耳嚢 卷之三 根岸鎭衞
注記及び現代語訳 copyright 2010 Yabtyan
[やぶちゃん注:底本は三一書房1970年刊の『日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞』の正字正仮名版を用いた。これは東北大学図書館蔵狩野文庫本で巻一~五の、日本芸林叢書本で巻六及び巻八~十の、尊経閣本で巻七の底本としたものである。
以下、底本書誌・作者根岸鎭衞の事蹟及び「耳嚢」の成立過程、更にテクスト化・注記・現代語訳の私の方針と凡例及びポリシー等については「卷之一」冒頭注を参照されたい。
底本の鈴木氏の解題によれば、「耳嚢」の執筆の着手は佐渡奉行在任中の天明5(1785)年頃に始まり、没する前年、文化11(1814)年迄の実に30年以上の長きに亙るが、鈴木氏はそれぞれの巻の日付の明白な記事から(以下、リンクがあるものは私の翻刻訳注の完成版)、
「卷之一」の下限は天明2(1782)年春まで
「卷之二」の下限は天明6(1786)年まで
「卷之三」は前2巻の補完(日付を附した記事がない)
(この間に、佐渡奉行から勘定奉行と、公務多忙による長い執筆中断を推定されている)
「卷之四」の下限は寛政8(1796)年夏まで(寛政7年の記事の方が多い)
「卷之五」の下限は寛政9(1797)年夏まで(寛政9年の記事が多いことから、前巻に続いて書かれたものと推定されている)
「卷之六」の下限は文化元(1804)年7月まで(但し、「卷之三」のように前2巻の補完的性格が強い)
「卷之七」の下限は文化3(1806)年夏まで(但し、享保頃まで遡った記事も有り、「卷之六」と同じ補完的性格を持つものと推定されている)
「卷之八」の下限は文化5(1808)年夏まで
「卷之九」の下限は文化6(1809)年夏まで
(ここで900話になったため鎭衞は擱筆としようと考えたが、「十卷千條」の宿願止みがたく、4~5年の空白期を置いて最終巻「卷之十」が書かれたものと推定されている)
「卷之十」の下限は死の前年文化11(1814)年6月まで
といった凡その区分を推定されておられる。【卷之三終了 2010年11月23日】]
目 次
卷之三
聊の事より奇怪を談じ初る事
人の詞によりて佛像流行出す事
神尾若狹守經濟手法の事
水野和泉守經濟奇談の事
丹波國高卒都婆村の事
貒といへる妖獸の事
窮借手段の事
不計の幸にて身を立し事
奇物を得て富し事
下賤の者は心ありて可召仕事
鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事
名によつて威嚴ありし事
高利を借すもの殘忍なる事
その國風謂れある事
目あかしといへる者の事
老僕盜賊を殺す事
強盜德にかたざる事
狂歌流行の事
無賴の者も自然と其首領に伏する事
人の貧富人作に及ざる事
佐州團三郎狸の事
天作其理を極し事
靈氣殘れるといふ事
精心にて家業盛なる事
前表なしとも難極事
神明淳直を基とし給ふ事
三峯山にて犬をかりる事
明德の祈禱其依る所ある事調事[やぶちゃん注:「調事」はママ。]
一旦盜賊の仲間に入りし者の咄の事
博徒の妻其氣性の事
深切の祈誓其しるしある事
上野清水の觀音額の事
御門主明德の事
生れ得て惡業なす者の事
玉石の事
樹木物によつて光耀ある事
利を量りて損をなせし事
守財の人手段別趣の事
本庄宿鳥居谷三右衞門が事
道灌歌の事
擬物志を失ひし事
音物に心得あるべき事
米良山奧人民の事
矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事
秋葉の魔火の事
其業其法にあらざれば事不調事
海上にいくじといふものゝ事
鴻巣をおろし危く害に逢し事
鳥類共物合ひを考る事
行脚の者異人の許に泊し事
熊野浦鯨突の事
任俠人心取別段の事
信心に寄りて危難を免し由の事
狐附奇異をかたりし事
大人の食味不尋常の事
其分限に應じ其言葉も尤なる事
阿倍川餠の事
安藤家踊りの事
天威自然の事
大坂殿守廻祿番頭格言の事
惡業その手段も一工夫ある事
金銀二論の事
風土氣性等一概に難極事
人の禁ずる事なすべからざる事
言語可愼事
戲れ事にも了簡あるべき事
時節ありて物事的中なす事
稽古堪能人心を感動せし事
老耄奇談の事
橘氏狂歌の事
賴母敷き家來の事
盲人吉兆を感通する事
夢兆なしとも難申事
未熟の射藝に狐の落し事
楓茸喰ふべからざる事
孝童自然に禍を免れし事
雷公は馬に乘り給ふといふ咄の事
精心にて出世をなせし事
年ふけても其業成就せずといふ事なき事
蛇を祭りし長持の事
明君儉素忘れ給はざる事
其職の上手心取格別成事
吉瑞の事に付示談の事
長崎諏訪明神の事
一向宗信者の事
門蹟衣鉢の事
太平の代に處して勤を苦む誤りの事
梶左兵衞が事
御中陰中人を殺害なせし者の事
武士道平日の事にも御吟味の事
狐獵師を歎し事
僞も實と思ひ實も僞と思わるゝ事
先格を守り給ふ御愼の事
酒宴の興も程有べき事
酒に命を捨し事
飢渇に望みて一飯を乞ひし事
先祖傳來の封筐の事
鈴森八幡烏石の事
町家の者其利を求る工夫の事
古へは武邊別段の事
吉兆前證の事
耳嚢 卷之三
聊の事より奇怪を談じ初る事
安永の初、本郷三念寺門前町に輕き御家人の宅の持佛堂の彌陀、自然と讀經なし給ふとて、信心の老若男女佛壇を拜し尊みけるが、段々其譯を糺(ただし)ぬれば、右持佛の後は糀(かうじ)屋の家境なるに、右境に蜂の巣を喰(くひ)て、子蜂ども爾々(じじ)と朝夕鳴(なり)しを聞て、與風(ふと)佛像の誦經(ずきやう)し給ふと言(いひ)罵りにして有りし由。皆々笑ひて三十日餘の夢を覺(さま)しけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:「卷之二」の最後「福を授る福を植るといふ事」が自力作善を戒める真宗坊主染みたぶっとびの稲荷神の説法であった。ここでは仏像が読経をするが、それは蜂の羽音であったという江戸の都市伝説(アーバン・レジェンド)で、トンデモ宗教絡みで連関すると言えなくはない。
・「初める」は「そめる」。
・「安永の初」安永年間は西暦1772年から1781年。「安永三年」西暦1774年。
・「本郷三念寺」三念寺という寺は文京区本郷二丁目に現存する。真言宗豊山派の寺院で御府内八十八箇所第三十四番札所である。本尊は薬師如来。油坂を登った水道歴史館及び水道局本郷給水所公苑の北の道を隔てた反対側にある(現在はコンクリート2階建)。但し、本文でお分かりの通り、これはこの寺の門前町での話で、直接関係はない。――更に全く関係ないが――遂に漱石の「心」の同日公開を終えたばかり私には――「こゝろ」フリークの私には――ここは驚愕の場所なのだ! ここはあの先生の下宿のすぐ近く、私が0座標と呼ぶ富坂下柳町交差点、その第4象限の、先生がKを出し抜いて御嬢さんを呉れろと奥さんにプロポーズした後の、あの――「いびつな圓」の――ど真中にあるのである!
・「持仏堂」「輕き御家人」とあるからには、これは住居内にあるただの仏間・仏壇の謂いである。
・「糀屋」糀(こうじ:米・麦・豆・糠などを蒸し、これに麹(こうじ)菌を繁殖させたもので酒・醤油・味噌などを製するのに用いる。)を製造する商人の店。それを卸売りしたり、またそれで自家で甘酒屋や味噌等を製造した商店もあった。
・「蜂」私はこれは膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属ニホンミツバチ Apis cerana japonica であろうと踏んでいる。因みに訳で用いた「…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………」という音は、勿論、私の好きな夢野久作の怪作「ドグラ・マグラ」冒頭から採った。自分が何者かも分からぬ主人公「私」は、直後にこの音を「蜜蜂の唸るやうな」と表現している。……今の私の左耳はずっとこの音がしている……。……そうか! 私の左耳には……阿弥陀さまが入洞なさって……御念仏を称えておられるので御座ったか?!
・「與風(ふと)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
ちょいとしたことから奇々怪々の噂話が始まるという事
安永の初め、本郷三念寺の門前町の軽き身分の御家人の家でのこと、何と――その家(や)の仏壇の阿弥陀仏が、自ずと念仏をお唱えになる――という専らの噂で、近隣の信心深い老若男女、これまた群れを成して、かの家の仏壇を拝みに押し寄せてきたのであった。
ところが、ある者が、これをよく調べてみたところが、この持仏の置かれた背後の壁の、丁度、裏側が隣り合った糀(こうじ)商いのお店(たな)との境になっていたのだが、その狭い隙間に、糀の甘みを嗅ぎつけてきたものか、蜂が群れて大きな巣を巣食うておったのであった。その巣の子蜂どもが、これまた朝な夕な、
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………
と絶えず羽音を立てて御座ったを聞いて、
――すわ! 仏像が読経なさって御座る!――
と早合点、愚かにも言い騒いでおったのじゃった、との由。
皆々して大笑い致いての、三十日許りの儚き夢をば、蜂の羽音にぱっと醒ました、ということで御座った。
*
人の詞によりて佛像流行出す事
寶暦の此(ころ)也し、是も本郷にての事成よし。加賀の大部屋中間とやらん、本郷六丁目の古鐵(ふるがね)店にて釋迦の古鐵佛を調ひ歸りて、部屋の内に餝(かざ)り水など手向(たむけ)て置しを傍輩の者見て、是は忌はしき佛なぶり成とて笑ひ叱りなどせしに、部屋頭なる著聞(ききつけ)て、是迄無之事也、早々辞し仕廻べしと言し故、彼中間詮方なく、捨んもいかゞと元の古鐵店へ持來りて、此佛を歸し候と申ければ、一旦商ひて其日か翌日にて候はゞ請取もしなん、日數過(すぎ)て返し候ては自餘(じよ)の例にも成候間難成由答ければ、彼中間聞て、あたへを戻し候樣にと申ならば其斷も尤也、價ひにも不及歸し候間、請取可申といひし故、何ゆへに左の給ふと尋ければ、彼中間時の拍子にやよりけん、此佛を調へ歸りて禮拜尊敬するに、兎角元の所へ返し候樣夢幻となくの給ふのうるさゝに歸す也と語りければ、左あらば置(おき)ぬべしとて請取しが、扨は作佛にてもあるべし、(俗家に置きて恐れあり)とて近所の菩提所へ納て始終を語りけるにぞ、寺僧も奇異の思ひをなし、一犬吠ゆればの譬(たとへ)に違ふ事なく、近隣是のみの沙汰と成て、暫しは右佛像への參詣群集をなしけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:出鱈目に乗せられる凡夫の哀しい信心と、同じ本郷(本郷の人はこの手の話に乗りやすかった?)連関。私はこの話、読み終えた後――この話が実は前半のような経緯ででっち上げに過ぎないということがバレて、この都市伝説が出来るわけだから、そのバレるのは如何なるシーンであったか――が気になるのである。言わば、それがこの都市伝説の「事実」であり、この話柄全体を更に真実らしく強化するものだからでもある。例えば、最後に登場する寺僧が、でっち上げに更に尾鰭鯱鉾がついたみたような金仏への縁起話をさも有り難そうに語っているのを、例の中間の朋輩が参衆に混じって聴いているが、その金仏をよく見ると例の大部屋にあった奴と気付き、大笑いしながら大衆の面前で金仏を指差して事実を暴露するといったシーンを……いや……と、その朋輩中間を、黙った周囲の皆んながよってたかって嚢叩きにし、神田川に簀巻きにして投げ入れる、という落ちであっても、構わないのであるが……。
・「寶暦の此」宝暦年間は西暦1751年から1764年。
・「加賀の大部屋中間」加賀金沢藩前田家上屋敷は現在の本郷七丁目の東京大学本郷キャンパスの殆んどの部分を占めていた(北の現在の農学部のある場所は水戸藩中屋敷)。「大部屋中間」の「大部屋」は大名屋敷で格の低い中間や小者(こもの)、火消し人足などが集団で寝起きした部屋を言う。足軽と小者の間に位置する中間は多くの場合、渡り中間(屋敷を渡り歩く専門の奉公人)が多く、脇差一本が許され、大名行列の奴のイメージが知られるのだが、年季契約で、百姓の次男坊以下が口入れ屋を通じて臨時雇いされたりし、事実上の下男と変わらない連中も多くいた。ここはそうした最下級の中間である。
・「本郷六丁目」現在の6丁目は加賀金沢藩前田家上屋敷の前の本郷通りを隔てた北西の地域を言うが、江戸切絵図を見るとここ一帯は御先手組及び阿部伊予守屋敷となっている。沿道に小さな出店でもあったものか。
・「古鐵店」金属製の古物や使い古し・破損器物を買い入れる商人。金物の古物商。
・「佛なぶり」この「なぶり」は「嬲(なぶ)る」で、弄ぶ、いじめるの意。恐らく『仏像なんぞ辛気臭せえ!』という意味合いで軽く言っているものと思われるが、自己卑下のように、凡夫にして救い難い下賤の我等大部屋中間の部屋(ここは所謂、博奕の賭場として、何処かの今の世界と同じく違法な賭博の温床ともなっていた)に『御釈迦様ったあ、罰当たりも甚だしい! 勝機が逃げる!』というニュアンスも含んでいよう。
・「自餘」その他。この外。
・「時の拍子にやよりけん」ちょっとした言葉の弾みで、ぐらいの意味であるが、それでは面白くないので、現代語訳では標題にも合わせて「叱責された不快もあったか、口から出任せ」と意訳してみた。
・「一犬吠ゆれば」「一犬虚に吠ゆれば萬犬(ばんけん)實を傳ふ」。 たった一人のいい加減な発言であっても、時に世間の多くの人がそれを本当のことと安易に信じて広めてしまうことがある、という譬え。「一犬形に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」とも。後漢の王符の政治批判論「潜夫論」にある「賢難」の「諺曰、一犬吠形、百犬吠聲。世之疾、此固久矣哉。」(諺に曰く、一犬形に吠ゆれば、百犬聲に吠ゆ、と。世の疾(しつ)、此れ固より久しきかな。)による。
■やぶちゃん現代語訳
人の口から出任せでさる仏像の大流行りする事
宝暦の頃の話で、これも先話を同じ本郷にてのことであった由。
加賀藩の大部屋中間が、本郷六丁目の古鉄(ふるがね)を扱う古物商から、鉄製の古びた釈迦如来の仏像を買って帰って大部屋の隅に飾り、閼伽(あか)を手向けるなんどして置いておいたところが、朋輩の一人がこれを見つけ、
「我等下賤の大部屋に仏を飾るたあ、笑止千万!」
と苦笑いしながら、
「辛気臭え!」
と怒鳴りつけた。それを聞きつけた部屋頭も、これを見つけて、
「こともあろうに我等が下衆(げす)の大部屋に仏像を置いた例(ためし)は、これ、御座らぬ! 早々に片付け、何処ぞへ処分致すべし!」
と叱責された。かと言うて捨てる訳にも参らぬによって、この中間、詮方なく、買(こ)うた古物商の元へ持ち参り、
「……この仏像、お返し致す。」
と申した。ところが店主(あるじ)曰く、
「一旦商(あきの)うて、気に入らぬと、その日か、その翌日にてもあれば、引き請けもしようが、かく日数(ひかず)も過ぎてお返しになられ、それを請けて返金致いたとなれば、他(ほか)の商売の悪しき例(ためし)ともなります故、なりませぬ!」
と答えたので、中間は、
「……いや……価(あたい)を戻して呉れとは申すならば、尤もなること……。そうではない。金を返すには及ばぬ故、引き請けて呉れと申すのじゃ……。」
と答えたから、店主も不審に思い、
「……さて?……何ゆえに、そのように仰る?」
と訊ねるので、この中間、叱責された不快もあったか、口から出任せ、
「……何、実はの……この仏を買(こ)う帰って、日々礼拝尊崇致いて御座ったのだが……とかく『……元の所へ戻されよ!……』と……この仏が、あ、夢となく、現の幻しとなく……お立ちになられ……うるそうて堪らぬ。……さればこそ、只で、返すのじゃて……」
と語ったところ、店主も、
「……ほう?! されば置いておかれるがよい。」
と請け取った。
――――――
さても中間が帰って後(のち)、店主は、かの金仏(かなぼとけ)を厳かに礼拝致いて、
「……さては……謂われある作仏(さくぶつ)で御座った、か! さればこそ……俗家(ぞっか)に置いておくは、これ、畏れ多いことじゃて……」
と、その古仏を近所にあった店主の家の菩提寺に納めに参り、中間が口から出任せの一部始終を洩らさず寺僧に語る。
これを聴いた寺僧も全く以って奇異なることと存じ――いや、ほれ、「一犬虚に吠ゆれば万犬(ばんけん)実を伝う」の譬えに違(たご)うことなく――近隣にては、最早、この話で持ち切りとなって、もちきりとなり、暫しの間は、この仏像(ほとけ)への参詣の者、雲霞の如く群れを成した、ということで御座った。
*
神尾若狹守經濟手法の事
若狹守いまだ五郎三郎たりし時、御納戸頭を勤けるが、其頃は御納戸向も御取入り等唯今の樣には無之御納戸にありし御有高(ありだか)等もつゞまやかならず、金銀其外毛類端物(たんもの)の類も、御番衆(ごばんしゆう)は勿論御用達(ごようたし)町人抔の宅々へ下げ置、御有高等も猥(みだり)成趣聞及びければ、五郎三郎御納戸頭被仰付御引渡し相濟て、支配の面々へ一統申談(まうしだんじ)けるは、御納戸御有物(ありもの)の諸帳面へ御有高引合改置可申(ひきあはせあらためまうすべき)間、來(きた)る幾日に其通心得可取計(とりはからふべき)旨申渡ぬ。かゝりしかば御番衆其外諸御用達も大きに騷ぎて、俄に取調べ紛失の品は夫々に償ひ、幾日といへる日限に至りければ、逸々(いち/\)帳面に引合改可被申(あらためまうさるべし)、自身改候にも及ばずとて、御有物の分へは封印をなして、其以來引續改けるゆへみだりなる事もなかりしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:ちょいとした一言が引き起こす大きな変化で連関。但し、こちらはぐうたら官僚への「喝!」を入れる確信犯である。
・「神尾若狹守」神尾春央(かんおはるひで 貞享4(1687)年~宝暦3(1753)年)のこと。ウィキの「神尾春央」から引用する。『勘定奉行。苛斂誅求を推進した酷吏として知られており、農民から憎悪を買ったが、将軍吉宗にとっては幕府の財政を潤沢にし、改革に貢献した功労者であった』。『下嶋為政の次男として誕生。母は館林徳川家の重臣稲葉重勝の娘。長じて旗本の神尾春政の養子となる。元禄14年(1701年)仕官。賄頭、納戸頭など経済官僚畑を歩み、元文元年(1736年)勘定吟味役に就任。さらに翌年には勘定奉行となる』。『時に8代将軍徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に延享元年(1744年)には自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約260年を通じて収税石高が最高となった』。『しかし、翌年松平乗邑が失脚した影響から春央も地位が危うくなり、担当していた金銀銅山の管理、新田開発、検地奉行などの諸任務が、春央の専管から勝手方の共同管理となったため、影響力は大きく低下した』。『およそ半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして、また江戸時代の百姓の生活苦の形容として人口に膾炙している(ただし、逆に貧農史観のイメージを定着させてしまったともいえる)』とある(本文中の「松平乗邑」の名は「のりさと」と読む)。御納戸頭となったのが享保18(1733)年、47歳の時。
・「御納戸頭」将軍の手許の金銀や衣類調度の出納、献上品及び下賜品全般を扱う納戸方の長。定員2名。
・「御番衆」これは特定役職を限定して指す固有名詞ではなく、御小性(小姓)衆や御小納戸衆を始めとした将軍側近として近侍する諸役のこと。
■やぶちゃん現代語訳
神尾若狭守春央殿御納戸頭就任時経済改革のために行った奇策についての事
後に勘定奉行となられた神尾若狭守春央(はるひで)殿が、未だ神尾五郎三郎殿と名乗っておられた頃のことにて御座る。
さても目出度く御納戸頭に就任されたが、その頃は、御納戸方の種々の物品納入等も、現在のようにはしっかりとしておらず、御納戸に実際に保管してある種々物品の在庫数は、とても適切な分量と言うには程遠く――そもそも出納自体がいい加減なものであったわけで――更には、金銀その他毛皮類及び反物の類いでさえ、御番衆が当然の如くに銘々で分けて勝手に保管したり、あまつさえ、御用達(ごようたし)町人どもの私邸に下げ降ろして保管して御座るという体(てい)たらく――いや、実際には御番衆や御用達町らが私物化し、中には流用してしまったために、物が手元にない者さえ御座るという噂――いや、これ、今だから申し上げるが、事実で御座った――。
さても、そうした高価な金品の在庫数などまでも杜撰の極みである旨聞き及ぶや、神尾五郎三郎殿、御納戸頭着任早々、前任者からの諸業務引継ぎを万事終えるや、御自身支配の納戸方関係者全員を招集の上、以下の如く、申し渡しをした。
「――御納戸内所有物品に係る諸台帳に記載されている御納戸内物品在庫数に付き、台帳と実際の在庫数について一々引き合せて改め、確認するによって、来たる○月○日にそれを実施せんとする心積りにて用意致いておくように――。」
かかればこそ、御番衆その他(ほか)諸御用達町人に至るまでも大いにうち騒いで、一人残らず俄かに己れが分の台帳やら、不当所有に係わる物品やらを取り調べ、紛失せる品は急遽、各々慌てて買い償う――瞬く間に御納戸内は鼠一匹入り込む隙がないほど在庫でギュウ詰めになって御座った。
さても○日と言い渡したかの日限に至った――と、神尾五郎三郎殿、
「――あ――拙者が信頼しておる――諸君がそれぞれ担当の台帳にある一つ一つの物品と引き合わせて改めてくれたのであれば、それでよい――何も拙者自身が改むるにも及ばぬことじゃ――。」
と告げるや、御納戸内在庫分へはシッかと封印をなされ、それ以降は、神尾五郎三郎殿御自身が定期的に封印確認・台帳管理をされて厳重にお改めになったため、かつてのような杜撰なことは、もう二度と起こらなくなった、とのことで御座った。
*
水野和泉守經濟奇談の事
享保の初、御老職たりし水野和泉守、小身より出し人にて才力も勝れ、下々の事も能く辯(わきま)へたる人也し由。寶永元禄の文筆盛にして聊(いささか)驕奢の世の中たりし故、淺草御藏(おくら)等の御圍ひ米も思はしからず、其奉行共役人も勤かたゆるく、奸吏小身の輕き者抔の取計に任せ、納米(なふまい)なども町人へ預けて御藏に無之樣成事也しに、或日和泉守御勘定奉行を伴て、近日淺草の御藏へ罷越、御藏々不殘改め可申間、其心得有べしと申渡ける故、御勘定奉行より御藏奉行へ申渡けるにぞ、御藏奉行は勿論、御藏に拘はりし者共大きに肝を潰し、俄に藏前の米屋共へ申渡、有合(ありあひ)の米を御藏々へ積置て、猶不足の分は堀江町伊勢町其外の町々米屋共より米を借り受て俄に晝夜御藏へ積入ける。右騷動の樣子人を附て聞屆、此筋靜(しづま)りしと聞て、和泉守自身御勘定奉行抔同道にて御藏々を改め、戸前(とまへ)を開かせ逸々(いちいち)見屆て、扨々世上にては跡かたなき評判をいたすもの哉、御藏には御用米少く候由聞及びしに、今日見屆候へば其沙汰に事變りたる事にて恐悦是に過ず。然らば後來の爲なれば御用米の分は由自分封申べきとて懷中より印形(いんぎやう)せし封印紙を渡しける故、無處(よんどころなく)封印をなしけるが、米を貸しける米屋共よりは其返濟を願ひ、有體(ありてい)に沙汰なしては其役々の者身の上にかゝりぬれば、彼是取賄ひて事なく濟けるが、和泉守一時の計策にて御藏の御用米は調ひけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:ぐうたら官僚への「喝!」を入れる確信犯で連関、というより全く以ってほぼ相同の類話である。
・「水野和泉守」卷之一「水野家士岩崎彦右衞門が事」で既出。水野忠之(ただゆき寛文9(1669)年~享保16(1731)年)江戸幕府老中。三河国岡崎藩第4代藩主であった譜代大名。元禄10(1697)年に御使番に列し、元禄11(1698)年4月に日光目付、同年9月には日光普請奉行、元禄12(1699)年、実兄岡崎藩主水野忠盈(ただみつ)養子となって家督を相続した(忠之は四男)。同年10月、従五位下、大監物に叙任している。以下、主に元禄赤穂事件絡みの部分は、参照したウィキの「水野忠之」からそのまま引用する。『元禄14(1701)年3月14日に赤穂藩主浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷沙汰に及んだときには、赤穂藩の鉄砲洲屋敷へ赴いて騒動の取り静めにあたっている。』『また翌年12月15日、赤穂義士47士が吉良の首をあげて幕府に出頭した後には、そのうち間十次郎・奥田貞右衛門・矢頭右衛門七・村松三太夫・間瀬孫九郎・茅野和助・横川勘平・三村次郎左衛門・神崎与五郎9名のお預かりを命じられ、彼らを三田中屋敷へ預かった。』『大石良雄をあずかった細川綱利(熊本藩主54万石)に倣って水野も義士達をよくもてなした。しかし細川は義士達が細川邸に入った後、すぐさま自ら出てきて大石達と会見したのに対して、水野は幕府をはばかってか、21日になってようやく義士達と会見している。決して水野家の義士達へのもてなしが細川家に劣ったわけではないが、水野は細川と比べるとやや熱狂ぶりが少なく、比較的冷静な人物だったのかもしれない。もちろん会見では水野も義士達に賞賛の言葉を送っている。また江戸の庶民からも称賛されたようで、「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。これは細川家と水野家が浪士たちを厚遇し、毛利家と松平家が冷遇したことを表したものである。その後、2月4日に幕命に従って』9人の義士を切腹させている。その後は、奏者番・若年寄・京都所司代を歴任、京都所司代就任とともに従四位下侍従和泉守に昇進、享保2(1717)年『に財政をあずかる勝手掛老中となり、将軍徳川吉宗の享保の改革を支え』、享保15(1730)年に老中を辞している。
・「老職」老中。将軍直属で幕政を統轄し、大目付・町奉行・遠国奉行・駿府城代などの指揮監督、朝廷・公家・大名・寺社に関する事柄全般を直轄した。常時4~5名が月番で交替で勤務し、通常、3万石以上の譜代大名から補任されていた。
・「小身より出し人にて」ウィキの「水野忠之」によれば、彼は『三河国岡崎藩主水野忠春(5万石)の四男として水野家江戸屋敷で』生まれたが、延宝2(1674)年5歳の時に『親族の旗本水野忠近(2300石)の養子となって家督を継いだ』とあり、この事実に基づく誤解と思われる(卷之一「水野家士岩崎彦右衞門が事」でも同じミスを根岸は冒している。たかだか50年後の都市伝説の中でありながら、出自がこれほど誤伝されるという事実が興味深い)。前注に示した通り、その後、30歳で実兄岡崎藩主水野忠盈養子となり、元の家督に戻って相続している。
・「享保の初」前の注で示した通り、水野忠之の老中在任は享保2(1717)年から享保15(1730)年であり、奇略の内容から考えて、就任直後のことと思われる。
・「淺草御藏」浅草にあった幕府最大の米蔵。大坂及び京都二条の米蔵と合わせて三御蔵と言った。元和6(1620)年に隅田川西岸の湾入部分を埋め立てて創設され、最大時は米蔵67棟、年間30万から40万石の米穀を出納した。
・「御勘定奉行」勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。
・「御藏奉行」蔵奉行。ウィキの「蔵奉行」によれば、『江戸浅草(浅草御蔵)をはじめとする主要都市にあった幕府の御米蔵の管理を司った奉行。勘定奉行の支配下にあり、役料200俵、焼火の間席。属僚として組頭、手代、門番同心、小揚者などがあった』。『蔵奉行という言葉の初出は慶長15年(1610年)とされ、江戸の浅草御蔵の成立は元和6年(1620年)成立と言われている。ただし、蔵奉行の組織の成立は経済的先進地であった上方の方が先んじており、大坂では元和7年(1621年)、京都では寛永2年(1625年、ただし寛政2年(1790年)までは京都町奉行支配下)、江戸では寛永13年(1636年)の事であった。また一時期は駿河国清水・近江国大津・摂津国高槻にも設置されたが、幕末まで存続したのは江戸・京都・大坂の3ヶ所のみである』。『何百石取りというように知行地のある地方知行の旗本とは別に、三十俵二人扶持というように御蔵米から3季に分けて切米を俸禄として貰う御家人(一部の旗本も含む)たちを蔵米知行・蔵米取りというが、彼らに渡す米穀を取り扱った。蔵米取りの御家人は自家消費分以外の切米(米穀)を、御米蔵の前に店を構える札差を通じて現金化した。浅草・蔵前の地名はこれが由来である』。また、底本の鈴木棠三氏の注によれば、『定員ははじめ三名であったが、後に増員された。部下に組頭、手代、同心、小揚之者頭、小揚之者などがいる。』とある。「小揚之者」は荷を実際に運搬する者の呼称。
・「御圍ひ米」幕府の兵糧米・災害対策用備蓄米のこと。上記の通り、そこから俸禄米も供出した。囲籾(かこいもみ)・囲穀(いこく)・置き米などとも呼んだ。
■やぶちゃん現代語訳
水野和泉守忠之殿老中職在任時経済改革のために行った奇略についての事
享保の初めのことである。
当時、御老職を勤めた水野和泉守忠之殿は小身から出て出世なされた方で、才力も優れ、下々の民草のことまでも、よく弁えておられた方であった。
この頃は未だ前代元禄・宝永の頃の瀰漫した文化の、悪しき余禄が盛んであって、聊か驕奢なる風潮が残る世の中であったため、実は天下の浅草御蔵などの御囲い米の備蓄管理でさえも、全く以って心許ない状態で御座った。御蔵奉行やその支配の役人らもお勤めに熱心でなく、御蔵の現状は、不届きなる下級の汚職官吏や、そうした奸吏と手を組んだ一部の身分の賤しい悪しき町人らの取り計らいに任せっ切りとなっており、何と定期に御蔵に納めねばならないはずの納米(のうまい)が一介の町人に預けられたままになって――それをまた町人が不当に転用して――御蔵にはない、というとんでもないことになっていたので御座った。
ある日のこと、突然、老中和泉守忠之殿は勘定奉行を呼び出し、
「――近日――そなたと同道の上――浅草の御蔵へ参り、残らず御蔵、御改め致すによって、そのように心得よ――。」
と申し渡した。
勘定奉行がそれを御蔵奉行へ申し渡したから、さあ、大変!
御蔵奉行は勿論のこと、御蔵に関わる者ありとある者どもが、悉く肝を潰した。
俄に蔵前に居並ぶ米屋どもへ命じて、ありとある米を一粒残らず御蔵に積み置かせて、それでも猶、不足する分は――事実それでは足りなんだ訳じゃ。それほど横領やら流用やらが進んで御座った訳じゃな――堀江町・伊勢町その他の米町の米倉から借り受け、昼夜兼行で御蔵にうず高く積み入れた――。
――さて、既に放って御座った密偵からてんやわんやの一部始終を聞き届け、更にその騒擾が一先ず落ち着いたという知らせを受けた和泉守殿は、やおら、勘定奉行などと同道の上、御蔵を改め、一つ一つ扉を開けさせて、内部をシッかと改めて御座った。そして如何にも満足げに言うよう、
「――さてもさても、世間にては、つまらぬ輩の、不届き千万なる噂を致すものじゃ、のう! その噂によれば――御蔵には御用米が殆んどない――なんどと聞き及んで御座ったれど――今日、こうして見届けに参れば――いや! もう、矢張り、その噂の根も葉もない流言蜚語でしかなかったこと、これ必定! さればこそ拙者は誠(まつこと)、恐悦至極! 然らばこそ拙者の向後のため――あのような流言蜚語に拙者が踊らされぬようにするために、一つ、これら総ての御用米の分の蔵には、拙者自らが封印を致すに若くは、ない、のう――」
と言うや、和泉守殿、予め、用意して御座った印形(いんぎょう)鮮やかに押せし封印紙を蔵の数分、懐中よりざっと取り出だして係り役人に渡した。役人どもは致し方なく総ての蔵に封印を施した――。
――が――
……後日、当然のこととして、米を貸した米屋どもからは御蔵奉行に矢のような返済の催促――。
……そのままにして無視し続けていたのでは目安箱にでも訴えらるれば……
……この事実が露見するは必定さすれば……
……不逞町人不良下吏不肖役人背任奉行……
……御蔵管理に係わる者ども不行届に付き、一味同塵一蓮托生一網打尽と相成ればこそ、と……
――御蔵奉行以下諸々の者どもは身銭を切って何とか賄い、やっとの思いで事を済ませた訳じゃったが――かくして和泉守殿は、一時の奇計奇策によって、
『目出度く御蔵の御用米を調えました!』
という訳じゃて!
*
丹波國高卒都婆村の事
或人かたりけるは、丹波國高卒都婆(たかそとば)村といへるに大造(たいさう)の大卒都婆のあり。右は西園寺時宗菩提の爲成由。時宗は北條九代執權の其一人にて、入道の後卒都婆の愁苦を搜し理政安民の爲國々を廻られしが、右高卒都婆村の老夫婦の許に宿を乞はれしに承知して一夜を明しけるに、邊鄙の事故旅僧に饗應すべき物なしとて、粟飯など炊き菜園の瓜茄子を取りて、一つは神前に供し一つは外へ除き殘りを調味しけるに、西園寺其譯を尋給ひければ、初穗はいつも神前にさゝげて、時の天子時の執權へ獻ずる也、其上にて御身饗應すると答へければ、西園寺甚感じて、愚僧は鎌倉の者也、自然鎌倉に出給はゞ尋られよ、その時は此割判を持參して尋られば知るべしとて渡しぬ。其後彼夫婦鎌倉にて彼僧を尋て割判を出しけるが知る者なし。秋田城之介出仕の折から右割判を差出し承りけるにぞ、城之助我屋に伴ひて西園寺に申達けるにぞ、彼夫婦に西園寺對面有て、何ぞ望有やと尋給ひしに、素より老の身子供迚もなければ何か願ひ有べき、居村は高少きにて困窮の村なれば、村方の助になるべき事をと願ひし故、諸役免除の定を給ひけるゆへ、今に右高卒都婆村は無役の村方にて、高は纔に百石餘の土地也。依之右老夫婦は一社の神に崇め、時宗の慈政を報ずるため右の大塔婆を建立して今に不絶ありしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:突如、鎌倉時代に逆戻り、連関は感じさせない。こじつけるなら御蔵の米から、米の拠出をせずともよい異例の無役の村で連関か。
・「丹波國高卒都婆村」諸注未詳。似たような地名も捜し得なかった。以下のように登場人物も無茶苦茶なら地名も如何にも不審異様な名である。
・「西園寺時宗」底本には右に『(ママ)』表記がある。鈴木氏ほどの鎌倉通ならずとも『ママ』表記をしたくなる。これは北条時宗(建長3(1251)年6~弘安7(1284)年:第八代執権。北条時頼嫡男。文永11(1274)年及び弘安(1281)年の二度の元寇をよく防衛した。円覚寺を建立して宋より無学祖元を招聘して開山とした。)であろうが、この話柄自体が能「鉢木」の類話であり、明らかに時宗の父で廻国伝承で知られる最明寺入道時頼の誤伝である(時宗の戒名はこの如何にも「最明寺」のもじりのような「西園寺」ではなく「宝光寺」であるし、そもそも時宗の廻国伝承というのは聞いたことがない)。北条時頼(嘉禄3(1227)年~弘長3(1263)年)鎌倉幕府第五代執権。第八代執権北条時宗の父。以下、ウィキの「北条時頼」より引用する。『幼い頃から聡明で、祖父泰時にもその才能を高く評価されていた。12歳の時、三浦一族と小山一族が乱闘を起こし、兄経時は三浦氏を擁護したが、時頼はどちらに荷担することもなく静観し、経時は祖父泰時から行動の軽率さ、不公平を叱責され、逆に静観した時頼は思慮深さを称賛されて、泰時から褒美を貰ったというエピソードが吾妻鏡に収録されている。しかし、吾妻鏡の成立年代を鑑み、この逸話は時頼を正当化する為に作られた挿話の可能性があることが指摘されている』。『兄経時の病により執権職を譲られて間もなく、経時は病死した。このため、前将軍藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、寛元4年(1246年)5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反北条勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである』。『翌年、宝治元年(1247年)には安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。これにより、幕府内において北条氏を脅かす御家人は完全に排除され、北条氏の独裁政治が強まる事になった。一方で六波羅探題北条重時を空位になっていた連署に迎え、後に重時の娘・葛西殿と結婚、時宗、宗政を儲けている』。『建長4年(1252年)には第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが、親王将軍の始まりである』。『しかし時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、建長元年(1249年)には評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年に短縮したりするなどの融和政策も採用している。さらに、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護している。家柄が低く、血統だけでは自らの権力を保障する正統性を欠く北条氏は、撫民・善政を強調し標榜することでしか、支配の正統性を得ることができなかったのである』。『康元元年(1256年)、時頼は病に倒れたため、執権職を一族(義兄)の北条長時に譲って出家し、最明寺入道と号した。しかし執権職から引退したとはいえ、実際の政治は時頼が取り仕切っていたという。嫡男の時宗は建長3年(1251年)に誕生していたが、この時はまだ6歳という幼児だった為に執権職を継がせる訳にもいかず、長時を代行として執権職に据えて、時宗が成人した暁には長時から時宗へ執権を継がせるつもりであったと言われている。だが、引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった』。この最明寺は現在の北鎌倉明月院の近くにあったもので、墓所は現在の明月院内に現存する。『時頼は質素かつ堅実で、宗教心にも厚い人物であった。さらに執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた事は、今でも名君として高く評価されている。直接の交流こそなかったが、無学祖元、一山一寧などの禅僧も、その人徳、為政を高く評価している。このような経緯から、能の『鉢の木』に登場する人物として有名な「廻国伝説」で、時頼が諸国を旅して民情視察を行なったというエピソードが物語られているのである』。『一方で、本居宣長などは国学者の観点から忌避し、新井白石も著作の『読史余論』の中で、「後世の人々が名君と称賛するのが理解できない」と否定的な評価を下している』。『時頼は南宋の僧侶・蘭渓道隆を鎌倉に招いて、建長寺を建立し、その後兀庵普寧を第二世にし兀庵普寧より嗣法している。宝治2-3年(1248年-1249年)にかけて、道元を鎌倉に招いている』。更に、ウィキの「鉢木」からも引用しておく。『能の一曲。鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしている。観阿弥・世阿弥作ともいわれるが不詳。武士道を讃えるものとして江戸時代に特に好まれた。また「質素だが精一杯のもてなし」ということでこの名を冠した飲食店などもある』。『佐野(現在の群馬県高崎市上佐野町)に住む貧しい老武士、佐野源左衛門尉常世の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求める。常世は粟飯を出し、薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。常世は僧を相手に、一族の横領により落ちぶれてはいるが、一旦緩急あらばいち早く鎌倉に駆け付け命懸けで戦う所存であると語る』。『その後鎌倉から召集があり、常世も駆け付けるが、あの僧は実は前執権・北条時頼だったことを知る。時頼は常世に礼を言い、言葉に偽りがなかったのを誉めて恩賞を与える』。そもそもこの最明寺入道時頼の廻国伝説そのものがでっち上げで、享年37歳で、その晩年には諸国漫遊しているような暇はなかった。私自身、鎌倉の郷土史研究の中で親しくこの時期の「吾妻鏡」を閲したことがあるが、執権を辞任後は病のためもあって、殆んど鎌倉御府内を出ていないことが、その記載からも検証出来る。それにしても根岸ともあろう御方が、これほど杜撰な話(私如きにても嘘臭いということが分かる話柄)をそのまま載せるとは、少々、残念ではある。
・「北條九代執權」時頼は五代、時宗は八代で、第九代執権は時宗の嫡男貞時である。無茶苦茶も甚だしい。この数字ぐらいは直さないと話にならないと思い、現代語訳では「時宗殿は北条氏として鎌倉幕府第八代執権を勤められたその人にして」とした。時頼と改めることも考えたが、それもまた随所に破綻を生ずるのでやめた。
・「卒都婆の愁苦を搜し」岩波版に「都鄙の愁苦を搜し」とあるのでこちらを採って現代語訳とした。
・「理政安民」政治が正しく行なわれて、民衆の暮らしが平和で豊かであること。
・「秋田城之介」時宗の代なら霜月騒動で滅ぼされる安達泰盛(寛喜3(1231)年~弘安8(1285)年)、時頼の代ならその父安達義景(承元4(1210)年~建長5(1253)年)である。義景の父であった安達景盛(?~宝治2(1248)年)が初めて官位として右衛門尉出羽守に加えて秋田城介(本来は秋田城を保守する武将という職名)従五位下を受けて以来、代々この官位名を称しているためであるが、景盛で時頼の執権在任中に既に死んでおり、設定が全く合わなくなるので除外した(ただ時頼とは三浦一族が滅ぼされた宝治合戦で密接な関係を持っている)。いずれにしても、このシーンは評定衆(鎌倉幕府の職名で評定所に出仕し、執権・連署とともに裁判・政務などを合議裁決した重役)。としての幕府出仕という場面設定か。
■やぶちゃん現代語訳
丹波国高卒塔婆村の事
ある人が語った話である。
丹波国高卒塔婆村というところに大造りの大卒塔婆がある。
これは何でも西園寺時宗殿の菩提を弔うとともにその報恩を記念するものの由。
時宗殿は北条氏として鎌倉幕府第八代執権を勤められたその人にして、入道の後、鎌倉・京はもとより、遠国の地の民草の憂愁や困窮を窺っては、理政安民を図らんがために身分を隠して諸国を行脚なさった。
そんな行脚の折りのこと、今、高卒塔婆村と呼ばれるこの山村を過(よ)ぎられ、日も暮れぬればとて、ある老夫婦のもとに一夜の宿を乞うた。老夫婦は快く承知致いて、一夜を明かして御座った。老爺は、
「辺鄙のことゆえ、旅のお坊さまを供応するものとて、これ、御座らぬ……」
と詫びつつも、媼に粟飯を炊かせ、家前(やぜん)の菜園に成った瓜と茄子(なすび)を取って参った。
するとその幾つかずつ捥(も)いだ瓜と茄子の、一つを神前に供え、一つを他に取り置いて、残ったもの調理した。西園寺はその訳を尋ねた。すると老爺は、
「良き初穂は神前に捧げ、またその次に良きものを時の天子さまと時の執権さまへ献じまして、その上で――味はその次のものとなりますれど――御坊さまへ差し上げんと存ずる。」
と答えたので、西園寺殿は甚だ心打たれ、
「……愚僧は鎌倉の者なる……向後、鎌倉に来らるることあらば、必ずや、お訪ねあれ。……その折りは、一つ、この割り判を持ちて参らるるがよい……さすれば、拙僧の居場所も知られようぞ。」
と頭陀袋より取り出だいた割り判を手渡し、翌日、老夫婦のもとを発った。
後日(ごにち)のこと、縁あってこの老夫婦、鎌倉を訪るること、これあり、かの旅僧を探して、寺々にて、かの渡された割り判を出だいて見たものの、一向に心当たる者がおらぬ。
されば、畏れ多いこと乍らと、老爺は割判を手に幕府の寺社方を尋ねたところ、ちょうどその日に出仕して御座った秋田城之介殿の眼に止まった。城之介殿は即座にその割り判を受け取り、しかと見るや、慌ててこの夫婦を自邸に伴(ともの)うて留めおくと、とって返して割り判を持って西園寺殿に申し上げる。
程なく、城之介殿に連れられた老夫婦に西園寺殿が対面(たいめ)致いた。
ひたすら畏まって平身低頭して御座る老夫婦に、西園寺殿は優しく、
「何ぞ望みはあるか?」
とお尋ねになられたところ、老爺は、
「もとより老いぼれの身にして、子供とても御座らねば、何の願いが、これ、がありましょうぞ。……なれど、畏れ多くも敢えて申し上げますれば……我らが居りまする村、これは、穀物の稔りも、これ少のう御座って至って貧しい村にて御座いますれば……不遜ながら、村の衆の助けになることを、一つ……」
と願い出た故、西園寺殿は当村の賦役を免除するという定めを即座に発せられたのであった。
――これより今に至るまで――現在の石高は僅か百石余りの土地乍ら――この高卒塔婆村は賦役を命ぜられたことが一度としてない無役の村なので御座る――
……この恩により、かの老夫婦は村の衆によって村社の一柱(はしら)として崇めらるるに至り、また、時宗の慈政を代々の子孫に伝えんがため、かの――村名の由来ともなった――大きなる卒塔婆を建立致いて今に伝えて御座る、ということである。
*
貒といへる妖獸の事
暫く御使番を勤(つとめ)病氣にて退役せし松野八郎兵衞といへるは、屋敷番町にてありしが、天明六午年の春、右屋敷へ妖怪出しと專らの沙汰有しに、八郎兵衞方に勤し吉田某、其後予が許へ來り勤けるに眞僞を尋しに、彼者も松野方を退(しりぞき)し後なるが、古傍輩成し者に聞しが相違なし。或夜屋敷内を廻りし中間へ飛付くものあり。右中間棒にて打拂ひけるに、棒へ喰付などしける故、驚きて給人(きふじん)勤たる中村作兵衞といへる者の長屋へ缺入ぬ。作兵衞も早速駈出て見るに、犬よりは餘程大く、眼は日月のごとくその色鼠の如くにて、杖などにて打候ば蟇の背を敲く樣に有しが、追々人出て追散らしけるが、境成る大藪の内へ入り、闇夜にはあり行衞を失ひし由。其後は絶て出ざりしが、如何成ものなるや、マミと言る者也と或人いひしが、さることもあるやと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。
・「貒」「まみ」と読む。猯。「魔魅」で妖獣の意。アナグマ。「狸穴」で「まみあな」と読ませることからも分かる通り、通常の哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ科タヌキNyctereutes procyonoides を指すこともあるが、当時の江戸市中や近郊でタヌキが稀であったとは思われないので、 食肉(ネコ)目イタチ科アナグマ亜科アナグマ属ニホンアナグマ Meles meles anakuma に同定しておく。日本穴熊。まずは幼獣としての記載をウィキの「猯」(「貒」と同義。「まみ」と読む)から引用(記号の一部を変更した)し、その後に「ニホンアナグマ」について同じくウィキから引用する。『民俗学者・日野巌による「本妖怪変化語彙」によれば、マミはタヌキの一種とある』。『東京都の麻布狸穴町の「狸」を「まみ」と読むことからも、猯が狸と同一視されていたことがわかる』。『一方で江戸時代の百科事典「和漢三才図会」では、「猯」は「狸」とは別種の動物として別々に掲載されている』。『同書では中国の本草学研究書「本草綱目」からの引用として、山中の穴に住んでいる肥えた獣で、褐色の短い毛に体を覆われ、耳が聞こえず、人の姿を見ると逃げようとするが行動は鈍いとある。またその肉は野獣の中でも最も甘美で、これを人が食べると死に瀕した状態から治ることができるともある』。『江戸時代にはこの猯、狸、そしてムジナが非常に混同されていたが、これはアナグマがムジナと呼ばれていたところが、アナグマの外見がタヌキに似ており、さらに「貉(むじな)」の名が日本古来から存在したところへ、中国で山猫が「狸」の名で総称されていることが知れ渡ったことから混乱が生じたものとされる』。『またムササビ、モモンガも「猯」と呼ばれたことがある』。『西日本に伝わる化け狸・豆狸は、この猯のことだともいう』。『また江戸時代の奇談集「絵本百物語」によれば、猯が老いて妖怪化したものが同書にある妖怪・野鉄砲とされる』。『同じく江戸時代の随筆「耳嚢」3巻では、江戸の番町に猯が現れたとあり、大食は鼠色、目は太陽か月のようで、杖でたたくとガマガエルの背のような感触だったという』。これは勿論、本記載のこと。『「まみ」の発音が似ていることから、人をたぶらかす妖魔、魔物の総称を意味する「魔魅」の字があてられることもある』。以上、「貒」。以下、ウィキの「ニホンアナグマ」から引用する。『アナグマ Meles meles の日本産亜種。独立種とする説もある』。分布域は『本州、四国、九州』。『体長40-50cm。尾長6-12cm(地域や個体差により、かなり異なる)。体重4-12kg 。指は前肢、後肢ともに5本あり、親指はほかの4本の指から離れていて、爪は鋭い。体型はずんぐりしている。里山に棲息する。11月下旬から4月中旬まで冬眠するが、地域によっては冬眠しないこともある。食性はタヌキとほとんど同じであるが』、『木の根やミミズなども掘り出して食べる。巣穴は自分で掘る。ため糞』『をする習性があるが、タヌキのような大規模なものではなく、規模は小さい。本種は擬死(狸寝入り)をし、薄目を開けて動かずにいる』。『1日の平均気温が10℃を超える頃になると冬眠から目覚める。春から夏にかけては子育ての時期であり、夏になると子どもを巣穴の外に出すようになる。秋になると子どもは親と同じくらいの大きさまで成長し、冬眠に備えて食欲が増進し、体重が増加する。秋は子別れの時期でもある。冬季は約5ヶ月間冬眠するが、睡眠は浅い』。『秋は子別れの時期であるが、母親はメスの子ども(娘)を1頭だけ残して一緒に生活し、翌年に子どもを出産したときに娘に出産した子どもの世話をさせることがある。娘は母親が出産した子どもの世話をするだけでなく、母親用の食物を用意することもある。これらの行為は娘が出産して母親になったときのための子育ての訓練になっていると考えられる』。『巣穴は地下で複雑につながっており、出入口が複数あり、出入口は掘られた土で盛り上がっている。巣穴の規模が大きいため巣穴全体をセットと呼び、セットの出入口は多いものでは50個を超えると推測される。セットは1頭の個体のみによって作られたのではなく、その家族により何世代にもわたって作られている。春先になると新しい出入口の穴が数個増え、セット全体の出入口が増えていく。巣穴の出入口の形態は、横に広がる楕円形をしていて、出入口は倒木や樹木の根、草むらなどで隠されている。巣穴の掘削方法は、穴の中から前足で土を押し出し、押し出したあとにはアクセストレンチと呼ばれる溝ができる。 セットには崖の途中などに突然開いている裏口のような穴が存在することもある』。『巣材として草を根から引き抜いて使用していると推測される。巣材が大雨などで濡れると、昼に穴の外に出して乾燥させて夜に穴に戻す、という話もある』。記載がないが、成獣はかなり凶暴である。猶、山犬の類も含むようであるが、番町という町中でもあり、描写の生態からはアナグマでよいと思われる。現代なら食肉(ネコ)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン Paguma larvata も挙げられようが、ウィキの「ハクビシン」によれば、ハクビシンの国内棲息の最初の確実な報告は1945年(静岡県)で、『明治時代に毛皮用として中国などから持ち込まれた一部が野生化したとの説が有力であり、それ以前の古文書における生息の記載』『や、化石記録が存在しないことから、外来種と』する考え方を支持し、同定候補には挙げない。
・「御使番」使番。ウィキの「使番」から一部引用する。『古くは使役(つかいやく)とも称した。 その由来は戦国時代において、戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職である。これがそのまま江戸幕府』『においても継承された』。『若年寄の支配に属し、役料500石・役高は1,000石・布衣格・菊之間南際襖際詰であった』。『元和3年(1617年)に定制化されたが、皮肉にもその後島原の乱以外に大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する事とな』り、『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行った』。
・「松野八郎兵衞」岩波版長谷川強氏注に、『助喜(すけよし)。天明四年(一七八四)御使番。同五年寄合。』とある。
・「天明六午年」西暦1786年。干支は丙午(ひのえうま)。根岸は佐渡奉行として佐渡に赴任中のことであったが、直接体験過去の助動詞「き」が用いられている。これは本文にあるように「八郎兵衞方に勤し吉田某、其後予が許へ來り勤ける」ということから納得出来る。因みに、この吉田某は所謂、渡り中間であったものと思われる。
・「給人」ウィキの「給人」によると、『江戸時代、諸藩における藩士の家格・家柄の一つ』及び『江戸時代、徴税吏の総称として、給人という語を使用することがあった』とある。ここで根岸は松野八郎兵衞屋敷の給人格であった中村作兵衞の前者の謂いで用いているように思われる。一応、以下にウィキの記載を引用しておく。『武士は、土地に対する執着が強く、わずか数十石であっても、自分の領地を持つことを望む傾向があった。戦国時代には、己の知行する土地を持たずに、俸禄を受けている武士は、下級武士と考えられていた。しかし、小領主の場合は、収穫が安定せずに、イナゴ・穀象虫などの害虫・風害・水害・冷害などの天変地異で困窮することが珍しくなかった。また、給人は知行地へ自由に行くことや水干損の立見、知行地の農民を使役する権限を有しており、村方にとって迷惑であると訴願される藩もあった』。『江戸時代になると、諸藩の藩主は、強大な統治権を得るために、家臣の知行を、土地を直接給付して独自に徴税を行わせる地方知行制から、藩が一括して徴税した米を中心とした農産物を家臣に給付して、その一部を商人を通じて換金させる蔵米知行制に転換することを目指した』。『この改革は、また基本的に江戸時代は武士が城下町に居住するようになると、城下から見て知行地が遠隔地になっている場合は藩士にとってもわざわざ知行地に赴くのは手間で、災害の時でも安定して収入を得られるのでこれに従う藩士もいるが、反面に、特に弱体化されることを恐れた上級家臣を中心に反感が強く、実質減封となる場合もあったので、中堅以下の家臣であってもこれを嫌う藩が存在し、この転換を断行・あるいは企図したために、藩政が混乱して、お家騒動の背景の一つとなることもよくあった。代表例としては高田藩の越後騒動や、仙台藩の伊達騒動がある』。『他方で同じ越後国でも転封以降、分散地方知行制度や相給を採っていた越後長岡藩や新発田藩では蔵米知行化が比較的スムーズに進行した』。以下、「藩内の位置づけ」の項。『蔵米知行制に転換した諸藩にあって、本来であれば、知行を与えられる格式を持つ武士に対して、給人という呼称や、給人という格式の家格を、栄誉的に与えたのである。江戸時代に、給人を名乗る格式の藩士は、一般に「上の下」とされる家柄の者である。給人より格上の呼称を持つ藩士は、その格式を家格として称したので、通常は、給人という呼称は用いなかった。幕府が諸藩を指導して給人という呼称を用いさせたり定着させようとした事実はないにも関わらず、多くの諸藩には、給人または給人席という身分・家格が存在した。なお米沢藩では給人のことを「地頭」と呼称していた』。
・「長屋へ缺入ぬ」底本では「缺」の右に『(駈)』と注記する。
■やぶちゃん現代語訳
マミという妖獣の事
暫く御使番を勤めたが、病気により退役致いた松野八郎兵衛という御人は、その屋敷が番町に御座ったが、天明六年午年の春のこと、この屋敷に妖怪が出たと専らの噂であった。
以前、八郎兵衛のもとに勤めて御座った吉田某なる者、後に私のもとに仕えることとなった折り、その真偽を尋ねたところ、
「……実はその事件が起きた時には、私も既に松野殿を退いて他家へ移っておりましたが、古い傍輩であった者から詳しく聞きましたが、これ、違い御座いません。……
……ある夜のことにて御座る。
……屋敷内を見回っておった中間に、突如、何やらん、飛び着いてきたので御座る。その中間、吃驚して、持っていた棒で払いのける――と、そ奴、その棒へ食いつきますから――また吃驚、中間は屋敷内の給人であった中村作兵衛という御人の長屋に駆け込みました……。
……作兵衛も早速に表へ駆け出して、そ奴を見れば――これがまあ、犬よりは余程大きく――目は日月の如、爛々と輝き――その全体の色は鼠のようでありました……。
作兵衛が杖などでもって打ち据えてみますると――ぼんぼんと蟇蛙(ひき)の背を叩くような感じで御座いました――そのうちに屋敷内の者どもが集まって来て追い散らしたところが……隣の屋敷との境に御座った大藪の内へと逃げ込みました。……
……闇夜なれば……行方も知れず……またその後は二度と現れなかったそうですが……果たして、一体如何なるものであったものか……『それは「マミ」というものだ』とある人が申しておりましたが、そういう物の怪もあるものでしょうか……」
と語って御座った。
*
窮借手段之事
當時青雲を得て相勤る今江何某は放蕩不羈にして、冬は夏衣夏の道具を貯へず其時臨で新調をなして、甚貧賤なれど表を餝(かざ)り、世に立交るに金錢を不厭、專ら交易に遣ひ捨ぬれば、七月十二月の二季の凌ぎも誠に手段の上にて有しが、或年術計盡て、大晦日に裏屋住の修驗を鳥目(てうもく)二百錢にて一晝夜の約束して相招き、臺所の脇にて終日終夜錫杖をふり鑰を敲き讀經いたさせ、其身は一間なる所にて屏風を建(たて)※(よぎ)打かむりて臥し、妻なる者土瓶ひちりんのあてがひ、藥又は白湯を洗(せんじ)煎させて、賣掛を乞ひに來り又は借金をはたりに來る者へは女房立出で、夫しかじかの病氣今日も無心元、祈禱をなし醫藥を盡し候抔僞り語りて、大晦日を凌、翌日元日は俄に髮月代などして、年禮に飛び歩行けると也。可笑しき手段も有るもの也。
[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせないが、先行する困窮した幕府経済を立て直した重役の経済改革の奇策と、個人の経済困窮の奇計で連関する。
・「今江何某」不詳。「當時青雲を得て相勤る」とくる以上、相応に知られた人物とは思われるが、内容が内容だけに、偽名にしてある可能性が強いように思われる。
・「放蕩不羈」酒色に耽って品行不良、放埒にして道楽好き、勝手気儘で自由奔放といった三拍子そろった筋金入りの遊び人ということ。
・「七月十二月の二季」当時の借金の支払い方法は、盆(旧暦七月十五日)と暮れ(旧暦十二月三十一日大晦日)の二季払いが通例で、回収出来ずにその季を過ぎると、次の季までが回収期限となると考えるのが不文律の慣習であった。
・「鳥目」穴明き銭。古銭は円形方孔で鳥の目に似ていたことから。
・「二百文」宝暦・明和年間(1751~1771)で米一升100文程度であった。1文20円として4000円、一昼夜兼行で時給170円弱になる。
・「鑰」この字は音「ヤク」で、①鍵。錠前。出入り口の戸締り。②要(かなめ)。大事な核心部。枢要。③悟り。といった意味で、文意が通らない。岩波版長谷川氏注に日本芸林叢書所収本(通称三村本)には「鈴」とあるとある。「鈴」=「リン」=「鉦」で採った。
・「※(よぎ)」[「※」=「衤」+「廣」。]夜着。寝るときに上に掛ける夜具で、着物の形をした大形の掛け布団。かいまき。
■やぶちゃん現代語訳
借金窮余の一策の事
今でこそ高い地位を得て御勤めに励んでおる今江某であるが、彼、元来、放蕩不羈にして、冬に入る前には夏の衣類や夏の家財道具を悉く売り払い、また季が廻りたれば、その季節のものを総て新調致すという――さすれば経済も甚だ貧窮なれど、ともかく着るものには兎角うるさくていつも派手に着飾っており、世の朋輩(ほうばい)との交際にも湯水の如(ごと)金を遣うを厭わず、給金のほぼ総てを社交の費用に遣い捨てる有様なれば、七月及び十二月の二季の掛け取りの時期の借金取りへの凌ぎ方も、実に手練手管千両役者の限りを尽くして御座ったが、ある年の暮れ、遂に術策尽きた――。
――すると今江某、大晦日、やおら裏長屋に住んでおった、怪しげなにわか修験者を鳥目二百文一昼夜兼行の約束で招き寄せ、台所の脇にて終日終夜、錫杖を振り鳴らさせ、鉦を叩かせ、読経をさせて、自身はその直ぐ脇の一間に屏風を立て廻し、薄い夜着を頭まで引っ被って横になり、その妻には七輪に土瓶を載せさせて薬を煎じさせるやら、白湯(さゆ)を沸かさせるやら――。
――そうしておいて、今日こそはと押し寄せて居並んだ売掛取りやら借金を叩き取りに来た輩へは、やおら今江の妻が立ち出でて、
「……夫はこれこれの病いにて……今日明日にても儚くならんとする程に……心もとなき有様にて……今はただただ最後の祈禱を致し、最後の医薬施療を尽くしておりますれば……」
なんどという嘘八百をしんみりと語る――。
さても辛くも、かくして大晦日を凌いで御座った――。
――うって変わって翌日正月元旦――今江、俄かに飛び起きたかと思うと、月代(さかやき)なんども綺麗に剃り整え、元気溌剌、年始の礼に飛び歩いたという。
いや、全く以って奇計なる術策を用いたものではある。
*
不計の幸にて身を立し事
或江州の産にて上方堂上(たうしやう)などに奉公して有しが、身持も宜しからず度々浪人などしけるが、京都にては迚も身を立候事も成がたしと、聊の貯(たくはへ)にて東都へ下りけるが、路用も遣ひきりてすべきやうなく、湯元などに暫く逗留し鍼(はり)按摩(あんま)抔施して稼ぎ暮しけるが、大坂町人の後家(ごけ)彼(かの)温泉に來りて入湯し、不快の折からは按摩等を施しけるに、追々心安くなりて右後家淫婦也しや、彼者と密に通じ雲雨の交りをなして、或時彼後家申けるは、御身は年若き人いづくの人なるやと尋ける故、しかじかの事かたりければ、さあらば我等江戸表親類の方へ此度出(いで)候間(あひだ)伴はんとて、日數(ひかず)程過(すぎ)て同道して江戸へ出ぬ。人目有(あれ)ばとて彼後家を養母分にして、其身養子の心どりにて夜は夫婦の交りをなしぬ。彼後家は富豪の後家たるによりて、金銀を以御徒(おかち)の明(あ)きを讓り得て彼者を御徒に出しけるに、京家の縁などにたよりて奧の手弦(てづる)等を拵へ、頭(かしら)なる者へ願ひける故無程組頭に成、後は又御譜代の席へ轉じけるが、今は右の老婦も果し由。爰におかしき事の有るは、右老女の有りし内は、歳(とし)中年に及ぶ某なれども妻を呼候事は成がたく、遊女其外のたはれをも、彼養母殊の外制して禁じけるとや。左も有ぬべき事也。
□やぶちゃん注
○前項連関:かつて奇策で放蕩不羈を尽くした男の物語から、色仕掛けの手練手管で世をうまく渡った放蕩不羈の男の物語で直連関。
・「堂上」堂上家。昇殿を許された四位以上の、公卿に列することの出来る家柄を言う。
・「人目有ばとて彼後家を養母分にして、其身養子の心どりにて夜は夫婦の交りをなしぬ」とあるからには、この若者(二十代か)と後家(三十以上四十前後迄か)は十歳以上は離れていた感じである。
・「金銀を以御徒の明きを讓り得て」「御徒」とは「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。公的には違法ながら、当時、御徒の株は密かに売買されていた。一般に「与力千両、御徒五百両、同心二百両」と言われた。この後家、そんじょそこらの金持ちではない。
