硫化ヒ素である雄黄や雌黄はしばしば解毒剤、抗炎症剤として製剤に配合される』。『ヒ素を必須元素とする生物が存在する。微生物のなかに一般的な酸素ではなくヒ素の酸化還元反応を利用して光合成を行っているものも存在する』。『ヒ素およびヒ素化合物は WHO の下部機関 IRAC より発癌性がある〔Type1〕と勧告されている。また、単体ヒ素およびほとんどのヒ素化合物は、人体に非常に有害である。飲み込んだ際の急性症状は、消化管の刺激によって、吐き気、嘔吐、下痢、激しい腹痛などがみられ、場合によってショック状態から死に至る。慢性症状は、剥離性の皮膚炎や過度の色素沈着、骨髄障害、末梢性神経炎、黄疸、腎不全など。慢性ヒ素中毒による皮膚病変としては、ボーエン病が有名である。単体ヒ素及びヒ素化合物は、毒物及び劇物取締法により医薬用外毒物に指定されている。日中戦争中、旧日本軍では嘔吐性のくしゃみ剤ジフェニルシアノアルシンが多く用いられたが、これは砒素を含む毒ガスである』。『一方でヒ素化合物は人体内にごく微量が存在しており、生存に必要な微量必須元素であると考えられている』。『ただしこれは、一部の無毒の有機ヒ素化合物の形でのことである。低毒性の、あるいは生体内で無毒化される有機ヒ素化合物にはメチルアルソン酸やジメチルアルシン酸などがあり、カキ、クルマエビなどの魚介類やヒジキなどの海草類に多く含まれる。さらにエビには高度に代謝されたアルセノベタインとして高濃度存在している。人体に必要な量はごく少なく自然に摂取されると考えられ、また少量の摂取でも毒性が発現するため、サプリメントとして積極的に摂る必要はない』。『亜ヒ酸を含む砒石は日本では古くから「銀の毒」、「石見銀山ねずみ捕り」などと呼ばれ殺鼠剤や暗殺などに用いられていた』。『宮崎県の高千穂町の山あい土呂久では、亜ヒ酸製造が行われていた。この地区の住民に現れた慢性砒素中毒症は、公害病に認定された。症状としては、暴露後数十年して、皮膚の雨だれ様の色素沈着や白斑、手掌、足底の角化、ボーエン病、およびそれに続発する皮膚癌、呼吸器系の肺癌、泌尿器系の癌がある。発生当時は、砒素を焼く煙がV字型の谷に低く垂れ込め、河川や空気を汚染したものと考えられた。上に記した症状は、特に広範な皮膚症状は、環境による慢性砒素中毒を考えるべき重要な症状である。この症状が重要であり、長年月経過すれば、病変、皮膚、毛髪、爪などには、砒素を検出しない』。『上流に天然の砒素化合物鉱床がある河川はヒ素で汚染されているため、高濃度の場合、流域の水を飲むことは服毒するに等しい自殺行為である。低濃度であっても蓄積するので、長期飲用は中毒を発症する。地熱発電の水も砒素を含むので、川に流されず、また、地下に戻される』。『慢性砒素中毒は、例えば井戸の汚染などに続発して、単発的に発生することもある。このような河川は中東など世界に若干存在する。砒素中毒で最も有名なのは台湾の例であり、足の黒化、皮膚癌が見られた。汚染が深刻な国バングラデシュでは、皮膚症状、呼吸器症状、内臓疾患をもつ患者が増えている。ガンで亡くなるケースも報告されている。中国奥地にもみられ、日本の皮膚科医が調査している』。『1955年の森永ヒ素ミルク中毒事件では粉ミルクにヒ素が混入したことが原因で、多数の死者を出した。この場合は急性砒素中毒である。年月が経過し、慢性砒素中毒の報告もある。日本において、急性ヒ素中毒で有名なのは和歌山毒物カレー事件であり、この稿には詳細な急性中毒の報告が記載されている』。『2004年には英国食品規格庁がヒジキに無機ヒ素が多く含まれるため食用にしないよう英国民に勧告した。これに対し、日本の厚生労働省はヒジキに含まれるヒ素は極めて微量であるため、一般的な範囲では食用にしても問題はないという見解を出している』。ヒ素の化合物である『三酸化二ヒ素 (As2O3) 急性前骨髄球性白血病(APL)の治療薬。商品名トリセノックス。海外では骨髄異形成症候群(MDS)、多発性骨髄腫(MM)に対しても使われている。その他血液癌、固形癌に対する研究も進められている』。『13世紀にアルベルトゥス・マグヌスにより発見されたとされ』、『無味無臭かつ、無色な毒であるため、しばしば暗殺の道具として用いられた。ルネサンス時代にはローマ教皇アレクサンデル6世(1431 - 1503年)と息子チェーザレ・ボルジア(1475 - 1507年)はヒ素入りのワインによって、次々と政敵を暗殺したとされる』。『入手が容易である一方、体内に残留し容易に検出できることから狡猾な毒殺には用いられない。そのためヨーロッパでは「愚者の毒」という異名があった』。『中国でも天然の三酸化二ヒ素が「砒霜」の名でしばしば暗殺の場に登場する。例えば、『水滸伝』で潘金蓮が武大郎を殺害するのに使用したのも「砒霜」である』とある。

・「斑猫」土斑猫。昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidaeに属するツチハンミョウ。この生物群はツチハンミョウ科に属し、通常の昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科 Cicindelidae のハンミョウ族とはかなり遠縁であるので注意を有する。以下、ウィキの「ツチハンミョウ」から引用する(学名のフォントを変更した)。『有毒昆虫として、またハナバチ類の巣に寄生する特異な習性をもつ昆虫として知られている』。『成虫の出現時期は種類にもよるが、春に山野に出現するマルクビツチハンミョウ Meloe corvinus などが知られる。全身は紺色の金属光沢があり、腹部は大きくてやわらかく前翅からはみ出す。動きが鈍く、地面を歩き回る』。『触ると死んだ振り(偽死)をして、この時に脚の関節から黄色い液体を分泌する。この液には毒成分カンタリジンが含まれ、弱い皮膚につけば水膨れを生じる。昆虫体にもその成分が含まれる。同じ科のマメハンミョウもカンタリジンを持ち、その毒は忍者も利用した。中国では暗殺用に用いられたともいわれる』。『「ハンミョウ」と名がついているが、ハンミョウとは別の科(Family)に属する。しかし、ハンミョウの方が派手で目立つことと、その名のために混同され、ハンミョウを有毒と思われる場合がある』。『マルクビツチハンミョウなどは、単独生活するハナバチ類の巣に寄生して成長する』。『雌は地中に数千個の卵を産むが、これは昆虫にしては非常に多い産卵数である。孵化した一齢幼虫は細長い体によく発達した脚を持ち、草によじ登って花の中に潜り込む。花に何らかの昆虫が訪れるとその体に乗り移るが、それがハナバチの雌であれば、ハチが巣作りをし、蜜と花粉を集め、産卵する時に巣への侵入を果たすことができる』。『また、花から乗り移った昆虫が雄のハナバチだった場合は雌と交尾するときに乗り移れるが、ハナバチに乗り移れなかったものやハナバチ以外の昆虫に乗り移ったものは死ぬしかない。成虫がたくさんの卵を産むのも、ハナバチの巣に辿りつく幼虫を増やすためである』。『ハナバチの巣に辿りついた1齢幼虫は、脱皮するとイモムシのような形態となる。ハナバチの卵や蜜、花粉を食べて成長するが、成長の途中で一時的に蛹のように変化し、動かない時期がある。この時期は擬蛹(ぎよう)と呼ばれる。擬蛹は一旦イモムシ型の幼虫に戻ったあと、本当に蛹になる』。『甲虫類の幼虫は成長の過程で外見が大きく変わらないが、ツチハンミョウでは同じ幼虫でも成長につれて外見が変化する。通常の完全変態よりも多くの段階を経るという意味で「過変態」と呼ばれる。このような特異な生活史はファーブルの「昆虫記」にも紹介されている』。漢方薬としては「芫青」(げんせい)名でも知られ、カンタリジン(cantharidin)を抽出出来るツチハンミョウの種としては、ヨーロッパ産のカンタリスである Litta vesicatoriaアオハンミョウ(青斑猫)や日本産の Epicauta gorhami マメハンミョウ(豆斑猫)及び中国産の Mylabris phalerata Pallas 又は Mylabris cichorii が挙げられる。薬性としては刺激性臭気、僅かに辛く、粉末は皮膚の柔らかい部分や粘膜に附着すると掻痒感を引き起こし、発疱を生ずる。古くから皮膚刺激薬・発疱剤(肋膜炎・リウマチ・神経痛に適用)・発毛促進剤・利尿剤(稀な内服例)として用いられた。急性慢性毒性としては経口摂取による咽喉の灼熱感・腹痛・悪心・嘔吐・下痢・吐血・無尿・血尿・低血圧・昏睡・痙攣・排尿時劇痛等の諸症状が見られ、呼吸器不全や腎障害(尿毒症等)を惹起して死に至ることもあるとする。実は本剤はスパニッシュ・フライという名で媚薬としても知られており、一定量を内服すると尿道が刺激されて男性性器の勃起を促進する効果があるという。但し、有毒成分が排出される際に高い確率で腎臓炎や膀胱炎を誘発し、少量でも反復使用すると慢性の中毒症状を引き起こす危険性があるという(以上、後半のカンタリジンの薬理に関しては「医薬品情報21(代表古泉秀夫氏)の「芫青の毒性」の項を参考させて頂いた)。

・「ウズ」漢方薬で被子植物門双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の総称であるトリカブトの根茎を言う。以下、ウィキの「トリカブト」から引用する。トリカブト(鳥兜・学名Aconitum)は、『キンポウゲ科トリカブト属の総称。日本には約30種自生している。 花の色は紫色の他、白、黄色、ピンク色など。多くは多年草である。沢筋などの比較的湿気の多い場所を好む』。『塊根を乾したものは漢方薬や毒として用いられ、附子(生薬名は「ぶし」、毒に使うときは「ぶす」)または烏頭(うず)と呼ばれる)。ドクゼリ、ドクウツギと並んで日本三大有毒植物の一つとされる』。『トリカブトの名の由来は、花が古来の衣装である鳥兜・烏帽子に似ているからとも、鶏の鶏冠(とさか)に似ているからとも言われる。英名は「僧侶のフード(かぶりもの)」の意』。以下、「主な種」が掲げられている(一部の注釈記号を省略し、学名のフォントを変更した)。

ハナトリカブトAconitum chinense

カワチブシAconitum grossedentatum

ハクサントリカブトAconitum hakusanense

センウズモドキAconitum jaluense

ヤマトリカブトAconitum japonicum Thunb.

ツクバトリカブトAconitum japonicum Thunb. subsp. maritimum

キタダケトリカブトAconitum kitadakense

レイジンソウAconitum loczyanum

ヨウシュトリカブトAconitum napellus 模式種

タンナトリカブトAconitum napiforme

エゾトリカブトAconitum sachalinense - アイヌが矢毒に用いた。

ホソバトリカブトAconitum senanense

ダイセツトリカブトAconitum yamazakii

『化学成分からみて妥当な分類としてトリカブト属が30種、変種が22種、計52種という多くの種類が存在』するとある。以下、「毒性」の項。トリカブトの毒の一つアコニチンは『比較的有名な有毒植物。主な毒成分はジテルペン系アルカロイドのアコニチンで、他にメサコニチン、アコニン、ヒバコニチン、低毒性成分のアチシンの他ソンゴリンなどを』『全草(特に根)に含む。採集時期および地域によって毒の強さが異なる』『が、毒性の強弱に関わらず野草を食用することは非常に危険である』。『食べると嘔吐・呼吸困難、臓器不全などから死に至ることもある。経皮吸収・経粘膜吸収され、経口から摂取後数十分で死亡する即効性がある。トリカブトによる死因は、心室細動ないし心停止である。下痢は普通見られない。特異的療法も解毒剤もないが、各地の医療機関で中毒の治療研究が行われている』。

『芽吹きの頃にはセリ、ニリンソウ、ゲンノショウコ、ヨモギ等と似ている為、誤食による中毒事故(死亡例もある)が起こる。株によって、葉の切れ込み具合が異なる』。『蜜、花粉にも中毒例がある。このため、養蜂家はトリカブトが自生している所では蜂蜜を採集しないか開花期を避ける。以下、「漢方薬」の項。『漢方ではトリカブト属の塊根を附子(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を附子と言い、「親」の部分は烏頭(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を天雄(てんゆう)と言って、それぞれ運用法が違う。強心作用、鎮痛作用がある。また、牛車腎気丸及び桂枝加朮附湯では皮膚温上昇作用、末梢血管拡張作用により血液循環の改善に有効である』。『しかし、毒性が強い為、附子をそのまま生薬として用いる事はほとんど無く、修治と呼ばれる弱毒処理が行われる』。『炮附子は苦汁につけ込んだ後、加熱処理したもの。加工附子や修治附子は、オートクレーブ法を使って加圧加熱処理をしたもの。修治には、オートクレーブの温度、時間が大切である。温度や時間を調節する事で、メサコニチンなどの残存量を調節する。この処理は、アコニチンや、メサコニチンのC-8位のアセチル基を加水分解する目的で行われる。これにより、アコニチンは、ベンゾイルアコニンに』、『メサコニチンは、ベンゾイルメサコニンになり、毒性は千分の一程度に減毒される。これには専門的な薬学的知識が必要であり、非常に毒性が強いため素人は処方すべきでない』。以下、「附子が配合されている漢方方剤の例」として葛根加朮附湯・桂枝加朮附湯・桂枝加苓朮附湯・桂芍知母湯・芍薬甘草附子・麻黄附子細辛湯・真武湯・八味地黄丸・牛車腎気丸・四逆湯が挙げられている。また、トリカブトの花は実際にはかなり美しく、『観賞用のトリカブトハナトリカブトはその名の通り花が大きく、まとまっているので、観賞用として栽培され、切花の状態で販売されている。しかし、ハナトリカブトの全草にも毒性の強いメサコニチンが含まれているので危険である』。『ヨーロッパでは、魔術の女神ヘカテを司る花とされ、庭に埋めてはならないとされる。ギリシャ神話では、地獄の番犬ケルベロスの涎から生まれたともされている。狼男伝説とも関連づけられている』。『富士山の名の由来には複数の説があり、山麓に多く自生しているトリカブト(附子)からとする説もある。また俗に不美人のことを「ブス」と言うが、これはトリカブトの中毒で神経に障害が起き、顔の表情がおかしくなったのを指すという説もある』とある。

・「小悴」岩波版長谷川氏注には「小僧」とするが、私はそのまま主人の倅で訳してみた。その方が面白いと判断したからである。辞書には若い男子を罵って言う語としての「小悴」の意味はあるが、所謂、商店の丁稚や小僧を言うという記載は見出せなかったからでもある。

・「花川戸」現在は東京都台東区に花川戸一丁目と花川戸二丁目で残る。ウィキの「花川戸」によれば、『台東区の東部に位置し、墨田区(吾妻橋・向島)との区境にあたる。地域南部は雷門通りに接し、これを境に台東区雷門に接する。地域西部は馬道通りに接し、台東区浅草一丁目・浅草二丁目に接する。地域北部は、言問通りに接しこれを境に台東区浅草六・七丁目にそれぞれ接する。当地域中央を花川戸一丁目と花川戸二丁目を分ける形で東西に二天門通りが通っている。また地域内を南北に江戸通りが通っている。またかつて花川戸一帯は履物問屋街としても知られていた。現在でも履物・靴関連の商店が地域内に散見できる』とあり、この話柄の後半に登場する男の商売(職種は示されていない)も履物問屋であった可能性が高いか。問屋であれば、店先に洗い張りの浴衣が干してあっても不自然ではない気がする。

・「給(たべ)なん」は底本のルビ。

・「觀音薩埵」観音菩薩。「薩埵」は梵語“sattva”の漢訳で、原義は「生命あるもの・有情・衆生」であるが、後に「菩提薩埵」(ぼだいさつた)の略、如来にならんとして修行する者を意味する「菩薩」の意となった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 心からの祈誓には必ず効験がある事

 

 最近の話の由にて、浅草並木辺りにての出来事らしい。

 生薬を商(あきの)うておる者があった。

――注しておくと、薬種屋には砒霜(ひそう)や斑猫(はんみょう)なんどと申すいわゆる猛毒にても、質(たち)の悪い腫れ物やその他の悪しき病いの病状によっては、これらを処方することもあるので、薬剤の一種として品揃え致いて御座る由。然れども、容易に販売するようなこと致さぬは勿論である。また、その他にも烏頭(うず)といったような、砒霜や斑猫に比べれば比較的軽度の毒物にても、当然、その量によっては十分に人の命を奪うような害ともなるため、妄りに売買することは、これ、御座らぬは常識である。――

 ところが、ある日のこと、その生薬屋の主人が、僅かの間近所に出ていた留守に、一人の女が店を訪れ――流石に砒霜や斑猫の類ではなかったようであるが、所謂、烏頭程度の危険毒は持った――さる毒性薬物を売って欲しいと望んだ。偶々店を預かって御座った小倅、未だ薬種屋商いのいろはも学んで御座らぬに、軽率にもその毒物を売ってしまった。

 親なる主人が帰ったので、倅は何心なくこのことを告げたところ、主人、大いに驚き、

「如何なる年格好の者に売った!? 名や住所は訊いたのか!?」

と糺すと、

「……名や住所なんぞは聞かなんだよ……普段、お父(とっつ)あん、そんなことするとこ、見たこともないもんで……全然知らん人じゃったなあ……年の頃は三十ばかりの女で……若い丁稚を一人連れて買い上げて行ったよ……」

と、自分の成したことが如何に大変なことであるか、全く以って分かっておらぬ故、如何にも長閑に答えて平然として御座った。

 聞いた主人は一人、最悪の事態を想像して、深く歎き苦しみ、ともかくも兼ねてより深く信心致いて御座る浅草観音へ詣でると一心不乱に、

「……かの薬、人の害となりませぬように!……どうか! 人の為になりますように!……」

と心胆を砕く思いで祈って御座った。

 さても、その折り、年の頃四十(しじゅう)ばかりの男で、これも観音の信者と見えて、読経など懇ろに致いて一心に祈って御座ったが、帰る際に、ふと道連れになった。

男が、

「御身も、如何にも観音へ、信心深く尊崇するお方とお見受け致いた。当浅草寺観音の霊験は、これ著しきものにて御座れば、我らも、ここ数年の間日参致いて御座る。」

などと主人に語りかけ、

「……最前のご祈念、何やらん、切羽詰ったものとお見受けしたが……失礼ながら、もしよろしければその心願の筋……お聴きしてはまずかろうものか……」

と訊ねる故、生薬屋主人は、

「……我らことは……差し迫ったる大難あればこそ……一心に祈念致いて御座った……」

と応えたので、

「……それはまた……如何なることにて御座る?……立ち入ったことを申すようなれど……僅かなりとも、観音の心を共に致す我ら、共に力になれること、これ、ないとは限らぬ。……一つ、お話し下さらぬか?……」

との謂いに――辺りに人もなし――生薬屋にても――藁にも縋る思いにて――かくかくのことにて、と語ったところ、連れとなった男は、事細かに女の年頃・着衣・格好など様子を細かに聴いた上、

「……御身は見ず知らずの他人が受けるかも受けぬかも知れぬ難儀を……そのように深く悔いて心に懸け……かく観音菩薩を信心なさり、祈念なさっておる……このこと、どうして感応せざること、これありましょうぞ! 必ずや、その至誠、観音菩薩に通ずること、これ間違い御座らぬ! 我らが住まいは花川戸にて○○という店を開いて御座る。お近くへお出での折りは、どうか一つ、是非お訪ね下されよ。」

と言うて二人は別れる。――

 さて、この生薬屋と連れになった男、別れて後、己が(おの)が住居せる花川戸へ帰って御座ったところ、ふと見ると――自分のお店(たな)の入り口の脇に、浴衣が洗い張りして干して御座った。――その浴衣を見たとたん、男はあることに気づいた。

――その浴衣の柄――それは、かの浅草にて、かの生薬屋から聞いた、かの女の着て御座ったという柄模様と――

――これ、少しも違いなきものなので御座った――

『……いや……そういわれて見ると……妻の年格好も……これ、似寄るわ……』

と心に不審の種を播いて御座った。――

 男が家に入るや、妻がかいがいしく男を迎えたかと思うと、何時もに似ず、茶なんどを運び、

「……さっき、餅菓子染みたもの、ちょいと焼いて拵えましたから、……さ、茶菓子に、どうぞ……」

と添えて、差し出す。

 いよいよ不審が芽を吹いた。

「……うむ。美味そうな菓子じゃ。じゃが、後で頂こうかの。……そうさ、我ら、先ず一(ひとっ)風呂浴びて参る。」

男は丁稚に命じて浴衣手拭いを持たすと湯屋(ゆうや)へ向かった。

 途中、その丁稚を人気のないところに呼び寄せると、

「……つかぬことを訊くが……お前、今朝、妻の供して何処へ参った? 途中、妻が何処ぞで買い物なんど致いたりはせなんだか?」

と訊ねたので――勿論、丁稚もそれが隠すようなことだとも思わねば、

「へえ、浅草へ詣でて、帰りに、生薬屋へ寄って何やらお買いになっておられました。」

ことなど、ありの儘に話した。――

「……いよいよ、これ、相違ない!……」

と男は一人ごちると、思わず浅草の方に向こうて手を合わせて御座った。

 その後(のち)、常の如く湯屋(ゆうや)に入(い)って宅(うち)にたち帰る

――と――

またしても妻は例の茶菓子どもを持ち出して、

「さ、お召しになられよ。」

と切に勧める。そこで男、その菓子を妻の眼前に突き出し、

「……先ずは一つ、お前がお食べ……。」

と申したところ、

「……!……い、いえ、……あ、あたしは、あ、あんまり、好きなもんじゃあ、御座んせんから……」

と、何やらん、しどろもどろに答えたので、男は、

「――相分かった。今日は我ら存ずる旨(むね)あればこそ、そなたは親里方へ帰るがよい――」

と静かに言うや、かの菓子をお重に納めさせ、即座に三行半を認(したた)めて、一番に信頼して御座った下男にそれらを持たせて妻に付き添わせ、

「――離縁の訳は――この重箱の菓子じゃ――」

とやはり静かに言い放って妻を里へ送り返したとかいうことで御座る。

 さてもそれより、この男、かの生薬屋に訳を話した上、兄弟の如く交わりをなし、また、いよいよ観音菩薩の御利益に感じ入って、異心なく信心深くして御座ったということである。

 

 

 上野淸水の觀音額の事

 

 上野淸水(きよみづ)の觀音に、主馬(しゆめ)の判官(はうぐわん)盛久と見へて、大刀取(たちとり)の刀段々壞(だんだんゑ)と成りし繪馬あり。盛久の繪馬ならんと人々のいゝしに、堂守成僧かたりけるは、右繪馬を盛久と見給ふはさる事ながら、盛久にはあらず、あの繪馬に付物語りあり。去る大名の勝手方を勤ぬる武士、其役儀に付私欲の事にてもありしや、吟味に成て死刑に極る事也しに、彼妻深く歎き、日々清水の觀音へ詣ふで堂の廻りを百遍宛(づつ)廻りて一心不亂に祈りしに、髮形(かた)チ取亂し面(おも)テも垢によごれ其姿もやつれ果て、雨雪もいとわず日々歎きて祈けるを、或日御門主右の清水堂に詣ふで給ひて彼女の樣を見給ひ、いか成願ひなるやと人を以尋給ひしに、しか/\の由申けるにぞ、哀れに不便とおもひ給ひしや、御使僧(ごしそう)を以(もつて)彼(かの)諸侯のもとへ被仰遣(おほせやられ)けるは、何某事罪のやうは御存にあらず、極惡の事にもあらずば命を助け給へと御賴也けるにぞ、諸侯にても御門主の御賴無據、命を助け追拂ひに成しと也。其後かの妻ひとへに觀音の利益也と、其樣を繪馬として納たる也と語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:観音現世利益で直連関。しかし、根岸は必ずしも観音菩薩の利益を信じているという訳ではない気がする。

・「上野淸水の觀音」現在も不忍池を見下ろす東の位置に建つ清水観音堂。法華堂や常行堂に遅れること4年、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山慈眼大師天海大僧正によって創建された。天海は平安京に於いて比叡山が御所の鬼門を鎮護したのに倣って、東叡山寛永寺を江戸城の鬼門の守りとして置いた上で、京都の著名な寺院に擬えた堂舎を次々と建立した中の一つが、この清水寺を模した清水観音堂であった。

・「主馬の判官盛久」以下、ここに登場する絵馬が、参詣した人々から、しばしば謡曲「盛久」等で知られる話を絵馬にしたものであろうと思われがちなのであるが、実はそうではない、という語りであるが、とりあえず謡曲「盛久」で知られる原話を注しておく。「盛久」とは平主馬(しゅめ)判官盛久(生没年未詳)のこと。平安末・鎌倉初期の武将で、平盛国の子、通称は主馬八郎。元暦2(1185)年壇ノ浦の戦いで平家が敗れた後、京都で捕らえられて鎌倉へ護送、由比ヶ浜にて斬罪に処せられんとしたところ、日頃より信心していた清水観音の加護で救われたと伝えられる。謡曲「盛久」については私は未見にて語り得ないので、高橋春雄氏の「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」の「盛久1 もりひさ」の「ストーリー」より引用する。『源平の乱後、主馬判官盛久は生け捕りにされ、土屋何某の手で鎌倉へ護送されることになります。途中、盛久は年来信仰した清水観音に暇詣でをすると、都を後に悲哀に満ちた海道下りの旅を続け、鎌倉に着きます』。『盛久は獄中で世の無常を思い、生き恥を晒すことよりも死を望みます。盛久に同情する土屋がこの暁か明夜に処刑だと知らせると盛久は観音経をこれが最後と讀誦います。やがて一睡の中に、老僧が盛久の身代わりになるとの夢の告げを被ります。明け方、盛久は金泥の経巻と数珠を持ち由比ヶ浜の刑場に引き出されます。太刀取が背後に回り刀を振りかざした途端、開いた経文の光が眼を射て、思わず落とした刀が二つに折れてしまいます』。『盛久はこの霊夢による奇跡のために頼朝から罪を許され、杯を賜り、所望された舞を晴れ晴れと舞い上げて退出して行きます。(「宝生の能」平11.2月号より)』とある。岩波版長谷川氏注によると、この伝説の原拠は長門本「平家物語」に基づくものという。近松門左衛門の浄瑠璃にも「主馬判官盛久」があり、この話、当時の人々にはよく知られた話であった。また、リンク先のストーリー解説の下には、写真入りで正にこの上野清水観音堂が掲げられ、ここ『の千手観音像は盛久の護持仏であったという』という記載がある。但し、ここで言う盛久の清水観音とは、本来は京都清水寺にあったものを指していると考えないと盛久の種々の伝承とは辻褄が合わない。底本の鈴木氏注には、この清水堂の、この絵馬について三村清三郎鳶魚翁の注を引き、『新撰東京名所図会に、守一筆にて、主馬判官盛久、由比が浜にて斬刑にあふ図は、寛政十二庚申七月とありと見ゆ、此の絵馬なるべし』とあると記す。

・「刀段々壞」勿論、先の注に附した霊験のシーンにも現れる台詞であるが、実はこの表現は実際の観音菩薩の霊験を讃える法華経の中にその通りに現れる言葉なのである。「法華経」普門品(ふもんぼん)にある「念彼観音力刀尋段段壊」(ねんぴかんのんりきとうじんだんだんえ)という偈(げ)である。これは、観音菩薩の深遠な御慈悲の力を祈念したならば、仏敵が切りかかけて来る刀でさえも紙を折るようにあっという間に幾つにも折れ落ちて、観音を信ずる者の身体万全であるという意味。

・「勝手方」幕府や大名の財務や民政を司った役を広く言う語。

・「御門主」上野東叡山寛永寺貫主。江戸の知識階級の間では東叡大王(とうえいだいおう:東叡山寛永寺におられる法親王殿下)と通称した。

・「罪のやうは御存にあらず」勿論、私はその武家の罪の具体的な内容に就いては全く以って御存知にては御座らねども、の意。「御」は自敬表現。訳では外した。

・「追拂ひ」追放・所払いのことであろう。この場合、諸候とあるから、現居住地であると思われる江戸だけではなく、その諸侯の領国への立ち入りも禁じられる内容であろうと思われる。但しこれが、幕府の追放刑の中でも最も重い「重追放」に準ずるものであったとすると、もっと自由移動が制限される。重追放は一般には関所破りや強訴(ごうそ)未・既遂者などに科された、死罪の次に重いもので、田畑や家屋は敷没収の上、庶民の場合は犯罪地+住国+江戸十里四方(日本橋から半径五里以内)の立ち入りや居住が禁じられた。武士の場合は犯罪地+住国に加えて関八州(武蔵国・相模国・上総国・下総国・安房国・上野国・下野国・常陸国。現在の関東地方にほぼ相当)・京都付近・東海道街道筋等も禁足地に加えられていた。にしても――人間至るところ青山あり――死にどころを選ぶことも出来、死ぬよりは――全く以ってマシである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 上野清水堂の観音の額絵馬の事

 

 上野清水(きよみず)の観音堂に、主馬(しゅめ)判官(ほうがん)盛久の逸話を描いたと見えて、盛久と思しい、手を合わせた侍の後ろに立ったる斬首の太刀取りの刀が、美事、ばらばらになって折れておる絵馬が懸かって御座る。

 これはもう、盛久八郎刀尋段段壊の絵馬であろう、とかつての私も含め、世間の人々は申して御座るが――これ――違う。

 観音堂の堂守である僧が、以下のように語って御座った。――

 

……いや、かの絵馬を盛久八郎とご覧になるは、これ、ご尤もなることなれど、……実は盛久にてはあらず、……さても、あの絵馬には……さる謂われが御座るのじゃ。……

……さる大名の勝手方を勤めて御座ったさるお武家、その役儀につき、任された公金の横領なんどの罪にても御座ったものか……吟味の上、死罪と極まって御座った。……

……かの妻は……これ、深(ふこ)う嘆きましてな、……日々、この清水の観音へ詣で、堂の周りを毎日百遍ずつ廻っては一心不乱に祈って御座いました。……髪もすっかり崩れ、総髪振り乱して、面もすっかり垢に汚れ、窶(やつ)れ果てた姿となっても……これ、雨も雪も厭わず、……日々、泣き嘆き乍らも……観音に一心に祈りを捧げて御座った。……

……ある日のこと、ご門主さまが、この清水堂に詣でなされた折り、偶々かの女の様をご覧になられました。……

「あれは……一体、何を祈っておじゃるか……」

と、人を遣わせてお尋ね遊ばされました。……

……さても女はかくかくの謂い……それをお聴き遊ばされた御門主は……如何にも哀れに不憫なことと、お思いになられたので御座いましょう……お使いの僧侶をお立てになられ……かの武士の主(あるじ)たる大名諸侯のもとへ、仰せ遣わせになられました――

「――貴方勝手方何某のこと――如何なる罪かは存ぜぬものなれども――極悪の罪にてもないので御座れば、これ、命ばかりは、お救いあられんことを――」

との、御依頼にて御座ったとのこと。……

……さても、諸侯におかせられても、御門主のよんどころなき御依頼となれば、これ、致し方なく……かの男の命を救うてやり、罪一等減じて追放に処した、とのこと。……

……さても後日(ごにち)のこと、かの妻が参りましてな、

「――誠(まっこと)偏えに観音さまのご利益にて御座いました――」

と礼を述べて……この一件をこのように絵馬に仕立てて、かく奉納致いたので御座る……。

 

 

 御門主明德の事

 

 いづれの御門主の御時にてや有けん。去る諸侯の家士不屆の事ありて死刑に極り、近き内に下屋敷にて其刑に行れんとありし時、彼罪人の親しかりしもの壹人の出家を賴み乘物供廻り等を拵へ、彼諸侯の許へ上野御使僧の由を以相越、助命御賴の由申入けるにぞ、早速大守(たいしゆ)へ申けるに、家法を侵す事其罪免しがたけれど、御門主御賴も無據とて助命して追拂ひに成りける。扨彼諸侯より使者を以、上野御本坊へ答禮ありしかば、元より御使僧出ざる事故、重(おもき)役人へ告たれども曾て知りし者なし。全く東叡山の使僧と僞り御門主の命を假しものならんと、其訳申上ければ、御門主被仰けるは、たとひ此方より使者を出さず共、上野の命といへば助(たすか)る事としりて、僞りかたり人の命を助しは則(すなはち)上野より助(たすけ)遣はせし也。御賴の趣承知にて悦入(よろこびいる)との挨拶なすべしとの仰せにて、其通り答へ濟しと也。法中の御身にはかくも有べき事と、親王の明德を各々感じけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:寛永寺御門主絡みであるが、内容は前項の裏返しで、しかも結末は同じく大団円という裏技のエピソード。組み噺しとして面白い。

・「御門主」上野東叡山寛永寺貫主。江戸の知識階級の間では東叡大王(とうえいだいおう:東叡山寛永寺におられる法親王殿下)と通称した。

・「壹人の出家」底本の鈴木氏注には前項に続いて三村鳶魚の注を引き、この人物を『世に伝ふる河内山宗俊の事なり』とする見解を提示する。河内山宗俊(生年不詳~文政61823)年)は江戸時代後期の茶坊主。以下、ウィキの「河内山宗春」から引用しておく。河内山宗春はこの実在の人物『およびそれをモデルとした講談・歌舞伎などの創作上の人物。歌舞伎・映画・テレビドラマなどの創作物では「河内山宗俊」と表記する。また「河内山宗心」とも』言う。『宗春は江戸出身で、家斉治世下の江戸城西の丸に出仕した表坊主であった。表坊主とは若年寄支配下に属した同朋衆の一つ。将軍・大名などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる。文化5年(1808年)から6年ごろ小普請入りとなり、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、その親分格と目されるようになったという。やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請り取るようになった。巷説では水戸藩が財政難から江戸で行っていた富くじの経営に関する不正をつかみ、同藩を強請ったことが発覚し、捕らえられたというが、正式な記録はない。文政6年(1823年)捕縛された後、牢内で獄死』した。この死後、一種のピカレスク・ロマンとしての脚色が始まった(以下、記号の一部を変更、脱字を脱字を補った)。『河内山は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)も残っておらず、具体的にどのような不正を犯して捕らえられたのかは分からない。しかしそのことがかえって爛熟した化政文化を謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという義賊的な側面が、本人の死後に増幅していくこととなった。実録としては「河内山実伝」があり、明治初年には二代目松林伯圓が講談「天保六花撰」(てんぽうろっかせん)としてこれをまとめた。ここでは宗俊は表坊主ではなく、御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う軽輩)となっており、松江藩(松平家)への乗り込みと騙りが目玉になっている。さらに明治7年(1874 年)には二代目河竹新七(黙阿弥)がこれをさらに脚色した歌舞伎の「雲上野三衣策前」(くものうえのさんえの さくまえ)が初演。さらに明治14年(1881年)3月にはやはり黙阿弥によってこれが「天衣紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)に改作されて、東京新富座で初演。ここで九代目市川團十郎がつとめた型が現在に伝わっている』とある。岩波版長谷川氏注では、この河内山の絡んだ水戸藩富籤不正事件から、『本章のような話が宗春に結び付けられたのであろう』と記されるが、その昔の勝新太郎のTVドラマで河内山宗俊が千両役者ばりの詐欺師の一面を持っていたことぐらいは、知っているが、私が馬鹿なのか、この長谷川氏の説明、不十分に感じられ、どうしてそう言えるのかがよく分からない。なお、長谷川氏は更に『鈴木氏に薊小僧清吉にこのような犯行のあったことの指摘あり。同人処刑は文化二年(一八〇五)。』と記されている。薊(あざみ)小僧清吉とは鼠小僧次郎吉と並ぶ江戸で人気の儀賊。「すり抜けの清吉」の異名をとった神出鬼没の盗賊であったが、小塚原刑場で打ち首獄門となった。後の歌舞伎の白浪物や落語の鬼薊清吉のモデルである。

・「大守」古くは武家政権以降の幕府高官や領主を指すが、既に「諸候」とし、江戸時代には通常の国持ち大名全般をこう俗称したので、これは大名と読み替えてよい。

・「上野御本坊」寛永寺。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 御門主御明徳の事

 

 どの御門主の御代のことで御座ったか、さる大名諸侯の家士、不行き届きの儀、これ有り、吟味の上、死刑と相極まって、近い内にかの大名の江戸下屋敷にてその刑が執行されんとせし時、かの罪人と親しい者が、一人の出家に頼み込んで、乗物・供回りなんどを相応に拵え上げた上、かの諸侯のもとへ、

「――上野寛永寺御使僧(ごしそう)なり――」

と名乗って乗り付けると、厳かにかの家士の助命御依頼の向き申し入れたので、家人ども、慌てふためいて主人へ申し上ぐる。されば、御大名も、

「……家法を侵したるその罪、これ、許し難し……なれど……御門主の御頼みとなれば……致し方、御座らぬ……」

とのお達しにて、かの家士の命をお助けになられ、一等減じて、追放と相成った。

 ……ところが……

 さても後日、かの諸侯より上野寛永寺へ御使者を立てて、

「――御依頼の向き、有難くお受け致し、かの某なる者、死一等減じて追放と致せし――」旨、答礼致いたところ……

これを聞き及んだ役僧、もとより御使僧なんど出した覚えも、これ、御座ない――

この役僧、直ちに上役の僧侶に報告致いたところが……

さて、彼らも、かつて近頃、御使僧を遣わしたることなんどを知る者、これ、一人として御座ない――

「……全く以って東叡山の使僧と偽り、不届き千万不遜不敬にも御門主様御名を借り、たばかりし者に相違なし!……」

と、この由々しき一件につき、早速に御門主様に申し上げた。
 ところが、
御門主様曰く、

「――仮令(たとい)こちらより御使者を出ださずとも――『上野の御命令』と言えば助かること知って、偽り騙(かた)り、人の命を救ったは――それでも、これ、則ち――『上野より助け遣わした』――ということで、おじゃる――『御依頼の趣御承知下されしこと、恐悦至極に存ずる』と挨拶しておじゃれ――」

との仰せにて、役僧は厳かに、その通りに答えて済ましたという。

 流石は法身の御門主なればこそ、かく御美事なる御言葉なれ、と親王の明徳に誰(たれ)も深(ふこ)う感じ入ったということで、おじゃる――。

 

 

 生れ得て惡業なす者の事

 

 神田邊に裏借屋の者有しが、彼悴十歳計(ばかり)の此(ころ)遊びに出て歸りけるが、流しの下の地を掘り何か埋る躰(てい)也。母是を見ていか成品やとひそかに見しに錢也。其後亦々埋る躰故見たりしに、錢百文計(ばかり)を埋置ぬ。これに依て捕候て嚴敷(きびしく)折檻なしけるより、小兒の事なれば其手意(しゆい)もわからず、重(かさね)てかゝる事あらば其通りならずと、或は怒り或は悲しみて是を制しぬれば、暫くは止(やみた)る樣なれど亦々右やうの事あり。十四五歳に成ては彌々つのりて詮方なく追出しぬれば、晝盜(すり)の仲間入して果は御仕置に成しと也。孟子の性善の論、誠に名教と思ひ居しに、予がしれる人の子に、聰明にして手蹟は關思恭(せきしきやう)が門に入て同門に異童の名をあげ、書を讀むに一を聞て二を悟る程にありしが、盜みの癖有りて壯年に及び兩親も捨置がたく、一子を勘當なしけるをまのあたり覺へたり。其の氣質のうけたる所多くの人間の内には又ある事にや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:犯罪者絡みで連関。先行する身を持ち崩す若者のケース・スタディの一つでもある。特に後半の一件は根岸の直接体験過去として苦く記されている点、印象的である。なお、この二例は現代であれば何れも真正の病的な窃盗症として診断されるものであろう。以下、ウィキの「窃盗症」を引用して参考に供しておく。『窃盗症とは、クレプトマニア(kleptomania)の訳語であり、経済的利得を得るなど一見して他人に理解できる理由ではなく、窃盗自体の衝動により、反復的に実行してしまう症状で、精神疾患の一種である。病的窃盗とも言う。衝動が性的なものに起因する場合、窃盗愛好者(クレプトフィリア kleptophilia)といわれることもある』。『この症例は、その衝動により窃盗行為を行い、実行時に緊張感を味わい、成功時に開放感・満足感を得る。窃盗の対象物や窃盗の結果に対しては関心がなく、一般にはほとんど価値がないものである場合も多く、盗品は、廃棄・未使用のまま隠匿・他人への譲渡の他、まれには、現場に返却される場合もある。いわゆる「利益のための窃盗」ではなく「窃盗のための窃盗」といわれ、「衝動制御の障害」に含まれ同様の症例として「放火のための放火」を繰り返す放火症がある』。『その原因はうつ病や性的虐待・性的葛藤との関連づけが試みられており、摂食障害や月経等との関係が注目されている。巷間に言う、「月経と万引き」の関係などがこの例であるが、最近は、統計的実証的研究から、性的偏見に基づく一種の伝説であるとの批判もなされている』。『一般的用語として窃盗癖・盗癖とも言うが、一般に「盗癖がある」窃盗常習犯は、意思欠如型の精神病質は見いだされるものの、その動機は経済的なものであることがほとんどであり、必ずしも窃盗症と領域を一致させない』。

・「手意」底本では右に『(趣意)』と注する。

・「關思恭」関思恭(せきしきょう 元禄101697)年~明和2(1766)年)は書家。以下、ウィキの「関思恭」より引用する。『字を子肅、鳳岡と号し他に墨指生と称した。通称は源内。本姓は伊藤氏。水戸の人』。『先祖は武田信玄の家臣とされ、曽祖父の伊藤友玄の代になって水戸藩に仕え祖父の友近もやはり水戸藩に仕官。しかし父の伊藤祐宗(号は道祐)は生涯仕官していない。思恭はこの父と母(戸張氏)の第四子として水戸に生まれ故あって関氏を名乗る。幼少から筆や硯を遊具の代わりとするほど書を好んだ。16歳のとき江戸に出て、細井広沢にその才能を見いだされ入門。その筆法は極めて優れ、たちまち広沢門下の第一となった。広沢が思恭に代書させるに及んでその評判は高まった。因みに浅草待乳山の歓喜天の堂に掲げられる『金龍山』の扁額は広沢の落款印があるものの思恭が代筆したものである』。『経学を太宰春台に就いて学び、詩文は天門から受けた。また射術に優れた。27歳で文学を以て土浦藩に仕え禄を得た。広沢没後、三井親和と並称されその評判はますます高まり門弟およそ5千人を擁したという。40歳で妻帯し3女をもうける。60歳頃より神経痛を患い歩行が困難となり家族に介護されるもその運筆は衰えなかった。享年69。江戸小石川称名寺に葬られる。門人に関口忠貞がいる。娘婿の其寧が跡を継ぎ、孫の克明、曾孫の思亮、いずれも書家として名声を得た』。『宋の婁機『漢隷字源』を開版している』。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 生まれ乍ら悪行を為すことを定められし者の事

 

 神田辺の裏通りの貸家に住んでおる者があった。

 彼の倅(せがれ)が、未だ十歳ばかりの頃、遊びに出て帰って来たところ、厨の流しの下の地面を掘って、何やらん、埋めている様子。母親がこれを見、一体、何を埋めているのだろうとそっと覗いてみると――銭であった。――

 その後も度々埋めている様子であったので、ある時、掘り返してみたところが――銭百文ほども埋めてある。

 このことから父母、倅を捕まえ、厳しく折檻致いたのじゃが、何せ子供のことなれば、叱られている理由(わけ)が、そもそも、よく分からぬ。

「……ともかくも、じゃ! またこんなことがあったら、の! こんなこっちゃ、済まんから、の!……」

と或いは怒り、或いは情けなさに泣きながら、向後、かくなることを厳しく禁ずる旨、言い含めおく……と、暫くの間は止んでいる……が……また暫くすると、また同じことを繰り返し、父母も同じように折檻する……という繰り返しで御座った……

 ……結局、十四、五歳のいっぱしの大きさになって仕舞えば、いよいよ言うことも聞かず、全く以って手に負えなくなり、詮方なく家から追い出だしたところが……瞬く内に掏摸の仲間入り致いた果てに、罪を重ね重ね……遂には捕縛され、処刑された、とのことである。……

 ――私はかねてより、孟子の性善説について、これは誠に優れた教えである、と思って御座ったのじゃが――

 ……私の知人の子に、誠(まっこと)、聡明にして、その手跡なんどは、かの名筆関思恭(せきしりょう)の五千人の門人の中にあっても、なお一人『異童』の名を恣(ほしいまま)に致すものにて、書を読めば、一を聞いて二を悟るほどの神童にて御座った……が……この者……盗みの癖があって……その悪癖、いっかな、壮年に成りても、これ、治らず……流石に両親もその悪習、視て見ぬ振りをしておる訳にも参らず……遂には……その一子を勘当せざるを得なくなった。私は、その、実際に縁を切る、その場に目の当たりに居合わせて御座った……。

 ――さても――そうした、生来、盗みの気質を持ったる者も――多くの人間の中(うち)には、また、これ、あるものなのであろうかのう……。

 

 

 玉石の事

 

 いつの頃にやありし。長崎の町屋の石ずへになしたる石より不斷水氣潤ひ出しを唐人見て、右石を貰ひ度由申ければ、仔細有石ならんと其主人是を惜み、右石ずへをとりかへて取入て見しに、とこしなへにうるほひ水の出けるにぞ、是は果して石中に玉こそありなんと色々評議して、うちより連々に研(みがき)とりけるに、誤つて打わりぬ。其石中より水流れ出て小魚出けるが、忽(たちまち)死しければ取捨て濟しぬ。其事、跡にて彼唐人聞て泪を流して是を惜みける故くわしく尋ければ、右は玉中に蟄せしものありて、右玉の損ぜざる樣に靜に磨上げぬれば千金の器物也。悼むべし/\といひしと也。世に蟄龍などいへるたぐひもかゝる物なるべしと、彼地へ至りし者語りぬ。

 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項の後半の聡明なる少年は、その玉なるを持ち乍ら、盗み癖がために勘当の憂き目に逢い、その玉を磨き得ずに終えてしまった苦味があった。ここでは玉石を磨こうとしてうっかり取り落としてその玉なるものを永遠に取り逃がした――どことは言わぬものの、思い通りにならぬ点でも、妙に連関する印象があるから、不思議。この話は本草学者で奇石収集家であった木内石亭(享保91725)年~文化51808)年)が発刊した奇石書「雲根志」(安永2(1773)年前編・安永8(1779)年後編・享和1(1801)年三編を刊行)の中の「後編卷之二」にある「生魚石 九」に所収する話と類話である(こちらは首尾よくオランダ人がその石を入手しているが)。以下に引用する。底本は昭和541929)年現代思潮社復刻になる「日本古典全集」の「雲根志」による。挿絵も同エピソードを採っているので、採録しておいた。

     生魚石(せいぎよいし) 九

近江大津の町家(まちや)のとり葺(ぶき)屋根に置たる石へ時々鴉(からす)の來りて啄(ついば)む一石ありよつて心をとゝめて是を見るに外(ほか)の石はつゝかず只一石のみ數日(すじつ)同しあまりふしきに思ひ其家の主人にことわりて是をおろし見るに常の石に異なる事なしもとよりの何の臭(か)もなきゆへ捨置ければ鴉又來て其石を啄むいよ/\ふしぎにおもひうち破(わり)見れば石中空虚にして水五合許を貯(たくはふ)其中より三寸許の年魚(あゆ)飛出て死たり又洛の津島(つしま)先生物語に寛永の比東國に或山寺を建るに大石あり造作の妨(さまたげ)なりとて石工數人してこれを谷へ切落せり其石中空虚にして水出る事二三斛(こく)石工等大におとろき怪しむ内より三尺許なる魚躍出て谷川へ飛入失(うせ)ぬと今其石半(なかば)は堂の後半(うしろ)は下なる谷川に有石中の空虚に三人を入ると又肥前國長崎(ながさき)或富家(ふか)の石垣に積込し石を阿蘭陀人(をらんだじん)高價(かうか)に求めん事を乞ふ主人後の造作をうれへあたへす望む事しきりにやまずよつて是非なくこれをあたふ其用をきくに蠻人(ばんじん)云是生魚石(せいぎよせき)なり此右の廻(まは)りを磨(すり)おろし外より魚の透(すき)見ゆるやうにして高貴の翫(くはん)に備ふ最も至寶(しはう)なりと又伊勢國一志(いつし)郡井堰(ゐせき)村に石工(いしく)多し或石工石中に水を貯へ石龜(せきがう)を得たり大さ六寸許尋常(よのつね)の石龜にかはらず側(かたはら)の淸水に養ひたりしに數日を經て死す享保

の末年遠江國濱松(はままつ)の農家に一石あり常に藁を打盤(ばん)に用ゆ自然にすれて石面光彩を生ず内に泥鰌(どぢやう)のごとき物運動(うんどう)するを見て主人しらず猶藁を打とて遂に其石を破(わり)たり所(ところ)のもの怪異の事におもひて其家に祠(やしろ)を立てかの破石を祭ると是同國本多(ほんだ)某語らる又或候家(こうか)の祕藏に鶏卵のかたちに似て稍大きなる玉の内に水を貯へ魚すめり其魚の首尾右の玉に礙(さはり)て動く事あたはず是琉球國(りうきうこく)より献ずるよし加賀國普賢(ふげん)院の物語也すべて此類の事只言(いひ)傳ふるのみにていまだ其實を見ず雲林石譜(うんりんせきふ)にも生魚石の事出たりおもふに同日の談なるへし

「とり葺屋根」とは取り葺き屋根のことで、薄く削いだ板を並べて丸太や石を押さえとした粗末な屋根を言う。「同し」「ふしき」「おとろき」「あたへす」「翫(くはん)」「談なるへし」等の清音表記はママである。「雲林石譜」は「雲根志」が習った南宋紹興三年(1133年)の序が附く宋代の杜綰(とわん)の筆になる奇石譜。

――この話、そう言えば、つげ義春の作品集「無能の人」の一篇にも出て来ていた。

・「研(みがき)」は底本のルビ。

・「蟄龍」地に潜んでいる龍の意で、龍の種ではない(龍の種については私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を参照)。一般には、活躍する機会を得ずに、世に隠れている英雄を喩える語として知られる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 玉石の事

 

 いつの頃の話であったか、長崎の町家の礎石にしていたある一つの石から、絶えず水が沁み出していた。

 それを見た唐人が、この石を貰い受けたい由申したので、その家の主は、何やらん、きっといわく付きの石ででもあるのであろうとて、これを惜しんで、売らずにおいた。

 そうして、敷石からその石を取り外すと、家内の置いてよく観察してみると、これが不思議なことにたいして大きくもないその石から――石そのものから、とめどなく水が湧き、沁み出てくるではないか。――

「……これは果たして、石の中に、高価にして霊的な玉が嵌まっておるのであろう――」

なんどと、知れる者どものと勝手に評議致いておるうちに――皆、その玉に目が眩み、ともかくもと、寄ってたかってその石を磨いて御座ったところが――誤って石を打ち割ってしもうた。――

 ――その石の中から――ちょろちょろっと水が流れ出かと思うと――小さな魚が出て来た――が――忽ち死んでしまったので、つまんで捨ててしまった。……

 その後(のち)、このことを聞いた、かの唐人は涙を流して惜しんだという。

 ある者がその訳を訊ねたところが、

「……あれハ……あの玉の中にハ……凝っと潜んでイタ『もの』が在ったノダ!……あの玉を壊さぬようニ……静かニ静かニ磨き上げたナラ……あれハ千金の値にもナロウという宝器であったノダ!……惜シイ! 全く以ッテ、惜シイ!……」

と嘆いたという。

 

「……世に『蟄龍』などと申すものも、このような類いのものなので御座いましょう。……」

と、かの長崎へ旅した者が、私に語った話である。

 

 

 樹木物によつて光曜ある事

 

 本所御船藏(おふなぐら)の後に植木屋多くありし。或日老人壹人一兩僕召連て右樹木店を見歩行せしが、ひとつの古石臺(せきだい)に松の植有しを見て暫し立止り價ひなど聞しに、頻に懇望なる事を見請しゆへ殊の外高料(かうりれう)に答へぬれば、左ありては望なしといひて立去りぬ。又翌日彼老人來りて猶價ひを増して申請たきと好みしが、何分最初の直段(ねだん)にあらずしてはと彌々不賣(うらざる)氣色なしければ、猶亦暫く詠(なが)めて立歸りぬ。かゝる事一兩度ありければ、亭主能々右松を見しに、枝ぶりも面白からず、兼て高科(かうれう)にも賣べきとも思はざる品ゆへ手入も等閑(なほざり)也ければ、哀(あはれ)かの老人の日毎に來りて直増(ねまし)等なすは見る所こそあらめ、景樣(けいやう)をも直さんと石臺をも新らしく美麗に仕直しかの松を植替けるに、右松の根より一ツの蟇(ひき)出ける故、追失ひて跡の松を立派に植置、明日禪門來りなば我(わが)申(まうす)價ひよりも直増して調へ給はんと自讚なしけるに、翌日老人果して來りて、此程の松を見たきとて立入し故、案内して右松を見せけるに、老人大に驚き、いかなればかく植替しや、右松の根より出し物もあるべし、今日の有樣にては一錢にても此松好なしと言て歸りしと、其最寄の老人原某咄しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:生き物絡みの奇石奇木賞玩で直連関。

・「本所御船藏」浜町公園の向かい、隅田川東岸、現在の江東区新大橋1丁目附近にあった幕府の軍事船艇の保管庫のこと。この附近を別名安宅(あたけ)とも呼称したが、これはその船蔵に、昔、係留されていた大型木造艦の一種「安宅船」(あたけぶね)という軍船の船種名に由来する。明石太郎:珈琲氏のブログ「珈琲ブレイク」の「御船蔵跡 歴史散策 墨東 森下・清澄 1)」によると、この種の軍艦は戦国時代から江戸時代前期にかけて建造されたものの一つで、『寛永9年(1632)以来、そうした当時の戦艦を係留する場所のひとつがこの地であった。安宅船は、当時としては最大限の工夫をこらして建造した大型戦艦ではあったが、龍骨がなく、構造的に弱さがあり、大きすぎて機動性に欠けて、実は役に立たない船であった。そういうこともあり、半世紀のちの天和2年(1682)ここに係留していた安宅船は解体されることになり、この地は御船蔵跡となった』とある。旧北条氏の所有に係り、伊豆にあったものを、幕府が接収して三崎を経由してここへ運ばれたものであるらしい。この安宅船は船長38間(約65m弱)の巨大戦艦であったが、上記引用にあるように、実に50年もの永きに亙ってここに無為につながれてお払い箱になったわけである。明石氏は最後に『江戸の主要な幹線水路である隅田川が、江戸時代の平和が続くことで、軍事拠点から経済拠点に変遷していった歴史の一部と理解することもできるのである』と印象的な言葉で締め括っておられる。

・「石臺」長方形の浅い木箱の四隅に取っ手を附けたもので、盆景に使用したり、盆栽を植えたりする植木鉢の一種。

・「直増(ねまし)」は底本のルビ。

・「禪門」先の老人。隠居し、法体(ほったい)して僧侶のような身なりをし、禿げていたか、実際に剃髪していたから、かく言うのであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 樹木が妖しき『モノ』によって却って不可思議なる光輝を持つことありという事

 

 本所御船蔵の裏手に植木屋が多くあった。

 ある日のこと、一人の老人が一人の従僕を召し連れてこの連なった植木屋を覗き歩きしておった。

 すると、ある古ぼけた石台(せきだい)に松の植えてあるのを見、暫し立ち止まった後、店主にその値いを訊ねた。

 店主は、その老人が、喉から手が出る程欲しがっておることがはっきりと見てとれたので、とんでもない高値をふっ掛けて答えた。すると老人は、

「……いや、それ程の値にては……とても、手が出ぬわ……」

と言って、如何にも残念な様子で立ち去ったのであった。

 ――ところが翌日のこと、またしても、かの老人が訪ねて参り、

「……そなたの言い値にては、とてものこと乍ら……一つ、昨日よりは払い申そうず値いも、いや増しては御座れば……一つ、売っては下さらぬか……の……」

と切に願って参った。ところが主人は、

「いや! 駄目、駄目! 最初に言うた値段でなけりゃ!」

と、けんもほろろ、いよいよ言い値ちょっきりでなくては売らぬ体(てい)で突っぱねる。

 すると――かの老人はやっぱり、かの松を暫く凝っと眺めて後、帰って行った。

 こうしたことが何度か続いた。

 そこでこの主人、しけじけこの松を眺め乍ら、考えた。

「……枝振りも面白うない……端(はな)っから高値で売れるシロモンとも思っちゃおらんかったから……手入れも等閑(なおざり)にしておったれば……まあ、何とみすぼらしいこと……じゃが!……ほんに!……あの爺(じじい)、日ごと来ては……次から次へと、金を積んで乞うて来る……ちゅうことはじゃ!――どこぞにこれは見所がある――ちゅうことじゃが!……いっちょ、景色を直いてみるかい!」

と思い立つったら、江戸っ子――即座に新しい美麗なる石台を用意し、懇ろに植え替えた。

――と、古い石台から松を抜いたところが、その根方の底より――きびの悪い、一匹の年経た蟇蛙が――のっそり――這い出てきた。――

早々に川っ縁(ぷち)へと追い払い、首尾よく立派に松を凛々しく植え替えて御座った――そうして、

「……明日(あした)、あの坊主が来たら……へっへ! 儂が最初に言うた値段よりも……自ずと値を重ねて……お買い上げ戴ける、っちゅうもんよ!……てへっへっへ!!」

と、新たな盆景を前に自画自賛しておった。

 翌日、果たしてあの老人がやって来ると、再び、

「……また、あの松を見とう御座って、の……」

と、いつもの聊か狂気染みた、あの垂涎の眼(まなこ)にて店に入って来た。

 主人は意気揚々と案内して、松を見せた――

 ――と――

「――!!!――」

老人は訳の分からぬ叫び声を挙げて驚いた。

 ――暫く呆然とした後、主人に亡霊の恨み言のように、

「……いかなれば……かくも……植え替えた……この松の……根より出できたる『モノ』が御座ったであろ……いいや、何を言うても……最早……終わりじゃ……今日の……この……こんなモンに……ビタ一銭たりとも……払、え、る、カ、イ!!!……」

と吐き捨てて帰った。――

 ――――――

……と、その近辺に住んで御座った老人の原某が、私に語ったことで御座る。

 

 

 利を量りて損をなせし事

 

 予が大父の召仕れしもの、後(のち)御先手組の同心を勤め牛込榎町に有りしが、彼邊の同心などは植木など拵へ好める人には價ひを取て遣しける類多し。彼者或日庭前を見廻りしに、柾木(まさき)のいさ葉一本あり。珍しからざる柾木ながら、其此いさ葉の流行はじめなれば、早速石臺へ移し植て養ひ置しに、鬼子母神參詣の道ゆへ、十月の頃門前人多く通りし内、彼いさ葉の柾木を見て調度(ととのへたき)由にて價ひを談じけれ共、今少し高く賣んと取合ざりしに、流行(はやり)出しの事故や、代り/\日々立入て直段(ねだん)をつけけるに、初は百錢、夫より段々上りて金百疋程に付る者有。元來酒を好みけるゆへ、哀れ酒錢の助けと大に悦び、何分貳分にもあらずば賣るまじきと思ひしに、或日地震(なゐ)して雨戸打かへり、彼柾木を損じ鉢も打割し故、大に驚き植直しなどせるが、聊の事にも果福のなきは是非もなく、右柾木枯て失ぬと彼者來りて語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:盆栽絡みで、欲を出して玉を失う話でも直連関。これは当人からの直談であるから主人公の落胆振りが失礼ながら、面白く伝わってくる。現代語訳では最後にその雰囲気を出してみた。

・「大父」祖父。諸注は注せず。22歳で末期養子に行った形式上の養父根岸衛規の父であった根岸杢左衞門衞忠のことか、それとも旗本であった実父安生太左衛門定洪の養父(彼も安生家への養子)であった安生彦左衞門定之かは不明。

・「後御先手組」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。

・「牛込榎町」現在の新宿区の北東部、神楽坂の西に位置し、榎町として名が残る。「新宿東ライオンズクラブ」の記事によると、『古くは牛込ヶ村のうち中里村の一部ではなかったかと言われる。正保3年(1646)済松寺領となったが約百年後の延享2年町方支配となり、そのころこの地に十抱えもある大榎があったので、明治2年付近の寺地開墾地を合せて牛込榎町と名づけられた。この榎の大樹はどの辺にあったか定かでないが神楽坂から戸塚に向う往古の鎌倉街道すじにあたり、旅人の目印になったことであろう』とある(一部の誤字を修正した)。

・「柾木」双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキEuonymus japonicus。生垣や庭木としてよく植えられる。

・「いさ葉」斑入りの葉。マサキには斑入りのものもある。江戸時代は妙なものが爆発的に飼育栽培の流行を作った。

・「石臺」長方形の浅い木箱の四隅に取っ手を附けたもので、盆景に使用したり、盆栽を植えたりする植木鉢の一種。

・「鬼子母神」東京都豊島区雑司ヶ谷にある威光山法明寺(ほうみょうじ)。飛地となった境内の鬼子母神堂で有名。ウィキの「法明寺」によれば、『1561年(永禄4年)に山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。1578年(天正6年)に現在の社殿を建立したという』とあり、鬼子母神公式サイトによると、本文に記された十月には、現在は16日から18日にかけて、御会式(おえしき)大祭という本寺の最も大事な行事が行われる。御会式とは『もともと日蓮聖人の忌日の法会で、法明寺では1013日に宗祖御会式を行ってい』る『が、これとは別に毎年1016日~18日に鬼子母神御会式を営み、江戸時代から伝わる年中行事としていまも地域全体の人々が待ちわびる大祭となってい』るとあり、『たくさんの人々が一緒になって供養のお練りをするその3日間は、静かな雑司ヶ谷の街一帯に、太鼓が響き渡り、参道は露店で大にぎわいとな』って、『18日は西武百貨店前を出発し、明治通りから目白通りを経て鬼子母神堂へ向い、最後に日蓮聖人を祀った法明寺の祖師堂(安国堂)へとお参り』するとある。『「威光山」の墨書も鮮やかな高張り堤灯を先頭に、500の桜花を25本の枝に結んだ枝垂れ桜様の万灯が何台も練り歩くその様は、幻想的な秋の風物詩として親しまれてい』るともあり、本作の描写されない背景にそうした風物を配してみると、味わいもまた増す。

・「調度(ととのへたき)」は底本のルビ。

・「百錢」一銭=一文を1020円に換算すると、10002000円。

・「百疋」は一貫文(謂いは1000文であるが実際には960文)で、凡そ現在の1万5千円から2万円程か。

・「貳分」4分で一両であるから、3~4万円。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 利を量り過ぎ却って損をすることとなった事

 

 私の祖父に召し使われて御座った者、後に御先手組の同心を勤め、牛込町に住んでおった。あの辺りに住む同心連中は、己が家の庭に植木なんどを養い、好事家に売り渡しては、小遣い稼ぎをする類いなんぞが多い。

 ある日、その男、己が庭先を見回って御座ると、柾木(まさき)のいさ葉になって御座る一本が眼に入った。枝振りもこれといって珍しくもない柾木ではあったが、丁度その頃、いさ葉が市中流行り始めの折りでもあったれば、早速、石台(せきだい)に移し替えて、手入れをして御座った。

 この男の家はこれまた、雑司ヶ谷の鬼子母神参詣の道筋に当たって御座ったがため、十月の御会式(おえしき)の頃には、門前の人通り繁く、そのうちにこの柾木を垣間見、買いたき由、値を言い掛けてくる者も現れた。が、

『――今少し待てば、益々上がりおろう――今少し、今少し高(たこ)う売りたい――』

と思うて、一向に取り合わずに過ぎた。

 これがまた流行り出した頃のことでもあり、いや、もう毎日毎日、入れ替わり立ち替わり客が来ては、値段を付ける――初めは百銭――それよりだんだんに上がって金百疋程に付ける者とて現れた。

 この男、これがまた、元来が酒好きで、

「――こりゃ! 願ってもない酒代の助けじゃ!――」

と大いに喜び、

『――こうなったら――何分、二分程にてもあらざれば、売らんぞ!――』

とほくそ笑んで御座った。――

――ところが――

 ある日、地震(ない)が起きた――

 その揺れでばりばりと雨戸が外れた――

 外れたかと思うたら、それがあの大事大事の柾木の枝に――打ちかかってぼきりと折れた――鉢もまた、ぱっくり割れた――

「……びっくらこいて……植え直しなど致しましたが……いや、もう……たかが柾木……されど柾木……聊かの木の……ちょいと雨戸が倒れただけの、こと……それにても……禍福は糾(あざな)える繩の如きものにて御座いますなぁ……是非も、ない……柾木は……枯れてしまいました……」

と、訪れたその男が私に語った。

 

 

 守財の人手段別趣の事

 

 唐に守錢翁と賤しみ我朝にて持(もち)乞食と恥しめぬる、いづれ金銀を貯、黄金持(こがねもち)といわるゝ者の心取は別段也。我知れる富翁の常に言ひしは、世に貧しき人はさら也、其外通途の者も實に金を愛(あいせ)ざる故金を持(もた)ぬ也。金を愛しなば持ぬといふ事あるべからず。其譯は各は金銀あれば何ぞ衣食住其外器物(の品)を(買んと思ふ。是金銀よりは衣類器物を)愛する也。我器物其外其身の用にあらざる品は金銀に代ん事を思ふ。是器物より金銀を愛する所甚しき也といひし。又或人の諺に咄しけるは、金錢を貯へ度思ふや、何程ほしきと尋ければ、多くも望なし、千兩ほしきといひける者ありければ、いと安き事也とて千兩箱をとり寄、右の内はからものなれど、蓋を丁寧になして封印などして是を藏の内に置給へといひける故、心得しとて藏に入置ぬ。さて金は如何して出來るやと問ひければ、御身則千兩を封じて藏の内へ入置ぬれば則千兩の金持也といひけるにぞ、かの男大に憤り、右重箱を千兩封じて置たればとて、右から箱を以物を調ふる事もならず、誠に物の用に立ざる戲れをなして人を嘲弄なしぬるかと申ければ、さればとよ、金銀遣はんとおもふては金は持たれぬ物也といひし故、金を持て遣ふ事ならざれば金持も羨しからずと彼人悟りを得しと也。本所六間堀に金を借して渡世する者ありし由。其身賤敷(いやしき)者なれ共金銀の爲に諸侯歴々よりも重き家來等を遣して調達を賴けるに、或家士纔か百金計(ばかり)借用申込、承知に付日限を約束し、其日に至り罷越金子借受の事を談じければ、承知の由にて其身麻上下を着し藏の内へ入けるが、暫く有て立出で、折角御出あれ共今日は歸り給はるべし、明日御出を待由申けるにぞ、彼家士申けるは、成程明日にも參るべし、足を厭ひ候にはなけれど、金銀の遣ひ合せは片時を爭ひ候事も有れば、何卒今日借用いたし度と賴けれ共、何分得心なさゞりしかば、いか成故哉と尋しに、金の機嫌不宜、今日はいやと被仰せ出候故難成旨申ける故、右武士も大きに驚き歸りけるに、傍成者、金のいやと可申謂(いはれ)なし、いか成故哉(や)と有ければ、金銀は口なしといへども、我等が心にいかにも今日出來る否(いや)におもふは、則金のいやに思召也と語りし由。是等は誠に守錢翁といふべき者ならん。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:金欲から吝嗇(りんしょく)で連関。本話は三つの全く異なったタイプのソースから構成されたもので、「耳嚢」の中では異色なオムニバスを感じさせる一篇であると私は思う。

・「いわるゝ」はママ。

・「(の品)」底本では右に『(尊本)』とあり、尊経閣本によって補ったという意味の注記がある。これを採る。

・「(買んと思ふ。是金銀よりは衣類器物を)」底本では右に同じく『(尊本)』とあり、尊経閣本によって補ったという意味の注記がある。これを採る。

・「本所六間堀」底本の鈴木氏注に『六間堀は本所竪川と小名木川とを結ぶ川』『で、これに沿って六間堀町、北六間堀町、南六間堀町ができた。いま江東区森下町一丁目、同区新大橋三丁目の地。』とある。但し、鈴木氏は六間堀に補注され、昭和241949)年に埋め立てられて現存しない旨の記載がある。東京大空襲の瓦礫が多量に流れ込んだためとも言われる。

・「今日出來る」底本では『尊本「出す事」』とある。こちらを採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蓄財せる人には素人の思いも寄らざる別趣手段のある事

 

 唐土(もろこし)では「守銭翁」と賤しみ、本邦にては「持ち乞食」なんどと恥ずかしめらるるところの、金銀を貯え、黄金持ちと言わるる者の考えることは、これ到底、常人の重いの及ぶものにては、これ、御座ない。私の知れる裕福なる老人が常日頃申すことには、

「……世にある貧しき者は言うに及ばず、その外、尋常に暮らして御座る者にても――誠、金を愛さざる故――金を持てぬので御座る。――金を心底愛さば、金を持たぬなんどということは――これ決して、あろうはずが御座らぬ。――その訳はと申せば――ああした常人の者ども――金銀があれば衣食住その他調度什器を買わんと思う――そこで御座る。――これは、金銀よりも衣服器物を愛して御座るのよ。――ところがで御座る――我は器物その外、生くるがためにはこれといって用に立たざる品々は、悉く金銀に替えんことを思う。――これ、我が――器物より金銀を愛し、二心なきことの証しにて、御座る……」

と。

 さてもまた次は、ある人が俚諺(りげん)の由にて話して呉れたもの。

 ――――――

甲「お前さん、たんと金が欲しいか? 幾ら、欲しい?」

と訊いたので、

乙「……そうさな……多くは望まねえが……千両欲しい。」

とほざいた者がおる。すると、

甲「そりゃ、お易い御用じゃ。」

と言うなり、千両箱を取り寄せた。その中身は空っぽのものなれど、蓋を丁寧になし、封印なんどもしっかり致いた上、

甲「さ、これを蔵の内に置きなされ。」

と言うので、

乙「心得た。」

と蔵の中へ置く。――

乙「……さても、あの千両箱に入れる金は、いつ出来るんでえ?」

と問う。すると、

甲「お前さんは今、則ち、千両を封じて蔵に入れ置いたから、則ち、千両の金持ちじゃ。」

と答えた。

 かの男、大いに憤って曰く、

乙「あ、ありゃ、空箱ぞ?!……い、いや、千両封じて置いたからとて……そもそもが! 蔵に置いておいたんじゃ、千両箱であろうと、何の物も買うこと、これ、出来ん! 人を馬鹿にするのも、い、いい加減にせい!」

と怒鳴りつけた――と――

甲「そこじゃて。――よいかの。金銀を使わんと思うてはのう、金は持てぬものなのじゃ。」

と答えた。それを聴いた男は、ぽんと膝を打ち、

乙「そうか! 金を持っておったとしても、それを使(つこ)うてはならぬと言うなれば、金持ちなんどというものも、これ、羨ましゅうは、ない!」

と俄然、悟りを得た、ということである。

 ――――――

 最後にもう一つ。

 本所六間堀に金を貸して渡世致いておる者が御座った。

 元来は賤しい身分の出の男なれど、その持てる金銀を頼みに、お歴々の諸侯までもが、わざわざ家内でも位の高い家来を遣わして、その調達を依頼するという繁盛振りで御座った。

 さて、ある時、ある家士、僅か百金ばかりの借用をこの男に申し込んだところ、承知の趣きにつき、日限を約し、その取り決めた日になって、家士はこの男の屋敷を訪ねた。

 金子借り受けに参りしことを告ぐると、男は、

「承知致いた。」

と応じた。

 男はその身に麻上下を着すと、何やらん如何にも厳かに蔵の内へと入って御座った。

が、暫くして、手ぶらで出て参った。

「……せっかくのお出でなれども……今日はお引き取り下されい。明日のお越しをお待ち申し上ぐればこそ……。」

と言うので、家士は、

「……なるほど……では明日、また、参ろうかの。……しかし、その……再度、足を運ぶを厭うておる訳では御座らぬが……その、金銀の要り用に就きては……その、一時を争うて御座るものにても御座れば……その、何卒、今日借り受け致いたいのじゃがのぅ……」

と下手に出てまで頼み込んだが、いっかな、男はだめの一点張り。たかが百金のことなれば――と言うて、その百金も手元にない訳で御座るが――流石に家士は、

「如何なる故に不承知で御座る?」

と訊ねた。

 すると男は、

「――金の機嫌が宜しく御座らぬ。――『今日は嫌』――と仰せられて御座れば、蔵を出でんこと、これ、成り難きことにて御座る。――」

と返答した。

 かの家士も呆れかえって、そのまま何も言わずに帰って行った。

 偶々その場に居合わせて御座った男の知人が、好奇心から彼に訊ねた。

「……金が『嫌』なんどというはずは御座るまい。……本当(ほんと)の理由は何です?」

と、男曰く、

「――金銀は口なしと雖も――その金の持ち主たるところの、この我らが心が――どうしても『今日金を貸し出すのは嫌じゃ』と思うておるのじゃ!――その理由は我らも分からぬ――分からぬ――さればこそじゃ! これ、則ち、金が『嫌じゃ』だと思し召しになっておられる、ということなのじゃ!――」

と語ったとのことで御座った。

 こういう連中をこそ、誠(まっこと)、守銭翁と呼ぶべき者と言うてよかろう。

 

 

 本庄宿鳥居谷三右衞門が事

 

 本庄宿(ほんじやうしゆく)に仲屋三右衞門といへる商人ありしが、凶年の節宿内近村の困窮を救ひ、往還の助とて往來の道并(ならびに)橋を自分入用を以取計ひ、御代官蓑笠之助(みのかさのすけ)申出し故、予御勘定組頭を勤て道中方を兼帶なせし頃、安藤彈正少弼(せうひつ)道中奉行の節取扱有之、伺の上名字帶刀御免にて御褒美被下(くだされ)し者なり。右三右衞門は、元來通り油町仲屋といへる呉服店に丁稚より勤て重手代(おもてだい)に成りしに、右仲屋亭主幼年に成て、身上(しんしやう)大きに衰へたち行きがたき時節ありしに、彼三右衞門其主人に申けるは、當年は自身上京の上、引け物計(ばかり)を仕入持下り候樣致さるべしと申教へ、主人其通りなしけるに、下直(げじき)の引物を關東にて賣捌(うりさばき)しに利なきにしもあらざる上、三右衞門自身上京して彼問屋に申けるは、若輩の主人直々に仕入に登りしが、いかなれば引物計を賣渡し給ふやと六ケ敷(むつかしく)申けるに、問屋にても主人の好みに任せ候由答へければ、いやとよ主人は若輩幼年と申べき者也、右幼年の者縱令(たとひ)申候へばとて引物計り附屬し給ふ事、年久敷(ひさしく)馴染の問屋にはあらずと申ける故、其理に伏し年久敷取遣(とりやり)なせし問屋なれは、不殘損をなして別段に代物を下しける。これによりて大きに利德を得(え)仲屋を取直し、其身も相應のもとでを貰ゐて本庄宿へ引込、呉服其外諸品の商ひなして、今本庄宿其外近邊に鳥居三右衞門といひては知らざる者なし。右の者暖簾の印

如此(かくのごとく)付しも彼三右衞門工夫の由。如何成譯やと人の尋しに、中屋は家名也、かくの如く書(かき)ぬれば虱(しらみ)といへる文字也、虱はよく殖へて盡ざる物也といひしと其邊のもの語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:吝嗇から殖産で連関。「暖簾の印」『¬中ム』は底本の画像で示したため、原文が途中で分断された。御容赦願いたい。

・「本庄宿」中山道六十九次のうち江戸から十番目の宿駅。以下、ウィキの「本庄宿」より引用する。『武蔵国児玉郡の北部国境付近』『に位置し、武蔵国最後の宿場。現在の埼玉県本庄市に当たる。江戸より22里(約88km)の距離に位置し、中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場であった。それは、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。江戸室町にも店を出していた戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家は全国的に富豪として知られていた』と、正に本話柄の人物が引かれている。これはとんでもない大富豪にして篤志家なのであった。

・「鳥居谷三右衞門」これはやや屋号が異なるが、前注の引用に現れる富豪『戸谷半兵衛(中屋半兵衛)』、初代戸谷半兵衛光盛(元禄161703)年~天明7(1787)年 通称戸谷三右衛門)のことである。以下、非常に優れた記載であるウィキの「戸谷半兵衛」から引用する(記号の一部を変更した)。『18世紀から19世紀の本庄宿の新田町(現在の本庄市宮本町と泉町の辺り)に店をかまえ、代々戸谷半兵衛を襲名していた豪商であり、宿役人。店の名の「中屋」にちなんで中屋半兵衛とも呼ばれた(こちらの名の方が認知度は高い)。中半の略称でも親しまれている。中山道で最大の宿場である本庄宿の豪商として全国的に名の知れた商人であった。本店は本庄宿の「中屋」であるが、江戸室町に支店である「島屋」を持ち、代々京都の方の商人とも付き合っていた為、その人脈はかなり広く、才能にも、度胸(行動)にも優れていた(京都にも支店はあった)。中屋は、太物、小間物、荒物などを商った。戸谷家は、経済面の救済だけでなく、文化面でも影響力が強い一族であり、関東一の豪商ともされる。大名への貸し金も多額であった。しかし、その返済は滞り、未回収金は数万両に及び、この為、安政5年(1858年)頃より、幕府への御用金納入に支障をきたし、名字帯刀を取り上げられ、さらに家財闕所等の処分を受けるが、明治期には回復した』。以下、歴代の当主。まず本話の主人公初代戸谷半兵衛光盛について(本話についての叙述がある)。『通称を戸谷三右衛門(1703 - 1787年)と言い、元禄16年に五代目戸谷伝右衛門の次男として生まれる(光盛は諱)。彼については18世紀末~19世紀の随筆「耳袋」にも記されており、その豪傑ぶりと知名度の高さがうかがえる。但し、「耳袋」は噂をもとに記述されている為か、戸谷を鳥居と記述しているなど、明らかな誤表記が目立つ。「耳袋」の記述によれば、三右衛門は元々通り油町の仲屋と言う呉服店に丁稚(でっち)から勤め、重手代にまで登りつめた人物とされ、その後、成功して、呉服やその他諸品を商ったとされる。多くの活動が認められ、公での名字帯刀を許されていた。中屋の暖簾印である¬中ム(縦に並べて書く)は三右衛門が考えたもので、『中』は家名の中屋を意味し、こう書く事によって、『虱(シラミ)』と言う字になる。印の意味を訊ねられた三右衛門は、「シラミはよく増えて絶えないから」と答えたと言う。「商家高名録」の中で中屋の暖簾印を確認する事ができる(ムと言うより中の字の下に△)』。『明和8年(1771年)に久保橋、安永2年(1773年)には馬喰橋を自費で石橋に掛け替え、天明元年(1781年)には神流川に土橋を掛け、馬船を置き無賃渡しとした。天明3年(1783年)の飢饉時には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物価高騰の際には貧窮者救済金を拠出する等の奇特行為により、名字を子孫まで許される(帯刀については一代限り)。天明7年(1787年)に85 歳にして没する』。『「耳袋」や「新編武蔵風土記稿」では、光盛(みつもり)ではなく、三右衛門の通称で記述されているが、隠居後も活躍し続けた事で、三右衛門の名の方が世間では有名となった為である。「耳袋」では中屋三右衛門の名で記載されている』。次に二代目戸谷半兵衛修徳。『延享3年(1746年)に三右衛門の三男として生まれたが、兄弟が若くして没していった事で、二代目を継ぐ事となる。継いでからわずか3年目(安永4年に30歳)にして没し、父である光盛が健在であった事からも業績はよく知られていない。妻の常は内田伊左衛門の娘で俳諧を嗜んだとされる』。次に三代目戸谷半兵衛光寿。『通称を戸谷 双烏(1774 - 1849年)と言い、幼名を半次郎。2歳の頃に父が没した為、祖父と義父(横山三右衛門)の後見により家業振興に没頭し、若いながらも中屋の隆盛期を築く(その祖父も13歳の頃に亡くなる)。義父の助力によって商才を研かれたとされる。10代半ばより俳諧の才能を発揮し、高桑蘭更(京都東山に芭蕉堂を営む)や常世田長翠に師事した。俳号を紅蓼庵双烏と称した。師の一人であった常世田長翠は、その縁からのちに双烏が建てた小簔庵(こみのあん)に招かれ、8年間にわたり、本庄宿に滞在する事となり、中央俳壇が本庄宿を根拠地にして活動した。その為、本庄宿では商人にして俳人と言った人物が増えた。彼も祖父と同様に公での名字帯刀を許された。また、信心深く、京都の智積院の境内に石畳を、江戸の真福寺には常夜灯を寄進している』。『彼の代で、江戸に出店2軒、家屋敷は江戸に22か所、京都に3か所を所有。「関八州持丸長者富貴鑑」「諸国大福帳」などに名を連ねる豪商となる。その財は、立花右近将監、松平出雲守、鍋島紀伊守などへの大名貸しだけでも15万数千両(現在の価値にして60億円以上)に及ぶ』。『寛政4年(1792年)に、陸奥、常陸、下総の村々へ小児養育費として50両、文化3年(1806年)には公儀へ融通金千両、文化13年(1816年)に足尾銅山が不況におちいった際には、森田豊香らと共に千両を上納し、困窮者の救済にあたり、足尾銅山吹所世話役に任命された。この他、文政4年(1821年)には岩鼻代官所支配村々の旱魃救援金百両を拠出、また、基金を献金して伝馬運営の資金に充て、神流川無賃渡しも継続。数々の慈善事業をし、名字帯刀を許された』(以下、三代目以降の更に詳しい事蹟が記されるが割愛する。但し、三代目は強い文人気質の持主であったことは特筆に値するので、リンク先及び以下の叙述を参照されたい)。『戸谷半兵衛家は代々豪商にして慈善家でもあり、三右衛門(初代半兵衛)は天明の大飢饉の時に土蔵の建設を行い、手間賃と米を給した。現在、その土蔵は本庄の千代田1丁目4番地に残され、この土蔵を「天明の飢饉蔵」と言う。また、双烏(三代目半兵衛)は旅人の安全の為、神流川の渡しに高さ3mもする豪華な常夜燈を寄進した。この常夜燈は、渓斎英泉作の『支蘓路(きそろ)ノ駅本庄宿神流川渡場』(中山道六十九次の浮世絵)にも描かれている(浮世絵を見る限り、石製の常夜灯である)』(ウィキの「本庄宿」にある同浮世絵の精密画像)。この三代目半兵衛光寿(双烏)は『まだ少年であった本因坊丈和(当時は己之助と呼ばれていたものと見られる)を丁稚として住まわせていたが、その碁の才能を見抜き、支店である島屋(江戸)の方へ赴任させ、才能を開花させるはからいもしている』。光寿『は、己之助が本因坊となった後も手紙での交流を続けており、「本因坊先生」と書いているものの、「本因坊様」とは書かず、そこからもかなり親密な仲であった事がうかがえる』。『光寿の姿は依田竹谷(谷文晁の門弟)によって描かれて』おり、また『光寿の俳壇の門下生は、関東地方だけで3~5千人とされ、文化的影響力はもちろん、経済支援を求める文化人も少なくなかった』とある。『支店島屋は現在の日本橋室町1丁目に開店していた。江戸の方では島屋半兵衛の名義で確認でき、中屋ではなく島屋と名乗っていたものと見られる。また室町2丁目の飛脚屋である京屋を利用して、島屋から中屋に向けて、江戸での出来事や情報を送らせていたものと考えられている』。初代伝来の情報戦略である。なお、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この記事の記載は正に初代戸谷半兵衛光盛死の直後に相当する時期である。

・「御代官」幕府及び諸藩の直轄地の行政・治安を司った地方官。勘定奉行配下。但し、武士としての格式は低く、幕府代官の身分は旗本としては最下層に属した。

・「蓑笠之助」蓑正高(みのまさたか 貞享4(1687)年~明和8(1771)年)幕府代官。農政家。以下、「朝日日本歴史人物事典」の記載(記号の一部を変更した)。『松平光長の家臣小沢庄兵衛の長男。江戸生まれ。享保1(1716)年猿楽師で宝生座配下の蓑(巳野)兼正の養子となり、同3年に家督を相続。農政・治水に通じ、田中丘隅の娘を妻とする。同14年幕府に召し出され、大岡忠相の支配下に入り、相模国足柄上・下郡の内73カ村を支配、酒匂川の普請なども行う。元文4(1739)年代官となり扶持米160俵。支配地はのちさらに加増され、計7万石となった。延享2(1745)年勘定奉行の支配下に移るが、寛延2(1749)年手代の不正のため罷免され、小普請入り。宝暦6(1756)年隠居。剃髪して相山と号した』。著作に「農家貫行」がある、と記す。

・「予御勘定組頭を勤て道中方を兼帶なせし頃」根岸が御勘定組頭を勤めたのは明和5(1768)年から同吟味役に昇進する安永5(1776)年までの8年間。道中奉行(後注参照)配下に勘定組頭の兼職である道中方が置かれていた。

・「安藤彈正少弼」安藤郷右衛門惟要(ごうえもんこれとし 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「彈正少弼」は弾正台(少弼は次官の意)のことで、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。既にお馴染み「耳嚢」の重要な情報源の一人。

・「道中奉行」ウィキの「道中奉行」より、改行を省略して引用する。『江戸幕府における職名のひとつ。五街道とその付属街道における宿場駅の取締りや公事訴訟、助郷の監督、道路・橋梁など道中関係全てを担当した。初見は『吏徴別録』の寛永4年(1632年)12月にある水野守信ら4名の任命の記事であるが、一般的には万治2年7月19日(1659年9月5日)に大目付高木守久が兼任で就任したのにはじまるとされる。大目付兼帯1名として始まったが、元禄11年(1698年)に勘定奉行松平重良が道中奉行加役となって以後、大目付と勘定奉行から1名ずつ兼帯する2人制となった。弘化2年(1845年)より大目付のみの兼帯。正徳2年(1712年)から享保9年(1724年)までは与力2騎、同心10人が配属され、配下に勘定組頭の兼職である道中方が置かれていた。その役料は享保8年(1723年)から年に3000石、文化2年(1805年)以後は年間金250両』。

・「通り油町」通油町(とおりあぶらちょう)という町名。現在の日本橋大伝馬町1314番地付近。大伝馬町・旅籠町・馬喰町に囲まれた古い町で、江戸初期の慶長年間(15961615)には町が出来、元和年間(16151624)に牛込某が油店を開いたことから、町名となった。元禄年間(16881704)には、江戸文学の興隆に大きく貢献した浄瑠璃本等を売る本屋鱗形屋(うろこがたや)があったことで知られ、天明年間(178189)には紅絵(べにえ:浮世絵の様式の一つ。墨摺版画に丹の代わりに紅で筆彩したもの。)問屋の町として知られた。後の流行作家十返舎一九(明和2(1765)年~天保2(1831)年)は、この町の紅屋問屋蔦屋に寄食し、作家として名を売った後の半生もこの町で過している。因みに「呉服店」とあるが、通油町の西端と接する通旅籠町には寛保3(1743)年に大店大丸呉服店江戸店が開業している。

・「重手代」商家で事務管理を総括する古参の手代のこと。

・「引け物」「下直の引物」は流行遅れの古くなった在庫や傷物などの値引き品。今で言うB反。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 本庄宿鳥居谷三右衛門の事

 

 中山道本庄宿に仲屋三右衛門という商人が御座った。

 凶作の年には、宿場内は元より近村の困窮を救い、旅客往還の助けとして往来の道並びに橋を私財を投じて整備管理致し、当地支配の代官蓑笠之助(みのかさのすけ)の申し出を受け――私はその頃、勘定組頭を勤めており、道中方も兼任していた頃のことで、直接関わった故によく存じておる――当時の道中奉行は安藤弾正少弼霜台殿が勤めておられたが、この奉仕の一件につき、お上へお伺いを立てた上、彼への名字帯刀がお許しになられ、御褒美も下賜されたという人物で御座る。

 聞くところによれば、三右衛門は、元来は日本橋通油町の仲屋という呉服店に、丁稚より勤めて、重手代(おもてだい)にまで成ったのであるが、その仲屋の主人が急死致し、跡継ぎの子も未だ幼年なれば、店が大いに衰え、立ち行き難くなった折りがあった。それでも主人が青年になろうまでの暫くは、何とか持ちこたえて御座った。

 ある日のこと、三右衛門が若主人に申すことに、

「今年は、ご主人さま御自身が上京なさり、京の問屋から――よろしゅう御座るか――引け物だけを、たんと仕入れてお持ち帰り下さいますよう、よろしくお願い申します。」

と嚙んで含むように命じた。

 若主人は、言われた通り、引け物ばかりを安値でたっぷり仕入れて江戸へ戻った。

 安値の引け物ばかり――されど名にし負う京呉服には変わりがなければ――これを関東一円にて売り捌く――当然のこととして、少なからぬ利益は出た。

 ところがそれから程遠からぬ後日(ごにち)のこと、今度は三右衛門自身が上京、先の問屋を訪ねて申すことには、

「――若輩なれど、成せる精一杯の仕事をなさろうと――年若のご主人さま直々に仕入れに上京なさったというに――お手前は、如何なれば、かく、引け物ばかりを売り渡しなすったのか――」

と如何にも難しい表情にて遺憾の意を述べた。

 勿論、問屋の方も、

「……そやかて……お宅のご主人はんのお好みや言うて、お任せしましたんやで……」

と答えた。ところが、

「ご冗談を! 主人は若輩、未だ幼年と申してもよき者にて御座る。――その呉服の、どころか、世間のいろはも知らぬ子供――その子供がたとえ、自ずから所望致いたからと言うて――かく夥しき売り物にもならぬ引け物ばかり――これ、売り渡いたこと――いやとよ! 我らが店の左前なるを早くも見限られ、体(てい)よく金まで搾り取り、商売にならぬ、不要品を渡りに舟と処分なされたこと――これ、年久しゅう取引を交わして参った馴染みの問屋で御座る、お手前どもの、為さり様とも――思えませぬ――」

と言って押し黙った。

 その悲壮なる謂いに、問屋も返す言葉もなく年久しく取引致いてきた問屋にてもあれば――また、世間にいらぬ悪評の立つも恐るればこそ、損を承知で、先に支払ったものとほぼ同等の別途新品を三右衛門へそっくり無償で引き渡した。

 お分かりで御座ろう、これによって仲屋は相応に大きな利益を得ることが出来、往時の仲屋の隆盛を取り戻いたので御座った。

 後、三右衛門は相応の元手を貰って本庄宿へと引っ込み、呉服その他諸品の商いを成して、今では本庄宿とその近辺に於いては鳥居三右衛門と聞いて知らぬ者は、これ、御座ない。

 因みに、かの仲屋の屋号を染め抜いた暖簾の印を

かくの如くつけたのも彼三右衛門の考案になるものの由。

「これは一体どういう意味か?」

とある人が尋ねたところ、三右衛門はこう答えたという。

「――この『中』は勿論、屋号の「仲」で御座るが、ほれ、こういう風に書いてみると――『虱』という字に見えて御座ろう?――虱はよう殖えて、決して絶えること、これ御座らねばのう。――」

 本庄宿は三右衛門近隣に住む者の話で御座った。

 

 

 道灌歌の事

 

 太田道灌は文武の將たる由。最愛の美童貳人ありて其寵甲乙なかりしに、或日兩童側に有りしに、風來て落葉の美童の袖に止りしを、道灌扇をもつて是を拂ひけるに、壹人の童、聊か寵を妬(ねた)める色の有しかば、道灌一首を詠じける。

  ひとりには塵をもおかじひとりにはあらき風にもあてじとぞおもふ

かく詠じけると也。面白き歌ゆへ爰に留ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:具体は繋がらぬが、卓抜な奇略と洒落という点では私にはすんなり連関して感じられる。

・「太田道灌」(永享4(1432)年~文明181486)年)。『室町中期の武将。名は資長。道灌は法名。資清の長男。太田氏は、丹波国桑田郡太田郷の出身といい、資清のときに扇谷上杉氏の家宰を務めた。道灌は家宰職を継ぎ、1457年(長禄1)に江戸城を築いて居城とした。76年(文明8)関東管領山内上杉顕定の家宰長尾景信の子景春が、古河公方足利成氏と結んで顕定にそむくと,主君上杉定正とともに、顕定を助けて景春と戦った。77年武蔵江古田・沼袋原に景春の与党豊島泰経らを破り、78年に武蔵小机・鉢形両城を攻略、80年景春の乱を鎮定した。この間、関東の在地武士を糾合して戦った道灌の名声は高まったが、かえって顕定・定正の警戒するところとなり、86年定正により暗殺された。道灌は兵学に通じるとともに学芸に秀で、万里集九(ばんりしゆうく)ほか五山の学僧や文人との親交が深かった。道灌が鷹狩りに出て雨に遭い、蓑を借りようとしたとき、若い女にヤマブキをさし出され、それが「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」という古歌「後拾遺集」雑)の意だと知り、無学を恥じたという逸話は「常山紀談」(湯浅常山著、元文~明和ころ成立)や「雨中問答」(西村遠里著、1778)等に記されて著名。この話をもじって1833年(天保4)刊「落噺笑富林(おとしばなしわらうはやし)」(初世林屋正蔵著)中に現在伝えられる落語「道灌」の原形ができあがった。歌舞伎では18873月東京・新富座初演「歌徳恵山吹(うたのとくめぐみのやまぶき)」(河竹黙阿弥作)がこの口碑を劇化、賤女おむらは道灌に滅ぼされた豊島家の息女撫子で、父の仇と道灌に切りかかる趣向になっている。現在の新宿区山吹町より西方の早大球場、甘泉園のあたりを『山吹の里』と通称し、戸塚町面影橋西畔に『山吹の里』の碑が立てられ、その旧跡とされている。』(以上は平凡社「世界大百科事典」の下村信博氏及び小池章太郎氏記載記事。但し、記号の一部を本ページに合わせるために変更し、改行も省略した。(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

・「ひとりには塵をもおかじひとりにはあらき風にもあてじとぞおもふ」訳の必要を感じさせない平易な歌であるが、もしかするとある種の単語には性愛的な意味が隠されている可能性があるかも知れない。識者の御教授を乞う。底本の鈴木氏注に、「続詞花和歌集」の「雑上」に所収するものとし、作者は祭主輔親(大中臣)とする。それは

  ひとりには塵をもすゑじひとりをば風にもあてじと思ふなるべし

とあると記され、更に天保六年刊の儒学者日尾荊山(寛政元(1789)年~安政6(1859)年)の「燕居雜話」の「六」には太田道灌の作として、

  ひとりをば塵をもおかじひとりをば荒き風にもあてじとぞ思ふ

と挙げる、とある。後者はほぼ本歌に等しい。鈴木氏は最後に『道灌が古歌を利用して作りかえたと見ることもできるが、後人による附会であろう。』とされる。道灌、基、同感。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 太田道灌の和歌の事

 

 太田道灌は文武両道に長けた武将として知られている。

 彼には最愛の美童が二人あって、その寵愛の深さには何らの差がなかった。

 ある秋の日のこと、両童が側に控えて御座ったところ、風が吹き来て、落葉が一人の美童の袖に散った。

 道灌、それを見て、手にした扇をもってこれを払った。

 すると、これを見て御座ったもう一人の美童、聊か妬(ねた)ましげなる表情を浮かべた。

 道灌、それを見てとって一首を詠じた。その歌は、

   ひとりには塵をもおかじひとりには荒き風にもあてじとぞ思ふ

かくも詠じたということにて御座る。

 面白き歌なればここに記しおく。

 

 

 擬物志を失ひし事

 

 近年菓子或は油揚の類ひに魚物(ぎよぶつ)をまのあたり似せて實に其品と思ふ程の工(たく)みあり。さる寺院にて旦那成(なる)諸侯の法會有りて參詣の折柄、右の菓子差出しけるに、魚物に似寄たる故や手を付られざりしを、あるじの法師夫は魚味にては無之、近年拵へ出し候菓子也とありければ、彼諸侯申けるは、出家はしらず、俗人は強て先祖の忌日也とて魚味を禁ずべきにあらず、さあれ共國俗すべて精進に魚物等を忌みぬるは愼みならん。我等も先祖の法會なれば退夜(たいや)より精進潔齋して、諸事心の穢れをも禁(いま)しめ參詣なせし也。然るに魚物を食する事ならずとて、其形をなせし物を用んは、心の穢れ魚物を用んよりは増るべし、難心得饗應なりとて座を破り立歸り給ひしと也。彼僧は赤面なしてありしが、其後ひたすらの歸依もなかりし由。右は松平右近將監(しやうげん)とも堀田相模守執事の時共いひし。しかとわからざりしが心得あるべき事と爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「退夜」「逮夜」のこと。仏教で葬儀の前夜や忌日の前夜を言う語。

・「禁(いま)しめ」は底本のルビ。

・「松平右近將監」松平武元(たけちか 正徳3(1714)年~安永8(1779)年)。上野国館林藩第3代藩主・陸奥国棚倉藩藩主・上野国館林藩初代藩主(再封による)。奏者番・寺社奉行・老中。宝暦111761)に先の老中首座堀田正亮の在職死去を受けて老中首座となった。参照したウィキの「松平武元」によれば、『明和元年(1764年)老中首座。徳川吉宗、徳川家重、徳川家治の三代に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた』とある。卷之一「松平康福公狂歌の事」に登場。

・「堀田相模守」堀田正亮(ほったまさすけ 正徳2(1712)年~宝暦11年(1761)年)は出羽国山形藩3代藩藩主・下総国佐倉藩初代藩主。寺社奉行・大坂城代を経て老中。先に記した酒井忠恭の罷免を受けて寛延2(1749)年に老中首座となった。在職中に死去した(以上はウィキの「堀田亮」を参照した)。同じく卷之一「松平康福公狂歌の事」に登場。

・「執事」江戸幕府に於いては若年寄の異称であるが、堀田正亮は若年寄の経歴はないので、老中の謂いであろう。元来が執事は貴族・富豪などの大家にあって、家事を監督する職を言うので問題はない。岩波版長谷川氏でもそうとっておられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 擬物に志しを失うという事

 

 近年、菓子或いは油揚げの類いに、魚の姿を見るからに似せて作りことが流行って、中には誠(まっこと)本物の魚と見紛うほど、そっくりに造り上げる職人も御座る。

 さる寺院にて、檀家である諸侯が己(おの)が先祖の法会のために参詣致いた折りのこと、この茶菓子が振舞われた。

 魚の姿に見紛う故か、そのお大名が手をお付けになられないのを、住職の法師がこれを見て微笑みながら、

「それは勿論、魚肉にてはこれなく、近頃、流行で拵えさせた菓子にて御座いまする。」

と説明した。すると、そのお大名、相好一つ崩さず、住職を正面に見据えると、

「――出家はともかくとして、俗人は、先祖の忌日とて、強いて魚を食することを禁ずること、これ、あるべきべきことにては、御座ない――なれど、本邦に於いて古えより世俗にても精進の料理に魚肉などを避くるは、これ誠心の慎み故でもあろう。――かく不遜なる我らにても、今日、先祖の法会と思えばこそ、逮夜より精進潔斎致いて、あらゆることに気を配り、心の穢れんことを切に戒め、ここに参詣致いて御座る。――然るに――魚を食することが出来ぬからと言うて、代わりにその形を成せし食い物を食したとあっては――これ、心の穢れ――魚を食せんとせしことより、いや勝ることじゃ! 理解し難き饗応である!」

と言い放つや、憤然と席を立ち、そのまますぐにお帰りになられたとのことである。

 住僧はただただ赤面するばかりで御座ったが……その後は最早、この諸侯の帰依、これ、とんとなく、なられた由。

 この話は松平右近将監(しょうげん)武元(たけちか)殿御老中の折の話とも、堀田相模守正亮(まさすけ)殿御老中の折のものとも言う。はっきりとは分からぬものの、誠(まっこと)心得あるべきことと感心致せば、ここに記しおく。

 

 

 音物に心得あるべき事

 

 或日諸侯方より權門(けんもん)へ月見の贈り物ありしに、右權家(けんか)にて忌み禁ずるの品にて甚無興なる事ありしと也。いづれ平氏の諸侯へ平家都落の屏風等送らんは禮にも違ひ、恥しめるの壹つならん。夫に付おかしき咄あり。寶暦の頃、權家へ兼て申込にて屏風一双名筆の認しを送る諸侯有しに、彼權家より移徙(わたまし)の祝儀と時めける權門大岡公へ送り物の評議最中なれば、幸ひの事也、右の屏風を通すべし、しかし移徙は時日も極りあればいかゞあらんと評議せしに、留守居成(なる)者取計(とりはららひ)、彼諸侯へ、とてもの御贈り物に候はゞ幾日迄に贈り給はるべきやと談じけるに、安き事とて彼諸侯家にても大に悦びける故、權家にても其日に成(なる)と今や來ると待ぬるに、日も晩景に及べど沙汰なければ、如何間違しやと主人も氣遣ひ、懸合の家來は誠に絶躰絶命の心地しけるに、無程使者を以右屏風を贈り、厚く禮謝なして使者の歸るを待兼て、直に使者を仕立右屏風を大岡家へ贈りけると也。然るに主人其屏風の模樣仕立等を家來に尋けるに、餘りに取急てあわてけるにぞ、中の繪樣仕立等も不覺、主人の尋にて始て心付當惑なしけるにぞ、繪がら其外大岡家の禁忌も難計(はかりがたく)、移徙の忌み品にはなきやと、上下一同又當惑の胸を痛めける。餘りの氣遣ひさに大岡家へも人を以(もつて)存寄(ぞんじより)に叶ひしやを内々にて承り合、細工人抔を糺して其樣を聞て、始て安堵をなしけるとや。深切の音物(いんもつ)ならず、麁忽(そこつ)の取計(とりはからひ)にはかゝる事のあるものなれば、心得に爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。大名諸侯絡みではあるが、前項はポジ、こっちは皮肉なるネガ。

・「權門」官位が高く権力・勢力のある家柄、また、その人。ここではその意味ながら、この語には、まさにこの話柄で問題となる「権力者への賄賂」の意味もある。 

・「音物」「いんもつ」又は「いんぶつ」と読む。贈り物。進物。

・「寶暦」宝暦年間は西暦1751年から1764年。

・「移徙(わたまし)」は底本のルビ。「徙」は「移」と同義。「渡座」とも書く。貴人の転居・神輿(しんよ)の渡御を敬っていう語。

・「大岡公」大岡忠光(宝永6(1709)年~宝暦101760)年)九代将軍徳川家重の若年寄や側用人として活躍した。上総勝浦藩主及び武蔵岩槻藩初代藩主。三百石の旗本大岡忠利の長男(以上はウィキの「大岡忠光」を参照した)。卷之一「大岡越前守金言の事に登場。

・「留守居」留守居役。ここでは諸大名がその江戸屋敷に置いた職名。幕府との公務の連絡や他藩(の留守居役)と連絡事務を担当。聞番役。

・「とてもの御贈り物に候はゞ」これはその権家が、具体的にその屏風を大岡公移徙御祝儀に致す、ついてはその旧蔵はこれこれの御大名のものなりという出所も明らかに致すによって、別して御大名家の名聞も立つと申すものにて、といったような会話がなされたものを省略した表現と私は採った。識者の御意見を乞う。

・「餘りの氣遣ひさに大岡家へも人を以存寄に叶ひしやを内々にて承り合、細工人抔を糺して其樣を聞て、始て安堵をなしけるとや」の部分で権家が、絵柄や仕立てもよく分かっている旧蔵者の大名諸侯に、その屏風の仔細を聞かなかったのは、何となく分かる気がする。これはもう、万一の時は権家だけではなく、災いが旧蔵者であるその大名にも及ぶ危険性があるからで、とても口には出せなかったのであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 進物には細心の注意が必要である事

 

 とある諸侯が権門(けんもん)に秋の月見の進物を致いたところが、それが当の権家(けんか)にては古えより忌み禁ずる品であったがため、甚だ不興を買ってしまったということがあったという。いずれにしても、平姓の諸侯方に平家都落ちを描きし屏風なんどを贈るは、これ、礼を失するばかりか、相手を侮辱することになる一例で御座る。

 さても、これに就きて、面白い話が御座る。

 宝暦の頃、とある大名が、さる権家へ、その大名家の所蔵に係る名筆の手になった一双の屏風を贈答致すという約束をかねてより交わして御座った。

 一方、その権家にては、丁度その頃、世を時めいて御座った権門大岡忠光公御転居の御祝儀の進物に、何がよろしきかと評議を致いている真っ最中であったが、

「もっけの幸いじゃ! その屏風を贈ろうではないか。」

「しかし、御転居の儀、これ、時日が迫って御座れば、如何なものか?」

という話となり、留守居役の者が取り計らい、早速に当の大名方へ走り、

「先の御約束の屏風で御座るが……有体に申しますれば、かの大岡忠光公御転居の御祝儀として本家より進ぜんと考えておりますればこそ……その……厚かましきこと乍ら、○月○日迄に、かの屏風、お贈り戴けるようお取り計らいの儀、御願い出来ませぬか?」

と正直に申したところ、大名も大岡忠光公の名を聞いて、

「それはそれは! 易きことじゃ!」

と大喜びして請け合って御座った。

 さても大名から権家への送り渡しの当日と相成った。

 権家方にては、贈答の好機が迫りに迫って御座ればこそ、今来るか、今来るかと首を長くして待って御座った。

 ところが、日が暮れ方になっても、屏風が届かぬ――

「……何ぞ手違いでもあったではなかろうか!?……」

と権門家主人も、これ、気が気ではない。

 交渉に当たった家来ども、特にかの留守居役なんぞに至っては、最早、絶体絶命――腹を切らずば済まされまい――との心持ちで御座ったところ――暗くなって程なく、大名家の使者が件(くだん)の屏風を持って権家の玄関に現れた。

 権門家では厚く謝礼をなし、その使者が帰るのを待ちかね、直ちに使者を仕立てて、この屏風を右から左と、大岡家へ贈り届けたということで御座る。

 ――ところが――

 さて、その夜のこと、権門家の主人が、家来に屏風の絵柄や、大名が新たに表装し直したという仕立てなんどにつき、訊ねたところが……

――いえ……何にせよ、あまりに取り急ぎのことにてあれば……

――その……家来の者どもは……誰(たれ)一人として……

――何?……誰も屏風を……見ておらぬと?……

――こ、この儂に尋ねらるるまで……だ、だれ一人か!?……

――今の今まで……そ、そ、そのことにさえ気づいて、お、ら、な、ん、だ、と……申すカッ!?……

ということに今更皆々気がついて、一同、愕然と致いた。

 絵柄その他、そもそも贈答せんがことに汲々と致して御座ったれば、大岡家の禁忌のことも迂闊にも全く調べて御座らねば、それどころか、もしや転居祝そのものの忌み物にはあらんかと、権家一同、上から下までずずいずいと、当惑疑惑七転八倒、胸痛腹痛片頭痛、餓鬼畜生地獄煉獄阿鼻叫喚の責め苦を味わうはめと相成って御座ったのである。

 あまりの懊悩故、まず大岡家へもそれとなく人を遣わし、お気に召されたかどうか、極内々にて聴き合わせ、……またかの大名から、かの屏風の仕立て直しを請け負った細工職人なんどから、これまた、それとのう聞き出しては、彼らより、その絵柄や模様なんども分かって御座ったれば……その上で、初めて……ほっと一息、安堵をなしたとかいうことで御座る。……

 さてもこれ、心を尽くした進物にてもなく、また、かくまで杜撰な仕儀に於いては、こうしたこともある、ということで御座る。方々の注意を喚起せんがため、ここに記しておくものである。

 

 

 米良山奧人民の事

 

 日向國椎葉山の山奧其外米良抔いへる處は、中古其村處(そんきよ)を尋得て人民ある事をしりしよし。御普請役元〆(もとじめ)をなしつる中村丈右衞門といへる老翁ありしが、彼丈右衞門語りけるは、椎葉山の材木伐出し其外御用ありて彼地へ行しに、日雇の者を案内に賴み段々わけ入しに、山中に一村有、家數も餘程あれどまばらに住なせし所也。外に宿すべき所もなければ彼人家に止りぬ。然るに床はなくねこだを敷て、家居の樣子其外外國へも行し程に覺へぬ。米はなき由なれば兼て里より持參せし米をあたへ、食事に焚きくれ候樣申けるに、飯の焚やうをしらず。常には何を食事になすやと尋るに、木の實鳥獸等を食となすよしゆへ大に驚き、召連し小者に申付て飯を焚せけるに、食事濟で殘りし飯を家内へ與へければ、彼家の老翁家族を不殘集、幼き孫彦(まごひまご)等に申けるは、汝等は天福ありて幼稚にて米の食をいたゞき見るに、我等は五十の時始て飯を見たりといひし由。實(げ)にも麁食(そしよく)長生ありといふ古語誠成る哉。右翁は百歳の餘にも成由。孫彦都(すべ)て家内大勢打揃し氣色にて、何れの家もしかなる由語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。後の注でも分かるが、この椎葉米良は隠田集落村で、落人伝説の地、粗食長寿の桃源郷である。

・「日向國椎葉山」現在の宮崎県の北西部の東臼杵郡椎葉村にある山。宮崎県最内陸部の九州山地に位置しており、椎葉村全体が山地であり、村内には多くの山があって、冬期は雪が積もることもある。米良山この椎葉山一帯は天領で人吉藩の預かり地であった。主に参照したウィキの「椎葉村」には更に細かく『戦国時代には椎葉三人衆(向山城、小崎城、大川内城の那須氏)と呼ばれる豪族が支配していた。元和年間、那須氏の間で対立が激化。1619年(元和5年)、幕府は阿部正之、大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。徳川実紀によると住民1000人が捕らえられ140名が殺害されたという(椎葉山騒動)。1656年(明暦2年)以降、天領となり、隣接する人吉藩の預かり地となった』。『伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)』。『日本民俗学の先駆けである柳田国男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに「後狩詞記(のちのかりのことばのき)」(明治42年、1909年)を記した』と書かれている(引用の一部記号を変更した)。

・「米良」現在の宮崎県児湯郡西米良村にある。厳密には市房山・石堂山・天包山の3つから成り、これらを合わせて「米良三山」と呼ぶ。参照したウィキの「西米良村」によると、『15世紀初頭、菊池氏の末裔とされる米良氏が米良に移住。米良山』(当時は14ヶ村を数えた)『の領主として当地を支配し、江戸時代中期以降(現在の)西米良村小川にあった小川城を居城とした。米良氏は明治維新後に菊池氏に改姓した』。『米良山は元和年間(1615-1624年)に人吉藩の属地とされ、廃藩置県(1871年)の際には人吉県(後に八代県、球磨郡の一部の扱い)となり、1872年に美々津県(宮崎県の前身)児湯郡に移管された。こうした歴史的経緯から米良地方は宮崎県(日向国)の他地域よりも熊本県(肥後国)球磨地方との結びつきが強い。これは現在も飲酒嗜好にも表れており、西米良村では球磨焼酎(25度の米焼酎、宮崎県内は20度の芋焼酎が主流)、特に高橋酒造の「白岳」が愛飲されている』とある。椎葉の前注も参照。

・「御普請役元〆」底本の鈴木氏注に幕府の『支配勘定(組頭の下を勘定といい、その下を支配勘定という)の下。この下が普請役。その下が普請役下役となる。』とある。鈴木氏の役職解説は何よりシンプルで分かり易い。前注で分かる通り、ここは江戸から遠く隔たっているが天領であるから、この人物が直接出向いているのである。

・「中村丈右衞門」諸注注せず不詳。

・「ねこだ」方言か。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「寝茣蓙(ねござ)」とある。この意で採る。

・「孫彦」岩波版長谷川氏注に「彦」は曾孫とする。そのような用法は漢和辞典にないが、そう読むしかない。「ひこまご」で「ひまご」か。とりあえず本文は「まごひまご」と読んでおいた。

・「都(すべ)て」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 米良山の奥に住む人々の事

 

 日向国椎葉山の山奥、そこに隣り合う米良という所は、中古、そこを偶々分け入った人が、村の在るを見出し、初めて人が住んでおることが知れたといういわくつきの山村である。

 御普請役元締を勤めておった中村丈右衛門という老人が御座ったが、その彼が語って呉れた話である。

 ――――――

……天領で御座る椎葉山の材木の伐り出しや、その他の御用が御座って彼地へ赴きましたが、……日雇いの者を案内(あない)に頼み、だんだんに山に分け入ると、……暮れ方にやっと山中の一村に辿り着きました。家数も相応に御座っての、ただ、広い山地に固まらず、疎(まば)らに住みなして御座った。勿論、外に泊まるところもないので、そのうちの一軒に泊りました。

ところが、家内入ってみると、床は御座らず、地べたに大きな寝茣蓙が敷かれておるだけ、家の内外(うちそと)様子なんどは、もう、まるで外国に来たようで御座った。米はないということなれば、かねて里から持ち運ばせた米を与えて、

「食事に炊いて呉れ。」

と申し付けたところが、これ、なんと、飯の炊き方を知らぬと申しました。

「普段は何を食っておるのか?」

と訊ねますと、

「木の実、鳥、獣などを捕って食い物としております。」

と答えるので、拙者も大いに驚き、召し連れておった小者に申し付けて飯を炊かせましたが……食事が済んで、残った飯をその家(や)の者どもへ与えたところ、その家の老翁が家族一同残らず集めた上、幼い孫や曾孫に言うことには、

「……汝らは天のご加護があって、かく年幼(わこ)うして、こうして米の飯を拝み見ることができた……我らなんぞはの、五十の時、初めてこの『飯』というものを見たんじゃぞ……」

と申しました。

 げにも『粗食なれば長生あり』という古き諺は誠(まっこと)真実で御座いますなあ。……何とこの折りの老人、百歳を有に超えているということで御座った。どの家(や)にてもこのように孫や曾孫総ての家族がともに暮らしておるらしゅう御座っての、また、どの家の者も、かく長生きであるという話で御座いました。……

 

 

 矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事

 

 寶暦の初めにや、三州矢作(やはぎ)の橋御普請にて、江戸表より大勢役人職人等彼地へ至りしに、或日人足頭の者川縁に立しが、板の上に人形やうの物を乘せて流れ來れり。子供の戲れや、其人形のやう小兒の翫(もてあそ)びとも思はれざれば、面白物也と取りて歸り旅宿に差置けるに、夢ともなく今日かゝりし事ありしが明日かく/\の事有べし、誰は明日煩はん、誰は明日何方へ行べしなど夜中申けるにぞ、面白き物也、これはかの巫女などの用る外法(げはふ)とやらにもあるやと懷中なしけるに、翌日もいろ/\の事をいひけるにぞ、始の程は面白かりしが、大きにうるさくいと物思ひしかども捨ん事も又怖しさに、所の者に語りければ彼者大きに驚き、よしなき物を拾ひ給ひける也、遠州山入に左樣の事なす者ありと聞しが、其品拾給ひては禍を受る事也といひし故、詮方なく十方に暮れていかゞ致可然哉(しかるべくいたすべきや)と愁ひ歎きければ、老人の申けるは、其品を拾ひし時の通、板の上に乘せて川上に至り、子供の船遊びする如く彼人形を慰める心にて、其身うしろ向にていつ放すとなく右船を流し放して、跡を見ず立歸りぬれば其祟りなしと言傳ふ由語りけるにぞ、大きに悦び其通りなして放し捨しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に具体な連関を感じさせないが、山の民の隠れ住む場所、その河上から流れ来る妖しき『もの』という空間的連関性は感じられる。

・「寶暦」宝暦年間は西暦1751年から1764年。

・「三州」三河国。凡そ現在の愛知県東部地区。

・「矢作川」現在の長野県・岐阜県・愛知県を流域として三河湾に注ぐ。ウィキの「矢作川」のよれば、『長野県下伊那郡平谷村の大川入山に源を発して南西に流れる。岐阜県恵那市と愛知県豊田市の奥矢作湖周辺では、矢作川が県境を決めている。流域に豊田市、岡崎市などがある。下流域の矢作古川は元の本流であり、氾濫を抑えるため江戸時代初期に新たに開いた水路が現在の本流となっている』とあり、この舞台はその新水路でのことか。『矢作の名は、矢作橋の周辺にあった矢を作る部民のいた集落に由来している。矢に羽根を付けることを「矧(は)ぐ」と言ったことから「矢矧(やはぎ)」となり、後に矢作へ書き換えられた』とある。

・「遠州」遠江国。凡そ現在の静岡県大井川の西部地区。

・「外法」正道の仏法から外れた呪術・妖術の類い。諸注、人間の髑髏を用いた呪法を挙げるが(この語にはその意もあるが)、私は採らない。

・「山入」山岳信仰の山伏などのことを言うか。中でも天竜川を遡った、静岡県浜松市天竜区春野町領家にある秋葉山(あきはさん)は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀り、信濃諏訪―熊伏山―定光寺山―竜頭山―秋葉山を結ぶルートが修験者の回峰道となっていた。次項「秋葉の魔火の事」を参照。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 矢作川にて妖物を拾い難儀した事

 

 宝暦の初めのことと言う。

 三河国矢作川に掛かる公共架橋整備事業のため、江戸表より大勢の役人や職人などがかの地へ参った、その中の一人の人足頭の体験した話。

 ある日のこと、この者、作業の合間に川っぷちに立って御座ったところ、板の上に人形のような物を乗せたものが上流から流れて参った。

 子供が戯れにしたことかとも思ったが、その人形の作りはとても児戯に類するものとは思われぬ、相応に巧みな造作にて御座ったれば――面白いものじゃ――と拾い取ると、宿所へ持ち帰って、荷の中に仕舞い置いた。――

 ――その夜のこと、荷の傍らで寝入っていたその男、夢うつつのうちに、かの人形が、

「……今日ハドコソコデカクカクノ事ガアッタガ、明日ハソノコトニ関ワッテ、シカジカノ事ガ、コレ、起コルデアロウ。……誰ソレハ明日病イニ罹ル。……誰彼ハ明日ドコソコへ行クダロウ。……」

といったようなことを話すのを聴いた――ような気がした……。

 翌朝になって、

「こりゃ面白れえもんだ! これぞ世に、かの巫女なんどが用いるという、外法(げほう)とか言ったもんかのう?」

と、またぞろ面白がって人形を懐に入れて持ち歩いて御座った。

 すると、翌日の夜(よ)も、再びいろいろなことを一人ごちた――ように聴こえた……。

 かく初めのうちは、男もその予言の面白い程の的中を興がって御座ったが、……次第に、この夢うつつの人形のお喋りを甚だ五月蠅いものに感じ始め、果てはその独り言に不眠症ともなってひどく悩むに至った。捨てんにも、後(のち)に如何なる祟りのあらんかとの恐ろしさ故、思い余って、親しくなった土地の老爺に相談致いたところ、話を聞くや、その者、大いに驚き、

「そりゃ、とんでもないものを、お拾いになったもんじゃ! 遠州辺りの山に入る修験者の中には、かような妖しい外法を為(な)す者がおると聞いたことが御座るが……それを拾うた者……これ、きっと禍いを受くると……言われとるじゃ……」

と語る。

 これを聴いては、詮方なく、男は途方に暮れるばかり。

「……い、一体……ど、どうしたら……え、ええんじゃろう?……」

と驚懼の余り、泣きついたところ、老爺曰く、

「――拾うたときと同じごと、板の上に乗せて川上に参り、子供が舟遊びするが如く、その人形を労わり慰むる心を持ちて、背中にそれを持ち、顔は川と反対を向いて、川岸に静かにしゃがみ込み、いつ放すとのう、手を放し、あたかも弾みで手が離れたように振舞って、川に押し流し、後は後ろを見ずに帰れば、これ、その祟りはない――と言い伝えて御座る……。」

と語った由。

 男は驚喜して、その通りになして、無事、放ち捨てたということで御座る。

 

 

 秋葉の魔火の事

 

 駿遠州へ至りし者の語りけるは、天狗の遊び火とて遠州の山上には夜に入候得ば時々火燃て遊行なす事あり。雨など降りける時は川へ下りて水上を通行なす。是を土地の者、天狗の川狩(かわがり)に出たるとて、殊の外愼みて戸抔を建ける事なる由。いか成もの成哉(や)。御用にて彼地へ至りし者、其外予が召使ひし遠州の産抔、語りしも同じ事也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前話では隠れているが、秋葉山連関である。

・「秋葉」秋葉山。現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する標高866mの秋葉山。この山頂付近に三尺坊大天狗を祀った秋葉寺があった。これは現在、秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)となっている。以下、ウィキの「秋葉山本宮秋葉神社」より引用する。本神社は『日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約800社)、秋葉大権現および秋葉寺の殆どについて、その事実上の起源となった神社である』。『現在の祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。江戸時代以前は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀(まつ)る秋葉社(あきはしゃ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんふつこんこう)で、人々はこれらを事実上ひとつの神として秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼んだ。古くは霊雲院(りょううんいん)や岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)などの呼び名があったという』。『上社参道創建時期には諸説があり、701年(大宝元年)に行基が寺として開いたとも言われるが、社伝では最初に堂が建ったのが709年(和銅2年)とされている。「秋葉」の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から寺に賜った和歌の中に「秋葉の山に色つくて見え」とあったことから秋葉寺と呼ばれるようになった、と社伝に謳われる一方「行基が秋に開山したことによる」「焼畑に由来する」などの異説もある』。『その後平安時代初期、信濃国戸隠(現在の長野県長野市、旧戸隠村)の出身で、越後国栃尾(現在の新潟県長岡市)の蔵王権現(飯綱山信仰に由来する)などで修行した三尺坊(さんしゃくぼう)という修験者が秋葉山に至り、これを本山としたと伝えられる。しかし、

1.三尺坊が活躍した時期(実際には鎌倉時代とも室町時代とも言われる)にも、出身地や足跡にも多くの異説がある

2.修験道は修験者が熊野、白山、戸隠、飯綱など各地の修験道場を行き来しながら発展しており、本山という概念は必ずしも無かった

3.江戸時代には秋葉寺以外にも、上述の蔵王権現や駿河国清水(現在の静岡県静岡市清水区、旧清水市)の秋葉山本坊峰本院などが「本山」を主張し、本末を争ったこれらの寺が寺社奉行の裁きを受けたとの記録も残されている

戦国時代より以前に成立した、三尺坊や秋葉大権現に関する史料が殆ど発見されていない

よって現状では、祭神または本尊であった三尺坊大権現の由来も「定かではない」と言う他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれている』。『戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康の隠密であった茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととなった』。『徳川綱吉の治世の頃から、三尺坊大権現は神道、仏教および修験道が混淆(こんこう)した「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、十七坊から三十六坊の修験や禰宜(ねぎ)家が配下にあったと伝えられる。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた』(以下、近代史の部分は割愛した)。

・「駿遠州」駿河国と遠江国。駿河は現在の静岡県の大井川左岸中部と北東部に相当し、遠江は凡そ現在の静岡県大井川の西部地区に当たる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 秋葉の魔火の事

 

 駿州遠州へと参った者が語ったことには、「天狗の遊び火」といって、遠州の山上にては夜になって御座ると、折々妖しい火がふらふらと飛び交うことがある。雨が降った折りなんどは、その火が山を下り川を下って、水面の上を通って行く。これを土地の者は『天狗が川狩りに出た』と言うて、殊の外恐々として謹み、戸を立てて外に出でるを忌む由。一体、これは如何なるものなのであろうか。御用にてかの地へ参った者以外にも、私が召し使っておった遠州生まれの者などが語った話も全く同様で御座った。

 

 

 其業其法にあらざれば事不調事

 

 予が知れる者に虚舟といへる隱逸人ありて御徒(おかち)を勤しが、中年にて隱居なして俳諧など好みて樂みとし、素より才力もありて文章もつたなからず。或時義太夫の淨瑠理を作り見んと筆をとりて、八幡太郎東海硯といへるを編集し伎場の者に見せけるに、彼者大きに奇として、かゝる作意近來見不申、哀れ芝居に目論見(もくろみ)なんと持歸りしが、程なく肥前といへる人形操(あやつり)の座にて右淨瑠璃理芝居を興行せし故、見物に行て右狂言を見しに、大意は相違なけれど所々違ひし處も夥しく、虚舟かなめと思ひし所をも引替たる所有ければ、彼最初附屬せしものを以、座本淨瑠理太夫などに聞けるに、さればの事にて候へ、右作いかにも面白く能(よく)出來たる物なれ、しかし素人の作り給へる故舞臺道具立人形のふりの附かたことごとく違ひて、右作にては狂言のならざる所あり、此故に直しけると語りし由。いづれ其家業にあらざれば理外の差支等はしれざる事とかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「虚舟」後掲する「八幡太郎東海硯」の作者東武之商家一二三は彼のペン・ネームか。底本の鈴木氏注では三田村鳶魚の注を引いて『「虚舟、蓼太門、小島氏とあり、この人には」とある。』とし、更に『光文二年十一月、京の蛭子座で上演された八幡太郎伝授鼓(三番続)の作者小島立介・伊藤柳枝らとある立介がそれであろう。外題も上演に際して改めたものであろう。内容は甲陽軍記の世界の人物をとって、お家物に仕立てた顔見世狂言。(ただし寛政譜の中からは、享保ごろまでに致仕した小島姓の人物を検出することはできない。)』と丁寧な注が附されている。ただ岩波版長谷川氏注では未詳の一言なので、この鈴木氏注はハズレと長谷川氏は判断されているということか。

・「御徒」とは「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。

・「義太夫」義太夫節のこと。浄瑠璃(三味線伴奏の語り物音曲)の流派の一つで、貞享年間(16841688)に大坂の竹本義太夫が人形浄瑠璃として創始した。豪放な播磨節、繊細な嘉太夫節その他先行する各種音曲の長所を取り入れてある。浄瑠璃作家近松門左衛門、三味線竹沢権右衛門、人形遣辰松八郎兵衛らの多角的な協力が加わって、元禄期(16881704)に大流行、浄瑠璃界の代表的存在となった。単に「ぎだ」とも言う。また広義に、特に関西で浄瑠璃の異名ともなった。

・「八幡太郎東海硯」東武之商家一二三作。廣田隼夫(たかお)氏の『素人控え「操り浄瑠璃史」』の記載によれば、江戸の操り浄瑠璃界に新風を巻き起こした初めての江戸前作家による記念的作品であったことが窺える。当時、『豊竹・竹本両座の退転で混乱状態に陥った大坂に対して、この明和期から安永~天明期という約20年間、江戸では対照的な珍しい現象を引き起こしていた。突如として現われた江戸浄瑠璃の新作が江戸っ子の人気をえて、予想もしない活況に沸き返った』。『そのきっかけとなったのが、最初の江戸作者の出現であった。明和から10年ほど前の寛延4年(1751)に肥前座で「八幡太郎東海硯」なる作品が上演された』。『作者は「東武之商家一二三」で、単独作。「東武之商家一二三」の読み方は正確に分からないが、「東武」とは武蔵の国―つまり江戸のこと、「商家」とは商い―作者のこと、「一二三」は最初の数字の意味にとれば、自らが「江戸の最初の作者」ということをふざけて表現したことになる。名前からしてアマチュアであることに間違いない』と記されておられる。大きな改変が座付作家によってなされていることが本文から分かるが、このような奇妙なペンネームからは、虚舟なる人物のペン・ネームと考えて問題ないように思われる(もしそうでないとすれば虚舟は改変云々の前に、まずそこに文句を言うであろうから)。内容は私は不学にして未詳。先に示した「八幡太郎伝授鼓」(はちまんたろうでんじゅのつづみ)は現在でも上演されているので、識者の御教授を乞うものである。

・「附屬」「付嘱」(ふしょく)に同じ。言いつけて頼むこと。依頼。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 如何なる仕儀もその本来の技法に従わざれば事成らざるものなりという事

 

 私の知人に虚舟という隠逸人がおり、永く御徒(おかち)を勤めて御座ったが、中年となって隠居した後(のち)、俳諧なんどを好みて道楽と致いて御座った。もとより才能もあり、その文筆の冴えも一通りではなかった。

 ある折りのこと、素人乍ら、義太夫節の浄瑠璃を書かんと一念発起、筆を執って「八幡太郎東海硯」という作物を書き上げ、とある芝居小屋の者に見せたところが、かの者、大いに奇なる面白き作物と賞美の上、

「――かく斬新なる作物、近年稀に見るものにて御座りまする! これはもう、一つ、芝居にしてみんに若くはない!」

とて、台本拝借、知れる者どもの内にて持ち回って御座った。

 程なく肥前座という人形操りの芝居小屋にて、かの浄瑠璃芝居「八幡太郎東海硯」興行せんとすとの知らせ、虚舟、喜び勇んで見物に参ったところが――大筋は、確かに虚舟の描いたものと相違なきものの、所々、否、ここあそこと、自作の場面と異なって御座ること、これ、夥しく、何より虚舟がここぞ摑みと心得て御座った山場の場面すら、大きに書き換えられて御座った。

 その日のうちに、虚舟は複雑な面持ちで、引き渡した清書の外に手元に残して御座った元原稿を持ち参り、肥前座楽屋に御座った座本の浄瑠璃太夫なんどのところに顔を出して、話を聞いた。

「――されば、それは仕方のなきことにて候。この作物、誠(まっこと)、よう出来て候。――なれど、やはりこれ、素人がお創りになったものにて候間――舞台の道具立て、人形の振り付け方――ありとあらゆるところ、音曲人形、演ずるに悉く無理、これあり候。――この作物、このままにては――狂言になり申さぬところ、これあり候。――なればこそ、御不快尤ものこと乍ら、直し申し候。――」

と語ったということである。……

「……いやこそ、流石なれ! いずれ、その家業に随(したご)うておる者にて御座らねば、分からぬこと、これ、御座るものにじゃ!」

と、その虚舟本人が、如何にも得心して語って御座ったよ。

 

 

 海上にいくじといふものゝ事

 

 西海南海にいくじとて時によりて船のへさき抔へかゝる事有由。色はうなぎやうのものにて長き事難計(はかりがたく)、船のへ先へかゝるに二日或は三日などかゝりてとこしなへに動きけるよし。然れば何十丈何百丈といふ限を知らずと也。いくじなきといへる俗諺(ぞくげん)は是より出し事ならん。或人の語りしは、豆州(づしう)八丈の海邊などには右いくじの小さきものならんといふあり、是は輪に成て鰻の樣成ものにて、眼口もなく動くもの也。然れば船のへ先へかゝる類(たぐひ)も、長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの也といひし。何れ實なるや。勿論外の害をなすものにあらずとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関: 特に連関を感じさせない。UMAシリーズの一(因みに、UMAは“Unidentified Mysterious Animal”「未確認の謎の生物」を意味する英語の頭文字であるが、これはUFOに引っ掛けた、和製略英語であって国際的には通用しない)。

・「いくじ」海の妖異生物で、後、「あやかし」などとも呼ばれて急速に明確に妖怪化している。「いくち」とも呼ぶ。以下、ウィキの「イクチ」から引用する(記号の一部を変更した)。津村淙庵の『「譚海」によれば常陸国(現・茨城県)の沖にいた怪魚とされ、船を見つけると接近し、船をまたいで通過してゆくが、体長が数キロメートルにも及ぶため、通過するのに12刻(3時間弱)もかかる。体表からは粘着質の油が染み出しており、船をまたぐ際にこの油を大量に船上にこぼして行くので、船乗りはこれを汲み取らないと船が沈没してしまうとある』(以下「耳嚢」の記載を載せるが省略する)。『鳥山石燕は「今昔百鬼拾遺」で「あやかし」の名で巨大な海蛇を描いているが、これはこのイクチをアヤカシ(海の怪異)として描いたものである』。『平成以降では、怪魚ではなく巨大なウミヘビとの解釈』(人文社編集部「日本の謎と不思議大全 東日本編」人文社〈ものしりミニシリーズ〉2006年)や、『海で溺死した人間たちが仲間を求める姿がイクチだとの説』(人文社編集部「諸国怪談奇談集成 江戸諸国百物語 東日本編」人文社〈ものしりシリーズ〉2005年)、『石燕による妖怪画が未確認生物(UMA)のシーサーペントと酷似していることから、イクチをシーサーペントと同一のものとする指摘もある』(山口敏太郎「本当にいる日本の現代妖怪図鑑」笠倉出版社2007年)と記す。但し、「あやかし」について附言すると、平秩東作(へづつ とうさく 享保111726)年~寛政元(1789)年)の「怪談老の杖」によれば、大唐が鼻での出来事として、舟人が遭遇した人間の女の姿をした女妖として描かれている。大唐が鼻は現在の千葉県長尾郡太東岬(たいとうみさき)である。

・「何十丈何百丈」1丈=3.03mであるから、「何」を3倍から9倍の幅で考えるならば、最低でも90m強、長大なものは凡そ2㎞700mという途方もない長さになる。いくらなんでも2㎞はあり得ない――しかし――それが――あるのである。

・「是は輪に成て鰻の樣成ものにて、眼口もなく動くもの也。然れば船のへ先へかゝる類(たぐひ)も、長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの也といひし。何れ實なるや。勿論外の害をなすものにあらずとなり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「外」は「舟」とする。さてもこれは何だろう。鰻のようであるという部分からは所謂、鰻・鱧・海蛇などの長大個体を想定し得るが、ここまで長い誇張はしっくりこない。私は本文の後半、目も口もなく「動くもの」「長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの也」という表現に着目する。この表現は、その個体の体軀が前半の記載と異なり、半透明であることを意味していないだろうか? 所謂、鰻や海蛇の類で、如何にぬるぬるしていても太くがっちりした円柱状であるソリッドな生体を「長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの」とは言わないように思うのである。もしかすると「動く」「廻る」ように見えるのは、その内臓・体内が透けて見え、その中の鮮やかな臓器の一部が、動くから「廻る」のが分かるのではあるまいか? 蛇体形のものであれば、身体を伸縮する運動を必ずするから「延び動く」ように絶対見えるはずである。以上から私は、この「いくじ」を、全く独自に、ホヤの仲間である脊索動物門尾索動物亜門タリア綱 Thaliaceaのサルパ目(Salpida / Desmomyria)のサルパ類の、長大な連鎖群体に同定してみたい欲求に駆られるのである。サルパは体長2~5㎝程度の、筒状を成した寒天質の被嚢で覆われた透明な一見、クラゲに見える(が脊椎動物の直下に配される極めて高等な)海産生物である。体幹前端に入水孔、後端部若しくは後背面部に出水孔を持ち、7~20本の筋体が体壁を取り巻いている(これが腹側で切れているのが大きな特徴である)。ところがこのサルパは他個体と縦列や横列はたまた円環状(本文後半の記述に一致)で非常に長い連鎖群体を作って海面下を浮遊することで知られ、その長さは数10mから数100m(サルパであることの確認を取ったわけではないが、極めてその可能性が高いと私が判断しているネット上の国外の事例では約2㎞のものもあるようだ)にまで及ぶのである。以下に幾つかの属を示しておく。

サルパ科 Salpidae

       Salpa サルパ

       Cyclosalpa ワサルパ

       Thalia ヒメサルパ

       Thetys オオサルパ

       Pegea モモイロサルパ

但し、サルパは海上表面に飛び出て、舳先に絡みつくようなことは勿論ないが、喫水線が低く舳先も低い和船にあってはピッチングの際に、この連鎖個体を舳先にぶら下げることもあろう(但し、ぶら下がって切れない程強靭であるかどうかは、残念ながら実際に試したことがないので分からぬ。寒天質では厳しいとは思う)――ただ、外洋でこの浮遊する連鎖個体を見たならば、吃驚りしないものは、恐らく皆無であろうという自信はある。私はかなり大真面目に「長大な」という「いくじ」の最大特徴を最もカバー出来る同定候補として、このサルパを結構、自信を持って掲げるものである。ただ、最初は実は正真正銘のクラゲ、刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目ボウズニラ科ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii 辺りをイメージした。ボウズニラをご存知の方は少ないであろう。以下、ウィキの「ボウズニラ」から引用しておく。ボウズニラは『群体性の浮遊性ヒドロ虫。カツオノエボシなどに代表される管クラゲ類の1種。暖海性で春に見られる』。『一般にはクラゲとされるがその体は複数のポリプから構成され、クラゲの傘にあたる位置の気泡体から幹群をもった細長い幹が出、触手、対になった栄養体とその間から生えた生殖体叢からなる』。『体色は淡紅。気胞体は高さ10―17㎜、幅5―9㎜、富む幹は3mまで伸縮する』。『種名の「ボウズ」は坊主頭に似た気泡体に、「ニラ」は魚や植物の棘を意味する「イラ」の訛に由来する』。『近縁種にコボウズニラがあり、毒性はとても強く、漁師などが網を引き揚げるとき、本種などの被害を受けている』。しかし、その形態は「いくじ」やサルパほどにはシンプルとは言えないし、そもそもこれはその刺胞が強烈で漁師の立派な「害」になる(岩波版にこじつければ「舟」の害にはならないが)ので、最終的には除外した。

・「豆州」伊豆国。現在の静岡県の伊豆半島全域及び東京都の伊豆諸島に相当。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 海上に棲息する「いくじ」なる生物の事

 

 西や南の海にては、時によっては、「いくじ」という生き物が舟の舳先なんどに引っ掛かることがあるという。

 色は鰻のようであり、長さは計り知れぬ程、長大である。

 この「いくじ」、舟の舳先なんぞに引っ掛かろうものなら、二日でも三日でも引っ掛かったまんまで、これまた、いつまでも――ずるずるずるずるずるずるずるずる――と動いておる。

 何十丈、いやさ、何百丈あるのか見当もつかぬ程に――並外れて――長い――という。

 「いくじなし」という俗語は、この「いくじ」のように無用の終わり「なき」よな――ずるずるずるずるずるずるずるずる――いつまでも決心のつかない、気力も覚悟もつかない、という連鎖連想に由来する語なのであろう。

 ――また、ある人の「いくじ」談義では少し違う。

「……伊豆や八丈島の海辺などにては、このいくじの小物であろうと思われるものが棲息しておると言いまする。こちらは輪になった鰻のようなもので、目も口もなく、そのまんまに動く生き物で御座る。されば、かく「いくじ」が舟の舳先に掛かる、と言い伝えて御座るものも、実は海中より伸び上がって舳先にだらんとうち掛かっておる、というのではのうて、丸く輪になって廻る――則ち、舳先にその輪っかのような生き物がぶら下がっておる状態を言うておるので御座ろう。」

 ――さても、何れが真実(まこと)か。勿論、他にこれといって害をなすような生き物にてはない、ということで御座る。

 

 

 鴻巣をおろし危く害に逢し事

 

 下谷の武家とやらん又寺と哉覧(やらん)、召仕ふ中間鴻の巣をおろしける事ありし由。然るに右中間或日米を舂(つ)き居(をり)たりしに、空より何か物音して我上へ落ち懸る音しける故、大に怖れて家の内へ逃入りしに、鴻一羽下し來りて觜(くちばし)を縁の柱へ三寸餘突込し。鴻も讎(あだ)を報(むくひ)んとて彼男を突損じ、勢ひの餘りて柱へ觜をたて、引拔んとすれど叶はざりし故、大勢立寄りて打殺しけると。彼男今少し逃やう遲くばかの觜にかゝりなばと、舌を振ひ恐れしと也。

 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:珍奇動物から動物の人間への意外な復讐行動で連関。

・「鴻」コウノトリ目コウノトリ科コウノトリCiconia boyciana。「鸛」「鵠の鳥」などとも書き、別名ニホンコウノトリとも言う。以下、ウィキの「コウノトリ」より引用する。『ヨーロッパではstorkといえばこれでなく、日本でいうシュバシコウ(英名:White stork)のほうを指す』とある。このシュバシコウ(朱嘴鸛)はコウノトリ属の一種Ciconia ciconiaで、和名は「赤い嘴のコウノトリ」の意味である。『全長約110115㎝、翼開長160200㎝、体重4~6㎏にもなる非常に大型の水鳥である。羽色は白と金属光沢のある黒、クチバシは黒味がかった濃い褐色。脚は赤く、目の周囲にも赤いアイリングがある』。『水辺に生息し、水棲動物を食べる大型の首の長い鳥という特徴は共通する。しかしコウノトリの大きさは、サギの最大種のアオサギと比べても明らかに大きい』。『分布域は東アジアに限られる。また、総数も推定2,0003,000羽と少なく、絶滅の危機にある。中国東北部(満州)地域やアムール・ウスリー地方で繁殖し、中国南部で越冬する。渡りの途中に少数が日本を通過することもある』。『成鳥になると鳴かなくなる。代わりに「クラッタリング」と呼ばれる行為が見受けられる。くちばしを叩き合わせるように激しく開閉して音を出す行動で、ディスプレイや仲間との合図に用いられる』。『主にザリガニなどの甲殻類やカエル、魚類を捕食する。ネズミなどの小型哺乳類を捕食することもある』。『主に樹上に雌雄で造巣する。1腹3―5個の卵を産み、抱卵期間は3034日である。抱卵、育雛は雌雄共同で行う。雛は、約5864日で巣立ちする』。『広義のコウノトリは、コウノトリ亜科に属する鳥類の総称である。ヨーロッパとアフリカ北部には、狭義のコウノトリの近縁種であるシュバシコウ Ciconia ciconiaが棲息している。羽色は似ているが、クチバシは赤。こちらは数十万羽と多く、安泰である。「コウノトリが赤ん坊を運んでくる」などの伝承は、シュバシコウについて語られたものである』。『しかし、シュバシコウとコウノトリとの間では2代雑種までできているので、両者を同一種とする意見も有力である。この場合は学名が、シュバシコウはCiconia ciconia ciconia、コウノトリはCiconia ciconia boycianaになる』。『日本列島にはかつて留鳥としてコウノトリが普通に棲息していたが、明治期以後の乱獲や巣を架ける木の伐採などにより棲息環境が悪化し、1956年には20羽にまで減少してしまった。そのため、コウノトリは同年に国の特別天然記念物に指定された。ちなみにこのコウノトリの減少の原因には化学農薬の使用や減反政策がよく取り上げられるが、日本で農薬の使用が一般的に行われるようになったのは1950年代以降、減反政策は1970年代以降の出来事であるため時間的にはどちらも主因と断定しにくく、複合的な原因により生活環境が失われたと考えられる』。『その後、1962年に「特別天然記念物コウノトリ管理団体」の指定を受けた兵庫県は1965年5月14日に豊岡市で一つがいを捕獲し、「コウノトリ飼育場」(現在の「兵庫県立コウノトリの郷公園附属飼育施設コウノトリ保護増殖センター」)で人工飼育を開始。また、同年には同県の県鳥に指定された。しかし、個体数は減り続け、1971年5月25日には豊岡市に残った国内最後の一羽である野生個体を保護するが、その後死亡。このため人工飼育以外のコウノトリは国内には皆無となり、さらには1986年2月28日に飼育していた最後の個体が死亡し、国内繁殖野生個体群は絶滅した。しかし、これ以降も不定期に渡来する複数のコウノトリが観察され続けており、なかには2002年に飛来して2007年に死亡するまで、豊岡市にとどまり続けた「ハチゴロウ」のような例もある』(以下、現在の人工繁殖及び再野生化の取り組みについて記載されているが割愛する)。

・「かゝりなば」の「ば」の右には、底本では『(んカ)』とある。この「かゝりなん」を採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鴻の巣を降ろしたがために危うく害に逢わんとせし事

 

 下谷に住む武家とも、また寺内のことにてとも聞く。まあ、話の出所は定かでは御座らぬ。

 召仕うて御座った中間、鴻(こうのとり)が御屋敷の庭樹の上に架けた巣を、邪魔ならんと降ろしたことが御座った。

 それから日の経たぬうち、この中間が庭で米を舂いて居ったところ、

――バッサバッサバサ!

と空より何か物音がし、それがまた、自分の真上へ落ち懸ってくる音がした故、吃驚仰天、泡を食って家の内へ飛び込んだところ、

――ビュウゥゥゥ~ン!

と鴻が一羽、急に舞い降りて参り、

――ズン!

とその嘴(くちばし)を、縁の柱へ三寸ばかり突っ込んで止まると、羽交いを波打たせて暴れ悶えて御座った。

 ――これ、察するに、鴻も畜生乍ら、巣を奪われ、子を失(うしの)うた仇(あだ)を報いんとしたものである。――

 ところが、かの男を突き殺そうとして、し損じた上に、その勢い余って柱へ嘴を突き立ててしまい、引き抜こうとしたが遂に叶わず――大勢集まって参った中間やら下男やらが散々に打ち殺したとか。――

――時に、かの男、真っ青になって、

「……い、い、今少し……に、に、逃ようの……遅かっ、かっ、かったら……こ、こ、この……す、す、鋭き、は、嘴(はし)……の、の、脳天……ぶ、ぶ、ぶ、ぶっすり…………」

と、舌を振わせて震え上がっておった、とのことで御座る。

 

 

 鳥類其物合ひを考る事

 

 有德院樣御代、熊鷹を獸にあわせ給ふ事有りしが、熊鷹その物合ひを考へし事感ずべしと古人の語りぬ。廣尾原にてありしや、飛鳥山にてありしや。狐一疋追出しけるに、熊鷹を合すべしとの上意也ければ、熊鷹は手に居へる事も成がたく、架(ほこ)に乘せてかの狐を合せけるに、狐を見たる計(ばかり)にて甚だ勢ひなく、狐の形チ見へざる程遠に迯延(にげのび)しにたたんともせざりしゆへ、公も本意(ほい)なく思召、御鷹匠(たかじやう)の類も殘念に見しに、最早狐見へざると思ふに、熊鷹翼を振つて虚空に空へ上りし。暫くありて一さんにおとし、貳拾町も隔候處にて右の狐を押へ取りけるとなり。勢ひの餘る處物合ひの近きをしりてかくありし。鳥類の智惠も怖しきもの也と咄しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関: 鳥類の習性(特にその特異な知的行動)で直連関。

・「鳥類其物合ひを考る事」「鳥類其物合(ものあ)ひを考(かんがう)る事」と読む。「其物合ひを考る」とは、獲物としての対象との距離を測る、慮(おもんぱか)るの意。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「熊鷹」タカ目タカ科クマタカ Spizaetus nipalensis。「角鷹」「鵰」などとも書く。以下、ウィキの「クマタカ」より引用する。『全長オス約75㎝、メス約80㎝。翼開長は約160㎝から170㎝。日本に分布するタカ科の構成種では大型であることが和名の由来(熊=大きく強い)。胸部から腹部にかけての羽毛は白く咽頭部から胸部にかけて縦縞や斑点、腹部には横斑がある。尾羽は長く幅があり、黒い横縞が入る。翼は幅広く、日本に生息するタカ科の大型種に比べると相対的に短い。これは障害物の多い森林内での飛翔に適している。翼の上部は灰褐色で、下部は白く黒い横縞が目立つ』。『頭部の羽毛は黒い。後頭部には白い羽毛が混じる冠羽をもつ。この冠羽が角のように見えることも和名の由来とされる。幼鳥の虹彩は褐色だが、成長に伴い黄色くなる』。『森林に生息する。飛翔の際にあまり羽ばたかず、大きく幅広い翼を生かして風を捕らえ旋回する(ソアリング)こともある。基本的には樹上で獲物が通りかかるのを待ち襲いかかる。獲物を捕らえる際には翼を畳み、目標をめがけて加速を付けて飛び込む。日本がクマタカの最北の分布域であり北海道から九州に留鳥として生息し、森林生態系の頂点に位置している。そのため「森の王者」とも呼ばれる。高木に木の枝を組み合わせた皿状の巣を作る』。『食性は動物食で森林内に生息する多種類の中・小動物を獲物とし、あまり特定の餌動物に依存していない。また森林に適応した短めの翼の機動力を生かした飛翔で、森林内でも狩りを行う』。『繁殖は1年あるいは隔年に1回で、通常1回につき1卵を産むが極稀に2卵産む。抱卵は主にメスが行い、オスは狩りを行う』。『従来、つがいはどちらかが死亡しない限り、一夫一妻が維持され続けると考えられてきたが、2009年に津軽ダムの工事に伴い設置された猛禽類検討委員会の観察により、それぞれ前年と別な個体と繁殖したつがいが確認され、離婚が生じることが知られるようになった』。『クマタカは森林性の猛禽類で調査が容易でないため、生態の詳細な報告は少ない。近年繁殖に成功するつがいの割合が急激に低下しており、絶滅の危機に瀕している』。『大型で攻撃性が強いため、かつて東北地方では飼いならして鷹狩りに用いられていた』。『クマタカは、「角鷹」と「熊鷹」と2通りの漢字表記事例がある。学術的には、学名(ラテン名)のみが種の名称の特定に用いられる。よって、学術的にどちらが「正しい」表記とはいえない。また歴史的・文学上では双方が使われてきており、どちらが「正しい」表記ともいえない。近年では、「熊鷹」と表記される辞書が多い。これは「角鷹」をそのままクマタカと読める人が少なくなったからであろう。ただし、鳥名辞典等学術目的で編集された文献では「角鷹」の表記のみである』。

・「廣尾原」現在の渋谷区麻布広尾町一帯の古称。但し、現在の港区に位置する広尾神社一帯もその地域に含まれる)。参照したKasumi Miyamura氏の「麻布細見」の「麻布広尾町」に、『この一帯は広尾原と呼ばれ、江戸初期までは荒野だった。延宝年間(16731681)頃になると、現在の有栖川宮記念公園の入り口あたりに百姓長屋ができており、それ以外は武家地と畑地になった。正徳31713)年に町方支配になった際に麻布広尾町と正式に称した。祥念寺前、鉄砲屋敷などの里俗称もあったという』とある。

・「飛鳥山」現・北区飛鳥山公園一帯の古称。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。山とは言うものの、丘といった風情で『「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(25.7メートル)よりも低い山ではないかとして、2006年に測量を行い、実際に愛宕山よりも低いことを確認したとしている』。因みに『北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが採択されなかった』とある。

・「架」台架(だいぼこ)。鷹匠波多野鷹(よう)氏の「放鷹道楽」の「鷹狩り用語集」によれば、鷹狩の際、野外で用いるための止り木のことを言う。狭義には丁字形のものは含まず、四角い枠状のものを指すという。高さ五尺二寸、冠木(かぶらぎ:架の上にある枠状の横木。)四尺三寸。野架(のぼこ)。ここでは出先で用いるとある陣架(じんぼこ)の類かも知れない。

・「御鷹匠」享保元(1716)年の吉宗の頃を例に取ると、鷹匠は若年寄支配、鷹部屋の中に鷹匠頭・鷹匠組頭2名・鷹匠16名・同見習6名・鷹匠同心50名の総員約150名弱(組が二つで鷹匠以下が2倍)で組織されていた(以上は小川治良氏のHP内「鷹狩行列の編成内容と、中原地区の取り組み方」を参照させて頂いた)。

・「貳拾町」約2㎞180m

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鳥類は獲物との間合いを慮るという事

 

 有徳院吉宗公の御代、上様が角鷹(くまたか)を獣狩りに用いられたことが御座ったが、角鷹は、その習性、獲物を襲うに間合いを慮りしこと、誠(まっこと)感嘆致いたことで御座ったと古老の語った話で御座る。

 広尾原にてことで御座ったか、それともかの飛鳥山にてのことで御座ったか、失念致いたが、駆り立てる者どもが、叢より狐を一匹追い出したところ、即座に、

「角鷹を合わせてみよ。」

との御上意、これ、御座った。

 元来が大きな角鷹なれば、手に居(す)えることもなり難く、台架(だいほこ)に乗せて、かの狐の方(かた)に向き合わたところ、狐を見ているばかりで、その体(てい)、これ如何にも勢いなく、あれよあれよと言う間に、狐は、その姿が見えなくなってしまう程に遠くに逃げのびてしもうたにも拘わらず、一向に台架より飛び立つ気配もなき故、吉宗公も如何にも拍子抜けのことと思し召しになられ、周りに控えて御座った御鷹匠の者どもも恐縮しつつ、畜生のことなれば、ただただ残念なることと、諦め顔にて見て御座ったところ――もう狐が見えなくなってしまうと思うた頃、突如、この角鷹、翼を振って虚空高々と登って御座った――と――暫くして、一さんに舞い降りて来る――吉宗公の、

「馬引け!」

の声高らかに、者どもも徒歩にて続いて走り寄れば――何と二十町も隔てて御座った所にて、熊鷹がかの狐を踏み押え獲って御座ったということで御座る。

 その体躯巨大にして、力も並外れし角鷹なればこそ――その勢いが余る故に、獲物との間合いが余りにも近いことを自ずから視認致いて、かくの如き、仕儀と相成ったので御座った。

 ――――――

「……たかが鳥類、されど鳥類……その知恵なるものも、これ、怖しきものにて御座る……」

とは、その古老のしみじみとした言葉で御座った。

 

 

 行脚の者異人の許に泊し事

 

 前々しるしぬる虚舟、上方筋行脚なしけるに、信濃美濃のあたりにてとある絶景の地に休らひ、懷中より矢立取出して短册に一句を印し居たりし後ろへ、年頃四十許(ばかり)にて大嶋の布子を着し、山刀さして頭巾を冠りける者立留りて虚舟に申けるは、御身は俳諧なし給ふと見へたり。今晩は行脚の御宿我等いたし可申間立寄給へとていざなひしかば、嬉しき事に思ひてかの者に連て行しに、道程三四里も山の奧へ伴ひ行て一ツの家あり。彼家へ伴ひしに妻子ありて家居も見苦しからず。然れ共あたりに人家なく誠に山中の一家なり。俳諧の事抔夜もすがら咄して麁飯(そはん)抔振廻ひける故、夜も更ぬれば一ト間成所に入て臥ぬ。いか成者や、狩人といへど鐵砲弓などの物も見えず。夜中は度々表の戸の出入多く、燒火(たきび)などしてあたり語るさま年老(としより)の者共見へず、不思議なる者と思ひぬる故夜もよく寢られざるが、程なく夜明ぬれば食事などして暇を乞、御身は何家業(わざ)なし給ふや又こそ尋(たづね)め、何村の内也と尋しに、しかじかの答もなさゞりしを考れば強盜にてもありしや。發句などを見せ物など讀み書などせしさま、むげに拙(つたな)き人とも見へず。翌日は返りして山の口元まで案内し立別れぬるが、今に不審はれずと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前項とは無縁乍ら、本文にもある通り、四項前の「其業其法にあらざれば事不調事」の話者虚舟の体験談で隔世連関。

・「虚舟」「其業其法にあらざれば事不調事」の同注参照のこと。

・「信濃美濃のあたりにてとある絶景の地」信濃国(現在の岐阜県南部)と美濃国(現在の長野県)の国境に近い景勝地となると、中山道沿いならば寝覚の床、やや離れるが木曽川の絶景としては国境に最も近い恵那峡が挙げられる。

・「大島」大島紬(つむぎ)のこと。絣(かすり)織りの紬。主に奄美大島で産したことからかく言う。手で紡いだ絹糸を泥染めし、それを手織り平織りにした絹布で縫製した和服を言う。

・「布子」現在は木綿の綿入れを言うが、古くは麻布の袷(あわせ)や綿入れを言った。ここでは後者であろう。

・「山刀」猟師や樵が山仕事に使用する鉈の一種。

・「燒火(たきび)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 旅致す者山中異人の家に泊まれる事

 

 四話前に記した虚舟が、上方の方へ旅致いた折りのことという。

 

……さても、信濃や美濃の辺りにて、とある絶景絶佳の渓谷景勝の地に休ろうて、徐ろに懐中より矢立を取り出だいて、短冊に発句なんど認(したた)めて御座ったところ……我らが背に、突然、年頃四十ばかりの、大島の布子を着て山刀(やまがたな)を腰に差し、頭巾を被った男が立ち現われ、声をかけて参ったので御座る。……

「……御身は俳諧をお嗜みになられると拝見致す。……さても、今宵の旅宿を我ら御世話致さんと存ずれば……どうか切に、お立ち寄りあられんことを……」

と誘われて御座ったれば、拙者も願ってもないことと喜んで、かの者に従って御座った。……

……ところが、その後、そうさ、かれこれ三、四里ばかりも山中深く分け入って御座ったろうか……へとへとになった頃、やっとこさ、草深きうちに一軒家が御座った。

 家内に誘われてみれば、妻子の出迎えあり、家居造作もこのような深山幽谷の内ながらも見苦しいものにてはこれなく、相応な構え。なれど、辺りには一軒の人家として、これなく、文字通り、山中の一つ家で御座った。……

……俳諧のことなんど、夜もすがら談笑の上、ささやかなれど食事も振舞って下され、夜も更けて御座ったれば、一と間なるところに導かれ、眠りに就いて御座った。……

……我ら、布団内にて思うたことは……

――この主人、一体、何者じゃろ?……自らは狩人と称したれど……鉄砲や弓なんどの一物も家内には、これ、見当たらなんだが――

と不審の種。……更に……

……すっかり夜更けてからも……度々表の戸から出入りする物音が致いて……ぱちぱちと木っ端の爆ぜる音……どうも、戸外にては大きなる焚き火を焚いて御座る様子……その焚き火にあたりながら、かの主人の誰やらと話す声が聞こえて御座った……が、その語り口は、さっきまで我らと語って御座ったのとはうって変わって、年老いた者とも思えぬきりりとした鋭い口調で御座った。……

――如何にも不思議な人物じゃ――

と思い始めて仕舞(しも)うた故……もう、目が冴えて仕舞いましての……その夜はよう寝られませなんだ。……

……程のう夜も明け、朝飯なんども戴き、改まって暇乞いの挨拶を致いた折り、思い切って、

「……御身は何を生業(なりわい)となさって御座らるるのか、の?……また、ここは、その、何という村内にて御座るのか、の?」

と尋ねてみましたが……

……どうも、口を濁して……はっきりとした答えは、これ、御座らなんだ。……そのことを考え合わせると……さても、あの男、盗賊の――その元締め――首領首魁にても……御座ったものでしょうか?……

……なれど、前夜、談笑の折りには、自作の発句なんども見せ……俳諧談義の内には、相応の書を語り、またものなど書きすさぶ様は……それ程にては賤しく忌まわしき人とも、これ、見えず御座ったが……

 

「……翌日、見送りに山の麓まで案内(あない)して下され、そこで立ち別れて御座ったれど……何やらん、今に至るまで……不審、これ、晴れませぬのじゃ…………」

と語って御座った。

 

 

 熊野浦鯨突の事

 

 紀州熊野浦は鯨の名産にて鯨よる事有所也。有德院樣いまだ紀州に入らせられ候折から、鯨突(くじらつき)のやう御覽ありたきとて御成の折から、其事被仰出けるに、或日御成の時、今日鯨寄り候とて鯨突御覺有べき由浦方より申上ければ、御機嫌にて則浦方へ被爲入候處、數百艘の舟に幟(のぼり)を立て追々に沖へ漕出で、一のもり二のもりともりを數十本投てザイをあげけるにぞ、鯨を突留たりと御近習の者も興じけるに、程無船々にて音頭をとり、唄をうたひて大繩を以て鯨を引寄けるに、何れも立寄見ければ鯨にはあらで古元船(ふるもとぶね)にて有し。其村浦の老(おとな)罷出申けるは、鯨の寄り候を見請(みうけ)御成を申上ては御働合ひ一時を爭ふものにて、とても其樣を御覺の樣には難成、これによりて御慰に鯨の突方を學び御覧に入し也。誠の鯨にても少しも違ひ候事は無之候由申上ければ、甚御機嫌宜しく御褒美被下けると也。右浦長(うらをさ)は才覺の者也と、紀州出生の老人かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。暴れん坊将軍吉宗逸話シリーズ。ここでは本邦の捕鯨が語られている。最初に断わっておくが、私は熱烈な捕鯨再開支持論の持ち主である。私は民俗文化の観点からも、また科学的論理的事実からも、管理された捕鯨の再開を支持する者として一家言ある。私が、反捕鯨の非論理性やその政治的な戦略性・背後の圧力団体・シンパ組織について熱く語り、クジラがアフリカの飢えた子供の命を救い得るという話をしたのを思い出す生徒諸君も多いであろう。しかし、余りにも甚だしい脱線となり、ここはそれを表明する場でもないから涙を呑んで諦める。その代わりとして、せめて日本の捕鯨文化についての比較的客観的な史料的事実だけはここに示しておきたい。例によってウィキの「日本の捕鯨」から大々的に引用(江戸期の歴史的記述まで)する。これは本邦の捕鯨文化を理解して戴きたい故である。ウィキの執筆者の方、お許しあれ。『日本では、8000年以上前から捕鯨が行われてきており、西洋の捕鯨とは別の独自の捕鯨技術を発展させてきた。江戸時代には、鯨組と呼ばれる大規模な捕鯨集団による組織的捕鯨が行われていた。明治時代には西洋式の捕鯨技術を導入し、遠くは南極海などの外洋にも進出して捕鯨を操業、ノルウェーやイギリスと並ぶ主要な近代捕鯨国の一つとなった。捕鯨の規制が強まった現在も、調査捕鯨を中心とした捕鯨を継続している』。『日本の捕鯨は、勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)と呼ばれ、古くから行われてきた。その歴史は、先史時代の捕鯨から、初期捕鯨時代(突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨)、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代へと分けることができる。かつては弓矢を利用した捕鯨が行われていたとする見解があったが、現在では否定されている』。『江戸時代の鯨組による網取式捕鯨を頂点に、日本独自の形態での捕鯨が発展してきた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨は日本各地で近年まで行われていた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨はイルカ追い込み漁など比較的小型の鯨類において現在も継続している地域もある。また、受動的捕鯨(座礁したクジラやイルカの利用)についても、一部地域では慣習(伝統文化)として食用利用する地域も残っている』。『日本における捕鯨の歴史は、縄文時代までさかのぼる。約8000年前の縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市の稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、簎(やす、矠とも表記)先の石器が出土していることや、約5000年前の縄文前期末から中期初頭には、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨の圧迫跡が存在する例が多数あり、これは脊椎骨を回転台として利用していたと見られている』。『弥生時代の捕鯨については、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡から出土した弥生時代中期の甕棺に捕鯨図らしき線刻のあるものが発見されており、韓国盤亀台の岩刻画にみられる先史時代捕鯨図との類似性もあることから、日本でも弥生時代に捕鯨が行われていた可能性が高いと考えられるようになった。原の辻遺跡では、弥生時代後期の出土品として、鯨の骨を用いた紡錘車や矢尻なども出土しており、さらに銛を打ち込まれた鯨と見られる線画が描かれた壷が発見された。もっとも、大型のクジラについては、入り江に迷い込んだ個体を舟で浜辺へと追い込むか、海岸に流れ着いた鯨』『を解体していたと見られている』。『北海道においても、イルカなどの小型のハクジラ類の骨が大量に出土している。6世紀から10世紀にかけて北海道東部からオホーツク海を中心に栄えたオホーツク文化圏でも捕鯨が行われていた。根室市で発見された鳥骨製の針入れには、舟から綱付きの離頭銛を鯨に打ち込む捕鯨の様子が描かれている。オホーツク文化における捕鯨は毎年鯨の回遊時期に組織的に行われていたと見られ、その影響を色濃く受けたアイヌの捕鯨は明治期に至るまで断続的に行われていたとされる。アイヌからの聞き取りによると、トリカブトから採取した毒を塗った銛を用いて南から北へと回遊する鯨を狙うという』。『鯨を捕らえることは数年に一度もないほどの稀な出来事であり、共同体全体で祭事が行われていたという』。『奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている』。『鎌倉時代の鎌倉由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことやクジラやイルカなどの海産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている』。『海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも12世紀には湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた』。以下、本話に現われる「突き取り式捕鯨時代」の記載(以下、記号の一部を変更し、一部表現が私の感覚では違和感があったので『 』外に出して手を加えた)。『突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある』。『「鯨記」(1764年・明和元年著)によれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたの1570年頃の三河国であり6~8艘の船団で行われていたとされる。16世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては、1561年に三好義長が邸宅において足利義輝に鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には1591年に土佐国の長宗我部元親が豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする』ところの習慣『的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心が1614年(慶長15年)に著したとされる「慶長見聞集」において「関東海にて鯨つく事」という一文があり文禄期(15921596年)に尾張地方から鯨の突き取り漁が伝わり、三浦地方で行われていたことが記述されている』。『戦国時代末期にはいると、捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする各地の水軍・海賊出身者たちであった。紀州熊野の太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、1606年(慶長11年)に、泉州堺(大阪府)の伊右衛門、尾州(愛知県)知多・師崎の伝次と共同で捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し突組と呼称された。この後、1618年(元和4年)忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照が尾州知多・小野浦の羽指(鯨突きの専門職)の与宗次を雇い入れてからは本格化し、これらの捕鯨技術は熊野地方の外、三陸海岸、安房沖、遠州灘、土佐湾、相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている』。『1677年に網取り式捕鯨が開発された後も突き取り式捕鯨を継続した地域(現在の千葉県勝浦など)もあり、また明治以降にも捕鯨を生業にしない漁業地において大型のクジラなどを突き取り式で捕獲した記録も残っている『1677年には、同じく太地浦の和田金右衛門頼照の次男、和田角右衛門頼治(後の太地角右衛門頼治)が、それまで捕獲困難だった座頭鯨を対象として苧麻(カラムシ)製の鯨網を考案、銛と併用する網掛け突き取り捕鯨法を開発した』。『さらに同時期には捕獲した鯨の両端に舟を挟む持双と称される鯨の輸送法も編み出され、これにより捕鯨の効率と安全性は飛躍的に向上した。「抵抗が激しく危険な親子鯨は捕らず、組織捕鯨は地域住民を含め莫大な経費のかかる産業であったため不漁のときは切迫し捕獲することもあった。「漁師達は非常に後悔した」という記述も残っており、道徳的な意味でも親子鯨の捕獲は避けられていた。もっとも、子鯨を死なない程度に傷つけることで親鯨を足止めし、まとめて捕獲する方法を「定法」として積極的に行っていたとの記録もある。」という解説もあるが、1791年五代目太地角右衛門頼徳の記録では「何鯨ニよらず子持鯨及見候得者、……もりを突また者網ニも懸ケ申候而取得申候」とあり、また太地鯨唄にも「掛けたや角右衛門様組よ、親も取り添え子も添えて」とあり、鯨の母性本能を利用した捕鯨を行っていた。当初は遊泳速度の遅いセミクジラやコククジラなどを』獲『っていたが、後にはマッコウクジラやザトウクジラなども対象となった。これらの技術的な発展により、紀州では「角右衛門組」鯨方の太地浦、紀州藩営鯨方の古座浦、新宮領主水野氏鯨方の三輪崎浦を中心として、捕鯨事業が繁栄することになった。土佐の安芸郡津呂浦においては多田五郎右衛門義平によって1624年には突き取り式捕鯨が開始されていたが、その嫡子、多田吉左衛門清平が紀州太地浦へと赴き、1683年に和田角右衛門頼治から網取り式捕鯨を習得している。この時、吉左衛門も鯨を仮死状態にする土佐の捕鯨技術を供与したことにより、より完成度の高い技術となり、太地浦では同年暮れより翌春までの数ヶ月間で96頭の鯨を捕獲した。西海地方においても同様に17世紀に紀州へと人を向かわせ、新技術を習得させている。この網取り式の広まりにより、捕獲容易なコククジラなどの資源が減少した後も、対象種を拡大することで捕鯨業を存続することができたとも言われる』。以下、「江戸時代の捕鯨産業」について。まず、「鯨の多様な用途」の項。『江戸時代の鯨は鯨油を灯火用の燃料に、その肉を食用とする他に、骨やヒゲは手工芸品の材料として用いられていた。1670年(寛文10年)に筑前で鯨油を使った害虫駆除法が発見されると』、『鯨油は除虫材としても用いられるようになった。天保三年に刊行された『鯨肉調味方』からは、ありとあらゆる部位が食用として用いられていたことが分かる。鯨肉と軟骨は食用に、ヒゲと歯は笄(こうがい)や櫛などの手工芸品に、毛は綱に、皮は膠に、血は薬に、脂肪は鯨油に、採油後の骨は砕いて肥料に、マッコウクジラの腸内でできる凝固物は竜涎香として香料に用いられた』。次に「組織捕鯨と産業」の項。本話の注として頗る有効。『江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれの藩による直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象はセミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を要したため、組織の維持・更新に困難が伴ったことも衰退に影響していると言われる』。次に「捕鯨を生業としない地域の紛争」の項。これも江戸時代の国内の事柄で、本話注として有効。『鯨組などによって組織捕鯨が産業化されたため流通、用途、消費形態などが確立されたことから以前より一層、鯨の価値が高まった。島しょ部性(面積あたりの海岸線延長の比率)の高い日本において捕鯨を行っていない海浜地区でも湾や浦に迷い込んだ鯨を追い込み漁による捕獲や、寄り鯨や流れ鯨による受動的捕鯨が多く発生するため、鯨がもたらす多大な恩恵から地域間の所有や役割分担による報酬をめぐって度々紛争になった。これを危惧した江戸幕府は「鯨定」という取り決めを作り、必ず奉行所などで役人の検分を受けた後、分配や払い下げを鯨定の取り決めにより行った』。最後に「捕鯨と文化」の項から引用して終える。『捕鯨活動に関連して、捕鯨従事者など特有の文化が生まれた例がある。日本では、捕鯨従事者を中心にその地域住民に捕鯨行為に対しての安全大漁祈願や、鯨に対する感謝や追悼の文化が各地に生まれた。「鯨一頭(匹)七浦賑わう(潤う)」という言葉に象徴され、普段、鯨漁を生業としない海浜地域において鯨を捕獲してその地域が大漁に沸いた事や鯨に対しての感謝や追悼を記念し後世に伝承していた例もある。ほか、鯨唄・鯨踊り・鯨絵巻など、鯨または捕鯨に関する歴史的な文化は多数存在する』。「信仰の対象として(鯨神社ほか)」の見出し部分。『日本の宗教観念では森羅万象を神とする考え方もあり、また人々の生活を維持してくれる作物や獲物に対して、感謝をする習慣があり、鯨墓、鯨塚などが日本各地に建立されている』。『日本各地に鯨に纏わる神社(俗称として鯨神社)がある。多くは鯨の遺骸の一部(骨など)が御神体になっていたり、捕鯨行為自体を神事としている神社などがある。なかには鯨のあご骨でできた鳥居を持つ神社もある』。『日本各地に鯨を供養した寺があり、俗称として鯨寺と呼ばれているものもある。多くは鯨の墓や戒名を付けたりなどしているが、鯨の過去帳を詳細に記述している寺などがある。なかには鯨観音とよばれる観音をもつ寺もある』。そもそもクジラを殺すことを野蛮とし乍ら牛を屠殺し食い続けてきた文化と、獣肉食を永く忌避し乍ら海を血に染めて鯨肉を喰らってきた文化に本質的な倫理的優劣などない。今あるのは前者が後者を絶対的に差別し蔑視し、非人道と言う如何にも怪しげなスローガンでそれを駆逐しようとする前者の側からの相対的な見かけの勾配があるだけである。

・「熊野浦」:紀伊半島南東岸沖合一帯の海域を熊野灘と呼称するが、その沿岸部を熊野浦と呼ぶ。以下、ウィキの「熊野灘」(「熊野浦」ではない点に注意してお読み頂きたい)から一部を引用しておく。『熊野灘は、フィリピン海(北西太平洋)のうち、日本の紀伊半島南端の和歌山県の潮岬から三重県大王崎にかけての海域の名称』。『沿岸はリアス式海岸が目立ち岩礁・暗礁が多い一方で天然の良港も多く、帆船の時代には風待港がない遠州灘と比べれば航海は楽であったという。遠州灘・相模灘とあわせて江戸と上方を結ぶ海の東海道となり、河村瑞賢が西廻り航路を開いてからはさらに多くの廻船で賑わった』。『沿岸の郷土料理には、めはりずし、秋刀魚寿司、なれずしなどがあり、熊野市・志摩市などに複数のダイダラボッチ伝承が伝わる。古式捕鯨の行われていた地域の一つで、太地町には捕鯨基地がある。また、潮岬以東の熊野灘沖では度々黒潮蛇行が発生する』。『尾鷲以北はリアス式海岸、熊野市から新宮までは礫からなる直線的な海岸(七里御浜海岸・三輪崎海岸)を持つ。更に、那智勝浦以南には奇岩が見られる。串本の橋杭岩や、那智勝浦の紀の松島などがそれにあたる。熊野市にも一部奇岩が見られる(例:鬼ヶ城、獅子岩など)』。『沖合いは水深2000m程度で、平坦になっている』。『熊野灘は黒潮が流れ、漁場のひとつとなっている。明治時代までは黒潮を回遊するカツオの大群が沿岸近くまでやって来ており、八丁櫓船などの手漕ぎ船でのカツオ漁が盛んであったが、沿岸近くのカツオの減少、漁船の動力化などにより遠洋化が進んだ』。『太地町は捕鯨の町として知られる。捕鯨問題によって大規模な捕鯨が禁じられている現在も調査捕鯨の船舶が寄航する。また町内にはくじらの博物館があるほか、鯨料理を出す飲食店が多い』。『那智勝浦は西日本を代表するマグロ水揚げ基地であり、本マグロをはじめ様々なマグロが水揚げ・取引されている。また、「まぐろ祭り」も開催されている』。『サンマ漁も行われている。しかし三陸沖から泳いできたサンマは脂がほとんど乗っていないため、おもに寿司や刺身用となる』。『熊野灘は1944年の東南海地震など、約150年の周期で繰り返し発生しているプレート境界地震の震源域にあたる。過去の災害ではとくに津波の被害が甚大である。また、台風銀座でもあり、伊勢湾台風を初めとして何度も台風の被害に見舞われている』とある。これで沿岸の「熊野浦」は凡そイメージ出来るものと思われるが、蛇足で付け加えるなら、私は熊野浦と言えば那智勝浦、那智勝浦と言えば補陀洛山寺――捨身行補陀洛渡海(ふだらくとかい:生身の観音を拝まんがために舟に乗り、南方にあるとする補陀洛浄土を目指して小舟で旅立つ行。)を思い出さずにはいられない。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「御覺」貴人の信望・寵愛の意から、熱望・所望されていたこと、の意。

・「ザイ」采配(「采幣」とも書く)。紙の幣(しで)の一種。戦場で大将が手に持って士卒を指揮するのに振った武具。厚紙を細長く切って作った総(ふさ)を木や竹製の持ち柄に飾り付けたもの。色は白・朱・金・銀など様々。

・「學び」真似をするの意。元来、「学ぶ」の語源は「真似ぶ」である。

・「浦長」所謂、網元。現在で言う漁労長に相当。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 熊野浦の鯨突きの事

 

 紀州熊野浦は鯨が名産で、また、よく鯨が沿岸に寄り来ることで知られる。

 有徳院吉宗公が未だ紀州に御在国であらせられた頃のこと、鯨突きの様を是非とも見たいと、かねてよりの御意にて、熊野浦方へ御成りの折り毎、度々その旨、仰せらて御座った。

 ある日のこと、やはり熊野浦御成りの際、

「今日、鯨が寄って御座りまするとのこと。御所望の儀、どうぞ、ごゆるりと御覧下さりませ。」

と浦方の役人が申し上げたので、吉宗公は、もう少年のように上機嫌におなりになられ、やおらとある浦辺へとお入りになられた――

――と同時に――

――数百艘の舟が色鮮やかな幟を立て……

――どんど! どんど!