・「御譜代の席へ轉じ」通常、御徒はその代一代限りの御勤めであったが、ここではこの男が例外的な譜代(世襲)の御徒の身分を与えられたことを指す。
■やぶちゃん現代語訳
思いも寄らぬ幸いにより身を立てた事
近江国生まれのある男、上方の複数の堂上家(とうしょうけ)なんどにも奉公した経歴があったが、何分、身持ちが宜しくなかったがため、たびたび浪人なんどに落ちておった。
ある時、流石に京(みやこ)ではとても立身なんども成り難しと思い、僅かな蓄えを持って東都へ下ることにしたのだが、途中で路銀を遣い切ってしまい、如何とも仕難く、箱根湯本に暫くの間(あいだ)逗留致し、その間(ま)に昔、少し覚えのあった鍼やら按摩やらを湯治客に施してその日稼ぎの暮らしておった。
ある日のこと、大坂町人の後家が一人、かの温泉に来たって入湯致いたが、体調不快にて、かの按摩が施療を施した。何度か施術を頼む内に、二人は親密な仲となり――この後家、希代の淫婦であったものか――この男と密かに通じて男女の交わりをもなすに至った。
ある時、寝物語に、この後家が男に訊ねた。
「……見ればあんた……まだ若こう程に……何処の生まれやねん?」
そこで、若者はこれまでのこっ恥かしい軽薄な半生を語ったところ、
「……ほなら……私(わて)はこれから江戸表の親類の宅(うち)を訪ねるところやよって……一つ、一緒に行きまひょ。」
ということになり、暫く湯本に逗留した後(のち)、若者はこの後家に同道して江戸へ出たのであった。
年齢差が激しために人目を忍んで、かの後家は養母、かの若者はその養子との触れ込みで、夜は夜で密かにしっぽりと夫婦の交わりをなしておった。
この後家の実家は、大阪でも有数な豪商であったために、後家は金銀に物を言わせて御徒の空きを譲り受け、若者をまんまと御徒役に就かせることに成功、更にその後(のち)も京家の縁なんどを頼って、奥の手蔓を巧妙に駆使して、若者の上司に働きかけたりなどした故、ほどなく組頭と相成り、やがて後にはまた、何と御譜代の席へまで出世致いたのであった。
さても今は、その後家――その老婦もすでに亡くなったとの由である。
――最後に。ちょいと、この話で面白いのは――その後家――その老婦が存命中は、若者――いや、最早――中年になりかかって御座ったその男では御座ったが――妻を娶(めと)ることは許されず――また、遊廓へ参っての遊女なんどと戯れるといったことさえも――かの『養母』から殊の外、厳しゅう禁じられて御座ったとか。……いやいや、それは当然のことにては御座るのう。
*
奇物を得て富し事
予が知れる與力に角田(すみた)何某といへる人あり。加賀屋敷邊に有て身上(しんしやう)もよろしく暮しけるが、右角田と親しき山中某語りけるは、右の角田の家には不思議の事あり。彼親は至て放蕩にて金錢を遣ひ捨て不如意也しが、或日小日向櫻木町といへる古道具屋にて小さき長持を調しが、其作りも丈夫にて格好よりは遙に重き長持也しを、纔に金子百疋にて調へ、家來を差越(さしこし)て我家へ引とりぬ。然るに内の紙はりなども破れ損じ候處もありし故、引放し取繕んとせしが、餘りに底の厚き故鐵鎚などにてたゝき抔せしに、二重底の樣にも見へし故こじ放して板をとりけるに、底を二重にして右板の間に古金(こきん)をひしと並べ置たり。驚き悦て改めけるに數百兩を得し故、彼者も夫より節を改め日増に富貴に成しとかや。今に彼長持は角田の家寶として有りし由也。
□やぶちゃん注
○前項連関:後家に取り付いて大出世、古物の長持から百両の瓢箪から駒連関。放蕩不羈でも連関する。岩波版の長谷川氏注には『宝永(一七〇四―)以後の小説・講談などに類話多し。』とある。
・「與力」諸奉行等に属し、治安維持と司法に関わった、現在の警察署長に相当する職名。
・「角田何某」「山中某」ともに不詳。前者は「つのだ」か「すみだ」かも分からぬ。
・「加賀屋敷」加賀金沢藩前田家上屋敷は現在の本郷七丁目の東京大学本郷キャンパスの殆んどの部分を占めていた(北の現在の農学部のある場所は水戸藩中屋敷)。
・「小日向櫻木町」江戸切絵図で確認すると、護国寺門前から南東に延びる音羽通りが江戸橋にぶつかる手前の左右の音羽町九町目の外側の地域をそれぞれ同名の「櫻木町」と呼んでいる。一種の飛び地か、若しくは江戸橋の手前の細い敷地で繋がっていたものか。
■やぶちゃん現代語訳
奇物を得て富貴になった事
私が知っている与力に角田某という御人がおる。加賀屋敷辺に屋敷を持ち、相応に裕福に暮らして御座るが、この角田と親しい山中某が、この角田家に纏わる話を聞かせて呉れた。
「……この角田の家には不思議なことが御座いましてな。……彼の親は、失礼乍ら至って放蕩不羈にして、金銭を湯水のように遣い果たして……遂には痛く困窮するように成り果てたと言います。……
……さてもある日のこと――彼――彼の父親が、金もないのに道楽で小日向桜木町辺りにあったという古道具屋にて小さな長持を買(こ)うたので御座いましたが、これまた、造作も頗る頑丈、見た目よりも、これがまた遙かに重い。……それを、まあ、何と僅か金子十疋にて買い入れ、家来に命じて我が家へと引き取ったので御座います。……
ところが、いざ、品を改めてみますると、内張りの紙なんども無惨に破れて御座ったれば、もう、みな引き剥がして張り直し繕わんと致しましたところが、……ふと見ると、これ、余りにも底が厚い。……不審に思うて、鉄槌なんどでがんがん叩いてみましたところが、……これが……どうも二重底のように見える……更に、がんがんやらかして、遂に内側の底の部分をこじ開けてみましたところが、……底板を取る……と、案の定、二重底にて……そこに……何と古びた金貨が、これまたびっしり! と並んで御座ったので御座います……驚きもし、悦びもし……改めてみましたところが、金数百両!……これを得てより――彼――彼の父は節を改め、日増しに富貴に成った、とかいうことにて……今に至るまで、この長持は角田家の御家宝として御座る、とのことで御座いまする……。」
*
下賤の者は心ありて可召仕事
或人年久敷召使ひける中間有。あくまで實躰にて心も又直(ちよく)成(なる)者也しが、或年主人御藏前取(まへとり)にて御切米玉落(たまおち)ける故、金子請取に右札差の許へ可行處しつらひありて不行、彼者に手紙相添て金受取に遣しけるが、其日も暮夜に入ても歸らず翌朝にも歸らざれば、偖(さて)は金子受取出奔なしけるか、數年召仕ひて彼が志を知りたるに出奔抔すべき者にあらず、しかしとて人を遣し見けれ共見えざれば、出奔いたす成べし、扨々人はしれざるものと大に後悔なしけるに、晝過にも成りて彼者歸りて懷中より金子并札差の寄附ども取揃へ主人へ渡しける故、如何いたし遲かりしやと尋ければ彼下人申けるは、私には暇を給べしといゝける故、彌々驚き、いか成事也とて委く尋れば、此後も有べき事也、いかほど律儀にて年久敷召仕ひ給ふ共、中間抔に金子百兩程持すべきものにあらず。我等事數年御懇意に召仕ひ給ひて、我等も奉公せん内は此屋敷不出と存るが、昨日札差にて金子百兩程我等受取て歸る道すがらつくづく存けるは、我等賤しく生れて是迄か程の金子懷中なしたる事なし。此末か程の金子手に入事あるべきやも難計。今盜取て立退ば生涯は暮し方可成とて、江戸表を立退候心にて千住(せんじゆ)筋迄至り大橋を越て段々行しが、熟々考れば主人も我身實躰者と見極給へばこそ大金の使にも申付給へ、然るを是迄の實躰に背き盜せんは天命主命恐るべし愼むべしとて、又箕輪迄立歸りしが又惡心出て、兎角は世をわたる事百金あれば其身の分限には相應なりとて亦々立戻り、或ひは思ひ直してたゝずみなどして、昨夜は今朝迄も心決せず迷しが、幾重にも冥加の恐しさに善心に決定して今立歸りぬ。かゝる惡心の一旦出し者召使ひ給はんもよしなければ暇を給るべしといひしに、主人も誠感心して厚く止め召仕ひけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:金銭への人の執着の根深さで連関。
・「御藏前取」幕府の旗本・御家人の場合、凡そ一割の者が知行地を与えられ、そこから取れる米の四割を税として徴収して生活をしていた。これらを『知行地取り』と言った。それに対して、残りの大多数の旗本・御家人は『蔵前取り』『切米取り』で、幕府の天領から収穫した米を浅草蔵前から春夏冬の年三回(2月・5月・10月)に分けて支給された。多くの場合、『蔵前取り』した米は札差という商人に手数料を支払って現金化していた。
・「御切米玉落ける」前注で示したように『蔵前取り』『切米取り』を受ける旗本・御家人は支給期日が来ると『御切米請取手形』という札(ふだ)が支給され、その札を受け取り代行業者であった札差に届け出る。札差は預かった札を書替役所に持参の上、そこで改めて交換札を受け取り、書替奉行の裏印を貰う。その後、札差が札旦那(切米取り)の札を八百俵単位に纏め、半紙四つ切に高・渡高(わたしだか)・石代金・札旦那名・札差屋号を記して丸めて玉にし、御蔵役所の通称『玉場』に持参した。この玉場には蓋のついた玉柄杓という曲げ物があって、役人は札差が持ち寄った玉を纏めて曲げ物の中に入れる。この曲げ物の蓋には玉が一つずつ出る穴があって、役人が柄杓を振ると、玉が落ちて出てくる仕組みになっていた。玉が落ちると、札差は玉(半紙)に書かれている名前の札旦那に代わって米や金を受け取る。そうして同時に札旦那に使いの者を走らせ、玉が落ちた旨を報知、知らせを受けた札旦那は、札差に出かけて現金化した金や現物の米を受け取るというシステムであった。岩波版長谷川氏の注によると、この支給米は『二月・五月は四分の一ずつ、これを借米(かりまい)といい、十月に二分の一、これを切米とい』ったとあるから、この話柄のシチュエーションは秋10月のことと思われる。
・「しつらひ」これは「差しつかへ」の誤記と思われる。
・「千住筋迄至り大橋を越て段々行し」「千住」は日光(奥州)街道の宿場として発展した。江戸から最初の宿場町に当たり、東海道の品川宿・甲州街道の内藤新宿・中山道の板橋宿と並ぶ江戸四宿の一つ。「大橋」は隅田川に架かる橋で日光街道(現在の国道4号)を通す千住大橋のこと。南千住と北千住を繋ぐ。以下、ウィキの「千住大橋」より一部引用する。『最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と思われる』。
・「箕輪」三ノ輪とも書く。江戸から見て千住の手前、現在の台東区中央部分の北の端に位置する地名。当時の江戸湾に突き出た武蔵野台地の先端部に相当することから水の鼻(みのはな)と言われ、これが転訛して「みのわ」になったといわれる。三ノ輪村原宿として宿場町として形成されたが、延亨2(1745)年には隅田川の宿場として原宿町が独立している。
・「冥加」には一つ、『人知にては感知できない、気がつかないうちに授かっている神仏の加護や恩恵。また、思いがけない幸せ。冥助。冥利。』という意味があり、更に『神仏の加護・恩恵に対するお礼。』の意味があるが、ここでのように「冥加の恐しさに」といったネガティヴな意味での使用法はない。この「恐しさ」というのをとりあえず「畏れ多き神仏の冥加に」と読み替えて現代語訳してみた。
■やぶちゃん現代語訳
下賤の者は心して召し使わねばならぬという事
ある人が久しく召し使って御座った一人の中間があった。
如何にも実直にして心映えも真っ直ぐなる者であったが、ある時、御切米が玉落ちしたとのことで、本来は主(あるじ)自らがその金子を受け取りに札差を訪れるはずであったが、よんどころない所用があったがため行けず、かの中間に手紙を添えて金子受け取りに遣わした。
ところが、この中間、その日も暮れて夜になっても帰って来ず、翌朝になっても戻らなかった。主は、
「……さては金子を受け取ってそのまま出奔致いたか?……それにしても長年召使い、あの男の正直なる志も、よう分かっておる……とてもそのように横領出奔致すような男には見えなんだが……」
と人を遣って捜させてみたけれども、やはり行方知れずであった。
「……やはり出奔致いたので御座ろう。……さてさて、人品は分からぬものじゃ……」
とひどく後悔致いておったところ、その日の昼過ぎ頃にもなって、かの中間、戻って参り、懐(ふところ)から定額の金子并びに札差書付なんどをしっかり取り揃えて、黙ったまま、主人に渡した故、
「……如何なることにて、かく遅うなったか?……」
と糾したところ、中間は、
「……我にはお暇を下されよ……」
と一言だけ言う。
主はいよいよ驚き、
「……それはまた、一体、どういうことじゃ?」
と詳しく訊ねたところが、
「……この後(のち)も、このような同じことを仕出かすに違い御座らぬ……どれ程、律儀に年久しく召し使(つこ)うて御座ったとて……私のような中間風情に、金子を百両も持たすものにては御座らぬ……我らこと、これまで御懇意に召し使(つこ)うて頂き、我らも中間奉公致す内は、もう、この屋敷からは出でまいという所存にて御座いましたが……昨日……札差にて金子百両を受け取って帰る道すがら、つくづく考えましたことには……
『……我ら、賤しい身分に生まれてこの方……かほどの大枚の金子……懐中になしたること、これ、ない……この先、かほどの金子を手に入れること、これもあろうとも思われぬ……今、これを盗み取りてどこぞへ立ち退いたならば……これだけでも生涯の暮し、これ、成り立つであろう……』
と……それより、江戸表から出奔致す所存にて千住辺りまで至り……大橋を越えて……ひた走りに走りましたが……その間(かん)、つくづく考えてもみたので御座います……
『……ご主人さまに於かせられては……この我身を、真面目な男と見込んでおらるればこそ、この大金の使いにも申し付け下すったに……然るに、これまでの真率に背きてこの金子を盗んだとなれば……天命、主命如何なる咎が下るやも知れぬ……恐るべし! 慎むべし!』
という思いが募り、足をまた、箕輪まで返しましたが……再び悪心の出できて……
『……百両……百両じゃ……とかく百両あらば……渡世の路、この身にとっては十分過ぎる程に十分じゃて……』
と、またしても足を返し……いや、何度も何度もまた、思い直して呆然と立ち尽くしなんど致いて……昨夜来、今朝に至るまで、卑しき心なればこそ決することもならず、街道を行ったり来たり……迷って御座いました。……されど、重ね重ね、今までの畏れ多い神仏の冥加を思うた末……ようやっと善心と決定致いて……恥ずかし乍ら帰って参りました。……かかる悪心を一度(ひとたび)心に生じた者を、向後も召し使うは、由なきことなれば、どうか、お暇(いとま)頂きとう御座る……」
と申した。
主人が、誠(まっこと)心より感心致いて、中間の申し出を慰留の上、後、永く彼を召し使ったことは、言うまでもない。
*
鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事
眞言宗日蓮宗の僧侶、專ら祈禱をなして人の病勞を治せん事を受合ひ、甚しきに至りては藥を呑ては佛神の加護なし、祈禱の内は藥を禁じ、護符神水抔用ひ可申と教示する族あり。愚民鬼女子の信仰渇仰する者に至りては、其教を守り既に死んとするの病父母子弟にも藥を與へざるあり。かゝる愚成事や有べき。旦(かつ)僧山伏の類ひも、己が法力の靈驗いちじるきを知らせんが爲か、又は物は一途になくては成就なさゞるとの心哉、又は其身釋門に入て書籍をも覗きながら愚昧なるゆへや、人の命をかく輙(たやす)く心得取あつかひける存念こそ不審なれ。かゝる輩いかで天誅をまぬがれんや。實におかしき事のありしは、予が知れる富家に山本某といへる者、中年過て大病也しが、四ツ谷邊の祈禱僧の功驗いちじるきと聞て相招きければ、其病躰を見て隨分快氣疑ひなし、我等一七日(ひとなぬか)祈なば結願の日には枕もあがらんといと安々と請合し故、家族の喜び大かたならず、大造(たいそう)の祈禱料に日々の初尾(はつを)散物(さんもつ)其外音信(いんしん)數を盡しぬるに、日毎に快驗疑ひなしと申けるに、七日に當りける日、俄に急症出て彼病人はかなく成ければ、妻子の歎き大かたならず、かゝる所へ彼僧來りて、いかゞ快哉と尋ければ、家内の者も腹の立餘り、御祈禱のしるしもなく身まかりし抔等閑(なほざり)に答へければ、彼僧更に不審成躰にて、さあるべき事にあらずとて、病床に至り得(とく)と樣子を見て、曾てかゝる事有べきにあらずと、猶讀經などして妻子に向ひ申けるは、猶暫く差置給へ、決(けつし)て蘇生あるべきなり、もし定業遁がれがたく病死にもあらば、未來往生極樂善處に至らん事は疑なしと言しとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。ゴリ押しで示すなら、「冥加の恐しさ」(こちらは神仏に冥加はないのであるが)で関連か。神道好き仏道嫌い(特に日蓮宗は不倶戴天)の根岸流宗教批判譚シリーズの一。
・「四ツ谷」現在の新宿区南東部(凡そ市ヶ谷・四谷・信濃町等のJRの駅に囲まれた一帯)に位置する地名。時代によっては江戸城外堀以西の郊外をも含む内藤新宿・大久保・柏木・中野辺りまで拡充した地名でもあった。
・「輙(たやす)く」は底本のルビ。
・「大造(たいそう)」は底本のルビ。
・「初尾」初穂(はつほ)。通常は、その年最初に収穫して神仏や朝廷に差し出す穀物等の農作物及びその代わりとする金銭を言う。ここでは所謂、日々の診断料相当の費用を言うのであろう。室町期以降は「はつお」とも発音し、「初尾」の字も当てた。
・「散物」賽銭や供物。散銭。
・「音信」音信物。進物のこと。
・「得(とく)と」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
鬼神を信じ薬剤を捨てるなんどという迷妄の事
真言宗や日蓮宗の僧侶は、専ら祈禱をなして人の病苦を癒さんことを公然と請け合い、甚だしきに至っては、
――薬なんどを飲んでおっては神仏の冥加は到底得られぬ。祈禱を受けて療治するからには、薬を禁じ、護符・神水などを用いねばならぬ――
なんどと教示する輩までおる。愚かな民草や婦女子のうちでも、特に信心篤く渇仰(かつごう)して御座る者に至っては、そうした理不尽なる教えを頑なに守り、今にも死にそうな病んだ父母子弟にさえ薬を与えない者がおる。このような愚かなることがあって良いものか?! 全く以って誤りである!
尚且つ、僧侶や山伏の類いも――はたまた、己の法力の霊験が著しくあること知らしめんがためか――はたまた、願(がん)というものは一途な心なしには成就致さぬという真理を悟らせんがためか――はたまた、その身は仏門に入り、書籍をも相応に覗き見乍らも、結局、智として身に附かずして愚昧のままなるためか、人の命を、かく軽んじて取り扱うという存念は、これ、甚だしく不審である! かかる輩が、どうして天誅を免れんということがあろうか!
ここにとんでもない――話としては不敬乍ら――面白い話が御座る。
私の知る人がりの富豪に山本某という者、中年過ぎてから大病を患い、四谷辺の祈禱僧で、功験著しいという噂の、怪しげなる輩を招いてその病状を見て貰ったところ、
「いや! かかる程のものなれば、快気間違いなし! 我ら、一週日、七日間祈らば、結願の日には、床上げ、これ間違いなし!」
と如何にもた易きことの如、安請け合い致いた故、家族の喜び方も並大抵のものではなく、さすればこそ大層な額の祈禱料に加えて、日々の初穂や賽銭その他進物にも手を尽くした。
――ところが――
「日に日に快気致すこと疑いなし」との祈禱僧の言葉とは裏腹に、祈禱を始めて丁度七日目に当たる日、俄かに病状が急変、山本某はこの世を去って仕舞(しも)うた。
妻子の嘆きも、これ、並大抵のものではない。
そこへまた、かの僧がやって来た。
「如何で御座る? 快気致いたか?」
と訊いてきたので、家内の者ども、腸が煮えくり返る思いのあまり、
「……御祈禱の効験、これなく……たった今身罷ったばかり……」
と恨みを含んで、吐き捨てるように答えた。
すると僧は、あろうことか未だに解せぬという表情をして、
「さても? そのようなこと、あろうはずがない。」
と、既に逝去した山本の遺骸の枕頭に赴き、一目瞭然の死骸を見つつ、なおも、
「かつてかくなるためしもなく、かかるためしがあるべきものにても、これ、御座らぬ!」
などと平然と言い放ち、読経なんどをした上、嘆き悲しんで御座った妻子の方へ向き直ると、次のように告げた。
「今暫くこのままにして置かれるよい! いや、必ずや蘇生致す! しかしもし、万が一にも定業(じょうごう)遁れがたく、このまま蘇生叶わず病死致いた、ということになったとしてもじゃ、未来往生極楽善処に至らんことは、これ、間違いなし、じゃて!」
と。
*
名によつて威嚴ありし事
小石川白山御殿に千ノ都(いち)と言る座頭(ざとう)有しが、予が許などへも來りし事あり。此者白山下を通りしに、折節何檢校とかいへるに行逢しに、手引もなければ知らざりしを、彼檢校の手引に聲を掛けるに、會釋等閑(なほざり)なりければ、檢校大に怒りて千ノ都を引居(ひきすゑ)させ、座法の無禮捨置きがたき由にて罵り怒りける故、千ノ都も恐入て品々詫言などしけれど何分承知せざりしに、白山御殿最寄にて神職なしける鈴木美濃といへる有りて通りかゝり、兼てしれる千ノ都故、氣の毒に思ひ立寄て詫いたしけるに、檢校申けるは、御立入の儀御尤には候得共、座法の儀は他の人の御構ひ有べきにあらず、御名前は何と申ける人やと尋ければ、鈴木美濃守と答へけるにぞ、扨は歴々の事也と思ひて、御身の御挨拶に候はゞ免し遣わぬとて許容なしける故、千ノ都を召連美濃は立別れぬ。跡にて手引に向ひ、美濃守樣の御同勢は脇にひらき居候やと尋し故、大名旗本の類ひとおもひけるならんと、傍に聞居たりし人の語りて大に笑ひぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。いや、神道好きの根岸には、人でなしの祈禱僧の冥加より、神主の御加護の方が信じられるという連関か。
・「千ノ都」この「ノ都」(のいち)という呼称は「一名(市名・都名)」と呼ばれるもので、古くは琵琶法師などがつけたもので名前の最後に「一」「市」「都」などの字が付く。特に、鎌倉時代末期に如一(にょいち)という琵琶法師を祖とする平曲の流派が特にこの名をつけたので、一方(いちかた)流と呼ばれたが、その後は琵琶法師に限らず広く一般の視覚障害者も用いるようになったものである。
・「小石川白山御殿」底本鈴木氏の先行注に『いまの文京区白山御殿町から、同区原町にまたがる地域にあった。五代将軍綱吉が館林宰相時代の住居。綱吉没後は麻布から薬園を移し、一部は旗本屋敷となった』とある。本来は白山神社の跡地であった。注にある「館林宰相」について、ウィキの「徳川綱吉」より引用しておく。綱吉は三代将軍家光の四男として生まれ、『慶安4年(1651年)4月、兄の長松(徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。同月には将軍・徳川家光が死去し、8月に兄の徳川家綱が将軍宣下を受け綱吉は将軍弟となる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任』、『明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失したために9月に神田へ移る。寛文元年(1661年)8月、上野国館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となる(館林徳川家)が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される』ようになった。その後、『延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に継嗣がなかったことからその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け内大臣とな』ったのであった。なお、根岸もこの白山に居住していた時期があった(次章参照)。
・「座頭」以下、ウィキの「座頭」より引用する。『江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼びかけとしても用いられた』。『元々は平曲を演奏する琵琶法師の称号として呼ばれた「検校(けんぎょう)」、「別当(べっとう)」、「勾当(こうとう)」、「座頭(ざとう)」に由来する』。『古来、琵琶法師には盲目の人々が多かったが、『平家物語』を語る職業人として鎌倉時代頃から「当道座」と言われる団体を形作るようになり、それは権威としても互助組織としても、彼らの座(組合)として機能した。その中で定められていた集団規則によれば、彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた』。『江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。また座頭相撲など見せ物に就く者たちもいたり、元禄頃から官位昇格費用の取得を容易にするために高利の金貸しが公認されたので、悪辣な金融業者となる者もいた』。『当道に対する保護は、明治元年(1868年)に廃止されたという』(以下の「検校」注も参照のこと)。
・「撿挍」「検校」に同じ。検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには73の位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで73段に及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて719両が必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある(文中の「勾当」(こうとう)とはやはり盲官の一つで検校・別当の下位、座頭の上位を言う)。この話柄の検校は相応に実力者であるやに見受けられるが、供の者を引き連れ、なお一人歩きの座頭千ノ都に難癖をつけるところをみると、ただ羽振りのよい金貸しの検校のようにも見えぬことはない。
・「會釋等閑」岩波版長谷川氏注によれば、寛政10(1798)年作山東京伝「四時交加」(しじのゆきかい)に『検校の前で路上で座頭が下駄をぬいで土下座の様を描く。こうするのが法なのであろう。』と記されている。
・「引居(ひきすゑ)させ」は底本のルビ。
・「美濃守樣の御同勢は脇にひらき居候や」という検校の台詞は恐らく、自分ではそのような感じ(周囲に大勢の供の者がいるような)がしなかったことを、やや不審としての発言ででもあったかも知れない。
■やぶちゃん現代語訳
名によって威厳の効果のある事
小石川の白山御殿に住む千ノ都(せんのいち)という座頭が御座って、私の家などにもかつて施療に出入りして御座った。
ある時のこと、この者が白山を歩いていたところが、折りから某(なにがし)検校とすれ違(ちご)うた。その折り、千ノ都には手引きしている者がいなかったため、彼は相手が検校だと気付かなかった。ところが、検校の手引きに対して声をかけた千ノ都が、先様が検校であることが分かってその後からの、検校への挨拶が等閑(なおざり)であったということで、検校が大いに怒った。
手引きの者に命ずるや、千ノ都を地べたに引き据えさせると、
「座法の無礼、捨て置き難し!」
と大いに罵り、怒り心頭に発している。
野次馬も増えてきた。
千ノ都も恐れ入って、いろいろと詫び言なんども致いたのだが、何分、検校自身が承知しない。
と、そこへ白山御殿近くで神主をして御座った鈴木美濃という者がおり、偶々そこを通りかかった。かねてより知り合いで御座った千ノ都のこと故、気の毒に思って、立ち寄って一緒になって詫びを入れたところが、検校曰く、
「仲介の義は尤もなことなれども、当道座座法の儀は、他(ほか)のお人の、お立ち入りあるべからざることにて。……時に、貴殿、お名前を何と申されるお人か?」
と訊くので、
「……鈴木美濃守。」
と神主が名乗ったところ、検校、『さてはこれ、幕臣御歴々のお方にてあったか』と思い、
「……あー、御身の御挨拶にて候なれば……免じて遣わすことと、致しましょうぞ……」
と許された故、神主の美濃は千ノ都を召し連れてその場を去った。
その後(のち)、検校、手引きの者に向かって、
「……美濃守様なれば、御家来衆はさぞ、左右に大勢控えて御座ったろうのう?……」
などと訊ねた、とのことである。
――――――
「……およそ、この検校、鈴木美濃のことを、大名か旗本と勘違致いて御座ったのでしょう。……」
と、野次馬として傍らで見物していたという人が、大笑いしながら私に語った。
*
高利を借すもの殘忍なる事
世の中に高利の金銀を借し或ひは日なし拜借し渡世する者程殘忍なるはなし。日なしの錢抔貸す者は、釜に入し米をも釜共に奪ひ歸りて借錢につぐなふ事成由。予白山に居たりし時、其最寄に無賴の少年有りて、放蕩の者故後は我許へも來りざりしが、彼者ある高利借の老姥(らうぼ)に便り催促役抔いたしけるが、或時裏屋の借錢乞に參り候樣、老姥の差圖に任せ至りけるに、夫は留守にて女房計(ばかり)居たりしが、一子疱瘡(はうさう)を愁ひて二枚折の小屏風に風を凌ぎ寒天に薄き※(よぎ)など打かけて介抱なし、借錢の事を申出しければ、かくの通一子疱瘡にて返すべきあてもなし。暫く春迄待給はるやう涙ながら申けるにぞ、尤の事に思ひて立歸りて老婆に其事申ければ、老婆大きに憤り、かゝる不埒の使やある、師走の催促其通りにて可相成哉(あひなるべきや)、病人へ着せし※にても引剥(ひはぎ)來るべき事也と罵りけるぞ、又々彼病家へ至りて老姥が申條しかじかの事也と語りて、工面なし給へ、我等不來(きたらず)ば彼老姥來りていか成事かなすべしといひければ、彼女房涙ながら立出で、其身の着せし布子(ぬのこ)やうの物を賣りて金子壹分持て彼者に渡しけるが、極寒にひとへを着し寒さを凌ぎても、我子の※をとるに忍ざる恩愛の哀れ思ひやられ、無賴の少年ながら請取し壹分の金は拳に踊る心地して老婆に渡しければ、能(よく)こそ取來りたりとて笑ひ請取りけるが、餘りの恐しさに夫よりは彼少年も老姥と交をたちて寄宿せざりしと也。
[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]
□やぶちゃん注
○前項連関:根岸が一時住んでいた白山町での出来事として連関。人でなしという点では、先行した死に至らしめても平然としていた「鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事」の祈禱僧の輩への根岸の怒りとしても連関するようにも思われる。これをもっと意地悪く考えるなら、もっと先行する「窮借手段之事」の借金取り回避の同工異曲のやり口のイカサマではないと否定は出来ないが、そこまで深読みするには余りに根岸の口調は真摯であるから、採らない。
・「借す」当時は「貸」「借」どちらでも同義で相互に用いた。
・「日なし」これは「日濟(済)し」と書いて「ひなし」と読む。日済し金のことで、毎日少しずつ返す約束で貸す金を言う。
・「白山」前章注「白山御殿」参照のこと。
・「疱瘡」天然痘。以下、ウィキの「天然痘」より引用する。天然痘は『天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ、治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症』。『その恐るべき感染力、死亡率(諸説あるが40%前後とみられる)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となった事すらある。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた』。『天然痘ウイルス(Variola virus)は、ポックスウイルス科オルソポックスウイルス属に属するDNAウイルスである。直径200ナノメートルほどで、数あるウイルス中でも最も大型の部類に入る。ヒトのみに感染・発病させるが、膿疱内容をウサギの角膜に移植するとパッシェン小体と呼ばれる封入体が形成される。これは天然痘ウイルス本体と考えられる。天然痘は独特の症状と経過をたどり、古い時代の文献からもある程度その存在を確認し得る。大まかな症状と経過は次のとおりである』(学名のフォントを変更した)。以下、「臨床像」パート(前段の一部を省略するが、それ以降は改行が多いので、そのまま引用する)。
《引用開始》
飛沫感染や接触感染により感染し、7~16日の潜伏期間を経て発症する。
40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。
発熱後3~4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
7~9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
2~3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
治癒後は免疫抗体ができるため、二度と罹ることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。
天然痘ウイルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたでも1年以上も感染させる力を持続する。天然痘の予防は種痘が唯一の方法であるが、種痘の有効期間は5年から10年程度である。何度も種痘を受けた者が天然痘に罹患した場合、仮痘(仮性天然痘)と言って、症状がごく軽く瘢痕も残らないものになるが、その場合でも他者に感染させる恐れがある。
《引用終了》
次に、歴史が示される。『天然痘の発源地はインドであるとも、アフリカとも言われるが、はっきりしない。最も古い天然痘の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争の頃であり、また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世である。彼のミイラには天然痘の痘痕が認められた』(ヨーロッパ及びアメリカでの天然痘疾病史がここに入るが省略する)。『中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た』。『日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年には敏達天皇が崩御するが、天然痘によるものではないかという見方もある』。『735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死亡した。こうして政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行である』。『ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。天皇さえも例外ではなく、東山天皇は天然痘によって崩御している他、孝明天皇の死因も天然痘といわれる。明治天皇も、幼少時に天然痘にかかっている』。『北海道には江戸時代、本州から渡来した船乗りや商人たちによって、肺結核、梅毒などとともに伝播した。伝染病に対する抵抗力の無かったアイヌ民族は次々にこれらの病に感染したが、そのなかでも特に恐れられたのが天然痘だった。アイヌは、水玉模様の着物を着た疱瘡神「パコロカムイ」が村々を廻ることにより天然痘が振りまかれると信じ、患者の発生が伝えられるや、村の入り口に臭いの強いギョウジャニンニクや棘のあるタラノキの枝をかかげて病魔の退散を願った。そして自身は顔に煤を塗って変装し、数里も離れた神聖とされる山に逃げ込み、感染の終息を待ちつづける。しかしこのような行為に医学的な効果があるわけでもなく、江戸期を通じて流行は繰り返され、和人商人のアイヌ酷使も相まってアイヌ人口は大いに減少した。幕末にアイヌ対象の大規模な種痘が行われ、流行にようやく歯止めがかかった』。以下、「制圧の記録」として「種痘」の解説が掲げられている。『天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に知られていた。いつ始まったのかはわからないが、西アジア・インド・中国などでは、天然痘患者の膿を健康人に接種し、軽度の発症を起こさせて免疫を得る方法が行なわれていた。この人痘法は18世紀前半にイギリス、次いでアメリカにももたらされ、天然痘の予防に大いに役だった。しかし、軽度とはいえ実際に天然痘に感染させるため、時には治らずに命を落とす例もあった。統計では、予防接種を受けた者の内、2パーセントほどが死亡しており、安全性に問題があった』。『18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘にかかった者は天然痘に罹患しない事がわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー (Edward Jenner) が1798年、天然痘ワクチンを開発し、それ以降は急速に流行が消失していった。なお、ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする美談もあるが、実際にはジェンナーの使用人の子に接種した』。『日本の医学会では有名な話として日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔が、ジェンナーの牛痘法成功にさかのぼること6年前に秋月の大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施し成功させている。福岡県の甘木朝倉医師会病院にはその功績を讃え、緒方春朔と天野甚左衛門、そして子供たちが描かれた種痘シーンの石碑が置かれている』。以後は近代の経緯。『1958年に世界保健機関(WHO)総会で「世界天然痘根絶計画」が可決され、根絶計画が始まった。中でも最も天然痘の害がひどいインドでは、天然痘に罹った人々に幸福がもたらされるという宗教上の観念が浸透していたため、根絶が困難とされた。WHOは天然痘患者が発生すると、その発病1ヶ月前から患者に接触した人々を対象として種痘を行い、ウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させる事で天然痘の感染拡大を防ぐ方針をとった。これが功を奏し、根絶が困難と思われていたインドで天然痘患者が激減していった』。『この方針は他地域でも用いられ、1970年には西アフリカ全域から根絶され、翌1971年に中央アフリカと南米から根絶された。1975年、バングラデシュの3歳女児の患者がアジアで最後の記録となり、アフリカのエチオピアとソマリアが流行地域として残った』。『1977年、ソマリアの青年の患者を最後に天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日にWHOは根絶宣言を行った。天然痘は現在自然界においてウイルス自体存在しないものとされ人類が根絶した(人間に感染する)感染症として唯一のものである』。『天然痘ウイルスは現在、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)とロシア国立ウイルス学・バイオテクノロジー研究センター(VECTOR)のレベル4施設で厳重に管理されており非公開になっている。公式に保有が認められているのは上述2機関のみであるが、ソ連崩壊の混乱で一部が国外に流出しテロリスト組織などが保有しているとの説や各国の軍が防疫・研究の目的で密かに保有しているとの説もある。このため、CDCとVECTORも保有株を完全に廃棄するには至っていない』。本邦では、1970年代に国外から持ち込まれた数例がある以外、『独自の発生は1955年の患者を最後に根絶された』。『WHOによる根絶運動により、1976年以降予防接種』は廃止されている。『1978年、イギリスのバーミンガム大学医学部に勤務する女性が、実験用の天然痘ウイルスに感染して死亡した事例が有る。これは1人の研究者が実験用の天然痘を漏洩させてしまい、女性が感染したものである(漏洩させてしまった研究者は罪の意識で自殺)。これがいわゆるバーミンガム事件である』。『現在では天然痘ウイルスのDNA塩基配列も解読されており解析はほぼ終了している』。以下、「予防・治療」の項、『「種痘」というワクチン接種による予防が極めて有効。感染後でも4日以内であればワクチン接種は有効であるとされている。また化学療法を中心とする対症治療が確立されている』とある。『根絶されたために根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に5~10年といわれているため、現在では免疫を持っている人はほとんどない。そのため、生物兵器としてテロに流用された場合に大きな被害を出す危険が指摘されて』おり、更に一部に『天然痘そのものは根絶宣言が出されたが、類似したウイルスの危険性を指摘する研究者がいる。研究によれば、複数の身近な生物が類似ウイルスの宿主になりうることが示されており、それらが変異すると人類にとって脅威になるかもしれないと警告している』。『天然痘はかつての伝染病予防法では法定伝染病に指定されていた』が、現在も1999年施行された新しい感染症法によって一類感染症7疾患(擬似症患者及び無症状病原体保有者についても患者として強制措置対象となる感染症)エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、南米出血熱、ペスト、マールブルグ熱、ラッサ熱と共に掲げられている。
・「※(よぎ)」[「※」=「衤」+「廣」。]夜着。寝るときに上に掛ける夜具で、着物の形をした大形の掛け布団。かいまき。
・「布子」木綿で出来た綿入れ。
・「壹分」岩波版では「一歩」(いちぶ)。これは、借りていた金の「一部分」という意味で用いているものと思われる。江戸の「一分」は相当な高額(1両の1/4。凡そ15,000円相当)で、布子一枚で手に入る金額ではない。
■やぶちゃん現代語訳
高利貸しの残忍なる事
世の中で高利の金銀を貸し若しくは日済(ひな)しなど貸して渡世する者ほど残忍な輩は御座らぬ。日済しの銭なんどを貸す者には、釜に入った僅かな米さえ釜ごと奪って借銭の代わりとするともいう。
私が白山に住んでいた頃のこと、近所に一人の無頼の少年がおった。放蕩の者であったから、後には私のもとへも姿を見せぬようになったが、この少年がかつて私に語ったことにて御座る。
この少年、ある高利貸しの老婆を頼って、その借金の取り立て役なんどを致しておった由。
ある時、裏屋に借金取りに行くよう老女に命ぜられ、言われるがままにその裏屋を訪ねてみたところが、夫は留守にて女房ばかりが居り、未だ幼少の一人子はといえば、疱瘡を病んで臥せって、二つ折りの形ばかりの小屏風にて隙間風を凌ぎ、寒い季節にも関わらず如何にも薄い夜着を掛けただけで、介抱している。
少年が借金の返済を告げたところ、女房は、
「……見ての通り、子が疱瘡を病んでおりますれば……御借財を返すあてが御座いませぬ……どうか、どうか暫くの間……年明けの春までお待ち頂きますよう……」
と涙ながらに訴える。少年は、尤もなことと思い、立ち帰って老婆にその委細事情を伝えたところが、老女は大いに怒り、
「こんなとんでもない借金取りがあろうかい! ええつ?! 師走の貸した金の催促が、そんなもんで罷り通ると思ったら大間違いじゃて! その病人に被せた夜着でも何でも剥ぎ取って来るんだよう! 分かったかい?! この青二才が!」
と激しく罵られた。
少年は仕方なく再び先の裏家を訪れ、婆さんが何のかんのと申しておる旨、語った上、
「……何とか工面したがいいゼ……俺(おい)らが金を持って帰らなけりゃ……あの婆あ本人が駆け込んで来て……一体、何をするから、分からん剣幕じゃったからな……。」
と告げたところ、かの女房、少年に留守居を頼んで、涙を拭きながら家を出た。
暫くして帰って来た女房――さっきまで来ていた布子を売って、少しばかりの金を借金の返済の一部として拵えてきた女房――そのなけなしの銭を、かの少年に手渡した。極寒の中、薄い単衣(ひとえ)一枚を着て寒さを凌いでいる女房――自身がその寒さに震えながらも、流石に我が子の夜着まで質に入れるには忍びないというその女房の、母としての恩愛の情が哀れに思いやられ、無頼ながらも少年の心を激しく打った――。
――帰り道、握りしめた掌の内で、何やらん、受け取ったその金が、妙に落ち着かず、にちゃにちゃと気味悪く汗ばんでくるのが分かった。――
さて立ち帰って老婆にその金を渡したところが、
「よい!よい! でかしたのう! よう、取ってきた!」
と如何にも不気味に笑(わろ)うて受け取ったが――流石の恐ろしさに、以後、かの少年もかの鬼女とは縁を切って、二度と寄宿することはあらなんだ、ということであった。
*
その國風謂れある事
佐州は慶長元和の御當家御治世に至りて金銀涌出(ゆうしゆつ)彌(いや)増(まし)、往古より金銀を掘出し候國柄、數千年の今も絶ず涌出るの地也。金銀の稼に拘(かかは)り候者は、味噌を燒けば金氣を減らし候とて、國制にあらずといへ共燒味噌を不用、又四時の鐘を撞(うつ)にも捨鐘を撞(うた)ず。是(これ)音義(をんぎ)金を拾(すつ)るといへる事を忌(いみ)ての事ならん。然れば其國々によりて或は禁じ或は愛する事其謂れある事ならん。
□やぶちゃん注
○前項連関:金絡みで少しは連関するか。佐渡奉行として赴任した際の実録シリーズの一。
・「佐州」佐渡国。
・「慶長元和」西暦1596年から1624年。
・「御當家御治世」「慶長元和」は家康・秀忠・家光徳川家初代から三代に亙る幕藩体制の成立期である。
・「味噌を燒けば金氣を減らし候」岩波版長谷川氏注に、俗信として『「焼味噌をやくと金がにげるといへば」(孔子縞于時藍染・中)』と引用する。引用元は「こうしじまときにあいぞめ」と読み、山東京伝の黄表紙。これは推測であるが、味噌を焼くと更に塩分濃度が高まり、これが鍋釜庖丁などの金物に附着すると錆を生じやすいことからか。底本の鈴木氏注では、本記載が成されたのと同時期の天明6(1786)年『に成った『譬喩尽』に「焼味噌を好く者は金得延ばさぬ」とあり、これは箔屋のいうことで、箔打ちには焼味噌の匂を忌む。箔が延びないので嫌うと説明がある。京都のことわざだから箔屋に限るようにいうので、もとは金掘りの間に行われた俗信だったのであろう』とされる。「譬喩尽」は「たとえづくし」と読み、8巻からなる松葉軒東井編の俚諺集(別記載では1787年成立とも)。ことわざ以外にも和歌・俳句・流行語・方言等も所収する。
・「捨鐘」鐘によって時報をする場合、始まりを逸すると時刻が分からなくなるため、予め注意を促す目的で時報とは関係のない鐘を3度早く打ち、暫くしてからその時刻の数の鐘を突いた。この最初の三つを捨て鐘と言った。
■やぶちゃん現代語訳
それぞれの国の風習には相応の謂われがある事
佐渡ヶ島に於いては慶長・元和の頃、将軍家御治世に至ってからというもの、金銀の涌出、これ、いよいよ増加致いておるが、大昔より金銀を掘り出だして参った国柄にて、数千年経った今に至っても絶えず涌き出るという地である。
金銀の稼業に関わっておる者どもの間にては、味噌を焼くと金(きん)の気(き)を減らしてしまうと言うて、別段佐渡の国法として定めた禁制ではないものの、調味に焼味噌を用いぬ。
また、日々時刻を知らせる鐘を打つに際しても、所謂、我ら馴染みの捨鐘を打たない。これは「捨鐘」という言葉の音とその意味が所謂、『金を捨てる』に通ずることを忌みてのことであろう。
かくの如く、その国々によって或いは禁じたり、或いは殊更に好むこと、それぞれに謂われがあることなのであろう。
*
目あかしといへる者の事
古へは公(おほやけ)にも目あかしを遣ひ給ふ事あり。一名おかつ引と唱。一旦盜賊の中間に入て盜を業としける者を、其罪を免し惡黨を捕(と)る一助となす事也。然るに元來惡黨の事故、己が罪をまぬがれんため、かゝる盜賊の有所を知りたり、かく/\の惡黨を捕へ申させんなどいひて、却て罪なきの人を捕へ己が罪を免るゝ事多し。依之有德院樣御代より、おか引目あかし等の事堅く禁じ給ひぬ。然れども私儀には其後も此役をなせる者あり。尾州家に仕へし者語りけるは、いつの事にや、元來盜などなせる者其志を改しを、同心支配に申付て盜賊の防ぎをなし給ひしに、或日名護屋の町に同心與力の類ひ右の者を召連れ茶屋によりて休息せしに、年頃五十餘りの禪僧、モウスといへる頭巾やうの物をかぶりて、伴僧兩輩召連荷を持(じ)し家僕など一同六七人にて通りしを、彼目あかし見て、あれは盜賊ならん召捕へ給へと言(いひ)しが、出家の事殊に僧俗の召仕も見ゆれば麁忽(そこつ)の事ならんと申けるに、右主人の出家も外々の者上下の階級なし、伴僧兩人衣躰のぶり出家にあらずと達て進めし故、與力同心立寄りて咎(とがめ)押へけるに、案の如く伴僧僕など迯出(にげだ)せしを不殘召捕、主僧のモウスを引放し見けるにばち髮の大奴也。段々吟味なしけるに、道中所々徘徊なせる大盜賊にて有りしと也。或時彼目あかし、家中の若き人々を連立て物詣ふでなしける時、其方はいにしへは盜をなしける者、何ぞ取て見せよと若き人申ければ、今はかくの如く召仕(めしつかは)れ妻子を安樂に養ひ候事、偏(ひとへ)に天道の助け給ふ事、いさゝかにても古への業いたすべき心なし。然し慰(なぐさみ)の事に候間其眞似をいたし申さん、代錢を拂ひ候共、其品を返し候共、跡にて能々取計ひ給へとて、所々一所に歩行(ありき)けるが、暫くありて御慰の品盜取たりといひて見せけるに、大き成(なる)一番(いちばん)すり鉢を盜て見せける故、各々大きに驚き、かゝる大きなる品を如何いたし盜(ぬすみし)哉(や)と尋ければ、右瀨戸物やの鄽(みせ)へ各(おのおの)立寄給ひし時、手に持しあみ笠を摺鉢の上にかぶせ置、各(おの/\)歸り給ふ時摺鉢ともに編笠を持出たりと語(かたる)。かの代錢を僕に持せ瀨戸物屋へ遣し拂ひけるに、瀨戸物産にては右摺鉢の紛失をいまだ知らでありしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。私はこの話が好きだ。出来ることなら、この目あかしを心あらん友と得てしがな、と思うほどである。
・「目あかし」「おかつ引」以下、ウィキの「岡っ引」から引用する。『岡っ引、御用聞き(ごようきき)は江戸での名称。関八州では目明かし、関西では手先、または口問いと各地方で呼びかたは異なる』。『起源は軽犯罪者の罪を許し手先として使った放免である。江戸時代、法的にはたびたび禁じられたが、武士は市中の犯罪者について不分明なため、捜査の必要上、比較的軽い犯罪者が情報収集のために使われた。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた犯罪者の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ犯罪捜査自体が困難だったのである。親分と呼ばれる町、村内の顔役に委任されることも多い。配下に手下を持つことも多く、これを下っ引と称した。必然的に博徒、テキヤの親分が目明しになることも多く、これを「二足のわらじ」と称した』。以下、「江戸の場合」という項。『時代劇においては十手を常に所持していたかのように描かれているが、実際のところ公式には十手が持てず、必要な時のみ貸与されていた。同心、火付盗賊改方の配下とはなるが、町奉行所から俸給も任命もなかった。上記に記されたように、岡っ引は町奉行所の正規の構成員ではなかった。故に、岡っ引が現在の巡査階級の警察官に相当するように表現されていることがあるが、それは妥当ではない。現在の巡査階級の警察官に当たるのは三廻などの同心と考えるのが妥当である。ただし同心は管轄の町屋からの付け届けなどでかなりの実収入があり、そこから手札(小遣い)を得ていた。また、女房に小間物屋や汁粉屋等の店をやらせている者も多かった。同心の屋敷には、使っている岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。江戸町奉行所全体で岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという』。『半七捕物帳を嚆矢とする捕物帳の探偵役としても有名であるが、実態とはかなり異なる。推理小説研究家によっては私立探偵と同種と見る人もいる(藤原宰太郎など)』。以下、「地方の場合」の項。『江戸では非公認な存在であったが、それ以外の地域では地方領主により公認されたケースも存在している。例えば奥州守山藩では、目明しに対し十手の代わりに帯刀することを公式に許可し、かつ、必要経費代わりの現物支給として食い捨て(無銭飲食)の特権を付与している。また、関東取締出役配下の目明し(道案内)は地元町村からの推薦により任命されたため、公的な性格も有していた』とあり、本話の読解に極めて有益な記載満載である。この「江戸の場合」の記載を受けて、現代語訳には「江戸表での例は無数にあるものの、御役目上、非公認のものであればこそ示さぬが」という挿入を施して、根岸が江戸の岡っ引について語らないことの不自然さを補っておいた。後に佐渡奉行から勘定奉行(天明7(1787)年)そして江戸市中の司法のトップとも言うべき南町奉行(寛政10(1798)年)となった彼としては、勿論、そうした記載はやはり憚られたものと思う。もしかするとここには当初、江戸で親しく実見した岡っ引の例も示されていたものかもしれない。ところが後に町奉行になって、問題を認め、削除した可能性も考えられるように思われる。尾州御家中の岡っ引の話も冒頭「いつの事にや」と曖昧にしてあるのもそうした配慮によるものではあるまいか。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「尾州」尾張国。
・「モウス」帽子(もうす)。護襟(ごきん)という頭から被ったり、襟巻きとして耐寒のために着用する襟巻き型帽子(もうす)と帽子型の帽子(もうす)とがあるが、ここでは後者。禪僧が正式な法式の際、威儀を正すために着用する帽子のこと。中国宋代の禅宗に端を発し、鎌倉時代になって臨済宗・曹洞宗の伝来と共に日本に入ったとされる。現在のものは円筒形でかなり高さがあり、金色の飾り縁や筋が入っている。天頂は平たいが、古くは全体に丸みをおびたものであったらしい。
・「麁忽の事ならん」「麁忽」は「粗忽」で、「そそっかしい、早合点の物謂いじゃて。」と言った意味であろうが、直ぐ近くでかくはっきりと発言しているところから、やや、叱責するように「滅多なことを申すでない」の感じで意訳した。
・「ばち髮の大奴」岩波版長谷川氏注に『鬢の毛を三味線のばちの先のような形にそりこんだたいへんな奴頭。』とある。「奴頭」とは月代(さかやき)を広く深くそり込んで両方の鬢と後ろの頂に残した髪とで髷(まげ)を短く結んだものを言う。
・「家中」尾張藩尾張徳川家御家中。直前で岡っ引を禁制とした徳川吉宗を出しているあたり、これを、そのライバルとして尾張藩きっての有名藩主でもあった第七代藩主徳川宗春(元禄9(1696)年~明和元(1764)年)の御代のことであったと考えると、アップ・トゥ・デイトな臨場感があって面白いように思われる。
・「一番すり鉢」瀬戸物屋などで扱う擂り鉢の最も大きなもの。
・「瀨戸物産」底本ではこの「産」が右を上にして転倒している。注釈やママ表記もないところを見ると、これは底本自体の誤植であろうと思われる。岩波版では「瀨戸物屋」とあるので、それを採る。
■やぶちゃん現代語訳
目あかしという者の事
古えに於いては公的に『目あかし』に相当する者が使われていた時代があった。
今の世にては一名、『岡っ引き』と呼ぶ。
元来は盗賊の仲間の一党として盗みを稼業と致いておった者を、一旦、捕らえた上で、後、その罪を赦す代りに、悪党を捕縛する際の助けとして利用することを言うのである。
しかし、元々が悪党なのであるからして己(おのれ)の罪を免れんがために、「何々盗賊団の居所(いどころ)を知っている」であるとか、「かくかくの大悪党を捕える手立てをお教えしよう」なんどという、根も葉もない嘘を申し立てて、却って罪のない無辜(むこ)の民を捕えさせておいて、己の罪は免れるという不届きなることがあまりに多かった。
さればこそ、有徳院吉宗様の御代より、この岡っ引きや目あかしといった探索方の類いを、公的に表立って使うことは固く禁じられたので御座る。
しかし乍ら、江戸の同心や火付盗賊改方の方々の個人的な用人及び私領などでの同様の者の探索方間者としては、その後(のち)も、こうした役をなす者が存在している。
……江戸表での例は無数にあるものの、御役目上、非公認のものであればこそ示さぬが……
……例えば尾州家に仕えておるところのある御仁が、それに纏わる話を語って呉れたことがある。以下はその話である。――
何時頃のことで御座ったか、元来は盗みなんどを稼業と致せし者乍ら、その志を改めて真人間になった者を藩の同心支配と致いて、火付盗賊なんどの防備警戒の役目に当らせて御座った。
ある日のこと、名古屋の同心与力の面々が、そうした者を召し連れて、とある茶屋にて一息ついて御座ったところ、丁度、モウスという頭巾様(よう)のものを被った、年の頃五十余りの禅僧が、伴僧を二人召し連れ、他に荷を持った家僕なんど、総勢六、七人で通りかかった。
それを見た目あかしが、
「――あれは盗賊で御座ろうほどに、召し捕らえられるがよろしかろう。」
と言う。しかし見る限り、立派なる出家にて、殊にやはりそうとしか見えぬ伴僧と思しい召使いも付き従っているのも見受けられるので、
「……シィっ! これ! 滅多なことを!……」
と言下に叱したところ、
「――あの主(あるじ)体(てい)の出家も、その他の者どもも、禪家(ぜんけ)の上下の階級に従(したご)うた振舞いにては、これ、御座らぬ――。伴僧両人の衣服の着こなしも、これ、出家のそれとは、大いに違(ちご)うて御座る――なればこそ!……」
と、如何にも確信を持った、たっての薦めとなれば、そこらの与力同心ら、二手に分かれて、一方が一斉にずいっと立って連中の傍らへと寄り、
「おい! ウヌら! 待ていぃ!!」
と、強面(こわもて)にて咎めだて致いたところが――案の定、みんな、脱兎の如く逃げだそうとする――一そこのところを、一方から回った与力同心らが、これまた道を塞いで、難なく残らず召し捕らえた。――主僧の帽子を引き剥がしてみたところが――これがまたばち髪の大奴にて――しょっ引いて取り調べてみたところが、こ奴ら、東海道を徘徊しつつ、各所で押込み強盗を働いておった大盗賊であったとのことである。――
もう一件、この同じ目明しの話。
ある時、この目あかし、尾張家御家中の若者たちと連れ立って、物詣でに参った。その道すがら、
「その方は昔、盗みを働いておった者と聞くが……どうじゃ? 我らに、何ぞ偸(ぬす)み取って見せよ。」
と、若者の中(うち)の一人が言い掛けた。目あかしは、
「――今は、かく召し使われまして、妻子をも安楽に養うて御座いまする――これ、ひとえにお天道さまのお助け下すったことにて、いささかにても古えの悪しき業(わざ)を再び成さんなんどとは、思うたことも、これ、御座らぬ――御座らぬが――なれど、方々のお慰みのために、となれば――その真似事、これ、致しましょうぞ。……但し、皆様の内の何方(どなた)かには、盗み取りました物の代金、これ、お支払い頂くか、さもなくば、その品をお返し頂くか……盗み取った後のことは、よくよくお取り計らい下されよ――。」
と申した。
さて、こうして一同、一緒にあちこちとぶらぶらして御座ったが、暫くあって、突如、
「――さても、皆さま、お慰みの品――盗み取って御座る――」
と言いながら、平然と見せた――
――それは何と、見るも巨大な――
――所謂『一番すり鉢』――で御座った故、一同の者、何よりも余りのその大きさに驚いて、
「……こ、こんな……大きな物……一体、ど、どうやって盗んだ、んダ?……」
と訊ねたところが――
「――先程、あの瀬戸物屋の店先へ、皆さま、お立ち寄りなさった折り、拙者、持って御座ったこの編み笠を、擂り鉢の上に被せ置き、各々お帰りになられる折り、拙者、編み笠と一緒にひょいと持ち出だしたものにて御座る――」
とこともなげに語った――。
……この大擂り鉢の代金、彼らに従っていた下僕の一人に持たせ、当の瀬戸物屋へと走らせた上、支払わせたので御座ったが……瀬戸物屋にては……そもそもその擂り鉢が、紛失していたことさえ……未だに誰一人、知らずに御座ったとのことであった。……
*
老僕盜賊を殺す事
下谷どぶ店(だな)といへる處に華藏院と言へる寺ありしが、彼寺へ盜賊入りしを、寺に久敷仕へける老僕見附て、盜賊と呼(よば)はりしを、右盜賊むずと組で、もとより老人なれば何の事もなく取て押へ手拭を口へ押込けるが、其儘に盜賊悶絶して死し居たり。何か物音に驚きて外々の人も燈火などして見ければ、いかにも大兵(たいひやう)の男、彼老夫を押へ踏跨(ふみまたがり)て死し故、早々老夫を引起し見しに、取組で押へられし節、兩手を以盜賊の陰嚢を強く〆て始終放(はなさ)ざりし故、盜賊ついに命を失ひしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせないが、正に「秘策中の秘策」という点では通ずるとも言えるか。
・「下谷どぶ店といへる處に華藏院と言へる寺あり」嘉永年間(1848~1853)に作成された尾張屋金鱗堂板江戸切絵図を見ると、下谷七軒町の「酒井大學頭」の屋敷の西隣に「華藏院」とある。南側に門前町と記してあり、小さいが相応の寺格であったことが窺われる。この寺はやや移転して台東区元浅草1丁目に現存する。天台宗東京教区の記載よれば、正式には天台宗寳光山影現寺華蔵院と呼称する(現在通称は善光寺東京別院)。創建は慶長16 (1611)年である。『華蔵院は下町浅草の永住町という所にあります。 現在は町名変更により元浅草と改称されましたがその前は七軒町にありました。 七軒町は華蔵院門前七軒町と呼ばれ、 寺の前に町家七軒があったので、 この名ができたといわれています。 関東大震災後の昭和2年の区画整理で移転され、 現在は、 白鴎高校正門前に位置しています』。『寺の歴史は古く、 慶長16年、 権大僧都傳長法印の中興開基と伝えられています。 江戸時代の民間信仰の霊場として広く知られていました。 後に東叡山寛永寺の塔頭 (末寺) に編入され、 寛永寺住職の隠居寺となったようです』とある。元の位置は現在の元浅草1丁目の春日通りと新清洲橋通りの交差点の東北の角、ヒサヤ大黒堂が所在する辺りと思しく、底本の鈴木氏注によると、現在の台東区元浅草3丁目内に位置した「下谷どぶ店」とはずれることが指摘されている。なお、鈴木氏注ではこの「どぶ店」の解説が詳しく、『意味は泥溝。山崎美成の『海録』に巻三に「今浅草に土婦店といふ所あり、此所古くは新地といへり。その比は今の和泉橋通大寒屋鋪ちいへる所を、土婦店といひし也。又南畝翁云、文政四、「旧記に、土婦店を酴醿店とかけり、此字おもしろし」といはれたりき。」酴醿は、重ねて醸した酒、また滓を取らぬ麦酒と辞書にある。溝や水溜りからブツブツとメタンガスなど出ていようという水はけの悪い低湿地の形容として似合わしいという意見であろう。』と、面白い注を施されている。「酴醿」は「とび」と読む。これぞ、あるべき注の真骨頂!
・「陰嚢を強く〆て始終放ざりし故、盜賊ついに命を失ひし」とある。実際に睾丸を握り潰して人を殺すことが可能かどうか、不学にして確信出来なかったが、まさかと思いきやウィキに「金玉潰し」という項が存在した。無関係な部分にかなり性的な内容を含む記載なので、特例としてリンクを避けることを御赦し頂きたい。その「機能喪失」の項に以下のようにある『睾丸の機能を潰すことを目的で行われる行為は、大部分が拷問や私刑の一環として古くから行われてきた、相手に対する暴力行為である。強靭な握力で握り潰す場合もあるが、大抵は万力などを始めとする道具を用いて物理的に睾丸を潰してしまうことが多く、そのための専用の道具も存在する。平均的な睾丸は、50~60キログラムの圧力がかかると破裂してしまう。これは、成人男性の握力をもってすれば、睾丸を破裂させることはそう難しくないことを示唆する。限界を超える加圧が起こると、睾丸の表面を形作っている強靭な膜、白膜(はくまく)が裂け、睾丸内部に詰まっている精細管などの実質が、その裂け目から陰嚢(金玉袋)の中に飛び散る。白膜が裂けてしまった場合、早急な医療処置をとらなければ、最悪の場合、睾丸を摘出する必要も出てくる』。『睾丸には多くの血管が通っており、睾丸を潰した後には適切な止血措置を行わないと死亡に至ることが多い』。ナットク。
■やぶちゃん現代語訳
老僕盜賊を殺す事
浅草六軒町にある、通称下谷どぶ店(だな)という所に華蔵院という寺があったが、この寺へ盗賊が入った。寺に永年仕えておった老僕が見つけて、
「盗っとじゃ!」
と叫んだのじゃが、盗賊はこの老僕とむんずと組み合い、もとより老人なれば、難なく引き倒してとり押さえ、馬乗りになると、老人の口にぐいと手拭いを押し込んだ。
……ところが……
……盗賊はそのまま……老僕に跨ったままに悶絶して死んでおった……
……何やらん妙な物音に眼を醒ましたその他の者ども、おいおい灯明なんどを点して窺ってみたところが……
……如何にも大兵肥満の大男が……かの老人を押し倒して、その上に馬乗りになったままに……死んでおった……
……そこで早速、老人を引き起して見たところ、取り組んで押えられた際、彼は両手を以って盜賊の陰嚢を思いっきり、ぎゅ~うっと摑んで始終放さなかったために……盜賊、遂には金玉が潰れ、惨めなる死にを致いたので御座ったよ。……
*
強盜德にかたざる事
予留役勤ける時、牧野隅州(ぐうしふ)御勘定奉行の節、懸りにて眞島友之丞といへる盜賊の吟味ありしが、上州武州を徘徊せる大盜にて、所々民家へ押入強盜にてありし。其罪極りて侵せる事を聊(いささか)不隱(かくさざり)し。或日懸りの留役尋けるは、汝も所々盜なして歩行(ありく)に怖しき事にも逢しやといひければ、都(すべ)て盜賊の儀、何ほど同類を催しても其門其戸をはづし這入候迄は怖しき物なり、一旦内へ入ては聊か恐るゝ事なく、物を取得て立歸らんとする頃又怖しく覺る也、數ケ所押込強盜なしけるに、上州の在と覺へし、ある寺院へ立入りしに、住僧の居間の襖を明けんとせしが、しきりに怖しく覺へけれども忍びて襖を明たるに、住僧起直り、盜賊也やとて長押(なげし)にありし長刀へ手を掛給ふと思ひしが、誠に二つに切られし心にて、足をはかりに逃出しに、跡より迫るゝ心にて其身計(ばかり)か同類共も、命限り拾町餘(あまり)も山の内へ迯込(にげこみ)しが、よく/\思ふに跡より追ひ候氣色もなかりけり。德ある出家にや、かく恐しき事に逢し事なしといひぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:強盗撃退譚で直連関。
・「留役」評定所留役のこと。現在の最高裁判所予審判事に相当。根岸が評定所留役であったのは23歳の宝暦13(1763)年から明和5(1768)年迄。
・「牧野隅州」牧野大隅守成賢(まきのおおすみのかみしげかた 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)のこと。旗本。以下、ウィキの「牧野成賢」から引用する。『勘定奉行・江戸南町奉行・大目付。 御旗奉行牧野成照の次男。一族牧野茂晴の娘を娶って末期養子となり、2200石を継承した。通称、大九郎、靱負、織部』。『西ノ丸小姓組から使番、目付、小普請奉行と進み、宝暦11年(1761年)勘定奉行に就任、6年半勤務し、明和5年(1768年)南町奉行へ転進する。南町奉行の職掌には5年近くあり、天明4年(1784年)3月、大目付に昇格した。しかし翌月田沼意知が佐野政言に殿中で殺害される刃傷沙汰が勃発し、この時成賢は指呼の間にいながら何ら適切な行動をとらなかったことを咎められ、処罰を受けた。寛政3年(1791年)に致仕し、翌年没した』。『牧野の業績として知られているのが無宿養育所の設立である。安永9年(1780年)に深川茂森町に設立された養育所は、生活が困窮、逼迫した放浪者達を収容し、更生、斡旋の手助けをする救民施設としての役割を持っていた。享保の頃より住居も確保できない無宿の者達が増加の一途を辿っており、彼らを救済し、社会に復帰させ、生活を立て直す為の援助をすることが、養育所設置の目的、趣旨であった。定着することなく途中で逃亡する無宿者が多かったため、約6年ほどで閉鎖となってしまったが、牧野の計画は後の長谷川宣以による人足寄場設立の先駆けとなった』とある。以上の記載から、この一件の吟味は宝暦13(1763)年から明和5(1768)年の5年間の間の出来事であることが分かる。牧野は根岸より23歳年上で、経歴から見ても大先輩に当る。
・「上州武州」上野国(こうずけのくに)と武蔵国。上野国は、ほぼ現在の群馬県とほぼ同じであるが、桐生市のうち桐生川以東は含まれない。武蔵国は現在の埼玉県・東京都の大部分及び神奈川県川崎市と横浜市の大部分を含む地域。21郡を有する大国であった。
・「御勘定奉行」勘定奉行のこと。勘定方の最高責任者で財政や天領支配などを司ったが、寺社奉行・町奉行と共に三奉行の一つとされ、三つで評定所を構成していた。一般には関八州内江戸府外、全国の天領の内、町奉行・寺社奉行管轄以外の行政・司法を担当したとされる。厳密には享保6(1721)年以降、財政・民政を主な職掌とする勝手方勘定奉行と専ら訴訟関係を扱う公事方勘定奉行とに分かれている。
・「眞島友之丞」未詳。その申し状から、是非ともお仕置きの中味が知りたいものである。恐らくは斬罪であったろうが、どうにもこの眞島友之丞、気になってしようがないのだ。そういた雰囲気から現代語訳では随所に私の意訳による補足を加えた。お楽しみあれ。
・「足をはかりに」この「はかり」は「限り・際限」の意で、足の続く限り、突っ走ったことを言う。
・「拾町餘」一町は60間(けん)で約109mであるから、凡そ1㎞程。
■やぶちゃん現代語訳
強盗も徳には勝てぬという事
私が留役を勤めていた頃、当時、御勘定奉行であられた牧野大隅守成賢殿が真島友之丞という盗賊の吟味に当られた。
こ奴は上州や武州を中心に荒らし回った大盗賊にて、各地の民家へ押し入っては強盗を働く常習犯であった。その罪極まれりと観念したものと思われ、吟味の間も己れの所行を洗い浚い白状致いて、聊かなりとも隠そうとせず、吟味の者たちも内心、盗人(ぬすっと)乍ら殊勝なる振舞いと親しみさえ覚えて御座った。
そんな吟味のある日のこと、一段落ついた係の留役が、
「……お前も、あちこちで盗みを働いたことなれば……中には恐ろしいと思う目に遇(お)うたこと、これ、あったか?」
と友之丞に訊ねた。友之丞は、
「……へえ、総て盗賊という申す者どもは、たとえ何人もで徒党を組んで御座ろうとも、その門、その戸を外して、中に忍び入ります迄は……誠(まっこと)恐ろしいものにて御座る。……しかし一旦、内へ侵入致さば、もう、何の恐ろしいことも、これ、御座ない……されどまた、得物(えもの)を取り得て、さても帰らんとする頃になると……これまた、恐ろしくなるものにて、御座る……。
……今まで数限りのう押し込み働(ばたら)き致いて御座ったれど……確か上州の田舎でのことと覚えて御座る……とある寺院に忍び込み、寝込んでおった住僧の、その居間の襖を開けんとせしに……何故か分かりませぬ……が……ともかくも何やらん頻りに恐ろしゅう思われて、なりませなんだ……なりませなんだが、何とか堪(こら)えて……襖を、静かに開けたところが……臥して御座った住僧、すっくと起き直って、
『盗賊であるかッ!』
と言うが早いか、長押(なげし)にあった長刀(なぎなた)へ――
――手を、お掛けになった――
――と、その瞬間――
――儂(あっし)は、誠(まっこと)ばっさり真っ二つに斬られた心地が――
――本に、致しやした……
……後は一目散……ただただ足の続く限りに逃げ出しやした……かの僧が後から追いかけて来て、今にも背後から
――ばっさり斬(や)られる――
という心持ちにて……いえ、儂(あっし)ばかりにては御座らぬ……一緒に押し入った仲間ともども……同じ思いにて……命を限りと十町余りも山の中へと駆け込んでおりました……が、今思い起こさば……実際にはそれはいらぬ気遣いで御座ったに。
……あのお方は……よほど徳のある御出家ででも御座ったか……
――いえ、ともかくも儂(あっし)の――
――もう、じきに、首が飛ぶ儂(あっし)の、この生涯で――
――その首が飛ぶであろう時よりも――
……かほどに恐ろしき目に……遇(お)うたことは……これ、御座らぬ……」
と語った。
*
狂歌流行の事
天明の初めより東都に專ら狂歌流行しけるが、色々面白き俗諺(ぞくげん)を以(もつて)哥名(かめい)として、四茂野阿加良(よものあから)、阿氣羅觀江(あけらかんかう)、智惠の内侍(ちゑのないし)など名乘りて、集會などもありし由。四茂野阿賀良などは共通の宗匠といひし由。右狂歌は萬歳集などいへる板木にあれば洩(もら)しぬ。阿賀良が親友の七十の賀の歌などは面白き故爰にしるしぬ。
七ツやを十ウあつめたる齡ひにてぶち殺しても死なぬ也けり
阿氣羅觀江よし原に遊びて居續(ゐつづけ)などして歸らざりければ、其妻詠るよし、
飛鳥川内は野となれ山櫻ちらずば寢には歸らざらまし
吉原町に春は中の町に櫻を植て遊人を集(あつむ)る事なれ。右櫻を詠(よみ)いれて根にかへらじの心、面白き故爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「天明の初め」天明年間は西暦1781年から1789年までであるが、後掲する「万歳狂歌集」の刊行が天明3(1783)年のこと。
・「狂歌」社会風刺・皮肉・滑稽を盛り込んだ五・七・五・七・七の短歌形式の諧謔歌。以下、ウィキの「狂歌」より引用する。『狂歌の起こりは古代・中世にさかのぼり、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる』。鯛屋貞柳は「たいやていりゅう」と読み、本名永田良因(後に言因と改名)。鯛屋という屋号の菓子商人出身であった。上方の狂歌歌壇の第一人者で、「八百屋お七」で知られる浄瑠璃作者にして俳人・狂歌師であった紀海音の兄でもある。狂歌の解説に戻る。『特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人・四方赤良(よものあから))が著した狂詩集「寝惚先生文集」で、そこには平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769年)には唐衣橘洲の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連)を作って創作に励んだ。朱楽菅江、宿屋飯盛(石川雅望)らの名もよく知られている。狂歌には、「古今集」などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる』とある。天明調狂歌の特徴は歯切れの良さや洒落奔放(しゃらくほんぽう)にある。
・「俗諺」俚諺。世間で使われている諺(ことわざ)。
・「四茂野阿加良」一般には「四方赤良」と表記。にして狂歌師大田南畝(おおたなんぽ 寛延2(1749)年~文政5(1823)年)の筆名。本名大田覃(おおたふかし)。通称は直次郎・七左衛門。筆名多く、四方赤良の他、寝惚先生・杏花園・蜀山人・玉川漁翁・石楠齋など。明和4(1767)年に当時19歳で狂詩集『寝惚先生文集』を表わし、これが狂歌ブームの起爆剤となった(序文は平賀源内)。なお、四方赤良という雅号は、彼の好いた銘酒「滝水」で有名な江戸日本橋新和泉町の酒屋四方久兵衛の店で売る赤味噌や酒の略称を捩(もじ)って使ったものとされる。以下、幾つかの狂歌をウィキクォートの「大田南畝」に引用されているものを示す(但し、正字に変換し、本歌の説明部分に手を加えた)。まずは四方赤良名義の狂歌。
世の中は色と酒とが敵(かたき)なりどふぞ敵にめぐりあいたい
わが禁酒破れ衣となりにけりさしてもらおうついでもらおう
をやまんとすれども雨の足しげく又もふみこむ戀のぬかるみ
ものゝふも臆病風やたちぬらん大つごもりのかけとりの聲
世の中はいつも月夜に米のめしさてまた申し金のほしさよ
長生をすれば苦しき責を受くめでた過ぎたる御代の靜けさ
難や見物遊山は御法度で錢金持たず死ぬる日を待つ
今さらに何か惜しまむ神武より二千年來暮れてゆく年
ほととぎす鳴きつるあとにあきれたる後德大寺の有明の顏
これは後徳大寺左大臣の
『郭公のなきつるかたをながむればただ有明の月ぞのこれる』
の本歌取りである。
山吹のはながみばかり金いれにみのひとつだになきぞかなしき
これは兼明親王の
『七重八重花は咲けども山吹の實のひとつだになきぞかなしき』
の本歌取りである。
次に蜀山人名義のもの。
鎌倉の海よりいでしはつ鰹みなむさし野のはらにこそいれ
雜巾も當て字で書けば藏と金あちらふくふくこちらふくふく
ひとつとりふたつとりてはやいてくふ鶉(うづら)なくなる深草のさと
これは藤原俊成の
『夕されば野邊の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里』
の本歌取りである。
駒とめて袖うちはらふ世話もなし坊主合羽の雪の夕ぐれ
これは藤原定家の
『駒とめて袖うちはらふかげもなしさののわたりの雪の夕暮』
の本歌取りである。
世の中にたえて女のなかりせばをとこの心はのどけからまし
これは在原業平の
『世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし』
の本歌取りである。
ただ、何と言っても私が直ぐに思い出すのは、決まって大学時代に吹野安先生の漢文学演習で屈原の「漁父之辞」を習った際、先生が紹介してくれた、この大田蜀山人の、
死なずともよかる汨羅(べきら)に身を投げて偏屈原の名を殘しけり
である(第五句は「と人は言ふなり」とするものが多いが、私は吹野先生の仰ったものを確かに書き取ったものの方で示す。私は先生の講義録だけは今も大事に持っているのである)。
・「阿氣羅觀江」一般には「朱楽菅江」と表記する。戯作にして狂歌師朱楽菅江(あけらかんこう 元文5(1740)年~寛政12(1801)年?)。ウィキの「朱楽菅江」等によれば、大田南畝や唐衣橘洲(からごろもきっしゅう 寛保3(1744)年~享和2(1802)年):田安徳川家家臣。本名小島恭従。)らと共に天明狂歌ブームを築き上げ、狂歌三大家と囃された。別号は朱楽漢江・朱楽館・准南堂・芬陀利華庵。牛込の二十騎町に住む幕臣(御先手与力)で、本名は山崎景貫。通称は郷助。字は道甫。俳号は貫立。筆名は勿論、「あっけらかん」の捩りである。ここにも登場する妻(本名まつ)も「節松嫁々」という号の女流狂歌師として著名であった。この号は「ふしまつかか」と読み、「臥し待つおっ母(かあ)」で、吉原へ居続けの夫を一人寝の床で臥して待つの意を掛けた号であり、正にこの歌の謂いそのものの雅号である。
・「智惠の内侍」一般には「智恵内子」と表記する。狂歌師元木網(もとのもくあみ)の妻で自らも女流狂歌師として活躍した元木すめ(延享2(1745)年~文化4(1807)年)。「朝日日本歴史人物事典」等によれば、明和6(1769)年初期の江戸狂歌壇に木網が参加した頃より夫とともに狂歌を詠み始め、天明1(1781)年には芝西久保土器町に隠居して落栗庵を構え、夫婦で狂歌の指導をした。門人多く、平秩東作(へづつとうさく 享保11(1726)年~寛政元(1789)年):戯作者にして狂歌師。)天明3(1783)年刊の「狂歌師細見」によれば『江戸中半分は西の久保の門人』といわれるほどであったという。同じ女流の節松嫁々と共に女性狂歌師を代表する作者で「狂歌若葉集」「万載狂歌集」をはじめ多くの狂歌集に入集する。勿論、宮中の内侍司(ないしのつかさ)の女官の総称である「内侍」に「知恵の無い子」を掛けたもの。
ふる小袖人のみるめも恥かしやむかししのふのうらの破れを
六十あまり見はてぬ夢の覺むるかとおもふもうつつあかつきの空(辞世)
・「集會」狂歌派閥の集団狂歌連による狂歌会のこと。例えば橘洲は武士を中心メンバーとした狂歌連「四谷連」を名乗って狂歌会を開いた。明和6(1769)年に橘洲の屋敷で開かれたものが狂歌会の濫觴と言われる。それに対抗した大田南畝の率いた狂歌連を「山の手連」と呼んだ。他にも町人を中心とした狂歌連も多く、歌舞伎役者五代目市川團十郎とその取り巻き連中が作った「堺町連」、蔦屋重三郎ら吉原通人グループが組織した「吉原連」などがあった。
・「萬歳集」正式書名は「萬載狂歌集」。天明3(1783)年、唐衣橘洲の編んだ狂歌集「若葉集」に対抗して大田南畝と朱楽菅江が編んだ狂歌集。
・「洩しぬ」は「抜く。省く。」の意味で、文意からすると、彼等の代表作は「萬載狂歌集」に所収するから特に記さない、という意味と思ったが、どうも以下の作品自体が「萬載狂歌集」に所収するものと思われる(私は不学にして「萬載狂歌集」を所持しないので確かには言えないが)ので、抜粋と訳しておいた。「萬載狂歌集」にお詳しい方、どうか御教授を願う。
・「七ツやを十ウあつめたる齡ひにてぶち殺しても死なぬ也けり」「七ツ屋」は質屋のことで、「ぶち殺す」というのは「質に入れる」意のスラング。
○やぶちゃんの解釈
七つ屋を十(とう)集めた齡(よわい)とは――七十軒の質屋の謂いじゃ!――こりゃ、どんだけ「ぶち殺しても」――ありとある、己(おの)が命を質入れしたとて――質屋多くて質草足らずじゃ!――いっかな、どっこい、死にもせぬわい!
・「飛鳥川内は野となれ山櫻ちらずば寢には歸らざらまし」「飛鳥川」は奈良県高市及び磯城(しき)郡を流れる川で、古来、淵や瀨の定まらぬ暴れ川であったことから、無常や変わりやすい心の譬え。「飛鳥」に「明日」、「内」には「明日うち」及び「宅」(家)をも掛かるか。「内は野となれ山櫻」は俚諺の「跡は野となれ山となれ」を引っ掛け、「内」は更に「内儀」の意を掛ける。「寢」は桜の木の「根」の掛詞。
○やぶちゃんの解釈
明日うちには宅(うち)へ帰ってくるか帰らぬかと……如何にも頼りにならにならぬ飛鳥川のような望みをかけてきましたが……所詮、桜の花というもの、散らずば根にも帰ること、これ御座らねばこそ――桜の花や何やらが、匂い立つよに乱れ咲く、かの吉原の野に行かんとなれば、『家内のことなんどはどうでもなれ、母(かか)あなんぞはいっそ野となれ山となれ』などとお思いのあなたは――その桜が散らぬ限りは、寝には帰らぬ、とおっしゃるのでしょうね……。
・「中の町に櫻を植て遊人を集る」吉原の年中行事の一つ。春三月一日から月末まで、吉原唯一の大門から中央を貫くメイン・ストリート仲の町の中央筋に、大きな桜の木を植え並べて垣根を廻らした。仲の町の桜として有名であった。通りに面した遊廓には軒と言う軒に提灯が吊られ、夜桜見物も兼ねて客が大勢集まり、勿論、花魁道中もあって、文字通りの豪華絢爛絵巻が髣髴とされる。一部の記載に寛政2(1790)年から始まったとあるが、本歌が「萬載狂歌集」所収のものであるとすれば、天明3(1783)年には既にあったか、少なくとも「卷之二」の下限である天明6(1786)年までには、既にこの風俗が創始されていたものと考えられる。
■やぶちゃん現代語訳
狂歌流行の事
天明の初めより、江戸では専ら狂歌が流行したが、狂歌師は、実に多様な面白い俗諺俗語を狂歌師の雅号として名乗っており、例えば四茂野阿加良(よものあから)であるとか、阿気羅観江(あけらかんこう)、智恵の内侍(ちえのないし)なんどと奇天烈な名を名乗り、徒党を組んで集会なんども開いて御座る由。特に四茂野阿加良なんどは、その道の宗匠とさえ呼ばれているそうである。
こういった狂歌師の狂歌は「万歳狂歌集」なんどという滑稽なる板本となって出版されたので、ここにその一部を抜き書きしておこう。
まず最初は、阿加良が親友の七十の賀に添えた歌、
七ツやを十あつめたる齢にてぶち殺しても死なぬなりけり
次は、夫の阿氣羅觀江が吉原に居続けなんどをして一向に帰ってこないのに業を煮やした妻節松嫁々(ふしまつかか)の詠んだという歌、
飛鳥川内は野となれ山桜ちらずば寝には帰らざらまし
この歌、少し解説しておくと、吉原の町内にては春になると中の町の沿道に桜を植えて遊び人を集めるのを常としているとのことで、その桜を歌に詠み込んで――「根に帰へらじ」――「寝に帰らじ」とした心ばえ、誠に面白い故に、ここに記しおく。
*
無賴の者も自然と其首領に伏する事
願人とて無法の坊主有。色々當世抔の思ひ付をし、或ひは大山石尊へ奉納もの也とて異樣の物を拵(こしらへ)、町々を持あるきて錢を乞ふなどして世を渡り、寒天に水をあび又は辻々にて代參の由いふて、錫杖をふりて一錢二錢を乞ふ、乞丐(かたゐ)同樣の者也。無賴の惡少年、父親族の勘氣を受て此類と成也。然るに淺草柳原に右の者共住ひする長屋ありて、頭は鞍馬流の□□といへり。土井故大炊頭(おほいのかみ)寺社奉行の節、右願人壹人駈込て、仲間の事且町方の者に打擲(ちやうちやく)に逢ひし由訴ふ。然るに奉行所にては其頭たるものゝ添翰(てんかん)なければ不取上事故、其譯寺社の役人品々利害を述て申渡けれど、元來頑愚の凡僧一向理非の辨(わきなへ)なく、公(おほやけ)の大法をも不辨、頻に其身の申事のみ言(いひ)て承知せざりける故、彼(かの)觸頭(ふれがしら)を呼て其譯申けるに、觸頭來りて二三言申談じ叱りければ、閉口して立歸りぬるを、予留役の節まのあたり見侍りき。又火消役の役場中間といへるあり。是も寒暑看板ひとつにて博奕(ばくえき)大酒を事とし、金錢に窮する時は日々はき候草鞋或は下帶を質に入る樣成(やうなる)無賴の者共也。
此草鞋を質に入ける間は、たとへ役場へ駈付候ても素足にて出る事
の由。無賴なる者にも仲間の掟又嚴重もおかし。
予が屋敷向ふに火消役の御役屋敷ありし。或日予近隣に若山某とて秋元家の家士有りしが、彼僕と右の役場中間口論のうへ打擲に逢しなど跡方なき事申懸て、右中間兩三人理不盡に若山が玄關へ上り、打擲に逢し間最早役場難勤、殺し貰(もらひ)度(たし)とて騷ぎあばれける故、若山も大きに難儀して、則火消役の家來迄其事申通じければ、右役場中間の頭の由、ちいさき親仁來りて一通り叱り、早々歸候樣申けれども、何分酒に醉候や承知いたさゞるを、彼親仁引捕へ玄關前へ投出して、外々(ほかほか)まいり候者共に引立させ屋敷へ連歸りぬ。其樣よわ/\としたる親仁なりしが、彼者の取始末(とりしまつ)せしさま、大の男を小兒のごとく取扱ひける。其首領の威は自然とあるもの也とおかしかりき。
□やぶちゃん注
○前項連関:あまり連関を感じさせないが、当世流行の狂歌話から、当世流行りの願人坊主の話ではある。既出の評定所留役時代の実見録シリーズ。本件には当時の差別的意識が微妙に反映している。そうしたものへの批判的視点及び被差別の事実を示す歴史的資料としての側面を忘れずにお読みになられるよう、お願いしたい。因みに――何故か自分でもよく分からないのだが――この古き良き侠客の話が好きだ。特に後半の小柄な老人――何だか私は、この老人に逢ったことがあるような気がするほど――それほど目の前にこの老人の姿が見えるのだ――ひどく懐かしい思いが過ぎるのである。
・「願人」願人坊主のこと。江戸時代、門付けや大道芸を演じたりしながら御札を売ったり、人に代わって参詣・祈願の修行や水垢離(みずごり)などの代行を請け合い金品をせびった乞食僧。Noriaki Ishida氏の「願人坊主って何だ?」によれば「鞍馬寺史」に「願人を以て勧進の意なりと解せば、少なくとも鎌倉時代にまで遡り得べきなり。江戸時代の願人はこの勧進の後身にして……」とあり、『このため、願人は勧進から来たとされている。すなわち、願人は毎年正月に鞍馬寺より祈祷札を請い受け諸国に持ち回り、加持祈祷を行って生活費を得るとともに鞍馬寺への参詣を勧誘した。いわば鞍馬寺の営業担当のようなものだったらしい』。『本来、鞍馬寺大蔵院に所属する人々だけを「願人」と呼んでいた。願人は、頭(かしら)を中心に組織化されており、その組織は江戸、大坂、駿府、甲府などに存在した。大蔵院は、判物を与え身分を保証するとともに祈祷札を与えその地位を証明した。すなわち、江戸時代の身分制度の中で、彼等が無宿人ではなく鞍馬寺の意を受けた存在である事を保証したのである』。『しかし、願人は祈祷などだけでは生活できなくなり、次第に乞食と変わらなくなった。なかでも、才ある者は“異形滑稽の品を持ち歩き見せ”たり、“歌浄瑠璃”を歌ったりして日銭を稼いだ。「江戸職人歌合」には、願人坊主を右図のように描いている』(リンク先に絵)。『また、こんな表現もある、“願人坊主 裸にして鉢巻し、しめ縄のようにわらを腰にさげ、手に扇を開き、錫杖を持てり”。どうやら坊主とは名ばかりであったようだ。願人坊主は、「すたすた坊主」、「チョボクレ坊主」などとも呼ばれていた。これらの言葉からも彼等の姿が見える気がする。しかし、次第にその行状が目に余るものとなり、1842年(天保13)11月には、江戸の寺社奉行阿部正弘は「願人取締」を命じている。ところで、日銭を得るための彼等の口承文芸は、近代の浪曲などに直接つながっている』とされ、最後に『願人坊主の実体は、ほぼ非人と同様であったようだ』と結ばれている。この根岸の書きぶりや、頭の意識的欠字にもそうした差別意識が見て取れる。岩波版長谷川氏注に願人坊主は『神田橋本町が集住地として知られていた。』とある(後の「淺草柳原」注を参照)。――勧進(Kangin)が願人(Gannin)という語に転訛したというのは、目から鱗。
・「大山石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)のこと。私の大好きな落語の「大山詣り」でも知られるように、江戸時代は庶民の根強い信仰を集めた。以下、ウィキの「大山阿夫利神社」より引用すると、祭神は『本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)』を祀るが、江戸時代までの『神仏習合時代には、本社の祭神は、山頂で霊石が祀られていたことから「石尊大権現」と称された。摂社の祭神は、俗に大天狗・小天狗と呼ばれ、全国八天狗に数えられた相模大山伯耆坊である』。社伝によれば崇神天皇の御代の創建され、『延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している』。『天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた』。『中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。 江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した』。『明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称された』とある。
・「淺草柳原」筋違橋(現在の万世橋)から神田川が隅田川に注ぐ柳橋辺りまでの神田川南岸を言う。江戸切絵図でも柳が書き込まれており数多く植えられていたようすが分かる。ここは現在の千代田区神田須田町1及び2丁目・岩本町3丁目・東神田2丁目・日本橋馬喰町2丁目・東日本橋2丁目北端に当る。岩波版長谷川氏注によれば、先に掲げた願人坊主の集住地であった橋本町は、この浅草柳原一帯に『に接しており、橋本町居住者を指すのであろう』と記されている。この橋本町とは江戸切絵図で見ると現在の東神田1丁目付近に相当する。なお、この記載は、あくまで同和的歴史的な過去の事実としてのみ理解されたい。
・「鞍馬流」現在の京都府京都市左京区鞍馬本町にある鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)の流れを汲むという意。鞍馬寺は当時は天台宗の寺院で(1949年に独立して現在は鞍馬弘教という仏教宗派の総本山という位置付けである)、開基は伝承上は鑑真の高弟鑑禎(がんてい)とされている。往時の鞍馬寺は十院九坊より成りその中の大蔵院と円光院の二つの願人坊主の流れがあったらしく、鞍馬寺を本とすることから、ここに示されるように寺社奉行が彼等を管轄していた。
・「□□といへり」底本では「□□」の右に『(原本約二字分空白)』の注を附す。当時の被差別者集団の頭領であることから、意識的に欠字としたものか。
・「土井故大炊頭」土井利里(どいとしさと 享保7(1722)年~安永6(1777)年)のこと。肥前国唐津藩第3代藩主・下総国古河藩初代藩主・京都所司代・土井家宗家8代。ウィキの「土井利里」より引用する。『父利清は土井家の分家5000石の旗本で、本家の唐津藩主・土井利実に子がなかったため、兄の土井利延が家督を相続していたが、利延が間もなく死去したため、利延の弟の利里が家督を相続した』。『幕府では奏者番となった後、古河へ国替されて土井家は家祖利勝時代の領地古河へ復帰。さらに利里は寺社奉行を経て京都所司代にのぼり、老中の一歩前まで来たところで死去する』。『利里も子に恵まれず、はじめ旗本・久世広武の子を迎え利剛と名乗らせ養嗣子としていたが早世』、『その後、川越藩主・越前松平朝矩の子を迎え利建と名乗らせていたが安永4年(1767年)廃嫡、ついで西尾藩主・大給松平乗祐の子を利見と名乗らせ家督を相続させた』とある。同記事の「官職位階履歴」によれば利里は延享元(1744)年に従五位下大炊頭(おおいのかみ)に叙せられている。彼が寺社奉行であったのは宝暦13(1763)年から明和6(1769)年の間である(この間、根岸は評定所留役から御勘定組頭(明和5(1768)年)となっている)。従って本文の記載から、本話柄は宝暦13(1763)年から明和5(1768)年の間の出来事となる(但し、もっと限定できる可能性がある。以下の「秋元家」注を参照されたい)。単なる官職位階であるから意味はないが、「大炊頭」について一応説明しておくと、宮内省配下の大炊寮の長官である。宮中の神事・仏会その他諸宴席等に於ける食材管理から調理全般及び諸国から献納される米穀の収納と分配を司った役職である。なお、「故」が入っているのは孫(土井利見の養子)に当る根岸の同時代人土井利厚(としあつ 宝暦9(1759)年~文政5(1822)年)が安永6(1777)年12月20日利見の養嗣子となって古河藩襲封した際、同じく大炊頭に叙せられており、同じ役職を勤めていたためである。因みに、本巻が執筆された下限である天明6(1786)年頃は、この土井利厚の方は寺社奉行で、享和元(1801)年には京都所司代、享和2(1802)年には老中に就任しており、根岸より22歳年下ながら、出世街道をひた走った感がある人物である。
・「添翰」訴訟手続きをする際の、委細を支配頭が認(したた)めた添え状。
・「觸頭」社寺及びそれに準ずる集団の中から選ばれた、寺社奉行が発した命令の伝達及び寺社から出る訴訟の取り次ぎに従事したその代表社寺及びその担当者を指す。
・「留役」評定所留役。現在の最高裁判所予審判事相当。
・「役場中間」ここでの「役場」は特殊な用法で、火事場の意である。火消し役が役する火事場の謂いであろう。専ら消防作業に従事した中間のこと。
・「看板」武家の中間や小者(こもの)などがお仕着せにした短い衣類。背に主家の紋所などを染め出したものを言う。
・「予が屋敷」根岸鎭衞の屋敷は駿河台にあった。現在の神田駿河台1町目の日本大学のあった位置で、その道を隔てた台形をした現在の神田小川町3丁目は、江戸切絵図では全区画が「御用屋敷」(次注参照)と表示されている。
・「火消役の御役屋敷」旗本が任ぜられた定火消(じょうびけし)の役屋敷(消防担当役となった者が待機する指定された屋敷)。定火消は明暦3(1657)年1月に起こった明暦の大火の後、四代将軍家綱が命じて作られた消防団組織である。若年寄支配で江戸市中の消防に当った。万治元(1658)年に4組が設置され、後に10組に増やされた。十人火消し、寄合火消しとも言う。
・「若山某」未詳。
・「秋元家」山形藩。譜代大名6万石。時代的に見て、この時の秋元家当主は老中、武蔵国川越藩主、後に出羽国山形藩主となる秋元凉朝(あきもとすけとも 享保2(1717)年~安永4(1775)年)であったと思われる。以下、ウィキの「秋元凉朝」から引用する。『4000石を領した大身旗本・秋元貞朝の三男。子は娘(阿部正陳正室)。官位は従四位下、摂津守、但馬守。名はすみともとも読む。隠居後は休弦と号する』。『寛保2年(1742年)、先代川越藩主・秋元喬求が29歳で早世したため、藩主の座を継ぐ。幕府では寺社奉行、若年寄、老中を歴任した。老中在職は延享4年(1747年)- 明和元年(1764年)』であったが、彼は『田沼意次の権勢が強まるのを不快に思っていた節があり、当時側衆の一人に過ぎなかった意次と殿中ですれ違ったとき、挨拶を欠いたのは老中に対する礼を失していると、その非礼をとがめたエピソードは有名である』。『明和元年(1764年)に老中を辞任するが、田沼の権勢に対する抗議の辞任とみられ、のちに川越から山形に転封させられたのは意次による報復と見る説もある』。『明和5年(1768年)隠居。養子だった先代・喬求の次男・秋元逵朝が早世していたため、家督は甥で嫡子の座を継いだ秋元永朝に譲る。安永4年(1775年)死去した。「秋元家の家士有り」として根岸が敢えて彼を老中としなかった点を考えると(するのが当然である)、少なくともこの話柄の後半の出来事は、秋元凉朝が出羽山形に転封を命ぜられた明和4(1767)年から翌明和5(1768)年の一年間に限定出来るのかも知れない。
■やぶちゃん現代語訳
無頼の者も自ずとその首領には服するという事
当世には願人坊主と呼ばれる無法者の乞食僧がおる。
昨今、思いつきで手を変え品を変えしては――例えば、ある時は、『大山石尊へ奉納致す物じゃ』と言うて、凡そ神社への奉納に適う物とは思えぬ異様なむくつけき物を拵えては町々を練り歩いて銭を乞い、ある時は荒行と称して寒空(さむぞら)の下(もと)無闇に冷水を浴びては喜捨を請い、ある時は代参の御用を仕ると言うては乱暴に錫杖を振り回しつつ通りを闊歩して一銭、二銭の駄賃を乞う――といった乞食と変わらぬ者どもである。だいたいが無頼の少年――父や親族の勘気に触れて勘当された不良少年が、一体にこうした輩に堕す。
浅草柳原に、こうした連中が住んでいる長屋があって、その頭(かしら)は鞍馬流の□□という者である。土井故大炊頭(おおいのかみ)利里殿が寺社奉行を勤めておられた頃、この願人坊主の一人が奉行所に駆け込んで来、仲間及び町方の者どもから理不尽な打擲(ちょうちゃく)を受けたと訴え出た。
しかるに奉行所では、このような事件の場合には、必ず、その支配の頭(かしら)である者の一件に関わる添え状なしには取り上げない決まりとなって御座る故、寺社奉行配下の役人が、あれやこれや、分かり易く、そうした事情を説明した上、更に、その程度のことで、訴訟なんどを起こしたらば、いろいろと面倒なること、これ生ずるによってと、利害をも述べて申し渡したのだが、元来がとんでもない頑愚ならんか、この凡僧、一向、納得せず、御公儀の定めた大法をも弁えず、ただただその身の不満を言い募って承知する気配これなく、果てはぎゃあぎゃあ騒いで手がつけられない状態になった。
埒が明かぬと見た下役の者が、仕方なく、かの触頭である鞍馬流の□□を呼び出し、かくかくしかじかと訳を述べると、触頭は奉行所へ赴き、かの願人坊主に二言三言何やらん、恫喝叱責した――それだけで、さっきまで気違いのように手をつけられなかった願人坊主が――叱られた子供のように急にしょぼんとして――一言もなくこそこそと立ち去って御座った。これは私が評定所留役をして御座った折りに、目の当たりに見た事実にて御座る。
また、火消役の者に役場中間という者らがおるが、これがまた、寒かろうが暑かろうが、のべつまくなし半被看板一枚で通し、博打、大酒を常として、金銭に窮した折りには、何と普段はいている草鞋や褌までも質に入れてかぶくといった、とんでもない無頼の輩である。
[根岸注:彼らは草履を質に入れている間は、万一、火事があって火事場へ駆けつけるに際しても、素足のままにて出るという。無頼の者とはいえど、その仲間内の掟は、厳重に守られているのである。誠(まっこと)面白い。]
私の屋敷の向いには、実は、この火消役の御役屋敷がある。ある日のこと、私の家の近隣に若山某という、秋元家御家中の者が住もうて御座ったが、彼の下僕とこの役場中間が口論の末に一悶着あったらしい。ところがこの中間の者ども、
「理不尽なる打擲に遇(お)うた!」
なんどという如何にもな言い掛かりを申し立てながら――そうさな、中間三人ばかりであったか――それこそ理不尽に若山の宅(うち)の玄関へと上がり込み、
「……おうおうおうおう! 儂(あっし)ら、天下の往来で、打擲に遇(お)うて赤っ恥、掻いた! 最早、火事場のお勤めも、こんな恥掻かされては、勤めちゃ、居らんねえ! さあ、いっそのこと、殺せ! ああん? さ、殺せや!……」
と狂うた馬の如く大騒ぎして暴れ回る故、若山も大層難儀なれば、自ら御役屋敷のへ出向き、そこの御家来衆にかくかくと告げ、対処方宜しくと申し入れたところが、彼ら役場中間の頭と称する、如何にも小柄な親爺がやって来て、一通り、かの男どもを叱りつけて、
「早々に帰りませ!」
と言い放った。ところが、この連中、何分にも既にしっかり酒が入って気が大きくなっておったからか、全く以って馬の耳に念仏の体たらく、全く言うことをきかずに玄関内でぐだぐだしている。――
――と――
この小さな親爺、玄関内に入り込むと、それぞれの者の襟首を軽々と引っ捕らえ――
すたん!――すとん!――すたあん!――
――と三人纏めて玄関前の地べたに放り投げた。――
――そうして、親爺が連れて来た役場中間の子分どもに引っ立たせ、御役屋敷へと連れ帰って御座ったのであった。――
一見、その様如何にも弱々しげな親爺で御座ったれど、かの連中を捌いた、その鮮やかな手は、正に大の男を子供のように扱(あつこ)うて御座った……
……とは若山の話にて御座る。
何ごとにあっても、あるものの頭(かしら)となる者には、やはり、自ずと不可思議なる威厳や威力があるものなのであると、興味深く聞いたことである。
*
人の貧富人作に及ざる事
佐州澤根湊は廻船等を以家業とする者多し。濱田屋某とて至て吝嗇(りんしよく)にて追々家富みける。外々草きりの問屋共の内にも身上相應の者あれども追々衰し者もありしが、彼濱田屋が吝嗇を土地の者も恨みて、濱田屋が船は難船にもあへかしと思ふに、外々の者の船は難船などにて大きに損失あれど、濱田屋が船はその愁もなし。土地の者共濱田屋が諸(しよ)差引(さしひき)金銀貸方等のいらひどきを恨みて、或時夜に入て若き惡者共申合、濱田屋に損分を懸候樣にと、懸置し船の帆柱を二ツ三ツに切りて心よしとて忍び歸りけるに、翌日聞しに濱田屋の帆柱と思ひ切りしに、濱田屋の持舶(もちぶね)には無之、近年衰へし外廻船持(もち)の帆檣にてありしと也と、土地の者語りける由。
□やぶちゃん注
○前項連関:人には人の固有の徳(仏教なら業とか果報とか言おうが、根岸は仏教嫌いだから言わない)で連関。お馴染み佐渡奇譚シリーズの一つ。
・「人作」人為・作為。
・「佐州澤根湊」新潟県佐渡市沢根。旧新潟県佐渡郡佐和田町(さわたまち)沢根。佐渡ヶ島の南の真野湾の北西岸に位置し、旧来は北風を避けるための海路の要衝であったが、現在は島内道路交通の要、商業地域としても発展している。
・「濱田屋某」本名笹井(旧主姓は川上)。ブログ「佐渡広場」の本間氏の「歴史スポット50:佐渡・廻船業と千石船」という記載にこの浜田屋についての極めて詳しい記載があるので、以下、引用させて頂く。
《引用開始》
1.沢根の廻船問屋・浜田屋 笹井家
①佐渡・相川へ渡来
1500年後期石見(島根県)浜田より川上権左衛門(浜田屋本家初代)、川上伊左衛門、久保新右衛門ら3人が佐渡・相川庄右衛門町へ渡来。1596年に笹井家の先祖 佐々井九之助が越前(福井県)より渡来。(いずれも、金銀稼ぎが目的に決まっている)
②沢根に居を移し商売
1)1663年佐々井九之助の子が浜田屋の娘婿となり沢根へ出て浜田屋権左衛門という商人になり、小船1隻を持った。相川や沢根・鶴子の金銀稼ぎは景気変動が大きく、相川にも近くて優れた港をもち、背後には米どころ国仲平野のある沢根でお客のニーズを聞きながら商売した方が、資金を投下しても一攫(いっかく)千金の夢はあるが回収に確実性がない事業に投資するより安全で、発展が期待できる好立地と見たのであろう。
2)1677年、佐渡の廻船業として既に名高い船渡源兵衛と鮭・筋子・粗鉄・千割鉄などの取引が始まり、その後も米・大豆・鉄などの取引を続けている。
a.本家は鉄の産地石見の出身、分家・新屋は日本海物流の中心地で鉄などが集まる敦賀がある越前の出身。浜田屋が鉄屋といわれていたのは、そういった関係からである。
b.沢根には鶴子銀山、隣は相川金銀山があって鉄製品の需要は高く、背後は米どころ国仲平野で農工具作りや修理など鉄の需要が高い。自然、近くに鍛冶町が形成された。現に沢根に鍛冶町があり、鍛冶とは仕事上不可分な関係にある炭屋町の町名がある。
3)1696年、新潟で船渡源兵衛より75両借りるとある。
当時佐渡は、人口増で米不足のため米が高騰、他国への佐渡産物資の販売は物不足・物価上昇を抑えるため禁止で米・大豆などは新潟から移入。
浜田屋は当時、まだ小資本のため江戸初期に先行して稼いだ船渡源兵衛に金融を頼み、船は持っても島外へ乗り出す程のものでないため源兵衛船に依存した。
4)元禄年中(1688~1703)に、沢根・上町から沢根・下町に移転、やがて沢根町名主となる。川上から佐々井(笹井)に名前が変わる(浜田屋新屋)。1717年三代浜田屋権左衛門没。(三代の時に、浜田屋が町を代表するまでの繁昌を次第に築き上げていった)
③本格的に廻船業に乗り出す。(中古船→新造船→大型船→複数船持ち)
1)1750年浜田屋四代目が100石積の中古船を購入し、雇い船頭で運航。1753年羽茂・赤岩の五郎兵衛船・長久丸150石の中古船を20余両で購入。1764年赤泊・腰細の弥右衛門船(150石積・5人乗り・15反帆)を購入、大黒丸と称す。船頭は宿根木の武兵衛。
2)1768年宿根木で2代目大黒丸(200石積)を179両で新造(前年沢根の火事で、大黒丸が類焼したため)。弁財船。船大工は小木町の徳兵衛、船頭は宿根木の権兵衛。船底材にケヤキ、重木(おもき)などはヒョウガ松[やぶちゃん注:このような松の種は不学にして知らない。日向松のことか?]といった脂ののった上物を使い修理などして1807年までの41年間使ったという。3代目大黒丸の新造には、縁起をかついで2代目の船材を使用。
④大型船の購入・廻船で商圏を瀬戸内・上方に拡大
1)1791年、相川の覚左衛門より500石船の明神丸を購入。「佐渡路を放つより否や、風よろしければ直ぐに沖梶にて下関へ4日目あるいは5日目に着して、大坂・堺・瀬戸内を掛け回った」。
2))1792年宿根木の200石船5人乗りの有田久四郎船を購入して改造し、大乗丸(表石131石、5人乗り)と改名。1798年他に譲り、宿根木の石塚権兵衛船を購入し200石から250石に改造し幸徳丸と改称。2年後相川の葛野六郎右衛門へ譲り、宿根木の佐藤穴口家より320石積船を買い入れ、改装して幸徳丸300石船とした。1803年、赤泊の葛野伝右衛門に譲り、翌年相川の葛野家所有の400石船を買い大徳丸と名付けた。
3)寛政~化政(1789~1829)にかけ家業の隆盛期は、大乗丸・幸徳丸・大徳丸が活躍。大乗丸は1794年宿根木の弁財船を改造した200石積、1799年売却、翌年宿根木の穴口家の高砂丸320石積を購入し幸徳丸と改称。1804年本家の大徳丸を手船とした。1813年時点の浜田屋の本家・分家の船は、大黒丸(1762年中古船・諸道具付きで購入、1822年再び沢根・七場で造作し510石積・9人乗り・21反帆にした)・大徳丸(308石積・9人乗り)・明神丸の3隻。
⑤廻船の航海実績と損益勘定例
1)1805年(文化2)幸徳丸
2月18日新潟県寺泊より村松米・金納米・地廻米を購入、3月19日広島県竹原で村松米・金納米を販売、三田尻塩を購入、4月10日島根県安来で三田尻塩一部販売、鉄を購入、4月26日寺泊で村上米・長岡米を購入、6月27日広島で村上米・長岡米を販売、同地で7月6日三田尻塩を購入、7月24日新潟で三田尻塩を販売、10月広島で米子繰綿を購入し、新潟で販売。
粗利74両、諸払い差引純益32貫。
2)1808年(文化5年)大徳丸