――沖へ! 沖へ!

――と、次々に漕ぎ出で……

――びゅっ! びゅっ!

――一の銛(もり)! 二の銛!

――と、数十本の銛が投げられ……

――遂に!

――ざっ!

と、漁場の組頭の持った采配が挙がった!

「おおっ! 鯨を仕留めよった!」

と吉宗公の御近習の者どもも、思わず、どよめいて声を挙げる。

 程なくおのおの舟が音頭をとり、唄を歌って大縄を以って鯨を岸辺に引き寄せる。

――吉宗公はもとよりお付きの者どもも一人残らず、思わず駆け寄って見る……

……と……

――陸揚げされたは……

――鯨――ではのうて……

――上を鯨に似せて覆った古き廃船にて御座った。……

 そこへその浦方の村の老浦長(うらおさ)がさっと罷り出で参り、

「……お畏れながら……鯨突きの儀、その漁の勝負は、組一丸となっての大働きにて、ほんの一時をも争うものに御座いまする。……鯨が寄って参りますのを見つけましてから、お殿さまへ御成りの儀申し上げましたのでは、これ、とても、ご覧頂くこと、叶いませぬ。……そこで、古舟を鯨に見立てまして、せめてものお殿さまのお慰みにと、鯨の突き方を真似てご覧に入れたという……次第にて御座いまする。……但し、真実(まこと)の鯨にても、これと寸分違い御座らぬことは、これ、請け合いまして御座いまする。……」

と吉宗公に申し上げたという。

 これを聞いて上様、殊の外お喜びになられ、また、浦人一人ひとりに、御(おん)褒美を下賜されたとのことで御座った。

「……いや! この浦長、真実(まっこと)、才覚の者にて御座った!――」

とは、紀州出の知れる老人が、己が誉れでも自慢するかのように、楽しげに語った話で御座る。

 

 

 任俠人心取別段の事

 

 椛町(かうぢまち)に何某といへる、處の親分と唱ふる者あり。年も五十餘にて小さき男成が、椛町十三町は勿論、芝邊迄の男立る若者共は、其健男(をとこだて)をしたひ尊(たつと)びける。然るに神田下町の者どもは、山の手組とて椛町の邊をばいやしみ別格の仲間也し。或時山王祭禮の時、祭禮の屋台藝者の乘りしを所望なしても、下町の組の分は取合ず、等閑(いたづら)也とて若き者共腹立て、當年は是非所望なして藝をせずば仕方ありといひけるを、彼老夫聞て、さありては口論喧嘩をなすより外の事なし。我等に任せよ仕方ありとて、祭禮の當日町の木戸口に出で下町の祭り渡り懸りし時、藝を所の衆所望也學び見せ給へと所望なしければ、例の通等閑の挨拶也ければ、我等今日は申出ぬれば是非所望也。左なくば此道通しがたしといひければ、下町の者共も、老人のいらざる事也、天下の往還御身壹人留め給ふとて通らぬ譯やあるなど申ければ、然るうへは仕方なし、此上を通りて我を車にかけて引殺し通るべしと、木戸の眞中に仰向に臥したり。色々引除(ひきのぞき)なんとしけれ共曾て承知せず。依之(これにより)下町組よりもおとなしき者出て、老仁の好み藝をなし候へとて、逸々(いちいち)に其藝を施し通りけると也。死を先にするものには仕方なからん、かゝる老健(おいだて)もある者と語り笑ひぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:老練の智者の才覚で連関。「木戸の眞中に仰向に臥した」る姿の鯨の如き鯨風ならぬ芸風にてもイメージ直連関!

・「心取」辞書には、機嫌をとる、ご機嫌取りのこととあるが、根岸の場合、所謂、深謀遠慮によって、人の心を素早く正確に読み取り、それに最も最適の行動をいち早くとれることに用いることが多い。ここはそこまで大仰に言わずとも、企略ぐらいな意味でよいと思われる。

・「椛町」「椛町十三町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の他の話柄の長谷川氏注を加味して作成した)。

・「芝」現在の東京都港区東部の地名。JR田町駅及び地下鉄三田駅を中心とした一帯。麹町からは南方に有に2~3㎞以上隔たっている。

・「山の手組」江戸時代の御府内にあって江戸城近辺の高台の、主に武家が居住した地域を「山の手」と呼び、低地に広がった商工業を中心とする典型的な町人が居住した町を「下町」と呼んだ。代表的な山の手は番町・麹町・平河町・市谷・牛込・四谷・赤坂・麻布・本郷・小石川などで、逆に下町の方は日本橋・京橋・芝・神田・下谷・浅草・深川・本所など。

・「山王祭禮」山王祭。東京都千代田区にある正式名称日枝神社大祭の通称。以下、ウィキの「山王祭」から引用する。『毎年6月15日に行われており、天下祭の一つ、神田祭、深川祭と並んで江戸三大祭の一つとされている』。『日枝神社は既に南北朝時代から存在したとも言われているが、太田道灌によって江戸城内に移築され、更に江戸幕府成立後に再び城外に移されたといわれている。とはいえ、同社が江戸城及び徳川将軍家の産土神と考えられるようになり、その祭礼にも保護が加えられるようになった』。『元和元年(1615年、寛永12年(1635年)とする異説もある)には、祭の山車や神輿が江戸城内に入る事が許され、将軍の上覧を許されるようになった。天和元年(1681年)以後には、神田明神の神田祭と交互に隔年で行われる事になった』。『江戸の町の守護神であった神田明神に対して日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、幕府の保護が手厚く、祭礼の祭には将軍の名代が派遣されたり、祭祀に必要な調度品の費用や人員が幕府から出される(助成金の交付・大名旗本の動員)一方で、行列の集合から経路、解散までの順序が厳しく定められていた。それでも最盛期には神輿3基、山車60台という大行列となった。また、後に祇園会と混同されて、江戸を代表する夏祭りとして扱われるようになった』。『そんな、山王祭も天保の改革の倹約令の対象となって以後衰微し、文久2年(1862年)の祭を最後に将軍(家茂・慶喜)が上方に滞在し続けたまま江戸幕府は滅亡を迎えたために天下祭としての意義を失った。続いて明治22年(1889年)を最後に市街電車の架線によって山車の運行が不可能となった。更に太平洋戦争の空襲によって神社が焼失し、昭和27年(1952年)まで中断されるなど、苦難の道を歩む事になりながらも今日まで継続されている』。現在の『大祭は神田祭と交互で毎年西暦偶数年に行われる。内容は神田祭と類似する』とある。冒頭の『6月15日に行われており』という記載と一見矛盾しているように見えるが、これは神田祭のある年には神幸(しんこう:神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移したものを地域の氏子内への行幸や元宮への渡御などを行うことを言う。)を出さない陰祭(かげまつり)が行われているからである。この件で参照した「日本大百科全書」(小学館)には更に現在は『3基の本社神輿が茅場町の御旅所へ神幸する形式だが、もとこれに供奉して江戸末期には60基を超えた山車・練物も、たび重なる震災・戦災でほぼ消失し、現在では多数の町神輿主体の祭礼に変化している』とあり、この記載で往時の盛況が分かる。根岸の時代には既に隔年開催になっていたから、本話柄の前の年かこの年かのどちらかは大祭ではなかった。

・「藝者」これは芸妓の意味ではなく、広く音曲歌舞に優れた芸人の意。山車(だし)に載る音曲をこととする男のことを指して言っているものと思われる。

・「木戸」江戸のそれぞれの町々には出入り口があり、そこに木戸が設けられて、治安のため、夜は木戸の傍の番小屋にいる木戸番(「番太郎」又は「番太」と呼ばれ、通常は2名、老人が多かった)によって夜の四ツ時(午後10時頃)には閉じられた。原則、通行禁止であったが、時間外で通過するための潜り戸が附属しており、医師や取り上げ婆などはそのまま、他の者も木戸番に一声かければ通行出来た。実際には木戸番自体の勤務がルーズで熱心でなく、セキュリティとしての機能は必ずしも高いものではなかった。なお、それぞれの町の中の各長屋にも、通常は私的な木戸が設置されていた。

・「逸々(いちいち)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 男っぷり良き任俠はその企略も格別なる事

 

 麹町に、町内(まちうち)の町人どもから『親分』と呼ばれておった、何某という者が御座った。

 年はそう、五十余りにて、見た目はただの小男ながら、『親分』の呼び声は麹町全十三町は勿論のこと、遠く芝の辺りにまで名を轟かせ、それらの町々の男ぷりを気取る若造どもから大いに慕われ、絶大なる尊敬を集めて御座った。

 さて片や、神田下町の町人どもは、この麹町辺の者どもを称すに、『山の手組』と言うて、殊の外に賤しみ、己れらを正真正銘の江戸っ子、『山の手組』の町人どもは山の手なれど江戸っ子の風上にも置けない弱尻りの別格よ、と見下して御座った。

 ある年の山王祭りでのこと、山車(だし)が麹町まで回って来た際、その山車に乗って音曲を披露するところの芸人――これは当然、氏子であった下町の者らから出て御座ったが――に、麹町の見物の町人が芸を所望致いた。

 ところが、山車の内の下町の者どもは皆、これを無視して取り合わず、そのまま行過ぎてしまった。

「あんまりじゃねえか!!」

麹町の若者ども、以ての外に腹を立てた。

 その翌年、例祭が近づくにつれ、

「今年は是が非でも所望の上、音曲をやらせるぜ!」

「おう! それでもやらねえとなりゃよ、こっちとら、黙っちゃいねえさ!!」

と口々に憤懣をぶち上げる。

 と、これを聞いた、かの老親分、

「――て前(めえ)ら、そんな勢いじゃ、口論喧嘩になるほか、あるめえ。――どうでえ、一つ、俺に任せろや。――俺に考(かんげ)えがある……。」

と言う。流石に親分の言葉なれば、若い衆も従(したご)うた。

 さても祭礼の当日、老爺は麹町の木戸口に出でて、神田下町の山車が渡りかかるのを待って、やおら声をかけた。

「――所の衆、芸を所望致いておる。――一つ、ご披露頂きとう御座る。――」

と丁重に所望致いたが、例の通り、下町の奴(きゃつ)ら、

「厭なこった。」

と応対も如何にもぞんざい、けんもほろろ。

……と……

「……俺が――見たいと申して――おる。……さもなくば、この道――通せねえ、な。」

と妙に静かに言うたが、売り言葉に買い言葉で、下町の者どもも、

「爺(じじい)は、すっ込んでろい! 天下の大道、お前(めえ)さん一人がとうせんぼなさったからって、よ、通れねんなんてことが、あろうはず――えへへ! これ、ありんせんヨ!」

などとちゃかして応ずる。

……すると……

「……そうかい……そうまで言うかい――じゃ、仕方がねえ。――この上通って行ってくんな!――おう! この俺を車に轢(ひっか)け、轢き殺して通るがいい!――」

と言うや、老爺、往来の、その木戸の、まさにそのど真ん中に両手足をぴんと伸ばして仰向けになって寝転がって御座った。

 これを見た下町の者ども、何人もが寄ってたかって、無理矢理起こそうとしたり、引き除けようとしたり、色々試みて御座ったれど、これがまあ、いっかな、動かぬ!――嚇したり賺(すか)したり致いて御座ったが、これ、承知せず、何としても動かぬ!――

 山車もだんまり――爺もだんまり――これじゃあ、目出度い祭りも形(かた)なし……ということで、神田下町衆からも、かの老爺と年相応の者が山車の前に出でて、

「……かの親爺殿のお好みじゃ……芸を御披露申し上げい!」

と命じる。

 かくして、麹町十三町を通り抜くるに、神田下町の山車から、いちいちの町々にて芸を披露しつつ、通り抜けて御座ったとのことである。

 棺桶に片脚突っ込んだよな爺(じじい)――これは、失言!――命を捨つる剛毅の者をば、我ら、相手には、これ、出来申さざるものなれば、かくも老いてますます剛健の男伊達もある者じゃ、と世間にても談笑の語り草ともなって御座ったよ。

 

 

 信心に寄りて危難を免し由の事

 

 予が許へ來る與住(よずみ)某がかたりけるは、餘りに信心にて佛神に寄歸(きき)せんは愚かに思るゝ事也。しかし一途に寄皈(きき)する所には奇特もあるもの也。與住の知れる者、常に法華を讀誦し或は書寫なしけるに、辰年の大火に淺草に住ひて燒ぬる故、淸水寺(せいすいじ)の觀音迄迯(にげ)しに、前後を火につゝまれすべき樣なく、新堀といへる川の端に立しが、煙強く遁れがたく苦しみけるが、壹人の僧來て、少しの内此内に入りてまぬがれべしとて、佛像をとりのけて厨子計(ばかり)あるを教へ、懷中より握飯など出しあたへける故、忝(かたじけな)しとて彼厨子の内へ入りて煙りを凌ぎ、右飯にて飢をも助りしが、火も燒通りし故右厨子の内を出て、知れる人の許へ立退し由語りける。一心に信仰なす所には奇特もあるもの也と語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。神道好き根岸にしては珍しい観世音霊験譚である(少なくとも、として話者である与住は語っているというべきか)。

・「與住」底本の卷之一「人の精力しるしある事」に初出する人物。そこの鈴木氏注に『与住玄卓。根岸家の親類筋で出入りの町医師。』とある。他にも「巻之五」の「奇藥ある事」や「巻之九」の「浮腫妙藥の事」等にも多数回登場する医師に知人の多い中でも根岸一番のニュース・ソースの一人。

・「寄歸」「寄皈」何れも帰依に同じ。

・「法華経」の中でもよく知られるのが「観世音菩薩普門品第二十五」(「観音経」)で、そこでは衆生はあらゆる苦難に際して、観世音菩薩の広大無辺な慈悲心を信じ、その名前を唱えるならば、必ず観音がその世の衆生の声(音)を聞き観じて救済して下さると讃えている。

・「辰年の大火」江戸三大大火の一つである明和の大火のこと。明和9(1772)年壬辰(みずのえたつ)の2月29日午後1時頃、目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火(放火による)、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅』、『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、死者数14700人、行方不明者数4060人(引用はウィキの「明和の大火」からであるが、最後の死者及び行方不明者数はウィキの「江戸の火事」の方の数値を採用した)。因みに明和9(1772)年は、この大火もあり、「迷惑年」の語呂が悪いことから、1116日に安永元年に改元している。

・「清水寺」江北山宝聚院清水寺。東京都台東区松が谷二丁目(かっぱ橋道具街入り口四つ角の西南の角で東本願寺裏手の西北約200m上流の新堀川沿い)に現存。天台宗。本尊千手千眼観世音菩薩。清水寺オフィッシャル・サイトによれば創建は淳和天皇の天長6(829)年とする。同年、『天下に疫病が大流行すると、わがことのように悲しまれた天皇は、天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主であられた慈覚大師』円仁『に疫病退散の祈願をご下命』、『慈覚大師は、京都東山の清水寺の観音さまにならって、みずから一刀三礼して千手観音一体を刻まれ、武蔵国江戸平河、今の千代田区平河の地に当寺を開いておまつりしたので、さしもの疫病の猛威もたちどころにおさまった』。その後の『慶長年中、慶円法印が比叡山正覚院の探題豪感 僧正の協力を得て中興され、徳川家康の入府で江戸城の修築のため馬喰町に移り、さらに明暦3年(1657)の振袖火事の後、現在地に再興された』とある。江戸三十三箇所(元禄年間に配された江戸の観音霊場巡礼寺院群)の一つ。

・「新堀といへる川」新堀川。現在の台東区にある東本願寺の西脇を南北に流れていた川。新堀通りに沿って南下して鳥越川と合流しているが、現在は両河川共に暗渠となっている。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠心の信心を寄せたによって危難を免れた稀有の一件に就いての事

 

 私のもとへしばしば訪れる医師与住玄卓が語った話で御座る。

「……余りにも信心が昂じ、仏神に無闇に帰依せんとすることは、愚かなことと拙者は思うて御座る。……ところが、一途に帰依する折りには、時には不可思議なることも、これ御座る。……

 拙者の知れる者に、常に法華経を読誦し、写経なんど致いて御座った者がおりまするが、かの壬辰(みずのえたつ)の明和の大火の際、浅草の住まいにて被災致し、清水寺(せいすいじ)の観音まで逃げのびたものの、行路の前後を炎に包まれてしまい、為すこともなく、呆然とかの地の新堀という川っ端(ぱた)に立ち尽くして御座った。

 やがてじりじりと火も近づき、黒々とした煙が朦々と立ち込めて参って、

『……最早、遁れ難し、万事窮すか……』

と、煙りのため、激しく咳き込み、苦しんで御座った。

……と……

そこへ、一人の僧が現れて御座った。

「――少しの間、この内に入(い)って、火を免るるがよい――」

と、傍らにあった厨子を指さして導く。

……それは清水寺本尊千手観音菩薩のものでも御座ったか――本尊観世音尊像は火難からお救い申し上げるために既に取り除けた後と思しい――空の厨子ばかりになって御座ったものとか申しまする……

 そうして、そればかりか、この僧、懐より握り飯などまで出だいて、恵んで下さったれば、男は、

「忝(かたじけな)い!」

と一声叫ぶが早いか、ただもう切羽詰ってからに、今は己れの身の上とばかり、無我夢中で厨子に飛び入り、扉を閉じて籠もって御座った。

 その内にて――火煙りを凌ぎつつ、貰(もろ)うた握り飯にて飢えをも凌いで御座った。

 さても――やがて辺りの火も下火となり、扉を開いて覗いて見れば、辺り一面、焼け野原になって、火も既に焼け通って御座ったれば、厨子の内を出で、知れる者のもとへと逃げのびること、これ、出来て御座ったと申す。

 ……さても、かくの如く、一心に信仰なす誠心、これあらば――凡夫なる我らなれども――摩訶不思議なることも、これあると存ずる……。」

 

 

  狐附奇異をかたりし事

 

 元本所に住居せし人の語りけるは、本所割下水に住居せし比(ころ)、隣なる女子に狐付て色々成る事ありし。日々行て見しに、彼狐附、隣の垣風もふかざるに倒れしを見て、あの家には小兒病死せん抔言ひ、或は木の葉の枯れしを見、何の事有、竿の倒るゝを見て、あの主人かゝる事有といひしに、果して違はざりしかば、いか成事やと尋ねしに、彼女答へて、都(すべ)て家々に守(もる)神有、信ずる處の佛神ありて吉凶共に物に托ししらせ給ふ事なれど、俗眼には是を知らざる事有と言し。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:観世音霊験譚から狐憑きの霊言譚で連関。但し、ここでは根岸は、やや猜疑を持って記述しているものと思われ、私はそっけない表現に批判的なニュアンスを感じる。この程度の『予言』は事情通(噂好き)の者であれば、容易に為し得ることである。卷之二「池尻村の女召仕ふ間敷事」や、それに関わって私がテクスト化した南方熊楠の「池袋の石打ち」等、思春期に現われがちな似非『超能力』、宮城音弥にならって言えば、根岸の嫌悪する意識的若しくは無意識的詐欺の騙り霊媒師シリーズの一つでもある。

・「狐附奇異をかたりし事」底本ではこの標題の下に編者鈴木氏による『(底本ニハコノ一條目次ニアツテ本文ヲ欠ク。尊經閣本ニヨリ補フ。)』との割注がある。

・「本所割下水」「割下水」は一般名詞としては、木枠などを施さず、ただ地面を掘り割っただけの下水の意。ただ「割下水」だけでも、本話柄に現れる江戸から大正(関東大震災頃)まで現在の墨田区本所にあった南北二つの掘割(南の方は御竹蔵まで延びて北よりも有意に長い。何れも東の半ばで横川と交差し、横川町では更にその東端が横十間川に合流している)を呼ぶ固有地名としても通用した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐憑きの者奇異なることを語った事

 

 以前に本所に住んでおった者が語った話。

……我ら、本所割下水に住んで御座った頃のこと、ある時、隣家の娘に狐が憑き申し、いろいろ奇妙なことが御座った。我らも暇に任せ、毎日のように様子を見に参りましたが、この狐憑き、例えば、

――隣の垣根が風も吹かぬにぱたりと倒るるを見ては……

「……アノ家ニテハ近々小児病死致サンゾ……」

なんどと言い、或いは、

――庭の木の葉がいきなり枯れたるを見ては……

「……今ニモコレコレノ事コレ起コル……」

と称え、

――庭の隅に立て掛けて御座った竿が、ある近隣の宅地の方(かた)を向きて、ふと倒るるを見ては――

「……カノ家ノ主人(あるじ)ニ於キテハカクカクノ一件コレ生ゼン……」

なんどと口走る……。

 しかし、それがまた、果して総て……言うに相違のう、起こって御座れば、我らも少なからず吃驚り致いて、

「これは、如何なることじゃ?」

と試みに娘――基、娘に憑いた狐――に訊いてみたので御座る。すると、

「……総テ何処(いずれ)ノ家ニテモ……夫々ナル守リ神コレ有リ……信ズル処ノ仏神コレ有リ……ソレ等ノ仏神ハ吉凶何レナルトモ……必ズコノ世ノ事物ニ託シ……我等ニ知ラセントナサレシ事ナレド……俗物ガ眼ニテハコレ……分カラザル事コレ有リ……」

とほざきまして御座る……。

 

 

 大人の食味不尋常の事

 

 松平康福(やすよし)公へ菓子を進じけるに、或る人語りて、慶福公は菓子他制(たせい)を用ひ給はず、臺所にて仕立ざるは奇(ふしぎ)に知り給ふ由かたりぬ。夫より家來に賴みて菓子抔進じけるに、藤堂和泉守蚫(あはび)を好みて給(たべ)られけるに、或日諸侯共咄を聞て招請の折から、和泉守へ蚫を饗應ありしが、少し計(ばかり)給べて強て代(かはり)の沙汰もなかりき。依之饗應濟て、其料理人より和泉守勝手方へ、大守は蚫御好の由にて、主人心を用ひ申付られし饗應を多くも召上られざるは、いか成いわれなるやと尋ければ、彼勝手方答て、主人の料理は仕立かた大きに(こと)異也といひし故、其譯主人に語りければ、又泉州を招きて、此度は泉州の料理人を賴み料理なせしに、彼料理人來りて蚫數十はいを受て、其内にて三四はいを撰(えら)みて、右蚫の眞中を二つ切(きれ)程切りて跡を捨たり。然るに和泉守これを食味して、格別の風味御馳走の由、あくまで賞美ありしと也。大家の口中自然(おのづ)とかくも有ものやと、何れも驚歎せしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。こういうグルメ話は「耳嚢」には意外に少ない。――質素倹約を旨とした古武士根岸鎭衞にして、当然のことであった。

・「大人」は「うし」又は「たいじん」と読む。領主や主人、広く貴人の尊称である。身分や位が高く禄の多い人を言う「大身」(たいしん)と結果的に同義語であるから、訳ではこちらを用いた。また、この話柄、明らかに「夫より家來に賴みて菓子抔進じけるに」の部分で切れている。そのように現代語訳ではした。

・「松平康福」お洒落な狂歌をひねる卷之一「松平康福公狂歌の事に既出の、本話柄を読んでもちょいと変わった面白い殿様であったことが窺われる人物である。松平康福(享保4(1719)年~寛政元(1789)年)は石見浜田藩藩主から下総古河藩藩主・三河岡崎藩藩主を経、再度、石見浜田藩藩主となっている。幕府老中及び老中首座。官位は周防守、侍従。幕府では奏者番・寺社奉行・大坂城代を歴任、老中に抜擢された。天明元年の老中首座松平輝高が在任のまま死去、その後を受けて老中首座となっている。参照したウィキの「松平康福」によれば、『天明6年(1786年)の田沼意次失脚後も松平定信の老中就任や寛政の改革に最後まで抵抗したが、天明8年(1788年)4月3日に免職され』たとある。

・「藤堂和泉守」藤堂高豊(たかとよ)、後に改名して藤堂高朗(たかほら 享保2(1717)年~天明5(1785)年)は伊勢国津藩支藩久居(ひさい)藩第5代藩主、後、津藩第7代藩主。藤堂家宗家7代。官位は従四位下和泉守。以下、ウィキの「藤堂高朗」は『父藤堂高武の死後、その家督と7000石を継いでいたが、享保11年(1726年)に、当時久居藩主であった藤堂高治の養嗣子となる。享保13年(1728年)、高治が本家の津藩を継承することとなったため、その後を受けて久居藩主となった。ところが享保20年(1735年)、今度は本家の津藩主となっていた高治が病に倒れたため、再び高治の養嗣子となって津藩の家督を継ぎ、津藩主となった。久居藩主は弟の藤堂高雅が継いだ』。『藩政においては幕府の歓心を得るために、自ら指揮して日光東照宮の修補造営に努めたが、この出費により24万両もの借金を作ってしまった。さらに文学を奨励したため、儒学は発展したが、高朗自身が奢侈に走ったため、士風などが緩んだ。明和6年(1769年)2月9日、病を理由に四男の高悠に家督を譲って隠居し、天明5年4月7日(1785年5月15日)に69歳で死去した』とある。勿論、本話柄は津藩主となってからの話。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから隠居直前の頃か。歓心に借金に豪奢……こんなアワビの食い方してちゃ……さもあらん。

・「蚫」腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotisアワビ(鮑)。アワビ自体がミミガイ科 Haliotidae のアワビ属 Haliotis の総称であるので、国産9種でも食用種のクロアワビ Haliotis discus discus ・メガイアワビ Haliotis gigantea ・マダカアワビ Haliotis madaka ・エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)・トコブシHaliotis diversicolor aquatilis ・ミミガイ Haliotis asinina が挙げられる。但し、グルメの藤堂和泉守が食するとなれば、これはもう最高級種であるクロアワビであろう。棲息域は茨城県以南から九州沿岸で、藤堂和泉守の支配した伊勢国津藩は現在の三重県津市に相当し、ここはリアス式海岸が発達して岩礁域が広がる好漁場で、海女漁の伝統が根付く鳥羽・志摩にも近い。現代でも三重県はアワビ漁獲量・生産額共に全国第10位内に入る。また、藤堂和泉守が命じていると思われる薄く削ぐ調理法は、アワビの肉を外側から薄く長く剥ぎ取って乾燥して伸す、所謂「熨斗(のし)アワビ」を連想させるが、現在でも全国で唯一、神宮奉納用神饌熨斗鮑を作るところの神宮司庁所管の御料鰒調整所が三重県鳥羽市国崎にあることなどと合わせて考えると興味深い。その他、私の語りたい博物学的な知見は是非、私の電子テクスト「和漢三才圖會 介貝部 四十七 寺島良安」の冒頭を飾る「鰒(あはひ)」の注などを参照されたい。但し、このように腹足の中央部分だけを切り取って刺身にするというのは(そここそ美味というのは)私は初耳である(いや、美味には勿論違いないが)。……しかし、貝フリークの私に、鮑は外套膜辺縁部ばりばりごりごりつぶつぶの部分を好んで切り取って食う私に言わせれば、グレツなるグルメとしか言いようがない。

・「大守」古くは武家政権以降の幕府高官や領主を指すが、既に「諸侯」とし、江戸時代には通常の国持ち大名全般をこう俗称したので、これは大名とイコールで、主人と読み替えてよい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大身の味覚は常人のそれとは異にするという事

 

 ある折り、松平康福(やすよし)公へ、入手致いた面白き菓子を差し上げようしたところ、ある人が忠告して呉れたこと。

「康福公は自家でお造りになられた菓子ならざればお召しにはなられませんぞ。いや、それどころか、御家中にて差し上げたものにても、自家の厨(くりや)にて拵えしものにてあらざれば、不思議とそれとお見破りになられて、御口になさること、これ、御座らぬ。」

と。

 ――以後、私は当松平家御家中の家来に依頼し、松平家御家中製の御菓子を康福公には献ずることと致いて御座る。――

 ここに似たような話を今一つ。

 さても、藤堂和泉守高朗(たかほら)殿は、無類の鮑好きにてあられたによって、ある日のこと、さる大名諸侯らがこの話を聞き、和泉守殿を仲間内の、さる大名の御屋敷にお招きした折から、かの好物となされる鮑料理を、これまたたっぷりと用意致いて饗応して御座った。

 ところが和泉守殿は、出された鮑の刺身に少しばかり箸をお付けになられたかと思うと、最早、ここぞと並べられた鮑料理の皿には一切御手をお付けになられず、また更にも鮑料理御所望の御沙汰、これ、一言も御座らなんだ。

 饗応が済んで後のこと、かの屋敷の大名諸侯御抱えの料理人、相応の己が腕に縒りをかけて造った品々にてあってみれば、ほぼ丸のままに厨に料理が戻ってきたこと、これ、いっかな、不審晴れず、こっそりと和泉守殿屋敷勝手方の者へ相通じ、率直に訊ねてみて御座った由。

「……御太守にては鮑お好みの由なればこそ、我らが主人も気を遣うて、手落ちなきよう御饗応のこと、我らに申し付けられ、相応の素材、品々変われる鮑料理を御用意致いたつもりで御座ったれど……多くをお召し上がりになられず……これ、如何なる訳にて御座るか?」

すると、和泉守御家中の料理人は、

「――御主人様の料理、これ、鮑の調理の仕立て方、大きく異なって御座れば。――」

と、きっぱりと一言言うて黙った。

 一介の料理人なれば、それ以上のことは話さなんだ。

 それを聞いた男は主人大名にそのことを伝えたれば、かの大名も大いに『大きく異なれる仕立て方』なるものに興味を抱き、また、その大名の料理人も御意にてあればこそ、後日再応、和泉守殿をお招き致いて、この度は、特に例の和泉守殿御家中の料理人に事前に頼み込んで、かの招きし大名方の厨に入って貰ろうて調理致すことと相成って御座った。

 すると、厨へ参ったかの料理人、まず――笊に用意された、朝活け獲って早々に運ばせた、如何にも新鮮な粒揃いの数十杯の鮑を受け取る――と――その中でも殊に殼高高々とした、肉色黒く厚きもの――三、四杯を選び取り――かの鮑の身の、丁度眞ん中のところだけを、如何にも細く浅く、二切ほどのみ切り――残りは総て――捨ててしまった。

 呆然としている当家大名諸候方の料理人どもを尻目に、和泉守殿の料理人は、その白魚の如き、十(と)切れと満たぬ僅かな鮑の刺身を皿に盛る――と――饗応の席へと運ばせて御座った。

 和泉守殿、出て参ったこれを食味なされるや、

「――格別の風味にて! これは、これは! 誠有り難き御馳走にて御座る!――」

との仰せの由にて、大層御機嫌にてあられた、とのことで御座る。

「……いやはや……大身の御方の味覚なるもの、凡人とは違(ちご)うて……かくも自ずからあるものにて御座るのかのう……」

と当大名諸候御主人はもとより、御家中に驚歎致さざる者、これ誰(たれ)一人として御座らなんだ、という話。

 

 其分限に應じ其言葉も尤なる事

 

 有德院樣御代いづれか、國家の家法の菓子を御聞及にて【此御家の儀、細川ともいへ共、又阿波土佐兩家の内ともいふ。聞きけれ共忘れ侍りぬ。】御所望ありければ、則自身附居(つきゐ)制作有て獻じけるに、殊の外御稱美にて召上られしと聞、其諸侯殊の外悦び、老中迄御禮として罷出で、二心なきものと思召御膳に相成難有と申されけると也。國持ならでは難申言葉にてありき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:大身の食味連関。

・「有德院樣御代」「有德院」は八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。吉宗の将軍在位期間は享保元(1716)年~延享21745)年。

・「國家」とある『国』持ちの大名『家』の御『家』中の意。

・「細川」近世に於ける細川家は肥後細川家で豊前小倉藩、肥後熊本藩主家を指す。吉宗将軍在位中とすると、第4代藩主細川宣紀(のぶのり 延宝4(1676)年~享保171732)年)か、第5代細川宗孝(むねたか 正徳6(1716)年~延享4(1747)年)の何れかである。

・「阿波土佐兩家」「阿波」は徳島藩蜂須賀(はちすか)家。前注同様に調べてみると、第5代藩主蜂須賀綱矩(つなのり 寛文元(1661)年~享保151730)年)か、第6代蜂須賀宗員(むねかず 宝永61709)年~享保201735)年)の何れかである。「土佐」は土佐藩山内(やまうち:主家は「やまうち」、分家は「やまのうち」と読む。ルーツはかの有名な山之内一豊。)家。この場合は、第6代藩主山内豊隆(延宝元(1673)年~享保5(1720)年)、第7代山内豊常(正徳元(1711)年~享保101725)年)、第8代山内豊敷(とよのぶ 正徳2(1712)年~明和4(1768)年)の三人の内の何れかとなる。

・「國持」国持ち大名。江戸時代に主に大領国を持ち、御三家に次ぐ家格を有した大名を言う。国主と同義。以下、ウィキの「国主」より引用する。『江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、国持大名とも言う。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主(国持大名)―準国主―城主―城主格―無城(陣屋)のうちの一つ。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領や御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代の国持衆が語源』。

『陸奥国・出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)・盛岡藩(南部氏)・秋田藩(佐竹氏)・米沢藩(上杉氏)を国主扱いにしている。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩や天草諸島(唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行の松浦肥前守(平戸藩)、志摩一国一円知行の稲垣和泉守(鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩(酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝は徳川家光により一代限りの国持となったとされる)』。『また、大身であっても徳川御三家、松平肥後守(会津藩)、松平讃岐守(高松藩)、井伊掃部頭(彦根藩)も国主・国持という家格には加えない』。『また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある』。以下、「国主・国持大名の基準」として3点が掲げられている。『1.家督時に四品(従四位下)侍従以上に叙任。部屋住の初官は従四位下以上で、五位叙任のない家。』『2.参勤交代で参府・出府時、将軍に拝謁以前に上使として老中が大名邸に伝達にくる栄誉をもつ家。』『3.石高での下限は確定できない。』但し、例外もある、とあり、更に本話絡みでは『国主・国持大名のうち、山内家を除く松平姓の家と室町幕府の重臣であった細川家・上杉家は世嗣の殿上元服・賜諱(偏諱の授与)がある』という付帯説明がある。

・「二心なきものと思召」ここに示された三家は皆、譜代ではなく、外様大名である。そこから、かく言ったものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 その身分に応じてその謂いに用いられる言葉も尤もなる使われ方を致すという事

 

 有徳院吉宗様の御代の――

……何時の頃のことで御座ったか……定かにては覚えて御座らねど……

とある国持ち大名の、その御家中にて、その製法が伝授されて御座った名物の菓子につき、その評判を、上様がお聞遊ばされ――

……さても……この大名家についても、拙者……細川家と言うたか……はたまた阿波蜂須賀家とも土佐山内(やかうち)家の御家中とも言うたか……実は、しかと聞いて御座ったれど……はっきり申して忘れ申した。……悪しからず……

是非食してみたきとの御所望にてあられたので、即座に、当主自ら菓子調製に付き添い、製造の上、早速に上様へ御献上申したところ、殊の外の御賞美の上に、大層御満足気にてお召し上がりになられた、とのことで御座った。

 それを伝え聞いた、その大名諸侯も、殊の外に悦び、老中まで御賞美なされしことへの御礼として罷り出でて、

「――上様におかせられましては、我らに二心なきものと思し召しになられ、御膳に、かの不調法なる菓子をさえ登らせ給えること、これ誠(まっこと)有り難きこと。――」

と申し上げなさったとのことで御座る。

 『二心なき』とは、流石は外様なれど国持の大名ならではの、申し難き御言葉にて御座られたことじゃ。

 

 

 阿部川餠の事

 

 駿州府中阿部川の端に阿部川餠とて名物の餠あり。都鄙(とひ)のしれる事ながら替りたる餠にもあらず。有德院樣には度々御往來も遊し御上りにも成て委細御存ゆへ、阿部川餠のやうの餠は通途になしとの上意也しに、共頃御賄頭(おまかなひがしら)を勤し古部孫太夫は、其先文右衞門とて駿河の産にて御代官を勤けるが、右阿部川の餠は、富士川の流を養水にいたし、富士の雪水を用ひて仕立し米性(こめしよう)なれば、外とは別段也、文右衞門代より駿府に持地(もちぢ)ありて右餠米を作り候間、取寄仕立可申とて、則駿州より餠米拾俵とやらを取寄、獻上して餠となして獻じけるに、殊の外御賞美ありし故、今に其子孫より右富士の餠米拾俵づゝ年々獻上ある事也。右孫太夫は其後段々昇進して新田十分一を高(たか)直(なほ)し下され、西丸御留守居迄勤、九十計にて物故有、予も知る人にてありし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:続けて大身の食味連関。たかが安倍川餅、されど安倍川餅――といった話柄である。

・「駿州府中阿部川」サイト「友釣 酔狂夢譚」に所収されているコンパクトながらツボを押えていらっしゃる味なcover府中 安倍川」の記事より引用させて戴く。『府中は「国府」、「駿府」ともよばれた十九番目の宿で、日本橋より四十四里半(約178キロ)・徒歩四十四時間にある』。『府中は徳川家康が築いた城下町。今川義元の人質だった家康が育った地でもあり、駿府城の城下町として発展し、駿河・遠江、第一の賑わいを誇った』。『徳川家康が晩年を過ごしたのも駿府城で、江戸初期には実質的な政治の中心は府中にあった。有名な「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」はここで起草され江戸に通達されるという形で発布された』。『現在の静岡はお茶が名産として知られているが、当時の府中は籠細工や桑細工のほうが有名だった』(以下、安倍川餅を中心にした記載は次の注に引用)。安倍川についてもウィキの「安倍川」から一応、引用しておく。『安倍川(あべかわ)は、静岡県静岡市葵区および駿河区を流れる河川。一級水系安倍川の本流である。清流としても有名で』(本件とは無縁であるが、この安倍川第一の支流である藁科川の環境問題を訴え続けておられる「清流ネット静岡(代表者:恩田侑布子)をここにリンクしておきたい。何故か? 2007年2月6日未明に私へ別れの挨拶のメールを送って静岡県庁前にて静岡空港建設反対の抗議の焼身自殺をした畏兄井上英作氏はこの「清流ネット静岡」の事務局長であったからである。彼が死に際して私に託した井上英作氏の小説「フィリピーナ・ラプソディ」もお読み頂ければ幸いである)。『その伏流水は静岡市の水道水にも使われている。一級河川としては本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川である(長良川がダムの無い川として有名だが、長良川の支流には高さ100mを超える巨大な堰堤を持つ川浦ダムがある)』。『よく見聞きする表記として「安部川」や「あべがわ」があるが、これらは誤りである』。『静岡県と山梨県の境にある、大谷嶺・八紘嶺・安倍峠に源を発する。源流の大谷嶺(標高約2,000m)の斜面は「大谷崩れ」とよばれ、長野県の稗田山崩れ、富山県の鳶山崩れとともに日本三大崩とされている。流域のすべてが静岡市内であり、下流部では市街地の西側を流れ駿河湾に注ぐ』。『糸魚川静岡構造線の南端でもあり、安倍川を境に、東西の地質構造が大きく異なる』。『1335年:南北朝時代、足利尊氏と新田義貞が争った手越河原の戦いが起き』た。『江戸時代初頭』には『徳川家康によって天下普請として大規模な治水工事が行なわれ、現在の流れとなる。それ以前は、藁科川と別の流れで複数の川筋となって駿河湾に注いでいたが、大規模な治水工事によって、藁科川と合流するようになった。現在の合流地点より下流は藁科川の川筋だったと言われている。特に薩摩藩によって安倍川左岸に築かれた堤防は薩摩土手とよばれ、現在でも一部残存している(新しい堤防がより内側に築かれたことにより、現在は、旧薩摩土手のほとんどは道路になり「さつま通り」と呼ばれている)』。2008年には『環境省から「平成の名水百選」に選定され』ている。……再度、最後に言う、その一番の清流の支流藁科川にダイオキシン焼却灰が山積みにされている事実を知って頂きたいのである。また『地元の名物「安倍川もち」のことを「安倍川」と省略して呼ぶことがある』ともある。

・「阿部川餠」まずは引き続き「友釣 酔狂夢譚」の同ページから。『府中宿の西のはずれに安倍川があり、その河畔の黄な粉餅が名物だった』。『一説によると、慶長(1596~)の頃、徳川家康が笹山金山を巡検の折り、一人の男が餅を献上した。家康が餅の名を尋ねると、安倍川と金山の金粉にちなんで「安倍川の金な粉餅」と答え、家康はその機知をほめて安倍川餅と名付けたことが始まりとされる』。『以来、安倍川河畔には店が並び「東海道中膝栗毛」などにもその様子が描かれている。当時珍重された駿河の白砂糖を使用してからは、一段と評判になった』。以下、引用元ページに示されている大きな安藤広重の「東海道五十三次 府中」の図を御覧になられたい。『広重も府中の市街地は描かずに、宿の西を流れる安倍川で川越人足の手を借りて旅人が川越する様子を描いている。この絵は、めずらしく西から東へ向かって、川中から府中方向を見たものである。背景中央に見える山はかって今川氏や武田氏の賎機城があった賎機山(しずはたやま)で、後に家康がその近くに駿府城を築いた。川越の際の料金の違いによる蓮台渡しや人足の背に乗って渡るなどを描いているが、右下の男の着物に「丸に竹」の紋をつけ、この画集の出版元である竹内保永堂の宣伝も抜かりなく行っている』。私の父もドブ釣ながら、鮎釣りにハマった男であるからして、次の最後の一文も忘れずに引用したい。『安倍川はその支流藁科川とともに、昔から鮎釣りの川として静岡市の人々に親しまれており、狩野川とともに友釣の名手が多かったところである』。最後に、御用達のウィキの「安倍川もち」 も一部引用しておく。『安倍川もち(あべかわもち)は、和菓子の一種。静岡市の名物。本来はつきたての餅にきな粉をまぶしたものに、白砂糖をかけた物である。現在では小豆餡をまぶしたもの、最近では抹茶をまぶしたものも出てきている』(ここに先に示した家康絡みの伝承が記載)。『実際は、江戸時代には、大変貴重で珍しかった白砂糖を使っていることから有名になり東海道の名物となった。東海道中膝栗毛には「五文どり」(五文採とは安倍川餅の別名)として登場する』とあるので、こちらの記載では飽くまで珍しい調味料としての白砂糖使用がヒットしたまでで、家康元祖伝承は後付けされたものという感じの記述である。以下、現在の話。『昔ながらの安倍川餅は、旧東海道の安倍川橋の東側で製造・販売していて、茶店風の店が3軒ある。小豆餡、きな粉の安倍川餅のほか、わさび醤油の辛み餅もある』。『一方でお盆に安倍川餅を仏前に供え、食べる風習のある山梨と周辺の一部地域では味付けはきな粉と黒蜜である。スーパーや和菓子屋などでもこの時期に販売されるものはきな粉と黒蜜で味付けするセットのものであり、きな粉と白砂糖で味付けするものは見かけることはできない。また、餅の形も基本的に角餅である』。以下、作り方。『つきたての餅や湯通しして柔らかくした餅の上に、きな粉と白砂糖や小豆あんをまぶす』。言わずもがなであったか。しかし、根岸がわざわざ「耳嚢」にこれを書いたということは、少なくとも「卷之二」の下限天明6(1786)年頃までは、江戸にては安倍川餅は決してメジャーなものではなかったということを意味していると言えるのである。

・「有德院」は八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「御賄頭」定員2~4名。将軍家台所(厨)の支出を管理する。

・「古部孫太夫」これは「部」ではなく「郡」の原文の誤記若しくは判読ミスか(現代語訳では古郡に正した)。古郡(ふるごおり)駿河守年庸(としつね 天和4・貞享元(1684)年~安永4(1775)年)。底本の鈴木氏注に(ここで氏は姓の誤りを指摘されていない)、『寛保元年御勘定頭より御賄頭に転じ、延享二年西城御納戸頭』とある(寛保元年は元文6年から改元した西暦1741年、延享2年は1745年)。岩波版長谷川氏注(こちらの本文は正しく「古郡」)では更に西丸御留守居(後注参照)となった旨、記されている。享年92歳。

・「文右衞門」古郡年庸の父古郡年明(慶安401651)年~享保151730)年)。底本の鈴木氏注によれば、『駿河で代官を勤めたのは曽祖父重政で、寛永年間のこと。重政は孫太夫と称したが、寛政譜には文衛門とは記して』いないとされ(寛永年間は16241643年)、以下の「新田十分一を高直し」という記載に相当する事実が、この古郡重政(慶長4(1599)年~寛文4(1664)年)の代にあったことを示されており(後注参照)、鈴木氏はこの人物を重政に同定されているようである。岩波版長谷川氏注では根岸の記憶の錯誤も都市伝説の内であるから、この辺りの誤りはそのままとした。古郡年明を掲げ、鈴木氏注を参照との一言はあるが、特に重政の名は挙げていない。

・「代官」幕府及び諸藩の直轄地の行政・治安を司った地方官。勘定奉行配下。但し、武士としての格式は低く、幕府代官の身分は旗本としては最下層に属した。

・「富士川の流」これは安倍川の遙か北方を流れる実際の富士川を言うものではなかろう。富士山をその水源とするという意味で採った。

・「駿府」府中に同じ。駿河国国府が置かれた地。現在の静岡市。

・「新田十分一を高直し」底本の鈴木氏注によれば、先に示した古郡重政が寛永171640)年『駿河国富士郡加島において六千五百石余の田を新墾せるにより、のちその十が一現米三百二十石を賜うとある』とされ、更に『この三百二十石は年庸のとき明和四年禄に加えられ、都合千七十俵となった』とある。痒いところに手が届くのが、鈴木棠三先生の注である。実は大学時分に鎌倉史跡探訪サークルを結成していたが、そのサークル仲間が知り合いで、鎌倉郷土史研究の碩学でもあられた先生が、「何時でも鎌倉を案内して上げるよ」とおっしゃっておられたと伝え聞いた。結局、それは実現せず、遂に直接お逢い出来る機会を失してしまったことが今も悔やまれる。

・「御留守居」は江戸幕府の職名。老中支配に属し、大奥警備・通行手形管理・将軍不在時の江戸城の保守に当たった。旗本の最高の職であったが、将軍の江戸城外への外遊の減少と幕府機構内整備による権限委譲によって有名無実となり、元禄年間以後には長勤を尽くした旗本に対する名誉職となっていた(以上はフレッシュ・アイペディアの「留守居」を参照した)。

・「予も知る人にてありし」根岸鎭衞は元文2(1737)年生まれで(没したのは文化121815)年)、古郡年庸(天和4・貞享元(1684)年~安永4(1775)年)とは53歳も違うが、根岸は宝暦8(1758)年に養子として根岸家を継ぎ、御勘定としてスタート、宝暦131763)年評定所留役、明和5(1768)年御勘定組頭、年庸が逝去する前年の安永5(1776)年には御勘定吟味役に抜擢されている。年庸の年齢と根岸の職分から考えると、根岸が彼と対面することがあったのは、根岸26歳であった評定所留役着任時から御勘定組頭となった31歳の間辺りであったろうか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 阿部川餅の事

 

 駿河国府中の阿部川っ端(ぱた)に阿部川餅と言うて名物の餅が御座る。

 駿河国にては、駿府にても田舎にても、よう、名の知られて御座るものなれど、特にこれといって変わった餅にては御座らぬ。

 有徳院吉宗様にては、たびたび彼地を経られて御往来遊ばされた折々、御好物にてあらせられて、常にこの安倍川餅をお召し上がりになられた故、この餅に就いてはもう、委細御存知であられ、常々、

「阿部川餅のような旨い餅は、これ、他には、ない。」

と仰せになっておられた。

 その頃、御賄頭を勤めて御座った古郡(ふるごおり)孫大夫の先祖は文右衛門と名乗り、駿河生まれにて、かの地の御代官を勤めて御座った。

 されば、この古郡孫大夫、上様の安倍川餅お褒めの御言葉を伝え聞き、誠、痛み入りつつ、

「――さても、かの阿部川の餅は、富士山の清き流れを集めてその地を養う水と致し、また清冽なる富士の雪解け水を以って養い育った米の性(しょう)にて御座ったれば、他の土地で穫るる米とは、これ自ずと別格の米なれば、拙者、先祖文右衛門の代より駿府に領地を持って御座って、そこにても餅米を作らせて御座れば、早速にお取り寄せ致し、餅に仕立申し上げんと存ずる。」

とて、即座に駿州より餅米十俵とやらん取り寄せ、まずは型通りに米をご献上の上、それを更に、指図は元より、孫大夫手ずから餅となしてご献上申し上げたところ、上様には殊の外、御賞美これありし故、それ以来、今に至るまで、その古郡家子孫より、かの富士の餅米十俵宛年々御献上申し上げておるとのことである。

 この孫大夫、その後(のち)みるみる昇進致いて、先祖開墾に係る当時の新田の、その十分の一の禄をも改めて下賜され、遂には西丸御留守居まで勤め上げ、何と九十余歳で逝去なされた。私も実際にお逢いしたことが御座る方である。

 

 

 安藤家踊りの事

 

 安藤對馬守家に家の踊りといふ事あり。御先代御覽にも入りし事故、今に右家にて絶ず右の踊を覺へ習ふ事成由。予が同僚也し江坂某、當安藤公寺社奉行の節見物なしける事ありしと語りけるが、至て古風なるものにて五七番も有る由。亂舞(らんぶ)などに似寄りて亂舞とも違ひ、謠ひもの節も事かはり、多く鼓をあいしらふ事の由。年若の近士の内抔へ申付其藝を施し候事なるが、當時の風と違ひよろづ古風なる事ゆへ、みな/\嫌ふといへども、家の踊ゆへ絶ず其業を殘し置(おか)れける由。古雅なる事にてありしと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:大身独特の食味から、やはり大身独特の御家芸伝承で直連関。

・「安藤家」三河安藤氏。以下、ウィキの「三河安藤氏」から一部引用する。『元は三河国の土豪。安藤家重は松平広忠(徳川家康の父)に仕えていたが、天文9年(1540年)に三河安祥城に攻め寄せてきた織田信秀との攻防戦のさなかに討死』。『家重の子の安藤基能は、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで武田軍相手に討死した』。以下、「三河安藤氏嫡流」の項(信成は嫡流ではないことを示すために引用しておく)。『基能の嫡男安藤直次は、祖父や父のように志半ばで討ち死にする事もなく、戦乱の世を生き抜いた』。『直次は家康の側近として活躍し、慶長15年(1610年)には家康の命により徳川頼宣(長福丸)付の家老に任じられたが、その後も幕政に参与していた。元和3年(1617年)には、遠州掛川城主となり、掛川藩2万8,000石の所領を与えられた。元和5年(1619年)に頼宣が紀伊国に移ると、同国田辺城に3万8,000石の所領を与えられ、以後幕末まで続いた』。『ちなみに、江戸幕府で老中等の要職を歴任した重信系の安藤氏が嫡流と誤認されがちであるが、嫡流は紀伊田辺藩主を務めた安藤氏である』。以下が信成の「重信系」安藤氏の項。『直次の弟安藤重信(安藤基能の次男)も、元和5年(1619年)にはそれまでの領地である下総国小見川2万石から加増移封されて、上野国高崎5万6000石の藩主となっている。幕府の要職を務め、安藤氏嫡流よりも石高が高いため安藤氏の嫡流と誤認されるが、三河安藤氏の分家筋にあたる』。『小見川藩、高崎藩、備中松山藩、加納藩と移封を繰り返した後、磐城平藩で明治維新を迎えた』。『幕末に公武合体を進めた老中の安藤信正は、磐城平藩の出身である』とある。以下、歴代の当主の名。この中の安藤信成以前に「踊り」のルーツがあるはず。

   《引用開始》

安藤重信

安藤重長

安藤重博

安藤信友

安藤信尹

安藤信成

安藤信馨

安藤信義

安藤信由

安藤信正

安藤信民

安藤信勇

   《引用終了》

一応、家祖安藤重信(弘治3(1557)年~元和7(1621)年)についてウィキの「安藤重信」より一部引用しておく。彼、なかなかの豪傑である。『徳川家康に仕え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に属して真田昌幸(西軍)が守る信濃国上田城攻めに参加した。慶長16年(1611年)、奉行に任じられ、翌年12月には下総国小見川に2万石の所領を与えられ、大名となった。慶長19年(1614年)、大久保長安事件で大久保忠隣が改易されたとき、高力忠房と共に小田原城の受け取りを務めた』。『同年、冬からの大坂の役には冬、夏とも参戦し、夏の陣では大野治房率いる豊臣軍と戦ったが、敵の猛攻の前に敗退した。元和5年(1619年)、上野国高崎5万6,000石及び近江国山上藩1万石へ加増移封された。同年、福島正則が改易されたとき、広島城に向かって永井直勝とともにその後の処理を担当した。元和7年(1621年)6月29日、65歳で死去。家督は養子・重長が継いだ』。『怪力伝説があり、前述の広島城受け取りの際、船から落ちた共の者を掴んで助けた時に、ちょっと掴んだだけなのに掴まれた部分が痣になって後々まで残ったとか、小姓にたくさんの鎧や銃を担がせ、その小姓を碁盤に乗せ、その碁盤を担いで城内を一周したという伝説もある』。ただ、古雅な舞踊とあるのは、どうもこの始祖の荒武者と一致しない。そこでその後の藩主をウィキで手っ取り早く辿ってみた。すると重信系の安藤家4代目に、如何にもそれっぽい人物が出現する。安藤信友(寛文111671)年~享保171732)年)である。これを参考までにウィキの「安藤信友」より一部引用しておく。『備中松山藩の2代藩主、のち美濃加納藩の初代藩主となった。また、徳川吉宗の時代に老中を務めた。文化人としても名高く、特に俳諧では冠里(かんり)の号で知られ、茶道では御家流の創始者となった』先代『安藤重博の長男』。子が次々に『早世したため、祖父の弟の子にあたる安藤信周を養子として迎え』ている。『天和元年(1681年)1028日、11歳のときに初めて将軍綱吉に拝謁する。貞享2年(1685年)、長門守に叙任。元禄11年(1698年)8月9日に父が死去し、10月3日、幕府の許しを得て備中松山藩(6万5000石)藩主の地位を継いだ。宝永元年(1704年)に奏者番となり、同6年(1709年)には寺社奉行を兼任する。宝永8年(1711年)2月15日、美濃加納藩(美濃国内に6万石、近江国内に5000石の計6万5000石)に転封される。正徳3年(1713年)に寺社奉行を辞めるが、享保2年(1717年)に再び寺社奉行となる。翌年、大坂城代となり、享保7年(1722年)、8代将軍・徳川吉宗から老中に任じられ、享保の改革の推進に関与した』。『享保12年(1727年)6月7日、跡継ぎとなるべき養子の信周が死去した後、同月22日、信周の長男信尹を跡継ぎとすることを幕府に許される。享保17年(1732年)6月に病に伏せ、7月25日に62歳で死去し』たが、彼は文化人としての側面を強く持ち、特に俳諧では『宝井其角に師事し、水間沾徳などとも交流があった。さまざまな書物でたびたび紹介され、もっともよく知られた句は、雪の降る寒い日に駕籠で江戸城へ登城する途上で、酒屋の丁稚小僧が薄着で素足の姿で御用聞きをして回っているのを見かけてよんだものである。

  雪の日やあれも人の子樽拾ひ

「樽拾ひ(たるひろい)」とは酒屋の丁稚のことで、自分の子にはとてもまねさせられないが、あの丁稚も同じ人の子なのにとても不憫である、という意味である。

また、信友が藩主だった頃の備中松山藩内では、俳諧が流行した』とある。なかなかいい発句である。他にも茶道にも熱心で、『はじめ織部流であったが、後に米津田盛の二男米津田賢の門人となり、千利休からそのままの形で細川三斎(忠興)、一尾伊織、米津田賢へと伝えられてきたとされる三斎流(一尾流)を学んだ。その後、三斎流を基本として織部流を組み合わせることで独自の流儀を確立させた。これが安藤家で「御家流」として代々伝えられて、今日に至』っている、とある。この記載から、どうも古雅の乱舞の臭いの元凶は(失礼!)、この、本話に登場する安藤信成の祖父に当るところの安藤信友を始祖とするものではなかったろうか、と私は推測するのである。識者の御意見を乞う。

・「安藤對馬守」安藤家6代安藤信成(寛保3(1743)年~文化7(1810)年)のこと。寺社奉行・若年寄・老中を歴任した。以下、参照したウィキの「安藤信成」より一部引用する。『美濃加納藩第3代藩主で、陸奥磐城平藩初代藩主』。父の安藤信尹(のぶただ 享保2年(1717)年)~明和7(1771)年)は『乱行が原因で隠居を命じられ、宝暦5年(1755年)に信成が家督をつぐことになった。懲罰の意味もあって、安藤家は間もなく、加納6万5,000石より陸奥磐城平藩5万石に減転封させられた。その後、幕府内では寺社奉行、若年寄を経て、寛政5年(1793年)に老中に就任。在任中の功績に免じ、没収されていた美濃領のうち1万7,000石を加増され、都合6万7,000石となる』。『藩政として瞥見すべき点は、平に入封後、藩校・施政堂を城下の八幡小路に創設した点である。ここでは漢学、四書五経、国語、小学、通鑑、習字をはじめ、兵法・洋学が教育された。文化7年(1810年)死去。信成には長男・信厚があったが廃嫡し、次男・重馨に家督を継がせた』。以下、略歴。

   《引用開始》

1743年(寛保3年) 生誕

1755年(宝暦5年) 家督をつぐ

1756年(宝暦6年) 磐城平に転封

1781年(天明元年) 5月11日 寺社奉行

1784年(天明4年) 4月15日 若年寄

1793年(寛政5年) 8月24日 老中

1810年(文化7年) 5月14日 死去

   《引用終了》

これにより、信成が寺社奉行であったのは、天明元(1781)年5月11日から天明4(1784)年4月14日迄であった事が分かる。この頃、根岸は勘定吟味役であった(ぎりぎり最後で天明4(1784)年3月に佐渡奉行に昇進している)。

・「御先代」安藤家先祖の謂いであろう。将軍家御先代の意にも取れぬことはない。その場合は、執筆時が第十代将軍徳川家治(将軍在位は宝暦101760)年から天明6(1786)年迄)の父である第九代徳川家重ということになるが、今までの訳注作業で感じることとして、根岸は(少なくともここまでの「耳嚢」の中では)、執筆時の当代将軍家(ここまでは主に家治になる。家重の在位は根岸の生れる前の延享2(1745)年から隠居する宝暦101760)年5月13日までで、この時根岸は未だ24歳であった)を起点とした物謂いを殆んどしていないように思われる。従って、ここは前者で採る。

・「御覽」将軍家への直々の披露。

・「江坂某」諸注注せず。本話柄の数年後の佐渡奉行時代に本巻が記されているが、その中で直接体験過去で「同僚」であったという以上、これは前任職であった勘定吟味役時代の同僚である。勘定所勘定吟味役は旗本・御家人から抜擢される中間管理職としては上位のもので、勘定所内では勘定奉行に次ぐ地位、更に勘定奉行次席ではなく老中直属でもあった。定員は4~6名とあるから、この「江坂某」もその内の一人に違いない。相応の実質的地位と、その社会的な立ち回りの巧みなる才能の持ち主と思われるが(でなくては大名諸侯本人の舞いを見られようはずもない)、後半でやや問題のある安藤家家士連中の本音を語っているので、変名にしてある可能性も考え得る。しかし、実はここに一人、丁度その頃、江坂姓で勘定吟味役を勤めていた可能性が高い人物がいる。ネット検索によって個人ブログ「『鬼平犯科帳』Who's Who」の「『よしの冊子』中井清太夫篇(3)」の記載の中に見出した人物で、江坂孫三郎正恭(まさゆき 享保(1720)年~天明4(1784)年)という。同記事中に、彼は評定所留役兼任で百五十俵とも記されているが、これは当時の根岸家の家禄と全く同じである。先に記したように本話柄は天明元(1781)年5月から根岸が佐渡奉行となる天明4(1784)年春迄に限定される。この江坂孫三郎正恭が本話の江坂某であったとしたら――私はその可能性が極めて高いと今は感じているのだが――根岸は4347歳、江坂正恭は6165歳であった。家士の本音を引き出す辺り、この根岸の大先輩に当る老練な同僚ならでは、という感じがしてこないだろうか? 識者の御意見を乞うものである。

・「寺社奉行」寺社領地・建物・僧侶・神官関連の業務を総て掌握した将軍直属の三奉行の最上位である。譜代大名から任命された。

・「五七番」五曲から七曲という謂いは如何にもお洒落じゃないし、「もあるよし」とはならないからあり得ない。武家とはいえ、剣法に擬えれば七曲は覚えられよう。五十七曲であれば確かに「もある」に、うんざりということにもなろうが、これでは多すぎて素人の覚える域を遙かに越えているように思われてならない。また根岸はこうした場合、一般には「十」を入れて書く(脱字・省略でないと言えないが)。さすればこれはよくある掛け算で三十五曲の謂いであろう。それならば十分に「もある」と言っておかしくはないし、三十五曲の舞踊を覚えるのは素人には無理とは言えないが、甚だキツいとも思うのである。

・「亂舞」「日本大百科全書」(小学館)によれば(読みの一部を省略した)、『とくに定まった型や曲はなく、歌や音楽にあわせて自由奔放に手足を動かして舞い踊るものをいう。平安末期から鎌倉時代にかけて、公家貴族の殿上淵酔(てんじょうえんずい)で乱舞が盛んに行われたが、このときの乱舞は朗詠、今様や白拍子、万歳楽などを取り入れて歌い舞われた。このような殿上淵酔の乱舞は猿楽ともいわれ、やがて専業の猿楽者の演ずる猿楽をも乱舞といった。乱舞はその後の猿楽能はじめ、さらには風流踊にも影響を与えたと思われるが、具体的なことは不明である。なお、能楽の乱舞(らっぷ)は一曲のうちの一節を舞うことをいったようである』とある。「殿上淵酔」とは清涼殿に殿上人を招いて行われた酒宴のこと。但し、ここで江坂が言っているのは、記載の最後にある能の各曲の合間に幕間狂言の一つとして行われたそれを指して言っているのではないかと思われる。それにしても乱舞――らっぷ――ラップ――rap……たあ、ゴロの妙だね!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 安藤家家伝の踊りの事

 

 安藤対馬守の主家には『家の踊り』と申す家伝の舞踊、これ、伝わって御座る。

 御先祖が上様の御覧(ぎょらん)に入れたということも御座って、今にても、かの安藤家にて、代々この踊りを覚え習うこと、お家のしきたりとなって御座る由。

 勘定吟味役を勤めて御座った折りの私の同僚江坂某が、かの安東公が寺社奉行をお勤めになられて御座った折り、その踊りを拝見致いたことが御座ったとて、以下、江坂殿の語りしことにて御座る。

「……それは、さても至って古風なる舞いにて御座っての……曲の数とては、何とまあ、三十五番も御座る由。……乱舞(らっぷ)などの如くにも見ゆれど……乱舞にては御座ない、……謡いの節にても、尋常なるものにては御座ない、これまた、如何にも独特なものにて……三十五番殆んどの曲にては、主に鼓(つづみ)をあしろうて舞うとの由。……さても、安藤家御家中の知れる者の話によれば……年若の近侍の武士どもにも申しつけてその芸を教え伝えておらるれど……当世風の踊りとは違(ちご)うて……これがまた、徹頭徹尾、古風なる舞いなれば……実は……皆々、厭い嫌うて御座るとのとじゃ。……とは言うても、主家家伝の踊りなればやはり代々、その技芸を承伝致いおいて御座る、とのことで……いや、確かに! 誠(まっこと)……退屈なる……いや、これは失言、失言……古雅なる、舞いにては御座ったのう……。」

 

 

 天成自然の事

 

 天子の御位はいともかしこき御事、申もおろか也。何れの御代にやありし、御名代上京にて、天顏を拜し天杯頂戴の事ありしに、右御名代關東歸府の上、御用の趣言上相濟て申上られけるは、向後(きやうかう)京都の御名代には、御譜代の内よく/\其人を見て被仰付可然也、其趣意は天盃頂戴の折から、頻に人間ならぬ神威の難有さいわん方なし、若し外樣或ひは不義の心聊かもあらん者、禁裏より被仰付筋あらば、違背なく隨ひ奉る事あらんと覺ゆと申上られければ、上にも尤に思召けると也。右は板倉周防守(すはうのかみ)とも松平讚岐守とも聞しが、しかと覺へざれば爰に記し置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「天杯」底本は「天抔」で「抔」(など)とあるのだが、意味が通じない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「天盃」とあるから、これは底本の誤字で「天杯」であろう。本文をそのように訂した。天盃は宴席にて賜わるが、その場合、注がれた酒は他の杯に移して飲むのが礼である。

・「譜代」譜代大名。ウィキの「譜代大名」より一部引用しておく。『もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった』。『譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった』。以下、「譜代大名の定義」が示されている。

1『徳川将軍家により取り立てられた大名のうち、親藩及び、外様大名と、その支藩(分家)を除いたもの』

2『関ヶ原の戦い以前より、徳川氏に臣従して取り立てられた大名』

3『幕府の要職に就任する資格のある大名』

とある。但し、『旗本が加増され大名となった場合や、陪臣出身の堀田氏・稲葉氏・柳沢氏・摂津有馬氏有馬氏倫系のように、幕府によって新たに取り立てられ大名になった場合は1の定義にあてはまり、譜代大名となる。一方で外様大名家からの分家や、立花宗茂・新庄直頼のように、改易された外様大名が再興した場合は外様となる。家康の男系子孫の建てた家は基本的に親藩とされ、譜代とは呼ばれなかった』。『一方、会津松平家や鷹司松平家のように譜代大名に定義されるべき家柄であっても、徳川家との血縁を考慮されて親藩となることもある。一方で、蜂須賀斉裕のように将軍の実子が養子となっても外様のままの場合もある。一方、御三家、御三卿の庶子を譜代大名が養子としても親藩にはならないが、親藩待遇となることがあった』。『また本来外様大名である家も、血縁関係や幕府への功績を考慮されて譜代扱いとなることもある。これを便宜上「願い譜代」「譜代各」「準譜代」など呼んでいる。脇坂氏・苗木遠山氏・戸沢氏・肥前有馬氏・堀氏堀直之家・相馬氏・加藤氏加藤嘉明家・秋田氏などがその例である』。『江戸城ではこれらの大名は家格により、「溜間」「帝鑑間」「雁間」「菊間広縁」(菊間縁頬)の各伺候席に詰めた』。 『狭義の徳川家譜代は、代々松平家に仕えた家や、徳川家康に取り立てられた家を指す。これらの家は臣従した時期をさらに細分化して、『安祥譜代』、『岡崎譜代』、『駿河譜代』などと称され』、『特に最古参の安祥譜代は伺候席で厚遇され、ひとたび取り潰されても、またすぐに何らかの形で家名が再興されることが非常に多かった。但し、安祥譜代出身でも石川氏の石川康長・石川康勝は豊臣家に寝返った後に関ヶ原の合戦で東軍についたという経歴のため、外様大名とされた』。以下、譜代大名の役割について。『第一に譜代大名は、老中・若年寄をはじめとする幕閣の要職に就く資格があることである。幕府は将軍家の家政機関であると言う建て前上、幕閣の要職には、幕末及び越智松平家の例外を除き譜代大名以外からは、登用しない慣行が不文律として厳格に守られた。親藩出身者を幕府の役職に就任させたり、外様の大藩を政治顧問として、幕政に参与させないのが、徳川政権の大きな特徴でもある』『保科正之の4代将軍家綱の後見は、例外的だとする指摘もあるが、この後見も、何らかの幕府の役職に就任して行われたものではない(正之は大老またはきちんとした役職としての将軍後見役に任じられていたという説もある。しかしながら、この時点では保科家=後の会津松平家は親藩ではなく未だ譜代扱いなので、親藩大名が幕府要職につく例には当たらない)』。『もう一つの譜代大名の役割は、外様大名を監視することである。外様大名が置かれているときは、同じ国内にいる譜代大名は、参勤交代で、同時に江戸表には在府させず、必ず在所(国許)に残る譜代大名を置いた。もっとも、外様大名が「国持大名」で、一カ国の全てを知行しているときは、近隣の譜代大名や、親藩がこれに当たった』。『江戸幕府では、徳川家康の男系親族である十八松平の内、大名になった者は「親藩」ではなく「譜代大名」とする。十八松平とは家康の祖父である松平清康の時代までに分家したルーツを持つ十八家で』、『家康の異父弟の久松松平家は、言うまでもなく、親藩ではなく譜代大名である。徳川吉宗の孫の松平定信は、陸奥国白河藩の久松松平家に養子に出た者であるから、出自は親藩ではなく、譜代大名として、老中となり寛政の改革にあたった』。『久松松平家の中で、最も有力であった伊予国松山藩主と、伊勢国桑名藩主(一時、高田藩→白河藩)の家系は譜代大名ながら、両家は田安宗武の男子を養子とし、藩主として迎えたので、親藩待遇となった。その他の久松松平家の諸藩(<1.美濃国大垣藩→信濃国小諸藩→下野国那須藩→伊勢国長島藩、改易>・2.伊予国今治藩・3.下総国多古藩)は、譜代大名である』最後に「譜代大名の一覧」が示されているが、『松平氏以外の順番は『柳営秘鑑』に準じた』由但し書きがある。

 《引用開始》

安祥譜代(7家)―酒井氏、大久保氏、本多氏、阿部氏、石川氏、青山氏、植村氏(阿部氏、石川氏、青山氏の代わりに、大須賀氏、榊原氏、平岩氏が入る場合もある)

岡崎譜代(16家)―井伊氏、榊原氏、鳥居氏、戸田氏、永井氏、水野氏、内藤氏、三河安藤氏、久世氏、大須賀氏(断絶)、三河井上氏、阿部氏、秋元氏、渡辺氏(伯太藩)、伊丹氏、屋代氏

駿河譜代―板倉氏、太田氏(太田資宗流)、西尾氏、土屋氏、森川氏(生実藩)、稲葉氏(稲葉正成の系統、能登守家は外様)、藤堂氏、高木氏(丹南藩)、堀田氏(出自からは三河衆のため譜代の理由不明)、三河牧野氏(牛久保牧野氏)、奥平氏、岡部氏、小笠原氏、朽木氏、諏訪氏、保科氏、土岐氏、稲垣氏、一色丹羽氏、三浦氏、遠山氏(苗木藩)、加賀氏、内田氏、小堀氏、三河西郷氏、奥田氏、毛利氏(内膳家、断絶)、山口氏(牛久藩)、柳生氏、蜂須賀氏(阿波富田藩家・廃藩)、増山氏

貞享元年12月より譜代―水谷氏(準譜代の秋田氏・有馬氏(有馬晴信系)・相馬氏と同時)

徳川綱吉の時代以後の譜代 - 本庄氏

享保以後の譜代―加納氏、有馬氏(赤松氏分家)

『柳営秘鑑』には記載なし―田沼氏、間部氏、三河松井氏、柳沢氏

松平一門―大給松平家、形原松平家、桜井松平家、滝脇松平家、竹谷松平家、長沢松平家(大河内松平家)、能見松平家、久松松平家(伊予松山藩・伊勢桑名藩以外)、深溝松平家、藤井松平家

 《引用終了》

・「外樣」外様大名。ウィキの「外様大名」 より一部引用しておく。外様大名とは『日本の封建時代の大名の主君との主従関係の緊密さを区別した語ったもので、既に室町時代からこの言葉は由来しており、室町時代は幕府とのつながりの密でない大名たちを外様衆と呼んだ。江戸時代になってからは、関ヶ原の戦い以前から徳川幕府につかえた大名たち、いわゆる譜代に対して、その後、幕府に用立てられた大名たちを外様大名と呼んだ』。『外様大名とは、関ヶ原の戦い前後に徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。「外様」は、もともとは主家とゆるい主従関係を持った家臣を指す語で、主家の家政には係わらず、軍事動員などにだけ応じる場合が多かった。またこの外様の家臣は主家滅亡時に主家から離反しても非難されることは無かった』。『外様大名には大領を治める大名も多いが、基本的に江戸を中心とする関東や京・大阪・東海道沿い等の戦略的な要地の近くには置かれなかった。江戸時代の初期には幕府に警戒され些細な不備を咎められ改易される大名も多かった』。『外様大名は一般に老中などの幕閣の要職には就けないとされていたが、対馬国の宗氏は伝統的に朝鮮との外交に重きを成し、また江戸後期になると真田氏、松前氏のように要職へ就く外様大名も現れた。また、藤堂氏は徳川氏の先鋒とされ軍事的には譜代筆頭の井伊氏と同格であり、池田輝政は親藩と同格とされ大坂の陣の総大将を勤める予定だったといわれる』。『また、同じ外様大名でも比較的早い時期から徳川家と友好関係があった池田氏・黒田氏・細川氏などと関ヶ原の戦い後に臣従した毛利氏・島津氏・上杉氏などでは扱いが違ったとの説もある』。『なお、血縁関係や功績などにより譜代に準ずる扱いを受けている外様大名について、便宜的に準譜代大名と呼ぶこともある。また、外様大名の分家・別家で1万石以下の旗本から累進して諸侯に成った場合、菊間縁頬の詰席を与えられ、譜代大名として扱われた』。以下、「主な外様大名」が示されている。

 《引用開始》[やぶちゃん注:縦に箇条書きにされているが、中黒で併記した。]

前田家(加賀藩)・島津家(薩摩藩)・毛利家(長州藩)・山内家(土佐藩)・藤堂家(津藩)・浅野家(広島藩)・上杉家(米沢藩)・佐竹家(秋田藩)・細川家(肥後藩)・池田家(岡山藩・鳥取藩)・鍋島家(佐賀藩)・黒田家(福岡藩)・伊達家(仙台藩)

 《引用終了》  

・「板倉周防守」板倉重宗(天正141586)年~明暦2(1657)年)。譜代大名で京都所司代。板倉家宗家2代。ウィキの「板倉重宗」より一部引用する。『徳川家康に早くから近侍して、大いに気に入られた。関ヶ原の戦いや大坂の陣(このときは小姓組番頭)にも参陣した』。『元和6年(1620年)、徳川二代将軍秀忠の時代、父の推挙により京都所司代となる。承応3年(1654年)12月6日まで30年以上にわたって在職。朝廷との交渉・調整の任にあたった。明暦2年(1656年)85日、下総国関宿藩に転ずる。この年、関宿で死去』。『勝重と重宗は、親子二代でありながら世襲職ではない所司代の職に就任しているのを見てもわかるように、その卓越した政治手腕は徳川氏に大いに信頼されていた。それは『板倉政要』によって現在にも伝えられているが、この史料は過大評価もあると言われている。だが、この親子以外に所司代に親子二代にわたって就任した例は無いのをみてもわかるように、優れていたことは間違いないだろう』。『こんな話が残っている。ある日、父の勝重が重宗と後に島原の乱で討死した弟の板倉重昌に、ある訴訟の是非について答えよと言った時に、重昌はその場で返答したが重宗は一日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えた。周りのものたちは重昌の方が器量が上だと評価したが、父の勝重は、重宗は重昌同様に結論を早く出していた、ただ慎重を期すためにあの様な振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上であると評したという。このような姿勢は、京都所司代になってからも見られ、訴訟の審理をする際は、目の前に「灯かり障子」を置き、傍らにはお茶を用意することによって、当事者の顔を見ないようにして心を落ち着かせ(人相などで)いらぬ先入観を持たないようにし、誤った判決をしないように心掛けたという。 そんな重宗も朝廷対策には苦労していた。後光明天皇には「切腹して見せよ」とやりこめられている』とある。以下の松平康盛の先代康親の事蹟(大名ではなく旗本で松平一族の中では優遇されなかったという記載)と本話の進言内容を考えると、この話の主人公は板倉周防守重宗としか私には考えられないのであるが。識者の御教授を乞うものである。

・「松平讚岐守」松平康盛(慶長6(1601)年~寛文111671)年)。御小姓組番士。元和3(1617)年、千石。福釜(ふかま)松平家宗家5代(ウィキの「福釜松平家」によれば、三河国碧海郡(あおみのこおり)福釜(現在の愛知県安城市福釜町)を領した一族。『3代親俊から徳川家康に仕え、4代康親のとき、家康の関東転封に従い、大番頭となり、下総・武蔵の両国に領地を与えられ、禄高は一千石余りとなる。関ヶ原の戦い、大坂の役に加わり、康親は伏見城番を勤めるが、大名には取り立てられず、旗本どまりで、松平氏一族のなかでは優遇されなかった。本家は元禄年間、松平康永が嗣子無く没したため絶家となったが、庶流はその後も存続している』とある)。なお、底本注で鈴木氏は松平清成の名も挙げられているが、この人物は大給(おぎゅう)松平氏家康の家臣ではあったが、時代的にも早過ぎる感じがし、鈴木氏御自身、『清成は歴戦のつわもので、この場合にはふさわしくない』と記されている。また鈴木氏も私と同様、「松平讚岐守」は『作者の記憶違いらしく、板倉重宗またはその父勝重がふさわしい』と述べておられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 天子の神妙なる威厳は天然自然の采配にして生得のものである事

 

 天子様におかせられましては、これ、この上のう、畏れ多くもかしこみかしこみ申すべきものなるは、申すも愚かなることにて御座る。

 さても何れの帝の御代にてのことで御座ったか、将軍家御名代の者、上洛致いて、天顔拜し奉り、天杯拝領の事など御座りましたが、右御名代、関東帰府致しまして、この度の御名代仕儀に付、仔細御用始末の趣き、言上申し上げ致しました。それら一通り相済みて、最後に徐ろに付け加えて更に申し上げたことには、

「……向後(きょうこう)、京都御名代には御譜代の内より、よくよくその人品腹蔵お鑑みの上、仰せ付けらるること、これ、然るべき大事にて御座る。……その趣意は……我等、天盃拝領の折柄、その御前(ごぜん)にかしこまりしに――頻りにその御前(ごぜん)の人間ならぬ神威、言わん方なき有り難き感――無量にして言わん方なし。……さても万一、外様衆或いは二心不義の念、聊かにてもこれある者……禁裏より……『何事』か……仰せ付けらるる筋、これ、あらば……それ、如何なる恐ろしき、忌まわしき、まがまがしき、御事の仰せなれども……一瞬の戸惑いものう、違背のう、隨い奉らんこと、これ、間違い御座らぬ……と感じて御座った。……」

と申し上げになられたによって、上様にても、

「げにも尤もなること。」

と思し召されたとのことで御座る。

 この言上せしは板倉周防守(すおうのかみ)とも松平讃岐守とも聞いて御座るが、しかとは覚えて御座らねば、取り敢えず話の趣きのみ、ここに記しおくものである。

 

 

 大坂殿守廻祿番頭格言の事

 

 享保の始にや、大坂殿守(てんしゆ)雷火にて燒し事あり。平生火災稀成(まれなる)土地、上下騒動大かたならず。江戸表への注進状出來(しゆつたい)して、御城代御城番番頭其外一同花押してのべられけるに、大番頭勤たりし岡部何某、いかにも花押(くわあふ)の認方丁寧にて良(やや)暫く懸りし故、御城代も退屈やあらんと、傍の同役御城番など、隨分宜く相見へ候間、最早御手入にも及まじ、急變の事故急ぎ調印然るべしと有ければ、彼人答て、廻碌の注進一刻半刻遲かりしとて害ある事候はず、かゝる時節書判(かきはん)其外書面等に麁末(そまつ)あらば、番頭其外狼狽たるものかなと、江戸表にて御氣遣ひ思召(おぼしめさ)るべしと、聊(いささか)とり合(あは)ず、心靜に調印有りしと也。尤の事と人みな感じける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:京阪事蹟で連関。これも好きだ。焼け焦げた臭いのする中、平然とゆっくりまったり花押を描く岡部……一筆引いては、少し顔を離して、ためつすがめつ……既に引いた箇所に後付けなんど致す……いいねえ! 見えるようだ!