2月佐渡より佐渡米・冬干しイカ・干し鰯(イワシ)を購入、3月兵庫(神戸)へ佐渡米・冬干イカ・干し鰯販売、3月25日石川県小松より小松塩を購入し、4月酒田で塩を販売、その後安来で鉄を購入、4月28日酒田で米沢米・最上米を購入し、6月12日兵庫で米を販売、?[やぶちゃん注:ママ。但し、同ブログの別記事からこれは「三田尻」であることが分かった。]で三田尻塩を購入し、6月15日酒田で多くを販売、閏(うるう)6月1日酒田で庄内上御蔵米を購入、また沢根で土用干しイカを購入し、8月兵庫で米・イカを販売、閏8月16日三田尻塩、その後香川県丸亀で備中繰綿、島根県出雲で米子繰綿を購入し、10月沢根で塩を 11月備中繰綿の約半分を販売、翌年2月寺泊で残った繰綿全てを販売。
粗利150両、諸払い86両、差引純益63両。
3)『海陸道順達日記』編者の佐藤利夫氏は、船の年間損益の分岐点は諸勘定記録から50両と見る。粗利74両で純益32貫、粗利49両で損失45貫の実績例などあり。享和元年幸徳丸の諸経費の実例内訳は、次のとおり。
船主小払い:銭76巻904文、金17両1分、道具代:銭646文、水主(水夫)給銭:銭19巻504文、船頭給銭:金2両、船糧米代:銭32巻860文
合計:金48両860文、錢930文。
4)新造船の建造費は、200石積船180両として年間平均粗利100両・純益30両とした場合、6年で投下資本の完全回収ができる。投下資本利益率16.6%。なお、利足(利息)は年5厘(5%)が相場(史実の断片からみられる)であるから、金を貸した場合の3倍の利益となる。また、幕府の御用船による米運搬は、7年を超える船は出来ないことになっていた。おそらく、改造船はその時点から起算するものであろう。
⑥余裕資金は、田畑購入にあてた。
1)1756年にはじめて畑野・大久保と河内の田を購入し、廻船による利益を土地取得向けていき、幕末までに2万刈(20ヘクタール)を所有する地主となった。
2)大黒丸と明神丸と大徳丸が記載されているのは、1875年(明治8)能登・福浦の佐渡屋客船帳が最後で、1890年(明治23)庄屋を襲った相川暴動で船問屋をやめている。
《引用終了》
根岸が佐渡奉行であったのは天明4(1784)年3月から天明7(1787)年7月迄であるから、まさにこの浜田屋が大型船を購入し、廻船で商圏を瀬戸内や上方まで拡大したところの、寛政~化政(1789~1829)の家業隆盛の直前期に当っていたわけで、これはもう、眼から鱗である。
・「草きり」草分け。物事や商売の創設者。
■やぶちゃん現代語訳
人の貧富というものには人為は及ばぬものであるという事
佐渡ヶ島の佐和田(さわた)沢根の港は廻船業等を以って家業とする者が多い。
濱田屋某といって、到って倹約家の廻船問屋は、その吝嗇(りんしょく)の御蔭を以って家も富み栄えて御座った。
外にも廻船の草分け的な問屋で、以前には成功して相応な身代を築いておった者もあったが、そうした連中も次第次第に衰えて消えていったりしたので、かの濱田屋ばかりがいや栄(さか)にて栄えてあるを、土地の者どもは内心――『ど吝嗇(けち)!』『守銭奴!』と陰口を叩きながら――恨んで御座ったという。
同じ廻船問屋の中には、
『……浜田屋の船は難破するがよいじゃ……』
なんどと不埒にも思うたりする者もあったが……そのように思う者がある時に限って……何と浜田屋の以外の者の船が難破なんど致いて、大いに損失があったりしても……当の浜田屋の船は、一向にそんな愁いもなかったという。
ある時、土地の者共どもの中で、浜田屋から借り受けたりした諸々の貸与の金品等につき、浜田屋が貸借の日限を厳しく言い立てて取りに来たのに恨み骨髄に達し……ある深夜、闇に乗じて、不良少年どもと謀り、浜田屋に大損を仕掛けてやろうということと決し……碇泊していた浜田屋所有の船の帆柱を、こっそりと鋸(のこ)で……ごりごりごりと……二つ三つに無惨に切り、
「……ざまあ! 見ろ!……」
と、ほくそ笑んで帰ったという。……
……ところが……
……翌日聞いたところが……浜田屋の帆柱と思って切った帆柱は……これ、浜田屋の持ち船にて、これ、御座なく……最近、すっかり落ち目になってしまった別の廻船問屋の持ち船の帆柱に御座った――虫の息であったその問屋はこれにて息絶え、またまたその分、浜田屋に利が転がり込んで御座ったとのこと――と、土地の者が私に語ったことにて、御座る。
*
佐州團三郎狸の事
佐州相川の山にニツ岩といへる所あり。彼所に往古より住める團三郎狸といへるある由、彼地の都鄙(とひ)老少となく申唱へけるに、古老に其證を尋しに、誰見しといふ事はなけれ共古來より申傳へぬる由なり。享保元文の頃、役人の内寺崎彌三郎といへるありし。相川にて狸を見懸て拔打に迯る所を足をなぐりし由。
此寺崎は後に不束(ふつつか)之事ありて家名斷絶せしよし。
しかるに芝町に何の元忠とかいへる外科の有しを、夜に入て急の病人ありとて駕を以て迎ひける故、何心なく元忠も駕に乘りて行しが、ニツ岩とも覺ゆる所に、門長屋其外家居等美々(びび)しき所に至り、主出てその子怪我せし由にて元忠に見せ、藥抔もらひ厚く禮を施し歸しける由。然るに其後藥を取に來る事もなく、厚く謝絶等をもなしける故又尋んと思ひけるが、曾て其所を知らず。程過て聞合せぬるに、元忠が療治なしつるは團三郎が子狸にてありしや、實(げに)も人倫の樣殊にあらずと語りし由、國中に語り傳へしとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:佐渡奇譚連関。
・「佐州」佐渡国。
・「團三郎狸」このよく知られた二ッ岩の団三郎狸を始めとする佐渡のタヌキ憑き及び妖獣としてのタヌキについては、例えば佐渡在住のlllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』が素晴らしい。読み易いくだけた表現を楽しみ写真なども見つつ、リンクをクリックしていると、あっと言う間に時間が経つ。それでいて生硬な学術的解説なんどより生き生きとした生(なま)の佐渡ヶ島が浮かび上がってくる。必見である。氏の記載に依れば、佐渡には元来、タヌキもキツネも棲息しなかったが、慶長6(1601)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりとある(次の「天作其理を極し事」に登場)。因みに、私は実は熱烈な佐渡ヶ島ファンである。なお、佐渡では狸をムジナと呼称することが多いという。なお、底本の鈴木氏注によれば、『配下に、おもやの源助、東光寺の禅達、湖鏡庵の才喜坊などというのがいた』ともある。
・「相川」現在、佐渡市相川。旧新潟県佐渡郡相川町(あいかわまち)。佐渡島の北西の日本海に面した海岸にそって細長く位置していた。内陸は大佐渡山地で海岸線近くまで山が迫っている。南端部分が比較的なだらかな地形となっており、当時は佐渡金山(相川金山)と佐渡奉行所が置かれた佐渡国の中心であった。
・「ニツ岩」現在の新潟県佐渡市相川にある。二ツ岩団三郎狸と共に、二ツ岩明神が祭られた聖石遺跡の一つとしても知られる。以下、須田郡司氏の「日本石巡礼~聖なる石に出会う旅・36」に二ツ岩明神の写真や解説がある。要必読。
・「享保元文」西暦1716年から1741年。根岸が佐渡奉行であったのは天明4(1784)年3月から天明7(1787)年7月迄である。
・「寺崎彌三郎」不詳。少なくとも享保元文年間の歴代の佐渡奉行を確認したが寺崎姓はいない。
・「芝町」現在の相川町芝町。相川町の北部の海岸地区である。
■やぶちゃん現代語訳
佐渡の団三郎狸の事
佐渡国相川の山に二ツ岩という場所があり、ここに古くから棲んでいる団三郎と称する狸がおると言い伝えられて御座る由。
佐渡ヶ島の島中の者――老人だろうが若人であろうが、町屋の者であろうが田舎の者であろうが――これまた皆、このことをしょっちゅう口にするので、私が、
「団三郎なる狸、まことに居るのか?」
と古老に訊ねてみたところ、
「……へえ、誰が見たということはないので御座いまするが……何分、古(いにしえ)から言い伝えられておりますればこそ……」
との由。
何でも享保元文の頃、本土より使わされた役人の一人に寺崎弥三郎なる者が御座った。この男、ある時、相川の部落で狸を見かけ、逃げるところを、一刀抜き打ちで、足を斬りつけた――確かに手ごたえがあったとのこと――ことがあった由。
[根岸注:この寺崎弥三郎なる人物、後日、不祥事に因って家名断絶となった由。]
ところが……柴町に何とか元忠(げんちゅう)――姓は失念致いた――という外科医が御座ったが、そこに夜に入ってから急病人が出たとのことで駕籠を以って迎えが来て御座った。遅き時間なれど駕籠もあり、急患なればとて、その駕籠に乗って行くうちに、夜景ながら、どうも二ッ岩の極近くとおぼしい所で、門や長屋その他主人家居なんども如何にも絢爛豪華なる御屋敷に辿り着いた。
早速に主(あるじ)じきじきに元忠を出迎えると、
「……私めの子倅(こせがれ)めがとんだ怪我を致しましてのぅ……」
と慇懃に告げて、元忠に診させた。――何やらん刃物の傷の様にて、深くはあったれど命には別状なしという見立てにて――療治致いて薬なんどを渡したところ、主は元忠に厚く謝礼をなした上、再び駕籠で帰した由。
しかるにその後(ご)、薬を取りに来る事もなく、一度(ひとたび)の療治にては不相応謝礼を貰(もろ)うたこともあれば、怪我の直り具合なんど一目見んと思い、また訪ねてみようと思うたところが――かの二ッ岩の極近くとおぼしい所を――隈なく探してみたものの、一向に、あのような御殿の如、御屋敷は御座らなんだ由。
後に元忠、他の者との話の中で、かくかくの事があった由言うたところ、座の者、
「そりゃ、お前さんが療治致いたは、寺崎殿に斬られた団三郎の子狸だったんじゃねえか?」
と言うた。それを聞いた元忠も、
「……そういえば、何とのう、ただの人……『人間』のようには感じられなんだところが、あったような……」
と語って武者震いしたとの由。
この話は今も佐渡の国中に、語り伝えられておるとの由で御座る。
*
天作其理を極し事
佐渡の國は牛馬猫犬鼠の類の外獸物なし。田作を荒すべき猪鹿もなく、人を犯し害をなせる狐狼の類(たぐひ)もなければ、庶民も其愁ひをまぬがれぬ。しかるに金銀山の稼(かせぎ)有故鞴(ふいご)は夥しく遣ふ事なるに、鞴には狸の皮なくては成がたし。しかるに外獸物はなけれ共佐州に狸計(ばかり)はある也。古へおふやけより命ありて放し給ふとも言へども、左あるべき事にもあらず、自然と狸はありて其國用を辨じけるも又天の命令の然る所ならんか。
□やぶちゃん注
○前項連関:佐渡狸(佐渡ではムジナと呼称することが多い)奇譚連関。前項でも引用した佐渡在住のlllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」: 佐渡の伝説』は必読。氏の記載に依れば、根岸が否定しているのに対して、佐渡には元来、タヌキもキツネも棲息しなかったが、慶長6(1601)年に佐渡奉行となった大久保石見守が金山で使用する鞴(ふいご)の革素材にするためタヌキを移入したのが始まりであるとある。
・「鞴(ふいご)」は底本のルビ。吹子。「吹革」(ふきがわ)が「ふいごう」となり、それが転訛した語。金属の精錬や加工に用いる火をおこすための送風器。古くは獣皮を縫い合わせた革袋が用いられた。足で踏む大型のものは特に踏鞴(たたら)と呼ぶ。
■やぶちゃん現代語訳
天工はその理を窮めてあらせられるという事
佐渡国には牛・馬・猫・犬・鼠の外には獣の類いはおらぬ。田畑を荒らすところの猪や鹿もおらず、人を欺き害をなす狐や狼もおらぬから、そういう点では庶民もいらぬ心配をせずに済んでおる。
ところが金山銀山の精錬をこととする故、鞴(ふいご)は夥しく用いねばならぬこととなっておるが、鞴は狸の皮でなくしては作ること、これ、難しい。しかるに今述べた通り、佐渡にはこれといった特殊な動物はおらぬのにも拘わらず、狸だけは、おるのである。これについては、昔、御公儀より鞴御用の向きにつき御命令があって、狸をお放ちになられた由、言われては御座るが、まさかそんなことがあったとも思えぬ。
むしろ、古(いにしえ)より自ずから狸はここ佐渡におって、その国がゆくゆく必要とすることになるものを賄(まかの)うようになって御座ったは、既に已に天が元より、天が玄妙なる配剤をなさっておられたという証しでは御座らぬか。
*
靈氣殘れるといふ事
佐州外海府(そとかいふ)といへるは別(べつし)て海あれ強き所也。鳥井某其(その)湊(みなと)に番所役勤し時、同所濱邊に住居せし者、ある夜船を引上げ候聲のしける故、海端へ至り見るに聊かかゝる事なし。兩三夜も同じ聲なしける故、其濱邊に至りしに、彼聲のしけるあたりと思ふ處に覆へる船流寄りたり。驚きて大勢人夫をかけ引起し見しに、鍋釜の類は沈しと見へて見へされ共、箱桶の類は船の中に有しが、其箱に海府村の村名等有けるにぞ、扨は此程行衞知れざりしといひける船ならんとて、其村方へ知らし、人來て改めけるに相違なかりしと也。右船は相川の町へ薪を積廻し戻りの節、鷲崎の沖にて難風に逢ひ行衞知れずなりしが、自然と乘組の靈氣殘りてかく聲をなしけるものならん。海邊には時々有事の由語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:佐渡奇譚連関。久しぶりの霊異譚である。短くシンプルであるが、映像的にも音響的にも印象的で、「耳嚢」中でも私の好きな怪談の一つである。
・「佐州外海府」佐渡ケ島の外海府海岸の地名。佐渡でも私の好きな景勝地である。以下、ウィキの「外海府海岸」から引用する。『新潟県の佐渡島西岸に位置する海岸。両津地区の弾崎から相川地区の尖閣湾まで伸び、約50キロメートルにも及ぶ大規模なものである。海岸段丘が発達しており、一帯には奇岩、奇勝が連続する県下随一の景勝地として名高く、佐渡弥彦米山国定公園の代表的な景勝地の一つで、佐渡海府海岸として国の名勝にも指定されている』。『外海府海岸は非常に規模が大きく』、尖閣湾・大野亀・二ツ亀・平根崎(ひらねざき)・入崎(にゅうざき)等、『見所が非常に多い』。
・「鳥井某」不詳。
・「番所役」現在で言う港湾警察署長及び港湾管理事務所所長相当かと思われる。
・「夷港」現在の両津港のこと。古くは夷港と呼ばれたが、明治34(1901)年に夷町と湊町が合併して両津町が誕生、大正6(1917)年に港も両津港と改称された(lllo氏の『佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」:両津港』による)。
・「鷲崎」大佐渡(島の張り出した北側部分)の北端に位置する。地元では「わっさき」と呼称する。
■やぶちゃん現代語訳
霊気が残るという事
佐渡の外海府という海岸域は特に海が荒れ易く波も荒い。
鳥井某なる人物が夷港(えびすみなと)の番所役を勤めておった頃の話である。
当地浜辺に住もうておった者、ある深夜のこと、
「――えい! や!――せえ! の!――」
と陸に船を引き上げる掛け声が聞こえた。こんな夜中にと不審に思うて、海っ端(ぱた)へ出て見たところが、全く以ってそのような影も形もない。……
次の晩方も……
「――えい! や!――せえ! の!――」
その次の晩方も……
「――えい! や!――せえ! の!――」
……かく同じことが三晩も続いたため、同じ村人は三日目に再びその浜辺へ出てみた。
……と……
……かの声がしたかと思われる辺りに……一艘の転覆した船が流れ着いておった。
驚いて近隣の村の衆を呼び集め、皆して引き起こして見たところ、鍋釜の類いは既に水底に沈んでしもうたと見えて見当たらなかったものの、箱や桶の類いは船中に残っておった。その箱には海府村の村名などが書かれておった。
「……さてはこれ、先日来、行方知れずになったという船に違いない……」
と取り急ぎ、その村方へ知らせ、関わりの者が来て、船その他を確かめさせたところが、果たして、相違なきものにて御座ったという。
――――
「……この船は相川の町へ薪を積んで向かい、荷を降ろして戻る途中、鷲崎の沖にて強風に逢(お)うて行方知れずになったもので御座ったが……。自ずと……乗り組んで御座った船乗りの、その霊気が残り……かく声をなして、この世の者へと知らせたのでも、御座ったろう……海辺にては、時折り、このような不思議なことが御座る……」
と、鳥井某が私に語った。
*
精心にて家業盛なる事
江戸四ツ谷に松屋某といへる大小の拵する者あり。其成立を尋るに、至て發明成者にて、昔は武家奉公抔なしけるが、如何成仔細有りてや町人と成て、四ツ谷の往還に古包丁古小刀其外古物の顆を莚(むしろ)の上に並べ商ひける者也しが、元來器用なる者にて刀脇差の柄を卷き、又研(とぎ)など仕習ひて、四五年の内に九尺店(だな)の拵屋(こしらへや)の鄽(みせ)を出しけるが、風與(ふと)思ひ付て外々拵にて五匁(もんめ)の柄卷(つかまき)賃をば三匁に引下げ、拾匁の研賃を七匁に引下げける故、自然と賴みても多くありし故、右直段付(ねだんづけ)いたし近邊の武家其外へ引札(ひきふだ)をなしけるに、四ツ谷糀町(かうぢまち)の拵屋共大きに憤りて、商賣躰(てい)の障りと成由にて奉行所へ訴出し故、呼出有之吟味候所、彼者申けるは、商賣方直段の儀我等仕候は定てあしく可有之候得共、あしきと思ひ給はゞ武家方より誂へ可有之樣なし、我等拵へ仕(つまかつら)ば、右の直段にて隨分利分もありて、相應に取續いたし候也、いわれなく高直(かうぢき)にいたし候ては旦那場(だんなば)の難儀、譬へば只今奉行所より申付有之候共、我等拵へ立(たて)候には隨分右の直段にて出來いたし候旨申ける故、奉行所にても尤に聞濟(ききすみ)て、障りも解ぬれば彌々(いよいよ)家業相励(はげみ)けるに、翌春の年始に一度弐度用事申付有之旦那場へも、聊の年玉を持て歩行(ありき)けるに、都合四百軒に及びし由。其後尾州家中の拵などせしに、大守の御聽(おきき)に入て、大守の御用をも被仰付けるにぞ、今は尾州御用といへる札を出し、弟子の十四五人も抱へ置て富饒(ふにやう)の拵やにて有よし、右最寄の人語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「四ツ谷」現在の新宿区南東部(凡そ市ヶ谷・四谷・信濃町等のJRの駅に囲まれた一帯)に位置する地名。時代によっては江戸城外堀以西の郊外をも含む内藤新宿・大久保・柏木・中野辺りまで拡充した地名でもあった。
・「松屋某」尾州様御用達となったのなら少しは記録が残っていそうなものであるが、未詳。
・「研(とぎ)」は底本のルビ。
・「九尺店」長屋にしても商店にしても最も小さなものを言う。間口9尺=1.5間≒2.7m。奥行きは通常、2間(3.6m)で3坪程の広さであった。
・「五匁の柄卷賃をば三匁に引下げ、拾匁の研賃を七匁に引下げける」銀貨の単位。データはやや下るが、あまり大きな差のないと思われる文化文政期(江戸時代、比較的物価の安定した時期でもある)で
金1両≒銀60~65匁≒銭6500~7000文
銀1匁≒銭108文
のレートであった。一部の物価を参考に供す(やや異なるとしても、これよりも安い値段になろうかと思われる)。
3匁=米2升5合前後
3~5匁=大工手間賃(日当)
7匁=高級蛇の目傘
10~15匁=医師初診料
参考までに歌舞伎桟敷席は何と銀35匁もした。
・「引札」商品の宣伝や開店の披露などを書いて配った広告。チラシ。
・「糀町」東京都千代田区の地名。古くは糀村(こうじむら)と呼ばれたと言われる。『徳川家康の江戸城入場後に城の西側の半蔵門から西へ延びる甲州道中(甲州街道)沿いに町人町が形成されるようになり』、それが麹町となった。現在残る地域よりも遥かに広大で、『半蔵門から順に一丁目から十三丁目まであった。このうち十丁目までが四谷見附の東側(内側)にあり、十一~十三丁目は外濠をはさんだ西側にあ』り、現在の新宿区の方まで及ぶものであった(以上はウィキの「麹町」を参照し、岩波版の長谷川氏の注を加味して作成した)。
・「旦那場」商人や職人などが御得意先を敬っていう語。得意場。
・「大守」尾張藩藩主尾張徳川家。本巻の下限を鈴木氏の推定に従って天明6(1786)年前後とし、本話柄が近過去の内容であるとすれば、尾張藩中興の祖と称された第9代藩主徳川宗睦(むねちか/むねよし享保18(1733)年~寛政11(1800)年)である。藩主としての在任期間は宝暦11(1761)年~寛政11(1799)年である。
■やぶちゃん現代語訳
誠心を尽くさばこそ家業盛んとなる事
江戸の四ッ谷に松屋某という大小刀剣の拵えをする職人がおる。その起立を尋ねたところ、主人は到って発明なる者にて、その昔は武家奉公なんどをしておったが――どんな仔細があったものかは存ぜぬものの――町人となって、四ッ谷の通りに古包丁・古小刀その他古物刃物の類いを莚(むしろ)の上に並べて商いをしておったが初まりにて、生来、細工なんども器用にこなす者であったれば、太刀や脇差の柄を巻き、またその刃をも研ぐ技術なんどもそうした研ぎ職人からおいおい習い覚えて、四、五年する内に間口九尺の刀剣の拵屋(こしらへや)のお店(たな)を出店致いたとのこと。
ある時、ふと思いついて、その外の拵え屋にては五匁(もんめ)が当たり前の柄巻き賃を三匁に、十匁が普通の刀剣類研ぎ賃を七匁と値下げした故、自ずと仕事の依頼も増えたため、この通り、
――四ッ谷 松屋
御刀脇差拵所
柄卷三匁 研七匁――
と値段を書き入れた引き札を作り、近辺の武家屋敷その他へ配ったところが、四ッ谷麹町辺りに営業する拵屋どもがひどく憤って、我等が商売の障りとなる由、奉行所へ訴え出た。
そこで松屋に呼び出しがあり、吟味致いたところ、かの松屋の言い分は、
「我らの商売向きに於ける値段の付け方に就きてのことと存じます。さても我ら、この手間賃にて仕上げ候もの――安かろう悪かろうの定石に照らしますれば――定めて悪しき仕上がりならんと思しめし遊ばされましょうが、万一、お頼みになられた方々、その仕上がり悪(あ)しとお思いになられたのであれば、以後、お武家衆よりの誂え方ご依頼の件、かくまで沢山にては、これ、あろうはずが御座いませぬ。私どもにては、巻きにても研ぎにても、この値段にて随分、利潤も御座り、御覧の通り、相応に商売取引順調に相続いて御座いまする。逆に、理由もなく必要以上の高値を頂戴致しましては、却ってご贔屓のお武家衆のご難儀。――例えば、只今、お奉行所より――総てのお役人衆の御刀の柄巻きと研ぎ――申し付け、これ、御座ったと致しましても、私ども、この値段にて――十分にご満足の戴けるよう――仕上げ申すこと、これ、出来まする。」
との言上にて、奉行所にても、至極尤もなる話、と認めて訴えを退けた。
御公儀のお墨付きも戴き、同業者の嫌がらせもなくなって何らの差し支えもなくなった故、松屋はいよいよ家業に励んだところ、翌春の年始には、それまでは一度か二度しか注文がなかった取引先をさえ御贔屓先となして、僅かばかりの粗品ながらも御祝儀を持参の上、年始の御挨拶に廻れる程に繁盛なした。その折りの年始廻りの先は、何と四百軒にも及んだということである。
その後(のち)、尾張藩御家中の方々の御拵物御用なんど申し受けて御座ったところ、その評判を尾張藩御藩主様もお聴き遊ばされて、遂には御藩主様御拵物御用をも仰せつけられ、今に『尾州様御用達』という公認の名札(めいさつ)を出だし、弟子十四、五人も置き抱える豪商の拵え屋となったとの由、これは、その最寄に住んでおる者が語ったことである。
*
前表なしとも難極事
明和九辰年の江戸大火は都鄙(とひ)の知れる事也。其此日光神橋(しんきやう)の掛替御普請ありて、御作事奉行にて新庄能登守、御目付にて桑原善兵衞登山(とうさん)なしけるが、或日日光新宮に十神事(じふしんのこと)といへる神事神樂ありて、兩士も右拜殿にて見物なしけるに、一ツの烏虚空より礫(つぶて)のごとく新宮の白洲へ落て斃(たふれ)けり。兩士始め見物の者も立寄て見しに、鷲鷹に蹴(けら)れし氣色もなし、友烏等もありたりに見へず、不思議也といひけるに、修學院權(ごん)僧正も見物の席にありしが眉をひそめ、嗚呼(ああ)江府(かうふ)に何ぞ替りし事にてもなければよろしきといひしが、翌日に至りて江戸より飛脚到來、江戸大火の告あり、新庄桑原兩氏の江戸屋敷も右燒亡に洩れず有しと、桑原善兵衞後に豫州といへる時語りぬ。予日光登山の頃右十神事ありて見物に出し時も修學院出席なして、右の咄を修學院も語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。実録日光山東照宮霊異譚シリーズ。
・「明和九辰年」西暦1772年壬辰(みずのえたつ)。明和9年は11月16日に安永元年に改元された。この改元、落語のような話である。火事風水害が続発した「明和九年」(めいわくねん)は「迷惑年」であると縁起を担いだ結果であった。
・「明和九辰年の江戸大火」江戸三大大火の一。明和の大火のこと。明和9(1772)年2月29日午後1時頃、目黒行人坂大円寺(現在の目黒区下目黒一丁目付近)から出火(放火による)、『南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で鎮火したものの、午後6時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。30日の昼頃には鎮火したかに見えたが、3月1日の午前10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅』、『類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災』、死者数14700人、行方不明者数4060人(引用はウィキの「明和の大火」からであるが、最後の死者及び行方不明者数はウィキの「江戸の火事」の数値を採用した)。
・「日光神橋」日光山内の入り口にある大谷川(だいやがわ)に架かる朱塗のアーチ橋。現在の形状は寛永11(1634)年日光東照宮大造替(だいぞうたい)の際から変わらぬもので、記録にはこの時に将軍・勅使・行者以外の一般人の往来を禁止じたとされる。なお、この橋は山管蛇橋(やますげのじゃばし)という別名がある。これは天平神護2(766)年、勝道上人が二荒山(ふたらさん=男体山)にて修行をせんと訪れた際、大谷川の急流に道を阻まれたが、神仏の加護を祈ったところ、深沙大王(じんじゃだいおう)が顕現し、赤青二匹の蛇で両岸を繋ぎ、その背に山管を生やした上、上人を対岸に渡したという伝説に基づく(「修学旅行のための日光ガイド」の「神橋」を参照した)。
・「御作事奉行」幕府関連建築物の造営修繕管理、特に木工仕事を担当、大工・細工師・畳職人・植木職人・瓦職人・庭師などを差配統括したが、この後、寛政4(1792)年に廃止されている。
・「新庄能登守」新庄直宥(しんじょうなおすみ 享保7(1722)年~安永8(1779)年)明和6(1769)年作事奉行、従五位下能登守。同8(1771)年より日光神橋造営の監督に当たる。安永3(1774)年には一橋家家老、同5(1776)年には大目付と累進した(底本鈴木氏注を参照した)。
・「御目付」旗本・御家人の監察役。若年寄支配。定員10名。
・「桑原善兵衞」桑原伊予守盛員(くわはらもりかず 生没年探索不首尾)。西ノ丸御書院番・目付・長崎奉行(安永2(1773)年~安永4(1775)年)・勘定奉行(安永5(1776)年~天明8(1788)年・大目付(天明8(1788)年~寛政10(1798)年)・西ノ丸御留守居役(寛政10(1798)年補任)等を歴任している。卷之一「戲書鄙言の事」の鈴木氏注によれば、『桑原の一族桑原盛利の女は根岸鎮衛の妻』で根岸の親戚であった。事蹟から見ると根岸の大先輩・上司でもある。「巻之二」「吉比津宮釜鳴の事」にも登場。
・「日光新宮」新宮権現。日光山二荒山(ふたらさん)神社の旧称。「日光修験道:日光の神仏」の記載より引用する。『日光三社(所)権現中男体山の神霊である。新宮の名は、開山勝道上人が、四本龍寺に堂を造り、その傍らに社を造り、山神を祀ったが、後に現新宮(二荒山神社)の地に移し、本堂(三仏堂)と社を造り、旧地を本宮と称し、新しい社地を宮と称したことによる。新宮権現は、本地千手観音、垂跡神は大巳貴命、応用の天部は大黒天』。『勝道上人は、日光開山に当たり、中禅寺に柱の立木をもって千手観自在の尊像を刻み、中禅寺大権現と崇め、男体の神霊を鎮め祀った。別名男体大権現とも日光大権現とも称するこの権現は、男体の山頂にて上人に影向し御対面になった。そのところに影向石が現在もある。今に至るまで山頂に登拝することを日光では禅頂と称する。この男体の山は、下に中禅寺湖を擁し、その周囲をとりまく山々に諸神を祀り、日光十八王子という。中世では、一々の山々を拝する夏峰の行があったが、あまりにも苛酷のため廃絶になってしまった』とある。
・「十神事」現在、この名前では残っていないものと思われる。もし、これが二荒山神社例大祭であるとするならば、現在、4月13日から17日まで行われている弥生祭であろうか。昔は旧暦3月に行われたことからこう呼称され、1200年の歴史を持つとされる。明和の大火は2月29日午後1時頃の出火で、一旦鎮火後同日午後6時頃に本郷から再出火し、駒込、根岸を焼亡、30日昼頃には再び鎮火したかに見えたものの、3月1日の午前10時頃になって馬喰町付近から再々出火、東に燃え広がって日本橋地区を全焼して完全鎮火している。これらの日付から、そう類推した。日光行事にお詳しい方の御教授を願うものである。
・「修學院權僧正」「修學院」は日光山輪王寺の中に置かれた管理運営機構の一つ。学頭修学院・東照宮別当大楽院・大猷院別当竜光院・釈迦堂別当妙道院・慈眼堂別当無量院・新宮別当安養院の以上五別当の他、新宮・滝尾・本宮・寂光・中禅寺の五上人、衆徒中・一坊中・社家といった階層組織を成していた。「權僧正」とあるから僧正に継ぐ次席。日光山輪王寺は天台宗。当時は神仏習合で日光東照宮・日光二荒山(ふたあらやま)神社と合わせて「日光山」を構成していた。ウィキの「輪王寺」によれば『創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた』。『「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもあり、堂塔は、広範囲に散在して』いるとある。
・「予日光登山の頃」根岸が「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(卷之二「神道不思議の事」より)したのは安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。本件より5年後のことであった。
■やぶちゃん現代語訳
未来に起こる出来事を予兆する不可思議なる前兆がないとも極め難い事
明和九辰年の江戸大火は世間にてもよく知られている事実である。
丁度、その頃、私は日光神橋の掛替御普請御用が御座って、作事奉行であられた新庄能登守殿、御目付であられた桑原善兵衞殿と共に日光山へ登山(とうさん)して御座ったが、ある日、日光新宮に『十神の事』と言う御神事及び御神楽が御座って、両人もかの拝殿にて神事を見物なさっておられたところ、一羽の鴉が虚空より礫(つぶて)の如く、新宮の御白洲の上へ落ちて死んだ。両人始め見物の者も傍に寄って見てみたが、鷲や鷹に蹴られた様子もない。空を見上げてみても、群れ飛ぶことも多い鴉ながら、外の仲間の鴉も見えぬ。両人ともに、
「……不思議なことも、あるものじゃ……」
なんどと言い合って御座ったところ、修学院の権僧正様も同じ見物の席におられたが、如何にも眉を顰められて、
「……ああっ……江戸表に何ぞ変わったことでも……なければよろしいがのう……」
と仰せられた。
翌日になって江戸表より早飛脚が来たって、江戸にては大火なる由、報告がなされ、正に新庄・桑原両氏の江戸屋敷もこの焼亡から遁るること能わず、全焼致いた由にて御座ったと。
桑原善兵衞殿が後に伊予守となられた時、私に語られた話で御座る。
この一件は後、私が日光登山の頃、この十神事ありて見物に出し時も、修學院樣が御出座になられており、右の通りの御話を修学院様御本人もお話遊ばされた故、確かなことにて御座る。
*
神明淳直を基とし給ふ事
日光御祭禮は、予度々登山(とうさん)なしける故、難有も時々拜見なしけるに、近郷近村五里十里の外より老若男女競ひ集(つどひ)て、木の枝柵の影に迄群集して見物する事也。神輿(しんよ)渡御の時は賽錢雨露のふるごとく、暫しが間は大地も色を變ずる程に錢を敷く事也。神人(じにん)あるひは御神領より出る百姓の御輿舁(みこしかつぎ)或ひは見物の小兒など拾ひけるにぞ、大樂院に、右賽錢も夥しき事ならん、定て御別當へ納(おさま)るべしと聞けるに、大樂院答けるは、渡御の節献じける賽錢、壹錢にても御別當所へ納る事にあらず、みな拾ひ候者其日の食酒等の飮食になす事にて、夫に付咄しあり、右散物を拾ひ守護となし或は酒食となすは、神明淳直を元とし給ふ故也、其たゝりなし、若(もし)多分に拾ひし者其身の貯(たくはへ)となす心得あれば、忽(たちまち)罰を蒙りしを幾度か見たりと語りぬ。左も有べき事と爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:日光神事神霊玄妙直連関。根岸は本当に神道には無邪気なほど無防備手放しで感心している。
・「日光御祭禮」日光東照宮春期例大祭及び神輿渡御祭のこと。古くは徳川家康忌日に当たる陰暦4月17日に行われた(現在は5月17~18日)。家康は現在の静岡県久能山に葬られたが、二代将軍秀忠が家康の遺言によって、日光に社殿を創建、元和3(1617)年4月に、日光山に神霊を遷座した。その際の模様を再現したものがこの例大祭である。現行では本社から三基の神輿が東照宮から西隣りにある新宮権現二荒山神社(ふたらさん)拝殿に渡御した上、宵成祭と言ってここで一夜を過ごす(これは家康の御霊が西方浄土に移ったことをシンボライズするもので、翌日向かう御旅所は静岡久能山に見立てられたものという)。同日には石鳥居前表参道の馬場で流鏑馬が奉納される。翌日、神輿は二荒山神社を発し、御旅所に渡御されるが、その際、神輿を守る行列を俗に百物揃千人行列(ひゃくものぞろえせんにんぎょうれつ)、正式には神輿渡御祭(しんよとぎょさい)と言い、本話柄は往時のその行列の様を活写し、その縁起を述べるものである。この行列は元来は駿河の久能山から日光に神霊を移す際に仕立てた行列を模したもので、旧神領の産子(うぶこ:通常の神社の氏子のこと。)が表参道から御旅所まで神輿に付き従う仕来たりとなっている。行列が到着すると、御旅所本殿に神輿を据えて、拝殿で三品立七十五膳の神饌(しんせん)が供えられ、「八乙女の舞(やおとめのまい)」及び「東遊の舞(あづまあそびのまい)」の奉納舞いが演じれた後、再び行列は東照宮に還御して、祭礼を終了する(以上は、個人のHP「閑話抄」の中の歳時記に所収する「日光祭」の記載を大々的に参照させて頂いた)。
・「予度々登山なしける」根岸が「日光御宮御靈屋本坊向并諸堂社御普請御用として日光山に在勤」(卷之二「神道不思議の事」より)したのは安永6(1777)年より安永8(1779)年迄の3年間。
・「神人」これは「じにん」「じんにん」と読み、正規の神主よりもずっと下級の社家に仕えた下級神職、寄人(よりうど)を指す。ウィキの「神人」 より引用する。『神人には、神社に直属する本社神人と、諸国に存在する神領などの散在神人とがある』。『神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった』。『京の五条堀川に集っていた祇園社(現八坂神社)の堀川神人は中世には材木商を営み、丹波の山間から木津川を筏流しで運んだ材木を五条堀川に貯木した。祇園社には、身分の低い「犬神人」と呼ばれる神人が隷属し、社内の清掃や山鉾巡行の警護のほか、京市内全域の清掃・葬送を行う特権を有していた』。『日吉大社の日吉神人は、延暦寺の権勢を背景として、年貢米の運搬や、京の公家や諸国の受領に貸し付けを行うなど、京の高利貸しの主力にまで成長した』。『石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権、水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)』。『上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた』とある。言わば、寺院に於ける僧兵のような役割を荷った者たちと思われる。
・「御神領より出る百姓の御輿舁」前の「日光御祭禮」注で示した旧神領の産子(うぶこ)の中から選ばれる。
・「大樂院」は前話にも登場した日光山輪王寺の中に置かれた管理運営機構の一つ。学頭修学院・東照宮別当大楽院・大猷院別当竜光院・釈迦堂別当妙道院・慈眼堂別当無量院・新宮別当安養院の以上五別当の他、新宮・滝尾・本宮・寂光・中禅寺の五上人、衆徒中・一坊中・社家といった階層組織を成していた。
■やぶちゃん現代語訳
神の全智はあくまで篤く直きものにてあられる事
日光の御祭礼は、私も仕事柄、何度も登山致いておれば、有り難くもたびたび拝見致いて御座る。
近郷近村、五里十里もの遠方より、老若男女、競うように集い来たって、木の枝に取り付き、また柵の蔭に首ねじ入れ、数多(あまた)鈴成り、呆れんばかりに群聚(ぐんじゅ)致いて見物するので御座る。
御輿渡御となれば、賽銭驟雨白露(びゃくろ)の降る如くにして、暫しの間は沿道の大地、色を変ずる程に銭で敷き詰めらるるので御座る。
それをまた、神人(じにん)や御神領から出ておる産子(うぶこ)である百姓の神輿担ぎの者若しくは見物の童(わらわべ)なんどが、これまた、先を争って拾うて御座る。されば私が、傍に御座った東照宮別当大楽院の者に、
「この賽銭だけでも、かなりの額に登って御座ろうほどに、定めし、別当殿におかせられては、潤沢なる喜捨ともなるもので御座ろうのう。」
と訊いたところが、大楽院の者が答えて申すによれば、
「いえ、渡御の際に献ぜられたこの賽銭は、一銭たりとも東照宮様御別当には納めらるること、これ、御座いませぬ。――みな、拾って参った者が、その日のうちに酒食に使(つこ)うてしまうので御座います。――それにつきて、ここに面白き噺が御座います。――この賽銭を拾うて、お守りと成し、或いはその日の祭礼の酒食の代(しろ)と致します分には――それは御神命のあくまで篤く直きものにてあられることを心得た行いにてありますれば――それに何の祟りも、これ、あろうはずも御座いませぬ。――なれど、もし、それ以外に余計に拾うて、こっそりとその身の貯えにせんとする心得あらば――忽ち罰を蒙ること、これ、必定。――拙僧も、そのような様を、何度か見たことが御座いまする。」
と語って御座った。
いや、あくまで篤く直き御神命には如何にもありそうな尤もなることなれば、ここに記しおくものである。
*
三峯山にて犬をかりる事
武州秩父郡三峯權現は、火難盜難を除脱し給ふ御所にて、諸人の信仰いちじるき。右別當福有(ふくいう)にて僧俗の家從隨身(ずいじん)夥しく、無賴不當の者にても今日たつきなく欺きて寄宿すれば差置ける由。多くの内には盜賊など有て、金錢など盜取て立去らんとするに、或は亂心し或は腰膝不立、片輪などに成て出る事不叶。住僧は勿論隨身の僧俗も、右在山の内金子を貯(たくはへ)出んとするに、必祟有て表も持出る事叶はず。酒食に遣ひ捨る事は強て咎めもなき由、彼山最寄の者語りぬ。且又右三峯權現を信じ盜難火難除(よけ)の守護の札を付與する時、犬をかりるといふ事有。右犬をかりる時は盜難火難に逢ふ事なしとて、都鄙(とひ)申習はす事也。或人、犬を貸候といへど札を附(ふす)計(ばかり)也、誠の犬をかし給ふ事もなるべきや、神明の冥感(みやうかん)目にさへぎる事を賴ければ、別當得其意(そのいをえ)祈念して札を附與なしけるに、彼者下山の時ひとつの狼跡へ成り先へ成り附來(きたる)ゆへ、始て神慮の僞なきを感じ、狼ともなひ歸らんの怖さに、立歸りてしかじかの譯をかたり、疑心を悔て札計受たき願ひをなしける故、別當又其趣を祈て付屬なしければ、其後は狼も眼にさへぎらず有りしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:神事神霊玄妙直連関。
・「武州秩父郡三峯權現」現在の埼玉県秩父市三峰にある三峯神社のこと。ウィキの「三峯神社」より一部を引用する。『社伝によれば、景行天皇の時代、日本武尊の東征の際、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登り、伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。景行天皇の東国巡行の際に、天皇は社地を囲む白岩山・妙法山・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える』。『伊豆国に流罪になった役小角が三峰山で修業をし、空海が観音像を安置したと縁起には伝えられる』。『三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を雲取山と呼んでいる』。『中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。しかし、正平7年(1352年)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われ、衰退した』。『文亀年間(1501年 - 1504 年)に修験者の月観道満により堂舍が再興され、以降、聖護院派天台修験の関東総本山とされ、隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、三峯大権現と呼ばれた』。『江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし、「お犬さま」として崇めるようになった。さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された』。以下、本話柄と関わる「山犬信仰(三峯講)」の項。『三峰信仰の中心をなしているものに、御眷属(山犬)信仰がある。この信仰については、「社記」に享保12年9月13日の夜、日光法印が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼が群がり来て境内に充ちた。法印は、これを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬の神札を貸し出したところ霊験があったとされる』。『また、幸田露伴は、三峰の神使は、大神すなわち狼であり、月々19日に、小豆飯と清酒を本社から八丁ほど離れた所に備え置く、と登山の折の記録に記している』。『眷属(山犬)は1疋で50戸まで守護すると言われている。文化14年12月14日に各地に貸し出された眷属が4000疋となり、山犬信仰の広まりを祝う式があり、また文政8年12月2日には、5000疋となり同様の祝儀が行われている。 明治後期の文献と思われる「御眷属拝借心得書」には、御眷属を受け、家へ帰られたならば、早速仮宮へ祀られ注連縄を張り、御神酒・洗米を土器に盛り献饌し、不潔の者の立ち入らぬようにされたいとある。(仮宮へ祀るのは講で受けた場合で、個人で受けた場合神棚でよいとされる)』。
・「隨身」用心棒の類い。前話で示した僧兵同等の神人(じにん)で訳した。
・「神明の冥感目にさへぎる事」岩波版長谷川氏注に『神様の御加護を実際に目で見てみたい』とある。私は「さへぎる」である以上、「神の冥加の顕現があると言うが、実際にはこの眼には遮られて見えぬ」、即ち「神命の御加護が本当にあるというのなら、それをこの凡夫の眼にも見せてもらおうではないか」という不遜なる願いの意であろうと私は当初、思った。ただ長谷川氏の訳は本質的に私の解を含んだ簡約形とも感じられるので、「何としても神明あらたかなるところのご加護の御様(おんさま)、目の当たりに拝まさせて戴きとう、御座る」と幾分、援用させて頂いて訳してみた。ただ、訳した後、次の「明德の祈禱其依る所ある事」に出現する「さへぎる」を根岸は「眼を過(よ)ぎる」の意で誤って使っている可能性が濃厚であることがその訳作業の中で分かってきた。しかし、私のオリジナル訳の過程を現に残すものとして、このままとしたい。
・「付屬なし」依頼して。
■やぶちゃん現代語訳
三峯山にて犬を借りるという事
武州秩父郡の三峯権現は火難盗難を取り除く神にて、諸人の信仰、これ、著しい御社(おやしろ)である。ここの別当は到って裕福にて、僧俗の下男や怪しげなる神人(じにん)体(てい)の者どもも夥しくおり、無頼不逞の輩にても――その日の暮らしも立たず、嘆き縋りつく思いにて訪ねて寄宿を望まば――如何なる者にても拒まずに差し置くとの由。
なればこそ、その内には盗賊なんどもおって、御社の金銭なんどを窃かに盗んでは立ち去らんとする者も稀におれど――そういう不届き者はたちどころに乱心し、或いは足腰立たず、片輪となって、山を出ずること、これ、能わぬことと相成る。住僧は勿論のこと、神人体(てい)の僧俗にても、山に在った内に貯えておった金子を持って山を下ろうとしても、やはり必ず祟りがあって、一銭だに持ち出だすことは、これ、叶わぬ。――ところが、これを山中にあって、酒食に使い捨つる分には、これと言った神罰のお咎めはない、との由。かの三峯山の近隣に住んでおる者が語ったことである。
また、この三峯権現を信仰し、盗難火難除けの守護の御札を授ける際、『犬を借りる』と言い慣わしておる。この犬を借りる時は、決して盗難火難に遭うこと、これなし、と世間に広く言い習わしておるのである。
ところが、ある人が、別当に、
「……犬をお貸し下さると言いながら、お授け下さるは、ただ札ばかりで御座る。……一つ、誠の犬なるもの、お貸し下さることは出来ませぬか?……ここは一つ、何としても神明あらたかなるところのご加護の御様(おんさま)、目の当たりに拝まさせて戴きとう、御座る。」
なんどと不遜なることを頼んだところ、別当、その願いの意を受け、特に祈念致いた御札を、以ってこの者に授けた。
すると……かの者が下山の砌……一匹の狼……かの者の後になり、また、先になり……付き来(きた)ったればこそ……男、初めて神慮の偽りなきこと、これ、感じ入るとともに、神狼を伴(ともの)うて帰らんことの怖ろしさに、心底震え上がって……とって返すと、しかじかの訳を語るや、神意を疑(うたご)うたこと、心より悔い、御札ばかりを授かりたき旨、懇請致いた故に、別当、再びその趣きを祈念致いて授けたところが、その帰途には狼の姿も眼に過(よ)ぎること、これなく、無事下山致いた、との由で御座る。
*
明德の祈禱其依る所ある事
祐天大僧正は其德いちじるき名僧なりし由。或日富家の娘身まかりしに、彼娘折ふし一間なる座鋪(ざしき)の角(すみ)彷彿とたゝずみ居る事度々也。兩親或ひは家内の者の眼にもさへぎりけるにぞ、父母も大きに驚、狐狸のなす業や又は成佛得脱の身とならざるやと歎き悲み、誦經讀經なし或は祈念祈禱なしぬれど其印なければ、祐天まだ飯沼の弘經寺(ぐきやうじ)にありし此(ころ)、彼驗僧を聞て請じけるに、祐天申けるは、いづかたへ出候や、日日所をかへ候哉と尋しに、日日同じ所に出る由を語りければ、我等早速退散させ可申とて、右一間へ階子(はしご)をとり寄せ、火鉢に火を起して彼一室に入て誦經などなせしうへ、右亡靈の日日彳(たたず)みけるといへる處へ階子をかけ、祐天自身(おのづ)と天井を放し見しに、艷書夥しくありしを、一つかねに取りて直(ぢき)に火鉢の内へ入れ、あふぎ立て煙となし、此後必來る事有まじといひしに、果して其後かゝる怪しみなかりけると也。娘のかたらふ男ありて、艷書ども右天井に隱し置しに心掛り殘りけると、早くも心付し明智の程、かゝる智者にあらば祈禱も驗奇有べき道理也。
□やぶちゃん注
○前項連関:神霊玄妙直連関。但し、根岸は仏教には厳しい。従ってその謂いも「いちじるき名僧なりし由」であり、その「明德の祈禱」も論理的には何の不思議もない「其依る所ある事」であり、人がちょっと気づきにくい事実を「早くも心付し明智」はあると言える、「かゝる智者にあらば祈禱も驗奇有」ように見えるのは「道理也」と、智は称えるものの――根岸は殊更に「智者」と言っている。これは「論語」に言う、仁者に及ばざる「智者」の謂いであろう――先のような神道神霊の玄妙なる超自然力を認めている話柄ではないことに注意したい。そう雰囲気を全面に出した現代語訳にしてある。類話は「新選百物語」等にもあり、小泉八雲も「怪談」の“A Dead Secret”「葬られた秘密」でこの類話を英訳翻案している著名な話柄である(但し、そこでは娘は丹波国の商人稻村屋源助の娘お園、僧はその商家の檀家寺の住職である禅僧大玄和尚という設定になっている)。因みに、私はこの祐天上人絡みの怪談群が大の好みであり、従って祐天大僧正大ファンであるからして、この根岸の言い口には、普通以上に『異様に』引っ掛かるものがあるのである。そのようなバイアスのかかった私の現代語訳としてお読みになられたい。なお、「卷之二」で明らかにしたように、根岸の宗旨は実家(安生家)が禪宗の曹洞宗、養子先の根岸家は正しく「祐天大僧正」の浄土宗である。いや、だからこそ、表立っては批判していないのだとも言えそうである。
・「祐天大僧正」祐天(寛永14(1637)年~享保3(1718)年)江戸のゴースト・バスターとして知られる浄土宗の名僧。浄土宗大本山増上寺36世。以下、ウィキの「祐天」より引用する(一部記号を変更した)。『字は愚心。号は明蓮社顕誉。密教僧でなかったにも関わらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという』。『祐天は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、正徳元年(1711年)増上寺36世となり、大僧正に任じられた。晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した』。『祐天の奇端で名高いのは、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の亡魂を解脱させた話で、曲亭馬琴はそれをもとに「新累解脱物語」を著している。のちに三遊亭円朝の怪談「真景累ヶ淵」で有名となった』。
・「さへぎりける」先の話柄でも気になったがここまで来ると、根岸は「さへぎる」という語を誤って使っているということが確かになる。「さへぎる」(本来は「さいぎる」が正しいとする説が有力)は「間に隔てになるものを置いて、向こうを見えなくする」及び「進行・行動を邪魔してやめさせる」「妨げる」という意であるが、ここではどう見てもそう訳せない。彼は「眼を過(よ)ぎる」という意で用いているのである。ないもの(亡霊)があることで、見通せるものが遮られるの意でとるというのも、如何にも牽強付会である。
・「飯沼の弘経寺」現在の茨城県常総市豊岡町に所在する寿亀山天樹院弘経寺のこと。茨城県には「弘経寺(ぐぎょうじ)」と名のつく寺院が3つあるが、その中でも『飯沼の弘経寺』というのは、かつての「関東十八檀林」(江戸時代の浄土宗僧侶の養成機関)の一つとして多くの学僧を世に送り出し、関東の中心寺院として栄えた本寺を指す。開山は応永21(1414)年良肇(りょうちょう)が横曽根城主の帰依を得て建立した。良肇は弘経寺を浄土宗の学堂として優れた布教僧を輩出させた。天正3(1575)年に戦禍により諸堂宇を焼失して荒廃したが、17世紀初頭に了学なる僧を招いて復興、再び学問所として発展した。了学は徳川家康・秀忠・家光に厚遇された高僧で、秀忠の長女千姫(天樹院)もこの了学より五重相伝(浄土宗の教義の真髄や奥義を檀信徒に対して五つの順序に従って伝授する法会で、当時はめったに行われなかった秘中の儀式)を授けられ、弘経寺の再興に力を尽くしたという。現存する本堂は千姫の寄進による寛永10(1633)年建立のもので、堂内には伝千姫筆の寺号扁額が掲げられている。本堂左手には千姫廟所もある。落飾後の千姫の姿を描いた「千姫姿絵」を始めとした千姫関連の寺宝が多い。現在、弘経寺は東京芝大本山増上寺別院となっている(以上は、浄土宗HPの寺院紹介の「弘経寺 (浄土宗)茨城県常総市」等を参照しつつ、内容を整理したものである)。
■やぶちゃん現代語訳
明徳と称せられる人物の祈禱力にはものによっては論理的にちゃんと説明可能な理由があるという事
祐天大僧正は、その徳のあらたかなことでは、よく知られた名僧なのだそうである。
ある時、富貴なる町家の娘が病のために身罷って後、かの死にし娘子が、折りにつけ、ある一間の座敷の隅に佇んでおる姿がぼんやりと見えること、これ、たびたび御座った。
両親だけではなく、家内の者の眼にさえもその姿が実際に過(よ)ぎるということで、父母も大いに驚き――最早、親族の気の病いとは言い難きによって、
「……狐狸のなす業(わざ)にてもあろうか……または……もしや何らかの思いの残り、成仏解脱の身に、これ、成ること出来ず、浮ばれずにおるのであろうか……」
と嘆き悲しみ、相応の僧を招いて誦経読経なんど致いたり、あるいは種々の祈念やら祈禱やらも施してみたものの、一向に効験(しるし)なく、娘の亡霊は出現は跡を絶たなんだ。
そこで――その頃は未だ飯沼の弘経寺(ぐきょうじ)にあったが、しかしもう既に霊験あらたかな法力の持ち主として名を馳せていたところの験僧――祐天を請じることと相成った。
来る早々、祐天は、
「さても、その亡霊、何方(いづかた)へ出ますかの? 日によって出ずるところを変えるといったことは御座らぬかの?」
と、父親に訊ねる。父は、
「……はあ、必ず何時も同じ所に、これ、出でまする……」
と語ったところ、祐天、即座に合点、
「なるほど!――では我ら、早速、怨霊退散させ申そうぞ!」
と、かの亡霊の出づるところの座敷内に梯子を持って来させて隅に寝かせ、火鉢に火を起こさせると、その一間に入り、総ての襖を閉じて、厳かに読経致し、それをし終えるや、すっくと立って、かの亡霊が日々佇んでおると聞いた場所へ自ずと梯子を掛け、天井を開け放った。
――そこには夥しい数の恋文の山が御座った。
祐天は一通残らず一摑みにそれを取り上げ、一気に火鉢に投げ込むと、扇をもって煽ぎ立てて、忽ちのうちに煙と成し果たした。
祐天、さわやかなる笑顔にて座敷を出づると、
「向後、決して娘子の幻、これ、現るること、御座るまい。」
と受けがって言った。――
果たして、その後あのような怪異は、これ、全くなくなったのだということであった。――
種を明かせば、亡き娘には密かに語り合(お)うた好いた男がおって、その男から貰(もろ)うた沢山の恋文や己れの文反古(ふみほうご)やらを、天井に隠していたのが、如何にも恥かしゅうて心にひっ掛かかり、心残りとなって御座ったのだ――という事実に、すぐさま気付いた祐天の明智の程は、大したもんである。こうした理を尽くして透徹した智者にてあってみれば、その祈禱の結果に、現実離れしたような玄妙奇瑞にさえ見える効験、これ――『あって見えて』――当然、というべき道理ではある。
*
一旦盜賊の仲間に入りし者咄の事
予が方に仕へし太田某、元勤たる屋鋪(やしき)に中間奉公して、實躰(じつてい)に勝手抔立働し者ありしが、彼者一旦身持不埒にて晝盗(すり)の仲間入なせしに、其業淺間(あさましき)敷を見限りて右仲間を立去りしに、なか/\急には遁れがたきものゝ由。右の者咄けるは、神田邊の町家の悴(せがれ)母と兩人暮(ぐらし)し也しが、終に晝盜の仲間へ入て、母は勿論親類も勘當なしけるが、其母深く歎(なげき)、何卒彼が心を改め人間に立歸る樣、日毎に淺草觀音へ參詣なしけるぞ哀れ也き。身寄なる者淺觀音へ參詣の折から彼晝盜に途中にて逢し故、母もかく/\の事にて歎き悲み給ふ、何卒心を取直し人間に立歸候樣申ければ、彼(かの)すりも涙を流し、いかにも我等も立歸るべしといひけるにぞ、さあらば我と同道して今日心を改て母の許(もと)へ立歸るべしと申けるにぞ、觀世音に向ひて誓ひをなし連(つれ)て戻(もどり)、母へ勘當の詫(わび)をなしけるに母も大きに悦び、豆腐商ひをなしける故右の商賣方精を出し、右商ひの外は他へ一向出し不申、其身も他へ出ずして一兩年ありしが、或時觀音へ參詣しけるに、元の晝盗仲間に行合ひ、久しく不逢如何致(いたし)たるやと尋る故、母の歎もだしがたくしかじかの由語りぬれば、夫は尤成事也とて暫くありし昔を語り、久々の對面也酒一つ汲(くま)んとて、酒鄽(さかみせ)に寄て互に汲かわし、今日は珍らしく逢し也、是より吉原町へ行て今宵は遊んと誘ひけれど、母の氣遣ひ待(まち)なんと辭しけれど、邂逅(たまさか)の事也苦しかるまじとてすゝめて吉原町へ行ぬ。彼等志(こころざし)身上(しんしやう)に過て金銀を遣ひ捨るものなれば、かたの如くに酒食を奢(おご)りて、朝かへらんとせし時金錢不足なりける故、少々はたらきして補はんと例の惡心を生じて、人の紙入等を奪ひて不足を償ひしが、夫より又古(いにしへ)の惡業に染(しみ)、亦々晝盜の仲間に入、終に公(おほやけ)の刑罰を請(うけ)し也。かゝる事を見聞せし故、彼中間(ちうげん)は一旦在所相州へ引込、八年過て江戸表へ出しに、最早知れる仲ケ間の者も或ひは死し或は刑罰を蒙りてりて知れる顏なく、誠の人間の數入(かずいり)せしといひしを、右吉田語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせないが、浅草寺観音の霊験もなく悪道へと立ち戻って破滅する若者という設定は、仏道への根岸の猜疑不信感というところで通底しているといえば言えなくもない気がする。
・「予が方に仕へし太田某」本話柄最後は「右吉田語りぬ」で終っている。この人物、本巻で先行する「貒(まみ)といへる妖獸の事」に登場する根岸家の中間と同一人物と思しく(勿論、確定は出来ない)、ここは「吉田」の誤りと思われる。現代語訳では「吉田某」とした。
・「一兩年」一年又は二年の意。私は丸々二年の意で採った。
・「相州」相模国。現在の神奈川県の北東部(川崎市と横浜市の一部)を除く大部分に相当。
■やぶちゃん現代語訳
一旦盗賊の仲間に入って後に足抜け致いた者が私に語った話についての事
私のもとに仕えておった吉田某という者――ずっと以前に勤めておった屋敷にても、中間奉公致いて、実直なればこそ勝手勘定方なんどをも勤めておったよし――ところが、この吉田某、その後一旦、身を持ち崩してしまい、掏摸(すり)なんぞの仲間に入って仕舞(しも)うたものの、その悪行の浅ましさに嫌気が差し、その賊から足を洗(あろ)うたとのこと――とは申せ、一度、道を踏み外した者は、なかなか、直ぐにはその道から足抜け致すこと、これ、難しいものであるという。
以下、その吉田某自身が話したことである――。
……儂(あっし)の、その頃の掏摸仲間の内に、神田辺の町家の小倅(こせがれ)にて、父はとうに亡くなって、母と二人暮ししておる者がおりました。……
……その若造も遂には掏摸の仲間へ入ったため、母は勿論、親類一同もそ奴を勘当したんで御座んすが、その母者(ははじゃ)はこれ、深(ふこ)う嘆いて、
――何卒、倅が心改め、真人間に立ち返りまするように――
と、毎日、浅草観音に参詣しておる様は、これ、誠(まっこと)哀れなことで。……
……そんな折り、身寄りの者がやはり浅草観音に参詣致いた折り、偶然、仲見世の途中で掏摸となって獲物を物色しておる、その若者に出逢(でお)うた故、
「お前のおっ母さん、どうしとるか知っとるんか! お前の仲間が毎日のように餌食にしとる、罪のねえ、この浅草寺の、この参詣の人々、その一人として、毎日毎日、ただただ、――何卒、倅が心改め、真人間に立ち返りまするように――と歎き悲しんでおらるるんじゃ!……お前! どうじゃ?! 何とかして、誠心取り直し、真人間に戻らんとは、思わんか?!」
と諭しましたところ、彼も涙を流しながら、ふと、
「……い、如何にも……我ら……足を洗(あろ)うて……たち帰りとう御座います……」
とこぼしたそうで御座る――掏摸仲間の冷酷無惨なる一面に、儂(あっし)同様、何処かで嫌気が差してでもおったものでも御座いましょうか――身寄りの者は早速、
「その気なら! さあ! 我らと同道の上、今日只今、心を改めておっ母さんの元へ一緒に立ち戻ると致そう!」
と、彼を浅草寺御本尊の観世音菩薩さまに向かわせると、二言(にごん)なきこと、誓い致させ、実家に連れ戻し、母へ勘当悔悟の詫びを入れさせましたところが、母も大いに悦び――この者の実家の家業は豆腐屋にて御座った故――それからというもの、誠心に豆腐商いに精を出して御座いました。
母は商いのための拠所ない用事の折り以外には、倅の外出を一切許そうとは致さず、彼自身もまた、殊更に家に籠もって外出をせずにおりました。
――さても、彼が足を洗(あろ)うて、丁度、丸二年が経った頃のこと。――
ある日のこと、彼一人、かく真人間に戻して下すった御礼と、浅草観音まで久し振りに参詣致いたところが、ばったり、昔の掏摸仲間に行き逢(お)うて仕舞(しも)うたので御座る。
「おぅ! 久し振りじゃあねえか! どうしてるぃ?」
と訊かれ、
「……いや、その……母の嘆くのを……黙って見ぬ振りして御座る訳にはいかなんだによって……今は、母と二人、実家の豆腐屋を継いで……まあ、ほそぼそと、やって御座る……」
と語ったところ、
「おぅ! そりゃあ! 尤もなことじゃ!」
と相手も如何にも得心したように頷くと、受け合(お)うたようなことを言って御座ったれば、彼も気を許して仕舞(しも)うて、暫くの間は昔の掏摸仲間であった頃の話なんどに花を咲かせて御座ったが、
「おぅ! 久々のご対面じゃ! どうよ? その辺で、一杯(いっぺえ)やろうぜ!」
と誘われ、優柔不断な男なれば、断わろうにも断わり切れず、つい飲み屋に立ち寄って酌み交わして語り合(お)うておる、そのうちに、
「おぅ! どうよ? 今日(きょうび)、珍しくも逢(お)うたんじゃ! これから一つ、吉原へ繰り出して、今宵は存分に、お遊びといこうじゃねえか?!」
と更に誘わるることと相成って御座った。
「……いや……その……母が心配して……待っておれば……」
と否まんとはせしものの、
「おぅ! おぅ! こうして久し振りに、偶々逢えたんだぜい?! ちっとばかりの息抜きぐれえしたって、どうってことはねえだろ? 観音さまの罰(ばち)でも当るちゅうんかい?!」
と切に勧めた。彼も、
――久し振りの廓(くるわ)じゃ……一晩ぐらいなら、おっ母さんも許して呉れようほどに――
なんどと気を許して仕舞(しも)うて、結局、吉原へと連れ立って行って仕舞(しも)うたので御座る。
ところが彼等、例によって身の程過ぎての遊興三昧、有り金総てを使い果たし、言わんこっちゃない豪奢の限りを尽くし……さても翌朝、帰らんとせし砌……支払おうにも持ち合わせが足りぬことに、今更ながら気付いて御座った。
「おぅ! ここは一緒に、よ! 昔取った杵柄で、よ! お互い、いっちょ、ちょこっと、よ? 働いて、よ? ケリをつけるちゅうのは、よ? 簡単なことじゃねえか? クイッと、一発! 一度こっきりのこと、だって!」
と連れに誘わるるがままに……またぞろ、件(くだん)の悪心、心に生じ……つい、吉原中の町の沿道に出でて……二人して人の財布を掏摸(す)り……勘定の不足を補(おぎの)うて仕舞(しもう)たので御座った。……
……かくて元の木阿弥、かつての悪行に再び染まり帰ってもうて、またしても掏摸仲間に逆戻り……そうして遂には……ご公儀からのお仕置きを請けることと、相成って仕舞(しも)うたので御座いました……。
……儂(あっし)は、こういったことを見聞きして御座ったれば……掏摸から足を洗(あろ)うて直ぐ、在所の相模の奥へ引っ込み、八年の月日が過ぎてから、やおら江戸表に出て参ったので御座いまする……。
……出てみると、流石に八年も経てばこそ、最早、知れるところの掏摸仲間も――或いは死に、或いはお仕置きを蒙り、斬罪やら江戸払いとなって――一人として知れる顔なんどものうて、かく、ようやっと真人間の仲間入りを致すこと、これ、出来申したので御座いまする……。
と、かの吉田某、しみじみと語って御座ったよ。
*
博徒の妻其氣性の事
下谷に住(すみ)し竈〆(かまじめ)をなせる法印、予が知れる者の方へ來り咄しけるは、湯島大根畠(だいこんばた)の賣女屋とやらん、所の親分共いへる者の方へ、去暮(こぞくれ)竈〆祓ひに罷りし處、彼妻申けるは、此間は甚仕合(しあはせ)あしく甚難儀也。何卒念を入て仕合直り候樣にはらひの祈禱なし給へと賴ける故、心得しと答へ荒神店(だな)に向ひ祈禱なしけるに、彼女房、宿には右の法印計(ばかり)を置て、いづちへやら出けるが、それ迄は布子に布子羽織抔着して小兒を肌に負ひけるに、暫く過て盆の上に白米弐三升をのせ、其上に鳥目五百文のせて、法印の前に施物(せもつ)初尾(はつを)のせ差置けるを見るに、彼女房始と違ひ羽織も布子もなく、寒氣難絶(たへがたき)時節袷(あはせ)計(ばかり)を着し、小兒をばやはり肌に追來りぬ。法印も驚きて、全く其身の着服を質入して施物に調達なしぬると思ひぬれば、彼女房に向ひ、我等も今日始ての知人にもなし、數年の馴染也、祈禱の事は念頃に祈候得共、此謝禮には及ばず、追て仕合(しあはせ)能(よき)時施し給へ。小兒もあるなれば、ひらに身も薄からず着給へといゝけるに、女房更に合點せず是非々々と強ひけるにぞ、無據其意に任せ、それより番町小川町牛込邊所々旦那場(だんなば)を歩行(ありき)て、歸り候節も大根畠を通りしに、彼者の内ことの外賑はしく、燈火いくつとなく燈し、鯛ひらめを料理、何かさわがしき故、いかなる事にと門口を覗き、只今我等も歸候、御亭主も歸り給ひしやといひて尋ければ、女房早くも見付て、能(よく)こそ寄給ひたり、ひらに上り給へといひし故、最早暮に及びたれば宿へも急ぐと斷(ことわり)しに、御祈禱の印も有、ひらにより給へと無理に引入れしに、女房も晝の姿とは引(ひき)かへ、其外晝見し氣色は引かへて富貴のあり樣にて、酒食を振廻(ふるまは)れ歸りしが、博徒のすぎわひはおかしき物也、鬼の女房の鬼神と俗諺(ぞくげん)の通り、其妻の氣性も又凄じきものと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:掏摸から博徒の悪道直連関。シーンの後半は、夫の博徒の親分が博打で大枚が転がり込んだ様を描写しているのであろう。現代語訳は竈〆の法印の直接話法に意訳し、臨場感を出した。しかし、私は昔からボーイッシュな女性が好きだからか、「其妻の氣性も又凄じきもの」と言うより、何だか、この姐(あね)さんにマジ惹かれるのである。
・「下谷」現在の台東区の北部。以下、ウィキの「下谷」によると、『上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である』とする。天正18(1590)年に『領地替えで江戸に移った徳川家康により姫ヶ池、千束池が埋め立てられ』、『寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄え』、『江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現、金杉通り)沿いに発展』した。『江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担』い、明暦3(1657)年の明暦の大火の後、火除地として下谷広小路(現在の上野広小路)が整備されるに至り、正徳3(1713)年には『下谷町として江戸に編入され』たとある。
・「竈〆」竈神(かまどがみ)である荒神(こうじん)を祀ること。「釜占」「竈注連」等とも書き、荒神祓(こうじんはらい)とも言った。昔は釜の火は神聖なものとして絶やさぬよう大切にしたが、火は同時に災厄とも繋がっており、文字通り、荒らぶる神として畏敬される存在であった。後には年末や正月の行事となったが、当時は、毎月晦日、巫女や修験者が民家を廻っては竈神である荒神さまを祀って、家内安全商売繁昌をも祈願した。このシーンは歳末ながら、女房が「此間は甚仕合あしく甚難儀也」と言っており、貧窮の転変いちじるきさまからはこれが一年前のこととは思われず、十一月の月末の竈〆めが上手くなかった、その結果としてこの一月の実入り悪かったことを愚痴っているのである。
・「法印」ここでは山伏や祈禱師の異称。岩波版長谷川氏注では、「竈〆」を行なうのを巫女と限定し、『竈〆をする巫女は山伏の妻であることが多い』と記す。長谷川氏は竈〆の祭祀者は巫女と拘っておられるのだが、この本文で竈〆をしているのは間違いなく法印である。私には、何故そこに拘られるのかが解せない。底本の鈴木氏注でも「竈〆」の注の最後で『神楽鈴と扇子を持って舞う。山伏の妻などが行ない、中には淫をひさぐ者もあった。』と記すが、何で? と、やっぱり私には解せないのである。
・「湯島大根畠」現在の文京区湯島にある霊雲寺(真言宗)の南の辺り一帯の通称。私娼窟が多くあった。底本の鈴木氏注に『ここに上野宮の隠居屋敷があったが、正徳年間に取払となり、その跡に大根などを植えたので俗称となった。御花畠とも呼んだ』とあり、私娼の取り締まりで『天明七年に手入れがあったこともある』と記されている。この「上野宮」というのは上野東叡山寛永寺貫主の江戸庶民の呼び名。「東叡山寛永寺におられる親王殿下」の意で東叡大王とも呼ばれた。寛永寺貫主は日光日光山輪王寺門跡をも兼務しており、更には比叡山延暦寺天台座主にも就任することもあった上に、全てが宮家出身者又は皇子が就任したため、三山管領宮とも称された(ウィキの「東叡大王」による)。正徳年は西暦1711年から1716年、天明7年は1787年。鈴木氏は「卷之二」の下限を天明6(1786)年までとし、「卷之三」は前二巻の補巻とされているから、本話柄は正にその直前ということになる。
・「賣女屋」私娼窟。
・「仕合」巡り合せ。運。
・「荒神店」底本では「店」の右に『(棚)』の注記がある。竈神である荒神を祀るための神棚。
・「布子」木綿の綿入れ。
・「布子羽織」木綿で出来た綿入りの羽織。羽織は着物の上に着る襟を折った短い衣服。
・「鳥目五百文」「鳥目」とは、穴開きの銅銭が鳥の目に似ていたことからの銭(ぜに)の異称。この頃の500文ならば米4升は買えたはずである。この女房は、ここでこの謝金以外に米を2~3升添えている。都合全部で6~7升分、単純に銅銭に換算すると軽く800文を超える額になる。やや時代が下った文化文政期で銀1匁≒銭108文のレートで、3~5匁が当時の大工手間賃の日当であったことを考えると、これは当時の大工手間賃の日当より遥かに高額にして法外な「施物初尾」料に相当するということに気づく必要がある。法印が吃驚しているのは、叙述では女房が着衣の質草にしてまで施物初尾を施したことだけに集中しているように書かれているが、実際にはこの「施物初尾」が甚だ多いためでもあると私は思うのである。
・「初尾」初穂(はつほ)。通常は、その年最初に収穫して神仏や朝廷に差し出す穀物等の農作物及びその代わりとする金銭を言う。室町期以降は「はつお」とも発音し、「初尾」の字も当てた。
・「袷」裏地のついた上着一般を指すが、近世以降は初夏に用いる薄手のものを指し、夏の季語ともなっている。
・「肌に追來りぬ」底本では「追」の右に『(負ひ)』の注記がある。
・「旦那場」御得意先。
・「鬼の女房の鬼神」諺(ことわざ)。一般には「鬼の女房に鬼神(きしん/きじん)」と言い、『鬼のような冷酷無惨な男には、情け容赦もない鬼のような女が妻になるものである』の意。しかし、本話柄の女房は必ずしもそうは読めないと私は思う。情け容赦もない鬼のような女なら、もっとこの法印に対しても、冷たいであろう。
■やぶちゃん現代語訳
博徒の妻のその気性の事
下谷に住んでおった竈〆めを生業(なりわい)とする僧が、私の知人方に参った折りに語った話である。
……湯島大根畠にあった――実は怪しげな売春宿でもあったらしゅう御座るが――その辺りの博徒の親分とも噂される者の方へ、去年暮れ、何時もの通り、竈〆めお祓いに訪れた折りのことで御座る。
かの親分の女房が申しますことには、
「文句は言いたかないんだけどさ……どうもさ、こないだのあんたの御祓いが気が入ってなかったんか、それとも儂(わし)らのツキがようなかったんだか知らん……この一月、どうにもうまくなくってさ、ひどく難儀なんよ! だからさ、今日は一つ、念には念を入れてさ、按配よくツキが廻ってように、お祓いの祈禱、びしっと! よろしく頼んだよ!」
と、如何にもむっとした表情ながら懇請して参りました故、
「そりゃ、悪いことを致いた。手を抜いたりはせなんだつもりじゃが……いや、なればこそ心得た!」
と応じて、我ら、荒神棚に向かって祈禱を始めて御座った。
すると、かの女房、宅(うち)に我ら独りを残して、何処ぞへ出かけた気配がしたかと思ううち、直(じき)に戻って参ったので御座ったが――かの女房、さっきまでは木綿の綿入れにやはり綿入りの羽織なんどを重ね着し、その中に赤子をぬくとく背負うて御座ったに――今やすっかり様変わりして、この寒気堪え難き時節にも拘わらず、最前の羽織も布子も何処へやら――如何にもぺらぺら、肌に吸い付かんばかりの袷(あわせ)一枚きりにて――その鳥肌立ったる素肌に、これまたぶるぶる震えておる頑是無い赤子を同じように背負うて御座った――その女房が、盆に施物の白米二、三升、その上に更に初穂料の鳥目五百文を載せたを、ぶっきらぼうに、ずんと、我らが前に差し出いだいたので御座った。
流石の我らも驚き申した。
全く以って己(おの)が着れる着衣までも質に入れ、わざわざこの施物初穂を調達してきたものと思えばこそ、女房に向かい、
「我ら、今日初めて逢(お)うた仲にても、これ、御座ない。もうかれこれ数年の馴染みじゃ。望みの通り、竈〆御祈禱のこと、如何にも懇ろに祈り申したれども……かくなる謝礼には、これ、及ばぬ。追って我らが祈請の通じて、仕廻し方、これ、良うなった折にでも施し下されよ。赤子もあることなれば……さ、薄きものにてはなく、しっかりとお召しになられよ、身をぬくとくなさるるが何より大事……」
と言うたのじゃが、この女房、頑として譲らず、
「さ! さ! 是非に! 是非! 持っていきな! あたいの志を無にすんのかい!!」
と盆を押し付けて強いるばかりで御座ったれば、よんどころなく、そのまま施物初穂を受けとって、その場を後にして御座った。
それから番町・小川町・牛込辺りの所々(ところどころ)のお得意先を経巡り、さて帰らんと、再びかの大根畠を通ったところ――かの女房の家内――何やらん殊の外賑やかで、軒に灯火(ともしび)が幾つともなく点され、厨(くりや)では鯛や鮃の舞い踊り――ならぬ鯛の活き造りやら、鮃の薄造りに余念がない様子――余りの騒がしきに、何があったのかと、厨の戸口から覗いて、
「……我らも今、帰らんとするところなれど……ご亭主も無事お帰りか?……」
と声をかけたところ、早速にかの女房、我らを見つけ、
「あんれ、まあ! よくぞ寄って下すった!! さあ、さ! ずいっと上がっておくんない!!」
と申すので、拙僧、
「……いや、最早、日も暮れに及ぶれば……我が宿へも急いでおるに……」
と断わったれども、
「何、言ってのよ! お前さんのご祈禱のお験(しるし)が、さ! 早速、現われたんだから、さ! ずいっと上がっておくんないって言ってるんさ!!」
と、我が袖を強引に引いて無理矢理引き入れられ申した。
と見れば――その女房の姿は――これ、昼間とはうって変わって、豪華絢爛たる衣装に身を包んで――その気色もまた――昼間とはうって変わって、富貴爛漫にして喜色満面の有様――我ら、贅沢な酒食を振る舞わるるがままに、帰って御座った。
……さても、極悪道の博徒の生業(なりわい)とは、全く以って奇妙なものにて御座る。……また、俚諺にも『鬼の女房の鬼神(きしん)』なんどと申しまするが……誠(まっこと)そうした者の妻の気性というものも、これまた、いや、凄まじいものにては御座るよ……。
*
深切の祈誓其しるしある事
近き頃の事也しか、淺草並木邊とやらんの事成由。木藥商ひする者ありしが、藥種屋には砒霜(ひさう)斑猫(はんみやう)などいへる毒藥も、腫物其外其病症によりて施(ほどこす)事あれば、貯へ置事も有し由。然れど賣買も容易(たやす)くいたさゞる事也。其外ウズやうの小毒の藥も、人の害をなす故猥(みだり)に賣買はせざる事成が、或日其身近所へ出し留守に女壹人來りて、砒霜斑猫の類ひにはあるまじ、輕きうずやうの毒藥を望(のぞみ)しに、鄽(みせ)に居し小悴(こせがれ)何心なく商ひて、主人歸りて其事を語りけるに大きに驚き、いか成樣の者に賣りしや名所(などころ)も聞しやと尋しに、名所聞し事もなく勿論知れる人にもあらず、年頃三十計(ばかり)の女の、小丁稚(こでつち)壹人連れて調へ行しといひし故甚歎きて、兼て信ずる淺草觀音へ詣ふで、一心不亂に右藥(くすり)人の害をなさず人の爲に成やう肝膽(かんたん)をくだき祈りけるに、年頃四十計り成男、是も信者と見へて讀經などして一心に祈り、歸りの節ふと道連(みちづれ)に成しに、彼男申けるは、御身も信心渇仰(かつがう)の人也、當寺觀音の靈驗いちじるく我等數年日參の事など語りて心願の筋抔語りて尋ける故、彼木藥屋答へけるは、我等事はさしかゝる大難ありて一心に祈念なすと言しに、夫はいか成事哉、ともに力を添んとありし故、あたりに人もなければかく/\の事故と語りければ、彼男聞て其女の年頃着服格好の樣子等を聞て、御身事人の難儀をいとひかく信心なし給ふ、いかで感應なからん、我宿はいづく也、尋候へ迚(とて)立わかれぬ。さても彼男は藥種屋にわかれ、己(おの)が住居する花川戸へ歸りけるに、鄽に湯かたを干して置たり。其湯衣(ゆかた)を見たりしに、淺草におゐて藥種屋が噺せし模樣に少しも違ひなく、夫より心づきて見れば、我妻の年恰好も似寄ければ、心に不審を生じけるに、其妻茶抔運び餠菓子やうの物をやきて茶菓子とて差出しぬ。彌々(いよいよ)心に不審を生じ、よき茶菓子なれど後にこそ給(たべ)なん。某(それがし)は入湯なし來るとて浴衣手拭を持せて風呂屋へ行、彼丁稚を人なき所へ招き、今朝妻の供していづちへ行しや、道にて妻の調へものなしける事有りやと尋ければ、丁稚も隱すべき事としらねば、有の儘に淺草へ詣ふで藥種屋にて物を調へし事抔語りける故、彌々無相違と淺草を遙拜し、湯などへ常のごとく入りて立歸りければ、又々妻は茶菓子ども持ち出しけるを、彼男右菓子を女房に先づ給候樣申けるに、其身好(このま)ざる由を云ひければ、今日は存(ぞんず)る旨あれば親里へ參り可申迚、彼菓子を重に入れて人を附、離別の状を認(したた)め、右離別の譯は此重箱の菓子なりとて送り返しけるとや。夫より右之者藥種屋と兄弟のむつみなして、彌觀音薩埵(さつた)の利益(りやく)を感じ、信心他念なかりしとや。
□やぶちゃん注
○前項連関:凄まじい博徒の妻から未遂なれど夫殺し鬼妻で直連関。
・「淺草並木」浅草並木町は現在の雷門2丁目。雷門の雷門通りを挟んだ正面の通りが浅草並木町であった。底本の鈴木氏の注に『もと浅草境内からこの辺まで道の両側に松・桜・榎の並木があった』ことからの町名、とお書きになっておられる。
・「木藥商ひ」生薬屋。植物・動物・鉱物等を素材としてそのまま若しくは簡単な処理をして医薬品あるいは医薬原料に加工する商売。一般人が容易に買えるところから薬種問屋ではなく、現在の一般薬局と等しい薬種屋である。
・「砒霜」砒石(ひせき)。猛毒の砒素を含有する鉱物。砒素について、以下、ウィキの「ヒ素」から一部を引用する。『ヒ素(砒素、ひそ、英名:arsenic)は、原子番号 33 の元素。元素記号は As。第15族(窒素族)の一つ』。『最も安定で金属光沢のあるため金属ヒ素とも呼ばれる「灰色ヒ素」、ニンニク臭があり透明なロウ状の柔らかい「黄色ヒ素」、黒リンと同じ構造を持つ「黒色ヒ素」の3つの同素体が存在する。灰色ヒ素は1気圧下において 615℃で昇華する』。『物に対する毒性が強いことを利用して、農薬、木材防腐に使用される』。『III-V族半導体であるガリウムヒ素 (GaAs) は、発光ダイオードや通信用の高速トランジスタなどに用いられている』。ヒ素化合物サルバルサン (C12H12As2N2O2) 『は、抗生物質のペニシリンが発見される以前は梅毒の治療薬であった』。『中国医学では、硫化ヒ素である雄黄や雌黄はしばしば解毒剤、抗炎症剤として製剤に配合される』。『ヒ素を必須元素とする生物が存在する。微生物のなかに一般的な酸素ではなくヒ素の酸化還元反応を利用して光合成を行っているものも存在する』。『ヒ素およびヒ素化合物は WHO の下部機関 IRAC より発癌性がある〔Type1〕と勧告されている。また、単体ヒ素およびほとんどのヒ素化合物は、人体に非常に有害である。飲み込んだ際の急性症状は、消化管の刺激によって、吐き気、嘔吐、下痢、激しい腹痛などがみられ、場合によってショック状態から死に至る。慢性症状は、剥離性の皮膚炎や過度の色素沈着、骨髄障害、末梢性神経炎、黄疸、腎不全など。慢性ヒ素中毒による皮膚病変としては、ボーエン病が有名である。単体ヒ素及びヒ素化合物は、毒物及び劇物取締法により医薬用外毒物に指定されている。日中戦争中、旧日本軍では嘔吐性のくしゃみ剤ジフェニルシアノアルシンが多く用いられたが、これは砒素を含む毒ガスである』。『一方でヒ素化合物は人体内にごく微量が存在しており、生存に必要な微量必須元素であると考えられている』。『ただしこれは、一部の無毒の有機ヒ素化合物の形でのことである。低毒性の、あるいは生体内で無毒化される有機ヒ素化合物にはメチルアルソン酸やジメチルアルシン酸などがあり、カキ、クルマエビなどの魚介類やヒジキなどの海草類に多く含まれる。さらにエビには高度に代謝されたアルセノベタインとして高濃度存在している。人体に必要な量はごく少なく自然に摂取されると考えられ、また少量の摂取でも毒性が発現するため、サプリメントとして積極的に摂る必要はない』。『亜ヒ酸を含む砒石は日本では古くから「銀の毒」、「石見銀山ねずみ捕り」などと呼ばれ殺鼠剤や暗殺などに用いられていた』。『宮崎県の高千穂町の山あい土呂久では、亜ヒ酸製造が行われていた。この地区の住民に現れた慢性砒素中毒症は、公害病に認定された。症状としては、暴露後数十年して、皮膚の雨だれ様の色素沈着や白斑、手掌、足底の角化、ボーエン病、およびそれに続発する皮膚癌、呼吸器系の肺癌、泌尿器系の癌がある。発生当時は、砒素を焼く煙がV字型の谷に低く垂れ込め、河川や空気を汚染したものと考えられた。上に記した症状は、特に広範な皮膚症状は、環境による慢性砒素中毒を考えるべき重要な症状である。この症状が重要であり、長年月経過すれば、病変、皮膚、毛髪、爪などには、砒素を検出しない』。『上流に天然の砒素化合物鉱床がある河川はヒ素で汚染されているため、高濃度の場合、流域の水を飲むことは服毒するに等しい自殺行為である。低濃度であっても蓄積するので、長期飲用は中毒を発症する。地熱発電の水も砒素を含むので、川に流されず、また、地下に戻される』。『慢性砒素中毒は、例えば井戸の汚染などに続発して、単発的に発生することもある。このような河川は中東など世界に若干存在する。砒素中毒で最も有名なのは台湾の例であり、足の黒化、皮膚癌が見られた。汚染が深刻な国バングラデシュでは、皮膚症状、呼吸器症状、内臓疾患をもつ患者が増えている。ガンで亡くなるケースも報告されている。中国奥地にもみられ、日本の皮膚科医が調査している』。『1955年の森永ヒ素ミルク中毒事件では粉ミルクにヒ素が混入したことが原因で、多数の死者を出した。この場合は急性砒素中毒である。年月が経過し、慢性砒素中毒の報告もある。日本において、急性ヒ素中毒で有名なのは和歌山毒物カレー事件であり、この稿には詳細な急性中毒の報告が記載されている』。『2004年には英国食品規格庁がヒジキに無機ヒ素が多く含まれるため食用にしないよう英国民に勧告した。これに対し、日本の厚生労働省はヒジキに含まれるヒ素は極めて微量であるため、一般的な範囲では食用にしても問題はないという見解を出している』。ヒ素の化合物である『三酸化二ヒ素 (As2O3) – 急性前骨髄球性白血病(APL)の治療薬。商品名トリセノックス。海外では骨髄異形成症候群(MDS)、多発性骨髄腫(MM)に対しても使われている。その他血液癌、固形癌に対する研究も進められている』。『13世紀にアルベルトゥス・マグヌスにより発見されたとされ』、『無味無臭かつ、無色な毒であるため、しばしば暗殺の道具として用いられた。ルネサンス時代にはローマ教皇アレクサンデル6世(1431年 - 1503年)と息子チェーザレ・ボルジア(1475年 - 1507年)はヒ素入りのワインによって、次々と政敵を暗殺したとされる』。『入手が容易である一方、体内に残留し容易に検出できることから狡猾な毒殺には用いられない。そのためヨーロッパでは「愚者の毒」という異名があった』。『中国でも天然の三酸化二ヒ素が「砒霜」の名でしばしば暗殺の場に登場する。例えば、『水滸伝』で潘金蓮が武大郎を殺害するのに使用したのも「砒霜」である』とある。
・「斑猫」土斑猫。昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科 Meloidaeに属するツチハンミョウ。この生物群はツチハンミョウ科に属し、通常の昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目オサムシ亜目オサムシ上科ハンミョウ科 Cicindelidae のハンミョウ族とはかなり遠縁であるので注意を有する。以下、ウィキの「ツチハンミョウ」から引用する(学名のフォントを変更した)。『有毒昆虫として、またハナバチ類の巣に寄生する特異な習性をもつ昆虫として知られている』。『成虫の出現時期は種類にもよるが、春に山野に出現するマルクビツチハンミョウ Meloe corvinus などが知られる。全身は紺色の金属光沢があり、腹部は大きくてやわらかく前翅からはみ出す。動きが鈍く、地面を歩き回る』。『触ると死んだ振り(偽死)をして、この時に脚の関節から黄色い液体を分泌する。この液には毒成分カンタリジンが含まれ、弱い皮膚につけば水膨れを生じる。昆虫体にもその成分が含まれる。同じ科のマメハンミョウもカンタリジンを持ち、その毒は忍者も利用した。中国では暗殺用に用いられたともいわれる』。『「ハンミョウ」と名がついているが、ハンミョウとは別の科(Family)に属する。しかし、ハンミョウの方が派手で目立つことと、その名のために混同され、ハンミョウを有毒と思われる場合がある』。『マルクビツチハンミョウなどは、単独生活するハナバチ類の巣に寄生して成長する』。『雌は地中に数千個の卵を産むが、これは昆虫にしては非常に多い産卵数である。孵化した一齢幼虫は細長い体によく発達した脚を持ち、草によじ登って花の中に潜り込む。花に何らかの昆虫が訪れるとその体に乗り移るが、それがハナバチの雌であれば、ハチが巣作りをし、蜜と花粉を集め、産卵する時に巣への侵入を果たすことができる』。『また、花から乗り移った昆虫が雄のハナバチだった場合は雌と交尾するときに乗り移れるが、ハナバチに乗り移れなかったものやハナバチ以外の昆虫に乗り移ったものは死ぬしかない。成虫がたくさんの卵を産むのも、ハナバチの巣に辿りつく幼虫を増やすためである』。『ハナバチの巣に辿りついた1齢幼虫は、脱皮するとイモムシのような形態となる。ハナバチの卵や蜜、花粉を食べて成長するが、成長の途中で一時的に蛹のように変化し、動かない時期がある。この時期は擬蛹(ぎよう)と呼ばれる。擬蛹は一旦イモムシ型の幼虫に戻ったあと、本当に蛹になる』。『甲虫類の幼虫は成長の過程で外見が大きく変わらないが、ツチハンミョウでは同じ幼虫でも成長につれて外見が変化する。通常の完全変態よりも多くの段階を経るという意味で「過変態」と呼ばれる。このような特異な生活史はファーブルの「昆虫記」にも紹介されている』。漢方薬としては「芫青」(げんせい)名でも知られ、カンタリジン(cantharidin)を抽出出来るツチハンミョウの種としては、ヨーロッパ産のカンタリスである Litta vesicatoriaアオハンミョウ(青斑猫)や日本産の Epicauta gorhami マメハンミョウ(豆斑猫)及び中国産の Mylabris phalerata Pallas 又は Mylabris cichorii が挙げられる。薬性としては刺激性臭気、僅かに辛く、粉末は皮膚の柔らかい部分や粘膜に附着すると掻痒感を引き起こし、発疱を生ずる。古くから皮膚刺激薬・発疱剤(肋膜炎・リウマチ・神経痛に適用)・発毛促進剤・利尿剤(稀な内服例)として用いられた。急性慢性毒性としては経口摂取による咽喉の灼熱感・腹痛・悪心・嘔吐・下痢・吐血・無尿・血尿・低血圧・昏睡・痙攣・排尿時劇痛等の諸症状が見られ、呼吸器不全や腎障害(尿毒症等)を惹起して死に至ることもあるとする。実は本剤はスパニッシュ・フライという名で媚薬としても知られており、一定量を内服すると尿道が刺激されて男性性器の勃起を促進する効果があるという。但し、有毒成分が排出される際に高い確率で腎臓炎や膀胱炎を誘発し、少量でも反復使用すると慢性の中毒症状を引き起こす危険性があるという(以上、後半のカンタリジンの薬理に関しては「医薬品情報21」(代表古泉秀夫氏)の「芫青の毒性」の項を参考させて頂いた)。
・「ウズ」漢方薬で被子植物門双子葉植物綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の総称であるトリカブトの根茎を言う。以下、ウィキの「トリカブト」から引用する。トリカブト(鳥兜・学名Aconitum)は、『キンポウゲ科トリカブト属の総称。日本には約30種自生している。 花の色は紫色の他、白、黄色、ピンク色など。多くは多年草である。沢筋などの比較的湿気の多い場所を好む』。『塊根を乾したものは漢方薬や毒として用いられ、附子(生薬名は「ぶし」、毒に使うときは「ぶす」)または烏頭(うず)と呼ばれる)。ドクゼリ、ドクウツギと並んで日本三大有毒植物の一つとされる』。『トリカブトの名の由来は、花が古来の衣装である鳥兜・烏帽子に似ているからとも、鶏の鶏冠(とさか)に似ているからとも言われる。英名は「僧侶のフード(かぶりもの)」の意』。以下、「主な種」が掲げられている(一部の注釈記号を省略し、学名のフォントを変更した)。
ハナトリカブトAconitum chinense
カワチブシAconitum grossedentatum
ハクサントリカブトAconitum hakusanense
センウズモドキAconitum jaluense
ヤマトリカブトAconitum japonicum Thunb.