・「殿守」天守閣。

・「廻祿」底本ではこの標題の「廻」及び本文に現れる「廻祿」の、それぞれの右に『(回)』とある。回禄とは元来、中国の火の神の名で、転じて火災のことを言う語である。

・「番頭」ここでは文中の「大番頭」のこと。大番は旗本を編制した要地警護部隊の名で、二条城および大坂城を、それぞれに二組一年交代で守備した。大番頭はその長。

・「享保の始」とあるが、大阪城天守閣は寛文5(1665)年の落雷によって火災で焼失して後、天守閣は復元されていない(FM長野のブログ記事「小池さえ子おすすめ大阪城!」の記載による)(寛文(16601673)は12年まであるから「始」というのは誤りとはいえない)。ということは享保(17161736)の初め頃には既に消失していたことになり、話が合わない。根岸の記憶違いである。訳では「寛文」と正した。底本鈴木氏注は、やはりこれを誤りとし、『寛文五年正月二日。天守の他に番士の詰所、糒蔵なども焼けた。この注進は六日に江戸へ到着している(徳川実記)。当時の大坂城代は青山宗俊で、この際の処置がよかったというので賞せられた』という事実を示しておられる。「糒蔵」は「ほしいぐら/ほしいいぐらと読み、戦時の保存食を保管した蔵。「青山宗俊」(むねとし 慶長9(1604)年~延宝7(1679)年)は信濃小諸藩主・大坂城代から遠江浜松藩初代藩主。青山家宗家3代。ウィキの「青山宗俊」によれば、『慶長9年(1604年)、徳川氏譜代の重臣・青山忠俊(武蔵岩槻藩主・上総大多喜藩主)の長男として生まれる。元和7年(1621年)、従五位下・因幡守に叙位・任官する。元和9年(1623年)に父が第3代将軍・徳川家光の勘気を受けて蟄居になったとき、父と共に相模高座郡溝郷に蟄居した』。『寛永11年(1634年)、家光から許されて再出仕する。寛永15年(1638年)12月1日に書院番頭に任じられ、武蔵・相模国内で3000石を与えられて旗本となる。寛永21年(1644年)5月23日に大番頭に任じられる。正保5年(1648年)閏1月19日、信濃小諸において2万7000石を加増され、合計3万石の大名となり、信濃小諸藩主となる。寛文2年(1662年)3月29日、大坂城代に任じられたため、所領を2万石加増されて合計5万石の大名となった上で、所領を摂津・河内・和泉・遠江・相模・武蔵などに移され、移封となる』。『寛文9年(1669年)1226日、従四位下に昇叙する。延宝6年(1678年)に大坂城代を辞職し、8月18日に浜松藩に移封となる。延宝7年(1679年)2月15日に死去。享年76。』とある。それにしても鈴木先生の注は痒いところに手が届くばかりでなく、そこに抗アレルギー剤さえも塗ってくれる優れものである。

・「岡部何某」諸注不詳とする。寛文年間の誤りである以上、この姓自身も怪しい気がする。

・「花押」正式署名の代わり若しくはその記載者の正当な証しとして附帯して使用された一種の記号的符号的署名。書判(かきはん)。以下、ウィキの「花押」より一部引用する。『元々は、文書へ自らの名を普通に自署していたものが、署名者本人と他者とを明確に区別するため、次第に自署が図案化・文様化していき、特殊な形状を持つ花押が生まれた。花押は、主に東アジアの漢字文化圏に見られる。中国の唐(8世紀ごろ)において発生したと考えられており、日本では平安時代中期(10世紀ごろ)から使用され始め、判(はん)、書判(かきはん)などとも呼ばれ、江戸時代まで盛んに用いられた』。『日本では、初めは名を楷書体で自署したが、次第に草書体にくずした署名(草名(そうみょう)という)となり、それを極端に形様化したものを花押と呼んだ。日本の花押の最古例は、10世紀中葉ごろに求められるが、この時期は草名体のものが多い。11世紀に入ると、実名2字の部分(偏や旁など)を組み合わせて図案化した二合体が生まれた。また、同時期に、実名のうち1字だけを図案化した一字体も散見されるようになった。いずれの場合でも、花押が自署の代用であることを踏まえて、実名をもとにして作成されることが原則であった。なお、当初は貴族社会に生まれた花押だったが、11世紀後期ごろから、庶民の文書(田地売券など)にも花押が現れ始めた。当時の庶民の花押の特徴は、実名と花押を併記する点にあった(花押は実名の代用であるから、本来なら花押のみで十分である)』。『鎌倉時代以降、武士による文書発給が格段に増加したことに伴い、武士の花押の用例も激増した。そのため、貴族のものとは異なる、武士特有の花押の形状・署記方法が生まれた。これを武家様(ぶけよう)といい、貴族の花押の様式を公家様(くげよう)という。本来、実名をもとに作る花押であるが、鎌倉期以降の武士には、実名とは関係なく父祖や主君の花押を模倣する傾向があった。もう一つの武士花押の特徴として、平安期の庶民慣習を受け継ぎ、実名と花押を併記していたことが挙げられる。武士は右筆に文書を作成させ、自らは花押のみを記すことが通例となっていた。そのため、文書の真偽を判定する場合、公家法では筆跡照合が重視されたのに対し、武家法では花押の照合が重要とされた』。『戦国時代になると、花押の様式が著しく多様化した。必ずしも、実名をもとに花押が作成されなくなっており、織田信長の「麟」字花押や羽柴秀吉(豊臣秀吉)の「悉」字花押』(これは『一説には、「秀吉」を音読みにして「しゅうきつ」とし、その最初と最後の一文字を合わせて「しつ」に由来するといわれている』との注記あり)、『伊達政宗の鳥(セキレイ)を図案化した花押などの例が見られる。家督を継いだ子が、父の花押を引き継ぐ例も多くあり、花押が自署という役割だけでなく、特定の地位を象徴する役割も担い始めていたと考えられている。花押を版刻したものを墨で押印する花押型(かおうがた)は、鎌倉期から見られるが、戦国期になって広く使用されるようになり、江戸期にはさらに普及した。この花押型の普及は、花押が印章と同じように用いられ始めたことを示している。これを花押の印章化という』。『江戸時代には、花押の使用例が少なくなり、印鑑の使用例が増加していった。特に百姓層では、江戸中期ごろから花押が見られなくなり、もっぱら印鑑が用いられるようになった』。『1873年(明治6年)には、実印のない証書は裁判上の証拠にならない旨の太政官布告が発せられた。花押が禁止されたわけではないものの、ほぼ姿を消し、印鑑が取って代わることとなった。その後、押印を要求する文書については必要に応じて法定され、対象外の文書であっても押印の有無自体は文書の真正の証明に関する問題として扱われることに伴い、上記太政官布告は失効した。しかし、花押に署名としての効力はあり、押印を要する文書についても花押を押印の一種として認めるべき旨の見解(自筆証書遺言に要求される押印など)が現れるようになった』。『また、政府閣議における閣僚署名は、明治以降現在も、花押で行うことが慣習となっている。なお、多くの閣僚は閣議における署名以外では花押を使うことは少ないため、閣僚就任とともに花押を用意しているケースが多い』。『21世紀の日本では、パスポートやクレジットカードの署名、企業での稟議、官公庁での決裁などに花押が用いられることがあるが、印章捺印の方が早くて簡便である為非常に稀である』(閣僚が花押を持っているというのは初耳であった)。江戸中期の故実家伊勢貞丈(いせさだたけ)は、花押を5種類に分類しており(『押字考』)、後世の研究家も概ねこの5分類を踏襲している。5分類は、草名体、二合体、一字体、別用体、明朝体である』。『別用体とは、文字ではなく絵などを図案化したものをいう』。『明朝体とは、上下に並行した横線を2本書き、中間に図案を入れたものをいう。明朝体は、明の太祖がこの形式の花押を用いたことに由来するといわれ、徳川家康が採用したことから徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となり、徳川判とも呼ばれた』とあり、これら以外にも公家様・武家様・『禅僧様(鎌倉期に中国から来日した禅僧が用いた様式。直線や丸など形象化されたものが多い。) また、ルーツとされる『中国の花押の起源は、文献(高似孫『緯略』)によると南北朝時代の斉にまで遡ることができる(秦や晋の時代とする説もある)。唐代には韋陟の走り書きの署名があまりに流麗であったので「五朶雲(ごだうん)」と称揚された(『唐書』韋陟伝)。この署名は明らかに花押のことである。中国では現存する古文書が少ないこともあり、花押の実態は必ずしも明かではない。宋代の文書に記されている花押は、直線や丸を組み合わせた比較的簡単なものであり、日本の禅僧様もこの形式である。また、明の太祖が用いたとされる明朝体は、日本に伝わり、江戸時代の花押の主流をなした』。『なお、五代の頃より花押を印章にした花押印が使われ始め、宋代には花押印そのものを押字あるいは押と呼称した。元朝では支配民族であるモンゴル人官吏の間でもてはやされたが、これを特に元押という。モンゴル人官吏は漢字に馴染めなかったようである(陶宗儀『南村輟耕録』)。花押印は明清まで続いたが次第に使われなくなった』とある。確かに今のモンゴル語の文字の方を見ると、よっぽど花押みたようだ。

・「良(やや)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大阪城天守閣火災時の大番頭名言の事

 

 寛文の始めであったか、大阪城天守閣に落雷出火、天守閣は丸焼けになるという事態が出来(しゅったい)して御座った。

 天守閣という、平生、火災自体が稀れな特殊な場所柄で御座ったれば、文字通り上へ下へのてんやわんやの大騒ぎとなって御座った。

 即座に江戸表へ、落雷による出火にて大阪城天守閣焼亡の旨、注進状に認(したた)めて早駆けにて言上致すことと相成り、御城代・御城番・大番頭その外一同、各々注進状に花押をして仕上げんとせしところ、大番頭を勤めて御座った岡部何某なる者、如何にも花押の認め方丁寧にして、彼のところでやや暫く署名に時間がかかって御座った。

 御城代も焦っておられるに違いないと察した、傍らの同役大番頭の同僚や御城番らが、

「随分美事に仕上がれる書判とお見受け申す。最早、御手入れなさるにも及ぶまいぞ。急変の事ゆえ、急ぎ、お認めなされて早(はよ)う回さるるがよいぞ。」

と殊更に急かしたところ、かの岡部某答えて、

「――既に火災は鎮火致いて御座る。――その天守閣火災全焼の注進――一刻や半刻遅かったと致いても、これ、何の害あるはずも御座ない。――かゝる時こそ書判その他書面等に沮喪(そそう)あらば、『番頭その他の者、さぞや、うろたえ騒ぎ慌てふためいておるのであろう』なんどと、江戸表にては、お思い遊ばさるるに違い御座らぬ――」

と、急かしの言葉にも聊かとり合うことのう、落ち着いて書判致いたとの由。

 いや、尤もなることと、城代を始めとしてその場の人々みな、感じ入って御座ったということで御座る。

 

 

 惡業その手段も一工夫ある事

 

 佐州銀山敷内の水替として、明和の頃より江戸表にて被召捕し無罪の無宿を遣れる事也。其内大坂吉兵衞といへるありしが、元來大坂者にて巧(たくま)しき者にて用にも立ける故、一旦は水替の部屋頭に成りしが、彼者佐州相川町の一向宗の寺院へ來りて、我等事代々一向宗なれど、水替死失の節取捨の寺院は眞言宗にて、上の御極はいたしかた爲けれど、生涯の菩提先租の吊(とむら)ひ等は御寺にて勤給はる樣相歎きければ、尤の事とて他事なくあいしらひしに、時々の附屆も分限不相應になしてよろづつゞまやか也ければ、彼和尚のゆかりの町家抔へも吹聽なし、宗旨深切の心より彼旦家(だんか)ゆかりの町家にても他事なくしけるに、右寺并(ならびに)ゆかりの町家子供の祝ひなど有折からも厚く禮物(れいもつ)など施しける故、彌々奇特に思ひけるに、或る年の暮何か入用の由にて錢五六十貫文も借用を申ければ借遣しけるに、限りに至らずして返濟などなしぬる事一兩度成ければ、吉兵衞は氣遣ひなしとて、其後才覺賴みける節も兩家にては相應に調へ渡しけるに、一兩年に積て四五百貫文も借ける上、其後は絶て返さゞりし。不屆と思へど、元より水替躰(てい)のものに證文もなく貸し遣ける故、願出る事もならず、無念をこらへ過しと聞し。元來の惡黨には其心得も有べき事也と、佐州在勤の折から人の咄しけるを聞ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「佐州」佐渡国。

・「水替」鉱山の坑道内に溜まった水を、釣瓶(つるべ)・桶・木製手動ポンプなどを用いて外部に排出する作業。これに従事する労働者を水替人足と呼んだ。刑罰の一部として犯罪者が使役された。この佐渡のケースが最も知られる。以下、ウィキの「水替人足」から一部引用しておく。『佐渡金山へ水替人足が送られるようになったのは安永6年(1777)のことで』、『天明の大飢饉など、折からの政情不安により発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪犯罪を犯すようになった。その予防対策として、懲罰としての意味合いや将軍のお膝元である江戸浄化のため、犯罪者の予備軍になりえる無宿者を捕らえて佐渡島の佐渡金山に送り、彼らを人足として使役しようと』したものであった。『発案者は勘定奉行の石谷清昌(元佐渡奉行)』で、佐渡奉行は治安が悪化するといって反対したが、半ば強引に押し切る形で無宿者が佐渡島に送られることになり、毎年数十人が送られた』とある。その当時の反対した佐渡奉行というのは高尾孫兵衛信憙(のぶよし:在任期間は安永2(1773)年~安永6(1777)年)と依田十郎兵衛政恒(在任期間は安永4(1775)年~安永7(1778)年)の何れか若しくは両者である。因みに、根岸が佐渡奉行になったのはその7年後の天明4(1784)年3月のことであった(後、天明7(1787)年勘定奉行に栄転)。『当地の佐渡では遠島の刑を受けた流人(「島流し」)と区別するため(佐渡への遠島は元禄13(1700)に廃止されている)、水替人足は「島送り」と呼ばれた』。『当初は無宿である者のみを送ったが、天明8年(1788年)には敲や入墨の刑に処されたが身元保証人がいない者、文化2年(1805)には人足寄場での行いが悪い者、追放刑を受けても改悛する姿勢が見えない者まで送られるようになった』。『犯罪者の更生という目的もあった(作業に応じて小遣銭が支給され、改悛した者は釈放された。佃島の人足寄場とおなじく、囚徒に一種の職をあたえたから、改悟すれば些少の貯蓄を得て年を経て郷里にかえることをゆるされた)が、水替は過酷な重労働であり、3年以上は生存できないといわれるほど酷使された。そのため逃亡する者が後を絶たず、犯罪者の隔離施設としても、矯正施設としても十分な役割を果たすことが出来なかった』とある。『島においてさらに犯罪のあったときは鉱穴に禁錮されたが、これは敷内追込といい、また島から逃亡した者は死罪であった』とある。また、佐渡関連の私の御用達ブログである『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」』の「水替」の記載には、『地底のいちばん深いところでの作業なので、坑内労働ではもっとも難儀なものとされた。坑内は絶え間なく地下水がわいて出る。水は川となって坑道を流れ、豪雨ともなれば地上の洪水が坑内に流れこんで、人が坑道もろとも埋まることもあった。世界のどこの鉱山も、開発に当って直面する第一の仕事が水との闘いとされ、奥村正二氏は、「産業革命の端緒となった蒸気機関の発明も、実は鉱山の地下水汲上用ポンプの動力として生まれている」(「火縄銃から黒船まで」)と書いて、鉱山と水との関係に注意している。排水法でもっとも原始的で一般的なのが、手操(てぐり)水替といって「つるべ」(釣瓶)によるくみあげだ。少し進んだ方法は、家庭の車井戸と同じ仕組みで、井車を坑内の上部に仕掛けて、両端の綱につけた二つの釣瓶でくみ上げた。これを「車引き」といい、車の滑りを利用したものだ。坑内は広さが限られていて、細工物では取付けが難しい上に、故障が多いためである。細工物(器具)で慶長年間から使われたのは「寸方樋」(すっぽんどい)で、これは木製のピストン・ポンプである。鉱山の絵巻物にも見えている。つぎに西洋式の「水上輪」が承応二年(一六五三)以降、幕末まで使用される。もっとも精良なポンプだった。天明二年(一七八二)になってオランダ水突道具の「フランスカホイ」が、初めて青盤坑内で用いられる。老中田沼氏の腹心だった勘定奉行松本伊豆守が所持していたのを、試みに佐渡に運んで使ったものだ。九州大学工学部所蔵の「金銀山敷岡稼方図」にも実物が描かれているが、近年まで島内各地でも使われていた、天秤式手押消防ポンプとほぼ同じものだった。水上輪と同様に鉱山のポンプが、やがて農家に灌漑用または消防用として普及した事例の一つとなる』とある。根岸が佐渡奉行になったのは天明4(1784)年3月であるから既にフランスカホイが使用されている。何時もながら、ガシマさんは強い味方!

・「明和江戸表にて被召捕し無罪の無宿を遣れる事」明和年間は西暦1764年から1772年で、安永年間(1772から1781年)。前注の安永6(1777)年からは、やや前にずれている。根岸の勘違いか。「無宿」とは宗門人別改帳から除籍された者のこと。以下、ウィキの「無宿」には、『江戸時代は連座の制度があったため、その累が及ぶことを恐れた親族から不行跡を理由に勘当された町人、軽罪を犯して追放刑を受けた者もいたが、多くは天明の大飢饉や江戸幕府の重商主義政策による農業の破綻により、農村で生活を営むことが不可能になった百姓だった』とする。『村や町から出て一定期間を経ると、人別帳から名前が除外されるため、無宿は「帳外」(ちょうはずれ)とも呼ばれた』。『田沼意次が幕政に関与した天明年間には折からの政情不安により無宿が大量に江戸周辺に流入し、様々な凶悪犯罪を犯すようになったため、それらを防ぐため、幕府は様々な政策を講じることにな』り、この無罪の無宿の水替人足送りというのもその一つということになる。『犯罪を犯し、捕縛された無宿は「武州無宿権兵衛」、「上州無宿次郎吉」等、出身地を冠せられて呼ばれた』とある。

・「大坂吉兵衞」前注の最後の記述から、これは大坂無宿吉兵衞で、彼が実は無罪の無宿ではなく、実際の未遂或いは既遂の実行行為を伴う犯罪を犯した罪人であることが分かる。現代語訳ではそう補正してみた。

・「巧しき」これは「逞しき」に単に「巧」の字を当てただけのものではあるまい。所謂、「巧む」で、企てる、企(たくら)むの小利口・悪知恵のニュアンスを意識して用いている。「小悧巧な性質(たち)」と現代語訳してみた。

・「相川町」現在、佐渡市相川。旧新潟県佐渡郡相川町(あいかわまち)。佐渡島の北西の日本海に面した海岸にそって細長く位置していた。内陸は大佐渡山地で海岸線近くまで山が迫っている。南端部分が比較的なだらかな地形となっており、当時は佐渡金山(相川金山)と佐渡奉行所が置かれた佐渡国の中心であった。

・「吊ひ」「吊」には「弔」の俗字としての用法がある。

・「つゞまやか也」出しゃばることなく、要領を得ているさまを言う形容動詞。

・「あいしらひ」正しくは「あひしらひ」で、付き合う、もてなすの意。元は「あへしらふ」で後の「あしらふ」現代語「あしらう」の原形である。

・「旦家」檀家。

・「五六十貫文」一貫文(謂いは1000文であるが実際には960文)で、これを仮に現在の1万円から1万5000円程度と安めに換算しても、これだけでも50万円~90万円前後となり、最後に踏み倒した「四五百貫文」に至っては実に400万円から750万円という法外な金額になる。そもそもそんな大金何に使ったのだろう?――もしや、何やらん、非合法的な闇の取引なんぞが佐渡にて横行していた臭いさえしたりしてくるが――それよりやっぱり、信用が置けるからと言って、無宿咎人にそこまで貸す方が馬鹿である。しかし話柄としては、これくらいでなけりゃ、我々も驚かないといえば驚かない話ではある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 悪業にもその手段に一工夫ある事

 

 佐渡銀山坑内の水替えとして、明和の頃より、水替人足として、江戸表で召し捕られた無罪の無宿人が遣わされておったが、その中に――更に咎を犯して島送りとなった――大阪無宿吉兵衛という者が御座った。

 こ奴、大阪生れにて、如何にも大阪人らしい小悧巧な性質(たち)にて、いろいろ役にも立つ男であった故――無宿であるばかりでなく真正の罪人ではあったものの――ある時、一度、水替の人足部屋の頭ともなったことがあった。

 ある日のこと、この男、相川町にある、とある一向宗の寺院へ参ると、

「……我らが家、代々一向宗なれど……ここにては水替作業にて死にし者、これ、真言宗の寺院に取り捨てらるることと相成って御座る。……お上の御取り決めとなれば、致し方御座らぬこととは言い乍ら……やはり……何と言うても、せめてもの生涯の菩提や先祖の弔い、さまざまなる死後の勤行なんどは……どうか、このお寺にて、お願い仕りとう存ずればこそ……。」

と、如何にも殊勝且つ悲痛に懇請致いた。

 されば、それを聞いた当山住持も不憫に思い、

「それはそれは、如何にも尤もなることじゃ。」

と、菩提供養の件、快く受け、その後、この吉兵衛とも懇意になって御座った。

 この吉兵衛、時節の付け届けなんどにも、無宿咎人とは思えぬ分不相応なる物をかの住持に贈り、万事が万事、出しゃばることとてなく、要領を得て付き合(お)うて御座ったれば、かの和尚、知れる町屋の者たちなんどにも、

「咎人ながら、誠(まっこと)殊勝な者じゃ。」

と吹聴して廻る。

 これより吉兵衛は、かの住持の寺の檀家やら、寺僧に所縁(ゆかり)のある町家の者どもとも親しゅうするようになった。

 さてもそれから、寺は勿論のこと、その縁ある町家にても子供の祝いなんどある折りにても、吉兵衛より厚き祝いの品々なんどが施されて御座ったによって、いよいよ、『信心厚き好き人なり』との噂、これ、広がって御座った。

 ある年の暮れ、この吉兵衛、懇意に致して御座った、かの町家の一つに訪ね来て、何やらん物入りの由にて、銭五、六十貫文をも借用申し入れて参った。高額なれど、普段の信用もあれば、二つ返事で貸してやったところ、吉兵衛は返済の期日に至る前に返して参った。

 かようなことが何度か御座ったれば、

「吉兵衛は信用の置ける男じゃて。」

とますます安心致いて、その後(のち)も度々借金を請うて参れば、言うがままに貸し渡いて御座った。

……ところが……

……気がつけば、その貸した金、一、二年で積もり積もって四、五百貫文にも膨れ上がって御座った。……

……ところが……

……そこに至るまで気がつかぬも愚かなれど……

……吉兵衛の奴(きゃつ)、それっきり絶えて、ビタ一文……

……返しては御座らなんだのじゃった。……

 不届きなることとは思うたものの、気がつけば、もとより水替え人足の如き輩相手の上、迂闊にも信用貸しにて、証文なんどを交わすこともなしに貸し与えてきてしまったれば、奉行所へ訴え出ることも。これならず、ただただ無念を堪え、ただただ泣き寝入り致いた、と聞いた。

「……元来の悪党には……相応の猜疑の心得にて臨まねば、これ、なりません。……」

とは、佐渡奉行在勤の折り、聞いた話で御座る。

 

 

 金銀二論の事

 

 或人曰、金銀の世に通用するいと多き事ながら、右金銀の出來立(できたち)を考れば、數千丈の地中を穿(うが)ち千辛萬苦して取出し、或はこなし或は汰りわけ、又吹立(ふきたて)吹別(ふきわけ)て漸々して筋金(すぢがね)灰吹銀(はいふきぎん)といへる物になるを、猶吹立て小判歩判銀(ぶはんぎん)とはなしぬ。最初より出來上り迄手の懸る事、人力の費へいくばくぞや。然れば壹分或ひは又壹兩の金を遣ふも容易に遣ふべきにあらずといふ。尤成事也。又或人の曰、金銀の出來立は甚だ人力を費し漸くにして通用なす程になす。かゝる寶を少しも貯へ置べきやうなし、隨分遣ひて世に通用せんこそよけれといひし、是も又尤也。何れを善としいづれを非とせん。しかしながら金銀の貴き事のみを知りて、たやすく出來ざる事のみを思ひて、世の中の肝要其身の樞機(すうき)をも不顧、一金一錢を惜しみ親族知音(ちいん)の難儀をも不思、金錢を貯へ衣食住も人に背きて賤(いやし)からんは、是守錢の賊といふべき也。しかはあれど私の奢りに千金を不顧酒色に遣ひ捨んは、是國寶の冥罰(みやうばつ)も蒙りなん。世の中に武器を賣りて色欲に費し、升秤を賣て酒の價とし、農具を質入して美服をなす士農商の類ひも少なからず。心得有べき事也と爰にしるしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:佐渡金山実録物連関であるが、内容は根岸の鋭い社会への批評眼と、その絶妙のバランス感覚を持った論理的思考が伝わってくる、真摯な経済哲学論である。

・「數千丈」1丈=約3.03mであるから、例えば「數千丈」の下限を二千丈≒6㎞、上限を八千五百丈≒26㎞弱と仮定しても、実際の佐渡金山の坑道総延長は実に400km以上に及んでおり、遙かに過小評価している。勿論、これを地上からの垂直距離とするなら、たかだか約350mである(しかしこれは有に海面下数mにまで達するもので、故にこそ前話に語られる水替の作業が必要になってきたのであった。当時の技術としても非常に深い地底にまで掘り進んでいると言える)。しかし、通常、鉱山の深さは坑道距離を言うのが普通であるから、ここはやはり、誇張表現どころか、根岸さん、佐渡奉行としては大いに不勉強ですぜ、と言わざるを得ない。

・「こなし」これは精錬行程の初期段階に行われる「粉成し」作業のこと。ブログ「佐渡広場」の「歴史スポット55:佐渡金銀山絵巻の意味」に以下の詳細な記載があった。

 《引用開始》

(4)荻原三雄:「金銀山絵巻に見る鉱山技術ー採鉱から選鉱(粉成)の世界ー」

採掘された金銀鉱石はその後粉砕される。この選鉱工程を粉成(こなし)ともいう。この粉成には佐渡金銀山絵巻にみる「ねこ流し」の技法と岩手県金沢金山絵巻にみる「セリ板採り」の技法がある。この二つの技術系統は、江戸時代前期にはすでに成立していたようで、秋田藩士の黒沢元重が元禄4年(1691)に著した「鉱山至宝要録」の中に「金鉑(きんぱく)の荷、焼て唐臼にてはたき、石臼にて引、夫(それ)を水にてなこなりせり板にて流し、木津にて舟の如く成物へ洗ひため置き、是を打込と言ひ、更に板にゆり、金砂を取り、紙に包み、かはらけ様に、土にて作りたる物の内へ、鉛を合せ、いろりの内にても口吹すれば、黄金に成るなり」と見えることからも理解できる。ただし、なぜ、この二つの技術が並存していたのか、いまだ未解明である。

 粉成には鉱山臼が用いられる。搗(つ)く・磨(す)る・挽(ひ)くの三つの態様に応じた搗き臼・磨り臼・挽き臼と呼ばれる鉱山臼によって微粉化される。なかでも佐渡の挽き臼は大きく、しかも上臼と下臼の石質を変えるなど、他の鉱山に比べ特徴的である。石見銀山のように挽き臼がほとんどなく、「要(かなめ)石」という搗く・磨る専用の臼で粉成されていたところもあり、各地の鉱山ではそれぞれの鉱山臼を巧みに使い分けていたようである。粉成された鉱石は引き続き、鉛などを使い製錬していった。

 佐渡金銀山絵巻などにはこうした鉱山技術がじつに詳細に描かれており、往時の鉱山世界を浮かびあがらせている。

 《引用終了》

『水にてなこなり』の部分、意味不明であるが、「水にて粉成し」ということであろう。

・「汰(よ)りわけ」「汰」には「よる」という訓はないが、「洗う。洗い除く。」の意、及び「汰(よな)ぐ」「汰(よな)げる」と訓じて、淘汰の意、則ち「水で洗って悪い部分を取り去る。劣悪な部分を選び分けて取り去る、選び取る。」の意を持つので、所謂、水の中で笊や籠で揺すって選別する作業(恐らく前注で引用した「鉱山至宝要録」の部分の『板にゆり、金砂を取り』の部分)に相当する語と考えられる。

・「吹立吹別」製錬作業のこと。鉱石から目的とする金属を分離・抽出し(これが「吹別」。「吹分」とも書く)、精製して鋳造・鍛造・圧延用の地金とすること。鞴を用い、強力な風力で火を掻き立てて行うことから、かく言うのであろう。

・「筋金」「すじがね」とも「すじきん」とも読む。精錬の粉成し吹き立て吹き分け作業後、の成品。金鉱石から製錬したものを面筋金、銀を主成分とした鉱石を製錬した山吹銀を分筋金と呼んだ。

・「灰吹銀」山吹銀は中に金を含んでいるため、灰吹法により更に銀純度を高めて製錬された銀地金を言う。以下、ウィキの「灰吹銀」より一部引用する。『銀を含有する黄銅鉱などの鉱石に鉛または方鉛鉱を加え、鎔融すると銀は鎔融鉛のなかに溶け込む』。『また銀を含有する荒銅(粗銅)を鎔融し鉛を加え、徐々に冷却し800℃前後に保つと、鉛に対する溶解度の小さい精銅が固体として析出し、依然鎔融している鉛の中には溶解度の大きい銀が溶け込んでいる』。『さらに鉛の鉱石である方鉛鉱も0.10.2%程度の銀を含んでいるのが普通であり、取り出された粗鉛地金にも少量の銀が含まれる』。『この銀を溶かし込んだ鉛は貴鉛(きえん)と呼ばれ、鎔融した状態で精銅などから分離され、骨灰製の坩堝で空気を吹きつけながら鎔解すると、鉛は空気中の酸素と反応し酸化鉛となり骨灰に吸収され、酸化されない銀が残る』。『これが灰吹銀で』、『荒銅から灰吹法により銀を取り出す作業は特に南蛮吹(なんばんぶき)あるいは南蛮絞(なんばんしぼり)と呼ばれ、取り出された灰吹銀は絞銀(しぼりぎん)と呼ばれた』。『これらの灰吹銀は極印が打たれ、また打ち延ばされたものは、それぞれ極印銀および古丁銀と呼ばれ、この秤量銀貨は領国貨幣として流通し、江戸時代の丁銀の原型となった』。『戦国時代から江戸時代前半に掛けて、ソーマ銀(佐摩、石見)、ナギト銀(長門)、セダ銀(佐渡)等といわれる灰吹銀が貿易決済のため多量に海外へ流出し、幕府は長崎において良質灰吹銀の輸出を監視したが、17世紀の間に丁銀を合わせて110万貫(4,100トン)を超える銀が流出したという』。『銀座における銀地金の調達法には二通りあり、幕領銀山からの上納灰吹銀は公儀灰吹銀(こうぎはいふきぎん)または御灰吹銀(おはいふきぎん)と呼び、これを御金蔵から預り吹元にして丁銀を鋳造し吹立高の3%を銀座の収入とし、残りを御金蔵へ上納した御用達形式があり、他方、幕領以外の銀山、私領銀山から銀座が買入れ、丁銀を鋳造する場合は買灰吹銀(かいはいふきぎん)もしくは諸国灰吹銀(しょこくはいふきぎん)と称した』。『江戸時代初期、石見銀山、蒲生銀山、生野銀山、多田銀山、院内銀山の産銀は最盛期を迎え、また佐渡金山も金よりも寧ろ銀を多く産出した』。

『これらの鉱山から産出される銀は灰吹銀として銀座に買い上げられたが、その銀品位に応じて買い上げ価格が定められた。純度の高い上銀は南鐐(なんりょう)と呼ばれ、さらに精製度の高いものは花降銀(はなふりぎん)と呼ばれた。純銀は鎔融すると空気中の酸素を溶かし込み、凝固時にこれを放出して花が咲くように痘痕になるからである』。『このような最上級の銀地金は、1.1倍の慶長丁銀でもって買い入れられたため、一割入れと呼ばれた。慶長丁銀は銀を80%含有するため、1.1倍であれば0.8×1.10.88となり、この12%分が銀座の鋳造手数料などに相当した』。『90.91%の銀を含有する地金は0.9091×1.11.00となり、同質量の慶長丁銀で買い入れられるため、釣替(つりかえ)と呼ばれ』、『85%の銀を含有する地金であれば、0.85×1.10.935となり、六分五厘引きとなった』。『「明和諸国灰吹銀寄」による各銀山より山出しされた灰吹銀の品位の例を挙げると、津軽銀は三分引き(88%)、院内銀山の秋田銀は二分入れ(93%)、佐渡印銀は一割入れ(上銀)、因幡銀は五分引き(86%)、雲州銀は一割引き(82%)となっている』(原文の書名の『 』を「 」に変えた。以下同じ)。『公儀灰吹銀の場合では、「官中秘策」にある銀座の書上の記述には佐渡、但馬の御銀は100貫につき銅20貫加え、石見御銀は100貫目につき銅22貫を加え丁銀を吹立たとあり』、『計算上では佐渡、但馬の灰吹銀は銀含有率96.0%、石見の灰吹銀は97.6%ということになる』。

・「歩判銀」一分判金のこと。一分金(いちぶきん)とも。金貨の一種。注意すべきは「一分銀」とは違うことである。一分銀はずっと後、幕末に登場する天保一分銀以降の、当該同類銀貨の呼称である。以下、ウィキの「一分金」より一分、じゃない、一部引用する(記号の一部を変更した)。『金座などで用いられた公式の名称は一分判(いちぶばん)であり』、『「三貨図彙」には一歩判と記載されている。一方「金銀図録」および「大日本貨幣史」などの古銭書には一分判金/壹分判金(いちぶばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では「一分判金」の名称が広く用いられる。また天保8年(1837年)の一分銀発行以降はこれと区別するため「一分金」の名称が普及するようになった』。『形状は長方形。表面には、上部に扇枠に五三の桐紋、中部に「一分」の文字、下部に五三の桐紋が刻印されている。一方、裏面には「光次」の署名と花押が刻印されている。これは鋳造を請け負っていた金座の後藤光次の印である。なお、鋳造年代・種類によっては右上部に鋳造時期を示す年代印が刻印されている』。『額面は1分。その貨幣価値は1/4両に相当し、また4朱に相当する計数貨幣である。江戸時代を通じて常に小判と伴に鋳造され、品位(金の純度)は同時代に発行された小判金と同じで、量目(重量)は、ちょうど小判金の1/4であり、小判金とともに基軸通貨として流通した』。『江戸期の鋳造量は、小判金と一分判金を合わせた総量を「両」の単位をもって記録されており、本位貨幣的性格が強い』。『これに対し、一朱判金、二朱判金、二分判金は、純金量が額面に比して少ないことから補助貨幣(名目貨幣)の性格が強かった(ただし、元禄期に発行された元禄二朱判金は、一分判金と同様に本位貨幣的である)。京師より西の西日本では俗称「小粒」といえば豆板銀を指したが、東日本ではこのような角型の小額金貨を指した』。『慶長6年(1601年)に初めて発行され、以後、万延元年(1860年)までに10種類鋳造されたが、幕府および市場の経済事情により時代ごとに品位・量目が小判金と同様に改定されている。また、江戸時代後期には、一分金と等価の額面表記銀貨、一分銀が発行されて以降、一分金の発行高は激減した』。「銀」という本話の表記に疑問を持つ向きもあろうが、「銀」は銀貨以外に、広義の錢(ぜに)の意でもあるから、言い立てるには及ばないと考えてよいように思われる。

・「樞機」「枢」は戸の枢(くるる:戸を閉めるための戸の桟から敷居に差し込む止め木又はその仕掛け。おとし。)、「機」は石弓の引き金で、物事の最も大切な部分。要め。要所。肝要。枢要。

・「是國寶の冥罰も蒙りなん」の「ん」は婉曲の助動詞「む」である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 金銀に就いての二つの議論の事

 

 ある人曰く、

「……金銀の、世に流通するその量たるや甚だ膨大なものにて御座るが、その金貨銀貨鋳造の成り立ちを慮るならば――則ち、数千丈に地中を穿ち、人々が千辛万苦の血の小便(しょんべん)を流して掘り取りて、或いは砕いて粉と成し、或いは揺り分け選り分け、また、火にて吹き立て、吹き分けて、漸っと筋金や灰吹銀という物と成る。それをまた、金座銀座にて吹き溶かして小判や一分判金とは成すので御座る。――この鉱石採掘の最初より金貨銀貨出来上がる迄、どれほどの手間、労力が消費されることであろう、それはもう、想像を絶するものにて御座ろうぞ。さすれば一分、または一両の金を使うにしても、ほいほいと容易く使うべきものにては、これ、御座ない。心してその粒粒辛苦を思うべしじゃ。……」

と。

 尤もな意見で御座る。

 また、ある人曰く、

「……金銀は成り立ちは甚だ多くの労力を費やして、漸っと金貨銀貨と成り広く世間に流通するようになる物にて御座る。さればこそ、このような世の宝はビタ一文なりとも無駄に貯え置いてよいはず、これ、御座ない。――青砥藤綱の故事にもある如く、あたら死に金とせず――十全に使い廻し使い廻しし、更に広う広う世に流通させることこそ、これ、良きことにて御座る。……」

 これもまた、尤もな意見で御座る。

 では、さても――何れを善とし、いずれを非とすべきで御座ろう。

 まずは前者への反論を致す。

 その、金銀成立の労苦を知り、それを尊崇し大切に致すべしという、その考え方、これは基本的には正しい――しかし乍ら、その主張の視線は、ただ金銀が入手し難い貴金属であること、金貨銀貨が容易く出来ざる物であるということ、それのみに向けられたものであり――世の中にとって欠くべからざる肝心なる流通経済ということ、またその身の地位家柄及び人としての世に於ける役分とは何かといった、何よりも肝要なる人倫の道を顧みることなく――一金一銭を惜しみ、親族知人の困窮の難儀をも何処吹く風と、金銭を貯え、己れのみの衣食住の豊かなればよしとて、人の道に背いて御座るような魂の賤しい者――これ、人でなしの守銭奴、とも言うべき輩である。――

 さて、翻って後者への反論に移ろう。

 その、世の枢要とも言える流通経済の円滑発展を第一に図るべしという、その考え方、これは基本的には正しい――とは言え、私利私欲に奢り、あたら貴重な千金を惜しむことなく――湯水下痢便を垂れ流す如くに酒色に使い捨つるような輩――これ、国の宝たる金銀を蔑(ないがし)ろにする人非人として、必ずや、天罰を蒙るものである。――世の中には、武士でありながら、武具を売って色欲に注ぎ込み、商人でありながら、升や天秤を売り払って酒代とし、農民でありながら、農具を質入して奢侈なる服を着て酔うておる愚かな類いも、これ、少なくはない。――

 以上、金銭なるものに対し、心得ておくべきと、私の思うておることなれば、ここに記しおくものである。

 

 

 風土氣性等一概に難極事

 

 一年新見(しんみ)加賀守長崎奉行の節、長崎市中三分一燒失の事有りしに、長崎始ての大火故、役所よりも手當有之しが、長崎の土俗は陰德といふ事を專ら信仰なしけるが、濱表へ米三百俵ほど積みて、少分ながら貧民御救ひ被下候(さふらひ)しやう建札いたし置、或ひは火元の名を借りて銀箱等を役所へ差出し置候事ありし由。長崎に同年在勤せし者語りし也。崎陽は交易專らにて、專ら利に走る土地と思ひしに、此咄を聞てはあながち賤しむべき所とも思はれざるゆへ爰にしるし置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:金品論から、長崎の大火災に於ける被災者への篤志家の無私の金品拠出で直連関。

・「一年」ある年の意であるが、後注で判明するように、これは明和3(1766)年である。

・「新見加賀守」新見正栄(しんみまさなが 享保3(1718)年~安永5(1776)年)。底本の鈴木氏の注によれば、宝暦111761)年に小普請奉行、同年従五位下加賀守となったとある。明和2(1765)年から安永3(1774年)まで長崎奉行、同年御作事奉行へ転任(鈴木氏この転任の年を誤っている)、翌安永4(1775)年には勘定奉行となったが、その翌年に59歳で没している。この話、根岸は本文で新見本人から聴いたのではないとするが、新見が勘定奉行となり没する一年の間で根岸はこの新見本人とも親しく話す機会があった可能性がある。私はこの話、さりげなく新見正栄の名を「耳嚢」に示して一種のオードとしたかったのではなかったろうか? 何故なら、この頃、根岸は38歳、御勘定組頭で、正に新見が没する安永5(1776)年には勘定吟味役に抜擢されているからである。恐らく新見は根岸の才能を高く買っていた人物の一人であったに違いないからである。

・「長崎奉行」長崎を管理した遠国奉行の一つ。非常に長くなるが、本話を味わう上で必要と判断し、ウィキの「長崎奉行」より多くの部分を以下に引用させて頂く。『戦国時代大村氏の所領であった長崎は、天正8年(1580年)以来イエズス会に寄進されていたが、九州を平定した豊臣秀吉は天正16年(1588年)4月2日に長崎を直轄地とし、ついで鍋島直茂(肥前佐賀城主)を代官とした。文禄元年(1592年)には奉行として寺沢広高(肥前唐津城主)が任命された。これが長崎奉行の前身である』。『秀吉死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は豊臣氏の蔵入地を収公し、長崎行政は江戸幕府に移管された。初期は竹中重義など徳川秀忠側近の大名が任ぜられたが、やがて小禄の旗本が、のちには10002000石程度の上級旗本が任ぜられるようになった。長崎奉行職は幕末まで常置された』。『当初定員は1名で、南蛮船が入港し現地事務が繁忙期となる前(6月頃)に来崎し、南蛮船が帰帆後(10月頃)に江戸へ帰府するという慣習であった。しかし、島原の乱後は有事の際に九州の諸大名の指揮を執るため、寛永15年(1638年)以降は必ず1人は常駐する事になった。寛永10年(1633年)2月に2人制となり、貞享3年(1686年)には3人制、ついで元禄12年(1699年)には4人制、正徳3年(1713年)には3人制と定員が変遷し、享保期(1716年~1736年)以降は概ね2人制で定着する。天保14年(1843年)には1人制となったが、弘化2年(1845年)からは2人制に戻った。定員2名の内、1年交代で江戸と長崎に詰め、毎年8月から9月頃、交替した。また、延享3年(1746年)以降の一時期は勘定奉行が兼任した』。『奉行は老中支配、江戸城内の詰席は芙蓉の間で、元禄3年(1690年)には諸大夫格(従五位下)とされた。その就任に際しては江戸城に登城し、将軍に拝謁の上、これに任ずる旨の命を受ける』。『当初は、芙蓉の間詰めの他の構成員は全員諸大夫だったが、長崎奉行のみが布衣の身分で、しかも芙蓉の間末席であった。牛込重忝が長崎奉行を務めていた時期、当時の老中久世広之に対し長崎奉行が他の構成員と同様に諸大夫になれるようにという請願がなされたが、大老酒井忠清に拒否された。その理由は、「従来長崎奉行職は外国商人を支配する役職であって、外国人を重要視しないためにも、あえて低い地位の人を長崎奉行に任じてきた。しかし、もしここで長崎奉行の位階を上昇させれば、当然位階の高い人をその職に充てなければならなくなる。そして、これまで外国人を地位の低い役人が支配していることにより、それだけ外国において幕府の威光も高くなるとの考えから遠国奉行の中でも長崎奉行の地位を低くし、しかも芙蓉の間末席にしてきた。そのため、長崎奉行の地位を上げるような願いは聞き届けられない」というものであった』。『しかし、川口宗恒が元禄3年(1690年)に従五位下摂津守に叙爵された後、長崎奉行は同等の格に叙されるようになり、元禄12年(1699年)には京都町奉行よりも上席とされ、遠国奉行の中では首座となった』。『奉行の役所は本博多町(現、万才町)にあったが、寛文3年(1663年)の大火で焼失したため、江戸町(現、長崎市江戸町・長崎県庁所在地)に西役所(総坪数1679坪)と東役所が建てられた。寛文11年(1671年)に東役所が立山(現、長崎市立山1丁目・長崎歴史文化博物館在地)に移され、立山役所(総坪数3278坪)と改称された。この両所を総称して長崎奉行所と呼んだ』。『奉行の配下には、支配組頭、支配下役、支配調役、支配定役下役、与力、同心、清国通詞、オランダ通詞がいたが、これら以外にも、地役人、町方役人、長崎町年寄なども長崎行政に関与しており、総計1000名にのぼる行政組織が成立した。奉行やその部下、奉行所付の与力・同心は、一部の例外を除いて単身赴任であった』。『近隣大名が長崎に来た際は、長崎奉行に拝謁して挨拶を行なったが、大村氏のみは親戚格の扱いで、他の大名とは違い挨拶もそこそこに中座敷へ通し、酒肴を振舞うという慣例だった』。『奉行は天領長崎の最高責任者として、長崎の行政・司法に加え、長崎会所を監督し、清国、オランダとの通商、収益の幕府への上納、勝手方勘定奉行との連絡、諸国との外交接遇、唐人屋敷や出島を所管し、九州大名を始めとする諸国の動静探索、日本からの輸出品となる銅・俵物の所管、西国キリシタンの禁圧、長崎港警備を統括した。長崎港で事件が起これば佐賀藩・唐津藩をはじめとする近隣大名と連携し、指揮する権限も有していた』。『17世紀頃までは、キリシタン対策や西国大名の監視が主な任務であったが、正徳新令が発布された頃は貿易により利潤を得ることが長崎奉行の重要な職務となってきた』。『江戸時代も下ると、レザノフ来航、フェートン号事件、シーボルト事件、プチャーチン来航など、長崎近海は騒がしくなり、奉行の手腕がますます重要視されるようになる』。『長崎に詰めている奉行を長崎在勤奉行、江戸にいる方を江戸在府奉行と呼んだ。在府奉行は江戸の役宅で、江戸幕府当局と長崎在勤奉行の間に立ち、両者の連絡その他にあたった。在勤奉行の手にあまる重要問題や、先例のない事項は、江戸幕府老中に伺い決裁を求めたが、これは在勤奉行から在府奉行を通して行なわれ、その回答や指示も在府奉行を通して行なわれた。オランダ商館長の将軍拝謁の際に先導を務めたのも在府奉行であった』。以下は司法権の記載となる。『長崎の町の刑事裁判も奉行に任されていた。他の遠国奉行同様、追放刑までは独断で裁許出来るが、遠島刑以上の刑については、多くはその判決について長崎奉行から江戸表へ伺いをたて、その下知があって後に処罰される事になっていた。長崎から江戸までの往復には少なくとも3ヶ月以上を要し、その間に自害をしたり、病死したりする者もいた。その場合は、死体を塩漬けにして保存し、江戸からの下知を待って後に刑が執行された。幕府の承認を得ず、独断専行すれば、処罰の対象とされた。大事件については、幕府からの上使の下向を仰ぎ、その指示の下にその処理にあたった』。『奉行所の判決文集である「犯科帳」で、本文の最後に「伺の上~」として処罰が記してあるのは、その事件が極刑にあたる重罪である場合や、前例の少ない犯罪である場合等、長崎奉行単独の判断では判決を下せない時に、江戸表に伺いをたて、その下知によって処罰が決まった事を指した。その江戸表への伺いの書類を御仕置伺という。遠島以上の処分については、長崎奉行は御仕置伺に罪状を詳しく記した後、「遠島申し付くべく候や」という風に自分の意見を述べた。下知は伺いのままの場合が多かったが、奉行の意見より重罪になる事もあれば軽くなる事もあった。なお、キリシタンの処罰については、犯科帳には記述されていない』。『遠島刑は、長崎からは壱岐・対馬・五島へ流されるものが多く、大半は五島であった。まれに薩摩や隠岐にも送られた。天草島は長崎奉行の管理下にあったが、そこには大坂町奉行所で判決を下された流人が多かった。遠島の場合、判決が下っても、すぐに島への船が出る訳ではなく、天候や船の都合、判決の前後する犯人を一緒に乗船させる都合等により、かなり遅れる事もあった。そのため、遠島の判決文には、末尾に「尤も出船迄入牢申し付け置く」と書き添えてあるものが多かった』。『長崎で判決を受けた流人の大部分は五島に送られたが、その流人の支配については五島の領主に一任された。五島の領主から、流人がさらに罪を重ねたり島抜けをしたり等の報告があった場合には、奉行所の記録にもその事が付け加えられた。天草島の流人は長崎から送られる者は比較的少なかったが、天草は長崎奉行の支配下にあったため、長崎奉行所の記録には天草流人の様子を伺うものが多い。流人が島で罪を重ねた場合、天草は長崎奉行の支配下のため、奉行がその処罰を直接指示した。壱岐・五島・対馬などの場合は、処罰はその領主家来の支配に委ねられるが、その連絡報告を長崎奉行から求められた』。『奉行所の取り調べや処分について不平不満のある市民は、それについて意見を述べたいと思ったら町役人を通じて訴える必要があった。手続きの煩雑さや、上申しても願いが通る可能性が低い事から、町役人も手続きをしようとしない場合が多かった。これに対して市民は、願いを文書にして奉行所に投げ込む「投げ文」「捨て訴え」、直接役人や役所へ陳情する「駕籠訴え」「駈けこみ訴え」等を行なった。これらの非正規の手順は、「差越願(さしこしねがい)」として却下され、投げ文をした者の身元が分かれば、本人を町役人付き添いで呼び出し、目の前で書状は焼き捨てられた。しかし、表面上はそれを却下しながら、奉行所でそれを元に再吟味をし、市民の要求が通る場合もあった』。相応な治安維持のシステムであるが、場所柄、例外があった。今で言う治外法権である。『唐人やオランダ人に対する処罰は日本人と同じにする訳にはいかず、手鎖をかけて中国船主やカピタンに身柄を渡し、貴国の法で裁いて欲しいと要求する程度だった。罰銅処分(過料)か国禁処分になる場合が多く、国禁処分になった唐人は唐人屋敷に閉じこめられ、次に出港する船で帰国させられ、日本への再渡航を禁じられた。しかし開港後は、多くの外国人によるトラブルが発生し、従来のように唐船主や出島のカピタン相手に通達するだけでは済まず、各国の領事に連絡し、しかもその多くは江戸表へ伺いをたてねばならなくなった』。なお、『江戸やその他の場所では、非人に対する刑罰はその頭の手に委ねられていたが、長崎の場合は直接奉行によって執行された』とある。次に「長崎奉行の収入」の項。『奉行は、格式は公的な役高1000石、在任中役料4400俵であったが、長崎奉行は公的収入よりも、余得収入の方がはるかに大きい』。『すなわち、輸入品を御調物(おしらべもの)の名目で関税免除で購入する特権が認められ、それを京・大坂で数倍の価格で転売して莫大な利益を得た。加えて舶載品をあつかう長崎町人、貿易商人、地元役人たちから八朔銀と呼ばれる献金(年72貫余)や清国人・オランダ人からの贈り物や諸藩からの付届けなどがあり、一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしができるほどだといわれた。そのため、長崎奉行ポストは旗本垂涎の猟官ポストとなり、長崎奉行就任のためにつかった運動費の相場は3000両といわれたが、それを遥かに上回る余得収入があったという』。最後に「長崎在勤奉行の交替」の項が映像を髣髴とさせるので見ておこう。『江戸詰めの奉行が、長崎在勤の奉行と交替するため長崎に向け出立すると、その一行が諫早領矢上宿に到着する頃に、長崎在勤奉行は町使と地役人の年行司各2人ずつを案内のため、矢上宿に遣わす。そして奉行所西役所では屋内だけでなく庭の隅々まで清掃して着任する奉行を出迎える用意をする』。『さらに在勤奉行の代理として、その家臣1人が蛍茶屋近くの一ノ瀬橋に、西国の各藩から派遣されている長崎聞役は新大工町付近に、年番の町年寄は地役人の代表として日見峠に、その下役の者達は桜馬場から日見峠の間に並ぶ。そして長崎代官高木作右衛門は邸外に出て、それぞれ新奉行を待つ事になる』。『矢上宿に一泊した奉行は、駕籠の脇に5人、徒士5人、鎗1筋・箱3個、長柄傘・六尺棒その他からなる一行で出発。日見峠で小憩を取る際に、町年寄らが出迎え、奉行の無事到着を祝う。ついで沿道の地役人らが両側に整列する間を一行は進む。在勤奉行代理の家臣が、その氏名を1人ずつ紹介するが奉行はそれに対しては特に言葉を返さない』。『桜馬場まできたところで、出迎える諸藩の聞役の名を披露され、そこで初めて奉行はいちいち駕籠を止めて会釈する。ついで勝山町に進み、代官高木作右衛門と同姓の道之助が出迎えるのを見て、奉行は駕籠を出てこれと挨拶を交わす。西役所に一行が到着するのはこの後である』。『長崎の地役人や先着の家臣達が奉行所の門外や玄関でこれを迎え、奉行が屋内に入ったところで、皆礼服に改め、無事に到着した事を祝い、奉行もまたこれに応える。その後直ちに立山の長崎在勤奉行の下に使者を遣わして無事到着を報告する。これを受けた立山奉行所はそれを祝い、鯛一折りを送り届ける。到着した奉行は、昼食の後、立山奉行所に在勤奉行を訪問し、然るべき手続きを終え、西役所に戻る。その後、地役人らの挨拶があるが、これには新奉行は顔を出さない。その後、立山から在勤奉行がここに返礼に来る、というものであった』とある。

・「長崎市中三分一燒失の事」長崎は度重なる火災が起こっているが、藤城かおる氏の個人がお作りになった「長崎年表」の該当部分を見ると、新見正栄が長崎奉行をしていた明和2(1765)年から安永3(1774年)までの約10年間で、15回の出火を数える。その中でも大火災っとなったものは明和3(1766)年2月27日の大火がこれであると思われる。その記載に拠れば、『夜、四つ時に西古川町の林田あい・林田まさ宅の風呂場の火元不始末により出火』、その後、『大風で風向きが変わり本古川町、今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町、今籠町、     今石灰町、新石灰町、油屋町、榎津町、万屋町、東浜町を焼き尽く』して、『西古川町、西浜町、銀屋町の過半数を焼』き、実に『16町、2794戸を焼失する大火災』となった。『罹災者には米、銭を与え仮屋33棟を造って収容』、本話に記された如く、『市内の富豪も米銭を寄付』したとあり、その救済を行った具体的な人名と拠出寄付した物品事業等が以下のように記されている。『村山治兵衛は米300俵、青木左馬は苫1200枚、筵600枚、飛鳥八右衛門ら14人は銀26貫目』、『川副大恩は無利子で銀52200目、上田嘉右衛門は低利で銀63貫目を貸与』とある。また本文に現れる新見ら奉行所の指示としては、『奇特の人々に奉行所はそれぞれ麻上下ひと揃え或いは衣服を与え賞』し、『類焼地役人にも貸与が許可』され、『消防尽力者は表彰を受け、町乙名は各麻上下ひと揃い、消火夫には各銭200文が与えられ』たとある。更に、この年表の真骨頂であるが、逆に火災に関わる処罰者の一覧も示されている。出火元となった西古川町の林田あいは押込30日、同林田まさは叱(しかり)、更に不作為犯として『出火の折り、隣家の者がその場に駆けつけ消火もせず、駆けつけても消火に尽くさ』なかったとして『西古川町・安留勘兵衛、西古川町・小柳久平次、西古川町・大薗長右衛門、榎津町・櫛屋市太郎、榎津町・利三次』の5名が叱、『出火を発見し消防のため水をかけるた』が、その消火活動が杜撰であったがために大火となったとして、西古川町の清助及び金次郎が叱を受けた、とある。

・「長崎始ての大火故」この言いは誤りである。長崎ではこれ以前、遡ること約百年前に「寛文長崎大火」と呼ばれるほぼ全市中を焼き尽くした大火災があった。以下、ウィキの「寛文長崎大火」より引用して、本話との類似性の参考に供しておく。『寛文3年(1663年)38日の巳の刻に、筑後町で火災が発生。その火は北風に煽られ、周囲の町へと広がっていき、長崎市中のほとんどを焼き尽くす大火災となった』。『この火災は筑後町に居住する浪人・樋口惣右衛門による放火が原因だった。日頃から鬱々としていた惣右衛門が発狂して自宅の2階の障子に火をつけ、隣家の屋根に投げつけて発火させた。当時の家屋のほとんどの屋根は茅葺だったため火の回りが速く、市街57町、民家2900戸を焼き尽くす大災害となり、長崎奉行所もこの時焼失した』(脚注に「増補長崎略史」を引用し、『市街六十三町、民家二千九百十六戸、及び奉行所・囚獄・寺社三十三ヶ所を焼亡す。その間口延長二百二十九町三十間、災いを蒙らざる者は金屋町・今町・出島町・筑後町・上町・中町・恵比寿町の幾分にして、戸数わずかに三百六十五戸のみ』とある)。『この火事は放火された日の翌朝午前10時まで約20時間続いたという』。『この後、放火の犯人である惣右衛門は捕らえられ、焼け出された人々の前を引き回された上で火あぶりの刑に処せられ』ている。『この火災は長崎の町が出来てから最大の災厄で、焼け出された町人達はその日の糧にも窮することとなった』。『これに対し、当時の長崎奉行の島田守政は、幕府から銀2000貫を借り、内町の住民に間口1間あたり290匁3分(銀60匁=1両=約20万円)、外町の住民に同じく121匁から73匁の貸与を行い、焼失した住宅の復旧を図った』(この「内町」「外町」については『地租を免ぜられた町で、「外町」はそれ以外の町。』という脚注がある)。『また、焼失した社寺に銀を貸与し、近国の諸藩から米を約16,000石購入して被災者に廉価で販売するなどの緊急対策を行った。この時の借銀は10年賦だったが、10年後の延宝元年(1673年)に完済された』。『また、島田は長崎の町の復興に際し、道路の幅を本通り4間、裏通り3間、溝の幅を1尺5寸と決め、計画的に整備していった。この時に造られた道幅は、以後も長崎の都市計画の基本となり、明治時代以後に道幅が変更されたところはあるが、現在でも旧市街にそのまま残されていて、独特な町並を形成している』。『本五島町の乙名倉田次郎右衛門は、かねてより長崎の町の水不足を案じていたが、この火事の際の消火用水の不足を知り、私費を投じて水道を開設する事を決意。延宝元年(1673年)に完成した倉田水樋は、200年余にわたって長崎の町に水を供給し続けた』。「始て」としたのは根岸の誤りと思われる。新見は寛文長崎大火から実に百年振りの大火であったことを述べた際、根岸がこの「百年」を稀に見る大火という形容と誤解したのではなかったか? 現代語訳はそのままとした。

・「陰德」人に知られぬように秘かにする善行。仏教・儒教にては大いに貴ばれる仁徳である。

・「崎陽」長崎の漢文風の美称。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 風土気性なんどというものは一概には決め難きものである事

 

 ある年、新見加賀守正栄殿が長崎奉行を勤めておられた折りのこと、長崎市中三分の一が焼失するという大火災が御座った。長崎にては初めての大火でもあったがため、勿論、奉行所からも迅速な救済が行われたが、長崎の土地柄には実は、『陰徳』を殊更に貴ぶ風が御座って、この折りにも、大火の翌日のこと、突如、何者かによって浜辺に米三百俵が積み上げられており、そこに

――些少乍ら被災の貧民ら御救い下され候よう御使い下されたく候――

と墨痕鮮やかに書かれた匿名の立て札が御座ったり、あるいは出火元の町屋の名を借りて、大枚の入った千両箱などを、こっそりと御役所門前へ差し出だいて消えてゆく者なんどが御座った由。

 その年、加賀守殿と共に長崎に在勤して御座った者が語った話で御座る。

 崎陽は異国との交易を専らにし、正に専ら利に走るばかりの土地柄と思って御座ったれど、この話を聞いての後は、強ち、守銭の民草と賤しむべき土地とは、これ、全く思えぬようになって御座ったれば、ここに特に記しおくもので御座る。

 

 

 人の禁ずる事なすべからざる事

 

 大坂町奉行屋敷書院の庭に大き成石あり。右石に立寄ふれけがしぬれば必祟り有とて、昔より繩を張りて人の立寄事を戒めぬ。岡部對馬守町奉行の節、かゝる怪石とりのけ可然とて取除にかゝりしが、彼是する事ありて程過しに、對馬守はからず御役を退きし由。右對馬守は其身持よろしからず、石の祟りなくとも神明(しんめい)の罰も蒙るべき人なれど、都(すべ)て古來より人の禁じたる事破り捨んは、理に似て却て不理なるべし。心有べき事也と人のいひし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。祟る石であるが、本記述を見ても、根岸は基本的にある種の臨機応変の健全なるプラグマティストの一面を持っていたことが分かる。

・「大坂町奉行屋敷」「大坂町奉行」は遠国奉行の一つ。江戸町奉行と同様、東西の奉行所があり、東西一ヶ月ごとの月番制であった。以下、ウィキの「大坂町奉行」より一部引用する。『老中支配下で大坂三郷及び摂津・河内国の支配を目的としていた』。例外の時期もあるが、『定員は東西それぞれ1名ずつ』で、『奉行には役高1500石及び役料600石(現米支給)が与えられ、従五位下に叙任されるのが慣例であった。配下は東西いずれも与力30騎、同心50人。奉行所は元々は東西ともに大坂城北西の出入口である京橋口の門外に設置されていたが、享保9年(1724年)の大火で両奉行所ともに焼失した教訓から、東町奉行所は京橋口に再建され、西町奉行所は本町橋東詰の内本町橋詰町に移転された』。『また、時代が下るにつれて糸割符仲間や蔵屋敷などの監督など、大坂経済関連の業務や幕府領となった兵庫・西宮の民政、摂津・河内・和泉・播磨における幕府領における年貢徴収及び公事取扱(享保7年(1722年)以後)など、その職務権限は拡大されることとなった』。ここで問題となっている「岡部對馬守」元良は西町奉行であったが、この屋敷は役宅の意であり、必ずしも本町橋東詰の内本町橋詰町近辺とは言い得ないが、一種の官舎であってみれば、とんでもなく遠い所にあるとも思えない。識者の御教授を乞うものである。

・「岡部對馬守」岡部元良(宝永6(1709)年~宝暦121762)年)。底本の鈴木氏注では宝暦7(1757)年から没する宝暦121762)年まで職にあった由記載があるので誤伝と考えられる。鈴木氏は更に『同姓の勝政(隠岐守。ただし父興貞が対馬守)と混同したのであろう』とされ、『勝政は元禄六年御留守居となり、同十年には千五百石加増、すべて四千五百石を領したが、十四年にいたり部下の私曲に関して罰せられ、小普請入り、逼塞を命ぜられ、宝永四年致仕、正徳三年七十四歳で没した。』と記されている。しかし、岡部勝政は大坂町奉行であったことはなく、正徳3(1713)年没では宝暦121762)年没の岡部元良と勘違いするには、50年近い差があり、やや不自然である。岩波版の長谷川氏注では、その辺りをお感じになられたのか、鈴木氏注を踏襲せず、岡部元良の『子元珍は閉門、それを継ぐ某は酒狂、追放。』と記され、元良の悪しき血筋との混同とする。この二人の事蹟は高柳光壽の「新訂寛政重修諸家譜」にあり、子の元珍(もとよし 延享3(1746)年~明和7(1770)年)の閉門は彼の咎ではなく、父元良の死後の背任行為によるものであることが分かる。即ち父が死んで『宝暦十二年十月十六日父の遺跡を繼、この日父元良職にあるとき、隊下の與力同心をして市人の金子をかりし事露顯し、糺明あるべき處、すでに死するにより、元珍これに座して閉門せしめられ、のちゆるさる』とあるからである。元珍は許された甲斐もなく、25歳で夭折している。また、それを継いだ岡部某は幼名徳五郎と言い、実は元良の次男で、兄の養子となって嗣子となった人物で、「新訂寛政重修諸家譜」には『安永九年八月二十三日さきに從者わづか二人をつれ、松平荒之助貞應とゝもに龜戸天神境内にいたり、住所もしれざる僧と出會し、酒宴を催し、沈醉のあまりまた其邊りの酒店にいり、酒肴を求むといへども酒狂の體なれば酒つきたりとて出さゞりしを恕り、高聲にのゝしり、途中にても法外のありさまなれば狂人なりとて、多くの人跡より附來るをいきどをり、荒之助とゝもに刀を拔て追拂はむとせしにその中より礫をうたれ、或は大勢に附纏はれ、せんかたなく刀をおさめ、逃れ去むとせしを所の者出あひ、割竹をもつて眉間に傷つけられ、誠にその人をも見失ひ、病に疲れたる往來の者を相手なりと心得たがひて切殺し、狼藉に及びしゆへ止事を得ず、討果せしむね支配岡部外記知曉が許に告。よりて糺明あるのところ、彼是僞をかまへ申陳せしこと、おほやけを恐れざる志始末かたがたその罪輕からざるにより、遠流にも處せらるべしといへども、獄屋火災ににかゝるとき、これを放たるゝ處、立ちかへりしかば一等を宥められ、追放に處せらる。』というとんでもなく詳しい「酒狂」ぶりが記されている。この内容を見てしまうと、私はここは長谷川氏注を採りたくなってしまう。現代語訳では「岡部対馬守殿」のみの、そのままとしておいた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人の禁ずる事はこれなすべきではないという事

 

 大阪町奉行屋敷書院の庭に、大きな石が御座った。

 この石に近寄ったり、触れて穢したならば、必ずや祟りがある、と言い伝えられて御座って、古えより、周囲に注連繩(しめなわ)を張り渡いて、人が不用意に近寄らぬようにして御座った。

 岡部対馬守殿が町奉行を勤めておられた際、日頃から、

「かかる怪石なんど、取り除いて然るべきこと。」

とて仰せになっておられたのだが、かれこれ所用雑務に追われておられたために、つい、そのままにして御座った。

 すると、そのうちに対馬守、突然の御役辞任と相成って御座った由。――まあ、この対馬守殿は、その身持ち、甚だよろしくなく、この石の祟りがなかったとしても、いずれは神明(しんめい)の罰を蒙らではおかぬとんでもないお人では御座ったが――何事に於いても、古来より人の禁じたることをまるっきり無視し、安易に破棄してしまうなんどということ、これ、一見合理的合目的的に見え乍ら、その実、却って天然自然の絶対の理(ことわり)に反するものであると言ってよい。このこと、心得るべきと、とある人が語って御座った話で御座る。

 

 

 言語可愼事

 

 いつの頃にやありし、諸侯の奧方京都堂上(たうしやう)の息女にて、右奧方に附添來りし京侍、其儘右諸侯に勤仕(ごんし)して後は表方へ出勤しけるが、或日雨の日若侍寄合て雜談の折から、武士は關東北國の生れならでは用に不立、昔語りにも京家の侍は戰場を迯(にげ)去り勇氣甲斐なき抔雜談せしを、彼京侍聞て、京家の武士也(なる)とて魂次第なるべし、何ぞ京家の者臆病なるべきやと申けるに、言ひかゝりにや彼是ひとつふたつ取合しが、京家の侍の魂を見よなどゝて、果は刃傷(にんじやう)に及び双方共無益の事に命を果しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:敢えて禁忌に触れて禍いを招き、言葉を慎まざるによって命を落とすで連関。

・「堂上」堂上家。昇殿を許された四位以上の、公卿に列することの出来る家柄を言う。

・「表方」藩で政務を掌る所。また、その藩政関連の仕事。

・「武士は關東北國の生れならでは用に不立……」以下の叙述からはこの大名諸侯は東国以北の出身で領地も同地方にあり、御家中の家士も殆んどがそうであったと考えてよかろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 言葉は重々慎むべき事

 

 いつ頃のことで御座ったか、大名諸侯の奥方――京都堂上家の御息女にて――その奥方となられた方の道中付添いとして来府した京侍、そのままこの諸侯に勤仕(ごんし)致いて後は、表方へ出勤致いて御座った。

 とある雨の日のこと、退屈しのぎに御家中の若侍どもが寄り集うて雑談など致いておったところ、そのうちの東国出の武士の一人が、

「――ところで、武士たるもの、関東北国の生まれでのうては役に立たざるものにて、昔語りにも『京の出の侍なんぞは戦場から逃げ去りて、勇気も甲斐性も何もかもない』と言うではないか……」

と言うたのを聞き咎め、

「京師(けいし)の武士であろうと、その者の心根、次第! 何故、京師の者を以って臆病となすか!」

と一喝した。先の男も半ばは冗談のつもりで言いかけたに過ぎぬので御座ったろうが、京出の侍が如何にも向きになったによって、売り言葉に買い言葉、二言三言の言い合いの末、京侍、抜刀の上、

「京師の侍の魂を見よ!」

とて刃傷に及び、双方とも――誠(まっこと)つまらぬことにて――命を落といた、ということで御座る。

 

 

 戲れ事にも了簡あるべき事

 

 予がしれる人に岡本源兵衞といへる人のありしが、彼のゆかりの者清水御殿の小十人となん勤けるに、或夜泊りの折から、坊主衆の戲れに白※(しろぎぬ)など着し、妖怪のまなびして右の者を威しけるに、臆したる男にや有けん、帶劍拔はなし彼坊主をあやめけるを、右聲に驚きて欠(かけ)集りけるに坊主も薄手にて死もやらざりしが、吟味の上双方共に御暇を給りて浪人なしぬ。坊主は勿論、さこそ切りしおのこも跡にては恥敷(はづかしく)ありけんと人々申ぬ。

[やぶちゃん字注:「※」=「糸」+=「旨」。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:言葉を慎まざるによって命を落とし、おふざけで危うく命を落としかけ、武士も面目を失ったで直連関。

・「岡本源兵衞」岡本正輔(まさすけ 享保181733)年~?)。岩波版長谷川氏注に『宝暦元年(一七五一)十九歳で相続、百五十俵。明和六年(一七六九)小十人。』とあり、底本の鈴木氏注では更に、天明4(1784)年の『火災に役向で預けられている鎧を焼失して暫く出仕を止められたことが寛政譜に出ているが、浪人うんぬんはない。家譜以後のことか。或いは誤聞か』とされる。しかしこれは鈴木氏の『誤読』で、主人公は岡本源兵衛の親戚の者である。

・「清水御殿」底本鈴木氏注に『清水屋敷。清水御門内。徳川重好』『の屋敷で、宝暦九年に作られたもの。』とある。徳川重好(延享2(1745)年~寛政7(1795)年)は第十代将軍家治の弟で、徳川御三卿の一つ清水徳川家初代当主。通称、清水重好。以下、ウィキの「徳川重好」から一部引用する(記号の一部を変更した)。『延享2年(1745年)2月15日、9代将軍家重の次男として生まれる。幼名は萬二郎。松平姓を称した』。『天明8年(1788年5月、御庭番高橋恒成は清水徳川家に関して、「御取締り宜しからず候由」と報告書を記している。具体的には、家臣の長尾幸兵衛が清水家の財政を私物化していると指摘している。また、「よしの冊子」では、長尾は3万両を田沼意次に献金し、重好を将軍職に就けようと目論んだと示唆している。寛政7年(1795年)7月8日、死去。享年51(満50歳没)』。『重好には嗣子がなかったため、清水徳川家は空席となる。その際、領地・家屋敷は一時的に幕府に収公されている。収公は将軍吉宗の意向に背くものであったため、同年7月、一橋徳川家当主の治済は老中松平信明らに強く抗議している。治済は7男亀之助(後の松平義居)による相続を考えていたようである。その後の清水家は、第11代将軍家斉の5男敦之助が継承している』。

・「小十人」は将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊。前衛・先遣・城中警備の3つの部隊に分かれ、その頂点にいるのが小十人頭(小十人番頭)であった(以上はウィキの「小十人」を参照した)。底本の卷之一にある鈴木氏の注によれば、若年寄支配で『二十人を一組とし、組数は増減があるが、多い時は二十組あった』とある。

・「坊主衆」これは江戸城や大名などに仕え、僧形で茶の湯など雑役をつとめた者のこと。その職掌により茶坊主・太鼓坊主などと呼称された。

・「白※」[「※」=「糸」+=「旨」。]この字は「絹」の国字。

・「欠集りける」底本では「欠」の右に『(駈)』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 ふざけるのも大概にせいという事

 

 私の知人に岡本源兵衛という方が御座った。

 その彼の親戚筋の者に、清水御殿で確か小十人とやらを勤めておる者が御座った由。

 ある夜、宿直の折から、御殿の坊主衆がふざけて白い薄絹を被って、妖怪変化の真似なんどをして、この男を脅かそうと致いたところが――実際、この御仁、臆病な男ででもあったものか――見た途端、帯刀抜き放って坊主を袈裟懸けに斬ってしまった。

 斬られた坊主の悲鳴に驚いた家内の者どもが泡を食って駆け集うた。――幸いなことに坊主の傷は浅手にて、死にもせなんだが――吟味の上、双方共に御暇を賜るという仕儀と相成り、源兵衛所縁の男子は、これ、浪人の憂き目に遭(お)うた。

「……坊主は勿論……えいや! とう! と一刀両断致さんとしたその男も、これ、赤っ恥、かいたもんだ……」

と、人々、噂致いたとのことである。

 

 

 時節ありて物事的中なす事

 

 牧野大隅守御勘定奉行の折から、甲州都留郡忍草(しぼくさ)村と同郡山中村と富士の裾野入會野(いりあひの)の論有しを、予留役の節吟味なしけるに、其以前の裁許墨筋の通無相違故、猶又境を立、裁斷ありし。然るに山中村の者右裁許にては趣意相違なしける由、數度(すど)箱訴(はこそ)なしけれど燒捨に成けるに、松平右京大夫殿老中の折から駕訴(かごそ)などして、可糺とて大隅守へ下りける故、尚又予が懸りにて右箱訴人を呼出吟味なしけるに、山中村甚右衞門といへる百姓至て我意強く、外に壹人差添て難立(たちがたき)事を押返し/\申張りて、壹年餘も時々呼出し利害申含(ふくめ)ぬれど申募りけるに、餘りにわからぬ事を我意をはりぬる故、子細こそあらめと風聞を聞候者を彼村最寄へ遣し相糺(あひただし)ければ、彼者立歸りて申けるは、裁許の通にて何も相違の事なしと近郷近村にても申ぬとて、委細吟味の趣に引合風聞承り候趣書付にて差出しぬ。其折からかの者雜談なしけるは、甲州都留郡は至て我執深く、右出入何卒こぢ直して山中の勝利になすべしとて、江戸表へ出候者其の雜用等、月々村中小前(こまへ)より一錢二錢づゝ取集め、何年懸り候共願ひ可申由申合ぬる由。扨又右惣代に出し者共は、何れも右村にて命をも不惜我意の者共を差出置ぬるが、右惣代の内甚右衞門は別(べつし)て強氣の者成が、彼が妻は甚右衞門に増(まさ)りてすさまじき女子也。裁許濟て甚右衞門歸村の節、公事(くじ)に負て歸りし趣を聞て、如何いたし歸り給ふや、負て歸りて村方の者に面(をも)テを合さるべきや、早々江戸表へ立歸り給へとて我宿へ不入、押出しけるといへる事を咄しぬ。其後吟味の折から、風與(ふと)右女房に追出されて江戸表へ出しといへる事を甚右衞門へ申ければ、右風聞的中せしや、又は左はなけれど女房に追出されしといひしを恥て怒りしや、以の外面色をかへ、江戸表はしらず、甲州に夫を追ひだす女もなく、追出され候男あるべき樣なしと、面色ちがへ申しける故、予申聞けるは、右は風聞にて聞し事なれば僞り成べし、さこそ甲州とてもかゝる非禮の有べきやうなし、しかし夫(それ)に付汝等が此度の願ひもよく/\考べし。下につくべき女房に追出されしといふ事を聞て憤る心ならば、一旦下にて濟ざる儀を公裁(こうさい)を受けて、右裁許下(しも)の心に叶はずとて、難立願ひに我意を申張ぬればとて、公儀にて御取上あるべきや、夫婦上下の禮は知りながら、私を以、公儀を凌(しの)ぐの心わかりがたしと申聞けるに、數年我意を張りし彼甚右衞門、暫く無言にて有りしが、吟味の趣得心せし由にて、口書(くちがき)に印形(いんぎやう)なし、裁許にさわらざる外々の願などせしゆへ、其さわらざる事は夫々片を付て落着なしける也。何程我意強き者にても、其病根に的中なしぬれば早速落着なしぬ。予も暫くの間不相當の藥のみ施し居けると思ひつゞけぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:枯れ芒ならぬ生臭坊主を斬って浪人した恥ずかしい武士、一見、手におえない頑固者が実は外弁慶で妻には全く頭が上がらぬ情けなさで連関して読める。本話柄は珍しく根岸自身の実話譚、それも評定所留役であった当時の公務上知り得た秘密の暴露(間諜を用いて探索させている点でもセキュリティ保全上は高いレベルの秘密であり、実名も出しているので、現在なら国家公務員法の守秘義務違反に立派に抵触する内容である)をしている点でも特異。「耳嚢」にあっては、根岸自身の実体験、それも公務上の実録譚は、意外なことにそれ程多くはない。しかし、現在の刑事や検察官の『落し』の技法としても、間者を用いている点等、極めて参考になるべき事例と言えよう。