ツクバトリカブトAconitum japonicum Thunb. subsp. maritimum
キタダケトリカブトAconitum kitadakense
レイジンソウAconitum loczyanum
ヨウシュトリカブトAconitum napellus 模式種
タンナトリカブトAconitum napiforme
エゾトリカブトAconitum sachalinense - アイヌが矢毒に用いた。
ホソバトリカブトAconitum senanense
ダイセツトリカブトAconitum yamazakii
『化学成分からみて妥当な分類としてトリカブト属が30種、変種が22種、計52種という多くの種類が存在』するとある。以下、「毒性」の項。トリカブトの毒の一つアコニチンは『比較的有名な有毒植物。主な毒成分はジテルペン系アルカロイドのアコニチンで、他にメサコニチン、アコニン、ヒバコニチン、低毒性成分のアチシンの他ソンゴリンなどを』『全草(特に根)に含む。採集時期および地域によって毒の強さが異なる』『が、毒性の強弱に関わらず野草を食用することは非常に危険である』。『食べると嘔吐・呼吸困難、臓器不全などから死に至ることもある。経皮吸収・経粘膜吸収され、経口から摂取後数十分で死亡する即効性がある。トリカブトによる死因は、心室細動ないし心停止である。下痢は普通見られない。特異的療法も解毒剤もないが、各地の医療機関で中毒の治療研究が行われている』。
『芽吹きの頃にはセリ、ニリンソウ、ゲンノショウコ、ヨモギ等と似ている為、誤食による中毒事故(死亡例もある)が起こる。株によって、葉の切れ込み具合が異なる』。『蜜、花粉にも中毒例がある。このため、養蜂家はトリカブトが自生している所では蜂蜜を採集しないか開花期を避ける。以下、「漢方薬」の項。『漢方ではトリカブト属の塊根を附子(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を附子と言い、「親」の部分は烏頭(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を天雄(てんゆう)と言って、それぞれ運用法が違う。強心作用、鎮痛作用がある。また、牛車腎気丸及び桂枝加朮附湯では皮膚温上昇作用、末梢血管拡張作用により血液循環の改善に有効である』。『しかし、毒性が強い為、附子をそのまま生薬として用いる事はほとんど無く、修治と呼ばれる弱毒処理が行われる』。『炮附子は苦汁につけ込んだ後、加熱処理したもの。加工附子や修治附子は、オートクレーブ法を使って加圧加熱処理をしたもの。修治には、オートクレーブの温度、時間が大切である。温度や時間を調節する事で、メサコニチンなどの残存量を調節する。この処理は、アコニチンや、メサコニチンのC-8位のアセチル基を加水分解する目的で行われる。これにより、アコニチンは、ベンゾイルアコニンに』、『メサコニチンは、ベンゾイルメサコニンになり、毒性は千分の一程度に減毒される。これには専門的な薬学的知識が必要であり、非常に毒性が強いため素人は処方すべきでない』。以下、「附子が配合されている漢方方剤の例」として葛根加朮附湯・桂枝加朮附湯・桂枝加苓朮附湯・桂芍知母湯・芍薬甘草附子・麻黄附子細辛湯・真武湯・八味地黄丸・牛車腎気丸・四逆湯が挙げられている。また、トリカブトの花は実際にはかなり美しく、『観賞用のトリカブトハナトリカブトはその名の通り花が大きく、まとまっているので、観賞用として栽培され、切花の状態で販売されている。しかし、ハナトリカブトの全草にも毒性の強いメサコニチンが含まれているので危険である』。『ヨーロッパでは、魔術の女神ヘカテを司る花とされ、庭に埋めてはならないとされる。ギリシャ神話では、地獄の番犬ケルベロスの涎から生まれたともされている。狼男伝説とも関連づけられている』。『富士山の名の由来には複数の説があり、山麓に多く自生しているトリカブト(附子)からとする説もある。また俗に不美人のことを「ブス」と言うが、これはトリカブトの中毒で神経に障害が起き、顔の表情がおかしくなったのを指すという説もある』とある。
・「小悴」岩波版長谷川氏注には「小僧」とするが、私はそのまま主人の倅で訳してみた。その方が面白いと判断したからである。辞書には若い男子を罵って言う語としての「小悴」の意味はあるが、所謂、商店の丁稚や小僧を言うという記載は見出せなかったからでもある。
・「花川戸」現在は東京都台東区に花川戸一丁目と花川戸二丁目で残る。ウィキの「花川戸」によれば、『台東区の東部に位置し、墨田区(吾妻橋・向島)との区境にあたる。地域南部は雷門通りに接し、これを境に台東区雷門に接する。地域西部は馬道通りに接し、台東区浅草一丁目・浅草二丁目に接する。地域北部は、言問通りに接しこれを境に台東区浅草六・七丁目にそれぞれ接する。当地域中央を花川戸一丁目と花川戸二丁目を分ける形で東西に二天門通りが通っている。また地域内を南北に江戸通りが通っている。またかつて花川戸一帯は履物問屋街としても知られていた。現在でも履物・靴関連の商店が地域内に散見できる』とあり、この話柄の後半に登場する男の商売(職種は示されていない)も履物問屋であった可能性が高いか。問屋であれば、店先に洗い張りの浴衣が干してあっても不自然ではない気がする。
・「給(たべ)なん」は底本のルビ。
・「觀音薩埵」観音菩薩。「薩埵」は梵語“sattva”の漢訳で、原義は「生命あるもの・有情・衆生」であるが、後に「菩提薩埵」(ぼだいさつた)の略、如来にならんとして修行する者を意味する「菩薩」の意となった。
■やぶちゃん現代語訳
心からの祈誓には必ず効験がある事
最近の話の由にて、浅草並木辺りにての出来事らしい。
生薬を商(あきの)うておる者があった。
――注しておくと、薬種屋には砒霜(ひそう)や斑猫(はんみょう)なんどと申すいわゆる猛毒にても、質(たち)の悪い腫れ物やその他の悪しき病いの病状によっては、これらを処方することもあるので、薬剤の一種として品揃え致いて御座る由。然れども、容易に販売するようなこと致さぬは勿論である。また、その他にも烏頭(うず)といったような、砒霜や斑猫に比べれば比較的軽度の毒物にても、当然、その量によっては十分に人の命を奪うような害ともなるため、妄りに売買することは、これ、御座らぬは常識である。――
ところが、ある日のこと、その生薬屋の主人が、僅かの間近所に出ていた留守に、一人の女が店を訪れ――流石に砒霜や斑猫の類ではなかったようであるが、所謂、烏頭程度の危険毒は持った――さる毒性薬物を売って欲しいと望んだ。偶々店を預かって御座った小倅、未だ薬種屋商いのいろはも学んで御座らぬに、軽率にもその毒物を売ってしまった。
親なる主人が帰ったので、倅は何心なくこのことを告げたところ、主人、大いに驚き、
「如何なる年格好の者に売った!? 名や住所は訊いたのか!?」
と糺すと、
「……名や住所なんぞは聞かなんだよ……普段、お父(とっつ)あん、そんなことするとこ、見たこともないもんで……全然知らん人じゃったなあ……年の頃は三十ばかりの女で……若い丁稚を一人連れて買い上げて行ったよ……」
と、自分の成したことが如何に大変なことであるか、全く以って分かっておらぬ故、如何にも長閑に答えて平然として御座った。
聞いた主人は一人、最悪の事態を想像して、深く歎き苦しみ、ともかくも兼ねてより深く信心致いて御座る浅草観音へ詣でると一心不乱に、
「……かの薬、人の害となりませぬように!……どうか! 人の為になりますように!……」
と心胆を砕く思いで祈って御座った。
さても、その折り、年の頃四十(しじゅう)ばかりの男で、これも観音の信者と見えて、読経など懇ろに致いて一心に祈って御座ったが、帰る際に、ふと道連れになった。
男が、
「御身も、如何にも観音へ、信心深く尊崇するお方とお見受け致いた。当浅草寺観音の霊験は、これ著しきものにて御座れば、我らも、ここ数年の間日参致いて御座る。」
などと主人に語りかけ、
「……最前のご祈念、何やらん、切羽詰ったものとお見受けしたが……失礼ながら、もしよろしければその心願の筋……お聴きしてはまずかろうものか……」
と訊ねる故、生薬屋主人は、
「……我らことは……差し迫ったる大難あればこそ……一心に祈念致いて御座った……」
と応えたので、
「……それはまた……如何なることにて御座る?……立ち入ったことを申すようなれど……僅かなりとも、観音の心を共に致す我ら、共に力になれること、これ、ないとは限らぬ。……一つ、お話し下さらぬか?……」
との謂いに――辺りに人もなし――生薬屋にても――藁にも縋る思いにて――かくかくのことにて、と語ったところ、連れとなった男は、事細かに女の年頃・着衣・格好など様子を細かに聴いた上、
「……御身は見ず知らずの他人が受けるかも受けぬかも知れぬ難儀を……そのように深く悔いて心に懸け……かく観音菩薩を信心なさり、祈念なさっておる……このこと、どうして感応せざること、これありましょうぞ! 必ずや、その至誠、観音菩薩に通ずること、これ間違い御座らぬ! 我らが住まいは花川戸にて○○という店を開いて御座る。お近くへお出での折りは、どうか一つ、是非お訪ね下されよ。」
と言うて二人は別れる。――
さて、この生薬屋と連れになった男、別れて後、己が(おの)が住居せる花川戸へ帰って御座ったところ、ふと見ると――自分のお店(たな)の入り口の脇に、浴衣が洗い張りして干して御座った。――その浴衣を見たとたん、男はあることに気づいた。
――その浴衣の柄――それは、かの浅草にて、かの生薬屋から聞いた、かの女の着て御座ったという柄模様と――
――これ、少しも違いなきものなので御座った――
『……いや……そういわれて見ると……妻の年格好も……これ、似寄るわ……』
と心に不審の種を播いて御座った。――
男が家に入るや、妻がかいがいしく男を迎えたかと思うと、何時もに似ず、茶なんどを運び、
「……さっき、餅菓子染みたもの、ちょいと焼いて拵えましたから、……さ、茶菓子に、どうぞ……」
と添えて、差し出す。
いよいよ不審が芽を吹いた。
「……うむ。美味そうな菓子じゃ。じゃが、後で頂こうかの。……そうさ、我ら、先ず一(ひとっ)風呂浴びて参る。」
男は丁稚に命じて浴衣手拭いを持たすと湯屋(ゆうや)へ向かった。
途中、その丁稚を人気のないところに呼び寄せると、
「……つかぬことを訊くが……お前、今朝、妻の供して何処へ参った? 途中、妻が何処ぞで買い物なんど致いたりはせなんだか?」
と訊ねたので――勿論、丁稚もそれが隠すようなことだとも思わねば、
「へえ、浅草へ詣でて、帰りに、生薬屋へ寄って何やらお買いになっておられました。」
ことなど、ありの儘に話した。――
「……いよいよ、これ、相違ない!……」
と男は一人ごちると、思わず浅草の方に向こうて手を合わせて御座った。
その後(のち)、常の如く湯屋(ゆうや)に入(い)って宅(うち)にたち帰る
――と――
またしても妻は例の茶菓子どもを持ち出して、
「さ、お召しになられよ。」
と切に勧める。そこで男、その菓子を妻の眼前に突き出し、
「……先ずは一つ、お前がお食べ……。」
と申したところ、
「……!……い、いえ、……あ、あたしは、あ、あんまり、好きなもんじゃあ、御座んせんから……」
と、何やらん、しどろもどろに答えたので、男は、
「――相分かった。今日は我ら存ずる旨(むね)あればこそ、そなたは親里方へ帰るがよい――」
と静かに言うや、かの菓子をお重に納めさせ、即座に三行半を認(したた)めて、一番に信頼して御座った下男にそれらを持たせて妻に付き添わせ、
「――離縁の訳は――この重箱の菓子じゃ――」
とやはり静かに言い放って妻を里へ送り返したとかいうことで御座る。
さてもそれより、この男、かの生薬屋に訳を話した上、兄弟の如く交わりをなし、また、いよいよ観音菩薩の御利益に感じ入って、異心なく信心深くして御座ったということである。
*
上野淸水の觀音額の事
上野淸水(きよみづ)の觀音に、主馬(しゆめ)の判官(はうぐわん)盛久と見へて、大刀取(たちとり)の刀段々壞(だんだんゑ)と成りし繪馬あり。盛久の繪馬ならんと人々のいゝしに、堂守成僧かたりけるは、右繪馬を盛久と見給ふはさる事ながら、盛久にはあらず、あの繪馬に付物語りあり。去る大名の勝手方を勤ぬる武士、其役儀に付私欲の事にてもありしや、吟味に成て死刑に極る事也しに、彼妻深く歎き、日々清水の觀音へ詣ふで堂の廻りを百遍宛(づつ)廻りて一心不亂に祈りしに、髮形(かた)チ取亂し面(おも)テも垢によごれ其姿もやつれ果て、雨雪もいとわず日々歎きて祈けるを、或日御門主右の清水堂に詣ふで給ひて彼女の樣を見給ひ、いか成願ひなるやと人を以尋給ひしに、しか/\の由申けるにぞ、哀れに不便とおもひ給ひしや、御使僧(ごしそう)を以(もつて)彼(かの)諸侯のもとへ被仰遣(おほせやられ)けるは、何某事罪のやうは御存にあらず、極惡の事にもあらずば命を助け給へと御賴也けるにぞ、諸侯にても御門主の御賴無據、命を助け追拂ひに成しと也。其後かの妻ひとへに觀音の利益也と、其樣を繪馬として納たる也と語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:観音現世利益で直連関。しかし、根岸は必ずしも観音菩薩の利益を信じているという訳ではない気がする。
・「上野淸水の觀音」現在も不忍池を見下ろす東の位置に建つ清水観音堂。法華堂や常行堂に遅れること4年、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山慈眼大師天海大僧正によって創建された。天海は平安京に於いて比叡山が御所の鬼門を鎮護したのに倣って、東叡山寛永寺を江戸城の鬼門の守りとして置いた上で、京都の著名な寺院に擬えた堂舎を次々と建立した中の一つが、この清水寺を模した清水観音堂であった。
・「主馬の判官盛久」以下、ここに登場する絵馬が、参詣した人々から、しばしば謡曲「盛久」等で知られる話を絵馬にしたものであろうと思われがちなのであるが、実はそうではない、という語りであるが、とりあえず謡曲「盛久」で知られる原話を注しておく。「盛久」とは平主馬(しゅめ)判官盛久(生没年未詳)のこと。平安末・鎌倉初期の武将で、平盛国の子、通称は主馬八郎。元暦2(1185)年壇ノ浦の戦いで平家が敗れた後、京都で捕らえられて鎌倉へ護送、由比ヶ浜にて斬罪に処せられんとしたところ、日頃より信心していた清水観音の加護で救われたと伝えられる。謡曲「盛久」については私は未見にて語り得ないので、高橋春雄氏の「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」の「盛久1 もりひさ」の「ストーリー」より引用する。『源平の乱後、主馬判官盛久は生け捕りにされ、土屋何某の手で鎌倉へ護送されることになります。途中、盛久は年来信仰した清水観音に暇詣でをすると、都を後に悲哀に満ちた海道下りの旅を続け、鎌倉に着きます』。『盛久は獄中で世の無常を思い、生き恥を晒すことよりも死を望みます。盛久に同情する土屋がこの暁か明夜に処刑だと知らせると盛久は観音経をこれが最後と讀誦います。やがて一睡の中に、老僧が盛久の身代わりになるとの夢の告げを被ります。明け方、盛久は金泥の経巻と数珠を持ち由比ヶ浜の刑場に引き出されます。太刀取が背後に回り刀を振りかざした途端、開いた経文の光が眼を射て、思わず落とした刀が二つに折れてしまいます』。『盛久はこの霊夢による奇跡のために頼朝から罪を許され、杯を賜り、所望された舞を晴れ晴れと舞い上げて退出して行きます。(「宝生の能」平11.2月号より)』とある。岩波版長谷川氏注によると、この伝説の原拠は長門本「平家物語」に基づくものという。近松門左衛門の浄瑠璃にも「主馬判官盛久」があり、この話、当時の人々にはよく知られた話であった。また、リンク先のストーリー解説の下には、写真入りで正にこの上野清水観音堂が掲げられ、ここ『の千手観音像は盛久の護持仏であったという』という記載がある。但し、ここで言う盛久の清水観音とは、本来は京都清水寺にあったものを指していると考えないと盛久の種々の伝承とは辻褄が合わない。底本の鈴木氏注には、この清水堂の、この絵馬について三村清三郎鳶魚翁の注を引き、『新撰東京名所図会に、守一筆にて、主馬判官盛久、由比が浜にて斬刑にあふ図は、寛政十二庚申七月とありと見ゆ、此の絵馬なるべし』とあると記す。
・「刀段々壞」勿論、先の注に附した霊験のシーンにも現れる台詞であるが、実はこの表現は実際の観音菩薩の霊験を讃える法華経の中にその通りに現れる言葉なのである。「法華経」普門品(ふもんぼん)にある「念彼観音力刀尋段段壊」(ねんぴかんのんりきとうじんだんだんえ)という偈(げ)である。これは、観音菩薩の深遠な御慈悲の力を祈念したならば、仏敵が切りかかけて来る刀でさえも紙を折るようにあっという間に幾つにも折れ落ちて、観音を信ずる者の身体万全であるという意味。
・「勝手方」幕府や大名の財務や民政を司った役を広く言う語。
・「御門主」上野東叡山寛永寺貫主。江戸の知識階級の間では東叡大王(とうえいだいおう:東叡山寛永寺におられる法親王殿下)と通称した。
・「罪のやうは御存にあらず」勿論、私はその武家の罪の具体的な内容に就いては全く以って御存知にては御座らねども、の意。「御」は自敬表現。訳では外した。
・「追拂ひ」追放・所払いのことであろう。この場合、諸候とあるから、現居住地であると思われる江戸だけではなく、その諸侯の領国への立ち入りも禁じられる内容であろうと思われる。但しこれが、幕府の追放刑の中でも最も重い「重追放」に準ずるものであったとすると、もっと自由移動が制限される。重追放は一般には関所破りや強訴(ごうそ)未・既遂者などに科された、死罪の次に重いもので、田畑や家屋は敷没収の上、庶民の場合は犯罪地+住国+江戸十里四方(日本橋から半径五里以内)の立ち入りや居住が禁じられた。武士の場合は犯罪地+住国に加えて関八州(武蔵国・相模国・上総国・下総国・安房国・上野国・下野国・常陸国。現在の関東地方にほぼ相当)・京都付近・東海道街道筋等も禁足地に加えられていた。にしても――人間至るところ青山あり――死にどころを選ぶことも出来、死ぬよりは――全く以ってマシである。
■やぶちゃん現代語訳
上野清水堂の観音の額絵馬の事
上野清水(きよみず)の観音堂に、主馬(しゅめ)判官(ほうがん)盛久の逸話を描いたと見えて、盛久と思しい、手を合わせた侍の後ろに立ったる斬首の太刀取りの刀が、美事、ばらばらになって折れておる絵馬が懸かって御座る。
これはもう、盛久八郎刀尋段段壊の絵馬であろう、とかつての私も含め、世間の人々は申して御座るが――これ――違う。
観音堂の堂守である僧が、以下のように語って御座った。――
……いや、かの絵馬を盛久八郎とご覧になるは、これ、ご尤もなることなれど、……実は盛久にてはあらず、……さても、あの絵馬には……さる謂われが御座るのじゃ。……
……さる大名の勝手方を勤めて御座ったさるお武家、その役儀につき、任された公金の横領なんどの罪にても御座ったものか……吟味の上、死罪と極まって御座った。……
……かの妻は……これ、深(ふこ)う嘆きましてな、……日々、この清水の観音へ詣で、堂の周りを毎日百遍ずつ廻っては一心不乱に祈って御座いました。……髪もすっかり崩れ、総髪振り乱して、面もすっかり垢に汚れ、窶(やつ)れ果てた姿となっても……これ、雨も雪も厭わず、……日々、泣き嘆き乍らも……観音に一心に祈りを捧げて御座った。……
……ある日のこと、ご門主さまが、この清水堂に詣でなされた折り、偶々かの女の様をご覧になられました。……
「あれは……一体、何を祈っておじゃるか……」
と、人を遣わせてお尋ね遊ばされました。……
……さても女はかくかくの謂い……それをお聴き遊ばされた御門主は……如何にも哀れに不憫なことと、お思いになられたので御座いましょう……お使いの僧侶をお立てになられ……かの武士の主(あるじ)たる大名諸侯のもとへ、仰せ遣わせになられました――
「――貴方勝手方何某のこと――如何なる罪かは存ぜぬものなれども――極悪の罪にてもないので御座れば、これ、命ばかりは、お救いあられんことを――」
との、御依頼にて御座ったとのこと。……
……さても、諸侯におかせられても、御門主のよんどころなき御依頼となれば、これ、致し方なく……かの男の命を救うてやり、罪一等減じて追放に処した、とのこと。……
……さても後日(ごにち)のこと、かの妻が参りましてな、
「――誠(まっこと)偏えに観音さまのご利益にて御座いました――」
と礼を述べて……この一件をこのように絵馬に仕立てて、かく奉納致いたので御座る……。
*
御門主明德の事
いづれの御門主の御時にてや有けん。去る諸侯の家士不屆の事ありて死刑に極り、近き内に下屋敷にて其刑に行れんとありし時、彼罪人の親しかりしもの壹人の出家を賴み乘物供廻り等を拵へ、彼諸侯の許へ上野御使僧の由を以相越、助命御賴の由申入けるにぞ、早速大守(たいしゆ)へ申けるに、家法を侵す事其罪免しがたけれど、御門主御賴も無據とて助命して追拂ひに成りける。扨彼諸侯より使者を以、上野御本坊へ答禮ありしかば、元より御使僧出ざる事故、重(おもき)役人へ告たれども曾て知りし者なし。全く東叡山の使僧と僞り御門主の命を假しものならんと、其訳申上ければ、御門主被仰けるは、たとひ此方より使者を出さず共、上野の命といへば助(たすか)る事としりて、僞りかたり人の命を助しは則(すなはち)上野より助(たすけ)遣はせし也。御賴の趣承知にて悦入(よろこびいる)との挨拶なすべしとの仰せにて、其通り答へ濟しと也。法中の御身にはかくも有べき事と、親王の明德を各々感じけると也。
□やぶちゃん注
○前項連関:寛永寺御門主絡みであるが、内容は前項の裏返しで、しかも結末は同じく大団円という裏技のエピソード。組み噺しとして面白い。
・「御門主」上野東叡山寛永寺貫主。江戸の知識階級の間では東叡大王(とうえいだいおう:東叡山寛永寺におられる法親王殿下)と通称した。
・「壹人の出家」底本の鈴木氏注には前項に続いて三村鳶魚の注を引き、この人物を『世に伝ふる河内山宗俊の事なり』とする見解を提示する。河内山宗俊(生年不詳~文政6(1823)年)は江戸時代後期の茶坊主。以下、ウィキの「河内山宗春」から引用しておく。河内山宗春はこの実在の人物『およびそれをモデルとした講談・歌舞伎などの創作上の人物。歌舞伎・映画・テレビドラマなどの創作物では「河内山宗俊」と表記する。また「河内山宗心」とも』言う。『宗春は江戸出身で、家斉治世下の江戸城西の丸に出仕した表坊主であった。表坊主とは若年寄支配下に属した同朋衆の一つ。将軍・大名などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる。文化5年(1808年)から6年ごろ小普請入りとなり、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、その親分格と目されるようになったという。やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請り取るようになった。巷説では水戸藩が財政難から江戸で行っていた富くじの経営に関する不正をつかみ、同藩を強請ったことが発覚し、捕らえられたというが、正式な記録はない。文政6年(1823年)捕縛された後、牢内で獄死』した。この死後、一種のピカレスク・ロマンとしての脚色が始まった(以下、記号の一部を変更、脱字を脱字を補った)。『河内山は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)も残っておらず、具体的にどのような不正を犯して捕らえられたのかは分からない。しかしそのことがかえって爛熟した化政文化を謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという義賊的な側面が、本人の死後に増幅していくこととなった。実録としては「河内山実伝」があり、明治初年には二代目松林伯圓が講談「天保六花撰」(てんぽうろっかせん)としてこれをまとめた。ここでは宗俊は表坊主ではなく、御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う軽輩)となっており、松江藩(松平家)への乗り込みと騙りが目玉になっている。さらに明治7年(1874 年)には二代目河竹新七(黙阿弥)がこれをさらに脚色した歌舞伎の「雲上野三衣策前」(くものうえのさんえの さくまえ)が初演。さらに明治14年(1881年)3月にはやはり黙阿弥によってこれが「天衣紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)に改作されて、東京新富座で初演。ここで九代目市川團十郎がつとめた型が現在に伝わっている』とある。岩波版長谷川氏注では、この河内山の絡んだ水戸藩富籤不正事件から、『本章のような話が宗春に結び付けられたのであろう』と記されるが、その昔の勝新太郎のTVドラマで河内山宗俊が千両役者ばりの詐欺師の一面を持っていたことぐらいは、知っているが、私が馬鹿なのか、この長谷川氏の説明、不十分に感じられ、どうしてそう言えるのかがよく分からない。なお、長谷川氏は更に『鈴木氏に薊小僧清吉にこのような犯行のあったことの指摘あり。同人処刑は文化二年(一八〇五)。』と記されている。薊(あざみ)小僧清吉とは鼠小僧次郎吉と並ぶ江戸で人気の儀賊。「すり抜けの清吉」の異名をとった神出鬼没の盗賊であったが、小塚原刑場で打ち首獄門となった。後の歌舞伎の白浪物や落語の鬼薊清吉のモデルである。
・「大守」古くは武家政権以降の幕府高官や領主を指すが、既に「諸候」とし、江戸時代には通常の国持ち大名全般をこう俗称したので、これは大名と読み替えてよい。
・「上野御本坊」寛永寺。
■やぶちゃん現代語訳
御門主御明徳の事
どの御門主の御代のことで御座ったか、さる大名諸侯の家士、不行き届きの儀、これ有り、吟味の上、死刑と相極まって、近い内にかの大名の江戸下屋敷にてその刑が執行されんとせし時、かの罪人と親しい者が、一人の出家に頼み込んで、乗物・供回りなんどを相応に拵え上げた上、かの諸侯のもとへ、
「――上野寛永寺御使僧(ごしそう)なり――」
と名乗って乗り付けると、厳かにかの家士の助命御依頼の向き申し入れたので、家人ども、慌てふためいて主人へ申し上ぐる。されば、御大名も、
「……家法を侵したるその罪、これ、許し難し……なれど……御門主の御頼みとなれば……致し方、御座らぬ……」
とのお達しにて、かの家士の命をお助けになられ、一等減じて、追放と相成った。
……ところが……
さても後日、かの諸侯より上野寛永寺へ御使者を立てて、
「――御依頼の向き、有難くお受け致し、かの某なる者、死一等減じて追放と致せし――」旨、答礼致いたところ……
これを聞き及んだ役僧、もとより御使僧なんど出した覚えも、これ、御座ない――
この役僧、直ちに上役の僧侶に報告致いたところが……
さて、彼らも、かつて近頃、御使僧を遣わしたることなんどを知る者、これ、一人として御座ない――
「……全く以って東叡山の使僧と偽り、不届き千万不遜不敬にも御門主様御名を借り、たばかりし者に相違なし!……」
と、この由々しき一件につき、早速に御門主様に申し上げた。
ところが、御門主様曰く、
「――仮令(たとい)こちらより御使者を出ださずとも――『上野の御命令』と言えば助かること知って、偽り騙(かた)り、人の命を救ったは――それでも、これ、則ち――『上野より助け遣わした』――ということで、おじゃる――『御依頼の趣御承知下されしこと、恐悦至極に存ずる』と挨拶しておじゃれ――」
との仰せにて、役僧は厳かに、その通りに答えて済ましたという。
流石は法身の御門主なればこそ、かく御美事なる御言葉なれ、と親王の明徳に誰(たれ)も深(ふこ)う感じ入ったということで、おじゃる――。
*
生れ得て惡業なす者の事
神田邊に裏借屋の者有しが、彼悴十歳計(ばかり)の此(ころ)遊びに出て歸りけるが、流しの下の地を掘り何か埋る躰(てい)也。母是を見ていか成品やとひそかに見しに錢也。其後亦々埋る躰故見たりしに、錢百文計(ばかり)を埋置ぬ。これに依て捕候て嚴敷(きびしく)折檻なしけるより、小兒の事なれば其手意(しゆい)もわからず、重(かさね)てかゝる事あらば其通りならずと、或は怒り或は悲しみて是を制しぬれば、暫くは止(やみた)る樣なれど亦々右やうの事あり。十四五歳に成ては彌々つのりて詮方なく追出しぬれば、晝盜(すり)の仲間入して果は御仕置に成しと也。孟子の性善の論、誠に名教と思ひ居しに、予がしれる人の子に、聰明にして手蹟は關思恭(せきしきやう)が門に入て同門に異童の名をあげ、書を讀むに一を聞て二を悟る程にありしが、盜みの癖有りて壯年に及び兩親も捨置がたく、一子を勘當なしけるをまのあたり覺へたり。其の氣質のうけたる所多くの人間の内には又ある事にや。
□やぶちゃん注
○前項連関:犯罪者絡みで連関。先行する身を持ち崩す若者のケース・スタディの一つでもある。特に後半の一件は根岸の直接体験過去として苦く記されている点、印象的である。なお、この二例は現代であれば何れも真正の病的な窃盗症として診断されるものであろう。以下、ウィキの「窃盗症」を引用して参考に供しておく。『窃盗症とは、クレプトマニア(kleptomania)の訳語であり、経済的利得を得るなど一見して他人に理解できる理由ではなく、窃盗自体の衝動により、反復的に実行してしまう症状で、精神疾患の一種である。病的窃盗とも言う。衝動が性的なものに起因する場合、窃盗愛好者(クレプトフィリア kleptophilia)といわれることもある』。『この症例は、その衝動により窃盗行為を行い、実行時に緊張感を味わい、成功時に開放感・満足感を得る。窃盗の対象物や窃盗の結果に対しては関心がなく、一般にはほとんど価値がないものである場合も多く、盗品は、廃棄・未使用のまま隠匿・他人への譲渡の他、まれには、現場に返却される場合もある。いわゆる「利益のための窃盗」ではなく「窃盗のための窃盗」といわれ、「衝動制御の障害」に含まれ同様の症例として「放火のための放火」を繰り返す放火症がある』。『その原因はうつ病や性的虐待・性的葛藤との関連づけが試みられており、摂食障害や月経等との関係が注目されている。巷間に言う、「月経と万引き」の関係などがこの例であるが、最近は、統計的実証的研究から、性的偏見に基づく一種の伝説であるとの批判もなされている』。『一般的用語として窃盗癖・盗癖とも言うが、一般に「盗癖がある」窃盗常習犯は、意思欠如型の精神病質は見いだされるものの、その動機は経済的なものであることがほとんどであり、必ずしも窃盗症と領域を一致させない』。
・「手意」底本では右に『(趣意)』と注する。
・「關思恭」関思恭(せきしきょう 元禄10(1697)年~明和2(1766)年)は書家。以下、ウィキの「関思恭」より引用する。『字を子肅、鳳岡と号し他に墨指生と称した。通称は源内。本姓は伊藤氏。水戸の人』。『先祖は武田信玄の家臣とされ、曽祖父の伊藤友玄の代になって水戸藩に仕え祖父の友近もやはり水戸藩に仕官。しかし父の伊藤祐宗(号は道祐)は生涯仕官していない。思恭はこの父と母(戸張氏)の第四子として水戸に生まれ故あって関氏を名乗る。幼少から筆や硯を遊具の代わりとするほど書を好んだ。16歳のとき江戸に出て、細井広沢にその才能を見いだされ入門。その筆法は極めて優れ、たちまち広沢門下の第一となった。広沢が思恭に代書させるに及んでその評判は高まった。因みに浅草待乳山の歓喜天の堂に掲げられる『金龍山』の扁額は広沢の落款印があるものの思恭が代筆したものである』。『経学を太宰春台に就いて学び、詩文は天門から受けた。また射術に優れた。27歳で文学を以て土浦藩に仕え禄を得た。広沢没後、三井親和と並称されその評判はますます高まり門弟およそ5千人を擁したという。40歳で妻帯し3女をもうける。60歳頃より神経痛を患い歩行が困難となり家族に介護されるもその運筆は衰えなかった。享年69。江戸小石川称名寺に葬られる。門人に関口忠貞がいる。娘婿の其寧が跡を継ぎ、孫の克明、曾孫の思亮、いずれも書家として名声を得た』。『宋の婁機『漢隷字源』を開版している』。
■やぶちゃん現代語訳
生まれ乍ら悪行を為すことを定められし者の事
神田辺の裏通りの貸家に住んでおる者があった。
彼の倅(せがれ)が、未だ十歳ばかりの頃、遊びに出て帰って来たところ、厨の流しの下の地面を掘って、何やらん、埋めている様子。母親がこれを見、一体、何を埋めているのだろうとそっと覗いてみると――銭であった。――
その後も度々埋めている様子であったので、ある時、掘り返してみたところが――銭百文ほども埋めてある。
このことから父母、倅を捕まえ、厳しく折檻致いたのじゃが、何せ子供のことなれば、叱られている理由(わけ)が、そもそも、よく分からぬ。
「……ともかくも、じゃ! またこんなことがあったら、の! こんなこっちゃ、済まんから、の!……」
と或いは怒り、或いは情けなさに泣きながら、向後、かくなることを厳しく禁ずる旨、言い含めおく……と、暫くの間は止んでいる……が……また暫くすると、また同じことを繰り返し、父母も同じように折檻する……という繰り返しで御座った……
……結局、十四、五歳のいっぱしの大きさになって仕舞えば、いよいよ言うことも聞かず、全く以って手に負えなくなり、詮方なく家から追い出だしたところが……瞬く内に掏摸の仲間入り致いた果てに、罪を重ね重ね……遂には捕縛され、処刑された、とのことである。……
――私はかねてより、孟子の性善説について、これは誠に優れた教えである、と思って御座ったのじゃが――
……私の知人の子に、誠(まっこと)、聡明にして、その手跡なんどは、かの名筆関思恭(せきしりょう)の五千人の門人の中にあっても、なお一人『異童』の名を恣(ほしいまま)に致すものにて、書を読めば、一を聞いて二を悟るほどの神童にて御座った……が……この者……盗みの癖があって……その悪癖、いっかな、壮年に成りても、これ、治らず……流石に両親もその悪習、視て見ぬ振りをしておる訳にも参らず……遂には……その一子を勘当せざるを得なくなった。私は、その、実際に縁を切る、その場に目の当たりに居合わせて御座った……。
――さても――そうした、生来、盗みの気質を持ったる者も――多くの人間の中(うち)には、また、これ、あるものなのであろうかのう……。
*
玉石の事
いつの頃にやありし。長崎の町屋の石ずへになしたる石より不斷水氣潤ひ出しを唐人見て、右石を貰ひ度由申ければ、仔細有石ならんと其主人是を惜み、右石ずへをとりかへて取入て見しに、とこしなへにうるほひ水の出けるにぞ、是は果して石中に玉こそありなんと色々評議して、うちより連々に研(みがき)とりけるに、誤つて打わりぬ。其石中より水流れ出て小魚出けるが、忽(たちまち)死しければ取捨て濟しぬ。其事、跡にて彼唐人聞て泪を流して是を惜みける故くわしく尋ければ、右は玉中に蟄せしものありて、右玉の損ぜざる樣に靜に磨上げぬれば千金の器物也。悼むべし/\といひしと也。世に蟄龍などいへるたぐひもかゝる物なるべしと、彼地へ至りし者語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項の後半の聡明なる少年は、その玉なるを持ち乍ら、盗み癖がために勘当の憂き目に逢い、その玉を磨き得ずに終えてしまった苦味があった。ここでは玉石を磨こうとしてうっかり取り落としてその玉なるものを永遠に取り逃がした――どことは言わぬものの、思い通りにならぬ点でも、妙に連関する印象があるから、不思議。この話は本草学者で奇石収集家であった木内石亭(享保9(1725)年~文化5(1808)年)が発刊した奇石書「雲根志」(安永2(1773)年前編・安永8(1779)年後編・享和1(1801)年三編を刊行)の中の「後編卷之二」にある「生魚石 九」に所収する話と類話である(こちらは首尾よくオランダ人がその石を入手しているが)。以下に引用する。底本は昭和54(1929)年現代思潮社復刻になる「日本古典全集」の「雲根志」による。挿絵も同エピソードを採っているので、採録しておいた。
生魚石(せいぎよいし) 九
近江大津の町家(まちや)のとり葺(ぶき)屋根に置たる石へ時々鴉(からす)の來りて啄(ついば)む一石ありよつて心をとゝめて是を見るに外(ほか)の石はつゝかず只一石のみ數日(すじつ)同しあまりふしきに思ひ其家の主人にことわりて是をおろし見るに常の石に異なる事なしもとよりの何の臭(か)もなきゆへ捨置ければ鴉又來て其石を啄むいよ/\ふしぎにおもひうち破(わり)見れば石中空虚にして水五合許を貯(たくはふ)其中より三寸許の年魚(あゆ)飛出て死たり又洛の津島(つしま)先生物語に寛永の比東國に或山寺を建るに大石あり造作の妨(さまたげ)なりとて石工數人してこれを谷へ切落せり其石中空虚にして水出る事二三斛(こく)石工等大におとろき怪しむ内より三尺許なる魚躍出て谷川へ飛入失(うせ)ぬと今其石半(なかば)は堂の後半(うしろ)は下なる谷川に有石中の空虚に三人を入ると又肥前國長崎(ながさき)或富家(ふか)の石垣に積込し石を阿蘭陀人(をらんだじん)高價(かうか)に求めん事を乞ふ主人後の造作をうれへあたへす望む事しきりにやまずよつて是非なくこれをあたふ其用をきくに蠻人(ばんじん)云是生魚石(せいぎよせき)なり此右の廻(まは)りを磨(すり)おろし外より魚の透(すき)見ゆるやうにして高貴の翫(くはん)に備ふ最も至寶(しはう)なりと又伊勢國一志(いつし)郡井堰(ゐせき)村に石工(いしく)多し或石工石中に水を貯へ石龜(せきがう)を得たり大さ六寸許尋常(よのつね)の石龜にかはらず側(かたはら)の淸水に養ひたりしに數日を經て死す享保
の末年遠江國濱松(はままつ)の農家に一石あり常に藁を打盤(ばん)に用ゆ自然にすれて石面光彩を生ず内に泥鰌(どぢやう)のごとき物運動(うんどう)するを見て主人しらず猶藁を打とて遂に其石を破(わり)たり所(ところ)のもの怪異の事におもひて其家に祠(やしろ)を立てかの破石を祭ると是同國本多(ほんだ)某語らる又或候家(こうか)の祕藏に鶏卵のかたちに似て稍大きなる玉の内に水を貯へ魚すめり其魚の首尾右の玉に礙(さはり)て動く事あたはず是琉球國(りうきうこく)より献ずるよし加賀國普賢(ふげん)院の物語也すべて此類の事只言(いひ)傳ふるのみにていまだ其實を見ず雲林石譜(うんりんせきふ)にも生魚石の事出たりおもふに同日の談なるへし
「とり葺屋根」とは取り葺き屋根のことで、薄く削いだ板を並べて丸太や石を押さえとした粗末な屋根を言う。「同し」「ふしき」「おとろき」「あたへす」「翫(くはん)」「談なるへし」等の清音表記はママである。「雲林石譜」は「雲根志」が習った南宋紹興三年(1133年)の序が附く宋代の杜綰(とわん)の筆になる奇石譜。
――この話、そう言えば、つげ義春の作品集「無能の人」の一篇にも出て来ていた。
・「研(みがき)」は底本のルビ。
・「蟄龍」地に潜んでいる龍の意で、龍の種ではない(龍の種については私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を参照)。一般には、活躍する機会を得ずに、世に隠れている英雄を喩える語として知られる。
■やぶちゃん現代語訳
玉石の事
いつの頃の話であったか、長崎の町家の礎石にしていたある一つの石から、絶えず水が沁み出していた。
それを見た唐人が、この石を貰い受けたい由申したので、その家の主は、何やらん、きっといわく付きの石ででもあるのであろうとて、これを惜しんで、売らずにおいた。
そうして、敷石からその石を取り外すと、家内の置いてよく観察してみると、これが不思議なことにたいして大きくもないその石から――石そのものから、とめどなく水が湧き、沁み出てくるではないか。――
「……これは果たして、石の中に、高価にして霊的な玉が嵌まっておるのであろう――」
なんどと、知れる者どものと勝手に評議致いておるうちに――皆、その玉に目が眩み、ともかくもと、寄ってたかってその石を磨いて御座ったところが――誤って石を打ち割ってしもうた。――
――その石の中から――ちょろちょろっと水が流れ出かと思うと――小さな魚が出て来た――が――忽ち死んでしまったので、つまんで捨ててしまった。……
その後(のち)、このことを聞いた、かの唐人は涙を流して惜しんだという。
ある者がその訳を訊ねたところが、
「……あれハ……あの玉の中にハ……凝っと潜んでイタ『もの』が在ったノダ!……あの玉を壊さぬようニ……静かニ静かニ磨き上げたナラ……あれハ千金の値にもナロウという宝器であったノダ!……惜シイ! 全く以ッテ、惜シイ!……」
と嘆いたという。
「……世に『蟄龍』などと申すものも、このような類いのものなので御座いましょう。……」
と、かの長崎へ旅した者が、私に語った話である。
*
樹木物によつて光曜ある事
本所御船藏(おふなぐら)の後に植木屋多くありし。或日老人壹人一兩僕召連て右樹木店を見歩行せしが、ひとつの古石臺(せきだい)に松の植有しを見て暫し立止り價ひなど聞しに、頻に懇望なる事を見請しゆへ殊の外高料(かうりれう)に答へぬれば、左ありては望なしといひて立去りぬ。又翌日彼老人來りて猶價ひを増して申請たきと好みしが、何分最初の直段(ねだん)にあらずしてはと彌々不賣(うらざる)氣色なしければ、猶亦暫く詠(なが)めて立歸りぬ。かゝる事一兩度ありければ、亭主能々右松を見しに、枝ぶりも面白からず、兼て高科(かうれう)にも賣べきとも思はざる品ゆへ手入も等閑(なほざり)也ければ、哀(あはれ)かの老人の日毎に來りて直増(ねまし)等なすは見る所こそあらめ、景樣(けいやう)をも直さんと石臺をも新らしく美麗に仕直しかの松を植替けるに、右松の根より一ツの蟇(ひき)出ける故、追失ひて跡の松を立派に植置、明日禪門來りなば我(わが)申(まうす)價ひよりも直増して調へ給はんと自讚なしけるに、翌日老人果して來りて、此程の松を見たきとて立入し故、案内して右松を見せけるに、老人大に驚き、いかなればかく植替しや、右松の根より出し物もあるべし、今日の有樣にては一錢にても此松好なしと言て歸りしと、其最寄の老人原某咄しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:生き物絡みの奇石奇木賞玩で直連関。
・「本所御船藏」浜町公園の向かい、隅田川東岸、現在の江東区新大橋1丁目附近にあった幕府の軍事船艇の保管庫のこと。この附近を別名安宅(あたけ)とも呼称したが、これはその船蔵に、昔、係留されていた大型木造艦の一種「安宅船」(あたけぶね)という軍船の船種名に由来する。明石太郎:珈琲氏のブログ「珈琲ブレイク」の「御船蔵跡 歴史散策 墨東 森下・清澄 (1)」によると、この種の軍艦は戦国時代から江戸時代前期にかけて建造されたものの一つで、『寛永9年(1632)以来、そうした当時の戦艦を係留する場所のひとつがこの地であった。安宅船は、当時としては最大限の工夫をこらして建造した大型戦艦ではあったが、龍骨がなく、構造的に弱さがあり、大きすぎて機動性に欠けて、実は役に立たない船であった。そういうこともあり、半世紀のちの天和2年(1682)ここに係留していた安宅船は解体されることになり、この地は御船蔵跡となった』とある。旧北条氏の所有に係り、伊豆にあったものを、幕府が接収して三崎を経由してここへ運ばれたものであるらしい。この安宅船は船長38間(約65m弱)の巨大戦艦であったが、上記引用にあるように、実に50年もの永きに亙ってここに無為につながれてお払い箱になったわけである。明石氏は最後に『江戸の主要な幹線水路である隅田川が、江戸時代の平和が続くことで、軍事拠点から経済拠点に変遷していった歴史の一部と理解することもできるのである』と印象的な言葉で締め括っておられる。
・「石臺」長方形の浅い木箱の四隅に取っ手を附けたもので、盆景に使用したり、盆栽を植えたりする植木鉢の一種。
・「直増(ねまし)」は底本のルビ。
・「禪門」先の老人。隠居し、法体(ほったい)して僧侶のような身なりをし、禿げていたか、実際に剃髪していたから、かく言うのであろう。
■やぶちゃん現代語訳
樹木が妖しき『モノ』によって却って不可思議なる光輝を持つことありという事
本所御船蔵の裏手に植木屋が多くあった。
ある日のこと、一人の老人が一人の従僕を召し連れてこの連なった植木屋を覗き歩きしておった。
すると、ある古ぼけた石台(せきだい)に松の植えてあるのを見、暫し立ち止まった後、店主にその値いを訊ねた。
店主は、その老人が、喉から手が出る程欲しがっておることがはっきりと見てとれたので、とんでもない高値をふっ掛けて答えた。すると老人は、
「……いや、それ程の値にては……とても、手が出ぬわ……」
と言って、如何にも残念な様子で立ち去ったのであった。
――ところが翌日のこと、またしても、かの老人が訪ねて参り、
「……そなたの言い値にては、とてものこと乍ら……一つ、昨日よりは払い申そうず値いも、いや増しては御座れば……一つ、売っては下さらぬか……の……」
と切に願って参った。ところが主人は、
「いや! 駄目、駄目! 最初に言うた値段でなけりゃ!」
と、けんもほろろ、いよいよ言い値ちょっきりでなくては売らぬ体(てい)で突っぱねる。
すると――かの老人はやっぱり、かの松を暫く凝っと眺めて後、帰って行った。
こうしたことが何度か続いた。
そこでこの主人、しけじけこの松を眺め乍ら、考えた。
「……枝振りも面白うない……端(はな)っから高値で売れるシロモンとも思っちゃおらんかったから……手入れも等閑(なおざり)にしておったれば……まあ、何とみすぼらしいこと……じゃが!……ほんに!……あの爺(じじい)、日ごと来ては……次から次へと、金を積んで乞うて来る……ちゅうことはじゃ!――どこぞにこれは見所がある――ちゅうことじゃが!……いっちょ、景色を直いてみるかい!」
と思い立つったら、江戸っ子――即座に新しい美麗なる石台を用意し、懇ろに植え替えた。
――と、古い石台から松を抜いたところが、その根方の底より――きびの悪い、一匹の年経た蟇蛙が――のっそり――這い出てきた。――
早々に川っ縁(ぷち)へと追い払い、首尾よく立派に松を凛々しく植え替えて御座った――そうして、
「……明日(あした)、あの坊主が来たら……へっへ! 儂が最初に言うた値段よりも……自ずと値を重ねて……お買い上げ戴ける、っちゅうもんよ!……てへっへっへ!!」
と、新たな盆景を前に自画自賛しておった。
翌日、果たしてあの老人がやって来ると、再び、
「……また、あの松を見とう御座って、の……」
と、いつもの聊か狂気染みた、あの垂涎の眼(まなこ)にて店に入って来た。
主人は意気揚々と案内して、松を見せた――
――と――
「――!!!――」
老人は訳の分からぬ叫び声を挙げて驚いた。
――暫く呆然とした後、主人に亡霊の恨み言のように、
「……いかなれば……かくも……植え替えた……この松の……根より出できたる『モノ』が御座ったであろ……いいや、何を言うても……最早……終わりじゃ……今日の……この……こんなモンに……ビタ一銭たりとも……払、え、る、カ、イ!!!……」
と吐き捨てて帰った。――
――――――
……と、その近辺に住んで御座った老人の原某が、私に語ったことで御座る。
*
利を量りて損をなせし事
予が大父の召仕れしもの、後(のち)御先手組の同心を勤め牛込榎町に有りしが、彼邊の同心などは植木など拵へ好める人には價ひを取て遣しける類多し。彼者或日庭前を見廻りしに、柾木(まさき)のいさ葉一本あり。珍しからざる柾木ながら、其此いさ葉の流行はじめなれば、早速石臺へ移し植て養ひ置しに、鬼子母神參詣の道ゆへ、十月の頃門前人多く通りし内、彼いさ葉の柾木を見て調度(ととのへたき)由にて價ひを談じけれ共、今少し高く賣んと取合ざりしに、流行(はやり)出しの事故や、代り/\日々立入て直段(ねだん)をつけけるに、初は百錢、夫より段々上りて金百疋程に付る者有。元來酒を好みけるゆへ、哀れ酒錢の助けと大に悦び、何分貳分にもあらずば賣るまじきと思ひしに、或日地震(なゐ)して雨戸打かへり、彼柾木を損じ鉢も打割し故、大に驚き植直しなどせるが、聊の事にも果福のなきは是非もなく、右柾木枯て失ぬと彼者來りて語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:盆栽絡みで、欲を出して玉を失う話でも直連関。これは当人からの直談であるから主人公の落胆振りが失礼ながら、面白く伝わってくる。現代語訳では最後にその雰囲気を出してみた。
・「大父」祖父。諸注は注せず。22歳で末期養子に行った形式上の養父根岸衛規の父であった根岸杢左衞門衞忠のことか、それとも旗本であった実父安生太左衛門定洪の養父(彼も安生家への養子)であった安生彦左衞門定之かは不明。
・「後御先手組」先手組(さきてぐみ)のこと。江戸幕府軍制の一つ。若年寄配下で、将軍家外出時や諸門の警備その他、江戸城下の治安維持全般を業務とした。ウィキの「先手組」によれば、『先手とは先陣・先鋒という意味であり、戦闘時には徳川家の先鋒足軽隊を勤めた。徳川家創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加した』者を由来とし、『時代により組数に変動があり、一例として弓組約10組と筒組(鉄砲組)約20組の計30組で、各組には組頭1騎、与力が10騎、同心が30から50人程配置され』、『同じく江戸城下の治安を預かる町奉行が役方(文官)であり、その部下である町与力や町同心とは対照的に、御先手組は番方であり、その部下である組与力・組同心の取り締まり方は極めて荒っぽく、江戸の民衆から恐れられた』とある。
・「牛込榎町」現在の新宿区の北東部、神楽坂の西に位置し、榎町として名が残る。「新宿東ライオンズクラブ」の記事によると、『古くは牛込ヶ村のうち中里村の一部ではなかったかと言われる。正保3年(1646)済松寺領となったが約百年後の延享2年町方支配となり、そのころこの地に十抱えもある大榎があったので、明治2年付近の寺地開墾地を合せて牛込榎町と名づけられた。この榎の大樹はどの辺にあったか定かでないが神楽坂から戸塚に向う往古の鎌倉街道すじにあたり、旅人の目印になったことであろう』とある(一部の誤字を修正した)。
・「柾木」双子葉植物綱ニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキEuonymus japonicus。生垣や庭木としてよく植えられる。
・「いさ葉」斑入りの葉。マサキには斑入りのものもある。江戸時代は妙なものが爆発的に飼育栽培の流行を作った。
・「石臺」長方形の浅い木箱の四隅に取っ手を附けたもので、盆景に使用したり、盆栽を植えたりする植木鉢の一種。
・「鬼子母神」東京都豊島区雑司ヶ谷にある威光山法明寺(ほうみょうじ)。飛地となった境内の鬼子母神堂で有名。ウィキの「法明寺」によれば、『1561年(永禄4年)に山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。1578年(天正6年)に現在の社殿を建立したという』とあり、鬼子母神公式サイトによると、本文に記された十月には、現在は16日から18日にかけて、御会式(おえしき)大祭という本寺の最も大事な行事が行われる。御会式とは『もともと日蓮聖人の忌日の法会で、法明寺では10月13日に宗祖御会式を行ってい』る『が、これとは別に毎年10月16日~18日に鬼子母神御会式を営み、江戸時代から伝わる年中行事としていまも地域全体の人々が待ちわびる大祭となってい』るとあり、『たくさんの人々が一緒になって供養のお練りをするその3日間は、静かな雑司ヶ谷の街一帯に、太鼓が響き渡り、参道は露店で大にぎわいとな』って、『18日は西武百貨店前を出発し、明治通りから目白通りを経て鬼子母神堂へ向い、最後に日蓮聖人を祀った法明寺の祖師堂(安国堂)へとお参り』するとある。『「威光山」の墨書も鮮やかな高張り堤灯を先頭に、500の桜花を25本の枝に結んだ枝垂れ桜様の万灯が何台も練り歩くその様は、幻想的な秋の風物詩として親しまれてい』るともあり、本作の描写されない背景にそうした風物を配してみると、味わいもまた増す。
・「調度(ととのへたき)」は底本のルビ。
・「百錢」一銭=一文を10~20円に換算すると、1000~2000円。
・「百疋」は一貫文(謂いは1000文であるが実際には960文)で、凡そ現在の1万5千円から2万円程か。
・「貳分」4分で一両であるから、3~4万円。
■やぶちゃん現代語訳
利を量り過ぎ却って損をすることとなった事
私の祖父に召し使われて御座った者、後に御先手組の同心を勤め、牛込町に住んでおった。あの辺りに住む同心連中は、己が家の庭に植木なんどを養い、好事家に売り渡しては、小遣い稼ぎをする類いなんぞが多い。
ある日、その男、己が庭先を見回って御座ると、柾木(まさき)のいさ葉になって御座る一本が眼に入った。枝振りもこれといって珍しくもない柾木ではあったが、丁度その頃、いさ葉が市中流行り始めの折りでもあったれば、早速、石台(せきだい)に移し替えて、手入れをして御座った。
この男の家はこれまた、雑司ヶ谷の鬼子母神参詣の道筋に当たって御座ったがため、十月の御会式(おえしき)の頃には、門前の人通り繁く、そのうちにこの柾木を垣間見、買いたき由、値を言い掛けてくる者も現れた。が、
『――今少し待てば、益々上がりおろう――今少し、今少し高(たこ)う売りたい――』
と思うて、一向に取り合わずに過ぎた。
これがまた流行り出した頃のことでもあり、いや、もう毎日毎日、入れ替わり立ち替わり客が来ては、値段を付ける――初めは百銭――それよりだんだんに上がって金百疋程に付ける者とて現れた。
この男、これがまた、元来が酒好きで、
「――こりゃ! 願ってもない酒代の助けじゃ!――」
と大いに喜び、
『――こうなったら――何分、二分程にてもあらざれば、売らんぞ!――』
とほくそ笑んで御座った。――
――ところが――
ある日、地震(ない)が起きた――
その揺れでばりばりと雨戸が外れた――
外れたかと思うたら、それがあの大事大事の柾木の枝に――打ちかかってぼきりと折れた――鉢もまた、ぱっくり割れた――
「……びっくらこいて……植え直しなど致しましたが……いや、もう……たかが柾木……されど柾木……聊かの木の……ちょいと雨戸が倒れただけの、こと……それにても……禍福は糾(あざな)える繩の如きものにて御座いますなぁ……是非も、ない……柾木は……枯れてしまいました……」
と、訪れたその男が私に語った。
*
守財の人手段別趣の事
唐に守錢翁と賤しみ我朝にて持(もち)乞食と恥しめぬる、いづれ金銀を貯、黄金持(こがねもち)といわるゝ者の心取は別段也。我知れる富翁の常に言ひしは、世に貧しき人はさら也、其外通途の者も實に金を愛(あいせ)ざる故金を持(もた)ぬ也。金を愛しなば持ぬといふ事あるべからず。其譯は各は金銀あれば何ぞ衣食住其外器物(の品)を(買んと思ふ。是金銀よりは衣類器物を)愛する也。我器物其外其身の用にあらざる品は金銀に代ん事を思ふ。是器物より金銀を愛する所甚しき也といひし。又或人の諺に咄しけるは、金錢を貯へ度思ふや、何程ほしきと尋ければ、多くも望なし、千兩ほしきといひける者ありければ、いと安き事也とて千兩箱をとり寄、右の内はからものなれど、蓋を丁寧になして封印などして是を藏の内に置給へといひける故、心得しとて藏に入置ぬ。さて金は如何して出來るやと問ひければ、御身則千兩を封じて藏の内へ入置ぬれば則千兩の金持也といひけるにぞ、かの男大に憤り、右重箱を千兩封じて置たればとて、右から箱を以物を調ふる事もならず、誠に物の用に立ざる戲れをなして人を嘲弄なしぬるかと申ければ、さればとよ、金銀遣はんとおもふては金は持たれぬ物也といひし故、金を持て遣ふ事ならざれば金持も羨しからずと彼人悟りを得しと也。本所六間堀に金を借して渡世する者ありし由。其身賤敷(いやしき)者なれ共金銀の爲に諸侯歴々よりも重き家來等を遣して調達を賴けるに、或家士纔か百金計(ばかり)借用申込、承知に付日限を約束し、其日に至り罷越金子借受の事を談じければ、承知の由にて其身麻上下を着し藏の内へ入けるが、暫く有て立出で、折角御出あれ共今日は歸り給はるべし、明日御出を待由申けるにぞ、彼家士申けるは、成程明日にも參るべし、足を厭ひ候にはなけれど、金銀の遣ひ合せは片時を爭ひ候事も有れば、何卒今日借用いたし度と賴けれ共、何分得心なさゞりしかば、いか成故哉と尋しに、金の機嫌不宜、今日はいやと被仰せ出候故難成旨申ける故、右武士も大きに驚き歸りけるに、傍成者、金のいやと可申謂(いはれ)なし、いか成故哉(や)と有ければ、金銀は口なしといへども、我等が心にいかにも今日出來る否(いや)におもふは、則金のいやに思召也と語りし由。是等は誠に守錢翁といふべき者ならん。
□やぶちゃん注
○前項連関:金欲から吝嗇(りんしょく)で連関。本話は三つの全く異なったタイプのソースから構成されたもので、「耳嚢」の中では異色なオムニバスを感じさせる一篇であると私は思う。
・「いわるゝ」はママ。
・「(の品)」底本では右に『(尊本)』とあり、尊経閣本によって補ったという意味の注記がある。これを採る。
・「(買んと思ふ。是金銀よりは衣類器物を)」底本では右に同じく『(尊本)』とあり、尊経閣本によって補ったという意味の注記がある。これを採る。
・「本所六間堀」底本の鈴木氏注に『六間堀は本所竪川と小名木川とを結ぶ川』『で、これに沿って六間堀町、北六間堀町、南六間堀町ができた。いま江東区森下町一丁目、同区新大橋三丁目の地。』とある。但し、鈴木氏は六間堀に補注され、昭和24(1949)年に埋め立てられて現存しない旨の記載がある。東京大空襲の瓦礫が多量に流れ込んだためとも言われる。
・「今日出來る」底本では『尊本「出す事」』とある。こちらを採る。
■やぶちゃん現代語訳
蓄財せる人には素人の思いも寄らざる別趣手段のある事
唐土(もろこし)では「守銭翁」と賤しみ、本邦にては「持ち乞食」なんどと恥ずかしめらるるところの、金銀を貯え、黄金持ちと言わるる者の考えることは、これ到底、常人の重いの及ぶものにては、これ、御座ない。私の知れる裕福なる老人が常日頃申すことには、
「……世にある貧しき者は言うに及ばず、その外、尋常に暮らして御座る者にても――誠、金を愛さざる故――金を持てぬので御座る。――金を心底愛さば、金を持たぬなんどということは――これ決して、あろうはずが御座らぬ。――その訳はと申せば――ああした常人の者ども――金銀があれば衣食住その他調度什器を買わんと思う――そこで御座る。――これは、金銀よりも衣服器物を愛して御座るのよ。――ところがで御座る――我は器物その外、生くるがためにはこれといって用に立たざる品々は、悉く金銀に替えんことを思う。――これ、我が――器物より金銀を愛し、二心なきことの証しにて、御座る……」
と。
さてもまた次は、ある人が俚諺(りげん)の由にて話して呉れたもの。
――――――
甲「お前さん、たんと金が欲しいか? 幾ら、欲しい?」
と訊いたので、
乙「……そうさな……多くは望まねえが……千両欲しい。」
とほざいた者がおる。すると、
甲「そりゃ、お易い御用じゃ。」
と言うなり、千両箱を取り寄せた。その中身は空っぽのものなれど、蓋を丁寧になし、封印なんどもしっかり致いた上、
甲「さ、これを蔵の内に置きなされ。」
と言うので、
乙「心得た。」
と蔵の中へ置く。――
乙「……さても、あの千両箱に入れる金は、いつ出来るんでえ?」
と問う。すると、
甲「お前さんは今、則ち、千両を封じて蔵に入れ置いたから、則ち、千両の金持ちじゃ。」
と答えた。
かの男、大いに憤って曰く、
乙「あ、ありゃ、空箱ぞ?!……い、いや、千両封じて置いたからとて……そもそもが! 蔵に置いておいたんじゃ、千両箱であろうと、何の物も買うこと、これ、出来ん! 人を馬鹿にするのも、い、いい加減にせい!」
と怒鳴りつけた――と――
甲「そこじゃて。――よいかの。金銀を使わんと思うてはのう、金は持てぬものなのじゃ。」
と答えた。それを聴いた男は、ぽんと膝を打ち、
乙「そうか! 金を持っておったとしても、それを使(つこ)うてはならぬと言うなれば、金持ちなんどというものも、これ、羨ましゅうは、ない!」
と俄然、悟りを得た、ということである。
――――――
最後にもう一つ。
本所六間堀に金を貸して渡世致いておる者が御座った。
元来は賤しい身分の出の男なれど、その持てる金銀を頼みに、お歴々の諸侯までもが、わざわざ家内でも位の高い家来を遣わして、その調達を依頼するという繁盛振りで御座った。
さて、ある時、ある家士、僅か百金ばかりの借用をこの男に申し込んだところ、承知の趣きにつき、日限を約し、その取り決めた日になって、家士はこの男の屋敷を訪ねた。
金子借り受けに参りしことを告ぐると、男は、
「承知致いた。」
と応じた。
男はその身に麻上下を着すと、何やらん如何にも厳かに蔵の内へと入って御座った。
が、暫くして、手ぶらで出て参った。
「……せっかくのお出でなれども……今日はお引き取り下されい。明日のお越しをお待ち申し上ぐればこそ……。」
と言うので、家士は、
「……なるほど……では明日、また、参ろうかの。……しかし、その……再度、足を運ぶを厭うておる訳では御座らぬが……その、金銀の要り用に就きては……その、一時を争うて御座るものにても御座れば……その、何卒、今日借り受け致いたいのじゃがのぅ……」
と下手に出てまで頼み込んだが、いっかな、男はだめの一点張り。たかが百金のことなれば――と言うて、その百金も手元にない訳で御座るが――流石に家士は、
「如何なる故に不承知で御座る?」
と訊ねた。
すると男は、
「――金の機嫌が宜しく御座らぬ。――『今日は嫌』――と仰せられて御座れば、蔵を出でんこと、これ、成り難きことにて御座る。――」
と返答した。
かの家士も呆れかえって、そのまま何も言わずに帰って行った。
偶々その場に居合わせて御座った男の知人が、好奇心から彼に訊ねた。
「……金が『嫌』なんどというはずは御座るまい。……本当(ほんと)の理由は何です?」
と、男曰く、
「――金銀は口なしと雖も――その金の持ち主たるところの、この我らが心が――どうしても『今日金を貸し出すのは嫌じゃ』と思うておるのじゃ!――その理由は我らも分からぬ――分からぬ――さればこそじゃ! これ、則ち、金が『嫌じゃ』だと思し召しになっておられる、ということなのじゃ!――」
と語ったとのことで御座った。
こういう連中をこそ、誠(まっこと)、守銭翁と呼ぶべき者と言うてよかろう。
*
本庄宿鳥居谷三右衞門が事
本庄宿(ほんじやうしゆく)に仲屋三右衞門といへる商人ありしが、凶年の節宿内近村の困窮を救ひ、往還の助とて往來の道并(ならびに)橋を自分入用を以取計ひ、御代官蓑笠之助(みのかさのすけ)申出し故、予御勘定組頭を勤て道中方を兼帶なせし頃、安藤彈正少弼(せうひつ)道中奉行の節取扱有之、伺の上名字帶刀御免にて御褒美被下(くだされ)し者なり。右三右衞門は、元來通り油町仲屋といへる呉服店に丁稚より勤て重手代(おもてだい)に成りしに、右仲屋亭主幼年に成て、身上(しんしやう)大きに衰へたち行きがたき時節ありしに、彼三右衞門其主人に申けるは、當年は自身上京の上、引け物計(ばかり)を仕入持下り候樣致さるべしと申教へ、主人其通りなしけるに、下直(げじき)の引物を關東にて賣捌(うりさばき)しに利なきにしもあらざる上、三右衞門自身上京して彼問屋に申けるは、若輩の主人直々に仕入に登りしが、いかなれば引物計を賣渡し給ふやと六ケ敷(むつかしく)申けるに、問屋にても主人の好みに任せ候由答へければ、いやとよ主人は若輩幼年と申べき者也、右幼年の者縱令(たとひ)申候へばとて引物計り附屬し給ふ事、年久敷(ひさしく)馴染の問屋にはあらずと申ける故、其理に伏し年久敷取遣(とりやり)なせし問屋なれは、不殘損をなして別段に代物を下しける。これによりて大きに利德を得(え)仲屋を取直し、其身も相應のもとでを貰ゐて本庄宿へ引込、呉服其外諸品の商ひなして、今本庄宿其外近邊に鳥居三右衞門といひては知らざる者なし。右の者暖簾の印
如此(かくのごとく)付しも彼三右衞門工夫の由。如何成譯やと人の尋しに、中屋は家名也、かくの如く書(かき)ぬれば虱(しらみ)といへる文字也、虱はよく殖へて盡ざる物也といひしと其邊のもの語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:吝嗇から殖産で連関。「暖簾の印」『¬中ム』は底本の画像で示したため、原文が途中で分断された。御容赦願いたい。
・「本庄宿」中山道六十九次のうち江戸から十番目の宿駅。以下、ウィキの「本庄宿」より引用する。『武蔵国児玉郡の北部国境付近』『に位置し、武蔵国最後の宿場。現在の埼玉県本庄市に当たる。江戸より22里(約88km)の距離に位置し、中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場であった。それは、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。江戸室町にも店を出していた戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家は全国的に富豪として知られていた』と、正に本話柄の人物が引かれている。これはとんでもない大富豪にして篤志家なのであった。
・「鳥居谷三右衞門」これはやや屋号が異なるが、前注の引用に現れる富豪『戸谷半兵衛(中屋半兵衛)』、初代戸谷半兵衛光盛(元禄16(1703)年~天明7(1787)年 通称戸谷三右衛門)のことである。以下、非常に優れた記載であるウィキの「戸谷半兵衛」から引用する(記号の一部を変更した)。『18世紀から19世紀の本庄宿の新田町(現在の本庄市宮本町と泉町の辺り)に店をかまえ、代々戸谷半兵衛を襲名していた豪商であり、宿役人。店の名の「中屋」にちなんで中屋半兵衛とも呼ばれた(こちらの名の方が認知度は高い)。中半の略称でも親しまれている。中山道で最大の宿場である本庄宿の豪商として全国的に名の知れた商人であった。本店は本庄宿の「中屋」であるが、江戸室町に支店である「島屋」を持ち、代々京都の方の商人とも付き合っていた為、その人脈はかなり広く、才能にも、度胸(行動)にも優れていた(京都にも支店はあった)。中屋は、太物、小間物、荒物などを商った。戸谷家は、経済面の救済だけでなく、文化面でも影響力が強い一族であり、関東一の豪商ともされる。大名への貸し金も多額であった。しかし、その返済は滞り、未回収金は数万両に及び、この為、安政5年(1858年)頃より、幕府への御用金納入に支障をきたし、名字帯刀を取り上げられ、さらに家財闕所等の処分を受けるが、明治期には回復した』。以下、歴代の当主。まず本話の主人公初代戸谷半兵衛光盛について(本話についての叙述がある)。『通称を戸谷三右衛門(1703年 - 1787年)と言い、元禄16年に五代目戸谷伝右衛門の次男として生まれる(光盛は諱)。彼については18世紀末~19世紀の随筆「耳袋」にも記されており、その豪傑ぶりと知名度の高さがうかがえる。但し、「耳袋」は噂をもとに記述されている為か、戸谷を鳥居と記述しているなど、明らかな誤表記が目立つ。「耳袋」の記述によれば、三右衛門は元々通り油町の仲屋と言う呉服店に丁稚(でっち)から勤め、重手代にまで登りつめた人物とされ、その後、成功して、呉服やその他諸品を商ったとされる。多くの活動が認められ、公での名字帯刀を許されていた。中屋の暖簾印である¬中ム(縦に並べて書く)は三右衛門が考えたもので、『中』は家名の中屋を意味し、こう書く事によって、『虱(シラミ)』と言う字になる。印の意味を訊ねられた三右衛門は、「シラミはよく増えて絶えないから」と答えたと言う。「商家高名録」の中で中屋の暖簾印を確認する事ができる(ムと言うより中の字の下に△)』。『明和8年(1771年)に久保橋、安永2年(1773年)には馬喰橋を自費で石橋に掛け替え、天明元年(1781年)には神流川に土橋を掛け、馬船を置き無賃渡しとした。天明3年(1783年)の飢饉時には麦百俵を、また、浅間山噴火による諸物価高騰の際には貧窮者救済金を拠出する等の奇特行為により、名字を子孫まで許される(帯刀については一代限り)。天明7年(1787年)に85 歳にして没する』。『「耳袋」や「新編武蔵風土記稿」では、光盛(みつもり)ではなく、三右衛門の通称で記述されているが、隠居後も活躍し続けた事で、三右衛門の名の方が世間では有名となった為である。「耳袋」では中屋三右衛門の名で記載されている』。次に二代目戸谷半兵衛修徳。『延享3年(1746年)に三右衛門の三男として生まれたが、兄弟が若くして没していった事で、二代目を継ぐ事となる。継いでからわずか3年目(安永4年に30歳)にして没し、父である光盛が健在であった事からも業績はよく知られていない。妻の常は内田伊左衛門の娘で俳諧を嗜んだとされる』。次に三代目戸谷半兵衛光寿。『通称を戸谷 双烏(1774年 - 1849年)と言い、幼名を半次郎。2歳の頃に父が没した為、祖父と義父(横山三右衛門)の後見により家業振興に没頭し、若いながらも中屋の隆盛期を築く(その祖父も13歳の頃に亡くなる)。義父の助力によって商才を研かれたとされる。10代半ばより俳諧の才能を発揮し、高桑蘭更(京都東山に芭蕉堂を営む)や常世田長翠に師事した。俳号を紅蓼庵双烏と称した。師の一人であった常世田長翠は、その縁からのちに双烏が建てた小簔庵(こみのあん)に招かれ、8年間にわたり、本庄宿に滞在する事となり、中央俳壇が本庄宿を根拠地にして活動した。その為、本庄宿では商人にして俳人と言った人物が増えた。彼も祖父と同様に公での名字帯刀を許された。また、信心深く、京都の智積院の境内に石畳を、江戸の真福寺には常夜灯を寄進している』。『彼の代で、江戸に出店2軒、家屋敷は江戸に22か所、京都に3か所を所有。「関八州持丸長者富貴鑑」「諸国大福帳」などに名を連ねる豪商となる。その財は、立花右近将監、松平出雲守、鍋島紀伊守などへの大名貸しだけでも15万数千両(現在の価値にして60億円以上)に及ぶ』。『寛政4年(1792年)に、陸奥、常陸、下総の村々へ小児養育費として50両、文化3年(1806年)には公儀へ融通金千両、文化13年(1816年)に足尾銅山が不況におちいった際には、森田豊香らと共に千両を上納し、困窮者の救済にあたり、足尾銅山吹所世話役に任命された。この他、文政4年(1821年)には岩鼻代官所支配村々の旱魃救援金百両を拠出、また、基金を献金して伝馬運営の資金に充て、神流川無賃渡しも継続。数々の慈善事業をし、名字帯刀を許された』(以下、三代目以降の更に詳しい事蹟が記されるが割愛する。但し、三代目は強い文人気質の持主であったことは特筆に値するので、リンク先及び以下の叙述を参照されたい)。『戸谷半兵衛家は代々豪商にして慈善家でもあり、三右衛門(初代半兵衛)は天明の大飢饉の時に土蔵の建設を行い、手間賃と米を給した。現在、その土蔵は本庄の千代田1丁目4番地に残され、この土蔵を「天明の飢饉蔵」と言う。また、双烏(三代目半兵衛)は旅人の安全の為、神流川の渡しに高さ3mもする豪華な常夜燈を寄進した。この常夜燈は、渓斎英泉作の『支蘓路(きそろ)ノ駅本庄宿神流川渡場』(中山道六十九次の浮世絵)にも描かれている(浮世絵を見る限り、石製の常夜灯である)』(ウィキの「本庄宿」にある同浮世絵の精密画像)。この三代目半兵衛光寿(双烏)は『まだ少年であった本因坊丈和(当時は己之助と呼ばれていたものと見られる)を丁稚として住まわせていたが、その碁の才能を見抜き、支店である島屋(江戸)の方へ赴任させ、才能を開花させるはからいもしている』。光寿『は、己之助が本因坊となった後も手紙での交流を続けており、「本因坊先生」と書いているものの、「本因坊様」とは書かず、そこからもかなり親密な仲であった事がうかがえる』。『光寿の姿は依田竹谷(谷文晁の門弟)によって描かれて』おり、また『光寿の俳壇の門下生は、関東地方だけで3~5千人とされ、文化的影響力はもちろん、経済支援を求める文化人も少なくなかった』とある。『支店島屋は現在の日本橋室町1丁目に開店していた。江戸の方では島屋半兵衛の名義で確認でき、中屋ではなく島屋と名乗っていたものと見られる。また室町2丁目の飛脚屋である京屋を利用して、島屋から中屋に向けて、江戸での出来事や情報を送らせていたものと考えられている』。初代伝来の情報戦略である。なお、「卷之二」の下限は天明6(1786)年までであるから、この記事の記載は正に初代戸谷半兵衛光盛死の直後に相当する時期である。
・「御代官」幕府及び諸藩の直轄地の行政・治安を司った地方官。勘定奉行配下。但し、武士としての格式は低く、幕府代官の身分は旗本としては最下層に属した。
・「蓑笠之助」蓑正高(みのまさたか 貞享4(1687)年~明和8(1771)年)幕府代官。農政家。以下、「朝日日本歴史人物事典」の記載(記号の一部を変更した)。『松平光長の家臣小沢庄兵衛の長男。江戸生まれ。享保1(1716)年猿楽師で宝生座配下の蓑(巳野)兼正の養子となり、同3年に家督を相続。農政・治水に通じ、田中丘隅の娘を妻とする。同14年幕府に召し出され、大岡忠相の支配下に入り、相模国足柄上・下郡の内73カ村を支配、酒匂川の普請なども行う。元文4(1739)年代官となり扶持米160俵。支配地はのちさらに加増され、計7万石となった。延享2(1745)年勘定奉行の支配下に移るが、寛延2(1749)年手代の不正のため罷免され、小普請入り。宝暦6(1756)年隠居。剃髪して相山と号した』。著作に「農家貫行」がある、と記す。
・「予御勘定組頭を勤て道中方を兼帶なせし頃」根岸が御勘定組頭を勤めたのは明和5(1768)年から同吟味役に昇進する安永5(1776)年までの8年間。道中奉行(後注参照)配下に勘定組頭の兼職である道中方が置かれていた。
・「安藤彈正少弼」安藤郷右衛門惟要(ごうえもんこれとし 正徳4(1714)年~寛政4(1792)年)。作事奉行・田安家家老・勘定奉行・大目付等を歴任している。「彈正少弼」は弾正台(少弼は次官の意)のことで、本来は律令下の監察・警察機構を言ったが、戦国時代以降、多くの武家が武勇を示すその呼称を好み、自ら弾正家を呼称した。既にお馴染み「耳嚢」の重要な情報源の一人。
・「道中奉行」ウィキの「道中奉行」より、改行を省略して引用する。『江戸幕府における職名のひとつ。五街道とその付属街道における宿場駅の取締りや公事訴訟、助郷の監督、道路・橋梁など道中関係全てを担当した。初見は『吏徴別録』の寛永4年(1632年)12月にある水野守信ら4名の任命の記事であるが、一般的には万治2年7月19日(1659年9月5日)に大目付高木守久が兼任で就任したのにはじまるとされる。大目付兼帯1名として始まったが、元禄11年(1698年)に勘定奉行松平重良が道中奉行加役となって以後、大目付と勘定奉行から1名ずつ兼帯する2人制となった。弘化2年(1845年)より大目付のみの兼帯。正徳2年(1712年)から享保9年(1724年)までは与力2騎、同心10人が配属され、配下に勘定組頭の兼職である道中方が置かれていた。その役料は享保8年(1723年)から年に3000石、文化2年(1805年)以後は年間金250両』。
・「通り油町」通油町(とおりあぶらちょう)という町名。現在の日本橋大伝馬町13~14番地付近。大伝馬町・旅籠町・馬喰町に囲まれた古い町で、江戸初期の慶長年間(1596~1615)には町が出来、元和年間(1615~1624)に牛込某が油店を開いたことから、町名となった。元禄年間(1688~1704)には、江戸文学の興隆に大きく貢献した浄瑠璃本等を売る本屋鱗形屋(うろこがたや)があったことで知られ、天明年間(1781~89)には紅絵(べにえ:浮世絵の様式の一つ。墨摺版画に丹の代わりに紅で筆彩したもの。)問屋の町として知られた。後の流行作家十返舎一九(明和2(1765)年~天保2(1831)年)は、この町の紅屋問屋蔦屋に寄食し、作家として名を売った後の半生もこの町で過している。因みに「呉服店」とあるが、通油町の西端と接する通旅籠町には寛保3(1743)年に大店大丸呉服店江戸店が開業している。
・「重手代」商家で事務管理を総括する古参の手代のこと。
・「引け物」「下直の引物」は流行遅れの古くなった在庫や傷物などの値引き品。今で言うB反。
■やぶちゃん現代語訳
本庄宿鳥居谷三右衛門の事
中山道本庄宿に仲屋三右衛門という商人が御座った。
凶作の年には、宿場内は元より近村の困窮を救い、旅客往還の助けとして往来の道並びに橋を私財を投じて整備管理致し、当地支配の代官蓑笠之助(みのかさのすけ)の申し出を受け――私はその頃、勘定組頭を勤めており、道中方も兼任していた頃のことで、直接関わった故によく存じておる――当時の道中奉行は安藤弾正少弼霜台殿が勤めておられたが、この奉仕の一件につき、お上へお伺いを立てた上、彼への名字帯刀がお許しになられ、御褒美も下賜されたという人物で御座る。
聞くところによれば、三右衛門は、元来は日本橋通油町の仲屋という呉服店に、丁稚より勤めて、重手代(おもてだい)にまで成ったのであるが、その仲屋の主人が急死致し、跡継ぎの子も未だ幼年なれば、店が大いに衰え、立ち行き難くなった折りがあった。それでも主人が青年になろうまでの暫くは、何とか持ちこたえて御座った。
ある日のこと、三右衛門が若主人に申すことに、
「今年は、ご主人さま御自身が上京なさり、京の問屋から――よろしゅう御座るか――引け物だけを、たんと仕入れてお持ち帰り下さいますよう、よろしくお願い申します。」
と嚙んで含むように命じた。
若主人は、言われた通り、引け物ばかりを安値でたっぷり仕入れて江戸へ戻った。
安値の引け物ばかり――されど名にし負う京呉服には変わりがなければ――これを関東一円にて売り捌く――当然のこととして、少なからぬ利益は出た。
ところがそれから程遠からぬ後日(ごにち)のこと、今度は三右衛門自身が上京、先の問屋を訪ねて申すことには、
「――若輩なれど、成せる精一杯の仕事をなさろうと――年若のご主人さま直々に仕入れに上京なさったというに――お手前は、如何なれば、かく、引け物ばかりを売り渡しなすったのか――」
と如何にも難しい表情にて遺憾の意を述べた。
勿論、問屋の方も、
「……そやかて……お宅のご主人はんのお好みや言うて、お任せしましたんやで……」
と答えた。ところが、
「ご冗談を! 主人は若輩、未だ幼年と申してもよき者にて御座る。――その呉服の、どころか、世間のいろはも知らぬ子供――その子供がたとえ、自ずから所望致いたからと言うて――かく夥しき売り物にもならぬ引け物ばかり――これ、売り渡いたこと――いやとよ! 我らが店の左前なるを早くも見限られ、体(てい)よく金まで搾り取り、商売にならぬ、不要品を渡りに舟と処分なされたこと――これ、年久しゅう取引を交わして参った馴染みの問屋で御座る、お手前どもの、為さり様とも――思えませぬ――」
と言って押し黙った。
その悲壮なる謂いに、問屋も返す言葉もなく年久しく取引致いてきた問屋にてもあれば――また、世間にいらぬ悪評の立つも恐るればこそ、損を承知で、先に支払ったものとほぼ同等の別途新品を三右衛門へそっくり無償で引き渡した。
お分かりで御座ろう、これによって仲屋は相応に大きな利益を得ることが出来、往時の仲屋の隆盛を取り戻いたので御座った。
後、三右衛門は相応の元手を貰って本庄宿へと引っ込み、呉服その他諸品の商いを成して、今では本庄宿とその近辺に於いては鳥居三右衛門と聞いて知らぬ者は、これ、御座ない。
因みに、かの仲屋の屋号を染め抜いた暖簾の印を
かくの如くつけたのも彼三右衛門の考案になるものの由。
「これは一体どういう意味か?」
とある人が尋ねたところ、三右衛門はこう答えたという。
「――この『中』は勿論、屋号の「仲」で御座るが、ほれ、こういう風に書いてみると――『虱』という字に見えて御座ろう?――虱はよう殖えて、決して絶えること、これ御座らねばのう。――」
本庄宿は三右衛門近隣に住む者の話で御座った。
*
道灌歌の事
太田道灌は文武の將たる由。最愛の美童貳人ありて其寵甲乙なかりしに、或日兩童側に有りしに、風來て落葉の美童の袖に止りしを、道灌扇をもつて是を拂ひけるに、壹人の童、聊か寵を妬(ねた)める色の有しかば、道灌一首を詠じける。
ひとりには塵をもおかじひとりにはあらき風にもあてじとぞおもふ
かく詠じけると也。面白き歌ゆへ爰に留ぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:具体は繋がらぬが、卓抜な奇略と洒落という点では私にはすんなり連関して感じられる。
・「太田道灌」(永享4(1432)年~文明18(1486)年)。『室町中期の武将。名は資長。道灌は法名。資清の長男。太田氏は、丹波国桑田郡太田郷の出身といい、資清のときに扇谷上杉氏の家宰を務めた。道灌は家宰職を継ぎ、1457年(長禄1)に江戸城を築いて居城とした。76年(文明8)関東管領山内上杉顕定の家宰長尾景信の子景春が、古河公方足利成氏と結んで顕定にそむくと,主君上杉定正とともに、顕定を助けて景春と戦った。77年武蔵江古田・沼袋原に景春の与党豊島泰経らを破り、78年に武蔵小机・鉢形両城を攻略、80年景春の乱を鎮定した。この間、関東の在地武士を糾合して戦った道灌の名声は高まったが、かえって顕定・定正の警戒するところとなり、86年定正により暗殺された。道灌は兵学に通じるとともに学芸に秀で、万里集九(ばんりしゆうく)ほか五山の学僧や文人との親交が深かった。道灌が鷹狩りに出て雨に遭い、蓑を借りようとしたとき、若い女にヤマブキをさし出され、それが「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」という古歌「後拾遺集」雑)の意だと知り、無学を恥じたという逸話は「常山紀談」(湯浅常山著、元文~明和ころ成立)や「雨中問答」(西村遠里著、1778)等に記されて著名。この話をもじって1833年(天保4)刊「落噺笑富林(おとしばなしわらうはやし)」(初世林屋正蔵著)中に現在伝えられる落語「道灌」の原形ができあがった。歌舞伎では1887年3月東京・新富座初演「歌徳恵山吹(うたのとくめぐみのやまぶき)」(河竹黙阿弥作)がこの口碑を劇化、賤女おむらは道灌に滅ぼされた豊島家の息女撫子で、父の仇と道灌に切りかかる趣向になっている。現在の新宿区山吹町より西方の早大球場、甘泉園のあたりを『山吹の里』と通称し、戸塚町面影橋西畔に『山吹の里』の碑が立てられ、その旧跡とされている。』(以上は平凡社「世界大百科事典」の下村信博氏及び小池章太郎氏記載記事。但し、記号の一部を本ページに合わせるために変更し、改行も省略した。(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.)
・「ひとりには塵をもおかじひとりにはあらき風にもあてじとぞおもふ」訳の必要を感じさせない平易な歌であるが、もしかするとある種の単語には性愛的な意味が隠されている可能性があるかも知れない。識者の御教授を乞う。底本の鈴木氏注に、「続詞花和歌集」の「雑上」に所収するものとし、作者は祭主輔親(大中臣)とする。それは
ひとりには塵をもすゑじひとりをば風にもあてじと思ふなるべし
とあると記され、更に天保六年刊の儒学者日尾荊山(寛政元(1789)年~安政6(1859)年)の「燕居雜話」の「六」には太田道灌の作として、
ひとりをば塵をもおかじひとりをば荒き風にもあてじとぞ思ふ
と挙げる、とある。後者はほぼ本歌に等しい。鈴木氏は最後に『道灌が古歌を利用して作りかえたと見ることもできるが、後人による附会であろう。』とされる。道灌、基、同感。
■やぶちゃん現代語訳
太田道灌の和歌の事
太田道灌は文武両道に長けた武将として知られている。
彼には最愛の美童が二人あって、その寵愛の深さには何らの差がなかった。
ある秋の日のこと、両童が側に控えて御座ったところ、風が吹き来て、落葉が一人の美童の袖に散った。
道灌、それを見て、手にした扇をもってこれを払った。
すると、これを見て御座ったもう一人の美童、聊か妬(ねた)ましげなる表情を浮かべた。
道灌、それを見てとって一首を詠じた。その歌は、
ひとりには塵をもおかじひとりには荒き風にもあてじとぞ思ふ
かくも詠じたということにて御座る。
面白き歌なればここに記しおく。
*
擬物志を失ひし事
近年菓子或は油揚の類ひに魚物(ぎよぶつ)をまのあたり似せて實に其品と思ふ程の工(たく)みあり。さる寺院にて旦那成(なる)諸侯の法會有りて參詣の折柄、右の菓子差出しけるに、魚物に似寄たる故や手を付られざりしを、あるじの法師夫は魚味にては無之、近年拵へ出し候菓子也とありければ、彼諸侯申けるは、出家はしらず、俗人は強て先祖の忌日也とて魚味を禁ずべきにあらず、さあれ共國俗すべて精進に魚物等を忌みぬるは愼みならん。我等も先祖の法會なれば退夜(たいや)より精進潔齋して、諸事心の穢れをも禁(いま)しめ參詣なせし也。然るに魚物を食する事ならずとて、其形をなせし物を用んは、心の穢れ魚物を用んよりは増るべし、難心得饗應なりとて座を破り立歸り給ひしと也。彼僧は赤面なしてありしが、其後ひたすらの歸依もなかりし由。右は松平右近將監(しやうげん)とも堀田相模守執事の時共いひし。しかとわからざりしが心得あるべき事と爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「退夜」「逮夜」のこと。仏教で葬儀の前夜や忌日の前夜を言う語。
・「禁(いま)しめ」は底本のルビ。
・「松平右近將監」松平武元(たけちか 正徳3(1714)年~安永8(1779)年)。上野国館林藩第3代藩主・陸奥国棚倉藩藩主・上野国館林藩初代藩主(再封による)。奏者番・寺社奉行・老中。宝暦11(1761)に先の老中首座堀田正亮の在職死去を受けて老中首座となった。参照したウィキの「松平武元」によれば、『明和元年(1764年)老中首座。徳川吉宗、徳川家重、徳川家治の三代に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた』とある。卷之一「松平康福公狂歌の事」に登場。
・「堀田相模守」堀田正亮(ほったまさすけ 正徳2(1712)年~宝暦11年(1761)年)は出羽国山形藩3代藩藩主・下総国佐倉藩初代藩主。寺社奉行・大坂城代を経て老中。先に記した酒井忠恭の罷免を受けて寛延2(1749)年に老中首座となった。在職中に死去した(以上はウィキの「堀田正亮」を参照した)。同じく卷之一「松平康福公狂歌の事」に登場。
・「執事」江戸幕府に於いては若年寄の異称であるが、堀田正亮は若年寄の経歴はないので、老中の謂いであろう。元来が執事は貴族・富豪などの大家にあって、家事を監督する職を言うので問題はない。岩波版長谷川氏でもそうとっておられる。
■やぶちゃん現代語訳
擬物に志しを失うという事
近年、菓子或いは油揚げの類いに、魚の姿を見るからに似せて作りことが流行って、中には誠(まっこと)本物の魚と見紛うほど、そっくりに造り上げる職人も御座る。
さる寺院にて、檀家である諸侯が己(おの)が先祖の法会のために参詣致いた折りのこと、この茶菓子が振舞われた。
魚の姿に見紛う故か、そのお大名が手をお付けになられないのを、住職の法師がこれを見て微笑みながら、
「それは勿論、魚肉にてはこれなく、近頃、流行で拵えさせた菓子にて御座いまする。」
と説明した。すると、そのお大名、相好一つ崩さず、住職を正面に見据えると、
「――出家はともかくとして、俗人は、先祖の忌日とて、強いて魚を食することを禁ずること、これ、あるべきべきことにては、御座ない――なれど、本邦に於いて古えより世俗にても精進の料理に魚肉などを避くるは、これ誠心の慎み故でもあろう。――かく不遜なる我らにても、今日、先祖の法会と思えばこそ、逮夜より精進潔斎致いて、あらゆることに気を配り、心の穢れんことを切に戒め、ここに参詣致いて御座る。――然るに――魚を食することが出来ぬからと言うて、代わりにその形を成せし食い物を食したとあっては――これ、心の穢れ――魚を食せんとせしことより、いや勝ることじゃ! 理解し難き饗応である!」
と言い放つや、憤然と席を立ち、そのまますぐにお帰りになられたとのことである。
住僧はただただ赤面するばかりで御座ったが……その後は最早、この諸侯の帰依、これ、とんとなく、なられた由。
この話は松平右近将監(しょうげん)武元(たけちか)殿御老中の折の話とも、堀田相模守正亮(まさすけ)殿御老中の折のものとも言う。はっきりとは分からぬものの、誠(まっこと)心得あるべきことと感心致せば、ここに記しおく。
*
音物に心得あるべき事
或日諸侯方より權門(けんもん)へ月見の贈り物ありしに、右權家(けんか)にて忌み禁ずるの品にて甚無興なる事ありしと也。いづれ平氏の諸侯へ平家都落の屏風等送らんは禮にも違ひ、恥しめるの壹つならん。夫に付おかしき咄あり。寶暦の頃、權家へ兼て申込にて屏風一双名筆の認しを送る諸侯有しに、彼權家より移徙(わたまし)の祝儀と時めける權門大岡公へ送り物の評議最中なれば、幸ひの事也、右の屏風を通すべし、しかし移徙は時日も極りあればいかゞあらんと評議せしに、留守居成(なる)者取計(とりはららひ)、彼諸侯へ、とてもの御贈り物に候はゞ幾日迄に贈り給はるべきやと談じけるに、安き事とて彼諸侯家にても大に悦びける故、權家にても其日に成(なる)と今や來ると待ぬるに、日も晩景に及べど沙汰なければ、如何間違しやと主人も氣遣ひ、懸合の家來は誠に絶躰絶命の心地しけるに、無程使者を以右屏風を贈り、厚く禮謝なして使者の歸るを待兼て、直に使者を仕立右屏風を大岡家へ贈りけると也。然るに主人其屏風の模樣仕立等を家來に尋けるに、餘りに取急てあわてけるにぞ、中の繪樣仕立等も不覺、主人の尋にて始て心付當惑なしけるにぞ、繪がら其外大岡家の禁忌も難計(はかりがたく)、移徙の忌み品にはなきやと、上下一同又當惑の胸を痛めける。餘りの氣遣ひさに大岡家へも人を以(もつて)存寄(ぞんじより)に叶ひしやを内々にて承り合、細工人抔を糺して其樣を聞て、始て安堵をなしけるとや。深切の音物(いんもつ)ならず、麁忽(そこつ)の取計(とりはからひ)にはかゝる事のあるものなれば、心得に爰に記しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。大名諸侯絡みではあるが、前項はポジ、こっちは皮肉なるネガ。
・「權門」官位が高く権力・勢力のある家柄、また、その人。ここではその意味ながら、この語には、まさにこの話柄で問題となる「権力者への賄賂」の意味もある。
・「音物」「いんもつ」又は「いんぶつ」と読む。贈り物。進物。
・「寶暦」宝暦年間は西暦1751年から1764年。
・「移徙(わたまし)」は底本のルビ。「徙」は「移」と同義。「渡座」とも書く。貴人の転居・神輿(しんよ)の渡御を敬っていう語。
・「大岡公」大岡忠光(宝永6(1709)年~宝暦10(1760)年)九代将軍徳川家重の若年寄や側用人として活躍した。上総勝浦藩主及び武蔵岩槻藩初代藩主。三百石の旗本大岡忠利の長男(以上はウィキの「大岡忠光」を参照した)。卷之一「大岡越前守金言の事」に登場。
・「留守居」留守居役。ここでは諸大名がその江戸屋敷に置いた職名。幕府との公務の連絡や他藩(の留守居役)と連絡事務を担当。聞番役。
・「とてもの御贈り物に候はゞ」これはその権家が、具体的にその屏風を大岡公移徙御祝儀に致す、ついてはその旧蔵はこれこれの御大名のものなりという出所も明らかに致すによって、別して御大名家の名聞も立つと申すものにて、といったような会話がなされたものを省略した表現と私は採った。識者の御意見を乞う。
・「餘りの氣遣ひさに大岡家へも人を以存寄に叶ひしやを内々にて承り合、細工人抔を糺して其樣を聞て、始て安堵をなしけるとや」の部分で権家が、絵柄や仕立てもよく分かっている旧蔵者の大名諸侯に、その屏風の仔細を聞かなかったのは、何となく分かる気がする。これはもう、万一の時は権家だけではなく、災いが旧蔵者であるその大名にも及ぶ危険性があるからで、とても口には出せなかったのであろう。
■やぶちゃん現代語訳
進物には細心の注意が必要である事
とある諸侯が権門(けんもん)に秋の月見の進物を致いたところが、それが当の権家(けんか)にては古えより忌み禁ずる品であったがため、甚だ不興を買ってしまったということがあったという。いずれにしても、平姓の諸侯方に平家都落ちを描きし屏風なんどを贈るは、これ、礼を失するばかりか、相手を侮辱することになる一例で御座る。
さても、これに就きて、面白い話が御座る。
宝暦の頃、とある大名が、さる権家へ、その大名家の所蔵に係る名筆の手になった一双の屏風を贈答致すという約束をかねてより交わして御座った。
一方、その権家にては、丁度その頃、世を時めいて御座った権門大岡忠光公御転居の御祝儀の進物に、何がよろしきかと評議を致いている真っ最中であったが、
「もっけの幸いじゃ! その屏風を贈ろうではないか。」
「しかし、御転居の儀、これ、時日が迫って御座れば、如何なものか?」
という話となり、留守居役の者が取り計らい、早速に当の大名方へ走り、
「先の御約束の屏風で御座るが……有体に申しますれば、かの大岡忠光公御転居の御祝儀として本家より進ぜんと考えておりますればこそ……その……厚かましきこと乍ら、○月○日迄に、かの屏風、お贈り戴けるようお取り計らいの儀、御願い出来ませぬか?」
と正直に申したところ、大名も大岡忠光公の名を聞いて、
「それはそれは! 易きことじゃ!」
と大喜びして請け合って御座った。
さても大名から権家への送り渡しの当日と相成った。
権家方にては、贈答の好機が迫りに迫って御座ればこそ、今来るか、今来るかと首を長くして待って御座った。
ところが、日が暮れ方になっても、屏風が届かぬ――
「……何ぞ手違いでもあったではなかろうか!?……」
と権門家主人も、これ、気が気ではない。
交渉に当たった家来ども、特にかの留守居役なんぞに至っては、最早、絶体絶命――腹を切らずば済まされまい――との心持ちで御座ったところ――暗くなって程なく、大名家の使者が件(くだん)の屏風を持って権家の玄関に現れた。
権門家では厚く謝礼をなし、その使者が帰るのを待ちかね、直ちに使者を仕立てて、この屏風を右から左と、大岡家へ贈り届けたということで御座る。
――ところが――
さて、その夜のこと、権門家の主人が、家来に屏風の絵柄や、大名が新たに表装し直したという仕立てなんどにつき、訊ねたところが……
――いえ……何にせよ、あまりに取り急ぎのことにてあれば……
――その……家来の者どもは……誰(たれ)一人として……
――何?……誰も屏風を……見ておらぬと?……
――こ、この儂に尋ねらるるまで……だ、だれ一人か!?……
――今の今まで……そ、そ、そのことにさえ気づいて、お、ら、な、ん、だ、と……申すカッ!?……
ということに今更皆々気がついて、一同、愕然と致いた。
絵柄その他、そもそも贈答せんがことに汲々と致して御座ったれば、大岡家の禁忌のことも迂闊にも全く調べて御座らねば、それどころか、もしや転居祝そのものの忌み物にはあらんかと、権家一同、上から下までずずいずいと、当惑疑惑七転八倒、胸痛腹痛片頭痛、餓鬼畜生地獄煉獄阿鼻叫喚の責め苦を味わうはめと相成って御座ったのである。
あまりの懊悩故、まず大岡家へもそれとなく人を遣わし、お気に召されたかどうか、極内々にて聴き合わせ、……またかの大名から、かの屏風の仕立て直しを請け負った細工職人なんどから、これまた、それとのう聞き出しては、彼らより、その絵柄や模様なんども分かって御座ったれば……その上で、初めて……ほっと一息、安堵をなしたとかいうことで御座る。……
さてもこれ、心を尽くした進物にてもなく、また、かくまで杜撰な仕儀に於いては、こうしたこともある、ということで御座る。方々の注意を喚起せんがため、ここに記しておくものである。
*
米良山奧人民の事
日向國椎葉山の山奧其外米良抔いへる處は、中古其村處(そんきよ)を尋得て人民ある事をしりしよし。御普請役元〆(もとじめ)をなしつる中村丈右衞門といへる老翁ありしが、彼丈右衞門語りけるは、椎葉山の材木伐出し其外御用ありて彼地へ行しに、日雇の者を案内に賴み段々わけ入しに、山中に一村有、家數も餘程あれどまばらに住なせし所也。外に宿すべき所もなければ彼人家に止りぬ。然るに床はなくねこだを敷て、家居の樣子其外外國へも行し程に覺へぬ。米はなき由なれば兼て里より持參せし米をあたへ、食事に焚きくれ候樣申けるに、飯の焚やうをしらず。常には何を食事になすやと尋るに、木の實鳥獸等を食となすよしゆへ大に驚き、召連し小者に申付て飯を焚せけるに、食事濟で殘りし飯を家内へ與へければ、彼家の老翁家族を不殘集、幼き孫彦(まごひまご)等に申けるは、汝等は天福ありて幼稚にて米の食をいたゞき見るに、我等は五十の時始て飯を見たりといひし由。實(げ)にも麁食(そしよく)長生ありといふ古語誠成る哉。右翁は百歳の餘にも成由。孫彦都(すべ)て家内大勢打揃し氣色にて、何れの家もしかなる由語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。後の注でも分かるが、この椎葉米良は隠田集落村で、落人伝説の地、粗食長寿の桃源郷である。
・「日向國椎葉山」現在の宮崎県の北西部の東臼杵郡椎葉村にある山。宮崎県最内陸部の九州山地に位置しており、椎葉村全体が山地であり、村内には多くの山があって、冬期は雪が積もることもある。米良山この椎葉山一帯は天領で人吉藩の預かり地であった。主に参照したウィキの「椎葉村」には更に細かく『戦国時代には椎葉三人衆(向山城、小崎城、大川内城の那須氏)と呼ばれる豪族が支配していた。元和年間、那須氏の間で対立が激化。1619年(元和5年)、幕府は阿部正之、大久保忠成を派遣して事態の収拾を図らせた。徳川実紀によると住民1000人が捕らえられ140名が殺害されたという(椎葉山騒動)。1656年(明暦2年)以降、天領となり、隣接する人吉藩の預かり地となった』。『伝承としては、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が隠れ住んだ地の1つとされ、平美宗や平知盛の遺児らが落ち延びてきたという。那須氏はその出自ではないかともいわれる(那須大八郎と鶴富姫伝説)』。『日本民俗学の先駆けである柳田国男は椎葉村でフィールドワークを行い、その経験をもとに「後狩詞記(のちのかりのことばのき)」(明治42年、1909年)を記した』と書かれている(引用の一部記号を変更した)。
・「米良」現在の宮崎県児湯郡西米良村にある。厳密には市房山・石堂山・天包山の3つから成り、これらを合わせて「米良三山」と呼ぶ。参照したウィキの「西米良村」によると、『15世紀初頭、菊池氏の末裔とされる米良氏が米良に移住。米良山』(当時は14ヶ村を数えた)『の領主として当地を支配し、江戸時代中期以降(現在の)西米良村小川にあった小川城を居城とした。米良氏は明治維新後に菊池氏に改姓した』。『米良山は元和年間(1615年-1624年)に人吉藩の属地とされ、廃藩置県(1871年)の際には人吉県(後に八代県、球磨郡の一部の扱い)となり、1872年に美々津県(宮崎県の前身)児湯郡に移管された。こうした歴史的経緯から米良地方は宮崎県(日向国)の他地域よりも熊本県(肥後国)球磨地方との結びつきが強い。これは現在も飲酒嗜好にも表れており、西米良村では球磨焼酎(25度の米焼酎、宮崎県内は20度の芋焼酎が主流)、特に高橋酒造の「白岳」が愛飲されている』とある。椎葉の前注も参照。
・「御普請役元〆」底本の鈴木氏注に幕府の『支配勘定(組頭の下を勘定といい、その下を支配勘定という)の下。この下が普請役。その下が普請役下役となる。』とある。鈴木氏の役職解説は何よりシンプルで分かり易い。前注で分かる通り、ここは江戸から遠く隔たっているが天領であるから、この人物が直接出向いているのである。
・「中村丈右衞門」諸注注せず不詳。
・「ねこだ」方言か。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「寝茣蓙(ねござ)」とある。この意で採る。
・「孫彦」岩波版長谷川氏注に「彦」は曾孫とする。そのような用法は漢和辞典にないが、そう読むしかない。「ひこまご」で「ひまご」か。とりあえず本文は「まごひまご」と読んでおいた。
・「都(すべ)て」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
米良山の奥に住む人々の事
日向国椎葉山の山奥、そこに隣り合う米良という所は、中古、そこを偶々分け入った人が、村の在るを見出し、初めて人が住んでおることが知れたといういわくつきの山村である。
御普請役元締を勤めておった中村丈右衛門という老人が御座ったが、その彼が語って呉れた話である。
――――――
……天領で御座る椎葉山の材木の伐り出しや、その他の御用が御座って彼地へ赴きましたが、……日雇いの者を案内(あない)に頼み、だんだんに山に分け入ると、……暮れ方にやっと山中の一村に辿り着きました。家数も相応に御座っての、ただ、広い山地に固まらず、疎(まば)らに住みなして御座った。勿論、外に泊まるところもないので、そのうちの一軒に泊りました。
ところが、家内入ってみると、床は御座らず、地べたに大きな寝茣蓙が敷かれておるだけ、家の内外(うちそと)様子なんどは、もう、まるで外国に来たようで御座った。米はないということなれば、かねて里から持ち運ばせた米を与えて、
「食事に炊いて呉れ。」
と申し付けたところが、これ、なんと、飯の炊き方を知らぬと申しました。
「普段は何を食っておるのか?」
と訊ねますと、
「木の実、鳥、獣などを捕って食い物としております。」
と答えるので、拙者も大いに驚き、召し連れておった小者に申し付けて飯を炊かせましたが……食事が済んで、残った飯をその家(や)の者どもへ与えたところ、その家の老翁が家族一同残らず集めた上、幼い孫や曾孫に言うことには、
「……汝らは天のご加護があって、かく年幼(わこ)うして、こうして米の飯を拝み見ることができた……我らなんぞはの、五十の時、初めてこの『飯』というものを見たんじゃぞ……」
と申しました。
げにも『粗食なれば長生あり』という古き諺は誠(まっこと)真実で御座いますなあ。……何とこの折りの老人、百歳を有に超えているということで御座った。どの家(や)にてもこのように孫や曾孫総ての家族がともに暮らしておるらしゅう御座っての、また、どの家の者も、かく長生きであるという話で御座いました。……
*
矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事
寶暦の初めにや、三州矢作(やはぎ)の橋御普請にて、江戸表より大勢役人職人等彼地へ至りしに、或日人足頭の者川縁に立しが、板の上に人形やうの物を乘せて流れ來れり。子供の戲れや、其人形のやう小兒の翫(もてあそ)びとも思はれざれば、面白物也と取りて歸り旅宿に差置けるに、夢ともなく今日かゝりし事ありしが明日かく/\の事有べし、誰は明日煩はん、誰は明日何方へ行べしなど夜中申けるにぞ、面白き物也、これはかの巫女などの用る外法(げはふ)とやらにもあるやと懷中なしけるに、翌日もいろ/\の事をいひけるにぞ、始の程は面白かりしが、大きにうるさくいと物思ひしかども捨ん事も又怖しさに、所の者に語りければ彼者大きに驚き、よしなき物を拾ひ給ひける也、遠州山入に左樣の事なす者ありと聞しが、其品拾給ひては禍を受る事也といひし故、詮方なく十方に暮れていかゞ致可然哉(しかるべくいたすべきや)と愁ひ歎きければ、老人の申けるは、其品を拾ひし時の通、板の上に乘せて川上に至り、子供の船遊びする如く彼人形を慰める心にて、其身うしろ向にていつ放すとなく右船を流し放して、跡を見ず立歸りぬれば其祟りなしと言傳ふ由語りけるにぞ、大きに悦び其通りなして放し捨しと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に具体な連関を感じさせないが、山の民の隠れ住む場所、その河上から流れ来る妖しき『もの』という空間的連関性は感じられる。
・「寶暦」宝暦年間は西暦1751年から1764年。
・「三州」三河国。凡そ現在の愛知県東部地区。
・「矢作川」現在の長野県・岐阜県・愛知県を流域として三河湾に注ぐ。ウィキの「矢作川」のよれば、『長野県下伊那郡平谷村の大川入山に源を発して南西に流れる。岐阜県恵那市と愛知県豊田市の奥矢作湖周辺では、矢作川が県境を決めている。流域に豊田市、岡崎市などがある。下流域の矢作古川は元の本流であり、氾濫を抑えるため江戸時代初期に新たに開いた水路が現在の本流となっている』とあり、この舞台はその新水路でのことか。『矢作の名は、矢作橋の周辺にあった矢を作る部民のいた集落に由来している。矢に羽根を付けることを「矧(は)ぐ」と言ったことから「矢矧(やはぎ)」となり、後に矢作へ書き換えられた』とある。
・「遠州」遠江国。凡そ現在の静岡県大井川の西部地区。
・「外法」正道の仏法から外れた呪術・妖術の類い。諸注、人間の髑髏を用いた呪法を挙げるが(この語にはその意もあるが)、私は採らない。
・「山入」山岳信仰の山伏などのことを言うか。中でも天竜川を遡った、静岡県浜松市天竜区春野町領家にある秋葉山(あきはさん)は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀り、信濃諏訪―熊伏山―定光寺山―竜頭山―秋葉山を結ぶルートが修験者の回峰道となっていた。次項「秋葉の魔火の事」を参照。
■やぶちゃん現代語訳
矢作川にて妖物を拾い難儀した事
宝暦の初めのことと言う。
三河国矢作川に掛かる公共架橋整備事業のため、江戸表より大勢の役人や職人などがかの地へ参った、その中の一人の人足頭の体験した話。
ある日のこと、この者、作業の合間に川っぷちに立って御座ったところ、板の上に人形のような物を乗せたものが上流から流れて参った。
子供が戯れにしたことかとも思ったが、その人形の作りはとても児戯に類するものとは思われぬ、相応に巧みな造作にて御座ったれば――面白いものじゃ――と拾い取ると、宿所へ持ち帰って、荷の中に仕舞い置いた。――
――その夜のこと、荷の傍らで寝入っていたその男、夢うつつのうちに、かの人形が、
「……今日ハドコソコデカクカクノ事ガアッタガ、明日ハソノコトニ関ワッテ、シカジカノ事ガ、コレ、起コルデアロウ。……誰ソレハ明日病イニ罹ル。……誰彼ハ明日ドコソコへ行クダロウ。……」
といったようなことを話すのを聴いた――ような気がした……。
翌朝になって、
「こりゃ面白れえもんだ! これぞ世に、かの巫女なんどが用いるという、外法(げほう)とか言ったもんかのう?」
と、またぞろ面白がって人形を懐に入れて持ち歩いて御座った。
すると、翌日の夜(よ)も、再びいろいろなことを一人ごちた――ように聴こえた……。
かく初めのうちは、男もその予言の面白い程の的中を興がって御座ったが、……次第に、この夢うつつの人形のお喋りを甚だ五月蠅いものに感じ始め、果てはその独り言に不眠症ともなってひどく悩むに至った。捨てんにも、後(のち)に如何なる祟りのあらんかとの恐ろしさ故、思い余って、親しくなった土地の老爺に相談致いたところ、話を聞くや、その者、大いに驚き、
「そりゃ、とんでもないものを、お拾いになったもんじゃ! 遠州辺りの山に入る修験者の中には、かような妖しい外法を為(な)す者がおると聞いたことが御座るが……それを拾うた者……これ、きっと禍いを受くると……言われとるじゃ……」
と語る。
これを聴いては、詮方なく、男は途方に暮れるばかり。
「……い、一体……ど、どうしたら……え、ええんじゃろう?……」
と驚懼の余り、泣きついたところ、老爺曰く、
「――拾うたときと同じごと、板の上に乗せて川上に参り、子供が舟遊びするが如く、その人形を労わり慰むる心を持ちて、背中にそれを持ち、顔は川と反対を向いて、川岸に静かにしゃがみ込み、いつ放すとのう、手を放し、あたかも弾みで手が離れたように振舞って、川に押し流し、後は後ろを見ずに帰れば、これ、その祟りはない――と言い伝えて御座る……。」
と語った由。
男は驚喜して、その通りになして、無事、放ち捨てたということで御座る。
*
秋葉の魔火の事
駿遠州へ至りし者の語りけるは、天狗の遊び火とて遠州の山上には夜に入候得ば時々火燃て遊行なす事あり。雨など降りける時は川へ下りて水上を通行なす。是を土地の者、天狗の川狩(かわがり)に出たるとて、殊の外愼みて戸抔を建ける事なる由。いか成もの成哉(や)。御用にて彼地へ至りし者、其外予が召使ひし遠州の産抔、語りしも同じ事也。
□やぶちゃん注
○前項連関:前話では隠れているが、秋葉山連関である。
・「秋葉」秋葉山。現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する標高866mの秋葉山。この山頂付近に三尺坊大天狗を祀った秋葉寺があった。これは現在、秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)となっている。以下、ウィキの「秋葉山本宮秋葉神社」より引用する。本神社は『日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約800社)、秋葉大権現および秋葉寺の殆どについて、その事実上の起源となった神社である』。『現在の祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。江戸時代以前は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀(まつ)る秋葉社(あきはしゃ)と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんふつこんこう)で、人々はこれらを事実上ひとつの神として秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼んだ。古くは霊雲院(りょううんいん)や岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)などの呼び名があったという』。『上社参道創建時期には諸説があり、701年(大宝元年)に行基が寺として開いたとも言われるが、社伝では最初に堂が建ったのが709年(和銅2年)とされている。「秋葉」の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から寺に賜った和歌の中に「秋葉の山に色つくて見え」とあったことから秋葉寺と呼ばれるようになった、と社伝に謳われる一方「行基が秋に開山したことによる」「焼畑に由来する」などの異説もある』。『その後平安時代初期、信濃国戸隠(現在の長野県長野市、旧戸隠村)の出身で、越後国栃尾(現在の新潟県長岡市)の蔵王権現(飯綱山信仰に由来する)などで修行した三尺坊(さんしゃくぼう)という修験者が秋葉山に至り、これを本山としたと伝えられる。しかし、
1.三尺坊が活躍した時期(実際には鎌倉時代とも室町時代とも言われる)にも、出身地や足跡にも多くの異説がある
2.修験道は修験者が熊野、白山、戸隠、飯綱など各地の修験道場を行き来しながら発展しており、本山という概念は必ずしも無かった
3.江戸時代には秋葉寺以外にも、上述の蔵王権現や駿河国清水(現在の静岡県静岡市清水区、旧清水市)の秋葉山本坊峰本院などが「本山」を主張し、本末を争ったこれらの寺が寺社奉行の裁きを受けたとの記録も残されている
戦国時代より以前に成立した、三尺坊や秋葉大権現に関する史料が殆ど発見されていない