・「牧野大隅守」牧野大隅守成賢(しげかた 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。勘定奉行・江戸南町奉行・大目付を歴任した。以下、ウィキの「牧野成賢」より一部引用する。『西ノ丸小姓組から使番、目付、小普請奉行と進み、宝暦11年(1761年)勘定奉行に就任、6年半勤務し、明和5年(1768年)南町奉行へ転進する。南町奉行の職掌には5年近くあり、天明4年(1784年)3月、大目付に昇格した。しかし翌月田沼意知が佐野政言に殿中で殺害される刃傷沙汰が勃発し、この時成賢は指呼の間にいながら何ら適切な行動をとらなかったことを咎められ、処罰を受けた。寛政3年(1791年)に致仕し、翌年没した』(佐野政言は「まさこと」と読む。因みにこの事件の動機は、意知(おきとも)とその父意次が先祖粉飾のために佐野家の系図を借りたまま返さなかったことや、上野国佐野家領内にあった佐野大明神を意知の家来が横領した上、田沼大明神と変えたこと、田沼家へ相応の賄賂を成したにも拘わらず昇進出来なかったことなどの恨みが積ったものであった。事件は政言の乱心として処理され、切腹命ぜられ佐野家は改易となった。但し、世評の悪かった意知を斬ったことから世間では『世直し大明神』と称えられたという。以上はウィキの「佐野政言」を参照した)。『牧野の業績として知られているのが無宿養育所の設立である。安永9年(1780年)に深川茂森町に設立された養育所は、生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保の頃より住居も確保できない無宿の者達が増加の一途を辿っており、彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直す為の援助をすることが、養育所設置の目的、趣旨であった。定着することなく途中で逃亡する無宿者が多かったため、約6年ほどで閉鎖となってしまったが、牧野の計画は後の長谷川宣以による人足寄場設立の先駆けとなった』とある。根岸は後に同じく勘定奉行から南町奉行となっているので一応確認しておくと、牧野成賢の勘定奉行の就任期間は1761年から1768年、根岸鎭衞は19年後の1787年から1798年、牧野が南町奉行であったのは1768年から1784年、根岸はその14年後、牧野の五代後の1798年から1815年であった。

・「御勘定奉行」勘定奉行のこと。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。

・「甲州都留郡忍草村」現在の山梨県南都留郡忍野(おしの)村の一部。忍野村は廃藩置県によって内野村と忍草村が合併して明治8(1875)年に誕生した。ここ一帯は富士山東北の麓に位置する標高約940mの高原盆地であり、山中湖を源とする桂川及びその支流の新名庄川が流れ、今は忍野八海に代表される湧水地として観光で知られるが、当時、土地は痩せており、粟や稗などの雑穀栽培が主流であった(忍野村HPその他の複数のソースを参考しにした)。

・「同郡山中村」現在の山梨県南都留郡山中湖村の一部。山中湖の西岸の梨ヶ原を含む一帯を言ったものと思われる。忍草村の南に接しており、忍草村からは南南東に延びる忍草道で繋がっていたことが比較的古い地図で確認出来る。古くは山中村・長池村・平野村に分かれていた。

・「入會野」入会地であった原野のこと。入会地とは村落や町などの共同体が村落全体として所有管理した土地で、このような秣(まぐさ)・屋根葺用の茅(かや)などの採取した原野・草刈場(河原・河川敷)である入会野と、薪・炭・材木・枯葉や腐葉土などを採取した入会山の2つがあった。複数の村落が隣接する場合、他の村落の入会地と区別するために「内山」「内野」「内原」という地名で呼ばれる場合があったが、現在の忍野村の西部には「内野」という地名があり、近代、この内野村が忍草村と合併して忍野村が出来ている経緯を考えると(それぞれ一字を組み合わせて村名としている近親性から見ても)、この忍草村の入会野であったのがここ内野(古い地図ではすぐ南に山中村や長池村が接していたように見える)ではなかったかと私は思う。ただ本文では「富士の裾野入會野」と言っており、そうするとはっきりとした富士の裾野と言うなら、逆に山中村に接して西に広がる梨ヶ原一帯(この南は忍草道と接している)を指しているようにも読める。郷土史研究家の御教授を乞う。

・「留役」現在の最高裁判所予審判事相当。根岸が1762年から1768年までであったから、以上の牧野成賢の事蹟と重ねると、この事件は根岸の留役就任期間総てが含まれ、宝暦121762)年から明和5(1768)年の間の出来事となる。

・「裁許墨筋」私は先の入会野認定や訴訟時に地図上に墨で引かれた境界のことと読んだが、岩波版長谷川氏注に鈴木氏注を引用して『境界を示すために土中に木炭を埋める』とある。このような平坦地ではそう為されたと思われるが、山間岩盤域ではそれはなかなか難しいし、実際にこの「墨筋」なる語が専ら裁可や訴訟の際に書類に地図上の境界線の名として頻繁に用いられているのを見ても、私は通常の地図上の墨筋と採る。

・「箱訴」享保6(1721)年に八代将軍吉宗が庶民からの直訴を合法的に受け入れるために設けた制度。江戸城竜ノ口評定所門前に置かれた目安箱に訴状を投げ入れるだけで庶民から訴追が出来た。

・「松平右京大夫」松平輝高(享保101725)年~天明元(1781)年)。上野国高崎藩主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中を歴任した。高崎藩大河内松平家4代。以下、ウィキの「松平輝高」より一部引用する。『所司代在任中、竹内式部を逮捕した(宝暦事件)。同年老中にのぼり、安永8年(1779年)、松平武元死去に伴い老中首座となり勝手掛も兼ねる。天明元年(1781年)、輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や生糸に課税を試み、7月、これを発表したところ、西上州を中心とする農民が反対一揆・打ちこわしを起こし、居城高崎城を攻撃するという前代未聞の事態に発展した。幕府は課税を撤回したが、輝高はこの後、気鬱の病になり、将軍家治に辞意を明言するも慰留され、結局老中在任のまま死去した。これ以降、老中首座が勝手掛を兼務するという慣例が崩れることになる』とあるが、この慣例が崩れた直後の話柄が「卷之一」の「松平康福公狂歌の事」である。但し、松平康福(やすよし)は松井松平家6代であって、輝高の直接の血縁者ではない。なお、解説文中の『宝暦事件』について、やはりウィキの「宝暦事件」より一部引用しておく、『江戸時代中期尊王論者が弾圧された最初の事件。首謀者と目された人物の名前から竹内式部一件(たけうちしきぶいっけん)とも』言う。『桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・寛保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりつつあった』。『その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じた。幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは侍講から天皇へ式部の学説を進講させた。やがて1756年(宝暦6年)には式部による桃園天皇への直接進講が実現する』。『これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白一条道香は近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで一条は公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8年)式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。一方、式部は京都所司代の審理を受け翌1759年(宝暦9年)重追放に処せられた』。『この事件で幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は一条ら摂関家の振舞いに反発を抱き、天皇と摂関家の対立が激化する。この混乱が収拾されるのは桃園天皇が22歳の若さで急死する1762年(宝暦12年)以後の事である』とし、最後に『徳大寺公城らは、徳川幕府崩壊後の明治24年(1891年)に名誉回復を受け、各々の生前の最終官位から一つ上格の官位の追贈を受けた』とある。132年後の名誉回復とは凄い。翌明治251892)年には芥川龍之介が生れてるんだから。

・「駕訴」江戸時代における越訴(おっそ)の一つ。農民や町人が自らの要求を書状に認(したた)め、将軍や幕閣・藩主といった高位の人物の行列を待ち受けて、これに直接、訴状を差し出す行為を言う。下総国印旛郡公津村(現・千葉県成田市台方)の名主佐倉惣五郎が領主の苛斂誅求を老中久世大和守広之及び将軍家綱に駕籠訴した例が最も知られる(但し、実際に直訴が行われたという事実史料はない)。越訴は公的に認められた所定の訴訟手続を経ないで訴え出る行為であるから非合法であるから、一般に直訴した本人は死刑を含む厳罰に処せられたが、結果として訴えの内容に相応の高い正当性が認められた場合には再吟味が行われ、そこから更に重大な事件事実が発覚したケースも「耳嚢」に示されている(「卷之二」の「猥に人命を斷し業報の事」を参照されたい)。

・「風聞を聞候者」間諜、スパイのこと。行商人などに扮装して情報収集に従事した者のこと。

・「こぢ直して」「こぢ」は正しくは「こじ」で「こず」(ザ行上二段活用)。現在の「抉(こじ)る」(これは「こず」が上一段化した「こじる」が更に五段化したもので、近世末ごろから既に五段化した用例が見られるという)で、隙間などに物をさし込んで捻る、の意から、捻くれた言い方をしたり、抗議したりすることを言うようになった。「こじ直す」で無理を言って形を自分の思ったように直す、で、この場合、無理強いをして訴訟を有利な方へ持って行くことを言っている。

・「小前」小前百姓・平百姓とも。元来は田畑と家屋は持つが、特に家格や特殊な権利を持たない一般の多くの百姓のことを指したが、江戸時代の農民の一定の階層を示す語。本来は村役人に対して一般本百姓を言ったが、江戸時代中期以降は地主など富裕層の豪農に対する、水呑や零細困窮農民を含む中下級農民の総称として用いられた。

・「口書」訴訟に就いての供述を筆記したものを言うが、特に百姓・町人の場合に言った(罪人の白状書に爪印を押させたものもこう言った)。

・「印形」印章であるが、この場合、署名であろう。

・「さわらざる」はママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 自然かくなるべき時節が到来して初めて物事の核心を摑むことが出来るという理りの事

 

 牧野大隅守成賢(しげかた)殿が御勘定奉行を勤めておられた時のことで御座る。

 甲斐国都留郡忍草(しぼくさ)村と同郡山中村との間で富士裾野入会野境界を巡り、訴訟沙汰となって御座った。

 当時、評定所留役を勤めて御座った拙者、その訴えを取り上げて吟味致いたところ、以前に両村に関わって裁許致いて御座った地境墨筋の通りにて問題なきこと、判然と致いたによって、再応、確認のために新たな地図を起こし、境界墨筋を誤たず正確に写して、裁下致いた。

 然るに山中村の者ども、この裁許には重大なる錯誤ありとし、到底承服出来かぬる由にて、度々箱訴致いて御座ったれど――根岸が裁許に間違いなきこと明々白々たりとて――その度ごとに、訴状は焼き捨てと相成って御座った。

 ところが、村人ども、命も顧みず、当時の御老中であらせられた松平右京大夫輝高殿の行列に、あろうことか、駕訴に及んで御座った。――勿論、強訴(ごうそ)の者どもは定法(じょうほう)により打首獄門と相なったれど――御老中松平右京大夫殿御本人より直々に、勘定奉行牧野大隅守殿へ再応糺すべき旨、下知されて御座った。

 このため、不服乍ら再応、拙者の担当と相成り、先の本件総代で御座った複数の箱訴人を呼び出だいて、吟味致いた。

 ところが、その中に山中村の甚右衛門という百姓が、これ、至って強情にて、他一名と一緒になって、如何にも喧しゅう、

「――このままにては!――いっかな、納得出来申されませぬ!――」

の一点張り。

 一年余りの間、数度に亙って評定所へ呼び出だいて、理を説き、宥めたりすかしたり致いては、この訴えを続けんことの甚だしき利害なんどまでも、申し含めては御座ったのだが、これがまた糠に釘、馬に念仏で、

「――何とかして下されぇぇい!――お飯(まんま)食えねぇぇぇえ!――死ぬしかねぇぇぇぇえ!――」

と五月蠅くがなり立てるばかり。

 呼び出す都度、納得せぬ乍ら、その場その場で最後にはいい加減にあしろうて、幾分、がなり疲れたのを見計らって、体(てい)よく追い返すことが続いて御座った。

 状況膠着、拙者もほとほと困って御座った。

 あまりに依怙地なればこそ、この訴えの背後には、何ぞ、隠れた子細や遺恨でもあるに違いないと疑(うたご)うた拙者は、取り敢えず、間者(かんじゃ)を遣わして、かの山中村周辺を密かに探索させてみたので御座る。

 暫くして訊き込んで参った間諜、江戸表に立ち返り、かの者より、

『……件の入会野一件に就きては――評定所裁許の通りにて何らの問題もこれ御座らぬ――とは忍草村併びに山中村近郷近村に於ける大方の一致せる意見にて御座候……』

旨、正に先の拙者の吟味に何らの誤りなきこと、現地にての大方の見方で御座った由との報告書が認(したた)められ、提出されて御座った。

 なれど、これにては、折角の間諜も、これ、何の役にも立たなんだこととなってしまえばこそ、その報告を受けた際、この諜者にいろいろ話を聞いて見ることに致いた。すると、

「……昔より、かの甲州都留郡の者は、押しなべてこれ、我意を通さんとする性質(たち)至って、強う御座いまして、この度も、

『――この訴訟、何が何でも――無二無三に押し通しででも――我らが方へ利あるように全面勝利を勝ち取るべし!』

とのことにて、聴き込んだ話によりますれば、訴訟に関わって江戸表へ出でまする者ども、その旅費その他雑費なんどについても、村中の総ての百姓より、個別に月々定額で一銭二銭と集金致いて、相応に溜め込んだ金を、その者どもに渡し、その折りにも、

『――たとえ何年掛かろうが、勝つまでは訴え続けて呉りょう!』

と、皆々にて申し合わせおる、とのことにて御座いました。……さても、その訴訟総代となっております者どもについてで御座いますが……これまた何れも、かの村にては飛び切り我を押し通さんとするに、命知らずの依怙地なる者どもばかりを、選りすぐったるとのことにて御座いましたが……が……その中にても、甚右衛門というは、これ、別して頑強頑固にして岩盤の如き強情者にてこれある、とのこと……なれど……さてもさても、その甚右衛門が妻たるや、これ、また、甚右衛門にも増して、強固頑迷なる凄まじき剛情なる女子(おなご)のよし……かの根岸様の先の御裁許下って後、甚右衛門が山中村へ戻りましたところ、風の便りに訴訟に負けてのこのこ帰って参ったとのこと、早々伝え聞いて御座った妻が、先に沿道にて夫を待ち構え、

『――何故にお帰りなすった?! 負けて帰って、村の衆に合わせる、どの面(つら)やある?! とっとと、江戸表へたち帰りなされぇぇい!!』

と言い放って、家へ立ち入ることさえ許さず、即座に村内(むらうち)から夫を追い出した、という専らの噂で御座いました……。」

との、誠に興味深い話を聴いて御座った。――

 さて、その後日(ごにち)のこと、かの甚右衛門取り調べの折り、何心なく、

「……時に、甚右衛門……汝、女房に追い出されて、……この度、この江戸表へ立ち帰ったと聞いたが……そりゃ、真実(まこと)か?……」

と申したところが――この噂、真実(まこと)の話にて正に心の臓にばすんと的中致いたが故か――はたまた、かの噂は誤りなれど、女房に追い出されたと言われたを、辱しめられたと感じて憤ったためか――急に以ての外の憤怒の相の、恐ろしき鬼面へとうち変じ、

「――江戸表にては、知らざれど!――甲州にては、夫を追い出すべき不実不届きなる、妻ならざる妻なんどは一人として、これ、おらず!――また、追い出さるるべき軟弱愚鈍なる男ならぬ男も、これ、御座らぬ、わ!!」

と、烈火の如き朱面と相成って吐き捨つるように申した。

 拙者、そこで、穏やかな謂いにて、

「……いやいや、これは少しばかり、噂に聞いたまでのこと……勿論、根拠なき偽りであろうの……いっかな、甲州とは申せ、まさか、そのような妻の、妻にあらざるおぞましき夫への非礼……これ、あろうはずも、ない。……なれど……それにつけても……汝らの、この度の願いも……これ、よくよく考えたがよかろう……下につくべき女房に追い出されたと言う、根も葉もない、たわいもなき愚かなる噂を聞き……憤る程の汝の心にて、よう、考えてみるがよい……。

 一旦、下々の百姓どもの間にて決着つかざるが儀――それに、一度(ひとたび)お上の公けの裁きを受けた――にも拘わらず、その裁許、我らが下々の者の思いに叶わぬとて、成り立ち難き難癖だらけの願い――汝ら百姓どもが、理に合わぬそのような強情を如何に張ったとしても――それ、御公儀が御取り上ぐること――これ、どうして御座ろうや? 御座ない!――。

 夫婦(めおと)上下の当然の礼は弁え乍ら、私(わたくし)を以って御公儀に背かんとする、その心、分かり難し!」

と述べた。

 数年来、我意を張り通して参った甚右衛門――これを聞きて、暫くの間、黙って御座った。――

 やがて、

「……御吟味の趣き……得心致いた。……」

とぽつりと告ぐると、今までのことが嘘のように、素直に口書に署名を致いて後、今度(このたび)の訴訟には直接関わらざる、山中村のその外の諸事願いにつき、淡々と請い願って参ったが故、一々即座に吟味の上、その中でも特に問題のない部分については、適切に即決処理致いて、それにて一件落着と相成って御座った。

 どれ程、我意強き者にても、その病根――その者の心の弱み――そこを、ずばん、と的中成しぬれば――これ、アッと言う間に――『落ちる』――のである。

 この一件、拙者も甚だ長きに亙り……甚右衛門という『病者』に、見当違いの薬を、これ、施し続けて御座ったものよ……と思うこと、頻りで御座った……。

 

 

 稽古堪能人心を感動せし事

 

 神山某は樂家(がくけ)の子にてひちりきの堪能也しが、其身放蕩にて中年の比(ころ)至て窮迫也しが、或日吉原町に至りて、かたらひし女の部屋にてひちりきを吹(ふき)すさみけるを、座敷を隔て富客の聞て、右ひちりきを吹し客に苦しからずば知る人にならんと好(このみ)し故、やがて通じけるにぞ、其座敷へ至りて好に任せ其能を施しければ、甚感心有りて、酒などともに汲かわし、我身は溜池(ためいけ)内藤家の家士何某也、尋來り給ふべしとてあくる朝立別れぬ。其後右の事も心にもかけずくらしけるが、彌々窮迫に及し故、風與(ふと)思ひ出で内藤家を尋ね、かの富家の名前を尋ければ、右長屋にて何方より來り給ふといひし故、しかじかの譯にて來れり、何某と申者の由申ければ、あるじ對面なしけるが、いつぞや吉原にて逢し人にてなき故大に驚きければ、彼者それには譯こそあれとて暫く待(また)せ、やがて案内なして一間なる金殿へ伴ひ、間もなく出し人は彼靑樓にてひちりきを好し人也。能くこそ尋給へる、度々來て其堪能を施し給へとて、其業(わざ)を好み聞て數々の賜もの有し上、仕官の望あらば小身なれど屋敷に仕へよとの事也しが、遊樂のみにふけりし我身、物の用に不立とて辭しけるに、時々呼れて扶持(ふち)など給(たまひ)て、養子を呼出て今神山某とて勤仕(ごんし)せる也。富家と見し人は溜池に棟高き諸侯也。今さし合(あふ)事あればいづれも名はもらしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:時節をツボ得て強情頑なな心を落すことも可能なことならば、時節を得てツボを得て大名諸侯の心を摑んで放蕩の賤しき楽人でも思わぬ出世を致すという連関。

・「神山某」諸注注せず、未詳。「神山 篳篥」でそれらしき家系や歴史的人物や現代の演奏家はヒットしない。

・「樂家」広義に雅楽の技芸を伝える家系のこと。ウィキの「雅楽」 によれば、平安時代には左右の近衛府官人や殿上人が雅楽の演奏を担っていたが、平安末期には地下人の楽家が実力を持ち始め、鎌倉後期以降は殿上人の楽家にかわって雅楽演奏の中核をなすようになったとある。『この影響で龍笛にかわって地下人の楽器とされていた篳篥が楽曲の主旋律を担当するようになった』。『室町時代になると応仁の乱が起こり京都が戦場となったため多くの資料が焼失し楽人は地方へ四散してしまい多くの演目や演奏技法が失われた。この後しばらくは残った楽所や各楽人に細々と伝承される状態が続いたが、正親町天皇と後陽成天皇が京都に楽人を集めるなどして楽人の補強をはかり徐々に再興へと向かってゆく』。『江戸時代に入ると江戸幕府が南都楽所、天王寺楽所、京都方の楽所を中心に禁裏様楽人衆を創設し、雅楽の復興が行われた。江戸時代の雅楽はこの三方楽所を中心に展開していくこととなり、雅楽を愛好する大名も増え古曲の復曲が盛んに行われるようになった』とあり、本話柄の参考になる。なお、『明治時代に入ると、三方楽所や諸所の楽人が東京へ招集され雅楽局(後の宮内省雅楽部)を編成することとな』り、『この際に各楽所で伝承されてきた違った節回しや舞の振り付けを統一するなどした。 また、明治選定譜が作成され明治政府は選定曲以外の曲の演奏を禁止したため千曲以上あった楽曲の大半が途絶えたとされている。しかし、江戸時代後期には既に八十曲あまりしか演奏がなされていなかったとの研究もありこの頃まで実際にどの程度伝承されていたかはよくわかっていない』。『現在宮内省雅楽部は宮内庁式部職楽部となり百曲ほどを継承しているが、 使用している楽譜が楽部創設以来の明治選定譜に基づいているにも関わらず昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったらしく、曲によっては明治時代の三倍近くの長さになっておりこれに合わせて奏法も変化している。これは廃絶された管弦曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことにも現れている』。『このような変化』『などから現代の雅楽には混乱が見られ、全体としての整合性が失われているのではないかと見ている研究者もいるが、その成立の過程や時代ごとの変遷を考慮すれば時代ごとの雅楽様式があると見るべきで、確かに失われた技法などは多いが現代の奏法は現代の奏法として確立しているとの見方もある』とある。また、現代の雅楽音楽家として知られる東儀秀樹氏について、ウィキの「東儀秀樹」の家系の記載に『母親が東儀家出身。東儀家の先祖は渡来人であり、聖徳太子の腹心であった秦河勝(はたのかわかつ)とされるが、正確なことは不明。下級の官人なので、正確な系譜は伝わっていない』。『楽家は下級の官人であったため、天皇への拝謁はおろか、堂上に上がることさえ許されない家柄であった』。『インターネットの一部の情報として、早稲田大学校歌の作曲者である東儀鉄笛の子孫とする記載がみられるが、東儀秀樹は徳川幕府に仕えた楽人の末裔であって、京の朝廷に仕えた楽士の家系(安部姓東儀・あべのとうぎ)である鉄笛とは直接の先祖-子孫の関係にはあたらない(藤原氏と同じく、東儀家も数多くの家系・分家がある)』とあり、本話柄の参考になる記載である。

・「ひちりき」篳篥。以下、ウィキの「篳篥」から引用する。『篳篥(ひちりき)は、雅楽や、雅楽の流れを汲む近代に作られた神楽などで使う管楽器の1つ。吹き物。「大篳篥」と「小篳篥」の2種があり、一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す』。「構造」の項。『篳篥は漆を塗った竹の管で作られ、表側に7つ、裏側に2つの孔(あな)を持つ縦笛である。発音体にはダブルリードのような形状をした葦舌(した)を用いる』。『乾燥した蘆(あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。もう一方には管とリードの隙間を埋める為に図紙(ずがみ)と呼ばれる和紙が何重にも厚く巻きつけて作られている。図紙には細かな音律を調整する役割もある。そして図紙のほうを篳篥本体の上部から差し込んで演奏する。西洋楽器のオーボエに近い構造である。リードの責を嵌めた部分より上を「舌」、責から下の部分を「首」と呼ぶ』。「概要」の項、『音域は、西洋音階のソ(G4)から1オクターブと1音上のラ(A5)が基本だが、息の吹き込み方の強弱や葦舌のくわえ方の深さによって滑らかなピッチ変化が可能である。この奏法を塩梅(えんばい)と呼ぶ』。『雅楽では、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)と篳篥をまとめて三管と呼び、笙は天から差し込む光、龍笛は天と地の間を泳ぐ龍の声、篳篥は地に在る人の声をそれぞれ表すという。篳篥は笙や龍笛より音域が狭いが音量が大きい。篳篥は主旋律(より正しくは「主旋律のようなもの」)を担当する』。『篳篥にはその吹奏によって人が死を免れたり、また盗賊を改心させたなどの逸話がある。しかしその一方で、胡器であるともされ、高貴な人が学ぶことは多くはなかった。名器とされる篳篥も多くなく、海賊丸、波返、筆丸、皮古丸、岩浪、滝落、濃紫などの名が伝わるのみである。その名人とされる者に、和邇部茂光、大石峯良、源博雅、藤原遠理(とおまさ)などがいる』。以下、「歴史」の項。『亀茲が起源の地とされている。植物の茎を潰し、先端を扁平にして作った芦舌の部分を、管に差し込んで吹く楽器が作られており、紀元前1世紀頃から中国へ流入した。3世紀から5世紀にかけて広く普及し、日本には6世紀前後に、高麗の楽師によって伝来された。大篳篥は平安時代にはふんだんに使用されていた。「扶桑略記」「続教訓抄」「源氏物語」などの史料、文学作品にも、大篳篥への言及がある。しかし、平安時代以降は用いられなくなった。再び大篳篥が日の目を浴びるのは明治時代であった。1878年、山井景順が大篳篥を作成し、それを新曲に用いて好評を博した』(「亀茲」は「くし」と読む。古代中国に存在したオアシス都市国家で、現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区アクス地区庫車(クチャ)県付近、タリム盆地北側の天山南路の途中にあった。玄奘三蔵の「大唐西域記」には「屈支國」と記される)。以下、「篳篥の製作」の項。『篳篥は楽器であり、響のよい音色と音程が求められる。 篳篥の音程には寺院の鐘の音が使われる。京都の妙心寺、知恩院の梵鐘の音とそれぞれ決められている』。『楽器の音階を決める穴配りと穴あけには高度の製作技術が必要とされる。穴あけには電動錐は使われない。穴と穴に距離がある楽器ならば素材が割れないので電動錐を使えるが、篳篥は穴の間隔が近く、使う素材は枯れて古く乾燥し、農家の囲炉裏の天井で300年~350 年、日々の生活の中で燻(いぶ)されたスス竹であるため非常に堅く割れやすい。紐巻上げ式で、神社の儀式で神火をおこすときに使われることでも知られる日本古来から使われてきた火熾し[やぶちゃん注:「ひおこし」と読む。]の「巻き錐」を使い、割れないように穴をあける。素材の竹は自然に育ったものなので内径、肉厚がすべて微妙に異なるため、外形の穴の位置を正確に真似ただけでは音階は決まらない。楽器として製作するため、穴配りに工夫と匠の技が求められる。感じて心に響く音を生み出すように、全ての穴配りと穴あけをしてゆく』。『素材をみて、ここと思い決めた位置に穴をあけ、吹きながら穴の形状を調整して製作してゆく。一つの穴に割れが入れば失敗であり、楽器として使えない。入手困難な素材の中から楽器に良い条件をみたすわずかな一部分を選んで作っている貴重な竹であるので、失敗は許されない緊張と迷いが生じる。吹奏し、穴を空け、調整し、吹奏する。穴をあけるときには精神集中し、ここであると思い切る勇気が必要とされる』。『漆を中に塗って音階を調整する。製作技術習得者には、音律の習得は技術習得の最初の6ヶ月間に集中して習得してしまうことが求められる。木漆と水を合せて内径をヘラで塗る。乾かして吹いて確認し、音階を調整する。集中した慎重な塗りの技術を要求される。篳篥に使われている素材は乾ききった古くもろい竹であるため、塗りに失敗すると漆の水分の乾き際に穴から下まで一直線に割れが入る。篳篥の内側の漆はこの時期のみ塗ることができ、この時期以外は塗ると割れてしまう』。『篳篥は楽器であり、割れのないことはもちろん、正しい音階、響のよい音色となるように製作される。10管作って5本が楽器として完成されれば上々の技とされる。演奏者は、演奏前に製作者が精魂こめて作った篳篥を見つめていると精神が統一されると述べる。篳篥の形は古来から大きさが決まっているので先人の作品が技術向上の参考になる。管楽器の笙は1尺7寸、13世紀の鎌倉初期までは大きな笙だったがその後は小さくなった。しかし笛と篳篥は昔から長さが決まっているのでそれ以前の昔に作られた名器が参考になる。製作者は自らの作品を作ってばかりでは技術はそこまでで止まってしまう。しかし古代から伝えられた名器を観察し工夫努力を重ねることで製作者の技術は上乗せされてさらに伸びてゆく』。『舌の材料に用いられる葦は琵琶湖、淀川から採取されることが多い。なかんずく淀川右岸の鵜殿で採取される葦は堅さ、締り共に最良とされていた。しかし環境の悪化の影響で材料に使える良質な葦の確保が難しくなっている』。『採取した葦は4,5年ほどの年月をかけ、一切の湿気を排除した場所で乾燥させる。その後、拉鋏という専門の道具を用い、火鉢の上にかざして押し潰して平滑にし、先端に和紙を貼り付ける。舌を磨く際にはムクノキの葉が用いられる』(最後の引用部は誤字を正した。「拉鋏」の読みは不明。音ならば「ラツキョウ」「ラキョウ」、訓ならば「ひしぎばさみ」「くじきばさみ」「ひきばさみ」等が考えられる。識者の御教授を乞う)。

・「吹すさみける」「すさむ」は「すさぶ」と同義で、動詞の連用形について「~し興ずる」の意となる。

・「かわし」はママ。

・「溜池」現在の東京都港区赤坂にあった旧地名。ウィキの「赤坂(東京都港区)」にある記載によれば、『溜池は江戸城外濠の一部を構成していた。元々水の湧く所であり、堤を作り水を溜めるようにしたためこの名がある。その形から別名ひょうたん池とも呼ばれた。神田上水、玉川上水が整備されるまではこの溜池の水を上水として利用していた。堤に印の榎を植えたため、現在赤坂ツインタワーから駐日アメリカ合衆国大使館に上る坂道は榎坂と呼ばれる』。『宝永年間より断続的に埋め立てられ、明治時代には住宅街となり溜池町となった』。『1967年の住居表示実施に伴う町名変更により赤坂一丁目と赤坂二丁目が誕生し、溜池町は消滅。今日、溜池交差点や東京地下鉄溜池山王駅、都営バス(都01)溜池停留所などに名を残』すのみである。

・「内藤家」嘉永年間の江戸切絵図をみると、溜池地区には、「棟高き諸侯」に相当する最も広大な屋敷を持つのは日向延岡藩7万石の内藤延岡家の内藤紀伊守上屋敷及び越後村上藩5万石の内藤村上家である。「卷之二」の下限天明6(1786)年に近い以前を調べると、内藤延岡家では明和8(1771) 年に第2代藩主内藤政陽(まさあき 元文4(1739)年~天明元年(1781)年)が35歳で致仕し隠居、養子の政脩(まさのぶ 宝暦221752)年~文化2(1805)年)が20歳で相続、天明1(1781)年に政陽が45歳で死去、天明6年には第3代当主内藤右京亮政脩は36歳であった。私はこのどちらかの人物が(「時々呼れて扶持など給て、養子を呼出て今神山某とて勤仕せる也」という有意な時間経過や年齢から見て、隠居していた養父政陽の可能性が高いように感じられる)本話柄の内藤家当主ではなかったかと推測している(因みに、調べるうちにこの内藤家、私の好きな鎌倉は光明寺裏手の荒れ果てた広大な内藤家墓所の、正にあの内藤家であることを知って感慨深かったことを述べておきたい)。越後村上藩の場合は第5代藩主が内藤紀伊守信凭(のぶより 寛延元(1748)年~安永10・天明元(1781)年)、第6代藩主内藤信敦(のぶあつ 安永6(1777)年~文政8(1825)年)は天明元年に僅か5歳で家督を相続しているから、天明6年でも10歳、こちらならば内藤信凭(天明6年当時は38歳で生存)の可能性しかない。信凭としても本話柄の印象からすると私は若過ぎる気がするし、7万石内藤延岡家の方が都市伝説としてはよりインパクトがあるとも思う。但し、底本の鈴木氏注には、ほかに内藤家は七家もあると記されているから、同定は早計か。

・「風與(ふと)」は底本のルビ。

・「長屋」町人の長屋ではない。大名の江戸屋敷内にあった江戸勤番の家士が居住した長屋のこと。

・「靑樓」妓楼・遊女屋の美称。

・「扶持」扶持米のこと。主君から家臣に給与として与えた俸禄。一人一日玄米5合を標準として、当該一年分を米又は金で給付した。神山の場合、正規の家士になることは生涯固辞したものと思われるから、「事実上の扶持米」と現代語訳しておいた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 稽古に精進した才人が人の心を感動させた事

 

 神山某は楽家(がっけ)出身の子にして、篳篥に精進致いて堪能で御座ったれど、生来の放蕩者であったがため、中年の頃には、至って困窮致いて御座った。

 ある日のこと、久し振りに小金を得て吉原町に遊び、馴染みの女の部屋で篳篥を思うままに吹き興じて御座ったところ、別な座敷に御座った如何にも裕福そうな客人が、その音(ね)を聴き及んで、

「――かの篳篥を吹ける御客人と――もし御本人苦しからざるとの趣きにて御座らば――知遇を得たいものじゃ――」

と、神山の篳篥を賞美致いた旨伝言御座ったれば、それを受けて、かの客人の座敷を訪ね、挨拶の上、再びそこにて思うがまま、篳篥吹笛に興じて御座ったところ、かの客人、その音色に甚だ感心致し、酒なんどを直に酌み交わして、

「――我らは溜池内藤家の家士○○と申す者にて御座る――近隣に参られた折りには是非ともお訪ねあられよ――」

と述べ、翌朝には立ち別れた。

 その後(のち)、神山はそんな出逢いなんど、特に思い出すことものう過して御座ったが、いよいよ暮し向きが貧の極みへと至った、そんな折り、ふと、かの御仁のことを思い出だいて、赤坂は溜池町に御座った内藤家上屋敷を訪ね、屋敷内の御家中家史の長屋へと赴き、その下役の者に、かの客人の名を告げ、面会を求めて御座った。

 下役の者より、

「何処(いずこ)より参られたか?」

と問われたので、

「……かつて、とある席にて○○殿に篳篥の吹笛を請われ、率爾乍ら御披露申し上げたこと、これ御座いましたが、かの折り、近在へ参らんには訪ぬるようにとお声掛けを頂戴致しましたれば罷り越しまして御座いました。……神山と申す者にて御座いまする……」

と来意を申した。

 すると、やがて姿を現したその○○という屋の主人、これ、吉原で出逢(お)うた御仁とは、似ても似つかぬ別人で御座った故、神山――その実、貧窮の果ての無心という気の引ける訪問にてもあればこそ――吃驚仰天、腰も立たぬほどに、ぶるぶる震えて御座るばかり。

 ところが、その○○なる者、一向に不審なる趣きもこれなく、逆に、

「……御不審の趣き……いや、それには少し訳が御座る。……暫し、お待ちあれ。……」

と、暫くの間、神山をそこに待たせておいた。

 やがてかの者に伴われ、案内(あない)されたは――その上屋敷母屋にある――一間(ひとま)の広き華麗なる御殿で御座った。

 やがて間もなく現れたお方は――正しく、あの日、青樓にて神山が篳篥に興じなさったお人で御座った。

「――よくぞ訪ねて下された――向後も度々来て、その至芸、御披露あられよ――」

とて、そのお方より、再応、篳篥御所望あり、数曲吹き上げ、その褒美の由、数々の賜わり物、これあり、その上、

「――仕官の望みがあらば――小身にてはあれど――その望み叶えん――我が屋敷に仕えるがよい――」

との仰せで御座った。

 しかし、流石に神山も恥を知って御座ったれば、

「……遊興のみに耽って参りました我が身なれば……何のものの役にも、立ち申さざればこそ……」

と固辞致いたとのことで御座った。

 なれど、その後(のち)も度々かの溜池の上屋敷に呼ばれては、篳篥を奏で、事実上の扶持米なんども賜わって御座った。 神山は、捨て置き同然にして御座った己れの養子を呼び出だいて、かの内藤家へ仕えさせて御座ったという。

 今も神山某という名にて勤仕(ごんし)しておるとのこと。 ――裕福なる御仁と見えし人は――これ、溜池のやんごとなき大名諸侯その人で御座ったのじゃった。――差し障りあればこそ、敢えてその御方の名は記さずにおこう――。

 

 

 老耄奇談の事

 

 藤澤某といへる老士ありしが、おかしき人にてありし。或時つくづく思ひけるは、我等若き時よりあらゆる事なして、凡(およそ)天地の内の事なさゞるといふ事なけれど、童の比(ころ)より人と念友の交りなして若衆に成(なり)し事なけれ、いかなる物なるやと思ひけれど素より醜の上衰老なしぬれば、いか成(なる)那智高野の學侶也とも其譯賴みてなすべきといふ者もあるまじと、風與(ふと)思ひ付てはりかたといへるものを求て、春の日縁頰(えんづら)に端居して我身(おのづ)と其業なしけるに、衰老の足弱りして腰をつきけるに、肛門中へ根もと迄突込わつといふて氣絶なしけるを、彼聲に驚き子供娘など駈集りて見しに、氣絶なして尻をまくりて其樣あやしければ、醫師よ藥と騷ぎけるが、風與赤き紐の尻をまくりし脇に見へし故、彼是と糺しぬれば右の始末ゆへ驚て引出し、藥などあたへて漸(やうやう)に氣の附しが、かゝる譯と語られもせず、聞(きか)ん事も如何と、いづれも驚(おどろき)しうちにも笑ひを含みけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:時節を得、ツボを得ての出世から、尻のツボに張形で私の勝手な連関。ただ先の話柄の登場人物達――大名と家士そして神山某の三者(神山の養子も含めてもよい)――には、何やらん、念友の匂いが仄かに漂っているような気がするから、その連関との謂いなら、賛同して下さる方もおられよう。

・「念友」広義には男同士が男色関係を結ぶことを言うが、厳密には狭義の「念者」を指し、兄分(立ち役・攻め役)を言う。

・「若衆」広義には「若衆道」と同義で男色全般を指すが、厳密には狭義の「若衆」は「念友」「念者」の反対語で弟分(受け役)を言う。やっと「衆道」の説明を書ける。満を持してウィキの「衆道」 から引用する(記号の一部を変更した)。『衆道(しゅどう)とは、「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、日本においての、男性による同性愛・少年愛の名称・形態。別名「若道」(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)』。『平安時代に公家や僧侶の間で流行したものが、中世以降武士の間にも広まり、その「主従関係」の価値観と融合したとされる』。『衆道の日本における最初の記録は、日本書紀の神功皇后の項にある。「摂政元年に昼が闇のようになり、これが何日間も続いた。皇后がこの怪異の理由を尋ねたところ、ある老人が語ることには、神官の小竹祝の病死を悲しんだ天野祝が後を追い、両人を合葬した「阿豆那比(アヅナヒ)之罪」のなせる業であるという。そのため墓を開き、両者を別々の棺に納めて埋葬すると、直ちに日が照り出した」との記述がある。ある説によれば、この「阿豆那比」こそが日本最古の男色の記述であるとする。また「続日本紀」には、天武天皇の孫である道祖王が、聖武天皇の喪中に侍児と男色を行ったとして廃太子とされた記述が見える』(この前者については私の電子テクスト南方熊楠「奇異の神罰 南方熊楠 附やぶちゃん注」の注釈で、「日本書紀」原文・書き下し文・現代語訳を施したしたものを既に公開している。是非、御覧あれ)。『日本への制度としての男色の渡来は、仏教の伝来とを同じ時期であるとされる。仏教の戒律には、僧侶が女と性交する事(女色)を忌避する「女犯」というものがあった。そのため、女色に代わって男色が寺社で行われるようになった(男色の対象とされた少年達は、元々は稚児として寺に入った者達である)。近代までの俗説的な資料によれば、衆道の元祖は弘法大師空海といわれている』。『平安時代にはその流行が公家にも及び、その片鱗は、たとえば複数の男性と関係した事を明言している藤原頼長の日記「台記」にうかがえる。また源義経と、弁慶や佐藤継信・佐藤忠信兄弟との主従関係にも、制度的な片鱗を見出す説もある』。『北畠親房が「神皇正統記」の中で、男色の流行に言及しており、その頃にも流行していた証拠とされている(室町時代においては、足利義満と世阿弥の男色関係が芸能の発展において多大な影響があったとされている)』。『戦国時代には、戦国大名が小姓を男色の対象とした例が数多く見られる。織田信長と前田利家・森成利(蘭丸)ら』(注が附され、『信長と森乱丸(蘭丸)の関係については異説ならびに異論もある』などとある)、『武田信玄と高坂昌信、伊達政宗と片倉重長・只野作十郎』(注が附され、『信玄と昌信、政宗と作十郎(勝吉)については一次史料である書状が現存している。ただし、高坂のものは該当する史料に改変の痕跡があり、近年では信玄との関係を疑問視されている』とある)、『上杉景勝と清野長範』(注が附され、『景勝と長範について記す史書は江戸時代になって成立したもので二次史料ではあるが、当時の長範の知行等の待遇や逸話などから考えると、景勝と長範が実際に男色関係にあった可能性もあると推論されている』とある)、『などが有名な例としてあげられる』(注が附され、『戦国時代の主従間の男色関係の中には、主君の主導によらないとされる関係もある。浮気を謝罪する内容である信玄から昌信へ宛てたとする手紙は、その一例である』とある)。『武士道と男色は矛盾するものとは考えられておらず、「葉隠」にも男色を行う際の心得について説く一章がある』。『江戸時代においては陰間遊びが町人の間で流行し、日本橋の葭町は陰間茶屋のメッカとして繁栄した。衆道は当時の町人文化にも好んで題材とされ、「東海道中膝栗毛」には喜多八はそもそも弥次郎兵衛の馴染の陰間であったことが述べられており、「好色一代男」には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。このように、日本においては近代まで男色は変態的な行為、少なくとも女色と比較して倫理的に問題がある行為とは見なされず、男色を行なう者は別に隠すこともなかった』。『しかし江戸時代後半期になると、風紀を乱すものとして扱われるようになり、米沢藩の上杉治憲が安永4年(1775年)に男色を衆道と称し、風俗を乱すものとして厳重な取り締まりを命じていたり、江戸幕府でも寛政の改革・天保の改革などで徹底的な風俗粛清が行われると衰退し始めた』。『幕末には一部の地域や大名クラスを除いては、あまり行われなくなっていき、更に明治維新以降にはキリスト教的な価値観が流入したことによって急速に異端視されるような状況となるに至った』(最後の記載には「要出典」要請が示されている)。『明治6年(1873年)6月13日に制定された「改定律例」第266条において「鶏姦罪」の規定が設けられ、「凡(およそ)、鶏姦スル者ハ各懲役九十日。華士族ハ破廉恥甚ヲ以テ論ス 其鶏姦セラルルノ幼童一五歳以下ノ者ハ坐()セス モシ強姦スル者ハ懲役十年 未ダ成ラサル者ハ一等を減ス」とされ、男性同士の性行為が法的に禁止されるに至った。この規定は明治13年制定の旧刑法からは削除されたが、日本で同性愛行為が刑事罰の対象とされた唯一の時期である』とある。以下、「用語」集。

 《引用開始》

陰子(かげこ)―まだ舞台を踏んでいない修行中の少年俳優。密かに男色を売った。

陰間(かげま)―売春をする若衆。

飛子(とびこ)―流しの陰間。

念此(ねんごろ)―男色の契りを結ぶ。

念者(ねんじゃ)―若衆をかわいがる男役(立ち側ないし攻め側)。兄分とも。

若衆(わかしゅ/わかしゅう)―受け手(受け側)の少年、若者。

竜陽君―陰間の異称。由来は魏の哀公の寵臣の名。

 《引用終了》

・「風與(ふと)」「縁頰(えんづら)」は底本のルビ。

・「那智高野の學侶」諺に「高野六十那智八十」とあり、女人禁制の高野山や那智山にては男色が盛んであるが、稚児の補充が滞りがちになるため、六十や七十の老人になっても小姓役(女役)を勤める者があるという意。かつて経や仏典の用紙として用いられた高野紙は六十枚を以って、また同じく那智紙は八十枚を以って一帖(じょう)と成したことに引っ掛けたもの。

・「はりかた」張形。擬似陰茎。以下、ウィキの「張形」より一部引用する。『張形(はりかた、はりがた)とは人体の性器を擬したもののこと。現代の性具としてはディルド(ー)(Dildo)またはコケシと呼ばれ、勃起した陰茎と同じか少し大きめの大きさの形をしたいわゆる大人のおもちゃである。電動モータを内蔵し振動するものを「バイブレーター」(略して「バイブ」)、または「電動こけし」と呼ぶ』。『日本では特に男性外性器の形のものをさすことが多い。陽物崇拝では、子孫繁栄を願ったお守りとしても用いられた。現在の日本でも、木製の巨大なモノが神社に祭られている場合もあり、神奈川県のかなまら祭(金山神社・別名「歌麿フェスティバル」・英語名「Iron Penis Festival」)は日本国外にも奇祭としてよく知られ、毎年4月第一日曜日には日本のみならず欧米からも、梅毒やエイズの難を避ける祈願で観光客を集めている』。『この他にも地域信仰で体の悪い所(手足や耳・鼻といった部分)を模した木製の奉納物を神社に収める風習も見られ、古代のアニミズムにその源流を見出す事ができる。これらの人体の模造品は、その機能を霊的なものとしてシンボル化したり、または霊的な災い(祟り)による病気を代わりに引き受けてくれるものとして扱われた』。以下、「性具として」の張形について。「鼈甲製の張形」は『性的な道具として実用に供する張形は、現代では「こけし」または「ディルド」と呼ぶことが多い』。以下、「歴史的用途」という項。『男性が自身の衰えた性機能(勃起力)の代用や性的技巧として女性に用いる。勃起機能は男性アイデンティティの根底にあるため、類似する物品は世界各地・様々な時代に存在した』。『女性が性的な欲求不満を慰める道具として用い』られたと推測され、『歴史的起源が不明なほど古くから存在していたと見られる。本記事の写真のような物は、江戸時代よりしばしば記録に上っており、大奥では女性自身が求めて使用していたと言われる』。『性交の予備段階または性的通過儀礼の道具として用い』、『性交経験のない女性(処女)には処女膜があるため、地域によっては処女が初めて性交する際に処女膜が裂けて出血することを避けるために、予め張形を性器に挿入し出血させ、実際の性交時には出血しないようにしていたとされる。同様の発想は中世の欧州一部地域で見られ、童貞と処女がまぐわうことを禁忌と考える文化から使用されたとも考えられている。また初夜権のような風習との関連性も考えられる』。『これら性的用具の歴史は古く、その起源ははっきりしないが、紀元前より権力者の衰えた勃起能力の代用品として、張形と呼ばれる男性生殖器を模した器具が存在していたとみられる。石器時代には既に、そのような用途に用いられた石器が登場していたと見る説もあるが、処女が初めて性交する際の出血で陰茎が穢れるという考えからそのような器具を使用したとする説もある』。『記録に残る日本最古の張形は、飛鳥時代に遣唐使が持ち帰った青銅製の物が大和朝廷への献上品に含まれていたと云う記述があり、奈良時代に入ると動物の角などで作られた張り形が記録に登場している』。『江戸時代に入ると木や陶器製の張り形が販売され一般にも使われ始めた。大奥など男性禁制の場において奥女中が性的満足を得るために使用する例も見られた。江戸時代には陰間もしくは衆道という男色の性文化が存在し、キリスト教的文化圏と違って肛門性愛に対するタブーが存在しなかったため、女性用だけでなく男性が自分の肛門に用いることもあった。明治に入ると近代化を理由に取り締まり対象となり、多くの性具が没収され処分された。売春そのものは禁止されていなかったために、性風俗店での使用を前提とした性具は幾度も取り締まられながらも生き残っていった。しかし終戦を迎えた1948年(昭和23年)の薬事法改正から厚生大臣の認可が必要となった。そのためそれまで認可されていない性具は販売が不可能となった。そこで業者は張形に顔を彫り込んで「こけし」もしくは「人形」として販売を行なうこととなった。そのため日本の性具は人、もしくは動物の顔が造形されるようになった。そのため形状の似ている「こけし」という名称が使用された。また電動式のものは「マッサージ器」もしくは「可動人形」「玩具」として販売されている。インターネットの発達にともない規制の少ない海外製品も個人で購入できるようになったために、現在では顔のあるものは減ってきており、「ジョークグッズ」の一種として扱われることが多い』。以下は脱線するが、現代の張形である「ディルド」の記載。『ディルドを使う女性男性の陰茎と同様の形状をしており、自慰行為や性行為においてこれを用いる。使用法は主に、女性自身が自慰のために自分の膣へ挿入したり、性行為において男性が女性の膣に入れるなどして使用する。その他、男性自身の倒錯した自慰行為にも利用される。アダルトグッズショップや性具の通信販売では必ず見られる製品である』。『本体の材質はシリコーンなどの軟質合成樹脂素材のものや、金属製・ガラス製など様々なものが見られる。形状も陰茎に個人差があるように、様々な大きさ・長さ・色のものが見られ、人体の部分そっくりに着色されたものから、半透明なものや透明なもの、幾何学的な形状をしているもの、イボなどの突起を持つもの、実際にはない巨大なもの、人間以外の動物の性器を実物大で模したもの、人の拳を模したものなどバラエティに富んでいる』。『ディルドに小型バイブレータと電池を組み込み振動させる製品もある。これを女性器に密着もしくは挿入して使用する。多くのメーカが、多種多様な商品を製造しており、現在ではIC制御で、動きや振動を調節する事ができる製品もある』。『通常、女性が陰茎の代わりとして使用。中には太ももや腕に装着できるタイプもある。変わったものとしては風邪のマスクのように耳からかけて顎先に装着して使うものもある』。『ただこれらは薬事法上で性具が避妊具などと同種の扱いで、所定の水準を満たす必要があるため、外見が明らかに性具であっても、製品によっては特に使用方法を明記せず「ジョークグッズ」として販売される場合がある。実際に一般に見られるディルドの大半は性具以外の扱いとなっている』。『アダルトビデオなどの映像媒体では、男優によってこうした性具が多用される傾向にあるが、性具を用いて性的に興奮するという女性ばかりではないので注意が必要である。特に女性は体内に異物を入れるという行為には敏感であり、強い振動は女性に快感より痛みを感じさせる場合がある。また強い振動で繰り返し使用していると周辺の微細神経を傷付け性感を鈍らせることがあるので、適度な振動に調節して使用することが望ましく、感染症や擦過傷対策には使用の際にコンドームを用いるなど衛生面にも留意することが望ましい』と注意書きがある。この老人は他人には迷惑を懸けぬ、実直なる張形の使用では御座った。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 耄碌した老人の奇談の事

 

 藤澤某という私の知れる老いた武士が御座ったが、この人物、誠(まっこと)面白い人であった。

 ある時、藤澤翁、つくづく思うことが御座った。

『……我ら、若き時より今に至るまで……あらゆることを為して、凡そ天地自然のうちのことで、為したことのないということ、これ、ない……なれど、唯一つ……童の頃より、男友達と念友の交わりを為し、若衆の経験を為したこと、これ、ない……これと言うてそれを恨みとするわけにてはなけれど……果たして……「それ」が如何なる感じのものにてあるか……想像して見たが……分からぬ……もとより……我ら、醜男(ぶおとこ)の上、老衰耄碌しておる故……例え、那智や高野の学僧で御座ろうとも……我らのこの願い、頼みて、相手にして呉れよう筈も、これ、あろうはずもない……』

「……いやとよ! そうじゃ!」

と、藤澤翁、ふと思いついた。……

 藤澤翁、その日のうちにこっそりと出かけると、怪しげなる店より「張形」なるものを買い求め……参った。

 その日の昼、藤澤翁は独り、暖かい春陽の射す屋敷の縁側へと張形を懐にし、出でて座って御座った。

 辺りを見渡して、人気なきを見てとる……

……と……

――藤澤翁……

――徐ろに張形を取り出して中腰となり……

――己が尻(けつ)の穴に張形の先をぐっと押し当て……

――そうして……

――ゆっくら……腰を……下ろそうと致いた……

……ところが……

――老衰の足萎えにて御座ったれば……

……!……

膝が!

ガクン!

 と!

  キタ!

床に!

ドスン!

 と腰が!

  落チタ!

張形は!

 ズブリ!

  づづぅい!

    根本の方まで! とことん! ぶっすり!

――と! 突っ込んだから、たまらない!

「……わ゛ァ! ギャあ゛ん! びェえ゛ぇぇ~! ぢゃア゛! ア゛ワ゛ワ゛ワ゛ぁ゛!!!!」

と、えも言われぬ奇体なる雄叫びを挙げ……藤澤翁はその場に気絶致いた……

 ………………

……恐ろしと言えど愚かな妖しの阿鼻大叫喚に吃驚らこいた倅やら娘やら、家中の下々の者どもまでも、皆々残らず駆け集(つど)って参り……見れば、

「父上!」

「……御大(おんたい)!」

「……ご主人!」

「……御隠居さま!」

――老人、尻を捲くったまま、奇天烈なる姿にて、文字通り、泡吹いて倒れて御座ったればこそ、

「は、早(はよ)う! 医者じゃ! 医者じゃ!」

「薬を! 薬を!」

と御家中、上へ下への大騒ぎと相成って御座った。

――と……

……そばに御座った娘……ふと見ると……父の薄芋(うすいも)の浮いた痩せこけた汚い尻の辺りから……何やらん……赤い紐の……これ、垂れて御座るのが……目に入る……

「……これ、何かしら?……」

と、紐を手繰る……手繰ってみると……何やらん、先にはがっしり致いた図太き一物……それがまた、充血して真っ赤になった尻の穴を……むっちりと塞いで御座ったればこそ……娘は真っ赤になる……

――と……

……老人が震え乍ら、薄目を開ける……少しばかりは意識をとり戻いたのか……倅が、

「……父上!……こ、これは……一体!?……如何なされたのじゃ!?……」

と訳も分からず、複雑な表情のまま、大声で訊ねたところ、

「……ぬ、ぬいて、く、くりょうぞぉ……け、けつべそのぉ……あなんなかぁ……ず、ずぶりとぅ……は、はいってぇ……もうた、ぢ、ぢゃ!……は、はよう!……ぬ、ぬ、ぬいて、くれぇ!……」

と、夢うつつ、虫の息にて呟いて御座ったれば――是非に及ばず――驚きつつも、尻の穴より塞げる一物、引き抜いて見れば……これまた、怒張隆々たる張形にてこれあり……倅も娘も、家中の者どもの手前、すっかり赤面致し乍らも……老人に気付けの薬なんど与えるうちには……老人も漸っと正気を取り戻いて御座った。……

 ………………

……流石に、藤澤翁、自分が何を致いて御座ったか、仔細を語ることも出来申さず……いやいや、如何にもお下の話なればこそ、敢えて訊く者も御座らなんだが……家内御家中いずれの者にても……驚懼(きょうく)の中(うち)にも……忍び笑いを堪(こら)え切れずに御座った、とのことで御座ったよ。

 

 

 橘氏狂歌の事

 

 橘宗仙院は狂歌の才ある由聞し。一とせ隅田川御成の御伴にて、射留の矢を御小人(おこびと)の尋ありけるを見て、

  いにしへは子を尋ける隅田川今は小人がお矢を尋(たづぬ)る

當意即妙の才なりと人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「橘宗仙院」岩波版長谷川氏注に橘『元孝・元徳(もとのり)・元周(もとちか)の三代あり。奥医から御匙となる。本書に多出する吉宗の時の事とすれば延享四年(一七四七)八十四歳で没の元孝。』とある。このシーン、将軍家隅田川御成の際に鳥を射た話柄であるから、狩猟好きであった吉宗という長谷川氏の橘元孝(もとたか 寛文4(1664)年~延享4(1747)年)の線には私も同感である。この次の話柄の主人公が吉宗祖父徳川頼宣で、次の次が吉宗であればこそ、そう感じるとも言える。底本鈴木氏注でも同人に同定し、『印庵・隆庵と号した・宝永六年家を継ぎ七百石。享保十九年御匙となり同年法眼より法印にすすむ。寛保元年、老年の故を以て城内輿に乗ることをゆるされた。延享三年致仕、四年没、八十四。』とある。「御匙」とは「御匙(おさじ)医師」で御殿医のこと。複数いた将軍家奥医師(侍医)の筆頭職。

・「御小人」小者。武家の職名。ここにあるように、将軍家の放った矢を拾いに行ったり、鉄砲を担いで付き従ったりする、極めて雑駁な仕事に従事した最下級の奉公人。

・「いにしへは子を尋ける隅田川今は小人がお矢を尋る」観世元雅作の謡曲「隅田川」に引っ掛けた狂歌。まず、謡曲「隅田川」についてウィキの「隅田川(能)」より一部引用しておく(記号・漢字の一部を変更した)。

 一般に能の『狂女物は再会からハッピーエンドとなる。ところがこの曲は春の物狂いの形をとりながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描』いて、荒涼たる中に悲劇として幕を閉じる。登場人物は狂女(梅若丸の母:シテ)・梅若丸の霊(子方)・隅田川渡守(ワキ)・京都の旅の男(ワキヅレ) で、舞台正面後方(能では「大小前」だいしょうまえ)という)に塚の作り物(子方はこの中で待機する)がある。『渡し守が、これで最終便だ今日は大念仏があるから人が沢山集まるといいながら登場。ワキヅレの道行きがあり、渡し守と「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」と話しあう』。『次いで一声があり、狂女が子を失った事を嘆きながら現れ、カケリを舞う。道行きの後、渡し守と問答するが哀れにも「面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ」と虐められる』(「カケリ」とは能の働き事(演出法)の一つ。修羅物に於ける戦闘の苦患(くげん)、狂女物に於ける狂乱の様態などの興奮状態の演技、及び大鼓・小鼓に笛をあしらったその場面の囃子(はやし)をも言う)。『狂女は業平の「名にし負はば……」の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、都鳥(実は鷗)を指して嘆く事しきりである。渡し守も心打たれ「かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ」と親身になって舟に乗せる』。『対岸の柳の根元で人が集まっているが何だと狂女が問うと、渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。死の間際に名前を聞いたら、「京都は北白河の吉田某の一人息子である。父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に塚を作って埋めて欲しい。そこに柳を植えてくれ」という。里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、一周忌の念仏を唱えることにした』。『それこそわが子の塚であると狂女は気付く。渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。やがて念仏が始まり、狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。だが東雲来る時母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった』。

 折角、しみじみしたところで恐縮であるが、これを宗仙院はパロって、

○やぶちゃんの現代語訳

――その昔、狂うた親が、去(い)んじ子を、尋ね参った隅田川――今は子ならぬお小人が、親ならぬ御矢(おや)、尋ね渡らん――

と掛けたのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奥医橘宗仙院殿の狂歌の事

 

 昔、奥医であられた橘宗仙院殿は狂歌の才にも長けたお人であった由、聞き及んで御座る。

 ある時、隅田川御成りの折り、そのお供を致いたが、鳥を射とめたはずの上様の御弓矢が、亡失致いて、従ごうて御座った御小人が、あちらへ一散、こちらへ一散、さんざん駆け回って尋ね求めて御座るのを見、

 いにしへは子を尋ねける隅田川今は小人がお矢を尋ぬる

と歌ったとのこと。

「……当意即妙の才にて御座ろう……。」

と、ある人が語って呉れた話で御座る。

 

 

 賴母敷き家來の事

 

 紀州南陵院樣、或日若山におゐて御物見に入らせられ往來を御覧ありしに、御出の樣子もしらず御家中の者も大勢往來なせしに、或御家來侍草履取挾箱鑓(やり)にて通りしを、御側に居し者、あれは彼沙汰ありし男なりと笑ひけるを御聞被遊、いかなる沙汰ありしと御意の時、御側の者共無據申けるは、彼者儀身上不勝手の由、しかはあれど取計(とりはからひ)かたも可有之儀、甚だ不束(ふつつか)の儀に有之と申上けるに、いか成(なる)謂(いはれ)と御尋有ければ、右の者召連候侍は彼者次男に御座候。草履取鑓持箱持何れも三男四男、或ひは懸り居候甥などにて候と申ければ、南陵院樣御意ありけるは、それは賴母敷家來也、予は大勢召連ぬれど、彼家來におとりたる、草履鑓持の處は心元なし。不如意は是非もなしと被仰けるが、無程かの者を御取立ありて相應に子供も片付をなしけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:もし前項が想像した通りの吉宗の逸話であれば、その祖父の話として連関する。

・「賴母敷き」「たのもしき」と読む。

・「紀州南陵院」正しくは南龍院。徳川家康十男で紀伊国和歌山藩初代藩主となった徳川頼宣(慶長7(1602)年~寛文111671)年)の尊称。戒名も南龍院殿従二位前亜相顗永天晃大居士である。ウィキの「徳川頼宣」より一部引用する。『常陸国水戸藩、駿河国駿府藩、紀伊国和歌山藩の藩主を歴任して紀州徳川家の祖となる。母は側室の養珠院(万)である。八代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸、元服に伴い頼将、元和年中に頼信、さらに頼宣と改名する。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した』。『1602年(慶長7年)、伏見城にて生まれる。1603年(慶長8年)、2歳にして常陸水戸藩20万石を与えられる。1606年(慶長11年)、家康に従い京都に上り元服。同年、駿河駿府藩50万石に転封され、駿府城に入って家康の許で育てられた。1617年2月27日(元和3年正月22日)に加藤清正の第五女・八十姫(瑤林院)を正室とする』。『1614年(慶長19年)、大坂冬の陣で初陣を飾り、天王寺付近に布陣した。翌年大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した』。『1619年(元和5年)、紀伊国紀州藩55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる。入国の前に、家臣を派遣して、以前の領主・浅野家に対する領民の不満などを調査させている。入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、紀州藩の繁栄の基礎を築いた。また、地元の国人を懐柔する地士制度を実施した。また、浪人問題を解消すべく、多くの対策を打ち出した』。『1651年(慶安4年)の慶安の変において、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していたため幕府(松平信綱・中根正盛)に謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった』。『なおその時期、明の遺臣・鄭成功(国姓爺)から日本に援軍要請があったが、頼宣はこれに応じることに積極的であったともいう。その後、疑いは晴れて無事帰国したが、和歌山城の増築を中止しなければならなかったとも言われる(和歌山県和歌山市にはこの伝承に因む「堀止」という地名がある)』。『1667年(寛文7年)嫡男・光貞に跡を譲り隠居』。暴れん坊将軍吉宗の祖父に相応しく、『覇気に富む人柄であったと伝えられている』とある。現代語訳では正しく南龍院と改めた。

・「物見」城や貴人の屋敷などで、外部の様子を眺めるために高所に設けられた場所。物見窓。一般には外からは見え難い構造になっている。

・「若山」和歌山。

・「身上不勝手」家計不如意、経済的に困窮しいること。

・「おゐて」はママ。

・「おとりたる、草履鑓持の」底本では右に『(尊本「劣らざる草履取鎗持の」)』と注する。これで採る。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 頼もしき家来の事

 

 ある折り、大御所様御子にして吉宗公御祖父であらせられた紀州南龍院徳川頼宣様が、和歌山城の御物見にお入りになられ、往来をご覧になられておられた。

 御物見台へ御出でになられておられることを知らぬ御家中の者らが、御城下御物見下を大勢往来致いておった。

 その時、ある家士の一人が、物見のすぐ下を、供侍一人、草履取一人、挟箱一人、槍持一人を従え、通って行くの見た御近習の者が、別の一人に――上様のお傍なれば、上様に聴こえぬようにと――遠慮がちに笑い乍ら、耳打ち致いた。

「……あれ、見よ。……ほれ、『あの評判の』、例の男ぞ。……」

耳聡き南龍院様がこれをお聞き遊ばされ、

「――『あの評判』――とは、如何なる評判じゃ?――」

との御意。聴き咎められた御傍衆は恐縮し乍ら、拠所なく、以下のように申し上げた。

「……かの者儀……如何に身上不如意とは申せ……他にも取り計らい方、これ、御座ろうと思われまするに……甚だ見苦しき仕儀、致いて御座れば……」

と申し上げたところ、南龍院様は、

「――かの者を見るに――これと言うて、何の見劣れるところも、これ、ないが――何の謂われを以って『見苦しい』とは、申すか?――」

とのお訊ねなれば、

「……お恐れ乍ら、実は……かの者の、あの召し連れて御座いますところの供侍……これ、次男にて御座いまする。……また、その後ろの草履取、槍持、箱持は何れも三男、四男、或いは、かの家士に頼って居候致いて御座る甥子(おいご)……といった次第にて御座いますればこそ……」

と、如何にもかの家士を賤しき者と馬鹿にした風に申し上げる。

 ところが、南龍院様、にっこりと微笑まれ、御意あらせられたことには、

「――それは頼もしき家来じゃ! 予は大勢、家来を召し連ねておれど――かの家来に劣らぬ草履取、槍持がおるか――と思うと、心許ない。――身上不如意――それとこれとは、何の関係も、これ、ない。――」

と仰せられた由。

 程なく、南龍院様は、かの家士を殊の外御取り立てになられ、その子供らをも、相応の職に落ち着かせたとのことで御座った。

 

 

 盲人吉兆を感通する事

 

 有德院樣未(いまだ)紀州中納言にて被爲入(いらせられ)、御庭の御物見に御座(ござ)ありしに、彼御物見下を平日御療治等さし上(あげ)し座頭某通りけるが、暫く耳をかたむけ御物見に立歸り、やがて御殿へ出けるに、何ぞ恐悦なる事はなきや、扨々御目出度事也と申上けるに、いか成事にてかく申やと尋けるに、今日御物見下を通りけるが、頻に御屋敷内にて餠など舂(つ)き候音なして、いかにも悦(よろこば)しき物音なり、何か恐悦の事あらん、其時は御祝ひを御ねだり申さんなど申けるにぞ、上にも御笑ひありしが、無程御本丸へ被爲入、將軍に被爲成(ならせられ)ける。右盲人は其後板鼻(いたばな)檢校とかいひて、御供なしけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:物見櫓エピソード連関と、紀州南龍院徳川頼宣から孫である第八代将軍吉宗で連関。

・「有德院」は八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「紀州中納言」正確には権中納言。吉宗は宝永2(1705)年10月6日に紀州徳川家5代藩主に就任、同年12月1日には従三位左近衛権中将に昇叙転任、同時に将軍綱吉の偏諱を賜って「頼方」から「吉宗」と改名、宝永3(1706)年参議、翌宝永4(1707)年1218日に権中納言に転任している。権中納言であったのは、ここから正徳6(1716)年4月30日の将軍後見役就任までの9年間である。話柄からは正徳6(1716)年春か、前年の秋頃のことと思われる(年末年初では餅搗きの音は奇異ではない。これはそうした時期でないことを意味している。但し、は正徳6(1716)年春には最早人事は明白であったとも考えられるから、やはり前年秋ぐらいの方が都市伝説としてはグッドである)。 

・「物見」前項同注参照。但し、ここでは城下の物見台ではなく、庭を見下ろすための高楼のようなものかも知れない。

・「無程御本丸へ被爲入、將軍に被爲成ける」吉宗は享保元(1716)年8月13日に征夷大将軍源氏長者宣下を受け、正二位内大臣兼右近衛大将に昇叙転任して、第八代将軍となった。事蹟の参考にしたウィキの「徳川吉宗」によれば、この将軍就任の際、吉宗は『紀州藩を廃藩とせず存続させた。過去の例では、第5代将軍・徳川綱吉の館林藩、第6代将軍・徳川家宣の甲府徳川家は、当主が将軍の継嗣として江戸城に呼ばれると廃藩にされ、甲府徳川家の藩士は幕臣となっている。しかし吉宗は、御三家は東照神君家康から拝領した聖地であるとして、従兄の徳川宗直に家督を譲ることで存続させた。その上で、紀州藩士のうちから加納久通・有馬氏倫ら大禄でない者を二十数名選び、側役として従えただけで江戸城に入城した。こうした措置が、側近政治に怯える譜代大名や旗本から、好感を持って迎えられた』とある。

・「板鼻檢校」板花喜津一(いたばなきついち 慶安5・承応元(1652)年~享保6(1721)年)。岩波版長谷川氏注に『宝永六年家宣に目見、奥医に準ぜられ享保元年二百俵支給』(宝永6(1709)年)とある。この「奥医」というのは、吉宗の準奥医扱いということであろうか(でなくては辻褄が合わない。大名の侍医も奥医と呼ぶ)。しかし、本文では最下級の「座頭」とある。「目見」「奥医に準」ずるのに、これは明らかにおかしい。これではやはり、本話が眉唾の都市伝説であると言われても文句は言えまい。それとも板花喜津一ではないのか? その辺の齟齬について長谷川氏は何も述べておられないので、底本の鈴木氏注を見る(今まで奇異に思われていた方もあるかも知れぬので一言申し添えておくと、私の、この「耳嚢」の注は原則、まずオリジナルな注を目指すために諸注を見ずに原案を作り、次に最も最新の注である岩波版を参考にして捕捉を加え、最後にやはり参考のために底本の鈴木氏注を確認するという順序をとっている。しかし乍ら、古い注ながら底本の鈴木氏の注は注釈の真髄を捉(つら)まえているものと感服することが多い)と、私が思った通り、『吉宗の紀州時代というのは誤であろう。話を面白くするための付け加えであるかも知れない』とされている。「檢校」は盲官の最高位。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 盲人は聴覚にて超自然の吉兆を感じとる事

 

 有徳院吉宗様が未だ権中納言にて紀州和歌山藩藩主であらせられた折りのことで御座る。

 ある日のこと、吉宗様、御庭の御物見台へ御登第なされ、そこに座っておられた。

 丁度、その時、日頃吉宗様御療治のため、御城に来診致いて御座った座頭の某が、その御物見台の下の辺りを通りかかって御座った。

 物見窓から覗いてご覧になられると、座頭は、立ち止って何やらん、こちらの方に耳傾けておる様子にて、御物見台の下まで、わざわざ戻って参り、また暫く聞き耳を立てる様子の後、御殿へと上がって御座った。 

 その日、御療治のため、座頭が吉宗様に拝謁致いたところ、座頭、

「……何ぞ近々、恐悦至極なる御慶事にても、これ、御座いまするかのう? さてもさても! 御目出度きことにて御座る!……」

と申し上ぐるので、吉宗様は妙に思われ、

「何故、斯様なことを申す?」

と質された。

 すると座頭、

「……今日、ここに参りまする折り、御物見の下を通りましたところが、しきりに御屋敷内より――ぺったん、ぺったん、ペったん、ぺったん――と、餅なんどを搗く音、これ、聞こえましたれば……これ、如何にも悦ばしき物音なればこそ……近々、恐悦なる御事、必ずやありましょうぞ! その折りには、拙者、一つ、御祝儀なんどを、御ねだり申し上げましょうかのう……」

と申し上げるのをお聞きになられると、吉宗様は飽きれて大笑いになされたとのことで御座る。――

 ――なれど、程のう、江戸城御本丸へ入らせられ、将軍様にならせられまして御座る。――

 ――かの座頭は、その後(のち)、板鼻(いたばな)検校とか申す名と高位を得、吉宗様にお供致いた、とのことで御座る。――

 

 

 夢兆なしとも難申事

 

 本所石原に設樂(しだら)某といへる人、召仕の女懷姙して三ツ子を生し事あり。則(すなはち)名を文藏孝藏忠藏と付て、今ははやいづれも廿才になりぬべし。右設樂の縁者たる石黑某かたりけるは、物には自然と感ずる前兆も有ものかや、右設樂初め小十人組にて御城泊番に有りしが、夢に三子を設けたる故名をば何と付べきや、文孝忠信といへど信は殘り三字へ渡りたる義也、文藏孝藏忠藏と附べしと思ひて夢覺めけり。おかしき夢を見しと思ひしが、果して三子を設けて其通り名を付しと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:聴覚的予兆から夢の予兆で直連関。

・「本所石原」現在の墨田区南西部、蔵前橋東南岸を東へ下る蔵前橋通りの左右に現存。御竹蔵(現・国技館)の東北に位置し、東へ縦に長い町である(但し、東方向の現「石原(三)」「石原(四)」は切絵図では「石原新町」とある)。嘉永年間の絵図であるが、そこには「設楽」姓は発見出来なかったが、以下の注で分かる通り、この設楽家は並みの格ではない。絵図にないのは出世して引っ越したと考えるべきであろうか。

・「設楽某」岩波版長谷川氏注では設楽正凝(しだらまさなり 享保9(1724)年~天明4(1784)年)とし、『大番を経て田安郡奉行』となったとあり、更に『三子に該当するのは豊蔵惟綏(これよし)・幸蔵久厚(ひさあつ)・忠蔵政厚。三つ子ではない。』と懇切な注がある(本文は明らかな三つ子として記載されている)。大番は将軍を直接警護する、現在のシークレット・サーヴィス相当職で、五番(御番)方の一つ(後注「小十人組」を参照。その中でも最も歴史が古い)。田安郡(こおり)奉行とは江戸幕府第八代将軍吉宗次男宗武を家祖とする御三卿の一つ田安徳川家の領地の郡代を言う。しかし正直に言うと、この正凝なる人物が独身であったのか、妻がありながら召使いに手を出したのか、長谷川氏がかく注を引くことが出来るということは、正妻がなかったか、正妻はあったが子がなかったか――そんなことの方が気にかかる私であった。また、そんなところを勝手に類推敷衍して、現代語訳に突っ込もうと思った。こうした条件をつけた方が、夢告の不思議さ――都市伝説的なリアルなインパクトを付与出来ると考えたからである――と、底本の鈴木氏注を見た――またしても、『新たな』動き! 新事実! まず、そこには、設楽正凝の子として男子三人ではなく四人を挙げ、何とそこには「信」さえ居るのである!――『七蔵正信・豊蔵惟綏・幸蔵久厚・忠蔵政厚の四子がある。文蔵ではない。なお三つ子を生んだのではなく、豊蔵と忠蔵は二年違い。嗣子七蔵も母某氏とあり、正妻には子がなかったのであろう。』――いつも乍ら、鈴木先生に感謝! 先生の推測に、私の敷衍を組み合わせて――設楽某のアーバン・レジェンド、出来上がり、出来上がり!

・「小十人組」将軍家警護組織であった五番方の一つ。以下、ウィキの「小十人」から引用する。『江戸幕府における警備・軍事部門(番方)の役職のひとつである。語源は扈従人であるとされる。将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊であり、行軍・行列の前衛部隊、目的地の先遣警備隊、城中警備係の3つの役目がある』。『小十人の役職名は、江戸幕府と諸藩(特に大きな藩)に見ることができ、将軍(あるいは藩主)及び嫡子の護衛・警備を役目とする。歩兵が主力であるが、戦時・行軍においては主君に最も近い位置にいる歩兵であるため、歩兵でも比較的格式が高い』。『江戸幕府においては五番方(新番・小十人・小姓番・書院番・大番)のひとつとされる。平時にあっては江戸城檜之間に詰め、警備の一翼を担ったが、泰平の世にあっては将軍が日光東照宮、増上寺、寛永寺などに参拝のため、江戸城を外出するときが腕の見せ所であり、繁忙期であった。将軍外出時には将軍行列の前衛の歩兵を勤めたり、将軍の目的地に先遣隊として乗り込んでその一帯を警備した。江戸時代初期や幕末には小十人が将軍とともに京・大坂に赴き、二条城等の警護にも当たっている』。『小十人のトップは、小十人頭(あるいは小十人番頭)であり、主に1,000石以上の大身旗本から選ばれた(足高の制による役高は1,000石)。中間管理職として小十人組頭(役高300俵)があり、将軍外出予定地の実地調査のためにしばしば出張した。小十人頭(番頭)・組頭は馬上資格を持つ。時代によって異なるが、江戸幕府には概ね小十人頭は20名、小十人組頭は40名、小十人番衆は400名がいた』。『小十人の番士は、旗本の身分を持つが、馬上資格がないという特徴がある。小十人番衆は家禄100俵(石)級から任命されることが多く、小十人の役職に就任すると、原則として10人扶持の役料が付けられた。知行になおすと計120余石となる。江戸城に登城する際は、徒歩で雪駄履き・袴着用で、槍持ちと小者の計2名を従えた』。『江戸時代初期には、譜代席の御家人(御家人の上層部)の中で優秀な者・運の良い者(あるいはその惣領)は小十人となり、旗本に班を進める者もいた。泰平の世となると、番方は家柄優先の人事が行われていたので、将軍通行の沿道警備役の御家人から小十人に直接抜擢された例はほとんどなく、勘定・広敷をはじめとする役方(行政職・事務職)の役職に就任していた御家人(あるいはその惣領)が論功として小十人になることがあった』とある。

・「御城泊番に有りし」ここでわざわざ設楽の役職を仔細に述べ、夢を見たのが城内での宿直の晩であったと述べているのは、もしかすると根岸、江戸城徳川将軍家の持つ神威のパワーを暗に示さんとしたものででも、あったものと私は推測している。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 夢兆など存在しないなどとも言い難き事

 

 本所石原に住まう設楽某というお方があったが――御正妻はあられたが、御子がなかった――その召使いの女が懐妊して三つ子が生れた――かく申せば言わずもがな、設楽某殿の御子で御座った――。

 則ち――この女を側室と致いて――名を文蔵・孝蔵・忠蔵と付け――そうさ、今ははや、二十歳(はたち)前後にはなり申そう。

 この設楽の親戚の者で御座った私の知人石黒某が語った話で御座る。――

「……物事というもの、自(おの)ずと不思議に感応致すところの、前兆というもの、これ、あるので御座ろうか。……かの設楽、子もなくて――未だかの女も召し使う前にて御座った由――大番になる前は、初めは小十人組に勤めて御座って、御城の宿直(とのい)番に当たった夜の夢の中にてのこと、と申す……

『……かくも――三つ子を設けたる、故は……さても――名何と付くるが、よかろう?……世には――「文・孝・忠・信」とは言うも、これは四つ……なれど――『信』は他の三字総てにあるべきものにて、相通ずればこそ……これぞ、文蔵・孝蔵・忠蔵と名付くるが、よかろう……』

と、思うた……

――と夢の中にて思うたところで、設楽……目が覚めたと申す。勿論、妻には子も一向に出来ず……況や、子を孕ませた女のある訳にてもなし……

『……妙な夢を……見たもんじゃ……』

と思って御座ったところ……暫く致いて、新たに雇うた召使いの女の色香に迷い……孕ませ……かくも誠に三つ子が……かの日の夢の通りの、三つ子が生まれ……かの夢告の通り、文蔵・孝蔵・忠蔵と名を付けたということにて御座る。……」

 

 

 未熟の射藝に狐の落し事

 

 予が親しき弓術の師たる人の語りけるは、或る出入の輕き者の悴を召連來りて、此者に狐付て甚難儀の由、蟇目(ひきめ)とかいへる事なして給り候へと歎きける故其樣を見しに、實(げに)も狐の付たると見へて、戲言(ざれごと)などいふてかしましく罵りける故、蟇目は潔齋の日數もありて急には成がたし、然し工夫こそあり、置て歸るやう申付て、則彼狐付を卷藁の臺へ縛り付て、子供其外弟子共へ申付て、さし矢を數百本いさせけるに、暫くは叫び罵りしが、後は靜に成て臥しけるに、果して狐は落にけり。子供弟子抔蟇目の法しるべきにあらず、未矢所も不極未熟故、風(ふ)としては卷藁をもはづれ候事度々ある事なれば、狐も其危きを知り、且さし矢の事なれば誠に少しのゆとりもなく、弦音矢音烈しければ、落んもむべ也と語りぬ。おかしき事にてありし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:不可思議の夢兆から、不可思議の狐憑き、それを落す摩訶不思議な呪法で連関するが、ここではその「蟇目」の呪術なんどは、全く使わず、美事に『狐憑き』を『落す』である。この子倅、一時的な一種の精神錯乱か神経症であったものか、若しくは親を困らすための佯狂(ようきょう)ででもあったものか、その辺のことをすっかり見抜いて、この弓術の先生、かの施術を行っているように、私には思われる。根岸もその辺りを「おかしき事」と言っているのではなかろうか。

・「蟇目」日本大百科全書(小学館)の入江康平氏の「蟇目」より引用する(「4・5寸」を「4、5寸」に変えた)。『引目・曳目・響矢などとも』長さ4、5寸(大きいものでは1尺を越えるものもある)の卵形をした桐(きり)または朴(ほお)の木塊を中空にし、その前面に数箇の孔(あな)をうがったもので、これを矢先につけ、射るものを傷つけないために用いた。故実によると、「大きさによって違いがあり、大きいものをヒキメといい小さいものをカブラという」とあるように、もともと同類のものであったようである。その種類には犬射(いぬい)蟇目、笠懸(かさがけ)蟇目などがある。またその名の由来については前面の孔が蟇(ひきがえる)の目に似ているという説や、これが飛翔(ひしょう)するとき異様な音響を発し、それが蟇の鳴き声に似ているとされることから魔縁化生のものを退散させる効果があると信じられ、古代より宿直(とのい)蟇目・産所蟇目・屋越(やごし)蟇目・誕生蟇目などの式法が整備されてきた。今日でもこの蟇目の儀は弓道の最高のものとして行われている』とある。ここでは矢そのものではなく、蟇目の矢を用いたそうした呪術としての「蟇目」の呪法を、かく呼んでいる。

・「實(げに)も」は底本のルビ。

・「卷藁」巻藁は弓術に於ける型の稽古用に作られた的のこと。藁を長手方向に矢が突き抜けず、且つ矢を傷めない程度の強さで束ねて相応の高さの台に乗せたものを言う。以下、参照したウィキの「巻藁(弓道)」から一部引用する。『見た目は米俵に似ているが、中身に何か入っている訳でなく、藁を必要な量束ねて藁縄で巻き締めてあるのみである。巻き締めは相当な力で締めてあり、一度バラせば人間の力で元に戻すのは難しい。巻藁の直径は30cm50cm、奥行きが80cm程度あり、巻藁の中心が肩先程の高さに来るよう、また重量があるため専用の巻藁台に据え置く。安全の為には巻藁はある程度大きい方が良く、巻藁の後ろには矢がそれた時のために畳を立てるのが好ましい。型稽古の為に射手の正面に大鏡を置く事もある。巻藁で行射中は射手より巻藁寄りへは出ない、近付かない等注意が必要である』。

・「さし矢」弓矢を番えては放ち、番えては放ち、文字通り、矢継ぎ早に次々と続けて矢を射ることを言う。

・「風(ふ)と」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 未熟の射芸に逆に狐が恐れて落ちた事

 

 私が親しくして御座る弓術の師であるお方が語って下さった話にて御座る。

 ある時、師の屋敷へ出入りしておった軽(かろ)き身分の男が、己(おの)がの子倅を召し連れて参ると、

「……こ奴に……狐が憑きまして……甚だ難儀致いて御座いまする……噂に聞いて御座いますところの……かの蟇目とやらん呪(まじな)いを施してやっては……戴けませんでしょうか……」

と切に歎き縋って御座れば、まずはその子の様子を窺って見たところが――成程、如何にも『狐が憑いておる』と見えて、訳の分からぬことを喚(おめ)き叫んで、何やらん、下卑たことを、喧(かまびす)しく口に致いて、五月蠅きこと、これ、話にならず。

 それを見てとったかの師、

「――蟇目の法にては、それを執り行(おこの)うための精進潔斎のための日数(ひかず)、これ、必ず必要にて御座ればこそ――今直ぐに施術致す訳には、これ、参らぬ。……然し、拙者、一つ、工夫これあればこそ――まあ……倅をここに預けて、帰るがよい。……」

 さて、師は親御が帰ったのを見計らうと、後に残った倅の襟首を荒々しく摑むや、矢の稽古のための巻藁の的を据えた台まで引きずって行き、そこへ雁字搦めに縛り付けると、己(おのれ)の子供や未だ未熟なる弟子ども総てに申しつけ、

「――稽古――始めぃ!」

とさし矢を――実に数百本も――かの的へ――射させる――

「……ぎゃん゛! こん゛! ごん゛!……人殺シィ! 人デ無シィ! 糞爺ィ!……ぎょほ! ぐをっほ!……あ゛~!!…………」 

なんどと『狐が憑いた』子倅――暫くは恐れ叫び――狐の如き高き声にて罵しって御座ったが……やがて静かになったと思うたら……ころんと気を失(うしの)うておった。――

 ――そうして――果して狐はきれいさっぱり――落ちて御座った、とのこと。――

 勿論、かの子供や弟子ども、蟇目の法など知る由もない。

 それどころか、未だ己(おの)が放った矢が何処(いずこ)へ飛び、何処へ刺さるか、これもまた、まるで分からぬ未熟者ども故……いや! ふとした弾みには……巻藁をも大きに外るること……これ、度々あることなればこそ……『狐の奴』めも……その危うきを知り、且つ、さし矢にてあれば……落ち着いて考え、言わんこと択ぶゆとりも無(の)う……弦音(つるおと)矢音の激しきに、堪らず落ちたもむべなるかな!……いやいや! 誠に可笑しい話で、御座ろう?!

 

 

 楓茸喰ふべからざる事

 

 予白山に居たりし時、近隣に大前孫兵衞も居住なしぬ。彼下男或日頻りに笑ひて止ざる故、狐狸のなす事なるべしといひしが、面白くて笑ふ躰(てい)にあらず、何か甚苦しみて笑ふ事也き。されば近所成小川隆好といへる御藥園の醫師を賴て見せけるに、是は全(まつたく)中毒ならん、何をか食しやと尋しに、傍輩成者、楓の根のくさびらを取て調味せしよしいひけるにぞ、さればこそ楓から出る茸は俗に笑ひ茸といへる物也とて、不淨などなせる所の色赤くなりし土を、湯に交へ呑せけるに、ことごとく吐却してけるが跡は一兩日しで快氣せし由。後來のため爰に記ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:狐憑きから、ワライタケの中毒症状を「狐狸のなす事なるべし」と判断する部分で連関。私と一緒にずっと「耳嚢」を読んでこられた方はお分かりの通り、これは「卷之二」は「解毒の法可承置事」の類話――どころじゃあない――こりゃ、もう完全に同話じゃねえか! 根岸さんよ! これは私としてはレッドカード、1000-1=999話のペナルティだ! なめちゃあ、いけねえ、お奉行さまよ! 但し、繰り返しを厭わず、現代語訳もこの本文に即して、淡々と粛々と行った(注は流石に流用した。それにしても諸注、分かりきっているのに話柄のダブりを指摘していない。こんな風に指弾するのはお洒落じゃないとでも言うのかい!)。

・「白山」現在の文京区の中央域にある地名。江戸時代までは武蔵国豊島郡小石川村及び駒込村のそれぞれの一部であった。ウィキの「白山」によれば、地名の由来は、『徳川綱吉の信仰を受けた』『白山神社から。縁起によれば、948年(天暦2年)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀しこの地に祭った』とある。また、同解説には、『なお、小石川植物園は、隣接の小石川ではなく白山三丁目にある。これは、もともと白山地区の大部分が小石川の一部だったことによるもの』とあり、これは直後に出てくる小石川御薬園のことで、本記載に関わる地理的解説として注目される。

・「楓茸」「かえでだけ」と固有名詞のように読ませているか。

・「大前孫兵衞」大前孫兵衞。底本の「卷之二」は「解毒の法可承置事」の鈴木氏注では、大前房明(ふさあきら)に同定し、寛保元(1741)年『養父重職の遺跡を相続、時に九歳。』宝暦8(1758)年に右筆、明和元(1764)年に奥御右筆に転じ、同3(1766)年組頭、『布衣を着することをゆるさるる』。同7(1770)年には西丸裏門番頭、と記す。但し、同箇所の岩波版長谷川氏注では先代の表御右筆であった房次(ふさつぐ)か、とされている。大前房明の没年が分からないので如何とも言い難いが、以下の小川隆好の事蹟からは大前房次の可能性が極めて高いように思われる。

・「小川隆好」諸本は注を施さないが、この人物の父は小川笙船(おがわしょうせん)と言い、小石川養生所の創立者として時代劇などで知られる有名な人物である。小川笙船(寛文121672)年~宝暦101760)年)は市井の医師であったが、ルーツは戦国時代の武将小川祐忠。以下、ウィキの「小川笙船」によれば(一部の改行を省略した)、『享保7年(1722年)1月21日、目安箱に江戸の貧困者や身寄りのない者のための施薬院を設置することを求める意見書を投書した。それを見た徳川吉宗は、南町奉行・大岡忠相に養生所設立の検討を命じた。翌月、忠相から評定所への呼び出しを受け、構想を聞かれたため、

身寄りのない病人を保護するため、江戸市中に施薬院を設置すること

幕府医師が交代で養生所での治療にあたること

看護人は、身寄りのない老人を収容して務めさせること

維持費は、欲の強い江戸町名主を廃止し、その費用から出すこと

と答えたが、町名主廃止の案に対して忠相は反対した。しかし、施薬院の案は早期から実行し、吉宗の了解を得た。同年1221日、小石川御薬園内に養生所が設立され、笙船は肝煎に就任した。しかし、養生所が幕府の薬園であった土地にできたこともあり、庶民たちは薬草などの実験台にされると思い、あまり養生所へ来る者はいなかった。その状況を打開するため、忠相は全ての江戸町名主を養生所へ呼び出し、施設や業務の見学を行わせた。そのため、患者は増えていったが、その内入所希望者を全て収容できない状況に陥ってしまった。享保11年(1726年)、子の隆好に肝煎職を譲って隠居し、金沢へ移り住んだ。以後、養生所肝煎職は笙船の子孫が世襲した。その後、病に罹って江戸へ戻った。宝暦10年(1760年)6月14日、病死。享年89』、とある(下線部やぶちゃん)。これによって、本話柄は、享保111726)年以降、天明6(1786)年以前であることが分かる。この幅から考えると、大前孫兵衞は大前房次であると考える方が自然である。

・「御藥園」小石川御薬園、現在の通称・小石川植物園の前身。現在、正式には東京大学大学院理学系研究科附属植物園と言う。以下、ウィキの「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」によれば、『幕府は、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物を育てる目的で、1638年(寛永15年)に麻布と大塚に南北の薬園を設置したが、やがて大塚の薬園は廃止され、1684年(貞享元年)、麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設したものがこの御薬園である』。『その後、8代徳川吉宗の時代になり敷地全部が薬草園として使われるようになる。1722年(享保7年)、将軍への直訴制度として設置された目安箱に町医師小川笙船の投書で、江戸の貧病人のための「施薬院」設置が請願されると、下層民対策にも取り組んでいた吉宗は江戸町奉行の大岡忠相に命じて検討させ、当御薬園内に診療所を設けた。これが小石川養生所で』、山本周五郎の連作短編小説「赤ひげ診療譚」や同作の映画化である黒澤明監督作品「赤ひげ」で知られる。『なお、御薬園は、忠相が庇護した青木昆陽が飢饉対策作物として甘藷(サツマイモ)の試験栽培をおこなった所としても有名である』。小石川養生所についても、ウィキの「小石川養生所」から引用しておく。『江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。享保7年(1722年)正月21日には麹町(東京都新宿区)小石川伝通院(または三郎兵衛店)の町医師である小川笙船が将軍への訴願を目的に設置された目安箱に貧民対策を投書する。笙船は翌月に評定所へ呼び出され、吉宗は忠相に養生所設立の検討を命じた』(小川笙船については後注参照)。『設立計画書によれば、建築費は金210両と銀12匁、経常費は金289両と銀12匁1分8厘。人員は与力2名、同心10名、中間8名が配された。与力は入出病人の改めや総賄入用費の吟味を行い、同心のうち年寄同心は賄所総取締や諸物受払の吟味を行い、平同心は部屋の見回りや薬膳の立ち会い、錠前預かりなどを行った。中間は朝夕の病人食や看病、洗濯や門番などの雑用を担当し、女性患者は女性の中間が担当した』とある。養生所は小川の投書を受けて早くも同享保7(1722)年1221日に小石川薬園内に開設され、『建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置された。収容人数は40名で、医師ははじめ本道(内科)のみで小川ら7名が担当した。はじめは町奉行所の配下で、寄合医師・小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていたが、天保14年(1843年)からは、町医者に切り替えられた。これらの町医者のなかには、養生所勤務の年功により幕府医師に取り立てられるものもあった』とする。『当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、利用が滞った。そのため、翌、享保8年2月には入院の基準を緩和し、身寄りのない貧人だけでなく看病人があっても貧民であれば収容されることとし、10月には行倒人や寺社奉行支配地の貧民も収容した。また、同年7月には町名主に養生所の見学を行い風評の払拭に務めたため入院患者は増加し、以後は定数や医師の増員を随時行っている』とある。

・「全(まつたく)」は底本のルビ。

・「笑ひ茸」菌界子嚢菌門同担子菌綱ハラタケ目ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属ワライタケPanaeolus papilionaceusウィキの「ワライタケ」によれば、『傘径24cm、柄の長さ510cm 。春~秋、牧草地、芝生、牛馬の糞などに発生。しばしば亀甲状にひび割れる。長らくヒカゲタケ(Panaeolus sphinctrinus)と区別されてきたが、最近では同種と考えられている』もので、『中枢神経に作用する神経毒シロシビンを持つキノコとして有名だが、発生量が少なく、決して食欲をそそらない地味な姿ゆえ誤食の例は極めてまれ。食してしまうと中枢が犯されて正常な思考が出来なくなり、意味もなく大笑いをしたり、いきなり衣服を脱いで裸踊りをしたりと逸脱した行為をするようになってしまう。毒性はさほど強くないので誤食しても体内で毒が分解されるにつれ症状は消失する』とあり、『摂取後30分から一時間ほどで色彩豊かな強い幻覚症状が現れるが、マジックマッシュルームとして知られる一連のキノコよりは毒成分は少ないため重篤な状態に陥ることはない』と記載する。シロシビンはサイロシビン(Psilocybin 4-ホスホリルオキシ-N,N-ジメチルトリプタミン)とも言い、『シビレタケ属やヒカゲタケ属といったハラタケ目のキノコに含まれるインドールアルカロイドの一種。強い催幻覚性作用を有』し、これを『多く含む幻覚性キノコは、かなり古くからバリ島やメキシコなどではシャーマニズムに利用されてきた。1957年にアメリカの幻覚性キノコ研究者、ロバート・ゴードン・ワッソン R. Gordon Wasson)と、フランスのキノコ分類学者、ロジェ・エイム(Roger Heim)によるメキシコ実地調査の記録がアメリカのLIFE誌で発表されてからその存在が広く知られるようになり、LSDを合成したことでも著名なスイスの化学者、アルバート・ホフマン(Albert Hofmann)が、動物実験で変化が見られないので自分で摂取し幻覚作用を発見、成分の化学構造を特定しシロシビンとシロシンと名づけた』ものである。『シロシビン、シロシンを含むのはハラタケ目のキノコで、同じ種でも採取場所や時期によっても含有量は異なってくるが、特に多量にシロシビンを含む属として、前述のシビレタケ属、ヒカゲタケ属と、日本では小笠原諸島などに分布する熱帯性のアオゾメヒカゲタケ属が挙げられる。僅かでも含むものも数えれば、その数は180種以上にも及ぶ。その中には、シロシビン以外の毒が共存するキノコも少なからず存在』し、摂取後、速やかに加水分解されてシロシンに変性、腎臓・肝臓・脳・血液に広く行き渡る。ヒトの標準的中毒量は510㎎程度で、15㎎以上『摂取すると、LSD並の強烈な幻覚性が発現する。成長したヒカゲシビレタケ、オオシビレタケで2、3本、アイゾメシバフタケだと5、6本で中毒する。分離したシロシビンを直接静脈注射すると、数分で効果が現れ』、『症状は、摂取してから30分ほどで悪寒や吐気を伴う腹部不快感があり、1時間も過ぎると瞳孔が拡大して視覚異常が現れ始め、末梢細動脈は収縮して血圧が上がる。言わば、交感神経系が興奮した時と似た状態である。2時間ほど後には幻覚、幻聴、手足の痺れ、脱力感などが顕著に現れて時間・空間の認識さえ困難となる。その後は徐々に症状が落ち着き始め、4~8時間でほとんど正常に戻る。痙攣や昏睡などの重症例は極めて稀で、死亡するようなことはまずないが、幼児や老人が大量に摂取すると重篤な症状に陥ることもある』とし、シビレタケ属の一種であるシロシビン含有量の多いオオシビレダケPsilocybeの仲間を子供が誤食した死亡例があるとする。『ベニテングタケやテングタケに代表されるイボテン酸の中毒症状は、最終的に意識が消失していく傾向にあるのに対し、シロシビン中毒では過覚醒が発現することが多』く、『長期間常用しても蓄積効果はなく、肉体的な依存性もないが、大麻程度の精神依存があるとされる。また、摂取した後も3ヵ月以内くらいは、深酒や睡眠不足などの疲労によって幻覚や妄想が再燃するフラッシュバックが起こる可能性が指摘されている』とある(以上、後半はウィキの「シロシビン」から引用)。また、「カラー版 きのこ図鑑」(本郷次雄監修・幼菌の会編・家の光協会)110p「ワライタケ」には以下の記載がある(抜粋)とのこと(ブログ「大日本山岳部」の「ワライタケ入門」より孫引き)このエピソードは、ブログの筆者もおっしゃっている如く、必読である。正規の図鑑としては白眉ならぬ金眉である(学名のフォントを変更した)。

   《当該ブログからの引用開始》

ワライタケ

Panaeolus papilionaceus

ヒトヨタケ科ヒカゲタケ属

春~夏、牛馬の糞や推肥上に群生~単生。小型。(略)肉は淡褐色。柄は褐色で、白色の微粉に覆われ中空。幻覚性の中毒をおこす。

エピソード:

大正6年、石川県樋川村のA夫さん(35歳)は、近所のBさん(40歳)が採ってきたきのこをBさんが「中毒したら大変」と注意するのも聞かず、「その場所なら今年の3月に同じようなきのこを採ったことがあるから大丈夫」と言い張って、無理やり分けてもらった。

その晩、A夫さんは妻のC子さん(31歳)、母のD枝さん(70歳)、兄のE助さん(41歳)と一緒にきのこの汁物にして、食べた。しばらくしてC子さんがおかしくなり、さすがのA夫さんもあわて、医者に助けを求めた。そしてA夫さんが助けに戻ってくると、C子さんは丸裸になって踊り、飛び跳ね、三味線をもって引くまねをしたり、笑い出したりの大騒ぎ。そのうちA夫さんとE助さんも同じように狂いだし、D枝さんはきのこ3個しか食べなかったため症状が軽く意識を失わなかったものの、自分の料理でみんなに迷惑をかけたと謝り、一晩中同じ言葉をくりかえした。翌日全員快復したという。

本種は、この中毒事件がきっかけとなってワライタケの名がついた。

   《当該ブログからの引用終了》

最後に注しておくと、小川は「楓から出る茸は俗に笑ひ茸といへる物也」と述べているが、上記引用にも『牧草地、芝生、牛馬の糞』『牛馬の糞や推肥上』とあり、そのようなムクロジ目カエデ科カエデ属 Acer への特異的植生性質はない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 楓に生えた茸は決して食ってはならないという事

 

 私が白山に住んで御座った頃、近隣に大前孫兵衛殿もお住まいになられており、私も懇意にして御座った。

 ある日のこと、孫兵衛殿御屋敷の下男が、突如頻りに笑い出し、これが、ただもう、笑い笑(わろ)うて、笑い止まざるものにて、

「……これは最早、狐狸の成す業(わざ)に違いない!」

とて、よく観察してみると、確かに、その笑い、面白うて笑うに、これあらず――引き攣った笑顔の襞の奥にて――甚だ苦しんでおるのが、何やらん分かると言うた感じの、如何にも不気味に奇体なる笑い方で御座った。

 されば、やはり近所に住もうて御座った小川隆好(りゅうこう)という小石川御薬園支配方を命ぜられて御座った医師に頼んで診せてみたところが、一見して、

「――これは全く以って食中毒の症状と見受け申す。――直近、何を食べたか存じておるものはおらぬか?――」

と訊ねたところ、同僚の下男体(てい)の者が、

「……そういえば、先ほど……御屋敷の御庭の、楓の根元に茸が生えておったとか言うて……採って料理致いて御座いましたが……」

と、申し上げたところが、隆好医師、膝を打って、

「さればこそ! 楓に生え出でし茸、これ俗にワライダケと申すもので御座る。」

と言うや、屋敷の大小便致すところの厠近辺、その汚物の染み渡って土色赤変致いた所の土くれを採り、湯にこき混ぜて、ぐいと呑ます――と、たちどころに激しく嘔吐致いたが、後は一日二日で快気致いたとのことで御座った。

 茸中毒その他の後学のため、ここに記しおくものである。

 

 

 孝童自然に禍を免れし事

 

 相州の事なる由。雷を嫌ふ民有しが夏耕作に出て留守には妻と六七歳の男子なりしに、夕立頻りに降り來て雷聲夥しかりける故、彼小兒、兼て親の雷を恐れ給ふ事なれば、獨(ひとり)畑に出てさこそおそろしく思ひ給わん、辨當も持行べきとて支度して出けるを、母も留めけれど聞ずして出行ぬ。彼百姓は木陰に雨を凌(しのぎ)て居たりしに、悴の來りければ大きに驚、扨食事など請取、雨も晴て日は暮なんとせし故、とく歸り候樣申ければ、小兒ははやく仕廻給へとて先へ歸りけるが、一ツの狼出て彼小兒の跡に付て野邊を送りける故、親は大きに驚、果して狼の爲に害せられんと、身をもみ心も心ならざりしに、又候嫌ひの雷一撃響くや否や、我子の立行しと思ふ邊へ落懸りし故、農具をも捨てかしこに至りければ、我子は行方なく狼はみぢんに打殺されてありし。定(さだめ)て我子も死しけるぞと、急ぎ宿に歸り見けるに、彼小兒は安泰にてありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。「耳嚢」には雷に纏わる逸話が多い。少なくとも根岸は雷嫌いではなかったと思われる。サンダー・フォビアであれば、こんなに書けない。この話、小話乍ら、映像にしてみたい欲求に駆られる、「耳嚢」中、極めて好きな一篇である。

・「思ひ給わん」はママ。

・「狼」特に注を要する語がない代わりに、一つ、この食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミCanis hodophilax 亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilaxについて記しておくこととする。以下、ウィキの「ニホンオオカミ」よりの一部引用する(学名のフォントを変更した)。『日本の本州、四国、九州に生息していたオオカミの1亜種。あるいはCanis属のhodophilax種』。絶滅種とされ、確実な最後の生息情報とされるものは、『1905年(明治38年)1月23日に、奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存する)』個体である。『2003年に「1910年(明治43年)8月に福井城址にあった農業試験場(松平試農場。松平康荘参照)にて撲殺されたイヌ科動物がニホンオオカミであった」との論文が発表され』ている『が、この福井の個体は標本が現存していない(福井空襲により焼失。写真のみ現存。)ため、最後の例と認定するには学術的には不確実である』。『環境省のレッドリストでは、「過去50年間生存の確認がなされない場合、その種は絶滅した」とされるため、ニホンオオカミは絶滅種となっている』。分類学上、『ニホンオオカミは、同じく絶滅種である北海道に生育していたエゾオオカミとは、別亜種であるとして区別され』、更に『エゾオオカミは大陸のハイイロオオカミの別亜種とされているが、ニホンオオカミをハイイロオオカミの亜種とするか別種にするかは意見が分かれており、別亜種説が多数派であるものの定説にはなっていない』。エゾオオカミには学名 Canis lupus hattai Kishida, 1931 が与えられている。以下、ハイイロオオカミの別亜種とする説。『ニホンオオカミが大陸のハイイロオオカミと分岐したのは日本列島が大陸と別れた約17万年前とされているが、一般に種が分岐するには数百万年という期間を要し、また生態学的、地理的特徴においても種として分岐するほどの差異が見られないことから、同種の別亜種であるとする』。以下、別種説について。『ニホンオオカミを記載し、飼育し、解剖学的にも分析したシーボルトによると、ニホンオオカミはハイイロオオカミと別種であるという見解である』。『また、ニホンオオカミの頭骨を研究していた今泉吉典も頭骨に6ヵ所の相違点があり、独立種と分類すべきとしている。このように大陸産のハイイロオオカミの亜種ではなく、Canis hodophilax として独立種であるとすることもある』。その絶滅の原因は、『江戸時代の1732年(享保17年)ごろに、ニホンオオカミの間で狂犬病が流行したことが文献に記されているが、これは絶滅の150年以上前のことであり、要因の1つではあるにしても、直接の主原因とは考えにくい。近年の研究では、害獣として処分の対象とされた事の他に、明治以降に輸入された西洋犬からのジステンパーなどの伝染病が主原因とされている』。『なお、1892年の6月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが写真は残されていない。当時は、その後10年ほどで絶滅するとは考えられていなかった』。以下、「特徴」の項より。『体長95114cm、尾長約30cm、肩高約55cm、体重推定15Kgが定説となっている(剥製より)。』『他の地域のオオカミよりも小さく中型日本犬ほどだが、中型日本犬より脚は長く脚力も強かったと言われている。尾は背側に湾曲し、先が丸まっている。吻は短く、日本犬のような段はない。耳が短いのも特徴の一つ。周囲の環境に溶け込みやすいよう、夏と冬で毛色が変化した』。『生態は絶滅前の正確な資料がなく、ほとんど分かっていない』が、『薄明薄暮性で、北海道に生息していたエゾオオカミと違って大規模な群れを作らず、2、3―10頭程度の群れで行動した。主にニホンジカを獲物としていたが、人里に出現し飼い犬や馬を襲うこともあった。遠吠えをする習性があり、近距離でなら障子などが震えるほどの声だったといわれる。山峰に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで3頭ほどの子を産んだ』。『自らのテリトリーに入った人間の後ろをついて来る(監視する)習性があったとされ、いわゆる「送りオオカミ」の由来となり、また hodophilax (道を守る者)という亜種名の元となった。しかし、人間からすれば手を出さない限りニホンオオカミは殆ど襲ってこない相手であり、むしろイノシシなどが避けてくれる為、送りオオカミ=安全という図式であった』。『一説にはヤマイヌの他にオオカメ(オオカミの訛り)』 『と呼ばれる痩身で長毛のタイプもいたようである。シーボルトは両方飼育していたが、オオカメとヤマイヌの頭骨はほぼ同様であり、彼はオオカメはヤマイヌと家犬の雑種と判断した。オオカメが亜種であった可能性も否定出来ないが今となっては不明である』(これには以下の脚注がある『シーボルトの標本を疑問視する声も少なからずあり、これは骨格の似ているアジア地域の野生犬ドールのものとも考えられており、また後述するように庶民にも馴染み深い人懐っこい性格であったにもかかわらずこれほど骨格も剥製も残されていないというのはおかしいという観点もある。』)。以下、民俗学的な「犬神」の記載。『各地の神社に祭られている犬神や大口の真神(おおくちのまかみ、または、おおぐちのまがみ)についてもニホンオオカミであるとされる。これは、農業社会であった日本においては、食害を引き起こす野生動物を食べるオオカミが神聖視されたことに由来する』。現存する標本としては『頭骨、毛皮は数体』分、全身『剥製は世界に4体しかない。うち国内は3体、オランダに1体が確認されている』のみである。国内に現存する剥製や骨格標本としては国立科学博物館蔵(1870年頃捕獲になる福島県産♂の全身骨格標本)・東京大学農学部蔵(岩手県産♀の冬毛剥製)・和歌山県立自然博物館蔵(1904年和歌山にて捕獲された奈良県境大台山系産剥製。和歌山大学からの寄贈品で、本剥製は吻から額にかけてのラインに段があり、日本犬のような顔になっているが、これは標本作成時の錯誤との意見もあるとある)・埼玉県秩父市秩父宮記念三峯山博物館蔵(2例の毛皮で二品共に2002年に発見されたもの)・熊本市立熊本博物館蔵(全身骨格標本で熊本県八代郡京丈山洞穴の1976年から1977年にかけての調査中に発見された遺骸。放射性炭素法による骨年代測定の結果、室町から江戸初期に生存していた個体であることが判明している)。この他、1969年に熊本県泉村矢山岳の石灰岩縦穴からもニホンオオカミの頭骨が発見されている、とある(「現存標本画像」4体はリンク先で見られる)。国外のものとしては、江戸末期の文政9(1826)年にシーボルトが大阪天王寺で購入した成獣剥製で、彼が『日本から持ち帰った多くの動植物標本の内』、『ヤマイヌという名称で基準標本となっている』オランダのライデン博物館蔵のもの、大英博物館蔵の毛皮及び頭骨(明治381905)年に奈良県東吉野村鷲家口で購入された若い♂のもの)、ベルリン自然史博物館蔵の毛皮などがある。但し、民俗学的資料としての「日本狼の頭骨」としては『本州、四国、九州の神社、旧家などに、ニホンオオカミのものとして伝えられた頭骨が保管されている。特に神奈川県の丹沢ではその頭骨が魔よけとして使われていた為、多く見つかっている』とある。『2004年4月には、筋肉や皮、脳の一部が残っているイヌ科の動物の頭骨が山梨県笛吹市御坂町で発見され、国立科学博物館の鑑定によりニホンオオカミのものと断定された(御坂オオカミ)。DNA鑑定は可能な状態という。中部地方や関東地方の山間地には狼信仰があり、民間信仰と関係したオオカミ頭骨が残されている。御坂オオカミは江戸後期から明治に捕獲された個体であると推定されており、用途は魔除けや子どもの夜泣きを鎮める用途が考えられ民俗学的にも注目されている。現在は山梨県立博物館に所蔵されている』。『栃原岩陰遺跡の遺物を収蔵展示している北相木村考古博物館にはニホンオオカミの骨の破片が展示されているが、その他多くの縄文・弥生遺跡からニホンオオカミの骨片が発掘されている』。以下、「ヤマイヌとオオカミ」の項。『「ニホンオオカミ」という呼び名は、明治になって現れたものである』。『日本では古来から、ヤマイヌ(豺、山犬)、オオカミ(狼)と呼ばれるイヌ科の野生動物がいるとされていて、説話や絵画などに登場している。これらは、同じものとされることもあったが、江戸時代ごろから、別であると明記された文献も現れた。ヤマイヌは小さくオオカミは大きい、オオカミは信仰の対象となったがヤマイヌはならなかった、などの違いがあった』(ここに脚注があり、『長野県松本市の旧開智学校に展示されている明治期の教科書(副読本)に、「肉食獣類 おほかみ  (1)種類1狼 ヤマイヌ (2)部分 長シ ○口 長ク且大ニシテ耳下ニ至ル 耳ハ小ナリ ○体 犬ニ似テ大ナリ ○脚 蹼(みずかき)アリテ能ク水ヲ渉ル ○毛 灰色ニシテ白色雑ル ○歯 甚ダ鋭利ナリ (3)常習 性猛悍兇暴ニシテ餓ユルトキハ人ニ迫ル 深山ニ棲息シ他獣ヲ害シ(以下略)」とある。』と記す。引用脚注の字空けを一部変更した)。『このことについては、下記の通りいくつかの説がある』。

 《引用開始》

ヤマイヌとオオカミは同種(同亜種)である。

ヤマイヌとオオカミは別種(別亜種)である。

ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは未記載である。

ニホンオオカミはオオカミであり、未記載である。Canis lupus hodophilaxはヤマイヌなので、ニホンオオカミではない。

ニホンオオカミはオオカミであり、Canis lupus hodophilaxは本当はオオカミだが、誤ってヤマイヌと記録された。真のヤマイヌは未記載である。

ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミはニホンオオカミとイエイヌの雑種である。

ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは想像上の動物である。

ニホンオオカミを記載したシーボルトは前述の通りオオカミとヤマイヌの両方飼育していた。

 《引用開始》

が、『現在は、ヤマイヌとオオカミは同種とする説が有力である』と総括されてある。『なお、中国での漢字本来の意味では、豺はドール(アカオオカミ)、狼はタイリクオオカミで、混同されることはなかった』。『ヤマイヌが絶滅してしまうと、本来の意味が忘れ去られ』、現在、「ヤマイヌ」という語は『主に野犬を指す呼称として使用される様にな』り、また『英語のwild dogの訳語として使われる。wild dogは、イエイヌ以外のイヌ亜科全般を指す(オオカミ類は除外することもある)。「ヤマネコ(wild cat)」でイエネコ以外の小型ネコ科全般を指すのと類似の語法である』。以下、「生存の可能性」の項。『紀伊半島山間部では、1970年代に、ニホンオオカミを目撃したという証言が度々話題となり、ニホンオオカミが生存しているのではないかとの噂が絶えない。現在でも、紀伊半島山間部ではニホンオオカミの目撃証言を募るポスターをしばしば目にする。秩父山系でも、ニホンオオカミ生存の噂は絶えない。また、祖母山系に生存しているのではないかという話もある』(ここに複数の脚注が附されているが、中でも次の注は興味深い。『同時期に描かれた漫画「ドラえもん」ではドラえもん曰く22世紀にも個体群が存在しているとのことで、懸賞金目当てに現代のニホンオオカミを捕まえようとのび太がオオカミに変身し、最後まで残ったニホンオオカミの群れと戯れるという話があるが、あくまでフィクションの話である。余談だが、この話でのニホンオオカミはある程度学説に基づいた生態で描かれており、展開上人間を敵視してこそいるものの、洞窟で群れを成す姿などはかなり正確に描かれている。』。いい注だなあ!)。最後に「ニホンオオカミ絶滅の弊害とオオカミ導入計画」という項。『ニホンオオカミが絶滅したことにより、天敵がいなくなったイノシシ・ニホンジカ・ニホンザル等の野生動物が異常繁殖することとなり』(脚注『ただし、オオカミの絶滅は増加の原因の一因に過ぎない。地球温暖化による冬期の死亡率の低下、農村の過疎化など、様々な要因が指摘されている。』。)、『人間や農作物に留まらず森林や生態系にまで大きな被害を与えるようになった。アメリカでは絶滅したオオカミを復活させたことにより、崩れた生態系を修復した実例がある。それと同様にシベリアオオカミを日本に再導入し対応するという計画が立案されたこともあった。しかしながら、ニホンオオカミよりも大型で体力の強いシベリアオオカミが野生化することの弊害が指摘されて中止になった経緯がある。現在も、祖先がニホンオオカミと同じという説がある中国の大興安嶺のオオカミを日本に連れてきて森林地帯に放すという計画を主張する人々がいる』。『ただし、オオカミの行動範囲は広いことが知られており、特に開発が進んだ現代の日本においては人と接触する可能性も否定できない』(ここに本文注として『北米ハイイロオオカミの群れの縄張りの広さは20-400平方キロメーター程度あり、1日約20km移動するという』とある)。『さらには、かつてニホンオオカミがあった生態的地位に入る事が出来なければ、沖縄でハブ駆除のために放たれたジャワマングースのように外来種としての被害を与える可能性もあるという議論もある。しかしながら、ジャワマングースは同じ生態的地位を占める動物が存在しなかったのに対して、アジア系のハイイロオオカミはニホンオオカミとほぼ同じ生態的地位を占める動物であることが異なる。もっともニホンオオカミは島国の日本の気候・土地に適応した動物であり、またそれらのオオカミとは亜種レベルで異なる別の動物であり、その結果は未知数と言えよう』。各論から発展課題まで、美事なウィキ記載である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 親孝行な児童が自然と禍いを免れた事

 

 相模国での出来事なる由。

 雷嫌いの農民が御座った。

 ある夏の日、耕作に出でて、留守には妻と、六、七歳になる男の子がおったが、沛然として夕立降り来たって、雷鳴も夥しく轟き渡った。

 すると、かの童(わらべ)、以前より父親(てておや)の雷を嫌うておるを知れば、

「お父(とっ)つあんは神鳴りを恐がりなさるご性分なれば、ひとり畑に出でて、さぞ怖(こお)うてたまらずにおらるるに違いない。おいらが夜食の弁当持て行きたれば、少しは心強くもあられん。」

と言い、雨中の支度を致いて出でんとする。

 母はあまりの豪雨雷鳴の凄まじさに留めんとしたれど、子はその制止を振り切って家を出でて御座った。

 父なる百姓は、丁度、畑脇の木陰に雨を凌いでおったのじゃが、倅が参ったのを見、大いに驚きもしたが、また、言わずとも分かる倅の孝心に、心打たれもして御座った。

 遅い弁当を受け取って、漸く雨も晴れ、今にも日が暮れなずむ頃と相成って御座った故、

「……さあて、暗うなる前に、早(はよ)う、帰り。」

と坊の頭(かしら)を撫でて、家の方へと押し送る。

「……お父つあんも……お早うお帰り!」

とて、先に独り家路へとつく。

 少ししてから、鍬を振るって御座った父親(てておや)が、子の帰って行く方を見てみた――。

……夕暮れ……小さな子の小さくなりゆく後姿……と――

――そのすぐ後ろの林の暗がりより――一匹の狼が現れ出で、我が子の跡追うて野辺を走ってゆくのが目に飛び込んできた。……

 父親(てておや)、真っ青になって、

「……!……このままにては……!……狼に、喰わるるッ!……」

と身悶えし、心ここになきが如く、直ぐ、我が子のもとへと走らんと致いた、その時――!

――ピカッビカッッ!

突如! 閃光一閃! 辺りが真っ白になったかと思うと! 間髪居れず!

――バリバリバリバリ!!! ズゥゥゥゥン! ドォオォォン!!!――

――と、見たことも聴いたことも御座らぬような怖ろしき雷電と神鳴り! うち轟くや否や……

……勿論、父親(てておや)は神鳴り嫌いのことなれば、惨めにも、その場に団子虫の如く丸まって御座ったが……

――が!――

――その蹲る刹那の景色!――

――はっと気づくは!――

――その神鳴り!――

――今!――

――正に!――

――我が子が歩いておった思う方へ!

――落ちたじゃ!!!……

……父親(てておや)は泡食って鋤鍬を投げ捨て、子がもとへと駆けつけた……。

 ………………

……しかし……そこには最早……我が子の姿……これ、なく……ただ……神鳴りがために無二無三に焼け焦げ……完膚無きまでに八つ裂きされた……黒焦げばらばらの……狼の死骸が御座ったばかりであった…………。

 ………………

……父親(てておや)、

『……定めし……倅もともに……卷之三に打たれ……打ち殺されて……微塵にされた……』

と絶望のあまり、狂うた如、狼の吠え叫ぶが如、泣き喚(おめ)いて家へと走り戻ったのじゃった……

 ……………

……と……

家の戸口で、

「……お父つあん! お早う! お帰り!」

と、倅が満面の笑顔にて、父を待って御座った、ということで御座ったよ。

 

 

 雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事

 

 巣鴨に大久保某といへる人有りしが、享保の頃、騎射の稽古より同門の許へ咄に立寄、暮前に暇を乞しが、未迎ひも揃はず、殊に雨も催しぬれば主人も留めけるが、雷氣もあれば母の嫌ひ、かれこれ早く歸りたしとて馬に打乘、騎射笠(きしやがさ)に合羽など着て歸りけるが、筋違(すじかひ)の邊よりは日もくれて、夕雨しきりに強く雷聲も移しければ、一さんに乘切て歸りけるに、駒込の邊町家も何れも戸を立居けるに、一聲嚴敷(きびしき)雷のしけるに乘馬驚きて、とある町家の戸を蹴破りて、床(ゆか)の上へ前足を上(あげ)て馬の立とゞまりけるにぞ、尚又引出して乘切り我家に歸りぬ。中間共は銘々つゞかず、夜更て歸りける由。然るに求たる事にはあらねど町家の戸を破り損ぜし事も氣の毒なれば、行て樣子見來(みきた)るべしと家來に示し遣しけるに、彼家來歸りて大に笑ひ申けるは、昨夜の雷駒込片町(かたまち)の邊へ落(おち)しといへる沙汰あり。則(すなはち)何軒目の何商賣せし者の方へ落し由申ける故、何時頃いか樣成事と尋ねけるに、五ツ時前にも有べし、則雷の落し處は戸も蹴破りてある也、世に雷は連鼓(れんこ)を負ひ鬼の姿と申習はし、繪にも書、木像にも刻(きざみ)ぬれど、大き成僞也、まのあたり昨夜の雷公を見しに、馬に乘りて陣笠やうの物を冠り給ふ也、落給ひて暫く過て馬を引返し、雲中に沓音(くつおと)せしが、上天に隨ひ段々遠く聞(きこえ)しと語りし由申ければ、さあらば雷の業(わざ)と思ふべき間、却て人していわんは無興(ぶきやう)なりとて濟しけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:バリバリバリバリ!!! ズゥゥゥゥン! ドォオォォン!!!――神鳴り直撃雷神来臨直連関! 映像的二連射、人々の生き生きとした表情、心根の暖かさが、伝わって来る。本作も私の頗る付きに好きな一篇である。しかし……前の「孝童自然に禍を免れし事」といい、この暖かい世間話といい――この、完膚なきまでに神経に落雷を受けてしまった今の世の人の心には、もう、なかなか生まれてこないような気もして、逆に淋しくなってくるのである。

・「雷公」雷神の尊称。ウィキの「雷神」より一部引用する。『日本の民間信仰や神道における雷の神である。「雷様(かみなりさま)」「雷電様(らいでんさま)」「鳴神(なるかみ)」「雷公(らいこう)」とも呼ばれる』。『菅原道真は死して天神(雷の神)になったと伝えられる。民間伝承では惧れと親しみをこめて雷神を「雷さま」と呼ぶことが多い。雷さまは落ちては人のヘソをとると言い伝えられている。日本の子どもは夏に腹を出していると「かみなりさまがへそを取りにくるよ」と周りの大人から脅かされる』ことが多かったが(今やそんな言い方をする若い親はあるまい。何か寂しい気がする)、これには脚注で『寒冷前線による雷雨の場合、前線通過後、気温が急激に下がることが多い。このとき子どもが腹を出していると、下痢を起こしやすくなることから、それを戒めるため、こうした伝承が生じたといわれている。』という目から鱗の理科雄ばりの薀蓄が示されている! 脱帽だ! 『雷さまから逃れるための方法は、蚊帳に逃げ込む、桑原(くわばら:菅原道真の亡霊が雷さまとなり、都に被害をもたらしたが、道真の領地の桑原には雷が落ちなかったと言う伝承から由来)と唱える、などが伝えられる』。『対になる存在としては風神が挙げられる』。『日本では俵屋宗達の風神雷神図(屏風)を代表例に、雷さまは鬼の様態で、牛の角を持ち虎の革のふんどしを締め、太鼓(雷鼓)を打ち鳴らす姿が馴染み深い。この姿は鬼門(艮=丑寅:うしとら)の連想から由来する。雷が落ちる時「雷獣」という怪獣が落ちてくるともいう。大津絵のなかでは雷さまは雲の上から落としてしまった太鼓を鉤で釣り上げようとするなどユーモラスに描かれている』とある。

・「大久保某」嘉永年間の江戸切絵図の巣鴨近辺には武家の大久保姓は見当たらない模様。但し、以下の叙述から相応の武士とお見受けする。雷公ともなればこそ、立身出世致いて田舎(巣鴨は嘉永年間でも田畑が多い田舎である)から大身の御屋敷へと落雷、基、栄転転居でも致いたものか。

・「騎射」馬上から弓を射るの技術の謂いであるが、武家にあっては「騎射三物」(きしゃみつもの)を指す。即ち、騎乗して弓を扱う技法としての犬追物・笠懸・流鏑馬の総称である。以下、ウィキの「騎射三物」から一部引用する(記号を一部変更・読点の追加をした)。『元々は武者が騎乗から敵を射抜くための稽古法で、それぞれ平安時代〜鎌倉時代に成立する。武士の中でも騎乗が許されるのは一部の武士のみということもあり、馬上の弓術「騎射」は武芸の中でも最高位のものとされ、中世の武士達は武芸練達のために様々な稽古をした。「騎射」稽古で上記3つは代表的な稽古法であり、総称してこう呼ばれる。近代までにそれぞれ独立した競技、儀礼的神事として作法や規則が整備された。』「犬追物」とは『40間(約73m)四方の馬場に、1組12騎として3組、計36騎の騎手、検分者(審判)を2騎、喚次役(呼び出し)を2騎用意し、犬150匹を離し、その犬を追いかけ、何匹射たかを競う。矢は神頭矢と呼ばれる刃の付いていない矢を使用する。手間や費用がかか』った。勿論、現在は『動物保護の観点から』『行われていない』。「笠懸」とは『的の配置に左右、高低、大小と変化を付けた的を、馬を疾走させつつ、射抜く。流鏑馬より難易度が高く、より実戦的』なものである。武田流・小笠原流といった流派が現存しており、京都上賀茂神社笠懸神事や神奈川県三浦の道寸祭りなどで実見することが出来る。「流鏑馬」は『距離2町(約218m)の直線馬場に、騎手の進行方向左手に3つの的を用意する。騎手は馬を全力疾走させながら3つの的を連続して射抜く。現在でも日本各地の流鏑馬神事として行われている』。

・「未迎ひも揃はず」後に「中間共は銘々つゞかず、夜更て歸りける」という叙述が現れるので、この人物は相応な地位の武士であったものか、稽古の後、その帰りの供回りが(同伴者以外に、自宅から迎えの者が呼ばれているのである(但し、その必要性が近世風俗に暗い私には今一つ分からない。識者の御教授を乞う)。話柄から見ると、この同門の朋友の屋敷に寄った時点で、恐らく迎えの者が呼ばれたものと思われ、すると、迎えの者が呼ばれたのは雨が降りそうな気配があったための、現在の供回りに携えさせている手持ちの合羽だけではなく、よりちゃんとした雨具及び馬の雨具、更に雨天時の荷物持ちとしての補充要員であろうか(騎射の稽古場と大久保某の屋敷とが近距離であるならば、行きと帰り専用の供回りがその都度呼ばれ、行ったり来たりるしても不自然ではないが、この話の後半の地理関係を読むに、かなり離れている)。

・「騎射笠」騎射や騎馬で遠乗りする際に武士が用いた竹製の網代(あじろ)編み(細く薄い竹板を交互にに潜らせた編み方)の笠。

・「筋違」江戸二十五門の一つであった筋違御門のこと(現在の千代田区神田須田町1丁目)。神田川に架かる昌平橋の下流約50mにあった筋違橋の左岸部分を構成していた門で、底本の鈴木氏注に『内神田と外神田の通路にあり、非常の場合のほかは昼夜閉鎖することはなかった』とある。江戸切絵図を見ると、現在の万世橋のように見えるが、続く鈴木氏の注に『門は明治五年に取りこわし、橋も現存しない』とある。そのやや下流に現在の万世橋が掛かっているというのが正しい。

・「中間共は銘々つゞかず、夜更て歸りける」勿論、御承知のことと思うが、供回りは皆、徒歩立ちで、騎乗した主人の後を走って追い駆けるのである。この場合、初めから続けるはずがないのである。

・「駒込片町」現在の文京区本駒込1丁目。明石太郎 "珈琲"氏のブログ「珈琲ブレイク」の「駒込片町 白山通・本郷通(9)」に、昭和411966)年 までは駒込片町の呼称が生きていたことが記され、更に『江戸時代初期この地は、三代将軍家光の乳母春日局の菩提寺である湯島麟祥院が、寺領として所有していた農地であった。元文2年(1737)この地にも町屋が開かれ、現在の本郷通り、当時の岩槻街道をはさんで吉祥寺の西側の片町側であったため駒込片町と呼ばれるようになった』。『明治5年までには、目赤不動のあった駒込浅嘉町の一部と、養昌寺や南谷寺の敷地を包含するようになった』。『この地名の変遷を見ても、江戸時代以前はのどかな農村であったのが、江戸幕府の発展、お江戸の町の発展とともに、徐々に都市化されていく様子がうかがえる』と当時の風景を伝えてくれている。

・「五ツ時前」不定時法であるから、これを夏の出来事と考えれば、凡そ午後7時半から午後8時以前と考えられる。

・「連鼓」「れんつづみ」と読んでいるか(「れんこ」でも問題はない)。所謂、俵屋宗達の「雷神風神図」(リンク先はウィキの「雷神」のパブリック・ドメイン画像)などでお馴染みの雷神の背後に配される繋がった太鼓のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 雷公は馬にお乗りになっておらるるという話の事

 

 享保の頃のこと、巣鴨に大久保某という御武家が御座った。

 武蔵野近郷での騎射稽古からの帰り、一緒に汗を流した同門の者の屋敷へ立ち寄って雑談致し、日暮れ前に暇(いとま)を乞うた。

 未だ迎えの者も揃うておらなんだ上に、生憎、雨も降り始めて御座ったれば、屋の主人も引き止めんとしたのじゃが、

「……雷気(らいき)も御座れば――我が母上、殊の外の雷嫌いにて。かかればこそ、早(はよ)う帰らねば――」

と馬にうち乗って、騎射笠に、今連れて御座る供に命じて出させた合羽などを着て、帰って御座った。

 筋違御門(すじかいごもん)の辺りまで辿り着いた頃には、とっぷり日も暮れてしまい――沛然たる夕立――夥しき雷鳴――なればこそ、一息の休む余裕もなく、一散に馬を奔らせる――

 駒込の辺りの町家――これ、いずれも硬く雨戸を立て御座った――

――と!――

――突如!

――バリバリバリバリ!!! ズゥゥゥゥン! ドォオォォン!!!――

――一際、凄まじい雷鳴が轟く!

――大久保の乗馬、それに驚き!

――バリバリ!!! ズドォン!!!――

と! 大久保を乗せたまま、とある町家の戸を蹴破り、家内へと闖入致いた。

 馬は――上がり框(かまち)から床(ゆか)の上へと――ばっか! ばっか!――と前足を乗せたところで――大久保、綱をぐいと締め、辛くも立ち止まる。――

 それから馬上、手綱にて導き、家内より馬を引き出だすと――そのまま、再び一散に己(おの)が屋敷へと立ち帰って御座った。――

 因みに、息咳切って従って御座った中間どもは、とっくの昔、筋違御門に大久保が至らぬ前に、伴走し切れずなって、夜も更けてから屋敷に帰ったとのことで御座った。

 ――――――

……さても翌日のこと、敢えてしたことにてもあらねど、町家の表戸を破り損じたことは、これ、当の主人にとって如何にも気の毒なことなれば、大久保、詫びと見舞を念頭に、

「……ともかくも、ちょっと行って様子を見て参るがよい。……」

と家来に申しつけ、駒込へと走らせた。

 ところが、この家来、屋敷に立ち帰って参るや否や、大笑い致しつつ、申し上げることに、

「……はっはっは! いやとよ! これは御無礼を……されど、これを笑わずには……主様とても……おられぬと存ずる……

――『昨夜の雷(かみなり)駒込片町の辺りへ落ちた』――

と専らの評判にて、即ち、

――『駒込片町○件目○○商い致しおる者の家へ落ちた』――

というので御座る。

 そこで、その家を訪ねてみました。

 そうして、その屋の主人に――それは何時頃のことで、落雷の様子は如何なるものであったか――と訊ねてみましたところが、

『……昨夜は五つ時前のことで御座ったろう――即ち!――雷の落ちた所は戸が木っ端微塵に蹴り破られて御座っての!……』

『……さてもさても! 世に「雷神は連鼓(れんつづみ)を背負い鬼の姿を致いておる」なんどと申し習わし、絵にも描き、木像にも刻まれて御座ろうが?――なんのなんの!――これ! 大いなる偽りで御座るぞ!……』

『……我らこと! 目の当たりに、昨夜来臨なされた雷公さま、これ! 拝見致いたじゃ!……』

『……それはの!――馬にお乗りになられの!――陣笠の如き冠(かんむ)りをお被りになられて御座ったじゃ!……』

『……お落ちになられてから――まあ! ほんのちょっとのうちに!――かの雷馬を美事!乗りこなし――引き返しなさったんじゃ!……』

『……雲中貴き御蹄(ひずめ)の音をお響かせになられたかと思うと――昇天なさるるに従ごうて――その音(ね)も段々と――虚空高(たこ)う厳かに遠くなって有難くなって御座ったのじゃ…………』

という次第にて、御座いました。……」

 これを聴いた大久保も、破顔一笑、

「――ふむ! さあらば――畏れ多き雷神の業(わざ)と思うておるのであればこそ――却って人をして我らがこと告ぐるは、これ、興醒めというものじゃ、の!――」

と、そのままに済まして御座った、とのことで御座る。

 

 

 精心にて出世をなせし事

 

 久留米侯の家中祐筆に何某とて手跡の達人有しが、右の者咄しける由。同家中に徒士を勤ける者、男ぶりも小さく醜き生れ故、供歩士(ともかち)などには召遣はれず、使のみに歩行(あり)て欝々と暮しけるが、かくして世を渡らんも無念也とて、或日女房に向ひて、某かく/\の事にては世に出ん時なし、是よりして晝夜手跡稽古して、何卒一度世に出んと思ふ也、夫に付妻子有りて我勤めも出來がたし、三年の間里へ歸りていか樣にもいたし、三年の後一ツにあつまる事を思ひ、凌ぎ呉候樣申けるに、女房も其量(りやう)有けるや、尤の由にて立別れ里へ歸りけるに、彼(かの)徒士(かち)夫より毎夜明け七時(ななつどき)迄手習をなし、夜々一時(いつとき)宛臥て、晝も役用の外は手習のみにかゝりて、彼右筆の手跡を習ひけるに、三年過て師匠たる者の手跡よりは遙に増り、則右筆に出て段々出世しける。精心氣丈成者は如斯(かくのごとし)となん。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。解釈に異論もあろうが、臨場感を出すために、ほとんどの現代語訳を話者自身の体験による一人称として訳した。

・「久留米侯」久留米藩有馬氏。筑後国御井(みい)郡(現在の御井郡は大刀洗町一町を除きその広大な郡域の殆んど久留米市に吸収されてしまっている)周辺を領した。以下、ウィキの「久留米藩」の江戸時代パートを引用しておく(記号の一部を変更・削除した)。『江戸開幕当初は筑後一国(筑後藩)325000石を領する田中吉政の所領の一部であり、久留米城には城代が置かれた。元和6年(1620年)、二代藩主田中忠政が病没すると、無嗣子により田中氏は改易となった』。『同年、筑後藩は分割され、柳河城に入った立花宗茂が筑後南部の109000石を領有、久留米城に入った有馬豊氏が筑後中部・北部の21万石を領有した』。『また、宗茂の甥・立花種次が1万石にて三池藩を立藩した』。『久留米の地には丹波国福知山藩より有馬豊氏が13万石加増の21万石にて入封。ここに久留米藩の成立をみた。こうして筑後地方の中心は柳河からその支城であった久留米に移った。有馬豊氏は入封後、久留米城の改修を手がけ、城下町を整備した。なお、有馬氏末裔の有馬頼底は「大した働きもしていないのに13万石加増になったのは不可思議である」旨の発言をしている』。『寛文4年(1664年)から延宝4年(1676年)にかけて筑後川の治水・水利事業が営まれ、筑後平野の灌漑が整えられた。米の増産を目的としたこれらの事業は逆に藩財政を圧迫する結果となった。第4代藩主頼元は延宝3年(1675年)より藩士の知行借り上げを行った。早くも天和3年(1681年)には藩札の発行を行っている。また、頼元はすすんで冗費の節約を行い、経費節約の範となった。以後、6代則維に至るまで財政再建のための藩政改革を続け、これが功を奏し何とか好転した』。『第7代藩主頼徸は54年間にも及び藩主の座にあった。彼は数学者大名として有名で、関流和算の大家であり数学書「拾璣算法(しゅうきさんぽう)」全5巻を著述した。しかし藩政においては享保17年(1732年)、享保の大飢饉が起こり、ウンカによる大被害のため飢饉となり多数の餓死者を出した。更に御殿造営、幕府の命による東海道の諸河川改修手伝いによる出費を賄うため増税を行った。これに対し、領民は6万人規模にも及ぶ一揆を起こすなど、彼の治世は平坦なものではなかった』。『第8代藩主頼貴は天明3年(1783年)に学問所(藩校)を開き、文教の興隆をはかった。天明7年(1787年)には学問所は「修道館」と名付けられたが、寛政6年(1794年)に焼失した。寛政8年(1796年)、藩校を再建し新たに「明善堂」と名付けられた。以後、今日の福岡県立明善高等学校に至っている。幕末の勤王家・真木和泉は当藩校の出身である』とあり、「卷之二」の下限は天明6(1786)年まであるから、この話柄の時間は、この第8代藩主頼貴の文教化政策活性期と一致している可能性があり、そうするとこの主人公の達筆は相当なもので、只者ではなかったと読める。

・「祐筆」以前にも出ている語であるが、ここでウィキの「右筆」を引用して概観しておきたい。『中世・近世に置かれた武家の秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた』。『初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間に書状や文書を代筆させることが行われた。やがて武士の地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆が誕生し、右筆に文書を作成・執筆を行わせ、武家はそれに署名・花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書が一般的であった公家とは大きく違うところである。武家が発給した文書の場合、文書作成そのものが右筆によるものでも署名・花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名・花押まで右筆に任せてしまう特殊な例外もあった)』。『なお、事務が煩雑化すると、右筆が正式な手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書を作成・署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣や綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された』。『源頼朝が鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的な業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所・政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所知家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた』。鎌倉幕府及び室町幕府では『その後、将軍や執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人の末裔がその任に当たるようになった。基本的に室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、奉行衆(右筆方)と呼ばれる集団を構成するようになった』。『なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆・公文書作成を担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった』。『戦国時代に入ると、戦時に必要な文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書を作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定の過程から関与する場合もあった。豊臣政権の五奉行であった石田三成・長束正家・増田長盛は元々豊臣秀吉の右筆衆出身であった。他に右筆衆として著名なものに織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆などがいる』。『なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉は江戸幕府でも採用されている』。以下、江戸時代の記載。『戦国大名としての徳川氏にも右筆は存在したと考えられるが、徳川家康の三河時代の右筆は家康の勢力拡大と天下掌握の過程で奉行・代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行衆の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦いで東軍を支持した豊臣政権の右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏の右筆(久保正俊)などであったと考えられている』。『徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中・若年寄などから上げられた政策上の問題を将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己の地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆は待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳や旗本・御家人などの名簿を管理した』。以上の江戸期の記載は主に幕府方のものであるが、これから類推しても、大名家の祐筆の達人と呼称されるからには、ただの書記レベルと侮ってはならないという気がしてくる。

・「徒士」徒侍(かちざむらい)。御徒衆(おかちしゅう)とも。主君の外出時に徒歩で身辺警護を務めた下級武士。その彼が一度として供侍には用いられなかったというのは、よほどのことで、彼自身、極めて屈辱的なことであったものと思われる。失礼乍ら、ちんちくりんで、とてつもない醜男であったということか。

・「量」思量。思料。思いはかること。慮ること。周囲の状況などをよくよく考え、判断すること。

・「明け七時」正確には「暁七つ」のこと。江戸時代に盛んに用いられた不定時法では、一日を昼と夜で二分、昼を夜明け約30分前に始まる「明け六つ」から「朝五つ」「朝九つ」「昼九つ」「昼八つ」「夕七つ」まで、夜を日没の約30後に始まる「暮れ六つ」「夜五つ」「夜四つ」「暁九つ」「暁八つ」「暁七つ」まで各6等分した六刻計十二刻が用いられた(数字は定時法の子の刻(午後11時~午前1時)に「九」を配し、以下、2時間毎に「八」「七」「六」「五」「四」と下がったところで、再び「九」(昼九つ)から「四」へと下がると覚えておくと分かり易い。またこの夜パートを5等分したものが「更」という時間単位で「初更」「二更」「三更」「四更」「五更」と呼んだ)。但し、これらは季節の一日の日照時間の変動によって現在の時間で言うと最大2時間半から3時間近いズレが生じてくる。昼の長い夏の季節には昼間の一時が長くなり、夜間の一時は短くなる。昼の短い冬場はその逆となる。例えば、この「明け七時」(暁七つ)を例にとると、夏至の際には午前3時少し前位であるが、春分・秋分点で3時半前後、冬至の頃には御前4時過ぎまでずれ込む。不便に思われるが、寺院の鐘がこれを打って呉れ、また、当時の庶民のスロー・ライフにとっては、丼の勘定のそれで十分であった。現在のような秒刻みのコマネズミ生活は存在しなかったのである。

・「一時」ここでの言いは定時法の一時を援用しているもと思われ、二時間に相当する。しかし彼の精進は厳しいものであったと思われるから、あくまで不定時法で厳密に言ったとするならば、夜の「一時」に当たる「一つ」が短くなる夏場ならば、実に一時間強しか寝なかったということになる。武士の場合、城勤めの場合は明け六つ(午前六時)には登城というデータがある。彼は上屋敷勤務の徒士であるから、多少は屋敷内の長屋でぎりぎりまで寝ていられたのかも知れない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 心底覚悟し努力致いて出世を遂げた事

 

 久留米候御家中祐筆に何某という手跡の達人がおる。以下は、彼自身が語った話であるとのこと。

……私は同御家中にあって御徒士(おかち)を勤めて御座ったが、体も小兵であった上に、顔も、かく、生まれつき醜かったがため、御主君の供徒士などとしては全く召し遣われること、これ御座らず、専ら下働きの、地味な御使いの御用ばかりに歩かされ、……かくなる容貌なれど、拙者も男、内心鬱々たる思いのうちに暮らして御座った。……

……そんな、ある時、

「……このままにて世を渡り……ただただ、使い歩きとして老いさらばえるは……如何にも無念!」

と一念発起致いて、女房に向かい、

「……我らかくなる有様にては最早出世なんど、夢のまた夢……されば! これより昼夜手跡稽古致いて、その技芸にて何とか一度、花を咲かせて見せんとぞ思う。――ついては妻子、これ、あっては、その覚悟の稽古も思うようには出来難し! 相済まぬ! 三年の間、子を連れ里へ戻り、如何にも身勝手なること乍ら、一つ何とか、し暮らして呉れぬか?! 三年の後には、我らこの業(わざ)を以って必ずや身を立て、再び皆して一緒に暮らそうぞ! それを信じて、一つ、辛抱して呉れぬかッ?!」

と告げて御座った。

 拙者の女房――拙者の如き面相の者の妻になる程のものなれば、凡そ器量もご想像にお任せ致すが――器量は知らず、度量は広き女にて御座ったれば、

「……分かりました。――御子(おこ)のことは御心配に及ばず、どうか御精進に精出だされ、目出度く御出世の上はきっと我ら迎え下さいますること、ひたすらお待ち申し上げておりまする。」

と委細承知の上、その日のうちに子を連れて里方へと引き上げて御座った。

……それからというもの――拙者、日々の勤務終業の後は、毎夜明け方七つ時まで手習いを続け、夜は一時の間のみ横になるだけで御座った。昼間も――相も変わらぬ使いっ走(ぱし)りの仕事はしっかりとこなして御座った――なれど、誤用なき暇な折りには、休んだり、朋輩と談笑したりすることものう――ひたすら手跡の稽古、稽古、稽古――当時の御家中にあった名うての御祐筆の方の手跡を借り受けては、それを御手本として、手習い修行に励んで御座った。

……さても三年過ぎて、拙者が手跡――己れで申すも何では御座るが――師匠で御座った御当家御家中御祐筆筆頭のそれを、遙かに凌駕する達筆名筆と相成って御座った。――程なく、久留米侯御耳朶にも達し、御当家祐筆として取り立てられて後、かく出世致すこと、これ、出来申した。……」

 心底覚悟致いて努力する者は、これ、必ずや、かくの如くなるという、よき鑑(かがみ)にて御座る。

 

 

 年ふけても其業成就せずといふ事なき事

 

 予がしれる田代某は三百石にて、壯年より弓馬を出精して騎射帶佩を修業して、兩御番大御番の御番入りを願しに、かの家は寶永の頃桐の間御廊下の類にて、元來猿樂より出し家なれば御番入もなくて、いろ/\なしけるに御番入は成がたしといへる事、あらはに知れけるにぞ大に歎き、然らば御右筆の御役出をなさんと思ひけるに、誠に無筆同意の惡筆なれば、此願ひも叶ひがたしと長歎なしけるが、あくまで氣丈なる人にて有りし故、年三十餘四十に近かりしが、一願一誓を生じて頻に手習をなしけるが、三年目に願の通御右筆に出で、夫より今は番頭(ばんがしら)といふものに轉役なしけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:努力の人、祐筆職となる、で直連関(但し、こちらは大名の祐筆ではなく、幕府祐筆である)。本話柄には当時の芸能者への職業差別が如実に反映されている。現代語訳でもそれが分かるように訳しておいた。こうした差別に対して批判的な視点を以ってお読み頂けるよう、お願いしたい。

・「田代某」田代賀英(よしひで 正徳5(1715)年~寛政8(1796)年)。底本の鈴木氏注に、『九左衛門、主馬。延享二年、養父賀信の遺跡を継ぐ。のち騎射をつとめて物を賜わる。宝暦九年表右筆、安永四年富士見御宝蔵番頭、寛政元致仕、八年没、八十二。田代氏は賀信の父賀次のとき、葛野一郎兵衛の弟子となり、猿楽の技を以て相馬図書頭に仕え、のち徳川氏の臣となったものと家伝にある。』と記し、岩波版長谷川氏注には更に、田代家は元は我孫子姓であって、前記相馬図書頭の扶助を受けて御家人になったという経緯を記されている。彼が表祐筆(祐筆には将軍側近として重要機密文書を扱った奥祐筆と一般行政文書担当の表祐筆とがあった。詳しくは前項注参照のこと)となった宝暦九年は西暦1759年であるから、数え45歳である(富士見御宝蔵番頭となった安永四年は西暦1775年で61歳)。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、執筆時にはばりばりの富士見御宝蔵番頭現役の70歳前後である。

「新訂寛政重修諸家譜」に「紹古」という号を記すが、古えを引き継ぐ、とは如何にも元右筆っぽい号ではある。

・「騎射帶佩」「騎射」は「騎射三物」。二項前の「雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事」の「騎射」の注を参照。「帶佩」は元来は「佩帯」と同義で、太刀を身に帯びることを言ったが、ここでは騎射と合わせて、剣術の身の構えや型や作法を言う。後には広く武術から芸能の型や作法の意にも拡大した。「体配」「体拝」とも書く。

・「兩御番」底本の鈴木氏注に、『初めは大番と書院番をいったが、後には書院番と小性組番の称となった。』「大番」は、将軍を直接警護する、現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の一つで、中でも最も歴史が古い。「書院番」は将軍直属の親衛隊で、ウィキの「書院番」によると、『当初四組によって構成され、後に六組まで増員される。また親衛隊という性格から、西丸が使用されているとき(大御所もしくは将軍継嗣がいるとき)は、西丸にも本丸と別に四組が置かれる。一組は番士50名、与力10騎、同心20名の構成からなる。番頭は、その組の指揮官である』。『大番と同じく将軍の旗本部隊に属し、他の足軽組等を付属した上で、備内の騎馬隊として運用されるが、敵勢への攻撃を主任務とする大番と異なり、書院番は将軍の身を守る防御任務を主とする』とある。「小性組番」は小姓組番とも書き、単に小姓(小性)組とも呼ばれた。ウィキの「小姓組」によれば、『一般的イメージの小姓とは異なり、純然たる戦闘部隊で』、『慶長11年(1606年)11月に設立され、水野忠元・日下部正冬・成瀬正武・大久保教隆・井上正就・板倉重宗の六人を番頭とし』て創始されたもので、『戦時の任務は旗本部隊に於いて将軍の直掩備・騎馬隊の任に就き、平時は城内の将軍警護に就く。書院番とともに親衛隊的性格を持つため、番士になる資格が家格や親の役職などで制限されていた。そのため番士の格が他の番方より高いとみられ、その後も高い役職に就くことが多かった。若年寄支配で、番頭の役高4000石。6番あり、番頭の他に与頭1人と番士50人。西の丸に他に4番あった』とある。この両番(書院番と小姓組)の有能な番士には、特に出世の途が開かれていた旨、ウィキの「書院番」の記載中にある。因みに残りの「新番」は『将軍の江戸城外出時に隊列に加わり、警護に当たったほか、武器の検分役などの役目』を持った部隊で、『新番の責任者である新番頭は、役高2000石であるが、5000石級の旗本から選任されることもあった。新番衆の役高は250石(俵)であり、書院番衆・小姓番衆より50石(俵)少ないが、軍役上、馬を常時用意する義務がないのが特徴である。ただし、馬上資格は認められている。大番と同じく出世は限られていた』とあり(引用はウィキの「番」より)、「小十人組」は将軍及びその嫡子を護衛する歩兵を中心とした親衛隊で、前衛・先遣・城中警備の3つの部隊に分かれ、その頂点に小十人頭(小十人番頭)がいた(以上はウィキの「小十人」を参照した)。底本の卷之一にある鈴木氏の注によれば、小十人組は若年寄支配で『二十人を一組とし、組数は増減があるが、多い時は二十組あった』とある。

・「大御番」前注の「大番」に同じ。

・「番入」番衆に加えられること。以上の注から判然とするように、一般に行政職を役方、警察保安相当職を番方という。

・「寶永」西暦1704年から1711年であるが、次注で示す通り、これは宝永元(1704)年から宝永6(1709)年に絞られる。

・「桐の間」底本の鈴木氏注に『桐の間番といい、能楽に巧みな者をかかえ、城中の桐の間を詰所とした。綱吉の時から始ま』ったが、岩波版の長谷川氏の注によれば、宝永6(1709)年に廃止されたとある。この桐の間番はまた、美少年を集めた綱吉の城内での半ば公然たる若衆道の場でもあったらしい。宝永6年とは第6代将軍家宣の就任の年である。綱吉の養子であった彼は、養父ながら綱吉と家宣の関係は良好ではなかったとされ、就任するや、庶民を苦しめた生類憐れみの令や酒税を廃止、柳沢吉保を免職、新井白石らを登用しての文治政治を推進したが、そうした清浄化の方途の一つがこれだったのであろう。また、根岸が、当時、富士見御宝蔵番頭現役の相応に知られていたはずの田代賀英を、わざわざ「田代某」と濁している点、田代家の家系を述べる際にも、何となく歯切れの悪さがあるのは、そうした出自を慮ってのことででもあったのであろう。相応の出世をした根岸であったが、彼自身、全く以って古えの由ある血脈ではなかった。現代語訳では敷衍訳をして、そうした差別感覚や根岸の同情し乍らも、如何とも言い難い内心を出してみたつもりではある。

・「御廊下」底本の鈴木氏注に『廊下番。能役者の中から選抜し苗字を改めて勤番させたもの。綱吉のとき貞享元年に始まる。』とある。

・「猿樂」この場合は能楽の意で用いている。狭義・原義としての猿楽は平安期の芸能で、一種の滑稽な物真似や話芸を主とし、唐から伝来した散楽(さんがく)に日本古来の滑稽な趣向が加味されたものであった。主に宮中に於ける相撲節会(すまいのせちえ)や内侍所(ないしどころ)の御神楽(みかぐら)の夜に余興として即興的に演じられていたものが、平安後期から鎌倉期にかけて、寺社の支配下に猿楽法師と称する職業芸能者が出現し、各種祭礼などの折りに、それを街頭で興行するようになった。それに更に多種多様な他の芸能が影響を与え、次第に高度な演劇として成長、戦国から近世初期にかけて様式美を持った能や狂言が成立した。そうした関係上、江戸から明治初期にかけて能・狂言を指す古称として猿楽という語が使われていた。

・「右筆」祐筆に同じ。前項注参照。

・「御役出」読み不明。「ごやくしゆつ」か、それとも「おやくにいづる」と訓読みするか(やや苦しい)。ともかくも、御役に出る、役職に就く、役付きの仕事に昇進することであろう。

・「番頭」前注の田代賀英の事蹟に現れる「富士見御宝蔵番頭」を意識的にぼかして言った。北畠研究会のHP「日本の歴史学講座」「江戸幕府役職辞典」に、『留守居支配の職で、徳川氏歴代の宝物を収納している富士見宝蔵を守備する任務である。定員は4人で、御役高400俵高である。宝蔵は中雀門を入って北に進み、富士見櫓と数寄屋多門の続きの二重櫓の中間の北側に張り出た一角にある。ここは4棟5区割に分かれている。番所は、本丸中雀門の北側の北隅の一角の宝蔵の塀に相対したところにあり、ここに番衆が詰め、その隣に番頭の宿泊所があってここで番頭は当宿直する』とある。因みに、その支配下にあった「富士見宝蔵番組頭」及び「富士見宝蔵番衆」については、『10数人おり、交替で当宿直する。番衆は100俵高の御目見の譜代席以下で、御役御免になると家禄だけでは100俵もらえない。世話役は御役扶持として3人扶持支給された。組頭は、番衆が病気などで欠勤すれば、古参の者を行かせて病気見舞いさせるし、事故による欠勤・遅刻があれば、相番の者たちに知らせなければならない。番衆の出勤時刻は、朝番が午前8時・夕番が午前10時・不寝番が午後4時となっている。不寝番の者は登城すると御帳といわれる出勤簿に判を押し、交替で不寝番をした。そして翌朝の朝番出勤の者と勤務引継ぎをおこなった』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 年老いていても誠心あらば物事成就せざるということなき事

 

 私の知人である田代某殿は石高三百石取りにて、壮年に至ってから初めて弓馬の稽古に励まれ、騎射三物(みつもの)帯佩技法を修行致いて、何とか両御番や大御番入りを願って御座ったが――如何せん、田代殿の御家系、これ、宝永の頃、桐の間番やらん、御廊下番やらんといった『特別な』類いの出自にて御座って――元来が、その、武家にては御座なく、所謂、かの猿楽の流れを汲む血脈(けちみゃく)から出でた御家系にて御座ったがため――結局、御番入りもなく――田代殿御自身、自ら色々と手を尽くしてはみられたものの――ある時、知れる人より、

「……御番入りの件で御座るがのぅ……あれは、遺憾乍ら……貴殿の御家系にては……成り難きことにて、御座れば……」

と、あからさまに言われ、いよいよ我が身の血の程を、知ることと相成って御座った。

 田代殿、暫くは殊の外の落胆の体(てい)にて御座ったが、ある時、

「……なれば一つ、御祐筆の御役を得んことに精進致そう!」

と思い立って御座った。

……なれど――思い立ったはよう御座ったが――実は、田代殿――生来、読めるような字の書けぬ――と言うては失礼乍ら、これ――文盲かと紛うばかりの悪筆で御座ったがため、

「……と思うたものの……やはりこの願いとても……いや、なおのこと、叶い難きことにて、あるかのぅ……」

と深く長い溜息をついて諦めかけて御座った……

……が……

そこでめげずに、清水の舞台から飛び降り、

「……いや! やはり! ここが土壇場! 正念場ぞ!」

 ――――――

……また、田代殿は、あくまで気丈なお人柄でも御座ったが故――なれど、そうさ、もうその頃には、齢(よわい)三十余り、四十にも近こう御座ったのじゃが――一願一誓の御覚悟を立て――

一心不乱!――

――手習いに手習い! ただ手習い! あくまで手習い! 一に手習い二に手習い三四五六七八九……九十九と百に手習い!――

……と、三年が経ち申した。――

 ――――――

 その三年目のことで御座った。

 かの、蚯蚓がのたくって干乾びて蟻がたかった如き悪筆の田代殿が――何と! 美事、願いの通り、御祐筆役儀として出仕なされた!

 ――――――

 さても、それより堅実に勤仕なされ――今ではさる番方の頭という重役に御栄転なされたとの由にて御座るよ。

 

 

 蛇を祭りし長持の事

 

 天野城州日光奉行勤の折から咄しけるは、同人日光在勤の内、同所今市とやらにて長持の拂ひもの有れど、誰も調んといふ物なし。其謂れを尋るに、元來御所領の内在郷にての事にて有しや、富貴なる家に役長持を所持しけるが、右今市の者身上宜しからず、何卒富貴ならん事を祈りて右長持を買受しに、夫より日増に富貴と成て今は有福の家なる由。然るに此長持を拂はんといふ譯難分(わけわかりがたし)とて、其趣意をも糺しけるに、右長持の内に三尺計(ばかり)の蛇を飼置事也。或は四時の草を入れ、二時の食事を與へ、わけて難儀なるは二月に一度三月に一度宛、其あるじなる者右長持の内に入て、布を以蛇の惣身をよく拭ひふきて掃除して遣はす事の由。此事をいとゐてはならざるゆへに、人にも讓り度といふ由也。富貴を求る心よりは右業をもなすべけれど、彼御所領の者と成らんの人に讓りしも、或年其妻懷姙して出産しけるに蛇を産出しけるより、恐れて人に讓りしと巷説に申けるが、實事や、其證はしらずとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。叙述が短く、微妙な描写がスポイルされていて話がぎくしゃくしているので、相当に恣意的な敷衍訳を行った。何やらん、蛇で頰を撫ぜられたよな、虫唾が走る「耳嚢」では珍しい生理的嫌悪感を惹起させる話柄ではある。更に、言えば如何にも不吉な印象も拭えぬのだ……これを語っている天野山城守康幸自身の眼が蛇のような爛々とした輝きを以って迫って来る……語るその脣のぬらりとした感じ、時々赤い舌がそこから覗くようなが気がする……それを避けて眼を落とすと、その天野のがさついた手指に鱗がぼんやりと浮いて見えるようだ……そうして……そうしてそれはもしかすると、その彼の、十年後に訪れる転落の凶兆ででもあったのではなかったろうか?……

・「天野城州」諸注、天野山城守康幸(生没年未詳)とする。底本の鈴木氏注に、『宝暦元年御徒頭、布衣を許さる。西城御目付、同新番頭を経て安永四年日光奉行、同年従五位下山城守。寛政三年家政不始末により、采地千石廩米三百俵のところ、二百石と廩米三百俵とを没収、小普請におとされた』とある。「布衣」は「ほい」と読み、近世、無紋の狩衣を指したが、同時に六位以下及び御目見以上の者が着用したことから、その身分の者を言う。「采地」采配を振るう地の意で、領地。知行所。采邑(さいゆう)などとも言う。「廩米」は「りんまい」と読み、知行取りの年貢米以外に幕府から俸禄として給付されたものを言う。彼が転落する寛政三年は西暦1791年で日光奉行辞任との間には約7年程ある(因みに、その間の天明6(1786)年前後にこの「耳嚢」の記事は書かれている)。しかし、日光奉行の格は次注で見るように2000500俵で、小普請入りの寛政三年時の1000300俵では、凡そ半分に減収してしまっている。何があったのか。ともかくも本話は彼の最後の栄光の時代の話柄であったものと窺える。

・「日光奉行」元禄131700)年にそれまでの同職に従事していた日光目付に代えて創設された遠国(おんごく)奉行の一つ。老中支配で定員2名。役高2000石に役料500俵。東照宮・大猷院廟(徳川家光廟)の経営及び日光山年中行事等を掌った。配下に同心36人を擁した。寛政3(1791)年以降は日光目代の職権を兼務して日光領を直接支配した(以上は主に平凡社「マイペディア」の記載を参考にした)。天野康幸が日光奉行であったのは安永4(1775)年320日から天明4(1784)年2月12日までの9年間で、根岸が安永6(1777)年より安永8(1779)年までの3年間「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(「卷之二」「神道不思議の事」より)していた時期と一致する。根岸の本話柄が天野から直に聴いた話であることがここから分かる。

・「今市」栃木県北西部。旧今市市更に古くは上都賀郡。江戸時代には日光街道や会津西街道が分岐する宿場町今市宿として繁栄した。現在は新たに統合され巨大化した新しい日光市に編入されている。

・「御所領」日光山の神領。記載の核心は60年ほど後のことであるが、歴史を踏まえられて書かれており、この神領の広大さが(そして実はまたその貧窮も)容易に知れるので、BE AN INDIVIDUAL氏のブログ「GAIAの日記」中の「いまいち市史」「二宮尊徳日光神領復興の構想」にある「日光神領」より引用したい(一部表記を変更した)。二宮尊徳が『弘化元年(1844)4月5日、幕府から3度目の大役を命ぜられたのは、日光神領の荒地開発の調査であった。日光神領は、日光山の開基勝道上人が1,200年前、二荒山の山頂を極め、天平神護2年(766)に四本龍寺を創建して以来、山岳仏教の隆盛に伴って繁栄してきたが、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに組みしなかったため、所領の大部分を没収され、わずかに門前と足尾村を安堵されたにすぎなかった』。『元和3年(1617)徳川家康の遺骸が駿河国久能山から改葬されて後、秀忠が寺領(光明院)を拡大し、東照大権現社領5,000石を寄進したのをはじめとして、家光が全体で7,000石の「判物」を出し、更に家綱が東照大権現領として1万石、大猷院領(家光)に3,600石余、計13,600石余の「判物」を出している。元禄14年(1701)の綱吉の「判物」では合計25,000石余の日光領となっている』。『その内訳は神領54ヶ村、御霊屋(みたまや)領9ヶ村、御問跡領26ヶ村とされているが、高29,065石余、反別4,064町歩余、家数4,133軒、人数21,186人、馬2,669匹で、これが日光仕法開始にあたっての、嘉永6年(1853)3月日光奉行所の調査記録である。旧今市市に含まれる41ヶ村をはじめ、日光市13ヶ村、栗山村9ヶ村、藤原町4ヶ村、鹿沼市8ヶ村、足尾町14ヶ村の地域である。過半は山村であり、地味はやせ、高冷の気候のため収穫は乏しく、不作凶作が多く、そのたびに潰れ百姓が続出、耕地も荒れて、1,074町歩の荒地をかかえ、生活は細々として恵まれない土地柄であった』とある。「判物」は「はんもつ」と読み、将軍や大名が発した文書の内、発給者花押が付されたものを言う。

・「役長持」「やくながもち」と読むか。「役」には軍役の意があるので、ただの長持ちではなく、戦時軍事用の武具等を保管運搬するための大型のものを言うか。

・「いとゐ」はママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 生きた蛇を祀った長持ちの事

 

 天野山城守康幸殿が日光奉行を勤めて御座った折りに、私に直接語られた話で御座る。

 ――――――

 ……今市とやらの宿場町道具屋にて、中古の長持ちの売り物が御座った。

 拙者、一目で気に入り、相応に贅沢な作りなればこそ買い手も既について御座ろうがとも思うたが、訊けば、誰(たれ)も買おうという者がおらぬという。

 不審なれば、そのいわれを訊ねてみた。……

 ……その長持ち、元来が日光山御神領の内の、かなりの田舎の村にあるという、さる裕福なる者の家が所持致いて御座った武具用の長持ちで御座った由。

 ……さて、ここに、この今市の宿の、身上傾きて如何ともし難き者が御座ったが、何を思うたか、何卒富貴にならんことを祈願致いて、この長持を買い受けたと――

――いやとよ、何故、この長持ちなのか、生活に困窮致いておるに、何故長持ちを買(こ)うたかは分からねど――もしや何やらん、この長持ちに就いての、これからお話するところの摩訶不思議な噂が、これ、既に知られて御座って、なけなしの金にて、清水の舞台から飛び降りる気持ちで買(こ)うた、ということででも御座ったか――

 ……ところが……それからというもの、この左前で御座った男、日増しに商売繁盛致いて、今では今市にても有数の富家となって御座る、ということであった。

「……然るに何故、その福を呼んだ長持ちを売らんとする? 訳が分かりかねるが?……」

と、再応、その主意を糺したところが――

 ……この長持の内には……

――三尺ばかりの蛇が飼いおかれておる――

というのじゃ。……

 ……或いは四季には必ずそれぞれの草々を敷き入れ……日には必ず二度の食事を与えて世話致させねば、これならず……なかにても難儀なは……季節により二つ月或いは三つ月に一度づつ必ず……家の主人、これ、この長持ちの中にすっぽりと入り……用意した上布にて……かの長き蛇の……そのおぞましき総身を……きゅうるきゅうるきゅっきゅっ……きゅうるきゅうるきゅっきゅっ……と……よう拭いた上……長持ちの中も……隅から隅まで蛇と一緒に……舐めるように這い蹲って……掃除してつかわすこと……これ、必定の由。……

「……まんず、厭うてはならざる故――それがまた、日々忌まわしく厭わしくなった故――人に譲らん、とて手間どもの店にこうして置いて御座るのですが……まんず、この話、知らざる者、この辺りにては、知らぬ者とて御座らねばのぅ……」

とのこと。――

 ……何でも――その後(のち)耳に入ったことにて、拙者の謂いにては、これ、御座らぬぞ――富貴を求める執心にては、それ位のことは、我慢出来そうなもので御座るが……いやとよ、最初にお話致いた、ほれ、例の最初の長持ちの持主で御座った御神領の裕福なる者……彼がそれを今市の者に売り渡した本当の理由は……実は……その富家の妻、これ、懐妊致いて出産したところが……生まれ出でたは……何と、蛇で御座ったと……あまりのことに恐れ、丁度、求むる者がおったればこそ、厄払いにかの者に譲ったのじゃ……とは、もっぱらの噂で御座る。

 ……いやとよ……根岸殿、これ、事実かどうかは……存ぜぬがの……

 ――――――

とは、山城守殿の何とも言えぬ気味悪き真に迫った語りでは、御座った。

 

 

 明君儉素忘れ給はざる事

 

 有德院樣御代、御大切の物とて箱に入て御床に有りしものあり。古き土燒の火鉢にてありし由。紀州にて未(いまだ)主税頭(ちからのかみ)樣と申せし頃、途中にて御覺被遊、安藤霜臺の親郷右衞門に求候樣被仰付、則郷右衞門家僕の調へし品のよし、霜臺教示の物語りにてありし。昔を忘れ給はざる難有明德と、子弟の爲に爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「蛇淫を祀った長持ち」グロテスク・ホラーから、「暴れん坊将軍吉宗少年の日の思い出の小箱――ならぬ大箱の火鉢」心温まるファンタジーで明るく連関。

・「倹素」無駄な出費をせず質素なこと。ここではどんな物でも大切に使うという意。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。

・「主税頭」吉宗は幼名を源六、通称新之介(新之助)と呼ばれ、元禄91696)年121813歳で従四位下に叙されて右近衛権少将兼主税頭に任官している(ここで正式の名を松平頼久とし、後、頼方と改めている)。元禄101697)年4月11日に越前国丹生郡葛野藩3万石藩主を襲封(のちに1万石加増)されている。一見すると彼が主税頭と呼ばれて紀州にいたのはこの14歳までのように思われるが、実際には葛野藩には家臣団が送られて統治し、吉宗は和歌山城下にとどまっていたとされている。その後、宝永2(1705)年10月6日に紀州徳川家5代藩主就任、同年12月1日には従三位左近衛権中将に昇叙転任して将軍綱吉の偏諱を賜り、「吉宗」と改名した。この時、24歳。享保元(1716)年8月13日征夷大将軍及び源氏長者宣下を経て、正二位内大臣兼右近衛大将、第八代将軍の座に就いた(以上は主にウィキの「徳川吉宗」に拠った)。従って13歳から24歳までを範囲とするが、本話柄の印象では、やはり1314歳の少年であって欲しい。

・「安藤霜臺」安藤郷右衛門惟要(ごうえもんこれとし 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「彈正少弼」は弾正台(少弼は次官の意)のことで、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。既にお馴染み「耳嚢」の重要な情報源の一人。

・「郷右衞門」安藤惟泰(元禄7(1694)年~享保6(1721)年)。同じ郷右衛門を名乗った安藤惟要の実父。底本の鈴木氏注に、『紀州家で吉宗に仕え、享保元年幕臣となり、御小性。三百石』とある。二十八歳の若さで亡くなっている。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 明君は倹素ということを決してお忘れにならぬという事

 

 有徳院吉宗様の御代のこと、上様御自身が大切の物とされて、箱に納め、常に床の間の御座敷にお置きになられていた物が御座った。それは古い素焼きの火鉢で御座った由。紀州にて未だ主税頭様と申されて御座った十三、四の砌、とあるお成りの道中、市中の道具屋の店先に置かれていたのを御覧遊ばされ、御少年乍ら、その火鉢の素朴なる風情が痛く気に入られて、安藤霜台惟要殿の父君であられた郷右衛門惟泰殿に求めて参るよう仰せつけられ、郷右衛門殿家僕が買(こ)うて御座った品の由、霜台殿御自身より承った話で御座る。

 昔日をお忘れにならぬ有難き明徳の、教訓にもならんかと、御武家子弟のために、ここに記しおくものである。

 

 

 其職の上手心取格別成事

 

 小笠原平兵衞、小笠原縫殿助(ぬひのすけ)は騎射歩射の禮家也。今の平兵衞租父は老功の人にてありしが、有德院樣御代、惇信院(じゆんしんゐん)樣御婚姻の御用被仰付、懸りの御老中方と度々申合有しに、御輿迎ひの御用承り給ふ老中、家來の禮者に段々學び給ひて、其式法を辨へ給ひけれど、猶小笠原に對談ありて其式を相談有けるに、平兵衞申けるは、如何御心得被遊候哉、思召の御式を承りたしと申けるにぞ、かく/\致さんと心得候由被申ければ、至極其通にて聊(いささかも)當家の通禮式に相違なし、至極其通り可然と申けると也。傍に聞し人、老中心得の通禮式相違なしやと平兵衞へ尋ければ、答へていへるは、さればとよ當流と違ひし事も有なれど、都(すべ)て禮は其規式に望みて間違なく、事やすらかに濟んこそ禮の可貴(たふとぶべき)所なり、老中の此度御用被仰付、志しを勞し其家士に學び給ひしを、夫は違へり、是はか樣有たしといはゞ、其期(ご)に望んで迷ひを生じ、自然滯る事もありなん、かの學び覺へ給ひしを其通也と譽め稱しぬれば、其學に覺へ給ひし事なれば、心も伸びて取計ひ越度(おちど)なきものとかたりし由。誠に其職の上手名人ともいふべきと沙汰ありしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:第八代将軍吉宗御世で連関。ここのところ、登場人物の騎射が多出している点での繋がりもあるように思われる。老中が登場人物である以上、相応な配慮を致すが必定と、そのような藪野家礼法として仕儀を現代語訳に仕込ませて御座ればこそ――。

・「小笠原平兵衞、小笠原縫殿助は騎射歩射の禮家也」弓道に関わるYamato氏の堅実なるHP「そらにみつWebSiteに、ズバリ! 「小笠原平兵衛家と小笠原縫殿助家」という頁が存在する。本話柄の注として、これ以上正鵠を射たものはないので、少々気が引けるが全文引用させて頂く。御免蒙る、Yamato殿!