よって現状では、祭神または本尊であった三尺坊大権現の由来も「定かではない」と言う他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれている』。『戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康の隠密であった茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に、次第に発展を遂げてゆくこととなった』。『徳川綱吉の治世の頃から、三尺坊大権現は神道、仏教および修験道が混淆(こんこう)した「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになり、広く秋葉大権現という名が定着した。特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成され、大勢の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、十七坊から三十六坊の修験や禰宜(ねぎ)家が配下にあったと伝えられる。参詣者による賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、信仰の証や道標として多くの常夜灯が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられた』(以下、近代史の部分は割愛した)。
・「駿遠州」駿河国と遠江国。駿河は現在の静岡県の大井川左岸中部と北東部に相当し、遠江は凡そ現在の静岡県大井川の西部地区に当たる。
■やぶちゃん現代語訳
秋葉の魔火の事
駿州遠州へと参った者が語ったことには、「天狗の遊び火」といって、遠州の山上にては夜になって御座ると、折々妖しい火がふらふらと飛び交うことがある。雨が降った折りなんどは、その火が山を下り川を下って、水面の上を通って行く。これを土地の者は『天狗が川狩りに出た』と言うて、殊の外恐々として謹み、戸を立てて外に出でるを忌む由。一体、これは如何なるものなのであろうか。御用にてかの地へ参った者以外にも、私が召し使っておった遠州生まれの者などが語った話も全く同様で御座った。
*
其業其法にあらざれば事不調事
予が知れる者に虚舟といへる隱逸人ありて御徒(おかち)を勤しが、中年にて隱居なして俳諧など好みて樂みとし、素より才力もありて文章もつたなからず。或時義太夫の淨瑠理を作り見んと筆をとりて、八幡太郎東海硯といへるを編集し伎場の者に見せけるに、彼者大きに奇として、かゝる作意近來見不申、哀れ芝居に目論見(もくろみ)なんと持歸りしが、程なく肥前といへる人形操(あやつり)の座にて右淨瑠璃理芝居を興行せし故、見物に行て右狂言を見しに、大意は相違なけれど所々違ひし處も夥しく、虚舟かなめと思ひし所をも引替たる所有ければ、彼最初附屬せしものを以、座本淨瑠理太夫などに聞けるに、さればの事にて候へ、右作いかにも面白く能(よく)出來たる物なれ、しかし素人の作り給へる故舞臺道具立人形のふりの附かたことごとく違ひて、右作にては狂言のならざる所あり、此故に直しけると語りし由。いづれ其家業にあらざれば理外の差支等はしれざる事とかたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。
・「虚舟」後掲する「八幡太郎東海硯」の作者東武之商家一二三は彼のペン・ネームか。底本の鈴木氏注では三田村鳶魚の注を引いて『「虚舟、蓼太門、小島氏とあり、この人には」とある。』とし、更に『光文二年十一月、京の蛭子座で上演された八幡太郎伝授鼓(三番続)の作者小島立介・伊藤柳枝らとある立介がそれであろう。外題も上演に際して改めたものであろう。内容は甲陽軍記の世界の人物をとって、お家物に仕立てた顔見世狂言。(ただし寛政譜の中からは、享保ごろまでに致仕した小島姓の人物を検出することはできない。)』と丁寧な注が附されている。ただ岩波版長谷川氏注では未詳の一言なので、この鈴木氏注はハズレと長谷川氏は判断されているということか。
・「御徒」とは「徒組」「徒士組」(かちぐみ)のこと。将軍外出の際、先駆及び沿道警備等に当たった。
・「義太夫」義太夫節のこと。浄瑠璃(三味線伴奏の語り物音曲)の流派の一つで、貞享年間(1684~1688)に大坂の竹本義太夫が人形浄瑠璃として創始した。豪放な播磨節、繊細な嘉太夫節その他先行する各種音曲の長所を取り入れてある。浄瑠璃作家近松門左衛門、三味線竹沢権右衛門、人形遣辰松八郎兵衛らの多角的な協力が加わって、元禄期(1688~1704)に大流行、浄瑠璃界の代表的存在となった。単に「ぎだ」とも言う。また広義に、特に関西で浄瑠璃の異名ともなった。
・「八幡太郎東海硯」東武之商家一二三作。廣田隼夫(たかお)氏の『素人控え「操り浄瑠璃史」』の記載によれば、江戸の操り浄瑠璃界に新風を巻き起こした初めての江戸前作家による記念的作品であったことが窺える。当時、『豊竹・竹本両座の退転で混乱状態に陥った大坂に対して、この明和期から安永~天明期という約20年間、江戸では対照的な珍しい現象を引き起こしていた。突如として現われた江戸浄瑠璃の新作が江戸っ子の人気をえて、予想もしない活況に沸き返った』。『そのきっかけとなったのが、最初の江戸作者の出現であった。明和から10年ほど前の寛延4年(1751)に肥前座で「八幡太郎東海硯」なる作品が上演された』。『作者は「東武之商家一二三」で、単独作。「東武之商家一二三」の読み方は正確に分からないが、「東武」とは武蔵の国―つまり江戸のこと、「商家」とは商い―作者のこと、「一二三」は最初の数字の意味にとれば、自らが「江戸の最初の作者」ということをふざけて表現したことになる。名前からしてアマチュアであることに間違いない』と記されておられる。大きな改変が座付作家によってなされていることが本文から分かるが、このような奇妙なペンネームからは、虚舟なる人物のペン・ネームと考えて問題ないように思われる(もしそうでないとすれば虚舟は改変云々の前に、まずそこに文句を言うであろうから)。内容は私は不学にして未詳。先に示した「八幡太郎伝授鼓」(はちまんたろうでんじゅのつづみ)は現在でも上演されているので、識者の御教授を乞うものである。
・「附屬」「付嘱」(ふしょく)に同じ。言いつけて頼むこと。依頼。
■やぶちゃん現代語訳
如何なる仕儀もその本来の技法に従わざれば事成らざるものなりという事
私の知人に虚舟という隠逸人がおり、永く御徒(おかち)を勤めて御座ったが、中年となって隠居した後(のち)、俳諧なんどを好みて道楽と致いて御座った。もとより才能もあり、その文筆の冴えも一通りではなかった。
ある折りのこと、素人乍ら、義太夫節の浄瑠璃を書かんと一念発起、筆を執って「八幡太郎東海硯」という作物を書き上げ、とある芝居小屋の者に見せたところが、かの者、大いに奇なる面白き作物と賞美の上、
「――かく斬新なる作物、近年稀に見るものにて御座りまする! これはもう、一つ、芝居にしてみんに若くはない!」
とて、台本拝借、知れる者どもの内にて持ち回って御座った。
程なく肥前座という人形操りの芝居小屋にて、かの浄瑠璃芝居「八幡太郎東海硯」興行せんとすとの知らせ、虚舟、喜び勇んで見物に参ったところが――大筋は、確かに虚舟の描いたものと相違なきものの、所々、否、ここあそこと、自作の場面と異なって御座ること、これ、夥しく、何より虚舟がここぞ摑みと心得て御座った山場の場面すら、大きに書き換えられて御座った。
その日のうちに、虚舟は複雑な面持ちで、引き渡した清書の外に手元に残して御座った元原稿を持ち参り、肥前座楽屋に御座った座本の浄瑠璃太夫なんどのところに顔を出して、話を聞いた。
「――されば、それは仕方のなきことにて候。この作物、誠(まっこと)、よう出来て候。――なれど、やはりこれ、素人がお創りになったものにて候間――舞台の道具立て、人形の振り付け方――ありとあらゆるところ、音曲人形、演ずるに悉く無理、これあり候。――この作物、このままにては――狂言になり申さぬところ、これあり候。――なればこそ、御不快尤ものこと乍ら、直し申し候。――」
と語ったということである。……
「……いやこそ、流石なれ! いずれ、その家業に随(したご)うておる者にて御座らねば、分からぬこと、これ、御座るものにじゃ!」
と、その虚舟本人が、如何にも得心して語って御座ったよ。
*
海上にいくじといふものゝ事
西海南海にいくじとて時によりて船のへさき抔へかゝる事有由。色はうなぎやうのものにて長き事難計(はかりがたく)、船のへ先へかゝるに二日或は三日などかゝりてとこしなへに動きけるよし。然れば何十丈何百丈といふ限を知らずと也。いくじなきといへる俗諺(ぞくげん)は是より出し事ならん。或人の語りしは、豆州(づしう)八丈の海邊などには右いくじの小さきものならんといふあり、是は輪に成て鰻の樣成ものにて、眼口もなく動くもの也。然れば船のへ先へかゝる類(たぐひ)も、長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの也といひし。何れ實なるや。勿論外の害をなすものにあらずとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関: 特に連関を感じさせない。UMAシリーズの一(因みに、UMAは“Unidentified Mysterious Animal”「未確認の謎の生物」を意味する英語の頭文字であるが、これはUFOに引っ掛けた、和製略英語であって国際的には通用しない)。
・「いくじ」海の妖異生物で、後、「あやかし」などとも呼ばれて急速に明確に妖怪化している。「いくち」とも呼ぶ。以下、ウィキの「イクチ」から引用する(記号の一部を変更した)。津村淙庵の『「譚海」によれば常陸国(現・茨城県)の沖にいた怪魚とされ、船を見つけると接近し、船をまたいで通過してゆくが、体長が数キロメートルにも及ぶため、通過するのに12刻(3時間弱)もかかる。体表からは粘着質の油が染み出しており、船をまたぐ際にこの油を大量に船上にこぼして行くので、船乗りはこれを汲み取らないと船が沈没してしまうとある』(以下「耳嚢」の記載を載せるが省略する)。『鳥山石燕は「今昔百鬼拾遺」で「あやかし」の名で巨大な海蛇を描いているが、これはこのイクチをアヤカシ(海の怪異)として描いたものである』。『平成以降では、怪魚ではなく巨大なウミヘビとの解釈』(人文社編集部「日本の謎と不思議大全 東日本編」人文社〈ものしりミニシリーズ〉2006年)や、『海で溺死した人間たちが仲間を求める姿がイクチだとの説』(人文社編集部「諸国怪談奇談集成 江戸諸国百物語 東日本編」人文社〈ものしりシリーズ〉2005年)、『石燕による妖怪画が未確認生物(UMA)のシーサーペントと酷似していることから、イクチをシーサーペントと同一のものとする指摘もある』(山口敏太郎「本当にいる日本の現代妖怪図鑑」笠倉出版社2007年)と記す。但し、「あやかし」について附言すると、平秩東作(へづつ とうさく 享保11(1726)年~寛政元(1789)年)の「怪談老の杖」によれば、大唐が鼻での出来事として、舟人が遭遇した人間の女の姿をした女妖として描かれている。大唐が鼻は現在の千葉県長尾郡太東岬(たいとうみさき)である。
・「何十丈何百丈」1丈=3.03mであるから、「何」を3倍から9倍の幅で考えるならば、最低でも90m強、長大なものは凡そ2㎞700mという途方もない長さになる。いくらなんでも2㎞はあり得ない――しかし――それが――あるのである。
・「是は輪に成て鰻の樣成ものにて、眼口もなく動くもの也。然れば船のへ先へかゝる類(たぐひ)も、長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの也といひし。何れ實なるや。勿論外の害をなすものにあらずとなり」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「外」は「舟」とする。さてもこれは何だろう。鰻のようであるという部分からは所謂、鰻・鱧・海蛇などの長大個体を想定し得るが、ここまで長い誇張はしっくりこない。私は本文の後半、目も口もなく「動くもの」「長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの也」という表現に着目する。この表現は、その個体の体軀が前半の記載と異なり、半透明であることを意味していないだろうか? 所謂、鰻や海蛇の類で、如何にぬるぬるしていても太くがっちりした円柱状であるソリッドな生体を「長く延び動くにてはなく、丸く廻るもの」とは言わないように思うのである。もしかすると「動く」「廻る」ように見えるのは、その内臓・体内が透けて見え、その中の鮮やかな臓器の一部が、動くから「廻る」のが分かるのではあるまいか? 蛇体形のものであれば、身体を伸縮する運動を必ずするから「延び動く」ように絶対見えるはずである。以上から私は、この「いくじ」を、全く独自に、ホヤの仲間である脊索動物門尾索動物亜門タリア綱 Thaliaceaのサルパ目(Salpida / Desmomyria)のサルパ類の、長大な連鎖群体に同定してみたい欲求に駆られるのである。サルパは体長2~5㎝程度の、筒状を成した寒天質の被嚢で覆われた透明な一見、クラゲに見える(が脊椎動物の直下に配される極めて高等な)海産生物である。体幹前端に入水孔、後端部若しくは後背面部に出水孔を持ち、7~20本の筋体が体壁を取り巻いている(これが腹側で切れているのが大きな特徴である)。ところがこのサルパは他個体と縦列や横列はたまた円環状(本文後半の記述に一致)で非常に長い連鎖群体を作って海面下を浮遊することで知られ、その長さは数10mから数100m(サルパであることの確認を取ったわけではないが、極めてその可能性が高いと私が判断しているネット上の国外の事例では約2㎞のものもあるようだ)にまで及ぶのである。以下に幾つかの属を示しておく。
サルパ科 Salpidae
Salpa サルパ
Cyclosalpa ワサルパ
Thalia ヒメサルパ
Thetys オオサルパ
Pegea モモイロサルパ
但し、サルパは海上表面に飛び出て、舳先に絡みつくようなことは勿論ないが、喫水線が低く舳先も低い和船にあってはピッチングの際に、この連鎖個体を舳先にぶら下げることもあろう(但し、ぶら下がって切れない程強靭であるかどうかは、残念ながら実際に試したことがないので分からぬ。寒天質では厳しいとは思う)――ただ、外洋でこの浮遊する連鎖個体を見たならば、吃驚りしないものは、恐らく皆無であろうという自信はある。私はかなり大真面目に「長大な」という「いくじ」の最大特徴を最もカバー出来る同定候補として、このサルパを結構、自信を持って掲げるものである。ただ、最初は実は正真正銘のクラゲ、刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目ボウズニラ科ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii 辺りをイメージした。ボウズニラをご存知の方は少ないであろう。以下、ウィキの「ボウズニラ」から引用しておく。ボウズニラは『群体性の浮遊性ヒドロ虫。カツオノエボシなどに代表される管クラゲ類の1種。暖海性で春に見られる』。『一般にはクラゲとされるがその体は複数のポリプから構成され、クラゲの傘にあたる位置の気泡体から幹群をもった細長い幹が出、触手、対になった栄養体とその間から生えた生殖体叢からなる』。『体色は淡紅。気胞体は高さ10―17㎜、幅5―9㎜、富む幹は3㎝―数mまで伸縮する』。『種名の「ボウズ」は坊主頭に似た気泡体に、「ニラ」は魚や植物の棘を意味する「イラ」の訛に由来する』。『近縁種にコボウズニラがあり、毒性はとても強く、漁師などが網を引き揚げるとき、本種などの被害を受けている』。しかし、その形態は「いくじ」やサルパほどにはシンプルとは言えないし、そもそもこれはその刺胞が強烈で漁師の立派な「害」になる(岩波版にこじつければ「舟」の害にはならないが)ので、最終的には除外した。
・「豆州」伊豆国。現在の静岡県の伊豆半島全域及び東京都の伊豆諸島に相当。
■やぶちゃん現代語訳
海上に棲息する「いくじ」なる生物の事
西や南の海にては、時によっては、「いくじ」という生き物が舟の舳先なんどに引っ掛かることがあるという。
色は鰻のようであり、長さは計り知れぬ程、長大である。
この「いくじ」、舟の舳先なんぞに引っ掛かろうものなら、二日でも三日でも引っ掛かったまんまで、これまた、いつまでも――ずるずるずるずるずるずるずるずる――と動いておる。
何十丈、いやさ、何百丈あるのか見当もつかぬ程に――並外れて――長い――という。
「いくじなし」という俗語は、この「いくじ」のように無用の終わり「なき」よな――ずるずるずるずるずるずるずるずる――いつまでも決心のつかない、気力も覚悟もつかない、という連鎖連想に由来する語なのであろう。
――また、ある人の「いくじ」談義では少し違う。
「……伊豆や八丈島の海辺などにては、このいくじの小物であろうと思われるものが棲息しておると言いまする。こちらは輪になった鰻のようなもので、目も口もなく、そのまんまに動く生き物で御座る。されば、かく「いくじ」が舟の舳先に掛かる、と言い伝えて御座るものも、実は海中より伸び上がって舳先にだらんとうち掛かっておる、というのではのうて、丸く輪になって廻る――則ち、舳先にその輪っかのような生き物がぶら下がっておる状態を言うておるので御座ろう。」
――さても、何れが真実(まこと)か。勿論、他にこれといって害をなすような生き物にてはない、ということで御座る。
*
鴻巣をおろし危く害に逢し事
下谷の武家とやらん又寺と哉覧(やらん)、召仕ふ中間鴻の巣をおろしける事ありし由。然るに右中間或日米を舂(つ)き居(をり)たりしに、空より何か物音して我上へ落ち懸る音しける故、大に怖れて家の内へ逃入りしに、鴻一羽下し來りて觜(くちばし)を縁の柱へ三寸餘突込し。鴻も讎(あだ)を報(むくひ)んとて彼男を突損じ、勢ひの餘りて柱へ觜をたて、引拔んとすれど叶はざりし故、大勢立寄りて打殺しけると。彼男今少し逃やう遲くばかの觜にかゝりなばと、舌を振ひ恐れしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:珍奇動物から動物の人間への意外な復讐行動で連関。
・「鴻」コウノトリ目コウノトリ科コウノトリCiconia boyciana。「鸛」「鵠の鳥」などとも書き、別名ニホンコウノトリとも言う。以下、ウィキの「コウノトリ」より引用する。『ヨーロッパではstorkといえばこれでなく、日本でいうシュバシコウ(英名:White stork)のほうを指す』とある。このシュバシコウ(朱嘴鸛)はコウノトリ属の一種Ciconia ciconiaで、和名は「赤い嘴のコウノトリ」の意味である。『全長約110~115㎝、翼開長160~200㎝、体重4~6㎏にもなる非常に大型の水鳥である。羽色は白と金属光沢のある黒、クチバシは黒味がかった濃い褐色。脚は赤く、目の周囲にも赤いアイリングがある』。『水辺に生息し、水棲動物を食べる大型の首の長い鳥という特徴は共通する。しかしコウノトリの大きさは、サギの最大種のアオサギと比べても明らかに大きい』。『分布域は東アジアに限られる。また、総数も推定2,000~3,000羽と少なく、絶滅の危機にある。中国東北部(満州)地域やアムール・ウスリー地方で繁殖し、中国南部で越冬する。渡りの途中に少数が日本を通過することもある』。『成鳥になると鳴かなくなる。代わりに「クラッタリング」と呼ばれる行為が見受けられる。くちばしを叩き合わせるように激しく開閉して音を出す行動で、ディスプレイや仲間との合図に用いられる』。『主にザリガニなどの甲殻類やカエル、魚類を捕食する。ネズミなどの小型哺乳類を捕食することもある』。『主に樹上に雌雄で造巣する。1腹3―5個の卵を産み、抱卵期間は30―34日である。抱卵、育雛は雌雄共同で行う。雛は、約58―64日で巣立ちする』。『広義のコウノトリは、コウノトリ亜科に属する鳥類の総称である。ヨーロッパとアフリカ北部には、狭義のコウノトリの近縁種であるシュバシコウ Ciconia ciconiaが棲息している。羽色は似ているが、クチバシは赤。こちらは数十万羽と多く、安泰である。「コウノトリが赤ん坊を運んでくる」などの伝承は、シュバシコウについて語られたものである』。『しかし、シュバシコウとコウノトリとの間では2代雑種までできているので、両者を同一種とする意見も有力である。この場合は学名が、シュバシコウはCiconia ciconia ciconia、コウノトリはCiconia ciconia boycianaになる』。『日本列島にはかつて留鳥としてコウノトリが普通に棲息していたが、明治期以後の乱獲や巣を架ける木の伐採などにより棲息環境が悪化し、1956年には20羽にまで減少してしまった。そのため、コウノトリは同年に国の特別天然記念物に指定された。ちなみにこのコウノトリの減少の原因には化学農薬の使用や減反政策がよく取り上げられるが、日本で農薬の使用が一般的に行われるようになったのは1950年代以降、減反政策は1970年代以降の出来事であるため時間的にはどちらも主因と断定しにくく、複合的な原因により生活環境が失われたと考えられる』。『その後、1962年に「特別天然記念物コウノトリ管理団体」の指定を受けた兵庫県は1965年5月14日に豊岡市で一つがいを捕獲し、「コウノトリ飼育場」(現在の「兵庫県立コウノトリの郷公園附属飼育施設コウノトリ保護増殖センター」)で人工飼育を開始。また、同年には同県の県鳥に指定された。しかし、個体数は減り続け、1971年5月25日には豊岡市に残った国内最後の一羽である野生個体を保護するが、その後死亡。このため人工飼育以外のコウノトリは国内には皆無となり、さらには1986年2月28日に飼育していた最後の個体が死亡し、国内繁殖野生個体群は絶滅した。しかし、これ以降も不定期に渡来する複数のコウノトリが観察され続けており、なかには2002年に飛来して2007年に死亡するまで、豊岡市にとどまり続けた「ハチゴロウ」のような例もある』(以下、現在の人工繁殖及び再野生化の取り組みについて記載されているが割愛する)。
・「かゝりなば」の「ば」の右には、底本では『(んカ)』とある。この「かゝりなん」を採る。
■やぶちゃん現代語訳
鴻の巣を降ろしたがために危うく害に逢わんとせし事
下谷に住む武家とも、また寺内のことにてとも聞く。まあ、話の出所は定かでは御座らぬ。
召仕うて御座った中間、鴻(こうのとり)が御屋敷の庭樹の上に架けた巣を、邪魔ならんと降ろしたことが御座った。
それから日の経たぬうち、この中間が庭で米を舂いて居ったところ、
――バッサバッサバサ!
と空より何か物音がし、それがまた、自分の真上へ落ち懸ってくる音がした故、吃驚仰天、泡を食って家の内へ飛び込んだところ、
――ビュウゥゥゥ~ン!
と鴻が一羽、急に舞い降りて参り、
――ズン!
とその嘴(くちばし)を、縁の柱へ三寸ばかり突っ込んで止まると、羽交いを波打たせて暴れ悶えて御座った。
――これ、察するに、鴻も畜生乍ら、巣を奪われ、子を失(うしの)うた仇(あだ)を報いんとしたものである。――
ところが、かの男を突き殺そうとして、し損じた上に、その勢い余って柱へ嘴を突き立ててしまい、引き抜こうとしたが遂に叶わず――大勢集まって参った中間やら下男やらが散々に打ち殺したとか。――
――時に、かの男、真っ青になって、
「……い、い、今少し……に、に、逃ようの……遅かっ、かっ、かったら……こ、こ、この……す、す、鋭き、は、嘴(はし)……の、の、脳天……ぶ、ぶ、ぶ、ぶっすり…………」
と、舌を振わせて震え上がっておった、とのことで御座る。
*
鳥類其物合ひを考る事
有德院樣御代、熊鷹を獸にあわせ給ふ事有りしが、熊鷹その物合ひを考へし事感ずべしと古人の語りぬ。廣尾原にてありしや、飛鳥山にてありしや。狐一疋追出しけるに、熊鷹を合すべしとの上意也ければ、熊鷹は手に居へる事も成がたく、架(ほこ)に乘せてかの狐を合せけるに、狐を見たる計(ばかり)にて甚だ勢ひなく、狐の形チ見へざる程遠に迯延(にげのび)しにたたんともせざりしゆへ、公も本意(ほい)なく思召、御鷹匠(たかじやう)の類も殘念に見しに、最早狐見へざると思ふに、熊鷹翼を振つて虚空に空へ上りし。暫くありて一さんにおとし、貳拾町も隔候處にて右の狐を押へ取りけるとなり。勢ひの餘る處物合ひの近きをしりてかくありし。鳥類の智惠も怖しきもの也と咄しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関: 鳥類の習性(特にその特異な知的行動)で直連関。
・「鳥類其物合ひを考る事」「鳥類其物合(ものあ)ひを考(かんがう)る事」と読む。「其物合ひを考る」とは、獲物としての対象との距離を測る、慮(おもんぱか)るの意。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「熊鷹」タカ目タカ科クマタカ Spizaetus nipalensis。「角鷹」「鵰」などとも書く。以下、ウィキの「クマタカ」より引用する。『全長オス約75㎝、メス約80㎝。翼開長は約160㎝から170㎝。日本に分布するタカ科の構成種では大型であることが和名の由来(熊=大きく強い)。胸部から腹部にかけての羽毛は白く咽頭部から胸部にかけて縦縞や斑点、腹部には横斑がある。尾羽は長く幅があり、黒い横縞が入る。翼は幅広く、日本に生息するタカ科の大型種に比べると相対的に短い。これは障害物の多い森林内での飛翔に適している。翼の上部は灰褐色で、下部は白く黒い横縞が目立つ』。『頭部の羽毛は黒い。後頭部には白い羽毛が混じる冠羽をもつ。この冠羽が角のように見えることも和名の由来とされる。幼鳥の虹彩は褐色だが、成長に伴い黄色くなる』。『森林に生息する。飛翔の際にあまり羽ばたかず、大きく幅広い翼を生かして風を捕らえ旋回する(ソアリング)こともある。基本的には樹上で獲物が通りかかるのを待ち襲いかかる。獲物を捕らえる際には翼を畳み、目標をめがけて加速を付けて飛び込む。日本がクマタカの最北の分布域であり北海道から九州に留鳥として生息し、森林生態系の頂点に位置している。そのため「森の王者」とも呼ばれる。高木に木の枝を組み合わせた皿状の巣を作る』。『食性は動物食で森林内に生息する多種類の中・小動物を獲物とし、あまり特定の餌動物に依存していない。また森林に適応した短めの翼の機動力を生かした飛翔で、森林内でも狩りを行う』。『繁殖は1年あるいは隔年に1回で、通常1回につき1卵を産むが極稀に2卵産む。抱卵は主にメスが行い、オスは狩りを行う』。『従来、つがいはどちらかが死亡しない限り、一夫一妻が維持され続けると考えられてきたが、2009年に津軽ダムの工事に伴い設置された猛禽類検討委員会の観察により、それぞれ前年と別な個体と繁殖したつがいが確認され、離婚が生じることが知られるようになった』。『クマタカは森林性の猛禽類で調査が容易でないため、生態の詳細な報告は少ない。近年繁殖に成功するつがいの割合が急激に低下しており、絶滅の危機に瀕している』。『大型で攻撃性が強いため、かつて東北地方では飼いならして鷹狩りに用いられていた』。『クマタカは、「角鷹」と「熊鷹」と2通りの漢字表記事例がある。学術的には、学名(ラテン名)のみが種の名称の特定に用いられる。よって、学術的にどちらが「正しい」表記とはいえない。また歴史的・文学上では双方が使われてきており、どちらが「正しい」表記ともいえない。近年では、「熊鷹」と表記される辞書が多い。これは「角鷹」をそのままクマタカと読める人が少なくなったからであろう。ただし、鳥名辞典等学術目的で編集された文献では「角鷹」の表記のみである』。
・「廣尾原」現在の渋谷区麻布広尾町一帯の古称。但し、現在の港区に位置する広尾神社一帯もその地域に含まれる)。参照したKasumi Miyamura氏の「麻布細見」の「麻布広尾町」に、『この一帯は広尾原と呼ばれ、江戸初期までは荒野だった。延宝年間(1673~1681)頃になると、現在の有栖川宮記念公園の入り口あたりに百姓長屋ができており、それ以外は武家地と畑地になった。正徳3(1713)年に町方支配になった際に麻布広尾町と正式に称した。祥念寺前、鉄砲屋敷などの里俗称もあったという』とある。
・「飛鳥山」現・北区飛鳥山公園一帯の古称。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。山とは言うものの、丘といった風情で『「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(25.7メートル)よりも低い山ではないかとして、2006年に測量を行い、実際に愛宕山よりも低いことを確認したとしている』。因みに『北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが採択されなかった』とある。
・「架」台架(だいぼこ)。鷹匠波多野鷹(よう)氏の「放鷹道楽」の「鷹狩り用語集」によれば、鷹狩の際、野外で用いるための止り木のことを言う。狭義には丁字形のものは含まず、四角い枠状のものを指すという。高さ五尺二寸、冠木(かぶらぎ:架の上にある枠状の横木。)四尺三寸。野架(のぼこ)。ここでは出先で用いるとある陣架(じんぼこ)の類かも知れない。
・「御鷹匠」享保元(1716)年の吉宗の頃を例に取ると、鷹匠は若年寄支配、鷹部屋の中に鷹匠頭・鷹匠組頭2名・鷹匠16名・同見習6名・鷹匠同心50名の総員約150名弱(組が二つで鷹匠以下が2倍)で組織されていた(以上は小川治良氏のHP内「鷹狩行列の編成内容と、中原地区の取り組み方」を参照させて頂いた)。
・「貳拾町」約2㎞180m。
■やぶちゃん現代語訳
鳥類は獲物との間合いを慮るという事
有徳院吉宗公の御代、上様が角鷹(くまたか)を獣狩りに用いられたことが御座ったが、角鷹は、その習性、獲物を襲うに間合いを慮りしこと、誠(まっこと)感嘆致いたことで御座ったと古老の語った話で御座る。
広尾原にてことで御座ったか、それともかの飛鳥山にてのことで御座ったか、失念致いたが、駆り立てる者どもが、叢より狐を一匹追い出したところ、即座に、
「角鷹を合わせてみよ。」
との御上意、これ、御座った。
元来が大きな角鷹なれば、手に居(す)えることもなり難く、台架(だいほこ)に乗せて、かの狐の方(かた)に向き合わたところ、狐を見ているばかりで、その体(てい)、これ如何にも勢いなく、あれよあれよと言う間に、狐は、その姿が見えなくなってしまう程に遠くに逃げのびてしもうたにも拘わらず、一向に台架より飛び立つ気配もなき故、吉宗公も如何にも拍子抜けのことと思し召しになられ、周りに控えて御座った御鷹匠の者どもも恐縮しつつ、畜生のことなれば、ただただ残念なることと、諦め顔にて見て御座ったところ――もう狐が見えなくなってしまうと思うた頃、突如、この角鷹、翼を振って虚空高々と登って御座った――と――暫くして、一さんに舞い降りて来る――吉宗公の、
「馬引け!」
の声高らかに、者どもも徒歩にて続いて走り寄れば――何と二十町も隔てて御座った所にて、熊鷹がかの狐を踏み押え獲って御座ったということで御座る。
その体躯巨大にして、力も並外れし角鷹なればこそ――その勢いが余る故に、獲物との間合いが余りにも近いことを自ずから視認致いて、かくの如き、仕儀と相成ったので御座った。
――――――
「……たかが鳥類、されど鳥類……その知恵なるものも、これ、怖しきものにて御座る……」
とは、その古老のしみじみとした言葉で御座った。
*
行脚の者異人の許に泊し事
前々しるしぬる虚舟、上方筋行脚なしけるに、信濃美濃のあたりにてとある絶景の地に休らひ、懷中より矢立取出して短册に一句を印し居たりし後ろへ、年頃四十許(ばかり)にて大嶋の布子を着し、山刀さして頭巾を冠りける者立留りて虚舟に申けるは、御身は俳諧なし給ふと見へたり。今晩は行脚の御宿我等いたし可申間立寄給へとていざなひしかば、嬉しき事に思ひてかの者に連て行しに、道程三四里も山の奧へ伴ひ行て一ツの家あり。彼家へ伴ひしに妻子ありて家居も見苦しからず。然れ共あたりに人家なく誠に山中の一家なり。俳諧の事抔夜もすがら咄して麁飯(そはん)抔振廻ひける故、夜も更ぬれば一ト間成所に入て臥ぬ。いか成者や、狩人といへど鐵砲弓などの物も見えず。夜中は度々表の戸の出入多く、燒火(たきび)などしてあたり語るさま年老(としより)の者共見へず、不思議なる者と思ひぬる故夜もよく寢られざるが、程なく夜明ぬれば食事などして暇を乞、御身は何家業(わざ)なし給ふや又こそ尋(たづね)め、何村の内也と尋しに、しかじかの答もなさゞりしを考れば強盜にてもありしや。發句などを見せ物など讀み書などせしさま、むげに拙(つたな)き人とも見へず。翌日は返りして山の口元まで案内し立別れぬるが、今に不審はれずと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:前項とは無縁乍ら、本文にもある通り、四項前の「其業其法にあらざれば事不調事」の話者虚舟の体験談で隔世連関。
・「虚舟」「其業其法にあらざれば事不調事」の同注参照のこと。
・「信濃美濃のあたりにてとある絶景の地」信濃国(現在の岐阜県南部)と美濃国(現在の長野県)の国境に近い景勝地となると、中山道沿いならば寝覚の床、やや離れるが木曽川の絶景としては国境に最も近い恵那峡が挙げられる。
・「大島」大島紬(つむぎ)のこと。絣(かすり)織りの紬。主に奄美大島で産したことからかく言う。手で紡いだ絹糸を泥染めし、それを手織り平織りにした絹布で縫製した和服を言う。
・「布子」現在は木綿の綿入れを言うが、古くは麻布の袷(あわせ)や綿入れを言った。ここでは後者であろう。
・「山刀」猟師や樵が山仕事に使用する鉈の一種。
・「燒火(たきび)」は底本のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
旅致す者山中異人の家に泊まれる事
四話前に記した虚舟が、上方の方へ旅致いた折りのことという。
……さても、信濃や美濃の辺りにて、とある絶景絶佳の渓谷景勝の地に休ろうて、徐ろに懐中より矢立を取り出だいて、短冊に発句なんど認(したた)めて御座ったところ……我らが背に、突然、年頃四十ばかりの、大島の布子を着て山刀(やまがたな)を腰に差し、頭巾を被った男が立ち現われ、声をかけて参ったので御座る。……
「……御身は俳諧をお嗜みになられると拝見致す。……さても、今宵の旅宿を我ら御世話致さんと存ずれば……どうか切に、お立ち寄りあられんことを……」
と誘われて御座ったれば、拙者も願ってもないことと喜んで、かの者に従って御座った。……
……ところが、その後、そうさ、かれこれ三、四里ばかりも山中深く分け入って御座ったろうか……へとへとになった頃、やっとこさ、草深きうちに一軒家が御座った。
家内に誘われてみれば、妻子の出迎えあり、家居造作もこのような深山幽谷の内ながらも見苦しいものにてはこれなく、相応な構え。なれど、辺りには一軒の人家として、これなく、文字通り、山中の一つ家で御座った。……
……俳諧のことなんど、夜もすがら談笑の上、ささやかなれど食事も振舞って下され、夜も更けて御座ったれば、一と間なるところに導かれ、眠りに就いて御座った。……
……我ら、布団内にて思うたことは……
――この主人、一体、何者じゃろ?……自らは狩人と称したれど……鉄砲や弓なんどの一物も家内には、これ、見当たらなんだが――
と不審の種。……更に……
……すっかり夜更けてからも……度々表の戸から出入りする物音が致いて……ぱちぱちと木っ端の爆ぜる音……どうも、戸外にては大きなる焚き火を焚いて御座る様子……その焚き火にあたりながら、かの主人の誰やらと話す声が聞こえて御座った……が、その語り口は、さっきまで我らと語って御座ったのとはうって変わって、年老いた者とも思えぬきりりとした鋭い口調で御座った。……
――如何にも不思議な人物じゃ――
と思い始めて仕舞(しも)うた故……もう、目が冴えて仕舞いましての……その夜はよう寝られませなんだ。……
……程のう夜も明け、朝飯なんども戴き、改まって暇乞いの挨拶を致いた折り、思い切って、
「……御身は何を生業(なりわい)となさって御座らるるのか、の?……また、ここは、その、何という村内にて御座るのか、の?」
と尋ねてみましたが……
……どうも、口を濁して……はっきりとした答えは、これ、御座らなんだ。……そのことを考え合わせると……さても、あの男、盗賊の――その元締め――首領首魁にても……御座ったものでしょうか?……
……なれど、前夜、談笑の折りには、自作の発句なんども見せ……俳諧談義の内には、相応の書を語り、またものなど書きすさぶ様は……それ程にては賤しく忌まわしき人とも、これ、見えず御座ったが……
「……翌日、見送りに山の麓まで案内(あない)して下され、そこで立ち別れて御座ったれど……何やらん、今に至るまで……不審、これ、晴れませぬのじゃ…………」
と語って御座った。
*
熊野浦鯨突の事
紀州熊野浦は鯨の名産にて鯨よる事有所也。有德院樣いまだ紀州に入らせられ候折から、鯨突(くじらつき)のやう御覽ありたきとて御成の折から、其事被仰出けるに、或日御成の時、今日鯨寄り候とて鯨突御覺有べき由浦方より申上ければ、御機嫌にて則浦方へ被爲入候處、數百艘の舟に幟(のぼり)を立て追々に沖へ漕出で、一のもり二のもりともりを數十本投てザイをあげけるにぞ、鯨を突留たりと御近習の者も興じけるに、程無船々にて音頭をとり、唄をうたひて大繩を以て鯨を引寄けるに、何れも立寄見ければ鯨にはあらで古元船(ふるもとぶね)にて有し。其村浦の老(おとな)罷出申けるは、鯨の寄り候を見請(みうけ)御成を申上ては御働合ひ一時を爭ふものにて、とても其樣を御覺の樣には難成、これによりて御慰に鯨の突方を學び御覧に入し也。誠の鯨にても少しも違ひ候事は無之候由申上ければ、甚御機嫌宜しく御褒美被下けると也。右浦長(うらをさ)は才覺の者也と、紀州出生の老人かたりぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に連関を感じさせない。暴れん坊将軍吉宗逸話シリーズ。ここでは本邦の捕鯨が語られている。最初に断わっておくが、私は熱烈な捕鯨再開支持論の持ち主である。私は民俗文化の観点からも、また科学的論理的事実からも、管理された捕鯨の再開を支持する者として一家言ある。私が、反捕鯨の非論理性やその政治的な戦略性・背後の圧力団体・シンパ組織について熱く語り、クジラがアフリカの飢えた子供の命を救い得るという話をしたのを思い出す生徒諸君も多いであろう。しかし、余りにも甚だしい脱線となり、ここはそれを表明する場でもないから涙を呑んで諦める。その代わりとして、せめて日本の捕鯨文化についての比較的客観的な史料的事実だけはここに示しておきたい。例によってウィキの「日本の捕鯨」から大々的に引用(江戸期の歴史的記述まで)する。これは本邦の捕鯨文化を理解して戴きたい故である。ウィキの執筆者の方、お許しあれ。『日本では、8000年以上前から捕鯨が行われてきており、西洋の捕鯨とは別の独自の捕鯨技術を発展させてきた。江戸時代には、鯨組と呼ばれる大規模な捕鯨集団による組織的捕鯨が行われていた。明治時代には西洋式の捕鯨技術を導入し、遠くは南極海などの外洋にも進出して捕鯨を操業、ノルウェーやイギリスと並ぶ主要な近代捕鯨国の一つとなった。捕鯨の規制が強まった現在も、調査捕鯨を中心とした捕鯨を継続している』。『日本の捕鯨は、勇魚取(いさなとり)や鯨突(くじらつき)と呼ばれ、古くから行われてきた。その歴史は、先史時代の捕鯨から、初期捕鯨時代(突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨)、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代へと分けることができる。かつては弓矢を利用した捕鯨が行われていたとする見解があったが、現在では否定されている』。『江戸時代の鯨組による網取式捕鯨を頂点に、日本独自の形態での捕鯨が発展してきた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨は日本各地で近年まで行われていた。突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨はイルカ追い込み漁など比較的小型の鯨類において現在も継続している地域もある。また、受動的捕鯨(座礁したクジラやイルカの利用)についても、一部地域では慣習(伝統文化)として食用利用する地域も残っている』。『日本における捕鯨の歴史は、縄文時代までさかのぼる。約8000年前の縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市の稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石の、簎(やす、矠とも表記)先の石器が出土していることや、約5000年前の縄文前期末から中期初頭には、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨の圧迫跡が存在する例が多数あり、これは脊椎骨を回転台として利用していたと見られている』。『弥生時代の捕鯨については、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡から出土した弥生時代中期の甕棺に捕鯨図らしき線刻のあるものが発見されており、韓国盤亀台の岩刻画にみられる先史時代捕鯨図との類似性もあることから、日本でも弥生時代に捕鯨が行われていた可能性が高いと考えられるようになった。原の辻遺跡では、弥生時代後期の出土品として、鯨の骨を用いた紡錘車や矢尻なども出土しており、さらに銛を打ち込まれた鯨と見られる線画が描かれた壷が発見された。もっとも、大型のクジラについては、入り江に迷い込んだ個体を舟で浜辺へと追い込むか、海岸に流れ着いた鯨』『を解体していたと見られている』。『北海道においても、イルカなどの小型のハクジラ類の骨が大量に出土している。6世紀から10世紀にかけて北海道東部からオホーツク海を中心に栄えたオホーツク文化圏でも捕鯨が行われていた。根室市で発見された鳥骨製の針入れには、舟から綱付きの離頭銛を鯨に打ち込む捕鯨の様子が描かれている。オホーツク文化における捕鯨は毎年鯨の回遊時期に組織的に行われていたと見られ、その影響を色濃く受けたアイヌの捕鯨は明治期に至るまで断続的に行われていたとされる。アイヌからの聞き取りによると、トリカブトから採取した毒を塗った銛を用いて南から北へと回遊する鯨を狙うという』。『鯨を捕らえることは数年に一度もないほどの稀な出来事であり、共同体全体で祭事が行われていたという』。『奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている』。『鎌倉時代の鎌倉由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことやクジラやイルカなどの海産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている』。『海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも12世紀には湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた』。以下、本話に現われる「突き取り式捕鯨時代」の記載(以下、記号の一部を変更し、一部表現が私の感覚では違和感があったので『 』外に出して手を加えた)。『突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある』。『「鯨記」(1764年・明和元年著)によれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたの1570年頃の三河国であり6~8艘の船団で行われていたとされる。16世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては、1561年に三好義長が邸宅において足利義輝に鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には1591年に土佐国の長宗我部元親が豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする』ところの習慣『的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心が1614年(慶長15年)に著したとされる「慶長見聞集」において「関東海にて鯨つく事」という一文があり文禄期(1592~1596年)に尾張地方から鯨の突き取り漁が伝わり、三浦地方で行われていたことが記述されている』。『戦国時代末期にはいると、捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする各地の水軍・海賊出身者たちであった。紀州熊野の太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、1606年(慶長11年)に、泉州堺(大阪府)の伊右衛門、尾州(愛知県)知多・師崎の伝次と共同で捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し突組と呼称された。この後、1618年(元和4年)忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照が尾州知多・小野浦の羽指(鯨突きの専門職)の与宗次を雇い入れてからは本格化し、これらの捕鯨技術は熊野地方の外、三陸海岸、安房沖、遠州灘、土佐湾、相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている』。『1677年に網取り式捕鯨が開発された後も突き取り式捕鯨を継続した地域(現在の千葉県勝浦など)もあり、また明治以降にも捕鯨を生業にしない漁業地において大型のクジラなどを突き取り式で捕獲した記録も残っている『1677年には、同じく太地浦の和田金右衛門頼照の次男、和田角右衛門頼治(後の太地角右衛門頼治)が、それまで捕獲困難だった座頭鯨を対象として苧麻(カラムシ)製の鯨網を考案、銛と併用する網掛け突き取り捕鯨法を開発した』。『さらに同時期には捕獲した鯨の両端に舟を挟む持双と称される鯨の輸送法も編み出され、これにより捕鯨の効率と安全性は飛躍的に向上した。「抵抗が激しく危険な親子鯨は捕らず、組織捕鯨は地域住民を含め莫大な経費のかかる産業であったため不漁のときは切迫し捕獲することもあった。「漁師達は非常に後悔した」という記述も残っており、道徳的な意味でも親子鯨の捕獲は避けられていた。もっとも、子鯨を死なない程度に傷つけることで親鯨を足止めし、まとめて捕獲する方法を「定法」として積極的に行っていたとの記録もある。」という解説もあるが、1791年五代目太地角右衛門頼徳の記録では「何鯨ニよらず子持鯨及見候得者、……もりを突また者網ニも懸ケ申候而取得申候」とあり、また太地鯨唄にも「掛けたや角右衛門様組よ、親も取り添え子も添えて」とあり、鯨の母性本能を利用した捕鯨を行っていた。当初は遊泳速度の遅いセミクジラやコククジラなどを』獲『っていたが、後にはマッコウクジラやザトウクジラなども対象となった。これらの技術的な発展により、紀州では「角右衛門組」鯨方の太地浦、紀州藩営鯨方の古座浦、新宮領主水野氏鯨方の三輪崎浦を中心として、捕鯨事業が繁栄することになった。土佐の安芸郡津呂浦においては多田五郎右衛門義平によって1624年には突き取り式捕鯨が開始されていたが、その嫡子、多田吉左衛門清平が紀州太地浦へと赴き、1683年に和田角右衛門頼治から網取り式捕鯨を習得している。この時、吉左衛門も鯨を仮死状態にする土佐の捕鯨技術を供与したことにより、より完成度の高い技術となり、太地浦では同年暮れより翌春までの数ヶ月間で96頭の鯨を捕獲した。西海地方においても同様に17世紀に紀州へと人を向かわせ、新技術を習得させている。この網取り式の広まりにより、捕獲容易なコククジラなどの資源が減少した後も、対象種を拡大することで捕鯨業を存続することができたとも言われる』。以下、「江戸時代の捕鯨産業」について。まず、「鯨の多様な用途」の項。『江戸時代の鯨は鯨油を灯火用の燃料に、その肉を食用とする他に、骨やヒゲは手工芸品の材料として用いられていた。1670年(寛文10年)に筑前で鯨油を使った害虫駆除法が発見されると』、『鯨油は除虫材としても用いられるようになった。天保三年に刊行された『鯨肉調味方』からは、ありとあらゆる部位が食用として用いられていたことが分かる。鯨肉と軟骨は食用に、ヒゲと歯は笄(こうがい)や櫛などの手工芸品に、毛は綱に、皮は膠に、血は薬に、脂肪は鯨油に、採油後の骨は砕いて肥料に、マッコウクジラの腸内でできる凝固物は竜涎香として香料に用いられた』。次に「組織捕鯨と産業」の項。本話の注として頗る有効。『江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれの藩による直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象はセミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を要したため、組織の維持・更新に困難が伴ったことも衰退に影響していると言われる』。次に「捕鯨を生業としない地域の紛争」の項。これも江戸時代の国内の事柄で、本話注として有効。『鯨組などによって組織捕鯨が産業化されたため流通、用途、消費形態などが確立されたことから以前より一層、鯨の価値が高まった。島しょ部性(面積あたりの海岸線延長の比率)の高い日本において捕鯨を行っていない海浜地区でも湾や浦に迷い込んだ鯨を追い込み漁による捕獲や、寄り鯨や流れ鯨による受動的捕鯨が多く発生するため、鯨がもたらす多大な恩恵から地域間の所有や役割分担による報酬をめぐって度々紛争になった。これを危惧した江戸幕府は「鯨定」という取り決めを作り、必ず奉行所などで役人の検分を受けた後、分配や払い下げを鯨定の取り決めにより行った』。最後に「捕鯨と文化」の項から引用して終える。『捕鯨活動に関連して、捕鯨従事者など特有の文化が生まれた例がある。日本では、捕鯨従事者を中心にその地域住民に捕鯨行為に対しての安全大漁祈願や、鯨に対する感謝や追悼の文化が各地に生まれた。「鯨一頭(匹)七浦賑わう(潤う)」という言葉に象徴され、普段、鯨漁を生業としない海浜地域において鯨を捕獲してその地域が大漁に沸いた事や鯨に対しての感謝や追悼を記念し後世に伝承していた例もある。ほか、鯨唄・鯨踊り・鯨絵巻など、鯨または捕鯨に関する歴史的な文化は多数存在する』。「信仰の対象として(鯨神社ほか)」の見出し部分。『日本の宗教観念では森羅万象を神とする考え方もあり、また人々の生活を維持してくれる作物や獲物に対して、感謝をする習慣があり、鯨墓、鯨塚などが日本各地に建立されている』。『日本各地に鯨に纏わる神社(俗称として鯨神社)がある。多くは鯨の遺骸の一部(骨など)が御神体になっていたり、捕鯨行為自体を神事としている神社などがある。なかには鯨のあご骨でできた鳥居を持つ神社もある』。『日本各地に鯨を供養した寺があり、俗称として鯨寺と呼ばれているものもある。多くは鯨の墓や戒名を付けたりなどしているが、鯨の過去帳を詳細に記述している寺などがある。なかには鯨観音とよばれる観音をもつ寺もある』。そもそもクジラを殺すことを野蛮とし乍ら牛を屠殺し食い続けてきた文化と、獣肉食を永く忌避し乍ら海を血に染めて鯨肉を喰らってきた文化に本質的な倫理的優劣などない。今あるのは前者が後者を絶対的に差別し蔑視し、非人道と言う如何にも怪しげなスローガンでそれを駆逐しようとする前者の側からの相対的な見かけの勾配があるだけである。
・「熊野浦」:紀伊半島南東岸沖合一帯の海域を熊野灘と呼称するが、その沿岸部を熊野浦と呼ぶ。以下、ウィキの「熊野灘」(「熊野浦」ではない点に注意してお読み頂きたい)から一部を引用しておく。『熊野灘は、フィリピン海(北西太平洋)のうち、日本の紀伊半島南端の和歌山県の潮岬から三重県大王崎にかけての海域の名称』。『沿岸はリアス式海岸が目立ち岩礁・暗礁が多い一方で天然の良港も多く、帆船の時代には風待港がない遠州灘と比べれば航海は楽であったという。遠州灘・相模灘とあわせて江戸と上方を結ぶ海の東海道となり、河村瑞賢が西廻り航路を開いてからはさらに多くの廻船で賑わった』。『沿岸の郷土料理には、めはりずし、秋刀魚寿司、なれずしなどがあり、熊野市・志摩市などに複数のダイダラボッチ伝承が伝わる。古式捕鯨の行われていた地域の一つで、太地町には捕鯨基地がある。また、潮岬以東の熊野灘沖では度々黒潮蛇行が発生する』。『尾鷲以北はリアス式海岸、熊野市から新宮までは礫からなる直線的な海岸(七里御浜海岸・三輪崎海岸)を持つ。更に、那智勝浦以南には奇岩が見られる。串本の橋杭岩や、那智勝浦の紀の松島などがそれにあたる。熊野市にも一部奇岩が見られる(例:鬼ヶ城、獅子岩など)』。『沖合いは水深2000m程度で、平坦になっている』。『熊野灘は黒潮が流れ、漁場のひとつとなっている。明治時代までは黒潮を回遊するカツオの大群が沿岸近くまでやって来ており、八丁櫓船などの手漕ぎ船でのカツオ漁が盛んであったが、沿岸近くのカツオの減少、漁船の動力化などにより遠洋化が進んだ』。『太地町は捕鯨の町として知られる。捕鯨問題によって大規模な捕鯨が禁じられている現在も調査捕鯨の船舶が寄航する。また町内にはくじらの博物館があるほか、鯨料理を出す飲食店が多い』。『那智勝浦は西日本を代表するマグロ水揚げ基地であり、本マグロをはじめ様々なマグロが水揚げ・取引されている。また、「まぐろ祭り」も開催されている』。『サンマ漁も行われている。しかし三陸沖から泳いできたサンマは脂がほとんど乗っていないため、おもに寿司や刺身用となる』。『熊野灘は1944年の東南海地震など、約150年の周期で繰り返し発生しているプレート境界地震の震源域にあたる。過去の災害ではとくに津波の被害が甚大である。また、台風銀座でもあり、伊勢湾台風を初めとして何度も台風の被害に見舞われている』とある。これで沿岸の「熊野浦」は凡そイメージ出来るものと思われるが、蛇足で付け加えるなら、私は熊野浦と言えば那智勝浦、那智勝浦と言えば補陀洛山寺――捨身行補陀洛渡海(ふだらくとかい:生身の観音を拝まんがために舟に乗り、南方にあるとする補陀洛浄土を目指して小舟で旅立つ行。)を思い出さずにはいられない。
・「有德院」八代将軍徳川吉宗(貞享元(1684)年~寛延4(1751)年)の諡(おく)り名。
・「御覺」貴人の信望・寵愛の意から、熱望・所望されていたこと、の意。
・「ザイ」采配(「采幣」とも書く)。紙の幣(しで)の一種。戦場で大将が手に持って士卒を指揮するのに振った武具。厚紙を細長く切って作った総(ふさ)を木や竹製の持ち柄に飾り付けたもの。色は白・朱・金・銀など様々。
・「學び」真似をするの意。元来、「学ぶ」の語源は「真似ぶ」である。
・「浦長」所謂、網元。現在で言う漁労長に相当。
■やぶちゃん現代語訳
熊野浦の鯨突きの事
紀州熊野浦は鯨が名産で、また、よく鯨が沿岸に寄り来ることで知られる。
有徳院吉宗公が未だ紀州に御在国であらせられた頃のこと、鯨突きの様を是非とも見たいと、かねてよりの御意にて、熊野浦方へ御成りの折り毎、度々その旨、仰せらて御座った。
ある日のこと、やはり熊野浦御成りの際、
「今日、鯨が寄って御座りまするとのこと。御所望の儀、どうぞ、ごゆるりと御覧下さりませ。」
と浦方の役人が申し上げたので、吉宗公は、もう少年のように上機嫌におなりになられ、やおらとある浦辺へとお入りになられた――
――と同時に――
――数百艘の舟が色鮮やかな幟を立て……
――どんど! どんど!
――沖へ! 沖へ!
――と、次々に漕ぎ出で……
――びゅっ! びゅっ!
――一の銛