 《引用開始》

江戸時代には旗本で弓馬礼法の師範家として、小笠原平兵衛家と小笠原縫殿助家が存在します。現在の小笠原流宗家は平兵衛家になります。小笠原流は流祖長清から長経→長忠と続き、室町末期の長時・貞慶父子と受け継がれます。他方で長忠の弟に清経が居り、伊豆国の赤沢山城守となり代々赤沢姓を名乗ります。

 赤沢家が経直の代に、惣領家長時・貞慶父子は信玄に信州を追われて越後の上杉謙信の元に落ち延びます。その後に伊勢に移り同族である阿波・三好長慶に招かれ上京し、将軍義輝公の弓馬指南役となり河内国高安に領を賜ります。しかし、将軍義輝公は長慶亡き後の三好政権中枢の松永弾正と三好三人衆により殺されてしまいます。これにより長時・貞慶父子は再度越後の謙信を頼ることになりました。1578(天正6)年に謙信が病死した後は越後を去り、会津の蘆名氏の元に身を寄せます(天正11年、長時は会津で没します)。1579(天正7)年貞慶は家督を継ぎ信長に仕えて武田勝頼と戦います。天正10年に武田氏が滅亡すると、信長より信州の一部を与えられ旧領に復します。本能寺の変で信長亡き後は家康の家臣となり、松本城を与えられて大名として復帰しました。

 このように、小笠原惣領家は戦国の争乱のまぎれに弓馬の伝統が絶えたとも伝えられています。現在の小笠原宗家の小笠原氏来歴書には、「小笠原長時及貞慶の時に至り家伝弓馬的伝礼法一切を小笠原経直に譲る。経直弓馬礼法に精進せるを以つて徳川家康召して武家の礼法を司どらしむ。」とあるそうです。弓馬礼法伝来系譜には1575(天正3)年の出来事であったと記されており、京を離れて再度越後に落ち延びていた時期に当たります。

 赤沢経直は長時・貞慶父子から糾方的伝・系図・記録を受け継ぎ、赤沢の姓を小笠原の本姓に復して、小笠原流弓馬礼法の一切を掌りました。その後、1604(慶長9)年に徳川家康に拝謁し、小笠原の弓馬礼法を以て将軍家に旗本500石で仕え、大名旗本の糾方師範となりました。小笠原平兵衛家中興の祖と言われています(経直より三代後の常春が平兵衛と名乗り、代々平兵衛を名乗っていた事より)。

 ここからは縫殿助家の話をしていきたいと思います。流祖長清から長経→長忠と続く惣領家の当主が宗長の時に鎌倉幕府が滅び、宗長の子である建武武者所・貞宗の頃には南北朝時代の乱世が訪れ、貞宗は後醍醐天皇に仕えました。宗長の弟である長興は伊豆赤沢家の養子となり、長興の子常興も惣領家と同じく南朝に仕えます。後醍醐天皇は貞宗・常興を師範とし、貞宗に対しては昇殿を許すまでに至ります。また、貞宗・常興は「神伝糾方修身論64巻」という起居動静之法を定めた書物を記し、これが小笠原流の根本となる秘書となりました。この後貞宗・常興は足利氏に招かれて室町幕府に仕えることになり、貞宗の曾孫に当たる足利義満師範「長秀」は、将軍家より諸礼品節を糺すべき命を蒙り、今川氏頼・伊勢憲忠の両氏と議して「三儀一統」を現しました。「当家弓法集」といい12門より構成されています。また、「弓馬百問答」を編して家宝とし、小笠原流の基礎を固めました。この頃より、幕府即ち武家の礼を2部門に分け、伊勢氏は内向き(殿中)の諸礼を仕い、小笠原家は外向き(屋外)一切の武礼をあづかる様になりました。

 縫殿助家の話が全然出てきませんが、建武武者所・貞宗の弟に貞長が居り、別に一家を立てることになりました。この家が後世まで続き江戸時代の幕臣である小笠原縫殿助家になります。八代将軍吉宗公が騎射歩射の業を再興復古させようとして古書を集めた時には、縫殿助家から古書を多く得たと言われています。平兵衛家・縫殿助家は相助け合いながら弓馬礼法を司り、吉宗公が再興復古した新流(徳川流!?)も両家に預けられて、古流・新流の両方とも存続させて幕末を向かえます。現在の小笠原宗家である平兵衛家は存続していますが、縫殿助家は弓を離れてしまったのか、調べることが出来ませんでした。幕臣であった日置当流・吉田宗家と同じパターンですね。

 《引用終了》

以下、最後に「参考文献」として「弓道及弓道史」浦上栄・斉藤直芳著、「弓道講座 小笠原流歩射入門」小笠原清明・斉藤直芳著、「日本武道全集」第三巻の三冊の書名が掲げられてある。

・「今の平兵衞」小笠原常倚(つねより 寛延3(1750)年~安永4(1775)年)。底本の鈴木氏注によれば、『安永四年遺蹟(五百石)を継いだが同年二十六で没した』とある。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるが、その下限まで引っ張ると、この「今の平兵衞」という謂いは11年も経過していて、不自然である。これはまさに常倚が生きていた当時の根岸の記録を元にしているものと考えてよい。因みに、安永4(1775)年頃、根岸は御勘定組頭で30代後半、翌年に39歳で御勘定吟味役に抜擢される、まさに油ののり切った時期にあった。

・「今の平兵衞租父」小笠原常喜(つねよし 貞享2(1685)年~明和6(1769)年)。底本の鈴木氏注に、『書院番、御徒頭、御先鉄砲頭、御持筒頭、新番頭を歴任。宝暦九年西丸御留守居、従五位下出羽守。明和元年御旗奉行、四年致仕』とある。

・「小笠原縫殿助」小笠原持易(もちやす 元文5(1740)年~安永5(1776)年)。底本の鈴木氏注に、『七百八十石を領し、明和元年御徒頭』とある。なお、氏は『本書執筆当時の縫殿助は』という条件文を示しておられが――これは決して揚げ足を取るのではない――ただ「耳嚢」の執筆の着手を佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃とされ、「卷之二」の執筆の下限を天明6(1786)年までと置かれたのは鈴木氏である――しかし、ここで見たように、この二人の登場人物は既に1770年代中頃には死去している。前注で示した如く、この話を根岸が記録として残したのは11年以上前の、1775年代以前に遡るものでなくてはならない。『本書執筆当時』というのは少し違和感が私にはあるのである。天明6年より遡れない「耳嚢」(記事ではない)の執筆時期には、明らかに両家は代替わりをしてしまっているからである。くどいようだが『本件記事を記録した当時』とされるのが厳密であろうと思われる。

・「騎射歩射」「騎射」は「騎射三物」。五項前の「雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事」の「騎射」の注を参照。「歩射」は「かちゆみ」とも読み(「ほしゃ」は正式な読みではないという)、騎乗せずに地面に立って行う弓射を言う。以下、ウィキの「弓術」の該当項より一部引用する。『南北朝時代以降、戦陣において歩射が一般化すると』、『戦国時代初期には歩射弓術を基礎とする日置流が発生し、矢を遠くへ飛ばす繰矢・尋矢(くりや、遠矢とも)、速射をする指矢(さしや、数矢とも)など様々な技法が発展した』が、実践を重んじる武射系――実は、礼節を重んじる「文射」という大切な側面が弓にはあり、さすれば、この話柄に於いて老中が公家の姫君を迎える礼法について小笠原に訊ねるというのも、眼から鱗なのである――『では、膝を着いて弓を引き、的(敵)を射る射術が基本であり、その他にも様々な体勢の技術が伝わる』。因みに、このウィキの記載から、騎射と歩射の二大射法以外にもう一つの射撃法があることを知った、「堂射」である。同じページから該当項を引用して参考に供しておく。『堂射とは江戸初期に京都三十三間堂、江戸三十三間堂、東大寺などで盛んに行われた通し矢競技の射術。弓射の分類は伝統的に騎射と歩射の二分類であるが、江戸時代に堂射が隆盛し独自の発展を遂げたので、射法の系統としては堂射を加えた3分類とされることが多い。堂射は高さ・幅に制限のある長い軒下(三十三間堂は高さ約5.5m、幅約2.5m、距離約120m)を射通す競技で、低い弾道で長距離矢を飛ばし、さらに決められた時間内で射通した矢数を競うため、独自の技術的発展を遂げた。江戸時代中期以降堂射ブームは沈静化したものの、堂射用に改良された道具(ゆがけ等)や技術が後の弓術に寄与した面は大きい。日置流尾州竹林派、紀州竹林派の射手が驚異的な記録を残した事で有名』。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延41751)年)の諡り名。

・「惇信院樣御婚姻」「惇信院」は九代将軍徳川家重(正徳元(1712)年~宝暦111761)年)の諡り名。その「御婚姻」というのは正室増子女王(ますこじょおう 正徳元(1711)年~享保181733)年)との婚儀を指すものと思われる。増子女王は伏見宮邦永親王の第4皇女で、父吉宗の正室理子女王の姪。享保161731)年に家重と婚姻、江戸城西の丸へ入って御廉中様(将軍世子の正室)と称された。享保171732)年に家重と船で隅田川遊覧をした記録がある。享保181733)年に懐妊したが、9月11日に早産(生まれた子も間もなく死去)、増子も産後の肥立ちが悪く、同年10月3日に23歳の若さで死去した。彼女は家重将軍就任前に没していることから、御台所とは呼称されない(以上はウィキの「増子女王」を参照した)。側室に聡明な第十代将軍徳川家治を生んだ於幸の方(公家梅渓通条の娘)や於遊の方(三浦義周の娘・松平親春養女)などがいるが、本話柄の緊張感は、やはり正室増子女王とのものであろう。

・「懸りの御老中方」仮にこれが正室増子女王との享保161731)年の婚儀を指すものであったとすれば、当時の老中は以下の三人である。

酒井忠音(ただおと 元禄4(1691)年~享保201735)年)若狭小浜藩第5代藩主。当時42歳。老中の前職は奏者番兼寺社奉行・大坂城代を歴任。後に侍従。因みに彼は在任中の死去。

松平信祝(のぶとき 天和(1683)年~延享元(1744)年)下総古河藩第2代藩主・三河吉田藩主・遠江浜松藩初代藩主。当時49歳。因みに彼も在任中の死去。老中の前職は大坂城代のみ。

松平輝貞(てるさだ 寛文5(1665)年~延享4(1747)年)側用人・老中格。上野国高崎藩初代藩主。当時67歳。

ビビッているのはこの中の誰かということになるが、最年長で綱吉時代からの側用人、海千山千、老中「格」でもあればこそ松平輝貞ではあるまい。年齢的には酒井忠音が最も若いが、キャリアの弱さから見ると、自信のなさそうに見えるのは松平信祝か? 識者の御教授を乞う。

・「其規式に望みて間違なく」底本では「望み」の右に『(臨)』の注記を附す。

・「其期に望んで迷ひを生じ」底本では「望み」の右に『(臨)』の注記を附す。

・「越度(おちど)」は底本のルビ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 その道の名人の心構えは格別という事

 

 小笠原平兵衛殿と小笠原縫殿助(ぬいのすけ)殿の御家系は、弓道に於ける正統なる騎射歩射の礼家で御座る。

 さて、今の小笠原平兵衛殿御祖父常喜(つねよし)殿は誠(まこと)老功なる御仁で御座った。

 有徳院吉宗様の御代のこと、小笠原平兵衛常喜殿、当時、世子であられた惇信院家重様の御婚姻の儀の御用を仰せつけられ、係りとなられた御老中方と度々打ち合わせを致いておられたのじゃが、増子女王様御輿(おんこし)迎えの御用を承っておられた御老中が――初めてのこととて、自家の家来のうちの礼法を職掌とせる者に命じて、細かな作法の教授をお受けになられ、だんだんと相応に学ばれて、その式法につきては粗方の弁えをなさっては御座ったれど――土壇場になって、なお常喜殿に直談面談の上、その式法御確認の儀、申し込まれてこられた。

 平兵衛殿がまず、かの御老中に、優しく静かなる声にて、

「さても、かくかくの場合、これ、如何なされんとする? 正しきとお思いになられて御座る御仕儀を承りとう御座る。」

と、お訊ね申し上げた。かの老中は、やや自信無げなご様子乍らも、

「あー……その折りには……そうさ……しかじかの如く致すがよき、と心得て御座る……」

と申されたところ、平兵衛殿、ぽんと軽く膝を打つと、

「――至極その通りにて聊かも当家の礼式に相違御座らぬ。その通りに、なさいますがよろしゅう御座る。」

と申し上げたとのことである。

 さて――その老中がほっとして退座なされた後、先程より傍らにて、この様子を黙って聴いて御座った、平兵衛殿の知れる、また、小笠原家礼式に明るいある者が、どことは言わず、疑義を含んで、

「……真実(まこと)、先程の、かの御老中が仰せになった通りの礼式にて……よろしゅう御座いまするか?……」

と訊ねた。

 平兵衛殿が応えて言うことには、

「……さればとよ。――確かにそなたが秘かに首を傾(かたぶ)けた如く――当流とは違うたところも、これ、御座った。……なれど――総ての礼、これ、その儀式に臨んで間違いのう、事安らかに済み終えてこそ――そこにこそ、礼の貴ぶべきところは、ある。――かの御老中、このたびの御用を仰せつけられては、気を遣い、心を悩ませて、その上に、己(おの)が赤子(せきし)たる家士如き者より、我慢致いて礼式をお学びになられた。――にも拘わらず、拙者が『それは違(ちご)う』『これはかくあるが正しい』なんどと、ちまちま申さば……肝心の御婚礼の御儀式の、その期に及んで、ふと、迷いが生じ、それがまた、自ずと、とんでもない滞りや失態を生み出すものともなる。……なればこそ――かねてより学び覚えられて、自ずと身についてこられたことであったならば――『至極その通り』と申さば――かの御老中の心ものびのびと致いて、その取り計らいに、何の落ち度も、これ、なくなるというもの。」

とのことで御座った。

 後、

「……誠(まっこと)その職の、上手、名人たる者の言葉じゃ!……」

と、世間にて秘かに褒めそやされた、ということで御座る。

 

 

 吉瑞の事に付奇談の事

 

 松本豆州吟味役より奉行にならんとせし前の年に、鎭守の稻荷へ松錺(まつかざり)せしが、七種(ななくさ)過て松錺を崩し、土俗の習ひ任せ其枝をとりて松杭の跡にさし置しに、雨露のした入りに塵つもりけるや、右松自然と根を生ぜしとて殊の外悦びし事あり。予が御加増給りて御役替被仰付候前年、蒔藁の内より雨の後稻葉生出しを、兒女子悦びて是を植置しに、穗に出て米と成りぬ。かゝる事も自然と時節に合ひていわゐ祝ふ事とはなりぬ。然れどもかゝる事に深く信じ迷ひなば、あしき兆の有りし時は嘆き愁べし。婦女子にもよく諭し、善兆ありとて強て悦ぶ事なからん事を教へし。しかあれ共よき事ありしと人の祝し悦ばんをかき破るは、不祥の一つと知べし。心へ有べき也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:誉めておけば上手く行く、吉兆と思えるならそれはそれでよいというプラシーボ効果で連関。根岸の謂いは深遠で正鵠を射ている。素晴らしい。

・「松本豆州」松本秀持(ひでもち 享保151730)年~寛政9(1797)年)最下級の身分から勘定奉行(在任:安永8(1779)年~天明6(1786)年)や田安家家老へと異例の昇進をした、天明期、田沼意次の腹心として経済改革を推進した役人の一人。蝦夷地開発に意欲を燃やしたりしたが、寛政の改革によって失脚、勘定奉行在任中の不正をでっち上げられ、天明6(1786)年には500石から150石に減封の上、逼塞を命ぜられた。「卷之一」の「河童の事」「卷之二」の「戲藝侮るべからざる事」にも登場した「耳嚢」の一次資料的語部の一人。

・「松本豆州吟味役より奉行にならんとせし前の年」松本秀持は勘定吟味役から勘定奉行に安永8(1779)年に抜擢されているから、これは安永7(1778)年の正月のこと。

・「土俗の習ひ」門松は年初に新しいパワーを持った神霊を迎え入れるための寄り代であると考えてよいであろう。アニミズムでは、しばしば木片や枝が神霊の宿る対象として登場する。底本の鈴木氏注では、この「其枝をとりて松杭の跡にさし置」くという儀式について、『門松を取去ったあとへ、松のしんの部分を立てておく習俗。望の正月に再び門松を立てる風習の処もまだ残っているが、こうした二度目の松立てを形ばかり演ずる意味かと考えられる。遠州では松植え節句などといって、正月二十日に氏神の境内や山に小松を植える風習があり、』この松本秀持の話と考え合わせると興味深い、と記されておられる。引用文中の「望の正月」とは小正月、旧暦の1月15日のことである。この「松植え節句」なるもの、現在でも行われているのであろうか。ネット上では、この文字列では残念ながらヒットしない。識者の御教授を乞うものである。

・「予が御加増給りて御役替被仰付候前年」根岸の場合、二回の加増(逝去した文化121815)年12月の半年程前の500石加増〔結果して逝去時は1000石〕も含むと3回)がある。天明4(1784)年3月に勘定人見役から役替えとなって佐渡奉行に拝された際の50俵加増と、天明7(1787)年7月に勘定奉行に抜擢されて500石となった折りである。本「卷之二」の年記載記事の下限が天明6(1786)年までで、そう考えると、本巻執筆をあくまで佐渡奉行時代とするならば、佐渡奉行就任前年の天明3(1783)年正月の出来事となる。しかし、先行する本巻所収の佐渡在勤時代のエピソードが完全な過去形で記されている点、本巻が前二巻の補完的性格を持っている点などから見て、勘定奉行就任後の多忙期の合間を見ての執筆とも考え得るので断定は出来ない。加増額や役職の格、また「兒女子悦びて」という描写の向うに見えて来るもの(妻女を江戸に置いて行かねばならない佐渡奉行拝命は児女が悦んだとは思えず、逆に父親が佐渡から江戸に戻ってくるという勘定奉行への栄転就任は躍り上がらんばかりの悦びであったはずである)からは、断然、後者のエピソードである方が理に叶っていると考えるのが至当である。だとすれば、この話柄は天明6(1786)年の正月ということになる。勿論、私の感覚論であるから現代語訳では同定を避けた。

・「蒔藁」巻藁。

・「不祥」には、不吉であること、の意の他に、運の悪いこと、不運の意がある。両様のニュアンスを私は感じる部分である。そうした杓子定規な現実論しか語れぬ者は、いつしか孤立してゆくしかないからである。

・「心へ」はママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 吉なる瑞兆事についての奇談の事

 

 松本伊豆守秀持殿が勘定吟味役から勘定奉行になられた、その前の年の正月のことである。

 伊豆守殿の御屋敷内に祀って御座った鎮守の稲荷、ここに例年通り、松飾りをなされた。

 七草を過ぎ、その松飾りを外し、土俗の習慣に従(したご)うて、その松の枝を刈り取り、松飾りの巻藁を取り除いた跡の中央へ、それを挿しておいた。

 暫く致いて、その挿したところに塵が積り、雨露が滴たってでも致いたものか、僅かに土のようになって御座ったところへ、かの木っ端の如き松の枝、自然、根を生じて御座った。

 これ吉瑞なりと、お屋敷上げて祝ったこと、これ御座ったという。

 ――この伊豆守殿のお話に似通うたことを、実は私も体験致いたことが御座る――

 私が御加増を給わって御役替え仰せつけらるる前の年の正月のことで御座った。

 松飾り土台の巻藁の中より、雨後、稲穂が生い出でて御座ったのを家内の子女がいたく歓び、これを地に植えおいたところ、秋には穂を出して米が実って御座った。

 ――さて――こうしたことは、後に起こった吉事と偶々附合致いたが故に、それを吉瑞と致いて祝い悦ぶこととはなった。――

 ――然れども――かかることを必要以上に気にし、信じ込み、盲信と言うに相応しい事態に陥るようでは――逆によくない兆しに見えようこと、これ、御座った折りには――また必要以上に気に掛けることとなり、果ては嘆き愁えることと相成るに違い御座らぬ。

 ――かかればこそ――婦女子にもよく諭して、何やらん前兆めいたこと、これ御座ったからというて、殊更に悦ぶには――同様に懼るるには――決して当らぬこと、教うるに若くはない。

 ――とは申せど――縁起のよきことがあったと人が祝い、悦んで御座るを――ただの偶然、気のせいと――殊更、鯱鉾(しゃっちょこ)ばった理を説いて、折角の場を白けさすというのも――これはまた、悦べる当人らにとっては、至って「不吉」なることにて御座る――また翻って考うれば、そのように多くの者どもが喜んでおるところに、敢えて冷ややかな水を注した者にとっても――これ、ゆくゆく「不運」なることと相成ること――これ、知るべし。

 ――この玄妙なる趣きを心得ておくことが、これ、肝要なので御座る。

 

 

 長崎諏訪明神の事

 

 右は長崎始の比(ころ)、耶蘇宗門制禁の事に付建立ありし由。慶長元和の比なりしや、長崎はとかくに耶蘇の宗門に寄皈(きき)なして、品々制禁有けれど用ひざりしかば、或修驗(しゆげん)とやら又は神職とか、存寄を申出、諏訪明神を勸請なして國俗を淸道に尊んと顧ひし故、其願に任せ御入用を以御建立ありけれど、何分耶蘇信仰の輩故、諏訪の社頭へ參る者なかりしに、時の奉行市中へ大き成穴を掘て炭薪を積、火を放ちて長崎中耶蘇信仰の者は不殘燒殺すべしとて吟味ありけるにぞ、始て死を恐れ改宗して諏訪明神の氏子と成し由。依之右諏訪明神は三度祭禮の時も、奉行今以出席なし祭禮濟の趣江戸表へも注進にて、誠に嚴重の事なる由、人のかたりける也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:迷信から宗教絡みの話であるが、さして連関を感じさせないというのが本音。

・「耶蘇宗門」切支丹(キリスト教)宗門に対する江戸幕府の正式な最初の禁教令は、慶長171612)年321日年に布告された慶長の禁教令で、江戸・京都・駿府を始めとした直轄地への教会破壊命令及び布教禁止を命じたもので、直轄地以外の各地諸大名もその禁令に準じて家臣団の信者の洗い出しと処罰等を行った。その後は、参照したウィキの「禁教令」によれば、翌慶長181613)年219日、『幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また合わせて家康は以心崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法とな』ったとし、『この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され』、翌慶長191614)年9月『には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいた』とある。但し、『幕府は禁教令の発布によってキリスト教の公的な禁止策こそ取ったが、信徒の処刑といった徹底的は対策は行わなかったし、依然、キリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンやクリストファン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約50名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が済む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは宣教師は南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためである』(最後の引用は脱字を補った)。例えば『京都所司代であった板倉勝重はキリシタンには好意的で、そのため京都には半ば黙認される形でキリシタンが多くいた(先述の「デウス町」の住人)。しかし、秀忠は元和2年に「二港制限令」、続けて元和5年に改めて禁教令を出し、勝重はこれ以上黙認できずキリシタンを牢屋へ入れた。勝重は秀忠のお目こぼしを得ようとしたが、逆に秀忠はキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じた。そして10月6日、市中引き回しの上で京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)。この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。これは明白な見せしめであったが、当のキリシタンは殉教として喜んだため、幕府は苛立ちを高めた』。以下、一部後述の長谷川権六の事蹟とダブるが、本話柄までの禁教令概観のために引用しておく。『そのような情勢の元和6年(1620年)、日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかる(平山常陳事件)。この一件によって幕府はキリシタンへの不信感を高め大弾圧へと踏み切る。キリスト教徒の大量捕縛を行うようになり、元和8年(1622年)、かねてより捕らえていた宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たち計55名を長崎西坂において処刑する(元和の大殉教)。これは日本二十六聖人以来の宣教師に対する大量処刑であった。続けて1623年に江戸で55名、1624年に東北で108名、平戸で38名の公開処刑(大殉教)を行っている』とある。これが後の鎖国令と島原の乱へと続くが、その辺りは引用元をご覧になられたい。

・「長崎諏訪明神」長崎市上西町にある諏訪神社のこと。公式サイト「鎮西大社 諏訪神社」の「神社由緒」に『長崎は、戦国時代にイエズス会の教会領となり、かつて長崎市内にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社は、焼かれたり壊されて無くなっていたのを、寛永2年(1625)に初代宮司青木賢清によって、西山郷円山(現在の松森神社の地)に再興、長崎の産土神としたのが始まり』であるとし、『さらに、慶安元年(1648)には徳川幕府より朱印地を得て、現在地に鎮西無比の荘厳な社殿が造営され』たが、『安政4年(1857)不慮の火災に遭い、社殿のほとんどを焼失し』たものの、明治天皇の父である『孝明天皇の思召しにより、明治2年(1869)に約十年の歳月をかけて以前に勝る社殿が再建され』た。『当神社の大祭(長崎くんち 10月7・8・9日)は、絢爛豪華で異国情緒のある祭として日本三大祭の一つに数えられ、国の重要無形民俗文化財に指定されてい』るとある。御自身が訪れた全国の神社についての克明な記録をなさっている個人のHP「玄松子の記憶「諏訪神社(長崎)」のページには『金比羅山(366m)の麓に鎮座している大社で、元和9年(1623)、佐賀の修験者青木賢清が、諏訪大明神・住吉大明神・森崎大権現の3神を祀』った旨の前史の記載があり、更に創建当時は『キリスト教の影響が強く、神社・寺院などは破壊される状況だった。青木賢清もキリスト信者から悪魔と呼ばれていたという』『が、寛永年間頃からキリスト教徒も減少しはじめていたよう』であると記されている。

・「慶長元和」西暦1596年から1624年。前注で示した通り、諏訪明神勧請は元和9(1623)年のこと。

・「寄皈」帰依に同じ。

・「或修驗とやら又は神職とか」前注で示した通り、佐賀の修験者青木賢清。

・「諏訪明神」建御名方神(たけみなかたのかみ)を指す。ウィキの「建御名方神」によれば(一部の記号を変更した)、『出自について記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。妻は八坂刀売神とされている』。『建御名方神は神(みわ)氏の祖先とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある』とあり、この記載からは諏訪という別名が有力氏子の氏姓や地名由来の神名であることが分かる。以下、「諏訪大社の伝承に見る建御名方神」の項に、長野県諏訪大社の『「諏訪大明神絵詞」などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある』とある(「洩矢神」は「もりやしん」と読む)。「各地の祭神としての建御名方神」の項。『諏訪大社(長野県諏訪市)ほか全国の諏訪神社に祀られている。「梁塵秘抄」に『関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮』とあるように軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる』とある。もしや、南方熊楠先生の姓のルーツって?……

・「時の奉行」元和9(1623)年当時の長崎奉行は長谷川権六(藤正)(?~寛永7(1630)年)。在任期間は実に慶長191614)年から寛永3(1626)年までの約12年間に及んだ。ウィキの「長谷川権六」によれば、『宗門人別帳の作成でキリシタンの捜索を行ない、光永寺・晧台寺・大音寺などの建設がなされ、末次平蔵[やぶちゃん注:生没年(天文151546)年?~寛永71630)年)。元切支丹であったが棄教し、積極的な弾圧者に変身した人物。貿易商人から長崎代官となった。]とともに諏訪神社を再興する。また、日本に残留した神父をかくまったり、信徒が会合を開いたり、破却された天主堂の跡に行って祈ったり、聖画を所有したりすることを禁じた。元和6年(1620年)にはミゼリコルディア(慈悲の兄弟会)の天主堂や、長崎の教会所属の7つの病院を破却。キリシタンの墓地を暴き、信徒の遺骨を市外に投棄させた』。『江戸で将軍徳川秀忠からキリシタンへの弾圧を督励された権六は、元和8年(1622年)7月にキリシタンの平山常陳と彼の船で密入国を図った聖アウグスチノ修道会のペドロ・デ・スニガ(Pedro de Zuñiga)とドミニコ会のルイス・フロイス(Luis Flores)の2人の神父、それに船員達を長崎の西坂の地で火刑と斬罪に処した(「平山常陳事件」)。同年8月、神父9人・修道士13人、指導的信徒33人の計55人を処刑した(「元和の大殉教」)。この大殉教で処刑されたカルロ・スピノラ神父たちが収容されていた鈴田の公儀牢は、権六の命令により大村氏によって元和5年(1619年)8月に新築されたものである』。『寛永2年(1625年)には、ポルトガル船船長に乗船者名簿の提出を命じ、未登録者の乗下船とマカオからの宣教師宛物品の積み下ろしを禁じ、来航ポルトガル人の宿泊先も非キリシタンの家に制限した。翌寛永3年(1626年)、来航商船に対し全積み荷の検査とその目録作成を命じ、教会関係の物品がないか調べた。マカオ市当局は、日本貿易維持のため長谷川の勧告に従わざるを得ず、各修道会に在日宣教師への書翰や物品の送付を禁じ、宣教師渡航の自粛を求めた』とあり、本話柄の脅しが、ただの脅しでなかったことが分かる。根岸はソフトに「吟味ありけるにぞ」とぼかしているが、この男、任務遂行に忠実なだけでなく、真正のサディストででもあったものか、誠(まっこと)完膚なきまでの恐ろしき粛清者の相貌が伝わってくるではないか。従って敢えて姓名を現代語訳でも出し、決して忘れてはならぬホロコーストの首謀者の記録とすることとした。

・「始て死を恐れ」とあるが、前掲注の引用の京都の例にもある通り、一部信者は逆にそれを殉教の秘蹟として受けとめていたことも――逆効果を齎してもいたという事実と、その信仰心の強さをも――忘れてはなるまい。

・「諏訪明神は三度祭禮の時」私はこれは年間三度の例祭という意味ではなく、三日に亙って行われた例大祭のことをかく言っているのではないかと判断して現代語訳した。現在、先に掲げた「鎮西大社 諏訪神社」公式サイトの「年間行事」を縦覧してみると、例祭はいろいろあるもののの、その多くは現代の通常の神社で節気ごとに行われるものと殆んど同じである。それに対し、現在10月7日から9日までの三日間で行われる長崎くんちの名で知られる本神社の例大祭は、そもそもが三回の祭礼から構成されている(本話柄の頃のこの祭礼が全く同じ構成であったという確証はないが、神輿による神霊の渡御から湯立神事等を含む祈請報恩、そして還御という神道に特有のオーソドックスな構成は決して新しいものとは思われない)。具体的には、7日に諏訪・住吉・森崎三社神輿の大波止御旅所(仮宮)への渡御とその渡御御着祭が成された後、翌8日に諏訪神社の『年間最重儀の祭典』と記される例大祭が行われる。因みに、現在の「例大祭」では『皇室の弥栄と国家の繁栄、氏子の平安を祈念』し、後に「特別崇敬者清祓」として湯立神事を斎行、その後に敬神婦人会員(女性の氏子のことか?)によって『神前に御花と御茶をお供えし、神恩に感謝する』「献花献茶奉納行事」が挙行されている。三日目の9日には「お上り」と称する本社へ神輿の出発、本社御着遷御祭で幕を閉じるという三祭礼による構成である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 長崎諏訪明神の事

 

 この明神は、現在のような長崎の町が生まれた初期の頃のこと、耶蘇宗門御制禁のお達しに伴って建立されたものである由。

 慶長・元和の頃とか申す――その頃の長崎は、とかく耶蘇の宗門に帰依する者夥しく御座って、幕府や奉行所より様々な御制禁の処置が施されたものの、これ、一向に効果が上がらずじまいで御座った。

 その折り、とある――修験者であったか、神職であったか――が、奉行所へかく申し出て参った。

「――諏訪明神を勧請申し上げて、邪教のために忌まわしいまでに穢れたこの国俗を、清浄なる神道の正しき道へと導かんと存ずる――」

とのこと故、その願いに任せ、公費を割いてまで建立致いたもので御座った。

 ところが何分、根強き邪神耶蘇信心の輩ども故、なかなかに諏訪明神社頭へ参詣する者、これ、御座らなんだ。

 ――ところが――

 ある日のこと、時の長崎奉行で御座った長谷川藤正権六殿、市中の広場に巨大なる穴を掘らせ、そこへ多量の炭や薪を積み上げて、火を放ち、

「――長崎中(じゅう)耶蘇信仰せる者は――これ――残らず焼き殺さずば措かず!――」

と高札を掲げ、声高に布告なし、事実、厳しく吟味の上、厳罰に処したという。――

 さればこそ、これによって邪教の輩も、初めて死を恐れ、改宗して諏訪明神社の氏子となったとのこと。――

 この時より、この諏訪明神社三日に亙って執り行われる例大祭の折りにも、今に至るまで、必ず長崎御奉行が臨席の上、祭礼滞りなく済みたらば、そのこと、江戸表へも必ず報告致すなど、例大祭とは言え、たかが一社(やしろ)の祭に過ぎぬにも拘わらず、誠に厳格にして厳重なる仕儀これある由、私の知れる者の語ったことにて御座る。

 

 

 一向宗信者の事

 

 一向宗は僧俗男女に限らず、甚だ其宗旨を信仰なす者也。予が知れる小普請方の改役を勤りける泉本(みづもと)庄助といへる老人有りしが、一向宗にはありしがさまで信仰の人にもあらざりし。彼老人咄けるは、或年末本願寺門跡江戸表へ下りし時、菩提寺よりも御門跡下向に候間、御目見(おめみえ)以上の御方は何の方にても別て尊敬もなし候事なれば、參詣有て可然由申ける故、麻上下を着し少々の音物を持て本願寺へ參りけるに、殊外の馳走にて、門跡對面ありて熨斗を手づから付與なしける故、申請て其席を立歸りしに、次の間より玄關廣間迄取詰居し町家の者共庄助に向ひ、頂戴の御熨斗少し給り候やうと申ける故、安き事也とて少しづゝ切りて兩三人に施しけるに、壹人の出家來りて、信心の者へ爰にて其熨斗分け與へ給ふ事有べからず、御宅へ參候樣答へ給へと教へし故、其通り答ければ、翌日に至り、人數二三十人も熨斗をわけ給はるべしとて來りし故、少しづゝ分け與へけるに、厚く忝(かたじけなき)由を申越て歸りしが、銘々樽肴或ひは冥加と號し、白銀反物やうの物を以謝禮をなしける故、聊德付し、かくあらば又餘計には附與(つけあたへ)しまじきものを、と笑ひかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:神道(背景に切支丹)から浄土真宗へ、宗教絡みで連関。

・「一向宗」ここでは広義に浄土真宗の意で用いている。但し、本願寺教団自身は決してこの称を用いていない。寧ろ、外部の者が一向一揆の如く、浄土真宗信徒(しばしば特にその中でもファンダメンタルな傾向や一団)を差別化特異化して批判的含意を含んで用いたケースが多いと理解した方がよい。

・「小普請方の改役」小普請奉行(江戸城・徳川家菩提寺寛永寺及び増上寺等の建築修繕を掌る)配下で実務監察に当たった役職。

・「泉本(みづもと)庄助」ルビは底本のもの。泉本聖忠(みずもとなりただ 生没年未詳)。「新訂寛政重修諸家譜」を見ると「庄助」ではなく「正助」で載る。底本の鈴木氏注に、『元文四年御徒に召加えられ、のち小普請方の改役となり、拝謁をゆるさ』れた。『その子忠篤は清水家に配属されて、相当の出世をしている』とある。

・「本願寺門跡」泉本聖忠の事蹟から年号の分かる唯一の、元文4(1739)年以降の門跡(門主)を調べると、寛保3(1743)年~寛政元(1789)年まで在任した西本願寺17世法如(ほうにょ 寛永4(1707)年~寛政元(1789)年)か(本話の細部から聖忠の問跡拝謁は寛保3(1743)年以降としか読めない)。ウィキの「法如」の人物の項によれば、『播磨国亀山(現姫路市)の亀山本徳寺大谷昭尊(良如[やぶちゃん注:第13代宗主。]10男)の2男として生まれる。得度の後、河内顕証寺に入り、釋寂峰として、顕証寺第11代を継職するが、その直後に本願寺16世湛如が急逝したため、寛保3年37歳の時、同寺住職を辞して釋法如として第17世宗主を継ぐ。この際、慣例により内大臣九条植基の猶子とな』り、『83歳で命終するまで、47年の長期にわたり宗主の任にあたった。この間、明和の法論をはじめ、数多くの安心問題に対処し辣腕を振るったが、その背景にある宗門内の派閥争いを解消することは出来なかった。大きな業績としては、阿弥陀堂の再建や「真宗法要」などの書物開版などがある。男女30人の子をもうけて、有力寺院や貴族との姻戚関係を結ぶことに努めた』とある(書名の括弧を変更した)。因みに万一、泉本聖忠が長命で、この一件が法如遷化の寛政元(1789)年以降のものであったと仮定してしまうと、これは本巻の下限である天明6(1786)年をオーバーしてしまうので、考えにくい。

・「御目見以上」将軍直参の武士で将軍に謁見する資格のある者。旗本から上位の者若しくは旗本を指して言う。

・「麻上下」麻布で作った単(ひとえ)の裃 (かみしも)。当時の武士の出仕用通常礼装。

・「音物」「いんもつ」又は「いんぶつ」と読む。贈り物。進物。

・「本願寺」浄土真宗本願寺派本願寺築地別院。一般に築地本願寺と呼ばれる。元和3(1617)年に西本願寺の別院として第12代門主准如上人によって浅草に近い横山町に建立されたため、「江戸浅草御坊」と通称されていたが、明暦3(1657)年の振袖火事(明和の大火)の折りに全焼し、更にその後の幕府による防火整備計画による区画整理が実施され、旧地への再建が許可が得られず、こともあろうに、その代替地として何と現在の八丁堀の先の浅瀬の海の上が指定された。そこで佃島の門徒衆が中心となって海浜を埋め立てて、延宝7(1679)年に本堂を再建。「築地御坊」と呼称されるようになった。再建時の本堂は正面 が西南向きで、現在の築地市場附近が門前町となっていた。後、この本堂は関東大震災で崩壊したが、東京帝国大学工学部教授伊東忠太博士設計になる、印象的な古代インド様式の現本堂が昭和9(1934)年に落成した(以上は築地本願寺公式HPの「築地本願寺紹介」を参照した)。

・「熨斗」熨斗鮑。アワビの殻や内臓や外套膜辺縁を除去し、軟体部を林檎の皮むくように小刀で薄く削いで、天日干にして琥珀色の生乾きにし、それを更に、竹筒を用いて押し伸ばしては水洗いし、重しをかけてより引き伸ばしては乾燥させるという工程を何度も繰り返して調製したもので、古くは食用でもあったが、早くから祭祀の神饌としても用いられ、中世の頃には縁起物として貴族や武家の婚礼や祝儀贈答品として使用されるようなった。熨斗鮑の細い一片を折りたたんだ方形色紙に包んだ現在の熨斗紙の原型が出来上がった。以下、民俗学的な意味の部分を平凡社「世界大百科事典」の「熨斗」から引用する(句読点を変更した)。『贈物にのしを添えるのは、その品物が精進でない、つまり不祝儀でない印として腥物(なまぐさもの)を添えたのが起りとされている。これと類似の風習に、魚の尾を乾かして貯えておき、これを贈物に添えて贈ったり、青物に鳥の羽などを添えるものなどがある。また博多湾沿岸地方には、ハコフグを干したものを貯えておいて、めでたいときの来客の席上だけでなく、平常、茶を出す際にもこれを添え、手でこれに少し触れてから茶を飲むことにしている所があった。旅立ちや船出に際して無事を祈ってするめや鰹節を食べたり、精進上げに必ず魚を食べるのも、同じ考え方から出た風習といえる。これら一連の慣習に共通してみられるのは、〈ナマグサケ〉と称せられる臭気の強い腥物はさまざまな邪悪なものを防ぐことができるという考え方である。このため、鳥、魚、鰹節を贈る場合にはのしをしないのが普通である。この風習の成立には、死に関するいっさいの儀式を扱った仏教が凶礼に精進(しようじん)を要求し、いっさいの腥物をさけたこともおおいに関与していよう。とくにのし鮑は腥物として保存しやすく、しかも持ち運びに便利なために広く用いられるようになったのである。しかし、のし鮑に限らず、魚の尾、ハコフグ、鯨の鬚など、食用に不適であっても、日常備えておける腥物であれば間にあったのである。鰹節が広く用いられるようになった背景にも、単に食用だけでなく、保存できる腥物でもあったことがあると思われる』(引用部の著作権表示:飯島吉晴 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

・「樽肴」贈答用の酒の入った樽と酒の肴。

・「冥加」広く神仏の御加護に対する、それを受けた者からの神仏への御礼の供物。

・「白銀」贈答用に特別に鋳造された三分銀(楕円形銀貨)を白紙に包んだもの。三分で一両の2/3であるから、現在の45,000円程度はあるか。鮑の熨斗の切れっ端で、これでは、とんでもないボロ儲けである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 浄土真宗の信者の事

 

 浄土真宗は僧俗男女に限らず、その開祖親鸞聖人から延々と受け継がれてきたかの特異なる宗旨を――聊かそこまで信心致すかと呆れるほどにまで――深く信仰帰依なす者、これ、多御座る。

 ここに私の知っている者で、小普請方改役を勤めて御座る泉本(みずもと)正助なる御老人がおるが、この御仁、浄土真宗の信者乍ら――実はそれ程、熱心なる信者にては御座らなんだ。その御老人の話。

 

 ……ある年のこと、京都西本願寺御門跡が江戸表へ下られたとのことで、拙者の菩提寺からも、

「――御門跡御下向につき、御門跡様におかせられましては、御目見以上の御方々に対されては、如何なる御方なりとも、これ、相応の敬意を以って御挨拶なされんとの御心にあらせられますれば――是非、御参詣、これ、御座ってしかるべきことにて御座る――」

という使いが御座った。

 とりあえずは行かずばなるまいと、麻上下着用の上、少々の進物を持ちて御逗留なされて御座った築地の本願寺へ参ったところ、これ、殊の外の歓待にて、御門跡御自身、我らに対面なされ、贈答として御熨斗一枚を手ずから付与なされて御座った。

 とりあえず平身低頭致いてそれを頂戴、席を立って帰らんと致いたところ、対面の方丈の次の間から玄関広間まで、びっしりと詰かけて御座った大勢の町屋の者どもの内から、何人かが拙者の手にした熨斗を目聡く見つけ、

「――御門跡より御頂戴なされた、そのお熨斗ッ!……」

「――そ、それ! 少しばかり、お分け戴けませぬかッ!……」

「――我らにもッ!……」

と、あたかも土壇場に命乞いでもせんかと思う声にて懇請致いて参った。

 余りの勢いに、拙者も吃驚り致し、

「……あん? い、いや、それは安きことじゃ……」

と、僅かな熨斗で御座ったが、少しずつ切り分けて、都合三人ばかりの者に分け与えたところ、一人の寺僧が進み出でて参り、

「……信者衆へ、ここにて、貴殿に御門跡のお与えになられし、そのありがたき熨斗、これ、お分けなさること、これ――畏れながら――なさるべきことにはあらざることにて御座いまする。……せめて、後日、御自宅へと参り候て懇請せよ、と仰せ下さるるがよろしかろうと存ずる。……」

と耳打ち致さばこそ、拙者も、まあ、その謂いも尤もなことならんと合点致し、雲霞の如く後から後から申し出でて参った者どもへは、かく答えて御座ったところが……

……さても翌日になると、人数(にんず)にして有に二、三十人も御座ったか、

「――何卒!! 御熨斗を! お分け下さいますように!……」

とて、来訪、引きも切らず。

 言うがままに、ちまちまと千切り分けては、少しずつ分け与えて御座ったが、

「忝(かたじけの)う御座るッ!」

と、悉くの者が、頭を地に擦り付けんばかりに深謝致いて帰って御座った。

 また、それにては留まらず……後には、その者ども銘々より、樽・肴或いは『冥加』と称して白銀やら反物といったもの、これ、謝礼と称して、ごまんとつけ届けて参ったがため……言うも愚かながら……へへ、聊か、儲けて御座った。……

 

「……ふふふ♪……こんなことなら、かの初めより、多くは与えずにおけば……もっと良かったのうと……聊か、後悔致いて御座ったじゃ……」

と笑いながら、泉本翁は語られて御座った。

 

 

 門跡衣躰の事

 

 安藤霜臺は一向宗にて有りしが、信仰などせる人にてもなかりしが、御勘定奉行の節は何かもし用向の爲とて親敷(したしく)聞合せを賴みけるに、西本願寺出府の節何か世話にも相成多年の宗家の由にて、一ツの箱を謝禮とし送りける故、何か京都の土産ならんと是を開き見しに、衣躰(いたい)にて有之故、法中にてはさこそ難有も思ひなん、俗家にて衣を仕廻置て若麁末(そまつ)にも成ては如何成(いかがなり)、これは僧家へ遣し可然と思ひて本願寺塔頭(たつちゆう)なる僧に其事談じければ、夫は大き成(なる)了簡違なるべし、抑々門跡より衣たいなど附與(ふよ)は出家にても容易ならず、況や俗躰をや、數年の御馴染(おんなれそめ)を被存(ぞんぜられ)、何卒深切に厚き賜物(たまもの)有らんと思われても、金銀を以謝禮せんは重役へ對し失禮なれば、品々心を籠て深切の送り物也、今右の衣鉢を同宗信者成者に附與し給んに、百金より内には申請(うく)る者なし、我々に預け給へ、百金が百五十金にも附與なして見せ申さん、ひらに左なし給へと進めけるにぞ、我等事、公儀より厚く召使ひ給へば金銀望なし、左ほどに厚く思ひ給ひての音物(いんもつ)とはしらざりしが、かく深切の事ならば永くたくわへなんと受納せし由かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:浄土真宗西本願寺問跡関連で、高い確率で同じ17世法如関連。いつの世にも、両話柄に現れる、こうした盲信の愚民、これあらんこと、然り。衣――下着――汚物――こいつら、スカトロジストよろしく(というより宗教的エクスタシーはスカトロジスムなどの異常性愛と同根であると私は考えている)宗祖教祖の糞さえ聖物と見做して、有り難がって舐めそうだ。仏教嫌い神道大好きの根岸の両話柄での視線も、そこまでは言わずとも、至って言外に冷笑的である。因みに、以前に明らかにしたが、再度述べておくと、根岸の宗旨は実家(安生家)が禪宗の曹洞宗、養子先の根岸家は浄土宗である。「言外に」冷笑的であるのは、恐らく同根の浄土宗が養家の宗旨であるから、憚ったものであろう。それにしても、この話、エンディングの言外の映像もいい。金の亡者の腐った脳味噌の僧体の寺僧が――ぽかんと口を開けたまま――衣帯をぱらりと肩に引っかけて(じゃ、日活のヤクザ映画か)帰ってゆく安藤の後姿を見ているのである。

・「衣躰」衣帯。衣と帯。衣服を着、帯を結ぶことから、服装や装束。「衣体」とは一般に僧の地位によって異なる正装のことを指す。ここでは恐らく一般的な本願寺修行僧のためのオリジナルな衣服のことと推測される。

・「門跡」「門跡」は狭義には皇族や貴族が住職を務める寺格で、そうした特定寺院及びその住職を指す。但し、原義は開祖の正統後継者を言う「門葉門流」の謂いであり、鎌倉時代以降、単に位階の高い寺院格を広く指すようになった。後注で見るように安藤惟要が勘定奉行であったのは宝暦111761)年~天明2(1782)年の間であるが、その間の西本願寺(浄土真宗本願寺派)の「門主」(東本願寺=大谷派では「門首」)を調べると、寛保3(1743)年~寛政元(1789)年まで在任した西本願寺17世法如(ほうにょ 寛永4(1707)年~寛政元(1789)年)であることが判明する。ウィキの「法如」の人物の項によれば、『播磨国亀山(現姫路市)の亀山本徳寺大谷昭尊(良如[やぶちゃん注:第13代宗主。]10男)の2男として生まれる。得度の後、河内顕証寺に入り、釋寂峰として、顕証寺第11代を継職するが、その直後に本願寺16世湛如が急逝したため、寛保3年37歳の時、同寺住職を辞して釋法如として第17世宗主を継ぐ。この際、慣例により内大臣九条植基の猶子とな』り、『83歳で命終するまで、47年の長期にわたり宗主の任にあたった。この間、明和の法論をはじめ、数多くの安心問題に対処し辣腕を振るったが、その背景にある宗門内の派閥争いを解消することは出来なかった。大きな業績としては、阿弥陀堂の再建や「真宗法要」などの書物開版などがある。男女30人の子をもうけて、有力寺院や貴族との姻戚関係を結ぶことに努めた』とある(書名の括弧を変更した)。

・「安藤霜臺」安藤郷右衛門惟要(ごうえもんこれとし 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「霜臺」とは弾正台の中国名で、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。惟要は弾正少弼(弾正台の次官の意)を称していたために、後輩友人である筆者は敬意を込めてこう称しているものと思われる。既にお馴染み「耳嚢」の重要な情報源の一人。

・「御勘定奉行の節」勘定奉行は勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。安藤惟要が勘定奉行であったのは、宝暦111761)年~天明2(1782)年の19年間で、因みにこの15代後には根岸鎭衞自身が就任している(根岸の在任期間は天明7(1787)年から寛政101798)年までの11年)。

・「思われても」はママ。

・「西本願寺」京都市下京区堀川通花屋町下ルにある龍谷山本願寺の通称。永く私は何故西と東があるのか、分からなかった。目から鱗のウィキの「本願寺の歴史」からその部分を引用しておく。そもそもは戦国時代の内部対立に始まる。『元亀元年(1570年)912日、天下統一を目指す信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地であり、西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたことを起因に、約10年にわたる「石山合戦」が始まる。合戦当初』、大坂本願寺(石山本願寺)門跡であった『顕如は長男・教如とともに信長と徹底抗戦』したが、『合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因とな』ったとする。この二派の対立がその後も本願寺内部で燻り続け、それに豊臣秀吉の思惑が絡んで、文禄2(1593)年には教如の弟である『准如が本願寺法主を継承し、第十二世となる事が決定する。教如は退隠させられ』てしまう(この辺り、ウィキの「本願寺の歴史」中の記載が今一つ不分明。同じウィキの「准如」には『西本願寺の主張によると、もともと顕如の長男である教如は天正8年の石山本願寺退去の折、織田氏への抗戦継続を断念した父に背いて石山本願寺に篭るなど父と不仲で、また、織田氏を継承した秀吉にも警戒されており、自然と准如が立てられるようになったという』という記載があり、また別な史料では生母如春尼が門主を弟にと秀吉に依願したともあり、これで取り敢えず私なりには分明となった)。ところが、『慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで豊臣家から実権を奪取した徳川家康は、同戦いで協力』『した教如を法主に再任させようと考える。しかし三河一向一揆で窮地に陥れられた経緯があり、重臣の本多正信(三河一向一揆では一揆側におり、本願寺の元信徒という過去があった)による「本願寺の対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」との提案を採用し、本願寺の分立を企図』、『慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条の四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を移すとともに、本願寺を分立させる。「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世法主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂したので慶長8年(1603年)、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、本願寺(東本願寺)が分立する。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようにな』ったとある。因みに『現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒が、中国地方に特に多い(いわゆる「安芸門徒」など)のに対し、大谷派(東本願寺)では、北陸地方・東海地方に特に多い(いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)。また、別院・教区の設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯による』ものであるとする。こうした経緯から、幕末でも東本願寺は佐幕派、西本願寺は倒幕派寄りであったとされる(但し、ある種の記載では双方江戸後期にはかなりの歩み寄りを見せており、天皇への親鸞の大師諡号(しごう)請願等では共同で働きかけている。但し、親鸞に「見真大師」(けんしんだいし)の諡(おくりな)が追贈されたのは明治91876)年であった)。慶応元(1865)年3月に新選組が壬生から西本願寺境内に屯所を移しているが、一つにはそうした寺内の倒幕派への牽制の意があったものとも言われる。慶応3(1867)年6月には近くの不動堂村へと移ったが、その移転費用は西本願寺支払った由、個人のHP「Aワード」の「新選組の足跡を訪ねて2」にあり、『お金を払ってでも出ていってほしかったのだろう』と感想を述べておられる。現在、西本願寺は浄土真宗本願寺派、東本願寺は真宗大谷派(少数乍ら大谷派から分離した東本願寺派がある)で別宗派であるが、ネット上の情報を見る限りは、東西両派を含む十派からなる真宗教団連合や交流事業も頻繁に行われており、関係は良好と思われる。

・「本願寺」築地本願寺。前項「一向宗信者の事」注参照。

・「塔頭」江戸時代の築地本願寺の塔頭は真龍寺・宝林寺・敬覚寺等、58を数える膨大なものであった。霜台の檀家寺であろう。

・「百金」「百五十金」金百両・百五十両の意であるから、現在の価値に換算すると100両でも最低400万円最高3,500万円相当、150両となると600万から5,000万を超えるとんでもない金額である。安藤霜台! 男だねえ! 大好きッ!!!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 門跡衣体の事

 

 安藤霜台郷右衛門惟要(これとし)殿の宗旨は一向宗である。

 ことさらに信仰厚き人にては御座らねど、勘定奉行を勤めておられた折り、何かと西本願寺からの用向きが御座った故、労を厭わず、親切に対応致いて御座った。

 ある時、西本願寺御門主法如様江戸出府の砌、

――永年常々何かと世話に相成り候檀家なればこそ――

とて、使いの者より、一つの化粧箱に入れし謝礼が贈られて御座った故、霜台殿、

「何か、京土産ででも御座ろうか。」

とこの箱を開いて見たところが、美事なる僧衣では御座った。

 霜台殿、つくづく眺め、

「……寺中にあっては、これ、さぞ格式高き衣体にて……有り難きものにも存ずるのではあろうが……これ、普段に着れるものにてもあらず……また、我らが俗なる者の家(や)に、かくも貴き御門主恩賜の衣体をしまいおきて、万一、鼠にでも食われるような沮喪があっては如何なものか。……これは、何より、檀家寺へ遣わすに若くはなかろう。」

と思い、衣体を携えて安藤家檀家寺で御座った築地本願寺のある塔頭に赴き、かくかくの由、住持に相談致いたところ、

「いやとよ! それは大きなる了見違いで御座いますぞ! そもそも御門主から衣体を頂戴致しますこと! これ、相応の出家にても容易にあろうことにては、これ、御座らぬぞ! 況や、貴殿の如き俗体に於いてをや! 御門主におかせられてましては、数年御馴染みのことを心におかけになられ、何とか貴殿のその親切なる御配慮に対し、厚き礼として賜物せんとお思い遊ばされたることなれども……金銀をもってこれに謝礼すること、これは貴殿の如き、勘定奉行という御重職に在られる御方に対して、如何にも礼を失するものとの御深慮にて……かくも有り難くも深き御心! これ、お込めになられた御贈品にて御座いまするぞ!……例えば、で御座る!……この衣体を西本願寺信徒に与えんと致さば! これ、百両以下にて購わんと申し出る者なんどは、決して御座らぬ!……そこで、御相談で御座る!……我らに、この衣体、一つお預けなされよ! 必ずや、百両が百五十両にても、美事、買わせて見申そうぞ! いやとよ! ひらに! そうなさるるに若くは御座らぬ!……」

と頻りに薦める。

 霜台殿、これを聴き、

「――成程――なれど、我らこと、御公儀より厚く召し使われて御座ったる者にて御座れば――金銀百両の望み、これ、御座らぬ。――いやとよ、さほどに厚き御心映(ば)えの進物とは存ぜずにおって御座ったが――かくも親切なるものなればこそ、一つ、永く家宝と致いておこうと存ずる。――」

と、そのまま、持ち帰ったとのことの由――お語りになって御座った。

 

 

 太平の代に處して勤を苦む誤りの事

 

 日光山御修復に付、予三ケ年打續きて登山(とうさん)せしに、御虫干の節御寶藏の品を拜見なしけるに、東照宮御陣場(ごじんば)を召れたる御駕(おかご)あり。結構成品にはなく、前後は竹を打曲て御簾(みす)はあんだやうの物也。恐多くも御軍慮の御手すさみや、前の御簾竹にこよりをかけて、くわんぜよりの御よりかけ二三寸あり。又右あんだにに鐵炮の玉跡二三ケ所あり。神君の大德(だいとこ)宇宙を灑掃(さいさう)なし給ふに、千辛萬苦なし給ひてかく危難に處し給ふを見れば、かく太平の代に住みて、飽迄食ひ暖(あたたか)に着て猶遊樂を願ふの心、愼むべき事と爰に記し置きぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:西本願寺門主と安藤惟要の深慮と礼節(話柄はそこが主眼ではないように私には読めるが)から、神君家康公の深遠なる神慮で連関しているようには一応見えると言っておこう。

・「日光山御修復に付、予三ケ年打續きて登山せし」根岸は安永6(1777)年より安永8(1779)年までの3年間「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(「卷之二」「神道不思議の事」より)していた。

・「東照宮」徳川家康。元和2(1616)年4月17日に駿府城(現在の静岡県静岡市)で75歳で没し、直ちに久能山に葬られたが、遺言によって翌元和31617)年4月15日に久能山より日光山に移されて神格として遷宮され、東照社となった。その後、正保2(1645)年に正式に宮号を賜って、東照宮と呼称されるようになった。

・「御陣場」戦争に於いて陣取っている場所を言う。陣所。ここでは広義の戦場の意。

・「召れたる」この「召す」は「乗る」の尊敬語。

・「あんだ」「箯輿」で「あんだ」と読む。「おうだ」とも。元来は「あみいた」の転訛したもので、本来は板の床に竹を編んだ粗い笊状の縁を廻らせるらせたような屋根のない駕籠のことで、戦場で死傷者を運搬したり、罪人の護送に用いたりした極めて粗末なものを言う。但し、ここでは駕籠の御簾部分がそのような「箯輿」染みた粗末な造りであったと言っているので、駕籠全体が「箯輿」様であったという訳ではない。

・「手すさみ」手遊(すさ)び。手慰み。

・「くわんぜより」「観世縒り」のこと。「かんぜこより」「かんじんより」「かんぜんより」等とも言う。で、和紙を細く切って指先で縒(よ)り糸のようにし縒って、その2本を縒り合わせた紐状の紙。又はそれ一本単独の紙縒(こよ)りを言う。能の観世大夫を語源とするという説がしばしば行われているが、実際には未詳である(小学館「大辞泉」の記載を参照した)。現代語訳では、単に戦闘の合間、暇潰しに紙縒りを作ったという雰囲気で訳したが、もしかするとこの紙縒り、何か軍議軍略上、何か特別な使用法でもあったものか。識者の御教授を乞うものである。

・「灑掃」洒掃とも。「洒」「灑」は、ともに水を注ぐ意で、水をかけたり、塵を払ったりして綺麗にすること。掃除。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 太平の代に処するに勤めを苦しく思うこと大いなる誤りなる事

 

 日光東照宮御修復につき、私は三年に亙って日光山に登山(とうさん)して御座ったが、丁度、虫干しの季節なれば、東照宮御宝蔵の品々を拝見致す機会が御座った。

 その中に、神君家康公が御戦場にてお乗りになられた御駕籠が御座った。

 それは決して豪華なる品にては、これなく、前後の駕籠掻きの棒は、何と、素竹をただうち曲げたものにて、御簾(みす)に至っては箯輿(あんだ)の如き目の粗き如何にも粗末な作りで御座った。

 よく拝見してみると――恐れ多くも戦場にての采配指揮の合間に手遊(すさ)びになされたことででもあられたものか――御駕籠前方にある御簾竹には紙縒りが掛けられて御座って――それはまた、丁寧にしっかりと二本を捩じ絡めた観世縒りのこよりで御座った――それが二、三寸程ぶら下がって残っていたものが、夏の涼やかな風に揺れて御座ったのが今も忘れられぬ。

 また、更に仔細に観察致いたところ――この御簾には鉄砲の玉跡の穴が二、三箇所御座った。――神君家康公が、その大いなる人徳を以ってこの世この宇宙全体を清浄安泰なるものに成さんとなさった、その大御所様の――千辛万苦遊ばされ乍ら、かくも凄まじき危難を経験なされ、美事に天下統一を御成就なされたこと――この御駕籠一つにさえ感じ入って御座ったので御座る。――さればこそ――かくも今、太平の世に住みて、飽きるまで喰らい、暖かなるものをぬくぬくと着、それでもなお、遊楽を願わんとする心あるは――これ、不埒千万、重々厳に慎むべきことで御座る、と痛感致いた故、ここに記しおくものである。

 

 

 梶左兵衞が事

 

 日光慈眼堂(じげんだう)の奧に、梶左兵衞といへる人の墳墓あり。贈位四品(しほん)にてそのいわれを尋るに、大猷院(だいいふゐん)樣御小姓を勤て生涯御近邊に扈從(こじゆう)なしける由。飽迄篤實の人にて、御取立の儀御沙汰有けれども辭讓して、一生妻子を持ず。子孫を顧て眞忠の御奉公成がたしといひし由。大猷院薨御(こうぎよ)以後は、日光山へ御供なして日光にて終りけるが、朝暮の御膳獻備(けんぴ)にも御別所に相詰て、聊にても供僧など不束(ふつつか)あれば免(ゆる)さず憤りて、御在世の如く仕へて日光にて物故なしければ、嚴有院樣御代四品の御贈位有りし由。右の覺悟ゆへ其名跡(みやうせき)と言(いへ)る者もなし。左兵衞召使の幸助といへるを日光御殿番に被召出、今に其子孫小野善助とて御殿番を相勤、左兵衞が年季追福は御靈屋の御別所龍光院にて修行なせども、墳墓の掃除等は善助家にて執行ふ由也。異人眞忠なる人も有もの也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:日光山実見録シリーズで直連関。

・「梶左兵衞」梶定良(さだよし 慶長171612)年~元禄111698)年)幕臣梶氏の養子で。寛永9(1632)年より三代将軍徳川家光に仕え、御腰物持・御小納戸役を勤めた。慶安4(1651)年10月に四代将軍家綱の命により日光山に赴き、翌承応元(1652)年7月より日光山守護職(日光御宮守・日光御宮番・日光御廟所定番などとも呼称する)となったが、それから後40数年間、87歳で死去するまでの永きに亙って大猷院家光の廟を守った。その忠誠を讃えて大猷院廟の後背、大黒山に葬られた。本話にも示されている忠臣の内容が、底本の鈴木氏の注に「寛政譜」からの引用として掲載されている。いい文章なのでお示ししたい。なお、私のポリシーに則り、恣意的に旧字に代え、難読語には私の正しいと考える読みを歴史的仮名遣で附した。

 定良嘗て日光山に在のとき、毎旦御廟で殿前に侍座し、烈風膚(はだへ)を犯し、積雪身に砭(へん)するの時も自若としていますにつかふるがごとし。かくすること四十七年、一日の怠りあらず、年八十五に及びてはじめて往還乘輿(じようよ)すといへども、廟門にいなればかならず杖をすつ。祿二千俵に及びても一身の俸を意とせず。水患火殃(くわあう)あればよく散じて賑救(しんきう)す。日光山下の民これが爲に生を全うするもの亦すくなからず。のち水戸中納言光圀(みつくに)卿其訃音(ふいん)を聞て愛惜せられ、孝子親の墓に廬(ろ)する者はこれをきく、忠臣君の墓に廬するはいまだきかざる處なり、今定良にをいてこれを見るよし、文をつくりて祭らる。

「をいて」はママ。「砭する」の「砭」は、原義が針治療に用いる石の針で、突き刺さる、の意。「いなれば」は「往成れば」であろう。行き着くと、の意。「祿二千俵に及びて」とあるが、、底本の鈴木氏の注に「梶左兵衞」注に、日光山に赴いてからも『再三の加増により天和三年には廩米二千俵の禄とな』った由の記載がある(「廩米」は「りんまい」と読み、知行取りの年貢米以外に幕府から俸禄として給付されたものを言う)。天和3年は西暦1683年で、定良70歳の時である。「水患火殃」は水害と火災。「殃」は「禍」と同義。「賑救」貧者に金品を与えて救うこと。賑給。賑恤(ほら! 中島敦の「山月記」だよ!)。「水戸中納言光圀卿」は言わずと知れた水戸の黄門様、徳川光圀(寛永5(1628)年~元禄131701)年)、常陸国水戸藩第2代藩主。彼は寛永111634年)7歳の時に江戸城にて将軍家光に拝謁、寛永13年(1636年)に元服して家光から、その偏諱(へんき)を与えられて光国と改名した(延宝7(1679)年52歳の時に光圀と字を改めている)。「廬する」の「廬」は庵(いおり)であるから、庵を結んで追善に勤しむこと。

・「日光慈眼堂」家康のブレーンとしてしられた長寿の怪僧である大僧正南光坊天海(天文5(1536年)?~寛永201643)年)の廟堂。諡号は慈眼大師。歴代の日光山座主門跡である輪王寺宮親王塔の墓もある。個人のHP(と思われる)「ようこそ日光へ Welcome to Nikko「慈眼堂」に『(引用 日光市史 日光東照宮の謎―高藤晴俊氏著)』の引用注記を伴って以下の記載がある(孫引きであるから、本来はそのままであるべきだが、読みにくい部分があり、一部空欄を排除し句読点の補正を行った)。『天正18年7月(1590)北条氏の小田原城が落ちると 豊臣秀吉は8月に家康を関東に移封、9月には小田原方に組した日光山領(戦国期日光山領は66郷寄進地を含めると71郷あった)を没収、寺屋敷、門前、足尾村のみを安堵とした。慶長3年8月(1598)豊臣秀吉が没し、慶長5年(1600)の関が原の戦、慶長8年(1603)、徳川家康は江戸に幕府を開く。慶長10年には秀忠に将軍職を譲り慶長12年には大御所として駿府へ移っている』。『家康と天海の出会いには慶長13年、15年、18年説などあるがたぶん慶長13年から15年にかけて家康の絶大な信頼を得たものと思われる。そして慶長18年(1613)日光山の貫主として任じられる。慶長19年大阪冬の陣、元和元年(1615)の大阪夏の陣が過ぎ元和2年4月家康が没する』。『家康は遺言でもって、一周忌を過ぎてから日光山に小堂を建て勧請することを指示した。日光山は関東屈指の山岳信仰の霊山、霊場であり、家康が尊敬する源頼朝の信仰の厚かった所である。また江戸のほぼ北にあたり、宇宙を司る神.不動の北極星と江戸城の間にあり、神として再生した家康が国家の守護神となるにはこの日光に遷座することが重要だったのであろう。(この頃の時代背景としては長い動乱の世に辟易した人々の切実に太平の世を望む気持ちが、天下を統一した秀吉を大明神とし家康を大権現として神格化したことは容易に受け入れられたものと思う)この神廟経営には権現の神号の勅許に功績のあり、かつ日光山の貫主である天海があたる事になる。元和3年4月に霊遷が行われる。寛永9年(1632)1月大御所として権勢をふるっていた秀忠が死去、(元和9年(1623)7月より3代将軍家光)家光の時代となる。家光は大恩あり尊敬する家康のため寛永11年(1634)東照宮の大造替を着工、寛永13年4月に完成する。今の東照宮の姿である。天海の影響はいうまでも無い』。『家康、秀忠、家光と三代に仕え絶大なる信頼を勝ち得た天海も108歳で寛永2010月に入寂する。葬儀は盛大を極めたという』。『天海の葬られた大黒山の慈眼堂の建立は正保2年(1645)天海蔵には天海の霊前への奉納書、天海の蔵書、寄進本などが収められている(国宝 大般涅槃教集解 重文 大日経疏 他)』。『慶安元年(1648)天海に慈眼大師の大師号が宣下され』、『慶安4年(1651)三代将軍家光が没すると遺命により日光山の大黒山慈眼堂の近くに埋葬し、承応元年(1652)家光を祀る大猷院廟を着工し翌年10月完成し入仏の儀を行っている』とある。

・「贈位四品」幕府は大名・武家統制のために、事実上の授位権を将軍が握っていたが、大名に与え得る位階は、公家における武官の家柄であった羽林家の伝統にに従って、通常は従五位下までとされた。但し、特例として一部の大名家や旗本に対しては四位(四品)以上に昇叙することが許された(多くの場合は従四位下の叙任)。梶定良は天和3(1683)年に従四位下に昇っている。

・「大猷院」第三代将軍徳川家光(慶長9(1604)年~慶安4(1651)年)の諡(おく)り名。

・「御小姓」現在のシークレット・サーヴィス相当職であった五番方(御番方・御番衆とも言う。小姓組・書院番・新番・大番・小十人組を指す)の一つの通称であるが、梶定良の事蹟には小姓組入りの記載はなく、広義の、将軍側近として梶が勤めた御腰物持や御小納戸役を含んだ謂いである。

・「薨御」親王・女院・摂政・関白・大臣の死去を言う語。徳川将軍家は歴代、右大臣・左大臣・内大臣・太政大臣の何れかの地位を朝廷から得ているから、かく呼称出来るのである。

・「御膳献備」神前に供物を捧げること。

・「御別所」寺社にあって祭殿や本堂からやや離れた一定の同一区域内に置かれた、神職僧侶の修行道場・別院のことを言うが、どうもこれは「別当所」の略意で、後注で述べる大猷院廟別当職が住まう大猷院霊廟別当所龍光院のことを言っているらしい。現代語訳はそれで訳した。もし誤読であるならば、識者の御教授を乞いたい。

・「嚴有院」第四代将軍徳川家綱(寛永181641)年~延宝8(1680)年)の諡(おく)り名。家光の長男。

・「日光御殿番」慶安元(1648)年7月設置。定員4名。内3名は東照宮内の奥院(天狗堂附近)・御宮内番所(別称赤番所)・仁王門下にあった3個所の警備詰所を巡回警備を担当し、1名は大猷院廟堂入口番所警護を担当した。支配下に同心36名(以上は「栃木県立図書館レファレンス事例」の「Q 日光奉行所支配同心に関する資料はないでしょうか。」の「日光史」(1977年日光史特別頒布会刊星野理一郎著)の事例データを参照した)。

・「小野善助」小野良直(よしなお 生没年未詳)。底本の鈴木氏注に、本文に示されたように梶定良は結婚せず、嗣子がいなかったため、彼の拝領した領地は没収されてしまった。しかし、この良直が御家人として幕臣に取立てられ、『日光の御殿番となる。その孫安蔵まで御殿番をつとめ、その子にいたり、御殿番から日光奉行吟味役となり、寛政十年御勘定格に昇進した』とある。定良の没年は、既に第五代将軍綱吉の御代の末期であった。この梶及び小野への取り計らいは一応、将軍家綱吉のものと考えられるが(御家人・幕臣・日光御殿番という順調な流れは当然のことながら将軍裁許がなくては許されない。現代語訳ではそこを補足しておいた)、これはあくまで私の想像に過ぎないが、先に引用した「寛政譜」に光圀の言葉が特に引かれていることからも、綱吉とは犬猿(勿論、犬は綱吉!)の仲であったが、隠然たる発言力を持っていた彼が推挙したという可能性も考えられないことはない。また、寛政十年は西暦1798年で、「卷之二」の下限天明6(1786)年時点では、この栄誉までは記せなかったというわけであるが、やっぱり、お墓の掃除をしている善助子孫のラスト・シーンであってこそ「異人眞忠なる人も有もの也」なりとは合点!

・「龍光院」日光山でも僧方の総支配の重職であった大猷院廟別当職が住まう大猷院霊廟別当所龍光院。重要文化財として現存。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 梶左兵衞定良殿の事

 

 日光山慈眼堂の奥に、梶左兵衛定良殿という方の墳墓がある。

 格別に四位を賜った方で御座ったれば、その謂われを調べたところ、大猷院家光様御小姓を勤め、生涯御近辺に扈従致いた御人の由。

 その性、あくまで篤実のお方にて、上様より出世栄進を仄めかされた御沙汰が御座っても、事前に一切固辞致いて、また、生涯、妻子を持たなかった。この未婚なるに就きては、

「子孫を顧みんとする思い、これ、少々にてもあらば――真実(まこと)に忠誠なる御奉公は、これ、成り難し。」

と若き日より、常々口に致いておられた由。

 大猷院様薨御以後は、御霊(みたま)とともに日光山に御供致し、そのまま四十数年の生涯をそこにて終えられた。

 朝晩の廟堂御霊への御膳献備の際にも、欠かさず大猷院霊廟別当所龍光院にお詰めに相成られて、少しでも供僧に不束なることこれあらば、厳しく叱りつけて御座った由。

 このように、正に今も家光様御在世で御座られるが如くお仕えし、そのまま日光にて物故なされた由。

 かくも忠臣にて御座ったればこそ、厳有院家綱様の御代、特別な計らいにて、存命にして四位の御贈位、これ、御座った由。

 さて、以上示した通りの御覚悟にて御座ったがため、その家名名跡(みょうせき)を継げる者が御座らなんだ。

 ここに左兵衛が召し仕って御座った、これまた忠実なる家来に、善助という者が御座った。

 当時の上様――綱吉様の有り難きお取り計らいにより、その者、日光御殿番に召し出され、今に至るまで、その代々の子孫――同名を名乗る小野善助が、やはり御殿番役を相勤めて御座る。左兵衛の毎年の追善供養は、畏(かしこ)くも御霊屋のある日光山別当たる大猷院霊廟別当所たる龍光院が主宰にて祭祀なされて御座るものの、当左兵衛殿墳墓の払清(ふっせい)などは、今も、かの小野善助家にて執り行(おこの)うておる由。

 いや、何と並み外れて、真実(まこと)の忠心を抱き続けた美事なる御仁、これ、御座ったものである。

 

 

 御中陰中人を殺害なせし者の事

 

 御徒を勤し針谷平十郎といへる者、予が幼稚の時隨分逢し男也。有德院樣御代御中陰の事ありし日、右平八郎湯嶋切通しを通りしに、酒興の者向ふより來て理不盡に平八郎へ突懸りけるを、色々はづしけれども理不盡に及びけるにぞ、捨置がたく切殺しぬ。其譯組中へも聞へ頭へも申立けるが、折あしく御中陰の事なれば、取計も有べきに短慮といへる者も有て、上の御咎を恐れしに、慮外者を討留し事なれば事なく相濟ける。其比(そのころ)右御中陰中の事を申上けるに、有德院樣上意に、武士たる者其身分不立(たたざる)事か或ひは慮外いたしける者あらんに、其身の命をも不顧(かへりみざる)は常なり、況や中陰の内におゐてをやと御意ありしと承りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:家光・家綱から吉宗へ将軍家に直接纏わるエピソード連関。

・「御中陰」人の死して後、49日の間を言う。死者が生と死、陰と陽の狭間にあると考えられたため、一般に特に精進潔斎して、殺生を戒めた。中有(ちゅうう)。ほら! 芥川龍之介の「藪の中」さ! なお、これは上意が下されるような「御中陰」であるから、針谷平十郎自身の親族の中陰ではなく、吉宗絡みでとなれば、一番に浮かぶのは宝永6(1709)年1月10日に亡くなった先の将軍綱吉の中陰ではある。綱吉の薨去は宝永6年1月10日で同月は小の月であるから29日までなので、残り19日、2月は大で30日であるから、宝永6年2月末日までのぴったり49日間が綱吉の中陰である。但し、これが絶対に綱吉のものであったかどうかは分からぬ。実は後注の針谷平十郎の同定の絡みの上でも、『そうではない』と考えないと都合が悪い。将軍家所縁の者や高貴な公家衆の中陰に関わるものであったとして、現代語訳では誤魔化した。

・「御徒」とは「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。

・「針谷平十郎」岩波版の長谷川氏注では、未詳とし乍らも、可能性として菅谷平八郎政輔(まさすけ 元禄151702)年~宝暦3(1753)年)なる人物の名を挙げている。そこには『菅谷は小性組頭・御先鉄砲頭』であったとある。しかしこの人物では宝永6(1709)年には8歳(!)で合わない。根岸は元文2(1737)年生まれであるから、根岸の幼少時(4~10歳。根岸家の養子になったのは宝暦8(1758)年の22歳の時)は菅谷平八郎は4046歳であるから、自然ではある。更に、調べると根岸の実父安生定洪(さだひろ)は元御徒組頭であった(後に代官)ことからも、この人物の可能性は高い(ということはやはり綱吉中陰説は引き下げざるを得ないか)。現代語訳でもそこを敷衍して訳した。

・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡り名。

・「湯嶋切通し」湯島切通し坂。現在の文京区湯島にあった切通し。湯島天神の東北を「へ」の字形に、湯島の高台から広小路御徒町方向へと下る間道として開かれた。本話の頃は急な石ころ坂であったものと思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 御中陰中に止むを得ず人を殺めた武士の事

 

 御徒を勤めて御座った針屋平八郎という者は、私が幼い頃、実父の父の仕事の関係上、よく家を訪ねて参り、子供ながらに逢った記憶のある男で御座る。

 有徳院吉宗様の御代のこと、さるやんごとなき御方――失礼乍ら、どのような御方で御座ったか失念して御座るが――ともかくも、その御方の御中陰の折りのことにて御座った。

 その日、かの平八郎が湯島の切通し坂を通りかかったところ、酒に酔った男が向こうからやって来て、すれ違いざま、訳の分からぬ言掛かりをつけ、五月蠅く絡んで参った。平八郎はいろいろ手管を変えては、かわして避けんと致いたのだが、遂には以っての外の理不尽に及んだがため、最早堪忍ならず、とばっさりと斬り殺した。

 この次第、徒士組(かちぐみ)の同僚にも知られ、隠すつもりも御座らねば、直ぐに平八郎自身より組頭へ申し出て御座った。ところが折悪しくも、かのよんどころなき御方の御中陰の期間で御座ったがために、

「――他の取り計らい方、これあるべきところなるに、甚だ短慮――」

と理に拘わる者も御座ったがため、事件として特に取り上げられ、吟味にならんとするかと、お上からの厳しいお咎めを畏まって待って御座ったところが、程なく、理不尽なる慮外者を討ちとったる正当なる仕儀との判断、これ、御座って、どうという御処分もなく相済んで御座った由。

 実は、この一件、しっかりと上様の御耳には達して御座った。

 係の者、御陰中に抵触せんとする不行届の事例を幾つも挙げんとした一つとして、この平八郎一件の具体を上様に申し上げたところ、

「――その武士たるものの身分が立たざるとか、或いは法外に理不尽なる所行に及ばんとする者、これあるに――例え、その後に咎めがあろうがなかろうが――その身命(しんみょう)をも顧みざるは、これ、武士の常! 況や! 中陰の中に於いてをや!――」

と、問題にすること自体、これ憚られんばかりの、鮮やかなる御裁断の御意が御座った、と承って御座る。

 

 

 武士道平日の事にも御吟味の事

 

 享保の頃、武州二郷半(にがうはん)領邊へ論所(ろんしよ)吟味として御普請役手代の類罷越しけるに、百姓共背く事ありて大勢にて右見分の者へ手向ひ、石を打或は打擲(ちやうちやく)して兩人共はふばふの躰(てい)にて立歸りぬ。依之右村方の者ども江戸表へ呼出し、吟味の上夫々重き御仕置被仰付、右御普請役をも取計ひ不行屆にて押込に伺けるに、右兩人は其砌刀を拔候やとの御尋故、刀を拔不申趣申上ければ、大勢立集り候はゞ打擲には逢可申(あひまうすべき)事也、輕き者なればとて侍の身分にて、帶刀に手も懸ざる段不屆の至り也とて、改易被仰付けると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:暴れん坊将軍吉宗の、御容赦でさえない、『武士たる者の当然の仕儀としての』お構いなしの裁断に対し、こちらは同じ吉宗の、容赦のない、『武士たる者の当然の仕儀をせざるが故の』極めて厳しく見える処断で直対連関。そんな雰囲気を対称的に出せるような現代語訳にしてみた。前項の訳と対比して、お楽しみ戴けると嬉しい。

・「享保」西暦1716年から1736年。

・「武州二郷半領」武蔵国二合半領。現在の埼玉県三郷市の大部分と同県吉川町を含む地域一帯の名称。勿論、農村地帯で、しばしば土地境界の紛争があったようである。底本の鈴木氏注に、『江戸川と古利根川にはさまれた南北に細長い地域』で、『低湿で大部分は近世新墾されたもの。伊奈忠次がこの辺を賜わり一生支配すべしと命ぜられたので、一升を四配するで二合半と称したという俗説がある』とする。この伊奈忠次(いなただつぐ 天文191550)年~慶長151610)年)は代官。後、武蔵国小室藩初代藩主となった。ウィキの「伊奈忠次」によれば、『武蔵国足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣において一万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している』とある。

・「論所吟味」「論所」は論地(ろんち)とも言い、所有権・権益などを巡る土地や水域の紛争対象地を指す。幕府の評定所は、こうした田畑・山林・河川等に関わる提訴があった場合、訴訟方と相手方の双方に対して係争地の絵図(これを立会絵図と言った)の作成と提出を命じて、これを検地帳と照らし合わせながら双方の主張を聞き取りつつ、審理した。論所が複雑なケースでは論所検地・論所地改(じあらため)という実地検分がなされたが、本件は正にそうした実地検分での騒動である(以上は小学館刊「日本大百科全書」の「論所」の記載を参照した)。

・「御普請役」御普請奉行のことか。主に土木工事実務全般を掌った御普請方役所の長。御普請奉行は寛永101633)年に設置されており、定員2名で役高300石。支配下に役割役・見分役・調方がいた。御普請方役所は道路改修・河川補修の工事や道路管理の他、した屋敷奉行も兼務し、諸藩藩士の屋敷管理や城門番人支配、幕府関連の土木作業に関わる大工・左官・屋根葺職人・鍛冶師・桶師・畳師といった職人も、この御普請方支配下にあった。ここではその対象者処罰が将軍家吉宗によって特になされていることから、一応、普請奉行でとっておいたが、次の「狐獵師を欺し事」でも、「地改にて通しける御普請役」という言い方が現われてくるので、これは下級役人も含めた広く普請事業に従事する者の、漠然とした謂いともとれる。

・「手代」一般には郡代・代官・奉行等の支配下にあって雑務を扱った下級役人のことを言ったが、ここでは前注の見分役のことと思われる。後に「改易」の処分が下されており、これは後注で見るように、旗本格に処せられた刑罰であるから、一般的な手代としての下級役人という表現にはややそぐわない気がする。

・「はふばふの躰」所謂、「ほうほうの体」で、これは元は「這ふ這ふの体」で、慌てふためくさまを言う。

・「右御普請役」これでは上司である普請奉行の意となるが、それでは後の文脈が通じない。「右御普請役代行として遣わされた手代二人」の意でとった。

・「押込」一室に閉じ込め、外部との接見・音信を禁じた監禁刑で、俗に「座敷牢」と呼ばれた。20日・30日・50日・100日と日数で軽重があった。自宅謹慎相当の蟄居よりも重い。

・「改易」武士の身分を剥奪し、所領・城・屋敷・家禄・財産等を没収すること。除封。士分に課せられた処罰としては蟄居やその強制版である押込の上で、切腹に次ぐ重い処罰であった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 吉宗公武士道遵守これ平常時にても御吟味あった事

 

 享保の頃、武州二郷半領の辺りで、訴訟となった紛争地の実地検分のため、御普請奉行検分役担当の者が二名赴いたところ、相手方の土地の百姓どもが本検分を不服として、大勢で手向かい、石を投げ、或いは殴る蹴るといった乱暴狼藉を働いた。

 結局かの両名、ほうほうの体にて江戸表に逃げ帰って御座った。

 この一件に依って、刃向かったかの村方の者どもは、勿論、悉く江戸表へ呼び出され、吟味の上、それぞれに重い御仕置きが仰せ付けられて御座った。

 また、かの右御普請役代行として遣わされた検分役手代二名に対しても、そうした事態を招いたことに対する、その事前の対応の拙さと情けなき帰府顛末には不行き届きこれありとの判断にて、両名とも押込に処することと致す旨、上様にお伺いを立てた。すると、

「――右両人は、その砌、刀を抜いておるのか?」

とのお訊ね故、係の者、如何にも哀れなる二名の心証を良きものと致さんと思うて、真正直に、

「いいえ――所詮、相手は百姓なればこそ両人とも太刀なんどは、決して抜いたり致いては御座いませなんだ――」

と答えた。

 すると上様は、

「――興奮致いた大勢が烏合の衆となれば、これ、打擲に逢(お)うこと、当然の理――その折り、相手が百姓という身分軽き者どもであったとは申せ――勿論、好んで斬れ、とは申さぬ――申さぬが――侍の身分にあって、その武士たるものの身分が立たざる、かく理不尽なる所業を受け乍ら、その帯びたる太刀に手もかけざるの段! これ、不届きの極み!」

と激昂されるや、一言、

「改易!」

と、如何にも厳しき御裁断の御意が御座った、と承って御座る。

 

 

 狐獵師を欺し事

 

 遠州の邊にて狐を釣てすぎわひをなせし者有しが、明和の頃、御中陰の事ありて鳴物停止(なりものちやうじ)也しに、商賣の事なれば彼者狐を釣りゐけるに、一人の役人來りて以の外に憤り、公儀御禁じの折からかゝる業なせる事の不屆也とて嚴重に叱り、右わな抔をも取上げけるゆへ、彼者大に驚き恐れ品々詫言せしが、何分合點せざる故、酒代とて錢貳百文差出し歎き詫けるゆへ、彼者得心して歸りしが、獵師つくづく思ひけるは、此邊へ可來役人とも思はれず、酒代などとりて歸りし始末あやしく思ひて、彼者が行衞不見頃に至りて亦々罠をしかけ、其身は遙に脇なる所に忍びて伺しに、夜明に至りて果して狐を一つ釣り獲しに、繩にて帶をして宵に與へし錢を右帶に挾み居しを、遠州にて專ら咄す由、地改にて通しける御普請役の歸りて咄しける。鷺、大藏が家の釣狐に似寄し物語、證となしがたけれど聞し儘を爰に記置きぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:地改の御普請役が登場人物である話から、話者が地改の御普請役で連関、二項前の中陰絡みで隔世連関。

・「狐」イヌ目イヌ科キツネ属アカギツネVulpes vulpes 種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica

・「遠州」遠江国。凡そ現在の静岡県大井川の西部地区に当たる。

・「狐を釣て」何故、狐については捕獲することを「釣る」というのかという疑問がある。熊釣り・鹿釣り・山犬釣り・猫釣りなどというのは聞いたことがない。これはもしかすると、狐が人を騙す(釣られる)ことから、逆に餌で誘って「狐を釣る」という語が出来たものか。しかし狸釣りとは言わない。油揚げを釣竿の先にぶら下げで釣るというのは――私には如何にも非現実的であるように思われる。識者の御教授を乞う。

・「明和」西暦1764年から1772年。

・「御中陰」人の死して後、49日の間を言う。死者が生と死、陰と陽の狭間にあると考えられたため、一般に特に精進潔斎して、殺生を戒めた。中有(ちゅうう)。

・「鳴物停止」忌中歌舞音曲禁止であるから、殺生は言うまでもない。

・「錢貳百文」明和の頃ならば米二升・酒一升・旅籠宿賃一泊分というところ。

・「地改」論所(所有権・権益などを巡る土地や水域の紛争対象地)について、幕府の評定所に提訴があり、その論所が複雑なケースの場合、係の下役が直接現地に出向き、論所地改という実地検分がなされた(前項「武士道平日の事にも御吟味の事」参照)。

・「御普請役」これは幕府御普請方役所で実務土木事業に従事した下級役人。

・「鷺、大藏が家」「鷺」家は、鷲仁右衞門を宗家とする狂言三大流派(大蔵流・和泉流・鷲流)の一派。江戸時代、狂言は能と共に「式楽」(幕府の公式行事で演じられる芸能)であった。大蔵流と鷲流は幕府お抱えとして、また和泉流は京都・尾張・加賀を中心に勢力を保持した。但し、現在、大蔵流と和泉流は家元制度の中で維持されているが、鷲流狂言の正統は明治中期には廃絶、僅かに山口県と新潟県佐渡ヶ島、佐賀県神埼市千代田町高志(たかし)地区で素人の狂言師集団によって伝承されているのみである。「大藏」家については、ウィキの「大蔵流」より一部引用しておく。『猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派』。『代々金春座で狂言を勤めた大蔵弥右衛門家が室町後期に創流した。江戸時代には鷺流とともに幕府御用を勤めたが、狂言方としての序列は2位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大蔵弥右衛門家。分家に大蔵八右衛門家(分家筆頭。幕府序列3位)、大蔵弥太夫家、大蔵弥惣右衛門家があった。大蔵長太夫家や京都の茂山千五郎家、茂山忠三郎家をはじめとして弟子家も多く、観世座以外の諸座の狂言のほとんどは大蔵流が勤めていた』とある。

・「釣狐」狂言。鷺流の曲名は「こんくわい」。面や縫い包みを用い、基本的教習曲であると同時に難曲の一つでもある。小学館の「日本大百科全書」の油谷光雄氏執筆の「釣狐」より引用する(ルビの一部を省略した)。『雑狂言。仲間を釣り絶やされた古狐が、猟師に殺生を断念させようと、猟師の伯父の伯蔵主(はくぞうす)(前シテ、伯蔵主の面を使用)に化けて現れ説教をする。まんまと猟師をだまし、これからは狐を釣らぬと約束させた帰り道、古狐は猟師が捨てた罠をみつけるが、その餌の誘惑に耐えかね、身にまとった化け衣装を脱ぎ捨てて身軽になって出直そうと幕に入る。それと気づいた猟師が罠を仕掛けて待つところに、本体を現した古狐(後シテ、縫いぐるみに狐の面を使用)が登場、餌に手を出し罠にかかるが、最後にはそれを外して逃げてしまう』(底本の鈴木氏注によれば、堺の少林寺耕雲庵の僧白蔵主と狐の実話に基づく説話が原話とする)。『人(役者)が狐に扮し、その狐がさらに人(伯蔵主)に化けるという、二重の「化け」を演技するため、役者は極度の肉体的緊張を強いられ、しかもその「化け」がいつ見破られるかという精神的緊張が舞台にみなぎる。演技の原点である「変身」を支える肉体と精神がそのまま主題となった本曲は、それゆえに、「猿(『靭猿(うつぼざる)』の子猿)に始まり狐に終わる」といわれる狂言師修業必須の教程曲であり、ひとまずの卒業論文である。なお、江戸時代から再々歌舞伎舞踊化され、釣狐物というジャンルを生んだ』。因みに、狂言「猿(靭猿)」は大名狂言。シテの大名が太郎冠者に命じて、猿引き(猿回し)の連れる猿の皮を靭(うつぼ:弓矢を入れる筒。)の皮にせんと所望する。猿引きが断ったが、弓に矢を番えて強迫に及ぶ。猿引きはせめて矢傷にて殺傷せんより己が杖を振り上げて打ち殺さんととするが、猿はその杖を採って、常の舟の櫓を押す芸をしたので、猿引きは「共に殺さるるも猿は打てぬ」と泣き、大名も不憫に感じてもらい泣き、猿は命拾いする。猿引きは御礼に猿歌を謡い、猿を舞わす。すると大名も肌脱ぎになった上、衣から何から何まで褒美に与え、一緒に猿真似の舞いとなって大団円。狂言師の修業(特に和泉流)では三歳から五歳の頃に本狂言の小猿役から始められることが多いと、同じ「日本大百科全書」の「靭猿」の記載にある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐が猟師を欺いた事

 

 遠州の辺りにて狐を釣って、それを生業(なりわい)と致いておる者が御座った。

 明和の頃のことであったが、やんごとなき御方の御逝去に伴い、その御中陰のこととて、鳴物停止(ちょうじ)の御法度が触れ回されて御座ったが、それじゃ商売上がったり、お飯(まんま)の食い上げじゃとて、かの者、何時もの通り、狐を釣っておった。ところが、かの者が狐釣りに隠れて御座ったところ、傍らの笹藪の内より突如、一人の役人が現れ、殊の外に憤って、

「御公儀御禁の折柄、かかる業(わざ)成せるとは! 不届き者めがッ!!」

と厳しく叱りつけ、男の罠なんどまでも荒らしく取り上げた故、男も吃驚仰天、大いに畏まって詫び言なんども致いて御座ったが、これが、なかなか怒りが解けぬ。さればとて、御酒代にと銭二百文を差し出だいたところが、漸く役人の勘気も収まり、納得して帰って御座った。

 しかし――その帰って行く後ろ姿を眺めながら――かの猟師は考えた。

「……こんな田舎下(くんだ)りにやって来るような役人の風体とも思えぬ。……そのくせ、酒代なんどの賄賂を、平然と取り上げて帰るというも……如何にもな、怪しきこと……」

と思い、かの役人の姿が見えなくなった頃、またぞろ狐釣りの罠を仕掛け、そこから風下遠く離れた叢に隠れて、様子を伺っておったところ、夜明へ方に至って、果して一匹の狐が罠にかかって御座った。

 見れば――その狐、胴に繩の帯を締めており、前夜の宵に与えた銭をこの帯に挟んで御座った――

「……という話が、今、遠州にて専らの評判になって御座った。……」

と、普請方お役目として地改(じあらため)に遣わされた下役の者、帰って来ての話で御座った。

 思うに、鷺家及び大蔵家に伝える狂言の「釣狐」によう似た物語では御座る。されば、事実あったこととは如何にも言い難きことなれど、まあ、聞いたまま、ここに記しおくものである。

 

 

 僞も實と思ひ實も僞と思わる事

 

 江都の繁榮はいふも及ざる事也。予が舊識石黑來りて、折節上方より來りける人と膝を並べて物語の序(ついで)、雜談に及びけるが、江戸兩國橋は名に追ふ長橋にて、大風の折からは笠紐をゆるく結ぶ事也、ゆるければ大風來りても笠をとらるゝ計(ばかり)也、もし強く〆なば首ともに拔て行(ゆく)事ありと石黑かたりければ、京都なる者も例の石黑氏の虚談と笑ひぬ。石黑が曰く、さおもひ給ひそ、二三錢或六七錢の商を積て、間口拾間拾五間に藏作りにして商ひなす者有といひければ、是又例の虚談と彼京都人申ける故、これは僞ならず、傳馬町(てんまちやう)に三升屋(みますや)平右衞門とて蓬艾(よもぎ)を賣、鱗形屋(うろこがたや)孫兵衞とて草雙紙一枚繪を賣て拾間拾五間の藏造りして居る者有といひければ、然れば大風に首の拔間敷(まじき)にもあらずと笑て止ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「證となしがた」き狐の人を化かす話から、虚実皮膜の大江戸嘘のようなホントの話で連関。

・「石黑」「卷之二」の「人の命を救ひし物語の事」に登場する、根岸の評定所留役時代の同僚であった石黒平次太であろう。底本鈴木氏注及び岩波版長谷川氏注ともに石黒敬之(よしゆき 正徳六・享保元(1716)年~寛政3(1791)年)とする。御勘定を経て、『明和三年(一七六六)より天明元年(一七八一)まで評定所留役』(長谷川氏)であった。石黒と根岸は明和3(1766)年から明和5(1768)年の2年間、同役として勤務していた。

・「兩國橋」ウィキの「両国橋」によると、『両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい』。『江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った』。江戸時代の長大さを比較するために近代以降の部分も引く。『両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する』。『結果、1904年(明治37年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた』とある。現両国橋は長さ 164.5m、幅員 24.0m で、昭和7(1932)年に竣工している。

・「六七錢」当時の大人一人の銭湯入湯料相当である。

・「間口拾間拾五間」10間は18m強、15間は27m強で、商家の正面幅10間でも豪商であるのに、これが蔵の間口と言うことになると、とんでもない富豪であること、言を俟たない。

・「傳馬町」現在の中央区北部にある小伝馬町及び大伝馬町(おおでんま)。町名は伝馬役(てんまやく)が住んだことによる。小伝馬町は牢屋敷があったことで知られる。伝馬役は宿駅の運送業に従事する役や賦役を言うが、ここの場合は江戸府内から五街道に関わる人足・伝馬の継立て(宿駅での荷の受け渡し業務)を負担した大伝馬町・南伝馬町、江戸府内限りの公用の交通・通信に従った小伝馬町の三伝馬町があった。

・「三升屋平右衞門」現在の大伝馬町三丁目に相当する通旅籠町(とおりはたごちょう)にあった売薬屋(底本鈴木注では大伝馬町二丁目とするが、次の注で引いたリンク先の詳細な記事の記載を正しいものと判断して採用した)。灸や煎じ薬として艾(もぐさ)を商いして安永年間に大いに繁盛した。

・「蓬艾」キク亜綱キク目キク科ヨモギ属 Artemisia indica 変種ヨモギArtemisia indica var. maximowiczi。灸に用いる艾(もぐさ)は、この葉を乾燥させて、その葉の裏側にある綿毛を採取したもの。ヨモギの葉は艾葉(がいよう)という名で生薬として用いられ、止血作用があり、他に若芽や成育初期の若株を干して寝かしたものを煎じて飲むと、健胃・腹痛・下痢・貧血・冷え性などに効果があるという。三升屋平右衞門のそれは商品名を「団十郎もぐさ」と言った。株式会社クリナップのHPにある「江戸散策 第23回 やっぱり、いつの時代も病気は怖い。」には安政61859)年版恋川春町描く三升屋の店先と共に、この命名について、『店主の平右衛門は、人気の芝居役者「市川団十郎」から「団十郎もぐさ」とし、団十郎の紋「(みます)」を商標として使うばかりか、自らも「三升屋」と名乗っている。もちろん、「団十郎」と「もぐさ」は何のかかわりもない。こういう「あやかり商売」は江戸では一般的で、実際いろいろな人が団十郎○○という代物を売っていた。いいかげんのような気もするが、それが江戸の社会だった』由、記載がある。

・「鱗形屋孫兵衞」明暦年間(165558)の創業から文化初年(1804)頃まで営々と続いた江戸有数の版元。参照した「朝日日本歴史人物事典」の安永美恵氏の解説によれば、姓は『山野氏。鶴鱗堂と号す。初代は三左衛門、2代以降は孫兵衛を称する。鱗形屋は浄瑠璃本、仮名草子、菱川師宣の絵本から、赤本、黒本、青本などを板行し、特に、安永4(1775)年黄表紙第一作とされる恋川春町の「金々先生栄花夢」刊行後は、全盛期の黄表紙出版をリードした。八文字屋本をはじめ上方浮世草子の江戸売りさばきを積極的に行うなど、近世中期の江戸文学の興隆に大きく寄与したが、『吉原細見』の版権を手放した天明年間(178189)以降、第一線から退いてい』ったとある(引用に際して記号の一部を変更した)。底本の鈴木氏注には、『初夢を見るために枕の下に敷く宝船の図を』売り出して、ヒット商品となっていたため、『一般市民にも親し』い店であった、ともある。

・「草雙紙一枚繪」平凡社「世界大百科事典」の「草双紙」から引用しておく(記号の一部を変更した)。『江戸中・後期に江戸で刊行された庶民的絵入小説の一体。毎ページ挿絵が主体となり、その周囲を埋めるほとんどひらがな書きの本文と画文が有機的な関連を保って筋を運ぶのが特色。美濃紙半截二つ折り、5丁1冊単位で、2、3冊で1編を成す様式が通例。しだいに冊数を増し、短編から中編様式へ、そして後には年々継続の長編へと発展する。表紙色と内容の変化とがほぼ呼応し、赤本、黒本あるいは青本(黒本・青本)、表紙と進展し、装丁変革を経て合巻(ごうかん)に定着、明治中期まで行われる。草双紙の称は上述5様式の総称だが狭くは合巻を呼ぶ。本格的ではないという意の称呼で、赤本は童幼教化的、黒・青本で調子を高め、黄表紙は写実的な諧謔み、合巻は伝奇色が濃厚になる。』とある(引用元著作権表示 鈴木重三 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 嘘も本当と思い本当も嘘と思われるようなこの大江戸の事

 

 大江戸の繁栄振りはいまさら言うまでもないことで御座る。

 私の旧知の友である石黒平次太敬之殿が拙宅を訪ねて御座ったが、丁度その折り、やはり上方より来訪致いて御座った御仁と出会わせ、親しく話を致す機会が御座った。

 その中で、

「……江戸の両国橋というは、国と国を結ぶという名にし負う長き橋で御座っての……大風吹く折りには、渡る者はこれ、笠紐を緩く結ぶことになって御座る。……何故(なにゆえ)と申さば……緩ければ大風吹き来たっても、笠が飛ぶだけで済んで御座る。……ところが、万一、強く締めて御座ると――首共に抜け飛んでしまうことが御座るからじゃ。」

と石黒殿がかましたので――石黒殿は、昔からこんな茶目っ気のある御仁で御座った――京都から参ったその客人も、これに、

「……また、ご冗談を。……」

と、笑って御座った。

 すると石黒殿は、

「……これ、空言とお思いになってはなりませぬぞ。……ここにこんな話も御座る……二、三銭或いは六、七銭の商いを積み重ね、積み重ね――間口十間、十五間の蔵を造って商い致いておる者、これ、御座るのじゃ。」

と申したところが、かの京のお人は、

「……ほれ、また、ご冗談を……」

と申した故、石黒殿、

「……ところがどっこい、こいつは嘘では御座らぬ。伝馬町に、三升屋平右衛門と言うは、たかが蓬(よもぎ)を売り――また同じ町の、鱗形屋孫兵衛と言うは、たかが草双紙の一枚絵を売って、誠、十間、十五間の蔵をおっ建てて住んで御座るもの、これありますぞ! 嘘と思わるるならば、とくとご覧になられるがよい。」

と申すによって、私も肯んじたところ、

「……へえーッ?!……そないなことならば……大風で首は抜けぬとも、言えまへんな!……」

と、一同大笑い致いて御座った。

 

 

 先格を守り給ふ御愼の事

 

 將軍家は宇宙を指揮なし給ひよろづ御心の儘なるべき。年々南部仙臺の御買上馬の節は、御覧留の事は御目留りと唱へ、除して御買上に成事也。近頃御馬を好ませ給ふの間、御目留り三疋有けるが、暫(しばらく)して御近邊へ、御先代御目留り幾ツありしと上意ありける故、御先代御目留り一疋づゝ也、時により二疋の事も候ひしが、多分は一疋の由御答有ければ、三疋の内二疋御戻し相成、一疋御留めに成りしと也。かゝる御事にも古きを顧み給ふ御惇通(じゆんつう)の御事、難有儀也と諏訪部文九郎物語なりき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「將軍家」当代となると第十代徳川家治(元文2(1737)年~天明6(1786)年)で、将軍職在任期間は宝暦101760)年から天明6(1786)年。「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるからぎりぎり問題ない。その前代は言語不明瞭の家重で、「暫して御近邊へ、御先代御目留り幾ツありしと上意ありける」という部分が気になる。私はこの可能性はないと思う(同時に家治がこの将軍だと彼がここで言う「御先代」になるというのもやや気にはなるのである)。更に遡るなら根岸が頻繁にエピソードとして引用する暴れん坊将軍第八代将軍吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の可能性も考えられなくはない。吉宗の将軍在任期間は享保元(1716)年から延享2(1745)年までで、諏訪部文九郎が二十代の1732年から1742年頃となると、既に49歳から59歳という中年期(当時としては高齢期)に達しているが、暴れん坊将軍なればこそ、この年になって馬に特に興味が生じたとしても、決して不自然な気が私にはしないのである。しかし、今まで話柄中に吉宗が登場する場合は、ほぼ決まって「有德院樣」と明記されており(そうでない場合でも年号によって吉宗と特定出来た)、「近頃」という表現や「諏訪部文九郎物語なりき」で本文中でも直接体験過去の助動詞「き」が使用されていることからも、ここはやはり家治ということになろうか。取り敢えず、現代語訳は特定を避けることにしたが、如何にもそれでは尻が落ち着かぬ。識者の御教授を乞うものである。

・「南部仙臺の御買上馬」「延喜式」の昔より、強健な南部馬は軍馬として高く評価されていたが、古くから育馬に精魂を傾けてきた南部氏を藩主とした盛岡藩(後に七戸藩=盛岡新田藩・八戸南部藩に分かれた)では、徹底した生産管理を行って、江戸期最高峰の日本馬を創り出した。戦国時代には既に人為交配によって丈十寸(とき:「寸」(き)は馬の背丈の特異的単位で、地表から跨る背までの高さを示す。4尺を標準として、それより一寸高ければ「一寸」(ひとき)と数えた。が約150㎝)を越える当時としては非常に大きい名馬を産出していたが、江戸に至って大平の世となると、荷駄用の使役馬の需要が主流となった結果、逆に荷の積み卸しが容易なように小型に改良され直し、4尺(標準値:約120㎝)程度の馬が再増産されたという。本話よりやや後になるが寛政9(1797)年の盛岡新田藩の馬の頭数は約8万7000頭、八戸南部藩は約2万頭、幕末期でも南部藩(どちらか一方か両藩かは不明)が所有する馬は約7万、その内の小荷駄馬は約3万頭を数えたとある。しかし戦争の近代化により軍馬の需要が減り、昭和の初期には純粋な南部馬は絶滅してしまった(以上はネット上の複数の資料をかなり自由に参考させてもらって総合的に作成したので特に引用元を明記しない)。

・「御先代」家治なら家重、あり得ないと私は思うが家重なら吉宗、吉宗なら綱吉、ということになる。

・「惇通」一般的な熟語としては見慣れない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「惇直」とあり、書写時の誤りの可能性が疑われる。こちらを採る。万葉的な一途な「直き」心の持ち主である。

・「諏訪部文九郎」諏訪部堅雄(かたお 正徳3(1713)年~寛政3(1791)年)。岩波版の長谷川氏注によれば、『西丸の御馬預から本丸御馬預を兼ねる』とある。諏訪部家は代々幕府御馬役を世襲した由緒ある馬術名家の家柄であった(南部藩との密接な関係があったことや同名の先祖諏訪部文九郎と柳生宗矩との馬上試合の話などをネット上に見ることが出来る)。この語りが本巻下限の天明6(1786)年頃であったとすれば、堅雄は既に74歳である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 先例を守られるお慎みの事

 

 将軍家は、この総ての精気の集合体である宇宙を総指揮し給い、あらゆることはその御心のまま――全知全能にして、御心のままになさることが出来る――というに……

 ……毎年南部仙台から馬をお買い上げされる際には、南部藩より選りすぐられた名馬が馬場に引き出され、御覧に供されたものの内、将軍家の御目にお留まりになった優れもの――これを『御目留り』と称し――を別に囲っておき、最終的にはそれをお買い上げになられるのがその場の仕来りで御座った。

 ある年のこと――その頃、上様におかせられては殊に御馬に御興味があられたが故――かの『御目留り』が三頭御座った。

 ところが、暫くして上様が御側近の者へ、

「……御先代の『御目留り』はこれ、何匹であられたか?」

とのお訊ね、これあり、

「御先代の『御目留り』は、これ、一匹ずつであられました。時によっては二匹お選びになられることも御座いましたが、殆んどは一匹にてあられました。――」

とお答え申し上げたところ、上様は三匹の内、二匹を御戻しになられ、囲いには――お買い上げは一匹のみになされたということで御座った。

「……このような小事に対しても御先代御先祖故事故実を顧み給う御惇直、これ、誠(まっこと)有り難きことにて御座った……。」

と、幕府御馬方で御座った諏訪部文九郎堅雄殿が、思い出語りに話して呉れたことにて御座る。

 

 

 酒宴の興も程有べき事

 

 酒宴の座專ら分量を過て呑むを興となし、強て酒を勸むる事又興となす事なれど、心得有べき事也。佐藤古又八郎白山に住居し時、祝ふ事有りて近隣打集り酒肴有しに、各々數盃を傾けし上、表御右筆勤たりし古橋忠藏といへる者ありしが、七合入の盃出しに何れも恐れて少しづゝ受て廻しけるを、酒量も有けるゆへや、忠藏右七合入をなみ/\と受て見事に干しけるを、座中稱歎なしけるに、右の趣にてあらば今一盃もなるべしと言へる者ありしを、伊達とや思ひけん、忠藏尚一盃を受て呑けるが、半ば呑と見へしに精心を失ひし樣に見へけるが、兎角して呑て其座に倒れしを彼是介抱なして駕(かご)にて宿へ返りぬ。夫より五七日煩ひけるが、一旦快成(なりて)出勤はなしけれど、終に右の節より病付(やみつき)候て失せにける也。興も心得有べき事と爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。しかし本件の古橋の死因は、緩快期を中に挟んでいるから、本飲酒を直接の原因とする急性アルコール中毒によるものではない。長期の飲酒による致命的な肝機能障害を考えるより寧ろ、脳卒中や脳梗塞、心筋梗塞の可能性の方を考慮すべきであろう。

・「佐藤古又八郎」佐藤豊矩(とよのり 宝永6(1709)年~安永9(1780)年)。岩波版長谷川氏注に表祐筆組頭であった由記載がある。「古」は「故」で故人のこと。「卷之二」の下限は天明6(1786)年で、執筆時、彼は既に亡くなっていた。

・「白山」現在の文京区の中央域にある地名。江戸時代までは武蔵国豊島郡小石川村及び駒込村のそれぞれの一部であった。ウィキの「白山」によれば、地名の由来は、『徳川綱吉の信仰を受けた』『白山神社から。縁起によれば、948年(天暦2年)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀しこの地に祭った』とある。

・「表祐筆」表右筆とも書く。幕府方にあって将軍の機密文書を扱った奥右筆より格下で、一般的な行政文書の作成や諸大名の分限帳、旗本・御家人などの名簿管理をした。

・「古橋忠藏」古橋忠信(享保161731)年~明和4(1767)年)。岩波版長谷川氏注に西丸表右筆で、37歳で逝去の由記載がある。確かに若死にしている。恐らく、佐藤豊矩が右筆でなかったとしたら、また、そうであっても根岸に語らずにおいたとしたら、古橋忠信の不名誉なる死の真相を多くの現代人は知らずに済んだであろう。古橋忠信の霊にとっては、鈴木棠三氏、長谷川強氏、そしてこの不肖私という注釈者は、やらんでもいいことをしてくれる厄介者ではある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 酒宴で興に乗るにしても『程』というものを弁えなくてはならぬという事

 

 酒宴の座にて、専ら並みの分量を遙かに過ぎて鯨飲をなすを殊更に酒の興と致いて、同席の者に強いて酒を勧むることを、また酒興と致すこと、屢々見らるるが、これには相応に『程』というもののあること、重々心得ておくべきことにて御座る。例えば――

 佐藤故又八郎殿が白山に住んでおった頃のこと、とある祝い事が御座って近隣の者どもが集まり、酒宴を催して御座った。

 又八郎殿も加わって、各々相当に盃を傾けて御座ったところ、その家の主人が、やおら七合入りの大盃を持ち出してきて、その回し飲みが始まった。

 しかし流石に誰もが恐れをなし、形ばかりに少しずつ酒を受けては、じきに隣りの者に廻して御座った。

 ところがここに、表御右筆を勤めて御座った古橋忠蔵殿という御仁がおられ――元来が酒に強き性質(たち)で御座ったものか――忠蔵殿は、この大盃になみなみと酒を受けて、それをまた一気、美事に呑み干して御座った。

 一同から感嘆の声が上がったが、誰やらん、

「……かほどのことなれば、今一杯も、手もなく呑み干せようのぅ……」

と言うた者がおった。

 それを聞き、ちょいと男伊達を気取らんとしたものか、忠蔵殿、なお一杯を受けて呑み始めた。

……が……この度は、半分干したところで……正気を失(うしの)うたような顔つきとなったかと思うと――

――そのまま残りをぐっと呑んだ――

――呑んだよいが――

――そのままばったり倒れたかと思うと――

――失神致いて仕舞(しも)うた……

 皆、慌ててあれこれ介抱なんど致いて、忠蔵殿を駕籠でもって宿へ送り帰して御座った。――

 それから五、六日程も煩い――一旦は幾分、快方に向かったかのように見え、出仕も致いたものの――またまた病み臥せることと相成り――遂には命を落とした。――

 興に乗るのも大概にせよと心得よ、とのことならんとて、ここに記しおくものである。

 

 

 酒に命を捨し事

 

 佐州に有し時老人の語りけるは、右老人の一僕ありしに、飽迄酒を嗜みけるが、何卒生涯の思ひ出に飽程酒呑て死度由いひける故、安き事也、餘程給(たべ)候へ迚、或る日祝儀の日に酒三四升遣し、心の好む程呑候へといひしに、彼者大きに悦びて獨(とく)と右酒をのみ樂しみけるが、三升程も呑ぬらんと思ひしに、うつゝなく寢て血水抔吐ける故、よしなき事なせしもの哉と思ひけるにやがて死しける。右老人の妻なる者其外傍輩抔寄合て、あの者好める事にて死せし事なれど不便の事也とて、笹ばたきといへる巫女に口よせしけるに、右靈出て、扨々忝(かたじけな)き事哉、多年好める酒を飽程のみし嬉しさ忘れん方なしといひける故、其嬉しさはさる事なれど共以後は如何なせしと尋ければ、其後の事は我身もしらずといひし由にて大に笑ひぬ。口よせなどする巫女のたぐひ、信ずべきにもあらざれど、好む所の酒におかされては、活(いき)て居ても前後を忘(ばう)じうつゝなる人多し。況や死(しし)て後の事はさも有べき事といひし、可笑しき事也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:酒に命を落した男パート2。しかし、教訓譚変じて、こちらは落語みたようなオチとなっている。佐渡実録シリーズの一つでもある。恐らく食道静脈瘤破裂による大吐血であるが、「飽迄酒を嗜みける」というところからは肝硬変の既発症も疑われ、この意識混濁も肝性昏睡の可能性があるかも知れない。

・「佐州に有し時」根岸は佐渡奉行として天明4(1784)年から天明7(1787)年まで現地で在任した。

・「獨と」底本では右に『(ママ)』表記がある。「篤と」(じっくりと)+「獨と」(たった一人っきりで)の二重の意味を含ませて訳した。

・「笹ばたき」笹叩き。民間の霊媒たる巫女(みこ)が霊を降ろして口寄せ(次注参照)をする際、両手に持った笹の葉で自身の頭を叩いたり、その笹の葉を熱湯に浸して身体に振りかけたりしてトランス状態に入る。そうした降霊の様態や祈禱、またはその巫女自身を指す語である。

・「口よせ」口寄せ。神霊などを自分に降霊(憑依)させて、その意志などを代言することの出来る術。近代の佐渡佐和田町のフィールド・ワークでの採取例では「ホトケオロシ」と呼んでいたことが知られている。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 酒に命を捨てた事

 

 佐渡国に御座った折り、ある老人から聞いた話で御座る。

 その老人には一人の下僕が御座った。三度の飯より酒が好きというしょうもない奴で御座ったが、

「……御主人様……儂(あっし)は、生涯の思い出に、もうこれ以上呑みとうないと思えるまで……文字通り飽きるほどに酒を呑みとう御座います……」

と言うので、

「易きことじゃ。では一つ、飽きるまで呑むがよかろうぞ。」

とて、とある祝儀の御座った日に、かの老人、酒三、四升ほどをその下僕にやり、

「ほりゃ、思うがままに呑みたいだけ呑むがよいぞ。」

と言うたところ、かの下僕、大いに喜び、下男部屋にてたった独り、じっくりまったりと酒を楽しんで御座った。……

……さても……三升ほども呑んだかと思う頃……何やらん意識がぼんやりと薄れて参ったれば……ちょいと横になろうとした、その途端……

――ぐうえェ! げげぅェ! ぐゎばァッ!――

と、酒混じりの大量の血反吐を吐く――

「……あっは……や、やっぱり……せ、せん方が、ええこと……し、したわなぁ……ホッ!……」

と呟きながら、そのまま……誰にも看取られることのう、死んでもうた。――

 ――――――

 かの下僕の葬儀も済んだ後日(ごにち)のこと、永年忠実に従って御座った下僕であったが故、かの老主人の妻が声掛け致し、彼の朋輩らも寄り合(お)うて供養せんとせし折り、

「……かの者、まずは、好きな酒にて死んだのであってみれば……本望でも御座ったろうが……やはり残った我らからみれば、不憫なことじゃ……」

とて、ある者が笹叩きと称する巫女(みこ)を呼び入れて口寄せ致いたところ、果して下僕の霊が現れた。

『…………さてもさても…………かたじけなくも、お呼び戴きましたること…………永年好める酒を飽きるほど呑んだ嬉しさ…………これ決して忘るること、御座らぬ…………』

と呟く。

「……酒呑めて嬉しいは分かったじゃ。……分かったが、お前さん、その……死んでから後は……如何が致いておる?」

と訊いてみた。すると、

「…………その後のことは――――儂も――――何(なあ)も、分からん――――」

と答えた。

 一同大笑い致いたとのことであった。

 ――――――

「……口寄せなんどをするという巫女の類い、これ、信ずるに値い致しませねど、好きな酒に溺れ、それに冒された者、これ、生きておっても、前後の記憶を失(うしの)う者は多きものにて御座る。……さればこそ泥酔にて死しての後は、なおのこと、何(なあ)も覚えて御座らぬとは、これ、当然のことでは御座るの……」

とその老人が語って御座ったが、誠(まっこと)面白い話ではないか。

 

 

 飢渇に望みて一飯を乞ひし事

 

 予がしれる廣瀨某は元來大坂の者也し由。至て貧乏にて大坂より下りし時も纔(わづか)の路用を持て下りしが、神奈川の驛迄懷中の貯(たくはへ)一錢もなく遣ひ切りしに、江戸に至ればしるべもあれど、以の外空腹也けるが、風與(ふと)思ひ付て六郷の奈良茶屋の前にて轉倒して倒れければ、右茶屋の者ども大きに驚て、水など顏にそゝぎ藥など施して、活出(いきいで)し趣にて厚く禮を述(のべ)て、右鄽(みせ)に腰をかけて奈良茶など食し、初て快(こころよき)由を語り、扨々厚き世話に成し事也、代物拂ひ可申處、連(つれ)の者の先へ至れば追てこそ可遣といひしに、奈良茶屋も鄽先の倒死を遁れし事を悦びて、いかで左あるべき、快(こころよき)こそ嬉しけれとて立別れぬ。其後此廣瀨靑雲の仕合(しあはせ)ありて武家の養子と成、後は御目見以上に昇進し、御用にて通行の折から彼奈良茶屋を休みになし、古への事申出て厚く謝禮なしけるに、程過たる事、殊に日々の往來も多き事なれば見覺べきやうもあらざれば、かゝる事もありしやと大きに驚きけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。

・「廣瀨某」底本の鈴木氏注には、不詳としながらも詳細な推定が記されている。以下に引用しておく。『寛政譜に広瀬姓は一家のみで、同家は光貫が延宝八年御徒に召し加えられ、のち御徒目付に進んだ。その次は養子半右衛門光栄(ミツヨシ)で、父に先立って没し、遺跡は光貫の孫貫吉が享保十二年に継いだ。話中の人物は右の光栄か。』とされ、岩波版の長谷川氏注もこれを踏襲している。

・「神奈川の驛」現在の横浜市神奈川区神奈川本町付近にあった宿駅。現在のJR横浜駅の西口の東北にある高台。直下はすぐに海であった。

・「六郷」江戸から川崎宿に入る手前、六郷川の左岸。この渡しを渡ると川崎宿であった。

・「奈良茶屋」奈良茶茶屋。奈良茶飯を出した茶屋のこと。奈良茶飯は、一種の炊き込みご飯で奈良の郷土料理であったが、江戸時代には川崎宿の名物料理として知られていた。ウィキの「奈良茶飯」によると、『少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだものである。しじみの味噌汁が付くこともある。栄養バランスにも優れ、江戸時代に川崎宿にあった茶屋「万年屋」の名物となった』とあり、この店は「江戸名所図会」や十返舎一九「東海道中膝栗毛」にも登場する有名な奈良茶茶屋で、現在の新六郷橋車道下を潜った第一京浜国道右側の旧街道沿いに万年屋跡の案内板が立っている。本話柄の店もこの万年屋であった可能性が高いものと思われ、ウィキの記載にも『万年屋は江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したと言う』とある。奈良茶飯は『元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった。それが江戸や川崎に伝えられ、万年屋などで出されるようになったとされている』とある。本場大和高田市葛城広域行政事務組合の「かつらぎ夢めぐり」の「かつらぎの味 四季巡り」のページで画像とレシピが見られる。私は食べたことはないと思っていたが、この画像を見たら、28歳の昔、奈良で食した記憶が蘇ってきた。

・「御目見以上」将軍直参の武士で将軍に謁見する資格を持つ者の意。大名も含まれるが、現実的にはこう言った場合、旗本を指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 あまりの飢えに臨み一芝居打って一飯を乞うた事

 

 私の旧知の朋輩広瀬某は、元は大阪の者の由。

 若い頃、一念発起致いて――とは言っても『一っちょ、やったろかい!』程度の甚だ心もとない漠然とした思い付きからでは御座ったが――江府へ向かわんとせしが、当時の彼は至って貧乏の極みに御座って、実際に大阪から下って来た折りも、雀の涙ほどの路銀を持っているばかりで御座った。

 途中、神奈川の宿に辿りついた時には、遂に懐中の貯え、一銭残らず使い切って、すっからかんになって御座った。

 江戸に至らばこそ知る人がりもあれ、ここにては……しかも、折り悪しく異様に腹も減ってきて御座った。

 万事休す……と……ふと思いついたは――

 廣瀨、川崎宿は六郷川の川岸に御座った奈良茶屋の真ん前まで、如何にも……ふらふらよれよれ、躓きずるずるひょろりふらり……と、力なく歩んで参ったかと思うと、

――すってん、ぱったーん!

と、風に吹かれる紙屑の如、すっ転んで倒れて気絶した――振りを致いた。

 それを見た奈良茶屋の店の主人一同、臍で茶が沸いたが如く吃驚仰天、顔に水を浴びせかけるやら、気つけの薬を含ませるやら……と……

廣瀨、目蓋を震わせながら薄っすら眼を開くる……

「……か、か、くゎたじけ、なぃ……」

と辛うじて言葉になるかならぬかというような、蚊の鳴き声(ね)にて礼を述ぶ。

 店の者は、

「……お前さん、何やらえらい痩せて、げっそりやな……まずは何より、この奈良茶飯でもお食べになるか?」

と言うてくれたが――待ってましたと知れるも恥かしければ、黙ってうち震える顎の先で以って微かに頷く――さても横たわって御座ったかの店先の縁台に、起き直ってはようやっと腰を掛け……運ばれて御座った奈良茶飯をがつがつと喰らい、ようよう背と腹の僅かな隙間に茶飯納まり、

「……いや、いや、いや、いや……これにて、人心地ついて、御座った……」

と、廣瀨、やおら語り出す。

「……さてもさても……大層世話になり申した……御礼奈良茶飯代銭外(ほか)お払い致さんと思いますれど……実は、金子持つ連れの者……これ、先へ参って御座れば……追っ付け追いて金子受け取り……それから取って返して……必ずやお返し申すによって……」

と、まあ、如何にもなことを、これ、申した。

 すると、奈良茶屋主人、悦んで――彼にしてみれば、店先にて行き倒れが出でんこと、これもまた、迷惑なればこそ、

「何をおっしゃるやら。まんず、ご快気、よう御座んした。」

と、そのまま廣瀨を送り出した。

 ――――――

 その後(のち)、廣瀨某、切歯扼腕刻苦勉励、美事、青雲の志を遂げて、良き廻り合わせを得て武家の養子と相成り、遂には御目見得以上直参旗本にまで昇進致いて御座った。

 ――――――

 そんな出世致いた、ある折りのこと、御用で東海道は川崎宿を通行致いた折り、かの奈良茶屋に立ち寄りて休み、昔と変わらぬ思い出の、かの縁台に腰を下ろすと、

「――拙者、いつぞや――かくかくのことあって、痛く世話になった……。」

と昔の恥、これ、隠さず述べ、厚く礼を致いた上、用意して御座った茶飯一飯の代金外、謝礼の品々をも引き渡いた。

 ところが――かの折りと同じ、奈良茶茶屋主人で御座ったが――、

「……さてもさても……遠い昔のこと……殊に日々往来も多く御座いますればこそ……失礼ながら……かくも御立派なる御殿様御姿……これ、御見覚えも致いて御座らねど……はてさて……そのようなこと、御座いましたかのぅ……」

と、茶屋主人、大いに驚いて御座った由。

 

 

 先祖傳來の封筐の事

 

 予親友なる萬年(まんねん)某の語りけるは、同人家に先祖より傳りし一ツの封筐(ふうきやう)あり。上は包を解き見しに、子孫窮迫の時披之(これひらく)べしとあり。其頃萬年至て危窮なりしかば、かゝる時先祖の惠みを殘し給ふ難有さよ、いざ開封なして其妙計に隨んと、右箱の封尚又(なほまた)切解(きりとき)て其内を見しに、何もなくて一通の書面あり。是を披き見れば、三代程以前の租の自筆にて認置し、先祖子孫を惠みて、危急の時開きて用を辨じ候やうの書添にて、黄金一枚此箱の中にありしを、我等危急の入用ありて遣ひ候て先租の高恩に浴しぬ、何卒其基を償ひ置んと、生涯心掛しが其時節なし、子孫是を忘れず先祖を思ひて償ひ置べしと認し故、大きに笑ひて又金一枚の借用の増せし心せしと笑ひけるとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:根岸のごく親しい朋輩の滑稽なる体験談で連関。もろに落語である。

・「萬年某」底本の鈴木氏注に、『万年氏は六家あり、そのいずれか明らかではないが』とされながら、萬年頼行(享保161731)年~天明7(1787)年)なる人物を同定候補とされている。『宝暦八年御勘定、十三年評定所留役、明和七年代官、天明七年任地備中国倉敷で没』すとあり、根岸より6歳上であるが、この経歴は根岸と大きくダブっているからである。根岸は全く同じ宝暦8(1758)年に同じ御勘定となり、やはり全く同年の宝暦131763)年に同職である評定所留役に就任、明和5(1768)年御勘定組頭となっている。萬年頼行が代官となるまで実に12年近くに渡って同僚として勤務している。特に評定所留役(現在の最高裁判所予審判事相当)は定員8名であるから、極めて親しく接し得る人物と考えてよい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 先祖伝来の封ぜられた筐の事

 

 私の親友で御座る萬年某が語った話。

 同人萬年家には、先祖より代々伝わって御座る一つの封印された筐(こばこ)が御座った。

 上(うわ)包みを解いて見ると、その筐の上には墨痕黒々と、

『――子孫窮迫ノ時之開クベシ――』

と、認めて御座った。

 さて、その頃の我が友萬年某、至って危機的な貧窮に陥って御座ったればこそ、

「……このような時こそ御先祖様の御恵みを残し置き下されしことの有り難さよ! さあ! 封印を解いて、御先祖様の絶妙なる取り計らい方に従わんとす!」

と、上包みを取り、更に厳重に施された筐の封印をも切り解き、

――カタリ――

と、徐ろに蓋をとって中を見る……と……

……空……である……

……いや……唯、一通の書面が入っておる……

……つま披らいて見た……

……と……

……これ、萬年某三代程前の御先祖様が自筆にて認(したた)めたもので御座った……

……それには、かく書かれて御座った……

 ――――――

 御先祖樣儀將來ガ子孫ヘノ惠ミトテ

 危急ノ時開キテ要ニ用フルベシトノ

 書キ添ヘト共ニ金貨大判一枚此ノ箱

 ノ中ニアリシヲ我等事危急ノ入用ア

 ラバコソ使ヒ候フテ

 御先祖樣高恩ニ浴シヌ何卒何時カハ

 カノ元通リノ金一枚ヲ償ヒテ筐中ニ

 復セント生涯心掛ケシガ其ノ時節ハ

 遂ニ訪ルルコトコレ無シ 子孫ハ是

 ノ

 御先祖樣御高恩ノ儀忘ルルコト無ク

 御先祖樣御遺志ノ儀受ケ繼ギテ急度

 償ヒテ置クベシ

 ――――――

萬年某、

「……いやはや、大きに笑(わろ)うたわ……さてもまた、却って金一枚分、借金が増したよな気も致いたもんじゃい!……」

と笑いながら語って御座った。

 

 

 鈴森八幡烏石の事

 

 鈴森八幡の境内に烏石(からすいし)といふ石ありて碑銘あり。書家烏石(うせき)といへる者の建し石也。右烏石(うせき)といへるは、元來親はスサキリとて下職(げしよく)の商家也しが、幼より手跡を出精し、三ケ年の間廣澤(くわうたく)、文山(ぶんざん)の筆意を追ひ、古法帖(こはふでふ)に心をよせて終に能書の譽れありしが、果は京都に遊びて親鸞上人大師號の事に携りて、敕勘の罪人になりし。末年許免ありし。右烏石生れ得て事を好むの人也しが、鷹石(たかいし)とて麻布古川町に久しく有りし石を調ひて、己(をのれ)が名を弘(ひろ)め尊せん爲、鈴が森へ同志の事を好む人と示し合て立碑なしける也。からす石といふ事を知て鷹石の事をしらず。右鷹石は山崎與次といへる町人の數寄屋(すきや)庭にありし石のよし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に連関を感じさせない。根岸は明らかに松下烏石の仕儀を売名行為として捉えており、この奇石について、せめてその本来の由来を正しく記しておこうという立場をここで示しているように私には感じられるので、そのようなバイアスを掛けた現代語訳にしてある。

・「鈴森八幡」現在の大田区大森北に鎮座する磐井神社。ウィキの「磐井神社」には、『この神社の創建年代等については不詳であるが、敏達天皇の代に創建されたと伝えられ、延喜式にも記載された神社で、武蔵国における総社八幡宮であったとされる。江戸時代には、将軍家の帰依を得、「鈴ヶ森八幡(宮)」とも称された。なお、鈴ヶ森という地名はこの神社に伝わる「鈴石」(鈴のような音色のする石)によるものとされる』とある。「江戸名所図会」によると、鈴石は延暦年間(782806)に当時の武蔵国国司石川氏が奉納した神功皇后三韓征伐所縁の石とあり、更に一説に本物の鈴石は盗賊に盗まれたともある。

・「烏石(からすいし)」「江戸名所図会」に(筑摩文庫版を元としつつ正字に直し、篆書碑文部分は写真版と底本鈴木氏注にあるものを参考にして字間を設け、書体を変えてみた)、

 烏石 社地の左の方にあり。四、五尺ばかりの石にして、面に黑漆(こくしつ)をもつて画(ゑが)くがごとく、天然に烏の形を顯(あらは)せり。石の左の肩に、南郭先生の銘あり。「烏石葛辰(うかつかつしん)これを鐫(せん)す」と記せり。葛辰みづから烏石と號するも、この石を愛せしより發(おこ)るといふ。「江戸砂子」にいふ、『この石、舊へ麻布の古川町より三田の方へ行くところの三辻にありしを、後、このところへ遷(うつ)す』とあり。書は古篆なり。

 匪日匪星 烏石天墜 不黄維烏 書傑所致 取而祠之

 穀城是視 服元喬銘爲     烏石山人

 額「烏石」、阿野公繩(あのきんつな)卿筆、鳥居の額「烏石祠」、吉田二位兼隆卿筆。

「烏石葛辰」は松下烏石の、「服元喬」は服部南郭の漢文風雅号。

MINATO氏のHP内にある「名所・旧跡」中の「磐井神社」のページの「烏石」(からすいし)の項には『山の形をした自然石の上部に、墨で書いたような烏の形をした模様があるところからこの名が付けられた。もとは鷹石と呼ばれて麻布にあったが、松下烏石という人が移した。松下烏石の宣伝もあって有名になり、特に江戸文人に好まれて鑑賞のために訪れる者が後を絶たなかったという。この石も大田区の文化財で、現在は鈴石ともに社務所に保管されている』とある(リンク先で現在の「烏石」の画像を見られる。鈴石共に現存するが非公開の由)。また鈴木靖三氏のHP内の「東海七福神と大森海岸付近」の「磐井神社」には、江戸中期に成立した「武蔵志料」の記載から引用し、『「麻布古河ノ鷹石モ、葛山鳥石取之、鈴森八幡宮ニ納メ、名ヲ改メ烏石卜号ル』とあるとし、『この石は、もと鷹石とよばれて麻布の古川辺にあったものを、松下烏石(葛辰)が当社に移し、名を改めて自分の号をとり、烏石と称した』という情報を提示、『さらに服部南郭に依頼して、この石の側面に銘文を刻みこみ、小祠を建ててこれを祀り宣伝したことに対し、松下烏石の売名行為とする批判もあ』ったとする。『しかし松下烏石の文人としての力倆もさることながら、この石は次第に有名になり、文人たちに好まれ、鑑賞のため当社を訪ずれる者が、あとを絶たなかった』との由、記載がある。更に、個人のHP(ハンドル・ネーム不詳)「東京の地名由来 東京23区辞典」の「港区の地名の由来」に、

 《引用開始》

■鷹石 磐井神社に奉納

 3丁目8番の辺り、善福寺門前東町西南角に、江戸時代、植木屋の四郎左衛門という者が居て、伊豆から取り寄せた石面が鷹の形に見える石を店先に置いたところ、松下君岳という者がきて石を所望し、元文六年(1741)2月に鈴ヶ森八幡へ奉納した。君岳は烏石山人と称した書家で、この石に銘を彫った。石が鷹の形をしていたので、この辺りを里俗に鷹石といったと『文政町方書上』にある。

 鈴ヶ森八幡とは大田区の磐井神社だ。この神社は貞観元年(859)の創建で、江戸期には将軍も参詣し、鷹石が寄進されたことにより江戸の文人墨客にもてはやされた。この神社には他に鈴ヶ森の由来になる鈴石、狸筆塚などもあり、境内には万葉集にもよまれた笠島弁天もある。

 《引用終了》

ともある。

・「烏石(うせき)」松下烏石(元禄121699)年~安永8年(1779)年)。書家。本姓は葛山氏、烏石は号。荻生徂徠の流れを受ける服部南郭門下の儒学者であったが、本話及び次話を見るように無頼放蕩を繰り返した、放埒にして問題のある性格の持ち主ではあった。

・「スサキリ」「スサ」は苆(当該漢字は国字)・寸莎などと書き、「壁苆」(かべすさ)とか「つた」(江戸方言)などとも言った。壁土の原料に混ぜて、塗装後の乾燥による罅割れ等を防ぐためのツナギとするもの。よく知られるように荒壁には藁を用いた(上塗り用にはもっと目が細かく薄い麻または紙などを用いた)が、そうした壁用の藁スサを切る下賤の生業(なりわい)の謂いか。但し、底本の鈴木氏注には、『烏石の親は松下庄助という軽い御家人で、烏石はその次男であると、細井九皐の「墨直私言」にある由。』と附言されている。この細井九皐(きゅうこう 宝永8(1711)年~天明2(1782)年)は書家。姓からお分かりのように、本話に登場する細井広沢(次注参照)の長男である。それにしても何故、このように卑賤の誤伝が創られたのか。それもまた、烏石の一筋繩では行かぬ屈折した生涯が垣間見える気がする。

・「廣澤」細井広沢(こうたく 万治元(1658)年~享保201736)年)。儒学者にして書家・篆刻家。ウィキの「細井広沢」によれば、『赤穂四十七士の1人堀部武庸と昵懇で吉良邸討ち入りを支援した人物として知られる』。『博学をもって元禄前期に柳沢吉保に200石で召抱えられた。また剣術を堀内正春に学び、この堀内道場で師範代の堀部武庸と親しくなった。元禄赤穂事件でも堀部武庸を通じて赤穂一党に協力し、討ち入り口述書の添削』も行い、『吉良邸討ち入り計画にかなり深い協力をしており、武庸からの信頼の厚さが伺える』とある。この赤穂『事件の間の元禄15年(1702年)に柳沢家を放逐された。広沢が幕府側用人松平輝貞(高崎藩主)と揉め事を抱えていた友人の弁護のために代わりに抗議した結果、輝貞の不興を買い、広沢を放逐せよとしつこく柳沢家に圧力をかけるようになり、吉保がこの圧力に屈したというのが放逐の原因である。しかし、吉保は広沢の学識を惜しんで、浪人後も広沢に毎年50両を送ってその後も関係も持ち続けたといわれる』。以下、「書・篆刻」の項(記号の一部を変更した)。『広沢は書道に多大な貢献をしている。書に関する著述には「観鵞百譚」「紫微字様』」「撥蹬真詮」など多数。筆譜に「思胎斎管城二譜」がある』。『また日本篆刻の先駆とされる初期江戸派のひとりである。蘭谷元定や松浦静軒などに学び、明の唐寅や一元に師法し、羅公権の「秋間戯銕」などから独学した。また榊原篁洲や池永一峰・今井順斎らとの交流で互いに研鑽した。とりわけ池永一峰とともに正しい篆文の形を世に知らしめようと「篆体異同歌」を著した。また法帖の拓打について新しく正面刷りの方法を考案して「太極帖」を刻している。広沢と子の細井九皋[やぶちゃん注:「皐」の別字。こちらが正しいようである。]の印を集めた印譜「奇勝堂印譜」があり日本における文人篆刻の嚆矢とされ』、門弟には本「耳嚢 卷之三」の、先行する「生れ得て惡業なす者の事」に登場する関思恭や、本邦文人画の先駆者にして博物学的才人であった柳沢淇園(きえん)などがいた、とある。

・「文山」佐々木文山(ぶんざん 万治2(1659)年~享保201735)年)。讃岐高松藩お抱えの書家。唐様や朝鮮系の書体を得意とし、江戸に住んで俳人榎本其角らと交流、風流人としても知られた(以上は講談社刊「日本人名大辞典」の記載を参照した)。底本の鈴木氏には、『酒を好み、酔って筆を揮うときは一段とよかった』ともある。

・「古法帖」「法帖」は書道に於いて手本や鑑賞用に先人の筆跡を、紙に写して石に刻んだものを石摺(いしずり)にした折本のこと。後に碑文拓本を折本にしたものをも言うようになるが、ここではそうして作られた通常の中国の古書蹟の謂いであろう。

・「親鸞上人大師號の事に携りて、敕勘の罪人になりし」この事件の首謀者格が松下烏石であった。烏石は晩年に京都に移ってから西本願寺門跡賓客となったが、丁度その時期の宝暦111761)年が親鸞五百回忌に当たっていた。それを受けて、親鸞に対し朝廷から大師号を授けて戴けるよう、東西両本願寺が朝廷に願い出ていた(この陳情自体は宝暦4(1754)年より始まっていた。結局、この申請は却下され、親鸞に「見真大師」(けんしんだいし)の諡(おくりな)が追贈されたのは明治9(1876)年であった)が、烏石は中山栄親(なるちか)・土御門泰邦・園基衡(もとひら)・高辻家長らの公家と謀り、西本願寺及びその関係者に対して、金を出せば大師号宣下が可能になるという話を持ち込み、多額の出資をさせた。ところがそれが虚偽であり、烏石が当該出資金を着服していたことが暴露告発されるに及び、上記公家連中が蟄居させられた。これが本文に言う「敕勘」事件である。烏石の処分は不明とされているが、ここで根岸が「末年許免ありし」(後年になって赦免された)とあるのは貴重な発言である。なお、この一件に関わって、「卷之一」の「烏丸光榮入道卜山の事」の私の考察注も是非お読み頂きたい。

・「勅勘」底本の鈴木氏も注で述べておられるが、貴族どころか「下職」出自の一介の奇人書家である烏石に、勅勘とはおかしな謂いではある。

・「麻布古川町」現在の南麻布一丁目の一部の一区画にだけ存在した小さな町。参照した Kasumi Miyamura 氏の「麻布再見」の「麻布古川町」に『古くは麻布本村の一部であったが、元禄111698)年に白銀御殿用地として幕府に召し上げられたため、三田村のなかの古川沿いに代地を受けたのが始まり。古川は元禄121699)年の改修工事後は新堀と呼ばれるようになったが、町名は古くからの川の名を採り麻布古川町とした。隣には三田古川町があった』とあり、現『港区立東町小学校の向かいの一角あたりか』と同定地を示されている。江戸切絵図と現在の地図を比較して見ても、この同定は正しい。

・「山崎與次」不詳。――これ、まさか、近松門左衛門の世話物「山崎与次兵衛寿の門松」(やまざきよじべえねびきのかどまつ)で江戸で一旗挙げた山崎与次兵衛じゃあ、あるめえな?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鈴ヶ森八幡烏石の事

 

 鈴ヶ森八幡宮の境内に烏石(からすいし)という石があり、碑銘も彫られて御座る。

 これは書家の烏石(うせき)という者が建てた石である。

 この烏石という男、元来、親はスサキリを生業(なりわい)とする、下賤の商家の出であったが、幼き頃より、その手跡の巧みなるに、盛んなる精進を致いて、三年ほど、名書家で御座った細井広沢や佐々木文山の門を叩いてその筆法筆想を盗み取り、古き中国の法帖(ほうじょう)に執心致いて、遂には能書家の誉れを勝ち取った男である。

 が、その果ては、京都に遊んだ折りに、親鸞上人大師号に関わるかの贈収賄の一件に関わることとなり、遂には勅勘の罪人となった――後年になって、その罪は免ぜられてはおるが――。

 さて、かくの如く、この烏石、生来、何かと『ことを好む』――天然自然傍若無人生涯無頼の――所謂、とことん斜に構えた風流人であった。

 麻布古川町に長らく転がって御座った奇石を安く買い叩いて手に入れると、己れの名を世間に広めんがためにのみ、同好の好事家どもを言い包めては示し合わせ、やおら、この石を鈴ヶ森に持ち込んで――図々しくも己(おの)が名そのままに『烏石(うせき)』と名付けて――立碑したのである。

 世間では「烏石」と申す、このけばけばしき立て看板の如き名ばかりが知られて御座るが、これが実は本来、「鷹石」と呼ばれて御座った古き由緒ある奇石で御座ったことを知るものは、これ、御座らぬ。

 何でも、この鷹石は、その昔の山崎与次というた、誠の通人として知られし町人の、茶室の庭に配されて御座った名石であった由、私は聞いて御座る。

 

 

 町家の者其利を求る工夫の事

 

 右烏石上京せんと思ひし時、日本橋須原屋(すはらや)にて金百兩借りてけるが、元來放蕩不覊(ふき)の者なれば右金子返すべきあてもなかりし故、流石に面目なかりけるか、須原屋へ絶て來らざりしを、須原屋さるものにて、烏石が住家を尋て呼取りしに、右の金子の事いひていなみけるを、聊の金子に古友をかへり見べきやとて、無理に請じて暫く養ひ遺しに、其内同人の書記を以て開板(かいはん)なし、藏板として利德を得ると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:奇人書家松下烏石エピソードで直連関。奇人変人の上をゆく、商魂である。

・「烏石」松下烏石。前項注参照。

・「上京せん」烏石が晩年、京都に移って西本願寺門跡賓客となった、明和年間(17641772)のことか。前項注参照。但し、親鸞大師号事件以降に烏石が帰府した事蹟は見出せないので、現代語訳では玉虫色に誤魔化した。

・「須原屋」須原屋市兵衛(すはらやいちべえ ?~文化8(1811)年)本屋。家号は申椒堂(しんしょうどう)。須原屋茂兵衛分家として日本橋通二丁目に開業。平賀源内・大田南畝らの著作、杉田玄白らの「解体新書」等の蘭学書や武鑑を刊行して全国的に知られた出版元であった。寛政4(1792)年の幕府の対外政策を難じた林子平筆「三国通覧図説」刊行時は、発禁と共に重過料の処分を受けている(以上は主に講談社刊「日本人名大辞典」の記載等を参考にした)。松下烏石は京都に移り住んでからも「消間印譜」その他多数の法帖を刊行しているが、それらの版元が須原屋であったか。

・「金百兩」1両を10万円と換算しても1000万円。当時の日常的価値からすると、もっと高い。

・「書記」出版元の意。

・「開板」開版とも。新しく版木を彫って本を印刷すること。上梓。

・「藏板」蔵版とも。出版物の版木や紙型を所蔵すること。現在で言う独占出版のこと。

・「かへり見べきや」「かへり見捨つるべきや」の意の反語。一種の対偶法か。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 町家の者利を求めんがための奇略の事

 

 前の話に出た、かの烏石が、いよいよ腹蔵ありて上京せんと思い立ったが折り、彼、手元不如意であったがため、前々より法帖出版なんどにて何度も世話になって御座った日本橋の出版元須原屋市兵衛から金百両を借りた。

 しかし、元来が放蕩不羈天然自在勝手気儘なる輩で御座ったれば、かの金子も返す当ても、これ、全くなく――流石の木石の如き鉄面皮(おたんちん)烏石も合わせる顔がなかったのであろう――その後、須原屋へは絶えて足を向くること、これ、御座らなんだ。

 しかし、その須原屋は――もっと大物で御座った。

 わざわざ京に上ると、烏石の家を探し出し、

「――困窮の極みとお見受け申す――一つ、一緒に江戸へ戻り、我が家に身を落ち着けなさるがよい。」

と言うた。

 余りの意外さに、流石の厚顔無恥木石無情の烏石とても、素直にかの大枚の借金返済の不首尾不届きを詫びると、

「……不誠実なる我らに、これ、過ぎたる恩幸なればこそ……」

と、須原屋の申し出を固辞致いた。ところが、

「――烏石殿……かくも微々たる金子に――古き友を、これ、見捨てる須原屋市兵衛と――お思いか?!」

と言うや、須原屋、飽くまで烏石に己(おの)が提案を無理矢理受け入れさせると、そのまま暫くの間、彼の生活が安定するまでの面倒を見て御座った。

 その後、須原屋、元来が文人に引く手数多の流行書家で御座った烏石を、自身版元の専属作家となし、夥しい数の著作を出版の上、尚且つ烏石の版権を悉く独占、それこそ――百両がはした金に見える――想像を絶した利潤を得た、とのことで御座る。

 

 

 古へは武邊別段の事

 

 水野左近將監(しやうげん)の家曾祖父とやらん、至て武邊の人なりしが、茶事(ちやじ)を好みけるを、同志の人打寄て水野をこまらせなんとて、茶に相招きいづれも先へ集りてけるが、左近將監跡より來りて、例の通帶刀をとりにじり上りより數寄屋(すきや)へ入りしに、先座(せんざ)の客はいづれも帶劍にて左近將監がやうを見居たりければ、左近將監懷中より種が嶋の小筒を出して、火繩に火を付て座の側に置ける由。昔はかゝる出會にて有りしと也。

 

○前項連関:特に連関という感じではないが、味で粋な計らい(しかししっかり将来の利潤を計算している企略なのであるが)から、人の上を行くニクい仕草で、何だか連関している。この話、すっごい好き! 格好ええ~なあ!

・「水野左近將監の家曾祖父」「水野左近將監」は水野忠鼎(ただかね 延享元(1744)年~文政元(1818)年)肥前唐津藩の第2代藩主。忠元系水野家9代。従五位下左近将監。以下、参照したウィキの「水野忠鼎」から引用する。『延享元年(1744年)、安芸広島藩主・浅野宗恒の次男として生まれる。安永4年(1775年)9月23日、先代藩主・忠任が隠居したため、その養子として後を継いだ。幕府では奏者番を勤め、藩政においては二本松義廉を登用して財政改革を行なったが、天明の大飢饉に見舞われて失敗に終わった。享和元年(1801年)に藩校・経誼館を設置している』。彼の曽祖父は水野忠輝(ただてる 元禄4(1691)年~元文2(1737)年)。三河国岡崎藩の第5代藩主。忠元系水野家6代。以下、参照したウィキの「水野忠輝」から引用する。『水野忠之の次男』で、『宝永元年(1704年)、将軍・徳川綱吉に初目見えし、従五位下右衛門大夫に任官。正徳2年(1712年)に右衛門佐に改める。享保14年(1729年)には大監物に改め、翌享保15年(1730年)に父・忠之の隠居に伴って藩主に就任した。享保18年(1733年)には領内治世を賞せされた。元文2年(1737年)岡崎にて死去。後を長男・忠辰が継いだ』とある。底本の鈴木氏注に『領内の政事よろしき旨をもって賞せられた』とある、但し、鈴木氏は続けて、『この話の主人公としては、忠輝の父忠之』『の方がふさわしい感じがする。』と記されている。水野忠之(ただゆき 寛文9(1669)年~享保161731)年)は「水野和泉守」「卷之一」の「水野家士岩崎彦右衞門が事」や本巻の冒頭部の「水野和泉守經濟奇談の事」で既出。江戸幕府老中。三河国岡崎藩第4代藩主であった譜代大名。元禄101697)年に御使番に列し、元禄111698)年4月に日光目付、同年9月には日光普請奉行、元禄121699)年、実兄岡崎藩主水野忠盈(ただみつ)養子となって家督を相続した(忠之は四男)。同年10月、従五位下、大監物に叙任している。以下、主に元禄赤穂事件絡みの部分は、参照したウィキの「水野忠之」からそのまま引用する。『元禄141701)年3月14日に赤穂藩主浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。』『また翌年1215日、赤穂義士47士が吉良の首をあげて幕府に出頭した後には、そのうち間十次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・間瀬孫九郎・茅野和助・横川勘平・三村次郎左衛門・神崎与五郎9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。』『大石良雄をあずかった細川綱利(熊本藩主54万石)に倣って水野も義士達をよくもてなした。しかし細川は義士達が細川邸に入った後、すぐさま自ら出てきて大石達と会見したのに対して、水野は幕府をはばかってか、21日になってようやく義士達と会見している。決して水野家の義士達へのもてなしが細川家に劣ったわけではないが、水野は細川と比べるとやや熱狂ぶりが少なく、比較的冷静な人物だったのかもしれない。もちろん会見では水野も義士達に賞賛の言葉を送っている。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って』9人の義士を切腹させている。その後は、奏者番・若年寄・京都所司代を歴任、京都所司代就任とともに従四位下侍従和泉守に昇進、享保2(1717)年『に財政をあずかる勝手掛老中となり、将軍徳川吉宗の享保の改革を支え』、享保151730)年に老中を辞している。

・「左近將監跡より來りて」ここは「左近將監」ではおかしい。曽祖父の水野忠輝や鈴木氏の言う水野忠之であるなら「大監物」でなくてはならない。現代語訳は水野忠鼎とはっきり区別するためにそう直してみた。

・「種が嶋の小筒」「小筒」は弾丸の重量が三匁半(約13g)程度の火縄銃を指す。ただ懐から出しているので、これは猟銃タイプの小筒ではなく拳銃様の短筒である。拳銃も本邦では火縄銃伝来直後から国産が作られていた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古えの武辺これまた格段にぶっ飛んでいる事

 

 水野左近将監(しょうげん)忠鼎(ただかね)殿の曾祖父の逸話であるらしい。

 この御仁、至って武辺勇猛なるお方で御座ったが、同時にまた、茶事(ちゃじ)をもお好みになった風流人でも御座った由。

 ある時、彼の朋輩らがうち集うて、

「一つ、水野を困らせてみようではないか。」

と相談一決、水野大監物殿を茶席に招いておいて、彼らは皆、わざと早々に茶室に入って御座った。

 そこへ大監物殿、後から――とはいうものの時刻通りに――ゆるりと現れ、茶事作法に従(したご)うて帯刀をば外し、にじり口より茶室へ入った。

 ……と……

 先座せる一同は――これが皆、腰に刀剣二領挿しのまま、彼をじろりとねめつけて御座った……

 ……ところが……

 大監物殿は――これがまた、表情一つ変えることものう、徐ろに――懐から種子島の短筒を引き出だいて――「フッ!」――とやおら火繩に火を付け――己が着座致いたその傍らに、トン!――と置いた……

 ……昔は、如何なる折りにも、かかる心構えをなして御座った、という何やらん、うきうきしてくる話では御座ろう?

 

 

 吉兆前證の事

 

 當時昇身して諸大夫(しよだいぶ)席勤たる人、其以前布衣(ほい)也し日比(ひごろ)、上野へ至りて歸る比、下谷廣小路にて葬禮に行合しに、大風にて棺上に懸し白無垢、風に飜飛(はんぴ)して彼人の乘輿の上へ落けるに、葬禮の輩は大きに恐れ一言の言葉にも及ず、足を早めて逝去りぬ。駕脇の家來大に驚き、憎き者哉(かな)と憤り追欠(おひかけ)んとせしに、其主人是を制して、右白無垢を途中に捨歸らんやうもなければ、我宿に持歸ければ、家内の者忌はしきやう申罵りけるを、是は左にあらず、當年は果して諸大夫の御役にも進みなんとて、殊の外悦び祝しけるが、果して其年白無垢を着て諸大夫の御役にすゝみけると也。物は吉瑞も有るものかや。水谷信濃守といへる人、水の縁にもよるや、御役替或は吉事の時はかならず雨降ける。信濃守御留守居に成し時も、大雨車軸をながし、當但馬守御留守居に成し頃も又同時なりしに、前日大雨車軸をながしけるに、門前の小溝にて門番すばしりといへる魚をとり得て奧へ差出しけるに、目出度事也とて池へ放しいわゐ悦びけるが、奉書到來して其翌日御留守居被仰付けると也

 

○前項連関:特に連関を感じさせない。文末の句点なしはママ。

・「吉兆前證」よい前兆の証し。

・「諸大夫」五位。元来は律令制下の官位で四位・五位の地下人(じげにん)又は四位までしか昇進出来ない低い家柄の官人を指した。所謂、平安期の受領(ずりょう)階級(名前だけで現地に赴かない高位の遙任国守に対する実務国守階級)や実務官人としての武士もこれに属していた(その下に家来としての一般武士階級も勿論あった)。これが近世以降、五位という官位から、公家にあっては親王家や摂関家などの家司(けいし)が、また武家にあってはこの官位を受けた大名や旗本が、この職名で呼ばれた(以上はウィキの「諸大夫」を参照した)。

・「布衣」六位。布衣は近世、無紋の狩衣を指したが、同時に六位以下及び御目見以上の者が着用したことから、その身分の者を言うようになった。

・「上野」寛永寺。

・「下谷廣小路」現在の台頭区にある上野中央通り。寛永寺門前で火災の火除け地として広げられていた小路で、古くはここが真の下谷の地であった。 

・「水谷信濃守」水谷勝比(かつとも 元禄2(1689)年~明和8(1771)年)。底本の鈴木氏注に、『享保五年家をつぐ。千四百石。十四年堺奉行、従五位下信濃守。御普請奉行。御旗奉行を経て、宝暦九年御留守居にすすみ、明和八年致仕』とあるから、この話柄は宝暦9(1759)年のことであることが分かる。

・「御留守居」は江戸幕府の職名。老中支配に属し、大奥警備・通行手形管理・将軍不在時の江戸城の保守に当たった。旗本の最高の職であったが、将軍の江戸城外への外遊の減少と幕府機構内整備による権限委譲によって有名無実となり、元禄年間以後には長勤を尽くした旗本に対する名誉職となっていた(以上はフレッシュ・アイペディアの「留守居」を参照した)。

・「但馬守」水谷勝比の子である水谷勝富(かつとみ 正徳5(1715)年~寛政3(1791)年)。底本の鈴木氏注に、『明和五年従五位下但馬守。安永七年一橋家家老、天明五年御留守居、八年御旗奉行』とあるから、この話柄は天明9(1789)年のことであることが分かる。但し、天明9年は125日に寛政に改元されているので、根岸が厳密な元号表記をしているとすれば、この出来事は天明9年1月1日から24日までの間に限定出来ることになるが、流石にそこまでは考えて書いてはいないであろう(ただ、補任が正月に行われることはあってもおかしくはない気がする。識者の御教授を乞うものである)。

・「すばしり」鰡(ぼら)の幼魚。ボラ目ボラ科ボラ Mugil cephalus。ボラは出世魚で、例えば関東方言では、オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トドなどと変化する。底本の鈴木氏注では三年ものとするが、漁業関係者の記載では10㎝ほどの幼魚ともある。この順序は地方によって逆になったりするので、このまま鵜呑みにされては困る。

・「いわゐ」はママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 吉兆前証の事

 

 只今、出世なされて諸大夫席を勤めて御座るお方が、未だ布衣であられた時のことで御座る。

 ある日のこと、かのお方、上野寛永寺にお参りなされ、お帰りになられる途次、下谷広小路にて町人の葬列に行き遇(お)うた。と、その棺桶に掛けられて御座った白無垢が、突風に煽られて舞い上がり、こともあろうに、かのお方の乗れる輿の上に落ちた。

 葬列の者ども、吃驚仰天、魂(たま)も消え入らんばかりにうろたえ叫び、詫び事一つも致すも出来まいことか、皆々棺桶をがんらがらがら鳴らしながら、一目散に走り去ってしもうた。

 駕籠脇に控えて御座った家来、余りのことに驚き呆れ、

「おのれ! 憎(にっく)き不埒者めがッ!」

と憤り叫ぶや、かの者どもを追い駆けよう致いたところが、主人たるかの御仁、駕籠内よりこれを制して――かの白無垢、途中で捨てて行くという訳にも参らざれば――如何にも、いやそうな顔をして御座った家来の者に持たせ、我が家へと持ち帰って御座った。

 勿論、家内の者どもも口を揃えて、

「――忌まわしきことにて――」

と口々に申し、御主人がそれを持ち帰りになられたことを、あまりの不浄にてあればとて、御主人様のなさりようを、お恐れ乍らと、あからさまに咎めだてする者さえ、これ、御座った。

 ところが――かの御仁はといえば――これがまあ、至って平気の平左のこんこんちき、

「――いいや! そんな不吉なことにては、これ、御座らぬ!――当年は、果して我ら、諸大夫の御役に上らんこと、間違いなしじゃ!」

と喜色満面上機嫌にて御座られたという。

 そうして――果たしてその年の内に――白無垢を着て諸大夫の御役に上られたとのことで御座る。

 如何なる物――一見不浄と見ゆるものにても――吉なる瑞兆、これあるので御座ろうか。……

 

 同様のお話をもう一つ。

 

 水谷信濃守勝比殿というお方の話である。

 「水谷」なればこそ「水」の御縁が御座ったものか――御自身の御役替或いは吉事ある時には、これ、必ずや雨が降るという。

 信濃守殿が御留守居に目出度く就任された――未だ就任の御沙汰御座らぬ――その日の早朝にも、大雨が車軸を流すが如く降りしきった。

 加えて嗣子水谷但馬守勝富殿がやはり御留守居になられた頃にも――これは信濃守殿御留守居役御就任とほぼ同じ頃のことで御座ったと記憶して御座るが――やはり、未だ補任のこと、これ全く知らざる前日に、大雨、車軸を流して御座った。この時は、それに加え、その日の朝、どしゃぶりの雨のせいで、水野家門前の小溝が溢れ返って御座ったが、浸水を気にして見回っておった御屋敷門番が、「すばしり」といへる、何と、海の魚――これは何でも成長するに従(したご)うて名が変わる『出世魚』という魚の由――を捕まえて、奥へと差し上げた。

 ぴちぴち元気に跳ね回るすばしりを見た信濃守殿は、「――水谷家の大雨に出世魚とな?! これは! 何とまあ、目出度いことじゃ!――」

と、すぐに御屋敷の池へとお放ちになられ、大層なお悦びようで御座ったそうな。

 すると、その翌日、奉書到来致いて、目出度く御留守居役仰せつけられて御座ったとのことで御座る。

 

 

耳嚢 卷之三 注記及び現代語訳 copyright 2010 Yabtyan 完